* あまりにいろいろ作業輻輳して、あたまがボヤーッとしている。気力充溢して踏ん込む、ということが出来ない。なんだか綱渡りしているように時間との付き合いが危ない。今・此処が沸騰している感覚。ま、こういうときは図太く居直るにしくはない。死ぬことと恥をかくこととを何とも思わなくなれば、人は強くなる(良くなるとは言わない)。死ぬことは今は言わないが、恥なら、もういやほどかいてきた、今更尻込みすることではない。
2004 1/9 28
はたして大舞台に転じて行けるのか、行く気があるのかという「壁」が、問題だ。今までは徹頭徹尾秦建日子の内部世界を舞台化してきた。観念的な心境短編のようなものだ。小劇場ではこれがほぼ通例かも知れない。だが演劇はそれだけではない。歌舞伎や能・狂言はともかくとしても、わたしが観てきた芝居ですらいろいろある。そこへ同じる必要は少しもないが、いずれは舞台でもドラマでも「超えなくてはいけない課題」として、例えば「脚色」があるだろう。人の作品を演出しなくては成らぬ場面もあるだろう。そのときものが「読める」のかが厳しく問われる。「読み込む」力を鍛えねばいけない。
2004 1・9 28
猪瀬直樹氏が、わが息子の悪戦苦闘を聞いて、「何が何でも泥水を飲みに飲んででも辛抱して書き続けるように言うて下さい」と激励してくれたのを、感慨深く覚えている。あの忙しい限りの猪瀬氏は、なんと建日子の「ペイン」を事務所の人と一緒に観に来てくれている。彼は「奮闘」と「勉強」の人である。この「勉強」の方も建日子には学んで欲しい。持ち前の才能だけでは必ず涸れてくる。清くても濁っていてもいい、泉は、泓々(おうおう)として湧き続いていたい。才能の泉は奮闘と勉強とで湧き続ける。
2004 1・9 28
* さ、原稿を二つ、いそいで書かなくては。明後日に歯医者のあるのが、時間的に圧になりそうだが、どんな原稿も、うまく書き始められれば、何とか成ってゆ。躊躇が禁物。
2004 1・20 28
* 人は、われ一人しか立てない小島に立ったまま、広い海原に投じられた存在であり、どう呼び交わしても、無数の島から島へ橋は架からない。
ところが、そんな狭い孤島に、二人で、三人で、五人十人で立っていると実感するときがある。おそろしくも貴重な「錯覚」であるが、その錯覚ゆえに人は孤独の地獄を免れる。真の「身内」とはそれほどの錯覚を共有しあえる同士のことであり、血縁も地縁も俗縁も、何の身内をも保証しない。むろんそれも夢であり錯覚に過ぎないが、貴重な錯覚であり、唯一今もわたしが抱いている「抱き柱」があるとすれば、この錯覚一つだろう。
人間には、「自分」のほか、「身内」と「身内崩れ」と「他人」と「世間」の四種類以外に無い。親子・兄弟・夫婦など、いかなる「関係」の名で呼ばれる間柄も、つまりは他人である。他人とはたんに「知っている」人のこと、世間とは名前も「知らない人たち」のこと。それだけのこと。だが、「身内」は、他人から、「他人」は世間から、生え出てくる。錯覚が過ぎて「身内崩れ」も出る。あたりまえである。
政治も社会も経済も、決して人を幸せにしない。国と国の交際は悪意の算術以上に決して出ない。平和も戦争も、「身内」という「島」の思想抜きには虚妄・虚仮でしかない。極めてチープな「抱き柱」の一本一本に過ぎない。
生身の人同士だけでなく、幸い、人は優れた藝術、優しい自然とは「身内」の仲に成れる。だが其処へだけ逃げこむのは、同じ夢に過ぎぬとはいえ、やはり不幸であろう。
あらゆる意味で政治家、聖職者、教育家、知識人が人を不幸へと惑わせる。彼等は無責任な「抱き柱」の強引な売り手になる。平気でなる。しかし生きている間にただ一人の身内をもつ幸福の方が、他の何より、深い。身内ひとりいない平和、教養、富裕。なんでそれが幸せなものか。
そういう自覚を、わたしは、多くの古典からも学んだのである。どんな人との出逢いにも丁寧・的確であることで、自覚したのである。
秦の母が享年をもし言うならば、わたしはなお二十八年の生を待たれている。わたしに必要なのは、無意味な平和でも無道な戦争でも、無益な知識でもない。もう一人でもいい、二人三人ならさらにいい、一人しか立てない「島」に「身内」と立ちたい。他人と世間とへ放つわたしの視線が、なおさら明るく健康であるようにと願わずにおれない、あれは狂っていると嗤うものが無数にいようとも、もう一人、もう一人の身内と出逢う為に。
2004 1・21 28
むごい、悲しい、しかも底知れぬ懐かしさにひたされてしまう。「戻る理由がない」別世界をもったジャック・マイヨール。それはジャックの大きな創作世界でもあるのだろう。創作する人間は別世界を胸に抱き込んでいる。ジャックの懐かしさはそのままわたしの懐かしさである、別世界への。
2004 1・30 28
棒ほど願って針の世界だ、「書く」とは。はなから針を握って、棒になることは、まず、無い話。
2004 2・3 29
* 歯を食いしばって秘し隠しても、がんばらねばならない時も、事も、有る。そんな時そんな事は、胸の底の闇に畳んで、外へ書き示したりしない方がいい。誘惑の魔物にえさをやるようなものだ。
書きたい、書いている人は、わたしの近くに何人もいる。息子ですら「小説」を「アメ原」気分で安請け合いしかねまじい気配で、苦笑している。書く以上は、優れた文章で書いて欲しい。小手先の藝では済まないだろう。
2004 2・3 29
* 人の日々にあって、意識からは漏れ落ちていて、しかも、人の心をうごかすことの小さからぬ嘆きは、あるいは楽しみは、「待つ」ということであった。「人とはなにかを、待っている存在である」と定義することさえ出来る、それがよいことか、つまらないことかは、別として。『蜻蛉日記』の著者の、本人は否定するかも知れないが読者からみれば、主題は「待つ」ひたすらに夫兼家の「訪れを待つ」ことであり、待てども来ないことにじれて夫から果ては離れてしまう。
道綱母がひとり「待つ」のではない、牽牛と織女も「七夕を待つ」しか逢うことかなわなかった。万葉の男女も、古今の男女も、室町小歌に哀歓をのべていた女も男も「待つ」ことに悩み、はずみ、涙している。
むらあやでこもひよこたま
待つ恋の絶唱は、これであろうか。ささがにの蜘蛛のふるまひ に人の訪れを予感して胸を苦しませていた古人の思いも、ひたすらに懐かしいではないか。
2004 2・24 29
恋は甘くない。遊びでもない。万葉のむかしから、恋は、苦痛と悲哀であがなう深い歓喜ときまっている。天地を支えるほどのものである。勇気を持たない現代が、「つきあい」という擬似恋愛を安直に発明したのは、恋とは性的関係であるとのみ都合良く早合点しているからだ。性は、生きていることと同等の重いものであるが、維持の難儀な所詮は有限の心理的熱量であり、それだけに頼っていれば、安価な「つきあい」の終焉は、目と鼻との前にいつももう到来している。天地の重みに堪えられない人に恋は出来ないだろう。堪えられるかな。
2004 2・26 29
*「生きる」とは、山で限りなく「滑落」するように、もの・ごと・ひとへの「失恋=片思い」の連続だ、必死にビッケルだか何だかを岩肌に打ち込んで束の間の息をつく、それがいわば脱失恋ではあろうが、長くは続かない。また滑り落ちる、あらゆる片思いを満身創痍繰り返す。
本当に人を魂から癒すのは、真実の「身内」に逢い得て、一人でしか立てない父母未生以前本来の小島に複数で起つと確信できたときだけだ。それなしには、財も地位も仕事も権力も、究極の時点、死に立ち帰る時点では、ただの無意味な虚しさに乾燥しきっているだろう。
2004 4・13 31
* 一期一会、つまり一生に一度「かのように」毎々新鮮な「繰り返し」というのは、誠実な自己留意がないととても続かない。価値逓減の法則に負けまいと、安易に、言葉もしぐさも過剰に、もっともっととやっていると、どこかで破産してしまう。一期一会が、平静に、ピュアに、熱く熱く、まっすぐに保つ聡明とは、たぶん、人間のもちうる最高の達成なのかも知れない。
2004 4・19 31
恋は数十冊の優れた読書体験にまさるだろう、恋をおそれるなとわたしは若い学生諸君に何度も話した。そのとおりであってくれるといいが。
2004 5・6 32
「希望」は、人間の持つ最良の強みであり最悪の弱みである。
2004 5・15 32
* 朝一番のメール。源氏物語とは痛み入るが、女性のメールに多少は「化粧」をしていましょうが、艶、とは鋭い。文章=言葉とは、過不足なくということの出来ないサガをもっている。それが化粧になる。とても濃い化粧もあり、あまりに淡泊な化粧もある。だからおもしろく、だからよくもよくなくもある。それが女の筆に多く出ることは、ま、そういうモノのようである。出た方がいいか、出ない方がイイか。出ないわけには行かないのである。だから文章は、表現は難しい。E-OLD、鋭い。
2004 6・1 33
「きわめて誠実だが堪え難き凡庸」は困るけれど、非凡な人の非凡な仕事には深く下りた根がある。太く、有る。根を養っていないと非凡も凡に乾いて行く。いつも自身のことを考える。
2004 7・10 34
* だれもが「逃げこみたい場所=アジール」を内心に願っています。いわば「抱き柱」です。抱き柱=アジールと「聖域」とは同じではないけれど、「アンタッチャブル」という意味の聖域は、往々にしてそのまま逃げこめる安全な場所=アジールになります。あなたは、そういう「聖域」を一方で批判したいけれど、他方では、危なくなれば抱きついて逃げこめる「柱」「アジール=逃げ場」の意味にもしている。
言葉の意味を用いて創造してゆく文学では、この「聖域」を棄ててかかる覚悟が要請されている。それあるが故に筆が曲がるとか及ばないとかいう「聖域」をもった文学は、妥協の産物なのです。強いて書けという意味ではない。書かなければいけないなら自己責任で書くということです。その責任が作者の名前でもある。
発表するしない、出来る出来ないは時の運としても、草稿の段階から書くべきは書くという「聖域排除の覚悟」が必要だというのが、自分を「晒す」という意味です。趣味藝なら晒す必要は無いのですが。
誰がどう言おうと、どう描かれてある中身が醜かろうと、それが真実に肉薄しているのなら、キレイゴトの何百倍もいい。自分を守っているものはダメなんです。人間は醜い存在かも知れないから、書かれることが醜いのは自然かも知れない、が、そこに徹底があれば、逆転して美しくなることもある。四谷怪談の南北は、言語に絶した醜悪で強悪の人間を描きながら、一種凄絶な美と感動とを書き上げています。あなたの身近な人が「醜い」と批判する批判がどう当たっているか、躊躇わずに長い作品を送ってくれるといいと思います。書かれている作中の女の醜さでも構わないし、作者であるあなたという女の醜さであっても、ちっとも構わないし、驚かない。
「泣きながら書いている」とありますが、いけません。書き終えてから泣くのはいいが、書いているときは炎のように熱く氷より冷静に、鬼のように聡明でなければ。泣いている分、その泪は、自分を甘やかし、いたわり、飾る泪に変質してしまいやすい。すぐ泣き止めて、自分の仇は自分だと思い、自分自身を攻撃に攻撃し締め上げなさい。すっ裸になりなさい。そのつもりで書くことです。
2004 8・18 35
* なつかしい、という言葉をわたしはここぞと言うときに、よく用いる。少年時代が、故郷が、昔の人が、なつかしいというふうに遣われるので、いつもそこには回顧的要素がからむように思いがちだが、当然ながらわたしはもう少しニュアンスを広く汲んでいる。なつかしい、とは、対象に「なつく」気持ちを、すすんで我から持ちたい感動であろう。必ずしも懐古的な気分でなく、初対面の人やものに対してもさしこむように懐かしいという気持ちが持てるのが普通である。わたしは、むしろこのようにこの言葉を用いることが多い。なつかしい人やものの多いことが、一方ではほだしになりがちなものの、幸福ということにもつながる。なつかしい気持ちが生き生きと浮かばない魂は渇いている。
2004 8・20 35
* 死んでいった兄は、まだ元気だった頃に、人付き合いは、「個対個」で行こうとわたしに言った。家族同士といったおおまかなことは斟酌しないでいいと。初めて聞く言葉だったが、わたしも賛成した。兄とはそうそう数多く逢わなかったが、郵便でもメールでも、いつも兄との時は兄のことだけ思っていた。
わたしは、今も、「個対個」に徹し得ればこそ「懐かしい」という純真も保たれると思っている。一人しか立てぬ筈の小さい島に二人で、二人だけで立つ気持ちだ。むしろ謂わばそれに「堪える」気持ちだ。ピュアとは、「個と個」に堪えることだ。
2004 8・20 35
* と言いながら、たてつづけに数本の佳い評論を読んだ。伊藤整の「求道者と認識者」は『文壇と文学』連載の一章であるが、瞠目の洞察と鮮やかな整理。
伊藤整や平野謙や中村光夫を耽読していた若い日々を思い起こす。近代文学史は概してこういう国文学者でない大きな才能により耕作されてきた。作品の読みが学者の場合どうしてもこまかくなる。大きくない。文学文藝への愛情や傾倒の深浅が結局成果を分けている。谷崎学など、どう転んでも学者達の器量が作家の前で小さすぎて、その証拠に、少しも谷崎学の成果が評判にも何もなってこない。伊藤整の谷崎論なんてものは、革命的な足場を創ってくれた。そういう仕事が国文学の学徒からまるで現れてこないのはどういうことか。すばらしい新知見、めざましい新提唱、そういう評判を耳にしない。どうしたのか。
2004 9・11 36
* 気をつけて行ってらっしゃい。上海はゴッタ煮の鍋のような活気と混雑と発展の街です、看板と車の警笛のにぎやかな街です。いつも最初の革新の燃え上がる街です。幾つもの顔をもった街です。用心も必要な街でしょうから気をつけて。博物館は一級でした。元気で。 湖
2004 10・8 37
* 幸福ですか。そう聞かれても、不幸ではありませんが、と答えるに止まり、幸福の実感を性急にあれこれ呼び出そうとは思わない。幸福感は、あれどもなきが如く漂っていてそれでいい。
2004 11・4 38
* 深田久弥「あすならう」を起稿し校正して入稿した。作中に津軽の樹の「あすならう」にふれた個所はない。この言葉はむしろ井上靖の自伝風物語で有名になった。未来に夢を持つ言葉のようである。アマノジャクで云うのではないが、わたしは「あすならう」の美談を今でははかないと思う。だが、それが杖となり抱き柱となり人生を励ましうる一時期の有ることは信じようと思う。だが「明日」などあるものかという覚悟は、中年には持っていた。平凡で卑屈な作家生活をするよりも「抱き柱」は棄てて、寒くても寂しくてもひとりでさまよい、いつか寒気と風説に曝されて枯木に身動きならぬ季節を迎えても、自由な鴉の一羽で果てようと思ってきた。おお、なんとカッコいいせりふであることか。ま、いい。すぐ、寒さの巷に孤立するだろう。
2004 12・3 39
* 寒さに竦んではいませんが、わたしは勉強が足りないなと思う毎日です。勉学の道は孤独なものです。 愛知県
* うまく言えないけれど、勉学には、何が勉学したいかの見極めも大事だろうと想います。なにもかもはとてもムリです。
ものを食べたいときに、和・洋・中華などと思案しますし、和にも洋にも中華にも、いろいろあります。それでも、せめて和か洋か中華か程度は決めざるを得ない。その上で、或る程度集中した一つの領域に、「得意」になってしまうことも大事です。
京都には貴賤都鄙が集約されています。差別のきつい街です。わたしは人間の心に身に巣くっている差別心に関心を持ち、「人間差別」と「藝能差別」に絞って、そこから「民俗学」の成果を貪り読んでいったものです。わたしの小説が、ずうっとその問題を追ってきたことは、久しい読者のあなたにはすぐ読み取れる事実です。
「京都」というわたしにすれば「地の利」を生かすのが、最もリアリティーのある道筋でしたから、わたしはその誘われ道へ邁進して、それ以外へわざわざはみ出て行かなかった。そこで「深く」なる方が良い、と。
勉学が孤独なのはその通りです。殊に文学の創作は、誰かと共に学べるようなことではないからです。月謝を払って教室で学べることは、知識や技術ではあるが、そこから自動的に智慧は湧いてこない。実感で体験し感得し会得するしかない。
わたしは、ある種の「道徳」に追随して一見求道的な人たちよりも、「人間」の表裏や明暗や喜怒哀楽の多彩・生彩を認識し把握し表現する人こそ、「藝術家」だと信じています。お安い「道徳家」には殊に警戒します。それは「人と社会」を鋳型に嵌めたい「お節介な偽善」に近いからです。
最近の話ですが。七十のおじいさんが、心から十七歳の少女が「好き」になってしまった。少女の方が忌避したのは自然なことですが、その老人を、すぐさまマスコミが寄ってたかってワルモノにすることに、わたしは反対です。むしろ、その老人の、「好きで堪らなくなった」真情に素直に驚いて一度は受け入れ、それが素晴らしく尊いことか、とっても愚劣なことか、少なくもそこに「認識と批評や共感の姿勢」を誰もが柔らかく持てる世の中でこそありたいと思う。
これは、飽くまでその一例に限定して言うことです、一般論ではありません。
そのような考えでわたしは居ますから、道徳的な語句を新聞雑誌などに書き散らして「聖者」のように扱われている人間などを、わたしは根で信頼しないし尊敬しないのです。そういう人達によって、人間社会はついついこぢんまりと金縛りにされて行き、人間の可能性の生彩は奪い去られるのです。それを喜ぶのは、人を支配することで儲けて行くし政治家や企業家や宗教人や教育者だけ、という結末へ押し流されるのです。
三十すぎたあなたの年齢での「勉学」は、知識の蒐集だけでは、もうダメです。生き生きした「自由な人間」でなければ、勉学も身に付かない。努力も空回りします。まず自分自身を批評しぬくことから始まるのが、大人の勉学です。便宜に型にはまろうとする勉学は、むしろ大毒です。孤独に耐えねばならないのは「自由な人間」の運命です。
2004 12・11 39
* 冬の朝には詩がある。静かに、ある。
2004 12・24 39