ぜんぶ秦恒平文学の話

バグワン 2014年

 

☆ ヒルテイ『眠られぬ夜のために』に聴く。
「愛は、他のいかなるものにもまして、人を賢明にする。  われわれは、あの事この事について、なにが最も賢い処置であるかを問うかわりに、なにが最も愛の深い仕方であるかを問う方が、たいていの場合、たしかに良策である。  なにが愛の深い仕方であるかについては、才分の乏しい者でも、自分を欺こうとしないかぎり、そうたやすく錯覚に陥ることはない。」

「人間はしばしば他人を助けることができないし、またそれを欲しないことが多い。しかもほとんどつねに、人を助けることに多少とも恐れか、嫌悪を覚えるものである。」

「『魂の底にふれることなく、ただ良心をなだめるためにのみ存在する、外面的な、わざとらしい宗教を持つよりも、全く宗教など持たない方が、おそらくましであろう。』 これはフランス革命時代の言葉であるが、これと同じ意味のことを、すでにキリストがこの上なく痛烈な言葉で語っている。(マタイによる福音書二一の三一、三二。)  単に外面的な信仰だけを抱いてすっかり自己満足をしている人たちは、今日でも、不信者よりもキリスト教の大きな障害である。実際、不信者のなかには、真理を渇望している人がきわめて多い。彼らはただ、かつて歴史的にこの(キリスト教の)真理がたしかに盛られていたその容器(教会的形式)とか、その担い手たちを恐れて、これに近づきえないのである。」

「実際には、社会全体がすぐさま改革されるわけではなく、各個人が、その時代に一般に認められている真理よりもすぐれた真理を、まず自分の内に明らかに感じとり、それから、これを教えと実践とで個人的に表明することによって、つねに全体の改革が推進されるのである。
これらの個人は、キリストの言葉によれば『三斗の粉の中に混ぜられたパン種』であり、あるいはルターの表現をかりれば、『神が彼らを通じて世界を支配し給う英雄であり、偉人』なのである。」

「全体として善い生活をすごしてきた場合でも、それが陥る最も危険な時期は、ときとして、生活がいくぶん退屈になりはじめる頃である。」

「われわれが苦しみをただできるだけ早くとり除こうとしたり、あるいは全く受身に、ストア主義的にできるだけ無感覚な態度で、これを堪え忍ぼうとしたりするのは、いずれにせよ、正しい態度ではない。むしろ苦悩を、種まきの時期として利用しなければならない。」

* ヒルテイに聴きたく、また聴きづらいのは、「キリスト教」との折り合いを強いられるからで、「説教」くさい点である。ひとえに「愛」と聴かされる場合、それが聖的な愛(アガペー)にまず限定されていて、性的な愛(エロス)は当たり前のように除外されるか言及されない。しかし多くの人が根底から触れて悩ましくまた望ましくまた険しいのは後者の「愛」である場合が多い。
バグワンであれば、愛が仏教の教義的には迷妄とされることを踏まえたまま、男女の性愛の極限に静止の秘跡のあり得ることを放擲せず語り聴かせてくれる。
ヒルテイは実に優れた思索者であり助言者であるけれど、しかも聴く耳になにらかの聡いものが無くてはなるまいなあと、思わせられる。
2014 1/14 147

* 幼少・青春期を思い出して、二度と繰り返したくないと尻込みしてしまうのは、いわゆる「試験」だ。試験の成績が悪かったからではない、好成績をいつもいつも維持しなければならんような圧迫、それに耐えてのいわゆる「試験勉強」がイヤだった。投げ出せたらいいがそういう真似はとても出来なかった。一位・首位を譲らないなどというバカげた名誉心にも苦しんだ。全校成績を順位で公開する学校の方針・方法を内心で憎み、それでも文字どおり懸命に頑張っていた。バカみたい。
幼少來、心身にこびりついてきた一等イヤなものが、それだ。それがまだ夢に追ってきたりする。バグワンに出会ったのがどんなに有難かったか。それ以前のわたしと、それ以後のわたしとは、モノを裏返しにしたように違っていると思われる。
2014 1・18 147

* あまり心地よくない。睡魔に見舞われる。それでも、したい仕事を続けている。したくない、すべき用事がたくさん有る。それが気怠い理由か。眼鏡が適確に働いてくれない、と言うよりわたしの眼が眼鏡に合わないのだろう、それが負担になり仕事を細切れで断続していて爽快感に遠のく。陶淵明の詩句「清爽 今、何如」を、つまりは絶えず自身に問うて励ましている。もう二倍も三倍も仕事がしたい。これが生き急ぎなのか。またバグワンの音読へ帰りたくなった。
2014 6・22 152

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