私はもともと昆虫少年で、成人してから今までほとんど海外で動き回り、<海洋生物、とりわけダイビングを通じてクジラ、マグロなど大物魚類を人類共通のグローバル・コモンズ(入会権)とする新座標軸を、資源保護、環境保全の観点から提唱する>新しい分野を切り開く仕事などもしてきました。家内からは「音楽、文学に関しては最も縁遠い人」と揶揄されるくらいですので、日本を代表する文学者であられる秦先生との出会いは奇遇以外の何物でもありません。
今まで公表したことはないのですが、そのご縁は二人の著名な作家にほぼ同時期に出会い、日本ペンクラブに入会させていただいたことから始まっています。一人は残念ながらつい最近鬼籍入りしてしまった越智道雄先生で、明治大学で英連邦文学を教えておられました。もう一人が東京工業大学で教鞭をとっておられた秦先生でした。日本ペンクラブに所属する最も純文学に近い作家の中で、私は越智道雄、秦恒平、両先生を人間として心底尊敬してきました。
偶然としか言いようがないのですが、お二人とも若いころから文学で身をたてることを志していました。越智先生は純文学で生計を立てるという遠大な希望を抱き、太宰治賞を狙っていました。残念ながら自信をもって応募した作品は次点に終わり、思い悩んだ末、英連邦文学の紹介・翻訳者へと転出を計ります。生涯において400冊以上の翻訳書を世に出し、ほとんどが売り上げ部数を誇り、その翻訳分野では大御所として大きな影響力を維持し続けました。
私的なことで恐縮ですが越智先生は私が本を出版するたびに読者の目を惹くに十分なスペースを各メディアで確保、生涯にわたり拙著の書評を書いてくださいました。と同時にオセアニア、南太平洋に関わる事項に関しても多くの百科事典でその担当を仰せつかいました。そのおかげで百科事典が出版されるたびに全集を購入し続け、最後は百科事典だけで本箱一つに収納できない始末になってしまいました。
他方、秦先生は私家版の一冊「清経入水」が、当時すでに文壇の大御所として活躍していた小林秀雄氏により太宰治賞の候補として当人が知らぬ間に推薦され、受賞が決定、華々しいデビューを果たしました。その後、秦先生は作家の矜持として、商業出版に妥協することなく「湖の本」シリーズや「秦恒平選集」を刊行し続けました。
ペンクラブ時代を通じて知り合った作家先生と呼ばれるグループはその知名度如何に関わらず基本的には私欲で突き動かされてきました。こうした数ある作家の中で秦先生だけは異質でした。理事会でのほかに理事とのやり取りなどを「私語の刻」の中でも臆面もなく秦先生が披瀝、時に批判してきたことでかなりの反感を買うことが多くありました。
彼の独立した、誰にもこびない姿勢、思想も含めてですが、それに対し距離をもって傍観してきた日本ペンクラブの同胞の動きが昨日のごとく思い出されます。でも私はその一言、一言の発言に関し、心の中で喝采し、かつ瞠目するばかりでした。秦先生はその発言から生じる結果については初めから覚悟し、かつ安易に自説を変えようとはしませんでした。これまた彼の真骨頂だったのではないでしょうか。秦先生ご自身は歯牙にもかけておられなかったと思います。
その傍ら、「日本ペンクラブ電子文藝館」を自らの立案で創設、我が子を慈しみ育てるような情熱を注ぎ、日本のみならず世界に発信してきました。作品の掲載基準に関しても私情を挟むことなく、「近代、現代日本文学の名作、秀作、問題作の数々、現ペンクラブ会員の作品をインターネット上で無料で読むことのできる」「近代文学史資料」としても誇るに足る、高い水準のデジタル国民図書館を実現するという確固とした信念のもと、独立性を維持することに努めリーダーシップを発揮してきました。
それゆえ、ペンの同志の中には心ざしを同じくできない人、こうしたお人柄を嫉妬する人も少なからずおり、最後には秦先生が電子文藝館を私物化しているのではないか、と理事会で不満を吐露するメンバーすら出てきたことから、最終的に秦先生は一人の人間が長く同じ館長ポストにいるべきでないと、自ら電子文藝館から身を引くことになったのは残念でなりません。
越智道雄、秦恒平、両先生のこのような広域にわたるトラランス(耐性、遊び、余裕)に私が虜になるのに時間はかかりませんでした。天分に恵まれ、独立自尊を矜持とするお二人の間柄でしたが、不思議なことに太宰賞の受賞者と次席者との間には、常にきわめて微妙、複雑、あるいは時に屈折した感情が交差し、そこから発する刺激、オーラの間を行ったり来たりしたことが、自分の成長にどれほどプラスの影響を与えてくれたことか(所詮、成長など叶わぬことで白昼夢におわりましたが)。
それゆえ、お二人が発する気持ち、感情の機微、あるいはさりげない日常会話ですら私にとって欠かすことのできない人生訓となり、その後の生き方を決定的なものにしてくれました。お二人方のエネルギーをシナジー化させ、それが武器となり、世界で動きまわり続けるエネルギー源となりました。端折って言えば、30歳代のオーストラリア、40歳代のアメリカ、50歳代のチェコ、60歳代のイギリス、とほぼ十年単位で異文化のはざまを生き抜いてこられたのもお二人を巡る人類学的好奇心のおかげだと思っています。
秦先生の薫陶を受けた結果でしょうか、私が国際ペンの理事、並びに常務理事に就任以来、国際ペンが設置した「デジタル技術と文学に関する特別委員会」の議長を5年近く務めさせていただきました。全世界に散らばる専門家に声をかけ、委員会の委員に就任を依頼、スカイプ、ズームなどを頼りにあらゆる関連分野の討議を重ねてきました。全くの素人が専門家の意見を集約し、2021年の韓国国際ペンの年次総会でその結論を報告するに至るなどまさに奇想天外の出来事でした。この難局を凌ぎ「国際ペンとIT時代の文学」という宣言を発出出来たのもひとえに秦先生のアイディアと常に新しい技術革新に取り組んできた電子文藝館のおかげでした。
この度、現代日本において純文学を代表する作家である秦先生に焦点を当てた秦恒平文学研究サイトを起ち上げた山瀬ひとみさんの快挙に心から快哉を叫ぶと共に、非力ではありますが国際ペンクラブを中心に愛読者の輪をより一層広げるべく微力ながら協力させていただきます。 こうした含蓄に満ちた、かつデジタル環境における文学の将来に期待を託すウェブサイトを広く行き渡らせるにはかなりの時間がかかるかと思います。でも大きな夢を熟成させていく上でこうした時間は必要なのだと思っています。幸い国際ペンクラブを通じて得た文學を志す先輩、同輩たちの多くはいまだ現役ですので追々このサイトに参加できるよう尽力していきたいと思っています。
プロフィール
堀 武昭(ほり たけあき、1940年7月31日[1] – )は日本の作家、人類学者、国際ペンクラブ副会長。
横浜市生まれ。慶應義塾大学法学部卒業後、同大学大学院法学研究科博士課程終了。1965年、経済産業省所管の日本貿易振興会(JETRO)に入会、シドニー駐在。豪州政府が設立した豪日財団のアドバイザーに就任。その後、米日財団副理事長、関東学院大学助教授、成徳大学教授、政策研究大学院大学(GRIPS)教授などを経て、1997年には、チェコのヴァーツラフ・ハヴェル大統領が主宰する「フォーラム2000」財団理事となり、日本人初の国際ペンクラブ理事に就任した。広くオーストラリア、南太平洋諸国、中欧、アメリカなどで活躍。カレル大学、アングロ・アメリカン大学客員教授。2010年に国際ペンクラブ(International Association of Playwriters, Poets, Editors, Essayists and Novelists)専務理事に就任。 1921年に国際ペンクラブ創設されて以来、欧米以外から初めての選出であった。 2期6年務め、2016年9月にスペインで開かれた国際ペンクラブ年次総会で副会長に選出された。