* 全幅の敬愛をもってもう十年読みついでいるバグワンの言葉を、いましもまた繰り返し読んでいる『ボーディダルマ』から、スワミ・アナンド・ソパン氏の訳を有難くかりて、年初の想いとして、少し書き写しておきたい。
* バグワン・シュリ・ラジニーシ(和尚)は語る。
あなた方が世界のなかに見るものは、実在(リアリティ)ではなくて現われにすぎない。見かけの形、仮面の奥深くには実在がある。実在を知るには、見かけの形から自由にならなければいけない。だが、執着のすべてがあなたを阻んでいる。あなたは仮面に執着してしまっている。私たちが成長し、成熟するのはまれなことだ。私たちはただ自分の玩具(おもちゃ)を取り替えつづけている。私たちはずっと子供のままだ。あなたは自分の〝ぬいぐるみのクマ”(テイディ・ベア)を次から次へと取り替えてゆく。
鉄道の駅や空港で見かけたことがあるかもしれないが、小さな子供が汚いぬいぐるみのクマを引きずりまわしている。だが、彼らはそれをどうしても手放せない。それがなかったら眠ることができない。ぬいぐるみのクマは彼らの仲間だ。彼らは大きくなるとぬいぐるみのクマを手放すが、ほかのぬいぐるみのクマが見つかって初めてそれを手放す。次のぬいぐるみのクマがどんな形をしているかは問題ではない……それは、金銭だっていい。
あなた方は醒めていないから、自分では気づいていないかもしれないが、ちょっと目を向けてみなさい。なにが自分のぬいぐるみのクマなのか、見つけることができるかもしれない。
この世界のあらゆる形象は、あなたがこの世界の実相(リアリティ)、自らの存在の実相を知ることを妨げている。現われているものは実在(リアリティ)ではない。実在は現われの背後に隠されている。この実在と調和しないかぎり、夢と同じ素材からできているさまざまな形象は、絶えずあなたを苦しめつづけるだろう。誰もが苦悩や惨めさを感じているが、それを落とす方法があるようには思えないので、それを生きつづけている。
だが、ボーディダルマ(達磨)はその方法を敢えている。そしてこれはあらゆる宗教にとって本質的な方法だ。それは離脱、「見せかけの形」から自由になることだ。
経文に言う。「離脱すなわち悟りであるのは、それが形象を無に帰するからだ」。
三つの境界は、貪欲、怒り、妄想だ。
あなた方はこれら三つの境界をよく見守らねばならない。というのも、これらが光明(エンライトンメント=悟りへの至近状態)を得る上での三つの障害になっているからだ。
ボーディダルマの言明はきわめて簡潔で、凝縮されている。彼は哲学的な議論には立ち入らない。彼はただ事実のみを語る。それが彼の美しさだ。彼は宗教全体を、その抜け出す方法を、ごくわずかの言葉に還元している。
貪欲とはあなたの攻撃性のことだ。
それは「さらに多くを求めつづける」欲望だ。
それはけっして止まることがない。その欲望はさらに多くを求めつづける。さらに多くを求めつづけるので、あなたはいつも惨めなままでいる。どんなものを持っていても、あなたはそれを楽しむことができない。「もっと多く」を持っていないからだ。だが、あなたがもっと多くを持つようになる頃には、欲望は、さらにその先に行ってしまっている。それ(貪欲)はつねにあなたよりも先にあって、さらにさらに多くを求めつづている。
さあ、なにかを期待してばかりいる人が、幸福で喜びに満ちていられるだろうか? あなた方はつねに現実の許す以上のものを期待している。いつも挫折の感覚がつきまとうのはそのためだ。あなたの存在のどこかにはつねに悲しみが潜んでいる。
貪欲とは〈存在〉に対する攻撃的な姿勢だ。あなたはできるだけ多くをつかみ取り、さらにさらに多くのものをつかみ取ろうとする。生涯を、全知性を、もっともっと多くをつかみ取ろうとすることに費やして、それがいったいなんになるのか? 死は一秒たりとも遅れては来ない。死はつねに正しいときにやって来る。つかみ取ったすべてのもの、生涯を費やしたすべてのものを、あなたはここに残して行かねばならない。
世間にはあらゆるたぐいの強欲な人々がいるし、自分の内側にもあらゆるたぐいの強欲さが見つかる。そしてこの強欲が満たされないとき、怒りが起こってくる。欲求不満が起こってくる。あなたは世間に対して怒りを覚え、自分に対しても怒りを覚える。誰に対しても怒りを抱くようになる。
どの年寄りにもそれを見ることができる。なぜ彼らはあんなにいらだっているのか? どうして彼らはあんなに鼻持ちならないのか? 彼らは欲求不満の人たちだ。彼らはその一生を、「もっともっと多く」をつかみ取ろうとすることに費やした。だが、その「もっと」に満足できたためしはなかった。いまや彼らは生に怒りすら感じている。ほんのちょっとの口実を見つけては怒りだす。強欲がその根本原因だ。強欲が満たされないとき、あなたは結果として怒りや失望、いらだちや挫折感を味わうことになる。
そして怒りや失望や挫折感から第三のものが生じてくる――妄想だ。妄想は、ひとつの慰めになる。
妄想は、あなた自身をなんとかひとつにとりまとめておくためのものだ。
誰もがなんらかのたぐいの妄想を抱いている。誰もが自分の実情とは違うものごとを考えている。だが、これらの妄想は潤滑剤としては役に立つ。それはあなたがどうにか生きていくための助けになる。
それ(妄想)はたいへんな慰めだ。たとえ首相になることができなくても、少なくとも自分は首相だという妄想を生み出すことならできる。現実には大金持ちになれなくても、自分は大金持ちだと「信じる」ことならできる。自分の妄想を確固たるものにしてしまえば、誰ひとりそれを変えることはできない。
妄想は、あなたのなかにあまりにも深く定着してしまっている。人が妄想を抱くのは、休みなく失意のなかで生きることがきわめて難しいからだ。あなたは自分が手に入れていないものを自分のものだと信じはじめる。自分自身の心(マインド=分別・思考)のなかをのぞき込んで、どれほど多くのものがたんなる妄想にすぎないかを確かめてみるといい。
ボーディダルマは言う ー
これらの三つの境界は貪欲、怒り、妄想だ。三界を離れることは、この貪欲、怒り、妄想から退き、徳行、瞑想、智慧に立ち戻ることだ。
道徳性と瞑想と知恵は、実のところ三つの別々のものではない。ただ名前が三つあるにすぎない。
確実なのは「瞑想」だ。瞑想はあなたの生に一方では道徳性をもたらし、他方では知恵をもたらす。だが、直接、知恵を達成しようとしてもなにひとつできない。直接、道徳的になろうとしてもなにひとつやれない。だが、瞑想についてならなにかをすることができる。瞑想ならあなたは直接することができる。道徳性と知恵の両方はその副産物として生ずる。あなたの行為には道徳性が備わり、知恵はあなたの英知、(気づき)、最終的な(光明=エンライトンメント)となる。
たしかに私の見方からすれば、すべてはいずれ奪い去られてしまうものだ。それなら奪い去られてしまう前に、それを使い、費やし、楽しむほうがいい。なぜ死がそれをもぎ取ってゆくまで待っているのか?
宗教は、あなたの心臓の鼓動のようなものになるぺきだ。
瞑想は、あなたの呼吸のようなものになるべきだ。なにをやっているときでも、呼吸はかならずそこにある。それは遊離した行為ではない。そうなって初めて、あなたの存在のすみずみにまで瞑想性が染みわたる。
心は空であると知ることが仏陀を知ることだ。十方の諸仏には心がない。心などないと知ることが仏陀を知ることだ。
さあこれでわかるだろう、なぜ私が(ボーディダルマの)弟子たちは誤って(師の教えの)記録を取っていたと力説したのか。これこそ正真正銘、ボーディダルマの言明だ。覚者(ブッダ)には心がない(無心がある=ハブ・ノー・マインド)。心などないと知ることが仏陀を知ることだ。
だが、なんとも奇妙なのは、これらの語録は千年ものあいだ存在してきたのに、誰ひとりこの矛盾に気がつかなかったということだ。おそらく宗教的な人々は盲目なのだろう。彼らは盲信の人だ。だから、それが目の前にあり一目瞭然であっても、少しもその矛盾に気がつかない。
* 心は諸悪の根源になりうる。無心=静かな心になれるかどうか、だとわたし(秦)も思う。
2006 1・2 52
* 右の脹ら脛へ強い痛みが来て攣りかけたので、危うくのがれたまま、起きた。血糖値は正常。
誰であったか、確か『解体新書』の杉田玄白であったと思うが、彼は自身の体調の違和について、じつに綿々と書きのこす人であった。読んでいるとグチのようであるが、自身を「客観・観察」している人の「記録」と読むべきだろう、バグワンもよくそれを訓えている。体調の違和や苦痛を、離れて観察せよと。違和や苦痛と「一体化」してはならないと。他人事のように観察し、同様に自身の「心=マインド」と一体化せず観察し、「落とせ」と。重大で、大切な示唆であると思う。
仏陀が、数え切れないほど天文学的な期間を閲して光明を得る enlightenment ことが出来ると、もし述懐し教戒したことがあったにせよ、それは、彼自身が真に光明を得る以前の弁で、そんなものは「夢」の譫言に過ぎない。仏陀の教えでは、光明を得て後の言葉だけが聴くべきもの、それ以前の言葉は凡夫の弁となんら変わりない夢中の弁舌であり、聴いてはならない、とバグワンの言うのは、当然なこととわたしも受け容れている。
ボーディ・ダルマ=達磨は、光明をえるのに天文学的な期間の修業が必要などと言うのは譫言に過ぎない、光明を得るにはただ自身の「心=マインド」を観察し、放し、落として「静かな心=無心」になることだと喝破していた。バグワンはこれに全面同意している。修業や経典から光明が得られるなどと思うのは、悪しき「分別=知識行為」にほかならず、分別という自我を抱きこんだまま、無心の光明に至れるワケが無い、人が「自我の分別と一体化」したままブッダに成るわけがないと、達磨やバグワンが言うのは、あまりに明白な真実である。
自我・自身をつきはなして「観察」し「傍観」せよと。当然のことである。その目撃の事実を口にするのは、グチでもなにでもない。
2006 4・22 55
* いま、バグワンを読んでいて、妻に、なんでバグワンを声に出して読むのと訊かれた。空念仏とでも思ったかな。
読み始めて十余年になる、ほとんど一日も欠かしていない。が、わたしは、バグワン・シュリ・ラジニーシを、気休めの薬用や、ただの日課・習慣で読んできたのではない。勉強でもなく、受け売りしたいのでもなく、まさに「一語」一切会、無心に耳に深く聴いて音読している。語句を記憶しようとか言葉を知解しようとか、全く思わない。いわば感嘆・嘆美そして尊敬の思いで、こころから頷いて読んで聴いて、こころから嬉しく読んで聴いている。だから十年もその余も読みやめようなど、夢にも思わないでいられる。
いっこうにバグワンを読んでいる効果が上がっていないじゃないのと妻は言いたいのであるらしいが、遠く及ばない高い峯は、振り仰いでいるだけでも、心嬉しいということを、べつに分かってくれよとも、わたしは願わない。
バグワンに出逢っていなかったら、あるいはわたしはとうの昔に死んでいたかも知れぬのである。いつか闇の底から光りが生まれ出て、わたしは気づき目覚めるだろうが、「気づきたい」「目覚めたい」と努力など少しもしない。するなとバグワンが言うのだから、わたしは何もしない。
待っている。間に合えば嬉しいがと、その程度に思っている。わたしは理解者でも信徒でもない。世界史に一人か二人ほどの人のようだと感じているだけで、それが正確だとも的確だとも主張もしない。
2006 7・26 58
* 「今・此処」で内発する「行為」だけをせよ、「過去」に催されてする「行動」はするなと、バグワンは、いつも言う。バグワンに聴くとき、最も厳しい難しいのがこれだと凡俗の私は、へこむ。腹が空いたら食べよ、食べるために食べるなという意味に、しいて翻訳・翻案して聴いているが、容易なようで容易なことではない。行為していればリラックスできるが、行動していてリラックスは出来るモノでないと聴くと、わたしもその通りだと思う。
行動的にしたいこと、心の催しとしてしなくてはならんなあと思う用事、たくさん抱えている。それにもかかわらず、今日は何もしなくていいんだと、ゆるやかに身を「今・此処」に預けたように茫然とし放念しているときが、昔より遙かに増えている。なあんにもしなくていいんだ…と、それでいいんじゃないかと… 観じて、その状態に満足していられる時間空間が増えている。
* 六月七月八月と余儀ない波に煽られて「行動」を我が身に強いてすごす日々にウンザリしてきたけれど、あれらのなかにも「行為」の自然や必然に従っていたことも有るにはあった。行動らしきを行為らしきに転じて行く内発の動機というものも有るのであるかなあと思ったり。そういうぼんやりした気分に抵抗しないで身を預けているとき、とても気がらくなのである。
* 今日もそういう一日であったが、その中でも、やはりやす香を思い出し、妻とともに何度も悔い泣きに泣いた。
2006 9・1 60
* 位人臣を極めた人に、それはどんなことかと尋ねると、「はしごのてっぺんまで登ったということ、それだけの話だ」と答えたそうな。よく分かっている方である。
はしごのてっぺんに登ってみても、それまでだ。その先へ一歩を踏み出せない限り、梯子の下にいようと天辺にいようと変わりないのである。
2006 9・25 60
* こんな話よりわたしの心を呼び寄せてやまないのは、こういう時だから余計そうなんだが、バグワン。
それから好きな歌人や俳人の歌集、句集。
『井伊直弼修養としての茶の湯』という研究書を手に取ってみる。するとすぐ世外の人となり、なぜか亡き白鸚や松緑の顔が思い浮かぶ。歌舞伎舞台の『井伊大老』やテレビドラマの『花の生涯』を思い出すのか。されば連想は歌右衛門にゆき、あれは淡島千景であったか、に、行く。
人にも逢いたい、芝居の日もはやく、と。しかし難儀な糖尿診察が待っていて、不快なだけの「調停」や「審訊」もある。難儀で不快なことほど、踏み込んで受け取らねばならない。
* わたしにしても強い人間ではない、が、弱さに甘えたり逃げこんだりはしていられない時がある。ほんとうに弱いとほんとうに逃げこんで頭をかかえてしまうが、頭を上げていなくてはならないときはちゃんと頭をあげて当面するしかない。しかない、のでなく、おそらくそれが当然の精神衛生というものだ。楽しいことしか楽しめないのでは楽しみの味は単純だ。時には苦みや鹹みも楽しみとしたい。
2006 9・28 60
* 昨夜電灯を消したのは三時半。宋史、遼史、金史、元史「四史」の研究史など面白く読んでいた。
旧約聖書と千夜一夜物語の対照感覚も、相変わらず刺激的。
太平記は後醍醐の笠置蒙塵。幼稚園前だったか、町内会の遠足で笠置の岩屋までのぼったが、菊人形で歴史の語られていたのが怖くて、泣き出したのを覚えている。あの日は母と一緒だった。母が紫地にの縦縞の着物を着ていたのも懐かしく思い出せる。
そしてバグワン。
* もし人が自由であれば、その人は自然である。道徳的であろうなどと考えたりしない。道徳とは、いいかえれば掟としての法の意味にちかい。自由な人は法に従えなどと人にも自分にも言わない。自然であろうとすら言わずに自然にふるまう。
法的・道徳的人間は、自然じゃない。そうはなり得ない。もし怒りを感じても彼は自然に怒ることができない。法にすがり道徳をふりかざす。もし愛を感じても彼は自然に愛することができない。法に触れないか、道徳に障らないかと逡巡する。道徳や法にしたがってものごとを律したい人の、自然でありえたためしはない。
人が自身の自然にしたがってでなく、道徳や法のパターンに従って動こうとするとき、その人はとうてい自然であることの最も高い境地には至れない…と、バグワンは、そう言っている。
わたしはバグワンに日々ひたすら聴いている。
我が家にバグワンをもちこんだのは大学時代の夕日子だった。仲間と瞑想・瞑想とさわいでいたが、本をちらと開いてみて、これは彼女や彼等にはとうてい手に負えないと感じた。あっというまにみな抛たれて、パグワンの本は物置に投げ込まれたまま夕日子は結婚した。
娘の結婚後に、それも夕日子のいわくの「暴発」のあとに、わたしは物置からバグワンを救出し、以来今日まで正月と言わず盆と言わず、ときには旅先でも、欠かさず三冊五冊七八冊に増えたバグワンを、毎晩毎晩音読してきた。学ぼうとしてではない。わたしの思いでは世界史的な優れた人だと感じているので、ただただその言葉を聴いている。バグワンによって何かを得ようなどとちっとも願わない。ただただ読むのが嬉しくて読みに読み次いでいる。
* わたしは喜怒哀楽にさからわない。喜怒哀楽する自身を開放したまま自分がどう動いたり静まったりするかを、ただ眺めている。海は絶え間なく動いている。川は絶え間なく流れている。雲は絶え間なく去来する。同じように思考は、分別は、また感情は働き続けているが、自分は海辺に座って海を眺めている人のように、川岸に座って川の流れをただただ眺めている人のように、雲の動きをただ眺めて見送っている人のように、海のような川のような雲の空のような自分自身を、ただ眺めている。
好きにするがいい、と、自分で自分に言ってやる、あんたを「眺めているからね」と。
2006 10・3 61
* ブッダもソクラテスもイエスも、自身で書きのこしたものは、伝わっていない。弟子達の記録しかのこっていない。そんな「記録=経典・聖典」には、自然、記録者や側近の仲間達の「解釈」と「誤解」とに充ち満ちている。その証拠に同じブッタの後進達、イエスの後進達は、師の死後に忽ちに数多い「教派」に分裂して行く。よほど優れた徹底を得た人には、それら「解釈」や「誤解」や「曲解」を適切に正しうるだろうが、他の誰にもそんなことは不可能だ。
「聖典」「経典」が本当に「役立つ」のは。徹底しえた人にだけで、彼等はアハハと笑いながらいろんな経典を聖典を、フンフンと読んで自在に字句を、趣意を、取捨できるだろう、だが、われわれ凡人には、そんな成典も経典も全く役に立たない。ただ道徳めいた教えを「箇条」にしてどう掬い取っても、それは受け売り用の知識に過ぎない。少なくも宗教的な高みや深みへは、かえってそんな知識が邪魔にこそなれ、何の役にも立たない。せいぜいこの世間で「いい人」らしく見えるようになるかも知れないが、狂信の厄介人になってしまうだけかも知れない。
わたしも随分経典や聖典を「勉強」してきたけれど、受け売りの知識は蓄えられても、何の安心にも寄与しなかった。そもそも、安直に寄与する物はそれゆえに本質的に役に立たない。役に立つ知識ほど、死んで行くものには役には立たない。あしき意識だけが過剰になる。身構えてしまい待ち構えてしまい、しかし、そういう構えた人の所へはなにも訪れてこない。神も仏も悟りも安心も。そして結局「間に合わない」で終わるだろう。「間に合わそう」としてもダメなのである。
2006 10・4 61
* 漸と頓との別がある。順々に段々と。それが漸。お薬に頓服というのがある、速やかに即刻に不意に。それが頓。
たとえば、enlightenment 早い話「悟り」だが、漸で覚るのか。頓で覚るのか。前者には自然に、順序を踏んだいろんな修業や修養が、勉強が必要になる。過去世の好意や罪障に関して勘定を付け、きちんと清算することを求めるのが、漸。
そんなことは全く必要がない、そもそも過去世に積み重ねた問題に人は何の責任もない、もし罪障が積み重なったにしても、それは無知ゆえであり、無知とは勉強が足りなかったのでなく、もともと誰もが完璧に身に備えている内奥の真実に気づかなかった、寝惚けていた、目覚められなかったからに過ぎない。目覚めればよい、気づけばよい、それだけだというのが、頓。 目覚めれば即刻に、瞬時に一切が片づく。それが enlightenmentだと。
* 聖典などいくら読んでも内奥の無知は明るまない。どんな意図的な修行を重ねても決して明るまない。内奥の無知は、内奥で目覚めたとき霧消する。内奥の闇を瞑想しながら、待つとしもなく待つ、目覚めを待つ。自分は夢の中にいて夢を観ているにすぎない、それに気づけば、それから醒めれば、頓、思わず笑い出してしまうほど明快な明るさにおいて世界と一つに在る自身の無と実在とが一瞬に覚知できる。
わたしは、それを待つとしもなく待っている。どんな抱き柱にも抱きつかない。そんな執着はいらない。「今・此処」でわたしは喜怒哀楽・苦集滅道に遊んでいる。受け容れて我が身を通過させている、黙って目撃し傍観し、おもしろいじゃないかと感じている。
2006 10・11 61
* 真理・真実に到る道が、いろんな道が在る、などとそんなことを、達磨は言わない。彼は「あなたこそ真理だ」と言い、それに気づかず無明長夜を眠りこけ夢を見ながら、ひとかど生きている気で居るだけだと言う。
真理・真実のために、われわれはどこに「行く」必要もない、「行く」なんてことはやめねばならない。真理の真実のもともと在る「我が家」にとどまり、目覚め、気づかねばならない。すべて「道」は過った場所へ夢醒めぬ人を惑わせ迷わせる。そして真実からだんだん遠のいてしまう。青い鳥はついにいくら探し求めても外の世界にはいなかった。
「あなたは現に在るべき場所にすでに在る。」それに「気づく」ことだと覚者なら必ずそう言う。
2006 10・12 61
* 「なにを達成しようと達成は条件によるものであり、因果によるものだ。それはかならず応報を生じ、車輪をまわす。生死に従属するかぎり、けっして悟りは得られない。」達磨(スワミ・アナンド・ソパン訳)
「悟り」はなんらかの原因や修業によって生じる結果ではないし、一定の条件を満たしたときに得られるものでもない。達磨が「いや、宗教が人々に説きつづけているこれらのいわゆる修行によって、仏性を見いだすことはできない」と言うとき、彼の言明はとてつもなく意義深い。(バグワン)
わたしもそう思う。「財宝はそこにある、ただその被いを取り去るだけでよい。」自身存在の内奥に気づき目覚めるということ。無明長夜の夢にわたしは眠りこけている、いまも。夢と気づきかけていても、目覚める、それはいつのことか。
あせりはしない。間に合えばいい。
* わたしがいま何を思っているか、当てた人はえらい。子供のとき、そんな風に言い合って遊んだ気がする。
2006 10・16 61
* 「たとえ十二部経を暗誦できようと、そのような者は生死の輪廻を免れえない。解放の望みなきままに三界に苦しみを受ける。」達磨
「教師(ティチャー)」たちの誇るどれほど多くの知識も、それは頭脳(マインド)を多くの言葉で満たすが、彼等の「存在」は空っぽで虚ろなままだ。大博識の学者というのはたんに知識のある愚か者でしかないと、ほんとうの「師(マスター)」はその存在そのもので分からせる。ブッダもイエスも。達磨も。老子も。
2006 10・17 61
* 幼い日の娘の写真を見ている間は、老いた父と母はひととき心癒されている。なんという皮肉なことか。
* だが必ずしもそれだけではない、『千夜一夜物語』を文庫本で読み始めると、わたしはあっというまに他界に翔んでゆける。午前・午後、葬儀からの帰りの電車で本をポケットから出すとたちまち、わたしはシェヘラザーデのお噺に溶け込んでしまい、気が付くとクツクツ笑っていたりする。四百十九夜「男女の優劣についてある男が女の学者と議論した話」には吹きだした。わたしの妻にもどうか、こういう何かしら別世界をもって溶け込み、何の意義もない不愉快を押しやり押し払って日々過ごして欲しいと思う。
* ブッダは無益な修業をしないと、こんなことは、達磨だから言える。獅子吼とはこういう言明をいう。
* 無心の本性は根源的に空であり、清浄でも不浄でもない。心(マインド)のレベルであれこれしている限り、だから当然、無心にはなれない。心はいつも思考で溢れて在る。心とは思考の容器にひとしい。そしてそんな心の働いている過程は、清いか汚いか、なにしろ容易に空ッぽに成れないのが心(マインド)である以上、それは清浄か不浄かのどちらか。心はけっして二元対立を超えることはできない。いつも賛成か反対かであり、いつも分割・分別されていて、分裂症の状態にしかない。けっして全一(トータル)にはならない。なれない。二元対立を免れうるのは「無心」という静かな、心ではない心だけだ。それは曇りなき大空のようなもの、トルストイの『戦争と平和』でアンドレイ公爵が戦場で斃されて見上げていた無限の青空がそれだった。
* いまわたしのマインド(心)の世間は黒雲が渦巻いておはなしにならない不浄な世間だけれど、わたしはそれがそういう世間だと知っていて、無明の闇にいる自分を感じているが、そこから抜け出せるときを持っていないのではない。雲に目をむければひどいものだが、雲と雲のかすかな隙間を通して広大無辺の澄んだ大空を垣間見ることもそれに気づくことも出来る。そのとき★★●も★★夕日子もない、何の価値もないただの雲屑とすらも意識しないでいられる。
それなら大空になればいいではないかという催しがあるにしても、まだそれが理であり言葉であるあいだは、わたしは慌てて覚り澄ますフリなどしたくない。まだマインドで分別してなんとかしようなどと思う自分を完全に否認し得ていない間は、ま、現世風に闘わねばならず、苦しまねばならない。
2006 10・18 61
* こういう読者にであうとき、「書いて」いてよかったなと思わずほっとする。読み手と書き手はこのように人生をふと重ね合わせる。魂の色が、ふと、似て思われる。それもまた「貴重な錯覚」であろうとも、人は尋常な人間関係をもとめて日々奔命・奔走しながら、心底には真の「身内」、死んでからもともに暮らしたい人をその上に渇望している。生涯にひとりのそんな「身内」も持てない人がいる。十人も二十人も持つ人もいる。真の不幸と幸福とのけわしい岐路、孤独地獄と極楽の岐路がみえてくる。
* 書かれた言葉は屍体にすぎないが、語られた言葉は生きており、それはまだ息づいている。世界中で、いつの時代にも、光明を得た人が書き記すことをしなかったのはそのためだ。 バグワン
2006 10・20 61
* 或る大主教の説教を聞いたエドモンド・バークは、説教への称賛を聞きたがる大主教に「白痴的」だと言い「知性ある人があんな事を言うなんて信じられない」と答えた。気色ばんで大主教は反問し、バークは答えた。
「君はイエス・キリストを信じ、善行を施す人は天国へ行き、イエス・キリストを信じず、悪徳を為す人は地獄へ行くと説教したが、これが白痴的だと思わないのか」と。大主教には理解できなかった。バークは云う。
「では教えて上げよう――もしイエス・キリストを信じないが善行を施す人は、どこへ行くのかね。イエス・キリストを信じるが悪徳を為す人は、どうかね。行為の善悪が決定要因なのだろうか。だとしたらイエス・キリストを信じる信じないは余計なことだ。あるいはイエス・キリストを信じるかどうかこそ判断基準だとしたら、行為の善悪は無関係ということになるがね」と。
人は宗教などひとつも信じなくても、預言者や救世主を少しも信じなくても、間違いなく彼の生は、英知と善にあふれた生になりうる。逆もある。神やイエスを信じていようと、その人の生はまさに動物的な生以外のなにものでもないかもしれない。
「抱き柱」は抱かないというところへ直観的にわたしが出て行った筋道を、バグワンは指さしてくれている。
2006 10・23 61
* 地裁審尋の「判決書」が届いていた。大山鳴動して鼠も出なかった。長くて「数日」ということだったから「仮処分申請」に同意しお願いしたが、「一ヶ月余」もかかり、結局復旧したという画面も見ること出来ず、BIGLOBEを解約した。何の必要があってわたしのこの六月、七月、八月の全部の「私語」削除を容認して「和解」なのか、わたしには全然理解できない。わたしのために何の利益をはかろうと仮処分申請してくれたのか、尽力の成果がどこにあったのか、全く理解できない。
この事件で法律家とも当事者として話し合わねばならず、ほとほと驚愕したのは、法律家の言葉はじつに私たちの耳に入りにくいと云うこと。しかし裏返すと、法律家の耳にはわたしのような文学者の言葉はほとんど一顧もされないほど無意味で無効なのである。裁判官は「そういう訴えには一顧もあたえません」と、さらさらと云われる。ダメダ、コリャと「人間」を務めているのが情けなくなる。
* 情けないときは、さような「世間」をわたる人間の「役」をしばらくやめて、じっと自分の内側を覗いて過ごすのがいい。
「禅」という文字のことなど、思ってみる。
「禅=ゼン」という日本語には何の根拠もない。中国の「禅=チャン」が訛って伝わっただけであり、その「チャン」にしても中国語ではない。パーリ語の「ジャーナ」という言葉で達磨が、つまり「禅」に相当する教えを伝えた。禅はただの宛字である。
ブッダは佛教を、民衆の言葉パーリ語で語った。インドの学者達に専有されていたサンスクリットでいえば、「ジャーナ」は「ディヤーナ」だった。そこまでは、要するに「知識」の範囲であり、あまり意味がない。そんなことを知っていても屁のつっぱりにもならない。
(このごろオヤジの日記のことば、ナマになっているぜ、おやじらしい抑制の利いた文章で読ませてよと息子の方から声が聞こえている。言葉は「心の苗」であり、いつも一本調子は偽善的なウソにちかくなる。言葉の生彩は、喜・怒・哀・楽の情感に適切な出口をつくってやって生まれる。それが自然であれば、言葉は生き生きはずみ、不自然であればことばは過度に飾られるか表情を喪う。此処は、屁のつっぱりにもならないと言わせてもらいたい。)
* 「ディヤーナ」とは、心を超えること、分別し思考するプロセスを超えること、またはそういう心、分別、思考を落とすこと、静寂のなかにはいることだと分かりやすい言葉で言い換えられている。何一つ動くもののない、なにひとつかき乱すもののない、完全な静寂、純粋な虚空、そのスペース=時空が、「禅」といわれる。
「禅」は中国では宋の時代に相当な感化をのこしたが、ほんとうに禅が落ち着いたのはむしろインドでも中国でもなく、日本だったといわれていて、そうとも言える、が、かなり逸脱して「禅趣味」が日本人に根付いたと正確に謂えるというのが、わたしの批評で持説である。禅と禅趣味とをいっしょくたに混同していると、禅も遊藝化してくるから危ない。
あらゆる宗教や信仰の中で、「禅」だけが、ほぼ「抱き柱」を抱かずに、人間の内奥に生死の動静を把握する。禅宗とは云わないが、わたしが「禅」に心親しむ思いがそれであり、なにが人に大事か、自身の内奥にenlightenment=無明長夜の眠りからの眼覚め=気付き、を得ることより有り難い「生」はあるまいなあと、わたしは只今も感じている。金無垢にピュアで確かな生が、さてこそ、予感される。外の世間には、余りにもくだらないものがゴミためのように淀んで流れもしていないと、ま、そんな風に毒づくのは簡単だけれど、気付いてしまえば、綺麗も汚いも大事も不大事も何にもないであろう、だって、「ディヤーナ」であれ「禅」であれ、その静寂は虚空で、分別する「識」を無に帰している。きれいのきたないの、くだるのくだらないのというのは、夢の中の悪夢に悩まされているという以上のなにものでもなく、夢は醒めてしまえばおしまい。
* こう思っていると、おもしろいことにその夢が、ま、シェイクスピアではないが「夏の夜の夢」めくお芝居のようで、長い狂言にはいい幕もいやな幕も、明るい幕もくらい幕もあって当然と思えてくる。どうせ醒めてしまう夢に違いないと信じているから、ならまあ、あいつとも、こいつとも、どいつとも夢の中で適当に付き合ってやるかとアキラメがついてくる。なに、高見の見物などと気取ることはない、自分も自分の「一役」をぎしぎしと演じてみるがいいのである。夢と知りせば覚めざらましをと嘆いたのは、無明の夢と知りつつしたたかに悦楽出来た、まちがいなくあれぞ「女の強み」だったろうなあと、ふと思う。誰だったかな、小町にきまっている。
思ひつつ寝(ぬ)ればや人の見えつらん夢と知りせば覚めざらましを 小野小町
あはれこの雨に聴かばやうつつとも夢とも人にまどふ想ひを
みづうみをみに行きたしとおもひつつ雨の夜すがら人に恋ひをり みづうみ
2006 10・26 61
* 仏陀は言う、「迷える衆生はおのれを知らない」と。迷える衆生とは誰のことでもない、わたしのこと、あなたのこと、生きとし生けるほとんどあらゆる人のことで、大統領も総理大臣も王様も社長も教授も藝術家も恋人同士も、金持ちも貧乏人も、何のかわりもない。自分は人とはちがうと思うなら、それそのことが迷えるしるしで、「おのれを知らない」。では人の迷いとは何なのか。己を知るとはどういうことなのか。
「真実の自分を知らない」で生きて在る気でいることだ。真実の自分を知らないから、平気で自分自身のまわりに偽りの人格を積み上げ築き上げ塗り込めている。
* あなたは「何か」と答えを問えば、医者だ、技師だ、教授だ、キリスト教徒だ、念仏だ法華だ、資産家だ、藝術家だ、会長だ、民生委員だ、弁護士だなどときっと云う。それがほんもののアイデンティティなんかであるワケがないのは、ハッキリしている。秦恒平だ、安倍伸三だというのも同じで、なにら名前がアイデンティティであるわけがない。名前なんて生まれたときには持ち合わせていなかった。真実の自分が分からないというどうしようもない状況を忘れるため、身の回りに創り出した偽りの着物の一つに過ぎない。荀子のいう人間の「蔽」つまり垢に等しい襤褸だ、すべて。
親であることも子であることも夫であることも妻であることも、それが一人の人間の「本性」であるわけがない。弁護士として、教授として、作家として生まれたのでもない。自身の空虚さを感じなくて済むように自分や社会が着せかけている「うわべを飾っている着物」に過ぎない。しかも人はそれにも満足できず「もっと」「もっと」と着物を着重ねたがる。政党の幹事長になったり、ライオンズクラブの会員になったり、役員食堂で飯を喰いたがったり、社長夫人になりたがったりする。
人は自分自身を覆ったこれらすべての襤褸を脱いで、つまりそれは襤褸に過ぎないとよく分かって、自分自身と直面しなくてはならない、「自分は何か」と根源を問うべく。
襤褸と自分とを一体化して、自分=教授、弁護士、作家などと思っている間は決して己は知れない、つまり「迷える衆生」のままえんえんと何生もの永きを眠りこけて目覚めない、ま、それだけのことだ。
目覚めた人、己の何であるかに気付いた人は、司祭にも僧正にも文化勲章にもいるものではない。その連中はみんなご機嫌の夢を見ているだけである。そのうちに死に神が呼びに来る。彼の前では、みーんな同じだ。自分が何ものか知らずに屑のように死んで行くだけだ。
* 拈華微笑という。なぜ笑いがあの瞬間に浮かぶのか。
2006 10・27 61
* 「覚性をはぐくむ」とは、あらゆる状況を、醒めているための機会に変えることを意味する、とバグワンは言う。生がもたらしてくれるすべてを受け容れなさいと彼は言う。この深い受容性に超越的なモノが隠れている。覚性は隠されていない。だが、それはまさに「いま」にしか見いだせない。たった「いま」だ。「いま」がその時だ、それは延期するようなことではない。
バグワンは言う、「光明を得た存在になりたければ、<いま>がその瞬間だ、<ここ>がその場所だ」と。
先入観ででいっぱいのマインド(心)を持っていたらわたしは決して心を超えられないと思っている。そう思い、だから手を拱いて物わかりのいい聖人めいた振舞いはしない。腹が空けばものを喰うように、目の前の自然な催しに逆らわずにいる。怒るのも悲しむのも、また闘うのも、である。
* だが「抱き柱」をみな手放した、この、そうそうと風に吹かれたような寂しさ寒さは、どうだろう。
そうだ、忘れかけていた。眼を閉じて闇に沈透くのだ。湖底に沈透くのだ。人を頼んではいけない。人を頼んではいけない。
2006 10・31 61
* おのれにはつねに佛性が備わっていると知るべきだとは、達磨の説いた核心であった。「佛性」「光明」「覚醒」「解脱」「モクシャ」「ニルヴァーナ涅槃」これらはすべて同じものを意味している。わたしはバグワンに聴く多くの中でとても嬉しいと思うのは、人が光明を得たとき、enlightenment を得たとき「まず初めにすることは自分自身を大いに笑うことだ」と教えてくれていること。なぁんだ……。大いに笑うのは、探し求めてさまよい歩いていたソレが実はいつも自分自身の内側にあったからだ。外側の世界でどんなに捜し探してもそれは見つかるわけがなかった。「青い鳥」がそれだった。なぁんだ…。「ひとたび自分自身を見出したなら、あなたは驚き呆れるしかない。あなたはつねに光明を抱いていた。ただそれに気が付かなかっただけのこと」とバグワンは、そうと覚った瞬間の破顔一笑、からっとした笑いを、大笑いを教えてくれる。マハーカーシャパの「拈華微笑」がそれだった。
2006 11・1 62
* むかし、よくものも分からず、礼拝の対象である仏様をつかまえて、「美しい」のどうのというのは「筋違いな失礼な」ことだ、と二度三度言いもし書きもしたが、それはむしろ逆であった。
仏陀は、礼拝を教えてはいなかった。
おまえがどこにいようと、そこにはブッダがいる、なぜならおまえがそこにいるからだ、と。お前の内なるそのブッダに気付き目覚めよと。
仏陀の教えの中には本来祈りに属するものなんか、何もなかった。すべて後々の方便や変改に過ぎない。仏陀は信仰という名で「抱き柱」をもてとは、一切教えていない。自らの無心、それが仏だ、その仏になれとだけ教えた。その余は後生の方便だ。
達磨もまったく同じ、彼は無心としか言わない。
無心のままに自然に生じる崇敬ならば、真摯さも誠実さも愛も感謝も真実も美しさもある。偶像をもたなかった佛教に美しい仏像が造像された功徳の第一は、それに抱きついて祈ることより、そういう意味の崇敬に気付けることだ。仏の像はすぐれた造像であればあるほど、底知れず柔らかに美しい。
そう感じられればいい。
美しさにただ無心に頭をたれ、わがままなお願いごとなどはしない。
2006 11・2 62
* 死を告げる鐘…。誰がために鐘が鳴るか、尋ねることなかれ。そは汝(な)がために鳴る。死は象徴的だ、それはおまえが同じ行列に並んでいることを、そしてその行列はどんどん短くなって行くことを示している。
だがバグワンは言う、バグワンが言うとはブッダが言いボーディ・ダルマ達磨さんが言うのだが、自らの本性(ブッダであること)に気付いている人達は、誰ひとり死なないということを知っている、と。死は、幻想だと。
おまえは肉体ではないからだ。おまえは呼吸でもない、心臓の鼓動でもない、おまえはそうしたものすべてを超えているのだ、そして「彼方に」滑り込んで行くのだ、惜しいことにおまえは少しもまだそれに気付かずに眠りこけている、と、仏陀も達磨もバグワンも、そう言う。
自分自身を身体と同一視したらおまえは身体になる。
そのとき、おまえは死すべき衆生だ。
そのときおまえには死の恐怖がある。
自分を身体と同一視しないとき、おまえは自分自身のただの「見張り人=純粋な意識=静かな心=無心」だ。
真正な宗教は礼拝を教えたりしない。真正な宗教は自らの不滅性の発見、内なるブッダの発見を教える。形にとらわれてはいけない、しがみついてはいけない。とらわれずにはなれれば「理解」が得られる。それ以上の助言はない、と、そう「覚者=ブッダ」たちは口を揃える。
わたしは黙々と聴いている。腹の奥の奥の方で聴いている。
2006 11・3 62
* 多くのいわゆる聖者や賢者たちがいて、バグワンは指さす、彼らは「苦行」していると。だが、それら苦行はすべて彼らの「心=マインド=分別」がしていること。彼らはイツも正しいことをしてはいるが、その正しい行いは内発的なものでない、と、バグワンは指さす。「それは意図的な、計算ずくのことだ」と。彼らはいつも経典と首っぴきで、なにが正しくてなにが誤りなのかを「調べ」ている。彼らは彼ら自分自身の洞察を持っていない。凡庸な学者と同じだ。修行や苦行や訓練は彼ら自身の心の投影にほかならないのである。
わたしもそう思う。自然、いわゆる聖者や賢者と呼ばれ自分でもそう思っているような多勢は、行き着くところニルヴァーナ(涅槃・解脱)の罠に陥ってしまう。彼らはひたすら欲望する「光明」を得ようと。目的はそれなのだ、だが、問題が其処にある。「光明」は「悟り」は、欲望の対象になんかならないものだ。悟りを、enlightenment を、欲望し渇望した瞬間、おまえは罠に落ちている、と、ブッダは明言する。
光明は、悟りは、慾の対象にはできない。野心の対象にはならない。解脱は「目的地」ではない。達成目標なんかでは在りがたい。そんなことでは、なにもかもエゴトリップになる。最悪の罠―――。
深く静かに自分自身をのぞきこめとバグワンらブッダは教える。此のわたしは、己のうちなる闇におそれず沈んで行くだけだ、自身の本来、本性、光明を感じながら。
* なにもしないで、なんでもする、それがぜひ必要なら、うんこをつかんでも投げる。
* 「今・此処」で、かりそめの遊びなど、したくない。
2006 11・7 62
* 輪廻転生観をはらんだ宗教は、インドに発したものに限られていて、たいていの宗教は一回きりの生を生きるとしている。楠公の「七生報国」が固有の神道によるか佛教の感化かは即断できないが、本地垂迹はやはり微妙に「佛教基盤の神学」と思われる。「生まれ変わって」という言葉は日本人の好きな言葉の一つだが、純然日本に固有の思想では、やはり、あるまい。『古事記』などの神話に人が人に生まれ変わるという思想はあらわには見えていない。しかし『日本霊異記』には生まれ変わりの実例はいろいろ賑やかで、むろん佛教の地盤に生じている。
西洋にそれは全く無いか。ホラー映画の発想にかなり生まれ変わり思想が透けて見えるのを、インド系思想の浸潤とみるかどうか難しい。ギリシァ・ローマ神話にも冥府との交流で転身が語られていないとは言い切れない。よく知らないけれど。
輪廻転生は、よいことか、よろしくないか。これが微妙で、「光明enlightenment」を得るまでは人は生死の環を巡り続けるという仮説には、バグワンも言うように甚だ本質的な何かが感じられる、私にも。たかが永くて八十、九十、百の一生きりで我々凡夫の眼は醒めない。醒めるまでは輪廻し転生するという理解は、ただの浮説ととらえにくい。その限りにおいてでも、われわれに多くの時間、永い時間が今生で与えられていないのは確かであり、間に合わねば、暗闇に死んで沈んでまたの生をまたねばならない、たぶんそれはその通りだろうとわたしは直観できる。時間を潰している余裕などなく、バグワンが厳しく示しているとおり、むしろ時間の方が我々をつぶしにかかっている。刻一刻と時間は我々の死をさらにさらに間近にまで引き寄せている。死の使いはいつ訪れるか知れない。『千夜一夜物語』で豪奢に傲慢の限りをつくしている者も、死の使者が訪れると真っ青になり震え上がって容赦を願っている、むろん叶えられはしない。
『徒然草』を読み始めた中学三年生の頃から、後々までも、わたしは人が無常迅速におそれて、人によっては安座すらせず、京ことばで謂うなら「ちょちょこばって」蹲踞して暮らしているのに深い驚きを禁じ得ないで来た。が、その驚きは今に思えばまだ実感の浅いものだった。いまのわたしは、おそれはしないが、「ああ、間に合いたい」とは願って切なるものがある。
昔に書いた作品や文章を読み直す機会のあるつど、自分の思いがうーんと動いて変わってきていると痛感する。つい十年前、十五年前まで、わたしはたくさんな「抱き柱」を抱いて頼んでいた。南無阿弥陀仏もそうであった。至極優れた抱き柱であった。私が今は完全にそれを思い棄てているかどうか、あまり追究したくはない。
* 西洋は貧しい、一人あたりせいぜい八、九十年しか与えられていない。だが、東洋は外見は貧しくとも内なる世界観は豊かだ、うしろを振り返っても永遠、前を望んでも永遠。バグワンはそんなことも言ってくれる。そして彼は「本筋」に斬り込んでくる。
おまえたちは幾度生まれ変わっても、どんな目的地にも辿り着かないぞ、と。目的地、ゴールなんて最初から無い、と。その虚しさに気付き、あまりのことに吐きけを催したとき、その人は、おまえは、初めて「思う」ことになる、本来の我が家に戻るための、新たな道筋、別の次元を見つけなくちゃ、と。
バグワンは言う、それが東洋の知恵の基盤だ。どこか遠くに目的地があると錯覚し、遠くへ遠くへただもう流離(さすら)おうとしている、そんなことでは、生と死や、絶え間ない悪循環への疲労と倦怠とを蓄えるだけだ、と。この「悪循環」のことを「輪廻サンサーラ」と謂うのだよと。輪廻の車輪は動き続けて止まることを知らない。そこから跳び出すことは出来るのに、おまえは、逆にますますしがみついているじゃないか。もう、しがみつくのはやめなさい、と。
2006 11・9 62
* 賢くなろうとして逆に愚かになっている。そして理解してもいないことを繰りかえし続ける。バグワンは言う、小さな子が浜辺で拾った貝殻をすばらしい財宝に想っているのと同じだ、それで人も自分自身も、その気にさせることは出来ると。だがそれはそれだけのこと。知恵ではなく、知識にしがみついているだけ。知識は心=分別心=マインドを通して、わたしに来る。知恵は無心に静かなわたしに生まれ来る。心=マインドに従っているかぎり、理解も無理解もウソになる。それが分かれば、現実は人に従うし、分からなければ、人が現実に隷従する。
2006 11・10 62
* 心(マインド)に従えばが、理解と無理解のどちらも偽りになる。達磨はそう言う。この深遠で端的な示唆に、わたしは推服する。
これを理解すれば、現実は人に従う。理解しなければ、人が現実に従う。現実が人に従うとき、現実でないものが現実になる。人が現実に従うとき、現実であるものが現実ではなくなる。人が現実に従うとき、あらゆるものが偽りになる。現実が人に従うとき、あらゆるものが真実になる。
達磨のこの言を味わいつくさなければとわたしは思う。
* 霧黄なる市(まち)に動くや影法師 漱石
2006 11・12 62
* 「MIXI」にバグワン・シュリ・ラジニーシに親しい気持ちを持った方が何人かいらっしゃる。そのお一人の「足あと」が見えたので、メッセージを送った。返辞も直ぐに来た。
* この十五年ほど、一日も欠かさずバグワンの本を何冊も、繰り返し繰り返しただ無心に音読してきた者です。バグワンの実像に関してはなにも知りません、ただ、日本語に訳されている本ではありますが、読んでいて、世界史的にもそう例のない「透徹した人」だという帰依の思いを、あっというまに持ち、しかし「知解に陥らない」ように、ただ「肉声を聴き込む」ほどに、声に出して読み続け読み続けて、そして日記にもその喜びをときおり書き付けてきました。
そういう老人の一人です、私は。
なにかお聴かせくださらば幸です。 秦 恒平・湖
☆ 涙が出るくらいに 懐かしい思いになりました。
貴方からのメッセージを読ませていただき 様々の思いが交差します。
僕も今から20年ほど前でしょうか? 若かりし頃、聖書から真理を模索しはじめて 諦めかけた頃に バグワンとの出会いがあり、様々な宗教を自由自在に語るその言葉に触れたとき 紛れも無く此処に真実を語る方がいると
僕は直感的に受け止めました。
キリスト教的に凝り固まった宗教観人生観の頭を 体を 柔軟にしてくれる柔らかさがあり 肌のぬくもりがそこには在るよな躍動感に体が震えたのを思い出します。バイブレーションというのでしょうか?
バグワンに触れたことの有る方であれば誰もが同じ思いを抱いたのではないでしょうか?
僕も貴方と同じように 直接彼を知りませんし 彼のお弟子さんを知りません
オレゴン州でのユートピア建設と、その崩壊、暗殺
その事実関係ヲ正しく知ることができませんが今も彼の存在は大きく 今の僕を支えてくれているのかもしれません
秦恒平・湖さんとの初めての出会いに感謝いたします。
又これからも 是非よろしくお願いいたします。 北海道
* バグワンは全く未知で、関心の何一つも持ったことの無かった人物だった。お茶の水女子大に入って間もない娘・夕日子が他大学の学生達とグループをつくり「瞑想」集団と称していたとき、夕日子の机の上に三冊ほどのバグワンを瞥見し、ちらと観て、失礼ながらこりゃムリだわと感じていた。案の定、あっというまに夕日子の机上からバグワン本は追放され、結婚のさいに物置に投げ込まれていた。
わたしは「大過去」最初の★★暴発のあと、夕日子と会うことも叶わないなかで、ふと「あいつはあの頃、何を瞑想していたのか、瞑想しそこねたのだろうか」と、好奇心から物置のバグワンを救出し、『存在の詩』『究極の旅』『般若心経』三冊をいとも真面目に読み始めた。その後にも何冊も買い足し、すべて毎日欠かすことなく音読し続け、最初の三冊など、それぞれ四度も五度もただ無心に音読してきた。バグワンはいわば家を出て行った娘・夕日子から父親への「置きみやげ」となり、わたしの生きのその後を、そして今も、今より後をも支える「糧」になったのである。この日記も、どこかでバグワンを聴いてともに歩む思いを書き置こうという気持ちで始めた。
2006 12・18 63