* 一日に大阪で、今夕東京で、産経新聞に私見を発表 した。柳美里さんの作品がプライバシーを侵害したという判決に関連して、「私小説とプライバシー」をどう考えているか書くようにとの依頼だった。私は、元 来潤一郎や鏡花の末座にいる者で、私小説風に私小説を否認した小説作りをしてきたが、私小説の魅力は心得ている。生前わたしをいつも強く支持して下さった 中に、瀧井孝作先生、永井龍男先生がおられたし、瀧井先生の『無限抱擁』は近代小説十指に数えていい名作だった。谷崎や漱石とならべて尊敬する島崎藤村の 名作にも私小説と謂うべきものが幾つもある。わたしも、年をとるにしたがい、私小説で心根を洗い出してみたい気が動いていることは、たしかである。必ずし も新聞社の希望どおりには書かなかったかも知れないが、依頼してきた記者は原稿をよろこんでくれた。見出しは東西で違うけれど、原稿そのままに、以下に書 き込んでおく。
* 作者は、覚悟を決めよ 秦 恒平
三 十年、書きたい小説だけを、書きたいように書いてきた。
「書きたい」には動機がかかわり、「書きたいよう」には方法がかかわる。動機と方法とを、 どれほどの文体と表現が支えるかで、作品が決まる。作品の優れているかどうかが、決まる。扱う材料で決まるのではない。「小説」ほど、どんな材料でも受け 入れるジャンルは珍しく、だから『モンテクリスト伯』も『新生』も『城の崎にて』も『吾輩は猫である』も『変身』もありうる。問題になった柳美里の「石に 泳ぐ魚」もありうる。柳作品がプライバシー侵害の判決を受けたことと、この小説が、作者の動機と力量とで高い評価をうける作品に成ったこととは、明白に、 別ごとである。動機と方法が強い力で作者に把握され、その成果である「表現」つまり作品が優れた結晶を遂げたことと、今度の裁判の結果とは、同じ次元には ない。短絡は避けたい。
判決が示した判断は、私もふくめて、たぶん大半の市民や小説好きに支持されていると思 う。電子メールで連絡の取れた友人たちで、判決の趣旨を支持しなかった者はただ一人もいなかった。ただし柳さんの小説を読んでいた人も一人もいなかったか ら、それらの意見は「一般論」になっている。私も同じだと断っておきたい。読者には読みたい小説を読む自由があり、世の中に、読まねばならない小説など一 編もない。作者は、それを承知のうえで骨身を削って創作している。私小説であろうとなかろうと、小説を書くとは、ものを創るとは、そういう「覚悟」に支え られてでなければ出来ない。でたらめに出来るものを文学とはだれも呼んでこなかった。
柳作品だけの特異例であると、なんとかして小さく囲い込もうとするのも、違うだろう。一人の書き手としてこれを思うとき、問題は、そうは小さくない。
日本ペンクラブの言論表現委員をほぼ十年つとめているが、その間に、読者・関係者からの 苦情に背を衝かれ、支援を願い出てきた著者が何人かいた。それぞれに対応したが、私の判断は、いつも、同業の作者支援より、被害の苦痛・苦情を現に持った 側に傾けた。文学だから人を傷つけてもいいという道理は、どこにも無い。近代日本の文学史は、島崎藤村の頃からとみても、「書かれた」側の流した苦痛と汚 辱の血と涙に満ちあふれている。そのけわしい不幸な事実と、そんな加害を敢えてしたとしか謂いようのない作品に名作、傑作、秀作も数多かったという事実と を、じつに悩ましく、われわれは今思い出しているのではなかろうか。
「ありもしないこと」を書いても傷つけ、「ありのまま」を書いても傷つける。「その人と分 からぬように工夫すればいい」という意見はもっともで、聴かねばならないが、文学の「動機」の深さは、そんな工夫で片づかない一面をもつ。小説が字義どお り「表現」であるということは、根底に「暴露」「直視」「剔抉」の批評性ももっているのである。それとても悪や愚劣への非難からでなく、人の噂を楽しまず にいられなかった清少納言いらい昨今の「サッチー騒ぎ」に至るまで、日本人は、「噂」と「ほんとのこと」つまり浅い事実の詮索に耽溺するのが、大好きとい う性癖もかかえている。「私小説」繁栄のそれが土壌であったのは疑いなく、一般に日本の小説がそういう難儀な素質を、よほど深いところに孕んだ芸術である ことは否定できない。
えらそうなことを言ったが、現に私自身の表現により、傷ついた人は大勢いたにちがいな い。重々配慮したとも言え、配慮そのものを敢えて排した時もある。すべて「書かれた」人たちがじっと怺えてくれ、直接苦情を言ってこなかっただけで、噂で は離婚にいたったかと耳にしている例もある。いたたまれず、真実つらい。
では、もう、書かないか。私は、書くべく命をうけてきた。おおよそ真面目な作家はそうで あろうと思う。裁判の判決は判決として私は進んで支持したい。しかし私は書きたいことを、書きたいように書かずにいないだろう。ものを書く者が動機と方法 を殺し、表現を殺すことは出来ないし、そのような自己規制はすべきでない。人は傷つけてはいけない。傷つければ今回の判決が待っており、その方向は、より 厳しく広く重く拡大されて、創作者の前に、厚い高い当然の壁になる。不当に傷ついた人はためらわず抗議すべきである。しかし作者に必要なのは、自己規制で はない。罪せられても「そう書く」かの覚悟であり、覚悟のない者は去るしかない。どのように文学の方法が変わって行こうとも、人間と社会とを書くかぎりこ の問題は色を変え形を変え、必ずついてくる。言えるのは「作者は、覚悟を決めよ」という自覚しかあるまい。
この「書く覚悟」と、敬愛や慈心をでたらめに欠いた「暴露」「歪曲」の許されぬ罪とは、 別ごとである。まったく別ごとである。藤村の名作『新生』は訴えられれば「石に泳ぐ魚」の比ではないだろう。しかし、現代や未来のもし藤村に対し「書く な」と言う気は無い。私に対しても無い。ぜひ必要と信じるなら「覚悟」を決めて書くしかない。
創作とは、えたい知れぬ「何か」へ向けた、血のにおいの「確信犯」なのである。きれいご とでは、ない。
1999年7月3日「私語の刻」