ぜんぶ秦恒平文学の話

バグワン 2016年

 

☆ 明けの春
みづうみ、お元気ですか。
明けましておめでとうございます。
新しい年がみづうみにとりまして晴れやかにお幸せなものでありますようお祈り申し上げます。
元旦からの私語で、ご体調とても心配しております。我慢なさらずに、救急車のお世話になってもよろしいので、どうぞ早め早めに病院にいらしてくださいま すように。みづうみはいつも頑張りすぎますが、そろそろ頑張らないことも大切かと。八日まではおとなしくご自宅にてお過ごしくださいませ。誰でも手術処置 前には気分も滅入るものでございます。お済みになりましたら、またいつものみづうみにお戻りになりますでしょう。

みづうみが映画「沈黙」について何度か書かれていらしたので、先日書いたことの補足説明をさせてください。今年は遠藤周作が亡くなって二十年、『沈黙』が書かれてから五十年だそうです。

* 晩、もう一度、映画「沈黙」を丁寧に観た。

やはり最後の一シーンが理解できなかった。あれでは、ただの破戒に終わるのでは。わたしは、切支丹牢の岡本三右衛門(転んだとされる神父)と日本の武士 岡本三右衛門(転ばなかった武士)の妻との牢内での暮らしを、もっともっと叮嚀に描いた。信仰と人としての真実は、踏み絵を踏もうが、結果的に転んだとし ても、守られうる。神に愛や慈悲があるならそれを信じ抜くことはできるだろう、しかし映画「沈黙」のラストシーンはただの破戒ではないのだろうか。原作、 映画の「題」もよく掴みきれない。
わたしはシドッチとはると長助とを、岡本三右衛門の妻女と牢で結ばれていたパードレとの最期を「御大切」を体し得た人たちと信じて描いた。迷いなく書いた。

映画の最後のシーンは原作には一行もない篠田監督のまったくの創作です。推測ですが、篠田監督は信仰や宗教に懐疑的で否定したかったのかもしれません。こ の映画の評判が良くなかったのは、原作をとんでもなく破壊したからだと考えられます。原作をきちんと読んでいたらこのような解釈は絶対に出てこないでしょ うし、もし篠田監督が神父の棄教をこのように描くつもりならそれはそれでかまわなくても、オリジナルの脚本をつくるべきで、原作に『沈黙』を使うべきでは ありませんでした。解釈は自由ですが、作品の根幹を変更するのならそれは原作の悪用になってしまいます。何よりいけないのは、あの当時日本にきた宣教師た ちへの理解や敬愛に欠け、人間の誠を信じていない(と思われる)ところで、私はこの映画を観ようとは今のところ考えないのです。
あの時代に、ヨーロッパからは地の 果てであった日本に布教にきた宣教師たちはやはり見上げた人たちであったと思っています。殉教することを覚悟しての命がけの渡航でした。理解できない言語 や馴れない風土をものともせず福音を伝えにきてくれたのです。ですから棄教せざるを得なかった神父たちのその後の人生を想像するだけでいつも涙を禁じえま せん。

私 が『親指のマリア』を愛するのは、たとえ基督教に帰依しなくても、異国の神父たちの魂の気高さを理解し愛する新井白石、叡智も人間愛もある日本人の姿を描 いているところにあります。人種や文化や歴史や宗教や言語、あらゆる障壁を超越し得る「身内」の可能性を新井白石とシドッチ神父の関係に信じることができ るからです。日本は教会が基督教の布教に失敗した国ですが、だから宣教師たちの来日が何の意味もなかったかというと、絶対にそんなことはないでしょう。愛 に破れた人生が無意味でないことと同じです。

ヨワン……。
この国へ、よう来てくれた。後の人にもそう思わせる時が、さだめし、有ろうよ……。あのマリアの絵に慰められる者も有ろう……よ。

作中にこう描かれてている新井白石の痛哭を二十一世紀の日本人も共有していることは疑いようもないのです。

遠藤周作『沈黙』は、棄教せざるを得なかった人間の弱さや絶望と悲嘆の人生に、同じ重さの悲しみを抱いて同伴しているこれまで描かれたことのない新しいイ エス像を描いた記念碑的作品です。遠藤周作の最高傑作は『深い河』だと思いますが、『沈黙』を書かずにここに至ることはなかったと思います。

ヨブと神との神話は、むしろよほど特異なものであるらしい。わたしの内にも「神」と呼んでいい不思議が生きていないわけでないが、ヨブに対する神のよう な神とは一度も話したことがない。一編のお話しのようにしか迫ってこない。基督教にたいする理解の限界がはっきり感じられている。むしろブッダから会得で きそうな頼もしさをわたしは実感している。仏教と謂っても、大日の阿弥陀の観音のという神話化された教義よりも、端的に、禅という透徹の安心へむかいたい 願いが濃いし強い。

みづう みの「ヨブ記」の読書についての感想ですが、遠藤周作も日本人ですから、当然基督教理解の限界を感じ続けて、生涯基督教の受容に格闘し続けてきた作家で しょう。遠藤周作にとってカトリック信仰は母親に与えられたもので、信仰を棄てることは母を棄てることなので決して出来なかった。基督教を自分のものとす るために小説を書き続けたと言ってもよいかもしれません。さぞ苦しいことであったろうと思います。

基督教は日本人と人間の在り方がまったく違う異人さんの宗教です。一般的に日本人の家族は夫婦、親子、兄弟姉妹が互いに愛しているとわざわざ言葉にして誓 う必要もなく、静かに言葉少なに寄り添うだけでほのぼのと幸せを感じられるものですが、それは欧米人には想像を絶する人間関係でしょう。彼らはそれほど凄 絶に孤独で、誠心誠意愛を誓い合わないと生きていけないようなのです。日本人には理解し難い神との契約という考え方も、愛しているという誓いの有無が生死 を分けるほどのものだからではないかと、私は想像しているのです。殉教か棄教かを迫られるのは神との契約が存在する宗教にしかないことです。

私の甚だ偏向した意見ですが、カトリックは現世の幸福には徹底的に無縁でいてかまわないという宗教です。自分に座標軸を置いてはいけないのです。神に与えられた隣人を座標軸にしなければならない。だから離婚も中絶もいけないのです。
私の知る限りで最もカトリック的な 作品は映画でいえばフェリーニ監督の「道」、小説では島尾敏雄の『死の棘』がそうかもしれません。どちらもふつうの人間には到底愛し難い人間を、主人公は 決して棄てません。どこまで堕ちても同伴者でいつづける人間=キリストの愛を描いています。ロミオとジュリエットのように、愛する価値のある相手、愛され る魅力のある人間どうしが愛し合うのはたやすいことです。ジェルソミーナも「私」も逃げることは可能だったのに、生き地獄の生活のまま、最後は相手にうち 棄てられて野たれ死んだり、一切合切失って相手と共に精神病院に入るわけです。そこに立ち現れる愛の真実には深い感動をおぼえるものですが、その愛を理想 とする信仰は悲しい、悲しすぎるものに思えます。ジイドの『狭き門』はそんなカトリック教会への痛烈な批判でありましょう。しかし、カトリックは全人生を 賭けて批判する価値のある何かではあります。

「禅 という透徹の安心」に向かうほうが真実かと迷うことがあります。それでも、わたくしはみづうみのように禅という透徹の安心やバグワンに向かうこともできま せん。誤解かもしれませんが、透徹した安心とは自分のためだけの到達に感じられ、自分のあるべき姿なのかどうかわからないのです。
日本の仏教界は長い間らい病患者た ちを一部例外をのぞいて黙殺してきました。家族にさえ遺棄されていた患者たちに救いの手を差し伸べたのは異国の宣教師たちです。日本で初めてのらい病患者 のための病院を設立したのはフランス人神父です。彼の討ち死にのような死のあとにも次々と外国からの宣教師がきました。彼らは当然自分も感染して死ぬこと を覚悟していました。過労と心労で刀折れ矢尽きるように死んでいきます。らい病は今では完治する病気ですし、もともと感染力の弱いものですが、当時は不治 の伝染病であり、しかも顔はくずれ、気道ができものにふさがれて窒息して絶息という悲惨な死に方をする病気でした。同情や教義への服従だけであれほどの看 病はできません。彼らの崇高さは認めざるを得ません。

禅が、このような病人たちの「隣人」「身内」となる積極的な何かをしてきたのか、寄り添ってきたのか。透徹していく安心とは愛することとどう関わるのか、愛とは関係ない理想の世界のことなのか、稚拙な考えしかない私にはわからないのです。

遠藤周作があらゆる宗教は人間の言葉で伝えているために不完全であるという意味のことを書いていました。どの信仰でもある一面しか人間を導いてくれませ ん。しかし、その目指す理想はきっとどの宗教でも同じで、神とか無とかサムシンググレートとかいう「何か」であることは信じています。

その「何か」を知るために人間は生きていると思うときがあります。ですから言葉にはできない「何か」を大切にしない映画や小説や人間を、私は好きにはなれないでしょう。

作家には文藝の力で読ませる谷崎潤一郎や泉鏡花や秦恒平のようなタイプと、遠藤周作や小田実のような人間性で読ませるタイプがあります。後者は、みづうみ も時々指摘しているように文章の魅力という点では前者に及びませんが、人間の力でやはり読ませてしまいます。本日夕方ポストに「沈黙」のDVDを頂戴していました。映画を観ずに篠田監督を批判しておりますので、機会をみて鑑賞し自分の考えをまとめてみたいと思います。ありがとうございました。お心遣い大変嬉しく存じました。

 

暖かいお正月でしたが、また寒くなるようです。どうぞお大切にお大切にお過ごしくださいませ。  毬  手毬唄かなしきことをうつくしく 虚子

* 感謝に堪えない。型通りのご挨拶でなく、この人は真っ向から全力で直球を投じてくれる。是非の問題はかりに別にしても、自身の言葉でまっすぐ投げ込まれる有り難さ、キャッチャーミットに、ずしっと響く。

* 『廬山』『華厳』『マウドガリヤーヤナの旅』三作でわたしは仏教に触れた小説を書いた。それから和尚バグワンに親しみ、聴きに聴き、聴きながらわたしの内 に溜まっていたブッダやイエスや老子や達磨や一休らの声や言葉も聴いた。これらの期間を通じて云えるのはわたしが宗門宗派へは、身をもがくほどに近付かな かったということ。法然への敬愛はいまも喪わないが、成ろう限り仏教的にはブッダの源泉を汲みたく、道教ではなく老子に聴きたく、禅は達磨に聴きたかっ た。ま、ピュアに一途な信仰を求めてきたとは云えない、とはいえ知識的に接近したかったのでもない。わたしがかかえた文字どおりの「迷惑」「煩悩」に目を 背けないまま何とか静かな安心が得たかったというに過ぎないし、得られてもいない。『デイアコノス 寒いテラス』という小説の題がはいごに負うている「奉 仕」という愛に関しても、わたしは何の確信を提示し表現することも出来なかった。「毬」さんに指摘されたように、わがことだけでアプアプしていて、他者へ の愛などまるで実現できなかった。指名され指定され求められればわたしは概して懸命に前向きに仕事したが、われから身を寄せて世間や他人社会へ「ボラン ティア」したことの無い、冷え冷えしたエゴ型の人間なのである。分かっているから、どうかしてエゴという我をはなれて空・無への透徹を願うのであるが、と ても叶いそうにない。静かな心になれない。愛を、わたしのいわゆる「世間」へ向けず、「身内」へ向けている限りダメですよと嗤われるのがオチだが、「毬」 さんが謂うようにわたしはそのテの「文藝」作者でありつづけ、いまもある。
漱石は、小説『三四郎』で無意識の偽善を指摘していたが、漱石らしい優しさや愛の、ないし弱さの表現であり、偽善は偽善で無意識(アンコンシアス)など 関わりない。漱石は流石に堅剛で懸命だけれど、誰もがそこを無責任に言い逃れたがるから、なべて世の中が「ウソクサイ」のである、わたしも例外でない。
「われはわが愆(とが)を知る、わが罪はつねにわが前にあり」などと我から言うてはおしまいなのである。
2016 1/5 170

* このところ、何度も、グノーの歌劇「フアウスト」を、ただ音楽として聴きながら、原作を想っている。つれて、ミルトンの『失楽園』をなんともいえない 憧れ心地で思い出す。幼少、誰にも知られずわたしは河原町三条の基督教教会へ行ってみたいと想っていたのも思い出す。あれはどうしたのだろう、中学生の 折、人に貰ったとは想われない、偶然に拾ったのかしれないが十字架の鎖を持っていた。英語の先生に見せたら「コンタツ」と謂うものと教わった。身につけは しなかったし、いまでもどこかに仕舞い込まれているのかも知れない。
小さい頃から、家には漢籍も古典籍も信じられないほど豊富だった。だが、そんな中に、誰かから送られたらしい小型の良い新約聖書があり、じつは、わたし はその文語体が気に入り、福音書などはみな繰り返し読んでいた。基督教の空気は、誰からでもない教会からでもない、一冊の聖書から吹き込まれていた。かす かに教会へ気が動き、そのままになった。コンタツとやらを拾っても身には帯びなかった。まったく同時にわたしは、仏壇の般若心経や燈明の色に惹き込まれ、 また地獄の想像に夜中泣き叫ぶ子だった。
高校生のうちか大学入学のころには裏千家から茶名を受けていた。希望した一字は「遠」つまり茶名は「宗遠」とつけられたが、これが「老子」から得た一字 で、老子も荘子も唐詩選も白楽天も、みな祖父の遺していた蔵書で、例外なく小学生の頃のわたしの愛玩書だった、愛読書とまではとても云えなかったが。
わたしは、聖書も含めて古典や歴史書との出会いが、いわゆる小説などの読み物と出逢うよりよほど早かった。変わり者にならずに済まない環境がはなから養家にあったのだ。

* いま、わたしはこの「私語」の冒頭、櫻につつまれた自分の写真に添えて、
あのよよりあのよへ帰るひとやすみ   と、述懐している。
まだ生まれていない無のあの世から、いずれ死んで行く無のあの世への、みぢかい旅のこの世。ま、ひとやすみしているようなこの世。前世に物語はなかった し来世にも物語はない。「あらゆるものが最終的に源に帰る。それが自然だ。源が終着地だ。元気に自然に生き静かに自然に死ぬとは、それを知るということ。 苦労や苦行で光明(悟り)を得たがる、死んで天国や極楽へ行きたがる、みな無意味で不自然な「目的地」を幻想しているに過ぎない。天国も地獄も、聖職者が こじつけた不自然な論理の荒唐無稽な絵解き。
中学の頃、わたしはもうひとかどの免許ももった茶の湯好きだったが、ある時、教室で図画の先生から指名され、「お茶で大切なんは何や。言うてみ」と問われた。もぐもぐと、実感のないわびのさびの和敬清寂のと言いかけていたうが、先生、一語「自然や」と。

* バグワンも「自然」と言う。ブッダが、なによりも根源の自然を言う。来て帰る「源」である「自然」を「禅(ディアナ)」と。地獄極楽の仏教などは、後世の宗門仏教が利用した方便であった。
2016 1/6 170

* バグワンは言う。
「夢を見ていても夢を見ていなくても、おまえは夢を見ている」と。 おお、まことに! 夢は覚めるためにある。「神が来て、お前の扉を叩く瞬間がある。」「覚める」とは、そういう瞬間に気付くこと。
2016 1/12 170

* 水滸伝の世界、ダンテの地獄、和尚バグワンの境地、加えて、成ろうならわたしはロレンスの「黙示録論」が読みたいのだが、本そのものの重量(福田恆存飜訳全集第二巻)が凄いので棚に上げ、やはり書庫から<サルトルの一冊を抜いてこようと思う。真冬の書庫は寒い。
2016 1/18 170

☆ バグワンは言う。
終着地はそこから来た源だ。あらゆるものがその源に帰る。おまえがそこからやってきた<無>、それが真実おまえの目的地だ、自然に生きて自然に死ぬとは それを知るという意味だ。悟り=光明、それは人為的な目的地だ。それを目的になどしてはならない、自然になるのだ、そのときお前は光明を得ているのだ。天 国と地獄は、ひとを支配しようとして僧侶や自称聖職たちがつくりだし発明した仕掛けだ計略だ。人を抑圧するための政治的計略だ。聖職の編みだした論理的結 論のこじつけにすぎない。
ゴータマ・ブッダは、仏陀は天国も地獄も無いと言い切る。天国はないし地獄はない、死後の閨閥や報酬はない。自然に生きて自然に帰るのに聖職者は必要な い、神すら必要がない、存在は自律している。おまえは自分が生まれる前のてんごくやじごくのことを何か思い出せるかね。何も思い出さないなら、そこへ飛び こんで行くことなどないのだ、人はもと来た無へ戻って行くだけだ。無の根底に地獄も天国も無い。聖職の説く人為的・論理的な目標はすべておまえをただ惑わ せる。自然な姿に成るが佳い、人はそうして本物(オリジナリティ)になる。ブッダが体現していたブッダフッドがそれだ、そこに光明エンライトンメントがあ る。

* ブッダの仏教と以降二千六百年もの歴史的仏教をおなじにみることは出来ない。わたしの感触では、禅がもっともブッダフッドに同じいと思われる。だが禅 にも歴史的な境涯禅や趣味禅の禅宗がある。バグワンは、達磨と一休とを、ブッタフッドの至近に在る人と感じているようだ。
2016 1/20 170

* こんな話をバグワンに聴いた。
むかし中国でのことだが、馬祖という優れた禅僧の処へ 、有名な大学の教授が訪れ、悟りを開くには、覚者(ブッダ)になるにはどうすればよいかと教えを請いに来た。馬祖は、ことが事である、まずは仏陀にご挨拶 なさいと甚だまじめに言った。さこそと聞きいれて教授はすぐ、馬祖に頭をさげた―瞬間、馬祖は教授の股ぐらを真っ向痛烈に蹴上げた。――何が起きたか。教 授は笑ったのだ、そのばかばかしさ、に、笑い転げた。教授は悟ったのだ。一瞬に思考は止まり、教授は馬祖が一言もなく教えてくれた意味を「悟っ」た、思考 すべき何も「無」かった。

* ルソーは書いている。
「人間の悟性は官能によって制限されているので、それらを全面的に理解することはできない。わたしは自分の能力の及ぶ範囲にとどまって、能力を越えるこ とには立ち入らないことにした。これは合理的な立場であった。わたしはこの立場をとった。そして心情と理性の同意を得てそこにとどまった」と。

* なんという、馬祖またかの教授と、このルソーとの、径庭、差異。ルソーはさながらに馬祖を訪れたときのかの教授に同じい。そしてルソーは、思い切り股 ぐらを蹴上げられた咄嗟の痛苦のママ高らかに笑い、笑い転げえたであろうか。怒るか、ベソをかくか、「能力の範囲」を駆使して「思考」のかぎり反噬したこ とであろう、西欧の知性の合理と思考分別に頼って足るとし易い寸の短さを感じる。禅の馬祖には、ブッダには、計るべき「寸」など無いのだ。

* 馬祖は中国人だが、中国は広く人も多く歴史の奥底も深い。「水滸伝」の世界にもいろいろと曰くもあろう、禅味さえもあろう、いま、巻の三巻頭の「詩に曰く」に、
時来たって富貴なるも皆命(めい)に因り
運去って貧窮なるも亦た由(ゆえ)有り
事は機関(はずみ)に遇わば須(すべから)く歩を進むべく
人は得意なるに当たって便(すなわ)ち頭を回らすべし
の詩句が読み取れた。こういう現実主義をささえた処世の知恵にも、中国人は臆面というものがない。 ルソーはどう聴くのだろう。
2016 1/25 170

* もし人が、「過ちを犯しながら鉄面皮をきめた」ことがあると告白すれば、恥ずかしながら「おれも」と言うしかない。ルソーのように「わたしは過ちを犯 して鉄面皮でいたことは決してない」と言いきるのを読むと、尊敬するよりさきに気分がガタガタになる。ルソーは一七四五年に不幸な女性テレーズ・ルヴァ スールと結ばれ、同棲し、のちに結婚、しかし生まれた子供はみな孤児院に送り、晩年に至るまでテレーズはルソーの「家政婦」だったとルソー自身が「告白」 している。少年の昔に自身の盗みを、無辜の少女になすりつけたのを彼は終生恥じていたが、わたしには、テレーズや彼女とのなかに生まれた子たちへの仕打ち の方が、人種・国家の慣習差を考慮してもなおかつ「鉄面皮」に感じる。むろん近代史のために貢献し得たジャン・ジャック・ルソーの偉さを割り引いたりはし ないけれど。『孤独な散歩者の夢想」における「第四の散歩」前半のごたごたしたあれこれの見解など、まるで「よまいごと」としか読めない。

* バグワンは教えてくれる、「おまえたちはすでにブッダなのだ! ただ忘れているだけだ」と。「必要なのは、それに気付くだけ」「夢から覚めること」と。
ただ、「目覚めは、むずかしい。」「有益だと夢見て有益だと見なしてきた沢山な観念や、分別を、ボロを脱ぐように捨てなければならない」「気付かねばならない」からだ。できることは、「そのまま眠り続けるか、目を覚ますか」そのどちらかしかない。

* 漱石の「行人」を少年の頃読んだ。その中で、悟りを求めて四苦八苦の人が、ある日、自然と無心なまま庭の掃き掃除をしていて、ふと、目に立った石を竹 藪の方へ投げた、竹がカーンと鳴った…即座に、彼は「目覚めた」と有った。なんという美しい目覚めかとわたしは読み取った。この庭掃除の
人、きっと大声で笑い出しただろうと思った。
2016 1/29 170

☆ ゆくすえにやどをそことも定めねば
ふみまよふべきみちもなきかな  一休

* 未来にも死後にも迷惑してはならない。「目的地」は要らないのだ。「目的地という観念そのものが天国と地獄をでっち上げると、バグワンは正確に教えている。
2016 2/7 171

☆ ルソーの『社会契約論』から
9 最も強いものでも、自分の力を権利に、<他人の>服従を義務にかえないかぎり、いつまでも主人(=独裁者)でありうるほど強いものでは決してない。
10 暴力に屈することはやむをえない行為だが、意志による行為ではない。いかなる意味でそれが義務でありうるだろうか? この(暴力的な支配者が)権利と称す るところのもの そこから結果するものはただわけのわからぬたわことにすぎぬ。
11 もし(暴)力のために服従せねばならぬのなら、義務の意味で服従する必要はない。(もともと)「権利」という言葉が(暴)力や(支配)に附加するものなど 何ひとつ無い。権力者には従え。もしそれが、力には屈服せよ、という意味なら、よけいな教訓(=お世話)だ。
12 力は権利を生み出さないこと、また、ひとは(万人の自由で平等な意志に基づいた)正当な権力にしか従う義務がないこと、を、(心底から=)認めよう。(本 来自由で平等な人間の尊厳において、認めよう。)  (第一編の③ 最も強いもの(本来自由な人間)の権利について)

☆ バグワンの『一休』に聴く
仏陀は、神という言葉はけっして使わない。神から、間違ったものごと 僧侶、寺院、経典、儀式が連想されるようになったからだ。神に代わる彼の言葉は、 無 nothingnessだ。無に祈ることは出来ない。儀式を創り出すことはできない。それが無という言葉の美しさだ、それが真実の宗教性を創造する。 その美しさをみるがいい。シュンニャータ、より的確に no-thingness。無は、「何もないこと」ではないのだ。
雨あられゆきや氷とへだつれど
おつればおなじ谷川の水  一休禅師
一休は言う。おまえは自分が生まれる前の天国や地獄のことを思い出すかね! 何も思い出さないなら、そこへ戻ってなど行くことはない。天国とか地獄とかはそもそも一度もなかったのだから、終わり(死後)にも無い。
2016 2/9 171

☆ バグワンに聴く
おまえは自分にまつわる観念にひどく巻き込まれている――自分はヒンドゥ教徒、回教徒、基督教徒、仏教徒、共産主義者、資本主義者、男、女、白人、黒 人、右だ左だ、あれやこれやだ、と。おまえはあまりにも自己確認(アイデンティティ)に巻き込まれているために、内側をのぞきこみ、自分が本来純粋な空 (カラ)以外の何物でもないことを見ようとしない。このあれやこれやは、もな、すべて真澄の鏡である空(そら、カラ、くう、無)をさえぎる雲だ。雲に囚わ れてはならない、空を思い出し続けなさい。
この内なる<無>を見抜いたら、人は、おまえは、真如(suchness)になる。真如という言葉は仏陀において無限の価値と重みをもっている。如如 (タタータ)、すなわち真如。タタータにあってはすべての抑制、すべての規律、すべての操作は姿を消す。自由とはそのことだ――まどわしの雲一切からの解脱(モクシァ)だ。おまえの内側深くにある<空>、真如の<無・空>に生きよ。

* 静かな心にも容易になれなくて騒がしい日々を生きながらも、わたしはバグワンの言葉を根底から肯っていて疑わない。自分の至り得ないのは情けないが、自分 がまさしく「夢」中に生きていて、それらも覚めれば烟のようなものと思い、いつかはたと覚める機に会うのを待っている。間に合うかどうか。それすらも、も う忘れている。当面、したいことをしたいまま無心に静かにし続けていたい。
2016 2/21 171

* 起きてまずルソーの「孤独な散歩者の夢想」第六を読み始めた。老いて孤独を痛感している彼ルソーは、バリ市街或るきまりだった散歩道を、途中わきへ曲 げてしまった理由を語っている。貧しい物乞いの少年と出会う道だった、ルソーはいつも気分良く「ほどこし」もし談笑も楽しんでいたが、少年からふと「ル ソーさん」と呼ばれることに躓いた。「ルソー」の何たるも全く知るまいに、と。そして毎日の散歩道を途中で曲げて少年を避けたのである。
彼は書いている、「わたしは、善行を施すということこそ人の心が味わうことのできるこのうえない真の幸福であることを知っているし、そう感じてもいる。 けれどももう久しいまえからそういう幸福はわたしの手の届かないところへいってしまったし、それに」と言葉を続ける。「善行を施す」と書かれた言語での ニュアンスは察しがたいが、ルソーは「ほどこし」という語を少年との出会いや親愛のなかで何度か用いている。「善行を施す」のが「このうえない真の幸福」 とルソーは言うが、その幸福はまったく自分の幸福に局限されていて、施される側の幸福とは必ずしも噛み合っていない。「善行の施し」とは自己満足に流れか ねないいささん気味の悪い幸福感でもある。「施し」さえすれば アトは向こう次第と身を翻せる。「このうえない幸福」とはそういうものか。そしてそんな幸福もめそーの手に届かなくなっていると慨いている。
ルソーは言葉をこう継いでいる、「もう久しいまえからそういう幸福はわたしの手に届かないところへいってしまったし」とは、「施し」の気が遠のいたの か、「施し」たくても不可能になったというのか、「それに、わたしがおかれているようなみじめな境涯にあっては、自分の好きなように、またよい結果を生む ように、真に善であるとされる行為を行うことはとうてい望むべくもない。わたしの運命を左右する人たちがなによりも心がけているのは、わたしにとってはす べてが偽りの、人を欺くみせかけにすぎないものとなることなので、美徳になる動機も、わたしを陥穽に誘いこんでからめとろうとするために差し出すおとりに きまっているのだ。わたしはそれを承知している。わたしは承知している、今後わたしの力でできる唯一の善は、行動を差し控えて、心にもない悪を知らないう ちたに行うようなことをしないことだ、と。」
わたし(秦)は、ググっと前のめりに躓く。ルソーは「このうえない幸福」だの「真に善」だの「美徳」だの「唯一の善」だの「施し」だのと文字にしている が、それらは彼の「何」なのか、曖昧でただ自己的で、あまりに理にすら成らない美辞麗句ではないのか。かの友ですら有り得た「少年」の一切がただかなぐり すてられて、ルソーは或る被害感覚に浸りながら、「ことば」だけを綾取りしている。そんなふうに読めてしまい、微妙に気味が悪い。「大層そうに」とつい頬 が歪むのは、此の私に無理強いがあるのか。
ルソーは、自分はこんなに純乎として真善美たろうとしているのに、他者からの迫害や干渉がそれを妨げるとばかり言っている。深い内奥の価値を、あまりに 自他相関の葛藤に帰している。彼はおそらく最も非宗教的な人、分別と言葉と論理の人に思われる。そして人のセイに帰して行く。
ブッダフッドに生きる覚者ブッダはこうは固まらない。ブッダは固まらない。
「要点を見抜くと、笑いがこみあげてくる…そして、くつろぐ」とバグワンは語ってくれる。「笑いがこみあげてくる」というこの幸福の、くつろいだ嬉しさ の、片鱗ていどは幾度か体験してきた。「こみあげてくる笑い」とは、なんと無垢のうれしさだろう、但しただの笑いではない、「要点」を見抜いたと同時にこ みあげてくる笑い」だ。「要点」だ、それはリクツではない、論証ではない。突貫だ、破裂だ、爆発だ、静かな目覚めだ。

* バルビュスの「地獄」は、はるかに刺激的に率直で、ふかい悲しみや、もはや持ちきれない孤独と絶望の「詩情」を、まるで睡魔とのたたかいかのように、切にうたっている。詩句に鏤められた心情の真味は舌を曲げるほど苦いが、否認のならぬ力をもっている。  2016 2/23 171

☆ バグワンに聴いている。
「光明(悟り)を得ようとしてはならない。得よう得ようとすれば、要点をまるごと取り逃がす。」「要点を見抜くと、笑いがこみあげてくる。」
「目的地もなく、道もない。」「仏陀は案内者(ガイド)ではない。指導者(リーダー)でもない。」
「明日(あした)を待つ必要はない。なぜなら、起こることは、(思わず笑ってしまうような機縁は)すべて<今>起こるからだ。木々は今繁り、鳥は今歌い、 河は今流れ、わたしは今話している。なのに、おまえは、明日には光明が得られるかもなどと考えているのかね。」「笑いは、今か、永遠に起こらないかの、ど ちらかだ。」
心とはいかなるものをいふやらん
墨絵にかきし松風の音   一休

* このこみあげる「笑い」の味は、悟りなどとほど遠くても、かすかに覚えがある。「なーんだ、そうか」「そうだったんだ」と、こみあげる「笑い」に笑っ てしまったこと。あの底の抜けたような愉快。あれ以上の寶は無かったと思い当たる。得よう得ようなど思っても決して得られない、「今」「此処」という名の 寶。「いま・ここ」を生きなくて、いつどこで生きるのか。
2016 3/10 172

* 一休は歌う、
心とはいかなるものをいふやらん
すみ繪にかきし松風の音
バグワンは言う、「心はあるものでもなければ、ないものでもない──」と。「実在しないが、実在するように見える──それは見かけだ。静かにそれを見守るのだ、分析してはならない。すみ繪にかきし松風の音。心と闘ってはならないし、心から逃げだしてもいけない。」
「二種類のタイプの人がいる。心に従う人々と、闘ったり逃げたりする人々だ、両方ともに、心が実在するとみなしている。従うのも闘うのも逃げ出すのも、 不要。必要なのは、それに深く見入ることだ。深く見つめると、松が墨絵の中で撓んでいるのが見える。風は描かれた風にすぎない、そこに実在するモノは何も ない。そこで本当に起こっているものは何もない。」
2016 4/9 173

* いま一つ、これはもうずっと前から読んでいて、しかもこれほど難儀で理解を絶する、しかも不思議な牽引力に富んだ本は在るものでない、即ち、『無門 關』 南宋の無門慧開の編んだ公案集四十八則である。とにかくも心を新たにしてただ文字を読んでいるが、まったく歯が立たない。しかも惹きつけられて動け ない。かろうじて二十三則「不思善悪」など、今日の詞に直されたのを読んで、かすかにモノに触れたような感激が湧いてくる。しかし原文の難しいことはどの 則もまるで歯が立たない。
それでも、読んでいる。読まずにおれなくて読んでいる。
禅のものは、現代の詞で説かれてあるバグワン和尚のものは別として、『臨済録』にもっとも親しんできた。浄土経は三大経を覚えるほど読誦してきたし、菩提寺から戴いた経文集にも折り有れば目をふれている。
根本の『般若心経』講義は、高校の昔から心して愛読愛聴を重ねてきた。岩波文庫で『ブッダの言葉』にも近年目をふれることが出来た。
今は 禅に…という願いを抱いている。分かろうなどとは願っていない。思っている…のである、ただ。『無門關』 読み続けるだろう、分かろうなどとは間違っても願わずに。
2016 12/25 181

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