ぜんぶ秦恒平文学の話

バグワン 2017年

 

* どうにもこうにもならないが、『無門關』を、恭しく四十八則いまはただただ通読している。手放さない。バグワンも読んでいる。
2017 2/1 183

バグワン 17

* 「湖の本135」の再校が出た。「選集二十一巻」の再校、終盤へ来ている。「選集二十二巻」の入稿前再読、辛抱強く続けている。「湖の本136}の初 校も届いている。選集の一巻はだいたい湖の本四巻ないし五巻分に相当している。平均して常時少なくも「湖の本規模の十巻分」に作業の手を触れ生活してお り、さらに先行して、新作の創作数種と多種多様の読書生活がある。
読書はその場その場、窓辺に立ったままでも庭へ出ても書庫でも書架の前でも。
今朝は二階の廊下で立ったまま、「大乗非佛説論」にかかわっての仏教史に読み耽った。『出定後語』を著していた十八世紀富永仲基の、辛辣でかつ正確な 「異部加上」説に基づく議論・追求のすばらしさ、息を呑んだ。書庫にあるだろう『出定後語』原典にもぜひ向きあってみたい。
基督教は聖書一冊で足りかつ足らせているが、仏説は、小乗・大乗の大蔵経夥しくて、釈迦自身の言葉は不確実にかつ極めて乏しい。『仏のことば』とまとめ られた本を一、二読んでみたが、他方で阿弥陀三経や法華経や般若心経や木蓮経等々の大乗経を読んでも、謂わばさしわたしの長さ広さは途方もない。法然遺言 の「一枚起請文」でいいじゃないかと、途方もない結論を持ちたくなってしまう。ないし不立言語の禅へと気持ちは向かう。
で、やはり現代の和尚バグワン・シュリ・ラジニーシに聴きたくなるのだ。
2017 5/13 186

* バグワンの語る「老子」は、いろんな意味で徹底している。バグワンは言う。
老子は狂気のロジック(論理)を持っている。不条理のロジック、逆説のロジック、狂人のロジックだ。隠された生命の、微妙な生命のロジックなのだ。老子 の言うことは何から何まで、うわべは馬鹿げている。奥深いところには実に大いなる一貫性が宿っている。東は西であり西は東であると老子は言う。それは一緒 だ、ひとつだ。老子は反対のものの「ユニティ(統一)」に信を置く、そしてそれが生のありようだと。
老子の精神性を見るのは難しい。彼は実にあたり前だ。仏陀がかたわらを通り過ぎる と お前はたちまちそれを認めるだろうとバグワンは言う。仏陀を見遁すのは難しく、ほとんど不可能だ。だが老子は ただのおまえのお隣さんでしかないかも。老子は桁外れにあたりまえだ。
あたりまえでなくなるのは易しい。ただ努力が、洗練が、錬磨が必要なだけで、それは深い内的な「訓練」にすぎない。しかし、あたりまえであるということは、本当は最もあたりまえでないことだ。何の努力も役立たない。何の稽古も役立たない。無方法。ただ理解するだけ。
老子になるには、思惟も瞑想も無用の長物、ただ理解すること、ただ生をそのありのままに理解すること、そしてそれを勇気を持って生きること、逃げ出さない、隠れない、それに直面すること、それが何であれ。「老子」とは、ありのままあたりまえの老いぼれであるということ。

* 『老子』という書物にただ出会っただけをいうなら、ビックリするほど大昔だ、わたしは小学生のしかも下級生だった。秦の祖父の蔵書だった。老子は、バ グワンがこう言うているまことそのままであった。孔子にはぶつかれた、仏陀にもキリストにもぶつかれたけれど、老子にはぶつかるという気も、起こらなかっ たのではない、起こせなかった。バグワンのいうように理解する、鵜呑みするほどに理解するしかないなあと嘆きつつ、まだまだ理解のよほど遠くから見てい る。いくらみていても、それは仏陀でもキリストでもなくて、ふつうの爺さんなのだ。やれやれ。

* またバグワンに手をひいてもらいます。
2017 5/15 186

* バグワンに「老子」を聴いている。彼の老子は、老子そのもの、老子はバグワンその人のように想われて読み進む気持ちに深い安心がある。彼らは、高ぶら ない、「いま・ここ」のありのままを語ってくれる。おしつけがましい教育・教訓など言わないで、しみじみと「まこと」に触れ合わせてくれる。
2017 6/12 187

* 冷えるので、湯に漬かり、ゆっくり『枕草子』と『中世論』のゲラを読み、さらに源氏物語「竹河」巻を読み終え、「絵巻」月報4で『伴大納言繪詞』がらみに応天門炎上のもった意味を教わり、バグワンには『老子』のことを頷きながら聴いた。
2017 6/13 187

* バグワンの『老子 道』は、ま、何度目を読んでいるのか、しかし初読みの新たな感触と納得とで、心嬉しく、やはり先行した朱線に黒いペンで線を載せて行きつつ、しみじみと心打たれまた励まされて、読みはじめると永くなる。
ゆうべは第三章を耽読。「弓をぎりぎりまで引き絞れば ほどほどのところでやめておくべきだったと思うだろう。 持而盈之、不如其已」「仕事を終えたら 身を引く、それが天の道である。 功遂身退、天之道」と『老子』は上篇第九章に語っている。彼老子は、そしてバグワンは、徹して生のトータリティを大切 に、それを為し成すには「バランス」が大事と切に語り続ける。
昨日今日の我が国の昏迷にもしかと触れ、「生はつねにバランスをつくり出す。なぜなら、アンバランスというのは一種病的な事態にほかならないからだ。も しひとつの国で、政治家たちがあまりにもエゴイスティックになり、過剰に歪んだ政策や服従・忖度を国民に強いたりすれば、やがて痛烈な軽蔑に見舞われる。 政治家たちは、過剰な権力に任せた不当な欲望や追従など強いるべきではない。とかく、どんな政治家も自分が権力の座につこうなら、お山のはだか大将にな る。自分の限界を破ってしまうのだ。所詮、彼は引きずりおろされる。生はけっして不公平ではない、ということをつねに心にとめておきなさいと老子は説きバ グワンは語っている。
限界をわきまえること、つねに真ん中にとどまり、つねに満足して「もっと」を渇望することはない。
2017 6/16 187

 

☆ バグワンに、そして老子に聴いている。
弓をぎりぎりまで引き絞れば ほとほどのところでやめておくべきだったと思うだろう……。生は何ひとつ完璧を望まない。完璧とともに停止してしまうから だ。ぎりぎりというのは、つねに死を意味する。完成は死だ。不完全こそ生だ。老子やバグワンにとって、ゴールは完成にではなく、トータリティにある。完璧 でなくてもトータルであることはできる。完璧というのは、もうおまえが凍り付いている、流れていないという意味だ。真に偉大な人間達はけっして完璧でな かった、トータルだった。自分のなかにあらゆるものをもっているという意味だ。算術的にではない、藝術的にトータルだった。詩(文学・藝術)というのは、 その中にある言葉全部「より以上のモノ」だ。そうあって当然、さもなければそれはただ単に言葉でしかない。

* 詩についてこんなに厳しく的確に語られたのを知らない。
2017 6/18 187

* 里見弴「多情仏心」のあと、いま、現代の小説・物語のたぐいに手を触れていない。また読みたいと想っているのは荷風、か。
断然、心身を傾けて「聴いている」のは、まちがいなく、毎日のバグワン、ひしひしと日夜「叱られ」ている。
2017 7/2 188

* 九時半。さ、階下へ。美味い酒をすこし飲んで、やすみたい。源氏物語の、版を異にした二册、泉鏡花選集の「芍薬の歌」、筑摩版現代文学大系、四女性作 家らの最後の巻、音頭大系、その他の資料類を枕元に積んで読み継いでいる。三十二巻の「絵巻全集」の全月報は大満足して読み終えた。
機械の側でも、白楽天や陶淵明の詩集を愛読中だが、明日の元日からは、またバグワンを読み返して行きたく思っている。
2017 12/31 193

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