戦後に新制中学が出来て間もなく、そう、あれで二年生時分から、四條、三條の橋をわたって河原町へ出歩く習慣を もった。東の新門前通の中ほど、仲之町で育った。ちいさかった頃は戦中で、異人さん相手の美術商は軒並み灯を消し、それは静かな閑散とした通だった。戦後 に、どっと外国の団体客がバスで乗りつけたりし、うって変わって賑わった。
その頃からか、新門前の縄手西側には空き地が一画のこされていて、川西の先斗町にも同じような空き地のある、いつか は、あそこへ橋が架かるらしいと、噂に聞いていた。河原町の真ん中へまっすぐ行けるのか、よろしぃなと、呑気に想像していた。
そう呑気な話でなくなり、先年、「フランス橋」問題でやかましい話題になった。わたしは、もう四十年余も東京暮らし で、噂にだけ聞いていた。
中学・高校頃の河原町へ、わたしは、何をしに日ごと通っていたのだろう。あの頃、学校へさえ下駄や草履で通った。靴を 履くことなど珍しく、河原町散歩も当たり前のようにちびた下駄履きで、しかも本を歩き読みながら、かなりの速歩で、人波をすいすいすり抜けて行くのが、ス ポーティな、変な自慢だった。買い物などする小遣いは持たなかった、ただ河原町通の風情をいたく好んで、西側を、東側を、二の字に、または蛸薬師の横断で タスキに掛け渡して、ただもう通り抜けるのが、夕過ぎての日課だった。
立ち寄るのは、書店での「岩波文庫」の物色と立ち読み。
足を止めるのは、何のお店であったかショウウインドウの、女優原節子の大きな顔写真に、じいっと魅入られるために。あ りていにいえば、これが、たまらぬ誘惑であった一時期が、確かにあった。なにしろ、あの原節子である。丈高い品のよさが河原町通の明るさとよくツロクして いて、思春期から青春期の少年を、磁場のように惹き寄せた。
中学二年生で、初めて自分のお金で、「※一つ」の岩波文庫を奮発した感動は、たいへんなものであった。以来、万と数え る大量の本を買ったり貰ったりしてきたが、第一歩は、懐かしき河原町の書店で踏み出した。暫くして、次に、お年玉で『徒然草』と『平家物語』上下を買っ た。それが文壇に招き入れてもらった太宰治賞作品や、書下ろし処女長編の誕生に、まっすぐ直結していった。
わたしは、大学に入るまで喫茶店に入った体験がなかった。恋をするようになっても、京都中を、いまの妻と、ただもう歩 きまわっていた。だが「ユーハイム」という風変わりなお店で、背もたれの高いフカフカの革の椅子に沈み込み、妻にキスした覚えがある。
その頃には、叔母の代稽古でお茶の先生役を小遣い稼ぎにしていた。足りない分は叔母が助けてくれると言うので、垂涎も のの、ニッカの高級カメラを、あれは「さくらや」といったか、東側の写真機店のウインドウに日参また日参、ついに手に入れたのが、当時で五万円ほど。あと にもさきにも、生涯、あれほどの買い物に踏みきったのは、あまり例がない。後のちに聞いたが、そのカメラ屋に、国民学校へ入学式当日にもう惚れ込んだ秘か な「好きやん」が、嫁いでいったとか。だがカメラの方がぐっと深い印象を胸に彫んだ。
河原町商店街の経営診断などに、去年亡くなった実兄の北澤恒彦が、熱心に関わっていた話を聞いている。ご縁で、鮨の 「ひさご」夫妻には、わたしも仲良くして貰っている。夫妻ともすてきに勉強家で、じつにうまい鮨を「創作」している。そういう進取の意欲があのハイな人気 の源になっていることは、ながくお店を維持しているどの商店もみな同様であろうと、敬服し親愛もして、京都へ帰るたび、今は「靴」を履いて、ゆっくりと、 馴染みの店を覗いてまわっている。幸い買い物も出来る。幾久しい平和な繁栄を祈りたい。
── 河原町商店街振興会 依頼による──