ぜんぶ秦恒平文学の話

「大衆」と「知識人」

* 拝啓 ますますお元気なご様子心強いばかりです。『私の私・知識人の言葉と責任』(注湖の本エッセイシリーズ25巻)かたじけなく拝受早速読ませていただきました。どの講演でもつねに変らぬ貴兄の凛とした心の姿勢がうかがえ、文字通り心打たれました。文藝評論家にせよ研究者にせよ仲間内の言葉ジャーゴンを連らねて事足れりとしている始末 (これは日本ばかりのことではありません)。小生も、世を、ことに人を憂えています。たぶん貴兄とはちがって私は「大衆」というものを信じていません。御礼まで  匆々

 

* もう久しく文通のある、敬愛する或る名誉教授のお手紙である。適当なことを言うような人ではない。そしてこの手紙では、最後の、「大衆」というものを自分は信じていないと言われる点に、一つの問題が呈されている。

信じる信じないはひとまず措くとして、どうしようもないほどの「大衆」のあることを、むろん識っている。付和雷同し暴徒としても凶徒としてもいささかも恥じなきものになれる人達がいる。老若男女を問わずである。否定は出来ない。こういう「大衆」の判断や言動を「信じられず」思うことでは、わたしも例外ではない。

だが、それも一概には謂えない。餅は餅屋のような、凄みのきいた個別の措信の芯を、どんな人も抱いていないではない。政治的な判断はボロボロでも、人情あつく、正直な大衆もいる。とても及ばないと頭を垂れてしまう自然人もいる。

それに、こういうことが、ある。

もし判断を求めるなら、人は、概して、大衆に限らず知識人であろうとも、単に習慣に従っているだけでしかもそれに気付かず、概ね他者の判断を待って自身では決断出来ないという人が、あまりに多いのである。いや、実のところそういう人ばかりで、人の世の中は出来ている。

人は、自身に問うてみるべきである、自分はおおかた単に過去来の習慣に従って身を処してきただけでは無かろうか、自分は自分から事を決断して怖れることなく生きて来たろうか、と。さよう、そう問うてみるべきだろう。そのような問いの前には、実は「大衆」も「知識人」も差はないようなものだと、すぐ分かる。

 

* とは言え、同時に、健全で中正で「信じる」に足る多くの「大衆」の在ることをも、わたしは信じている。なみの「知識人」よりも人間としてバランスのとれた、屈強で自然な知者が「大衆」として現存している。もし知識人なるものが、そういう信ずるに足る「大衆」と別に在るのだと思うているなら、そんな思いは歪んでいる。良き「知識人」とは、そういう信ずるに足る「大衆」のゆるやかな核となり、内側から牽引車の役をしなければならないだろう、いや、望ましい 知識人とは、今謂うこの良き「大衆」に溶け込んだ存在として、その「大衆」の輪と和とを内側から押し広げうる人達でありたいと思う。

あまり信じにくい「大衆」をして、少しでも自身信じるに足る「大衆」に誘い込めるだけの度量が、必要と思う。

わたしは、自分が知識人ではないなどとラチもない卑下や謙遜で責任逃れはしたくないし、自分はだから「大衆」ではない別物であるとも全く考えない。少なくも「大衆」にいろいろある事実に、わたしはむしろ希望を置いている。わたしが大衆なのである。

「私語の刻」2002年10月2日

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