ぜんぶ秦恒平文学の話

京都 2016年

 

* このところ、何度も、グノーの歌劇「フアウスト」を、ただ音楽として聴きながら、原作を想っている。つれて、ミルトンの『失楽園』をなんともいえない 憧れ心地で思い出す。幼少、誰にも知られずわたしは河原町三条の基督教教会へ行ってみたいと想っていたのも思い出す。あれはどうしたのだろう、中学生の 折、人に貰ったとは想われない、偶然に拾ったのかしれないが十字架の鎖を持っていた。英語の先生に見せたら「コンタツ」と謂うものと教わった。身につけはしなかったし、いまでもどこかに仕舞い込まれているのかも知れない。
小さい頃から、家には漢籍も古典籍も信じられないほど豊富だった。だが、そんな中に、誰かから送られたらしい小型の良い新約聖書があり、じつは、わたし はその文語体が気に入り、福音書などはみな繰り返し読んでいた。基督教の空気は、誰からでもない教会からでもない、一冊の聖書から吹き込まれていた。かすかに教会へ気が動き、そのままになった。コンタツとやらを拾っても身には帯びなかった。まったく同時にわたしは、仏壇の般若心経や燈明の色に惹き込まれ、 また地獄の想像に夜中泣き叫ぶ子だった。
高校生のうちか大学入学のころには裏千家から茶名を受けていた。希望した一字は「遠」つまり茶名は「宗遠」とつけられたが、これが「老子」から得た一字 で、老子も荘子も唐詩選も白楽天も、みな祖父の遺していた蔵書で、例外なく小学生の頃のわたしの愛玩書だった、愛読書とまではとても云えなかったが。
わたしは、聖書も含めて古典や歴史書との出会いが、いわゆる小説などの読み物と出逢うよりよほど早かった。変わり者にならずに済まない環境がはなから養家にあったのだ。

* いま、わたしはこの「私語」の冒頭、櫻につつまれた自分の写真に添えて、
あのよよりあのよへ帰るひとやすみ   と、述懐している。
まだ生まれていない無のあの世から、いずれ死んで行く無のあの世への、みぢかい旅のこの世。ま、ひとやすみしているようなこの世。前世に物語はなかった し来世にも物語はない。「あらゆるものが最終的に源に帰る。それが自然だ。源が終着地だ。元気に自然に生き静かに自然に死ぬとは、それを知るということ。 苦労や苦行で光明(悟り)を得たがる、死んで天国や極楽へ行きたがる、みな無意味で不自然な「目的地」を幻想しているに過ぎない。天国も地獄も、聖職者が こじつけた不自然な論理の荒唐無稽な絵解き。
中学の頃、わたしはもうひとかどの免許ももった茶の湯好きだったが、ある時、教室で図画の先生から指名され、「お茶で大切なんは何や。言うてみ」と問われた。もぐもぐと、実感のないわびのさびの和敬清寂のと言いかけていたうが、先生、一語「自然や」と。

* バグワンも「自然」と言う。ブッダが、なによりも根源の自然を言う。来て帰る「源」である「自然」を「禅(ディアナ)」と。地獄極楽の仏教などは、後世の宗門仏教が利用した方便であった。
2016 1/6 170

* なにかしら集中力を欠いて、ダル重い。腹部不穏を調整できず、仕事に手が着かない。十分寝ているので睡眠不足はないのに、ともするとうたた寝している。
からだを横にすると、モノが読める。水滸伝などに打ち込める。ゲラも読める。
床から起つと、いけない。
街歩きへ出ようともしない。メールもしない。ソーシヤルネットもワケ分からずに使えなくされている。テレビの前へゆくと、コロンボだのポアロだの NCISだのフォイルだの。かと思うと、お肌、ブルンブルン、まさに、なんと、おいしーい、などと喚かれてばかり。国会も、ダメ。
このままだと引きこもりの老鬱にやられる。
驚いたことに東京で五十七年暮らして、あそこへ行ってみたいなと思う先が、思い当たらない。
京都なら、選ぶのに困るほど歩いて行きたいも歩きに行きたい先があり、しかも何度繰り返し出かけても飽きない。
祇園、建仁寺、六波羅、清水坂、清水寺、清閑寺、小松谷、太閤坦、日枝神社、智積院、法住寺、養源院、三十三間堂、博物館、タクシーで泉涌寺即成院、戒光寺、悲田院、来迎院、観 音寺、泉涌寺本堂、泉山御陵、雲竜院、東福寺、通天橋、三門、本町、東福寺駅から四条、南座、祇園町、母校、八坂神社、円山公園、釣鐘堂、知恩院、三門、 瓜生岩、青蓮院、粟田口、瓢亭、南禅寺三門、永観堂、法然院、銀閣寺、詩仙堂、曼殊院、 タクシーで出町、墓参、糺の森、下鴨神社、同志社、御所を南へ、 鴨川西堤を三条大橋まで、先斗町を四条へ抜けて、縄手から新門前の家へ。
その紀なら一気に回れるが、どの一箇所も其処をだけ目的にしていっても楽しめる。
懐かしくて、いくらか気も晴れる。やれやれ、京都がほんとに遠くなってしまった。
ま、幾らも新しく創作し、とびきりの古典や名作を読み返し、自信のいい本を作り続けるしか元気の道がないようだ。たんに東山べの一画を思い出してみたに 過ぎないが、挙げた名どころの一つ一つにわたしは無数の物語を持っている。そんなのを書き始めたら二百まで生きねばなりまへん。
2016 1/17 170

* ちょっと気を遣って、埋め草ではなしにと或る一年分の「京都散策」を入れておいたのが喜ばれていて、わたしも嬉しい。ほぼ二十年分も「京都散策ないし 京都私情」を書いてきたが、「京都」だけではなく、三、四十項目に分類された二十年分の日録・私語を、この機械は満載している。その気なら分類前のそのままの私語・日録・有即斎箚記が、ホームページ表紙を経て「目次」からすべて読み出せる。誰を拒んでもいない。
2016 2/4 171

☆ 如月に
お正月は、スケジュールが多くて、31日の日曜迄楽しみました。
今月は、早速、今日、建仁寺、東陽坊の月釜に出向きました、ついでに、お菓子をお送りしました。(体力が着くかと葛湯を、小豆が体に良いと仙太郎の最中を)ご賞味下さい。
-親指のマリア- 力を入れて読んでます。
歌舞伎の事、先代の役者等 楽しんで読みました。有難うございました。
今夜は此にて  京・小松谷   華

* 建仁寺東陽坊の月釜とは、なんと懐かしいこと。家からは、祇園町をとおり抜ければもう其処に在って、秦の叔母に連れられても独りででも、なんども出向 いた馴染みの月釜。菓舗の「仙太郎」もちかく、いまこの界隈は書き続けている小説「清水坂(仮題)」の舞台そのもので。嬉しい、いい後輩である。呼びかけ てくる声も聞こえる。
2016 2/5 171

☆ 選集ありがとうございました。
早々と、今日夕方、選集11巻届きました、限られた冊数にもかかわらずお送り頂き有難うございました。懐かしい所が沢山出て来る様で楽しみです。
お菓子喜んで頂き嬉しいです、お疲れたまらない様にお気を付けて下さい。
では  京・苦集滅路  華

* 「地(ぢ)=祇園・京」の作を揃えてみたので、昔の友だちには読んで貰い易いかなあと。まるまる京ことばでの作が二つもあり、少し冒険でもあったのだけれど。
仙太郎の最中、最中の好きな甘党のわたしにも、とびぬけて思い出のしみこんだ美味い甘みを堪能した。俵屋の葛も、京菓子の粋の粋。感謝、新た。
このところテレビで、京都探索の番組にしばしば出会い、みなそれぞれの魅力を見せていた。わたしにも、わたしの「京都」を見続けた歴史があり、何度も連 載で書いたり本にしたりしてきたが、もっとプライベートに近い、それだけ濃い翳りも匂いももった思い出はまだ沢山ある。「湖の本」編輯のついでのような付 け足しで何度か紹介はしているが、腰を据えて書き置きたい「京」はまだ有る、かも。そんなのは存外に此の「闇に言い置く 私語」にこそ書き散らされている のかも知れないが。ま、ま、…宿題の多いこと。
2016 2/9 171

☆ 選集を有難う御座いました。
選集を読ませていただいたり、選集の校正をされている秦様のブログを読んでいますと、それぞれに作品の年・歳を思い出します。
お病気もお歳も考えられないご活躍に、一層のご充実の日々をお過ごしくださいますように。
お二人に佳い春が訪れますように。  練馬  晴  妻の親友

* 京都の上澄みの文化はたしかに美しく心を和ませてくれるが、京都を書いた物語は、そう気楽なものは実は少ない。今度の一巻にも、殺人が二件も三件も起きている。それだけに、堅い挨拶の遠慮や会釈ぬきに、厳しい読後感が頂けると嬉しい。

* 俵屋の葛を晩にも美味しく戴いた。和菓子と庭とは、京都より優れた例はめったに知らない。
「庭」の根は、墓である。奥津城なのであり、そこに庭師の伝統の苦渋も諦観も創意もあらわれる。
「菓子」にも、根源、霊性への馳走・参仕という面があり、ただ味わいだけで済まない、もっと厳しい工夫が活かされ求められてきた。庭も菓子もどうしても「京都」となってくるのは、他府県のその仕事がどうしても上澄みの文化で済まされてしまうからである。
2016 2/9 171

☆ 拝啓
暦の上では春立ちましたが変わらずの厳しい寒が続いております。如何お過ごしかとお伺い申し上げます。
本日先生からご本が届きました 時間をかけてゆっくり読んで参ります 心よりお礼申し上げます。
私共 お陰様で元気にしております。
今の(京都)河原町商店街は昨年八月二十一日にオープンされました、地下一、二階に丸善が戻って参りました、よって来客数も増えて来ております。
四条通も歩道拡幅工事も済み、沢山の人が来訪されております。
むし寿しをお送り致しましたので ご笑納ください。
結びに 先生 どうぞお身体はご自愛の上 ご家族様のご健康をとも お祈り申し上げます。
四条河原町上ル西側   ひさご寿し

* 「ひさご寿し」はあの河原町の繁華で、店の前に行列がたつほどの人気の、また美味い寿司店で、亡兄北澤恒彦が親しく経営診断や指導をしていた縁で、ま ことに珍しくこの店の二階で兄と歓談し食事もしたことがあり、私ひとりでも、妻と一緒にも、京都へ帰るとよく立ち寄ってきた。感じの良いご夫婦がじつに勉 強に熱心な優等のお寿司屋さんで、たえず新工夫が実現している。兄と私とのこともよく分かってくれていて、気分的には親戚のように思い、また湖の本にも応 援して貰ってきた。兄も亡くなるので湖の本の親切な応援者でいてくれた。「ひさご寿し」には、少なくも第十一巻と、いずれの『いきたかりしに』は謹呈した いと思っていた。
特製の、おおきな「むし寿し」二た鉢が美しい荷につくられて届いたばかり、いま、妻が階下で温めてくれている。ご馳走になります。
2016 2/10 171

☆ 東京マラソン
お元気にお仕事が出来て 何よりの老後ですね。末永く!
東京マラソンの終盤  お台場で、少々の距離を親子で走る予定もあり、 今年も若い母親と六年生の子とで走るとかあって、 お台場へ出掛けています。見ているだけでもワクワク楽しいものです。こんなに長く都民なのに 広い東京、知らない処が一杯。 考えてみれば 早くに離れた奥の深い京都もまだまだ知らない処が沢山 あり、又々行きたくなりました。 お出汁のきいた京料理とにしんそばが食べたくなります。  八十泉

* あのマラソンこそは「参加」の楽しみだろうなと、テレビで、ちらっと。「出汁のきいた京料理と、にしんそば」か。遠くなったなあ、京都。
2016 2/28 171

* 「刑事フォイル」を深く頷きながら観て、そのあと、京料理「なかむら」のお節料理を映像で嘆賞、さらに妙なドラマの「賀茂川食堂」最終回とやらを半ば 観ていた。ショーケン、岩下志麻が顔をもせて、ひてり、とても美しく落ち着いた若い人にはじめて出会った。人品の光った静かな存在感が宜しくて満たされ た。
2016 2/28 171

* 戴いた遠藤さん私家版本の「少年の洛中記」を半分まで、おもしろく読んだ。中京と東山の違いこそあれ、呼吸した京都の空気は、ほぼ全面の同時代。出て くるアレもコレも殆ど全部を共有し享受していたのだから面白くないわけ、と言うより懐かしくないわけが無い。おもわず、にやにやしてしまう。
但し、また半分だから早とちりはしたくないが、遠藤さんの列挙している敗戦直後数年のあれもこれも、ある種の年鑑や事典めく資料には、ほぼ整理されてあ る。そんなものと仮に無縁にしても、アノ少年時代のすこし記憶力のある同時期の連中なら、ほぼおなじ事を思い出せるだろうなと思う。
で、こうも思った。
それらこれらキラキラした時代の顔つきや声音を介して、「こんな私でした」という遠藤少年なりの吐息や歓声や悔いや嬉しさや怒りなどが青春の吐息として 書かれていたら、もっと身に沁み読まされるだろうなあと。しかし、そこへ行くともう、記録を主とした思い出の記でことが済まず、小説や物語になってゆく。 書き方が自然ちがってくる。どっちも在りうるのだと思った。
つづきを、そして他の本もつぎつぎ楽しませて貰おう。
2016 2/29 171

* 昨夜は遠藤さんの「少年の洛中記」を読み上げ「京の街角物語」もざっと拾い読んだ。「洛中」の知らないことを、たくさん教わった。甲斐扶佐義くんの写真と も、またちがう。音楽好きな森下辰男くんのセンスに近いのだろうか。標準語はむろん京言葉にも熟達しているという遠藤さんに、わたしの「余霞楼」や妻の 「姑」を読んでもらおうと思う。
2016 3/1 172

☆ 遠様
昨今、気候不順ですが、お変わり御座いませんか。
次つぎと、お仕事に無理をされているのでは? と心配です。
私は、12日久しぶりに日吉ヶ丘の友だちと嵐山へ行って来ました。お天気も良くリフレッシュできましたが、翌日は一日鼻炎がひどくて、参りました。
19日の土曜日は、三年ぶりに、リフレッシュされたお茶室で雲岫会のお茶会を開催します。
先日 遠さんのHPを見ました折、東工大の桜が美しく、見とれておりました。
円山のさくらがおとなしいので、観光に来られる方には気のどくに思います。
早、来月は都をどりです。
甘い物と、すはまのお団子とお抹茶を送りました。
すはまは、祇園の松葉屋さんも早くから作られてなく、お口にあうかな?
京都はこれから観光シーズンで大変です。住み辛く成りました。
季節の変わりめです、お気を付けて下さいませ。
(携帯からは、沢山書けないのでパソコンにした。)  京・北日吉   華

追伸 メール送って、夕方になって、選集12巻届きました。有難うございました。
毎回頂き恐縮です。お大事に。  華

* 「雲岫会」か。限りなく懐かしい。この日吉ヶ丘高校茶道部の名もわたしが決めたのだった、創作された「茶席」にすでに「雲岫」と名付けられていたのを貰ったまでであるが。あの六十三年も昔に、帛紗捌きから手ほどきしたなかの一人が、華さんが、いまも「雲岫会」を守ってくれているとは。感謝しきれない。、
2016 3/14 172

* 晩、日曜美術館で向井潤吉の繪をしみじみと久々に観た。
わたしの育った京都の新門前通りは美術骨董の店のならんだ通りで、そのショウウインドウはわたしのためには得がたい美術館であった。店から店のウインド ウに鼻の脂をこすりつけて一軒一軒見て回った。店の人に小言を食ったこともある、ウインドウのガラスが鼻の脂で曇るのだ、今にして恐縮するが。
そんな店の一軒に、向井潤吉の民家の繪がよく飾られ、ひとしおしみじみと敬愛して観飽かなかった、その懐かしい小学校・中学の頃の思い出にも浸った、今晩の日曜美術館で。

* 日曜美術館がスタートして、かなり早くから何度も呼ばれて繪の前で話した。「村上華岳」「土田麦僊」「入江波光」「国画創作協会」「京都の精華展」そ の他、光悦も宗達も光琳も洛中洛外図も北斎も、浅井忠も、清水九兵衛も、その他、数え切れないほど何度も呼ばれた。司会者が何人も代わった。あげく、梅原 猛さんらと一緒に、京都美術文化賞の選者を二十数年も務めることになった。楽吉左衛門さん、截金の江里佐代子さん、竹内浩一さんらに受賞して貰った。新門 前育ち、そして叔母宗陽にならった茶の湯が、有り難かった。たいへんなトクをした。京の昼寝に類していたか。
2016 4/10 173

☆ 「湖の本129」有り難うございました。
八十路を迎えて、尚変わらずお元気でお仕事、何よりです。
桜が散って気分がやや落ち着きました。
博物館目当てで上野公園に何度か通い、お花見は報道されていたような、無遠慮な中国人に占領された感があり、さっさと素通りですが、日本人の花見宴会は変わらずやっていました。
(写真は、博物館へ正面の上野公園)

 

宿泊を付き合って呉れる弥栄中の友だちがいるので、梅雨前頃にお墓参りを兼ねて故郷へ行くつもりです。
何時まで通えるかなぁ。  花小金井  泉

* やっと「湖の本」が届きはじめたらしい。この写真はうまく撮れている。
故郷 京都…か。わたしも、行きたい。
2016 4/11 173

* 朝いちばんに小学校以来の親友松下圭介君の訃報を子息岳夫君のメールで受けた。久しい苦しい闘病に堪えて堅忍と善良の声を届けてくれる友であったのに。泣くしかないとは。

> 悲しみと悔しさとに堪えません、いま、お知らせを読みました。
>
> 堅忍と善良の好男子でした、いくつになっても懐かしい一の友でしたのに。
> ただ 泣いています。
>
> お見送りされたみなさんのお寂しさを想い、泣いています。  秦 恒平

* 永田純治、松下圭介、梶川貞子、田中勉、三好閏三、富永彧子、重森ゲーテ、大森正一。同窓の友に止まらず、先生方、先輩方、血縁知友、また敬愛ただならぬ同時代の畏人たち無数に死なれた悲しさ悔しさを度び重ねながら、だからこそまだ生きて行かねばならない。

* 弔辞と香華とを茅野へ送った。
2016 4/21 173

☆ 秦恒平様
おはようございます。
故松下圭介の長女猪原皆子です。
このたびは、「堅忍で善良」だったとのお言葉に、弟も私も涙してしまいました。
父もきっと喜んでいることと思います。
私たち以上に長い間、父のことをよく知って下さってたからこそのお気遣い、ありがとうございます。
2年ほど前のことですが、父が私に、秦様と中学時代のことでしょうか、カール・ブッセの「山のあなたへ」という詩を劇にして上演したことをまざまざと思い出したから、この詩のことを調べてくれと頼まれました。
そして、先日、就職した娘に宛てた手紙にもこの詩のことを記しておりました。
秦様が覚えてらっしゃるか、父の思い違いか分かりかねますが、秦様が教えて下さった詩と申してました。
今、改めてこの詩をながめてみますと、ああ、父はきっと山の彼方で幸せを見つけに安心して昇天していることだろうと思いを馳せております。
「湖の本」も、御著書も、誇らしげに大切によく読ませてくれていました。
このような形で失礼かとは存じますが、重ね重ねお礼を申し上げます。
秦様におかれましてもご養生の上、お過ごしくださいませ。

* まぎれもない、謂われている詩は、私たちが新制の弥栄中学一年生の折に演劇大会で演じ、優勝した舞台でのシンボルの詩であった。わたしの一つの代表作 として永井龍男先生や笠原伸夫さんらに賞めて頂いた短篇「祇園の子」の芯におかれていたのがこの純真な学童劇であり、わたしは懸命に、火だるまのように熱 くなって演出し出演もした。
やまのあなたの 空遠く
さいはひすむと人のいふ
山の好きな、そして今再びの山めぐり山あそびを願って懸命にリハビリの歳月を重ねていた松下圭介が、この詩をくちずさみ覚えていてくれたとは…。
彼との思い出は、寄せる波のように往き帰りしつつ絶え間ない。しかも彼はわが青春の燦めく幾場面もにもっともまぢかにいてくれた生き証人のような友であった。彼の存在を感じることでわたしはやすやすと懐かしい昔へとんで帰れた。

* 「また、おいしいもん送ったげます」と言い寄越していた京都の「華」さん、すてきにカッコいいバウムクーヘンを朝の内に送ってきてくれた。ありがとう。
高校の茶室雲岫席で茶の湯初歩の手ほどきをした二つ下の後輩が、今日只今もおなじ茶道部をまもり育ててくれている。こどもを育てて貰っているような安堵がある。
あのころの、わたしから手ほどきをうけた仲間達の何人もが、いまも「湖の本」も介していろんな便りを寄せてくれる。もう六十余年になる。不徳なれど孤ではないという私の安心はさほど虚構ではない。
2016 4/22 173

* 富岡鐵斎を、いとも面白く思い思い考えながら、京都という風土のタチを味見していた。
もう七時。食欲がちっとも動かない。食べずに呑んでばかりだと、からだにこたえるが。
2016 4/24 173

* 晩、妻がピアノを鳴らしている間に、たまたま手にした古い住所録で古い知友の何人かに電話というものを、電話嫌いの私がかけてみたが、電話番号の繋 がったのは、たった一人、中学の同窓であった京都の西の方に暮らしている浜田美範君だけと話せた。彼も八十と聞いてびっくりした自分にびっくりした。理科 の佐々木(水谷)葉子先生のお元気だということが聞けてよかった。それにしても電話番号はべらぼうに変更になっているものらしい。「昔」は遠くなっている なあとビックリ。
2016 4/27 173

☆ 今
ブラタモリ、嵐山の美 観てました。
蛇塚古墳出るかと楽しみにしていましたが、私の知らない狐塚古墳が。  横須賀 志

* 「ブラタモリ」が分からないが、嵐山はひたすら恋しい。嵯峨へ向いても太秦へもどっても佳い。
高校の頃、茶籠(光悦籠)と魔法瓶をもち、自転車で三条通を一路西送して渡月橋まで出、気の向いた寺社の縁側を借りてひとりで茶を喫み、ごろんと横に なってうとうとしてから、また自転車で家に帰るようなことを何度も繰り返していた。当時の嵐山、嵯峨には、そんなふうに寛げる場がたくさんあったし、京都 は自転車で十分に何処まででも出向けた。同じように茶を点て茶を喫みに、鷹峯の光悦寺にもよく出向いた。坂道も平気だった。裏山道を遠回りして金閣寺の方 へも走った。
「志」さんの謂う「蛇塚」は太秦の面影町にある京都では、いや奈良の蘇我馬子の墓にも劣らない巨大な古墳で、全面が豪宕に巨石を露出しており、周囲をひ しひしと民家が巻き込んでいる。かなり怖いという印象を今も抱いているが、その巨大さからして、太秦を証した秦氏の長者級の古墳であったに相違ない。
狐塚古墳とは何か、知らない。分からない。

* 政情にも世情にもうんざりしていて、蝸牛のように自分の世界にへこんでいる。首をつかんで誰ぞ引っ張り出しくれるといい。おもしろいこと、なにかありませんか。
2016 4/30 173

☆ 落花もの云はずして空しく樹を辞し
流水心なくしておのづから海に入る  の詩の通りの余生も 生きる道かと毎日を過しておりましたが もう逢うことも無かろうかと思っていた貴兄からの電話 に 本当に本当に驚きと共に その夜は 半世紀以上も昔の頃の思い出が走馬灯のようにかけめぐり懐かしく思い出されました。 お互に80歳を元気で迎えら れた事 天に感謝したく思っております。
ところで その際伺っておりました 先生の住所お知らせしておきます。
水谷(元・佐々木)葉子先生
宇治市
貴兄からのお電話で 私も急に先生にお電話したくなり掛けました処 大変に先生お元気で 恒平君のこと思い出し語っておられました  先生もこの九月で 89歳を迎えられるそうですが 大変大きな声で 貴兄の事を話され 楽しみにしておられましたので よろしくお願いいたします。
弥栄中学も無くなり あの近辺は外国の方も多くなり 白川筋界隈は花見頃には花嫁さんの路上撮影が四組もおられたり  全く昔と一変した事に 益々の老を感じていたところでした。
お互 もう少しの人生 元気で楽しく暮したいものです
身体に気を付けて がんばって下さい。 では、又!  西京 大原野  浜田美範

* 嬉しい便り。松下圭介に死なれた歎きを浜田美範に慰められる、ありがたいこと。
しかも佐々木先生のお元気なことも分かり、それはそれは嬉しい。あの頃は、博物館東の新日吉神社のほとんと中で暮らされていた。正月など遊びにも行っ た。中学にはいって「理科」という時間は初体験ではなかったか、まっさきに五大栄養素なんてことを教わり「蛋白質」「脂肪」「炭水化物」といった名辞に実 に新鮮な驚きを得た。一年五組の担任だったと思う。小柄だが溌剌としたお元気な方で生徒がみな懐いていた。
お便りを差し上げたい。
2016 5/2 174

* 高校後輩の、加門さん、頼んでおいた京・東山区の地図を、何種類も送ってきてくれた。ありがたい。京都へなかなか行かれず、創作上の手づまりを打開できないかと地図を頼んだのへ、早速応えてもらえた。ありがとう。地図を見つめていると、それだけで想が湧いてくれる。
2016 5/6 174

* 昨日、加門さんに送って来てもらった京都東山区の三種類の地図、じつに有りがたく、見始めると時の経つのを忘れて千万の思いに惹かれてしまう。この魅力引力にうまく誘われて物語り世界の構成に励みたい。ありがとう。ありがとう。
2016 5/7 174

☆ 母校 弥栄中学
跡地を見てきました。まだ囲いをしていましたが… 2016年6月29日 開館 漢検 漢字博物館図書館 「漢字ミュージアム」 の看板を掲げていました。
近辺は相変わらず観光客でざわついていましたが、教育的な建物になりホットした気分です。
同行の弥栄レディの友は杖をついて歩く状態でしたが、付き合ってくれて、四条河原町から八坂神社に参り、円山公園から知恩院山門を東山線迄歩き、何十年ぶりなのに何も変わらずあのままで、二度と来られないなと思いつつ、嬉しく、感動モノでした。  花小金井  泉

* 羨ましい。
ほかでもない、故郷の母校近辺、もとの我が家からは数分の京都、なにもかもが眼に甦る! 胸の灼けるほど、帰りたい。呻いている。唸っている。

* 各務原のいとこさんから、美味しいお酒「三千盛」を二升頂戴した。伊藤壮さんからも無垢の「越の寒梅」を一升頂戴した。出来れば一升を五日もたせたいが、ま、四日か、美味いと二日三日で明けてしまう。肴、無ければ無くて呑んでしまう。
秦の父は、梅干しがダメで、酒の気はまったくダメな人だった。わたしは酒粕が子供の頃から好きで、母のつくる粕汁が大好きだった。酒に口をつけたのは中 学の折、叔母に連れられ琵琶湖畔、唐崎での栄養剤「ワカモト」の園遊会で、初体験だった。八十年に、四、五度は酒の上でしくじっている。無かったも同じほ ど低率ではあるまいか。
2016 5/15 174

☆ お二人
お揃いで傘寿を迎えられた由 誠におめでとうございます。
烏丸きょうとホテルでの 同窓会(平成六年五月二十九日)でお会いし、その時の写真を、今、懐かしゅう眺めております。
貴方が常々精進なさって 心血を注いでこられた姿(弥栄中時代の貴方も)に感服しております。
どうかくれぐれも御体にはご注意なさって下さいませ。
新茶も出はじめました。一服なさって下さいませ。    宇治 水谷(佐々木)葉子 先生

* 先生とお呼びできる先生を、中・高校、大学でほかにお一人も見つけられなくなった。佐々木先生とは九つちがい。闊達で善意に溢れた理科の先生だった。みなが大事に慕っていた。
茶どころ宇治の新茶、戴きます。
2016 5/19 174

☆ 今日は
膝痛たで病院に行って来ました。
歌舞伎ややきものの写真集など、たくさん、有難うございました、楽しんで見せて頂きます。
その内、また京のお菓子でも送ろうと思っています。
帰って見えても、京の大型ホテルは、中国の団体さんが多いようやと聞いていますが、体調などは如何かと心配しています。
とりあえず、お礼迄     華

* なにしろ外国人で京都は溢れていると、耳に入っている。京都は遠くなりにけりと、地図ばかり眺めている。
2016 5/30 174

☆ 六月になりました。
額あじさいがにぎやかに咲き始めました。
可愛らしい綺麗なお干菓子を見つけました、近頃お抹茶がお好みの様で、我が家の買い置きの物を一緒に送りました、明日着く様です。
抹茶は小分けして、残りを冷凍保存したら良い様です、漉して使ったらなお美味しいです、楽しんで下さい。
京の宿、一件、案内の栞を入れて置きました。御所の近くならくに荘とか、京都ガーデンパレス、等が有ります、昔の共済組合の宿です。他に外資系ホテルもありますよ、こんな所かな?
どう動かれますにも、無理をなさいません様、まずはお知らせまでに。   今熊野  華

* 以前なら選者を永く務めていた美術賞のスポンサーに頼めば宿も、らくに、とれたが。なにしろ京のホテルは観光の外国人で溢れているとばかり、聞かされている。京都に家を残しておきたかった。しゃーないナ。
健康のためにもと抹茶を毎日しっかり点てている。小さい頃からお茶を点てるのは得意だった。すこし茶筅をもつ手の振りに硬さが出ているので、せいぜい元 へ戻して、茶碗の底までよくよく点ったお茶を味わいたい。京都には味も見た目もいい干菓子がいろいろに有る。気遣いの濃やかな華さん、いつもよく選んでく れる。感謝。
そういえば、干菓子ではないが、秋には芝翫を嗣ぐという橋之助が、今日、祇園の中村楼・二軒茶屋で祇園豆腐を不思議そうにテレビの画面で食べていた。そ れも懐かしかったし、彼が八坂神社南門が正門だと教わって不思議そうな顔をしていたのも可笑しかった。大方の人はあの四条大路末正面石段上の朱の門こそ正 門だと思うだろうか、どんな神も君主も正式には「南面」するのであり、祇園社正門はむろん拝殿南の下河原通りへ開いた門であり、その門脇に中村楼が昔から 在るというのが、老舗の風情になっている。奥が深い。

* ウーン、懐かしい。
2016 6/1 175

* 京都市立の母校二つが今や廃校になっている、有済小学校と弥栄中学校。
その弥栄校あとに愛称「漢字ミュージアム」の、「漢検 漢字博物館・図書館」が出来たと、新聞記事を下鴨の澤田さんから知らせてもらった。今月二十九日に開館と。「いい感じ」に親しまれると嬉しいが。
2016 6/14 175

* 戴いたDVD「新島襄 その心」を妻と一緒に観た。
わたしは同志社、同志社という学生ではなかったように思っているけれど、結果的には、新島襄の精神を承けて、自由な市民の一人として権威的な支配に卑屈 に膝を折ることなく、よく学んで、よく励んで、自身の個性と才能をはぐくみ伸ばし続けて来れたのだと思う。総括して、良かったと思う。高三の秋に体調を崩 して、そのままどこの大学も受験せず同志社大学へ成績推薦されたのを受け容れた。だれもが秦は京大へと思っていたようだが、強いて拘泥するものを持たな かった。それで良かったのだと今もむろん我が歩みを顧みることができる。
2016 7/14 176

* よく降った。明日にはすこし持ち直すかな。むちゃ暑くなければ昼過ぎにも、元気しだいで、久し振り街歩きに出たい今の気分だが、さて、どっちへ向けばいいのか、東京という大都会は、まことに不便。
京都なら、知恩院下の我が家から、自転車で、嵯峨嵐山でも鷹峰光悦寺や金閣、竜安寺、御室へでも、むろん東山は泉涌寺、東福寺でも、詩仙堂、曼殊院へで も、らくらくと行けたし、タクシーを使っても、電車やバスでも何でもなく絶好の場所がいたるところに在った、今も在る。食べる佳い店も、到るところに在っ た、今も在るだろう。ウーン。
ただ、今は街中が外人客だそうで。
仕方がない、「京の散策」は、わたしの「日録 私語」の中でらくらく楽しむとする。
2016 7/15 176

☆ 先に写真を送ってみました。
宵山はあまりに混雑するので、今年は、宵々山に。
連れが行ったことがないというので二条城に行きました。京都に最初に下宿したところが堀川押小路で、二条城は毎日眺め、よく一周を散歩したものです。 が、二条城には何十年ぶりかで入りました。ほとんど記憶は薄れ、長い廊下を歩き狩野派の襖絵(模写です)を延々と眺めました。
宵山の街は夕方から交通規制、四条は勿論、烏丸通りも高辻までは両側に露店が並んで、やはり混雑していました。
京都に住んでいたら暑さを堪えて毎日でも歩き回るかもしれませんが、今回は日帰り旅で慌ただしい一日でした。
マゴちゃん、静かに静かにしているとか。苦しまないのがせめてものことと思っても、やはり家族はおつらいことでしょう。
わたしは犬や猫、鳥などいろいろ飼って、随分泣きました。中学生の頃は半月ほど狂いそうなほど悲しかった・・それ以来自分から生き物を、特に犬や猫は飼えなくなりました。
これから夏本番、どうぞくれぐれもお体大事になさってください。  尾張の鳶

祇園会 菊水鉾
祇園会の町家

* このところ祇園会に触れた関連番組も多く、心惹かれて、つらくもなる。羨ましく読みました。

* 仕方がない、わたしは東京の郊外電車にでも乗ってきましょうかね。
2016 7/16 176

* 今日、京都府から「京都府文化賞」受賞者宛て、「京都文化藝術会議」への賛同と参加とを求めて文書が届いた。目が見えなくてまたよく「読」めていないので、明日のことにする。
2016 7/22 176

* 京都府文化藝術振興課 部長・担当 御中   秦 恒平
文化庁京都へ移転決定にもともない、京都文化藝術会議 の創設にかかわるご案内 確かに頂戴し、 ご趣意承知しました。
梅原さん 瀬戸内さん らの 「みやこ文藝会議」 へのお誘いも、たしかに拝承、異存なく賛同、可能な限りの協力・協調を惜しみません、健康もほぼ回復しており、必要に応じては京都へ出向きましょう。

 

「文化」の問題に ある程度の「行政」がかかわることは、必要です。

しかしながら、また、「文化」の問題を「政治」の支配ないし干渉下に置くという危険なあやまちも、身命を賭して文化に携わる者はよく心得ていなくてはなりません。この限界を、大切に意識し維持しながら、「京都」の文・藝をより盛んに育てねばなりません。

「政治からの自律」という矜恃を喪わない「京都文化藝術会議(みやこ文藝会議)」でありたいと切望します。

いま一つ「みやこ文藝会議」の称に即して申せば、私、京都を離れ東京で四十七年余の作家生活を重ねながら「故郷・京都」の文化に関わり続けてきた体験から 申しまして、京都発信の「文藝」部門の活躍や成果が、他の藝術分野(美術工藝や藝能、料理・製菓等)と比較して低調との印象をもちつづけ、残念の思いにい つも思い屈してまいりました。

どうか、梅原さんや瀬戸内さんのご見識にも耳を傾けながら、「京都文学・文藝」の伝統をしっかり汲んだ、しかも新世紀へ健康な羽をひろげた文学・文藝の新 展開をこそ、大切に心がけたいと願っています。健康さえゆるせば、勉強も尽力も厭わぬつもりでいます、八十老ではありますが。

ご推進方、関係各位のご健勝を心より願い居ります。  秦 恒平
2016 7/23 176

* 大相撲の山場をテレビの前から離れてきて、『斎王譜』の祇園会あと祭りの場面を読んでいた。泣きたくなるほど懐かしい好きな場面、三つになる朝日子の夢中 で興奮していた声が耳の奥に宿っている。親娘三人で祇園会に京都へ帰るのが心底楽しみだった。夫婦で、街の夜歩き食べ歩きを楽しんだ。美しい京都であっ た。
2016 7/23 176

* 今日作家の詠さんの手紙にもあったが、例の「秦教授(はたサン)の自問自答」は歓迎され関心を呼んだようであり、しかもなかなか自答できないでいますという声をたくさん聞いている。そうかもしれない。
すこし。この「私語の刻」で、自問自答の実例を紹介しながら、また思案し直すことも試みてみようか、

☆ ☆ 故郷の「山」「川」の名前をあげ、今「故郷」とは何かを語れ。

生まれ育った京都市は「山紫水明」といわれてきた。その中の祇園八坂神社や浄土宗総本山の知恩院、栄西開創の禅刹建仁寺、そして間近に祇園の花街を背負 うた「東山区」の四条と三条とのあわい祇園寄りでわたしは育った。小学校は知恩院の門前通りに、戦後に入学の新制中学は祇園石段下に、高校は、上に泉涌 寺、下に東福寺のある日吉ヶ丘に在った。

改まって「川」はとなれば、北西から「加茂川」、北東から「高野川」が来て、市の東寄り出町で合流し「鴨川」となるが、この鴨川も、琵琶湖からの「宇治 川」、南山城を経てきた「木津川」と大きく合流して大阪湾にいたる大「淀川」に流れ入っている。市西の「嵐峡・桂川」も、いずれは淀川へ注いで行く。
「山」は、平安京いらい奥深く「北山」を負うて、東へ「比叡山」、西へ「愛宕山」に峯峯を連ねているが、京都市・平安京の南へは、伏見、長岡、向日町などが開けて大阪府に接している。
「比叡山」からは、寝たる姿とうたわれる東山連峯が「大文字山」、知恩院などの「華頂山」、清水寺・清閑寺などの「音羽山」、多くの山陵を抱擁した「泉(涌寺)山」などを経て、穏やかな峯峯が{稲荷山}まで、さらにも長く長く南へ居流れている。
東山からは、南禅寺下から平安神宮に接し、祇園町を経て鴨川へ注ぐ「白川」が、白川砂の清潔さとともに知られている。知恩院下を、いろいろに細い石の行 者橋を渡し、すぐ西に接して古川町の市場が賑わうのも「白川」。歴史的に院政の権を恣にした「白河院」「後白河院」の諡号もこの白川に由来しているのだろ う、そんな「白川」はわたしの実家・養家のすぐ北向きの横町に架かった「狸橋」の下を、「新門前橋」を経て観光客で賑わう祇園「巽橋」「辰巳稲荷」からや がて今は暗渠の「疏水」へ流れ入っている。これもまた末は淀川に至る。
そんなわけで、わたしが、懐かしい故郷の「山」の名を挙げるなら大きくは「東山」、限れば「祇園円山」「音羽・清閑寺山」「泉山・観音寺山」の辺に極ま るし、懐かしい「川」となると、「鴨川」も西の「嵐峡・大堰川」も恋しいが、つきつめれば日常生活を共にしたような「白川」こそ忘れがたい。小さな愛も恋 も「白川」と「東山」とに芽生えたり消えたりしたのである。

さて今「故郷」とはと問いつめられれば、斎藤茂吉のこんな短歌を読み上げたい。

冬草の青きこひつつ故郷に心すなほに帰りたく思ふ   斎藤茂吉

ま、今、闘病中のわたしにはややムリな願いだけれど。

* 市中の山である吉田山、船岡山に触れていなかった。吉田山には妻と親しんだ妻の下宿阪根家や真如堂などあり、船岡山には秦の母が長兄福田瀧之助の家があった。ときどき伯父さんと碁を打ちに行った。従妹が二三人いていまも一つ下の従妹とメール交換がある。
2016 7/23 176

* 選集十七巻の再校が出そろい、選集十八巻の原稿を入稿した。
選集十五巻の納品が二十二日に迫っているのにも発送用郵袋を買い調えておくという何よりも当たり前の用意が、出来ていると思いこんでいて、出来ていない のに気が付き、折しも業者も夏期休暇中で注文も出来ない。まさに「不用意」というもので、ガックリ来た。ただし約束の期日があるわけでなく、発送の仕事を すこし先延ばしして済むこと。
そんな基本の心用意・配慮が行き届かなかったのは、わたしも老いたということ。つい仕事の「なかみ」にばかり打ちこんで、編輯の基本の「雑用」に類するところが欠けたわけだ。
「閑事」のゆとりが、もててなかった。いつも、知らず知らず歯を食いしばって仕事している。歯が痛み、脆くなった歯がますます傷む。六七頭だての馬車を 駆っている現状で、幸い、どの馬にもさしたる疲れは出ていないが、馭者はかなり草臥れている。日野正平が自転車を駆って行くふるさと番組に見入っている と、いかに自分がふるさと京都を見喪いかけているかと、寂しくなる。
2016 8/12 177

*京の清水の奥、清閑寺というお寺を深く愛したことは、長編『冬祭り』最期の閑居に選んでいることで明らか、文字も音も風を奏でて美しい。「閑」とは。多 くの場合、あの芭蕉の秀句に親しみ「閑(しづ)かさや」岩にしみいる蝉の声を聴く。閑静、閑雅、閑居。みないかにも清らかに静かな風情。
しかし「閑」の字は、もともとは「とざして、いれない」のである。閑静、閑雅、閑居のどの閑にもその原義が生きている。雑念・雑事を静かに、しかしきっ ぱりと拒んでいる。それ自体が生き方になる。即ち、閑事。だが、無為の閑居をいうてもいない。生きてあるからは何事かを為してまた成して生きる。その何事 かをも実はこの二字は端的に問うている。挨拶である。如何と挨(お)しまた拶(お)している。

* 裏千家十世 柏叟 認得斎宗室 筆「閑事」の二字を珍重している、筆が豊かに働いている。悠然とかなり厳しく、いささか俗をも見捨てていない。見飽かない。
この裏千家十世の、夫人も優れた茶人で、松平家から娘婿に迎えた十一世の精中・玄々齋宗室をよく薫陶し「中興」を以て樹たしめた。この夫人は京・洛北の旧家「舌(ぜつ)」家から千家に入った人。この家のこと、知りたい。

* 玄々齋の月を愛でた一軸を、久しく愛してきた。いずれ、紹介しよう、名月の時季に。
2016 9/1 178

* 京都の画家林康夫さんから、選り抜き、美しいほどの京の漬物各種を、お手紙添えて頂戴した。
お漬け物だと、茄子も小さい頃からむしろ喜んで食べてきた。お酒のアテにも恰好の妙味で、粋な味わい。
煮さえしなければ、(煮ては、サンザンの気味悪さだが)、茄子はなんと美しい野菜だろう。丸くても長くても。そして茄子の花の優しいこと。茂吉の歌に幹 のまま腐れている「赤茄子」というのはトマトだろうと受け取ってきたが。トマトも、真夏の汗みづくで家にかけこみ、井戸水に冷やしたのへとびつくようにか ぶりついた季節感、なつかしい。日焼けし上気した少年の口に赤いトマトは繪になって似合った。
京の新門前にあった我が家には、かなり深い井戸があり、釣瓶で汲み上げる井戸水は真夏でも冷やっと手をひくほど冷たかった。なぜか「一閑人」のように井戸を覗き込むのが少年のころ好きだった。他界への通路のような気がしていて、そんな掌説も後年に書いた。
奥の部屋のそとに、山茶花や笹に囲まれた、ま、あれで畳一枚ほどの泉水があった。金魚やちいさな鯉をだいたい十尾ほどいつも放していた。泉水とは名ばか りでわき水ではなく、それで年に何度か水を換える、その役は少年のわたしがした。古い水をバケツへ何十杯もくみ出して井戸わきの「流し」へ流し、井戸水を 何十度も汲んでは泉水に満たした。そんな作業の前には小魚たちをつかまえてワキへよけておかねばならない、それがまた楽しい遊びでもあった。

* もの忘れひどく、ことに固有名詞を忘れ果てて困惑することが増えたが、新門前時代は、つまり京都で暮らした時代は、おおかた、しっかり記憶が甦る。上のような断片をも湧くにしたがいちとちと書き置くのも、人さまはしらず、わたしには佳い滋養かもしれない。
2016 9/4 178

* 黒いマゴの九月を仔細にカメラに収めておいたのを、今朝、妻と観て、泣いた。「いのち」の不思議に畏れを覚える。
幸いに、ネコとノコとが眠っている、いや、仲よく日々楽しんでいるテラスの端の奥津城へ、黒いマゴも見送ってやれた。白い布にやわらかに包んでやり、妻 が手折ってきた底紅の木槿の美しい三輪に飾られて、わたしの掘り下げた地のかげへ黒いマゴは静かに帰っていった。九月七日朝に眠りに入り、九日重陽の佳日 に黒いマゴをやす香やネコやノコのもとへ見送った。
奥津城の位置は、寝室の、わたしの床の枕に直ぐ近く、壁を隔てて本棚のすぐ戸外の真下。マゴたちの談笑が顔のまぢかに聴けるところでわたしは寝ている。 いずれ行くよ、そこへ行くよ、そこのほかに行きたいところは無いのだ。菩提寺とのことはみなもう息子に委ねてあり、わたしはあそこの墓に入りたい気は少し もない。
新門前狸橋から白川へ、八坂神社西楼門内南側、四条大橋からの鴨川、泉涌寺来迎院の前橋と含翠庭、日吉ヶ丘高茶室そば又は運動場、東福寺通天橋から渓 へ、清閑寺境内、黒谷三重塔、真如堂西側、同志社大学寧靜館前、若王子新島襄墓前、将軍塚、嵐山渡月橋から上流へ、鞍馬寺境内、そして松ヶ崎の円通寺前 庭。
焼かれた骨は粉にして、上の各所に、ただかすかに撒いてくれるだけでいい。残った骨は、どう処分されても構わない。そう、思っている。葬儀の必要なし。むろんお授けの戒名も不要。強いてとならば…、イヤ、要らない。秦 恒平だけで良い。
2016 9/17 178

* 京都から、「スポーツ・文化・ワールド・フォーラム京都招待状」という郵便物での招待が来ている。オープニングや文化会議全体会、分科会などあるとい うが、「招待」の意味がよく分からない。京都へ文部科学省が移転するとか小耳に挟んだ気がするが、なにごとであるやの判断が付かない。どっちにせよ京都へ 出向くのは、おおごとです。

* 「ラボ教育センターからは、「ラボ教育プログラム発足50周年に「お祝いメッセージのお願い」という郵便が来ている。これも、よくは分からない。
2016 9/23 178

* 京都美術文化賞の同じ選者としてながくお付き合いのあった、亡くなられた染色の三浦景生さん記念の追悼展図録が鄭重に送られてきた。とても京都へは出 向けなくて残念であったが。三浦さんの作世界は妻も大好きで、何点も小品を戴いてきたし、毛筆のすてきなお手紙を妻が表具に頼んだのも居間に掛けてある。 いわば「小野菜」の「異」世界をまことに不思議に美しい繪で染め出され描き出される藝術家であった。百まで長生きして戴きたかったが、白壽のまま亡くなら れた。
おどろいたことに、京都美術文化賞発足このかたの同僚選者は六人であったが、生き残っているのは哲学者で京都藝大学長だった梅原猛さんと小説家の私と二 人だけ。早くに亡くなられた名古屋ボストン美術館館長さんはじめ、日本画の石本正さん、彫刻・陶藝の清水九兵衛さん、染色・工藝の三浦景生さん、みんな亡 くなられた。梅原さんが今も主宰していてくださり、ごく初期に推薦し受賞してもらった楽吉左衛門さんらが今も選考に当たられている。なにもみな、昔のこと になった。
2016 9/28 178

* なんということなく休息かたがた前回「湖の本」131の「京都散策」をばらばらっと読んでいて、いつしかに読み耽っていた。文春専務だった寺田さんの 感想に、京都の人にしか分からない京都、「京都は魔都」と書かれていたのを反芻する気であった。ははーん、こういうところを寺田さんは言われていたんだと 納得してニヤッとした。ここ二度ほど「京の散策」を本文のうしろへ添えて、二度ともえらく好評なのに嬉しいやら照れるやらしていた。なるほどね…ともう一 度ニヤッとした。
なんといっても、わたしの文学は「京都」に太い根をよほど深く下ろしている。
もっともっと書いて置いていいなと思う。
2016 10/7 179

* 終日、2005年の京都を省みていた。暮れの喜寿誕生日を妻と京都へでかけ南座の顔見世を楽しんでいた。坂田藤十郎の襲名興行であった。黒いマゴに留守番を頼んでいったのだ、ありがとうよ。
2016 10/18 179

* わたしの生まれて数年後に、真下五一という作家が『京都』という小説を本にしていた。何十年かまえに古本で買って、妻とも、腹を抱えて大笑いしながら読んだが、久し振りに書庫で見つけて持ち出してきた。
「京都」の書かれた小説で、文学としての「作品(醇度・精美)」を問わないなら、真下のこの『京都』は、卓越して「批評的」に面白い。こんどま読み返して いても、噎せ返りそうにやはり面白い。郷土文学全集の「京都編」二巻に採られていないのが惜しい。残念なことに、やや校正が雑で、しかも驚いたことに官憲 の手が入ったか一部に文章の削除がある。もうそんな「時代」になっていたのか、削除の必要そうな作ではないのに。 2016 11/2 180

* 2005年の「京の散策」を読んでいて、ほ とんど小説の中での描写や表現に近い精度で気を入れて京の風光を書いているのに、すこしビックリした。あ、このまま小説のなかへ溶け込ませて少しも差し支 えない、と思った。「私語の刻」はいわば日記、それに自然と小説を書くときと同じ密度で描写したり表現したりしている、わたしに、そうさせるものが「京 都」にはあるのだな。十年以上もむかしの記事が、すこぶる懐かしい。文藝として、文学として日記も書いているつもり、それが、往年の京への旅日記に綺麗に 見えていて、かえって少し驚いた。

* 京都へ帰りたい。
2016 11/7 180

* 文藝誌「新潮」の突然の手紙で呼び出され、筑摩の太宰治賞を受けてほどなく新潮社の新鋭書き下ろしシリーズに加えられて『みごもりの湖』を書いた。そ の創作途中に担当の編集者池田さんから戴いた現代語・古語の入った久松潜一監修『新潮国語辞典』を、四十七年近く文字どおり手近に愛用し続けてきて、つい 先ほども「刺」という字が「名札」を意味し「名刺」の「刺」であることを確かめたばかり、それにしてもさすがに手擦れで、表紙はガムテープで剥がれは防い であるが、気の毒なほど表紙じたい痛んで反り返り裏剥がれたりしている。お世話になったなあと、つくづく。どう見た目は窶れても、版型といい厚さといい、 じつに温かに手慣れて懐かしいのである。
小説の良い読者とは、いい想像力、優れた記憶力、創作性のいいセンス、そして、進んで辞書をひく気性と挙げていた世界的な作家がいた。辞書を座右に愛し うることが優れた読書の基礎の条件だという、わたしは諸手を高く上げて賛成した。今一つ加えれば、「繰り返し読めるちから」「本当の読書とは、再読から始 まる」とわたしは思ってきた。自身そう楽しんできた。上の条件を皆満たしている読者に、再読を誘わない作や本は、足りないのである。
わたしはこれぞという本を一読だけで棚上げしたこと、ほとんど無い。近年読んで、いま強く再読を心誘われているものに、ミルトン『失楽園』がある。宇宙 を飛翔するように我と現実とを忘れうる。詩といえる作の最大規模の最優秀作ではないか、しかもほぼ失明のまま書かれたという。

* わたしもほどなく失明に近いことになる、が、限界までは体力を保ち根気を保ち、時間を惜しんで半歩でも一歩でも仕事の前へ出たい。ムダに遊んでられる ヒマはない。わたしの仕事に不二の価値があるの無いのではない。意義は何もない。他のだれにも出来ないこと、というだけの話。笑い話であるが。

* 腹具合はよくならない。すこし間違うとまた入院になる、心づかいしてそれは極力避け、よく寝て視力をすこしでも労りたい。元気の少しは残っているうちに、いちどでいい京都へ帰りたいが、叶いそうにない。

☆ もしあなたが憂鬱であったり、不安であったり、そのほか不機嫌なときには、すぐ真面目な仕事にとりかかりなさい。  (カール・ヒルティ 1833-1909)

* これぞ、わたしの信条でもある、心情でも真情でも身上でも、ある。       2016 11/10 180

* あわや腸閉塞、そして強度の低血糖、もう一度は頸と肩の鉄鋼のような硬結に悲鳴を上げ、よほど体調を崩したと見える。詰まらぬように考え考えしっかり 食べるは食べて、体力をつくらねば京都へ帰れない。歩け歩け、歩けばそれだけ腸もよく働くからと言われている、だが、これが苦手。今日の東山を歩きたい。
2016 11/11 180

☆ ご本戴きました。

いつもながらご本有難うございます。その後もお元気そうで何よりとよろこんでおります。

今夏の参院選はダメでしたが、次の衆院選は是非とも安倍自民を壊滅させようと頑張っております。アメリカもトランプ氏の当選で世界中が揺れ動いていますが、私はアメリカの有権者にエールを送りたい気分です。日本の有権者も結束すれば何でもできるはずです。

結束の要 ?  になるものをまとめあげるのに苦闘中ですが、昨年骨折の右手首が不具のためPC のキーが叩きにくくてなかなか捗りません。このメールも雨だれのような有様です。

先に兄にペンクラブの名簿でお世話になりましたが映画人の住所が入手可能なら早大卒で護憲会員の吉永小百合さんの住所を教えて頂ければ大変有難いのですが、入手できますか。

10/21 に一年ぶりに学友たちと旧交を温めてきました。年々参加者は減り予定の15名が結局10名でした。昨年の醜態以来、外では度の強いのは控え今年は本会は専ら熱燗、二次会以降はワインで通し最終の新幹線で無事帰宅しました。高校は小橋君らが世話役で年一回開催ですが、洛東中の連中が多く欠席勝ちで、小中は幹事役不在の休眠状態で淋しい限りです。
弥栄中学跡も市立の漢字ミュージアムに変身、今夏旧職場のOB会が近くであり、少時立ち寄りましたが、素面のとき再訪するつりです。

運動不足解消に歩いていますが、過日百万遍の 智恩寺境内の古本市に行ったついでに、境内墓地にある船川未乾の墓参りをしてきました。昭和5年44才で夭逝した洋画家で、渡仏しアンドレ・ロートに学び ピカソ、ブラマンク、ブラック等と交遊し帰朝後は鹿ケ谷法然院西のアトリエで静物画を専らにして肺病で亡くなりました。
この画家は私の家内の大叔父なのですがく、親戚は勿論画壇仲間とも疎遠で作品も四散し、未乾の葬式も榊原紫峰が葬儀委員長、智恩寺の墓も園頼三先生が発起人になっての建立だったと亡父から聞いております。
京洛の秋も紅葉狩りの観光客で大賑わいです。
観光スポットも乗物も日本人より外国人のほうが多く戸惑います。
「日本に京都があってよかった」
地下鉄車内のポスターの文句ですが北大路橋からの景観を見るにつけ京都に生まれ育って老いていく喜びを痛感しています。
つれづれに物置の音源整理を続けています。李香蘭の懐メロが20曲ほどテープに入っていますので、編集して近日中にお送りして、ご本のお礼に代えさせていただきます。

好季節も今しばらくの向寒の折、充分ご自愛のうえご活躍ください。
有難うございました。   京・岩倉    辰

* 京の便りの 懐かしいこと。

* 大学での主任教授、恩師園頼三先生のお名前も見えて。
園先生に私家版の作など励まして頂いたのが、書き続けようの大きな力になったこと、嬉しくも有難かった。最初の面接時、わたしは歴史志望としていたが園 先生にいろいろ聞かれているうち、「美学だね」と言われ、はいと専攻志望を美学に変えてしまったのだった。国文学でも歴史学でも構わなかったのだが、ちらと見たすてきな女の子が「美 学・藝術学」志望と耳にしていたのも引力になった。その女子学生が、のちに日活女優になり小林桂樹と松本清張原作の「黒い手帖」を主演した原知佐子に大化 けし、しかもわたしの太宰賞授賞式に花束をもって駆けつけてくれた。じつは、昨日にも、「二度も死にかけたんだって。がんばって長生きしようよ、ばたばた 死んで行くじゃない大勢。長生きしようよ、がんばってね」と電話をくれていた。おお、あのショートケーキのように愛らしかった田原知佐子も八十か、ウー ン。それでも今年の春にはダンスもある舞台を踏んだというし、今も一舞台公演を終えたところと、ご機嫌に元気だった。賑やかそうな場所からの電話だった。
2016 11/17 180

* 当代の楽吉左衛門さんから、京都国立近代美術館での、楽家一子相伝の芸術「茶碗の中の宇宙」展 特別内覧会・レセプションへの招待が来た。長次郎、光 悦、のんかうを始め当代に至る歴代渾身の名碗が揃う。観たくて観たくて堪らない、が、京都へ片道は新幹線へ乗れても、夕刻からの市内の会場で大勢といりま じって鑑賞また歓談しえても、トンボ返しにまた新幹線で帰ってこれる元気となると心許ない。一泊したくても、「辰」君や他のメールにもあるように、京都市 内はいまや外人客の方が多いとか、とても宿が確保できそうにないらしい。
残念至極だが、きっと送って呉れるだろう図録でまたガマンするしかないのか。ウーン。
わたしは楽の茶碗がしんから好きである。あれこれと思い出せるかぎり、楽の碗だけで数碗は家にあり、大樋などの楽別系の碗も入れれば愛している茶碗は十指にあまる。我が家に死蔵していては勿体ない気がしており、値打ち分からぬ者の手に托する気にもなれない。
しかし、京都へ、行きたいなあ。
2016 11/18 180

☆ お変わりなくて
紅葉も日に日に美しさを増して来ました、今年は雨が多かったのか。
先日懐かしい泉山から東福寺へ行って来ました、東福寺の通天橋では撮影禁止でがっかりですが、辺りの風景の写真を送ります。
今日辻利の抹茶少しと茶筌と少しお菓子を、(目に良いそうでブルーベリーのお菓子も入れて置きました。)
ちょっと寒いけど秋を楽しん下さい、
来月は顔見世です、今年は先斗町の歌舞練場です、楽しみです、
天候不順ですお身体大切に    京・北日吉    華

☆ 京都
楽の展覧会、27日まででしょうか?
京都のホテル予約はインターネットで、京都、ホテルと検索するとすぐわかります。直前割引きもかなりあります。
東京で新幹線に乗車するまでが一番心配ですが、思い立たないと京都に帰れない、決心が要ります。お二人でとも思いますが、それもまた心配です。
京都への思いが深まっているこの頃のご様子、察します。
大切に大切に。取り急ぎ     尾張の鳶

* 東福寺の通天橋で紅葉めあての客に写真を撮らせないという報道は見た。あの大群衆では仕方がない、橋の上での停滞よりも橋が壊れては堪らない。あの橋からは紅葉もいいが青もみぢのころもすばらしいのだ。
南座での顔見世がことしは先斗町の歌舞練場でとはビックリ。ま、それも雰囲気が変わって楽しめよう。「華」さんのご厚意に、感謝。

* 「尾張の鳶」さんにも心配をかけている。京都へ帰るには奮発が必要なのだろうが、二本の手の片方に杖を持っていると、たとえ小さくても荷物が苦にな る。始終右と左と持ち替えていないとシンドクなる。両手を塞いでいるとモノに掴まれない。やれやれ、ナサケない意気地のないことです。「記憶」の京都でガ マンするしかなさそう。けがという大事には踏み込めないから。
心配かけて済みません。

* 「華」さんから、百本たての茶筅、辻利の極上抹茶、好きな柚餅に加えて柚餅ふうのブルーベリー餅を送って頂いた。ありがとう。東福寺と想われる紅葉の写真も。ありがとう。
2016 11/23 180

☆ 「同志社の小賀玉」と「相国寺の多羅葉」
おはようございます。
先生のお忙しさが増さないうちに… と思いながら、時を過ごし…お仕事のお忙しい最中の、今日になってしまいました。
どういう機会に、なにを想って「光悦寺の紅葉」を撮ったのか?
間の抜けた今頃ですが、お応えします。
先生が、帰洛なさりたいと思っておられる。
なさりたいと思っておられながら、果たせないのなら、京都に住んで居る私に、何かできることは無いだろうか?
光悦寺でお茶を召し上がったと、おっしゃっていらした。
それならば、秋色に染まる境内を写真に収めて差し上げてみよう。少しなりとも「京のよすが」になれたなら…そんなふうに想って、「臥牛垣と散り紅葉」を撮りました。
そして今日は「小賀玉と多羅葉」の写真を携帯電話のメールから、送らせていただきます。
以前、勤めていた会社が烏丸今出川の傍にありました。毎朝、通勤途を15分遠回りして、景色を楽しみながら歩きました。
烏丸今出川のバス停で降りて、右手に御苑の樹々を見ながら、冷泉家の犬矢来の前を通り過ぎ、同志社大学の正門を左へ曲がる。相国寺の南門をくぐり、松並み木の石畳を進んだ後、法堂を右手に仰ぐ様に、西入ル。しばらく直進すると、寺域を出て烏丸通りに戻る。
渡る風、そよぐ樹々、飛び交う鳥の声。
うららかな日に散る櫻。雨の日に玉むすぶ蓮。陽の光に映える芙蓉。
凍てつく日のこぼれ松葉。
時々に美しい姿を、一年半ほど楽しみました。
写真は、その頃に撮った「アーモスト館の向かい側に立つ小賀玉の実」
と「相国寺塔頭大光明寺の多羅葉の葉」です。
どちらも、歩いている時に落ちてきたので、拾って帰りました。
「光悦寺」の時とは違って、その場が写っていないので…よすがとなりますか、どうか…
今年はまだ、さほど冷えこまず、陽のあるうちは暖かと感じる日が続いています。
北山の天ヶ峯も鷲ヶ峯も、まだ散りきらずにとりどりに綺麗です。
お身体、どうぞお大切になさって下さいませ。   鷹峯   百 拝
写真は、この携帯電話から送るしか、術を知らず… お手数ですが、文章はiPad から発信させていただきます。

* 美しい写真と、優しいお便り。馴染みに馴染んだ界隈で、目に見えものに触れ合う心地がする。感謝します。写真をうまくわたしの機械に取り込めて、ここへ転写したいと思うが、どうも機械の手順がだんだん手元あやしくなって、難しい。
2016 12/7 181

☆ 心ばかり
秦先生、今日がもう十二月八日とは、実感が湧きませんが。時の流れの速さに戸惑っております。
この、二年ばかり、私は何をしているのやら。
月曜日、久しぶりに名古屋駅へ出ました。用があって、繁華街へは月に数回出ているのですが、心に余裕が無く、必要なことだけで、ゆっくり町の雰囲気を楽しむこと無く過ごしていました。
久しぶりに名古屋駅をぶらぶら。町はイルミネーションで、すっかりクリスマス気分です。家に籠もっていると、何にもわかりませんが。
久しぶりに「和久傳」を覗き、西湖を少しお送りさせて頂きました。京都の本店から発送なので、数日かかるそうですが、そろそろお手元へ届くと思います。喉の通りがよいので、お薄と召し上がって頂ければ。
このところ、京都へ度々行っていましたが、用事をするだけ。あまりの人の多さに疲れ、早く帰りたいと思うほどです。京都の人の日常が思いやられるほどの、人、人。
(私の青春の地、大好きな京都なのに。私の心が老化してしまったのでしょうか)
きょうは温かな一日でしたが、どうぞ御身大切にお過ごし下さい。  珊

* 「和久傳」ですか。懐かしい。感謝。
どうも、どなたからの便りにも、京の繁華に過ぎた雑踏が伝わってきて、ますます京都が遠くなって行く。杖と鞄とと思うだけで、触れあい歩くのが物騒に思われる。
2016 12/8 181

☆ 今年は
南座は「まねき」が上がるだけの寂しい顔見世になりました。
さて このたびは、ご高著第十七巻をご恵贈たまわりまして まことにありがとうございました。
漱石の「こころ」戯曲もさることながら、「こころ言葉<を><で>考える」に唸りました。 師走の大掃除の最中、つい頁を繰る手が止まらず困っております。貴重なご本、厚くお礼申し上げます。
どうぞご無理をなさいませんよう、くれぐれもお躯をお大事になさって下さいませ。
先斗町歌舞練場は昔の劇場の雰囲気を残し 役者の顔がよく見えました。  不一  京・鳴瀧  川浪春香  作家

* 心葉も添えて、過分の御助勢を賜り有り難う存じます。
先斗町の歌舞練場は、新門前通りの我が家から縄手へ出、鴨川をへだてた目の前にあった。荻江に書いた「細雪 花の段」を先斗町の綺麗どころが「鴨川をど り」で舞うので、ぜひぜひ来てくれと催促され京都へ駆けつけた日のこと、懐かしく思い出す。先斗町は秦の叔母宗陽・玉月がお茶、お花の師匠として何軒もの 御茶屋へよく出向いていた。そんなことをよく覚えていてくれる人やお茶屋が有った。
2016 12/9 181

☆ ご丁寧に
メール頂き有難うございました、
顔見世 昨日行って来ました、三部制で、会場は狭くて舞台は近く 良く見えましたが、役者さんはちょっと可哀想かな?
題目は -引き窓-仁左衛門 孝太郎他、松嶋屋さんで  -京鹿子娘道成寺-は雀右衛門さんの襲名公演でした。
海老蔵さんが左馬五郎荒事で登場、ちょっと迫力有りました。が、何となく一寸不足!
片岡さん(松嶋屋)三女四女さんは洛東中学でご一緒でした、 秀太郎さん、孝夫(仁左衛門)さんも洛東中学の様です、お住まいは、方広寺の近くで 小学区も同じでした 三女の秀子さんは以前日吉ヶ丘の同期会でご一緒でしたが、その後亡くなられた様です、寂しいことです、
色々とお話はありますが、又ね!
これから暮れの用事を一頑張りです、元気で良い年を迎えたいと思っています。
寒さに向かいますお大事に    京・北日吉    華

* 弥栄中学で、同志社で一緒だった松嶋屋惣領の我當君の名が見えなくて、ひとしお寂しい。
秀太郎を或る大きな賞に推してあるのだがなあ。三男仁左衛門の健勝を祈らずにおれない。
それにしても顔見世が南座から逸れたなど、初めてのことか。奇妙に寂しく心もとない。
喜寿を祝いに南座顔見世へ妻と出向いてから、もう十一年も経った。あの祝い年の「京の散策」(三)は、明けて新年に送り出せる「湖の本133」巻に入れ ておいた。あれから京都は「もの凄い」までに変容しているらしい。それでも、来年には一度帰りたいな。帰りそびれていると、もうわたしの余命残年の方が尽 きて了いかねない。
2016 12/24 181

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