鏡花(と、敬称抜きで呼ばせていただきますが、)鏡花について、纏まってものを書いたことは、私、ござ いません。学研が、『明治の古典』を選んで、十巻の、大判で、写真の沢山入ったシリーズを出しましたときに、『泉鏡花』編を担当いたしました。
私の選びました作品は、先ず『龍潭譚』次いで『高野聖』と『歌行燈』の三編でした。 『龍潭譚』は、私 の言葉で、現代語訳をしました、そうする約束でした。
『高野聖』と『歌行燈』とは、ご承知のように、現代語訳の必要はございません。
そして三編を通じて、私なりの或る意図を活かして、脚注をつけて行きました。脚注だけを通して読まれま しても、何か、私の「鏡花観」といったものが、ないし、鏡花に関わる問題意識が、ほの浮かび上がればよいがと、目論んでおりました。
その前後に、どこかで、どなたかと、座談会で、鏡花にふれた話し合いをしましたが、よく覚えておりません。司会が、篠田一士さんであったような、朧な記憶 が残っています。
それよりも忘れがたいのは、前の館長さんの新保千代子さんのご好意で、能登島のあの名高い火祭りを見せ ていただきました。あれが、とても嬉しかった。あの、前でしたか、次の日でしたか、この井川近代文学館で、「鏡花」について、よたよたと、頼りない、講演 ともつかないお話を致しました。なに、ろくに私自身も記憶しないようなものでした。
その折りであったかも知れません、さきの、『龍潭譚』を訳しました私の原稿を、「館」に、お収めいただ きました。ご縁、というものでございましょう。
ご縁といえば、新館長の井口哲郎さんとのご縁は、もう話し始めれば尽きないほどで、ただ有り難く、この 場を拝借し、一言、久しい感謝の気持ちをだけ、申し上げておきます。
で、その、『龍潭譚』を訳しました私の原稿で、少しく問題を生じましたことを、思 い出します。
一箇所で、問題が起きたんです。或る箇所で、「渠=かれ」という、いわば異風の代名詞が使われていまし た。それは誰を、何を、指しているのか、わたしの理解に、異存が提出されたんです。
じつはそのような注目が寄らないものかと、脚注で、ことさらに、鏡花原作の草稿まで持ち出して、その上 で、「深読み」のおそれが無くもないが、あえてこう訳してみたいと、理由を書き添えて置きました。
『龍潭譚』の少年は、斑猫といわれる毒ある虫に、さも嘲弄されますように、山道を誘われ、山道に迷いま す。
斑猫は「道教え」という名もある虫でして、本文に、「渠は一足先なる方に悠々と羽づくろひす。憎しと思 ふ心を籠めて瞻りたれば、蟲は動かずなりたり」とあります。ここの「渠」が、「蟲」を謂うているのは明らかです。あげく、少年は躑躅の花の燃えるように咲 いた山坂の道で、斑猫を石で撃ち殺してしまいます、が、すでに刺されていて、虫の毒で、面体が変わりつつあります。少年はまだそれに気づかす、むず痒い痒 いと思っている。そしてますます道に迷い、泣き叫んで、優しい保護者の、我が姉を、声いっぱい呼ぶのですが、「こたへやすると耳を澄せば、遙に瀧の音聞え たり。どうどうと響」いています。その瀧の音の「どうどうと響くなかに、」透けるように、「いと高く冴えたる声の幽に、
『もういいよ、もういいよ。』
と呼びたる聞えき。こはいとけなき我がなかまの隠れ遊びといふものするあひ図なることを認め得」まして、 少年は、やがて見なれぬ土地の子らが事実「隠れ遊び」していたらしい、或る「鎮守の社」にたどり着きます。ほっとして、少年は里心地のうちに、家は近いと 一息つくのでした。
さ、そこで。問題になった「渠」は、章節の見出しを「かくれあそび」と替えまして即座に、こういう風に使われていました。
「さきにわれ泣きいだして救を姉にもとめしを、渠に認められしぞ幸なる。」と。
さ、この「渠」とは何なのか。何を指すのか。慶応義塾大学図書館の鏡花原稿では、実は、ここの「認めら れしぞ幸なる」の「認められ」のあとに、二字分の抹消があり、私は、「認められざりしぞ」と打ち消されていたのが、「認められしぞ」と直ったのだと考えま す。で、「認められざりしぞ」だと、姉を呼んでいたのですから、微妙な「幸なる」との関わりこそともあれ、単純に「渠」は「姉」と読めてしまうのです。し かし、鏡花は二字を消しまして、「認められ(* *)しぞ幸」いと直し、活字本ではその後、一度も変更されて居りません。 私は、こう訳しました。
「先刻山なかで、泣いて助けてと姉を呼んだ時、瀧の音や「もういいよ」に前途を誘ってもらえて、ほんとに 良かった」と。
そして此の箇所脚注の最後に、「深読みの惑いは抱いたまま訳稿を定めた。他日、論考の機会をえたい」と 書き記して置いたのです。
さて、この箇所について、私に宛てて、直接、異存を申し立てて下さったのは、一人は寺田透氏で、もうお 一人は鏡花夫妻の養女の泉名月さんでした。こう申してはたいへん失礼だが、わたしは、大物を確実に釣り上げたわけです。
三人の間で、しばらく、私信を通じて意見交換が続きまして、やがて終熄しました。だれもが、自説を曲げ るほどは、説得されなかったんです。
問題は、残されたままになっていて、寡聞にして、他の場所でこれが論議されたことがあるかどうか、私 は、知らないでいます。ま、古証文を引っぱり出すのは専売特許のようなもの故、この辺から、ものを申してみようかな、と、腹を、八分がたくくって参りまし た。ご心配なく。あまりこまごまと細部にこだわり続けようとは思っておりません。
ここの「渠」の字は、もともと水路や溝を意味しています。暗渠、溝渠などと熟しますね。また、かしら、 親分ふうに、渠魁などとも熟するそうです。「なんぞ」「いづくんぞ」と、漢文では疑問や反語の助字に用いている。それでも「彼」「彼女」風の代名詞なみに 使われる例は、鏡花ひとりに限らないし、また人間だけでなく他の生き物や、擬人化して、物にも宛てて使われている例もあります。
で、寺田さん、名月さんご両人は、この「渠」とは、ここまで物語を読んできまして、実は、まだ作中に全 く姿をみせていない、登場していない、やがて登場してくる、けれども読者は、その存在すら、まだ、全然知らない、或る不思議の「女人」のことだと言われ る。
なるほど、読者はまだそんな「女人」は見も知らない、けれど、作中の少年はこのお話を、はるか後年に追懐している体裁ですから、その「女人」のことは語り 手は承知している。承知の上での「渠」であるから、読者の知る知らないは問題ではないと、言われる。
しかし、叙述に即して本文を読めば、あくまで頑是無い少年の心理的な現在感覚に貫かれつつ、コトは進ん でいるのでして、決して後年の海軍少尉の追想・追懐は微塵もまだ混じっていない。それは最後の最期にパッと初めて明かされるんです、だからこそ「締めくく り」効果も挙げている。少年の現在感覚、それと同調して読み進んでいる読者の現在感覚に即して申しますと、登場もしていないモノを明確に「渠」とは、この 際指さしたくても指せないのが道理であり、小説や物語の、ないし叙事・叙述の、力学というものです。
で、私は、その不思議の「女人」に、確かに「なぞらえられ」ているが、直接に指さした「渠」ではない、 この「渠」とは、該当個所の直ぐ前で、ほんの直ぐ前の語りで、語り手の少年を、道に「迷い子」の窮地から救った、「瀧」ないし「瀧の音」それ即ち「もうい いよ」という「迷い子からの解放=侵しのゆるし」に、宛てて、読んだのです。少年は或る魔境を侵していたのです。
「渠」は、そもそも常用の代名詞では、ない。「かれ」と読むからそんな気がするわけですが、先にも申しますように、本来の字義を体していまして、白川静さ んの『字通』によりましても、この「渠」という文字の第一義は、中国の字典『説文』をも引き、「水の居る所なり」とされているのです。本義は、「水」の在 る「場所」を明確に指さしています。沼や池や、淵や瀧。この語りのごく近辺から代名詞的に指さして謂えるのは、「瀧」「瀧の音」が、まさに実在していま す。そして、件の「女人」は、まだ、その「瀧・瀧の音」の背後に、文字通り、「隠れ」ていましたから、少年も、むろん読者も、女人の姿も存在も予見もでき ず、ただ「瀧の音」を耳にしつつ「もういいよ」と、迷い子の窮地から放免されたのでした。宥され、助かり、安堵しながら、その背後に、かすかな不思議への 「誘い。いざない」を感じていたというのが、より正確でしょう。この「瀧」や「瀧の音」は、てちゃんと書き込まれています。それは鏡花にも少年にも、聖と 俗を分かつ結界に位置した、さながら「龍」潭への門かのようにきちんと表現されています。
これが、私の理解でした、主張でありました。この「瀧」こそは、物語の題の、「龍」ないし「龍潭譚」 に、文字の姿からもハッキリかぶさり、そして、やがて登場する神秘の女人の「水神」性につながるあだかも擬人化された化性と、私は、読んだのでした。そし てその「読み」の延長上に、名作「高野聖」と「歌行燈」の読みをも、まさぐって行ったのでした。
これら秀作・名作には、まさに「水の幻影」としての「龍神」「蛇神」が、支配神・地主神のごとく、たゆ たい生きている。鏡花の世界に、遍満している神様です、化性のモノ、です。
で、今日は、そのお話をしに参りました。じつは「書いた」ものでありますが、私の声と言葉とで、みなさ んにお話しし、ご批判を願おうと思っています。鏡花から、ぐうっと離れて行くようで、そうでは、ない。鏡花の「誘いと畏れ」に、きっと触れあって参ります ので、モノがモノ、少し長めにお時間を、ぜひ頂戴したく、お願いします。
(*補注 ここで会場から、この「渠」は即ち毒虫「斑猫」だと考えているという強い意見がでた。「さきに われ泣きいだして救を姉にもとめしを、渠(斑猫)に認められしぞ幸なる。」だが「さきに」は時限を特定した指示句であり、明白に「われ泣きいだして救を姉 にもとめ」た時点をさしている。ところが少年は、この毒虫を「その時」よりもっと早くにすでに石で、撃ち殺し叩きつぶし蹴飛ばしている。「認める」は「見 留める=受け容れる」のであり、殺し殺されてしまっている美しい毒虫が、泣いて「救を姉にもとめ」ていた時点での少年を「認めた」と読むのは、本文に即し て道理を得ない。「道教え」のこの毒虫は、物語の結果から見て少年を不思議の女に誘い寄せる役をしていたのであるが、それは物語をすべて読み終えて識る筋 書きで、文章表現の、また作中人物の「現在進行感覚」を恣に無視した議論であってはなるまいと思うが、どんなものか。)
がらっと話を変えるようですが。あの、飛行機の窓から大地を見下ろしますと、大きな河川ほど、大木の、無数に枝を張ったように見え、また、長大な「蛇体」 の、のたうつようにも見えるものです。シベリアからモスクワへ向かう飛行機では、そんな大河の蛇行が、日本列島とは、比較にならないほど、もの凄い。「蛇 行」という譬えは、河の流れにいちばんよく謂われますね。「蛇」とはいわなくても、大河を「龍」に見立てた例は、天龍川、九頭龍川など、他にも、幾つもあ る。「水」をさながら「龍」と見立てたのが「瀧」であることも、言うまでもありません。瀧が、そのまま「神」かと拝まれ・祀られます時、例外なく、それは 「龍神」としてであります。
幸いに「龍頭蛇尾」という言葉もございます。それもよし気楽な蛇行を、委蛇として、試みて参ります、 が。
「水」は手にむすぶ。渇きもいやす。煮炊きにも用いる。日常的だけれど、また、広大に茫漠としたものでも あります。海、河川、池沼、また雨露や雲霧。現代ならダム、また水道水。みな、どこかで一と繋がりであり、その不思議が即ち「水」の恵みでした。畏さでも あった。
それほどの「水」に、神の住まぬ、また憑らぬことは、人間の想像力では在りえないんですね。水の神は、 日本では即ち「龍ないし蛇」と信仰されてきた。龍宮伝承などが、何のよるべもなく生まれ出た、わけがない。天照る神の子孫ウガヤフキアエズを産んだ豊玉姫 は、龍宮から迎えた龍女でありました。出産時の正体を、「けっして見るな」の禁忌を夫に侵されますと、産んだ子を地上におき、海底に帰り、育ての母の役 に、妹の玉依姫を送りこむ。やはり龍女であったこの姫が、育てた甥神のいつか妻となって、後に、大和の橿原に即位する、人皇第一代の神武天皇らを産んだわ けです。
どんな正体を夫は見てしまったのか。後にも触れますが、それは、男神のイザナギが、女神イザナミの死 を、悲しみ、追うて、黄泉国に下り、そこで、やはり「見るな」の禁忌を侵してしまったときの、すさまじい「死者イザナミ」の容態と、そう大差のない姿で あったことでしょう。
「水神=龍=蛇」とても、いわば歴史的な存在であり、スサノオ(子)とイザナミ(母)とに繋がれ、海と黄 泉とを跨いで、「死」の世界に接していた。日本神話ではスサノオが八岐大蛇を討ち、その尾から剣を獲たように、また蛇が、しばしば太刀=剣に譬えられるよ うに、鉄や銅の技術や社会にも接していた。その「タチ」も、「イカヅチ=雷=稲妻」にリンクされまして、雨や雲に、水に、接していた。スサノオの獲ました 草薙剣は、初め「アメノムラクモ」と名付けられていましたし、天(アメ)と雲雨(アメ)とに違和感は、なにも無いんですね。その眼下には、農耕社会も、 はっきり目に見えてきます。
オロチ大蛇・タチ太刀・イカヅチ雷のそんな連携を、「チ」の一音が通分しています。「チ」が、蛇ないし 蛇体を原意としたであろうことは、「オロチ」「ミヅチ」「カガチ」もさりながら、日本中の多くの神社、それも地主神を祭った地域の鎮守に多く見られる「茅 の輪くぐり」が、なにを象っての信仰かを想えば分かります。「茅の輪」は、蛇形象の愕くほど数多い日本の民俗のなかでも、ことに分かりやすい、まさしく 「チ=蛇の輪」であり、大きな茅の輪を潜って受ける恵みは、端的に、蛇の、豊かな精気でした。蛇が、古来絶倫の精気で「神」なる威力を畏怖されてきたこと は、人身御供に美しい女体を要求した八岐大蛇はもとより、多くの「蛇婿入り」や「蟹満寺」系の説話が雄弁に物語っています。 ついでに言えば、同じ形象を 「ミの輪」と称している神社や習俗も少なくないが、現在どのような漢字を宛ててあるにせよ、それが「巳=蛇の輪」を意味したことは、「茅の輪」潜りの例 と、なんら変わりはない。蛇の、互いに身をよじり合うておそろしく長時間に亘る性の姿態は、太古このかた多く久しく見聞され、畏怖されてきました。神社の 結界であるあの「しめなわ」の容態に、その姿態が象られているかという観察も、真実であろうと想われます。「しめなわ」を結うた古代の多くの神社、日本の 神社は、あだかも「蛇」と「人」とを分かつ、それ自体が、聖なる「結界」であったのでしょう。
「しめなわ」の巨大さで聞こえた出雲大社は「スサノオ」を、また「オオクニヌシ」を祀っていますが、とも に「大蛇神」であり「大水神」であることは、大蛇と異体同質の神と目されてきたスサノオが、「海・黄泉」を統べる神とされていること、後者オオクニヌシ が、後にも触れますように、蛇と縁の濃い、ないし蛇そのものを意味した「オオアナモチ=大穴持」「オオナムチ=大巳貴」「オオモノヌシ=大物主」を「異 名」にしていることからも、伝承のそれを疑う理由が、ない。出雲大社の祭は、今日なお、真っ先に日本海の稲佐浜にうちあげられるという「龍蛇神」を渚に出 迎えまして、行列の先頭にたてて社に入るところから始められています。
諏訪神社は、天つ神に敗れ出雲を逐われた「タケミナカタ」が、いわば押し籠められ祭られた神社であるこ とは、よく知られています。その祭事は、先ず神官が地下の土室に籠り、藁で、小さな蛇身から、だんだんに大きな蛇体へ綯い上げてゆくという、神秘の作業か ら始まるとされています。「オオクニヌシ」の子の「タケミナカタ」が、蛇神である心証も、これを疑う理由は、何もない。諏訪の祭事には、聞こえた「御柱」 が、大きな役割を占めていますが、するどく頭の尖った形象が、「蛇」の威力を示しておればこそ、神域の四囲を護っているとされて、きわめて自然なんです ね。大縄といい御柱といい、諏訪の神が蛇神である心証と、伝承とは、諏訪湖の「オミ」渡りを、祭事絡みに大切に見守ってきたことでも補強できます。「御 身」は、また「御巳=御神」にほかならず、「タケミナカタ」のムザネ、正身が「巳ぃさん」であることと、きっちり呼応しております。
「巳」の文字が出たところで、少し、こだわって置きたいのですが。
よく似た文字に、「己=コ・キ」と「已=イ」とがあります。前者は「おのれ」を、後者は「やむ・すで に・より・はなはだ・のみ」等を意味している。それに対し「巳=シ」は、和音では「み」で、十二支の第六、蛇が配してありまして、この文字そのものを、古 くから「蛇」と弁えてきました。さきに大国主神の異名として「大穴持神」「大物主神」などと一緒に、「大巳貴神=オオナムチノカミ」を挙げておきました、 が、この表記は、従来は「大己貴」で通って来た。「大きな貴い己れ」では、他からの尊称でなくて、尊大な自称になってしまう。自称でもよいけれども、 「己」を「ナ」と読むのは、じつは意義の上で、縁が全然、無い。おそらく他に用例も無いと思います。
これが「大巳貴」ならば、「大きな貴い蛇」神であり、「大穴持」「大物主」「大国主」「大国魂」などと も、見るからに太い意義の繋がりをもって来ます。「アナ」と蛇はもとより、「モノ」も、ともに神異を示唆した和語であり、「大きな貴い蛇」は各地で地主神 として、岩の上などに「イワナガ」とも影向し、礼拝され、まさに大地を統べる自然神の意義を負っている。ただ、蛇を、死や穢れとの連想により、つよく忌避 する世俗の風習に影響されまして、ここでも「巳」の字を慣習的に避けてしまい、「己」の字を、代用したものと、私は解釈しております。
しかし「巳」の訓みは「シ」か「み」であり、「ナ」ではあるまいと、一応は言わざるを得ない。しかし、 もし「ナ」に「蛇」の意義が添うのであれば、義訓として「巳=ナ」が成り立っていいでしょう、いわゆる万葉訓みの時代の、これは表記でありますから。
では「ナ」に「蛇」の意義があるのか。有った、と、ほぼ断言できます。
海の民の最たる、安曇族の根拠地でありました博多沖、志賀島の渚から、後漢の宮廷から「漢の委の奴の国 の王」に授けられた金印が発見され、国宝に指定されている。有名な史実です。ところでこの「印の摘み」は「蛇」に造ってありますが、この種の「親授印の摘 み」には、相手国の宗俗・風習への認識を示すのが、いわば作法であったと申します。
わが国では、従来「委=イ」を、あえて「ワ」と読み、ニンベンを添えた「倭」つまり「大和=日本国」を 謂うものの如く、決めてかかってきました、日本国の一小部国なる「奴」の国が、在った、ものと。
しかし「委」に、「ワ」の音はないんです。「奴」の音も「ヌ・ド」で、「ナ」ではないんです。漢の支配 下にある「委奴=イド・イヌ」国の「王に」と理解するのが、素直で、自然であり、「奴」は、「婢」と一対の、つまり男隷への蔑称でありまして、主意は、こ の「奴」よりも実は「委=イ」の方に在ったろうと私には考えられるのです。
そしてこの「委」こそが、「蛇=イ」に通じている。「委蛇=イイ=うねうねと、なよなよと、曲がってい る」という熟語にもなる。「委奴国王」とは「蛇に親しみ暮らす者どもの国ないし王」の意味でしかなく、これを「倭=日本の中の、奴=ナという国の王」と読 むのは、「委」の「蛇」イメージを嫌っての、故意に看過しての、歴史的にねじ曲げられてきた、無理筋というものでありましょう。
金印には明らかに「委=イ」とあって、「倭=ワ」とはないのです。だが、それにもかかわらず、ここから 「ナ」の国という読み取りの定まって来たのも史実でありますからは、「ナ」または「ナカ・ナガ」の国は、事実自称としても実在し、後漢は、その事実を蛇紐 に依って認識し表示した上で「委奴」と義訓し、つまりは宗主国による属国への他称印を授けたものと思われるわけです。「ナ」には、「蛇」の義が、たしかに 添うていたんです。
柳田国男は、蛇の名称のおどろくほど多数で多様であることを、詳細な論文に書いている。わたしが戦時に 疎開していた丹波では、「クチナ」と呼んでいましたが「くちなわ」の訛ったものという人もある。口のある縄と謂うのかもしれません、が、私は、「ナ」の音 こそ、原初のものと考えています。「ナやらい」などという悪魔秡いの「儺」にも、蛇への、古代の畏怖が忍び入っていましょうし、それも「ナカ=ナガ」と根 の同じ「ナ」であろうと考えています。我が国の「ナ=蛇=長虫」の源流は、明らかに、東南アジアに瀰満した「ナーガ=蛇」神でありましょう。
カシミールのアナンタナーグ(=数え切れない蛇)は、ヒンドゥー教の久しい聖地ですが、名のとおり無数 に棲む蛇を祀っている寺々が多いそうです。蛇の王は「ナーグライ」と呼ばれています。細心無比に水利を工夫して、奇跡の王国を「水」ゆえに大繁栄させたア ンコールワットの初世王が、壮麗な城館を幾重にも巻いて守護させたのは、長大な水神「ナーガ=蛇」でした。日本中に散らばった「ナカ」「ナガ」ないし「ナ グ」「ナ」とつく土地には、遠く、インドや東南アジア、南シナに由来の「ナーガ(蛇)神」を畏み祀った海(山)の北上民が、日本列島にちりぢりに別れ住ん だのだとは理解できないものでしょうか。「委のナの国」と言い伝えたのも、そのような一ヶ所だったんではないでしょうか。
単純に、日本の姓名・地名で、頭に「ナカ」「ナガ」とつく例は、「大」「田」 「高」などにも増して、断然多い。「ナ」「ナグ」等を加えればもっと多い。
中間、中部の意味と取れる「中」がむろん有ります。が、まるでそうは受け取りにくい例えば中郡や那珂 郡、那賀郡や名賀郡が諸方にあり、長郡もあった。たとえばナガ野もナガ島も、ナカ川もナカ山もある。山ナ、川ナ、浜ナもある。桑ナ、椎ナ、榛ナもあります し、ナ切、ナ倉などもある。もしこれを、おおかた、「蛇の棲む」「蛇に親しい」と翻訳して読み取れるものならば、高天原からは服わぬ国と見えていた、生い 茂り蟠る『葦原の「ナカ」つ国』の国情も、由来も、がぜん南方的、水上民的な背景を背負うて読めて参ります。
思いつく限りを挙げてみましょうか、出雲、諏訪、三輪、鴨、松尾、熊野、神魂、八幡、八坂、稲荷、伊 勢、貴船、丹生、琴平、厳島、住吉、気比、佐太、白山、生玉、三島、熱田等々、名だたる古社は、源をただせば、みな「蛇体」の水神だというのが意味深長で すし、反抗する「ナガすねひこ」を先ず討って、初めて、神武天皇の即位が実現したという、古事記の謂いにも聴くべきものがあります。「討っておいて、祀 れ」ば、日本ではそれが即ち「神」であり「社」でありました。押し籠め、伏し鎮める。もう、ここから外へは、出て来ないでほしい。現れないで欲しい。その 代わり、もう、そっち側へ我々も、決して踏み込みません、と、日本の神社は、大方が、そういう場所に、鎮守され祭祀されて来た。
ひとつご注意下さい。「祭祀」の「祀」の文字に、どうぞご注目下さい。まさしくこれは「巳ィさん」を祭 るという字義を如実に示しております。
常陸国風土記に、こんな事が言われています。
継体天皇の頃という。箭括氏の麻多智は、或る谷=ヤトの葦原に目をつけ、新たに田を切り拓きました。と ころが、先住の蛇たちがおびただしく現れ、「左に右に」耕作の邪魔をする。もともとこの国の「郊原」には、蛇があまた棲みついていました。麻多智は為体に 大きに怒り、「甲鎧」を着「仗」をとって、蛇の群れを、谷に打ち山へ逐って、山口・谷口に境を固め、きびしく杭を植え、堀を掘った。そして蛇たちにこう宣 言しました、「これより上はお前たちの世界として許そう。これより下は、人が田を作る土地だ。この後は、ながくお前たちを祀っておろそかにしないと誓お う。だから、祟るなよ、恨むなよ」と。ついに一宇の社を建てまして、麻多智の子孫が畏み祀ってきた、と、いうんです。
おおよそ神社「祭祀」の起源をこのようなものと理解すれば、じつに分かりがいい。出雲も諏訪も伊勢で も、この例と、何ほども違わない鎮められ方をしています。
ところが孝徳天皇の頃になり、さきの麻多智の子孫で、壬生連麻呂という者が、境より上へ越えて谷を占 め、大きな池の堤を築いてしまった。谷にひそむ蛇という蛇は、蛇を即ち風土記は「夜刀の神」と呼んでおりますが、この池のほとりの、椎という椎の木の枝に 蛇が、夜刀の神々が、無数に垂れ下がり、怒って去ろうとしなかった。しかし麻呂はひるまず、この池は、人間の暮らしにいかにも必要なもの、もし神といえど もオモムケ「風化」つまりは開発政策に従わぬヤツらは、と、手の者たちに、一切容赦なく目に見ゆる限り「打ち殺せ」と命じたものです。蛇たちは余儀なく、 さらに山奥へ姿を隠し、その池は「椎の池」と名づけられたというんです、が、退去退散を「強ひの池」の意味であったに、万々、相違ないでしょう。人間の水 利にからむ自然開発の葛藤は、上古以来、今も少しも変わっていないという、これは典型的な例話であります。ここから「椎ナ」「榛ナ」「桑ナ」などの「樹上 蛇」を表した地名表記が生まれたと想ってみるのも、そう見当ちがいだとは思われません。
中村草田男に、「公園で撃たれし蛇の無意味さよ」の一句がある。この句の無意味さ不気味さを東工大の学 生に解いてもらうと、先ずの手順に、「公園」という人為・人工と、「蛇」なる自然と、を対比させてくる。そして公園の地に先住していたのは蛇だと言う。学 生たちのこの読みでいう蛇と、常陸国風土記にいう「椎の池」の蛇とは、まるで同じ座標にいます。その「撃たれ・打たれ・討たれ」ようの、或る「無意味さ」 は、無残というよりない。
ただし風土記に「蛇」と語られている「夜刀=谷の神」をば、即ち、地を這う蛇そのものかと思うのは、神 話の話法に聴いてみせるだけのことでして、事実は、水の神、土地の神、山の神として「蛇」を太古このかた崇め畏れてきた、ワダツミ(海民)ヤマツミ(山 民)が、力ある異族に父祖の地を逐い払われた悲劇ーーと、こう読むより、ない。常陸国風土記に、道をサエぎり王化に服さぬ化外の民としてしばしば見えます サエキ、クズ、ツチクモらの運命がそれだったでしょう。そして、神とまじわり、蛇の子を産み、また育てた額田の「ヌカ」ヒメや兄「ヌカ」ヒコのいわば神話 にも、「ナカ」や「ナガ」に通じた、そしてシャーマンかと想われているあの額田姫王や姉の鏡王女へも通じた、上古日本の不思議が、アリアリと生きていると 申せましょう。「カガミ」とは「カカ=蛇、の目」という説も在るのです。
常陸国を流れる大河の一つは、水豊かな那珂川であり、流域は、幾つもの蛇伝説に彩られた、那珂郡です。 君臨したのは久しく那賀国造でした。常陸国風土記の或る記事では、大蛇が即ち「オホカミ」と呼ばれ、訓まれています。豊葦原の瑞穂の国。日の本、常陸、 は、ことに潤沢な水と草木に恵まれました、米どころでもある。そういう大地の蛇は、まさに水を恵み水を統べる「地主神・国主神」であったと想像されます。
大国主神はまたの名の一つを「葦原シコ男の神」といわれていますが、高天原から見まして、葦原を委蛇と して這いずる「醜男」とは、まさに蛇(のごとき存在)をさしていた。おそらくは、それは、後漢の王朝から見た「委奴=地を這う者ども」の国への思いと同じ 視線であったでしょう。この「醜」の姿は、根源の大女神「イザナミ」が神避りし黄泉国での、「見てはならない」禁忌の姿に、露骨に表現されていると思われ る。凄まじい腐爛の屍体に「八色の雷公」の、即ち蛇性の、まつわりついた姿でありました。
蛆たかれころろきて、頭には大雷居り、胸には火雷居り、腹には黒雷居り、陰には 析雷居り、左の手には若雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴雷居り、右の足 には伏雷居り、并せて八の雷神成り居りき。
「蛇と死」との印象的な等質・等価の認識が、おそろしいまで表現されています。 「イザナミ」は、まさに地底に棲む「大地母なる大蛇神」であったという認識も示されている。そして男神「イザナギ」の訪れていった黄泉の国は、いかにも 「大穴」の底のように描写されているんですね。禁忌を侵して「黄泉醜女」に追われつつ辛うじて遁れ出る時の「坂」や「道」の描写にも、さながら深い「室」 や「穴」をのがれ出たように書かれ、穴道を巨大な千引岩でふさぐとき、ああこれが「墓石」なのかと連想の利く書き方を古事記はしています。追った「醜女」 が「八色の雷公」と同類であることも疑いない。
日本の神話では、大地母神を地底の闇に大岩で伏せておいて、父神ひとりで「日」「月」「海」の神を生 む、と、それらがまた不思議に、「母なる蛇神」の属性を分かちもつという「世界の構図」を得ていたのですね、面白い話ですね。
少し話の向きを変えましょうかーー「水」を美しい「線」で描ける力を、日本人は もっています。到達した典型のひとつが、尾形光琳の『紅白梅図屏風』の水流であり、現代では小野竹喬「奥の細道」連作中の『最上川』などが思い出せます。 するどい視覚の持ち主であれば、滞りなきそのような「水の線」に、身を添わせて走る「蛇」の姿を透視することもあるでしょう。水は蛇で、蛇は、水の精でも あり神でもあるとの信仰が、この島国に避けがたく育まれてきた。水を「美学」の話題にすることは、いろんな面で有効でありますけれども、美学を溢れ、こぼ れて、日本の「社会」に何とも悩ましい幻影をさしかけた「水」の問題があります。そう思いつつ、話題を、ややに押し拡げてみたい。
ごく一例を挙げても、京都の鞍馬には大青竹伐りが、南国には、男綱女綱のまぐあいを象った勇壮な大綱引 きが、多くの村はずれ町はずれでは、塞(境=幸)の神の前までひきずった長い竹や笹や綱を、伐ったり打ったり燃したりの、また、しめ縄をまとめて焼く、お 火焚きなどの行事がある。みな、蛇への畏怖を下敷きにしてこそ、よく、その意義の読み取れる行事ばかりです。
鬼や化性を演じる者のきまって着る「鱗」の装束。能や歌舞伎での装束。多くの古社にみる「二重六角」蛇 鱗の神紋。山姥や山の者らの常に携え持つ、蛇をとらえる鹿杖。一本足の案山子を山の神とみて、蓑笠を着せ、それと同じ蓑笠姿のまま闖入してくる客(まれび と)を、極度に嫌ってきた風習。大木の洞や根方に生卵を置き、きまってその周辺には白神、姫神などの小さな祠の群集するさま。「シラ」も「ヒメ」も漢字に とらわれてはなるまいと思う、あの卑弥子の「ヒミ」「ヒメ」は、古代朝鮮語では「太陽」でもあり、しかし風土記などに謂う「ヘミ」「蛇」の意味でもあった といいます。
蛇のとぐろを巻く姿は、しばしば人の目を驚かせましたし、その長くのびた姿、ことに恐しい三角に尖った 頭や、まるく膨らんで威嚇する頭などは、諏訪の御柱にも、日用の杓子にも形象化された。岩に現れるいわゆる石神(シャクジ)と、あの日用の杓子との縁な ど、また蛇のとぐろから缶(ホトキ)に、またホトケにも転じた器の名「ヒラカ」への経路など、今日ではあまりに気疎くなってはいますが、例えば太刀魚や鰻 など「ナガ」いものの小絵馬を売っている神社では、間違いなく祭神としての水神・蛇神・龍神を拝むことになる。それどころか、京都御所内に鎮座しています 厳島社には、思わず声をあげて走ったほど、恐ろしくリアルな「蛇の絵馬」が掲げてあります、現に。
折口信夫の有名な論文『水の女』は、水沼(ミヌマ)という表記の背後に、女蛇神をそれと意味した「ミツ ハノメ=罔象女=ミヅチ」の実在を精妙に読み分けて行きます。同じく男蛇神には「オカミ= 」があり、万葉歌にも見るごとく、水や天象の不思議に深く深く 関わっています。
目を外国に向ければ、日本のミツハノメに近い、シベリアやロシアの「ルサールカ」がある。一本足の蛇婆 さん「バーバヤガー」がいる。八岐大蛇なみの「コシチェイ爺さん」や恐ろしい「ドモヴォイ」もいる。北欧へ行けばブヤン島の「ガラフェン」が、スラブには 「スビャトビト」がいる。むろん創世神話をさぐれば中国にも朝鮮にも蛇や龍が出てきますし、宗教説話にも、しばしば出てきます。キリスト教のマリア像に も、蛇の頭を踏んだ図像がある。マリアの名は「海」に由来しています。むろんそれらには、水と深く関わる蛇のほかに、べつの意義を担った蛇もいますでしょ う。しかし大方の蛇ないし龍は「水」とかかわることで畏怖されていたのは、間違いありません。
いわゆる道成寺ものの久しい人気に触れ、また上田秋成の『蛇性の婬』を何度読んでも、一方で蛇を厭悪し 忌避しつつも、また、蛇に悪い役を勝手に押しつけてきた、うしろめたさの気持ちも、或る「あはれ」とともに読み込める。そんな気が、してならないんです。 おそろしく根の深い近親嫌悪、アンビバレンツとも読める。
その辺へ、いま少し話題を、蛇行させて行きたい。
「鏡花文学の核心にわだかまるものは、端的に『蛇』へのアンビバレンツ」であり、 「水神へのいわば畏れと帰依心だと思う」と、かつて、私はどこかで書いていたようです。田中励儀さんの著書『泉鏡花文学の成立』を興深く読んでおりますう ち、鏡花作『南地心中』の成立過程を論じた章で、そう私の言葉が引用されているのに出会い、おやおや、なるほどと、思わず頷きました。田中さんは、「上方 の 巳 さん信仰に動かされて成立した本作=南地心中など、その典型であろう」と、私の言説を肯定されています。明治四十四年七月の『祇園物語』も大正八 年三月の『紫障子』でも同じです。
泉鏡花ほど「蛇」をしばしば、それも重大な主題意識をもって、さまざまに書いた作家はいないと、繰返 し、私は言い、かつ書き続けてきました。
事実上の処女作かも知れない『蛇くひ』が、凄い。『龍潭潭』では「龍」に「瀧」の誘いが、みごとにか ぶっていました。『歌行燈』では、海女郎であったヒロインに、謡曲の「海人」がかぶることで、「龍神の珠取り」へ話が繋がって行きます。『高野聖』も、さ んざんに生身やイメージの蛇を出し入れしながら、水の精の蛇性の女、を書いている。『天守物語』の大獅子頭も、もともとは「龍ないし蛇」の変化と、折口信 夫らは認めています。蛇にゆかりの、女や、イメージや、また蛇そのものの姿をあらわす、鏡花の小説は、全作品中の、しいて言えば何割にも相当しているとわ たしは見ている。書かかるべくしてまだ書かれない鏡花論の最大の主題は、『鏡花と蛇』であると、今もわたしは確信しています。
『蛇くひ』や『妖剣紀聞』前後篇をみれば、鏡花が、「蛇」を被差別のシンボルかのように、女性をもふく め、芸能もふくめ、つねに社会や歴史の敗者弱者と等価的に提示していたことはあまりに明らかです。そしてより多く、他界・異界に半ば身を隠しながら、現世 に、出入りさせた。死の世界を統べるものかのように働かせた。
他界異界も死の世界も、鏡花の表現では、海、山、川、池、沼、湖、原、沢などの一切を通分して、「水」 に浸されていました。『龍潭潭』や『沼夫人』や『高野聖』がそうです。『歌行燈』でも、そうなんですね、実は。そして姿をみせる時は、凄艶な謎めく「女」 か、醜悪な「化性のモノ」か、それとも切ない女の吐息のような「生身の蛇」としてか、でありました。
それを総じて、田中さんの謂われる「巳」信仰というもよし、大きく深く「水神」信仰、いやそれよりもっ と広く、「水」「海」世界への畏怖と郷愁、または共同幻想、が、鏡花をとらえて放さなかったのだと考えるべきでありましょう、か。鏡花の背後にかなり間近 くいた柳田国男らの民俗学の感化を指摘するのもいいでしょう、が、そのような外的な感化や影響より以上に、鏡花自身の、秘し持っていた「根の哀しみ」のよ うなものにこそ目をとめるのが、もっともっと適切なのではないか。
「鏡花」という号は、たんに本名の鏡太郎に由来するとみて済むかもしれない。「泉」は戸籍にある本姓で、 特別な何ものでもなかった。そうは言える。言えるけれども、だが、なかなかそう簡単に我々を、いや私を、解放してくれる名乗りではないのです。「泉鏡花」 の名乗りに、いま少し、こだわってみたい。
鏡花の早い時期の文名に、「白水楼」がある。「白水」はそのまま「泉」であり、寄る辺として「楼」を添 えたのだから、単純な雅号といえる。その一方、上古の文献に「白水郎」があった。「アマ」と訓まれてきました。海人、海士、海民のことをそう書いたので す。この海人には、水上を水平にもっぱら移動する系統と、水底に垂直に潜水して生きる系統の、二つあるのが指摘されています。龍宮に珠を求めた類いの伝承 は、むろん後の系統のものでしょう。鏡花は比較的、この水に潜る、水底や海底の世界に関心をもっていた。広大な海上よりも、深淵や海底や、池沼、川の底の 深い闇にうごめき、そこから現れるものを見つめていた。『海神別荘』は典型的な、その魚くずの世界ですし、また『天守物語』のような、地底の水をくみあげ て可憐に咲く草花をいとおしむ世界も、あります。さながらに水の底を遊泳しているに等しいとみた、大気に舞う鳥類『化鳥』の世界もある。
鏡花は、同じ人間でも、狭斜の巷にすべり落ち、くらい苦界に沈んだ女たちを、多く、愛をこめて描いてい ます。俗悪なものには「現世」をのみ与えて、哀切に生きるものには「他界」への切符を発行するのが、鏡花世界の律法でした。彼の他界は、あたかも海の底の ような「黄泉」の国に膚接していた。鏡花ほど切ない「入水」を繰り返し書いた作家はいないのです。
海の国と黄泉の国とは、神話的には次元を異にしています。「黄泉」には、死者の肉身に蛆たかりころろい でいる、腐乱と崩壊との、大墓所の如きイメージがある。戯曲『海神別荘』に拠れば鏡花は明白に「蛇」の国と表現していまして、しかも、海の国は「白水= 泉」の根底の国であり、陸上の現世と異なった、また一つの「清い」活世界であり、他から侵されてはならない律法をもつべしと、鏡花は、つよくこの世界を 庇っています。
しいて通訳すれば、まともな者だけがそこへ帰って行ける、受け入れてもらえる、あるいは、許され解放し てもらえるのだと、鏡花はその文学を通じて終始言い続けている。彼は、「泉」「白水」という自分の姓を、「海」に、「水」に、深く深く根差した、歴史的に も由緒あるものと自ら意識し、本能のように意識し、心から愛していた筈であります。
彼の小説は、ときに解読のむずかしい不思議なメッセージを示します。朱の色で光る、三角や丸や四角の単 純なそんな記号が、ぽっと輝き出て、すぐ消える。太古北欧の水上民らの船に、そういう記号を描いた船印や旗印があったり、似た図像が、太古の墓室の壁など に描かれていたりします。鏡花は、潜水だけでなく、航海系海上民の「船魂」の祈りとも感応できるだけの、あわれに、確かな、知識を、持っていたようです。
ここで一つ、関連づけて申し上げておきますが、日本の古典のなかでも代表的な古典 に、源氏物語や平家物語を挙げますのは、むしろ常識でございます。その源氏物語と平家物語とが、これがまた深く深く「海」に、「海の神」に支配されていた 文学・芸能であると申せば、異な思いをなさるかも知れません。ながく話せば、これはこれで何時間もかかる底知れないお話でありますけれど、一例を申せば、 思うままの栄達と安穏と幸福とを得た光源氏が、先ず真っ先に、なんで「住吉詣で」をしたのか。住吉は、申すまでもなく海の神そのものです。凄い龍神です。 光源氏の世界は、この住吉の海の神により予言され守られていたのでした、須磨と明石への源氏の君の流されは、けっしてダテに構想されていたのではありませ んでした。源氏物語の根は「海」の龍神の意向に支えられていたのです。
平家の運命は、厳島神社に根拠をもち、瀬戸内海を舞台にして開け、そして海に沈んで行きました。彼らは 三種の神器の一つ、宝剣を抱いて海の藻屑となりました。この剣は、あの八岐大蛇の尾から取り出された、まさに蛇の化身でしたが、後白河や後鳥羽の朝廷は必 死で海女などつかって捜索したのです。すべて空しかった。海女の一人は、巨大な龍宮の大蛇の膝に乗った今は亡き平清盛が、傲然として宝剣は返しはせぬと叫 びました由を、朝廷に呼ばれまして話した、などという平家物語の異本の記事も残っています。
事ほど左様に、「海」の意思や意向は「日本」を支配し、同じことは「世界」中に拡がっていました。われ われは、そういうことを忘れるわけに行かないのです、泉鏡花という作家には、そういうことが、しっかり根づいていました。「海」の意向の、申し子のような 作家であったと申し上げたい。
言うまでもなく泉鏡花は金沢の人で、生涯この故郷に対し、凄絶なアンビバレンツを 抱いていました。ひたすら愛し、ひたすら憎悪していた。だが、愛憎を分別するのは、そう難儀なことではありません。要するに鏡花は、「海=水」の側の清さ を愛し、「陸=土地」の側が占める俗世の栄燿を憎んだ。海の側には、あらゆる被差別の者、山の者や川の者や、野や墓に生きる者や、いわゆる水商売の者や、 貧しい者や、芸人、職人などを見ていた。逆に、高級軍人や、知事や、富豪や、大名や城主や、鉄道を敷く者や、利権に群がる者などを、具体的にキッと睨んで いた。それは、格別な思想的下支えのある分別ではなかった。たわいないけれど、だからこそ生得の、弱い者へ味方せずにおれない「不平」の表明でした。ただ 鏡花は、それを、彼が生きた時代の、限られた視野でするのではなく、広大な歴史の視野で、かつ「水=海」への直観や洞察や、いくらかの学習を通して、して いたのです。そういう意味では、日本に、それほどグローバルな思想的立場を持ち得た作家は他にいなかった。じつに世界的な作家だったといわねばならないん です。
もうすこし「泉鏡花」こだわっておきたい。
鏡花が加賀金沢の人であることは繰り返すまでもないが、「カガ」の国とはどんな国であったのか。これに 関連しては、吉野裕子さんが多くを説いています。「カガ」は、湿生の草地を意味したであろうといい、またそういう場所を多く占めて棲息したものとして、 「カガ」または「カカ」などが、蛇の古名ではなかったかとも言われる。多くの神社が、御正体に鏡をもつのは、「カガ(蛇)身」ないし「カガ目」であろうと 言われる。一本足の「カカシ」は蛇の変化もの、山の神の姿を表したものとされ、蛇の一種に「山カガシ」「山カガチ」のあるのもそれかと説く人もおられま す。誕生の際に、母神の「陰部=ホト=火処」を焼いて死なしめた「カグツチ」の神も、たしかに系譜的にも「蛇」神でした。
また吉野さんは、古い祝詞に「カカ呑み」「カカ呑む」などとある難解なことばも、がぶりと呑むにはちが いないけれど、鵜呑みという言葉もあるのだから「蛇呑み」と取った方が呑みこみが早いと説いています。なにしろ蛇の口は自在に顎の骨がはずれ、顎の直径の 十五倍程度はらくに呑みこむといいます、それも、噛まずに。
出雲国風土記では「加賀」は「カカ」と清んで訓んでいる。佐太の大神は加賀の潜戸の名で知られる海中の 大洞穴に鎮座していましたが、その闇い岩屋の奥を、金の弓矢で射たものがいた。岩屋の奥がそのとき「光加加」やいた、だからもとは「加加」といったのを 「加賀」と改め書くようになったと言い伝えています。佐太大社の大祭は十一月二十五日ですが、そのお忌祭には、社頭で、凄い生身の蛇にとぐろをまかせて、 ギヤマンの蓋のついた三宝にのせて祀る。その日には出雲中のどこかの浦に、きっと龍蛇と呼ばれる、背の黒い、腹の黄色い海の蛇が、海神の御使いとして上が ると、いまもって信じられていると謂います。
光輝いて「カガ」なのではなく、吉野さんらの説くように「カカ」「カガ」が蛇の古名の一つであったろう と、たしかに想像されるんですね。洞窟が光ると見たのは「鏡」さながらの「蛇の目」だったからです。蛇の目には瞼が無い。開きっ放しでまばたきしない。ま るで鏡なのです。神社に鏡を祭る遠い遠い意味は、おそらく、ここにあったでしょう。清んで訓もうが訓むまいが、要するに「カカ」「カガ」また「カグ」「カ ゴ」の音を含んだ山や川や沢や湿地は、みな、蛇と関わりをもっていたかと読めば、「ナ」「ナカ」「ナガ」などの例と同様、多くが納得され、モノがよく見え て来ます。鏡花は、そういう「カガミ」の意義を、よく幻視しえていたように思われてならないのです。
鏡餅は、蛇のとぐろを巻いた形象を祀るのだと説く人がいました。枝につけた餅玉は、蛇の産卵だと説く人 もいました。餅をたくさん甕に隠していたけちんぼうが、開けてみると、みな蛇に変わっていたという説話もあります。餅を的に矢を射ると、餅は鳩になって翔 び去ったという稲荷社の伝承もあれば、蛇が鳩に変じて翔んだという伝承も、八幡社には古くから伝わっている。能登島の火祭りにもそれが実感されます。つま り鏡と餅と蛇と鳩とは、或る、不思議に一連の「変容譚」を担ってきています。じつは酒も、その輪に加わっているんですね。
われわれの文化は、多くを、漢字に負うています。また漢字ゆえの惑いも負うている。例えば「出雲」 「泉」と漢字で書いてしまう以前の、「イヅモ」「イヅミ」のままモノごとを感受できるのなら、湧く雲や湧く水のイメージにのみ、想像を、限定されることは 少なかったでしょう。折口信夫も言う、音声の似通いに、おおらかな広がりを持ちえていた、太古上古の慣いのままに、「アダ」「アド」「アドメ」「アドモ」 「アヅミ」「アツミ」「アタミ」「イヅミ」「イヅモ」「イヅメ」「アヅマ」「ウヅメ」など、一連の「上古音」が即ち、一連の海民・水民の移動や分布を、優 に、示唆し暗示しえていたことを、もっとたやすく洞察できたのではないでしょうか。その背後に、総じて、かの「安曇」なる海族を透視して、大きな謬りが あったでしょうか。いま、これらを日本地図上の該当する地名に置きかえ、視線を移動させて行けば、ありありと、幾筋も、太古の海路や水路が目に見えてく る。天龍川上流の奥地に、南海の花祭の伝承されている由来などにも、察しがついてくる。
同じことは、「ナ」「ナカ」「ナガ」「ナゴ」「ナグ」の場合も然り、あるいは「ウラ」「アマ」「シラ」 などの海民由来を思わせる地名等にも、類推の範囲を、広げて謂えることでありましょう。おシラ神は海人の畏怖した醜悪な海底神「磯良」に深く由来し遊行分 布した筈と私は確信しています。「磯良」を「いそら」と訓むのは間違っていましょう、「磯城」を「いそき」と訓むようなものです。
これらは、要は「ウナカタ=海方=宗像」に由来したでしょうし、「ヤマカタ=山方」とも、諸水路を通じ て連帯していたでしょう。
泉、和泉、出水、夷隅、射隅、出海。それだけでも各地に散開しています。漢字を便宜の当て字とばかりは 言えないにしても、とらわれなければ、かえって「見えてくるもの」が、あります。泉鏡花は、そういうことも、よく知っていた察していたと想われます。そし て、その、至るところ、蛇は、巳は、なにらかの形で信仰され、畏怖され、またじつはアンビバレントな差別を、久しく、受けて来たと思う。
田中励儀さんの本に戻って、鏡花の『南地心中』の「蛇」信仰を見てみましょう。舞台は大阪住吉大社の神 事、宝の市。筋は作品でお読み願いますが、ここで女主人公のお珊が、懐から祭礼のさなかへ投げこむ、二条の、蛇。元はといえば、心願を抱いて多一とお美津 という若い二人が、言い合わせたように、お互いに、身に、秘め持っていた蛇でした。
「生紙の紙袋の口を結へて、中に筋張つた動脈のやうにのたくる奴を買つて帰つて、一晩内に寝かしてそれか ら高津の宮裏の穴へ放す」と、願いが叶うという言い伝えがあった。その蛇を売る家も、買う人も、放つ穴も、事実在ったんです。高津神社にも生国魂(生玉) 神社にも在った。この「巳ぃさん」信仰を、ながく熱心に支えたのは、多く、廓の芸妓たちでした。田中さんは、大阪は水と縁の深い街であり、「水の神さんで ある『巳さん』をお祭りする社が多い。(略)普通『お稲荷さん』としてお祭りしてある祠も、実のご本体が『巳さん』であることが多い」という、往時の証言 を引いていますが、これとても大阪に限ったことではない。京の八坂の旅荘の女将が、庭内の亭に二尾の蛇を祀っていた『紫障子』のような作も、同じ鏡花にあ ります。
ともあれ、『蛇くひ』を書いた昔から、「蛇に対する異様なほどの執着を示していた鏡花は、若い女性が蛇 を持参する上方の 巳さん 信仰に驚嘆し、これに触発されて」この小説を「成した」と、田中さんが説かれるのは正にその通りでしょう。いや、触発される以 前の下地を鏡花は根の哀しみのように身に抱いていた。
だが、また、鏡花が或る作中、たしか『勝手口』と謂いました、あの『龍潭譚』と同じ明治二十九年十一月 発表の短編ですが、妻子ある男が自宅を出掛けに、ふと邸内でみつけた蛇を、袖の中に掴みこんだまま、愛人の家を訪れて、即座にその蛇を女に手渡し、女に始 末をつけさせるといった場面に、決定的な或る「意味」を持たせて書いている相当に露骨な作品も有ったのです。これなどは相当に露骨です。
蛇を渡された女は、それを機に、自死を覚悟する。この蛇は、男(や男の妻子)から、その女への、差別意 識の、いわばシンボルとして働かされていた。その日男は、この女を捨てる意思を抱いて、女を訪れていたのでした。処分すべき「蛇」と、あだかも等価値的に みなされた「女」の背後に、えんえんと連なって、例えば『南地心中』の蛇を懐中して祠に放つ式の、狭斜の巷に愛をひさぐ女たちの影がならんできます。ここ の「お美津」が、「おミィ」と呼ばれていることも、鏡花はおろそかには書いていない。『歌行燈』の「お三重」もまた、これら女たちに繋がる一人として、謡 曲「海人」を、同じ芸人・能役者への恋を胸に、懸命に、舞いに舞うのです。
鏡花の作に「蛇」さんの意義をもとめて探索するのは、せつなくも、哀れな、豊かな、「水の美学」そのも のなんですね。同時に、厳しい「水の歴史学」なんですね。
数年前の秋、アジア太平洋ペン会議の分科会に、ついぞ経験のない演題を提出し、採 択されまして二十分ほどの演説をしました。所詮は一冊の本にもするしかない、大きな話題であり、お約束どおり龍頭蛇尾で時間を超過してしまいましたので、 その会議に提出した「『蛇』表現から共同の認識と成果を」と題するレジュメを、サマにもならなかった今回の話の、結びきれない結びに置かせていただきま しょう。演説集は数か国語で、日本ペンクラブから刊行されています。そのまま読み上げます。
グローバル(地球規模)の視野で、グローバルな協働の成果のまだ十分に現れてい な い未開拓課題の一つに、「蛇」ないし「龍」があると考えている。生物の蛇にかぎらな い、もっと広範囲にイメージをひろげて、言語・神話・伝承・説 話・詩歌・散文・小説 ・演劇、また多彩な造形に、表現され、示唆され、象徴化され、信仰ないし忌避されて きた「蛇や龍」が、東西南北を問わず広く広く 実在している。しかも必ずしも各国・各 地において表現も造形も乏しいわけではないのに、各国間の境界を越えて大きく深く意 義や問題が関連づけられ、構 造的に把握されてきたとは言いがたい。
しかし蛇や龍の問題は、人間のがわの恐れや嫌悪とも関連しつつ、想像以上に各国各 地の「社会」の底 辺に、「信仰」の名に隠された「差別」の源泉としても沈んでいる。 その意味で上古いらい今日もなお、「文学と人間」との、かなり危険をさえ含んだ主題 であり得てきた。根強い禁忌の判断によって意識外へ押しやられながらも、現在なお微 妙に表現を変え、場面を変えて、主題化され作品も成っていると思われ る。例えば「い じめ」問題にも、根をたどればこれが抜きがたく関係しているが、暗に社会も政治も目 を背けて触れることが出来ずにいると言える。
ましてアジア・太平洋地域に、水(山)神である蛇のイメージは、また生物としての 繁殖も、著しく豊 富であり、人はこれと無縁に過ごしえた歴史をもっていない。
今すぐ論考の結果を取り纏め語ることはできないが、いかに重要な文芸・芸術の課題 であるか、ひいて は人間社会の根底にとぐろを巻いている問題であるかを示唆し、各国 各地からの、今後、豊かな連携連絡可能な共同の認識が生れくるのを、また深刻で歴史 的な人間差別の根が急速に絶たれ行くことを、ぜひ「ペン」に期待し提言しておきたい。
同じ「期待」を泉鏡花研究にもかけることが、無理難題だとは、少しも考えておりません。ちなみに私は、 文壇処女作『清経入水』このかた、『みごもりの湖』『初恋』『北の時代』『冬祭り』『四度の瀧』など、「蛇の問題」にかかわる小説を、何編も、意図して書 いて参りました。ここで言い尽くせなかった幾分かは、それら作品に譲っておきとうございます。長らくご静聴いただきました。有り難うございました。 ー完ー
(講演 一九九九年十月二十三日 於石川県文教会館)
(「日本の美学」27号 一九九八年四月刊 の掲載論文に、大幅加筆)