ぜんぶ秦恒平文学の話

京都 2006年

 

 

* 昨日、湖の本の本文再校が出揃ってきた。京都へ車中往復の仕事が出来た。旧臘、顔見世にかけつけ、正月長野の美ヶ原に行き、また京都。

七十郎、なかなか、お忙が氏である。

2006 1・15 52

 

 

*「解釈と鑑賞」へも送稿して受け取られたし、産経新聞への送稿も、校正も順調。これで京都美術文化賞に授賞した三人の「美術展」テープカットへも、心おきなく行ってこれる。せっかくの受賞者展であり、選者の一人としてなるべく観ておきたいが、去年は欠席した。幸い、往き帰りの列車で校正という集中の要る仕事が進む。家では、静かに校正できる机も場所も無くなっていて、ついつい遅れる。タイムリーな列車の旅は有難い。

二日の旅のうちに「八犬伝」も間違いなく第五巻を読了するだろう。あまり急いで読んでしまうのは勿体ないのだが、ついつい誘い込まれる。

何度も言うが、七五調の「きこえ」のよろしさに魅惑されるので。夢にまで文章の感じがうねりにうねる。優れた文体の伝染力であり、源氏・平家や、雨月や、また鴎外・露伴や潤一郎の文章は、読めばその晩に夢にあらわれる。高価で高貴な幽霊の魔力だ。

 

* 今日の委員会で、同僚委員から、なんと昭和十三年一月三十日日曜日の「京都日日新聞」を頂戴した、これにはビックリし感激した。

「鴈治郎追慕興行」が大きな記事になっていて「期待される菊五郎の船弁慶と暗闇の丑」がトピックスになっている。「関西側に菊五郎一座を迎へ二月開演する」とありその「狂言手引」の記事に仕立ててあるらしい、まだ記事は読んでいないが、というのも、総ルビの活字はちいさく、新聞紙は赤茶色く色変わりしているからだが、酸性紙でないとみえ紙の劣化は幸い感じられない。

開いて読むのが勿体なくてたまらない。わたしの生まれた昭和十年十二月二十一日から数えると、二歳四十日の新聞なである。正直の所、当時わたしが何処でどうして誰の手に育てられていたのやら、識らないのである。まだ秦の家に預けられてもいなかったのは確かだが。

この新聞の四頁(三から六頁、一と折)、わたしには、文字通り「お宝」である。舐めるように、細かに、昔風の惜しんだ云い方で言うなら、「たまいたまい」読んでみる。惜しいことに、一、二面そしてたぶん七、八面が欠けているので、その日のメインのニュースなどは読み取れない。

森さん、ありがとう御座います。これも、貴重なお祝いを戴いたわけで。感謝。

2006 1・16 52

 

 

* 昔は汽車といった。今は列車とか新幹線といっている。列車でも電車でも、今一つピンとこない。汽車に乗るのは昔は特別のことだった。その物言いがまだ身内に生きている。

汽車に乗って、隣り合った人と話すことから小説世界をひらいていったことは何度か有る。「秘色(ひそく)」がそうだったし、「秋萩帖」もそうだ。しかし現実にはわたしは隣客に口を利いたことはほとんど記憶もないほど、無い。今日など京都までゆく若い女性と隣り合ったけれどひと言も口などきかず、校正し、眠り、八犬伝を読んでいるうち京都についた。

 

* この季節の京都は二月へかけて底冷えがする。こういう時の寺院はしんしんと冷える。靴をぬいで廊下をわたる冷たさは痛いほどだが、畳を踏んでも脳天に響くほどツンと痛む冷たさ、思わず呻く。三十三間堂の長廊下など、スリッパも役に立たない。

それにわたしの行きたい寺は、たいてい文化財のために火の用心をしている。東寺の伽藍の一つ一つへ順に入っても、キューンと空気が寒くひびわれていて、トゲトゲが突き刺さってくる気がするが、妙な物で、それがまた有難いほど季節感を恵んでくれる。ダレている精神が震え上がる。

 

* ホテルの近くで、かねがね見つけていたふぐの店へ出かけた。さっぱり冴えない構え、格子の硝子戸で中が覗けないが、ボール紙の札に、手書きで、「冴えない入りにくい店なのが申し訳ない、狭くてカウンターに何席、座敷は幾部屋しかないが、いい料理を食べて貰えると思っています、よろしく」などと。まずあんまり見たことのない「口上」に破顔一笑、二階の小座敷にあがった。妙にざっくばらん、店の誰かの、常は居間にしているンやないかと思える部屋であったけれど、つまり料理屋、料理屋した料理屋とはまるでちがう民家の二階みたいだが、懐石はそこそこ上手に食べさせたし、「テッサ」つまりふぐさしの、手際は妙でなかったけれど、味は安心感あり、おすすめの「開春」という島根の酒がうまく、酒器も片口、まずまずの石杯。で、次はどこの酒であったか「梅の宿」を頼むと、銚子が酒を注ぐにつれて鶯のように鳴く。ちいさな盃に吹きくちがついていて、ここから酒を吸うとやはりきれいに鶯が鳴く。時宜を得た店のお愛想で、ころころ笑いながら食事を楽しんだ。もう今日はわざわざ鴨川を東へ渡る気がせず、この、ホテルから東へ一丁も行くか行かぬかの奇妙な店で、たいそう実質的な懐石とふぐさしを楽しんだ。

 

* どこへ行く気もなくすぐホテルに帰り、いきなり地下の「アンカー」というバーへ入って、例の「ブラントン」をダブル、そして度数六十度近い名前を忘れたが「ミロなんとか」いったやはりバーボンをダブルでゆっくり楽しんだ。いつ来ても音楽もない静かな静かなバーで、行儀の佳い若い女性のバーテンが言ずくなに付き合ってくれる。わたしはほとんど此処でも口は利かない、ただ酒を呑んでいる。

出ると目の前に「桃李」という地下の中華料理店があり、なにとはなしラーメンが食べたくなり、入って、また一合紹興酒を呑んだ。

部屋に帰ると、服を脱ぎ散らし、浴槽で「八犬伝」をのんびり読み、(これをやると怒る読者がいる。)すぐベッドに乗ってまた続きを読んでいるうち、寝入ってしまった。眼が覚めたら一時頃だった。そのまま七時半まで寝たが、部屋が乾燥し口があまり渇くので夜中に一度洗面所でうがいをした。水も呑んだ。この水が美味かった。

2006 1・18 52

 

 

* 朝食は抜き、九時過ぎ、地下鉄を使って市役所前、寺町御池の「中信画廊」へ。

今季三人の日本画、陶藝、漆藝受賞者美術展のオープニング・テープカット。梅原猛、石本正、清水九兵衛、三浦景生、そして私、の各選者列席。ま、例によって大層な祝電だのの披露される、率直にいえばかなり形式的にものものしい儀式であった。

集まっている殆ど全員は動員された中信の社員たち。選者をのぞく他の美術関係者は数人。これは、今少し主催者側が趣向をもって工夫した方がいいと思うのだが、スポンサーからすると、そうまでする必要も意義も無いのかも知れない。

美術展には、私をのぞく四選者が賛助参加作品を出している。石本さんは例の半裸婦。九兵衛さんは造形作品、三浦さんは染色の屏風。そして梅原さんは「花鳥風月」みたいな字を書き三浦さんに装飾してもらっている。

肝腎の受賞者作品だが、わたしは、吉川弘氏の日本画八点を面白く観て、氏とすこし踏み込んで「線と色と」について話し合った。

陶藝と漆藝には感心しなかった。藝術にはどんな材質どんな造形の場合にも飛翔する魂のよろこびがあり、それがファシネーションであろうが、今日観てきた陶「藝」にも漆「藝」にも本質的なそのかろやかさと美しさが不足していた。

 

* 今回の京都行きはこれだけのお役目であったし、明日には俳優座公演が控えているので、一度荷物を置いたままのホテルの部屋にもどり、例の耐震偽装問題での国会参考人聴取中継をほんの少し聴いていたけれど、すぐ京都駅へ。そして晴れやかな東海道新幹線の空を眺めたりしながら、帰ってきた。

保谷駅ではたいへんな強風だったが、さいわいすぐタクシーに乗れた。

 

* 今年初めての粕汁が炊かれていて、家の夕食で心落ち着いた。今日聖路加へ行ってきた妻ののど風邪は軽快してきている。新幹線でも駅でもどこでも風邪・咳。くしゃみの人がまぢかに多く、ひやひやした。

2006 1・19 52

 

 

* 昨日浴槽で滑り落ち、背骨を打った。息がつまった。幸いあとあとの苦痛はない。

朝一番に「悪いNews」とある高校のともだちのメールが来て、これにも息がつまった。

 

* ご無沙汰していますのに 悪いお知らせですみません。

12/2 に*子さん くも膜下出血で 入院 治療中。発見が遅かったので 2ケ月余り 意識不明だったのが

2/6に 3度目の手術後 少し右指が動き リハビリを始められ 今は詳しくは分かりませんが ご自分の名前と 生年月日を表現されたようです。

暮れから 他の妹さんたちとも 連絡が取れず(皆さんのお家へ順々に電話しても 留守電ばかり)お母様がお悪いのかと 案じていまして。

私も1-2月 30日間ほど風邪を長持ちしていて(治ったと思いお風呂へ入るとまた熱を出しを繰り返して、)**子さんのことやっと知り まだお見舞いも許されていません。

ショックです。暖かくなったら ゆっくりと泊まりがけで温泉にでも行ってお話しようと(11/下旬)電話で言っていたところです。

今は祈るだけです。どうぞ祈ってください。  *子

 

* ことばなく、祈る。

東京へでてくるとき、茶道部の仲間達と、南日吉町の高台、眺めのひろやかな家で夢のように送別会をしてくれた。大学の頃、叔母の稽古場へ通ってきて、まねごとのようなへたくそな小説を読んでくれた。師について、大きな展覧会に書を出す人だった。メールをくれたのは御神酒徳利の友。もしわたしにほんとに茶の湯の弟子がいたというなら、この二人がそうであった。

2006 2・21 53

 

 

* 六時に起き、日本書紀とバグワンを音読し、MIXIに記事を送り、一つ感想を書き、朝食して洗顔など済ませ、荷物を点検。

もうすぐ京都へ向かう。明日、仕事を済ませて、無事、明日のうちに帰る。

 

*『南総里見八犬伝』を読み終えた旅であった。岩波文庫の第十巻ののこり少ないのを持って出た。新幹線で読み、河原町の鮓の「ひさご」で読み、烏丸の「寒梅館」で読み、ホテルの部屋で読み、二日目の、青蓮院まえのレストランで読み、帰りの新幹線で、ことごとく読み終えた。

作者の詳細な跋も、幸田露伴らの附録の感想も読んだ。いろいろ謂えば言えるだろうが、日本の稗史小説の最高傑作であること、疑う余地がない。これまで読んでなかったのが、ちょっと悔しい。有難いおもしろい大作を読んだ。完全・敢然主義の馬琴先生に、いくらかヘキエキもするが、その「徹底」の誠意に深い敬意を覚える。文学的感動ではない、創作力への、オドロキという敬意である。

 

* 京都につくと、荷物を部屋におき、すぐホテルを出て、四條大丸のわきから高倉通りへはいり、錦小路の店をみながら東行、錦天満宮に参る。錦を歩くのが好き、京都に今住んでいたら、やたらに買いたい食べ物があって困るだろう。分厚い鯛の切り身が盛ってありとても欲しかった。湯気の立っている卵の出汁巻きも、ホテルへ買って帰りたかったほど。そして河豚。見るから多彩にきれいな漬け物。

京極から裏寺町をななめに抜けて高島屋で、三浦竹泉展をみて三浦さん(美術財団の同僚理事、大学の一年先輩)としばらく立ち話してから、河原町の鮓の「ひさご」へに入り、主夫婦と久闊を叙した。季節の自慢の鮓で、おそい昼飯に。多めの銚子一つがうまくて、満腹。

三条の角の祇園画廊で低調な売り絵展にあきれ、となりの映画館で「有頂天ホテル」を七時から一回だけ見せるとあるのを断念し、三條大橋から北山、比叡山の薄墨色を眺めるうち、意を決して京阪電車で出町の菩提寺へ走った。前住夫妻としばらく談笑、墓参りし念仏。境内に、はかなくも水仙が二三茎きれいに匂い咲くのをながめてから辞した。

加茂大橋からの比叡、北山が、かなりまぢかに薄墨色していた。あれには心惹かれる、いつも。眼下では、高野川と賀茂川の出会う川崎で、若い女性二人が腰をおろし足を投げ出し、余念無く談笑していた。

「ほんやら洞」にはマスターの甲斐さんが選抜野球のゲーム実況を、つくねんとラジオで聞いていた。コーヒー一杯の間なんということなくお喋りして辞し、すぐ先の辻を北に折れて、出雲路神社の真ん前から西へ向いた。静かな同志社女子大の裏道を通り抜けて相国寺東の長い塀、塀の内に整然と北へ延びた大樹の列をじいっと眺めてきた。

相国寺門前へ出てゆくまでに、夕ぐれてゆく木々の遠くに、櫻かなと胸を轟かせた仄かな色は、あれは梅の満開のようであった。

広壮な、静寂な境内にはいり、堂々と大きな法堂を仰ぎ見ながら、西門へ歩いていった。同志社大学の裏道にもなっていて、境内をもう西へ出る間際に、水上勉さんの『雁の寺』が在った。あの小説は、あまり好きでないが。

烏丸通りへ出ると、すっかりたそがれ。ほどなく門跡寺に隣り合い、同志社のハイカラな、いいえシックな赤煉瓦の寒梅館がある。六時、ちょうどいいと思い七階にあがって、東へ眺望のひらけた窓辺で、うまい、メニュのめずらかでもあるフランス料理をコースで堪能した。紅いワイン。

八時までゆうっくり時間をかけ、本を読みながら、いささか行儀のわるいナイフ・フォークの扱いながら、シャーベットの口直しも、甘い三種のデザートも、コーヒーについて出たサービスのプチケーキも、のこさず食べて満腹した。のんびりした。

今出川から地下鉄に乗ると、すぐ四條につく。ホテルに帰って妻に電話すると、もうバアへも行かず、寛いでそのまま衛星放送のながぁい映画を見てしまった。スティーヴ・マックイーンとキャンディス・バーゲン。あれは中国とアメリカ軍艦とのトラヴル映画だった。途中からであったがなかなか見せた。そしてもう、風呂にも入らず八犬伝を読みながら寝入った。

冷蔵庫がカラッポというなんだか貧相になったホテルで、閉口。夜中の三時半ごろに一度目覚め、しかたなくバーブラ・ストライサンドの深夜映画を途中から見てしまい、苦労してまた寝入って起きたら、朝の十時。

2006 3・23 54

 

 

* 入浴。十一時前にチェックアウトしてしまい、荷物だけ預けて、さてアテはなかったが、二時からの会議を念頭に、タクシーで岡崎の近代美術館へ。ドイツ表現主義彫刻の偉才エルネスト・バルラハを観た。まちがいない異彩の偉才で、彫刻作品の一つ一つが説得力豊かな抜群の彫技・表現、一つ一つの題がおもわず唸らせる。「笑う老女」は噴き上げるように笑っているし、「戦士」は果敢に刀を抜いて吶喊しているし、「縛られた魔女」はまさしく魔女。寂しいとあれば凍えそうに寂しく、歌う男は歌い、物乞いの男女は明らかに物乞いをしている。神様までが揺らいでいた。

説明的にではない。表現は男性的に大らかに毅く、マッスの魅力を活かしたまま大きく、鈍重でなく、目を瞠る生彩ある姿態の躍動を彫刻している。時代を超えたほんものの彫刻の魅力で、わたしは、今朝、途方なく儲けものをした。あ、これで午前は満たされたと思った。

外へ出ると真澄の青空に平安神宮の大鳥居が眼のさめる美しい赤に振り仰がれ、愉快だった。

神宮広道の西側をあるいているうち、星野画廊の真向かい、サキゾーという縮緬をおもに扱う店先に、もっぱら墨をつかってはんなりと模様を描いた、決してうるさくないヴラウスを見つけたので、入って買った。これからの外出にうまく着こなせばお洒落が楽しめるだろう。

青蓮院まえの路地の奧にロッジふうのテラスレストランが素朴に店を開けていた。入って、グラスワインで、味付けの風変わりなビーフシチューで昼飯にした。パンもサラダもおいしかった。こんなとこにこんな変わった店が出来てたかと物珍しくもあった。

青蓮院の大楠をデジカメにおさめ、足任せに歩いて、結局白川の石橋うえから浅翠もはなやいだ柳並木と比叡山をみまもってきた。そのまま新門前の鐵斎堂で繪を観て、菱岩のわきの切り通しからまた白川へ出、吉井勇の歌に敬意を表し、縄手の「梅の井」主人三好くんとしばらく話したあと、歩き疲れたので車で、会議場のあるビルへ向かった。

 

* 梅原猛、石本正、清水九兵衛、三浦景生氏、新しく内山武夫氏が加わって、これで二十年目の京都美術文化賞の受賞者三人を選考した。日本画、彫刻、そして造形とでもいう三部門から選んだ。女性一人。

書の人が二人候補になっていたが、わたしは、書の審査はムリだ、書と建築とは、やはりこれまで通り審査対象からは外したいと発言し、全員の同意があった。審査を終えてから、珍しく、何とはなしに談笑の時間があった。

一時間半はやく、新幹線の時間をきりあげて、七時には帰宅。

櫻はほとんど観られなかったけれど、花粉の害もなく、天気にも恵まれて気持ちのいい、ノンビリとした佳い京都だった。やはり春になると、この「選考」にだけは、やや緊張して出かける。恙なく終えて、よかった。

2006 3・24 54

 

 

* むろん用事も用事であったから、京都へは一人ででかけた。

「京都」を、ひとりで味わうことが、わたしには大切なことで。高島屋の陶藝展では作家と、馴染みの鮨では店主夫妻と、菩提寺では前住職夫妻や墓の中の父母叔母達とも、「ほんやら洞」では店主甲斐氏と、また縄手では駆けて追ってきた「梅の井」の店主三好くんとも、さらに中信での選考会では梅原さんら選者たちや理事長以下事務局の馴染みとも、みなそれぞれに顔は合わせてきたけれども、やはり前日夕方に出雲路神社のまえから西へ、同志社女子大裏道を、また静謐の相国寺境内を、また同志社大裏道を通って烏丸までの散策は、ひとり嬉しく心満たされた時間であった。寒梅館で二時間もかけてゆっくり宵闇に沈み行く比叡や東山をながめて食事していたあいだも、どんなに心落ち着いたことか。もうあれ以上どこへ呑みに行く気もしなかった。

明くる朝、平安神宮のあの朱けの大鳥居したまでタクシーで走り、思いがけずエルネスト・バフラウの優れた彫刻表現に大満足できたのも嬉しかった。ほとりほとりと広道を行きながらいろんな店の綺麗になっているのを覗いて歩く遊び心ものどかで、つい買い物もした。

青蓮院のあの楠の巨樹の木蔭道へさしかかると、わたしの深呼吸はさながらの故郷の味によろこび震える。この粟田坂を、小学校から高校まで、自転車で、また徒歩で、どれだけ往き来したか。いわずもがな、この界隈は四方八方がわたしの「庭」であり「教室」であった。

こういう京都をわたしは、せめて年に何度かはひとり深呼吸してきたい。妻が一緒ならば、それはまたべつの意味でさらに豊かに楽しめる。なにしろ、よく二人は京都中を歩いて歩いて飽きなかったのである。その思い出がいろんな小説に生かされた。当然であった。

2006 3・25 54

 

 

* spamメールの異様な繁殖は、今では来着分の多いときは八割九割を占める。「現代」世情・俗心を象徴している。

 

* MIXIのコミュニティに「日吉ヶ丘高校普通科」が発足したので覗いてみた。すべてわたしには孫世代の「語らい」であるが、なにしろ京の母校の後輩達の会話、今日の京言葉での対話であるから、たわいなくても余所事には聞こえない。わたしも参加した。

なかには東福寺の通天橋の眺望を懐かしんでいる子(こういう気分になる)もいて、フムフムと嬉しくなる。いま、アンケートでの自己紹介を求められている。

なにしろ私は昭和二十七・八年の生徒だし、ここの仲間達はみな平成十何年の卒業生だもの、まさしく祖父と孫のようなもの、想い出の先生にしても、触れ合いようがない。それでも、校内や学校の周辺に話題が及ぶと、目に見えるものは幾らも共通している。

わたしと同世代の誰彼を見つけるのは容易でない、もうほとんどが役職からも退任引退している。だがだから何人かはMIXIに入っているかもしれはしないが、みな余りの世代格差におどろいて、首をすくめているのかも知れない。

明らかにそのコミュニティでは、わたしが此処へ貰っているようなメールとは、似ても似つかない「ことば」が飛沫のように散っている。それを是と受け容れつつ加わらないと妙なことになる。わたし自身の「ことば」の選択がじつに難しい。選択なんてできない。わたしはわたしの物言いで落ち着いて参加する方がいいだろう。

 

* 敗戦後間もない昭和二十六年に日吉ヶ丘に入った第五回生ですから、みなさんとは、祖父・孫ほど遠く隔たっています。ま、書いてみます。

一  岡見正雄という先生がおられました。ボーズというアダナで、よれよれの着物に袴、履き物は編みアゲの靴という異相の、ほんものの坊さんでもありました。京極裏寺町のお寺の住職でした。古文の時間も、朗々と枕草子や平家物語を読み上げ、みな閉口していましたが、わたしは古典文学の美しさをあの朗読から学び取りました。

その頃は誰も知らなかったのですが、この先生は岩波古典文学大系の『太平記』などに、精到くまなき注釈をほどこすなど、室町時代研究のほんものの泰斗でした。学界の尊敬をあつめた碩学でした。あの頃は貧乏しての副業で、日吉ヶ丘に来られていたのでしょう。可愛がられました。作家になってのち、岩波の「文学」で対談などしたり祇園で御馳走になったりしました。わたしの小説『初恋(=雲居寺跡)』に大事な役で登場して貰っています。もう亡くなりました。

二  何といっても美術コースの建物に入っていた「雲岫席」という佳い茶室です。日吉ヶ丘高校の茶道部は、わたしが二年生で、仮住まいの七条美大から新校舎へ移転後にでき、指導できる先生がいなくて、資格のあったわたしが、その後の二、三年、すべて指導していました。教室を抜けだし茶室に入っていることが多かった。学校への来客にも、よく茶室や校長室で茶の湯のもてなしをしました。そうでなければ泉涌寺か東福寺にいました。

小説『畜生塚』『慈子(あつこ)』『風の奏で』『冬祭り』などはその頃の日吉ヶ丘や界隈を描いています。美術コースというのが、とびきりの目玉の学校でした。この二十年来続けている京都美術文化賞の選者として、日吉ヶ丘の卒業生美術家にも、何人にも授賞してきました。仲良しが何人もいます。

三  文化祭ではかなり盛大に茶会を主宰しました。男は、わたし一人でした。その頃の茶道部のいわば教え子達が、いまでも何人もわたしの大切な読者として出版活動などを助けてくれています。

恩師の一人である上島史朗先生には短歌を観て頂いただけでなく、課外授業で、有志だけで南山城の古都恭仁京などへ連れて頂けたのも、その後の創作者として大きな糧になりました。代表作のようにいわれる『みごもりの湖』は、この恭仁京行きが一つのごつい根になっています。

四  「秦恒平」という本名で書く前に、「菅原万佐」という筆名をつかっていました。三人の仲の良かった女友達の氏名を組み合わせた戯れで、日吉ヶ丘高校新聞に、当時の生徒会長の書いたボンクラな恋愛論を、同じ新聞でからかうため、女名前を利用したのがはじめです。菅原万佐の名で、後年三種類つくった私家版の小説やシナリオ本が、のちに古本屋で何十万円もしていたので、仰天しました。

日吉ヶ丘は、わたしにたくさんなモノを呉れました。

2006 4・16 55

 

 

* 京都美大での間借りから日吉ヶ丘の新校舎へ高校が移転したのは、わたしが二年生の春。通うのに遠くはなったが、あれは嬉しかった。校歌が出来た。

ああひんがしの丘たかく 松のみどりのわが姿  という一番の歌い出しは、歌詞にウルサイわたしを満たしてくれた。

ひむがしに月のこりゐて天霧(あまぎ)らし

丘の上にわれは思惟すてかねつ

十七歳、「拝跪聖陵」という泉山の大きな石碑に題した連作の歌の冒頭にこううたったとき、校歌の歌詞が無意識に感化していなかったか、否定できない。あの東山線から即成院、戒光寺へとつづく泉涌寺参道ほど懐かしい道は、そうそう無い。無いことは、もちろん無いのだけれど。わたしという人は、バカなのかもしれないが、今目の前に気に入って手で触れ目で触れてうちこんでいる、「それ」が、いつもいちばん「いい」のだから、幸せともノーテンキとも見境のないとも謂える人なのである。アハハ。これをもし気が多いとか浮気と言う人は、思惟も情も浅く薄く、間違っている。慈(こころあつし)の意義を識らない。

2006 4・20 55

 

 

* 明日は散髪し、明後日は松たか子らの「メタル・マクベス」を見に行く。金曜日には俳優座の稽古場で、大塚道子らの二人芝居、これも楽しみ。土曜は観世栄夫さんの能「邯鄲」に招ばれている。来週はペンの総会があって五月が果て、六月早々に眼科の視野検査、そして京都美術文化賞の授賞式が都ホテルで、同じ日に財団の理事会、懇親会が嵐山の吉兆で。

2006 5・22 56

 

 

* 明日の朝がまた早い。もう、やすむ。明日一日は、美術賞の授賞式、そして嵯峨吉兆での理事会。あさって、さっさと帰ってくる。

2006 6・1 57

 

 

* 六時前起床。血糖値130、少し高め。噂だけれど800だの1000だのという人もあるとか、まさか。しかし、わたしも高い頃300台もあったのではないか、記憶にないが。

明日の朝は、京都で目覚める。別しての用事はないが、ややあらたまる。汗になるので着替えなど持たねばならず。好天を望む。今回は京を歩いてくるヒマもない。

 

* 車中、ぶっ通しで校正。視力がゆるせば、幾らでも読みたかったが、眼が霞んでくるのには閉口。

 

* 第十九回京都美術文化賞は、日本画、彫刻、ファイバーアートの三人に授賞した。梅原さんの選評は、日本画に偏って絶賛したが、若い受賞者には、「ほめ殺し」になるのを少し私は恐れた。また受賞者の挨拶もそれを受けて上気したような按配であった。後刻、高島屋の「NEXT展」で、たまたま話題の密林の象群を描いた実大作もみてみたが、絵画からの感動は感じなかった。若き日の村上華岳が描いていた、画面一杯の「坐牛」をみた迫力や感銘には遠く及んでなくて、残念だった。写真を利用していないかというのも気になった。写生の生動が汲み取りにくく、大画面がなんとなく装飾的に按配されていて、その必然味も感じ取れなかった。ま、たまたまの一点でものを言うのは気の毒だが、授賞に値したと思っているけれども、やたら若者を絶賛し、作者をわるく躓かせたくない気がする。

「NEXT展」は遠い以前の「横の会」のつづきのようなものだが、三十人ぐらいの作品のなかで、まずまずと思えたのが五人もない、いたく失望。気にしていた堀泰明の繪が「玉三郎」を描いているのだが、通俗で、美しくも品位もなく、玉三郎の舞台をしげしげといつも嬉しく見ている者の眼には、何一つ画家の手柄が画面に光っていないのにガッカリした。玉三郎が時間を掛けてモデルに立ったとは思われない、とすると写真を描いたか。実否は知らないけれども玉三郎の「た」の字も描けていない。愚俗であった。

美しい線を描けている佳作もなかにはあったけれど、気負っているわりに、この会もつまらないことをやっている。竹内浩一君や中野繁之君など参加もしていない。

 

* 選者仲間の石本正さんや清水九兵衛さんと話せるのが、なにより刺激的にありがたいパーティだった。

石本さんの秘話には、時にドキッとするいいものがある。梅原龍三郎にプライベートな何か思いあまった衝動から、すすんで裸像を描いてもらった某有名女優が、そのとき梅原画伯から記念にもらった立派な翡翠の身装品を、梅原さんの亡くなったあと、私すべきでないと遺族に返したという話など、石本さんの話し方もあるが、佳話であった。

九兵衛さんは、彫刻の仕事にピリオドをうち、陶藝に専念しますよと。熱心に茶碗を創っている、秦さんにあげたいが酷評されるからなあと。酷評は藝術家の妙薬じゃないですかと笑うと、そりゃそうだと大笑い。そのうち戴けるだろう、前にも戴いている。

 

* 晩の、嵯峨「吉兆」での理事会の前、ほんの僅かな時間だが嵐山の夕景色に心和ませた。いつ見ても、何度行っても懐かしい景色で。

評議員会・理事会は何度経験しても眠たい。宴会は、上七軒から、福助によくにた藝妓や、舞子・地方が席に入って、「吉兆」の料理。牡丹鱧おいしく、焼いた小鮎を四尾も丸かじりさせてくれたのがケッコウだった。隣の上原貢さんとで赤のワインをもらった。もう一方の隣には橋田二朗先生。すこし耳が遠くなられたが、あと、二人で例の、祇園の「貝田孝江の店」に。例によって、「ブラントン」をたっぷりストレートで。先生のご馳走になるばかりだが、分かっていてわたし甘えている。こういう甘えられる機会が、一年でも二年でも永いようにと祈っている。そんなことを言っているわたしが七十すぎたのだが、今夜の宴会ばかりは、スポンサーの役員達はともかく、わたしが最年少なのである。財団の初代西村理事長が九十一。選者の石本さんも清水さんも梅原猛さんもみな八十台に。この賞が発足して、もう十九回目を授賞したのだもの、たいへんなものだ。始まったときは他の選者たちが、今の私よりも若かった。 2006 6・2 57

 

 

* 「吉兆」と祇園とでかなりの酒量になったので、ホテルに帰った夜前十一時過ぎ、しっかり補充のインシュリンを注射し、補強薬ものみ、すぐ寝てしまった。

夜中一度顔を洗い、またゆっくり寝た。朝食もなにもかも省いて、さっさと京都駅で乗車時間をはやくし、正午過ぎには東京駅に着いていた。

車中では校正、校正。窓の外も見なかった。家から持って出たゲラは、全部読み通して帰宅した。

2006 6・3 57

 

 

* さて来週には京都での対談を控えている。この対談はラクではないが楽しいモノで在らねばならぬ。そして同じ来週には、岩下志麻と篠原涼子がぶつかり合う、秦建日子脚本の連続ドラマが、また始まる。熱など出していないで、作者クン、しっかりおやり。

2006 7・2 58

 

 

* 京都への往復にどの本を持って行こうか思案している。通算の米壽をかぞえる「湖の本」の本文は責了にして行こうと思っている。

三好閏三氏(祇園梅の井主人)との対談は異色のものになろう。

 

* 対談 心づもり

「美術京都」という準専門誌で、配布先は、先ず美術家・愛好者、それに「京都」に関心深い人です。それを念頭に置きたいですね。

三好さんは「京都」「祇園」の人、美術やその雰囲気を「創る」側でなく、「享受して活かし楽しみ喜ぶ」側にある人です。わたしと、その辺は、殆ど全く同じ立場にあります。期待したのはその度合いが、わたしよりずっと具体的で生活的だという点です。

ただし一時間半ちかい対談時間を、具体的な、しかし個人的・私的な体験や日常の話題だけでうずめると、読者はそこから或る纏まった何かを把握しにくく、読み捨てになるか、ひとごと・よそごとで終わってしまいかねない。何らか「理解」や「納得」のための「筋」、手がかりを提示しなくてはなりません。

それを、聞き出し手のわたしは、わたしの著書である、女文化論、京言葉論、伝統芸能論また文化論としての「趣向と自然」という考え方、茶の湯論等から迫りたいと思っています。

「遊び」の達人三好閏三氏を支えているであろう「考え・思い」を絞りだしてみたい。もとより美・美術に力点を置きながらです。

およそ、美術の話になると創る人の「どう創るか」の話ばかりですが、あきらかに偏りすぎています。

美術や美は、創り出す側だけのモノでなく、それを享受し享楽する側の問題でもあるのですから。そっちの方が人数は圧倒的に多い。

わたしたちは、もっぱら、その方面からおしゃべりしようと思います。

享受・享楽とは、言いようを変えれば、「美しい」モノやヒトやコトに触れて、佳い意味で「遊ぶ」ということでもありますし、そうなれば、わたしたちには、手に触れ、目に触れ、耳に聞き、口にして、遊び喜べる美しいものは山ほど有りますから、話題には困らないはずです。

ただ、あまりとりとめなくならならないよう、「筋」を掴んで、「舵」をとらねばならず、その役をわたしがおよそ引き受けますので、対話を楽しみに来て下さるように。

いろんなことを聞きます。答えられることは答えやすいように気楽に答えて下さい、そこから問題が整理できてゆきますでしょうから。せいぜい七、八十分。それに、あとで幾らも手入れして添えたり削ったり順序を替えたり出来ます。固有名詞の表現だけは最終的に間違えないようにしましょう。

対談の場を、ひとつの架空の「茶席」のように想定し、三好さんお好みの趣向と自然で、「七月某日」という祇園会の時季にふさわしい、道具組その他を、脳裏にご用意ください。

その一つ一つを、私に、美しく堪能させて下さい。むろん道具だけでなく、一応「茶事」の体で、衣・食・席・庭や雰囲気づくりのお好み・趣向を、「自然」にご説明下さるよう。

むろん、架空の客も念頭に、おのずからな、少し逸れて行くほどの話題を楽しみましょう。音曲や歌舞伎や、京の「女」文化へも「ことば」へも話をひろげましょう。

最初に、今朝の「梅の井」さんのお店、またはお宅に心用意された、季節のお花、また書、画、装飾の工芸品などを簡単にうかがい、そして、気楽に本題へ入って行きますが、どんな美や美術や遊芸にしても、それへ向かわれる「三好さんのお気持ち」が、趣向もあり、自然なものとして「生活術」としてうかがえれば、何よりなのです。堅苦しくする気はありません。

 

* さ、そんなにうまく話が運ぶかどうか、ま、堅く成らずに話し合ってこよう。彼に恥をかかせずに済むように。

2006 7・3 58

 

 

* 祇園会に入っている京都。明日は、午後から半日、なにもなく、ゆっくり出来る。明後日の午後、対談して、その脚で帰ってくる。七夕に、糖尿の診察。今度はこれまで以上に惨憺たる成績で、怒られるだけで済むかどうか。京都で気儘に飲み食いしてくればデータは正直に暴露するだろうなあ、やれやれ。

2006 7・3 58

 

 

* 例の探訪・探索のメールを何度ももらっていながら、やす香ののことに思いひしがれて、なかなか落ち着いて読めなかった。が、雀行脚の向きはひろがり報告が細かになっている。ま、この人ほど私の作品や言葉をすみずみまでよく囓って味わっててくださる読者は、少ない。どこでどういう勉強をした人かも知らないでいる。

京都。それで興奮したのではないが五時前に床を離れた。出掛ける前に、用事をすこし。新幹線で寝ればよい。

2006 7・4 58

 

 

* 乗車時間を十時過ぎという早い時間にムリに決めて、眠れずにべらぼうに早起きまでしていたのが、万事につまづいた。新幹線では、茫然と眠っていた。

目ざめた時はマーガレット・ケネディの『永遠の処女』を読んでいた。この角川文庫本は昔から手元にあるのに何度読み始めても読み進められなかった。旅に持ち出すには不味いかなあと案じていたが、意外や、すらすらと今回は興に乗って面白く読み進んだ。旅の連れにして成功した。

こういう経験はやはり角川文庫の『嵐が丘』で昔味わった。何度読みだしても入れなかったが、数度目にすうっと入って行き、そしてわが愛読ベストテンの上位にランク出来る名作になった。『永遠の処女』は二十世紀に熱狂的に読まれた一作で、作者がまだ若かりし頃の二作目か三作目ではなかったか。まだ半分に行かないが、これを読みたいばかりに旅中退屈するということがなかった。

 

* 昼過ぎにホテルに入って、すぐ昼食に四条へ出たが、いかに祇園会とはいえ、梅雨明けしていないはずがギラギラの日照りと猛暑にたちまち参ってしまった。両脚とも痛く攣って攣って歩くのも面倒、と言うより堪らなくて、転げ込むように「田ごと」の本店に入って、幸いうまい昼懐石にありついた。ただし葛を使った煮物碗にでっかい賀茂茄子には閉口、うまい葛汁だけすくって食べ、茄子には箸もつけず勿体なかった。鮎はうまかった。酒もよかった。涼しい店にいた間はご機嫌であったが、また日照りの四条に出るとたちまちに全身疲労が発熱したように昂じ、息まで喘ぎだして、喫茶店へ逃げこみ珈琲を飲んでも、やはり珈琲で躰が燃えだし、外へ出るともうどうしようもなかった。ゆるゆる痛む脚を引きずって歩いたが、しゃがみたくなり、仕方なく近距離をタクシーに逃げこんでホテルに戻った。

そして熟睡から目覚めるともう七時だった。

あまりうまくないホテルの晩飯をしながら対談の心用意のメモを沢山書き、部屋に戻ったものの、ただもう眠くて、テレビでやす香の病気に触れ女性のドクターの話しているのだけ聴いてから、何もしないで寝入った。

夜中二度覚めたが、結局、明くる朝の十時過ぎまでひたすら寝入っていた。

こういう京都もじつに前例がなかった。

2006 7・4 58

 

 

* 十時過ぎ、外はどんより雨雲の雨もよい。どこかへ出ようと思っていたのも断念し、朝飯の時間にも遅れていたので、午後の対談の用意にメモを書き直したり、北朝鮮のミサイル発射のニュースを見聞きして、ホテルのランチを食べた。窓の向かいに産経新聞の京都支社のあるのは前から知っていた。対談の前に、ふらりと立ち寄り、デスクと少しお喋りしてから、対談に出掛けた。

 

* 幸い対談は三好閏三氏の積極的な協力もあって、予定し期待していたとおり、おもしろい対話が堪能できた。弥栄中学以来の同期同窓であり、心やすさもあり趣味も好みも考え方も近く、話題は多岐に亘っても混乱しなかった。その上三好氏は、茶道具の秘蔵品をいくつも持参して見せてくれた。

白隠さんと伝える鰻の繪賛一軸といい、瀬戸の肩衝茶入れといい、さらに東山三十六峯の三十六あるという茶杓のうち「円山」と銘のある大文字山の松で削ったど茶杓といい、目の法楽にあずかった。対談の中に、今日にちなんだ趣向の茶席一会の会記も、また茶事のための献立表も載せられるだろう。

美も美術も創る人だけの物でなく、むしろ享楽し堪能し愛好する人達のものである。楽しまれ用いられ活かされて美しい物が生きてくる。その典型的な実例を、この京の町衆のひとりからまちがいなく語って貰うことが出来、おお満足して、その脚で京都駅へ直行、予定より数十分早いのぞみで帰ってきた。よく寝たし、また『永遠の処女』も心長閑に嬉しく読み進んだ。

 

* ま、よくよく躰が疲労しきっていたとみえ、時間の余裕はたっぷりみて出掛けた京都で、殆どの時間を寝て過ごしてきたのだから、想えばヘンな京都行きであった。明後日は糖尿の診察。これの気が重い。配剤されている薬の副作用らしいが、脚はむくみ、体重は減るどころか増え気味になっている。あんなに自転車で運動していてもである。

2006 7・5 58

 

 

* 溝口健二の『祇園囃子』をひさびさ再見。公開当時はまだわたしはこどもだった。祇園育ちではないが祇園の真ん中の新制中学に通い、友達には祇園の女の子も男の子もいっぱいいたのである。それでも、いま齢七十、ああ、こんなに優れた映画であったかと感銘を深々と新たにした。木暮実千代の全盛期、若尾文子のデビュー売り出しの頃だった。若尾の可愛らしさ、戦後の少女らしい強さと柔らかさに、あの当時わたしはゾッコンであったが、木暮の作品としても、数々他の作も思い出されるけれど、ニンの美しさでは、これが最高の出来ではないかと思われる。浪花千栄子といい、進藤英太郎、菅井一郎、田中春男といい、どうしてこう巧いんだろうと、三嘆。佳い物を観せてくれるなあと嬉しくなり、二時間、動けなかった。花あり実もあり、あはれもあった。祇園囃子も懐かしいが、甲部の路地・露地の美しさも黒白の写真にしっかりとらえられていて、懐かしいかぎり。

若尾文子の舞子性根には、たしかに新制中学時代の「社会性」の雰囲気が匂っていた。あれも懐かしかった。わたしの青春とも、この映画まんざら無縁ではなかった。

2006 9・5 60

 

 

* 溝口健二監督の『祇園の姉妹』は山田五十鈴と梅村蓉子の昭和十一年の作品、五十鈴の若くて綺麗なこと、はげしいこと。祇園とはいってあるが、よその人には気がつきにくい、祇園には藝妓の甲部と娼妓の乙部が截然と分かれていたし、この映画は、戦後の『祇園囃子』が明瞭に祇園甲部の物語であるにたいし、見るからに祇園乙部の物語になっている。女達の悲哀も烈しさもむきだしの男への敵意も男の立ち回りのずるさも、乙部の感じが濃い。わたしは、そのどっちにも間近く育っていたのである。

『祇園の姉妹』には命がけの女の闘いがある。「祇園囃子」にもあったけれど、ブルジョワっぽい。『祇園の姉妹』はプロレタリアの戦闘精神であり、しかも勝ち味は薄い。あはれ深い。

2006 9・6 60

 

 

* 重陽。こんな言葉を覚えたのは幾つぐらいであったろう。紫式部日記の初めの方で菊の花の露を話題に道長と紫式部とにやりとりがあった、あの辺を初めて読んだ頃が懐かしい。日吉ヶ丘高校の教室で、時間外に二三人で読み合っていた。更級日記を先ず読み、紫式部日記に移ったように覚えている。

あの高校には、岡見正雄先生がおられた。京極裏寺町のお寺の住職で「ぼうず」と皆が呼んでいたが、太平記などの精到隈なき研究で知られた「室町ごころ」の大学者であることなど、当時、誰も知らなかった。この先生の、古典を朗々と読みあげられるだけの授業に傾倒していたのは、学校中でわたし一人であったと思う。「古典」とはあのように読むものとわたしは会得して継承した。

2006 9・9 60

 

 

* 大阪讀賣新聞の米原さんから原稿料とお手紙ももらい、京の紅葉狩りが、聞いて目をまわすような大の大の人出だと。『初恋=雲居寺跡』の現代の舞台である高台寺の紅葉見に、四条京阪南座あたりからもう行列と聞いては、ほんとビックリする。それでも、あそこならきっと静かだ、誰もいないと独りで想える紅葉の場所を、わたしはあの辺にもこの辺にもと頭に想い描く。

京都へ帰りたいなあ。ほんと、行きたいなあ。

2006 12・1 63

 

 

* おお、泉涌寺、東福寺。雀は、わたしと歩いている気だろう。

わたしには、青春をうずめてきた時空間。夕暮れの泉涌寺・東福寺は閑散として最上の刻限。しばし歌集『少年』をひらいていくつもの歌を読む。ああ京都へ帰りたい。

2006 12・2 63

 

 

* 真珠湾奇襲を報じられた日である。

わたしは馬町の京都幼稚園に通っていた。明けての春四月には国民学校に入学。あの当時の「空気」をいまも肌身に思い出せる。東山も、新門前も、古門前も、馬町も。

2006 12・8 63

 

 

 

 

 

 

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