☆ 京の昼寝 1999 1・21 「京都」
* 兵庫の人がメールで、京都へ行って来た、元の藝大わきの道を上がっていった先にある陶器屋サンで佳い品物を買って帰ったと言ってきた。その道はかつて私が通った高校一年時代の教室のすぐ外を通っている。新設の高校が、藝大、当時は京都市立美術大学の構内に同居していた。高校に、当時では日本で一つの「美術コース」が設けられていた縁であり、この美術コースは、かつての「美校」の後身、「美大」は絵画専門学校、絵専の後身であったから、何の不思議もない。
私は、普通科の生徒だったが、同じ高校に美術コースのあったことで、たいへんな感化を受けた。「日曜美術館」という番組にずいぶん早くから少なくももう十数回は出演してきたし、「京都美術文化賞」の選者を十数年務めているのも、元をただせば美術関係の小説や批評やエッセイを書いてきたからであるが、それももっと元をただせば「日吉ヶ丘高校」に美術コースがあり友達が何人もいたからだ。さらに元をただせば育った新門前通りが、よく知られた美術商店街であり、ショウウインドウを私専用の美術館のように子供の頃から飽かず見歩いていたのだ。
いま一つは叔母の茶室で門前小僧をつとめ、茶の湯の道具や茶会や茶席に十分に親しむ機会が、小学校時代からずっと続いたことも大きい。
* さらに元をただせば「京」が在った、京都の自然が朝夕にまぢかにあった。一木一草一葉のそよぎからも、山城のやまなみの晴れても曇ってもの色合いから、莫大なものを歴史とともに享受してきた。「京の昼寝」を誇るのはどうかと思うけれど、京都に育った莫大な恩恵を身に負うてきたと思う。
話が逸れたが、その元の美大は、いわば智積院境内に出来た学校だった。長谷川等伯らの楓や桜のあれ以上はないほどの襖絵や、すばらしい庭園がある。智積院の北ならびには妙法院門跡があり、この境内にも専売病院が同居している。
兵庫の人のメールをみて、何故ともなく反射的にこの専売病院が、平安古代の面影を宿して今に生きている園池「積翠園」を抱き込んでいるのを思い出した。公的病院のいわばお庭に取り込まれているので、誰でも無料で自由に出入りできるが、あまり知られていない。びっくりするほど奥深い大きな趣致ゆたかな池が、まぎれもない「古代」の表情を遺している。変な岩を池に置いたり改悪の感じもあるに関わらず、佳い池であることは間違いがない。こんどあの辺へ行ったらぜひ立ち寄られるように返事をしたけれど、とうに知っているかもしれない。
兵庫県ぐらいの人だと、京都が好きでしきりに訪れている人は多く、こっちが教わるほどものを知っている。
それにしても、こういう穴場をあまりひろげてしまうのは心配もある。だが自慢したくもあるのはたしかで、ときどき、ここで「私の京都」を披露してみたくもある。大人になってから京都に移住してきた人たちの京都とは、視線や体感のちがう京都を、私は知っている。少年の思いを抱いて、歩いて、見て、驚いて、知っている。 「むかしの私」より
2009 1・28 88
* 幸か不幸か「郷愁」という感情がすっかり鎮静していて、京都へ出かけたいという気持ちにあまりならない。おそらく現実の京都より、胸にしまわれた手持ちの京都のほうが好きだと断念しているのだろう。ま、も少し弱ってきたらまた変わるだろうが、その頃にはもう行きたくても動けまい。
2009 2・1 89
* 鴨川から東山を眺めるようなホテルであったから、フジタの位置でありながら、眺望は遅くも明治初年以前の、銀閣寺の方へ視野の広がるごく懐かしい川ひがしの山里風景であった。
鴨川というより水勢豊かな広い川に沿って径があり、下流へそぞろ歩いていると面白いように鮎を釣ったり網に掬ったりする男達がいた。広い川に沿うて径を挟んでもう一つ狭い川もあり、ずんずん行くと、にわかに小川の川下から水かさが盛り上がるように逆流してくるのが見えた。危険だと川上へはしる間にも水は押し寄せてきた。あたりの家はどうなるかと、逃げ場をさがして慌てていた。
ずぶぬれで駆け込んだホテルの、地下へおりて寝ようと思った。障子をあけると二流れの床が敷いてあり、間違ったかと引き返そうとすると、テレビ司会者で五月蠅く横柄なガラのわるい男と、刑事のドラマでバアのマダム役の美人とが、寝巻き姿ながら夫婦然、当ホテルの経営者風情で部屋へ戻ってきた。わたしの部屋は「三階」だと教えられ恐縮した。夢であった。
2009 2・6 89
☆ おお、京都京都 1999 4・9 「京都」
* 京都へ行って、帰ってきた。二つ、いや三つ目的があった。うちの一つは京の花にひさびさに逢いたいという憧れごころであった。これは仕事ではない。
仕事の一つは淡交社の服部友彦氏とひさびさに会い、依頼原稿の件でお互いにすこし煮詰めたい用事があった。ま、用事よりは会ってご馳走になってきただけとも言えるが。縄手四条下ルの割烹で、スツポンや若筍やあなご寿司やいろいろとご馳走が出たが、酒もよく飲んだ。話も弾んだ。
服部氏が雑誌「淡交」を統べていた昔、私は後に『茶ノ道廃ルベシ』に纏まって行く連載をして、しばしば物議を醸し、何度か京都に呼ばれてご馳走になっては原稿内容の、表現の緩和を要請され、応じたり応じなかったりした。臼井史朗御大がいつも一緒だった。懐かしい。
あれはあれで、裏千家としては納得しましたとは言うわけがないが、いい仕事ができた。単行本は他社で出したが、よく売れたし、今でも「湖の本」で愛読し眼から鱗を落としてくれる読者は多い。
なにしろ、ほんの子どもの頃から叔母の門前小僧で茶の湯はからだに入っている。無茶者ではあるが、理屈だけを吹いてきたわけではない。雑誌「淡交」との縁も深いし永い。沢山の仕事をさせてもらったので、今度も、気を入れて書いてみる。優しいテーマではないが。
縄手でもう一軒寄り、そこで別れて、富永町の「とよ」に寄った。新制中学の同級生で、我が演出で全校優勝した演劇大会のヒロインで。往年の美少女である。最近健康が優れないし父上にも死なれ母上も気が萎えていると聞いていた。見舞い半分激励半分で顔を見に寄った。幸い私が独りの客であったので、頼んで、美空ひばりの歌を二曲歌ってもらった。
私は歌えない、が、ひばりの歌は大好きだし、バーのママさんたちは例外なくと言いたいほど、じつに歌はうまい。「川の流れのように」と「恋見酒」であったかをしんみり聴いたところで新しいお客が入ったので、ホテルに帰った。
* この頃は、必ず「のぞみ」に乗る。昼過ぎには着いたので、素晴らしい天気ではあり、すぐ外へ出てなにとなくイノダのコーヒーが欲しくて行き、ついで京都ホテルまでが面倒で、河原町三条のロイヤルに上がり、「うらうら」の東山の遠見の桜を眺めながら、春爛漫の献立で酒をすこし飲んだ。比叡も鞍馬もくっきりと美しかったが、どうにも高台寺露坐の観音様の上に華やかに匂いたつ桜の一群が懐かしくてならず、昼飯の後タクシーで八坂の塔まで行き、急な坂をあせばみながらのぼって、結局、正法寺までのぼりつめて京都の町を眺めた。
人の来ない高見の古刹で、狭まった境内に墓が二基ひっそり並んでいるのが私の『冬祭り』の冬子と法子との墓だ。二人が最期の最後にみそぎをした「鏡の水」という井戸もある。墓に手を添えて「おやすみ」と声をかけてきた。
圓山のしだれ桜も雑踏に心浮かれて眺めてきた。八坂神社の境内を北斜めにすり抜けて絵馬殿わきから西の楼門に立った。絵馬殿のワキにも見せ物小屋が出来ていて気味悪かったが、あれも春花どきの景物とおもい、堪忍した。
「農園」でのみものを補給してから一度ホテルに戻り、淡交社の迎えを待った。暖かで晴れて、じつに久しぶりにうらうらとした京都をやや特異な角度で楽しめた。冬子や法子に逢いたかった。
* 一夜明けて、二時の会議が京都美術文化賞の第十二回の、授賞者選考。少し間があるので出町の菩提寺へ車を走らせ、墓参りをした。今朝方にも父の出てくる夢を見ていた。このごろ、しきりに秦の父や母や叔母を夢に見る。機嫌のいい夢もそうでないこともあるが、夢見ることはすこしもいやではない。
作務衣の住職と立ち話してから墓地に入り、たっぷり水をつかって洗い、落ち葉を拾い、樒を立てて、話しかけてきた。祈ると言うより話しかける方が落ち着く。南無阿弥陀仏もたくさん唱えてきた。いつかここへ私も妻も入るんだなと思った。
* 花曇りながら空は明るく暖かく、高野川西堤へ葵橋を渡り、東堤に上流へかけて花盛りの桜並木を眺めながら、ゆっくりゆっくり溯って行った。川の水は陽ざしにまぶしいほど澄み切って、稚魚は稚魚で水底に淡い影になり光になりして泳いでいたし、三四寸の魚たちもまた群れて水輪をうみながら光っていた。
犬づれの人が幾組もゆっくり犬を遊ばせている。絵を描いている人も、鳩や小鳥にしきりに餌を撒いている少女もいた。
御蔭橋までに西堤には一株だけ、とても大きい桜樹がはんなりと枝たわわに花を咲かせていて、その蔭に佇んで比叡を、鞍馬を、北山を、それから東堤にえんえんと続く紅の雲を眺めていると、そぞろまた京都の小説が書きたかった。ふっとその辺から、とっておきのヒロインがあらわれて私に声を掛けてくれそうな気がしてならなかった。
下鴨の屋敷町へ堤からあがり、そぞろ歩むうちに、表札に「秦恒夫」とあげた家があって胸がときめいた。
下鴨社に入り、本宮まではあきらめて河合社に詣でた。
境内に鴨長明の「方丈」の家が復元してあり、これに魅入られた。小一時間も動けなくて見ていた。たった三メートル四方の家である。その小ささ簡素さに具体的に目をふれてみると、感動してしまう。
方丈と額をかかげた仏殿はどこにもあって見なれているから、「方丈記」とは読んでいても、三メートル四方の建物はなかなかイメージ出来ていなかった。感動したというしかない深い深い感動で、私は、人の居ない境内で、「方丈」の家と、背後の桜樹やさらに背後の新緑を思わせる木々の緑に、溶け行くような気がした。嬉しくてならなかった。
小川沿いのちいさな店で、ビールとおにぎりとで昼食しながら、ゆっくり文庫本を読んだ。この店には以前、妻と入ってホットケーキを注文したことがある。
京都御所の公開で烏丸通りが混雑した。時間前に、汗をかいて会議の場所へかけつけた。
* 選者は、梅原猛、石本正、小倉忠夫、清水九兵衛、三浦景生氏と、私。東京からは私一人が参加。京都美術文化賞は、書と建築を除くあらゆる造形分野から三人を選ぶ。賞金は各二百万円、もう十二回目になる。
選考は終えたが、ここで発表は出来ない。授賞式がまたある。展覧会は来春の一月と決まっている。
散会後に高島屋で大きな個展を開いていた漆藝作家(=わたしが推してこの日受賞した、原田峻昇氏)の新作など見てから、予定ののぞみより、時間早めて乗った。いつもは寝てしまうのに、今回は行きも帰りも「湖の本」の校正にフルに働いた。家に帰ったら京都の道具屋から送ってくれた筍で、ご飯と煮物がうまかった。昨夜の料理屋の筍に負けない味付けで、満ち足りた。
いい京都だった。
高校の頃の友達と、チェックアウト前に電話で十分ほど話しあえたのも、はんなりとよかった。
1999 4・9 「むかしの私」から
2009 3・5 90
* 来週には「湖の本」の新刊が出来る。第九十八巻。すぐ発送する。発送に長く手を取られていては、春は名のみの風の寒さ、厄介な仕事がまだあるわけで。「五十年」の自祝は、前後三日間で終える。月末には京都へも行かねばならぬ。
2009 3・12 90
☆ 京のながぁい一日 2000 10・15 「京都」
* 十月十四日 土曜 十七階の窓際で朝食。眼下に、京言葉で書いた小説『余霞楼』につかった屋敷と庭が見えている。南は清水寺まで、北は比叡山まで、晴れ晴れと東山が青い。もう一月すれば紅葉しているだろう。視線が深くて、鴨川が、かわいらしいほど川幅せまく見下ろせる。視野に収まる限りはわたしの知らぬ所が無いとすら言え、あれは、それはと、建物の一つ一つを指さしながら、その中には母校の屋上の鐘楼もあれば、知恩院も八坂の塔も、黒谷も真如堂もある。
* 時間予約したハイヤーで、妻の希望に任せ、まず五条の山越えに、山科に入り小野随心院で車をとめた。静かに気品豊かなこと、この門跡の庭には俗気が微塵もない。その気なら数時間でもじっと座っていたい。なまじハイヤーを待たせているのは罪なことであったが、六時間は使わせるというホテルとの約束なので、午後の日程のためにも、ま、車は有り難かった。
小野小町ゆかりの寺であり、境内に広い梅林があるなかに、小町化粧の井もあって、石段を貝殻を踏むようにまわって少しおりると、木の葉が積んでいるけれど澄んで静かな、湧き水。降りていって、指先を泉に着けて妻は頬をすこしぬらしていた。白いじつに可愛いちいさな仔猫が、小町の井をまもるように石段のわきにいて、にげるどころか、よぶと懐かしそうに二人の足にからむように啼く。それは綺麗な、よごれのない仔猫で、いとおしくて堪らない。去ろうとすると声をあげて妻にもわたしにもかわるがわる走り寄り、あとを追い続けてくる。これは、もう、つらいほど胸がしめつけられた。心を鬼に、置いて行くしかなかった。家のマゴのお嫁さんに連れて帰りたかった、本当に。
* 醍醐寺の三宝院へ入った。あまりに晴れやかな天気で、かえってこの庭のみごとさが明るく浮かんでしまっていたが、夥しく置かれた石組が少しの騒がしさもなく豪華な音楽のように美しいのはさすがで、どこに立ってもすわっても天下一の庭園、繪になる。
しかし今日ばかりは、もっと立派だったのが金堂前の醍醐寺五重塔。その鳴り響く大きさ、美しさに、息をのんだ。金堂の仏様も、東寺のとはまた異なる大きさで立派に見えた。
* 次いで車を日野へむけ、法界寺の阿弥陀堂で、定朝作の最も美しい阿弥陀仏名作の一つを、心から拝んだ。堂も御仏もありしままの場を占めて、ありしままに時代を経て、豊かに美しい。今度の旅でもっとも感動したのはこの如来像であり阿弥陀堂のたたずまいであったと言える。背中の丸く縮んだ老婦人の解説が要領を得ていたし、人はわれわれ二人だけであったし、車を待たせてなかったら、わたしたちはやはり立ち去りがたくここに時をうつしていたに違いない。ちいさな静かな池の風情も残りの萩の花もよかった。ススキも涼しく立っていた。
* 宇治へ走り、黄檗山萬福寺は惜しいが割愛して、やはり宇治川の景色が見たいのと、頼政の墓と切腹の扇の芝を訪れたく、平等院に入った。ここでは観光客をさけることは出来ない。すこし順番を待って鳳凰堂に入れてもらい、法界寺の阿弥陀とまさに兄弟のようによく似た同じく定朝随一の名作阿弥陀如来を拝んだ。堂内の雲中供養仏など多くは、いま巡回の「平等院展」に出払っていて、それは上野でわたしは観ていた。
頼政の墓は清潔に優しい。観音堂の裏手の扇の芝は、なにかしら文武の将の最期を偲ばせてもの哀れだった。わたしの著の『能の平家物語』では、「頼政」「鵺」と、一人を語って二曲をとりあげた。そういう人物は頼政だけ。それほど魅力の人であり、また時勢を動かした人である。辞世の和歌もさながら、末期は哀れとも見えるが、だが、みごとに老いの花を咲かせて死んだものとも、わたしは観ている。
* 宇治の下流の悠々と穏和な景色に感じ入りながら、桃山御陵を遠望し、観月橋から伏見街道を通って、一路、ホテルへ戻った。時間が有れば稲荷へも東福寺へも立ち寄りたいところだが、二時すこし前には帰り着いてハイヤーを離れた。
部屋で着替えて、またタクシーで南禅寺下の「洛翠」へ。日本ペンクラブの京都大会。もう二十年ほども前に一度妻と参加したことがあり、久方ぶりの二度目。前にも逢った井土昌子さんにいきなり再会、この人は久しい湖の本の読者であり、雑誌「美術京都」に原稿ももらっている。昔大阪の阪急で講演したときの司会役もしてもらったことがある。
広くない会場で同僚理事の三枝和子さんが何やら講演していた。妻は聴いていたが、わたしは受付の外で人と立ち話などしていた。京都のことで、知人は少なくない。京都新聞の杉田博明氏、淡交社の服部友彦氏、同志社の河野仁昭氏、作家の田中有里子さんらにやつぎばやに逢う。他にも覚えきれないほど大勢と言葉をかわした。
眩しく晴れ上がったかんかん照りの庭で園遊会になり、会長の梅原猛氏はご機嫌さんの長い挨拶であった。
そのあと、梅原さんはわたしに、例の世界ペンがらみのいきさつなど、十六日の理事会でぜんぶ話しますと、いろいろのことを耳打ちしてくれた。それについては、理事会を経てから書くかも知れないが、ニュージーランドが世界大会の開催に名乗りを上げてくれたらしく、ま、欠会にだけはならずに済みそうなのが、有り難い。梅原さんも責任上よほど苦慮されたことと思う。日本で、京都で、梅原さんはさぞやりたかったろうが、ちょっと準備が難しく断念したと残念そうだった。わたしから出して置いた長い手紙も梅原さんはちゃんと読んでの、二人だけでのウラ話・立ち話となった。
つねは控えめな妻が、梅原さんのところへ一人で行って、なにやら盛んに話していたのが可笑しかった。東京からの理事は小中陽太郎、早乙女貢、高橋千剣破氏ぐらいだった。広くはない会場だが食べ物の味はなかなかで、しかも盛会で、のんびり楽しめた。五時ぐらいまでゆっくりしていたが、会長も意外なほど長居で、ご夫妻には挨拶をしておいて先に失礼した。日の有るうちに南禅寺を散歩したかった。
* 白川沿いの道から、清冽に流れ落ちる走り水に沿い、東の山辺への小道を溯っていった。こういう佳い小道は、土地のものでないと気づかないし知らないが、この界隈は超弩級の宏壮な邸宅がやたら集まっていて、人通りもすくなく木立や塀づたいや季節の深まりようも、清寂そのもの。水の走る音だけが心にしみ、そして、いつ知れず南禅寺に入って行く。妻を「絶景」の三門にあげてやりたかったが、わずかに五分のおくれで上がれなかった。まだ夕暮れ前の穏やかな空には、ほのかに茜色もまじっていた。
* 金地院の前を通り抜けて蹴上まで、広い別荘の立ち並ぶ、溝川の潺々と鳴って走る道を、蹴上へ抜けて出た。先刻南禅寺境内からかけた妻の携帯電話では、まだ都ホテルに戻っていなかったアメリカの古い古い女友達が、蹴上のホテルに入ってフロントで聞くと、折良くもう部屋にいてくれた。ロビーにはたまたま総支配人の八軒氏がいて、おおおおと双方で声が出た。創刊以来の「湖の本」の読者で、妻も以前に会っている。いまから泊まり客の友人とここで食事すると言うと、八軒支配人はご機嫌だった。
ロサンゼルスに四十年来夫君と二人で暮らしている池宮千代子さんを、三階の「浜作」で歓迎した。われわれが結婚の時からのごく親しい年上の友達で、年に一度平均は京都懐かしさに遊びに帰国してくるつど、三人で、どこかで、一度は顔を合わせている。話は尽きない。喫茶室に移ってからも歓談に時を忘れた。旅の疲れもあろうけれど、都ホテルの客だと思うとわたしたちも気がらくであった。元気に逢える間には何度でも逢いたいのである。もともとは池宮さんの姉さんの方と親しかったのが、アメリカで若くて亡くなってしまった。死なれてしまってはどうにもならないではないか。
* 名残惜しく別れ、タクシーで知恩院三門の前へ走り、夜の円山公園を八坂神社までそぞろ歩いた。拝殿は修理中で、もう一年半ほどかかる。綺麗になったのをぜひ拝みたいと思った。つうっと、感傷的なほどその想いが胸を射た。
何必館=京都現代美術館のわきから入って、横井千恵子の「樅」へ行ったが何故かしまっていた。花見小路を西へ渡って内田豊子の「とよ」へ入った。中学の女友達がひとりで店をあけている。相客がなく、三人で昔話を懐かしく話しているうち、妻が、カラオケというのを体験しようと言いだし、ひばりの「愛燦々」越路吹雪の「愛の賛歌」それから布施明の「積み木の家」とかいうのを、つづけて三曲歌った。妻の声は澄んできれいだが、歌いかたは淡泊で、うまいとは思わない。「とよ」ママに頼んで、ひばりの酒の演歌を一つ歌ってもらったが、さすが、すてきに上手であった。
妻の兄が作詞して、森進一が自分のコンサートでは必ず歌うという「うさぎ」という長い長い曲のあるのを、カラオケの画面で、はじめて読みかつ曲だけ聴いた。これは妻も歌えない。すこし感傷的な母恋歌だが、森進一がコンサート用の愛唱歌だというのはよく分かる。彼なら持ち味で、きっと聴かせるだろうなと思いつつ、義兄もあまりに若く死んだのが惜しまれた。その辺で「とよ」を辞してホテルに帰った。
昨日の「千花」もあり、今日の園遊会から「浜作」から「とよ」までと、だいぶ多く呑んでいたので、念のため血糖値をはかると、289にもなっていた。しっかり水をのんでさっさと寝入った。
2000 10・15
2009 3・15 90
* 三浦景生さんのお手紙を戴いた。石本正さんのことにも触れてあった。
なんと、来週には京都へ出かける用があった。美術賞の選考。選者として、はじめて今回は推薦を出した。
* 例年花粉にさんざんな目に遭わされるが、幸い今年はさほどでない。何年前であったか、花の盛りに上野の博物館に行った日の花粉が物凄かった。目が全然あかなかった。這々の体で逃げ帰ったのを覚えている。
京都でゆっくり遊んでくること、今回はむりだ。相変わらずとんぼ返しになる。まだのぞみの切符も買っていない。
2009 3・18 90
* 雨の音がしている。明日は晴れると言っている。京都も晴れていてもらいたい。とんぼ返しに帰ってくる。ちっとものんびりしていられない。
メールやお手紙など頂戴しても、お返事もしていられない。無礼者になりきってしまい、申し訳ない。
2009 3・22 90
* 夜をこめて風の吹きすさぶ夢路であったが、朝は晴れて明るい。
京都へ発つ。例の、とんぼ返しに帰ってくる。左の肩胛骨あたり、異様に痛む。重い本を何冊も左手にもって読むのが堪えるのであるか。おとなしく、無事に帰ってきたい。今日の宿は、いつもと変更されていて、初めて。
2009 3・23 90
* 東京駅で予定より三十分早い「のぞみ」に乗り換え、社中で、持参の書き物を読み、またカエサルの『ガリア戦記』を読み、京都着。晴天。
* スポンサーでそもそもの最初から馴染みの平林さんを訪ね、美術賞の選者を辞したいと思うということを告げてきた。平林さんは現在役職を動いて直接の担当ではないらしかったが、社の方でも財団事態の改組も含めて国の指導に対する対策も考えねばならぬ時機にあるらしく、ま、潮時かと思っていたのと符合する別の流れもあるようだった。
二十数年経って、選者も「奥期」高齢者ぞろいに成ってきており、いちばん若かったわたしも今は七十三。小倉さんが先ず退かれ、清水さんが惜しくも亡くなられ、石本さんも三浦さんも、期せずして辞意をもらされている。わたしも夙に潮時が来ていると感じていた。
またそれ以上に、さすが美術の京都とはいえ、二十数年、受賞候補者にもやや精彩を欠いてきている気がしていた。機械的に三人三人を必ず選ぶとなると、時に少し斟酌も加わることになる。
そんなことが念頭にあり、改組するなら思い切って若返らなくては、また選び方にももっと工夫が必要と思ってきた。
雑誌の方でも、わたしが巻頭の「対談相手」を選ぶのに、スポンサー企業の「顧客から選んで欲しい」などと担当者か強いてくるのでは、やりきれぬ気がして、わたしは前回から「対談」そのものを「引き受けない」と断った。わたしに企業のどんな顧客があると分かるわけがないではないか。
以前にも、受賞者選考について、できれば「この会派から」といったスポンサーの口出しがあり、あるいは「選者の先生」に受賞して欲しいなどと面妖なことまで言い出されたが、わたしは、そういうことは言われたくないと、その場で拒んだ。
こういうことが出てくると、「賞」そのものがお手盛りで汚れてくる。そういう情実を避けるようにとわたしは一言居士の憎まれ役にも任じてきたつもりだ。
* いつもの宿が「満員」ということで、スポンサーが別に室町通りに用意の宿は、食堂もない簡易な宿。
それなら自前でたのしもうと、木屋町の「たん熊北店」に五時にとびこみ、いつもと違いカウンター席になったけれど、主人が土間に出ていて、あれこれ和やかにいろいろ話しながら、板さんたちが腕によりをかけた春料理、最上のコースで、究極という京料理を満喫した。満腹した。「熊彦」という店独自の酒もうまく、二本、家に送ってもらうのも頼んだ。
あいなめの鍋のかわりにすっぽんを薦められたのが、目の前でつくられた顎の落ちそうな美味で、座敷で床の間を背負ってちんと独り食べるよりも、にぎにぎしい佳い席をもらったと満足、大満足。
店の表まで主人や板さんに見送られて恐縮。機嫌よく河原町を歩いて、昔なつかしいカメラの「さくらや」をひやかしたり、店員と昔語りしたり、喫茶店の「六曜社」で昔ながらの超大カップのうまいコーヒーを呑んだりした。何十年ぶりに入ったが、昔と同じごく若いお嬢さん等が三人ほどで店をしきっている。昔のままだねと笑うと、昔のままなんですと笑う。そういう店なのである。
* 三条大橋から縄手へ、新門前へ入った。もとのわが家のあと、また建物が変わっていた。
花見小路からエイと車で室町まではしり、宿の部屋でゆっくり湯に漬かりながら、「ガリア戦記」をおもしろく読み進んだ。それから寝床に坐ったまま、二時頃まで書いた物を読み直していった。いろいろものを思った。
2009 3・23 90
* 朝飯の用意もろくろく出来ない宿で、コーヒーとパンだけ。チェックアウト。
晴天。しかし空気はきゅんと冷えていた。柔らかい軽いチョッキを背広の下に着込み、会議のスポンサーのもとへ荷物を預けると、すぐタクシーを拾った。
* 五条から山科へ。
静かな随心院で、紅梅の残りの色を晴れ晴れした日光のもとにながめ、次いで醍醐の三法院へ。門内の枝垂れ桜がもうはんなり咲き満ちていて。嬉しくて声が漏れた。
庭園も、しみじみ眺めてきた。晴れやかだった。廊下を行く足の裏は冷えたが、豪華に贅沢な嬉しさの満ちたこの寺に来ると、いつも胸が暖かに膨らむ。分厚い動感と達成があるのだ。
足を伸ばし日野の法界寺へ。人ッ子ひとりない。阿弥陀堂をあけてもらい、定朝の大佛さまにひとり向き合って静座し、念仏百遍。ありがたい像容の、こうまぢかに阿弥陀如来に真むかっていると、もう宇治の鳳凰堂まではいいだろうという気がしてしまう。それほどよく似ておわす。
宇治川も見てみたくはあったけれど時間にせわしく追われたくない。で、一路、御蔵山越えに黄檗山萬福寺へ車をむけ、そこで車は返した。
なに、わたしのは萬福寺参詣でなく、門前、普茶料理の白雲庵に久々に入りたかった。すっかり空腹になっていた。ここも晴れ晴れと明るい出迎えで。開店の十一時に十五分前だったが上げてもらい、眺望のいい大広間をひとりじめに、若い仲居さんのこまごましたサービスに与りながら、なつかしい精進料理に、人肌の銚子酒を一本、舌つづみ。窓から遙かなこんもりと青山や大竹藪がじつに春そのものの色よさ。風が流れている。日は照っている。
絵に描いたような多彩な「健康」食の普茶料理で。洗練を尽くした調理、配膳。申しわけない、ちいさな茄子だけ一つ残したが、さよう、用いられた山菜やあれこれは百種類にも及んでいただろうか、みな旨かった。吉野葛をつかった煮合わせの味良いこと。
黄檗といえばわたしはお寺より普茶料理で、さらには庭園みごとな小仙郷の白雲庵。昔も何度も、妻も朝日子も連れて来ているが、なぜか、今日の料理がひとしお旨かった。
* ひとつには、わたしの中に、京都とももう半ば以上お別れになるのではないかという寂しみが流れていたのだと思う。みーんな歳をとって、橋田二朗先生もご入院と。気力を落とされていると聞く奥さん電話口の声にもわたしは、しんみりと心萎れていたのである。
* 黄檗からは京阪電車が懐かしく、木幡、六地蔵、観月橋、中書島、丹波橋、桃山、墨染、深草、伏見稲荷、などと嬉しい駅の名前を目で耳で数えながら、四条まで戻った。
車で星野画廊に寄った。あるいは、もうこの先選考に出ないかも知れないので、わたし独りの「激励」もかねいわば特別賞として星野画廊の顕彰も考えていいのではと、異例ははっきり異例だが推しておいたんだよと桂三店主に笑って声だけかけてきた。
* 入院のあとで欠席かと案じていた石本正さんが、杖をついてでも出席され、嬉しかった。去年の選考会には新任高齢の野崎さんが出られてその後に逝去。今日は、梅原猛さ主進行役に、九十過ぎられた三浦景生さん、そして若い内山さんとわたしと、なんとか五人が揃って、まあ、ほっとした。
選考のことは書かない。「ま、画廊はね、異例すぎるしね」と当たり前に笑い話に終わったけれど、ひとり、わたしの推薦しておいた候補の受賞が決まった。
亡くなった日本画の秋野不矩さんわたしはも推した。元気な陶藝の楽吉左衛門氏も、惜しくも亡くなった截金の 佐代子さんもつよく推した。ほかにもずいぶんもう数え切れないほど大勢をわたしは推して、幸い受賞してもらった。いい思い出だ。
梅原さんは、このままで少なくもみな辞めないでもう三年やろう、と。四半世紀を念頭にされているのだろう、一つの考え方。若い選者を補充して。ま、スポンサーにも思案はあるのだろうと思う。
* で、いつものように三人の受賞者を選びおえ、別れて、新幹線に飛び乗ったのは三時十五分ののぞみだった。その頃にはだいぶ気温も上がっていた。車内で一時間近く寝ていたようだ、鼾をかいたろうか。
* 結局三島の『禁色』も久間さんの本も措いて、旅にはカエサルの『ガリア戦記』が正解の面白さ。
ドイツとフランスというよりも、詳細な地図にも導かれながら、ゲルマーニア、ガッリアと、「聞いて見て読んで」いる方が親しみやすいから妙なモノだ。カエサルという人物の筆に運ばれて、紀元前一世紀をいくさの「旅」をしているようなもの。さすがに評判のモノは評判だけのこと有り。
2009 3・24 90
* いま、パソコンの前でうたたねして、京の夢を見ていた。山紫水明の京都ではない、育った家の近在の銭湯を、順に思い出していた。
知恩院下二た筋の門前通りのうち、古門前通り古西町の「新し湯」が、新門前にあった我が家から、一等近かった。縄手に「亀湯」があったが、あまり使わなかった。
新門前通りから路地一本で南へ、背中合わせの新橋からは祇園の廓で。東新地のまんなか、歓亀神社のすぐ前に、一軒「清水湯」が、ひろやかに天井も高く、明るい湯だった。空いた自国を狙ってよく駆けて行った。
祇園町北側には、二軒の湯があった。ややくっつき気味に「松湯」と「鷺湯」で、いまは祇園観光の名所になっている白川辰巳橋を渡って行った。二軒とも他にくらべ小ぶりの湯屋で、鯖寿司「いづう」の北の並び「松湯」など、男湯は女湯の間口半分という狭さだった。ちいさい子供の頃には何故とも思わなかったが、いかにも女の世間、廓の風情だった。脱衣場の壁は、白地に赤い大きな字の披露目団扇がずらずらと並んでいた。
父は、たいてい古門前か新地の広い湯へわたしを連れて行った。母は「きれいやし」と、松湯か鷺湯へ連れて行った。なにがきれいなのか分からなかったが、一つの同じ湯ぶねに、出勤前だったか舞子はんが大きな頭のままぷかぷか浮かんでいたりするのは、松湯か鷺湯だった。湯気が籠もってくらいような浴室だった。四条通の南一筋目に「祇園湯」があったが、めったに行かなかった。
忘れがたいことも、ある。
小学校の時だったろう、家の表で遊びほうけたあと、近所の子同士数人で鷺湯へ行ったことがある。仲間内に一人、わたしより一つ上の女の子が、わたしより一つ下の弟も一緒にまじってわいわい遊んでいた。
湯屋へは女の子も一緒にでかけ、まさかと思うひまもなく、さっさと男湯で着たものを脱ぎ、その女の子、むちむちした白いはだかでみなと一つ湯ぶねに平気でつかってきた。屈託らしい何もなかった。あれにはビックリした。見るような見ないような。まともにはとても見られなかった。どきどきして自分に度胸のないのがよくわかり、後に漱石の『三四郎』クンだったろうか、たまたま同宿し一つの蒲団に寝るはめになった女から、翌朝の別れ際に、「あなたはよっぽど度胸のない人ですね」とやられていたのを、妙に三四郎クンのために気の毒がったのを忘れない。
舞子たちと女湯でプカプカ浮かんでいたのは、もっとちっちゃいころだった。夢に見るほどだ、祇園町の思い出には相違ない。
2009 5・15 92
* 京都にも東京にも新型インフルエンザ感染者が出来、もう或る程度の蔓延は必然か。京都へ行く用事、慎重にと。糖尿病がけっして宜しい状態でなく、インフルエンザとはひどく相性が悪い。用心に越したこと無く、可能な限り自重をと。
一昨年、インフルエンザの予防接種に当てられ夫婦ともそれは辛い思いをした。今度の美術賞では、わたしの強く推した人が受賞しているので授賞式には出てあげたかったけれど、ま、相手は子供じゃなし。
2009 5・22 92
* 菩提寺の前住職が逝去された。わたしと同年であった。ひさしくお世話になってきた、哀悼に堪えない。南無阿弥陀仏。
2009 5・25 92
☆ 宇治五月 藤
秦恒平様 いつもホームページを拝見しています。
先週(関西のインフルエンザ騒動直前に)京都に行って参りました。新緑の京都に惹かれて、名目はお墓参りにと次男を伴って出かけました。いつものような日帰りでなく、たまにはゆっくりしよう、宿は宇治の「はなやしき」と決めて。
京都に着くとまず東大谷墓地へ直行するのはいつもどおり、墓参りの後は祇園社には参らず、はしっこを通り抜けるのは祖母の言いつけどおりに、四条通りに出て四条京阪(最近は祇園四条駅というらしい)から電車に。
宇治線は中書島での折り返しなので、まずは立派な特急電車に乗りました。五条も東福寺も稲荷も深草も墨染も飛び越し、小学校に通った丹波橋には止まったけれど、あっという間に中書島。
そこで乗り換え、観月橋はまるで地形が変わったかのように道路が宇治川の上に交錯し、六地蔵は「ええ、ここがあの六地蔵?」という繁華な街に変貌、黄檗、木幡と、ぐんと減ってしまったが茶畑などあって終点の近代的な宇治駅着。
でも宇治橋からの眺めは変わらず川水はたっぷりと流れていて満足。
川沿いを平等院の正門前を通り過ぎて、とにかく宿に入りました。この宿は大学の一泊クラス会に何度か使ったので馴染みがあり、
とりわけ私は部屋から遮る物なく川と対岸の朝日山が見えるのが気に入っています。小さな発電所からの排水が元気良く合流する地点の、脇に立つ楠大木の、たっぷりとした黄緑色に
「ああ、私はこれが見たかったのだわ」と。
夕方の平等院や宇治上神社も、宿のお料理も全て大満足の楽しい旅でした。
それにしても何故五月の宇治に私はこだわったのか。
やっぱり大学最初の一年を宇治黄檗の校舎で過ごしたから—-とりわけ入学して直ぐの五月の宇治は、鬱陶しい受験から解放されて、合格した成就感、開放感、明るい新緑、自分に注がれる沢山の若い男の子の眼差し、どれもこれも新鮮で、わくわくと楽しかった、人生最高の五月だったから。
帰途もガラガラの宇治電(京阪宇治線をそう言っていた)から、黄檗の粗末な校舎のあったあたり(今は立派な研究施設に建て変わっている)を首をねじって眺めるのでした。
帰ってから本屋で、ご子息秦建日子さんの文庫新著『SOKKI!』を購入しました。
私の手伝っている親の会の事務所が数年前早稲田に引越したので、以来月に2、3度は地下鉄早稲田で降り、穴八幡のある交差点から文学部の前を入試に始まり卒業式、入学式、新学年、早慶戦と大学の暦を感じながら通っています。
そんなわけで少しは土地勘もあるので、楽しく読ませていただいています。
誰にもある若かった日々の甘くてほろ苦い思い出、人生に役にたたないものは果たして本当に役にたたないのか? というテーマ
いいですねえ—–私は役に立たないものって大好きです。
建日子さんにもよろしくお伝え下さいませ。 2009/5/25
* わたしは、この前、宇治を割愛し、日野から黄檗へ、普茶料理を食べに行ってきた。同じ世代に、同じ京都を観ていた。京都は懐かしいが、足下に竪掘りしているような「深い闇の静寂」はもうすこし別の心から、懐かしい。
息子の『SOKKI!』は、彼の小説本のなかで、いまぶん、わたしが一等買っている一冊で。ありがとう。
2009 5・25 92
* 世界的な「京都賞」の思想・藝術部門候補の推薦依頼が来た。以前、画家のリヒターを推したが、惜しくもコンピュータ映像の東洋人が受賞した。だいぶケタの大きい賞なので、慎重に首をひねらねばならぬ。
* 絵本作家の田島征彦さん、湖の本表紙の城景都さんらの個展案内が届いていて 心そそられるが、京都や刈谷での開催で。
2009 7・3 94
* もう京では、御輿洗いも済み、祇園会に入っている。関東は梅雨明けしたのだろうか。晴れやかに戸外は朝から明るい。
2009 7・14 94
* 京育ちの盆は、つい八月という覚えになるが、関東では今日七月十五日が「お盆」であろう。梅雨が明けた、か。
2009 7・15 94
* 東おとこに京おんなと謂うが、「京おんな」と真実京都が自慢にしていい第一人者は、祇園の茶屋の藝妓・舞子のたぐいでも、市中のギャルでもおばさんでもなかった。
近代以降で、ほんとうに京都が自慢にしていい京おんなとは、岸田俊子として市内の呉服屋に生まれ、中島湘烟(煙)として三十九歳で死んだ人である。
日本の女性がいましも抱えている政治的権利は、人間的尊厳は、この天才少女と瞠目され幼くして宮中で皇后らに漢学を進講し文事御用をつとめた、だが敢然転じて自由民権ことに女権確立へ第一声を廣く市井に放って、終生「明治」の朝野に尊敬を得て活躍した人である。姓が変わっているのは、自由党副総裁から初代衆議院議長に任じた中島信行夫人となったからで。
* 湘烟日記を知って、読んで、はじめてこの人に見参したのは、これも講談社から買い続けた文学全集の中の一巻からであった。何度も「岸田俊=中島俊子」のことを書いてきたし、「e-文藝館=湖(umi)」にもすぐ招待した。遅れて「ペン電子文藝館」を開いてからも、すぐ掲載した。
いま「e-文藝館=湖(umi)」では、俊の獄中詩も、「同胞姉妹に告ぐ」も、「女學雑誌年頭社説」も、さらにまさに最期の湘烟日記も「招待」してある。終生、真実凛とした人であった。鱗を濯うに絶好の清流であった。
2009 7・20 94
☆ 六道珍皇寺 泉
京都は、こりゃトタン屋根や、と呟きました。
中の一日は、お墓参りと、京都をたっぷり散策しました。最近はコイン・パークがそこ此処にあり、車での外出が老人の疲れを半減してくれます。
高速を下りて、息子達が何時も行きそびれる東寺に先ずお参りをしました。一入心に沁み、頭を垂れる金堂の仏様達です。
そのまま泉山へ直行、父母達と語った後、今熊野観音寺で印を戴き、お住職様が、前のページの東寺をみて、続いて此処にお参りしたのは良い選択、とお大師さんの挿話をとくとくと話していました。
私は即成院に参るのは初めてしたが、息子達はお墓参りのつど立ち寄るそうです。
お昼は何時ものニシン蕎麦、私の口コミで今や家族中の好物になっています。
お盆の頃に六道の辻へ、は、かねてたっての願望だったので、チャンスでしたが、息子達の都合もあるだろう、と黙っていました。が、なんと予定に入っていたのです。人垣を掻き分け興
味深く観てきました。
* そうか。朝早やに京都へ走って、たん熊北店かひさご鮨で昼飯にし、晩に帰ってくる手もあるんだ。日帰りもなんでもない、車中で退屈どころかの「仕事」も十分あるのだし。そうかそうか。
2009 8・14 95
* モノおぼえはいいし、むかしの、まして京都時代のことならと想うのだが、あの新門前通りの暮らしでわたしは猫がいた、犬がいた記憶をまるで持っていない。猫や犬を飼っていたご近所や友人をまるで思い出せない。
東京へ出てきて、妻と新宿河田町に暮らした六畳一間のアパートに、和歌山の妻の親類から送ってもらった魚の干物を慕って、庭づたいに窓の下へ灰色の猫がきて、ときどきは部屋にも入ってやすんでいったのが、猫という友人との初の交際であった。以来、犬は飼ったことがないが、猫とは数多く関わってきた。
二年いた河田町の「みすず荘」で都合四疋と関わった、飼ったとはいえないが。保谷町へ移転後は鉄筋の社宅の三階でもあって小動物と縁はなかったが、同じ保谷市内に家をもってからは、もっぱら猫を可愛がって飼った。
最初の「ブン」は河田町時代の最初の灰色くんと同じ牡で、ずいぶん可愛がっていたが、三日ばかり京都へ帰省の留守にいなくなり帰ってきてくれなかった。
それから牝ばかり、「ねこ」「のこ」の母子とのべ三十年ちかくも愛して、二人ではないか二疋とも、わたしたちの手で大事に見送った。墓も家のうちにもった。それから、彼女らの血筋ではないかと想われる真っ黒の「まご」が家に居ついて、いまも鍾愛を独り占めにしている。
* 京都でまったく猫や犬の記憶がないのに思い当たり、それが奇妙でならない。
2009 9・20 96
* いま十一時過ぎ、京都の奥谷智彦君の電話で、弥栄中学同級の三好閏三君の訃報を受けた。仰天。
祇園縄手で、鰻と京懐石の老舗「梅の井」を嗣ぎ、京の旦那衆のなかでも、ひときわ粋な茶人であった。遊びを愛し雅びを身に帯びていた。歌舞伎「助六」にも出演する君だった。雑誌「美術京都」の巻頭対談に引っ張り出し、いい話いい道具を披露してくれたのが、つい先年であった。「湖の本」も丁寧に読んでくれる有り難い読者であった。こころより生前の厚誼に感謝し、思いがけない逝去を悲しみ哀悼の思いを送る。
2009 10・15 97
* なにを渇望しているのか、手が届きそうで消え失せる夢を、あけがた執拗に観ていた。京都だった、祇園会の人盛りだった、四条通だった。
2009 11・2 98