* 小さなグループになっての三人誌や歌誌が届く。
* 群れてもいいが、小山の大将に甘んじない寒孤の呻きの爆発を期待します。光を放つ歌を。 秦恒平
2011 1・26 112
知識を添え文法を解説したりするのが鑑賞ではない。作の命に身を寄せ想いを寄せて人生を真に鼓舞しうるのが鑑賞だ。わたしは徒党を組まない。鑑賞には私一人の文責を掛ける。舌頭千転。おぼえてしまえば、生涯の友となる和歌や歌謡や俳句や川柳が精選・満載されています。
2011 2・4 113
*「ありきたり」というのが一等怖い毒だと思う。わるい場面でもわるい展開でもわるい科白でもないのに、どれもみなどこかでもう卒業してきたような「ありきたり」を見せたり聴かせたりするのが、創作の何よりも怖い毒で落とし穴で、いつのまにかそれに満足してしまうのが創作者の自殺行為になる。こわいことだ。こわいことだ。こわいことだよ。
2011 2・20 113
前便で読んだエッセイは、大勢がいろいろに言及してきた、何度も聴いてきた「ありきたり」の話題なのが残念でした。勉さんならではの、生活と意見の具体感に溢れたエッセイを読ませて下さい。エッセイは、「論」じては窮屈、概念的観念的になり強張って面白みが落ちます。エッセイはその書き手ならではの「描写」「表現」の魅力です。志賀直哉の言うように、場面や声音が目に見え耳に聞こえるように書いて読ませて下さい。論攷や論説には他の書き方があります。
勉さんならではの視野と視線とがとらえた具体的な世界や場面を読ませてほしい。
訃報のみあいついで賑かなあの世かな
風ゴトゴトと娑婆を揺る間に 恒平
二年ほどまえの作です。
2011 2・28 113
* むかし、たった三枚半の新聞エッセイ「何か」と依頼され、何を書いていいのか、途方に暮れてアタマが禿げそうに困惑し憂悶した。いかに身内に湧いてくる言葉の坩堝を持たないかを思い知らされた。底荷のない船で大海に船出したあんばいであった。
新聞小説の連載はひとつの作物を毎日書き継ぐが、時にはコラムエッセイを一月も書くべく頼まれることもあった。自分の身の内に、読まれるに堪える思いや感じや体験を蓄えていないと、応じきれない。わたしの「生活と意見」は連日書き継がれている思いや感じや体験の積み重ねに他ならない。いわゆる日記とはちがう。生きるという「公案」に答え続けている。「いま・ここ」の連続に堪えて生み出す実感のことばだと思っている。
「mixi」に連載している日々の短い断章は、やはり創作。そういう創作を、日々に績み紡いでそれにより鍛えられてきたと思う。
もの書くものは、豊かな実感を言葉にいつも置き換えうる技倆と覚悟を持たねば、痩せて貧しくなる。金銭ではない「豊か」という生の実感を、美しい確かな言葉ではんなり吐き続けねば、本気で「書きたい」人は。
2011 3・4 114
* いい作品に出逢うと奮い立つ。ありきたりの仕事を、創作者は厳しく恥じよと、わたしは自身に命じる。
2011 3・5 114
* 秦建日子脚本の「スクール」最終回二時間分を見終えた。感傷の涙は誘われたけれど、劇作としては在りそうに在り、成りそうに成り、「劇」性に乏しく言葉も場面も盛り上がらなかった。いつかどこかで繰り返し見聞したような成り行きで、殺しや犯罪モノよりは好感はもてたし、心優しくも元気そうでもありながら、オリジナリティを置き忘れ、リアリティをほどほどにし、クウォリティーをもてなかったのは残念だった。
こういうありきたりを続けていると、創意や、作品への真率な意欲を摩滅させかねないのを惜しみ懼れる。小説も劇作も脚本も、無垢無欲の熾烈な噴火を期待したい。マスコミの便利屋に落ちこんでいっては怖い。
作者は、蓄え持った巨大な底荷の質量で勝負しなければならない。いまのままでは、お手軽に過ぎている。調査の物知りは大切でも、それだけでは思索も体験もうすいままで流れて行く。作者の生の苦渋が、「ER」 のように、せめて「寅さん」のように、できれば谷崎の「途上」や「小さな王國」のように映し出されて欲しい、出来て当然だろう、それを把握し表現せよと望まれたとして、もうニゲの打てる年齢でもキャリアでもない。
2011 3・20 114
* 秦建日子のドラマ「スクール」にやや、逆らいてこそ、父のきつい批評を書いた直後、うちではふつう観られないW0WW0Wとかいうチャネルで、同じ秦建日子原作・脚本の「CO臓器提供」ドラマを観たのは幸いだった、これは単発のドラマとして観ても、オリジナリティあり、リアリティありクゥオリテイもきちっと兼ね備えて、最近出色の劇的な構図であった。
吉岡秀隆、ユースケ・サンタマリアの持ち味もはまっていて、わたしも妻も見知らぬ、人工透析患者で夫に死なれた妻の役をした女優もほぼ完璧の演技で、唸った。
幸か不幸かわたしはこのドラマ分のストーリーを、建日子の原作本で、すみずみまで覚えていた。小説とは謂うが、小説を読む妙味も美味もない、わたしの感想では、ノベライズしてかなり書き込んだ、その分、すらすら読めて分かり好いつまり「梗概=シノプシス」だった。
今夜観たドラマは、本では三話ある第一話で、脚本としては堅実そのもの、まことに過不足無かった。本を読んでいなかったら、ああ美味い脚本だなと想ったろう、いやよく書けていた。劇的で意外性が厳しく辛く展開して胸をしめつけた。ありきたりな何もなかった、こんな世界があるのかと、知ってはいたが現実に突きつけられる衝撃はなまなしかった。
感動したか。感動した。それでよいのだ。
感傷的にお涙を強要してはいけないのだ、必然が必然を呼んで、観ていて、いても立ってもおれなくさせるのが「ドラマ 劇」なのだ。満たされた。特筆しておいて、、もう深夜。寝にゆく。
2011 3・20 114
作品論というのは、批判ではない。おもしろさの再発掘であり彫琢なのである。漱石の『こゝろ』論も、谷崎の『蘆刈』『春琴抄』『夢の浮橋』論も、わたしは、そのように書いたつもりだ。
2011 8・19 119
* 生きていながら、上のような本質的な問いかけを受けてシンと思い静まる文学にこそ、出逢いたい。どんなに壮大でもそこに本質の問いの置かれていないただの読み物は通俗で、時間つぶしにしかならない。もうアトのないわたしには、とてもそんなものへ立ち止まってしまうのは堪えがたい。イヤだ。
2011 8・23 119
主題は、少しずつ近づいてきている。結末は見えていないが、わたしはわたし自身の無頼な「敗戦」をたくさん書いてきた。
文明は勝つモノの卑しさを見せつけてきた。文化は敗れたモノの真実を遺してゆくのだ。
2011 8。23 119
* 文明は、思考・理論・理窟・分別・選択・排除そして数と散文とで成っている。一言に帰すれば「マインド」という心が制作してきた壮大なツクリモノだ。
文化は、「ハート」「ソウル」に根ざして生まれる。本質は、いわば広義に詩的な価値だ。文明文化の両々相俣ねば人類は破産してしまう。今日人類の世界は、破産の際に引き寄せられてあるのではないかとわたしは懼れている。
2011 8・24 119
* 「人間」ととかく謂うけれど、一応は女と男とで。男の女も、女の男も、性の無いのすらも、一応は承知しているが、わたしは人類学者ではない、男と女とで足りていて、それどころか有り余っている。興味は尽きない。
わたしは道徳家でありたいと願ったことのない一人である。
それより、本当に良き叛逆者でありたい、時代や社会や国や制度の枠組にしつように指令を擦り込まれ飼い慣らされた存在では、極力、いたくない。
それだから、孤独を懼れてはいられない。孤立をすら強いられても根限り堪えようと思っている。力尽きたら自らおさらばする元気だけを保存しておきたい。どうころんでも、この悪しき政治経済社会とても、男と女の社会に違いないし、創作者にはたとえ乏しくても想像力が生きている。男でも女でも創り出せる。恋愛も性愛も迸るほどに描ける。出版社会はもう叛逆者のわたしを受け入れてくれまいが、幸い「書く」ことは出来る。それで「書いて」いる。さあどうか、「 湖(うみ)の本」 で刊行できるだろうか。「 e-文藝館= 湖(umi)」に公表できるだろうか。できる・できないは、問題外。
書き上げておくことだ。わたしにはもう夏休みも冬休みもない。 2011 8・25 119
* わたしは、政権や政党や政策や公的組織機関に対してのみ、イヤな偏向や失政を、責める。異見を述べる自由を失いたくない。その余は、自分の「人生」を、仕事や思想や喜怒哀楽をだいじにしたい。
自身の姿勢を、判断を、しっかり支えるため、人はいろいろな隠れた努力をしている。
わたしは、上にも言ったようにイヤな偏向だと思っている主張や意見にも目を向け耳を貸すことを拒まないで、むしろ好奇心としてでもそれも知っていようとしてきた。そういう感触からわたしはより広い範囲からの人類の「歴史」を意図的に学ぼうとしてきたので、日本史も世界史も、また哲学や科学や宗教史にも「喰わず嫌い」は避け、避けた上で、より望ましい、より好ましい判断や認識に馴染もうとしてきた。極度に偏向したタメにするアジテーターなみの操作された情報や虚報にうかとダマされないためには、その用意が必要だった。歴史は事実を変えて行く怖さも持っている、まして真実は容易に掴めない。老子ではないが、これが真実だと口にされた瞬間からそれは非眞実に化けて行きかねない。
* 大事なのは、結局「自分自身」の、ただ外向きのガンバリよりも、内向きに掘り下げた深い豊かさではなかろうか。それなしには、ものが見えにくくなり、また戦いにくくなる。わたし独りのことをいえば、漱石が彌生子に言ったように、世間の評判になど揺るがず、「文学者として年を」とろうとしてきた。文学者の「言葉」で生きようとしてきた。
2011 10・3 121
* だれもが知っている人ではないが、知っている読者たちにはたいそう愛されてきたヒロイン三人、「源氏物語宇治十帖」の大君、ジイド「狭き門」のアリサ、バルザック「谷間の百合」のモルソーフ夫人( アンリエット) の三人を、少年の昔から、いたく愛しながら、しかも心からはとても受け入れかねる人達だった。フェミニズムからいえばなにかしら間違っていると、大いに、叱られるかもしれないが。
なぜか。
今日読んでいた『谷間の百合』で、呻くようにフェリックスはその理由を、うったえていた、虚しくも。アンリエツトを心底から熱愛し熱愛し熱愛したまま悲痛にうったえていた。悲痛の声は届いているのかも知れなかった、しかしモルソフ夫人はゆるさなかった。そして三人ともこのヒロインたちはほぼ自ら死んで行く。男の手に「身を任せる」ということをついにしないまま。
新秋や 女静かに身をまかす 湖
2011 10・4 121
* 親がいて子供ができるのではない。子が産まれて親が出来る。 2011 11・1 122
萬葉集は、底知れぬ、日本語と真情との「宝庫」だと思ってきた。
2011 11・11 122
* 人は、何度でも生まれ変わっています。 hatak
2011 11・13 122
* 天文学では「衝突」という事象も概念も本質も実に大切とされている。
人もまた良き激しき美しき「衝突」を遂げたい生き物だと思う。「濯鱗清流」などはまだゆるやかな衝突に過ぎない、
2011 12・10 123