ぜんぶ秦恒平文学の話

『昭和百人一首』抄   岡井 隆

 
 

たづねこしこの静寂にみだらなるおもひの果てを涙ぐむわれは   秦 恒平
 

 今歌をつくろうとすると、手っとり早いところでは新聞の歌壇投稿であろう。新聞歌壇だけでひとり歌作を楽しむひともいるし、そこから進んで短歌結社に加わるひともあろう。後に小説を書くようになった秦恒平は、そのどちらでもなく、ひとりで歌を書いていたらしい。ここに挙げた歌が示しているように、恒平の歌に一番近いのは、大正期の写実系の短歌だろう。たとえば島木赤彦、あるいはその弟子の土田耕平や高田浪吉など。昭和二十八年、十七歳の時の作品だというが、京都の何処かのお寺か社を思わせる、その静かなたたずまいに、若い性欲が突然色彩を変える。そして少年の眼に、うっすらと涙が溜まる。どうしようもない性的な悶え苦しみ、そして浄化への願い。「カラマーゾフの兄弟」で言えばアリョーシャ的なものへの憧憬。それが実に素直に出ているではないか。「おもひの果てを」の「を」の使い方なども、見事なものである。こういう歌を読むと、歌に新しい古いなどはないのではないか、と思いたくなる。だかやはり歌に新旧はあるのである。ただ作者にとって新旧などどうでもよい場合がある。かずかずの歌を読み慣れた眼にも、こうした歌が慰めとして存在する場合がある。

  わぎもこが髪に綰()くるとうばたまの黒きリボンを手にまけるかも

という歌を挙げてもよい。十七歳の時の相聞歌である。リボンという外来語を除けば、まるで万葉の歌の模写に近い。それなのにどこか洒落ていて、初々しい。黒いリボンを手に巻いて、これから髪をこのリボンで縛るのよ、という、この仕種は、やはり近代の女のものなのだろう。言葉は古く、風俗は新しい。秦はこのあと十年ほど、寡作ではあるが歌をつくり、のちに歌集『少年』を編んだ。二十六、七歳ごろの作品に、

  逢はばなほ逢はねばつらき春の夜の桃のはなちる道きはまれり

がある。女に逢わなければ無論辛いのだが、逢えば逢ったでなおのこと辛いのだという、人間男女の性愛の、千古をつらぬくまことの姿が、民謡調に乗せてうたいあげられている。桃の花の散る道は尽きようとし、それは若いふたりの道の行方でもある。思えば十七歳の時から十年のあいだ、ほとんど歌の調べも歌風も変わっていない。それなのに十七歳の特の幼い性欲の嘆きと、この桃の花の道の愛の心とは、どこか違っている。 
 

 (歌人)

 

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