* もの忘れ、記憶喪失が、徐々にと謂いたいが、足早に来つつある。それが自然と躱しながら歩むしか無い、どうこうは出来ない事。キイで、まだ自在に文章の打ち出せてるのが、有難い。* 幼少の頃、「心に太陽をもて」と、なにやら絵本の類に逼られていた。わたしは、どうじに「唇に唄を」とも教わって、これは好いこと、大事なこととと感じた。お蔭で、私は今にしてまだまだ、声に出さずもくちもとに唄を欠かさない、ときに、ウルサイヨと愚痴るほど、実にさかんに童謡や唱歌を無音で唱い続けている、
このとみろは、なぜか、「京都ヲ 大原三千院」とばかり聲無く口ずさみ続けている。とくべつ三千院に曰わくがあるのでない、流行歌の出だしだけが口に残って居るのだ、むろん大原も三千院も懐かしい。
懐かしいわけでは無いが、同志社美学藝術学専攻で、妻と同じ一つ下の学年に「三千院の御姫サマ」とやらが、いた。オソレ多くてくちを利いたこともないが、よく覚えている。「御姫サマ」と謂うのがどんな事実にあたつているのかなどは、皆目知らず聞かずじまいだったが。それで、このごろとかく「京都ヲ 大原三千院」という歌謡曲の出だしが口に甦っているワケでも無い。
「唇に唄を」は、私の場合はほとんどが童謡ばかり、それは五月蠅くも無く受け容れている、「サッチャンはね」とか「垣根の垣根の」とか、「柱のキズはおととしの」背比べ、とか。
* 時には口うるさいのだが、「心に太陽を」よりは「唇に唄を」のほうが親しめる。小さいから秦の叔母ツルの手ほどきで和歌、俳句の存在やカルタの百人一首和歌に興味を持ち、小学校四年生の秋には戦時疎開先の丹波の山なかで京都恋しい帰りたい短歌を創っていた。有済校に帰った五年生三学期の教室で、作文の課題に鴨川などをうたった短歌を二首詠みいれていた。文章の音感、音鎖を意識していたし、今も大切にソレを感じている。句読点のはたらきをとても大事に意識している。
2024 1/5
* 午過ぎ一時半、京も北の奥の奥「花脊」美山荘の七草正月の風情を美しいテレビ映像で見とれていた。
秦の母と戦時疎開していた真冬奥丹波のお正月が、しきりと懐かしい。あの母、あの疎開の頃が生涯で一に懐かしい、、良かったと九十六までの長い生涯に私によく洩らした。あの母、小学校四年、五年生だった私を「もーいいかい」と待っている心地がする。小声で「まぁだたよ」とは応えて居るが。「お母ちゃん」と謂うならともに暮らした覚えの無い実母ではなく、あの「秦の母」しかいない。
2024 1/7
◎ 『秦恒平・湖(うみ)の本』全166巻
「結び」の あとがき
一九八六年 桜桃忌に「創刊」、此の、明治以降の日本文学・文藝の世界に、希有、各巻すべて世上の単行図書に相当量での『秦恒平・湖(うみ)の本』全・百六十六巻」を、二〇二三年十二月二十一日、滿八十八歳「米寿」の日を期しての「最終刊」とする。本は書き続けられるが、もう読者千数百のみなさんへ「発送」の労力が、若い誰一人の手も借りない、同歳,漸く病みがちの老夫婦には「足りなく」なった。自然な成行きと謂える。
秦は、加えて、今巻末にも一覧の、吾ながら美しく創った『秦恒平選集 全三十三巻』の各大冊仕上がっていて読者のみなさんに喜んでいただいた。想えば、私は弱年時の自覚とうらはらに、まこと「多作の作家」であったようだが、添削と推敲の手を緩めて投げ出した一作もないと思い、,恥じていない。
みな「終わった」のではない。「もういいかい」と、先だち逝きし天上の故舊らの「もういいかい」の誘いには、遠慮がち小声にも「まあだだよ」といつも返辞はしているが。 過ぎし今夏、或る,熟睡の夜であった、深夜、寝室のドアを少し曳きあけ男とも女とも知れぬソレは柔らかな声で「コーヘイさん」と二た声も呼んだ呼ばれた気がして目覚めた。そのまま何事もなかったが、「コーヘイさん」という小声は静かに優しく、いかにも「誘い呼ぶ」と聞こえた。
誰と、まるで判らない、が、とうに,還暦前にも浮世の縁の薄いまま、「,此の世で只二人、実父と生母とを倶にした兄と弟」でありながら、五十過ぎ「自死」し果てた実兄「北澤恒彦」なのか。それとも、私を「コーヘイさん」と新制中学いらい独り呼び慣れてくれたまま,三十になる成らず、海外の暮らしで「自死」を遂げたという「田中勉」君からはいつもこう呼んでいたあの「ツトムさん」であったのか。
ああ否や、あの柔らかな声音は、私、中学二年生以来の吾が生涯に、最も慕わしく最高最唖の「眞の身内」と慕ってやまなかった、一年上級の「姉さん・梶川芳江」の、やはりもう先立ち逝ってしまってた人の「もういいの」のと天の呼び聲であったのやも。
応える「まあだだよ」も、もう本当に永くはないでしょう、眞に私を此の世に呼び止められるのは、最愛の「妻」が独りだけ。元気にいておくれ。
求婚・婚約しての一等最初の「きみ」の私への贈りものは、同じ母校同志社の目の前、あの静謐宏壮な京都御苑の白紗を踏みながらの、「先に逝かして上げる」であった。心底、感謝した。、いらい七十余年の「今」さらに、しみじみと感謝を深めている。
私の「文學・文藝」の謂わば成育の歴史だが。私は夫妻として同居のはずの「実父母の存在をハナから喪失していて、生まれながら何軒かを廻り持ちに生育され、経路など識るよし無いまま、あげく、実父かた祖父が「京都府視学」の任にあった手づるの「さきっちょ」から、何の縁もゆかりも無かった「秦長治郎・たか」夫妻の「もらい子」として、京都市東山区、浄土宗總本山知恩院の「新門前通り・中之町」に、昭和十年台前半にはまだハイカラな「ハタラジオ店」の「独りっ子」に成ったのだが、この「秦家」という一家は、「作家・秦恒平」の誕生をまるで保証していたほど「栄養価豊かな藝術文藝土壌」であった。
私は生来の「機械バカ」で、養父・長治郎の稼業「ラジオ・電器」技術とは相容れなかったが、他方此の父は京観世の舞台に「地謡」で出演を命じられるほど実に日ごろも美しく謳って、幼少來の私を感嘆させたが、,加えて、父が所持・所蔵した三百冊に及ぶ「謡本」世界や表現は、当然至極にも甚大に文学少年「恒平」を啓発した、が、それにも予備の下地があった。
長治郎の妹、ついに結婚しなかった叔母「つる」は、幼少私に添い寝し寝かしてくれた昔に、「和歌」は五・七・五・七・七音の上下句、「俳句」は五・七・五音などと知恵を付けてくれ、家に在ったいわゆる『小倉百人一首』の、雅に自在な風貌と衣裳で描かれた男女像色彩歌留多は、正月と限らない年百年中、独り遊びの私の友人達に成った。祖父鶴吉の蔵書『百人一首一夕話』もあり、和歌と人とはみな覚えて逸話等々を早くから愛読していた。
叔母つるからの感化は、さらに大きかった。叔母は夙に御幸遠州流生け花の幹部級師匠(華名・玉月)であり、また裏千家茶道師範教授(茶名・宗陽)であり、それぞれに数十人の弟子を抱え「會」を率いていた。稽古日には「きれいなお姉ちゃん・おばちゃん」がひっきり無し、私は中でも茶の湯を学びに学び叔母の代稽古が出来るまでにって中学高校では茶道部を創設指導し、、高校卒業時には裏千家茶名「宗遠・教授」を許されていた。
私は、此の環境で何よりも何よりも「日本文化」は「女文化」と見極めながら「歴史」に没入、また山紫水明の「京都」の懐に深く抱き抱えられた。大学では「美学藝術學」を専攻した。
だが、これでは、まだまだ大きな「秦家の恩恵」を云い洩らしている。若い頃、南座など劇場や演藝場へ餅、かき餅、煎餅などを卸していたという祖父・秦鶴吉の、まるまる、悉く、あたかも「私・恒平」の爲に遺されたかと錯覚してしまう「大事典・大辞典・字統・仏教語事典、漢和辞典、老子・莊子・孟子・韓非子、詩経・十八史略、史記列伝等々、さらに大小の唐詩選、白楽天詩集、古文眞寶等々の「蔵書」、まだ在る、「源氏物語」季吟の大注釈、筺収め四十数冊の水戸版『参考源平盛衰記やまた『神皇正統記』『通俗日本外史』『歌舞伎概論』また山縣有朋歌集や成島柳北らの視し詞華集等々また、浩瀚に行き届いた名著『明治維新』など、他にも当時当世風の『日曜百科寶典』『日本汽車旅行』等々挙げてキリがないが、これら祖父・秦鶴吉遺藏書たちの全部が、此の「ハタラジオ店のもらひ子・私・秦恒平」をどんなに涵養してくれたかは、もう、云うまでも無い。そして先ずそれらの中の、文庫本ほどの大きさ、袖に入れ愛玩愛読の袖珍本『選註 白楽天詩集』の中から敗戦後の四年生少年・私は、就中(なかんづく)巻末近い中のいわば「反戦厭戰」の七言古詩『新豊折臂翁』につよくつよく惹かれて、それが、のちのち「作家・秦恒平」のまさしき「処女作」小説『或る折臂翁』と結晶したのだった、「湖の本 164」に久々に再掲し、嬉しい好評を得ていたのが、記憶に新しい。
さて、向後の「湖の本」をどう別途継続展開するかは一思案だが、勉めて読者の皆さんとのお付合いを、善い工夫で持続したい。
ともあれ三十八年ものご支援に感謝申上げます。 秦 恒平
2024 1/11
* 『秦恒平 湖の本』終刊・終結の『第166巻 蛇行(だこう)或る左道變 老蠶作繭』を、無事、全国の寄贈者、読者に宛て発送し終え、余すは「全国高校・大學等の施設」へ送り届けて、まさしく「大団円」となる。
「創刊から38,年」の感慨は、いずれいろいろに胸に湧くだろう。
こういう「,独り」の作家、その個人の「創作と本と」が、きちっと纏まった編成編てき輯により、多年文壇や学校や識者・読者に「寄贈・送達」されてた事例は、明治以降の日本の文界に無く、世界にも知らない。
* 相応の資財が有ったのだろうと想う人も居る。どっこい、わたくに歯丁度100冊ほどの単行著書が有るが世に謂う私は居たって「ベストセラー作家」ではない。資産家に育ったのだろうとも。とんでもない、私を人手から「もらひ子」した秦の父は小さな「ラジオ屋」,祖父は小さな「餅屋」、嫁がなかった叔母は終生「お茶・お花」の先生をしていた。私は大学で奨学金を貰い、すべて返却し、就職した初任給、最初三ヶ月の支給は12000円の8割、新婚の妻は無職で家をまもっていた。私の財布には、会社の援助で昼食の白飯一碗と味噌汁とが買える「15円」しか入ってなかった。
しかし、年に二回のボーナスに私たちは一銭の手も付けず無条件に「貯蓄」した。これが、徐々に利いてきた。とにかく茂繪に描いたようなスカンピンの新婚夫婦として何年もを平然とすごしていた。貯金以外に先途は無い、が、必ずそれが利いてくると確信していた。事実、そうなっていった。
作家になっても、出版社に泣きつくような真似はしなかった。それよりも、かのになれば自分の手と資金とで堂堂と「出版」すればいい。幸いに私出版社の編集製作で15年半鍛えられた管理職の一員にも成り、『編輯・製作』本づくりの巨細まで学習していた。いま一例が,誰もの感嘆してほめてくれる大冊『秦恒平選集』33巻は、まさしく私の謂わば「手づくり」全集、むろん166巻もの『秦恒平・湖の本』も皆、然り。
* もう早や一年の「卆寿」へ、人生の、ゆるやかな収束へと、私は、妻と共にゆっくり歩いて行く。
2024 1/12
○ 恒平先生、ご本、お送りいただき有難うございました。
「九十爺さん(=クソ爺さん)」失礼いたしましたが、「九十九歳(=クソクサイ)」までは考えが及びませんでした。
落語の「四徳斎」や「雲谷斎」を想い出して、笑ってしまいました。
小学生の頃の夏に、私の住んでいた弁財天町(=有済小学区、秦の育った新門前通り仲之町からは、白川を距てて一筋北寄りの通り)と向かいの元吉町の小学生十数人が、
ユカタを着て五人くらいが横一列に並び、前に提灯を吊るした竹の棒を持って 大声で歌を歌いながら、八坂神社(=祇園会の本社)まで「歩く」という行事がありました。先生はご存じでしょうか?
歌は次のような二つの歌です。
サーノヤーノ、イトざくら。
盆にはどこも忙しや。
東のお茶屋の門口で、アカマエダレにシュスの帯。
ちょっと寄らんせ入りゃんせ。
キンチャクに銭がない、
のうてもだんない入り’ゃんせ。
オーシンキ、コーシンキ
ヨーイサッサ、ヨイッサッサ。
これから八丁、十八丁。
八丁目のコウグリは、コウグリにくいコウグリで。
頭ののてっぺんすりむいて。
一貫膏薬、二貫膏薬。
それで治らにゃ、一生の病ひじゃ。
七十年前だったので、間違っているかもしれません。
八坂神社の南鳥居のそばの「二軒茶屋」で、ラムネやジュ ースを貰って帰りました。 京・桂 服部
* オーゥ!! なんと懐かしい!!
祇園会には もとは、鴨川での神輿洗いに四角、六角、八角の御神輿が練った。担ぎを担当の町内も伝統で定まっていたが、若竹若松が担ぐ四角いのが他より図抜けて「途方もなく重いお神輿」と聞いている、これは三条裏の若松町・若竹町の若い衆が担ぐと決まっていた。松と竹と、実に此処があの大会社「松竹」の出處である。有済小学校には松竹が寄贈の大きな楽器などいろいろなものが仕舞われていたのを生徒として見知っている。
神輿で謂うと、私が高校から大学への頃か、金ピカに美しい「子供神輿」が新しく創られ、子供達が担いで行列を練った、私は出張らなかったけれど。「御旅所」には古野子供神輿も美しく飾られる。
* 夏の燃えそうにド暑い、冬のド寒い底冷えが自慢のような京都では、祇園会の頃にはげしい夕立がするのも馴染みだった。御神輿の黄金色がひときわ耀いた。懐かしい。服部さんのおかげで、いろいろ想い出した。
2024 1/23
* 昨日 久しい四期十六年の京都市長を退いた門川大作さんの「深く敬意を表」して「今後ますますの」活躍を願うとの私信を戴いた。昨年三月に文化庁が京都似移転し「文化首都」たる重要性、必要性が「より一層高まって」いますと。京都市には「京都文學賞」も新設されているとあり、受賞の三冊ほどが送られても来た。1人の作者は1998年生まれと、仰天もし、成るほどナアとも肯いた。
2024 1/30
* 私・秦恒平の「日本」「故郷・京都」への基礎認識は
『女文化』の女世間
と謂うに尽くせる。
大學より以前から、「男はキライ 女バカ」が私の変更の無い「日本人」認識だった。「女バカ」は最上の賛辞・共感と謂うに尽きている。
京都の「祇園花街」にまぢかく育ち、幼時から秦の叔母ツル(遠州流・玉月 裏千家・宗陽)の花と茶の稽古場で成人し「宗遠」と茶名も承けている私には、「男」とは社交と競合の相手、「女」は懐かしみ親しむ相手と、人間觀がほぼ固定固着していた。「それで八十八(やそはち)までも生きて」きたのだ、どうしようも、どうしたくも無いのです。
2024 2/14
* 寒いを避けようと着る内でこのごろは上着の方に、弥栄中、日吉ヶ丘高などにいた「渡辺節子」がつい半年も前か、まさしく何十年ぶりに「突」として「手編み緑色の毛糸のジヤケット」を贈ってきてくれたのを着ている。軽くて暖かくもののうえに重ね着できてありがたいのだ。何故に突如として京の山科から贈ってきてくれたか、判らない。学校時代にもヽクラスに居合ったた事も、ろくに口を利き合う他記憶もまるでない「お澄まし屋」であった。隣の組の学級委員をしていたから生徒」会の委員会では出会っていたけれど、隣校「粟田(小学校)出」の「三節 渡辺節子 中村節子 安藤節子」の中では苦手のほうだった、なにしろ講堂の大きなピアノを時々「独り」で弾いているようなまるで無縁な女生徒だったのだ。そのまま何十年も何の接点も無かったが、たまたま当時の名簿と住所録を「紙くずの中から見つけて、ナンにかの旧友等に『湖の本』を宣伝に送呈したのだった、たぶん綠の毛糸編みのジャケットはそのお返しであったろう。人生不思議の遙かに遙かな「再会」であったのだ。わたしが「物書き」に成っているぐらいは聴き知ってくれてのだろう。
毛糸のジャケット、今も冷えた機械前の仕事場で着ている。
2024 2/15
* 「サツチャンはね」と愛らしく歌い始めるあたらしい「仕事」を足がかりに「京都」「東山」「有済」を彫り起こし初めても居る。
しかし、かなり睡いいま払暁五時五十五分ナリ。やや空腹か。妻も猫たちもまだ寝入っている。
2024 2/21
* 国民学校(さきの大東亜戦争ごく初期・昭和十七年(一九四二)四月七日に入学 前年十二月八日に日本軍は真珠湾を奇襲・開戦)の一年生を終えて直ぐ、一年担任だったたぶん四十代中頃の吉村女先生は、私に、一冊の「本」を手渡しに下さった。いまも現に、此処に、手の内に,在る。
文部省藏版(日本思想叢書第五編)
文学博士 次 田 潤 校訂解説
古 事 記
大日本教化圖書株式会社發行
昭和十三年十二月一日五版發恒行 定價金八拾錢く送料十錢)
* 巻頭に「口語譯」が挙げてあり、國生みに肇まり、難なく読めた。こんなに心惹かれて「興味深く面白かった本」は生涯に何冊とは無かった、暗誦するほど読みに読んだ。私の読書傾向と読書歴とをまさしく「決定」したこれが第一冊「私史の寶」なのである。「恩師」とは一にまさしく「吉村先生」であった、そして「もう一つ」挙げれば歌歌留多の『「小倉百人一首』に、私は『古事記』の「日本」にならぶ、もう一面の「日本」を学びかつ覺えた。感謝に堪えない。 朝 七時
2024 2/28
* この頃、引き続いて往年の『ヴギウギ』笠置シヅ子を描いている毎朝に小刻みな連續ドラマを愉しんでいる。「役」を演じている小柄な女優をかつて見覚えないのだが、演技も歌もシッカリ見せ、また聴かせてくれる。何十年と久しぶりの『ジャングル・ブギ』も『買いものヴギ』懐かしく聴いた。少しく胸も疼いた。昭和十年(一九三五)の冬至に私は生まれ、京都幼稚園に送迎バスで通った十六年(一九四六)十二月八日に日本軍は真珠湾を奇襲、第二次世界大戦勃発、十七年(一九四七)四月七日に京都市立有済国民学校(=戦時中の「小学校」)に一年生入学し、二十年(一九五○)四月に、同年三月下旬以来の戦時疎開先(当時の「京都府南桑田郡樫田村字杉生」の農家長澤市之助家)から山越えに同村字田能の樫田「国民学校」四年生として転校入学し、同二十年(一九五○)八月十五日、学校夏休み中「日本國敗戦」のラジオ放送を同地同家の庭で聴いた。広島・長崎の相次いだ「原子爆弾」も同家で聞き知った。
敗戦後、樫田「小学校」四年生の秋十月、同地戦時疎開先で急性の腎炎「満月状容貌」になり、秦の母の機転で迷い無く京都市東山区に昵懇の「松原医院」に直接「運ばれ」て危機を脱し、以降そのま、敗戦早々二学期の内に秦が地元の市立「有済小学校」へ復帰した。
そして、まだ美空ひばりの影も無い敗戦後日本のラジオなどで少年の私はあの「笠置シヅ子」が叫び歌の『ヴギウギ』を聴きしったのだった。街には疾走するジープ、進駐軍の兵隊や、その腕にぶらさがるパーマネントの日本の女達を至る所で目にしたのだった。
* 私は、あの「敗戦直後頃の、京都も日本も」、あえて謂うならむしろ心親しい新鮮に励んだ心地で承入れ、眺めていた。今にして、私はあの頃をとても大事で懐かしくさえある体験期と思っている。あそこで、大きいとは謂わなくても明るい花の咲いている「時期・時代」を眺め感じていたと思う。やがて新制中学に入った頃の男先生達の叫ぶほどの激励は「自主性 社会性 民主性」だった、わたしはそれを獄当然に受け容れて生徒会活動も活発に、二年生の内にも「生徒会長」として、先生方より数多く講堂や運動場の「壇上」に立ってあたかも「指揮さえしていたのである。
2024 3/2
* いま此のパソコンのデスクトップは、私の昔に撮っておいた、大きな、京都祇園「八坂神社の朱の正門」が、四条大通りへ大きく開いている。実に実に美しく、此の機械をあけるつど叫びたいほどに懐かしく魅了される。大自慢のデスクトップである。
2024 3/21
* 結句 花見に朔歩もしなかった。櫻はいつも肌身に添うて咲いている。
櫻さくら 弥生の空は 見渡す限り
かすみか くもか にほひぞ出づる
いざや いざや 観に行かむ
京都の山野が 震えるほど恋しい。雑踏でたのしむ櫻、花では、ない。京の東山をあるいていて、ふとした山はらに、木々に隠れて誰にも観られず満開の櫻の咲き匂うていた嬉しさ、忘れられない。
2024 4/6
* いま、午前九時四十分。朝方、起きた識からうしろ腰のきつい痛みに弱った。朝食して、二階のソファで寝入り,今しがた目ざめた。マリア・ジョアオ・ピレシュの、躍動して好きなピアノコンチェルトを、昨日から繰り返し聴いている。
すっかりピアノ曲好きになっている。大學の頃、同じ同志社で英文学の教授を努めていた吉岡の叔父とたまたま一緒に市電で三條の方ヘヘ帰るあいだに、私が洋楽は苦手でと云うと,美学藝術學を専攻して何を謂うかと窘められた.モットモと心を入れ替えた。懐かしい有難い価値ある想い出だ。此の叔父、当然にも私が専攻の主任園賴三先生ともご懇意で、叔父の口から園先生へ私の生い立ちなどは伝わっていたようだ。東京へ舞い立つ院生の途中まで、わたくしのことをそれは優しく見守って下さった。同じ専攻の一年下、妻になる人と東京へ出たいと申し出たとき、園先生はむしろ前向きに賛成して送り出して下さった。「作家」への道を亡くなられるまで励まし続けて下さった。
はるか昔の事になった。
いまピレシュの美しく躍動するピアノ曲に聴き入りながら、なんと永く生きてきたろうと粛然とする。先生先達にも同輩友人達にも,後進の人らにすら多く死なれてきた。
いま,私の日々に音楽がある有り難さは言い尽くせない。むしろ美術への愛好が、外出も成らない障害で塞がれている。
* 腰の痛み やわらいで呉れようか…。
2024 4/8
* テレビのドラマで笠置シヅ子の「ブギウギ」や「ワテ ほんまによう云わんワ」を嬉しく堪能して聴いた。ところで,此の「ワテ」だが、渡しは少年の昔に耳にタコほど聞いた物言い・自称だが、「ワテ」は大阪臭くて、いやだった。京都では、と云うてもいいだろう、尠くも我が家では母も叔母も、ご近所の小母さん達も「ワテ」は無く、「アテ」だった。「アテ」には「貴て」の意義がかぶって、クチにもミミにもアタマにも自称は「あて」でなければイヤだった、但し子供はまず使わない、が、父でも、母方の伯父でも、ご近所のおじさんたちも、京都では「あて」と自称の人が断然多く、聴きよかった。「ワテ」はクサイと嫌った。
笠置シヅ子は、典型的な「ワテ」女で、それゆえ私は美空ひばりが東京弁で引き継ぐまで、笠置の唄聲は遠慮し続けた。「ヤカマシイ」と身をよけていた。「あて(貴て)」と想いながら話して欲しかった。
潤一郎現代語訳の『源氏物語』よりも早く与謝野晶子の現代語『源氏物語』を叔母宗陽の社中から借りて耽読したのは、あれで、中学生の修学旅行より以前であった。「貴(あ)て」なる価値にもう魅惑魅了されていた。「ワテ」はイヤだった。
2024 4/9
* 私のデスクトップは,漆黒の地に 美しい限りの朱に映えて,京都市四条大通りの真東「石段上」に「八坂神社」の西正門が耀いている。こんなに美しい「表紙」を持ってパソコンを遣っている人が有るだろうかと、私の、嬉しさに溢れで大の大の「じまん」です。私の京都への郷愁が光り輝いて此処に在る。この八坂神社「石段下、四条大通りの南角に,私(五回生 事実は戦後新制の第一回性)の通った「新制京都市立弥栄中学」が在った(現在は無くなっているらしい)。
四条大通りを、このまま西へ西へ西へ真っ直ぐに行き当たると嵐山から南流してきた桂川がさらに南へ流れ,大橋を更に西へ渡った正面には、東野八坂神社と真っ向に、松尾神社。平安京造成に大きな力の合った「秦氏」と縁の濃い、さらにはやはり秦氏と深く結ばれたあの稲荷大社と此の松尾大社はズブの親類である。いま一つ謂うなら、やはり「秦氏」が深く関わって「平安京の鎮守」と謂うべき上・下の加茂大社とも稲荷・松尾両社は親密という以上の親しい仲にある。
私は自分の機械の大表紙である八坂神社の色美しい耀丹に見入りながら、いつも思いを故郷京都へ、「祇園さん=八坂神社」へ送っている。
観られる方があるなら御覧下さい。
2024 4/9
* 幼少期から妻と上京までを育った新門前の「秦」家(「ハタラジオ店」)の、新橋通りへ抜「け路地」を抱えた、「西向き」和風二階建ての全容、母屋から離家・奥藏までの「写真」が撮れていた。見つけて、いま、目の前に置いた。路地を距てた西の樋口家が取り払われて駐車場になり、それで我が家の西全容が綺麗に撮影できている。いつかの帰京時、幸便に私が撮っておいたのである。
路地うえ二階西に、ガラス窓。そこが私の勉強もし、書架も作り付け、床も敷いて寝起きした三疊の私室であった。
路地西側に樋口家の在った昔は、文字通りに細くて一メートルの余もあったかどうか、南(シモ)の祇園新橋通りへ出られる夜は「真っ暗な」「抜け路地」だった。敗戦後はさまざまに「想い出」の沢山な「我が窓の下」ではあった、進駐軍の兵隊と女とでよう抱き合うていた。
我が家の在った新門前通りは、むしろ外人や進駐軍向けの「古美術・骨董商」らが何軒も店を開けていて、「異人サン」や「進駐軍」の散策路でもあった。中には、小家や二階を借りて日本の女と寝泊まりしている将校級もいた。んな外人が浴衣掛けで古門前通りの銭湯へも気軽に通って、少年のわたくしもその銭湯でよく「進駐軍」とのハダカのツキアイがあった。一つ湯船で首だけ出してノンビリしたりした。英語の会話はムリだったが。なんだか「進駐軍(の兵隊)」は、みんな「のーんびり」と暮らしていた。父の店へ乾電池など買いに来る兵隊もめずらしくなく、新制中学生の私もタマに「応対」したりした。
* 上に謂う我が家の西側添いに、細くて暗かった「祇園新橋通への抜け路地」は、なかなかの「存在価値」「エピソード」も在って、近在で「便利」なと識られた「ろうぢ」であった、その噺もしたくなる、が。
2024 4/13
* わたしは昭和十年の冬至に生まれ、昭和二十年八月十五日に、日本は「敗戦国」となった。わたしは国民学校(戦時の小学校)四年生夏休みに戦時疎開していた丹波の山なかで「終戦(敗戦)」を聞いた。五年生の二学期に大病して京都へ帰った。戦時中には軍歌こそあれ、歌謡曲などつくられていなかった、それが敗戦後の日本に,京都似も溢れ出汁、その頃の歌が最近にも屡々聴かれる。「歌」とは異様なまで不思議な生きものである。ミミにもクチにも,こびりついたように、七十年後の今にも残って居て、けっこう唱えももする。流行歌はさながらに時代時世を記憶のおんょうの用だ,今いまの歌など識りもしないのに、敗戦五の歌謡曲は、したたかに貴覚え唱い覚えている。
2024 4/15
* 此の働いている機械、大きめの画面真下に、クッキリと鮮明な、しかし手札大とも足りない写真が一枚、立てかけてある。私の「貰われて入った養家」 京都市東山区(知恩院)新門前通り仲ノ町にあった和建築「秦家 ハタラジオ店」の表母屋から奥の離屋 藏 まで西向き全容が、幸運に恵まれ、真西側から 鮮明な写真に撮れている。その西側二階の やや大きい目のガラス窓の内向こうこそ、私が、中学生から、就職上京、秦の養家を去る日までの、まさしく「私室 住まい」であった。新門前通りから南の羲お新橋通りへ繫いだ細い抜け路地を夾んで、西側の樋口家が何故か取り払われていたので、まこと鮮明に「秦家の西向き全容が撮影できていたのだ、幸いに私が帰京の際に撮影出来ていたのだ。
その懐かしい限りの昔の秦家 ハタラジオ店の二階屋を私は、一日と欠かさず見続けて東京とか㋨保谷市下保谷の自宅で暮らしてきた、これからも暮らし続ける。
* 手札大もない小さな写真だが、幸いに実に鮮明によく撮れていて、想い出を誘う何不足もない、それが日々、私は嬉しい。「あの世」へも「連れ持って」行きたいと、それを書き置きたかった。
2024 4/23
* どの時代・時期へ帰りたいか。間違いなく、「弥栄中学二年生」へ帰りたい。
どの場所へ帰りたいか。間違いなく、四条大通りが真っ直ぐ見下ろせる、祇園八坂神社、丹に耀く西向き正門(私のこの機械のデスクトップ写真)に立ち帰りたい。
2024 4/30
* 京の山科から、弥栄中学の同窓、渡辺節子さんの冬の前に贈ってきてくれたの、手編み毛糸の翠のジャケット、軽くも暖かでもあって一冬を肌身離さなかったのを、五月七日、ようやく今日脱いだ。お世話になりました。感謝。渡辺さんとは一度も一つ教室になったことがない、隣の組の人だった。中学生で、、ひとのいない「講堂の大きなピアノ」を「独りで」弾いているようなせいとだったと、かすかに記憶している。
毛糸編みのジャケットがおくられてきたとき、電話で禮を言った。中学の幼な顔しか覚えない人と、しばらく話した。「作家」として永く暮らしてきたとは知ってたようであった。
* 京都へ帰りたい。帰りたい。いま目の前に、貰われ、そだててもらった新門前通り仲之町「ハタラジオ点」の和家屋が表から奥の離れ、藏まで、ちいさいがまことに清明な佳い写真になって置いてある。『選集』何巻めかの口絵写真には「容れた」だろう。
2024 5/7
* いま私には 心安いことに、対外、外向き、に何の約束も気兼ねも無い。「老い」の一徳で、また一得一失と謂うことか。「好きにして、よろし」と謂うことか。
*「好きにして、よろし」で思い出す、
有済小学校から新制弥栄中学の少年時代、京都でも名高な「疏水」の水量を大きく長々牽き回してきて、鴨川の二條東あたりか、かなりに広い「ダムっぽい水域」が成されていた。
なぜか其処は「武徳會」と呼ばれ、京の少年・青年のおおぜいが真夏になると「入会」し、「組」「級」の階級別に、「組」のうちは水泳を指導者「教わ」り、「級」へ擧がると、「好きにして、よろし」と、広々とした水域を「自由に」游がせて呉れた。私も「好きにして、よろし」と許可され、夏休み、鍋底のような「京の暑い極み」を、「ふんどし」のまま新門前の家から武徳会へテクテクと通ったものだ。
* つまりは、今や義理立ての「たのまれ仕事」はしないし、無いと謂うこと。「好きにしやれ」の「老の坂」をわずかに上へ下へしてるのです。
* このところ 日録 重複等の混乱がある。ショがないとなかば放ってある。
2024 5/9
* 「酒は呑め呑め 呑むならば 日の本一のこの槍を 呑みとるほどに 呑むならば それぞまことの ***」の「***」を忘れている、「黒田武士」かナ。
岩見重太郎とか塙團右衛門とか猿飛佐助と謂った「乱世の豪傑達」の「誰」に扮してチャンバラを「遊ぶ」かと競った子供の昔を覚えている。
* 真珠湾から大東亜戦争が始まった昔、昭和十六年師走、わたしは「幼稚園ボ」。明けて十七年四月国民学校に進んだ春の運動場には櫻が咲いていた。
昭和二十年(一九四五)三月半ばに秦の祖父と母と三人で、丹波の山奥、樫田村杉生に戦時疎開し、四年生八月にはヒロシマ、ナガサキの「原爆」を新聞で見知り、盂蘭盆の八月十五日には、「無条件」で日本國は米英等連合軍に降伏した。負けた。樫田小学校の「夏休み中」だった。
天皇さんの降伏を国民に告げる声を、私は、親の借りていた丹波の農家の前庭で、大人達とラジオで聞き、どう浮かれたか「飛行機」に成って両手をひろげ駆け回り、「京都の家に帰れる」と喜んだ。
いま、西暦で二○二四年 あれから、七十九年。
2024 5/10
◎ o:秦恒平 様 岩田孝一(恒平の従弟)です
本日(5/10)
「吉岡家住宅」の建物(恒平の実父方・生家)が、国の登録有形文化財に指定され、
10日、谷口 木津川市長が吉岡家を訪れ プレートの交付式が行われました。
https://www3.nhk.or.jp/lnews/kyoto/20240510/2010020032.html
木津川 「吉岡家住宅」の「主屋」が国の登録有形文化財に
05月10日 16時10分
木津川市にある旧家、「吉岡家住宅」の建物が、国の登録有形文化財に指定され、10日、プレートの交付式が行われました。
「吉岡家住宅」の「主屋(しゅおく)」と呼ばれる建物は、江戸時代後期に建てられた旧家の母屋で、「かやぶき」と「瓦ぶき」を組み合わせた屋根が特徴で、歴史的に貴重な建造物として、去年、国の登録有形文化財に指定されました。
10日は、吉岡家の現在の当主に指定を証明するプレートなどが手渡されました。
土間には、7つの釜で同時に調理ができる「七連かまど」があるほか、冬場に食料を入れておく「芋穴」と呼ばれる貯蔵庫も備えています。
国の登録有形文化財は、府内に650件余りあり、木津川市では2件目になります。
プレートを受け取った吉岡菊子さん(=恒平の従姉妹)は、「この家で生まれ育ちましたが、昔、父親がこの家に誇りをもって住んでいると言っていた意味が最近はよくわかり、今後も住み続けたいです」と話していました。
京都のニュース
NHK京都放送局の18:30からのニュース
京いちにち で放送されました
地上波では京都府内からだけの視聴ですが ネットの NHKプラス では 全国から録画が見られるようです
国の登録有形文化財の手続きが全て終わった事のお知らせまで 孝一 拝
* お知らせ。感謝。
* いま私の左手一メートル余の窓枠に、実父吉岡恒(吉岡家長男)の育った「吉岡家の写真」がある。長い高い石垣の上の、丈高い大きな家である。私は、京都の秦家に「四、五歳で」もらわれる(預けられる)まで、この当尾の吉岡家で育ってた(と想われる)。私が極く初期作に、作中一人称の姓を「当尾(とうの)」と書いているのは、此の生家吉岡が南山城の「当尾(とうのお、か)」の地に在る(と察していたからで。
* 生涯の歌人であった(生まれ育った滋賀県能登川町に立派な歌碑が建っている)生母(阿部ふく)方のその後「今日」が判らなくなっている。能登川の「阿部家」と謂えば、一世に聞こえた近江商人の大実業家も出ていて、私生母の生家や其の後など、知る人には知れているのだろう。私には、いまや、よく判ってない。
* わが実の両親の「ドラマ」は、むしろ、孫の秦建日子なり、同じく黒川創や北澤街子なり、気があれば、追っかけてくれれば良い。欲しければ、私所持の書きモノ、資料など上げる。
2024 5/10
* このところ、杖ついてであるが、もう三、四日も一人で近隣を小一時間も散歩しつづけてきた。
今日も、やや遠いポストへの投函の脚をのばし、優に一時間の余も、日盛りにあせもかきながら、聊かも焦らず慌てず、ひ下保谷を散歩してきた。ゆっくり、ゆっくり。然し時に早足も試みて、疲労の困憊のという感じは無しに、あわてず急がず、それにしても新建ち野か九ちいきで、実に様々につくられながらよくよく似た「造り」と「色」との家、家、家が、ギザギザ、グサグサの向きで建て混んでいる、人っこ一人にも会わない静寂に、東京での新開地のごった煮の表情をうかがい続けてきた。
京都の町通りは、新門前通りでも古門前通りでも新橋通でも花見小路でも 瓦屋根を揃え外向きを揃えて、銘々の表の顔」を静かに並べている。 「
そういう町通りに育った眼には、東京郊外・田舎の広い狭いも地形も通り道への向きもバラバラな「売り地」には、子供の気ままに遊びやめたあと玩具を玩具筺に投げ込むように仕舞ったのと似た混雑、乱雑の印象を棄てがたかった。
、ま、だが、良く歩いた、歩けた、弱りもせず。
* 一時間余も歩いていわゆるお店、商売屋は、たった一軒だけ、手作りのような「栗もなか饅頭」を売ってくれた。
2024 5/23
* 敗戦後に「新憲法」の成ったとき、未だ幼稚なアタマにも不思議と嬉しくて、男女平等、あたりまえやと思ったのを覚えている。朝のドラマ「寅に翼」さほどには観ていないなりに、「配線」といつた或る意味では歓迎すらしていた子供心の昔へ誘われる想い出は多い。
2024 5/31
* 六月か。
* 甘味の、世に払底した戦中、戦後にも、思いがけず「みなづき」という甘い菓子を母からもらえたことが、幾度か有った。懐かしい。その母も、父も叔母も、あの日頃も,、みんな懐かしい。
米のご飯の、世に払底した時節、短くはなかつた、が、少年私は、学校の先生が、日々に教室や講堂や運動場で叫んで聴かせた「自主性・社会性」を耳にタコに元、気だった。小学校から新制中学へ、何度か「全優」「オール5」の「通知簿」を家へ持ち帰ってもいた。胸いっぱいに少年の敗戦「新」時代を呼吸していた。おさない思慕や恋にも何度も胸をふるわせた。
2024 6/1
○ 六月 保谷の雨はいかがでしたか。
今日は青空、気持良い朝です。
今週末に京都に行きます。代わりに何かできることあれば、リクエストして下さい。
くれぐれもお身体大切に、くれぐれも。
書き継いでくだされ。
今日午前は 久しぶりに絵の教室に出かけます。 尾張の鳶
* うらやましい鳶じゃなあ 鴉の羽は枯れてますよ。
可能ならば 写真
狸橋から白川の流れ 眺望 主に西向き
新門前橋から 白川の 北向き 南向き 眺望、
祇園町北側{東新地}(いわゆる乙部)内の「小さなハデ な神社と周辺」
『信じられない話だが』 鴉にしか書けない やや長くなる奇小説が 時を超え 日本列島を蠢いています。
今朝 CT検査 異常なし。 先日、散歩中に堅い石段で転倒転落し、全身痛みますが、顔と頭は無事。
『光る君へ』に向き合いながら、平安朝の西暦1000年前後に始終潜入。
愛翫の『参考源平盛衰記』では、木曾義仲の酬われない奮戦に胸いため。
曲亭馬琴の『近世説美少年録』では、江戸時代「読み本」の奇矯な「ふりがな日本語」に親しみ、
飜訳では 森田草平の日本語で ドストエフスキー『悪霊』 そして 中国今今の現代大長編、陳彦作『主演女優』全三冊の二冊を読み、三冊めを 愉しんでます。
但し視力の衰え甚だしく、世界が霞んできましたよ
カアカアカア
2024 6/3
* 「玄関座」で、「手持ち」ライトで「近世説美少年録」「鷲は舞い降りた」を読んで居た。肩が凝り。目は重たく、うるわしい体調とは、とても。
テレビで観ている『光る君へ』がいま一等、て浮世離れして身にも目にも親しい。
都知事選も、両陛下の英国での歓迎の報道も、しとどの雨降りも、ただ気怠い。欲を謂うなら、本もソッチむきで、ぐっすり寝入りたい。疲れて余儀ない時は、そばへ置いた、頂きもの亀屋良永の「御池煎餅」を番茶でハリハリ咬んでいる。
京は、軽いも重いも、とびきり佳い美しい菓子づくりの、名都。安心して手が出る。
2024 6/26
* 半睲半睡のような一夜だった。これは疲れのもとになる。
○ 老いほれた保谷の鴉は 羽根うたず 匍匐停頓
疲れても疲れてもいかに疲れても疲れの淵を生くいのちなる
右の頚と肩とが 暴れるように 疲れで痛む
『信じられないことだけど』と、ながなが 書き進めながら 疲れると 可愛らしい サッちゃん や 白山羊サン の ウロ憶えの「童謡」を 幾つも唱っているす。繪は描けない けど、歌は唄える カアカアカア
京都へ帰りたいが。汽車二もレ無い、宿も無い。円通寺や 鞍馬や 嵐山へ 渡月橋を越えて、せめて夢路を辿りたい。
2024 7/2
* 七夕というよりも、七月と謂うと八坂神社、祇園会、鉾巡行が目の内でパチパチする。溜まらなく懐かしい。
2024 7/7
* 京舞井上流家元の八千代さんに戴いた、珍しい、初モノの「しゅうまい」がすこふる旨かった。こんな旨いものも在ったんだと感じ入った。
京東山 浄土宗總本山知恩院下のごく静かな「新門前通り」東の中之町に私の育った「ハタラジオ店」があり、白川のせせらぎを西へ渡った同じ有済小学区の新門前西之町に、「京舞井上流」八千代さんのお宅・お稽古場がある。むろん、今もある。通りの風情がいまも目に静かにありあり甦る。
2024 7/10
* 午後四時。左頚肩, 凝り凝りと痛い。両腕から指の十本の、細長いこと。
大相撲が始まって。今夜には、『光る君へ』が観られる。
なにやかやと為残しているが、執濃くは気にしないことに。「平然」と生きてれば,ソレで宜しい。どうなるものでなく、どうしなくてならぬという「モノもコトも」無い。慕わしい懐かしい逢いたい名前や顔や声が無いではないが、それも今や当然にそれはソレダケのこと。馴染みに馴染んだ「祇園囃子」はちゃんと耳に届いて聴こえている。懐かしい色んな人の名前、笑顔も言葉も歓声も、湧くように想い出せる。「私の京都」は、,春や秋より、はるかに、暑い極みの「真夏」が懐かしい。七月には祇園祭、八月には大文字もあり、地蔵盆や盆踊りも花火もある。町内会から、バスで琵琶湖へ水泳にも行った。
* 23時48分 宵より寝入っていた。このまま明日へ、寝入る。アメリカでは、トランプ大統領候補が耳を掠めて狙撃されたと。どんな意味の狙い弾であったのか。
2024 7/14
* 尾張の鳶が、京のお茶に添えて、わたくしの暮らしていた新門前通りや祇園「白川」ぞいの、懐かしい、大きい写真を何枚も撮って送ってくれました。
もう何十年帰っていないだろう。帰っても泊まれる家ももう無い。それでも、せめてもう一度、もう一度は「帰って」知恩院、円山、祇園さん 四条大通り 祇園町、白川ぞい、縄手の賑わい,古門前、新門前など、そぞろ歩きたいがなあ。通称に「なか」と呼ばれていた三条裏も。
今は祇園会のさなか。ブチ切れそうに懐かしいよ。
思えば東京へは、ただただ「作家」に成るべく就職して来たのだなあ。
2024 7/17
* 古門前元町の,大昔、大人達が私の「およめ」候補と話し合ってた同歳の大益貞子ちゃんの電話で、歓談。それを、いろいろに書き留めたハズなのに、例によって消え失せています。
2024 7/26
* まだ壮年の,弥栄中学どうそうの数人と、「文藝春秋」が祇園八坂神社境内拝殿わきで撮影してくれた印刷が、数葉残っていた。
写真右から、「作家・国立東京工業大学教授」秦 恒平 「昭和シェル石油常務」團彦太郎 「歌舞伎俳優」片岡我當 「サツマヤ社長」奥谷智彦 「料亭ぎをん梅の井主人」三好閏三 『安全索道取締役」尾竹嘉三 「日立マイクロデバイス常務」西村明男
そして西村が、「我々は,京都市祇園石段下にある弥栄中学昭和二十六年の卒業生である。母校は入学した年に新制中学として発足した。近くには八坂神社、円山公園、知恩院、将軍塚など青春のエネルギーを発散させる美しい舞台に恵まれ,祇園花街や芝居の南座も目の前にあって、戦後民主主義の三年間を印象深く満喫した」と書き起こし、一人一人のの「紹介」もしてくれている。「秦は、中学時代から目立つ存在で生徒会長に選ばれた我々のリーダー、 その後、昭和四十四年に太宰治文學賞を受賞し作家となった」と。和やかに、みな笑顔が若く、懐かしい。残念ながら三好君が、ひとり亡くなっているが、他は、今も健在と思う。
2024 7/27
○ 暑中 お見舞い申し上げます。お元気ですか。地球温暖化が原因で終日サウナ風呂に閉じ込められていますが、これも「社会の出来事の原因はすべて政治にあり、その責任はすべて政治家にある」からと言えましょう。
90歳近くになると 他人様のことより自分のことで精一杯ですが 気力だけは学生で、前著の続編の世直し論を書いています。前著で提唱の「赤ん坊にも選挙権」を吉村洋文大阪府知事が次の衆院選で「日本維新の会の選挙公約にする」と公表して、私の主張の一つは陽の目を見そうですが、着眼点を間違った知事発言はネットで大炎上しています。
赤ん坊たちを人格のある国民の一員と認める拙案と違って、「ドメイン方式」の大人の所有物と見なして選挙戦の道具にしているのですから 炎上するのは当然です。自民党以外の政党の首脳陣に前著の『赤ん坊にも選挙権』と『否認票のある一人二票制』の改革案の実現を要請してきましたが、アメの前者だけを取り上げて ムチの後者を無視では「身を切る政策」が売りの党もポピュリスト徒党のそしりは免れないでしょう。
二つの改革案の 今後の展開が楽しみです。
四苦の「生老病死」は誰にも必ず訪れるものですが、猛暑の夏を あと何回迎えることができるでしょう。6月15日に 桑山(尾竹)嘉三君が亡くなったと奥さんの公子さんからハガキが来ました。
新型ウイルスが流行しています。メガビタミン主義者の私は、ビタミンCを一日に20g(レモン1000個分)飲んでウイルスに対抗しています。レモンなら@100円として一日10万円ですが、ビタミンCなら精々20円程度でしょう。くしゃみや鼻水が出た時は、すかさずビタミンCを5gほど飲めば ピタリと止まりますから、ぜひお試しください。そんなビタミンCの効用から始まって 前著の二つの改革案を絡めた「世直し論」です。
こんな毎日です。
元気に猛暑を乗り越えてください。 森下辰男
* 「元気」を貰います。
桑山嘉三(よしぞう)君(ヨウちゃん)が亡くなったとは。有済小学校の一年上から胸の病で滑り降りてきた同年一組二組の級長同士だった。校門のスグ西脇の、大きな「業者」の子だった。同じ古門前通りの斜め向かいに「ヨウちゃん」とは「従妹」と聞いていた「桑山信子」の家が在って、国民学校一年生から三年生まで「学藝會」というと二人でペアの 担任先生が自作の「劇」に出た。人生「初」の、心ひそかに「恋し」た同級生。だが四年生になると、戦災疎開避災で田舎へ、みな別れ別れになった。戦後に久々再会した頃には,私は大学で、妻と出会っていた。往時は茫々。
2024 8/5
* いま、午前十時になろうと。朝食後に,寝床で、玄関座で、寝つづけていて、うつつ心無かった。寝てようと起きてようと現つ心無きに似た容態で,本も読まず、ただ睡魔へ手をさしのべ、、五輪にも、テレビや新聞の報道にも心身、ハキハキとは反応しない。それで済むなら、それで、と、私。
しかし、昨日知った、少年来の「励みカタキ」桑山の「嘉三(よう)ちゃん」訃報が、黒い砂のように胸の底に溜まっている。
報せてくれた森下君、達者に色んな主張や提言に、音楽の趣味に、元気にして呉れているか、そう、いて欲しい。
* 新制中学の昔、同じ一年二組で組み合った無二の友の田中勉は、あまりに若く、ほとんど自ら、海外で亡くなった。相い伴うようにわたしたちが親しみ慕ったお若かった諸先生方のお名や御顔が眼に甦る。息がつまるよ。
* 十人に九人 百人に九十余人が、天上でわたしに呼び掛ける、急がなくてもいいよ、と。それが嬉しい時も、それが切ないことも、有るなア。「身内」「眞に身内」をと、私は烈しく少年來、恋い焦がれ、待ち望んだ。出逢えもしたよ。ああ。
* 「根気」 これだ。これを投げ出さない。大事に。
2024 8/6
* 巴里五輪は、速さを競うよりも、投げ 跳び 持ち上げ 組み打つ などを観戦してきた。選手らの精進を想うと感じ入る。わたしは走ると跳ぶとが得手のほうだった。高跳び、幅跳び、三段跳び。走るのは百メートルが体力の限界だったが高校では、12秒台前半を走った。中学では、運動会学年クラス別のリレー競走で、一位で疾走する、小学校以来「最速」と知られた奥谷くんが、アンカーで一位を駆け抜けて行くのを、私が追い駆けて、なんと、大声援のなか、二周目に老い付き追い抜いて、私のクラスが「レース優勝」した、あれには、走った自分が、一等愕いた。あれは嬉しかった。
* 昭和十七年(一九四二)四月に開戦早々の京都市立「国民学校」に入学し、二十年四月四年生から当時京都府南桑田郡樫田村へ戦時疎開し、敗戦後の二十一年秋に重くも患って、もとの京都市立有済小学校五年生二学期末へ復帰し、早々、戦後を機の、初の「生徒会」「生徒大会」を提唱、立ち上げて六年生になり全校生選挙で初の「生徒会長」を勤め、翌年には戦後「六三三新制」第一回の中学へすすんで、生徒会を事実上芯で支え、三年生卒業まで「生徒会長」をつとめながら、校内に「茶道部」を起て、指導の先生が無いまま、幼来秦の叔母宗陽に習ってきたけんで部員生徒達に作法の手ほどきも指導も一人で引き受けた。
市立日吉ヶ丘高校では生徒会にはふれあわず、「雲岫」という佳い茶席のあるのを「占領」して「茶道部 雲岫會」を三年間、卒業後も暫く率い指導していた。嵯峨 嵐山 鷹峯などへ部員を連れて「野懸け」の茶も愉しんだ。教室の授業は兵器でサボっては「京都」の自然や歴史に親しみ始めた。大学出は講義を抜け出ては京都市内・郊外を「本」を読むように尋ねまわっていた。そして、妻と出会い、その学部卒を待ち、大学院を中退して「東京」へ出、本郷東大赤門前の出版社「医学書院」(金原一郎社長 長谷川泉編集長・国文学者・詩人」)に就職、小説を書き始めて第五回「太宰治文學賞」を選者満票で得、社長・編集長のアクティブな支持・支援も戴いて退社、作家・批評家として「自立」し、今日に到っている。一時期、四年間、新聞等に「名人事」と書かれ国立東京工業大学に「文學」教授として招聘され、さらに「大学院」教授として残って欲しいと望まれたが、辞退した。市販の著書は小説と批評など「百冊」に及んで、以降は私版『秦恒平・湖の本』に切り替えて「一六六巻」にまで到り、以降は、純然、私事としての「読み・書き・読書と創作」へ落ち着くこととした。
以上、「作家 秦恒平」の、「少年以降」ほぼ「著作生涯」をのみ「略述」しておいた。ウソは書いていない。
2024 8/10
* 「夏のことです、思い出してごらん」と謂った唄が口に浮かぶ。お盆の入り、大文字、地蔵盆、盆踊り。町内へ街なかの落語や漫才や喋べくり芸人を雇ったり、路上高く向き合うた家の二階から二階へ大きな幕を吊って写される「青い山脈」などの映画を覧せてもらったり、いつになく家の仏壇や町内のお地蔵さんがきららかに扉とびらを開けて蝋燭の火が揺れ、大きな蓮の葉にお供え物が盛られたり。
バスを雇い町内の大人に守られて琵琶湖畔での水泳や水遊びに出かけたり。京の街育ちの私は大人になるまで「湖」は見ていても「海」は知らないままだった。
何と謂うても、八月の地蔵盆は町内から町内へ渡りあるく「盆踊り」が華であった。京都の町じゅうに「東京音頭」がうたわれるなど、妙なモノであった
* この歳になり残り寡ないとじりじり覚悟の日ごろに、「想いだして御覧 あんなこと・こんなこと 有ったでしょ」と唱われるのは微妙な気分。ましい「想い出」を造型して「文藝」にしている者には。然し、戦時中の、敗戦直後の「夏八月」は、比較にならず異様であったよ。京都市を覗く歳という歳は爆撃されて燃え盛り、ヒロシマ・ナガサキの原爆で息の根を止められた。
2024 8/11
* いま、零時五五分の二階。寝起きて来たのでは、ない。いまから、床に就く。盂蘭盆に相違ない、が、昭和二十年、あの 敗戦の日である。あの日、戦時疎開先、丹波樫田村杉生(すぎおふ)で、国民学校四年生の夏休み中であった。ラジオに天皇さんの声がしていた、「日本は米英に負けて、戰争は終わる。」わたしは「嬉しくも」心弾んで、隠居を借りていた大きな農家の前庭を両腕で「飛行機」になり,ぐるぐる駆けてまわった。「京都の家」に帰れる。それが嬉しかった。同じ八月のちょっと前にわたしは新聞とラジオでヒロシマ、ナガサキへ投下の「原子爆弾」なるニュースを聞き知っていた。子供心に「戰争は負けて終わる」と察していた。戰争を始めた翌る昭和十七年に京都で国民学校一年生になり、或る日職員室前廊下の世界地図の前で、赤い日本列島と真緑の広い大きなアメリカを見比べながら、そばの友だちに、日本は「負ける」と云うたとたん通りかかった若い男先生に廊下の壁へはり倒されていた。単ににただ、世界地図の上の「国土の大きい広いと、小さい狭い」とを見比べて云うたのだったが。
お盆には京都の家へ、きまって菩提寺常林寺のボンさんが自転車に乗ってお経を上げに、來はる……。わたしは仏壇の「お経」に、「願自在菩薩」の般若心経に好奇心を持っていた。自分でも声に出し覚えたかった。家の大人は、祖父も両親も叔母も、ただ黙っていた。
2024 8/15
* 「空気が燃える」と熱夏を実感した最初は 敗戦まえの夏休み。私は国民学校四年生、丹波の山奥の戦時縁故疎開先から、山また一つ越え、隣部落の学校へ夏期登校していた頃。
もう一度は熱暑厳寒で聞こえた生まれ故郷の京都市内、敗戦後の六三新制中学の生、夏休みには武徳會に入れて貰い水泳に通ったが、その往来の道は、三条京阪駅から北向きに鴨川と疏水との東に副い、アスフォルト道の燃え立つなかを、二条まで通った。喘ぐ口が炎を吐きそうな酷暑だった。クーラーなんてものはまだまだ世に無い時代、扇風機の風が、まるで「湯」のようだった。久しくあんな体験はしていない。
* あの「敗戦」という現実を迎え、体験した「日本のあの日・あの時」を編集し評論した適切な座談と邂逅番組を、頷き頷き、半ばは懐かしいとまで想い出に彩られ、観た。
○ 戰争に負けて善かつたとは想はねど 勝たなくて良かつたと思ふ侘びしさ
○ 沢山な たくさんな ことを ひしひしと 思ひ返して 「歴史」は重し
* あの敗戦後の少年私に一等身に痛いまで重かった現実の大きな一つが、「戦争犯罪人 戦犯裁判」であった。新聞に、噛みつくほどに見入って、沢山な 著名な 被告の名を憶えた、が、幸いと、多くは忘れている。憶えていたく無かった。
2024 8/20
* 「京都」の濃い闇を、テレビがしきりと語ろうとしていた、祇園会とうち重ねて。
「京都」は平安を願う死者達の、うち捨てられた巷、山林。東山も西山も北山も、そのままの「あの世」。無数の墓地・墓所が犇めく。墓地でも墓所でもなく見える山林に、涸れよと願われ、そのまま死者達はただ「置かれ」て「骨」と涸れ・枯れてきた。私は高校生の頃、教室の授業を抜け出してまで、鳥部野の林を、うち捨ての人や獣の骨を踏むようにかきわけ歩いて来たりした。「平安京」の平安とはそういう弔いと倶に「歴史」成して在った。
2024 8/29
* 昨日、同志社美学で 妻と同年、私も一等親愛の安川美沙さん(往年には 松村姓)から,例年、京都でお仲間と「画展」の案内をもらった、画いてますよと。京都で別れて六十数年、幸せなことに昔のままの美沙さんを、向き合うように覚えている。同志社美学・藝術学。仲良かった重森ゲーテ(造庭作家)、原知佐子(映画女優)澤田文子(妻の親友)、三人ともに早く死なれてしまった。
美沙さん、健康を切に祈りますよ。
2024 9/4
* グッスリとは寝ていない,半ば夜中も床のママ私はいろんなふうにモノを思うて居る、ラチもないことも想いながら。幼かった日々におぼえた奇妙な唄を想ってたりする、この歳で。。
イチリットラ ラットリットセ
スガホケキョーの 高千穂の 忠霊塔
何事とも まったく判らない、が、十歳ごろから唱っていた。ほかにも幾つも在り、唄は憶えているが ワケは判らない。
一匁の イ助さん イの字が嫌ーらいで
一万一千一百石 一斗一升 お藏に納めて
二ィ匁に 渡ーたした
と この調子で 「十匁の十助さん」ま真で、近所友だち何人もで声を揃え、唱った。ことに眞夏の暑い晩の戸外の遊びで、よく憶えていて、いまも「夢うつつ」に唱ってたりする、バカらしいとも思わずに。もうもう取り返せない、大昔のことだ。
2024 9/14
* 強硬を究めた残暑に、マイる。静かな楽しみは大河ドラマの『光る君へ』。この時代へ映像で戻れると、舊の故京へ帰った気がして、心身落ち着きます。
2024 9/15
* 『光る君へ』の同じ中宮お産の回を,日に三度も観た。平安の京都似生まれ育ち、極く幼くから『百人一首』繪歌留多を翫び和歌も歌人も憶えて、与謝野晶子現代語訳の『源氏物語』へ小学生のうちに辿り着いていた私には、『光る君へ』世界は、幼来馴染んだ「故京・故郷」と謂うに近い。鬱陶しい「こんにち世情」にイヤ気すれば忽ちに還って行けるのである。
2024 9/22
* 「生・活」とは名のみの「停・滞」の日々を、是認し承知しているのは「人間」と生まれての罪か。
若かりし日々には忸怩とした。
老い窮まりゆく私の昨今、想い描くは,木の香も清く身に余る大きな深い清んだ湯舟に五体をのべたいと。
店明き早々の、相客が独りも無いきれいな「京の銭湯」では、ときたま そういう幸福を中・高生の少年の昔に覚えた。東京へ来て、銭湯に入ったは、二度あっても三度と無かった。
2024 9/25
* 睡り浅く、夢も見ず、目覚めやすい。体調不安 頚まわり硬い。視力不安、讀書も負担。
こんな寝床では、大概、「幼来近所の遊び仲間から,学校時代の友だちを年度を追い、教室や運動場へ帰り、さらには就職して、作家と成って、と、当時当時、知友関心の名前を、なかば夢寐にさまよいながら拾って拾っている。心地、心持ちの安定に効果あり、またやの睡眠へと滑り落ちて行ける。
男女比は、女子・女性の方が圧倒的に數多いのは、育ちが京都、それも川東祇園花街に「至近」とも「その中」とも謂え、加えて、一つ家の中で茶の湯・いけ花を教えた「叔母つる(生け花・御幸遠州流・玉月)(茶の湯・裏千家・宗陽)の稽古場の華やぎからも、自然当然ではなかったか。私も新制中学三年の内に裏千家で茶名「宗遠」を許されていた。
あえて無茶ぶりで謂うなら、少年の昔むかしから段々に積み上げた感懐と理會は「男は嫌い・女ばか」と成る。この「嫌い・ばか」が占め持った「含蓄」は、ほとんど哲学を為し成しているだろうよ。記憶に在る男女友数々の苗字と名前を書き出してみるか、と、想っていたりする。自然当然に女名前が男のそれの十倍をらくに超して余るだろう。
寝そびれて、未だ真夜中四時の、色よい雑念・私語の刻、で、ござるよ。
2024 10/4