ぜんぶ秦恒平文学の話

名言集 2010年

 

* 可愛いね、ふたりとも!! おめでとう。
浩君 人生には 小さな 大きな 曲がり角はツキモノですが、曲がり角の多くは予期せず待ちかまえていると言うより、自分の方から踏み込んで創り出しているというのがホンマのように感じてきました。君はそういう創意や予見の力の利く人。おちついて、さらにさらに幸福な時空をご家族とともに設計されますように。ときどきでも、声など聴かせて下さい。
> それにしても年賀状の大悟クン 理沙ちゃん 可愛い。「子育て」にとらわれず、むしろ「子育つ」機微から目を放さずに、ご一家お幸せに。
わたしも、歩一歩 老いの坂を進みます。 秦 恒平・湖
2010 1・7 100

* 哲学も神学も人間の玩具に過ぎないと言い切り、宗教というのは「体験」だとバグワンがいうとき、決してキリスト教徒やヒンズー教徒や仏教徒になって体験すべしとは言っていない。当然だと思う。宗教とは実存の疼きだとわたしは感じている。「宗教の方が科学よりも単純であるとけっして考えてはいけない」と言うのはあたりまえだと思う、が、ほんとうに宗教を「体験」するのは難しいと弱気に誘われるほどだ。宗教は「生死」の問題なのだ。バグワンは言う、「人がみずからの足で立ち、みずからの存在に責任をもつようになり、事態がどうなっているか、自分が誰であるかを見つめ、探求し、探索し始めること」 これが「宗教」だと。宗門宗派のような組織とは必ずしも関係ない。「信仰」は借り物の抱き柱に過ぎない、「信頼」は人や私の自信の体験から生まれる。真の「信頼」にまで歩んで行くのが「体験」だろうと思っている。
2010 1・26 100

なぜモノを書くか。「他者」を、ではない。奥に隠れている「自分」を発見するために書く。だから言う、わたしは研究者でも学者でもない、小説家だと。
2010 3・4 102

* 中国文学研究の泰斗であられた吉川幸次郎さんが、文学の基幹は随筆だ、中国ではそうだと云われ、谷崎先生も共感されていた。少し関心の域は異なるかも知れないが、日常的な「随筆」のもつ具体性を大事に見なおす気持ちでいる。
ともすると概念的に文章を書き、描写や観察を節約気味に書き渋ってラクをしたがるが、そんなとき、具象的な随筆の持ち味を小説へ呼び戻したくなる。枕草子や徒然草の魅力は、感想の魅力である前に叙事の魅力であろうと見なおされる。
概念ぬきにものの具体の発見しにくいことも、概念ゆえにものの具体をみのがすことも、ある。後者のほうがだんだん多くなるとき、創作は危機に陥る。
2010 4・6 103

* 「ソロンは老年になっても多くのことを学ぶことができると言ったけれども、それを信じてはいけないのであって、学ぶことは走ることよりも、もっと(老人には)だめだろうからね。むしろ大きな苦労はすべて、若者たちにこそふさわしいのだ」とソクラテス(=プラトン)は『国家』第七巻十五の末で語っている。
その通りだ。
老人はもう「学ぶ」気でなんかいてはいけないんで、若者とはちがった「楽しみ」を満喫すればいい、それはまた若者よりも、はるかに成熟した深さで出来る。
わたしは日々にたくさん読んでいるが、徹してただ楽しんでいる。だから、なにもかもが味の違ったいろんなご馳走のよう。読書だけではない、頭痛がするほどの自分の「仕事」もやっぱりそうだ。
2010 4・14 103

* しっかり進行している。今日のうちにも片づけられることは片づけたい。仕事の山場で、気分集注。一つには、それが体調のためにも気分のためにもいいから。スリ足してワキをかためハズにかかって仕事を土俵の外へ押し出そうという気構え。結句それが精神衛生に好い。ゆるんでいると、くさる。
仕事は、手や腕で小さく囲ってひとりでヒソヒソとすすめるのでなく、ワイワイ喋ってというワケに行かなくても、それほどの気分で何か外からのヒントも掴み取ることが大事。ひとりきりでする仕事は、どうしてもちいさく縮みがちになる。むちゃくちゃクササレても、そうして大きくて広い場所を見つけること。架空の文学仲間を自分で創り出して、適宜にいつも呼び出すように。
2010 5・18 104

* 「e-文藝館=湖(umi)」へ、昨日の投稿者に、追伸。  編輯者

気づいたこと、取り急ぎ一つ二つ。

一 強調の形容詞や副詞は、なくても分かる 或いはないほうがスッキリ文の通ってゆく際は、断然省くように。言葉数を沢山用いて表現を盛り上げたがるのは、大概の場合、逆効果です。文章は、骨がすうっと清らかに毅く通るのが本筋。形容詞や副詞は効果を考慮し、慎重に援用なさるよう。

じっと息を殺して二人の会話を  の じっと

七十を過ぎても実にかくしゃくとしていた の 実に  など。

二 一行で済むことに、五行も六行も使わないこと。くどいのは、たいがい、表現効果を重く濁らせます。
ぼうぼうに伸びて乱れたあたまを、散髪するように、思い切りムダは省いて印象を清明に。

三 もの・こと・ひとが生き生きと目に見えるように。

四 機械内の文章は不要に長びきます。適切な「改行」効果を。読者に負担を強いずに済むように。

五 漢字とかなとの快い配合を。ことばでの表現は、音楽でもあり、また見た目でもあります。

取り敢えず。
2010 5・22 104

* わたしはもう走れない。だけど、まだ歩ける。歩けなくなったら、這う。
2010 7・5 106

* 思い浮かんだら書く程度の随筆では、ツウィッターでしかない。世間で良く謂う、銭の取れる文章、買ってもらえる文章には成らない。
随筆を書くなら、題をもらって、否応なく絞り出す、それも銭の取れる弾んだ文章で絞り出すのでなければ、ラクガキ程度のモノにしかなりません。
だから、題目無しの随筆依頼は、とてもコワかつた。はじめのうち、全然書けずにいつも泣きそうだった。これをと中身に注文のある方がよかったのです。
随筆は、論文でも批評でもない、厳しい枚数制限のある、短編小説なのです。そしてウソはだめ。面白く読ませなければ無意味。「思い浮かんだときに、書き残す」なんて気楽なことは、まるで不可能な、かなり難儀な「創作」です。顔色をかえて突貫しなくてはならない「文藝」です。
すてきな随筆が三本書ければ、小説の三作に繋がり得ます。  風
2010 7・10 106

親と子の間に権利や義務が、有るという人も無いという人も居よう。私はこの、生れ来たわが子に名前を付けてやる、少くもそれだけが親から子への権利であり義務だと思っている。親はわが子への最初の愛情をそこに添える。籠める。
人の名前と限らず、私は久しく生き抜いて来た、すべて物の名前、というものに関心をもつ。それを、その物を、その事を、その土地や山や川や木や草を、人が何と名づけ、呼び馴れて来たか、そこに生きた語感を注意深く受けとることから、私は私の感受性をつとめて大事に育ててきた。
語感とは、ことばのただ意味のことではない。ことばの生命感でなければならない。物や事の名前は、多くの人がそこに見出しえたそれぞれの生命感をながの歳月かけて秘蔵し、豊かな秘密や魅力を表現しえていることを、私は信じている。姓名判断のようないたずらに観念的な思弁は私の好まないところだが、その時代、その土地、そこで生きて暮した人々に一つ一つの物や事がどう名づけられ呼ばれていたかを知ることで、実に多くのことが正しく判ってくる。そう思っている。なぜなら人は自分の使うことばにこそ具体的な愛を籠め批評を籠め、願望も理想も、また忌避の念も縮めていたはずと思うからだ。ことばは「心の苗」と思うからだ。
そんなわけで私は、他の何をおいても、自分の娘に親が「朝日子」と命名した一切を心して受けとめて欲しい。また同じことを「建日子」にも望んでいる。というより、それだけを望めば十分なのだ。
2010 7・17 106

ナニを気に懸け、日々過ごしているか。
一つ、気力。一つ、楽しむ。一つ、気儘で、習慣に泥(なず)まないこと。一つ、創り出す工夫。
おしまいのを一等先に置きたいが、自身を窮屈にしないために、シンガリで宜しいと。
2010 7・26 106

* 直哉の書簡を昭和十三年の暮れまで読んだ。今度は日記を読もう。
『暗夜行路』はすばらしい大団円を遂げようとしている。大山の頂上をめざしながら、中途で参ってしまい夜の山道にひとりのこってうとうとし、夢かうつつに白む朝を迎えている描写の素晴らしさ。息を呑む。もったいなくてあと十頁近くをわざとのこして深呼吸して本を伏せた。
なんという作品だろう。
かく謂う「作品」とは自説どおりに説明すると、普通作品と謂われると一篇の「作」を謂っているが、正しくはそれは「作」「作物」であり、それに人品、気品、品位の真に現れているさまを「作品」である、「作品がある」と、謂うのである。「作品」にはそうそうお目に掛からない。『暗夜行路』が小説作品の最高峰という各位の評価は正しい。私は心から同感する。中間小説やエンターテイメントや大衆読み物にはめったに「作品」は覚えない。「作品」を覚えるような作なら、それは売らんかなの中間小説やエンターテイメントや大衆読み物ではないのである。
読書で「作品を満喫」したいといつもいつも願っている。
2010 8・19 107

* 門さんとは何の関係もなく、創作志望の人にと、ふと頭に浮かんだことなので此処へ書いておくのは、。
「創作者」であると自覚しているときは、同じ道で仕事をしている人に嫉妬して、払いのけたり逃げたりしてはいけないと言うこと。嫉妬心というものは大切な熱源ではあるのだけれども。
森鴎外は夏目漱石が『三四郎』を書いたとき、「技癢」を覚えたと告白している、あげく『青年』を書いている。むずむずするような対抗心、一種の嫉妬心であるが、なあにおれもという気持ちだ。
この「技癢心」をこそビタミンにして、好き嫌い以上に、かちとり、くみとり、まなびとるべきものに素直にとわたしは望む。
同時に、創作者としてあるときは、たとえ一般の知人や見知らぬ人に対しても、たとえば研究者が物質に探求的に向かうときのように冷静に立ち向かい、嫉妬心や好き嫌いを捨ててしまう修練が必要だ。そうでないと創作者・批評家として見るべきモノを見遁し見落とし続けて、頑なな観測に凝り固まってしまう。怖いモノ、苦手なモノ、いやなモノを持って自分に目隠ししていては、モノから力や魅力が引き出せない。これは、茄子が嫌い、蛇がこわいなんぞということを言うているのではない。問題があれば、どんな不快なコト、モノ、ヒトも凝然とブレなく観測できること。
2010 8・21 107

ゲーテの気品、作品の芳醇なこと、善意に満ちていること。その保守性を嫌う人ももの足りぬと想う人もあろうが、私は、こういう偉大な人は人間の歴史を崩さない「束ね」のように想って、信愛する。
2010 8・22 107

* 菅総理も、家賃がよほど高いか、颯爽としない。言い訳と空疎な誓いの言葉ばかり。水平思考でサプライズを企てる元気も才気も無い。北朝鮮へ飛んで一人でも拉致された日本人を連れ帰れば、かなりの衝撃になる。経済だけは一朝一夕では行かない。国民の暗に期待しているのは途拍子もない演技力でもあるのに気がついていない。
そういうことになると小泉純一郎は役者であったが。
つまり菅に藝がない。藝は、何も藝術藝能だけの専売ではない。人間には藝が要る。小技ではないのだ。
2010 8・30 107

努力は夢の中にしか必要がない。錯覚する能力とは夢をみているだけの話で、幸福などというのは夢にしかなく、不幸とはつまり夢の意味なのであろう。
2010 10・6 109

* 「mixi」の、多くのプロフィールを見ていると、「作家志望」と書いている人達に大勢、あまりに大勢出会う。もし本気で真剣にその気なら、「mixi」日記やツゥィッターなどでひゃらひゃらと空気抜きをし自身の言葉を甘やかしていては絶対にダメと、わたしはハッキリ言う。孤独に堪え、真剣に優れた作を「読み」かつ打ち込んで「書き」なさいと。
2010 11・19 110

不完全さこそものごとの在りようだし、美しさや、成長や、自然な流れの基底である。
2010 12・24 111

* 滝壺へ身をなげるようなことを自分がしつつあるのを、わたしは、今にして自覚しているのではない。小説というものを書き始めたときから、そういう覚悟であっただろう。「書く」というのは、そういうことだ。
2010 12・25 111

* 『痴人の愛』を久々に読了、谷崎の剛力にやはり感嘆した。谷崎は、ナオミ、お遊さん、春琴、そして細雪のヒロインたちと、生涯に読者の印象に強烈な名前をやきつけた。直哉の時任謙作もしかり、藤村の青山半蔵もしかり、漱石の坊ちゃん、代助らしかり、主人公の名前で記憶されることは名作の強力な条件だ。
2010 12・29 111

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