* 令和二年元旦の鐘を、京都知恩院の大釣鐘で聴いた。明けまして、おめでとう。平和な一年でありますように。
2020 1/1 218
* 朝の連続ドラマ「スカーレット」は二三度出逢っただけだが、ほぼ完璧の関西のイントネーション(滋賀弁、京ことば)を堪能させてくれる稀有の成功作。ストーリイは知らないが会話対話述懐のリアリティはたいしたもの。それだけで懐かしい。京都の「科捜研の女」たちがだれも京言葉を話さずに徹しているのは一 つの誠意。無茶苦茶な京言葉をきかされる無残な思いはイヤほどしてきた。
2020 1/13 218
* 十五日の小豆雑煮を祝った多々。
* 幸いに、昨日、今朝の、体調を示す数字はほぼ落ち着いている。この辺を維持したく、体重はいま少し減らしたい。増やしたくない。
脚のとはなく、むしろ上体に、よろっと崩れる瞬間を感じている。これが安定すれば、乗り物での少しの遠出は出来るかも。京都府文化賞の会が、今少し暖かい時季だと思い切って行きたいのだが、たぶん宿の斡旋は府がしてくれるだろうし
2020 1/15 218
* 明日から、もう二月。「述懐」を寄せて古人の歌などもえらび、写真も気の晴れる色花や、ちょっと自慢の、柴又帝釈天境内で「偶然に」「咄嗟に」とらえた、「かくれんぼ」の鬼さん少年らの瞬間を選んでみた。柴又、もう一度行ってみたいなあ。遠いなあ。
しきりにまた行きたいところが思い浮かぶ。上野と浅草を懐かしむ。博物館、西洋美術館、寄席。食べ物では浅草の米久、上野の天ぷら、静養軒や西洋美術館 内のすいれん。鶯谷駅前の蕎麦の公望荘が無くなったのが惜しい。もう十何年も新幹線に乗ってない。窓から富士山が観たい。京都へ帰りたい。「マ・ア」に留 守番はさせられず、杖をついてもゆらゆらのわたし一人では、やはり危ない。やれやれ。
2020 1/31 218
* 実は今 私の頭と時間を所有しているのは「湖の本」「選集」「病院通い」のほか、幾つかの創作の「芽」を飼うことにまじって、明治の元勲山縣有朋というややこしい「人」なので。私のなかへ住まいを得るなど「とんでもない」遠い人物なのであるが、ひょこんと、しかも影濃く跳び込んでこられて動かない。仕 方なく、わたしは「尾張の鳶」さんの京都行きを煩わしてすこしでも情報が得たいと頼んだばかり。
なにやら気ぜわしい老人になっているものです。眼が、もっとすっきり見えると助かるのですが。
2020 2/6 219
☆ 彦根、能登川あたりは雪、
京都は初雪、静かな風花の午後でした。 尾張の鳶
* 頼んでおいた 京都の写真がたくさん届いた。まだ一望しただけだが、その場へ立ったように、懐かしい。感謝します。感謝します。お手間をかけました。ありがとう。いい仕事で酬わせて戴きたい。すこし、先になるが。
* いよいよ『選集 32』再校が出てくるらしく。そうなると一気に今より更に超多忙になる。
2020 2/6 219
☆ 新型ウイルスのお蔭で
静けさを取りもどしている京都の町ですが、ここ何年かで町の姿はずい分変ってしまいました。先日の市長選でも”観光公害”が中心になっていたくらいです。
秦さんの仰る古き佳き京都はみう無いかも分りません。
御著書有難うございました。 洋画家 池田良則 (新聞連載小説『親指のマリア』挿絵)
* 池田さんに頂いた絵葉書は、私の育った町内にも指折り数えて六七箇所もあった路地(ろうじ)
で、うちの脇のよう抜け路地でなく、路地口の上に長屋の二階が通っていて、下を短かなトンネルのように抜けるとすぐ上は青空のまま奥へだいたいΠ字のよう に両脇に平屋、奥に二階屋が在った入り口の二階下は雨の日など子供の遊び場になった。街なかも開発され、こういう路地は少なくなったろう。新門前通りには 新橋通りへの抜け路地は我が家の西脇に一筋、白川の西、切り通しに一筋だけ通っていた。祇園町へ入る人たちは必ずそのどっちかを抜けて行かねばならなかっ た。
2020 2/8 219
* 丹波に戦時疎開した国民学校四年生の私は、山一つをまるまる石崖のように登り降りし、隣部落の学校までへとへとになり往き帰りした。『清経入水』にその苦行の日々は役立ってくれた。
山のてっぺんを、土地のだれもが「峠」と謂うていた。峠には山肌を溢れて溜まる小さな「泉」があった。街人間には「峠」「泉」は言葉や文字で知っていても馴染みがない。めずらかな心地と疲労の極の峠の真清水は嬉しかった。
2020 2/16 219
* 今夜の機械仕事は終えよう。瞼が腫れたように重い。京都が人少なに空いていると。行ける時に行きたいがなあ。東山と鴨川とが見られたらいい。出来れば 泉涌寺と東福寺。八坂神社と知恩院、高台寺、清水寺から清閑寺。祇園四條と河原町。京都御所と大学。嵯峨、嵐山。ムリかなあ。墓はいらない、骨を撒いてく れと頼んである。
2020 2/29 219
☆ 選集32巻
今日届きました。
体調優れない中、頑張っての作品と 感謝です。早速パラパラ拝見。
私の体調の方は、日夜の温度差で痛みます、ヨロヨロとしながら頑張ってます。
夫の方は検査が続き 4月は3.4日と入院します。
昨年は、ばたばた続きで桜も気に入ら無かったが、今年は、西大谷、太閤坦、博物館、鴨川堤等々の桜はとっても美味しいし、観光が少なくて、静かで心地良く、最高で、ほっとしてます。思い出して下さい!
コロナ感染で恐ろしい世の中になり どうなる事かと心配です。
くれぐれも お大事にお過ごし下さい。 京・北日吉 華 高校同窓・茶道部
* 京の櫻、櫻、櫻。いずれもいずれも 目に沁みるように懐かしく見えてくる。白川辰巳橋からの優しい櫻を此処へ取り込 んでみた。この橋は、秦の母につれられ祇園甲部の銭湯、松湯か鷺湯かへ往き来の要だった、この西向きの右一帯もびっしりと御茶屋の裏手であった。「枕の下 を」流れる瀬音の聞こえた吉井勇短歌のままだった。もっとも戦時中は灯火管制の真の闇を、ただ瀬音だけが流れていた。
2020 4/2 221
* みごとな櫻の京都を背景に「京都人のひそかな愉しみ」とか謂うた永いドラマチックな映像を泣かんばかりに懐かしく観た。なによりも「京ことば」に魅さ れ、食べ物の、料理のよろしさに泣けた。゛なんで、こんな東京の片田舎に暮らしているのだろうとさえ思った、過剰にすぎると思いつつ。
次いで京の春の青もみぢ、秋の紅葉をみせている。コロナにウンザリの目に沁みる美しさ・
2020 4/4 221
* コロナ騒ぎを癒やそうとNHKの嬉しい心入れであったか、「京都」の食、また「京都」のみごとな櫻、櫻、櫻を堪能させてくれる美しい番組の連続に何度も泪ぐみ、懐かしさに胸を高鳴らせていた、私の識らないような場所なく、いっそう切なかった。
2020 4/4 221
* どうしても 八坂神社西楼門からの懐かしい祇園四條の街の灯へ、写真を取り換えたくなった。 十年の余も 帰れていない。 帰りたい。京都も、京都の人も、コロナとの戦争を堪えているのだろう。
2020 4/21 221
☆ 「枕草子」を、いま、現代語で楽しもう(秦 恒平・選訳 學研版)
☆ 五月ごろの山里
五月ごろ山里へ出歩くのが大好きだ。
ものみな青やかに見渡され、こともなげに草の生い茂る野なかをずいっと車でおし渡って行く、と、そんな草葉のかげを深くはないがそれはきれいな隠水が流れていて、供の者や牛が歩くにつれ、白いとばしりを上げる心地よさ。
かと思えば小径の左から右から、垣の小枝や若葉が簾越しに屋形へ割って入ってくる、のを、手折ろうとするとついと手先をそれては、外へ外へはね出てしまう口惜しさ。
また車に踏まれた蓬が、くるくる車輪について、手もとどくまでふと薫ってくるおもしろさ。
(第二〇六段)
* ひときわ 私は、好き。京の市内の川風情のよさ。こういう五月が来てくれますように。
* テレビ朝日の朝の「コロナ戦争」検討は、女優の高木さんとそもそも総研の玉川さんと、立ちゲストの岡田晴恵先生。明快、適確な厳しい政府・専 門家委員会への批判や注文も分かりよく、もっとも信頼が置けると聴いた。権威主義でなあなあのオエラガタ世間では弾かれる顔と言葉かも知れないが、折角、 健闘願いたい。
* 私も、気忙しくならず、からだと相談しながら仕事をつづけたい。昨夜のような体調を繰り返すと危険な淵へ落ちてしまう。「枕草子」今朝の第二○六段 五月の京の山里の風情に思いを慰めている。
2020 4/23 221
* 終日、一字の誤植もゆるされない参考原本の校正に、草臥れた。ふい、ふいと寝入りそうになる。コロナ禍にはわるく馴れ抜けてはならないし。幸いに私の 仕事は、なにより気に入っている「読み・書き・創作」で飽きることは無いが、もとでは、視力と体力。疲れきっては危ない。なんだか、あっというまに大型連 休も、カレンダーによるともう明日一日。やはり仕掛け仕事の尻を追うということになります。なかなか無心につとめるというのも難しいが。
* 無心といえば思い出す。
京都の私の高校にはもと「美術コース」もあって生徒達は異色を放っていた、そんな彼らのための木造校舎の二階に、廣い畳敷きの作法室とならんで「茶室と 水屋」が作り付けられていて、そこを、わたくしは二、三年生時代わがもののように用い、校長に申し出て新設した「茶道部」員たちに点前作法の指導をしつづ けた。
茶室は「雲岫席(うんしゅうせき)」と名付けられていた、哲学者久松真一先生の銘名で、「雲岫」二字の佳い額を鴨居に掲げていた。
「雲岫」とは、陶淵明の詩句「雲無心にして岫(くき=山穴)を出で、鳥飛ぶに倦んで還るを知る」を汲んでおり、ともに「無心の境」を意味していると。私はこの茶室が好きで、授業を抜けだしては「雲岫席」にひとり時に寝そべり勝手な本を読んだり、炭火もなしに水屋のガスで湯を沸かし独り茶を点てていたりした。無心を気取っていたのではないが、雲になりたかった。
2020 5/5 222
* 京都は古い都で、人口多く、それをしも女文化と謂うてどうかと思うが祇園をはじめ遊所は方々に在った。私は、浄土宗総本山の知恩院新門前町に育ち、南 へ抜け路地を脇挟んで背中合わせに祇園町に接していた。祇園の女たち、甲部のお高い芸妓も乙部の遊妓も子供の目で多く見知っていたし、敗戦後の新制中学へ すすめば祇園の子らは大勢いた。弥栄中学そのものが祇園石段下、祇園町甲部の核心に位置していた。京都市立というまえに事実上、祇園甲部立の小学校から新 制中学へ転じた学校だった。指折って数えられる女友達の多くが「祇園の子」であった。同じ題の私の短篇は永井龍男先生等にかなり注目された。こんなのが 十、二十と書けたら「たいしたものです」と永井先生に言って頂いた。
さて、しかし、学生時代を強いて終えて妻と東京へのがれ出て来て以降、私は東京の遊所を全然しらない。神楽坂、上野、浅草、品川、新宿、四谷等々を市街としては馴染んでいても、遊緒の風情としては皆目しらない。「川向こう 濹東」の風情などまるで知らない。
成島柳北の全集では、いわば単行の著書ぶんほども「柳橋新誌」が入っていて、例外的に私と妻とは、あれで本所の劇場で息子のか誰かの芝居を観てのかえり に長い隅田の両国橋を西へ越えてそぞろ歩きの途中、「柳橋」という橋を渡った、「柳、無いね」などと呟きながら。小説世界では鏡花ものを大将格に「柳橋」 はすこしは馴染んでいた。
今日、柳北隠士のそれを読み始めるといきなり「柳橋」に柳のない謂われが全文漢文で語られていてほうと思った。漢文というのは、時には読んでこころよい音楽味があり、まして日本の明治のジャーナリストの筆である、無茶にむずかしいものではない。
「橋、柳を以て名と為す。而して一株の柳も植えず。旧地誌に云う、其の柳原のに在るを以て命じ焉えんぬと。而して橋の東南に一橋あり、傍らに老柳一樹有 り、呼びて故柳橋(モトヤナギバシ)とす。或いは曰く、その橋に柳有り 則ち往昔の柳橋、而も今の柳橋は則ち後架にしてその名を奪いしものと、其の説地誌 のすでに語りおえしもの。按ずるにもと柳橋の正称は難波橋と曰い、されどよく知る者少なし。彼此錯考するに、則ち地誌の説の當たるに似たり。夫れ柳橋の 地、乃ち神田川の咽喉也。而して両国橋と相い距たる僅か数十弓也、故に江都舟楫之利、斯地を以て第一と為す。而して遊舫飛舸、最多と為す。
以下この柳橋よりして濹上泗水を東西南北、便宜を極めて遊所への便を大いに紹介している。以下『柳橋新誌』したたかに長編なのである。隠士、かの「濹東綺譚」の荷風よりも相当の先輩、幕末地明治とをわたり歩いていた。洒脱におもしろい御仁で、いまや令和の私は大いに懐いている。
* 九時前。もう休みたい。
2020 5/8 222
* 京都の華さん、「仙太郎」の最中を送ってきて下さる。甘味、感謝。「仙太郎」の最中は、敗戦後、私の新制中学生ごろすでに有名で、叔母のお茶の稽古日には、言いつかってよく買いに遣られた。小説「花方」世間のまん中に仙太郎の店はあった
2020 5/12 222
* 手落ちで朝仕事をフイにして、やり直したり。やれやれ。クサル前にやり直す方が早いと、やり直し。 草臥れると、『柳北全集』のおもしろい雑文を拾い 読む。「吊西京妓流文」はひとしお面白く。わたしは祇園花街に接した知恩院下で育ち、八坂神社石段下、四條大通り東末に祇園甲部の旦那達が奮発して建てた という、斬新をうたわれた市立弥栄中学の校舎へ入学した。四条大橋より川沿いに南へ下がれば宮川町かに五条橋下へ遊廓が流れ、四条大橋を裸子へ渡れば北向 きに先斗町があり、みな、庭並みに馴染んでいた。柳北さんは、元が江戸府肝要の幕臣から維新に遭い、朝野新聞かなにか新聞社の社長で、文武の上にナカナカ の粋人遊客であったから、京都での遊びも観察もなかなか面白い。
よくもこんな一册「全集」を秦の祖父手に入れておいて呉れたと、遅遅の感謝の日々。
2020 5/21 222
* それにしても、草臥れている。疲れきっている。おもしろい着想や好奇心が絶えないので日々書いて書き継いで「私語の刻」も溢れているが、それがなかっ たら、もう、ストンと落ち込みそう。けれどコロナ禍が退いてくれたら、独りで都内へも京都へも温泉へでも行ってみたい、と、いう腹もある。
むかし、秦の父から近くの祇園町について耳学問したときに、芸妓と娼妓ということばと違いを教わった。私はいましも、この歳になってから初めて此の道の 題の先達から、著述を通じてその辺の機微や微妙の悦楽について日々教わっており、足腰の立つ間に、一度でも藝妓にも娼妓にも女郎にも出会ってみたいもんや なあなど想っているのです。いよいよ狂ってきたのかな。
2020 6/26 223
* 「方丈」の二字が機械に大きく現れると、肅然とする。
祇園石段下のきららかな夜色に眩しく見入ると、真実、ああ此処だと思う。思い当たる。帰りたい。
2020 7/5 224
* 弥栄中學の二年生で同じ組にいた横井千恵子さん、例年のように私の好きな今日の漬け物、それも歯の弱い私にありがたい美味しい各種を送ってきてくれま した。有難う有難う。彼女、祇園の御茶屋の娘で、やはり一年生のとき私と同じ組だった内田豊子さんと近所住まいの大の仲良しだった。二人とも長じて祇園で 感じのいいバアをもち、あまりそういう店へ出入りしない私も、この二人の店へは妻も、友人島尾伸三さんや、甥の北澤恒や猛も連れて行って、好きに仲よく歌 など唱わせていた。私は唱えない人で、ただ飲んでいた「強いねえ」と「チイちゃん」にも「トヨ子ちゃん」にも呆れられながら。
なつかしい二人それぞれのそんな店も、いつしか祇園を出て、内田豊子さんはもう亡くなった。横井さんは私の長編『お父さん、繪を描いてください』巻頭の 「一、拝殿と山路」早々(湖の本では9頁)に、掃除当番のモップの柄で男子のわたしたちを音楽室から追っ払う「淺井多恵子」として、颯爽と登場している。
同い歳。どうか、元気でいてくれますように。このごろ、だれに向いても同じことを呼びかけている、ほとんど、頼んでいる、まるで。
友よきみもまた君も逝ったのか われは月明になにを空嘯(うさぶ)かん
そう呻いたのは二○一一の十月だった。歳あけた正月五日の人間ドックで私は二期胃癌と診断された。あれから十年余の歳月を積んできた。
2020 7/9 224
* 今年の祇園会は、鉾の巡幸も無いとか。神輿洗いも無かったのか。もう梅雨が明けていい時季なのに。八坂神社西楼門の 佳い夜色全景を無数の写真から見付け、四條通りの夜色とツイに出来た。東京でもう六十年も暮らしてきたが、これほどに懐かしい景観の一箇所も胸に印してい ない。
2020 7/13 224
* いつもなら、「コンコンチキチン」と鉦の聞こえる祇園会だが。わたしたちはめったに八坂神社とと謂わなかった、「祇園さん」と親しんで、境内も背後の 円山公園もうちの庭のように親しんでいた。同じ「四条通」でも石段下から南座、鴨川までで、川西はいくぶん異界に感じていた。東山山麓こそがふるさとのと いう思い、すくなくも北は曼殊院の辺から南は東福寺までなら、どんな小径でも見知り覚えていた、いまも大方忘れていない。
2020 7/15 224
* 京の宇治、伊藤隆信さん まことに珍らかに多彩な菓子や食べ物を大きなダンボール箱で送って下さった。「ビックリ箱」という言葉を遠い遠いはるか昔から想いおこした。たしかそんな「箱」が有ったなあ。
2020 7/16 224
* 幼稚園ののこり数ヶ月から、国民学校四年生の八月夏休み中までが私の「戦時中」だった。子供心にも息苦しい、とかく心貧しく窮屈な時期であった。ちょうどこの籠居生活、これもいわば「戦時中」のように感じる。 夏籠(げごもり)や月ひそやかに山の上 村上鬼城
2020 7/18 224
* 時季も動くし、写真を取り換えたいとも思うのだが、八坂神社楼門と石段下四條通りの夜色、それに小磯の「D嬢」も「浄瑠璃寺」夜景も、みな、気に入っていて、好きで、取り換えたくない。夜景・夜色が三点あり、私の、根の好みが露出しているのかも。
* 八時。
2020 7/25 224
* 電氣か何ぞで「大」文字を光らせたヤツらがいたと。今年は「大」然とした山焼きはしないと聞いており、私も早や、懐かしい好きな写真で京の真夏夜に燃 える「送り火」を眺めている。小学校へ入り立て頃だったか、小さな朝日子が大文字に見入りながら、その夏休み早々踏切事故で亡くした同級生のために泣いて いたのを忘れない。
2020 8/10 225
* 大文字山に「大」の次の電灯がともったには驚いた。山火事の心配がなかったらしくて、それはホッとした。
大学のころ、一年下の妻と、初のデートは、少食と魔法瓶ののみもの持参で真昼間の大文字山登山だった。暑さでふうふう、途中、登りに躓き「ガッチャーン」と魔法瓶を足元にぶつけて割ってしまった。
大文字を焼く西向きの山原はガランドウなので、東裏側の斜面草野に仰向きに寝ころぶと、十時方向に「比叡山」がどっしり大きく見えてなにとなく心励まされ愉快だったのをよく覚えている。あれから六十数年も経ったんだ。
2020 8/11 225
* 東近江五個荘の乾徳寺さんご住職から『「近江商人の魂を育てた 寺子屋』一冊を頂戴した。同じ川並の川島民親さんからも以前近江商人を主題の共著本をいただいたことがある。
乾徳寺さんの本に、「寺子屋」の先生に書を教えた勝見主殿(本姓越智)という先生が、私の育った新門前通りの「狸橋」を「住所」とされていたらしい、わたしの朧ろな記憶に「越智さん」「勝見さん」の覚えが絡んでいる、今となっては確信は持てないが。
手先の痺れと不自由でわたしは今、ペンで字が書けない、メールだと何とかなるが。
ひょっとしてこの日記、川島民親さんの目にもしとまれば、本のお礼と上のうろ覚えだけを、お伝え下さるだろう。
* 参考にと「湖の本 43 もらひ子」をめくってみた。憚って多くを仮名で書いていたのが今となっては残念だが、克明にものをよく覚えて記録していて、 なつかしい。この前に「丹波」が、このあとに「早春」が書かれ、三部作で私の幼少から新制中学「入学」頃までがほぼ言いつくせてある。そして長編「罪はわ が前に」へつながる。読み返し始めたら「子供の昔。少年の昔にありありと立ち返れる。気恥ずかしかったが、思い切って書き置いてよかった。
2020 8/11 225
* 死ぬために生まれてきたのではない、あえて謂えば 生きよと生まれた。今・此処の連続、それが生なら、今此処を、過剰に観念と化さずに生かしたい。
* 「京の食と人と行事」に取材して美しくも懐かしくい番組が、例年放映されている気がする。今日も、パン屋や菓子や焼き物や鱧の骨きりや植木やそして大文字などを多彩に巧みに組み合わせて、京ことばも懐かしい佳い映像に、思わず泪がこみあげた。
京都へ 帰りたいなあと、つくづく思う、しみじみ思う。もうダメと判ったなら、躊躇わず東京駅へ駆けて新幹線に乗りたいとまで思う。
2020 8/15 225
* 夜八時 京の大文字 異例ながらも 美しく もの哀れに静かな炎の送り火に 泪した。
2020 8/16 225
* 映画「戦場のピアニスト」 もう何度めかだが、感銘。しみじみと人と藝術とに感謝した。
* つづいて祇園の芸妓、舞子の映像を楽しんだ。京の「祇園」は私には「よそ」ではない。新門前通りの秦家に預けられて東京へ発つまで、祇園とともに暮ら し呼吸してきた。わたしが通った弥栄中学はもともと祇園町が子弟のために肝いりの市立小学校が、戦後新制六三制のもと市立弥栄中学となり、わたしは有済小 学校から進学した第一期の一年生であった。教室には「祇園の子」が男女とも何人もいっしょだった。思い出話をはじめたら大きな本が一冊書けてしまう。
秦の家のあった新門前通りの東の梅本町には祇園甲部でとびぬけた芸妓で、「都をどり」に忠臣蔵がでると決まって「由良之助」役の人のいわば隠れ家があっ た。西の西之町には祇園芸妓舞子たちの藝を総理錬成する井上流家元の八千代はんのお邸が今もある。今の八千代はんは私の少し後輩にあたり、兄上は観世流の 有名なシテでしかも大学で同専攻の先輩だった。今の八千代はんにはわたしの「湖の本」を応援してもらってもいる。
そしてわたしの仲之町ずまいの真隣り、祇園町へ抜けて行く抜け路地に入ったすぐ際には祇園甲部で知られた練達の「男衆(おとこし)」の住まいがあった。
* わたしの文壇へ送り出してもらった出世作は間違いなく異本平家の『清経入水』だが、その後に親密に識者に認められて強い足場になったのは短篇の『祇園 の子』だった。永井龍男先生はこういうのが十も十五も出来れば「たいしたもの」と人に話されていたと聞いた。笠原伸夫さんはとてもありがたい文章で「祇園 の子」を賞讃して下さった。それらはみな祇園乙部の女の子たちを書いていた。祇園町には甲と乙との地域差がわたしのこどみの昔から確然と区別されていて、 しかし同じ中学の同じ教室でいっしょだった。祇園に抜け路地一本で地続きの町に育っていたわたしの「批評」の眼は、そんな教室や校舎や運動場で磨かれ鍛え られた。ただの綺麗事ではけっして済まない世界であった。「小説家になるしかない人だね」と亡き詩人の林富士馬さんとの対談で判決されてしまった思い出も ある。八坂神社の西楼門から夜の繁華の四條大通りの写真を私が懐かしむのは、ただ懐かしいだけの趣味では無いのです。
2020 8/19 225
* 旅はおろか、都心はおろか、駅前へも病院へも出ない日々、出任せの歌など副えて、好きな「写真」に見入って憩う。
蓮の花盛りの池は、上野の不忍池だったと思うが、もっと遙かな昔に、むかぁし、京の山科へ、いまも愛している小説『秋萩帖』のために取材散策のおり、勧 修寺(かじゅうぢ)で出会った蓮池への思いがかぶっている。平安學の泰斗で今は亡き「T博士」が電話口で「蓮の花はソーラきれいです。きれいやけど…その きれいな」とおそろしいことを云われた。蓮の盛りのその池は観てはきたが、とても怖くもあったのを、まざまざと忘れない。しかもかすかには懐かしいとすら 感じている。『秋萩帖』を懐かしく読み返してみたくなった。選集第六巻に入れてある。
2020 8/22 225
* 夏は夏の熱気に肌を焼かせて元気であるべきなのでは。小さかった頃、あの熱い京都の夏が好きだった。武徳會の水泳場に通い、「組」から「級」にすすむ と博い水域の自由泳がゆるされ、好きなだけ泳いでから家に帰った、が、かんかん照りの川端通りを三條まで、そして縄手を経て新門前の家まで、焦げるように 熱い空気を吸いながら半分気が遠くなりながら帰ったものだ。それでも毎日孤りでよく通った。
2020 8/30 225
* 四条大橋から三條のほうへ、鴨川ぞいのま輝く賑わい。思い切って大きい繪にして、実感まで美しい。帰りたいなあ。
2020 8/31 225
* あはれひとのいのちとみえて咲く萩の
うす紅(くれなゐ)に秋の風立つ 恒平
* 秦の菩提寺、京の出町の萩の寺で、満開に大きく波打って最多萩に逢うたとき、ちいさな花の無数のうねりが「ひとびとのいのち」に想えて厳粛な気がした。
墓の守りは建日子にゆだねてあるが、仕事で京へ都合のつく時は「掃苔」をどうかよろしく願うよ。
2020 9/8 226
* ちょと、街へ出てってやろうかと思っても、なにも、こんな時節にわさわざと酔狂に思ってしまう。ものを思いまた想い起こして行けるさきは幾らもある。
八坂神社の拝殿が国宝に指定されたとか。しみじみ懐かしい。もう一度詣りたいな。 2020 10/16 227
* 今日も辛抱の力仕事が続く、続く。慌てまいと自身を宥めなだめつつ。
丹波へ戦時疎開していた昔、京二条駅と亀岡駅を汽車で往復することが何度もあり、嵯峨から保津峡駅までに、七、八つもの長短のチンネルがあった。満員の中で車窓からの黒煙に巻かれるのが常だった。しかし、それも走り抜けた。
走り抜けたい、走り抜けたいと願っている、何ごとも何ごとも。もう「着駅」は遠くない。
2020 10/21 227
* 寺田英視さん、京都のあのすっぽん料理で聞こえた「大市」本店から、ごちそうをドサっと大きな一箱詰めで送って下さった。有難く御馳走になります。
* 京西院の「大市」の瀟洒な本店は知ってはいるが、実は入ったことなく。書いた「小説」の中でだけ奢りましたけれど。
河原町三條の大きなホテルの地下カウンターの席で、妻と「スッポン鍋」食したことが一度あった。あれは、叔母宗陽の茶の湯のお弟子がその店の大将で、私 もその人の稽古を何度も見ていたお礼にと、あの日は夫婦二人に奢ってくれたのだった。目がさめるほど美味かったのを想い出す。
2020 10/24 227
* 二時間ほども 播磨屋の口跡で、京都の、超美的贅沢世間の交際ぶりを見せてもらった。舞台廻しの役どころを、昔馴染み、新制中学で同級の女 友達が嫁いだ、料理の「浜作」三代目が演じていた。、二代目の奥さんになった洋子ちゃん、洋子洋子と呼び捨てにしていた彼女の着物姿も、久し振りにみた。 二代目はわたしの一年か二年先輩で親しかった。先輩、洋子ちゃんにゾッコンだった。京都の「ええし」らの超贅沢など珍しくもなく、テレビ画面での昔をしの ぶ女友達を見たのが懐かしかった。
2020 10/31 227
☆ 前略ごめん下さい
先日は御本が届きました。いつも何かと気に留めて頂き有難うございます。
私もやっと七十六才、姉龍子は八十才で、ますます母ミツ子はんに似てきました。弟正治郎は七十三才で 皆それなりに元気にしております。
本日は少し荒れていますが無(舞)楽装束の断片を送りました。江戸初期のものです。
どこかにでもぶら提げて下さればうれしいです。
コロナ禍の折 お体に気をつけられまして おきばり下さいます様に……
十一月二日 凱 京・縄手 珍裂「今昔」西村主人
* これは、もう 嬉しい…。
私の「京都」といえば いまも現在感覚と馴染みとで生きてあるほぼ唯一の懐かしいつき合いは戸の「今昔」西村家しかない。母親の「ミツ子はん」をはじめ として一家とも、叔母秦宗陽の茶の湯の社中 秦玉月の生け花の社中、龍ちゃんは、かけがいもなく愛していた私には一の妹弟子であった。稽古場に通って来始 めたのは、まだ同志社女子中時代であったか。お父さんともお母さんとも同じ小学校区内で十分に親しかった。そして凱(ときお)ちゃんは、いまもなお「湖の 本」の久しい購読者でいてくれる。頂戴した裂も美しく素晴らしい珍品の額装だが、この一家との思い出は何にも優る懐かしいものなので。とても嬉しい。
2020 11.4 228
☆ ご無沙汰、選集33巻有難うございました!
秦 恒平さま
ながらくご無沙汰です。
幸いまだ生きています。コロナ騒動で半年ばかり大人しくしていますが、何とか足腰は大丈夫、食べる方も今日現在問題なしです。
年にニ・三度は京都に墓参、弥栄中一組の生存者に声をかけて食事を共にするのを楽しんでおります。
京都には花見小路の「ノーエン」の従妹が唯一の縁者、時々連絡をと取り合いながら無事を確認し合う状況です。
先日、「秦恒平選集第33巻」をお送りいただきました。
いつも忘れず送っていただいて有難う。だいぶ目が弱くなり長時間のものを読む気力が衰えてきましたが、毎回興味をそそる項目を拝見しております。
今回は巻尾の「穏やかにおれなかった平成」、共感をもって読ませてもらいました。
安倍時代はようやく終わり、今 菅実務内閣が稼働開始、少しは積み残した諸問題を片付けてくれることに期待しましょう。
時あたかもトランプの退任も確定の様子、新たな変化を観ることが出来ること念じます。
いつも忘れず心遣い頂き感謝です。
年寄りでも食べられるカステラ少々、お届けしますのでご査収ください。
また、ホームページを拝見しますので、掲載時にはご連絡ください。
一つ、片岡我當くんを気にしていますが、消息ご存知でしたら教えてください。
千葉・浦安 團 彦 元 昭和石油社長
* 弥栄中学の懐かしい友達。彼が一年一組、私が二組の昔から、一等仲よく張り合った仲間。嬉しい便りを呉れた。思い出が 山のようにある。そ の最初が、演劇コンクールで、一年二組が一位、一年一組が二位になり、その日の帰校時一瞬の思い出が「祇園の子」という処女作というて佳い、のちのち「評 判作」「出世作」のように取り上げられた。敗戦後の新制中学、われわれはその最初の一年生だった、活気に溢れていた。宇治にお住まいの佐々木(現在水谷) 葉子先生も、一年五組の担任をされ、理科最初の授業で、初めて「蛋白質と脂肪と炭水化物それにビタミン」と教えて下さった。すっごく新鮮だった。
当時の同期では、日立の重役を務めた西村テルさんや歌舞伎松嶋屋の片岡我當(秀公)クン、原子力関連で実力発揮と聞いている藤江孝夫クンらがいて、そし て選挙「是・非」二票投票制の実現に邁進中の森下辰男クン、懐かしい限りの元京都市政で活躍した冨松賢三クンがいて、ああ、それくらいになって寂しい限り となった。女性では、祇園の御茶屋の橋本嘉寿子さん、浜作女将の森川洋子ちゃん、実業で腕をふるった横井智恵子ちゃんくらいか、わからない。みーんな同い 歳なんだから、しょうがないのかなあと、瞑目。
ダンピコと呼び慣れていた旧友中の旧友、昨夜に受け取ったメールだけれど、今朝一番の、此処へ置く。横井さんから、ダンさん病気してたけど退院してると聞いていた。元気でいてくれて、嬉しい、とても。
脚を痛めて舞台をやや離れている我當(秀太郎、仁左衛門の長兄)をとても心配しているのだが、様子は知れないでいる。
懐かしい佳い思い出というのは、よく効く「ふくらし粉」のよう。幸せというべし。 2020 11/9 228
* 祇園下河原「浜作」のいまや大女将の洋子ちゃん、浜作自慢の「ぎをん時雨」を送ってきてくれた。下河原の店は息子たちに譲って、中京でマンション暮らしらしい。元気でいてくれれば宜しい。
弥栄中学へ二年生で私のいる組へ転入してきた。祇園のお茶屋「有楽」の子で、家同士にいくらか縁があったのですぐ仲良くなり、三年生でも同じ組だった。 わたしは卒業するまで、わたしだけの特権のように、ただ、「ヨーコ」「洋子」と呼んでいた。二年先輩の「浜作」二代目に、「あの人」引き合わせてくれない かと頼まれ、それが縁で「浜作」二代目の女将になった。辛抱の良い子だったので、落ち着いたいい女将さんに成った。二代目が亡くなった後、三代目をよく育 てたのである。
「ぎをん時雨」はよくおろした大根と合って、とても佳い酒肴。おおきに。
2020 11/17 228
* 今朝のテレビでみた京都清水寺 永観堂 嵐山の紅葉のうつくしさに感嘆し人出の多さに仰天した。コロ ナ感染には多寡をくくっているとも、キャンセル料を惜しんで居るとも、紅葉の美に真実惹かれて居るとも。紅葉と桜と。ほんとうに甲乙つけがたく、また京都 の底知れぬ自然の美がじつは文化の美だとも納得できる。
感染の暴発なきを誰々のためにも願う。
2020 11/23 228
* 嬉しいのは京・縄手の珍裂「今昔」の凱くんから戴いた江戸初期と謂う裂を生かした美しい額で。いつも目に入るいい場所に掛けて、まことにホンモノの魅 力満点、嬉しい。裂の美しさだけでなく、これを眺めるとそのまま「今昔」一家の懐かしい声音や笑顔が真っ向甦るのだ。お父さん、お母さん、姉娘の龍ちゃ ん、弟の凱ちゃん、正ちゃん。この一家とは青春いっぱいの思い出がたっぷり、若さと共に生き延びている。両親は亡くなったが。龍ちゃんらはわたしより半世 代は若い。記憶はみな若々しい。
2020 11/23 228
☆ 『秦 恒平選集』 ありがとうございます。
秦さん
秦恒平選集完結 おめでとうございます。最終巻を拝受、今まで書いてこられた著作の集大成を立派にまとめられてよかったですね。
ぼつぼつ読ませていただいておりますが、第三十一巻の「オイノ・セクスアリス」が 着想から10年をかけられた力作、秦さんの代表作の一つになると思います。
私にとっても京都のどこそこの風景や食事処など、今となっては行くことがかなわないところが秦さんの筆力によってよみがえり 楽しい作品です。
「うそっぽい」ことばかり多くまことに住みにくいいやな世の中ですが、その埋め合わせに おいしいもの楽しいこともたくさんあり、長生きしてよかったと思っています。
添付は、11月14,15日に「函南(かんなみ)9条の会」の仲間と「医師中村哲さんの足跡写真展」を開催し、たくさんの人に見てもらいました。
その時のアピール文です。 静岡 西村明男 元・日立重役 中・高校同窓
☆ 中村哲医師の死を悼んで 2020.8.25 西村明男
昨年12月4日 アフガニスタンの医療・水利・農業復興につくされた中村哲さんが 何者かの凶弾に撃たれて亡くなった。私は中村医師を支援するNGOペシャワール会に加入し、ささやかながらアフガンでの事業に賛同し、応援してきました。残念な気持ちを抑えられません。
・「人は愛するに足る」
中村哲さんは1946年生まれ、九州大医学部卒で精神科医であったが、38才の時パキスタン・ペシャワールのミッション病院に乞われて その地でハンセ ン病の治療に従事することになる。その時から昨年末に亡くなられるまで36年間、アフガンの人々の命を守ることに懸命の努力をされた。
・「真心は信じるに足る」
アフガニスタンは人口2400万人、ヒンズークシ山脈とイラン・パキスタンに囲まれ、部族社会を主とし旧ソ連の侵略(1979年)にも屈しなかったイス ラム教を信じる誇り高い人たちの国。しかし度重なる自然災害(干ばつ,飢饉)と2001年9.11事件の震源地と見なされて国連制裁、アメリカ・イギリス 軍の大規模空爆を受け、多数の死者・治安の悪化・国土の荒廃にさらされた。そのような状況の中で中村さんは現地語も覚え、誰彼の差別なく人に接し、わかり やすく目標を示し現地の人々と一体になって事業を進められた。
・「まず、生きよ!」
中村医師の事業はアフガン東部での診療所設置・医療活動であったが、住環境の悪化による衛生状況の改善のため各地で井戸を掘る活動にとりかかった。 PMS(ピースジャパンメディカルサービス)の井戸掘削は1600箇所におよび人々が生き残るために水の確保につとめた。(中村哲著「医者井戸を掘る」に 詳しい)さらに干ばつが長期化したアフガン東部に用水路の建設を開始した。(同「アフガン緑の大地計画」参照)用水路は2009年に25km開通し、難民 となっていた人たちが帰農して3000ヘクタールの荒地が緑の大地に復活した。
・「アフガンの罪人と聖人」
中村医師の死を悼んでイギリスの有力紙(フィナンシャル・タイムス)がアフガン空爆・最大15万の軍と費用を投入したアメリカをアフガンの罪人と断じ、 中村医師をアフガンの聖人と称えた。(2020.1.8日経新聞掲載) 一人の日本人の行いが世界の人々を感動させ、世界各国で起こっている紛争の解決が どうあるべきかを考えさせる契機ともなったと思う。
・「信じて生きる山の民」
アフガンの人たちが中村さんの成し遂げてきた事業に信頼を寄せ、こんごの展開にさらに期待していることを示す中村さんからの最後の報告が12月25日付 けのペシャワール会号外に掲載された。またアフガニスタンのガニ大統領は自ら中村さんの棺を担ぎ、今後PMS事業がアフガン復興のカギになるとコメントし た。中村さんのアフガンに残した遺産は大きいが、今後この事業を継続できるかどうか日本ペシャワール会、アフガンPMSの人たちがいま必死の努力を続けて いる。 以上
◎ ペシャワール会(個人会員:3,000\/年、
TEL092-731-2372、
メールアドレス:peshawar@kkh.biglobe.ne.jp )
* 新制弥栄中学ではじめて出会った。以来「てる(明)サン」と呼んできた。粟田小学校からの進学、私は有済小学校からの進学だった。粟田校からの田中勉 君、福盛勉君、弥栄校からの團彦太郎君らと、高校を卒業まで極くの仲間、よく話しあった。よく遊んだ。相撲も取った。社会人になってからも、再々はムリ だったが、連絡はあり、顔を見合う機会もあった。田中君は亡くなった。福盛君は奈良にいる。團君は千葉にいる。テルさんは函南にいて、わたしの本をよく見 てくれている。メールも出来て、私の京恋しさの一片を体してくれている。彼は、日立をやめたあと、沖縄問題などへもアクティヴな関心を寄せ、出向いても往 く。感じ入る。
* 『オイノ・セクスアリス』を「代表作」と観てくれる有り難い読み手である。この作については自分でも改めてしっかりモノを言うておきたい気がある。感謝感謝。
* その弥栄中学のころ、一學年上の、テルさんの兄さんたちの担任先生であった、僧侶の万年先生から、今朝、京でも名品の「かきもち」の大缶を、また頂戴し た。弥栄中の先生では、大方というよりみなさん亡くなられ、いまは市内の万年先生と宇治の佐々木(現・水谷)葉子先生とお二人だけ。昭和二十三年から五年 までの出合いであった、七十年余も大昔になるが、昨日今日のように想われて懐かしい限り。子供に帰れるなら、あの、弥栄中學時代にこそ帰りたい。
2020 12/1 229
* 真珠湾奇襲そして宣戦布告の今日この十二月八日を、私は覚えている。馬町から東へ、渋谷坂正林寺わきの、たぶん京都女子大付属幼稚園へ、園バスの送り迎えで通って いたが、ふうッと何かしらで、日本とアメリカに戦争が起きたようだと知った。感触した、といった弱い把握ながら、水雷のように敵艦へつっこんで散ったとい う九軍神のやがて報道に戦いた。日露戦争といった記憶上の覚えも甦ったが、なにもかも実感には遠い、まだまだ手薄い感触だった。祖父や父の新聞を横で覗く ぐらいは、毎日していた。
やがて正月、そして春四月には京都市立有済国民学校の一年生になり、母に連れられた入学式の日に、自分の本名が「秦 ひろかず」でなく「恒平」なのだと ウムを云わせず教えられた。「大東亜戦争」の進展よりもこっちのほうが私には大事件であった。「もらひ子」という境涯が自覚になって行った。
2020 12/8 229
* 夜前の夢の 鮮明を極めて情況もの凄く、恐怖しつつ 京都という街の底知れない迷路の奥で立ち竦みながら、なにもかも見逃すまいと目も明き耳も開いていた。凄い、もの凄いという物言いの極度に嫌いなわたしは、時としてこういう凄い夢体験に立ち竦む。
2020 12/9 229
* 六十三年以前の今日、求婚した。京の黒谷は紅葉の盛りだった。一と枝もらって、二人で新門前の叔母の茶室へ帰り、茶を点てた。
六十三年、往時渺茫ではあるが、わたしは、物覚えよく、いろいろな思い出の日付けを忘れていない。何月何日はなにごとのあった、した、できた日と、妻も呆れるほど覚えている。
十二月十日 橋田有子さんに送って頂いた京松茸などの漬け物で、ホンの少し瓶に残った朝飯の酒を飲もう。
2020 12/10 229
* 心重いまま、甥の恒がつくって置いてくれた実兄、北沢恒彦遺著の『隠された地図』巻末の「年譜」を通して読んだ。何をあらためて云うことはないのだ が、心しおれた。母ふくも、父恒も、兄恒彦も、大きく大きく「生き残し」たまま、自死かそれに斉しく、世を去っている。病で、とばかりは言い終え得ない死 に方をしている。とはいえ、双親が、恒彦と恒平とを世に遺したのは(敢えて云うが)手柄であった。残念なことに思想家で活動家で社会人として北沢恒彦が闘 いつづけた願いは、いま、日本の國では気息奄々として気配ほども感じにくくなったのが、痛恨の思い。
兄は 母や父に似て、ロマンチックなリアリストのまま栄養失調に近く生きて死んだようだ。
生まれながら親とも兄とも触れることなく生きた私は、「秦」という家に育てられた幸いをひたすら我流に造形できた。京都、日本そして歴史と言葉と、更に 云えば愛を、私は贅沢なほど貪食してこれた。それが本当に幸福で良かったかどうかなどは、自身で言うことでも言えることでもない。
ただ ただ いま 切に切に兄に会いたい。兄は ただただ「いつも」励ましてくれる人だった。わたしは、いまもまだあの兄に「はげまされたい」「はげましてほしい」のである。
2020 12/16 229