ぜんぶ秦恒平文学の話

バグワン 2013年

 

☆ 臨済録に聴く
「法性(ほっしょう)の仏身とか、法性の仏国土というのも、それは明らかに仮に措定された理念であり、それに依拠した世界に過ぎない。」「法は心外にもなく、また心内にもない。いったい何を求めようというのか。」
「仏を求め法を求むるは、即ち是れ造地獄の業。菩薩を求むるも亦た是れ造業、看経(かんきん)看教も亦た是れ造業。仏と祖師とは是れ無事の人なり。」「なんぢ若し心を住して静を看、心を挙(こ)して外に照らし、心を摂して内に澄ましめ、心を凝らして定(じょう)に入(い)らば、是(かく)の如きの流(たぐい)は皆是れ造作なり。」

* ファンタジイである仏典の多くは、いかにもファンタジイと知って愛すべく、それは「明らかに仮に措定された理念であり、それに依拠した世界に過ぎない。」あれこれと架空に「造作」された理念などに拘泥していると泥に沈む。
仏や祖師の「無事」とは何もしない意味ではあるまい、して囚われなく、しなくても囚われない。外へも内へもなんら造作しないでしている、していない、のであろう。
2013 2・10 137

☆ 臨済禄に聴く。
「名前や言葉に執われるため、凡とか聖とかの名前にひっかかり、心眼をくらまされて。ぴたりと見て取ることができない。例の経典というものも看板の文句にすぎぬ。」「それと知らずに、看板の文句についてあれこれ解釈を加える。それはすべて、もたれかかった理解にすぎず、因果のしがらみに落ちこんで、生死輪廻から抜け出ることはできぬ。」「おまえたちが、もし( 凡を嫌って) 聖なるものを愛したとしても、聖とは聖という名にすぎない。」」
「(真に道破した)良師を訪ね歩いて教えを請うがよい。ずるずると五欲の楽しみを追っていてはならぬ。光陰は過ぎ易い。一念一念の間も死への一寸刻みだ。(因循として楽あれば苦あり遂うこと莫れ。光陰惜しむべし。念念無常なり。)」「人の言いなりなぐずでは駄目だ。ひびの入った陶器には醍醐は貯えておけない。」「何よりも他人に惑わされまい。」「どこででも自らの主人公となれば、その場その場(の今)が真実だ。(随処に主となれば、立処皆真なり。)」「なによりも念慮(分別)を止めることだ。外に向って求めてはならぬ。」

* もとより、わたしも、私民であり社会に生き世界に生きている。おのずから行為し、おのずから葛藤する。投げ出せない。ただそれらにも無心に向かうこと、拗くれた念慮・分別を白紙にかえしたまま行為し葛藤することは出来る。わたしは、そうしていると豪語はならないが、そうしたい。
2013 2・13 137

* オーム真理教のあのサリン事件からはるか18年の歳月が流れ、裁判はまだ決着しない。宗教信仰の危険な一面を大きく露呈したあれは大惨事であった。「信仰」とは、そもそもなにごどあるのか。わたしはこう答える。
尊敬や信愛や愛好といった生活感情はべつにしていい。
問題は宗教上の信仰に限っていて、その上できっぱり、わたしは言う、宗教上の信仰とは、つまりは頼りたい「抱き柱」への、いわゆる神仏へのファンタジックでひ弱い「依頼心」であり、真実自由な精神の「腐蝕」状態にほかならないと。阿弥陀の浄土も、神の天国も、いわゆる地獄も、来世も、リアルには実在しない。アイデアルでファンタジックな必要から「創作」された、つまりは頼りたい「抱き柱」として洋の東西南北で「設定」された「文化現象」に他ならない。しかもこれに信倚し盲信すれば、信仰を異にする相手への過酷なまでの侵害から、残虐な戦闘・戦争も起こることは歴史が明確に証言し証明している。「神」という設定も「仏」という設定にも、共通して今述べた同じ危険や驚異や迷惑が常に内在している。
穏和で内省的な信仰生活の存在をわたしは否定しない。しかもなお「信心の元素」は鰯の頭にすら宿っていて、或る意味で笑止、或る意味で、健康な自由精神の腐敗現象としか謂いようがない。
信仰や経典や修行によって「悟り enlitenment 」がもたらされたりはしない。「悟り」とは自由にして無心な平生心にこそ稀まれに訪れる、いや訪れるかもしれない「安心」である。偏頗で儀式沢山で排他的な仰々しい限りの信仰儀礼は、一例で謂えば、カソリックも密教も黒魔術等も、自己催眠にちかい固有めかした遊技に過ぎない。
比較的健康な、宗教的というより「人間の自由精神」に接近し接触しているのは、老子の「道」また釈迦の「禅」、イエスの「愛」、であろうか。

* 少年の頃よりわたしはむしろ宗教にこころひかれ、身をよせていた。それ自体はいまも変わっていないけれど、個々の、奇態と想える具体的な信仰には近づかなかった。安易な真似だと思ったのである。それよりは自身を寒いけれど、寂しいけれど、抱き柱から放して自由の利いた自在の覚えある境涯に抛とうとした。
それでよいと思っている。
2013 3・20 138

* 機械が稼働までに、「臨済録」読んでいた。

☆ 臨済和尚に聴く

昔の先輩たちは、どこへ行っても人に理解されず、追い払われたものだが、そうなってこそその貴さがわかる。 どこででも人に受け入れられるような人物ならば、何の役に立とうぞ。 獅子が一吼えすれば、野干(狐)は脳が割れてしまう。(獅子一吼、野干脳裂)
世間には、修習すべき道があり、証悟すべき法がある、などと説くものがいるが、一体どんな法を悟り、どんな道を修しようというのか。そいつらがくだらぬお説教を垂れて人さまを呪縛し、「教理と実践とが即応し、身口意の三業を慎んで始めて成仏できるのだ」などと言わせておる。こういう説をなす連中は春の細雨のように多い。
古人は「道で修道者に出逢ったら、絶対に道の話をしてはならぬ」と言い、だからまた「もし人が道を修めようとしたら道は発現しなくなり、さまざまの異端が先を争って出てくる。しかし一たび知慧の剣が現れ出れば、すべては跡かたもなく消え、明が顕われ出る前に暗が輝き出る(明頭未だ顕はれざるに暗頭明らかなり)」と言い、さればこそ古人はそこを「平常心がそのまま道である(平常心是道)」とも言った。
もし異った心を生じると、心の本体とその現れとが別々になる。しかし一心は異らぬから、その本体と現れとは同一である。

* ものごとのゴチャゴチャになった頭から、無用のごみを手づかみに捨ててもらった心地がする。
2013 4・1 139

* 目の調子が少しずつよくなり、就寝前の読書も半ば復活できている。寐たまま本そのものの重いのは肩も痛めるので、文庫本に今は限っているが、新たに加えた「共産党宣言」が、読み始めであるが、とても興味深く説得されている。ああこれは歴史的な名著だなと実感できる。一つには世界史をつくづくと読んできた体験にも先導されていて、「ブルジョア階級」と謂われればそれへの概念的理解は自身のうちに用意されていて、「宣言」の批評がまっすぐフムフムと伝わってくる。分かりよくかつ面白いし興味津々だしあらためて教えられるところ大きい。近時の岩波文庫あさりで手に入れた。
「共産党宣言」の前ぶれとも読めなくないが、ツルゲーネフの「猟人日記」がロシアの広大な自然と多彩な庶民性・人間味に文学的な血を通わせ、滋味溢るる表現や描写の巧みが希代に面白い。妻がさきに読み終え、上下巻が手元に戻ってきたのをもっぱら楽しんでいる。
ゲーテの「イタリア紀行」がすばらしい。いままだゲーテはシチリアを堪能している最中だが、その自然と人間との観察や批評や探索・探訪の精微に美しく適確なことに讃嘆しきり。たいがいの紀行には、あまりの尋常さに飽きてしまうことが多いのに、ゲーテのそれには彼の深い篤い息づかいまで肌身に伝わってきて、まさにゲーテの肩にのせられてわたしも旅をしているような心地。すばらしい。
ローマの大昔の「サチュリコン」には、ただあっけにとられ、ただただ「読まされ」ている。なんという本であることか。
「指輪物語」は二つの塔の物語がいましもクライマックスに近づきつつ、こまやかに美しい大自然と時の推移の描写を楽しみ、味わい、感嘆し、全身で溶け入っている。奇跡のような文学作品。とても嬉しい読書。
「南総里見八犬伝」は、晴明でも清明でもない混沌世界の圧に満ちていて、ときどきシンドクなる。たんなる伝奇世界ではなく、どこかに「近世」を予見した中世末への辛辣な歴史批評が物語の底でうごめくと感じる。物語以上に、作者馬琴の「ことば」のとほうもない乱舞の韻律に引きずり込まれる。高田衛さんの「八犬伝の世界」を頼みの道案内にして文字通りねばり強く読み込んで行く。
「捜神記」ももう残り少ない。じいっと怪力乱神の世界に眼をそらさず見入っている。
そして「臨済録」「バグワン」また「十訓抄」とともに自問し自答している。
2013 4・6 139

* 眠り中断され、昨日買ってきた本に目を通し、満足した。 ペトラルカの『わが秘密』 ジョージ・エリオットの『サイラス・マーナー』 マルキ・ド・サドの『ジュスチーヌ または美徳の不幸』 そしてレマルクの『愛する時と死する時』上下巻。レマルクは久しぶり。
抗癌剤の一年服用ぐらい、湖の本を四册出せばと思い五冊出した。大長編小説を何編か読めばとと思い、『八犬伝』も『指輪物語も』も『イタリア紀行』も『猟人日記』も『妻への手紙』も、谷崎も、折口も、和泉式部集も古今著聞集も読み切れぬうちにはや一年経っていた。文庫の一冊本その他、二十点は読み上げていた。
読書の楽しみが、すつかりよみがえっていて、新しい本に向かうつど満悦を覚える。読んで勉強しよう、役立てようという気は無い、ひたすら読む、または読まされてしまうのが嬉しい。ゲーテ、ブーシキン、トルストイ、ツルゲーネフ、フローベール、ロマン・ロラン、チェーホフ、バルザック、ル・グゥイン、トルーキン、マキリップまたマルクス、エンゲルス、プレハーノフ。さらに東洋文庫の四巻、臨済録、そしてバグワン。みな、ただただ面白かった。有難かった。一年間を永いなあと嘆息したことは一度もなかった。
2013 5・8 140

* 新聞もテレビニュースも、もう観るにも読むにも堪えない。視力も問題だが報道されてくるなかみが胸を腐らせる。
米中のいわば鞘当てのしらしららしさ。中国の人権抑圧のあまりのひどさ。日本の復興関係役人のツイートの下劣さ。安倍「違憲」内閣の違憲に居座る壊憲への悪意。少しも変わりない一部特権層を保護するだけの不出来な経済政策、その早くも現れている停頓。うんざりだ。

* いいもの、すばらしいもの、うつくしいものを見つけて静かに向き合いたい。

* ここしばらく、私語でバグワンに触れてこなかった。またバグワンにひたと向き合いたい。
2013 6・14 141

* 興膳京大名誉教授より戴いた「荘子 内篇」を、原文と詠み下しと詳細な註と現代語訳、どれも省かずに克明に読んで行くおもしろさ、ときにぶちのめされるほどの畏ろしさ、尽きぬものがある。「老子」はあまりの深淵で跳び込むのが真実怖いが、「荘子」は譬え話の達人でもあり、話に存分に惹きいれてくれるが、そこで甘えると容赦なく突き飛ばされる。生意気に突っかかりつつ謙遜をきわめて近づき、ぱっと分からねばならぬ。
「大知は閑閑たり、小知は間間たり。大言は炎炎( たんたん) たり、小言は  (せんせん)たり。」「大きな知恵はゆったりとしているが、小さな知恵はせせこましい。大きなことばはあっさりしているが、小さなことばはやかましい。」
「ゆったり、あっさり」と真実願いながら、つい「せせこましく、やかましい」我が身を省みて刻まれるように身も心も痛む。バグワンに叱られ続け、今度は荘子にコツンコツンと痛い目を見つづける。情けなくて、有難い。
2013 8・8 143

* 『臨済録』は大半にあたる「上堂」「示衆」を気を入れてつくづく読んだ。あとへ続く「勘弁」「行録」等のまさしく禅問答へは近寄れない、近寄る必要を目下感じない。
「臨済」は黄檗の嗣である大禅師。『臨済録』は後年「臨済宗」という宗派の教本では、ない。あくまで傑出した禅僧臨済の肺腑を衝いて出た大喝であり、「上堂」「示衆」の仔細を尽くした岩波本の本文も入谷義高氏の訳註もまことに有難い恩恵である。同じ『臨済録』をはるか昔に同じ岩波文庫の旧版で読んでいるが、その頃と今回との間にわたしには謂わば「バグワン体験」の生彩を得ていて、おかげで、しみじみ臨済の「ベランメエ」に打たれ続け、かつ自由に接することが出来た。至言・罵言にかかわらず言句になんら拘泥せずに、わが「ありのまま」を真っ白にやすやすと生きたい。
『荘子』の追い打ちも容易でない。
「ひとたび持ちまえの肉体を授かったからには、損なわぬよう大切にして生の尽きるのを待とう。事物に逆らったり流されたりしながら、奔馬のように走りまわってとどまるところを知らないなんて、何とも情けないじゃないか。 一たび其の成形を受くれば、亡わずして以て尽くるを待たん。物と相い刃(さから)い靡き、其の行くこと尽(ことごと)く馳するが如くにして、而も之を能く止むるもの莫し、亦た悲しからずや」と。
「最後まであくせくとしながらそのかいもなく、ぐったりとしてこの先どうすればよいかも分からないなんて、何とも哀れじゃないか。 終身役役として其の成功を見ず。 然(でつぜん)として疲役して其の帰する所を知らず、哀しまざる可けんや」と。
「あるがままの心を師としさえすれば、師のない人なんてあるもんか。変化の筋をわきまえて自分で悟る者だけに師があるんじゃなくて、愚か者にだって師はあるもんだ。あるがままの心によらずに是非をあげつらうのは、遙かな越(の国)に今日旅立って、昨日着いたというようなものだ」と。
今一度臨済と、そして入谷氏とに聴く、「修行者たる者は大丈夫児(男一匹)としての気概を持て」と臨済は叱咤するが、それはなにも「昂然と頭をもたげ両手を振って闊歩せよなどと教えているのではない。ただ『平常無事な人』であれというのである。そういう生き方こそが、まさに偉丈夫の在りようなのだと繰り返して説く。『ただただ君たちが今はたらかせているもの、それが何の仔細もない(平常無事なものであること)を信ぜよ』と。臨済が強調する「真正の見解 (: けんげ) とは、端的にはこのことに尽きるのであり、『自らを信ぜよ』という教えも、このことに集約される」と。
臨済はしばしば、「仏」とは「おまえ」だと言いきっている。バグワンもそう言う。哲学などなまじ嘗めてきたものは、この「仏」とは「おまえに内在した神格・別格の存在」かのように理解してしまいがちだが、臨済もバグワンもそんなファンタジイを言うてはいない。まさしく言葉通りの「おまえ」が「仏」だ、「仏」は「おまえ」だと言うているのであり、その「ありのまま」を信ぜよと言うている。この機微の差をまぜこぜにしてはならない。
2013 8・16 143

* わたしはというと、目下のところ、よほど違う角度から「生きる」難しさに呻吟している。
さきに紹介した『荘子』の内篇は、この日録を読んだ妻がおもわず嘆息を漏らしたように、文に即して意義を解いたりするのは確かに「難しい」限りであるが、根本に触れてしまっていれば、例えば思議せず分別せず自然ありのままに生きるのがいいのだとでも一筋の藁を掴んでみると、心をむなしくしてただ掴んだ力に引き摺られて行くといった見込みも無くはない。しかし知識として受け容れては何にもならない。

* 『ブッダの言葉 スッタニパータ』は、釈尊の教え・言葉としては学問研究の至り着いた最奥の理解として、シャカのほぼ直接話法に最至近と信じられる「言葉」だという。仏教といえばまた仏経と応じてしまうほど無数の経典が伝存しているけれど、その九割九分九厘はシャカその人の死後何百年を経つつ創作されていったまさに「仏教経典」であり、すなわち釈尊の「言葉」とは謂えない、わたくしの理解と断定によって謂えばみごとな「ファンタジイ」に他ならない。それら経典の多くを擁したいわゆる大乗仏教がブッダであるシャカの教えとはよほどもよほどもかけ離れていて、まして日本でこそ成熟し大成した日本型の仏教は、極端なとことわる必要もないほどお釈迦様のもともとの教えからみれば変貌し、変容し、修飾され、荘厳されている。だからつまらないなどとは、わたしは決して云わない。禅も浄土教も密教もみなみごとな達成であり表現なのだ。
しかし、あくまでいえば、それらは「ブッダ釈尊のことば」からはかけ離れ、極端に断言すれば語句の上でもまったくまるまる似も似つかないのである。
中村元先生の訳になる『ブッダのことば スッタニパータ』を開けば、「第一 蛇の章」であり、その冒頭は端的に「一、蛇」である。般若心経も阿弥陀経も臨済録も往生要集も教行信証も卒倒ものである。
その「蛇」の「一」は、こうである。「二」も挙げてみる。
「 一  蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起ったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。--蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。」と。
「 二  池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。--蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。」と。
このようにして「第一 蛇の章」の「一、蛇」は一から十七の「ことば」を語り継いでいる。そして「二、ダニア」「三、犀の角」以下「一二、聖者」にまで至って、次の「第二 小なる章」に繋がる。さらに「第三 大いなる章」「第四 八つの詩句の章」とつづき、最後の「第五 彼岸に至る道の章」では学生達の「質問」が並んでいる。みごとに散文化された翻訳で、その現代日本語そのものには何の難解もない。有難い。
これはこれは、この先々まで、バグワンのもともども文字どおり「座右の書」になる。有難い。
2013 8・28 143

* 機械のまえで、寄るおそく『臨済録』を序、上堂、示衆、勘弁、行録そして塔記まで、読み終えた。数十年前に古い岩波文庫で読み、今度新しい岩波文庫で、日数をかけて懇切に読み終えた。読解するのが適当な書ではない。分かろうとして分かるわけのない、しかし無心に読み読んで何事もないという本ではない。むかし普化全身脱去のことや「一箭過西天」の句に覚えるものがあり、今回またそれに遇った。
この本、座右に放たず繰り返し手に取りつづけると思う。
ついでながら、寝室で読み続ける十七册とべつに、この機械のそばに読み終えてなおいつでも手に取れるように置いている文庫本は、この「臨済録」「陶淵明集」「白楽天詩集」「浮生六記」そしてペトラルカの「わが秘密」 サドの「ジュスチーヌまたは美徳の不幸」 フローベールの「紋切型辞典」 そしてマルクス、エンゲルスの「共産党宣言」 もう一冊「日本唱歌集」。近時のわたくしを、言わず語らず示唆し得ているか。
さらについでながら重い大型本も手の届くところにいつでも読み告げるように何冊も置いてある。苦手だが面白いのは古典の「十訓抄」で、わたしは叱られっぱなしである。
そして、バグワン。

* バグワンと関わっていまとても興ふかくついつい読み耽るのが、中村元先生の訳になる『ブッダのことば』で。この本では、ブッダの教えとして示されているうちに(少なくも今のところ)「信」「信じよ」ということばの一度として現れないこと。わたしはもともと信仰、信心ということばに身を預けきれないものを抱いてきた。極楽にせよ地獄にせよ「ファンタジイ」は、こころから褒め称え驚嘆し共感し得て、身をなげ入れるほども愛し憧れ得ても、「信じる」という世界では「ない」と思ってきた。信仰を教える、または強いてくる宗教からは危ぶみ身を避けていた。その意味でもわたしはバグワンに、また禅に、親近を深めて少なくもこの三十年を過ごしてきた。
いま「ブッダのことば」をほぼ直に聴きながら、中村先生のいわれる「これらブッダのことば」とわれわれのこれが仏教だと常識的に受け入れていた知識との間には、大きく深い乖離がみられるとの示唆に、むしろ喜び頷いている自身を見出すのである。「臨済録」また、そういう感覚からは「仏教」ならぬ「ブッダのおしえ」に繋がると聴きかつ読んでいた。
さきのことは分からない。いま、わたしは「ブッダのことば」に明らかに教えられている。
2013 9・8 144

* 映画「マトリックス」の第一部を見始めた。どんな映画がとアンケートされると必ず答えに加えてきた。年を追い月日を追うに連れ現世と「夢」みている世界が「マトリックス」であることに気づいてきた。ほとんど疑っていない。そのおぞましき「夢」からどう覚めるか。覚めることが可能か。バグワンに聴き、千載集などの古代釈教和歌からもひしひしと「夢」の歎きを聴いてきた。人間の世界は失せて、機械的な脳の支配する世界に、それと気も付かずに生きている人間達。
映画「マトリックス」を通してさまざまに思索を重ねてきたと思う。またも己が「マトリックス」を凝視するのである。
2013 9・23 144

* 有るだろう、いずれ出るだろうと心待ちに待っていたのが、『眠られぬ夜のために』を書いた敬虔な基督者ヒルテイによる、他宗教、ことに仏教への感想ないし批判の言葉。

☆ ヒルテイによる 『眠られぬ夜のために』 第二部 一月二十八日
あまり活動的でなく、思弁に溺れがちの、学識ある、ごく少数の人たちだけが、仏教の方がキリスト教よりもまさっていると考えている。それというのも、彼らがキリスト教を誤解しているからだ。
ところで、この仏教は、キリスト教よりもなお一層不運な道を辿ってきた。すなわち、キリスト教の福音が理屈っぽいギリシァの神学者によってゆがめられた以上に、仏教はラマ教によって、つまり僧侶の修法によってゆがめられてきた。
しかも仏教は、その最盛の復興期においてさえ、キリスト教の偉大さ、宏量さ、その実際的適用性には、いずれにしても遠く及ばなかった。仏教に帰依した諸民族の中から、最も条件にめぐまれた場合でさえ、ブルン・バガドのような遁世的隠者をわずかに育てあげたにすぎない。
仏教は、最高の発達をとげた時にも、単に一つの思弁であり、たいていは半ば夢みるような瞑想にすぎず、しかもそういう形式では、つねにごくわずかな人たちしか親しみえない宗教であった。
このような宗教へ、われわれはさらにすぐれた、さらに真実な宗教を持ちながら、あえて改宗すべき理由を全く見出しえない。ところが、現代の「教養ある」階級の大多数の者は、あまりに怠惰なために、このよりすぐれた宗教を自分で綿密に究めようとしないか、あるいはただ新奇なもの、異常なものを追うせっかちな衝動に捕えられているのである。しかもこの衝動は、結局のところ、虚栄心という根本悪から由来しているのである。
つまり、安価に手っ取りばやいやり方で他人にぬきんでること、なにか「自分だけに特別なもの」を身につけること、これこそが現代の教養が目新しい宗教などをもてあそぶ主要なげんいんなのである。
いまにこのような教養をもつ広い範囲の人たちは、破産した自然科学的な唯物論のあとを追う破目になるであろう。
(そしてヒルテイは仏教等への迷いからの覚醒のためという積もりらしく、マタイによる福音書二四の一一・一二・一四を熟読せよと示唆している。該当するその箇所を挙げておく。即ち、)
また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。(しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。)そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後がくるのである。

* 繰り返し丁寧にこのヒルテイの言説を読み返してみて、失礼ながら、頬笑んでしまう。ヒルテイにして、かかるわが田に水を引く弁を臆面無く披露する。たぶんこれが、かなり得意なキリスト教贔屓または荷担が有るだろうから、彼のこの書物での十二分敬意に値する言説のなかで、キリスト教に字義どおり拘泥して「吾が仏尊し」をやってある箇所は、そのような偏頗のおそれ濃い口吻から身を避け避け、ただもう一般に言いうること、さすがに深い人間的洞察と読めるところをだけ、敬意をこめて読んできた。
ヒルテイの明白な誤謬は、「宗教」というもののもつ高次の自然性、独自性を、ひとからげに無視して「基督教だけ」を独善視してやまない、(事、宗教なるものに関するかぎりでの)言説の幼稚さにある。仏教に対しても、よく探索し認識した上で批判し非難しているとはとても想えず、偏狭で幼稚な弁舌に酩酊のていに読み取れる。
人の、底知れぬ生や死への不安、その救済といった視点からすれば、多くの民族がその地方分布に応じ、独自の宗教的恩恵ないし指導がありうるし、事実いろいろに行われてきた。仏教もまた然り、深淵の別派とも関連しつつ、顕著に歴史的に独自性を構築し洗練してきた。そしてまた拡散した。ことにインド仏教に関しては、はやくに衰微と辺地化を余儀なくされて小乗仏教として固まり、しかしながらチベットや中国やことに日本で独自に変貌し変容し洗練された大乗仏教の本質や差異には極めて独自な宗教力があり、ヒルテイにはそれらが殆ど見えていないようである。
たとえば、禅。たとえば、念仏。
ヒルテイは小乗・大乗の認識すら曖昧なままに異端視に励み、只もう吾が神とキリスト尊しと差別に励んでくる、だか゜じつは、そこにこそキリスト教の冒してきた歴史的な傲慢と過誤と破綻とがあったのではないか。
わたしは、自分を仏教徒とも反基督者とも思っていない。そういうところに身を固定し、あたかも抱き柱に抱きつくような宗教を望んでいないのである。だから自由に高邁に自律したバグワン・シュリ・ラジニーシに「聴く」のである。彼は偏頗な主張を柱にして抱きつかせたがるような迷妄を全く持っていない。
またブッダは、あくまでも人間であり人間としての安心立命を教えて、「神」をとほうもない上位概念にはしていない。

* ゆっくり読み返せば返すほど、上の一文に関してのみ謂うなら、物足りないだけでなく、ヒルテイは間違っていると言いきりたい。
2013 11・22 145

* なんとなく体調がよくない。疲労が重い。国会の無法な立法や、福島・東北での小児癌の表面化や、尖閣諸島辺での日中米の混雑や、猪瀬都知事の不明朗金づく事件など気を憂(ふさ)がせるタネばかり、しかも遁れようがない。人間どう生きるか、といった古くして新しい難題は無くなりはしないし、「いかなる所有もなく、執着して取ることのないこと。極めて怖ろしい激流が到来したときに一面の水浸しのなかにある人々、老衰と死とに圧倒されている人々の拠るに足る<州=避難所・よりどころ>は、それだ」とブッダに聴くとき、深く頷いている自分と、上の、「国会の無法な立法や、福島・東北での小児癌の表面化や、尖閣諸島辺での日中米の混雑や、猪瀬都知事の不明朗金づく事件など」も忘れてしまえ、放棄せよ、「求著(ぐちゃく)」するなで済ませられることなのか、わたしは、それに苦しむ。そんな問題に心を労し胸を痛め怒りに眉を焼かれるのは愚劣な執着、無意味な求著なのか。
そうは行くまい、そうではあるまい、それではまともな生きようにはなるまい。そうわたしは思っている、そしてそれが重い重い重い。執着しないことと逃げてしまうこととが等価でなどあるわけがない。
レマルクの『汝の隣人を愛せ』を読んでいて、マリルという避難民のひとりが不幸な同様な仲間達に述懐する、こんな言葉を聴いた、「古代ギリシァ人の間では思想はその人間の名誉であった。後では、(思想は=)幸福となった。さらに後になると、病患となった。それが(ナチスに追いまくられてヨーロッパ中で立つ瀬もないような=)今日では、罪悪となっている。文明の歴史は、文明を創造した人間の苦悩の物語だ」と。なんという悲惨。その悲惨の度は、吾が日本国に於いて、今まさに地獄へまでも深まっている。悪法の権化としかいいようのない「特別秘密保護法」は違憲でかつ狂犬にも似た強権により強引に国会での成立が強行されようとしている。
悪と闘うのは、「迫る、人間の最大不幸」を避けようと闘うのは、人間として棄ててしまわねばならない「執着」「求著」であるのか。
平和憲法という柱に抱きついていればこの最大不幸は避けられるのか、民主主義という柱にただ抱きついていれば人は奴隷にならずに済むのか、南無阿弥陀仏に抱きついて死後の安寧をもとめ、天にましますわれらの神よと抱きついておれば神は人間を救われるのか。神と神とがすでにして争い戦い人間の思想をただの苦難に貶めてしまっている。どうすればいいのか。
早く死に迎えられたいなどと毛筋ほども願いたくはないのに、それしか、もう望みがないかのように人間の堕落と最大不幸とは身に迫っている。

* あの優れたバグワンの基本の生き方は、ブッダを慕いイエスを愛し、老子に自身は最も親しいと告白し続けた彼の生き方の基本は、「叛逆」精神を堅持することであった。これは決して決してテロリズムなどを謂う表明ではなく、人間のともすれば陥って免れ得ないで射る「長いモノに巻かれろ」「言うな、聴くな、見るな」の逃げ腰の生きように対する「叛逆」精神であった。その徹底の中で、「いかなる所有もなく、執着して取ることのないこと。極めて怖ろしい激流が到来したときに一面の水浸しのなかにある人々、老衰と死とに圧倒されている人々の拠るに足る<州=避難所・よりどころ>は、それだ」とブッダとおなじ事をバグワンも言うのである。悪の権勢からの退散でも敗北でもない。あらゆる知恵を尽くして悪への「叛逆」精神を盛り立てるのである。
2013 11・26 145

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