ぜんぶ秦恒平文学の話

バグワン 2004~2005年

* なにのアテもなく更けて行く夜を半ば憎みながら、機械にふれ続けていた。二時になる。わたしの背後のソファには黒いまごが熟睡している。この部屋が暖かいから。わたしが、ここで起きているから。安心しているのだろう。しかし、もう眼球が乾いて腫れてきた。階下に降り、バグワンを聴こう。いま、またバグワンはティロパの「存在の詩(うた)」を話している、わたしはじっと聴いている、音読しながら。

 宇治十帖は、いまにも大君が他界するだろう。中君の人生がはじまるのだ。

 江戸時代の歴史に、いちばん必要な究明と理解とは、「大名と百姓」なのだとつくづく分かってきた。両者の間に商業が介入してくる。どれほど豪農にいためられながら貧農は立ち上がって行くか。どれほど幕府や藩や代官達が苛酷に農民をいためながら、しかも大名も武士も貧窮の坂を転落して行くか。なぜか。こういうことを理解していないと、勤王も佐幕も分かるわけがない。

 2004 2・28 29

 

 

* バグワンについて書いてみたい、いろんな書き方があるという気持と、とうてい、書けないだろう、掌からはほんの少しも出られまいという思いとがあり、どっちもウソではない。人から言われるまでもなく、書きたい一のことは「バグワン体験」ではないか。自信はない。やめておいた方がいいという判断の方が遙かに強いけれど、催す力もよわくない。迎えるも見送るもゆったりと自然に。そうしかあるまい。

 2004 3・11 30

 

 

* 頭の中で、ことばが沸騰するようにストラッグルしているのを感じる。なんだかむちゃくちやに混乱し廻転している。液状のも筋状のも粒状のも板状のも、ぶつかり合うように攪拌されている。狂うような自覚はない、それを眺めている基点とも支点ともいえそうな位置でわたしは眼を開いていて、意識は騒がしくない。なんだか、とても寂しいとも表現できる。おととい、泉涌寺にいたときの気持ちに似ているが、あのときは頭の中に沸騰はなかった。懐かしい声のような情愛にわたしはひたっていたと思う、あの数時間。

 即成院の阿弥陀、戒光寺の丈六釈迦、悲田院の大空に吸い上げられそうな遙かな眺望、観音寺の日だまり、来迎院の静謐、金堂わきの大桜の漫々と頌えて漏らさない咲き盛り、後堀河陵の裏山で聴いた鴬、母校の校庭、東福寺僧堂、通天橋をのぞむ一瞬のめまい、東福寺伽藍の交響する明浄。人と出会ってもそれと認められない深い現実喪失の澄んだ闇。あそこで、わたしは鬱ではなく躁ではむろんなく、静であった。願わくは清でありたかった。

 

* 落とせとバグワンはいう。道元の心身脱落とか、放下とか、そんな意味かも知れない、持ったり縋ったりしているむいみなものから手をはなすだけでいい、よけいなものは落ちて行く。何が、よけいなのか。何がほんとうによけいなのか。なにで「ありたい」かが、その「よけいな」ものを決めるのか。ま、いい。

 2004 3・28 30

 

 

* その人の言葉が、どうしても「本気」とは聞こえないような人が、いるものである。ものを言うとき、だれしもが本気で言うとは限らないのは、こんな悲しげな事実・現実は無いのだが、概して人は「本気の言葉」ばかりを話しているものではない。それどころか本気で話す者は愚かだ、バカだ、という価値判断すら現世ではかなりの力をもっている。本気でばかり話していると世間は狭くなるぞと、どれほど、声ある言葉でも聴かされ、声なき言葉で嘲笑されてきただろう。

 やはり子供どうしで群れて遊んでいた昔、よく、「ソレ本気か」と問いただし、問いただされる場面に遭遇した。本気の反対語がなにであったか、「ウソ気」というような不熟な語であったかも知れない、人はたいてい「ウソ気の言葉」を表へ出すことで、世渡りの瀬踏みをするものらしいと覚えた。「じょうずにウソを言わはる」人がむしろ褒められていた社会が、身の回りに、ひろい世間に、明らかに実在していたのである。

 

* 「その人」のことがほんとに好きなのに、その人の「ことば」が、浅い薄いかざられた「ウソ気」のものとしか思われない、そんな不幸な体験を一度もしなかったわけではない。いや、何度も有ったかも知れない。そして、みすみすだまされると知ったまま、そこへ落ちこんで行く人もいないわけでない。物語世界には、まま見かける主人公である。山本有三の「波」の女、谷崎潤一郎の「痴人の愛」のナオミ。男をあやつるために生まれたような女の、おそろしいほどの魅力。わたしなどは臆病だから、そういう女にはたぶん近づかないけれど、知らぬうちに近づいてしまってたら、どうするだろうかとは、想ってみることがある。そういう女ほどたぶん美しいのであろうから、厄介である。

 室町時代の絵巻に「狐草子絵巻」があり、愛した女の正体が「狐」と分かり、男は恐れ厭いニゲに逃げるのだが、あの雨月物語の名作「蛇性の淫」でもそうだ。

 妙なことに、わたしは、それらを読んだとき、それらに類似の伝承・伝説を読んだとき、「えぇやないの、狐でも蛇でも」と想った。だから「信田狐」の伝説にも、それが歌舞伎になっても、「狐でもいいじゃないか、なぜイヤがる、バカらしい」という感想を大概持ったし、今も変わらない。だから『冬祭り』のような絶境の恋も書いたのである。

 これを、さきに書いた「本気」「ウソ気」という意味に絡めて言うのなら、人間の「ウソ気」よりも、獣たちの「本気」のほうが幸福に近かろうかと想っていたわけである。つまりは人間の女の、男の、「ウソ気」のほうがイヤであった。

 その人の魂に、とても根ざしているとは感受しきれない綺麗な浅い「ことば」を表情も平然と並べたてる女も、むろん男も、いる。自分自身がそうでないというのは厚かましい限りと認めた上で、そういう「ウソ気」のことばを普通に使って生きている人間とは、「お友達に」なりとうないと、わたしは永く思ってきた。

 まわりくどくいえば、泉涌寺を歩いているとき、一切のそういう軽薄な危険や穢れた情けなさから解放されていることが出来る、そんな総てが「落とせて」いると思える。だから、わたしはあそこでは本当に「幸福」なのである、かなり寂び寂びとした幸福感ではあるけれども。

 

* あ、わたしは、いったい何を書いてきたのだろう…、今朝は。なんのことはない、本気で人をだまくらかそうと予行演習していたのではないか。分からない、自分自身がなによりも分からない。分かっているくせに、分からない。

 2004 3・28 30

 

 

* やがて日付が変わる。今日はもう何もあるまい。けだるいもの憂さを宇治十帖でいやして寝よう。浮舟がやがて母親にともなわれ、匂の妻中君を頼ってくる。異母姉妹である。事件が起こるであろう。

 そして、バグワンに耳を預けたい。全身に染み込んでくる真実は、バグワンのことばよりも声なき声から降り注ぐ。わたしを解き放つのは、バグワン。

 2004 5・6 32

 

 

* 卒業生の、またも「片思い」に疼きつつ希望を持っているメールが来ていた。美しい言葉で語られている。美しいというより、上古の物言いでなら、うるはしい、か。「希望」は、人間の持つ最良の強みであり最悪の弱みである。そしてうるわしい言葉は、リアルとの間に隙間を生みやすい。餅を焼くと、焦げて硬い皮とやわらかい中身との間に浮き上がった隙間が出来る。自分のうるわしい言葉に酔ってしまわず、「今・此処」に一つの肉体としてシャンと立ってモノを見詰めたいと、わたしは、自分に課している。自分の心がいかに瞬間瞬間にゆすられて右往し左往し定まりがたいモノかを、わたしは悲しいほど痛感している。それは波打つ波頭に過ぎない、心理に過ぎない。

 

* あまりに大勢が二言目に「心」というが、よく聴いていると、それは動揺果てなき「心理」「サイコ」の波立ちをしか言い得ていない。ひっきりなしに揺らぐモノの影に過ぎないのである。朝令暮改や朝三暮四どころの大きなハバでなく、ものの一分五分のあとにはちがう心に揺れている。その揺れをゴマカソウとすると小泉総理のような死んだ目をして、言葉だけをうるわしく飾らねばならなくなる。

 そうではない、心とは「ハート」だと云える言い訳が幾らでも効くかのようだが、それならば「ハート」とは、心ではなくむしろ「からだ」と同じか、からだに膚接した真の意識にほかならないことが、分かっていない。ハートは、「虚妄の影に過ぎない心理=心=分別という実は無分別な動揺=サイコ」とは、ちがう次元、に働いている。ハートが人間のからだを働かせている。ハートは一つの概念でなくリアルな働きだから、人のからだが千差万別なのは、ハートもまたそうだからである。きれいなハートもきたないハートもある。しかしいずれにしても、それは心理でなく、からだを働かせるちからだ。だからハートは「心臓」の名になっている。

 だれも人にむかい、わたしの「心理を愛して」とは云わない。云うときはむしろわたしの「ハートを愛して」というだろう。人によれば、それが「からだを守る」意識にむすびついて、そうして「からだとハートとは別」なのだと錯覚する。錯覚である。サイコが、ではない。ハートがからだと、からだがハートと呼び交わしている。

 サイコは落とされていいゴミなのだ。ただの波立ちなのだ。少なくもそんな「心は頼れない」のである。そこへ加わって「いやよいやよも好きのうち」式に言葉というサイケデリックなゴミが舞い上がると、よけいややこしくなる。リアルはみえにくくなる。このみえにくくする雲や霧を払って、青空をきちんと把握するのが大切だと、わたしは感じている。

 

* バグワンはたしかなことを云う。流れる河の岸にゆったり座れと。ただただ河を眺めよと。むろんこれは喩(メタファー)であるけれど、そうするのが人の「心」と向き合っている姿勢だと彼は云う。「心」は流れ流れ流れ続けている河の流れのようなもの。しかしそれは岸に静かに在る自身とイコールではない。明らかに自身の外を「来ては去って行く」ものに過ぎないと。それに囚われたり、それが自分だと思いこんだりするのは、虚妄に身を委ね売り渡し奴隷になるようなものだと。「方丈記」の書き起こしに似ていて、さらにバグワンは冷静で的確である。

 二言目には、「心の教育」などとエラソーな、実(じつ)の無いことを提唱する人達に、流れ来て流れ去る我が身の「外」の雑念=心理にむかい、どういう教育が可能なのか、そもそも教育の対象になるというその「心」を、あなたは措定できるのですかと問いたい。きれいな心でもきたない心でもいい、お見せなさい、わたしの目の前に、と云いたい。

 だが、ハートは、岸に坐してゆったりと静かに河の流れをただ見守っている「わたしやあなた」のその「からだ」にいつも寄り添っている。一つなのである。ハートが「今・此処」に「からだ」として在るから、からだは生きている。「こころの教育」とは健康な、病的に陥らないための「からだの教育」でなければならない、そんなことは聡い古人はみな知っていた、あたりまえのことだ。

 

* 頼りない心理に身を任せて恋をするから、恋そのものも危うくなる。ハートとは「からだ」であると信じ思い、ハートとからだとの親密な相談を大切にすること。「静かに定まる意思・意識」が、そうして人を活かす。そうわたしは、いま、思っている。言葉は美しくしたい、が、自分の言葉がうるわしいと感じたら警戒警報ではなかろうか。うるわしい相貌を持ちやすいのは「理」と「言葉」である。理に落ちれば実とのあいだに無用のスカスカの隙間をよびこみやすい。それが怖い。ことばで生きていながら、わたしが、ことばを(自分のことばをすら、)全面的には信じも認めもしないのは、それだ。

 2004 5・15 32

 

 

* 死別のかなしみすら、二人の愛と幸せとを全うする小さな一部分だと思って欲しい。そう夫に言い置いてアンソニー・ホプキンス演じる大学教授の美しい妻デヴラ・ウィンガーは、病に斃れた。名匠リチャード・アッテンボロー監督のあの映画「永遠の愛に生きて」は美しかった。

 どんなに愛し合っていても、いろんな悲しみや怒りに襲われることはある。現世の人間関係はゴタクサしたものだ。所詮そんなもの、ブッダとイエスとが出逢うようなわけに行かない。そんなとき、「苦しいのも事実ですが、それも大きな幸福の一部ではないのですか」と、真実言い合えるなら、どんなにか人は救われる。安堵できる。身をゆだねられる。

 

* と、同時に、ともすると人が、「心で=分別や判断で=実は動揺果てない心理で=マインドで」生きているからゴタクサしてしまうのだと、慨嘆せざるをえない。「マインド・コントロール」とはなんてイヤな言葉だろう。歴史上のどんなに優れた何人もが、「無心に」「静かに」と諭し続けてくれたか。それなのに人は口を開くと、「心」が大事「心」を育めと云っている。似非の人ほど偽善の顔付きでコントロールしたがる。教育基本法をいじくり回して自分達に都合良かれと画策したがる。自身の「心」がどんなにはかなく頼りなく始終乱れがちなのにも、平然と眼を背けて。

 信じている。ハートとは、ソウルとは、「からだ」なのだ。サイコでもマインドでもない。心理ではない。「からだ」がハートなのだ。心理は平気でウソをつくが、「からだ」はへたな分別より正直だ。

 

* 自分の心理と「闘うな」と言う人の言葉に、わたしは聴きたい。喜怒哀楽、それら外から割り込んでくるすべてと、あらがい闘う必要は少しもない。それらをただ流れゆく川の波立ちを眺めるように眺めて、逝くにまかせよと。喜びが湧けば純真に喜ぶがいい、怒りを圧し殺すことはない必要なら爆発させよ、悲しければ泣けばよい、楽しみは尽くせばいい。ただ、それらの一切は、来てまた逝くものでしかない。自分でも自身でもない。ただ来ては去って行く川浪に過ぎないと「岸に座って眺めて居よ」と。

 わたしは、そうしようとしてずいぶんラクになった。喜怒哀楽をピュアに開放しつつ、それは自分自身ではないのだ、それこそ「心にうつりゆくよしなしごと」に過ぎないと分かっていよう、と。

 

* 秦の叔母は、生意気な若造にどんなにくまれ口をたたかれようが、「好きに言うとい(やす)」と取り合わなかった。大概なことは自分の外を、泡のように流れ来て流れさる。その連続である。時にどんぶらこと桃が流れてくる。拾いたければ拾い、拾いたくなければ眺めていればよい。「好きにおしやす、」いずれは総て「うたかた」なのであり、自分でもまた自身でもないのだから。自分が在る在ると思っているうちは自分はいない。見つかっていない。無い。自分は無い。そう腹から思えたときに初めて、自分が、海面の無数の波立ちの一つではなくて、底知れぬ海そのものだと分かるだろう。それまでは「好きに言うとい」と眺めているのがいい。何もしない意味ではない。したいようにしていればいい。余計なことをしなければいい。怒り笑い泣き楽しみ嬉しがればいい。毎日をそういう祭り日にすればいい。

 わたしは、そのように聴いている、優れた先達から。感謝している。

 2004 5・22 32

 

 

* バグワンは籤取らずの「糧」である。

 今の読書で、意外に読み煩っているのはトマス・ハリス「ブラック・サンデー」だ。以前に二度三度読んだときは熱中できたのに、今はもうイスラエルとアラブとアメリカとの三つ巴のテロ語りなど、うんざりしているのだ。

 それよりも、イラクに果てた日本の善意と勇気と知性とに暗い涙を呑む。

 日本に帰ってきた拉致家族の若い五人の幸せを先ずは心から祈りたい。どうか、急かず慌てずに、聡明な愛を注いで上げて欲しい、身近な人も、遠くの人も。わたしも。

 2004 5・28 32

 

 

* わたしが今いちばんしたいのは、バグワンから承けている「よろこび」を伝えたいこと。しかし、それを始めると底なしの闇へ沈透いてゆくことになる。もう二三年も頭にあるのはそのことだが、踏み切れない。「ペン電子文藝館」をやめ、理事を退き、湖の本もやめるとき、放下し去るとき、わたしは虚脱して五体空虚になるにちがいない、その時が機会であろうか、しかし、わたしは聴き手さえあれば今にも話し始めることが出来るのだ、メールで。 

  雨の音がしきりにする。明日は雨でないはずなのに。

  真率で自然に。ゆったりと。人の魅力と愛とはそうあって欲しい。

 2004 7・5 34

 

 

 バグワンは、「心」が、いかに散漫かを語り、そんな散漫に拘泥してはますます混乱することを話していた。人は、一分も三十秒も無心になんかなれない、すぐ割り込んでくる思考に乱される。そのはかないことは笑い出すほどだが、バグワンは、そう、頼れぬ心、乱れ雲のような思考・分別は、ただ笑ってやりすごせ、通り過ぎてゆかせよとと言っている。これは高級な示唆である。

 2004 7・20 34

 

 

* 夏は涼しく、冬は暖かに と利休は生活の極意を教えたが、容易な業ではない。一歩でも家から出ると、焼き殺されそうな暑さだ。そんな中で、ときどきインタネットを検索する。バグワンを読んでいると、ことにティロパを語るものを読んでいると、当然「タントラ」が現れる。これを単純に検索してしまうと、途方もない誤解に誘い込まれたりもする。真面目に研究されたタントラ解説や論議に触れるには、むやみと現れている中からクリティクしてものを拾わないと、間違いが、低俗に大きくなる。

 タントラには自然と人間の性にふれた洞察が加わる。性の宗教性を語っていることも確かなので、自堕落に誤解を重ねて行くと、立川流まがいにみられてしまいかねない。そういう、おもしろづくのサイトもいっぱいある。

 しかし、タントラは深遠。落ち着いて接し、静かに思う姿勢が要る。二つ三つのこれならばと信頼できそうなサイトをお気に入りに取り込んだ。こういう勉強も、家の中では出来る。酷暑に飛び出すまでもあるまい。

 

* 鶴見さんを囲んだ鼎談のなかで、主に過去の追体験がされていたのだから無理もないのだが、三日間の話し合いのアトには、食事の歓談ももたれていた。そんな中にも、思想の科学者、プラグマティストの鶴見さん達の話題に、毛筋ほどの「電子メディア」への言及も無かったのは、大きな「限界」であるなと思ったことを書き置く。未来への展望については、裁ち落としたように話題が伸びていなかった。申し合わせであったのか。

 

* わたしは、電子メディアが、ないし電子的環境がすでにもたらしている思想と生活への深甚な影響を見入れない、哲学や思想は、適応力と指導力を急速に落として行くと見ている。紙の本でしか本を考えないのと同じである。

 同時に、わたしの関心は、深いところで、それらの上には無いのである。「タントラ」のような、あらゆる夢から醒めての生死のことに有る。平たく云えば、政治や経済や創造よりも、より親しく深く、愛と死とに関心がある。そして無心に向かいたい。自分のしていることの悉く夢であることは分かってきている。もっと徹して分かって行くだろう、分かろうとしないでも。

 2004 7・25 34

 

 

* バグワンは、「今・此処」を、「ゆったりと自然に」と言いつづける。これは喜怒哀楽するなという意味ではない。喜怒哀楽を免れる人はいない、それはそれで怒るなら怒りなさい、楽しいなら楽しみなさいとバグワンは云う、ただ、それと一体化するな、眺めて通過させよと。わたしは、例えば怒りをこらえないし、怒りをやり過ごして行かせてしまう。悲しければ悲しむが、通りすぎて行くのを眺めている。嬉しくても楽しくても同じようにしようとしている。出来ると思っている。成るように成っていく。ものごとはそう簡単に毀れる物でもなく、また油断して甘えていてもいけない。

 2004 7・27 34

 

 

* バグワンについても、ときどき聞かれる。バグワンについてなら、検索すれば山のように出てくる。雑念をもちたくないので、検索サイトで出て来るバグワンに関する総ての情報に無関心でいる。ひたすら、「個と個」とで向き合っている。「存在の詩」「般若心経」「究極の旅=十牛図」の順にバグワンに近づいた。「老子 道(タオ)」その他も。もう十数年、同じモノに反復向き合ってきた。いずれも、池袋の「めるくまーる社」から出ているけれど、在庫があるかどうか知らない。

 ただし内心から切実に求める気持ちのない間は、バグワンに接しても何もえられず、逆に高慢のはたらくおそれがある。無心に切実に望む気持ちが有れば、こよなき叡智に触れることになる。少年の昔から多くの多くの聖典や啓蒙書を経てきて、バグワンに辿り着いたわたしは、そう、確信している。この人は祖師でも教祖でもない。少なくもわたしはそのようには触れ合っていない。透関した人。達磨のようにコワイが、深い深い海のよう。高い高い青空のよう。知的興味で接しても無意味だ。降参してかからないと。口先だけの興味では何のタシにもならず、多くをむしろ失うだろう。

 2004 8・1 35

 

 

* 静かな夜です。

 アマゾンからバグワン「存在の詩」を発送したという連絡がありました。明日届くことでしょう。ゆっくり三頁ずつ読みたいと思います。きっと正しく理解できないでしょうが、お導きいただけましたら嬉しく思います。

 お騒がせした一日でした。どうぞ忘れて、ゆっくりおやすみください。  一読者 

 

* 「存在の詩」 手に入りますか、よかった。いい出逢いが有りますように。

  >> きっと正しく理解できないでしょうが、

 もうすでに身構えている。出会う前からどうしてこういう防禦の姿勢で硬くなるのか、これが「さかしら」の最たるところです。綿のように柔らかに、曙の空のように初々しく素直にモノに向かわないと、バグワンの物言いでいえば、とてもとてもだいじなものごとを、まんまと「逸らして」しまいます。むしろ、この本との出逢いを、わくわくと純粋に待ち喜び、素直に全身を波打たせてほしい。それと、これは聖典でも哲学でも説教でもありません。そういう迎え方をしない方が姿勢が硬直しません。

 なんだったら、しばらくの間は、だれか敬愛するご存じの大人の「声」でお聴きなさい、心から嬉しがって。それなら間違って踏み迷わないでしょう。

 どうか、理解する・知解する姿勢は綺麗に「落とし」て、ひたすら言葉を、柔らかに「聴く」よう、心から勧めます。急いで一度に沢山読んでもムダです。じいっと堪えて、少しずつじりじり進むこと。

  >> お導きいただけましたら嬉しく思います。

 無用の挨拶です。わたしも、何も把握していないのですから。自性で入って行くしかない。ああこれはと感動する言葉に、納得の行く言葉に、沢山出会うと思いますが、その感動や納得に囚われてしまうと、「エゴ」が出て、清んだものを濁らせます。エゴを捨てて落として、ただ読んで聴くように。繰り返し繰り返し。

 指導ではなく、あなたより十年早くふれた者の、だいじな実感をただ伝えるのです。湖

 2004 8・3 35

 

 

* 用事が色々あり、外に出かけて湿度と暑さに気分が悪くなって、寝込んでいました。今も消耗している感覚が残ります。今年の暑さは戦後最高だそうですが、こたえています。

 お眼の具合いかがですか。心配です。パソコン画面はちらちら揺れていますので、あまり長い時間集中なさいませんように、休憩しながらお仕事をゆっくりなさってください。

 今日「存在の詩」が届きました。教科書のように左表紙の横書きなのでびっくりしています。今日は集中できないので読みませんが、楽しみにしています。

 おやすみなさい。夜のみづうみは静かでひんやりしていい気持ち。  東京都

 

* 存在の詩  冒頭の「海からの風」など、もっとあとで読んでよく、ヘンに解説的な予備知識をもたずにいきなり第一話へ、ワケ分からずに飛び込んでいいように思います。

 ティロパを、バグワンはたいへん高く迎えていると思います。ティロパの「マハ・ムドラーの詩」は、一種の聖典ですが、少し難解な隠喩の詩かのように、すんなり自然に読んでから本文に、ひたる気持ちでお入りになるといい。

  バグワンのことばには、是認的に語られている行と、結果として否認的に語られている行との自在な混在を、直感で感じ分けてゆくことになります。

  翻訳に不信感や批評意識をもって、ナンクセをつけてイラつかないように。総じて言えば、この翻訳者の翻訳はじつに自然でみごとなんです。なじむまで、早合点で焦慮しないで。落ち着いて、むしろ声に出して読んで、いや「聴いて」ください。わたしは、一行残らず常に自分の声で、耳に送りこんでいます。眼と耳と口とで、読んで聴いて話しているのです、バグワンその人になったかのように。  これだけ言っておきます。  湖

 2004 8・4 35

 

 

* あなたの内なるブッダにごあいさつするとバグワンは「般若心経」を語り初める最初に口を切っている。

 そしてこう語り継ぐ、あなたは夢にも気付いていないが、あなたは現に既に一人のブッダであり、ブッダフッドこそ誰一人の例外なく自身実存の本質であり中核であり、それは、これから外からあなたに訪れてくるようななにものでもない、ブッダフッドはあなたの「最初」にあり「最期」にもある根源の境地なのだが、ただ、あなたは正体なく眠りこけていて、それに全く気付いていない。あなたが今在るのは、まさにそういう「気付かない存在」としてであり、真に目が覚めさえすれば、あなたは、すでに未生以前よりブッダフッドに住しているのです。バグワンは、そう云う。

 

* 決定的な指摘ではあるまいか。では、どうしたら目覚めるのか。われわれはそこで手短かに how to を求めていろんな手段へ奔走し、しがみつき、苦労して修業したり学問したり信仰のハシラに抱きついたり心身を苦しめたりする。エゴそのもののむき出しの奔命をもって尊しとしはじめる。すべては夢の継続であり、妄執の睡りは醒めるどころではない。

 

* 世界史的な大哲ヴィトゲンシュタインは、哲学の役割は、哲学では何の役にも立たないことをわからせることだと喝破している。それはこういうことだとバグワンはわかりよく謂う、高い梯子の頂上までは哲学でも連れて行けるが、その先の一歩へ歩み出すのには哲学は何のタシにもならない、しかし、百尺竿灯一歩をすすめよと禅のいうその一歩へは、梯子世界とはまったくべつの「目覚め」で進み入るしかないと。

 しかしそれには聖典も苦行も知識も何一つ役に立ちはしない、ではどうすればいいのかではない、そのことに翻然目覚めねばおはなしにならない。目覚めが来る、それは待つ目覚めであり、本当に目覚めたら人はその瞬間おのづと高笑いして、その、自然なゆったりした境地を受け入れる、と。

 いかなる聖典も目覚めるための役になど立たない、目覚めた人が、ああ目覚めたと自得するのにはすべての聖典はすばらしいけれど、と、バグワンは云う。その謂う意味はさこそと奥ゆかしい。わたしのこのような言表も、かなしいかな目覚めぬ前の世迷い言にすぎない。バグワンが仏陀のように達磨のように透関した人だとは信じられる。

 2004 8・24 35

 

 

* まま有ったことだが、数十年のうに、自分は幸せだ幸せだと自分にむりに言い聞かせているような何人にも出会ってきた気がする。いかにも無理しているなあと見えて、そういう人には、むしろ自分は本当に幸せなのであろうかという、落ち着いた自問が必要なように思われたのわ思い出す。京言葉で云えば「ちがうのとちがうやろか」という内省である。自分で思っている「自分」と、あなたが接している「他人」とのことを、今夜のバグワンは語っていた。

 人は、じつは自分が見えても分かってもいないのに、自分のことは自分にはよく分かっている見えていると思いこんでいる。しかし、その自分像とは、取り巻いている他人たちが自分を見ての意見や感想や褒貶の「集合」像に過ぎない、と、バグワンは云う。

 ところが、そういう大勢の「他人たち」が、また銘々に自分のことをそのように思っているのだから、滑稽なことになる。自分のことなど何も分かっていない他人が互いに他人を見合うことでいわゆる「自分」が虚成されているに過ぎないとなると、これは滑稽なことだではないかと。

 2004 8・24 35

 

 

* 昔から「悟る」という言葉を人はいともやすやすと使いながら、それがどんな境地であるのか想像すら出来ず、つまりは俗用の語彙に勝手気ままに利用してきた。そしてほんとうに「悟る」ことの想像もつかない難しさに対しては、畏敬の気持ちを、とても及びがたい断念をもち、悟ったといわれる人たちの逸話を羨望していた。あの漱石も参禅しては門の前から引っ返してきた。あの人は「悟った」が自分は「悟れない」といった気持ちを大勢の修行者たちはもってきたわけだ。

 だが、あの人は、自分はと、つまりは此処の分別や自覚で「悟る」というような考えは、それ自体「悟る」という転機からは千里も万里も離れているとバグワンが云うのは真実であろう。自分が自分で「悟る」などという物言い自体が撞着している。そこに「自分」があるかぎり、なんで「悟り」のありえようものか。「どうしてひとりの人が悟ることなんかできる?」とバグワンは云う。そんな観念自体が、悟らない心(マインド)の、執念き一部にほかならないと。「私は悟った」などというその「私」が落とされていてこそ「悟り」はいつか来る。無心に待てない、待ちかまえている私・自分・人に、「悟り」の目覚め・気付き・ enlightend は起こりようがない、と。

 おそらくバグワンは正確に語っているのだろう、わたしは悟りを求めてジタバタする気は無い。「今・此処」になるべくゆったり自然にいながら、その至福の瞬間を忘れて待っていたい。バグワンの言葉を頼むことすらなくただただ音読し続けているのは、なにかが分かりたいからではない。その時をただ楽しんでいるだけ。

 2004 8・25 35 

 

 

* 「今回の学校立てこもりの結末どう考えますか?」と、若い若い人からの問いかけである。

 答えられない。

 人が人を「死なせる」ことに、こんなにも痛みを欠いているとは。憤りもこえて、全身全霊が萎えてしまいそうなのが情けない。

 己が神への狂信と、異なる神(徒)への憎悪。それどころか、ともに同じ神を信じながら、同じその神の名にかけて、何の痛みもなしに為しうる惨虐。信仰という抱き柱を凶暴にふりあげて、不毛の残虐が為されてしまう。

 我(我々)と彼(彼等)との、容赦ない乖離と、殺傷をことともせぬ利害衝突。バベルの塔の不遜に対し、さまざまに言葉を異ならせてしまった神の罰は、あまりに苛酷に過ぎたとわたしは思っている。

 はっきり言う、人間の不幸は神の意志に胚胎している。人間の愚かも又、同じ。

 神は在るであろう、が、人間はそれを忘れた方がいい。人間は己の足で立つのだ。歩むのだ。手を繋ぐべきは神とではない。隣人とである。それも偽善クサイかも知れない。わたしは「身内」を願った、神よりも仏よりも。バグワンは、もうきみはブッダであるじゃないか、気が付いていないだけだと、言ってくれた。まだ気付けないし目覚めないが、その時が来ると思う。待たずに待っている。人を愛しながら待っている。人のためにも待っている。

 

* エックハルトにも、聴きたい言葉がある。

 2004 9・4 36

 

 

* エックハルトは、最初の説教で、神殿から商人達を追い出すイエスにふれている。神殿とは神の己に似せて創った人間の「魂」のことで、魂をからっぽにし、そこには神だけがあるべきだと言っている。「商人」という措定にエックハルトは「取引」という言葉を引っ掛けている。「商人」に、あれこれをことばの質にして神に願い出る者たちをエックハルトはアテツケている。そんな「取引」に神はまったく応じないと。そういう取引に奔走する商人なみの人間どもは神殿に無用であると追い出すのである。

 祈願という言葉の虚しさにわたしが漸く気付いたのは、数年ほど以前からか。願い祈りたいのは人間の真情の尤も赴きやすいところだが、だからわたしは自分自身にも悉くは否認しづらいのだが、すくなくも吾が為にいろんな誓いを差し出して願うことはしないでいる。他者の為にはまだ祈り願うことは容易に止められない。

 2004 9・5 36

 

 

* ま、若い若い人に刺戟されていろんなことはいうものの、昨日今日、胸に落ち着いたことばでわたしを黙させているのは、エックハルトの「離脱」の説である。説ではない、会得である。黙而会之。エックハルトの謂う「離脱」は強烈なハリケーンなみの徹底である。そしてバグワンと通う。エックハルトは十三世紀のドイツ神秘主義基督教の聖者であり、しかも固陋のローマ法王庁により異端の烙印をおされて輝かしい存在の灯を強引にかき消された。バグワンは二十世紀の透徹した叡智でありながら、多くの政治的誤解に立ち向かいつつ死んだ。離脱については、さらにわたしの思いを深くしてから「闇に言い置く」ところがあろう。

 2004 9・6 36

 

 

* ラストプレゼントのようなドラマは設定が苦手で、普通なら絶対敬遠するのですが、建日子さんの作品ということで何気なく観て以来、惹きこまれています。とくに娘が夢中で観ていて嬉しく。

 日本のこの手のドラマのちゃちなことは耐えがたいものがありますが、この作品は佳いなあと思います。まっすぐで甘そうでいて決して甘えなくて、真実に触れている。心に伝わります。来週最終回でほっとしています。苦しくて、そろそろ天海祐希さんを終わりにしてあげたいのです。

 このドラマはよい脚本を得て、天海祐希さんの代表作になるかもしれません。以前桐生夏生さん原作のドラマでその演技力に感心していましたが、回を追うごとに明日香のしぜんに美しく、澄んでいくことに魅せられました。

 「ER」でグリーン先生が脳腫瘍の再発、診察も困難になり今日で病院の仕事が最後という回で、観終えたあと、私はしばらく口もきけませんでした。ドラマとわかっているのに、何年も観てきたドラマなので、数日間友人に死なれたくらいの重さで落ち込みました。胃薬まで飲みました。バカでしょ。それだけ真に迫るドラマだったのだと思います。

 きっとラストプレゼント最終回も胸に堪えるでしょうが、明日香に拍手しながらさよならと見送ってあげたいと思います。   東京都

 

* 今日のバグワンで印象に残っている言葉。

 

  もし地上が地獄であるとしたら

  その創造者はあなただ  94頁

 

  思考は暗闇のようなものだ

  それは内面に光のないときだけしのび込んでくる。     99頁

 

 もう一人のわたくしに、もっと早くに読ませてあげたかったと思いました。 都内

 

* バグワンは、箴言をただ拾って満足しないように。たえず自分の来し方の「生き」や「姿勢」と照らし合わせ、自問自答を丁寧に繰り返しつつ、ほんとうに感銘を受けた時はそれを知識として記憶したりせず、感じて感じて受け取りながら、強いては字句や語句として覚えたりしないように。執着せず、いつかまた繰り返し読んで出逢い直せばいいので。それでも、ずいぶん、叱られているような気持ちになったのを思い出します。 湖

 2004 9・8 36

 

 

* 郵政民営化で、また小泉首相と与党の抵抗勢力とがごたついている。この改革だけは小泉氏の多年の提唱であり、それを実現しようとして総理になり、そういう総理を再選したのが自民党であるのに、これはまた何の私利私略であるのか。改正の全貌もメリットもおかげでまだ我々にはよく見えてこないが、綿貫某ら郵政族議員等の何が何でも反対だという気勢の挙げかたなど、人品のいやしさまでが露出していて不快極まる。

 新聞もテレビも、もともとニュースというものをそのように規定したうえで報じているのだから仕方ないとはいえ、こうまでも不快事件ばっかりで埋められてしまうと、やりきれなくてつい眼を背けてしまう。

 ものいえば唇寒し、なかなか「芋頭」の好きな僧都のように気儘には生きにくい現世であるが、エックハルトの説教にも、人間を二つに分け「外へ」人間と「内へ」人間とを認め分けている。

 自身の深い内なる奧を見定めないで、外へ外へ反応して思いわずらい、自身を悩ませているのが、むろんわたしも含めて大方の、ほとんどの、凡人というものであるが、バグワンが指さすように、「もし地上が地獄であるとしたら、その創造者はあなただ」と言われてしまうのは、つまりは「外」にこだわれば外とは地獄であるのを覚悟しなければならない。「外へ」人間は、ものごとの「はかり」を自身の外に置いている、メモリも分銅も評価も。なるほどそれでは地獄になる。「外へ」人間は、孤立を恐怖して人を外に探し求めて奔走し、しかしそんな外で見つかるのは、そんな自分と同じ「外へ」人間ばかりであるから、とても「身内」とは信じ切れない。人を求めるには「内へ」思いを沈めて闇の奧でで出逢うしかない。内なる闇は無限に拡がっていて、そこでは静かな人が静かに人を愛そうと待ち合っているものだ。わたしの謂う「身内」の「島」とは、「内へ」人間が抱いている「闇」の意味に等しい。「外」を覆っているのは暗黒・暗闇の闇、「内」の闇はそうではない、光っている「闇」なのである。「内」なる闇で、人は愛に出逢う。騒がしい「外」で出逢えはしない。

    思考は暗闇のようなものだ

    それは内面に光のないときだけしのび込んでくる。  バグワン

 思考・分別。良いことの代表のように思っているが、それらが「外」世界を支配する「心=マインド」と称して、人をわるく愚かに利害本位にコントロールしてしまう。政治屋は、その尤も図々しい手先なのである。宗教屋と教育屋はこれに次ぐ。

 2004 9・10 36

 

 

* 頭と頭とのただのコミュニケーションでありたくない。ハートとハートとのコミュニオンでありたい。知識で動かされるコミュニケーションでなく、フィーリングでとけ合えるコミュニオンでありたい。

 コミュニーケーションでは、「ただ言葉のみ与えられ、言葉のみ語られる。ただ言葉のみ受け取られ、」単に知解されてしまう。言葉だけでは生き生きとした本質的なものは伝わりにくい。言葉は不十分なツールに過ぎないから。不足するか過剰になるか。それが言葉。コミュニケーションにはそんな言葉に頼らざるをえず、コミュニオンでは往々にして云わなくてもわかり合える。

 これが、バグワンから早くに得た、一つの強い足場だった。言葉では言いおおせない、その近くまで達しられても。ということは、恐らく小さい頃から感じていたことなので、バグワンの曰くは、すぐ得心した。老子らが、言葉にした瞬間に真理は真理でなくなるのだと何より先ず説いているのも、分かる気がしていた。

 過剰に言われると、往々かえって事がウソくさくなる。雄弁は銀、沈黙は金という機微だろう。沈黙とは、言葉数を少なくしてひと言の表現力を強くする・高めるということなのだ、なかなかそうは行かない。

 

* バグワンのご指摘の部分は印象に残っています。コミュニオンは理想ですが、女は言葉が大好きなので、この境地、むずかしい。

 ある小説の中にこんな文章があり、唸りました。

 女とは「言葉」を求めるもの。言葉の向こうにあるかないかの「思い」を求め、生身の思いはとんと求めない。

 ある意味、女の愚かしい現実です。とくに口説かれる時の言葉は女にはとても心地よいのです。口のうまい男に騙される女って多いでしょう。

 でも、真実は言葉ではなく、胸から胸に伝わるものであることも、よく知っているつもりなのですが……。

 せめて仰言いますように、「言葉は言葉の意味だけで訴えるのでなく、発せられる状況と発する誠とで響く。言葉で生きる者はそれを心得ていたい」と願っています。 東京都

 2004 9・30 36

 

 

* 人が一本の中空の竹となったとき、天籟がそれを鳴らす、と。響かせる、と。このバグワンのイメージ、すばらしい。かぐやひめが竹にひそんでいたように、竹誕生の伝説は、南海諸島にことに豊富で、やはり、中空の竹に対する憧れが多く語られている。

 今にも自身が中空の竹であり得たらと、その実感を求めて、とても強く憧れる。なにかがその竹の空洞を鳴らすように近づいてくる。闇を懐かしむのと似た感覚。エゴという余分な混雑物=フシが竹の筒からすっきり抜けきり、そうそうと風か吹き抜けて行くような、一本の中空の竹。

 眼を閉じていて、いましも、しばらく眠っていた。とろとろと。いつとき、からっぽになっていた。ここちよかった。

 あす、万三郎の能だったと忘れてしまっていた。行くかも、行かないかもしれない。 

 2004 10・1 37

 

 

* 「心 わが愛」のキイワードは「身内」だった。身内とは。

 バグワンは、ヘッドトリップとハートトリップということをよく言う。ヘッドトリップとは分別心、それでは人間関係のなかで信じたり疑ったりを反復し思議しているに過ぎない。まだ他人の間だ。だがハートトリップなら身内に近いといえる。

 疑いは半欠け、信用も半欠け、それは同じことの表裏にすぎないとバグワンは言う。

 幼な子は父親の手にすがり

 彼の行くところならどこにでもついて行く

 信ずるのでもなく、疑うでもなく――

 これは「父よ」とただよんでみるだけで済む「子」の全的な信頼・帰依を示唆している。信じたり疑ったりの繰り返し、それを ヘッドトリップという。父と子との譬え、それをハートトリップという。恋は所詮ヘッドトリップ、身内は全的なハートトリップだろうと思う。「恋は罪悪です。しかし神聖にいたる道だ」と心の先生は私に向かって繰り返し言う。神聖とは「身内」の意味でもありうる。先生もKも、恋の心で心騒いで静を得られなかった。彼らは「身内」になりきれなかった。ヘッドトリップの人であった漱石は。それに自身も気付いていたから、則天去私を願った。願ったと言うことはそれに達したという証拠にはならない。先生も漱石も気の毒な人であった。むかしむかし、中学前に、息子の建日子は心をわたしに読んで聞かされて、「なんて可哀想な…K」と泣き出した。わたしは今は、やはり「先生」の淋しさを気の毒に感じる。

 2004 10・4 37

 

 

* 今日は大雨の中をずいぶん歩かなくてはならず冷えました。そのせいばかりでもありませんが、躰の節々が痛んでいます。風邪をひかなければいいなと。

 健康診断ではあまりに血圧が低かったらしくて計り直しされましたし、体重が一キロ増えていてショックを受けています。

 > 完全に女性的に子宮のように受容的にならなくてはならない

 読んだ瞬間に驚きました。バグワンほどの人物も、こういう表現をするのかとびっくり。

 子宮のように受容的という表現に、男の女への思い込みや都合のいい理想化、あるいは性的な力関係の優越性の匂いを感じました。大袈裟ですか? 受容的はよい意味で使われていますが、それでもわざわざ女性と子宮と譬えるのはどこか何かが「ちがうのとちがうやろか」僻みかもしれませんが、差別を受ける側というのは重箱の隅をつつきたくなるもの。

 本筋で、バグワンが女性を低く見ているとはまったく感じませんし、この本のテーマに影響のあるものでもなく、こだわるつもりはありません。でも、この表現、無意識の無神経さというか長い間の男性中心文化の厚みの壁なのかと感じました。バグワンの言葉に何度も心安らぐ想いがしているので突然のこの表現に狼狽したのでしょう。 都内

 

*  > 完全に女性的に、子宮のように受容的に

 ユダヤ教、キリスト教、回教以外はといえるほど、信仰の深い基盤は「女性性」にあるとは宗教学の常識で、いろんな女性的な、時には露骨に女体に譬えたメタファー(隠喩) が、いろんな宗教に氾濫している。一例が、老子は「谷神」と謂いまた「玄牝」と謂っている。受容、帰依、降参、みこころのままに、みなその深い意味は、底知れぬ豊かな慈悲にあふれた女性・女体的受容でしばしば譬えられて来た。バグワンの失礼な偏見というのではなく、むしろ女性的なものへの信頼と敬意に満ちたメタファと考えていいのではないか。バグワンは、どこからどうみても、最も本質的に深遠な世界の基本は「女性性」だと確言している。真実に最も近いメタファとして。

 だから、暫く目をつむって、「子宮」という語をメタフアとして容認して欲しいと思う。それに子宮・秘宮という語自体にもともと深い敬意が籠められていることにも気付いて欲しい。膣とは違う。

 真の宗教家に男性中心文化の人は少ないのではないか、むしろ本質的な人はみな「女性性」に対する世界観上の敬愛を持っている。キリスト教徒でも例外でなく、むろんイエスも。

 バグワンは男性本位者では全然なく、彼はここぞという機微では「女性性」に頭を垂れ、それなしに世界は無かったとしている。わたしはそう読んでいる。

 > バグワンの突然のこの表現に狼狽したのでしょう。

 これはこの人が、本当に神的なものに帰依し信仰し降参してこなかったことを告白しているのと同じ。バグワンはここで「子宮」という一語に、愛の根源を、世界の原型を見ているのだから。信仰とは、それへの信仰であろう、どの宗教であろうとも。「母」と読み替えればいいのだ、あたかも「母に受容されたい」のが信仰の喜びであろうから。

 

* 子宮事件で作者自身が有名に仕立てた話は、瀬戸内寂聴さん。まだ駆け出しの頃か、小説に「子宮」という言葉をつかったのが非難されて、以後永く仕事の依頼がなくなったと、何度も書いたり話したりされている。それを聴いたり読んだりする都度、わたしは現実のこととは思えなかった。子宮は、鼻とか口とか胃とか腎臓とかとちがい、神経ともならんで、むしろ尊称にも近いのに。そして世界の生成の秘儀を創造するときに、男性原理などものの役に立たない、根源は女性的受容にこそ創成の真意は成り立つぐらい直感的に分かりそうなもの。老子の玄のまた玄、衆妙の門 と謂い、また 谷神死なず、是を玄牝と謂うというのも、その喝破である。

 2004 10・5 37

 

 

* バグワンは云う。

 帰依、降参、無条件の受容  そこまで行けば言葉やシンボルは必要ない。

「本当のこと」はその言葉のすぐ脇で起こる。言葉はひとつのトリックでありひとつの方便にすぎなくなる。「本当のこと」が影のようにその言葉に寄り添う。

 あなたがあまりにも心にとらわれてしまっているとき、(ヘッドトリップしているとき、)あなたは「言葉しか」聞こうとしない、読もうとしない。それでは「それ」は伝わらない。

 もしあなたが分別のマインドに、心に、こだわらなければ、そのとき言葉に伴っているとても微妙な真実の影 とても微妙で、ハートだけがそれを見ることの出来る不可視の影 意識の不可視のさざ波 波動(ハートトリップ)  それが伝わり コミュニオン(身内の愛と理解)が直ちに可能になる。

 2004 10・7 37

 

 

* 今日はずっと部屋にいます。

 昨晩は七時過ぎに「メンテナンス中」という表示がなくなって、ホッとしました。

 HPの文章から感じたことの一部を書きます。「東京の人」に少し「嫉妬」しながら、共感も半分。

「* 四十歳までが春、六十五歳までが夏、八十歳までが秋、そのあとは冬ごもりでいい。籠もれるものならば。」

 わたしはこれまで単純に八十歳、或るいは百歳を四分割してきたように思います。

 三十までが春、五十(半ば)くらいまでが夏、七十までが秋、あとは冬・・? 自分は今「秋、白秋」の中にいると。

 この一年に書いたものをまとめた後で、やや「白秋」を意識しすぎてきたと感じ、反省していました。もっといい意味で積極的に生きようと。そう、六十五歳まで夏、八十歳までが秋なんだわ!

 おしゃれに関して書かれた時も感じたことでしたが・・、単なるお洒落論に終わるものではなく、それは女の生きかた、女の人生論に近いものになってしまうのです。

「女性的、子宮のように、受容的」などと単語が連ねられただけで、わたしたち女は、ある種の身構えをしてしまうのです。大袈裟な、と言われようが、僻みだと言われようが、一種の衝撃を感じます。

 そのことを過剰反応だよと言われる限り、また条理を尽くして説明解釈されても、なお、「女文化」も所詮「男」に操られた女文化だというのが真相で、男原理と女原理がせめぎあっても、全体としては、やはり「男社会」なのです。

 命をはぐくみ、産み出す女が、「女は畑(子宮)」と、子宮が「胎は借り物」と、軽く見なされてきたことも厳然とした事実です。

 そして聖書や仏典の中に、女性差別かと思われる箇所も、皆無とは言えません。多くの宗教で、宗教団体や組織の中で女は隔離すべきもの、「敬し遠ざけるべき」存在でした。・・ヨーロッパの魔女裁判、蓮如の言葉など思い浮かんできます。イスラムは見方によっては女性を大切にするからこそ、女性の本来の場所は家庭にある、夫と子と家族・親族に属する・・として、あのように、女の姿の見えない社会を「伝統的に」作り上げてしまいました。

 文章の終わりで 「これはこの人が、本当に神的なものに帰依し信仰し降参してこなかったことを告白しているのと同じ。バグワンはここで「子宮」という一語に、愛の根源を、世界の原型を見ているのだから。信仰とは、それへの信仰であろう、どの宗教であろうとも。

「母」と読み替えればいいのだ、あたかも「母に受容されたい」のが信仰の喜びであろうから。」

 これは確かにそうかもしれません・・、原始からの地母神信仰や後のマリア崇拝の占める位置、意味はとても重大です・・が、「厳しいなあ」とも思います。女であり、本当に神的なものに帰依し信仰し降参できなかった、引き攣った自我を抱えてきたわたしは嘆息せずにいられません。

 素直な気持ちで求めている、祈っている、待っている・・。けれど既存の体系の中で宗教もまた例外でなく男社会の汚泥をたっぷり身に纏わせている。それどころか根っこからどっぷり浸かってさえいる事例を意識しないではいられません。

 そのようなことを強調して、もっと大事なことを見落としてしまう・・でも、「だから女は駄目なんだ。」と、どうぞ言わないでください。

「最も本質的に深遠な世界の基本は「女性性」だとバグワンは確言している。真実に最も近いメタファとして。」

「子宮」が愛の根源、世界の原型であることを、女性性を誇りと思いながら、女性性、男性性の序列や優越を争うことでなく、両性の融合、更なる女性性の尊重を求めつつ、この世界の現実の中で精一杯の真実を生きたいと願うのです。   鳶

 

* 宗教が先にあったのではない、信仰が先に芽生えた。宗教団体や組織が先に在ったわけでなく、宗教心と宗教観が先に生じていた。

 わたしは、信仰心が宗教心になるところまでは容認するが、それが「特定の神」を擁した団体や組織や派閥となって人間社会に根をはったグローバルな事実を、人間のために幸福であったとは思わない。思えない。宗教心は大切に感じるが、「神」を創り出した人間は、同時に「悪魔」も創ったのだと、残念に思う。「神的なもの」を感じないではない。だが、人間が「考え」だした神には、ついて行けない。悪魔と相対化された「知的所産」に過ぎないから。

「考える」ということは、いつも相対的に対立物をも産み出してしまう。神を考え出したその瞬間に悪魔も考え出している。悪魔を考えるから、神を考えることになっているのだから。悪と善、醜と美。正義と不正。みな相対の表裏でしかない。神にとらわれている限り、悪魔の手からも逃れ得ないのは当たり前で、人間が考え出した「神」の団体や組織は、お連れの悪魔の手でまんまと人間を悪にも不正にも不幸にも醜悪にも突き落とし続けてきた。それはイエスや仏陀の本意ではない。後続した、思惑の強い「人間ども」の考えて創り出した「聖典」や、その解釈の負うべき咎であろう。

 あらゆる「聖典」は、或る根源のところへ達した人には明白な真理をあざやかに確認させるだろうが、そうでない普通の人間達のためには、じつは何の役にも立たないとバグワンが断定している意味を、わたしは素直に受け入れている。容認している。

 聖書も仏典も、「後の人間」の創作であり、真理は「書かれ得る」わけがない。何故なら人間の言葉は完璧ではないからだ。言葉にされた時、其の瞬間に真理は飛び去り消え失せていると言い切る老子の認識ほど、厳しくたしかなものはないだろうと思う。ことばですることは、つまり考えることは、ヘッドトリップにとどまらざるをえない。

 真の宗教者は、信仰を組織したりしない。信仰を組織し始めた宗教者は、その時から世俗の権力者にほぼおなじ仕方で動いている。

 孤独に直面できて、その恩寵にあずかれる、そういう「神的なちから」はわたしにも信じられる。だが、団体で、均等均質に信仰できるような「神」は、背後に「悪魔」も背負っている。それを人間の歴史は証明してきたではないか。

 

* ピュアな信仰に、男女の性差はない。あるとすれば「女性性」に、より本質の体勢が出来ている。なにかが宿るとすれば、宿る場が、通える空洞が必要になる。世界が生まれたときも、人間が生まれる時も、海のような、竹のような、女のような「器」が生きて働いたという比喩は、ただの比喩ではない。仏陀もイエスも老子も、それを、それだけを云っていたのかも知れない。ほかのことは、後の人間がみな「考えて」付け加えたと思っていいのでは。

 男女差別、女性蔑視なんて、宗教が本来持っていたわけがなく、人間社会が歴史的につくりあげた「男的便宜」であった。すべて歴史時代の文化は、男社会の所産なのである。その多くは女が創り支えてきたにもかかわらず。わたしの「女文化」という認識も、「女の、女による、男のための文化」だと言わねばならなかった。事実だったからだ。それが「日本の歴史」だった。おそらく「人類の歴史」でもあったのだ、反省は有るにしても、だ。

 

* 批判を受けたい。

 

* ありがとう。  論旨が一貫していない曖昧なわたしの文章に対して早速に意見をもらいました。改めてわたしが書いている時のスタンスとは異なったところから、けれども書かれていることは実に明快であり、これまで述べ、書かれていることから十分に理解、納得できました。信仰の原点、そこにある真摯な思いを忘れないこと。その次元では男、女の違いや差別などない、当然、自然のそのままの姿ですね。

 本当にありがとう、素直に受け止めます。

「器」と書かれていますが、その言葉に長いこと、そして最近、特に思いが至っていました。ひそかに、大らかに、大真面目に、高らかに?・・自分の命、そしてその具現である身体という「器」をわたしは慈しみたい。

 一人の時間を紡いでいます。お休みなさい。  鳶

 

*  今日のバグワン  272頁

   私はあなた方がよりよい眠りを達成するのに手を貸したりはしない。

  私は、

 「理解しようとしてごらん  これはひとつの徴候だ  この徴候は友だちだ  敵じゃない。

  それはただ奥深いあなたの無意識の中に、あなたが眠るのを許さないある底流があることを示しているだけだ」  と言う

 耳が痛いようでした。色々と眠れない理由があって、それは「病い」かもしれません。徴候を地下に押し込むではなく、病いが消え失せて深い眠りがくるために、……なにが必要でしょうか。

 とにかくそろそろ眠ります。明日は妹のコンサートがあります。

 朝、何を召し上がるのかしら? 優しい夢をみて 美しい朝をお迎えください。 おやすみなさい。  春

 

* からだいっぱいに黒いピンという「野望」の数々を突き立てたまま、痛みに耐えかねて奔命し奔走している毎日。黒いピンは抜けないものではない、のに、抜かないのである、人は。抜いてしまうのが怖くて、痛いのをがまんしているのだ、理屈をたくさん付けて。それもわるいことではない、自分がどこかヘンだとは気付かせ続けてくれるのだから。

 2004 10・7 37 

 

 

* いまバグワンの「存在の詩(うた)」のうしろに、「一九九八年十一月二日 午前三時 本書を、究極の旅(十牛図)、般若心経に次いで、読誦し終えた。秦恒平」と書いているのを見た。「存在の詩」はティロパ(988 – 1069)の「マハムドラーの詩」を和尚バグワン・シュリ・ラジニーシが語った、説いた、一冊である。この三冊を相次いで初めて音読し終えた日付であるから、読み始めたのは少なくもこれより一年ほど前になろうか、「究極の旅」には書き入れがないが、今日まで少なくも七年、わたしは籤とらずにバグワンを先ず読み、読まない日は事実一日もなかったと言える。ほかにも「TAO(老子の道)」「ボーディ・ダルマ」各上下巻も傾倒して読んだ。最初の三冊もこれら四冊も少なくも各三回以上、または少なくも二回以上繰り返し繰り返し途切れなく読んできた。抱き柱にしないで、また知解しないように、まして知識になどしないように、淡い無心の読みを塗り重ね重ねて深い色にひたるように願いながら。それを「帰依」とよんでも「受容」とよんでもいいのである、多くの聖典や哲学書に接してきたいかなる体験よりも、そこでわたしは安心できるし、痛く叱られ続けて、それが嬉しい。信頼できる。

 わたしはこのバグワンの実像を知らないし、知ろうともしてこなかった。そのかわり伝聞も耳に目にとどめなかった。むろん原文で読んでいるのでもない、しかるべき訳者の訳文を頼んでいる。いかようにもその限界を指摘することは出来るかも知れないが、わたしはそんな一切に全く拘泥しないで、目の前の「本」を、本当の本質的な本そのものと受け入れて音読している。

 人に薦められたのでも探し回ったのでもない。嫁いでいった娘が大学に入ってものの半年ほど仲間達と読んでいたが、すぐ解散してしまい、本は我が家の物置に置き去りにされていたのを、たまたまわたしが見つけただけのこと。あいつはあの頃、いったい何を読んでマジナイのように「瞑想」「瞑想」などと言ってたんだろうと、若き日の娘にちょっと逢うような気持ちで読み始めたのが、そのまま、すうっと海にひきこまれるように、つまり帰依してきたのである。

 

* いまは「TAO(老子の道)」上巻に、三度目か四度目か入っている。これはわたしが手に入れた本で、娘の置いていったのは、先の三冊であった。

 帯の裏に、佛教学の紀野一義氏の推薦文のあるのをいま、初めて読んだ。「この大著は『存在の詩』『究極の旅』に勝るとも劣らぬ不思議な生命力にあふれている。老子の言葉は難解だが、和尚を通って出てくると、ことごとく詩になる。詩とは存在の本質に深く関わるものなのだ。永遠について、生きることについて、悟りについて、女性の尊さについて、かくも深く、美しく、鮮烈に語った本は珍しい。人生を深く生きようとする人に勧めたい。」

 帯の表にはこんな惹句がある。異議はない。「老子―存在へのマスターキー  危機の時代に現われ、魂のメッセージと意識革命によって、世界の魂(ソウル)に実存的衝撃を与え続けてきた和尚(=バグワン・シュリ・ラジニーシ)、ついに瞑想や悟りすらも止揚するに至ったこの現代インドの巨星が、全身の共感を込めて詩(うた)いあげる老子の道、それは世界史の時空を超えて、ほかならぬいまここに炸裂する真理の宇宙、究極の道であった。」

 いま世俗の市場で、「老子」の「道」を書きまくり話しまくっている人達のタネ本は、みなおよそ例外なくこのバグワンの「老子」なのである。最も盛んな一人にバグワンの受け売りではないかと質問したら、そうだと率直に答えられてかえって気持ちが良かったこともある。

 わたしが自分で選んでゆるされた裏千家茶の湯の茶名「宗遠」は、高校三年か大学に入って直ぐにもらったものだが、わたしはこれを「老子」本文の中から選んでいた。わたしはもともと孔・孟よりも少年自体から老・荘のほうに親愛を寄せて、祖父鶴吉の蔵書から、この二冊を比較的よく手にしては頁をめくっていたのだった。

 バグワンは、自分はブッダやイエスを語るように老子を語るのではない、自分を語れば老子を語ることになる、自分は老子だとまで言い切っている。わたしがバグワンに帰依してきた秘密の一つであろうか。

 (今わたしはなぜか非常に気分がわるい。全身が岩のように硬く、違和感に緊縛されている。目と鼻とのあわいを突き刺すように奇妙なきつい短い線が波動している。それでも朝飯がわりのバナナを半分口にしたところ。)

 

* ことのついでに「TAO(道)」の本カヴァの袖に抄出されたバグワンの言葉をここに書き置いてみる。

「そして、教えてあげよう。 老子は最も深い 誰ひとりとしてあそこまで行ってはいない 老子こそ最大の鍵だ もし彼を理解したら 彼こそマスターキーだ あなたは生や存在の中にある あらゆる鍵を開けることができる この”おいぼれ”はトータルだ あなた方は老子のなかに存在する そして何千というブッダたちも―― 彼はその両方なのだ そして、もし彼を理解できたら それ以上理解されるべきことなど何もない 何の努力もいらないと言う それは正解だ。

 ただし、覚えておきなさい 人が努力を落とせるのは その最大限まで努力したときに限る 一生懸命にがんばることによって 人は、努力でさえも一つの障壁(バリヤー) ひとつのごく微妙な障壁(バリヤー)である という理解にたどり着く。 

 なぜなら あらゆる努力は すべて自我(エゴ)のものにほかならないからだ <真実>を達成しようとする欲求すらも 自我(エゴ)から出て来るのだ。」 

 

* パソコンで検索すれば夥しいバグワン「情報」はあるであろうが、わたしはそれらに全く用がない。わたしは「情報」により彼を「分別」するような「ヘッドトリップ」に陥る愚は用いない。ただただ本を声に出して読むだけである。いま、「存在の詩」を手に入れて読み始めている一人とのバグワン交信がある。続くなら続けてよく、続かなくてもそれはそれ。わたしは、読み続けるだろう、少しもイヤにならず、少しも飽きない。

 2004 10・8 37

 

 

* 昨日書いたことをバグワンは、こんなふうに明記していた。

   宗教というものは教会などにはなりえない

   宗教というものは宗派などにはなりえない

   宗教というものは個的なコミュニケーション

   いや、個的なコミュニオンにかかっているのだ

 また、こんな大事なことを云っている。

 この広大な砂漠に等しいわれわれの環境で、イエスやティロパや仏陀のような、真に価値ある魂のオアシスが「ときどき現れては消えてゆくだけ」だ、だからこそ、それがオアシスなのか、価値があるのか、そうだそうじゃないと考えているひまに、本当に深い要求をもって本質へ向かいたいと願っているのならば、

   いまのいま あなたはそこから飲むがいい 喉をうるおすのだ

   必要なのは土壌となって種を受け容れることだけだ

   ひとつの子宮となって種を受け容れることだけだ

    しかし深い強い真摯な要求・願いがなければだめだ

   さもなければあなたは 例えばティロパやイエスやブッダのただかたわらを

   すれちがったとさえ気付かずにむなしく通り過ぎてしまう   と。

 わたしがバグワンに「降参」しているのは、それほど、わたしの不安が深いからだ。

 2004 10・8 37

 

 

* バグワンの言葉をわたくしも聴きました。

   私がここにいるもうしばらくの間

   チャンスを逃してはならない

   ……

   いまのいま

   あなたはためらわず魂の糧を得るがいい

   それがある間にそれを求めるがいい

   分別に機を喪うことなく

 ああ、そうしたい。聖書の、イエスの同様の言葉にも惹かれていました。些細なことで逃してしまう、ナンセンスや心理的ガラクタにとらわれやすい自分の愚かさを知っていたから……知っているから。   春

 

* バグワンに、なにかの「効果」「効用」を気ぜわしく望むことなく、静かな目覚めへの詩(うた)のように、ノーマインドで聴きつづけたい。聴くだけでいい。「考え」なくていい。

 彼は云う、「考える」とは選択することだ、つまりトータルに受け容れることが出来ず、偏狭に、まず、いいとわるい、美しいと醜い、正しいと正しくないなどと「分別=マインド」した上で、いいを選び、美しいを選び、正しいを選ぼうとする。だがそういう「分別」という判断は、所詮はわるいこと、醜いもの、正しくないものを表裏して必然引きずる。しかも瞬時にころころと態度や行為の中で反転し交替してしまう、と。

 心=マインドは頼れない、善人も悪人もない、人間の心は瞬時に千々に乱れたり騒いだり砕けたり惑ったりするものだと、さしづめそれが漱石の把握した、「心」という頼りないシロモノの正体であった。考えて分別するのでなく、あるがままに観じながら生きたい。だが、だれにでも出来ることではない。もし仏陀を、もしイエスを、もし老子を、もしバグワンのようなマスターを「観じ」得たならば、ためらわず聴き、求め、あっというまにすれ違ってみのがしてしまうことのないようにしなさいと、バグワンは云っている。彼が正しいとか正しくないとか考えているヒマは、もう、わたしには残されていない。ほかに何も見当たらない、感じられない。だからただ彼に聴いている。抱きつきもしない、縋りもしない。ただ聴いている。

 親鸞は地獄があるか極楽があるかも知らない、分かろうとも思わない、ただ法然先生が念仏すればいいと云われるのだから念仏するだけだ、それで瞞されていようが地獄へ堕ちようが、ほかにどうしようがあるものか、と云っていた。

 親鸞は法然とすれちがって二度と逢えないこわさを瞬時に悟ったのだろう。

 2004 10・9 37

 

 

* 相変わらず晴れやかでない。世間にもロクなニュースはなく、ダイエーの再建問題などゴタつくばかり、気色の悪い成行きだ。

 あれはわたしの名付けた「もっともっと挫折」の、最たるもの。企業の欲の深さが、あたりまえのしっぺい返しを受けただけだ。金儲けに「もっともっと」とだらしなく欲をかきすぎた。

 人間の所業に「もっともっと」が価値をもつことも、無いではない。たとえば藝の道など。わたしはそれをしも、そんなに潔いとも崇高とも想わないが。

 自然な鈍磨にはそれなりの美があるものだ。若きより老いにいたる自然な曲線を幸いに設定されているのに、ことごとしく逆らってみることを時に勇ましくも時に愚かしくも思うのである、わたしは。

 ましてたかが企業利益の、前年同期**パーセント増などという見込みを果てしなく願ってみても、壁に突き当たり奈落へ沈むのは当たり前の話。昔、管理職のはしくれで年計画のそういう提示を飽くなく上に求められ続け、あさましいなあ企業というのはと、ほとほと苦笑ものであったが、バブルの夢はあえなく世をこぞって潰れていった。

 ひとによれば「もっともっと精神」こそが文明開化の幸を人間にもたらしたと思っているだろうが、それは機械文明にほぼ限られていて、その機械文明がもたらしたのもたんに「便宜・便利」という薬効に過ぎぬ事、この薬の毒性もまた甚だしいということは心得ていざるをえない。それが、ほとんど人間の精神を根から荒廃させつつあるのかも知れぬという視点を、はなから喪失しているから、世間にも世界にも、ロクなニュースがないのである。バカらしいことだ。

 

* バグワンは、例えば智者で哲学者であるバラモンたちを、「頭=ヘッド人間」として批判する。あまりにも多く知りすぎて、概念を、理論を、教理を、聖典をかき集められるだけかき集めて「もっともっと」とヘッドに溜め込んでいるが、それは根から「開花」したものでなく、「起こった」ものではなく、すべて外からの「借り物」であり、つまりは腐ってゆくだけのガラクタでしかない、真の無智を覆い隠す心のトリックにすぎない、と彼は言う。ほんとうにそうだと思う。

 或る大哲学者は、もし「哲学」が真に「役立つ」とするなら、それは、哲学なんてものが人間の最後の最後には何の役にも立たないと「分からせる」ことだと言い切り、大事なのは、そんなヘッドトリップから、百尺竿頭さらに一歩をすすめるハートトリップであると言っている。知識では決して賄えない秘密の世界が、明快な世界が、ある。あれかこれかという分別でなくトータルにその世界を enlighten する一瞬を、「求めず」に、つまり自我=エゴ=分別=マインド=心を「落とし」て、「待て」と、バグワンは云う。「もっともっと」が、エゴの拡充でしかないトリップでは叶わない。

 

* 或る意味で優れた人は、たしかに、おおかた「もっともっと人間」であった。そこから綺麗に enlighten した人も、そうは願わなかった人もいるだろう。中でも政治家は例外なく「もっともっと」の欲の塊であり、だが、バグワンはその生態はつまりは「梯子登り」に過ぎないと言い切る。梯子のテッペンへ上がりたい。それが大統領、それが総理大臣、だが、それが何なんだ。それだけのことだ。「人のため」という巧言令色で権力欲という襤褸を隠した、大方がただもうあさましい無意味な存在だ。維新の政治家達も、国民を利用するだけして、政体が整うと、あとはえげつなく足蹴にしてくれた。歴史的な敗戦への素因をもののみごとに積み上げつづけたのだ。「もっともっと」の欲深さで蠢いた。

 

* 法然や親鸞は、優れた智者たる「もっともっと」を綺麗に棄てている。蓮如は、優れた宗教家ではあったが、法権の組織者として「もっともっと人間」で終わることを免れなかった。今にのこるそのシンボルが、本願寺だ。宗教・宗派ほど政治とくっつきやすいとは、古今東西の実例が、あまりに数多く如実に教えている。バグワンが徹底的に政治家と聖職者とを同列に批判するのも無理からぬ話。

 2004 10・14 37

 

 

* バグワンは、人はどうかして自分が「誰かさん somebody 」でありたがるという。自分は作家ですとか弁護士ですとか代議士ですとか俳優ですとか。それも、どうしても、人気作家ですとか腕利き弁護士ですとか大臣になりましたとか売れっ子ですとか思いたがり言いたがる。支えているのはエゴで、エゴである限りにおいてお好きにどうぞというところだが、所詮は梯子のぼりの芸当にすぎない。梯子をただ高く登ってそれが何なんだと言えば、何だとも言えたことであるわけがなく、いずれ「死」の波にザアと流され影も形も消え失せてしまう。「誰かさん」けっこう、けれどはかない限りと気も付かぬまま、ちいさな裸の王様が無数に存在しているその一人でどうかいたいいたいとは、囚われているというしかない。そういう人は、いつまでたっても、「誰でもない人 nobody 」の強さや確かさからほど遠い。

 バグワンはずいふん聞きづらいことをジャカジャカ言ってくれる人だけれど、なんでそんなに「誰かさん」でいたいんだと聞かれるときは耳がちぎれそうに痛い。だが彼のいうことは確かで逸れていない。「誰かさん」という真っ黒いピンを針ネズミのように五体に刺して奔命し奔走してきた自分を、過去に否認は出来ない。では今は。それにしがみついていないか。いないと言いたい自分に十分気が付いているとだけは言えるのである。

 2004 10・18 37

 

 

* バグワンは、人はどうかして自分が「誰かさん somebody 」でありたがるという。自分は作家ですとか弁護士ですとか代議士ですとか俳優ですとか。それも、どうしても、人気作家ですとか腕利き弁護士ですとか大臣になりましたとか売れっ子ですとか思いたがり言いたがる。支えているのはエゴで、エゴである限りにおいてお好きにどうぞというところだが、所詮は梯子のぼりの芸当にすぎない。梯子をただ高く登ってそれが何なんだと言えば、何だとも言えたことであるわけがなく、いずれ「死」の波にザアと流され影も形も消え失せてしまう。「誰かさん」けっこう、けれどはかない限りと気も付かぬまま、ちいさな裸の王様が無数に存在しているその一人でどうかいたいいたいとは、囚われているというしかない。そういう人は、いつまでたっても、「誰でもない人 nobody 」の強さや確かさからほど遠い。

 バグワンはずいふん聞きづらいことをジャカジャカ言ってくれる人だけれど、なんでそんなに「誰かさん」でいたいんだと聞かれるときは耳がちぎれそうに痛い。だが彼のいうことは確かで逸れていない。「誰かさん」という真っ黒いピンを針ネズミのように五体に刺して奔命し奔走してきた自分を、過去に否認は出来ない。では今は。それにしがみついていないか。いないと言いたい自分に十分気が付いているとだけは言えるのである。

 2004 10・19 37

 

 

* nobody の強さ、確かさは、somebody であった人がそこを乗り越えてからでなければ、獲得できないのではないかと感じます。

 たとえエゴであろうと、奮闘努力して誰かさんになるということは、人生に必要なことではないでしょうか。わたくしはまだ somebody にすらなれないことを自分に恥じています。今のままの自分でよいとは到底思えません。このまま死んだら後悔します。

 聖書のタレントの譬え話に影響されているのかもしれませが、自分の与えられた能力を精一杯生かす努力をして得るものが、ほんとうに価値がないとは思えないのです。

 作家になったこと、多くの作品を書いたことをただの梯子のぼりだと、心底思われるのでしょうか。息子さんの脚本家、劇作家としての活躍を単純にエゴだと思われるのですか。まさか。

 万が一そう感じても読者はそう思えませんし、作品を感動して読んでいる読者に対してそれでは気の毒なことになりませんか。

 バグワンの言うことは、死に物狂いで somebody になることに成功か失敗して、エゴを味わい尽くした後にしみじみ納得されることであろうかと……。ですから、nobody であろうとされている境地の理解も、まだまだわたくしには難しい。

 理解の浅きこと愚かしいこと、この程度ですが、お願いですからあきれないで。バグワンは少なくとも若者やわたくしのような未熟者には、ハートでわかるというより、「知識」としてやっと頭のどこかに入るかなというくらいの厚い壁です。言葉は平易でも、その真意の理解は聖書の何十倍も、何百倍も困難かもしれません。

 でも、がっかりなさらないでください。今読んでフムフムと気になることが、十年後、二十年後の命の糧になるだろうと、そう信じて読み続けています。

 大体一度でわかるくらいだったら、もともとわたくしこの本は不要ですもの。  春

 

* 云うまでもなく、バグワンは梯子上りを全否定はしていませんし、わたしも。それが梯子登り以外の何物でもなさそうだとは、年を取らないと分かりません。やるだけやった者にしかじつは分からないのかも。ヴィトゲンシュタインも、哲学をはなから否定するのでなく、哲学が何の役にも立たないということを本当に分かって、それ以上のところへ出て行かねばと分かるために「哲学があるのだ」と云っています。微妙ですが、「nobody」の確かさを分かるためには「somebody」の道を通らざるを得ない。そうすれば「somebody」であるだけでは本質の安心と無心には至れないことに気が付くと。

  その点、あなたの指摘はほぼその通りだろうと思います。険しい道です。私にも、難しい。

 

* いや、難しい。

 2004 10・19 37

 

 

* くらい、あやうい夢をつづけざま見ていた。アンナ・テラスの世界、「先祖」の世界、明治十七年の悲惨な農民達の世界、応報を説いてやまない今昔物語の世界。

 バグワンは、老子を語り、老子の本文から、ぎりぎりの限界まで弓弦を引き絞ってしまったら、そこまでしなかったらよかったと必ず悔いるものだ、と言っていた、ゆうべ。

 人生の綱渡り、まっすぐ渡りたければ、右に左に、揺れては戻すのだとも。わたしは、まだはるかに遠い。

 2004 11・8 38

 

 

* ぶらりと出歩いてみたい。いまは、そういう誘いにゆだねられる「虚ろ」を抱いている。ヒマというのではない、身内を中空の竹のようにと語るバグワンに聴いているのだろう。

 2004 11・8 38

 

 

*   いまバグワンの老子を読んでいたら、

     弓をぎりぎりまで引き絞れば、

     ほどほどのところでやめておくべきだったと思うだろう……

という言葉を、繰り返し、いろんな角度から語り継いでいた。

 「老子」本文では、 持而盈之、不如其已、 の八字。 盈 とは、過剰に十分に至ろう、もっともっとと逸ることだと謂われる。わたしの手元の沢庵禅師の解ではそうである。で、そんなことは、やめたがいいというのが、次の四字。つまり、ぎりぎりにまでものごとを追いつめてしまうと、総てを喪失しかねない。バグワンは、バランスを忘れるなという。

 レバノンの詩人・哲学者のカリール・ジブランは、恋人達は寺院(愛)の互いに「柱」のようであるべきだと謂う。バグワンがそう言う。柱と柱は同じ屋根を支えてはいる、けれども彼等があまり近づきすぎたら、またあまり遠ざかり過ぎたら、寺院全体は崩れてしまう、と。(あまり賢すぎるような気がして、わたしは少し不満だが。)

 バグワンはこれが愛のアートであり、コツだと言う、これにも少しわたしは拘るが、バグワンは、愛し合う二人が近づきすぎるとお互いの自由を侵害し合うと警告している。誰しも自分のスペースを必要とするものだ、愛は、それが互いのスペースと共存するときはビューティフルだけれども、侵害し始めたら有害になる、と。

 まったく聡明なバランス感覚で抵抗しにくいが、愛、いや恋とは、余儀なくこういうバランスを乱し合ってしまうことで、悩ましくも、愛おしくも、烈しく深くも、憎らしくもなるものでは…という思いは、感想として持つのである、わたしは。

 ただ、そういう喜怒哀楽に拘泥的には立ち止まらないだろう。そういうものだと眺めて、やりすごす。所詮は「理」でも「理詰め」でもなく、文字通りの「解・決」などはつかない、ハートトリップなのが、愛や、いい意味の恋だろうなと思うのだ。

 それにしても、つい、何かにつけ、弓をぎりぎりまで引き絞って、動きの取れないはめに自ら陥ることはあり、バグワンに簡単に叱られてしまう。ダメなヤツである、わたしは。

 バーナード・ショウは、「ひとりの人間が愛に於いて賢明になるまでには、その人生は終わってしまっている」といっている、とか。ごく年老いた人は、愛に於いて賢明になるが、愛の可能性も終わっている、とも。憎らしいことを言うなあ。彼ショウは、しかしこんな切実なことも言う。

「私はいつも、なぜ神が青春を若者達に費やしてしまうのか、不思議でしかたがない。それは、より賢く、人生を生きてきていろいろなことを知り、ひとつのバランスに達している老人にこそ、与えられるべきものだ。ところが神は、青春を若者達の上に浪費しつづける」と。

 ショウは、老人を甘く評価している。老人が「賢い」などと言えるかどうか、わたしは、我ながら疑問に感じている。

 2004 11・9 38

 

 

* それにしても、従妹がたまたまメールで触れてきたけれど、適当に離れて立っている「柱と柱」のような間抜けな愛なんて、ゴメンだな。考えられない。ひとりでしか立てないところにふたりで立てている、そういう熱い奇蹟を信じたいものだ。おやおや、バグワンに歯をむくのかな、このわたしが。フフフ。

 2004 11・10 38

 

 

* 何かを営まねば人は安心できない、そしてその営みから概して傷ついて、それも癒さねばならない。マッチポンプであるが、それを射抜いて「弁証法」という方法論も生まれたのが人の世だ。

 バグワンは「道(タオ)」の中で「九九の陥穽」ということを語っていた。無心に平和に生きて悠々とした人に、強いても九十九枚の大きな金貨をやると、ふしぎにもう一枚の金貨を加えたならちょうど百枚になる、せめては百枚にしたいと願い初めて、無心も悠々もまんまと棒にふるものだ、マインドという分別で生きねばならない人間の陥穽は、せめてもう一枚、もう一寸、もうちょっと、ちょっとの果てしない「もっともつと」で地獄に堕ちる、と。

 そして百枚になればそれで満足しなくて百一枚に二枚にと追いかける。それが向上だと思いこむが、必ずそれが地獄への転落になる。事実成っているのが普通だ、と。

 普通かどうか知らないが、バグワンの辛辣な観測には服している。退蔵の二字をわたしが、なかなか出来ないままにも「理想」として見ているのも、「九九の陥穽」を実感として予測するからだ。

 もっともっとと生きねばならない人生の坂道がある。建日子などはまさにその坂を歩んでいる。登っている。それが価値的に輝く時期(ステージ)と、それがあさましく腐朽してくる時期とが、ある。

 2004 11・23 38

 

 

* 瞼をほとんど閉じたまま、昨夜もいつものように過ごして、就寝のときまで仮眠もしなかった。八、九時間は寝たろうか。曇り空らしい、冷えている。マウスを握る掌がはじめて冷たかった。

 

* 心地よい眠りでお疲れがとれますように。

    あなたが不完全に見えるのはあなたが不完全だからではなく

    あなたが成長しつつある完全だからだ……

    不完全でいて成長し続けなさい

    なぜなら、それが生というものだからだ   バグワン

 変な引用かもしれませんが、励まされた気分になりました。成長し続けたいと祈ります。  眸

 

* 当然にも、バグワンは、時により場合により、まるで反対のことを同じ言葉で言っている。語義の整合的同一に執着するのは浅い科学的認識や判断では不可欠だろうが、「ウソも方便」「人=ニンを観て法説け」というように、より本質の世界では言葉の整合性にさほどの意義も重みもない。それゆえに粗忽にそういうことに躓くばかりで、奧へ奧へ入って行けない人のほうが多いのは、あたりまえのこと。釈迦やイエスやバグワンの言葉の揚げ足をいくら取ってみても何のタシにもならない。

 この人は、「不完全でいて成長しつづけなさい」と引いているのが、真意においては「完全でいて成長しつづけなさい」なのだということも、大切なバグワンのポイントだろう。「あるがまま」に人はもともと完全なのだが、人は気付いていない。不完全から完全へ歩んで行くのではない、完全なままに成長して行く。人はただ、もともと与えられ備えている「完全」を「不完全」としか観ていないだけのこと。ブッダやイエスと同じ完全をもちながら気付いていないのを「不完全」というなら、そう謂うてもよいだけのこと。「気付く」「覚める」「enlightenする」か、しないか、しか差はない。

 バグワンをわたしは「言葉」として読まない。ただ聴いている。聴くために音読する。聴くとは「聴す=ゆるす」意味。なにをどう聴すのかは分別しない。ただ受け入れる。バグワンは激励しているのではないし、スローガンや目標を投げ与えてもいない。例えて謂えば「気付く」べく「覚める」べく揺さぶってくれている。

 2004 11・26 38

 

 

* 知識は無際限にあらわれる。いくらでも教わり蓄えられる。しかしどんどん移り変わって行く。知識に関しては若い者が確実に年寄りを凌駕して行くのは当たり前の話。知識という分別に関する限り、若者はいつの時代でも年寄をバカ扱いしてきた。九十の老人の知識はそれだけ古びていて、二十歳の若者の新知識に並べるワケがない。だが、それとてもどんどん移り動いてゆき、定着する知識というのは想像以上に少ない、いわば賽の河原。もっと適切には青空を覆い隠しながら湧いては流れて消えて行く無際限な雲の群れのようなのが、知識である。

 智慧はちがうと、バグワンは云う。智慧は雲の彼方の不変普遍の青空のように在り、知識とはまるで異なる。青空は決して移動も消長も増殖も雲散も霧消もせずに永遠の過去から永遠の彼方にいたって、なお在る。智慧はそういう青空のように在り、人がそんな智慧に至る(=気付く)には、普通の場合滴が垂れて溜まるように時間がかかる。東洋では智慧を重んじたので老人が重んじられたが、西洋では分別可能な知識が優先されたので、老人は歴史的に重んじられにくかった。バグワンは、ゆうべ、そんなことをわたしに語って聴かせた。わたしはそれをもう数編聴いている。聴いているだけである。分かったなどとは云わない。普遍の青空と浮動の雲霧。智慧と知識。なるほどと、そういうふうに受け入れられる実感への素地は作ってきていた。

 2004 12・6 39

 

 

* 人は死を敵視し、恐れ、かつ死と闘って生きてきたと謂えるだろう。

 だがこの勝負に勝った者はいない。死を「敵」と思ってしまうことが、人を不安と動揺のさなかに戦(おのの)き漂わせてしまう。

 生まれた瞬間から人は「死とともに」生を歩み始め、死を身内に育みながら生きてきた。死は、「同行二人」の人生の最たる伴侶なのだ、そう思えば、死を敵視した戦闘的な不安はなくなる、と、わたしの書くこれよりもっと効果的、適切な物言いで、バグワンはわたしにいつも語りかける。

 死と闘って一寸逃れに藻掻き苦しむ不安や恐怖から、人は所詮勝って逃れられるなどということはない。死は生の敵ではなく、生まれたその時から友であった。これ以上もないほどしっかり手に手をとって歩んできた、自分自身の「影」であった。

 ゆうべ遅くに、こんなメールが来ていた。

 

* 人が<わが家>に帰り着いたとき

  そこには何ひとつやることなんかない

  人はただあらゆることを忘れ

  そして、くつろぐ

  神とは究極の休息だ

  これを覚えておきなさい

            482頁「存在の詩」

 憧れています。でも、少し怖い。この神は死を通らないとたどり着けないのですもの。

 自分はまだ中年の若者。試行錯誤して迷い惑い回り道していつかここに行きます。蝸牛

 

* このバグワンが云う境涯を、この人は「死後」に得られる「休息=神」だと考えるらしいが、おそらく、そうではあるまい。

「人が<わが家>に帰り着いたとき」とは、死後のことではない。「今・此処」にすでにわれわれはその「家」を持っていながら、それに気が付かない。死を敵視し不安を抱いて無理な闘い、勝ち目のない闘いに奔命しているから、気が付かない。

 2004 12・28 39

 

 

* 夜前音読したバグワンの言葉を、何と云うことはないが、今年の一つの締めくくりかのように、書き写してみたい。これは和尚の、『TAO老子の道』上巻 (訳者はスワミ・プレム・プラブッダ)の中ほど、250頁以降の数頁である。同じ個所をもう数回わたしは翻読して、そのつど何かしらを感じ、つき動かされる。

 長冊の唐突な途中からであるが、それは気に掛けない。どうやら、これはとても大勢の聴衆を前にしたバグワン談話であるらしい。しかし「あなた」と呼びかけていれば、むろんわたしは自分のことと思い、聴いている。

 

* 意識というのはひとつの祝福にもなり得る。が、それはまたひとつの禍いにもなり得る。あらゆる祝福は、必ず禍いと連れ立ってやって来るものだ。問題は、どう選ぶかはあなたにかかっている、というところにある。それをあなた方に説明させてほしい。そうすれば、われわれはこの経文(『老子』)に楽にはいってゆくことができる。

  人間には意識がある。人間が意識的になったその瞬間、彼は「終点」をもまた意識するようになった。自分が「死ぬ」定めになっているということ—。彼は明日を意識し、時を意識し、時間の経過を意識するようになる。遅かれ早かれ「結末」は近づいて来る—。

 彼が意識的になればなるほど、それだけ死というものがひとつの問題、唯一の問題になってくる。どうやってそれを回避するか? (だが)これは、意識を間違った使い方で使っていることにほかならない。それはちょうど、子供に望遠鏡を渡しても、その子がどうやってそれを使うか知らないようなものだ。彼はその望遠鏡を、反対の端からのぞくこともできる。

 「意識」というのはひとつの望遠鏡だ。あなたはそれを間違った端からのぞくこともできる。そして、その間違った端にもいくつかそれなりの利点がある。それが新しいトラブルを生んでしまう。望遠鏡の間違った端からでも、あなたは多くの利点があることを発見できる。短い目で見ると、たくさんの利点が考えられる。「時間を意識している」人たちというのは、「時間を意識していない」人たちに比べると、何かしら得るものだ。「死を意識している」人たちというのは、「死を意識していない」人たちに比較すれば、達成することが、たくさんある。西洋が物質的な富を貯えつづけ、東洋が貧しいままだったのはそのためだ。

 もし死を意識していなかったら、誰が構う? (この東洋的な)人々は、瞬間から瞬間へと、まるで明日など存在しないかのように生きている。(それなら) 誰が貯蓄する? 何のために? 今日だけで、あまりにもビューティフルだ。なんでそれを祝わない? そして、明日のことはそれ(明日)が来たときにしよう……。

 

 西洋(の人達)は無限の富を蓄積してきた。みんながあまりにも「時間」を意識しているからだ。人々は自分たちの一生を”物”に、物質的なものごとにおとしめてしまっている。摩天楼……。彼らは大きな富を築いている。それが、間違った端から(望遠鏡を)のぞく利点だ。彼らは近いところにある、短距離の特定のものごとしか見ることができない。彼らは遠くの方を見ることができない。彼らの目は、遠くを見ることのできない盲人の目のようになっている。

 彼らは、それが最後には大きな代償を払うことになりかねないということを考えずに、いまのいまかき集められることだけしか見ようとしない。

 長い目でみたら、こんな利点は、利点ではないかもしれない。

 あなたは大邸宅を建てることもできる。が、それが建つまでにあなたはもう「さよなら」の支度だ。あなたは全然そこに住めやしないかもしれない。あなたは、小さな家にビューティフルに住むことだってできたかもしれない。山小屋だって用が足りたろう。ところが(西洋風な)あなたは、自分は宮殿に住むのだと心に決めた。(だが、)いま、宮殿ができてみれば、肝心の(住む)人がいない。あなたがそこに「いない」のだ。

 人々は、「自分自身という代価」を払ってまで富を蓄積する。最終的には、結果的には、ある日彼らも、自分たちは自分たち「自身」を失ってしまっており、そして自分たちは、役にも立たないものを買い込んでいる(いた)のだということに気づく。その代価は大きかった。しかし、いま(「さよなら」の時)となっては、どうすることもできない。時は過ぎている。

 

 もし(「さよなら」への)時間を意識していたら、あなたは、狂ったように「物」を貯め込むことだろう。あなたは自分の生命エネルギー全部を「物」に転化してしまうだろう。

 (「時間」だけでなく、)「全領域」にわたった意識を持っている人間は、この(今・此処の)瞬間を、可能な限り楽しむ。彼は浮かび漂うに違いない。彼は明日のことなど気にかけまい。なぜならば、彼は「明日などけっして来やしない」ことを知っているからだ。彼は、最終的に達せられなければならないものは、ただひとつ、自分自身の〈自己〉だということを深く知っている。

 生きるがいい。それも、「自分自身」(の実存・本質)と接することができるくらいに、本当に「トータルに」生きるがいい。それに、(トータルに生きる以外に、)ほかに、自分自身と接する方法などありはしない。(トータルに)深く生きれば生きるほど、あなたはそれだけ深く自分自身(の実存・本質)を知る。人間関係においても、ひとりでいても…:.。

 ”関係”の中に、「愛」の中に、深くはいってゆけばゆくほど、あなたはそれだけ深く(トータルに自分を)知る。愛がひとつの鏡になるのだ。そして一度も「愛したことのない」人は、”独り alone” になることもできない。せいぜいのところ”孤独 lonely” になれるだけだ。

  愛し、そして(人間同士の本質的な)「関係」というものを知った者こそ “独り” になれる。いまや、彼の”独りであるこ

と” には(それ以前とは)全面的に違った質がある。それは(もう) “孤独” じゃない。彼は(これまで)ひとつの関係を生き、自分の愛を満足させ、相手を知り、そして「相手を通して」彼自身をも知った。(だが)いまや彼は、自分自身を「直接に」知ることができる。もう「鏡」の必要はない。

 ちょっと、誰か、一度も鏡に出くわしたことのない人のことを、考えてごらん。目を閉じて自分の顔を思い浮かべることが、彼にできるだろうか? 彼は自分の顔を想像することもできない。彼はそれを瞑想することなどできやしない。

 しかし、鏡のところへ来てそれをのぞき込み、それを通して自分の顔を知った人間は、目を閉じて内側でその顔を見ることができる。(人間その他との)「関係」の中で起こるのが、それだ。ひとりの人間がある関係の中にはいってゆくとき、その関係は「鏡」(の代わり)になって、彼自身を映し出す。そして彼は、自分の中に(とうから)存在していたことなど夢にも知らなかった、たくさんのものごとを「知る」に至る。

 その相手を通して、彼は、自分の怒り、自分の慾、自分の嫉妬、自分の所有性、自分の慈しみ、自分の愛を初めとする、彼の実存の何千というムード(生の実況)を知るに至る。彼はその「相手を通して」たくさんの空気と遭遇する。

 (そして今度は)だんだんと、彼が(我から自然に)もう「独りになれる」瞬間が来る。彼は目を閉じて、自分自身の意識を「直接に」知ることができる。私が、一度も「愛したことのない」人たちには、瞑想はごくごく難しいと言うのはそのためだ。

 深く愛したことのある人たちこそ、深い瞑想家になることができる。(本質的な)関係の中で愛したことのある人たちは、今度は、自分たち自身で(自立し自覚して)いる態勢にある。いまや彼らは「成熟」している。もう(たんなる)相手は必要ない。もしそこに相手がいれば、彼らは(豊かに、自由に)分かち合うこともできる。だが、(殊更にそうしたい)その”要求”は(それ自体)消え失せている。もうそこには何の依存(関係も必要すら)もない。

 

* (  )内はわたしが敢えて補足した。いまぶん、その程度のわたし、だということになる。「身内」は、関係(呼び名)をすら溶解していわば「匂い合う」ような間柄だと以前に私語したのを、バグワンはより平明に、深く語っているのではあるまいか。

 バグワンはこの前の辺で、死は「敵」ではない、生まれた瞬間からの「友」だと示唆していた。死と敵対すればするほど、不安と恐怖は深まる一方で、然も絶対に勝ち目はない。死を敵視して藻掻きにもがくのは聡明ではないと。

 2004 12・30 39

 

 

 

 

バグワン5

 

* もう一度二階へ来たのは、旧冬の続きのバグワンをもう少し書き写してみたかったから。訳者さん、めるくまーる社さん、聴(ゆる)して。

 

* 「意識」は、最後には「死」を意識するようになる。もし意識が最後に死を意識するようになると、ひとつの恐怖が(あなたの心に)湧き上がってくる。その恐怖は、あなたの中に絶え間ない「逃避」をつくり出す。そうするとあなたは「生」から逃げ出すことになる。どこであれそこに「生」があると、あなたは逃げ出してしまう。

 なぜならば、どこであれ「生」があるところには、「死」のヒント、一瞥、がやって来るからだ。

 あまりにも死を恐れている人たちというのは、けっして「人間」に「恋」をしない。彼らは「物」と恋に落ちる。物というのはけっして死なない。それは一度として生きてもいなかったからだ。

 物ならいつまでもいつまでも「持って」いられる。しかも、そればかりでなく、それらは交換可能だ。もし一台の車が駄目になっても、それはきっかり同じつくりの別な車で埋め合わせられる。しかし「人間」は埋め合わせられない。もしあなたの奥さんが死んでしまったら、彼女は永久に死んでしまうのだ。別の奥さんをもらうことはできる。が、ほかのどんな女の人にも、彼女を埋め合わせることなどできるものじゃない。良きにつけ悪しきにつけ、ほかのどんな女の人も同じ女性ではあり得ない。

 もしあなたの子供が死んでしまったら、養子をもらうことはできる。が、どんなもらい子でも、自分自身の子供と持つことのできた、その同質の関係は持てないだろう。その傷は残る。それは癒やされ得ない。

 あまりにも死を恐れる人たちというのは、「生」をも恐れるようになる。そうして彼らは「物」を貯め込む。大きな宮殿、大きな車、何百万ドル、ルピー(インドの通貨)、あれやこれや、不死のものごと……。ルピーというのは薔薇よりずっと不死だ。彼らは薔薇などお構いなしで、ルピーばかりを貯め込みつづける。

 ルピーはけっして死なない。それはほとんど不滅だと言ってもいい。しかし、薔薇となると……。朝、それは生きていたのに、夜までにはもうおしまいだ。彼らは薔薇を怖がるようになる。彼らはそれを見ようとしない。あるいは、ときとしてもし(薔薇がみたい)その欲望が起こってくると、彼らはプラスチックの造花を買い込む。造花ならいい。造花ならあなたは安心できる。それは不滅性という感覚(錯覚)を与えてくれるからだ。造花は、いつまでもいつまでもいつまでもそこに咲いていられる。

 本物の薔薇……。朝、それはなんとも生き生きしている。夜までに、それは終わりだ。花びらは地面に落ちている。それはその同じ源に戻っている。大地からそれはやって来て、しばらくの間花開き、そして、その香りを存在全体に送り出す。そうして使命が果たされ、メッセージが渡されると、それは静かにふたたび大地に戻り、一滴の涙もなく、何のあがきもなく消え失せてゆく。

 花から花びらが大地に落ちてゆくのを見たことがあるだろうか? どんなに美しく、優雅に落ちることか……。何の固執もない。ただの一瞬といえどもしがみつこうとなんかしない。一陣の風が吹いただけで、花全体が大地に落ち、源に帰ってゆく。

 

 「死」を恐れる人間は、「生」をも恐れるだろう。「愛」をも恐れるだろう。なぜならば、「愛」とはひとつの花なのだから……。愛はルピーじゃない。生を恐れる人間は、「結婚」することはあるかもしれない。が、けっして「恋」には落ちまい。

 結婚というのはルピーのようなものだ。恋はバラの花のようなものだ。それはそこにあるかもしれない。それはそこにないかもしれない。しかし、あなたはそれについて確信は持てない。それは何ひとつ法的な不滅性など持ってはいない。結婚というのは何かしがみつくことのできる(抱き柱のような)ものだ。それには証明書がついている。裁判所が後に控えている。その背後には警察や社長の圧力がかかつている。そして、もし何かがおかしくなったりすれば、彼らが全員駆けつけて来るに違いない。

 ところが愛に関しては……。

 バラにももちろん力はある。しかし、バラは警官じゃない。それは社長さんじゃない。パラの花には身を守ることなどできないのだ。

 愛は・来てはまた去ってゆく。結婚はただただ来るだけだ。それは死んだ現象だ。それはひとつの制度にすぎない。

 人々が「制度」の中で生きたがるというのはまったく信じ難いことだ。恐れて、死を恐れて、彼らはあらゆるところから「死の可能性」を一切締め出してしまっている。彼らは自分たちのまわりに、何もかも「そのまま続いて」ゆくのだという「ひとつの幻想」をつくり出している。何もかも「安全で、安定」している。この安全性の陰に隠れて、彼らは「ある種の安心感」を抱く。

 だが、それは馬鹿げている。愚かしい。何も彼らを救えるものじゃない。死がやって来て、彼らの扉を叩けば、彼らは(そのまま)死んでしまうのだ。

 

 「意識」というのは、二つの展望(ヴィジョン)を持つことができる。ひとつは「生を恐れる」こと。なぜならば、生を通じて死がやって来るからだ。もうひとつは、「死をもまた愛しはじめる」くらいに、「深く生を愛する」ことだ。なぜならば、「死は生の内奥無比なる核心」なのだから……。

 最初の姿勢は「考える」(=思索する)ことから出て来る。

 二番目の姿勢は「瞑想」から出て来る。

 最初の姿勢は「過剰な思考」(=過剰な分別=マインドという騒がしい心)から来る。

 二番目の姿勢は無思考のマインド、〈無心=ノーマインド〉から来る。

 意識は、思考にまでおとしめられてしまうこともできる。反対に、思考はふたたび意識へと溶かし去られることもできる。

 ちょっと厳冬の川を考えてごらん。氷が張りはじめて、水の一部分はいまや凍りついている。そうして、もっとひどい寒さがやって来て気温が零度を割ると、川全体が凍りついてしまう。もうそこには何の動きもない。何の流れもない。

 意識というのはひとつの川、ひとつの流れだ。そこに「思考」=心」がはいり込めばはいり込むほど、その流れは凍ってしまう。もしそこに、あまりにもたくさんの思考(=分別)が、あまりにもたくさんの〃思考障害〃(=動揺、迷惑、邪推、疑心暗鬼)があったら、そこにはどんな「流れ」(静かな心=無心・虚心)の可能性もあり得ない。そうなったら、その「川」は完全に凍りついている。あなたは、もう死ん(だも同然)でいるのだ。

 

* ある大学教授にバグワンの話をすこししてみたとき、バグワンは全否定ではないかと案じられた。たちどころにわたしは結論を持ち出そうとは想わない。「なぜ人は生きるのか」とか「生きている意味は何か」とかいう問いに対し、過去に地球上にあらわれた覚者は、その手の質問に対してみな「沈黙」で応えたとバグワンは云う。そもそもそのような問いにこそ意味はないか、誰にも答えられないと云うより答えるべきではないとバグワンはそこまで云う。そんなことで分別したり錯乱したりするのは無意味だと。今・此処に生きていることを大切に、そして大切な大切なことがある、それに気付くのだ、目覚めて知るのだと云う。

 死を敵視してのたうちまわるのでなく、死を友として生を慈しみ生きよと。

 そういうバグワンをわたしは全否定の人とは想いにくい。何が大事か。バグワンはそれを語り続けている。目覚めてしまえば大事なものなど、何もない。が、目覚めて気付く迄には何が大事かは在る。大事なのは「目覚めて気付く」ことだ。それまでは如何なる聖典も修業も役に立て得ようがない。だが、はっと目覚め気付いた瞬間から聖典と貴ばれるほどのものが、初めて自分は覚めたんだ、気付いたんだと正確に知らせてくれるとバグワンは云う。

 どうすれば目が覚め、どうしたら気付けるのか、その方法論をバグワンは語っているだろうが、わたしはそのような「方法」を覚えたいとは今は想わないのである。ひたすら「聴く」だけでいる。聴いて待っている。「間に合う」かどうかは知らない。だが、それより大事で大切なことが、少なくも自分に在るとは思っていない。わたしの腹心にいて一度も立ち去らなかった友である「死」に、わたしは静かに手を執らせていたい。現実にあれやこれや熱心にしている、つまり仕事も用事もいろんな営為はみな、だからこそ楽しめるし遊んでしまえる。それだけのもの、と、云うしかないからだ。

 2005 1/1 40

 

 

* 夜中に二度三度起きてしまう日がつづくと、いやおうなく寝床の中で真の闇にむきあうことになる。わたしはこの機会を、むしろ、珍重している。ふしぎな体験ができるから。

 ほぼ完璧な闇であるから眼は明いていても閉じていてもいい。「闇」には、深さを感じても、限定された広さは感じない。無際涯に広いし、深い。闇って、なんて美しいんだろうと鑑賞しているときもあるが、ふつうは何も考えないようにして、じいっと闇に向き合っている。

 すると、いつ知れず自分の「体」感覚が尽く消滅消尽し、内蔵は愚か語感も体感も無くなっている。体というものがなく「意識」だけがまだ生きている。「生」とは「意識」のことで、必ずしも「意識」に「体」は係わっていないのだ、「体」はもともと空無なのだ、と、そう分かる。意識そのものにだけ、成る。成れる。わたしはそれが嬉しいので「闇」の中にいるのが好きなのである。闇の宇宙=全体=トータルに、「体」という個体としてでなく、「意識」として溶け込んでいる安心と静謐。

 この「意識」も、いつか失せるだろう、それが「生」「死」の転帰。「体」もまた生死には関わっていない。まして頼りない「心」なんて。

 

* ま、わたしはそんなふうに眠れない夜中を「闇」に包まれて過ごしている。

 

* 体をそのように見切ることによって、わたしは断然心より「体」に親しい。体の望むことは叶えたいと思う。体にしたがっている方が、心=分別=マインドにしたがうより、同じ「しくじり」でも軽くすみそうな気がしている。つまり体と意識とをハートフルに仲良くさせ、分別に縛られずに自由に過ごしたい。心に振り回されるのはマッピラだ。

 2005 1・24 40

 

 

* 週末にバグワンを読みながら、躓いていました。

     与えるなんて何ごとか?

     あなたは与える何を持っている?

     救うなんて何ごとか?

     あなたは自分自身さえ救っていないのに

     どうやって他人を救える

 キリスト教は、与えて与え尽くせ、自分の人生も命までも他者に与えろという宗教です。愛とは自らが痛むまで与えること。マザーテレサの言葉です。マザーテレサのように有名ではなくても、自らの命を与えて死んでいった多くの無名の人々を思うとき、与えるな、という言葉に戸惑いました。

 スマトラ津波災害に寄付したり人道支援すること、国境なき医師団などボランティアやチャリティーには大きな偽善もあるでしょう。でも、偽善でも実際にお金も手助けもないのとあるのとでは大違い。偽善でもしないよりするほうが遥かに正しいことと思わずにはいられません。救えなくても、救おうとする行為は、行動は大切に思えます。

 与えることでそうする本人が幸せになれるかどうかはわかりませんが、助けを必要とする人を捜し求めていく生き方を、私は讃美することはできても、否定することができません。

 たとえば、シドッチ神父には、「よくぞ来てくれた」と感謝しますし、殆どの日本人が名前も知らないミッション、テストウィド神父にも、涙とともに敬服します。治療法のない時代に自分も罹患する覚悟で、日本で初めてのハンセン氏病の病院を設立して過労死のように死にました。その病院を継いだ四人の神父たちも、多くの患者を助けながら、次々と刀折れ矢尽きるようにして倒れています。

「あなた自身の内なる実存が暗いのだ あなたには救うことなんかできない あなたには与えることなんかできない」というのは、まるで何もするなというような響きに感じられて、納得できないまま読み進みました。

 すると、やはりバグワンの素晴らしい答えが出てきました。

     もしあなたが自然に与えられるなら

     ビューティフルだ

     ただし、そのときには心の中には何もない

     自分が何かを与えたんだという計算などひとつもない

     それが与えることと分かち合うことの違いだ

 

     ティロパは分かち合うなと言ってるんじゃない

     彼は取ることにも与えることにもこだわるなと言っているのだ

     もしあなたに手持ちがあり

     それが自然に起こって、あなたが与える感じになったら与えなさい

     ただし、それは分かち合いであるべきだ

     贈り物――

     これが贈り物(Gift)と与えること(Gifting)との違いだ

 人間愛に生きたキリスト者などは、この境地に達していたわかりやすい例かもしれません。アッシジの聖フランシスのように、自然に与えていたのですね。

 でも、「分かち合い」というのは、黙っていて自然にできるようになることとは、思えなくて。

 凡人は突然変われるものではありません。とりあえず偽善でも、まず与えることを訓練していないと、教えてもらわないと、急にはできないことだと思っています。

 無理にするならしないでよい、という生き方もありますが、それでは誰が一粒の麦になってくれるのかと、友のために死んでくれる人がいない世界になど生きていたくないと、今のところ、バグワンに「問いかけ」ています。

 トンチンカンを大いに笑ってください。ほんとうにおバカ。

 なかなかこの手ごわいバグワンに近づけません。でも、これからバグワンがどのような道を示してくれるのか、とても楽しみにしているのです。   蝸牛

 

* このメールには顕著な一徴候がある。「自分」ではない他者・聖者の例を次々に挙げ、顧みて「他」を知識で評論している。自分は、すばらしい聖者や宗教から「恩恵を受ける」立場にいる。自分自身で「分かち合う」立場には身を置いていない。自分には急には「何も出来ない」と。

 

*   > 与えるなんて何ごとか?

   > あなたは与える何を持っている?

   > 救うなんて何ごとか?

   > あなたは自分自身さえ救っていないのに

   > どうやって他人を救える

  『存在の詩』504頁の下に出て来ますね。この第9話は、バグワンの声のとてもよく聴えるところで、あなたのこの引用に至る二十頁ぐらいを深く感じ取っていれば、上の引用個所は、ごく普通に素直に受け入れられる所であり、あなたの言っているような普通のリクツについても、バクワンはすでに深切に触れつつ語り継いでいると思います。

 そして、これより先の頁へ読み進めば、ますます彼は、あなたの言うているようなリクツを超えた「深み」から、人間存在そのものに光をあてて語っているのが分かります。

 どちらかといえば、この章でバグワンは、つねになく解析的に、そしてものを積み上げるように話していて、分かりよい、説得される章だと、わたしは感じてきました。

 > 凡人は突然変われるものではありません。とりあえず偽善でも、まず与えることを訓練していないと、教えてもらわないと、急にはできないことだと思っています。

 無理にするならしないでよい、という生き方もありますが、それでは誰が一粒の麦になってくれるのかと、友のために死んでくれる人がいない世界になど生きていたくないと、今のところ、バグワンに問いかけています。

「友のために死んでくれる人がいない世界になど、生きていたくない」というあなたの表白。この「友」とは、すなわち「あなた自身」のことと読めます。それははからずも露呈した利己主義でしょう。

 ホカならぬ「あなた」が、人の友として、その「人のため」に、いざというときは死んで上げる、自分はその為にも「生きていたい」という覚悟こそ、望ましい、本当の表明ではないのですか。そういう自身への励ましが、少しもあなたの物言いに表わされていない。

 これは「突然変われる」とか「変われない」の問題でない。自分を自然に何かの前へ「投げ出せる」のか、自分自身を「分かちあえる」のか(「与えて貰う」のではなくて)、それに「気付く」か「気付かない」か、だけなのです。一瞬で「気付ける」のです。「訓練して・変わる」なんてことでは、全くない。

 自分が、人の前へ、なにもかも身を投げて「分かち合おう」とはしていない、それだけのことをあなたは言わず語らず示した。裏返せば、自分は「人から与えられていい立場だ」と思っている。ずいぶん甘えた姿勢です。

 してもらうのでなく、してあげる。それが本当に無心に、無欲に、見返りや名誉への欲望なく「自分には出来るかどうか」を、自問しなさいとバグワンは言うているのではありませんか。その間際に立って、「あなた」に、「与え得る」一体「何」があるのかと、バグワンは、ほかならぬ「あなたに」向かって問うている。問題を他の人達へ一般化して「評論」してはいけない、「あなた自身の問題」として考えなくちや。

 > 与えるなんて何ごとか?

 > あなたは与える何を持っている?

 > 救うなんて何ごとか?

 > あなたは自分自身さえ救っていないのに

 > どうやって他人を救える

 これは、世間の人に向けて言われているのではない、「あなた」一人に向かって言われている。「あなたの問題」として先ず考えなくては無意味です。

 あなたは命をあたえて人を救えますか。「救えます」「救いたい」と自然に言い切れたときに、初めて他を顧みて「評論」すればいい。「知識」でこねまわさない。生きているのは知識でなく、「あなた」だ。

 2005 1・24 40

 

 

* 今朝、HP、読みました。蝸牛さんにはいつも「辛辣」でいらっしゃいますが、彼女は彼女で大真面目に考え、書かれているのですね。彼女にも大いに共感する部分がありますよ。

 夜中の「闇」について書かれていること、とてもよく分かります。わたしにとっても幼い頃から添うようにあった「闇」です。

 どうぞ寒さ、そして花粉症に負けずこの季節をしのいでください。  鳶

 

* ゆうべのバグワンにかかわる往来は、わたしからの返信は、言い過ぎだろうか。わたし自身は、「分かち合える」まして「与え得る」ものなどたいして持たないし、「命をなげだす」ような思い切りが出来るかどうかも、自身に問いつめられない。だから人にも自分のためにそうしてくれないかと依頼・依存することもしない、だろう、と思う。

 ただ、ものを思ったり考えたり知識を用いたり感想を述べたりするときに、自分をまっさき「受益者」の立場に置き、自分がどうするか、どう出来るかを考えに入れずに、他者や一般を評論してしまうことは、したくない。どんな疑問や不審も、自分自身との関わりは如何と、真っ先に、または最後に、問いかける。自分の問題にこそ関心がある。立派な人を讃美したり、そうでないひとを否定・批評したりでは、顧みて「他を語る」だけの評論に過ぎない。

 いちばん、その意味で、蝸牛さんの、「誰が一粒の麦になって<くれる>のか」、「友のために死んで<くれる>人がいない世界になど生きていたくない」という「なってくれる=なってもらいたい」「死んでくれる=死んでたすけてもらいたい」という受益の受け身姿勢に、わたしは驚いたのだった。

 とても蝸牛さんは正直で、こんな揚げ足を取っているわたしのほうが不正直なのかも知れない、が、してもらって讃美する立場からでなく、自分はどうするのかを聴きたかった。自分のことは措くとして、ではなく。

 

* 蝸牛さんを非難したのではない。やはり、この大事な問題で、「自分は」と内心に問い直す機会をもったのであり、また改めてバグワンにおける菩薩行(大乗) と羅漢行(小乗)との「見取り」如何にも思い至らずにおれなかった。

 また、偽善であれ何であれ、百円千円は、困っている人には、同額の百円千円に通用して役立つではないかという、あまりにもよく耳にするリクツについても、バグワンはどう語り、わたしはどう思っているのだろう、というところへ、押し付けられるのである。この「闇に言い置く私語」の場が、誰しものそのような思案の場になることをわたしは歓迎している。

 

* まあ、それにしても不正メールの多いことはどうだろう。ひどいときは七割八割が不正メールである。絶対に開かず棄てる。その煽りで、消してはならぬメールまでときどき勢いで消去してしまい困惑するけれども。

 2005 1・25 40

 

 

* 蝸牛です。  昨日のバグワンについていくつか説明します。まず、バグワンを「批評」したのではなく、現在読んでいる時点での感想を述べたのです。バグワンの姿勢は一つの理想でも、キリスト教の慈善事業に比べ、実行までに時間がかかりすぎはしないかということです。一種の動きの鈍さ、歯がゆさを感じました。

 自然にそのように「分かち合う」状態になる時まで待てるか、というと身の回りにはすぐに動かなくてはならないことが多いのではないでしょうか。

 一瞬で気づいて、そのように動けるようになるとお考えのようですが、それは少し違うのではないかと思います。泳げない人間が溺れた人を助けられないのと同じ理由で、人助けを迅速にするという習慣なり教育なり訓練がなければ、人はうまく動けないのだと感じるのです。

 キリスト教会には過去の過ちはあまりに多く、今も多々欠陥がありますが、フットワークの良さという点では他の宗教より優れていると感じています。(ブッシュ大統領は聖書ではなく、ハムラビ法典で動いているようですが)

 たとえば、今回の津波災害で、フランスでは、漁師たちが立ち上がり、津波で船や網を失い仕事ができなくなった異国の同業漁師たちのために自分たちの漁の収益の一部の寄付をはじめています。日本の漁師にこのような動きがないのは、もちろん日本の漁師に思いやりがないせいではなく、ボランティアとしてすぐに行動するキリスト教的な発想に親しんでいないというだけの理由だと思います。

 民間の寄付で、キリスト教が大勢を占める欧米のほうが仏教やイスラム教等の国々よりはるかに多くを集めています。それは、単に経済力の差というより、積極的に助けなくてはいけない、しかもすぐに行動しなくてはいけないというキリスト教的宗教教育が骨身にしみて徹底しているせいだと私は想像します。

 第二次大戦中のユダヤ人の大虐殺は周知のことですが、相当数のユダヤ人が善意の人々に匿われて生き延びました。ユダヤ人を、自らの危険を承知で匿っていた人々はどういう人々かという追跡調査をしたところ、日常的にボランティア活動をしていた人々だったそうです。これは人助けを習慣としていないと、いざという時に適切な行動できない証明のように思います。泳げるから助けられるのです。「訓練」と言いましたのは、このような宗教的教育なり訓練のことでした。人助けは一瞬の気づきだけでは難しいと思っています。偽善という不自然な訓練を積み重ねているうちに、ある日本当の「分かち合い」に至り、自然に与える境地に達するとそう思ったのです。

 > 「友のために死んでくれる人がいない世界になど生きていたくない」というあなたの表白は、この「友」とはすなわち「あなた自身」のことと読めてしまいます。それは利己主義でしょう。裏返せば、「人から与えられていい立場だ」と思っている。

 これには抗議しますね。まさか! そんなことまったく考えてもいませんでした。あの文章は自分など引き合いに出すにはあまりに恐れ多い人間愛を話題にしていたので、あえて一般的なこととして書いたのです。自分が人のために死ねるか、それは思春期の頃からずっと考え、問い続けてきた問題ですもの。誰かに、自分のために死んでほしい、自分にその価値があるなんて、夢にも考えたこともありません。

 自分のことを棚上げしていたのは、自分のいたらなさを知り尽くしているからです。厚顔無恥でないから、「救えます」と言わない、言えないだけです。この世界でどれほどの人間が自信をもってそのような宣言をできるのでしょうか。

 自分の子どものためであれば今この瞬間に命を棄てられますが、それは母親として当たり前のこと。子どもへの愛は自己愛と同じですもの。世間の人が子どもを褒めるときに「親バカですが」と前置きするのも、自分の子どもを褒めるのは自分を褒めることと同じで、とても見苦しいからそう言い訳するのです。

 子ども以外の人のために命が棄てられるか、答えは「そうありたい」「そう熱望している」「そう信じたい」としか言いようがありません。真実愛するのは、人間には不可能に近いことで、それを可能にするのはキリスト教でいえばイエスの愛の助けによってということになるのです。

 バグワンの示す道に一条のたしかな光を感じながら、まだまだあがいていくだろう自分を思っています。とにかく続きを読んでいきます。いつかバグワンの言葉は身にしみていくことでしょう。

 

* 「ペン電子文藝館」の仕事をわたしのボランティアだと言った人がいて、かえってわたしは驚いたことがある。これだけ生活時間を注ぎ込んで無償で働いているのだから、あるいは間違いでないのかも知れないが、「ボランテイア」と意識したことはない。そう思おうとは思わない。したいから、出来るから、しているし出来ているだけの話。出来なくなればやめる。したくなくなればやめる。それでいい。

 ただ、現実に確かに身を挺してやっているぶん、事是に関してわたしはいつもはっきりモノを言っている、わが事として。わたしにしか言えないことだと思って、具体的にも理念的にも、言ったり書いたりしている。

 政治と宗教については、誰もが同等に外から発言していいと考えているが、その余は、自分の触れたことに、触れたと同じにものの言えることだけに、ものを言おうと、わたしはしている。さもないと出来合いの受け売りにしかならないからだ。人のすることに感心したり関心を持ったり、その逆だったりはするけれど、自分で関わってもいないことを評論はしない。

 

* たとえ話としても、溺れた人を助けるために、平生から水泳や救助の訓練をしなくてはならないなどと、わたしは思わない。出来る人がそれぞれに出来ることをすればいい。

 電車の中で席を譲り合うのに「訓練」は要らない。誰にでも直ぐ出来る。その人が本当に自然に親切にするかしないかだけのこと。出来ないこと、手の届かないことまでムリにする必要はない。それでも緊急に敢えてする機会もあるだろう、それはまたそれ。

 

* 慈善、慈善事業。わたしの辞書からは削ぎ棄てたいと思うことばである。

 2005 1・25 40

 

 

* 高校二年頃、角川文庫が創刊されてまだピカピカの頃、なけなしの貯金をはたいて高神覚昇という人の『般若心経講義』一冊を買った。昭和二十七年暮れか翌新春に買っている。今、背は、ガムテーブで貼ってある。表紙の角はちぎれ総扉も目次も紙が劣化してぼろぼろ、全体にすっかり赤茶けている。

 この本について思い出を語り出せばながい話になる。

 よく読んだ。一つにはこれがたしかラジオ放送されたそのままの語りで、姿無き多数聴衆を念頭に話されているため、耳に入りやすい譬えや説話がふんだんに入っていて、高校生にも読みやすかった。

 一つには、日吉ヶ丘という、頭上に泉涌寺、眼下に東福寺という環境に人一倍心から親しみを感じていたわたしは、知識欲にもまたもう少ししんみりとした感触からも、しきりに鈴木大拙の『禅と日本文化』だの、浄土教の「妙好人」だのに関心を寄せていたのだった。社会科の先生の口癖のような倉田百三の、たしか『愛と認識との出発』や阿部次郎の『三太郎の日記』なども覗き込まぬではなかったが、同じなら同じ倉田の戯曲『出家とそま弟子』にイカレてもいた。

 もう一つは、まだ仏典に手を出す元気はなかったものの「般若心経」とだけは幼くより仏壇の前でワケ分からずに親しんでいたという素地があった。あのチンプンカンプンに少しでも通じられるならばと、勇んで『般若心経講義』を自前で買った、その本が、いまこの機械のわきに来ている。高神覚昇のことは皆目識らないも同じだったし、今も同じだ、が、この文庫本からは多くを得た。ことに知識欲に燃えていた少年は、講話もさりながら、佛教の理義に触れたいわゆる「註」の頁にそれは熱心に眼を向けた。感じるよりも遥かに識りたがっていたのだ、何でも彼でも。

 泉涌寺の来迎院で、「朱雀先生」や「お利根さん」、わけて「慈子」と出逢った少年の学校鞄には、まさしくこういう知識欲も、詰まっていたのだった。

 

  青竹のもつるる音の耳をさらぬこの石みちをひたに歩める        東福寺

  ひむがしに月のこりゐて天霧(あまぎ)らし丘の上にわれは思惟すてかねつ 泉涌寺

 

 十七歳の高校生が、まさにこの頃から短歌をわがものにして行った、いつしかに小説世界へ心身を投じてゆく、前段階として。『般若心経講義』を読んでいたのと、こういうわが『少年』の歌とはひたっと膚接している。

 そして四十、五十年。わたしはバグワンの『般若心経』になかなか落とせなかった眼の鱗を幾つも落とせたと感謝している。

 2005 1・28 40

 

 

* 最も上等の人士が道(TAO)を聞くと、     上士聞道、勤而行之

  一生懸命にそれに従って生きようとする……         老子

 ただし、一生懸命に精進することによって、人はだんだんと、変身の最終段階においては努力それ自体がひとつの障壁(バリヤー)であるということを感ずるに至る。あなたが一生懸命に〈道TAO〉に従って生きようとしているとき、その生は自然な生ではあり得ないからだ。それはひとつの強いられた現象でしかあり得ない。統制ではあっても、自由じゃない。あらゆる努力はすべて自我(エゴ)のものにほかならないからだ。〈真実〉を達成しようとする欲求すらもエゴから出て来る。人はそれを落とさねばならなくなる。

 ただし、覚えておきなさい。人が努力を落とせるのは、その最大限まで努力をしたときに限る。「もしそうなのだったら、一番初めから努力なんてやめにしよう。なんでそんなことをする?」などとは言えない。無技巧と言えるほどの技巧を持つことは、どんな規律も通ってこなかった者たちにとっては不可能なことだ。

 最終的には、藝術家は、自分の藝術を完全に忘れるようにならなければならない。それが何であれ、彼は自分の学んだものを忘れ去るべきなのだ。しかし、忘れることができるのは、それまでに学んだものに限る。

 最初にひとつのことを学ぶのも難しい。しかし、いったんそれを学んでしまったら、それを忘れるのはもっと難しい。その第二部はとてもとても不可欠で重要なところだ。さもなければ、あなたはテクニシャンではあってもアーティストではあるまい。

 完壁な絵描きは、筆やキャンバスなど必要としない。完璧な音楽家は、シタールやヴァイオリンやギターなど必要としない。いいや、そんなものは素人のものなのだ。

 私は、ひとりのとても年取った音楽家に出会ったことがある。彼はもう死んでいる。彼は一一〇歳だった。ラヴィ・シャンカールは彼の弟子だ。彼はどんなものででも音楽を生み出すことができた。本当にどんなものででもだ。彼が二つの岩のところを通りかかれば、彼はそれで音楽を作ってしまう。鉄のかけらを見つければ、彼はそれで演奏を始める。そしてあなたは、いままで一度も聞いたことのないようなューティフルな音楽を耳にする。あれこそ本当の音楽家だった。そうなると、彼のひと触れまでが音楽的だった。もし彼があなたに触れようものなら、あなたの内なるハーモニーと音楽の、内奥無比なる楽器に触れたということを、あなたは目のあたりにする。突如として、あなたは振動しはじめる。

 最も上等の者たちは、一生懸命(真実)に従って生きようと、大変な努力をする。そうして、だんだんとあなたは、自分の大変な努力が、少しは役に立つものの、大いに妨げにもなるということをも理解する。  ―バグワン―

 

* わたしは、瀧に打たれたり、身を焦がしたり、峯々を渡ったり、穴に籠もったりというような難行苦行が「悟り」を「獲得」する行為であるなら、悟った人が本当にいるのだろうか? と想ってきたし、今でも疑っている。わたしには山林抖薮や断食への同情が余りなく、その辺が山折哲雄氏との対談でまともにぶつかった。わたしには、あれは悟りへの道であるより、疲労の極の朦朧という無心類似の境地のようなもので、座禅で得られる静謐な内奥とは似て非であろうと想われる。

 普通に人為の日々をすごしながら、人為に拘束されたり束縛されたりしないで平静に「そのとき」を待てばいいと、そうわたしはバグワンに教えられている気がしている。勝手にしているので、正しいともあやまちともわたしは知らない。「今・此処」に文字通り一所懸命に、一期一会に在ること。一会一切会、一新一切新、一斬一切斬。努力して出来ることではなかろう。

 2005 2・11 41

 

 

* 高神覚昇の「般若心経」講義は、むろん「空」を語らねば前へ進まないのだが、「因縁」の事理が援用されつつ、やたら「真理」という二字が繰り返されるが、なかなか、では因縁は、空はという話に煮えたって行かずに、丹念に手探りがつづいている。その周旋のじれったさなどがまた面白さになる。この人、「真理運動」の提唱者で主導者でもあった、友松圓諦とならんで。

 バグワンは、さすがに躊躇も周旋もなく、手をつっこんでモノを掴み出すように、いきなり「空」を示す。すごいほどバグワンの透徹は、犀利に確か、あらためて驚歎する。

 

*  上士聞道、勤而行之、           

   中士聞道、若存若亡、

   下士聞道、大笑之、不笑不足以為道、

 「老子」である。

 最も上等の人士が道(TAO)を聞くと、一生懸命にそれに従って生きようとする。

 中等の人士が道(TAO)を聞くと、それに気付いているようでもあり、きづいていないようでもある。

 最も下等な人士が道(TAO)を聞くと、

 大声で笑い出す。

 もしそれが笑わないようであれば、それは道(TAO)ではあるまい。  こうバグワンは読んでいる。さらにそれの日本語訳であるが。ともあれバグワンは人間の九十八パーセントほどが中等、下等だと言っているから、わたしを含めてほぼだれもがそのどちらかである。

 バグワンはこう語り継ぐ。

 

* 最も下等な人士が道(TAO)を聞くと、大声で笑い出す。

 一番下等なタイプの人は、この「真実」、この「道TAO」とやらは、何かあるめタネの冗談ではないかと思う。彼はあまりにも俗っぽく、あまりにも浅はかで、深みに関することなど何ひとつとして彼にアピールしない。彼は大声で笑う。その笑いはひとつの防衛だ。

 そういう最低のタイプには、どこででも出くわせるだろう。

 老子は言う。 〝もしそれが笑われないようであれば、それは道(TAO)ではあるまい……″

 老子は言う。もし第三のタイプの(下等)人が「真実」を聞いたときに、笑わないようだったら、それは「真実」ではあるまい、と。

 いつであれ「真実」が明かされると、最低のタイプはたちまち笑い出すだろう。「真実」と三番目の最低の人間との間には、笑いが必ず起こる。

 二番目の(中等な)凡庸と「真実」との間では、知的な理解が起こる。

 第一の上等なタイプと「真実」との間には、彼のトータルな実存の深い理解が起こる。彼のトータルな実存が、ひとつの未知の冒険に打ち震える。ひとつの扉が開いた……。彼は新しい世界に足を踏み入れつつある。

 二番目のタイプの人間にとっては、その扉は、開くには開くが、マインドの中でしかない。それはたんに「思考」のドアであって、本物のドアじゃない。はいって行くわけにはいかない。せいぜいのところ、それについて哲学すること、それについて考えることができるだけだ。

 第一のタイプの人間は、その扉にはいって行く。

 二番目のタイプの人間は、せいぜいよくて、それについて「考える」だけだ。きりなく考える。

 三番目のタイプの人間は、考えることすらしない。彼は大声で笑い出す。そして、何もかもそこで終わりだ。そうして、彼は忘れ去る。

 第三のタイプと第二のタイプが、人類の大部分をなしている。

 第一のタイプは、世にもまれな花だ。この人類の大部分のせいで、多数派のせいで、「道TAO」を理解する人間は「ものわかりが悪い」ように見える。本当の理解の人というのは、二番目や三番目のタイプの人たちには、ものわかり

が悪いように映る。

 「真実」に向かって足を踏み出す人間というのは、なんだか「後戻り」するかのように見える。世の中の人たちはこう言うだろう。

 「あんたは何をやっているんですか? せっかくあんなにいろいろなことを成し遂げていたのに、今度は後戻りしているじゃありませんか。もう少しで**にも挙げられようとしていたのに、そんなことでどうしようというんです? あんたは後退しているんですよ。いま一息でゴールに着いて、大変な富や力や地位・名誉を達せられたものを、何ということをしているんです? あんたは自分の一生と仕事と苦労をぶち壊しにしているんですよ。後戻りなんかして……」

 大多数の人たちにとっては、真実の人というのは、どこかがおかしくなったような人間、正常でない、異常な人間なのだ。イエスは異常だ。老子は異常だ。クリシュナは異常だ。彼らは正常の規律に合わない。

 

* わたしは、笑わない。だが、きりなく考えているだけだと言われれば、反対できない。どうかして、笑われようとノロイといわれようと、心得違いだと責められようと、「世にまれな花」になろうと歩を運びたい。

 2005 2・16 41

 

 

* いまの人類は、ほとんど九八パーセントの人々が凡庸であり、一パーセントが天才で、一パーセントが白痴だ。人類の大部分は凡庸なのだと現代の科学は指摘している、とか。バグワンはこう話している、

 

* 「その凡庸な部分は」と、老子は言う、「(真実に)気づいているようでもあり、気づいていないようでもある」と。もし真のマスターが「真実」のことを語ると、凡庸なマインドは、知的にはそれを理解する。が、トータルには理解しない。彼(ら凡庸の徒)は言う。

「はい、あなた(マスター)のおっしゃることはわかります。けれども、なおかつ私は何かをのがしています。あなたの言うのは、どういう意味ですか?」

 マスターの言葉は聞かれる。だが、意味は(聞き手の中で)失われてしまう。彼(ら凡庸の徒)は、自分が知的に理解できるということはわかる。彼は教養のある人間だ。もしかすると大学卒、ことによったら博士かもしれない。彼は、それが何であれ、マスターの口で言っていることは、理解できる。「言葉」は理解できるからだ。が、彼はそれでも何かが失われているのを感ずる。彼は言葉は理解できる。が、言葉自体はメッセージじゃない。メッセージというのは何かもっと微妙なものだ。それは言葉と一緒にやって来ることはできる。が、それは言葉としてじゃない。

 言葉というのは花のようなものだ。そして、意味というのは、それを取り巻く「芳香」のようなものだ。もしあなたの鼻があまりよく利かなかったら、私はあなたに花をあげることはできても、その香りをあげることはできない。もしあなたのマインドが全面的に機能していなかったら、私があなたに言葉を与えてあげることはできても、意味を与えてあげることはできない。なぜならば、意味はあなたによって探知されねばならない、あなたによって解読されねばならないものだからだ。

 私はあなたに「花」を与えてあげることはできる。それは難しいことではない。しかし、どうして「香り」を与えてあげられる? もしあなたの鼻が利かなかったら、もしあなたの鼻が死んで、無感覚だったとしたら、そのときにはどうすることもできない。私はあなたに千と一つの花を与えることはできても、その「香り」は伝わるまい。

 中等の人間は、「言葉」は理解する。が、その意味をのがす。彼は(道TAO)に耳を傾けつづけはする。もしそこに道の人(マスター)がいれば、彼はその人に一定の魅力を感じはする。彼は「何か」がそこにあるのを感じはする。少しは覚めていて、彼はそこに「何か」があるのに感づきはする。しかし、彼には「確信」が持てない。彼は理解して、しかも理解しない。

 大勢の人たちが私(バグワン)のところへ来てこう言う。

「私たちは、あなたがおっしゃることを理解はするのですが、何ひとつ起こりません。私たちは、あなたのおっしゃる何もかも理解しています。私たちは、数えきれないほど何度も何度もあなたの本を読みました。ほとんどどの行にもアンダーラインを引きました。ところが、何ひとつ起こっていません…」

 

* これが98%だとは考えにくい。これがやっと10%か15%だろうと思う。その余は、この手の話題に当面するだけで笑いとばす。バグワンは中等の人士はせいぜい民主主義に辿り着くと言う。また大多数の下等の人士は独裁するか独裁にしたがうと言う。含蓄に富んだ指摘だ。では上等の人士の世界ならば。そういう言葉は用いていないがバグワンはそのときはじめて「法三章」世界が可能になるという。

 わたしは、バグワンからでなく、もっともっと小さかった頃にはじめて「法三章」と聴いたとたん、その理想にさながら電気に打たれるほど憧れた。

 だが、わたしは、かろうじて、せいぜい凡庸な中等の人士であるに過ぎない。

 2005 2・18 41

 

 

* 昨日、バグワンの「老子」で、わたしの持っている十冊近いバグワン本のなかでも最も感動的な個所を音読した。もう数度目であるが、ここを読むと胸が熱くなりいつも涙がにじむ。かなり長めの挿話であり此処に書き写すことはしにくいが、わたしは、いつも此処の挿話を自身のもっとも望ましい起点ないし原点のように感じて、ただもう受容的に「待って」いる。待つぞと待つのではない。ただ待っている。

 2005 2・19 41

 

 

* わたしは、ありがたく、こういうメールにより、耳の汚れる、気色わるい世間とのバランスをとるというか、いやいや消毒され清まはっているか。はかり知れない。

 マドレデウス「ムーヴメント」の歌詞を、高場将美さんの訳で、一つ、聴きたい。

 

* 1  あこがれ

 

わたしがあこがれて求めるものは

この社会の

最後の

ヴィジョン

わたしはさすらう

真実の上に

根をおろした

夢の中を

 

わたしが告白するのは

感受性のない印象

――そしてわたしは祈る

歌のなかに

ほんの少しの光明!

 

わたしがあこがれて求めるものは

たしたちの時代の

全体的な

ヴィジョン

その時代を運んでいくのは

現実とは

反対の

いろんな説

 

わたしは告白する

まだそれでも

すべての意志を

なくしてはいないと

人類の

すべての

写真を

今からでも撮りたい

 

わたしがあこがれて求めるものは

混乱の

真っ只中でも

ひとつの理由

そしてわたしは待つ

あなたが

止まって

話をしてくれることを

 

*「あなた」が見つからない。道に惑い、胃が痛む。もう一つ、書き写させて欲しい。

 

* 4  ラビリンス

 

わたしは孤独の迷路に迷い込んだ

感じた

動かない場所が積もった

山があるのを

そして昇った

 

そして目もくらむ未来の

探い谷底に

降りた

 

太陽を探し求めた

海を探し求めた

 

でもあなたはいなかった

風景の空のなかに

ここから

結局わたしは出られなかった

 

でもあなたはいなかった

風景の空のなかに

わたしはわからなくなった

自分が旅をしていることが

 

もう記憶よりも柔らかくなってしまった石に

わたしは書いた

時の文字で書いた

それを苔(こけ)が覆ってしまう

 

希望が

わたしたちのまなざしにくれる輝きの文字で

わたしは書いた

 

でもあなたはいなかった

風景の空のなかに

わたしはわからなくなった

自分が旅をしていることが

 

でもあなたはいなかった

風景の空のなかに

ここから 結局わたしは出られなかった

 

でもあなたはいなかった

風景の空のなかに

わたしはわからなくなった

自分が旅をしていることが

 

* わたしは、「あなた」を「=道TAO」と読む。 

 2005 2・20 41

 

 

* バグワンは言う。(スワミ・ブレム・プラブッダ訳)句読点などすこし補う。

 

* ときとして、あなたがそれをやっているわけではないのに、何かがあなたに起こることがあり得る。(あなたの入っていく)まさにその場所自体が、ほかの誰かの磁力であまりにも充満していて、あなたはその中に包まれてしまい、一種の受容作用を引き受けて何かがあなたに起こりはじめる。そして、自分の「しわざ」なくして何かが起こる、ということの「美しさ」を知ることこそ世の中で最大のものだ。その至福の感覚を知ること。恵みがあなたを満たすその感覚を知ること。あなたは何もしていないのに、すべてが起こっている……。

 さあ、老子の経文に耳を傾けてごらん。

 

〝世の中で最も柔かいものが、最も堅いものを通り抜ける……”  

     天下之至柔、 馳騁天下之至堅

 

 世の中で最も柔かいものというのは何だろう? 外側の世界において、最も柔かいものは水だ。

 内側の世界で最も柔かいものは愛だ。

 そして、水と愛の二つは、数えきれないたくさんの点で似通っている。それらが理解されねばならない。水はくぽんだ場所を求めて行く。愛もまたくぽんだ場所を探し求める。

 もしあなたがエゴイストだったら、愛はあなたに達することができない。それというのも、あなたが自我(エゴ)の頂点、ひとつの絶頂(ピーク)だからだ。あなたはあまりにも自分自身でいっぱいになっていて、愛はあなたまで達することができない。愛は、あなたがひとつの(空=くう)、何ひとつ邪魔もののないひとつの空間(スペース)であることを必要とする。

 水もまたくぽんだ場所を探し求める。そうやって、それはヒマラヤから発し、どこまでもどこまでもどこまでも、それが海にたどり着くまで進んで行く。海というのは世界で最もくぼんだ場所だ。水がそこに到達するのは、そういうわけなのだ。川は決してグリシャンカール(エベレスト)に向かっては行けない。それはヒマラヤの最高峰に向かって行くわけにはゆかない。ちょうどその反対のことが起こる。

 川は、ヒマラヤの最高峰で、氷河の中で生まれ、そしてどんどんと低く低く低く流れて行き、世界で最もくぼんだ最も低い場所である海にたどり着くまで止まらない。その海が川のわが家となる。

 愛もまた虚ろさ、空っぽさへ向かって動いて行く。エゴイスティックな人たちが、愛せず、そして愛されることもできないのはそのためだ。彼らは多くを望む。彼らは愛を「求め」る。彼らは、愛を「得る」ために必要なことは何から何までやってのける。ところが、彼らは失敗者のままだ。彼らは完全に失敗する。というのも、肝心なことは、どうやって愛を「得る」かということではないからだ。ポイントはいかにして「虚ろになる」か、いかにして「空っぽになるか」、 (なれるか、)なのだ。

 愛というものは、直接的に追い求められるべきではない。直接的には追い求められ得ない。ただ 非直接的にのみ、あなたはそれに対して有効に(的確に)なる。あなたはただ虚ろになるだけでいい。するとどうだろう、千と一つの流れがあなたに向かって流れはじめる。見ず知らずの人たちがあなたに恋をするに違いない。人間ばかりじゃない。星たちも、石たちも、砂も、海も、樹々も、鳥たちも、どこであれあなたが行くところ、突如として愛があなたに向かって流れはじめることだろう。愛が、水のようなものだからだ。それは休むことのできるくぼんだ場所を探し求める。

 あなたが一本の樹のそばを通り過ぎる……。もしあなたがくぼんでいたら、不意にその樹の愛が、あなたに向かって流れはじめるだろう。それは自然なことだ。それは何も奇跡のようなものじゃない。それはちょうど水のようなもの。水を流せば、それは休むための一番くぼんだ場所を見つけ出すだろう。愛とは、内なる実存の水なのだ。

 老子は言う。

 〝世の中で最も柔かいものが、最も堅いものを通り抜ける……″

 聞くところによれば、七〇〇〇年のうちにナイヤガラの滝は、そのまわりの山を全部完全に崩してしまうだろうと言う。いままでのところ、七マイルの山と岩がそれによって崩されてきた。七〇○○年のうちにナイヤガラの滝は消え失せるだろう。なぜならば、そこには落ちるべき山がなくなってしまうからだ。最も堅い石が、最も柔かい水によって消されてしまう。だが、それ(水)は、けっして「何も」しやしない。それは本当のところ、「何も」しようとしているわけじゃない。それはただただ流れるだけだ。

 生まれて初めて滝が岩にぶつかっているところを見たら、あなたは必ず、この岩が消えるはずなんかないと言うだろう。こんなに堅いのに……。しかし、海の中のすべての砂粒は、過去のヒマラヤ以外の何ものでもないのだ。水がそれらを動かし、土にまで砕いてしまった。

 数々のヒマラヤが消え失せ、そして、水は流れつづけている。実に柔かい。が、実に根気強い。あんなにも柔かい。が、大変な持続性をもっていて、だんだんとそれよりも堅い物が消え失せてしまう。何が起こっているのかもわからずに……。

 どういうことだろう? なぜ柔かい要素が、堅い要素を解消してしまうのだろう?

 それは、堅い物は「抵抗する」からだ。堅い物は「戦う」からだ。堅い物は一番の初めから「守備を固めている」からだ。それが「疲れ」を呼ぶ。

 柔かい物は、ファイターじやない。一番の初めから、柔かい要素の心の中には、誰かを消したり破壊したり(抵抗したり対抗したり)というようなことがない。」それはただただ、くぼんだ場所に向かう自分自身の道に従っているだけだ。それだけのこと。それ(水のように柔らかいあなた)は、そもそもの初めから、「敵」なんかじゃない。

 ところが、堅い要素の方はいつも「意識し」(あれかこれかと懊悩し)ていて、油断もすきもなく戦闘体勢(防衛体制)を固め、抵抗し(拒絶し)ている。まさにその抵抗(や拒絶や懊悩)が、エネルギーを消耗させる。まさにその抵抗が、息の根を止めてしまう。(それは元気に生きることに背を向け、死んだように生きているのと同じだ。)

 

* またバグワンはこう言っている。

 

* 「求め」ているとき、あなたはのがすだろう。まして、もしあまりにも一心に求めていれば、それこそ確実にのがすに違いない。しかし、もし、ただリラックスしているだけだったら、あなたは(彼)に出会うかもしれない。というのも、神は、あなたがとりたてて(彼)の後を追いかけていない(無心=ノーマインドの)ときに、あなたのところへやって来るからだ。(彼)の尻をつけ回しているときには、あなたは少々攻撃的だ。神は、あなたが男性的なマインドであるよりも、女性的実存のようなものであるときに、あなたの所へやって来る。それが「老子の、女性的実存」の意味するところなのだ。あなたは「待つ」。(追い求めればのがしてしまう。)

 西洋において、今世紀のごくごくまれな女性のひとりであるシモーヌ・ヴュイユが、『神を待ちのぞむ』という本を書いている。これが正しい姿勢だ。ほかに何ができる? ほかにあなたは何を知っている? あなたはただ「待つ」。「待ち受ける」ことができるだけだ。あなたは「迎え入れ」る。「出向いて行って襲いかかる」ことなどできるものじゃない。

 

* 基督教のもっとも美しい言葉は「みこころのままに」だと、わたしは思ってきた。「求めよ、さらば開かれん」という言葉を受け入れるためには、人は、よほど無心に生きてなければならないだろう。「求めよ」に、人は最も多く誤解して、それへ抱きつくが、どう「求め(=例えば難行苦行、修業勉強、聖典読経等々のエゴ)」ても「得られはしない」とは、あの法然の、また親鸞の「度=さとり」でもあった。

 2005 2・21 41

 

 

* 訳者(スワミ・プレム・プラブッダ氏)のお許しを請いながら、今夜音読したバグワンの言葉を、何としても書き置いてみたくなった。

『TAO 老子の道』上巻の、ごくわずかな抄録である。

 

* 老子は言う。(と、バグワンは言う。)

 

〝最高の完成は未完成に似ているものの……〃   ―大成若缺―

 

 あなた方の目から見ると、ということだ。言うまでもない。もしあなたが完全な人間に行き会ったら、彼は不完全なように見えるだろう。なぜか? それはとても微妙だ。が、それを理解しようとしてごらん。

 本当に完全な人間というのは、けっして完全主義者ではない。ここのところが理解されなくてはならない。そして、完全主義者というのは、けっして完全な人間じゃない。

 完全な人間というのはトータルだ。

 完全主義者というのは断片的だ。完全主義者というのは、ある生活様式を選んでいて、それをもっともっと洗練きれた、磨き抜かれたものにしようとしつづける。ごくごく(狭く)完全になることはできても、彼は不完全なままだろう。なぜならば、彼は「組み込まれるぺきたくさんのものごと」を避けてきているからだ。それがなければ、生は完全ではあり得ない。

 ただトータルな生のみが、完全であり得るのだ。

 たとえば、どんな罪も犯さないようにしようとし、実際にどんな罪も犯さず、純粋な、道徳的な生を送ってきた人間、こんな人は、いかに完全であっても不完全だろう。なぜならば、彼は罪というものを知らないからだ。

 罪というものは、何らかの形で完成に一役買うべきものだ。それには何かしら効用がある。さもなければ、そんなものは存在しなかったはずだ。悪魔というのは神の役に立っている。さもなければ、彼の必要などなかったはずだ。悪魔は神に対立した動き方をしているかもしれない。だが、それもそのドラマ全体の一部分だ。悪魔も組み込まれなければならない。もしそれを否定すれば、あなたの中の(隠れた)一部が否定されてしまうことになる。しかも、それはあなたの(実は)半分なのだ。

                      

 たとえばあなたが、怒りを否定する、憎しみを否定する、道徳家先生たちが悪いというものすべてを否定する、あなたはそれを全部否定する。そうしたら、あなたの実存の半分が否定されてしまうことになる。夜の部分、暗い部分が否定されている。あなたは昼間だけしか受け容れない。しかし、夜というものもちゃんとある。あなたがそれを受け容れようと受け容れまいと、それはそこにある。そしてそれは、無意識の中に押さえつけられたまま残るに違いない。

 

 聖人というのは、いつも罪の夢を見ているものだ。聖人を見るよりも、彼の夢の中に踏み込んでごらん。そうしたら、そこには罪人が隠れていることがわかるだろう。禁欲しようとする人たちというのは、いつもセックスを夢見ている。そうであって当然なのだ。

 自分たちの人生を昼間の部分だけでやりくりするような人たちは、その夜の部分をどこへ置く? それはただ撲滅してしまうわけにはいかない。存在の中には、何ひとつ撲滅され得るものなどない。何もかも不滅であり、永遠なのだ。それは吸収されなくてはならない。それは、あなたのより大きなハーモニーの一部にされなくてはならない。

 もし聖人の人生など送ろうものなら、あなたは自分の中に何の塩気も持たないことになるだろう。あなたは味気のないものになってしまうに違いない。

 反対に、もし罪人の人生を送ったら、あなたはただの塩だけだ。食用にならない。

 もしあなたがトータルな生を送ったら、聖人と罪人があなたの実存の中で出会い、しつかりと抱きしめ合う。夜と昼が、そのあるべき姿に出会い、溶け合い、そしてひとつになる。そうしたとき、第三のタイプの存在が姿を現わす。調和のある、穏やかな、バランスのとれた、夜と昼のどちらとも完全に違ったものだ。それは、反対同士の二つのものの出会いから出てくる、三番目のものだ。

 酸素と水素が出会うと、水が生まれる。水というのは、水素とも酸素ともまるっきり違う。それはひとつの新しい存在だ。それは実存の新しい姿だ。もし喉が渇いていても、その渇きは酸素では癒やされない。そして、それは水素でも癒やされ得ない。なぜならば、水の性質というのは、水素の中にも酸素の中にもないものだからだ。水の性質というのは、新しいもの、ひとつのハーモニーだ。水素と酸素がある一定の割合で出会ったとき、渇きを癒やすその性質が現われてくる。

 

 ヨーガの、(道TAO)の、宗教そのもののアートの全体は、夜と昼が一定の割合で出会うということにある。悪魔と神、闇と光、夏と冬、生と死との間にいかにしてうまく調和をとるか、いかにしてそれらの間にひとつのハーモニーをつくり出して、第三の性質が現われるようにするか、ということにある。それがブラーフマだ。それが(道TAO)だ。

 英語にはそれにふさわしい言葉がない。神や悪魔や天国や地獄はある。ところが、モクシャやブラーフマや(道TAO)に相当する言葉がない。というのも、キリスト教徒たちやユダヤ教徒たちや回教徒たちは、みな完全主義者の生を送ってきてはいても、完成というものを知らないからだ。

 彼らは、低いものを切り落とし、それを撲滅しようとし、ただ高いものとだけ一緒になろうとしてきた。これはまったくの愚だ。それはまるで、土台を壊して建物の高い部分だけ残そうとするようなものだ。それはあたかも、足を切り落としておいて、その人間にまともに生きて歩かせようとするようなものだ。

 低いものというのは、必要なのだ。低いものというのは、土台なのだ。生の経済学を見てごらん。低いものは高いものなしにも存在できる。だが、高いものは低いものなしには存在できない。だからこそ、それは高いのだ。

 私はパラドックスをでっち上げているわけじゃない。それは単純なことだ。建物の土台というのは、その建物なしにも存在できる。しかし、建物は土台なしには存在できない。

 人間は暗闇の中に存在することならできる。が、人間は光の中にだけ存在することはできない。人間は罪人の生を送ることならできる。なぜならば、それはより低いものだからだ。しかし、人間は聖人の生だけを送ることはできない。

 高いものというのは、低いものを必要とする。それが低いのは、それが高いものなしにも存在できるからだ。高いものというのは、それ(低いだけのもの)にとっては、必要じゃない。しかし、高いものは低いものなしには存在できない。

 根は樹なしにも存在できる。それは何も不可能なことじやない。もしその樹を切っても、根は依然として存在し、また新しい樹が生まれてくるだろう。しかし、逆のことをやってごらん。根を断ち切る……そうしたら、新しい根は生まれてこないだろう。

 低いものというのは本質的なものだ。高いものというのは一種の贅沢なのだ。それは、低いものが満たされて初めてやって来る。それが可能になるのは、低いものが超越されたときに限る。撲滅されたときではない。

 

 全体性(トータリティー)の人というのは、そこに低いものがあるのを許す。なぜならば、それこそ、高いものが

そこにあることをも許せる「唯一の道」だからだ。そうして彼は、低いものと高いものの間にひとつのハーモニーをつくり出す。そのハーモニーの中にあっては、低いものはもう低くはない。高いものはもう高くはない。それらはひとつに、ひとつの(統一=ユニティー)に、なっている。                      

 しかし、もしそんなトータルな人間があなたの目に映ったら、あなたは彼のことを「不完全」だと思うだろう。なぜならば、あなたはそこに、自分自身の中で「好まないたくさんのもの」があることを目にするだろうからだ。

 トータルな人間の中には、ときとして怒りも見られるだろう。もちろん、彼の怒りには(ただの怒りとは)全面的に違った質がある。が、それはあなたには理解できない。

 彼の怒りには、慈しみの質がある。あなたも怒りはもっている。だが、あなたの怒りには慈しみの質などまったくない。あなたの怒りは暴力的なものだ。

 全体性(トータリティー)の人も怒りはもっている。ちゃんと低いものはあるからだ。だが、高いものが顕在化している。いまや高いものが低いものに影を落とし、低いものを覆い包む。いまや高いものが低いものの質を変えてしまっている。

 

 キリストだって腹を立てることはある。が、彼の怒りは愛だ。彼が本当に腹を立てるのは、彼がそれほどまでにあなた方を愛しているからだ。

 人々は何度となく私に、仏陀やマハヴィーラが腹を立てたというような出来事には一度も出くわさないのに、なぜイエスの生涯の中では、彼が腹を立てたという出来事に行き当たるのか、と尋ねている。

 彼は前の二人よりも進化していなかったのか?

 いいや、彼の進化の程度が低かったということはない。実際には、彼の方がトータルだったのだ。彼はマハヴィーラほど完璧ではなかった。けれども、彼はマハヴィーラよりもトータルだった。そして、彼はもっとあなた方を愛していた。彼はあなた方を愛するあまり、ときとして、それが必要であれば腹も立てたのだ。

 マハヴィーラはあなた方を愛してはいなかった。彼はただ単に非暴力的なだけだった。これを理解しようとしてごらん。マハヴィーラはあなた方を愛していなかった。彼はあなた方を憎みもしなかった。彼はあなた方に対して無関心だったのだ。

 イエスはあなた方を愛した。それも深く愛した。キリスト教が世界でこんなに強い力をもつようになり、ジャイナ教が無力な一分派、死んだようなものにしかならなかったのは驚くに値しない。

 なぜそういうことになったのか? 

 イエスは愛した。そして彼の愛は、彼が腹を立てることを恐れないほどに大きいものだった。彼は、あなた方が理解してくれるだろうということを知っている。

 

 もし親が怒っていて、しかも本当にその子供を愛していたとしたら、子供は理解し、けっして傷つくことなどない。実際には、ちょうどその逆のことが見られるに違いない。

 もし親が、絶対に子供に対して腹を立てなかったりしたら、かえって子供は傷ついてしまうだろう。というのも、親が

冷たいからだ。彼はそんな父親を、あるいはそんな母親を、けっして許すことができまい。

 2005 3・6 42

 

 

* 何のために以下バグワンを書き置くのか、何もないが、そうしたいのであろう。素直に聴いていて気持ちがよかったのであろう、それでもよいし、そうでなくてもよい。読む人には読まれたいと思う。

 

* 〝知識を追えば追うほど、知ることは少なくなる……”   老子 バグワン

 

 どうしてそんなことになるのか? それは、知識を遠く追ってゆけばゆくほど、あなたはそれだけ、自分自身から遠ざかってゆくからだ。どこか自分の外側に〈真実)を見出そうとすればするほど、あなたはさらに遠のいてゆく。(全体)を求めてさらに〈全体)から遠ざかってゆく。自分の真の実存を求めて、さらに自分自身から遠ざかる。その探求の中で、さらに意識から遠ざかる。

 あなたは何を探し求めているのか? あなたが探し求めているそれはもうすでにあなたの内にある。宗教とは、もうすでに実情であるところのものの探索にほかならない。宗教とは、もうすでにリアリティー=現実であるところのものの探索なのだ。

 もし自分自身から遠ざかってゆけば、あなたはどんどん知らなくなってゆくだろう。しかもあなたは、自分がもっともっと多くを知っているのだと思い込むことだろう。経典類なら、あなたは知っているだろう。言葉なら、あなたは知っているだろう。数々の理論……。そして、あなたはいくらでも紡ぎつづけてゆける。それらの言葉をどんどんといくらでも織りつづけてゆける。あなたは空中に楼閣を築くことができる。しかし、そんなのは空気のようなものだ。抽象……。そんなものは存在しない。そんなものは夢と同じ材質で出来ているにすぎない。思考と夢は同じ材質で出来ているのだ。それらは大海の表面のさざ波にすぎない。その中には何ひとつ実質的なものなどありはしない。もしあなたが(真実)を知りたいと思うのなら、(わが家)へ帰ってくるがいい。

 私は口をすっぱくして、求めればのがすだろうと言っている。求めなければ見つかる、と。なぜならば、求めるというまさにその努力は、それが自分のもとにあるのではないということを、あなたが(勝手に)自明の理としてしまっていることを意味するからだ。一番の初めから、あなたの探索はかなわぬ定めになっている。ある日、追い求め、探し求め、知識をかき集めているうちに、ばったりと事実に行き当たるに違いない。自分は大馬鹿者だ、広大な世界に探求に出る前に、内側を見た方がよかったんだ……。

 

 あなた方は外側を探す。(=知識は外側にしかないものだからと、バグワンは、これより前に言っている。)それにはちゃんと理由がある。内側では何もかも真暗だからだ。目を閉じれば、そこにあるのは真暗闇だ。何ひとつ見えない。たとえもし何かが見えたとしても、それは外側が内側の「湖面」に映ったものでしかない。さまざまな思考が漂ってゆく……。あなたが市場で集めてきたもの(知識)だ。いろいろな顔が去来する……。しかし、それらは外側の世界に属するもの(知識)だ。ただ外側(知識)の反映と、そして広大な闇……。人は恐しくなる。そうして、人は(やっぱり)外側を探した方がいいと思う。外側には少なくとも光がある。

 しかし、それでは意味がない。あなたはどこで自分の(真実)をなくしたのか? あなたはどこで自分の実存をなくしたのか? あなたはどこで自分の神をなくしたのか? あなたはどこで自分の幸せ、自分の至福をなくしたのか? 外側の世界の無限の迷路にはいり込む前に、まず中を見た方がいい。もしそこで見つからなかったら、そのときにはかまわない、外を探しに行くがいい。しかし、そんなことはいまだかつて起こったためしがない。誰であれ中を見た者は必ず見出してきた。なぜならば、それはもうすでにそこにあるのだから……。ただひと目が必要なだけだ。ひとつの転回、意識の帰還、ただの深いひと目…:・。

 

 〝知識を追えば追うほど、知ることは少なくなる。

  それゆえに、聖人は奔走することなくして知り……″

 

 奔走することで、あなたは取り逃がしている。生命やエネルギーや機会を無駄にしている。ぐるぐるぐるぐると走り回らないこと。走るのをやめなさい。窓や扉を閉じて、静かに坐るがいい。内側に落ち着いてごらん。内側に休んでごらん。内側にリラックスしてごらん。混乱を少しおさまらせて、それから見はじめるのだ。

 初めのうちは暗中模索だろう。初めのうちは暗闇の方が圧倒的だろう。だが、それに慣れてくるにしたがって、暗闇の質が変わりはじめる。

 それはちょうど外から帰ってくるようなものだ。暑い日で、太陽が焼きつけるようだった。自分の家の中にはいっても、何も見えやしない。何もかも真黒に見える。目が太陽に慣れているからだ。強烈な光線に慣らされているからだ。突然の変化…。目が慣れるのには少し時間がかかるだろう。それだけのことだ。辛抱がいる。あなたが内側にはいってゆくとき、初めは何も見えないだろう。短気を起こさないこと。まだ一分も経たないうちに、「プッダたちなんて全員嘘つきだ。みんな内側には至福があると言うけど、何も見えやしないじゃないか」などと言わないこと。

 

 そう短気にならないこと。待ちなさい。ものごとを内側で鎮まらせるのだ。それには時間がかかる。あなたは実に幾多の生にわたって、それらを動揺させてきた。鎮まるのには少々時間がかかるだろう。少々の辛抱、それ以外の何もいらない。それらを鎮まらせようとする必要はない。そんなことをしたら、また乱してしまうだけだろう。なおさらかき立ててしまうだけだろう。あなたは、ただもう何もしないこと。それが、老子のビューティフルな言葉である<無為 >の意味するところなのだ。しないことによって、する……。

 あなたがただただ何もしなければ、それは起こる。それが、しないことによってすることだ。ただ目を閉じて、待って待って待つがいい。すると、幾重もの乱れが鎮まり、落ち着いてゆくのがわかる。ものごとがしかるべき場所におさまって、そして、静寂……。そして、だんだんと暗闇が光に変わってゆく。そして、それを知ることで一切が知られるところの、その(一)がわかる。なぜならば、その(一)は種子なのだから。それ汝なり、……。

 

〝それゆえ、聖人は奔走することなくして知り、

 見ることなくして理解し、

 為すことなくして成し遂げる。〟

 

 そして、それこそが最大の成就なのだ。まったく何ひとつ為さずして成し遂げられるところのもの……。覚えておきなさい。それが何であれ、あなたができることはあなたを超えられはしない。どうしてそんなことがあり得る? もしあなたがやるのだとしたら、それはあなたより低いところにとどまる。それはあなた以上には進めない。何であれあなたのやることはすべて、あなたのマインド(心、分別、心理)の一部でしかあるまい。それは超越的なものではあり得ない。何であれあなたのやることは、エゴによってなされるに違いない。それはあなたの実存ではあり得ない。だからして、しないことこそ、それをする唯一の方法なのだ。

 じっと坐っていれば、静かに坐って、何もしないでいれば、草はひとりでに生えるものだ。そうしたとき、努力、作為は停止している。実に途方もない広大な静寂があなたの上に降り立つ……。

 

 そこに何ひとつ行ないがないとき……。そこには何もない。すべてが穏やかで静かだ。と、突然あなたは、そもそもの初めから何ひとつ欠けてはいなかったのだということに気づく。あなたが追い求めているもの、あなたはずっとそれであったのだ。突然あなたは、マスター中のマスターが玉座に坐っていることを了解する。そして、あなたは笑いだす。

 趙州が悟りを開いた……。悟り? その言葉をあまり深刻に取らないこと。それは何も深刻なものじゃない。それは戯れの極み、最後のジョークなのだ。趙州が悟りを開くと、彼は笑いだした。お腹の底からの笑いだ。彼は狂ったようになった。人々が集まってきて、「どうしたんですか? 教えてくださいよ。何が起こったんです?」と聞きはじめた。

 彼は言う。

 「何も起こっちゃいない。私は狂っていた。もうすでに自分の中にあるものを必死になって追い求めていたのだから」

 人々が趙州に、「悟りを開かれたとき、あなたは何をしましたか?」と尋ねると、彼は決まって「私は笑ったよ。それも大声で笑ったよ」と言い、さらに「私はいまだに笑いやんでいないのだ。あんた方にそれが聞こえるかどうかは知らないが、私はまだ笑いやんでいないのだ」と語った。

 何というジョークだろう! すでにそれを持っていながら、あなたは必死になって(外側へ外側へ)追い求めてきた。そして、それは見つからなかった。それがなかったからじゃない。それがあまりにもあからさまで、あまりにも近くにありすぎて、あなたには見えなかったからなのだ。

 目は遠くにあるものなら見ることができる。目は離れているものなら見ることができる。というのも、目は一定の距離を必要とするからだ。手は別のもの、離れているものには触れられる。耳は外側にあるものなら聞き取れる。老子が、自分は見ないで理解できると言っているのはそこだ。どうして自分自身を見ることなどできる? 誰が誰を見るのか? 見る者と見られる者とはそこではひとつだ。目など必要ない。誰が行為などする? 誰がそんな努力をする? それはちょうど、犬が自分のしっぽを追いかけているようなものだろう。ただただ愚かしい。

 そして、これがあなたのやっていることなのだ。自分自身のしっぼを追いかけている。止まって、それが自分のしっぼであることを見てごらん。それを追いかける必要なんかない。それに、追いかけてみたところで、それはけっしてつかまらないに決まっている。追いかけることで、あなたは(べつの大事なものを)取り逃がす。追いかけないことによって、あなたは成就するのだ。

 

 〝為すことなくして成し遂げる。″

 

 そうしたとき、時は消え失せる。そして知も消え失せる。なぜならば、知があるのは何かを知るためだからだ。知というのは知る能力を言う。一度知ってしまったら、そんな能力があっても意味はない。それはあっさりと消え失せる。

 時が消え失せる、時があるのはあなたが欲求不満だからだ。それはあなたの欲求不満から生まれる。あなたが未来に望みをかけ、どうにかこうにかその欲求不満を我慢し、耐え忍んで、自分を慰められるように……。

 マインドと時間というのは、二つの別々のものではなく、ひとつのものの違った側面なのだ。その両方が消え失せるとき、あなたは生まれて初めて、あなたの絶対の光輝のうちに在る。こういう言い方をしてもいい、あなたはひとりの神、ひとりのブツダになっている、と。

 覚者たちに聞いてごらん、彼らはみな同じことを言う。それは自分の側のどんな努力もなしに成就されたのだ、と。ごたごたの全体をつくり出したのは、努力なのだ。

 あらゆる努力を落とすこと。ただ静かに坐ること。内を見ること。(無為)…‥。

              (スワミ・プレム・プラブッダ訳)

 2005 4・6 43

 

 

* ウンベルト・エコー原作の「薔薇の名前」だったか「薔薇の記憶」だったか、題のことはあやしいがショーン・コネリー主演のすこぶる上出来、中世僧院のミステリー映画を観た。みごとな写真、みごとなロケーション。初めてではないが、初めて観たように新鮮で、深い、怖い、いやな世界であった。

 わたしは、イエスは好きであるが、キリスト教会や僧院・修道院や修道士などは、てんで好きでない。宗教は大切に思うが、優れた宗教家の少ない、ほとんどいないらしいことに呆れる。彼等のおかげで世界はいつも不幸だ。仏法僧を譏ると地獄に堕ちるといわれたが、僧だけはたいていべつものだ。信仰が恐怖から救うことはない、恐怖が信仰をつよめるのだ、悪魔がいるから神が必要なのだ、とこの映画で、偽善者にすぎない審問官は言い放っていた。おお、いやだ。

 

* その映画の後でバグワンを音読すると、バグワンがいかに透徹した人かが分かる。バグワンはすばらしいねと思わず声を上げると、妻もよこで聞いていて、同感する。

 2005 4・7 43

 

 

* 春眠暁を覚えないのでなく、覚えて起きて手水をつかい、しかし着替えるのを億劫にまた床にもどるから寝てしまう。寝てしまっても差し支えない境涯、そのラクなこと。当面の難儀仕事は片づけたし、と、夜中の読書を堪能していた。

「ファウスト」は、いよいよパリスとヘレナが幻惑のうちに登場し、なみいる男達女達の評判のかまびすしいこと。ファウスト博士は絶世の美女にこころうばわれて幻惑の場面をむちゃくちやにしてしまう。厚さ三センチ半もある文庫本のちょうど真半分まで、面白く、毎晩読んできた。鴎外訳を珍重している。

「古事記」はいま、大国主命の艶にはなやかな愛と相聞の歌声が、美しく響いているところ。これは床の中で、小声ながら音読している。註にしばしば解説されているが、大国主命の豊かに豊かな好色と、それを破綻させずに満々と保っている、それこそが「大国主」たる根源の能力・資格である、と。好色に堪えて毀れない・壊さない毅さ、内的な豊かさ、を尊しとする東洋の、日本の思想。スサノオやオオクニヌシから、伊勢物語の昔男を経て光源氏へ伝えられるまで、そこまでが好色な英雄の大雄連峰だった。それからは衰微し放埒になる。西鶴の世之介にかすかに太古・古代の脈拍は伝わっていたが、軽い。昭和の谷崎は、おそらく「台所太平記」といういわば六条院物語の戯画化におのが好色の行方を見て死んでいったのだとわたしは考えている。

「戦争と平和」では、ボルコンスキー(アンドレイ)公爵がフランス軍との悪戦苦闘の最前線に出ている。

 そして「世界の歴史」はいましも周王朝が、文化と、人間の理想を、歴史に生み付けて行く。バグワンが毎夜話してくれる「老子」はまだ姿をみせない。

 バグワンは、平易な物言いで、マインド(=知識・思考・分別・タダの言葉)の虚しさを適切に語っている。それに気付くこと。むろん、わたしは自分が文学・文藝・創作と称し、闇に言い置く私語と称して書きつづりまた口にしている行為の一切に、今はとらわれていない。だからそれを別に手放す必要もなく空気を呼吸するように続けているが、続けるのもやめるのも、つまり同じなのである。何も無いし何もしていないのである。それがいいのである。

 2005 4・18 43

 

 

* スワミ・プレム・プラブッダ氏の訳にまなびながら、バグワンの老子を語り継ぐ、そのごく一部に、聴きたい。

 

* 言語というのは人間的なものだ。明らかに、大きな限界を持っている。それは客観的なものにはいい。が、内なるもの、内側のものには、まったく用をなさない。

 言語が何かを言い表わすことはできる。が、すべてを言うことはできない。食卓に坐っていて「塩を取ってください」と言うには、言語は役に立つ。便利だ。使い道はある。が、(真実)を言い表わすことはできない。なぜなら(真実)とは便利でも実利でもないからだ。(真実)は何か客観的なものでもない。あなたの外側にあるのではない。それは、どこか、あなたの存在の最も深い核心において起こるものなのだ。

 あるものを何と呼ぶことにするか、決めることはできる。それはあなたと私の間のことだ。一種の取り決めだ。もしも双方がそう望んでいるなら、言語は完全にオーケーだ。

 しかし、もし私の内深くで何かが起こったとしたなら、それはあなたと私の間のことではない。私にはそれが何で

あるか指し示すことはできない。たとえ指し示したとしても、あなたにはそれが何であるかわからないだろう。だとしたら、そうした事態に取り決めなどは不可能だ。

 宗教は言語を超えている。ぎりぎりのところ、言語には、それが何でないかを言うことしかできない。言語には(真実)が何であるかは言い表わせない。が、(真実)が何でないかは言える。ぎりぎりのところ、それは打ち消しでしかあり得ない。

 われわれは神が何であるかを言い表わすことはできない。そんなことをしてみても、われわれの限られた言葉、

概念によって、神を限定してしまうだけのことになるからだ。ぎりぎりのところ、われわれは神が何でないかを言えるだけだ。そして、あらゆる経典類の言っているのは、神が何でないかということにほかならない。それらは誤ちを除去する。が、けっして(真実)を開示してはくれない。

 しかし、誤ちを除去しつづけてゆけば、ある日、突然、<真実>はあなたに明かされることだろう。言語を通して明かされるのではない。それは、静寂を通して明かされるのだ。

 

 だからして、ごく深く理解されるべき最初のことは――もし理解しないと、それは大きな落とし穴になってしまうからだが――言語は危険なものでもあり得るということだ。人はそれに惑わされかねない。

 「神」という言葉はあなたも知っている。が、「神」という言葉は神ではない。「神」という言葉の中に神々しいものは何もない。「神」という言葉は、虚ろなだけで空しい。中には何もない。何百万回それをくり返してみたところで、あなたには何ひとつ起こるまい。それは空っぽの抜け殻だ。その中は中空なのだ。言葉に、内なる経験を伝えることはできない。

 イエスがある言葉を使ったとき、それは真実だったかもしれない。それは彼にとっては何らかの意味を持っていたかもしれない。が、彼の話を聞いた者たちにとってはそうではなかった。このことが理解されねばならない。

 もし私が「サマーディ(三昧)」と言えば、それはあることを意味している。私はそれを知っている。しかし、あなたが「サマーディ」という言葉を聞くとき、それは耳に聞こえてくるひとつの音にすぎない。せいぜいのところ、あなたは辞書に載っている意味がわかるだけだ。だが、辞書は存在ではない。それは存在に代わるものではない。サマーディは、あなたがその中にはいっていったとき、あなたがそれになりきったとき、にしかわからない。ほかにそれを知る道

は何もない。

 老子が口をすっぱくして、〈真実〉は語られ得ない、語られるものは真実ではない、と言うのはそこだ。しかし、それでも彼は語る。ここまでは言われ得るからだ。これはひとつの打ち消しにほかならない。

 彼は言う。

 

 〝知る者は言わない、言う者は知らない……″  知者不言、言者不知

 

 ここまでは言われ得る。それでもなおかつ、老子は現にそれを語っている。彼が認めようと認めまいと……。彼自身の原則に従えば、もし知っているとしたら、彼は語るべきじゃない。もし語るとしたら、そのとき、彼は〝事情″に通じていないことになる。そのとき、彼は知らないことになる。そうなると、あなたは解けないナゾナゾにはまり込んでしまうだろう。もし知らないのだとしたら、どうして彼は、かくも大変な真実を口にすることができるのだろうか?

 〝知る者は言わない、言う者は知らない……〟

 もし彼が知っているのだとしたら、なぜ彼は語っているのだろう? もし知らないのだとしたら、彼にはかくも深遠なことをほのめかすことすらできないはずだ。

 このパラドックスを理解しようとしてごらん。彼はただただひとつのことを削除しているのだ。彼がこの二行で――深い意味を孕んだ、とても重要なものだが ――言おうとしているのは、言葉に惑わされるな、ということに尽きる。言葉は(真実)ではない。それらは(真実)のように見えるかもしれない。が、そうではない。生きられた瞬間は表現され得ない。生きたものは、それを生きることによってしかわからないのだ。

 あなたが恋に落ちる。そうすれば、それが何かはわかる。ところが、愛について千と一冊の本を読みつづけていっても……。それらは本としてはビューティフルかもしれないし、ちゃんと自分で愛したことのある人たち、愛が何であるかを知った人たちによって書かれているかもしれない。が、それを読むだけでは、けっして愛の何たるかを知るには至らないだろう。

 愛とは、理解されるべき〝概念″ではない。それは、それによって支配される〝体験″なのだ。愛が乗り移ったとき、あなたは中心から投げ飛ばされてしまう。あなたはもうそこにいない。愛が存在し、あなたはいないのだ。あなたが愛を操ることはできない。概念なら操作できる。それにどんな意味を持たせるかはあなたの自由だ。しかし、愛となると? 愛は操作され得ない。

 愛とは、あなたが愛するということではない。それはあなたがやるようなことではない。それは何かがあなたに起こることなのだ。突如として、あなたはつむじ風に巻き込まれている。あなたより大きな力が、あなたを支配してしまった。あなたはもうあなたではない。あなたは支配されているのだ。

 人々が、恋人たちのことを狂っていると思うのはそのためだ。恋人たちというのは確かに狂っている。愛とは、美しき狂気にほかならない。狂気のようなものだ。狂気の性質を備えている。というのも、人はそれに支配されるのだから……。

 世に「愛は盲目」と言う。当たっている。愛は実に盲目だ。なぜなら、愛には愛なりのべつの眼があるのだから! 普通の眼では通用しない。愛には独特の見方、感じ方、あり方がある。普通のやり方は一切放棄されてしまう。問題外だ。愛には愛の世界がある。愛する者のまわりには、ひとつK新しい世界が生まれている。彼は、ほかのみんなには盲目に見える。が、彼自身の中では盲目どころではない。実際には、生まれて初めて、彼は眼を、視力を、洞察を得ているのだ。

 愛は、恋に落ちることによってしかわからない。それになることによって……恋人になるばかりじゃない、愛そのものになりきることによってしかわからないのだ。もしあなたが愛する者であったとしたら、愛はまだ起こっていない。あなたは依然としてコントロールを、ハンドルを、握っている。そうしたければ、あなたは相手を変えることもできる。そうしたければ、あなたは立ち去ることもできる。そこにはまだ選択がある。愛はまだ起こっていない。あなたはまだそれに支配されていない。それでは愛はわかるまい。

 もしかしたら、あなたはあるパターンに従って、あるいはいかに愛するか、いかに愛さないかという理論に従って動いているのかもしれない。あなたは、ある条件づけに従って動いているに違いない。愛はあなたのハートになりきっていない。それはあなたの中で脈打っていない。それは依然としてあなたの心(マインド=思考・分別・選択)の一部でしかない。言葉はマインドのものであり、体験・経験とはハートのものだ。そして、ハートにはそれなりの世界がある。愛にはそれなりの次元がある。だから、愛は容易に表現され得ない。言葉では謂えない。そして(真実)は、そんな愛よりもまださらにさらに深いもの。言葉で、安易に把握も表現もできるなどと誤解してはならない。

 

* 其処までは言い得るかも、という限界を、バグワンも示唆している。言葉は生かされるべきだが、塵芥の枯葉にも等しいという懼れを忘れて、用いてはならない。いつも、それを胸にして、わたしは「私語」をやめずにいる。

 何度も触れたかも知れない、ホフマンの「黄金宝壺」という好きな小説の中で、ありとある書き物を水を張ったその器にひたすやいなや、無意義に無意味な値なき文字・言葉の悉くが、溶けて流れて消え失せる怖い場面が書かれてある。あれを初めて読んだのは相当の昔だ、なにしろ岩波文庫の星一つ(三十円くらい) だからやっと買えたほどわたしの財布にお金の入ってなかった頃のことだ。だが、あれを読み、また何度も以後読み直し、わたしは頬に粟立つ思いを重ねてきた。わたしは、言葉には頼れない。静寂、無言での雄弁な体験が内深くに起こることを、と。それは努めて成ることでなく、静かに無心に待つあるだけ。

 2005 4・21 43

 

 

* 訳をしているスワミ・プレム・プラブッダ氏に感謝し、バグワンを少し読みたい。 

 

* 老子いわく。 〝知る者は言わない……″

 知った者たちはみな語っていない。あなたはそれを信じないだろう。仏陀は四〇年間休みなく語ったのだから……。来る日も来る日も、四〇年の間、彼は語りに語りに語った。しかしそれでも、仏陀を本当に知った人たちは、彼はけっしてひと言もしゃべらなかった、と言う。私は毎日のように休みなく話をしている。しかし、あなた方のうちで私を本当に知るであろう者たちは、私がただのひと言もしゃべっていないのを知るだろう。

 なぜならば、語られることの一切は、「ただのヒントにすぎない」からだ。その中には何も語られていない。それはひとつの網、自分の頭で生きている者たちを捕えるための、漁師の網でしかない。いったん彼らがつかまれば、「言語の役目は終わり」だ。今度は彼らのハートが脈打ちはじめる。マスターと弟子との間で彼らのハートは同じリズムで鼓動しはじめる。そうしたとき、彼らは同じリズムで呼吸する。何を言う必要もない。そうなったら、何も言わずして理解されてしまう。

  あらゆる「話」は、あなた方に「静寂」への用意をととのえさせるものだ。そして、ただ「静寂」の中においてのみ、(真実)は、起こる=あらわれる、のだ。

 ある禅マスターの臨終の折に、こんなことがあった。

 彼は最愛の弟子を枕もとに呼び寄せ、こう言った。

 「時が来たようだ。私はお前に、長い間守ってきた経典を渡さねばならない。これは私のマスターが死ぬときに私にくださったものだ。今度は私が死ぬ番になった」

 彼は一冊の経典を取り出した。枕の下に秘めていたものだ。そのことは誰もが知っていた。が、誰ひとり見ることは許されなかった。

 「大事にするがいい、細心の注意を払ってこれを保存しなさい。貴重な宝だ。一度なくなったら、何世紀も得られるものではない」

 弟子は言った、「それほどおっしゃるなら、いただきます」と。

 それは冬の夜で、とても寒く、部屋には火が燃えていた。と、弟子は、経典を手にしてまだろくに見もしないうちに、それを火に投じてしまった。

 マスターは叱った。

 弟子の方はそれよりもっと大きな声で叫んだ。

「老師は何ということをおっしゃるのですか。経典を守れですって?」

 マスターは笑いだし、こう言った。

「合格だ。お前があれを大事にしまい込んだりしたら失格だった。あれには何も書いてなかった、白紙だったのだ。これはただ、お前に、「静寂」を理解する力ができているか、あるいは、まだ奥深いところで、言葉や概念、理論や哲学にしがみついているかを見定めるためだった」と。

 あらゆる哲学、「語られ得る一切」は、ちょうど宮殿玄関の「柱廊」のようなものだ。私は毎晩、玄関のところであなた方とダルシャン(面接)をする。あらゆる質問は、玄関のところでしか解決され得ないからだ。ひとたびあなたに用意ができれば、もう、質問などというものはない。そうしたら、あなたは「宮殿」にはいることができる。

 ギリシアの賢人ゼノンの名前を聞いたことがあるかね? 彼はストア哲学の創始者だった。私と同じょうに、彼も玄関のところで教えるのをつねとしていた。「ストア」というのは、ギリシア語で「玄関の柱廊」を意味する。一生の間、彼は玄関で教えていた。人々はこう言う。

「あなたはこんなに立派な家をお持ちなのに、どうして玄関などで教えるのですか?」

 彼が答えていわく。

「あらゆる教えはちょうど玄関のようなものなのだ。<静寂>に耳を傾ける用意ができたとき初めて、あなた方は神殿に足を踏み入れる。そうすれば、もう話などありはしない」と。

 ストア、玄関の柱廊という言葉から、彼の哲学全体がストア哲学として知られることになった。

 あらゆる言葉は、ぎりぎりのところ、玄関の柱廊になり得るだけだ。それらはあなたを内なる神殿へ導いてゆく。だが、もしそれらにしがみついたりしたら、あなたはいつまでも玄関にしかいられない。玄関は宮殿ではない。

 老子は何か、ちょうど玄関のような、扉のようなことを言っているのだ。もしそれを理解したら、あなたは、あらゆる(タダの)言葉を、(タダの)言語を捨てるだろう。実際には、マインド全体を……を。玄関で靴を脱ぐところに、あなた方はあなた方のマインド(=タダの分別、タダの知識、タダの思考)も置いてくるべきだ。そうして初めて、あなたは実存の内奥無比なる「社」に足を踏み入れる。

 

〝知る者は言わない……″

 

 たとえもし語るとしても、老子たちは、ここまでのことを言うために語るにすぎない。たとえもし語るとしても、彼らは語ることに否を言うためにしか語らない。彼らはそれによって何かを言いたいわけではない。彼らはただただあなたの中にある一切の(空疎で賢しらなダケの=)言葉を破壊したいのだ。

 知者たちによって用いられたあらゆる言葉は、あなた方の中に根をおろしてしまっているほかの(タダ口先のしたり顔な=)言葉を取り去るためのものだった。一度あなたが「空っぽ」になったら、(= もうそこに、本質=静寂=禅定=enlighten が溢れるほどに起きているのだよ。そうだ。しがみつくな。)

 

* バグワンのこの言葉をわたしはもう数度は読んでいて、この個所では気付いていなかった、が、わたしが「抱き柱」と繰り返し謂うのは、ここで譬喩としてもかたられた「玄関の柱廊」のその「柱」なのであったと想う。その柱に抱きつきしがみついて、奧へ入って行く気がない。勇気や元気がない。「抱き柱」にしがみついているのだ。

 2005 4・25 43

 

 

* 眼を閉じ、闇にひたされて無に溶けてゆく。生活の物音がまだ遠く近くからとどくので、ああ「まだだな」と思う。

 2005 4・26 43

 

 

* 問題は小さな内に処理し、大事は大事に至る前に処置せよ、聖人はすべてがそうしたから、真に大きな事をあたかもやすやすと成し遂げたと見えるのだ、と、バグワンは、その前に老子は、言っている。

 そうだと、わたしも思う。思いながら、わたしは問題をかかえたまま、大事至って破裂するのを日々待っているような生活を現にしている。その自覚はもう何年ごしできかない。

 2005 5・8 44

 

 

* 自分に、肉体なんてものは無いのだと思いなさいと、バグワンが数日前に話していた。むずかしいことを言うと一瞬感じたが、また一瞬のうちにそれは可能だと感じた。「闇」のなかではしばしばそう実感できているが、こうしてキイを敲いていながらでも、からだを自分のものじゃない、これは幻影だと感じられる。ふしぎな感覚だ。からだが、傷んだり痛んだり懶かったり疲れたりハッスルしたり、それをただ観察していることが、出来ないわけでない。「今・此処」を、おお、楽しめよ楽しめよと、よそごとに見て眺めている感じである。刹那主義ではない。むしろ永遠を流れているのである。むかしむかしに雑誌春秋に『花と風』を二年連載し、本にするとき「日本の永遠について」と副題したとき、かすかに今に通う思惟があったのだろう。

 2005 7・18 46

 

 

* スワミ・プレム・プラブッタさんの翻訳にしたがい、すこし要所を拾いながら、「老子」を語っているバグワンの説法から少し引いてみようか。

「第八話 病める心」の冒頭で、たんにこのに三日読み続けている、以前からもう何度も何度も読んでいる個所、これがバグワンの要所要諦といった意味では少しもない。いわゆる話の通じやすい個所というだけだ。

 なんだそんなこと…と、軽率に自身の知識や分別からわらう人もあろう、か。ほんの少しの間、冒頭部のところを辛抱して進んでみてはどうだろう。

 

* (以下バグワンが話している。わたしは声に出して読みつつ、耳に聴いている。) 人間というのは玉ネギのようなものだ。玉ネギそっくりだと言ってもいい。幾重にも重なった人格の層、そしてその層の下に本質が隠れている。

 その本質は、(空<くう>)のようなものだ。シュンニャ、虚空……。それは実存というよりも非実存に近い。というのも、実存には限界がある、境界があるが、その内奥無比なる核には境界などないからだ。それには何の限界もない。それはまったくの自由だ。自在なエネルギーの流れ……。その大きさには限りがない。

 最後の最後まで人格の層をむきつづけていって、その本質を再発見しない限り、人は心の病いにかかったままだ。心の病いとは、どこかに「ひっかかってしまっている」こと、どこかで「凍りついてしまっている」こと、を謂う。心の病いとは、「つっかえている」ことを言う。それはひとつの「行き止まり」だ。それは文字通り、「その先へ行けない」ということなのだ。あなたは「通せんぼ」されている。流れて、いるだけの自由がない。そして、いない自由もない。あなたは無理矢理何かにさせられている。

 自由こそ健康だ。ふさがっていること、つっかえていることは、心の病いだ。そして誰もが、ほとんど誰もが病んでいる。

 

 われわれは「三つの層」を理解しなければならない。なぜならば、まさにその理解自体が治癒力を持っているからだ。もし正確に自分のどこが「ふさがって」いるかを理解すれば、そみふさがりは溶けはじめる。ひとつのことを「理解する」という奇蹟……。まさにその理解が、「ふさがりを溶かす力」になる。ほかに何もする必要はない。もし本当に、正確にそれがわかったら、もし自分のどこが「つっかえて」いるのか、自分のどこが「凍りついて」いるのか、どこに「行き止まり」があるのか指摘し理解することができたら、それを溶かしはじめる。いちどそれが溶けはじめれば、あなたはふたたび流れを取り戻す。あなたは流れだす!

 

 あなたの人格の第一の層は、最も浅薄だ。形式や社交の層。

 形式や社交、それは必要だ。何も間違いではない。道で人に会う。あなたはその人を知っている。もしあなたが何も言わず、向こうの人も何も言わなかったら、社交儀礼などあったものではない。両方とも「きまり」が悪い。どうにかしなければならない。別に深い意味はない。が、それは一種の社会的潤滑剤だ。そこで第一の層を、私は仮に「潤滑剤の層」と呼ぼう。それは、ものごとをなめらかにするのに役に立つ。それは「おはようございます、ご機嫌いかがですか?」「はい、どうも、いいお天気ですね!」「じゃ、また」……この層だ。それは結構! 何も間違いではない。もしあなたがそれを使うなら、それはビューティフルだ。

 しかし、もしそれに使われ、その中で「凍りついて」しまったら、それを乗り越えられなくなったら、そのとき、あなたは「立往生」している。あなたは心の病いにかかっているのだ。

 誰かに「おはよう」と言うのはビューティフルだ。が、それしか言わない人間は、とてもとても病んでいる。彼には生との接触が何もない。実際のところこうした形式は、彼にとっては潤滑剤でも何でもなく、反対に、それどころか、一種の「撤退、回避」になってしまっている。誰かに会うと、その人を「避けるため」に、いちはやく「おはようございます」と言う。自分は自分の道をゆき、相手は相手の道をゆけるように、その「相手から逃避できる」ように……。

 この社交儀礼というものは、何百万という人々の中で凍結してしまっている。いや人々を「凍結させて」いる。彼らはこの層で生きて、けっしてそれ以上進まない。エチケット、マナー、おあいそ、おしゃべり……いつも「うわべ」だ。彼らはしゃべる。コミュニケートするためではない。彼らは「コミュニケーションを回避するために」しゃべる。彼らは、相手と直面するような気まずい状況になるのを「避けるために」しゃべるのだ。彼らは「閉じた」人間だ。もしその彼らの人生がみじめなものだとしても、驚くにはあたらない。もしその彼らが地獄で生きているとしたら、地獄で生きざるを得ないのは明白だ。実際のところ、彼らは「死んでいる」のだ。

 ゲシュタルト療法の創始者、フリッツ・パールズは、この層を「鶏のクソ」の層と呼んでいた。死んで、乾いている。大勢の人たちが鶏のクソの中で生きている。彼らの一生はただの無用な形式だ。どこへ行くでもない。彼らは「入口のところで立往生」している。彼らは「生の内院」にはいったことがないのだ。「生」にはたくさんの小部屋がある。それを、彼らは入口のところに立っているだけだ。階段の外に立っているだけだ。階段というのは、踏み越えるならいい。が、それにただ抱きついていたらむしろ「危険」なものだ。

 

 だから、覚えておきなさい、健康な人間は「形式の層」を使う。役に立てる。そうすれば、それは潤滑剤だ。それ

はビューティフルだ。不健康な人間は、それを自分のまるで「一生」にしてしまう。微笑み――本物ではない。笑い――本物ではない。もし誰かが死ねば、彼は悲しがり、泣く。涙がこぼれさえする。が、全部ニセ物だ! それは本心じゃない。彼は何ひとつ本心でやりはしない。できないのだ。彼はただ絶えず演技している。絶えず展示している。一生がただの「やすっぽい展覧会」にすぎない。彼はそれを楽しむこともできない。内にはいって行くことができないからだ。

 「形式」は即ち人間関係ではない。人間関係に役にも立つし、妨害になる可能性も大きい。健康な人間は、それ

をより深く進んでゆくために使う。不健康な人間は、その中で立往生してしまう。そんな人たちは(見廻してみるのだ)身のまわり中にうようよいる。ライオンズ・クラブやロータリー・クラブで微笑んでいる。「鶏のクソ」の輩だ。いつも立派な服装をし、身だしなみよく、見かけは完璧だ、紳士淑女のようだ。しかも、まったく可笑しい。完全に病んでいる。まったくもって不健康だ。ただ人目にそう「見せて」いるにすぎない。

 これが彼らの中で「固まったパターン」になってしまう。ロータリー・クラブやライオンズ・クラブから帰って来て、子供たちに話をするときも、その同じレベルでしかない。奥さんと愛を交わすときも、その同じレベルだ。彼らの一生は長い一連のマンネリだ。「エチケットの本」が彼らの聖書、ギ一夕、コーランだ。そして彼らは、社会から要請されることをきちんと果たしさえすれば、それで満足だと思っている。

 この層は打ち破られなければならない。とりこにならないように気をつけていなさい。醒めているのだ。もしこのレベルで立往生したら、少しも早く、醒めなさい! まさにその覚醒が、「ふさがり」の溶けるのを、蒸発するのを助けてくれる。そして、「第二の層」にやっと踏み込むエネルギーが出てくるだろう。

 

 第二層は、役割とゲームの層だ。第一の層は「生」との真の接触が皆無だったが、第二層にはときとしていくつかの一瞥がある。

 第二の層は、「自分は亭主で、お前は妻だ」とか、「私は妻で、あなたは夫」「自分は父親で、お前は子供」「自分は合衆国の大統領」「イギリスの女王」「毛沢東主席、アドルフ・ヒットラー、ムッソリーニ」……。世界中の政治家たちはみな、この第二層で生きている。ただの「役割」を演ずる層だ。

 彼等の多くは誰もが自分を、世界一の人間だと思っている。ついこの間、ある人が、自分は世界一の男である、という夢を見たと話していた、少し悲しそうに。私は彼にこう言った。「思いまどうことはない、誰でも同じ夢を見るんだよ」と。世界一の偉人、世界一の詩人、世界一の哲学者、世界一のあれやこれや……。自我(エゴ)の層だ。第二層……。

 あなたは、さまぎまな役割を演じ「つづけ」る。あなたは絶えず自分の「役を変え」なければならない。

 自分の部屋に坐っていると、召使いがはいって来る。あなたは、自分の役割を主人の役、暴君の役に変えなければならない。あなたはまるで、相手が人間ではないかのような目でその召使いを見る。ボス! あなたはボスで、彼は虫ケラ同然だ。

 そこへ、あなたのボスがはいって来ると、突然、役どころが変わる。今度はあなたが非人間だ。あなたはしっぼを振っている。ボスが来て、あなたはその前に立っているのだ。

 一日二十四時間休みなく、それぞれの関係の中で、あなたは違った役割を持っている。何も間違いではない。もしあなたがそこで立往生していなければ、ビューティフルな「芝居」だ。それは演ぜられねばならない。人生は大いなるドラマなのだ。東洋では、われわれはそれを「聖なるリーラ」「神の戯れ」と呼んできた。それはひとつの芝居だ。人はたくさんの役割を演じなければならない。

 しかし、どんな役割にも人は定着してしまう必要はない。

 そして、人はつねにあらゆる「役割から自由」であるべきだ。役割というのは、衣服のようなものでなければならない。いつでもそれが脱げる、それから抜け出すことができる。もしその能力が維持できていれば、あなたは立往生してはいない。そうしたら、あなたは「役を自在に演ずる」ことができる。それに何も可笑しいところはない。その限りにおいて、それはビューティフルだ。

 しかし、もしそれがあなたの「人生」になってしまい、あなたが「それ以上・以外のこと」を何も知らなかったら、それは危険だ。そうなったらあなたは、人生で千と一つの役を演じつづけていっても、けっして真に「生との接触」が持てない。

 フリッツ・パールズはそれを「牛のクソ」の層と呼ぶ。実に厚い層だ。実に実に大勢の人たちがそこに囚われている。彼らは首のところまで牛のクソ(米俗語=ナンセンス)でいっぱいだ。彼らは、まるで全世界が自分たちの肩にかかっているかのように、ふんぞりかえって世界の重荷を背負(しょ)い込む。そんな気で見栄を切っている。もし自分たちがいなかったら、世界はどうなるのか……。渾沌だ。もし俺がいなかったら、何もかも破滅してしまう。俺が、俺達がすべてを「丸くおさめている」のだ。エヘン。

 こういう連中は、実に病んでいる。最初のタイプの人々は完全に病んでいるが、あまり危険ではない。第二層の人たちは、そう完全に病んではいないが、より危険だ。というのも、彼らは政治家や将軍、権力保持者、億万長者になりうるからだ。彼らは金や権力や地位など、あれこれとかき集める。そして、彼らはたいそうな「ゲーム」をやるのだ。(テロや侵掠や拉致や天下りや利権漁りや。秦補。)彼らのそのゲームのおかげで、何百万という人々が「生」を垣間見ることさえ許されなくなってしまう。何百万という人々が、そういうゲームの犠牲になる。         .

 

 もしあなたが第二層で立往生していたら、目を見張りなさい。つねに、どのレベルにも「二つの可能性」があるのを覚えておくがいい。

 第一の層は、それを理解する人間にとっては潤滑剤だ。何も間違いはない。それは役に立つ。それは世の中の動きをなめらかにする。世の中には何百万という人たちがいて、多くの衝突がある。そうであって当然だ。そこで、もし人々に対して少し形式的であれば、どういう振舞い方をしたらいいか知っていれば、それは役に立つ。あなたにも、ほかの人たちにも、だ。それにおかしいところは何もない。

 しかし、もしそれがすべてになってしまったら、そのときは何もかもおかしくなる。そぅしたら、薬が転じて「毒」になってしまう。

 この区別は、どのレベルでも絶えず心にとめておかれねばならない。

 第二のレベルでは、もしあなたが「ただゲームを楽しんでいる」だけだったら、これはゲームなのだということをよくわきまえて、それに関して深刻に貪欲に悪辣にならなければ……。

 あなたが深刻に貪欲に悪辣になった瞬間、それは、もうゲームではない。それは現実になってしまっている。そうしたら、あなたは妄執に囚われの身だ。

 もしそれを、社会での役割を、いわば真面目な遊戯かのように「道慾でなく」楽しむのなら、完壁によろしい! 楽しむがいい! ほかの人たちが役割をよく果たせるように手も貸してやりなさい。全世界は大いなるステージだ。しかし、それについて深刻にならないこと。むやみな値打ちを置かないこと。

 「深刻さ」というのは、病いがあなたの存在の中にはいり込んだ、蝕んでいるという意味だ。そうなると、あなた

は誤解し出す。このこれが、この役割が、これこそが「すべて」だと思い込む。我を張り出す。合衆国の大統傾になることがすべてだ……。総理大臣がすべてだ……。大学教授がすべてだ……。勲章がすべてだ……。所得者番付の一位がすべてだ……。あなたは、自分自身もほかの人たちも犠牲にし、この目的を達するためにはあらゆる手段を使う。

 ところが、それをもし達成したとき、あなたは、実は「何ひとつ達せられてやしない」ことに、呆気にとられて気づく。なぜならば、それは単に「ゲームの層」の上のことだったからだ。夢もどき。目を覚ましたとき、あなたは深い欲求不満におちいる。一生が水泡に帰してしまった、何ひとつ達成されないまま……。

 例えば、金持ち連中の、これが欲求不満だ。これが、持てる国々の欲求不満だ。これが、すべての成功者たちの欲求不満なのだ。成功したとき、彼らは突然破綻する。そうして彼らは、自分が一生をゲームのために棒に振ったという事実と直面するのだ。なにひとつ死に際にそれをぶらさげては行けない。ただの灰だ。

 覚えておきなさい。目を見張ること。さもなければ、たとえ第一の層で立往生しなくとも、あなたは第二層で立往生してしまうだろう。

 

 その次が第三の層、渾沌の層だ。この第三層のおかげで、人々は内へはいってゆくことを怖がっている。彼らが「第二層で立往生」するのは、そのためだ。

 第二層では、すべてがきれいで明瞭だ。規則はわかっている。どのゲームにもそれなりの規則があるからだ。もしその規則を知っていれば、あなたはゲームを演ずることも勝つこともできる。第二層には何も神秘的なことはない。2たす2は、第二層ではいつも正確に4だ。

 第三層になると、そうはいかない。第三層は第二層とは違う。それは渾沌だ。途方もないエネルー……。しかも、何ひとつ規則がない! あなたは怖くなる。第三層はあなたに恐怖を起こさせる。――――

 

* 今夜はこの辺までしておこう。わたしも、幾つかの「役割」を演じている。しかし、わたしそれらを抱き柱にしていない。言葉は悪いかもしれないが、遊んでいる。遊んで楽しんでいて、それらの一つ一つに執着した価値を与えていない。

 太宰賞作家、日本ペンクラブの理事、「電子文藝館」館長、京都美術文化賞選者、元東工大教授。個人全集「湖の本」刊行二十年・八十五巻。厖大なホームページの一日も欠かさない発信・更新。莫大な量にのぼる毎日の読書…。

 それぞれに十分楽しんできたし日々に楽しんで少しも飽きていないが、それだけだ。猛烈に活動もしているが、それだけのことだ、いつも「たかが」と思っている。

 高校時代茶道部を指導していたとき、部員によく話した。もっと大事なことができてきたら、「たかが」茶の湯に縛られてはいけないと。たかが「茶の湯」たかが「茶道具」という譬えて謂えば、それがわたしの処世であったと思う、高校時代からそうだ。エネルギッシュに活動するのは、それに囚われていないから出来るのである。楽しくてしている。楽しくなくなれば、たかがと思う何一つも私を押しとどめることは出来ないだろう。抱き柱は抱かないのである。

 2005 7・26 46

 

 

*  先日、バグワンの言葉を少し長めに紹介したが、あのあとへまだ長く論点が展開して行く。人間を何層もに眺めていくと、第一層にいわば「挨拶」しかしないで回避する人達、第二層に「役割」にしがみついてしまう人達、バグワンはそれを指摘していた。

 彼は第六層と、なお奧の奧まで話題を用意しているが、凡な我々には第二層までは我がこととしてよく分かる、が、第三層に入るともう混沌としてくる。だから凡な者は此処で恐怖心に捉えられ、弱い者だと狂ってしまうと説かれると、そればかりは察しがつく、わたしには。

「第三層では、突然、あなたは自分が誰かわからないのに気づく! アイデンティティーは失われ、規則が消え失せる。途方もない混沌、嵐の中の大海原だ。もし理解できれば美しい。もし理解できなければ、実に実にひどいものだ。この第三層は、もしよく理解されたならば、そしてもしあなたがその中ではっきりとした意識を保っていられたならば、最初の一瞥、生の最初にして強烈な一瞥を与えてくれるだろう。さもなければ、あなたはノイローゼになる。

 第三層では、気が狂う人達がいる。第一層や第二層に属する人々より正直なのだ」と、バグワンは語っている。

 あらゆる意味で、無心空手のすっぱだかに、なれるか。なれないか。そういうことであろうかとわたしは、こうした挑発におそるおそる対面している。

「混沌と直面」し、「内なる無秩序(アナーキー)」と直面したことがあるなら、人は「第四層」に踏み入る能力があるとバグワンは語っている。

「第四層は死のレベル、死の次元だ。混沌のあと、人は死と直面しなければならない。」「第四層に達すると、あなたは不意に死ぬ感覚を抱くだろう。自分は死んでゆく……。深い瞑想の中で第四層に触れると、あなたは自分が死んでゆくのを感じはじめる。」

 真如の闇によろこんで身を浸していると、そうなのかもしれない感覚に自身を預けている、わたしは。バグワンは、この辺りで「死ぬ感覚」に触れて、時にはバグワンを世間に誤解させかねない、しかし剴切な深い性的オーガズムを、とても分かりよく、持ち出してくる。

「世界中で、さまざまな文化、言語、条件づけを持った人々が、オーガズムを感ずる時には決まって、突然、死の感覚に取り憑かれる。人々はそれを口に出しさえする。特に女性たちだ。深いオーガズムに達して、彼女らの全身が未知のリズムで震え、力強いエネルギーで満たされ、ひとつのダンスになると、世界中の女たちが『死ぬ!』というような言葉を吐くことが知られている」と。その事実が屡々広い範囲の文化や社会で性行為のなかでの女の叫びや言葉を抑圧したと。スワミ・プレム・プラブッダの訳をお借りしてバグワンに聴きたい。

 

* 女たちが、世界中、あらゆる時代にわたって、(性行為の最高潮のときですら)ひと言も発しないよう抑圧されてきたのはそのためなのだ。

 実際、彼女らはオーガズムを持たないように条件づけられてきた。それが実に(烈しい失神や死をともなう)危険だからだ。あなた(そういう女達)は、死にまぢかい自由を感ずる。そのときエゴが死ぬ。突如として、アイデンティティーがそっくり失われてしまう。あなたはもうそこにいない。ただ生が振動しているだけ。未知の生! 名のない生! 範疇づけされ得ない生……ただの(生)だ。そこにあなたはいない。波は消え失せてしまった。そこには海がある。

 深いオーガズムを持つのは、全面的にいなくなるという、大海のような感覚を持つことだ。女性たちは愛の営みにおいて、能動的でなくなるよう強要されてきた。なぜならば、もし能動的になったら、(男より)より微妙でデリケートな肉体を持っているために、彼女らの方がオーガズムという「死に似た現象」を感じやすいからだ。彼女らはただのひと言も発しないよう、動かないよう(社会の力で)強要されてきた。彼女らはサヴァアーサナ(沈黙で擬装された死のポーズ)を保たなければならないとされた。ただ死んだように横たわり、凍りついていよと強いられた。

 そして男たちもまた、もしオーガズムの中に本当に深くはいり込んでゆくと、とてもとてもすさまじい経験をするということに気づいた。途方もなくすさまじい。ショッキングだ。それは死なのだ。それを(幸いに)深く確かに体験したら、もう、けっして前と同じ人間(男)ではいられない。

 それでも男が学んだのば、(不幸でかつ不十分にも)局部的なオーガズムだ。性器のところだけであり、彼の全身は関わっていない。関われないのだ。

 そして何世紀もの間、女たちは、自分たちこそが「オーガズム」を(真に十分に)味わえるということを、すっかり忘れていた。女性に(より深い強い)オーガズムの能力があるということをわれわれが発見したのは、ほんの数十年前のことだ。ただのオーガズムじゃない。「マルチ・オーガズム」だ。女は男よりも遥かに激しい。そして、女は男よりももっと深くオーガズムの中にはいってゆける。それに関して女にかなう男は只一人もこの世にいない。しかしながら、それは抑圧され、何世紀にもわたって「隠され」てきた。

 東洋では、女性たちはオーガズムの何たるかなど完全に忘れ去っていた。もしインド人の女性に話していて、私が「オーガズム」という言葉を使っても、彼女には理解できない。何のことですか? お話しにならない。彼女は、セックスを楽しむのは男だけだと教えられてきた。女は駄目だ、それを楽しんだりしたら女らしくない、と。

 どうしてこんな抑圧をするのだろう? そしてなぜ世界中で、セックスがこんなに深く抑圧されてきたのだろう? セックスは「死」と似ている、それが理由だ。

 そして、あらゆる文化が、二つのもの、を抑圧する。セックスと死……。それも、その二つは驚くほど似通っている。同じコインの裏表と言っていいくらいだ。

 当然だ。生は、セックスを通して生まれるのだから、ふたたび生が消え去るのも、セックスを通してでなければならない。始まりは円の終わりでもあるはずだ。セックスを通して生の波が起こる。それはまたセックスへと引いてゆくはずだ。だからして、セックスこそ生であり、セックスこそ死なのだ。

 

 同じことが瞑想の中でも起こる。深い同調、チューニングの中にはいってゆくと、不意にあなたは「第三層の渾沌」を通過する。あなたは死んでゆくのだ! そこでもし怖がったら、ひとつのふさがりができてしまう。瞑想を怖がり、ありとあらゆる口実をつけてそれをすまいとする人たちの中には、ある「障害」が存在する。

 しかし、もし目を見張りつづけ、死を許したならば、あなたは不死となる。自分のまわり一面に死が起こっているのを知りながら、あなたは死なない。死にながら、しかも死なないのだ。とことんまで死にながら、しかも、とことんまで生きている! それこそ、人間が味わい得る最もビューティフルな経験だ。

 

* こんなバグワンの言葉を聴いても、わたしは慌てないし焦らない。強いて分かろうとはしない。ただ性体験は当然わたしにもあり、分かることは分かる。分からないことを分かろう分かろうと急いだりしない。わたしは今も幾つも「役割」を背負うているけれど、多く価値を置いていないし、楽しみこそすれそれを「抱き柱」にしていない。手を放している。そのぶん気を付けて踏み込んでいる。混沌をもうほとんど懼れていないし、生と同じほど、生と同じように、死を迎えようとしている。そして老人の性に老人になるにつれ興味をもった文学者、たとえば谷崎潤一郎や中村光夫のことを想うのである。

 2005 7・31 46

 

 

* エピクロスやインドのチャルワカと、ブッだとの違いを、昨夜のバグワンに明確に示されて、わたしはヘキエキし降参した。このところわたしの述懐のしめすところは、エピクロスでたちどまり、できればその場所であぐらをかき、安居したいというところか…とキツイ指摘を受けた気がしたのである。バグワンが、第五層を説いているあたりでガンと頭を敲かれた。むろんすばやく断っておくが、わたしが第五層に身を置いているなどというハナシではない。そういう一連の説教から分離した一つの「話題」としてのみわたしは受け取るしかなかったけれども。今一度、バグワンから直に聴いておく。

 

* 第四段階にもまた、二つの可能性がある。どのレベルにも二つの可能性があるのだ。ひとつ、もし(深い)覚醒なしに(第四層で)本当に死んでしまったら、あなたは幽霊のような存在になる。(たんにあなたは)あらゆる生命、あらゆる生気を失ってしまう。眠りこけているかのようにして世間に存在する、人間と謂うよりは植物のように。あたかも深い催眠状態にあるかのように、酔っ払って、空っぽだ。

 (そんなあなた、いや)彼の中には十字架がある。が、復活が起こっていない。しかし、もし目を見張りつづけていられたら…。が、死が起こっているというときに、目を見張っているのはとても難しい。

 だが、マスターがゆっくりと働きかけていれば、それも可能だ。もしあなたが眠り込んだら、マスターは目覚ましとして機能する。彼はあなたをしゃきっと覚まさせる。彼はあなたにショックを与え、気を配らせる。そして、もしあたり一面に死が起こっているときに、気を配り、覚醒することができたなら、あなたは不死ヒなる。そうして、第五層が登場するのだ。

 第五層は生命の層だ。エネルギーは完全に自由になる。とどこおりなどひとつもない。あなたは、そうなりたいと望めば何にでもなれる。動くのも、動かないのも、行動するのも、しないのも、思いのまま、あなたはまったく自由だ。エネルギーは自在なものとなる。

 しかし、そこにもやはり二つの可能性がある。これが最後だ。

 人は生命エネルギーと同化するあまり、快楽主義に走ることもできる。そこがエピクロスと仏陀の別れ道だ。エピクロス派、インドのチャルワカたち、そして、世界中の享楽主義者たち、生の第五層まで本当に達した人々は、生の何たるかを知るに至った。そして、彼らは生と同化してしまったのだ。食べて、飲んで、陽気にやる…。それが彼らの信条になった。彼らは「生以上」の何ものも知らないからだ。

 生は死を超えている。しかし、(第五層で仏陀ふうに自在な)あなたは、生すらも超えている。あなたは究極の超越そのものなのだ。

 というわけで、第五層にも(エピクロス的な)危険はある。もし第五層でもうひと踏んばり目を見張りつづけなけれ

ば、あなたは享楽主義の餌食になってしまう。

 (だが)よろしい! あなたはわが家のすぐ近くまでたどり着いている。もう一歩だ。

 ところが、そこであなたは、もう「目的地」に達していると思い込む。

 エピクロスはビューティフルだ。もう一歩で、彼はひとりのブッダになっていただろう。チャルワカたちはビューティフルだ。もう一歩で、彼らはキリストになっていただろう。あとほんの一歩だ。

 最後の瞬間に、彼らは「生」と同化してしまった。そして、覚えておきなさい、「死」と同化するのは難しい。というのも、誰が死と同化などしたがる? が、生と同化するのはごくたやすい。誰もが「永遠の生」を求めているからだ。生につぐ生につぐ生……。

 この時点で転じてエピクロスになる人々、生と同化する人々は、とてもオーガズミックな生を送りつづける。彼の全身が、途方もなくビューティフルに、優雅に機能する。彼は「小さなものごと」を楽しむ。食べること、踊ること、そよ風の中の散歩、日なたぽっこ……人生の小さなものごとが、彼に途方もない「楽しみ」を与えてくれる。こういう人間には、〝喜び″(楽しみ)という言葉がふさわしい。あるいは〝歓喜″と呼んでもいい。

 が、〝至福″ではない。彼には至福は得られない。彼は楽しむ。だが、至福に満ちてはいないのだ。

 

* ……………。

 

* 引き続いてすぐこんなことを謂うのは少し問題かも知れないが。建日子脚本の「ドラゴン桜」は、視聴率はともあれ、批評的には今季いまのところ独り勝ちにちかい好評のようで、妻がよく覗いているらしい、業界筋のサイトへの視聴者の書き込みは、凄いような熱気だそうだ。で、そんな中の一人に「東大卒」の人がいて、あれこれむしろ共感や批評を書き込んでから、「そういう僕もじつは東大生で、なーんて云うところがイヤミなんだけれど」と言い添えている、と、妻は教えてくれた。

 ああ、こういう引っ込んだ自意識は持たないで欲しいなと、わたしは思う。「東大生」は東大生になっちゃった定めをすらりと受け入れた方がよく、世間へ向いて無用の「イヤミ」自意識など持たない方がイイ、むろん無用の「誇り」意識も鼻高に持たない方がむろんイイと思う。不正な手段で合格したというならハナシはべつだが、それなりにまともに合格したのは一結果であり、それ自体に「イヤミ」は無い。「イヤミ」がるからイヤミになる。それだけのことだ、東大生は東大生なのである。

 わたしは、そういうことで仮に他人が「いやみ」に感じようが感じまいが、自分のことで、例えば作家、太宰賞、東工大教授、ペンクラブの理事、電子文藝館館長などであったり今もあることを、普通に平気で示しもするし隠したりしない。わたしはそのどれにも不当な画策をして成ったわけではない。わたしは成るように成ったし、成れと云われて成ったまでで、それが「いやみ」のタネになど、少なくもわたしの内では成っていない。そんなことは、どうだっていいと思うぐらい、そういう経歴も余儀なく「わたし」なのであり、気を付けるのはバグワンの言葉で謂えば「同化」しないことだ。そんなことに「同化」してしまって、本質の自分を他に預けてしまう、侵蝕されてしまう、ほど馬鹿げたことはない。軽い譬えになるが、つまりわたしが「わたし」であるよりも「教授や理事や館長」のほうがあたかも「わたし」自身かのように転化してしまえば、それほど滑稽な笑劇はない。その「東大生」君にも「東大生」であることへの「同化」が起きているから、その「いやみ」ぶりを自己意識してしまうのだろう。

 そして究極、わたしは「わたし」にすら同化してはならないのだ、が。

 

*「第五層は生命の層だ。エネルギーは完全に自由になる。とどこおりなどひとつもない。あなたは、そうなりたいと望めば何にでもなれる。動くのも、動かないのも、行動するのも、しないのも、思いのまま、あなたはまったく自由だ。エネルギーは自在なものとなる。

 しかし、人は生命エネルギーと同化するあまり、快楽主義に走ることもできる。そこがエピクロスと仏陀の別れ道だ。」

「世界中の享楽主義者たち、生の第五層まで本当に達した人々は、生の何たるかを知るに至った。そして、彼らは生と同化してしまったのだ。食べて、飲んで、陽気にやる…。それが彼らの信条になった。彼らは『生以上』の何ものも知らないからだ。」

「もうひと踏んばり目を見張りつづけなければ、あなたは享楽主義の餌食になってしまう。」

「エピクロスはビューティフルだ。もう一歩で、彼はひとりのブッダになっていただろう。」だが、「最後の瞬間に、彼らは『生』と同化してしまった。そして、覚えておきなさい、『死』と同化するのは難しい。というのも、誰が死と同化などしたがる? が、生と同化するのはごくたやすい。誰もが『永遠の生』を求めているからだ。生につぐ生につぐ生……。

 この時点で転じてエピクロスになる人々、生と同化する人々は、とてもオーガズミックな生を送りつづける。彼の全身が、途方もなくビューティフルに、優雅に機能する。彼は『小さなものごと』を(心から)楽しむ。食べること、踊ること、そよ風の中の散歩、日なたぼっこ……人生の小さなものごとが、彼に途方もない『楽しみ』を与えてくれる。こういう人間には、〝喜び″(楽しみ)という言葉がふさわしい。あるいは〝歓喜″と呼んでもいい。

 が、〝至福″ではない。彼には至福は得られない。彼は楽しむ。だが、至福に満ちてはいないのだ。」

 

* 四層にも五層にもたっしてもいなくて、こういう叱正にわたしは曝されてしまう。どうしよう。悪魔は来て囁くだろう、いいんだよ、それでいいんだよ、上等さ。ちっともそれが上等でないことを、だが、わたしはもうとうにバグワンを通じて察している……。

 2005 8・1 47

 

 

* 奇妙な偶然で、夜前バグワンの名著『TAO 老子の道』下巻音読の(たぶん)四度目を満了した。

 「正言若反 まっすぐな言葉はゆがんで見える。」

 わたしの「今・此処」を、境涯を、昨日の「日本」は、根底から新ためてくれたと思う。根底から、もうわたしは何かをしようと思わない。人のためにしようなどと思わない。「日本」のためにしようなどと思わない。わたし自身のためにも何一つしようと思わない。わたし自身を、あたかも「見喪う」かのごとくに生きようと思う。旺盛になにかをしているとたとえ見えようとも、わたしはもう何もしないで生きる。

 

* 天下莫柔弱於水、      天下に水より弱いものはないが、

  而攻堅強者、莫之能勝、   堅きを打ち負かすにつけて、それに勝るものはない。

    以其無以易之、       ほかにそれに代わるものは何ひとつない。

    弱之勝強、柔之勝剛、        弱さが強さに勝ち、やさしさが硬さに勝つことは、

    天下莫不知、莫能行、        誰ひとり知らず、誰ひとり実践に移す事もできない。

    是以聖人云、                 それゆえに、聖人は言う、

    受国之垢、是謂社稷主、      世の災厄を我身に引受ける人こそ国の保護者であり、

  受国不祥、是謂天下王、      世の罪を自ら負う人こそ天下の王である、と。

  正言若反、                   まっすぐな言葉はゆがんで見える。

    『老子』下篇第七十八章 

          バグワン・シュリ・ラジニーシ (スワミ・プレム・プラブッダ訳)

 

 老子いわく。

   〝誰ひとり知らず、誰ひとり実践に移すこともできない……〟

 誰ひとりそれを知らず、誰ひとりそれを実践できない。というのは、かくも深い暗黙の了解を実践に移すことなど不可能だからだ。実践などというのは粗雑なものだ。それは生きることはできても、実践することはできない。それはひとつの理解として知ることができ、それを生きることもできるが、実践に移すことなどできはしない。本当の理解の人というのは、ただ単に彼の理解を生きる。何かを実践しているわけではないのだ。

 人々は私に「あなたはいつ瞑想するのですか?」と聞く。私は瞑想などしない。それほど馬鹿にはなれないのだ!瞑想するということは、実践するということだ。どうして瞑想を実践するなどということができる? その中にいることはできる。が、それを実践することなどできやしない。

 人々は私に「あなたぼどうやって祈るのですか?」と聞く。私はけっして祈ったりしない。私は私の祈りを生きるのであって、祈ることなどない。祈りが私の生きかたであり、私の生きかたが私の祈りなのだ。その二つは別々なものじゃない。

 

 もし理解すれば、あなたはそれを生きる。もし知ると、そのときはそれを実践しなければならない。なぜならば、知識は人を変容させはしないからだ。あなたが何かを知ったとしよう。すると、マインドは尋ねる。「今度はどうやってそれをやったらいい?」

 あらゆる知識は、最後にはテクノロジーとなる。西洋において、科学がテクノロジーと化したのはそのためだ。あらゆる知識は最終的にテクノロジーとなる。ただ知るだけでは何も起こらないからだ。まず知ると、次にあなたは「どうやってそれをするか?」と問う。

 たとえばアインシュタインは、一九〇五年前後に原子力エネルギーの理論を発見した。その理論は完璧だった。しかしそうすると、科学者たちは「それをどうやるか?」と問いはじめた。抽象的には、それは完成していた。その理論は完全に論理的で、理論としては証明されていた。しかし、どうやってそれを実践に移すか? 原子爆弾を創り出して広島長崎を破壊するまでには、それから四〇年を要した。そうして、それはテクノロジーとなったのだ。四〇年間、知識がテクノロジーになるのにかかった。人間に知られていることはほかにもまだたくさんあるが、それらがテクノロジーになるには時間がかかるだろう。

 あらゆる科学は、だんだんとテクノロジーにおとしめられてゆく。宗教はけっしてテクノロジーにはならない。なり得ないのだ。それは知識ではないのだから。(宗教も、しかし、テクノロジーになりたがる。それはマガイモノである。)

 あなたは理解する。と、まさにその理解そのものが人を変容させる。あなたは変身し、変異する。あなたはもう同じあなたじゃない! ものを見、それを見守り、そのものを理解すると、まさにそのこと自体があなたの実存の質を変えてしまっている。もうあなたは違った生き方をする。

 実践などということは不可能だ。小さなものごとは実践できる。が、大きなものごとは実践できない。祈りというのは大変なものだ。愛というのは大変なものだ。それに関する「ノウ・ハウ」などあり得ない。瞑想となったら最後、頂点だ。神……。どうして神を実践することなどできるだろぅ? それになることはできる。が、それを実践することなどできるものではない。

 そしてあなたがそれになれるのは、あなたがもうすでにそれであるからだ。ほんのちょっとした理解……。あなたは闇の中に立っている。そこへほんの少しの光が差し込んだだけで、少しの明りがはいっただけで、何もかも変わってしまう。

 老子は言う。それは知ることもできないし実践することもできないが、聖人はこう言う、と。

   〝世の災厄をわが身に引き受ける人こそ国の保護者であり……〟

 最も低いところへ下ってゆく人が聖人であり、世の中の暗黒のすべてについてみずから責任を取る人、イエスのような人こそ、国を保護するのだ。世の中は政治家によって守られているんじゃない。政治家などというのは詐欺師だ。世の中は、あなた方のつゆ知らないような、ごく少数の人々によって守られている。というのも、そういう人々をそれと知ることさえ難しいからだ。彼らはそれほどあたり前に生きている。彼らは世の中という森に深く埋もれている。あなた方は、そういう人たちのことなど知らないだろう。

 世界はごく少数の人々によって守られている。クリスタルのような純粋性をもった、子供のように無垢な数人の人々……。しかし、彼らは責任を感じている。醒めているからだ。

 

 仏陀が、ニルヴァーナ、最後の、究極のわが家にたどり着いたとき、扉という扉は開かれ、大変な祝典があったと言われている。というのも、何世紀に一度、ようやくひとりそうした門をくぐることができるからだ。ところが、仏陀ははいろうとしない。彼は門を背にして門のところに立った。そこの人たちは心配になった。

 「どうしてそんなところに立っているのですか? 扉は開いていますし、私たちはあなたのおいでを待って、大変な喜びのお祝いになっています。おはいりなさい! おもてなしいたしましょう!」

 仏陀はこう答えたと報告されている。

 「どうして私にはいることができましょう? 全世界が苦しんでいます。私は、最後のひとりが通過するまで、究極なるものに足を踏み入れるまで、ここに立っているつもりです。私は待たねばなりません。私は最後のひとりになるつもりです。私は責任を感ずるのです。私は醒めていますが、彼らは醒めていません。どうしてその彼らに責任がありましょう。責任があるのは私です」と。

 

 醒めてゆけば醒めてゆくほど、あなたは責任を持つようになる。それだけ感じるようになり、それだけ役に立つようになる。あなたが人々に奉仕しはじめるというのじゃない。が、一生がひとつの奉仕になるのだ。何かの義務から、彼らに何かをしてやるというのじゃない。いいや、あなたはただ単に自分自身の覚醒を成就しているだけなのだ。

   〝世の罪を自ら負う人こそ天下の王である、と……″

 そういう人々こそ、歴史には知られていない本物の王様たちだ。歴史は、張り子の王様、ニセの王様たちのことばかり語っている。歴史はまだ本当に真正な現象になっていないのだ。さもなければ、それは仏陀のこと、老子のことを語るだろう。それはカビールやクリシュナやキリストのことを語るだろう。マホメットやマハヴィーラのことを語るだろう。ナポレオンやヒットラー、毛沢東、スターリンのことなど語るまい。そんな人たちのことなど語るまい。

 そういう連中は有害なだけだ。彼らは災いの種なのだ。彼らは黴菌のようなもので、彼らのおかげで、地上が地獄になっているのだ。

 ところが、歴史は彼らのことばかり語っている。そして、どの子供も歴史によって腐敗させられてしまうのだ。愚かな、馬鹿げた連中、狂った、神経症的な、倒錯した連中のことは言っても、自分自身に到達した人々のことは語らない。そうした人々こそ、世の本物の王様たちなのに。

   〝まっすぐな言葉はゆがんで見られる。″

 そして老子は言う。これらの言葉はとても不思議だ、と。まっすぐだ、と。しかし、それらが人々にはゆがんで見えるのは、何故か。彼らがゆがんでいるからだ。

   バグワン『TAO 老子の道』下巻 了

 2005 9・12 48

 

 

* バグワンの「老子 TAO道」上下巻を音読了のあと、次はまた『ボーディダルマ 達磨』を読み始めている。

「仏陀の道には果報などというものはない。なぜなら、果報を求める欲望そのものが貪欲な心(マインド)から来ているからだ。仏陀の教えのすべては無欲であることの教えだ。」

 「瞬間から瞬間を内発的に生きよ。」

 「<道>に入るには多くの小道がある」などとボーディダルマが言うことはありえない。「真理に至る道がある」とすら達磨は言わない。「彼の全アプローチは、”あなたこそ真理だ”ということだ。どこにも行く必要はない。むしろ”行く”ことなどやめなければならない。そうしたら真理の在る”我が家”にとどまることができる。」「すべての道が誤った場所に向かう、というのがボーディダルマの姿勢(アプローチ)だ。」「どんな修行も必要ない。あなたは現在在るべき場所に在る。」必要なのは早くそれに気付くことだ。「ボーディダルマはほかの誰よりも『信ずる』という言葉を嫌う。信念などけっしてあなたの眼にはなりえない。それがもたらすのは光でなく、先入観や意見や観念だけだ。」

 そういうことをバグワンは言いながら、達磨の言説と伝えられた文献のなかの、虚妄・誤解と、金無垢の真実とを、厳正に選り分けて行く。バグワンの透徹がすばらしい。また数ヶ月、わたしは達磨にも聴きバグワンにも聴きつづける。

 2005 9・18 48

 

 

* 鏡花全集をぱっとあけたら『葛飾砂子』があらわれたので、それを読み始めた。眠かったのに目がパチンとさめて読み進み、強いて電気を消したけれど寝つきにくかった。床へ入ってから、つい文庫本(四種類)を先に読み、次いで大判の旧約聖書と鏡花全集になる。おもしろいのを最後にすると眠さが飛んでしまう。最後に『戦争と平和』終末の論文か、聖書「レビ記」の際限なきエホバの掟か、にすれば睡魔を呼び出しやすいか、な。

 

* 音読の『日本書紀』は第二冊めの冒頭、仁徳天皇を読んでいる。応神・仁徳陵の巨大なことは世界的に知られている。この二人の大王(天皇)から日本の確実な歴史時代は肇まったと学者たちは言う。なかば神代の神武はもとより欠史八代は架空としても、わたしは永らく第十代崇神天皇からは歴史時代かと想っていた。天皇たちの長い長い和風の名前をていねいに腑分けしてゆくと、神武天皇から十四代仲哀天皇までの名前が、後世からの潤色・造作であることが透けて見えるのである。逆にいえば伝説伝承をもとにもしたであろうが、実に苦心の創作・脚色がなされていたということ。日本武尊の事蹟も、なにらかの民族の記憶を繍いこんだはなはだ優れたフィクション、タペストリーの繪なのであった。それもまた、佳いではないか。

 

* もう一冊のバグワン音読は『ボーディ・ダルマ 達磨』である。実在の大覚者達磨和尚の名で、三つのそう長くない法話が遺されている、が、達磨自身の述作ではない、弟子筋の「記録」やさらにその解釈や翻訳を経てきたモノである。釈迦もイエスも達磨も、真に悟っていた人達ほど自身の手で書いたものは何一つ遺さない。その名で伝わる「言葉」はすべて後世の記憶に基づく解釈や翻訳以外の何者でもなく、当然(悟ってはいない)筆録者たちの未熟な賢しらや誤解にまぶされている。覚者にはそれが見える。バグワンにはそれが見える。経文や本文のどこが達磨から真に出た言葉か、どこが後世の善意の誤解によるまちがった解釈や翻訳かがバグワンには分かる。(わたしは、それを信頼する。)この本は、そういうおそるべき「腑分け」本なのである。わたしは、ただただ無心にバグワンに聴くだけである。声に出して読んで耳に聴くのである。

 2005 9・26 48

 

 

* 片敷き  カレンダーにあった藤原良経のうたに “あ” とオツムに火花の、このうれしさ。「百人一首」のご本を引っぱりだし、また、ひたって、たのしんでいます。

 母から電話がかかってまいりました。用が済んだあと、「百人一首のきりぎりすのうた」と言った途端、「きりぎりす? 泣くや霜夜のさむしろに、衣かたしきひとりかも寝む、ね」と一気に。

 雀が「かわくまもなし、の沖の石見てきたわよ」「みかのはらに行ってきたわ」など言うたび、即座にすらすら一首口の端にかける母。

 衰えは雀にこそあり、ですわ。主人がカレンダーを見ながら、「かたしきって片敷きなんだぁ! じゃ二人のときは何ていうの?」と問うたのにつまってしまいましたもの。田辺聖子さんの百人一首の本を見たら、熊八中年が同じ質問をしていました。

 帰ってきたら、みせたげよっと。

  紅葉してそれも散り行く桜かな  (蕪村)

 鞍馬山の紅葉はどのくらい進んでいるのでしょう。防寒着と懐炉を用意の支度です。  囀雀

 

* こういう世離れたメールを読む、もう一方で、ある女作家が記者会見し、某文学新人賞の選者たち(その作家もその一人)が一斉に版元にクビにされたのはケシカラヌ、ナゲカワシと詰問し、論難している新聞記事を読んだりすると、どっちが真実世離れているのかと、コングラカって来る。

 ともに「夢」にすぎぬとおもうとき、この両方のどっちがよりハカナイかなどといってはいけないようである。どっちも所詮は、夢。しかし、それでも雀の囀りの方にイヤミも後味の悪さもないとは思うなあ。

 興膳宏さんの『古代漢詩選』から一首の読み下しをひいて、読もう。

 

* 山斎  河島皇子 

   塵外 年光満ち       塵外年光満

   林間 物候明らかなり    林間物候明 

   風月 遊席に澄み      風月澄遊席 

   松桂 交情を期す      松桂期交情

 

* ひとしおバグワン・シュリ・ラジニーシが慕われる。 

 2005 10・21 49

 

 

* チャン・ツィーイの中国映画「LOVERS」を中途からテレビで観た。この女優は「恋人の来た道」で可憐に好演した印象的な美女。うって変わった武藝の達人としてめずらしい闘技を、美しい自然の緊迫のなかでふんだんにみせてくれた。概して中国映画はみないのだが、現代物でないのと主演女優に惹かれた。

 明日からに備えて、幾らかまだ用意は足りていないのだが、気長にやるつもりで今夜はやすもうと思う。

 「千夜一夜物語」も、西欧の「中世史」も面白い。まだ「フアウスト」の前半も読み返している。「日本書紀」はいま雄略天皇紀。最も個性的な天皇の一人。面白い。弱るのは「旧訳聖書」で、まだ叙事詩としても物語としても展開せず、ユダヤの部族ごとの人数を克明に数え上げたり、掟を説いたりしている。じりじりと読んでいる。バグワンの「ボーディダルマ」は強く胸を打つ。説得の力というより、感じさせる真率さと深さに、感動。

 2005 10・30 49

 

 

* すぐれた、または偏って過剰な知識に惑わされた少女が、母の肉体を化学的な実験にもちいて瀕死に陥らせているというニュース。行き方は過激であるが、この手の知識人種の犯罪行為はときどき繰り返されている。

 ひと言でいえば、いくら賢くても人となり聡明でなければ何にもならない適例である。知識こそがつまり心(マインド)であるとバグワンは喝破し、マインド、つまり文字通りそれかこれか、どれかあれかの「分別心」だけでは、結局は迷妄の夢を漁るだけに陥るしかないとも。同感である。知識は心、聡明は無心。

 2005 11・3 50

 

 

* 『戦争と平和』は作者の述懐も訳者の解説も、ことごとく一旦卒業した。

『アラビアンナイト』は第三巻を終え、文庫版の四冊目に入り、『世界の歴史』も今日にもヨーロッパの中世史を通過して行く。文化的にはともかく、政治社会史的にはイギリスの先進性は認めざるをえない、フランスよりも相当前を歩いていたし、ドイツときたらフランスよりもまだひどく遅れていた。それぐらいなことは高校で世界史を勉強した頃からわかっていたが、西欧または欧米のものの考え方や仕組みが知りたいなら、あんどれ・モロワの『英国史』と『米国史』とを或る程度纏めて承知していないと、本質をずらしてしまうとも感じたころに、わたしは新潮文庫でその二種四冊を買って読んだ。それを世界史と並行して、トルストイのかわりに読み始めている。

 気が付いてみると、『日本書紀』『旧約聖書』『世界の歴史』『英国史』『アラビアンナイト』そしてゲーテの『フアウスト』が毎晩のきまりの本になっているのは、ひと言で言えば「歴史」を泳いでいるようなものだ。小説は鏡花全集で、今は『高野聖』これはもう、ぞくぞくする。たいへんなものだ。

 そしてバグワンの『ボーディダルマ』には、わたしが抱きつくのではない、バグワンにわが全体(トータル)が掴まれている。すばらしいというしかない。

 2005 11・4 50

 

 

* 昨日はバグワンに、あの有名な「拈華微笑」について眼から鱗の落ちるはなしを聴いた。絵画にも画題としてよく採り上げられているが、画家達はこれを何と思って描いているか、ちと尋ねたくなった。釈迦が一軸の蓮の花を手にもち、くるりとまわしてみせた。一人の無口な高弟が笑い出した。釈迦はおおいに認めて悟りのシルシとしてその蓮を与えたのである。「拈華微笑」というが、笑いの程度は分からない。哄笑ではなくても、にやりと声もなく笑ったかどうかはべつごとで、つまりその弟子は「笑った」のである。その弟子を釈迦は大悟したのだと認知し称讃した。

 こういうとき、われわれ凡俗は、何故かと口にする。それしか反応のしようがないのだ。

 バグワンは的確なことをわたしに告げてくれた。有難いことであった。

 2005 11・6 50

 

 

* 悲田院から晴れやかな下京の街も西山、また東山の峰峰をそよ風と明るい日射しのなかで眺めてきた。そしていつもとは逆に、帰り道に戒光寺により丈六釈迦如来をまぢかにながく振り仰いできた。いつ来てもだあれもいない。自由にお堂に上がり、心行くまで如来を振り仰いでいる。なあんにもない、心をとざしてくる外の想いはみな消えている。

 こういうことをいうと、悟りすましたようなことを言うものでないと警告したがる人も世間にいないではないのだが、そういう人は、気の毒に自分自身のみじかい、せわしない、さわがしい目盛りの物差しでしかものがもう計れなくて、胸の内の闇や、ものの命が湛えている静かさが聞こえないだけなのである。信じられないのである。それで、疑うのであろうが、そんな他人の胸の内のひがんだ穿鑿よりも、自分自身の「今・此処」を問うてみた方がいいだろう。

 人はそれぞれであってよろしく、わたしは自分がバグワンに聴きながら感じているものを他人に強いようとも、他人に分かって貰えるとも少しも安易なことは想っていない。悟ったようなことをいうどころか、わたしは悟りたいなどと少しも想わない、そんなことは求めてできることでないとバグワンのまさに繰り返し言うていることを、わたしは真実だと感じている。先日も眼から鱗をおとしてもらった「拈華微笑むのあの幸せな笑いは、求めて得られはしない、ただ静かに待っているだけ。来るかも知れず来ないかも知れず、決して期待しないのである。

 そんなのは「ウソ」だと言う人は、自分でそういうウソを身に抱いているに過ぎない。ひとのことは、わかりっこない。わかってくれるのは、釈迦(ブッダ) のようなおおきなマスターだけであるが、わたしはなまみのそういうブッダに出逢っていないのだから仕方がない。

 2005 11・7 50

 

 

* 色々本をひっくり返して調べているうちに、老子の『道徳経』の中の言葉を見つけました。

 無と有はその基を一にして、その名を異にするだけなのだ。この一なる基を闇という。「この闇を暗くすること、そこにあらゆる奇跡への入口がある。」

 「  」した言葉がとくに難しく思われます。時々「私語」でお書きの「闇」への記述のことを思い、無知蒙昧の質問させてください。

 以前に、

  闇は「くらい」のではない。「闇」は闇のママにいつか明るむ不思議をはらんでいる。

と書いていらっしゃいました。この言葉と老子の言葉はどう繋がるのでしょう。闇が明るむのでなく、闇を暗くすることで、なぜ奇跡の入口になるのでしょう。暗くすることで明るむのですか?

 お忙しいことと思います。もしお時間割いてお答えいただくことかなわなければ、老子について、初心者向きの良い解説本など教えていただけると嬉しく思います。目眩がするほど色々な本があって、難しそうで、ひるんでいます。あるいはこの思想を文学にした作家はいますか?

 どうしてもこの言葉が気になるのです。   春

 

* このメールを読んでいると、少なくとも身に迫った自分自身の不安や迷惑に耐えかね、自問自答に切に苦しんでいる人のもののようではない。分別し知解し知識したいように想像される。

 だが、「老子」ほど、そんな姿勢ではどうしようもない相手は他に無いのではないか。老子は「質問」して「解説」してもらうタチのものでなく、自身の日々の悩みや惑いや不安の深さに応じて、みずから「感じ取る」より、ない。思索でも推論でも答えの出る筋ではない。

「老子」は、「ボーディ・ダルマ」もそうだが、合理的な言語で分別すること自体を、絶対に否認している。老子にもし過誤ありとするなら「道徳経」を書き遺したことである。言葉にした途端に真理は真理でなくなると冒頭に書いている本である、これは。自問自答に精魂尽くせない人には「老子」はむしろ害になるだろう。

 

* それでも何か本をというなら、わたしは確信して、和尚(バグワン)の「TAO(老子の道)」上下巻(めるくまーる)社刊を勧める。わたしはこの希代の名著を、先に総選挙で惨敗した日、「多分四度目」を音読し終えている。すばらしい手引きである。

 2005 11・12 50

 

 

* バグワンのことでも、ぜひ此処へ書き写してみたい話があるが、もう今日はやすもう。一日中、全身に電気が通っていた。人の、どうわたしを思おうと、全くかまわない…、そういう気持ちに慣れてきている、ま、なかなか徹しきれはしないのだろうが。したいように、している。

 2005 1・17 50

 

 

* 先頃、若いひとに新聞を話題にしたとき、「とっていません」という返辞。いま、こういう潔い返辞は、なかなか聴けないが。

 わたしたちも新婚当時からかなり後々まで、新聞を拒絶していた。テレビも持たなかった。必要なニュースは朝の目覚ましがわりのラジオで足りた。わたしたちは、ラジオ派であった。だが。

 すぐ近くに当時のフジテレビ本社があり、そこへ休日や夜分など夫婦して探検気分で構内を歩きに行った。そこにはテレビがあった。気楽なもので誰も咎めなかったから、出演者の控え室などならんだ廊下や食堂へも自由に入っていた。京都の家で観ていた「バス通り裏」のきれいな岩下志摩が、フジの地下廊下を行ったり来たりしながらセリフを覚えているのと、普通にすれ違ったりした。

 ある晩デイレクターの下っ端さんに見込まれ、「スター千一夜」という番組の、結婚したての菅原謙二夫妻の番組に、枯木も山の役で出てくれと頼まれたりした。なんでも喫茶店で菅原夫妻がインタビューされている、同じ店内の相客の体でその辺の席に座って普通にしていてくれと言うのだ、面白がって承知した。ポケットから掴みだした三百円か五百円ほどを、あとで「出演料」に貰った。超ビンボーしていたから不時の実入りであったが、それよりも、そういうノンキでもある日々であった、それが楽しかった。貧乏なんてあたりまえと思っていたし、世間のニュースにも無関心に近かった。伊勢丹のある新宿へ歩いて出て行けば、世間の容子はそれとなく知れて、それで足りていた。

 それが、だんだんそうも行かなくなった。小さい会社の、出来て五年目の労働組合が活溌に動き出していて、おいおいに政府国会も破壊活動防止法だの安保条約だのということになってくると、自然、放ってはおけないのだった。

 一年後、妻が朝日子をもう産もうという頃、わたしは労組の仲間たちと、連夜国会前へかけつけ、歴史的なデモの渦巻きのなかでは東大生の樺美智子さんが警官達と揉み合って死んだりした。わたしは、怒号渦巻くそんな中で、処女作となった「或る折臂翁」のことをしきりにしきりに想いつづけた。新豊の折臂翁。白楽天のその長詩は、少年の昔から気になって気になっていた、佳い詩、反戦の思想詩であった。具体的な表現でわたしを捉えて放さない。

 国民学校の頃から、わたしは、将来兵隊さんにならなければいけない国民としての運命を、嫌っていた。厭がっていた。それが「反戦の覚悟」なのか、たんに「臆病」からか。小さい胸にそれは一の公案の重みで自問自答の課題となっていた。背景にいつも白居易のその厭戦詩・兵役拒否の長詩があり、わたしは公案に「答」をぜひ書かねばならなかったのである。

 同じその問は、シナリオの形をとった「懸想猿」の武士にも、また名作と褒める人も多かった『廬山』の老父に対しても、明瞭に「答」を要求し続けたのである。

 

* いま、わたしは、新聞にもテレビの報道にも、汚物を浴びるような厭悪感をおさえられない。拒めばいいとも思わないからその感触は棘さえ持って、不快をいや増してくる。わたしのこの「私語」の闇は、また文学や演劇や美術や歴史や、そしてバグワンは、わたしの必死で挑んで倒れまいとするバランス。そういうと言い訳じみるので言わぬことにするが、生きがたい日々であると感じている。わたしが心という分別のマインドを嫌い、もう少し正直な「からだ」に即応していたいと願うのはそれである。

 眼耳鼻舌身=色声香味触の感覚のピュアを望んで、「意・法」という、分別・知識・判断・語と理とを「無」に返したい、それが今のわたしのまだしもの期待なのである。期待してもダメなのは分かっているのだが、そういう分別も棄てようと。

 2005 11・19 50

 

 

* 和歌山県に住まわれる男性年輩の読者からお便りを戴いている。「湖の本」が続く限り「継続読者」ですので配本して欲しい、さしあたり「百巻」をたのしみにしていますと。

 この方は今回のお便りで、今日の仏寺・僧侶ないし佛教に対する期待と不信感とを吐露されている。同様の不審ないし批判の声は、他からも耳にしないではない。文面を紹介するまえにおよそを察している人も少なくないであろう、が、残念ながら仏教者ないし聖職者からの真摯な反応は、聴きたくともめったに聞こえてこない。前回の「わが無明抄」を読まれ触発されたメールであろうが、わたしに、なにか「返辞」が欲しいとも。

 文面はすこし語気けわしいところもあるが、先ず紹介しておく。

 

* >> もう何年も前から「寺」のいかがわしさのようなものが我慢できません。「寺」自体ではなく、本当は僧侶もしくはその周延と書くべきなのかもしれませんが、どちらかと言うと「寺」本来のもつ雰囲気等は大好きなのですが、どうも本堂なりに一歩上がるともうダメです。

 仏像のいいかげんさもさることながら、その周囲の飾りつけ、たたずまい、佛教って本当にこうなの? と思ってしまいます。そこへ僧侶など出てくるものなら、俗人より俗っぽい人ばかり…、私の出会い、知っている僧だけがそうなのかもしれませんが、生臭さ、もっといえば俗臭プンプンの学校の教師以上に油断のならないような人物ばかり……。佛教、といいましてもごく一部の経文をかじった程度にしかすぎませんが、なにか全然佛教とは違ってしまった佛教があまりにも多いようでなりません。NHK教育の「心の時代」などに出てくる僧兼大学教授の人たちも、です。

 この(本来ありし佛教からの)この落差はなんなのでしょうか。佛教を学びながら何一つとして仏の教えに近づいていない、もっと言えば「寺」の事業(職業)として佛教を利用した葬儀等行っている単なる儀式を商売にしている…ように思えてなりません。

 我が家の近くに**寺がありますが、話しになりません。もっともここは観光地、観光寺なのでガイドでいいのでしょうが、本当に朝晩のお勤めや教学の研鑽など行っているように見えません。商売としての勤行や佛教の教義等の勉強はしているのでしょうが、商売としてのであってそれ以上のものには見えません。

 

* ここまでの批判について言えば、おおかた世上のそれに近く、またどうしても一概な物言いになり、広範囲の実情とはかけ離れているかも知れず、そうでないかも知れず、なかなか難しい。

 だが、この方にはいわば「佛教本来の佛教」という観念があり、それとの落差に対する憤りが噴き出している。ところが、「佛教本来の佛教」というのが、観念として推量し得ても、具体的にはなかなか把握しづらい。

 例えば此処にも「仏像のいいかげんさ」やいわゆる佛荘厳のはでさや粗末さにたいする厭悪が語られていて、難しく議論すれば、ことは「偶像崇拝」の是非論に至る。

 佛教は元始偶像否認の教義であったが、歴史的に偶像容認に転じたために一定以上の大効果をもち、教線を大きくインドより国外へ押し広げたことが認められている。厳格な禅の実践においてのみ、これと少しく異なる姿勢や覚悟のあることは知られているが、日本の禅院にも、仏像・如来像・釈迦像は、ふつう、排されていない。

 およそゴータマ・ブッダその人の根元の教えと信ずるに足る「言葉」は、多く伝わっていない。大部の経典は、ほとんどが釈迦没後、かなりの、ものにより数百年も後の編纂であり、始祖の教えに対する、弟子や後生の「理解・解釈」が無慮無数に加上されている。

 わたし自身は、それら聖典・経典に多くを頼むこと自体から「脱却」せねばという気が強くしている。その意味でも、「不立文字」の禅に、気持ちは大きく傾いている。

 教義も行儀も規矩・準縄も、それを「抱き柱」にしたとたんに、迷惑し、執着すると観じている。また、僧らしい僧、教らしい教、という概念に惑わされることにも危ういものがあると思う。優れたブッダ、優れたイエス、優れた老子らと、もしありのまま目前に出会ったとき、われわれ凡俗はどんな反応をみせるだろう。先ず以て石を投げ、下等な賤民めと悪罵を浴びせたかも知れないのだから。

 

* おそらく根元の佛教は、「覚性」であろうか。自己の本性に「気付く」こと。「夢」見ている状態から覚め、自身の本来具している「佛性」にはっきり「気付く」こと。そのためにも一切無用の「抱き柱」という執着と偏見を離れねば。

 わたしは、そのように少なくも今は観じていて、これが不動かどうかも、敢えて確言出来ないでいる。情けない、それがわたしの現状である。

 

* >> 相当厳しいことを先生も書いておられましたが、佛教というのはもっともっとすごい思想であり哲学でもあると思うのです。その理論一つとってみても、今までにない西洋の思想などには見られない哲学性に富んだものだと思います。しかし現実にそれを修業したら多くの僧のようになってしまう。いかがわしさの固まりのようになってしまう……

 これは何んなのでしょう。

 

* この一條は、ブッダの本来から、どう後生が逸れまた逸らせてきたかを、端的に示している。この方も、誤解されている。

 ブッダは決して「教学」を提示したりはしなかった。そんなものは要らないということをむしろ示されていた。

 しかし教学無くして教団は形成しにくい。それで、致し方なくブッダが「言葉を超えて」示されていた、たとえば「拈華微笑」のような境地を、都合をつけ、整合化した「教義の言葉」に置き換え、強いて「論理化・理論化」し「哲学化」してきた。それを、ブッダ没後に忽ち分散した「宗派・宗団」のめいめいの旗印に掲げた。

 根元の佛教は、なんら哲学ではない。哲学はもともと宗教ではあり得ない。哲学は、人間をけっして救わない。「救い」とは何であろうか、少なくも百千万の哲学をもってして、人はけっして根から救われたりしないんだという「真実」を、かろうじて人に察知させるためにのみ「哲学」は存在価値をもってきた。そういうものだと、優れた哲学者は承知していた。哲学では、竿頭をさらに一尺先の空へは踏み込めない。哲学的な学業において最高の智慧者といわれた法然上人が、そういう哲学(分別)一切の無意味を抛擲し、ただ一念の「南無阿弥陀仏」に帰したことは、真に驚くべき先覚の例であった。

 思い出すが、高校性の頃、当時ベストセラーであった、高神覚昇の『般若心経講義』をはじめて読んだとき、わたしを夢中にさせ鼓舞したのは、「無」や「空」や「無心」の自覚ではなく、この「心経」がはらんでいた壮大な論理構成・論理的な世界把握であり哲学的認識であった。わたしは先ずそっちへ夢中で惹かれ、手を拍って興がった。うわあ、うわあと声に出し、心経が披瀝しているリクツ・分別の精緻さに感銘を受けた。だが、肝腎の般若の智慧である「無心」や「無」「空」の方は、棚上げどころか何一つ「気付き」も「気付こう」ともしていなかった。

 佛教に惹かれる人は、大方がまず例外なく、壮麗で雄大な哲学だ、理智の理論だといわれる。そうしてまんまと邪路・迷路に落ちこんでしまわれる。法然のように、蓄えたその手の学識を真に抛擲することは容易でない。一度哲学として佛教を観じ、扱い、学習した、僧も俗人もまた聖職・教学者も哲学者も、ブッダの根源からは離れ離れ、遠ざかって行く。「覚性」から遠ざかって行く。そして彼等が誇らかに、しかし実はバカげてかかげる旗印が、分別・理義としての「心」と称するアレなのである。「無心」ではないのである。平然として、本来「諸悪の根源」というに等しき「心」で以て、仏や人生を説くのである。ひいては「教育」の護符にするのであるが、そのために教育の現場はますます混濁してしまっている。

 

* もう一度繰り返しておくが、ある日のペンの理事会で「教育」が話題になり、当時ペンの会長であった哲学者梅原猛氏は、学校でもっと「心」の教育をし、学童にもっと「分別」をつけなくてはいけないと猛弁された。

 わたしは、即座に、安易に「心」をふりまわすなどとんでもないこと、「心=マインドは諸悪の根源」でもあるのだからと言い、そのとき隣席していた瀬戸内寂聴さんは、間髪を入れず、「秦さんの言う通り」とその論議に決を下した。「心」を軽々しく口にする人ほど「心」の不確かに危ういことを知らない。

 これだけでは誤解も招くか知れない、が、わたしは「心は頼れない」と観ている。心を頼ってたやすく支離滅裂に陥ることは、日々の自身の心の動きをよく観察していれば、すぐ分かる。

 千々に砕けて乱れやすいのが「心」だ。何故か。心の働き・方法が、まさに「分別」することだから。アレを棄ててコレをとる。際限なく分別して行き、しかし本質は掴み出せない。

 端的に言う「静かな心」で在れるなら、すばらしい。つまり「無心」に成れるものならばすばらしい。禅那とは「静寂」「寂静」即ち「無心」に在ることであって、われわれがやたら振り回す「心」とは、この「無心」とは遠く離れた、似も似つかない諸悪の根源、ただの「心理」という玉葱の皮なのである。ブッダの教えも般若心経の教えも、まさに「無心」を通じて「覚性」つまり見性に至れ、「安心」とはそれだということであったろうと、わたしは察している。

 だからこそ、わたしは、佛教を、学問として、知識として、教義として、哲学として聖職の虚名のもとに切り売りしている業者たちを、ほとんど信頼しないのである、聴いていたらすぐ分かる、二言目にはじつに安易に「心」を売りに持ち出すから。

 

* >> 仏像にしてもそうです。美術品として素晴らしい仏像も多いのは知っていますが、末寺の仏像の(阿弥陀にしろ大日にしろ、各観音像にしろ)スキだらけで、とても手を合わそうなどとは思えません、ましてやその周囲の飾り付け……、果てはカーペットの敷いてあるような本堂、何をかいわんやです。一体どういうことなのでしょう、私などのように佛教にうといものでも佛教ってこんなもの? と思ってしまいます。

 

* 人とは、意識し無意識にも、いろんな何かに抱きつき、しがみつき、そんな「抱き柱」を頼んで、辛うじてこの世に立っている存在である。信念と言おうと、覚悟と言おうと、それ自体が容易で安直で無意味な「抱き柱」以上のものでない例が、じつは殆どであろう。

「抱き柱は要らない」と自覚したのは、わたしの場合、数年前であろうか、しかしそのわたしも、「要らない」のは確かだけれど、では「抱いていないか」と問いつめれば、はいと断言しにくい。自分の言説を少しでもわるく意識すれば、それ自体が忽ち新たな「抱き柱」に変ずるのを知っているからだ。

 わたしは、他の人にむかって「抱き柱」を離れなさいなどと、けっして言わない。人は、それぞれである。ただ、「抱きつく」という執着のママで「覚性を得る」ことはあり得なかろうなと、うら悲しくなることがある。

 俗宗教のわるいところだと思うが、修業や苦行で「無心になれる」などというのは、悪しき錯覚に過ぎない、それ自体が無心からあまりに遠い我執なのだから。

 わたしは、なるべく無心に、ただなにかを「待つ」だけで、そのほかにしたいことも、出来ることも、有るとは思われないで居る。

 上のようにこの手紙の方が苛立たれるのも、「そんなこと、放っておかれては」と言ってあげたくなる。「佛教ってこんなもの?」という不審や不信は、実際は成り立ちにくい疑念なのである。ブッダに直に帰るしかないとすれば、やはり「拈華微笑」を覚るのが早いのではないか。

 

* ま、こんなふうに、お返事しておこう。わたし自身が、なあんにも分かっていないし、分かろうという意欲もない。「分かる」という言葉自体が、あれかこれかの「分・別」を指し示しているが、分別をどこまで続けても玉葱の皮を剥くに過ぎないだろう。

ああだこうだではない、ああだこうだ、あれはダメでこれがイイと「分別する心」そのものが、いわば地獄の苦でしかあるまいに、と思うのである。この苦を抜くのは、容易でないが、それに気付いているから、わたしは無理な苦行をしないで、「待つ」のである。

 2005 12・4 51

 

 

* スワミ・アナンド・ソパン氏の訳を有難く頂戴して、以下に掲げてみる「達磨大師」の語録、それに引き続いてバグワンの言葉は、胸を打つ。

 断っておくがボーディ・ダルマの語録は彼自身の執筆でなく、彼の教えを聴いたと思しき後生による筆録である。わたしにすら訂正できる簡明な誤解を随処に伴っているが、バグワンは、さらに、初めて此処で、ボーディ・ダルマ自身の誤りをも強く糾明している、そこがとても大切なところだ。わたしは、バグワンの言を心して聴く。

 かつてこれほどのバグワンを「危険人物」と見なしてわたしに、触れるなと言った某大新聞の記者がいたし、また某作家もバグワンを何も知らないまま侮蔑の言を吐いてわたしを嗤ったことがある。

 

* (ボーディ・ダルマ=達磨大師が、こう語っている。) 釈迦牟尼(シヤーキヤムニ)の十大弟子中、阿難(アーナンダ)は学問においてもっとも秀でていたが、仏陀を知らなかった。ただ広く学を修め、多くを聞いたにすぎなかった。阿羅漢(アルハト)は仏陀を知らない。知るのは数々の悟りのための修業のみ、ついには因果の罠に陥る。死を免れぬ衆生の業(力ルマ)とはこのようなものだ。生死を免れることができない。その為すところ本意にそむき、ついには仏陀を辱める。この者たちを殺すことは誤っていない。経文に言う。「一闡提(イッチャンティカ)は信心を守れないのだから、殺しても咎めを受けない。なぜなら、他方には仏性の成就を固く信ずる者もいるからだ」

 自らの(無)心を仏(ブッダ)と知る者は剃髪の必要がない。俗人もまた仏だ。自らの本性を知らないなら、剃

髪者もー介の狂信家にすぎない。

 「しかし、妻子ある俗人は愛欲を捨て去りません。いかに彼らが仏に(ブッダ)成りえましょう?」

 私は自らの本性を見抜くことしか語らない。愛欲について語らないのは、ひとえにおまえたちが本性を見抜いていないからだ。ひとたび本性を見抜けば、愛欲はもともと取るに足りないものだ。それは見性の喜びのうちに消え去る。たとえなにかの習わしが残っても害はない。本性は本来清浄無垢であるからだ。たとえ五つの集積(五蘊)からなる物の身体に住まおうと、本性は本来清浄無垢であり、腐敗堕落することがない。

 固執をやめ、万事をあるがままにあらしめるなら、ただちに生死中に大自在を得る。いっさいが変容され、あらゆる妨げをものともしない融通無碍の霊力が得られる。どこにあってもただ安らぎしか見いださない。これを疑う者はなにひとつ看破しえない。最善はなにごとも為さぬことだ。ひとたび為せば、生死の輪廻は免れえない。だが本性を見抜く者は、屠殺人であろうと自らを仏(フッダ)と成す。

 「しかし、屠殺人は殺生することで悪業を犯します。いかに自らを仏と成しえましょう?」

 私はただ見性の一事を語る。業を犯す云々は語らない。なにを為そうと、業は人を制しない。

 西天(インド)の二七人の祖師たちはただ心印を伝授したのみ。私がこの国(中国)に到来した唯一のわけは、この大乗の即座の教え、「(無)心こそ仏なり」を伝授するためだ。私は戒めや施し、苦行は語らない。

 言葉や動作、見聞や覚知はすべて動いている心の働きだ。あらゆる動きは心の動きより起こる。だが、(無)心は動きもせず働きもしない。あらゆる働きは本来空であり、空には本来いっさいの動きがないからだ。

 ゆえに経文に言う。「動かずして動け、旅せずして旅せよ、見ずして見よ、笑わずして笑え、聞かずして聞け、楽しまずして楽しめ、歩かずして歩け、立たずして立て」と。またこうも言う。「言葉を超えよ、思いを超えよ」

 さらに説くこともできたのだが、この手短な論でこと足りよう。  (達磨大師語録)

 

* この達磨発語の大要はむろんすばらしく立派なもので敬服のほかはないが、また明らかに一つの偏向をみせてもいるのを、以下にバグワンは敬意を籠めて訂正しようとしている。

 

* (バグワンは説いている。) これら(上記)の語録におけるボーディダルマの教えは、尽きることのない興味を呼び起こすものであり、すべての真理の巡礼者にとって計り知れない重要性を持っている。だが、ここにはいくつかの誤った言明がある。これは初めてのことなのだが、おそらくそれらの言明は弟子たちの誤った理解から生じたものではなく、ボーディダルマ自身が犯した過ちだ。

 それゆえに、語録に入る前に、私(バグワン)はいくつかのことを明確にしておきたい。

 まず、ゴータマ・プッダの教えは二種類の探求者たちを生み出した――ひとつは「アルハト(阿羅漢」と呼ばれ、もうひとつは「ボーディサットヴァ(菩薩)」と呼ばれる。

 アルハトは光明(=悟り)を得るためにあらゆる努力をするが、ひとたび光明を得てしまうと、まだ暗闇のなかで手探りをしている者たちのことは完全に忘れてしまう。彼は他人にはいっさい関心がない。光明を得るだけで充分だ。実のところ、アルハトによれば、慈悲という高邁な考えですらやはり執着の一形態ということになる――これには理解されるべき深い意味がある。

 慈悲もやはり関係性だ。いかにそれが美しく高邁なものであろうと、やはりそれは他人への関心だ。それは依然として欲望だ。善い欲望であったとしても欲望であることに変わりはない。アルハトによれば、善い欲望にせよ悪い欲望にせよ、欲望は束縛だ。その鎖が黄金でできているか鉄でできているかは問題にならない。鎖は鎖だ。慈悲は黄金の鎖だ。

 アルハトの主張によれば、誰ひとり他人を救うことはできない。誰かを救うという考え自体が誤った基盤に基づいている。人は自分自身しか助けることができない。

 凡庸な精神(マインド)は、アルハトはなんて利己的なのだろうと考えるかもしれない。だが、いっさいの先入観なしで見たら、おそらく彼もまた世界に宣言すべきこのうえもなく重要ななにかを持っている。他人を救うことですら、その相手の生や生き方、彼の天命や未来にとっての干渉となる。それゆえに、アルハトは慈悲というものをいっさい信じない。彼にとっては、慈悲心は自分自身をこの執着の世界につなぎ止めておこうとするもうひとつの美しい欲望でしかない。慈悲心とは欲望の別の名前だ――美しい名前かもしれないが、欲望する心(マインド)につけられた名前であることに変わりはない。

 なぜ他人が光明を得ることに関心を持たねばならないのか? 自分とはいっさいかかわりのないことだ。誰にも自分自身であるための絶対的な自由がある。アルハトは<個>を、その絶対的な自由を主張する。たとえ善意からであろうと、ほかの誰かの生に干渉することは誰にも許されない。

 それゆえに、アルハトはたとえ光明を得ても弟子を受け容れない。けっして教えを説かないし、いかなる方法でも誰かを助けようとはしない。彼はひたすら自らの歓喜(エクスタシー)のうちに生きる。自力で彼の井戸から水を汲める者がいたら彼はその者を妨げないが、人を招待することはしない。あなたが自分から彼のもとにやって来てかたわらに坐り、彼の臨在を飲んで旅を続けるとしたら、それはあなたが勝手にやっていることだ。たとえ道に迷うことになっても、彼はあなたを止めたりはしない。

 ある意味で、かつて<個>の自由にこれほど大きな敬意が払われたことはなかった――まさにその論理的極限だ。たとえ深い暗闇に陥っている者がいても、アルハトはただ静かに待つ。彼の臨在がなにかの助けになるのなら、それはそれでよい。だが、彼はあなたを助けるために自分自身の手を動かそうとはしない。あなたをどぶから引き上げてやろうと手を貸したりはしない。どぶに落ちるのはあなたの自由だ。それに、どぶに落ちることができたのなら、そこから出ることも充分に可能なはずだ。慈悲という考えそのものがアルハトの哲学とは無縁のものだ。

 ゴータマ・プッダ(釈迦牟尼如来)は、何人かの人々はアルハトになるだろうことを認めていた。そして彼らの道は、たったひとりの人しか彼岸に渡すことができない「小舟」のようなものなので、「ヒーナヤーナ」「小乗」と呼ばれることになると考えていた。アルハトは、「大きな船」をつくり、そのノアの箱船に群衆を集めて彼岸まで連れてゆこうとは考えない。彼はただひとりで行く。二人と乗れない小さな舟で。彼は独りでこの世界に生まれ、独りでこの世界を生き、独りで死んできた。何百万回となく。彼はたった独りで宇宙の源泉に向かおうとしている。

 仏陀はアルハトの道を認め、それに敬意を払ったが、一方にはこのうえもない慈悲心を持っている人々がいることも知っていた。彼らが光明を得たとき、まず最初に起こってくるのは自らの喜びを分かち合い、真理を分かち合おうとする熱望だ。慈悲が彼らの道であり、彼らもやはりなにかの深遠な真理をたずさえている。

 これらの人々はボーディサットヴァ(菩薩)と呼ばれる。彼らは他の者たちを同じ体験に招き、いぎなおうとする。彼らは道を歩む用意ができている者たち、ただ道案内が必要なだけの、助けの手が必要なだけのあらゆる探求者たちを手助けしようとして、できるかぎり長くこちらの岸辺にとどまろうとする。ボーディサットヴァは、暗闇で手探りをしている盲目の人々への慈悲心から、彼岸へおもむくことを延期することができる。

 仏陀には、この両者を受け容れるに足るだけの包括的で広大な視野があった。彼によれば、ある人々がアルハトになるのは、それが彼らの本性だからであり、またある人たちがボーディサットヴァになるのも、それが彼らの本性であるからだ。

 これがゴータマ・プッダ(釈迦如来)の立場だ。それはありのままの実情であって、どうすることもできない――アルハトはアルハトにとどまり、ボーディサットヴァはボーディサットヴァにとどまる。どちらもその最終の目的地に到達するのだが、彼らの本性にはそれぞれに異なった天命がある。目的地に到着したあと、道は二つに分かれてしまう。

 アルハトはこの岸辺(此の世)にただの一瞬もとどまろうとはしない。彼は疲れ果てている。このサンサーラの車輪に充分に長くとどまり、誕生と死のあいだを何百万回も巡りに巡った。もうたくさんだ。彼はうんざりして、これ以上は一瞬たりともとどまりたくない。迎えの舟が到着すると、彼はただちに向こう岸 (彼岸・あの世)へと渡りはじめる。それが彼の<あるがまま>だ。

 だが一方には、船頭にこう告げることのできるボーディサットヴアがいる。「待ってください。そんなに急ぐことはありません。たしかに私はこの岸辺に充分長くとどまりました――惨めさや苦しみや、苦悩や苦悶のなかに。でも、いまやそれらはすべて消え去っています。私は絶対的な至福と静寂と安らぎのなかにいます。それに向こう岸にこれ以上のなにかがあるようには思えません。 ですから私はできるかぎり長くここにとどまって、人々の手助けをしたいのです」

 たしかにゴータマ・プッダは矛盾のなかにすら真理を見いだすことのできる人のひとりだった。彼はどちらにも自分の方が優れているとか劣っているとか感じさせることなく、その両者を受け容れた。

 しかし、ボーディサットヴァは自分の道を――――アルハトの道に対して――「マハーヤーナ」「大乗」「大いなる船」と呼び、こう考える。「アルハトの舟はただの小舟でしかない。なんて貧しい連中なんだ。たった独りで行ってしまうなんて」というわけで、ゴータマ・プッダ以後二五〇〇年の長きにわたって、これら二つのアブローチのあいだには絶え間のない葛藤が続いてきた。

 ボーディダルマはボーディサットヴァに属している。それゆえに彼はアルハトを中傷する多くの、真実ではない言明をしている。

 私(バグワン)は、アルハトにもボーディサットヴァにも属さない。私はいっさい仏陀の道には属していない。私には私自身の展望(ヴィジョン)、私自身の洞察がある。だから、なにからなにまでボーディダルマに同意しなければならない筋合はない。それにとりわけこの点に関しては仏陀ですら彼には同意しないだろう。ボーディダルマはある特定の派閥の信奉者だ。

 第二に、彼(達磨)は荒くれ者、きわめて恐ろしい人だった。彼の肖像を見たことがある人はわかるだろう……その絵は子供たちを恐がらせるには充分だ。だが、それは彼のほんとうの姿ではない。彼は王子だった。南インドの偉大な王、強大なパラヴァス帝国の王、スハー・ヴェルマの息子だった。彼は美しい人だったにちがいない。これらの絵は彼の実際の姿を描いたものではない。それは彼の奇異な個性、その無法性を描写している。

 だから、彼はいくつかの点であなた方が容認する必要のないことを言っている。彼は自分がマハーヤーナという特定の派閥、特定のイデオロギーに属しているというだけの理由で誤ったことを述べているが、私はその箇所をはっきりと指摘したい。私はゴータマ・ブツダと同じように、アルハトとボーディサットヴァのどちらにもこのうえもない敬意を感じている。  (バグワンの語録)

 

* バクワンは達磨の否認者ではない、彼ほどボーディダルマを敬愛し信頼し帰依している人はいないだろう。バグワンは誰よりも老子と達磨とに、最も「自分自身」を感じている人だ。そのバグワンはまた、阿羅漢と菩薩との行き方を二者択一しない。人には人の本性があり、本性の無垢に随うまでと認め、さらに進めて慈悲心を優れて尊く認めつつそれもまた高貴な一つの我であり執着であるとすら洞察している。

 わたしは、このような強い認識から遥かに遠い、無縁の存在でしかないけれど、こういうバグワンの理解に初めてふれたとき、やはり眼の鱗を落とした気がした。何度目にも成る読みの途中で、なぜともなくこの個所をわたしは自ら書き写したくなった。

 2005 12・9 51

 

 

* 和歌山の読者から前に、お手紙をもらって「佛教」の話題に及んだが、おおむね納得されたようでも、根本にまだ残る問題があるようだ、「佛教本来の佛教」としてSさんは、「佛教って何を説いたのだろう」と自問され、本当は「人間としてのふるまい」ではなかったのか、と自答されている。

「佛教本来の佛教」を、「ブッダ」として大悟されたゴータマブッダ=釈迦如来の本源の導きと意味するなら、このSさんの自答は、まだ、よほど隔たった遠いもので。

「ふるまい」というと、善き行いの意味ともなり、取りようでは、いわゆる「道徳=モラル」に近づいてくる。人間社会に道徳モラルは大切であろうが、菩薩が大乗の船にみちびいて、多くと共に彼岸に赴こうという慈悲の向かうところが、「人間としてのふるまい」よろしき善男善女をというのは、やはり「佛教本来の佛教」とはかけはなれた、後生の解釈になるのではないか。

 もとより「無心」「無作」のうちにあらわれる善行は、尊い。だが、「無心」「無作」はそのように簡単な前提ではあり得ない。それこそが、在りたき真の核心であり、人は、容易に容易にはとても「無心」にも「無作」にもなれない、「静かな心」になれない。もし、そうなれるなら、忽ちに善悪、美醜、賢愚等の世の常の二元対立=単なる分別心から離れられる。自身を離れて自身の本性そのものが、分別ならぬ「ブッダ」であると気付く。

 この「気付き」に到れば、極楽も地獄もない、善も悪もない、道徳でもふるまいでもない「無心自在」「自然法爾」を示現して、生死を超越する。釈迦は、そのように根元の佛教を体験し提示されたのであろう、あやしげに私が推察するに。

「人間として」という前提にも、我執、が出る。「ふるまい」に善悪や美醜を分別して善につき美につこうとする、その際にも我執・我慢や我褒めが生じるのは防ぎようがない。それらはみな「心=マインド=分別=我」の働きにあり、「無心」「無作」とは成りようがない。「困っている人が手助けをする」「自分を育んでくれているものへの報恩感謝」「慈しみの気持ち」「悪に対する怒り」「善に対する賛同」等々、みな善きことであり、人間社会の道徳モラルとして結構であり、誰も反対したりしない。しかしそれらが「無心」「無作」の「行為」たりうるかというと、容易ならぬ、場合により自己矛盾や撞着を示すだろう。前提になっているそれら善行自体が「無心」「無作」と直ちには重なりにくいからである。「有心」の「作意」に成りやすいからである。

 大事なのは、善行か無心かなどと「択一」の問題にすべきではない。ブッダは善行せよ、宜しく振る舞えとは教えていない。自身のうちなるブッダに「気付き」なさい、そうすれば四苦八苦も滅し、生死の苦を超越できる。そのためには「静かな心=無心=無作意」の「無我」を「見性」「覚性」すること、と。

 こう言葉に置き換えるだけなら、愚かな私にも出来る。これの真の体験は、しかしながら、容易でない。が、つまるところ、そうなのだ。それだけだ。それが難しい。成ろうとして成れるものでないからだ。わたしは、ただ、「待って」いる。

 

* もう一つ、Sさんの呈されている問題で大きいのは、「不立文字(言葉に頼らない)」か「経典信頼」か、ということ。

 Sさんは大切なのは「経典」を「どう読むか」ではないか、と言われる。「不立文字」「教外別伝」となると、一寸……と。

 これは大問題であるが、わたしの率直な思いは、いわゆる仏法僧という、「法」は、大蔵万巻の「経典」にあるのか、あの「拈華微笑」にあるのか、むろん後者だということ。見性し覚性し無心に達した人であるならば、はじめて万巻の聖典は(例えば)己の境地の確認の為だけの役に立つであろうが、それへ達していない者には、ほとんど何一つの役にも立たないのが聖典というもので、強いて役に立てようとすると、忽ちに経典が即座にただの通俗な「道徳書」に変じてしまう。そのようにのみ使われてしまう、と。それどころか、ますます自我について離れがたく、無我の無心へは遠のくばかりになる、と。

 知識や解釈のための聖典・経典では何の意味もない。道徳的な意味でのみの善男子・善女人をあるいは量産するかもしれないが、一つ間違うと道徳を我褒めしてしまうエゴイズムに走ってしまう恐れがある。悪人も困るけれど、自分は善人であると善行を勲章の替わりにしていると、偽善になる。偽善だって善のウチだからいいと思いますがという言葉を、以前やはり読者のひとりから聴いたことがある。議論のしようもない。

 大蔵万巻の佛教の経典の全部が、釈迦ではないはるか「後生の著作」であり、著作者の理解と解釈と主張とをこめた意見であり、同じく佛徒でありながら、正反対ともいえる立場をとっている。菩薩(大乗)派と阿羅漢(小乗)派とはずいぶん違い、互いに他を否定し合っている。

 ところが「佛教本来の佛教」において釈迦はその「双方の在りうること」を容認している。それが「佛教」である。その釈迦は、生涯に一巻の聖典も自身の筆で書いていない。厳格なこの「事実」をどう「読む」のか、それが大事である。わたしは、万巻の後生の解釈より、「拈華微笑」の伝説に尊いものを覚える。おなじことは「イエス」の聖書にも謂えるだろう。

 2005 12・12 51

 

上部へスクロール