* 宵のうち、映画「麦秋」を観た。原節子、柳智衆、三宅邦子、淡島千景、菅井某、東山千栄子、杉村春子、二本柳寛、佐野周二、宮口精二。名前を書き並べるだけで、懐かしい。昭和二十六年。わたしは四月に新制の高校生になった。小津安二郎の画面を見ているとずいぶんもう時代が落ち着いている。あんなだったろうか、もう、と思いながら京都の叔母のお茶やお花の稽古場を想い出すと、あのころからずんずん稽古に通ってくる人が増えていたと。そして、稽古場での話題は、縁談が有ると無いとだったなあと思う。わたしはあれでちゃんと耳を澄ましていた。
2010 1・27 100
* 京都美術文化賞の選考に、今年も三月末に来て欲しいと、電話が来た。どうなっているのか。
2010 2・3 101
* 黙って日々を送り迎えている内には、ケッタイな、理解に苦しむことも起きる。
一冊の写真本が贈られてきたので、ああ、京都美術文化賞に推して授賞した、写真家甲斐扶佐義の本だろう、と、怪しみもしなかった。帯にも麗々しく「京都美術文化賞受賞 甲斐扶佐義」とある。
それにしては、表紙に、やたら大きな字で、甲斐クンの上に杉本秀太郎氏の名前が乗っている。ものの順として、杉本氏の文章に甲斐クンが写真を添えたという体裁になっている、事実そうらしい。
だが、これは本作りの行儀として「本末転倒」だろう、もともと版元「青草書房」の企画には、杉本氏が内輪で重く関わっているらしいとは、だいぶ以前に、経営の民輪女史に聞かされたことがある。小谷野敦氏の近刊のなかで、いわば「とんでも本」なみにサンザン非難・批判されていた「兼好の恋」を書いた或る人の本のことで、当初わたしから版元の書房へちょっとした抗議をしたとき、その本実現の後ろ盾が杉本氏だったと聞かされていたのである。それは、実際ひどい本だった。
上の事情からしても、今度の写真本は、もし親愛や友情というものが本当にあるのなら、杉本氏は、甲斐クンの授賞を祝う意味でも、彼を本づくりの上で主役として立ててやるのが、筋であり情味であるだろう、行儀のわるい話だ。もとより青草書房の商業政策かもしれない、杉本氏への阿諛のようなことかも分からないのだが、妙に気色の悪い本を受け取った気がする。
とはいえ、じつのところ、「あとがき」を見ても、甲斐くん、大いに有り難がっているのだ、おめでたい、ことである。
言っておくが、もし、賞の推薦者だからとわたしのところへ、彼の本のために文章やエッセイを頼みに来ても、わたしは書かない。これまで何度いろんな文章を頼まれても、わたしは甲斐扶佐義のためには執筆していない。そういう仕事はいやなのだ。
都合も付かなかったが、じつは甲斐君の授賞式にも授賞者展覧会の開幕にも、わたしは欠席した。「美術京都」巻頭の対談に呼び出し、そして写真を推薦し、授賞に力を添えた。そこまでが、「亡き兄のよき僚友」であったらしい甲斐への、わたしの気持ちだった。そこまでだ。「写真」は買うが、処世は買っていない。
2010 2・3 101
* 傘壽をお迎えと聴いた。お揃いで、お元気でと願う。
京都で育って、ことに和菓子が嬉しいと思うことがある。京は、和菓子と庭と。そんなふうに思ってきた。しばらく旨い京菓子とも遠くいる。庭は、買ってくることも運んでくることもできない。東福寺の、人っ子一人いなくて今日のように小雪の舞い散っていた普門院・開山堂前の庭、等伯ら紅葉や櫻の金碧障壁画を背に、縁から脚を垂れて向き合った智積院の庭、なつかしい。
2010 2・13 101
* 母校である小学校はとうに隣校と合併廃校になり、その合併校もまた廃校されるという。さらには母校である中学も、やはり近く廃校になるという。「mixi」での情報であり、その「mixi」で、小、中学でのずっと後輩に当たる人から「マイミクに」との申し出があった。メッセージを交わしてみると、もともとの家は互いにほんのご近所と云えるほど、わが家から東向きに知恩院へ向かうあの石橋の近くでその人は育っていたようだ。
それにしても、京都の市内の過疎化が、ものすごい。小学校生徒数は、わたしのころ全校で六百人ほど。それが廃校の前には赤穂浪士ほどの人数に減っていた。中学も、いままさに似た状況、全校で七、八百人はいたのが、いまや全学年七十人ほどという。……、おどろく。
2010 3・23 102
* 京都での美術賞選考欠席で、ラクをさせてもらっている。
2010 3・29 102
* ところで、人には、ウラもオモテもある。当たり前である。人によっては十二単ほど幾重にもウラがある。
云っておく、わたしも例外ではありません。
であるから、「キミなあ、ウラもオモテもないっちゅうのは、かなわんもんやなあ。」という「京男」梅棹忠夫氏の慨嘆(=上野千鶴子さんと会食の際に漏らされたと。上野さんの新刊随筆集に依る。)は、もうすこし「読み取りの藝」を要するのではないか。
場面から察して、これは明瞭にユーモアの顔をした辛辣な(=場合によっては、当の上野千鶴子への)皮肉なのである。
オモテの奥に、隠し所に、どれほどの「ウラ」を蓄えていてもいいけれど、そいつをミソもクソも、いつでもオモテへ吐瀉してくるっちゅう「お人」は、「かなわんもんやなあ」と、たぶん上野さんの顔を観るような観ないようなおとぼけで云われたことであろう。
ところが上野さんは、「ウラもオモテもないひとを、それだけでいいひととは思わない」などと書いている。これは、あまりに淡泊な誤解のように想われる。
そもそも「ウラもオモテもないひと」なんて、世の中にほんまにいたら、かえって化け物だろう。
梅棹さんの曰くは、「ウラはウラとして隠しておくもんや」「隠しとけばこそ、奥ゆかしい(奥を覗かして欲しい)のや」という真意であるだろう。ウラはウラとしてオモテヘ曝さねばこそ、奥にゆったりと隠しておいてこそ、そういう人ほど、微妙な場面で微妙に「上手にウソをいわはる」という社交上の称讃もかちえられる。「オモテ」のほんまだけがその人のチカラではないのでして。
ただし、徹してこの美学、「京都」のものである。
わたしは、中学の時、年上の人からしんみりと窘められた。
「ほんまのことは、云わんでもええのえ。わかるひとには云わんでもわかるし、わからんひとには何をいうてもわからへんの」と。
京都では、じつは「ほんまの」思いや言葉は「ウラ」にしっとり隠して、秘めておくのが、かしこい大人なのである。
しかし、京言葉のわからん人には、これは、も一つも二つも、ピンとこないだろう。上野さんは、やはり京都の人とは、すこしちがう。京都のような「オモテ」の世間ででも、いさぎよくウラもオモテも何でも遠慮無く喋ってきた人、梅棹さんのような京男の思いには、たぶん、「よそのお人」なのであろう、か。
2010 4・30 103
* 母校の京都市立弥栄中学が、来年にも、ほんとうに廃校になるようだ。
わたしは、本校創學の春、昭和二十三年(1948)四月入学の新一年生だった。あとへ、六十二年分の後輩たちがいるということ。なんたる、爺!
有済小学校の方はもうとうに廃校になっている。日吉ヶ丘高校は大丈夫かな。
小中一貫の公立校があっちこっちに出来て行くようだ。都市計画にも問題があり少子化対策にも決定的な欠陥がある。国の脆弱化と自壊現象がウムを云わさずもう始まっているのだ。
2010 5・11 104
* もう日曜か。一週間が早いような永いような。千秋楽。白鵬に、二場所続きの全勝を期待する。
今週末、京都へ。講演に。話すための用意が出来てある。新幹線久しぶり、仕事での遠出は気が重い。とんぼ返しに帰ってくる。
2010 5・23 104
* では明日の午後、一両日の京都へ。
2010 5・28 104
* 曇りのち晴と京都へ行ってくる。とんぼ返しに帰ってくる。
* 車中「水滸伝」 蹴上のウェステイン都ホテルへ入る。
* ホテルで、ひとりでゆっくり夕食、いいメニュ、いいワイン。
このホテルは、ちょっと他にならぶ処のない程、南禅寺のみえる緑美しい東山から比叡山へかけての眺望がすこぶる大きくて好い。静かなレストランで、何人ものウエイトレスに親切にしてもらいながら、景色に目をやりやり、やっぱり「水滸伝」を読んでいた。スープがうまく、鯛の、カリっと焦げ目をつけたメインディッシュもなかなか。デザートもみんな平らげた。
* 食後、ふらりと三条通へ出て、神宮道の星野画廊がもう閉まっていたので、そのまま古川町の店通りひと筋東の細い細い路地道を通り抜け、石橋町から新門前へ。もとのわが家の方へ。もとのわが家はいま美術商のビルになっているのだが、土曜日の晩というのでしまっていて、そのかわり西隣になかなかの喫茶店が店をあけていた。客はなく、入り込んでマスターと小一時話し込んでから、タクシーでホテルへ帰った。
入浴中も「水滸伝」 夜中も「水滸伝」。
2010 5・29 104
* 持参の背広に着替えておいて、十時に部屋をチェックアウト。車で出町の菩提寺へ走り、日盛りの墓参。人っ子ひとりいない墓地。念仏百遍、父や母や叔母とゆっくり話をし、また念仏し、よく育てて頂いたことへ遅ればせの感謝を。
庫裡で住職夫妻や前住の奥さんと暫く話してから、車で、河原町夷川のギャラリーへ。三浦景生展をゆっくり拝見。三浦さんに会いたかったが、午後見えるというのであきらめた。九十四歳の作品、磨きが掛かってどれもみな美しかった。陶染画とでも謂うか、三浦さんの世界は小さい素材に野菜を描き干支の動物を描きながら、夢のように大きい、美しい。欲しいと思う作がいくつもあったが、なかなか。手が出ない。
眼の法楽だけを静かに楽しんでから、歩いて銅駝校のまえからホテルフジタの一階、おちついた席で、トーストとコーヒー。トースト一枚だけ食べて。
このホテルもわたしは大好き。
* 車で平安神宮の前から、星野画廊の星野さん懸命発掘の名作小品展。図録を送って貰っていたので、これを観て帰りたかった。
また一点、買いました。名前はほとんど湮滅していた画家だが、そんなことでいいわけのない人の、ちと気に入った小品。となりに稲垣仲静の好い裸婦もあったのだが、ウーンといろいろの意味で唸って、隣の繪にしました。
わたしから頼みはしなかったけれど、店主の奮発で、マケテもらいました。支払いも済ませてきた。
* 講演会場の都ホテルまで山上の坂道を歩いて戻ったのが、暑くて息切れして、手足がふるえるほど血圧が上がり気味。用心に持っていった降圧剤を、間隔を少しあけ、二錠のんだ。これがよく効いて回復。
* 瑞穂の間、満員。
京都女子大同窓会総会での講演は、一般にも開放。京都の学校友達や、また南山城から父方の親族が老若そろって何人も見えていたりして。
演題は「京ことばと日本と」
時間きっちり、予定していた話題もきっちりみな話し終えて、ま、無事に済んだ。大分笑ってももらったし、ま、これはわたしの話しやすい、また聴衆の九割九分老若のご婦人たちにも、聞きやすくて分かりやすい話題。
* 話し終えて、アトをひくのもちょっと気が重いので、すうっと抜け出るようにホテルを離れて、京都駅前の新都ホテルで一人おそい昼食をとり、予定の一時間早めに新幹線切符を替えてもらって、帰ってきた。
車中、ずうっと「水滸伝」。もう全十冊の第十冊目の半分まで来ていて、残り惜しくて堪らない。
* つぎは、新刊の発送用意をしっかり仕上げて。
2010 5・30 104
* 三宅鳳白という画家の「舞子素描」を京都で買ってきたのが、昨日届いた。妻が荷をといて和室に掛けた。情に流されない高雅な筆致で、肖像美しく凛としている。星野画廊の手助けで出会った。掘り出しと思っている。
縄手の龍ちゃんの家には、いまも在るだろう、土田麦僊の舞子素描が目に付く場所につねに掛けてあった。あれは、わたしの憧れの一つだった。佳い舞子の繪があれば欲しいとながく思ってきた。
2010 6・3 105
* 京都での講演を世話してくれた妻の友人、わたくしの読者から懇篤の礼が届いていて恐縮した。
2010 6・4 105
* ときどき、新幹線に乗ってしまえば京都の空気を吸ってこられるなあと思うけれど。京の夏は、どんな顔をしているだろう、思い出のままだろうか。長島東大教授から京都での上田秋成展の図録とまた入場券二枚を頂戴した。行きたい。
2010 8・11 107
* あの日、丹波、南桑田郡樫田村字杉生で天皇の放送を聴いた。秦の祖父と母とわたしとで隠居を借りていた長沢市之助宅。その前庭にラジオが持ち出され、部落の人が何人も取り巻いていた。真夏の照りは容赦なかった。負けた・勝ったではなく、戦争が済んだ、よしッという昂ぶりで国民学校四年生のわたしは庭をぐるぐる駆け回った。
あの年の二月末の晩もおそく、雪の凍てた杉生部落の街道十字路にかつがつ着いた秦の一家は、山の家の大きなあばら屋から、街道ちかくの豊かな長沢家へ転居していた。
* 昨日も妻と話していたが、脆弱かったわたしが曲がりなりに体の基礎体力を付け得たのは、あの二年足らず、山なかでの疎開生活のおかげだったと、つくづく思う。山一つ峠を越えて隣の田能部落にある国民学校に通わねばならなかった、村の子等と一緒に。教科書の鞄すら重さに堪えかねてしまう疲労を日々に凌いで通学した。都会もんの疎開もんは上級生にもよく撲られた。挙手の敬礼を怠ったと教師にもいたるところで張り飛ばされた。そういう時代だった。
* ま、思い出しているとまた本が書けてしまう。あれから六十五年。わたしの記憶力は、古い昔ほどまだかなり鮮明で。
2010 8・15 107
* 大文字はどうだったか、雨には降られなかったろうと思うが。大文字が過ぎれば、来週はもう京都は地蔵盆。
暑い一日だった。暑さ、凄い。さ、涼しくして今夜はすこしオッカナイ圓生「髪結新三」を聴こう。
2010 8・16 107
* 昨日か一昨日に京の星野画廊からいつもの編纂された特別展図録、今回は『群像の楽しみ方』が届いて、今朝、ゆっくり観て楽しんだ、楽しんだ。
圧巻は野長瀬晩花の「戦へる人」で、言葉を失うほどの吸引力。画品を蔵した力業の真摯さ。参りました。この一点だけでも観にゆきたい。十月早々、選者をつとめている京都美術文化賞の展覧会オープンのテープカットに行くので、観てこれるだろう。
頁の順に観ていって太田喜二郎の「メリーゴーラウンド」が佳い。田村孝之助の「裸女群像」が佳い。松村綾子の「三人裸女」も佳い。金田辰弘「ふくろう」には買い気の手が出そう。そして上條陽子の「玄黄」も惹き寄せる。
これだけ魅力作のある星野自慢の展示なら、ぜひ誰にも観て欲しい。いつもながら、この画廊夫妻の「勉強」には頭が下がる。
* 星野で買ってきた三宅凰白「舞子久鶴」素描を、写真に撮ったりした。なかなかうまく撮れない。
2010 9・10 108
* 昨日からの気疲れが取れていない。京都への出張とんぼ返しも気の重荷になっている。美術賞記念展。受賞した田島征彦さんに逢えれば嬉しいのだが、自分の展覧会に遠くへ出掛けているらしく。ま、授賞式にわたしは欠席したのだ、アイコだな。
2010 10・1 109
* すぐ発送作業にかかり。いま、昼やすみに機械の前へ来たが何事もなし。昼食に呼ばれて、階下に。
* 三時過ぎまで、よくがんばった。京都へ行く用意をしておきたい。今度は車中の「仕事」が無い。下巻の再校は六日に来る。京の一泊と往復は、気楽な本でも手に入れて読んでこよう。とんぼ返しに東京へ帰ってくる。
2010 10・3 109
* 午前中を利し、少し気がかりな用事をグッと前へ進めておいた。午后はやめに出掛け、京都へ。
明朝十時 四半世紀選者を勤めてきた「京都美術文化賞」の受賞者記念展覧会のオープニング・テープカットに。折り返し無事帰ってきて、また用事をどんどん捗らせたい。
* 車中は、東京から京都まで、ほとんど身動ぎもせず車窓の景色をながめて、なにも読まず、水分もとらなかった。こんなことは、初めて。
* 五時に宿に入って、宿の食事はパス、一休みし時間を見計らって、烏丸から河原町までバスで。木屋町の「たん熊北店」に入り、とびきりの京料理をコースでたっぷり美味しく、食べてしまうのが惜しいほど多彩な料理をおしまいの「マル鍋(すっぽん)」から水菓子まで堪能した。ずうっと、若い気合いのいい板さんと話しながら。
この店でこらえ性なく食を奢ることで、何となく京都へ帰ってゆくシンドサをバランスしているのに気付く。故郷の京都市へ帰るのだものどんなに楽しまれることかと人は云うが、必ずしもそんなモノではなく、かなり気が重いのである。
「たん熊」の酒は「熊彦」をたっぷり、そのあと同じ木屋町の「すぎ」に寄り、ここではうまい鰈を焼いてもらって、高知の酒をすこし飲み、もうまっすぐ宿へ車で戻って、これはこの近日の必要上、自分の大昔の大学ノートの日記一冊を「調べ」てから、寐た。
2010 10・4 109
* 夜中に起き、本を読んでいた。七時に起き、なにやかや手間取ってから、かすかに朝食をとり、もうどこへという気にもならず、タクシーで出町、萩の寺常林寺へ。紅萩と白萩との大波うつ庭を通りぬけ、念仏、墓参。
九時半、文化博物館へ。
第二十三回京都美術文化賞、三人の受賞者展覧会のオープニング、選考委員代表梅原猛さんらのテープカツト。三人の内、田島征彦氏の展示は圧倒的なエネルギーで、堂々とおみごと。他は圧倒されて見るかげなく、選考委員の中から石本正さんらが賛助出品していたのも、楽吉左衛門氏の焼き物一点が面白かった他は、ま、それだけのものであった。今日は石本さんのヌードが汚く見えた。わたしの言い方をすれば「作品」がなかった。
* 神宮道の星野画廊へタクシーを走らせ、見たいと思ってきた絵をいくつもみせて貰った。高階秀爾さんのお嬢さんが画廊へ見えていて、星野さんと三人で暫く話し、失礼して、すぐまたタクシーでわたしは新門前へ。元の実家の隣の喫茶室でキリマンジャロをたててもらい、西之町の仕出し「菱岩」で、昨日の内に注文しておいた弁当二人分を受け取り、一路、新幹線で東京へ。
車中、ずうっと久間十義氏にもらった読み物を読み続け、西武池袋線のなかで読了した。四時に帰宅。妻は定例の診察を受けに近くの厚生病院へ行っていて留守だった。
* 「菱岩」の贅沢な弁当の、うまいこと。万歳楽の純米酒で、食べきれないほどのご馳走。
時間を惜しみに惜しんで京都から帰ってきた。
お天気に恵まれた京都で、東山も、加茂大橋からの北山も鴨川もきれいであったが、なぜか心は楽しまなかった。立派な作品に逢い、食べ物は奢り、ろくすっぽ言葉は用いないでさっさと東京へ帰ってきた。人寂しい町に、故郷に、京都はなっている。
2010 10・5 109
* 京都の楽吉左衛門さんから、琵琶湖畔佐川美術館での「第二回吉左衛門X展」の招待をはじめ、「還暦記念展」や、「楽家の茶碗展」の招待状がどっさり来ていた。とりわけ佐川美術館はすばらしい明浄処で魅了される。そして楽さんの仕事がまたこの数年、鳴り響くように佳いのである。
京都美術文化賞で早くに推薦し受賞して貰ったが、今年からは選者としても加わって貰っている。今回の受賞者展の協賛出品作も、只一点の造形であったがそれは美事な力作であった。他の方の作が霞むかと見えた。
楽さんも、「湖の本」創刊以来応援して貰っている。
招待券を幾枚も頂戴している。ぜひにと云う方にはお裾分けしたいものだ。
2010 10・9 109
* 「そうだ。 京都 行こう」というキャッチフレーズは、添削の粋かのよう。京都の庭園と紅葉と和菓子とを美しく紹介している番組を観ながら、少し用事を進めていた。
黒いマゴに誘われて機械の前へ。わたしの直ぐ背の処に息子も欲しがっている柔らかい黒革の二人がけのソファがあり、無粋にモノが積まれている残り半分に柔らかい毛布とクッションとの席、そこが黒いマゴの専用席かのようなお気に入りで、真上から煖房の暖気もおりてくる。わたしが機械で仕事していると安心しきって熟睡する。留守番の時も、よく此処へ来て寝入っている様子。真っ黒いマゴ、どこにいても色美しく映える。あまり大きくならなくて愛らしい。
2010 10・30 109
* わたしの通った京都市立日吉ヶ丘高校は、小高い泉山の泉涌寺と下手東福寺との間の丘にあった。校舎の三階真西から西をみると東寺の塔の水煙がちょうど目の高さに見えていた。
それはさて、泉涌寺も東福寺も熱愛した佳いお寺であった。その泉涌寺の末寺の一つに、悲田院があった。学校の運動場から直ぐ見上げた辺に今も在る。いま、この悲田院に或る関心をあつめている。同じ末寺の好きな来迎院や即成院や戒光寺と、この悲田院とはひと味どころかいく味もちがつた久しい歴史を身に帯びていて、その歴史が今にもつながっているか今はもう無縁になっているかは知らないが、ここ当分、眼が離せないのである。
2010 10・31 109
* 「紅葉舞秋風」の一行を観ていると、脳裏にある記憶がいろいろに甦る。
清閑寺御陵の紅葉にくらくらと酔ったことがある。満山紅葉の比良山大谷をケーブルで渡ったのも懐かしい。黒谷の紅葉を狩って帰り、大きな水盤に浮かべて座中に置き、客と差し向かいの茶の湯を楽しんだ夕方もあった。鞍馬から貴船へ越えて、紅葉漬けになった日付も覚えている、十一月二十六日、昨日であった。
東福寺も、高校生のむかしは紅葉の季節にもひっそり閑としていた。大学生の頃の静かな真如堂も懐かしい。
だが、めくるめく紅葉の「舞」う景色には、あまり出逢っていない。むしろ櫻吹雪の方に。
* 七重八重 山茶花の淡紅(とき)の頽(くづ)るるを愛(うつく)しみ見る われや好色 遠
2010 11・27110
* 歳末をどんなめでたくはんなりした気分へ導いているか。はんなりと「京都」に触れて書きに書いたたくさんな文章を読み直すことでわたしは往年を「いま・ここ」に反芻して楽しんでいる。京都へ帰っても、いまではごく寂しい。江馬細香は、恋しい師の山陽に死なれて後に京洛の地に旅して、こう、うたっている。
履歯の春泥 歩歩 遅シ
天街の細雨 軽糸ヲ散ズ
~~
依依トシテ我を迎フ 東山ノ面
イハズ 衰年 旧知ヲ減ズト
云うまいとしても「衰年旧知を減ずと」つい思いつい口にしかねない、そういう京都よりは、壮年の筆を振るって欣然嬉々と書いていた昔の京都のよろしさで今をよほど癒すことが出来る。
2010 12・29 111