☆ 「山」にはもう長らく書いていませんが、お元気でしょうか。
「叡」はパソコンのメールからますます遠のき、PHSをキーボード付きの入力しやすいものにかえてから、専らこのアドレスを使っています。よろしく。
昨秋より自律神経失調の症状がひどく出て寝込んでばかりいて、年末にはノロウイルス、一月いっぱいは胃痛と吐き気に悩まされました。二月に入ってようやく外出できるようになりましたが、床にいた時間が長いため10数キロも太ってしまい身体が重いです。
昨秋に会社時代の同期の友人が突然亡くなってしまいました。
彼の妻もまた同期で友人なのですが、彼女は当然の帰結か体調が悪くなり今入院しています。お見舞いにも行き、メールのやりとりも続けていますが、夫を亡くして自分の存在意義がわからないという彼女にどう返して良いものやら。
やっと動けるようになってきたと思ったら、またも詰め込みすぎの「叡」です。具合悪くなりそう。
* 孤独(孤立)は、病気だとバグワンは謂う。「独りになる」のは自由(自立)だと謂う。孤独で求める愛も、せがむ愛であり病気だと謂う。独り立っての愛は分かつ愛だと謂う。
2008 2・20 77
* 「空の空 空の空なる哉 都(すべ)て空なり」「日の下に作(なす)ところの諸々の行為(わざ) 嗚呼皆空にして風を捕ふるがごとし」とダビデの子、エルサレムの王、伝道者であるソロモンの言(ことば)を旧約聖書の「伝道之書」は冒頭の第一章にかかげている。
これは歎きであるのか、喝破の悟であるのだろうか。ここに謂う「風」にはなにが謂い籠めてあるのか。
* しばらくここへバグワンを持ち出さなかったのは、たんにわたしが気ぜわしくよそで気働きしていたためで、バグワン自身は川のようにただただ流れている。
繰り返し繰り返し読んできて、なお、いつも新鮮にわたしはバクワンに聴いている、根底から揺すられて。
☆ バグワンに聴く。 「究極の旅」より 翻訳者に学んで
おまえは仏陀にはなれない
おまえはイエスにはなれない
そして、そんな必要もない
お前はおまえ自身にしかなれないのだ
それを、誰もが誰か別な人になろうとしている
それがゆえに
おまえたちは<根源>から遠く遠く離れてゆくばかりだ
その距離はその欲望ゆえに生まれる
ひとたびこれを了解(realize)したら
基本の理解は成し遂げられている
そうなれば,たちまちにして
おまえの川は流れはじめる
そこにひとつの詰まりもない
あらゆるブロック(詰まり)は、すべて
何か自分がなれる以外のものになろうとする
根深い欲望のゆえに存在するものだ
ちょっと,ノイローゼにかかって
ハスになろうと思っているバラのことを考えてごらん
さあ、どういうことになるだろう?
そこにはただただ不幸があるだけだろう
そして、そんな不幸の中では
そのバラはバラになることもできまい
それだけは確かだ
バラはハスにはなれない
それは絶対に確実だ
そのバラはバラにもなれまい
それもほぼ確実だ
というのも,そうなっては
欲望全体がはるかかなたへ突っ走るだろうからだ
バラはハスを夢に見、ハスに思いをつのらせ
その上,それ自身を非難しはじめるだろう
もし自分自身を非難したりしたら,どうして成長できる?
エネルギーは流れなくなる
そこに詰まりができる
そうなると
バラは絶えずトラブルに苦しめられなければなるまい
ある日は頭痛
ある日は何かほかのこと-
そのバラは病気だ
ひとたびそのバラが
可能性はたったひとつしかなくて.
それはバラであることであり
また,ハスになる必要など何もなく
バラであることは完璧に素晴らしいことだというのを理解したら
ひとたびそのバラが自分自身を受け容れて,非難が消えたら
ひとたびそのバラが自分自身を愛したら
優雅はよみがえる
尊厳は戻ってくる
もう,そこには何のブロックもあるまい
そんなものは溶けてしまう
バラは川のように流れはじめるだろう
バラは赤く,ハッピーで
何であれ自然に与えられるものに,途方もない歓喜を感じている
バラはけっしてノイローゼになったりしない
彼らは人間を笑っている
ハスはけっしてノイローゼになったりしない、
全世界が人間を笑っている
人間は,ノイローゼになる唯一の動物だ
ノイローゼというのは
いったん何か
自分自身にとって不自然なことをしようとすると.起こってくる
それがノイローゼだ
いったん異想を持ったりすると
おまえはノイローゼに陥る羽目になる
おまえには「おまえ」が本来なのだ
仏陀でもイエスでもない
「おまえ」が目的地なのだ
”自分の真の住み家にいて……”
それは,まさに自分自身でいて
ほかの誰になろうともしないということだ
”外のことにはかかわりなし-
川lは穏やかに流れゆき
花は赤く色づいている”
”はじめから,<真実>はクリアーだ。”
2008 4・27 79
* 折しも『十牛図』は第九の「返本還源」を通りすぎ、大団円の「入廛垂手」まで来た。バグワンの言葉は時に荒海の如く、時に鏡のようだ。
2008 5・2 80
☆ 湖様 波
母に愛されなかった子・・・。母の愛ってなんでしょう?
私は本当に子どもを愛したでしょうか? 愛しているでしょうか?
私は本当に母に愛されたのでしょうか? 父をまったく知らないし愛されたこともない。
親子やきょうだいはまったく別の人格なのです。
肉親の愛 というものはあるのでしょうか? 肉親の愛を求めること自体、不自然なことではないでしょうか?
肉親より分かり合える他人もいる。
親もまず健康 子どもたちもそれぞれなんとか幸せに暮らしています。
けれども私の心の波はいつまでも騒ぎ続けています。人が生まれ、人とかかわり、人と生きていく ということはなんと難しいことでしょうか。
人にとって安住の地 というのはあるのでしょうか。
年を重ねるほど悩みの多い日々です。正直、苦しい日々です・・・・。
* えりぬきのエリートで、事業にも大きく成功している e-OLDさんだが、心に、抜きがたい荷を負っていて、年若い人の波騒ぐように苦しそうだ。
親子やきょうだいが「別の人格」なのは、不思議でないあたりまえのこと。ここで一体化など求めては仕方がない。「人として安住の地」が、有ると思える人も思えない人もいて、それとてもおなじこと、いまわたしの読んでいる旧約の、「ダビデの子、エルサレムの王、伝道者」はなに容赦もなく、「空の空、空の空なる哉、すべて空なり」と云い、「我日の下になすところの諸々のわざを見たり、嗚呼皆空にして風を捕ふるがごとし」と云ってのける。
そうかなと居直ってもいい、そうだなとうけがってもいい。
なにかに抱きつける「柱」は、あるようで無いようだ、此の世には。わたしは、もう、たいがいのことは諦めている。すると不思議に嬉しいことも楽しいこともいいことも、無くはないらしいのだ。ただ「風を捕らえる」ようなものだと分かっている。捕らえてやろうじゃないかと思ったりする。
「抱き柱」にしてはいないが、バグワンには、ラクにしてもらっている。それとこのごろ、わたしは育ててくれた、とうの昔に亡くなった養父母や叔母の位牌と、わけもなく、小声でぶつぶつ喋っている。
2008 5・2 80
* カントで大纏めにし、ヘーゲルで近代への新たな足場が築かれ、キルケゴールからサルトルにいたって、現代への新しい哲学が、「実存」という自覚を得てきた。二十世紀は、久しくも久しい哲学史の全容が、おもちゃ箱をひっくり返したように、またもう一度品揃えして見本市をひらいた時代。世界の多様化に応じたか。お好きなのを選びなさいというようなもの。仏教で、持仏・持経を好きに選んであがめ、あが仏尊しでやってゆく、そんなようなことに、哲学も、ならばなれという二十世紀であったが、その賑やかな「哲学・学」の店晒しを経て、やはりわたしに懐かしく親身に思われるのは、少年の日に出会ったサルトル、カミュ、ボーヴォワールらの「実存と自由と不条理」。
それらを大事に感じながらの、「禅」ないしバグワン・シュリ・ラジニーシの「無心」を。
* まがりなりに「世界史」を、知識のためにでなく、理解のために通読した。「科学史」をつぶさに通読した。そして「哲学史」を見続けてきた。ありがたいことにわたしは「藝術史」を自身のために早くに学んできた。
人が人として人生という土俵に上がったとき、生きてゆくとき、政治社会、自然科学、哲学、そして藝術という四本柱は、「目付柱」として基本・基準の必須であった。抱きつく柱ではない、あくまでも目付けの柱。
その四本柱も、いま大相撲本場所の土俵上には無いように、「無くてすむ」のが理想である。「要らなくてすむ」のが理想である。必須の有を殺(せっ)した、無。そういう老境に入ってゆく。
2008 5・3 80
* 『ソフィーの世界』は、今夜に読み上げるだろう。哲学史の要領のいいおさらいをしながら「哲学あるいは夢」という題の仕組んだ小説を読み終えることになる。その趣向にわたしは愕かない、そんなことは何度も自分でしてきたから。
しかし、おもしろい本、好著であった。世界史、科学史、哲学史を連続し併行して読み上げてきて、あたまのなかに東西の藝術史もおおよそ有る。宗教的な側面は、いや本質論は、バグワンで足りている。
2008 5・5 80
* バグワンの『十牛図の旅』を一昨夜、また、音読し終えた。巻末に、平成九年十月九日「全編を音読了」「衝撃の名著」と記してある。「恒平」の朱印もおしてある。
以来十年半、同じこの巻を数度は音読している。バグワンの基本の三著は『存在の詩』『般若心経』とこの『究極の旅 十牛図』で、夕日子(仮名)の置きみやげ。
以後に『老子の道』上下『ボーディダルマ』その他数冊を手に入れ、これらを、ほぼ一日も欠かさず繰り返し順々に音読し続けている。今後もそうするだろう。
* バグワンについて「書こう」という気は無い。そういうレベルの対象ではない、もっと血肉にひとしい。
バグワンの境地は、もし謂うなら、至純の「禅」にちかい。それをも超えている。
迷信は語らない。信心や信仰など語らない。どんな教団や教義や儀式や聖典も語らない。おまえの実存は、本質は、「ブッダ」にほかならない、眠りこけて気がつかないだけだ、目覚めよ、とだけ言う。神学でも心学でも実学でも教学でもない。仏教でも基督教でもイスラム教でも神道でも道教でもない。
勉強してSOMEBODY(誰かサン)のようになれなどと決して奨めない。心(マインド)にあやつられて右往左往するのでなく、分別にしか働かない心は落とし、静かに目覚めよ、もともとのブッダフッドに、と。
生死の不安も、恐怖も夢に過ぎない、夢から覚めよと。
* たやすいことではない、が、予感はある。アクセクしないでわたしはその瞬間を待っている、間に合えば嬉しいなと思いながら。
* テレビで、霊魂を操作できるような、透視して支配できるような、運命に手が掛けられるような謂われのない「強迫」「脅迫」で、人のたださえ弱い乱れがちな心に汚い手や口をつっこんで威張り返っている連中、金髪の変態男や、ぞろりと着物の偽善男や、罵詈雑言の獰猛女などを見ていると、文字通りの「邪魔」に想われる。ああいうことこそ、マスコミで放言してはいけない、最たるモノなのに。
彼らのことは無視すればわたしは済むが、あれに掻き回されているあまりに大勢を想うとき、マスコミが最も忌避しなくてはならない、心(ハートの)ない犯罪行為の気がする。
2008 5・10 80
* きのうバグワンの老子を読んでいた。
老子は早朝に二時間ほども毎朝散歩したという。例のバグワン流の説話であろうか。
この散歩に二十年来隣家の男が連れ立つ。だが、老子も話さない。男も話さない。ただただ無言・沈黙の静かな静かな歩行だけがある。
ある日、隣家の男の客が自分も連れて貰えまいかと、ついてきた。例の沈黙黙の散歩であった、客の男は堪らなかった。そしてついに、
「ああなんときもちのいい朝でしょう。なんて美しい朝のお日様!!」と感嘆の一言二言をもらした。
老子も隣家の男もなにも応じなかった。
老子は云ったという、もう「おしゃべり箱はつれてこないように」と。「あんなことは、わたしにでもあんたにでも分かっている。なんで口にしなくちゃならん」と。
老子たちの沈黙の静かさ・楽しさ、ほんとうに、よく分かる。しゃべるよりも、しゃべらなくて済む静かさの、譬えようない醍醐味。ひともわれも、つねづねしゃべりすぎている。分かっている。沈黙は金なのだ。いや金や銀に譬えるといやしくなる。沈黙は花のようにかぐわしいのである。
2008 5・15 80
* 「老子は絶対恋人にしたくない人です」と云うて来た人もいて、老子はどんな顔をするかなとおかしかった。「おしゃべり箱」は連れてこないようにとフツーの顔で告げられるか。「老子」はむろん通称の他称、「老いぼれ」「ロートル」を意味している。彼が恋人を持った時期があるかどうかわたしは知らない。
伝えられた書物としての『老子』も通称で、ほんとうは『道徳経』といかめしいし、ふと可笑しくなる。たしかに「道=タオ」を語った老子だが、道徳となると孔子の売り物だ。
* バグワンはさすがに適確につっこんでいる、孔子は道徳や品格の政治を売り込んで歩いて多くの為政者にすこぶる貢献した、為政者だけではない弟子達をはじめ大勢の崇拝者を裨益したけれど、かんじんの自分自身の「安心」はいっこう得られなかったと。手厳しくも適切な批判だ。で、仕方なく孔子は老子の教えを請いに行き、どうしたらより豊かに優れた「品格」が得られましょうかと問いかけたので、老子に大笑いされて追い返されたという。
ま、これに似たはなしは確かに伝えられている。老子が大笑いしたのはもっともです。老子の「道=タオ」ほど品格だの道徳だのから隔たったものはない。
2008 5・16 80
* 夜前の夢は、かつて例の無かったほど平らかに穏和なものだった。はなしの筋が、ではない。すべて受け容れるわが身のがわの開放にびっくりする平和があった。しかももうそれを言葉で再現するよすがはない。夢てふものを頼みそめたと歌った人がいたけれど、夢は、頼んでも、おそれても、こだわっても、所詮仕方ないもの。あるがままの「いま・ここ」が即ち夢なんだもの。いつ覚めるか。わたしは頼まず待っている。
2008 5・18 80
* 「万物流転」を唱えたヘラクレイトスは、世界は「対立」から成っているとも言った。昼あれば夜あり、熱あれば冷あり、強あれば弱あり、と。
バグワンは、神を戸口へ呼べばかならす悪魔も一緒にあらわれると、うまいことを云う。老子は、一言の神とも云わないし書いていない。云えば、書けば、必然悪魔をも呼び出すに等しい。善をいうから悪が、美をいうから醜が生まれる。
真実は、云われた瞬間に真実でなくなるとは老子だけでなく、多く覚者は身をもって示してきた。「パンドラの箱」とは、つまり老子のいう「しゃべり箱」。しゃべってロクなことはないと、イヤほど知っていながらしゃべるから人間は、いやいや、わたしは弱いのである。
2008 5・19 80
* このごろ、どういうわけか、見る夢が気持ちいい。官能的な意味ではない。妙にきれいに物事が割り切れていて、哲学的でおもしろい。覚めてみるとよく思い出せないしワケが分からないのだが、夢中には整然と分別されていて、なるほどこれは分かりやすいし便利でもあると感心している。覚めてみると何に感心していたのやら捉え所がない。
ああそうか。現世の夢からもし覚めたなら、いまいま、なんだか心得顔に割り切ったり納得したりして暮らしているこういう全部が、こんなふうにたわいない煙のようなんだと、ま、そう思うことが出来るし、それは確実なように予想も期待すらもできる。
なににしても不快なイヤな夢でなくて、気分はいい。いまがいま夢見ているこの現実が、さほどひどいものでなく楽しめているのと同じなんだ。どうせ夢、楽しめることは楽しみ、覚めれば上乗。
2008 5・20 80
* 政治家や役人や企業の責任者たちが、マイクをむけられて、「その件は只今係争中なので、コメントを差し控えます」と答えるのを何度も聴かされている。あれを聴いて、もっともだと思った人は少ないだろう、大方は体の良い逃げ口上に使っているのが「見え見え」である。
そもそも、係争中のことにコメントしたり発言したりしてはいけない、どんな正当な理由が在ろう。
むろん管掌大臣や総理や政党幹部や大団体の管理者などに無造作に「口を挟」まれては困る、が、ふつう、裁判所が、一般のそれに「左右される」など考えられないし、係争中の事案に対し関係者が情理を言い立てて明瞭に発言してきた例は、有る。
いま、わたしや妻がおもしろく読んでいる『伊藤整氏の生活と意見』は、あの有名な「チャタレイ裁判」の真っ最中に「一被告」として書いて公に「連載」されていた。裁判の経過に対し、関係者や弁護人、検事等の実名もあげて、発言も表情も感想も、ことこまかに書き記されていたりする。辛辣に戯画化もされている。「猥褻文書の公布」という罪状で起訴されている伊藤被告当人に、何の負い目もなく信念あればこそ、言いたいこと、言うべきことは言うているのである。係争中だから言ってはいけない、法的・道義的な制約があるとは思われない。
* 確かに先にも云う「係争中のことなのでコメントしない」ことが、影響上・責任上ぜひ必要な立場の人は、必ず、いる。
しかし、一私民である当事者が、自身の信念を口にしものに書いて、何の悪影響があり得よう、また何恥じることがあろう、それの出来ない方がよほどおかしいのではないか。
* わたしは、「mixi」の自身の登録プロフィールの中から、娘の実名と婿の実名とを、当人達の裁判所を通じての強い希望で、「●●●」「★★★」と、は置き換えた。
強い希望の理由が、だが、正直わたしには理解できない。どう部分的に伏せてみても、法律的にも行政的にも戸籍的にも、娘・朝日子はわたしの娘であり、娘の夫はわたしの孫達の父である。結婚披露宴で大勢にそう披露もしたではないか、当人達も。娘から何度も聞いたわが家の笑い話であるが、この婿殿、なにかというと「作家の秦恒平の婿です」と、聞かれもしないのに自ら名乗っていたというではないか。
公人でもある立場上、親戚に至るまで関係者の氏名を問われる例は、いろいろ有った。これからも有る。部分的に伏せ字などして何の役に立つのだろう。何故そんなことを、して欲しいのか。
つまりは、「検索」で引っかかるのが具合い悪いのだと言う。
昨今はコマーシャルにもポスター広告にも、よく「検索」が出てくる。インテリも学生も主婦も子どもも誰も彼もインターネット」の「検索」に夢中である。便利でもある。実の父や実の舅から、「損害賠償」をとろうという裁判の、夫婦揃って原告」であるなんて、あまり名誉なこととは見られないだろう。
わたしは、彼らの「被告」にされても、なんら恥じ入ってなどいない。
わたしには「係争中であるからと」警戒したり懼れたりする何の理由もない。
* それはそれ、そもそも「仮処分審尋」中に、わたしが数多く示した「自発的な配慮」は、いうまでもなく「本訴」といった愚な事態を避けるためであった。構わず「本訴」に入るなら、「原状にすべて復帰」した上で逐一検討し「争う」というのが当然だろう。多大の配慮に関わらず「本訴」に★★夫妻が踏み切ったのは、わたしの気持ちを一方的に踏みにじったに等しい。
* 現在、わたしの「私語の刻」では、朝日子婚家の姓・夫★★★の姓名は、ことごとく懇望を入れて「★★★」「★★」「●」の「伏せ字」にしてある。何故の懇望かは措いて、せっかくの希望にわたしが応じておいたのも、親子で、被告・原告といった不穏で不適当な事態を避けたかったからである。
「本訴」になるなら、「すべて元に戻します」とは、代理人にも繰り返し申し伝えてきた。
* 「書かれた」から名誉毀損と言うが、此のわたしにウエブ上で何かを「書かれた」のが気に入らないなら、法廷の法的技術上はともあれ、道義において「なぜそう書かれたか」を、先ず婿として子として謙虚に反省すべきであろう。よく気をつけて、一行としてわたしは捏造などしていないのである。物証は、ことこまかに揃っている。
* 「著作権侵害」でも、わたしは婿の書いたわが家への「手紙」以外のいかなる公的な文章も、一行として読んだことがない。
娘の書いた素人小説を、激励し褒めてもやって、喜んで自分の編輯している「e-magazine 湖(umi)」に、甘い親父とし、いそいそと掲載してやっただけである。娘は自称・女流作家としてそれを「著作権侵害」などと本気で父に「賠償」を求めるのだろうか。人は吹き出し失笑するであろう。
また、不幸な「肉腫」で、あえなく死なせた孫・やす香の、苦悩に溢れた孤独な「mixi」日記を、わたしが、自分の著作に引用し紹介しているのは、やす香のいわば遺志を、祖父として、「mixi」のはなからのマイミクとして、彼女のために心配してくれた大勢の世界へ、心籠めて「伝えた」のである。
やす香は、全面的に祖父母を信頼し愛してくれていた。傍証は、はっきりしている。やす香も、妹のみゆ希も、両親に堅く秘して、あしかけ三年に亘り祖父母との交歓の日々を喜んでいた。その動かない事実を、両親は、やす香の入院によって、初めて「mixi」やケイタイから、「機械」的に知って、慌てたのだ。
やす香の「mixi」日記等のよしない「消滅」をおそれて、「白血病」入院と知るとわたしは、妻も協力して、すぐさま「全文保存」した。その厖大な量の中から、わたしが最終的に、日記文藝『かくのごとき、死』に引用しているのは、最少の必要な限度であり、もしそれをしていなかったら、あの★★やす香の、孤独だった苦悩の極みの「死」の事情は、むざさむざと、くらやみに埋没していたのである。
* 繰り返して言う、湖の本エッセイ39『かくのごとき、死』が読み直されて欲しい。
「仮処分」がもし悪しく定まれば、今後、同題同書の出版・販売は禁じられるかも知れない。わたしはそんないわれないことも承服できないのだが、ともあれ、在庫残部(送料共、2300円)は多くない。
* ともあれ婿と娘達が父を「被告」にし「本訴」に入るというなら、此までの自発的なわたしの配慮は、すべて無意味になった。八十ファイルに及ぶ十年来の日録からまた伏せ字をみな元へ戻すのはいかにも不毛の作業であるが、本訴の裁判時にはすべて「原状」に戻っているだろう。
むろん終始一貫わたしのために代理人として万全を尽くして下さっている、ペン会員で弁護士牧野二郎氏主宰の事務所の良き指導を受け、よくよく相談しながら前途に適切に処したいと、わたしはもとより、妻も息子も、望んでいる。よろしくお願いします。
* チャタレー裁判には文壇からも錚々たる顔ぶれの弁護人が出た。もちろん専門の弁護士も。その一人の環昌一さんはもう亡くなったが、「湖の本」継続の有り難い愛読者であった。わたしの良き理解者であり、当時は最高裁か高裁かの判事であられたと記憶している。
☆ どこにも行く必要はない。むしろ「行く」ことをやめなければならない。そうしたら真理のある「わが家」にとどまることができる。どんな道にも従わない、どこにも行かない。そうすれば「ここ」に在ることができる──そうすれば「いま」に在ることができるし、自分自身のなかに在ることができる。すべての道が誤った場所に向かう、というのがボーディダルマの姿勢(アプローチ)だ。「<道>に入るには多くの小道がある」などとは、ただの学者のいうことだ。 バグワン
* 必要なのは夢からさめること。なにもかも、こうして書いているのも、思っているのも、していることも、あだな「夢」だ、ハハハ。ハハハ。ハハハ。
2008 5・20 80
* じいっと眼を閉じ、奥の奥の闇に身をまかせる。
なんとやすらかな暗闇だろう、五体の感覚が失せ、意識はある。このまま意識がうせ、闇が闇でなく光でもなくあれば、やっと、わたしはあらゆるモノの「名」とかかわりなく、ほんとうに「生き」始めるのではないか。錯覚であり憧憬であり、それも夢に過ぎないが、静かではある。
2008 5・21 80
* 大岡信さんの本を読んでいて、鴨長明の方丈記と道元の随聞記からの引用と比較とがおもしろかった。ことに道元。本文にあたらずに粗忽に紹介は今は避けるけれども、とてもそれは励まされる言表であった。そのまえに音読していたバグワンのそれとも呼応していて、ものごとの否定と肯定との魅力的にトータルな理解と覚悟とがじつにうまくかつ微妙に語られていた、道元の簡素な語句文章の中に。
* バグワンは言う、分けて選ぶなと。分別して選択すれば混雑したエゴが出ると。分けるなと。選ぶなと。分けずに選ばずに、そのまま、それに向かえと。それに成れと。神を選ぶから悪魔もついてくる。善を選べば悪もつきまとう。分けず、選ばず。
分別するから、我が出る。分別を超えて、そのまま在れ。怒ってはいけないと思いながら怒るから我が濁って出る。怒るなら、分別も遠慮もなく怒ればいい。泣けばいい。笑えばいい。喜べばいい。これが良くてこれが悪いなどと分別しているから、することなすこと、おかしくなる。
2008 5・22 80
* そして、わたしは。わたしはただ待っている、そのときを。間に合えばいいが。間に合えばいいが。
分けて選ぶな、と。トータルに取り込めと。完璧とは、分別の到達。完璧は片輪の完成で、トータルではない。しかし裏のない表も、その逆も無い。つごうのわるいものを棄てての完璧など願うべきでない。分けず選ばず、ともに受け容れよ、トータルに、と。
静かさは、そこに在ると。それがどういうことか、夢の中にいるわたしは、まだ間に合っていない。いやな気持ち、強い痛みが濃い煙のように深く動いている。よそのもののように、痛い、イヤなそれをわたしは観察している。棄てない。
2008 5・23 80
* 大岡信さんの「詩における歓びと智慧」から本質的な一文を拝借しよう、こういう文章の数々において大岡さんに今度戴いた本『人類最古の文明の詩』に含まれた諸編は、数多い大岡さんの詩想ないし思想の、高度に本質的な激白に類していて、わたしは強い喜びでこれらを読んでいる。たまたま引く以下の一文などは、小説家として励ましを浴びる心地がする。
☆ 「言葉は実際、それが露出してみせる自然や社会、または一人の人間の考え方、感じ方を、肉感的といってもいい直接さでひとに提示しない限り、生きているとはいえないし、言葉が生きていない限り、それを発した人間も十全に生きているとはいえない。つまり、人間は世界を感じる度合に応じて自己を感じるのだ。すくなくとも、言葉を発した時、ひとはそのことを思い知らされる。発語者の情熱、世界を感じとろうとする情熱は、言葉の体臭のごときものとなってにじみ出るのだ。
情熱、言いかえれば対象への集中的な関心は、現在のようにぼくらの環境が個人的な夢に対して永続的な関心を持ち続けることを許さなくなっている時代にあっては、他のいかなるものよりも貴ばれ、守られねばならないものである。
およそ個人的な情熱とは無縁にみえる小説にしたところで、すぐれた小説を支えているものは、スウィフト以来、作家のきわめて個人的な情熱や夢想以外にはなかった。ぼくらはその最もよい例を、情熱によってヴォワイヤンとなり、従って哲学者となったバルザックに見ることができよう。
読者を冷静な観察者にとどまらせておく小説は、ぼくには第一級の小説とは思えない。読者を完全に魅しさる小説、つまり読者の足をさらってしまい、自分が現に読みつつあるものがどのような全体的相貌をもっているかを読者が想像できないような小説、どのような全体的相貌をもっているかを読者が想像できないような小説、それこそ小説としての客観的価値をそなえた小説だ。見事な小説は、読者がそれについて抱く、ある感じとか、さらには読者が小説の中に見てとる世界像とかを、絶え間なしに破壊してゆくものだ。そういう小説の自己破壊カだけが、小説のもつ荒々しい創造カを示現するといっていい。小説における方法というものが考えられるとすれば、このような条件を無視しては考えられないであろう。自己をよりよく突き破るためにのみ組織される方法、それが小説の方法だといっていい。ということは、小説家にとって方法は決して完全な予見の武器ではないことを意味する。むしろ情熱こそ予見する。ぼくらは小説の中の他愛もない部分に、輝きに満ちた感動的な表現を見出すものだ。」
(大岡信著『人類最古の文明の詩』朝日出版社刊の「詩における歓びと智慧」より。)
* 繰り返し読むに値する。
それが幻想的であれ私小説であれ、もしくは非小説でもあれ、「見事な小説は、読者がそれについて抱く、ある感じとか、さらには読者が小説の中に見てとる世界像とかを、絶え間なしに破壊してゆくものだ。そういう小説の自己破壊カだけが、小説のもつ荒々しい創造カを示現するといっていい。」「自己をよりよく突き破るためにのみ組織される方法、それが小説の方法だ。」「小説家にとって方法は決して完全な予見の武器ではない。むしろ情熱こそ予見する。」
* あえて言う、『かくのごとき、死』のごときは、日記の体裁を保ちながら、死という運命に刻々とあおられながら現状破壊の自己分解に堪えた「小説」であった。
多くの読者が息をあえがせ、ときに顔をそむけながら、引きずられていったと告白されている。文学の命がうねって堪えていた。
わたしが「事件」を書くなら、あらゆる遠慮会釈抜きに骨は太くのこして皮を剥ぐようにレポートするだろう。
健康をはやく回復して建日子に、優れた文学作品を期待したい。
『嵐が丘』は徹した作り物語りであるが、その文学たる真価は、大岡さんの上の文にあざやかに解説されている。
* 狂奔のために創作するのではない。無為の為のごとく成すのである。分けず、選ばず、そのまま受け取るのである。烈しく強く情熱をこめて受け取るのである。バグワンにも聴きながら。
☆ バグワンにわたしは聴く。 (『TAO 老子の道』より。スワミ・プレム・プラブッダ訳に基づいて。)
彼(ニーチェ)は言う。
「空にとどこうと欲する樹は、地の最も深いところまで行かなければならない。その根は深くまさに地獄まで行かなければならない。そうして初めて、その枝が、その峰が、天国にとどくのだ」と。
その樹は、地獄と天国の両方に触れなくてはなるまい。高みと深みの両方に……。そして、同じことが人間の実存についても言える。
おまえは何らかの形で、おまえの実存の内奥無比なる中核において、悪魔と神の両方に出会わなければならないのだ。悪魔を怖がらないこと。さもなければ、おまえ神はより貧しい神になってしまうだろう。
キリスト教やユダヤ教の神はとても貧しい。キリスト教やユダヤ教や回教の神は、その中に何の〝塩気”もない。無味乾燥だ。なぜかというと、〝塩″が捨て去られてしまっているからだ。〝塩”は悪魔にさせられた。それ(神と悪魔と)は「ひとまとまり」でなくてはならないものだ。
存在においては、反対同士のものの間に有機的な(統一=ユニティ)がある。有と無、難と易、長と短、高と低……。
(老子は言う。)
〝音程と声は互いに補い合ってハーモニーをつくり、
前と後は互いに補い合って結びつく。
かくして、賢者は行なわずして物事を処し……”
故有無相生 難易相成 長短相形
高下相傾 音声相和 前後相随
是以聖人処無為之事 行不言之教
これが、老子が<無為>と呼ぶところのものだ。賢者は行ないなくしてものごとを処す。
可能性は三つある。ひとつは……行為の中にいて無為を忘れる。そんなおまえは世間的な人間だ。
第二の可能性……行為を落としてヒマラヤへ行き、無為にとどまる。そんなおまえは、あの世的な人間
だ。
第三の可能性……市場(市俗)に住み、しかも、市場(市俗)がおまえの中に住まうのを許さない。行動的にならないままで行為する。動き、内側では不動のままでいる。
私はいまおまえに向かってしゃべっている。しかも、私の内側には静寂がある。私はしゃべっていて、同時にしゃべっていない。動いていて動かない。行なっていて行なわない。もし無為と行為が出会ったなら、そのときにこそハーモニーが起こる。そうなったら、おまえは美しい現象と化す。醜さに対立する(争う) 美しさじゃない。醜さも含んだ(取り入れた)美しさだ。
バラの茂みに行って、花と棘を見てごらん。その棘は花と対立したものじゃない。それが花を護る。それは花のまわりの番兵たちだ。保安、安全手段なのだ。真にビューティフルな人間の中では、真に調和のとれた人間の中では、何ひとつ拒絶されることがない。拒絶というのは存在に反するものだ。すべてが吸収されなくてはならない。それがアートだ。もし拒絶するとしたら。それはおまえがアーティストでない証拠になる。すべてが吸収されるべきだ、使われるべきだ。もし行く手に石があっても、それを拒絶しようとしないこと、それを踏み石として使うがいい。
* 分けない、選ばない、しないで、する。強く烈しく情熱的にする。文学が、詩がそこに生まれる。
2008 5・24 80
* 昨日のペンの総会に出て、ウンザリしたこと。会場からの会員発言のあまりのつまらなさ。また執行部「自画自賛」のわりに、どの発言からもにじみでる低調な、通俗。両者の、まことに噛み合わないコッケイさ。
ほとほともうペンクラブには気概を預けられる確かさは無いと想われた。
少なくももう文学者として寄与できる余地も素地も無いと思われた。尊敬できるに足るものを組織にいて自分から産み創り出して行けそうにない。何をこころみても潰れてゆく。いや潰されて行く。
やめないでペンのために頑張って欲しいと言ってくる会員も先輩も何人もあるが、もう根気が涸れようとしている。
* しかしヒマラヤに逃げても何にもならない。「世間(市俗)にとどまり」「しかもその外にいる」こと。それが分かたず選ばない「出会い」だ。ずうっと、そうして来たではないか。
「わたしはおまえに、場所を動けとも、何かを払い落とせとも、世間を棄てよとも言わない。そんな必要はない。そこにいればいい。トータルにそこにいるのだ。だが、奥深く、何かが、上方に、超えたままでいる。それを忘れないこと。一緒にいるがいい、そして同時に自分とも一緒にいるのだ、そこがポイントだ。もし自分自身をお留守にして世間と一緒にいるだけだったら、お前は世間的な人間だ。そうしたら、遅かれ早かれおまえは逃げ出すことだろう」と、バグワンに叱られる。
なんど叱られ、なんど踏みとどまってきただろう。やれやれ。
2008 5・27 80
* 鳶さんに指摘されていた、「待っている、と近頃頻りに書かれています。何を待つか、何を語りたいか、間に合っていないのは何にか。」
* たしかにわたしは何度も何度も「待っている」と書いてきた。それは予期して期待して待ちかまえているのではないのだが、それでも「待つ」のはよくないと、バグワンに叱られている。「待つ」のも「エゴの欲」であり、それでは、とりにがすと。
まことに、しかり、言い訳してはいけない。
「それ」は「待つことなんかできやしない。結果なら待てる。が、成りゆきは待てない。成りゆきというものは、おまえにも、お前の待機にも関係ない。」「それ」は「ひとりでに起こる。お前は待つ必要さえない。なぜならば、待つことの中にすら、欲望があるからだ。欲望があっては、成りゆきはけっして起こるまい。欲望しないこと。そうしたら、それは起こる。求めないこと。そうしたら、それは与えられる」と、バグワンは言う。
ながく付き合っていて、まだこんなところでヤラレルのだ。バグワンが何を言ってくれたかは分かっている。「待つ」こともせず。ひとりで何にもつかまらず、ただ立って。
とても、寒い。
* イエスは「求めよ。叩け」と言っているが、老子はまったくちがう。「求めるな、そうすれば向こうから来る。叩くな、そうすれば扉はいつも開いたままだ」と。
イエスは抱き柱につかまれと言う。老子は、ただ目をさませと言う。
* こういうとき、ほんもののいいものに出逢いたいと思う、人でも物でも事でも。文章でも。
きゅっと胸が絞られ痛み走る。
2008 5・29 80
* バイアットの『抱擁』が佳境にすすんで、わくわくしている。
作の構想も組み立てのおもしろさも、かなりよく読めてきている。この抱擁= POSSESSIONという題は、漢字で先ず読むと、なにかしら浅い、表面的な偏見の先立つおそれがある、映画の客寄せの為に小説の原題から外れ、意図的に通俗化した題と疑う人もあろうか、だが、原題そのもの。
「POSSESSION=抱擁」の意味は、理念的にかなり練られている。哲学でもあるが、宗教味もあって、しかもじつにセクシイ。類い希に優れた前世紀の桂冠詩人と閨秀詩人との、精神と肉体とトータルな相互の POSSESSIONへ極まりゆく、「敬愛の秘蹟」が、もう一方現代の、やはり尖鋭で繊細な感性と理性のペアによる、「学究の姿勢」で、敬虔なまでの相愛の姿勢で追究されてゆく。抑制されたピュアな性の沸騰が、ここでも新たな「抱擁」を成らせてゆく、らしい、まだ下巻に入ったところだが。映画の方は繰り返し観ている。しかし映画は原作の緻密で大部なのにくらべると、みごとなまで粗筋に絞られてある。
* 谷神不死、是謂玄牝、玄牝之門、是謂天地根
老子はそう謂っている。
バグワンはこう読んでいる。
谷の精はけっして死なない。それは神秘なる女性と呼ばれる。
神秘な女性の扉、それが天と地の根源である、
と。そしてバグワンはここで独自に「抱擁=POSSESSION」を語っている。「女性」を神秘な根底にみさだめた信仰は、古来少なくない。その方が断然多い。
バイアットは作中、慎重を極めた序奏を経てから、「女性」自体の即物的な「表現」に精妙な感性と言葉の微妙を駆使して、関心を高めている。抱擁とは、女性への、両性による「POSSESS=所有」を意味してくる。モードとローランドという原題の若い男女も、最高の知性と感性の昔の詩人二人、アッシュもクリスタベルも、「其処」で、ドラマを現出して行く。「世界」というマトリックス=母胎への根源の理解と参加が、儀式を溶かした至純のほのおと成り、無垢に起ち上がることが期待されている。
2008 5・31 80
* わたしの脳裏に、いま、幻影としても「抱き柱」としても「拝」の対象としても、仏像が存在していない。神も存在していない。救いも無い。悟りもむろんない。からっぽの「いま・ここ」だけがある。それでいいのだ。ヤケクソでも何でもない。
しかし、いま、とてもムカついて、気持ちが悪い。とてもわるい。
2008 6・10 81
* バグワンに叱られてばかりいる。
いまのおまえは、馬車に、幾方向へも馬を繋いで一斉に鞭打ち奔らせているようではないか、と。千も萬も同時に考え考え考えて、それで得られるのは、自爆だよと。静かな心とは、からっぽ、虚。思考充満のまま動くのは危ないよと。
その通りだ。いまこそ、ふうッと大きな息を吐き出して、静かに瞑黙の闇に沈透くとき、と。
むろん、ヒマラヤへも逃げない、山林をムダにうろつかない。
バグワンはいつも言う。わたしはおまえのために百万言を語っているけれど、じつは何も語っていない。内奥無比の芯のところはカラッポで、虚で、ただただ静かだ、台風の眼のようにと。
わたしはいま、嵐になっている、また嵐であらねば平和もえられない、が、瞑黙の闇のうちはそよと動かずありたい。それに気づいていることをわたしは感謝している。逃避も退避もしてはならない。嵐のまま静かにあれることをわたしは感じている。
* 数時間寝て、五時半に起きている。今日はわたしをゆっくり解放しよう。
2008 6・13 81
* 谷神不死 是謂玄牝 玄牝之門 是謂天地根
老子の一核心である。
谷の精はけっして死なない。それは神秘なる女性と呼ばれる。神秘な女性の扉、それが天と地の根源である。
このアナロジーのとてつもない豊かさ。
バイアットも、それを多彩で豊饒な想像力と言葉とで追っている。語っている。
アーシュラ・ル・グゥインも病んだ世界の根源の扉へ、ゲドを送って回復させていた。
映画『マトリックス』でも、最期にあの二人(キアヌ・リーヴス、キャリー・アン・モス)は、マトリックス(母胎)根源の扉を直しに行った、人類の希望を甦らせようと。
西欧の哲学史を追っていると、中国の老子が、どんなに優れた実存であったかが、感謝と共に見えてくる。カント以降の西欧哲学は、じりじりと老子の膝元へすり寄ってくるようですらある。バグワンのような現代の老子がいたのを、わたしはおどろきとともに感謝の眼で見つめている。
2008 6・16 81
* 「交通整理」という言葉は、敗戦後に疎開先の丹波から京都市内へ帰って覚えた。祇園の石段下に、なんとMPが立って笛を吹いて「交通整理」していた。やがて日本の警官が代わった。
この言葉は、いろいろの意味合いで便利されるようになった。あたまのなかのゴチャゴチャなのも「交通整理」が必要だという具合に意識する。いまのわたしが、そうだ。整理が出来ていないと、道を踏み間違えて怪我をする。
* やはりバグワンのことばが、段違いに刺激的で真の智慧に満ちている。端的にだいじなところを語ってくれる。
宗教はロジックじゃない。いわばコツだ。コツはロジックじゃない。科学はロジックだ。考えて分からないということが無い、アインシュタインの相対性原理にしても考えて理解できる。宗教はそうではない。
俗世の宗教学者達は、宗教をロジックに置き換えようと懸命だ。おろかしい。「哲学・学」はまだしもロジックの学問だと居直れるが、宗教に関する学は、コツのような宗教の真相からは遠のいたべつものに過ぎない。要らないとは云わないが、人間内奥の平和や安心とは間然に触れあうことはない。人は知識では救われない。善知識という聖者達への称賛も、ロジックの世界のごあいさつに過ぎない。そんなものを抱き柱にしてもコツはつかめないだろう。
2008 6・21 81
* 心を養う という物思いがある。分別心をたくましくするのでは、ない。分別の心は棄てるべきである。分別すればするほど、分別して遺したソレにはブレがなく完璧や完成は期待できるけれど、玉葱の皮をむき続けるような小さな完遂だけが残る。分別して棄てた大部分はそのまま残るに過ぎない。分別とは都合のいいものだけ取って他は棄てることである。そんなこと、そんな心(マインド)は、ドンマイ(dont mind)、棄て去った方がいい。大事なのは、養うべきはハート、ソールという心。
いまわたしは、何で、その心をやしなっていると謂えるだろう。
* わたしの著書には、「死」の字を表題に孕んだものが幾つかあるのに気がつく。処女作の小説は初め『折臂翁の死』だったのを出版のさいに『或る折臂翁』と替えたのだった。エッセイでは『死なれて・死なせて』があり『死から死へ』があり『死なれることと生きること』があり、最近の『かくのごとき、死』がある。小説や評論の主なる事件や主題が死であった作は数え切れないだろう。わたしは、子供の頃からいつ来てもおかしくない死と一緒に歩んできたし、いまも、むろんそうだ。死に憧れるなどという不健康な思いでは全然ない。死は生の裏打ちであり、生は死への表現だと感じている。「死から死へ」生きている。
『死から死へ』は湖の本エッセイが第二十巻を迎えた記念の一冊になったが、同時に、江藤淳の自殺から、わたしと同じ血をわけた兄・北澤恒彦の自殺へ、数ヶ月の日々をそのまま記録したのである。表題は大勢の読者を動かした。
いましがた、巻頭の江藤淳の死を悲しんだ一日の日記を読み返した。フシギに胸は水を打って澄み切った。そのまま一片のエツセイになっていた。「日記」は文藝である。下手な小説よりもはるかに純な文藝であり創作であることを、『かくのごとき、死』でもわたしは言いたい。
2008 6・30 81
* さ、「本訴」開廷まで、二週間になった。否応なくわたしは闘わねばならぬ、わたしは原告ではない、実の娘と婿とによる「被告」である。
さぞ「よくよく」の提訴であるのだろうと人は思われるかも知れぬ、いやそう思うのが普通であり、しかしとんでもないということを、娘の夫・★★★は「週刊新潮」記者氏に「仮名」に隠れて話していた。記者氏はそれを六項の仮名「高橋洋」の直接話法にしてわたしに届けてくれた。わたしの作文ではない。読んでみると、ひどいウソばかりで、すべて証拠をあげて否定できたことは、六月二十二日つづきの日録に明瞭にした。
わたしは、私事の争いとして手の届く範囲で「書いて」自身を明白にし続けてきた、週刊誌の取材も「相手のあることで迷惑をかけてはいけない」と面談も電話取材も断り通した。だが「原告」は「仮名」で出てきて、マスコミ世間の話題の一つとして一方的に私の実名経歴顔写真まで載せて押し広げた、しかも記事は「実の娘に訴えられた」と大きく標記していながら、その「実の娘」の名も顔も言葉も全く掲載していないという奇妙な怪文書ナミの扱いだった。
わたしは、われわれの問題が「ただの私事」から「広い世間にバラ播かれたゴシップの一つに、スキャンダルの一つに」されてしまった動かせない事実とも、立ち向かわねばならなくなった。この日録を、「mixi」日記をも、わたしは「戦場」として公開し、いかに原告の曰くの虚言と捏造にみちたヒステリックな主張かを、いちいち明らかにしてゆく義務も権利もあると考えている。
くだらないことは分かっているが、わたしはわたしに向かい無責任に「ヨセヨセ」とは言っていられない。放っておけば1420万円の名誉毀損賠償を支払わねばならなくなるが、わたしは命を削ってそんなバカげたけがらわしい償金を払うために、命を削って原稿を、作品を書いてきたのではない。
* なにを損害賠償の対象に彼らはしているか。
* 一つは、一昨年夏に「肉腫」で死なせてしまった孫・やす香を悲しんだ、わたしの日記文藝『かくのごとき、死』を指さし、この作品を永久に葬り去るとしている。それがどんな作品かは、このウエブの二箇所で、今しも自由に読めるから、それで判断して頂ける。
* 今一つは、『聖家族』と仮称し、ウエブに下書きのまま長編完成を待って置いてあったフイクション小説を、わざわざ自分がモデルに相違ないと言い、そのウエブからの割愛を懇望してやまず、消去されてもなお損害賠償だと言いはっているのだが、これは言うまでもないフィクションの小説で、小説家が小説を書いていわれなくその抹消を約束することなど、出来るものではない。
* 今一つは、わたしのウエブの大きな部分を占めて十年にわたる日記「作家・秦恒平の生活と意見 闇に言い置く私語の刻」が目障りだというのである。
数万枚におよぶこの日記は、作家・秦恒平の思想と感想との厖大な倉庫であり、ちなみに、やす香の死に至る以前およそ百ヶ月、約三千日のなかで、★★★にふれた記事はただ七、八箇所、大海の一滴に過ぎず、しかも虚妄は一箇所もない。すべて物証で証明できる、しかしそれぞれに極短い批評ないし手厳しい批判であり、「批評」は作家の日常の仕事である、むろん自己批評も、である。
『かくのごとき、死』の以後は、葬儀の三、四日後から早くも仕掛けられてきた提訴の脅迫に応じて、否応なしに★★夫妻に触れて語らねば済まなかったし、それが損害賠償の対象になるとは、人道からしてありえない。親族内の私事に過ぎない。
* 今一つは、『かくのごとき、死』等にやす香の「mixi」日記等を引用しているのが著作権違反だという。祖父が愛する孫の死を悲しみながら「mixi」のマイミクとして丁寧に保存・保管していた日記やメールを、作品の必然から引用して、何が著作権違反か、われわれはやす香が亡くなる日まで親しいマイミクであった。それすら両親は何も知らないままであった。
* 今一つは、わたしが、このファイルの末尾に家族の写真を載せているのは肖像権の違反だというのである。悪意の写真が一枚でも有るならしらず、誰が観ても親が娘や孫と和気藹々の写真を懐かしんで誇らしいほどに掲示して、なにが名誉毀損か。性根の悪い盗撮などと、これらの写真をひとしなみに見るなど人間の情理に背いている。しかも掲示の必然と必要のもとになった、悪どい捏造と朦朧とした虚妄の記事を(当時は誰にでも、わたしの読者にも簡単に読めた) 「mixi」に書き散らしていたのは、娘自身であった。
* 今一つ、著作権侵害という、★★★の書いた著述も雑誌記事も、わたしは一字たりとも読んだことがないし、娘は作家でも書くプロでもなく、父・秦恒平の薫陶と激励と指導の配慮下に、かそかに詩や散文を書いていたに過ぎない。わたしは、その才能の発芽を心より待望しこそすれ、損害賠償を求められるような著作権侵害など、しようにも成すスベすらないのである。
* 実の娘夫妻に訴えられている「被告・秦恒平」への訴因はおよそ上に尽きている。
そのいちいちの例示の、はかなくも根拠のない実態は、すでに幾分をこの日記に六月の内にも示しておいた。
* わたしは娘と争っている気は、実は無い。弟・秦建日子が明言しているように「夕日子はビョーキ」なのだろうと悲しんでいる。相手は、ありふれていてバカバカしいけれども、婿・★★★。平気でみえみえのウソをついたり、「お付き合い読本」のような珍な汚物をまきちらす婿・★★★の、青山学院大学国際政経の教授という「ペルソナ」に隠れた「人間」を、炙り出すことになる。
この日録「闇に言い置く 私語」はまさしく私語であり、アクセスは拒まないが、読んでもらおうというのが目的ではないから、愉快でない方は避けてお通り頂きたい。
ここは「作家・秦恒平の文学と生活」をあらわす「私」の書斎であり、書庫であり、全集や作品の保管庫であり、いわば発表の紙誌であり、原稿用紙である。ただ、誰に覗き込まれても、照れはするが、恥じ無き場所である。
* さ、新しいわたしの晩年がまた新たな曲がり角と景色をともない立ち現れる。バグワンの無私・無心・静かな心に信頼しながら、嵐のように、目は静かな台風のように、わたしは日々を迎える。
* 訴状はスキャンした。引用して反撃しやすいように。
2008 7・10 82
* さ、また不愉快な世界へ降りて行く。
簡単に、「よせよせ、くだらない」と嗤わないでもらいたい。「くだらない」ことは千も萬も承知している。だが「今・此処」をわたしは見つめて生きねばならぬ。手を拱いていたら相手は狡知を絞ってあくどく何をしかけてくるか知れない。すでに仕掛けられたモノはキッチリ押し返さねばならない。それでいて、わたしは、わたしを表現し続けねばならない、小説家として生まれてきたのだから。
五十年前と、三十年前と、十年前と、三年前と、去年と、昨日とのあいだにわたしには矛盾も撞着もない。純然連動している。年齢だけが変わり、覚悟の「程」が変わっている。
この現環境では、昨日も「私語」したが、相手の「人間」を見つめる。しかもその一方でわたしはわたしの「人間」も隠さず出しておきたい。それはおまえが宜しくないと言う人にはそう言って貰えるよう、わたしは自身をいろいろに表現している気だ、いつもいつもいつも。
「作品の書き出し」をならべたり「現代詩歌への読み」をならべたりするのも、吾という「人間」をもし品隲なさるなら、どこからでもどうぞという気なのである。
「人間」で、あの男たちと張り合おうなど、微塵思いもしない。あれらは、論外。
何度も書いてきたが、わたしは玲瓏珠でなく、圭角に身を鎧うているようにいわれても(鎧うてはいないが、)仕方がないし、なによりも世間で謂う善人に程遠いゴロツキ(伊藤整の文学的分類に従う。)の資質を、むしろ大事に自覚している。冷たく乾いた法よりも自然の情理を大事にしているし、利他だけでなく、自利の意志もうち捨てていない。聖人君子は嫌い、むしろ屈強の偽善者としてでもつよく生きたい。
望んでいるのはバグワンによく聴きながら、一日も早くすっきり「目を覚まし」たいこと。その時こそを、「一瞬の好機」と迎えたい。
2008 7・15 82
* いま一つ、このところの感銘は、やはりバグワン。「性と死」との問題を『老子』のなかで語っている。何年ものうちにもう少なくも数度は読んできた。いつも深く内奥に響いてくる。
いま、老境の性のテーマがいちばん濃厚にわたしの思いを占めている。その辺から enlightenの文学的追究があり得ればと。峨々として容易ならぬ峻嶮。
2008 7・19 82
* 人は大海の孤島、我一人の足をのせて立てるだけの孤島に、投げ込まれるように「生まれた=was born」と、少年の昔からわたしは思ってきた。しかもその小さな島に、いつしかに「身内」の何人もと、何十人もと、倶に立つ事が出来ると思ってきた。タイヘン貴重なそれは相互依存の錯覚であるだろうけれど。
ところで、そんな孤島に投げ込まれた「わたし」とは、だが、どんな「者」であるのか。無味無臭の記号のような単体であるわけがない。また自分の意向でそんなひろいひろい海の孤島に自発的に飛び込んだのでもない。
「was born=生まれる」とは、文法上も優れて自然であると同時に、間違いなく受け身の意義を帯びている。投げ込んだ「何か」もとの力が在り、人によれば「神」とも呼ぶのだろう。わたしは「神」という文字に足を取られたくない。わたしは、途切れることのない「時空」の働きと、その孕んでいる内容を想っている。自分のなかに「過去の全部が関わっている」と。突然、無意味に記号のようにわたしは涌いて出たのではない。
バグワンは言う。言い切っている。
「過去の全体がおまえによって携えられている」
「おまえは過去全体の運搬者だよ」と。
過去全部の総決算としてわたしは大海の孤島に立たされた。投げ込まれた。
「おまえは、過去の全部の果実であり、そして、おまえは、全未来の種となる」とバグワンは明快にわたしを打つ。
わたしはいま、何人の身内と「島」を共有しているのだろう。
* 「慈」さんは子規の言葉を、いま、新ためて贈ってくれた、
「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きている事であつた」と。
わたしの頭にも染み通っていた言葉だが、「いま・ここ」できっちり心新たに聴こう。
2008 8・2 83
* それから、いつもの本を読んだ。やはりバグワンに耳を澄まして聴いていた。
アリストテレスは、AはAであるという論理を発明した。
ジャイナ教のマハヴィーラは、AはAであるが、Bでもあり、Cでもあり、DでもあってZでもあるという論理を発見した。
マハヴィーラの論理は「おそらく」という底知れぬ深い理解と吸収の力をもつ。論理を超える。神は存在するか。彼は答える、「おそらく存在する。」神は存在しないか。彼は答える、「おそらく神は存在しない。」
この「おそらく」の底知れ無さは、老子の底知れ無さにつながる。
論理は、分別。
タカが知れている。
2008 8・6 83
* マルクス、ダーウィン、フロイト。二十世紀といわれた「現代」の扉をこの三人は、ソクニテスやプラトンやアリストテレスの三人のようでなく、デカルトやスピノザやロックやヒュームのようでもなく、カントやヘーゲルやキルケゴールのようでもなく、哲学を横目で見入れた社会経済学や生物進化学や性心理学で、グイと押し開けた。
彼らについて一人ずつ読むのはよほどしんどいけれど、三人を纏めておいて無責任なほど好き勝手に思想を思想してみるのは、意外にナウくて楽しいというより、妙に嬉しくなる面がある。
三人の中で、わたしがいちばん先に気から離れていったのは、フロイトだった。わたしはあまり心理学という学問を信用しないからである。心理学や脳学で「人間」が早わかりするかのようなブームをわたしは、概して苦々しい安売りだと思ってきた。
その先走りが二言目には「心」「心」とお札かつぎのようにする。この三十年、「心」大事でこの世の中がよくなったという何も見つからない。わるくなる一方だ。
* この「先」について、云いたいというより思っていることが有るけれども、まだ云えばかえって逸れるかも知れない。
* 竹内整一さんは久しい友であるが、竹内さんが近年関わって掘り起こしてられることなどを、大きく眺めれば何と呼べばいいのか軽率に云えないが、「倫理学」という看板にわたしはしっくりこない「現代人」なりの不安と不満がある。「倫理」「倫理学」って、今に生きている言葉なのか知らん。いまに活かすに足る言葉なのかしらん。
わたしなどがバグワンや禅にかすかに触れながら、ほんとうに緊急の願いも込めて欲しいのは「死生学」であり、そうなると、先の三人、マルクスやダーウインやフロイトのあとへ来る人間の実存に根を生やした「思い」をさぐりながら、今日から明日へ生きてゆくための安心の「教え」を手にしたいのである。哲学学はいらない。宗教学や神学も欲しくない。「静かな心」つまり「無心」が懐かしい。
* いまわたしは学問に励む時機ではない。運動に励むこともない。出来れば眼を閉じて自身の内奥を悟りたい。何があるのか。何も無いのか。あって何もなく、無くてすべてある、そんな境涯がどこかに隠れているのか。
2008 8・10 83
* 千葉のe-OLDさんに戴いている「阿弥陀経ノート」を読み、「アイヌの舟(二)」で彼岸に、ゆっくりゆっくり渡る。無念・無想。わたしの座禅・瞑想。
阿弥陀経は般若心経とならんで少年来もっとも多く親しみ、心経のように暗誦はできないが、手にしていればほぼ目をむけなくても「お経読み」でラクに、そして或る程度までこまやかに感受できる。千葉の「兄さん」は、つとに般若心経の現代語訳もされているが、一句一句「表覧」にし現代語訳も添えた此の労作は、もの柔らかな境涯を想わせてじつに有り難い。
ただし「今・此処」のわたしは、自身をむなしく投げ出し捨身飼虎することは、出来ないというより、してはならぬと思っている。
逢花打花、逢月打月。
「無行為」により安心が得られるのではない、「今・此処」に貫通・尽力して真の「捨身飼虎」に至れとバグワンは説く。バグワンに教えられている。バグワンはヒマラヤへ去れとも山林へにげよとも決して言わない。仏陀も云わない。此の地獄の巷にいながら安心せよと。
右し左し大きくローリングしながら静かな「目」を深奥に持し、はげしい嵐のように、台風のように分別を捨てて進めと。花に逢えば、月に逢えば、花を月を即心痛打せよと導く。
私の胸の芯には心経も阿弥陀経も在る。無いのではない。千葉の人が絵解きで示してくれているように、いましもわたしは、妻とであろう彼岸への舟を感謝して静かに漕いでいるのである。
2008 8・17 83
* 胸の内は、このところバグワンに聴き、森々としている。バグワンはこのところ真っ向「死」を語って慰撫も容赦もなくまっすぐ食い入ってくる。
2008 8・22 83
* 先頃の日記を「舟」と題して「mixi」に送っておいたら、「瑛」さんの有り難いコメントが付いてきた。もう一度、此処へ併せて転記し、道元法語、三誦。
* 舟 湖
千葉のe-OLDさんに戴いている「阿弥陀経ノート」を読み、スクリーンの「アイヌの舟(二)」で、彼岸に、ゆっくりゆっくり漕ぎ渡る。無念・無想。わたしの座禅・瞑想のとき。
阿弥陀経は般若心経とならんで少年来もっとも多く親しみ、心経のように暗誦はできないが、手にしていればほぼ目をむけなくても「お経読み」でラクに、そして或る程度までこまやかに感受できる。
千葉の「兄さん」は、つとに般若心経の現代語訳もされているが、一句一句「表覧」にし現代語訳も添えた此の労作は、もの柔らかな境涯を想わせてじつに有り難い。
ただし「今・此処」のわたしは、自身をむなしく投げ出し捨身飼虎することは、出来ないというより、してはならぬと思っている。
逢花打花、逢月打月。
「無行為」により安心が得られるのではない、「今・此処」に貫通・尽力して真の「捨身飼虎」に至れとバグワンは説く。バグワンに教えられている。
バグワンはヒマラヤへ去れとも山林へにげよとも決して言わない。仏陀も云わない。
此の地獄の巷にいながら安心せよと。右し左し大きくローリングしながら静かな「目」を深奥に持し、はげしい嵐のように、台風のように分別を捨てて進めと。
花に逢えば、月に逢えば、花を月を即心痛打せよと導く。
私の胸の芯には心経も阿弥陀経も在る。無いのではない。千葉の人が絵解きで示してくれているように、いましもわたしは、妻とであろう彼岸への「舟」を感謝して静かに漕いでいるのである。
☆ 湖さん 瑛 川崎e-OLD
つい題の『舟』に触発されました。千葉のe-OLDさんの「優しさ」を静かに日記に書かれているように思います。道元の好きな文章をここに書かせてください。
生といふは、たとへば、人のふねにのれるときのごとし。このふねは、われ帆をつかひわれかぢをとれり。われさををさすといへども、ふねわれをのせて、ふねのほかにわれなし。われふねにのりて、このふねをもふねならしむ。この正當恁麼時を功夫參學すべし。この正當恁麼時は、舟の世界にあらざることなし。天も水も岸もみな舟の時節となれり、さらに舟にあらざる時節とおなじからず。このゆゑに、生はわが生ぜしむるなり、われをば生のわれならしむるなり。舟にのれるには、身心依正、ともに舟の機關なり。盡大地、盡空、ともに舟の機關なり。生なるわれ、われなる生、それかくのごとし。
座禅もしたことがないのですが、言葉が体を透きとおります。
* 先日、マイミクの「香」さんが、玉葉集の為兼の和歌を挙げておられたので、ちと戯れにカランでみた。あとで思うとちょっとお気の毒した。しかし、こういう「mixi」の楽しみは捨てがたい。こういう仲間なら、幾らでも増えて欲しい。
2008 8・23 83
* ビルの七階であるマスターが講演していたとき、烈しい地震が来て参会の聴衆は一斉に逃げ出した。恐怖に駆られた幹事役も逃げだそうとしたが、話していた人はモトの席に微動もしないで目を閉じているので、責任上動けず、隣に自分も座ったものの動顛していた。
地震は去っていった。マスターは、誰もいないのに話しやめたところから正確に次をまた話し始めたが、幹事は聴くどころでなく、話をやめてもらい、しかしこう聞かずにおれなかった。「みんな怖くて飛びだして行きました、自分もそうしたかったが。あなたは怖ろしくなかったのですか」と。
マスターは言った、自分も実は逃げ出したんですよと。ただし、あなた達は「外」へ逃げた。自分は自分の「内」なる深みへ逃げ込んだ。「外」へ逃げても地震はどこも地震、危険は同じ。しかし「内」なる奥の静寂は、地震も脅かすことなどできないからね、と。
* 求めてやまないのは、この「内」なる静寂境。そこに立ちたい。そこに居たい。「外」が嵐でも地震でも懼れずに済む。だが、この境地がじつに遠い。
2008 8・29 83
* 夜前、バグワンの話をVTRで一時間半ほど聴いた。そんなビデオが一本だけ何故か蔵われていた。初めて観た。十年、読み続けてきたので、話は身に染みて聴けた。妻と二人でじいっと聴いた。
おまえは、過去現在未来を通じてただ一人のおまえなのであり、他の「誰かsomebody」に成ろうなどと思うのは愚かしいことだ。「今・此処」のおまえ自身に気づくこと。「今・此処」でおまえ自身に成ること。
2008 9・9 84
* 相変わらず深夜の読書はつづいているが、声を庇って、バグワンの老子、古今集、太平記の三冊「音読」は、やめている。太平記は、もう数日で全巻読了する。
2008 9・29 84
* 夜前、依然「フロイト」の辺を読んでいた。「老子」も読んでいた。いちばん不快なことから顔を背けて逃げないこと、逃げているとトラウマになると、二人とも不思議に口を揃えていた。
あと七千年でナイアガラの滝はなくなる、もっとも柔らかい水が最も堅い岸壁を砂にするとバグワンは言い、海底や海浜の砂はすべてそのナイアガラの巌のなれの果て同然だと語っていた。さざれ石は巌にはならない。巌がさざれ石になる。もっとも柔らかい水がそうする、と。水は攻めないし逃げない。ただ浸透し流れて行く。
2008 10・17 85
* しかもなお十種におよぶわが「真夜中の読書」でわたしをもっとも捉えるのは、魅するのは、やはりバグワン。
2008 110・1 86
* 急を要する「懸案」のようなもの・ことが三つ四つと増えている。さっさと処置したいと思いつつ、なかなか手が出ない。
何もしない何も考えない境位にすすめと、バグワンは教えてくれる。その可能なことは、少し時間長く瞑目するようなことからも感じ取れている。
もう「外」向きに自分をもちだすことはヤメていいとは分かっている。何を熱心にしていてもいいのであるが、「他人(ひと)ごと」のようにそれをし観察しながら、深いところではそんなことと無縁でおれ、出来るはず、とバグワンは言っている、その通りである。熱心に「している」それもこれもあれも、みなわたしではないわたしがしていると「観察」していることは難しくない。そんなように日々暮らしている。
* さ、今日も出かける。
2008 11・12 86
* 一日茫然。なにもしないでいたのではない。なにをしていても、茫然。これは、いいこと。することはすればいい。茫然とすればいい。
2008 11・13 86
☆ 知識は重荷 バグワンに聴く(スワミ・ブレム・プラブッダ氏の訳に依拠しつつ。)
<知識>は心(マインド)のもの、<認識>は実存(being)のものだ。その違いと距離(へだたり)は途方もなく大きい。量的な違いであるばかりじゃない。質的な違いでもある。おまえが理解すべき第一のことは、知識(knowledge)と認識(knowing)の違いだ。
知識というのは、けっして現在のものではない。それはいつも過去のものだ。自分は知っていると言ったその瞬間、それはすでに死んだものになる。もうすでにその痕跡を記憶の上に残している。それはおまえにこびりついた垢のようなものだ。おまえはすでにそこから立ち去っている。
認識はつねに即時だ。認識は「いま、ここ」だ。それについては何も言えない。おまえはそれであることができるだけだ。それについてしゃべった瞬間、認識でさえも知識になってしまう。悟った人たちが全員、口をそろえて、それは語られ得ないと言うのはそのためだ。そのことをしゃべったが最後、まさにその本質自体が変わってしまう。それは知識になってしまっているのだ。それはもう、認識というビューティフルな生きた現象ではない。
認識に過去はない。それには何の未来もない。あるのは現在だけだ。しかも忘れてならないのは、現在というのは時の一部ではないということだ。
おまえたちは普通、時間は過去と未来と現在に分かれていると思っている。それは完全な誤りだ。時間は過去と未来に分かれているのであって、現在というのは、まったく時の一部ではない。それは時間の中ではつかまえられない。追いかけてごらん、おまえはそれを見失うに違いない。それをつかもうとしてごらん、それはいつも手の届かないところにあるだろう。なぜならば、それは<永遠>の一部であって、<時>の一部ではないからだ。
「現在」とは、時を横切る永遠にほかならない。それは、永遠と一瞬(束の間)なるものの出会う交差点なのだ。
現在には認識があり、過去の中には知識があり、そして知識が未来をつくり出す。過去が未来を生む。未来というのは過去の副産物なのだ。
何かを知ると必ず、おまえは計画しはじめる。より多くを知れば知るほど、計画も増える。知るということは過去を意味するし、計画というのは未来を意味する。そうしたら、おまえは未来に自由を許さないことになる。おまえはそれを過去の整理箱に押し込めようとする。おまえは、それが単なる過去のくり返しであってほしい。いかに修正され、装飾されていようと、ただの過去のくり返しだ。
知識の人というのは、計画の人だ。しかし、「生」というのは「計画されざる流れ」なのだ。「生」というのは「自由」なのだ。それを整理箱に押し込めることはできない。それは分類できない。知識に頼る人が真の「生」を取り逃がすのはそのためだ。彼は多くを知っていて、しかも実は何も知らない。彼は知りすぎている。しかも、実はまるで空っぽで虚ろなのだ。知識の人よりも浅薄な人間など、見つかるものじゃない。彼はただの表面ばかり、何の深みもない。というのも、深みは「永遠」「いま・ここ」を通してやって来るものだからだ。
時間は水平だ。時間は水平線上を動く。永遠は垂直だ。それは深みと高みへはいってゆく。それがイエスの十字架の意味するところだ。永遠を横切る時、あるいは時を横切る永遠……。あらゆる人の実存は垂直だ。ただ肉体、両手、あなたの物質的な部分のみが水平なのだ。
知識が未来を生む。未来が心配を生む。より多くを知れば知るほど、おまえはそれだけ心配になる。居心地が悪くなる。けっしてくつろげない、安心できない。内側に深いおののきがある。それは一種の病気だ。認識の人というのは全面的に違う。彼はここに生きる。この瞬間がすべて、あたかも明日など存在しないかのようだ。そして、本当はそんな明日などというものは存在しないのだ。そんなものは一度も存在したためしがない。それは「マインド(分別)」のゲームの一部なのだ。それは知識の人の夢なのだ。「いま・ここ」のこの瞬間こそすべてであり、そしてトータルなのだ。認識はこの瞬間に垂直にはいってゆく。
深く深く深く突き進む。認識の人には深みがある。彼のうわべですら深みの一部以外の何ものでもない。彼には浅薄なうわべなどない。彼のうわべもまた深みの一部なのだ。それが知識の人となると……。彼には何の深みもない。彼の深みも彼のうわべの一部なのだ。
そして、これがパラドックスだ。認識の人は知り、知識の人は知らない、知り得ない。というのも、知識は「生」に出会うことができないからだ。むしろ反対に、知識は障壁(バリヤー)になる。唯一のバリヤー、障害だ。それはちょうどこんな関係に近い。母親は子供が自分の子であることを知っている。父親にはその子供が自分の子であるという知識がある。父親は信じているだけだ。奥底では知りや
しない。知っているのは母親だけなのだ。
* この同じ言葉を、もうわたしは五度以上読んで聴いていて、四度も五度も六度もバグワンに叱られている。いやいやおなじことは、彼の説示書の多くに繰り返され、みな繰り返し返し読んできているのだから、確実に私の思いに刷り込まれている。彼の言葉を「真実」として知解しているが、そのわたしが認識の「瞬・瞬」に活溌に生き得ているか、確信が持てない。なさけない。わたしの「いま・ここ」を脅かし、安らかでない波が反復来る。哀しみが来る。怒りが来る。なさけなさが、わたしを揺する。
2008 11・16 86
* 分別ばかりしている。
☆ 認識は母親のようなもの、知識は父親に似ている。 バグワンに聴く
あらゆる知識は信条だ。認識は信条じゃない。それは知るということなのだ。それはおまえの知覚だ。それはおまえのヴィジョンだ。それはおまえの成長なのだ。ちょうど母親のようなものだ。子供は彼女の子宮の中で育つ。母親は知っている。子供は彼女の一部だ。彼女自身の延長、彼女自身の存在、血肉なのだ。父親は外来のものだ。本質的なものではない。彼はただ単に、その子が自分のものであるということを信じるにすぎない。
知識の人は自分が知っていることを信じる。認識の人は知っている。
認識というのは、おまえの実存の変容だ。妊娠に似ている。おまえはそれを宿さなければならない。おまえは自分自身を生み落とさなければならない。永遠の中への復活、時間からの離脱、そして、無時間への移入……。マインドから無心(ノーマインド)への転回だ。ただし、そのあまりのすさまじさは、自分の中でそれが起こっているのを見のがすことなどあり得ないほどだ。
知識の人間というのは、ブツダたち、知った人たちから、塵芥に等しいものを拾い集めてばかりいる。知識の人間はその人たちを信じる。彼が何を信じようと、そんなものはことごとく死んでいる。彼は自身自分を生み落としてはいない。他人から知識をかき集めたにすぎない。すべて借り物だ。どうして認識が借りられる? どうして実存が借りられる? もしその知識が真実だとしたら、それは実存の本性を帯びるようになるだろう。
ゲオルギー・グルジェフは、よく人々を、彼のところへやって来る探究者たちを問いただしたものだった。彼がまず最初に尋ねるのは、きみは知識と実存のどちらに興味があるのか、ということだった。
「というのも、われわれは実存を与えるのであって、知識などというものには関わり合わないからだ。だから、心を決めるがいい。もし知識に関心を持っているのなら、どこかほかへ行きなさい。もし実存に関心があるのなら、ここに残るがいい。ただし、とにかくごくごくはっきりとした決心をすることだ」
実存と知識の違いというのは何だろう? 認識と知識との違いと同じことだ。認識すること、知ることは、「在る」ことにほかならない。それは何かおまえにつけ加えられるようなものじゃない。それは何かおまえがその中へ成長してゆくものなのだ。
知識は、おまえにつけ加えられるものではあるが、おまえがそれを通して成長するというものではない。むしろ、おまえはそれら知識を重荷としてしょい込む。知識の人はいつ見ても重荷をしょっている。大変な重荷をしょっている。山のような知識をいくつも、彼らは肩に担いでいる。その顔は実に深刻だ。致命的に深刻だ。そしてそのハートたるや、重荷の下に完全に押しつぶされている。
認識の人には重さがない。彼にはしょって歩くものなど何もない。彼は空に飛び立つこともできる。地球の重力も彼には影響を及ぼさない。彼は地球に引っばられることがない。なぜならば、地球が引っぱれるのは重たいものだけだからだ。彼は地上に踏みとどまる。が、彼は地上のものではない。それがイエスの言葉の意味するところだ。彼はそれを何度も何度も口にしている。
「私の王国はこの世のものではない」
それはどこかよその世界、実存の、永遠の世界のものなのだ。
その区別がよく理解できたら、けっして知識の道を歩かないことを肝に銘じておきなさい。認識の、実存の道を行くがいい。そうしてこそ、何かを得ることができるのだから……。もっと多くの情報を手にするというのじゃない。おまえはもっと多くに「なる」のだ。そして、それが理解さるべき重要なポイントだ。おまえはもっと多くにならなければならない。
おまえの貧困は情報の量にあるのではない。おまえの貧困は実存の不確かさにあるのだ。おまえは貧しい。
しかもおまえは、ものをかき集めることでその貧しさを隠しつづけている。そして、知識というのもやはり「もの」なのだ。言葉、理論、哲学、論理学……すべて、ものだ。微妙で、抽象的ではある。が、それでもやはりものだ。おまえ自身は成長してやしない。おまえは同じままだ。それなのに、おまえは自分のまわりに、外側に、自分がもう知るに至っている、もう悟っているという理由のない頼りない錯覚をつくり出す。
* バグワンに徹底的に恥じしめられるとき、無心に近くいる。そのまま無心でいられたらどんなにいいだろう。
2008 11・17 86
* ゆうべバグワンに聴いた挿話は(初めてではないのに)胸にしみた。
近所中に親しまれかついささかバカにもされているお婆さんが、戸外でしきりに失せモノを捜しているので、近所の者達も協力した。何を捜しているのかと確かめると、針が一本だという。こんな広い路上でやみくもに針一本を捜すのはムリだ、せめてどの辺で無くしたか分かるかと聞くと、「家の中で」と言うではないか、みんなは惘れて家の中での失せモノを「家の外で」捜すバカがあるものかとおばあさんに詰め寄った。おばあさんの返辞。
見当が付きますか?
2008 11・26 86
* たくさん校正した。まだしているが。朝に書いた、おばあさんの針捜し。日の当たる戸外で捜しているおばあさんに、どの辺で無くしたと想うかを聞くと、無くしたのは家の中でという返辞。失せモノ捜しを路上で手伝っていたみなは惘れて、「だったら、なんで家の中を捜さず、こんな外を捜しているんだ」
おばあさんの返辞はこうだった、と。
「みなさんがそんなにお賢いとは想いもよりませんでしたね。それならなぜあなた方はいつも外側ばかり探してるんですか。わたしはただ、あなた方の流儀に従ってみただけですのさ。もしそんなにモノが分かっておいでなら、なんであなた方はわたしにランブを借りてでも内側を探さないんですかね。そこが真っ暗なのをわたしはよく知っていますよ」と。
さ、この返辞に、何を聴けばいいのか。
* デルフィの神託は、「ソクラテスこそが当時の地上で最高最良の賢者」と人に告げ、しかしソクラテスは「自分は何も知らない、知っているのは自分が何も知らないことだけ」と人々に言う。人々はデルフィの神にまた確かめた、「ソクラテスはこう言っていますが、何も知らない賢者なんて。神様かソクラテスかどっちかが間違っているのか、どっちも間違いをいうはずが無いのに」と。神託は即答し、「だから、ソクラテスが最も賢いのだ」と。
☆ 内に求めよと。 バクワンに聴く。 (スワミ・プレム・プラブッダ氏の翻訳に拠りながら。)
そこにパラドックスはない。これが賢者のしるしだ。知識はむなしい、知識がいかに論理的なふりをしてみたところで、見せかけにすぎない。
〝知識を追えば追うほど、知ることは少なくなる……〃
どうしてそんなことになるのか? それは、知識を遠く追ってゆけばゆくほど、おまえはそれだけ自分自身から遠ざかってゆくからだ。どこか自分の外側に〈真実〉を見出そうとすればするほど、おまえはさらに遠のいてゆく。〈全体〉を求めてさらに〈全体〉から遠ざかってゆく。自分の真の実存を求めて、さらに自分自身から遠ざかる。その探求の中で、さらに意識から遠ざかる。
おまえは何を探し求めているのか? おまえが探し求めている「それ」はもうすでにおまえの内にある。
もし自分自身から遠ざかってゆけば、おまえはどんどん知らなくなってゆくだろう。しかもおまえは、自分がもっともっと多くを知っているのだと思い込むことだろう。本なら、おまえは知っているだろう。言葉なら、おまえは知っているだろう。数々の理論、事実……。そして、おまえはいくらでも紡ぎつづけてゆける。それらの言葉や事実や知識を、どんどんといくらでも織りつづけてゆける。おまえは
空中に大きな楼閣を築くことができる。しかし、そんなのは空気のようなものだ。幻影……。そんなものは存在しない。そんなものは夢と同じ材質で出来ているにすぎない。思考(分別・マインド)と夢とは同じ材質で出来ている。それらは大海の表面のさざ波にすぎない。その中には何ひとつ実質的なものなどありはしない。もしおまえが(真実)を知りたいと思うのなら、(わが家)へ帰ってくるがいい。
わたしは口をすっぱくして言っている、「求めればのがすだろう」と言っている。まして「外へ求めれば」。
求めなければ、見つかる。
なぜならば、求めるというまさにその努力は、それが自分のもとにあるのではないということを、おまえが自明の理としてしまっていることを意味するから。それでは、ハナからおまえの探索はかなわぬ定めになっている。ある日、追い求め、探し求め、知識をかき集めているうちに、ばったりと事実に行き当たるに違いない。自分は大馬鹿者だ、広大な外の世界に探求に出る前に、自分の内側を見た方がよかったんだ……。
おばあさんの話は意味深い。それには理由がある。内側では何もかも真暗だからだ。目を閉じれば、そこにあるのは真暗闇だ。何ひとつ見えない。たとえもし何かが見えたとしても、それは外側が内側の湖面に映ったものでしかない。さまざまな思考が漂ってゆ
く……。おまえが市場で「知識」として集めてきたものだ。いろいろな顔が去来する……。しかし、それらは外側(よそ)の世界に属するものだ。真っ暗な内側には、ただ外側の反映と、そして広大な闇……。で、おまえは恐しくなる。頼りなくなる。そうして、外側を探した方がいいと思う。外側には少なくとも光があると。
しかし、それでは意味がない。おまえはどこで自分の真実(=針)をなくしたのか? おまえはどこで自分の実存をなくしたのか? おまえはどこで自分の神をなくしたのか? おまえはどこで自分の幸せ、自分の至福をなくしたのか? 外側の世界の無限の迷路に入り込む前に、まずおまえ自身の内・中を見た方がいい。もしそこで見つからなかったら、そのときにはかまわない、外を探しに行くがいい。しかし、そんなことはいまだかつて起こったためしがないんだよ。
誰であれ本気で深く内・中を見た者は、必ず「それ」見出してきた。なぜならば、それはもうすでに「そこに・ある」のだから……。ただひと目が必要なだけだ。ひとつの転回、意識の帰還、ただの深いひと目……。
〝知識を追えば追うほど、知ることは少なくなる。
それゆえに、聖人は奔走することなくして知り……″ 老子
奔走することで、おまえは取り逃がしている。生命やエネルギーや機会を無駄にしている。ぐるぐると走り回らないこと。窓や扉を閉じて、静かに坐るがいい。内側に落ち着いてご覧。内側にリラックスしてごらん。混乱を少しおさまらせて、それから静かに内の闇を見始めるのだ。
初めのうちは暗中模索だろう。初めのうちは暗闇の方が圧倒的だろう。だが、それに慣れてくるにしたがって、暗闇の質が変わりはじめる。
それはちょうど外から帰ってくるようなものだ。暑い日で、太陽が焼きつけるようだった。自分の家の中にはいっても、何も見えやしない。何もかも真異に見える。目が太陽に慣れているからだ。強烈な光線に慣らされているからだ。突然の変化……。目が慣れるのには少し時間がかかるだろう。それだけのことだ。辛抱がいる。おまえが内側にはいってゆくとき、初めは何も見えないだろう。短気を起こさないこと。一分も経たないうちに、「ブツダたちなんて全員嘘つきだ。みんな内側には至福があると言うけど、何も見えやしないじゃないか」などと言わないこと。
* こういうバグワンをここへ引くことに、いささかのオソレもわたしは持っている。ことに若くて現に知識をひたすら追い求めている人には、退嬰的に想われかねないからだ、また自身の内に実存的な不安や疑念や切望をまだ持たないでいる人には、タワコトに聞こえかねないからだ、が、どうか短絡が起きませんように。
2008 11・26 86
☆ バグワンに聴く (スワミ・プレム・プラブッダ氏の翻訳に学びつつ)
(優れた禅の師家=)趙州が悟りを開いた……。悟り? その言葉をあまり深刻に取らないこと。それは何も深刻なものじゃない。それは戯れの極み、最後のジョークなのだ。趙州が悟りを開くと、彼は笑いだした。お腹の底からの笑いだ。彼は狂ったようになった。人々が集まってきて、「どうしたんですか? 教えてくださいよ。何が起こったんです?」と聞きはじめた。
彼は言う。
「何も起こっちゃいない。私は狂っていた。もうすでに自分の中にあるものを必死になって追い求めていたんだからね」
人々が趙州に、「悟りを開かれたとき、あなたは何をしましたか?」と尋ねると、彼は決まって、「私は笑ったよ。それも大声で笑ったよ」と言い、さらに「私はいまだに笑いやんでいないのだ。おまえ方にそれが聞こえるかどうかは知らないが、私はまだ笑いやんでいないのだ」と語った。
何というジョークだろう! すでにそれを持っていながら、おまえは必死になって追い求めてきた。そして、それは見つからなかった。それが無かったからじやない。それがあまりにもあからさまで、あまりにも近くにありすぎて、おまえには見えなかったからだよ。
目は、遠くにあるものなら見ることができる。目は離れているものなら見ることができる。というのも、目は一定の距離を必要とするからだ。手は別のもの、離れているものには触れられる。耳は外側にあるものなら聞き取れる。老子が、「自分は見ないで理解できる」と言っているのはそこだ。
どうして自分自身を見ることなどできる? 誰が誰を見るのか? 見る者と見られる者とはそこでは一つだ。目など必要ない。誰が行為などする? 誰がそんな努力をする? それはちょうど、犬が自分のしっぽを追いかけているようなものだろう。ただただ愚かしい。
そして、それがおまえの現にやっていることだ。自分自身のしっぽを追いかけている。たち止まって、それが自分のしっぽであることを見てごらん。それを追いかける必要なんかない。それに、追いかけてみたところで、それはけっしてつかまらないに決まっている。追いかけることで、おまえは取り逃がす。追いかけないことによって、おまえは成就するのだ。
覚者たち(悟りを遂げた人たち)に聴いてごらん。彼らはみな同じことを言う。それは自分の側のどんな努力もなしに成就された、と。ゴタゴタの全体をつくり出したのは、おまえ自身の躍起の努力なんだよ。そんな努力を落とすことだ。自分のしっぽをオッカケ廻す努力よりも、静かに坐ること。おまえの内を、内の闇を静かに観ること。無為。
知識とは何だろうか? そして、なぜ、目覚めた人たちが口をそろえてそれに反対するのだろうか?
知識というのは、存在と闘う仕掛けだ。知識というのは、自我が手にしている道具なのだ。知識というのは衝突だ。部分が、全体(トータル)の秘密を知ることによって全体を征服しようとする。知識というのは、根源的エゴ・トリップなのだ。ちょうどお金がそうであるように、権力がそうであるように、知識もやはりエゴ・トリップなのだ。しかも、お金よりもっと危ない。権力よりもっと危ない。なぜならば、知識の方がずっと「微妙」だからだ。
ここで、おまえに、旧約聖書にあるアダムの楽園追放の物語をすべきだろう。あの寓話は多元的な意味を含んでいる。その意味のひとつは老子的なものだ。
神は世界を創造すると、アダムに、知識の木の実を食べてはならないと言い渡した。しかし、なぜ特に知識の木なのだろう? 実際、それは馬鹿げて見える。もし神がアダムに殺人を禁じたのだったら、われわれにも理解できただろう。もし神がアダムに、セックスに手を出すことを禁じたのだったら、世界中のお堅い宗教はみなそれを理解できただろう。ところが、神はセックスでも暴力でもなく、知識を禁じた。どうも知識こそ原罪であるかに見える。
なぜ神は知識を禁じなければならなかったのだろう? なぜ知識が危険なのだろう? それは、秘密を知ろうというまさにその努力そのものが「攻撃」的だからだ。最も深い「攻撃」性だ。さまざまな神秘をあばこうとするその努力自体、まさに暴力だ。そして、知ろうとするその努力はまさに、おまえが闘う用意をととのえつつあることを意味する。でなければ、知識などどうしようというのか?
知識というのは、攻撃性や闘争や衝突のための装置だ。部分が謀叛を起こそうとしている。部分が、全体(トータル)と遊離した自分だけの中心(センター) を持とうとしている。部分が世界そのものの中心になろうとしているのだ。
そんなふうに、ものごとを「禁じ」たりする神様が「いた」わけじゃない。神そのものがひとりのビューティフルな小話の一部なのだということをおまえに話さなくてはなるまいな。
神というのは、最もビューティフルな寓話だ。神などというのは、どこにもいるわけじゃない。神を探し求めたりしないこと。さもなければ、それは空しい探索に終わるしかない。神に出くわすことなどけっしてないだろう。神はひとつの寓話だ。ただし、ビューティフルではある。それは素晴らしくたくさんのことを言い表わしている。だが、もし神をひとりの人間だと思ったりしたら、あなたは取り逃がしてしまうだろう。神は人間じゃない。許し手でもないし禁じ手でもありはしない。神は神なんだよ。
一度、私は大変な哲学的対話を耳にしたことがある。
私はある金持ちの家にいて、彼の書斎に坐っていた。彼はとめどもなくしゃべりまくっていた。ところが、そこへ電話が鳴って、彼は席を立たなければならなくなった。彼がいなくなってくれてよかった。さもなければ、私はこの偉大な対話を聞きのがしていたことだろう。
ちょうど私のすぐ横に大きな金魚鉢があって、中には金魚が二匹泳いでいた。
若い方の金魚が不意に泳ぐのをやめると、もう一匹の金魚にこう尋ねた。
「あなたは神を信じますか?」
若い金魚はしごく哲学的に見えた。求道者だ。年老いた金魚は、グル(先生)風な口調でこう言った。
「さよう。さもなければ、誰が毎日のようにわれわれの水を取りかえてくれると思う?」
神の概念など、みんなこんなものだ。
「誰が世界を創造したと思う? 誰が世界をコントロールし、世界をやりくりしつづけているのだと思う?」
実に小さなマインド、ちっぽけな概念だ。神は概念じゃない。神というのは寓話なのだ。
だから、心にとめておきなさい。私が「神が禁じた」と言っても、それは禁ずるような誰かがいたという意味ではない。私の言いたいのは、これはあることを言う言い方のひとつだということなのだ。
存在が知識を禁ずる。存在は、無垢を許して知識を禁ずる。なぜならば、無垢の中で、部分は全体と混ざり合う。全体と一緒になっている。全体とひとつになっているからだ。ところが、それ(知識)が「知り」はじめたとたん、エゴが現われる。エゴが結晶化する。部分はもう全体とともに流れていない。もうそれは自分だけのマインド(分別)を持っている。あることはやり、あることはやらない……文字どおりの、分別。もうそれには自分だけの選択がある。もうそれには自分だけの好き嫌いがある。「小さな完璧」は期待できるだろうよ。しかし「大きな完成」とは、神の自在とは、ほど遠いのだよ。
2008 11・29 86
* 一つ肩の荷をおろしたところで、「e-文藝館=湖(umi)」に、思い立ち永島忠重の「新井奥邃先生略伝」を掲載した。
奥邃のことは、「mixi」に参加した最初に、いきなり「静かな心のために」という試論を一ヶ月書き続けた際に、大切に、人と思想とを紹介している。
手元に今、福田與の編著、『内観祈祷録・新井奥邃先生の面影』という貴重な一冊がある。
明治維新の動乱に追い立てられた仙台藩士で、函館に籠城していたが、もともと江戸の昌平黌へ選抜された秀才で、のちに森有礼の知己を得て留学生にえらばれ渡米し、二十八年を経て帰朝、まさに一隅を照らす人として、明治の文化史に小さいが深い感化の成績を遺していた。安井息軒の門に入り、北海道でロシア正教により基督教を知り、渡米後はハリスに服して敬虔な労働に従っていた。
帰国後の、活動と云うには静謐を極めて若者達と生活をともにし、独特の人格の魅力で感化し啓発したことが、僅かに知られている。
すこしずつ、この人の「内観 INWARD PRAYER」という精神からも教わりたいと願っているが、基督教との関連ないし「神」観に則していうなら、わたしの注目は、奥邃の「神」が、父であり同時等質的に母であるという、じつに新鮮な異端信仰の表白にある。「父母」の二字をそのまま一字に造字したような「神」観をわたしは他に知らない。むろん異端というのは、わたしの自由な立場からは邪教を意味しない。すばらしい洞察だと思う。
上の本の中で、京都精華大学におられた笠原芳光氏が、同じ感想をもっと詳しく調べて寄稿されているようなので、ぜひ読みたい。できれば笠原さんにお許し願って「e-文藝館=湖(umi)」に転載させてもらいたい。
* ちょっと一息がつけると、たちまちに有り難く心惹く別方面の声が豊かに聞こえてきて、わたしを嬉しく揺する。いうまでもないがわたしの奥邃関心にも自然とバグワンに繋がりはせぬかという期待がある。
2008 11・30 86
☆ 知識は頼れるか バグワンに聴く (スワミ・プレム・プラブッダ氏の訳に基づいて。)
おまえも、あの楽園がどこにあるんだろうと考えたことがあるに違いない。あれは地理的な場所ではない。ひとつの心理状態だ。無垢はパラダイスだ。知識は追放だ。
どの子供も、アダムやイヴとして生まれ、楽園にいる。ところが、われわれが、その子を教育しはじめる。その子を条件づけしはじめる。そんな条件づけをする先生たちや大人たちはみんな、子供を物知りにしようとする人たちはみんな、あのへビだ。イヴを説得して、もし知識の木の実を食べれば神のようになれるぞ、知識があれば「自分以外の何か」になれるぞ、と嗾したあのヘビ。
知識というものの全体が、「自分でない何か」にさせようとするひとつの誘惑にほかならない。あらゆる知識は未来をつくり出す。あらゆる知識は、自分ではない何かになろうという欲望をつくり出す。無垢とは、「自分である」ところのものを楽しむことだ。知識とは、「自分でない」ものへ向かって努力することだ。
あのヘビこそ、世界最初の「先生」だった。あのヘビが亀裂をつくった。「在ること」と「なること」との亀裂だ。あらゆる知識は、あなたの中に「在ること」と「なること」との亀裂をつくる。それが夢をつくる。それが、自分は「神々のようになれる」という誘い、幻想を生む。
ただし、結局おまえは神々とは違う。おまえは神々「のように」なれるかもしれぬだけだ。無垢は、おまえが神なのだと言う。それに「なる」必要なんかない、と。
おまえは最初から全体(=神)の一部だ。おまえは全体(=Whole)が持っているのと同じ質を持っている。おまえはもともと神=holyなのだ。
無垢は、おまえはもう「すでにそれである」のだと言う。「それになる」ために為さるべきことなど何もない。おまえはただただそれを楽しみ、それを祝い、その中に歓喜すればいいだけだ、と。
ところが知識はこう言う。いまのままでは、おまえは咎を負うている。おまえは無いに等しい。おまえは神々のようにならなくてはいけない。頑張れ! 努力しろ! いろいろなことをやれ! 自分を統制しろ!
心しておきなさい。子供が未来のことを考えだしたその日、その子は無垢を失う。その子が子供なのは、「現在」を楽しんでいたその瞬間までだ。その存在は無垢で、汚れていない。「なること」は、まだ侵入してきていない。その子はまだ楽園にいる。
楽園などというのは、何か特別なものじゃない。楽園とは、まさしく「いま・ここ」で自分自身を楽しむ能力のことなんだよ。
おまえは楽園にいる。が、なおかつおまえは、それを、なくしている。それは、おまえが「いま」と「ここ」を楽しめないからだ。おまえは「考え」ている。未来の計画を立てている。いつか神々のようになった暁に、そこで初めて楽しむというわけだ。
知識が未来をつくり出す。知識が欲望をつくり出す。知識が「なること」をつくり出す。知識こそサンサーラ(輪廻)、その車輪なのだ。その車輪に巻き込まれたら最後、おまえはぐるぐるぐるぐる回りつづけるだけで、どこにも到達しやしない。
知識こそ世間だ。イエスが「私の王国はこの世のものではない」と言うとき、この世とは「なること」の世界を指さしている。彼が言っているのは、樹々があり、小鳥たちが歌い、雨が降り、空と雲のあるこの世界のことではない。それは違う。「この世界」といっても、彼が意味しているのは、おまえ方を取り巻いているこの世界のことじゃない。
彼が指さし示して意味しているのは、おまえの「マインド」が実存を取り巻いて締め付けている世界、「なること」の世界、欲望の世界のことだ。
仏陀が〝タンハー〟と呼ぶところのもの、「もうすでに自分である」ところのもの「以外の何か」に成りたい成ろうとする欲望……のことだ。
だが、そんなことは不可能だ。おまえは絶えざる地獄にいなければいけない羽目になる。おまえは「すでに自分がそうである」ところのものでしかあり得ない。ほかには何ひとつ不可能だ。おまえは、ただただ何か不可能なことをやろうとしているにすぎない。
おまえは、「ほかの何もの」でもあり得ない。どうしてそんなことがあり得る? ハスの花になろうとして頑張っているバラの花、何かほかのものになろうとしているハスの花……。しかし、彼らはそんなに間抜けじゃない。彼らは依然として楽園の一部だ。おまえのすぐ横のバラの茂みは、依然として楽園にいる。が、そんなおまえは、違う。この私はここ、おまえ方のすぐ目の前にいて、しかも楽園にいる。が、おまえ方はそうじゃない。だからして、楽園というのは地理的な問題じゃない。それは「内なる」空間の問題なのだ。
知識は亀裂をつくる。それは無垢を汚す。それはおまえに年を取らせる。そうでなければ、おまえはつねに無垢で純真な子供のようにしていられるだろう。イエスはこう言う。そして、それは完全に正解だ。
「幼な子のようにならない限り、私の神の王国には入れまい」
それが、もう一度楽園の扉を開ける鍵なのだ。
知識があなたを楽園から追放する。神がじゃない。神などというものはいやしない。それはただ、その同じことをいう別な言い方にすぎない。それをもっとわかりやすくするために、われわれはおまえ方に理解できる寓話をつくるのだ。おまえがたいそうな物知りになったその瞬間、おまえは自動的に追放されている。誰かほかの力が追放するわけじゃない。そして、知識を落としてふたたび無垢になった瞬間、おまえは元通り迎え入れられている。ほかの誰かが迎え入れてくれるわけではない。
知識というのは、(全体)と闘うための道具だ。しかし、どうしておまえが全体と闘うことなどできる? それはちょうど、海水の一滴が海と闘っているようなものだ。それでは惨めな、ごくごく惨めな、地獄のような現象が起こるに決まっている。どうして水滴が海と闘ったりできる? 闘いつづけることはできるだろう。が、それが全体を制覇する見込みなど、全く、ない。つねに負けを見る。地獄だ。いつもいつも負かされ、いつもいつも敗者だ。
そして老子は、知識こそ罪悪だと言う。自分の内奥無比なる無垢に目覚めた人たちはみな、真に悟った人はみな、それと同じことを言っている。
知識を落としなさい。そして、もう一度無垢に、子供のようになるのだ。失われた幼年期を取り戻してごらん。すると突然、おまえはひとりの真の人になっている。何ひとつ欠けてはいない。何かほかのものに成ろうとするこの欲望以外、何もおまえの道を妨げてはいないのだよ。
〝知識を学ぶ者は、日に日にものごとを身につけることを目ざし、
道(TAO)を学ぶ者は、日に日に失ってゆくことを目ざす……〟 老子
知識に興味がある連中、彼らは全力投球で「もっともっともっと」知ろうとする。彼らは貯め込みつづけてゆく。そして、貯め込めば貯め込むほど、彼らは重荷を抱えている。
まわりを見回してごらん、誰もかれも実に重たい荷物をしょって歩いている。自分でかき集めたものでへしゃげそうになっている。苦しいのにそれにしがみついている。それが何か大切なものだとおもっているからだが、よく見守れば、自分が自分の苦悩にしがみつづけているのがわかるだろう。
* 本の書き入れによると、三年前すでにバグワンのこれらの言葉を、多分四度は聴いていた。こんな分かりいいことはなかった。それなのにこんな難しいことはないと、今もわたしは苦しむ。
2008 12・1 87
☆ 知識のかき集め バグワンに聴く スワミ氏の翻訳に拠りながら。
注意深く聴くときの〝注意attention″とは、〝緊張していることtensionという意味だ。おまえが緊張している、あまりにも熱を入れて学ぼう、吸収しよう、知ろうとしている、という意味だ。おまえは知識に興味がある。集中は知識への道だ。ひとつのものに焦点の絞られたマインド(分別心)は、言うまでもなく、普通より多くのものを学べる。
だが私はおまえに云う、瞑想meditateしなさいと。ただただ静かに耳を傾けなさいと。そのときおまえの心の中に緊張はない。知ろう、学ぼうとする嵐のような衝動もない。トータルなくつろぎ、手放し(let-go)状態、自分の存在を「開いた」状態にいる。
そうだよ、おまえは耳を傾ける。知るためじゃない。おまえはただ耳を傾ける。理解するためだ。同じ耳の傾け方でも、この二つは違う。
知ろうとしているときには、おまえは私の言っていることを「記憶」しようとする。奥深いところで、あなたはそれを「復唱」している。あなたは心の中で「ノート」している。自分の記憶という世界の中に、それを「書き込んで」いる。あなたの興味は、自分の中にそれを深く根づかせて、忘れないようにすることにある。そうして、それが「知識になる」のだ、そして不幸も芽生えるのに気づかない。
聴きなさい。その同じ種子は、学んだものを「忘れる」ことへ、「理解」へ、と展開することができる。そのとき、おまえは「ただ耳を傾ける」。それを貯め込むことに興味はない。それを自分の記憶に、自分の心に書き込むことになど興味はない。おまえは、ただただ耳を傾ける。音楽を聴くのと同じように、樹々で歌っている小鳥たちに耳を傾けるのと同じように、年老いた松の木立を吹き抜ける風に耳を傾けるのと同じように、滝を流れる水の昔に耳を傾けるのと同じように……。
憶えるべきことなどありはしない。記憶すべきことなどありはしない。おまえは鸚鵡のようなマインドで取り込むのではない。ただただどんなマインドも持たずに耳を傾ける。そんな耳の傾け方こそビューティフルだ。エクスタシーを誘う。何の目標も目的もない。それそのものがエクスタシーだ。至福に満ちる。耳を傾けなさい。集中はいらない。
あらゆる中学、高校、大学が精神集中を教える。その目標が「暗記」にあるからだ。だが真実とは暗記することかね。「学ぶ=真似ぶ」ことかね。学んだことを「忘れる」ことの意味を思ってごらん。
静かに耳を傾けなさい。書き留めておかなくちゃ「忘れてしまう」などという心配はしなくていい。記憶の必要はない。記憶の必要があるのは、ガラクタみたいなものに限る。覚えても覚えても、忘れてしまうからだ。(真実)は、記憶の必要なんかない。忘れられないのだから。聴いた言葉は記憶しなくても、エッセンスは失せない。そして、それはおまえの記憶の一部でなく、おまえの「実存の一部」になっている。
私(バグワン)がここで言っている何か、老子が私を通してここで言っている何か、は、おまえの隠された実存、おまえが忘れて見失ってきた実存の一部を明るみに出すためのものだ。おまえに新しい情報を供給しているわけじゃない。ただおまえが自身を取り戻すべく襤褸の「覆いをはずしている(=解蔽している)」だけ、無垢のおまえの再発見を奨めているだけ、おまえに自分「自身の実存の一瞥」を与えたいだけなのだよ。
〝たゆみなく失うことによって、人は最後に、何もしない(無為の為)に行き着く…… 〃 老子
知識は、一種の作為。一種の衝突、あがき。自然との戦い、だ。人間が〈全体〉に立ち向かう恒久的戦争。勝つ見込みのない、勝つ必要など万々無い戦争だ。だが、それが現に続いている。それが文明の無謀な運命かな。
何かを学ぼうと思っているとき、実のところ、おまえは何か「すること」を学ぼうとしている。あらゆる知識はプラグマティックな、功利的なものだ。おまえはそれを実践に移したがる。それを使って何かしら「する」に違いない。さもなかったら、おまえは「なんで学ぶんだ? どこに意味があ?」と言うだろう。おまえはただ「実用」としてそれを学ぶのだ。学ぶことには、つねに何かを「する」という展望がつきものだ。それは、偉大なやり手(doer)になるための技術にすぎない。
プラグマティックな、経験主義的な世界で、藝術がだんだんとしぼんでゆくのはそのためだ。そして、こういう声が上がる。
「藝術なんて何になる?」
たしかに使い道はない。実用には向かない。そして、それがその美しさだ。生もそうだ。
生全体も本質は非功利的なものだ。何の目的もない。どこへ向かっているのでもない。「いま・ここ」に「ある」だけだ。生は、なんら到達すべき目標ではない。目的地でもない。それほどに、もともと充実してトータルに「いま・ここ」に在るんだよ。
それは、ひとつの宇宙的な遊びだ。ヒンドゥー教徒たちが〝リーラ″と呼ぶもの、ひとつの戯れ……。子供たちは前途に何の目標もなく遊んでいる。楽しんでいる。その中に歓喜している。
* わたしがこのごろバグワンに聴いてこう言葉を書きうつすのは、もう、記憶したいから、忘れぬように覚えておきたいから、ではない。
はじめのうち、バグワンの言葉のすばらしさ深さに負けて、とかく書き写したくなってしようがなかった。だが、それはただ「知解の助長」になると分かっていて、厳しく避け続けた。何度も何度も何度もわたしはほぼ無心に耳を傾けて聴き入りたいがために「音読」しつづけた。それだけ。それだけ。
いま、こうして書き写しながら自身の理解に自身でも触れながら、ただ聴いて聴いて嬉しく感じている。
2008 12・5 87
* 言葉で、メシを喰ってきたという、自負という以上に忸怩としたものを、まともな物書きなら、誰でも持っている。言葉を信頼している物書きも世間にはいるだろうが、まともな物書きはことばを駆使することで逆にじつは身を細うしている。言葉を頼るほど不気味に心細いことは無いのだから。言葉に対してアケスケに信頼を口にする人に会うとわたしは気味が悪い。
しかもその言葉で世渡りするだけでなく、稼いでも来たのだ、タカがしれているにしても。
☆ 言葉、そして愛 バグワンに聴く (サラミ氏の翻訳に拠りながら)
言語というものは人間的なものだ。明らかに、それは大きな限界を持っている。ことに内なるもの、内側のものには、まったく用をなさない。(一般に西洋人は、たとえばことにルソーは「人間的」という言葉に万能の魔法かのように信頼をおくが、こんなに曖昧で不確かなままの言葉は少ないだろう。秦)
言語は何かを言い表わすことはできる。が、すべてを言うことはできない。食卓に坐っているときに「塩を取ってください」と言うには、言語は役に立つ。使い道はある。が、「真実」を言い表わすことはできない。なぜならば、「真実」というのは「役」ではないからだ。そして、「真実」とは何か客観的なものでもない。それはあなたの外側にあるのではない。それはどこか、あなたの存在の最も深い核心において「起こる」ものだ。
あるものを何と呼ぶか決めることはできる。それはおまえと私の間のことだ。一種の取り決めだ。もし双方が望んでいるならば、その言語は完全にオーケーだ。しかし、もし私の中で何かが起こったとしたならば、それはおまえと私の間のことではない。私にはそれが何であるか指し示すことはできない。たとえ指し示したとしても、おまえにはそれが何であるかわからないだろう。だとしたら、人間的な取り決めなどというものは不可能だ。(言葉による契約の限界であり、つまりは書かれた法というものの限界だ。 秦)
宗教は言語を超えている。
ぎりぎりのところ、言語にはそれが何で「ない」かを言うことしかできない。言語には「真実」が何であるかは言い表わせない。が、「真実」が何で「ない」かは言える。ぎりぎりのところ、それは「打ち消し」でしかあり得ない。
われわれは神が何であるかを言い表わすことはできない。それでは、われわれの限られた言葉、概念によって神を限定していることになるからだ。ぎりぎりのところ、われわれは神が何でないかを言えるだけだ。そして、地上にあらゆる経典類の言っているのは、神が何で「ない」かということにほかならない。それらは誤ちを除去する。が、けっして「真実」を開示してはくれない。
しかし、誤ちを除去しつづけてゆけば、ある日、突然、「真実」はおまえに明かされることだろう。それは、原語を通して明かされるのではない。それは、「静寂」を通して明かされるのだ。
だからして、ごく深く理解されるべき最初のことは──もし理解しないと、それは大きな落とし穴になってしまうからだが──言語は危険なものでもあり得るということだ。人はそれに惑わされかねない。
「神」という言葉はおまえも知っている。が、「神」という言葉は神ではない。「神」という言葉の中に神々しいものは何もない。「神」という言葉は、まったく虚ろで空しい。その中には何もない。何百万回それをくり返してみたところで、おまえには何ひとつ起こるまい。それは空っぽの抜け殻だ。言葉では、内的な経験を伝えることはできない。
イエスがある言葉を使ったとき、それは真実だったかもしれない。それは彼にとっては何らかの内的意味を持っていたかもしれない。が、彼の話を聞いた者たちにとってはそうではなかった。このことは理解されなくてはならない。
もし私が「サマーディ(三昧)」と言えば、それはあることを意味している。私はそれを知っている。しかし、おまえが「サマーディ」という言葉を聞くとき、それは耳に聞こえてくるひとつの音にすぎない。せいぜいのところ、おまえは辞書に載っている意味がわかるだけだ。だが、辞書は存在ではない。それは存在に代わるものではない。サマーディというのは、おまえがその中にはいっていったとき、おまえがそれになりきったときにしかわからないものだ。ほかにそれを知る道は何もない。
老子が口をすっぱくして、「真実」は語られ得ない、語られるものは「真実」ではない、と言うのはそこだ。しかし、それでも彼は語る。ここまでは言われ得るからだ。これはひとつの打ち消しにほかならない。
彼は言う。
〝知る者は言わない、言う者は知らない……″
ここまでは言われ得る。それでもなおかつ、老子は現にそれを語っている。彼が認めようと認めまいと……。彼自身の原則に従えば、もし知っているとしたら、彼は語るべきじゃない。もし語るとしたら、そのとき、彼は〝事情″に通じていないことになる。そのとき、彼は知らないことになる。そうなると、おまえは解けないナゾナゾにはまり込んでしまうだろう。もし知らないのだとしたら、どうして彼は、かくも大変な真実を口にすることができるのだろうか?
〝知る者は言わない、言う者は知らない……″
もし彼が知っているのだとしたら、なぜ彼は語っているのだろう? もし知らないのだとしたら、彼にはかくも深遠なことをほのめかすことすらできないはずだ。
このパラドックスを理解しようとしてごらん。彼はただただひとつのことを削除しているのだ。彼がこの一行で──深い意味を孕んだ、とても重要なものだが ──言おうとしているのは、「言葉に惑わされるな」ということに尽きる。言葉は「真実」ではない。それらは「真実」のように見えるかもしれない。が、そうではない。生きられた瞬間は表現され得ない。「生きたもの」は、それを「生きる」ことによってしかわからないのだ。
* バグワンはひとまず語り収めてもいるが、さらに「恋・愛」に置き換えて大切に語り始める。もう少し聴いていたい。
☆ バグワンは語り続ける。
おまえが恋に落ちる。そうすれば、それが「何か」はわかる。ところが、愛について千と一冊の本を読みつづけていっても……。そして、それらは本としてはビューティフルかもしれないし、ちゃんと自分で愛したことのある人たち、愛が何であるかを知った人たちによって書かれているかもしれない、が、それを読むだけでは、けっして愛の何かを知るには至らないだろう。
愛は、理解さるべき〝概念″ではない。それは、それによって支配される〝体験″なのだ。愛が乗り移ったとき、おまえは中心から投げ飛ばされてしまう。おまえはもうそこにいない。愛が存在し、おまえはいないのだ。おまえが愛を操ることはできない。概念なら操作できる。それにどんな意味を持たせるかはおまえの自由だ。しかし、真実の愛となると? 愛は操作され得ない。
それはおまえが愛するというのではない。それはおまえがやるようなことではない。それは何かおまえに起こることなのだ。突如として、おまえはつむじ風に巻き込まれている。おまえより大きな力が、おまえを支配してしまった。おまえはもうおまえではない。おまえは支配されているのだ。
人々が、恋人たちのことを狂っていると思うのはそのためだ。恋人たちというのは確かに狂っている。愛とは、美しき狂気にほかならない。それは狂気のようなものだ。それは狂気の性質を備えている。というのも、人はそれに支配されるのだから……。
世に「愛は盲目」と言う。それは当たっている。愛は実に盲目だ。なぜならば、愛にはそれなりの眼があるのだから! 普通の眼では通用しない。愛には独特の見方、感じ方、あり方がある。普通のやり方は一切放棄されてしまう。問題外だ。愛には愛だけの世界がある。愛する者のまわりには、ひとつ新しい世界が生まれる。彼は、ほかのみんなには盲目に見える。が、彼自身の中では盲目どころではない。実際には、生まれて初めて、彼は眼を、視力を、洞察を得ているのだ。
愛は、恋に落ちることによってしかわからない。それになることによって……恋人になるばかりじゃない、愛そのものになりきることによってしかわからないのだ。もしおまえが愛する者であったとしたら、愛はまだ起こっていない。おまえは依然としてコントロールを握っている。もしそうしたければ、おまえは相手を変えることもできる。もしそうしたければ、おまえは立ち去ることもできる。そこにはまだ選択がある。愛はまだ起こっていない。おまえはまだそれに支配されていない。それでは愛はわかるまい。
もしかしたら、おまえはあるパターンに従って、あるいはいかに愛するか、いかに愛さないかという理論に従って動いているのかもしれない。おまえは、ある条件づけに従って動いているに違いない。愛はおまえのハートになりきっていない。それはおまえの中で脈打っていない。それは依然としておまえの分別という心(マインド)の一部でしかない。言葉とはマインドのもの、マインドそのものであり、経験というのはハートのものだ。そして、ハートにはそれなりの世界がある。それなりの次元がある。だから、愛は表現され得ない。そして「真実」というのは、愛よりまださらに深いものだ。
* 愛が、グワンの語るに叶う限り近づき得て、すぐれた言葉で書かれたどんな例があるだろう。
ロレンスの『チャタレイ夫人』か。
2008 12・15 87
* 「抱き柱は抱かない」と、もう久しく、数年余もまえから、繰り返しわたしは述懐してきた。
子供の頃、わたしの身近な京都では「鬼ごっこ」といわず、「つかまえ」と甚だ端的に呼んでいたが、この遊びで鬼に追いつめられたとき、電柱に触れていると「セーフ」という約束になっていた。いわば「アジール(逃げ場所・駆け込み寺)になっていた。「Sケン」といった遊びにも「島」という逃げ込み場所がつくってあったが。
わたしは、逃げ込んでしがみつくモノを「抱き柱」と、およそ総称しながら、概念としてはボンヤリと融通をきかしていろいろに自分なりに想定してきたのである。
それが、「カミ・ホトケ」を意味していたことも、むろんで、強い調子で「抱き柱は抱かない」というとき、「カミ・ホトケ」を意味していることもしばしばであった。
そうなる以前にわたしは「カミ・ホトケ」をしきりに抱き柱にしていた時代が永かったと思う。それでいいのかという反省があったのは間違いない。またバグワンに聴いて聴いて聴き続けてきたこと、そのバグワンという存在を「抱き柱にしない」ことも、わたしはずいぶん堅く心がけてきたが、心がける事自体が不自由というものであるのを、いくらか承知してきた。
わたしがいま、一等素直に向かい合って話しているのは、秦の両親や叔母の位牌とであろうと思う。話しかけながら、小さい頃のように頼みにしているのである。同じように死なせてしまったやす香とも可愛い写真に目をやって、常日頃、言葉を多く交わしている。
* 話はちがうが、ストア哲学の始祖であるゼノンは、多くの学生達にいつも玄関の柱廊で講話したことが知られている。「ストア」とは柱廊・柱の意味である。
で、その先はゼノンの言葉であるというよりバグワンの理解であろうが、人がゼノンに、どうして立派にある邸宅の中で講話しないで、玄関の柱の前で話されるのかと問うたという。ありそうなことだ。
ゼノンは答えて、自分が話すことは、すべてこれ玄関の柱・扉までのことだと。そしてそこで話されている全ての言葉は、影のようなもの。あなたがたが、そんな話された言葉を超えてシンの静寂の境地に入れば、どうぞ家の中へはいるがいい、そこにはいかなる言葉も教えも在りはしない、必要でないのだと。
バグワンが、老子やイエスを引き合いにわたしに話し続けてくれるのは、これだけのことだ。
言葉にしがみつくな、玄関そとの「柱」になどしがみつくな、抱きつくな、そんなものを後生大事に抱いている限り、実存の静寂境には永遠に達しられないし、達しなければ死生の真はとうてい手にできないだけのこと、と。
おそろしい、ことだ。
* そんなことを思いながら、わたしは目の前の校正をはやく終えたい。
2008 12・19 87
* バグワンに、もう今更いわれなくても、おのが「マインド」と謂う「分別・思考」のしつこい愚かさは、少なくも知解している。
マインドは徹して自身の「合理性」を言い張り続ける、自分は合理的なんだと。人間とは合理的な動物なんだと。
だが、フロイトを魁として二十世紀は、人間が全然合理的でないことを発見した世紀だった、人間は合理的ではない、合理化「する」動物であるに過ぎないと。
合理化の理由は好き勝手に見付けられる、人間はマインドがむりやりにもたらすその理由付け条件付けをひたすら信用し濫用して、自身のまわりにすべて虚構の見かけをでっち上げ続けている。
それを見抜くのはそう難しくない。
じつに難しいのは、そのマインドから聡明に、バランスよく身を退くこと。マインドを否定して人間は生活できないことは知っていていい。バグワンは、「距離をおきなさい」と言う。ハートを。もっとハートを。
☆ バグワンに聴く。
ものごとを論理的な観点からだけ見ないこと。あまり論理的になりすぎないこと。ときには、非論理的になる必要もある。そうして初めてバランスが保たれる。合理的で、非合理的でもありなさい。おまえはその両方なのだから……。
もしマインドが、ものごとを見るおまえの唯一の方法になったりしたら、そのときには光が強すぎる。破壊的だ。そのマインドの閃光は、おまえがものごとをありのままに見るのを許してくれないだろう。ちょうど、太陽を見て、それからほかのものに目を移すと、すべて
が暗く見えるようなものだ。明暗が狂ってしまう。
〝その混乱を鎮める……〟 老子
マインドの中は絶えざる混乱状態にある。渾沌だ。休む間がない。嵐がいつまでもいつまでも続いてゆく。それを鎮めなさい。さもなければ、それはおまえに、生のより柔らかな音楽に耳を傾けることを許してくれないだろう。それはおまえに、生のデリケートを見るのを許してくれない。感じることを許してくれない。
いかにして、その内なる混乱を鎮めるのか? どうしたらいいのか?
ひとつ……もし自身の内側を観てそこに動揺を感じたら、ただ「川岸」に坐り込めばいい。その中に飛ひ込まないこと。川は流れている。おまえは岸に坐って、川に流れさせなさい。何もしないこと。しないことによってものごとをやる術(アート)を学びなさい。
ただ坐って、見守る。それは本当に大変な秘密だ。もしおまえに、マインドの混乱を見守っていることができれば、それはだんだんとひとりでに落ち着いてゆく。それはちょうど、おまえが家の中にはいってくると埃が舞い上がり、おまえが坐るとまたその埃がおさまるのに似ている。もしそれをおさめようとしはじめたりしたら、おまえはなおさらそれをかき立てるばかりだ。
だから、飛び込んで、混乱を鎮めようとしないこと。そんなことをしようとするのは誰だろう? それに、おまえはどうやってそんなことをするつもりかね? おまえはそれのもっと深い層をかき乱すだけだろう。
何もしなくていい、ただ坐ってごらん。そして、その坐ることが瞑想なのだ。
日本では、瞑想のことを「坐禅」と言う。坐禅とはまさに坐ると意味だ。そして何もしない……。
* わたしが、いままで、いまも、来年も、余儀なく立ち向かわねば済まぬ不条理を押しつけられていることは、言うまい。押しつけられたものから距離をおくことは生易しくない。しかし、わたしはじっとバグワンに聴いている。
2008 12・27 87
* 夜前、バグワンを読みながら、むせんでしまった。所詮「間に合わない」のではないかと悲しくなったのである。
2008 12・28 87