ぜんぶ秦恒平文学の話

京都 2018年

 

* 東京で雪に逢うと想い出す。勤めの頃、看護学の編輯を担当の間に、当時のままいえば看護婦さんや助産婦さんら(執筆者であるからは、皆さん「先生」で あった。)と飲み食いの機会があった、或る雪の晩だったが、わたしが京の雪を懐かしがると、富山出身の助産婦先生、目をつりあげて「何が雪がいいのよ、雪 なんか大ッ嫌いッ」と怒鳴られた。あれは、視野の狭かったわたしには佳い教訓だった。北国の大雪にしみじみ迷惑してきた人の「雪」風情と、京のみやび心地 の「雪」はまるでちがう。あの当時のわたしには、「雪山」を積んだ定子皇后や清少納言の雪、雪の朝がた兼好に手紙でものを頼まれた女人が、雪の風情に一言 もないままモノを云うて来るような人の頼みなど聞くものですかとヤラレていた面白さばかりが、アタマにあったのだ。
この大雪のあと、家の前の凍り付く雪道をどう始末するかと、八十すぎてあちこち痛いわたしも妻も、今から、困惑している。
古人の詩にいう「雪月花のとき最も君を思ふ」てばかりは、おれない。雨を聴いている方が風情にひたれる。少し年かさだったあの助産婦「先生」、息災だろうか。

* 捜し物の一つ見つかり、一つが、まだ。出てこい出てこい。
2018 1/22 194

* 気に掛けている或る京都市内の一地点周辺の地図にこのところヒマをみては見入っている、その関連の捜し物に苦慮もしているが、いろんな想像の、それも恐ろしげな繪が、脳内にうち重なって見えてきている。役に立つかなあ。
2018 1/23 194

* 京・山科の図書館学者で詩人である馬場俊明=あきとし・じゅん さんは、心優しくお便りにいつも佳い絵葉書を選んで下さる。今回は何必館=京都現代美 術館を成さしめた、梶川芳友所蔵の「太子樹下禅那」で、上半身をこのホームページ「私語の刻」一月のアタマへ飾っていた。
馬場さんは、以前に、三條大橋から知恩院や華頂山へ展望の昔々の記録写真のハガキを、また祇園八坂神社西楼門から四條大通りを俯瞰した昔昔の記録写真の ハガキをつかって便りを下さった。この二枚の懐かしさったら、ない。いくら眺めていても尽きないほど、その二枚は、わたしが四つ五つで南山城当尾の実祖父 の邸から京都市内の秦の家へ預けられ、幼稚園に通い出すよりまだ以前の記憶を、ありありと蘇らせてくれる。ことに三條大橋の東・南、いわゆる縄手(大和大 路)の起点の位置に、まるで積木の西洋御殿のような丈高い洋館がウソのように建っていて、とうのとうのとうの昔に消え失せたのだが、それが懐かしく眺めら れて夢見る心地がする。確かにこの洋館は在った。その南ならびに浄土宗のお寺が四軒並んでいた。
粟田山から将軍塚へ、東山は言葉通りに「蒲団きて寝たる」柔らかにかげった山容で、痺れるほど懐かしい。
もう一枚の東山線と四条通が廣い「T」字をなした間中に、市電が二台見えてある四條通りをまっすぐ来た電車は終点の祇園石段下で、線路を斜めに折り返し てまた四條通りを西へ帰っていった。東山線へも後に線路が繋がった。石段下四條の南側ははやくにサマ変わりしたが、絵葉書でみる北側は懐かしい記憶のまま の家並になっている。無数の思い出が噴き上げてくる。

* 写真家、東村山の近藤總さん、清酒「金婚」一升下さる。
指折り数えれば、わたしたちの「金婚」からもう九年も経っている。ふーん。有り難いと思う。
2018 1/30 194

☆ お尋ねに、おこたえ申します。
一年のうち、大元宮の開扉は、正月三ヶ日と節分祭の三日間、朔日詣りのみと、案内板に書かれてありました。その駒札が、よく説明して下さっているので、書きうつします。

「天神地祇八百万の神をまつる大元宮は、神官卜部氏の邸(室町)から、文明十六年に吉田兼倶が移築。慶長六年建立の本殿は、正面八角に六角の後方を付 し、屋根は入母屋造・茅葺、棟には千木をあげ、中央に露盤宝珠をおき、勝男木をおく形式は、神仏習合と陰陽五行を根本にする吉
田神道の理想を具現化したもの。」

千木は、前方(南)を内削ぎ(水平)に、後方(北)を外削ぎ(垂直)にしてあります。勝男木は、前方に丸材を三つ重ねにしたものを三組、後方に角材を二つ並べにしたものを二組おいて、その中央には露盤宝珠がおかれた特殊な形です。
千木の形がわかるように、前方と後方の写真を添付いたします。
正面の切妻にかかげられた文字は「日本最上・日高日宮」と書いてあるように思えます。
三枚目の写真は、延喜式内社三一三二座の内、山城國と大和國です。
お楽しみいただけましたなら、嬉しく存じます。 百   拝

* 佳い写真を戴いた。
天を刺す神社の千木に、なぜか惹かれる。
吉田といい吉田神道といい、特異な圧力で今日の思いにすら迫ってくる。兼好法師も思い出させ、櫻姫をはじめ数々歌舞伎の妖異も想わせる。吉田山、船岡山、双ヶ丘。京都市内の三つの山の不思議さ、不思議な懐かしさ、怖さ。
2018 2/3 195

☆ 春分過ぎて
陽ざしは春らしいのですが、まだまだ冷たい日が続いています、お変わりありませんか、
今日は、京都市外の地図が手に入りましたので送りました。以前より大変開けた様に思います、
近頃はネットのグーグルが進んでまして 地図を作らない様です、銀行の粗品ですが!
色々と楽しんで頂けたらと思って、
まだまだ冷たい日が続きます、お気を付けてお過ごし下さい。  京・北日吉   華

* 京都を、うろうろと妄想し続けているのを察してくれての親切・好意と思う。感謝。
いま、わたしが気を集めているのは、「南区」。 市内中央を稍逸れていてか、精微な地理が見わけにくく、超細字を読み取るには、眼も不自由で。実地に歩きたいが。いま、感心はもっぱら京都駅よりも「南」一円。鳥羽、久我、羽束師、向日。

* 夕刻に、あだかもバレンタインチョコの風情のモロゾフの一箱を添えて到着の大きな京都周辺地図は、上の希望にバッチリの有り難いものだった。地図に書 き入れの活字の小ささはどうにもならないけれど、洛南の大模様は道路や河や緑地帯ももろともよく察しが利く。感謝、感謝、「華」さん。
さ、何としてもわたしの世界へ跳びこんで行かねば。ああ、それにしても、自在に歩き回れたらなあ。
2018 2/8 195

☆ 雪櫻で
東京は大変寒いとか、お変わりございませんか、私は最近の寒さで足が痛んでます。
今日はひさしぶりにシニアの集いで外出しましたら 鴨川の堤も 桜が咲き始めてました、タクシーからの眺めですが。お花も、これから楽しめます。
京都の南部 以前の住まいから西は、ハイウェイの南インター辺りで 何もない昔の農家でした。羽束師あたりは手続きで度々マイカーで走りました。
東山渋谷へ越してから20年になります、市内 今では観光客で様変りです。
今日も 東大路は馬町から五条までバスが5台も数珠繋ぎです。こんな毎日です。
昨晩は「湖の本」の美の散歩をゆっくりと楽しんでました。
その内、美味しいもの 探してきますね!  華

* 京都駅から北だけが京都のように思っている人が多いが、とんでもない。長岡、向日、鳥羽、久我、羽束師、伏見。京都の下から沸き上がるエネルギーは八条、九条の南に渦巻いた。見えない目で今も東京から眺めている。
2018 3/24 196

 

☆ 青き踏む
いち日の始まりに、目覚めてすぐ湯をわかします。
「あふみのみ」が躰に沁みてゆくのを感じながら… ちいさな和三盆糖を口にふくみます。手にした小箱には「柳さくら」の掛け紙が、そのふたを開けると『相伝・菊壽糖』と刷られた栞がはいっています。今様の技法で刷られてはいるけれど、打雲の料紙は、目にゆかしく感じられます。
お薄一服。
平安の山茶碗の金つくろいは、 すれて漆の素地がでてきてしまいました。この、大ぶりの盞のような器を形見分けにいただいた日から、もう一年あまり経ったのだと、漆の肌に触れながら… 想います。
さきに彼の世へかえる人。指おる数がふえました。
まだ明けそめぬまえに、いつも目覚めてしまうので、お薄一服いただくひと時を、だいじに過ごしています。
お干菓子も、お抹茶も、お茶碗までも、到来物でいただいているのですから… たくさんの縁と、ご加護の御蔭があって、此の世で生かされていると感じずにはいられません。そのことをつくづく有り難いと思いながら、暮らしています。

そうして昨日、先生が体調のすぐれない中、ご尽力なさりお届けくださった御本を受けとらせていただきました。
嬉しく、ありがたく、感謝申し上げます。
花曇りの今日に、大切な選集を櫻のなかで読みたいものと思い、御本を持って出かけました。
『知恩院三門』の辺りの染井吉野は、はや階段に散りしいていました。華頂山を踏みしめながら、ゆっくり登って行くと、春のやわらかな風にのって花びらが舞い散っています。萌えいでた若草のうえに、淡い櫻の色がかさなって、やさしい色合に気持ちがなごみます。
そんな道すがら、鶯の初音を聴きました。布におおわれた『御影堂』をぬけ、鐘楼のわきから境外にでて『井雪』のそばにある四阿からは、八重の櫻がよく見えたので、そこで入相の鐘がなるまで、楽しんで御作を読ませていただきました。
そういえば「入りあひの鐘に花ぞ散りける」と詠んだ能因の歌が「道成寺」に繰り返し謡われていたのを思い出しました。
お茶とお能に親しむ機会をもつことができたのは、此の世を生きる助けとなり、また悦びともなりました。
そして、先生のお書きになるものを読む縁ができたことで、独りでは辿りつけないところへまで導いていただき、文章を楽しんで言葉と游ばせていただけるようになりました。過ごし難い此の世に身をおく時間を、豊かにしていただき、深く感謝いたしております。
帰り道に、祇園へ行ってまいりました。
『辰巳大明神』の染井吉野が撮れたならと、思ったのですが… ほとんど散ってしまっていて… 残念でした。
『巽橋から白川』の枝垂櫻は、まだ綺麗だったので添付させていただきます。

 

奥様のお具合、良くなられて何よりでございます。
お元気でお誕生日を迎えられましたこと、お祝い申し上げます。
御二方のお元気をお祈りいたしております。 京・鷹峯   百  拝

* 今年はことさらの花見には出かけなかったが、懐かしい白川櫻の優しい美しいのに、ほおっと吐息し心憩っている。感謝。
家を駆けて出れば、巽橋へ二、三分で行けた。戦前戦中、秦の父や母に手を引かれ、この橋を渡って、茶屋の「廣松」から間ぢかな廓の銭湯、松湯や鷺湯へ 通った。戦後、丹波の疎開先から帰ってからは、東京へ来るまで、久しく独りで通った。戦前は、この白川右岸も、左岸と同じにお茶屋の家並みでひしひしと埋 まっていた。
2018 4/6 197

* 送ってもらった祇園白川花櫻の写真が目を潤ませて美しいのが、今日の一の嬉しさであった。
2018 4/6 197

* 映画の前に京都の国宝めぐりをみせて貰えた。智積院、鳳凰堂、浄瑠璃寺、三十三間堂、それに京都博物館などなど、懐かしさに泪が出た。
京都 たしかに良い。昔の権勢は、権勢ゆえに同調も容認も讃歎もしないけれど、置き土産のように佳いモノをわれわれに沢山遺してくれたことには感謝せざるをえない、有り難うと云ってしまう、心から。
それに比して、近代現代の為政者や経営者はいったいどんな素晴らしいモノを後世に遺してくれたと云えるか。道路、ダム、橋、鉄道を挙げることはできる が、政治や実業の支配者個性は与っていない。それらは人類史必然の文明ではあるが、民族の個性に彩られた日本人ならではの文化とは云いにくい。
*  むやみやたらに 京都 流行だが、けっこうだが、 ただ 上澄みの一辺倒で わたしの いわゆる 「洛東巷談 京都縦横無尽」「京のわる口 京ことばの凄み」ふうの大きな半面がほとんど省かれている。それはそれで宜しいけれども「京都」の凄みも知ってていいのでは。
2018 4/14 197

* 封筒に、わたしの住所印などを発送予定の数に満ちるだけは事前に捺しておかねばならない、これは根気仕事でかなりシンドイが、ま、やがての「湖の本」 139分は捺し終えた。宛名印刷して封筒に貼らねばならない。足りない分は宛先と住所を手書きせねばならない。出来本の送り出しこそ一等の注意力、腕力を 要する労働なのである。
云うまでもなく、収支はつくなわない、当然の赤字っているが、幸いそれは気にしていない。選集も湖の本も建日子さんの支援が有るのでしょうと云う人が、ときどきいるが、両方とも、ビタ一文の支援も手助けもしてもらっていない。
稼いだだけは使い果たして死にたいと昔から考えてきた。だんだん近い気がしている。せめて、もう三年、待ってくれるといいが。妻の、母親の面倒は息子がみるだろう。

* この「私語」も、追い追い、老い老い、もじどおり「闇に言い置く」感じになって行く。育ての親たちに手をつき頭を深くさげて京都を離れてきた日々をこのごろよく思い出す。秦の父がひとりで京都駅へ見送ってくれた。
来年春にはあれから六十年になる。ウソのように驚かれる。ウソではなかったのだ。それどころか秦の父も母も叔母も東京へ引き取って、みな「平成」に入っ て見送った。三人とも九十歳を越す長命で、一番からだの弱かった母が、九十六歳まで生き抜いてアトを追った。耳も目も歯も弱っていたがボケていなかった。 今でいう誤嚥で逝ってしまった。

* ほんとうに可能なら、三十三巻で「選集」を結びとめ、ほどをみて「湖の本」を終刊にしてなお正気と体力とが残っていれば、京都へ一部屋でも借りて帰り たいという願い、無くはない。だが、それは以下にも気弱。「湖の本」の種はまだまだまだ尽きないかぎり奮迅すべきかとも。からだや気が保てればいいが。食 べられない、食べたくないというのが、なにより今、心もとない。
2018 4/15 197

* ただ懐かしいのではなく、京都へはどうしても帰らねばラチの明かないアテがある。
実は、脚を延ばし、瀬戸内の目当てへも行きたい。
行けないためにと謂うのは情けないが、それ有って、書きかけの小説は一つは九割がた、一つは六、七割がたで、苦悶しつつ頓挫し二年を経ている。京都が懐かしいと繰り返す時、わたしの想いは苦悶に近い。
しかし、小説の取材は、観光・物見遊山でない。一種の狂気に入って独り其処に同化し作の世界や人物と対話しつづけなければ無意味な散策に尽きてしまう。
しかし、私の心身に現に生じている臆病と億劫とは、宿を予約し新幹線に乗るというそれだけをもさせない。ぜひ独りで動かざるを得ないし、さだかなアテド もなくひたすら歩きまわらねば済まない。実を云うと目指しているその方面に、わたしは、ほぼ不案内なのである、行ったことも観たこともない京都なのであ る。疲労し、そんな出先で潰れたら、と想うと二の足を踏んでしまう。
もしかりに建日子が同行してくれると言い出そうが、それでは父子の「観光」旅行なみにむしろ京都を識ったわたしが息子にサービスすることになる。作中世界との対話はとてもそんな遊び心地では実現できないほど幻怪に難しかろうと、今も、看ている。
他の、何を措いても第一の優先事でありながら、実現出来ない。弱ればますます出来なくなる。わたしが「京都へ」というとき、現実世界の誰や彼やに会いたい見たいでは、無い。進行中の作世界と何より何処より出会い…たい、のだが。
2018 4/17 197

* 昨日も若い医師に、歩いて下さい、頑張って歩いて下さい、と。
京都では、家を出ると、通りが美術・骨董商のショウ・ウインドウ、つまりはわたしの美術館だった。狸橋を渡っても新橋を渡っても白川だった。知恩院も青 蓮院も円山公園も八坂神社も、四条通も、高台寺・清水坂も建仁寺、六波羅蜜寺も、鴨川も河原町も地続きだった。行くなと止められても歩きに行った。
荷風の日記をみていると、かれは電車でかなりの距離を移動してから、浅草だの深川だの、川向こうだのを散策していた。めんどくさいなあこれはとわたしは荷風に同情していた。
2018 4/21 197

 

☆  秦 恒平 様

お知らせが遅くなりました。
5月2日 奥田(中出)千寿子さんが 逝ってしまわれました。

 

眠ったままの様に 朝早くに 痛みも お苦しみも無く。

4月15日にお見舞に 行く約束が 妹さんの酷い風邪で 延期し 連休明けの 5月6日 次の予定が 来るまでには 待っては 下さいませんでした。

 

頭の中がぐるぐると回り その日は それから 終日 3大ピアノ協奏曲 3大バイオリン協奏曲を

鳴らし続けました。 私流の お見送りでした。  草野貞子

* 久しくも久しい入院生活だが落ち着いてられると草野さんに聴いて、こんどの選集の「京都」篇を送って上げたい、施設へがいいかご家族にかと思案していた。死なれたか。
日吉ヶ丘高に茶道部を創設したとき、同じ二年生からは吉田(草野)さんと中出さんとが仲よく入部してくれ、いちから教えて、卒業の以降ずうっと叔母の稽 古場へ籍をさだめて茶名もとってもらった、草野さんはいまも茶人の日々を続けている。いわば、ふたりはわたしの茶の湯の弟子の二人として、永く永く付き 合ってきた。思い出は山のようにある。
その一人が亡くなったか。急に言葉もない。わたしは大学の二年生ぐらいにレポート用紙一冊ほどをちっちゃな字で埋めて小説のまねごとのような、題さえ付 かなかったような長い習作を遺していて今もその辺の抽斗に入ってある。誰にも見せたことがない、ただ、なんとなし叔母の稽古場へ通ってくる中出さんにだけ 読んでもらったという記憶があり、しかし感想も含めて何の記憶もなく作はそのまま埃まみれに打ち捨てられてきた。読み返してみたくなった。
心より冥福を祈ります。
2018 5/8 198

* そして、諦めずに気を起こして今日も又、五木寛之氏の文業を理解したいと鶴見さんの解説や自筆年譜をよみかえしつつ、エッセイであるのか「風に吹かれ て」の抄出集を読んだり、短篇のどれかをと物色していた。長い「さらば モスクワ愚連隊」「蒼ざめた馬を見よ」は以前に読んでいた。氏は、自身を「戦中 派」と自認し、敗戦でいのちからがら日本へ逃げ帰っていて、日本が祖国なのかかつての支配国が祖国のような気がしてしまう敗戦体験に身を寄せるように読め るなら読んでみたいと。
津村節子さんの「さい果て」は夫妻して目先も見えない行商の旅にある。真率な、ただそれが文学を支えているいじらしいほどな懸命の生に、胸打たれる。
みんなみんな文学へ命懸けでつっかかって行き、しかも突っかかり方ははっきり違う。
驚くのが迂闊なのだろうが、わたしとても貧しい暮らしは暮らしであったが、京都で生まれ育って京都には「文化」が溢れており、わたしは国民学校の初年か らそれら「京の文化」を浴びるほど心身に浴びておいて東京へ移転したのだった。その豊かさからすれば、大方の作家は冗談でなくたいへんにお気の毒であっ た。竹西寛子さんと丸の内の大きなホールで源氏物語の対談したあと、竹西さんは「秦さんには<京都>がある、わたしたちには大変なハンデキャップよ」と嘆 息されたのを思い出す。「京の昼寝」という言葉がある。地方の人が渾身勉強しなくては住まないことを京都の人は昼寝の内にも見てとれる、と。
むろん、京都の人なら、書き手なら、みなそうとは謂えないが、わたしはそんな言いぐさが有るとも知らず異として意識して京都の文化や歴史にはやくに没頭できた。わたしは真実恵まれていたんだと今にしてしみじみ思い当たる。
2018 5/15 198

* 昨夜遅く読み上げた鏡花の京都編、「笹色紅」。もってまわったおはなしではあるが、場面場面が目に見え手に触れるように私には親しく、大方は芸妓、茶 屋の女たちの「京ことば」が、ようここまで鏡花が聴き取っていると舌を巻くほど、正確とは思われないままにも感じはじつに面白く身ぢか耳ぢかで、それに惹 かれた。それ以上に、縄手、大和橋、竹村橋、西石垣、大嘉、千茂登だの西大谷だの、そしてクライマックスを産み出す疏水の瀧だ、もう新門前のわが家から小 走りに二、三分の近所だった。疏水の瀧(鴨川運河・疏水閘門)へは、よく人が身を投げたし、水死の事故も起きた。お話しはいかにも鏡花の流儀、引き抜いて の大化けなど笑えるが、なにしろ祇園の「芸妓言葉」はしみじみ身に沁みた。編者が解説で不自然としている「「私(あて)がもつはけ」「支度させるはけ」な ども、この界隈で育った秦の叔母のもの言いそのままで、語尾の「はけ」は後年に瀰漫の「さけ」よりもよほど順当であった。鏡花の聴き取りはただならぬ耳と 語感との良さを見せている。その点、京の土を踏まずに書いたと思われる「瓔珞品」の京ことばはよほど不自然に読める。
四条大橋から手の届きそうな辺に竹村橋という、流れては替え流されては替えの仮橋がむかし渡してあったとは縄手育ちの父にも叔母にもよく聞いた。芸妓舞 子が自殺する場としても知られたのを鏡花は舞台に用いている。後にはそんな流れの速い深い疏水上に「かき春」という舟料理や浮かんで、一度両親や叔母にご 馳走した。それも今は無くなった。
今一箇所、一対作である「楊柳歌」にも<この「笹色紅」にもあらわれる、これまた花街の女が心中や自殺によく走ったおそろしい魔所があった。一人歩きまわる少年のわたしも、其処へは近寄らなかった。

* 鏡花の書き遺してくれた「楊柳歌」「笹色紅」は、京都が感謝していい「故山を飾る」逸品である。
2018 5/27 198

* 弥栄中学におられた正因寺住職の万年元雄先生、京の煎餅菓子を大きな一缶で送って下さった。もう、弥栄中時代の先生ではこの万年先生と理科の佐々木(水谷)葉子先生としかお付き合いがない。
2018 6/4 199

* 睡れて好かった。
起きてすぐ送り作業を再開、懸命に三時前まで。三時までに申し込まないと郵便局が集収に来てくれない。もう持っていってくれた。
妻がよく頑張ってくれた。一冊一冊が重い気の張る送本なので荷造りは容易でない。
今回の第二十六巻は「京都」論攷や講演やエッセイを纏めたので、京都の読者、縁者、知己に優先して贈呈した。
2018 6/10 199

* 浴室で歩、かつて岩波の「文学」に載った座談会「洛中洛外図屏風について」を読み返し、とても面白かった。上杉本の洛中洛外図屏風」が岡見正雄先生と 兄弟の佐竹教授の手で刊行された頃の記念の座談会で、名古屋工大から   教授も加わられ、わたしはおそらく岡見先生の推挽で中に加えられたと思う。岡見 先生は精緻を極めた『太平記』の校注や「室町ごころ」の提唱でも当時学界に聞こえた大先生であったが、わたしの高校時代の「古典」の先生でもあられた。京 極裏寺町のお寺のご住職でもあり、学校へは袴姿に洋靴で登校されるような異彩の「ボーズ」先生だった。学界に名高い大先生などと誰も思っていなかった。古 典の授業ははじめから終いまで先生の朗読だった。受験勉強の連中はブーブー歎いていたが、わたしは先生の朗々と読まれる古典の文章を耳に聴きながら悟れる モノが多かった。耳を澄まして聴き入っていた。
作家になってから、よく励まして下さり、祇園町でご馳走になったりもした。

* それはそれとして「洛中洛外図」座談会でも岡見先生の発言はふわふわと「京都」の天上をただよう念仏のようで、しかも示唆に富み、わたしは多くをまた教えて頂けたと思っている。わたしはまだ若僧だった。えらいところへ呼び出されるなあとびっくりした。懐かしい。
2018 6/14 199

* 夕過ぎて、京都の、内田豊子さんの姪という人の電話を受け、豊子さんが六月五日に亡くなっていたと知らされた。瞑目。心より悼みます。
内田さん、というより豊子ちゃんとは戦後の新制弥栄中学に入学した年の二組同級生で、それはそれは温和しい「祇園の子」だった、その年の全校演劇大会 で、わたしは、この口もきけないような温和しい子を「山すそ」という劇の主役に口説き落として猛烈に演出し、みごと全校優勝したのだった、何十年経って再 会してももわたしらの話題は、必然あの「山すそ」共演の感激へ奔ったものだ。そして、この優勝劇を、「よかったえ、おめでとうさん」とわたしに声かけて細 い路地中の家へ走って帰っていったのが、隣の一組の劇で主役をつとめ「二位」を獲ていた小説「祇園の子」のヒロインだった。彼女も病重いと風の頼りに聞い ていた、もうなくなったであろうか。
内田豊子の「祇園の子」としてのプロフィールもわたしはエッセイに書きのこしている。彼女は終生独り身をつづけて祇園に温和しい静かなバア「とよ」を開 いていた。帰郷のつど、時に妻も一緒に呑みに行った。彼女とごく近所育ちで大の仲良しだった横井千恵子、チイちゃんも祇園に「樅」といういいバアをもって いて、其処へも好く通った、妻がカラオケの歌を唄うのを此処でわたしはめったになく聴いた。
弥栄中学同学年の、男友達にはわたしの知る限りもう四人に死なれているが、初めて女友達にも死なれてしまった。なによりもあの中学時代のいい笑顔が、親切だった優しい笑顔が想い浮かぶ。もう一度逢って置きたかった、まことに残念。
2018 6/15 199

☆ 梅雨の晴れ間で、
この二日ほどは、過ごしやすうございました。
此度は、「京都」への思いのこもった選集廿六巻をお送り下さり誠にありがとう存じます。大切に、拝読させていただきます。
慥か、先生は亡き(片山=)慶次郎叔父と同じ同志社美学専攻であられたかと思います。どうか御健勝でいらして下さいませ。 お礼まで   井上八千代   京舞井上流家元

* 同じ新門前通りの八千代さんは西之町、わたしは東隣の仲之町で育っている。慶次郎さんは京観世先々代片山九郎右衛門の次男で、同じ美学専攻の三年先輩 で親しくしてもらった。慶次郎さんから借りたというより貰った日本史の一冊が私をより強く深く「日本」の奥へ押し込んだと覚えている。八千代さんはわたし より少なくも二世代ほど若く、少女時代から知っている。木挽町の歌舞伎座で「あらあ」と声を掛け合ったりもしてきた。なつかしい。
2018 6/18 199

* 昭和女子大、成蹊大から湖の本受領の挨拶があり。
京・神宮道の星野画廊、祇園囃子にさそわれて「夏の風物詩」展をしていますと。いずれ図録をおくって呉れるかな、楽しみに。京都へ、帰りたいなあ。
2018 6/30 199

* 桂川のもの凄い荒れ、鴨川のこわいような増水。そんな映像でさえ、京都は心を惹く。秦の菩提寺は高野川と賀茂川が合流し鴨川一筋にぐっと大きくなる、 その其処の東岸に在る。久しく掃苔も墓参も出来ていない。せめて家の墓の守役は務めて呉れよと息子に頼んではあるが、嫁も子もなく、手は届いていまい。息 子は、はや五十歳。もう何を歎いても仕方がない。ときに、生母の故国近江大津辺にでも小さな家を見つけて移転しようかなどと妄想したりする時もある、が。 いやいや。
2018 7/7 200

* 京の祇園会 鉾巡幸 晴天下を行く。

* コンコンチキチンが耳に甦る。
2018 7/17 200

* 祇園会、あと祭の山山が巡幸の日。暑かろう、今年の熱暑は記録的にも乱暴すぎる。四十度を超えるなんて。少年時代、武徳会で水泳の帰路、川端通りのカンカン照りに卒倒しそうな暑さだった頃も、一夏で三十度をわずかに超すのでも、月に三日と有ったろうか。
2018 7/24 200

* 笹をゆる風と文月を見送りつ
ゆくもとまるももののあはれや

* 当代芝翫の道案内で京の地獄や極楽をともに歩んだ。平等院、即成院、松原橋、西福寺、珍皇寺そして、浄瑠璃寺。しみじみと画面に見入った。七月を見送 るに相応しく、わたしのこのホームペイジ「生活と意見」の私語を導いている美しい夜色浄瑠璃寺の深い色に身を投じたいとも願った。
2018 7/31 200

* 京都には、二○二一年に文化庁が移転する。
はや「国際的会議の開催を期待」の声も届いているが、わたしの希望は、とかく空疎に終えやすく実りの薄い、文化人らの文化祭めく国際会議よりも、京の自 然・市街、かけがえ無い文化・文物、未来へ花咲く人材への、実(じつ)のある保全、保護、育成の府政・市政こそ願わしい。
2018 8/23 201

* 朝いちばんに京の「華」さん、お心入れの甘味名菓たっぷりを頂戴した。日吉ヶ丘へ高一入学、茶道部へ入ってきた後輩に、割稽古の一から教えた。今は執心出精のお茶の先生をしている。その間、六十数年。久しいことだ。
さらに久しい、冨松賢三君のような、国民学校の戦時このかたの友達もある。
ものを書き、読んでもらえてこその歳月と思う、有り難いことだ。

* 機械の起ってくれるまで、今朝は「風姿花伝 物学條々」の「老人」を読んでいた。
能では、「老人の物まね、この道の奥義」「第一の大事」とある。
「花なくば、面白き所あるまじ。」「老人の立ち振舞、老いぬればとて、腰・膝屈め、身を詰むれば、花失せて、古様に見ゆる」「ただ、大方、いかにもいか にも、そぞろかで(はしたなくならず)、しとやかに立ち振舞ふべし。」「花はありて年寄と見ゆる 習ふべし。」「ただ、老木に花の咲かんが如し」と。

* 高校二年、三年で茶道部に稽古をつけていた昔から、『風姿花伝』のこの年齢を追うての「物学條々」の教えには舌を巻いていた。今でもまことに新鮮に、ゆるぎなく信頼できる。
2018 8/29 201

 

☆ 秋の実感がまだ…
メール有り難う御座いました。清閑寺 すっかり懐かしい昔話になりました。行く度にだんだんと木々がすくなくなるようで、見透しはよろしいが、あちこち様子が変ってきてます。
最近のニュースですが、祇園下河原のあの茶箱弁当の「美濃幸」さん、後継者問題か? 閉店されて、跡へホテルが建つらしいです。
近年京都は様子が段々と変わってきました。
相変わらず気候が良く有りませんが、くれぐれも無理をされない様に、奥さまにもお大事に。 華

* 清閑寺陵の大紅葉は炎を噴き上げるよう、文字どおりにもの凄かった。もう観られないのかなあ。
「美濃幸」はいい料亭だった、本屋だったか放送局だったかに頼まれ取材に入って、ご馳走にあずかった思い出がある。八坂神社南正門のまえを八坂通りまで 南行する道路を下河原というが、川は無いのにと思う人もあろう。菊渓川と、清水の方からの轟川が合流していたので謂うていたが、暗渠にされて今は川がな い。雲居寺跡から西へ走っていた菊渓が永楽家の脇で暗渠に沈んで行くサマはすぐに見つかる。あの辺はうちの庭かのように慣れ親しんでいた。
2018 10/11 203

* 出展されている里見勝三の風景畫 観たいけれど京都まで行けず残念と星野画廊主人にメールしていた。懐かしい返信をもらった。

☆ 秦先生
随分前(11月3日)に、久しぶりにお便りを頂戴していながら お返事も出せずに失礼していました。

前回10月に開催した黒田重太郎の明治期の素描展が好評で、最近企画した画廊の展覧会としては大混雑の日々が続きました。

10月末に展覧会終了後、11月6日の滞欧作品展の開催日までに素描100点を倉庫にしまい、改めて大きく て重い油絵の額およそ40点を倉庫から引きずり出して陳列する仕事。これらを3日間で終えました。その最中には横須賀美術館での矢崎千代二展に貸し出す矢 崎の油彩画とパステル画30点を倉庫から探し出しておかなければなりませんでした。11月7日(展覧会2日目)の午前中、横須賀から来た集荷クルー4人が狭い画廊で集荷作業。展覧会を見に来た人も驚く大混雑の会場でした。
先生からメールを頂戴したのはちょうどこの大混戦の最中で、お礼のメールを差し上げる暇もありませんでした。お許しください。

開催している滞欧作品展に来るお客様は少なく 拍子抜けの有様。それでも京都画廊連合会ニュース12月号の編集など雑用は絶え間なく襲い掛かるので、始終バタバタしています。
時折 先生の HPを拝見して、逆境にもめげずに変わらぬ仕事をされているご様子に心打たれ、私もやらねばと尻を叩かれています。

先生が興味惹かれる絵が画廊にゾロゾロと並んでいますが、残念です。
残念なことはもう一つ。今年が国画創作協会創立100周年というのに、記念する展覧会が京都では開催されませんでした。笠岡の後は和歌山県立近代美術館で現在開催中です。私が発見した作品なども数多く並んでいるのですが、それらと再会する時間があるかどうか思案中です。

奥様にもよろしく。   星野桂三

* もっとも信頼し、活躍を期待している画廊主ご夫婦、京都へ帰る大きな楽しみの一つが神宮道の星野画廊に立ち寄ることであった、平安神宮の朱い大鳥居が みえ、三条通と交差して心嬉しい粟田坂や大樹の聳えた青蓮院。まぢかには中学高校での友人達が男女とも何人もいた。すこし西へむけば白川が流れ、もとの粟 田校の脇道を東へ向かうのもしみじみと佳い古道であった。
またも里ごころがついて、長嘆息。
2018 11/21 204

* ベートーベンの比較的にじみなピアノソナタを、グレン・グールドで聴いている、朝、七時半。手にしている本は、京都新聞社が編んだ『京都・町並散歩』 京へ帰っている気分で。
2018 11/26 204

* オーバーツーリズムの惨状が報道され、とてものことに京都へ帰れるという実感が持てなくなった。日本の政治・政策の愚昧がまねいた偽りの活況である。 日本語での「美しい」の含蓄は「清い」と「静か」とで成り立っているのに、この惨状も清いも靜かも無残に過剰な雑沓に踏みにじられている。年間に二千万人 をと政策が出たとき、なんとバカなことをと思ったが、いま日本のバカ政治はさらに四千万人の外国からの観光客を呼び込もうとしていると。いずれ、かけがえ のない文化財に大怪我が出るだろう。
なんというバカどもを政治家にしたててしまったか、日本人の愚民化が進みに進んでいる。イヤになる。

* 京都の澤田あや子さんから、来年の干支、私のまわりどしである「亥」の飾りが送られてきた、香り高い香料とともに。
2018 11/26 204

* 京都のむかし、まだ戦後の生徒時代、午後三時ごろ銭湯があくと独り一番にとびこみ、浴室をひとりじめで湯の中でのんびりした。安価で気兼ねのないあれは最良の休息だった。
真夏は大きな釜で(秦の家は、父が錺り、それから電器の店を持つ以前の祖父の頃、「餅、かき餅・煎餅」を作って卸していたらしい、それでバカにデカい竈や釜があった。)湯を沸かし「走り」の奥の井戸端で盥行水した。ときに大きな蛇が盥のうえを渡ったりして、イヤだった。
銭湯は、戦争前から戦後まで、遠くても七、八分の範囲に六軒もあって、子供の頃は母や父に連れて行かれた。男湯と女湯との奥にちいさな潜り戸があり、こ どもは自由に往来していた。丹波へ疎開するまで国民学校の三年生いっぱいまで母や叔母となんとも思わず女湯へ連れて行かれていた。戦時のむかしの三年生は 育ちわるく貧弱であった。しかし、銭湯というのは、色んな意味から一種の「教室」であった。からだも覚えたし話しことばも覚えたし、文字まで覚えた。祇園 甲部の湯へ行くと、脱衣場には芸妓舞子の名を書いた団扇が壁一杯に飾られていて、それを読んで漢字も覚えた。祇園の銭湯は、男湯より女湯のほうが倍ほども ひろくて、はんなりした。髪をたかく結った女らが浴槽に浮かんでいる図は、子供の目にも珍重に値した。

* 八時半。朝食に降りる。
2018 12/16 205

☆ 事始めが過ぎると、
慌ただしくなって来ました。
十四日 三年ぶりに 南座の顔見世に行ってきました、やはり南座は宜しいです、役者は、代替りで、少し、物足りなかったけど。
出し物は、寺子屋、新口村、鳥辺山心中等でした。
先日のお軸の「無事」は、縦二字で、鵬雲斎の大きな筆でした。
今年も無事でお誕生日が迎えられますこと、昨日お祝いの品、(桃のしずく) を送りました。
楽しんでください。    京・北日吉    華

* ありがとうよ。
南座、行ってみたいな。役者は代替りで、少し、物足りないという気持ち、わかる。たとえば新幸四郎が本幸四郎に大きく成るにはどうしてもしばらく客の方でも踏み込んで待ってやらねばならない。
襲名とは大きな化け時だが、成長への即効薬では決してない。

* 南山城・木津川市の、父方従弟の岩田孝一君から、自分で炒っている珈琲豆を送ってきてくれた。ありがとう。
荷のなかに手紙と写真。

☆ 秦 恒平様
選集28巻 ありがとうございました。
先月は 関西吉岡家いとこ会があり (神奈川・川崎在住の、わたしには異母妹にあたる=)昭子さん、ひろ子お二人が久しぶりに泊まっていかれました。
(孝一君の)姉が孫娘の写真を送ってくれました。母(=わたしには叔母)のひ孫の風貌かと思うとおもしろいものです。
良いお年をお迎へください。  孝一 拝

* 京都四条大橋の西南づめ、南座から鴨川を西へ隔てた支那料理の(と子供の頃から思いこんでいた)東華菜館五階へ寄ったらしい。
写真の人数をざっと数えると、幼児二人を除いて、総勢二十一、二人。ま、旧家とはそういうものだろう、最年長の広田英治さんが八十八歳とある。
川崎の妹二人はとにかく、他の、だれ一人もわたしは識らない、面識も記憶もない。血縁上の「いとこ」というと、この他に 存命であれば北澤恒彦も数えられていたか。
ま、父方でこうなら、生母近江能登川の阿部家方「いとこ」らも大変な人数だったろうなと思う。むろんだれ一人とも面識無い。
恒彦のことは分からないが、わたしには、こういう集いの「感覚」は、ま、まったく無い。
秦家には、「もらひ子」のわたし以外に無かった。建日子が今のまま子供をもってくれないかぎり、秦家は秦建日子で「絶」える。これだけは、秦の両親や叔母に申し訳ない。
わたしたち夫婦の血縁は、独りだけの孫・押村みゆ希に伝わるだけ、この孫娘が結婚したか、親になったか、まったく分からない。やす香の死後、只一度も逢えていない。

* 所詮、わたしに「血縁}はあまりに淡い。
しかし、「身内」という「島」の思いを確かと創り上げてきた必然に、わたしは生涯迷い無く立ってきたし、今も立っている。それでよかった。

* いまも書き進めている小説での「実感」では、しかし、わたしの生涯の主題・拘泥は、まちがいなく「もらひ子」という「身の程」にあったことが、よく分かる。痛いほどよく分かる。生涯わたしはそんなことで「もがき」続けていたらしいのである。
2018 12/16 205

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