ぜんぶ秦恒平文学の話

作者による、読者と作品のための出版

 

 一 「湖(うみ)の本」十八年・八十巻

『みごもりの湖』という書下し作品を、わたしは持っている。依頼されて出版まで、五年頑張った。名作だ、なんとか賞候補だと幸い評判され、今も代表作にあ げて下さる読者・識者がある。けれど、どれだけの期間、書店に本が在ったろう。版元に在庫が在ったろう。あまりに短かかった。しかも何社からも文庫本に欲 しいと言ってきた。版元は、いずれうちからとすべて拒絶し、あげく、そのままにされた。大出版社の理不尽であったと、率直に怨んでおく。読者から、読みた いのに本が手に入らないと、何度も何度もうらまれた。
一つの「例」であり、多くの作者が、似た実例を、いやほど体験しているだろう。もっとも、小刻み増刷も容易ではない。商売だけを考えるなら、ムリは言い にくいのである。
一九六九年の桜桃忌に、幸運に飛び込んできた「太宰治賞」で出発したわたしは、その後十五年で、人も驚く六、七十冊もの新刊本を出し続けた。その後のも 足すと著書は百冊をずっと越している。それが業界の「評価」というものであり、恵まれた作者生活をわたしは過ごしてきた。有り難かった。
その一方、それら多数の著書の運命は、例外をのぞいてやはり『みごもりの湖』とほぼ同じであった。作者は出版社の「非常勤雇い」の身分であり、どんな名 のある書き手でも、品切れと絶版には、何一つ口は出せない。仕方がないのである。
作者なら、身にしみて分かっている。一つの作品が成るまでの苦労、その結果である著書が、いとも簡単に書店や版元から雲散霧消してしまうこと、を。或る 意味で仕方がない。が、或る意味でそれはあまりに文化的でなく、経済至上の環境を意味していて、質を、量が、いつも蹂躙して行く。「読者」(買い手でな く)の意向も、なんら斟酌されない。
で、泣き言は嫌い、やってやろうじゃないか、と、読みたくても「読めない・読まれない」読者と作品たちのために、「秦恒平・湖(うみ)の本」という私家 版作品集を創刊した。「作者」のわたしが自力ですべて再刊(新刊)し、全国の読者にじかに本を手渡そうというのだ、 第一巻に太宰賞作『清経入水』を置き、「産地直送」と謂われた「作家の出版」が、用意ドンと、たった一人でスタートしたのである、一九八六年六月の桜桃忌 であった。
激励と歓迎があいつぎ、しかし一年もつまいと嗤われもした。それが、今年六月には「満十八年、通算八十巻」に達し、体力・気力等の事情が許すなら、百巻 でも百二十巻でも、幾らでもまだ続けられる。八十巻記念には、書下しの藝術家小説『お父さん、繪を描いてください』上下巻を、同時刊行。好調に、昨日も今 日も新しい注文が来ている。
趣味の自費出版では、とてもこう永く多く続けられるものではない。継続講読という固定読者の支持があればこそで。そしてあの『みごもりの湖』上中下巻も ちゃんと復刊されている。総て簡素に美しく装幀され、丁寧に再編集されていて、どの巻も喜ばれてきた。
ミニコミ・ミニセールに徹しているから「蔵が建つ」どころではない。実に厳しい。一巻出せば次の一巻がかつがつ可能になる程度だ、だが、それで足りてい る。生活は昔の頑張りでナントカ成っている。書きに書きつづけ、今も書いている。おかげで食べて行ける。
こういう作家自身の私家版活動は、島崎藤村の『緑陰叢書』四冊が、早くに前例としてある。藤村発想の根には、作家として優れて自覚的な批評があった。出 版支配へ、たとえかすかでも、先見的な警戒心が働いていた。「兎にも角にも出版業者がそれぞれの店を構へ、店員を使つて、相応な生計を営んで行くのに、そ の原料を提供する著作者が、少数の例外はあるにもせよ──食ふや食はずに居る法はないと考へた」と。
加えて藤村には、想像以上に重く、恐らく終生変わらず、自身の「読者」達をたいへん大切に、常に、より身近に遇する気持ちがあった。「作者と読者と」 が、索漠と、大きく乖離していては「好ましからず」という、独特の姿勢、近代日本の作者達にあまり従来考えられなかった、しかし健康で健全な「価値観」が 働いていた。わたしは、それを尊いことと、じつは青年の昔から感じてきたのである。
(東京新聞夕刊 2004.7.27)

誰にも出来ることじゃない。けれど…

二 「湖(うみ)の本」は、出版史の先駆的な一試み

ある哲学者と対談したとき、秦さんの「湖(うみ)の本」と同じことをしたいと、どれだけ多くの作者達が内心願っているか知れないんだ、だが、誰にでも出 来る事じゃないんだなあ、これが、と嘆息されたのを思い出す。わたしも、ノウハウを、それは何度も質問されてきた。苦労しても苦労しても、それがどんなに 佳い作品であっても、簡単に市場から押し出されてしまう。いや市場へ、そもそも顔出しもならなくなっている。
十八年・八十巻。まだまだ続くだろう「秦恒平・湖(うみ)の本」のような「作家の出版」は、では、どうすれば、他の作者にも可能か、ちょっと質問に答え てみよう。
一つには、家人の身を入れた協力が無ければ、とてもムリ。人は雇えない。
二つに、自分の作品をうまく編成整理し、入稿し、逐一校正し、製本後には読者のもとへ発送できる、それほどの「編集技術」および「健康と集注力と根気」 が是非なければならない。大概の作者に、これが無い。二冊や三冊出しておしまいでは始まらない。
さらにその前に、造った本を買って下さる、かなりの数の固定講読者を確保していなければ、当たり前の話、製作費も回収できない。本が積み上がり、資金は 無残に消え失せて、お話にならない。幸いわたしの場合、儲かる必要はないし、事実儲かりなど決してしない。むちゃくちや、厳しい。だが制作費と郵送費等 は、人の羨ましがるほど、ごく短期間に回収できて、自動運動のように、少なくも「次回刊行」だけは可能になっている。
じつは毎巻、全国の大学研究室や図書館に寄贈している。各界の人にも相当数寄贈している。営利でなく、文字通り「わが文学活動」のための「湖の本」だと 腹を括っている。読者との関係は九割九分確乎として築かれており、復刊だけでなく全くの新刊も、いつでも送り出せる「文学環境」を、十八年、有り難いこと にわたしは確保してきた。
正直のところ、ほんとうに愛読してくれる人が、刊行の維持可能な程度にあれば、あり続ければ、それで十分、有り難い。この湖は、「広い」よりも「深い」 方が嬉しく、心底有り難いのである。その意味でも、時代こそ大きく違え、五百人の堅い固定読者ゆえに、自然主義全盛の時代も悠々生き延びたと伝説のある、 あの泉鏡花が、わたしには常に心親しい大先達である。
当今、自分の読者を、氏名・住所もろとも「親しい親戚」のように全国に把握している作者なんか、たった一人も日本の文壇には実在しないだろう。ところ が、この「読者住所録」が或る程度まで用意できてなければ、「秦恒平・湖(うみ)の本」の創刊など不可能であった。出来なかった。言い換えれば、つまり、 人と作品に触れたファンレターが毎日のように飛んで来ない作者では、このような「出版」は、かなり難しいのである。
さらに、もっと大事な要件が、もう一つ有る。自負・自愛の作品を、相当量持っていて何十巻と提供でき、さらに清泉泓々(おうおう)と、涌くごとく新刊・ 新作も書き継いて行ける筆力・集中力が、ただの自己満足でなく、「事実」の質・量で証明できる作者でないと、とても「続かない」「保たない」のである。
見たところ、それほどの人が、じつは、何人もおられる。そう見ている。わたしが、赤坂城や千早城でさんざ粘り抜いているうちにも、どうか、そういう力有 る作者達にも蹶起してもらい、反省薄き「出版」や「取次」の幕府・探題を押し揺るがしてもらいたい。
現役から退場している「優れた編集者」が、今一度少し手を貸す気になれば、わたしの「湖の本」とはまた異なった方法や形態での、「作者の出版」は必ず可 能になり、誰よりも「読みたい本が無くて読めない」と嘆く読者たちの、旱天の慈雨になるだろう。
幸か不幸か、電子メディアの時代になっている。電子版「湖の本」も、インターネットでどこへでも届いている。これからは作者と読者とが、直接に「思い交 わせる」時代になろうとしている。いつしれず、わたしの十八年・八十巻の活動は、「出版」の最後尾から、小なりとも、先駆的な一試みとして文学史・出版史 の前面へ、確実に動いてきている。「認めたくない」という姿勢が、まだまだ出版にも文壇にも強いのは確かであるけれども。
(東京新聞夕刊 2004.8.3)

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