☆ 〝無為を為し……″ バグワンに聴く (スワミ氏の訳に感謝して拠りながら)
全面的な明け渡しを遂げる。くつろぎを遂げる……。〈真実〉を追求する中でリラックスするのだ。真実を追求しようとしながら、おまえは世間的なマインドを持ち込んでくる、野心に満ちて。努力を掛け声に。なぜなら、世間では競争が激しいから。おまえはひとりじゃな
い、何百万という人たちが争っている。お互いに戦っている。絶えざる戦争が続いている。世間というのは絶えざる戦争だ。そして、あらゆる人があらゆるほかの人たちと戦っている。息子は父親と戦っている。彼はそれに気づいていないかもしれないが…。母親は子供と戦っている。子供は母親と戦っている。兄弟は兄弟同士で戦っている。家族はほかの家族と戦っている。国家は国家同士で戦っている。誰もが深い葛藤と闘争の中にいる。
そんなところでもしリラックスなんかしたら、おまえは総理大臣にはなれない。そんなところでもしリラックスなんかしたら、おまえは大統領にはなれない。そんなところでもしリラックスしたりしたら、おまえはロックフェラーやフォードにはなれない。不可能だ。もしそこでリラックスしたら、おまえは仏陀や老子のような一介の乞食になってしまう。闘いが必要だ。世間には暴力がつきものだ。そして、世間にはエゴがつきものだ。世間というのは、人よりも攻撃的な人間たちのものだ。おまえ方は完全に、暴力や行動向きに叩きあげられた世界から来ている。何かしろ! 闘え! 負けるな!
人々は私のところへ来てこんな不平を言う。
「やれとおっしゃってくれればやるのに、あなたはただリラックスして、やるなとおっしゃるんですから」
おまえ方には、リラックスが不可能なのだ。たとえほんの一瞬でも、何もしないことなど不可能に見える。それは古い習慣、古い、根深いパターンのなせるわざだ。それはいつも「何かやれ!」とせきたてる。
ところが、老子は「何もするな」と言う。
実存の世界では、「する」ことは必要ない。それが〝実存(being)″ の意味するものだ。〝すること(doing)″が必要でないところ、そこでこそ、あまえはおまえの最も奥底の深みにおいて花開く。ただし、何の努力もいらない。闘いなんかない。
ある禅のマスターいわく。
「静かに坐り、何もしない。草はひとりでに生える」と。
彼は、何もしないこと、静かに坐ることが、おまえの存在の内奥無比なる核心において何かをする唯一の道だ、と語っている。草はひとりでに生える。草を引っばり出す必要はない。植物は引っぱり出す必要などない。彼らはひとりでに生えてくる。おまえは、ただただその脇で待っていればいい。おまえが待っている間にも、草は成長しつつある。
* やさしそうで、凡俗にはじつに此処のところが嶮しい。悲しいかな、わたしは国民学校の五、六年生以来、その場その場で、doer(やり手)であった。場という場からはなれて来て、独りになっても独りですること(doing)を手放しかね、あれをやりこれをやり「いま・ここ」を、すること・なすことで満たしている。ただもうそれら「すること・なすこと」の全部が理財とも栄誉とも功名ともまったく無関係であるだけ、だ。わたしはそれを黙想の坐禅でこそないけれど、「している坐禅」「行ずる坐禅」かのように眺めている、眺めようとしている。だが、心は騒ぐ。静かな心にはなかなかなれない。はやく解放されたいと、『こころ』の先生の気持ちが益々見えてくる。
* 古い友達が、「今日、うれしかったこと─、日々それを見つけられる年と、なるよう」と賀状に書いてくれていた。
わたしはかなりの時間、その、筆の字を眺めていた。「うれしかったこと─」を「見つけられ」ない日なんて、有るのだろうか。
どんなに惨めな気分の日でもうれしくなれる瞬間には、幾らも恵まれている。いまも頭上からおもちゃ犬の「コロン」が愛らしく私を見下ろしていて、わたしは微笑してしまう。たかが使い古したカレンダーから取り置いた図版であれ、栖鳳の「斑猫」や水ぬるむ「蛙」の繪をみればわたしは嬉しい。谷崎先生の写真に睨まれてもまだちっちゃい昔のやす香の写真に見られても嬉しい。障子窓の隙間に外の日光が黄金(きん)色しているのも嬉しい。手の付けられない混雑のこの仕事場すら嬉しいし、機械が無事に動いてくれて、四つ必ず澄んだ緑色でなければならない機械が、綺麗に四つ緑で微動もしないのだって、とても安心で嬉しい。そしてメールが来たりする。手紙も来る。
昨深夜に次から次へ読んだ本の、千載集の和歌の一首や、ジャン・ミッシェル老人の振る舞いや、道綱母のきびきびした日記の言いぐさ等々も、また「小沢昭一的」おしゃべりにふと露出する精神なども、わざわざ思い返すまでもなく嬉しい。どんなに気分が腐っていても、仕事や用事をエイと片づけたときも嬉しい。みなみな、ごく自然なことだ。
そしてどれもこれも、何の自慢にも誇りにも鳴ることではない、それがまたいいのである。
2009 1・4 88
* 東大教授の竹内さん、かつて秦文学研究会を永く主宰して下さった人のメールに答えて。
* 拝復
わたくしは、この十数年来、バグワン・シュリ・ラジニーシに聴いています。いま、わたくしは、余生乏しくなった今、ほとんど「論じる」という営為の限界を遠のきたいと呻いています。
ただ待っています。間に合うかしらんと思いながら。「静かなこころ」を。
「悲」という文字を 「悲しむ」という言葉を 今昔物語は示唆豊かに用いていますね。わたしは毎晩欠かさずいま今昔物語を聴いています。
今一つ、ジャン・ジャック・ルソーに躓き続けています。この人の言葉は、徹底してマインドで組み立てられながら、ハートの言葉であると僭称しているのでしょうか。理論家として周到で卓越していますが、偽善者のことばのように響くイヤな印象も。いま、いちばんひっかかっている好かないが気になる思想家です。
旧約聖書をごく初期の文語文日本語訳で、エレミヤ記まで読み進んでいます。分からない。アラビアンナイトを全巻読み終えたときの方が晴れやかなよろこびに満たされました。
とかくすると「歴史」を読み、学ぼうとしてしまう根底の姿勢に、ときどき途方に暮れます。モンタネッリの「ローマの歴史」を面白く二度目読んでいます。この三年に世界と日本の通史を、そして関連の史書を何万頁も楽しみました。しかし、これはこころを騒がせる役しかしません。
それでも、いま現代がほんとうに歴史的に必要なのは、「中世を再び」の思いと、実践かと。
万葉集を全部、古今集を全部 音読し、いま千載和歌集を二度目読み続けて、秀歌を選んでいます。これは心静まります。
とりとめないことを申しました。 草々
2009 1・6 88
* とにもかくにも、バグワンは立ち止まれ、何もするなと叱ってくれるが、それが出来ない。ときどきものを溜め込んでゴミ屋敷が出来て世間の話題になるが、溜め込まないというまねがなかなか出来ない以上は、せっせと片づけないと、モノに埋もれかねない。情けないなあと思う一方、溜め込んできたのは間違いなくわたしなのである。何を捨てていいか、何は棄てられないのか、ホントに捨てられないか。ヒトもモノもコトも日に日に溜まってゆくものだ。
2009 1・15 88
* 解蔽。
この一語がのこされた僅かな期間をしめくくるモノであろう。「蔽」とは身にまとうた襤褸・ボロの意味である。ボロを「解」く、脱ぎ捨てる。荀子の「心」の説、荀子と限らぬ先達の、つねにまず心を戒める要点である。
「蔽」を見つめること。心にしこった不快、業苦。巌のように大きいソレを小刀でカリカリ削るようなことを強いられている。まだまだこの先長き長き苦しみになるだろう。おお身にまとうたボロボロたちよ。
* 自分で自分が把握しきれない。それでは簡潔な自己表現は成らない。歩一歩の脚の重さに背は前屈みに折れてゆく。
* 詳細な「自筆年譜一」を読み直して行き、また項目「食いしん坊」まで出そろった『私語分類』など見直していると、つい往昔に呼び返されてしまい、懐かしいと言うよりもなんとなく心弱くなってしまう。
2009 1・16 88
* 夜前『今昔物語』で興味ある一「語」に出会った。やはり法華経の行者の説話ではあるが、寺院の縁起譚でもあり、時の朝廷もかかわり、法華経に深く帰依している龍もあらわれる。頭の中に置いて醗酵させてみたい。
法華経は岩波文庫三巻の大冊を丁寧に、一部は音読している。
この本はサンスクリット原典からの可及的忠実な現代日本語訳を左頁に一貫させながら、対訳のていで、漢訳法華経原文とその読み下し文とを見ひらき右頁の上下にきちんと置いている。わたしは、経典の漢訳文を声に出し白文読み・経典読みしつつ、下段の訓読文を参照し、むろんサンスクリットからの訳を通読している。急ぐ旅ではない、静かに読み進んで、序品はもう通ってきた。
いまのわたしは、法華経の壮大な世界観に簡単に与してはいないし、根の覚悟は、バグワンに聴いて帰依している。つまり「禅」にちかいものを見ている。しかし、大乗経典の中でもことに戦闘的な法華経が成ってきたあらましに素直に聴いて見ようという気はある。
2009 1・19 88
☆ バグワンに聴く (スワミ氏の翻訳に感謝して拠りながら。)
最初の瞬間なら(どんな難儀も厄介も=)何もかも実にたやすい。ちょうど種のようなもの。おまえはそれを捨てでしまえばよかった。何も手を煩わす必要はない。しかし、それが大木になったらなかなか大変だ。それに外側の樹ならまだいい。切り倒すこともできる。しかし、怒りや欲やセックス……こうしたものは内なる樹だ。おまえの存在と絡み合っている。それを切ると、おまえ自身が血を流す。それを切ると、おまえ自身が苦しむ。
人々は何度でも何度でも私バグワンに尋ねる。
「悲惨がどんな源から出てくるのかを理解していても、なぜ私たちは悲惨にしがみつきつづけるのでしょう?」
その理由はこうだ。その悲惨はおまえの存在の一部になってしまっている。もしそれを切ると、おまえは血を流す。それは、あっさり脱ぎ捨ててしまえる衣のようなものではない。それはおまえ自身の皮膚のようなものになっている。皮膚をはぎ取ったら、おまえは苦しむだろう。もしかしたら悪性の皮膚病にかかっているかもしれない。もしかしたら、おまえは湿疹だらけかもしれない。しかし、それでもそれはおまえの皮膚だ。おまえはいくら苦しんでも、それをはぎ取ることだけはできない。そんなことをしたら、もっとずっと苦しい目に会わなければならないから。
人々が悲惨にしがみつくのは、少なくとも何かしがみつくものを「持っていたい」からだ。悲惨がなくなったら、何もしがみつくものがなくなってしまう。それに、少なくとも悲惨ならよく知っているし、なじみがある。苦の友だちだ。おまえはそれと波長が合っている。おまえはそれがそこにあることを知っている。古い病気……人はそれに慣れてしまうものだ。おまえは悲惨にしがみつく。なぜなら、それを断ち切ることは自分自身の存在を断つことにほかならないからだ。
づねに、表面化していない状態でものごとをすばやく捕えることを心がけておきなさい。いま現在、おまえはそれが難儀や厄介に育ったところでそれにむしゃぶりついている。そこで、おまえは自分で自分をああ云いこう云い、騙すしかない。
怒りが去ると、おまえはけっこう賢くなる。しかし、それではどこに意味がある? おまえは何かナンセンスなことをやって、その行為が完了してしまうと、とてもとても賢明になる。けれども、そんな知恵は無用の長物だ。愚かしい。そうなってからなら、どこの誰でも賢くなれる。
もし本当にやすやすと生きて誤り無くしたいなら、そんな難儀や厄介が芽生えかけたその前に気づくのが本当だ。そうすれば、何かがなされ得た。もしまだそれが出てこないうちにそのことに気づくことができていたら、あらゆることが可能だった。
〝まだ表に出ていないものは処置し易い。
(氷のように)もろいものは溶け易く、微小なものは消散し易い。
形を取る前に事を処理し…″ 老子
おまえは、それがそこにあるまえ、ある初めのうちでなく、済んだ後で怒り出したり怒りを処理しようとする。老子の言っているのは、それがまだそこにないとき、それが出てくる前にそれを処理しろということだよ。形を取る前に事を処理してごらん。そうすれば、おまえの存在にはまったく違った質が備わるようになるだろう。おまえは純潔を、無垢を、腐敗していない存在を持てるようになるに違いない。
〝無秩序は広がる前に食い止める……″ 老子
待たないこと、そして延期しないこと。「明日やればいいさ」などと言わないこと。明日などけっして来はしない。いままで明日というのがやって来たためしはないし、これからもけっしてないだろう。それはまったくマインドの中のひとつのイメージにすぎない。あるのはつねに今日だ。存在するのは必ず今なのだ。この瞬間しか存在しない。
もし何かをやりたいと思ったら、「いま・ここ」でやりなさい。延期しては駄目。そして「こんな小さなことは明日で充分間に合う」などと言わない。そんなに小さなものなどありはしない。もしおまえが目を見開いていなかったら、明日が来るまでにそれは大きく広がってしまうだろう。そうなるとおまえは難儀する。大変な厄介をかかえる。明日になったら、おまえがそれを取り押さえることすら不可能かもしれないのだ。
けっして問題を不完全なままにしておかないこと。そうやって、おまえは重荷をしょい込むのだよ。つねに、瞬間から瞬間へと完結した生を生きなさい。それが何であれ、やらなければならないことは今やるがいい。それが何であれ、言わなければならないことは今言うのだ。それが何であれ、おまえがそう在らねばならないものは、今それで在りなさい。「明日」などと言わない。「明日」というのは馬鹿者の国だ。愚かしさは、そういう馬鹿で続いてゆく。延期……。
もしあらゆることをこの瞬間に完結させることができれば、おまえはつねに新鮮に次の瞬間に向かうことができる。そこには何も残留物がない。そして、もしそういう人間に死がやって来たとしても、彼はいつでも喜んで迎える用意がある。彼は一度として何かを不完全なまま残してきたことがないからだ。つねに完結しているおかげで、彼はいつでも用意ができている。
もしおまえのところに今にも死がやって来たら、おまえは困ってしまうだろう。千と一つのものごとが不完全なままで残っていて、もう少し時間が欲しいからだ。ずっと、いくつかやりたいことがあったのに、おまえはまだ一度もそれらをやっていない。
* こういうおそろしいことを聴きながら、わたしは、救いよう無く馬鹿を生きてきたし、生きている。
ああ美しいものが観たい。
2009 1・20 88
* さらにバグワンに聴く (訳者に感謝しつつ)
現に、おまえは役に立たないものごとに限って完結させていて、役に立つことは先に延ばしてきている。
もし怒りを明日に延期できるとすれば、それは結構なことだろう。ところが、おまえはけっして怒りを明日に延ばしたりはしない。怒るのは、いまのいま怒る。愛は明日に延ばす。欲はいま出す。慈しみは「明日の具合を見てみよう」ということになる。あらゆるナンセンスの方は、おまえはいまのいまやり、明日を待つことなどしない。そして、あらゆるビューティフルなことを、おまえはいつかほかの日に後回しにしつづけている。悲惨を、おまえはけっして延期しない。至福はいつも先延ばしに見送る。
だから、死がやって来たとき、おまえが実現してきたのは惨めな人生ばかりで、祝福や天恵はいつも先に延ばされてきた。ご縁が結べていなかったのだ。そしてそこへ死がやって来る。と、おまえは泣いたりわめいたりして、きっと、こう言う。
「もうちょっと時間をください。私は一度も本当には生きたことがありません……」
それを正反対にしてごらん。この瞬間には至福を生きるのだ。悲惨は延期され得る。そんなことのために何も急ぐことはない。そし
て、もしあなたがこの瞬間この瞬間に、いつも「いま・ここ」で至福に満ちていたなら、悲惨など、けっして起こらないだろう。なぜならば、この瞬間こそ(全面的なるもの)、在るところのすべてだからだ。次の瞬間はやって来る。が、次の瞬間はこの瞬間から出てくるのだ。もしおまえがこの瞬間に至福に満ちていれば、次の瞬間には、そこからより大きな至福が出てくる。
そして、死が訪れたときには、おまえはこう言うだろう。
「私は完全に用意ができています。私が先に延ばしてきたのは悲惨だけだからです。ようこそいらっしゃいました」
もう何も必要ない。もう(明日)は完全に消え失せてしまう。
それが賢い者の生き方だ。彼はどんな問題もこの瞬間に、「いま・ここ」に取り組む。彼はどんな状況も「いま・ここ」に取り組む。
もしおまえがものごとを完結させれば、多くのエネルギーが解き放たれる。自分の中でそれを観察したことがあるだろうか? もしあることを完結させないと、それはおまえの頭の中に残り、ドンドンと扉を叩いて、完結してもらうことを求める。あなたがそれを完結させるまでは、それはおまえにまとわりつきつづける。おまえを悩ませつづける。それは小さなことかもしれない、が、いつまでもまとわりつく。それを終わらせるがいい!
もし、あらゆることを一瞬一瞬完結させることができたなら……。そして私がそれができると言うのは、私がそれをやっているからだ。私の話しているのは理論じゃない。私はごく実際的な話をしているのだ。それはなされ得る。それはなされてきている。ただし、ごく少数の人々によって……。
一度そのコツがわかったら、おまえは自分で自分を笑うだろう。それはあまりにも単純だ。ちょうど鍵を回せば錠前が開くようなものだ。しっかり観察すれば、自分がすべてを完結させているかどうかはわかる。そして夜、夢を見ることが少なくなる。なぜならば夢というのは、自分を完結させようとしている昼間の未完成の追経験にほかならないからだ。
そして、もし夢が消え失せたならば、その次には思考が消え失せるだろう。夢と思考というのは同じものだ。夢とは原始的な視覚言語だ。象形言語……。そして思考(マインド・分別)というのは洗練された夢、白昼の夢以外の何ものでもない。夢見と思考というのは、同じプロセスの両側面なのだよ。
* わたしは、たくさん、たくさん、たくさん間違えてきた、いまも間違えている。
2009 1・21 88
* ああいつのまにか日付が変わっている。
* 1998年4月に初めて日記に「バグワン」について私語している。いま、バグワンをそのように噂する人はいないが、あのころは過敏になっていた短慮な人ほどオーム真理教まがいのように悪く云ったり恐れたりする人がいた。みな、知らないで噂する。知らないという点ではわたしも同じだったが謙遜に識っていった。いや識るのでなく、ごく素直に触れていった。わたしはひたすら(本を通して)聴いて聴いて聴いた。接し方としては不充分であったけれど精神的には静かだったし謙遜だった。
嫁いだ娘は、文字通りバグワンの三冊を物置に投げ込んで行った。それが、娘が父に遺していってくれた最良のまさに「置き土産」になった。娘をすこしでも理解したくてその三冊を読み始めたが、娘が投げ出していった理由は朧に察し得たものの、それはどうでもよく、わたしは飛沫一つたてずにバグワンという湖水に飛び込んで行った。わたしの後半生はその清水の底ではじまった。感謝している。
☆ バグワンとの出逢い 1998 4/1 2 「バグワン」
* バグワン・シュリ・ラジニーシという人をご存じですか。アメリカのオレゴンでしたかに拠点をえていたのですが、裁判によって国外に追放されました。一時、オーム真理教のお手本だと噂され、日本でも手ひどく否定的に話題になった人物だそうで、もう亡くなりました。
わたしは、ほんの一年ほど前から、偶然に本など手にして、読み始めました。バグワンについては全く予備知識もなく、むろんオームとのことなど何も知らず関心もなく、いいえ、じつは無意味な先入見をひとつだけ持っていたのですが、いわばそれが理由で、およそ気まぐれと言うしかない出会いで読み始めたのです。
ずいぶん昔ばなしになります、が、今はもう四十ちかい、二児の(たぶん二児のままかと思うのですが、)母親になっています嫁いだ娘・夕日子(仮名) が、まだ大学に入って間もない時分に、他大学生との小さなグループで、盛んにバグワン、バグワンと言いながら我が家へも集まって交流していたことがあったのです。講話集のような分厚い本が二冊三冊と娘の机に積んでありました。わたしは娘がへんな宗教団体に接近してはいやだなと思っていましたので、冷淡でした。幸いなことにというか、短期間で娘の熱は冷めたようで、ひょっとして娘は「恋」という信仰の方へ転向していったのだろうと思われます。
* バグワンの本はそれきり棚に上げられていました。幾変遷もあって娘が嫁ぎますときも、娘はバグワンを三冊、物置に投げ込むように家に残して行きましたし、だれも手に取りもしなかった。あのオームが大騒ぎの頃も、かけらほども思い出したりしなかったのです。「むかしの私」より
2009 1・30 88
* もっと若かった昔、密教に好奇心をもったことがある。深まることはなかった。生死の問題でいえば、家の宗旨からもごく自然に浄土教に馴染んでいたし、高校時代に高神覚昇の『般若心経講義』に惹かれながらも南無阿弥陀仏の方に気持ちは近かったし、浄土三部経は、妙な謂いようだが岩波文庫で愛読した。なにかというと誦経していた。祖師では、しぜん法然に親しんだ。親鸞は偉い人だと眺めながら、導かれたのは法然の専修念仏だった。源信の『往生要集』も熱心に読んだけれど、いつしれず法然のもとへ戻っていった。
禅に関して謂えば、所詮悟れまいと自分に引導を呉れていた。それでも他力を頼んだ易行の念仏に依願しながら、少年時代、青年時代、禅に、知的に関心を寄せていた。つまり禅とは遠かった。
日蓮には親しまなかったが、念仏と禅との微妙な接点をもちしかも「捨てる」という一念に徹した一遍上人の行業に、成人に随い心惹かれていった。
その間にも、基督教の歴史をうちこんで調べた時があった。新聞小説『親指のマリア』(京都新聞朝刊)のためもあるが、世界史に興味をもてば基督教ぬきには近寄れなかった。
一方、中国の思想では、儒学にはあまり好意も関心もよせてこなかった。「老子」「荘子」に惹かれた。祖父の遺してくれた漢籍にいい本があった。学生のうちに貰っていた裏千家茶名に、「宗遠」と希望した「遠」一字は老子に引いていた。いわば老荘の方角から、彼方の禅を、わたしはやや憧れて覗きこんでいた。そしてそのことが、バグワン和尚と出会って以降の道筋に幸いしたと思う。バグワン・シュリ・ラジニーシは明らかに老子に近く、また禅に近い。バグワンに帰依するにつれ、自然と法然・親鸞の念仏は私の内で薄澄んで行った。同時に、法然に得ていた厭離穢土という思いは抜けないまま、さて欣求浄土というよりも、もっともっと自然な何かを待つ気持ちになってきている。なにが本当に自然で望ましいのか分かったとは言えぬが、「間に合って」欲しいなあと、その何かを、待たずに待っている。
* なんという頼りないわたくしであることか。
2009 2・1 89
* 身に堪える話を聴いた。
* 或る著名な人が各界の著名な客をサロンに大勢呼んで、こう云ったそうな。「今夜のこの会では、誰一人名乗らずまたどんな仕事をしている者だとも仕事のことなどけっしていわず、生まれがどうの家がどうの知人がどうの家族がどうのといったいわばアイデンティティにかかわる一切は決して口にしないでいただきたい、お互いにただ一人の『人間』同士としてだけで交歓し、会話し、楽しんで下さるように」と。
さ、みんなはどうしていいか全くどうにもこうにもならない。シーンとして静かなままみなにげるように散会していったという。
* 凄いことだ。人はみな、自分が世間での「何様」かであることでのみ他者と触れあっている。それがアイデンティティになっている。そんな付加的条件を剥ぎ取られて一人の無認証で無人称のはだかの人間にされてしまうと、どうしようもなく立ち往生してしまう。
* バグワンはこういうおそろしいことを毎日のように突きつけてきて、somebody(誰かさん)でありたがる私の顔を濡れ雑巾で逆なでする。バグワンがするのではない、彼と一体のような老子がそうしてくる。nobodyでは生きられない人間ばかりがこの世間では政治家や法律家や医者や藝術家や坊さんや技術者である自分でいたがる。しかし、政治も法律も医学も宗教も芸術も技術も、なんらその人ではない。付加物にすぎない。そう分かった上で人間としての自分のアイデンティティを問い直すとなれば、まずだれもが絶句して逃げ出したくなる。
2009 2・6 89
* わたしは、仏教徒ではないが、いまも法華経を読み、先日まで生死の問題で仏教書を読んでいたり、触れることは少なくない。そしてその感化でもあろう、わたしは人の死後、葬や葬儀後の営みに関し、本質的には深い関心をもっていない。これは世間の常識とははなれるようだが、じつのところ釈尊もしかり、高僧知識には人の没後に「かかわらない」と明言しているほどの人が何人もいるのである。漠として適切にわたしに説明はできないにしても、枢要なことのようにわたしには思われる。源氏物語にも賀の祝は幾度も場面化されているが、亡き人は深くも親しくもよく偲ばれるけれど、墓参の記事はめったに出ない。源氏が須磨にみずから落ちて行く直前にややそれらしい遙拝が看取される程度だろう、さもあろう、よく言われるように藤原道長ほどの権勢の墓も容易に見あたらない。御陵は築かれても、忌日ごとに参拝する風はめったに出会わず、むしろ個別の人情にまかされて世の常識的な行事とは遠くにあった。
* バグワンを読んでいて、わたしが一等降参するのは、しかもバグワンの言われることが絶対的に正しいと思っているのは、だから恥じ入ったり困惑したり歎いたりするのは、わたしが概していえば途方もない「doer する人」であること。
とにかくつぎからつぎへつぎへつぎへと、とめどなく何かしている「仕手 遣り手」であること。することがないと、することを編みだし思いつき、曲がりなりにし遂げて行く。放心して手ぶらでぼうっと休んでいない。
バグワンの教えてくれる基本は、「するな」である。ただ「在れ」である。「する」のは貪欲なマインドに無際限に食べ物をくれてやる、餌をくれてやるだけだとバグワンは叱る。実存になれ、分別の回転に巻き込まれるなと。
ウーン。わたしはいつもこれで顔を赧くする。
むかしわたしは体中に黒いピンが無数に刺さっていると自分の毎日を表現したことがある。ちっとも変わっていないじゃないかと自分で自分を嗤わずおれないのが、恥ずかしい限りだ。
* 息をころし根をつめてしてきた仕事をひとまず人手にみな渡したところで、一息ついて、いま、私の気持ちはというと、さぁ次は何だと思っていて、次は何、何と考える必要すらなく用事は待ちかまえている。
あと一ヶ月にひかえた金婚の自祝など、この分だと何一つ出来ずじまいに通りすぎてゆくだろう、いちばんいいことだ、それでこそめでたいという、ウソでない本気でそんな気分にわたしも妻もなろうとしている。
2009 2・14 89
☆ バグワンとの出逢い 1998 4/2 「バグワン」
* そのバグワンを、いったい娘のヤツ、あの頃なにに血迷っていたのかなと、ふと娘の気持ちを知りたさに手に取ったのが、去年(平成九年)でした。
そして、驚いたのです。ほんとうに驚いたのです。
正直に言って、とてもあの頃の娘の、手に負える本ではありませんでした。その後の娘の娘時代を振り返れば振り返るほど、バグワンに娘が浮かれていたのは事実でしたが、何一つ受け容れるにははるかな距離のまま退散したにちがいない、そう信じられました。
朝日新聞が、「心の書」を数冊選んで、週に一度ずつ四回コラム原稿をと頼んできたとき、わたしは源氏物語、徒然草、漱石の「こころ」とともに、バグワンの「十牛図」を解き語りしている講話を選んで、原稿を送りました。すると、担当記者から丁重に、バグワンに関する一回分だけは再考慮されてはどうかと電話がかかり、やがて、バグワンがかつてアメリカのオレゴンで裁判にかかり追放された頃の新聞記事などを送ってきてくれました。こだわる気持ちは無かったし、なによりわたしにはその手の予備知識も情報もなく、ただもう、本を読んでの感嘆のほか無かったのですから、原稿は引き取り、すぐ、べつのものを書いて渡しました。
しかし、その時点でもわたしは、バグワンの説きかつ語る言葉が、じつに優れた境地にあることは信じられると記者に伝えておきました。
原稿を書いて渡してからも、もう月日が経っています。しかし、その後も他の説法を時間をかけて読み、その示唆するところの深く遠い端的さには、驚嘆と畏敬とを覚え続け、いささかも印象は変化していない。伝え聞くオーム真理教の連中の、あんなむちゃくちゃとは似ても似つかないものだと、何の思惑もなく、一私人として、バグワンには頭をたれています。
いまは『般若心経』を語っている一冊を読んでいます。これまでもこの根本経典を説いた本には出会ってきましたが、バグワンの理解は、透徹して、群を抜いています。
余談ですが、わたしは、わがペンクラブ会長の梅原猛氏に「般若心経」を説いてみませんかと、二度三度勧めています。氏はバグワンの説く意味の「叛逆者」とはかなり質のちがう、与党的素質の濃厚な大度の人ですから、また特色ある説法が聴けるのではないかと期待するのです。「般若心経」は、或いは氏の試金石ではあるまいかと思っています。これは余談です。
もし私が東工大教授の頃に、教室や教授室で「バグワン」の話などしていたら、或いはオーム寄りの者かと、物騒に思われたろうかと、苦笑しています。
しかし、繰り返しますが、その説くところを静かに味読すればするほど、バグワン・シュリ・ラジニーシは、オームの徒なんどとは全く異なった、本質的な「生」の理解者です。
* しかしまた、わたしはバグワンを、まだ二十歳過ぎた程度の人に勧めようとは思わない。「知解」は試みられるでしょうが、人生をまだほとんど歩みだしていない年代では、この講話を、親切にまた深切に吸い込むことは無理です。つまりわたしの娘も、いいものに出会いながら、何一つ得るところもなく別れている、投げ出している。無理からぬことであるなと、よく分かったつもりです。
娘が、バグワンの本をわたしに、十数年も経ったいまごろに出会わせてくれたことを喜んでいます。 1998 4/2
2009 2・15 89
* 一遍の念仏には禅の気概が裏打ちされてあるように感じる。名号のほかに機法(教えを受けて発動する人の能力資質も、それを発動する教えも)なく、ただ一遍の念仏「が」往生するのであり、「一切万法はみな名号体内の徳」であって「南無阿弥陀仏」の「初一念」で足ると徹した信の深さ。余念はただただ「すてよ」と。そんな一遍が人間として活きる現世と日常をどう肯定していたか否定していたか。
法然はこの世界を穢土とみきわめ、人間を救いがたい弱者・無知蒙昧のものと見極め、所詮難行勉学の聖行などムリと観じて、如来の他力を頼みまいらせ専修念仏の易行を説いて来世を願わせた。法然の世界には人間の現世が否認されてしまっている。生きる喜びよりも来世の安楽浄土がもっぱら願われている。当然か。それは問題か。
われわれが生から死に移る転ずると思うのは間違いで、生は生であり死であり、一瞬一瞬をただ正念相続して生き抜くのが生であり、死の時が来たらそのまま死ぬだけで、良寛がいうように「死ぬ時節には死ぬがよく候」と禅は、現世を肯定もしないし否認もしない。盤珪は、人間はもともと不生(=仏)のゆえに、死も不死も在るわけがない。生と死とをいうから二元の分別識に陥る。禅はまっすぐこの不生にとびこみ、生滅(=衆生の現世)を自由に遊戯(ゆげ)せよという。
バグワンは、市街を厭うて山林や深山ににげこむ「林住」の愚を否認しつづけている。エゴトリップ、分別(マインド)の愚だと。悟るなら人として市街地を避けず、そこに活きて悟れと。「生」「生滅」に足を取られるなと。
* そもそも「生は生きられるべき神秘であって、たかがマインド如きに解かれるべき問題ではない」とバグワンは言う。生は「問題」としてあるのではない、「それを楽しみなさい! その中に歓喜するのだ、それを生きるのだ、好きなことをするがいい」と。生は全然解かれるための「問題」などではないのだ! 生は無目的という目的で作られている。解決のための生ではない、生きられ、楽しまれるべき何かであるという目的で生はつくられてある。
* わたしはバグワンにしたがう。
2009 2・20 89
☆ わたし わたし わたし 2000 9・17 「人」
* わたしが言うと少し可笑しがる人もあろうが、「わたしは、わたし」と言い募ってガンと曲げないことを誇りにしている人があると、そんな「わたし」が何だろうと、滑稽な気がする。そういう「わたし」に限って、つまりは卑小な日常的ガンコさ以外の何ものでもなかったりする。他者への柔らかい思い入れが乏しいのである。外からのはたらきかけで自分が変わるのを小心に怖れているのである。我執。
ある程度まで己を頑固に護らねばならぬことは、実際に多々あり、むしろ護らずに妥協しすぎるのが日本人の大きな欠点の一つと思っている。しかし個性的で人間的な自己主張には、芯のところに、「花びらのように」柔らかい、美しい静かさが置かれてあるものだ、「かなしみのような」ものと言い替えても佳い。
度し難い頑固な人の我執には、「はなびらのような」柔らかみが、美しさが、静かさが、硬く乾いてしまっている。干上がっている。喩えが妙だけれど、武士の情けのようなものが欠ける。それに気が付いていない。
兼好法師が、「友」として選びたくない一つに挙げたのが、「むやみと身体健康な人」だった。そういう人は他者への配慮がとかく欠けると。同感である。
「わたしは、わたし。変えられないし、変える気もない」などと言い放ち、「わたし」は「わたし」がいちばんよく分かっている、放って置いてと胸を張ってしまう人は、兼好さんの言葉に従えば、共に歩むにとかく物騒である。怪我をする。
「わたし」という「我」の、いったいどれほどを「わたし」は分かっているだろうか。途方もないことだ。自分で自分がなかなか掴めず見えずに、日々、うろうろしているではないか。少なくもそのことを、幸いわたしは自覚している。
* 「御宿かわせみ」の澤口靖子の演じた、たしか類とかいった女は、少し翳りのある落ち着いた「大人の事情」を、しっとりとあはれに、まさに「花びらのように」優しくみせていた。男の目で望んだ都合のいい女と批判しうる視点を否認はしない、が、それも含めてと言って置くが、いい女であった。わたしが、現実に伴侶に選んだり作品などの夢の世界で共に生きてきた女たちは、おおかたがそういう魅力=ファシネーションをもっている。
頑固であることなど、なにの自慢になるわけもなく、「わたしは、わたし」と底浅く言い張る図はみにくい。バグワンに日々に叱られ叱られ叱られているのも、そんな「わたしの、わたし」である。「わたし」に執していては安心して死ねない。安心して死にたい。 2000 9・17
2009 2・22 89
* バグワンの示唆であるが、ある生理上の難症に困惑しきった人に、「四六時中、自分に肉体は無い」と思い続けなさいと。
ばかげたことのようだがこれは実は可能で、しかもたいへん心地よい効果がある。わたしは、少なくも夜の夜中床の中で試みるが、黒板ふきで白墨の字を拭い消すように「肉体感覚」を抹消してしまえる。すると意識だけがのこる。じつは機械をつかっている今でも、自分に肉体は無いと思うことは難儀ではない。意識が自分の躰からきれいに離れてしまう。からだは自分とは、意識とは、まるで別物だとすんなり納得できる。えもいわれず心地よい。この心地よさが裏返すとからだのこだわりをほぐして、ゆったり自然にからだが働き出す。からだにマインド命令を矢玉のようにうちこむから、からだは逼塞する。
その人の訴えは頑固な便秘であった。
* 暗闇へ開放されると、肉体は失せてしまい、闇に溶け込んだ意識と眼とだけが残る。何も見えない快さ。そして何もかもが別の意味を帯びて浮かび上がり見えてくる。しかし肉体を背負い込んだ自身は影も形もなく、限りなく自在に在る。そういうことの可能なのをわたしは感覚している。理解している。
* さ、三月。妻と力協せ「五十年」を経てきた記念の月だが、またこの三月は、世にもまれな娘と婿夫妻の「被告」として法廷に「陳述」を命じられている月でもある。私が、世にまれな何を娘と婿とにしたか、それともしなかったか。折から裁判員制が実施になる。この日記、このホームページ、また全ての著作を私は何ひとつ隠さず世に問い公開している。「どうぞご判断下さい」といつでも両手をひろげている。
2009 3・1 90
* バグワンに聴こうと思ったらスキャンが利かない。今晩は諦める。
2009 3・8 90
☆ バグワンに聴く ごあいさつ屋 鶏のクソ 訳者スワミ・プレム・プラブッダ氏に感謝しつつ
人間というのは玉葱のようなものだ。玉ネギそっくりだと謂ってもいい。幾重にも重なった人格の層、そしてその層の下に本質が隠れている。
その本質は、(空=くう)のようなものだ。シュンニャ、虚空‥。それは実存というよりも非実存に近い。というのも、実存には限界がある、境界があるが、その内奥無比なる核には境界などないからだ。それには何の限界もない。それはまったくの自由だ。自在なエネルギーの流れ‥。その大きさには限りがない。
最後の最後まで人格の層をむきつづけていって、その本質=空を再発見しない限り、人は心の病いにかかったままだ。心の病いとは、どこかに「ひっかかってしまっている」こと、どこかで「凍りついてしまっている」ことを謂う。心の病いとは、「つっかえている」ことを謂う。ひとつの「行き止まり」だ。文字通り、「その先へ行けない」ということなのだ。おまえは通せんぼされている。流れ、いるだけの自由がない。そして、いない自由もない。おまえは、むりやり「何かにさせられて」いる。川というよりも、コワばった岩石だ。
自由こそ健康だ。ふさがっていること、つっかえていることは心の病いだ。そして誰もが、ほとんど誰もが病んでいる。非実存のまさしく内奥無比なる核心まで突入する勇気のある者はめったにいない。が、そこへたどり着いたとき、人はひとりのブッダとなる。全体的で、健康で、神聖だ。
* 言われているこれらは、バグワンに十年も十五年も聴き続けているわたしは、分かっている、が、「つっかえている」自身の情けなさも痛いように分かっている。つらいほど。いやじつに、つらい。
☆ さらに聴く。
おまえは三つの「層」を理解しなければならない。なぜならば、その理解自体が治癒力を持っているからだ。もし正確におまえのどこがふさがっているかを理解すれば、そのふさがりは溶けはじめる。奇蹟だ。ひとつのことを理解するという奇跡…‥。まさにその理解が、ふさがりを溶かす力になる。ほかに何もする必要はない。もし本当に、正確にそれがわかったら、もしおまえのどこがつっかえているのか、おまえのどこが凍りついているのか、どこに行き止まりがあるのかおまえ自身で指摘することができたら、ただそれに醒めているということ、それを完全に知りつくしているということが、それを溶かしはじめる。
それが治癒力だ。いちどそれが溶けはじめれば、おまえはふたたび流れを取り戻す。おまえは流れだす!
人の、人格の第一層は、最も浅薄だ。形式や社交の層。ただしそれは必要だ。何も間違いではない。
道で人に会う。おまえはその人を知っている。もしおまえが何も言わず、向こうの人も何も言わなかったら、社交儀礼などあったものではない。両方ともきまりが悪い。どうにかしなければならない。別に深い意味はない。一種の社会的潤滑剤だ。そこで第一の層を、わたしは「潤滑剤の層」と呼ぶ。それは、ものごとをなめらかにするのに役に立つ。「おはようございます、ご機嫌いかがですか?」「はい、どうも、いいお天気ですね!」「じゃ、また」……この層だ。それは結構! 何も間違いではない。もしおまえがそれを「使う」なら、それはビューティフルだ。
しかし、もしそれに「使われ」、その中で凍りついてしまったら、自分の内奥無比なる実存との接触を一切失って、それを乗り越えられなくなったら、そのとき、おまえは「立往生」している。あなたは心の病いにかかっているのだ。
誰かに「おはよう」と言うのはビューティフルだ。が、「それしか言わない人間」は、とてもとても病んでいる。彼には生との接触が何もない。実際のところこうした形式は、彼にとっては潤滑剤ですらなく、反対に「一種の撤退、回避」になってしまっている。誰かに会うと、その人を避けるために「おはようございます」と言う。自分は自分の道をゆき、相手は相手の道をゆけるように、その相手から逃避できるように……。
このような社交儀礼は、何百千万という人々の中で凍結してしまっている。彼らはこの層で一応生きている。けっしてそれ以上進まない。エチケット、マナー、おあいそ、おしゃべり…‥・いつも「うわべ」だ。彼らはしゃべる。コミュニケートするためではない。彼らはコミュニケーションを実は回避するためにしゃべる。彼らは、相手と直面するような気まずい状況になるのを避けるために、しゃべるのだ。「閉じた人間」だ。その彼らの人生がみじめなものだとしても、驚くにはあたらない。もし彼らが地獄で生きているとしたら、地獄で生きざるを得ないのは明白だ。実際のところ、彼らは「死んでいる」のだ。
ゲシュタルト療法の創始者、フリッツ・パールズは、この層を「鶏のクソ」の層と呼んでいた。死んで、乾いている。
大勢の人たちが鶏のクソの中で生きている。彼らの一生はただの無用な形式だ。どこへ行くでもない。彼らは入口のところで立往生している。彼らは生の内院にはいったことがないのだ。生にはたくさんの小部屋がある。なのに、彼らは入口のところに立っているだけだ。階段の下に立っているだけだ。階段というのは、登って踏み越えるならいい。が、しがみついたらただ危険なものだ。
だから、覚えておきなさい、健康な人間は形式の層を使う。有用に使う。そうすれば、それは潤滑剤だ。それはビューティフルだ。
不健康な人間は、それを自分の一生にしてしまう。微笑み…本物ではない。笑い…本物ではない。もし誰かが死ねば、彼は悲しがり、泣く。涙がこぼれさえする。が、全部ニセ物だ! 本心じゃない。彼は何ひとつ本心でやりはしない。
そうした方がいい、そうするものだ、それが常識だ、それだけで世間のことは都合がつく。彼はただただ演じる。絶えずごあいさつを展示している。一生がただアイサツだけの展覧会にすぎない。それを楽しむことすらできない。内にはいって行くことができないからだ。
形式だけのアイサツは、ほんものの人間関係ではない。役にも立つし、妨害になる危険性もある。健康な人間は、それを「より深く進んでゆく」ために「使う」。不健康な人間は、その中で「立往生」してしまう。そんな人たちは「常識」そのものの顔つきで至る所にいる。ライオンズ・クラブやロータリー・クラブで微笑んでいる。鶏のクソの輩だ。いつも立派な服装をし、身だしなみよく、見かけは完璧だ。しかも、まったくおかしい。完全に病んでいる。まったくもって不健康だ。ただ「見せている」にすぎない。
これが彼らの中で固まったパターンになってしまう。ロータリー・クラブやナニナニの理事会から帰って来て、子供たちに話をするときも、その同じレベルでしかない。奥さんと愛を交わすときも、同じレベルだ。彼らの一生は長い一連のマンネリだ。エチケットの本が彼らの聖書、ギ一夕、コーランだ。そして彼らは、社会から要請される常識という非良識をでもきちんと果たしさえすれば、それで満足だと思っている。
この層は打ぢ破られなければならない。とりこにならないように気をつけていなさい。醒めているのだ。もしこのレベルで立往生したら、醒めなさい! その覚醒こそが、ふさがりの溶けるのを、蒸発するのを助けてくれる。そして、次の第二層に踏み込むエネルギーが出てくるだろう。
第二層は、役割とゲームの層だ。第一層は生との生き生きした接触が皆無だったが、第二層にはときとして幾つかの一瞥がある。観劇やドキドキがある。しかもなお第二の層は、「自分は亭主で、お前は妻だ」とか、「私は妻で、あなたは夫」「自分は父親で、お前は子供」「自分は合衆国の大統領」「イギリスの女王」「毛沢東主席、アドルフ・ヒットラー、ムッソリーニ」……。世界中の政治家たちはみな、この第二層で生きている。
「役割」を演ずる層だ。
* 長くなるから、ここで休む。
第一層の「鶏のクソ」は脱していると感じている。
第二層はどうか。バグワンはムダに優しくはない。
* もう十一時半。疲れた。あすが、ある。もう、やすむ。と、いってもこれから本を読み出す。
『背教者ユリアヌス』が動いてきた。兄ガルスが、父ユリウスらを殺した従兄コンスタンティウス帝の副帝(カエサル)にされ、帝の妹コンスタンティアを妻にした。彼の運命は『ローマの歴史』を熟読していて先が読めている。
瞑想と学問とのユリアヌスは、旅の道連れとして知り合ったディアという軽業の娘に愛されている。
『今昔物語』四巻中の二巻目に入っている。
『蜻蛉日記』は中巻に入っている。
『千載和歌集』は、引き継いでの再読が、もう「恋」の巻五つを過ぎ、「雑」の巻上に来ている。
『法華経』は「信解品」を慎重に読み進んでいる。
前田愛(中村勘太郎の夫人になりそうなタレントではない、わたしより年配の国文学者) の「一葉」論も興味津々読んでいる。
『旧約』の「エゼキエル書」は新約の時代に近づきながら重要なエポックを成しているらしいと朧ろに知れる。
押村襄著の「ルソー論考」も、慎重に、じっくり読み進めている。
そして。むろんバグワンは大切な糧であって。
2009 3・15 90
* すみやかに元の軌道へうまく戻って、仕残しや仕遅れをテキパキ取り戻して行きたい。
この四月から、わたしは多年庶幾してきた「退蔵」の歳月を迎えることになる。なんとなく多年抱え込んでいた、「肩書き」が、どうやら一どきに清算できたはずだ。もっている余分な荷物をどんどん「捨てて行くように」とバグワンに導かれている。仕事はしたいが肩書きはもうもう余分だ。荀子の「解蔽=ボロの脱ぎ捨て」をそこから始めたかった。
* さ、やすもう。目を休ませてやることが何より今は大事。
2009 3・26 90
09.03.24 醍醐三法院 門内櫻
☆ バグワンに聴く 宗教、生、過去
普通に流行っている宗教とは、神を求めて生が頭を下げることを意味する。普通、それは次のようなことを意味する。神が目的地であり、生は跪く。生は犠牲にされ抑制され、神が達成されねばならない。
こういう普通の宗教は、まったく宗教なんかじゃない。こういう普通の宗教は、あたり前の、暴力的で侵略的な心(マインド)の所産でしかない。
生の向こうに神などいやしない。生が神なのだ。生を否定すれば、おまえは神を否定することになる。生を犠牲にすれば、おまえは神を犠牲にすることになる。
グルジェフはよくこう言った、「凡庸なあらゆる宗教は、神に対立している」
逆説的に聞こえるが、それが真実だ。生が神だとしたら、それを否定したり、放棄したり、犠牲にしたりするのは、神に対立することにほかならない。
本当に宗教的であるということは、生において、あくまでも人並みはずれて人並みとなり、部分が全体に対立するのではなく、部分が全体とともに流れるようになることだ。宗教的であるということは、その流れと遊離することではない。
一方、「非」宗教的であるということは、勝とう、征服しよう、どこかへたどり着こうとして、自分自身のマインドを持つことだ。そういう目標を持っていたら、あなたは非宗教的なのだ。「いま」でなく「明日」のことを考えているとしたら、おまえもう宗教は取り逃がしてしまっている。宗教に明日などない。
イエスが言うのはそのことだ。
「明日のことを思うなかれ、野のゆりを見よ。ゆりはいま咲いている」
存在するあらゆるものは、いまある。生きとし生けるすべてのものは、いま生きている。<いま>こそ唯一の時、唯一の実在なのだ。
可能性は二つある。
おまえはむろん生と戦うこともできる。生に対抗して自分だけの目標を持つこともできる。あらゆる目標は私的なものなのだ。あらゆる目標は個人的なものだ。
だがそんな時、おまえは、生に「パターン」を押しつけようとしている。自分自身の何かを……。おまえは無理矢理、生を自分に「ついて来させよう」としているのだ。おまえなど、ただのちっぽけな部分にすぎないのに……。極微で、あまりにも小さく、あまりにも原子的。なのにおまえは、全宇宙を無理矢理自分の方へ引きずって来ようとしている。おまえは当然に負ける。いやでも優雅さを失わざるを得なくなる。いやでも硬ばってしまうしかなくなる。
戦いが硬さを生む。ちょっと戦うことを考えただけでも、おまえのまわりに微妙な強張りが出て来る。ちょっと抵抗することを考えただけで、おまえのまわりに無用な殻ができて、まゆのようにおまえを包んでしまう。
自分には、ある特定の目標があるという、まさにその考え自体が、おまえを孤島にしてしまう。おまえはもう、生という広大な大陸の一部ではなくなる。生と遊離してしまったとき、おまえは地面から切り離された木のようなものになる。過去の栄養のおかげで、しばらくは生きながらえるかもしれない。しかし、本当のところは死んでゆく。木には根が必要だ。木は地面に植わり、大地と一体になって、その一部になっている必要があるのだ。
おまえは生という大陸に結びついてその一部となり、それに根ざしている必要がある。生に根ざしているとき、おまえは柔らかい。怖がっていないからだ。
恐怖は硬さを生む。恐怖が安全という概念を生む。恐怖が自分を守るという思いを生む。しかし、恐怖ほど殺人的なものはない。というのは、まさに恐怖という思いにおいて、おまえは地面から切り離されてしまう、根こぎにされてしまうからだ。
そうしたとき、おまえは過去jを糧にして生きる。おまえがそれほど過去のことを考えるのはそのためだ。偶然じゃない。マインドは、絶えず過去か未来のことを考えている。
なぜそんなに過去のことを考えるのか。去ったモノは去ったモノ。
* 「いま・ここ」を柔らかに生きること。
2009 3・29 90
* ローマ・ギリシアの神々に誠心の敬愛を捧げ尽くしたローマ皇帝にして「背教者」と呼ばれる「ユリアヌス」。基督教ローマを一時的にも「異教への迷妄」と断じて復古神道ふうに基督教をユリアヌスは嫌った。嫌う心理的精神的理知的な諸理由はハッキリしている。地上的な現世の理性と生活とを、「天上」への愛と帰依の故に無視し抑圧する来世本位の基督教を批判した。アリウス派ほかの数多の異端をかかえこんで、乱雑この上なく闘争の激しい基督教教会の乱立乱闘のあさましさを嫌った。公同=カソリックへの道はまだ遠かった。
ユリアヌスのギリシア・ローマの文化に対する愛はとほうもなく深く深く、基督教の教会支配は野卑で我が儘に彼には見えたのはムリからぬ。その同情が古来多くの「ユリアヌス」を書かせた。カエサルとアウレリウス。ユリアヌスはこの二人を目標にこの二人を超えて行くことでローマ帝国に酬いられる酬いたいと誠実をきわめた。
辻邦生さんの超大作にも、ユリアヌスへの愛が溢れている。裏返しにすれば基督教に対する批判や批評がみえる。辻さんの基督教観をそう手短かに憶測してはいけないが、ヨーロッパの基督教教会が人類の歴史になしてきた数々の暴行には、無残としか言いよう無いものもある。横光利一の、『旅愁』を通じてのヨーロッパ観には、基督教の世界史的な暴力や残虐への怒りと批判とが先立って刷り込まれていた。
皇帝コンスタンティヌスは、ある時から夢告を利し、十字旗を全軍に押し立てて大ローマ帝国を完遂した。しかしまあ後の「十字軍」という「神の軍隊」の為したことは、どんな彼等の言い訳がつこうとも、第三者的には乱暴狼藉にそう変わらなかった。
だが、同じようなことはまた「別」の神を擁しても、世界中で、大なり小なり繰り返されてきた。「仏」を押し立てさえもするのである。
* 神の名において生を抑圧するような宗教は、みな「マインドの迷妄」に過ぎないとバグワンは教える。その通り。「生きる」というそれ自体が「神」の実現で在らねば。
2009 3・31 90
* 夜前、辻邦生『背教者ユリアヌス』を読み終えた。もののあはれを覚えた。
この皇帝、好きかと問われれば、わたしは頷く。政治家として大成したかどうか分からない。モンタネッリが切り捨てるように、だいたい復古主義に傾く政治は成功しないとわたしも思う。現代は伝統の最先頭で沸騰するもの、伝統も現代の最先頭で沸騰するものと、わたしは「伝統と現代」について書くことの多かった昔、よく「識字」した。ユリアヌスのギリシア・ローマへの愛が、その哲学にであろうと信仰にであろうと、所詮は新しい思潮に塗り替えられて行く。
ただ彼が基督教徒でなく基督教支配の政治的大司教たちの傲慢を嫌った真情は少年以来の孤独と不安とに根ざして同情されるものがある。また理性的にも彼の批判にはたんなる毛嫌いでない論理もある。わたしはその論理にも好意をもっている。
* 割り切って言い切れば、ユリアヌスは、神々とともに在る現実世界での人間の幸福を大切にしそれに感動した。基督教が天国を願い現世の幸福をあの世の神に供養して省みないことに飽き足らなかった。その気持ちは分かる。ユリアヌスの中には禅の生きる場がある。神々とともに嬉しく良く楽しく現実を現実として生きるのが人間の幸福というものだとユリアヌスが考えるのと、生の彼方の神へ生をささげて来世をゆるされようと生きるのとでは、天地の差がある。バグワンは後者の神をマインドの「悪しき影」に過ぎぬと云う。厭離穢土では「人間の生」が無意味にされる。
* 辻さんの小説に全面心服したのではないが、羨ましいほどの力作であること、むろん。辻さんが懐かしかった、とても。引き続いて辻さんの大作を読んでみようか。『春の戴冠』もある。ほとんど全作品をわたしは戴いている。
2009 4・1 91
☆ バグワン 1999.11.02 1999.12.19 「バグワン」
* バグワンの『ボーディーダルマ』も三分の二以上読み進んで、音読しない日は、旅中を除いて、無い。この巻を読み終えたらもういちど『十牛図』などへ戻って、今度もまた音読して感じ取りたい。日一日と人生をおえる日が近づいている。死にむかって、何の安心も得ていない。深い怖れを感じている。特定宗派・宗団の教えには希望がもてない。また経典や聖書を信仰することも出来なくなっている。『親指のマリア』で新井白石に言わせていた、せめてああいう「安心」を、いや「無心」を得たいが、妻に言わせれば「マインドのかたまり」のようなわたしであるのも間違いなく、これを「落とす」ことは、残り少ない生涯で可能とはなかなか思われない。バグワンに聴きつづけるしかない、そうしようと思っている。大分前から妻もほぼ欠かさず耳を傾けている。そして信服しているようだ。 1999 11・2
* 前夜、バグワンの「十牛図」を読みながら突如動揺し、眠れなくなった。
人は社会に追従することで己が「決断」をすべて回避し放棄し、そのように生きていない者を狂人のごとく誹り、非現実的な愚者と嗤い、しかしながら、至福の静謐に至る者はすべてそのような狂人のように愚者のように遇されて生きてきたとバグワンは言う。その通りだと思う。バグワンに出逢うよりもずっと以前からわたし自身がそのように生きたかったから、そう説かれれば本当に深く頷ける。
頷けるにも関わらず、そのように生きることでどんなに傷ついているか、耐え難いほどである自身の弱さに気づいて、あっと思う間もなくわたしは動揺し動転してしまった。寝入っていた妻を揺り起こして苦しいと訴えた。
訴えてみてもどうなるものでもない、わたしは惑ったり迷ったりしたのではなく、ただ意気地なく辛く苦しくなっている自分を恥じ、情けなくなったに過ぎない。 1999 12・19 「むかしの私」から
2009 4・3 91
☆ 光 2001 1・10 「バグワン」
* 光について莫大な知識をもっていても、暗闇は照らせない。
われわれの人生は暗闇なのである、概して。そんな中で知識の切り売りのようなことばかりしているインテリでは、我が身一つも癒すことはできず照らすこともできない、ということを、わたしは痛感している。
哲学も宗教も科学も、真に照らす光は放っていない、光の知識をひけらかしてばかりいる。
それでは間に合わないと、わたしは思って、じっと自分の身内を、その闇をのぞき込んでいる。かなしいかな、わたしは、まだまだ闇そのものでしかない。自ら発光していない。なにも分かっていない。手を引いてくれているのは、バグワンだけである。
ビトゲンシュタインは、その自らの哲学を、要するにそんなものは何の役にも立たないと確認するために築き上げたに等しい、体系的な哲学など、哲学学など、真の悟りの前にはただの有害な壁にすぎないが、そう「悟る」に至るに必要な存在ではあった、と言っている、そうだ。
真偽は確かめないが、真実だと思う。話題を切り口だけで何となく面白げに、高尚に、また洒落て、どんなに座談してみてもそれは光ではない。いわば光について話しているだけだ。 2001 1・10
2009 4・8 91
* バグワンもまた何度も何度も繰り返し読んでいて、たんなる繰り返しに感じさせない力で、わたしに話しかけてくれる。
* バグワンに聴く 生は呼吸とともに始まる 訳者スワミ氏に感謝しつつ
神がアダムをつくったところ、アダムは死んでいたと言われる。そこで神はアダムに息を吹き込み、アダムは生命を得た、と。
同じ話は、キリスト教、ヒンドゥー教、ユダヤ教をはじめ、世界中の数多くの創世神話に語られている。
この話はとても大切な意味を持っているように見える。その意味とは、おまえが息をするとき、息をするのはおまえではなく、神がおまえの中で呼吸するということだ。(全体=謂わば小波に対する大海)がおまえの中で息をする。これはごく深く理解されねばならない。
呼吸は、最も重要なものだ。それとともに生が始まり、それとともに生が終わる。それは最も神秘的なもので、それなしには生命はあり得ない。生命は呼吸の影にすぎないかにも見える。呼吸が消えるとき、生命も消え失せる。だからして、この呼吸という現象が理解されねばならない。
生まれて来る子供はどれも、息をするまで本当に生きているとは言えない。残された時間はごく短い。、もしその子が生まれてから息をすれば、そのかたときの間に、生命がはいり込む。もし息をしなければ、その子は死んだままだ。
生のその最初の数瞬こそ、最も重要なときだ。医者たちも両親も、みな子供が生まれるときは気が気でない。ちゃんと息をするだろうか? 息を始めるだろうか? それとも死んだままだろうか? またしてもあらゆる神話にある通り、あらゆる人間の中にふたたびアダムが生まれるのだ。
子供はひとりでは息ができない。そんなことは期待する方が無理だ。子供はどうやって呼吸するか知らない。誰も教えていない。これがその子の最初の行為になる。ということは、その行為はその子自身の行為ではあり得ないのだ。
もう一度くり返そう。これはその子の最初の行為であり、同時に最も重要な行為となる。それがその子の行為であり得ないのはそのためだ。もし神がそれをなせば……オーケー。もし神にその気がなければ……終わりだ。
(全体)がその子の中で呼吸しなければならない。その数瞬がサスペンスに満ちているのはそのためだ。疑い、懸念、恐れ……。というのも、可能性はまだ五分五分だから。その子は死んだままかもしれない。その場合は手の下しようがない。子供にはどうすることもできない。両親にもどうすることもできない。医者たちもどうすることもできない。人間は無力だ。ことは(全体)にかかっている。
できるのは祈ることだけ、われわれは深い祈りの中で待つしかない。もし(全体)がその子の中にはいり込めば、子供は生命を得る。さもなければ死だ。
この最初の呼吸は(全体)によってなされる。そして、もし最初の呼吸が(全体)によってなされるのだとしたら、呼吸に左右されるほかのあらゆることも、おまえの行為ではあり得ない。もし自分で息をしていると思ったら、おまえは道を踏みはずしている。そして、この誤ったステップのために、自我(エゴ)が生まれる。エゴとは蓄積した無知のことだ。
おまえは勘違いをした。いままで呼吸をしてきたのはおまえじゃない。(全体)がおまえに息を吹き込んできた。ところが、おまえはそれを、自分が呼吸しているかのように思っている。
呼吸という最初の行為が、おまえと(全体)とを橋渡しする。おまえを(全体)とひとつにする。そして、それに引きつづくすべては、おまえの行為ではない。この最初の呼吸のあと、おまえが死ぬまで、最後の呼吸まで、起こるすべては〈全体〉の行ないであるだろう。〈全体〉がおまえの中で生きるのだ。
こうしたすべでを、自分がやっていると思うのは自由だ。が、そうしたらおまえは無知の中で生きることになる。もし、〈全体)がすべてをなしていること、身分は(全体)に支配され、それによって息を吹き込まれていること、自分は一本の中空の竹、一本の笛にすぎないこと、音は(全体)から来るものであること、生全体がそこから来ることに気づいたら、そのとき、おまえは悟りの生を生きる。
無知と悟りの違いは、これだけのことにすぎない。一歩踏みはずすだけ、自分がそれをやったと思うだけで、旅全体がそっくりおかしくなってしまう。しかし、正しい一歩、自分の中でそれをやっているのは(全体)である、自分がやるのじゃない、自分はただの場、神の遊び場、神の歌を奏でる一本の笛、一本の葦、その中を神が流れ、動き、生きるひとつの(無)である、というその一歩を踏めば、そのとき、おまえはまったく異質な生、光と至福の生を生きる。
これが最初の行為だ。
* わたしは、いない。だからわたしは、いる。
* さ、出かけよう。
* すこし羽根を伸ばしてきた。
2009 4・15 91
* いま、何が楽しみで生きているのかねえと、思い寄らぬグチがくちをついて出たりする。なさけないことだ。
* わたしはもともと「線」の延長のように時間を先へ先へ追う気がうすく、樹木の年輪のように時間を「円環」の層のように感じ取ってきた。一日は一日の輪であり十日は十日なりの環であり、五十年も五十年のむしろいわば丸い袋のように感じられている。今日の感覚と五十年前の記憶とが等価にならんで意味が持てるように、ま、わたしの世界は出来ている。比較的整理がついている。
* バグワンに示されると人生がかなり厳しくなる。
まず「呼吸」ではじまると彼は云う。次が「渇き」だと。次が「空腹」だという。「胎外環境への適応」の順で謂うとそうだろう。バグワンはこの先へなお七つ八つの段階を謂う。段階を幾つも大きく踏みながら元の「呼吸」へ大きく豊かに「円」を描いて戻ってこれるかどうかだと、素晴らしくきついことをバグワンは言い切る。呆然としてしまうが、アタマでは分かる。アタマで分かっても何にもならないことも分かるのである。
* こうしていても膝あたりが冷えてくる。なによりも睡くて仕方ない。
2009 4・17 91
* バグワンの『TAO 老子の道』上下巻をまた読み終えた。新しく、初読みの一巻に向き合っている。
2009 4・27 91
* バグワンに、初読の一冊を加えた。道家の『太乙金華宗旨』に拠りながらバグワンが語っている。訳はスワミ・アナンド・モンジュ氏とあり、普通の文章語になっている。タントラや十牛図や般若心経や道や達磨や一休を語っていたように、これは、中国のタオイスト道家が久しく伝えた書による講話のようで。
* 一方でエッケルマンの『ゲーテとの対話』を読み進めていて、それを念頭におくが、夜前に読んだバグワンは、こう原典の意を伝えていた、
「生とは、死と彼方の世界にそなえて身支度を整える機会だ」と。準備を怠っているとしたら「おまえは愚か者だ」と。
「生とは機会に過ぎない、おまえの知っているこの生は本当の<生>ではない。本当の<生>は、まさしくこの生のどこかに隠されている。それは深く眠りこけていて、まだ自らに気づいていない。おまえの本当の<生>が自らに気づいていないなら、おまえのそのいわゆる生は、たんなる長い夢に過ぎなくなる。しかもそれはいずれ悪夢になる。本当の<生>に根を下ろさずに生きることは、大地に根を持たない樹のように生きることだから。おまえに美が、優美さが欠けているのはそのためだ。ブッダ(覚者)たちが語る人間の輝きがおまえの目にまだ見えないのはそのためだ」と、バグワンはわたしを呵る。
* バグワンの多くの講話を、わたしはこの十数年、繰り返し繰り返し聴いてきた。なにもバグワンだけが言うことでなく、おなじことを優れたブッダたちは口を揃えて説いてきた。「無明長夜」のおしえであり、このままだと酔生夢死必定、目覚めないで死んで、永劫繰り返し気づかぬままの「悪夢の生」を生きるだろうと。
「何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」も「ただ人は情けあれ 槿(あさがほ)の花の上なる露の世に」も、気づいて気づけぬ、目覚めきれないままの悪夢への居直りのようであった。
* 今度の本は、その「気づき」への導きであるのだろうか、まだ分からないが、わたしは抗わないで聴く気でいる。
2009 5・8 92
* ところで『バグワン』の新しい本は、訳者がいままでと別の人になり、内容もいくらか難しいが、文章になじむのに時間を要している。
『法華経』は、阿弥陀経などの浄土三部経等に比べると組み立ての壮大、いや壮大すぎて気が遠くなりそうなぶん、こつちへ本当に浸透してくるには、まだ時間がかかる。
さらに、一種の秀作ながら『道草』での「もらひ子」健三=漱石のしんどさ。『行人』一郎=漱石の苦しさ。
昨日だか、ある学会の案内が来ていて、当日の発表者の著書の内に『漱石の女々しさ鴎外の雄々しさ』というのがあり、論拠はかなり察しがつくものの、本質的に首を傾げるところも有る。あえて逆なのではと謂える思いすら有るのである。
もとより宣長にしたがえば「女々しさ」とは真実「もののあはれ」の機微に達する心性であり、漱石にはそれの謂えるところのあるのを承知している。鴎外には「もののあはれ」の人という印象は、わたしには無い。
2009 5・24 92
* バグワンに教わっている。嬉しい素晴らしい好いことは、即座にするように。くだらない、腹の立つ、屑のようなことはとにかく「24時間」放っておくようにと。
2009 5・25 92
* しばらくバグワンに触れて書かなかった、ここずうっと、『黄金の華の秘密』という道教の根本義書をバグワンは語っており、訳者が代わって、スワミ・アナンダ・モンジュ氏に。訳の口調もスタイルも変わって印象が固くなった。で、ずっとただ黙読してきた。
* 「まず第一に、人は決然とした態度を取るようになってはじめて生まれる。決意とともに、人間が誕生する。優柔不断な生き方をしている者たちは、本当はまだ人間でない」と、呂祖師の言にふれ決然とバグワンは昨日も語っていた。同じように実感と倶に生きたかったわたしは、納得した。「権威主義がこの世から消えない唯一の理由は、無数の人々が自分で決められないでいるからだ。彼らは命令が下されるのを今か今かと待っている。
これは隷属であり、彼らはそのようにしてみずからの魂が誕生するのを阻んできた。 決断することで、あなたは個になってゆく。」「優柔不断さとは何か? あなたが臆病であるということ。」「決意とともに、明晰さが生まれてくる。決然とした態度がすみずみにまで及び、あなたの基盤と関わるようになったなら、必ず人間が誕生する。」「あなたは他人によりかかってしまうが、そんなやり方では魂は成長しない。」そして「決断するなら、必ず実行すること。それができなければ、決断などしない方がいい。そのほうがもっと危険だからだ。」「決意しながら、いつまでたっても実行しない者たちがいる。彼等はみずからの実存に対する信頼や自信を徐々に失ってゆく。」
* 独特の創意でバグワンは謂う、
「先日、私は漫画を見ていた。
男が女に、「君は死後の生を信じるかい?」
女が言う。「何言ってるの、これがその「死後の生」よ!」
バグワンは警告している、「おまえはまるで活気のない死人のような生き方をしている。しんだとしてもこれ以上悪くなることはない。」おまえはまさに「死後の生」を生きているに過ぎないからだと。
「決断するなら、肚を決めもことだ。やり遂げるがいい。それができれば明晰さが内側に湧き起こり、雲が消え、何かが自分の中で根づき、中心を定めてゆくのがわかる。決然。それはとほうもなく重要なことであり、意味がある。」
* こういう言葉を決然とかつ柔軟に、聡く聴かねばならない。たんに言葉に拘泥すればまた新たな優柔不断がうまれるから。
2009 8・14 95
* 自分が息をしていないのに気づく。気づくとフウッと息を吸い込み、吐く。暑いからか、疲労か、年のせいか。もっと別のことかも知れない。バグワンはいつも呼吸を耳で聴けという。自身の呼吸がハアハア聞こえないように静かに静かに息をせよと。いつか呼吸が止まっていると感じるときがある、それを懼れるなと。
2009 8・20 95
* おまえは、しみ一つ無い青空のような一枚の鏡なんだよと、バグワンに言われてきた。とても嬉しく気に入っている。
しかし嬉しがるのは早いとバグワンは指摘する。
その無影である無垢の鏡が、それがおまえの本来「静かな心、無心」なんだが、その無心は、静かな心は、鏡は、あの真澄の青空がのべつ白や黒や灰色の雲や雨や雪の去来に曇らされていると同じく、無数のもの影を映している。それがおまえのマインド=心=思考=分別だ。それがためおまえはとても静かな心でおれないが、だが日々人が生きて暮らしているそれが常態である。常態だからそれが本態だと思いこんでいて、本態である真澄の空、無垢の鏡一枚に気づいていない。気づかずにまるで眠りこけている。おまえのマインドとは、思考とは、分別とは、それが眠りこけて見ている「夢」なんだよ。酔生夢死。それに気づかない。ゆめから覚めなさい。気づきなさい。
バグワンは毎日毎夜の出逢いにわたしにむかいそれを言う。わたしは耳を傾けている。
* 幸いにわたしの鏡は、あれを映そうこれを消そうと動き回らない。青空をくもらせる雲や雨のように、すべては来て映って動いて去って消えて行く。おびただしい去来に、鏡は執着しない。来れば映し、去れば消え去らせ、求めて呼び映しも、求めて追い縋りもしない。年々歳々花は相似て見え、歳々年々人は同じでないと謂うのと同じだ。無数に影は去来するが、在ると思えばいつしか在り、無いと思えばいつしか無い。夢だ。夢の思い出は莫大だが、青空のような無垢の鏡一枚でいられた自覚ははずかしいほど少ない。なかった気がする。ただうっすらと俺は夢を見ているらしいと分かってきている。それでいて、せっせせっせといろんな影を鏡に映している。それがまるで生き甲斐かのように、である。わらってしまう。
* ちょうど十年前、七月一日の「私語」にこんなふうに書いている。こうしてみると、まさしく十年一日、ちっとも変わってないようで忸怩とする。
* 夢から覚めては何のこっちゃというものだが、夢見ているうちは面白い面白いと夢に興奮していた。なんでも、「仁の風景」と「題」された大小相似の風景画を自分で描き、上下に並べてみると奥行きふかい一つの景色になったので、大喜びして画中の人といっしょに繪の中へ飛び込んで行った。
なぜ「仁の風景」で、なぜ描いたかも分からないが、ふしぎに嬉しい珍しい夢であった。だが、こう醒めて書いてみると、あとはかもない。
バグワンは、このとらわれ多い生の現実を、醒めてみれば、ただ呆れるほどはかない夢だとなぜ「気付かない」かと、繰り返し言う。気付きはじめているが。その先である。人生が虚仮(こけ)とハッキリ気付いて、どう、自身の本性を知るか。
* 月があらたまった。それとは、いったい、何なのだろう。
2009 10・1 97
* 昨日今日、とくにややこしい夢も観なくて。早く寝ようと思いつつ、昨夜もたくさん本を読んだ。
一昨夜、岩波文庫の『法華経』上中下三巻とも、解説や注もふくめ読了した。1990年の春に一度読み終えている。わたしの法華経受容は、あまり進歩していないなあと思う。
仏教に限らず「経典」「聖典」にはいろいろ在る。
『般若心経』など一貫して「教え」そのもの。『マタイ傳』『マルコ傳』などはイエスの行跡とともにそのつどの「教え」がストレートに、また譬喩で伝えられている。
厖大な『旧約聖書』こそいろいろで、神秘的でもあればはなはだ現実的でもあり黙示的に不思議でもある。
『浄土三部経』には、幾らかの調子の差はあるけれど、説話的な要素に「教え」と受け取れる理念や示唆が相応に具体的にすら語られ説かれている。
『法華経』は二十八部に分かれて縷々多くをいろいろに物語ってくれる。此の法華経なる聖典が、一乗の、他の何にも優る経であることをつぶさに説いている。それに比して、その優れた「法華経」そのものの「教え」の本態を、どこでどの文句によって統一的につかみとるのがいいのか、それが難しい。難しいなあと思いつつ、読みおえてきた。わたしの姿勢に何かまちがいがあるのだろう。
* バグワンに関して久しく此処で触れないで来た。道教の根本経典の一つに基づいてバグワンが『黄金の華の秘密』を語ってくれるのが、これまでの語り口と異なっていて、それは翻訳に拠るのだろうが、老子とはまたすこしニュアンスの異なったやはり「道教」にわたしが戸惑うからである。
それでも夜前、聴いたバグワンの言葉は強かった。
世の中で出逢うあらゆる「機会」を忌避して逃げよとは、バグワンは云わない。「それよりもその機会を使いなさい」と云う。バグワンは山に隠れよ、ヒマラヤへ遁れよとは決して云わない、街なかに、市なかに在って生きよと云う。
「絶えざる混乱を使わなければいけない。おまえはその目撃者でいなければいけない。それを見守りなさい。どうすればそれに影響されないでいられるか、それを学びなさい」と。「自分がしていることを意識しつづけなさい」と。
「日常生活のなかで、自他の思いをいっさい混入することなく、ものごとに対してつねに打てば響くように対処する力をもつ」ように、「それが第一の奥義」だよと。
但し、「行為しながら、しかもその行為に同一化してはいけない。傍観者にとどまりなさい。何であれ、必要なことなら打てば響くようにやりなさい。必要なことはすべて仕遂げつつ、しかも単なる「doer やりて」になってはいけない。それに巻き込まれてはいけない。それをやり、それを終わらせてしまいなさい──打てば響くように」と。
「主観を交えずに行動しなさい。状況に留意して、何であれ必要なことをするがいい。そのことで心配してはいけない。結果を苦慮してはいけない。必要なことをただ仕続け仕遂げ、油断なく目を見張り、泰然自若として遠く離れた自身の中心にとどまり、そこに根をおろすがいい」と。
* 願っていた、心がけていた、そのように集中して仕遂げてきた、しかもじつは拘泥していない、そういう「仕事」とわたしは今しも、懸命に向き合い、しかも芯のわたしはそれを、ただ傍観している。
ありがたい。バグワンが、ありがたい。
2009 10・23 97
* さて、今日の内にも「責了便」を送り出したい。そして家のうちをすこし片づけながら、新発送の用意に段取りをつけ、一度ふかぶかと息を吐き出してから集中して作業、作業を捗らせたい。そう、バグワンに聴いたとおり、つねづね時分でも思うとおり、「いま・ここ」に真向かって何事とも拘泥なくなすべきを成し遂げて行きながら、気持ちはシンとして静かでいたいと思う。
2009 10・24 97
☆ バグワンに聴く どこにもない國こそ、真のわが家である。
インドの偉大な神秘家スワミ・ラーマテイルタは、最高裁判所で検事をやっていた友人の話を何度も何度もくり返したものだった。この友人は完璧な無神論者であり、絶えず神の存在を否定する説を唱えていた。彼は筋金入りの無神論者だったので、みんなに注意をうながすために、居間の壁に誰の目にもわかる大きな文字で、「神はどこにもない GOD IS NOWHERE」と書きつけていた。彼に会いにきたり訪ねてきた者はみな、まず「神はどこにもない」というこの文字をいやでも目にすることになる。あなたが 「神はある」 と言おうものなら、手ぐすねを引いて待っていた彼がただちに飛びかかってくる。
そうこうするうちに子どもが生まれて、子どもは言葉を覚えはじめたが、まだまだたどたどしかった。
ある日のこと、父親の膝に坐っていた子どもがその文字を読みはじめた。「どこにもない NOWHERE」という単語は長すぎて読めなかったので、、子どもはそれを二つに分けてこう読んだ──「神はいま・ここにいる GOD IS NOW HERE」 NOWHEREは、NOWとHEREの二つに分けることができる。
父親は驚いてしまった。この言葉を書いたのは自分だが、一度もそんな読み方をしたことはなかったからだ。意味がまるで逆さになってしまう ……神は「いま・ここ」にいる。彼は子どもの目を、その天真爛漫な目をのぞき込み、はじめて何か神秘的なものを感じた。はじめて子どもを通して神が話しかけたような気がした。
そしてラーマティルタは、この友人が息を引き取るときには、彼の知るかぎり最も敬虔な人物のひとりになっていたと言っている。
「いま・ここ NOW HERE」と「どこにもない NOWHERE」という言葉はすばらしい。神が「いま・ここ」にいると分かると、「神はどこにもいないことも分かる。同じことだ。神があまねく存在しているのであれば、神は至るところにいると言っても、神はどこにもいないと言っても差はない。
何処にもない國とは、「いま・ここ」のことだ。「いま」が唯一の時間であり「ここ」が唯一の空間・場所だ。「いま・ここ」で神を見出すことが出来なければ、どこへ行っても神を見付けることなど出来ない。
☆ 「人間の本性には、不思議な力があるものだ」とゲーテは云うている。「われわれがもうほとんど希望を失ってしまったときにかぎって、われわれにとって良いことが準備されるのだよ」と。
☆ 「わたくしは学殖なきを憂ふる。常識なきを憂へない。天下は常識に富める人の多きに堪へない」とは伊澤蘭軒に拠って森鴎外の放った警醒の弁。数を頼んで常識だの良識だのを無意味な怯懦の隠れ蓑に使う人のいかに多いか。
☆ 「曾てわたくしも明治大正の交、乏を承けて三田(=慶應義塾)に教鞭を把った事もあつたが、早く辞して去つたのは幸であつた。わたくしは経営者中の一人から、三田の文学も稲門(=早稲田)に負けないやうに尽力していたゞきたいと言はれて、その愚劣なるに眉を顰めたこともあつた。彼等は文学藝術を以て野球と同一に視てゐたのであつた。
わたくしは元来その習癖よりして党を結び群をなし、其威を借りて事をなすことを欲しない。むしろ之を怯となして排(しりぞ)けてゐる。治国の事はこれを避けて論外に措く。わたくしは藝林に遊ぶものゝ往々社を結び党を立てゝ、己に与(くみ)するを揚げ与(くみ)せざるを抑へやうとするものを見て、之を怯となし、陋となすのである。」
永井荷風は、斯く言い放つ。
* まだ九時過ぎだが、コントロールが利かないほど眠い。寝よう。
2009 11・4 98
* 悟り=光明 =enlightenment は、どう来るか。どのようにして起こるのか。探し求めることをやめた探求者に起こると、バグワンは言う。
☆ もてる力をすべてふり絞って探究したが、しくじった者、完璧にしくじった者にそれは起こる。救いようのない絶望感にひたっているとき、光明のことはすべて忘れようと諦めているとき、探求がやんで、光明が得たいという欲望さえもなくなってしまったとき、突然それが訪れる…そしてそれで何もかも片づいてしまう。それは、いつもそのようにして起こる。
仏陀は六年間にわたって働きかけてきた--懸命に働きかけてきた。思うに、あれだけ激しく働きかけた者は他にいないだろう。彼は命じられたことはすべて、できると耳にしたことはすべて、どこかで拾い集めることができたものはすべて、やりつくしてしまった。彼はあらゆるタイプの師のもとを訪ね、実に厳しい修行を重ね、誠実に、真面目に取り組んだ。だが、六年が虚しく過ぎていったある日のこと、仏陀は、働きかければ働きかけるほど「私=我執」が強くなって行くということに気づいた。
そしてその日、彼は寛いで、探し求めることを完全に落とした。仏陀はゆったりとして、完全にくつろぎ、はじめてぐっすりと眠った。まさにその夜、満月の夜だった、仏陀は仏陀となった。満月と光明。
何かを探し求めているとき、どうして眠ることができるだろう? 眠りのなかでも探求はつづき、欲望は夢を紡ぎだしつづけている。光明に入る前の仏陀もそうだった。何もかもが失敗に終わってしまった。彼はこの世間を、王国を、恋愛や人々との関係の喜びや苦しみを、肉体と心の苦悩や歓喜を見てきた。続いて彼は禁欲の修行者、僧侶となり、たくさんの道に従い、その虚しいこともまた見てしまった。かれはいわゆる世間も出世間も味わったが、いずれも失敗に終わった。もうどこにも行くところはない、これ以上は一寸たりとも動けない。欲望はみな消え失せてしまった。
そこまで絶望しきっているとき、どうして欲望を抱くことができるだろう? 欲望とは希望のことだ。欲望とは、まだ何かすることができるということだ。
その夜、仏陀は為しうる何もない、一切無いと知った。その要点を見るがいい。そこにとほうもない美しさがある……為しうることは何もない、いっさい何もない。彼はくつろいだ。彼の身体はゆったりとくつろいでいた。彼のこころ(=ハート)はゆったりとくつろぎ、願望も、未来もなかった。この瞬間がすべてだった。
空には満月がかかり、彼は深い眠りについた。そして、朝が来て、目覚めたとき、彼は通常の眠りから覚めただけではなく、私たちみなが生きている形而上的な眠りからも覚めていた。彼は覚めた。光明を得ていた。
彼は弟子たちによくこう言った。「私は懸命に働きかけたが、成就することができなかった。そして働きかけるという考えそのものを落としたとき、私は成就した」
私バグワンが自分の仕事(ワーク)を「遊び」と呼んでいるのはそのためだ。
おまえは矛盾した立場に立たざるをえない。それが「遊び」という言葉の本当の意味だ。おまえは働きかければ何かが起こるかのように妙に深刻な姿勢で取り組んでいるが、それは、働きかけることを通しては絶対に起こらない。それは働きかけることがやみ、遊び心に満ちた気分が生まれ、くつろいだ気分になったときに、初めて、起こる……。
「何をやっても『私』をますます強めるだけだ、何をやっても自我エゴをますます膨らませるだけだ。自我は障壁」と見抜くと、行為はかき消えるう。行為が消えればその影である行為の主体も消えて行く。
* バグワンの「みちびき」の繰り返される核心である。
バグワンは、だから何もするなと言うのではない。こういう仏陀の脱落は、してきた果ての覚知であり、してはならぬという禁止ではない。した人が、する空しさに真に思いあたって脱落にいたる大事さを、バグワンは言う。すくなくもそれを何年も何年もわたしは聴いている。することなすことを、遊びとして一心にする、念々一新の遊びとして。文学という「凶器」をふるうのも、そうだ。そのようにして私を落として行く。
2009 11・12 98