ぜんぶ秦恒平文学の話

京都 2014年

 

* 機会画面が眩しくなると眼をとじて堪える、そのまま眠りに沈んで行くことの多くなったことよ。夕方には、また歯医者に。指でさぐると右上奥に二本分、下に一本分、左上下に二本分ずつ歯の欠損があり、正面上三本分が入れ歯になっている。食生活が、咀嚼でも食味でもはなはだ不十分なのも致し方ない。差し歯で補えるところは堅固に補ってほしい。

* わたしの育った、京、東山区新門前仲之町はさして長くない両側町で、南側はわが家が東の際に在った。その東はもう梅本町だった。西際は、北から南の新橋通りへ流れる白川が新門前橋で区切っていた。橋より西は西之町で、京舞井上流家元の家や、仕出し弁当で名高い菱岩などがある。そういえばあの新門前橋の上は仲之町なのか西之町なのか、いま、初めて思った。
その新門前橋の東際南側に、今でも在るかむかしは「横山歯科」という品のいい表構えの家があった、ただしその家へ連れて行かれるのは大大嫌いであった。歯の治療の好きな人はいまい。わたしはもう多年慣れていて、治療中もよくよくでないと痛みを訴えない。治療が済んで帰るときはたいがい清々した心地になっている。
歯医者行きのことから妙な方へ思いが行った。ことのついで、その横山歯科の真向かい北の橋際には「難波医院」という内科小児科のお医者があった。間口も広く大きな医者で、ここでもよく注射で泣いたけれど、じつは、横山でも難波でもわたしの気に入った一点は待合いに置かれた雑誌や本が読めることだった。いまとちがい、昭和十年代、開戦、戦中にゲスな週刊誌など無かった。科学雑誌か児童ものの絵本だった。今まで大泣きしていたちっちゃな患者が、治療が済んでも逃げ帰らずに、追い返されるまで待合いで本をひろげていた。そういう子だった。

* わたしの歯は、エンディングの見えないほど、まだ、あちこちがヒドイらしい。参るなあ。
2014 1/17 147

* 昨日の晩、京都宇治の伊藤隆信さんから電話をもらった。京都へ帰ってきたら、というお誘いだった。伊藤さんは何十年も前からそう誘ってくれる。
今日は、伊原昭(あき)さん(梅光学院大名誉教授)から大著『源氏物語の色』を頂戴した。日本の色彩に関する第一人者。精緻な色彩大事典をはじめ大冊の研究をどれだけ頂き続けてきたことか。お目にかかったことは一度もないのに、久しくご好意を戴いている。
2014 2・6 148

☆ 秦 恒平 様
先日は病院帰りのお疲れの所、突然の電話にて大変失礼しました。
その時に話しましたミュージアムの企画展のチラシ下書きコピー 添付ファイルにてメール致しました。
体調他不安なお気持ち少ない状態であれば奥様とでも故郷京都にお帰り下されば幸いです。その節は2 月末から3 月10日まで位ならJR桃山かJR六地蔵駅迄車にてお迎えにまいりま
す。
何れにしましても無理は禁物かと思います。京都の空気を吸ってみようかというお気持ちになったらいらして下さい。
Feb. 8, 2014   アート影絵芝居   京都宇治 伊信

* 京都……。行きたい。
2014 2・9 148

* 春の選抜高校野球、甲子園で京都の龍谷大平安高校が6:2でみごと優勝した。なつの大会で三度、選抜では初の優勝、久々、久々の決勝であった、たまたま七回から観て声援、八回にはワンアウト満塁のバッター2ボールからの二度目の投手交代という大ピンチを替わった投手が冷静に投げ勝って零点に抑えたのは偉かった。そしてその裏に平安は豪快な2ランホームランで大阪の履生社高校を突き放した。九回も平安の投手野手とも冷静に相手校を討ち取った。堂々の優勝、実に久しぶりに高校野球に感激した。京都愛がかくも濃くのこっていたかと我ながら少し驚いた。ま、それほどこの大会で優勝するのは至難の勇戦というわけだ。こころよく興奮した。若いもんだ、わたしも。
2014 4・2 150

☆ 大空に
ゆったりと咲いていた木蓮も
はや春風のいたずらで
大きな花びらを 一枚また一枚と……
そして今日は、
散り落ちる直前に 筆をとることができました  (繪 木蓮の花)
秦先生
先日は、失礼いたしました。お便りも添えずお品物を、お贈りさせていただき、恐縮に存じます。
先生も、お体を痛めなさっている中で 次々と巻を重ねてのご出版、「大丈夫?」と案じております。 でも私のところへもお届けいただけ本当にうれしく拝見させていただいております。
ご子息さまも小説家におなり とか、「すごい」と、うれしくなりました。
先生のような 純文学の方は、少なく、尊いご存在と 遠くより誇らしく思っています。
先日「炭屋で一泊し、京の春をたのしんでまいりましたが、お迎えのお茶菓子は「末富」の  夜のデザートは「老松」の「夏柑糖」でございました。
いずれも私の好物ばかり、とてもうれしくなりました。
やっぱり 京都はいいですね。
夜の清水寺も「ご招待」していただき、
妖艶なさくらを愛でることが できました。  (繪 木蓮の花後)
どうぞ 先生 お体をお大切になさって下さいませ。 合掌    高石市  東

* 巧みな花の繪に、切り紙の櫻を散らし、大小の筆の散らし書きがきれいで、そのまま写真にしたいほど。祇園町で育った、わたしの母校中学での後輩。わたしが高校生から大学への頃、中学の茶道部へ先輩として教えに行っていた。文化祭には教室を茶室に仕立てて佳い茶会ができた。そんなとき、この人は頼りになる中心の生徒だった。祇園をあえて出て大阪府で高校へすすみ、いい学校の先生になった。絵手紙の美しい本など出し、歌も詠む。根はたしかな京おんなである。
2014 4・11 150

☆ 前略
たった今、何とも素晴しい御本をお届け賜りました。 唯々、嬉しく有難く、感謝の念で一杯です。
実は、昨日、ふと目にした新聞記事を切り抜いてはみたものの、斯んなのをお送りするのはどうかなあ…と案じて居りました処に、インターフォンが鳴りました。受け取って唯々びっくりです。ほんとうに有難う存じます、  で 取り急ぎ御礼の言葉と共に勇気を出して(?)切り抜きを同封申し上げました。どうぞ失礼をお許し下さいますようお願い申し上げます。
日々お平らにお過ごし頂き、二巻三巻と恙なくご上梓なさいますようお祈り申します。
取り急ぎお礼まで。 失礼をお許し下さいませ。四月三十日夕   京下鴨  文

* 比較的母校同志社に冷淡な顔をしてきたわたしだが、長編『みごもりの湖(うみ)』は、同志社大学時代を色濃く反映し記念した作になっている。物語に気をとられていたが、今度再三再四校正読みしていて、これは同志社という空気を囲い込んでいたのだと心底思い当たった。「文」さんの手紙は私と妻とへ連名で書かれている。妻の親友なのである。
切り抜きの新聞記事にも驚いた。
祇園石段下の元市立弥栄中学は、新設の第一年昭和二十三年に私の新制入学した母校だが、過疎化のあおりで近年に廃校されていた。その旧母校が、再来年の開設予定で「漢字博物館・図書館」に成るのだと。驚きもし、なにかほっとした気持ちにもなっている。わたしは事実上の第一期生で、卒業まで生徒会を代表しつづけていた。おー、そういうことになったか…。感慨深い。場所はすこぶる良い。いい働きが出来ますように。
2014 5・2 151

* 南山城の従弟が送ってくれた京都博物館での「南山城古寺巡礼展」の大きな図録を楽しんでいる。わたしの父方実家吉岡家は、現在木津川市加茂町当尾に屋敷があり、一帯の大庄屋を務め、廃仏希釈の頃には浄瑠璃寺の九体阿弥陀堂を身を以て守ったと洩れ聞かされている。当尾地区には、平安時代の浄瑠璃寺、奈良時代の岩船寺、さらに上古來の石仏群が現存し、加茂町にまでひろげれば海住山寺等々の古刹。古京が含まれている。図録は、貴重な建築、仏像、美術、文書資料等々を克明にみせて呉れる。
若ければ、乗り出して書き表してみたい「物語」がいくつも浮かび上がる。何をするにも、もう残り時間が切迫している。
2014 5・18 151

* 整理用の抽斗から、昭和五十九年一月の京都新聞が出てきた。京真葛ヶ原「西行庵」修復の動きを紹介していた。西行庵は今度の「選集②」の芯になる長編『風の奏で 寂光平家』で、重要な舞台の一つになっている。むろん少年の昔から馴染んでいた遺跡であり、懐かしさも手伝い記事をスキャンし校正して「備忘・参考資料」のフォルダに保存した。電子化して該当するフォルダにデータとして保存しておけば利用しやすいが、紙のまま積んでおいては死蔵にちかい。
そういう参考資料も山のように沢山な抽斗に積み重なっているほかに、わたし自身が原稿として、備忘として、着想として書き置いてきたものが、思わず呻くほど、有る。アイデアとして、何かのきっかけとして、存外な「お宝」であるのかも知れず、とはいえ手のつけようがない。
2014 5・21 151

☆  Hata san,
Ogenki na koto to omoimasu. Narubeku hayaku Nihon he iki masu.
Natsukashii shanin ga dete kimashita. Dakara okuri masu.
Aida ni suwatteru futari no josei wa daredeshou? Watashi no shiranai hito desu????
Tanoshin de kudasai.
Michiko san nimo yoroshiku.    Chiyoko .I

* ロスの池宮さんが初めてのメール。機械に触れるようになったらしい。大進歩。
写真が四枚送られてきた。大谷・池宮姉妹のほかにも何人か写っていて、わたしも入っていたりする。三條上ル木屋町の李家(りのや)さんの家だろう。立礼の茶の場面もあり、わたしの叔母宗陽も、社中の何人かも識別できる。稽古場の茶室でわたしがとても可愛がっていた少女も、当時叔母の弟子で美しいこと「ピカ一」さんと呼ばれていた小畠芳江さんも見分けられる。みんなわたしより年かさの人たちだった。わたしは茶法をその人等に教えることはできたが、それ以外ではただの少年だった。池宮夫妻と姉の大谷良子さんとに誘われ、車で伊勢参りに連れて貰ったこともあった。その時の写真があり、わたしは鉛筆のようにひょろっと細くてひ弱い。写真を撮って呉れているのは、みな、池宮さんのハズバンド。その池宮氏も、義姉の大谷良子さんも、大谷さんと仲良しだったピカ一の小畠さんも、みんなもう亡くなっている。あの当時大谷・池宮姉妹は颯爽とお洒落で若い美しい人たちだった。妻を妻にという気持ちで最初に会わせたのもこの姉妹だった。苦境にもよく応援してくれた。六十年も昔話である。
2014 6・3 152

* 建日子が七月か八月に、両親と三人で京都へ付き合うよと。黒いマゴの輸液は引き受けるからと言うが、ハテナ。それにしても七八月の京都は焦げ付くように暑い。
2014 6・17 152

* 「月皓く」を、除夜釜を終え埋み火にしながら鐘を聴いている辺まで読んだ。しんみりした。
2014 6・19 152

* 「月皓く」を読み終えた。叔母宗陽をこう書きとめておけたのが有難い。元朝の祇園、清水もなつかしい。こんなにわたしは故郷を愛していたんだと、今更に気恥ずかしく申しわけすらなく想い出す。
2014 6・19 152

* 尾張の鳶が、京の祇園会、鉾の写真を送ってきてくれた。京都か。京都だよなあ。いつになれば行けるかなあ。
2014 7・15 153

☆ 今、
NHK.BSで祇園祭巡幸の中継をしています。ご覧になっていますか?
巡行中継NHK ではなかった、ごめんなさい。  尾張の鳶

* 黒いマゴに輸液のあいだ、稚児さんが長刀鉾に入御の式を観ていました。すぐ、機械の前へ移動。
祇園会は、総じてみな胸奥に在る。なにもかも見え何もかも聞こえてくる。
2014 7・17 153

☆ 秦恒平様
今年の夏はとくに厳しい暑さの毎日が続きます。以前からお身体の調子が優れないとお伺いいたしておりますが、如何お過しでしょうか。
いつも「湖の本」 御礼申し上げます。
七月の京都は祇園祭一色で、とくに150年ぶりの大船鉾の復帰が大きな話題となり、また、後祭が49年ぶりに復活したことで街中が終始賑わっていました。
近年、入洛する外国人観光客が著しく増加、清水寺や金閣寺はもちろん、私がときどき散歩のコースにしている伏見稲荷大社界隈でも、擦れちがう人達の異国の言語にたびたび驚かされています。
小生も京都市を退職後20年になりますが、3年前は大腸がん、昨年は前立腺がんと、病と闘いながらの終盤の人生です。毎日体調管理に気遣いの生活ですが 最近は何とか元気に過しています。
今後とも、お身体を大切に 益々ご活躍されますようご祈念いたしております。(別添の粗品ご笑納下されば幸甚に存じます。)
平成26年8月2日   富松賢三    (元京都市下京区長)
追伸  次回「湖の本」ご送付の際は、購読料の振込用紙をご同封下さるようお願いします。
* 国民学校(小学校)から大学までいっしょだった最も年久しい今では唯一の友。遠くはるかに顧み顧みて夢かと思う。想うもなつかしい永楽屋の柚の名菓といろんな酒肴とを頂戴した。これが、みな、美味い。ありがとう。元気でいて下さい。こんどの「湖の本」随筆選(二)は、題して「京のひる寝」です。お気遣いなくご笑覧を。
2014 8・4 154

* 盆正月という、京都では盆は八月だった。盂蘭盆、それから地蔵盆。暑くはあったがいい季節だった、むかしは。京は寒いも暑いも昔からとびきりの土地柄だったが、どう暑いと云っても一夏に三十度を超えるなど二三日、三十三度などときくと異様さに惘れたものだ。暑ければ暑いなりに夕立もした。だいたい、二十日過ぎの地蔵盆にもなればもう湖や川でも水泳は遠慮したモノだ。
地蔵盆が、なつかしい。『初恋 雲居寺跡』を読み直したばかりで、ひとしおなつかしい。
2014 8・6 154

* 故郷への感懐は、ひととおりでない。
「ふるさとは遠きにありておもふもの そして」とうたった詩人の歎きを共にする人も多かろうが、故郷を満喫して日頃の心労を癒せるひとたちも多い。昨日今日、盆やすみの帰省客はピークだと。
信じられないほど遠くまで、夫婦で車の運転を交替しつつ帰省するひともいた。
わたしはついに車を一度も体験せずに終わる。なんの、そんなことは他にも山のようにある、それが当たり前。スキー場で出会って結婚したカップルを二組知っている。スキーにもわたしは縁無く終える。いくら蛸のように脚をひろげようと、手足の届かないことのほうが天文学的に多い。読書こそはその補いだ。
ああねそれにしてもこんなに長く京都へ帰っていないとは。それもあってか、いま自作の小説・エッセイの校正や読み返しにいろんな思いがキツイほど揺れる。
2014 8・14 154

* 京は大文字の夜。「みごもりの湖」でも、「慈子」でも「雲居寺跡=初恋」でも、、「死なれる」ことを一等重い主題として受けとめ書いていた。堪らない死をもう何人も見送ってきた。いずれはわたしも逝くのである。真っ赤に炎をあげた大文字が、無性に懐かしい。いつまでたっても、こどもか、少年のようである。
2014 8・16 154

* 当代樂吉左衛門さんから、九月下旬の『(萩)新兵衛の樂 (樂)吉左衛門の萩』展 開会宴へご招待がいつものように届いた。琵琶湖畔の佐川美術館である。萩の新兵衛は好きで、いい茶碗、いい酒杯を愛蔵し愛用している。行きたいなあと嘆声が洩れるが、さ、行けるだろうか、琵琶湖まで行けば京都へも帰りたい。
2014 8・25 154

* 京都からは十二月に美学藝術學學会の知らせ。円山応挙の「保津川図屏風」や写生図巻を特別に観られるともある、が、行けそうな気がしない。京都へは是が非でも行かねばならない取材の用もあるのだが。黒いマゴをおいて家を留守には出来ない、したくない。 2014 10・4 156

☆ 富士に初雪が
積もったそうです。ニュースを聞いたのは、『富士山の文学』が面白いと書いてらしたことなど思い出しながらで、ただもう、忙しくしていました。
金曜夕方に転倒、腫れた右腕を氷で冷やし、「なんて間が悪いんだろう」と思いつつ、機械なども左手で。
今日一日湿布して、腫れは綺麗にひきました。ご安心下さい。 蕪

* 西武で京都名匠会をやるという宣伝を電車で見ていた。むかしは互匠会といい、よく出掛けて「京都」を味わった。小説『慈子』の幕切れに互匠会を利用したのを思い出す。小説『畜生塚』で町子が截金の作を出したのは洛北鷹峰光悦寺での互匠会だった。
しきりに京都が懐かしい、恋しいほどに。しかし京都まで新幹線には乗れても、願うままには自在にとても歩けそうにない。すこし気弱になっているか。
2014 10・18 156

* 紅葉に燃える東福寺は通天橋で動きがとれぬほどの人出と洩れ聞いている。花紅葉を名所で眺めるのは重労働にちかい。
京都の人ならもわれ独りの花咲き紅葉もえる場所を持っていて当然なのだが。
2014 11・29 157

*自作を読んでいて思い出せる、大学では土居次義先生に日本美術史をならっていた。恩賜京都博物館の館長もされた。この先生は京都市内の古刹名刹を現に飾っている障壁画の真ん前へ学生を連れ出して講義された。それがどんなに有りがたいことか、誰にでも分かるだろう。
わたしは土居先生の大著も買って愛読した。いま上にいう「糸瓜と木魚」もまた上村松園や祇園井特を書いた「閨秀」も、土居先生の著書の中から契機を得て書き上げたのであり、土居先生もとても喜んで下さった。御恩返しが出来たのである。その「閨秀」は吉田健一先生の時評で文字どおり絶賛された。「清経入水」は小林秀雄先生そして中村光夫先生に推しだしていただいた。「墨牡丹」では立原正秋さんや梅原猛さんとのご縁が出来た。
けっして我一人のちからだけで作は生まれはしない。しかし、その作に豊かに美しい「作品」を生み得るかどうかは、これは作者しだいで、人の力を借りることは不可能。
2014 11・30 157

* 1941年の今日、日本海軍の真珠湾攻撃が報じられた。わたしはその日も園のバスの送り迎えで京、東山区馬町の京都幼稚園(京都女子大付属)に通っていた。對米英戦争の幕が切って落とされたと分かった。奇襲の戦果が大きく報じられ戦争への不安はほとんど語られはしなかった。次の春四月には国民学校一年生に進み、素朴に、世界地図上どんなに戦果を示す小さな日章旗が点々と針刺されていても、彼我の国土の対比を指さして口にしたとたん、教師の平手で職員室外の廊下の壁へ張り飛ばされた。あのとき、わたしは小さな日本が世界一国土の広いロシアや清国支那に勝ってきた歴史を知らなかったのではない。明治のあのころ、飛行機のまだ飛ばなかったことを識っていた。飛行機と軍艦。それはもはや戦略や技術を上越す物量の戦争になると感じていた。勝てたら不思議と感じていた。むしろ政治的な国情の暗さなど識らなかった。帝国主義・軍国主義・思想的な弾圧の激しさなどもきるで識らなかった。
学童疎開が始まり街区の破壊的な疎開も始まりも食物をはじめとする生活物資の不足は、ただちに日々を悩ませた。三年生を終えた真冬には我が家でも丹波の山奥へ戦禍を逃れて行った。大阪が大空襲にあうと京都でも丹波の山奥でも空は昼間も暗闇に覆われた。一筋の明かりをすら戸外に漏らすのは国賊行為とされた。とうの昔から白米の飯など夢のようになった。
そして原子爆弾が二発、ヒロシマとナガサキを壊滅させた。東京都は見わたす限りの廃墟のようであった。京都へは、わたしの通った幼稚園の運動場にのみ一発の不発爆弾が落ちただけで済んだ。たまたま丹波から帰っていた一夜の空襲だった。京都は戦火は浴びなかったが、道路という道路は拡げられ、町通りも耕されて貧しい収穫が期待されていた。

* これ以上は、書くまい。
2014 12・8 158

* 菩提寺の板倉宏昌住職が、病気で席を弟に譲られた。前住職から挨拶があり、自筆の手紙に添え、京の銘茶が送られてきた。
この住職とは、もっと多くを語り合い教わりたかった。京と東京とでは距離があり、わたしはメール交換を内心期待していたが実現できなかった。重い病気の抗癌剤治療中ときけば、思い当たることが多すぎる。できれば「廬山」や「華厳」を中にして佳い対話が叶えばいいのだがと思いつつ、「秦恒平様」と上書きされた手紙を手に持ち、せめて病境の和らぎを祈っている。京都へわたしから出向けばいいのにと思いつつ、わたし自身、その自信がまだ持てない。
宏昌師の夫君は久しく檀家である秦家の年寄りたちとも懇意に願ってきた。父に松壽院、母に心窓、叔母に香月という戒名を付けられた。この前々住職は私と同年齢、もとより多年親しくしてきたがもう亡くなった。
人の亡くなるのが、年々に速やかなことに驚く。
2014 12・8 158

* 一日、午後から晩にかけて疲れと腹部の不快は深まる。「あやつり春風馬堤曲」がわれながら(あたりまえだが)面白く読めるのには気をよくしているが、不可解な曇り日のようなからだの不快は気持ち悪い。じつは二月にはぜひにも京都へという誘いを受けてきたが、お断りと決めた。今日は酒も飲めない。
そのかわり、ドラマ「ドクターX」には満足した。共感が過ぎるほどで、少しく苦しくさえあった。次回で今回のシリーズを閉じるようだが、一日も早く新シリーズを見せて欲しい。このドラマに先行した、Dfileの「クローザー」もシンドイ思いを強いるスリルに溢れていた。西欧のカソリック教会がらみの映像では、久しい各時代の歴史にからみついた聖職者たちのとてもガマンならない悪行がよく話題にされる。不快を覚えることが多い。
2014 12・11 158

* 「京都府」から、このところ再々メールをもらっている、

☆ 先日、
国宝修理所に勤めている友人(鳥獣戯画の修復を担当)に(秦の著=)「美の回廊」を貸しました。二人で、部分部分を一緒に読みながら画に思いを馳せて、楽しい時間を過ごしました。
今年の私の一番ビッグな思い出は、初の帝国ホテルで、先生に、芝居の話も含めて藝術のことをお聞かせいただけたことです。ありがとうございます!
これからも、美しいものに、気づかせていただけることを願っております。
年の瀬、なにかと慌ただしいことですが
どうぞよいお年をお迎えくださいますように。  香 京都府庁
* 歳歳年年人不同  おもしろいことだ。人の心ほど動きやすくうつろいやすいものは無いという真実。おもしろいけれど、はかなくもある。
2014 12・26 158

☆ 秦先生 あけまして おめでとうございます。
ずいぶんとご無沙汰しております。
先生のご本のお礼のメールも書いておきながら途中で送りそびれておりましたのを今見つけたくらいです。
申し訳ありません。
昨年は仕事の上で、初恋の人と再会したようなよい年でした。
初心に返るという言葉を身に沁みて感じましたが、この年になってきますと、日々に流される雑事が多く、また、新しいことも次々と広がっていくのですが、それを深める時間と気力を確保するのが難しいことも痛感しています。
HPで鳥獣戯画の修復をされた方との繋がりを書かれていらっしゃいました。
あちらはまさに私が頻々と出入りしている「仕事場」の一つで、「どなたのことかしら」と少し気になっています。お若い方のようですが。
昨年、「初心に返」ったことの一つに京都に、より深くお付き合いするようになったことがあります。
多いときは月に5、6回行くこともありました。
(文化財修復の=)仕事を始めてからずっとお付き合いしてきた土地ですが、向こうの人達とまた一つ深いおつきあいをするようになりました。
その中で、先生にお伺いしたいな、とかねがね思っていたことがあります。
中京の町衆というような、町と文化が根深く醸成されたような文化というのは東京にもあるのでしょうか。
たとえば、大晦日におけら火を祇園さんから頂いてくる、伏見人形丹嘉さんの布袋さんを毎年一つずつ買って揃えていく(不幸があるとお焚き上げにするから揃っていることに価値がある)といった文化はお江戸にもあったはずと思うのですが、身の回りではあまり聞いたことがありません。
私の交際範囲がそういう範囲なだけであって、本当は東京にもそういう文化があるはず、と思うのですが…。
やはり戦争で焼けたことで一度リセットされてしまったのかも、とも。
それとも京都の地層にも似た積み重なった文化は京都独自のものなのでしょうか。
先生の「京のひる寝」をお正月に読み返しながら、そんなことを考えていました。
京都は私の初恋相手で、たぶん一生心が離れることはないのですが、そんな憧れの相手とお付き合いできるようになり、相手のイヤなところの方を先に随分見たり、でもどうしてもやっぱり好きで、…そしてまたもう一歩深くおつきあいできて…というような昨年でした。
今は大雪だそうですが。
昨年も先生の存在を心に置きつつ、いろいろなことを考えておりました。
いつまでもご健勝で。
本年も佳い一年となりますよう。   典  東工大卒業生

* この人は在学中から確乎とした希望と意志とで文化財保護の実際と研究の世界へ飛びこんでいった。結婚していい子たちも。

* ことに京の上層町衆のセンスには、公家の伝統や教養知識が指導的に浸透し醸成されていったという、歴史的に無視できない一面がある。併走してまた、花街の女文化的・質的な繁昌が、また上方藝能の多彩な展開が、様式をも伴った美意識やかぶいた行儀とともに、町衆文化を意識的に強め深めて行った。
但し或る意味では、上方の上層町衆には、中世以来芽生えていた庶民農民の政治的エネルギーを、代償的に武家支配に売り渡すことで得た平安と繁栄という、暗転とも裏切りに近いともとれる繁栄の入手という傾向が強かった。
大なり小なり、江戸の上層町人にも同様の傾向があったことは否定できない。都では公家が果たした役は、御家人クラスの下級武家の趣味や嗜好がかすかにも指導性をもち、乗りかかるように富裕町人等は経済力で江戸前の文化を拡大しかつ満喫していった。江戸ならではの独特な創作が目立ち、文学にも演劇・舞踊・音曲にも、浮世絵にみられる美意識・好みにも、俳諧・狂歌・川柳の繁昌等にも、技工にも、そして無論のこと花街や悪所の女文化をむさぼる「祭り」好きな男意気にも、町人層の江戸っ子がる文化は実質を持った、間違いなく。そして継承もされた。
2015 1・4 159

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