ぜんぶ秦恒平文学の話

京都 2021年

 

* 高校校舎の長い廊下の一等西の端へ出ると、京の街が一望できた。きっちりわたしの目の高さで、ま西に、東寺五重塔の高くトンがった尖がくっきり見え た。西山までまおもにくっきり見えた。小雪のとびそうな真冬の寒気に痛いほど顔を晒したまま、よく独りで、じーっと遙かな塔の尖を眺めていたのが、昨日今 日のように思い出せる。市立日吉ヶ丘高校が好きだった。「ああひんがしの丘たかく、松の翠りのわが姿」と歌う校歌も好きだった。学校からすぐ東の山辺に、 泉涌寺があり、「慈子(あつこ)」の「来迎院(らいごういん)」があった。日吉ヶ丘から下みちをやや南へ寄ると、通天橋(つうてんけう)や普門院のある東 福寺だった。岡井隆さんが『昭和百人一首』に採ってくれた短歌はそんな或る真冬日にそこで詠んだ。授業中に教室を独り抜け出しては、来迎院へ、通天橋へと よく通った。

* 旧臘冬至に満85歳になったが、昔の「数え歳」でいうと、さきの元日にはもう86歳であった。昔から、おまえは「十日一年」、誕生の師走二十一日から十日間して元旦にはもう二歳(ふたつ)になってたんやと、年寄りは、よく云うた。
数え年なら五歳になっていたか四歳か、秦の家へ連れられ、貰われたのか預けられたのか、初めての「お正月」の箸紙にわたしの名は恒平でなく、「宏一」 (ひろかづ)と書かれていた。お茶お花の先生をしていた叔母が、「こういちとも読めるえなあ。隣りの孝一ちゃんと、おんなしやなあ」と笑ってくれたのを声 音までよく覚えている。三畳の中の間に、黙ッと怖そうな祖父と、まだ馴染まない中年の父と母と、そして未婚の叔母とちっちゃなわたし、五人で、まるい黒い 塗りのお膳を囲んだ。食べ物の何も記憶にない、祖父と父とのあいだに、大きな瀬戸物の火鉢で炭が赤く燃えていた。温かだった、が、わたしはどんな顔つきを していたのだろう。

* ああ。もう、八時になって。なんと…。八五老の目が濡れている。
2021 1/12 230

☆ メールを頂いていたのに
返信できなくてすみませんでした。早い事、今日(=昨日)は、小正月に成りました。
私は、ほんの少し元気に成りました、タクシーで病院通い程度です。
お弁当を取ったり、日日何とか食べるものを作れる程度です。コロナ騒ぎで買い物も行けずに生協で仕入たりして居ります。ふらふらとしながら、力が入りませんが、ぼつぼつ 頑張れるかな?と 思いながら。    京・北日吉   華  高校時 茶道部

* ホッとした。案じていた。
この人の家から一分とかからない近くに、映画「女の園」のモデルであったろう京都女子大の施設「京都幼稚園」があり、わたしは、昭和十六年度の一年間(十二月八日に太平洋戦争宣戦)、園のバスで送り迎えされ通っていた。
華さんの家のすぐ東には正林寺という閑雅な古寺があり、毎日幼稚園に運ばれる午の弁当をお寺の境内へみなで行って食べる日もあった。この東一帯は、平家の総領平重盛が家門を構えて、京と山科とを塞ぐ要地だった。歌の中山清閑寺にちかく、この界隈をわたしは幾つもの小説に懐かしく描いて親しんできた。
2021 1/16 230

☆ お元気ですか、みづうみ。
ご体調不良のご様子、あまり我慢なさらず適切な治療を受けていただきたいと願っています。

『オイノ・セクスアリス』読解の一つの大きなヒントを与えていただきました。「暗闇の下鳥羽の森や湿地や、大河」の象徴する別世界への憧れと は、この作品の中で一番手に負えないと感じた部分でした。選集の巻頭のカラー写真でみたその場所はおそろしい「魔」を感じるには健康的に見えましたし。京 都の土地も歴史も知らなさすぎるので、この作品の「聖地」という根幹に届かないと思っていました。
もし可能なら、東作西成 春作秋成 含めてこの作品にこめた作者の意図についてどんどん書いていただきたいなあと願っています。『オイノ・セクスアリス』は本当に理解の難しい作品の一つです。

暖かくなったり冷えたり、気の晴れるニュースは何もない日々ですが、もう少し辛抱すると花の季節です。
お花見、できますように。  鞠   手鞠唄かなしきことをうつくしく   虚子

* 京都には、魔処 というに当たる場所や地域が、街の真ん中にも、いろいろとある。
ことに桂川・鴨川の合流点へ、うねうねと長々延びた森や畠はもう郊外というべきだが、京都という魔ものの南の尻尾をなし、上古は、ひたひたにむきだしの 葬地だった、都とはいえそういう場所は、大小の川縁りはむろん、街なかにもそのような一画があちこちにあった。山紫水明を誇る東山・北山・西山のほとんど が帝都の奥津城であった。だからこそ大文字の山焼きで鎮魂する。京都とは生者と死者との木暗い同居世界、いまでは死者のほうがはるかに大勢「生きて」在る 都市なのです。そういう「京都」、まだまだあまり的確には書かれ得ていない気がする。川端康成の「古都」はそこへ達していない、谷崎先生の『少将滋幹の 母』や『鍵』や『夢の浮橋』の凄みが美しい。
『祇園の子』『冬祭り』『風の奏で』『初恋 雲居寺跡』『花方』などあるけれど、私は、まだまだ。これから。
2021 1/18 230

* 昭和七年(一九三二)八月末に發行、そして十三年十二月に出た第五版本468頁の『古事記』(送料拾銭、定価八拾銭)を手にしている。
文部省蔵版(日本思想叢書第五編)文学博士次田潤校訂解説と表紙にある、が、奥付では、著作者「文部省社会教育局」 發行者「財団法人 社会教育會」 そして發行頒布は「大日本教化図書株式会社」ともある。
まちがいなく、これは私が国民学校一年生を終える前後の昭和十八年春先に、何用があったのか秦の父に連れられ訪れた山城山田川にお住まいの「担任』吉村 女先生のお宅から、帰り際の玄関で手渡しに頂戴した一冊である。そして永い生涯でこんなに耽読し、ほぼ暗誦もしてしまった本は、他に無い。古事記「解題」  古事記「序解釈」、そして「口語訳」の 古事記上巻 中巻 下巻 が続き さらに「直訳」全部が収録されている。口語訳で内容をすべて覚え、さらに直訳 で「神話」古文を音楽のように音読して楽しんだ。少なくも「神武東遷」までの神話をこよなく愛読し記憶した。その照り返しであったろう、私は子供向けの絵 本(講談社絵本)や漫画本を好まなかった。絵本の繪を怖がったし、漫画は面白くなかった。「のらくろ」を断片的に、そして「長靴三銃士」という物語漫画を 記憶しているだけ。『古事記神話』の洗礼をまっさきに受けた感化は大きかった。今でも、少なくも「神武東遷」までの「神話」を日本人として信愛し親愛している。
天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原(たかまのはら)に成りませる神の御名(みな)    は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、次に
いまも子、供達には読んだり聴いたりしてほしいと思っている。
ともあれ、そんな生涯を決めるほどの「出会い本」がいまも手にできる有り難さ、遙かに、吉村女先生に心より御礼申し、大切にしたい。まさしく「日本古典のナンバー・ワン」を手渡されたのだった。
2021 1/28 230

 

* 二月はことに底冷えて寒い京都だった、だが、わたしは、京の二月が恋しいほど懐かしい。大雪の降り積もることのやや少ない古都だった、降れば山なみが和やかに愛づらしい。古代の人と同じ都を感じている気がした。
新門前の、北向き秦の二階家は、一階が、表から奥へ三間、その奥に泉水と笹と山茶花の小庭、その奥に叔母が茶の湯、生け花の先生をしながら暮らした隠居がたあった。奥に蔵があった、が、他所のモチモノだった。
小庭へは、奥の間四畳半の、硝子窓を仕組んだ南がわ障子一枚が距てていた。その窓側へアタマを向け床を敷いた。硝子越しにちらちら天から降ってきた雪を 臥たまま仰向きにながめ、泉水に薄氷の張るらしいのを感じている寒さは、寝床にちいさな電気こたつが入っていても身にしみた。妙なものだ、子供ごころにも ああやって風情ということを覚えたのか。
思い出は、大きな蔵につめこんだほどもまだ私に生きている。八五老の執着か。これが財産か。
2021 2/1 231

* もしタクシーを傭って京都まで行くのに、どれぐらい運賃がかかるか、往復分支払うのかなどと建日子に訊ねて叱られた、「絶対に、ノー」と。なにより身体がもたないと。そやろなあ。
ときどき、こんな夢をみるのであるが。
2021 2/21 231

* 外へ迎えだしていた 紀略 や 実録 が巻違いという勘違いだった、寒い書庫へ入らねばならない。
もう、コロナ も ワクチン も 忘れていたい。建日子は新幹線はガラガラだよというが、新幹線までに、バスと 西武線と 地下鉄 がある。まだ人とは 触れ合いたくない。感染者数の単純な減少には、前段階の検査数の大幅な削減という人為が先行している。パーセンテージで説明するようだが、やはり検査数を減らすという基本のサボは気に入らない。
わたしらの特高齢者へワクチンの廻ってくるのは初夏にもなるのではないか。そのころになってなおなおゴタゴタしてるようならオリンピツクはヤメになるだろう。もう、コロナ も ワクチン も 忘れていたい。
2021 2/21 231

* 神事・神官・神社へおさめる千年來変わらぬ装束や御簾などの衣冠や家具を、千年來寸分の変更も加えず今日もつくり続けている、京都の各種職人の、神秘 の域にあるかと想われるほどの精緻・精美の技藝・手藝を懇切にみせてもらった。ただ感嘆・嘆美・嘆賞。このところ私のよく楽しんでいる「神楽」「催馬樂」 世界が今日にも歴々伝わっているのだ、目をみはり、声を喪い感動した。不思議を極め、幸せでさえあった。神を祭り祝うという古来の意味も意義もしみじみ窺 い識った。
これからすればオリンピックの聖火リレーなどと称するあれに、いったいどんな神秘が保たれているか、盆踊りの方がはるかに身に心にふれてくる。
2021 2/25 231

* この年齢になり、東京へ出てきて六十二年にもなりながら、今なお、生まれ(は分からない、識らない)でなく、養父母らに育てられた京都市東山区知恩院下新門前通り での二十年近い日々の、近隣地域へのまお不審ないし識りたい心地が、少しも失せていない。いま「西東京市」の一画にいたままでは、なかなか不審も晴らせないが、昔の友 達に問いただすことも、もう殆ど不可能になった。
東京に、昭和三十四年の二月二十八日に出てきて、六十二年が過ぎた。京都には物心ついて二十年ほど暮らした。それなのに、東京をいまだによく識らない。 おのぼりさん風にあちこちへ出向いた記憶の程度で、地元の保谷も、都心の繁華も、ほとんど心身に刻まれていない。所有されていない。
京都となると、いまも記憶に頼るまでなく、わが街として、地元として、したしく歩いて山ほど思い出せる。至る所に歴史と結ばれた問題点に気づいて、さら に探索したくなる。そういうことには、人間味との関わりがぜひ必要で、東京ではそれが無いに等しく、京都ではありあまるほど有る。今はそれを、思い出に耽 るようにただ費消していて、「もったいないなあ」と思う。
仕方なく身の回りのものを処分に掛かっているが、兄恒彦の遺書や便りなど、どうすればいいか、胸にせまるばかりで、途方に暮れる。美術骨董のたぐいはあ との人で何とでもなるが、どうにもならないただ私にだけ莫大に意味のあるものや記憶は、私の手で始末をつけておきたい、だが、途方に暮れる。なんとかも少 し長生きし、納得にちかい手当ないし処置をして逝くしかないが。むりだなあ。
2021 3/4 231

* いつどこで手に入れたか、古書店であったか路上であったか、京都に縁の著冊がかたまっていたのを纏めて買っておいて事は、記憶にある。書庫から時折に 持ち出しているが、『今日に田舎あり』という一冊の随筆集が昭和十七年ごろに出ていた。戦時中だが、十七年はまだ一般に敗色を熟れうるより余裕で戦機の推 移を眺めていたろう、私は国民学校一年生の少年だった、その本は当時の学者や文人や芸術家らの悠々と日常を閲していた「随筆」集だった。
そんな本を今頃持ち出して読んでいると、夢かと想うのんきさで、されざれに己が安穏を謳歌してあるようで、些かは僻みここちもあっていい気でおったのだ と思われる。いわゆる「京の文化人」たちの綽々のご満悦とも読める。おおいに私は僻んでいるのである。とはいえ、懐かしい京都の風情と感懐とがどの辺から も洩れこぼれていて、有り難い。
2021 3/7 231

* いつ可っていたやら、書庫に『京に田舎あり」という昭和十七年五月五日「京都三条広道東」の晃文社発行の一冊があった。大東亜戦争が始まってまだ戦果 の報道されていた、私はといえば幼稚園で真珠湾奇襲を聞いて年を越した春四月、国民学校一年生として「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」と習い始めて間も ないお節句の日付だ。装幀もいかにも京に田舎の風情よろしく、榊原紫峰の
序に始まり当時京都にゆかりの名士が五十人のきままな随感随想の随筆集に なっている。当時一年生とはいえ、戦前往年の「京にも田舎」風情がおもしろく懐かしく書き込まれてある。装幀挿画もゆかしく吉井勇の自筆短歌 向井久万、 池田遥邨、廣田多津の挿絵も嬉しい。ご縁をいえば、後年、廣田多津さんとはNHK日曜美術館で対談していたし、池田遥邨さんの子息には京都新聞朝刊に一年 連載した『親指のマリア 白石とシドッチ』の挿絵をお願いしたし、今もお付き合いが出来ている。
まこと、京には田舎が存している。そこに得も云われない風情が生き残っていて懐かしい。
こういう本は いまや私のようなものしか有り難がるまい古本だが、よう買って置いたと思う。
2021 3/31 231

 

* 幼稚園でも、国民学校でも、丹波の戦時疎開さきの山暮らしでも、戦後も一年余に病気で京都へ帰ってからも、わたしは、目立ったあだ名で友達に呼ばれて なかった。近所では幼児のママ「ヒロカズさん」と呼ばれ、学校では「コウヘイ」「はたクン」「はたサン」だった。それでいて戦後京都の小学校では率先生徒 会を率いて生徒会長をしていた。中学へ入ってからも生徒会でガンバリ、三年生で生徒会長に選挙で当選し、当時の吉田茂総理のあだ名だった「ワンマン」と同 じく秦の「ワンマン」と呼ばれていた。運動場でも講堂でも、いつも演壇に立って号令していたし、教室では、先生に代わって教壇で国語や社会の授業を進めた り、ま、活躍目覚ましい校内でのまさに主将だった。
それなのに 今日久々に、つまり七十年ぶりに読み返した修学旅行前夜の短歌の「めそめそ」したひ弱さは、自身で否認がしにくい自己露呈に相違なかったのだ、どっちが本当なのか。
ひ弱いのが「ホンマ」で、目覚ましい活躍は「ガンバリ」であったと謂わざるを得ない。
そんなことを七十年後の老耄に自認させてしまう幼く拙い「短歌ひと」として歩み出していたのだった。マイッタ。が、性根から出るモノが滲み出ていたの だ、そんな歌集『少年前』が、三冊のノートを719首と拙い詞書とで満たしていた。「文藝」としての価値はないからその多くを、ほとんどを、うち捨てて、 そしてあの処女歌集『少年』を世に送り出したのだった、幸いかなりに好評を得て、「昭和百人一首」にも選ばれ、「国語」教科書にも紹介された。今にして余 分なそれ以前の習作を持ち出すことは無いのだが、私独りには、やはり無視しきれない「根」がそこに在った、暴露していた、と謂うしかない。短編「祇園の子」などの紙背にまさしくこれら幼稚の短歌たちは貼り付いていたのだと思う。思わざるを得ない。
「あんたが そのまま小説なんですな、小説を書くか、小説になるか、それしか生きようのない人ですな」と、詩人の林富士馬さんら何人かに謂われ、笑われてきた。このあまりに幼稚な三冊は、その意味では、資料いや肥料にはなっていたのだろう。
2021 4/10 232

* 稲垣真美さんの編輯主幹で文藝雑誌「新・新思潮」が発足し、巻頭に、稲垣さんのおもいきり自在な長編の「美の教室界隈」が発表されているのを頂戴した。めったにないこと、わたしは昨夜、三時間の余もかけて一気に読み遂せた。作の批評とは大きく逸れるが、二重の関心から引き込まれた、いや私から作世界へもぐりこんだ。
一つは稲垣さんという、たぶんお目に掛かったこともないだろう方への個人的な関心、それとも重なり合うてくるのだが、作に書かれてあるのが美学藝術学の大學風景で、カントだヘーゲルだ、自然だ藝術だ、美だ、それらの演習だ等々とあっては、それもかなりに的に触れた議論や学習や書籍などが何の衒いもなくごく当たり前に語られ書かれている、それではまるで昔の「私」ではないか、私は京都の同志社大学で文学部文化学科の「美学藝術学」専攻学生だった背し、一年で東京へ奔ったものの大学院でも「演習」の原著を読んでいた。結果的には美と藝術の「學」なるものに飽きたらず私は自身創作の世界へ意欲と意志とで脱走したのだった、同学の妻とともに。
稲垣さん作の現に「美の教室」は東京の旧制高等学校であるらしかったが、ご自身はどうも京都大学の美学藝術学専攻生であったかに読める。「木島先生」なる教授らしきは、どうも、私もならったことのある「井島勉」としか思われない、そして京大と同志社の美学藝術學専攻同士の親睦にも御所の運動場で野球かソフトボールの試合をした覚えもある。作者の稲垣さんはしかし敗戦間際の兵役
にもつかれたようで、少なくも十歳ほどはお歳嵩に想われる、それがまた私の気を惹くのだった。
私の育った秦の家は京都の知恩院下に門前通りにあった。中之町の東ぎわにあり、東へすぐお隣からは梅本町だったが、実はその梅本町に、私の家から五十メートルとない東向かいに「稲垣さん」と、おとなのだれもが「さん」づけで呼んでいるシッカリした一軒があり、そこには京大生のお兄さんがいた、らしいと子供こごろにも覚えていた、ただしラジオ・電器屋の我が家とシッカリしたしもた屋の稲垣家とには何の縁もなかった。
それだけなのだが、稲垣真美さんは本を送るといつも受け取ったと挨拶してくださる。今度の、山縣有朋と成島柳北」へも、鳩居堂製の「稲垣眞美用箋」に、ていねいなお手紙を貰っていて、「三つからは加茂川畔に育ち、粂川光樹の京都一中では先輩、大体二十ぐらいまで京都(深草の聯隊にも入りましたので)、あとの七十五年の大部分は東京ですが」と書かれてあり、ま、かりに新門前であっても「加茂川畔」と私でも、云えば云うだろう。すこし年配だった粂川光樹は亡くなったが、なんと「医学書院」に同年に入社し、きれいな奥さんと結婚して彼は早めに退社、フェリス女学院の先生から明治学院大の教授になったいた。わたくしは在社十年で太宰賞作家に身を変えて仕事の山を積んできた。稲垣さんは粂川君から私について何等か聴いておられたのかも知れない、が、私にはどうも「梅本町」の稲垣さんちの「京大生のお兄さん」が気に掛かっていたし親しみを覚えていた。
そして、雑誌「新・新思潮」創刊の巻頭での「美学・藝術学」ときてカントの「判断力批判」の「ヘーゲル美学」のと現れ出ては面食らった。「ヘーゲル美学」の翻訳という仕事が稲垣さん作の終盤でのっぴきならない話題になっているが、わたしと妻とは大學のころ「ヘーゲル美学」の訳本を輪読討論までしていたし、その本はいまも書庫におさまっている。いまでは笑い話に属するが妻の卒論はなんとカントの「判断力批判」に食いつくシロモノでもあったのだ。
稲垣眞美さんにこんど頂戴したお手紙は、大事に記念したい。

☆ 秦 恒平様
「湖(うみ)の本 151 山縣有朋成島柳北」 全頁拝読致しました。
京にては無鄰庵、東京では足を伸ばせば椿山荘、それに必要あって鷗外全集を繰れば山縣有朋表裏の条一杯出て参ります。
それと荷風の好きそうな成島柳北との取合わせ、ともにお祖父様の蔵書にありましたとのご因縁が由来、そして大逆事件、二・二六の怨念忘れまじとのご真意まで、心深く拝承致しました。有り難うございました。
小生も、八幡に生まれ、三つからは加茂川畔に育ち、粂川光樹の京都一中では先輩、大体二十ぐらいまで京都(深草の聯隊にも入りましたので)、あとの七十五年の大部分は東京ですが、親父は尾張ながら、母方は大板の宇佐と、それに何と長州萩の血まで入っています。 戦争と軍人は大嫌いでしたと胸を張って言えるのですが、山縣有朋、森鷗外しなるともはや何とも言えません。そこの処、西郷隆盛、依田學海、上村松園までからめて、まことに細密によくぞ纏められたと敬服致しました。
たまたま私この度『新 新思潮』を発刊。誤植多く恐縮の限りですが、多年の御礼に同封致します。ご笑覧下され度  匆々
二○二一年五月一日    稲垣真美

* 私よりご年配と感じていたが、敗戦の日に私は国民学校四年生の九歳半、熊谷さんは兵役の早々から脱しておられる。一世代はちがい、九十五六歳か。「新 新思潮」創刊と長篇の巻頭作、ますます御健勝でありますように。まこと久々に「美学藝術学専攻」などということを想い出させてもらいました。
2021 5/19 233

* 京・古門前の「おッ師匠(しょ)はん」 縄手の「お茶漬鰻」と 甘泉堂の甘味「おちょぼ」とを送ってきて呉れた。
「おおきに ありがとさん」
わたしが 妻と東京へ出てきたのが一九五九年で、そのころまでは彼女は茶や花の稽古場へ通ってきていたかも。そしてその後もう六十余年、顔を合わせたことがない。宝塚へ入ったり出たり、日本舞踊に打ち込んで、いつか「おッ師匠(しょ)はん」になってたり、噂は叔母を介して聞こえていたが、いま以て再会していない。が、小説の主人公には優になりうるいつも「噂の子」で、私は『或る雲隠れ考』を書いた。むろんフィクションであるが、書き込み甲斐のある主人公であった。本人は知るはずもない。
そして 数年まえになろうか、突如として手紙を呉れた。以来、ときどき電話で話す。わたしからは何も遣るモノがないが、「おッ師匠(しょ)はん」は、ときどき上のようなご馳走や京らしい甘味を送ってきてくれる。既婚者であった(お相手は亡くなった)が、いまいまで謂う真っ向本気の同性婚だったとは叔母の方から聞いていた。私に親しみを持ち続けてくれていたのは、たぶんに従兄妹ほどの気楽さなのだろう、私もそう思っている。ひとつには、私が秦の「もらひ子」だったように、彼女も今少しフクザツな立ち位置で古門前の名だたる旧家へ、婿入りした実父と一緒に入籍していて、そんな「ややこしさ」を背負いあっているという親近感がどっちにも有ったのだ、いまでも、有る。たいへんな美女だったが、私の「男」などは遠い関心外にあった。

* 京・古門前の「おッ師匠(しょ)はん」 縄手の「お茶漬鰻」と 甘泉堂の甘味「おちょぼ」とを送ってきて呉れた。
「おおきに ありがとさん」
わたしが 妻と東京へ出てきたのが一九五九年で、そのころまでは彼女は茶や花の稽古場へ通ってきていたかも。そしてその後もう六十余年、顔を合わせたことがない。宝塚へ入ったり出たり、日本舞踊に打ち込んで、いつか「おッ師匠(しょ)はん」になってたり、噂は叔母を介して聞こえていたが、いま以て再会していない。が、小説の主人公には優になりうるいつも「噂の子」で、私は『或る雲隠れ考』を書いた。むろんフィクションであるが、書き込み甲斐のある主人公であった。本人は知るはずもない。
そして 数年まえになろうか、突如として手紙を呉れた。以来、ときどき電話で話す。わたしからは何も遣るモノがないが、「おッ師匠(しょ)はん」は、ときどき上のようなご馳走や京らしい甘味を送ってきてくれる。既婚者であった(お相手は亡くなった)が、いまいまで謂う真っ向本気の同性婚だったとは叔母の方から聞いていた。私に親しみを持ち続けてくれていたのは、たぶんに従兄妹ほどの気楽さなのだろう、私もそう思っている。ひとつには、私が秦の「もらひ子」だったように、彼女も今少しフクザツな立ち位置で古門前の名だたる旧家へ、婿入りした実父と一緒に入籍していて、そんな「ややこしさ」を背負いあっているという親近感がどっちにも有ったのだ、いまでも、有る。たいへんな美女だったが、私の「男」などは遠い関心外にあった。

* 小説の種は、おもいのほか無造作に人の世には転がっている。いつ、どう、掴むか、だ。
2021 5/22 233

* へとへとよろよろと駅から歩いて帰ったら、弥栄・日吉ヶ丘の友達團彦太郎君の昔懐かしいいい手紙がとどいていて、まことに嬉しかった。
ロサンゼルスの池宮さんからもやっぱり懐かしい心親しい佳い手紙が夫婦宛てに届いていて、「湖(うみ)の本」に送金まであって、恐縮もし嬉しくもあり、疲れが取れた。昔昔の友達の元気そうな頼りを貰うほどいま嬉しいことはほかに無いのでは無かろうか。奮い立つまではゆかなくても、気がシャンとする。それが嬉しい。

* 團君というと、忘れられないのが、私には受賞作「清経入水」と列んで出世作にも数えられた短編「祇園の子」だ、はなはし昨日のように想い出せる、六三新制で新設の市立弥栄中学ホカホカ湯気の立ったような一年生としてわれわれは新入学し、團は一組、私は二組で、演劇大会で激突した。全校全三年での優勝を競う大会であったから、弥栄中学新設ほかほかの一年生、事実上の弥栄一回生として上級生に負けまい気構えが強かった、「三回生」と謂われていたが、二年生三年生は大なり小なり先立つ他所の学校から転じてきた人らで、三年生には兵役復員の人たちも混じっていたような時節だった。
結局、私が演出に奮闘した一年二組の演劇が優勝し、團の一組が二位だった。それはもう気分が盛り上がって、そしてその果ても果て、もうみな家へ帰って行こうというときに、一組の演劇でヒロイン役を健闘してた女生徒と私との、電車道横断歩道上でほんの一瞬の詞のやりとり、それだけでその短編小説は成っていたが、「こんな作が十も書けるならたいしたもんです」と文壇の大家に褒められるようなことになった。わたしは。今でもその「祇園の子」と團君とが舞台でのセリフのやりとりのサマもよく覚えていて、彼をおもいだすつど、そのヒロインを想い出さずにいなかった。よく出来る子と評判の学級副委員長だった。團が委員長だった。
往時は渺茫。團君、かれは、そんな七十四年も前を記憶しているかなあ。
そういえば、團彦太郎、みんなダンピコと愛称していたが、かれもまた一人の「祇園の子」旧弥栄小学校の卒業生だったのだ。窮・京都市立弥栄小学校は、元々へ遡れば祇園甲部のお茶屋立と謂うて佳い成り立ちなのであった。
2021 5/24 233

* 明日で六月が往く。五輪前・五輪開会への七月は遺憾にも波乱は避け得まい、都議選どころかと想われる。京の祇園会はどうなるのだろう。祇園さん、石段下の夜景がしみじみ懐かしく目にうかぶが。八月の大文字、テレビででも見られるだろうか。なにもなにも無事でありたい。
2021 6/29 234

* ひるすぎ、大原千鶴の料理番組を楽しんだ。はんなりした「京をんな」の佳いしゃべりが懐かしくて、贔屓にしている。
2021 7/2 235

* 横井千恵子さんの送ってくれた京のお漬物、なかで私が、煮てあれば、幼少來親の敵ほど嫌いな茄子の漬物の香のよさ口当たりのよさに惚れ惚れと旨い酒が呑めた。なんて妙なんだろう。
煮た茄子が出ると私は怖気をふるい、母に、口へ押し込まれたこともある、私は泣きわめいた。幼稚園の給食に出た時も、先生にガンとして食べさせられた。大泣きに泣きながら口に含み、呑みこんだ。
ところが、わが家の向かいに、同年で、同じ馬町の京都幼稚園に通った石塚公子も茄子が嫌い、そして「ハム子」のいわく、ポケットに隠して食べなんだ、そして捨てたわと嗤われた。二の句が出なかったそんな昔昔を覚えている。が、漬け物の茄子は好きだった、香も歯触りも味も。京の漬物を戴いたと聞くといの一に茄子があるかと妻に確かめた。旨いのだ、香も味も。千恵ちゃん、ありがとう。
2921 7/3 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 山上墳墓 (昭和廿八年 満十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

遠天(をんてん)のもやひかなしも丘の上は
雪ほろほろとふりつぎにけりに

あかあかと霜枯草の山を揺り
たふれし塚に雪のこりゐぬ

埴土(はにつち)をまろめしままの古塚の
まんぢゆうはあはれ雪消えぬかも

* 高校の在った日吉ヶ丘の東の崖、泉涌寺本山の南寄りに古刹の雲龍院があり その門前を西へ延びた崖上へ、戦士らの墓標のままみえる寂しげな小墓地が延びていた。私は、高校生時代、平気で授業中の教室を脱け出ては、東へ山寄りの泉涌寺や泉山陵、また南へ丘下の東福寺などへ、もっとの時は京都市内の寺社や博物館などへサボっていた。そのおかげで後に小説『慈子』や『畜生塚』などが書けた。大学受験のためのいわゆる受験勉強がイヤで、古典を読み角川からの「昭和文学全集」を買って全巻、各作家の作はむろん「年譜」までも、熱中愛読した。「京都という市街や四辺の郊外」にはどんな受験参考書より豊富に魅力溢れていた。それらから学ばない手はないと確信していた。京大、東大を受けて大學教授を目ざすり、無試験推薦入学で済ませ、「京都の作家」に成りたかった。泉涌寺来迎院や「山上墳墓」や東福寺境内で詠っていた時も、もう、そう思っていた。
「京都」は、どこをどう歩いても、ほんとうに有り難い懐かしい豊富な街だった。
2021 7/7 235

* 終日 或る難儀な資料(私料)の点検と整理にかまけていた、昨日から始めた。根をつめても数日はかかりそう。

* それでも夕食前に、映画『祇園囃子』の後半を見終えた。私の記憶からするといくらか割愛・編集されていたかも。ひれでも木暮実千代と若尾文子の「あはれ」はむごいまで美しく描き切れていた。座敷にこそわたしは挙がったことはない、はじめてこの映画を観たのは「祇園町」の真ん中の新制中学を出てまもない高校生時分で、舞子になっていた若尾文子とちょうど年格好もいっしょ、それだけに身につまされた。なにしろ私の中学では舞子に出て行く女生徒が現に何人もいたし、甲部も乙部もどんな細い路地ですら知り尽くしていた。祇園町の物言いも風俗も舞子、芸妓もたくさん見知っていた。されどころか、田舎へ疎開前、国民学校三年年生まではまだ葉は揶揄と一緒に祇園町のお風呂(銭湯)の女湯へも通っていたので、「舞子さん」らと平気で一緒の浴槽につかっていた、「はだかのつきあい」は子供の時に済ましていたのだ。そんな私には若尾文子の『祇園囃子』は目にも耳にもあまりに色濃くも親しかった。 あれから六十年の爺の目にも「祇園」は懐かしくまた痛ましいまで身に沁みた。

似た映画で若尾文子には大先輩の山田五十鈴が好演した『祇園の姉妹』もあるが、時代は古く、私の見ていた当時の祇園とは空気の色もちがっていた。
思えば木暮実千代のまぶしいほどな色気が再校に映えていた時節であった。
2021 7/16 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 弥勒 (昭和廿八年 十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)
(釜井春夫先生追悼七首 弥栄中学・国語)

みあかりのほろびの色のとろとろと
死ににき人はものも言はさぬ

衣笠の山まゆくらく雨を吹きて
水たまりに伽の灯がとどくなり

衣笠の山ぎはくらしひえびえと
更けゆく秋に死にたまひしか

* ご葬儀に、中学三年生、生まれて初めて弔辞を読んだ。
その後も教頭の寺元先生、担任の西池季昭先生のご葬儀でも弔辞を献じた。後々には、実父である吉岡恒の葬儀にも、親族から強いるほどに弔辞を望まれ、まことにフクザツの思いをした。
2021 8/7 236

* 「湖(うみ)の本 153」に幼少を幸せに愛育された京都市東山区新門前通仲之町の、東遷のため取り払われる直前の、秦の旧家屋写真と、現在八五老の近影を「口絵」にしておきたいと思い至った。
2021 8/11 236

* お盆と謂う日であるのに、私には幼來あまり感触がない。感覚的には、明十六夜の「大文字」を眺めての方が身に沁みた。今年の「大文字」はどうあるのかしらん。
昔なら、十五日のお盆より、二十三日ごろの地蔵盆そして盆踊りが大きな楽しみだった。
思春期に独特な色を染めたのが、町々をあげて戦後の盆踊り大繁盛だった。とてもとても家でじっとなどしてられなかった。各町内で、長い踊りの輪ができ、いつかそれが通りを通して合流した。新門前西之町の、古門前元町や古西町の、華頂会館前の、高台寺観音前の、祇園町北側疎開跡地や新橋西での、祇園町甲部や歌舞練場内での、寺裏松竹町での等々、もう至る所で踊りの渦が巻きに巻いて、みづほ踊りや三味線ブギや、東京温度、炭坑節など、何が何でもかまわず踊ってまわった。敗戦という空気をぶっとばす賑わいであったなあ。
2021 8/15 236

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ あらくさ (昭和廿九年 十八歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

南天をこぼして白き猫のなく
川のほとりに師を訪へばよし

湯の音にもだしてをれば夕かげは
花にまとへり紙屋川ぞ

埋み火のをりをりはぜてたぎつ湯に
師はふと席を立たれたりしか

* 市立弥栄中学時期の国語の給田みどり先生、優しく、すぐれて佳い歌人でもあられた。
ある
夏休みの一日、高校生になっていた私の家の前へふと見えて、そのまま、奈良の、薬師寺、唐招提寺へ連れて行って下さった。お寺や仏像との事実上初の出会いを用意して下さったのだ。
小説にも、二、三度は姿を見せて下さっている。
2021 8/20 236

* 京都は昔から共産党の議員が時に複数選出される府県だった。私も、じつは私の親たちの家でも、ときの政権にいつも腹立ち紛れに「共産党に入れてきて(投票してきて)やった」とぼやいていた。私は中学高校から王朝和歌のような短歌をつくって茶の湯にひたるような少年であったけれど、私の顔も覚えない生母は、一時、共産党から奈良の県会だか市会だかへ立候補したそうな人であったらしいし、一緒に暮らした記憶のまったくない一歳ちがいの実兄北澤恒彦も、京都での高校生の頃京大系の共産党員にちかづき火焔瓶闘争に絡まって臨獄の経験も持っていて、そういうことを後々には知るまでもなく、政治的革新には親近感をいつももっていた。いろいろな感想も身内に育んできた。
それで、というしかないが、わたくしは京都選出の複数の議員に宛てて、「政権」を遠見に見物したままラチもない好き勝手を喋りまくって満足している共産党になど今日何の価値もない、政権を念頭に置いた政治活動へきりかえなさいと、手紙を書いた。委員長にも書いた。つまりは、俺が俺がではなく、他の野党と協力して少なくも国会議員の三分の一回復へ全面で力を協せなさいと勧めた。一方。立憲民主党の議員、京都選出で大學の後輩にも同趣旨をつよく勧めた。
幸いに共産党の幹部はこれへ協和してくれたと思う。共産党の我意を捨てた野党共闘協力の姿勢は、数々の選挙で野党を勝たせてきた。その報告かたがたの私信もまた党の機関誌も送って見えるようになっている。 横浜市長選挙は、あざやかな成果のまた一つになった。
「政権」を意図しない野党など、存在価値は全くない。政権へ向けて活躍しまた協同しなければ弱小野党に存在意義はない。わたくしは、このためにも共産党に目覚めて貰いたかった。目覚めてくれてよかった。横浜市長選でも、また野党協力は実を結んだ。
2021 8/23 236

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ あらくさ (昭和廿九年 十八歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

青竹のもつれてふるき石塚の
たまゆらに散る山ざくらかな

みづの音をふと聴きすぎてしまらくの
しづけさのうちに祇王寺をとふ

* 嵯峨嵐山をもう一度散策叶うおりがあるだろうか。常寂光寺、二尊院、祇王寺、等々。まるで夢になった。
2021 8/24 236

* 「湖(うみ)の本 154」三校が出てきた。今回は口絵も入稿してあるが、やがて届くだろう。『少年前」の心稚かった日々へ帰る旅を楽しんでおく。

* 思えば私の八十五年に、あのころが「抜け」ていたナという時期は無い。けっして人づきあいが良い広いなど謂えそうにない私だが、じつは八十五年を通じてびっしりと「人」(先輩・先達・知友・男女とりどり)」への思い・親しみ・馴染みが途切れなく連続している。「女文化」の京都、それも祇園のまぢかで育ったおかげで、心親しんだ女性の名も面影も、びっくりするほど数多い。思い出に空白という時期が無い。
2021 8/28 236

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