ぜんぶ秦恒平文学の話

京都 2005年

 

* 柳田国男の『日本の祭』を読んでいて、かすかにかすかに記憶を呼び覚まされるときがある。夜に夜をついで日々の数えられていたことは、知識としても納得していた。王朝の物語を読んでいて、一日が朝から始まるなどとはとても思われない。そういう、実感とまではいかないが予感ないし推知は、たとえば祇園祭の「宵山・宵宮」でもう体感していたのだ、あの祭りのもっとも華やいだ時間は、祭礼当日の鉾巡幸以上に、前夜の宵山・宵宮にあることを、子供心にありあり感じていた。(遠い異国の例をあげて正しいかどうかいささか危ぶむけれど、クリスマスは暮れの二十五日と承知しながら、イヴの二十四日を盛大に祝いあうのも、それに等しくはないのか。)
正月用に蛤を買いに行くのが、わたしの恒例のお役であることは何度も書いているが。新門前の秦でも保谷の秦でも、その蛤汁を大根人参紅白の酢なますなどとともに「お祝いやす」と家族一礼して祝うのは、きまって大晦日の宵の食事からであった。お正月サンは大晦日の夕暮れにはもう訪れているのである。
柳田は言う、前夜の夕暮れから翌朝までが一続きの正月の年霊迎えの祭りであったと。だが、なんとなく、前夜と早朝とにいつしかに二分されてきた。それでも気持ちはどこか、もとのまま「一続き」に、この除夜から元朝へは床に入って寝ることもごく短くか、またはなにとなく通夜のうえで、極く早朝から「祭」の気持ちで雑煮を祝う風が、いまも多い、広い、と。
たしかに我が家でも、今でこそ平気で元朝を日が高くなるまででいぎたなく長寝しているけれど、新門前の秦では、「なんでやの」と子供心に堪らないほど元旦だけは、とびきり早く起こされ、ガチガチ身震いしながら顔を洗い、かなり厳粛に雑煮を祝ったのを憶えている。あれは、前夜の宵から元旦早朝まで「一連の正月祭」をしていたのだった。そういうふうには、なかなか思い至らなかっただけで、おそらく秦の父も母もそんな意識はなかったろうと思う。意識が有れば、あの父なら一席弁じて、説明してくれるぐらいはあったろう。
一つの証拠とも謂えるだろうか、昔から「初夢」とは元日の晩から二日の朝へかけて見る夢だと教わっていた。なんで元朝に見る夢ではないのだろうとまでは、子供なりに不審に感じた。そうなんだ、大晦日から元旦へは、寝ないで大歳神を祭る、それが古来本然の「祭」であったのなら、夢など、見ようがなかったのだ。

* 柳田は、「まつり」とは、「まつらふ」だと謂っている。その日ばかりは神霊の「お側にいて、なにかと奉仕する」のが「まつらふ」「まつる」意味だと。「まつはる」「まつはりつく」とも繋がっていようか。よく分かる。そして「祭」と「祭礼」とは、歴史も形もちがう。祭はいわば近親者が「お側にいて何かと奉仕する」が、祭礼には無関係な見物が参加する。

* いろんなことを思い出すものだ。が、ふしぎと、心身が澄んでゆく気がする。
2005 1・24 40

* なにしろ大学の一般教養時代に、或る先生から、まるまる一年「ファウスト」と「トランツェンデンタール(先験)」と「本質直観」とを聴かないことはなかった。それしか憶えていないが、それで十分でもある。
古代文学の先生からは、「ものがたり」の「もの」とは「ものすごい」「ものあわれな」「ものものしい」鬼・霊にこそ通じて、物質の物ではないと聴いて、眼からウロコが落ちた。この先生からもこれだけを覚えた。
社会学の講義からは、のちにわたしが盛んに書いた「位取り」にあたる、不思議な力関係・緊張関係が人間同士には生じていると、ただそれだけを覚えた。
美学の先生からは、「鐘が鳴るか撞木が鳴るか。鐘と撞木の間(あい)が鳴る」と聴き、「事態」という構造で主客の和を観じるようになった。あれで、美の観照だけでなく、趣味の茶の湯も見えてきた。
日本美術史は京の寺々へじかにモノの前へ行って障壁画の講義を聴いた。これは嬉しかった。
西洋美術史は西洋へ一度も行ったことのない先生の、ルネサンス画家たちの講義に信用がならず、フイリッポ・リッピだのと、やたら大勢の名前だけを覚えた。
大学(学部)での勉強というのは、わたしのような真面目な優等生でも、この程度だ。大学を出て、小説を書き始めてからの勉強の方が、はるかに充実したと思う。「花と風」「女文化の終焉」「趣向と自然」「谷崎潤一郎論」などの文化論や美学や作家論は、みな三十代の仕事だが、今でもオリジナルをはらんで古びてなどいない。ただし、それらの根に、はっきり「京都」のあることは動かせない。「京の昼寝」はバカにならなかった。
2005 2・5 41

* 雨の気配を歓迎している。すこしはラクだろうか。新幹線など、人の多い場所には花粉が充満する。マスクにゴーグル。重装備で出掛ける。今度は賞の選考が主な用事で、済み次第たぶん帰ってくる。
2005 3・22 42

* 京都は小雨になりかけていた。ホテルでしばらくやすんでから、ホテルの傘を借り、錦小路をぶらぶら錦天満宮まで散策、思い立って車で夕暮れ近い曼殊院まで行った。雨の庭にむかいあえてこの上なく静か。時を忘れた。
桜はまだどこにも見当たらず、梅は白いのも紅いのも、遠(お)ち近(こ)ちに目にした。車を待たせなかったので、小雨を傘に聴きながら圓光寺のまえをとおりぬけ、東白川道でまた車を拾い、四條花見小路まで。
ぶらぶらと四條を西へ、「みごもりの湖」懐かしさに、縄手の「蛇の目」に入り、夕食を奢った。広くも新しくも華美な店でもないが、大きな赤提灯の下から石畳の路地を入ると。泉水をはさんで瀟洒に明障子の小座式になっている。小説の若いヒロインたちにここで祇園祭の晩に鱧を食べさせたのを思い出すのである。
刺身の佳い盛り合わせと、おまかせのにぎり寿司、器は、ほぼみな砧青磁で、酒がひとしおうまく、三、四合も呑んだのではなかろうか。雨の音が池に落ち散って、葦簀(よしず)などをつかった窓のすずやかな風情は、みな昔のまま。
主人や女将とも話がはずんだ。この店の隣には、木下という果物屋がありむかし同級生がいた。店の向かいの路地なかに清水弘という同期生もいた。縄手を少し上(かみ)へ行くと「梅の井」という佳い鰻料理の店があり、その主人も同期生だ。懐かしい「浜作」もまぢかに前はあった。今は店をしめてしまった。
蛇の目からは、昔の我が家へ駆け足でなら、ものの数分とかからずに帰れた。しみじみした。京都へ帰るというのは、こういうことか、と思う。
小雨のおかげで花粉がうんとうんとラクであった、雨よりもその方が何倍も嬉しかったのである。

* ホテルへ戻り、もう少し紹興酒を呑んだ。おかげで熟睡した。
2005 3・22 42

* ふっと目をさましたら、十時。朝飯を省く。橋田二朗先生と電話で話した。腰椎のヘルニアであろうか、家でも杖をついて動いてますと言われる。どうかどうか、お大事に願いたい。
荷物はホテルに預けておいて、車で、加茂大橋の東づめまで。雨中の墓参。従妹が参っていってくれたらしい、供花もまだ美しく生き生きと雨に濡れていた。念仏し、傘をきたまま墓の父や母や叔母達としばらくの間余念なく話し合ってきた。もう昼近かった。寺の先住も軽い脳梗塞で入院していたのが今は帰って、やすんでいますと若い住職。
雨をさけてタクシーで同志社の前まで行き、昔の学生会館へ行ってみたが、フランス料理の店のあるのは、烏丸通り西側の新しい学生会館寒梅館とおそわり、構内を西へ抜けていった。大聖寺門跡の北隣に、びっくりするほど洒落た学生会館は出来ていて、その高いところにフランス料理のレストランが店をあけていた。満席。窓際にスタンドの席がつくってあり、そこへと言われた。一人になれてその方がわたしには好都合だった。目の下に大学の運動場があり、向こうは壮大に相国寺の境内、遥か遠く真正面に如意ヶ嶽の大文字があざやかにみえた。比叡や鞍馬や、また南へは清水の方まで東山が雨ながらに美しく静かで、申し分ない眺望。大越哲仁さん、いいことを教えてくださった。それにしてもわたしや妻が大学を出たのは、四十六年も昔なのだ、大学の建物も増えたり建て変わったり、烏丸よりも西へ西へひろがっている。
学生会館の心地よいこと静かなこと、ホールの奧の部屋でくつろいで「日本の歴史」を小一時間読みふけってきた。

* そして、それが用事で来た、京都美術文化賞の選考会のために、四條烏丸へ地下鉄で戻り、スポンサーの本店で、梅原猛、石本正、三浦景生氏と今日は四人だけで選考にあたった。最終、日本画と陶藝と漆藝から一人ずつを選んで授賞と決めた。そのあとの歓談で、梅原さんと猿之助歌舞伎の話になった。また歌舞伎を書くよと「ヤマトタケル」の作者が言うので、それなら「アメノウズメとサルタヒコ」をお書きなさいと勧めてきた。なんだか乗り気のようであった。

* 雨は本降りなので、会議が果てるとさっさと京都駅でのぞみにと飛び乗り、五時半過ぎには東京着。
2005 3・23 42

* 春雨に目にしみるお墓の、紅い花二輪であった。いつも青い葉ものしかあげないわたしは、花立ての花の色に、一瞬墓前で目が眩む心地がした。墓の中で母は自分の血をわけた姪が、大好きで頼り切っていた長兄の娘が、墓参りに来てくれるのをどんなに喜んでいただろう、と、想う。
2005 3・24 42

* 叔母の稽古場は京の祇園町ちかくにあったし、数十年も若やいだ社中の出入りが絶えなかったから、わたしは、女の和服姿には、晴のも常のも、存分に見知ってきた。指先をそれとなく生地にふれて佳さを確かめるぐらい、男のわたしでも出来た。和服の女を意図して書いたことは多くない、そんなのは自然に出来ることで、とくべつな気持ちではなかった。
着倒れの京の女達は、口に出して着物を自慢することはめったになかった、一瞥してすぐ分かるのだから。
東京で、頭抜けて和服姿のいい人には、まだ残念だが数えるほども出会っていない。歌舞伎座でみかける幸四郎夫人や、舞踊の藤間由子の娘で新橋に出ていた (今は知らない)*子ちゃんの普段の着物、叔母のピカ一の弟子で京の中京の呉服屋から東京へ嫁いでいた、そして若くて亡くなった人の、友人の宴会で再会した日の、和服姿。但しこれは京ものではあり、また当然の優美な身ごなしであった。
女の和服は着飾っては仕方がない。見るからにまずは懐かしいと見せてくれなくては。そして、とびきり磨かれた「女体の艶」を感じさせなくては。
2005 4・21 43

* 珍裂 と看板をあげた店は、京都には何軒かある。裂。おもしろい価値観である。その「裂」を話題に対談を決めた。しばらく用意の間はある。対談の相手も懐かしい。
2005 4・22 43

* 関西のある本屋の新刊に、「伏見の歴史と文化」「伏見の自然と環境」などが、叢書で出揃っていた。刊行の趣旨には、「伏見市の復活をもとめて」とある。「伏見学」という提唱の、大学研究会も出来ている。ホウと声をあげた。
夢のようにときどき思い出していた。ひょっとしてわたしは間違えていなかったろうかと。
ちょうど五十年昔のことだ、大学での或るレポートに、わたしは全く同趣旨の私見を盛った一文を提出し、わるくない評価で単位を獲得していた、「伏見市と伏見区との問題」を考えていたのである。
わたしは当時の「伏見区」にも、それより以前に短く実在した「伏見市」にも、現実には何の縁故もなかった。幼少の頃、父に連れられ、父と仲の良かった同業のラジオ屋さんに二度ほど行ったことがある、それぐらいなものだった、が、伏見桃山が秀吉栄華の夢の跡であることは知っていた。明治天皇の御陵も桃山にあった。
いま、伏見区が、それ以前に一時伏見市であったのを記憶している人は、地元でも少ないだろう。わたしは、その事実、それが京都市伏見区に編成替えになった事実、その推移の意味と評価に、かすかだが興味を持っていた。それでそんなレポートの題を選んだのだった。
同じ意向に出た研究書が、五十年後の今刊行されているのにビックリした。私のなかででも、「伏見市」なんて、ほんまにあったんかいなと夢の感覚にボヤケかけていたぐらい。

* 死んだ兄北沢恒彦の住所が、ながく伏見区にあり、家族と別居して移り住んでいた住所も伏見区内にあった。小説を書いている甥の恒(黒川創)たち三きょうだいもむろん伏見で大きくなった。まだ小説どころでなかった恒が、大学を出て上京し、よく保谷のわたしたちの家に遊びに来て、盛んにわたしから「小説が本命だよ」とけしかけられたり、出世作のもとになった伊藤若冲の話をして聞かせたり、大きな画集を貸してやったりしていたときにも、「伏見」はお前の一対象世界に十分成るのだから、頭に置いていい財産にするといいよと、二度三度話したものだ。若冲のことに話題が行ったのも、伏見区のあるお寺の奥山に、彼の構想し配置した石仏群が隠れていること、一度ぜひ観ておくと佳いよと教えたのが始まりだった。彼は何も知らなかった。わたしはその寺や石仏の山庭のことを新聞小説の『冬祭り』にすでに書いていた。
兄がいる。いた。それも「伏見」をなにとなく身近に感じさせていた。
思いがけない本の広告が来ていたので、ぜひというほどの気はなかったけれど、注文することにした。
2005 4・27 43

* 三十三間堂に行きました。千体の千手観音の前は人波であふれていましたが、ゆっくりした一方通行でしたので、充分堪能出来ました。次は観光客の少ない季節に行きたいと思います。東福寺へも行きました。あざやかな新緑の季節には少し遅かったようですが、通天橋からの眺めは最高でした。方丈庭園も始めてで、京阪電車の中吊り広告そのまま(当たり前?)でした。枯山水の庭を眺めるなんて普段の生活では考えられないことです。
話は変わりますが、グルダのピアノをレコードで聞いたのは20年以上前になります。バッハの平均律を聞き、始めてバッハのピアノ曲の良さを実感し、レコード全集を買いました。 高校入学後にピアノを始めましたので、モーツァルトやバッハが本当に天才と実感したのは、大学を卒業してからです。自分に才能があるのか無いのかもわからず、ただ好きなだけの無謀に近い状態で音楽の勉強をやってきました。グルダのピアノがきっかけで、動かない自分の指を叱咤激励し、少しはバッハやベートーベン、モーツアルトの曲が弾けるようになりました。毎日の授業で直接使うわけではありませんが、時間を見つけては練習をしています。自分には優れた音楽の才能が無い事が理解出来た今も、ただ好きなだけでやっています。勉強(練習)を続けるだけが、唯一私の才能?かもしれません。  神戸 音楽教諭

* 東福寺に三十三間堂とは、しびれそうに懐かしい。馴染みに馴染んだ故郷そのもののような二つのお寺であるが、どちらの一つだけでも、わざわざ訪れるに十分足る内容豊かな名刹。
いまごろ、東福寺境内は静かで目もうるむ新緑だ。テレビエッセイで東福寺を撮影しわたしが話した番組がほんとうの新緑時だった、どこもかしこもありありと目に浮かぶ。やがてバルセロナからはるばる里帰りしてくる、京にゆかりある卒業生とは、あの通天橋をゆっくり渡ってみたい、が、そうも行かない…。
2005 5・4 44

* 若い歩けるうちに、北山の奧などへもっと足を運んでおきたかった。短距離走は高校をピークに十三秒前後で走れたが。(高校の学年で一番早いのが百を十二秒四で走ったとき、わたしのタイムは十二秒九。もう誰も信じないだろう、この八十キロの巨体を見ては。)
長距離走は、全然保たなかった。とくに急な坂や石段を、山を登るのは苦手だった。ゆっくり長い持久走の方がよかった。ねばり強いが体力は薄い。
疲れているなと自覚するとき、そのバロメーターのように、今すぐ京大阪まで病院見舞いや通夜などに「行かねばならぬとして、行けるか」と自問自答したものだ、今でも、する。
以前にはそういう機会が何度も有った、からだの弱い妻に代わって妻の親類の不祝儀に飛んでいったことがある。
だが、昨今は、自信がないと自答する「疲れどき」が多い。義理を欠く気構えに、つい成っている。京都の仕事でも、日帰りが条件なら断ってしまう。
2005 5・4 44

* 六月「美術京都」誌の対談は、「京薩摩」の本舗オクタニの社長とと決めた。はなはだ特異なやきもので、いろいろと知られない問題もあろうと思う。奥谷智彦社長はわたしと同年。小学校、中学、高校と一緒。走りの早いすばしこい少年であった。かなり喋る人なので、寡黙で閉口する心配はないが、うまく要領よく引き出さないと。
今年の賞の授賞式と理事会と対談とを一日半で仕上げて、とんぼ返しにまた帰ることになりそう。
2005 5・17 44

* 京都の臼井史朗老(淡交社)から電話。京都で酒を飲みましょう、と。
2005 5・20 44

* なんと懐かしいメールだろう、こういう静かな落ち着きにこそ「懐かしい」という思いは宿る。文面からも匂うように、明晰な知性の人であったけれど、或る鋭さが自信と体験とで柔らかに磨かれているのが、ありあり分かる。東工大の女性達は、わたしのいまも知る限りほぼ皆こういう聡明な人が多かった。それで楽しかった。
御室の桜は、背丈の低い八重咲きにまず出逢う。そして桜の頃はひとしお背景の翠が懐かしく柔らかに匂い立っている。女性の魅力にそのままの京都が、ことに春と秋には美しい。あまり美しくて、照れてしまうように少年時代のわたしは真夏と真冬の京都にいつも敢えて票を投じ、いばっていた。
研究所のホームページをお気に入りに入れてある。 そして写真の人とも、久々に面会。オウ!
わたしも来週は、京都にいる。同じようにトンボ返しに戻ってくるが、うまくすると半日の半分ぐらいそぞろ歩きが楽しめるかも知れない。早く行きたくなったが、京薩摩の対談は話題の選択が容易でなく、アタマが痛い。
前日梅原さんと午後に、晩に、会う。話題が一つ増えた。
2005 5・30 44

* 六月になった。こんなに多忙の予想される六月は珍しい、カレンダーの第二、三、四週は、「朱い日」がびっしり居並んでいる。楽しみの舞台が六つ(帝劇ラ・マンチャ、コクーン歌舞伎、秦建日子の公演、歌舞伎座昼夜、俳優座稽古場、三百人劇場)入っている。京都もある。余儀なく午後(授賞式)、晩(理事会・宴会)、午前(対談)の三連戦を仕遂げて、とんぼ返しに新幹線で帰ってこなければならない。学会も、理事会も、授賞式も、パーティもある。桜桃忌もある。新委員会の予定が更にこれに加わってくる。それどころか、はや下巻発送(上下巻同時発送を含めて)の用意が津波のように迫っており、上巻だけの今回の、倍の労力を要する。六月を、しっかり無事に越えなくては。
2005 6・1 45

* 京都で対談の用意がよく出来ていない。もう九時半だが、これから暫く、それに取り組む。
いまごろ、資料だとファックスが送られてきた。参るなあ。

* 京都はこの季節ですと、鱧を肴に一献でしょうか。まだ早いかな? 京都のむれるような濃い緑の中で、どうか花(はん)なりと楽しいときをお過ごしになりますように。
梅雨が近づいてくると蛇の目傘が欲しいなと思うことがあります。よい傘は女を美しく見せる小道具かもしれません。東京の街中では見かけたことがありませんが、傘を叩く雨の音、雪の降る重みは、なつかしいものですね。和傘の日傘にも涼しい風情があります。漱石の『門』でしたか、日傘を差している人妻の描写もこの傘でしょうね。絽のきものに似合いそうな繪になる姿です。
今日似た方をお見かけして、思わず追いかけようとしていました。花かげに家を背負った蝸牛をみたら、東京からついてきたとお思いになって……。 春

* 明日は旧都ホテルの授章式場から東山や黒谷がまばゆいほど一望できるだろう。晩は、堅苦しい決算予算の報告理事会のあとに、綺麗どころの京舞いなど観るだろう。どこへ二次会に廻る余裕無くホテルで対談の下調べをして、翌日は朝のうちに対談。気ぜわしい。もう時間切れとして、寝よう。
2005 6・6 45

* 一時間半ほど余裕がある。十一時前に新幹線に。明日には帰る。

* 東京駅に小一時間早く入ったので、新幹線の電車を一台早くし、社中で対談の資料を読んで。資料の字がちいさいので、鉢巻きレンズで読む。だいぶラクに読めるが、裸眼に戻すと一瞬くらくらっとする。
ホテルで汗を引かせ、着替えて、蹴上のウェスティンホテルの式場へ、車で。暑い。梅原猛さん、ヤマトタケルの話題を向けると、いっそ「歌舞伎作者になってもう二つ三っつ書こうか」と、にこにこ。
今日の京都美術文化賞受賞者は、日本画、陶藝、漆藝。
陶藝家が私より一つ年輩。他の二人はだいぶ若い。梅原さんが講評。あとの写真撮影まで、たんたんと予定通りに終え、さて三条の大通りを歩いてくだったが、例年通りのガンガン照りに我慢ならず、地下鉄で四條のホテルまで戻って休息、六時に仏光寺新町下がる「木乃婦」で財団理事会、そして宴会。
祇園の藝妓、舞子が接待してくれた。三人の舞子の二人がたいした美貌でため息が出たが、舞わせると、うまくない。どうも祇園の舞いが、年々に味気ないのは残念だ。おそらく日頃こういう遊び女を座敷に呼んでいる客筋に佳い眼がなくて、へたな藝にも客の方で「お上手」を云うているから、だんだん手筋もぬるくなるのだと想う。プロフェショナルの質的な厳しさが今ひとつ感じられない、祇園後部の舞子たちにしてである。
そのかわり「木乃婦」の料理が、今年はひときわ上等に出来ていた。うまかった。けっこう満腹もした。
なにより嬉しかったのが、同じ理事の橋田二朗先生が、病躯をおして座敷でも杖をつかれながら出席され、例のように隣り合って、久しぶりに歓談できたこと。もう片方の隣に、財団評議員の京都藝大榊原教授がおられ、これ幸いと、雑誌「美術京都」の編集長役を押し付けることに成功。前の郡定也編集長(同志社大学教授)の退任後の人事をわたしなりに思案していて、最適任と思い、きめてしまった。その場で財団母体の理事長や担当役員の承認も得てしまった。これで、雑誌刊行の顧問としての仕事が、だいぶラクになる。
清水九兵衛さんとは今度の「湖の本」新刊の話題で楽しめた。今度の本は読みやすいが、中身は濃厚であり、読者がクレバーであることを作者の方からつよく要望するタチの一冊だが、さすがに「湖の本」読者たち、「とても興味深く面白い」という反応が多くてほっとしている。

* さて、橋田先生には、そんなお体でありながら、そのあと祇園のバアへも連れて行っていただき、美味い酒をたっぷり御馳走になった。我當の息子の進之介が連れの何人かとあとで入ってきた。帰りがけに顔を合わせてきた。
その前に、そのバアのママで、祇園甲部でいい顔の藝妓、中学の一つ後輩でもある人と、少し歌舞伎談義をした。彼女は、このところ続いた「襲名劇」はみんなダメで、「あんなん、みな歌舞伎やあらへん」とこきおろすのである。そうではないだろう、とわたしは頑張ってみた。
あんた(ママ)が「歌舞伎」と思いこんでいるのは、ひと昔ふた昔前までの型通りに行儀良くって、お上品に冷え込んでいた「伝統芸能」こそを、歌舞伎と思いこんできたに過ぎない、そんな冷えた情念の型通り歌舞伎を、やっとこさ玉三郎や勘三郎や猿之助らの大きな才能で、また活気ある「カブキ」の活動精神をケレンも豊かに発揮しはじめ、つぎつぎ実験の成果をさらに錬成しているのだよ、と。藝妓・舞子のお座敷藝のお手本になるだけの歌舞伎藝では、「カブキ」の活気は燃えてこない。しんしんと眠り込まされるような歌舞伎舞台が、やっと近年面白くなりだしたので、だから、わたしは、好きな能舞台を遠のいてまで歌舞伎座へ月参りを続けるようになったのだ。
「あんなん歌舞伎やあらへん」という彼女の科白は、或る面からは理解出来ても、それは彼女達の理解が「型どおりに冷えてお高い」ことだけを暴露しているのである。

* タクシーの橋田先生にホテルの前でおろしてもらい、それからまた深夜まで明日の「対談」のため用意資料を読みまくった。
2005 6・7 45

* 七時に起き、水分だけを口に入れ、朝飯は割愛して着替えると直ぐ、車で加茂大橋の菩提寺に。この十一日は叔母の命日でもあり、気ぜわしいままに花を上げ、墓石に水をかけ、しばらくの念仏申し、また両親と叔母とにこもごも「話しかけ」てきた。住職夫妻にも顔は合わせたが、すぐ青葉青草の常林寺を辞して、あまりの暑さにせいぜい加茂大橋から比叡や鞍馬を遠望しただけで、タクシーをつかい四条烏丸へ戻った。
対談会場に一時間早く入ってさらに資料をよく読んだ。
「京薩摩と京の焼きもの」は、かなり大胆な話題で、問題点が輻輳している。人によればなんであの「キンキンマンマン」「古色蒼然」「とても京の趣味に合わない」「京薩摩」がいまごろ話題になりうるのかと想うだろう。
事実、京薩摩はいまや気息奄々、滅亡寸前とも見える。京薩摩と運命をともにして「粟田焼」という京焼の淵源であった窯もほぼ完全に廃絶し、「京焼」といえば清水焼が繁栄しているのであるが、もともとは「粟田」の隆盛に添い寄るようにして後身の「清水系の窯」が、焼き物が、大きく栄えてきた。なぜか。
それが話題になると、ことは、もう「京都」の枠を世界的にはみ出てゆき、かつ明治維新とか万国博覧会とかが抜き差しならずこの「粟田焼・京薩摩焼」に絡みついてくる。
対談相手の奥谷智彦君は、いま唯一の京薩摩を商う商店「サツマヤ」の主人であり、国民学校以来の同級生。対談の場に引っ張り出すには幸便であった。
驚いたことに「夫人同伴」で対談に臨まれたのには仰天したが、ぜひ傍聴したいと望まれたので同席して貰った。
話は、速記録勝負になるが、問題点だけはおおかた吐き出しておけたと想う。

* さて、京都はむやみと暑い梅雨前の日照りで、対談後のアタマのくらくらするにまかせ、反射的に、西の大原野、青葉に燃える「花の寺」の、さすがに蝉の声こそまだだが、桜青葉の青々とむれている西行出家を伝える「西行桜」の名刹を慕わずに居れなかった。
あれから何年になるだろう、いま、盆暮れにすばらしい昆布を送ってくれる祇園の料亭「千花」へ、汗みずく「花の寺」からタクシーでいきなり乗り付けて初めて暖簾をはねたとき、板場に、西行の生き姿ではないかと想うような古武士のような板さんが、いちげんのわたしをきちんと迎え入れてくれたのだった。
わたしはそれまで「千花」を識らなかったが、運転手が「佳い店」と奨めてくれたのだ、いや、まことに佳い店で酒を飲むにはあんなに上等のカウンターの店はないと思い、以来、何かというとものにも紹介し、また店を訪れる。
糖尿の患者には或る意味で酒の進む店は控えねばならないのに、控えきるには本当に惜しい、懐かしい店なのである。あの時の生き姿西行はんは、代が変わっても今も接客の間合いもたしかに、土間で話し相手をしてくれる。
花桜ならぬ青葉の匂う花の寺に、人影などありはしない。それだからこそ、夢うつつの幻影はたちまよう。

* それでもなお日のいちばんながい夏至前である、快調に新幹線は走ってこともなく、夕茜の燃えるように美しい七時には家に帰り着いていた。そしてすぐさま旅の後始末を付けながら、対北朝鮮サッカーの「二対零」快勝の試合を楽しんだ。忙しかったが、京への旅は旅、楽しかった。帰路の新幹線では下巻のゲラを沢山読んでもこれた。
2005 6・8 45

* つい最近、オオッと思うメールが届いていた。はじめ不正メールかなと削除しかけたが、こころもちそうではなく思われて、届くかどうかオッカナビックリに返信した。発信されたのがいかにも初心者メールに思われた。辛うじて文中に名乗られてある名前から、ああそうかも知れぬと思い返信しておいた。これは、それへのまたの返信で、実質初のメールと言える。
この人は高校の茶道部でわたしから茶の湯の手ほどきを受けた後輩部員。同級生だった秀才の兄の、可愛らしい妹である。高校をわたしより二年おそく卒業しているはずで、以来顔を合わせたことがない。今は京都にいない人だが、しかも「湖の本」を、お姉さん(私の先輩)と二人で、ずうっと講読して下さっている。有難い有難い同窓生であり、短歌を作り始めたと云うことも、払い込み票での文通のうちに聞いていた。「とっても嬉しく懐かしく」というのは、わたしも同じである。
わたしの二年後輩の茶道部員にはいい人達が何人もいて、みな懐かしくよく覚えている。

* あの高校には、いい茶室が出来ていた。「雲岫」席といった。それなら茶道部を創ろうと提唱したのは二年生のわたしだった。指導の先生はいなかった。中学の時と同じく、わたしが一切引き受けて上級生も下級生にも、初歩から教えた。卒業してからも暫く教えに通っていた。そのころのいわば「お弟子」たちとも今も何人もお付き合いが続いている。
茶道部でだけでなく、高校時代、家でも、別に何人かの後輩のグループに、週に一度ずつ茶の湯を教えていた。その中の三人までやはり「湖の本」の最初からの読者でいてくれる。
わたしはていねいに人と付き合うタチであり、だから永いのである。それは茶の湯のこころであろうかも知れない。石川県の文学館長であった心友の井口哲郎さんは、いつかわたしに「秦さんはほんとうに人と丁寧に付き合われる」と言われたことがある。わたしは、これでも、心を許す人達とはほんとうに心を許しあうのである。何十年も逢わなくても、それは何の障りにもならない。
期せずして、もう一人同じようなメールをもらっていて、これまた不正メールなのかどうかハッキリしなかったが、やはり何十年も逢ったことがない、わたしから茶の湯の手ほどきを受けたやはり茶道部の後輩であるらしい。こつちは、まだきちんと交信の段階に入っていないが、やがて通じるだろう。
みな、お下げ髪の愛らしい少女達であったけれど、間違いなく、揃ってやがて七十になるのだ、これは誤魔化しようがないので気楽である。むしろ驚くのは、そういうレキとした「おばあちゃん」たちが「電子メール」を呉れるという、この、現代的現実である。オウ、と声をあげてしまう。
2005 6・17 45

* 祇園会の吉符切りももう済んで、京の町には鉾が建っている。囃子の音色も懐かしい。祇園の舞子たちの髪飾りもひときわ美しくなり、そしてやがては八朔、お頼み日がやってくる。清潔な藝妓の揃い衣裳も、姉さん舞子の盛装もひときわ映える真夏の容儀である。 2005 7・14 46

* 洋画家の池田良則(遥邨画伯の孫)さんから、印刷ではない、扇面に長刀鉾を美しく描いた扇子を貰った。今日はそれを間近に飾ってみる。往時は渺茫、しかし忘れも消えもしない金無垢のような愛が京の街には生きていて、ことに祇園会のころには眩しいほど身内の闇に光ってくる。あの暑さ、あの夕立、あの神輿、あの浴衣浴衣浴衣、あの街なかのどよめき。そして鱧や冷素麺や、祇園囃子。
2005 7・17 46

* じいっと目をつむって、いま一番行きたい京都はどこかしらんと想っていた。閃光のように小松谷の奧の山道から清閑寺のあたり、また泉山の観音寺橋から来迎院の前へ、また龍安寺の石庭でなくてあの回遊できる広池の木蔭、あるいは文徳天皇御陵の門徳池の清寂、桜木に蝉の鳴きしきる大原花の寺の日照り、小野随心院の奧庭、祇園下河原の石塀小路…。だが…今はやはり祇園サンの境内に行きたい。朱の楼門、石段、四条通。
2005 7・17 46

* 祇園会の京都は、凄い! 人出で、汗びっしょりの見物でした。何必館へも行きました。お体、大切に。 鳶

* 何必館。 いまごろ、あの「京都現代美術館」の静かさにひたされ、華岳の佛や山に見入れるなら、何もほかにいらないと思う。最上階の窓からは祇園の一力=万亭の瓦屋根がみおろせる。あの階の楓樹はすこし幹もふとったろうか。
2005 7・17 46

* 勉さん お変わりありませんか、お元気に過ごされていることと思います。こちら、年々に暑さの加わり行く日本の真夏。うかと外へも出にくい日々ですが、京は、祇園会。
その京都で、弥栄中学の、おそらくは最後の機会になるやも知れない同期会をぜひ実現したいと、西村肇さんが奔走してくれています。
ついては、勉さんの顔もその機にぜひ見たいという希望がつよく、こちらへ(カナダから)お帰りの予定が分からないだろうかと、わたしへ問い合わせがありました。「会期の設定がそれによって大きく遅れることは困るのですが、近々、お帰りの予定があるのなら、合わせてみようと考えた次第です。却って勉さんを悩ますようなら申し訳なく、ご無理の無いように……」と、肇さんらしい配慮です。急いで取り次ぎます。
可能な限り私も参加して人生七十を思い、往時の渺茫たるを懐かしみたい、勉さんにも逢いたいと思っています。 橋田先生も弱っておられ、その日にお顔出しが得られますかどうか。
まずは、お返事を待ちます。
勉さん いつもいつも、湖の本など、有り難う存じます。感謝しています。  恒平

* 肇さん 勉さんに伝えました。勉さんの返辞を待ちます。
メール開通を確認すべくこれを試験的に送ります。アドレスの中に、 ne とか co とかが入らなくていいのかなと少し気にしながら。   (やはりメールは戻ってきた。)
暑いのは真夏であたりまえとはいえ、シンドイですね。お大事になさいませ。
いつもいつも湖の本へのご厚意、ありがとう御座います。
何人か、メールの往来のある同窓生にも、会期などきまればわたしからも伝えましょう。切に願うのは、予定や先約とかぶらないようにと。可能な限界まで差し繰りする気で居ます。
たしかにみなさん七十にまちがいなく、仰有るように、もうそうそうは計画しにくい一つの極みですね。一人でも多くお目にかかりたいですね。
先生では、佐々木葉子先生、牛田先生、木平(信ヶ原)綾先生、宮崎先生らご健在と思います。
いっそ上と下と一学年ずつぐらいにも自由に参加して貰っては、とさえ。もうお互いこの年ですから、上も下もないですもんね。賑やかがいいかも知れません。  恒平

* 往年のわれわれ生徒が、揃って古稀七十の同期会…、…一期一会。
2005 7・20 46

* カナダの勉さんから返辞があり、そのまま京都の肇さんに転送する。ちょっと簡単には動けないようだ。
2005 7・20 46

* 京都から、新制中学同窓会の秋会場で難航している、土日にこだわったが平日でもいいだろうかと尋ねてきた。古稀七十が寄るのに土曜日曜は関係ない、その方が電車に乗りやすい。盛りの秋の土曜日曜の会場は取れるものではないと聞いていた。
2005 7・30 46

* 太左衛さんからぜひ花火にどうぞと誘ってもらっている。ひとりで夜空を染めるおお花火を見上げているのは、京の送り火大文字をながめるのと似た深い寂びしみも味わうだろう。人に知られない涙が溢れるかも知れない。
2005 7・30 46

* 十一月に弥栄中学の古稀同期会の日取り・会場がきまったと報せがあり、メールで伝えられる友人(夫人)へも転送した。メールの使える友人は幹事の西村肇氏をおけば、六人しかしらない。一人は滋賀県、一人は京都、一人はカナダ。他は関東(東京・千葉・神奈川)。女性一人。高校までひろげ、同期から同窓へひろげるとうんと人数がふえる。
この人も拡げた方の一人になる。
2005 8・2 47

* 京の吉兆の、高価な御馳走を賜り、恐れ入ります。酒の肴においしく最良です。嵯峨嵐山の風情も髣髴と加わります。年に一度、あそこで美術の財団理事会が開かれたりします。どんなに暑くても京都を想い出すのは心嬉しく、胸が熱くなります。京の思い出の中には自然日吉ヶ丘が大きな場をしめますし、あなたのいた祇園縄手の銀行辺もありありと甦ります。
お兄さんもお姉さんもお変わり有りませんか。昔のお友達ともお付き合いが続いていますか。
わたしの中学では、十一月にもう最期かも知れない同期会を計画しています、つまり、「古稀」同期会だとか。なるほどなるほどと、なんだか胸のふさぐ心地ですが、幸い元気です。あなたもお大切に、お大切に。
一度またお近くの中野美術館などへ出かけたいものです。
雲岫席での写真があり、少女のむかしの笑顔は眼にあります。つい今もそのままに想ってしまうんですね、気が若いのかも。ま、お互い、気は若いが佳いです。
ご一家のご平安を心より祈っています。 湖

* 京都の郊外で美術商を営んでいる脱サラした人とも、遠からず歓談の機会がありそうだ。本を出したので出版記念会に来てくれとも言われる。わたしがいちばん願っているのは、のうのうと、漲り溢れる透明な温泉につかって思い切りはな唄をうたうことだ。
2005 8・6 47

* 京都へ五時前に入る。車中で、中澤かねおさんの作品を通読した。

* 五時から「すすほり」で榊原新編集長と「美術京都」の企画会議。中信の平林常務、新担当の川勝部長、そして編集担当の石飛さんも加わって。
表紙はなお当分は何必館の梶川君の配慮にまかせて、いまの村上華岳の作品でつづける。
場合によれば巻頭言をきりかえ、珍しい作品、デッサン等の写真頁にしてもいいのではと、但し余り古めかしい史料的なものでなく、近代以降の作家達の珍しいもので。
梅原猛さんとわたしとの交互の巻頭対談は従来通り続ける。論文は従来通り読み応えのする一本単立を続行。
時にはカラー写真も使用。しかしあくまで「読む」雑誌の本分をまもり、「見せる」ための写真雑誌にはしない。準専門誌としての性格を守って行く。
そして論考の望ましい依頼先や論題をかなり沢山出し合った。従来どおり編輯顧問としての役をつづける。ながらく編集長の任を委託してきた郡定也同志社大名誉教授に感謝する。郡さんはわたしの親しい先輩であった。

*「すすほり」の料理はそこそこ変化に富み、ケッコウであった。お酒をタップリ戴いた。うまいとついつい呑む。ことに「すすほり」はわたしの宿の地下にあるのだ、はなはだラクであった。
部屋に戻り、ほどなく酔いのままに機嫌良くすぐ寝入って、目が醒めるとテレビがついたままの夜中の二時であった。
2005 8・22 47

* 豪雨かと天気予報に脅されていたので、今日の京都はしょせんムリかと思っていたが、昨日案外に晴れた京都で、今朝も曇ってこそいたが、何とかなりそうな雲行きだった。
しかし昨夜の酒に眠くもあった。ままよと、よろしき朝寝を昼まえまで夢にまみれてむさぼった。このホテル、枕の上に折り鶴を置いている。

* 荷をあずけて外へ出るとパラパラと来た。ひき返してホテルで傘を借りて出た。幸い傘をさすことは、いちどもなかった。
常林寺へは先日従妹が参ってくれていた。下鴨糺の杜の深い夏木立の緑も懐かしいと思った、が、空腹も。で、祇園縄手で、この前にやはり雨の花どきに来た、昔懐かしくもある「蛇の目」で、季節の鱧のおとしや鱧寿司が食べたかった。ところが、店をあけていず、落胆。
しかたなく祇園をあるくうち、大衆的ではあるが小ぎれいな大原女屋にとびこみ、うまい冷酒で格安の和食弁当をゆっくり食べた。おまけに当店自慢の銘菓「かま風呂」を買い増し、抹茶一喫。落ち着いた。

* 屋形船で嵐峡館へ乗り込みたい気もあったが、祇園まで来ると、この界隈には立ち寄りたい馴染みの場所はとめどない。たっぷり、のんびり歩いたものの今日は猛烈な湿気で暑くて、汗みずく。それでもめげずに、粟田坂からタクシでおきまりの泉山をしみじみと歩いてきた。即成院の仏様、戒光寺の丈六釈迦、観音寺。来迎院の含翠庭。泉涌寺金堂。

* 夕刻、のぞみに飛び乗って、東京へ近づくに連れ車窓を強い雨が叩き初めて、おやおやと当惑したけれど、結局保谷駅に着いたときは傘のいらないかすかな降り。幸いタクシーも目の前へ早く来てくれた。一日半の慌ただしい旅であったけれど。「戦争と平和」第七冊めを、保谷駅へ電車がすべりこむところで、読了。

* 帰ると、委員会の新たな日程が二つとびこんでいた。いくつものまともなメールを溺れさせそうに、不正広告メールが大波のように。大わらわで削除。
2005 8・23 47

* 中河与一『天の夕顔』の余韻が身内にある。
どんなきっかけで、どんな版で読んだかも忘れているが、はっきり覚えているのは、この小説は、わたしが独りで読んだのでなく、「妹」と二人で読んだのだった。
なにもかも書いてきた周知のことであるが、わたしは新制中の二年生三年生ころ、いまの何必館主(京都現代美術館)梶川君の三人の姉たちと、わたしの人生を左右したかと思われるほど深い気持ちで親しみあった。姉はわたしより一つ上級生であったから「姉さん」と呼んでいた。下二人はわたしの一つと二つ下の学年にいた。「天の夕顔」は、経緯は全く記憶にないが、そのうち一つ下の「妹」と読みあって、二人とも大いに感動したのであった。だいたいこの妹とは、「ケンカ」していた時の方がずっと多かったけれど、この本に、いやもう一冊「細雪」を読みあっていた頃だけは、不思議と気持ちが寄り添っていた気もする。
それからはもうポーンとなにもかも途切れてしまい数十年になるのだから、そして可愛かった一番下の妹は亡くなったとすら風の便りに聞かされているのだから、往時渺茫、あまりにはかない。
今度読み返してみて、しかし、あの時代、あの年頃の、読書好きな少年少女であれば、この作品に感動しない方が可笑しいかも知れないという気がした。
当時わたしは、もう源氏物語は与謝野晶子の導きで繰り返し暗記するほど読んでいたけれど、もともと、宇治の物語で大君が薫を振り切る話だの、ジッドの「狭き門」でアリサがジェロームだったかを拒みきる話だの、ゲーテの「若きゥェルテルの悩み」でヒロインが青年ウェルテルを受け入れずに死へ追い込んで行く話だの、またバルザックの「谷間の百合」にしてもそうだったが、その手の「心こわき女」をあまり好きにならなかったものだから、小説を書き始めても、とても「天の夕顔」みたいな恋愛を書く気はしなかった。だから、というのも可笑しいが、中学生の昔、わたしは「姉さん」を「姉さん」とは別の恋の対象のように想うことなど、わたしの方で強く避けていたと想う。「姉さん」はむしろわたしには「母」であった。恋をする可能性は妹との方にあったろうけれど、どうしたものか、いつもきつい「ケンカ」ばかり。のちのち聞くと周囲の眼には、そうでもなかったらしいのだが。

* 「天の夕顔」の著者中河与一を、小説を書き始めたわたしは、むろん忘れるどころではなかった。初の私家版を造ったときも、すぐ住所を調べて謹呈した。折り返し「遊びにおいで」と手紙でお誘いがあった。その後も二度三度あった。その後の長い間、亡くなるまで本もお送りしたし、簡単な文通もあったけれど、ついに一度もお目に掛からなかった。気後れでないにしても、何かしら「ご迷惑」を憚る気持ちが、誰方との場合にも、先に動くのだ、わたしは。瀧井孝作先生のように突如お電話が来て、「すぐいらっしゃい」では、八王子まででも即座に出かけて行くしかなかったけれども。
中河与一という作家には、経緯は知らないが、かなり公然と戦後文壇から「逐われ」ていた印象が、いや事実が、あった。そういう「文壇」なる権力をわたしは今でも嫌っている。ワケは分からないが、明らかに世界的に高く評価された名作「天の夕顔」の著者ではないか、と。中河さんは横光・川端とならんで「文藝時代」の同人の一人であったのだ、もともとは。
この作品、国内の文壇には全面黙殺されたが、与謝野晶子、永井荷風、佐藤春夫その他、「文壇」外の優れた文学者や詩人や知識人らには絶賛された。海外では、カミュその他著名な大勢の文学者から、実に公平に高く称讃され、翻訳され続けたし、わが国内でも、わたしや「妹」のような少年少女に至るまで、江湖の読者を爆発的に獲得し、永く今日まで版数を重ね続けている。それに優に価する名品なのである。
しかしこの著者は、日本文学社会では極端な不遇の人であった。通俗虚名であったからではない、その逆の、極北に位置するほど清潔無比、高邁な精神的な恋を書いて成功していたのである。
とはいえ、今日のシブヤやシンジュクにたむろする少年少女たちの目に、この恋がどう映じるかは計り知れない。存外ものすごく受けるのかもしれない。そして何かが変わるのかも。日本浪漫派の重鎮安田与重郎は、「解説」で、文学とはいかなる価値かを高らかに説き、文壇をつよく批判して、いかにこの作品が優れているかを胸を打つ熱意で書きつづっている。その核心部分では深く聴くべき言葉がある。(わたしは日本浪漫派の思想に与しうる性向を持たないのだけれど。)
わたしは一度中河さんの谷崎論を書評したことがある、が、忘れた。さほどの印象を持たなかったのであろうか。
2005 9・1 48

* 十月一日のペン京都大会案内が来た。電子メディア委員会が関西委員会と懇親会も併せ持ちたいとたしか言ってきている。大会そのものには、講演もふくめて興味はうすい。が、関西の顔見知りが大勢参加する。わたしの推薦で入会した人も多いし、行けば行った楽しみもあるだろうが、なによりやはり「京都」の魅力が誘ってくる。南禅寺、永観堂がまぢかだし醍醐や大津へもひとり車ですぐ行ける。さっきの電話で奥谷智彦君もさかんに来いというが。何年か前には妻と出かけている。体調がゆるせば、だが。
2005 9・5 48

* 十一月の古稀同窓会のアテにしたホテルが満杯で予約できなくてビックリしている。 2005 9・25 48

* 鞍馬の火祭を夫婦でみてきた囀雀さんのレポートが届いている。わたしたち夫婦のもう二昔まえの体験とも重なるもの、もちろん多い。
鞍馬の、と謂うので山上の鞍馬寺の祭りのように感じやすいが、寺と祭りとは普通になじむ物言いではない。一つには鞍馬寺を鞍馬神社かのように錯覚する人もあるぐらいだから、「祭り」と謂うて違和感がないとも言える。
鞍馬寺は、たとえば延暦寺や知恩院が寺であるのとおなじお寺とは謂いにくい。いわば魔天狗の棲むお寺でもあるからだ。すばらしい仏像も捧持している一方、することなすこと神事と呼びたい「竹伐り」そのほか、異色に富んで天文の不思議ともこの寺は関わっている。火祭りも、だから…と想うのは、当たってもいそうで、だが少しちがうのである。
鞍馬の火祭は厳密には鞍馬寺の行事ではなく、麓の「由岐=ユキ」神社の祭事である。大きな重い「筌」の形の大松明が、「サイレヤ・サイレウ」の雄壮にしていくらかエロスの匂いもする掛声もろとも、燃えさかる火の粉を闇にふりまき山々谷々から湧くように流れ動いて一所に密集、波濤のように狭い石段を駆け上がる先は、この「ユキ神社」拝殿の前庭であり上庭である。石段は狭くて急。

* 火祭りは火熱で世界をあたため、春到来をうながす祭りであるが、鞍馬の火祭には明らかに山国の祭りであるにかかわらず、海の風情と風習に根ざしている。日本海を経て鞍馬道にいたる道筋には自然の経緯があり不思議はない。そもそも村人山人の火を燃やしてかつぐ大松明の形、「筌」は、あきらかに漁労の道具、魚を追い込む道具であり、それを担いで出る男達の帯をしめないはでな女衣裳と見える長襦袢の着流し姿は、漁師のもの。相撲の力士達の長襦袢すがたもまた、もともと漁師のいでたちであった。褌と謂いサガリと謂う、浦島太郎が漁師であったことをたちどころに思い出させる。鞍馬の火祭由来は、西南海の海の男達の祭りであった。神社名の「ユキ」は「壱岐」に通うている。梁塵秘抄は、壱岐の島を「ユキ」の島と発音している。漁師の漁に、「火」は信仰と必要の最たるもの。鞍馬の火祭の淵源は「海」の生活にあったと言いきれるだろう。
2005 10・23 49

* 京都の下京に不明門というところの名がある。「ふめいもん」ではない「あけず(もん)」と言い慣わしている。
門や障子などの「あける」「あく」はふつう開ける・開くと書くし、場所を「あける」「あく」だと空ける・空くと書く人が多いかも知れないが、雨が明かる、部屋を明ける、うち明けるなどと、「明」という漢字をきもちいい感じに用いることも多くて、いいものである。「明いた日は一日もない」など、「空いた」だと「あいた」か「すいた」も判じにくいのと比して、よりよい趣味のある表記だと思っている。不開門ではつまらない、不明門がやはり雅であろう。
2005 10・28 49

* いい感じ、茫然として車中、なあんにもしないで京都へ入った。むかしは永い電車がいやで、落語を聴いたり音楽を聴いたり夢中で校正したり本を読んだりしていたのに、見るとも聴くともなく、窓外の景色を美しいなあと眺めているだけで名古屋も過ぎ京都に入った。

* やっぱり泉涌寺へ行ってしまう。静か。静謐。幸い雨の跡の好天で、緑も、わずかな紅葉も、冴え冴えとしている。鍼(はり)一つ落としてもきこえそうな深い静寂がそのまま清寂に。来迎院の縁に、庭に。人っ子ひとりの訪れもない、院の人とも顔を合わせない。いま、わたしの世界中で、ま、家でラクにしている日々は別として、此処へ来ているときほど贅沢で安心なときは無いと言い切れる。
縁側からの遠望が幾重もの緑の遠い衝立のように奥深くなり、そして木々の葉の優しい色彩の多様さが、いまほど美しい季節はない。満々とした紅葉は心を酔わされ乱れがちになるが、静謐の青空の下でさやぐ緑も翠も未だ僅かな紅葉も黄葉も、こよなく照り、照りあい、にじみあい、わたしを包むようにときおり日にきらめく。
庭をもとおり、池をのぞき、茶室の戸をあけてみたり、書院の襖の百人一首はりまぜをのぞいたりする。
おそらく、此処へ来るときほどわたしがシラーの謂うような「感傷」の味わいを知る機会はほかにない。わたしには朱雀先生もお利根さんも、まして慈子はぜったいに、必要で真実の命であった。あれは小説なんかではなかったのだとおもうのである。人はそれをナルシスというであろうが、いわれなくても自分がそれをよく承知している。わたしが来迎院や泉涌寺の境内や泉山の御陵に立ち入ってえられるほどの幸せは、やはり、そう有ることではない。生涯にしてきたいろんな仕事の全てを合算しても、出逢った全ての人達との幸不幸を合算しても、あの含翠庭の、あの泉山の、御陵山なみの、風に揺れ揺れて木々がものいうように大きく小さく遠く揺らいで見える永遠の幸福感にはなかなか匹敵しない。あの世界と対峙できる「現実」は、やはり、そう、限られている。

* 悲田院から晴れやかな下京の街も西山、また東山の峰峰をそよ風と明るい日射しのなかで眺めてきた。そしていつもとは逆に、帰り道に戒光寺により丈六釈迦如来をまぢかにながく振り仰いできた。いつ来てもだあれもいない。自由にお堂に上がり、心行くまで如来を振り仰いでいる。なあんにもない、心をとざしてくる外の想いはみな消えている。
こういうことをいうと、悟りすましたようなことを言うものでないと警告したがる人も世間にいないではないのだが、そういう人は、気の毒に自分自身のみじかい、せわしない、さわがしい目盛りの物差しでしかものがもう計れなくて、胸の内の闇や、ものの命が湛えている静かさが聞こえないだけなのである。信じられないのである。それで、疑うのであろうが、そんな他人の胸の内のひがんだ穿鑿よりも、自分自身の「今・此処」を問うてみた方がいいだろう。
人はそれぞれであってよろしく、わたしは自分がバグワンに聴きながら感じているものを他人に強いようとも、他人に分かって貰えるとも少しも安易なことは想っていない。悟ったようなことをいうどころか、わたしは悟りたいなどと少しも想わない、そんなことは求めてできることでないとバグワンのまさに繰り返し言うていることを、わたしは真実だと感じている。先日も眼から鱗をおとしてもらった「拈華微笑むのあの幸せな笑いは、求めて得られはしない、ただ静かに待っているだけ。来るかも知れず来ないかも知れず、決して期待しないのである。
そんなのは「ウソ」だと言う人は、自分でそういうウソを身に抱いているに過ぎない。ひとのことは、わかりっこない。わかってくれるのは、釈迦(ブッダ) のようなおおきなマスターだけであるが、わたしはなまみのそういうブッダに出逢っていないのだから仕方がない。

* 即成院から東山線までおり、ホテルへ戻ったが夕食の時間には間があった。バーがあいていたので、躊躇無く入り、ブラントンのダブルを生のまま、チーズで。たしか、あれはバーボンのはずだが、ブラントン、久しぶりに実に旨かった。「烏」という名の特製、すこしあまいシェリーも。
それから和食で晩飯にした。このときはもう酒はごく少しに控えた。部屋へ帰って、しばらく懐かしい昔の「コンバット」などみてから、辛うじてテレビを消したぐらいで、すうすうと朝まで寝た。
2005 11・7 50

* 朝食は抜き、出町へ、墓参。従妹が挿してくれたのだろうか、菊一輪。樒を左右へ、そして墓のなかへ秋草の侵入してきているのを払いもせず、少し手折って樒に挿し添えた、心地よく。(お寺さんは、そういう草は刈り取れ刈り取れと言われるが、わたしは、余程でない限り青草の寄りそった墓の風情を是としている。)称名百編余。それからいつものように父や母や叔母に話しかけ、今日は新刊の「百人一首」から、秋の歌を主に、たくさん読んで聴かせた。みな父や母や叔母に教わったのだ。そしてそんな本をわたしはいつのまにか書いて出版していた。

* 思い立ち、出町柳から片道三十分の鞍馬まで電車に乗った。東向きに比叡山をみあげ、なつかしい電車の駅名を数えて行きながら、二の瀬、貴船口、鞍馬の終点まで。妻ときた火祭りの昔をしのびながら、むろんもう山上の鞍馬寺までは、はなからあきらめ、由岐神社の拝殿を潜り、願掛けの大杉を振り仰ぎ、白長さまの祠にかすかに拝礼したりして急な石段を本殿前まで息を喘ぎながら上っていった。そしてすぐ山をおりて、また折り返し帰り電車に乗って、岩倉まで。そこから国際会議場の地下鉄駅へ歩いて、一路、京都駅まえの「ホテル京阪」まで。

*「弥栄中学第三回生の古稀を祝う同窓会」に六十八人が集まった。先生方はもう一人もおられず。それにしてもわたしは、四十人ぐらいが精一杯かと予想していた。五組あった一と組分にずっと余る出席、カナダから田中勉君、関東から團彦太郎君、西村明男君らも参加。男女はあれで半々ぐらいだったかも知れない。賑やかな各テープルの中で前へ出て、どう喋る人がいてもほとんど聞こえもしないまま、ながなが話している人もあり、要領よく話す人もあり、その中でわたしの「お父さん、繪を描いてください」にふれて、モデルの「山名」クンのことが大きな話題にされたのはいいことで、うれしいことであった。わたしにもう少し気が利いていたら、彼に、化けてでも出てもらいたかったが。

* 懐かしい人もいた、卒業以来初めての人もいた。来ていていい人が欠席しているのもいた。年は偽れない、男も女も正に、古稀。それでも健康で又こうして逢いたいと願う人達が多い。わたしは、シンとしていた。もうこれ以上望んでいない自分に気付いていた。
「過去」というのが、わたしには寂しくなっている。この先へ先へ、あしもとを見ながら、トコトコと歩いて行く自分があるだけだと想う。世界中を、死ぬまで旅して廻って楽しみたいと言う友人には、げんきやなあと思う。まだまだ月給を稼ぎ続けていたい人にも、やはり、げんきやなあと思う。
二次会に誘われて行ったクラブで、六人ほど、それはもう上手に演歌の数十曲をうたいまくって、ますます燃え上がる男子女子には、ほとほと、ほとほと、感心してしまう、げんきやなあ、昔の七十とはえらい違いやと思う。ディスプレイに浮かぶ煽情的な男女の写真、そして演歌の歌詞という歌詞の、うーん……。しかしこのようなメロメロの歌詞を、メロデイを、間違いなく日本のインテリも、そうでない人も、おしなべてあまりに深く濃く心身に刷り込まれていて、自民党を大勝ちさせるような日々の意見や生活態度がそこから生まれているのだから、わたしなど超少数派は、あまり口を利く余地はないなあと惘れていた。
それから、さらに何人もでどこかへ流れゆくのには、一人「さよなら」して、四条通をノンビリ歩き、そうだ懐かしい「梅の井」の鰻を食って行こうと縄手の店に入った。出来たら、いつか、この店の主人と「京の町衆」といった対談を企画したい気がある。
そしてどういうかげんか、予期していたよりも、特上の鰻重も赤出汁もすこぶる美味くて、重かった酒の氣もすうっと抜ける心地。そのまま烏丸の宿まで、町歩きをたのしんで帰り、そして入浴、スイと寝たと言いたいが、読み継いでいる「千夜一夜物語」がすこぶる面白く、一時過ぎまで読んでいた。
2005 11・8 50

* 帰ってきたら、ま、百にあまるメール。ただし七割はスパムメールで、消去また消去。大阪産経から校正の督促も来ていたり、郵便物か三日分で山のようになっていて、湖の本の払い込みがどうっと来ている分も、新しく追加で送る分も、放っておけない。そのしまつに追いまくられて、あれよあれよで日付が替わった。
あすは聖路加で眼科の検診、もうこれ以上、目もつかいたくない。あさっては国立で、橋之助の光秀、我當が春永に出て来る。どんな癇癖ぶりを演じるか、楽しみ。
2005 11・9 50

* メールありがとうございます。雨の真夜中です。京都の旅お疲れさまでした。私語の刻で読みました。ほんのちょっとでも、お会いしたかった。恒平さんの京都には、私の入り込める隙は無いのだと、ちょっぴり寂しい気持ちもしました。
なんゃ、ひがんでるみたいですね。(笑)
百人一首おもしろく拝見しています。はぁ~、そうやったんか、目から鱗がいっぱい。
お身体も目も、くれぐれもお大切にお過ごしください。 おやすみなさい。  のばら

* ほんのちいさい子供の頃に会うていたこの従妹との再会は、なぜかしら、すこし気恥ずかしい。鏡を見るつど、ひどい爺ぃになっている。
京都へ行くと、東京でよりももっと「ひとり」で、いる。そのために京都がますます寂しい街になってしまうのだが、だから懐かしい街なのでもある。ホテルの閑散としてうすぐらいBARで、制服のバーテンさんと向き合い、ときどきボソボソと喋っては美味い酒を贅沢に呑んでいるとき、ほっこりとわたしはひとりで寛いでいる。我ながらへんなヤツだが、わたしはたぶん捜しているのである、そういううすぐらい時空のなかに秘密の扉がかくれていて、もしうまく取っ手に手が掛かればするっと「他界=あっち」へ身を移せるのではないか知らんと。
2005 11・12 50

* 京都縄手の鰻割烹老舗「梅の井」主人三好閏三君の手紙をもらった。弥栄中学からの同期同窓生。京の町衆の風情を伝えている数少ない店主であり、趣味豊かな人であり、「美術京都」での対談を前から希望している。そのことをちらっと耳打ちしておいたのへ、アクティヴな近況を報せてきた。楽しみに出来る。

* 京都「ほんやら洞」店主でペンの会員でもある写真家、甲斐扶佐義氏のありがたいメールも来ていた。
2005 11・22 50

* わたしは、もともと先ず「酢」の味が好き。鮨飯の味がだから、美味しい白米飯や白粥とならんで好き。そして年を取るにつれて佳い魚の味が好きになって (煮魚の腥いのは叶わない、)それで鮓が大の好物になっている。「食べる」となると鮓、天麩羅、鰻と思いつき、としのせいか鰻はやや後退しているが、先日京の縄手「梅の井」で食べた鰻はほんのり香ばしくすらあり、美味であった。
「梅の井」ちかく、四条縄手「蛇の目」鮓の鱧鮓も大々好き、そして酒なら四條縄手東の「千花」へ立ち寄る。ときには四條小橋西をすこし下がった「杉」へも寄る。河原町でなら四條少し上がる西の「ひさご」寿司がよく勉強して、大の人気店。ほんとうに贅沢をする気の時は、木屋町西の「たん熊北店」の座敷に上がり、ひとり、ゆうっくり喰って呑んでタンノウしてから東京へ帰りの新幹線に乗ったりする。祇園富永町から、一流割烹であった「浜作」が姿を消したのはじつに残念。ま、一泊二泊の京都でなら、今挙げたそれぐらいの店があれば、足りる、十分に。
四條寺町の西に、以前は仏蘭西料理の「萬養軒」があった。今はこれも姿を消していて残念。
肉や中華料理なら、寺町三条の「三島亭」のすきやき、中華なら河原町から姉ヶ小路へ入ったところの、なんとか謂った老舗が懐かしい。
ああ、わたしは何を「私語」していることか。
2005 11ー26 50

* わたしに京都を案内して欲しいと言う人、時々有るが、一緒に美術館へ行きたい人はその方が気楽なせいか、ちょいちょいある。しかし、そういうことをわたしは、めったにしない。美術工藝を観るとは、この雀さんのような「没頭」が本来で、こういうふうに観るには「独り」が何よりなのである。むろん目的があり、同じ作品を視線をそろえて観てくることに意義のある場合もある、東工大の学生と行くときは努めてそのようにして観た。口移しに育むような見方というと変かも知れないが。
普通は、独りで観る。人と一緒に行っても結局はばらばらになって観る。たいていの人は一つの美術館に三時間もおれるものでない。三時間も居れるということはそれが至福の時であったということ。
東京という街は、京都とちがい、自動車を見ないで、歩いて楽しめる場所がない。仕方なくどこかの店にお金を払って入り込み、「お茶する」などという変な日本語を体験しなくてはならない。さもなければ、飲み食いか。映画ならやはり独り観るのが本当だろう。
この界隈では石神井の三寶寺池なんて佳いところだが、最近日本刀を振り回して人に斬りつける男が出たなんて。情けない。
東福寺、清閑寺、清水寺、また永観堂、法然院、さらに金福寺、詩仙堂、曼殊院、車でまわって円通寺、さらに妙心寺、仁和寺、大覚寺、厭離庵、常寂光寺、そして天竜寺。京の初冬もまた佳い。行かなくても行ったと同じほど甦ってくる最良の記憶。
東京では、やはり演劇が一番。わたしのかつて識らない佳い東京へ、誘って呉れる人はいないか。
2005 12・2 51

* 煖房していても脚が冷える。そういう季節だ、あたりまえのこと。電気や瓦斯で煖房できなかった昔、わたしの場合昔とは即ち戦時中の京都新門前時代であるが、家中で、中三畳の部屋に二つの大きい火鉢を囲んでいた。京間の三畳は江戸間の四畳半に近いとはいえ、狭いモノだ。火鉢でも十分温まったけれど、隔ての硝子障子を少しでも開けると、寒気が容赦なく突っ込んできた。きちんと閉めないで部屋を出て行くと、当然、叱られた。すきま風は光る刃物のように斬りつけてきた。
2005 12・7 51

* まるで「氷の床」ほど冷えた。浅い夢で、浅い睡り。

* 京都や名古屋が記録的な大雪で、新幹線もやや遅れているようす。気温など緩和の傾向らしいので、行くには行けるだろう、雪の京都になるのは、それはそれ、その程度であれば。
秦テルオの「出町雪景」を出してみよう。
関西からの旅客など、大過なく滞らずに出てこれるだろうか。
機械も寒さにふるえている。
2005 12・19 51

* 昨日の(京都)市内の積雪も消え、朝からずっと降り続いていた雪も止みました。
明日は寒波も一休みだそうです。
京都で古希をお迎えとのこと、おめでとうございます。
今度の京都は、奥様もご一緒だし、顔見世もお楽しみで、全然お寂しくないですね。
良いご旅行になりますよう、お祈りしています。    のばら

* 師走の京の冬ざれは、身に沁み覚えている。寒いのは覚悟。
お天気に、どうやら、なるらしいと喜んでいる。芝居もわくわくだが、註文してある「菱岩」の仕出し弁当もそれはそれは楽しみ。
あっというまに、行って帰ってくる。藤十郎襲名の「口上」は、初春の歌舞伎座の楽しみに、とってある。
2005 12・19 51

* 古紙の山も回収用にみな外へ出して。好天。寒いのはあたりまえのこと。ひさしぶり、夫婦して京都へ。明日中には帰ってくる。

* 名古屋辺、雪は残っていたが快晴。しかし関ヶ原から米原を経て近江路までは吹雪くほどの雪で、少し新幹線は徐行したが、十分程度の遅れで難なく京都着、晴天。

* 車で、今出川の「ほんやら洞」に途中下車し、甲斐扶佐義氏に歌集「少年」を手渡し、そのまま出町の菩提寺に。夫婦して墓参、掃苔。念仏数十編、古稀を迎えることを両親と叔母とに報告し感謝し話しかけながら、香華を。
歌集「少年」からは、上田三四二さんの文の、91頁末の歌二首から93頁最初行の歌まで墓前で音読。わたしに三十一文字と謂うことを、添い寝のものがたりにして聞かせたのは、叔母ツルであった。国民学校の二年生になっていなかったろう。

* アキレス腱の痛みは脹ら脛にのびあがり、腰にも来て、歩行かなり苦痛。それでも地下鉄で出町から三条に、そして古門前の思文閣にたちより、此処の会長とのいずれの「対談」にわたりをつけておいて、切り通し「菱岩」に立ち寄り、明日の仕出し弁当を頼んで、二人分一万二千円余を支払っておいた。
新門前を狸橋までそぞろ歩き、やきものや道具類の店に替わっている、元の我が家跡もちょっと覗いてから、新橋へ。「菱岩」で聞いておいた、フランス料理「萬養軒」に寄り、五時過ぎの食事を予約。縄手から四條をまた東行して「鍵善」に入り、黒蜜の「葛きり」を、しばらくぶりに楽しんだ。
昔懐かしい老舗であるが、奥をおしひろげ、気持ちよい店にしてある。祇園では観光客にも人気の店だが、売り物は昔のまま吟味よろしく、葛きりは美味い。店内の古美術、絵、版画、また「顔見世の楽屋入まで清水に」とある先代吉右衛門の句色紙など、さすが京の老舗の懐のたしかな深さを思わせた。
そこから五時過ぎに、「権兵衛」「いずう」の前をぬけて映画でしばしば馴染みの辰巳橋から西へ、「萬養軒」へ入った。佳い席を作ってくれていた。

* 「萬養軒」はもとは四條通りの目抜き一等地にあり、京都では随一といっていい老舗のフランス料理店だった。美術賞の財団の理事会などもしたこがあり、われわれ夫婦も随分昔に一度食事していたが、この一二年、その店を見失い、ひどく気にしていた。今日タクシーの運転手に、祇園新橋に移ってますと聞かされ、「菱岩」の女将さんにも聞くと、確かに新橋にと。古稀の南座では「菱岩」の仕出しを楽しみ、出来れば前夜は「萬養軒」がいいんだがと妻と言い合っていたので、これ幸いと予約を入れた。
四條のハイカラな店とは様変わり、祇園甲部の町並み保存地区、しっとりとした和風の構えの奧に、落ち着いた店をつくっていた。ま、事情あって四條の店から移ってきたのだろうが、フルコースの料理は、じつにメニュもめずらしく、また美味しく、満足した。ワインもピタリと料理にかない、心地よい酔いを得た。坪庭の奧は高い塀、その東手二階には灯のいろ美しい瀟洒な障子窓がみあげられて、お芝居の書き割りのようで書き割りならぬ風情のよさ。店内にかけた絵もわるくなく、神下雄吉(?)の洋桃の絵は、とくに妻が気に入った。

* もうこの上飲みたい食べたいはなく、明日には来る南座のまねきを見上げて写真に納めたりしながら、師走四條通りの夜をゆるゆる、ゆるゆる西へ歩み歩み、念のために風邪薬を買っておく程度にして、烏丸のホテルに戻った。
妻は疲れもしたであろう、ワインにも酔ったようで、シャワー程度ですぐ寝入り、わたしは校正したり八犬伝を読んだりしてから入浴し、それでも十二時までには灯を消して朝まで寝入った。
2005 12・20 51

* 古稀、七十の誕生日、六時半に目覚め、窓に東山の曙を見る。心爽やか。

* 朝食ははぶいて、八時半、荷物を預けて、チェックアウト。車で、圓山公園の「いもぼう」下まで。
そこからは朝早やの静かな公園を心行くまでそぞろ歩いて、この艶に優しい造園の粋をそこここに認め認め、楽しみ合った。せせらぐ水音の底知れぬ静けさ。花なき花木の枝がちに冴え冴えとしたすがやかさ。木々の遥かに知恩院の大きな甍。旧大倉邸のハイカラ、八坂神社境内へ導く朱の鳥居、そして鴉を絵のように青空にとまらせた名木枝垂れ櫻。
氏神八坂神社に七十の寿と平安を謝し、今後を祈り、末社末社に遙拝して、朱の楼門から四條大通りへ降りていった。
弥栄中学をのぞきこみ、紅殻塗りの茶屋一力ぞいに写真をとり、香を買い、古美術・茶道具の店をのぞいて店員と談笑、そして、十時少し過ぎて、中村鴈治郎改め坂田藤十郎襲名、師走顔見世興行の南座に入った。

* 松嶋屋の番頭さんに支払いし、私にも祝いの品をもらい、六列目真中央絶好の席に入る。東京だと、木挽町でも三宅坂でも客はみな「歌舞伎」を観る気持ちだが、南座では「芝居」を観るのである。劇場は最も歌舞伎狂言にふさわしい広さ(狭さ)であり、そのために「舞台」が「花道」が、身近に感じられる。名古屋の御園座でも大阪の松竹座でもそういう感じだが、ことに南座は芝居の味わいが濃まやかに伝わる。

* 昼の部の最初は、趣向の「女車引」で、松王妻の千代に魁春、梅王妻の春に扇雀、櫻丸妻の八重に孝太郎の所作事の、清元に、誂えたように、
「摘草や ほんの嫁菜の姉妹(おとどい)が 思ひ思ひの料理草 古来稀なる七十の賀の祝とて昨夜(ゆふべ)から 雑煮の支度提灯で もちっと精出せ合点ぢや…」
などという詞がでてくる。扇雀がなかなかの踊り上手をみせ、魁春に拮抗。孝太郎がすこし「踊り見栄」に首を大きくふりすぎるのが気になったが、はんなりと、遊び心横溢の祝言ものと観てとれて、賀の祝いの私には結構な一番目であった。

* そして新藤十郎お目見えの初狂言は、常磐津「夕霧名残の正月 由縁の月」で、扇屋の夕霧に雀右衛門がしんみりとつきあい、鴈治郎改め新山城屋は、ほんものの紙衣を着た藤屋伊左衛門。扇屋の主人三郎兵衛に我當、女房おふさに我當のすぐしたの弟秀太郎。この二人が、舞台半ば、亡くなった夕霧がふたたび冥土へ去ったところで、伊左衛門を中に、三人で趣向の「口上」となる。遙々来た私たちにとびきりのご馳走で、なんともいえず目出度くも嬉しくも、心華やいだ。芝居としては、むろん「吉田屋」の夕霧と伊左衛門纏綿の情緒が好きで、またあれは勘当もゆりて、結末がたいへんめでたい、なぜあれでなくて「ゆかりの月」かいなと思っていたが、なるほど新山城屋を中に、関西の重鎮松嶋屋の長兄と次兄とでおめでたい「口上」の祝言なら、納得した。

* 「菱岩」から届けられた弁当一人前を、場内で二人で食べた。とても一人では食べきれない御馳走で、用意の純米名酒が美味い。「菱岩」は、江戸時代半ばから京都で名代の「仕出し料理」の店、わたしの家の西町内にあり、一つ上の娘さんがながく叔母の社中であった。その縁もあり、初釜にはきっと「菱岩」の料理が縁高で出たし、茶事のときにも「菱岩」か「辻留」に料理に出張して貰っていた。
そんな店であるから「弁当」といってもまるで概念がちがっていて、大きな木の器にびっしりといろんな御馳走が二十数種もつまってくる。むろん揚げ物など混じらず、何もかも手を尽くして調理し料理した、粋で、味で、美しい食べ物が揃ってくる。
今度の京都は、芝居もさりながら「菱岩」を仕上げの眼目と思ってきた。思ったままの、それ以上の大満足で二人とも満腹した。

* 弁当幕間の次は、播磨屋の吉右衛門が当たり役、「腰越状 五斗兵衛三番叟」で、めでたき大酒の祝言劇。左右から、腹に一物の大酒を強いに強いるのが、このところいつものように、歌六と歌昇の、萬屋兄弟。よく役に嵌っていて、わたしはことにこの頃は歌六が贔屓。先代吉右衛門を思い出してしまう。
当代吉右衛門の悠々と手慣れて巧者な大酒のみのおもしろさに先だって、吾々夫婦が気持ち応援している若き尾上松緑の亀井六郎が、「小田奴」たち相手におおらかな所作の歌舞伎を楽しませる。「松緑」とても佳い佳いと言い合いながら、楽しんだ。
鴈治郎長男の翫雀が、癇癖気味の義経を頑張った。吉右衛門の五斗兵衛が大酔うのまま小気味よくあしらう「雀踊り」のけっこうなことも、言うまでもない。わたしは、壜に余していた酒を、五斗兵衛ほどの量ではないが、機嫌よく舞台と調子を合わせてみな飲み干した。

* 四番目にも所作事が二つ。先ず、仁左衛門の「文屋」に、からみつく武骨揃いの官女達がおもしろく、松嶋屋は悠然、さらさらと踊って陽気にからり。
そして次の「京人形」を、今日は御大菊五郎が左甚五郎。人形の花魁が菊之助で、これが目覚ましいまで美しく、しかも人形ぶりの踊りが硬軟まじえてじつに巧み。前には扇雀の人形を楽しんだが、菊之助の美しさは、若いことも若いだけに光り輝くようで、もっともっと長く観ていたかった。どれが好きと言われると、「京人形」の音羽屋と言いたいほどの嬉しい出来映えであった。

* さて大喜利は待ってました、二百三十一年ぶりの新藤十郎の天満屋お初と、長男翫雀が演じる平野屋徳兵衛の、近松作「曽根崎心中」が三幕。
これぞ上、方の和事の極致。扇雀時代の鴈治郎が、鴈治郎を継ぐよりも坂田藤十郎になりたいと望んでいた念願の大名跡で、渾身・懸命のお初。ああ、ああ、文句なしにおみごとであった。濃艶な京料理の味佳さに似た、深い濃い味わい。情緒は纏綿、殉情の哀愁に惹かれ引かれて心中する二人。翫雀の藝根性の太さがうかがわれる熱演も好もしく、胸に刃の最期には浄福の愛の、はかないが美しい恍惚と陶酔もうかがえて、ぞうっと鳥肌が立った。申し分無しと言っておく。

* 十時半開演の四時十分まで、六時間近い充実の大サービスに、おお満足。昼夜入れ替えの雑踏の劇場前で、「菱岩」からもう一人前の弁当を受け取り、タクシーでホテルに戻って荷物を受け出し、予定の新幹線を、四十五分ほど早めて、らくに乗車。
ほっこりして寛いだところで、味のかわるのを用心し、今度は大きめの冷たい缶ビールといっしょに、もう一度「菱岩」の弁当をゆっくり満喫した。おなじものを一日に二度食べても、なに不服もない実質の美味さ、豊富さ。京料理の本領を味善(あんじょ)う行った「しっかり」味。みずくさい、ひつこい、あじないものが微塵もないた。おいしかった。
2005 12・21 51

* 京都で撮ってきたたくさんなデジカメ写真を、機械に入れ、題などつけて整理を終えた。
2005 12・22 51

* だまって聴いていると、テレビも新聞も、せいぜい若いスポーツ選手らの活躍ぐらいしか、嬉しいニュースは流さない。
そんなとき、幼かった昔の同窓の彼や彼女たちが何十年ぶりかに便りをくれるなど、何と嬉しいことか。そして、若かった昔の友人達の間でほど顕著なのだが、彼等の耳目に届けていた自分と、彼等がまるで想いも及ばなかった自分とが、おそろしいぐらい懸け隔たっていることに、気づく。わたしも気づくが、彼等の方がもっと強く気づいて戸惑っている。それが、分かる。
以前中学の同窓会で、このわたしが、びっくりするほど昔の少年時代とは変わったので驚いていると、スピーチした友人がいた。国民学校から大学までずうっと同じ校門を潜った友達だった。
竹西さんの指摘した「根の哀しみ」だの、わたしが常に求める「静かさ」や「闇の深さ」だの「清寂の孤独」だの、また古典だの自然だの、それらは私とは全く重ならないほどのことに見えていたらしい。よほどわたしをよく知っていると見ていた人にも、たとえば歌集「少年」の境涯を知っていた人は、ごくごく稀にしか居なかった。わたしが来迎院で慈子や朱雀先生と紡いでいたような時空を推知できた仲間は、高校、大学、会社時代を通じてただの一人もいた筈がない。そしてだれもが見ていた、わたしはいつもワンマンの猛烈な生徒会長や学級委員長であった、そのような部下で同僚で上司であったと。両手両脚を車輪のように働かせて動きまわっているやんちゃだと。
それはちょうど、現在でいえば「ペン電子文藝館」の館長であったり、うるさい理事であったりする世間のレベルであり、しかし、そんなもの、わたしには何事でもありはしない。

* 中学のころ、姉と慕った人はわたしを物陰へよんで、「あんなあ、ほんまのことは、分かる人には言わんかて分かるの。分からん人には、なんぼ言うてみても分からへんのえ」と諭した。
高校の頃、我が家が荒廃していたとき、どこからか忽然と帰ってきて、わたしを八坂神社の楼門の裏に呼び寄せ、「ひとりで歩いてゆきなさい、生まれたままのひとりで生きてゆきなさい」と背中をとんと押し出してくれた。「十七にして親はゆるせ」と教えたのだと思う。
歌集『少年』の大半を下支えた強い力は、あの姉であった。一滴の血縁もない「身内」であった。そして大学で、妻に出逢った。姉が今どこにいるのか、わたしは知らない。歌集も贈れない。妹は、受け取ってくれたと思う。もう一人の妹は亡くなってしまった。
この姉はまたわたしに教えてくれている、孤立してはいけない、が、「孤独は、えぇもんぇ。大事ぇ」と。
2005 12・26 51

* 五右衛門風呂を、丹波に疎開してはじめて体験した。最初の山の上の方のあばらやに入ったときは、いちばん近い山裾の農家へ、貰い湯に行き、中板をぶかぶか浮かせてしまい、辟易した。辟易どころの騒ぎではなかった。電灯もないまっくらけの浴槽であった。まるきり釜であった。
街道ちかい裕福な農家の離家(はなれ)に移ってからも、いつも母屋へ貰い湯に行ったが、此処では母家の中に湯殿がきちんと拵えられていて、風呂釜もしっかり、慣れればめったに踏み外しはしなかった。
京都の市内であの戦時中、内湯を使える家など、町内でもせいぜい二、三であったろう、みな湯屋へ行った。
我が家の近くには、古門前に「新シ湯」、祇園甲部清本町に「松湯」「鷺湯」そして縄手に「亀湯」があり、四條の電車道をわたった一力前の辻を西入ったところに「祇園湯」があった。もう一軒、祇園新地に「清水湯」があった。
祇園湯まではめったに行かなかったが、子供同士の「探検」気分がはたらくといつもは行かない湯屋へ、連れて通った。新京極にある銭湯にまで、遊び半分四五人で出向いたことも一度有った。
小さいときは父か母かに銭湯へ連れて行かれた。その日の気分次第で、上の湯屋のどれかへ行った。考えてみると、ほぼ平均してあれへ行きこれへ行っていた。湯屋にはそれぞれの何とも言えぬ固有の湯気がこもっていて、普通の町屋の湯(新シ湯、亀湯)、祇園甲部の湯(松湯、鷺湯、祇園湯)、新地の湯(清水湯)、みな様子がちがった。脱衣場の広いのは乙部の清水湯で、松湯も鷺湯もことに男湯は狭かった。母と行くと、時間によっては出勤前だろうか舞子や芸妓が大きい髪のまま、湯ぶねに浮かんでいたりした。男湯の脱衣場にも壁一面に芸妓や舞子の名を大きく朱や墨で書いた白地の団扇がかけてあった。早くから文字をおぼえる佳い教材であった。あんな団扇の二枚三枚と我が家のようなヤボくさい家にも有ったのは、なんでやろ。
夏は、家で盥に湯をはり井戸のわきで行水した。離れの叔母の稽古日だと、稽古に何人も通ってきて、そのうち手洗いに行く若い娘達がそばを通って、「いやぁ、コヘちゃん、行水かぁ」などと覗かれた。
ある日など、「お湯が入ったえ」と親に言われ、はだかで盥まで行くと、盥のヘリをぞろりと家の主の青大将が渡って行くのを見、卒倒しかけた。それでも暑い夏の行水あと、畳の部屋ではだかで涼を入れるのは心地よかった。そのころ壺庭に小さな泉水があり、金魚やちいさな鯉が多いときは六七尾も泳いでいた。
2005 12・30 51

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