* 「女文化」という三文字は、意外に思う人も多かろうが、わたしが『女文化の終焉』と題して十二世紀美術論を書いた以前には見当たらない。それはそれとして、わたしはこれを皮肉に定義し、「女の、女による、男のための文化」と解説してきた。源氏物語も枕草子もそうだと。
バグワンが、すこし以前のことになるが現代の「女性解放運動」をつかまえて、責任を持ちたくない「男性の企み」だと喝破していた。「これは巧妙な企みだ。男性は世界中の女性をそそのかし、女は自立しなければならないと言いくるめようとした」のだ、「今や、たくさんの女性がこの観念に毒されている」と。「男のずる賢さは実に巧妙だ。ときとして男は、女性が自分でそれをやっているのだと思い込むようなやり方でそれをものにする」とも。
謂えているのではないか。
2011 1/6 112
* バグワンに例により頭を垂れた。
わたしの気持ちは今落ち着いてはいないが、今朝のバグワンには立ち止まり聴かずにおれない。端的にバグワンは云う、われわれは何処に閉じこめられているのでもない、われわれのいる部屋(人生)に「錠などかかっていない。ドアは開いている。だが、おまえは錠を開ける方法や手段ばかりをしきりに考えている。ところがおまえの前に錠などかかっていないのだ。あくせくした思索をやめない限りおまえは真相に気付かない。感謝して引用を許して戴く。
☆ バグワンは云う。
人は束縛されていない。そう思っているだけだ。そう思うから現に束縛されているのだ。ブッタ゜とおまえの間に違いはない。しかしおまえは有ると思い込んでいる。そうなったら、 違いはある。
おまえは、自分の監獄、自分の錠を、自分でつくりだす。そうしておいて、そこから脱けだす方法を必死に考えている。
行くべきところはなく、為すべきこともない。おまえはすでにそこにいる。おまえはすでにそれだ。ちょっと目を開けるだけでいい。解答の出る可能性はない。そもそも、当の問題が存在しないからだ。
人は皆さまざまな哲学にひっかかっている。おまえは他ならぬ自分の答えにひっかかっている。だが哲学は不要だ。生は生それ自体で充分だ。それは推敲を必要としない。それは説明を必要としない。それは分析を必要ととしない。
もしおまえが分析ゲームの一部に成ってしまったら、それは延々と続く。問題はけっして解かれないがゆえに、解かれる問題などないがゆえに、おまえは答えを際限なく虚しく求め続けねばならなくなる。
わたしはおまえを大地に連れ戻す。わたしは言う。まず、錠がかけてあるかどうかを、扉に錠がついているかどうかを見るがいい、と。
錠などない。扉は開いている。誰がそれに錠などかける?
2011 1・8 112
* バグワンの『一休道歌』下巻(スワミ・アナンダ・モンジュ氏の訳)で、「音もなく香もなき人の心にてよべばこたふるぬしもぬすびと」というのに、躓いていた。つまり分からなかった。バグワンに聴いているうちに頷いた。
「一休が身をば身ほどに思はねば市も山家も同じ住家よ」が先行していて、これは分かる。分かると謂うよりも、納得している。人は「自身をどこかに置き去りにすることはできない。おまえはおまえについてゆく! おまえとはおまえの意識なのだ。」
すこし訳者にお願いして、先を読ませてもらおう。例によってわたしの願いから、「あなた」とある呼びかけは「おまえ」に替えさせて貰っている。
* わたしが此処で、とかく直哉だのバグワンだのと、自身の言葉でだけで思いを明かさないのは、わたし自身の不活発だということにもなるが、それは否認しないけれども、自身を開いてよりこころよく尊敬し傾聴に値する言葉に聴きたいからで、その紹介自体にわたしの今の思惟や感想が、あるいは悩みや苦しみが表れているからで、他意はない。願わくは引き合いにされる方々の寛恕を請いたい。
☆ バグワンに聴く 知らないに始まり知らないに終わる意味
一休は世間に住む。が、彼は肉体ではないし、肉体に閉じこめられてもいないので、自らの無限と不死を知っている。彼は自らの不生不滅を知っている。 彼は自らの大空のような本性を知っている。雲は来て去ってゆく。だが、大空には何ひとつ跡を残さない。
市も山家も同じ住家よ
おまえも、そうなったら違いはない。おまえはどこにでも住むことができる。ひとたびおまえが自然のなかにくつろいだら、ひとたびおまえが自分の自然な意識のなかにくつろいだら、ひとたびおまえが特別な誰かであろうとしなくなったら、おまえはどこにでも住むことができる。 おまえは行き着いた。
おまえの内なる意識には、匂いも、味も、音もない。それに触れることはできない。 それに気づきなさい。自然であることがそれに気づく最良の道だ。なぜなら、自然であることでおまえはくつろぎ、くつろぐと、おまえは自分が誰であるかを見ることができるからだ。
緊張して何かを追い求めていると、おまえはくつろぐことができず、 おまえの関心は、 自分がなりたいもののほうに置かれて その集中ゆえに、おまえは自分がすでにそれであるものを逃しつづける。
自然のなかにくつろぐことで、人は自らの実存に気づくようになる。
そして、おまえが「私は誰か~」を知るそのとき、自分はその問いに答えることができると思ってはならない。誰かが「あなたは誰か~」と尋ねても、それに答えることができるとは思わないことだ。
中国の武帝が、「あなたは誰か~」とボーディダルマに尋ねた。
するとボーディダルマは言った。
「知らない」
彼は知っている人だった。彼は知っているわずかな者たちのひとりだった。ところが彼は、「知らない」 と言った。
よべばこたふるぬしもぬすびと
なぜならそれはあまりにも広大で、知識の一部にはなりえないからだ。しかもそれは、いっさいの言葉が消えて初めて知られる。だから、それを表わすために言葉を使うのは盗人だということだ。それらの言葉は世間にあっては適切だが、その意識にあっては的は
ずれだ。それは彼方なるものを説明するために、世間から、こちらから盗んできた言葉だ。しかし、そんなことは不可能だ。
ありと言へばありとや人のおもふらん
こたへてもなき山彦の声
神と云われようと何と言われようと、山彦にすぎない。真実のものではない。 危ないのはそこだ。そうなったら、むりやりの信仰が創りだされる。そして、信仰のまわりに聖職者が現われ、寺院が建てられる。信仰のまわりに教会が創られ、信仰のまわりに政治が生まれる。
なしといへぼなしとや人のおもふらん
こたへもぞする山彦の声
「それは在る」と言うと、人々は、それは在るのだと信じはじめる。「それはない」 と言うと、人々は、それはないのだと信じはじめる。どちらも真実ではない。真実なるものは、肯定、否定いずれを通しても言いようのないものだからだ。どの言葉もそれを歪ませ、誤
って伝える。
ないと信じている。在ると信じている。 この世にはこうした二種類の人々がいる。「神は存在しない」と教えられると、だから「神は存在しない」と復唱する。「神は存在する」と教えられると、だから「神は存在する」と復唱する。違いがあると思うかね~ 表面上は大きな違いがあるように見える。一方は無神論者で、もう一方は有神論者だ。一方は信じるが、一方は信じない。だが、ほんとうに違いがあると思うかね~ 両者とも何かを教えられ、両者ともそれを信じて、ただ復唱してきた。
一九一七年のロシア革命以前には、人々はインド人たちと同じくらい宗教的だった。実際、ロシアは世界でもっとも宗教的な国のひとつだった。それがその後どうなっただろう~ 一〇年も経たないうちに、その宗教は、何世紀もの古さを誇るその宗教は、すべて蒸気のように消え失せた あたかもそれは一度も存在しなかったかのように。
何が起こったのだろう~ 権力の座にある人々が、「神は存在しない」と言いはじめたのだ。そして大衆はそれを復唱するだけだった。 これは何という種類の宗教なのだろう~
同じ事は中国でふたたび起こった。中国はひじょうに古い、おそらく最古の国のひとつだ。宗教-儒教、道教、仏教の最古の経典やもっとも長い伝統を有し、光明を得た偉大な人々を生みだし。それなのに、何が起こったのだろう~ 突然、『聖書』、『コーラン』、『ダンマパダ』、『ヴエーダ』、『道徳経』、『論語』のすべてー、そのすべてが消えた。そして人々は毛沢東が書いた小さな赤い本を持ち歩きはじめた。それが彼らの聖典になった。突然、神はもはや存在せず、魂はたんなるたわごと、瞑想は時間の無駄、祈りは馬鹿馬鹿しいものになった。寺院は倒され、僧院は消失し、数年のうちにあらゆるものが消えた。
もし権威があり権力を持った人々が神は存在しないと言いはじめたら、そして彼らがテレビやラジオを使って、大声で「神は存在しない」と言いはじめたら、人々はそれを復唱しはじめるだろう。人々はいつも復唱しつづけている。
一休は正しい、彼は言う。
ありと言へばありとや人のおもふらん
こたへてもなき山彦の声
誰かが、「それは在る」と言った。だが、ただのこだまにすぎない。こだまを信じてはならない。こだまはこだまだ。おまえたちの宗教は、まさにそれで成り立っている。自分自身を騙している。そういう欺瞞をすべて落としなさい。 神に向かう唯一の通は、体験によるものであり、信じることによるものではない。信じることで、おまえは取り逃がす。
復唱に過ぎない信仰を落としなさい。真実の人はそういう信仰を持っていない。賛成も反対もない。彼は、神はいるとは言えない
し、神はいないとも言えない。 知ることなしに、どうして 「神はいない」 と言えるだろう。知ることなしに、どうして 「神はいる」 と言えるだろう~ どちらも愚かな声明だ。おまえは、「私は知らない」としか言えない それが真正で真実で正直なことだ。「私は知らない」という、そこからおまえは深く自身の内奥を見始めよ。そしてその美しさを見るがいい。 そうなったら、どんどん深く進みはじめる。そして、いつの日か知るに至る。
「私は知らない」で始まり、「私は知らない」で終わる。だがそこにはたいへんな違いがある。始めにおまえが、「私は知らない」と言うとき、それは自分は知らないという事実の表明にすぎない。どうしておまえにイエスやノーが言えよう~ が、おまえが終焉し、「私は知らない」と言うとき、それは事実ではなく真実の表明だ。おまえはもう知っている。だが、たとえ何が知られたにせよ、それはあまりにも広大で、どの言葉もそれを収容できない。おまえの存在のみがそれを語りうる。おまえの臨在のみがそれを語りうる。
一休の道歌のようなものを読んだり、ボーディダルマの言葉を読んだり、私に耳を傾けたりするときは、つねに憶えておくがいい。私たちは、おまえが使うのと同じ言葉を使っているが、その意味は違うということだ。違いを知るために、おまえは注意深くしていなければならない。さもないと誤解が生まれる。
一休のような人たちは、同じ言葉を話すが、それでも彼らはおまえと単純に同じ言葉を話しているのではない。おまえは理解するために、とても辛抱強く、とても愛情豊かに、心を開き、共感に満ちていなければならない。そのとき初めて、これら一休の道歌はおまえの存在に意義を明かす。これらの道歌は、一度も閉じられたことのない扉を開けることができるのだ。
2011 1・16 112
* 『一休道歌』下巻よりバグワンに聴いている。「学ぶことと知識を集めることの違い」だ。何度も何度も何度も聴いてきたことだが、新鮮に、耳痛く聴く。
☆ 「学ぶことは絶対に知識ではない。学ぶとは知ることだ。知識は決して学ぶことではない。学んでいるふりだ。知識は見せかけ、借り物だ。 おまえは知っているつもりでいることを、いつも正確には知らない。」「学ぶとは独力で真実に遭遇することだ。知識は借り物だ。知識は何時も他者から来る。」「知識は情報の収集、蓄積だ。情報が誰かを何かを変容させることは絶対にない。」「おまえはそれらを本で読み人から聞くだけだ、それらはおまえの知識にはなる。とはとしておまえはそれでひとかどの口をきくことさえ出来る。」
「学ぶ人とは死ぬ用意の出来ている人のことだ。知識を追い求めているなら、おまえはいまも学生だ。学ぶ人であるなら、おまえは弟子だ。学生であるのはとても易しく、弟子であることは非常に難しい。そしておまえは、取り逃がし続けている。」
「ほんとうに真実を知りたいと願う人に求められる第一の誠実さは、<自分自身で知っているもの>と<ただ受け売りで知っているもの>をハッキリ見分けること、そして借り物は何であれ捨てるのだ! 自分自身で知らない限り、安らかには死ねない。」
* バグワンはこれを昭和五四(79)年より以前に話している。わたしが東工大教授に就任したのは平成三年(91)十月だ。
その当時のパソコンがどんなに未発達であったか、わたしは痛いような体験で証言できる。ところがバグワンは、なお十数年以前の『一休道歌』で、上を追いかけてパソコンについて口を利いている。先見性、予見力におどろかされる。
☆ <学ぶことと知識を集めることの遠いは何ですか~> 「その違いは大きい、この上もなく大きい。学ぶには勇気が必要だ。学ぶにはおまえの意識内の変容が必要だ。知識は何も必要としない、ごくわずかの記憶能力があればすむ。どんな凡庸な者でもそれくらいのことはできる。知識は知性を必要としない、記憶力だけでいい。学ぶには知性が必要だ。
そして、これらは違う二つのものだ。知性はおまえの魂の資質であり、記憶は頭脳のメカニズムにすぎない。記憶は生体コンピューターだ。コンピューターは、おまえの生体コンピューターが今日までやってきたことを、はるかにうまくやることができる。
みててごらん。遅かれ早かれ、人々は読書したり、大学へ行ったりするよりも、小さなコンピユ一夕ー(=ケイタイや、あれこれ)をポケットに入れて持ち歩くようになる。実際、大学は今ではすっかり時代遅れになっている。学校や大学に未来はない。コンピユーターがそれらを根こそぎにするだろう。
コンピューターを持ち歩く人は知識の人であり、自分自身の生の<体験>を持っている人は賢者だ。」
「いいかね、コンピユーターはおまえに情報を与えることはできるが、体験を与えることはできない。コンピューターに、「愛とは何か~」と尋ねることはできる。そしてコンピューターは、愛について語られたことすべてをおまえに伝えることができる。が、それでおまえが愛を体験するわけではない。体験は自分でするしかない。おまえは恋に落ちて、それを知らなければならない-。コンピューターがそれをおまえに与えることはできない。
コンピューターは、神に関するあらゆる情報をおまえに呉れることはできるだろう。だが神について知ることは、なんら神をしることではない。まったく違う。それは遭遇だ。それは個人的で、親密で、直接だ。
物知りは、たいていいつでも愚かな振舞いをする。彼はそうせずにはいられない。彼の知識が借りものだからだ。彼は知性的に振舞うことができない。神学者(バンディット)や学僧は、この世でいちばん愚かな人たちだ。
* わたしはバグワンに、それはちがいますと言えない。ちがうのとちがうやろかとも言えない。
2011 1・24 112
* 一休の道歌に、
ゆく水にかずかくよりもはかなきは
佛をたのむ人ののちの世
とある。この教えは大きい。深い。厳しい。
☆ バグワンに聴く。
仏陀のような人に誰も助けを求めることはできない、彼はたんなる臨在、扉だ。おまえはそれを通り抜けることはできる。それだけだ。
ブッダがおまえを助けようとしないのは、外側からおまえに付け加えられ与えられた総べては、おまえの永遠の本性にはなりえないからだ。仏陀のような人ですら、おまえに真理を与えることはできない。なぜなら、真理は与えられたり受け取られたりするものではないからだ。それはおまえの内に生まれる「体験」だ。覚者(ブッダ)とは、おまえがひとりでに真に花咲くことのできる機縁であり、 それ以外ではない。
真理のような、与えられたり伝えられたりする何かがあるとおまえが期待しているなら、まちがいだ。何もない。真理は伝えられない。それはただ湧き起こる。それは育って行く。花の香りのように育つ。そういう真の贈りものは、おまえの内部に生まれねばならない。おまえ自身の手で、おまえを通して生み出されねばならない。ブッダはあたかも助産婦のように、その生まれるのを、見ている。おまえには何の助けも必要でないと知って、黙って見ているのだ。おまえは「自由」なのだ。その意味に気付きなさい。おまえたち一人一人が真の創造者であるという根本の法則に気付きなさい。
一瞬といえども神がこの世界を創造したと考えてはならない。おまえがおまえの世界」 を造っているのだ。しかも「一つ」の世界があるのではない。人の数だけの世界がある。おまえはおまえの世界に生き、おまえの妻は彼女の世界に生きている。それゆえに衝突がいつもある。異なる二つの、いや数え切れない世界は堪えず衝突している。衝突せざるをえない。共に重なり合い干渉し合う。葛藤する。人は決して一つの世界に生きているのではない。ひとのかずだけ世界は有る。
そして覚者とは、その真実を、自分が自分の世界の創造者であるという真実を見抜き、しかもそれから退いた人のことだ。彼はもう創造しない。仏陀のような人は世界を持たずに、ここで、この世界で生きる。それがひとりの覚者であることの意味だ。彼はこの世界に生きる。が、彼にとって世界はない。彼はこの世界で生きる。が、世界は彼の中に無い。彼はもうどんな夢も投影しない。
仏陀のような人に近づくことは虚空に近づくことを意味する。それゆえの恐怖だ。人は怯える。仏陀のような人の眼をのぞき込めば、おまえはまったき虚空、深淵を感じる。そしておまえは、そのなかに落ちてしまったら、絶対に底に届かないかのように感じる。誰もいない。底なし。それは永遠の虚空だ──。人は落ちて落ちて落ちてゆく。人は消える。が、その底に届くことはけっしてない。
覚者( ブッダ) はおまえを助けない。なぜなら彼には、やまえの見る夢がわかるからだ。それはあたかもおまえが眠り込んでいて、ひじょうに危険な夢をみているようなものだ。トラがおまえの後をつけている。おまえは悲鳴をあげている。おまえは眠りながら、「助けてくれ′助けてくれ」と叫んでいる。そして、おまえのそばで誰かが目を覚まして坐っている。彼はどうすると思うかね~ 彼はおまえを助けるべきだと思うかね~ そうだとしたら、彼もおまえにひけをとらない馬鹿だ。そうだとしたら、彼はおまえと同じくらい、あるいはおまえ以上に眠りこけている。
彼は笑うだろう。彼はトラなどいないことを知っている。それはおまえの創作だ。それはおまえの創造(妄想)の産物だ。彼は大笑いするかもしれない。だが、おまえは苦しんでいる──おまえのトラは妄想にすぎないが、その瞬間、おまえの苦しみは真に迫っている。涙あふれ震え戦いている。
目を覚ましている人はどうすればいいのか。彼はトラからはおまえを救えない。トラなどそもそもいないからだ。だが彼は一つのことができる。彼はおまえを目覚めさせることはできる。
* 夢うつつの中でも知解はたやすい。だが、体験しなければ、目覚めを体験しなければ、意味無い。
わかったなどと云わない。なにも云わない。
2011 2・3 113
* バグワンは、「哲学は病気だ。魂の癌だ。ひとたび哲学のジャングルに迷い込んだら、人は言葉、概念、抽象概念にますますからめとられる。 哲学が完全に落とされない限り、人は真理が何であるかを、神がなにであるかを知ることはできない」と切言する。
こういうバ゛グワンの言説じたいも「哲学」ではないかと思いかつ言う人がいて不思議ではない、わたしはバグワンの講話に親しんでいるが、これが本当の哲学だといわれれば、肯う。
バグワンの否認している哲学とは、「哲学・学」とでも表記すべき「言葉、概念、抽象概念」の無意味に等しい「ジャングル」のことで、たとえばこんなふうに語られると例を挙げてバグワンは嗤う、わたしも同様の例なら山ほど積み上げて腹を抱えて笑う。
バグワンは言う、「哲学・学」は見せかけなので、ものものしい言葉を使う。美辞麗句を使いたがる。大げさな言葉を造り上げ、でっち上げると。わたしの耳まで痛いが、その通り、これはバグワンの笑いこける一例だ。
芸術評論家1 「私が思うに、抽象的デザインの新造形主義は、抽象の客観的概念への神秘的、形而上学的、非人間主義的アプローチであることは明らかだ」
芸術評論家2 「そのとおりだ! 君は要点をついている! 実際、ふと一瞥するだけでも、この絵画が偏執症的批評活動によって創りだされ、自発的でダイナミックな評判によってひき起こされ、ときには、立体派の手法で主観的な感覚を表現している超越的な非曲線と曲線からなる対象の絵画を創りだす、夢遊病的傾向を帯びた鳴鐘術者によってつくられたことは明らかだ」
芸術評論家3 「私は君たち二人にまったく同感だ──。それはつまらない絵だよ!」
つまらない一枚の繪のために 「哲学・学はこのようなものものしい言葉を創りだしつづける。けっして単純ではない、単純でありえない。単純である余裕がない。というのも、もし単純だったら、人々はそれが嘘に等しいと見抜くからだ」とバグワンは決めつける。ウソともわたしは決めつける哲学・ 学の優等生ではないが、たとえば現行の或る著名文庫版ハイデッガー『存在と時間』が、また日本のものなら余りに著名な『善の研究』が、まともな日本語で訳され書かれているか、と尋ねたい。芹沢光治良『死者との対話』で、今にも戦陣へ死ににゆく学徒兵たちが、涙ながらに情け無く役に立たぬと歎いた、口惜しがった「哲学」とはそんなモノでしかなかった。
2011 2・19 113
* 発送用意に「今日明日」が残ってくれた。今日はこれから出掛ける。明日はなお出来る限りのことに一日が使える。じつに苦しい日程であったが、間に合った。二月中にほぼ今年の第一冊が送りだせる。いつもなら四日掛けてする作業を一日でして、疲労と心労とで奥歯が浮き上がり、モノが噛めなくて、痛くて、閉口した。いまも腹のシクシク痛みはあるが、緊張と心労と、不快によることは分かっており、こういう日々はわたしに余命の在る限りつづくものと覚悟している。余の永かれとは祈らない、ただ気力在れと願う。そして無心に静かに成れるようにと。
娘の家に置いていったバグワンが、いまのわたしを導き癒やしてくれているとは。運命の面白さ、いやおかしさ、だ。呵々
2011 2・21 113
* 中世から近代へのカソリック教会の「魔」潰し「魔女狩り」の狂奔を知れば知るほど、仕組まれた信仰のあさましさを憐れまずにおれない。『もののけ』の深々とした興趣。一行のトバシもなしにわたしは夢中で朱の傍線を入れつづけている。そして、バグワンがそんなわたしの背を支えている。
2011 2・26 113
* バグワンの前に首を垂れる。
☆ バグワンに聴く 『一休道歌 下巻』より
おまえは、自分が正しい道の上にいることを自分自身と他人に納得させるために、あらゆる種類の証明を集めようとする。ひとたび自分は知っているという幻想がおまえに起こったら──それは哲学が与える幻想だ、自分は知っている、と ー そうなったら、その幻想を落とすことはひじょうに耐えがたい。なぜなら、そうなったらおまえはふたたび無知になる(=と錯覚して怯える)からだ。それは、私・バグワンと共にいようとするおまえにとって、もっともむずかしい(=したくない・失いたくない・しがみついていたい)ことのひとつなのだ。
おまえが私の所へやって来るとき、おまえは知識を(=結構そうに、しこたま)携えて来る。ところが私のもとでの努力全体は、おまえがその知識を落とす(=無に帰する)ことだ。笑止にもおまえは、(=抱きかかえた上に、なお)もう少し知識を得るためにここに来るのであって、自分が持っているものを落とすためではない。おまえは更にもう少し知識を蓄えたくて私に近づいてくる。おまえは、自分がすでに信じているものの論証をもう少し集めるために来る。ところが、私はおまえに、自分が知っているすべてを落としなさいと語っている。何故か。おまえは、ほんとうには何も知ってなどいないからだ。おまえの知っているそれは、ほこりにしているらしい知識は、要するに幻覚だからだ。おまえはただ、自分は知っているという観念をでっちあげている。そのとおりだ、そしてそれを落とすことはおまえには惜しくて痛くて勿体ないのだ。なぜなら、そうなったらおまえはふたたび無知になる(と怯える)からだ。
だが、観るがいい、そのおまえが自慢げに抱きつき抱きかかえている、それらを。なんと、いうことだ。あちらこちらからごく僅かの知識を、その断片を獲得するために、おまえはおまえの全生涯を費ってきた、費やしてきた。──学校、カレッジ、大学、そして聖職者や書物から──おまえは学習してきた、あなたは探求してきた。たいへんな努力を払って、おまえは断片をむやみと混ぜ合わせたような雑炊のような知識汁を脳に溜めてきた。そしておまえは、自分は究極の真理は知らないかもしれないが、真理に向かって進むことは充分に知っていると感じている。
そう誇らしく感じながら、おまえは私のもとへ来た。
私のもとへ来て、いま、おまえは衝撃を受けている。なぜなら、おまえが知っていることなどみな牛の糞にすぎないと私が繰り返し云うからだ。ただそれを落としなさい、と! そうだよ。おまえの神は虚構にすぎない。おまえの祈りは自分の恐怖に過ぎない。おまえの愛は自分の見せかけにすぎない。おまえは何から何まで偽物だ。おまえはたんなる虚構にすぎない。
このすべてを落としなさい。ふたたび真実の無知になりなさい。なぜなら、その無知からおまえは成長することができるからだ。
憶えておきなさい、知識と(知)は同義語ではない。(知)は実存的だ、知識はたんに理知的なだけだ。(知)は知性からのものだ、知識は記憶にすぎない──それは知性を必要としない。実際、知性を避けるために、人々は知識に耽溺するようになる──物知りになるなど安価なことだ。安価な物知りになれば成るほど、彼らは無用なものごとに興奮する。
* 知識はいらないとバグワンは言うていない。知識に溺れて、見失っていけないものを見失うな、目覚めよと声をかけてくれている。
* 知識は、自分という湖にいつもいつも溜まってくるヘドロのようなもの。このヘドロ、ときに甘くときに美味い。それで人は夢中にヘドロを溜め込みたがる。そして得意顔になってくる。純然と尊く湛えていた静かに無心な純真が知識という概念で強張ってくる。ああもったいないと想う。だが、当人は進歩だと想うらしい、じつは退歩のようだのに。
バグワンは言う。
☆ 露と消えまぼろしと覚ういなづまの
かげのごとくに身は思ふべし 一休禅師
すべてつかの間だ。わずかに一瞬のあいだ、朝霧のように、太陽が昇ると、それは消えてゆく。(おまえのことだよ。)
あるいは、雲のなかの稲妻───おまえの目にも止まらず、それは去ってゆく。すべてつかの間だ。(おまえのことだよ。)
とどまるものは何もない、あらゆるものが来ては消える。それだけではない──あらゆるものがその対極に変わる。( 善悪、美醜、正義不義、愛憎等々)
そうだ。これを見抜けば、執着するものは何もない。これを思いかつ見定めれば人は執着を離れるようになる。人は(おまえのことだよ。)一種の「手放し状態」に入りはじめる。人は何であれ起こることを許す。人は、それはそうあるべきだという強迫観念を持たない。人は存在に対して主張しない。人はただ信頼し、そして存在と共に流れる──それが人をどこへ連れてゆこうと、何が起こっていようと、あるいは何が起こることになっていようと。人は、あらかじめ決められた目的地を持たない。
佛とてほかにもとむるこゝろこそ
まよひの中のまよひなりける 一休禅師
これは最大の愚かしさだ、仏陀・ブッダを探し求めること。なぜなら、おまえはすでに「それ」だからだ。
2011 2・28 113
☆ バグワンに聴く。
世の中の生死の道につれはなし
たださびしくも独死独來 一休道歌
関係の世界にウチ耽り過ぎてはいけない。なぜなら、すべての関係は、人間関係であれ何の関係であれ、夢だから。自分は完全に独りだということを覚えていなさい。
* バグワンは厳しいが真実を思い出させてくれる、いつも。
* 悪魔論=デモノロギアの面白くもあり、世界史の理解に有意義であること、底知れない。わたしはそもそも西欧世界への視線は新制中学のころに学校で引率されて観た映画『ジャンヌ・ダルク』であるから、ハナから西欧の王制やカソリックの偽善的教権ないし強権に批判的なのである。
魔女狩りの歴史的な意義が知りたかったし、知る前から見当は付けていて見当はずれはなかったのである。山内昶さんの『もののけ』下巻は徹底的に異端=ウイッチ狩りの全容に近いものを展開解説してくれていて、肌に粟立ちながら、奮然とも唖然とも呆然ともしている。
無数の魔物やサタンを政策的に捏造製作した現況はカソリック教会であったと断定するよりない。その教義にも祭儀にもじつに露骨に魔の仕組みが忍び込ませてある。わがジャンヌ・ダルクがスケープゴートであったことは、歴然としていた。
もう暫くわたしは、西欧の暗黒史を目いっぱい覗き込ませてもらう。
バグワンもまた、実によく観ている。
2011 3・3 114
* 『一休道歌』のバグワンに、暫く、聴きたい。
☆ 自分自身の存在に見入る。それは何もせず静かにいるのと同じではない。依然、何かをしてるのだ。何かをするには努力が働き、努力を通しておまえはやはり緊張、期待、欲求不満を持つ。そして成功すれば自我にはたらき、失敗すれば欲求不満でまた苦しむ。何もしないことは文字手通り何もしないことだ。欲しがっていれば欲しがっているマインドが例の世界をもたらす。
何もしないことは欲しがらないことを意味している。どの方向へも向かわない、未来はなくこの瞬間だけがある。全ては沈黙している。それが人間の意識に起こりうるもっとも偉大なことだ。何かへ近づいていると傲ってはんにぬ。近さもまた限りなく距離なのだ。
精神的な人間は熱い水に似ている。量子的に跳躍する。内と外は消え残された分割は無い、心身なく、この世あの世がない。それがサマーディ、ニルヴァーナだ。
探求は、見出す道ではない。無探求。その瞬間がおまえが何もせずに静かに在る瞬間だ。すると、……春が来て、草はひとりでに萌えている。
2011 3・21 114
* 『一休道歌』のバグワンに、また、聴きたい。
☆ 神に向かう唯一の道は体験によるのであり、信じることによるのではない。信じることでおまえは取り逃がす。信仰を落としなさい。此の道だろうがあの道だろうが、だ。真実の人は信仰を持っていない。賛成も反対もない。彼は、神はいるとは言えないし、神はいないとも言えない。知ることなしにどうして「神はいない」「神はいる」と言えるかね。おまえに言えるのは「わたしは知らない」とだけだ。それが真正で真実で正直なことだ、「わたしは知らない」からしか、何も始まらない。おまえたちは、いつも入り口に立って取り逃がし続けている。
「わたしは知らない」で始まり、「わたしは知らない」で終わる。だがそこにはたいへんなちがいがある。初めに「知らない」と言うとき、それは自分は知らないという事実の表明だ。終焉にさいして「知らない」と言うとき、それは体験して知っていてもあまりに広大で、どんな言葉もそれを収容できない、ただおまえの存在と体験とだけが、おまえの臨在だけが、「知っている」と言えるのだ。
☆ 神を掴み取ろうなどとするのはやめなさい。神がおまえに入ってくるにまかせなさい。神を所有しようとしてはならない。神の探求などやめなさい。神を探し出そうと努力するそのことで、おまえは一つのことを見失うのだ、神はすでにおまえの内側にいるという真実を忘れて行くのだ。探求をやめてごらん。何もせず、 静かに座っていると、春が来て草はひとりでに萌え出ている。
2011 3・21 114
* バグワンにわたしが出逢ったのは、ホームページを開いた1998・平成十年より一年以前で、以来ほとんど一日も間をあけず読み暮らし、また書き暮らしてきた。こんど「生活と意見」として括っていたホームページの日録をやめたあとへ、十数年「バグワン」に触れて書いた記事を、談話風に取り纏めて行こうかと思いかけている。
わたしのバグワンへの思いが、日録を訪れて下さる方々にどれほどのものであったかは分からない。若い人にはバグワンはまだ早いかも知れないが。永い期間継続してバグワンとの思いを書き込み続けてきたわたしには、われ独りででも顧みておくに足る大きな体験であった。
* 万一にも娘・朝日子の目に触れる機会が有れば、なにかしら感慨が湧くことだろう。バグワンゆえにわたしは多くを支えられてきた。朝日子が手渡していった「一生の奇会」であったと、シドッチ神父を接見し訊問したときの新井白石の言葉を借りることも出来る。
* 今日も『一休道歌』から少しバグワンに聴きたい。
☆ 論理は人間が創った、世界の論証だ。論理は人間が実在を押さえつけようとする小さな知解だ。ところが実在は矛盾や神秘すら孕んで、とてつもなく大きい。大きな実在に近づくには小さな論理は落とさなければならない。
よく観るのだ、すべて小さな論理は、まるでものごとが分割され、完全に分割され、橋渡しが不可能なほど分割されているかのようにおまえを説得する。だが観るがいい、そうではなくすべての両極はともに結ばれ、橋渡しされている。たとえば誕生と死は同じ実在の二つの局面だ。安易に分割することで実在を限局してはならない。論理は分割する。そしてそれが上分別だと主張するが、だから間違えるのだ。愛は愛、憎しみは憎しみ、二つは出逢わないと謂うが、とんでもない、二つはいつも出逢っている。愛は憎しみ無しでは存在し得ない。憎しみは愛無しでは存在し得ない。論理は謂う、いつも愛しなさい憎んではいけないと。それは愛の虚構、憎しみの虚構を幻想しているだけだ。あげく愛は殺される。生は、実在は、愛は知っているが、そんな分割の論理など知らない。気付いてもいない。生は非論理だ。論理的なマインドが常に陥っている馬鹿馬鹿しさを見るがいい。
論理的な人は遅かれ早かれ、生は不条理だと言い始めるが、生が不条理なのではない、生に論理を押しつける、そういうおまえたちの努力が生を不条理に見せてしまうのだ。おまえのマインドはおまえの勝手な意味を生に押しつけようと躍起に働くが、生には何も押しつけられない。するとおまえは生は無意味な何かだと腹を立てる。
ところが鳥たちは生を無意味だと感じない。河も感じない。花も風も感じない。彼らが論理を持っていないからだ。すべてあるがまま、生と共に寛いでいる。
論理で生きている人は、じつは臆病なのだよ。論理はおまえを守るからね、だから恐怖はいつも論理と一緒にいたがる。
いつであれ、愛に似た何かがおまえのハートで動き始めると、論理から抜け出せる可能性がある。勇気が湧いてくる。
論理は果てしなく論議するが、愛は、生は、笑い出す。踊り出す。そういう生や愛にわたしは賛成だ。論理に反対はしないがね。
2011 3・23 114
☆ バグワンに聴く 『一休道歌』より。
仏陀のメッセージは、ひとつの言葉に凝縮できる。「自由」だ。絶対的で無条件の自由。外的な束縛からだけでなく、内的な束縛からも自由であること。他者からだけではなく、自分自身からも自由であること。
他の宗教も自由について語る。だが、それらは、仏陀がそれについて語った、あの透徹した意味を備えていない。他の宗教は、自己は自由でなければならないという意味で、自由について語る。仏陀は、それに対する新しい次元を携え、まったく逆の意味で語る。
仏陀は言う。「人は、自己そのものから自由でなければならない」と。自己からの自由こそが、眞の自由だ。
自己は束縛だ。おまえは、他者ゆえに束縛されているのではない。おまえは、おまえゆえに束縛されている。 おまえ″が消えないかぎり、束縛は続く。
憶えておきなさい、仏陀が自由について語るとき、政治家たち、僧侶や他の者たちによって語られるありふれた自由を意味しているのではない。
社会的、政治的自由とは、他のすべての人と同じよう行為し、服を着、稼ぎ、話し、買うかぎりにおいて、おまえは自由だということだ。ある条件のもとでだけ自由だ。だが、条件があまりに多いので、自由はまやかしであり続ける。
何であれ、おまえのなかで自然発生的に起こることが完全に許され、受け容れられないかぎり、おまえは眞に自由ではありえない。人間はプログラムされている、おまえには青写真が与えられている、何であるべきか、いかにあるべきか、何が受け容れられ、何が受け容れられないかが。そのプログラムは、おまえがそれらを意識したことがないほど、おまえの存在にあまりに深く埋め込まれている。それで、まるで、おまえが自由から行為しているかのように見える。おまえはこの上もなく騙されているに過ぎない。
おまえが、自分は自由から行為していると思っているときですら、自分は自分自身の良識から行為していると思っているときですら、実はそうではない。社会は、ひじょうに巧妙な方法でおまえを統制(コントロール)している。子供が誕生する瞬間、社会はその子をプログラムしはじめる。社会は、おまえをコンピューターのように扱う。おまえに食べ物を与え、プログラムしつづける。それは、おまえの脳に埋め込まれた電極に似ている。それはおまえを統制する。それがいわゆる「良識」の何たるかだ。
だが仏陀は、そういう機械的な良識には賛成しない、それどころか彼はおまえたちをそんな首輪のような良識から自由にする。たんに時代や県政の都合でプログラムされた良識から自由でいることは、政治、社会、宗教、道徳律から自由でいるということだ。仏陀が人間にもたらした、これが、尊厳というものだ。
物ごとに執着せざる心こそ
無想無心の無住なりけり 一休禅師
これが自由だ。ほんとうに生きている人は、ただ生き、流れ、呼応できて、敏感で、臨機応変だ。あるがままに生きる。彼は、そうだ、鏡に似ている。押しつけられて固執した固定観念を持っていない。出逢う物が何であれ、そのすべてを、その真実を、真の姿を無垢の鏡は映し出す。だが鏡は執着しない。画像にしがみつかない。執着してはいけない。
そうなのだ、そんな鏡の状態がおまえのブッダフッドだ。映し出す特性を絶えず新鮮に保ち、 若々しく保ち、純粋であり続けなさい。知りなさい、だが知識に囚われてはいけない。愛しなさい、だが欲望を創りだしてはいけない。生きなさい、その瞬間、その今・此処に身を委ねなさい。無意味に振り返ってはいけない。
そうなのだ、惨めさとは執着の影にほかならない。執着する人はそれゆえに澱んだ水たまりになる。悪臭を放つ。この世のものであれ、あの世のものであれ、何の違いもない、執着が問題だ。
2011 3・15 114
* バグワンも芭蕉も、わたしを励ましてくれる。
2011 3・16 114
* そして、バグワン。『一休道歌』の彼に聴こう。
☆ 覚めていなさい、そして聴きなさい。まさにあるがままのおまえで まさにあるがままのおまえで、おまえはブッダなのだ。おまえに付け加えなければならないものなど何も無い。これを認識するその日、おまえは驚くだろうよ、おまえは笑い始める。
* この、「おまえは思わず笑い始める」だろうというバグワンの言葉に、わたしは惹かれた。あ、となにかに気付いて笑い出していたという覚え、自分にも何度かはあったなと気付いた。笑い出すというのは、大きな或る証明なのだ、兆したのだ。
☆ ひとりの僧侶が、かつて、ある禅師に尋ねた。「犬には仏性があるでしょうか?」
彼は応えた。「そのとおりだ、ある」
僧侶はさらに尋ねた。「あなたには仏性がありますか?」
彼は応えた。「いいや、私にはない」
僧侶はさらに言った。「でも、私は、すべての人に仏性があると思っていました!」
師は応えた。「そのとおりだ。しかし、私はすべての人ではない! 実際、私は誰でもない人だ だとしたら、どうして私に仏性がありえよう」
むろん彼に、仏性はある。だが禅の人はこのようにして謎をかけ、自分自身を表現する。彼は要点をはっきりさせている。おまえの「誰でもなさ」のなかで、あるいは、おまえの「平凡さ」のなかで……そして、その平凡さは、おまえが、自分はひとりのブツタだという主張すらしないほどのものでなければならない。もしおまえが主張したら、おまえはブッダではない。だから彼は言う。「そのとおりだ、しかし、私はすべての人ではない。実際、私は誰でもない人だ どうして私がブッダありえよう」と。
ほんとうに知ると、人は主張しない。
2011 3・27 114
* このところバグワンに触れた仕事を熱心に楽しんでいる。時間を忘れます。
2011 4・1 115
☆ バグワンに聴く 『一休道歌』より
頭を脱け出して、ハートのなかに入りなさい。考えることを少なくし、もっと感じなさい。思考に愛着を持ちすぎてはならない。感情の中へもっと深く入ってゆきなさい。
ほんとうに覚醒したい者は感受性のあらゆるありようを学ぶ必要がある。もっと感じなさい。もっと触れなさい。もっと見なさい。もっと聴きなさい。もっと味わいなさい。
目覚めていたいと願うなら、おまえは感受性豊かでなければならない。おまえはすべての感覚が炎になるのを許さなければならない。そうなったらハートは生き始める。そうなったらハートのハスの花が開き、二度と混乱はない。
関係の世界にふけりすぎてはいけない。なぜなら、すべての関係は夢だからだ。自分は完全に独りだということを憶えておきなさい。
この生はほんの一夜の宿にすぎない。それに深入りしすぎてはいけない。宿サライで一夜を過ごすとき、おまえは巻き込まれない。
この生はまさに旅だ。この生は橋に過ぎない。それを通り過ぎるがいい。超然として、離れたままでいるがよい。
おまえが巻き込まれていなかったら、争いという問題、苦闘という問題はない。ひどくもがき苦しむのは巻き込まれた人達だ。朝になれば旅立たねばならないというのに。
もしそれと闘い始めたら、おまえはただ自分自身と闘っているだけで、他の誰とでもないのだ。もし生と格闘を始めたら、当然おまえは防禦してますます閉じて行く。そしておまえは結局打ち負かされる。
もし生と闘わなかったら、おまえは流れとともに浮かぶ、おまえは河とともに行く。おまえは下流に向かう。おまえはただ河とともに、いわば身を委ねている。これが信頼だ。これが明け渡しだ。帰依だ。
生と闘わなかったら、生は簡単にお前を助けてくれる。これが手放しだ。レット・ゴーだ。しがみつかずに生きること。喜びながら生きること。執着や所有欲に翻弄されてはいけない。
* わたしは叱られている。叱られて当たり前な、ダメな毎日だ。 2011 4・7 115
* しんからワクワクする嬉しい読書生活を満喫しているが、ことにこの数ヶ月は夢のようである。
只今、源氏物語は「賢木」というドラマに富んだ巻を通り過ぎようとしていて、裏打ちのように歴史物語の栄花物語が、ちょうど紫式部日記の冒頭と重なる、道長孫として皇子誕生の盛儀がきらびやかに書かれている。源氏物語の魅力汪溢を、栄花物語がしっかりと底支えしてくれている。
ゲーテの二つの名作を読み終え、トルストイは『復活』についで最高峰といいたい『アンナ・カレーニナ』が佳境を登り詰めている。志賀直哉全集二十巻をやがて読み終えようとし、谷崎潤一郎を『痴人の愛』『蓼食ふ虫』『盲目物語』『蘆刈』からいま『春琴抄』が、なんと豪華なこと、花満開のようにすばらしい。願わくは『吉野葛』も加えたかった。
そしてバグワンは、限りなくわたしに聴かせる、生のよろこびと、死の受け容れとを。
読書の中核が、こうも豊沃であることの幸福は、うるわしい日盛りに似ている。感謝に堪えない。
2011 4・9 115
* 永く、バグワン・シュリ・ラジニーシに聴いてきて、彼が言語説明において往々首尾一貫していないことに気付いて来た。但しわたしは、それに危惧して来なかった、それが当然で自然だと受け容れた。狡猾や卑劣で言を左右にするのは赦せない。しかし大勢の者に人間の生を語り不思議の機微にふれて語って、もし首尾一貫していたら気味がわるい。ニンを観て法を説くのは眞の高徳のそれこそがちからというもの。
* わたしは静かな気持ちでそれを聴くことが出来る、バグワンは平然とこう語っている。
「わたしには、まったく哲学がない。教義がない。信条がない。私の主張は哲学的でなく、詩的だ。おまえの目覚めを助ける方便に過ぎない。方便は相手により異なって当然で、おまえに使える方便が他の者にも有効だというわけに行かない。個対個でわたしは話している。」
「だからわたしは、 人だけでなく、ある日にはあることを言う。別の日は、別の日だ。おまえは特別な一貫性を見出さないだろう。わたしは過ぎた日々になどまったく縛られていない。いつもいつも過去とつじつまを合わせようとしている人間は死んでいる。わたしは生きている、明日何を言うかなど、わたしにも分からない。だからこそ、相当に知性的な人たちだけがわたしに近寄ってくるだけの勇気を奮い起こせる。そして一人一人が独自の方法でわたしの言うていることを理解しているのだ。そうあるべきだ。おまえだってそうじゃないか、おまえは<自分>が聴いたことしか理解できていないよ。」
「思いだしてごらん。仏教徒の教典はすべてと言えるほど「私は聞いた 如是我聞」で始まる。仏陀の偉大な弟子アーナンダがそれだ。<私は仏陀が何を仰ったかは知らない。私は、自分の聴いたことしか知らない。私は聴いたことを私なりにこう表現しているだけです>と彼は言う。おまえも。だからバグワンがこう言った、話したと云うのでなく、<私はこのように聴きました。そうであるかもしれないし、そうでないかもしれない>と。それだけが唯一の主張、正しい主張でありうる。」
だから、わたしはバグワンに尻を持ちこんだりしない。バグワンを論じる気も批評する気も紹介し解説する気も全然無い、ただバグワンに聴き入るだけのこと、聞いての先のことはわたしの問題で、問題が解けるという何の自負も自信も持たない。
2011 4・17 115
* 昨日遅くにも、機械のディスプレイに手を添えてあやうく顛倒を防ぐほどの地震が来た。首都圏直下型の強震到来を、もはや遠からずと地震学者がテレビで警告していた。冗談じゃない。
* 何が有れ、日々の「いま・ここ」を全うするのみ。仕事も用事も、また楽しみも。
春愁に似て非なるもの老愁は 登四郎
バグワンとともに在る日々を喜ぶ。
* バグワンに聴いていた。彼はこんな話をしてくれた。
☆ 寺院で行なわねばならない祈りや、ヒマラヤの洞窟でしか行なえない瞑想 - に大した価値はない。なぜなら、二四時間、それを行なうことはできないからだ。ヒマラヤの洞窟に住んでいる人でさえ、食べ物をもらいに行かなければならない、やって来る冬に備えて薪を集めなければならない、雨から身を守り、夜の野獣に備え、何か対策を講じなければならない。その洞窟のなかですら、彼は千
とひとつのことをやらなければならない。おまえは、二四時間、瞑想ばかりしてはいられない、それは不可能だ。
だが、仏陀はそれを可能にする。彼は言う。瞑想を、ふだんの生、常平生から切り離してはいけないと。ただただ覚めて、油断無く、注意深く、よく見守りながら、瞑想すればよい、寺院やヒマラヤへ逃げ込まなくていいのだ。
聴くがいい。
ある弟子が、師の一休禅師を訪ねてきた。その弟子はかなり修行を積んでいた。雨の日のことだ、彼はなかへ入るとき、履きものと傘を外に置いた。彼が挨拶をすますと、師は彼に、傘を、履きもののどちら側に置いたかと尋ねた。
なんという質問だろう……おまえは、師がこんな馬鹿げた質問をするとは思いもよらないだろう ー 神のこと、クンダリーニが昇ること、チャクラが開くこと、頭のなかに光が生じることを、師が尋ねるのならわかる。おまえたちはとかくこういう偉大なこと オカルト、秘教的なことがらについて尋ねたがる。
だが、一休さんはごくふつうのことを弟子に尋ねたんだ。キリスト教徒の聖者ならそんなことは尋ねなかっただろう。ジャイナ教徒の僧侶ならそんなことは尋ねなかっただろう。ヒンドゥー教徒のスワミならそんなことは尋ねなかっただろう。それは、真に覚者(ブッダ)と共に在る者、覚者の内に在る者--真に覚者である者にして初めて為しうることだ。一休さんは弟子に、傘を、履きもののどちら側に置いたかと尋ねた。
さあ、履きものや傘が、精神性とどんな関係があると言うのだろう ~ もしおまえが同じ質問をされたら、おまえは気分を害するだろう。おまえは、こんなトンチキな男が師であるはずがないと思うだろう。何という質問だろう ~ そのなかにどんな哲学がありうると言うのだろう?
だが、そのなかには測り知れない価値を持った何かがある。一休禅師が、神について、クンダリーニやチャクラについて弟子に尋ねていたら、それは愚にもつかず、まったく無意味なことだっただろう。だが、これには意味がある。その弟子は思いだせなかった、まったく、履きものをどこに脱ぎ、傘を右か左か、どちらの側に置いたか、誰がかまうだろう~ 誰が気にするね~ 誰が傘にそれほど注意を払う~ 誰が履きもののことを考える~ 誰がそこまで気を使う~
だが、それで充分だった。その弟子は師から拒絶された。師は言った。「では、行って、さらに七年瞑想するがいい」
「七年ですって」と弟子は言った、「こんな小さな落ち度のために~」
一休は言った。「これは小さな落ち度ではない。落ち度に大きいも小さいもない。おまえはまだ瞑想的に生きてはいない、それだけのことだ。戻って、さらに七年瞑想し、出直してこい」
これが仏教の本質的なメッセージだ。
注意深くありなさい、あらゆるものに対して注意深く。そして、どんなものごとも、これはつまらない、あれはたいそう精神的だというふうに区別し分別してはならない。それは、まったくおまえしだいだ。注意深く、心を配れば、あらゆるものが精神的になる。注意を怠り、心しなければ、あらゆるものが屑だ。
一休のようなマスターが自分の傘に触れると、その傘はこの上もなく神聖だ。が、たとえおまえが神に触れても、神はつまらないものになる。それはおまえの触れ方しだいだ。
* そしてバグワンに、さらにわたしは聴いた。
☆ 私たちの真の家は心( マインド) ではない。心は旅の宿にすぎない。夜の宿、一夜の宿にはふさわしい。が、憶えておきなさい、朝になれば私たちは行かねばならない。心はおまえの真の家ではない。心が創りだすのは夢だけだ。どうして夢がおまえの真の家でありえよう~ 心が創りだすのは欲望だけだ。欲望のなかで、どうして生きることができよう?
人々がやっていることはそれであり、彼らが苦しんでいるのはそのためだ。彼らは、欲望のなかで生きようとしている。彼らは、ありもしない夢のなかで生きようとしている。欲望とはまさにそれを謂う。彼らは、未来のなかで生きようとしている。未来のなかでどう生きることができよう 在るのは「いま・ここ」だけだ。唯一可能な生は、現在のなかにある。そして、心はけっして現在のなかにはない。それは、過去と未来とにしか無い。存在しないモノの中にしか住めないのだよ、マインドという心はね。
ちょっと自分の心マインドを見守れば、おまえは要点を見抜くだろう。
* 一休さんのはなし、胸に沁みた。
2011 4・20 115
* 一休の次の道歌を読んだ或る西洋の学者は、「病的」だと評し、バグワンは見当を失していると嗤っている。
春ごとに咲けるさくらを見るごとに
なほはかなしと身こそつらけれ
「病的」とは花散る苦痛に対して感傷に過ぎるという非難か。バグワンは代弁している、「これほどにも美しい生が、こうも脆いとは。これ程にも輝かしいのに、こうも儚いとは。これほどの美が、こうも短命だとは。これほどにも美しい人々が、大洋のさざ波にすぎないとは。たった今までここにありながら、去ってしまうとは。誰がこの痛みを避け得られるものか」と。「誰でもそれを感じるだろう、これが生きてある者の逃れられぬ苦痛だ」と。
☆ バグワンに聴く。(スワミ・アナンダ・モンジュさんの翻訳を拝借しています。)
一休の歌に何の「病的」があるものか。無い。ありえない。それが真実だ、むしろ「病的」と感じた者に恐れや臆病がある。彼は自分の女性を想ったのかも知れない、花のことを春のことを考えたのかも知れない、そして怖くなったのだろう。人はこの生の無常を見たくない。それどころか執着したい。なにもみな永続すると信じたい。だがおまえも知っている、誰もが知っている、この地上には永遠はありえない、と。おまえもよく知っているが、ところがおまえは自分が知っているとは知りたくない。おまえはそれを隠していたい。だが奇蹟はない。例外は無い。
だが、いいかね。この辛さはおまえを悲しませるものではないのだよ。この辛さは、おまえをもっと注意深くさせるために在る。矢がハートに深く刺さり、自分が傷ついて初めておまえは注意深くなる。いつもいつまでも生が気楽で、心地よくて便利なとき、誰がかまうかね、誰が真相にむかい注意深くなろうと気にかけるかね。友人が死ぬ、おまえ達の女性や男性がおまえを独りのこして去ってしまう。おまえは泣くだろう、だがね、その悲しみや辛さを活かすなら覚醒しうる機会だ、それが。矢は苦痛を与えるが、それは活かすことが出来る。
生は実際に惨めだ。仏陀はそれをおまえに気付かせる、そのほかの何を教えるわけでもないのだよ。
そうだよ、愛着が壊れるときは、当然、きつい痛みがある。おまえがそれを考えても考えなくても、春は去り櫻は散って行く。仏陀はこう言っているのだ、もしおまえがこの櫻の散って逝くものと本当に知ったならば、そのときおまえはけっして彼も散りもしないあの花に、櫻に到達する可能性がある、とね。来ては去る、咲いては散る花にのみ取り憑かれむなしく哀楽しているだけでは、花は、櫻は、永遠にただ流転するだけだ。
元の身はもとのところにかへるべし
いらぬ仏をたづねばしすな 一休禅師
「元の身」とは、どういう意味だろう。元の身とは、マインド= 分別心を持たない人のことだ。条件付けで生きていない人のことだ。自然な人間のことだ。おまえたちは、とかく条件付けしたがる。養成しようとし教化しようとし、その社会や政治体制に好都合な或るタイプの精神構造= マインド= 心を案出しては人に強いる。子供に強いる。ナントカ教徒に仕立てようとする。自然な人間はキリスト教徒でもヒンドゥ教徒でもない。ありえない。
元の身はもとのところへかへるべし
もとのところへ、本来の、本質の「いま・ここ」へ自然に帰る道が、そうだよ、「覚醒」「目覚め」「気付き」なのだ、無明長夜の「夢」から覚めるのだ。
*
* この、我が「HP日乗」を書き起こしたのは一九九八・平成十年三月下旬で、少し調子をつかんだ四月一日ころに初めてわたしはバグワン・シュリ・ラジニーシに触れて出逢いを書いた。以来足かけ十四年、バグワンに聴き続けているわたしを、辛抱のいいヤツじゃなと呆れている人もあろう。わたしは感謝し、満たされている。 2011 4・25 115
* バグワンと出逢って十四年。バグワンに聴いて聴いて聴いてきた。何を。
マインド=分別心を「落とし」て、「眼を覚ませ」。おまえとブッダとの違いは、それだけだ。ほかには何も無いと。
☆ 生は、あるがままで道だ。何か別の生を求めても無い、あるがままで、あるべきように「生」は在る。それを取り逃がしているなら、つまりおまえが深く眠りこけていることを示している、それだけのことだ。
目覚めなさい。そうすれば、すべてがあるべきようにある。おまえにはたった一つのことだけが必要なのだ、目覚めていること。罪人もいない、聖者もいない。眠りこけている大勢と、目覚めている少数とだけが存在している。それだけが、唯一のちがいだ。大勢が眠りこけていて、少数が目覚めている。ブッダとおまえとの違いは、それだけだ。ところがおまえは覚醒を望んだことがない。
「覚醒」こそ鍵だ。ブッダという言葉そのものが覚めている人、目覚めた人を意味している。さあ、この違いを見るがいい、他の宗教はおまえにこう言う、「善人になりなさい、道徳的になりなさい、聖人になりなさい」と。他の宗教は、おまえを非難する、「おまえはいまあるがままでは無価値だ」と。
仏教は非難しない、抑圧しない。抑圧して狂気や倒錯に追い込もうとしない。おまえの生は抑圧によって変容されたりしない。おまえが間違うのはおまえに罪があってではない、悪くてではない、目覚めないで、眠りこけているからだ。自分がブッダであることに気付いていないのだ。
仏教は言う。おまえの間違いは、罪は、一つしかない、おまえがそれを罪と呼びたければだが……、それは眠り、無覚醒だ。美徳は一つしかない、おまえが美徳と呼びたければだが……それは覚醒、目覚めだ。
どう目覚めるか、いつ目覚めるか、それはおまえの問題だ、わたしによく聴いて注意深ければ、「いま・ここ」にゆったり自然にあるがままであれば、目覚めるだろう、必ず。そして思わず笑い出すだろう。
* そして、ついにと言うか、わたしはすばらしい言葉を聴いた。それはもう明日にしよう、いや、このまま胸に抱いていようか。 2011 4・29 115
* バグワンは正当に「叛逆」という精神の姿勢を打ち出してきた覚者ブッダの一人であって、それはバグワンに出逢うよりずっと以前からのわたし自身の精神の姿勢に嬉しいことに線のそろうところが在った。枠組と管理との社会が精神の自由を侵してくる刷り込みの暴力に対する「叛逆」であり、「覚醒」である。
トルストイが『復活』や『アンナ・カレーニナ』の終幕のところでちからをこめて書いている、一種の解脱と内側へ開けて行く自然な自由精神、生活の「いま・ここ」に欣然と内応してよろこばしい精神状態は、必ずしもバグワンの禅とは輪郭を揃えるものではないけれど、じつに似てもいる。それでわたしはトルストイを信頼し喜び合うのだろうと思っている。
トルストイの「いま・ここ」とバグワンの「いま・ここ」とわたしの「いま・ここ」とは、当たり前のこと、「生活」的には全然重ならない。しかも重なり合う精神の波動があり、静謐と自然さへの帰依が感じられる。いや、彼らとくらべて遙かに遙かにわたし自身の遠く及ばぬ小ささを感じて恥ずかしいけれど、「通い合う」という喜びは与えて貰っている
2011 5・2 116
* とうどうバグワン『一休道歌』上下巻をまた何度目か、読了。しっかり聴いた。
谷崎潤一郎の『鍵』ももう十数頁で読み終える。たいした、たいした力作で感嘆のほか無い。世界中で、かかる抽象の極を爆走した奇異の「性」文学秀作は、例がないのでは。凄いとは、これではないか。追いかつ追い越さねばならぬのは、此の『鍵』ぞ。
2011 5・13 116
* バグワンは、またまたまた『存在の詩』へ戻って、聴いている。
2011 5・17 116
* バグワンはまた『存在の詩』へ戻って、一から耳に聴いている。他の本で十牛図や般若心経を語っているように、この本ではティロバというよほど大昔の覚者の詩を語ってくれている。何の予備知識もなく、何度も読んでいるとこの本がいちばん微妙に感じられる。さしあたり、こんなバグワンの言説から聴き入る。
☆ バグワンに聴く。 スワミ・ブレム・プラブッダさんの訳で。
語られることのできないもの_真理
それも弟子のためには語られなければならない
絶対に不可視であるところの
‘‘語られ得ざるもの”---
それも弟子のためには可視にされねばならない
それはマスターにかかっているばかりでなく
むしろもっと弟子のほうにかかっている
優れた弟子のナロパを見つけることのできたティロパは幸運だった
不幸にも
ナロパのような弟子を見つけ出せなかったマスターも何人かいる
そんなとき彼らが得たものはすべて
彼らとともに消え去ってしまった
それを受け取る者が誰もいなかったからだ
ときとしてマスターたちは
ひとりの弟子を見つけ出すのに何千里も旅してきた
ティロパ自身、ナロパを見つけ出すために
ひとりの弟子を見つけ出すためにインドからチベットまで歩いた
ティロパはインド中をさまよったあげく
そうした贈り物を受け取るだけの
そうした贈り物を味わうだけの
それを吸収し、それを通じて生まれ変わるだけの器を持った
ひとりの人間も見出すことができなかった
ひとたびその贈り物がナロパによって受け取られたとき
彼は完全に変身してしまったものだ
そのときティロパはナロパに
「さあ今度はお前が行って.
お前自身のナロパを見つけるのだ」と言ったと伝えられている
そしてナロパもまたそれに関しては幸運だった
彼はその名をマルパというひとりの弟子を見つけることができた
マルパもまたとても幸運で
その名をミラレバというひとりの弟子を見つけ出すことができた
しかしそこで流れはとだえた
もうそれ以上
それだけの偉大な度量を持った弟子はいなかったのだ
幾度となく
宗教がこの地上に現われ,そして消えて行った
幾度となく
それは現われ,消えて行くだろう
宗教というものは教会などにはなり得ない
宗教というものは宗派などにはなり得ない
宗教というものは個的なコミュニケーショソ
いや,個的なコミュニオンにかかっているのだ
ティロパの宗教はほんの四世代
ナロパからミラレバまでしか存在しなかった
その後それは消え失せてしまった
宗教はちょうどオアシスのようなものだ
砂漠は広大だ
ときとしてその砂漠のほんの一部分に
ひとつのオアシスが現われる
それがある間にそれを求めるがいい
それがそこにある間にそこで喉をうるおすのだ
それはとてもとても希有なことだ
イエスはくり返し彼の弟子に言った
「もうしばらくの間だけ私はここにいる
私がここにいる間に
お前たちは私を食べ,私を飲むのだ
この機会を逃してほならない」と
なぜならまた何千年もの間
イエスのような人間は現われないかもしれないからだ
* わたしは、だからバグワンに聴く。毎日毎夜、聴く。もう十四年。
2011 5・25 116
バグワンと私 上巻序 (「 湖(うみ)の本」 107 新刊)
この手記は、どこへどう到達するとも、到達すべしとも、筆者自身に分かっていない。ただ「途上の独白」というのがふさわしいか。何処への? 答えられない。静かな心への。死への。あるいは何かに「間に合いたい」と──毎日毎日、死ぬ日まで独白しつづけるだろう。
筆者は、偶然にバグワン・シュリ・ラジニーシの「本」に出逢っただけ、その生涯や実像にほとんど知識を持たないし、持ちたいとも想わず今日まで来た。その意味では、バグワンが語りまたひとに答えたとされているおよそ七、八種のいわば「講話」集だけにわたしは頼んでいるのだから、その編訳者たちへの真摯な信頼を措いてわたしは何一つバグワンに関して言えない。これほど不確かな、いいかげんなことは無いかも知れない。だが、言うまでもなくあらゆる聖典やバイブルに向かう今日の信仰者や帰依者も、実は同じであることをわたしは知っている。仏陀もイエスも自ら書いた何一つも残したわけでない。
わたしはわたしの思い一つで何人かの有り難い編訳者の誠実に信倚し、そうして聴いてきたバグワン・シュリ・ラジニーシの言葉を耳にし胸におさめ、そして能うかぎりわたしはわたしの「いわば世界史的な信頼」をバグワンに預けてきたのである。それだけを、まず、ここ冒頭にお断りしておきます。
平成二十三年四月 秦恒平
バグワンと私 下巻序 (「 湖(うみ)の本」 108 近刊)
初めてバグワンの本を読み始めたのは、平成九年であった。平成十年三月下旬になるまで、まだ、わたしはコンピュータにホームページを持っていなかった。この上下巻の手記は、その平成十年の四月一日から十八年末まで、ホームページ中の日録「宗遠日乗」より抄録したものである。日乗は、平成二十三年の今日もなお欠かさず書き継がれて、原稿用紙にして総量五万枚に余るだろう。「バグワンと私」ふうの独白は、そのうちほぼ二千枚に及んでいるだろうか。
言うまでもないが、こういう述懐とも対話とも謂えるものに一足飛びは在りえない。日を追い思いを追い、順々に、妙な物謂いをするが「順熟」して行くしかない。上巻の五年間と下巻の二年間とでは、バグワンへの接し方もかなり変わっている。
理解の及ばぬ事は沢山ある、だが、いずれは、いずれはと希望をもって踏みしめるように歩んできた。この十数年、病んだ老境をむしろ旺盛に生きてきたわたしの「希望」とは、そういうものだったし、まだまだ、いつもいつまでもタドタドしい独白は続く。
なにごとにせよ拒絶は容易いが、拒絶して得られるものは稀薄である。受け容れて受け容れて自問し自答し、未熟な咀嚼を繰り返し繰り返すうちに、なにかしら「変容」が起きている、そういう実感を、気恥ずかしく顔赧らめながら、有り難いと、嬉しいとも、思ってきた。まだ何の気配すら感じられていないけれど、静かに、わたしは「待って」いる。
平成二十三年 桜桃忌を待ちながら 秦恒平
2011 5・28 116
☆ 秦恒平先生
御無沙汰しております。本日、「湖の本107 バグワンと私─死の間近で─」を拝受しました。いつも有難うございます。
最初の文章でオウム真理教の名に言及がありましたが、私は個人的にオウムに非常な迷惑を蒙っております。
と言いますのも、当局がオウム関係者の家宅捜索をしたところ、幹部から平信者まで、何処にでも私の伝奇オカルト小説があったため、シンパではないかとか、ブレーンではないかと、疑われたからです。
版元に警察が探りを入れてきたり、私の仕事場に公安と名乗る男が訪れたり、一時は電話が明らかに盗聴されている様子で、ガリガリという回線異常に見舞われ、大変な目に遭いました。私がオカルト小説から離れたり、オカルト物を好む読者から遠ざかったのは、そのような理由からでした。
もともと大学で空海の言語哲学を学び、密教に興味を持ち、神秘的なことが好きで、海外の本を渉猟していたのですが、そうした熱と興味が一気に失せてしまいました。
三月十一日の地震の時は、先生はお怪我はありませんでしたか?
私は新宿で版元と打ち合わせしておりまして、すぐに編集と別れて、二女の職場に迎えに行き、無事を確認して一緒に新宿から池袋まで歩いて帰りました。
地震の後も余震が続き、「地震酔い」になりました。また、津波や原発事故の報道に暗澹とした気持に襲われて二ヶ月ほど何も書けない状態でした。そのため家計が大変なことになり、目下、少しずつ仕事復帰して、落ち込んだ部分を取り戻そうとしています。
今日会った雑誌の編集長によりますと、ミステリ作家が大変な影響を受け、特に殺人事件をゲームやパズルとして捉え、かつ描いていた作家ほどPTSDのような状態だそうです。
今回、多くの若手作家が人間の生死というものを鼻先に突きつけられた訳で、不謹慎な考えですが、今後五年以内に、かつてない哲学や、真の意味での文学が生まれてくるのかもしれませんね。
御本のお礼を、と思って、いつの間にか、とりとめのない文章になってしまいました。お詫びします。
今後とも宜しくお願いします。 拝 小説家
* オームは、まこと、むちゃくちゃであった。サリン事件など思い出してもムカムカする。愛なき、狂妄の徒輩であった。
* その一方で、近来天日に曝され続ける検察や警察の横道・無道は何ごとであるのか。
2011 5・30 116
☆ 『バグワンと私』を読みたいです。
初めまして、***といいます。
秦様の書かれた『バグワンと私』を読みたいのです。もしよろしければ、大丈夫かどうか返信してください。
これは自費出版なのでしょうか? もしそうなら、次メッセージを送る時、住所をお伝えします。お値段も教えてください。
* Re: 御返事ありがとうございました。 晃
それでは、『湖の本107 &108 』の『バグワンと私』を私に送って下るよう、お願いします。本が届きましたら、代金を振り込みます。
送り宛先をここに記します。(略)
それから、お返事の中に、この本はバグワンの研究でも伝記でも解説でも入門でもないとの事でした。しかし、私はむしろ、そのような文章こそが読みたいのです。彼を文献学的に、思想論的に、史的に分析した本ではなく、バクワンと触れ合った生の感情が描かれた文章を。ですから、その点は全く問題ありません。
* 有り難し。
☆ 秦 恒平様 靖
「湖の本 バグワンと私ー死の間近でー」を拝受しました。
バグワンは読んだことがありません。
バグワンの講話はヒンディ語や英語で行われ録音や録画もあるということですが。
今回の御本は、後世の文学史研究家に作家「秦恒平」に迫る一級の資料を自ら予め提供しておくということになるのでしょうね。
失礼な物言いでしたらご容赦ください。 5/31/2011 拝
☆ メールありがとうございます。 播磨の鳶
台風の被害こそありませんでしたが通過後も今日は一日中強風が吹いて、暗くなる頃漸く収まりました。
原発のその後の経緯、G8から戻った菅首相に不信任案提出や実にさまざまな動きがありますが、目離さず関心をもっています。それにしても政治不信を拭えません。
湖の本は一昨日届きました。バグワンの本はわたしも何冊か買い求めて読んでいますが、敢えてメールに考えを書いたことはありませんでした。今回の本の記述はとても読みやすく素直に滲み込んでくる感じがします。
本の半ば過ぎてからわたしの書いたメールが引用されていて驚きました。もう何年も前のことでうっすらとしたものが不意に飛び出してきたような戸惑いと懐かしさ、おかしさ・・でした。今も尚、わたしは大上段に構えて同じようなことを書くでしょうね。
「(各国への= )<旅>を忘れたような、鳶そのものを表現した清冽で物凄い」「私詩」を書きなさいと、実に厳しいことを鴉は言われます。「(旅の重視に=)偏って狭いものにしていないか、一度だけでも考えてみてください」とも。偏って狭い、それは実際のわたしの在り様だとも気づきます。
「逃亡」の一手段、一形態としての旅でないなどと弁解はしません。旅をテーマにしたものでないものもあるのですが、現段階ではまだまだ納得できていないのです。これまでのものを再検討したいと思います。「妄言」ありがたく受け止めます。
琵琶湖、お母様の、そしてあなた御自身がお母様の胎内に命を授かった土地の、根源の湖です。ゆったりゆっくり湖の畔に羽休め遊ばれることは深い計らいではないでしょうか。
多忙の日々、しょうがないと嘆かれ、同時に潔く闘われる鴉にエールを送ります。くれぐれもお体大事になさってください。
* 読者でマイミクのお一人が、山梨の文学館に転勤されている。まだ日は浅いが、どのような仕事でどのような今でまた今後か、知らせてきて下さった。山梨文学館とはご縁があり、交信も本のやりとりもある。講演に出向いたこともあり、よくしてもらった。いい職場での健闘と充実を祈ります。
* 下巻責了にした。六月十七日に出来てくる予定。間隔がつまっていて読者にはお気の毒なので、すでに今回第108巻ないしその先まで払い込まれている方、そして寄贈先をまず発送し、他の購読の方は、上巻送金頂いた方から、それでもしばらく間をあけて送本しようかなと思っている。
2011 5・31 116
☆ 究極の旅(十牛図) 川崎 e- OLD
不惑を過ぎて7年の晩秋に転勤で、金沢に住む。単身赴任であった。
文化、雪、百万石の城下町、室生犀星、「歌の分かれ」の中野重治、加賀宝生の能、当時の金沢駅の前に『杜若』を舞う像があった。
この頃に初めてバグワンという名前を本で知った。
ある新聞の小さなコラムで『存在の詩』を、どこかの大学の教授が紹介していた。
金沢から東京へ出張する社員へ、帰りに「八重洲ブックセンター」に寄り、「これこれの本があれば買って来て欲しい」と頼んで買ってもらた本が、『究極の旅』であった。
本の小さな副題は「禅の十牛図を語る」とありました。
これが バグワン・シュリ・ラジニーシという哲学者、宗教家との出会いでありました。
バグワンのあるご縁で、この「mixi」を紹介されて、十年ほどの時が流れ、今年五月、バグワンについてのマイミク「湖」さんの著書が送られてきた。
哲学は遊びがあるが、宗教は遊びを越えてあるものを幻想する。
バグワンは自分一人で読めない。「湖」さんはバグワンをどう読むかの先達であります。師のように思う。
バグワンはひとりでは読めない。多面体の光があってそのダイヤがわかる、バグワンはそんな宝ではないか。色んな先達の見た光を語り、凡人は少しづつバグワンの文章の一行を読めるようになる。そんな気がする。
* 死生を念頭に老境を、また壮年・中年を生き悩んでいる人は少ないだろうと思う。わたしもその一人であり、過去形ではとうてい言えない「いま・ここ」での寒さ・寂しさに真っ向突き当たっている。
2011 5・31 116
* 「バグワンと私」上は、何一つの下地もないままバグワンの境地に惹かれ寄っていったわたしの歳月が、その余のいろいろなわたし自身の下地とミックスされアマルガム化していく七年弱もの経緯が、歳月を追って書かれている。
下巻はつづく二年を書いていて、上下巻の頁数は同じ。いかに「順熟」して近づきもし深まりもして来たかが如実に。それだけでなく、今回はそこまで本に出来なかったもう五年間がなお後続していて、それは昨日、 今日から明日にも明後日にも続くのである。わたしの人生で既にそういう存在にバグワンが成っている、ということ。
☆ 『バグワンと私 死の間近で 上』が届き、意表をつかれました。立ち位置のぶれない信念の人秦さんが、「安心」を求める修羅の心を持っていらっしゃることに想像が及ばなかった不明のせいでしょうか。30年も前、同僚にアシュラムにも行ったラジニーシ師の信奉者がおり、よく話を聞かされたのですが、理解が届きませんでした。
これを機に読んでみようかと思い始めています。5月31日 元文藝誌編集長
* 期せずして、錚々たる元編集長から感想を頂いたのには、一つには作家である私の内面へまた別の角度から視線を射し込んで下さったのだと思われる。この刊行をあえて「 湖(うみ)の本」 創刊満二十五年の記念にと試みたわたしにも、「作家の告白」であり或る面では「作家の私小説」である意図があった。わたしの文学や美術や歴史やその他もろもろの分野に向けている視線や視野のいわば一つの根の深い光源をわれから「明かす」ことになる自覚があった。
なにを早合点したか、ある若い編集者は、自分は、秦さんの文学作品や文学論や美術観や歴史観等に「興味」があるので、「こういうもの」には関心がない、下巻は戴かなくてけっこうですと言ってきた。ちと、驚いた。
「興味」のいわば「根の秘密」が明かされて行くかも知れないのに。なにか特定宗教の宣伝物のように勘違いしたのか。その程度の粗末な眼力や関心から「編輯」「出版」に当たっているのでは、薄いなあ、という気がするが。
☆ 『湖の本』が無事届きました。
『湖の本107 &108 』を頼んだ***です。『湖の本 107 ―バグワンと私』が無事届きました。代金の2500円は、先ほど振り込んできました。ご確認ください。
面白い本で、今日の内に、ほとんど読んでしまいました。
年が進むごとに、御自身が変化していく様子を、読み進めるごとに感じました。バグワンの本を何度も読むことによる新たな発見、捉え方の変化。
バグワンとの付き合い方は本当に人それぞれで、それをこうやって覗いてみるのは興味深いものでもあり、また、もどかしさを感じてしまうものでもあります。小説の主人公の行動や心情描写を見ている時に起こるような。
でも、それは私のバグワンとの付き合い方を、他の人から見ても感じるものなのかもしれません。「湖」様も、この本のどこかでお話していた、個と個の向き合いの故に。 若い一読者
☆ 「 湖(うみ)の本」 感謝 小森健太朗
このたびは、「湖の本107 バグワンと私」をご恵贈いただきまして、まことにありがとうございます。かつて『存在の詩』や『究極の旅』に胸を踊らせながら読んだ日々が、また生き生きとよみがえってくるような、心にしみわたる内容でした。続巻にも期待します。
また、拙訳『人の子イエス』( みすず書房) についても、好意的なご感想どうもありがとうございます。
ジブラーンは、20世紀の屈指の美文・名文の書き手だと思うのですが、あの流麗な名文を日本語に移植するのは、なかなか手に負えるものではないと思いつつも、少しでもジブラーンの原著のもつみずみずしい宗教性のようなものが、日本の読者に届けられれば訳者としてこの上ない喜びです。( この文面は、ウェブページで引用してくださってもかまいません)
* 小森さんの存在自体が、わたしに、日録でのバグワン語りを保証して下さっているような勝手な思いのまま永く書きつづけ聴き続けて倦まなかったのであり、こういうかたちでお届けできたのを、こころより嬉しく感じている。
2011 6・2 117
* チェーホフの中期へ飛躍して行く最高傑作の長篇『曠野 ステップ』は、さながらの叙景詩のように進んで行く。眼も胸も存分に優しくひらかれて、自然との交歓は羨ましく深い。
そして、バグワンの『存在の詩』をゆっくり読んで行く。もう何度目だろう。
疑い──
信用──
みなヘッドトリップだ
ハートは信頼しか知らない
ハートはちようど小さな子供のようなものだ
幼な子は父親の手にすがり
父の行くところならどこにでもついて行く
信ずるでもなく、疑うでもなく──
「みこころのままに」とはこれだろう。あの大震災直後のテレビは、コマーシャルというでなく、繰り返し繰り返しそういう父や母の手をさぐりとる幼な子たちの姿をうつし、わたしはどんなに心を静かに嬉しくしたか知れない。わたしはそういう父でありたかったが、なれなかった。朝日子にも建日子にも気の毒だった。
2011 6・4 117
* 今度の本にも書いていたが、バグワンに教えられていちばん身に沁みたのは、「鏡のように」という譬えであった。鏡はみずから迎えに出てモノを写すのでなく、みずから追って行ってモノを写すのでもない。無垢の鏡は、来れば惜しみなくくま無く写し、去る影をけっして追って行って写そうなどしない。往来は世の常のこと。自然にまかせていれば、去来は無常のようでまた常を喪いはしない。
「京」が幸せに元気にしていて、すこしも変わらず「恒平さん」と呼びかけてくれるのをわたしは嬉しく嬉しく思う。いい日ではないか。最後かもなどと言わず、懐かしい日本に、東京や京都の花を観に何度でもご主人と訪れてくれるといい。
2011 6・5 117
* なににせよ幾たびを重ねても重ねても源氏物語名作の魅力は、文にも思想にも準拠の面白さにも汪溢して、まさに巻を擱く能わずとはこれである。
『人の子イエス』『冷血』そしてバグワンの『存在の詩』 すばらしい。
2011 6・7 117
* 犯すべからざる凡俗性の隠れ家である「批評」と書きながら、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』は、或る面で長大な「批評」の小説であり「批評」そのものに満ちあふれ過ぎているほど。しかし、目に耳にしかと残る批評にたしかに富んでいる。
「藝術とは、通りがかりのどんなつまらない人間でも手を出せばとどく、つまらない食い物ではない」など、そのまま志賀直哉の言葉のようだ。彼にしても同じだ、クリストフことロマン・ロランも同じだ、彼らは、創作者に、文学者にこう聞く、
「君は健康かね?」と。
真に「健康であること」がだいじだったのだ。
「詩人が病気にかかっているなら、彼はまずその病気を直すがいい。病気が直ったら、詩を書くがいい」とゲーテは言った。
そうは言わない優れた藝術家たちも、だが、実在した。
バグワンは、
言葉──
言葉はその根本的な本性からしてあまりにも死んでいて
何ひとつ生き生きとしたみまが語られ得ないほどだ
と言い切る。仏陀も達磨も老子も一休も。ハートとハートの出逢いだけ。あたかも<情事>だと言うのだ。<理窟>ではないのだ。
2011 6・8 117
* 「 湖(うみ)の本」 108『バグワンと私』下巻の刷り出しが届き、「あとがき」を読んでみた。一つの作としても成り立っている相当の長文だが、いまのわたしの思いをあまさず語り明かしている。創刊二十五年を記念する一文として大勢の方の胸に届いて欲しい。
2011 6・15 117
* いま一つ、北陸に住まわれる真宗に身を寄せた人の、長文の『バグワンと私』への感想文を頂戴したが、残念ながら180頁ある上巻の80頁まで読んだだけの感想なので、しかもバグワンについては何一つご存じないまま、アテズッポウに、バグワンの本は誰かの代作ではないか、バグワンは小乗に賊する仏教徒でしょうなど、かなり見当ちがいに断定的な言葉が並ぶので、残念ながら、どうしようもない。
批評してくださるなら、これは日を追い年を追い変容して行く内体験の日記であるだけに、せめて上巻をおしまいまで、ないし下巻を全部通読の上で批評して頂きたい。
* 明日一日、雨に降り籠められて休養。心配なのは明後日の新館の搬入が雨に濡れないかと。
2011 6・15 117
* バグワンは、いま、最初に帰ってまた『存在の詩』を読んでいる。「マハムドラーの詩」というティロパという覚者( ブッダ) の言葉を話材にしてある。
バグワンを「知らない」と言われる読者が圧倒的に多い。ましてティロパとなればなおさら。この人は世紀988-1069つまり清少納言や紫式部の生まれて活躍した頃のインドの人で、インドで眞に衣鉢をつぐ弟子をみつけられず、チベットに行ってようやくナロパという優れた弟子に逢い、この「マハムドラーの詩」を与えることが出来たという。ナロパも幸運にマルパという弟子を得た。マルパもまたミラレバという弟子を得た、が、不幸にしてミラレバは真実を伝えるに足る弟子をついにえることなく、ティロパの教えはこの四代を流れ流れて、砂漠の底へ消え失せたのである。
バグワンは、そんな彼らのいわば存在論を、じつに丁寧に説いてわたしたちに手渡してくれようとしている。他の講話で「十牛図」や「般若心経」を語るようにティロパの「マハムドラーの詩」を語ってくれている。おそらくわたしは、これを一等多く繰り返し聴いてきて、よほど血・肉に沁みているが、まだまだまだである。
* あすからの用に備えて、今夜は、バグワンにふれて此処には書かない。もうやすもう。
2011 6・16 117
* さ、八時半。前回は九時過ぎに本が届いている。機械を閉じる。
* 終日、荷造り発送の力仕事で、 晩の九時に一服。また明日のことに。
下巻も上巻と同じ、180頁。下巻では上巻にくらべ、直にバグワンの言葉を沢山、沢山聴いている。
バグワンがどんな人か、読者の九割以上もご存じない。わたしの十四五年以前と同じ地点におられる。それだけにわたしの言葉ばかりでは物足りなくなる筈だ、バグワンその人がどう「おまえ」に話しかけているのかを知りたい、聴いてみたいと。
しかしわたしは、ただの紹介目的ではバグワンの言葉を引いていない、徹して、わたしが強く惹かれて聴いたことを、もっと聴きたいことを、わがために書き留めている。それでこそ「バグワンと私」なのであるから。
2011 6・17 117
* バグワンの『存在( マハムドラー) の詩』は、ことに優れた一冊である。
一九九八年十一月二日午前三時「本書を、究極の旅=十牛図、般若心経に次いで、読誦し終えた。」と後ろの見開きに書き、さらに二◯◯六年六月五日、また「存在の詩」を、何度目か、読誦し始めると附記している。以来五年、さらに二度は読んでいて今又読み始めている。
バグワンに関してわたしは勉強したことがない。ただただ繰り返し読んでいるだけ。それで満たされている。
バグワンは早々に言い切る。
☆ バグワンに聴く 「存在の詩」提唱 スワミ・プレム・プラブッダさんの訳による。
「究極の体験」というものは全く体験なんかじゃない
肝心の体験者が消え失せてしまっているからだ
そこに体験者が存在しないとき
それについて何が語られ得るだろう?
誰がその体験を話して聞かせるのだろう?
主体が存在しないとき
そこには客体もまた存在しはしない
ふたつの堤は消え失せ
ただ体験という川だけが残る
そこに〈知〉はあろう
しかし〈知る者〉はない
* 容易ならぬ提唱であり、初めて声にして聴いたとき、わたしは半ば窒息した。しかも離れなかった。離れずに済んだ。
それはすべての神秘家たちにとって
ひとつの難問であり続けてきた
究極なるものにたどり着いても
彼らにはそれを後に続く者たちに語り聞かせることができない
彼らはそれを他人に
知的な理解を求める者たちに語り聞かせることができない
彼らはそれとひとつになったのであり
彼らの実存が丸ごとそれを語っているのにもかかわらず
知的なコミュニケーションだけは不可能なのだ
* 「彼ら」を釈迦と、ティロパと、覚者(ブッダ)たちと読んでいいはず。すると合点できる。「捻華微笑」を想う。
もしもおまえに受け容れる用意があれば
彼らはそれを与えることはできる
もしおまえのほうもまたそれを許すとしたら
彼らはおまえの中にそれを起こらしむることはできる
もしおまえに感受性がありオープンならば──
だが言葉は駄目だ
シンボル(=教典・聖典)も役に立たない
理論や教理など全くなんの用もなさない
* 「それ」とはブッダたちが手にした「究極の体験」の示唆のようなものか。
その体験は〈体験〉というよりも
むしろ〈体験すること〉と言ったほうが近い
それはプロセスなのだ
そしてそれは始まりはするが決して終わることのないものだ
おまえがその中にはいり込んでしまうことはあっても
おまえがそれをわがものにすることなどできはしない
それは一滴の水が海に落ちて行くのに似ている
あるいは海そのものが水滴の中に落ちて行くと言ってもいい
それはひとつの深い「合一」なのだ
「一体」性だ
おまえはその中に溶け去ってしまう
後には何も残らない
ひとつの足跡も──
そうしたらいったい誰がコミュニケートする?
誰が谷底のような世界に帰って来る?
誰がこの闇夜に戻って来ておまえに語りかける?
世界中のあらゆる神秘家たちが
コミュニケーションということに関する限り
常に無力を感じてきた
コミュニオン(交合)は可能だ
しかしコミュニケーションは駄目だ
まず第一にこのことが理解されなくてはならない
コミュニオンは全く別な次元に属する
ふたつのハートが出会う──
コミュニケーションは頭と頭,コミュニオンはハートとハートだ
コミュニオンはフィーリング、コミュニケーショソは知識だ
(コミュニケーションでは=)ただ言葉のみ与えられ 言葉のみ語られる
ただ言葉のみ受けとられ、そして理解される
言葉──
言葉はその根本的な本性からしてあまりにも死んでいて
それを通しては
何ひとつ生き生きとしたものが語られ得ないほどだ
あたり前の生活の中でさえ……
究極なるものはひとまず置いておこう
あたり前の経験においてさえ
おまえが絶頂の瞬間を
エクスタティックな瞬間を知ったとき
それを言葉で語ることは不可能ではないのか
* わたしがバグワンに聴いて、心底何を聴き取ろうとしているかは、『存在の詩』の此の冒頭の提唱でかなりハッキリしている。生意気をあえでいえば、わたしは異存微塵も無いのである。
2011 6・21 117
☆ バグワンに聴く 「存在の詩」提唱 スワミ・プレム・プラブッダさんの訳による
あたり前の生活の中でさえ
おまえは言葉というもののむなしさを感ずるだろう
それどころか,もしそのむなしさを感じないとしたら
それはおまえがいままで
全く生きてなどいなかったということを表わしている
いままでとても浅薄にしか生きてこなかったということだ
もし何であれおまえの生きてきたことが言葉で伝え得るとすれば
それはおまえが全く生きてなどこなかったという意味なのだ
何か言葉を越えたことが起こり始めたとき
そのときこそはじめて
生がおまえに起こり
生がおまえの扉を叩いたということになる
そして究極なるものがおまえの扉を叩くとき
おまえはまるで言葉など越え去ってしまうものだ
おまえは唖と化す
口をきくことなんかできはしない
ただの一語といえどもおまえの中に生じはしない
マハムドラーとは宇宙との全面的なオーガズムを意味する
もしおまえに誰かを愛したことがあり
ときとして溶け合い合一するのを感じたことがあったら
──二人はもう二人じゃない
からだは別々であっても
ふたりのからだの間の何かが橋を,黄金の橋を作り
内面に〈二〉は消え失せて
ひとつの生命エネルギーが両の極をふるわせる
もしもそれがおまえに起こったことがあったら
そのときにのみおまえにも
マハムドラーの何たるかを理解することができるだろう
それより何万倍も何憶倍も深く
何万倍も何億倍もハイなもの
それがマハムドラーだ
宇宙との全面的なオーガズムだ
それは存在の源への溶解だ
* とてつもなく難解なことが言われているとは思わぬ。類推し想像してなら察しられる体験が無いではない、いや、そこからそろそろとバグワンの示唆に聴き始めているのだ。そして真実聴きとるには──
いやそれはもう少し聴いてから手に触れたい。
2011 6・22 117
* そして、バグワン。
☆ 天候不順御自愛くださいませ。早速ながら今般も亦ご新著『バグワンと私』をご恵投被下、ありがたく頂戴いちしました。不勉強でバグワンという名を知りませんでした。御著を拝読して、私自身が求めていた世界だと気付かせていただきました。 教区の連続研修で、生と死のテーマが設けられ、三回ほど、先人に学ぶという副題で問題提起をすることになっています。そのためにもくりかえし精読させていただきます。ありがとうございました。御礼言上までにございます。合掌 浄土真宗寺ご住職 大学教授
* 宗敵を呪うほどに罵倒してきた同じ教学の人もいた。ひとはいろいろだが、わたしはいささかも宗論などしていない、教学に何の関心も好奇心もなく、ひたすら老いの日々を心静かに歩んで行きたい、どうしようととばかり思ってバグワンという人に聴いていた。それも本がいくらか手元にあるだけで、バグワンの実像など知らないし知ろうとも全然努めてこなかった。求道と言われては照れるしかない、精神衛生というぐらいが当たっていて、ただ言えるのはいささかも思いつきのでたらめでなく、十数年、 これから先もひたすらに本気なだけである。
わたしと同じようにある種の不安をもち安心を求めている人は多いのではないかと思っていたが、その辺は、どうも分からない。題をみただけで、なにかわたしに宣教姿勢でもあると感じた人もあるのかも知れない。「死の間近で」という副題を主題にすれば良かったかな。
☆ 秦 恒平 様 お元気にお過ごしのことと拝察します。
『湖の本』、引き続き御恵与いただきながら、このところまた御礼状を滞らせてしまいました。お詫び申します。
創刊満二十五年、長いご精進に敬意を表します。
バグワンという名前は、ここ数年、私の頑の隅にずっと横たわっていました。より正確に言うと、その名前も不確かなまま「アメリカ人だかインド人だかで、なかなかの思想家・宗教家が一人居るようだ。今は自分に時間がないが、いずれは、死ぬまでに一度向き合
って見ないといけない人物らしい」という印象で、自分の頭に残っていたのです。その人物が、果して御著の「バグワン」と一致するかどうかは、わかりませんが、どうもそのように思われるのです。
申し訳ないのですが、貴著「バグワン」の(上)もまだ拝読していません。勝手ながら、今無理に自分を集中させている、ある仕事があって、ちょっとそこから手が放せない段階に来ているものですから。それが一段落ついたところで、(上)(下)両方を通読させていただき、さらに出来れば「バグワン」も読んでみたい、と思っています。
今、たまたま開いた、108 集177 ページ「私語の刻」に、菅内閣支持のご意見を発見しました。まさに仰せの通り、「わが意を得たり」とはこのことです。周囲が何と言おうと、菅さんには、この先二年でも三年でも頑張り抜いてほしい。続ける理由はあっても辞めるべき理由など、どこにもないからです。
数年前のテレビ画面で、菅さんが事業現場の下っば役人を捕まえて居丈高に怒鳴りつけるのを見たことがありました。その時「あ、この男は所詮小物だ」と思い、以来その印象は私の中で拭えないものになりました。しかし、小物だとしても、今の時点では与党も野
党も協力して菅さんを盛り立て、災害からの復興を図るという以外に選択の余地はないのだと思います。自民党も、もし今、過去の原子力政策を反省し、小異を捨てて菅さんを支えれば、どんなにか党の支持者を増加できるであろうのに、そんなことさえ見えていない
、自民党、特に党首や幹事長はバカです。私は、菅さんが、ここで粘りに粘って復興への道筋をつけてくれるならば、その時はじめて彼は真の政治家として評価されていいのだと思っています。「小物」という私の印象もその時は消すことができるに違いありません。
私はこのように考えながらも、それを表明する手段を持たず、現状にただ嘆きと不満を募らせるばかりでした。
秦さんは、こうしてご意見を世に問う力を持っておられる。ぜひこの正論を広げてください。応援しています。
つい、政治談義になりました。今夜は、近くに残る田んぼと森で、蛍が舞うのを眺めました。 梅雨もそろそろ終わりでしょうか。 どうぞいい夏をお迎えください。 2011年6 月23日 明治大学名誉教授
* 心ゆき心励まされるお二人のお手紙、有り難し。
29011 6・25 117
* うまくは言い表せないが、へんな物言いになるが、わたしは、すこしずつどうかしてきているのではなかろうか。
☆ 創刊25年おめでとうございます。
気候の定まらない毎日ですが、いかがお過ごしでしょうか?
「湖の本」ありがとうございました。
創刊25周年 四半世紀を迎えられたこと、心よりお祝い申し上げます。
「バグワンと私」ゆっくりかみしめています。
マインドの塊に戻ってしまいそうな私を、少しずつ溶かしていきたいと思います。
どうぞ、お元気で 日々心静かにお過ごしくださいますようお祈りいたします。 さざなみ
* この久しい友である人もそうだが、同じように「バグワンと私」という述懐の可能な体験者であり、そういうめで観ると、ほかにも何人もがわたしと同じように書き表す資格をもっていると思う。ただ、残念というか仕方がないというか、わたしのように多年に亘り継続してバグワンに「聴きつづけ」た人たちではない。
とはいえそれもそれなりに「バグワンと私」体験はされてきた、わたしのはただ持続してきただけのこと。そしてその人たちの先のことは分からない。旺盛にバグワンと対話される人も出てこようか知れぬ。
つまり、わたしは、「バグワンを」書いたのではない、「私」の惑いや迷いや不安や喜びを、体験として書いたのである。なんらバグワン論でも解説でもなく、宗教論でも信仰告白でもなく、読者を誘導する目的など微塵もない。いわば正不正関係なしの「ひとり合点直前」の思いを、日記に書き留めただけである。所詮は「秦恒平が秦恒平を」書いたのである。
2011 6・26 117
* 『バグワンと私』を読んで下さったなかに、著しい一つの{読み過ぎ}がある。
わたしが、孫・やす香の酷い死に耐えかねてバグワンに縋った、少なくも向きあったと察している人たち。
ご親切ではあるが、これは全然違っている。
バグワンの境地に心惹かれて継続的に接し始めたのは、はっきり書いているように一九九七年、平成九年であり、その当時はまだやす香とわれわれ祖父母とは親交を取り戻せていなかった。全く没交渉のなかにあったし、やす香の両親と祖父母や叔父たちとの間には、不幸な没交渉という以外のなにごともまだ起きていなかった。
そしてその翌年三月下旬からわたしは、初めて機械環境の中に、ホームページ『作家・秦恒平の文学と生活』を起こし、その中で「作家・秦恒平の生活と意見」と題した「日乗」も書き起こした。ごく間もなく日付も確実、四月一日には、早くも「バグワンと私」の第一声を書き込んでいる。
やす香が大勢の声に危ぶまれた末にやっと入院し、当初白血病という診断違いが悪性の肉腫と改まったのが、二◯◯六年、平成十八年七夕の日であり、あつという間の同じ七月二十七日、逝去。
しかし、そういう歎きとは事実上無関係に「バグワンと私」の日々の思いは、遙かに早い時点からたどたどしくとも年々絶え間なく進んでいた。
今度の上下巻が、やす香の死と、またその後の醜い親族間の葛藤の起きた年の末で一応結ばれてあるのは、なによりも、上巻180頁、下巻も180頁でおさめたい編輯上の必然を践んだまでのこと。
やす香のための切なる「挽歌」なら、「孫娘の死を書いて実の娘に訴えられた太宰賞作家」という売りで週刊新潮が囃し立てた、『かくのごどき、死』(「 湖(うみ)の本エッセイ39」 )に尽きていて、それならばどなたでも、いつでも自由に読んで頂ける。
『バグワンと私』上下巻は、単純にいえば、秦恒平が秦恒平を書いたのである。ウソは少しも書いていない私小説ふうの、やはり「日記」に他ならない。「日記」と称して、後年に記憶を辿ってざっと造られた作は古典にも幾つもあるが、わたしのこの日記は、「日乗」本来の手順で、日一日を追って十数年來継続して書かれている。今も機械の中に保存され紛れもない事実である。
やす香の死に絡めてこれを読もうとされた人達は、年々日々の「日記」を小説かのように善意から読み替えられたということである。読者の自由であるが、事実を逸れている意味は小さくない。
* 上は、「日記」という現実に即した謂わば著者からの一言に終わっているが、もう一つ、この方は作のモチーフに直に触れつつ、かなりハッキリ予測していたこと。つまり、わたしのようにひ弱い者でなく、じつに精神の「強い」人が幾らも、とはいわないが何人もおられるということ。そういう人からすればこの『バグワンと私』はさながら泣き言にちかいのだろうなあと苦笑して予期していた、その通りの反響が、たぶんこの人からはと予想通りに届けられていて、実に刺激的であった。
何度も言うが、「バグワン」という人が分からないし、同じて行けない、思いが重ならないという人、そういう人にはわたしはお気の毒を強いている。バグワンに対しても義理はわるい。わたしはバグワンや彼の言説を読者に伝えようというより、ただ自身で翫味しようするにのみ急なのだから、或る意味で「バグワン」のためには半端な筆述に終わっている。わたし自身がまだまだ「途上の独白」中で、それが現実なのだから致し方がない。
* そんなとは違って、生きるの死ぬのなどに自分はいっこう顧慮がない、その意味では秦さんの苦しみも惑いも求めてるらしいことにも「関心がない」と言い切れる人達。わたしはそういう人達を、羨ましく感じるし、そして、ほんとうなの、とも驚かされる。
おそらく、この私の本が読んで下さる方に持ちかけている芯の問題とは、この辺に在るのだと思っていた。
その際に、わたしがビックリさせられるのは、そういう強い人が、「神」のことに触れられることである。
わたしは、このかなりの大冊の中で殆ど一度として「神」への望みや縋りを書いていないことを、言い切っておく。わたしは無神論者でも有神論者でもない。不思議とか神秘とかを否認したことはないだけで、「抱き柱は抱かない」と繰り返し言い切っていることは、たとえそれがどこまで実行できているかどうかの批評は別にすれば、わたしは、実は神も仏も求めていない、ただ「静かな心」じつはそんなものは存在するわけがなくて、言い替えれば「無心」という「安心」の域に自分がたどり着けるのだろうか、そのために無明の夢から覚める日を待っているだけだと言いたい。
それを「死へのおそれ」と言い替えられるだろうか。否定もしないが肯定もしない。ちょっと違うという感じがある。
またわたしが無宗教の逆の存在かと思われるのも、もし信仰という組織性との関わりを感じて言われているなら、見当が違っている。宗教性は幼來備えているとじかくしているが、いま、わたしは神仏にすこしも拘泥していないし信仰していない。むろんバグワンも祖師かのように信仰などしていない。
* それにしてもわたしの願っているのとあまり違わないらしい境地をすでに自分は得ている、ないし、そんなものは必要がないと言い切れるほどの人が、やはり存在するらしいのは、或る意味凄いことだ。
2011 6・27 117
☆ 秦 恒平 様
ご無沙汰しております。ココです。
急に暑くなったり、涼しくなったり 今年は、日々気温の差が激しい年のようです。
お変わりございませんか。
梅雨の季節、少し気持ちがホッとするのは 鉢植えの紫陽花が、例年よりきれいに咲いてくれたことです。
確か、紫陽花には裏年と表年があると聞いた気がします。
「バグワンと私」 上巻 を 昨夜一気に読みました。
特に ここ2年ほど、「心」に翻弄され続けていた自分が自覚できました。
吐き出すことの出来ない憎しみや哀しみ、沸々と沸いてくる怒り
どうすれば 執着せずに穏やかにいられるのか
「瀞笑生逝(しずかに笑って生き逝きたい)」と願っているのに
いつも荒々しい自分を少々持て余していました。
昨夜 漠然と「この本に何か」を感じました。
(頁を開くまで「バグワン」が何か一切わかりませんでした。)
そして、読みながら、今までの自分を少し冷静に省みることができました。
今の素直な気持ちを言いたくてメールしました。
取りとめも無いことで すみません。
これからが夏本番 、水分補給を忘れず くれぐれもご自愛ください。
ありがとうございました。 千葉 ココ
* ああこういう読者がいてくれると、少し硬くなった肩の荷がかるくなる。こういう人がたくさんこの世間にはいると想っていた、まして今日只今の此処・日本には。
* 懸命に「小説」のための作業に打ち込んでいた。その間は、よろこばしく気が晴れているのに何度も気付いていた。そうしてて過ごそう、この六月を、七月を。「瀞笑生逝(しずかに笑って生き逝きたい)」という言葉、知らなかった。
2011 6・27 117
* 晩、思い立ってキアヌ・リーブスとキャリー・アン・モスの映画「マトリックス」を見始めた。「バグワンと私」を本にした今、この映画は向こう側からわたしの気持ちを探索し解き明かしてくる可能性をもっている。
これは、「真に目覚める」ことで「マトリックス」という電子化された仮構の「現実」から脱出し、かつ機械的幻影世界と死闘をくりひろげる映画だ。
自分が生きて暮らしている現実が、じつは危ない「 幻影の夢」ではないかと感じかけている者は、目覚めたい、脱却したいと思っている。そのための「何か」を「待って」いる。
現実と思われている二十世紀社会でサラリーマンであり天才的なハッカーでもある「アンダーソン」または「ネオ」と呼ばれるキアヌの演じる青年は、たしかに、この現実社会・世界が、巨大な「電子的仮構つまり幻影・夢」であることに気付いて、覚めたいと思っている。そして機会あって、ついに「仮構の現実マトリックス世界」から脱出する。モーフイス、またトリニティなどと呼ばれる脱出を手伝った者達は、この「ネオ」と呼ばれる青年を、偽りの世界から真の世界への「救世主」として待望していたのだ。
この映画は三部もあって、長い。高度にサイエンスフィクションでありながら、宗教性というフィロソフィーを内包している。基督教が下敷きのようであり、仏教的でもある。ル・グゥインの『ゲド戦記』の思想や思索とも通い、バグワンの講話とも通底するものを濃く持っている。それで、わたしは、大事に思う印象的な映画の五指の中に、「マトリックス」をいつも入れているのだ。
* 第一部を見終えた。不思議なしかも烈しい映画だが、壮絶な「神話」の趣でわれわれの「現実」を根底から批評的に覆し、真実人間として生きようといかに自覚的でありたいかを此の「マトリックス」は憎いほどシャープに描いて感動させる。自覚の真は、また芯は「愛」である。そういうところにも人の子イエスやゲドや、またバグワンに聴いてきたことが生き生き甦る。二部も三部も期待に背かぬはずだ。
* 六月がついに終わる。
2011 6・28 117
* 『バグワンと私』が読者のもとへ届き始めて十日、創刊二十五年というのも加わって、たくさん声が届いてくる。感謝。
「この不思議な本をよくぞ『紹介』して下さった、という思いで、折々にも読ませて頂きます。鬱陶しい日々、どうぞお元気に、とお祈り申し上げます。 文藝誌編集者」
「25年初期の頃から拝読させて頂き年を重ねて来ました。ありがとう御座いました。 豊島区」
「創刊時の想いを持ち続けられて、ずっと書き続けてこられたこと、本当にすばらしいことです。先生のこのエネルギー、ものすごいですね。御自愛くださいませ。 静岡市」
「うーんと思って拝読中、まだ上巻です! あっというまに 年金を頂く歳とはなりました…… 京都市」
「湖(うみ)の本 満25年 まことにおめでとうございます。途方もない営為と存じます。そして、「 湖(うみ)の本」 と先生に出会った幸いを、ありがたきことと感謝申し上げております。今後とも このまま遙か彼方まで歩んでゆかれますように。 神戸市」
☆ hatak さん 酒少々
昨日上海から戻りました。
魯迅公園、ここはかつて日本人租界があったところらしいのですが、広い公園を見渡す芸術館の茶室で、五十名の方々に濃茶を練ってきました。茶室は、おそらく日本の大工さんが建てたものと思われ、中で茶を点てている間、ここがどこかをすっかり忘れていました。四席が終わり、道具を片付けはじめて、中国で茶会をしていたのだと思い出しました。
中国の人は抹茶は飲みませんが、ウーロン茶、緑茶はよく飲みます。ここ数年は、コーヒーの消費も激増していて、喫茶の風習は日本同様定着しています。予想通り濃茶という飲み物に対しても、全く抵抗はないようでした。これまで、世界中のいろいろなところでお茶を振る舞ってきましたが、こんなに抵抗なく濃茶を飲んでもらった国は、濃いマテ茶を飲む習慣のあるアルゼンチンだけでした。
次は炉の時期に、できれば口切りを、などという話がもう来ています。
紹興酒1本だけですが、買うことができました。乗り継ぎに降りたセントレアでお送りしましたので、少しですがご賞味ください。トランクの中で割れることを防ぐために、一度箱を開け詰め物をしてきましたので、箱が開いていますが、ご容赦ください。
お送り頂いた『バグワンと私』お礼も差し上げず、失礼しております。バグワンという人を全く知らずに、闇に言い置く秦さんの引用と述懐を長らく読んでおりましたので、私にとってはバグワンの言葉というより秦さんの言葉として聞いてきております。すんなりと耳に入ります。
今週末からは、ベルギーです。体が保ってくれるよう無理はせず、とは思うのですが、国際学会の前は、寝る時間が無くなります。前回イタリア・ドイツのように、旅先で寝込まないよう、注意して行ってきます。
「すこしずつどうかしてきているのではなかろうか。」を大いに案じております。加えて今年の猛暑。くれぐれもお大切に。 maokat
* 古越龍山 20年 そしてお茶のお便り、感謝し、愉快に拝見。どんなお茶碗で濃茶をねったのだろう。一碗十二人ほどでのみまわしたのか。かなり力わざ。
上海では魯迅や孫文のゆかりを井上靖ら一行と訪れた記憶がまだ濃く残っている。北京や西安や杭州、蘇州とちがい、とにかくも都市としての上海は、二度訪れたが印象がキワだって他と「べつもの」だった。
2011 6・29 117
* もうよほど昔のはなしになるが、こんな意味の批評をメールで受けたことがある。
秦さんは、深い愛情なり友情なりを示して来る相手よりも、ごく平凡に情の薄い人間のほうを気安く受け入れるタチではないですかと。ほんとうに愛してくれる相手を深いところで拒むところがないかと。自身の聖域に立ち入らせないということか、幼くして両親と別れたので、人に愛されることに馴れていないのではないかと見えると。愛されることをどこか恐れているみたいだと。
親が自分を愛するのは当然だと信じきっている人のほうが、愛するのも愛されるのも自由にできるが、秦さんには愛されると云うことに言い難い戸惑いがあるようだ、と。愛は深刻で、心乱されるから、迷惑にもなり、傷つくから、ある一定以上の親しさになると重たい人間は遠ざけてしまいたいと。そんな無意識のガードが秦さんにはあるのではないか、と。口先だけでいいので、軽ぅい愛の言葉や行動で近づかれる方をいっそ安気に迎えているのではないかと。いずれそんな人達は、「人同ジカラズ」で枯れ葉のように行ってしまうのに、その方がありがたいと秦さんは思っているみたいだ。自分から愛することはいくらでも出来る人なのに、なぜ深く愛されるのは苦手なのかと。
* 答えなかった。もうバグワンとは出逢っていた。
2011 6・29 117
* 晩、もう一度映画「マトリックス」の一部を観た。丁寧に観た。ティロパやバグワンに聴いているような映画だ。いまの今、わたしも「仮想現実」を生きている。そう思える。
2011 6・29 117
* 地下鉄の中で、「バグワン」下巻の114頁から四、五頁の「和尚」に聴きながら、涙で目尻を濡らしていた。あーあ、心のまるで下僕になって…、みんな、バカげている。
思わず身内を熱くするのは、こんなふうにバグワンに頼みつつ自身に鞭打っていたのは、わたしが「 mixi」 に加入するより一ヶ月半も以前の正月二日だった。この日の日記には「つづき」があった。こうだ。
* ( 2006) 正月二日 つづき
* 建日子と二日の雑煮を祝う。今日も年賀状が来ていた。
* 雨をおして、若い人達が年賀に訪れ、建日子も入って、歓談のうちに、妻が念入りの二十種ほどの正月料理をおいしく食べた。会津のとびきりの清酒、またフランスワイン。談は八方に飛んでは飛んでは、若々しい声が弾んだのはなによりであった。
* 建日子の車にわたしも妻も同乗して、若い来客二人を住まいの近くまで送っていったドライブが、また一つの楽しい賑わいであった。帰りは親子三人のドライヴになり、面白い正月二日になった。
* ああ、夢だ…。「若い人達」とは、孫のやす香とみゆ希のことだ、どんなにその通りに書いて、心ゆくまで孫達との正月を祝い喜びたかったか知れないのに、孫二人は両親に秘して祖父母との正月を楽しみに来ていたのだ、どんなに賑やかに楽しかったろう。だが、そのように日録に書けなかった。書いてはならなかった。
もうあの日、やす香は全身にけだるさも痛みも感じていた。それも察してやれなかった。
建日子の車で町田まで送っていったあの五人だけの、あの歌声が聞こえてくる今も耳に、ああ、夢だ…。わたしはバグワンに毎日毎夜叱られっぱなしだったなあ……。
2011 7・1 118
* 仕掛けの小説を読み返していて、願っているところは、わたし自身には興味津々だけれど、読者にはどうだろうかという懸念はぬぐえない。読者にも、と、云ってももうそういうしかないけれど「わたしの読者」にも是非手を拍って喜んで欲しいわけだ。ところが「わたしの読者」もむろん一様ではない。さ、どうしようかと、珈琲の冷えるのも気にせずいろいろメモをとっているところへ隣家のご主人が同席された。
小説のことを考えたり手を掛けたりしていると、自分が勤めていた若い頃の昔のように人混みの喫茶店にいるのも忘れている。今日どこへ出掛けていたかも暑かったのも、あれこれ不快なこともみんな拭ったように消えている。「これが仮想現実から夢覚めているという」のではないのかと思えてしまうぐらいだ。余のことは、バカげている。そうなのだ。「おまえはいつでもおまえの夢から目を覚ますことができるのだ。」
* 要するに、何もない。おもしろい。
2011 7・1 118
* 湖の本でも永らく支援頂いた元阪大教授、亡くなられた中村生雄さんの遺著を、行き届いたご挨拶を添えて、奥さんから頂戴した。『わが人生の「最終章」』とある。第一部 「死」と向き合う 第二部 「いのち」の日記抄。厳粛である。
☆ 盛夏の候、皆さまにはますますご清栄のこととお喜び申し上げます。
中村生雄が亡くなりまして、早いもので一年になります。
皆さまには生前大変お世話になり、お礼の言葉もありません。本当にありがとうございました。
さる五月十四日には「葬送の自由をすすめる会」 のご協力を得て、夫の希望通り駿河袴で散骨をい
たしました。
当日は夫が好きだった富士山が見えたものの波が高く、とても静かなお別れとはいきませんでした
が、笑いの絶えなかったわが家らしいお別れだったかなと思っています。
さてこの度、春秋社のご厚意で中村生雄の絶筆とでもいうべきものができました。
最後の最後まで執筆していた遺稿と、プログの記事をまとめたものです。お納めいただければ幸い
です。
暑さの折からくれぐれもご自愛くださいませ。
二〇一一年七月 中村家家族一同
* 中村さんは、わたしが作家になりまだ本郷の医学書院編集者だった頃、間近い湯島で、春秋社の編集者であった。編集者の研修会が箱根だかどこかであったときに初めて知り合った。かれもわたしも大きく転進していった。彼はたしか静岡大から大阪大へ教授として歩を運んで行き、晩年にはわたしの孫のやす香の急死にも、著書の中で深切に触れてくれていた。早くに死なれるとは思わなかった。今度の『バグワンと私』などを尤も見て欲しかった読者であったのに。
2011 7・2 118
* こんなメールも届いていて、これにはとりあえず返事も書いた。
☆ 拝啓 東北大地震のあと、例年になく早い梅雨入り、と天変地異の様相を呈しています。
先日は湖の本『バグワンと私』下を御恵投下さり寔に有り難く感謝申し上げます。先生は「心」を全面否定されているようですが、私は、「心=知・情・ 意=精神活動」と捉えていますので、ひていすべきものとは考えられません。 編集者
* (前略) 心を「全否定」などしては、人間、社会生活も思索生活も出来ず、 死なねばなりません。バグワンも仏陀も老子もダルマも、心の働きを否認していませんし、私も。
只、「心」一字の中のマインド(分別・思考)サイコ(心理)偏重が、人間の魂(ハート)や身体を如何に損ない、ミスリードしているのかへの体験的な反省を欠いては、人間も社会も、学問や政治をも、不幸な偏りや脱線や不都合へ導くのは、現に導いているのは、明瞭に認められる人間にだけある混迷です。刻々に分別にも心理的にも安定を欠き動揺を重ねていながら、そんな心の「全肯定」にこそ問題があるのでは、と。さればこそ、よく生きたいと願う人ほど、無心や静寂を自身に願ってきたのではないでしょうか。不一 秦恒平
2011 7・2 118
* 午前に、詩人と編集者とへ、必要な返信を二つ書いた。昨日もハガキで何通か返信・返礼を書いたが、怱卒なもので失礼した。ハガキは手書きだが、長めの手紙は機械で書かせて貰っている。手紙もハガキも久しくめったに書いてこなかった。メールの効く方はメールで赦して貰っている。
しかし、手紙やハガキをすこし復活させてはどうか知らんと、おそろしく筆まめな志賀直哉の書簡集にすこし惘れ気味に感心していた。さ、どうなることか。
* やはり当面、「心」に触れて下さった方には、お返事したくなる。今朝は、あらためて一通書き直した。
* (前略) 心を「全否定」などしては、人間、社会生活も思索生活も出来ず、 死なねばなりません。バグワンも仏陀も老子もダルマも、心の働きそのものを否認していませんし、私も。
只、「心」一字の中の、マインド(分別・思考)サイコ(心理)への偏重が、いわば過剰な追従が、人間の魂(ハート)や身体を如何にしばしば、如何に多く損ない、生活や行動をミスリードしているのかへの体験的な深い厳しい反省を欠いては、人間も社会も、学問や政治をも、不幸な偏りや脱線や不都合へ導くのは、現に導いている事実・ 現実は、明瞭に認められますし、また不幸にして人間にだけある、混迷の有様です。
いかに多く、私をも含め「心定まらない」「心定め得ない」人や例に、この世間、溢れていますことか。刻々に、分別にも心理的にも安定を欠き動揺を重ねていながら、なんとか心静かにと己が舵取りに心労を重ねています。そんな頼るに頼りがたい「心」という「分別・思考」「心理」への、謙遜な反省を欠いた「全肯定」にこそ、人生の巨大な問題があるのでは、と。
さればこそ、よく生きたいと願う人ほど、「無心や静寂」を自身や他者の上に切に願ってきたのではないでしょうか。
不備ながら、怱卒ながら、当座のご返事だけとさせて下さい。なにしろ此の歳になって尚私も不束な「途上の独白」に右往左往している最中です。恥ずかしながら。
今後とも、どうぞご示教を得られますように。お元気で。取り急ぎ。 不一
平成二十三年七月六日 秦恒平
☆ 梅雨明けがとうに済んでしまうような猛暑の日がつづきます。
過日は、『湖(うみ)の本』107-8 『バグワンと私』上下を御恵贈賜り、厚く御礼申し上げます。
バグワン・シュリ・ラジニーシ」 の名は大分前に聞いたことがありますが、素通りしていった憶えがあります。
「心の問題と心言葉」で、いかに「こころ」の言葉が多く、安易に使われているか、得心。また、腰の悪い小生が正座ができず、元禄の頃から(正座というモノが)日常的になったという御指摘に、今更乍ら安心しています。
毎晩、就寝前にバグワンを音読しつづけている事にも感嘆しています。
「下」の「私語の刻」の東日本激甚災害への「菅内閣の支持」は、自民党の過去の罪却に憤激しつつ、それにしても今の内閣の有様にいいようのないモドカシサを感じています。
五万枚を整理した読者の御努力にも感激しました。 大手出版部長
* よく読んで下さり、有り難し。
この最後の一行「五万枚を整理した読者の御努力にも感激しました。」に、頭を下げる。この読者のして下さったことは、口先の「ごあいさつ」で出来ることではない、数万枚を書いた私自身でもとても出来なかった。身の幸、思うべし。わたしからは、ほんとうに何のお返しも御礼もできない、街で道で出会っても顔も覚えているかどうか、あっさり行き過ぎてしまうだろう。
2011 7・6 118
* 所用を気に掛けながら、二日間見遁していた北大路欣哉の「子連れ狼」を今朝は観た。国家での仰山で純真を欠いた、私心まるだしの喚きから離れ、この連続ドラマはわたしの魂に触れて粛然とさせる。作がうまいのへたのという問題ではない、拝一刀の「冥府魔道」という道行に最も心惹かれて、わたしは剣とも刺客ともなんら関わりないけれど、彼の無心と静寂とに叶う限り同行したいと願うのである。或る意味、私の歩んできた七十余年歩みそのものも「冥府魔道」の道行であった。それを暗くも威くも解釈していない。道徳だの正義だのといったラチもない俗信を離れて離れて慌てず歩いて行くということ。
今回下巻の六十二頁から六十九頁までのバグワンの言葉は、厳しい。「人格の第一の層」「形式や社交の層」つまりは心の籠もらない「ごあいさつ」で世渡りしている者たち。そして第二の「役割ケ゜ーム」に奔命するだけの人たち。
だが、バグワンは、わたしもと言っておくが、「ごあいさつ」という働きの効用や、「役割を分担」する働きや効用をなんら全否定などしていない。それにはそれの潤滑油としての、また義務や責任という働きが有る。
ただ、それだけで、「あいさつ」だけで、「役割」や「肩書」だけでしか生活していない人間の薄さや軽さや至らなさは覆いがたいとバグワンは見遁さないのである。
2011 7・6 118
☆ 『バグワンと私』下巻をありがとうございました。上巻を読み終え、またせ私の仲で整理はできませんけれど、ー死の間近でー思うことの多い内容でした。下巻ともども、何度も読み返させていただくと存じます。 ペン会員 作家
* 嬉しいです。
2011 7・7 118
* 話は大きく変わるが。こんなことは、人間の歴史で無数の人が言ってきたことだろうが、わたしも、わたしの思いを書き留めておく。
* 「神」は、人間の「必要」なのである。人間「に」必要なのでなく、もっと根底から謂って、人間「の」必要なのだ。植物や動物と異なり人間は「分別し・思考する」そして「迷惑し・惑乱もする」つまり「マインド」する以上、自身に向かいさまざまに「説明・納得」を求める。「神」は、かかる「マインド」を支える「必要」に他ならない。「必要」の度が強まれば「信仰・帰依」に至る、宗教への道に至る。それだけのことだ。
* 「ブッダ」は、人間の「到達・達成」なのである。釈迦も達磨も一休もバグワンも、イエスでさえ、明らかに「ブッダ」である。ほんとうに生き且つ死のうと、静かに深い安心を得たいと思う人は「ブッディスト」であり、 得ている人が「ブッダ」である。少数かも知れないがそういう人は、深い願いと境地から「ブッダ」への道を求め歩んでいる、わたしも、そうであろうとしてきたようだ、この十四年。叶わぬまでも。
* その意味で謂うと、日本で成熟し構想され経営されてきた「仏教」つまり「仏」は、むしろ先に謂う「神」に同じい。人間の「マインドの必要」に応えて不安を救済しようと、マインド人間のマインドが、壮大に「創作」した巨大な「仮想世界」へ縋ってくる人間たちを信徒として送り込んでいる。その「必要」をわたしは否定も否認もしないが、「仮想世界」は「仮想世界」であり、それが仏教以外の「カソリック」など多くの世界宗教にもほぼ均しく謂える。「神・仏」なる人間の「必要」のための殿堂を、教権という強権すら発動して大集団で「神の國・佛の國」と名付けて建築し続けてきたのである。
* 人間のなかには、静かに安心なら、生きるにも死ぬにも困らないという、マインド(分別思考迷惑等の煩悩)の拘束からじつに自由な人達がいたし、いまも、存外身の回りにも大勢いるだろう。「ブッダ」はそうした人から到達し達成されている。彼らは「仮想世界」のウソから目覚めていて、「神・仏」をなんら必要とも不必要ともしない。「覚めた人間=覚者=ブッダ」 彼ないし彼らは、仏教とかカソリックとか組織された教権集団のマジックとは無縁の人間存在、たぶん実存と謂うて自然な存在である。
* 以上を、ともあれ、むろん至らぬわたしの、「闇に言い置く 私語」とする。すなわち「バグワンと私 死の間近で」に他ならない。
2011 7・8 118
* 昨七月八日に「言い置いた」下記の理解は、わたしの七十余年を総括する一つの到達だと思うので、自身で納得するためにも重ねて此処に書きおく。もとより多く先賢先達の言い古してこられたことだろうが。
*
* 「神」は、人間の「必要」なのである。人間「に」必要なのでなく、もっと根底から謂って、人間「の」必要なのだ。植物や動物と異なり人間は「分別し・思考する」そして「迷惑し・惑乱もする」つまり「マインド」する以上、自身に向かいさまざまに「説明・納得」を求める。「神」は、かかる「マインド」を支える「必要」に他ならない。「必要」の度が強まれば「信仰・帰依」に至る、宗教への道に至る。それだけのことだ。
* 「ブッダ」は、人間の「到達・達成」なのである。釈迦も達磨も一休もバグワンも、イエスでさえ、明らかに「ブッダ」である。ほんとうに生き且つ死のうと、静かに深い安心を得たいと思う人は「ブッディスト」であり、 安心・無心を得ている人が「ブッダ」である。少数かも知れないがそういう「ブッディスト」は、深い願いと境地とから「ブッダ」への道を求め歩んでいる。
わたしも、そうであろうとしてきたようだ、この十四年。叶わぬまでも。
* その意味で謂うと、日本で成熟し構想され経営されてきた「仏教」つまり「仏」は、むしろ先に謂う「神」に同じい。人間の「マインドの必要」に応えて不安を救済しようと、マインド人間のマインドが、壮大に「創作」した巨大な「仮想世界」へ縋ってくる人間たちを信徒として送り込んでいる。その「必要」をわたしは否定も否認もしないが、「仮想世界」は「仮想世界」であり、それが仏教以外の「カソリック」など多くの世界宗教にもほぼ均しく謂える。「神・仏」なる人間の「必要」のための殿堂を、教権という強権すら発動して大集団で「神の國・佛の國」と名付けて建築し続けてきたのである。
* 人間のなかには、静かに安心なら、生きるにも死ぬにも困らないという、マインド(分別思考迷惑等の煩悩)の拘束からじつに自由な人達がいたし、いまも、存外身の回りにも大勢いるだろう。「ブッダ」はそうした人から到達し達成されている。彼らは「仮想世界」のウソから目覚めていて、「神・仏」をなんら必要とも不必要ともしない。「覚めた人間=覚者=ブッダ」 彼ないし彼らは、仏教とかカソリックとか組織された教権集団のマジックとは無縁の人間存在、たぶん実存と謂うて自然な存在である。
* 以上を、ともあれ、むろん至らぬわたしの、「闇に言い置く 私語」とする。すなわち「バグワンと私 死の間近で」に他ならない。
2011 7・9 118
☆ バグワンに聴く。
おまえがあまりにも心にとらわれているとき
おまえは言葉しか聞こうとしない
それではそれはコミュニケートされえない
しかし、もしおまえが全く心にこだわらなくなれば
そのとき言葉に伴っているとても微妙な影──
とても微妙で
ハートだけがそれを見ることのできる不可視の影──
意識の不可視のさざ波──
波動}(ヴァイブレーション)──
それが伝わりコミュニオンはただちに可能となる
これを心にとるておきなさい
馬鹿なことを言ってはいけない!
いまだかつて理論が人を真理に導いたためしなどありはしない!
* テレビの前へ行こう。
2011 7・12 118
* バグワンに聴こう 『存在の詩』より。
スワミ・プレム・ブラフ゛ッダサンの訳に拠り。
「空」は何ものも頼まず
もしそこに何かがあるのならば
それは頼みにするものを必要とする
しかし何もない空であれば
どんな支えの必要もない
そして我々の実在が非実在であるというこのことは
あらゆる知者たちの最も深い認識だ
そもそもそれを実在と言うそのことからしておかしい
それは何かではないのだから
それは何かあるものなんかじゃないのだから
それは何でもないものとでも言うべきものだ
どんな境界も持たない広大な虚空
それはアナートマ(anatma),無自己だ
それは「内なる自己」などというものでもない
あらゆる自己感覚はすべて虚構だ
「私はこれであり,私はあれである」というような
あらゆる自己同化はすべて虚構だ
究極なるものに行きつくとき
時分の最も深い核に行きあたるとき
突如としておまえは
自分がこれでもなくあれでもないということを知る
おまえは一個の自我(エゴ)なんじゃない
おまえはひとつの巨大な空であるばかりなのだ
ときとして静かに坐ることがあったら
目を閉じて感じてごらん
自分が誰であり,どこにいるのかを──
深く進んでごらん
すると不安になるかもしれない
なぜなら,深く進めば進むはど
おまえは自分が誰でもなく
ひとつの無であるにすぎないのをより深く感ずるからだ
みんながあんなにも瞑想を恐れるのはそのためだ
それは死なのだ
それは自我(エゴ)の死なのだ
そして,その自我(エゴ)というもの自体
ただの虚構の概念であるにすぎない
いまや物理学着たちは
彼らの科学的探求を通じて
物質の領域への深化を通じて
その同じ真理に行きあたった
仏陀が
ティロパが
ボーディダルマが
彼らの内観を通じてたどり着いたものを
科学は外側の世界にもまた発見したのだ
いまや彼らは言う
物質的実在などというものは無い,と
〈物質〉というのは〈自己〉と平行する概念だ
一塊の岩が存在する
おまえはそれがとても堅固な実質を持ったものだと感ずる
おまえはそれで誰かの頭を殴ることもできる
すると血が出て来るだろう
その人間が死ぬことさえあるかもしれない
それはとても堅固な実体だ
しかし物理学者に聞いてごらん
彼らはそれは非物質だと言う
その中には何もありはしない
彼らはそれはただのエネルギー現象にすぎないのだと言う
この岩において交錯しているたくさんのエネルギーの流れが
それに実体感を与えているのだ
ちょうど,紙の上に多くの交錯した線を引くのと同じように──
たくさんの線が交差するところには
ひとつの点が現われる
その点はそこにあるわけじゃなかった
二本の線が交わる
するとそこにひとつの点が現われる
たくさんの線が交わる
すると大きな点が現われる
その点は本当にそこにあるのだろうか?
それともただ交わった何本もの線が
そこにひとつの点があるかのような錯覚を与えているだけなのだろうか?
物理学者たちは
いくつもの交錯したエネルギーの流れが物質をつくり出すと言う
そしてそれらのエネルギー流とは何かと言えば
それは物質的なものではないのだ
それらは重量を持たない
それは非物質的なのだ
いくつもの交錯した非物質的な線が
一塊の岩のように
とても堅固な実体をもった物質的なものであるかのような錯覚を与える
仏陀はアインシュタインから遡ること25世紀前に
内側には誰もいないのだというこの解明に到達した
ただの交錯した何本ものエネルギーの線が
おまえに<自己>という感覚を与える
仏陀はいつも自己というものは玉ネギにそっくりだと言っていた
* もう十年になるか。友であり優れた画家である細川弘司は、わたしを見ながら一枚の画用紙に、ボールペンでぐるぐるぐるぐる線を書き捲っていた、ものの三分間ほど。
見せてくれると、そこにわたしが、自分でも観たことのない、いかにも「わたし」でしかない、自分でも一寸好きになってしまう「わたしの顔」が、虚空から浮かび上がっていた。それは線の奔放に走った集積でしかないとも謂えたが、「わたしの顔」だった。これでもずいぶん何度もカメラマンに顔を撮影されてきたが、細川の走らせた線の塊のように浮かんで出た「わたしの顔」ほど、自分で言うのもナンだが慥かな「もの」はなかった。小説『お父さん、繪を描いてください』下巻のうしろのほうにわたしはその「顔」を挿絵として入れた。
* バグワンの曰くが、落ち着いて納得できる。この実感をより慥かにしたい。
2011 7・16 118
* いま西欧の大作をバルザック、ロマン・ロラン、チェーホフ、マードックの四作読んでいて、日本の近代小説は谷崎の「鮫人」だけ。これがけっこうバランスしていて面白い。谷崎のは大正初期作だが、彼もまた西欧の大作の綿々とした描写を通して近代小説を学習したに相違なく、「鮫人」の書き出しからかなり先までのねちこくしつこい書き方など、むしろそこから脱して行く谷崎文学の大成の歩みがわたしには面白い。彼は彼なりに源氏物語などを、西鶴や秋成などを取り込んでいったのだ。
わたしはいま、古典は源氏と栄花に集中しているが、源氏物語は、上に並んだ西欧の大家たちのどの小説よりも面白く、しかも立派である。驚嘆を新たにしている。
* そしてやはりバグワンが、有り難い。
2011 7・18 118
* 下巻の『バグワンと私』を読み返していて、真実、バグワンという人の深さと端的な透徹に敬意を覚えずにいられなかった。下巻ではじかにバグワンが多く語っているのが、読者にうまく伝わるか知らんと案じていたが、妻など、下巻が圧倒的に佳いと言う。読み返していて納得した。続きを、つまり2007年からの『バグワンと私』もと言ってもらえると、嬉しくなる。それはまた、いつかのこと。
2011 7・20 118
☆ バグワンに聴く。
道徳には何か善いことと何か悪いことがある
く自然であること〉には
何か聡いことと何か愚かしいことがある
自然である人間は
聡いのであって善なのではない
自然でない人間というのは愚かしい
悪いわけじゃない
世の中に悪いことなど何もないし
善いことなど何もない
ただあるのは
聡いことと愚かしいことだけだ
もしおまえが愚かだったら
おまえは自分自身も他人も害する
もしおまえが聡ければ
おまえは誰にも害を与えない
他人にも
そして自分にも
罪というようなものなど何もない
そして徳というようなものも──
智慧がすべてだ
もしおまえがそれを徳と呼びたければ呼ぶがいい
そして無知というものがある
もしおまえがそれを罪と呼びたければ
それがただひとつの罪だ
さて,どうやっておまえの無知を智慧へと転換するか?
それがただひとつの転換だ
そしておまえはそれを強いることができない
それはおまえが
ゆったりと自然であるときに起こるものなのだ
「ゆつたりと自然であることによりて
人はくびきを打ち壊し
解脱を手の内にするなり」 ティロパ
そしておまえは全面的に自由の身となる
はじめのうちそれは難しかろう
古い習慣がそこにあって
おまえに何かをさせようと強いるだろうから
おまえは怒りたくても
古い習慣がいやおうなしに笑いを顔に浮かばせる
その人たちが笑うときには必ず
彼らは怒っているのだと確信できるような人々がいるものだ
まさしくその笑いの中に
彼らは、おまえも、怒りを表わしてしまっている
彼らは何かを隠していながら
偽りの笑いが顔にひろがる
そういうのを偽善者という
偽善者というのは不自然な人間だ
怒りがあると彼は笑う
憎しみがあると彼は愛を見せつける
もし凶悪な感覚が湧いて来ようものなら
彼は慈悲を装う
偽善者こそ完璧な道徳家だ
完全に人工的
ホンコンフラワー
醜悪
役立たず
まるで花なんかじゃない
ただの見せかけ
ゆったりと自然であれ
* ゆったりと自然である難しさ。バグワンは容赦ない。
2011 7・23 118
* 四日間かけて書きましたというお手紙を、地元の、元図書館長さんから頂戴した。病気をされ怪我をされ、日々のご不自由などもあわせ、この数年、十数年の過ぎ越しを淡々と書いて下さっている。年の程は、わたしとほぼ変わらぬ方である。どうぞお大切にと切に願う、またわたし自身も要心あらねばなりません。
* わたしの場合、外での職掌を、強引というよりいささか非礼なほど強引に退かせてもらって、ほんとうによかった。続けたらよいととも耳にしていたが、バグワンの奨めにしたがい、無用のことは「落とし」て行きたかった。団体や組織とのご縁は落としていいうちの先立つもの。何の負担もないが日中文化交流協会の会員も、いまの中国を観ていると、落とす潮時だろう。
それよりも、家での、機械での仕事(「仕事」という時は、家事・用事ではない。)からも、相当多くを「落として」いい、「落とさねば」と思うあれこれが多い。デスクトップに犇めいているものから、情け容赦なく落としてイイ全部を整理したいといつも願いながら、これが一番難しい。創作、湖の本、日乗、「 e – 文藝館= 湖(umi)」そして読書。……Oh 躊躇無く遠慮無く、湖の本の刊行作業と「 e-文藝館= 湖(umi)」の充実とが任せられる力あるセンスもある人材がそばにいたらなあ…。
* 永い間、両手両脚を大車輪にふりまわすようにやって来た。我ながら見苦しいほどだった。さだめというもの。そう感じていたし悔いてなどいない。
ただ一つ。これが、わたしの自然な「行為」であったか、無用の「行動」であったのか、たえずバグワンのまえでわたしは問いまた問われてきた。バグワンは「行為」せよ、「行動」するなと、厳しく言う。じつは不勉強なわたしはバグワンの「行為」と「行動」とがどんな原語から翻訳されているのかも、知りたい気がありながら、知らないのである。それでいて、わたしは「行為」してきたか、「行動」に過ぎなくて大混乱していたのか、日増しに身に痛く問わねば済まぬところへ追われ来ている。
* この自問に触れてわたしは、ながらく自身の仕事を、妙な物言いながら「作業禅」と謂い、かつ言い逃れていたと自覚している。この日乗にアクセスして下さる方には、禅の方もそうでないがお坊さんも基督教の方もおいでなのを知っている。そういう方たちが、どう、わたしの曰くを聴いておられたかも気に掛けてきた。だが、人様の思わくでなく、わたし自身がもういちどバグワンにもよく聴きながら問い返さねば済まない。
2011 7・29 118
☆ バグワンに聴く 『一休道歌』の上より スワミ・アナンド・モンジュさんの訳に拠る。
宗教は、非哲学・反哲学と謂うにちかい。なかでも禅は、 宗教のもっとも純粋なもの。本質そのもの。それは非合理、それは不情理。経験主義や、科学の対象概念から禅に近づくことは絶対にできない。考えるよりは感じ取らねば。知るにはまさにそれで在らねば。在る、それが知ることだ。ほかに知りようはない。
宗教は、寓話や詩や隠喩( メタファー) で語ることを余儀なくされる。真理をほのめかす間接の方法だ。( =摩訶不思議な経典の字句や叙事は、それだ。摩訶不思議をリアルレベルで聴いたり批判したりするのは、滑稽な錯誤だ。)
どの言語もふたつから成っている。散文と詩。散文は構造自体が論理に近い。詩はそうでなく、そうであっては人の琴線に響かない。詩は曖昧そうで、美しく真実に接している。散文は日常と市場の必需品だが、ハートの何かを語り伝えねばならぬ時、論理的な散文はかえって適当でなく、人は詩のふくみや美や喩の確かさに導かれる。
詩の言語がほとんど今日消滅したために、人間が、おしなべて貧相になった。え? ちがうかね。なぜって、豊かさは、みなハートのものだからだよ。マインド( 思考・ 分別・ 論理そしてエゴ) は、ハートよりとても貧しい。よく見回してごらん、マインドは結局は取るに足りないものを通して得意げに生きているだけ。ハートは、生の深みへ深みへ向かう。存在の深淵へ、神苑へ向かう。
* バグワンに聴いていると、李白の詩がさらに静かに光ってくる。
2011 7・31 118
☆ 「明晰な真理や、概念や公式の言語、純粋論理や客観的情報や正確な科学の言語がある。が、それはハートの言語ではない。それは愛の言語ではない。宗教の言語ではない。」「ふつうの言葉にもの足り無さを覚えたことがなかったら、おまえは心貧しい人間にちがいない。」「もしおまえが散文の言語──実証的言語、事実や数学の言語は不充分だと感じたことがないとしたら、それはたんに、おまえが生の神秘を何一つ味わったことがない、ほんとうには生きてこなかったということだ。」 バグワン
2011 8・3 119
* バグワンに聴いた、ウイリアム・サムエルがこう話していたと。
☆ 「あるとき、中国で、私ウィリアム・サムエルは一篇の簡潔な詩を渡され、読んで解釈を述べるようにと言われた。その場で即座に答えることができたが、二十八日間それについて考えるようにと告げられた。
『なぜそんなに長く?」と、私は、西洋人によくある性急さで尋ねた。
『十二回読むまでは、一度も読んだことにならないからだ』という答えだった。『読んで、また読み返しなさい」
私は言われたとおりにした。十二の十二倍読んだ。すると、そうしなければ聴くくことのできなかった、ある旋律が聞こえてきた。
それ以来、私は、なぜ数えきれないほど読んだことのある聖書や他の書物のなかのある数行が、ある日さらにもう一読するだけで突然広大な新しい意味を帯びるのか、その理由がわかった。」
* バグワンは言う、それが本質の「詩」の意味だと。ただ読むだけでは理解できないと。
「知的に理解できないというのではない──それは単純だ。その言葉や文字の示している意味は明白だ。しかし、外見上の意味は真の意味ではない。隠された意味は、分かるかな、待たなければならないのだ、眞の旋律になって聞こえてくるのを。そしてそれが、いつ起こるかは、誰にも、けっして分からない。」と。
* バグワンに向かって苦情を向けても始まらない。
2011 8・4 119
* 暑い暑い庭で草むしりしていた一休さんは、寺の縁側で一息涼を入れていたが、つと、奥へ入り、木の仏像を縁側に持ち出して、「さあ、あなたも涼みなさい!」と。
バカげたはなし、か。
彼は酷いほど寒い晩、人と話していて、つと起って木仏をもちだし囲炉裏で焚いた。相手は仰天して咎めると一休は火箸で灰をつついて言った、「骨は無いね」と。相手は怒って「木の仏像に骨があってたまるか」と。一休は笑った。
バカげたはなし、か。一休は分け隔てしない。区別は失われ、分・別という分別は消え失せている。境界線はなにもなく、彼は「一」なるものに至っている。バグワンはそう言う。一休は、こう歌う。
有漏ぢより無漏ぢへかへる一やすみ
あめふらばふれ風ふかばふけ
有漏道(うろぢ)とは欲望渦巻く現世。われわれは欲望を通して自身のエネルギーを漏らしている、浪費している。
この道歌、かんたんでは無い。人はこの世界を歩みつづけ、どれほど「一やすみ」を知っているだろうか。「一やすみ」とはあらゆるモノ、コト、ヒトと境界無く区別無く「一つ」になる・なれるということかとわたしは感じているが、容易でない。
* 片づけにかなり打ち込んだが、捜し物は見付からない。片づけるというのは、なかなか面白い作業ではある、が、ものの減らないことにも苦笑。苦笑。
* 前世紀末の大勢で分担した『仏教への思い』という京都の法蔵館本を見つけた、わたしも「供養」という一編を書いていた。
数編を読んだが踏み込んだ体験に根ざして書いてある原稿は面白いが、当時の京大岡本総長の終始概念的な原稿など、砂を噛んでいるようだった。
これと無関係にテレビで、立花某氏の現代「科学」に蘊蓄を傾け尽くしてインタビューに応えているのを聴いていたが、徹底したマインドの人で、根底にひたすら「知」「知識」尊重があり、ほとんどそれしか聴き取れないのに興ざめがした。もののあはれなど、まったくの無縁の「知識」人士。徹底して有漏道(うろぢ)が面白くて叶わないらしい。
2011 8・7 119
* 宗教に関係した蔵書が手元にたくさん有る。どの一つを手にしても、おおかた、「知識」本、「解説」本、「評論」本。生きる難しさや死んで行く悩ましさに深く触れあってくる本は、実にじつに少ない。経典は、それなりに自身の内面とは隙間をもっている。切でも実でもない。ハッキリいって何の役にも立ってくれない。
けっきょくわたしは「バグワン」に「聴いて」いる。彼と歩んでいる「安心」、彼に聴いている「安心」。
2011 8・11 119
☆ バグワンに聴く 『存在の詩』より
“「空」は何ものも頼まず’’
我々の実在が非実在であるという
このことは
あらゆる知者たちの最も深い認識だ
それは何かではないのだから
何かあるものなんかじゃないのだから
それは何でもないものとでも言うべきものだ
どんな境界も持たない広大な虚空
それはアナートマ(anatma),無自己だ
「内なる自己」などというものでもない
あらゆる自己感覚はすべて虚構だ
「私はこれであり,私はあれである」というような
あらゆる自己同化はすべて虚構だ
究極なるものに行きつくとき
自分の最も深い核に行きあたるとき
突如としておまえは
自分がこれでもなくあれでもないということを知る
おまえは一個の自我(エゴ)なんかじゃない
おまえはひとつの巨大な空であるばかりなのだ
ときとして静かに坐ることがあったら
目を閉じて感じてごらん
自分が誰であり,どこにいるのかを──
深く進んでごらん
すると不安になるかもしれない
なぜなら,深く進めば進むほど
おまえは自分が誰でもなく
ひとつの無であるにすぎないのをより深く感ずるからだ
みんなが瞑想に入るのを恐れるのはそのためだ
それは死なのだ
それは自我(エゴ)の死なのだ
そして,その自我(エゴ)というもの自体
ただの虚構の概念であるにすぎない
人間というのは玉ネギのようなものだ
幾重もの思考や感覚をむいて行けば
最後には何がある?
無だ
この無にはどんな支えもいらない
この無はひとり立ちして存在する
だから仏陀は言う
神はない
神の必要はない,と
神などというものは一種のささえ(抱き柱)に過ぎないからだ
仏陀はまた言う
創造主などいはしない,と
無をつくり出すのにどんな創造主もいりはしないからだ
おまえがそれを実現(realize )しない限り
空は、無は、最も理解し難い概念のひとつだろう
だからこそティロパは言う
”マハムドラーはすべての言葉とシンボルを超越せり”と
マハムドラーとは体験なのだ、空の、無の。
おまえなどもういない
そのおまえがいなくなれば
そのとき誰がそこで苦しむ?
誰がそこで痛みや悩みを蒙る?
誰がそこでうちひしがれ,悲しみに沈む?
仏陀は言っている
もし至福の悦びを感ずるようでは
おまえはふたたび苦痛の餌食にならざるを得まい,と
そこにはまだおまえがいるからだ
そのおまえがいなくなったとき
全く完全にいなくなったとき
そのときそこには何の苦痛も至福もない
そしてそれこそが眞に至福なのだ
第一に理解しなければならないのは
〈自己〉という概念は心によってつくり出されているものだということだ
おまえの中に〈自己〉などというものはない
* 容易ではないが。じっと聴いている。聴いている。
2011 8・14 119
☆ バグワンに聴く。
「私達の人生はほんの一瞬だ。そのことで心を乱しても何もならない。 すべては、 束の間だ。この世での「ひとやすみ」は一瞬だ。無限なるものに思いを馳せなさい。おまえの前には始まりのない時があった。そして死後にも、終わりのない時がおまえの後をひきつぐ。」
「しがみつく必要はない。それを後押しする必要はない。ひとりでに去って行く。よいものであれ、悪いものであれ、何であろうと去って行く。全ては過ぎて行く。川は流れている。」
「生まれる前、非存在だった。そして死の後にもふたたびそうなる。」
* なににも構わずに、静かにいい秋を迎えたい。
2011 8・22 119
☆ バグワンに聴く。 『一休道歌』より スワミ・アナンド・モンジュさんの翻訳に拠って。
「私が有れば、限りない欲望が湧いてくる。私が無ければ欲望は無の中からは生まれようがない。これは仏陀のこの世界への最大の贈りものの一つだ。」「私はいない」「そう知れば何をする必要も、何になる必要も、 何を所有する必要も、何を達成する必要もない、と、知ることになる。自己が有れば野心が顔を出す。」「なるほど結構なことのようだ、が、そこでまた罠に落ちる。」「この世のものを望まなくなったにしても、今度はあの世のものを望みはじめるのだ。欲望としては、まるで違わない。」「問題は欲望そのものに、欲しがるそのことに、ある。」
「おまえたちいわゆる精神的( スピリチュアル) な人たちというのはひじょうに欲が深い。トクトクとして言うよ、おまえたちは、『この世のものを欲しがってはならない。なぜなら、それは束の間のものだから。あの世のものを願うがいい。なぜなら、それは永遠だからだ。』」「これを『放棄』と呼ぶのかね。これが放棄かね? これはさらに貪欲になることだ。これは永遠の報酬を求めることだ。」
「あの世的な人々はほんとうに欲が深い。精神の物質主義だ、それはおまえたちをもっと駄目にしてしまう。」「ものを捨てるのではなく、自分の自己・エゴを捨てなさい。所有物を放棄するのではない、所有者であるおまえのエゴを捨てなさいと仏陀は言われる。」「根を断てと。所有物でなく所有者を落とすのだ。そうなったら、おまえは障り無く世間の中で生きられる。問題は何もない。ヒマラヤや山林に逃げ込む必要は少しもない。ただ世間の中で元気に生きなさい、そしてエゴを我を張り、がつがつ所有しないこと。」
* 『十牛図』の第八図から第十図がそれだ。「人牛倶に忘れたなら、」「本に返し源に還って」、まさに山川草木一味同心現住の太虚に、一切が無く一切が有る。在るがままに自然に「いま・ここ」に生きて良のだい。
この世間、雑音に満ちあふれて悪意の毒もいやほど注がれているだろうが、おかしなことに、それへ耳も目も近寄せたくて我慢できない人も溢れている。ご苦労なことだ。なぜなのだろう。なぜそんな風に自身から汚れたいのだろう。
「見ざる云わざる聞かざる」の三猿は、姑息な逃避を謂うのではない、そういう醜いエゴとしての「所有者」を落とせと教えているのだ。
* 文明は、思考・理論・理窟・分別・選択・排除そして数と散文とで成っている。一言に帰すれば「マインド」という心が制作してきた壮大なツクリモノだ。
文化は、「ハート」「ソウル」に根ざして生まれる。本質は、いわば広義に詩的な価値だ。文明文化の両々相俣ねば人類は破産してしまう。今日人類の世界は、破産の際に引き寄せられてあるのではないかとわたしは懼れている。
2011 8・24 119
* 体調は宜しくないが、放っておけない事もあり、今日は昼前から機械の前にいた。腹部不穏は相変わらずで、ひとつ進路が変わると先月二十九日一夜の痛い蒸し返しになる。
要心してでも、向き合わねばならぬ事が出来れば向き合う。医者よ薬よは言うは簡単な常識論なれど、全く役に立たない事と場合もあるということ。どんなに難しい判断であれ、難しければこそ自分で自分の手足を使わねば何も済( な) すことはできない。
* ものの手順・手続きといったことも、思いがけなく顔を出してくる。世の中には放って於ける手順・手続きも、放っては置けぬそれもある。
* 疲れをこれ以上溜めない方がいい。なかなか「閑事」と行かぬ。バグワンに笑われるばかりだ。
2011 9・3 120
☆ バグワンに聴く 『存在の詩』より スワミ・プレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら。
最終的なのは無努力であること
‘‘ゆったりと自然”であることなのだから──
十一世紀人のティロパが
‘‘ゆったりと自然に”という言葉で言おうとしていたこと──
自分自身と戦わないこと
ゆったりと自由でありなさい
おまえのまわりに
品性だの道徳だのというワクをつくろうとしないこと
自分自身を調教し過ぎないこと
さもなければ
その訓練そのものが束縛になってしまうだろう
自分のまわりに牢獄を築き上げないこと
自由でいなさい
自分のまわりに〈人格〉という衣を着て歩かないこと
ひとつの固定化された態度を持って歩かないこと
水のように自由でいるのだ
自然が導いて行くところならどこへでも動き
そして漂い続けるのだ
抵抗しないこと
おまえの上に
おまえの実存の上に
いかなるものといえども押しつけようとしないこと
ところが
社会全体
何かしら押しつけることを教える
善人であれと
道徳的であれと
これであれ,あれであれ,と
それでは、おまえはすべての自然なるものを失うだろう
そしてそのときおまえは
ひとつの機械的なモノになってしまうだろう。
漂うこともなく
流れることもない
だから,自分のまわりにワクを強要しないこと
瞬間から瞬間へと生きるのだ
絶えざる覚醒とともに生きるのだ
これは理解されるべき深いポイントだ
なぜ人々は
自分のまわりにワクをつくり出そうとするのだろうか?
気を引き締めなくて済むようにだ
なぜならば
もし自分のまわりにどんな性格づけも持たなかったら
おまえはとてもとても醒めている必要があるからだ
というのも
一瞬一瞬,決定がなされなければならないのだから
何の既製品の決定も持たず
凝り固まった態度も持たない
おまえは状況に自分自身で応えなくてはならない
人々はひとつのトリックを編み出してきた
そのトリックというのが〈人格〉というやつだ
自分自身にある一定の訓練を強いて
醒めているいないにかかわらず
その訓練がおまえの面倒を見てくれるようにする
たとえば,つねに真実を語る習慣をつける
そうすればおまえはそれに関して思い悩む必要はない
誰かが質問をする
おまえは真実を語るだろう
習慣で──
しかし習慣から出てきたとき
真実は死んでいる
それに生というものはそんなに単純じゃない
生はとてもとても複雑な現象だ
ときとして嘘が必要なこともある
そして,ときには真実も危険なものであり得る
人は醒めていなければならない
最大限の覚醒をもってそれに応えること
それがすべてだ
つくりつけの心を持ってまわらないこと
ただゆったりと
醒めて
そして自然であり続けるのだ
これこそ本当の宗教的人間の姿だ
そうでないいわゆる宗教的人間など死人に等しい
彼らは彼らの習慣によって行動する
彼らは習慣によって行動しているだけだ
これはひとつの条件づけであって
自由じゃない
意識は自由を必要とする
“ゆったりと”自由であれ
この言葉をできる限り深く心に刻んでおきなさい
この言葉に自分を貫かせるのだ
‘‘ゆったりと’’自由であれ
あらゆる状況にあって
おまえが楽々と水のように流れられるように──
水には抵抗などというものはない
水のように自由でありなさい
あるときおまえは南に行かなくてはならず
またあるときは北に向かわなくてはならないだろう
おまえは方向を変えなくてはなるまい
状況に従って,流れなくてはなるまい
しかし,もしおまえがどう流れるかさえ知っていれば
それで充分だ
もしおまえが流れ方を知っていれば
海はそう遠いこともない
だからパターンをつくり出さないこと
社会全体がパターンをつくり出そうとしている
あらゆる宗教がパターンをつくり出そうとしている
ほんの数人の大悟の人だけが
真理を語る勇気を持っていた
その真理とは
”ゆったりと自然であれ”─一
これだ
もしおまえが自由であれば
おまえはもちろん自然でもある.
ティロパは「道徳的であれ」などとは言わない
「自然であれ」と言う
このふたつは完全に正反対の次元に属する
道徳的人間は決して自然じゃない
そうなり得ないのだ
もし怒りを感じても
彼は怒ることができない
道徳がそれを許さないから──
もし愛を感じても
彼は愛することができない
そこに道徳があるから──
彼はつねに道徳に従って行動する
彼の自然に従ってじゃない
おまえに言っておこう──
もし怒りを感じたら怒るがいい
ただし完壁な覚醒は維持されなくてはならない
怒りがおまえの意識を圧倒するべきじゃない
それだけのことだ
怒りをそこにあらしめなさい
それを起こらしめるのだ
ただし
何が起こっているのかに完全に醒めながら-
自由で
自然で
醒めてい続けるのだ
人が醒めているとき
怒りはだんだんと消えて行く
それはただ愚かしいばかりになってしまう
道徳には何か善いことと何か悪いことがある
く自然であること〉には
何か賢いことと何か愚かしいことがある
自然である人間は
賢いのであって善なのではない
自然でない人間というのは愚かしい
悪いわけじゃない
世の中に悪いことなど何もないし
善いことなど何もない
ただあるのは
賢い聡いことと愚かしいことだけだ
もしおまえが愚かだったら
おまえは自分自身も他人も害する
もしおまえが賢ければ
おまえは誰にも害を与えない
他人にも
そして自分にも
罪というようなものなど何もない
そして徳というようなものも──
知慧がすべてだ
もしおまえがそれを徳と呼びたければ呼ぶがいい
そして無知というものがある
もしおまえがそれを罪と呼びたければ
それがただひとつの罪だ
さて,どうやっておまえの無知を知慧へと転換するか?
それがただひとつの必要な転換だ
そしておまえはそれを強いることができない
それはおまえが
ゆったりと自然であるときに起こるものなのだ
“ゆったりと自然であることによりて
人はくびきを打ち壊し
解脱を手の内にするなり’’
* やや長く、且つ抄録ぎみにバグワンの言葉を、大事に拾い読んでみた。
おそらく誰にもそう難解なこと飛び離れたことは語られていない。われわれが常識といい良識といい良き習慣・慣例と感じている多くは、すこしも不磨の大典でなど無い。極端に云えば隣村・隣町ではではなんら常識でもなく良慣習でもなく、極狭い身の回りでだけの「われわれ」同士の締め付けであり、「かれら」のそれは認めない頑固に過ぎない例は、山のように実例がある。
小は家族親族から、村落、町、 群県、地方そして国家社会、さらに時代という締め付けがかかっている。人はほとんその便利を好都合として人間の「自由」をそれら枠組みにむかい「貢いで」いるのがふつうだ、教育もその例外でない。
ひとは十重二十重に縛られていて、或いは身を守られているという根底の錯覚に随い、人間としての「自然でゆったり」という眞の自由を忘れきって、矛盾をかんじる生本能を擲って暮らしている。自由人・自然人であるより、道徳・慣習人、約束・社会人である桎梏を人間本来の義務かのように反省無く安易に受け入れている。バグワンの「叛逆」とは、こういう桎梏を落とせと云う呼びかけにあり、わたしはそれを「聴いて」いる。
* わたしは、バグワンと出逢うよりよほど昔から、社会の桎梏や決めつけに可能な限り抵抗し、作家となってからもある程度の地歩を得てからは、文壇の桎梏や慣習をなるべく自由に離れて「文学活動の自由」を追い求め続けてきた。わたしのような作家はたぶん日本中に他に一人と居ないのではないか。
2011 9・6 120
* 妻が曰く、髪にふれて髪や頭の痛かったことなど、まるで無いと。わたしは幼児の頃から風邪を引きかけると髪が痛んで分かった。この一週間、髪に触れると全身そそけだつほど髪や頭や頸が痛い。冷やすべきか温めるべきかの確信がない。此の夜中は堪えかねて洗面所で、小タオルの数枚を洗面器の熱湯に浸しては絞って痛いところへ貼り付け貼り付け、そして痛み止めと安定剤を水分たっぷりで飲んで、幸い、八時過ぎまで眠れた。
機械に触るのはよそうと思っていたが、来てしまうと、書きたいことがある。やれやれ。
☆ 病院へ!!!
先日の電話は、正直いって、私の過去の数少ない経験上、とても不安を感ずる声でした。ところがお会いしていた間はあまり感じられないので、お疲れも気苦労のせいかと思っていました。元気は一時のことだったんですね。気づかず恥ずかしい限りです。
割愛
上記をコピーしていただいた際もお辛かったのでしょう?
こんなのは単純作業です。ちゃんとできてます。
休んでください。 岳
* そう「休む」のが大事なのだと分かっている。全身疲労はひどかったのに、「口上」にも拍手したし、「車引」も嬉しかったし、天空を疾駆して行く五右衛門の染五郎、三門の染五郎と数度も目が合った気がした嬉しさにも、気持ちよく昂奮していたし、弁当も食ってきた。この三、四ヶ月、あまりに不愉快なことが多すぎて、また渾身の気力で耐え抜いてきたのが響いているのは確かなのだ。ああ、だが、わたしは休まないだろうなあ。これが病気だ、わたしの。バグワンが怒り出すわけだ。グハッ。
2011 9・15 120
☆ バグワンに聴く 『存在の詩』より
スワミ・プレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら
”ゆったりと自然であれ’’ と良き教えは教える。
だが、おまえには、それが難かしい。
古い習慣が打ち壊されなくてはならないのだから。
だが、とてもそれは難しい。
おまえたちは偽善者たちの社会に生きなくてはなるまいから。
難しいわけだ、
あらゆるところでおまえは偽善者たちとの戦いを闘わねばならないのだから。
それでも、おまえはそこを通って行かなければならない。
さぞ骨の折れることだろう、
偽りの人工的な見せかけのほうには、
多くの資本投下がついているのだから──
おまえは完全な孤独を感ずるかもしれない。
だが,力を落とすな、それはただの過渡期にすぎぬ。
やがて他の人たちも
おまえの真剣さを感じはじめるだろう。
そして覚えておくこと、
本物の怒りでさえ
見せかけの笑いやウソよりましだ。
少なくともそれは本物なのだから。
本気で怒り得ない人間など決して本物であり得ない。
少なくとも本気で怒り闘うおまえは真正だ。
誠実だ。
自分の実存に誠実なのだ。
真実の怒りは美しいものだ。
偽りの笑いは醜悪だ。
真実の憎しみにはそれなりの美しさがある、
ちょうど真実の愛のように──
まちがえるな。
美しさは真実にかかっているからだ。
憎しみにかかっているのでも
愛にかかっているのでもない
美しさは真実にある。
真実は美しい。
どんな形であろうとも──
自然にゆったりと、
そして
真正でありなさい。
見せかけを落としなさい。
偽善を落としなさい。
自分の自然な実存のまわりに培ってきたあらゆるみせかけを落としなさい。
自然になるのだ、いま・ここで。
からっぽで
自由で
そして自然でありなさい。
それをおまえの生の最も深い気根にするがいい。
2011 9・21 120
* さてバグワンといえば、なによりわたしには「心」を語ってくれる人だ。彼は司祭でも僧でもない。彼はひとりの覚者ブッダとして、一言一言わたしの眼をのぞきわたしの手をとって話しかけてくれる。当分の間、バクワンに「心」の事を聴こう。
☆ バグワンに「こころ」を聴く。『存在の詩』より
スワミ・プレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら
あらゆる問題の根本となる問題は「心」だ。
心の本性がわからない限り
おまえは人生のどんな問題を解決することもできまい。
心こそが問題なのだ。
ひとつひとつの独立した問題を解決しようなどとしないこと。
そんなものはありはしない。
心そのものが問題なのだ。
しかし、心は地下に隠されている。
私がそれを「根」と呼ぶのはそのためだ。
根はつねに不可視でありつづける。隠されている。
決して目に見えるものと戦わないこと
さもなければ、おまえは影法師と戦っていることになるだろう。
それでは、おまえが自分自身をすりへらすことはあっても
おまえの人生にはこれっぽっちの変化も起こり得ない
同じ問題が何度も何度も何度も持ち上がることだろう
心は決して平和には成らない
「無心」は平和そのものだ
が、心自体は決して平和でも静かでもありえない
心はまさにその本性からして緊張と混乱なのだ
心は決してクリフーではありえない。
なぜなら、心は本性がすなわち混乱であり曇りであるからだ。
決して「静かな心」など達成しようとしないこと
さもなければ一番の最初から
おまえは不可能な次元に向かっていることになる
「こと」のはじめは、まず心の本性を理解すること
それからはじめてなにかが為されうる。
* わたしは、いの一番にこの『存在の詩』を手にしていながら、こういう根の注意を聞き飛ばして「静かな心」が欲しいと願っていたのだった、あの漱石の『こころ』の「先生」のように。一度や二度ひらひらとものを読んだだけでは、聞いただけでは、ほんとにダメだと思う。
2011 9・28 120
* あの腹痛に堪えたまま、増補版『無縁・公界・樂』を大量の「増補」から「あとがき、解説」まで、悉く熟読し終えた。七十年の読書の中で、研究・論攷・史観というなかでなら、躊躇いなく本書を天恵のように感謝し、五指の内に、それも早い内に指折り数える。幸いに世界観を変えられたのでなく、確証なく持っていた世界観を相当堅固に底から支えてもらったという感謝である。
いろんな分野に、むろん、こういう出逢いの本が在る、たとえばバグワンも最たる一であるように。
☆ バグワンに「こころ」を聴く。『存在の詩』より
スワミ・プレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら
もし、よくよく目を凝らしてみれば
おまえは決して「心」というような実在には出くわすまい。
それはものじゃない。
それはただのプロセスなのだ。
こうも譬えようか、「群衆」のようなものだ。
おまえは群衆じゃない、彼も彼女も群衆じゃない
だが容易に群衆にもなる。
おまえの思考は群衆としては生まれない だが、
たちまちに群衆同然に集合し離散し混乱し右往左往する。
そういうありさまをなおおまえたちは「心」と呼ぶが
それは「実在」ではない、ただのプロセスであり、
往々にしてただもうとらえどころない心理の雲散霧消にすぎない。
おまえはもっと深い内観を必要とする
おまえの眼がもっと深いところに届くようになったとき
おまえは突然
ひとつの思い、もう一つの思い
またもう一つの思いというように
ひとつひとつの思考がわかるようになるが
しかし、そこに「心」などというものは無い。
寄り集まった思考
何百万という思考の群れがおまえに
あたかも「心」というモノが存在しているかのような幻覚を与える
それはちょうど群衆のようなものだ、 何百万ものね。
だが、いったい「群衆」などというものは在るのだろうか。
「群衆」というようなものがみつかるのだろうか、そこに立っている個人個人、おまえ、彼、彼女らのほかに。
ただの集団性、集合性
それがあたかも「群衆」というモノが存在すると錯覚させるだけだ。
ただ単独の個のみが存在する。
これが「心」への第一の内観だ。
よく観てごらん。
そうすればおまえの見出すのはただ群集し雲散霧消する「思考」であって、
決して「心」になど出喰わすことの無いのを知るだろう。
2011 10・1 121
* 十数年も交わり続けてきた「バグワン」の、何に心惹かれてきたか言い尽くせないけれども、さしあたり昨日今日も読んでいる『存在の詩』の基材にされているのは、ティロパ(988-1069)の説く「マハムドラーのうた」である。その時代は日本でいえば紫式部や藤原道長の頃から宇治の鳳凰堂の出来る頃にほぼ相当しているが、ティロパの生涯と遍歴はけっして華やいでもいないし盛大でもない。しかしおそろしいまで彼の世界は深く「マハー」であったようだ。
その「マハムドラーの詩(うた)」をいますぐ此処に挙げるのはいとも容易だが、かえって読者を困惑させるだろう「マハムドラーのうた」はけっしてけっして容易なものではないのだから。バグワンはそれを、滾々と湧く叡智そのものでさらに大きく説き証してくれている。
それはそれとして、「マハー」は、偉大な巨大な深遠な宏遠な意味合いであることは、ま、知る人は知っている。「マハ」と冠した「ムドラー」とは、では、ということになり、ひとつここを間違うと、わたしはティロパもバグワンもを損ないかねない。しかし、大胆に、ひるんだりおそれたりせずバグワンの言葉に耳傾けてわたしは聴いてみよう。じつは、わたしはバグワンにこう聴くより以前からこれの幾分かを直観し実感していた。
☆ バグワンに「マハムドラー」を聴く。『存在の詩』より
スワミ・プレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら。
ティロパは繰り返しうたう、”マハムドラーに於いて、人の持つ一切の罪は焼かれ”と。
この何度も何度も出てくるマハムドラーとはいったい何だろう?
何が起こるのだろう?
マハムドラーとは
そこにおいておまえが「全体=全世界」と分離していない実存の一状態だ
マハムドラーとは
「全体=全世界」とのふか~い性的オーガズムのようなものだ
ふたりの恋人が深い性的オーガズムの中にあるとき
彼らは互いに溶け合う
そのとき女はもう女でなく,男はもう男でない
彼らはちょうど陰陽の環のようになって
互いの中にはいり込み
それぞれのアイデンティティー(自己主体)を忘れて
互いの中に出会い,溶け去る
愛がかくもビューティフルなのはそのためだ
この状態が「ムドラー」と呼ばれる
オーガズミックな交合のこの状態が「ムドラー」と呼ばれる
そして〈世界全体〉との最終的なオーガズムの状態が
「マハムドラー」と呼ばれるのだ
大いなるオーガズム──
オーガズムの中では
さしあたって、性的なオーガズムの中では、いったい何が起こるのだろうか?
それをおまえは理解しているか
何が起こるのか?
オーガズムは、彼らがまだまだ恋人でない限り、
夫婦の間にはほとんど決して起こらない
しかしそれは可能だよ
おまえがたが夫婦であって,同時に恋人であることはできるから。
おまえは自分の奥さんを恋人のように愛することはできるし
そうなれば話は全然別だ
それならば結婚とて、強いられた制度でも強いられた現象でもない
東洋では何千年もの間
結婚という制度が強制的に存在していたために
人々は完全に性のオーガズムの何たるかを忘れ去っていた
それは事実だ
何人かの西洋の女性たちが
ほんのここ、まあ七、 八十年というところだろう
オーガズムというものが何か達するに値するものだということに気づいた
それ以外の多くの女性たちは
彼女らがそのからだの中に
オーガズムという何らかの可能性を備えていることを永く永く全く忘れ去っていた
これは、人類に起こり得ただろう中でも最も不幸なことのひとつだ
そして女がオーガズムを持てないとき
男もまた本当にはそれを持つことはできない
オーガズムとは「ふたり」が「ひとつ」になる出会いだからだ
ふたりでこそ
彼らがお互いの中に溶け合ったときそれを持つことができる
それはひとりが持てて
もうひとりが持てないかもしれないようなものじゃない
それはあり得ない
射精は可能だ
慰めは可能だ
ただしそれはオーガズムじゃない
オーガズムとは何だろうか?
オーガズムとは,おまえのからだが
もう物質としては感じられないような状態のことだ
それはエネルギーのように,電気のように震動する
それがまさに根底からあまりにも深く波打つために
おまえはそれが物質的なものだということを完全に忘れてしまう
それは電気的な現象と化している
事実,それは電気現象なのだ
いまや物理学者たちは
物質というものは無いと言っている
一切の物質はただの見かけにすぎない
奥深いところでは
<存在しているそのもの>は、電気なのだ
物質じゃない
オーガズムにおいて
おまえは,もう物質というものが存在していない
肉体のこの最も深い領域へと降りて来る
ただのエネルギーの波
おまえは舞い踊るエネルギーとなる
波打ち──
もうなんの境界もない
脈動する──
が,もう実体を持っていない
そして相手の恋人(=愛し合える妻や夫も) また脈動する
で,だんだんと
二人がお互いに愛し合い
お互いにいっさいを分かち合い
脈動の,波動の,エネルギーであることの
この瞬間にいっさいを与えきって
そしてそれを怖がらなければ
──というのは,それはまさしく「死」のようなものだから──
からだが境界を失い
からだが蒸気のようなものになり
からだが実体としては蒸発してしまい
ただエネルギーだけが残るとき──
ひとつのごく微妙なリズムだ
──ただしそれはまるで自分がいないかのようだ
ただ深い愛の中でしか人はそこにはいり込めない
その愛こそはまさしく死のようなものだ
自分を肉体だと思っている限りにおいておまえたちは、あたかも、死ぬ
からだとしてのおまえたちは死ぬのだ
そしておまえたちはエネルギーとして
ヴァイタルなエネルギーとして昇華する──
そして妻と夫が
あるいは恋人同志が
あるいはふたりのパートナーが
ひとつのリズムの中に波打ちはじめるとき
彼らの心臓の鼓動も,彼らのからだも「ひとつ」になり
ひとつのハーモニーを創り出す
そのとき──叫びのように
オーガズムが起こる
そのとき、おまえたちはもはや「ふたり」ではない「ひとつ」だ
男が女の中にはいり込み
女が男の中へはいり込む
いまや彼らは環だ、輪だ。
そしておまえたちは「ひとつ」のまま震動する
脈打つ
おまえたちのハートはもう別々じゃない
鼓動はもう別々じゃない
ひとつのメロディー・ひとつのハーモニーとなる
それは世に存在し得る最も偉大な音楽だ
ほかの一切の音楽など、これに比べたら顔色なしだ
ふたつのものがひとつになって波打つこの震動を
オーガズムと言う
同じことがほかの人間とではなく
存在全体との間で、世界そのものとの間で、起こるとき
それが「マハムドラー」だ
「大いなるオーガズム」だ
信じるがいい
それは起こり得る、それは起こる。
私はおまえたちに,そのマハムドラーが
大いなるオーガズムが可能となるように
話してあげたいと思う。
* わたしは、若い日々に、若くてまだ健康であった妻とのあいだで、バグワンの語る「ふたつ」が「ひとつ」に化る「死」にも同じい「生」のハーモニーを、確かに何度も聴いたことがある。忘れていない。だから、バグワンのことばは大きな譬喩、豊かな譬喩、力に満ちた譬喩として素直に聴けた。有り難いと思った。「存在」という「全体」との、「世界」という全体との、「マハムドラー」の「起きる」のを、だから、わたしは「期待」として信じ持つことは出来る。わたしは待っている。
2011 10・10 121
* バグワンに聴く。 『黄金の華の秘密』より
スワミ・アナンド・モンジュさんの翻訳に拠りながら。
人間は機械だ。機械に生まれついたわけではないが、機械のように生きて、機械のように死んで行く。社会によって、国によって、組織化された教会や寺院によって、既得権益を有する者達によって、比喩的に謂うのだが、催眠術にかけられているからだ。社会は奴隷を必要とする。社会の一員となり文明を身につけるプロセスというのは、すべて深い催眠術に他ならない。
おまえは自分の内にある肉体以上の何かを知っているだろうか。生まれるよりもまだ先に自分の中にあった何かを観たことがあるだろうか。
人間は不死の存在たりうるが、肉体と同一化しながら生きているために、死に囲まれて生きている。社会はおまえが肉体以上のものを知ることを好まない、いや許さない。社会が興味をもつのは知能も含めておまえの肉体だけだ──肉体は利用できるが、魂は社会のためには危険なのだ。魂の人はつねに危険なのだ、なぜなら、魂の人は一個の自由人だからだ、社会は彼を奴隷に貶めることが出来ない。魂の自由人は単に機械である人間達がつくりあげた社会、文明、文化の構造に拘束されない、拘泥しない、それらに仕えねばならぬとは考えない。考えないで済ませうる自由を生きている。それらのものが謂わば監獄であることを本質的に見抜いている。彼は群衆の一部ではありえない、彼は個として存在し、それらの監獄様のものをべつの生命として個のために活かそうとするしそれが出来る。
肉体は機械化した群衆の一部だ。だがおまえの魂はそうではないし、そうであってはならない。その魂は自由の香りを帯びている。
社会からすればおまえが魂であろう、魂を得よう観ようとし始めたら、たいへんな危険だ。社会はおまえの生のエネルギーがただ外へ外へ流れ続けて欲しい。金や権力や名声や、そういったものに興味を持ちそれらに奉仕し跪いていつづけて欲しい。社会はおまえが生の内側に入って行くことをどうかして妨げたい、そしてその最良の方法は、自分は内側へ向かいつつある、入りつつ有るという偽りの仕掛けをおまえに提供することなのだ、ここに、じつに難儀なトリックが無数に考案される。はっきり言う、巧妙で偽善そのものの落とし穴、罠だ。観てごらん、どんなにそれが多いか。
* わたしは映画「マトリックス」をありあり想い浮かべる。
2011 9・29 120
* 「おまえは催眠術にかけられているから」「おまえは条件づけられているから」催眠を解くプロセスを通りぬけ、条件づけを解かねばとバグワンは云う、「死がやって来つつあるのだということを覚えておきなさい」と。「死は、 今日は起こらないと考えてはいけない、死はいついかなる時でも起こりうる。実際、全てのモノゴトはつねに、今起こる。すべてのモノゴトは今この瞬間がもたらす空間でのみ起こる。過去では何も起こらず、 未来では何も起こらない。現在が存在する唯一の時間だから。過去とはおまえの記憶、未来とはおまえの空想に過ぎない。」
どうかして過去の黄金時代へと人を導く宗教があり、どうかして未来の黄金時代へ誘いたがる主義者たちがいる。彼らは相反した思想や思い込みに抱きついたまま、けっして「いま・ここ」に生きなさいとは教えない。しかし今ここを生きる以外に生はない。だがそうするためには、かけられた催眠を解かねばならぬ。「おまえは機械でなく、人間だ、おまえは意識的にならなければ危ない、なのに、 意識的でない」とバグワンはわたしを叱る。「この七十何年、おまえは夢遊病者のように生きてきた、夢をみたまま、おまえは一度も生きていなかった」と。
人は一瞬一瞬を──それが生の瞬間であろうが、愛の瞬間であろうが、怒りの瞬間であろうが、死の瞬間であろうが──生きなければ。それが何であろうと、 人は一瞬一瞬を可能なかぎり意識して生きなければならない。
「おまえは上の空でぼんやり生きている。どうしてまわりへの留意をそこまで欠いたまま生きてられるのだろう、留意の欠けた状態は、闇だ。留意は光だ」と、バグワンはわたしを叱る。
* わたしは元気でない、今。頭をとりかこむように薄暗い膜がかぶさり、出来るなら眠っていたくなる。
2011 10・19 121
* 六時ごろから寝付けなくなり、そういうときは、手を延ばせば届く書架から本を抜き出す。
「源氏物語 若菜下」では優麗かぎりない六条院での「女樂」や、その後に続く光と夕霧との、また紫上との、音楽演奏等についての美しい対話を楽しんだ。そして「栄花物語」は御堂関白道長造営のいわゆる「御堂」の豪奢と不思議を経て、巻第十九へ移った。
「ジャン・クリストフ」では、知り合い親しくなった女優とクリストフとの一風ある「人間的」な交際・恋愛が生き生きと面白く進む一方、「谷間の百合」では、モルソフ夫人アンリエットの、フェリックス子爵に対する深い深い絶望と失恋・嫉妬の間近な死へ、のっぴきならない悲歎のさまが物語られて行く。
チェーホフの短篇「ライオンと太陽」も、おみごとという切れ味。そして今、もう一編、瀟洒に巧まれたフランス文学、パトリック・モデイアノの『ある青春』に乗っている。作品の風味も色彩も初体験のような気がする。
このところ妙薬の美味を味わうように、大西巨人さんに戴いていた詞華集『春秋の花』を、数頁ずつ翫味し嘆賞している。本の表の見開きには、巨人さん自筆の住所と献辞とが貼り込んである。
しみじみ佳い本である。
そして、バグワン。
* それだけで終えても、一冊ずつの読み時間が長くなり、時計を見ると八時を過ぎていたので起きた。
2011 10・20 121
☆ 酒を飲む 二十首 陶淵明
余閑居して歓び寡く、兼ねて秋の夜
巳に長し、偶々名酒有り、夕べごと
に飲まざるは無し。影を顧みて獨り
尽し、忽焉として復た酔ふ。既に酔
ふの後、輒ち数句を題して自ら娯し
む。紙墨遂に多くして辞に詮次無し。
聊か故人に命じて之を書せしめて以
て歓笑と為すのみ。
其五 其の五
結廬在人境 廬を結んで人境に在り、
而無車馬喧 而も車馬の喧しき無し。
問君何能爾 君に問ふ何ぞ能く爾(しか)る、
心遠地自偏 心遠ければ地自(おのづか)ら偏たり。
採菊東離下 菊を東籬の下に採り、
悠然見南山 悠然として南山を見る。
山気日夕佳 山気 日夕佳なり、
飛鳥相與還 飛鳥 相與(あひとも)に還る。
此中有眞意 此の中に眞意有り、
欲辯已忘言 辯ぜんと欲して已(すで)に言を忘る。
詩意 わが廬(いほり)は、深山の奥でもなく、矢張、人間の境に在るが、しかし喧しき車馬の声も聞こえない。そは、何故かといふに、我が心、世を厭離したから、たとび、喧境に居ても、偏僻の地も同様に思ふからで、何事も心の持ち様次第である。かくて秋の日東の籬の下に咲き匂ふ菊を折り、ふと首を挙ぐれば、ゆくりなくも、南山が目の前に見えた。その南山の山気は、朝夕翠にして、景色えもいはず、鳥は暮になれば自ら飛び還るので、あらゆる物は、その天性を得て、毫も係累なく、身、亦た其中に在れば、さながら、宇宙枢機の一端に接触したるが如く、かくて我、試み個中の眞意を述べむと欲するも、吾自ら眞意に入り、その言を忘却して、復た言ふことが出來ぬ。
余論 採菊の二句は、この詩の生命で、東坡は、之を解して「採菊の次、偶然山を見る、はじめより意を用ひずして、景、意と會す」といつた。即ち期せずして、天我契合の聖境に到達したので、田園詩人たる陶淵明の本領は、まさしく、此辺に在る。
* 詩は岩波文庫『陶淵明集』で幸田露伴・漆山又四郎に随い、詩意以下は『古文真寶新釈』前集で久保天髄に聴いた。
この詩を高校に入って漢文の教科書で読みまた習ったときの新鮮な感銘を、昨日のように忘れない。云うまでもない、「菊を東籬の下に採り、悠然として南山を見る。」「此の中に眞意有り、辯ぜんと欲して已(すで)に言を忘る。」に、肺腑を、こよない憧れと共に衝かれた。
以降数十年、思い屈する時にも日にもこの詩句に還ろうともがいてきた。
ティロパの歌う、バグワンのかたる「マハムドラー」を、陶詩はうたっていた。「期せずして、天我契合の聖境に到達し」ていたのだ。読者はわたしの「 湖(うみ)の本」 の裏表紙に、井口哲郎さんに刻して戴いて、「帰去来」三字の印してあるのをみられるであろう。
2011 10・21 121
☆ バグワンに聴く 『存在の詩』より
スワミ・プレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら。
小さな教えはおまえに
何をし、何をすべきでないかを教える それだけだ
彼らはおまえに「十戒」をあたえ「百戒」もそれ以上も用意している
「これをしろ、あれをするな」
小さな教えだ
大いなる教えはどんな掟も与えたりしない
おまえが何をするかなどに構いはしない
おまえが何で在るかに関わる
おまえの実存Being
おまえの中心Center
おまえの意識
大事なのはそれだ
ティロパは言う
「小さな教えの餌食になるな」と。
見るがいい 大勢がそれだ
* むかし、全身に小さい真っ黒いピンが刺され、痛みに追われて人は日々奔走していると愚痴を漏らしたことがある。バグワンの謂う「小さな十戒、百戒」がその「真っ黒いピン」なのではないか。 2011 10・22 121
* バグワンは、身体の不調に受け身で苦しむより、苦痛じたいを冷静に観察するがいいとどこかで話してくれた。
誰に聞いたのだろう、解体新書の著者の一人は、晩年の日記を、体調違和の精緻なほどの記述に費やしていたそうだ。バグワンの謂うように、向き合っていた、のだろう。
プラトンの『国家』には豊富なオドロキを恵まれたが、そのトッパナで、人は健康によく生き、もし病気になれば、天然自然の意志をと受け入れ、医療のような不自然にはしらず死んで行くのがいい、といったことが語られていてのけぞるほど愕いたが、正しいとは言えないにしても一つの考え方だなあと、感嘆にちかい思いをしたのを覚えている。
2011 10・28 121
* 「鳶」さんの送ってくれたたくさんな本は、わたしの望みでもあったが、皆、幻想的なフィクション。いわゆる、ファンタジイ。中でも、念頭にあったためか、浩瀚な三部作で知られている『指輪物語』第一部上巻に、もうずぶと入り込んでいる。久しく繰り返し熱愛してきた『ゲド戦記』や『イルスの竪琴』の先駆作のように想像される導入のようで、懐かしみを感じる。大冊なので。外出時にも持ち歩ける文庫本でも気に入りを見つけておきたい。
『ライラの冒険』など、文庫本が六、七冊も送ってもらった荷に入っていた。ライラの『黄金の羅針盤』から読み出すだろう。
ル・グゥインの『ゲド戦記』には、明らかにバグワンの講話と通底する深い宗教性があってわたしを揺るぎなく引き付けるし、マキリップの長篇にも独特の世界観とともにそれがあり、ともに「他界」の魅惑に溢れている。『指輪物語』からもそうした深さや懐かしさが汲み取れるのを期待する。
最近ではよく『ハリーポッター』というのを耳にしていたが、知らない。原作も読まずに映画を観るのは遠慮した。だれだかの解説の中に、「ハリーポッター」と『ゲド戦記』とは両極の位置関係、としてあった。両極の意味は不明だが、あれほど『ゲド戦記』に心酔してきたのだから、「ハリーポッター」は喰わず嫌いに終わるのかも知れない。わたしが「他界」度の豊かな幻想的なフイクションに求めるのは、不壊の値で惹きつける、宗教性の豊かな「死生観」。
当分の間、「鳶」さんからの本を堪能するほど楽しませてもらう。むろん、毎日の読書のその上に、である。
源氏物語は、長篇「若菜」巻の下を。栄花物語は「御堂」道長の栄華の極みを。チェーホフは、チェホーシャからチェーホフへ飛躍してゆく時期の諸短篇を。ジャン・クリストフは、妻と離別してきたオリヴィエの再生がいましも語られている。瀟洒な、苦みにも富んだフランス現代文学、パトリック、モディアノ作の『ある青春』も軽妙に佳境を辿っている。
他方、北朝の意地に生き抜いた名子日野氏の『竹むきが記』を論じる歌人井上美地さんの追究も深まり、角田文衛博士の平安女性像彫琢も、当然のこと、たっぷり読み応えがする。さらに加えて、東大上野千鶴子教授に「挑む」門弟方の社会学も、我ながら地道に飽かず読み進めている。
高麗屋の手記はおもしろく興深く読了し、大西巨人さんの詞華集は「二度め読み」を楽しんでいる。
そしてバグワン。機械の前へ来れば、陶淵明や白楽天や『古文真寶』『老子講話』が疲れを癒やしてくれる。気の乗った読書とは、えもいわれぬ「美味」そのものである。幸い手近に美酒もある。
2011 11・3 122
* 無事に『指輪物語』文庫本九冊 今日頂戴。感謝。 鴉
昨日の夕過ぎに届いていたのですが、雨の中、留守にしていました。
おかげで、引き続いて読めます。訳もよく、楽しめます。ファンタジイに没頭していると、ますます世離れて行きそうですが、わるくは思いません。
ぜんたいに、いま、心身活気が無く、本にも誘惑され、ともすると横になって読んでいます。睡魔も容赦なく襲います。
萬里路長在 六年今始帰 所経多旧館 大半主人非 白居易
当時歌舞地 不説艸離離 今日歌舞盡 満園秋露垂 無名氏
ついこういう詩に目が留まります。秋心ですかね。
バグワンは言ってくれます。じっと聴いています。
おまえは内なるものへと足を踏み入れなくてはいけない
現実リアリティはそこにある
おまえはもっともっと深く
おまえの実存の深みへ降りて行かなくてはならない
それが何であれ自分がいまいる場所を
いまの自分を
そして自分に起こっていることのすべてを受け容れてごらん
それではじめて
おまえは「ゆったりと自然に」なれる
さもなければそれは空念仏にしかすぎない
無理をしたり
自分の実存の中に緊張をつくろうとしたりしないこと
リラックスだ
ゆったりと自然にしていれば
間もなくおまえは
存在とのオーガズミックな絶頂( マハムドラー) に至るだろう
それはおまえに起こるのだ
達成できるものじゃない
それに手を伸ばすことはできない
それのほうがおまえのところへやって来るのだ
おまえはただ受け身で
ゆったりと自然にして
そして、しかるべきときを待つことができるだけだ
何ごとにもその時機というものがある
それはその時機に起こる
なんで急ぐ?
それはおまえに用意のできたとき不意にやってくる
足音さえ聞こえない
突然来る
おまえにはそれが来ていることさえもわからない
それが花開くと
突然、おまえはその開花を見
芳香に満たされる
2011 11・12 122
☆ バグワンに聴く 『存在の詩』より
「おまえの心」は
ちょうど曇り空みたいなものだ
雲が動く
雲は、うしろに隠された空が見えなくなるほど厚くもなれる
空の巨きな青さが失われ
おまえは雲に覆われる
そんなときでも,じっと見守り続けてごらん
ひとつの雲が動くーー
ほかの雲はまだ視界にはいって釆ないーー
すると突然
巨大な空の青さがのぞく
同じことがおまえの内側でも起こる
おまえは空のその巨きな青さだ
そして思考はちょうど雲のように
おまえのまわりを徘徊し
おまえをいっぱいにする
だが、切れ目は存在する
まぎれもなく存在する
その切れ目の空を一瞥することを 〈さとり〉と謂う
そしてその〈さとり〉の空になりきってしまうのが〈サマーディ 三昧・絶対の覚醒境〉だ
(さとり〉から〈サマーディ〉まで
そのプロセスの一切は心への深い内観ーー
それに尽きる
心は一個の実在として存在しはしない
これがまず、ひとつ
ただ思考が存在するだけだ
ふたつめは
その思考というものがおまえと離れて存在するということ
れれはおまえの本性とひとつであるのじゃない
彼らはのべつ往き来する
が,おまえはとどまる
おまえは持続する
おまえは無垢で不動の青空のようなものーー
決して来たらず,また去りもしない
それはつねに今・ 此処にある
雲とおなじ、 思考たちは来ては,また去って行く
雲も思考もみな一時の現象だ
永遠じゃない
来ても去らないわけにいかないのだ
屋考はおまえのものじゃない
おまえに属するものじゃない
たんに訪問客として訪れる
ゲストだ
しかし彼らはあるじじゃない
深く見つめてごらん
そうすればおまえがあるじだと知れる
思考はお客だ
お客としてならば,彼らは素晴らしい
だが,もしおまえが自分が主人であることを完全に忘れて
かわりに雲のように去来する思考があるじになってしまおうなら
そのときおまえは混乱におちいる
それが地獄というものだ
おまえがく家〉のあるじなのだ!
その〈家〉はおまえのものだ!
それなのに,お客が主人になってしまった
お客を受け容れ,面倒を見るのはいい
彼らといっしょくたになってしまっては駄目だ
心が難問となるのは
おまえが思考というものをあまりにも内面深く取り込んでしまい
彼らは訪問者であって
来てもまた去るのだというその距離を完全に忘れてしまうからだ
つまり同一化ーーそれは病気だ
必要なのは、 一つ
来てもまた去ってしまうものと同化しないことだけだ
2011 11・14 122
* そして、バグワン。バグワンに聴いて深く頷いたことのたくさんあるなかで、彼が人それぞれ「内奥無比」の「実存」の本質を「鏡」に譬えて、「それは何であれその前に来るものすべてを映し出す」と示唆してくれ、
「病いがやってくる あるいは健康がーー 空腹や満足 夏や冬 幼年期に老年 生と死 そこに起こることがなんであれ それは鏡の前で起こるのだ 決して鏡そのものに起こるんじゃない 鏡はそこで起こっている何事とも同化・同一化しない」
と云いきって呉れたのは、とりわけ肯きやすかった。嬉しかった。
☆ バグワンにもう少し聴こう。
ものごとはやって来ては過ぎて行く
鏡は無垢で からっぽで 空のままだ
これがティロパの謂う無自己だ 鏡には同化されるような自己 夢でしかない自己は、無い
これはきれいだのあれは汚いだのと言いはしない
鏡は映すだけ
解釈したりはしない
鏡は何も言わない ただ見守って映すだけ
鈍な区別も差別もなくーー友であれ敵であれ
そうだ鏡にはなんの過去も未来もない にんの選択もない
鏡は選択しない
2011 11・23 122
* 寝入る前にたくさんを読み、夜中に二度目覚めてまた二度読んでいた。
角田博士のものはずいぶんとお世話になった思い出の「建礼門院の後半生」を読み上げ、「池禅尼」を半ばまで。なまなかの小説などよりこれら人物論攷の精微なおもしろさに掴まれてしまうと、巻を擱くことができない。
源氏物語は「柏木」巻をしみじみと読み終え、「鈴虫」に入っている。わたしは、やや副主人公めくものの「夕霧」という貴公子が性格的に好きである。めったに崩れないひとだが、柏木未亡人の落葉宮に血迷って行くこれからの暫くが、よしよしと頷けてむかしから大いに許容している。少なくも筒井筒の雲居の雁、五節の惟光娘、そして落葉宮の三人の妻をもつようになる夕霧だが、それぞれの出逢いや結ばれに物語としての変妙があり、作者の配慮に感嘆する。
夜前から、チェーホフの完成期の戯曲群を、第一番に「イワーノフ」を読み始めた。
読み物ではない、評伝『ゲーテ』もじつに面白い、ことにゲーテとヴァイマール公国との出会いなど、ずいぶん何も予備知識無くゲーテを読んでいたものだと、軽い惘れさえ感じるほど。岩橋さんの評伝『野上弥生子』も面白かった。「人」のはなしは、なんといっても好奇心も手伝いおもしろいのは当たり前なのだろう。
ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』には目下その過剰な議論に難渋しているけれども。
バグワンは、あらゆる意味で別格に大事に読みやめることがない。
大西巨人さんの撰になる詞華集も、味わい尽きず繰り返し読んでいる。
そして「上野社会学」も、栄花物語も。また読みかけたのだからと、『小説・日本銀行』も読んでいるが、これは、やや気疎く感じている。
このところ読書の本命は、ファンタジィ数種のなかの、抜群『指輪物語』で。夜中につい電灯をつけてしまうのも、これが読みたくて。この三四日の盛り上がりはすばらしい。この世界へ没頭して行くと、もろもろの現世の汚濁を忘れる。ほかに『風の声』『ライラの冒険』『ヨナタンの杖』なども読んでいて、そこそこ面白いがトールキンの『指輪物語』は断然引き離している。おそらく『ゲド戦記』『イルスの竪琴』にも優るとも劣らぬ愛読書となるにちがいない。
2011 11・29 122
* 夜前は、晩の内にはやく、寝つぶれるように寝入り、日付の変わる頃に目覚めて少し読書してから寝、三時頃にまた続きを読んでから寝た。朝寝に慣れてきているのは、生きようが淡くなりかけているのか。只怠けているのか。
自身の生本来に怠け性のあることに、わたしは国民学校のときから気付いていた。仕事はできるだけ早く集中して済ませて半時間でも長く遊びたい自分に気付いていた。だから、いつのまにそんなにたくさんな仕事が出来るのかと不審がられるほど、勤め人のころも物書きになってからも人に言われたが、要するに早く怠けて遊びたかったのが本音だろう、しかし遊んでなどおれなかった、東工大に行っても、ペンの委員や理事になっても。
よほど仕事していることが好きなんですねと言われ、自分でもあわやそうなのかなと思うほど寝食を忘れて多年過ごしてきた。わたしたちが、比較的ゆるやかにこの頃の日々を過ごせたり、先立つ五年の惨苦を集中して戦い抜けたのも、その余録で可能だったのは間違いない。いま、ようやく怠け性の天性を我が手にとりかえしているのだなと思う。
* 「病葉 わくらば」は感じにすると禍々しいが、存外に美しいと観ている眼もあるだろう、「紅葉舞秋風」の一行軸を最近ひとさまに譲ったが、日本人のことによろこぶ紅葉や黄葉もあれは「わくらば」の生態ではあるまいか。そして散り果てて行く。人もそれぞれに人生のわくらばで身を飾りしかもことごとく散らして冬を迎える。迎えているとわたしは自覚している。秋風が散らしてくれることも、自らの意志で振り払うときも、ある。身の回りを整理し始めていますのでとお便りのある例が、とみに増えている。むろん若い人たちではない、高齢、後期高齢の人たちだ、わく分かる。
人は、広い広い海に、我独りの足二つしか載せられない小さな小さな島に投げ込まれて、つまりこの世に生まれてきた。原点の本生だ。ただ、 不思議の愛と共感とだけがこの極小の島ひとつに、二人で三人で五人で十人やそれ以上にも載って生きているという高貴な実感・錯覚をゆるしてくれる。人生終晩の「整理」とは、つきつめればその「錯覚」の「実感」を確認する作業にほかならなう。
* 「バグワンて私」という二冊を送り届け、深く思い当たったような人もあり、戸惑って散っていった人もあった。バグワンが「秋風」の役をしてくれたとも謂える。バグワンとは、「錯覚の実感」をたしかめる試験液か。この数日も、むろんバグワンの声にわたしは聴いていた。聴き直していた。
☆ 真理は発見じゃない。 バグワンがタントラを語る『存在の詩』より。
スワミ・ブレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら
真理は発見じゃない
それは再発見だ
それははじめからすでにそこにあった
おまえがこの世界にやって来たとき
それはおまえとともにあった
おまえがこの世に生まれ込まれたとき
それはおまえとともにあった
おまえがそれなのだからーー
それはおまえに内在する
(ことわるまでもないが、ここに謂われる真理とは科学的な真理ではない。人間存在の真理、私は何か、人間とは何か、実存の真理である。 秦)
何度でも何度でも自分に言い聞かせなさい
おまえが何を修行しようと
それは小さな心の 分別や知解の一部分にしか過ぎないと
外なる周辺部に過ぎぬと
修行もいい 何も悪いことはない
実存に至りつきたいという
すべてのテクニックは役に立ちうる
が、みな暗中の手さぐりでしかない
言葉の最終的な意味において
おまえは深く静かに観照し観照するのだ ただひたすら
それはいかなね意味でもテクニックではないぞ
観照しそして覚醒せよ
最後には、おまえは笑うだろう 笑って至るだろう
それは観照し観照した最後になって「起こる」ことだ
早合点するな 最初から起こるのではない
再発見するのだ
裸眼で見つめなさい 知識では見えない
根を断て
裸眼で見つめると謂うことこそ 鋭い剣のような働きをする
あまり急ぎすぎたり
覚者ティロパの劇薬をあわてて飲み過ぎたりしたらかえって苦しむだろう
ゆっくり進むがいい
* わたしは分かっていない。いいのだ。わたしはまだわたしに出会っていないが、再発見していないが、ゆっくり行く。
2011 12・6 123
* 翌日に出掛ける予定のない前の晩は、心おきなく本が読める。眠れなければ夜中にも読める。源氏物語とバグワンとが、通例の芯になり、疲れていても各自に先に読む。いま最後の最後の楽しみは『指輪物語』でもう第三部上巻の半ばに来ている。古来古典の十指ないしは番外三作の一に数えたいほどの名作であり、興趣も津々、「鳶」さんのはからいで出会えたのを心より喜んでいる。まだ数百頁のこっていて、もう残り惜しくさえ有る。
2011 12・15 123
☆ バグワンに「静寂」を聴く。
静寂だけでは駄目だ
それは、静寂というものが
生ではなく死の性質を持っているからだ
おまえの過剰な人生とのかかわりあいから
数日間、数瞬間脱け出して静かになるのはいいことだ
おまえはそれを楽しむ
しかし、永久に楽しむことはできまい
すぐにおまえはこれだけじゃ足りないと感じるだろう
これは滋養にならない、と
静寂はおまえを不幸や幸福や興奮から護ってはくれる
だが、その中にはなんの滋養もない
それは消極的な、ネガティヴな境涯にすぎない
* バグワンは「ナミ」の心をもった人間に三つの境涯を指摘し、さらに第四の優れた境涯を示唆している。
第一は、熱病のように「絶えず<もっと>を求めている」が、「それには、きりがない」。比喩的には、彼らは絶えず「食べ」続けている、ものも人間までも。そして互いに「食い合って」いる。「もっと」は、当然にも「満たされ得ない」。だからこそ「もっともっと」が尽きないのだ。哀しみと不満とに付きまとわれる。
第二は、いわゆる宗教家らにみられ、実は第一の裏返しに過ぎない。一見「ナミ」ならぬようで、やはり「ナミ」に過ぎぬ。彼らは「与えよ、分かち合えよ、捧げ出せ、寄附せよ」と教え続ける。これも「もっともっと」と同じだ。そしてそんな「もっと」も尽きてしまう。所詮は不可能の悲しみと不満とへ突き当たる。第一の「もっと」と第二の「もっと」は、質的に同じだ。
第三は、心じゃない、 無心の境涯だ。そして、 欲しいとも与えよとも謂わない、そんなことに「無関心」だ。力点は「無所有」にある。求めも与えもしない、所有すべきでないとする境涯だ。「おまえは物や人を所有しようとすべきじゃない」「 所有の世界からドロップアウトするのだ。取るか与えるかなどという問題じゃない。」「おまえはこの世界に何も持たずにやって来た、無一物で。そして無一物でこの世界から出て行く。所有すべからず、無所有の常態であれ。」
☆ かくてバグワンは言う、
この第三の境涯にある人は、静かだ、穏やかだ、
しかも 彼にはうわべの上機嫌とはちがう、深い充足がある。
顔には笑いさえ見当たるまい。
幸福でも不幸でもない、もちろんだ。ただ、やすらいでいる。
これがアナシャクティ=離脱、無関心だ
だが、それでも彼らの力点はなお「もの」に置かれている
物や物の世界に無関心であり、無執着だ、が、
あくまでも物に応じた離脱、無関心だ
他に応じた無心だ
静かではあるが生きていない
その静かにも、第一第二より格別とはいえ、真に生き生きした滋養がない
第四の境涯が、おまえの行く手にあると知りなさい。
* しずかにありたい、無心にありたいと願ってきた。それも叶わないのに、まだその先があると。おお。
* 絵本作家の田島征彦さんから新刊の絵本と手紙を貰った。
2011 12・19 123
* バグワンが、ティロパの「存在の詩」を語りながら、人の最上最深に到りつく「第四の境地」を語るのに、耳傾けて聴いている。
そろそろこの辺で、その千年も昔に覚者「ティロパ」が最良で只一人の弟子ナロパに与えたという「詩」を、バグワンの、そして訳者スワミ・プレム・プラブッダさんの言葉で、まとめて読み返してみる。理解を助けるかどうか分からないが、その前に、わたしがさきの『光塵』のあとがきに書き入れていた「ムドラー」と「マハームドラー」ということを挙げておこう。
* スワミ・プレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら、彼らに聴いてみる。
( バグワンは説いている=) マハムドラーとは「全体=全世界」とのふか~い性的オーガズムのようなものだ
ふたりの恋人が深い性的オーガズムの中にあるとき彼らは互いに溶け合う そのとき女はもう女でなく,男はもう男でない 彼らはちょうど陰陽の環のようになって 互いの中にはいり込み それぞれのアイデンティティー(自己主体)を忘れて互いの中に出会い,溶け去る 愛がかくもビューティフルなのはそのためだ この状態が「ムドラー」と呼ばれる 死とも重なるほど オーガズミックな交合のこの状態が「ムドラー」と呼ばれる
そして〈世界全体〉とおまえ自身との大いなるオーガズムの状態こそ、「マハムドラー」と呼ばれるのだ
(秦は、思う=)「採菊東離下 悠然見南山」と陶淵明の詩に見られる「天我契合の聖境」と(上の、マハームドラーとは=)一つであろう。李白の「( 衆鳥高飛盡 孤雲獨去 ) 相看両不厭 只有敬亭山」も、また然らずや。だが、わたくしに「マハムドラー」(=の小説はまだまだ)は書けない。幸いまだ若い日々の幸せな覚えの身内に在るのをさぐりつつ、わたくしの「老いの性」「男女の性」を、妄想し構想し遂げておきたいと願っている、谷崎とも川端とも、また中村光夫とも異なって。生命力は明らかに減じている。生きて甲斐ある「日本の今日」かと問えば、内心はためらいなくノーと答える。足りないモノは足りないまま、もう、このままでよい。しょせん独りしか立てないちいさな「島」に生まれきて、幸い何人もの人たちと立てているのなら、それ以上を望まない。望むな、という奥深い声に聴いている。
☆ マハムドラーの詩 ティロパ(988 ~1069)
マハムドラーはすべての言葉とシンボルを超越せり
されどナロパよ、真剣で忠実なる汝のために
いまこの詩を与うべし
「空」は何ものも頼まず
マハムドラーは何ものにも依らず
また労せず
ただゆったりと自然であることによりて
人はくびきを打ち壊し
解脱を手の内にするなり
もし中空を見つめて何も見ず
そのとき心をもって心を観ずれば
人は差別を打ち破り
ブッダフッドに至るなり
空をさまよう雲には
根もなくまた家もなし
分別の思いの
心を漂いよぎるもまたしかり
ひとたび「自性心」の見らるることあらば
識別は止まん
空間に象と彩の生ずることあれど
そは黒白に染まらず
万物は「自性心」より出で
しかも心は善悪に汚さるることなし
長き時ふる暗闇も
灼熱の陽を覆うこと能わず
カルパにわたるサムサーラ(輪廻)も
「心」のまばゆい光を隠すことを得ず
「空」を説くに言葉の語らるることあれど
「空」そのものは表わされ得ず
”「心」は輝ける光のごとし”と言うも
そはすべての言葉とシンボルを超越せり
本質に於いて空なれど
「心」は万物を抱き、そして容るるなり
からだに於いては何もせずにくつろがせ
口を堅く結びて沈黙を守り
心を空しくして何ものも思わざれ
中空の竹のごと汝のからだをくつろがせ
与えずまた取らず、汝の心を休ませよ
マハムドラーは何ものにも執着せざる心のごとし
かくのごとく行ずるによりて
やがて汝はブッダフッドに至らん
真言、波羅蜜多の行
経文、訓戒の示すところ
宗門、聖典の教えも
甚深の真理の実現をもたらすことなし
欲望に満たされし心の
目標を追わざるを得ざれば
そはただ光を隠すのみなるがゆえに
いまだ識別を離れずしてタントラ教理を持する者
サマヤの精神にそむくなり
すべての行動を止め、すべての欲望を避けよ
あらしめよ、思考の
大海の波のごとく浮き沈むがままに
たえて無安住と
並びに無差別の原理をそこなわざる者
タントラ教理をささげ持つなり
切望を避け
かれこれに執着せざる者
聖典の真意を知るなり
マハムドラーに於いて,人の持つ一切の罪は焼かれ
マハムドラーに於いて
人はこの世の獄より解き放たれん
これぞダルマの至高の灯なり
そを疑う者
とこしえに不幸と悲しみにのたうつ愚者なり
解脱を目ざすにあたり
人はグルに依るべし
汝の心がその祝福を受くるとき
解放は間近なり
ああ、この世のすべては無意味にして
ただ悲しみの種子なるばかりなり
小さき教えは行ないへといざなえば
人はただ大いなる教えにのみ従うべし
二元性を越ゆるは王の見地
戦乱を征服するは王者の行
行なき道こそすべてのブッダたちの道なり
その道を踏む者、ブッダフッドに至らん
はかなきかなこの世
幻や夢のごと、そは実体を持たず
そを捨てて血縁を断てよ
欲望と憎しみの糸を切り
山林にありて瞑想せよ
労なくして
ゆったりと「自然なる境地」にとどまるならば
間もなく汝はマハムドラーにたどり着き
無達成なるものを達成せん
水の根を断たば葉は枯れん
汝の心の根を断たばサムサーラは崩れん
いかなる灯の光も一瞬にして
長きカルパの闇を払う
心の強き光ただ一閃なれど
無知なるヴェールを焼かん
心に執着せる者の
心を越えたる真理を見ることなく
ダルマを行ぜんと求むる者の
行を越えたる真理を見出すことなし
心と行をふたつながら越えたるものを知らんには
人はきっぱりと心の根を断ち切りて
裸眼をもちて見つむべし
しかして人は一切の差別を打ち破り
くつろぎにとどまるべし
与えず、また取らず
人はただ自然のままにあるべし
マハムドラーはすべての容認と拒絶を越えたるがゆえに
もとよりアラヤの生ずることあらざれば
誰もそを妨げ汚すこと能わず
不出生の境界にありて
すべてのあらわれはダルマタへと溶解し
自己意志と高慢は無の中に消滅せん
至高の理解は
かれこれの一切を超越し
至高の行為は
執着なくして大いなる機知を抱く
至高の成就とは
望みなくして内在を知ることなり
はじめヨーギは
おのが心の滝のごとく転落するを感じ
中ほどにてはガンガーのごと
そはゆるやかにやさしく流れ
ついに、そは大いなる海なり
息子と母の光がひとつに溶け合うところ──
2011 12・26 123
☆ バグワンに聴く。 自然と不自然と。 「存在の詩」より。
エゴイストはつねにあらゆるものから独立しようとする
エゴイストはつねに
あたかも自分は
誰からどんな助けもいらないかのようにふるまおうとする
これは愚かしい
馬鹿げている
だれひとりとして依存してはいない
だれひとりとして独立してはいない
だれもが相互依存しているのだ
おまえはただの一瞬たりとも独立して存在してはいない
そして、だれひとり絶対的に依存しているひともいない
そんなふたつの対極は存在しない
生とは相互依存だ
相互の分かち合いだ
生は相対性の中に存在する
もちろんティロパはそれを知っている
彼は自然な道を指さしているのだ
生はギヴ・アンド・テークだ
分かち合うがよい
ただし、それに拘泥することはない
それを考え過ぎなくていい
おまえはそれが起こるのにまかせていればいいのだ
ただ自然に与えうるだけを与え
ただ自然に得られるだけを得る
誰に恩義も持たず
誰に恩義を感じさせもしない
おまえはただ生が相互依存だということを知っていればいい
意識は巨大な大洋であり
だれひとりとして孤島ではない
我々はお互いに出逢い溶け合う
なんのさまたげる境界もない
境界などすべて虚構 思い込みにすぎぬ
ティロパは言う 「与えずまた取らず
人はただ自然のままにあるべし」と。
取るのはいい
しかし、取ったと思ったら
おまえは不自然になってしまっている
与えるというのはビューティフルだ
しかし、おまえが自分は与えたんだと思った瞬間
それは醜いものになり
おまえは不自然になってしまっている
人間はただひとつの不自然な生き物だ
宗教を求めるのはそのためだ
人間だけが宗教を求める
人間が不自然になればなるほど
それだけ余計に宗教が必要になる
そして
へんな宗教も出てくる
一つの社会があまりに文化漬けされたら
テクノロジー化されたら
必ずそれを釣り合わすためにさまざまに宗教が現れる
微妙なバランス作用だ 結果としてもっと悪いことも起きてくる
自然でゆったりした社会にも人にも宗教は要らない
老子は
「法律があるために人は罪人になり
道徳が出来たために人々は不道徳になった」と言う
過剰な「文化」や「技術」があるためにーー
老子は警告の宗教だ
孔子は過剰な文化だ
宗教は
よかれ悪しかれ薬と同じように
悩める人々に必要とされる
「自然なるもの」が失われたとき
社会は病気になる
人間も病気になる
いつも「自然なるもの」といっしょに
「ゆったりとしたもの」を覚えておくこと
なぜなら
自然であろうと頑張りすぎて
まさにその努力事態が不自然になってしまうことがあるから
かぶれ屋というのは、そうして生まれる
宗教家や信仰者には往々そんな「かぶれ屋」がいる
「自然に」ということが心の負担になるようであれば
すでに不自然になっている
「ゆったりと」という言葉をいつも胸にとどめておくように。
2011 12・27 123