* 暖房だけをと二階へ来たのに、そのまま書いていた。戴いた温かな膝掛け、肩掛けで体を覆っている。柔らかな毛の帽子をかぶり、膝にも手首にも厚い毛編を巻いている。手には左右とも「指出の」手袋をし、終日、就寝中もマスクはとらず、寝入る前には眼帯している。私は、子供の昔から「寒がり」だった。栄養失調の戦時中はこどもはみなそうだったが、私も両脚によく「くさ」をつくって包帯が取れなかった。丹波の山村への疎開は農家でもらい物の果実や根菜に助けられていた。
2022 1/11
* いきなり玄関へ「日吉ヶ丘高校 同窓会員名簿」を届けに来られ、ま、いいかと請求の金額を支払った。 なにしろ「72年」もの卒業生、私は開校されての「第5回生」、せいぜい前後の四、五年生に知った名が有るかどうか、まずは自分の同学年せいだけを記憶しているかどうか、だが、なによりも逝去の友が多いのに愕然、所在不明の名も多いのに胸が痛む。先生方がこの72年にどれほど数多教壇に立たれてたかにも、数の多さに息を呑む。72分の1しかほぼようの無いかいものだけれど、見始めると時間を忘れそう。多くは無いが校舎、教室、運動場、往来した路などの写真の入っているのも嬉しく、懐かしい。
高校は現存しているけれど、かなしいことに弥栄中学も有済小学校も廃校になって校舎すらもう失せているとか。永く生きてきたなあと想うまでの感慨であるが、幸い私には刊行の著作があり、そのおかげでびっくり仰天の昔の学友、先輩後輩とすら交歓の降り機械を得ている。探しに探して現住所不明の友もたくさんあるのが胸を痛める。
2022 2/1
* 昼食後 潰れたように機械のまえで、椅子のまま二時間近く寝入っていた。それを喪った時間と悔い思うことは無い。体の求めたことと承け納れる。
以来二時間、吾ながら何をしているのか判らない。何も出来ていない。機械の毒を嘗めて、翻弄されているよう。
逼塞の日々。気分を変えることが出来ない。京都の新門前なら、表へ出て、ちょっと彼我へそして北へ折れればすぐ白川の狸橋。お気に入り、流れを見下ろしてしばし瞑想、時を忘れる。川の左岸を東向きに、東山線を越えて、知恩院古門前の太鼓形り白川石橋。北から流れ来る白川の両岸は柳並木、ほそい石橋がいくつか望めて視線を高く挙げて遠望すれば、比叡山。マーロン・ブランドが日本一と好んだ景色。
ああだめだめ、このまま北へ東へきままに歩けば限りない憩いの散策に時を忘れる。この仕事部屋へ帰って来れなくなる。湖山已に遠し。泣きたくなる。
2022 2/5
* 亡くなっている縄手「今昔」の龍ちゃん、愛おしかった茶の湯の妹弟子で有済小学校後輩の龍ちゃんが変わらぬ笑顔で夢に現れた。ほんの數瞬であったのだろうが喜ばしい気持ちのまま夜中の夢から覚めた。このところの苦渋に満ちた日々を励ましに来て呉れた、そう思えて嬉しかった。無垢の和と喜と楽にいつも満たされて仲良く親しんだ子。妹。
* 思うまでない今、わたくしは正真正銘の「やそろく爺」で、それとはなく末路の景色も目に観ている、のに、あの敗戦後の新制中学生の年頃に得た「真の身内」と許し合えた梶川三姉妹を今も一日として忘却したことなく「むかし」」のままに思慕もし親愛もして変わりなく「少年」のままに胸に抱いている。「今昔」の龍ちゃんも、また右の三姉妹に同じい愛おしさで日々忘れたことがない。この人達と「結婚したい」などということは、まったく思いも寄らない、次元外のこと、それ故に慕情や愛情の深い真実が光るようにいつも潜在した。
私は、そのような『少年爺』として、奇跡のようにそんな「今」をいつも抱いている。今も「人生の原始期」で燃えた焦点のように彼女たちは私の人生に炎えつづけている。
四人の三人は、もう亡くなった。
今日も存生と想っている妹の一人は、京都での所在こそ知れているが文通一つ無く、六、七十年も顔を見ていない、けれど、『選集』も『湖の本』もみな届いている。電話一つ掛けたことが無い、そんな「必要が無い」のである。姉の亡くなったときは、何必館夫人の義妹を通じて知らせてくれている。臨終の折り、姉は、恒平には必ず「間をおいて」から知らせてと言い置いていった。龍ちゃんも、子息の手紙で知らせてもらえた。「今昔」の弟は、いつも「龍ちゃんの日頃」など、便りしてくれていた。
私は、生まれつきリアリストでは無かったし、そう生きて来れた、来れている、此の人生を、感謝している。双親を識らず「もらひ子」として幸せに成人した私の、それは寂しさを克服する命がけの「フィロソフィー」であった。
2022 2/11
* 戦後六三制中学に、粟田小学校からの女生徒に「三節」と評判の「節子」が三人いた。中村、渡辺、安藤。その渡辺節子から「湖の本」へ礼状と極上の煎茶が届いた。おすましで、講堂のグランドピアノが弾けて、そういうのは当時人気悪く、男子も女子も遠巻きに意地悪だった。小学校の異ったわたしには縁もゆかりもない子だった、三年間に、高校も同じだったから六年間に口を利いたような覚えがないが中学では学級委員和していたから委員会議に顔を出していた。一年の頃、渡辺節子と同じ一組で、やはり学級委員だった中村時子という優等生がいて、短編ながら永井龍男先生にいたく賞められわたしの出世作になった『祇園の子』のヒロインを演じてくれた。評判の子だったが、当時祇園の此のならわしめいて、学業途中から先斗町へ舞子で退学していった。渡辺節子はいいトコのお嬢めいて済ましていたので皆が敬遠気味にいじめていたようだ、私は、よその組でもあ、結局中高六年無援の儘だった。当時の名簿住所録がみつかったので「湖の本」を二度三度ほど最近贈ってみたら、礼状が届いて恐縮したが、苗字が變ってないのにも何となく頷いていた。私のことは憶えているだろうと思った、なにしろわんまん生徒会長などつとめてヤカマシイ男だったのだから。中学で大きなピアノの弾ける女子は、渡辺と石塚公子のふたりだけ。石塚は、私の家の斜め向かいの子で、幼稚園へも園のバスで一緒に通ったが、強烈個性の子で、やはり短編に書き入れている。
わたしは物覚えが良く、この調子で目星を付ければハナシの種に成ってくれる友達は、男女とも何人も何人も覚えがある。おまけに、地理の上でも、祇園に甲部と乙部という嶮しい差別が在り、私の有済校も近隣の粟田校もかなりの範囲に被差別地区を抱えていた。けわしい人間劇はちいさいころから見知りも聞き知りもしていた。私を育てた「ハタラジオ店」は祇園町と被差別地区にはさまれた「総本山知恩院の門前通り古新二筋のうち、祇園町と細い抜け路地一本で背中を合わせの新門前通り中之町に在った。この新門前通りには、東大路に接した東寄り梅本町に京都美術クラブが在り、西の縄手(大和大路)に接した西之町には能の「京観世本家と京舞井上流家元」の屋敷が在り、真ん中の中之町は温和な住宅町だった。総じて外国人相手の美術骨董商の店が数多く、それぞれのウスンドウは幼かった少年以来青年までの私の「美術館」になっていた。ガラス窓に鼻の脂をつけると叱られるほど飽かず狩野派の繪や焼き物や仏像に魅入られ歩いた。
この調子で思い出を書けば幾夜も夜通し出来るだろう。
さきの「三節」の渡辺節子は蹴上の都ホテルから山科向きに日ノ岡へんから祇園石段下の弥栄中学まで、さらには九条東福寺や泉涌寺山寄りの日吉ヶ丘高校まで通っていた。中村節子の家は粟田山麓で三条大通りに面していた。安藤節子は知恩院下白川沿い様々に小売りの店々が並んだ古川町に間近く暮らしていた。三人とも「出来る」女生徒だった。
* 「湖の本」呈上本を送るのも、必ずしも読む人と見極めているのではない,昔の住所録が見つかれば、やれ懐かしと知った名前を選別したりしている。びっくりされるのも面白く,幸いに私が作家稼業を半世紀以上も続けてるのは、ま、少なくも小・中の同窓なら大概知られている、学年が幾らか逸れていても知られている。ワンマンを振り回してた「生徒会長」役は、なかなか今日にも有用に生きてて呉れる。
2022 3/15
* 二階へ来て、ひとり、静かなピアノ曲を聴いている。ガルッピか、スカルラッティか、ショパンかバッハか。そういうことは気にしない。静かに美しいピアノの階調と音色を快くたのしむだけ。ニューヨークで宮澤明子が弾いているが、それも私には問題で無い。音楽に親しむだけ。知識として深入りの気はまるで無い。曲が代わる、次の曲の最初の階調が耳に沁みる。
音楽は苦手の科目で、小学校でも中学でも「通知簿」の「音楽」に「優」や「5」のついてくるのを我ながら異様に感じた、「ひいき」やと思った。が、さらに奇怪なのは、中学三年のおり、音楽会で、指名され講壇の上、全校生の前で「ローレライ」の独唱を命じられたのには魂消た。仰天したが逃げ出せない、恥ずかしくも壇に出て歌うは歌ったのだ、先生の指名では逃げ場が無かった。
あの時、けれど、私の、耳にも目にものこっていたのは、ちょうど一年前の同じ音楽会で、心底憧れていた三年生女子が同じ講壇の上で、同じように、いや私などより何層倍も上手に晴れやかに佳い声で「春のうららの隅田川 上り下りの船人が」というのを美しく独唱した、それを思いだし、あのひとの後に続くのだと自身を慰め励ましたのを今も忘れない。そして今も「ローレライ」はイヤ、「春のうららの」は大好きなのである。
2022 3/18
○ パソコンのメール 受信できるのかな と思いつつ✉をしました。
コロナ騒ぎで、ほぼ自宅周り(花小金井)を彷徨くこの頃です
ほんまに 東京に住んでいるのかいな 、なんて …
マア コロナ騒ぎが落ち着いたらと 楽しみにしています。 御元気で… 千
* 中学での同窓、一年下。小学校はちがったが、高校も同じ。
私たちと同じほど東京郊外で暮らして若い家族に囲まれた「おばあちゃん」をしている、らしい。中学では、ソフトボールのスラッガーだったが、花のような美少女だった。高校では、わたしから茶の湯を習っていた。
2022 4/2
* わたしは、京も祇園町のまぢかで育ち、祇園町のまんなかの中学生で「先生」無用の茶道部を立ち上げて作法を指導し、高校は泉涌寺の下、東福寺の上の日吉ヶ丘に在り、学校にあった「雲岫」と名付けられた佳い茶室に「根」を生やし、茶道部員に茶の作法を熱心に教えていた。
秦の叔母は生涯、裏千家の茶道(宗陽)、御幸遠州流生け花(玉月)の師匠だった。私は小学校五年三学期からこの叔母に茶の湯をならい、高校を出る出ない内に茶名「宗遠」を受けて、のちのち上京就職結婚まで、叔母の代稽古もつとめ続けた。つまりわたくしはまさしく「女文化」に育っていた。親しい男友達は、指折り数えて大学までにせいぜい十人か。友達とは言わない叔母の社中も含め、わたしが教え、また互いに親しんだ女性、女友達は、今日までに優に百人どころでないだろう。
「女文化」という言葉を発明しながら、京や日本の歴史や自然や慣行をゆるゆると身に帯びてきたのは、必然の、ま、運命の賜物のようなものだった、「好色」「女好き」というのとは、まるで違う。それが、私の「生活」なのであった。
秦の父は,素人ながら京観世の能舞台で地謡にも出る人であったし、日頃、謡曲の美しさ面白さを家の内ででも当たり前に「聴かせ」てくれていた。
祖父鶴吉は、一介市民「お餅屋」さんの家としては、異数に多彩な、老荘韓非子・史記列伝等々の漢籍や「唐詩選」ほか大小の漢詩集、大事典辞書や、また『源氏物語湖月抄』や真淵講の『古今和歌集』『神皇正統記』また『通俗日本外史』『成島柳北全集』『歌舞伎概説』等々の書物を、幼い私の目にも手にも自由気ままに遺していってくれた。
言うては悪いが実父母と生活していても、とてもこんな恵まれた素養教養の環境はあり得なかったろう、じつに秦家へ「もらひ子」された幸福の多大なことに、心の底から驚きそして感謝するのである。
その意味では、私は、作家秦建日子や娘の押村朝日子に、何ほどのかかる教養・素養を環境として与えてやれたかと、忸怩とする。もっとも、当人に「気」が無ければどんなものも宝の持ち腐れなのは謂うまでもない。宝は、だが、その気で求めれば広い世間の実は至る所に在る。しかし、それもまた、ウクライナのようなひどい目に遭ってはお話にならぬ、とすれば、今我が国の「為すべき備え」は 知れてあろうに。
2022 4/2
* 京都で生まれ育って、戦時疎開の丹波での二年足らずを含めて上京、就職、結婚までの二十四年間が私の『京都』時代。『東京』時代巣以降六十年にもなる、のに、遙かに遙かに「京都」が私に刻み込んだ感化は何層倍も深く広い。江戸・東京の歴史も自然も、体験として知識として、京都のそれに比すれば遺憾にもごく浅く、薄い。
今朝も、藤吉郎劇を観ながら思ったこと、あんなに京から至近の「浪速・大阪」というおもしろい都市を、もっと親しく深切によく識り学んでおけば良かったという、痛恨に似た残念で。西鶴近松を育て秋成を生み育てた街ではないか。もったいないことをしたなと残り惜しい。
2022 4/3
* メールが読めなくて、案じていました。愛知のコロナ事情善いとは言えないのでは。用心して下さい。繪は、届いているのか、どう見るのかわからず浄瑠璃寺、確かめ得ていません。法界寺の如来さま いい写真が撮れたら送って下さい。山科から醍醐寺へ宇治川・平等院への道をもう一度通いたいと願っています。洛北円通寺、鞍馬、貴船へも。琵琶湖も観たいなあ。三十三間堂、京博、清閑寺、清水坂、六波羅蜜寺、建仁寺、花見小路、祇園さん、円山公園、知恩院、白川 キリが無くて泣けるなあ。もう一度で好いから帰りたいなあ。
鳶は、もしかして、
あの知恩院下の白川に架かった細い太い何本かの石橋のなかでも、やや幅のある「土居ノ内橋」を西へ渡り、小商店の居並ぶ「古川町」を挟んだ東山線までの粟田地区内「白川西界隈」の、そこを細く区切った「路筋や民家」に具体具象の印象や記憶が何か無いでしょうか。
さらに言えば、東山線を西側へ渡って西へ西へ、有済地区内の縄手(大和大路)まで広がり続いたいわゆる「三条寺裏、古名で謂う天部村」に具体具象の印象や記憶が何か無いでしょうか。あれば、ちいさなことでも聞かせて下さい。今謂う界隈の比較的詳細な古い地図などお持ちで現在ご不要なら、拝借できませんか。 わたしは、有済地区では最も南、祇園と背を接した(知恩院)新門前通り仲ノ町で育ちました。一筋北に同じく古門前通りが在り、この通りに背を接して三条大通りにまで、上に謂う寺浦・旧天部村がありました、わたしは、この三条寺裏地区を、学校時代を通じ状況まで殆ど足を踏み入れたことが無かったのです。
鳶は社会学的にこういう通称被差別地区に踏み込んで学術調査などしていたかと聞いた記憶がちらと残っていまして、助けて貰えるかなと希望を抱いているのです。
* 上に関わって尾張の鳶、重ねて来信あり。
* 晩年も煮詰まってきて、畢生と云うほどの仕事に取り組むなら、是れという主題を自覚的に少し吐露して、尾張の鳶さんと「京の闇」にかかわりメール往来。
脳裏にまずはスケッチを重ねたい。
2022 4/17
* 只今、尾張の鳶さんからの 京の、希望した界隈の精度の在る写真が、沢山送って貰えてあるのを
発見、感無量、深く深く感謝。感謝。さらにさらにあすから想像や記憶も効かせて、よくよく見入ってみる。鳶、ありがとう。鴉は、ボーゼンとしています。夢を見ます。
2022 5/20
* 尾張の鳶が、京都で、洛東の一部、地域を限って依頼した「写真」を、昨夜、たくさん電送して呉れた。私の「記憶をもとに地区を限定」したが、何というても六七十年も以前の、しかも孰れもほぼ一度として立ち入りも実見もしたことの無い見聞と想定による依頼で、珍しい驚きで、今日、写真に見入った。感謝、感謝。少年の昔に知り得ていた限りではいっそ草莽と貧寒が、開明の高層建築等に埋められたようなのに、感慨しきり。いわばそれが当然とも謂えよう。戦時下には、かつて鼻をつままれても見えないほど漆黒に包まれていた祇園町花見小路が、文字通り幅5メートルと無かった小路が、俄然強硬な人家取り毀しで四条大通りから三条大通りにまでブチ抜かれ、何らかの思慮配慮も加えられびっくりする高層建築が通り脇に建っていたのも記憶にあるのだ、まして爾後数十年である。
全く見知らなかった光景や建物や界隈に、やや息を呑む心地もした。
鳶さん、有難うと繰り返し言わずにおれない。
もとより、「書こう」というのである「仮構」の物語を。芯になるだけの人と物語とには「用意」がある。問題は、此の今の私の時間的な現況。ゆっくりはしてられない、体力能力の窶れに負けてられない。
2022 5/21
* なぜか手近へこぼれ出ていたようなも大昔の雑誌「思想の科学」を手にし、亡兄北澤恒彦のかなりな力編と謂えようか「革命」を語った長い論攷と、この兄が、私恒平の昔の作『畜生塚』のヒロイン「町子」の名を、生まれてきた娘に貰ったよと手紙で告げてきていた北澤「街子」が連載途中のエッセイを、朝飯前にさらっと眺めていた。この「思想の科学」は今は亡い鶴見俊輔さんを中芯に結集した人等の大きな拠点であったようで、兄恒彦はその中核の一人、老いの黒川創もその「編集」等に参与していた、、ま、一種の京都論派の要であるらしかった。京都で盛んにウーマン・リヴを率いて後に東大教授としても活躍した上野千鶴子さんも仲間のようであった。姪の街子はオーストラリアの学校へ遊学していたのを下地のような、長い連載エッセイを書いていた、らしい、健筆のちからを見せている。創や街子の従兄弟にあたる私の息子秦建日子も、いささか八面六臂に杉目ほどの小説作家・演劇映像作家として多忙に過ごしている。
近年にウイーンで「悼ましい死」をとげてしまったと聞く下の甥北澤「猛」が文藝・文章を書き遺していたかどうかは知らない。聞いていない。彼かあとを慕って追った人はよほどの年長であったと聞くから、我々の実父母、彼には実祖父母に当たる間柄に似ていたということか。
私たちの娘で建日子の娘である押村朝日子も、謙虚に謙遜に続ければ、また夫の理解があれば、けっこう達者な物書きへの道へ入ってたろうに、早くに潰えた。心柄と謂うしかないのだが。
とはいえ、こうしてみると「私たち兄と弟」を奇しくも此の世に産み落としていった亡き実の両親は、文藝の子らを、少なくも二た世代は遺して行ったことになる。
「北澤」という家を皆目というほど私は知らないで来た。今も知らない。
私方では、妻の父は句を、母は歌を嗜み、息子は「保富康午」の名で詩集を遺し、テレビの草創期から関わって放送界で創作的に働いていたし、妻の妹は『薔薇の旅人』という自身の詩集を持ち、画境独自の繪も描く。妻迪子も、実はしたたかに巧い絵が描ける。
* たまたま、とも謂うまい、意図して私は「湖の本」新刊の二巻に、恒彦・恒平兄弟実父母の、いわば「根」と「人としての表情」を、ならび紹介し得た。出逢って忽ちに天涯に別れて生きた男女、恒彦と恒平とを世に送りだすためにだけ出逢って忽ち別れた母と父とのため、私の思いのまま、それぞれの墓標を建てたのである。
2022 5/31
■ 「湖の本 157」ありがとうございます。夏の気配が濃くなてきました。
今、『生きたかりしに(下)』をもう少しで読み終わるところです。続いて『父の敗戦』を読みます。
一九四八以来、日吉ヶ丘高校に付属していた美術コースは、一九八○年に中京区銅駝中学校跡地に移り、銅駝美工として四十二年間が過ぎました。が、来年二○二三年四月には、下京区旧崇仁小学校跡地に移転して、市立美術工芸高校としてスタートすることになりました。これは戦前の美工の卒業生の悲願でした。橋田二朗せんせいがご健在だったら大変嬉ばれたことと思います。
これからは暑さに向かいます。一層ご自愛下さい。大阪池田市 江口滉
* こんな嬉しい喜ばしいお知らせに接しうるとは。のに、書き写しながら失神しそうに。
2022 6/1
* 高校時から私家版期までの筆名「菅原万佐」由来の一人当時樋口万佐子に、たまたま出てきた菅原万佐著『斎王譜』の端本(「斎王譜=慈子」のみを欠いた)を山科へ送ったところ、「宇治上茶」の礼があった。また国民学校いらい大学までの同窓冨松賢三クンから京の名だたる名菓二種を頂戴した。こういう付き合いが今も続けられる身の幸を眞実感謝する。富松君とはごくの近所育ち、貰った手紙には、家から家をつなぐ白川狸橋の名もあらわれ、たちまちに七十数年を翔んで遡れる。
2022 6/11
* 祇園甲部御茶屋の女将、弥栄中学の同級生橋本加壽子(かあちゃん)、まことに美味しい塩昆布を二種送って呉れた。(かあちゃん)の発音は「母ちゃん」とはぜんぜんちがう、まさしく祇園町ふう独特で、二倍三倍に懐かしい。それににしても昆布とは斯くも美味いモノかと感嘆。大阪の塩昆布のうま味は野性的男性的に強い。京都のは、「女文化」の優しい妙味。ホッと甘味も添い、鰹の匂いも添っていて。
2022 6/13
○ 湖の本ありがとうございました。丁度その頃「秘色」を再読し始めた時でした。そしてその頃TVで太宰治の娘さんが出て居て話をしてゐました。何か御縁があるのですね。何か手紙の話もして居て川端康成の事など話をしてゐました。そしてTVで「corekiyoTo」番組で京都の庭の話もあり 美しい苔寺の庭を写してゐました。こんな風にこちらに居てもTVのおかげで美しいものをよく見られ そんなときは胸がドキドキする位いです。
桜の咲く頃京都を歩いてみたいと思ってプランをたてたのですが、お友達がコロナの事があるからまだ無理だと言われて中止しました。京都の河原町通り四条通りを歩きたくて夢にも見ますよ。何もかもがコロナをつけて来てちょっと不便です。
でも私の生活は割と楽しい毎日なんですよ。
今矢張りお茶の稽古は中止ですが その時の生徒さんが家にお手伝いに来て呉れてゐます。とてもよく気の付く人で助かってゐます。この人も京都生まれの韓国人「朴さん」と言ひます。うちでお茶のおけい古に来てゐた人でその上美人です。もう一人来て下さってゐます。週に一回づつです。͡此の人は、埼玉県の人で話好きで明るい人です。二人とも60歳台です。こうして私は一人暮らしですが毎日を退屈しないで楽しく暮らしてゐます。
梅雨のジメジメがあまり好きでないので、こちらは年中暑からず寒からずのよい天気なので気に入ってます。家もベッドルームが四つあったのですが二つをお茶室八畳に、そして水屋もあります。時々小人数でお茶を楽しんでゐます。
そうそう野球の「大谷君」も近くに住んでゐるらしく、一回マーケットで見かけましたが、かわいい人ですね。近くの日本のレストランにも来たらしく写真が一杯かざってあります。此の頃はおいしいおすし屋さんも出来たし 私は此方の気候が気に入ってます。
便箋が足りなくなりました。これみんな日本京都で買って来たものです。
今家の中の整理をしてゐます。よくまあこんなに物を買ったものだとアキレてゐます。友達が「これみんなお金よ」と言って二人で大笑いしました。そりゃ本当ですね。お蔭様で今もなを何とか生活してますので エデイにカンシャカンシャです。
ほんと お伊勢さんへ行きましたね。あの人は車の運転が好きだったのですが、こちらでもニューヨークやらずっと廻りました。アメリカ横断も二回しました。インデアナに居た頃です。
インデアナ500も見て来ましたよ。事故があって車が火を吹いて飛び上がるのですよ。モノスゴカッタです。次の年も行ったのですが無事故だったので皆今年はツマラナカッタと言ってました。びっくりしました、人間ってね、、、、
ま、こんな風の毎日です。体が丈夫なのかあまりお医者さんのお世話にもならず、お友達が皆アキレてゐます。
まあ多分秋頃にはお会い出来る事と思ってゐます。
どうぞよろしく
コーヘイちゃん
みち子さんへ
6月13日 ハッピーバースデーです。 チョコちゃんより
91歳の池宮千代子さん。河原町三条、朝日會舘脇 高瀬川沿いに住まいがあり、私がまだ大学生の頃、同居していたお姉さんの大谷良子さんが叔母のもとへお茶、お花を習いに通っていて、私と仲良しだった。それで池宮さん夫妻とも親しみ、池宮氏の運転で、私も誘われ四人で、伊勢志摩までもドライヴの旅をしたこともあった。自動車などまったく縁の無い私の日常だったので、まして仲良くドライブなど、とても珍しく、愉しかった。年齢で言えば私は、ま、半世代若い弟分、一方ではすでに宗遠と裏千家での茶名ももった厳格な茶の湯の師範でもあった。妻との出逢いや、上京就職して結婚というきもちなども早くこの姉妹には告げていた。
* 京都の森下君と、中学同窓のあの君この君との想い出や覚えの消息を好感して過ごした。なかな懐かしく善い往返であった。お互いの校友や想い出がかなり重なることにも喜びがあった。いい試みであった。
2022 6/24
○ 今日、湖の本 (158)受け取りました、有り難う、御座いました、ご無沙汰して居ります、長い間、機械を使わずに居りましたので、使い方を忘れてました。やっとです。時候柄、お大事に! 渋谷 華
○ メール有り難う、御座いました。変わらずお忙しそうで!
私は体力減退で ふらっとしてます。
湖の本、有り難う、御座いました。楽しんで読ませて頂いてます。
そろそろお祭り(=祇園会)で賑います。
私は一向に体力減退です。 渋谷 華
* 夫君を喪い寂しいですと嘆いてきていた。「やっとです」に泪が滲んで見える。同じ嘆きを何人に聞いてきたか。
この「華」は、高校生の顔しか 想い浮かばない。茶を点てて、柄杓の構えや扱いのきれいな一年生だった。わたしは三年生。茶道部を指揮して点前作法も諸道具のこともみな教えていた。校舎の一画に「雲岫」と呼ばれた佳い茶席を、校長室から「鍵」も預かって、気ままに、いつも、授業をサボってでも遣っていた。部員は増え、私の青春に男子の影はほとんど無かった。「女文化」ととなえ「身内」と説く「もらひ子」の心根は、京都東山に育って、遙かに遙かに、深い。国民学校で『百人一首』に親しんで短歌を創りはじめ、敗戦後に秦の祖父が旧蔵の小型な『選註 白楽天詩集 全』から七言古詩「新豊折臂翁」を識って愛読し、新制中学一年で与謝野晶子に教わって『源氏物語』を識りはじめ、三年生で、始めてお年玉で岩波文庫の先ず『徒然草』を、すぐ次いで『平家物語』を手に入れ、耽読した。『祇園の子』が短編の処女作となり、白楽天からは妻の励ましで『或る折臂翁』が、徒然草からは「菅原万佐」の名で長編『慈子 (齋王譜)』が、平家物語からは本名で受賞作『清経入水』が成った。ためらいの無い「一本道」だった、どの蔭にも「女子」の影が添っていた。男の影は、祖父(の蔵書)独り。メールを呉れた華さんも懐かしい「影」の一つ、云うまでない。
2022 7/6
* 鍵盤(キイ)のまうしろ、大きな画面のました、目の真ん前に、「コンチキチン」と鉾の版画、京祇園の路地を描いた目にも胸にも記憶にも親しい「ろーじの風」の繪を並べて立てている。
2022 7/9
* 機械前へくると、あきとしじゅんさんに戴いた絵葉書の、ことに祇園の露地奥を描いた絵葉書に静かに優しく励まされる。
その、あきとしじゅんさんに、京の伊織の懐かしい夏菓子を戴く。感謝に堪えない。
2022 7/10
* 目近にならべた杉本吉二郎描く祇園町「ろーじの風」のすがすがしさ、木田泰彦が創るはんがの「コンコンチキチン 祇園祭」の版画のなつかさ。広い世の中には,美しい心地よいものがたくさんある、それを自身で見つけること。あくどい人たちらの口車に乗ってはいけない。
2022 7/15
* なにと無く何かしら思いついて、床を起ち二階へ来たが、さて何もない。すこし、まだ睡い。真っ黒地の広いデスクトップの真ん中へ、京、四条大通りの真東、祇園會のさなか石段上で緋にかがやく八坂神社西大門の夜景を、美しく斜め撮りに置いてみた。なんと、懐かしい。カメラを構えた私の立ち位置も懐かしい、中学へ登校の、高校へも登校の朝には必ず通って四條通りへ顔を出した細い抜け路地の際だ。すこし西には今も恋しい梶川三姉妹の実家「よろづ屋」が在った。大通りをはさんで目の真向かいには新制市立、母校の八坂中学正門が開いていた。八十六の爺が少年のように胸をならして帰って行きたい京都が大きな写真に耀いている。あーあ。やれやれ
2022 7/18
* 京舞の井上八千代さんから、お便りとお志の酒肴として美味最上のお漬け物を戴いた。八千代さんのお宅は、私の育った秦から、西向きにホンの百二、三十メートル、南流して新橋へそそぐ清い白川を跨いだ新門前通りの西之町にある。八千代さんのお父さんは京観世の家元片山九郎右衛門さん、お兄さんが私には大学専攻の先輩、観世流仕手方の片山慶次郎さん、此の八千代さんの初世井上八千代お祖母さんと、秦の、私の叔母茶の宗陽・花の玉月とは、古門前通り元町に校門を開いた市立有済小学校の、はるか昔の同級生だった。私等はみな、その久しい後輩で同窓。祇園甲部の芸妓舞子は一人のこらず井上流京舞を習って「都踊りはよーいやさあ」と花咲かせてきた。日本の文化はほんしつにおいて「女文化」と謂い切るわたくしもまたその土壌に育ってきた、たぶん、今も。
* 同じ京都でそれぞれに美学芸術学をまなんだ、私より一世代近くお若い羽生淸さんからも、お便りや、新潟の画家であられたお父上叔父上の画集などを頂戴した。派不参は、意匠の美学、模様や図案・装飾を語られる著作はそれ自体が美術のようである。
2022 7/26
* 「女文化」と無縁かのように兄「恒彦」を謂うていたが、概して謂えば間違いなく和歌にも物語にも絵巻にも歌舞伎にも寺社や風物や茶や花に遠い人であったけれど、明らかに一つ例外がある、京舞の井上流、それも今の三世井上「八千代さん」への、執着に近い熱情が履歴に記録されている。これには、実はびっくりした。来歴は知らない。八千代さんはいわぎ私には同じ新門前通りの「仲」と「西」の御近所同士で在り、同窓の後輩であり、親しい専攻先輩の妹であり、現に私「読者」の一人で在り、実は今日明日にもお宅へ届くであろう小堀遠州子孫の筆になる閑雅な「雪」「月」「花」歌軸三幅を進呈したばかり。とくべつの意味も無い、戴いた厚志へのお礼というよりも、床の間というものの無いわが家には掛けたくても掛けられない長軸なので、井上さんん家なら床の間は在る在ると、まあ持ち場所を替えさせて貰ったという気軽さ。お宅へ出向いて舞の稽古を眺めたり、公演があると遠路を出向いたり等はしたことはない。それを、だが兄恒彦は「していた」のである、コレには驚いた。舞の美妙や微妙のわかる生地のないあにに相違なく、おんなぶんかであるよりも女性で在る「井上八千代」にともあれ執心した時期があった、という事可。恒彦は、高校生で恋を知っていこう、履歴にも、風聞にも何人かの「女」に意を示していたのが読み取れる。八千代さんか、あの北澤と近所やった「秦ハン」とが実の兄弟と今は知っているかどうか、あるいは知ってビックリするのかも知れない。「ものがたり」になりそう。
2022 8/8
* 祇園花街と三条裏とに南北を挟まれた、浄土宗總本山知恩院前に「新」「古」二筋の「門前通」、その新門前通りは、北を白川の清流に画され川向こうの古門前通りと隔てられていた。新門前通りはおおよそ東大路から西へは外国からの旅行客相手の和漢の美術骨董商のショウ・ウインドウがならび、西の縄手筋から東向きには静かな和風の家が並んで、京観世・井上流京舞の家元や、超級の仕出し料理で聞こえた「菱岩」などがある。懐かしい佳い「花屋」もある。わが「ハタラジオ店」は、そんな新門前通りの中程に店を開けていた。すぐ東お隣に京都植物園長の、また清水焼六兵衛家の奥まって静かな門屋敷や露地や土蔵が並び、北の古門前通りへ抜けた脇道には、白川を渡して今では名の聞こえた「狸橋」が、幼時私らの遊び場・集い場であった。橋した白川の流れから、時に長い蛇があがってきて仰天もした。白い飾り石の橋桁に凭れ込み、川波の流れにじいっと見入るのが私の夢見時であった。有難かった。生みの母一人にか、実の父一人にか、所定まらずうす暗く貧しく育てられるより遙かに遙かに、結果私は新門前でとても幸せであった。
* 京都大学に間近い吉田辺の「お米屋」北澤家へ貰われた実兄恒彦は、どうだったのだろう。気の毒に、結果、不運であった。養母は亡くなり、実母にはまとわりつかれ、戦後の学生闘争にいちはな立って爆走した京大生たちに「高校生」の内に身近に感化され、火炎瓶を投げ、追われ、牢に入り、前科として判決され、それはそれとして兄恒彦の「身にも力にもなった部分」もあろうが、闊達なごく当たり前に普通の大人には、あたかも成り損じ、自身に「市民」「社会」「家」といった丈高い表札を建てて、才能ある三子を得ながら、妻とは離別し、自らは「市民活動家」という自負からいろんな世間を右往し左往した心の瘠せや疲労の蓄積か、何かしら不満足や重い負担や所労があってか、死病の養父の枕元で首を吊り壮年にして自死したとは、長男が克明に記録した「履歴」に明記されてある。妻子は誰も最期のその場近くに居なかった。
視野の確かな、思想や思索を重んじて、一見豪快に「身働き」の効く活躍の知識人には相違なかった、が、思いの外に健全健常な「生きる喜び」に支えられないまま、結果「斃死」に等しい自死へと墜ちた。
アトを追うようにして、次男「猛」また、異国ウイーンで「いたましい」と人の伝える自死を遂げた。ほがらかに、無邪気な、ラグビー好き、大学までにもうドイツ語自在で外務省がやとったという、心優しい可愛い甥っ子だったのに。
* 兄の、わが子等への命名に、私ならしない或る風があった。長男にはあのフクザツに人生を追った実父の名とまったく同じ「恒」一字を与えている。次男の名にあのの「梅原猛」氏の「猛」をもらったと、兄の口から一度ならず聞いた。娘「街子」にはどちらが先であったか、「きみの小説『畜生塚』の町子と通い合うたよ」と父親は私に微笑していた。
何れも、私ならしないことだ、私は久しく実父「恒」をいとわしく見棄てていたし、梅原「猛」さんにそんな敬愛は感じてなかった。梅原猛と北澤恒彦と。私にはよく見えない景色であった。自分たちの子供の名は、親が愛しく新しく名づけてやりたかった、姉は朝日子と、弟は建日子と。ちょっとかわってるねえ私は兄の「子に名付け」のセンスが妙に訝しかった。
* 私は、いま、しかと心する。,此の自死に墜ちた兄や甥の足跡を決して追わない、踏みたくない、と。
私は、はっきりと、京・東山新門前通りの「秦」家が、「ハタラジオ店」が堅固に持して愉しんでいたと思われる「文化と生活」をこそ受け容れ、健常に生きたい。
大量・厖大な和漢の書籍・事典・辞典を秦の祖父鶴吉は孫の私に譲り伝えた。やわい読み物など一冊もなかった。
父長治郎は、女向きのの「錺職」から、一転、日本で初、「第一回ラジオ技術検定試験」に合格し、当時としては最先頭にハイカラな「ラジオ店」を持ち、電気工事技術も身につけ、戦前戦中をむしろ世の先頭で技術者として生き、戦後は、真っ先にテレビジョンで店先を人の山にし、電気掃除機も電気洗濯機も真っ先に商った。しかも観世流の「謡」を美しく私に聴かせ、時に教え、囲碁や麻雀も教えてくれた。一時の浮気や金貸しで母とも揉めたりしたが、私に此の今も暮らす家屋に費用の援助もしてくれた。九十過ぎて、その東京の家で、吾々の看取る前で静かに亡くなった。二軒ならびの西ノ家には今も「秦長治郎」の陶磁の表札が遺してある。
同居の叔母ツルは、若くから九十過ぎて東京で亡くなるまで、裏千家茶の湯、遠州流生け花の師匠として多勢の女社中を育て、少年以來の私のために花やいだ環境や親和親交を恵んでくれた。文字どおりのまさに「女文化」を目に観、耳に聴かせてくれた。.
母のタカは、私を連れて独り丹波の奥に戦時疎開生活をしてくれ、私の怪我や病気にも機転の対応で二度、三度大事から救ってくれた。今思えば家事万端に私の妻よりずっと種々に長けていた。弱げでいながら、夫や小姑よりもなお健康に、百に届きそうなほど永生きし、吾々の看取る前で亡くなった。
秦家には「死の誘い」を感じていたような大人は一人も居ず、居たと想われず、それぞれ亡くなる日まで「当たり前」のように頑強に死ぜんんに自身を生きていた。父も母も叔母も、少年の私の目の前で「組討つ」ように躰ごとの大喧嘩をしたこともある、が、誰も、一言も「死ぬ」などと口走ったことは無かった。
* 北澤の兄の書いた、また北澤の兄に触れた都合四冊の本を、私は堅くものの下へ封じた。私は秦の「恒平」であると。敢えて感傷のママに「読む必要は無い」と思い切るのである、少なくも「令和四年真夏」の現在、只今。
2022 8/12
* 観ていた夢は、忘れた。思い出せそうで思い出せない。
敗戦の日。想い出は多々、疎開していた丹波の山奥へ走る。南桑田郡樫田村字杉王生。初めは山上の田村邸を借り、耐えがたく街道脇の長澤市之助邸の隠居を借りて母と二人で暮らした。多くを良く覚え忘れ得ない。敗戦の詔勅は長澤の前庭で、ラジオて聞き知った。飛行機のように手を広げて駆け回った。負けたことに何も負担は無く、京都へ帰れるかと胸を弾ませた。あれから、早や77年。いい意味での生きる緊張を忘れ得ない戦中の、また永い戦後の日々であったよ。
2022 8/15
* 妻に聞くと、昨晩は七時にもう、私、寝入っていたと。朝かしらと目覚めても外は真っ暗、時計は九時と。変な時計だと思いつつまた寝入って目覚めて、時計は11時、しかし真っ暗なのだしとまた寝入って次は一時。バカみたい、とまた寝入って、なんと、亡き秦の母と高校の頃の村上正子と三人で、東京だか大阪だか大都会へ夢に旅していたからビックリした。なんぼ何でも朝だろうと目覚めてもまだ外は真っ暗、五時になってない。ママよと床を起って、二階へ来た。とんど十時間も寝入っていたのだ、少しはアタマすっきりしていて貰いたいが。珍しく空腹を感じている。
秦の母と高校時代の村上正子に接点は全く無い。村上は私の「短歌愛」に賛同しノート作りにまで手を貸してくれた今も懐かしい佳い友達だった。消息が知れていない。元気だといいが。
* 六巻まで興趣に惹かれ読んできた『参考源平盛衰記』の続き、七から十巻を手もとへ出した。目録に、「丹波少将併謀反人被召捕事」から、「内大臣召兵事」此下舊有幽王褒姒烽火事今除之とあるが、除かずにおいて欲しかった。この書、巻之一から巻之世四十八まであり、その「引用書」は日本紀以降「通計一百四部」に及んで、通行本の岩波文庫『平家物語』上下巻の和漢混淆文とさま変わって、無数の異話異伝をはらんで往時の新聞記事かのように面白い。
古門前通りに根生いの骨董商林弥男氏が秦の叔母つるを介して「恒平ちゃんなら読まはりまっしゃろ」と、桐箱入り全冊をポンと呉れたもの。いま踊りの「おっ師匠はん」をしている同年の貞子実父だった。私の嫁にという話も内々にあったとやら、なん十年ものちにその超級の美形「おっ師匠はん」から笑い話として聞いた。如何にも、あったそうなことであった。世の中は、おもしろい。
2022 8/17
* 山田五十鈴が十七歳でデビした映画『祇園の姉妹』の舌を巻く熱演。祇園には、言葉も習もいも、育ちが祇園の真隣りで幼来何とは無く通じているが、五十鈴の桁はずれな好演にはただ驚く。祇園の女も女だが、入れ込む男どもも、なんともやりきれない男どもである。
2022 8/17
* 夏は、よる。真夏という時期が、真冬と同じに気に入っていた。
中学一年のb¥、武徳会に入会し、京の疏水で、好きに泳ぎ回れた。高い橋から跳び込んだり、潜りたいだけ潜り続けたりしていた。
一度は記録したかと想うが、疏水端のかんかん照りの舗装路を炙られながらてくてく歩いて家に帰ったが、三條通りへつく少し手前の川端に、あれは図書館なのか、公立か私立かの、がちっとした石造の建物が石段を七、八つ上に、シックな重いドアを明けていた。中に入って自由にいろんな書籍が読めた。信じられないほどだ、気に入った本の二冊まで持帰り借用も許されていた。日焼けで真っ赤っか、濡れた褌を袋にさげた中学少年が、厚さ十センチにあまる大冊で立派な『絵本太閤記』を持ち帰りたいと頼むと、何の斟酌もなく許可されたのだ、こっちで驚いた。一人前の大人になった気がしたが、ま、むさぼるように読んだ読んだ、大きめの活字と沢山な刺激的に美しくも怖くもある「繪」の数々に、抱きつくように読み耽った。
私は人に借りた本は、貸してくれた先のたとえ家ででも必ず「最低二度」繰り返し読んで了うまで帰らなかった。それが私の読書常儀だった。抱くのも重いその『絵本太閤記』も、この好機逃せるかと、繰り返し繰り返し座って読み寝腹ばって読んだ。口語ではない和漢混合のナニ会釈もない書き下ろしであったが、それはもう祖父鶴吉旧蔵本の『神皇正統記』などで十分読み慣れていた。親房本もこの太閤記も、純然歴史書であったのだから、じつに多く「言葉・文字/・史実や人名」を覚えた。
京の真夏のかんかん照り、水泳の武徳会通いのあれはもう「偉大な」とおもう好い土産であった。「やそろく」爺が生涯に嬉しかったことの「五十」の内には数える。
2022 8/26
* 朝はいちばんに、煎茶を惜しまず、茶を点てた。朝一番の美味い茶は、新門前の昔から秦家では「ならわしごと」。夏には母がかならず障子を張り替えていた。観るから涼しくて好きだった。狭いながら泉水の水を替えて金魚をはなすのも、笹が青青とそよぐの浅賀の作のも好きだった。昔のわが家には小さいなりの爽やいだ文化があった。母にも叔母にも、たとえ漬け物漬けにしても毎年観られる生活上の年中行事があった。好い物だった。
今のわが家では障子の張り替えなど想いも寄らない、ありとある障紙「マ・ア」ズに攻撃されて失せており、妻にも張り替える手技が無い。家政と謂うことでは年寄りや男の沈黙の目に見られて、母も叔母も、想い起こせばいろいろな「ならわしごと」をを手早にきびきび遂げていた。掃除と洗濯と食事の用意だけでは無かった。それらにも「機械」の手助けなどナニも無かった。
* 「ならわしごと」と書いて、胸の痛い想い出に触れてしまった。
よのつねのならはしごととまぐはひにきみは嫁(ゆ)くべき身をわらひたり
謂うまでもないがここで「まぐはひ」とは目と目を合わせての意味に歌っている。上皇を謂う「みとのまぐはひ」ではない。あの、祇園石段下、屋さん中学の前、四条大通り路上での、のこり惜しい、よぎない、ただ数分に満たなかったまさに「立ち別れ」だった、いまも手を結び合うた「あのとき」のままに思い出せる。いらい、七十年怒濤の人生はいまにも静かに濤を退こうとしており、あの「ねえさん」もすでに亡いと、妹、またその義妹により、あたたかな心遣いと共に伝えられている。
あなたとはあなたの果てのはてとこそ吾(あ)に知らしめて逝きし君はも
2022 8/27
* やや高めに画面の大きめの機械、一段下に、機械と繋げてない横長のキイボード。これの向こうにやや上段に凭れて二枚の絵はがきが立っている、左に、2020日展に杉本吉二郎が出した彩色「ろーじの風」が京の川ひがし、祇園町も北側街に覗き見かける「ろーじ」の風情で風の動くさまもさながら克明の筆遣い。半開きの扉そとに藍染めに白い〇が風にそよぐ暖簾の様も、部分的に赤のきいたちいさな子供乗り自転車も、さりけなく奥のみぎへ逸れて行く「ろーじ」の息づかいも、左右の塀も奥の屋根瓦も敷石の路も、すこしもうるさくなく克明に描かれてあって、つい今し方自分も通ってきた抜けロージのように実感される。
もう一枚はわが友の洋画家池田良則クンの手になって独特濃淡の墨が美しい、これもやや奥深い「ろーじ」の覗けるいりくち、の繪、京都では珍しくない造り独特の入り口が描いてある。わたくしなどひとしお見慣れ遊び慣れていた瓦屋根天井の「ろーじ」入り口が懐かしくも描いてある。
こういう「ろーじ」入り口は、雨降りの日も子どもらのかたまって、めんこでも、おはじきでも出来て遊べる安全に嬉しい世界であった。屋根天井のその上は左右へ渡った民家の二階になっている。屋
入り口屋根の下、「ろーじ」の軒には奥何軒かの住人の表札が並び架けてあって、ズーンと「のぞきこめる」ろじ奥は青天井、左右に奥にまた奥にまで小家が建ち並んで、もし「抜けろーじ」でもあるならもっと家は多く存外に陰気ではない。
* こんな京の「ろーじ」二枚の絵葉書の間は、むかしもむかし、まだ建日子記せいぜい中学生、姉の朝日子は院へも進んでいた頃か、そしてわれわれ両親も横並びに、にこやかに、なんとバー「ベレ」のカウターで、ままに写真に撮られているのが立ててある。わが家の親子四人の一等和やかに幸せであった頃の写真一枚。私はいつもいつも京の「ろーじの風」をなつかしみながら、家族の幸せを想い想い、手したのキイを叩いては文章を書き私語の刻を重ねている。誰にも干渉されない、私の「場所」である。
2022 9/14
* 途方も無い、不快な、これ迄も繰り返し何度も観て来た悪夢、或る密集気味の街区まぎれこみ、何としても出られぬまま出逢う老若男女のさまざまなとても善意の見えない対応に振り回されて、いたるところ、戸外も家内もへさまよい入り、どうしても抜けて出られない。昨日の場所は、どうも建仁寺の北寄り、縄手の東一体のようで屋敷も有り寺院も有り、代償の民家が密集錯雑しながら、あ、あの方角が弥栄中学だと思い思い、出逢う誰からも、暴力は無い、善意も無いアイサツや上段に振り回され続けて、しかしどう歩いても通り抜ける先々に「悪意」があって遁れられなかった。
これは私の「悪夢」の一つのパタンで、街区こそちがえ、もう十度は同様に行き迷って出られぬ夢を観てきた。暴力は無い、が、嗤いの悪意は街中で出遭う一人一人に充ち満ちている。抜けて出られたことは一度も無い。
2022 9/23
* ひどい夜通しの雨降り。前夜、うかと黒いまこをここに締め込んで階下に降りた間に、出入りの襖の下へ猛烈な破れ穴が出来ている。私も出たと慥かめてやらなかったのだし。しかし、今後其処から「マ・ア」ズ「出入り自由」では、この雑然とモノ、小モノの多い仕事部屋の安危が気遣われる。気遣われることばかり多く、しかも右上脚の苦痛は褪めない。
* さすがに、空腹。すべて、宜しく無い。
2022 9/23
* 右上腿の痛みは退かない、と歯に苛烈に痛む。もう理由も分からない。横になって読書へ逃げ込むしか無く、それも及ばないまま呻く。何なんだコレは。蟲食われのあくどいのにやられているのか、もっと内的なものか。理由よりも、効果の或る痛み止めが欲しいが塗り・貼りぐすりも呑むロキソニンも効いて呉れない。温めながら撫でさすってばかり。逃げ込むのは、今日の午後までは坪谷善四郎の『明治歴史』前巻。岩倉具視らが薩長藝と組んで「倒幕の密勅」を得るのと将軍慶喜が「大政奉還」の表を呈するのが、図らずも「同日」だった問い歴史の大きなドラマ雅組み上げて行く『明治維新」図の下絵の凄さ、おもしろさ。
それさえも拒もうする心身の痛みと弱り。食べない食べたくないというこの所の悪習が衰弱を加速していて分かっているのに、口へモノが運べない。東京の米は不味い、今日の白飯を不味いと思ったことは無かった。東京の番茶は不味い。京都で日々の番茶をまずいなどと思わなかった。 東京には野菜が無い。京都の野菜は味わいも豊富であった、葱でも玉葱でもキャベツでも芋でも。
2022 9/23
* テレビでは、韓国ドラマ「緑豆の花」が、我が明治期朝鮮支配への抵抗の歴史を苛酷に描いて見せている。比較して、報道は、バカゲてつまらない。旧統一協会の霊感商法に乗せられつつ選挙支援を頼み続けていたあの安部晋三系自民議員らのていたららくを報じるばかり、その先へは進まない。経済も外交も興産も豊富な教育環境も、みな、犬のクソのよう。なさけなくてアホラシイばかり。
* 眞の信仰とは、「神」と「私」一人が向き合ってのモノ、それを「協会」だの「宗派」だの「派」ま「閥」と腐りハテさせて、要は、世俗の利と権勢とに癒着する。
新門前の秦家では、いちばん大人しい母ですら、「神、ホトケ。ヘッ」と嗤いとばしていたのを懐かしくも確かにも想い出す。神仏を嗤いたくない人も、我一人で「神」と向き合いつねに語り合えばばいい。
私は、「神」的実在を、少なくも否認していない.宇宙と大自然と世界の不思議を思えば「人間」の仕業とは到底思われない、が、教会や教会や寺院や宗派などいう一切を信用していない、神は私独りの向き合い相手サマである。
「仏」は「かみ」とべつもの。仏とは「悟った人」であり、それに干支セイルなら独りで「悟る」べく努めればいい。大寺院も大宗派も私には不用である。余儀ない接点は「墓」と墓を管理の「寺」。
私はだから「墓は要らないよ」「骨灰」を懐かしい京の川東、東山、知恩院下、八坂神社石段下辺へそれとなくまき散らしてくれと謂うてある。
2022 9/23
* 夢のはなしは繰り返せない、が、じつにこころ良い「快適」そのものの場面を「創り」おおせていた、愛と信頼とユーモアと美しい景色・景観に満たされていた。初景は佳い坂道を東の山手へのぼって行った、道の左手の品のいい和風料亭のようで在った、宴席が賑わっていたなかでの出逢いめいていたが熟知の、親しい仲らい。料亭の女将や仲居たちもみな快い、人柄のいい仲らいで。そして、玄関にもちかい座敷ぎわで熱情・熱誠のドラマが起きた。そのささきへ穏和に美しい場面と優情、そして老人の登場とみごとな斡旋、嬉しい高揚が有り、展開して、京も下京の溢れる雨後の河波がちからある心親しい流れへ若い二人と快い愉快な老人を誘いかつ喜ばせて呉れて、そして別れの時が来ていた。
消えて行く夢の記憶など追うに由なく、これはあらい記憶の斷想にすぎないが、心優しく嬉しかった記憶は残っている。とうてい愉快な日々といいがたい「日本」にいりまじりながら、今朝の夢は底知れぬ懐かしさや嬉しさに溢れていた。天与の想いだった。幸いに、その友も、その大人も、忘れないだろう、亡き数の二人ではあったけれど。
2022 9/28
* この籠居逼塞の三年に、「読み・書き・読書」は私の暮らしでは必然として、もし他にテレビが無かったならどんなに鬱屈したであろう。ニユーズにはさして気は動かない私だが、「撮って置き」の、また新放映の「映画」や佳い「ドラマ」にどれほど心慰んだか、数え切れない。誰方にとは分かりませんが、アタマをさげ、感謝しておく。
京の新門前通り「ハタラジオ店」に、初めて「テレビジョン」が「商品」として入り、店頭で放映して見せたときの、文字通りに「山のような」人だかりの凄かったこと、怖いほどだったのを、昨晩のことのように覚えている。投手で監督若林、三塁藤村、外野に金田らがいた関西で大人気の「阪神タイガース」と、川上、青田、千葉ら強打者の居並んだ「巨人ジャイアンツ」とのナイトゲーム、また、空手チョツプ力道山のプロレス、大相撲など「放映」と知られて、店外へ向けて「見せる」と、店ヤウインドウが毀れやせぬかと、道路は人山で塞がれ、狭い店内にまで老若男女が犇めき充満したものだった。「時代が変わる」とあのとき、ありありと実感した。
2022 10/3
〇 一昨日、御本が届きました。
今日は、娘の用事で京都に来ています。
東福寺北側から泉涌寺の方に歩き、来迎院で豊かな時を過ごしました。
昼過ぎから静かな雨です。お身体大切に大切に 尾張の鳶
* うらやましいを超えて、ヒガムほど。東福寺、そして泉涌寺の「来迎院」とは、強烈無比の刺激。『慈子』や「先生」「お利根さん」と過ごした昔が、山なす潮のように私を覆い尽くす。写真が何枚か添うてあるが、こと来迎院や泉涌寺・東福寺と鳴門、踏む足もとの砂利や地面の音やぬくみまで蘇ってくる。「尾張の鳶」はまだまだ元気に京都を飛び回りに行けるのだ、眞実、羨ましい。 想い出させてくれて、有難うよ。
〇 秦 兄 湖の本第159号ありがとう。同年生としてこころから敬意と感謝を表します。何事にもキリがあるので、半端な数字でなく200号を「必達」目標とまでは言いませんが、せめて努力目標にして健筆ねがいます。
同年生が何人、その「達成記念号」の読者として生き残っているか分かりませんが、その一人として精進・節制したいとおもいます。
趣味の音楽も他事にかまけて愉しむ時間がなく、「戦後流行歌史」の作成も数枚のCDで中断のままですが、BGMとしては聴いています。
当時の歌は、名の通り、引揚げ兵の「かえり船」にはじまり、菊池章子の絶唱「星の流れに」など世相を映し人を歌ったものを聴きながら当時をあれこれ思い出しています。
多感な敗戦後新制中学生の頃、ほんとうになつかしい。
(筆者が当時思いを寄せていた)石塚公子のピアノを聴いてみたいが、どこかで元気でいるだろうか。兄の今回の号に石塚をモデルにした短編とあるが、ぜひ読んでみたいものだ。
その石塚から最初にもらった本が シュトルムの短編「みずうみ」だった。いまから思えば石塚が結婚した「コンニャク」こと理科の伊藤先生からのプレゼントだったのでは、と思われてほろ苦い気持ちだが、その時は舞い上がって、この短編を原語のドイツ語で読もうと丸善で買った「対訳本」はボロボロながら未練がましく手もとに残っている。
この齢になって、世直しのために背中が丸くなるまでパソコンの前に四六時中すわっているので家人に嗤われているが、これも一種の呆け予防と心得ています。
お互いに体を労わり人生を全うしましょう。いつもありがとう。 森下辰男
* 佳いメールですねえ、しみじみと「旧友」という温かい熱い実感に包まれている。そして、なんと面白いことも読ませて貰ったなあ、あの「石塚公子」に「貰った本」の目の前最初が、シュトルムの『みづうみ』とは、こりゃどうじゃ。
同じ馬町の京都幼稚園へ毎日バスで通い合った石塚公子とは、吾が「ハタラジオ店」の目の前、幅七メートルも無かった道路のお向かい、長屋を二軒西へ、奥の深い屋根路地門の西真脇の家に育っていた。私からいえばずぶずぶの同い歳、恰好の幼な馴染みだった。対抗心のつよい女の子で、罵詈雑言でケンカもしたし、大声で覚えてる限りの歌など唱い合うて飽きない仲良しでもあった。ただ、あの家にピアノは無かった、のに、同じ弥栄中學に進んでの、他に人のいない大講堂で、独りグランドピアノを、ただ鳴らすのでなく、確かに曲らしく弾いていたのにはビックリ仰天した。
シュトルムの『みつうみ』にも、ま、仰天した、何故かなら私が自分のお金を財布から出し、本を、「岩波文庫」という本を河原町の大きな書店で、二、三度も通い何時間も掛けて「選んで」買ったのが、シュトルム作『みづうみ』であったから。一つにはあの当時「岩波文庫」に独特、背表紙に ☆ が入ってて ☆一つ の本は即ち、当時「十円」を意味していたのである、同じ年の内であっかも知れず間もなくに「十五円」に値上げされたのもよく覚えている、つまり、私・秦恒平は、金「十円也」の岩波文庫一冊を「生まれて初めて」中学生で、自分のお金で、買いました。、「書物を買う」という、生涯初の「ド大変な経験」をしたのだ、忘れもしない、しかもその『みづうみ』の縹渺としたロマンチックにも嬉しく心惹かれた、大いに満足したのだ。むろん記念に値する ☆ ひとつ「十円也」の昔々の岩波文庫『みづうみ』は、現在「やそろく」歳の私の文庫専用書架に保存されて在る。そして、無論とと云うていい、此の『みづうみ』なる、外国人『シュトルム』の筆で書かれた「岩波文庫」という「小説本」を、お向かい同い歳の石塚公子に吹聴し見せびらかしたのも当たり前であった。
その同じシュトルム作『みづうみ』を、京都在の友森下君は石塚公子に「貰っ」て、いまも懐かしく所蔵していると今日のメールに明記されある、何時にとも、状況も知れないけれど、これは「佳いハナシだよ」と驚嘆、「おもしろい」とも感じ入った。「書ける」なと、大いに頷けた、ま、「書きはしない」だろうが。
石塚公子を私が「小説に書いている」とも森下君は触れていた、覚えはあった、が、ハテとすぐは大もなかみも思い出せなかった、が、私の『選集』第十一巻に入ってた『羲(よ)っ子ちゃん』がそれで、これはもう現実の石塚公子とはかけ離れ、放埒なほどのフィクション作であった、ちょっと気をよくしたほど面白くは書けてましたけど。
石塚公子は、森下君のメールにある、当時「(糸)こんにゃく」とあだ名の、若い男先生同士でも生徒にもあまり買われてなかった理科の伊藤先生と「結婚」してたとは、よほど後々に漏れ聞いた、あり得そうな仲じゃわいと思い、それも忘れていた。伊藤先生はのちにどこかの「税関」とやらにお務めともかすかに聞いた、が,何も知らない。
2022 10/9
* 昨日「尾張の鳶」が京都泉涌寺の来迎院から送ってくれた院の正門や建物や茶室やお部屋や回遊の前庭や 等々、スライド展開で一つ筆に食い入るように見入っている。もうあの庭先の縁に腰掛けて静かに静かに夢を観られないのか。先生の提案で、慈子のお手前で月明の茶会を楽しんだ昔昔があまりに懐かしくて、つらくなるほど。
* そうだなあ……。日々にあくせくして、なおまだ「此の先」へ何かをと喘ぐよりも、もういいではないか、それより、思い切り心地を解放して全善三十三巻もの『選集』作を静かに読み返し味わうがいい…と深い内心の要望が疼くようになってきた。心弱っているからか、天来の「もよおし」か。なにはあれ、もう一度「尾張の鳶」に、有難うと。
2022 10/10
* 往年の弥栄中で理科を習ったいま琵琶湖畔在の佐々木(水谷)葉子先生、美しくも見事な京菓子と甘酒とをお手紙も添えて下さる。有難う存じます。
「尾張の鳶」さんも京都から、見事な鰊の蕎麦を六食ぶん、ほかにも老舗の京菓子などを大きな箱にとりまとめ送って下さる。好物の京南座脇の「鰊蕎麦」で、食足らずのやせ細りに美味い「活」を入れて戴く。ありがとうよ「鳶」さん。
2022 10/11
〇 如何お過ごしでしょうか。
一昨日のメール、お疲れの時に書いてくださった様子が窺われました。泥のように眠ってお疲れをいくらかでも和らげ、次の時間へ明日へ繋げてくださるよう。
三連休の京都への旅でしたが、今回は人の多い処は極力避けて「静かな京都」を楽しみました。
「今熊野」は半年の短い期間でしたが暮らしたこともあり、懐かしい地域です。
東福寺境内の北側を歩いて日吉ヶ丘高校の敷地に沿い、高校生の部活に興じる声に励まされながら雲龍院、泉涌寺に至りました。来迎院、この「静けさ」はいつも素晴らしいと感嘆します。同時に暗くなって帰宅する時には「慈子」は怖かったのではないかしらと思ったりします。緑に溢れて縁側でお茶をいただき・・鴉に羨ましがられるのは必定・・。本当に庫裡で微かな気配があるだけで、部屋も茶室も庭もひたすら静寂でした。
戒光寺は、目下屋根など修復中でシートが掛けられていました。ここは依然として拝観料も求められません蝋燭を買い求めて燭台に・・長い時間坐っていました。途中まで描いた釈迦如来像、その色彩を改めて実地に見たいと思ってきたのです。様々なことを思い祈りました。
最近意識している「京都トレイル」の道を辿って阿弥陀が峰から清閑寺まで行きたかったのですが、雨が降り始めたので諦めました。そして何故かこれまで行ったことのない将軍塚にも、次回は辿りたく。
世界のさまざまなこと、憂うことが多すぎます。
ともすれば日常に飽き、気力も衰えそうになりますが、鴉の努力気力を思えば、わたしなど甘すぎ、優柔不断、ただの怠け者。4回ワクチン接種を済ませてもコロナに感染して、幸い全くの無症状で、ハイブリッド感染。それでも注意して過ごしていきます。
どうぞお身体くれぐれも大事になさってください。気温の変化も極端な東京の昨今ですが、無理なさらず乗り切って下さい。 尾張の鳶
* 心身とも病む鴉に代わって、もとは京大生の尾張の鳶が、自身も想い出の京の空をしたしく舞ってくれる。羨ましく、有難し。
2022 10/13
* 今日、思いがけず京山科日岡の渡辺節子さんから「手編み」という翠色毛糸のジャケットが贈られてきた。びっくり、恐縮。弥栄中学の同年、組は三年間とも違って何の接触もない女生徒だったが、たしか別の組で学級委員だったと思うし、わたしは二年生から生徒会を率いていたので「委員会」等では顔は合うていたはず、つづく日吉ヶ丘高校の三年間ではまったく接点も片言を躱した記憶も無くて、今日まで70年、消息だに識らなかった。なにかで往年「同期生の名簿」が送られてきてたのに便乗し、この夏、初めて「湖の本」を送ってみたのへ返信が来た。読んで貰えるのは何よりと、続けて送った、それへのごアイサツであるか、有難う。
前略 湖の本 私にまでお贈り頂き有難う御座居ます。 毎回なつかしい先生や友の名に昔を想い出しています。何故か あの頃の記憶ははっきりとしています。(いまはよく忘れますが
朝晩 冷え込んで参りました。
よい毛糸を見つけましたので 秦さんの御健康を念じながら 編みました。
ひとりで早起き 寒い朝に着て頂けたら嬉しいです。(お気にに召さない折は。ア・マ の寝床に強いて上げて下さい)御笑納下さい。
どうぞ御自愛下さいまして お元気でお過ごし下さいませ。 渡辺
* 弥栄中学の同じ学年で、講堂の大きなピアノの弾けた{二人だけ}の女生徒の一人であったと思う。
2022 10/15
〇 (京都 同志社校内クラーク記念館の色絵葉書に) 拝復 『湖の本159 花筺 魚潜在淵』をご恵送いただき、誠に有難うございました。 私も 里井陸郎先生(『謡曲百選』の著者)に感化されて、謡曲を卒論にとりあげる気でいたのですが、途中から泉鏡花に変更したのです。秦様と似た経緯があって、おもしろく思いました。「筒城宮」跡の碑は、同志社大学京田辺校地の敷地内にありますね。一般の歴史フアンは、受付で申し出なければならない。 戦後京都の写真集、楽しんでいただけたようでうれしく思いました。 まもなく時代祭です。 草々 田中励儀 同志社大名誉教授 国文学
* 懐かしいなあ、同志社。京都。帰りたいなあ、もう一度でいい、帰りたい。
* よく秦さん、なんで京大でなく同志社へ、と聞かれたものだ。あの当時の京都の高校でそこそこの生徒なら、皆が皆、「京大」受験に文字通り血道を上げ、教室の授業よりも「受験勉強」にカンカンだった、だが私は「受験勉強」というバカげたことに大事な青春を費消するのは断然イヤで、むしろ京都の歴史や自然や文化の堪能に時間を割き、茶の湯や短歌や和洋の読書を心底楽しんで過ごした。熱中した。当時「ハタ」が受験して京大を「すべる」と思う友達は一人も無かったろう、中学でも全校試験で首位をゆずったことはなかったし、高校生になって「三年共通試験」をされても、国語や社会科など一年生のころから三年生より上位の成績を取っていた。それでも私は茶道部のために茶室で助勢とたちに点前作法を教えたり、先生方お楽しみの短歌会に生徒の身で呼び込まれていたり、教室に居るより、間近い泉涌寺や東福寺に埋もれているか、市内や郊外の寺社や博物館にいる方が心底好きで気楽だった。のちのちの歌集『少年』や小説『秘色』『みごもりの湖』太宰賞の『清經入水』などはみな此の高校時代そして続く同志社時代に育んでいた。同志社へは「あたりまえ」に推薦され無試験入学したのであり、京都大学二敗って国立感覚に嵌まるのはハナから好まなかった、むろん受験もしなかった。実兄の北澤恒彦は三度筐体受験にすべっていたとか、彼の養家には京大生が下宿していたりして、かぶれて高校生で火炎瓶を投げたりし、有罪判決まで受けていた。「京大」にはその気が有りそうともわたしは横を向いていたのだった。むろん、受ければ良かった、入れば良かったなど後悔などしたことが無い。同じ大學の同じ専攻から妻までも私は得てきたのだ。
* 国文科の田中励儀教授から、時折り戴く「同志社」の写真はがきや、正門から真ん前、広やかな京都御苑淸寂の想い出など、飽かず懐かしい。私、西棟の書斎には、母校正門内の真の正面に立つ校祖新島襄先生の美しくも丈高い碑の言葉を、軸にして掛けてある。
一度は、書き置こうと思っていた「述懐」に時間をかけた。一仕事終えた程の気がする。
2022 10/22
* 弥栄中學三年生のむかしの、西池先生がたもおいでで、盛大に群集しての楽しい夢をみた。学校生活として最良最高に楽しいいい時代だったなあ。三年担任の西池先生はむろん、一年の音楽小堀八重子先生、二年の英語給田みどり先生、国語の釜井春夫先生 図画・体操橋田二朗先生、理科の佐々木葉子先生、社会科の高城先生、数学の牛田先生、教頭の喜尾井先生、秦一郎先生、寺元慶二先生、
小学校でも高校でもこうは覚えていない、が、小学校の中西秀夫先生は私の作文力をしかと後押しし、卒業式では五年生送辞、六年生答辞を寄せて下さった。高校では国語科の歌人上島史朗先生により短歌人へと強力に背を押され、太平記への詳細な注釈を遂げられた碩学岡見一雄先生には源氏・枕なと古典の朗読と愛読に火を点けていただき、創作者への背をぐいと推して戴いた。三年担任の先生には、受験勉強は嫌いですというと、そかそかと即座に三年間の成績表を調べられ、これは無試験推薦に有り余るよ、推薦しようかと、ボボンと同志社へほとんど先生が即座に決めて仕舞われた。この先生は、我が家打ちの大人らの超絶不穏を聞かれたか、ふっと家に見え私話祇園円山へ誘い出して励まして下さった。今にしてしみじみ有難く思い起こされる。
「先生を慕う」とは「先生に励まされる」のと表裏の同義、そういう方との出会いがあったから永く満たされて歩いて来れたとは、決して忘れては成らない。
2022 10/31
〇 お元気ですか。紅葉が進み 秋が深まっています。風邪ひかぬよう。お大事に。
花筐のこと、最初に上村松園の絵と能の花筐を思いました。寒くなります。 尾張の鳶
◎ 花筺 すこし長めの創作が進行中なのですよ。
疲労困憊という感覚と体調は抜け去ってくれません、無視して、すべき・したいをしています。すっかりお婆ちゃんと化しているかと想像しています。
コロナの感染者数が減るどころか増え続けてます。出歩けない間に脚が萎えてしまいそう。
宿を取らねばならない京都というのは、「ウソ」のようで。新幹線に乗れば済むというワケでなく、遠くなったなあと。
円通寺の縁側に腰掛け 比叡山がみたいなと想う。仏様の御顔と あちこちで再会したいなあと思う。保津川に雪の季節が来るなあとも。戦時疎開した旧南桑田郡樫田村字杉生(すぎおう)(いまは大阪府高槻市内とか。)の蛍と蛙の声に溢れた夏の夜、懐かしいかぎり。
坪谷善四郎という著者の千頁を越す『明治歴史』とドストエフスキー『悪霊』熱愛中。四書のうちの『中庸』そして『史記列伝』『水滸伝』も。「金瓶梅」読みたいと心がけています。
処方されている利尿剤のせいか、よろよろします。自転車には乗れなくなり、家の中で数回転倒転落、幸い異常は無いです。
「撮って置き」の映画を頻頻と観ています。昨日の『ドクトル・ジバゴ』が凄かった。ドラマでは『ドック』そしてやはり『鎌倉殿の13人』に注目しています。
文化勲章の松本白鸚に、幕末の秋石畫、見事に丈高い松の秀にちいさく鶴が降りて、空高く高くに小さな旭日という長軸を謹呈しました。京都の「ハタラジオ店」の昔に出逢っているのです。お父さん(初代白鸚)と一緒に「電池」などを買ってくれました。彼は少年でした。
ロダンの地獄の門を遠目に、上野の美術館前庭に ゆっくり腰掛けたいなとねがうのですが。 お元気で。 鴉 勘三郎
2022 11/4
* 京の街なかには無数に「ろーじ」や「抜けろーじ」や「パッチろーじ」が隠れ潜んでいる。何故か。そんなことに気づきもせず「京」には神社やお寺が多いなど程度の理会で識った顔をするのは、お笑いぐさ。
大阪という大きな市街の特色はと問われ、「堀・川と橋」と答えられずに大阪を書いたり語ったりするのでは、軽薄・軽率に過ぎる。東京の都心部には「ろーじ」も「抜けろーじ」も少ない、「堀・川と橋」も少ないが、大阪京都には少ない「坂」が多い。
そういう都会の特異な顔つきを発見も自覚もできず書かれた「環境」小説は、どこかに無知の軽薄がついてまわる。気づかない、気づけない、それは書き手には根幹の欠損である。判って貰いたい。
2022 11/10
〇 『湖の本 一五九』ありがとうございました。
京都の朝夕も冷たくなり これから一等寒い「二月」に向って行くのかと思うと 身が ひきしまってまいります。
今年も残り二ヶ月を切ってしまいました。
大河ドラマ、「鎌倉殿の13人」もいよいよ大詰を迎えます。
「自在にも 大胆にも 積極的に古典は所有されていいと思うのである」という 先生のお言葉を励みに、古典や歴史を 私なりにいろいろ考えてまいりました。
中国に倣った律令制とは違う 現実に合わせた武家の法制度を作った北条泰時や 朝廷への反旗を促した政子北条氏の居た時代は 私にとっても興味深いものでした。
しかし 殺伐としていて、 そのうえ形を変えながら 今も似たような争いが繰りかえされている、この時代が好きになれません。
「平家物語」では、「それよりしてこそ 平家の子孫は永く絶えにけり」とありますが、貴人に嫁した女性たちが、 その後の有力者を産んでおり、今日の感覚では 子孫断絶とは言えなくなっているようにも思います
暦の上では はや冬となつてしまいました
先生
奥様 どうぞ くれぐれも お身体 大切に
おすごしくださいますように 羽生 淸 京都
秦 恒平 先生
* 京都にかかわって思案することの多い昨今、羽生さんのお便り、深く胸に落ちて懐かしい。
2022 11/10
◎ 【お知らせ】吉岡家主屋(=実父吉岡恒の生家。恒平も実父母を識らぬまま数歳まで預けられていた。)が、登録有形文化財となるそうです 南山城 岩田孝一・従弟
〇 to: 秦恒平 様
ご無沙汰しております 山城の岩田孝一です お元気でしょうか 「湖の本」新刊送っていただいてますこと ありがとうございます。
昨日の 文化庁の文化審議会の答申で
https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/93791601.html
https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/pdf/93791601_03.pdf
当尾の吉岡家主屋が
建築物 基準2 で登録されるよう答申がなされました
お知らせまで
また コーヒー豆送らせて貰います
追伸
昨年 内藤湖南の終焉の地である恭仁山荘のある木津川市内の 内藤湖南先生顕彰会の事務局を引き受けたのですが、
現在の関西大学恭仁山荘の周りの様子を確認しに行って 秦テルヲの作品の何点かが恭仁山荘のすぐ近くから見える情景を画いたものであること、一点には恭仁山荘の書庫であった白壁の蔵が画かれていた事に気づいて、過日 (今日・三條粟田口=)星野画廊を訪れた際に星野桂三氏にその地点の風景の写真を報告、過去の図録と突き合わせ
「これは間違いない、今もあるんやな」
と 喜んでいただけました。
* 当尾の実父生家、恒平祖父母の本家 の写真を一葉持っている。長い高い石垣が立派。幼い日の印象も比較的はっきり残っている。もう亡い叔父(父の異母弟)の家族が今は暮らしているはず、一度だけ叔父叔母存生の昔に訪れたことがある。文化財と言えば、ま、文化財らしい邸宅とは謂えよう。もう、とてもとても再訪はあるまい。
孝一君は比較的近くに暮らしていて、コーヒー豆の専門家。
2022 11/19
* 学校時代に、慕わしく深く感謝した「先生」方が十三人と私に聞いて、妻、「沈黙」。
何の過剰も加上もない、私には眞実で、心より今も喜び感謝している。実意のままに書きとめて置いた。読まれれば、どなたも頷いて下さるだろう。
有済国民学校・小学校で。 吉村先生、寺元先生、中西先生
弥栄中学で。 釜井先生、小堀先生、給田先生、高城先生、佐々木先生、西池先生、 橋田先生
日吉ヶ丘高校で。 上島先生 岡見先生
同志社大学・院で。 園先生、金田先生
2022 11/25
* 「懐かしい先生方」十五人の思い出を書き上げた。こういう手土産を持参して「もういいかい」と天上から誘ってくる人らのもとへ帰って行く気だ。「まあだだよ」
2022 11/26
* 古門前の大益に、かるいきもちで、ごく近所のもと有済小学校の見分に校門を入って観てきてくれないかと電話で頼んでおいた。とても期待できない、そもそも有済校はとうに「閉校」されているのだしと期待薄だった、のへ、どさっと、大きな袋にいっぱい記録や資料や沿革や写真などが送られてきた。しかと一見、百点満点にもう百点だせるほど、もう、こと「有済校」に関して知れる『全部』を手に入れた気さえする。
「オッ師匠はん」有難う。感謝、感謝、さらに感謝。
2022 12/7
〇 秦 先生。
いつもご本をお送りくださり、有難うございます。少しずつですが、読ませていただいております。
また、159号の「魚潜在淵」に弥栄中学美術部の西村先生のことをお書きになっておられたので、その当時のパンのことを想い出して、懐かしい思いで一杯になりました。
私は新門前通りにあった先生のお宅は知りませんが、何故か青いペンキを塗った窓の中に、「マツダランプ」と書かれたものがある光景が記憶に残っております。
それが先生のお宅だったかどうかは不明ですが、その横に細い「ぬけろーじ」があり、新橋通に出ると私の弥栄中学美術部の一年先輩だった堀 泰明氏の家がありました。
先日、堀氏と電話でお話した時に、先生のことを申し上げると、なんでも、先生の小説の挿絵を描いたことがある、とのことで驚きました。
来年は八十路に踏み入ることになるので、コロナの事もありなるべく外出を控えておりますが、中学生の昔にタイムトリップさせていただきました。
なんやかんやとおっしゃりながら、文章を書き、読書もたくさんなさっておられるので、このまま何時までもお元気で、と願っております。 京都 桂 服部正実
* いま、その「抜けろーじ」のことなど書いています。ご近所に「服部さん」という紙函・紙箱など商ってられる服部さん、お餅屋の服部さんがあったように記憶しているのだが。
2022 12/8
* 先日、南山城の従弟にあたる岩田孝一君の知らせまた送って来てくれた、國の有形文化財に指定された当尾の父方吉岡本家の大きな写真数枚から一枚選んですぐ左手のわきに立てかけてある一枚、屋敷の門内・前庭、、明らかに此処に自分は居たと確信できる写真を、息を入れるつど眺めている。「此処」に自分が実在していたのは幼齢多くも四歳までだった、そこから京都の新門前「ハタラジオ店」へ移った。移されたのであろう、そして当尾のことは記憶薄れていった。大人になって、ただ一度だけ訪れ、守叔父に浄瑠璃寺や岩船寺へ来るまで連れて行ってもらった。叔父は当時どこかの校長先生だった、か。
2022 12/23
〇 今年もあと僅か
なんと言えば良いのか
何か 寂しい気分です。あなたは如何。
体調は良く、同居の娘家族とよく話もして、特に気に掛かる事は何も無く、デイサービスは楽しく行っているけれど、独り部屋にいると 気分はうつです。
子供の頃は 着物を着て あんなに楽しかったお正月が来ると云うのに、とこぼしたりして…
これが晩年と云うのかヤレヤレ
あなたは文筆一途で、いい晩年でしょう。
又 オシャベリ出来ればいいね 又… 花小金井 恵
* 京都の中・高校の一つ下。茶道部では私に茶の湯の作法など習っていた。勉強も出来て、弥栄中学ではソソフトボール部のスラッガーだった。小学校は、私からは隣校の粟田校。三條大通りの家から白川に沿って東山線へ出、祇園石段下の弥栄中学へ通学していた。一度「書く」ことを勧めた。表現できる好い筆力も持っていた。
東京へいつ出てきたか、夫は大學図書館にお勤めだったが、子達も遺して壮年で亡くなった。
メールの交換は途切れ途切れにも続いてきたが、近年、「家には若い話し相手たちがいて会話にこと欠かず楽しい…」といつも書いて、弥栄中の昔からの女友達たちと「弥栄レディ=ヤレ」などと楽しそうに交流があったようだが。「家の中で話し相手にコト欠かない、寂しくない」とメールの決まり文句のようだった、が、それは、希望的な納得やろなあと察していた。世代と生・活とを異にした若い人たちとの蜜と熱の会話は、事実上「有りそうに無い」ものと私は思ってきた、殊にに家庭のなかでこそ気の「沈む」ものと察していた、むろん、そんなことを片端も告げはしてこなかったが。
今朝のメールは、ああ、と黙して肯くしか読みようのない沈んで重い字句だった。やはりなあ、夫婦、夫妻は、どう突き当たろうとも一緒がいいのだ。」と呼んできた「恵」のも一つ下のやはり高校茶道部に居た人も、昨日メールのあった遠い東北の読者も、夫に先立たれ「寂しい」人らであった、気の毒に。「話したければ、遠慮無くメールを呉れれば好い、話し相手になるよ」とそんな誰にも「やそしち」の私は云うている。
2022 12/30