ぜんぶ秦恒平文学の話

京都 2019年

 

☆ 秦先生
新年おめでとうございます。
京都は、それほど冷え込みもせず、穏やかな年明けとなりました。
先日は、お優しいメールを頂戴し、かえって恐縮でございました。
元日は、仕事がお休みでしたので、先生に『京都』の雰囲気なりともお伝え致したく、八坂神社へ詣でてまいりました。
祇園界隈は、大変なお人の出ようで、はっきりしない写真やピンぼけしか撮れませんでしたが… 気配なりともお伝えできましたら、嬉しく存じ、タブレットか ら。 うまくお届けできると、宜しいのですが… ①②南楼門  ③本殿前  ④ひょうたん池の若い青鷺  ⑤知恩院三門
新しい年が、先生と奥様にとって良い年となります様に。
お元気でお過ごしになられます様に。 お祈り致しております。 京・鷹峯  百 拝

* 妻と朝早の円山公園や「祇園さん」の朝をそぞろ歩いたのは、わたしの「古稀」の日であった、あの脚で南座へ入った。中村鴈治郎が坂田藤十郎に大化けの舞台だった。菱岩の仕出しを楽しんだ。
アレより以降の京都へ、行ったとも行けてないとも、もう思い出せない。「千花」の酒、「松葉」の鰊そば、「蛇の目」の鮨、「梅の井」の鰻、「梅鉢」の女将、「樅」のチイちゃん、「よろづや」の三姉妹。
2019 1/2 206

* 京都へ数日も出向いているという「尾張の鳶」 どこか検証してきて欲しい京都はと朝いちのメールが来ていた。幸い、小説の方はおおかたのメドが立っ た。小説と関係なく、わたしが気にしているのは、祇園石段下の旧弥栄中学「校舎」が、流行りの閉校で、すっかりもう毀たれてしまったのか。

* ま、云うなれば詮無い感傷です。育ててもらった新門前の(今は影形もない)家よりも、小学校・高校よりもわたしは弥栄中学が懐かしい。
2019 2/18 207

 

* 京都にいる「尾張の鳶」さん、写真をおくってきて呉れた、が、閉校して漢字博物館になっていると聞いている旧弥栄中学の校舎がどんなふうに変貌利用さ れているのか。みな毀して新築されているのかなど、かなしいほど見当も付かなかった。どこもかしこも変わってしまったのだ。
お手数をかけました、感謝。

☆ 携帯の
バッテリー残量が少なくて、もっと写真を撮りたかったのですが。先に送った写真以外は後から送ります。
送ったうちの一枚の焦げ茶色の門は 隣の店で尋ねましたら、やはり元は中学校への通路だったようです。周辺を回りましたが校舎の面影なく、「記憶の中に存在」するものをどうぞ大事になさって下さい。
文士人生の最後(目前の段階)と書かれているのが、つらいです。
もう逢えないか知れぬ京都、と思わず、どうぞ慎重に無理しない予定を立てて京都にいらしてください。
携帯でメールを書くのがとても苦手、改めて書きます。   尾張の鳶
2019 2/18 207

☆ 弥栄中学跡を訪ねて、
幾枚かの写真を送りました。が、カメラは苦手で・・ご希望に添えない写真ばかりかと案じられます。お許しあれ。
6584 八坂神社
6586 漢字ミュージアム この日は閉館 ここはショップ
6587 西側道路から南にある歌舞練場
6588 南側道路から東大路通りへの道
6589 南側道路の街
6590 校庭跡、か 南側の塀と門 後ろの建物は大路に面している
6592 校舎から大路への通路跡か
6596 再び廻った南側の道路
6603 宵の街には和服の若い女性観光客 少々けばけばしいけれど楽しそうな彼女たち
6604 漢字能力検定協会の建物
6605 四条通に戻って漢字ミュージアムの東から南を見る
取敢えず弥栄中学跡の写真を送ります。
「絶望的」と書かれている瀬戸内海から四国に関して、いくらかのお手伝いができればとも思います。わたしが実際に行った地域は 四国巡礼の徳島県、高松、琴平、祖谷、高知、足摺岬、松山あたりです。   尾張の鳶

* 弥栄中学の変容、想像もつきません。写真でわずかに判断できたのは、旧運動場南塀の外、祇園町から塀越えに西北の高みを撮られた写真一枚でした。
どんなに変わり果てたかだけははっきり了解できました。感謝。
瀬戸内の方は、小説世界へ予断を呈してはかえって気の毒なので、何も云いませんが。感謝。
2019 2/20 207

* 京都でひとを案内して歩くらしい人から、比叡山の印象的な洛北円通寺の写真が送られてきた。小説『畜生塚』での一等美しかった景色である。懐かしい。

ひとは観てわれは観もえでなつかしむ
比叡の嶺にたつおもひでの樹々

遠地借景の典型例のお庭であり、等間隔に庭さきを明るく区切った小高い樹々が印象的。
帰りたい、訪れたい先が山のように。建日子に委ねてある萩の寺の秦の墓地は草むしているのだろうか。
2019 3/24 208

* 稲荷か清水かというほど京都への人気の大半を占めるらしい清水寺は日本中でも屈指の名刹だが、「寺」ではなく「坂」「清水坂」として意識しながらお寺へ通う人はどれほどあるのだろう、いかにも繪に描いたようなお土産屋を記憶して帰る人が多かろう気がする。
しかし清水坂は、なかなか、ただの坂道ではない、久しい日本史から眺めれば途方もない難しい坂である。少なくもいま「清水坂(仮題)」という小説を書いている私には、担ぎきれないほど重い複雑ななかみの大袋ではあるのです。

* 世界的な都市である京都に、明治以降、「京生まれ」「京育ち」の小説家があまりに少ない、「京住まい」の異人さんは何人も居られたし、今も居られるけ れど。ややこしい限り難儀な「京」の人や暮らしや町・巷を書いてくれた作家が少ない。貴賎都鄙の集約された「京都」とわたしは繰り返し謂ってきたがその 「賎」と「鄙」の顔を描こうとした人が、なかなか見当たらなかった。「異人さん」の目には見えないのであろうが。
2019 4/26 209

* 明日からは、思い新たに「恒平」の日々、歳月を、生きうるかぎり生きる。

* 皇室のことも 改元のことも 関わりなく。ただもう 古代末中世初の「清水坂」を見歩いている。疲れる。疲れるけれども 京都は 言語に絶してヤヤコシ クも、おもしろい、関心を向ければ向けるほどこっちの視線より京都の方が深くなる。「清水坂」は、なかでも頭を掻きむしってしまうほど、ヤヤコシい。観光 客は、気楽でいいなあと呻いてしまう。
わたしの京都は、「風の奏で」「冬祭り」「雲居寺跡・初恋」「黒谷」等々、そして「オイノセクスアリス 或る寓話」についで、この「清水坂(仮題)」に集約されるだろう。
2019 4/30 209

* わけもなく ただただ疲れて 心身はたらかず、情けない。「清水坂」の上り下りに苦しんでいる。
このからだでも京都へ帰れて、歩けて、空気を吸い色を見、もの音が聴ければ、カタはつくだろうに。やれやれ。
2019 5/3 210

☆ 文徳陵
京都に来ました。
花園駅近くの法金剛院、常磐野小学校から北に住宅街を抜けて、文徳陵へ。強い日差しの午後でした。
その後博物館の「一遍聖絵」を丹念に見てきました。
文徳陵、周囲の状況が わたしの記憶とは全く異なり、戸惑っています。
人影ない石段と参道、萌えたつ緑の木々。
水量足りない池はやや荒廃気味。
不思議なことに、一羽の鴉が木に止まって、わたしを見ていました。  尾張の鳶

* 写真をみせてもらっても門徳池の風情が見えてこない、ただ鬱蒼というほどの緑陰に鳴瀧の澄んだ空気が翳っている。なぜか京都の御陵というと、わたしは東山の清閑寺陵、泉山陵のほかは、北山の文徳陵へ重いが翔ぶ。写真をありがとう。

* それにしても尾張の鳶が思い立てばすいと京都へ飛べて、北山からまた七条の博物館で大部の「一遍聖繪」が鑑賞できるとは。新宿御苑近くまで出向いただけで草臥れている鴉は、なんという弱さだろう。
2019 5/17 210

☆ 夏のような
(=前夜の)九時過ぎ、目が疲れて既に階下に行かれた頃でしょうか? 熟睡したいと昨日書かれていましたが、眠れましたでしょうか?
まだ五月と言うのに夏のような暑さに驚いています。関東も同じですね。
昨日はバラ園に出かけたのですが、花を存分に楽しむより木陰ばかり求めていました。
家の薔薇は早々にピークを過ぎてしまいましたが、ブラシの木の赤い花が重たげに咲いて、時計草も咲き始めました。
「思い立てばすいと京都へ飛べて=羨ましい)」と書かれていましたが、スイと動きがとれる鳶では
ないのですよ。日曜日に絵の教室があるからこその関西行きで、それも目下娘が京都に住んでいるからこそ可能に。
今日は珍しく手元にある上野千鶴子氏の随筆? を読んでいました。
ほぼ同じ年齢、世代で状況は読みとれます。人それぞれの性格や資質の相違からでしょうか、かなり違う道を辿ってきたと痛感します。わたしはもっと異なった道を歩きたかったのにと愚かなことを痛感しています。後悔、とまでは言えないかもしれませんが。
絵を脇に置いて 暫くは本の世界に埋没したい、そんな時期です。
くれぐれもお身体大切に。
暑さに負けないよう、穏やかに、力を溜めてお過ごしください。  尾張の鳶

* メール嬉しく。声が聞こえそうに、ありがたく。読者としての鳶といったいいつ頃出会ったやらあまりに歳月を経て容易に思い出せないが、京都の博物館の辺で偶然声を掛けて貰ったのだったかも。
京都博物館。もうどれほど久しく訪れ得ていないか。
瓢鯰図のまえで、早来迎の前で、高台寺蒔絵の前で、崇福寺址出土の秘色などに驚いて、こわい倶生神像に怯えて、『みごもりの湖』を引っ張り出してくれた奈良時代の古写経に、等々、京都は、博物館はわたしの想像力や創造力を刺激する静寂の宝庫であった。

* ああいけない。思い出はどう懐かしくても、今の鋭気を弱めかねないのだ。
2019 5/25 210

☆ 拝啓
青葉若葉が美しい好季節、その後、お尋ねもいたしませず、ご無沙汰ばかりで、失礼をお許し下さいませ。
さて、この度は、先生の「選集 第三十巻」をお送りいただき誠にありがとうございます。御代が替わって令和発行の「選集」を手に取り、歳月の長きと、変 わらぬ先生の厳しいまでのお仕事ぶりを思いながら、ご交友、お門が広い中、いつもお心にかけていただき、恐縮に存じております。
平素、「湖の本」で先生のご日常の一端を伺っておりますが、ご療養されながら、着実に功績を残されるお姿に敬服いたしております。
本年早々に、梅原(猛)先生がご逝去きれ、これまで賜ったご厚情に感謝申 しあげつつ、美術財団運営には皆様のご指導ご協力をいただき、継続していきた いと存じております。お陰様で、事業開始以來東30数年を経て、「公益財団法人中信美術奨励基金」の評価は徐々に高まり、先般は京都市長から表彰状をいた だくことができました。先生のご指導を仰ぎながら試行錯誤いたしておりました草創期のことを考えると感慨一入でございます。
何よりも御身お大切にとお祈り申しあげつつ、今後とも、ご指導賜りますようお願い申しあげます。
略儀ながら、書中にて御礼申しあげます。
敬 具    京都中央信用金庫副会長  平林幸子

* 恐縮。 平林さんは、高校の後輩。京都美術文化賞の新設、雑誌「美術京都」の創刊から、理事、選者の一人として力を協せてきた。
発足時の選者は 梅原さんを座長役に、順不同 清水九兵衛さん、石本正さん、三浦景生さんらの全員が次々に亡くなってしまわれた。今のことはよく知らな いが第二回銓衡で強く推して受賞してもらった樂吉左衛門氏が、わたしの辞任後に入って頂いていると覚えている。受賞者の何人もを人も作も印象深く記憶して いるが、30数年、一回に各ジャンルから三人銓衡していたので、もう大変な人数に授賞したことになる。ますます真摯に発展されたい。
平林さんから、懐かしい京菓子一折りを送って頂いた。
2019 6/6 211

☆ 選集三十巻 ありがとうございます。
ずい分の ぜいたく を させていただきました。
みち子さん 手や指の節々は、大丈夫でしたか? 私は さがしものの時間が多くて、気がつけば、一日の短いこと!
上手に年とつき合いましょうね。  豊中市  美沙   大学同窓

* むかしむかし、市電の走っていた京都の四条大橋を、西南の西石垣(さいせき)か ら視野を東北へ開いて、まんなかに、南座ま向かい、目に灼きついた(現在もまだ残って建っているのだろうか、七八階もの屋上に特徴の あった、喫茶店もレストランも、なにやかやと在った)クラシックなたけ高い洋館「菊水」、遠い背景には、けぶったような寝たるすがたを想わせて、粟田山、東山の見晴らしか゜、ほんわかとしたカラーの葉書で。
一日中見つめていてもどの家々のかげにも無数の思い出が溜まっている。京都が恋しいわたしたちへの思いやりに溢れた一枚、ありがとう。

* こういう思いやり、慰め励ましは、同志社の田中励儀教授からも、詩人のあきとし・じゅんさんからも戴いてきた。三條大橋沙、祇園石段下等々、いつも身のそばに置いている。
2019 6/6 211

☆ 秦恒平様
湖の本オイノ・セクスアリス第一部、受け取りました。
いつもありがとうございます。
パラパラとめくり 拾い読みしています。
私は女ですから、何でも男並みにといっても、性のことだけはお互いのわからないところがあり、それは当然だと思っていますし、そういった視点でこのご本は興味深くあるのですが、そこまで読む力が、今は回復していません。

「清水坂」の方がどんな内容かは想像もつかないのですが、 (中略) 三世代、二家族がひしめいているなかでの一人っ子だったせいもあり、中高も今出川 の同志社女子だったせいもあって、いつも”家のあたり”に友達がおらず、子どもの身でありながら、観察者としての”ませた”視線で周囲を見ていた気がしま す。
寒い日があり、暑い日があり、どうかお身お大切に。  2019/06/16   杉並区   藤

* 「生い立ち」などに触れたらしい創作らしき文章『のぎく』をファイルで送ってみえた。京での地理などにも私の「清水坂(仮題)」と内容がもし触れ合っては困るので、自作が仕上がってから読もうと思う。

* 「私は女ですから、何でも男並みにといっても、性のことだけはお互いのわからないところがあり、それは当然だと思っています」と「ぱぱら拾い読み」したとあるのは、ごく尋常の「女」の人の思いだろうナとも思う、「男」もそうかも知れないが。
この作では、「老いの」という視座をおき、「セクスアリス」「ユニオ・ミスティカ」を男女文化としても考えたが、独り合点が過ぎているかも、なあ。

* 「藤」さんと同じ京大卒の「尾張の鳶」さんには、「三部通して読後に」感想が聴きたいと伝えてあり、今日は、懐かしい「高台寺」の写真をたくさん送ってきてくれた。感謝。
高台寺から清水三年坂へは、一本道。『みごもりの湖』では、朝日子も連れて夫婦で散歩の途中、名ばかり丹波の壺を古物の店で買ったり清水焼「鬼の面」に 驚いたりしたのが「書き出し」であったかも。月釜がかかると茶室時雨亭へも通った。「高台寺」は、『雲居寺跡 初恋』の舞台、そして現在でも『初稿・雲居 寺跡』の仕上げがわたしの宿題になっている。
壮絶なほどの大竹藪は 私の愛してやまない、清閑寺陵奥の景色であろうか、『冬祭り』の恋しさを思い出したが。ありがとう。

* 高台寺だけでなく、ナーンと近江の石馬寺へまで脚を伸ばして貰っていた。なんという、懐かしさ。初めて石馬寺を訪れ、庭の見えるお部屋へあげてもらい ご住持のお話を伺ったのは、何十年の前か、むろんわたしは会社員・編集者としての出張を利してあの石段をのぼったのだ、また小学生の建日子を連れてもでか けた。あそこへ行けてなかったら、「名作」までいわれたわたしの代表作「みごもりの湖」は書けてなかったろう。
「尾張の鳶」さん、京の出町菩提寺の「秦家墓」の現状も写真で送ってくれた。墓碑は綺麗だが卒塔婆はみな荒れている。少なくも、わたしの古稀いらい、十 余年は躯が許さず、掃苔すら出来ていない。建日子に寺と墓のことは依託してあるが、彼も目下働き盛りの忙しさ、かなしいことに頼むに足るお嫁さんがいな い。

 

☆ 竹藪は高台寺の
傘亭、時雨亭から下る道に。風強い午後、うねり騒いでいました。
今週はグループの展覧会があり、今日は介護。  尾張の鳶

* 『雲居寺跡 初恋』を書いた昔が懐かしい。坊さんに叱られ叱られ好き勝手に境内を経めぐっていた。「吉野東作」氏、あの傘亭多く向こうに奥さんとの二階の「寝どこ」を造っていた。京都という風土には美味しい御馳走が満ちあふれている。
展覧会への出品も介護も、御苦労さま。
2019 6/18 211

 

☆ 夏至すぎて
再びお忙しい日々が控えているかと察しますが、如何お過ごしでしょうか。
慌しい日々が続いて、先週は四日も街中に出かけ・・先日京の写真を送ったままになっています。
湖の本が届き、少しずつ読み進めていますが、皆様の感想も参考に、それでもまだ半ばあたりで難渋しています。誰にとってもテーマは重大で振り返れば人生 の大問題なのに、ましてや文学として真正面から取り組み書くというのは・・・!!! 興味から軽々によまれるのはどうしても避けたい事、と思われます。
鞍馬から貴船への道を歩きました。
午後から雨という予報もありましたが、いっそ暑さを凌げるかと思い立ち、鞍馬神社本殿から奥宮までの木の根道へ。八瀬の辺りから少しずつ窺える昨秋の台風被害での倒木はそのまま放置され、権現杉も無惨に倒れていました。
奥宮から貴船にかけては急坂ながら木立の清冽も楽しみました。
今、何故この場所か、それは昨年亡くなった友人の伴侶の方から手紙を頂いて、その中に療養の合間に訪れたであろう貴船神社の写真があったからでした。彼女は山歩きなど到底不可能だったでしょうが、わたしはどうしても鞍馬から貴船に行きたかったのです、彼女の分までも。
貴船は川床は今や外人観光客で賑わっていました。
奥宮の船形石を上方から撮りたかったのですが・・叶いませんでした。以前見た形を思い出して、いつか描きたいと思います、ひたすら想像して。
石馬寺は帰途に立ち寄りました。低気圧の通り過ぎた後で風が強く、石馬の集落に入るまで身体が吹かれ押されるほどでしたが、繖山の懐に入ると無風になり 静かな時が過ぎていきました。石馬寺への石段はいつもひっそり苔に覆われて、ひたすらひっそり。此処は長い石段が続きますが、その石段の幅も傾き具合も意 外なほど疲れません。(直角になっている新しい石の置き方ではなく、石自体が10度か20度の傾斜で並んでいます。)
本堂の入り口の小野篁作と伝えられる大きな閻魔様の濃い臙脂の顔、その向かい側に控える司命、司録。そして阿弥陀様、十一面観音、役行者などに取り囲まれて至福の時間でした。
勿論 繖(きぬがさ)山や金堂の集落など みな『みごもりの湖』の世界です。
夏至も過ぎて、夏はこれから。申し込んだツアーは催行されないと連絡があり、がっかり、さてどうしよう、個人旅行を楽しもうかと思いつつ、まだ何も決められません。とにかく夏の暑さに弱い鳶です。
くれぐれもお身体大切に、大切に。
東先生との短歌の往来、心に沁みます。
東先生の回復、お二人の安寧を祈ります。   尾張の鳶

* 自在に飛んでいるような鳶が羨ましくて成らない。いい便りを呉れるから許すけれど。鞍馬、貴船、石馬寺、 ああなんという世界だろう。『冬祭り』  『みごもりの湖』 いまも胸に生き生きと呼吸している世界。京、近江。妻と二人で乗った比良の秋へのケープルカー、前夜の鞍馬の火祭。
さながらにわたしは自作の小説をそののまま呼吸して生きていた。
東さんの容態は分からない。広い講演会場の狭い通路で行き違いながら言葉を交わしただけの歌人だが、歌集を介しての親和親睦は久しい。奈良の、なにか高層のビルの上の方で暮らされていたのではないか、泊まるところがなかったらいつでもお使い下さいと云われても居たが。
胸に沁みる歌を念じ歌いながら元気を取り戻されるように。
2019 6/25 211

* 私の 感傷 の原点は、当尾の祖父母の邸で犬ころと地べたにしゃん゛んでいた(上記の)写真でも、戦中戦後の丹波の山村暮らしでも、有済小学校の五年 で送辞を読み六年の卒業式に答辞を読んだことでも無い、 原点は 八坂神社の西楼門の裏で、優しく力強く「背」を押して、「さ、ひとりで行きなさい」と励 まされた日に在る。意識も意嚮も自覚もあのときに点火された。
2019 6/28 211

☆ 秦 兄
憂鬱な季節が早く終わることを念じながら、遅々として進まない作業の手を止めて、兄の日録から「オイノ・セクスアリス」にたいする反響などを興味ぶかく 拝見しています。兄は文人として宿願の一つを達せられました。いまはその最初の一部しか知り得ませんが、その続篇にもまして、最後の ? 大作を大いに期待している一人です。
仮題の「清水坂」から日録の読者諸氏はどんな内容を想像し期待しておられるのでしょう。
京都の観光スポットの上位を占める清水坂ですが、私はこの仮題を最初に兄の日禄で見たとき、反射的に類義語として「奈良坂」が閃めきました。
京都人の兄なら 文人として、平安から鎌倉・室町時代にさかのぼる「賤民」に関心がない筈がないと確信しています。「性」と同様、この大きなテーマにも是非とも取り組んで頂きたい、否、取り組むべきだと私はおもいます。京都人の作家として。
もし、私の勘が外れているなら 酷な言いようですが、この難題に対して病身老躯に鞭打って作家 秦恒平の心血の最後の一滴まで注いで頂きたいとおもいます。
「遊女」「河原者」「乞食」等を快刀乱麻、どのような切り込み方でも結構ですから何としても最後の最後の力作として後世に遺してください。
そのためにも、日々じゅうぶんご自愛のほど。 2019-6-28 京・岩倉   森下辰男  少年期同窓

* 森下君は、わたしの仕事の一部分しか目にされてないので、わたしの多くの仕事の一貫した大きな主題が京都で学んできた「人間差別」へのつよい批判だと 気が付いていないようです。わたしの京都観や京都批評はもとより、小説「風の奏で」「冬祭り」「あやつり春風馬堤曲」「最上徳内 北の時代」「シドッチと 白石」 批評でも 『日本史に学ぶ』や中世論等々、仕事の大方が、人間差別への強い批判や批評の仕事なのです。それに気が付かない人は、秦 恒平は「美と倫理」などと云うてくれるのです。それもケッコウですけれど。
『オイノ・セクスアリス』も例外でなく、仮題『清水坂』は、全然例外であるどころか、作家生涯のカナリに辛辣な批評の物語に成るでしょう。京都生まれそだちだからこその仕事をわたしは最初から意識的に積んできました。出世作となった「清経入水」も当然の出発点でした。

* わたしの小学校は有済校でした。「堪えて忍べば済す有りと」と刻んだ石が校門内の草むらに埋もれていたのを知っています。学区のかなりの範囲が歴史的 な被差別地区であった日常と現実をわたしは少年の昔から体験的によくよく知っていて、だから、批評的な作家になったのです。近隣の粟田小学校区にもそうい う地域の含まれていたのを知っています。いえいえ、京都には実に広範囲に同様の問題があり地域が広がっていました。なんの、京都には限らないのです。忘れ ていてはならないのです。

* 森下君 「最後」ということばを何度も使ってくれていますが、私はまだ「最後」というより、まだ昨日今日明日の課題と心得ています。出来る限り、努めますから元気で観ていて下さい。
2019 6/28 211

* 少なくも自身で人間ドックを予約して出向いた2012年以降、一度も京都へ帰っていない。それ以前の記憶で確実なのは古来稀の七十歳誕生日、2005年12 月には今度の長編巻頭の南座観劇のままに妻と帰京しているが、それ以降は全く記憶がない、帰京すべき用事も幸便も無かった。まるまる十四年間は京都へ帰れ ていない。たとえ帰京の折りに恵まれても多忙のママ先ず二泊がいいところで、日帰りは始終、たいてい一泊で東京へ舞い戻っている。昭和三十四年、一九五九 年に上京、就職結婚して、氏一九六九年に受賞して作家生活に入り七四年に二足の草鞋の片方をぬいだが、とても左団扇でなど暮らせなかったし、書きに書いて 書き捲っていたので、作家業の余のヒマなど有り得べくもなかった、そして東工大教授への招聘があった。ま、京都には親たちも家ももう無かったし、二十余年 勤めた京都美術文化賞の選者も体力と時間を惜しみ、辞して退いた。

* 『オイノ・セクスアリス 或る寓話』は、まさしくこの、事実、作者わたくしの古稀より以前から大病後までのほぼ十年の「京都」を場面にし、印刷会社の相談役吉野東作老の 気儘なフイクションとして成り立っている。故郷愛がひしひし作者の手をひっぱって成さしめなさしめたといえるが、「もらひ子」として生まれ育ち愛おしい人 らとも出会ってきた、身の痺れるような懐古の思いに作者は手を牽かれ続けていた。創作の機械へ向かう坐辺には、父が母を描いた繪があり、妻とこもる茶室 「寝どこ」の写真もありつづけた。襖には、京都市の南半を詳細に伺わせる大きな地図が終始貼られていて、まだ剥がしていない。「藤基次」の名を刻して「天 正十九年八月 吉祥」と明らかに刻んだ、音色も清しい砂張の「環鈴」も、いつも、手渡されたまま わが手のふれる間近に在った。
したいけれど出来ない、 出来ないけれどしたかった、 してきてよかった、とても出来なかった、よかった、いやだった。
そういう赤裸々な性の描写・表現が かくも徹底して成された近代日本文学作品は、荷風散人にも無かった。(タダのエロ読み物はどんな古本屋にもワンサとあったものだが。)
性の極致は、人の「生まれて・死なれて・死なせて」に直に交叉してくる。男女の悲喜劇はまっこう此処に生まれる、多くの目がただ逸らされているだけなのだが。

* 性行為というだけで、のこる三分の二も読まないまま立ち去った読者が、ほぼ予想通りにあった。それは推察できた、アキラメを付けていた。
わたしは、自身 書くべきを、思い切り書いただけ、書かなかったら悔いたであろう。
2019 7/7 212

* 京・古門前のお師匠はん 縄手のお茶漬鰻と、昔むかし秦の叔母社中たちのなつかしい写真を数枚送ってきてくれた。知る限り、いまも存命なのは お師匠はんのほかに只一人だけ。

* 昔の女友達に会いたいなどと思わなくなった、自分をかがみに映せば、当然の思いである。じつに鮮明にみなみな小中学校時代の少女のママで、早くに東京へ出たので、だれもその後の容貌などまるで知らないのである。
知らなくて幸いと思える歳になってしまった。
この「お師匠はん」にしても、宝塚に跳び込んだほどの美人、小学校六年で隣の組へよそから転入してきたとき、あまりの美貌に遠くでのけぞったほどであっ た。それを記憶している以上、同年同歳の八十三婆は、いくら懐かしくても、電話程度で遠慮したい、親愛の気持ちでいつまでもいたいのだから。
2019 7/18 212

* 昨日送られてきた昔の写真の一枚は、間違いなく縄手の龍ちゃん宅の炉開きの茶会だろう、先生である叔母宗陽をなかに七人がいわば記念写真に入ってい る、うち今も健在なのは、高校生だった龍ちゃんと藤間のお師匠はんの、二人だけ。六十余年もむかしの写真ということ。そんな時が事実在ったのだというこ と。

* 高麗屋の女房さん、気さくな葉書での来信、村上開新堂の山本社主からも、ご丁寧な来信。

* 京都の読者、長村美樹子さん、同志社大に新設の社会学部長佐伯順子さんへの連絡など、親切に仲介して下さった。佐伯さんへもメールできた。
2019 7/19 212

 

* 古門前の大益「お師匠はん」の送ってくれる京祇園の小粒の砂糖菓子「おちょま」は、まえは「おちょぼ」と謂った。
「おちょぼ」という語は、祇園町に接して育ったわたしには、御茶屋に働く少女らへいささかわるくちめく投げことばだったし、それゆえ改名したのだろうか、
「おちょまとは何ぞや。長松の愛称なり。長松とは誰ぞや。乞ふ、文楽の寺子屋の涎くりを想ひ出し給へ」と、店主売り出しの挨拶が付いている。あの大柄で洟 垂れの涎繰りにしては、小粒で愛らしい白無垢和三盆の頭には、美しい紅一点が点じてあって、「おちょぼ」の俤をしっかり伝えている。
そしてこれが、小粒なりにまことに美味い。甘い。ほっと疲れたときに何とも謂えず口に含むのが嬉しい。
菓子の木筺には、白紙の 上へ「そ」の一字 下に「大益」と苗字 墨で自筆の札が載っていて、むろん、「そ」は 粗品の、あるいは素志の意と読める。 ああ、京都やと 懐かしい。
2019 7/20 212

☆ 梅雨入りのうっとうしい日々でございます
今月も御本お届け下さいましてありがとう存じました
いつも御夫妻共々前むきでお目にかかって気持ちよくお心が伝わり見習いたく思っています
主人(=二世松本白鸚さん)と息子(=十代目松本幸四郎さん)の巡業も半分をすぎ後半になりました
又 お会いするのを楽しみにしています   松本白鸚 内

* わたしたちは二十年来 高麗屋のえらい役者さん以上にそもそも「高麗屋の女房」さんのフアンのようなものであったと思う。わたしが或る婦人雑誌に連載 時、いつも隣り合って連載されていたのが「高麗屋の女房」と題したエッセイで、みごとに美しい落ち着いた和服姿の写真に見入っていた。ご夫婦にペンクラブ へ入ってもらい、松たか子さんにも当時の染五郎さんにもペンに入ってもらった。みな筆が立ち著書も次々に出ている。白鸚さんには句集もある。お祖父さんの 初世中村吉右衛門も「顔見世の楽屋入まで清水に」などと、佳い俳人だった。
大昔の思い出になるが、京都の新門前、父のハタラジオ店のわきに新橋通りへ抜けて行く路地があり、初世白鸚さん(まだ市川染五郎そして松本幸四郎を襲名 頃であったろうか)が南座へ出勤時には、ご家族(夫人、まだ少年ぽい今の白鸚さん吉右衛門さんら)は東の梅本町の定宿からお揃いで出勤されていた。時にお 父さんが店の戸をあけられ、乾電池などを買って行かれ、わたしが応対したこともあり、重厚かつ穏和ないい顔をされていて、久しく久しい御縁の緒となった。
人生、なかなかに味なものではあるまいか。

* 気むずかしいと思ってる人もあるか知れないが、中学時代のあだなは「へんくつ」「ワンマン」だった。高校では「坊主」だった。わたしは、いわゆる「人 見知り」をしない。これはと思う方だと大先輩でも大先生でも大人気ものでも怖じ気づかず、そのためか、いろんな方からたくさんなことを教わったし、目も掛 け手を牽いても頂けた。すばやく仲よくなり会話が弾むということを、むろん敬愛できる相手でないとイヤだが、いわば得手にしている。多くの多くのコトを人 に教わってきた。独りだけでの勉強ではタカが知れている。
2019 7/21 212

☆  秦 兄
参院選が終わりました。テレビの開票速報を見ながら早々の当確の万歳三唱や、当選者のボードに薔薇を貼りつけているドヤ顔の党首を白け切って眺めていたのは私だけではないでしょう。
特別に入れたい人も政策もなく、それでいて絶対に投票してはならない人や党はあるのに、どうすることもできないじれったさ。「×票」の制度さえあれば、あのドヤ顔も見ずに済むのにと ゴマメの歯ぎしりの一頻りです。と言って、決して詮ないことと諦めてはいません。

さて、ようようにして大作の『オイノ・セクスアリス 或る寓話』を たいへん興味ぶかく読み終えました。冒頭の、私たちが生まれ育った近隣界隈の活写に一々頷きながら 1781年創業の老舗・鯖ずしの「いづう」の店名に出くわし 早逝の洋画家に思いを馳せました。

 

洋画家の名は ネット検索にもちらっと見えますが 明治19年に旧宮侍(宇治の堂上日野家家老船川仲)の家に生まれた船川未乾(本名貞之輔)で、大正のはじめに「いづう」の娘・佐々木咲子と結婚し 知恩院山内樹昌庵に住まいし、園頼三の詩画集や高倉暉、川田順らの挿絵や装幀をし、1922年4月咲子と渡仏。A.ロートに学び ピカソ、ブラック、ブラマンクらと交遊し翌年帰国、鹿ケ谷法然院西のアトリエで主に静物画を描き 1930年4月9日肺病で夭逝。享年44歳。
榊原紫峰を葬儀委員長に葬儀、百万遍の知恩寺に納骨。昭和41年園頼三(同志社大名誉教授)・矢部良策(創元社社主)・尾関岩二(児童文学者)の連名で知恩寺内に戒名龍光院未乾貞昭居士の石碑建立。
入魂式のときの咲子は姓も変わって坂崎咲子であったとか。

 

この船川未乾は、私の家内の父方の大叔父で、船川仲の三男に当たります。ちなみに長男華州(本名清一郎)は日本画家、次男六蔵は家内の祖父で港井家に婿入り。こう見てきますと世間は何とせまく 悪いことは到底できないと今更のようにおもわれてなりません。
毎年文化の日を中心に知恩寺での秋の古本まつりには未乾の墓参りを兼ねて足を運んで昭和2年発行の園頼三の「怪奇美の誕生」や尾関岩二の「お話のなる樹」などを掘り出しました。数すくない未乾の絵は散逸していますが 北白川宮家に買い上げられたほか矢部良策、薄田泣菫らが所蔵とのこと。

冒頭から脱線してしまい失礼しましたが、大作の感想は改めてつづることにします。
選挙結果と高温多湿で意気消沈ですが、バロック音楽で癒しています。面白い音源をまた披露します。
エアコンで夏風邪など引かぬようご留意ください。   京・岩倉   森下辰男  同窓

 

* はからずも色んなコトが知れてくるのでおもしろい。
森下君のたよりのなかに なんどか園頼三先生のお名前が出て、一入懐かしい。
大学での恩師・大学院でも指導教授。参考文献を一本もつけない学部卒論に80点も下さり、院へ入学も即許可して下さった。それなのに、たった一年で、東 京へ一年下の妻と「駆落ち」の許可も申し出て許して下さった。私家版も喜んで読んで批評して下さり、亡くなった枕許にはわたくしの本が置かれていたと聞い ている。
『怪奇美の誕生』もむろん所持しているし、なにより園先生独創の「美的事態論」を本気で卒論へ迄追いかけたのはわたくしだけであったろうと思う。
それは優しいお人柄で こころより慕っていた。
矢部良策さんの名もひとしお懐かしい。
実はわたしは院をやめ、矢部さんが社長をされていた当時の大阪創元社に勤めたいと、大阪まで矢部さんを尋ねていったことがある。矢部さんは、しかし、同 じなら東京へ出てお行きなさいと奨められ、結果として、東京本郷の医学書院を受験、金原一郎社長、長谷川泉編集長(鴎外記念館館長、著名な国文学研究家) の薫陶を得つつ太宰治文学賞の受賞式当夜にまで到ったのだった。
多くに教えられ 多くに見まもって貰いながら 人生は紡がれる。

☆ 秦先生
暑中お見舞い申し上げます。

先日はご丁寧なお便りを頂戴いたしながら、出張先からの短いお返事で大変失礼をいたしました。あらためまして、ご丁寧なメールを頂戴いたしまして、心よりお礼申し上げます。(同志社の文学部社会学部の広島父母会で、広島に出張いたしておりました)。

先生におかれましては、胃の手術をなさったとのことで、大変遅ればせながら、心よりお見舞い申し上げます。 無事にご復帰をなさいまして、選集のご刊行、心よりお喜び申し上げます。同志社大学とご縁ができたのは、本当に不思議なことでございますが、先生がご令室 さまとともに美学藝術学のご出身でいらっしゃいますことに、さらなる不思議なご縁をいただき、感謝にたえないことでございます。

同志社大学のすばらしさ、特に、文学部のご研究の京都ならではの蓄積に、いつも感銘をうけつつ仕事をさせていただいております。田中励儀先生とも、鏡花研究会等でときどきご一緒させていただいております。

近年、同志社に限らず、私立大学は研究、教育以外にも、いろいろと仕事が増え、数年来単著の出版ができないままでもどかしく存じてはおりますが、『遊女の文化史』をご高覧いただきまして、光栄に存じます。

先生のご長編も、心より楽しみにさせていただきます。

蒸し暑い季節となっておりますが、どうぞお体をお大切に、ご執筆がすすまれますようお祈り申し上げております。    佐伯順子  同志社大教授 社会学部長

* 恐縮です。佐伯さんの社会学には、おそらく清水坂も鴨川も花街も、佐比河原も遊行女婦たちの遍歴も関わっているだろうと、多年のお仕事にやがては触れうるのではと期待している。

* 何時頃からか知れない、いま、三時半を過ぎていて目ざめた。眠れて良かった。疲れれば眠るに過ぎた薬はない。願わくは夢も見たくない。人と話したい、 声が聴きたいと思う。ちっとも出かけないのでそれがない。メールは声がしない。私用の電話を掛けるのが、掛かってくるのも、昔からむしろ苦手で嫌い。編集 者の仕事では電話をかけるのが本分で、わたしは実に電話仕事で能率を上げていた。その反動で私用の電話が嫌いなのだ。

* 颯爽という二字にいま憧れる。グッタリしている。
京都へ帰りたい。祇園、円山、清水坂、泉山、東福寺。歩きたい。博物館に入りたい。盛京亭で炒飯が食べたい、松葉で鰊蕎麦が食べたい、千花で酒がのみたい。小学校も中学も廃校という、なんということだろう。なんということだろう。

蒸し暑い季節となっておりますが、どうぞお体をお大切に、ご執筆がすすまれますようお祈り申し上げております。    佐伯順子  同志社大教授 社会学部長

* 恐縮です。佐伯さんの社会学には、おそらく清水坂も鴨川も花街も、佐比河原も遊行女婦たちの遍歴も関わっているだろうと、多年のお仕事にやがては触れうるのではと期待している。
2019 7/23 212

☆ 梅雨
鬱陶しいですね。
先の京都行きでの 柳のなびく白川行者橋の辺りの写真を送ろうとしたけれど マア 余計なお世話かなと 止めました。懐かしい佳い通学路でした。
最近は京都迄、新幹線も非常に速くて又行きたい気分。  花小金井  遠藤千恵子  同窓

* いまのわたしには 毒を呑む心地。
2019 7/23 212

* 昨日 京都中央信用金庫より『公益財団法人 中信美術奨励基金(京都美術文化賞)三十年の歩み』が贈られてきた。三十年間の授賞者と作品とが佳い写真 になっていて。「美術京都」誌刊行や各回作品銓衡等々の、発足当初から、選者・理事・編集顧問等を24年間担当し続けたわたしには、古証文ながら懐かしい 有り難い記憶の助けになる。当初からの選者仲間だった、梅原猛、石本正、清水九兵衛、三浦景生、小倉忠夫さんら、すべて逝去、懐かしい橋田二朗先生も。
授賞者の顔と作品を観なおしていると、懐旧の思いに襲われてよろしくない。自分で強く推して当選された人数も夥しく、樂吉左衛門(直入)さんら何人かとはいまも親しい交信がある。
いい記録を作ってくれました。感謝。
2019 8/1 213

* 美味そうに食べますねと、小説のなかでのハナシだが、「秘色」「みごもりの湖」などの昔からよく羨ましがられた。こんどの『オイノ・セクスアリス 或 る寓話』でも、贅沢にとは思わないけれど、実に多彩に美味い店で美味い食事を楽しみ続けた。京都だから出来たし書けたし楽しめた。京恋しさ懐かしさをそれ でよほど慰めていた。わたしは、ひもじく育ったので、食べたい人のまま大人になり老人にもなったが、掌をひっくり返したように癌で胃全摘の以降は、もう七 年半になるのに、地を払ったように食べられなくなった。食べてはいけないなど云われていないが、食欲が文字どおりに払底してしまった。ただ思い出は生きて いる。うれしいほどフンダンに生きている。京都時代に美食など出来なかったが、勤めをもち、また作家生活に入っての帰京の機会はまさに食べる機会であった なあと思い出す。

* 六十年も暮らしているのに、東京はあまりに貧相にしか知らない、もう二十年、寿司の「きよ田」が無くなってからは、あまりに平凡に帝国ホテルで、その クラブで、しか贅沢はしていない。佳い店を識らないのである。昔の編集者は、ただただ飲ませる店へ連れてくれたが、編集者の趣味は概して味気なかった。 「きよ田」は抜群に好かった。
2019 8/9 213

* 瀬戸内海を右往左往してる最中に 京都宇治の伊藤さんから、じつに久々 の電話に呼び出された。もう昔に東京勤めから京都へ帰ったぬそとで、京都へ帰ってこい、帰るべし派の人で。電話の中味は、とても信じられない異様な、「京 都市」という名称が某大企業の画策で変わろうとしていると。それはないでしょう、あってならないと思うが。とにかく情報が欲しいと頼んでおいた。あり得な い、あってならぬコトとわたしは思う。

* 十時前。もう限度へ来ているよう。ぐっすり寝入りたい。
2019 8/10 213

* ジリジリと「清水坂」で苦行しつつ、気慰みに、「選集 第三十二巻」に収録小説集を検討、目次を立てていた。いわゆる版元からの単行本出版にはしな かった、みな「湖の本」版。さきざきでまだ新作が出来ると思っているが、この巻では最新作長編「清水坂(仮題)」で締めくくれるようでありたい。最終巻に は、「私」ものの思索・感想・記録・年譜等々を取り纏めたいが、未公表・未収録分を含む詳細な作品年譜までは手が届かない。私自身まだ生きているのだか ら。

* そこへ京都から、写真。 嗚呼!

尾張の鳶・寫  今宵 京の大文字
2019 8/16 213

 

* 昨晩もらった京の「大文字」の写真は美しく胸にも目にもしみて、泣けそうだった。
2019 8/17 213

* 明日、八月が逝く。あの燃える京の大文字を、来年まで胸に目に、持ち歩こう。
2019 8/30 213

 

* 何となしにふらっと西向きに新幹線に乗れるなら乗ってみたくなっている。京都に宿がなければ近江でも奈良でもよく、もっと西へ向いてもいい、瀬戸内海が観たい。
2019 8/30 213

* あの大文字も消える刻限になった。美しく胸に沁みた写真、惜しみながら、消した。
2019 8/31 213

* 生涯で、もっとも深く永く、亡きいまも慕っている人は、よく、こうわたしを戒めた、「孤独はええのん。けど孤立せんように」と。わたしは敗戦新制の中 学二年生だった。向こうは三年生だった。「わかるひとは云わんでもわかるの。わからんひとは、なんぼいうてもわからへんの」とも教わった。
伝え聞かれた京大数学の名誉教授だった先生は舌をまかれ、「京都の女の子の、なんとスゴいと」書かれていた。
わたしは相変わらず「孤立」ぎみで、「わからん人」相手に犬の遠吠えのような真似をしている、もうすぐ八十四にもなろうというに。
遠からず向こうへ行ったら、昔どおり少年のアタマに柔らかに手を置き、わらってくれるだろう。
2019 9/18 214

* 昨夜は 疲れ寝に床に臥した。いまは昔、京都へ帰ったとき妻と 丹波亀岡から戦時疎開してい た山間の「杉生」(昔は京都府南桑田郡樫田村、今は大阪府高槻市とか。)まで訪れた。亀岡市のひっそり閑とした料亭の広間で食事し、保津川沿いに嵯峨へ 戻っていった。そんな夢をかなり克明に見ていた。市内三条の三島亭ですき焼きを食した時は、もう妻は疲労困憊していた。楽しいままに気の毒なことをした と、今もときおり思い出して話しあう。
2019 9/19 214

* 廃校にされた母校、元の、祇園石段下の弥栄中学の跡地に奇妙奇天烈な巨大な腸(はらわた)のような建物ができて、その迷路へ呑み込まれて四苦八苦抜け 出せない夢をみた。とにかくも私のみる夜ごとの夢は尋常でない。へとへとに疲れることも。稀稀に時に優しい嬉しいめも見るが、たいがいは魘される。魘され ながらもそこに何か発見や発明はないかなどと思うのだから、根からややこしい人間なのだと惘れる。
2019 10/1 215

☆ 「天野哲夫(=沼正三『家畜人ヤプー』)著『禁じられた青春』に<戦中・戦後>を聴く」

昭和十九年は実に駆足の如くにすぎていった。この年の六月--ローマの陥落、ノルマンディのいわゆる「史上最大の作戦」、七月--学童疎開の開始、サイパン島玉砕、東条内閣総辞職、八月--シナ南部からB29の北九州、南朝鮮、山陰地方への空襲、パリ陥落、九月--停戦交渉をなんとかソ連に仲介してもらおうと特派使節派遣を最高戦争指導会議で決定しながらモロトフ外相に拒否されるという醜態、ドイツのV2号ロケット弾は画期的傑作として威力を発揮したが時すでに遅しの憾み、そして十月-レイテ沖海戦、神風特別攻撃隊の初出撃、十一月-- 超弩級、幻の大空母『信濃』が竣工しながら、四国へ回航中、米潜水艦の魚雷四発であえなく沈没、わずか十日間の束の間の命、サイパン、テニアン、グァムの 飛行場からB29の東京大空襲の開始と入れ違いに、日本からは風任せ風頼りの風船爆弾九千三百個が大空に放たれる苦しまぎれの「ふ」号作戦開始--

* 私は九歳、この愉快ならぬ報道の殆どを、耳ラジオ、目新聞から受け取っていた。
「風船爆弾?」 さすがに口には出さなかったが、失笑し失望した。
疎開先の田舎、当時の京都府南桑田郡樫田村字杉生の農家には書籍をほぼ全く見なかった。むろん本屋もなかった。秦の父母はわたしのために本を買うなど一 切なかった、病気した時に「花は無桜木人は武士」という半漫画のようなのを買ってくれたのが只一度で、失笑するしかなかった。仕方なく母と叔母の婦人雑誌 の買い置き二册を繰り返し読んだし、京都にさえいれば祖父の漢籍や古典や辞書が山のようにあり飽きなかったけれど、疎開先へは持ち出していなかった。読む モノ無し、教科書と遅れ遅れの新聞だけ、ラジオは聴けた。京都へ早く帰りたかった。
2019 10/19 215

 

* 思い出した、昔も昔のこと学生時代だったが、昨日十一月二十六日に、まだまだ結婚前の妻と、鞍馬から貴船へ、錦秋の山越えを楽しんだ。ひと月ほど前、十月十六日には大文字山へ登った。秋色はまだほのかで、比叡をかえりみ京の街を望んだ空が広々と蒼かった。
京都へ帰りたい。
2019 11/27 216

☆ こんばんは
秦 兄  お礼がおそくなりましたが 昨夕「湖の本」147号を拝受しました。ありがとうございました。
何日か徹夜続きで寝不足のせいか、めずらしく風邪で寝込んしまい、ようやく起きだしてメール箱を開いています。
40年近く内科医とは無縁の男ですが 鬼の霍乱というやつでしょうか。それでも魚の干物や梅干し等で熱燗を飲んでは寝ているだけの至極シンプルな民間療法で どうやら完治です。
「戦後日本流行歌史」も昭和25年の「東京キッド」で中断のままですが、弥栄中の3年の頃の流行り歌など またぞろ20数曲ピックアップし始めましょうか。ただ なつかしいというだけの歌ですが、それを称して「懐メロ」という、理屈抜きで歌はそれでいいのです。
弥栄中の3年生の頃か、鰻の「梅乃井」の(三好)閠三君や、(西村)てるさんらと 図書室で修学旅行用の案内パンフをガリ版刷りしていた階下の音楽室では (石塚)公子さんと渡辺(節子)さんがピアノを弾いていたりして、
第5集は そんな頃を思い出しながらの作業を愉しむことにしましょうか。
師走とは、師も走るほど せわしないのか、師へお礼参りに忙しいのか。サンデー毎日の身でも何とは なしに気ぜわしく落ちつかん月です。
兄もマイペースで誕生日や年末・年始をお迎えください。  京・岩倉  森下辰男

* 中学時代の、懐かしい思い出の断片が幾つも混じったメールで、ウホッと思っている。修学旅行用の独自の「案内パンフ」というのを 三年生の五つの組が 互いに競争心を燃やして創り合った、よく覚えている。森下君は四組であったのか。私は五組であった。日立で活躍したテルさんとは今も付き合いがある。「梅 乃井」の三好君とは「美術京都」で洒落た趣向の対談を楽しんだのに、その後羅に急逝された。
も一つ、ピアノを弾く(弾ける)二人の女生徒の名が出てくる。間違いなく昭和二十五年頃の弥栄中学でピアノの弾けたのはこの二人キリだった。二人とも、 容貌も挙措もよく記憶している。森下君は石塚公子をひそかにか好いていたと以前に聞いて「へえっ」とビックリした。この「公子さん」 わが家の真向かいの 子で、一年間 一緒に専用のバスで馬町上の京都幼稚園まで通った。わたしなどは、「公子(きみこ)」でなく 「ハム子」と呼んでいた。「渡辺節子」の方は 当時敗戦後の弥栄中学の雰囲気をいちじるしく逸れた、(生徒会長を続けた私も、運動靴はぼろぼろ、時に跣足で登校したし、帽子の庇もヒンめくれていた し、)しいて謂えば「令嬢ふう」であった。二人とも、ま、一般に冷然とシカトされていたと見えていた。
私はというと、学年の違う三姉妹を心底愛し親しんで 気持ちは今日只今も少しも変わらない、が、姉と、下の妹にはもう「死なれて」いる。中の妹が、いま京 の町なかで、どのように暮らしているのか、中学を卒業以来、何も知らない。住所と聞く先へ「湖の本」は送り続けているけれど。ただただ無事に、元気でいて 欲しい。
中学生って、ふしぎだなあと思う。 往時渺茫、けれど懐かしい。
2019 12/1 217

 

* 創作された小説にも、いろいろな動機や刺戟や勧誘が働いている。すこしずつでも作へ立ち入った感想や批評が欲しいなと期待している。「読んでから」と思ってられる方が多かろうと、心待ちにしているが。

* 「作家以前」「太宰賞まで」の自筆年譜を、思うとこ ろ有り読み返している。人さまに読んで欲しいというより、私自身が、いつ目をむけてもそこに生涯で一等懐かしい時期が思い出せるように書き綴ってある。こ とごとく ありありと往時を思い起こすことが出来る。往時をただ渺茫にしてしまうまいと克明に用意しておいた「私記録」である。

* 読み返しながら、思わず笑えるのは、私の、以下、こういう「男女観」の浮き上がってくること。
私の観察と批評とでは、「男は(金と機械と技術という)文明」に追従し奉仕し奮励し、「女は(女)文化」に慣れ馴染み育てられる、ということ。
私はと謂うと、根から「文明」は疎ましく、「文化」の方を熱く愛するということ。
私は「京都」という「女文化」の都市で、実にさまざまに多彩な「女文化」にまみれるように育った。端的に例を謂えば、秦の父長治郎の、日本中でも先駆け たほどのラジオ・電器の技術には全く馴染まず、しかし父が趣味の謡曲の美しさには傾倒し感化された。秦の祖父鶴吉は、どんな気分でか時に「恒平を連れて商 売に行く」と愚痴ったそうだが、私は「商売」は御免、しかし祖父が山と積んでいた書物からは本当に多く多くを学んだ。秦の叔母つる(宗陽・玉月)は茶の湯 と生け花、付随して和服・道具・書画や茶会へ、なにより女たちの輪の中へ少年の私を誘い入れた。大勢の老若の女たちがいつも「京ことば」で談笑していて、 わたしはそれらを見聞きしながら育った。
私の自筆年譜には、無数の女性との出会いが記録されているが、男友達の名前は極めて少ないのである。「女好き」とか「女遊び」とはまるで性質を異にした「文化」的な出会いが自然と私にに生まれやすかったと謂うことである。思わず、笑えてしまう。
2019 12/2 217

* 京都府文化賞受賞者らを来賓に例年の府主催新年会の招待が来たが、まず、今回も行けるという実感がない。頼めば宿予約は斡旋してくれるので、好機ではあるのだが、二月六日午前に授賞式、午后交流親睦会、酷寒の京都。一月十日までに返事をとある。夢だけ見るか。
2019 12/25 217

* 心静かに新年、恒平二年を迎えよう。トクベツの感懐もない。静かに靜かにと願うだけ。
誰も誰も、心も身も健康でと祈る。
新年を迎えて鳴りわたね京の除夜の鐘 聴きたいなあ。
2019 12/31 217

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