根が後鳥羽院ぎらいで、『新古今和歌集』もさほどに好まない。巧緻ではあるけれど造りたててあり、清新でない。八代集で清新といえば、『金葉』『詞花』のややこしい歌風からぬけ出た『千載和歌集』にかぎるのである。ここには俊成と西行というとびきりの名前がある。二人の境涯はちがう。けれど、似ている。なにが似ているか。魂の色が似ている。
いきなり余談をまじえるが、魂の色が似ているで驚かされたのは、嫁ぐ以前の娘との話し合いであった。好きな人ができて、その人とは魂の色が似ていると言われて父親は閉口した。参った。
ところが、最近、東京工業大学の学生諸君といっしょに谷崎潤一郎の作品を読んでいて、日ごろ「谷崎愛」を口にしている私としたことが、あの名高い『刺青』という短編小説のなかで、すでに「魂の色」と書かれてあるのを見落としていた。刺青師清吉はわが「魂の色」を女の肌に刺して行き、はては女の背いっぱいの刺青そのものと化してしまう。無意識に記憶していて、だから娘の台詞に驚いたというのでは、言い訳が過ぎよう、要は読み落としていたのである。魂にも色がある。なるほど、よく分かる。
話をもとへ戻そう、藤原俊成に『千載和歌集』の撰を命じたのは、後白河院であった。わたしは、これがまた少年以来の根からの後白河びいきで、今日まで来た。ついでに言えば、白より赤旗の熱い平家びいきであった。
後鳥羽はほとんど軽率に鎌倉に屈したが、後白河は、なんのかのと言われながら、死ぬまでよく粘った。『梁塵秘抄』を手ずから遺してくれた。その歌謡も口伝も卓越した面白さと価値とをもっている。『年中行事絵巻』を遺してくれた。なみなみの資料ではない。確証こそないが、平家語りによる大時代の戦後証言のために、大袈裟にいえば国民文藝ないし国民藝能といえる規模の土台を、それとなく用意して逝ったのも後白河院であった気が、わたしには、している。唱歌・謳歌という技の道にあって、源藤二氏の郢曲を統べ、いわば中世的な家元としての自覚をもった帝王。渾身の頑張りで古代の王政を維持しようと努めたあげく、さながらに中世を手招き、古代の幕引きをしたような帝王。
そのような後白河勅撰のゆえに、『千載和歌集』は、いかにもいかにも懐かしく思われるというのが、一作家としての、贔屓の引き倒しなのである。
歌謡の『梁塵秘抄』は手ずから編んだが、『千載和歌集』は藤原俊成に撰を命じたというのが、おもしろい。後白河という御一人は、じつに歌人という藝術家であるよりも、身ははるかに強烈に、ひとりの歌手でありたいと覚悟をきわめた、藝能の人であった。そういう帝王の意を、ただ遠巻きに迎えるだけでなく、まさに藝能人の公家たちが、太政大臣師長といい、接察使大納言資賢といい、少納言入道信西といい、さらには資賢の子の天才児資時といい、信じられないほど大勢、宮廷社会に実在した。それがこの時代のつまり「今様」であった。西行法師の血族にも、さぐって行くと意外にそんな「今様」世界との接点が見えて興味深いのであるが、じつは千載撰者の俊成の血潮にも、そういう今様に色濃く馴染んだ素質が、混じっていたようだ。母方の血筋には、今様に身を捨てたような風狂・瘋癲の公家がいたし、父俊忠にしても優にひとりの今様人であった。そういえば俊成の身辺には、あの建礼門院右京大夫の母で、宮廷社会に遊藝の師匠として名高かった夕霧という女がいて、彼との仲にも或いは男子を成していたかに推察されている。夕霧は、わたしなど文士の興味をしきりにそそる藝能・音楽のよほど達者な美女であった。
俊成は、もともと政治的に旗幟鮮明であることを嫌った人であった。嫌ったにはわけが有ったはずだが、どんなに慎重に避けてみても、一つまちがえば足元をすくわれてしまう人がらみからは、容易にのがれられなかった。親族の女から平家の公達も生まれていたし、その平家へ謀反を企てる公家筋へも嫁がせていた。建春門院に仕えた女もいたし、平家追討に決起した王家とも縁があった。溯れば保元の乱のもつれた人渦のなかでも、俊成の一家は微妙に足をとられかけていた。父鳥羽天皇から叔父子と忌まれたのちの讃岐院・崇徳天皇の受胎や誕生を、母璋子藤原氏の名とともに、ものに憑られ月明を浴びて後宮のどまんなかで声高に予言した女人は、鳥羽天皇の最側近であり天皇の父堀河天皇とは乳母子の間柄にあったような讃岐典侍、長子藤原氏であった。父顕綱には甥、敦家の子の敦兼の義妹として長子は鳥羽側近の人となっていた。この『讃岐典侍日記』の著者である女人こそ、あるいは俊成卿の生母かと説く人もある。反対する人もある。ともあれ俊成母が「敦家女」であるとされる以上、長子はごく近親であった。長子の血筋を溯れば、『かげろふ日記』の著者、大納言道綱の母にいたる。俊成の子の定家卿に、「紅旗征戎ハ吾事ニ非ズ」と日記に書き込ませた因縁は、遠く深く錯綜していたのだと遥かに想像される。
定家という人物は嫌いではないが、不思議にと言うより、たわいなく、わたしは俊成という老人がはなから好きであった。人格者だと思ってきたのでは、ない。色好みであったろう、なかなかの子沢山であり、しかもいい妻に恵まれ、家の主として巧みに舵をとった。けっこう世智がらく、時代を前へ前へ読んでいた。跡取りにも才ある娘や孫娘にも恵まれ、官職にこそそう恵まれなかったものの、世の尊敬は深く受け、長命し、危うい時世に危うい家門をただ守るだけでなく、栄えあるものへ土台も張った。辛辣な論客であり、温厚という以上に情勢判断にたけた批評家であった。編集の才があり、秀歌撰に模範的な冴えと集中力とをみせ、子の定家の和歌開眼にじつに有効な道をつけた。一筋縄でゆかない風貌は、梅枝に似て癖のつよい、しかし何とも魅力ある、息子の定家流よりも魅力ある無類の書跡に重ねて、彷彿とする。歌学において対立する相手には、容易に譲らなかったが、西行のような親しい人とは、適宜に、しかし決して過度に陥ることなく腹を割った付き合いが出来た。和歌の実力を巧みに世渡りの舟とし舵ともし、時に身を守る盾とも用い得てほぼ誤まらなかった。印象で言うことであるけれども、これほど、多くの子女を世間にうまく放ち、親の、糸ならぬ意図と判断とで大過なく操った家長は少ないのではないか。そういう辺りにも、この人物の「今様」をつかむ嘆覚が利いていた気がしてならない。
ちいさい頃、昨今のとはだいぶ趣のちがう絵札で百人一首のかるたを楽しんだが、俊成のそれでは、彼は、かぶさるように火桶を両手両足で抱きかかえていた。こういう格好で俊成という歌人は人を遠ざけ、歌をよむのにいつも苦心惨澹したのだと、ものの本などで知ったのも比較的幼かった昔であるが、わたしにはそんな格好がすこし剽げてみえて、歌人というよりも連歌師か俳諧師かのように思えた。都落ちのまぎわに、師のもとへ馬の首をめぐらせて、勅撰の栄誉をえたいと自作の和歌を届けたという薩摩守忠度も、まさかにこう行儀のわるい俊成卿の格好は想像出来なかったろうなと、余計なことも思っておかしがっていた。定家卿とちがい、五条の三位俊成には、こういう知られた逸話的場面とともに、何としても源平盛衰の時代背景が生きてまつわり思い出になっている。そこが魅力であり、やはり、そこが彼の撰した『千載和歌集』の隠し味ともなって来る。そのいわゆる清新の魅力と、源平のあの大騒ぎとは、ハテ、どう重なるのか、と。
「女文化」と謂われていい文化が少なくとも『古今和歌集』いらい二百何十年か続いていた。ちょうどその女文化が最初の終末期にさしかかっていたのが、十二世紀前半であった。いろいろな徴候が見えていた。行成流の優美な女手が、まさしく俊成・定家父子にみるような、個性溢れるしかも実務的な書、美よりも正しく意義を伝える学藝的な書、新しい男手へと動いていた。彩色を主とした源氏物語絵巻ふうの女絵は、急速に線的敏感に支えられた男絵へと動いていた。十二単の男版のような大鎧・大兜や武具・馬具の華麗さも、平家の没落とともにいわば女文化の死装束と化そうとしていた。都の外に地方都市的な芽生えも見え、なによりも公家と都との政権に武家の揺さぶりは致命的に働いていた。家学・家藝の実質はもはや古代型の「女文化」では維持しきれなくなっていた。法然以下の新祖師たちの活動にしても、命がけの革新であった。もし力ある女ならば、政子北条氏のように男まさりになって働いた。優美な古代の「花」は、方法と方角とを求めて力づよく時代を奏でる「風」に、ともあれいっとき散り果てようとしていた。『千載和歌集』は、そのいわば散りぎわの潔さと、新風への期待とを、じつに平静に歌っていたように思われ、それなりの今様を響かせたものと思われる。
(はた こうへい・作家、東京工業大学教授)
(一九九三年四月 新 日本古典文学大系 第10巻月報)
2009 6・8 93