ぜんぶ秦恒平文学の話

京都 2011年

 

* 「 mixi」 のマイミクさんでわたしよりよほどの後輩である人が知らせてきてくれた。

☆ 懐かしい弥栄中学校。

いよいよこの春、幕を閉じるようです。
寂しいです・・・

弥栄中学校のブログから
「中学校創設から63年,その前身である小学校から数えて143年,祇園石段下で教育活動をしてきた「弥栄」も,3月末で長い歴史にピリオドを打つことになっています。
地域の方を始め,これまで本校にゆかりのある皆様にとっては,感慨深いものとおもいます。昨年来,同窓会を開かれる卒業生の方々が多数来校され,懐かしげに校舎を見学され,記念の写真を撮影して行かれます。

つきましては,来る3月12日(土)13:00から「弥栄中学校お別れ会」を予定しております。改まった催し事を企画しているわけではございませんが,懐かしい学舎に同窓会のお気持ちでお出でいただけると幸いです。広く卒業生や保護者の皆様,地域の方々,かつて勤務された教職員の方々など,お忙しい中とは存じますが,ぜひご来校くださいませ。」

* ほろりと泣けてくる。小学校も無くなった。中学も無くなる。わたしの京都が京都でなくなる。
2011 2・22 113

* ところで、昨日出来てきた新刊の「湖の本」は、ちょっと息も抜いていただけるようにと、「京都」で二百頁。ことに冒頭には、二本の記念公演録に手を入れて、わたしの京都論と京都人論を徹底させてみた。一つは、「明日の京都を励ます」ため、京都市第一回藝術祭典「京」 の記念公演。二つは、京都女子学園創立百年同窓会 の記念公演で、京ことばと京都の人を徹底的に批評した。
京都は、たんなる京都ではない。同様に京ことばはたんなる一方言ではない。日本を考え、日本を読むに際してとても無視も軽視も出来ない根本の所へ触れてくる。
大勢の人が関心を寄せて下さると嬉しい。
2011 2・24 113

☆ 御本「京と、はんなり」ありがたくいただきました。
京満載の御本で、あちこち、楽しみながら読んでいます。一つ一つ面白いですが、(ウカとは)いえません。おびえます。私が秦さんに魅かれるのは、正反対の浅草のうまれのせいかなあ、と京の奥深さを味わっています。御礼まで──。  映画脚本家

* わたしが東京に暮らして、いまではいちばん足を向けて親しんでいるのは、浅草と銀座。わたしの育ったのは、或る意味では京の浅草のような場所であったと思っている。自分で造語したほどの京の「女文化」に親しんで来は来たものの、わたしの視線と創作の主題の大きな一つは、主なる意識は、女文化自体も含めてだが「差別」とその世界に注がれてきた。わたしの京都はそうは趣味的ではない。京の奥深さは「貴賤都鄙の雑居」に在るのだ。

* 今度の本は「京都」「はんなり=花あり」と題したので、前回の『秦恒平が「文学」を読む』なんどというのと趣かわって随筆世界のようであるが、講演録二つでしつこいほど追究した「ことば」の問題は、とても生易しいモノではない。「ことば」もまたわたしの文学主題の大事に思ってきた一つである。そして「島の思想=身内観」さらには「死なれて・死なせて」。この四本柱でわたしは自分の土俵を囲ってきた。どの一つもありきたりではないと考えている。

* めにつくコマーシャルに「そうだ 京都 行こう」というのがある。真ん中の「京都」に目的・方向を示す助詞が省いているのをなんだか洒落ているともヘンだとも思っている人があろう。鉄道の旅の誘いであり、めあては全国の視聴者であるから、助詞はじつは付けられないのであろう。むかしから、「筑紫に、京へ、坂東さ」と言われてきた。いやいや、「京に、筑紫へ、坂東さ」だという説も古くて、どつちが先かと言い争っている人達も昔から有った。さすがに「さ」とはわたしは行ったことがないが、京生まれ京育ちのわたしは、たとえば「パリに行きたい」と言う方だ。「パリへ行きたい」ではないようだ。大阪で生まれた妻は「パリへ」派である。筑紫の人に確かめたことはない。
喋るときだけでなく、方角を示す助詞は文章でも頻々と用いる。自分では「に」を多用・慣用してきたと思い込んでいるが、調べて確かめたことではない。「学校に行こう」「河原町に行こう」「東京に行こう」と口でも言うてきたつもりだが、
「に」でも「へ」でもなく中間の「い」も有りそうな。「川い行こう」「山い行こう」と言うていた気がする。「に」には密接した親和感が感じられて「へ」を少しよそよそしいと思うときもある。「近くに」「遠くへ」という感覚もある。
源氏物語や栄花物語はどうか、あらためて今夜の読書で気をつけてみよう。
2011 3・1 114

* 浴室で「末摘花」の巻を読みながら気をつけていると、やはり間違いなく「京へ」でなく「京に」と多数の例で読み取れた。「京さ」は無論無い。方向付け、目当ての場所、みな例外なくと言いたいほど「に」という助詞を用いている、と、読めた。「里に帰る」のであり、「花見に行く」のであり「東に行き」「西に行く」。「懐に入れる」のであり、「山に登る」のである。しかし「へ」を用いて間違いと言うことはない。筑紫が「へ」か「に」か知らないが、京はもとももとは「に」であったのだと確信する。
2011 3・1 114

* 何年も願い出てきた辞意が認められて、この三月選考を最後に京都美術文化賞の選者と理事とを退くことが出来る。京都には仕事ででなく、好きなときにはんなりと好きに出掛けたいと思ってきた。よかった。なにしろ勤続二十五年近い。幸いわたしのあとへ信頼する樂吉左衛門君に加わってもらえる。第三回頃であったか推薦して授賞したほんものの藝術家。願ってもないことだ。
何といっても清水九兵衛さんが亡くなってガタンと寂しくなっていた。選者ではないが、財団創設以来の理事仲間だった橋田二朗先生も亡くなられた。主宰格の梅原猛さんは健在だが。
2011 3・4 114

* 余震はやまず、福島原発は予測通りまたの爆発を繰り返し、なんら安心の状況に無い。

* 中信理事長様
専務理事様
美術奨励基金事務局 御中
前略 未曾有の東北激甚災害は鎮静せず、余震は首都圏でもなお頻々、加えて福島の原発爆発も相次いで今後が憂慮されています。放射能被害が首都圏に及ぶことも考慮すべき途方もない事態です。

地震源も東北沖から関東沖へ、また日本海信越地方にも拡大して、相当大きな余震の確率は75パーセントという警告も繰り返されています。当初東京ですら揺れの烈しさ、生涯初めてのものでした。

さらに今日からは計画停電が予告ないし実施されていて、一、二ヶ月ないし数ヶ月に及ぶとされています。未曾有の国難といえる現状に、首都圏も帰宅難民状況をはじめ、JRや私鉄の機能麻痺による大混乱も今朝から続いています。

私も、今日、五十二回目の結婚記念の祝いなどすべてとりやめ、明日からの都心での会議や行事への参加をとりやめました。
一つには妻の病弱とさしせまっている検査手術への精神的な安定も必要で、日に二度にもおよぶ永い停電の中で独り家人を家に置くことには大きな不安がありますし、わたくし自身も帰宅難民の苦境に耐える体力がありません。

最後のご挨拶にと、選考会にぜひ出る気で用意していましたが、かかる時期に不用意に長途家を離れるのは賢明でないと思われ、欠席させて頂きます。この際の判断をご理解下さい。宿の予約等もお取り消し置き願います。
理事辞表はさきに郵送しておきました。
梅原先生らには私から別途にご挨拶の機会があると思います。

美術賞の選考や雑誌の刊行等に関しては、私自身 選者として、理事として、何一つ思い残す悔いはありません、推すべき人を公正に推し、また微力ながら多年雑誌の編集にも尽力して、無事に後任に引き継げたと思っています。感謝の思いで満たされています。有難う存じます。

清水九兵衛さんのご逝去、また橋田先生とのお別れ、寂しいことでした。
四半世紀近く、それでも喜ばしいいい経験を重ね得ました。
亡き人も思い起こしつつ、理事長、専務理事さんはじめ、御社のご親切に、心より御礼申します。
平成二十三年三月十四日   秦恒平
2011 3・14 114

* 京都美術文化賞に推薦して受けてもらった写真家井上隆雄さんの新刊『光りのくにへ 親鸞聖人の足跡を訪ねて』を戴いた。「合掌 井上隆雄」と毛筆の署名がある。繊細・尖鋭、しかも大きな自然を自然法爾で抱き取る写真では右に出る人がない。懐かしい一冊に仕上がっていて、しみじみする。
2011 3・21 114

* 十一日の激甚災害発生から十一日、その間にわたしは自転車で文房具店へ走った一度しか外出していない。隣棟にも入っていない。「湖の本」在庫分などが棚から落ちているかも知れない。
またこの間に、四半世紀を超えた京都中央信用金庫の財団・美術振興基金の理事および京都美術文化賞の選者を、正式に辞退した。妻を独り置いてよんどころなくたとえ京都までといえども、是非にも出掛けて行かねばならぬ仕事としての必然性を、もうわたしは認めなかった、少なくも二年前から辞意を伝えてきた。財団の公益法人への改組が必要になるというこの四月を機に、辞意が容れられ、ほっとした。
明日に予定の最後の選考会議には出て、梅原猛さんや石本正さんらにもご挨拶したかったのだが、新幹線すら正常ダイヤでなく、この午后だけでも数度も関東東北には強い余震が繰り返されていて、原発の危険も依然としてそのままでは、敢えて欠席通知したのが正しい判断であった。
さて、もう一つ、日本ペンクラブ理事の方が残っているが、なにしろ意識的に二年間執行部への不信を表明して国際大会をすら、寄付金だけで非協力を貫いたのだから、ちょうど締め切られた理事改選により、放免してもらえるだろう。
六期十二年、十分務めたつもりだ。
あいにくなことに日本が主催した去年のペン世界大会は、執行部のズサンな放漫会計により、あまりにバカげた超大赤字を出してしまい、「日本ペン興行クラブ」の不面目をみごと発揮してしまった。後始末の理事会が、十五日から来週三十日に延期されたが、わたしは出られない。これも延期された聖路加の眼科の診察日に、きっちり、あたっている。意見だけを、書簡にして事務局と理事会宛てに出してある。

* 書きたい仕事、読みたい本 したい仕事、またしなくては済まぬ用事はたっぷり在る。怪我も事故もなく、健康に、心穏やかに心健やかに元気に過ごしたいと、毎朝、秦の父、母、叔母に話しかけている。
2011 3・22 114

☆ お早うございます。  泉
ゴールデンウィークですが例年と変わらず何もなく過ぎて行きそうです。娘家族は早朝出発でドライブ等を楽しんでいますが、最近は若さに付いていけず、たまに同行します。
私は年明けから五十肩( 二十歳もサバをよんでアツカマシイ) の症状で、何時までも回復しないので、最近は整骨院でのマッサージや電気治療を初体験しています。
日常生活には支障はなく、あい変わらずよく歩きます。願わくばその後美味しい食事にありつきたいなんて、食欲旺盛の婆さんです。
京都へは何度も旅行する歴史好きな友人御夫婦に、メジャーでない粟田神社、合鎚稲荷神社、養源院、今熊野観音、戒光寺の大仏などなど沢山伝授し、教えた箇所を全部行って来たヨとメールがありました。自分が行ったように嬉しいです。

* 手の届くところに自分で撮った写真を六、七枚貼り繋いだ東山三十六峯が見える。遠く鞍馬からはるか稲荷まで。これだけを一望にわたしの写真機で撮れるわけはない、北半は二条のホテル・フジタで撮り、南半は四条南のからすま京都ホテルで撮った。それでも六七枚を繋がねばならない。 そのちょうど真ん中で緑の色濃い粟田山がくっきりと山影を町並みへ下げていて、足もとに、上の、もう後期高齢「食欲旺盛」の「婆さん」が書いている粟田神社が祀られ、「婆さん」自身の通った小学校や育った家がある。家がいまも在るのか無いのかは知らない。わたしもそんな東山のなかの華頂山知恩院の門前町で育った。
戦後の新制中学、新制高校をともにわたしが上の一学齢ちがいで卒業し、何が縁であるのかもう半世紀の余も、同じ東京の比較的近い保谷と花小金井とで暮らしてきた。この人も、仲間の友達といっしょに叔母の稽古場に通ってきて、わたしから茶の湯の手前作法など習っていたのだった。この人、なかなか美しい作法でお茶を点てた。
東京で思いがけず再会してからは、わたしは『北の時代 最上徳内』の「世界」連載のために、早大図書館に勤めていたこの人のご主人にいろいろ文献探索の便宜をはからってもらったりしてきた。今は、いわば余儀ない老老介護の家庭をどうしてもわれわれは気を張って維持して行かねばならない。
最近に、高校の茶道部でやはりわたしに初めて茶の湯を習い始めたそんな一人の久しい友人に肺ガンで死なれてみると、ひとしお、昔の友人たち、だれもだれもに「食欲旺盛」で元気で過ごして欲しいなと願う。
2011 4・30 115

* 連休も半ば、過ぎたらしい。

* いつ、どこで、何があってと皆目憶えていないが、赤樂ふうの茶碗がわたしの手元に、半世紀の余も、ま、大事に仕舞われていた。前にもすこし書いたが、弥栄中学の若い元気な先生が、四人で寄せ書きされ、茶碗屋が焼いたものである。それを戴いた。五十年愛用してきた黒樂を、楽屋で気楽に使ってと、最近、役者の市川染五郎君にあげたあと、この赤茶碗を思いだし、これは茶碗としてたいした物でないが、先生方の思い出は懐かしく、日々の喫茶に用いている。

 

橋田二朗画伯 青年の頃の樂描き

四人の先生のうちお二人とはさほど縁がなかったけれど、お二人、橋田二朗先生と西池季昭先生とは、図画の橋田先生が去年、数学の西池先生は十年近く前に亡くなるまで、筆紙につくせず可愛がっていただいた。西池先生は「死生命在リ」と書いて署名されている。お二人とも、まだ勉学中でもあるほどの二十歳代半ばか前半であったろう。
橋田先生の速筆の裸婦、おもしろい。今月掲げてある扇面でもわかるように、花卉や鳥類をこまやかにじつに美しく描かれる方であったが、青年の向こう意気のうかがえる骨太なこの、裸婦、好きだ。
2011 5・3 116

☆ 秦先生
湖の本を頂戴し、京都人の生態の面白味や凄み、歴史的な背景など、私も東京に来たからこそ強く認識しますし、より京都をいとおしくなります。
先程、メールのチェックをしていましたところ、迷惑メールのカテゴリーに先生からのお便りが届いており、大変驚き、大変嬉しく思うとともにこんなにご連絡が遅れて申し訳ない気持ちでいっぱいです。ご無礼いたしました。
上村松園先生は永遠の憧れですし、竹内浩一先生は大学の恩師。堀泰明先生は日展やNEXT展でご一緒させて頂きましたし、江里先生ご夫妻の工房には見学に寄せていただいたりしました! 何もかもものすごく近く感じます。京都美術文化賞の選をされていたなんて。。。おそれ多いです!
実は個展は今月15日( 日) まで、成城で開催しております。もし会期中お時間許されましたらお運び戴けるとこれ以上の喜びはございません。
またお仕事でも以外でも、京都の事について等お話できる機会が持てれば幸いです!  由

* このごろでは珍しく、ふたつもメールが来ていた。竹内君、堀君とも高校の後輩。俊秀竹内君には早くに美術賞を受けてもらい、幼なじみの堀君には新聞小説『冬祭り』の挿絵を描いて貰った。江里夫妻もやはり高校の後輩で、截金の人間国宝佐代子さんは惜しくも亡くなったが、夫君とは先日も銀座の和光展で話してきた。「由」さんは、さらにずうっと若い後輩。
先日癌でうしなった堤 子さんも同じ高校の後輩だった。
わたしは日吉ヶ丘の普通コースだったが、彼らはみんな美術コースにいた。いまは京都市立銅駝美術高校になっている。昔の美校の後身。
2011 5・4 116

* 録画を失念してしまった「謙」君から、親切に録画盤が送られてきて、妻もともども恐縮し喜んでいる。今晩、仕事のあとで、ぜひ観せてもらう。
昨日からメールに書いているが、もうわたしは夏は暑いものと昔通りに思うことにし、なるべく暑さをボヤカないことにしようとしている。ただ、熱中症には厳重用意を怠らないと決めている。
わたしはもともと季節では夏が好きだった。クワアッと焦げるように熱い感覚を季節感としては愛しも記憶もしてきた。疎開していた丹波杉王での戸外の少年生活が、また京都では武徳会の水泳に通っていた頃の往還の熱暑体験が、のこりなく今に生きている。家の中の蒸し暑さなどがイヤだった。日盛りに出るのは好きだった。いまでもよく「黄金」「黄金色」と書いて「きん」「きんいろ」と好んで読ませているセンスには真夏の灼光の色彩をよろこんでいた好みが働いている。そう祇園会の神輿渡御。あのお神輿の「きんいろ」にはいつの年も感動していた。
2011 7・12 118

* 京の祇園会は始まっており、明後日には鉾が巡幸する。ずいぶん前から鉾や山の巡幸に変更があったようにもうろ覚えだが、十六日は宵宮であり、十七日には鉾が動く。もう神輿はお旅所に遷座されてある。なつかしい四条通りの賑わいが目に浮かぶ 。

 

亡き橋田二朗先生に戴いた他表紙絵
2011 7・15 118

* 祇園会宵山、「常は出ませんこんにち限り」と謳われる華麗繁昌の風情を、NHKのテレビで堪能した。言うことなし。
2011 7・16 118

* 日乗を開くと、「方丈」二字が凛とあらわれ、わたしを励ます。美しい毅い二字。そしてわたしの京都が見えてくる。
2011 8・19 119

* 皇后さんの喜寿につづき、三笠宮ご夫妻が結婚七十年を迎えられたという。わたしは、三笠宮が百合子妃を迎えられたときの「婦人倶楽部」の記事を、京都の新門前の家で読んだ覚えがある。むろん古雑誌が家に残っていたのを幼稚園か学校へあがった頃に読んだのであるが、「百合子妃」という名前もそんな子供の頃から知っていた。今日テレビで若々しくお元気そうな妃殿下を見て、奇妙に悦ばしかった。
2011 10・22 121

* このところ漢字に惹きつけられて、二階廊下に並べた小型本のための本棚から、國分青 閲、井土霊山選の『選註 白樂天詩集』や田森素齋・下石梅処共選の『頭註和訳 古今詩選』を抜き出して身近へうつした。ついでに大宮宗司編纂『日本辞林』や内海以直編纂『新編熟語字典』も持ち込んだ。むろん明治二年生まれの秦の祖父鶴吉が旧蔵本で、白詩集は崇分館明治四十三年の四版本、金六十五銭。辞林は明治三十五年十五版を数えている。
小児のわたしは、漢籍の中でもとりわけ『白楽天詩集』をポケットにまで入れて愛玩愛読し、今見ても、かなり本を傷めてしまっている。中学や高校時代の習作をのぞけば、わたしの処女作、「小説が書きたい書きたい」と思い詰めて初めて筆を執った作は、単行本『廬山』におさめた、今は「 湖(うみ)の本」30 に入れてある『或る折臂翁』であり、云うまでもない此の『白楽天詩集』のなかの反戦長詩「新豊折臂翁」に、強く嗾されて書いたのであった。わたしは、国民学校四年生の戦時疎開中も、いつか兵役に就かねばならぬ事を痛切に嫌っていた。すでに白楽天の此の詩を見知っていて、共感も称讃も、大学を出て就職し結婚したあとまで、少しの衰えも無しに残っていた。是が非でも「小説」が書きたい原動力になった。
なじまない、こわいお祖父さんであったけれど、一介の町民でありながら父など「学者やった」と褒め畏れた祖父の蔵書、夥しい漢籍・和本等の恩恵は、まともに、わたしに流れ込んで、今もなお生きて働いている。感謝せずにおれようか。
こころみにスキャンをと願ったが、叶わなかった。
2011 10・27 121

* 昨日の声楽の会で、「故郷」をうたった日本の二つの歌を聴いてきた。衝き上げてくるものがあった。言葉の分からない異国の歌曲やオペラのアリアより胸にこたえた。二つとも、口うるさい批評家のわたしの、子供の頃から好きな歌であった。

* わたしの故郷とはどこだろう。
京都市東山区新門前。これは間違いない。東京の新宿区河田町も、京都府当時南桑田郡樫田村杉生も故郷として懐かしい。
京都府相楽郡当時当尾村はどうだろうか、実父の生家があり、一つから四つまでわたしは両親とでなく、父方祖父母の一家とともにそこで暮らしたのだが。
生母の歌碑の今も建っている生母実家のあった滋賀県当時神崎郡能登川村では、半日も母といっしょに暮らしていない。
ほんのしばらくでも生まれて両親や幼い実兄や年嵩の異父兄と起居を共にしたらしいのは、京都市右京区太秦であったらしいが雫ほども記憶にない。
新門前の二十年ほど、丹波杉生と新宿河田町との各二年ほどがわたしの「故郷」だ。あえて加えれば子供達二人ともともに過ごし、孜々として小説を書き始めていて太宰賞をもらった、あの医学書院社宅で八、九年をすごした、当時保谷町字山合も故郷に数えたい。 2011 11・12 122

* いま、就寝前に十四冊の本を読んでいる中で、重い本なのに手に取るとなかなか置けないのが、角田文衛先生の「平安時代の女たち」を精微に論攷された記念の論文集。きのうまで、歴代皇妃のうち最も華麗に多幸であったといわれる「建春門院滋子平氏」の生涯を読んでいた。後白河院は、頽廃には陥ることのないしかし好色の帝王であったが、上西門院に仕えていた滋子平氏を知って以降、他に人なきがごとく滋子を鍾愛され、熊野詣でにも、はては厳島詣でにも、さらには有馬温泉への湯治にまでも同行、女院の亡くなるまで行幸また御幸をともにされたこと数限りなかった。よほど美しく、それ以上に聡明で気概にも恵まれたすばらしい国母であった。高倉天皇の母女院への孝行もうるわしかった。定家卿の姉・建寿御前= 建春門院中納言の日記『たまきはる』はさながら女院滋子の讃美歌かと思われるほど、ありありと、生き生きと、この高倉母后の輝く魅力を後生に語り伝えて光っている。『建礼門院右京大夫集』の死なれた哀しみに満ちあふれているのと大違いである。
建礼門院は高倉天皇の中宮であり、母后からは姪に当たっている。この悲運の女院の姿は、小説『風の奏で』に、かなり生き生きと書けたとわたしは自負している。
わたしが、もともと後白河院に深い深い関心や親愛感を持っていたことは、「仕事」が証明している、『女文化の終焉』『初恋・雲居寺跡』『風の奏で』『冬祭り』『梁塵秘抄』そして『千載集』そしてまた「中世の源流」論など。この、 鎌倉の頼朝には稀代の大天狗とみえた後白河法皇は、いまの三十三間堂の一帯を広大に占めた法住寺御所にかなり多く起居され、まぢかに、信仰の余り迎えられた新日吉社も今熊野社も今なお在る。平家といえば六波羅だが、法皇や女院の生活された御所や神社と六波羅とは、ごく親密な地縁にあった。
言うまでもなく、そうした地域の一帯全体がまたわたくしの育った京の東山の中心地区であった。国史好きに育ったわたしの後白河や平氏に関心の深まるのは、はなから約束されていたようなものだった。

* まさしく同じその東山一帯の空気をもう一度現代の目で書き取ってみたいのが、さしあたり今わたしの重い課題になっている。果たせるかどうか、ぜひ果たしたい。
2011 11・24 122

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