「いま、谷崎を読む」という課題は、いまの私に与えられても困るのです。いま私は「谷崎」を読んでいないし、いますぐ読もうともしていない。それでも… と押して言われて私に可能なのは、「いま、又はいまから、本気で谷崎を読む人のために」話すことしかありません。
この場合、一般の読書人を相手に言うのではありません。文藝学を学んだり教えたり、そして多少なりと研究・批評的な視線を「文学」に対し必要としている人たちに話すのです。しかもなお、少し皮肉っぽく推測するなら、私の言おうとすることは、存外一般に「愛読者」といわれる読書人のほうが、学者よりも素直に聴いてくれそうな気が、しないでもない。ま、それは措くとしまして、何を私は言いたい、話したい、か。
約めていえば、言葉少なで足ります。もう少し先で簡潔に、結論ふうにお話ししましょう。
断るまでもなく私は一人の小説家で、一人の読書人です。谷崎に関してですら、学者でも研究者でもありません。しかし、こと「谷崎潤一郎」にかぎって言えば「特別の関係」にある「愛読者」と言っていい。私は、心行くまで谷崎について「書きたい」がため、そのために「先ず小説家になりたい」と志した男なんです。書いて垂れ流すHPもブログもない時代でした。無名の青年が世に埋もれたまま谷崎文学をどう語ってみても、読んでもらう術がない。佐藤春夫は別格としても、私は、尊敬する小説家伊藤整の優れた谷崎論を頭に置いていました。佐藤のをはじめたくさんな谷崎論に接してきましたが、私は不満でした。抜けている落ちている大事なポイントが有る、こんなに有る有ると思っていたんです。なんとしても小説家になって、好きな谷崎潤一郎を思うまま心ゆくまま「書き」たいと思った。こういう人をよそで聞いたことがない。その成行き、多少、人さまの参考になるかもしれません。
私は、ウソでなく一時谷崎先生の隠し子ではないかと「噂」されていました。噂の震源は、私が『神と玩具との間 昭和初年の谷崎潤一郎と三人の妻たち』を書き下ろし出版した際に「本の帯」でいい推薦文を下さった水上勉さんでした、ご本人からも笑い話に私は聴きました。
谷崎が松子夫人と祝言を挙げられたのは昭和十年、私はその年の師走に生まれています。有りがたいことに、なんだかツロク(相応)しています、が、むろん残念無念事実ではない。谷崎と松子さんとの出逢いは昭和二年、お二人は多くのエッセイで深い関わりを昭和七年『蘆刈』のころに調整しておられるけれど、親密なかかわりは遙かにもっと早かった。傍証・心証は豊富です。
いま謂う『神と玩具との間』は、念願かなって初めて書き下ろした「谷崎潤一郎論」(筑摩書房『花と風』巻頭所収)が評価され、当時谷崎伝記の第一人者だった野村尚吾さんが、あちこちで「新生面ひらく谷崎論」ともてはやして下さり、あげく遺言のように、ある人から預かってられた貴重な谷崎資料を、私に託して亡くなりました。
貴重な谷崎資料とは、こんなものでした、昭和初年の谷崎家がひときわ親しくまた便利にも付き合っていた妹尾徤太郎・君子夫妻がありました。夫妻ともおよそ『卍』の頃から『細雪』にまで、いろんな登場人物に姿形を変え痕跡をとどめているとみていい、ことに『武州公秘話』では隠微な役回りを武州公のために演じています。谷崎が、いいえ谷崎家の全員、千代さん、丁未子さん、松子さん三人の奥さんたちも、弟終平さんも、さらに佐藤春夫夫妻や鮎子さんも、みなみな挙って信愛し重宝していた、いっそ家の「執事」っぽい位置にいた夫妻でした、ことに谷崎は妹尾夫人君子さんをかなり気に入っていたのです。
この夫妻に宛てて、上の全員が書きに書いた「私信」が山ほどあって、すべて野村尚吾さんに託されていた。それが私の手元へまた託されてきた。それらがどう活きて一冊の本に書下ろされたかは、刊行本でご覧下さい。本の帯は、先に話しましたように水上勉さんが書かれました。
秦さんは「谷崎愛」と自らいわれるほどの敬愛の誠心をこめて、ぼくらがこれまでもやもや感じとってきた谷崎の三人の妻との交渉を、未発表書簡その他資料を得て丹念にさぐり、当時の代表作「蓼喰ふ虫」「春琴抄」等とのかかわりを作品行間に追跡して、神と玩具との間を求めた谷崎の女性遍歴の実像を彫りあてている。ここを通らなくては一語も語れない場所に立ってその眼識は深く確かである。前人未踏のもう一つの照射がここにある。出色の労著に敬服するばかりだ。 水上 勉
「谷崎愛」という三字があらわれますね。私にとって「谷崎愛」とはどういうことを意味していたか。それをお話しすれば、つまり私に課された問いに、自ずと答えることになりましょう。それもまた約めていえば、言葉少なで足りるのです。もう少し先で簡潔に、結論ふうにお話し出来るでしょう。
ここで、私あての一通の手紙、長い美しい巻紙の手紙をご覧に入れましょう、あの『細雪』のヒロイン幸子が、モデルの松子夫人が下さったお手紙です。夫に先立たれた谷崎夫人松子さんが、私の筑摩からの処女小説集『秘色(ひそく)』を手にされて、とりわけ「蝶の皿」を読まれて下さった巻紙…。書かれた内容のことはすべて措きましょう、この長い長い長い巻紙の華奢に美しいこと、書かれた文字や言葉の優美に典雅なこと、一目で、お分かりでしょう。ここに、明らかに「谷崎世界」の大きな豊かな一面があらわれています。松子さんは亡くなるまでに、これと同じ、豪華な華奢な巻紙のお手紙を三十通ちかく私に下さった。あの人には、しかし、それはただ日常の自然でした。
いま「谷崎世界」という言葉を簡単に用いました。至りついた藝術家にはまぎれないその人の世界があります。同時にその世界は単純で淡泊な一色で描かれていない。それをよく弁えて「世界」という言葉は使われねば間違ってしまいます。お見せした松子夫人による巻紙に毛筆の手紙も、まちがいなく谷崎世界が憧れて取り込んだ大きな一つでした。
私はいまも「谷崎愛」を抱いているか。あたりまえです、私にとって谷崎はいつもひたすら懐かしく、少年の昔と変わりなく「谷崎愛」をひしと抱きしめています。ですから、さっさと言ってしまいましょう、私の「谷崎愛」って何なのか。
その意味は簡単です、「谷崎愛」に私は育てられた、嬉しかった、有りがたかったということ。感謝は「私」に充満し、その愛のちからで私は「いま、」他のたくさんの本を楽しんで楽しんで愛読しているのです。この述懐は、しかし、説明を加えないとみなさんには所詮実感に成らないでしょう。で、もう少し聴いて下さい。
みなさんは論文を書かれる。評論もされる。いずれそれを仕事にされるかも知れない。論文と評論のちがいは、難しくいえばいろいろに言える。それはみなトバしまして、文系の場合、私はこう考えています。即ち、
優れた論文は「正しくて面白い」と。
優れた評論は「面白くて正しい」と。
そして作家論も作品論も、その作家と作品とを未曾有に豊かに太らせるものでありたい、と。批判のための批判だけなら書かない方がマシ。また重箱の隅をつついて爪楊枝の先をねぶって独り満足しているような議論だけでは、しょせん或る「閾値」は越えられない。
今、谷崎を読む。ナミの受け取り方なら、細雪を、鍵を、瘋癲老人日記を、刺青を、少年を、戯曲を、推理小説を、アヴェ・マリアを、痴人の愛を、卍を、蘆刈を、春琴抄を、藝談を、陰翳礼讃を、猫と庄造と二人のをんなを、谷崎潤一郎家集を、等々どう読むかという「作品論」が先ず念頭に来ます。
それにしても今此の教室にいる学生諸君は、「谷崎」作品をどれほど読んでいるのだろう。機会があったら、これから読みます…それでも構わないんです、但しそれなら、まだ読んでない作品をどう他人に論じられても理解しにくいはずです。他人のすでに書いた作品論を識ってみるのもいいんです、論文を読むのもわるくはない、差し支えない、が、だれしもにとって、いずれ自分自身の「読み」が大事になる。自分はどう、どこまで読めるのか……。本当の問題は、そこに、すでに生まれているのです。「今、本気で谷崎を読む」なら、「何が」本当に必要か。作品論より作家論か。いやそれでも時に余計な先入主を植え付けられてしまう。
それなら、いっそわたしは奨めたい。作家の「年譜」を熟読なさるように奨めたい。良く書かれた「年譜」は、つまり「最高の研究成果」と謂える。正確で詳細なりっぱな年譜が書けるということは、その作家に関する研究が極に近づいている証拠でもある。なかなか優れた年譜はないものですが、概略を書いたものでも正確でさえあれば役に立ち、また作家への興味を増すことが多い。私生活にも家族や縁戚関係、また交友・交際にも触れた年譜は、じつに貴重です。
私は大学院を振り捨て故郷を振り捨て東京へ出てきまして、卓袱台もカーテンも買わない妻との貧乏生活のさなか、折しも刊行されはじめた講談社版「日本現代文学全集」百何巻かを一冊一冊買って行きました。作家の名の出たその箱・箱の背文字を眺め、そして各巻の年譜をみな繰り返し熟読して、生きた「近代文学史」を身につけてゆきました。
余談ですが、その年譜読みがなければ、いままで「ペン電子文藝館」の責任者として、幕末の黙阿弥からはじまる何百人もの作者・筆者と作品の「略紹介」を問題なく全て書くということはとても出来なかったでしょう。
実を言うとその「企画」は編集役の私に気が失せて途中で流してしまったのですが、『谷崎潤一郎と五人の作家』という本が計画されたことがあります。錚々たる当時の若手、今では東大はじめみな有名教授になっている人たちに書いて貰うことで相談が出来ていました。「谷崎と泉鏡花」とか「谷崎と佐藤春夫」とか「谷崎と志賀直哉」とか、ま、ぬきさしならない五人の作家と谷崎とを突き合わせた文学的検証と論考をという企画でした。
私がそれを企画した意図は、谷崎を谷崎だけで読んでいてそれで済む、足りているとはいえない、たとえ目先の仕事で必要でなくても、脳裏にそういう蓄えでの相対化が出来ていないと、論じたり語ったりの視野狭窄は免れ得ないということです。当たり前の話ですが、見渡していると、重箱の隅をつついてその爪楊枝のさきを舐っているような「研究」ばかり、ま、余儀なくそういうことになりかねない。学者ならしようがない、研究者ならしようがない、と言われるなら承伏しますが、つまりそこが私を「学者や研究者に」催すよりも、先ず「小説家」にし結果「谷崎論者」にもし向けた一の「姿勢」というものでした。一時「作家の谷崎論」といって、何人もの作家が、盛んに谷崎潤一郎を論じ、その新鮮な論旨は谷崎研究史に一時代を画したことはよく知られていますが、そういう人たちは、爪楊枝で重箱の隅をせせらずに済むある種の「気まま」な足場を作家として得ていたのだと謂えましょう。思うまま、心ゆくままに谷崎について語りたい書きたい、そのために先ず小説家になりたいという希望は、私にとって少しも不純な動機ではありませんでした。いわばそれが「谷崎愛」でした。どれが…。もう結論へかけこんでいい頃合いです、が、もう少し話します。
みなさんに問うてみますが、みなさんはそれぞれ「読書人」として「いい作者」「いい作品」に出逢いたいでしょうね。ところで、あながたにとって「いい作者」「いい作品」とはどういうものでしょう。作品はちょっとワキへ置きますが「いい作者」はと自身に自問し自答するのは、そう容易い批評ではありません。私もまた常に「いい作者」「いい作品」に出逢いたかった。
しかし、今は作者として世渡りをしています。したがって、作者からいえば、いつも「いい読者」と出逢いたい。私にとって「いい読者」って何でしたろう。
ナボコフという世界的な大作者が、じつに的確にこれを語ってくれています。ナボコフは、自分の求める「いい読者」には、次の四つの力が備わっていて欲しいと言います。
一つは「想像力」のある読者、二つには「記憶力」のいい読者、三つ目には「辞書」をひくのを億劫がらない読者、最後に、ほんの少しでもいいから「創作的なセンス」をもって自分の作品に向き合ってくれる読者。
これに此の私自身がも一つ加えるなら、本当の読書とは、二度目を読むときから始まると分かってくれている読者が、望ましい「いい読者」です。旅も読書も、一度目はドアをあけただけです。二度目にやっと中をみまわす、そこから全ては始まるのです。長編はもとより短編ですらそうです。どんな旅行先でも同じことです。
「繰り返し」読む・読ませる。お互い様「いい読者」と「いい作者」の資格はそこにある。想像力を刺激し、記憶のすべてに働きかけ、新鮮な詞藻と表現に富み、さながら自身も創作に参加しているような感激を与え、人生の糧として何度でも繰り返し読みたい・読ませてくれる作品と作者。当然「いい創作者」とはそういうものではありませんか。そうでない、一度読んだらそれまでという読物は、所詮ヒマつぶしの娯楽を出ません。その意味で谷崎潤一郎は私には真実「いい作者」でした。
そして私がそんな谷崎にそそいだ「谷崎愛」とは、つまりこういう意味を持っていた、谷崎潤一郎の文学のために最高に「いい読者」で自分はありたい。「谷崎愛」の三字は、その実意その覚悟であったと申したい。
谷崎ほどの文豪の読者にふさわしい、いわば海面下の氷山ほどの蓄えをもち、航海でいえば十分な船の底荷を積んで、「いい作者」の「いい読者」たるにふさわしい用意を常に怠るまい、と。いま「谷崎を読む」とは、「読む」が可能な無心の勉強が大事と謂うことであり、細雪を読むべきだ、瘋癲老人日記を読むべきだ、初期作品だ、戯曲だ、随筆だといったことを私はみなさんに言うのではない。
ファスト・フードを口に頬張るようには谷崎は味わえない。谷崎にふさわしい谷崎をよりよく読むための姿勢と用意、繰り返して言いますが海面下の氷山ほどの「蓄え」「体験と思索」をもたずに、容易く「読む」「読む」などと言っててはとうてい「良い読書」は始まらない。「良い谷崎学」も始まらない。現に、まだまだ谷崎学の現状はかなり貧しいのです。ファスト・フードの「一丁上がり」のような文学研究は研究の名に値しない。谷崎でも、鴎外でも、藤村でも、漱石でも、鏡花でも、秋声でも、直哉でも、川端でも、三島でも、太宰でも、大江健三郎でも。全く同じです。
谷崎潤一郎は、自身、こんなふうに述懐したことがあります。
もし自分が茶の「利休」を書くとすれば、その前に、何年かは茶の湯に親しみ、自分でもよく習い慣れて、ものが分かってからしか手がつかない、手をつけないと。谷崎は千利休を結局書きませんでした、が、この述懐は谷崎の姿勢や手法をたしかに言い得ています。谷崎は出たとこ勝負では、少なくも心構えからして、書こうとしなかった作家でした。
まこと、それならば、彼の小説や文藝に我々が接するのに、ファスト・フードをインスタントに一丁上がりと読み飛ばして済むわけがない。作者が心がけたところを、読者もよく心がけて然るべきでしょう。
利休の話が出ました。
利休を書いた作家には野上弥生子や井上靖らがある。その井上さんと、新宿から銀座まで車に同乗したことがあります、ちょうど『本覚坊遺文』が予告されていた頃でした。私はそれで尋ねたのです、「千利休がお茶を点てるとき、どんな座り方をしていたとお考えですか」と。言下に「それは正座でしょう」と井上さんは言われた。事実、この作品はその後に二人の監督の手で映画化されまして、両方ともに利休も誰もかも正座してお茶をたてていました。
ところが「日本人なら正座」というのはただの思いこみで、元禄の頃以前に日本の老若男女、また仏像にも神像にも正座例は、図像にも彫像にもきわめて稀、罪人のように極度の服従、または極く稀に本尊の脇侍に見られる極度の謙譲の例以外に見あたらない。利休在世時の彼の図像彫像はみな正座していない。しかし元禄期に描かれている利休孫の宗旦には正座図像が遺っています。光琳描く元禄期の国宝の中村内蔵助像もはっきり正座しています。
これ以上深入りしませんが、谷崎潤一郎を「読む」ということは、こういうところまで読者にも用意があっていい。
谷崎は、昭和八年の『藝談』が示すように、新しいものへものへという創作態度でない、繰返しの一度一度に一期の実意を傾注するという「一期一会の藝術観」をことに昭和期に確立していった。その辺の彼のフィロソフィーを知らずに志賀直哉や徳田秋声を論ずるのと同じ「日本語」「日本文化」理解で谷崎を解析しても、誤解をひろげるだけに終わりかねません。もし『春琴抄』なら春琴抄を読むとしても、作品に書かれている時代や土地の生活様式や習慣をのみこんでいなければならない。わざわざ台所で湯を沸かしてこなくても、寒い季節なら春琴が寝ている枕元に、常に火鉢の埋み火と鉄瓶ようの備えがされていたのは、火の用心や煖房の慣習からも当然です。盲目といえども慣れた自室で春琴がそれを手にするのは容易でした。
「谷崎を読む」限りは、谷崎にふさわしい勉強を続けて繰り返し繰り返し読んでゆくのだと、私は、関連の世界を広げました。それがまた、谷崎に就いて「心ゆくまで好きに書ける」ように成る、人にも「読んでもらえる」ように成る、進むに値する道だと思っていました。そのためにこそ「先ず小説家に成りたい、成ろう」という決意を肥やす、確実な道程とも、豊富な糧とも、そういった勉強が私を導き引っ張ってくれました。
私の「谷崎愛」とは、端的に、そういう決意と実現への原動力であったと申せば、もうお話しすべきは尽きています。
一言で尽くせば、谷崎を「読む」のに、目先の作品だけで「読み込める」と思うのは、とんだ錯覚だということです。そしてそれは谷崎に限らない、優れた作家の作品であればあるほど、みな同じです。
一編の書下ろし論考一冊を書くのに、関連の論文や批評を百や百五十編は当たり前に読みます、私は。それを頭に入ってこなれた栄養にして書下ろしますが、「小説」を書くのにはそんなことではまだ足りないのです。時代と生活と人間を、よほど日頃から丁寧に多方面に好奇心と関心をもって「船の底荷」に積み込んでおかないと、安定した航海は出来ない、佳い物は書けるものでない、と、少なくも谷崎潤一郎は考えていた人です。
私もそれを学びました。そうして「愛読者から批評家へ、小説家へ」と着々と歩んでゆきました。結果的にわたしは「本望をみな遂げた」うえで、自分の仕事も数多く、本にして百何十冊も積んできました。蔵は建ちませんが、仕事は心ゆくまでさせてもらえました。
最期に一つ具体的な譬えで、示唆を言い置きましょう。
作品『細雪』に名高い平安神宮の花見の場面があり、その表現の是非については多くの議論がありました。議論には、しかし、此処では触れません。
みなさんに、一つの示唆として、その「花見」がどれほどの「用意」あって為され成されていたか、其処をよく読み取って欲しいのです。前日には御室の花を愛で、また祇園踊りを愛で、瓢亭の料理を味わい……、それはただの贅沢というよりも、それだけの用意をしてやっとあの豪華な花の美しさに向かう彼ら作中人物たちの気持ちに、バランスがとれたのです。もっといえば、「用意」は、去年の花見から今年の花見までの間、その一度の繰り返しのために、周到にしかも無意識のうちに為され続けていたのでした。それほどの「花」だ、六月二十三日大切な「花見」だというのです。
私に言わせれば、それほどの「谷崎潤一郎」なのです。それにふさわしく常に「用意」して渾身の愛で「読みたい」というのです。そのためにわたしは勉強したし、そのために小説家に成ったのです。「谷崎愛」です。
日本は四季の繰り返す国です。「繰り返し」の一度一度が、珍しくて新しいと、そう世阿弥は見極めていました。谷崎も見極めていた。「一期一会」の覚悟、それは一生に一度しかない機会の意味ではない、無限におなじモノ、コトを繰り返しても、その一度一度が「生涯一度かのようであれ」という覚悟です。思想です。日本に固有の思想がありうるなら、これが日本の思想だと、谷崎潤一郎は信じていましたし、わたしも信じているのです。
私の「谷崎愛」とは、私の「一期一会」とはこれなのです。
「いま、谷崎を本気で読む」なら「谷崎愛」を以て読まれたいと、それが皆さんに向かって私の申し上げられる全部です。
日大芸術学科 講義 (教室では、二回三時間かけて、もっともっと沢山の「私事」を遠慮なく話しましたが、伝えたかった真意はこの稿に尽きています。余分はすべて割愛しました。)
2007 6/23 69