* 夜来の雨おやみなく時に激しく。出掛けねばならぬ用事無く、何の約束ごともない。雨を聴きながら家で好きにしていられるありがたさは、贅沢である。
* 夥しい保存資料が整理用抽出しの百棚ほどに溢れているのを、折ごとに整理し不要ななかみは捨てようとしている、が、捨ててしまえるものは少ない。そうかといっていつか役に立つかというと、アテにならない。愛着や執着の成せる堆積と言わねばならぬ。
今日もみていたら、「1953ー4~」とあるB5の古いノートを見付けた。
「茶道」「京都市立 日吉ヶ丘高等学校」「会計」と表紙に有る。
もっと小型帳面で、毛筆で表紙に「昭和廿七年発足 茶道部 日吉ヶ丘高校 金銭出納簿」としたのも挟み込んであり、茶道部の会計帳に、他の備忘や記録や部員名簿などが書き込まれてある。茶道部の出来たのが一九五二年と分かる。その年、わたしは高二であった。
わたし自身の筆蹟は殆ど見当たらないが、懐かしい部員の名前はほぼ残りなく随時に繰り返し記録されていて、稽古日ごとの菓子や茶などの領収書もたくさん挟み込んである。また茶籠など携え嵯峨野に野点にでかけたりした顔ぶれも分かる。
なかに、ノートの一枚を切り取ったのに、わたしのペン字で、茶道部稽古用の刷毛目茶碗と菓子鉢とを五条の京都陶磁会館販売部で買った「日吉ヶ丘高茶道部殿」への領
収書が写し書いてある。「29年9月10日」の日付は、わたしがもう大学一年生であったことを示している。つまりその頃までも高校茶道部の稽古を指導しに母校へ出向いていたのである。
そんなことより、同じノート紙片に「菅原万佐」の名で、まぎれないわたしの高三時短歌が四首書き込んである。後の歌集『少年』にはみな洩れている。文化祭といわず、何かしら学校に来客などあると、茶道部は接待を頼まれた。校長室に立礼の設えもありそこでも茶を点てたりした。学内に指導できる先生がなく、創部のときからわたしが点前作法などを部員に教えていた。裏千家の茶名宗遠は、叔母宗陽のもとでちょうど高校卒業と同時にゆるされていた。家ではしばしば叔母の代稽古もしていた。
昭和廿八年文化祭協賛茶席を設けし日に
射し添へる日かげをうすみほのぼのとあかき帛紗の沁みてなつかし
のこり火の火の消えぬがに夕づけばのこせる香を薫きゐたりけり
すさびとは吾が思はぬに目にしみる夕陽のいろを茶室にみをり
山なみは目にあかくしてけふひと日かく生きたりと丘の上に佇つ
日吉ヶ丘の高みに建つ母校の、美術コース専用校舎二階には、当時著名な茶室建築家が設計し、やはり著名な哲学者久松真一氏が「雲岫」席と名付けられた、八畳間の佳い茶室が出来ていた。わたしたちの茶道部は、其処を我が物のようにいつも使っていた。襖ひとえの奥には、日本画などの画室にも使われたのだろう畳敷きの大広間が接していた。西向きの小窓からは、京の西山なみが夕方には落日にあかく染まり、東寺五重塔の水煙が目の高さに遠くほのかに見えていた。
男子部員は、わたしが指導していた頃には一人もいなかった。多いとき女子部員は廿人以上もいたか。中にはもう、亡くなった人も何人かあり、いまもメールを呉れ、湖の本を愛読してくれる人が何人もいる。「あかき帛紗の沁みてなつかし」い人もいたに違いないが、覚えていない。
* こういうことでは、とてもモノが片づかない、捨てきれない。 2012 5・3 128
* 京都へぐらいは、荷物無ければ難なく行って帰ってこれるだろう。何必館の華岳展、観たい。京都美術文化賞の授賞式にも呼ばれている。お手紙も戴いている梅原猛さんの顔、 見たいと思っている。
そういえば、昨日は三好徹さんにもお手紙いただいた。久々に、ペンの総会・懇親会に顔をだしてみようかなど、ふと心をよぎる。
あれこれ、いい意味で気を散らし気を晴らしながら日々を元気そうに送り迎えしたいもの。
2012 5・12 128
* 夕の服薬後、九時まで寝入っていた。目覚めてもう朝かと思ったり。
京の祇園、八坂神社、円山公園をテレビが案内していた。新門前のわが家からは、みな数分で行けた。その真まん中の学校へ通っていた。懐かしいどころではなかった。
次いで、平安神宮も。わたしの学校では、「今日は、外へ出よか」と先生の一言でクラスの全員が、その日は将軍塚から清水寺へ、とか、あの日は花あやめ美しい平安神宮の神苑へとか、よく出掛けた。どんなにそれが嬉しかったろう。
2012 5・24 128
* 時代が古いことでは、もうすぐ掛けようと思っている「義政」の「海上蛍」と題した歌短冊が手元にあり、さすがに半信半疑だが豪奢な表具が気に入っている。「表具の値段や思て買おとおきやす」と出入りの道具屋に叔母が薦められれていたのを覚えている。わたしも賛成した。短冊そのものも古色を保って高雅で、書も捨てたものでない。将軍というより趣味者であった足利義政を想像しながら例年、 季節になると持ち出している。
じつは、それよりはるかに気に掛けている物に、大徳寺「江月宗玩」自筆の梅繪に賛という一軸があり、「伝来を証した書簡」と古筆了以の「極め」が附随している。江月は、大徳寺住持で後水尾天皇より大梁興宗禅師の号を勅賜されている。信長や秀吉に仕えた堺の大商人で大茶人であった津田宗及の子であり、堺の南宗寺住持でもあった。
書をみるのは何より好き。厚かましくも岡倉天心、幸田露伴から會津八一や魯山人ら名だたる十八人の名前をならべた井上靖監修古美術読本「書蹟」巻を編集(光文社 知恵の森文庫)してもいるのだが、「古筆」の鑑定はとても出来ない。しかし、何となくわたしは此の江月繪賛に真蹟の匂いをかいでいる。遺墨は比較的多く伝存し珍重されていると『原色茶道大辞典』にもある。古筆研究の小松茂美さんがお元気な間に鑑て貰っておきたかった。
同じく千家茶道の祖である、利休の孫、千宗旦の消息を仕立てた、いかにも時代の一軸も手元にある。およその読みも利いて、これまた茶掛けとして風雅な感触に満ちていて、大事にしている。
義政の短冊はともあれ、江月も宗旦も、真蹟と知れればわたしなどが握りしめているより、しかるべき施設に寄付していいとも思っている。
なににしても思い屈するようなとき、美しさも奥行き深い書や工藝の数々に目をふれては、励まされ癒やされる。なかなか家常の什物としては扱いにくい物もあるが、軸や額は掛けて楽しめる。
2012 6・2 129
☆ 拝啓
例年にも増して不順な昨今でございます 御体の御様子は如何でいらっしゃいますか 「湖の本」毎回 御恵み頂き 有り難く拝読しながら またその都度にお礼を申上げ度いと存じつつ 御いたつきのことをお案じ申し上げる余りに筆をとりかねて 失礼ばかり重ねております 行き届いてのお手当、御加療のことは、尽しておいでのこととは存じつゝ またそのための煩わしさなど、いろいろと他からも聞き及んでおりますので 遠くからお案じ申上げるのみで過ごしております 私の方も去年の早春までは年のことも考えず 骨折した足や弱った心臓のことなど気もせずに居りましたが、あの原発事故ののち 気持がなえて、老いをつくづく考えるようになりました 小さい源氏物語のための集まりのために京都へ通うのがせいいっぱいになっておりました中で ちょっと雑文をお頼まれしまして、すさび書きしましたものをお目にかけたくなりました 御加養の御日々の御たいくつしのぎにも お笑草に遊ばして下さいませ
この梅雨から酷暑 京都を思い出しつゝ 今年は少しでもやさしくあってほしいと希っております
ありきたりの御見舞申上げるのも ためらわれて、駄文一筆いたしました
萬々失礼お許し下さいませ かしこ
七月九日 伊吹和子
秦恒平 様 御読み捨て下さいます様に
* お手紙も嬉しいが、こういう天然の素養が育てたやわらかな日本語に、わたしはしみじみする。流石に谷崎先生晩年の文学作品を口授筆記されていた練達の編集者であり京のお人である。雑誌「ぎをん」今年の陽春号に投じられた一文も、ぜひ読ませてもらう。
☆ いまはむかし 伊吹和子(エッセイスト)
昭和四年の三月に私が生まれた家は、繊維品の卸商を営んでいて、烏丸通に面して、綾小路と仏小路との間の西側に店の表があった。町名は「二帖半敷町」といった。私が生まれた頃は店の建物の裏側に、何棟かの倉をはさんで背中合わせにつながった居宅があり、家族が日常に出入りするこの家の門口は、室町通に向いていて、常暖簾がかかっていた。ここの町の名は「白楽天町」で、名高い祇園祭(八坂神社の祭礼・祇園御霊会)の時期には山鉾(山車= だし)のひとつである「白楽天山」が立った。どちらにしても、家族は祇園八坂神社の氏子であった。鉾巡行のお供をした時の記念に写したという裃(かみしも)姿の若い父の写真が残っていたし、一族の一人は少年の頃、「籤(くじ)改め」の大役で面目を施したと、語りぐさになっていた。私のお宮参りも、当然八坂神社だったらしい。
宵山(山鉾巡行の前夜)の賑やかさや座敷の飾りつけの忙しさについて話す時、平素無口な祖母が饒舌になって、お祭の御馳走に鱧と鯖との「お鮨(す)もじ」を何本作ったかが自慢であった。一方私はまだ幼くて、お守りの札を売る近所の子に混じって、
……ご信心のおん方様は、受けてお帰りなされましょう、常は出ません今宵限り
と、半分わけがわからないまま、唄ったことをかすかに覚えている。
家には「祇園のお茶屋のおかみさん」という人たちが挨拶に見えていた。しかし、平素から商家の内側では、ごくつつましい生真面
目な生活が続いていたので、祇園さん(八坂神社)と舞妓さんのいる祇園まちとがどう繋がっているのか、あまり知識も関心もなく、
まして子供の私には、とんと理解しがたいことであった。
いったい、祇園まちとはどういうところかと、母に尋ねたことがある。母は、要するに社会の指導的地位に立っている錚々たる男性たちの社交場である、というようなことをわかり易く説明しようとして、
「(そういう人たちが)お金を、たんとたんと持って、お酒飲んだり御馳走食べたりして遊(あぼ)しにお行(い)きるとこ」
と言った。「遊(あぼ)する」も「お行(い)きる」も祖母や母の頃までの人が使っていた古い京都言葉である。母の苦心の説明も、「お茶の葉を売っている店でお祖父さんたちは何をして遊ぶのだろう」と、納得の行きかねることであったが、私は相当大きくなるまで、そのままを信じていた。
祖母も母も、南座の歌舞伎は見に行ってもお茶屋遊びに同席したことはなかったようで、また、行きたいとも思っていなかったらしい。私も、小学校を卆えた頃から歌舞伎はよく連れて行ってもらったが、芸妓さんたちの花舞台である「都をどり」は一度しか見ていない。
ずいぶんと年月が経って、時代も変り、私の境遇も激しく変った。今では私は、誘われて一力のお座敷に座り、何度か、酒宴のお相伴に与(あずか)ったり、舞妓さんの接待を受けたりした経験がある。
変っていないのは、私の本籍である。別に大した意味や信念があってのことではないが、何となく変える気になれず、烏丸にあった店も室町の家もなくなったのに、本籍は「烏丸綾小路下ル二帖半敷町」のままである。従って、まだ私は「祇園さん」の氏子ということになる。
「二帖半敷町」という変った町名にもかなりの由来があるが、ここではそれには触れない。
* 京の中の京都で育った人の思い出である。実家跡はいまの烏丸京都ホテル辺であろうか。わたし自身は祇園まちのまん中にできた戦後の新制弥栄中学に通った事実上の第一期生であった。教室には、舞子や後に藝妓に巣立っていった同級生が何人もいた。我が家は祇園の遊郭から抜け路地ひとつで背中合わせの新門前通りにあった。外人もよく出入りする骨董や美術商達の通りであった。通りの東端に、京都の骨董商たちが取引する美術クラブがあった。
2012 7・10 130
* 妻の妹が、わたしとメールで話したいと、妻のもとへ伝えてきた。少なくも四十数年の余も逢っていない。どんなメールが来るのかな。楽しみ。
2012 7・10 130
* 六十七年前、疎開先丹波の山なかで迎えた真夏の灼光と、ラジオで村のひとと一緒に聴いた陛下の声音を忘れない。負けたくやしさは無かった。京都へ帰れると目の前が夏の日射し以上に明るかった。
しかし実際に京都へ帰ったのは、一年余も後の秋のこと、腎臓を病んで満月のような顔になろうとしていたのを、母は咄嗟に引っ担ぐようにして亀岡経由京都へ連れかえり、家にも戻らずその脚で、昔からお世話になっていた松原通り樋口医院に担ぎ込んでくれた。巌先生が秘蔵のペニシリンを使って治してくださった。あやうく命拾いした。医院の二階座敷に師走も押し詰まるまで「入院」していた、一升瓶に溢れるほどの尿が出るまで。
その間に、わたしは二階座敷の本棚から、新潮社版世界文学全集の端本や漱石全集に初めて手を触れたのだった。母のおかげ、樋口先生のおかげである。
家のあった新門前通りから、祇園の花街や建仁寺の広い境内を通り抜けて、六波羅の坂道を東へ登って行くような樋口医院を父母はすくなくもわたしの主治医かのように頼んでいた。何故だろう。
2012 8・15 131
☆ 秦恒平先生
漸う落ちついた秋の深まりを感じるようになりました。 この暫く あまりの気候の荒々しさにもてあそばれるように過して、 ましてや御いたつきの御身をどうお過ごしでいらっしゃることかとお案じは申上げながら 湖の本113を頂き、その御礼も申し上げませんうちに 「京のわる口」の平凡社版、御恵贈下さいましたものを拝受いたしました。 有難う存じます。
喜壽を御祝い遊ばします由、まことにおめでとうございます と、平凡に申上げるのが 何やらもの足りず、毎日ページを繰り直して、時には ほんまやなあ、と感心し、時には、もっと云うてほし、と思ったりして、今日に到りました。 大変な御闘病の中を、それでもこうしてなお およろこびの辞を申上げられますことが うれしゅうございます。 よい日をお迎え、お過しになります様 お慶び申上げております。
私、少し先をあるいて今年八十一歳で年末を迎えます 何とか日を送っておりますが し残した仕事をどうぞしてと思いつつ 自分自身のしんきくささにじれたりして、一日一日が過ぎてゆきます 足が不自由になり 心臓も母ゆずりに病んで病院通いの日常ながら、なお いこじに一人くらし、 今日になっても 東と京とは違うことを 毎日のように思いしらされております。 たとえばこの間も 「虹」のことを、度々話していましたのに もひとつ納得した顔をしていなかった東京生れの人が、「あゝ、ニ「ジ」でございましたの? 「ニ」ジっておっしゃるのが分りませんでしたの、」と言いました (古い国分尼寺趾の地名が にじ(尼寺)がおか と云われるうちに 虹ヶ丘になった という話です) 笑いながら このすかたん と思いました。
蛇足になりました。
くれぐれも御大切に、よき御日々をお過しをとお祈り申上げます かしこ
十一月十日 和 エッセイスト
* 「すかたん」は見当外れに自説に固執して場をかきみだす相手に蔭でなげつける「批評語・わる口」で、男も云うが、とりわけ女性の口から吐き出されることが多いと感じている。次の、在米京育ちのお茶人の口からも時折聴き取って、にやりとしたことがある。京おんなはもの優しいが芯は堅い。
2012 11・12 134
* 夕刻まで睡れてよかった。入浴と睡眠とは、これもわたしの味方。
今日明日明後日と家におれる。珍しいこと。
近々の金曜には「反原発」を下に秘めた俳優座公演。 次いで日曜には、期待と不安の、新しい眼鏡が出来ている筈。そして月曜の歌舞伎は、江戸以来の顔見世興行。
松嶋屋仁左衛門の「熊谷」休演と聞いているのが残念至極、とはいえ代役に、音羽屋松緑とは、期待も大いに大いにあって、楽しみ。妻は「松緑」襲名の弁慶いらい大の贔屓。
「汐汲」の山城屋藤十郎は言うに及ばない、彼が扇雀・鶴之助の花形上方芝居で大いに鳴らした頃から、そして鴈治郎時代も通してのわれわれ大の贔屓。
大切り「四千両小判梅葉」の前評判も高い。音羽屋菊五郎御大以下、大勢の役者が勢揃いの賑やかな黙阿弥芝居が楽しめます。元気に観てきたいです。
その翌日は歯科に通い、その後は、二十九日に、これも期待に胸も熱くなる福田恆存作・嗣子福田逸演出、夫婦ともお招きの大作「明暗」が、建日子もふくめ、われわれを待ち受けている。
ようやく通院ラッシュからも徐々に抜け出して行けそうな気配で、有難い。
何でもいい、楽しめる限りは何でも楽しみにし、病苦と懸命に対峙し克服しなくては。
本音をいえば、「喜壽」の祝いに、師走の休薬期に三泊ほど京都へ出かけられないかと、半ば本気で願っている。こころおきなく京都に身を置いて京都の山川を眺め、空気を吸ってきたいのだ、墓参もしたいし、顔を見たい人もいる。新幹線は坐ってさえいれば、たとえ寝ていても済むし、京都はタクシーの使い道が東京とは段違いに好適なんだし。
無理で無ければ、出来れば建日子も一緒に行ければ最高なんだが。彼はいまもべらぼうに忙しそうだから。ムリかなあ。
主治医と相談すれば、止めるより奨めてくれそうな気がする。
* 九時半、完全に眼は霞んでいる。もう、よそう。
2012 11・13 134
* 宇治の伊藤隆信さんから贈られてきた神宮道の割烹「波多野」手作りのいろいろは、みな口に合い、ことに渋皮煮の大栗、たぶん小布施の大栗かと想うが、とても美味しい。薩摩芋の旨煮も。鰊は蕎麦に添えている。商品ではない、「波多野」でわたしのためにいろいろ瓶詰めにしてくれたもの。有難し。
この店の向かいに馴染みの星野画廊がある。北向けば平安神宮朱の大鳥居がみえ、南へすぐの三条通りをこえるとそのまま坂道が青蓮院や知恩院へ誘う。
少年のころ、坂のあるこの界隈は自転車乗りの絶好域で、粟田坂でも三条大通りでも知恩院前でも下りの疾走を盛んに楽しんだ。しかし二度、トラックや車に接触して危なかった。軽傷で済んだ。
2012 11・15 134
* 十二月早くに 建日子が「いっしょに京都へ行ってもいい」と言ってくれている。妻は、黒いマゴのために留守居しようと言う。これは残念だが、黒いマゴも大事に世話してやりたい年齢へ来ていて、われわれにそれは親しく懐いているので、淋しい留守番に家に閉じ込めて出るのは可哀想。
建日子とは、彼の少年時代に一度、成人してからも一度、関西へ旅している。けっしてこれが最期と思っているわけでないが、超多忙の建日子が喜壽を祝って同行してくれるのは、とても嬉しい。新幹線の手配や、宿の手配なども頼まねばならないが、体調次第では彼にきつい負担もかけかねない。抗癌剤一週間の休薬期中に二泊と思っているが、さ、どんなものか。内心の予定では、帰ってきて翌日に腫瘍内科の診察を受ける。
あまり病状を軽くみて軽挙妄動になってはならぬが、ま、大丈夫だろうとも、かすかに楽観している。
* 八、九、十月の外出よりは減ると思っていた十一月も、十三回の外出、になる。ただ今日の、ボジョレーヌーボー予約のワインを受け取りに保谷駅まで出るのは、明日の俳優座観劇の帰りにと省略した。
十二月は、さすがに外出予定も減っていて、病院の診察や歯科眼科が若干加わってくるだろうが、加えて京都行きがあれば、楽しくもあり疲労も出ようか。
十日には尾上菊之助が花魁八ツ橋を演じる「籠釣瓶花街酔醒」が楽しみで。二十日には松本紀保らのミュージカル公演があり、出来れば喜壽当日には国立劇場での通し狂言、吉右衞門以下、華やかな顔ぶれの「鬼一法眼三略巻」が観られないだろうかと尋ねないし高麗屋にお願いしている。明けて二月の染五郎復帰、日生劇場の公演はもう確保できている。
着々と新歌舞伎座のこけら落としが近づいてくる。何としても観に行きたいなあと、そんな願いをも闘病の力にしている。
2012 11・15 134
* 十時半、さ、やすむとしよう。
妻は京都への旅をすすめてくれる。建日子も同行してくれる。
この体力や体調で、「軽挙妄動」になっては闘病の実を無にしてしまう。それが気がかり。行ってみたいが。
2012 11・16 134
☆ 京都
ホームページ見てます。
せっかくのチャンスですし、12/3-5で京都行きいかがでしょう。
行きは出発を遅めに、帰りはチェックアウトしたら帰るだけ、と割り切れば、体の負担も最小限で行けると思いますが。。。
☆ 秦建日子☆TAKEHIKO HATA ☆
* re: 京都
建日子
一緒に旅など希有の好機かもしれないね。喜壽を祝って貰うこれ以上の贈り物はないね。
永く歩くという無理は出来ないだろうが、京都は車が使いやすいし。わたし自身は何でも食べられるわけでないけれど、建日子にそこそこの店を教えることは出来ます。楽しめるといいね。仕事に障りはありませんか。
十二時頃の新幹線で行き、帰りもそれぐらいで新幹線の切符がとれていると安心です。
どんなところへ建日子が行ってみたいか、それも楽しみ。
とくに人と会いたいといった望みはもちません。京都の秋色と山川の空気が目に胸に入れば幸せです。
宿は、三条・四条辺で、やはり祇園・東山に便利なところが有難い。河原町御池のオークラ京都ホテルなら、わたしに、カードがあると思います。
二十九日に福田恆存さんの「明暗」を一緒に観られるのもとても嬉しく楽しみにしています。
その日、観劇のあとに幸い時間の余裕があればいろいろ話し合えると思います。
生き急いでなどいませんが、建日子との機会は、ますます大切にしたいと、わたしも母さんも願っています。
では。怪我や事故や病気のありませんよう、人生安全運転してください、ぜひ。
メール嬉しく。ありがとう。 父
2012 11・18 134
* 建日子から新幹線や宿についての知らせが、晩にあった。抗癌剤からの負担はじりじりと濃くなってきている。しかも体が寒さに圧されている。出かける当日のことは予見できないが、出先のホテルでダウンしていては建日子が困惑する。軽挙妄動とまでは思っていないし多少の無理は利くと思うけれど、病人が無理を押すのも賢くないと、師走の京都行きを断念。建日子が同行してくれるという申し出はほんとうに嬉しかったが。その嬉しさを喜壽の祝いと受けとって置く。
こう書いている間も、涙目・霞み目だけでなく、うかとしていると涎も垂れかねない。五体の内、抗癌剤の副作用は、わが顔のほうへ攻めかかっている。そして手先・足の裏の痺れ。
2012 11・22 134
* 第二十五回京都美術文化賞受賞記念展のオープニング式典の案内が届いた。一月十八日。まだまだ動けそうに想われない、欠席やむを得ぬ。
2012 12・16 135
* 旧京都美大、昔の繪専の後進、この大学の構内に、新設まもない母校だった市立日吉ヶ丘高校が借家住まいしていた。わたしが二年生になった春から泉涌寺の下、東福寺の上手に新築された校舎へ移転した。この新しい日吉ヶ丘もなつかしいが、一年間の仮住まいだった旧美大の風情もよく記憶している。接地して名刹智積院があり、太閤坦( たいこだいら) へ登るきわに新日吉神社、少し上に京都女子大、東山線の電車道をはさんだ西に恩賜京都博物館や豊国神社、その南向かいには三十三間堂や後白河院の法住寺御陵やなどが在った。また木造の借家校舎のすぐ脇に山科へも泉涌寺のほうへも通える細い山坂道があった。
その校舎などをいかして紅葉の写真を貰っているのに、これが此処へ転写できないとは残念。この課題を年内になんとかしたいがなあ。 華、佳い新年を迎えて下さい。
2012 12・21 135