* そして、わたしはバグワンに聴く。じっと聴く。
☆ バグワンに聴く 『存在の詩』より
スワミ・プレム・プラブッダさんの日本語訳に拠りながら。
あらゆる瞬間
おまえが何をしようと
おまえはその外にい続ける
どんな行為もおまえの「傷」になどならない
なり得ない
一度リラックスしてこれを見抜いたら
もうおまえは何をするか
あるいは何をしないかなどに思い悩むことはない
ものごとに、それなりの進路を取らせてやるだけだ
おまえはただ白雲のように漂う
どこへ行くでもなく
ただただその動きを楽しんでーー
さまようというそのこと自体がビューティフルだ
ティゥロバは歌う
誰もそを妨げ汚すこと能はず
不出生の境涯にありて
すべてのあらはれはダルマタへと溶解し
ダルマタというのは
ふらゆるものがそれ自身の根源的本性を持つという意味だ
ダルマタとはすべてのものの初源の本性のことだ
あらゆるものがそれ自身の「すみか」へと還る
おまえがおまえの「すみか」に還る
そうしたら、あらゆるものがそれ自身の「すみか」に還る
何ひとつ混乱はない
世の中にはふたつの生き方とふたつの死に方がある
ひとつは誰もがやっているように生きることだ
あらゆるものとごっちゃに混ざり
内なる空など完全に忘れ去ってーー
それからもう一つ
内側にやすらいで
初源要素のの力がそれ自身の道を取るのを許す生き方がある
そのとき
おまえはただ見守る
なにもかもをただ静かにただ面白く楽しく見守り続けて行く
そうだよ
おまえはもう「行為」の主人公じゃない
たとえ何をいっしんにしていても
おまえはすでに「やりて・して doer」じゃない
おまえがもし内側にとどまっていれば
おまえは
あらゆることがひとりでに起こるのをただ見守っているだろう
これが真実わかったなら
おまえはもう「達成され得ざるもの」を達成している
生がそれ自身の道筋に従ってひとりでに成就し
死と休息とに成って行くとき
「わたしが……」などというおまえは何者なんだ?
そのとき
高慢
自己
自己意志ーー
みんな溶解している
おまえは、何といってやることは、もう何もない
意志することもない
おまえはただおまえの内奥無比の実存の内に坐している
そして,草はひとりでに生える、
あらゆることがひとりでに起こる
これを真に受け取るというのは、おまえには難しい。容易でない。
おまえは何かやらなければ、やってなければ、気が済まない。
やり手でいて
たえず気張り
動ききわり
闘わなければいけない
というふうに育てられ教え込まれてきたのだから
おまえは,自分の生存のためには戦わなければいげなかった
さもなければ負けだ
さもなければ何も成し遂げられないだろうという
そんな雰囲気の中で育てられてきた
おまえは〈野心〉という毒を盛られ育てられてきたのだ
社会や教育から
そして自分自身でも。
ただの幻想だ
夢だ。
ものごとはひとりでに起こる
それがものごとの本性だ
ゆったりと自然でいるというのはこういうことだ
ものごとは起こる
おまえはやり手じゃない
受け容れも拒絶もせずーー
自己意志は溶け去る
意志カというまさにその概念自体
空しく無力なものとなる
高慢は無の中に消え去る
明けた(enlightened )人間を理解するのは難しい
どんな観念も役に立たないからな
自然な人間というのは
ただ内側に坐り
ものごとの起こるのを許している
彼は、するということをしない
ティロパは言う
「そして、はじめて
マハムドラーはあらわれる」と。
マハムドラーとは最終的な
存在との全く最終的なオーガズムだ
そうしたら
おまえはもう別々じゃない
そうしたら
おまえの内なる空は外なる空とひとつになっている
ふたつの別の空があるんじゃないよ
「一つ」の空、だけだ。 enough for today?
* 『生がそれ自身の道筋に従ってひとりでに成就し 死と休息とに成って行くとき 「わたしが……」などというわたしは何者なんだ?』
まことや。
* そしてバグワンは、 明日からも話してくれる、「大いなる海ーーー終わりなき旅の終わり」を。
2012 1/6 124
* バグワンに、いまのわたしがどれほど救われ力づけられているか、筆紙につくせない。暫く黙読してきたが、あらためて音読したいと願っているのだが。
2012 1・13 124
* バグワンの『存在の詩』を永くかけて夜前読み終えた。一九九八年十一月に初めて読み上げ、二◯◯六年六月に、「何度目か」をまた読み始めた記録がある。「さらに又何度目か」を読了したのである。また『般若心経』を読もう。
2012 1・28 124
☆ バグワンに聴く 『般若心経』 より
スワミ・プレム・プラブッダさんの訳に拠って
おまえの内なるブッダに、ごあいさつします。
おまえはそれに気づいていないかもしれない
おまえはそんなことを夢に見たこともないかもしれない
自分がひとりのブッダであるなどとは。
誰ひとりとして、ブッダのほかの何ものでもあり得ないなどとは。
ブッダフッドこそまさに自分の実存の本質的中核であるなどとは。
それが何か未来に起こることではなく
もうすでに起こってしまっているなどとは──
ブッダフッドこそは、おまえが「いま・ここ」へやって来た、まさにその源なのだ。
それは根源であり
目的地でもある。
われわれの動きだした根源がブッダフヅドからであれば
われわれの動いてゆく先もブッダフッドだ。
‘‘ブッダフヅド”というこの一語が一切を含む、
アルファからオメガまで
完結した生のひとめぐり──
ところが,おまえときたら、眠りこけている。
おまえは自分が誰かを知らない。
おまえがブッダにならなくてはいけないというのじゃないよ。
ただ、おまえはそれを認識しなければいけないだけだ。
そして、自分自身の源に戻らなければ、行き着かねば、いけないだけだ。
おまえ自身の内を、眞に覚め、て覗き込まなければいけない。
それだけなのだ。
* バグワンの語る『般若心経』の開巻一頁に、聴いた。
2012 1・28 124
* バグワンは言う、「人間は芽生えてあるブッダなのだ」と。「芽はちゃんとお前の内にある、いつ何時でも花咲き得るのだ」「すでにそこに在るのだ」と。
「自分は現に芽生てあブッダだ、ただ、それに気付く覚醒が必要なのだ、宝はそこにあるのだ」「悟ろうなどという努力は愚かしい、おまえは現にそれなのだ、だが気がついていない。」
☆ バグワンに「般若心経」を聴く
スワミ・プレム・プラブッダさんの訳に拠って
よく聴くがいい、“自分”とブッダフッドとは共存できないものだ
ひとたび夢から覚めてお前自身の内なるブッダフッドが明かされたなら
“自分”というのは ちょうど明りを持ち込むと暗闇が消えるように消え失せる 当然にも。
これがよく理解されねばならぬ
経文にはいる前に,ちょっとした下ごしらえ
ちょっとした骨組みをしておくと理解の役に立つだろう
古い仏教経典は七つの寺院について語っている
ちょうどスーフィ教が七つの谷のことを語り
ヒソドゥー教が七つのチャクラについて語るのと同じように
仏教は七つの寺院(=階段) について語る
第一の寺院は肉体(physical)の寺院だ
第二の寺院は精神身体(psycho-somatic)の寺院
第三の寺院は心理(psychological )の
第四の寺院は精神霊性(psycho・spiritual )の
第五の寺院は霊性(spiritual )の
第六の寺院は霊性超越(Spiritual ・transcendental)の
そして第七の,そして究極の寺院
寺院の中の寺院は超越(transcendental)の寺院だ
『般若心経』の経文は上の第七に属する
誰か第七の寺院 超越的な,絶対的なところにはいり込んだ者の「宜言」なのだ
それがサンスクリット語のプラジュニャーパーラミター 般若波羅蜜多(prajina-paramita)の意味するものだ
彼方の
彼方からの
彼方における知恵
高いものも低いものも
この世的なものもあの世的なものも
あらゆる種類の自己同化(identification)をすべて超越したときにはじめて来るところの知恵
ありとあらゆる自己同化を超越し
まったく何ものにも同化されず
ただ覚醒の純粋な炎だけが煙も立てずに残されたときに来るもの一ー
仏教徒たちがこの小さな
掌におさまるような経典を崇拝するのはそのためだ
そして,彼らはそれを“心経(The Heart Sutra )”と呼んできた
まさに宗教のハートそのもの
まさにその核心一
第一の肉体の寺院は
ヒンドゥー教の図解で言うムラダーラ・チャクラに相当する
第二の精神身体の寺院は,スワディスクーナ・チャクラに
第三の心理の寺院はマニビュラに
第四の精神霊性の寺院はアナハタ
第五,霊性の寺院はヴイシュダ
第六,霊性超越の寺院はアジュナ
そして第七の超越の寺院はサハスラーラに相当する
“サハスラーラ’というのは
一千枚の花弁を持ったハスの花を意味する
それは究極の開花のシソボルなのだ
何ひとつ隠されてはいない
一切が露わになっている
顕現している
一千枚の花びらを持ったハスの花が開いた
空全体がその芳香で
その美しさで
その祝福で一杯だ
* 経典としては、もし仏壇のある家なら、何宗の家であろうと、「般若心経」は、いの一番に備わっている。わたしは、幼時にすでに仏壇のこの経典に手を伸ばして、フリガナに頼りながら大声で読誦する「遊び」を楽しんですらいた。だから暗誦もできた。
何種もの般若心経講義や解説を読んできたが、およそ講義として読み解説として読んでみても、「知識をみたす」ことにしか成らない。わたしは、こと宗教や信仰に関する経典も本も、講義や解説や論攷として書かれたすべては、自身の悩みや死生観のための何のタシにもならないと識って来た。読むだけ時間の無駄だと思った。
「いま・ここ」の日々の迷いや惑いや不安や歎きにひしと応えてこないその手の本はじつにつまらない。
わたしがバグワンに傾倒し帰依の思いすらもつのは、彼の話だけが、ビンビンと私の困惑や迷惑に容赦なく突き刺さってきて、示唆をくれるから、だ。
2012 2・5 125
* バグワンは、いま、『般若心経』を何度目か、読んでいる。最近になって、「バグワンと私」を再認識して再注文してくださる読者もあり、よろこんでいる。「 湖(うみ)の本」 の既刊本にも時折注文が届く。「秋萩帖」上下だとか「茶ノ道廃ルベシ」「宗遠、茶を語る」や「おもしろや焼物」などと。ありがたい。
2012 4・4 127
* 映画といえば一昨日に観た「塀の中の中学校」にも泣かされたが、あの映画の中で記憶にクッと引っかかる場面・科白があった。
映画の本筋は、初等教育すら受けて来れなかった受刑者からの、選ばれた数少ない希望入学者のために「塀の中に」正規の中学が設けられているという、実の話。指導の先生は刑務官で、たまたま任命されてきたひとりが、オダギリ・ジョウの演じる実は写真家として立ちたい若い先生。任じられた仕事にまるで熱も情も無い。ひたすら自信に満ちて応募した写真コンクールでの入賞を待ちこがれていた。
ついに結果が出た。四人か五人だったかの最終選考に残っていた彼は、だが、独り、いちはやく落選。後に残った候補作者には彼の後輩でかつては彼の足もとに及ばなかった名前も入っていた。彼は編集部に乗り込み、編集長に落選の理由を尋ねた。編集長は言い渋っていたが、思い直して話してくれた。残された数人の候補者の中で彼は真っ先に選考からハズされたと言うのだ、そして他候補について熱心に選考の議論が闘わされたと。彼は茫然とし、理由を問うた。答えは簡明だった。
「花がない」と。
彼の勤務の日々が、此の只一言の「花がない」を説明していた。いかに技術があろうとも作の世界に「花がない」。決定的な批評だった。それはまたわたしが創作や執筆にあたって心底冀い大切にしてきた真情であり信条でもあり、また大切に思う後輩にもこころから「花がほしい」と助言したり批評したりしてきた。
* バグワンはよく言う。花は、匂わねばならないと。「匂う」という花の命がどんなに価値高いか、貴いか。さきの映画をなかば耳で聴いていながら「花がないんです」との一言に、すべてを理解した。
* 午后も発送の作業をして、ほどほどでおさめた。花は咲いているが風はあらく、空気冷えて作業する手が冷たい。
2012 4・7 127
* バグワンの『般若心経』を通してわたしは「マインド」という分別心の毒を繰り返し教わってきた。いまも毎日教わっている。
2012 4・21 127
* チェーホフの「櫻の園」を万感せまる思いで読了。ル・グゥインのゲド五巻め『アースシーの風』にも、真実魅了されている。
そして、バグワンの「自殺」について語ってくれる、言葉。
2012 5・4 128
* 久しくバグワンに、日乗、触れてこなかった。バグワンに見参しない日など一日も無かったのだが、なにしろ二度の入院の前後に、無理をして杜撰なことは避けたかった。
暮れ以来ずうっと読んでいたのは、『般若心経』で。なまやさしい相手でない。万巻の仏典の「芯=心」を成す根本経の筆頭格である。バグワンは透徹している。
☆ 般若心経をバグワンに聴く。 スワミ・ブレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら。
”麗しく,また聖なる
知恵の完成者に礼したてまつる”
”聖なる観自在菩薩は彼方に至る知恵を究めつつあったとき、彼が高みから見おろすと、目にはいるのは五つの蘊まりばかりであり、それらも実態は空であることを看破した。”
Homage to the Perfection of Wisdom,
the Lovely,the Holy!
Avalokita ,the Holy Lord and Bodhisattva ,
was moving in the deep course of the Wisdom
Which has gone beyond .
He looked down from on high ,
He beheld but five heaps,
and He saw that in their own-being
they were empty.
上より′サンスクリット語(ローマ字表記)日本語、英語訳
おまえの内なるブッダにごあいさつします
おまえはそれに気づいていないかもしれない
おまえはそんなことを夢に見たこともないかもしれない
自分がひとりのブッダであるなどとは
誰ひとりとしてほかの何ものでもあり得ないなどとは
ブッダフッドこそまさに自分の実存の本質的中核であるなどとは
それは何か未来に起こることではなく
もうすでに起こってしまっているなどとは――
それはおまえがやって来たまさにその源なのだ
それは源であり
そして目的地でもある
われわれが動きだしたのがブッダフッドからであれば
われわれが動いてゆく先もブッダフッドだ
”ブッダフヅド”というこの一語が一切を含む
アルファからオメガまで
完結した生のひとめぐり――
ところが,おまえは眠りこけている
おまえは自分が誰かを知らない
おまえがブッダにならなくてはいけないというのじゃない
おまえはただそれを認識しなければいけないだけだ
自分自身の源に戻らなければいけないだけ
おまえ自身の内をのぞき込まなければいけないだけなのだ
自分自身との直面が
おまえのブッダフッドを明かすだろう
<自分>が悟ったなどということはない
人が悟る前に、その<自分=私>は落とされねばならない。
人間は芽生えつつあるブッダ(仏陀)なのだ
芽はち」ゃんとそこにある
それはいつ何どきでも花咲き得る
それはすでにそこに、お前の内にあるのだ!
これは仏教のメッセージのまさにハートそのものなのだ。
おまえのハートの中に
自分はブッダであるということをしっかりと据えなさい
おまえはそれを全面的には信じきれない
それは自然なことだ
それでも、それをそこに置いておきなさい
もう少しの覚醒が必要なだけ
もう少しの意識が必要なだけで、<寶>は其処に在る――
悟ろう悟ろうとするおまえたちの一切の努力は愚かしい
おまえはすでにブッダなのだ!
これが正しい出発点だ
* 駄弁を付け加える何も、 無い。二十一世紀平成の私の、心より頷くように、たとえば十二世紀千載和歌集の歌人達も、朧にであれ身に沁みてこういう教えを常に聴いていた。しかもなお彼らも私も、其処からまともに半歩一歩も踏み出せなくて立ちすくんでいる。 2012 6・11 129
☆ 般若心経をバグワンに聴く。 スワミ・ブレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら。
露のしずくが大海に消え失せたとき
分離をなくしたとき
もうおまえがそれ以上<全体>と争うのをやめたとき
自分を明け渡し、<全体>と一緒になり
もうそれ以上それに対立しなくなったとき
おまえは、ひとりのブッダとなる
自然と一緒になりなさい
けっしてそれに対峙しないこと
けっしてそれに打ち勝とうとしないこと
けっしてそれを征服しようとしないこと
けっしてそれを負かそうとしないこと
部分が全体を負かすことはできないのだから
ひとつの波が大きな海をのみこむことはありえない、それは逆様だ
なのに、おまえたちはそれほどの無謀を可能かのように夢見る
それだから、みな、ひどい欲求不満になるのだ
もしおまえが、よろこんで折れることができたなら
それは<明け渡し surrender >になる
それはもう負けではない
ひとつの勝利だ
おまえという一つの波は海と一つになって、はじめて勝利できる
海と対立してはできない
覚えておきなさい
海は、全体は、自然は、神は、おまえを負かそうなどとしてはいない
おまえが負けるのは、おまえが海、全体、自然、神と無用に闘うからにほかならない
負けたいなら闘うがいい
勝ちたかったら、明け渡しなさい
これはパラドックスだ
折れる用意のできた者が勝者になる
敗者だけが真の勝者になる
おまえが大海や大自然や神など<全体 whole >と一つになれれば
おまえはそれと一緒に脈打つ
おまえはそれと一緒に踊る
おまえはそれと一緒に歌う
聖なるものの無意志
2012 6・13 129
* 政治を見捨てることは出来ないが、見ているだけで情けない。
☆ バグワンは言う。
犯罪者と政治家というのはあまり隔たりがない
彼らは従兄弟どうしだ
もし犯罪者が正しい機会を与えられたら
彼は政治家になるだろう
そして、もし政治家が
言いたいことを言う正しい機会を与えられなかったら
彼は犯罪者になることだろう
その二つは近接例なのだ
いつ何ときにでも政治家は犯罪者になり得るし
犯罪者は政治家になり得る
そしてこれはいつの世にも変わらずに起こり続けてきたことだ
* わたしはバグワンの説を受け容れたい。それほど現代・今日の日本の政治家は、無責任で不誠実な愚者集団だ。
2012 6・16 129
* わたしは早くに「からだ言葉」という概念を発見してそれら無数のことばの存在理由を問うた。同時に「こころ言葉」という概念も発見して同様に多くの「こころ言葉」の存在理由を説き明かした。からだとこころとの相関や乖離や協働についてかなり多くをかたりつづけてきた。わたしは「こころ」に惑わされるよりも「からだ」を大切に認めながら、両者は互いに表裏であり、かつ乗り越えて行かざるを得ない生の初歩段階だと観てきた。バグワンはからだとこころとを、肉体と精神とを、七段ある人間梯子の第一、二段であると教えている。
☆ 般若心経をバグワンに聴く。 スワミ・ブレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら。
「人間の魂は目的や意味を求めて叫んでいる。そして,科学者たちは言う。『ほら,電話(=ケイタイ)だ』,いや『ほら,テレビ(=スマホ)だ!』。これはまるで母親を求めて泣いている赤ん坊を,あめん棒やおかしな顔であやすのと同じことだ。すさまじい発明発見の激流は,人間を夢中
にさせ,自分を悩ませていることを忘れさせておく大役を果たしてきた。」(フランク・シード)
現代の世界があなた方に与えてくれた一切は
あめん棒,手すさびの玩具以外の何ものでもない
ところが,おまえは〈母〉を求めて泣いていたのだった
〈愛〉を求めて泣いていたのだった
〈意識〉を求めて泣いていたのだった
人生に何らかの意味を求めて泣いていたのだった
なのに,みんなはこう言う
「ほら! 電話(=ケイタイ)だよ!
ほら! テレビ(=スマホ)だよ!
ほら! こんなに一杯素敵なものを持って来てあげたよ!」
それで,あなたはしばらく遊ぶ
また,飽きる
また,退屈してしまう
すると,また彼らは新しい手すさびの玩具を探しに行く
こんなのはどうかしている
あまりにも馬鹿らしくて
どうしてそんな中で生きていられるのか信じられないくらいだ
われわれは人間の、人生の、 梯子の第一段でつっかえているのだ
覚えておきなさい
おまえは肉体の中にいる
が,おまえは肉体じゃない
それについては自分の中で絶えず醒めているがいい
おまえは肉体の中に住んでいる
そして,肉体というのはビューティフルな住み家だ
覚えておきなさい
一瞬たりとも私は
いわゆる精神主義者たちが時代を問わずやり続けてきたように
アンチ肉体になれだの,肉体を否定しはじめろだのということをほのめかしているつもりはない
物質主義者たちは肉体がすべてだと思っているし
かたや,反対の極端に走って
「肉体は架空のものだ
肉体などというものはない!
幻想が崩れるように肉体を壊せ
そうすれば,おまえは本当に本物になれる」と言いだす人たちもいる
この反対の極端は一種の反動にすぎない
物質主義者それ自体が精神主義者という反動を生む
彼らは同じ商売の相棒どうしだ
彼らはそんなに違う人種じゃない
肉体はビューティフルだ
肉体は本物(リアル)だ
肉体は生きられねばならない
肉体は愛されねばならない
肉体というのは神からの大いなる贈り物だ
一瞬たりともそれに反対したりしないこと
そして,一瞬たりとも自分がただそれだけだなどと思わないこと
おまえはそれよりはるかに大きい
肉体はジャンプ台として使うがいい
* 人間梯子の一段目(肉体・からだ)をバグワンはこう評定し、次いで二段目の「精神・こころ」をも批判する。あらためてまた聴こうと思う。
2012 6・17 129
* 二階廊下の窓辺で立ち読みし始めた山折哲雄さんの『「 教行信証」を読む』に、すうっと入り込んでいる。親鸞の主著というに当たる『教行信証』は、難読の大冊で、久しく敬遠していたが、山折さんの水先案内を頼みに船出したような心地。
* とはいえ、わたしは仏教の何に、何処に信頼の拠点を置いているかというと、やはりバグワン、そして禅、であるように感じる。
萬巻の仏典は壮大で華麗なファンタジイ、幻想の文学作とわたしは見切っている。釈迦と同じ次元で、阿弥陀や観音を認知も信仰もしていない。はたしてそれでよいかわるいか。強いて見極めをつけたいのではないが、萬巻の仏典が釈迦逝去の後数世紀にわたって創作されていた意義は意義として理会が不可能なのではない。要するにそれらは無数に用意された吾々衆生のための「抱き柱」である。「抱き柱は抱かない」と心に決めたようなわたしには、ファンタジイはファンダジイとして存在する。おそらくわれわれ凡夫の「抱き柱」として最も勝れて有り難いのは、法然さんの「一枚起請文」である、ただ一声の「南無阿弥陀仏」であるという気持ちに揺らぎはない。同時に法然も親鸞も日本の国で誕生したファンタジイ作家であり、「日本仏教」と謂うが適切なのである。
わたしは、バグワンや老子を介して、二千数百年前に実在した釈迦仏の胸にこそ、じかに手も心も添えたいと思う。
知識として萬巻の仏典に触れたければ触れればよいが、わたしには所詮無理で無用。ファウストは明言している、「いっさいの知識には疾うから嘔吐を催している」と。「物を知りたいという欲から癒やされたこの胸は、今後どのような苦痛に対しても鎖されない」と。
バグワンも明言している、仏教とかぎらず多くの経典は、悟りを得た人にはじつにリアルで理解もたやすく底まで行き渡るが、「enlightenment=悟り・目覚め」を得ていない者には難儀で難解な所詮役立て得ない知識の物語に過ぎないと。
☆ 般若心経をバグワンに聴く。 スワミ・ブレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら。
人間梯子の第二段は、精神身体。
フロイト流の精神分析がここで働く。
が、彼は夢より先は一歩も出ない。出られないのだ。
だがおまえは、他人から分析可能な夢なんかじゃない。
毎晩のように夢を見て
昼間は精神分析医に夢を分析してもらいに行くような人は
いつしかあまりにも性的なものにとり憑かれてしまう
精神身体的なリアリテイの領域はセックスだからだ
何もかもセックスという観点から解釈しだす
フメイト派の彼らは泥の中に生きている
彼らは蓮花を信じない
ただの泥だという
「それは汚い泥から出てきたんじゃないのかい?
もし汚い泥から出てきたとしたら
それは汚い泥にきまってる」
あらゆる詩はセックスに還元されてしまう
あらゆる美しいものはみな
セックスと倒錯と抑圧に還元されてしまう
藝術はすべて何らかの性活動に還元されずに済まない
彼らの言い分はこうだ
ミケランジェロにしろゲーテにしろパイロンにしろ
何百万という人々に大変なよろこびをもたらす彼らの偉大な作品のすべては
抑圧されたセックス以外の何ものでもない,と
馬鹿げている
フロイトはトイレの世界のマスターだ
彼はそこに住んでいる
それが彼の寺院なのだ
藝術は病気にさせられる
詩は病気にさせられる
何から何まで倒錯ということにさせられてしまう
こうして,最も偉大なものが最低のものに還元されてしまう
仏陀はフロイトによれは病気だ
気をつけなさい
仏陀は病気じゃない
病気なのはフロイとだ
仏陀の静寂
仏陀のよろこび
仏陀の祝い一
それは病気じゃない
それは健康の完全な開花なのだ
凡庸な心=マインドというのは
偉大なものはすべて引きずりおろそうとする
凡庸な心=マインドというのは
何か自分より大きなものの在るということが受け容れられない
フロイトが何もかもセックスに還元するのと同様に
そして人間梯子の三段目は、心理。
アドラーはすべてを劣等感に還元してしまう
これらは全くの間違いだ
2012 6・18 129
☆ 般若心経をバグワンに聴く。 スワミ・ブレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら。
人間梯子の第四段目は、ユングらの説く、精神霊性。
彼らは、パヴロフ、フロイトまたアドラーよりは大きな可能性を開く
彼らは非合理の世界、無意識の世界を受け容れる
自分たちを理性に閉じこめはしない
その点、彼らは少しは理性的な人たちだ
現代心理学の終点だ
梯子の全体から見ればちょうど中間だ
現代心理学はまだ完全な科学とは言い難い
何ひとつ確かではない
経験的というよりは仮説的だ
実現の途中であがいている
第五段めは、霊性
イスラム教、ヒンドゥ教、キリスト教
大組織宗教はこの五段めで引っかかったままだ
あらゆる組織宗教は、教会は、そこで立ち往生してしまう
第六段めは、霊性超越
世界中で、時代から時代へと
教会組織とは毛色の違った、教義的ではない
より経験的なメソッドが開発されてきた
おまえは自分自身の中に一定のハーモニーをつくり出し
そのハーモニーに乗って
おまえのあたり前の現実(リアリティ)からはるか遠くまで行けるようにしなくてはいけない
ヨーガはそのすべてを判官し得る
それが第六段めだ
そして第七段めは、超越
タントラ、道(TAO )、禅
仏陀の姿勢は第七段にある
プラジューニャーバーラミター(般若波羅蜜多)
超越的な智慧
さまざまな身体がすべて超えられ
おまえたちがただの純粋な覚醒
ただの観照者
純粋な主観性になったときにはじめて来る智慧を意味する
この超越に到達しない限り
人間は、おまえは、いろいろな玩具やあめん棒を与えられずには済まない
虚構の意味を与えられずには済まない
* バグワンはこの七段の人間梯子を大事な入り口と考えていて、『般若心経』を語りながらもう一度この七段梯子について繰り返している。蒙昧で幻想にすぎない無明長夜の夢から覚めなさいと。さめたとき、お前は梯子の七段目へ来ていると。
夢覚めむそのあか月を待つほどの闇をも照らせ法のともし火 藤原敦家朝臣
人ごとに変るは夢の迷ひにて覚むればおなじ心なりけれ 摂政前右大臣
見るほどは夢も夢とも知られねばうつゝも今はうつゝと思はじ 藤原資隆朝臣
おどろかぬ我心こそ憂かりけれはかなき世をば夢と見ながら 登蓮法師
2012 6・19 129
☆ 般若心経をバグワンに聴く。 スワミ・ブレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら。
誰も知りはしない、この
自分は自分が誰かを知らないということを知ることで
真の「旅」ははじまる
知恵は知識じゃない
知識は心=マインドを通して来る
知識は外側から来る
知識はけっしてオリジナルじゃない
知恵とはおまえの独自なヴィジョンを謂う
それは外側から来るものじゃない
おまえの中で育つものだ
英語では、知識(knowledge )とは経験なしのものを謂う
知恵(wisdom)は
生に入っていって、経験を集める意味だ
若者は「物識り」にはなれても
容易に賢く(wise)はなれない
知恵は時を必要とするからだ
知恵とは
その人自身の経験・ 体験を通じて集められた知識のこと
だが、なおかつそれは外側からのものでしかない
プラジュニャー(般若・智慧)とは
普通理解されるような意味合いでは
知識でも知恵でもない
それは 内なる開花だ
ただただ内部の全き静寂の中にはいって行って
そこに隠されているものが炸裂するのを許せ
自分の、わたしのという所有の気持ちは捨てなさい
おまえが「全体 whole」と別々に存在しなくなったとき
そこに、プラジュニャーパーラミター(般若波羅蜜多)が現れる
完全なる智慧
彼方からの智慧
神聖であるのは、おまえが「全体」とひとつになるからであり
麗しいのは
おまえの生にあらゆる種類の醜さをつくり出している自我( エゴ) がもう無いからだ
それが真実の何たるかだ
智慧の完成ーー
麗しきもの 美しいもの
聖なるもの 善なるものーー
2012 6・23 129
☆ 般若心経をバグワンに聴く。 スワミ・ブレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら。
人生をよろこびに満ちて受け取ること
人生を気楽に受け取ること
人生をリラックスして受け取ること
不必要な問題をつくり出さないことーー
99パーセントの問題が
生を深刻に受け取るおまえによってつくり出されるものだ
深刻さがさまざまな問題の根本原因なのだ
遊び心をもちなさい
そのことでおまえは何ひとつのがしはしない
なぜならば生が神なのだから!
神のことなど忘れるがいい!
ただ生き生きとしているのだ
あり余るほど生き生きとしているのだ
一瞬一瞬を、それが最後の瞬間であるかのように生きなさい
この瞬間を可能な限りトータルに生きなさい
あまりまっとうになりすぎないこと
過剰な正気というのは狂気につながるものだからーー
おまえの中にちょっぴりクレージーさも存在させなさい
それが生に風味を与えてくれる
それが生を水気のあるものにしてくれる
つねにちょっぴり不合理を残しておくがいい
次回など待たないこと
次回などけっして来やしないからだ
この瞬間をひっとらえるのだ!
これが存在する唯一の時だ
ほかの時など一切ない
おまえが85歳でろうと50歳であろうと
そんなことは問題じゃない
この瞬間をつかまえなさい それを生きなさい
本が好きなのはいい、だが本で本当のものにはなれっこない
人々はバイブルを愛してもいっこうイエスにはならない、なろうともしない
そして般若心経を愛しても……
けっして誰かを、何かを模倣しようなどとしないこと
それは自殺だ
そんなことをしたらおまえはけっして楽しむことなどできずに
いつもおまえはカーボンコピーでしかない
オリジナルではない
神は鈍感でも間抜けでもない
神はけっして
誰かほかの人を繰り返すことなど許さない
キリストはただ一度
釈迦もただ一度
そしておまえもまた然り!
ただの一度だ
おまえはひとりきりなのだ
ほかにおまえのような人は誰もいない
おまえだけがおまえなのだ
これをわたしは生への崇敬と呼ぶ
これこそ本当の自己尊重だ
* わたし自身がどれほどバグワンの謂う本道を逸れ、よけいなことをして暮らしているかが、遺憾千万、よくわかる。それでもわたしはわたしの「いま・ここ」を、なんとか楽しみ味わい、生きている。
2012 6・24 129
* 「燕雀いずくんぞ大鵬の志をしらんや」とは、びっくりするほど早く、子供の時に耳にも、 目にも、していた。
秦の祖父の蔵書に博文館の『荘子新釈』三巻の和綴本があり、これは沢庵禅師の『老子講話』より遙かに子供にも接しやすく、沢山の寓話部分を拾い読むだけでも子供心なりに、背丈が伸びるような心地がした。
自分が蝶を夢見たのか、自分を蝶が夢見ているのかという寓話など、おそろしいほどわたしを突き動かし、生涯の「夢」観を子供の頃に朧に持ってしまっていた。かがやく希望を「夢」の一字一語に託して将来の目標視することを、わたしは概してしてこなかった。生きていること、それが夢に過ぎないという方向へわたしは人生観を定めがちであった。定めたなどと威張った口はまだまだ利けないのであるが。
* 高校へはいると躊躇なく「漢文」を選択した。すべてに返り点のしてある原文を読むのに、何不自由もしなかった。日本文を読むのと同じほどすらすら読めた。そんな中で、やはり「荘子」からとられた「朝三暮四」の寓話も忘れがたい。いま『中国古代寓話集』の解説を拝借すれば、それは、「根本の道よりすればそれが結局おなじもの」という道理を導いている。おのずからな均衡の世界に安住する、いわば「天鈞」を受け容れる姿勢、是と非とふたつながら行われて、それでも些かの障碍もない、いわば「両行」の道理を受け容れる世界。猿回しの親方が猿に朝三つ、夕方には四つずつの餌を与えて、猿が不服を唱えると、それなら朝四つ、夕方三つに改めると猿は喜んだという寓話だが、高校の教室で、はじめて深刻に感銘したのを覚えている。「根本の道よりすればそれが結局おなじもの」が此の「天鈞・両行」の此の世には在ると。それを心得ないで一理窟つけた気で喜怒哀楽するのでは、バグワンの謂う「マインドの分別」に陥っているのだ。
「いわゆる知というものが実は不知であるかも知れんし、いわゆる不知が知であるかもしれん」じゃないかと、荘子は謂う。「仁義だの是非だのということにしたって、その限界や区別はごたごたと入りまじっている。なんでそう簡単にそのけじめがつけられようか」と彼の「斉物論篇」に説いている。
わたしは孔子の『論語』にも感嘆はしたが、どちらかといえば老・荘の曰くに柔軟で自由なものを覚えていた。それが素地となりバグワンとの出会いが成りやすかったのかと、頷く。
* 「人間が生を悦ぶことは浅はかな迷いであるかもしれず、死を憎むことは若いころ故郷を離れて他国に住みついた者が帰ることを忘れているようなものであるかもしれぬ」と荘子は語っていた。
「夢を見ているあいだは、それが夢であるとは気がつかず、夢の中でまたその夢の吉凶を卜って楽しんだり悲しんだりしている」が、「ほんとうにしかと悟りに徹してこそ、この人生もひとつの大きな夢にすぎないことがわかるであろう。おろかな人たちは浅はかな迷いのうちにありながらけっこう目が覚めているつもりで、こざかしげに利口顔して、貴賤尊卑のわけへだてをつけたりするが、くだらないことだ」と荘子は言い切る。
現実とは、いい夢かわるい夢か。甲乙をつけてみてもそれが要は夢見心地であるに過ぎぬ。そう分かっていながら、日本の昨日今日の政治をわたしは情けなく思う。
* からだは、しんどい。帰って行く「本来の家」を、こういうとき、無性に懐かしむ。
2012 6・26 129
* 「点鬼簿」という作が芥川龍之介にある。
小説にはしていないが、どれほどの人に死なれてきたかと、わたしの七十六年を顧みた備忘は書き留めてある。漏れ落ちはたくさんあるだろうけれど。いずれはわたしも誰かの点鬼簿に記名されるのだろう。
「虚無の大道をおのがからだの首とし、生をば背とし、死をば尻とし、死生存亡の一体無二なることを悟りきわめている人はだれかしらん。あれば喜んで友だちになりたいものだ」と互いに語り合い、互いににっこり笑って肯き合ったような昔人たちがいた。
そんな一人が見るも無惨な病気にかかって死んで行くときにも、彼はこう平然と語っていた。
「いったい人間がこの世に生まれるのは、その時節が来たからのことであり、死んでいくのは、その順番が来たからのことだ。時節に安んじ順番に従っていれば、生の楽しみも死の哀しみも心につけこむすきはない 人間にせよ事物にせよ、しょせん天道の自然にうち勝てようはずはない。とすればおれだって、病気を恨むことなんかあるもんか」と。
この寓話も『荘子』の「大宗師篇」に在る。旧訳の『ヨブ記』とも違っている。やはりバグワンに繋がっている。
2012 6・26 129
* わたしは、バグワンに出逢うよりずっと昔から、いわゆる「マインド」とされる「心」に、全幅の信を措いてこなかった。「マインド」はくるくる変わる、揺れる、定まらない。わたしは「ドンマイ」を良しとするようになったが、その実のわたしは、容易にそうは成れなかった。
断っておく、ハートを拒絶しているのではない。分別という理知、知識や小理窟に動かされやすい「マインド」への警戒ないし嫌忌。これは、まだまだ、なかなか、人に判ってもらえない。「真実って何ですか,バグワソ?」と彼のアシュラムで質問した人に、バグワンは応えている。すこし纏めてバグワンに聴いてみよう。
☆ 般若心経をバグワンに聴く。 スワミ・ブレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら。
「真実って何ですか」,それは誰しもの心に浮かんでくる疑問の中で,最も重要なものだ
だが,それには答えがない
最も重要な問い
究極の問いは回答を持ち得ない
だからこそ,それが究極の問いなのだ
ポンティウス・ピラトゥスが,イエスに真実とは何かと尋ねたとき
イエスは沈黙したままだった
それだけじゃない
物語が伝えるところによれば
真実とほ何かというその質問をしたとき
ポンティウス・ピラトゥスは回答を待つことさえもしなかったという
彼は部星を出て立ち去ってしまった
答えなどあり得ないと思ったのだ
イエスが沈黙を守ったのも
それは答えられないと考えたからだ
しかし,この二つの理解は同じものではない
正反対だ
ポンティウス・ピラトゥスは
それが答えられないのは,真実などないからだと考える
「どうしてそんなことに答えられる?」ーー
それが論理的な心だ
ローマ人の心= マインドだ
イエスが沈黙を守ったのは,真実というものがないからじゃない
真実というものが巨大すぎるからだ
定義不能なのだ
言葉になど収まり得るものではない
言語には還元され得ない
それはそこにある
人はそれで在ることはできる
だが,それを言うことはできないのだ
イエスが沈黙を守ったのは
彼が真実を知っており
そしてまたそれが言われ得ないということを知っていたからだ
「真実って何ですか」
これより高度な質問は何もないと言ってもいい
なぜならば,真実よりも高度な宗教などないのだからーー
これは理解されねばならない
私はそれに答えるつもりはない
答えることなどできないのだ
誰ひとりとして,それに答えられはしない
だが
われわれはこの質問の中に深くはいり込んでゆくことはできる
深くはいり込んでゆくことによってこの質問は消え失せはじめるだろう
質問が消え失せたとき
おまえは,おまえのハートのまさに核心に回答を見出す
おまえが真実なのだ
真実というのは,ひとつの仮説ではない
真実というのは,ひとつのドグマではない
真実はヒンドゥー教でもないし
キリスト教でも回教でもない
真実というのは私のものでもなければ,おまえのものでもない
真実は誰にも属さない
が,誰もが真実に属する
真実とは在るそのもの(that which is )という意味だ
それがその言葉の正確な意味なのだ
それは ウェラ(vera)’というラテン語源から釆ている
ウェラとは在るそのものという意味だ
英語のwas ,were-それらはウェラから来ている
ドイツ語のwar
それもウェラから来ている
ウェラとは在るそのもの,解釈されざるものを意味する
いったん解釈がはいって来ると
そのときには,おまえが知るのは,〈現実リアリテイー〉であって〈真実〉ではない
現実とは真実の解釈されたものなのだ
だから,おまえが「真実とは何か?」に答えたその瞬間
それは現実= リアリテイーになってしまう
真実じゃない
解釈がはいり込んでしまっている
心= マインドがそれに色づけしてしまっている
現実は、心= マインドがあるのと同じだけたくさんある
真実は、 心= マインドがそこに無くなったときはじめて知られる
おまえを私から分離させ、他人から分離させ
存在から分離させているのは心= マインドなのだ
もし心= マインドを通して見たら
心= マインドはおまえに真実の映像を与えてくれはする
しかし、それは一つの映像
在るそのものの写真でしかない
‘‘リアリティー(reality )”というのも
理解されてしかるべきビューティフルな言葉だ
それは レス(res )”というラテン語源から来ている
物,あるいは物事という意味だ
真実は物じゃない
ところが,いったん解釈されてしまうと
いったん心= マインドがそれをつかんでしまうと
定義してしまうと,限定してしまうと
ひとつの物になってしまう
おまえがひとりの女性と恋に落ちるとき
そこにはある真実がある
もしおまえがまったく知らずに落ちたとしたら
突然、 、おまえがその女性を見,彼女の目をのぞき込み
彼女がやまえの目をのぞき込み
そして,何かがカチリと通じ合うーー
おまえはそのやり手(doer)じゃない
おまえの自我= エゴは関わっていない
少なくとも,ごくごくはじめのうち
まだ愛が純潔= ヴァージンのとき
その臍間.そこには真実がある
そこに解釈は何もない
愛がつねに定義不能なままなのはそのためだ
やがて心= マインドがはいり込んでくる
物事を処理しはじめ,おまえを支配しはじめる
おまえはその女の子を自分のガールフレンドだと考えはじめる
どうやって結婚しようかと考えはじめる
その女性を自分の妻として考えはじめる
さあ,そういうのは“物”だ
真実はもうそこにない
退却してしまっている
いまや物の方が大切になっている
定義可能なものはより安全だ
定義不能なものは危なっかしい
おまえは真実の息の根を止め
それを毒しはじめてしまっている
ハネムーソは過ぎた
ハネムーンは.真実が現実= リアリテイーになる
愛がひとつのく関係〉になる、まさにその瞬間に終わるのだ
ハネムーソはとても短い
不幸なことにーー
ただし,私が言っているのは
おまえたちが遠くまで出かけて行くハネムーン゜新婚旅行“のことじゃないよ
たぶんほんの一瞬、真のハネムーンはそこにあったかもしれない
だが.その純粋性
その水晶のような純粋性
その神々しさ
その超越性……
それはく永遠〉から来ている
それはく時〉のものではない
それはこの俗世の一部ではない
それは暗い穴に差し込んでくる一条の光線のようなものだ
それはく超越〉からやって来る
それを愛と、神と呼ぶのはまったくふさわしい
なぜならば.愛は真実だからだ
あたりまえの人生で
おまえが最も「真実」に近づくのは愛なのだ
「真実って何ですか」,
聞くということ自体が消え失せなければならない
そうしてはじめておまえは知る
覚えておきなさい
おおよそのものなど何もあり得ない
真実はあるか,あるいはそうでないかのどちらかなのだ
もしそれがおおよそだと言ったら
言葉の上ではそれは大丈夫(all right )に見える
が,それは正しく(right )ない
おおよそというのは,そこに何か嘘がある
そこに何か偽りがあるということだ
さもなければ,どうしてそれは100 パーセソト真実ではないのか?
それが99パーセソトだとしたら
そのときには何かそこi こ真実でないものがあるのだ
真実と非真実とは共存できない
闇と光が共存できないようにーー
闇とはく不在〉以外の何ものでもないからだ
(不在〉と〈現存〉とは共存できない
真実と非真実は共存できない
「真実って何ですか」,
回答は何ひとつ不可能だ
だから,イエスは沈黙を守ったのだ
静寂が回答なのだ
イエスは言っている
「静かでいなさい
私が静かであるようにーー
そうすればあなたは知るであろう」と
言葉で言っているのじゃない
それはひとつの仕草だ
ごくごく禅的だ
彼が沈黙を守ったその瞬間において
イエスは禅のアプローチ
仏教のアプローチに非常に近づいている
彼は,その瞬間においてはひとりのブッダなのだ
仏陀はこの質問にけっして答えなかった
根本的な質問
本当に重要な質問ーー
そのほかのことなら何でも聞いていい
仏陀もいつでも答える用意があった
ところが,根本的なことは答えなかった
なぜなら,根本的なことは体験するしかないからだ
そして,「真実」とは最も根本的なものだ
存在のまさに本体ーー
それが真実の何たるかだ
「真実とは何か?」
質問の中にはいって行ってごらん
そこに大いなる集中を湧き起こらせなさい
それを生死を賭けた一大事にするのだ
しかも、それに答えようとしないこと
なぜならおまえは答えなど知らないのだからーー
ところが、答えが来るかもしれない
心= マインドというのは、つねにおまえたちに答えを提供しようとするものだ
しかし,自分が知らないという事実を見てごらん
だから,おまえは尋ねているのだ
だとしたら,どうしておまえの心= マインドがおまえに回答を提供することなんかできる?
心= マインドは知りやしない
だからi 心= マインドには「静かにしていろ」と言って聞かせなさい
心= マインドのもち出すおもちゃに騙されないこと
心= マインドはいろんなおもちゃを提供する
心= マインドは言う
「見ろよ! 聖書にこう書いてある
見ろよ! ウパニシャッドにこう書いてある
これが答えだ
見ろよ! 老子がこう書いている
これが回答だ」ーー
心= マインドはあらゆる種類の経典類をあなたに放ってよこすことができる
心= マインドは引用もできる
心= マインドr は記憶からいろいろなものを引き出してくることができる
おまえはいままでにたくさんのことを聞いている
たくさん読んでいる
心= マインドはそういう記憶のすべてをたずさえているのだ
それを心= マインドは機械的にくり出すことができる
だが,この現象を見つめてごらん
心= マインドは知ってはいない
心= マインドのくり返してくることのすべては、借りものにすぎない
そして,借りものは役に立たない
心= マインドに気をつけなさい
心= マインドというのは引用ばかりしたがるものだ
心= マインドとうのは全然知りもしないですべてを知っている
この現象をよく見てごらん
〈洞察insight 〉するのだ
それは考えるというような問題じゃない
もしそれについて考えたりしたら
それはまたしても心= マインド
おまえは深く深く見抜いてゆかなくてはならない
心= マインドの機能を,心= マインドがどのように働くかを深く見つめなければならない
心= マインはあちこちからいろいろなものを借りてくる
そして貯め込み続けてゆく
心= マインドこそ貯蓄家だ
知識の貯蓄家だ
しかもいざおまえが本当に大切な質問をするときには
心= マインドはまったくいいかげんな回答をしてくれる
空しい,浅薄な,ゴミくずだ
心= マインドと悪魔だ
ほかに悪魔など何もいやしない
そして,それはおまえ自身の心= マインドなのだ
深く深く見通してゆくという洞察力が磨かれねばならない
鋭いひと太刀で心= マインドを真っ二つに切り裂きなさい
その刀が覚醒だ
心= マインドを真っ二つにして,それを通り抜けなさい
乗り越えるのだl
もしおまえが心= マインドを乗り越えられたなら
心= マインドを通り抜けられたなら
ノーマイソド
おまえの中に無心= ノーマインドの湧き上がる瞬間が来る
そこにく回答〉があるのだ
口先の回答じゃない
経典の引用でもない
真実おまえのもの
ひとつの体験だ
真実とはひとつの実存的体験なのだ
ちょっと湖に行ってごらん
岸に立って,水に映った自分の影を見おろすのだ
もしそこに波が立っていたら
風が吹いて湖面にさざ波があったなら
おまえの影は安定しない
どこが鼻だかどこが目だか?-
湖が静かで,風もなく
水面に波ひとつ立っていないときには
突如としてそこにおまえがいる
おまえの姿が映っている
湖が一枚の鏡になるのだ
いつであれ
おまえの意識の中を思考がよぎるとき
必ずそれは歪曲作用をする
そして,思考や分別の数には限りがない
何百万という思考や分別が,絶え間なくひしめき合っている
いつもラッシュアワーだ
交通は途絶えることなく,いくらでも続いてゆく
そして,ひとつひとつの思考や分別には
また何千というほかの思考や分別がつながっている
それらはみな手を取り合ってつながり合い互いに組み合わさっている
そして
その群衆全体がおまえのまわりにひしめき合っているのだ
それでどうして真実が何かなどわかる?
この群衆から脱け出しなさい
それが瞑想の何たるかだ
それが瞑想のすべてなのだ
心= マインド抜きの意識
思考・分別のない意識
ゆらめきのない意識
揺るがざる意識ーー
群衆から脱け出したとき
それらは一切の美と天恵のもとに具現している
く真実〉がそこにある
それを神と呼んでもいい,ニルヴァーナ(涅槃)と呼んでもいい
何とでも好きなように呼ぶがいい
それはそこにある
それも,それはひとつの体験としてそこにあるのだ
おまえはその中にあり
それがおまえの中にある
「真実って何ですか」
この質問を使いなさい
それをもっと透徹したものにするのだ
それに賭けて、心= マインドがあなたを騙すことができなくなるぐらい
それを透徹したものにするのだ
ひとたび心= マインドが消え失せたなら
ひとたび心= マインドがそれ以上古いトリックをしかけなくなったなら
おまえは真実とは何かを知るだろう
おまえはそれを静寂の中で知るだろう
おまえはそれを無思考の覚醒の中で知るだろう
* わたしは読んでいるのでなく、「聴いて」いる。いたく恥じ入り忸怩とした思いにも苛まれながら、聴いているのだ、毎日。
2012 7・2 130
* バグワンは「明け渡し surrender 」ということを、よく話してくれる。他のバグワンの話を十分繰り返し聴いているので、「明け渡し surrender」の理解や納得には近づいて、憧れているわたしがいる。同時に容易に「明け渡せない」わたしもいる。当然にも自我=エゴへの拘りは捨てねばならない。言うは簡単だがこれこそが容易でないのは、「明け渡そう」と願っている誰もが知っている。
☆ 般若心経をバグワンに聴く。 スワミ・ブレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら。
明け渡しというのは、何かおまえがやれるようなことじゃない
もしおまえがそれをやったら、それは「明け渡し surrender」じゃない。
なぜなら、やり手(doer)がそこにいるからだ
明け渡しとは
「自分はいない」という一つの大事な「理解」なのだ
明け渡しとは
自我=エゴというものは存在しない
自分は世界・全体=total と別々ではない、という一つの洞察なのだ
明け渡しとは、「行為」ではなく「理解」なのだ。
一瞬たりといえども
おまえは宇宙と別々に存在することなどできない
自我=エゴというものについて最初に理解されねばならないのは
それが存在しないということだ
仏陀やイエスと同じに私はそれを知っている
おまえはそれを知らない
違いはただの理解の差だけだ
明け渡す主体が見付からないその瞬間に、明け渡しがあるのだ
おまえがニセ物である以上
おまえが何をやろうとそれはニセ物だ
そして根本的な偽りは
自我=エゴ、つまりは「俺は俺だという観念なのだ
おまえは、「私の明け渡しは目標志向です」 と言う
自我=エゴはつねに目標志向だ
それは、いつも、もっと、もっと、もっとと追い求める
自我=エゴは、絶え間なく腹を空かせているのだ
それは未来に生き、過去に生きている
貯蓄屋としてだ。
目標とは何だろう?
ひとつの欲望ーー
自分はそこに達しなければいけない
自分はそうならなくてはいけない
自分は成し遂げなくてはいけない……
自我は現在には生きていない
生きられないのだ
なぜならば,現在というのは本物だから!
そして自我=エゴというのはニセ物だ
その二つはけっして出会わない
過去というのはニセ物だ
それはもうありはしない
自我=エゴというのは墓場なのだ
一方でF,それは未来に生きる
またしても,未来というのはまだ来ていないものだ
それはイマジネーションであり、幻想であり,夢だ
自我=エゴはそれと一緒に生きることもできる
いとも簡単だ
ニセ物どうしというのはとてもウマが合う
「現在」にいる,いまここにいることを強調するのだ
まさにこの瞬間ーー
もしおまえに冴えた知性があったら
私の言っていることを考える必要など何もない
おまえはただただそれをまさにこの瞬間に見て取ることができる
自我=エゴなどどこにある?
そこには静寂がある
そして,そこには何の過去もなく
そこには何の未来もない
この瞬間ーー
おまえはいない
この瞬間をあらしめてごらん
おまえはいない
そして.そこには途方もない静寂がある
そこには深い静寂がある
内も外もーー
そうしたら,明け渡す必要など何もない
なぜならば
おまえは自分がいないということを知っているからだ
自分がいないということを知ることこそが「明け渡し」なのだ
それは私に明け渡すという問題じゃない
それは神に明け渡すというような問題でもない
それは全然明け渡すなどという問題じゃないのだ!
明け渡しとは
自分がいないということのひとつの「洞察」
ひとつの「理解」なのだ
自分がいないということ
自分が無であるということ
空であるということを見ることによって
明け渡しが育ってゆく
明け渡しの花はく空〉という樹に育つものだ
それは目標志向などではあり得ない
が,自我=エゴは目標志向だ
自我=エゴというのは未来をあこがれてばかりいる
2012 7・9 130
☆ 般若心経をバグワンに聴く。 スワミ・ブレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら。
リラックスしてごらん
ただそこにいるのだ
おまえがただただそこにいる
何をするでもなく坐っているーー
と,その意識の中で
春が訪れ,草はひとりでに生える
それがそっくり仏教のアプローチの全体だ
何であれおまえがやることはやり手(doer)をつくり出し
それを強めてしまう
見張ることもそう
考えることもそう
明け渡すこともそうだ
何であれおまえがやることは必ず罠をつくる
おまえの側でやる必要のあることなど何もない
ただ‘‘いる(be)”のだ!
そして,物事の起こるのにまかす
やりくりしようとしないこと
操作しようとしないこと
やるなんておまえは何者か?
おまえはこの大海の中のひとつの波にすぎないのだ
ある日,おまえはいても
また別なある日,おまえは消え失せてしまう
海は続く
なんでおまえがそんなに気をもまなくちゃいけない?
おまえはやって来る
おまえは消える
その合い間の,この小さな幕合いに
おまえはあきれるぐらい気をもみ,緊張し
重荷という重荷を全部自分の肩にしょい込む
全然何の理由もなしに,自分のハートに重石(おもし)をする
おまえは絶えず言う
「それはそうですよ,バグワン
でもちょっと,どうしたら悟った人間になることができるのか教えてください」ーー
そのなること
その達成癖
その欲望は
目にはいってくる対象のことごとくに跳びかかってゆく
あるときそれはお金だし,あるときそれは神だ
あるときそれは権力だし,あるときそれは瞑想だ
とにかくどんな対象でもいい
おまえはそれにつかみかかってゆく
つかまないことこそ
本当の生を,真実の生を生きる生き方だ
無取得,無所有ー-
物事を起こらせなさい
生をひとつのハプニングにするのだ
ただやり手(doer)にならないこと
2012 7・11 130
* いま次の愛読書に狙ってるのは、「荘子」。「老子」よりよほど読みやすいから。秦の祖父の残してくれた和綴じ三冊本、いつでも手元へ移せるよう用意してある。東洋文庫の『中国古代寓話集』には、荘子篇、列子篇、戦国策篇、韓非子篇、呂子春秋篇などが収めてあるその全部が祖父蔵書として残されてある。なんという有り難い家にわたしは「もらひ子」されていたことか。
荘子はこうも言うている。
会えば離され、成れば壊され、廉}(かど)だてば挫かれ、 出世すれば批評され、事を行なえばけちをつけられ、賢なれば謀られ、愚なれば欺かれる。 人の世の累いをまぬかれて安らかにあり得るのは、ただ道(タオ)の世界に遊ぶことのほかにはないのだよ」と。
道(タオ)を説いた老子と一心同体と公言してきたバグワンもそれを言う。わたしもつくづくとそれを思う。おもしろい世間でもあったが、イヤな世間でもあった。
ただ、どんなにイヤな世間でも其処を通ってこなくては、道(タオ)は、分からないのではないか。バグワンへの信頼と帰依は深まる。
* 唐代伝奇集の二冊も、面白い。
2012 7・13 130
* バグワンはいわゆる聖人や宗教教団に名をはせた宗教者・聖職者には厳しく当たるが、仏陀はもとよりイエスやソクラテスや老子らとは篤い一体感、称讃の純粋な共感を何度も何度も語っていて、それにもわたしは信頼を寄せ同感している。ひととおり旧約も新約も聖書は全通読してきたが、聖書を、また仏典などを「読む」という行為自体には、バグワンの言うとおり、たいした意味は感じていない。むしろ囚われてはならぬと思っている。奇跡にも、まして奇跡という「言葉」にも囚われていない。関わる気がない。奇跡は有っても無くてもわたしの手も思いも及びはしない。それどころか、へたをするととんでもなくエゴをこねまわすことになる。
2012 7・15 130
☆ 般若心経をバグワンに聴く。 スワミ・ブレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら。
デンマークの哲学者キェルケコ゜ールは、「無」は恐怖を生むと答えている。
無というのは事実上の体験なのだ
おまえはそれを深い瞑想の中で
さもなければ死が訪れるときに体験することができる
死と瞑想とがそれを体験する二つの可能性だ
そう
ときには愛の中でもまたそれを体験することができる
もしおまえが,深い愛の中で誰かの中に溶け去ったなら
おまえ一種の無を体験することができる
人々が性愛をこわがるのはそのためだ
彼らはほどほどのところまでしか行こうとしない
そこまで行くとパニックが起こる
そこまで行くと彼らは怯えてしまうのだ
ずっとオーガズム的な状態にいられる人がほんのひと握りしかいないのはそのためだ
なぜならば
オーガズムというのはおまえに無の体験を与えてくれるからだ
おまえはその中で消え失せる
おまえは何か自分でもわからないものの中に溶けてゆく
おまえは定義され得ざるもの中にはいってゆく
おまえは社会的なものを乗り越え
分離というものが効力を持たない,自我(エゴ)というものが存在しない
ある〈統一〉の中にはいってゆく
そして,それは恐ろしいものだ
なぜならば,それは死のようなものなのだから-
だから,ひとつには愛‥‥‥
しかし、人々はそれを避けることを学んでしまった
数えきれないほどの人たちが愛にあこがれながら
しかも,無の恐怖のために
そのあらゆる可能性をぶち壊してばかりいる
ひたすら愛し、そして瞑想した人間だけが
意識的に死ねるだろう
そして一度意識的に死んだら
もうおまおは帰ってくる必要がない
それが涅槃(ニルヴァーナ)だ
* バグワンの説くなかで、ときどきにこの愛と死とがあらわれ、わたしは、これを体験として理解している。わたしが死を予感的に体験したのは、病気などではなかった、真実の性愛において、若い頃にそれを悟り信じた。怖くはなかった。それはよくわたしの言う「一瞬の好機」にほかならない感覚の絶頂が感じられた。
2012 8・1 131
* 朝七時には点眼と決まっているので、熱帯夜を夜更かししないよう、十数冊の読書を昼寝時に半分分けている。
「栄花物語」は後朱雀天皇の御宇。平安朝の高潮期は一条帝の頃と後朱雀帝のころとにラクだの瘤のように盛り上がり華咲いた。
「和泉式部集」の撰歌、じりじりと下巻に進んでいる。
「古今著聞集」はまだ公事を語っていて、面白くなるのはこのあと。
「折口藝能学」は説経や浄瑠璃や祭文などの成り立ってきた歴史の奥を覗き見ながら、説得力ゆたかに要点をみごと述べて行く。
「丹後と天橋立」は旅する心地で。むかしむかし思い立って独り橋立へ旅し、文殊荘という老舗旅館を独り占めするほどせいせいと宿泊した。橋立より、この宿りがのびやかに嬉しかった。蕪村の取材で加悦へも出かけた。もういちど橋立まで行きたい行きたいと願っているのだが。
東洋文庫の四冊は、それぞれに途方もなく面白い。「唐代伝奇集」一、二「捜神記」「中国古代寓話集」読みふけっている。
チェーホフの「妻への書簡集」ほど心温まるおもしろい読書は珍しい。
ゲーテの「イタリア紀行」も旅に同行しているように惹き込まれる。
とっておき楽しいのはファンタジイ。高田衛さんの「八犬伝の世界」に導かれながら克明に読む「南総里見八犬伝」、浩瀚しかもホビットはじめいろんな人種の共存した波瀾万丈が面白いトールキンの「親指物語」、マキリップの精緻な構成力が別次元の他界の不思議と懐かしさを生き生きと読ませてくれる「イルスの竪琴」。
息子の河出文庫「サマーレスキュウ 天空の診療所」も面白く、ときに小さく感心しながら読んでいる。
辻邦生の「夏の砦」が意外に進まない。
そして、むろん「バグワン」。
2012 8・5 131
* 老子に、「心を虚しくし、腹を実たせ」とある。「いまの人は心を実たすばかりだ」と裴航という仙骨の者が語っていた、「藍橋物語」という唐代伝奇のなかで。
航は言葉を継いでいる、「心が実ちれば妄念がおこり、腹が漏れれば精気があふれ出てしまう」と。「心が実ちれば」とは、さまざまな思念・思考・分別により心の乱れはち切れそうなことを直視している。荀子が、心は一点集中も八方関心も可能だが「静」かな心こそと教えていた。この教えは仏陀も老子も同じ。
2012 8・6 131
* いま、スキャナもプリンタも使えなくなっていて難渋だが。だから大きな引用はムリだが、バグワン『般若心経』を読んでいる内、こういうのに、また出会った。
ほかの何かに依存する心・マインドはまがいものの自己だ
自我・エゴーー
自我・エゴというのはつっかい棒なしでは存在できない
それはつっかい棒を欲しがる
何かがそれを支えなければならない
一度あらゆるつっかい棒が取り除かれてしまったら
自我・エゴは地面に崩れ落ちて消え失せる
そして、自我・エゴが地面に崩れ落ちたときはじめて
おまえの中に、永遠であり
時を超えた
不死の意識が湧き上がる
そこで仏陀は言う
「隠れみのなどというものは何もない、シャーリプトラよ
惑いの治療法などというものは何もない、シャーリプトラよ
何ひとつありはしないし、どこにも行くべきところなどない
おまえはもうすでに其処にいるのだ」、と。
* 先日再刊した山折哲雄さんとの長い長い対談、湖の本112『元気に生き 自然に死ぬ』のわたしのあとがきは、「抱き柱はいらない」と題されている。この対談は二〇〇〇年(平成十二年)八月、九月、十一月に成ったものだが、「抱き柱(=つっかい棒)はいらない」というわたしの思いに、どれほどバグワンが感化していたかは分からない。
バグワンを知る以前から、わたしは、人間がいかに雑多な「抱き柱」にしがみついて不自由に生きているかに気づいていた。有難い法然一枚起請文の「南無阿弥陀仏」一念すらも、与えられたみごとな「抱き柱」の一本と見定めていた。
「抱き柱はいらない」という無謀なほどの発語がどれほど私に確立しているかは覚束ないが、「おまえはもうすでに其処にいるのだ」という仏陀の言葉が、大きな慈悲でまた公案でなくて、何であるか。
2012 8・13 131
☆ 般若心経をバグワンに聴く。 スワミ・ブレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら。
人間が不死を信じるのは恐怖から来ている
人間が神を信じるのは恐怖から来ている
それはおののきから来ているのだ
斯く言うゼーレソ・キェルケゴールは、あたり前の心=マインドについてなら正しい
もうひとりの実存主義哲学者ジャソ・ポール・サルトルは言う
「人間は自由の刑に処せられている」
普通の心=マインドにとってはその通り
なぜならば,自由は危険を意味するからだ
自由とほ,何ものにも依存することができない
おまえは自分自身に依って立たなければならないという意味だ
自由とは一切のつっかい棒=抱き柱が取り去られてしまう
一切の支えが消え失せてしまうという意味なのだ
自由とは根本的には< 無> を意味する
おまえはおまえが< 無> であるときはじめて自由なのだ
それは不安だ
おおかた誰も自由になんかなりたくない
人々が何を言い張っているかにかかわらずだ
誰一人自由になりたくなんかない!
人々はむしろ奴隷になりたがる
なぜならば、隷属状態にいれば
誰かほかの人に責任をなすりつけられるからだ
自由になるとあなたは恐ろしい
責任が出てくる
ひとつの行為におまえはひとつひとつ責任を感じる
だがそうなるとすべて選択はおまえがする、選択はおまえのものだ
そして選択はおののきをつくり出す
だから、サルトルは普通の心=マインドについては正解だ
「自由は不安を生む」
彼サルトルは言う
「人間は自由の刑に処せられている。なぜならば,自由は恐怖を生むからだ。自由は恐ろしい。私が自由であるのなら,何ひとつ
として私自身の行為を正当化してくれるものはないからだ。私をかばってくれるような何の価値も与えられていはしない。そうした価値は自分自身でつくり出すほかはない。私が自分自身と自分の宇宙の意味を決定する。ただひとりで,正当化することも弁解することもなしに。私は,ヴェールを脱ぎつつあるひとつの自由であり,あなたはまた別な自由なのだ。すなわち,私の自由は私の在存の絶えざる露呈であり,あなたの自由もまたしかり。われわれが一個の独立した存在であるということは,われわれのひとりひとりが自分なりの方法でこれをやるという事実によって支えられている。」
l
ところが、それを仏陀は
おまえ方にこの自由の中へ
この< 無> の中へと入って行くことを求めている
当然,おまえはそのための用意がなければならない
般若心経の受け手のシャーリブトラはいまや用意ができている
それゆえに,おおシャーリプトラよ,菩薩が知恵の完成に依って思考の被覆なしに住するのは,彼の無達成のたまものである。思考=マインドの被覆不在のもとで,彼は何をも恐れず,心を転倒させるものを克服しており,そして最後にはニルヴァーナ=涅槃に至る。’’ .
心を転倒させるものを克服しており……
そして
彼にはこのく無)に入って行くのに何のおののきもないのだ
それは普通の心=マインドにとってはほとんど不可能にすら見える
自分が消え失せようというときに
どうしておののかずにいられよう?
自分が<未知>の中へ溶けてゆこうとしている時に
どうして震えないでいられる?
どうして逃げ出さずに踏みとどまっていられる?
とうして,さまざまなまなつっかい棒や抱き柱の支えを見つけて
またしても自我=エゴという
自己という感覚をつくり出す愚をくり返さないでいられる?
仏陀は生涯に時をかえ人をかえて、じにいろいろに説いた。
矛盾をとがるのは易しいかも知れぬ
これを心にとめておくがいい
私の所説も矛盾をはらんでいる
なぜなら,それらは、その時その場所で異なった人々に向けられているから
異なった意識に向けられているからだ
おまえが成長すれば成長するほど
それだけ私は前と違ったことを語るだろう
〈無〉は自由をもたらす
自己からの自由こそは究極の自由だ
それより高次の自由は何もない
〈無〉は自由であり
そして,それはJ .P .サルトルが言うような不安でもなく
キェルケゴールが言うようなおののきでもない
それは祝福だ
それは究極の至福なのだ
それはおののきじゃない
なぜならば,そこには誰もおののく者がいないのだから-
* わたしはしばしば「自由は寒い、けれど自由だ」と語ってきた。
「抱き柱は抱かない」という思いは、わたしの内からも生まれ、わたしの外の世界からもあまりに当然に生まれた。
2012 8・15 131
* 「知性が悟りへの扉になることはできますか? それとも悟りは明け渡しを通してしか達せられないのでしょうか?」という質問にバグワンは答えていた。
☆ 般若心経をバグワンに聴く。 スワミ・ブレム・プラブッダさんの翻訳に拠りながら。
悟りはつねに明け渡しを通してある
だが、明け渡しは知性を通して達せられるものだ
明け渡せないのは間抜けだけだ
明け渡すには大いなる知性がいる
明け渡しというポイソトを見抜くことは洞察のクライマックスなのだ
自分が存在と別々ではないというポイソトを見抜くことは
知性がおまえに与え得る最高のものなのだ
知性と明け渡しとの間には何の衝突もない
明け渡しは知性を通じてある
ただしあなたが明け渡したときには
知姓もまた明け渡されている
明け渡しを通じて知性はあたかも自殺を犯す
それ自身の空しさを見抜いて
それ自身の馬鹿馬鹿しさを見抜いて
それがつくりだす苦悩を見抜いて
それは消え失せる
だが,それは知性を通じて起こるのだ
そして,とくに仏陀に関して言えば
その道は知性の道だ
”ブッダ(buddha) というまさにその言葉からして
”目覚めた知性 を意味する
般若心経の中で使われている言葉の四分の一は”知性”を意味する
ブッダ(buddha)=目覚めた
ボーディ(bodhi )= 目覚め
サンボーディ(sambodhi)= 完全に目覚めた者
アビ・サムブッダ(abi sambuddha )= 完全に目覚めた者
ボーディサットヴァ(bodhisattva )= 完全に目覚める用意のできた者-ー
すべて”知性”を意味する
”ブッドゥ(budh)”という語源に帰着する ブッディー(buddi )”=知性という言葉も
また同じところから来ている
”ブッドゥ(budh)”という言葉の中には少なくとも五つの意味がある
第一は目を覚ますこと
自分自身を起こすこと
そしてほかの人たちの目を覚ますこと
目覚めていること-ー
その意味では、悟りに至る者が夢から覚めるように覚めるところの
迷いのまどろみの中に眠りこけていることとは対照をなしている
それが知性=ブッドゥ(budh)の第一の意味なのだ
おまえの中に目覚めをつくり出すことーー
普通、人間は眠りこけている
自分が目覚めていると思っている間でさえ
おまえは目覚めてなんかいない
仏陀の視界(ヴィジョン)から見たら
おまえは眠りこけている
なぜならば千と一つの夢や思考が
おまえの内側で騒ぎ立てているからだ
おまえの内なる光はほとても曇っている
それは一種の眠りだ
”ブッドゥ(budh)”の二番目の意味は
認識する、つまり、気づく、通じる、注目する、心にとめる、というようなことだ
真実を知りたいと思ったら
おまえは幻覚の中に生き続けるわけにはいかない
おまえは偏見の中に生き続けるわけにはいかない
偽りは偽りとして認識されねばならない
偽りは偽りと、非真実を見極める気づきーー
語源”ブッドゥ(budh)”の三番目の意味は
知るということ、理解するということだ
仏陀は在るそのもの(that which is )を知る
彼は在るそのものを理解する
彼の本当の真正な興味は知ることにある
知識じゃない
そして四番目の意味は悟ること(be enlightend )
そして悟らせる(enlighten )だ
人間はかなり奇妙だ
彼らはヒマラヤ探検ばかりしている
月や火星に手を伸ばしてばかりいる
ただひとつだけ彼らがけっして試みようとしないことがある
彼の内なる実存を求め尋ねることだ。
そして、”ブッドゥ(budh)”の五番目の意味は
”推し測る”ということだ
こうも言える
”貫く”ことだ
あらゆる邪魔物を落として
おまえの実存のまさに核心
そのハートを貫くこと
この経典が、ザ・ハート・スートラ
般若波羅蜜多心経(Prajna paramita-hrdayam Sutra )と呼ばれているのはそのためだ
”貫くこと”ーー
* 深みが謂われてあると、感じる。
2012 8・22 131
☆ バグワンは言う、「地獄というのはどこか地中の奥深くにあるものだなどと思わないこと 地獄はおまえなのだ 醒めていないおまえこそ地獄の何たるかなのだ」と。その通りだ。
またこういうこともバグワンは言う。「仏陀の道は知性を通って行く が、それを越えて行く ある瞬間 知性がおまえにその与え得るすべてを与え終わるときが来る そうしたら、それ=知性はもう必要ない 最後にはおまえはそれも落とす 知性の仕事は終わった」と。
どうか、そこへ到達したい。
2012 9・23 132
* まぶしくて機械に向き合えない。早く適切な眼鏡が新調できますように。
バグワンに聴いていた。その言葉をここに書いてみるということが、目のギラギラゆえに出来ない。ドライアイが機械の前で進行するのかも。
2012 10・5 133
* いま、堅めの本は別に、小説は、ゲーテ「親和力」、トルストイ「イワン・イリッチの死」、トールキン「指輪物語」、ホーガン「星を継ぐもの」、馬琴「南総里見八犬伝」、辻邦生「夏の砦」を毎晩読んでいる。とてもいい按配で、敬意も充分に、楽しめる。
堅めの本は、ゲーテ「イタリア紀行」、チェーホフ「妻への書簡集」、プレハーノフ「歴史における個人の役割」 「和泉式部集」「和泉式部集全釈」、「古今著聞集」、谷崎潤一郎「文章読本」、折口信夫「藝能論集」 「丹後の宮津」 そして「バグワン」。
これらまた、それぞれに面白く興趣に溢れている。
すべて「病苦をやわらげてくれる妙薬」になっている。
* もう一つの妙薬は、観劇。今日は新橋演舞場に全身をゆだねて楽しんでくる。
2012 10・6 133
* 「死という地点において知識は破綻する。そして、おまえは存在に開くのだ。」「それはあらゆる時代を通じて仏教の根本体験であり続けてきた」とバグワンは直言する。「知識が破綻するとき 心(マインド)が破綻する。心(マインド)が破綻するとき そのとき<真実>がおまえを貫く可能性が在る」とも。「だが、おまえはそれがわからない」とも。
わたしは今、知性以上に豊かな感性が欲しい。おどろいたり、たのしんだり、真も善も美も自由に素直にうけいれられるような。
2012 10・9 133
* 此処、機械の前席では、時に胸を開いて『臨済録』を熟読する。
ある人がいわば仏典の全部を挙げて「すべて仏性をときあかしているのではないか」と問うた。臨済は言下に「荒草曾て鋤かず」つまりそんな「道具立て」で無明の荒草は鋤き返されはせぬ、と。しかし相手は「仏様は人を騙さないでしょう、仏典は仏説ではありませんか」と食い下がる。臨済はおまえの謂う「仏」とは何だ、何処にいると迫り、相手は「擬儀」した。「わしを瞞着すべく出てきたのか、退れ退がれ」と師は追い払い、他にものを云う者在れば速やかに云え、「しかしおまえ達が口を開いたとたんに、もうそれとは無縁だ。釈尊も『仏法』は文字を離る。因にも縁にも在らざるが故なりと説いていた。おまえたちは『信不及』の故にこうして無用な論議に落ち込むのだ」と、「少信根人、終無了日」とさっさと出て行った。
バグワンもまた同じに言い切って「仏典」「経典」にとらわれるな、悟ってから読めば解るが、いまのおまえには無駄な論議に陥るだけだと云っている。以来わたしは「お経という名のファンタジイ」には遠ざかっている、禅家と教家とを同じには見ないのである。 2012 10・12 133
* 「禅」とは、原義「天をまつり、(ついでに)地をまつる」ことで天子一世一代の盛儀であった。堯が舜に、舜が禹に天子の位を譲ったのが「禅譲」で、理想的な帝位継承であった。世がくだるにつれ理想的な禅譲は成らず、武力による「革命」が常のようになった。大義名分のために「革命」にも「天意」を読んで格好をつけた。今日の日本の政局でもときに報道される「禅譲」にはロクなものはなく、悪例ばかり。
わたしの心を預けたい「禅」の意義が中国であらわれたのは、仏教が伝来し、ことに達磨が中国に来て、ようやく「瞑想」を意味したサンスクリットのディヤーナまたはジャンの音訳語としてである。「禅」の原義とはかけはなれて無縁の「禅」「禅定」が生まれたと謂える。「座禅」がその修養・徳目となった。
漱石の「吾輩は猫である」でもかの猫は「座禅」を的確に語っている。漱石はしかし「禅」の落第生であった。
今日の世界的な「禅」は禅僧の只管打坐とはうってかわり、ただ「穏和」「温厚」の意義でむしろ大衆化されている。
及第・落第は別として、私の場合「禅」の語に触れて心を動かしたのは、日吉ヶ丘高校生の昔、ひとつには漱石作「門」や、鈴木大拙の岩波新書「禅と日本文化」ないし熱愛した高神覚昇の「般若心経講義」であった。その頃には、今一方に浄土教、法然や親鸞を書いた小説や戯曲に惹かれてもいて、むしろ七十七年になるわたしの人生のかなり長期間を「念仏の魅力」にわたしは抑えられていた。それでもその途中に「臨済録」や「道元語録」に胸を圧されていた。
そしてそのうちに、あの有難い法然の「一枚起請文」ですら一種の「抱き柱」ではないのかと気づいた。般若心経などを除いて多くの仏典はつまりは「ファンタジイ」なのだと悟り、「禅」の意義に思いを寄せ直してきた。前世紀末の禅にも道にも深いバグワンとの出逢いは実に実にわたしには言語に絶してありがたかった。
2012 10・15 133
* 古来「臨済の四料揀」といわれる難解な発語に続いての、臨済の曰わくには、胸を押される剛力がある。
☆ 臨済に聴く 「臨済録 示衆」より 訳読に拠って摘録する
なによりも先ず正しい見地をつかむことが肝要である。もし正しい見地をつかんだならば、生死につけこまれることもなく、死ぬも生きるも自在である。至高の境地を得ようとしなくても、それは向こうからやって来る。
いまわしがおまえたちに言い含めたいことは、ただ他人の言葉に惑わされるなということだけだ。自力でやろうと思ったら、すぐやることだ。決してためらうな。 おまえたちの駄目な病因は自らを信じきれぬ点にあるのだ。もし自らを信じきれぬと、あたふたとあらゆる現象についてまわり、すべての外的条件に翻弄されて自由になれない。もしおまえたちが外に向って求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖仏と同じである。
外に向って求める。しかし何かを求め得たとしても、それはどれも言葉の上の響きのよさだけで、生きた祖仏(=即ちおまえたち自身・実存)の心は絶対つかめぬ。取り違えてはならぬぞ、おまえたち。今・此処で仕留めなかったら、永遠に迷いの世界に輪廻し、好ましい条件の引き廻すままになって、驢馬や牛の腹に宿ることになるだろう。
おまえたち、わしの見地からすれば、この自己は釈迦と別ではない。現在のこのさまざまなはたらきに何の欠けているものがあろう。この六根(=眼・耳。鼻・舌・身・意)から働き出る輝きは、かつてとぎれたことはない。もし、このように見て取ることができれば、これこそ一生大安楽の人である。
* バグワンがいかに同じ意義を滾々と語り聴かせてくれていたかを、ありがたく思う。外は外。内なる自身を刮目して見極め真の自由を得たい。ためらっている場合では無い。
2012 10・21 133
* 今朝も「臨済録」に鞭打されていた。
「死という殺人鬼は、一刻の絶え間もなく貴賤老幼を選ばず、その生命を奪いつつあるのだ。おまえたちが祖仏と同じでありたいならば、決して外に向けて求めてはならぬ。」「おまえたちの生ま身の肉体は説法も聴法もできない。おまえたちの五臓六腑は説法も聴法もできない。また虚空も、説法も聴法もできない。では、いったい何が説法聴法できるのか。今わしの面前にはっきりと在り、肉身の形体なしに独自の輝きを発しているおまえたちそのもの、それこそが説法聴法できるのだ。」 「ただ想念が起こると智慧は遠ざかり、思念が変移すれば本体は様がわりするから、迷いの世界に輪廻して、さまざまの苦を受けることになる。」
* まさしくバグワンに聴いていたことだ。「決して外に向けて求めてはならぬ。」「想念が起こると智慧は遠ざかり、思念が変移すれば本体は様がわりするから、迷いの世界に輪廻して、さまざまの苦を受けることになる。」とバグワンに聴いてわたしは承服してきた、実践はなかなか出来ないが。
「なんぢが一念心上の清浄光は、是れなんぢが屋裏の法身仏なり。なんぢが一念心上の無分別光は、是れなんぢが屋裏の報身仏なり。なんぢが一念心上の無差別光は、是れなんぢが屋裏の化身仏なり。」とある。「清浄」「無分別」「無差別」の三光に照らされたいと思ってきた、願ってきた。「無分別」と謂うと今世では思慮のない意味、不徳と思われがちだが、臨済が説きバグワンが謂うこれは、例えばごみを出すときの「分別(ぶんべつ)」を事としてはならない、あれかこれかと選択に心を弄してはいけない意味である。
2012 10・22 133
* 中国文学者であられた興膳宏さに、送本のついでに失礼ながら、私の「恒平」名二字になにか典拠が有りましょうかとお尋ねした。二度ばかり読書の中でそれらしい何かに行き当たりながら書き留めなかったので忘れ果てていた。興膳さんは、特に見当たらないが、「ただ、清の康煕年間の宮廷雅楽に、「恒平」の曲の存したことが、「清史稿」に見えます。恒久平和の意と思われます」と。これは興膳さんからの謂わば「喜壽」を違和つて下さったものと思い慶んでいる。
なかなか恒久平和とは生きてこれなかった。憤ろしいことも悲しいこともあった。だが嬉しい、晴れやかな、励まされることも多かった、その方が多かった、と顧みて思えるのが有難い。
振り向くな、過去を顧みるなとバグワンに叱られてばかりいるが、心弱るとついそういう気味に陥る。
2012 10・26 133
☆ 臨済に聴く 『臨済録』(入矢義高訳注)に拠って
「心というものは形がなくて、しかも十方世界を貫いている。」そんな「心が無であると徹底したならば、いかなる境界にあっても、そのまま解脱だ。」「わしがこのように説く目的」は、「おまえがあれこれ求めまわる心を止めることができずに、古人のつまらぬ仕掛けに取り付いているからだ。」「おまえが、、無限の時間を空じきるまでに達観できておらぬから、そんなつまらぬものにひっかかるのだ。ほんものの修行者なら」「ただその時その時の在りようのままに宿業を消してゆき、なりゆきのままに着物を着て、歩きたければ歩く、坐りたければ坐る。修行の効果への期待はさらさらない。」「あれこれ計らいをして、成仏しようなどしたならば、そういう仏、そういう行業こそは生死輪廻のでっかい悪しい引き金、生死の大悪兆だ。」
* バグワンに再三再四聴いてきたのと、完璧なほど、同じいのに力を得る。
2012 10・28 133
☆ 臨済録に聴く
「おまえたち、時のたつのは惜しい。それだのに、おまえはわき道にそれてせかせかと、それ禅だそれ仏道だと、記号や言葉目当てにし、仏を求め祖師を求め、〔いわゆる〕善知識を求めて臆測を加えようとする。間違ってはいけないぞ、おまえ。」「このうえ何を求あようというのだ。自らの光を外へ照らし向けてみよ。古人はここを、『演若達多は自分の頭を失って探し廻ったが、探す心が止まったら無事安泰』と言っている。おまえよ。まあ当たり前でやっていくことだ。あれこれと格好をつけてはならぬ。世間にはもののけじめもつかぬ悪僧の手合いがいて、何かといえば神がかりをやらかし、右へ左へとくるくる向きを変え、『やあいい日和だ、やあいいお湿りだ』と御託を並べる。こんな輩は、みんな閻魔王の前で焼けた鉄丸を呑んで借りを返させられる日が来るだろう。ところが、しゃんとした生まれのはずの修行者たちが、こんな狐狸の手合いに化かされて、さっそくうろんまことをやらかす。愚か者め。閻魔王に飯代を請求される日がきっと来るぞ。」
演若達多 鏡にうつる自身の美貌を楽しんでいたが、ある日直に顔を見ようとして見られず、顔を失ったと町中を走り回った男。自己を見失った愚かさの喩え。
核心は「要平常、莫作模様 当たり前でやっていくことだ。あれこれと格好をつけてはならぬ。」
生皮を剥がれる心地がする。知識人ほどこれが出来ぬ。
2012 11・2 134
☆ 臨済に聴く 「臨済録」入矢義高さんの訳に拠って。
問い、「仏と魔とはどんなものですか」
師は言った、「お前に一念の疑いが起これば、それが魔である。(一念も生死を計れば、即ち魔道に落つ。) もしお前が一切のものは生起することなく、(万法唯心、心もまた不可得 存在として心は把得できぬ) 心も幻のように空であり、(一切の諸法は幻化の相) この世界には塵ひとかけらのものもなく、どこもかしこも清浄であると悟ったなら、それが仏である。
ところで仏と魔とは、純と不純の相対関係に過ぎぬ。わしの見地からすれば、仏もなければ衆生もなく、古人もなければ今人もない。得たものはもともと得ていたのであり、(理法は求めて新たに得るのではなく、本来自己に具わっていることの体認・目覚め・気づきこそ肝要) 時を重ねての所得ではない。もはや修得の要も証明の要もない。(道の修すべきなく、法の証すべきなし。)
* バグワンも常にこう語っていた。「分別心 マインド」が障礙だと。修行苦行して得るもので無い、すでに備え持った仏性に気づいて目覚めよと。まことに、まことに然かあるべし。
2012 11・14 134
☆ 臨済に聴く 「臨済録」入矢義高さんの訳に拠って。
おまえに言う、大丈夫たる者は、今こそ自らが「本来無事の人」であると知るはずだ。残念ながらおまえはそれを信じきれないために、外に向ってせかせかと求めまわり、(念々馳求) 頭を見失って更に頭を探すという「愚」をやめることができない。円頓を達成した菩薩でさえ、あらゆる世界に自由に身を現すことはできても、浄土の中では、凡を嫌い聖を希求(厭凡忻聖)する。こういった手合いはまだ「取捨の念」を払いきれず、「浄・不浄の分別」が残っている。
禅の見地はさようの迷惑とは違っている。ずばり「現在そのまま」だ。なんの手間ひまもかからぬ。(直是現今、更無時節)
わしの説法は、皆その時その時の病に応じた薬で、実体的な法などはない。
もし、このように見究め得たならば、それこそ真実の探求者・出家者で、(俗塵に塗れず無心に=)日に万両の黄金を使いきることもできる。
おまえ。おいそれと諸方の師家からお墨付きをもらって、おれは禅が分かった、通が分かったなどと言ってはならぬぞ。その弁舌が滝のように滔々たるものでも、全く地獄行きの業作り(皆是造地獄業)だ。真実の求道者であれば、世人のあやまちなどには目もくれず(不求世間過)、 ひたむきに正しい見地を求めようとする。もし、正しい見地に目覚め得て月のように輝いた(圓明) なら、初めて正覚は成就したことになる。(方始了畢 まさに初めて了畢せん。)
* 知解はしている、それが「いけない」。いけない、いけない。知解で満足してしまうのが、知識人の地獄なのだ。
2012 11・15 134
☆ 臨済に聴く 「臨済録」入矢義高さんの訳に拠って。
凡常の修行者たちは、いつも名前や言葉に執われるため、凡とか聖とかの名前にひっかかり、その心眼をくらまされて、ぴたりと見て取ることができない。
例の「経典」というものも看板の文句にすぎぬ。修行者たちは、それと知らずに、看板の文句についてあれこれ解釈を加える。それはすべてもたれかかった理解にすぎず、(皆是依倚) 因果のしがらみに落ちこんで、生死輪廻から抜け出ることはできぬ。 追いかければ追いかけるほど遠ざかり、求めれば求めるほど逸れていく。ここが摩詞不思議というものだ。
おまえに言う、おまえの幻のような連れを実在と思ってはならぬ。そんなものは遅かれ早かれするりと死んでしまうのだ。おまえはこの世で一体何を求めて解脱としようとするのか。
ずるずると五欲の楽しみを追っていてはならぬ。光陰は過ぎ易い。一念一念の間も死への一寸刻みだ。(光陰可惜、念念無常) 大にしてはこの身を作る地水火風〔の変調〕に、小にしては一瞬一瞬が生住異滅の転変に追い立てられているのだ。
おまえ、おまえは即今ただいま、これら四種の変化が相(かたち)なき世界であると見て取って、外境に振りまわされぬようにせねばならぬ。
* このおしえを、バグワンにも教わって知解はしているが、これと、「反原発」のいわば闘いとはどういう関わりになるのか。「生住異滅の転変に追い立てられている」だけなのか。
2012 11・19 134
☆ 臨済に聴く 「臨済録」入矢義高さんの訳に拠って。
わしの見地からすれば、すべてのものに嫌うべきものはない。おまえが、もし(凡を嫌って)聖なるものを愛したとしても、聖とは聖という名にすぎない。修行者たちの中には五台山に文殊を志向する連中がいるが、すでに誤っている。五台山に文殊はいない。おまえは、文殊に会いたいと思うか。今わしの面前で躍動しており、終始一貫して、一切処にためらうことのないなら、おまえ自身、それこそが活きた文殊なのだ。おまえの一念の、差別の世界を超えた光こそが、一切処にあって普賢である。おまえの一念が、もともと自らを解放し得ていて、いたる処で解脱を全うしていること、それが観音の三昧境だ。(この三つのはたらきは)〕互に主となり従となって、その発現は同時であり、一がすなわち三、三がすなわち一である。
ここが会得できれば、はじめて経典を読んでよろしい。
* とてもわたしは今、経典に向かおうと願わない。今の私には経典がただのファンタジーとしか読めない。いろんな世事に思いを向けて他念なくそれに打ち込む、いわば作務禅に無心に打ち込んでいたい。悟りを待つ気もない。
2011 11・21 134
* この時代の宗教家、日本でなら主として仏教家達は国民の苦悩などについてどう考えているのかと、時折、深刻に想像した。ことに他力本願で自力を忌避してみえる浄土系の僧たちは、例えば原発危害のため故郷や肉親知友を失い亡くした人たちをどう眺めているのだろうと。
わたしのところには親鸞仏教センターから「通信」や定期刊行の本格の雑誌類が送られてくる。今し方届いた「通信」43号の巻頭に研究員という肩書きの花園一実氏が「真宗と他者」というエッセイを掲載されていて、すぐ読んだ。信者にだけでなく大事な観点をもった一文であり、お断りも省かせてもらい、早速そのまま此処へ転載させて頂く。
☆ 真宗と他者 親鸞仏教センター研究員 花園一実
最近、ある宗教学の先生が、浄土真宗の公共性について問題提起されている文章を拝見した。東日本大震災を受けて、多くの仏教者が現地において支援活動を行った。そのことの意義を大いに認めつつ、一方で仏教には、ボランティア活動などの公共的役割を果たすうえでの教理的な位置づけが未だ不明瞭ではないのか。特に浄土真宗では、他力念仏の教理を強調するとき、どうしてもそのような公共的活動が自力として退けられてしまう一面があるのではないかと、このような問題提起であった。
この間題に対して、「いや、それは真宗の何たるかを理解していない発言だ」と耳を塞ぎ、真宗とはあくまで「個の自覚の宗教である」と言い張ることはたやすい。蓮如は「往生は一人一人のしのぎなり」と言っているし、『歎異抄』には「ひとえに親鸞一人がためなりけり」という言葉もある。もちろん他者への関わりを蔑(ないがし)ろにするわけではないが、肝心な問題は一人ひとりが教えに出遇うということにあるのだと。しかし、そう言ってしまえば、この間題はそれで「おしまい」である。他所ではどうなっているかわからないけれど、とりあえず、私たちの宗派ではそのようになっている。だからこれ以上、議論の余地はない。
実を言えば、これは何より私自身がそのように考えていたのである。宗教はどこまでも「個」の問題、すなわち「自己の苦悩」という現実問題を離れて語られることは許されない。このことは今でも変わらない思いとしてあるが、ではその時、「他者」とは一体どこにいるのか。「個の自覚」こそが重要だと言われるその瞬間、「他者」の存在はどこかに流れて消えてしまっているのだろうか。逆に言えば「他者」が問題にならないところに、はたして本当に仏教とは成立するものなのだろうか。このことが、震災を経た今、大きな問題として自分のなかに生まれている。
かつて親鸞は、飢饉に苦しむ民衆を利益するため、自ら三部経を千部読誦することを試みたという。しかし、その行為に拭い切れない「自力の執心」を垣間見た親鸞は、苦悩のすえ読誦を中断し、他力をたのむ名号一つに専念した。後世を生きる私たちは、親鸞が「自力ではなく他力だ」と言ったその結論だけを切り出して、さもそれが親鸞思想の極致であるかのように鼓吹しがちであるが、それは大きな誤りであると思う。自ら民衆を強く思い、たとえ自力であろうが行動せずにはおれなかった、それこそが偽りない本当の親鸞の姿ではなかっただろうか。決して自力は無意味だと、離れた場所で念仏や書き物をしていたのではない。何より他者を考え、その他者との関わりのなかから、どうしても間に合わない人間の現実というものを、念仏の教えのなかに聞き取っていったその人こそが親鸞なのである。
だからこそ、私たちは凝り固まった机上の論理に埋没してはならない。「親鸞の思想にはこうある」ではなく、「親鸞ならどうするか」という、最もシンプルな問いに立ち返るべきではないだろうか。はたして真宗の教えは他者を救いえるのか。否、他者へのまなざしを忘れたところに、決して「一人」の自覚はありえないのである。
* ややたどたどしいが、趣旨には賛成できる。ただし花園氏一人の当座の思いだけでなく、親鸞の徒僧たちがみな同じ観想なのだろうか、むしろそうではないかに読める文脈がある。信仰が「一人」のものなら、「布教」に専念した祖師達は信仰の本義を逸脱していたか、そんなことはあるまい。信仰が人を救うという。この「人」とは僧という善知識にも信者らにとっても「他人・他者」である。阿弥陀や菩薩からみても「他者」を信仰へ誘うことが「他者救済」であった。大経の本願も、人が「皆」、斯く斯く満たされない限り自分は正覚を得ないと言うている。自身の極楽安住など問題にもなっていない。それは、この「通信」の次頁に掲げられた本多弘之所長の講話が「往相の回向と還相の回向」とだいされているのに、本質論として関わるのではないか。
「他力本願」とはどういう事なのかの本質的な問い返しが出来ていないなという、傍観者なりの観察が久しくわたくしに有った。はしなくも目にした花園氏の一文に、だから、目を惹かれたのである。
2012 11・24 134
☆ 臨済に聴く 「臨済録」入矢義高さんの訳に拠って。
上のような気持ちの時に『臨済録』を開くと、「論説閑話して日を過ごす莫れ」と叱られる。
せめて、「論説」で「閑話」でもないんですと言い訳の利く仕事でありたい。
「但有(あらゆ)る声明文句(しょうみょうもんく)は、皆な是れ夢幻なり。」「仏境は自ら我は是れ仏境なりと称する能わず。」「境は即ち万般差別すれども、人は即ち別ならず。所以(ゆえ)に物に応じて形を現じ、水中の月の如し」と臨済は語る。
「物に応じて形を現じ、水中の月の如し」とあるような仕事に取り組みたい。
2012 11・26 134
* もっくん(本木雅弘)が不良少年めく禅坊主の役で、ついには首座をつとめ禅問答をやるという、破天荒に可笑しい映画を昼過ぎに妻と楽しんだ。バグワンや臨済録を気を入れて読んでいるように、いまの、近年の、もうかな永い年月のわたしは、禅に一等向き合っている。そんな眼で観てもなんとも可笑しくおもしろい周方監督の作画であった。これ以上を謂うと、生兵法に近くなるので黙するが。
2012 12・28 135