ぜんぶ秦恒平文学の話

リッチとフェイマス 「ずいひつ」新年号

図書館と著作者とが、へんに角突き合って二年ほどになる。私も所属している日本ペンクラブが、平成十四年、去年、であったが図書館にもの申す声明文を公 にした。図書館は無料貸本屋である、また人気の同じ本を多数冊買い込み貸し出すので著作者の権利が多大に侵害されている事実がある、といったモノで、それ は逸まった推測ではないかとわたしは声明を出すことに賛成しなかった。引き続いて、やはりわれわれの主催で「激突!著作者VS図書館」というシンポジウム まで開いた。討論を聴いていると、どうも図書館側の発言に共感できて、著作者側の一人として閉口した。
一年経って、またシンポジウムをやるという。推理作家やマンガ作家たちが前に出て、うしろから不景気な大出版社が尻押しして、やはり図書館が本の貸し出 しに躍起なために著作者は損害甚大、「損だ損だ」と云い募りかねない。私は、もはや両者激突の時機ではないと主張し、シンポジウムの題に「著作者・読者・ 図書館」と、少し強硬に「読者」の二字を挟んでもらい、読者棚上げの子供っぽい議論に視野をひろげさせた。
だいじなキーワードの一つなのに、多くの作家からも出版からも洩れているのは、「読者」への愛や誠意である。読者層の市場調査ということはウルサク云う けれど、それは市場の「買い手」としての「頭数」調査であり、「読み手」の頭の中を探索し感謝したり配慮したりは、二の次にも三の次にも無く、無くて当 然、のようなことになっていたのが日本の「本」をダメにしてきた。わたしは、そう思っている。大量に買わせる目的一つで、読めるレベルを探るものだから、 どうしても、マンガか不出来な推理や浅い読み物になる。紙屑出版といわれるワケである。
キャンディス・バーゲンとジャクリーヌ・ビセットとが仲良く喧嘩した、邦題「ベストフレンド」の原題は、「リッチとフェイマス」であった。
キャンディスは売れに売れる読み物作者として大金持ちになり、ジャクリーヌは寡作でも優秀な藝術文学によって名を高くし、敬愛されている。そういう題 だ。
この場合の「リッチ」は、精神ぬきのお金持ち、お金だけは有り余るという意味で使われ、この場合の「フェイマス」は日本語でいう有名・知名人の意味でな くて、作品そのものの価値高さや内容の豊かさゆえによく識られている、という意味に使われている。あまりお金儲けはできていそうにない。
日本の出版が、リッチな作家を多くもつことで経営的に安定出来るという大事さ、これは否定しないし、否定出来ることではない。しかしながら日本の出版や 編集者のあやまりは、リッチをフェイマスと錯覚して、真のフェイマスを置き去りに見捨てて行く経済利得感情の優先傾向にある。
昔はそうでなかった。それがそうなりはじめ、近時ますますそうなってきたのは、フェイマスな作者も少なく乏しくなり過ぎているのだろうが、それだけでは ない。と云うより、フェイマスを敬遠というよりむしろ排除し、リッチにばかり走りすぎた結果として、売れる読み物作家の団体が圧力団体かのように世にも訝 しいことを平気で主張したり要求したりするようになってきた。背後の黒幕に、有力な、しかし経営不安の出てきた大出版の有ること、誰でも知っている。フェ イマスだった文筆家団体も、そういうリッチ感覚に今や占領されて行く気味がつよい。
井上ひさし氏が会長になり、報道人たちと懇談した場所で、「直木賞作家に成りたい人は日本ペンクラブに入会されるといい、日本ペンの役員や理事には直木 賞作家が五人もいます」とジョウダンを云っていたが、そういう意識である。そういえば井上氏は歴代会長の中で、初の直木賞作家である。賞創設以来の会長で は、第一回芥川賞の石川達三、以来、井上靖、遠藤周作が芥川賞作家であり、先の受賞者も含め、川端康成や中村光夫らは芥川賞の選者であった。フェイマスが ともあれ柱になっていたように見受けられるが、リッチ傾向に転じていることは、理事会の話題の大半が「金稼ぎ」に傾きやすいこの五年六年を体験しただけ で、言い切れる。
金は大切なものでわたしも軽視はしていないが、文学・文藝となると、やはりフェイマスが心から懐かしい。固定した熱愛読者が「五百人」いるといって他の 作家から羨望され、ときに憎悪もされたという泉鏡花の伝説は極端であるにしても、フェイマスとはそれであった。リッチな文豪になどお目にかかったことがな い。

 

「ずいひつ」2004年 新年号 秦恒平

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