ぜんぶ秦恒平文学の話

バグワン 2010年

 

* バグワンの『黄金の華の秘密』は、これまで繰り返し読んできたどれよりも、翻訳の口調からか、取り付きにくかった。音読せずつぶさに黙読し、さらに読み返している。優れた示唆にしばしば出逢える。箴言に富んでいる。
だがバグワンの場合、ことばを箴言のように受け容れるのがじつは危険なのでないかと危惧する。そこで思索して立ち止まるのでは、よくなかろう、思索を落とさないと罠に落ちたようなことになる。それでもバグワンの言葉は誘惑的にすばらしい。

☆ バグワンに聴く  「黄金の華の秘密」(スワミ・アナンド・モンジュ訳)より 今後も。
魂の人はつねに危険だ。なぜなら、魂の人は一個の自由人だからだ。彼を奴隷に貶めることはできない。みずからの内に不死なる魂をもつ人は  人間がつくりあげた社会、文明、文化の構造など気にかけない。これらのものは彼にとっては監獄だ。 彼は群衆の一部ではありえない。彼は個として存在している。
2010 1・22 100

* バグワンの言葉は、至極の逆説をも活かし、カミソリの刃に指を添わせるこわさのように鋭い。、

* バグワンに聴く  「黄金の華の秘密」(スワミ・アナンド・モンジュ訳)より 今後も。
真理に近づけば近づくほど、おまえが道をはずれる可能性は大きくなる。なぜなら真理に近づくと、おまえはひじょうに自己中心的になりかねないからだ。  生半可な真理には強大な力があるので、嘘よりもいっそう危険だ  嘘は無力だ。 だが、生半可な真理は何世紀にもわたって残存しかねない。執拗に影響しかねない。 しかし、誰ひとり生半可な真理を通して(生死の安心と光明とへ)行き着くことはできない。

* 「生半可な真理」という抱き柱を、手前の都合ひとつでえらんで抱きついている。しがみついている。人の世界はそういう図柄にできている。
人間だけが、ありもせぬべつの世界を幻想し喜怒哀楽している。「もののけ」という抱き柱を発明している。犬や猫には、雀や鴉には、金魚や鯨には、そんな能力は無い。無いからかれらは不幸だろうか。持っているから人間は幸福になっているのだろうか。
2010 1・24 100

* 哲学も神学も人間の玩具に過ぎないと言い切り、宗教というのは「体験」だとバグワンがいうとき、決してキリスト教徒やヒンズー教徒や仏教徒になって体験すべしとは言っていない。当然だと思う。宗教とは実存の疼きだとわたしは感じている。「宗教の方が科学よりも単純であるとけっして考えてはいけない」と言うのはあたりまえだと思う、が、ほんとうに宗教を「体験」するのは難しいと弱気に誘われるほどだ。宗教は「生死」の問題なのだ。バグワンは言う、「人がみずからの足で立ち、みずからの存在に責任をもつようになり、事態がどうなっているか、自分が誰であるかを見つめ、探求し、探索し始めること」 これが「宗教」だと。宗門宗派のような組織とは必ずしも関係ない。「信仰」は借り物の抱き柱に過ぎない、「信頼」は人や私の自信の体験から生まれる。真の「信頼」にまで歩んで行くのが「体験」だろうと思っている。
2010 1・26 100

* 「哲学的にならないこと。社会に毒を盛られないように。信じることもせず、不信感も抱かない。何の結論も安易に抱かず、自分が無知であることに気付いていなければならない。無垢に、純真に『私は知らない』と言うように。正しい取組方は『私は知らない』から始まる。偏った信念に毒を飲まされると、それを投影した世界がつくられてゆき、おまえの空想力は歯止めが利かなくなるからね」と、バグワンは釘をさす。「おまえは、絶えず何かの対象に執着しつづけている。それが実存のエネルギーをとめどなくむだに消散させているのだよ」とも。
2010 1・27 100

* 鏡に映った自分は自分ではない、外の影でしかない、その影に、自分が見られている、眺められいると「思ってみよ」、それを時間にして何分間も、また日にして何日も体験してみよ、とバグワンはいう。
「とても奇妙な空間に入る。活気も得るだろう、とても怖くもなってくるだろう。大きなエネルギーが向こうから向かってくるのを感じるだろう。習慣的にそれを続けると、今まで外にいた自分が、中心に据わっていると実感できてくる」と言う。
たしかに異な体験である。

* バグワンの『一休道歌」にも、直哉の若い日の書簡にも、胸を躍らせる言葉を次々読み取り、すると快く興奮する。
読む本、読む本から、変わらずわたしは今も刺戟され、興奮する。未熟にまだ幼稚なのか、幸いにまだ思い柔らかに若いのか。
けっしてその興奮は不快でなく、嬉しいのである。おおそうかそうかと胸がはずむ。だから読書はいまもわたしの大きな楽しみで、ただし勉強しているなどとはいっこう思わない。それだから、楽しい。読んで、喜べた、刺戟を受けた、それが特別どう何かに役立つのでも何でもない、たんに素直に嬉しいだけ。ときどきここへ「書き出してみる」のは、嬉しさをだれかが分かち持ってくれるかなあと、よけいなことを思うから。ほんと、よけいなことかも。
2010 1・30 100

☆ 或る挨拶。
ある僧が師の百丈に尋ねた。
「ブッダとは誰ですか?」
百丈は答えた。
「おまえは誰だ?」
2010 1・31 100


ある僧が師の百丈に尋ねた。
「ブッダとは誰ですか?」
百丈は答えた。
「おまえは誰だ?」

* 端的を極めて深刻。
2010 2・1 101

☆ バグワンに聴く
「黄金の華の秘密」(スワミ・アナンド・モンジュ訳)より 今後も。

生とは、死と彼方の世界にそなえて身支度を整える機会だ。
生とは機会にすぎない。 本当の「生」に到るための機会にすぎない。本当の「生」は、まさにこの生のどこかにもろもろのボロに蔽われ隠されている。 「生」は深く眠りこけていて、みずからに気づいていない。おまえの本当の「生」がみずからに気づいていなければ、おまえのいわゆる生は、たんなる長い夢にすぎない。悪夢であるだろう。
本当の「生」に根を下ろさずに生きることは、大地に根を持たない樹のように生きることだ。 ブッダたちが語る人間の輝きがおまえに見えないのはそのためだ、おまえ自身の「生」こそは、ブッダであるのに。

おまえがあまりにひどい贋物になり、あまりに多くの仮面をかぶっているために、おまえはおまえの本来の顔に気づくのが、ほとほと不可能になっている。
おまえの人格は、着物に次ぐ着物に次ぐ着物──幾重にも重なる着物から成り立っている。「人格」とは「仮面 ペルソナ」だ。 おまえはたくさんの贋の顔・ペルソナをもっていて、周囲の状況が変わるにつれて、それらの仮面や着物を次から次へと変え続けて行く。本質の「生・本当の顔」はどこかへ失せている。
よく思い知るがいい。人格とは、社会、両親、学校、大学、文化、文明からの贈り物だ。おまえ自身ではない。もらい物のおまえ、贋物だ。ところがおまえはそんな人格ばかりを磨き続け、おまえの本質は、「生」は、見喪ったままでいる。見喪っている「生」を、本質を想起しないかぎり、おまえは、虚しいペルソナの生を貪り生きるだけだ。 人格という虚構の中に「生」をますます忘れはてるだけ。
2010 2・1 101

* 毎夜の読書で、プラトンの、いやソクラテスの語る「最良国家」の、理想の指導者・主導者は「哲学者である政治家」だと、いよいよ大著『国家』は説き始める。
ギリシアほど哲学の重んじられた文化・文明はすくない。ヨーロッパの中世、近世にしてなお伝統は哲学という支柱に負うていたように見受ける。

* 一年ばかり以前であったか、わたしは求めて「哲学史」を読んでいた、繰り返し読んだ。ただし「哲学」を求めたのではない。哲学の有効を疑いかけ、顧みて吟味したかった。
青年の昔、わたしは美学を介して西欧の哲学に近づいていったが、その一方で哲学が、生きる喜びや悲しみや励みに、死との当面に、本当に質的にかかわりうるものかどうかを、漠然と懸念がちに確かめてもいた。
懸念は年と共に疑念にたかまり、むしろ宗教の方へ気持ちを寄せていった。しかし宗門・宗派・教団に対する嫌悪感はつよく、しかし死生への深いおそれが日々の問題に置き換わってきていた。そういう実感があった。
バグワンとの遭遇は、そんな自身の日々に有り難かった。わたしは今もって彼バグワンの実像を、現実の行業を、ほとんど何も知らない。知らないまま彼の著述と向き合い、ひたすら聴いてきた。
理想の国家が「哲学者」により率いられるべきだと、ソクラテスがわたしを説伏するなら、わたしはそれも聴こう。たぶん異存はもつまいが、それはわたしの死生を思う思いとは別ごとだ。死生の問題で、わたしは哲学に頼む気はない。同時に、科学に頼む気もない。まして政治になど。

☆ バグワンに聴く  「黄金の華の秘密」(スワミ・アナンド・モンジュ訳)より 今後も。
いにしえの寓話によると、世界を創造していた神のもとに四人の天使が近づいてきて、こう質問した。
「どのようなやり方で創造なさっているのですか?」と最初の天使が尋ねた。
二番目の天使は「なぜそんなことをなさっているのですか?」と尋ねた。
三番目の天使は「お仕事が終わったら、私にいただけますでしょうか?」と尋ねた。
四番目の天使は「お手伝いいたしましょうか?」と言った。

最初の問いは科学者のものだ。二番目の問いは哲学者のものであり、三番目の問いは政治家のもの、四番目の申し出は(職業的な宗教人ではなく)宗教的な敬虔な人物のものだ。
科学的な探究は、万物を客観的な目で観察する。客観的であるために科学者は身を引いたままいる。巻き込まれまい為に参加しない。科学者はどんな精密な顕微鏡を用いても論理を用いても、生命や存在の表層を知ることしかできない。科学の手法そのものが妨げになるからだ。
哲学者は憶測するだけ。けっして実験しない。哲学者は「なぜか?」を際限なく問い続ける。どんな答えが与えられても、更に「なぜか?」と問う。哲学を通しては結論に到る見込みがない。結論は下せない。不毛な行為であり、どこにも行き着くところがない。
政治家は世界を手に入れ、わがものにしたがる。暴力も厭わない。政治家が生に示す関心は、生そのものにでなく、自らが握る権力に向けられている。
宗教的な存在の関心は、尽きるところ「私は誰か?」だ。

* 鈍根のわたしは、まだ、なにも分かっていない。
2010 2・2 101

☆ 「神にまつわる知識をいくら蓄えつづけても、けっして神を知ることにはならない。」「宗教がひとたび教義(ドグマ)と化し、もはや体験でなくなってしまうと、ひとりでに死に絶える。教団だけが繁昌する。」 バグワン

* 「使徒行伝」を読んでいると初期伝道の支えに、イエスの復活、そしていろんな機会にイエスが使徒の前に姿をあらわし力を授けていること、昇天の後にも聖霊により多くの奇跡がユダヤ人や異邦人の上になされていること、伝道と云うことではペテロや使徒たちともならぶパウロその人も、キリスト自身による回心の奇跡のあったことをはっきり書いている。
これらも宗教の不思議な「体験」なのであろう、か。そしてやはり基督教への初期迫害は、異邦人から、より遙かに広く多く執拗にユダヤ人とユダヤ教から、あったことも証言されている。
基督教の初期教会が使徒と信徒達との熱い一種の共産共同体として結束していた様子も見えてくる。よくこれが広大なローマ帝国に浸透し瀰漫していったものだと、その体験エネルギーに感心する。
2010 2・3 101

☆ バグワンに聴く  「黄金の華の秘密」(スワミ・アナンド・モンジュ訳)より 今後も。
宗教的な探求者であるためには、いっさいの哲学を落とさなければならない。先験的(アプリオリ)な知識はすべて障害になる。
あれこれの宗教の「教徒」でありながら、どうして宗教的でありえよう。教徒であるということは、すでに或る結論を出していて、何が真理か決めてしまっているということだ。おまえがやるのは、もう結論づけていることがらの裏付け、論証を探し出すことでしかない。結論は間違っているかも知れないし、なによりその結論、おまえ自身で得たものではない、誰かから手渡されたものだ。
おまえを虜にしたい誰かは、しきりにうまい結論を与えようとする。人として苦しくて真剣な問いかけの始まる前に、誰かは、ありとあらゆる結論を詰め込もうと働きかける、何が何でもおまえが本当に問いたい問いかけを阻もうとする。真剣な問いかけはその誰かにとって危険だからだ。
問いかけない人間は扱いやすい。命令や指令をそのまま受け取り、従う。
ひとたびおまえの心に僅かでも信仰を吹き込めば、おまえは徐々にその信仰が自分の体験であるかのように思いこむ。まるで痲薬。もし何かを信じ始めたら、その裏付けとなるものがぞくぞくと見つかってくる。おまえは自分を都合よく支えてくれるものばかりを選び取る。
こういう信仰をもたされた者は閉じている。おまえの窓や扉は閉じている。おまえは一種の牢獄に住んでいる。そしてもともと見失っていた自分をすっかり見失う。
2010 2・7 101

* 「半死半生、それが実状だ」とバグワンに指さされると、まことにと、ガクリと来る。「鏡の顔を見るな。鏡の顔からおまえ自身が見られていると思ってみなさい。すると、とても奇妙な空間にはいる。怖くなってくるだろうが、堪えること。おまえの中に、かつて知らなかったエネルギーが流れ込んでくる。堪えて、続けなさい」とも云われる。たしかに怖くなる。目を背けてしまう。実存の重さに耐えきれないのだ、情けない。

* 「おまえは断片の集合に過ぎないよ。おまえは通常は群衆を成しているのだよ。おまえぐらい雑多な自己をもった男はいないじゃないか。たくさんな、ちっぽけな『おまえ』の集まりが、おまえさん、だ。そしてそのおまえたちが『おまえ』の支配権をとろうと犇めくように争っている。競っている。おまえのその惨めさ、それが人間の惨めさだよ。そんなに自分が自分の中にたくさんいて、どうして『静かな心』になれるものか。どうして『安らか』でいられるか。え?」とバグワンはわたしを笑う。
「葛藤の絶えない人生を選んできて、そんな悩み苦しみを『人のせい』にしていないか、おまえ?」
2010 3・1 102

☆ バグワンに聴く  「黄金の華の秘密」(スワミ・アナンド・モンジュ訳)より 今後も。
藝術は無意識な姿をした宗教だ。フェイマスな藝術家は宗教的な人にもっとも近い。
レーニンは「倫理学が未来の美学になる」と云ったそうだが、それは違う、まったく逆。美学こそが未来の倫理学になるだろう。美が未来の真理になる。なぜなら美は創造できるから。美を愛し美を生き美を創る美しい人は、自然なモラルを心得ている。わたしは「宗教は藝術だ」といったウイリアム・ブレークに同意する。ただし、「藝術」と、生み出された作とは区別される。安げに混同してはならない。藝術とは一枚の繪でもなければ、一体の彫刻でもない。商人が売り買いするものは作物ではあっても「藝術」ではない。作物は一種の財産だ。
藝術と作とが同じものでないように、宗教が生み出す教義(ドグマ)、教説、『聖書』『コーラン』『ギータ』、教会、寺院、大聖堂などといった事物を宗教的な作と呼ぶのは構わないが、「宗教そのもの」と混同してはならない。教会はあくまで教会だ。美しいかも知れないが、それそのものが宗教ではない、紡ぎ出された副産物だ。『聖書』や『コーラン』や『ギータ』を学ぶことはできるが、それが「宗教」であるとは、謂えない。宗教は学ぶものではありえない。
2010 3・3 102

☆ バグワンに聴く  「黄金の華の秘密」(スワミ・アナンド・モンジュ訳)より 今後も。
創造性を発揮することで人は燃え上がる。
創造的でありなさい。創造的であることが礼拝になる。創造的であることが祈りであり、神の近くにあることだ。
神はどこでも等しく手を差し延べている。だがその手を取ることのできるのは最大限に生きている者たち、生命の炎がくすんでいない者たち、すべてのエネルギーをそれに注いでいる者たちだけだ。
最も深い喜びとなるものを見つけだし、それをやりなさい。
潜在能力を発揮させなさい。それにまさる喜びはない。創作し、想像し、神に手を貸したとき、はじめて至福が得られる。おまえの内なる松明が両端からめらめらと燃えているときの自分を知ったなら、死など存在しないことがわかるだろう。
だから、だらだらとした生き方をしてはいけない。生を踊りに、祝祭にしなさい。
古い、昔のいわゆる宗教的な生き方は、人々に世間との関係を絶つようにと教えてきた。
私はそんなこと、世間との関係を絶つことをなど、教えない。どこにも逃げ出す必要はない。おまえは世間で生きて世間を超越できる。世間との関係を絶つのではなく、超越すればいい。輪廻サンサーラこそが涅槃ニルヴァーナ。この世間そのものが悟りだ。
2010 3・4 102

☆ バグワンに聴く  「黄金の華の秘密」(スワミ・アナンド・モンジュ訳)より 今後も。
純一なハートで決然と実行するのだ。成果を求めている者はすでに分裂している。ゴールのことなどまったく気にかけない者だけがたどり着く。
この瞬間が全一生きられたなら、次の瞬間はより深い、より高い全一の質を帯びる。大切なのは、まとまりをもった純一なハート。分裂せずに、完全に「いま・ここ」にあるがいい…成果はおのずからやってくる。それは花のように開く。
無理やり咲かせたなら、花は死んでしまう。早く咲かせすぎたら、香りがなくなってしまう。瞬間を楽しむのだ。瞬間に全一に入り込め。いつか、突然成果が現れる。

穏やかに活動し、いきいきとくつろぎなさい。おまえの行為には待つという質がそなわらなければならない、おまえの待機には活動の質がさなわらなければならない。成果のことは考えなくて好い それはひとりでにやってくる。気が散らず、何にも意識を逸らされることなく静かに坐っているときには、呼吸は穏やかで、静かで、リズムをともなっている。そんな呼吸には、微妙な音楽の質がある。

* わたしの願う「静かな心」とは、バグワンのいうこの「音楽」だ。
2010 3・8 102

* 夜中、右脚膝下で、骨のように筋肉が細く右外へ張り出て、おさまらず、強い痛みで閉口。むりむり起きて立って、すこし歩いて元へ戻した。この症状、初めての体験かも。攣るのとはちがう感じだった。膝少し上の、もも内の筋肉に指で触れると痛んでビクと痙攣するのが、膝下の外側へ影響するのか。
解体新書の杉田玄白は、老いて五体の故障を具体的に「観察」し、書き留めていた。バグワンも、ひとごとのように「観察」するがいいと語っていた。故障と「一体化しないで対象化する」よう、わたしも気をつけている。しかし痛いのはイヤなもの。
2010 3・18 102

* 「気持ち」なんて、整理のつくモノではありませんし、整理してどうなるものでもありません。所詮はドンマイ。マインドは落として捨てて身を起こして、無心の方へ戻る以外に処置のないモノです。
そんなことをエラそうに人に言ったことがある。だいたい本音だが、片づかなくて困るものは、別にある。日毎に溜まる、ボロ、ボロ。
工夫の限りをつくして場所をつくってきたが、さらにその上にモノが増える。捨てればいいと判っているものも、捨てる或いはのかすための場所がもう無い。わたし、独り者にもしなったら、よく報道される「ゴミタメさん」たちのように成るか、成りかねない。
溜まるモノとは何か。わたしの場合九割九分が、つまり紙で。本、雑誌、その他の印刷物、切り取った資料、地図、名簿、覚えのメモ、等々。形のある買いモノなど無いのに、身動きが取れないというのは、よほどの量だということ。そして、整理するのにいちいち目を通さないと判断がつかない。つまりその手の「紙」がみな或る程度の「内容」「意味」を帯びている。むやみと無くなれば困ってしまう。荀子が「蔽」を「解け」よと教えている、これら紙の一枚ずつが、わたしの「蔽」であるマインドなのである。純真の裸にもどる難しさに悲鳴をあげているとは、情けない。
2010 3・23 102

☆ バグワンに聴く  「黄金の華の秘密」(スワミ・アナンド・モンジュ訳)より 今後も。

語ることで真理が伝わるわけはない。  人類は借り物の知識の呪いのもとで生きてきた。人々は『聖書』『コーラン』『ギータ』などを鸚鵡のように唱えている。それは彼ら自身が体験したものではない。彼ら自身が体験してきたのはまったくそれらとは逆のことだ。 人間は盲目のまま宗教をつくりあげてきた。しかも無数の宗教を。盲目の目は多くのものを信じることしかできない、それゆえにこれほど多くの宗教がある──小さな地球に三百いやもっと多くの宗教があり、それぞれがこう主張している。「私の真理が唯一の真理だ」「私の神が唯一の神だ」「他の神はみな偽物だ」「他の真理はみなでっちあげだ」「他の道はみな荒野に行き着くだけだ──私の道だけが天国に通じている」そして三百もっと多くの宗教が絶えず闘い合っている。どれもこれも現実を真正面から観ていない。どれもこれも宗教なんかではない、形骸化した伝統だ。
眞に宗教的な人は形骸と化した伝統を避ける。手垢にまみれた神を避け、自分を開いたままにして、いつ真理が眞に立ち現れても応じる姿勢でいる。ほんとうに「探し求めている者」たちは、自分自身に働きかけて、落とさねばならないたくさんな余計なボロをおとそうとする。ハートは、ウブな感受性を取り戻さねばならない、よけいな汚れでいっぱいになったのを洗わねば。
なぜ魂のために手垢の付いた信仰を、使い古され、ぼろぼろになっている、汚く醜い靴や着物をわざわざ買うのだろう。そういう人は自身の人間性を貶めている。探求は独り在るものが独りで行うべきものだ、なぜなら探し求めるべき(ブッダフッド)はもともと自身のうちに已に在るのだから。生の真理は個的で私的なものだ。キリスト教徒や仏教徒になって求めねばならぬものではない。
ブッダ(覚者)がブッダであるのは、彼が覚者だと人が多数決で決めたからではない。真理は多数決で決められない、それなのに人はそのようにして「決めつけ」ている。宗教が信者を増やすことに熱中するのはそのためだ。
仏陀の現れるとき、彼は独り在っただけだ。イエスがエルサレムを歩くとき、彼は独り在る存在であった。ソクラテスが闘うとき、彼は独り在るひとであった。
古くさいボロボロは、そういうものであるから感嘆に脱いだり落としたりできる着物とはちがう。皮膚と化している。皮膚を剥がすのは痛い。だが、おまえを本来もったブッダヘ連れ戻すにはそうするより仕方がない。 勇気を奮い起こし、借り物の知識はすべて落としてしまいなさい。

* 抱き柱を抱かないとわたしの云うのは、そういうこと。そこから「独り在る」ことがはじまる。
2010 4・6 103

* 「死は外側からしか見ることができない」「生は内側から見ることができる」とバグワンは云う。「創造的な人がもっぱら生の最も高次の姿を知ってゆくのはそのためだ。創造するとき、人は神の一部になっている。」「生が何であるかを見るには、まず内側からそれを感じ取らなければならず、最良の方法は創造的になることだ」と。
「神はどこでも等しく手を差し延べている。だがその手を取ることのできるのは最大限に生きている者たち、生命の炎がくすんでいない者たちだ、それは創造を通してはじめて起こる。最も深い喜びとなるものを見つけだし、それをやりなさい! 潜在能力を発揮させなさい。それに優る喜びはない。創作し創造し神に手を貸したとき、至福が来る。死など存在しないことがわかるだろう。生を踊りにしなさい、祝祭にしなさい」と。
「昔のいわゆる宗教的な生き方は、人々に世間との関係を絶つようにと教えてきた。私はそんなことは云わない。どこにも逃げだす必要はない。創造的であるならおまえは世間で生きることができる。世間との関係を絶つのではない、創造的にそれを超えてしまうのだ。超越するのだ」と。

* わたしがバグワンに聴くのは、此処だ。
彼は経典・教典を読めなどと云わない。難行苦行、努力して悟りを求めよなどと云わない。世間から遁れよ遁世せよなどと決して云わない。
「いま・ここ」にあって、生き生きとあれと云う。
2010 4・10 103

* バグワンはこのところずうっと『一休道歌』を読んでいて、この十日ばかり、スワミ・アナンド・モンジュ氏の訳に頼みながら、胸を衝かれてただ感嘆し、聴いている。
「少しずつ、少しずつ、あらゆるものが偽物に、人工的に、造りものに、プラスチックになる。」「ものごとをあるがままにあらしめるのだ。それらは完全に美しい。醜悪なものはすべて、おまえがつくりだしている。」
「真実は、どこへ行っても受け容れられない。人々は真実に苛立ちを示す。虚偽の見せかけはいともたやすく受け容れられる。ソクラテスが毒殺されたのはたんなる偶然ではない──彼の唯一の罪は、人々に真実を気づかせようとしたことだ。 彼は、人々がいやおうなく真実を見るように仕向けていた。」「誰であれ、おまえがたに真実を気づかせようとする者は、社会から敵とみなされる。社会は嘘のなかで生きている。社会は嘘を頼みとしている。」
その通りだ、七十四年を生きてきた、これは、遺憾ながら肌身に刻まれた実感だ。逆を観じ得たことは極めて乏しかった。

☆ バグワンに聴く
宗教は、遠くへの願望、遠方への好奇心ではない。それは自分自身の実存の探求だ。仏教がまったく神とかかわりを持たないのはこのためだ。
仏教はおまえのリアリティーを剥きつづける。幾層にも幾層にもわたって、その夢を、幻想を破壊し続ける。究極、ただ「無」だけがおまえに残る。
その「無」が、あらゆるものの源泉だ。その「無」からあらゆるものが生まれ、ゆっくりゆっくりその「無」のなかへ戻って消える。
仏陀以外に今まで「無」をあらゆるものの源泉とあえて呼んだ者は他に誰もいない。ただ現代の物理学が、日ごとにますます仏陀に近づいてくる可能性は充分にある。そうあって当然だ。
仏教は形而上学ではない。仏教は基本的に、純粋に、心理学だ。心(マインド)のリアリティーに、心がどのように機能するかに、何が心を構成するかに仏教は関心を寄せてきた。その関心は心の層のひとつひとつにより深く浸透し続け、最後に、その最深部、その奥底には「無」が存在するという認識に至る。
実在(リアリティー)は、あるがままにある。おまえがそれを好もうが好むまいが、問題ではないのだ。
実在は、そのあるがままに見なければならない。その露わな真実そのままを、その赤裸々な姿を、粉飾されず、覆われず、むきだしのままの実在を見る勇気、おまえに在るか。実在を見ると、すべてはただ消え去り、実在のみがある、その実在と共にあることが解放だ、解脱だ。
偽りの探求者は、初めから何かを証明しようと懸命になる。「私は神を探し求めている」などと云う者は、偽りの探求者だ。「神は存在する」という一つのことを彼ははなから受け容れている、知りもしないで。知っているなら、何故探す? シンの探求者は神を探したりしない。どんな天国も探さない。ひたすら自分自身の存在を探し求めていた。探求は純粋だった。彼らはただ実在(リアリティー)に見入っていた、そこに何があるかを見るために。彼らはどんな先入見にもとらわれていなかったので、無に遭遇した。無を知るに至った。
おまえは、とかく何かの観念にとらわれるだろう、そしてきっと自分の観念の幻想をその無のなかに造り出したがる。真実でない、おまえの想像・妄想にすぎない。それは、だが、おまえを解放しない。しかし信じれば信じるほどますますおまえは観念や妄想にしがみつき、あだな夢の中へ現実(リアリティー)を注ぎ込み続けて、何生にもわたりムダに生き続ける。
憶えておきなさい、これは生で最も重要なことの一つだ。
何の観念も持たずに探求するがいい。特に何かを探すのではなく、ただ見るのだ。目は清く、純粋でなければならない。
2010 5・7 104

* バグワンは云う、「わたしは何も知らない、明晰であるだけ。それは知識ではない、見抜く力だ。知識はおまえを盲目にする。おまえの目は知識で一杯になり過ぎて、観ることができない。理解と明晰さ、知覚と光明。それは知識ではない。それは雲一つ無い内なる大空だ。鏡のような青空だ。ゴールは同じだ──静けさ、内なる完全な沈黙、無思考、いかなる中身もない純粋な意識。この不思議な力は計り知れない。」(『黄金の華の秘密』より)
2010 5・10 104

* 盤珪禅師の「うすひき歌」から引いて、上田秋成はこう自身の口調で理解し述懐している。

悪をきらふを善じやとおしやる
嫌ふ心が悪じやもの

これは、まさしく然り。すばらしい。バグワンに帰依してきたおかげで迷い無く受け容れる。同じ盤珪の共感した俚謡に、

思ひ思ふて出る事は出たが 舟の乗場で親恋し

も、深読みがきいて胸を突かれる。
こういうことも高田衛さんの研究書から聴いている。わずかこれだけのことで、本の何十冊に匹敵する体験が得られる。ソレは体験ではない知識を得ただけだろうとは、若い頃なら云われて仕方がないが、この年になると、受け取れる懐に下地の用意がある。
2010 5・25 104

☆ バグワンに聴く。
「魂の不滅を信じる人たちを観てごらん。彼らはありうるかぎり最大の臆病者たちだ。魂の不滅という彼らの信仰は防禦に他ならない。彼らはただ死を恐れている。だから魂の不滅という観念に縋る。死に逆らってその観念に(抱き柱のように=)抱きつき執着するしか無いのだ。」
「禅のマスターに魂は不滅でしょうかと尋ねても答えない。答えを求めているのはおまえの恐怖であるのをよく知っているから。」「おまえはただ慰めが欲しい。魂は不滅だ、恐れなくていいと権威の力で保証して欲しいだけ、つまり強い父親を求めている。父なる神や神父が欲しいのだ、子供じみている。未熟としか云いようがない。おまえは、つまり、独りで人生をいきることが出来ない。」
「神は存在しないのではない。だが神は父でも母でもない。どんな言葉ででも神を想像することはできない、全き沈黙の中でしか体験され得ない。」「神は信仰体系ではない。たわいもない観念や妄想や無明長夜の夢から、目覚めへの道・導きだ。ご利益を求めてしがみつく抱き柱ではない。」
2010 6・25 105

* 民主党の試みてきた「仕分け」はケッコウなこと、功をあせらず地道に根気よく続けて欲しい。自民党の時代には思いも寄らぬことだった。新築落成の豪華な参議院会館など、今なら「仕分け」の段階で修整されていただろう。

* 他方、ああいう仕分けではない我々人間が良識かのようにしている「分別」という習性。必要であり又それが人を蟻地獄に陥れもする。分別すべき事があり、分別してはならぬこともある。別の言い方をすれば、分析。

☆ バグワンに聴く。
「分析は息の根を止める。死んでいるもののみが分析や解剖に堪える。生きているもの、まさに生は未知のまま不可知のままにとどまる。」「おまえが知る瞬間、おまえは何かを殺している。人々は殺し続ける、たとえば愛をも。ひとたび愛を分析すると、愛はもう死んでいる。」「力(パワー)を誇示したいとき、人々はかならず殺している。知識もまた生きたものを殺す巧妙で執拗な方法だ。」「禅の人は知識にはとらわれない。関心がない。彼らは力(パワー)に関心がないから。彼らの本質の関心は、あるがままの「いま・ここ」の生に向けられる。生きている生に向けられる、死んで知識の分別に晒されるような生にでは、ない。だから、彼らは神ではなく、朝食に関心を持つ。天国でも、魂でも、過去世でも、来世でもない。ただの朝食。かれらは「いま・ここ」の生を観て生きている。」「浅き夢から醒めるのに、分別や分析は、知識は、何の役にも立たない。」

* 相撲。サッカー。どっちも、おもしろい。どうでもいいものが、ほんとうにおもしろい。意味づけを始めたら、それはもう死んでいる。
* 娘夫妻から仕掛けた裁判を、わたしはどうでもいいものと受けとめている。過ぎ去った死骸のようには観ていない。この醜悪な生きものを生きたまま、そう朝食のように食い、食って産まれてくる世界を書き続けるだろう。生かさねば。殺して分別するなど、なんと、つまらない。
2010 6・29 105

* 昨夜の「mixi」日記に、例によって「抱き柱はいらない」ということを書いた。
バグワンは、「手放し状態にならなければ」と言い、「明け渡し」ということもよく話す。とても大事なこととと理解は出来るが、これがほんとうに容易でないのだ。どう容易でなかろうとそうでなくてはならない。「エゴの強い人間は瞑想に入って行くのがひじょうに難しい」といわれると、身に痛く分かる。つらい。
「教義を待ってはいけない。」「真の教えはまったく教えなどではない。それは伝達だ」とバグワンは言う。
2010 7・14 106

* 「難問は分割せよ」とはデカルトの至言であるが、分割という「分別」の危なさと毒を教えるのは、バグワン。哲学の陥って抜け出せない自己呪縛こそが「分割」であり「分別」「分析」であろう。ただ、それらの大きな便利も人は知っている。わたしも知っているつもりだ、理路を分けてとわたしは時に大いに努める。
だが、それにも行き止まりのない行き止まりがあり、隘路は隘路で、決して大道ではない。「われ思う、ゆえに、われ在り」かも知れないが、そんな「われ」がもともと在るのか、そんなものは無いという光明世界がある。分割や分別の行く手はかぎりなき隘路のはての行き詰まりだと、それを哲学は数千年かけて証明したのではないか。

* 雨。すこし涼しい。駅の方まで用足しに出た。二人で出ると、手が四つある。そういう機会に冷蔵庫などを満たす買い物をしてくる。もうこの頃は駅との間を歩かない。往きは時間を見計らい近くから市の花バスに乗り、帰りは玄関までタクシーを使う。相当の買い物をしてもラクに帰れる。ひどい雨でなかったし涼しいのが有り難い。

* じいっと、思い想う。我ありと納得するためでは、ない。
2010 7・29 106

* むかし、本郷の或る昼飯屋さんの、昼飯時間の過ぎた明き店を店主姉妹の好意で借り、社の勤務時間中に小説を書いていた。そういうことをしていても仕事に穴をあけたことはないし、編集者は二十四時間勤務と長谷川編集長に言われていた、それは時間は自分で宰領せよという含意でもあった。そのお店は夜はバーになり、しかしわたしは一度も酒の客にはならなかった。店の姉妹はわたしが太宰賞をもらう以前から小説を書いているのを知っていた。そして受賞すると、お祝いに、お店に掛かっていた「問一問」という扁額を呉れた。いまも大事にしている。

* 「なによりも大事な一問」を問いなさい。三字はそう告げていた。わたしはいつも三字を黙って見上げていた。正しく問うのは難しいが優れた問いを人は問わねばならぬ。「問いの悪い者には答えるな」と荀子は教えている。厳しい。「とっぷ」の優しい店主姉妹は喜んでその三字の額を贈ってくれた。あのころのわたしは、文字通り寸暇もなかった。せっかく受賞しても仕事をとぎらせたら落ち零れる。編集課長という中間管理職は月刊誌の定日発行を五冊も担当し、企画した単行本の取材進行分をわたしは百二、三十冊分も抱えていた。依頼原稿の書き後れをそのセイにすることは出来なかったし、新潮社の「新鋭書き下ろし」作品や、テレビやラジオの出演依頼もあった。おまけにわが社は本郷台に名高い熾烈な労使闘争を繰り返す会社で、管理職は上から下から追い使われつるし上げられた。
あの頃、「なによりも大事な一問」は何であったろう、わたしにとって。
文学。
だがそれ以上に家庭であり家族であった。妻が、朝日子や建日子がいてくれる、その支えと励みとが、文学へわたしを没頭させた。家族の前で恥ずかしい安い仕事は出来ないと思っていた。さもなければ、あんなに仕事に打ち込めなかったろう、創作そして批評。読み物の書き手ではなかったから、沢山は売れないから、贅沢な暮らしは出来なかった、させもしなかった。まさかそれが虐待かい。

* 朝日子。きみは、大事な大事な問いを置き去りにして来なかったか。父さんは、受賞からわずか十年たらずで六十数冊も本を出していた。覚えているだろう、来客もひっきりなし、京都の老人達は三人とも九十へ老いの坂に喘いでいた、やがては三人とも引き取らねばならなかった、保谷のこの狭い家にだよ。
父さんも母さんもあれらの日々、どんなに忙しく疲れに疲れながらも、誇りをもって頑張っていたよ、きみを虐待などしているどんなヒマがあったかい、あのころほど父さんは勉強していたこと、なかった。そういう日々が嬉しかった。それでも、ずいぶん姉とも弟とも賑やかな楽しい時も一緒に過ごしたではないの。

* 問一問。いまもわたしは三字を見つめる。そして何も問わないでいい時を待っている。

* 今しもバグワンを読んでいたが、この師に質問してくる何人もが、これは「友人(誰それ)の代わりに聞くのですが」と言ってくると。このウソはすぐ分かる。問題に直面していないなによりの証拠だ。都合の良い答えを期待して自分の問いを棚上げしたフリをしている。
「自分の問いに直面するがいい」とバグワンは言う。「もし自分の質問の動機を見つけることが出来たら、百の九十九の質問はあっさり消えてしまう。問いの中に深く入って行き、根源に到ること、それが答えを見出すことだ」と。わたしは想う、「そうなれば答えは要らなくなるだろう」と。
バグワンに聴こう、「自分で答えを得られない一つの問い‥‥、それを尋ね問うことはとても重要だ、それは貴重な橋になる」と。「自分の問いの無意識の根源にまで入って行きなさい」と。
2010 7・30 106

* 本は直哉の『暗夜行路』がいましも謙作が伯耆大山に滞在し始めた。妻のしくじりの痛みから、謙作は大山へ来た。その経緯の叙事は筆も美事に早く的確で、惚れ惚れする藝術の魅惑であるが、仏教や禅への親和の思いにはわたしも心からうち頷く。
いま宗教書といえる本はキリスト教のバイブルを、もう二三年はかけて旧約から新約へ、それも今は「ヘブル書」にまで来てもう少しで全編を読み終える。
もう一つはバグワン・シュリ・ラジニーシの『一休道歌』上巻をやがて読み終えようとしている。

* バグワンは、「ゴータマ・ブッダつまり釈迦の出現は、人間意識のもっとも並はずれた出来事のひとつだった」と云う。その炎は、禅の人々が時代を経て伝えてきたと云う。禅の人は「持ち出せる哲学」があって語るのではない、彼らは何かを見たから語る。彼らは思想家ではなく、「見者」として語るとバグワンは云う。わたしはそれを感じる。

☆ バグワンに聴く。
仏陀は宗教の質そのものを変容させた。彼以前、それは神学だった。彼以後、それは人間学となった。彼は言う、必要なものはすべて人間意識の内に隠されている。天を見上げる必要はない。恩寵を求める必要はない。人は自らの光にならねばならない、と。
そうだ、光はそこにある、それはおまえの生の中核そのものだ。おまえはそれを本来持っていて 無くしたのではなく、忘れているだけだ。思い出せ。これが仏陀のアプローチのまさに基本なのだ。
生とは、忘却と想起。それが、すべて。
人は無明の眠りに落ち、千とひとつの夢を見つづけている。だが──朝が来て、目を覚ます、夢はみな消え失せている。生もまたそうだ。内なる実存に対して眠りに落ちて落ちている。おまえは自分が誰なのか忘れ果てている、それゆえの世界が娑婆だ。それは万物の世界を意味している。おまえはひとつのものから別のものへ駆け込みつづけて行く──自己を探し求めて。おまえは自己との接触を失ったがゆえに、堪えずそれを探し求めている。人間の苦悶とはそれだ、探しているものが見付からない、そして尋ねてまわる「私は誰なのでしょう」と。夢はまだ深く、道は遠い。いや、そうとは限らないぞ。気付けばよい。夢は覚める。

* ああ、何度も何度も何度もバグワンに聴いてきた。ああ、なにもわたしは願わない。身構えて待ったりしない。ただただバグワンに聴いている。
2010 8・15 107

* 世界がどうあるか、が不思議なのではない、と、二十世紀オーストリアの哲学者ヴィトゲンシュタインは言った、「世界がある、ということが不思議なのだ」と。
彼は古代ギリシャから、デカルト、カント、ヘーゲルといった哲学巨人の思索をすべて否定した。「間違っているのではない。無意味なのだ」と。森本哲郎さんに教わるより以前から、ヴィトゲンュタインのこの小気味よい全否定を知っていて、眼から鱗を落とした。人が生きる日々のために哲学は何の役にも立たず、人をまどわし続ける。生死の大事について何一つ教えてくれない。無意味なのだ。バグワンは、それをよく知ってわたしを力づけてくれる。哲学の傍に立っても安心はまるまる得られない。

* もう一度二階へ来たのは、続きのバグワンをもう少し書き写してみたかったから。訳者さん、めるくまーる社さん、聴(ゆる)して。

☆ バグワンに聴く

「意識」は、最後には「死」を意識するようになる。もし意識が最後に死を意識するようになると、ひとつの恐怖が(あなたの心に)湧き上がってくる。その恐怖は、あなたの中に絶え間ない「逃避」をつくり出す。そうするとあなたは「生」から逃げ出すことになる。どこであれそこに「生」があると、あなたは逃げ出してしまう。
なぜならば、どこであれ「生」があるところには、「死」のヒント、一瞥、がやって来るからだ。
あまりにも死を恐れている人たちというのは、けっして「人間」に「恋」をしない。彼らは「物」と恋に落ちる。物というのはけっして死なない。それは一度として生きてもいなかったからだ。
物ならいつまでもいつまでも「持って」いられる。しかも、そればかりでなく、それらは交換可能だ。もし一台の車が駄目になっても、それはきっかり同じつくりの別な車で埋め合わせられる。しかし「人間」は埋め合わせられない。
もしあなたの奥さんが死んでしまったら、彼女は永久に死んでしまうのだ。別の奥さんをもらうことはできる。が、ほかのどんな女の人にも、彼女を埋め合わせることなどできるものじゃない。良きにつけ悪しきにつけ、ほかのどんな女の人も同じ女性ではあり得ない。

もしあなたの子供が死んでしまったら、養子をもらうことはできる。が、どんなもらい子でも、自分自身の子供と持つことのできた、その同質の関係は持てないだろう。その傷は残る。それは癒やされ得ない。

あまりにも死を恐れる人たちというのは、「生」をも恐れるようになる。そうして彼らは「物」を貯め込む。大きな宮殿、大きな車、何百万ドル、ルピー(インドの通貨)、あれやこれや、不死のものごと……。ルピーというのは薔薇よりずっと不死だ。彼らは薔薇などお構いなしで、ルピーばかりを貯め込みつづける。
ルピーはけっして死なない。それはほとんど不滅だと言ってもいい。しかし、薔薇となると……。朝、それは生きていたのに、夜までにはもうおしまいだ。彼らは薔薇を怖がるようになる。彼らはそれを見ようとしない。あるいは、ときとしてもし(薔薇がみたい)その欲望が起こってくると、彼らはプラスチックの造花を買い込む。造花ならいい。造花ならあなたは安心できる。それは不滅性という感覚(錯覚)を与えてくれるからだ。造花は、いつまでもいつまでもいつまでもそこに咲いていられる。

本物の薔薇……。朝、それはなんとも生き生きしている。夜までに、それは終わりだ。花びらは地面に落ちている。それはその同じ源に戻っている。大地からそれはやって来て、しばらくの間花開き、そして、その香りを存在全体に送り出す。そうして使命が果たされ、メッセージが渡されると、それは静かにふたたび大地に戻り、一滴の涙もなく、何のあがきもなく消え失せてゆく。
花から花びらが大地に落ちてゆくのを見たことがあるだろうか? どんなに美しく、優雅に落ちることか……。何の固執もない。ただの一瞬といえどもしがみつこうとなんかしない。一陣の風が吹いただけで、花全体が大地に落ち、源に帰ってゆく。

「死」を恐れる人間は、「生」をも恐れるだろう。「愛」をも恐れるだろう。なぜならば、「愛」とはひとつの花なのだから……。愛はルピーじゃない。生を恐れる人間は、「結婚」することはあるかもしれない。が、けっして「恋」には落ちまい。
結婚というのはルピーのようなものだ。恋はバラの花のようなものだ。それはそこにあるかもしれない。それはそこにないかもしれない。しかし、あなたはそれについて確信は持てない。それは何ひとつ法的な不滅性など持ってはいない。結婚というのは何かしがみつくことのできる(抱き柱のような)ものだ。それには証明書がついている。裁判所が後に控えている。その背後には警察や社長の圧力がかかつている。そして、もし何かがおかしくなったりすれば、彼らが全員駆けつけて来るに違いない。

ところが愛に関しては……。

バラにももちろん力はある。しかし、バラは警官じゃない。それは社長さんじゃない。パラの花には身を守ることなどできないのだ。
愛は・来てはまた去ってゆく。結婚はただただ来るだけだ。それは死んだ現象だ。それはひとつの制度にすぎない。

人々が「制度」の中で生きたがるというのはまったく信じ難いことだ。恐れて、死を恐れて、彼らはあらゆるところから「死の可能性」を一切締め出してしまっている。彼らは自分たちのまわりに、何もかも「そのまま続いて」ゆくのだという「ひとつの幻想」をつくり出している。何もかも「安全で、安定」している。この安全性の陰に隠れて、彼らは「ある種の安心感」を抱く。
だが、それは馬鹿げている。愚かしい。何も彼らを救えるものじゃない。死がやって来て、彼らの扉を叩けば、彼らは(そのまま)死んでしまうのだ。

「意識」というのは、二つの展望(ヴィジョン)を持つことができる。ひとつは「生を恐れる」こと。なぜならば、生を通じて死がやって来るからだ。もうひとつは、「死をもまた愛しはじめる」くらいに、「深く生を愛する」ことだ。なぜならば、「死は生の内奥無比なる核心」なのだから……。
最初の姿勢は「考える」(=思索する)ことから出て来る。
二番目の姿勢は「瞑想」から出て来る。
最初の姿勢は「過剰な思考」(=過剰な分別=マインドという騒がしい心)から来る。
二番目の姿勢は無思考のマインド、〈無心=ノーマインド〉から来る。
意識は、思考にまでおとしめられてしまうこともできる。反対に、思考はふたたび意識へと溶かし去られることもできる。

ちょっと厳冬の川を考えてごらん。氷が張りはじめて、水の一部分はいまや凍りついている。そうして、もっとひどい寒さがやって来て気温が零度を割ると、川全体が凍りついてしまう。もうそこには何の動きもない。何の流れもない。
意識というのはひとつの川、ひとつの流れだ。そこに「思考」=心」がはいり込めばはいり込むほど、その流れは凍ってしまう。もしそこに、あまりにもたくさんの思考(=分別)が、あまりにもたくさんの〃思考障害〃(=動揺、迷惑、邪推、疑心暗鬼)があったら、そこにはどんな「流れ」(静かな心=無心・虚心)の可能性もあり得ない。そうなったら、その「川」は完全に凍りついている。あなたは、もう死ん(だも同然)でいるのだ。

* ある大学教授にバグワンの話をすこししてみたとき、バグワンは全否定ではないかと案じられた。たちどころにわたしは結論を持ち出そうとは想わない。

「なぜ人は生きるのか」とか「生きている意味は何か」とかいう問いに対し、過去に地球上にあらわれた覚者は、その手の質問に対してみな「沈黙」で応えたとバグワンは云う。そもそもそのような問いにこそ意味はないか、誰にも答えられないと云うより答えるべきではないとバグワンはそこまで云う。そんなことで分別したり錯乱したりするのは無意味だと。今・此処に生きていることを大切に、そして大切な大切なことがある、それに気付くのだ、目覚めて知るのだと云う。
死を敵視してのたうちまわるのでなく、死を友として生を慈しみ生きよと。
そういうバグワンをわたしは全否定の人とは想いにくい。何が大事か。バグワンはそれを語り続けている。目覚めてしまえば大事なものなど、何もない。が、目覚めて気付く迄には何が大事かは在る。大事なのは「目覚めて気付く」ことだ。それまでは如何なる聖典も修業も役に立て得ようがない。だが、はっと目覚め気付いた瞬間から聖典と貴ばれるほどのものが、初めて自分は覚めたんだ、気付いたんだと正確に知らせてくれるとバグワンは云う。

どうすれば目が覚め、どうしたら気付けるのか、その方法論をバグワンは語っているだろうが、わたしはそのような「方法」を覚えたいとは今は想わないのである。ひたすら「聴く」だけでいる。聴いて待っている。

「間に合う」かどうかは知らない。だが、それより大事で大切なことが、少なくも自分に在るとは思っていない。わたしの腹心にいて一度も立ち去らなかった友である「死」に、わたしは静かに手を執らせていたい。現実にあれやこれや熱心にしている、つまり仕事も用事もいろんな営為はみな、だからこそ楽しめるし遊んでしまえる。それだけのもの、と、云うしかないからだ。
2005 1/1  湖・秦 恒平

* この翌年にわたしたちは愛する孫・やす香を肉腫という凶悪なガンに奪われた。
2010 8・18 107

* しばらくまた『一休道歌』上のバグワンに聴く。大事なことを聴かせてもらう。繰り返し読んでいて、知解はできていても、それは何の役にも立たぬ事、十分理解している。
物忘れのひどい哲学者の昔話、彼は寐るときに靴も履いたまま服も着たまま。物忘れがひどくて何処へ靴を脱いだか何処へ服をしまったか分からず、半日ムダにしてしまうので、と。実務家の友人が、なんでもない、服や靴にボクの服、ボクの靴などとラベルをつけておいて、ノートにどこで脱いだ、仕舞ったとメモしておけばいいと。哲学者はそうした、が、翌朝大混乱が起きた。彼は服や靴は見つけたが、最後に天を仰いで神に叫んだ、「私は今どこにいるのでしょう、それを書き留めて置くのを忘れました。ベッドに寐ていたはずなのにべっどは空っぽだ!」と。
怖い話だ、以下、とびとびにバグワンに聴く。

☆ バグワンに聴く。

作り話のようだが、そうではない。それはおまえの物語だ。あらゆる人の物語だ。人間の物語だ。
おまえ、自分は誰で、いったいどこにいるのか、本当に知っているのかね。
だが、おまえも、人もこの問いを問わない。この問いはひどい不安を生み出すからだ。おまえたちは避ける。避けたまま不安も捨てきれず暮らし続ける。

宗教は仏陀とともに人間指向になった。仏陀以前は神指向だった。だが、おまえ、どうやって神と関わるね? じつは誰一人神など知っては居ないし知りようもない、だから神なのだろう。なるほど聖職者はそれにいくらか投資しているかも。政治家も投資しているかも。だが、それはまったく実存的な問いではない。人間のもっとも渇望する問いには答えない。
実存的な問い、それは「私は、誰か?」だ。
仏陀とともに宗教は質を変えた。現実的になった。実用的にさえなった。仏陀は言った、神のことを気に掛ける必要はない、と。神のことは神に心配させておけばいい。
そもそも神はおまえが、人間が、創作したものだ。神とは、それは自分自身の覚醒を恐れて避けようとするおまえ達の最後の努力、つまり虚しい神頼みだ。おまえは架空の問題を次々と作り出す。架空の問題のすばらしい一点は、みな「解ける」ということ。簡単に解ける、自分にただ都合よく解けるということ。実際、問題そのものが架空なんだから、どんな偽りの回答でも役に立つ、その場限りのね。つまり病そのものがまやかしだ。しかしどんな擬薬でも夢うつつのおまえ達には役に立つように思える。はかない夢見心地なわけだよ。
おまえたちは偽りの問題に強い関心を寄せ、自分は偉大な探求者だと思いこむ。仏陀はおまえたちの軽率で軽薄なエゴを打ち砕く。神を求め、探求している気なら、おまえは自分を騙しているだけだと。
神は誰の問題でもない。
その要点を見抜くがいい。おまえ達は神を問題にすることで自分自身の問題を避けることが出来る。おまえたちは過剰に神に心を奪われる。そしてマインドという分別で考え始め、答えをかき集め始める。哲学的思索や推測を始める。彼らは教典の中に入り込み、言葉のジャングルに迷い込む。そのあげくおまえたちは、真におまえたち自身の課題であった、「私は誰か?」という単純な問いを忘れてしまう。
神とは、最大のおまえたちの「逃げ場」なんだな。そして無明長夜の夢からはいつまでたっても醒めず、何の安心もえずに死の近づく日々を只恐怖している。
2010 8・19 107

* それから昨日のバグワンの「神」の話だが。
わたしは神社ではなんの照れも躊躇もなく、鈴を鳴らし柏手を打って拝礼し、賽銭も惜しまない。傍へ寄れないときも遙拝して行く。そうして気持ちがよくて澄むなら、有り難いと思っている。
神秘とか神意とかはあり得ないことでないと思い、ただ、とらわれないことにしている。神のことはなにひとつ知らないし知りようがない。ただ信仰すれば好いというのも妙なものだと思っている。絶対に手の届かない或る何かとして、神は、人間が久しい歴史のなかで創作してきた自己暗示のアジール(逃避場所)なのであろうと思う。それで気が澄むなら、気は濁って動揺しているより澄んで静かな方が好い、「神」という思い込みがいくらか役立つなら役立てていけなくもないだろう、但し、言葉悪く謂えば、要するに一時凌ぎの誤魔化しである。初詣する大勢もみなそれは知っているのではないか。
根本はバグワンに聴く通りである。
2010 8・20 107

* バグワンに聴きながら、何と言っても難所は自身の内奥に入って行くこと。忘れ果てている物に気がつくということ。言葉は簡単だが凡俗には容易でない。
いつもいつも通っている道で、おまえはその其処にある木や草や花やものの色や匂いをもはや無視しきって忘れ果てている。人が大切な物を忘れて最早二度と気がつかないとは、大概そういうものだとバグワンは笑う。おまえの妻に、おまえの夫に、はじめて逢ったときめきを今や皆目忘れて互いに在れども無きに等しく日々を過ごしている、そのようにおまえは本来のおまえを自身の内奥に置き去りにしている、それだけのことだ。それだけのことを思い出し気づき直すことができたなら、あらゆる現世の不安も悩みも夢と消え失せて、思わずまたもとのように天真の歌声をとりもどす。それだけのことだが、誰にもそれが出来なくて、うろうろと生きている、と。

* 真実だと信じている。のに……
2010 8・26 107

☆ バグワンに聴く

おまえは、おまえ自身の惨めさが何に原因しているかを分かっていない。おまえの惨めさとはね、おまえが「自我」を創り出してしまったことだよ。創りださねば済まなかったのだ。
なぜならおまえは本当の自分を知らない、何百万の生を重ねてきて忘れはて、本当の自分を知らない、が、自分を知らず、自分抜きでおまえは生きていられない、此の世をまかり通れない。で、おまえは、真実とは何の関係もない「名乗り= somebody 小説家、大学教授、団体理事、賞の選者等々」をはじめ、偽った架空の、ないし意味のない自分自身を創り出した。何の実質もない架空の襤褸で身をくるみ始めた。ほんものはテンで見付からないものだから、世渡りの偽証明書然としてまやかしの自分を創って飾り立ててきたのが、おまえという「自分」さ。簡単なものだ、「代用品」の自分なんだ。
頼りなくてすぐ頽れ果てる自分だもの、必死で支え続けてないと目の前で跡形もなくなる。
だが、おまえ、覚えておくがいい。絶えず支えてなければ自立できないそんなものは偽物だよ。本物はひとりでに存続する。偽物ほど懸命に支えなきゃ保たないのだよ。懸命に支えてないと消え失せそうな、崩れそうなもの、要するにそんなものは偽物であるという証明さ。本物は立ち去らないし、どこへ行く必要もない。もともとその本物のおまえは、何万生もの昔からおまえの内奥に在り続けて、今も在り続けている、ただお前がとうの昔に慣れに慣れきって見失ったまま、見失ったとも気付いてないだけだ。無明の夢に酔いしれお前が寝ぼけていると謂うだけの話なのだ。
想って御覧、それはお前の支えなどちっとも必要としない、それどころか、実はそれがお前を根の所で支えているのだよ、今も。ツクリモノの偽の自我は、お前の頼りない支えを必要としているが、それ自体が「悪い夢」なんだよ。気がついたら、外へ、遠くへ探しに行くのでなく、自分自身の内奥の闇へ深く深く沈透(しず)いてほんとうの自分自身に手を触れに出掛けてみることだ。半歩も動きまわる必要はないのだよ。
2010 9・1 108

* 阿弥陀仏は何処においでかと問われ、阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」と称念する中におられると曽我量深という人は答えていると読んだ。如来は抽象的な存在でなく「南無阿弥陀仏」と称えるところに在ると。物のように在るのではなく、人間の精神の働き、早く謂えば信ずる心に有無をこえて在るというわけ。「南無阿弥陀仏」と如来の本願を信じて称名する、その「する」が即ち「在る」であり、信じない人には無いと。

* ハテ。見えざるもの、物として手に捉え目に捉えられないものを信ずるのは、迷信か。ここらのところが難所であり、信じられる人も信じられぬ人もいる。有り難い本願ではある、が、信じにくい。信じ切れない。それを信じることで安心のからくりに身をゆだねることは可能だし、易行と想われるが、なにかを捨てての一種の契約を交わす、取引をするのに似てくる。
救われるという意味で生死の安心は得られるけれど、無明長夜の夢さめて覚悟に到る道ではなく、そんな道も捨てる道のようである。
大経も観経も小経もとてもすばらしい、繰り返し繰り返し誦してきてそれは感じてきた。だが、その世界が一種架空の物語大世界であることも分からずにはおれない。ゴータマ・ブッダ釈迦の教えの中にすでにその物語が教えとして構想されていたどうか、それは想いにくい。歿後に相当の歳月を経て、より広大な大乗思想の揺籃から生まれた物語構想であり、むろん「信」「信仰」に最良の捨身をもとめるなら、最も優れた救済仏教であることはわたしもはっきり認めたい、ことに日本の法然に、親鸞に、一遍にいたってよほど独特の高次の信仰仏教として完成された気がはっきりしている。
頼れ、願え、信じるのだと。南無阿弥陀仏でよいのだ、如来の本願、大願はその六字に臨在している、と。
有り難い。

* それでも、だが待てよと佇む。わたしは佇んだまま、バグワンに聴くのである。
2010 9・2 108

☆ バグワンに聴く。
生はたしかに悲惨だ、生は苦悶だ。それを回避する安易な方法は、抽象概念のなかに逃げ込むこと、どこか夢の国へ入って行くこと。さて、それが何の役に立つことか。
わたしは、おまえが悲惨で苦悶の生に遭遇することを望む。なぜなら、その遭遇を通して超越への可能性が掴めるからだ。ところが、おまえは生に直面したがらない。お前は恐れている。怯えている。奥深いところでおまえは生が不安なのを知っている。そんな生に直面すれば不安に陥り心を乱されると知っている。生きられないだろうと恐れている。そうしておまえは生の前で立ちすくむ、恐怖で立ちすくむ、死をおそれて立ちすくむのだ、なぜなら、生とは死以外の何物でもないとおまえは感じているからだよ。

あらゆるものが瞬間ごとに死につつある。念々死去。だがあらゆるものが瞬間ごとに生まれている。念々新生。
仏教は、抽象概念に逃げ込んでも何の役にも立たないよと教えている。それよりも生の細目に進んで入ってゆき触れて行くことが真の助けになると。それは辛い。骨が折れる。勇気(ガッツ)が要る。だがね、それが生に直面する唯一の方法なんだからね。
仏教は言う、『ヴェーダ』や『ウパニシャッド』のことなど忘れるが好いと。気に掛けなくて好いと。自分自身の「生」にこわがらず入って
ゆけばことは足りると。読まれるべき唯一の聖典は「生」という書物だ。よく読んで聡明になるがいい、おまえ。  『一休道歌』より
2010 9・26 108

* バグワンに、わたしは聴いた。

☆ ひとつの欲望が挫折し始める前に、おまえはどこか住み処を得るために新しい欲望を造り始める、一つの希望が消えるとすぐさまおまえは別の希望を造り出す、あらゆるものが朽ち果て塵となり消滅すると知りながら。
生は、どこでもないところからどこでもないところへの旅だ、堂々めぐりの旅、夢の旅だ。
希望は地平線に似ている。向こうの向こうの何処かで起こっているかのように見えるだけ。それはおまえの観念のなかにしか存在しない。
生に完全に挫折することは智慧のはじまりだ。おまえは七十余年も生きてきた──その収穫は何かね? 自分の両手をのぞいてごらん。空っぽだ。アレクサンダーでも、やはり空手で逝ったんだ。彼はそれを人々に知らせなくてはと遺言した。
誰もがそのようにして死んで行く、が、そうなってから気付いても手遅れだ。生のただなかでそれに気付くことがなにより大事なんだ、そうなって初めておまえに根本的(ラディカル)な変化が可能になる。仏陀はわずか二十九歳でそれを自覚した。彼はサニヤシン(遊行僧)になったんだ。
サニヤスとは何か? <生>が流れるように過ぎて行く夢であることに、<生>のただなかで気付くことだ、わかるかね。

たびはたゞ うきものなるに ふる里の そら(空)にかへるを いとふはかなさ   一休禅師

* わかるかねと聞かれて、わかっている気はしている。ぼんやりとわかったまま、まだ深く夢見ているとも。
* 裁判のことも、娘たちとの紛糾のことも、その帰趨も、みーんな夢だとわかっていて、だがだから投げ出してしまうという夢の見方にも随わない。幸か不幸かふるさとの「空」に帰るのをわたしは少しも厭っていない。なるようになる、夢は覚める、そのときを待っているだけ。努力などしないのである。努力は夢の中にしか必要がない。錯覚する能力とは夢をみているだけの話で、幸福などというのは夢にしかなく、不幸とはつまり夢の意味なのであろう。
2010 10・6 109

☆  道はたゞ せけん世外のこと ともに
じひ しんじつの人にたづねよ   一休

* バグワンは云う、「ブッダたちの慈悲真実は、おまえを目覚めさせることにある、おまえに知識を授けることにはない」と。「おまえに光をともすことにある」と。

* 百丈禅師は「ブッダとは誰ですか」と或る僧に問われ、「おまえは誰だ」と答えた。
バグワンは云う、百丈は「答えているのではない、さらに深い問いを発して問い全体をまったく新しい次元に変えている」と。師は「ブッダとは釈迦だ」と答えても済んだが、それでは「要点をついていない」。
師は、ゴータマ・ブッダと呼ばれる特定の人物にも思想史にも関心を示さない。「彼は、すべての人に起こりうる或る目覚めのほうをより問題にする。それが真のブッダフッドだ」と。
百丈は問う者へ問いを投げ返す。問いの中から剣をつくり出して正に問う者の心臓を貫く。「もっと大事な問い一つを問え」と。「わたしは誰なのか」と。自分の外を捜し回る必要はない、と。「すべての人がブッダたる潜在力を備えているからだ」と。
「老子は、真理を見出すために部屋の外へ出て行く必要はない、扉をあける必要すらない、目をあける必要すらないと言う。」
バグワンも言う、「真理とはおまえの実存だからだ。それを知ることがブッダフッドだ」と。

* 行くのではない、帰るのだ。帰去来  帰りなんいざ、だ。
2010 10・9 108

* 全幅の敬愛をもってもう十数「「年読みついでいるバグワンの言葉を、いましもまた繰り返し読んでいる『ボーディダルマ』から、スワミ・アナンド・ソパン氏の訳を有難くかりて、少し書き写しておきたい。

* バグワン・シュリ・ラジニーシ(和尚)は語る。

おまえが世界のなかに見るものは、実在(リアリティ)ではなくて「現われ」にすぎない。見かけの形、仮面(ペルソナ)の奥深くには実在がある。実在を知るには、見かけの形から「自由」にならなければいけない。だが、執着のすべてがおまえを阻んでいる。おまえは仮面に執着してしまっている。おまえたちが成長し、成熟するのはまれなことだ。おまえたちはただ自分の玩具(おもちゃ)を取り替えつづけている。子供のままだ。おまえは自分の〝ぬいぐるみのクマ”(テイディ・ベア)を次から次へと取り替えている、今も。

鉄道の駅や空港で見かけたことがあるだろうが、小さな子供が汚いぬいぐるみのクマを引きずりまわしている。彼らはそれをどうしても手放せない。それがなかったら眠れない。ぬいぐるみのクマはらの仲間だ。らは大きくなるとぬいぐるみのクマは手放すが、ほかのぬいぐるみのクマが見つかってから初めて、それを手放す。次のぬいぐるみのクマがどんな形をしているかは問題でない……それは、例えば金銭だっていい。

おまえは醒めていないから、自分では気づいていないが、ちょっと目を向けてみなさい。なにが自分のぬいぐるみのクマなのか、見つけることができるだろう。
この世界のあらゆる形象は、おまえがこの世界の実相(リアリティ)、自らの存在の実相を知ることを妨げている。現われているものは実在(リアリティ)では、ない。実在は、現われの背後に隠されて、在る。この実在と調和しないかぎり、儚い頼りない「夢」と同じ素材からできたさまざまな形象は、絶えずおまえを苦しめつづけるだろう。誰もが苦悩や惨めさを感じているが、それを「落とす方法」があるようには思えないので、それを抱いたまま生きつづけている。

だが、ボーディダルマ(達磨)はその方法を教えている。そしてこれはあらゆる宗教にとって本質的な方法だ。それは離脱、「見せかけの形」から自由になることだ。

経文に言う。「離脱すなわち悟りであるのは、それが形象を無に帰するからだ」。
三つの悪しき境涯は、貪欲、怒り、妄想だ。
おまえは、これら三つの境涯をよく見守らねばならない。というのも、これらが光明(エンライトンメント=悟りへの至近状態)を得る上での三つのきつい障害になっているからだ。

ボーディダルマの言明はきわめて簡潔で、凝縮されている。彼は哲学的な議論には立ち入らない。彼はただ事実のみを語る。それが彼の美しさだ。彼は宗教全体を、その抜け出す方法を、ごくわずかの言葉に還元している。

貪欲とはおまえの攻撃性のことだ。
それは「さらに多くを求めつづける」欲望だ。
それはけっして止まることがない。その欲望はさらに多くを求めつづける。さらに多くを求めつづけるので、おまえはいつも惨めなままでいる。どんなものを持っていても、おまえはそれを楽しむことができない。「もっと多く」を持っていないからだ。だが
、おまえがもっと多くを持つようになる頃には、欲望は、さらにその先に行ってしまっている。それ(貪欲)はつねにおまえよりも先にあって、さらにさらに多くを求めつづている。

さあ、なにかを期待してばかりいる人が、幸福で喜びに満ちていられるだろうか? おまえはつねに現実の許す以上のものを期待している。いつも挫折の感覚がつきまとうのはそのためだ。おまえの存在のどこかにはつねに悲しみが潜んでいる。

貪欲とは〈存在〉に対する攻撃的な姿勢だ。おまえはできるだけ多くをつかみ取り、さらにさらに多くのものをつかみ取ろうとする。生涯を、全知性を、もっともっと多くをつかみ取ろうとすることに費やして、それがいったいなんになるのか? 死は一秒たりとも遅れては来ない。死はつねに正しいときにやって来る。つかみ取ったすべてのもの、生涯を費やしたすべてのものを、おまえはここに残して行かねばならない。

世間にはあらゆるたぐいの強欲な人々がいるし、自分の内側にもあらゆるたぐいの強欲さが見つかる。そしてこの強欲が満たされないとき、怒りが起こってくる。欲求不満が起こってくる。おまえは世間に対して怒りを覚え、自分に対しても怒りを覚える。誰に対しても怒りを抱くようになる。
どの年寄りにもそれを見ることができる。なぜ彼らはあんなにいらだっているのか? どうして彼らはあんなに鼻持ちならないのか? 彼らは欲求不満の人たちだ。彼らはその一生を、「もっともっと多く」をつかみ取ろうとすることに費やした。だが、その「もっと」に満足できたためしはなかった。いまや彼らは生に怒りすら感じている。ほんのちょっとの口実を見つけては怒りだす。強欲がその根本原因だ。強欲が満たされないとき、おまえは結果として怒りや失望、いらだちや挫折感を味わうだけになる。
そして怒りや失望や挫折感から第三のものが生じてくる――妄想だ。妄想は、ひとつの慰めになる。
妄想は、おまえ自身をなんとか「ひとつ」にとりまとめておく為のものだ。

誰もがなんらかのたぐいの妄想を抱いている。誰もが自分の実情とは違うものごとを考えている。だが、これらの妄想は潤滑剤としては役に立つ。おまえが、どうにか生きていくための助けになる。
それ(妄想)はたいへんな慰めだ。たとえ首相になることができなくても、少なくとも自分は首相だという妄想を生み出すことならできる。現実には大金持ちになれなくても、自分は大金持ちだと「信じる」ことならできる。自分の妄想を確固たるものにしてしまえば、誰ひとりそれを変えることはできない。

妄想は、おまえのなかにあまりにも深く定着してしまっている。人が妄想を抱くのは、休みなく失意のなかで生きることがきわめて難しくてイヤだからだ。おまえは自分が手に入れていないものを自分のものだと信じはじめる。だが……自分自身の心(マインド=分別・思考)のなかをのぞき込んで、どれほど多くのものが「たんなる妄想にすぎない」かを確かめてみるといい。

ボーディダルマは言う。
悪しきの三つの境涯は貪欲、怒り、妄想だ。三界を離れることは、この貪欲、怒り、妄想から退き、徳行、瞑想、智慧に立ち戻ることだ。
道徳性と瞑想と知恵は、実のところ三つの別々のものではない。ただ名前が三つあるにすぎない。
確実なのは「瞑想」だ。瞑想はおまえの生に一方では道徳性をもたらし、他方では知恵をもたらす。だが、直接、知恵を達成しようとしてもなにひとつできない。直接、道徳的になろうとしてもなにひとつやれない。
だが、瞑想についてなら何かすることができる。瞑想ならおまえでも直接「する」ことができる。道徳性と知恵の両方はその副産物として生ずる。おまえの行為には道徳性が備わり、知恵はおまえの英知(気づき)、最終的な光明=エンライトンメントとなる。

たしかに私(=バグワン)の見方からすれば、すべてはいずれ奪い去られてしまうものだ。それなら奪い去られてしまう前に、それを使い、費やし、楽しむほうがいい。なぜ死がそれをもぎ取ってゆくまで待っているのか?
宗教は、おまえの心臓の鼓動のようなものになるぺきだ。
瞑想は、おまえの呼吸のようなものになるべきだ。なにをやっているときでも、呼吸はかならずそこにある。それは遊離した行為ではない。そうなって初めておまえの存在のすみずみにまで瞑想性が染みわたる。

心は「空」と知ることが仏陀を知ることだ。十方の諸仏には心がない。心などないと知ることが仏陀を知ることだ。

これこそ正真正銘、ボーディダルマの言明だ。覚者(ブッダ)には心がない(無心がある=ハブ・ノー・マインド)。心など無いと知ることが仏陀を知ることだ。

* 心は諸悪の根源になりうる。無心=静かな心になれるかどうか、だと、わたし (秦) も思う。  2006 1・2
2010 10・11 109

* あけがた、妙な夢をみていた。弥栄中学でクラス会があり、果てたアト、わたしは翌朝に必要な外出の用をもっていたのに、誰かに強引に誘われてなんでも田舎の方の彼の家へ他の何人もと連れて行かれた。その彼が、時にあの自民党の竹下総理のようであったり、昔たしかにクラスにいた頑強な男のようであったりした。わたしは、なにかしらどうしても自分の手で用意しなければならぬ人への贈りものを創り出さねばならなかったが、それが半端なままで、明日の外出はそれを届けるのが要のようであった。悩ましく夢から醒め、床を出た。
不快でも不愉快でもないが、案じてハラハラしていた。揺すられていた。生きているという思い込みはこんな頼りない物や事や人とのまじわり、夢のようでなくて夢そのものだと思っている、今のわたしは。だが覚めたら其処はもう夢ではないのか夢の続きなのか、夢の続きであるに過ぎないとも思っている。歎いても仕方ない。
わたし待っているだけ、ほんとうに覚める機を。
2010 10・12 109

* それだけ長期間、聖書を読み続けていたのだから、キリスト教に惹かれたか。
福音書には流石に心惹かれること多かった。
だが、一方でわたしはバグワンに傾倒して聴いている。聖典や教典を読んでなにかが分かるには、わたしはまだまだ間があると理解している。そして聖典を「知識」を求めるように読む愚はよく分かっている。ひたすら、水を潜るようにしてわたしは読んできた。何を得たとも高言できない。それでいいし、読んできたのは良かったなと思う。
2010 10・25 109

* ポカンとしていられる幸せ。

☆ バグワンに聴く。  『一休道歌』より

生の神秘をいかに無くすか。それが<知識>の何たるかだ。知識は統制使用とする努力だ。知識は権力だ。あらゆる好奇心、知識へのあらゆる渇望は権力への欲望だ。
だが、知識なしで生きることのできるほど、喜んで生きることができるほどに、くつろいで、成熟した人がいる。彼は知ることを気に掛けない。彼は知や知識で生きることを条件づけたりしない。即ち──、わたしは先ず知ってから生きるつもりだ、知らなくてどうして生きられよう。愛さねばならないなら、先ず愛がどのようなモノであるかを知らねば。そうして初めてわたしは愛情深くなれる。楽しまねばならないなら、先ず楽しみとは何か知らねば。そうして初めてわたしは楽しめる──と。
愛が何かだと。そんなことを知らなくても現におまえは愛しているではないか。知識で愛しているのではない。そんな知識など持てばおまえは結局愛することができない。紙が愛を完全な神秘にしたのは幸いだ。生、存在、神、あるいは何と呼ぼうと、それは基本的に未知というだけでなく、知られ得ざるもの、知ろうとする努力全体が虚しい。だからそれは生であり存在であり神なのだ。
くつろいだ人は生きる。ただ、在る。くつろげない人は考える、いかに生きるべきか、いかに愛すべきか、いかに在るべきか、と。真にくつろいだ人は、知る事になど気を取られないので、もっと深く知る。それは知識ではない。体験だ。知ろう知ろうとするものは、決して知るに到らない。その努力自体が浅いエゴだ。
* 知識を与えようとする本は、本の半数にあたるだろう。それを咎めてはならない。読む側が、どう向き合って読んでいるかだ。
2010 10・26 109

* 本当にくつろいでいる人は、真理を、などとやかましく追いかけない。生の単純なものごとをただ楽しむ──朝食、シャワー、朝の散歩、未知でくすくす笑う子供達、犬、カラスの鳴き声──関心は「即今」「即時」に。是が、禅のアプローチ。それぞれの瞬間が大きな喜び、大きな輝き。ひとたび知識への渇望が落とされたら、あらゆるものが気高さとして見えてくる。真にくつろいでいる人は、何かに成ろうなどとしない。彼はすでに彼で在るのだから。

* バグワンは、笑う。

☆ 昔、美しい庭園の持ち主がいた。彼は、ある日、いっとう佳い実をついばむハチドリを罠でつかまえた。鳥はにがしてくれたら賢者の三つの智慧を教えると約束し、男は受け容れた。
ハチドリは教えた、「呼び戻せぬものを悔やむな。不可能なことを信じるな。得る望みのないものを追い求めるな」と。そして鳥は大笑いして「わたしを手放さなければ、レモンほどの真珠がわたしの中でみつかったのに」と。
男は真っ赤になって鳥を追った。鳥は高い枝にとびあがり男は追って追って折れた枝とともに地に落ちた。男が全身でいまいましがるとハチドリは嗤った、「呼び戻せぬものを悔やむなといっただろう。不可能なことを信じるなと云ったのに、こんな小さなからだにレモンのような真珠があるとおまえは信じた。得る望みのないものを追い求めるなと教えたのに、羽のある鳥を木に登ってつかまえようとおまえはした。おまえはバカだ」と。

* こんなふうにわたしは、いつもいつもバグワンに叱られ笑われている。
2010 10・29 109

* 「終着地とは、まさに源以外の何ものでもありえない」とは、バグワンの金言。
『一休道歌』の上巻を読み終えた。ゆっくりと月日をかけて読んだ。
青い鳥を尋ね歩いたチルチルとミチルとは、わが家に戻ってそれを見つけたと、小さいときに聞いた。聞いたその時のかすかなショックを忘れていない。
「自己の本性を見抜くとき、エゴは消失する。エゴと共に、傲慢と謙虚さ──その両方が消える」とも。云うべくして、しかし自己の本性はなかなか見抜けない、イヤ、見抜きたくなというい抵抗が自身にあり、エゴの最たる物はそれだと分かっている。分かっているぶん、始末に負えない。
「社会がブッダヤイエスを受け容れるのは、いつも彼らが死んだときか死んだあとだ。生きているときは、ブッダヤイエスは、どうしても拒絶されざるをえない。拒絶されなかったら、彼はブッダでもイエスでもない。」
「イエスを十字架にかけたのはユダヤ教徒ではない。それは──凡庸な精神(マインド)、怯え、恐怖のあまりリアリティーに直面することのできない精神、だ。」
しかし、バグワンは云う。
「すべての人が、爆発し、花開き、一輪のハスの花になる本来備わった可能性を秘めている。」
2010 11・20 110

ひとり来てひとりかへるも迷なり
きたらず去らぬ道ををしへん   一休道歌
死にはせぬどこへも行かぬこゝにゐる
たづねはするなものは言はぬぞ
なにごともみな偽の世なりけり
死ぬるといふもまことならねば
道はただせけん世外のことゝもに
慈悲真実の人にたづねよ

* 数学が真理なのでも、化学が真理なのでも、幾何の定理が真理なのでもない。真理を見出すべく部屋の外へ出て行く必要はない、ドアを明ける必要もない、目を明く必要すらないと老子は言う。「おまえの実存、それを知ることがブッダフッドだ」とバグワンは今日もわたしに話しかける。
2010 11・21 110

* バグワンは『一休道歌』下巻を読んでいるが、俄然、手きびしく暫し手が届かなくて閉口するが。胸に落ちると深く頷く。

☆  「子供は誕生するとき、これは死だと考える。当然だ。彼はすばらしく生きていたからだ。」「どの子供も、生涯を通じて、母の子宮に戻りたいと思っている。私たちは子宮の代用品を創りだす。」「毎夜の眠りのひとつひとつが子宮の再現だ。それは小さな死だ。朝、起きるのがとてもつらいのはそのためだ。」「誕生は死を生みだす。眠りのひとつひとつが小さな死だ。」「死は虚偽だ、誕生と同じように虚偽だ。おまえは誕生を超えている、死を超えている。おまえには形がない。それは体験して知るしかない。」「なにごともみな偽りの世なりけりしぬるといふもまことならねば」「もし誕生と死の観念を落とすことができたら、すべてのものが落とせる。」
2010 12・15 111

* さてさて、バグワンに聴いて、帰依したいと願う表白に、また、出逢った。『一休道歌』下巻に。
☆ 道はただせけん世外のことゝもに
じひしんじつの人にたづねよ
「だが、どうやってブッダを見つけだす? 二つの徴がある。一休は、真(まこと)と慈悲だと言う。彼の慈愛がおまえにその手がかりを与えるーー。彼の愛、彼のあふれんばかりの愛、まったく何の理由もないのに。」
「いいかね、真は深刻さを意味するのではない。それは深い信頼を言う。それは真正さを謂う。が、その人が真正で、信頼にたるか否かをどうやって判断するね? 憶えておかねばならないことはひとつ、真実は逆説的であるということだけだ。不真実のみが首尾一貫する。もし、ひじょうに首尾一貫した人を見つけたら、彼を避けなさい。なぜなら、それは彼がたんに哲学的に考えているにすぎないことを意味するからだ。彼はまだ何も体験していない。彼は真の人ではない。
真の人は、状況がいかにあれ、端的に言う人のことだーー。そのために自分が矛盾しようが、つじつまが合おうが合うまいが、彼に
とっては何の違いもない。
真実に対する禅の定義を憶えておきなさい。真実とは、その矛盾もまた真実であるということだ。ゆえに、真の人は逆説的であらざるをえない。そして、おまえたちが取り逃がすのはそこだ。逆説(パラドクス)に出くわすと、おまえはこう考える。「こいつは支離滅裂な男だ。彼が真実だなんてとんでもない」
おまえは、真実は首尾一貫したものでなければならないと考えている。それがブツダたちを見出すことを妨げている。そして、おまえは論理家、哲学者、思索家の罠に陥る。」
「ブッダは基本的に、根本的に、暗黙のうちにパラドクスだ。なぜなら、彼は真実を全一(トータル)に見るからだ。そして、(全一性=トータリティ)は逆説的だ。全一性は両方だ、夜と昼、愛と瞑想。全一性は両方だ、これとそれ、目に見えるもの、不可視なるものだ。全一性は誕生と死の両方であり、同時にそのどちらでもない。全一性とは、ものごと全体があまりに入り組んでいるので、それに関して首尾一貫した所説を述べることはできないという意味だ。おまえは自分に矛盾したことを言いつづけなければならない。
もし矛盾した人を見つけることができたら、おまえは了解 (りょうげ)した誰かの近くにいるのかもしれない。真実とは、その人の矛盾もまた真実ということだ。」

「パラドクスを通して真を探すがいい。彼(ブッダ)は誠実なあまり、矛盾することをも辞さない。彼は誠実なあまり、狂人と呼ばれることも辞さない。彼は誠実なあまり、おまえを論理によって説得しようとはしない。彼はセールスマンではない。彼はおまえを説得する気はない。彼は状況がいかにあれ、それを端的に語るーー。おまえが納得するかどうかは、おまえしだいだ。彼はおまえに何かを無理
強いする気は少しもない。彼は強要ではなく、手を貸す用意ができている。」

「そして、慈悲とは何か? それは哀れみではない。ブッダたちはおまえを哀れみはしない。哀れみはエゴから生まれるものだからだ。彼らは慈悲深い、彼らは慈愛に満ちているーー。その違いは大きい。」

「慈愛に満ちた人は結果のほうを見る。彼がどんな方便を用いるかは重要でない。彼はどんな方便でも使う用意があるーー。客観的な結果を見るがいい。慈愛に満ちた人は感傷的ではない、感情的ではない。」

「二種類の愛がある。ひとつは感傷的で感情的なもの。それは役に立たない。もうひとつは客観的な愛だ。それは助けになる。」

「慈悲の人に出会ったら、憶えておくがいい。彼のねらいはすべて、いかにおまえを目覚めさせるかにある。」「感傷的な者たちと、その感傷的なたわごとはいっさい役に立たない。」
「だから、いつであれ真(まこと)の人を、逆説の、真実の人、その全関心が真実に置かれている人を見つけることができたら……、たとえそのために矛盾しているように見えたとしても、彼はたじろがない。彼はたんにつじつまを合わせるためにその真実を変えたりしない。彼の全関心は人々を助けて、注意深く、そして醒めさせることだ。……ときに無慈悲な手法が必要とされても、彼にはそれを使う用意がある。それが「じひしんじつ」の人だ。
2010 12・23 111

* 「完全」にもいろいろあるから、わたしも「完全」を求めて頑張ったことが無くはない、例えば学校時代なら「100点」満点をめざした。あれには、では次は110点をということが無いから、「もっと」「もっと」という「悪しき完全の自己呪縛」には陥らなかった。
「もっと」「もっと」の「完全」を求め始めると、人はけっして満ち足りるに至らない。
そういう「上」や「先」の向き方は、人を貪欲にし、下品にし、神経症にしてしまう。バグワン流にいうと、「期待があるので絶えず比較し続け、絶えず物足りなさを感じ」てしまう。だからこそ進歩するのだと「社会のシステム」は盛んに人を煽るが、人は絶えず到達できない物足りなさだけを抱き込み、心身を奔命に疲れさせ、失望で縮んでゆく。
「いま・ここ」に立てず、「あす」にばかり生きようとする、それがすばらしいというモラルが普通出来ているが、「あすなろう」という思想は、カッコよげであっても、結局人を心身共に疲弊させてしまう。「あるがまま」に生きるのでなく、「斯く在れ」「そう成れ」と人にも強いられ自身も自分に強いる。人にまで強いる。だがそんな「完全」指向は、日光を負うて自分の影を踏もうとするように、永遠に逃げてゆく。途方もない失望が背中で重く重く膨らむ。だが、万人の大方全てがそういう社会や世間を「いいシステム」と錯覚していて、もしそんな世間で、日々「いま・ここ」にありのまま生きようとしたりすると、だれからも却って非難される。みながそれをナマケモノだと反対する。そのお蔭で世界はたいへんな苦しみを負うているとも気が付かずに。世の中の心身の問題の九九パーセントは、「完全でなければならない」という途方もない態度に起因しているとバグワンが云うていたのに、わたしは賛成する。こういう馬鹿馬鹿しさは落とさねばならない。「多くの病気は、もしこの「完全になるという馬鹿げた観念が消失すれば、自動的に消え失せる」というバグワンの曰くには意義がある。
不完全さこそものごとの在りようだし、美しさや、成長や、自然な流れの基底である。
2010 12・24 111

* 宗教的な人々は、黄金時代は過去にあったと云う。非宗教的な人々は黄金時代は未来に到来しつつあると云う。ひとりは過去について語り一人は未来について語る。しかし、どっちも同じ、どちらも「現在」を避けたいのだ。
しかしシンの精神性(スピリチュアリティ)は現在に始まり現在に尽きる。過去を持たない、未来も持たない。「いま・ここ」がすべてだ。 わたしがバグワンに最も多く深くを聴いて帰依するのは、ここだ。凍えるほど寒い自覚だが、過去は無く、未然未来ももとより無い、槍の穂先に立つ人生だが、覚悟に満ちればその槍の先の「いま・ここ」に世界が示現する。その世界を精神的に、肉体的に楽しくする、豊かにする。生きるとはそういうわたし自身の覚悟以外の何でもない。

* わたしの「いま・ここ」は、有り体に一言すれば「不愉快」に尽きている。だから執拗に腹痛も起きる。だからこそわたしが刻々に積み上げて行くのは「愉快」な豊かさ。幸せ。
生きているだから逃げては卑怯とぞ幸福を追わぬも卑怯の一つ   大島史洋
2010 12・29 111

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