ぜんぶ秦恒平文学の話

京都 2004年

 

* 薫中将はとうどう都から木幡の山も越えて宇治八宮のもとへ通い始めた。そこには大君、中君がひっそりと父八宮に愛育されている。それだけではない、薫出生の秘密に深く触れていた人物もここに身を寄せている。宇治の川瀬ははやい。風も鳴る。今の宇治平等院の対岸辺りと眺めて読んで間違いない。妻と、京都ホテルからチャーターの車で、山科随心院、三法院、法華寺を経て平等院まで行ったのは何年前になるだろう。この前は稲荷から羽束師を経て桂川にそい、嵐山へむかった。
あまり懐かしくて、京都の風光を、東西南北、ひろやかに、こまやかに思い浮かべると、くるしく、胸がきしるようだ。
2004 1・7 28

* 秦テルヲのことを、考えている。考えている。じいッと考えて、ときどき書いている。
京都へ行くということも想い描いている。今度も、行ったら帰ってくる。行きの列車内時間も役立てねばならんほど今回は切羽詰まっていて、せめて帰りの車中ぐらい、となり座席にいい人が並んでくれるといいなあ、などとラチもない空想で時間をとってしまう。今回は珍しく行きも帰りもまだ切符は用意していない。正月あけだし、なんとでもなるであろう。あけて月曜が病院と電子文藝館の会議。これでは向こうで遊んでいるヒマがない、いつものことだが。京都では、ぜひ何処へ行きたい、何を食べてきたいということは、かえって、ない。行ったつもり、食べたつもりが利く。それがわたしの、京都。
2004 1・12 28

* なにもしない、呆然として、ときどきペットボトルの茶を飲む。少し眠っていたと思う。名古屋から先は用心して眠らないが、ぼうとしていた。簡単に京都に着く。地下鉄で市役所まで行き、外へ出ると曇って心持ち霧のような雨。ロイヤルホテルは直ぐ近く。
シングルが用意してあったらしいが、顔を見てツインの部屋にとり替えてくれた。
三条河原町の画廊は琳派っぽいやすい展示でよくない。三条大橋をわたり、さてと立ち止まり縄手に入って「今昔」に寄り凱(ときお)クンの顔を見てきた。母上はすっかり二階で寝たきりだという、気の毒に。
「龍ちゃんは元気」
「はい、元気にしてます」と、それだけで安心して、古門前を東に。至文閣を覗いて、近いうちに会長か社長か販売部長と対談したい意向を申し入れておく。切り通しに入り正観堂で、体調わるいと風の便りに聞いていた主人を、ちょっと見舞う。声がかすれている。元気に「はやくよくおなり」と言っておいて、直ぐ近くの菱岩を覗き、主人岩松サンにいつも歳暮にごちそうを頂くお礼を言う。岩松氏、元気。
新門前で、もとの我が家はどこかいなと。家を出て目の前西よりの電柱がなかったら、通り過ぎてしまう。ひどいテナントビルになっていたのが、すっかり変わり、小ぎれいな今風の美術店に。ほほうと覗いていたら、店の人に見咎められた。むかし此処に暮らしていたというと「そらなつかしやろな」と言われたものの、さて変わり果てていてそんな感じも湧かなかった。
白川沿いに三条へ出て、星野画廊を覗いて星野さんに声をかけただけで、近代美術館へ。画廊の主人公、「あしたは、ぎょうさんきゃはりまっせ」と言われて、なんだかかえって意気阻喪。
秦テルヲ展をたっぷり時間を掛けてみた。練馬美術館より広くて明るい。展示の仕方も少なからず違うが、絵は絵で変わりなく、やっぱりよい展覧会だった。星野画廊は、なにしろ時期がわるい、と。歳末年始は、人出がどうしても春秋ほどよくない。それは確かに惜しい気がするが。
学芸部の島田康寛氏と担当の小倉さんに会う。初対面の小倉さんは、わたしの専攻の後輩にあたる。大阪日経の須山氏もみえて、スライド映写の打ち合わせをした。
さっさと済ませて解放してもらい、ひとりで、神宮頃道から青蓮院前を瓜生岩まで行き、西するかすこし思案して、懐かしい坂道はくだらず、知恩院三門を見上げたくてまっすぐ南にすすんで、圓山公園に入った。夕闇迫る池で、鴛鴦や鴨の泳ぐのをながめ、大枝垂れの桜木に烏の二、三、四、五羽もじっととまっているシルエットの美しさに感じ入る。枯木に寒鴉は似合う画題であるが、そんな常識をはるかに打ち破るほどの美しい風情に見とれた。長い豊かな枝垂れの優しさに、鴉。黄昏れて行く空を背に、黒い上の黒い鴉があんなにしんと寂しく美しいとは。
八坂神社に賽銭を投じて鈴を振り、下河原へ出て「浜作」まで行ったら、さまがわりして、此処がもう残った唯一の店になっている。祇園富永町の「浜作」は長いながい歴史を閉じた。不運の続いたあげくの最期の牙城になった下河原店だが、ちょっと店のさまは案じられる。幼なじみの女将とも言葉だけ交わしてきたが、おもわずウーンと声も出そうに老いていた。
京都も、かわりなくすばらしい場所はいくらもあるが、「人」だけは容赦なく老いてしまい、見る影もない。つまりは私もそうなのだけれど、勝手なもので、自分はいまだに中学高校大学生波の気分でちっとも変わっていない気で居る、いい気なものだが、そういう気で昔の女友達の顔など見にゆくのは「残酷なわるさ」に過ぎぬということを実感する。歳々年々人不同とは、無残な真実。京都へ特別いつもいつも行こうとわたしがしないのは、人が変わり果てて、しかも数を減らしているのが辛いからである。
八坂神社境内にもどり、思い出の深い辺りにやすらい歩いてから、楼門の石段を下りた。すっかり四条は宵の街なみとなり、こころもちとぼとぼと歩いて、ホテルに戻るよりも気分の嬉しい食事を、ぜひ祇園でして行きたくなった。中華料理の盛京亭も懐かしいけれど、もうすこし奢りたく、大原女屋でもその気分には物足りなかったので、よほど「味舌(ました)」の前で気は動いたが、それならいっそ通りの向こうの「千花」が恋しいと思い、縄手で下(しも)へ渡って少し戻り、心安い路地の奧の、風情の暖簾を分けて、予約もしていないのに声を掛けた。暮れにはめでたく恒例の昆布をもらっている。顔をみて、店中で愛想良く迎え入れてくれたのが、時間はまだ早い五時少し過ぎであった。
「千花」なら、料理は任せておいて何の不安もない。まだ刻限も早く、店中を独り占めにして、八十すぎた老主人に、また跡取りの板さんに、話し相手をして貰い貰い、酒もうまく料理もうまく、なにとなく寂しかった身内の京都に、ほうっと、佳い灯がともった。万という札を二枚出して足りますかという程度の奢りであるが、とても気分が好い。なにより出される器が総じて京風に華奢に美しいのもそうだが、酒器も瀟洒で、しかも徳利一つに酒のたっぷりなのが嬉しい。徳利の小さい貧相な店はイヤやなあといつも思うのは酒飲みの意地がきたないからか。
ここでは歌舞伎の今昔が話し合える。ほうほうと思う裏話も聞けるし、かなり役者の藝に厳しい。役者だけでなく、料理屋の板前の藝にもなかなかしたたかに中身の濃い噂が聴ける。むろん客がわたし一人だからの内輪な話だけれど。
さらには祇園のあれこれの老妓、ということは、つまりわたしも知って覚えているような名前のこと、また今いまの舞子のはなしなども聴けるから、酒のまずかろうワケがない。咄の肴にホンモノノ酒肴がこきみよく出てくる。いつもいうことだが、この店は、食べ物の出る「間」がすこぶるよろしくて、気持ちよく流れに誘われるように食べて行ける。刺身も吸い物も焼き物も煮物も、「千花飯」とひそかに読んでいる独特のご飯にも堪能する。明日の講演など忘れてしまっていた。
露地まで見送られて、四条通りに出たが、もう何処へ寄る気もない。木屋町か此処も馴染んだ「たん熊北店」のわきを河原町の賑わいに抜け出て、ぶらぶらとロイヤルホテルへ戻った。
もう少し飲みたいなあと、たががはずれている。地下へ降りて、瓶出しの紹興酒をグラスに一杯だけ飲もうと思った。伊勢海老を半身に料理したのがあり、それで、とろりと濃い、だれかさんがセクシイなと謂うていた紹興酒、を眼をとじて、ひとり、ゆっくり味わった。
部屋へ戻って、やっと、明日の心覚えに用意したものに目を通し、湯につかり、また缶ビールを一つ冷蔵庫から出し、テレビのチャンネルをぱらぱら押していたら、おっそろしいようなポルノ場面がテレビから飛び出し、呆気にとられた。
もってきた翻訳物のミステリをしばらく読んでいる内に寝入って。夜中に、軽く咳が出たので、起きてそのための風邪薬をのみ、また寝入った。百人一首を六十幾つまで数えていたが、枕元で起きろとベルが鳴ったのはもう朝の九時前だった。
2004 1・16 28

* 日経がタクシー利用券を昨日呉れていたので、利用させて貰おうと、チェックアウトするとすぐ車に乗り、出町柳の菩提寺で墓参。小雨。花をかえ水をかえ、墓の中の父や母や叔母に暫く話しかけ、迪子のまずは息災、建日子の元気な活躍など報告して、お寺さん夫妻にもアイサツしてから、車を曼殊院に走らせた。
「猿の遠景」を持っていたので、お寺に置いて来たかった。驚いたことに、お寺の人が、それは若かったり女の人たちであったりのためか、曼殊院に伝来の伝毛松筆の重文「猿図」を、この寺のお宝の一つであったと、知らない。ま、そういうものだ。
佳いお庭。わたしの来た京はいちばん寒い時期かも知れない、ダウンも待たせた車に置いたままで、素足で院内を歩むと、舞い立ちそうに足冷たく、冷えに冷えた。寒いなあと全身をかたくしながら、懐かしい庭と、しばらくじいっと向き合っていた。
ついで、やはり円通寺。おかしいほど、いつもの道行きだ。比叡山に雪がかなり降りていて、借景は、冷え冷えと冴え渡った。円通寺へは、なかへ入って行く感じが何よりも静かで嬉しく、臘梅が咲き匂っていて、時を忘れた。円通寺へは、そこまで行く道、そこから出て行く道も、険しい坂有り、迫る山かげあり、学生のむかしは妻とひたすら歩いてきたのだなあと思い思い、やはり今昔の感に包まれてしまう。学校に、教室にいる、何倍もの時間を妻とよく歩いておいたのが、えもいわれぬ私には財産になった。
深泥池(みどろがいけ)をざっと眺望し、上賀茂の社家町を通り抜け、わたしの願いは、あとは広沢の池の冬景色を眺めることだけであった。
水をぬいて湿田の水たまりに雪が消え残り、少し凍ててもみえる広沢池の向こう、遍照寺山のやさしい姿。しばらく、ただ、眺めていた、児(ちご)の社のわきから。
はい、もういいです、と、新丸太町から一路岡崎へ、美術館の方へ車を返した。こういう時間には今回は恵まれぬものと諦めてきたのに、心豊かな午前を、思い残しなく楽しめた。
星野画廊の前につけてもらい、星野さんに二三質問をした。この人の尽力が、今回の秦テルヲ回顧展に大きな蔭の力であったことは、関係者はみーんな知っている。少しわたしの認識を確認しておきたくて、質問し、安心した。画廊に、折もおり、ずいぶん秦テルヲの小品を並べていた中から、明治三十年頃の、というのは秦の父が生まれた頃の「出町橋」遠望の雪景を描いた佳い一点を、躊躇なく買った。明治の京都を想いだして、テルヲは優れた作画を重ねていたが、それらの中へ置いて遜色のない、それはもう「じょうずな」筆技の小傑作であった。絵を買うときは躊躇しない。一つには画廊の誠意を信じられるところでなければそんな気は起きない。
コーヒーが飲みたくて、広道西側の、星野さんの教えてくれた静かな喫茶店で、トーストを食べ、一服した。バターがしみ焼き目も香ばしいトーストを口に入れながら、小さな店内の何点もの佳い繪を楽しんだ。こういうところは、京都だ、ほんものの佳いモノが当たり前のように在る。美術館で館長らと昼食をといわれていたのは、事前に勘弁して下さいとお断りしておいた。講演の前の心地澄む時間がをもてた。

* 約束通り十五分前に美術館に入った。いきなり、中学高校の女友達に出迎えられた。なにしろ、つい、此の近所住まいだもの、仕様がない。これやから、京都で講演するのはこわい。ロビーで、次から次から声を掛けられた。おどろいたことに、淡交社の大御所、臼井史朗老人にまで挨拶された。お元気で何より。昔は「茶ノ道廃ルベシ」の連載で臼井編集長にずいぶん心労させた。
整理券は百人限定、その百人満席の上に数人増えていたらしい。
「秦テルヲの魔界浄土」ちょうど九十数分で、話し終えた。図版の映写を贅沢なほどに依頼しておいたので、絵を観ながらの具体的なスケッチ風の講演が、狙い通りにはまり、まずまずわたし自身も、感動をおさえる気味に話し終えることが出来た。あの拍手の音はだいたいほんものであったと感じた。
講演し始める直前に、故麻田浩画伯の奥さんが挨拶に前へ出て来られた。やっとやっとこうして外へ元気に出てこれるようになりましたと、長かった強烈な「鬱」から脱却されたのをよろこび合った。
講演が済んでからは、どっと古い知人や読者達に声を掛けて貰った。おおかたは久しい「湖の本」の支援者でもあり、中には東京へ出た昔々の新婚新居アパート「みすず莊」の、隣室木下夫妻にまで、高槻市から出て来てもらっていた。鍾馗の写真集でお馴染みの服部正実さんにも初対面。ああ、無事に済んだ良かったという安堵でいっぱい。星野画廊の夫妻も来てくれていた。
臼井老に、俵屋でご飯をいかがと誘われたが、有り難く遠慮させてもらい、小雨のあの平安神宮大鳥居下からタクシーで一気に駅に走り、買って置いた帰りの列車を一時間早くして、のぞみに、飛び乗った。ほおっと息をつき、売り子のウイスキー「水割り」をことわり、ミニの「竹鶴」「ロイヤル」を、水とは別々に買い占めて、少し佳境に入ってきた「捜査官ケイト」に読みふけり、しばらく寝て、また読み継ぎ、とにかくも大いにくつろいだ。三人席を一人で占めていたので、酒も、幕の内も、遠慮無用だったのもラクであった。

* さてこそ、やっと本当にゆっくりと息が付ける。明後日は病院に行き、そのあとが「ペン電子文藝館」の今年の初会議。その翌日には俳優座の芝居に招かれている。

* それにしても人寂しくなりまさる京都であると、痛いほど感じてきた、それは、それほどに人恋しい気持の裏返し、かな。
2004 1・17 28

* 京都は、かすかに雨もよい。
新丸太町通り花園に、五位山法金剛院を訪れた。待賢門院ゆかりの古刹で、一度行きたいと願いつつ、いつでも行けると門前をタクシーで通り過ぎるばかりだった。今度は、まず其処を一の目当てにした。
この女院は傾国の美女としては最も著名な人で、保元の乱を敵味方で争った崇徳院と後白河天皇との生母である。両帝の父は鳥羽院。女院は鳥羽天皇の中宮であった。だが、後白河天皇は正しく此のお二人の子であったが、崇徳院の父は、鳥羽院の祖父である白河法皇であった。鳥羽天皇は生まれ落ちた後の崇徳院を「おぢご」と呟いていた。この「おぢご」に天子の位を譲れと強いたのも院政の独裁者白河法皇であった。待賢門院璋子はこの法皇の幼女として幼くより愛育され、長じて寵愛を受け、孫鳥羽天皇の后に入れてからも二人の関係は絶えていなかったと謂われる。
だが、わたしは、待賢門院を、むかしから悪くは思わなかった、悪いとすれば白河院に相違ない。
この女院を悪く思わなかった一人に、西行のあったことも知られている。彼には「なにとなく芹ときくこそあはれなれ摘みけん人の心知られて」という歌があり、「芹摘む人」とは、后など高貴の女人にかなわぬ恋をする人の意があると謂われる。この女院の死にあうと、すぐ追慕の和歌をのこしているし、崇徳院に対する贔屓の想いもつよかった、それがあの秋成の名作『雨月物語』巻頭作の「白峰」にあらわれている。
女房のひとり待賢門院堀河とも西行は親しく、その妹たしか兵衛とも親しかった。わたしは堀河の「長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝はものをこそおもへ」という歌が好きで、また古い歌留多に描かれた堀河の、向こう向きに瀧津瀬のようにながく垂れた黒髪のうしろ姿が大好きだった。丈高い立ち姿であった。美しかった。そしてその繪姿を堀河ならぬ主君待賢門院かのように錯覚し、いやあえて想い込み、どうしてもこの人をわるくは言えなかった。その贔屓の想いの凝って成ったのが「繪巻」というわたしの小説である。
待賢門院は、現存最古の「源氏物語絵巻」を勧進した本元であった可能性が高い。それもわたしを傾倒させた。
法金剛院は、待賢門院が、先立って在った天安寺を復興したお寺で、天安寺は文徳天皇の定額寺で、大伽藍を擁していた。もともと此処には右大臣清原夏野の山荘があり、没後に双丘寺とされ、背後の内山は景勝を頌えられ、五位山と位で呼ばれた。今もその名で呼ばれ、待賢門院陵がある。
本尊阿弥陀如来は、かつては鳳凰堂、法界寺のとならんで定朝三如来とうたわれていたが、事実そのように見えるのだけれど、今では院覚の造像とされている。仏様を美しいとは勿体ないが、すばらしい像容。藤原時代の作。
それよりさらに古い弘仁仏とみられる、一木彫の地蔵菩薩立像がまたすばらしい。同じく僧形文殊菩薩にも驚嘆した。佳い仏像を擁したお寺とは知っていたが、鎌倉時代の、よく保存された十二天繪扉をもった厨子の、十一面観世音座像も美しい。
そして庭園。池畔に枝垂れの待賢門院桜が、ほのかに紅をみせ咲きそめていた。かなり古い人造の岩組を持った瀧の遺跡が、境内に発掘発見されて遺っている。「青女の瀧」とか、今は岩組だけが大きい。
このお寺の自慢の一つは、夥しい種類を集めた蓮花栽培であるらしく、季節は夏の「蓮の寺」らしさはまだまだみられなかったものの、七月から八月への季節になれば、きっと見事であろうなと思わせる用意はよくうかがえた。
寺域のすぐ東に妙心寺、西に双が丘や太秦広隆寺、北には仁和寺や竜安寺や等持院がまぢかい。また来たいと、したたか思わせる、ま、やや街中でちかくを山陰線も新丸太町通りも走っていて物音はするけれど、不思議に懐かしいお寺の一つではある。
やや離れて遠望すると、甍の波打ち重なるさまに、往古の盛儀がしのばれた。

* 酒は飲めない、食の量も質も按配が大事となると、そっちの楽しみは奪われたも同然。ま、仕方ないかとホテルに帰った。朝が早かったのも、このところ睡眠不足気味もあり、雨も降ってきたので、もうどこへも出ないで仕事をするよと、宵も早めに家に電話したが、そのまま、ぱたんとベッドに倒れて、気がついたら十一時五十五分。それでも足りなくて、電気を消して寝て、朝まで。よく寝たものだ。
「対談」が流れていたので、じつに気の楽な京都入りであった。
2004 3・25 30

* うってかわってすばらしい好天。空は澄んで青く、白雲がふわりふわり。風は吹くが冷たくはない。朝食をとり、それから入浴し、九時半には荷物を預けておいてチェックアウト。
一思案して、タクシーで、泉涌寺道の即成院前まで。針が落ちても聞こえそうな静かさに、風が、木々を鳴らしてこきみよく吹く。風と木々との音が静かさをかえって増しているのに驚く。日当たり良好の境内をゆっくりすすんで、めずらしく即成院のお堂にあがった。内陣は広くはない、が、奥深く、対の燈明の奧に阿弥陀如来座像と、取り巻くように諸菩薩。この寺を名高くしている練行阿弥陀二十五菩薩の本尊たちであろう、誰もいない、仏前に失礼ながらあぐらで長く静座し、瞑目し、とても幸せであった。
此処はわたしには、人さま一般のただの泉涌寺境内ではない。わたしの創作したわたしの「泉山世界」である。だれもわたしのその世界を侵すことはない。いつしか、そばへ来て朱雀慈子が話しかけてくる。讃岐町子もすぐそばに座っている。ほかにも来て声をかける。独りいるという気はすこしもしない。
即成院を通り抜け、東の戒光寺へ。すばらしく丈高い釈迦如来立像と対面。今日のお釈迦様は優しかった。時には叱られたりするのだが。あまり背が高いので、尋常の位置ではお顔が見えない。遠慮なく内陣の際へ行き、立ったまま限りなくいつまでも向き合っている。言葉など湧いてこない、ただ、懐かしくて懐かしくて、其処に立っている。ポケットの中から現れたような慈子たちも、おとなしくそばで黙っている。息をひそめてはいるけれど、とても懐かしい親愛の空気が堂内にたちこめている。わたしは釈迦牟尼に見られている。甘えているような柔らかい気持になる。少年に返っている。

* 悲田院へ寄ってみようと思った。母校日吉ヶ丘校庭の丘の上にある。あまり近くてかえつて疎遠であったが、寄ってみたくなった。月輪中学の手前から入り、石段ようの坂をのぼり、右を向くと朱い門があいている。入って右の奧へ寄って行くと、それはもうひろびろと、一望はるかに京の下京から南へかけて、のこりなく冴えさえと見晴らせる。上京は東山のなだれに遮られているけれど、こんなに広い広い眺望は、じつは東山のどこからでもまことに珍しい。だが強風にさらされてもいた。風はさほど冷たくなく、空はうらうらと澄んで晴れている。雲は暢気なほど白く小さくいくつも切れ切れに浮かんでいる。けど真冬はさぞ此処は凄いだろなあと想った。
この寺の息子が後輩で講談社に勤めていた。今もいるかどうか。
ここの墓地に家の墓のある友達もいる。かわりに墓参りをしてやろうと歩いてみたが、見つからなかった。墓地が散開して、あちこちにあるからだ。

* 月輪中学の校舎と運動場のあわい道を東へ抜けると、すぐ左に「拝跪聖陵」の碑がたち、月輪御陵群へむかう砂利道だが、そちらへは行かず、そのまま碑の前をつきぬいて向こうの隠れ坂を渓流へ降りてゆくと、橋のさきが観音寺。ここへ来ると、もうわたしの慈子はとてもじっとなどしていない。わたしのまわりで昔々の少女になり、「兄さん兄さん」とわたしの手をひっぱる。二人で観音寺にまいり、今日は医聖塔まで山はらを登ってみた。上古から幕末までの名医・国手たちの名前を刻んだ碑があり、塔がある。全部の名前を慈子といっしょに声に出して読んでいった。羽生玄碩も華岡青州の名もある。解体新書の二人もいる。
放生池からすぐワキの、後堀河陵の根方になって山かげには、朱雀先生とお利根さんのお墓が隠れている。慈子とじっと下の道から見上げていた。
来迎院に入る。含翆庭は、やはり明るく刈り込みすぎている。昔の面影がハレーションをおこしてしまう。それでもなんと静かな風の道であろう、木々も山もそうそうと鳴りわたりながら、日の光の音すら聞こえるほど静謐をたたえた世界。朱雀先生とお利根さんと慈子と私と、四人で月見の茶を楽しんだ庭だ。ふうっと息をはく。深くはく。境内をゆっくり歩く。山みづを備えの長柄杓で洞穴の奧から汲んで二人して呑んだ。わたしは高校生で慈子はまだ小学校だ。

* どこへ行っても桜はまだ早かった。だが、来迎院を出て、泉涌寺金堂のそとへ、御陵道の前へ出た途端に、さっきからちらちらしていてしかし信じられなかった、桜の巨樹ひともとが、なんとほぼ満開ではないか、あでやかに美しい色が、泉山の真翆に映え、空の色にも映え白雲にも映えて、ああ「匂う」とはこれなんだと息を呑んだ。奇蹟を見るように大きな枝枝に重たげに初花桜が盛りに咲いて、強い風にも一輪の花びらも散らしていない。空はまぶしく、わたしは慈子をうながして、御陵道を少しのぼっては花を顧み、また登って顧みし、やはり二人の行くところは後堀河天皇陵であった。
目の下に来迎院が隠れている。これまでに人っ子一人とも出逢っていない。たとえ出逢っていても吾々には見えないのだろうと想う。わたしはもう若い会社員で、慈子は大学生だった。二人で、御陵のまわりを昔むかしのように一回りしてみた。しっかりと慈子はわたしの手に縋っていた。黙ってキスした。

* 泉涌寺拝観はしなかった。悲田院前から母校校庭に添って、道路におりた。即宗院ウラの墓地わきから、通天橋の下を走っている洗玉澗の上流を覗き込んだ。古い土器片がこのあたりからは出るのである。
高校生の頃に通い慣れた東福寺道とは様変わりこそしているけれど、ゆるゆるとそっちへ向かい、途中、入っては成らぬと立て札のある「東福寺僧堂」を少し奧の、あのへんでタンガヅメをするのかなと想う玄関あたりまで、忍び入ってみた。
また道を戻って、十万不動の懐かしい境内をのぞき、「慈子」書き出しの歌会や初釜を楽しんだ大機院石段を少し登り、進んで東福寺境内を二の橋から望み、そして、大きな三門、立派な金堂の日当たりに静かに座りこんで、時を忘れてきた。
禅堂などの瓦屋根の美しいこと。伽藍が自慢だった東福寺の面目は、こういうひっそり閑としてしかもお天気のはれやかな時に最良の表情を見せてくれる。

* 九時半にホテルを出て、東福寺境内から本町伝いに京阪東福寺駅から四条まで戻ったとき、もう一時であった。たったあれだけの狭い世界を、濃密に過ごしてきたという実感が身内にジンジンしていた。大橋の西詰め、めったになく出雲屋にあがって、鴨川や南座や菊水などを晴れ晴れ眺めながら、鰻丼を食べた。酒は飲まなかった。ビールも呑まない。
そして烏丸まで散策、定刻の少し早くに京都美術文化賞の選考会場に入った。入り口で清水九兵衛さんと一緒になった。三浦景生さんがもう部屋に見えていた。やがて石本正氏も。しばらくして梅原猛氏も。
候補は四十人、建築と書をのぞく各ジャンルに推薦されてきた候補が挙げてある。ジャンルごとに一人か二人を先ず一次的に残して行き、さらに二次的に厳選し、さらに三人に絞る。わたしは、日本画には今年は好成績を感じていなかった。洋画のほうがいい。彫刻は分からないが、清水さんの意見がきめてになる。版画、陶芸、漆藝、木竹金工藝、染色・染織。わたしは選者であるが、だから特定の人を事前には推薦しないことにしている。洋画と版画と陶芸。それでいいと考えていた。その通りになった。

* 散会のあと、もう京都に未練はなく、京都駅で三時四十三分ののぞみに切符を切り替えると、生八つ橋を買い、車中の人に。名古屋まで寝入り、その先は、一時間ほど自分の作品に手を入れ、のこる小一時間は「女王陛下のユリシーズ号」を読んだ。すさまじいまで濃密に書き込まれた凄惨な死闘。敵との死闘よりも北極海の言語も想像も絶した暴風雨と極寒との死闘。一頁、一頁と読んで行く質感が、常の本の何十倍もある。
初めて品川新駅で下車した。なんとなく、懐かしい気分なのがおもしろい。五時四十五分きっちりに下車し、家に着いたのは正七時という早さであった。
校正往来等のメールがいっぱい。それらの処理をしているうちに、忽ちに十一時をとうに回っていた。それから、「私語」を書きはじめ、もう三時を十五分過ぎている。
2004 3・26 30

* 頭の中で、ことばが沸騰するようにストラッグルしているのを感じる。なんだかむちゃくちやに混乱し廻転している。液状のも筋状のも粒状のも板状のも、ぶつかり合うように攪拌されている。狂うような自覚はない、それを眺めている基点とも支点ともいえそうな位置でわたしは眼を開いていて、意識は騒がしくない。なんだか、とても寂しいとも表現できる。おととい、泉涌寺にいたときの気持ちに似ているが、あのときは頭の中に沸騰はなかった。懐かしい声のような情愛にわたしはひたっていたと思う、あの数時間。
即成院の阿弥陀、戒光寺の丈六釈迦、悲田院の大空に吸い上げられそうな遙かな眺望、観音寺の日だまり、来迎院の静謐、金堂わきの大桜の漫々と頌えて漏らさない咲き盛り、後堀河陵の裏山で聴いた鴬、母校の校庭、東福寺僧堂、通天橋をのぞむ一瞬のめまい、東福寺伽藍の交響する明浄。人と出会ってもそれと認められない深い現実喪失の澄んだ闇。あそこで、わたしは鬱ではなく躁ではむろんなく、静であった。願わくは清でありたかった。

* 落とせとバグワンはいう。道元の心身脱落とか、放下とか、そんな意味かも知れない、持ったり縋ったりしているむいみなものから手をはなすだけでいい、よけいなものは落ちて行く。何が、よけいなのか。何がほんとうによけいなのか。なにで「ありたい」かが、その「よけいな」ものを決めるのか。ま、いい。

* 京都の人にいわれたことがある、あのあたりは、あなたの「すいば」と。
「すいば」とは、京都の子供達の少し秘密めかしい、ひょっとして今は死語かも知れない、たぶん「好い場」の意味。「粋場」の意義ももっていよう、我のみの「お宝場」であろう。
泉涌寺・東福寺をとりまとめて「好い場」は余り広大すぎるけれど、わたしには、確かに、そうである。絶対に他人と共有していない別次元に、容易に成り変わる、いや父母未生以前にそうであったようなほんものの「好い場」だ。
誰しもが、「そこ」へ行けば、忽ちに他の世界へ「浸透」し「溶解」してしまう「好い場」を抱いているはずだ。わたしは、目をまじまじ近づけて見入るどんな「畳の目」ひとすじもが、そういう不思議世界に成り得た幼時を、忘れていない。
2004 3・28 30

* 又花の雨の虚子忌になりしかな
縄手の権兵衛でのっぺを食べて出たところで、雨粒が顔を打ちました。霊鑑寺の特別公開と聞いて京へ出てきましたの。安養寺、法然院(谷崎さんの桜が色美しく咲き誇っていましたわ)、真如堂、金戒光明寺、尊勝院、京都御苑の枝垂れ桜、白川沿い、そして、木屋町通りと、京の桜に酔い、大西清右衛門美術館と、京都駅ISETANの「高畠華宵展」も楽しみました。

* 佳い句だが。だれの句か知らない。囀雀さんの自作なら、おみごと。これはまた贅沢な、瓢亭か菱岩の懐石膳か花弁当を覗いたような風情だ。京の固有名詞のもつ命のようなものが、ぱあっと匂ってくる。
2004 4・7 31

* 昔なら、こんな休みに東京にはいなかった。わくわくする思いで京都の家へみんなで帰った。そして一日半日でも永く京都にいたくて、東京になど帰りたくなかった。
妻はどう思っていたか。両親を喪っていた妻には帰る里がなかった。新門前をそのように思い、わたしや子供達に同じてくれていたのだろう。落ち着ける場所が新門前にあったかどうか、深い気遣いをしてやれていなかったかもと、今頃、思う。
帰洛は、ほんとうに待ち遠しい嬉しいことであった。「京都」を貪り食べて過ごした。その感動がわたしの書く「京都」を輝かせた。秦さんの書く京都は、ふかふかした贅沢な絨毯をふんでいるようだと云われた。あれは、あの京都体験の照り返しであった。創作の泉そのものの京都であったとしみじみ思う。
親たちもなく家もなくなった。いま、京都に帰っても、根がない。トンボ返しに東京へ帰ってきてしまうのは、寂しいからだ。一日でも半日でも永くいたかった故郷。わたしたちは、それを、ほぼ喪失している。
2004 5・3 32

* 葵祭で馬が疾走・暴走して怪我をしたというのが珍しい。御所から二条城まで走ったというから、勇ましい。しかしよほど馴染まないモノに怯えたのだろう、可哀想に。
2004 5・15 32

* バルセロナの小闇が、久しぶりにメールをくれた。あの小柄にさえ見える長身の、ということはとてもスマートな学生が、キャンパスで出逢うと笑顔で駆け寄ってくるような学生が、いま、バルセロナで、家庭と勤務と創作の暮らしを日々に満たしている。教室ではじめて出逢ってから十余年、だが、二十年も三十年も仲良くしてきた気がする。どの卒業生ともそういう気がするから不思議である。
バルセロナが京都に縁の濃い人とは知っていたが、「馬町」とか国家安康の釣鐘でしられた「方広寺」とかの名前を彼女から聞いたことはあったのだろうか、とても新鮮。

* 湖の本「古典愛読・古典独歩」が無事バルセロナに届きました。特別関心を寄せてこなかった古典の世界ですが、恒平さんの話を聞く(読む)度、ふっと覗いてみたくなります。日本にいたなら~のに、と言うつもりはありません。本が簡単に手に入らないと言うのは、読まないことへの都合よい言い訳と思っていますから。ただ、よっぽど読みたくない限り、強いて手に入れようとしないのも本当です。
電子文藝館の「閨秀」も、読ませていただきました。 懐かしいです。
京都が舞台になっている恒平さんの小説を読むと、いつも懐かしい感触が広がります。描かれてある街の片隅が、時代は違っても、私の過ごした京都と重なるからでしょう。自分が生活したどの土地より、京都馬町(うままち)を想う時郷愁を感じるのは、これもきっと母のせいなのでしょうか。方広寺石階段の幅広い欄干は、よく見ると、中央が磨り減って艶やかなのが分かります。大人になってから、それに気づいた時のおかしさ。子供達がズボンやスカートを擦り切らす傍ら、石も磨耗していたんだなと。あれは、そんじょそこらの公園の滑り台より、よっぽど面白かった。
東山安井の金比羅さんの絵馬館にも、思い出があります。小学二年生を終えた春休み、訪れた私に、何を思われたのか、館長さんがひとつひとつ説明しながら回ってくださいました。絵馬が馬屋の形をしていること、願い事の絵馬では、神様どうぞお乗りになって、願いを叶えにやってきてください、という意味で、馬が左を向いていること、お礼の絵馬では、神様が無事帰途に着くようにと、馬はその逆、右を向いていること、馬と一緒に猿が描かれているとなおよいこと(なぜよいのかは忘れました)など。
あれ以来、切実な願い事には、厚紙を絵馬型に切り取り、馬の絵を描いたものでした。左向き、右向き、左、、、、最後の馬は、大学一年の終りに描いた左向きの馬。その館長さんとは数年間文通があり、それも途絶えた五、六年後、散歩しながら立ち寄ってみると、亡くなったと知らされました。
京都にいる時はとにかくよく歩きました。清水(きよみづ)さんから、祇園、東福寺までご近所さんのような感覚で。恒平さんと知り合ってからは、迷い込んだ袋小路から、ひょっこり小学生の恒平さんが出てきそうな気が何度したことか。
ところで、次の湖の本(創作シリーズ)の注文をお願いします。
11 畜生塚・初恋
20 隠水の・祇園の子・余霞桜・松と豆本
21 四度の瀧・鷺
お支払いの方は、「古典愛読・古典独歩」と合わせて八千円振り込ませていただきます。日本の郵便局から海外の口座への直接送金はできるのに、海外から日本の郵便口座への直接送金ができないため、今のところ振込みは母に頼んでいます。手違いがないとよいのですが。
小説は書いています。蝸牛のように。三度違う場面から書き出してみましたが、まだ冒頭でつかえています。ぱっと浮かんだ案で「書ける」と思ったものの、これは自分史ではなく小説なのだから、筋立てをよく考えない限り、何が主題なのかわからなくなりそうなことに気づきました。同じところを往ったり来たり、ひねくり回してばかりいるのではなく、もう少し思い切りよくどんどん書いてゆくことが私には必要です。
闇はいつも覘いています。  京

* わたしは「馬町」の坂の途中にある、京都幼稚園のバスに送り迎えされていた。高校の学区域で、あの近在には懐かしい人達の名前がいくらも今ものこっているし、小説にも書き込んでいる。ことに新聞小説の『冬祭り』の舞台は、まさしく馬町や正面(豊国神社や方広寺へ向かって正面の意味の地名)のあたりに深く根ざしている。あの人はあの小説を知っていたのかなと、ふと思っている。
この人のように海外に日々を送る人達に、「ペン電子文藝館」の作品が歓迎されている例をときどき手にしている。嬉しくなる。と同時に、お節介になるか邪魔になるか知れないが、ときどき「新展示作品」の簡単な紹介をするといいのかも知れないが、方法は難しい。そのために、特に「招待席」作品については、人と作品の「略紹介」に心を用いている。

* 出かけてみたい所の、資料や切り抜きの置き場を、戸棚の隅にこしらえ、月末に整理しておりますが、昨日、「庭園散策―岡崎―」というパンフが出てまいりまして、今月、まだ一度も京へ出かけていないこと、京を忘れていたことに、驚きました。
平安神宮神苑、無鄰菴、織寶苑、都ホテル京都、白川院、洛翠、清流亭、野村美術館・碧雲荘、金戒光明寺、聖護院、永観堂禅林寺、南禅寺、天授庵、金地院、青蓮院、知恩院など、今月いっぱい、特別公開や割引などありますの。
雨の予報に、出かけてみたくなりました。

* みな、たちどころにその場に在るように思い出せる名前ばかり、強烈な誘惑である。朝早くから、拉致と北朝鮮問題、イラクでの襲撃遭難事件、など生々しい話題にふれたあとで、こういう清やかな方面からの慰撫や鼓舞を受けると、かろうじて立ち直れるような気持ちになる。
話題が急にかわるが、こうしてキーを打っている自分の二の腕がずいぶん細くなっているのに気付く。背中も腰も肩も、慢性的に痛いのだと気付く。むかし茶の湯の稽古に熱中していた頃、どんな座り方をしていても、そのまますうっと静かに、何の力もかけず姿勢も変えずに立ち上がれた。いま、立ち居がらくに行かないから情けない。
2004 5・29 32

* 新幹線で、対談のための資料にやっと目を通した。家を出がけは降りづめで、棄ててもいいビニの小傘で駅まで濡れていったが、名古屋へ着いた頃はみごとな晴天で、日射しもまぶしげ。京都へ着いても、同じで、からっとした湿度のおかげで、ホテルで、ワイシャツにネクタイ姿になって出掛けても、なんとかしのげた。
車で、三条木屋町上ルの画廊へ寄り、美学同窓、妻の友達の出品している鞍馬画会を、ざっとみた。松村さんの絵は外国の風景を描いたモノで、居並んだ沢山の絵の中では落ち着いていたが、その場で腰をすえて描きこんだ印象がうすく、持ち帰ったカラー写真で絵を造っていないかという、どこか突っ込みの薄さを覚えた。本当の意味で絵が仕上がっていない感じ。本阿弥光悦の佳い茶碗にこういう色でかき分けた豪快な名碗があるなあと想いだしながら、岩壁に迫られた何かしらアイマイなものを描いていた。波涛(のようなの)も空も、半途の感じ。全体に成績不調という展覧会であった。

* 三条木屋町から、車で、蹴上の都ホテル(今は名が変わっているが)へ直行。京都美術文化賞の授賞式と祝宴。洋画の加藤明子さん、版画の木田安彦氏、陶藝の林秀行氏。梅原猛さんが選者を代表して選考理由を話し、受賞の三人が挨拶したが、加藤明子さんの挨拶がここ近年の受賞挨拶の中で頭抜けていた。拍手のし甲斐があった。木田氏は、ま、騒がしく両手両脚を振り回して大車輪に仕事をしている体の人で、スランプに落ちるなどと云うことは一度もなかったというぐらい、ま、職人仕事の人。加藤さんとは対照的。
この授賞式、財団母体の京都中央信用金庫から、ま、幹部社員であろう、堅苦しい背広姿の人が大勢参加して、それで「多数来客」を形作っている。その余は、過去の受賞者や理事幹事らが来ているけれども、今一つ取材記者や美術関係の批評家や作家達が寄ってこない。すこしどうにか工夫できると、本当に藝術の祝典らしい雰囲気になるのだろうが、仕事が小さい。やり方一つではもっとダイナミックな企業PRもできるだろうに。型通りに型をこなして記念撮影まで、たんたんと進む。
石本さん、三浦さんが欠席なのが寂しかった。
そのかわり、京都市立美術館の館長に就任した歴史学の村井康彦氏と久々に再会し、四方山の話を二人でながく話し合えたのは楽しかった。村井さんとは茶の湯の方での共通の仕事の場があった。氏は、秦さんによくいじめられた、やられたなど頻りに諧謔を弄していた。なに、学者には其処までは言いづらいであろう処を、自由な立場から突っ込んで発言していたまでのこと、学者と作家との、いわば分業分担なのであった。

* 会が果てるとわたしは、例年の例で、いわばわたしの地元でありぶらぶらと三条通を歩いて帰る。ただ、もの凄く西日の真盛り、のがれようがない。あまりぎらぎらと照り焼きにされるので、思わずも柚之木町の方へ折れ込み、昔の美濃吉、今は竹茂楼の前を通って、佐藤勝彦君や田中勉君の昔の家の前を通ってみたが、やはり西に向けばどぎついまで日はぎらぎら。またも脇の道へ逃げこんだところで、「松原」という表札に出くわした。この辺に「湖の本」の読者でもあり昔のクラスメートでもある松原さんの家があったらしいと思いつき、声を掛けてみたら、その通りであった。路上で数分立ち話してわかれ、神宮道の星野画廊へまたしても立ち寄り、秦テルオや甲斐莊楠音や五姓田英松などの珍しい絵を見せて貰った。
また三条通に出た。神宮広道から少し西の路地に、やはり「湖の本」の読者で、中学高校といっしょだった本田さんの家がある。大怪我をして永く入院していたと聞いていたから、声を掛けて見舞いを云ってきた。
古門前まで柳の美しい白川ぞいを歩き、わざと石の細い細い橋を向こうへ渡ってみたり、また広い石橋を西へ渡り返したりしながら、新門前通りに入った。私の育った家は、いま、きれいな美術骨董の店に変わっていて、数分、中に入って、ああこの辺に大きな竈があった、この辺に仏壇や床の間があった、泉水があった、叔母の稽古場があったなどと、奥行きいっぱいをそれとなく懐かしんできた。
白川を新橋、辰巳橋とわたり継いで、祇園清本町から四条へ出て、車を拾って烏丸のホテルに戻った。着替えようかと思ったが面倒なので、靴下だけさらに履きかえ、今度は五時半からの理事会宴会のために、仏光寺新町下ルの料亭「木乃婦」まで、数分歩いた。清水九兵衛さんと一緒に入った。席も清水さんの隣で、もう片方の隣は先日まで市立美術館長だった顔なじみの上平貢理事。

* 幹事会が先行し、決算や予算が報告され、ついで全く同内容で理事会が、シナリオ通りにいささか可笑しいぐらい堅苦しく儀式めいて進行する。そういうことは、専ら金融機関である財団母体のエライさんたちが進行し、梅原さんや美術作家や小説家のわたしたちは、笑うことも出来ないから黙然と資料をただ眺めている。通過儀礼としてしかしこれは厳格にやっておかねばいけないのであるらしい。とにかくも財団母体のこの金融機関は日本一の信用金庫であり、おそろしく景気がいいらしい。安心して任せておれる。ご同慶の至りである。

* 宴会になると先斗町の芸妓舞子らが来て踊ったり接待してくれる。この店の通り一つ隔てたお向かいは、菅大臣神社、亡き恩師西池先生が宮司さんであった。そういえば理事の橋田二朗先生が欠席されていたのが残念であつた。選者の石本正さんはこの席には元気な顔を出された。
いい料理であった。それから酒も冷酒もビールもうまかったが、佳いワインの赤いのがすてきにうまくて、少々酔った、酔った勢いで梅原さんとも二人向き合っていろいろ話してきた。だが何よりも、清水九兵衛さんと、創作者のスランプということで、かなり体験的に深みのある話を仕合えたのがたいへんな収穫であった。むろん、それは今度の「湖の本」の小説と絡み合っていた。創ることと考えることとの、あまりに深い危険をはらんだ微妙さ。それは清水さんのような透徹した前衛彫刻家なればこそ見えている、いろんな機微に関係していた。清水さんは酒の席であろうとも、そういう話題は決して避けない人であり、今夜の理事会は有益であった。

* 会が果てると、わたしはさっさと歩いてホテルに戻った。次に気が付いたときは、夜中の二時半であった。脱ぐべきはちゃんと脱いでいたが、カーテンもしめず電気もついたままで、寝ていた。
2004 6・1 33

* 春ではないが東山のあけぼのを、もう、ほぼ寝ずに眺めて、またうとうとして七時半に目覚めた。
朝食してから、また対談資料に目を通し、ゆっくりして、やがて荷物はホテルに置いたまま近くの、対談を予定の場所へ出掛けた。
服部正実氏、この人は京都と近県の屋根に置かれた「瓦鍾馗」を撮影してまわって写真集やホームページを開いているサラリーマン氏で、やはり「湖の本」の読者でもある。
「美術京都」の巻頭対談は、梅原猛さんと交替でゲストを招いて、もう十七年も続けてきた。梅原さんは現役の美術作家達と、わたしは美術周辺の人達と対談してきた。
その中でも、軒の上、庇の下の瓦鍾馗にハイライトをあてるというのは、なかなかのファインプレーではあるまいかと思っている。子供の頃からほとんど意識に入ってくることもないほど、空気のような存在であったけれど、見事な造型、瓦彫刻が、永く広く行われてきた。鬼瓦に対抗するやはり「鬼師の伝統藝」なのである。いい写真を一枚でも多く使って呉れるといいが。

* こんな旅でも、予定から予定へ繋いで行く分にはけっこう忙しく、追いかけられる気分になる。かろうじて対談もほぼ無事にし終え、京都での用が済んでしまうと、雨だと覚悟していたのに綺麗に晴れたぶん、ふと気も軽くなり、午後を京都で過ごしたくなった。それで、なにはともあれ、平安神宮神苑の菖蒲の真盛りに出逢ってみたくて、車を走らせた。応天門内、大極殿前の大広場は、今夜の薪能のために幕など引いて用意していたが、後苑は緑満ちあふれて水流は清くささやかに、小気味の良い静かさであった。菖蒲も河骨も美しく咲きの盛りで、鯉達もいきいき。池の飛び石をさすがに少しおそるおそる慎重に渡ってみたり、こかげに少し休んでみたり、幾重もの庭から庭への楽しさを満喫した。いつ来てもほんとうに名庭だと思う。

* 六月十一日は、叔母の命日、もう何年になるか。で、車を出町、萩の寺常林寺に走らせて、せめてもと墓参りをしてきた。住職とは会わず奥さんに挨拶して、墓の花もかえ線香もたてて、墓石を水で清めてから、しばらく父や母や叔母とおしゃべりをし、念仏数十遍。それでも墓草を抜きもひきもせず、お寺さんに叱られるなあと思いつつ、それだけで辞してきた。寺の真ん前が高野川の最下流。川中に下りて行くと、向こうから来た加茂川とこの高野川とが合流して、なかの三角地に糺の森、下鴨神社が鎮座しているわけだ。此処まで来ていたら、河合神社にも糺の森にも御手洗川にも、そして本殿にも参らざらめや。心静かに鬱蒼としたしかも整然と掃除の行き届いた参道を、奧へ奧へそぞろ歩んでいった。
同じ神社でも平安神宮は近代の模構、うしろの庭だけは極めつけの上出来だが、柏手を打つてくるという場所ではない。が、下鴨神社はそうではない、山城の国一宮であり崇厳清浄の上古来の霊地である。その心清しさはたいしたもので、本当はじっとその場に不動の時を過ごしたいような空気がある。

* ま、そろそろ疲れも出てくるしと、また車を拾い、東山の方をぐるりとドライヴしつつ、結局粟田坂から知恩院のまえまで乗って、車を捨てた。平安神宮の庭を楽しんだならもう一つの開かれた名庭でもある圓山公園をそぞろ歩き、八坂神社に参拝し、楼門を四条通りへ下りて、母校中学の裏から祇園甲部の御茶屋の町をぐるりと通り抜け、一力前へ出ていった。「農園」のまえでは、おもわず「慈子」があのテーブルで私への手紙を書いていはしまいかと覗き込んだりした。
南座前から四条大橋そして小橋まできて、足に痺れを感じたので車で烏丸のホテルへつけ、預けた荷物を受け取ってそのまま地下鉄で京都駅に。
喉の渇きをビールでいやし、「のぞみ」に乗り込み、名古屋の繁華に着く頃までは黄昏の窓外に眼を遊ばせていた。名古屋からは、持参していた岩波文庫小出楢重随筆集に読みふけった。これは大当たりの面白い本で、笑わされヅメの快著であつた。
すこしうとうとしたが、品川まではほんとに早かった。すこし思案し、やはり品川駅で山手線に乗り換えた。保谷までずうっと楢重の随筆に夢中であった。松子夫人の親戚筋にあたる優れた洋画家であり、谷崎の「蓼喰ふ虫」の新聞挿絵も頭抜けた傑作であった。谷崎はこの挿絵をみな手に入れて束ねて松子さんに贈り物したと聴いている。この作品の頃はまだ松子さんは根津家の御寮人さんであった。

* かくて京都への二日は、やはり目一杯の豊かな佳い時間に恵まれて終えた。
家に帰ると、軽い食事の跡、たった二日なのに溜まっていた用事を次々に捌いてから、忘れぬうちに日録を書いて今になった。まだ、メールへの返事も出来ていない。もう日が変わって一時十分。こういう用事はきちんとこの日の内に終えておかないと明日からの障りになってしまう。
2004 6・2 33

* 学士院恩賜賞授与の記念宴があったと報じられている。その中に、『賀茂別雷神社境内諸郷の復元的研究』という研究題目が出ていた。鴨社にはよく知られるように上賀茂と下鴨とがある。別雷社と御祖社である。それにしても境内諸郷の復元とははるかな京都以前を想わせて、秦氏の一人としては胸とどろく悠遠の境涯である。研究とはそういうものである、どんなジャンルであろうと。
2004 6・14 33

* 明石の鈴木和明君に手紙を添えて、新刊の上下を送った。十三日の高校同窓会で新刊が話題になり、読みたいと、西村肇氏を介し注文があった。西村氏は創刊以来の有り難い継続読者で、染織の「千総」の重役。粟田小学校を出、わたしとは新制中学と高校で同窓だった。とても親切な気配りの温かい友人。
鈴木君は幼稚園、小学校、中学、高校、大学までずうっと一緒だった。その後、音信不通であったが、忘れがたい恩のある幼なじみ。わたしの読書暦を繙くときにこの君の自宅の部屋は、さながらわたしには宝庫であった。見たこともない児童文学の揃い物などが書棚にざっと収容されていた。
三条大通りに面した、度量衡機器のあれは問屋なのかなんだか、間口の広い大きな大きな家の息子で、彼の私室は、うろ覚えながらかなり高い三階か四階の上の方にあった。高い梯子段をのぼって行った。
わたしはだいたいよその家にあがりこむタチではなかったが、本があると知れば遠慮しなかった。いや遠慮も何もなかったと謂うべきか。借りて帰れない本であれば、主人公はそっちのけで読みふけり、読みきるとくるりと元へ戻って二度読まないと返さなかった。夕餉の時刻で鈴木君が階下から食事に呼ばれようが、お構いなくと気にもせず、彼の部屋に残って読みふけってから、さよならした。わたしはそういう有り難くない押しかけの客であった。鈴木君の部屋でわたしは初めて山本有三や小川未明の作品を覚えたのである。本はハードカバーの堅い手触りと印象とを強いたけれども、そんな本の存在も知らなかった小学生のわたしには、カルチャーショックも新鮮であった。
そういう遥かに遠い遠い昔の友人から、湖の本創刊十八年・八十巻への初注文が届いたのである。
2004 6・18 33

* 祇園会、後祭り。山巡幸の日であるが、今は十七日に鉾も一緒に巡幸すると聞いている。神輿の還御も今夕のこと。夕立しての夕景の四条のにぎわいが、目にうかぶ。
2004 7・24 34

* 恒平さん。 天災ではありませんが、忘れたころに来るのが私のメールのようで・・・。恒平さんがお元気の様子はHPを見ればわかります。私の方も、ま、幸い息災というヤツで・・・。船旅で2週間かけて北欧を巡って帰国したばかりです。ちょうど結婚30年(やっと)になりますので。
大分前に恒平さんからE-Magazine「湖」に書いてみないかと薦められました。「京の青春」とか・・・ですね。
こちら(カナダ)の日系新聞や日本(北海道)の雑誌には小文を連載で書いてはいますが、文芸作品的なものにはほど遠く、人様のお目にかけるような代物は書けそうにないので、聞き流してそのままになっていました。
ただ、考えてみますと、私の家族・・・婚後30年の妻や28、27歳になる息子達には、私の生い立ちは知られていませんし、私の死後、読ませて、フムフムと頷かせるようなものを後に遺すこともあっていいのではないかと思い始めたことがひとつ、もうひとつは恒平さんが「早春」で書いているあの時代に、いちばん近いところで付き合っていた友達の私が、どんな風に少年時代を過ごしていたかを知っていただくのも(恒平さんにとっては)案外興味があるのではないかと思ったり・・・で、書き始めたのがかなり前のことなのですが、気が向くたびにワープロ文をつないで「早春譜」(上)をどうにか脱稿しました。
引き続いて弥栄中学時代の(下)に入ったのですが、これが終結するのはいつのことやら、ま、急がぬ旅ではあるのですが・・・。今、恒平さんがひんぱんに出てくるところにさしかかっています。この後を書き継ぐことが出来るかどうかも自信のないままに、とりあえず別メールで送稿してみます。/// カナダ

* ファイルで、「早春譜」と題した少年期の自伝が届いた。その「上」に読みふけって、正午もとうに過ぎた。外出はサボることになった。
「下」に入ると、われらが弥栄新制中学の時代になる、とある。「上」では筆者の粟田小学校時代とともに、学区の自然と伝統、また太平洋戦争時代の家庭や親族のことが、わたしも知っている友人達の名前なども、適切な叙述で走馬燈の繪が流れるように渋滞なく、出て来る。此の「闇に言い置く」私語の中にもよく登場する杉並の藤江もと子さんの夫君藤江孝夫君の名前もちゃんと出て来て、隣校粟田小学校のことはよくは知らなかったので、ほう、ほうと驚いたり懐かしかったりする。中学でわたしと同級、いつも副委員長役で協力してくれた安藤節子さんが、此の筆者の小学校の教室ででも副委員長をしていたとか、人柄も好意的によく書いてある。委員長の安田洋という人とは一度会ったことがある。粟田では伝説的な秀才の一人であったが、同志社中学へ進学したそうだ。安藤節子も最初は同志社に進み、二年生のあいだに公立のわが弥栄へ、そう、戻ってきた一人だった。

* 此の筆者はむろん、わたしの「丹波」「もらひ子」「早春」という『客愁』第一部を識っている。第二部の「罪はわが前に」も識っている。二部は小説だが、一部は記録であり、此の筆者の筆致もそれに近いけれど、記録の手法は少し違う。此の人のほうがはるかに客観的に多く広く目配りしている。読んでいても、あの当時のわたしが全く目配りの気すらなかったいろんな世間や時代のことにも筆を用いてある。わたしは、ほぼ徹して自分の「内景」に関わることにしか関心がなかった。
同じ驚きを、わたしは、弥栄中学新聞に彼が書いた署名記事を読んだあの昔に、新鮮に身に受けた。
彼は、たとえば金閣寺だか法隆寺壁画だかが燃えたことにちゃんと触れていた。触れ方はひととおりであれ、わたしなど、ほとんど念頭にものこしてなかった「よそ」の事件だった。わたしは「自分」を見ていた。世間も社会も政治にもほとんど目も向けていなかった。
だれも信じないだろう、あの当時の友人達は。なにしろわたしは「ワンマン」という渾名をもらい、だれがどう見ても目立ち屋であったし、火の玉のような委員長であり生徒会長であった。いっぱい顰蹙を買っていたにちがいないのだ。だが、わたしは「自分」の内側に悩みも哀しみも憧れも怒りも蓄えていた。外の世間は、その自分にふりかかる火の粉である限りにおいて存在し、払いのけられていた。ふりかからない限り、火の粉などどうでもよかった。自分の内なる青春にのみ恋していたのである。
此の筆者の早春譜「上」を読んでいて、あの隣学区の小学校内で、数人の男子による女生徒「陵辱」事件が起きていたと知り、仰天した。高校中学ではない、小学校で? これはわたしの持っていた性成熟度に関する常識を揺るがして余りある。わたしがかすかな恥毛を感触して慌てたのは、中学の修学旅行にでる直前、三年生の二学期半ばであった。夢精したのは高校へ入って一年もしてからだった。
筆者は、これを私の慫慂にしたがって書いたと言っている。勧めたのに相違ない。読んでいて、だが、このままには公開しきれない微妙過ぎる社会的・歴史的問題が出て来る。わたしの『客愁』一部でも、一度は書かざるをえず、しかし、きわどいところで「割愛」したまま手元にだけ保存している「記事」がある。此の筆者の作品でも、それをどう処置するかが難しい一課題になる。
まずは、「下」を読みたい。
2004 7・30 34

* 早春譜「下」は、書き始めてまだ本の少しで中断し、推敲も未了としてあるが、わたしとの出会いの場面もある。自分が人目にどう映じていたかなど、誰もそうそうはこうして知れるものでないから、うわッと思う。なるほど、そういう思いをわたしはどれほど人にさせてきたことかと、今更に恐縮する。
わたしの『客愁』では、友人達も大事な人達もみな仮名で通したように記憶しているが(記憶違いかも知れないが)、この作者は、自分一人は仮名に、他はすべて「実名」としている。それで、わたしには実に分かりやすい。
* クリーム色の光沢を放つ化粧煉瓦を張りめぐらした弥栄中学校校舎は一階から始まって上階へ一、二、三年生の各クラスが入る。誠は学年に五組ある中の二組にクラス分けされていた。
新学期の第一日目が始まる。わが教室はここかと見定めて入室すると授業開始にはまだ時間があり、運動場に面して開いた窓際に三人の生徒がたむろしていた。いずれも見知らぬ顔でどうやら有済小学校から進学してきた連中らしい。テレ半分の曖昧な笑顔で近付くとそのうちの一人が愛想よく声を掛けてきた。その後、半世紀を超える付き合いとなる秦恒平との出会いだった。人懐っこい笑みに両八重歯をのぞかせて秦が口数の少ないあとの二人を辻幸男、大野耕太郎と紹介してくれた。けっこうおしゃべりと見えて秦がこう続けた。
「一時間目は国語やけど、この寺元先生ちゅうのは有済校から来やはったんゃ。最初に手ぇ上げて本(教科書)読んどくと覚えがようなるで」
授業が始まると、前言に違わず秦がひるまずいちばん先にさっと手を上げた。ためらいなどとは一切縁のない外向性の少年と見える。ひきずられる形で誠が二番手に続いた。
学業全科に優れ、何かにつけて目立つ存在の秦のことを有済校時代から同級だった女生徒たちはなぜか「宏一(ひろかず)さん」と呼んでいた。宏一から恒平へ・・・その改名に小さな疑問を抱かぬではなかったが、誠は穿鑿するでもなく、自分とはおよそ性格の異なるこのクラスメートを新しい友人の筆頭に数えていた。
それからというもの、秦は週に一、二度の頻度で柚之木町の誠宅に顔をみせるようになった。いつも大きな大人用の自転車にまたがり、現れるたびに「なんか、本、持ってぇへんか」と僅かに残った我家の文芸作品を次々と借り出していった。実のところ、戦前の文学作品を揃えていた読書家の兄の書庫は既にほとんど空に近い寂しさだったが、それでも復員後に改めて買い求めたものだろう、まるでザラ半紙に辛うじて印刷のインクが乗ったような河出書房版「川端康成全集」や、姉の蔵書から佐々木邦のユーモア小説などを選んで荷台に積むと秦は意気揚々と引き揚げていった。川端全集は「伊豆の踊り子」のほか「禽獣」「花のワルツ」「十六歳の日記」などの小編を収録していた。

* ハッハッハッと笑ってしまうしか収まりがつかないほど、さもあろうなあと納得する。「誠」君はまさに個対個で見ているから、前後左右へひろがり拡がっているわたしの世界の全部はとても見えていない。人が人を見るとはそういう営為である。
(一)他人も自分も知っている自分、(二)自分は知り他人は知らない自分、(三)他人は知り自分は気付いていない自分、(四)そして他人も自分もまだ知らない自分。
この四つで「自分」は出来ていると、東工大の教室で、学生の一人が書いていた。受け売りかも知れない。が、わたしもそれをときどき使う。
云うまでもないが、自分では、(二)の自分 をいちばん自分に近いと考えているものだ。そして(三)にも少しずつ気付かせられて、ヤバイなと自覚するものだ。分かりの良さそうな(一)は、存外に誤解に近く、自分の自分像と他人からの自分像とは逸れたりズレたりしているもので、アテにならない。付き合いの上での妥協像が此処でかなり捏造されるものだ。
いちばん大事なのは、無論(四)であり、まだ中学高校大学ででも、みな、銘々にこれを「可能性」の名において所有している。その暗闇の可能性をうまく引き出せるか、そのままに死蔵してしまうかは、その先の長い人生にものを言うだろう。中学時代にこれがみんな外へ出てしまうことは、天才かそれだけの者かどちらかであろう。晩成の人はこのあたりでは、とても「自分」を小出しにしかしていないものだ。
どんな時期にも、(三)の自分を他者から気付かされるのは、コワイものである。しかし勝れた人がそれを見つけて教えてくれるという教育は、此処の自分に関わってくる。ここで謙虚でないと大きく成らない。それはまた(四)の自分を掘り当てて光らせることに繋がる。
その意味で、自分のことは自分にしか分からない、自分のことは自分だけが知っている、一番よく知っていると言いすぎる人を、あまり信用しない。そんなことは、むしろ有り得ないと思っているし、それでは(四)の自分が、よかれあしかれ、現れてこない。

* さしあたり「上」を「e-文庫・湖(umi)」に入れたいが、それでも、配慮を要する表現や個所に少し手をかけざるを得ない。
2004 7・30 34

* まだ時折ざあッと雨が来る。ふと、やむ。今晩の花火はどうかしらん。

* (藤崎誠名義の自伝)二度繰り返して読みました。柚の木町だから、***さんと分ります。佐藤勝彦さんはその辺りでしょう。眼を瞑っても浮かんでくる場所ですが、舗装されていない暑い白い砂の道が何故か浮かびます。
粟田湯の前の西村てるおちゃんとは何度か一緒に遊んでいますが、あちらは覚えているかどうか。
藤江さんから、高校卒業した年の夏、**ちゃんの肝いりで志賀高原の京大ヒユッテを借りてもらっていますが、最近、知り合いだったのかと聴きましたら、ただ京大に行っているのを知っていただけだ、と云っていました。
当時同期生であっても、友達になるチャンスは、同じクラスになった時だけで、クラスが違えば、余程近くても下校後は付き合いませんでした。同じクラスになるのが因縁というのでしょう。ましてや学年が違うと、まるで知らない人ばかりで、特に小学生の頃は。勿論中学生の頃も。人にもよるでしょうが、あまり記憶になく、関心もなかったようです。
生徒会の関係で、あなたと団さんは別格でしたが。
粟田焼の安田玲子さんの名は何故かよく知っていました。その後、友達のお姉さんと堀川高校で親友だったとも聴いていました。弟さんの洋さんは記憶にありません。多分、関りがあったのでしょう、苗字の違う同級生の男の子の案内で、その粟田焼きの窯場へ行った覚えがあります。安田さんが福井の高浜にある海浜別荘を粟田校に寄付されていて、一般解放もあり、何度か利用しています。弥栄からも中二の夏休みに先生が希望者を引率してくれてそこに泊り、われながら驚きの3000米の遠泳を達成しています。西村敏郎先生達の誘導でした。
粟田校が日本最初の小学校とは初耳です。洛中にあると思っていました。
縁あってあの地に育ち、こうして離れると、人はただ京都、というだけで関心を持ち、話を聴きたがり、こちらも、あの名所の近くに暮していたのよ、と嬉しい気分になります。妹は、阪神間の池田の男性と娘の結婚式で、京都東山で生を受け、との仲人さんの言葉に、晴れやかさと誇らしさを感じた、といいます。
でも、根っからの京都人は鴨東の***と云えば、「それでどの辺」ともう一度聞き直すでしょう。同和。あの頃はそう云わなかったけれど。
粟田、有済地区の住民、母親達の井戸端会議ででも、あれこれ勘ぐり勘ぐりの噂話が、渦巻いていたように思います。多くのある事、ない事も聴いてきました。
いつか、あなたは何百年のツケが周ってきている、といいましたね。このツケは同じ年数を経ないと、解消されないと思うのです。**ちゃんのご主人は京都市役所で、この担当の責任者を永く務めて、夜昼ない無理な陳情で体を壊しました。そんな経験があり、逆に歩み寄れなくなる、と本音を吐いていたそうです。多分、一部の人でしょう、我者顔に、それをかさにきているのは。***ちゃんは、偶然、同級生の訴えの講演を聴いて、泣いたといいます。今も、表面だって、声高に云えない難しい問題です。
もう何十年昔の話、作中の女児が陵辱された事件は、前後から推察するに、加害者は****でしょう。当時の近辺の情況を知っている者からは、察せられます。
キレイ事は第三者には簡単に云えます、が、現実には根深く、まだ京都の町に取り付いています。聴き合わせなどは、まだあります。薄紙を剥ぐように永い時間をかけ、その差別が消えるまでは、まだまだのようです。この「早春賦」では、その辺りをどうするかが、あなたの思案のしどころなのでしょう。小説ではないので、まさか、適当に化身させるワケにもいきませんものね。やれやれ。
終戦後にあの中の闇市へ初めて母と入って、美味しいもんを食べた経験も同じくしています。
三条神宮道角の「須原写真館」で小学校卒業記念に写真を撮った、とあります。多分、今もある筈。横の抜け路地で、ビー球やめんこで遊んだ、二、三歳年上のお兄さん、シロちゃんが、今はご隠居さんで元気かなと、懐かしい。
姉は戦時中は二年程休校していて、五年生から、私の一級上に復学して、つまり、あなた達と同級です。父は病弱の上、共学なんてとんでもない、中学からは近い華頂へ通わせましたので、弥栄でお眼もじ叶いませんでした。(ア ハ ハ)
ピアノを弾く小川千代子さんは我が家から近く、同志社へ行った話はよく聴いていました。植治、小川治平衛さん、平安神宮の神苑、円山公園、無鄰庵、お隣の並河邸等々、水を取り入れた庭、と折しも、今、九月号の家庭画報で特集していますが。
皆さん、記憶がはっきりしているので、驚きです。私の国民学校、小学校時代は印象的な出来事が断片的に記憶にあるだけで、なんとボヤーとした子供やったのか、今さらゆうてもオソイ。  三条白川

* カナダから送られてきた「早春賦」はそのままで直ぐ「e-文庫・湖(umi)」にとは行かないので、京都在住の同窓で、ファイルメールの送れる人に、送った。これはその一つの反応。

* メールを戴く前にHPを覗いていたので、この「早春賦」のいきさつはわかっていました。筆者も多分あの方だろうと。
夫に見せる時の便利も考慮して、とにかくプリントアウトして先に私が読ませていただきました。と言うのも、夫は今週は出張で不在なので。明日帰ってきます。
小学生の夫の様子もさることながら、他にも知った名前が出てきて興味深く一気に読ませていただきました。
粟田学区の特殊性は今も変わりなく、いろいろむつかしい問題があるのだと「古くからのお家やないとおさまらへんから–」とPTA会長に推された義姉が言っていました。秦さんがe-文庫・湖に収載するについて”配慮を要する”とおっしゃるのもその辺かな—と思っています。
もう一つ、個人的には、夫の個人情報がかなりまちがっています。彼は次男ではなく三男、理学部ではなく工学部卒、会社も公社ではありません。小さいときの記憶が不確かなのは良いけれども、大人になってからのプロフィールがあまり違っていると、作品自体が不確かなもののように思われても来ると感じました。せっかくの作品なので惜しいと。
やんちゃ一方の子どもが長じて原子力の世界で頑張っているとさえわかれば日経新聞の「私の履歴書」や「交遊抄」ではないのですし、そう詳しい事は不要なのではないでしょうか。
今年の暑さには本当に閉口しています。お身お大切に、お過ごし下さいませ。 杉並

* これも一つの反響。
2004 7・31 34

* こんにちは。昨夜の酒の肴のお味はいかがでしたか。
今日は少し陽射しが弱まっています。昼食のあとに郵便局など近所の用事をすませてすぐ帰宅する予定。家の中の雑用が片づかないので、今日は気合をいれて頑張ります。
二つ質問です。
* 写真も見せてもらった。谷崎の絶賛が「わかる」美貌である。祇園の藝妓にはこういう感じの人が何人もいたと思う。クラスメートの母親も、背丈のある見るからに位のたかい祇園の藝妓だった。うちの東町に住み、そこから我が家の西の抜けろうじをとおってお座敷へ出ていた。都踊りで忠臣蔵ものだと、籤とらずのように由良之助の役をしていた。旦那は鴻池だと息子は自慢していた。
時々この「籤とらず」という言い方をなさいますが、私の知る限り当地ではこのような言い方を聞きません。広辞苑にも出ていないので、言葉の意味、ニュアンスといったものを教えていただけませんでしょうか。
それから、もう一つの質問です。「旦那は鴻池」という自慢は当時の祇園独特のものですよね? 祇園以外の京都の庶民感覚ではこういう「旦那」をもつ女に対して、軽蔑のような評価、陰口などなかったのでしょうか。
「祇園の子」で甲部と乙部の間の格の違いなど描かれていました。しかし、もう少し世間を広げると、祇園の甲部も乙部も関係なく祇園そのもの、藝妓自体への蔑みはどの程度あったのか、なかったのかお教えいただけると幸いです。
とても気になることなのです。

* こういう質問が来るのではないかと予感があった。

* 祇園会の鉾巡幸では、まいとし神意をうかがう神事の籤引きがあり、それで数ある鉾行列の順番を決めているが、稚児を乗せた「薙刀鉾」は籤を引かずに例年第一番の先頭を堂々巡幸する。「籤取らず」に決まっている。京の大人なら無意識にも常用してきた言葉で、「広辞苑」等が挙げていないのはむしろ杜撰であろう。

* さて祇園の藝妓と旦那のことは、わたしとて通ではない。ただ、祇園と抜けろうじ一本で背を合わせた新門前通りで育ったし、新制中学は祇園花街の真ん中にあって通学していたのだ、知識でなく肌身に感じていろんなことを覚えている。なにしろ戦時下の国民学校=小学校に入学したたちまちから、教室の中で男の子等は「好きやん= 好きな相手」を物色するようなしないような、けしからんかどうかは知らないが、そういう心的環境に相違なかった。国民学校時代はとなりの祇園町の学校は異国なみであったにせよ、親たちとの日々では、いやも応もなく祇園はご近所でありお馴染みであった。秦の父は若い時分御茶屋の台所にいすわってくるような道楽者で、母を泣かせていたという、聞いただけの話だが。わたしが貰われてくるより昔のことだ。
親たちは祇園の、当然ながら甲部の方の藝妓の名前など知っていた。母は、そういうことにかけてはミーハーで、皇室の閨閥も、祇園の藝妓の噂も、文士達のスキャンダルも、きれいに平均して、ぽろりぽろりとわたしにも喋った人だ。俗っぽい耳学問は父よりも物知りそうな母から来ていた。

* 戦後の、祇園町に新設された新制中学に通い出すと、今まで以上に地域の極めて独特なカオスに驚いたものだ、それを此処では蒸し返さない。『丹波』『もらひ子』『早春』などに、その他『祇園の子』や『風の奏で』などに出て来るから。
外から見れば祇園は祇園、遊郭は遊郭、甲部も乙部も同じだろうと、よその人は云う。わたしも内心のリクツとしてそう云ってのける気持ちがなかったわけでない。しかし現実には差があって、厳然としていた。甲の女の子と乙の女の子とが、あまり口も利き合わないことに、入学して比較的早く気付いていた。三年になると、乙部のお茶の息子と甲部のお茶屋の息子とが、仲は悪くないのに、わたしも含めて修学旅行では仲間同士に班をつくっていたほどなのに、甲と乙との差異を露骨によく言い争っていた。まぢかに観ていた。また旦那の違いが藝妓の勢いの差になるのも当たり前で、露骨な物言いとして「大阪のだんはん」「鴻池のだんはん」という対立も傍で観ていた。大阪のとは、大阪から通ってくる普通の「だんはん」の意味であった。わたしたちはその「だんはん」など見たことはないが、息子達の母親は見知っていたし、いやでも比較できたのである。甲と乙とのちがいは、親たちはいとも端的に「藝妓」と「娼妓」とわたしに教えた。それ以上の説明は中学生にも無用だった。
むろんわたしには甲乙の差別は無い。乙部にも甲部にも今でも仲良しがいる。
中学区域は、三つに大きく地域分けされていた。大きく祇園花街と、わたしたちの新門前のような普通の町屋街と、というふうに。その意味では甲も乙も祇園であったけれど、その祇園をうちの親たちが軽蔑したり差別したりなどはしてなかった。甲部一流の藝妓など、腹の底では知らないが名士なみに名前を口にしていた。「きれいにしたはる」のだ、その余のことは玄人でも素人でも窮極大差なしという合理的な分別があった。たしかに、そうだ、要するに「性」にまで及んで理解するなら、藝妓でも娼妓でも素人女でも何の差も有りはしないだろうから。女の売り買いということでいえば、明治からこちらの市民社会でも、大方女は売られたような嫁ぎ方をした人は無数であったのだから。
叔母の茶や花の稽古場には、文字通りいろんな人が稽古に来ていた。中には可哀想な差別を受ける少女も来ていて、わたしなど、それとなく庇ってそうはさせまいと気にかけたものだ。だが廓の人に対しては、だれも差別しなかった。極端にいえば『月皓く』のヒロインのように街に立っていた人もいたが、それにもあまり気にしなかった。一つには戦争に負けて占領軍が街々に浸透してきた頃の風俗の変容甚だしく、それが沈静してきても余波はまだあった時節。生きるに苦しい大人達の社会であったから、みなが殊更には口をひらかなかったとも謂える。
廓の文化というものにも、われわれは眼を背けていたわけではない。佳いモノがそこに在ると分かっていた。
そもそも、ま、職業でそうごたくさとえらそうに他を貶めてみても、所詮はおんなじようなシロモノという自覚がある。いうなれば、おんなじ京都人やワイといった大層な敷延の仕方を知っているのだ。父などにすれば、店の品を買ってくれる人は、買ってくれない人より甚だ親しむべき人種であった。
よく母も父も「神も仏もあるかいな」と言い切ってわたしをビックリさせた。それは京都の町ぜんたいにもたぶん多少の程度の差で謂えたことだと思う。乳の気分で翻訳すれば「紳士も乞食もあるかいな、奥さんも藝妓もあるかいな。お客さんならその人が上や」となる。
その点、泉鏡花の花柳界もので、狭斜の巷の女達が被差別感に堪えて凛然と立とうとしている悲壮感に初めて触れた頃、わたしなどは、やや意外に感じたほどだ。
但し誤解されてはいけない、京都は貴賤都鄙の集約されたやはり強烈な差別都市には相違ないのであり、その差別が歴史的にあまりに苛酷であることだけは、今もなかなか問題が大きすぎる。海外からはるばると届いた『早春譜』の「e-文庫・湖(umi)」掲載に悩んでいるのもその配慮からである。それから較べれば、秦の母ではないが、皇室や宮家も伊藤博文も祇園の名妓はつ子も上村松園も谷崎潤一郎も世間にごろころの妾も旦那も、みな同じ地平線にならんでいた。それだけに、そこから洩れ落とされた差別の実在に、わたしは愕然とし、それが文学へ向かう一つ懸案となったのである。(うまく謂えたかわからない。あとで読み直す。)
2004 8・3 35

* ちょっと面白いですよ・の返信  秦さん、西村さん
残暑お見舞いいたします。
連日東京は猛烈に暑いです。ご無沙汰しましたが、皆さんお元気の様子、何よりです。
私も今春会社生活から完全開放され、旅に、観劇に、美術館巡りに結構忙しく楽しんでおります。
6月半ばから3週間ほど、ニューヨーク、ブラジルのリオデジャネイロを駆け回ってきました。もうニューヨークではこれが最後と思って、メトロポリタンに時間をかけましたし、ブラジルではイグアスの滝をたっぷり楽しんできました。
帰国早々、余りの暑さと時差ぼけでパソコンの立ち上げに失敗して、メールアドレスを含むすべてのメモリーを消失してしまって、復旧に一苦労しました。ようやく最近回復しましたが、過去の記録をことごとく失いました。これも新たな人生をスタートさせる機会と考えております。
いただきました『早春賦』、懐かしく読ませてもらいました。最近時々京都に帰っておりますが、都ホテルに泊まるたびに、粟田周辺を散策して、おてるさんの旧宅、東君のクリーニングの店、藤江さんの時計屋、井上君の八百屋を覗いてみます。
先日も粟田口から青蓮院のなかをよこぎって、知恩院を抜けてみました。読ましてもらって、一層懐かしく思いました。
もう出てから四十五年になりますね。勉さんの自伝とは、おてるさんのメールで思い当たりました。私も続編を待っています。勉さんはお元気でしょうね。まだトロントですか。
昨年から時々我當君の舞台を観にいっていますが、秦さんも東京公演の時には必ず顔を見せているとの事、一度次回機会があれば、西村さんも交えてご一緒して、舞台の後食事でもしませんか。この次は10月の国立劇場だそうです。いかがでしょうか。皆さんにも是非お会いしたいと思います。
先ずは御礼まで。
それにしても今年の暑さは大変です。くれぐれもご自愛のほど。   千葉県

* 昭和石油の副社長ないし社長までやった團彦太郎君のメール。やっとこさ激務から解放されたらしい、このまえ東京會舘のロビーでぱたりと会った。おてるさんとは、日立製作所の重役からやはり引退した西村明男君。片岡我當丈も、それにこの「私語」によく登場して下さる藤江夫人の夫君藤江孝夫君も、みな市立弥栄中学、同期の同窓。藤江君は原子力の方で今なお会社のトップで頑張っているらしい。我當君もむろん。わたしは、はて現役というのかどうか、引退したわけではないが気分はゆったりしている。文藝春秋のグラビアの「同期生」で写真におさまった仲間である。
十月の国立劇場は「伊賀越道中双六」通しで、我當松嶋屋の家の藝である。むろんもう申し込んであり、まだ日も席も決まっていない。その気になれば調整して貰えるかもしれない。二度見ても構わない。
2004 8・7 35

* 団彦太郎君のメールが転載されていました。懐かしい限りです。50年を超える昔、花見小路の角にあった(今もある)「ノーエン」という軽食喫茶の店の二階に彼の住まいを訪ねたときのことや、「ひこさん・・・」と呼ぶ母上の声など、今も耳の奥に残って・・・。
藤江さんからの事実誤認のご指摘は汗顔のいたり・・・こちらではこういうのを Embarrassment といっています。「お恥ずかしい」といった意味におとりください。(井上君も末っ子ではありません) 秦兄は作品の中で ”人の記憶というのはあやしい、いや、大いにあやしい・・・” と言っています。実名で書く時の危険はその辺にもあります。書かれたご本人にとっては不愉快なことでしょう。孝夫兄とは入学の小1(矢守学級)から一緒で、5年(近藤学級)、6年(島田学級)まで同クラスで睦んだ忘れがたい旧友です。
例の問題は私の小学校時代を振り返るときに、避けては通れないデコボコ小道であり、キレイごとで済ましてしまってはウソになります。ところが弥栄中学時代になるとその Interaction は陰を潜めてしまいます。(下)を書き進めてもあまり出てきそうにありません。
こうした作品は実名で通すと、結果的に旧友のプライバシイに踏み込んで、心ならずもその人を傷つけてしまう恐れがあり、その辺の Maneuvering をどうするかですね。///   カナダ

* 「キレイごとで済ませてしまってはウソに」といわれてある点、悩ましい。済ませてしまわない、しっかり触れて行く側は、わがことと考えていないからそれが出来る。済ませるという表現は措くとしても、触れて欲しくない、まして「キレイごと」の逆の仕方でなんか吾が身の上に触れられたくない心情は、厳然とあるだろう。歴史的な斟酌や理解を欠いた、置き去りにしたままで、たとえば地域差別の実情などを性急にもちだすことは、やはり心ないあやまちを深めることになる。おそれるのでなく、わたしにはそれを「敢えてする」資格も気もないということである。「表現」の問題としてもよくよく気を配りたいし、当然の配慮だと思うのである。問題は少しも改善され解決されていないならなおさらである。むずかしい。
2004 8・8 35

* 古寺巡礼   新幹線に乗るときにふと手にとった文庫本に「けんねんさん」を見つけて、迷わず求めました。ふっくらと胸の底に思いのふくらむ懐かしいお寺 日々の息づかいに親しく添い寄る有り難い場所。けんねんさんへの思いが静かに伝わってきました。学問づら のお話もおもしろく、深いものを感じました。この文そのものも学問づら なのではないでしょうか?
そろそろ三河の国。田も道も濡れ 矢作川の水もたっぶりと溢れています。 波

* どこかが淡交社版の「古寺巡礼京都」を文庫本にするから校正してくれと言ってきていた。かなり遅ればせに校正した気がする。建仁寺を担当したのだった、「けんねんさん」と題していた。わたしの中学区に接してこの「がくもんづら」古寺はある。家から、少年時代の足で軽く駆ければ五分とかからず境内に入れた。本堂下層の屋根の線が好きであった。濃茶手前で袱紗をあつかうとき、あの線のようにたわめるのだと代稽古のときによく口にした。キザなはなしだが、適切な観察でもあった。
建仁寺は京都の禅寺のなかではもっとも古く格式も高い。「建仁」は元号である。元号寺はそうそうは無い。「延暦寺」「仁和寺」などとならんでいる。建仁寺はいまだに観光バスなどの入らない。峻厳に「学問づら」といわれる建前を崩していない。東福寺は「伽藍づら」といわれ、たしかにたいしたものである。大徳寺は「茶づら」といわれ、禅というより禅趣味文化を結果として鼓吹したお寺だ。
建仁寺の塔頭はいつも静まりかえっている。しかし中へはいると宗達の風神雷神図をもった寺があり、等伯の襖絵をならべた寺もある。びっくりするような閑静で優雅な庭園を抱いたお寺もある。修業と学問の道場もある。
祇園花見小路から北門を潜り込むと、古い浴室や鐘楼がある。右手に庫裡がある。そこから入って、月釜の席へもわたしは少年時代に痛い足を痺れさせながら、何度も通った。
南へ境内を出てしまうと、もう少しして六波羅蜜寺がある。轆轤町。じつはドクロ町だといわれたほど近在の土中からは往古の死者たちの骨が好く出たともいう。荼毘処であった鳥辺野・鳥辺山の一角に当たっている。
松原通りは旧五条大路末の清水寺にいたる坂道であり、盆には地獄の窯のフタが此処であくといわれてきた珍皇寺前から、斜めに苦集滅道(くずめじ)を通って馬町から花山へ死者たちの柩は担がれていった。今の松原大橋が、また松原通が平安京の五条大路であり、今の五条大通りではない。光源氏らが夕顔を野辺送りしたのもこの旧の五条あたりから東へ越えたものか、ないし今の枳殻亭つまり旧河原院の東、六条の正面橋であったろう。少なくも牛若丸が弁慶を翻弄した「京の五条の橋の上」は、いまの松原の橋であって、今の五条大橋でないことは明白である。
何にしても水明き鴨川はまた死者と屍骸を流した川でもあり、その河東の一帯がいわば京の他界であった時期の永かったことは否みようがない。わたしの新聞小説「冬祭り」は、その鳥部野・鳥部山一帯の「葬送」に、舞台と物語の芯を据えながら書きあげた。千年の時空を越え、現代の日本とソ連とを越え、現世と他界に渡ってとても切なく愛おしく展開した、生と死をまたいでの現代恋愛小説であった。あの水上勉さんが、「新聞小説でなんと大胆なことをやっていますねえ」と耳元で囁かれたのは、あの人だからこその真実みを帯びていたのである。
2004 10・5 37

鶴見俊輔さんとの対談

これは個人的に一番面白く感動した対談です。対談ではありますが、対談を活字にし本にした意味がいかんなく発揮されていました。
まず「京ことば」という表記に心惹かれます。「言葉」という漢字を使わず、「ことば」とあえてひらがなで書かれたことは作家秦恒平の深い配慮によるものでしょう。「ことば」でなければならない理由が、この対談をよめば読むほど、じんわり理解され嬉しくなりました。
京都について京ことばについて、今までも多くのお作で読ませていただきましたが、それでも尽きることのない日本文化論の面白みがたっぷり詰まっていました。京都と京ことばを語らせたら秦恒平の独壇場で、右に出る者はいません。
> 京ことばを考えるには、単語レベルでなく、もの言い(語り口)のレベルで扱わなければ意味がない、これが出発点ですね。……京都は千年にわたる政治都市、文化都市です。政治も文化も心直ぐなるものじゃない。
> 京都が育てた古典語ないし日本語は、ものごとを明確化するもの言いをむしろ拒絶した、おぼろげに言うことによって、場合によっては上手にウソを言うことによって、真実通じ合うところがあった。
> もってまわったもの言いが京都の語り口の基本的なむしろ特色です。
> それが、もう一つの京ことばの特色である「位取り」へ来ますね。……つまり京都の人の気持ちのなかには「春は」「あけぼの」の枕草子以来、いいものやわるいものを選び出していわば順位のようなものをつけるところがある。これが基本の美学で、同時に基本の生き方になるんですよ。
> 結論、つまり答えを求める文化ではなく、「式」を出す文化。いろんな答えがあるけれども、その答えに行きつく式をどう立てるかということだと思う。
> 京都がほかの都市とはっきり違うのは、貴賤都鄙が集約されていることです。……そのタテヨコ十文字の座標のなかで自分がどこに位置しているかをたえず気にしていなければならない。しかもそれも絶対的な評価はできないから、たえずほかの人とのあいだで相対的に評価する。だから、ほかの人についての情報を知っていなければやっていけない。わけ知りということがだいじで、そのわけをどう表現するかで、語り口そのものが武器になるんです。
> 相手を逃げ道のないところへ追い詰めた場合には、こちらのケガも大きくなることを、それこそ千年かかって知っているわけです。
> まあ、京都の人は、わたしは得と道連れだと思う。その得は徳政一揆や有徳人の徳といっしょで、徳であると同時に得、ほとんど同じ。
> ストレートでなくカーブでないと人を傷つけ、自分も傷つくかもしれないと京都人は考える。
> 京都にはこのほかに(はんなり)ほとんどホメことばはありません。これ以外は「宜しおしたなア」「ええなア」という率直なもの位で、あとはホメことばに一瞬思えても、実はジワーッと批判が入っています。
> 京都文化とは習熟なんですね。
(京都人の語り口のなかに差別と闘う力はあるんでしょうか)
> 差別をかわす力はありますがね。でも京ことばそのものが位取り、差別を基本にしているかぎり、差別をなくすのは理屈の上で矛盾したことになる。相手に勝たないまでもけっして負けないようことばを武器として生きているわけで、これでは差別はなくなるわけがない。
> 京ことばは、自分を守ることばなんですね。それが限界で、同時に日本語の限界でしょうね。
> 昔の京都はさっきの話のように、上下の序列がガッチリ決まった社会でしたが、その序列を一瞬にしてはみ出られる道があった。坊主になることです。……わたしはひょっとするとそういう出家遁世の伝統にならったのかもしれない。私家版を自分で出し続けることによって、文学の既成の枠からすっと出てしまった。
> もの書きのする批評には、文章でする批評と同時に、やはり為す批評、する批評があると思う。
> そう、よけい者の系譜がある。自らを用なき者にしてしまうかたちでの反骨というか批評というか……。そういうことをわたしは、あまり大声を出さずに、こつこつとやりたい。ある意味じゃなんでもないことです。やるかやらないかだけのことなんです。
現代の西行や兼好法師みたいですね。京都と京ことばへのアンビバレンツの愛を堪能させていただきました。面白かったア。
さらに個人的に感想を述べますと、いつもわたくしは「もっさり」「鈍なことでした」ということばの使い方しかしていないなあと、ため息をついています。
頂戴するメールの上で、文化的、京都的なもの言いの真意が読めず、よくイライラしています。目の玉に指を突っ込むように、はっきり言ってくださいと怒りたくなることしばしば。「言わぬは言うにいやまさる」のが一面の真実としても、じつは、これが大嫌い。ヨーロッパのお芝居のように語って語り尽くしてください、と、いつもいつも思っているのです。おわかりですか? つくづく、骨の髄まで京都人だと思いますわ。あからさまに悪口はいわなくても、毎回ジワーッと批判されていますもの。
そうそう、「位取り」というご指摘で、わたくしは、自分のもの言いの「基本姿勢」を発見しました。
社宅生活が十年以上でしたので、自分がいつも相手より下であること、会話の仲間うちで最低の位置にいることを、必死で心がけていました。京都の人の逆の意味での「位取り」でしょうか。相手に絶対に負けていなければならない。うっかり勝てばひどい目にあう。社宅生活を「まし」に過ごすための智恵として、相手より下に下にと話していました。
でも、この下にいようとする姿勢こそ、鼻持ちならぬ姿と映っていたのかもしれないと、社宅から解放された今振り返って反省もします。無駄な努力でした。
わたくしには、「はんなり」というホメことばは縁のないもの。どうぞ「もっさり」も許してくださいませね。
お元気で、佳い一日をお過ごしください。  東京都

*「目の玉に指を突っ込むように」ハッキリ言いすぎて所詮京都に住んでいられなかったわたしの物言いでも、東京では、そうなんだ。あかんなあ。じつは京都で年に一度は京都の人と対談してきた実感が、かなり、この人のわたしへの口撃に似ている。いやもう、なかなか本音で喋ってくれず、汗をかいた覚え何度も何度も有った。いっそ奥ゆかしいゃないのと感じ入って、ガマンしたものだ、アハハ。
京ことばについては、藤江さんも生粋の京都の人。わたしとはまた角度のちがう「京ことば観」があるだろう。
要するに、語彙の問題ではない、物言いの微妙な調子がどんな放言でも大切な味になる。何しろ京ことばは千年の日本の古典を産み出し、その感化は市民生活のすみずみから、日本列島の遠くにまで顕著であった。そのことはもっと認識されていなければならない、政治にも社会にも文化にも。「京都学」を称する大きな目次も添った企画が持ち込まれてきたとき、どこにも「京ことば」を語る章も節も見当たらない笑止さに、参加を遠慮した記憶がある。論外という気分であった。
鶴見さんのインタビューは衝くところがさすがで、質問されて毎々おもわずニッコリしたものだ。ただ、東京と京都とを比較されるときの「東京」観が、やや飲み込めぬときがあったのも覚えている。おそらく鶴見さんの深くに仕舞われてある「東京愛」があるのかなと感じながら今回も校正をしていた。
2004 10・26 37

* 小田さんの曰く「ホナ、サイナラ」は大阪弁であり、京都の人ならどういうのかと手紙で聞かれていた。これには、すぐ答えられる。わたしの耳に残り、また自分でも京都で暮らしていたら自然にそう言いそうなのは、「ホナ、また」であろう。

*「ホナ」とは、それならば、そういう次第ならば、コトはそれぞれ左様に相済みましたから、と謂うほどの含意である。その意味で、質実の所は、かなり理詰めにツメている。そして大阪の人だと、そういう「ホナ」についで「サイナラ」となる。小田さんはそう言っている。「サイナラ」が別れの「グッバイ」なのはその通りであろう、とすると、「ホナ、サイナラ」とは、「コトはそれぞれ左様に相済みましたから、お別れ申す」というようなことになる。なにも一日の遊びや仕事の最後とも限らない、訪問して帰るときも会談して終えるときも、好きあった同士が喧嘩別れの時も、互いに名残惜しいときでも、久闊を叙したあとでも、「ホナ、サイナラ」になる。

* 京都人は、これでは理詰めが過ぎて、ことが截断され断裁されて続かないと本能的に感じる。避けたいと思う。「サイナラ」は平和であれ、紛争であれ、ともあれ離別・決裂のあいさつである。たんに「サイナラ」ならそれはそれだが、そのまえに「ホナ」という納得づくが前置されていると、これは一応「アト」というものが無い。言葉の上で「アト」の「ツヅキ」は期待していない「かたち」である。
京都のセンスではこれは避けたい。で、「ほな、また」で手を振り合う。「あと」「つづき」「あした」「こんど」を互いに認定しておく。断絶や離別を確認し合わないで、つなぎを「後」に残すのである。
わたしが言葉の上で遊んで強いて謂うのではない。これがまさしく京都感覚であることは、この「また」「又」という一語一字が歴史的に持ってきた、実におもしろい、鶴見さん風に謂うなら「悪者」的なことばが示すのである。これを、しこしこと論文にしてある例も実在する。
歌舞伎役者の名に「又一郎」「又五郎」があり、京の能役者「又三郎」がすぐ思い出せて、たぶん「又」を冠した次郎、二郎、四郎、六郎、七郎、八郎、九郎、十郎も、又右衛門や又兵衛も、捜せば結局はその辺の世界に見つかるはずだ。だが、東京語感覚で謂うと「又」とはまた何の変哲も、たいした意味も無い字でしかあるまい。
ところがどうだ、上方では「又」には、或る、またとない機能のようなものが秘められてある。どこか「ひとをじょうずにだまして、しかし損ばかりはさせない」男、の意味だと謂ってみよう、ともあれ。
狂言に有名な「末広がり」で、まんまと古唐傘を「末ひろがり」だと高直(こうじき)にうりつけ、しかし、もし国へ帰って主人が小言をいえば、こんな小唄を唄い舞ってみせてよろこばせなさいと珍な歌を口伝えに教えてやる。
巷間とも文献上にとも、こういう男には「又」**(たしか、又九郎)という名が普通ついていたのである。にくみきれない悪いやつの意味である。そしてどことなく、これは京ならではの「文化的所産」かのようによそからは見えたし、内輪にもそういう男どもを京都は「飼い慣らして」容認していた。
それから離れ、ただ語彙の意味からして、「また」は、あきらかに継続の精神を含む。打ち切らないのである。喧嘩別れにもなりかねない「サイナラ」よりは「また」と言葉を濁しておく、繋いでおく。
だが、往々にして京都の人間が「また」と一度口にしたときは、「サイナラ」どころか実は完全無比の「拒絶」であることが多いのである。門口に押し売りが来る。「いらん」とは言わない、「またにして」「またおいでやす」ないしは単に「また」で済ませてしまう。これはもう絶対拒否で、言葉のうえは継続だが、その実は断裁なのである。アトはない。ただし「サイナラ」という露わな終焉終末ではない。だからもし凄みの文句が出ても、「またにしまひょていうてますやろ」と逃げ道がちゃんと繋いである。
京都では「ホナ、サイナラ」は、理詰めにこわばると感じる。オシマイの宣言になる。そうではなく、「ホナ、また」とゆるめておくのを極意のようにしている。鶴見俊輔さんも、しばしばこの「ホナ、また」を味わってこられたのであろう、だから、まっさきに「悪者」という謂わば渋い「讃辞」から「京ことば」を話題の対談は始まった。
2004 10・28 37

* 京ことば
なんちゅうことなく、ホームページに目を走らせてたら、
> 京ことばについては、藤江さんも生粋の京都の人。わたしとはまた角度のちがう「京ことば観」があるだろう。
と、こうゆうてもろたら、だまってたらいかんわなあと。
そやけど、「京ことば観」いうほどのむつかしことおもてしゃべってるわけやないし—–。
この ”なんちゅうことなく” の書き出しからして、”何気なく” とは大部違っていて、ほんまは、読みたくてわざわざ読んだんやけど、そうは言わとこ—–と、京都的計算が自然に働いている。
実は、私は ”生粋の京都の人” ではないのです。親や先祖はまずまず京都の人なのですが、私は幼稚園時代が
夙川と横浜、夙川は関西だからともかく、横浜の幼稚園で私は一気に関東の言葉になっていたらしいのです。小学校入学直前父が出征し、やむなく京都に引き上げて来たのですが、その頃近所の子のままごとに ”よせて” もらうのに、「まぜて」と言って、「なにまぜるねん」と笑われたことははっきりと憶えています。
他方小学校入学時には学校で ”標準語の話せる子” として珍重され、少し英語の話せる帰国児みたいに鼻が高かったのです。
とは言えそこは子どものこと、それに家中が京都弁だからすぐに京都のことばに同化しました。
しかしそんな成り行きでしたから、京都弁を使いながらも、
「私は東京弁も知っているのよ」と子供心の何処かで優越感を持っていたし、東京にあこがれと懐かしさを持ち続けて大きくなりました。そのあたりが生粋の京のお方とは少しちがっていたところかもしれません。
京都に居る間は京ことばを特に意識せず自然に使っていましたが、京都を離れて、
「京ことばやないとこれはうまいこといえへんわ」という事態に出会って、始めて、京ことばを意識し始めたのです。
京の文化の素晴らしさを意識したのも、京都を離れてからです。
このあいだ、京都にずっと留まっている友人に、
「あんたは今時の京都の人かてつかわへんような京都弁使うし、うれしわあ」と言われました。
今の京都を生きている人が40年も前に京都を離れた私とは違って当然、カリフォルニアの日本人一世がかえって昔の日本を残しているように、私の中の京都は40年前で時間が止まっているのでしょう。
私も京都のあの曖昧でもってまわった言い回しが大嫌いでした。
ストレートにものを言う子やいうて、たいそう評判が悪いでした。
言いたいこと言い、 えろしっかりしてはる、 こわいおひとやなあ、と。
「そんなん、わたしはもう気にせえへん」と思えるようになった時が、私にとっての自立だった気がします。そして、いそいそと京を離れて、「ああ、すっとしたわ」と。
それなのにその嫌いだった物言いをしている自分に気づきます。そういうテクニックを私はどうして身に付けてしまったのかと、ふと自己嫌悪に陥ることがあります。京育ちはやっぱり自然に身についてしまっているのでしょうねえ。
私が今も日常使っている京ことば、いいまわしの一部
”ぶさいくな” ”じじむさい”
もともとの意味の容姿や身なりなどでなく、人付き合いに際して使います。
「そんなもん(金額)では、ぶさいくやで」とか、
「そんなんあげるやなんて、じじむさいわ」とか、そして、
「もうちょっとはりこんでもええのんちゃうか」という具合です。
”はんなり” は大好き。暗い色、汚い色つかわずに ”はんなり” とした絵が描きたい。
”もっさり” は私はあまり使いません。京都の人の優越感がこもっているようで。もっさりしてたかてええやないですか。
”あかん”
”ほんま(わたし又はあんた)あほやなあ”
”いや~” (東京でこの声がしたら、必ず京都生まれの人同士が出会っている。)
私がどうしてもうまく言えない京ことば
”あんな へぇ~”
この最後尾の ”へぇ~” が私にはどうしても自然な感じに付かない。生粋の京都の子はいとも軽やかにこれをつけてしゃべらはる。
私がいっとき東京弁の子やった後遺症かなあと思うてます。
急に寒くなりました。お大事に。  2004/10/28      藤江もと子

* 平安京の「平」を名前に貰ったと聞いているぐらいで、わたしは、ま、京生まれの京そだち、「京の昼寝」がけっこう自慢の京おとこに部類される、が、京都を東京へ半世紀近く前に逃げだしてきた実感が、藤江さんのそれとよく似ているから、笑ってしまう。上に上げられたことばも、解説しないとうまく伝わらないのがあるはずだが、ま、このままにしておく。藤江夫人に、感謝。
2004 10・28 37

* 十一月  明日書きますといって・・翌日確かに書き始めて・・用事が重なったり、そして週末は最近は夫が器械を「独占」しているので・・続きが書けませんでした。
11月1日月曜日 正午、HPを読みました。30日の記載にわたし宛のものがあり読みました。ありがとう。
10,29 急に冷え込みを感じるようになりました。新潟の地震、イラクで日本人拘束など、慌しく恐ろしいことが立て続けですね。久し振りにHPを読むことができました。
気力奮い立たせ励ましをかけながらお仕事を進められているでしょうか?・・いいえ、実はわたしは粘り強くしぶといんだと語られたことがありました、それを信じましょう。
幸せな邂逅から、さて最上徳内さんは今何処あたりをとことこ歩いているのでしょう。
この夏訪れたオンネトをわたしも思い出しています。ヘンな施設など建てられずに静けさが保たれていました。日が翳るとさっと水面が表情を変えていました。
鳶は紐をつけられた・・自分で自分を縛ってもいる・・情けない萎たれ閉じこもりの鳶ですよ。居間のガラス戸から一メートル余りにある藤棚の藤の枝に上手に巣作りした鳩の巣に、今回は見事に雛が孵りました。雛は薄い灰色の羽毛に包まれています。二羽、鳩は大体一回に二羽を孵すようです。
器械を開いたのは三日振り。十一月になりました。
一行目の「高く舞える鳶は、下界のゴミをあさる似非賢者の鴉より心は平和でありましょう。」
さて、わたしはそのように高く舞っているでしょうか、心は平和でありましょうか。現実のわたしは数日前にも書いたように、高く舞っていない、地にへたばり這っている鳶。下界のゴミ漁りが人の生活、暮らし、生きてこその行為なれば、似非と言われようが鳶は飄々のポーズで何処吹く風と生きていくのを学んできました。それが精一杯の「わざ」だったのかもしれません。
修学旅行で初めて関西に行ったときは、土産物屋さんのオバサンの応対する言葉の一つ一つが奇妙で可笑しく、ああ木の葉一枚散っても笑うほどに楽しい年頃だったのです。
京都に暮し始めて、さて京都弁というより大まかに関西弁という感じで受け止めていました。大学構内での友人はやはり関西出身の人、特に京都、大阪が多かったですね。
言葉で躓く、失敗するなどは日常茶飯事。単純に面白かった、と書くと叱られそうですが。
「しよった」と軽んじて言う言葉を不用意に平気で使ったり、もっともこれはすぐに「しはった」に訂正しましたよ。
ごめんなさいが「堪忍え」というのは私的には好き、やさしく堪忍と言われたら反論も反対もできない、堪忍するしかないですね。
一時期、友人たちとはほとんど関西弁で話しましたが、改めて考えなくても、それは関西弁ごった煮というほどのものだったでしょう。京都の中でも地域で微妙に違った言葉の使い方があることを知れば、京都出身の方と話す時は、現在はもう絶対に京都弁も関西弁も話せません。
思い返すと、「位取り」する恐ろしさにも鈍感だったとしかいいようがありません。友人の家・・西大路の方でした・・に行って、お母さんから「お父さん何してはりますの?」と尋ねられたことに強い圧迫感を覚えて、いつまでも記憶しているのは・・他にも似た状況はあったはずなのに・・「位取り」を感じ取ったからでしょうか。
銭湯に出掛ける時、(銭湯もカルチャーショックほどに強烈な体験でした。)親子連れの小さな男の子がわたしに微笑んだのでちょっと言葉をかけたら、おかあさんから「しんきくさ、先行っとォくれやす」と言われてびっくりしました。わたしって馬鹿?
街を歩いていて気分が悪くなった時、街角の食料を扱うお店で近くの医者はどこかと尋ねたら、「近寄らんといて」と言われて、苦しさ以上に口惜しさを感じたことがありました。(衛生上の危険を感じたのでしょうか?)
京都らしい曖昧な物言いとは全然違うところで、当然のことながら、キツイ物言いも京都にあると思います。ただ、自分のいくつかの「経験」から京都を論じたり断言するつもりは全くありませんし、京都への片思いはいつまでも健在です。それ以上に多くのものを京都から受け取っていますから。
即座の拒絶、或いは巧妙な「避難・退去」や「拒絶」に対して・・学生さんに寛容な街やゆうけど、やっぱし京都はなんや冷たいとこあったよ、とは、他の地域からきた友人たちの公約数的な感想だったろうと思います。やさしい人、冷たい人がいるのはどこの土地でも同じや、京都が冷たいゆうんは先入観もあるんやないかと、わたしは尚少し引き算して考えています。
確かに「ホナ、サイナラ」は言いませんでしたね。
サイナラは軽くて、それも嫌いではありません、が、放られるような感じもします。ホナ、また・・の余韻が別れには大切だと、いくつになっても思うのです。微妙なものです。
昔のことを書きながら、思えば遠くに来たもんだの感懐、これは地理的ではなく時間的な。見事に貧乏で、痛切なことも山ほどあって・・慙愧の思いは脇に置いて・・ああ若かった、愉しかりし時だったと今は思います。
バイオリンのこと。パガニーニのカプリース、24の・・わたしの初めて聴いたのは、イツア―ク・パールマンでした。彼の演奏はやわらかく好きです。全曲演奏することは大変なことだそうです。
朝6時からNHKのFMでバロック音楽をやっていますので朝早くお目覚めになった時、ぜひ試しに聴いてみてください。
今日、東京は秋晴れでしょう。こちらは昨日は雷が鳴ったりしましたが、穏やかな秋の午後です。花の絵を、枯れてしまうので 花と競争で描いています、描くというより観察? かな。気忙しいことです。  お体大切に。 鳶

* この人が、「しよる」「しよった」を一度でも使ったかと、思わず破顔。ただし、丁寧語にちかい「しはった」はより大阪の物言いで、京都では「しゃはった」「しゃはる」が普通か。京の「どす」大阪の「だす」ほどではなく、かすかに、しかし異なる。 丁寧語とはいえ、京都の「はる」の敬意はごく散漫稀薄で、あわや犬猫にでもつかう。
この鳶さん、ちっともがんばった風でなく、ごく自然に時間をかけ身につけた、もう人柄そのものの「視野」を持ってて、しかもいわゆる教養派ではない。人生派行動派の認識者であり、むにゃむにやと悩みもありげにグチも言うけれども、実はとらわれの少ない人と想像している。わたしなどより、よほど自然にゆったりしている。
2004 11・1 38

* 日吉同窓会  最後は日吉ヶ丘高校「校歌」で締めくくりますが、この歳になると、この内容に何か気恥ずかしさを覚えます。
刷り物に校章の由来がありました。所在地、今熊野日吉町から『日吉ケ丘』と名づけられたのは、当然、知っていましたが、私は、あの記章は単純に「日」の字をデザイン化しているとばかり思っていました。
日吉は「比叡」に由来して(これは周知のこと)、比叡は二つの山頂があり、京都側からみると美しい山容を示している。校章のデザインはその山容を抽象化し、近代的な明快さと清純さとを意匠したもの。中央に自立の精神を、二つ半円の交わりで協同の心を、両翼のひろがりが創造の意欲をしめしています、とあります。
その記章を手書きの紙に、毎年寄せ書きをしています。
今年は、男性くんは「生きてるだけでも、もうけもの(これは何処かで聴いたなー)」「生きている喜びかみしめて」「いつまでも元気、元気」「楽しい老後を送りたいもの」とこんなのが多く、女性達は、来年も会いましょう、とサラリとしています。
そうそう、出席女性の半数が、寡婦になっていました。

* 寡婦とは夫に死別した夫人、未亡人、と辞書にはある。愕然。生別離婚の例もこれになお加わるか。ウームと呻る。
わが母校の校章は、さすが京都美校後進の「美術コース」を擁していただけに、そのセンスの佳いこと、簡潔清明、入学してひとめで好きになった。校歌もまた、甲子園で聴く各高校のそれに比して、詞も曲も清新ないいものの内と在校中から感じていた。上に泉涌寺、下に東福寺という「日吉ヶ丘」という高台環境もじつによかった。
男達は健康に不安きざし、女達は「ホナ、また」であるらしい。
2004 11・1 38

* 海の猫、山の猫  名古屋のTV番組に「映画はええがや」。大阪の情報紙には「映画はええがな」。
「海猫」の宣伝に、「山猫」完全復元版の宣伝と、ややこしや。山の方は梅田の一館でしか上映してないみたいで、うーんと腕組みの雀です。
最近、どんな映画をご覧になりましたか。
ところで、先日の京で、クルマで渡った橋に、「なすありの碑」とあるのが目に飛びこみ、思わず「たえてしのべばなすありと、でしたかしらね」と言う雀に、運転手さん、
「京都検定受けませんか? 京都よほどきてはるみたいやし」。 雀

* 知恩院の古門前と新門前の通りの真ん中を、白川が西流している、それを花見小路で渡っているのが、有済橋。「有済」がつまり「なすあり」なので、この地区の小学校が「有済」校であった。もう過去形になり、つい最近粟田小学校と合併して、「白川」校と名を替え、もとの粟田校舎へ通学しているらしい。
有済校の校舎が、どう何に転用されるのかは知らないが、この元校門を入ると、左の花壇や植込みに埋もれて、背の低い小さめの石碑に、「たえてしのべばなすありと」と刻されていた。「済す=なす」は、成功や成人の成すではなく、完済や決済の、なしおえる、なしくずす、なくしてしまう方の「なす」である。
京都市は、小学校発足の全国でも最も早かったところで、「有済校」は中でも最初期に創立されていた。「たえてしのべば」は、つまり堪忍であり、いかにも修身教育めくが、今少しこの学校の場合、厳しく微妙な「たえしのべ」という訓告が秘められていよう、さすれば「済す有り」てガマンも出来ようぞ、と。名付けた明治者のいかにも智慧者めく意図がしのばれて、実はくさいものに蓋だけしておけという、大いに違和感がある。
このような碑がまた別に新たに創られ建てられてある場所というのが、さも結界めいて三條寄りの古門前通りと、わたしの育った四條・祇園寄りの新門前通りを隔てる白川畔であることにも、その橋を「有済橋」と新たに名付けたことにも、余計なことをするという思いが、わたしには否めない。
昔、この橋はなかった。戦時疎開で家並みがぶち抜かれ、祇園花見小路が北の三條通りまで延長したときに、橋も架かった。「お父さん、繪を描いてください」の天才少年画家「山名クン」は、まさにこの「有済橋」の南東詰めの瀟洒な和風の家に身をあずけて須田国太郎画伯らの指導を受けていた。二階の窓から白川越しに北の家並みを眺めて感慨を覚えていた。その時にはまだ雀さんの見てきたような碑は建てられていなかった。花見小路はむき出しの瓦礫の疎開跡そのものであった、まだ。
松竹という「藝能」の会社を大きく興した双子の兄弟は、この有済校の卒業生であった。「堪えて忍べば」の遠意が、分かる人には分かるであろう。分かる人はもう極端に尠くなった。けっこうなことだと子供の頃から思っていた、が、近年、かぎりなく横柄で傲慢で行儀悪くのし歩くゲイノー人のザマをたくさん、いつも見ていると、気味わるい。

* 「京都検定」とはね。これまたマインドトリップ。京都を小刻みの「知識」に切り刻んで「通」の度合いをためすのか。京都八段なんてのが出来るのか。ハートは痩せて行く一方だ。
2004 11・12 38

* さっきテレビが京都永観堂のもみじを撮していました。
「やっぱり京都のもみじや、色が違う」とか言いながら、夫は出勤して行きました。 藤

* 南禅寺をぬけて、永観堂へ。紅葉が目にうるんでくる。みかえり阿弥陀が、恋しいまで髣髴とする。平安神宮、黒谷、真如堂、法然院、銀閣寺、詩仙堂、曼殊院、はるかな北山西山。比叡。何処まででも歩いて行きたい。
2004 11・15 38

* ご都合は顧みず一方的に送りつけたのですから、読んでいただけるだけでうれしく、感謝しています。”思いを凝らして”読んでいただいていると知り、自分はそうしていただくに値する気合いで書いただろうかと今更ながら身の引き締まる思いです。
この十二月は母の七回忌。三回忌時のメンバーは一層年老いて死んだ人もあり、他方孫達は一層忙しく、とにかく私と三男の二人で京都へ行こうと、先程菩提寺にあたる七条土手町正因寺のご住職(旧弥栄中の)万年先生と電話で打ち合わせを致しました。
秦さんや藤江の卒業と入れ替わりに弥栄中の先生になられたわけですが、五条に住んでいた頃は母は法事の打ち合わせなど弥栄中の職員室に電話をしておりました。万年先生はいつも洋服姿でスクーターで家まで来られ、うちで法衣に着替えて居られました。
うんと後で、「もしかしたら、恥ずかしかったからですか?」と伺ったら、よく生徒に「せんせ、ころも着て走ってはったん見ましたで」とからかわれたからだそうで。
とまあ、昔から弥栄中とはちょっとのご縁はあったのです。
今回も京都へ行くといっても、お寺とお墓だけ、丸山公園あたりを散策しての日帰りです。  藤江もと子

* 万年先生は、わたしの中学二年生の時に、すでに弥栄校の先生であった。図画の橋田二朗先生と仲良しであった。お二人とも一学年上、三年生の担任で、橋田先生は四組、万年先生は二組を担任されていた。なぜ記憶しているかというと、万年先生の二組には、わたしが運命のように出逢った人がいて、その座席のある窓を憧れ、いつも見上げていたから。
それだけでなく、万年先生は、(簡単に潰れたけれども)演劇部を起こされ、わたしものぞき込みに行って、なんだか歌舞伎劇めく台本、「桐一葉」のようなののセリフを読まされた。なんだかそれらしく、ということは当時敗戦後の新制中学生では珍しい、変なワザを演じてみせ、先生を少しは唸らせたこともあった。「ボウズ」であることも知っていた。だが、橋田先生とは違いあまりそれ以上の縁はなく、むしろ万年先生の方で早く学校から姿を消されていた、かも知れない。
2004 11・23 38

* さっき、ブラウン管と書いたが、ブラウン管との久しく久しい付き合いが、テレビの上では昨晩でついに途切れた。液晶の今までより六、七インチ画面の大きいテレビに買い換えた。妻がわたしに買ってくれて、わたしはDVDデッキを新鋭機に買い換える。
京都新門前のハタラヂオ店にテレビジョンという驚異の機械が新商品として初登場したのは、いつごろであったろう。狭い店先へ幾重もの見物が犇めき合い、まだ猛将藤村富美男が阪神タイガースの三塁を守って巨人軍と死闘を重ねていたのを忘れない。力道山の空手チョップのたまげる威力に喝采したのも忘れない。
人の寄るのはこういう時であった。対談集で対談相手の日展画家堀泰明も見に来ていたと語っていたし、遠く粟田学区からも見に来ていたりした。さ、中学か高校か。すぐは思い出せないが、むろんカラーではなかった。
以来数十年。何台のテレビを買い換えてきただろう、指を折って数台、それ以上か。東工大でも教授室にテレビかあった。みなブラウン管だったし、いまわたしの目の前の日立製しっかり大きいディスプレーもブラウン管で、これも東工大の研究費で買ったのを払い下げて貰っている。

* ブラウン管というと、こんな思い出があり、信憑性は今もわたしの中で曖昧だけれど、大学の二年生ぐらいか、はたラヂオ店の店主である父の命に従い、大阪の門真市にあるナショナルの工場内で、一夏、テレビ技術の講習を受けに遣られたとき、二つだけブラウン管について記憶した。一つはテレビ画面が、何本だか決まった数の「走査線」とやらで出来ていること。もう一つは、ブラウン管の中は天文学的な高圧を頑丈に内包していて、万が一にもこの正面画面の防壁が破壊され不幸にしてその前でテレビを観ていようものなら、瞬時にして内圧の暴風で人間の首は千切れて吹っ飛ぶ、大変危険なものです、と。
走査線のほうは、後年、医学書院勤めで写真製版発注に手を染めていたから、普通の写真なら133線だの、紙質がわるいと80線ぐらいだのと注文し分けていたから、これは類推できた。
もう一つの首が千切れて飛ぶ方は、今も半信半疑で、そんな事故をきいたこともない。しかしへんにブラウン管のまえにいるのは気味が悪い。
そういう因縁もののブラウン管テレビと、昨夜、とうどう訣別したのは「歴史」的である。まことに歴史的である。
2004 11・23 38

* 「京のわる口」「京と、はんなり」「京都感覚」「京都、上げたり下げたり」「京、あす、あさって」などと京都の本をたくさん書いてきたが、わたしの京都論は人に関しても言葉に関しても「からくち」で通っている。観光京都の讃美ではほとんどない。手厳しい批評の方が多くてむしろ信用されてきたし、京都の人にはすこし煙たがられてきた。
京都が舞台になるテレビドラマや低俗読み物はやたら多いけれど、昔は真下五一の「京都」など、おみごとな小説があったものだ。京都の休暇に東京から養子で入った男の眼で京都を書いていて、わたしなど抱腹絶倒にちかい切れ味で愛読した。
最近、市田はるみを下宿のおばさんにした「京都日報記者」氏の連続ドラマの一回分で、これはもうめったにお目に掛からない、みごとな京都批評を見た。よしよしという気がした。
南禅寺や平安神宮に着飾った舞子があらわれ、外人たちに記念撮影・観光撮影させては五千円ずつ巻き上げている。記者はこの舞子を追いかけてみるが、なかなかしぶとい。「京都らしい」記事が書けないのかと部長にやられたので、記者氏はしきりに「京都らしさ」に悩んでいたのである。
彼はその舞子の写真をもちまわって祇園甲部のあちこちで藝妓や舞子や店主たちに訊いて廻るが、だれも本人を特定できない、ただ、写真をちょいと見て、着物が佳いこと、着方も佳いこと、ぺっぴんさんであること、お化粧もうまいこと、口を揃えてほめるので、いよいよ記者氏は熱心に謎の舞子を追いかけてドラマが展開するのだが、珍しく殺人にはならない。もうエエカゲンに京都を殺人ドラマの舞台にするのはやめてくれと云いたい。
で、記者氏は下宿に帰って、おばさんにも写真をみせると、市田ひろみ演じるおばさんは、例のあの声で「いやあ」と声をあげて、ほめる、ほめる。ドラマの観客もこうまでほめられなくても、なかなか可愛い意気のいいすてきな舞子さんだと思うだろう、むりもない。
こうも地元祇園や京都のだれもがほめれば、これがまさか手厳しい「わる口」だとは、少なくも京都へよそからやってきたこの記者氏などは、ゆめ疑う隙間もない。手放しで感じ入る。だが、祇園のくろうとがみると、たしかに佳い貸衣装だけれども、どうにも「京都」でない、着付けも「京都」でない、化粧も「京都」でない、褒めておくしか手のない作り物の舞子姿であるわけだ、市田はるみ風の口吻を以てすれば「云わんかてそんなんわかってまっしゃん」という次第で、「あほらし」とやられてしまう。本当は、ダメなのだ。ニセものなのだ。それに気付かなくて褒めると一々感心する記者氏が、「あほらし」く批判されていて、なかなか気が付かない。京都の者になら、そのほめている連中の褒め終わって立ち去る立ち去り方でも、おかしいほど分かる。昼間の普段着のすっきりあか抜けした藝妓は、口半ばに「ほな」とかるがる会釈して去り、舞子もほめた笑顔のワリににげるように「ごめんやす」と立ち去る。市田おばさんなど「あほらし」という口調を隠しはしながら、顔はあきれてしかも口で褒めている。
そういうことに、「ああっ」と記者氏は、三里さがって気が付いて、例の舞子が京者ではないインチキ外来者だと思い至る。ドラマは附随していろいろだが、この「京都らしさ」のドラマでの表現は、他方の非京都のインチキ・アヴェックの表現とともに、秀抜であった。あああ、やっと京都批評がドラマになったか。こんな当たり前な機微を三十年も前から書いたり説いたりしてきたわたしは、かなり感慨に打たれるのである。
あれは「お世辞」なんかではない。京都の中では「反語」による避難や軽侮なのである。反語が超級の褒め言葉で綴られるので、イザとなれば「悪くち」やおへんえ、ほめてますのやがと、ニゲが利く。
京都の人間は、京都同士で褒められても、安々とは喜ばない、きちんと六七割以上は割り引いておく。自身は大の褒められ好きな「京都以外人種」は、人間関係は褒めればいいものと思って、大げさな褒め言葉を大安売りしてくるが、「へえ、おおきに」とも云わず受け流し、間違っても褒め殺されないように気をつけてしまう。素直でないと言えばその通りだが、「ことば」だけを世渡りの武器に生きてきた京都市民は、言葉の毒から自衛もしなければならなかった。
「わる口」は批評の言葉であるが、単純な東京風とちがい、褒めことばをすら、「わる口」に採り入れ、鍛錬に鍛錬してきた京の物言いは、わるく云えば、性根から二枚舌であり、よくいえば極めてねばり強い二枚腰なのである。

* 断っておくが、こんな京都が好きで得意で話しているのではない。こんな京都にはとても住めない何かを、いっぱい身に抱いている自覚があったから、多くを振り捨ててでも駈け落ちし、東京へ出た。東京で四十五年半。京都には二十三年半、暮らした。なおより多く京都の根が見えてきているとこそ思え、東京に関しては心細い。
2004 11・28 38

* 快晴でもうけものみたいな月末。ちょっとヤモリで、日曜日。
皐の剪定、アイロンがけも終り、家事は最低線にして、のんびりと。
メールの整理をしていて、数少なくても、味わい深い長文で、削除していない***ちゃんからの何通かのメール
は、必ず「ではまた」で終わるのに、気づきました。会話でなら、「ほな、また」「ほんなら、また」でしょう。
晩秋、三条白川橋辺りから東山を見上げて、紅や黄に染まる姿を住んでいた頃には気も付きませんでした、というより、当たり前の景色だったのですね。
そろそろ京都も閑かになる筈。泉涌寺と白川へは駆け足でもいいから行きたいナ。
京都の友人から、ちょっと気の滅入る電話がきて、同情のふさぎでいます。 ほんなら また  泉

* 京都が好きかと問われれば、好き嫌いでなく、「とても無視できない」と返辞するだろう、今は。それにもかかわらず、やはり京都の文物にも自然にもこころから惹かれる。上のメールの泉涌寺にはわれわれの高校があったし、この人には実家の菩提寺もある。そして白川の少し上流と下流とに少年少女のひとときを暮らしていた。湧き上がるようにこの二つの座標からでも京都の美と自然とは宝庫をひらくように蘇ってくる。故郷とは誰しもそういうものだ、わたしの場合その上に「歴史」への親昵がある。歴史の多くの場面に、今のそのままではないにしても、多くの場所、地名、寺社、山や川や、景色が目に見えてくる。
昭和十七年の国民学校の校庭には、木曽義仲の愛妾山吹御前の遺塚が巨きな椋の樹の根方にあった。東海道五十三次上り終着の三條大橋はもう間近で、高山彦九郎銅像が御所を遙拝平伏していた。新制中学の校庭裏門から一分も歩けば崇徳院の御廟が祇園の茶屋町に埋もれるように隠れていた。手の届くところに祇園会の八坂神社(=ぎおんさん)や元号寺の建仁寺(=けんねんさん)があり、歌舞伎発祥の鴨河原や南座へは三四分。高校は、皇室歴代の御寺泉涌寺や多くの御陵と、東大寺・興福寺を合わせた体の伽藍壮麗、九条家藤原氏の東福寺とに囲まれている。東福寺には現存最古の三門や書院造など、またみごとな金堂、僧堂、方丈・通天橋・塔頭群に、莫大な文物や名園を抱え込んでいる。
こんなことを克明に云いだそうなら、たいがいよその人にはイヤがられる。が、ありがたいことに、言い合えて両方で飽きない京や京好きの人達も、また、有って救われる。
2004 11・28 38

上部へスクロール