ぜんぶ秦恒平文学の話

家族・血縁 2003年

 

* とうどう、妻とふたりだけの、いや、黒いマゴと三人だけの元日になった。静かだ。隣の部屋でムローヴァのバイオリンが鳴っている。
読み始めに、ある修道女のエッセイをわたしが読み、妻は目をとじて聴いた。一日の終わりに、三つ、その日に喜ばしかったことをどんな些細なことであれ見つけだして、多年書き留めているという話である。三つも嬉しいことが有るものかと云う人もいるけれど、それでも強いて見つけだす。「有り難い」こととはそういうものだと。なるほど、と思う。
二人でちかくの鎮守「天神社」に詣でてきた。雪にはならずに青空に恵まれて。 それも嬉しい一つである。
年賀状がたくさん来た。メールのある人達には元旦を迎えてすぐに、四つもの同報にわけて数百人にわたしの思いをつげた。
2003 1・1 16

* さ、機械を休ませて、階下でひとり元旦を、うまい酒と、妻が丹精のお煮染めで、テレビでも見てこよう。建日子の脚本は順調にかけているだろうか。朝日子は今はどこにいるのだろう。元気に元旦を迎えたろうか。どんな正月を毎年しているのだろう、料理は上手に成ったろうか。孫の押村やす香は高校二年生になろうとしている。妹の押村みゆ希は幾つになったやら。じいやんもマミーもお前達を心から愛しているよ。孫達と、せめてメールでも交わせるとわたしたちは嬉しいのだが。
2003 1・1 16

* そうそう、小中陽太郎氏から、小栗風葉「寝白粉」を巻頭に「風葉を広めるため」の撰集一冊を編む計画があると、新年早々の賀詞に添えて。氏は風葉の親類筋だとか、だが、よく作品を読み直された方がいい。わたし個人の考えでは、優れた小説ではあるがことさらに公開していい性質のものではない。露骨すぎる差別表現と差別思想に満ちた、とんでもない作品だと思う。小中氏には慎重にして欲しいと一言言い送った。
2003 1・1 16

* 夕方、建日子、愛猫グーをつれて、一人と一匹で帰ってきた。元日もなく、三日に渡す約束の原稿に没頭している様子、夕食だけをともにして、また西の棟に入っている。グーは我が家のマゴと、いい感じで共存している。
2003 1・1 16

* 妻の寝たあと、建日子に付き合ってもらい、またも「帰らざる河」をみた。建日子の曰く、去年の正月もマリリン・モンローの「荒馬と女」を観たよ、と。そうかなあ、もっと最近のように思うが、歳月は待たずか。
今夜の映画は「超一流」といえないにしても、やはり気持ちよかった。数曲うたうモンローの唄が、ひなびた中にペーソスの濃い味あり、おもしろい。そして父親役ロバート・ミッチャムにおとらず、子役もいい。子役がね綺麗に伏線を踏んで、芝居を仕上げる。楽しませる歌舞伎のようなものだ。

* 建日子がおおきなおとなしいグーを連れてきたのも、正月をすこし賑やかにし、黒いマゴもまんざらではないように、二匹で静かに見合っていた。喧嘩はしないいい子たち。
さ、バグワンを読み、源氏物語を読んで、寝る。もうとうの昔に、正月二日に入っている。
2003 1・1 16

* 三人で雑煮を祝った。バグワンを少し読んだ。
2003 1・2 16

* 建日子のつれてきた猫のグーとうちのマゴとが、ずうっと静かに見合っている。妻が、建日子にもらったデジカメで撮っている。
リメークの「秋刀魚の味」を、いかにも静かに観た。いまどきの作家がこの脚本をもちこんでも、テレビ局は洟もひっかけまい。しかしこのスローな小津映画のリメーク作品ですら、やはりいまいまのトレンディーな一夜漬けのドラマより迫ってくる実在感があるから、さすがである。フジテレビがこういう作品を正月にもちこむ真意は知らないが、つねひごろに、真実モチーフのこまやかな力作を手持ちに書けている作家がいてほしい。はなからそんなのは受け付けないよ、と、諦めずに。
2003 1・3 16

* 「提議・提案」し新しい事業を実現してゆくなど、意欲のある者にはこんなあたりまえなことは無いと思うし、わたしは、根からそういうタチだから、ペンクラブの理事会に参加しても、電メ研をつくろう、ホームページを新設しよう、会議にメーリングリストを導入しよう、電子作品も紙の本並みに会員資格に加えよう、「ペン電子文藝館」をこう創ろう、次にはこれも創ろう、こうも加えようと、休む間なく提案しつづけ、また大方実現してきた。
だが、顧みて、そういうタチの人はなかなか拾い世間にもいなかったなあと、気が付く。学校の頃でもそうだった。会社勤めしていてもそうだった。創作とは方法の実験でもあるなどと思い、読みにくい小説ばかり書いて売れなかったけれど、わたしは後悔していない。しかし提案する人間なんて者が、どのくらい社会や世間で目障りに思われるかということも、わたしは身を以てよくよく識ってきた。或る意味の莫迦者だけがすることだ。世間を狭くしてもいいと諦観している者のすることだ。天下をとろうなんてことはテンと考えないで毎日を生きている者のする、ま、オコの沙汰である。
息子に、こんな事は、やはり勧めてはいけないのかも知れない。

* さ、三が日は過ぎた。雨の勢いはおとろえず、地固まるであろう。平静に、平成に、またもとの平らへ戻ってゆく。すこし寂しいほど静かな三が日であったけれど、建日子も家にいて、平安であった。妻が健康でさえあれば。それだけである、わたしの気を配ることは。
2003 1・3 16

* 三が日は白味噌の雑煮、四日は昼に、焼餅の澄汁(すまし)雑煮。むかしは水菜に紅白の蒲鉾と焼餅だったが、いま我が家では、京の水菜が手に入らず、ほうれん草にしている。梅に彫んだ京人参の紅色に、野菜の緑色と餅・蒲鉾の白が綺麗に映える。
あいかわらず、人参が大の苦手。呑み込んだ。
建日子も一緒に祝って、いよいよ今年初の日本テレビとの打ち合わせに、車で出掛けていった。幸い晴れて雪も消え、寒くはない。今年が、ほんとうに始まる。
2003 1・4 16

* 七草の餅粥を戴いた。美味しい。餅は囀雀さんの送ってくれた新潟のこがね餅。屠蘇のかわりになどと口実をつけ、万歳楽の古酒大吟醸の口を切って、わたしの干支の、「亥」と刻した近藤豊作の粉引小盃で、二口三口。近藤は日吉ヶ丘の同窓同期、代々の陶芸作家である。
この春は、花や飾り物なども、節約したわけでないが、片づけの手が回りかねているうちに今年に突入し、大方はそのまま。部屋には、ダリの線描の大作リトグラフ。骨壺にどうぞと夢前窯の友人作家が送ってくれた、金銀彩「日月」の大壺。妻が持参の十一面観音小像。青磁飛鶴象嵌の皿。そして志賀直哉の新しい岩波版全集や、わたしの近著。
2003 1・7 16

* 建日子 誕生日おめでとう。
三十五歳。充実ということがあるとすれば、ここからの十年が大事だね。しかし十年先になんとかなろうでなく、一日一日の一歩一歩を大切にしてください。明日なんて永遠に来やしない。
「一期一日」 立っているのは「今日・今・此処」だけです。健康第一に怪我のない毎日ですようにと、父は心から祈っています。
幸先好い正月からの大きな仕事が、つつがなく成功するようにとも、心から祈っています。
また顔を見せに来ますように。

* わたしの満三十五歳。十日して昭和四十六年、一九七一年。受賞して一年半。新潮社の書き下ろし依頼(のちに『みごもりの湖』)という重圧を負い、前途のよく見えない苦しい日々であった。
授賞式で中村光夫先生に言われた、太宰治賞ならなにをしなくても「二年間」は人が覚えていてくれる、焦らずに、と。出版社の管理職をし、月刊医学誌数誌の定日発行責任をもちながら、ひたすら毎日小説を書いていた。息子が、この年までに十度に及ぶ舞台の作・演出やテレビ連続ドラマなどの脚本を書き、ほぼ独り立ちしているのは、さぞシンドイことだろうが努力の甲斐もあって幸運なことでもある。まだまだ、しっかりした堅い評価を受けて永くやってゆくには、辛くても頑張るしかあるまい。大切に日々を、と。
この十五日から、秦建日子脚本の日本テレビ連続、「最後の弁護人」シリーズが放映になる。 GOOD LUCK!!
2003 1・8 16

* 鮫島有美子が「千曲川旅情の歌」を歌っている。今宵はずうっと歌を聴いている。「花」も「椰子の実」も鮫島が歌っている。高峰三枝子の「宵待草」三鷹淳の「坊がつる讃歌」が濃厚に抒情的。鮫島の「遙かな友に」を聴くと、かならず娘・朝日子を思いだし涙が流れる。平安でいるだろうか。
2003 1・14 16

* 日本テレビ系で十時から、秦建日子脚本の連続ドラマ「最後の弁護人」がスタートした。順調な門出といえようか。以前の、主人公が七人も八人もいた「天体観測」とちがい、配役に的が絞れ散漫にならない分、ストーリイを安心して追えた。クオリティーも、案じていたより密度あり、磨きあり。
ただ、筋がはやくから割れ、犯人の予め分かっているコロンボ刑事型の臭いがした。長門裕之は根はいい役者だけれど、もっと腹のある、客のだませる芝居をしてくれなくちゃ。顔と目の安い芝居をみているだけで、底が割れてくる。
法廷場面は、うすっぺらなわりに簡潔に事が運んで、ま、可。捕り物は、いかにも安い。
ところで、主役のあの弁護士の、からだの動き(ダンス)と言葉の廻転(滑舌)とは、文字通り齟齬(ぎくしゃく)の気味目立ってあり、そのアンバランスが、今回だけは怪我の功名で滑稽感になっていたけれど、そんな効果はこの先長持ちしない。セリフを正確に面白くしゃべれること、正確に試聴者に聴かせるよう「話す」技術が、のっぽの弁護士クンに、ぜひ必要なようだ。女優は、あれでよい。
ま、第一回。70点ほど奮発、及第。右肩上がりを期待。
着々と、集中あれ、但し油断して、怪我せぬように、風邪もひかぬように。それだけしか心配していない。

* それにしても、わたしの仕事のしぶり、なんだか売れない国選弁護人みたいかなあ。息子にハッパかけられている気も、チョビットだけした。

* 息子は息子。
わたしは「ペン電子文藝館」の「反戦・反核」室をどう充実させてゆくか、考えている。当初から野間宏「真空地帯」梅崎春生「桜島」大岡昇平「野火」「俘虜記」などが頭にあった、いずれも魂をゆるがした力作である。詩歌からもぜひ選びたい。民間の人達の文章もえらびたい。むろん戦争賛美や戦意高揚のものは採らない。
近代の女性史的な一筋も通しておきたいのだが。女性委員会の協力が得られると助かるが。
岸田俊子 福田英子 樋口一葉 若松賤子 三宅花圃 与謝野晶子 長谷川時雨 左川ちか、宮本百合子、林芙美子 岡本かの子 と、こんなことドマリでは淋しい。だが、もうわたしの残り時間はあまり無い。
目が霞んで、この頃数字が読めない。8 9 の区別も付かず、スキャンのヨゴレの残ったのもよく見のがす。近用の眼鏡二つが役に立たなくなり、戸外と劇場で使いよかった眼鏡をかけ、機械の前にいる。劇場ではグラスを使わなければならない、かなり良い席にいても。
2003 1・15 16

* つかこうへいに、こう言われてきたそうだ。

「秦。安全な道を行くなよ」
「秦。球は投げ続けなきゃだめだぞ」
「秦。舞台やれよ」
「秦」「秦」「秦」……
師というのは、本当にありがたいものだと、改めて身に染みました。

おなじ「こうへい」は、似たことを言う。「秦」を「建日子」におきかえれば、こっちのこうへいも同じことを言っている。しかし「師」の言葉はひときわ有り難いと、思い沁みたであろう。よく聴けば、よく効く。聴きに行ったのが、いい。
2003 1・16 16

* 十時になると建日子のドラマが二回目。一回目が始まり、その後に気を付けていると、けっこう穏やかに好評の気味で、けっこうだ。だからといって、わたしの好感度があがるとか、見直すというのではない。真面目に続けていれば宜敷く、ちょっとでも不真面目に安直に走れば、どんな好評も消し飛んでしまう。気の入った仕事を続けて欲しい。
すこし湯に浸かり、全身を温めたい。違和感は晩飯のあとも消えていない。
2003 1・22 16

* 建日子の二回目は、前回より求心力があった。ひとえに黒貫薫の演じた「母親役」の効果であろう。最初っから、これは母親の芝居だなと感じさせた。タネは割れていた。子供の使い方など、的確とは思わない。
秦建日子の人物は、ドラマが殊にそうだが、これまで、よくもあしくも、「おひとよし」で「甘い」と特色づけられた。この作者、キツイことケワシイことは、性分として書きたがらなかった。父親のわたしの書いたり言ったりすることにも、親父、やりすぎだよと、ハラハラし苦い顔をする。根が、わたしより優しい。
創作者は、しかし、優しければいいというものではない。把握のつよさが、表現の強さになる。善であれ悪であれ。
今夜の母親役、古い物言いをすると、外は如菩薩、内は如夜叉ふうの、「ジコチュウ女」の昨今型である。少なくもドラマ終盤までの途中表現は、その意味で、オゥ、やっと「こう書く」かと、わたしを喜ばせた。いないようで、じつは昨今とみに増えていそうな、酷薄な母親のエゴが、ちらりと出た。ああいう表現は、ちらりとで宜い。くどくするとウソになる。そして終幕のあの母の顔を、わたしは、甘くわるくしたとは言わない。ああいうおさまり型はまことに月並みだが。よく音楽で、こういうことがある。変わった面白い曲であったのが、エンディングへ来て、さんざ聞き慣れたような節で着地する肩すかし。ま、そういうものか。
母親のドラマであった。父は添え物。子供の爆弾にも関心も共鳴もしない。作り話である。が、とにかくも、「アア、イヤだ、こういう女がいちばんきらい」と思わせるぎりぎりへ、一人の「女」を押し込んで書いたのは、収穫だと感じた。そういう人間の表現に腐心して欲しい。女優さんがまた、そういう内と外との酷薄な表情の層を、よく描き出してくれた。「うまい」ではないかと、眼を据えて観た。その他は、すべて平凡。

* 今一つ、わたしの感想を書いておく。いまぶんそれが好評され噂されているけれど、それがそれほど「いいせりふ」なのかどうか、いいせりふメイて書かれたお説教と皮一枚のようなキメせりふは、クサイとわたしは感じる。そんなせりふで妙にキメてくれるなよと、こそばゆい。ドラマからセリフが遊離してくると、世界が薄くなる。役者がへたなミエを切るように、作者がセリフで格好をつけだすと、劇的真実が遠のいて、田舎芝居めく。危険。その点、そうだな、映画「眼下の敵」でのクルト・ユルゲンスとロバート・ミッチャムのセリフなどは良かったものだ。
2003 1・22 16

* なんとなく、子供の頃の昔に返っているような錯覚を覚える。祖父と叔母とが居た京都新門前の家の二階は、おさない私の上がって行くのはコワイが、不思議な魅惑の他界のようであった。そこには、階下の両親の現世には存在しない「書物」が宝蔵されていた。いや、宝のように感じていたのはわたしだけで、わたしが秦の家に入っていらい、本というモノを読んでいる大人の姿など、タダ一度も見た記憶がない。
いちばんわたしが早くとびついたのは、本ともいえない仮とじに形ばかりの白い表紙の、一冊ずつはかなり分厚い、今想うと通信教育の「教科書」であった。わたしの愛読したのはその中の「日本国史」一冊で、表紙もコグチも、わたしの泥手で色変わりしすり切れるまで耽読した。むろん、国史は神代から語られていた。
読書の下地に、国民学校一年生の三学期、担任の女先生にお年玉かのように戴いた「日本の神話」一冊があった。古事記を読み下したような本で、後年に古本屋で手に入れた次田潤氏の編になる「古事記」か、それと類似の一本であった。
何が何といっても、わたしのお家藝は、先ずは国史の丸覚えであった。いま、井上氏の一巻で始まる「日本の歴史」シリーズを目の前にして、あれあれ、あの頃へ戻るのかとすこしばかり呆れている。去年の元旦に歌った、
ろくろくと積んだ齢(よはい)を均(な)し崩し
もとの平らに帰る楽しみ     六六郎
を、いままさに味わっている。フーンという気分だ。
2003 1・25 16

* 昨夜おそくに建日子が、少しく一大事を伝えてきた。新しい仕事の「企画」であるが、これは、もう少しよく話を聴いて判断したい。
2003 1・28 16

* 「最後の弁護人」三回目を見た。今回は謎解き・種明かし。それだけ。その分では「鮮やか」と言ってもいい、が、つまりは終始「つくり話」めくばかりで、感動は何も無い。ほろりともしない。作者の「どんなもんです」が聞こえてきそうで、拍手を献ずるにヤブサカはないが、本当は、わたしのような観客が、胸を打たれたいのは、弁護人の腕前なんかではない。
あんなに、一見感じの良いおとなしい女が、どうしてホストクラブへ行くほど性に飢えるのか、どうして殺人を犯してまであんなホストに貢ぎたいのか、その「必然」の心理と経緯を通して、人間が人間として「生きる」苦しさや弱さや醜さを「ドラマ」にして見せて欲しいのである。弁護人が主役だから「犯人の生き方」にまで手が回らないなんて、言わせない。悪人であれ善人であれ「犯人」の生きる「ぎりぎり」を理解し、その内面のドラマから「法を問う」のが弁護人劇のミソ、感動のありよう、ではないのか。
今夜のは、まとまりだけ良いが、感動は滴ほども無かった。ご都合で「謎」がホイホイと運用された。作者は、少しく「上手の手」に鼻を高くし、人間のはらんだ自然や不自然という「水=劇的感銘」のその手から漏れ出たのに、気付いていないのでは。
無期懲役の判決の出るほどの重罪事件が、わずか「三ヶ月」で結審というのも、軽いなあという印象、禁じがたし。

* 息子さんが懸命に書いているのだから、お父さんたるもの、厳しいことは書かないほうがと忠告してくれる人がいる。厳しいどころか甘い父親です、わたしは。ほめられないものを、わたしは、一心にほめて励ましているのです。わたしにしてやれるのは、批評ぐらいなもの。批評ぬきの賞賛や感動の嵐なら、他の場所で彼の耳に降り注がれている。しかし、創作者に大切なのは、褒められたことはなるべく忘れ、受けた批判に真っ向立ち向かうこと。
2003 1・29 16

* 四回目の「最後の弁護人」よく纏まって安定感もあったし、一応最後まで引っ張った。しかし、灰皿の燃えかすはともかくとして、引き出しについていた血痕、ドアノブの血痕があれぐらいハッキリ目に見えていたら、誰の血液かの判定などとうの昔に当然されていてよく、有働弁護士の云うとおりなら、なぜそこに父親の血液がついていたか警察と検事側は認識や判断を持っていなければおかしい。ドアノブについては説明があったが、引き出しとその中の手帳の血と、頁が破られてあるのとに、検察や警察が最後まで気づいていないとは、脚本のご都合がよすぎないか。真っ先に見えていていい捜査内容や証拠の筈だが。人情噺を急ぐ余り、明晰を欠くフレームアップになったのは惜しい。密室の謎のまえにそういう証跡がきちんと処理できないと、推理が、甘い甘い結果になる。
2003 2・5 17

* 秦建日子脚本「最後の弁護人」第五話は、崖っぷちから乳母車を蹴落としたと聴いた途端、反射的に、そりゃ子供を抱いたから蹴るしかないと、あっさり種が割れたから、つまり察しが付いたから、あとはそうなるための説明のようなものであった。それ以外に大きな破綻はないといえばないが、電話や投石やファックスや、ハテは鉄パイプの登場まで類型づくめなのには賛成できない。子供を抱いた女のあわれも、子供を育てられない女の活きる苦しみも、「人性」の深みにおいて捉えられた書かれたとは、とても言えない。背の高い弁護士と押しかけの「ロバ」調査員のやりとりが軽妙に笑わせる。あの女優は、間の取り方も巧みで活気があり、なかなか良い。
2003 2・12 17

* 建日子脚本の「最後の弁護人」六回目は、禁則? 破りの、前半分だけ。
しかし、画面も運びも、今までの中で尤もクオリティーよろしく、出だしから、おやおや「うまいよ」と感心していた。ま、法廷場面での検事役との張り合いなど、型どおりで、少しは変えてよと云いたいが、ま、それは続き物の場合ある程度守られる約束事かも知れない。ただ検事役の役者が芝居を投げたくなりはしないかと心配だし、気の毒である。欲をいえば「サル」君も、もひとつ冴えていない。
よく文章で推敲ということを云う。画面の運びにも当然推敲に匹敵する自己批評が必要で、その一つの場合は、ムダを書かず(見せず)に済む「手入れ」だろう。それが、今夜のはたいそううまく行っていて、画面に流れてゆく美しさすら時々感じた。これはだいじなことである。これが出来れば、科白のむだも省ける。
火曜サスペンスで、備前辺りの殺人事件を書いていた頃の建日子氏のセリフは、稚拙そのものだった。本人も分かっていて、いささか頭をさげてきたものだ。今はどうか、あの頃の彼は、「科白」という意味すら知らなかったのではないか。
「科」は「シナ」で、役者の動作を反映し、「白」は「いふ」で、言葉によりモノや場面を活かすのである。歌舞伎作者の基本の心得であった。
さすがに、うまく成ってゆく、少しずつは。真面目にやれば当然それが出来てくる。誰よりも、何よりも、自分をナメてはいけないし、自分の仕事をナメてもいけない、のだ。うまくなれば、いい仕事を見せれば、向こうから、自由の利く世界が必ず近づいてくる。
2003 2・19 17

* 何年になるだろう。五十、二年か。中学二年生だった。この日、全身でふるえた。生まれ変わった。もう孤独ではなかったのだ。 2003 2・20 17

* ウイーンから甥の北澤猛が電話してきた、二度も。なんだか不得要領で、何の電話ともよく事情が掴めなかった。
2003 2・22 17

* そういえば、わが息子の建日子は、ときどき「お友達にはなりたくないね」という「人」への批評語を口にする。若い世間で流行の語かどうか知らないが、とくに耳にもとめてこなかった。だが、そういう物言いに当てはまる人は、たしかに居る。嫌いとかイヤとか、厭悪をあらわにしないで、敬遠のていどに「お友達にはなりたくないね」とは、当世風の無難な便利な物言いなのかもしれない。 2003 2・23 17

* さ、もうほどなく十時から、建日子七回目の連続ドラマ「最後の弁護人」が始まる。今日は、ゆっくりと休日だ。

* さて、その先週に続くドラマは、一言で、ダメ。もちゃくちゃとこねていただけで、切れ味もなく哀れもない。先週がよく纏まっていての期待が、無残にはずれた。
何よりいけないのは、トランプのカードのように、人物が記号的に薄っぺらい。ドラマとは、善悪や美醜をとわず内面のぎりぎりで斬り結ぶ人間そのものの葛藤で、それが、言葉に言い尽くせないむごさやせつなさを孕んで悶えているから「劇的」なのだが、薄い紙切れのカードのように、人物がめくられ動かされるだけで、ひたぶるなものが何も感じられないのでは、もう、「ドラマ」では、ない。父親の、証人席に崩れる芝居は見せ場だったものの、自殺した娘の悲しみも、無辜の、娘の友を殺してしまう大の大人の葛藤や呻きも、生徒を孕ませた教師へのまともな批判も、友情の結晶度も、みーんな、手抜きのいいかげん。
「把握が弱ければ、必ず表現も弱い。把握が深くて強ければ、表現も強い深いものになる」とは、創作者であるわたしの根底の思いであるが、このドラマの作者は、小手先のテクこそ学習しているかも知れないが、創作者として一番大事な「人間」をナメてかかっていないか。もっと謙遜に「人間」を学ぶべきではないか。
父親の期待が大きすぎて自殺する娘なんて、型どおりの何度も聞いたふうであるが、よく考えてみよ、それほどばからしい死に方もなく、ばからしさにもそれなりの真実哀れがあるにしても、それが少しも書けていない。
半年間もの日記をご丁寧に「書き直す」のもリアリティに欠けバカげているが、それほどの手間暇を掛けていれば、その間に、そのような自殺の軽薄さに、誰より本人がふっと疑問を感じるだろう。まして娘に死なれた父親の、スポーツ人生とはまた別の、もっと深い悲しさにも「思い至る」はずのものだ。半年もの日記を書き直すなどと云う「書く」行為には、何とも云えず人間を「正気に返す気付け薬」の効果の有ることぐらい、書き手は、体験的に分かっていて欲しい。
安直に人を死なせるドラマは、罪が重い。
友人の父親に殺された娘の身寄りのことも、その怒り悲しみも、まるで書き表されていない。健康保険証を取り替え、診察・診療を一度は受けたにしても、長期にわたるそのつじつまは、現実には簡単につくものでない。ご都合主義も極まっている。やれやれ、二時間に引き延ばした甲斐がなかった。

* 闇に「言い置く」にしても、我ながらいささか過剰でばかげているが、同じ一日のうちに、天下にときめく倉本聡の脚本と合わせて貶すのだから、秦建日子も辛抱しなさい。どっちかといえば、さすがに倉本の書いた老夫婦の「人間」は、しかとモノを言って胸に届いていたのである。百日千日の長。
2003 2・26 17

* あさって建日子が帰って来るという。連続の十回分全部書き上げ、ほっとしているらしいと妻も嬉しそう。全部を全く一人で書き上げたのは初めて。いい経験をした。
2003 2・28 17

* 息子とビデオをみながら、夕食。やわらかいステーキがあった。鶏肉とキノコと薄揚げの、だしの利いた炊き込みの飯もうまかった。ニュージーランドのワインの最後の赤い一本を楽しんだ。
食事の後機械の前へ戻って、しばらくしてふと気が付くと、背中のソファへ来て、あかいクッションを枕に、黒いマゴがぐっすり寝入っている。すっかりうちの子になりきり、寝起きもともにし、かけがえない存在として我々の日々に重きをなしている。可愛い。
とても、ねむい。睡眠は短かかった、むりもない。校了もしたし、こころもちラクなのだから寝てもいいが。
あたたかくなったら、見に行きたい個展が三越で、ある。創画会展も高島屋で、ある。 2003 3・1 18

* 春の坂道
雨雪に降り籠められた日の翌朝、青い空が誘います。
雨に霞む名張川に見惚れたあくる日、水音豊かな川に沿い、山ふところへ。雨上がり、雲一片もないトルコブルーの空。眩しさを増した日射し。時折吹く穏やかな春風。浄瑠璃寺は、まさに浄土。
当尾の石仏をめぐり、岩船寺へ向かう山中、梅の花の元で、大和の眺望を楽しんでいると、鴬が鳴きました。初音です。二メートルを超える野生の蝋梅が、七、八株まとまって、満開のところがありました。圧巻。その香りの強いこと。驚きました。
そこから数メートル降りたところには、花芯の赤い蝋梅が同様に咲いていて、陽に透けた花の妖艶さに、言葉なくのけぞりました。
加茂駅へ出て、笠置温泉(かささぎの湯、ですって)で疲れを癒し、きじ釜飯に舌鼓。
木津川に沿って、伊賀上野を回って帰りました。   囀雀

* 当尾の里は、わたしの父祖の代々庄屋として在った地。いまも在る。生まれて三年あまり、祖父母や叔母叔父たちと尻枝という在に育った。
2003 3・5 18

* 秦建日子脚本の「最後の弁護人」八回目を観た。完成度は今日のが一番ではなかろうか。竜雷太というベテランに助けられて、アンサンブル自然ないいドラマになった。特別の感銘があるわけではない、特別に意外な展開でも巧妙なアリバイでもない、ただドラマの文法に格別の破綻をみせなかった点、うまい作であった。俺が犯人だが、捕まえられるものかという練達の弁護士の挑戦が、陽動作戦であるのはすぐ分かるので、田島令子の顔一つでバレているのだけれど、仰々しくやらなかったから、夫婦のあわれが出たと言えば出ていた。だが、そういう妻女の病状にたいして弁護士の情人の出方に、知性も人間味もなく、こんなくだらん女にとりつかれていた弁護士風情かと、シラケさせるところが誤算だろう。あれぐらいな男なら、あんな安い女にかかずらわないと思いたいところだが。ま、そういうものでもないかな、男と女は。ワインの持ち出し方など、わたしはそうは説得されなかった。安い手をつかうなと眉をひそめた。
だが、まあ、よかった、コレまでの中では纏まっていた。
2003 3・5 18

*「湖の本」発送用意も七割がた出来てきた。月の前半はいくらか息をつきながらやって行ける。後半は、理事会があり、そして発送があり、京都へも。おまけにウイーンの甥が一時帰国するので泊めてくれないかと電話してきた。狭い我が家では例のないことで、発送のさなかでもあり、すこし、弱る。
2003 3・7 18

* さすがに今日は茫然と疲労している。たぶん来週はめいっぱい発送仕事になる。まだ用意が全部は出来ない。いちばん混雑しているときに甥が来るというのも、ついぞないことで、対応に少し追われそう。今月は、後半がてんやわんやである。
2003 3・10 18

* 建日子が深夜に来て、昼前、また仕事へ飛んでいった。
2003 2・12 18

* 今夜の秦建日子脚本「最後の弁護人」は、きれいに纏まり、クオリティでは、ここまで九回の最良作か。出だしも、結びから予告編へも、上手であった。タイトルバックにとても恵まれている。
こういう番組では「犯人無罪」が自然の前提。その思いが底にあるから、これでどうして無罪なのかと、観客は考えざるを得ない。現場での少年達の暴行は作り話とは思われないから、それでなお無罪となると、通報者ないしは別の殺意ある真犯人の時間ずれの犯行を疑うのは、ペリイ・メイスンこのかた、いろいろ似た本をわたしも読んでいて当然察しが着く。被害者女性の聞き込み現場で同席の課長が突っ立った瞬間、こいつが絡むなとすぐ分かる。まして殺人現場が視野的な盲点にあると示唆されると、一気に全貌が見えてしまう。なぜそんな場所に課長が先ず来て隠れていたかの説明が欲しくなる。説明は、無かったと思わないが手薄であり、ま、その辺が唯一弱点であった。だが、その他では、少年の性格も出ていた。上司と部下の女との関わりよう、情けないけれどあんなところかと見えた。
純名理紗という配役に少し愕いた、意外性が利いた。今日の昼間にも、彼女と高島兄とのコマーシャルをみながら、純名理紗のようなのが、あれで日本的な下ぶくら美人の原型だろうねと妻と話していたばかり、その晩に本人が建日子の番組で殺人犯で出てくるとは思わなかった。はじめ純名だと気付かなかった。彼女は帝劇で「細雪」のこいさんを演じて地唄舞を見せてくれた。スサノオに救われる出雲八重垣の櫛稲田姫とは純名理紗のああいう顔だったろうと、わたしは、出雲神魂神社の壁画をよく思い出すのである。
ま、建日子はよくやったと、いい気分だった。ウドウ事務所の連中のかみ合いがたいへん宜しい。楽しい。ロバの須藤理彩には、何かにつけ点の辛いうるさいわたしも、殆ど手放しで満足している。ケチをつけるスキが無い。サルの翼クンもさまになってきた。
そして来週最終回の「結び」ようが楽しみだ。あんなに早々と帰らず、いっしょに観て行けたら、めったになく、面と向かい息子を褒めてやれたのに。
2003 3・12 18

* 身近な人に死なれたと、読者の家族から、また、しらせがあった。兄が自殺したと。つらいことを思い出した。明らかにイタズラの兄のアドレスでのメールも、しばらく来ない。それよりも甥の恒=黒川創は、いったいどうしてるのだろう、毎度本を送っても音沙汰が何もない。兄の遺著が出来たのかどうかもフッツリ報せてこない。そんなに忙しいのだろうか。ウインから帰ってくる弟の猛も、兄のトコロに泊まるようでもない。
2003 3・12 18

* 花粉が舞い、こういう日の百貨店は、じつに花粉函である。外を歩くことにし、「天賞堂」で時計の電池を替えてもらい、「セキネ」で少しお洒落な春のコートとシャツを妻に買った。「セキネ」は四十八年前に開店したという。四十二、三年前に、友人の家でのパーティーに着てゆく妻の純白の服を、わたしは貯金をはたいて此の店で選んだことがある。今日は二度目、なんと古い付き合いではないか。
日比谷のホテルに入り、「セゾン」の濃厚なフランス料理。ソムリエの選んだ赤ワインで乾杯した。四十四年前、二人で新宿区役所に結婚届けに行き、証人になってくれた会社の人事課長と一年先輩社員(大学の同窓)にお礼の出来たのが、たしか二三足の靴下であったと思う。一九五九年。月給はしばらくのあいだ初任給の八割支給で、九千六百円。そのうち五千円がアパートの家賃。一日の食費が二人で八十円しか使えなかった。平気だった。
五階のクラブに上がり、ウイスキーを少し楽しみ、アイスクリームで口を冷やしてから、銀座一丁目までゆるゆる散歩して有楽町線に乗った。快速であったためあやうく乗り越すところだった。家では黒いマゴが、手の舞い足のふむところなしいう喜びようで迎えてくれた。
2003 3・14 18

* さ、発送。ウイーンから帰国の甥が、用事の都合で鎌倉に宿を取ったと電話あり、作業に集中できるのが有り難い。出来た者はともあれかくもあれ、送り出さないと意味がない。
2003 3・15 18

* 幸いに「最後の弁護人」は総じて好評であった。その他の連続ドラマが、たいてい根無し草のようにふわふわした筋書き本位のツクリモノなのに比して、画面の質(クオリティ)本位に「表現」に徹したのがよく、一つの「作品」としてだんだんに落ち着いて仕上がっていった。文学的に謂えば、推敲が利いた。「ムダを省いてテンポを的確に、独特の映像化文法をもつこと」とよく本人に話してきたのが、それなりの成果をもった初の仕事になった。建日子のホームページで、落ち着いて「総括と反省」をしていたが、その語調も、ようやくミーハー的未熟を抜け出そうとしている。観衆におもねったような、意を迎えた客寄せトークばかりしていたが、三十半ばの「作家」の言葉とは読みづらかった。自分で自分と静かに語り合うのを、聞く人は聴き、読む人は読む。それでいいのではないか。彼が自分で自分を意識して「作家」と書いていたのを、はじめて読んだと思う。そこまで来れているかどうかは別として、自覚は必要であった。「どうせ」型の言い訳はもう通らない。
落ち着いて、マジメに。それだけで仕事はずいぶん良くなる。次の飛躍へはまたその時々の覚悟が出来てくるものだ、アセル必要はない。
2003 3・21 18

* 妻は学校友達との久々の再会に、東京會舘にでかけ、その留守に建日子と同居人とがあらわれて、鮨を食ってからまた車でどこかへ消え失せた。妻が帰ってこないとわたしでは自然な話題の用意がないのであろう、わたしも、同じだが。亡くなった秦の父や母とも、晩年は話題に窮したことも思い出される。息子とわたしとだけなら、お互いに似た仕事をしているのだし、その気なら話の種は幾らもあるが。
2003 3・29 18

* 少しずつ時間は減って行く。建日子とも朝日子とも、話し合っておきたいことが有るといえば有り、なにも無いようなもののようでもある。この厖大な「私語」が「死後」の用をなすとは思わないが、あのときおやじはこんなことを思っていたと知るよすがにはなるだろう。書くとは、いつも遺言である。小説を書き始めたころからそうであった。贅沢なムダごとである。この「私語」がわたしの「レイタースタイル(サイード)」に当たることだけは疑いがない。
2003 3・29 18

* 息子たちの来たとき、京の「おたべ」を土産にくれた。いわゆる銘菓「八つ橋」のヴァリエーションで好物である、が。妻の話だと、うちの息子は、もともとのかりっと焼いた菓子「八つ橋」を、「そんなの有るのか、知らなかった」そうだ。
柔らかくて餡入りの「おたべ」がもっぱら今は人気らしく、しかし、あの歯ごたえのする堅い「八つ橋」も、噛むにつれて佳い味わいなのだ、が。堅い「八つ橋」がだんだん柔らかい「生八つ橋」に移行し、今では餡の「おたべ」に。飯よりお粥という好みに似ている。
妻は息子に、業平東下りの「八橋」あの板橋、を、持ち出して銘菓の由来を教えたという。この頃は、たしかに包み紙などに杜若と八橋の繪が色刷りしてある。しかしもともとの、あのまるく背を盛り上げて焼いた、堅い「八つ橋」の形は、箏曲八橋検校に由来の「琴」の形を模したと、わたしは子供の頃から覚えてきた。
ひょっとして今では「板橋」形の平たいのと、「琴」の形に盛り上げたのと、さらに「生」のがあり、「餡」のもある、ということか。時・世を経てモノは、質も形も移り変わるということか。
2003 3・31 18

* 黒きマゴの我の湯舟で湯を飲めるただそれだけの嬉しさに笑む  遠

* イラクの、さらには極東のこの成り行きでは、いまは抑制され制御されている「核」の話題が、善くも悪しくも日本の国に沸き返ってくるだろう事を憂慮せずにおれない。
中国は核を保有し、北朝鮮も事実上保有し、むろんロシアも保有し、少し離れてインドもパキスタンも保有している。政治という超弩級の「悪意の算術」を、根が不出来な「人間」様が掌握している以上、怖ろしい予想ながら、極東に核爆弾の爆発することは必ず有るものとわたしは信じている。
個人のレベルでは相応に働く人間の叡智が、集団や国の単位になると、少しも、と謂っていいほど働きはしない例を、現にまざまざとイラクの大地でわれわれは日々に検証している。ああいうことの、この極東で永遠に抑止しうると夢想する方が、人間の心理的な弱点や油断によほど疎いと、口惜しいけれど予言せずにはおれない。
問題は、そういう根元的な破滅の事態を、どう一日半日でもだましだまし抑止して日延べして行けるか、悲しいことに人の知恵がそんなことのために必死に使われねばならなくなる。現に成っている。手もなく、我らの日本は「うろうろ」しているに過ぎない。
理想的に謂えば、現在地球上で「当然」な顔をして核を保有「出来る」権利の持ち主のつもりでいる、いわゆるアメリカやロシアや中国をはじめとする「核保有国」に対し「核廃絶と廃棄」を迫る地球規模の「闘争的要請」が組織されねばならないのだが、有効な「手はない」のだと、もう誰もが諦めているのではないか。その諦めの弱みを突いて、北朝鮮もインドもパキスタンも、強引に新たな「核の国」になり、既得権のように振る舞っている。この傾向は遺憾なことに増え続けかねない。
映画でだけ描かれてきた核の悲惨と壊滅の近未来が、まぢかに迫りつつあり、わたしたち夫婦の切望している「息子による孫」がもたらされずにいることにこそ、じつは安堵しなければならぬのではないかと想像すると、フツフツと怒りが滾ってくる。
黒きマゴよ、せめて我らとともにあれ、ともに最期の日まで。冗談じゃないぜ。
苛立って謂うのではない、どうかして一度でも東京都があげてある日のある時刻に「鍋叩き」して意思表示を揃えてみたいと、今のわたしは、せめて願う。小闇@バルセロナの昨日のメッセージを、出来れば心ある人々よ、無数のウェブに流して欲しい。
2003 3・31 18

* じつは、いま、書き込みたいことがいっぱい有る、が、妻が近所を歩いて花を見たいと言うし、わたしもそうしたい。今晩は、ある初対面の家族と会う。その前に桜の盛りを見て行きたい。
2003 4・3 19

* 保谷北町の桜を妻と探ね歩いた。去年見た、みごとな屋敷桜の雲霞のようであったのが懐かしまれて。まだ、七分ほど、もう一度来て楽しめるなあと満足した。風もなく、人出もなく、静かな見晴らしの中に大きく盛り上がる桜は、竹藪の翠や木立の芽吹いて霞む風情と優しく色よく折り合って、繪を見るよう。これで春の花は十分だと思った。
保谷駅の北口が整備されて、晴れやかに広くなった。図書館の脇にもすばらしい桜並木があり、大きな旧家の庭の内にはまだ幾分か森そのものも残っていて、西東京市などといいながら、佳い田舎の風情が残っている。
2003 4・3 19

* 夜来の大雨がまだ降りついでいる七時四十五分。六時前に雨の音に起きてしまった。雨降ってさらに地堅まりますように。今日迪子はわたしと同年になる。まだ若い。歌舞伎座を楽しもう。
2003 4・5 19

* わたしたちもこの近所の花の名残を惜しもうと、夕まぐれにかけて、散歩に出た。
先日とは逆方向、ひばりヶ丘のほうへ歩いてみた。探梅ならぬ「探花逍遙」には、例えば花の名所の千鳥ヶ淵や上野や大岡山へ行ってばあっと夥しい花盛りを眺めるのと、すこしちがう風情がある。武蔵野の面影をしのびつつ、宅地や畑地や街地をそぞろ歩いて行き行くうち、あちらにこちらに家木にまじって絢爛と咲く桜の花木に行き当たる。
あああそこに、ああここにも、向こうにもと。一人だと寂しいかも知れないが、妻と、目配りしながらお喋りしながら、この道をまがりあの道へ寄り、宅の、公園や学校の、広場の、建物のかげへも裏へも足をはこんで、びっくりするほど巨大な桜樹や並木やまるで守護神のような家桜にずいぶん多く出逢う。いつしかに思いも寄らぬ遠くへ来て、見知らぬ初めての道を楽しんで歩いている。夕暮れて行くにつれ花影は濃く重々しくなり、街の明かりが花を匂わせる。
妻もわたしも今年は溢れかえった花見はしないで、こんな保谷の里桜を尋ね歩いて花季節を終えることになるようだ、いや、まだ分からないけれど。

* けっきょく、おおまわりして、ひばりヶ丘の街に入り、なじみのビストロ「ティファニー」で、妻はあっさりのパスタ中心に、わたしはこってりとシチューやソーセージを食べて、じゃがいものスープ、ほうれんそうのパン、そしてメロンのアイスクリーム。散歩のハテには佳い晩ご飯で、赤いワインもコーヒーも結構であった。
ここは食べ物が気に入りの店、内装などはごく冴えないが、シェフが自然食品にもこだわっていて、自家製のものを吟味して出してくれる。
ひばりヶ丘からは西武線を一駅乗れば保谷に帰れる。なに、保谷もひばりヶ丘もおなじ西東京市のうちだから、普段着でらくなもの。
2003 4・7 19

* 三時間ほど「熱」に揉まれながら寝入っていた。目に見えてラクになったとは言えない。喉に、痰がいがらく絡んでいる。辛抱してもう少し寝ていよう。

* また三時間ほどとろとろしていた。かすかにラクか。横ばいで咳き込めばひどい。頭は働いている方か、総会報告書も二点用意した。プリントもした。
今、長い新作を、妻がひたひたと読んでいる。六百枚を越すのだから、ひたひたと読めて行けば有望だ。まだ分からない、どんな辛辣な批評が飛び出すか。

* 妻はほぼ一日掛けて読み上げてくれた。案じたほどはボロカスに言われなかった。これだけのものをテレビも消して読みふけるというのはラクな仕事ではないのだが。ま、少し安堵している。

* やはりしんどい。明日もわたしは出掛けまいと思う。寝て直すより仕方がない。
2003 4・11 19

* 午後の大半を寝ていた。咳も痰もひどく、頬から額へ仁王さんのように薄い炎がそって巻きあがるようだが、苦痛は肩から背中から腰への欝熱した痛み。その間にも、個人情報保護法案、最期のつばぜり合いのように、各団体で個別に(大同団結に間に合わず)声明を用意。ペンでも言論表現委員会が軸になり、声明案がファックスで届いた。むろん賛同し一任した。

* この三日、建日子達が八ヶ岳の方へ小旅行中、彼等の愛猫グーを預かった。黒いマゴの二倍以上も大きいが気の優しい猫で、妻にもわたしにも心を置かずよく甘える。二匹の猫たちの互いの気配りはどんなものとも分からないが、いと静穏に対峙して、かしこい。
そのグーも、いま建日子達の車で帰っていった。わたしがこの風邪、妻にも兆候があり、若い二人を家に上げてお茶一杯飲ませるのも避けて、戻って貰った。彼等「保谷武蔵野」で食べて行こうとして、アトカタも亡いのに仰天したらしい。
2003 4・13 19

* わたしの症状は、避けがたく、妻に移行している。わたしの方はやや右肩上がりに少しずつ快方へ向かうのかも知れないが、胸に喉に含んだ咳源は、依然ちいさな刺激でも激発しそうな按配。しかし、髪の毛にふれても痛くはない。熱ないし風邪気味は薄れているようだ。
こういう体調で電話口に呼び出されるのが、つらい。もともと電話は、掛けるのも掛かってくるのも好きでない。メールだと、読んでよく考え、こちらのいい時間に相当な返辞が出来る。緊急即決を要する用件はこの限りでないが、メールでいいものは、そう願いたい。
2003 4・16 19

* 妻は近くの病院に抗生物質を投薬してもらいに行っている。
2003 4・17 19

* しばらくぶりにひどい咳もなく眠れた。八時前に床を離れた。五時間ほどは寝ていたことになる。刻限をはかって病院に行く。妻の方がいまは症状がひどい。
寝ていられる限りは横になり、体熱はうまく、いくらか強制的に発汗させて、体疲労が多く溜まらぬようにした方がいい。風邪を引き添えないのが肝心だ。できるだけ排痰は上手に励行した方がいい。
2003 4・18 19

* このところテレビをつけるとよく巨人阪神戦をやっていて、しかもいつ見ても阪神の調子がいい。
何といってもわたしは関西人、また子供の頃の巨人阪神戦は別格の盛り上がりであった。ま、自然に阪神贔屓だった。わたしがプロ野球の存在に気付いた頃は、阪神に若林忠志という軟投の名投手が監督もしていて、一番呉、二番金田、三番別当、四番藤村、五番土井垣などがいた。別当はすこし遅れた入団だったかも知れない。そして後には名遊撃手吉田義男がいた。三宅という眼を怪我して引退したいい三塁手もいた。そんな頃の記憶にある巨人の監督は三原や水原で、千葉や川上がいた。川上が赤いバットで、他球団に青いバットの天才ホームラン打者大下弘がいた。わたしは、阪神の若林、藤村そしてこの大下が好きだった。南海の山本(鶴岡)という監督三塁手も、かしこそうで磊落で好きだった。
そうはいえ、むちゃくちゃの野球少年ではなかった。なにしろグローヴを買ってもらうのに死ぬほどながく辛抱し辛抱したし、金のかかることは自分から避けていた。視力の弱さで軟式の速球に追いつくのもニガテだかった。その点、歌を作ったり、叔母にお茶を習う分には金がかからなかった。
野球場へ公式戦を観戦に行ったのは、一度だけ父の連れて行ってくれた西宮球場。片方が南海ホークスであったこと、南海の一塁手飯田がライトにホームランを打ったことだけ憶えている。かなり退屈したような覚えもある。
東京へ来てからも、高校野球もプロ野球もテレビでは観ている、ときどき。我が家は夫婦して野茂投手の心酔的ファンで、イチローも松井君も好きである。出来るスポーツマンはみな大好きである。気持が佳い。現役の頃より監督になってからの星野仙一にも好感をもっている。あれは「いい」男前だ。

* なんで、こんな思い出を。じつはじつは、或る同僚委員が、この連休中に、事情で不用になりそうな後楽園ドーム巨人・広島戦のネット裏の券があるよ、使いませんかと誘ってきてくれた。ウーン、嬉しい。
地下鉄で見ては通るが、ドームに入ったこと、ない。なんだか、ワクワク、感謝して厚意に甘えることにした。妻も、ワケ分からずにウキウキしている。「少しぐらい咳き込んでもいいしね」とは、この際、言えている。嬉しいので、ふと、大下や藤村の雄姿まで思い出した。なに、写真でしかみたことは無いのである。
2003 4・30 19

* 黒いマゴ君の体内時計の正確さには参る。明け方の五時半になるとむっくり妻の寝床から出てきて、戸外へ出してくれィと、黙って何かしらサインを出す。時に示威行為めく。妻は白河夜船をきめこみ、わたしが起きて玄関や台所口から外へだしてやる。五時半では血糖値を計るには早く、起きてもいいが、寝たのが二時間ほど前のことだし、で、もう一度寝ると、起きにくい。なぜかなら、この暁の又寝に入ると、あれだけ咳き込んでいたのに咳が出ないからだ。いいことは二つないもので、寝坊が過ぎる。
2003 5・2 20

* 遠足前夜にウキウキした小学生ではなかった。体力がなく、ただ疲れたからだ。が、嬉しい期待のある前夜は寝ていられないような、子供っぽいところがある。二時半まで藤村その他を読みふけり、そして五時半、ついで六時半には床を出てしまった。めずらしく黒いマゴは、昨夜はこの機械部屋のソファで安眠したらしい、いまものんきそうにかすかに頚の鈴を鳴らしている。
2003 5・3 20

* 黒いマゴも、美青年になった。たまたまざらりとソファに拡げた濃い桃色の毛布と空色の毛布とのはざまに漆黒の細身を横たえて、金に黒瞳をまるくみひらいてわたしの顔をじっとみていると、美しさに息をひく。
五月の花は彩り多く種類も多く、テラスにも物干しにも書庫の屋上の土庭にも、隣棟の広くはない庭にも、青葉を奏でるように花がたくさん咲いている。チューリップのように過ぎて行く花も、著莪などの盛りの花も。都忘れもその辺りに。
2003 5・4 20

*「初めて一人で暮らした部屋は地方都市の外れ、学校の裏門から畑を突っ切ったその先にあった。新築の2階建てのアパート、106号室。1階で、周りより少し低い土地に建っているにもかかわらず真南に向いた窓のせいで、太陽が出ている限り、部屋の中は白く明るかった。
黄色いカーテン、実家から持っていったベッドとチャンネルを回すタイプの赤い小さなテレビ。白い扉のクロゼットの中には服と本が半分ずつ、廊下に据えられたキッチンには小さな冷蔵庫、その向かいにこれも小さいながらトイレとは別のシャワールーム、隣に洗濯機二槽式の。キッチン右手つまり玄関の脇には大きなすりガラスがはめられた上げ下げ窓があって、そこを開けると部屋には気持ちのいい風が通った。」
東京の小闇が書いている。へえッと声が出た。わたしの新婚の住まいは、市谷河田町の元のフジテレビ裏の崖下だった。六畳一間の中に半間幅で押し入れと同じ深さのガス台の置ける流しがついていた。押入が一間。トイレも浴室も無し。家賃五千円。給料は最初の三ヶ月は八割支給の九千六百円。交通費も自弁。しばらくは、カーテンも卓袱台もなく、ラジオの空き箱に風呂敷を置いて二人で飯を喰った。そんなものだと思っていた。昭和三十四年。
それからどれほど経っているのかな、小闇さんの学生生活まで。眼をまるくするほど豊かで明るい。
娘夫婦が初の新居を長津田に持ったとき、妻と見に行ったが、その豪勢に物の豊かに揃っていて文化的なのに、仰天した。こんなに揃えておかないと結婚できないのかあと、少しは呆れた。
スタート地点での格差は、しかし、先々をべつに証明はしない。わたしたちは、あの凄まじいビンボーから、何の苦もなく社会生活していた、そんな物だと思いこんでいた。今になればあれで、たいへんなトクをした気がする。
2003 5・4 20

* 麹町へ用足しをし、その足で久しぶりに静かな店にゆき、二時間あまり、本一冊の半分あまりを、一気に校正した。気のいいことであった。昔の職業経験からも「校正は優先」という心慣いをもっており、手が付かずに放ってあるとストレスになる。我が家では今書き机がものの山になっていて、落ち着いてゲラがひろげにくい。
数ヶ月ぶりに「美しい人」が迎えてくれた。昼夜の勤め時間のちがいで、いつもいるとは限らない。今晩は、持ち場は違っていたが、校正している途中に二度お酌に来てくれた。帰りには丁寧に見送りに出てくれた。それだけ。名前も知らない、それはいい。明るい場所で気持ちよく仕事のはかどったのが有り難く、「美しい人」が来てときたま短く声をかけてくれ、結構であった。懐石もよく工夫してあり、うまかった。あれで、酒器にもうすこし趣味があるといいのになあ。
帰りに、食パンと、餡のバン、クリームのパンを二つずつ、保谷駅で買って帰った。黒いマゴが門柱の上に姿よく坐り、待ち受けていた。「マゴ」と声をかけると一言ながく答えた。好日である。妻の言うのに、マゴは台所のわたしの椅子の上で寝そべっていたのが、いま、すすすと、外へ迎えに出ていったのよ、と。足音が聞こえるらしい。
2003 5・6 20

* 夕過ぎてまだ豪雨。その中を建日子が仕事へと戻っていった。昨深夜に来ていて、今日昼飯から五時まで、三人で四方山の歓談。 2003 5・20 20

* 私たち夫婦が、もう十余年、顔も見られない愛しい孫の一人である、「押村やす香」の名前が、パソコンでの「検索」で思いがけなく拾えたのは、しばらく前であった。登戸の辺にあるらしい「カリタス女子中・高等学校」のサイトに、英語での意見発表会に入賞し表彰されている記事が出てきた。記事はやす香が中学時代のもので、指折り数えれば今は高校一年生のはず。中高一貫校らしく、普通にいえば高校へ進んでいるのだろう。
今も目の前に、まだ幼稚園頃の可愛い姿で撮った写真がある。我が家の玄関前で、祖母「マミー」のカメラにポーズしている。それが、もう高校生にも成っているという実感がなかなか湧かなかったのに、こういう記事にでくわした。妹の「みゆ希」は小学校六年で、赤ん坊の頃に祖父母は僅か二度だけ顔を見ている。わたしに抱かれてわたしの鼻をおもしろそうにつまんでいる、みゆ希。
娘「朝日子」のことは、措く。やす香やみゆ希の成長ぶりを見ることなく、祖父母と孫とが暴力的な隔離を強いられているのは、孫たちをいわば人質にされているのは、ちょうど、あの孫娘と確定はしても、逢いたくても逢いようのない横田めぐみさんの娘ヘギョンちゃんの祖父母に、そっくり似ている。

* 事情不審とみて、何人もの人が中に立とうかと声をかけてくださるが、すべてご遠慮している。ただ、やす香ももう高校生で英語が得意であるなら、インターネットにも興味や関心があるのではないだろうか、「マミー」との間でメールが通じ合えたたなら、どんなに妻が喜ぶだろうと、それだけは夢見ている。
2003 5・20 20

* 東京の小闇のようなまさにプロの機械にでも、ときどき故障が起きたりするらしく、ニコニコしてなんだか安心してしまう。滞っていた「闇に言い置く」の五本もが一気に公開で、一つ一つ楽しんだ。昨日来ていた息子ともそれで話し合ったりした。
息子がなぜかわたしにデジカメが使いたいかと聞く。わたしはその「概念」すら実は頭になく、だから、息子にどういうのが欲しいんだと聞かれても、「どういうの」の答えようがない。買うなら「そりゃ、いいのがいい」と言うと「いい」の意味がいろいろ有るんだそうだ。お手上げ。で、べつに欲しくなんか無いよ、で、話は落ち着いてしまう。

* 一太郎の16を買ったとき、ついでに余計な花子というのまで買ってしまった。使いようもよく分からないので、粗大ゴミなみにインストールされたまま顧みもしないが、「自在眼フライト」とやらは重宝している。いつのまにかかなりの写真館を機械の中にもっているが、その一つ一つが、このソフトで、大きさなど自由に替えて見られる、それだけを嬉しがっている。
以前はホームページの中に写真が何枚か入っていたのに、いつのまにか、消え失せてしまったり、ワケ分からずにやたらサイズが増しに増してしまったり、辟易している。新たに入れようとしても、入れ方もとうに忘れてしまった。
しかし、秘蔵の美智子皇后さんの成婚直後の「取材接近」写真や、沢口靖子とのツーショットとか、愛蔵の朝日子や建日子の小さい頃の写真とか、ことに秦の両親が建日子を抱いて嬉しそうなのや、また祇園界隈の四季の風景や、さらには、当尾吉岡の実の父方の大きな屋敷の遠望など、これがわたしの煙草がわりであり、そのときに「自在眼」は役立っている。
こういう秘蔵写真館の拡充ににデジカメが役立つよと息子は言うのだろう。要するに眼うつりするほど種類があるのなら、そこで迷うのはイヤだから、ま、いいよとなる。機械を買うときは、たいがい困惑する。
それよりも、手を使ってものを書くのを、忘れまいとしている。
2003 5・21 20

* 八時、妻に起こされ、朝食。九時半には宿を出て、加茂大橋東の菩提寺へ。
叔母の十三回忌に、晋山式を済ませて間もない新住職と前住職とわれわれ夫婦とで、一時間ほどお経を誦し、父や母の分もいっしょに卒塔婆を立ててお墓参りした。親類もない。叔母は九十二でなくなり、父も母も九十余歳で、三人とも妻の世話を受けて東京でなくなった。大した何もして上げられなかったのは恥じ入るばかり申し訳ないが、百日、一年、三年、七年、十三年と、欠かさずにお参りした。もう、母の十三回忌をのこすだけになった。
奥の庭も前庭も草木美しく緑に映え、もう夏萩のしろいのが咲いていた。墓地では、風に卒塔婆の鳴るのを聴いた。上乗の好天であった。鴨川も比叡や東山も、申し分のない京都五月の華やぎであった。
2003 5・29 20

* 流れ込むように六月が動いてゆく。今日などが、本来の暦で云う五月晴れか。遠くで飛行音が二つ重なり捩れあいして、のどか。庭に小鳥の来るのを黒いマゴは、じっとテラスにいて待っている。昨日はたてつづけに三羽もしとめて自慢そうに見せにきた。ほめてもやるが、小鳥にもつかまるなよと胸の内で。
2003 6・3 21

* 珍しく自宅に来客を迎えた。設計士の太田さん。家の中も見て頂き、三時間ほど歓談。我が家は、二棟に夫婦二人で住みながら、二棟ともがまるで物置のように窮屈になっている。どうしようもないことを、専門家の目といっしょに再確認した。いろんなことが面倒臭くもなっている。物をあっちへ動かしこっちへ動かししてみても始まらない。家に職人が入ったときに、わたしの仕事がその間どうなるかを考えると、煩わしさにもぞっとする。
2003 6・7 21

* 自分のからだをしげしげと見回すと、満身創痍にちかくひっかき傷だらけ。暑くなり肌を外へ出しているからよけいだ、黒いマゴがわたしをいい遊び相手にして、退屈すると「遊んでよ」とわたしを挑発にくる。挑発に乗ってやり、つまり、むやみやたらと引っかかれてしまう。仕方ないか、マゴのことだ。
2003 6・29 21

* 妻がすっかり由起しげ子にのめり込んで、文学全集に入っていた幾つもの作品を殆どもう全部読んでしまったというから驚いた。波長がよほど合ったものか。
2003 6・30 21

* 秦建日子が好調にガンバッテいる様子、けっこうだ。どんなふうだか、少し彼自身のコメントを、ホームページから紹介し宣伝しておこう。

* 7.1 迷ったら、とりあえずやってみる。
昨年の9月から、毎月月末に、会費の3000円さえ払えば誰でも参加可、という飲み会を主宰している。月末に行うので「まつ会」という何のひねりもないネーミングのこの会は、しかし、回を重ねるごとに参加者が多彩になり、思わぬ出会いがあり、話題も多岐に渡り、ともすれば目先の仕事ばかりに追われて、ド近眼になりがちな私にとって、欠かせない心の洗濯日となってきた。
始める前は、ごく近い身内ばかりのせこせことした寄り合いになったら嫌だなと、ずいぶん迷いもしたが、杞憂だった。始めてよかったと思う。
5月から始めた演劇ワークショップ「TAKE1」は、事前の予想をいい意味で裏切り、二ヶ月たった今も、脱落者はいない。毎週、9時間、きっちり稽古をしている。
始める前は、他の仕事との掛け持ちになることを心配してくれた人もいたが、逆に、ドラマの脚本に対しても集中力が増したと思う。
1年間の期間限定だが、その後も付き合っていきたいと思える役者も、既に数人いる。もう少し暇になってから、などと言っていたら、永遠にやれなかっただろう。こちらも、始めてよかったと思う。
秋ドラマの取材のために、私の元・勤務先である㈱ジェー・シービーを訪ねた。御茶ノ水から移転した青山の新オフィスは実に美しく機能的で、自分のことながら、「こんな大きな会社をよく辞めたよな」と思う。と同時に、何の勝算もなくても、スパッと辞めて新しい世界に飛び込んでしまえる性格こそが、自分の唯一最大の武器なのだとも思う。一度きりの人生なのだ。楽しいと思えることだけをやっていきたい。
秋ドラマ、7月10日に顔合わせ。撮影は、14日から。キャスト陣は、掛け値なしに素晴らしい。文字通り「役者が
揃った」感がある。脚本、相変わらず快調。乞う、ご期待。

* かなりアケヒロゲ。親ゆずりか、若さか。
若ければこそ、「楽しいと思えることだけをやっていきたい」という「だけ」だけは、気になる。それは老人の科白ではないか。若ければこそ楽しいことだけで済まされない「悪戦苦闘」があった。それにどう挑んで堪えたか。少なくも仕事の質はそれで左右される。必ず、と言っておく。
2003 7・4 22

* うまいお握りとカップ酒とを窓に置いて、ゆっくり遠くへ電車に乗りたい。黒いマゴも連れていってやれるといいのに。
2003 7・15 22

* 秋九月から始まるらしい連続ドラマのもう六回分まで書き上げてきた息子が、秦建日子が、一人で夕食に帰って来た。三人と一匹とで嬉しい夕食であった。食後には、わたしたちが今や大のお気に入りの「アメリカン・プレジデント」を三人で観た。
気持の佳い映画はこれだけではないが、それでもどこかで心に暗い影も落ちるように創ってある。偽の大統領が善政をしく「デイブ」だって気持はよかったが、ほんものの大統領は腹上死して遺体は匿されていた。
だが、この、もうわたしは四度目にも成る今夜の映画は、マイケル・ダグラス大統領とアネット・ベニングとの純な恋愛映画でもあり、それをアネットは絶妙の演技で光り輝かせているのである、魅力的に。それは魅力的に。
この映画をたまたま観たのは、いつであったろう、本の少し前である。そして、このアネットの、恋もするが政治的なロビイストとして抜群の才能ももった魅惑には、素直に降参してきた。わたしの気分は、アネットの演じるこの女性の優しさや輝かしさに薫染されて、すこぶる幸せですらあったことを認めざるをえない。

* 建日子は、この闇に言い置く「私語」のなかで、わたしが、ときどき「美しい人」の店に行き、お酌などしてもらって嬉しがっている、あんな事は書くなよと苦言を述べて行った。劇作家でテレビドラマの脚本家の言い出すことであろうか、やれやれ。そんなことでは、男ごころも女の像も、優しくは書ききれないぞ。
その店がどこにあるかも、わたしは書いていない。妻も知らない、話したことがない。しかしその人の名前もまたわたしはよく知らない。むろん店の外で逢おうという気など少しもないし、誘ったことも一度もない。ただもう、その若くて品の佳い、言葉も美しい「美しい人」を見ていると、にこにこと自然に機嫌が良くなり、食事はともかく酒がうまくて、少し呑み過ごし気味になるのが、難といえば難であるが、忘れていると「お注射、なさいましたか」と注意してくれるし、食べながら飲みながらの校正の仕事なんかにも、読書にもイヤな顔はしないし、けっして余計なことを話しかけてきたりしない。店は明るい、わたしはゆったりくつろげる。店中で、なんとなくこの難儀そうな映えない老人客を許容してくれている。
そういう店とそういう「美しい人」の有るなんて、なんと平和なおやじの休息だろうと、息子はむしろ羨ましがっていいのである。わたしはその「美しい人」を息子が妻に欲しいといえば、即座に賛成したいほどである。女の人の年齢恰好などわたしはよく判断できないが。
ま、それはいいよ、しかしホームページになんぞ書くなよというのが息子の忠告らしい。しかし、書きたいことを「私語」してもいい「闇」なのである、此処は。聴くのがいやなら、耳をふさいでいれば宜しい。わたしは、こういう店が一軒だとも書いていない。何軒も欲しいなあと思っているのである。わたしは「いい男前」になんか何の興味もないが「美しい人」は此の世に必要である。品がよくて優しければ、で、あるが。

* 潮騒を聴きながら満月を観ようと、用意しているとか用意していたとか。満月はいいが、すこしやつれかけた月の風情も美しいと思う。海と月と。佳いにちがいない、が、心は騒ぐかも知れない。わたしは山の上の月が好きだ。京都には丹後まで行かぬと海がなかった。
2003 7・20 22

* 海外へ心誘われることが、たまに、有る。しかし、旅行線を延ばすことには関心が無く、落ち着いた都市か街にしばらく滞在し、また帰ってくるというのがいいだろうなと、メールに書いていた、それへ、読者からの示唆である。実現はすまいけれど、昨日も息子は黒いマゴの面倒ならみてやるよと言っていた。あの「打ち合わせ」作家サンののべつまくなしの奔走をみていると、ちょっと安心しては任せられないし。
行くとすればフィレンツェや、もう一度、サン・ペテルスブルクがいい。グルジアのトビリシもとても懐かしい。そうトビリシのようなところに二週間ほどホテル住まいが出来ればいいが、あそこへの飛行機便はややこしかったし、またコーカサスを飛び越えての着陸がおっそろしく凄かった。飛行機が木の葉のように揺れた。
2003 7・21 22

*  花火大会 7月26日(土)  秦先生、ごぶさたいたしまして、申し訳ありません。恒例の隅田川花火大会です。いつも通りですが、もしよろしければ、お出かけください。お待ちいたしております。追伸、ご報告したいことたくさんありますが、別便でさせていただきます。

* そうら、来た!! 隅田川花火へのお誘い、望月太左衛さんから、屋上特等席へのお招き。雨、大丈夫かな、例年は梅雨などとくに上がっているのだが。
嬉しい。何をほっぽらかしても、行きたい明後日。
太左衛さんはいつも間際に声を掛けてくるクセで、妻とも、たぶん前日だろうと心待ちにしていたが、一日早かった。ただし、妻の体調がやや落ちている。明後日の夜までに元気になるかな。花火の行きはよいよい、帰りはなかなかたいへんなのである。
2003 7・24 22

* また家の妻と、白いワインを抜き、買ってきたチーズを堪能した。もうそれで夕飯の代わりにしてしまう。扇雀丈の後援会から、歌舞伎座朝昼晩三部通しの「とちり」席が届いていた。
妻は少し体調がゆるんでいるので、明日の花火は失礼するわと言う。あの人波溢れた浅草からの帰りを想うと、無理はさせられない。わたし一人なら、言問通りを、駈けてでも鶯谷まで帰れる。心配は、雨。
2003 7・25 22

* 筑摩書房の中川美智子さんに手紙をもらっていたので、返辞と原稿とを送った。信州馬籠の方からも手紙が来た。演題を送り、交通について問い合わせた。
で、二時。妻にはやや今夜の花火はきついようだ、一人で行くことになる。涼風に吹かれて美しい天をふりあおいでこよう。母親の代わりに息子でも一緒に付き合ってくれるといいのだが、例の打ち合わせ打ち合わせ、と。
2003 7・26 22

* 銀座から地下鉄浅草線に乗り、例年のように花火人気に沸く満員電車で、浅草まで。ことしは、少し少女達の浴衣の感じが落ち着いていた。
たいへんな人出、浅草で路上へ吐き出されて、とっさにどっちがどっちと方角を惑うありさま。それでも仲見世を通り浅草寺に遙拝し、間違えずにめざす所へ辿り着いたのが、折りも良し、七時前。佳い感じに出迎えられて、ビルの屋上に好きな場を選んで、いろいろと振る舞いにあずかった。
日本酒。おでん。漬け物。握り飯。その他いろいろ、みな親切にしてくれて、太左衛さんも気軽に顔を見せては、わたしに、娘の真結ちゃんを紹介したり、なにかと、気を配ってくれ、至極居心地が良かった。
そして花火は、言うことなしの美しさ、豪華さ。八時半まで堪能した。宝生流の東川光夫氏も来ていて、長谷川操さんも。二人とも久しい「湖の本」の読者であるが、長谷川さんとは初対面、男性だと思いこんでいた。楚々とした和服の美しい人であった。
花火の魅力は、言いようがない。あわれの美であろうか、何度も何度もあまりの宜しさに拍手しながら、いつもほろりと寂しかった。妻といつも一緒で、独りきたのは初めて、それもこたえていたが、花火そのものに譬えようもない哀情の美しさがある。江藤淳の自殺した頃に花火を観たのも、その延長上で兄が自殺したような気がするのも、遠い昔でまた昨日のようである。ひとりで、しんとして見上げていると、美しければ美しいほどわたしは寂しい気がしてならなかった。で、奨められるほどに酒を飲んでいた。
太左衛さんは、階下まで見送ってくれた。ありがとう。
花火の後の浅草は人で溢れている。わたしは鶯谷まで歩いて行こうと決めていながら、気が付くと、「米久」の店で特上のすきやきを喰っていた。酒は櫻正宗。うまかった。浅草では此の店によく入る。
言問通りでもう車が拾えたので、鶯谷まで行ったのは覚えている。しかし、次に気が付くと西武線の秋津にいた。降りて保谷へ逆戻りした。
寝過ごしていろんな所へ行ってしまうのは、イヤではない。体験としては新鮮である。酔っぱらったフリして、いやいやホントに酔っているのであるが、妻に電話してくだを巻いてみせるのも面白い。ほとんど相手にされないのも面白い。

* さて、これからは何が何でも、藤村の話にメドを立てて置かねば。
2003 7・26 22

* 朝日子は、何歳になったことか。指折り数えるより先に、誕生日を祝って、父と母とは、おまえの健康をねがいながら、朝一番に赤飯を食しました。なにも贈ってやれないが、インターネットが使えるなら、「ペン電子文藝館」の随筆欄、門玲子さんの「江戸女流文学に魅せられて」を読んでごらん。(この父が送り出している「私語」が読めているのかどうかも、知らないが。)
おまえが、誰よりも強く内心に願っていたある種の「活躍」は、すべてもう主婦として断念したのかも知れない。が、地道に息の長い研究や調査や、才能が無いではない散文や詩作でも、まだ根から枯らすには惜しいと、父は思っています。おまえにはシンドかったのかも知れないが、それだけの鍛え方もしたし、頑張る父の背中を十分見て育ったおまえのことだ。夢にも思わなかったお前の弟、秦建日子のほうが、曲がりなりに創作者として踏み出し活躍していること、それも「現実」なら、おまえにも「新たな現実」の可能性は、少しもまだ無くなっていない。心行く日々を過ごしてくれるように。
子供達には険しい時代環境になっています。孫・やす香やみゆ希の豊かな成長を、よそながらジイヤンとマミーとは心から願い祝っています。せめて孫達からマミーのパソコンにメールが飛び込んできたら、どんなにお前の母はよろこぶか。やす香が、登戸のカリタスで高校生になっていることだけは識っています。
元気に、暮らしていてくれれば、いい。
2003 7・27 22

* 二階の北の窓のあいたところへ、昼下がり、珍しく小鳥が来て、小さい羽音をさせて翔び去った。なにを思ってか。姿は見なかった。すこしどきどきした。
一日、いろんなことをして過ごした。
2003 7・27 22

* 余裕を持って書いている。書くことでますますこの人は確かな生活者になっている。ベンジャミンやパキラ。その他もろもろの植木鉢とわたしの妻はいつも楽しそうに格闘しているので、書かれている感じがよく分かる。
二人とも、何とはなく、「花火」にふれて書いている。闇をへだててたしかに呼応する挨拶の声がきこえるようだ。
朝日子からも、自然で柔らかな彼女の持ち味であった散文が届くといいのだが。
みんな元気でいて欲しい。
2003 7・27 22

* 秦建日子のホームページを久しぶりに覗いたら、こんな予告が冒頭に。「おやじは、かおをしかめるよ」と、先日帰ってきたときに予防線を張っていた。ふざけた芝居でなければ、いい。
犯罪モノは、ふつう犯人を追いつめる側が主になるようだが、犯罪を犯す側が主になって進めるドラマらしいと、母親を通じて漏れ聞いている。三回目ぐらいまでは黙ってみてくれよと、二重に予防線を張っている。
眼をつぶって見ようか。
浅野温子はあたりはずれあるが、活気はある。活気がドタバタにならなければ魅力ある女優で、うまくすれば、逸材である「雨あがる」その他黒澤映画での原田三枝子に近づける。北条時宗の母親役はまずまずであった。

* 10/15より毎週水曜22時! NTV系にて、また連続ドラマを書きます。
「共犯者」 主演  浅野温子 三上博史
既に、クランク・イン。 脚本は、現在、6話を執筆中。
2003 7・29 22

* お互いに度し難いと思い合っている友人というのは、世にたくさんたくさん在るにちがいない。度し難いの反対なんて方が、めったに無い。
度し難さの、たいていの理由の最たる者は、自己装飾のための固定観念で、この誘惑から逃れ出ることは容易でない。コケの一念、オコの沙汰、思いこんだら命がけ、で固まってしまう。では何にむかってそうなるのか、そのバラエティーこそが、「人間」のさまざまな変種をつくりだす。
そんななかで、わたしのイヤに感じる一つは、社会的なモラルにあてはめた自己の美化であろうか、わたしはこんなに人道的にいいことを自然にしているのだという確信の持ち主は、何をもってしてもテコでも動かない。わたしを育ててくれた父は、中年過ぎてから、不平の裏返しの正義派に凝り固まって、かなり周囲を悩ませた。その反動で、わたしは正義をほとんど信じも行じもしなくなったし、へんな正義派より、恥じ入っている偽善者の方がマシかも知れないと思いつつ、大人になった。なに、それは裏と表の関係で、同じシレ者なのである。お互いに度し難いと思いながら親子をやれていたのがそれを示している。
2003 8・2 23

* 夕方郵便物をポストに運びかたがた、近くでパンを買ってきてと頼まれた。パンのついでにお酒のスーパーを覗いていたら「桂花陳酒」をえらく安売りしていたので、千円札あまりで二本買って帰った。機嫌良く呑みながらアンソニー・ホプキンスのビデオ映画をみて、簡略な夕食に流れ込んだ。そのあと酔ったまま宵寝をしてしまったらしい。妻のテレビを観ながら黒いマゴと機嫌良く話している声に、もう朝なのかと起きてみたら、夜十時半で、戸惑ってしまった。こんなことも有る歳になったか。
2003 8・3 23

* 夜前遅く遅くに隣へ建日子が帰っていた。今日はわれわれと昼飯を一緒にし、一時半頃大泉学園で例の「打ち合わせ」にと出掛けていった。夕食は一緒にしたい、帰ってくると。忙しいのはけっこうだが、かなり疲労している様子。夏に負けぬよう注意してくれよ。妻も本格の夏にはいつて、七月以来、体調は万全でないように見える。気を入れ気を付けて、大事にして欲しい。
睡魔に屈して、仕事も投げ出して暫時の熟睡を願ったが、電話に二度三度と中断されて深く眠れず、やや胸の当たりムカムカしながら起きた。
2003 8・8 23

* 息子と夕食のあと、黒澤明の「羅生門」を観た。京マチ子、佳いなあ。森雅之の芝居も、みごと。千秋実の僧がやわらかいいいシルエットで存在しえており、確かさに感心した。羅生門のセットが、磚を敷いた地面といい柱の大きさといいホンモノの質感に溢れて生ける如くであるのにも、いつもながら、感じ入る。
一つの映画を一緒に観ていると、息子がどれほどの思いをしているのかが、それとなく受け取れ、父親は興味深い。彼の今の身過ぎ世過ぎでは、やむなく創るもの創るものが軽薄以上に出ることは事実上難しい。現に彼がよほど真面目に創った「最後の弁護人」のようなドラマでも、「羅生門」のいかなるワンカットにも遠く及ばないのは、次元も異なり余儀ない現実ではあるが、こういう「達成も」世の中には有る・有った、と痛いほど覚えていて損にはなるまい。できるだけ佳い・楽しい・問題意識のある映画をいっしょに観るようにしているのは、それが我々の最接近できるジャンルだから。会話している以上に会話が出来ていると思う。

* 村上春樹が世界一の小説は「カラマゾフの兄弟」だと云っていた、だから読んでみようと秦建日子は初々しいことを謂う。ま、いい。が、その程度のモチーフからあの長大作が読み切れるのだろうか。基督教への認識を或る程度以上に作品は要求してくるし、ロシアというヨーロッパでありながら世界の僻地でもあった風土の、分厚い世界苦にしみじみ触れるには、内発する自身の動機に強烈に尻を押されないと、取り組むだけでも、難しい。とはいえ、あれほどの作品をたった一度読んでなにか獲ようと云うのは無謀であり、少なくも三度繰り返し読まねば、作品世界の朧な把握すら、容易でない。
しかし、それがよいと思ったら、ためらわずしてみればいい。した方がいい。そして父と話しに来てくれるとよい。
独楽は今軸傾けてまはりをり逆らひてこそ父であること   岡井隆
<父島>と云ふ島ありて遠ざかることも近づくこともなかりき   中山明
思ふさま生きしと思ふ父の遺書に長き苦しみといふ語ありにき   清水房雄
亡き父をこの夜はおもふ話すほどのことなけれど酒など共にのみたし   井上正一
子を連れて来し夜店にて愕然とわれを愛せし父と思えり   甲山幸雄
こんな作品に出会っては東工大の教室で学生達に突きつけていた頃、わたしは、「父」なるものを持たず知らずに育ったことを、いつも、くやしく噛みしめていた。「母」もそうだが。

* 建日子が、盛んにフラッシュメモリーなるものが「便利だよ」と演説してまた自動車で仕事場に戻っていったが、コトが機械関連になると、いくら雄弁に説かれてもなかなか頭にうまく収まらない。あんなもの持ち歩いてて紛失したらコトだなあと怖じ気づいた。しかし、新しそうな面白そうなツールには、何によらずいたく好奇心は誘われる。
2003 8・8 23

* 青山学院大学の元学長をつとめられた内藤昭一さんから、今年も、すばらしい桃を十あまり頂戴した。湖の本をお送りしている。梅若万三郎がまだ万紀夫だった昔から、能楽堂でときおりお目にかかる。万紀夫の長男紀長の結婚披露宴では、おなじテーブルに着いていた。温厚な長者である。
もう十余年も逢えないでいる娘朝日子の夫、孫やす香、みゆ希の父は、筑波での技官生活から、ようやく青山で念願の教職につくことが出来たと聞いている。内藤さんが学長のころであった。
2003 8・12 23

* 夜前、トム・ハンクスらの映画「アポロ13号」をビデオでみはじめた。あのアポロより前、一九六九年七月二十日にアームストロング飛行士たちは人類初めて月を踏んだ。忘れもしない、一九六九・六・一九。わたしの太宰賞がきまった桜桃忌の、ほんのすぐアトであった。日本の敗戦はそのほぼ四半世紀前の今日八月十五日だった。わたしは国民学校四年生だった、母と、丹波の山の中に戦時疎開していた。
戦争に負けた、それは、山の暮らしから京都へ帰れるということでもあった。だが、もう一年余も、わたしが重い病気にかかって、母の手でかつがつ京都の懇意な医者の家に担ぎ込まれるまで、山の暮らしは続いた。その山の体験があったればこそ、わたしは後年に「清経入水」が書けた。太宰賞がもらえた。あの暑かった敗戦の日から五十八年。思えば思えばあれ以来毎日毎日が「今・此処」の生きであった。「明日」はむろん仮想したが、仮想でない「明日」など在りうべくもないのだった。
叔母の稽古場の欄間に、「あすおこれ」と扁額があげてあった。御幸遠州流の家元井上冷一風が弟子である叔母に与えた万葉仮名の書であったが、生け花の師が弟子に与えた言葉としては異例の字句だ。叔母が何と読んでいたかは知らないが、何と書いてあるのかと尋ねた社中やわたしに、「あす怒れ」とだけ読み下してくれた。「ふうん」と思いつつ「明日」の意味を感じ取ろうとはしていた。
さらに遅れて、わたしはこれも叔母が弟子入りしている裏千家「今日」庵の今日という名乗りのことも、よく思ったものである。「懈怠比丘不期明日」の偈に依って、これには、よく知られた逸話が添うている。
「明日」をめぐっては、二た色の思いを、人はもってきた。「あすなろう=明日成ろう」という希望と、「明日ありとおもふ心のあだ桜」よと、「夜半に嵐の吹」くを戒めた「今日」重視と。何事かを本当に成してゆくには、希望は希望としてその「希」にして架空の夢であるを承知の上、「今・此処」に徹するしかないと、毅い人ほど思ってきたのではなかろうか。海市ほども夢ははかない。夢は心をあやかす蜃気楼、それへ日々の力点をかけていては、影踏みのくるしみに自ら落ちこんでしまう。

* 今日、終戦記念日、あの日とこんなに気候が違うと、実感が湧きませんが、あの日はしっかりと記憶にあります。出征中で父のいない父の実家の、離れの疎開地で、照りつける外で、ラジオを囲んだ記憶。雑音のうえ理解できない玉音を聴きましたね。何しろ、住所が・・・浜というほど浜に近く、その庭の真白な砂上に松葉ぼたんが色とりどりに咲き乱れてきれいだなと感じたのだけが、妙にしっかりと連鎖します。
後に両眼を失った父が先祖の墓参をしたいと、ある夏、まだらボケの母は姉が看て家に残し、まだ元気と思っていた弟の車で東京からずいぶんな長旅をしましたが、何十年ぶりに訪れても、何の感慨もありませんでした。弟はその翌年の秋に他界しましたか。
はるかなあの当時は、近所に住む父の年老いた長姉が、優しく、空いたお腹をいつも満たしてくれ、後年のその折も、その孫夫婦が歓待してくれまして、心安まりましたが。
そんな日の今朝、以前にビデオ撮りの1956年のアメリカ映画「攻撃」を、時間がなくて途切れ途切れで、やっと観終えました。
1944年、ヨーロッパでのドイツと交戦中、話は戦地での米陸軍内部の良・悪の人間性を描いていて、いましがた残る終盤を観ながら、珍しく泣いてしまいました。
つくずくと戦争はごめんです。
すぐに巻戻して観直したい衝動にかられています。雑用がいっぱいあるのに。

* それぞれの敗戦であった。あの頃は、おおかたが「敗戦」とは謂わなかった、この人もそうだ「終戦」と謂っている。「占領軍」とはだれも謂わなかった、みな、「進駐軍」と謂った。心から敗れ、心から占領されたと身にしみていたら、われわれの「戦後」はいま少し徹したであろうに。これは「死ぬ」意味の同義語を夥しくつくってきた民族性とも関わっている。モノゴトを、ヒタと、直視したがらない。
2003 8・15 23

* 岡山の有元毅さんからザラにない限定版の清酒、というより絞りさえしない滴る原酒を一升戴いた。それはもう飲み干した。甲府からは桃が、栃木からは葡萄が、そして今日滋賀県の読者からは例年のとおり念入りに漬けた梅干しがたっぷり送られてきた、茗荷や生姜や紫蘇も沢山とり添えて。このごろは、白い米がうまい。こんなに米の飯は旨いかと、思わず瞑目して味わっている。
死んだ秦の父が、松寿院治道居士が、米の飯の大好きな人であった。
2003 8・19 23

* いろんな夏休みがあったのだ。わたしも、だいたいツルんで何かを一声にやるのは大の苦手で、嫌いで、ラジオ体操など結局覚えきれなくて、余儀ないときもマゴマゴして先生によく怒鳴られた。そんなザマでは級長をやれと先生に指名されても、いいえ副級長でケッコウですと辞退して帰るありさまだった。前へ出てクラスメートに号令をかける、その「右向け」「左向け」の右とひだりの覚束ない少年だった。ラジオ体操などやれば、かならず港サカサマに動いたりして目立った。目立ちたかったのではない。
日銭を稼ぐ店売りの我が家も、あたりまえのように夏休みだからどこへ遊びに休みに行くなどいうことは、決して無かった。自分一人でアレコレしていた。此の小闇の胸の痛みとは、時代は隔ててもチクリと寂しく呼応するモノをわたしは忘れていない。それとても、いろんな夏休みが誰の上にも有ったのだといえば、済むことか。どうだか。
* わたしを育ててくれた秦家は、いま思えば、すこし風変わりな家であった。裕福。とんでもない。貧寒。と云うほどではなかった、が、極めて節約の家庭だった。父も尋常高等まで進んだかどうか、母も同居の叔母も小学校どまりだつた。だが、祖父の蔵書は信じられないほど高級で、高価な充実した漢籍が、老子、荘子、韓非子から唐詩選、古文真宝、また史書の注釈から大辞典等まで三十冊は下らなかったし、和書も、秋成の古今和歌集注や神皇正統記、俳諧全集、謡曲本など、信じられないほど佳い物のすべてに秦鶴吉蔵書の書き入れがあった。「おじいさんは学者や」と父は云っていた。その父も通信教育の教科書を何冊もわたしの愛読書に残してくれていた。しかしこの父はわたしの読書好きを「極道」だときめつける人でもあったから、本を買って貰った覚えは三度となく、その本は何とも魅力に乏しい教訓的なものばかりであった。
我が家にあった雑誌は、母か叔母かの「婦人之友」「婦人倶楽部」のあわせて三冊か四冊がくらい階段の隅に捨てるともなく積んであっただけ。新聞すら、夕刊は不要としていたような家庭であった。だが嫁いできた母は、近代作家の名前とゴシップのようなものだけは何故かよく口にした。近代現代の小説単行本として読めるものは、ほとんど一冊も記憶になく、菊池寛の「真珠夫人」をどうして読めたろうかと不思議な気がする。まして雑誌なんて、医師の待合にしか無いものと思い切っていた。
そんな按配であったから、わたしは、本とは人に借りて読むもの、また人の家に出掛けて行って読ませて貰うもの、としか考えたことがない。少年向きに、ましてや少女向きにどんな雑誌があるかなど、夢にも思ったことはなかった。縁なき衆生であった。
古本屋での立ち読みは、わたしにとっては戦後生活の多大の恩恵であった。わたしは、小学校六年生頃から、東山線菊屋橋畔の古本屋で、店番のおばさんやおじさんを悩ませながら立ち読みの毎日だった。そんな時にも雑誌などめったに手を出さなかった。藤江さんのように定期雑誌を楽しめる育ちではなかった。
だが、バスで送り迎えの幼稚園時代があり、京都幼稚園では毎月「キンダーブック」が一人一人に与えられて、あれほど楽しみに楽しみにした読書体験は少ない。あの胸のときめく嬉しさは忘れようがない。そういう幼稚園にやってくれていた秦家であることは忘れてはならないのである。
2003 8・20 23

* いろんな夏休みがあったのだ。わたしも、だいたいツルんで何かを一声にやるのは大の苦手で、嫌いで、ラジオ体操など結局覚えきれなくて、余儀ないときもマゴマゴして先生によく怒鳴られた。そんなザマでは級長をやれと先生に指名されても、いいえ副級長でケッコウですと辞退して帰るありさまだった。前へ出てクラスメートに号令をかける、その「右向け」「左向け」の右とひだりの覚束ない少年だった。ラジオ体操などやれば、かならず港サカサマに動いたりして目立った。目立ちたかったのではない。
日銭を稼ぐ店売りの我が家も、あたりまえのように夏休みだからどこへ遊びに休みに行くなどいうことは、決して無かった。自分一人でアレコレしていた。此の小闇の胸の痛みとは、時代は隔ててもチクリと寂しく呼応するモノをわたしは忘れていない。それとても、いろんな夏休みが誰の上にも有ったのだといえば、済むことか。どうだか。
2003 8・21 23

* 妻に、この一月ほど、軽い神経系統らしい違和があり、今朝近くの病院にとりあえず相談に行ったところ、頭部等には全く問題なく、ただ、かつてない程度に血圧が高い(160程度)と注意されて、ゆるやかな降圧剤が処方された。脳神経系統に異常がなかったのはよかったが、従来130前後の血圧だつたから、用心に越したことはない。じつは、わたしなどもう数ヶ月、聖路加で計ると150台に上がっている。以前は120から130台でむしろ低血圧気味であったのに。食生活が響いているのかも知れない。
ま、原因らしき症状が推測されたのはよかった。
2003 9・1 24

* お久しぶりです  今晩わ。
実は6月9日に、お姑さんが亡くなられました。初盆も過ぎ、納骨も無事済ませました。
で、昔の友達が、会いに来て呉れました。久し振りにゆっくりと時間が過ぎ、西池先生、秦さん(ホームページ)の近況など・・・話が盛り上がり、残暑も忘れ楽しい終日でした。

* 戦後の新制中学のクラスメート。数年前からパソコンをはじめたらしく、ときおり、写真のフアイルなど届く。まだなかなか他の友達はインターネットにも手がとどかないでいるらしい。この人をキイ局にして、わたしのホームページが故郷でときには話題にされているということか、電子の杖の余徳である。女の人で、われわれの歳になりお姑さんを見送るというのが、どんな感慨のものか、わたしの妻には「姑」という作品がある。妻は舅、義理ある叔母、姑と、いずれも九十過ぎた老親を三人も見送った。その感慨が凝って一つの作品になったのが、「e-文庫・湖(umi)」におさめてある「姑」で。
「で、昔の友達が、会いに来て呉れました。久し振りにゆっくりと時間が過ぎ、」など、感じが伝わってくる。平安を祈りたい。
2003 9・8 24

* 初孫のやす香が十七歳の誕生日を、朝一番、赤飯で妻と祝った。いちばん娘らしいこの十年を、同じ東京に暮らしていながら顔を合わすことが許されていない。惜しい十余年であることは、やす香やみゆ希にもそう、われわれ祖父母にはましてそうである。
ま、こんな非道も、世間にはいくらも有るのだろう。たぶん世間並みをやっているわけだと、わがことながら仕方なく「眺めて」いるのである。娘や孫達が、せめて健康でいてくれればいい。

捨てかぬる人をも身をもえにしだの茂み地に伏しなほ花咲くに   斎藤 史
2003 9・12 24

* あまりの残暑厳しさに電子メディア委員会は人が寄らず、流会となった。今日の戸外のギラギラと眩しいこと暑いことは、言語道断。
暑さのせいではないが、昨夜は三時間余を眠っただけで、六時には物音で目が覚めてしまった。もう一度寝入るのも面倒で起きて、妻と赤飯を祝ったのである。私の留守に、妻は十余年来、初めて娘と電話でしばらく話すことができたという。二人のためにとても良いことであった。母と娘とのあいだに、表向きであれ裏側でであれストレスが緩和されるなら、まちがいなく良いことである。「親不孝をしていて申し訳ありません」とすぐに朝日子は母にアイサツしたという。
2003 9・12 24

* 頭痛がとれないのは睡眠不足もあると思う。十一時前だが、もう今夜は機械の前から立ち去るとしよう。階下には、明早朝から車で小旅行に出るという息子が来ている。
2003 9・16 24

* 息子が、旅の間預かってと、愛猫グーを家に置いていった、六時過ぎには自動車で出掛けた。さ、我が家には、ちいさいが精悍な黒いマゴがいて、おとなしいが大兵肥満のグーがいる。この川中島ならぬグー・マゴ合戦が起きないように仲裁役をしてやらねばならない。仲良く願いたい。
二階でグーの物音がすると、わたしの横で寝ていたマゴが、ガバと起きて部屋の高いところに跳び上がり、臨戦態勢。宥めて起きて、そのままもう又寝しない事にした。
ゆうべ寝しなに封印切って「成政」を片口で二杯傾けた。おかげで今朝の血糖値は、180、よろしくない。
2003 9・17 24

* たくさん美味しいお酒をご馳走になって帰ったからか、ざっと後始末をつけたあと、ふっと黒いマゴの相手をしながら、そのままぐっすり寝入ってしまい、今、八時前、目が覚めた。機械も開いたままだった。昨日は行き帰りの自動車で寝て過ごし、帰ってからもいつもの倍ほど寝たので、すこしスッキリしている。このまま、頭痛がおさまってくれれば有り難い。

* 貰って帰った秋の花花を小分けして妻が美しくあちこちに置いた。家中がにわかに秋色に染まった。
2003 9・18 24

* 気のはずむ何もない。二階で、ひたすら『冬のかたみに=幼年時代』を校正して過ごした。この仕事だけは目をさまさせてくれる。昼食の頃にメル・ギブソンの「ハート オブ ウーマン」とかいうつまらないビデオを見た。建日子達が休暇先の信州から帰ってきて、「真実の行方」を見てから五反田へ戻った。栃木から今日送ってきて頂いた新米「こしひかり」の、半分十キロをみやげに持たせた。この新米、それはそれは、うまい。
2003 9・20 24

* 颱風。雨は降っていたが風はまだ。暑くも寒くもない陽気にきちんとした服装が出来たのはむしろ幸いと、サントリー小ホールの浅井奈穂子ピアノリサイタルに、妻と出かけた。時間早くに家を出、駒込経由の南北線で溜池山王まで。
全日空ホテル三階の「乾山」で、夕食は寿司。少し値は高いが、器は店の名前だけあって、まさか乾山ではないけれど佳いやきものを、どっしりした見映えで出してくれる。タネも、値段だけあって文句ないものをうまく組み合わせて出してくれる。鯛も大とろも海老もアナゴもけっこう、巻物のセンスもいい。
銀座で気楽な「福助」とくらべるとえらく贅沢な店の空気のようで、ところが、そうでもない。店の女たちの和服がしっくり着付け出来てなくて、化けの皮丸見え。
わたしの好きな「美しい人」など、数年前の初対面からこちら、店で揃いの和服姿しかわたしは知らないが、いつも清潔にきちっと着物を着ていて、質素なのに美しさの花になっている。和食の店の女性の和服がギクシャクしていては、とんだ艶消しで、自然、物の出し入れの行儀も行き届かない。食器の卓へ置き方一つでも、その店の「位」はすぐ分かってしまう。
しかし「乾山」の寿司は腹も空いていて、うまかった。酒も酒の燗も酒器もよかった。一人前六千円は量多くなくてケッコウであるが、椀に、蜆の赤だしでは品がない。池袋「ほり川」ではもっと気の入った吸い物が出てくる。

* 小ホールでピアニスト父君の浅井敏郎氏夫妻に、招待を感謝しお祝いを申し上げる。もと新潮編集長坂本忠雄氏も夫妻で見えていた。この浅井リサイタルでは必ずのように出逢う。
招待席は五列目の真中央、演奏者のまっすぐに見える絶好席。なにしろ雨で風のこと、ほどほどの軽装で出掛けていた、ま、そんなことは気にしないが。
シューベルトの即興曲が二つ。ベートーベンの「熱情」。後半はムソルグスキーの「展覧会の絵」全曲。
浅井さんはイタリアで音楽教授の学位をえたあと、モスクワで研鑽を積み、大きな地位と称号を得ている人だ。その音量の大きいというか、音のつよく深いことは、ピアノが豊かに鳴り響くことは、最大の長でありまた時には驚かされてしまう。その意味ではこの人の「熱情」や「悲愴」やまた「月光」の第三楽章などは似合っている。だが、今夜の「展覧会の絵」では、あの序曲は、画家の展覧会場へ入っていくムソルグスキー氏のいわば自画像音楽である筈だが、そしてわたしはムソルグスキーの風貌や体格を知らないけれども、鳴り響いた時には、元横綱曙太郎氏が登場したようにビックリした。
「月光」の出だしなども、巧みだが例えていえば「太字で書いた」月光曲に思われた。
だが誰の曲か知らない、アンコールの小曲の、繊細にやわらかな美しい演奏には、魅惑された。うっとりさせてくれた。

* 演奏の始まる直前と、帰りに地下鉄銀座線に乗ってすぐ、二度も、妻の体調がぐっと下降し心配したが幸い持ち直し、無事帰宅できた。保谷駅前で雨中すぐにタクシーに乗れたのも幸運だった。
帰ると玄関に黒いマゴが嬉しそうに正座して出迎えた。しばらく彼は興奮して家中を縦横に疾風のように走っていた。
2003 9・21 24

* 雨の中をお年寄りの手をひいて彼岸前の墓参に行ったというメールも。
じつは、わたしも、今のうち、息子に伝えたり話したり相談しておいたりすべきことを、少しずつでも具体的にし続けてゆきたいと思い、息子にたとえ月に一日でいい話せる時間を用意するように言ったところ。
秦の親からは、係累も交際も少なかったしこれといい聞きそびれて困惑したほどのことは、ま、無かったけれど、わたしの場合は、よぎなく多方面との交際があり、失礼があっては困る連絡先もある。姉の朝日子がアテに出来ないとなると、弟の建日子に引き継いでおくしかない。建日子がきちんと結婚していれば嫁さんに話しておく頼んでおくということも出来るのに、あいにく、それが出来ない。
2003 9・21 24

* 十月四日にはペンの京都大会がある。すこしラクな時であり、行ってみたいなあという気がある。南禅寺畔のあの辺は、わたしには地元といえる近さで、なにもかも眼に映じて思い出せる。「のぞみ」に飛び乗れば直ぐ行けるし、中信に頼めば宿はとれるだろう。久しぶりに奈良あやめ池の松伯美術館、中野美術館、また大和文華館などへ行ってみたいが。妻もいっしょなら躊躇しないのだが。ここのところ、すこし季節のかわりめに疲れぎみのようだ。
2003 9・23 24

* 下谷竜泉寺町にある菩提寺でお墓参りをしてきました。鶯谷近辺はこじんまりとしたお寺が多くて、三々五々と墓参の人出、車も渋滞していました。いい日和なので駅から十五分徒歩で往復です。
鶯谷駅周辺はホテル街ですが、その一角以外は下町情緒豊かな庶民の町。迷路の様な車も入らない袋小路に数軒が軒を並べていたり、大抵の門口には植木や草花の鉢が整然と置かれています。尤も大通りのビルが多くなりましたが。ある一角は下町の山の手と呼ばれて、豪邸が建つとか。多分林家三平一門宅あたりでしょう。
九月も後十日。お月見の日、直植えから三本ばかり切ってもらった矢羽薄が、今や文字通りの枯尾花となりまし
た。それはそれで捨て難い風情を見せています。

* 我が家はお彼岸といえども、特別のことはしない。ふだんどおり位牌の前を少し腰低くして通るだけ。
2003 9・23 24

* 秦建日子が、しばらくぶりに、作・演出の演劇公演を発表した。新年早々に五日間ほど、下北澤でと。いいことだ。旧作のリメイクらしいのは少し失望で、楽しみは薄れたが。
連続ドラマ「共犯者」は、十月十五日からスタートする。讀賣テレビだったか。十五日は理事会で、晩は国立小劇場で「鼓楽」を聴く。コマーシャル入りで観るよりビデオで見る方がいいので、差し支えはない。
2003 10・8 25

* わたしの酒は、家で、妻と猫を相手の「ひとり酒」が大方、それで良い。それか、気の合った、むりにしゃべらなくていい、白い手先がときどき動く、静かな「おんな酒」。ま、そんな相手は、めったにいるものでない、創りだすものである。
2003 10・9 25

* 十月十五日スタートの秦建日子脚本「共犯者」の前宣伝が動きはじめている。スチールなどを見ていると、その他の予告ものよりもクォリティに手応えありげ。浅野温子という女優は気がはいると底ぢからが強い。三上博史という主演男優のことはよく知らないが満々と気が入っている感じはする。時効三ヶ月前の女の前に謎の男があらわれ同棲生活になるという設定も、どう展開するか、スリリングには運びそう。
初日は、わたしは妻にビデオを頼み、コマーシャル抜きで見せてもらう。国立小劇場での望月太左衛「鼓楽」の旗揚げを先ず楽しんでくる。その前が理事会。新会員に俳優の浜畑賢吉氏、二松学舎大学の松田存教授らを推薦する。浜畑氏は小説家でもある。松田氏は能狂言等の優れた研究者。
エディターとして、またエッセイストとして、佐和雪子さんも推薦したかったが、ためらったようだ。人不足の電メ研委員にも推したかったが。
2003 10・13 25

* 「クオリティー=質感=リアリティー」そして「テンポ」を大切に。
東京新聞朝刊に大きな讀賣テレビの挟み込み、何と秦建日子脚本「共犯者」のハデな広告だから驚いた。そして番組頁下のコラムに、この欄でも珍しいほど期待と称賛・推賞の弁があり、ハリウッド映画なみのスピードと切れ味と。少しずつ少しずつ評価を高めてきたのは、つまり作品の「クオリティー=質感=リアリティー」そして「テンポ」を大切にする気が、秦建日子に定着してきたからだ。エンタテイメントであるよりない以上は、むしろ映像の本質に身を寄せて、いい意味の通俗に生きながら映像化への「クオリティー=質感=リアリティー」そして「テンポ」を大切にするのが、「作者」の意気であり志気でなければならないだろう。そのようにそのようにと、冷酷なほど批評し続けてきたつもりだ。まだ出だしを見ないのにここまで言うのは親バカ過ぎるが、親でなく批評家として言うのだし、また言ってきた、のである。耳に入れていてくれたなら、嬉しいことではないか。
2003 10・15 25

* 三輪山は傑作だよと褒め、太左衛さんの嬉しそうに崩れた笑顔と歓声を目に耳にして、一路帰宅。秦建日子のドラマ「共犯者」がはじまって数分というところへ間に合った。

* さて、何と云おうか。第一回目はどうしても種蒔きどきである、そうそうはうまくはかどるまい、助走であり序奏であるから。本人も言っていた。役者も言っていたようだ、次、そしてまた次へと見ていって欲しいと。一回目には一回目なりの問題はあるので、と。
まず、われわれ創作の世界では「運転中に声はかけるな」という不文律がある。昔は、あった。今は知らない。ただ建日子はとうに十回分をみな書き終えているし、撮影録画も、おおかた、終えているというからもう「運転中」ではない。いやに前評判の高い出だしで、めでたかった。各紙でとりあげていたらしい。だから、あえて苦言も批判もしておこう、忘れてしまうから。

* 第一回めは、いわばカード撒きでもある。お目見えである。気張っている。画面の伝えるクオリティーは悪くない。だが、役者も、えらくえらく気張っている。率直にいえば、だが、画面からはリアリティー(真実感)の、良い衝撃、快い感銘は受けられなかった。
ネチコチと、何もかも無理に作っている感じがもたつく。速度感はあるのに、自然な佳い「流れ」は出ていない。場面場面の身振りの大きさばかりめだち、ゆったりと大きな「時間」が効果よく「流れ」ていない。「設定」は凝ってあるが、それが、第一回目に限ってかどうか、ドラマの顔付きをウソくさくしている。
最初の「怪電話」でしたたか脅迫されたあたりは、恐怖感がある。あと二ヶ月で、殺人罪時効。そのまま何が何でも「逃げに逃げる」というのが、以前大竹シノブのやった実話ドラマだった。逃げ切れなかったが。
浅野温子演じる今回のヒロインは、だが、全く、逃げのびたいそぶりすら見せていない。それは凡夫の想像力からすると心理としてどうにも解せない、かりに逃げ切れないにしても、だ。「逃げ出す」という選択肢が一顧もされていないのがウソくささの一の罪ではないか。
刑事が会社へ尋ねて来るのも、恐い。あれは効果的だ、が、あの場面で、なんと女自身が、「いたずら電話」に触れて口走るのは、石橋蓮司刑事にそういう事実を感づかせてしまうのでは、犯人の「怯えや本音」がこの作者に掴めていない感じ。あんなこと、彼女は絶対に口にしないはずだ、せめて「内心」の叫びぐらいに抑止しておいていいことではないか。なにしろ「あと二ヶ月」というところまで多年逃げ延びてきたほどの犯人の女の、絶対に自分から出すわけないな「尻尾」を、作者は、「作」の都合で手軽に出させたとすれば、チョンボというに等しい。必死で守らねばならないボロを出させているのだから、ウソくさいし、アホくさい。
自宅に帰って、カレンダーの日付を消させている、ああいうことも、ホンモノの犯人なら絶対にしないだろう、もっと効果的な、別の、人目だたない日消しの「手」はがあろう。刑事がいまなお彼女を狙っているというのに、家の中とはいえあんなことをしているなんて、信じがたい。万一他人の目に触れれば多くのことがバレてしまう。足も地につかないほどフワフワとあわてふためき、必死に「あと二ヶ月」を消化しなくてはならない人間のすることとしては、いかにもバカげている。
へんな男に家まで押し込まれたのは仕方ないとしても、翌日も、又、のこのこ家へ戻ってゆくのは、どうか。普通の恐怖感に怯えた女には、男でも、出来ることでなく、むしろ、どこかよそのホテルか宿屋へでもとっさに逃げこみ、姿を隠して男の次の出方をみるなり、震え上がっているだろう。或いは思い切った一散の逃避行に走ってしまおうと少なくも考えあぐむだろう。殺人犯として逮捕されるよりは、課長の職なんて軽い軽いはずではないか。三上博史の演じる謎めく男が、警察へ訴えて出るくらいなら、とうの昔に出ていていいのだから、ともあれ、そんな変な男と闘うためにも、男の言いなりに浅野が動いていてはおかしいだろう。必死に逃げ出すスキぐらいはある。男からも逃げだし、刑事からも逃げだし、「二ヶ月」をなんとしても塗りつぶす。それが当面生きる目的のはずだ。逮捕されては元も子も無いのだから。
なのに、あそこまで身近に現れ威されても、暴走すら出来ない浅野女課長の反応は、全体にあまりに不自然過ぎて、ひたすら作・脚本の「趣向」に、律儀に付き合っているだけ、まるで人形ぶりに見える。ウソである。
家に帰ると、べつの若い女が新たに死んでいる。殺されている。乱暴だが、あれにはわたしも驚いた。さ、どう処置するかと期待した。しかし、そのあとは旨くなかった。近所の、それもいわくある男の新車を借りに行ったり、若い女を殺したという男と、二人だけでマンションの高いところからクルマまで、重い大人の死体をとにかく人目の心配もなげにやすやす運び出したり、これまたご都合がよすぎるだろう。少なくも浅野はあそこで、もっともっとリアルな心理と行動とで苦しんで苦しんでいいところだ。そこに劇=ドラマがある、のだから。解決の仕方がチャチチャチと安すぎる。さらに「目撃者」としての佐藤珠緒の出て来かたも、あんまりご都合よろしく、リアリティに大いに欠ける。

* 前作「最後の弁護人」の出だしは、もっといい意味で「力が抜けて」いて、そのぶん巧妙だったと思う。今夜は、だれもかれも、力が、不自然に入りすぎ、ドラマの「自然な流れ」を阻害し塞いでしまった。そのためか、途中でわたしは退屈さえした。浅野温子の恐怖感を、もっとリアルに把握し彫り込んで欲しかった、妙に作りすぎたお話しにしてしまわずに。
これが「共犯者」となるのだろう三上博史の芝居など、今夜の限りでは、分かりにくい上に巧くもなく、好感もあまり持てなかった。
だが、万事は万事は「これから」のことなのだろう、と、好意的に次回に大いに期待する。ご苦労でした。ほんとのところ、これから先なのだろうと期待している。

* 少し厳しいかもしれないが、苦言は出ていたほうがいいだろう。新聞などが、少々褒めていたとて、あれは商売用の提灯持ちでもあるのを忘れてはいけない。上り坂の作り手は、鼻が高くなって自分が見えなくなりやすい。劇場でいえば作者は最後列の隅へ身をひいて謙遜に見守っていた方がいい、自分自身を。
2003 10・15 25

* 十一月歌舞伎座の券がきた。花道芝居が手に取れる、まえから五列目、有り難い。我當は白髪の北条時政で「盛綱陣屋」に。吉右衛門、雀右衛門。鴈治郎の「河庄」も。菊五郎の踊りも。
今月末にどうぞと、浜畑賢吉氏のシアターXへの招待もあった。長谷川平蔵役だという、殺陣がみられそう。建日子が初めての作・演出でデビューした劇場だ。帰りに妻とチャンコの「巴潟」に二度立ち寄っている。好成績で千秋楽を終えた大関といっしょになり、妻は大関と握手してご機嫌であった。
2003 10・17 25

* 吾亦紅がこんなに吾亦紅らしい魅力で大きく取れた写真は珍しいなあと、心嬉しく秋を好感している。

* じつを云うと、むかしの大学生の頃から写真を撮るのが好きで、貧しい中で苦労して手に入れたニッカという佳いカメラで黒白の写真をよく撮った。うちのモノのなかで建日子がいちばん処分に困るのはこのアルバムねえと妻が言うほど大きなアルバムが何十冊と有る。これらを機械に入れてしまえば嵩がひくくなるのにと思うが、ホームページに写真の頁をつくる「手順」が掴めていない。スキャンして機械に入れても、転送することが出来ない。昔に田中孝介君に習って出来たのに、みな手順を忘れてしまい、転送できていた写真が消え失せてしまいもしている。
2003 10・17 25

* 名古屋出張やNPO設立の届出など、あわただしい日々が過ぎました。
先日は楽しみにしていた「共犯者」拝見しました。かつてみたことのないカメラの動きに息を呑んで画面を見つめたのですが、最後まで観る事はできませんでした。そういう意味では非凡な作品だと思います。設定に多少無理があろうとも、私が見続けることができなかったのは、恐怖感があまりに強かったからです。「人をかつて殺した」ということだけでも恐ろしいのに、時効2ヶ月前にひたひたと追ってくる脅迫者。不可思議な出来事。ちょうど、逃げても逃げても、どの小路を曲がっても追いかけられ、どの家に飛び込んでも追跡者が迫ってきて、恐ろしくて恐ろしくて、最後に断崖から飛び降りる悪夢を見るように。
井上靖さんの詩集「北国」(「ペン電子文藝館」で)読み始めています。
お元気でお過ごしくださいますよう。この休日は娘夫婦や母たちと過ごします。    渋谷区

* この感想などは、或る程度脚本作家秦建日子の本意にちかいモノを観ているのであろう。有り難いことだ。ただ、観つづけていられない、という其の処を、エンタテイメント作者として何とか乗りきりたいところ。もともと不自然な設定、それでもそれを観させつづけるアイキャッチャーは何なのだろうかと、批評し思案してゆくなら、作者の苦心と同じ次元に、同じ地点に、例えばわたしも合流できるのだろう。
2003 10・18 25

* ほんとうにボケてしもたらその辺に棄てていいと言ふ 妻、笑諾す   遠
どうも、その気味があり、よろしくない。物忘れ、間違え。やれやれ。そんなことも言ってられない、湖の本新刊の初校が出揃ってきた。
2003 10・18 25

我が家の黒い青年マゴは、大きくならず、端正で、漆黒の座卓の真ん中で正座していたりすると、イギンの広告の黒い服の女神達よりも高貴な顔付きである。
2003 10・18 25

* あんな夢を一夜に二度もつづけて見るとは思わなかった。京の新門前通り、昔の我が家のある場所だった。我が家の斜めむかいに、硝子がちにかなりな洋風の家があり、大学時代の妻の友人が、夫婦で暮らしていた。夫はいくらか年嵩な小柄な人であった。
これは夢、事実ではない。その家のあたりは、昔は、我が家よりもまだ間口のない長屋の一軒で、母親と娘二人が暮らしていた。父親かと見られる、小柄な福相をしたしかし喰えない感じの老人がときどき通ってきた。子供心には見えないものを大人達はむろん見ていた。
しかし夢では、家の様子もまるで違えば、妻の友人ははっきりと私にも分かる人であり、夫も、あの老人とは似ないむしろ貧相な普通の男であった。むかし現実にあの家にいた娘二人がわたしはいつも嫌いだった。夢の人には夢の中でも、また妻の友人としても好感をもっていた。
夢は奇であった。セクシイであった。一度起きて、また同じ場面から夢は繰り返された。わるい夢でなく、快くはない夢でもあった。いまの不審は、なんであんな夢を、つづきものを見るように二度見たか、で。
だが夢は夢だ、意味を問い直す価値は何も無い。しいていえば、その妻の友人の夢をかつて一度も見た覚えがないのにという、ケッタイなだが新鮮な思いもしたということ。

* さ、今日一日、いい一日であって欲しい。
2003 10・20 25

* 建日子作の「共犯者」が、質的に「今季一オシ」と担当記者に押されているほど、まずまず好調に評判されているようだ、今夜は第二回。回を追ってよくなるよと当人自信をもっている。アメリカから来る友人のお土産にと、妻はこの前の「最後の弁護人」のDVDを取り寄せたりしている。やはり親バカ。
2003 10・22 25

*「共犯者」第二回を見た。

* その前に、林屋辰三郎さん担当執筆「天下一統」の巻頭を読んでいた。
日本人の過去の歴史観が、著しく下降先途感を基底にしていたこと、島国での鎖国的情況、仏教の末法観、天皇制という三つに緊縛されて、日本人は、上昇して行く明日の歴史を期待しにくかった、と。
それを突き破り得そうであったのが、戦国時代の末からはっきり意識されてきた「天下」という認識だった、と。
天下という広さで島国の枠は突破されそうであった。天下という深さで仏教的なまた神や儒教も覆い取れそうになった。天下は天皇よりも強力な「天下人」の可能を導いた。織・豊そして徳川家康は「天下」にしたがい時代を動かし革新した。だが、それも寛永の鎖国でまったく頓挫した、というのが林屋教授の論調であり、概説としてたいへん興味深く説得された。
そして種子島銃の渡来とキリシタンの世界観の渡来。
まずは鉄砲に新旧の二種類が日本に、早く、また後れて入ってきたという。たんに「鉄砲」ということばなら元寇の頃に既に、そして不十分な鉄砲というより火砲なら、中国から早めに日本に入って堺で製作されてもいたし、武田や後北条は手に入れ用いもしていた。だが種子島銃ははるかに強力で正確に機能した。武田や北条は、なまじ旧式砲に油断して、織田や松平の新式銃に敗北したとも言えると。これも興味深い解説であった。

* そんな知的興奮のあとで「共犯者」を見たのは、ドラマのために気の毒であった。わたしは何度も退屈した。
身振りは大きいが、ドラマがてきぱきと進行していない。テンポも流れも前回以上になかった、良くなかった。
あんな死体をつくっておきながら、携帯電話も社員証も財布なども全く処分しないまま毛布にくるんで山中へ運び出すなんて。隣家に借りた自慢の新車で、どろんこの山の中に入り込み、あげく埋める間際に死体の携帯電話が鳴って、慌てて目の下の社員証も見つけるなどという、あんなあたじけない芝居を観ていると、苦笑のほかはない。
あれだけの高みから崖下へ落ちた女が、一夜の雨でぱっちりよみがえり、顔にも何処にも傷らしいものも見えず、よろめき歩いて人の助けを求められるというのも安易すぎる。あれだけの山中を三人して必死に追いかけ合い、その間、うしろの開いた車も、死体も、ただ放置されていたに違いなく、共犯の二人はあのあとどうすらすらと元の場所へ戻れたのか。雨もよいの深夜の山中が、どんなに右も左も分からぬ危険で処置なしの闇黒世界であるか、多少とも私には体験がある。またそれほどの暗闇で辺鄙な場所だから、見つかるまいと死体も埋めようとするのであろうに、簡単に簡単に事が運んで、すべては軽薄な「筋書き」のためにばかり、役立っている。
それにしても、ドラマは浅野温子のためには、むちゃくちゃ、にっちもさっちも行かないドツボにはまっている、それだけが、確かだ。それさえ支離滅裂な成り行きなのだけれど、確かにそういう情況にタチ至っている。
さ、こんなアンバイでこの先はどうなるのという、客の引っ張り方、引っ張られ方でドラマはひたすら進行するわけだ。窓からのぞきの少女や、むかしの上司のへんな愁い顔や、スーパーの無気味な店員など、思わせぶりにまだ働いてこない人数が、あちこちにどうやら撒き置いてある。隣家のマンガ先生もどう慌て出すか。
なにもかもあまりにヤバイ情況に辻褄を合わせながら、何が何でもスリリングにただもうむやみに突っ走るしかもたない仕組みで、仕掛けで、あるらしい。それなら、もっとめざましくテンポをあげ、視聴者をあれよあれよと眩惑し去らぬかぎり、もうそろそろ、「こりゃ、ナンジャイ」と思いかねない視聴者の数も増えて来よう。
浅野温子の芝居も三上博史の芝居も、むやみと気張っているものの、身振り沢山が深い心理の衝撃にはちっとも繋がらず、ただ騒々しくて、わたしは少しも感心しない。つまりヘタクソてある。率直に感想を言うと、およそは、こうなる。
いいところが無いかなあと思い返してみるが、石橋蓮司の刑事がそろりと現れると、恐い。彼のうまさである。それにくらべると浅野のも三上のも、演技に意外性も陰翳もなくて、次はこうやるだろうなと見ていると、予想通りの仕草や表情をする。声音で凄んでみてもはじまらない、ドラマは。
今日妻がDVDを買ったばかりの、前回の「最後の弁護人」では、阿部寛弁護士と佐藤理沙押しかけ助手とのコンビが、もっと流動的に大きくリアルにも軽快にも弾んで、狂いがない。コンビネーションだけでも大いに楽しませている。今回のスター二人は、いまのところ大きく期待はずれ、深刻がったドタバタ演技である。少しも巧くない。

* だが心配しなくても、「共犯者」へのいわゆる掲示板への書き込みは、感動的な称賛の渦であるから、わたしがこれぐらいの批評でもとてもバランスしないほど、熱い好意の人達に見守られている。それにもわたしはじつは仰天しているが、そこへ来て「共犯者」とは、じつに、わたしの謂うところの「身内」を描いているのであるらしい。また魂の色の似ている大勢の視聴者が、作者建日子を称賛しているのだ、ここにも低調ながら「共犯」関係は出来ている。わたしなどは彼等の垣の外だ。
2003 10・22 25

ああ、此の劇場、此の舞台で息子は、秦建日子は「作・演出家」としてデビューしたのであったなあと妻と思い起こしつつ、それがもう何年の昔になるのか思い出せない、それほど昔になった。「ブラットホーム・ストーリイ」だった。師匠のつかさんも「プラットホーム」で佳いじゃないかと言われ、むろんわたしたちも同じことを言ったが建日子はガンとして長たらしい題にこだわった。

* その公演がいつだつたか直ぐに思い出せなくても、初日がはねたあと、妻と二人で近くのちゃんこ「巴潟」でかなり興奮しながら食事したのは忘れない。その後も、シアターXで芝居があると帰りには「巴潟」でちゃんこを食べた。この前に来たときは大関魁皇が来ていて、妻は握手しに行ったものだ。二十二代横綱太刀山の写真のある小部屋に案内された、前のときも、今日も。今日は地鶏と牛肉の出汁がとても美味しく出て、野菜も豊富に食べた。他に鮟鱇の肝、戻り鰹のたたき、イカ刺しとしめ鯖。そして純米絞りたての酒。両国へ来ると、こういうぐあいになる、それも楽しみの内になっている。
満足して一路帰宅し、お風呂に入った。もう三十分足らずで、「共犯者」第三回目。

* 「共犯者」第三回目を観た。いまどきのウンザリする低調な殺しドラマの中で、ここまで丹念に映像本位に劇性を映し出した実例は、稀有であった。秦建日子のこのドラマが成功するのかどうかまだ分からないにしても、現代のテレビドラマのイージィな殺人ものミステリーの業界に、これだけ映像としても手の込んだサスペンスを番組として持ち込んできた冒険性は、相当高く評価されてよい。成功失敗にかかわりなく、一つの警鐘をならしつつ実験的な実例を提出していて、それは良かった、作者の意欲としても良かったと、少なくも此のわたしは、若い作者の意欲をつよく支持する。うまいかどうかは、どう視聴者に、また創るプロたちに受け取られるかは、未知数とするも、である。
なぜかならば、こういう凝った映像は、裾野の視聴者にははなはだ分かりにくいと、歓迎されない懼れがある。かつての「ヒーロー」がスターの顔と名前によりかかり、ラチもない説明的なストーリー本位で、ばからしいほど高視聴率を得たのと、ちょうど正反対の、練り上げた映像を此の「共犯者」は打ち出している。曲がりなりにも打ち出している。映像の文法を心得ていない初歩的視聴者には、こういうのは理解しにくいだろう。
今日の昼間に観てきた浜畑賢吉らの芝居は、いとも説明的に連鎖する短い場面の繋ぎで出来ていた。分かりいい舞台だと思った。ところが隣にいた中年の二人の婦人達の、少なくも一人は全く筋の運びも俳優達の演技の意味も理解できなくて、もう一人の人の解説するのを聞き聞き、ふうんふうんという有様であるのが、十分間の休憩中にもおかしいほど見て取れた。そういうものであるらしい。
それからすれば、今夜の「共犯者」など、八方でことが蠢動し始めるのでその連携に視聴者は想像力や推理力を要請される。つまりドラマに踏み込んで参加してゆくことになる。そういうことは、事実問題として誰にでも出来ることではない。できなければこそ、あまりに下らない低調に説明的な筋書きドラマばかりが濫作されて、ウンザリするのだが、それは少数派のウンザリなのである。「共犯者」ははじめて少数派への理解を求めた凝ったドラマを打ち出した。そういうものをわたしたちも求めていた。

* 幸福を追わぬも卑怯のひとつだという意味を作者は作中人物に言わせていた。思わず、妻と顔を見合わせて笑った。殺人者が幸福にな労として何処がわるいか。この反社会的な提言を作者がどう追いかけて行くのか、なるほど、三回目からいよいよドラマはきんぱくしてゆくのであるらしい。今夜の分では、一、二回目のような間抜けた不自然はとくには感じなかった、佳い意味でも筋をトバシはじめたからだ。病室の前を守る刑事があんなに簡単に殺されるのは可笑しいが、一つの既成事実として納得を強いてしまう緊張をドラマが孕み出せば、それはもう意志から落ちてしまう。不自然を、不自然と気にさせないアリティーというものが創作には必ずある。ルーベンスの描写力なら、空に舞うエンジェルの腹から腕が映えていても気にならないだろうと謂われた。そういうことが出来れば創作は勝ちなのである。覚えていて欲しいことだ。力業である。めったに成功しないが、成功することもあり、成功させねばならぬ時は成功させねばならぬ。
2003 10・29 25

* 秦テルオ展へと、妻と家を出て直ぐ、昨祭日のいれかえで今日は休館と知り、仕方なく、それではと逆方向の所沢という馴染みのない街へ電車に乗った。賑わった京都でいえば出町商店街なみの通りを通り抜けて、どこかで気持の佳い昼食をと願ったがいい店は何処にも見当たらず、余儀なく駅ビルへ戻って、三階の獅子だか獅子林だかいう中華料理の店に入った。妻はとなりで本を読み、わたしはいつもながら持参の校正ゲラを読んで、二時間余もかけゆっくり食事した。生ビールをジョッキで呑み、紹興酒二合を呑み、そのおかげで仕事がはかどり、ひとまず校正も行くところまで行ったのはけっこうであった。
また西武線で保谷に戻った。池袋より近いのである。もう少し何かしらマシな店が在ればまた来るのだがと思い思い帰った。
機械の前に戻ったが、しばらく酒も手伝い、心地よくうたた寝していた。
2003 11・4 26

* さて秦建日子作のドラマ、四回目の「共犯者」を見た。話はますますややこしく展開し、しかし最初の死体が山の中で発見されたし、車を貸したマンガ屋が浅野温子をドライヴに誘い出し色にからんで威し始めた。ところがバックシートには浅野と共犯の三上博史が乗りこんでいて、マンガ屋は甚だ危ない。
三上の神出鬼没ぶりを、彼は実は浅野の「心の鬼」つまり幻影であるかと、作者のフアンたちは秦建日子のサイトの掲示板でおお騒ぎなんだそうだが、わたしの妻は、そういうことだとあなたの「加賀少納言」のようねと謂う。ブルース・ウイルスの演じた映画「シックスセンス」のような哀しい物語もある。「加賀少納言」と謂うなら、建日子はこの作品にかかるより以前に、と謂うより少年の昔から『ゲド戦記=影との戦い』の大フアンである。建日子が原稿依頼されて原稿料を稼いだいちばん最初は、小学校か中学初め頃の『ゲド戦記』感想文であった。
もっとも三上博史は、十五年前に浅野に殺された娘の親たちとその娘の墓参りをして、言葉も交わしている。霊的な存在と言葉のかわせる「生きた人間」は、よくよくでないといないものだ。わたしの『冬祭り』でも、冬子や法子は、わたしとは言葉を交わして互いに正目に見合っているが、そういう人は他に冬子の妹ぐらいしかいないのである。まして敵意をもった同士ではそれはかなわない。
どんな展開が待っているのか、正直の所わたしには見当がついていないから、途中多少停滞して退屈感もおぼえるけれど、けっこう興味深く先を望んでいるのはたしかだ。

* こんなドラマこそが、テレビ世界では最も受けないのだそうだ。一時間ドラマよりは圧倒的に説明的な、「二時間で一話完結する殺しドラマ」が受けるのだと、そんな、調査と解説の番組が今晩あった。それによれば、真っ先に、金持ちが不幸になり殺されるに至る筋書きでなければならないと言う。それが二時間ドラマで視聴率を稼ぐのに第一に必要だというから可笑しいが、大多数の心理は、そんなものらしい。そして最後に、切り立つ「断崖」に立って犯人が告白する場面が、いくら馬鹿馬鹿しくても絶対に必要なんだそうだ。こういうドラマツルギーがテレビのプロデュースの至上命令だという以上は、一時間ずつ連続するストーリーで、かくもややこしい物語で、しかも殺しまくるお話では、あっちからもこっちからも総スカンを喰らいそうなものだが、おそらく「共犯者」レベルへのドラマ水準の移行は、事実ゆるやかに進みつつあるのであろう。一旗手としてこの道を敢えて拓いて行くのなら、わたしも建日子に声援を送ろうと思う。
2003 11・5 26

* 息子は多忙を極めながら、この深夜にも此方へ来て、明朝投票してすぐ、また昼の打ち合わせ会合へ戻って行くという。ぜひ投票したいと。
東京の小闇は「今から開票速報が待ち遠しい」と書いている。こういう若い人達が、全国で一人でも二人でも多くいて欲しい。私民の棄権は、生命線の放棄なのだから。
2003 11・8 26

* 深更に来ていた建日子も早起きして、親子三人、近くの小学校で投票を済ませてきた。建日子はもうその足で車を駆り、都内の稽古場へ戻っていった。
不在者投票をした遠方の友より、早や、一言とどく。
2003 11・9 26

* ちょうど建日子の「共犯者」第五回に間に合った。見ようによれば支離滅裂。しかしそれは途中でのハナシ。終わってみないと何とも言えないのが長編である。わたしが『冬祭り』を新聞に連載していた途中、面と向かってわたしに「支離滅裂なんじゃありませんか」と言った他社の編集者がいたけれど、その同じ人が、単行本にしたのを読んでくれて、「こんなに完成度の高いものだったんですね」と言ったことがある。完結後にほとんどあの作品には手を入れなかった。ま、みてらっしゃいという気分で連載していたのである。建日子もそうなら、それでいい。
2003 11・12 26

* 歯が痛いのは本当につらいですね。顔がなすびのようにゆがむほどはれて痛むのに、仕事に行かなければならなかったこともありましたっけ。こんなに医学が発達しているのに、歯の治療は昔と同じに麻酔をかけて削ってつめるだけ、そして手遅れになると抜くしかありません。一番簡単に作れそうな人工臓器なのに「歯」の世界は遅れていますね。歯医者は大嫌い。よほど痛まないと行きません。お大事になさってくださいね。
「共犯者」きのうは、なんとか最後まで見ることができました。漫画家の唇が噛み切られそうになった「本当の恐怖」は、やはり見続けることができないほど怖かった。殺されたOLがかっと目を見開いていたのも怖かった。車で崖から飛び込んだ共犯者たちは、きっと命は助かるのでしょうね。それも怖い・・・。相変わらず、かつてみたことのない構図、非凡なカメラの使い方も楽しめました。そう・・・ やっと楽しみながら恐怖を味わえるようになってきました。

* 歯のはなしは実感が持てるが、ドラマの方はちょっとご挨拶を戴いた感じもある。ああいう恐怖の煽り方は、ほんとうは、なにでもない。恐いとはああいうことだろうかと、わたしなどの感覚は少し違っている。見て戴けるのは本当に有り難いが。
2003 11・13 26

* 秦建日子脚本の「共犯者」は、黙って最期まで見るしかあるまい。かなり複雑で、その複雑さを適切に観客にも分かりよくしてあるといいのだが、今のままでは木の枝から葉が散るように観客が減っても致し方ない。たまにテレビの画面にこういうのが映るのもわるいことでない、勇気ある冒険だと行っておく。成功か失敗かは最期まで見ないと分からない。

* 伊丹十三がおおむかしにテレビで光源氏を演じたとき脚本と監督は度忘れしたが著名な映画監督であった。源氏物語の映画はそれ以前に長谷川一夫、若尾文子らのを映画館で見ていた。説明的な美しい絵巻であったが、それに比べるとテレビのはシュールな画面と批評的な内容でしかも優れて藝術品に出来上がっていた。あれほどテクニックでも魅了された映像作品は、その後、めったに出逢えない。
建日子のものを見ていて感じるが、持ち前の才気をフルに出し尽くしていっぱいいっぱいになっている。だからストーリーの展開に深い水面下の分厚さが出てこない。「共犯者」はいわば現代の歌舞伎をなしているといえば、むろん褒めすぎだが、歌舞伎にはこの程度のカラクリや組み立てや妖しさはいっぱいある。院本にも世話にも怪談にもある。能など、みな幽霊が主人公だと謂えるし、うならせる不思議の趣向は幾らもある。
「共犯者」の作者は、そういう豊かな伝統からほとんど何も学んでいない。観てもいないし読んでもいない。蓄えがない。佳い底荷の乏しい航海をしているから、舟は息が浅くかなりアプアプしている。
鬼面人をおどろかすには、それなりに安定したリアリティーが必要だが、その辺の造作が手薄い。作者一人でよろこんでいる。観客はかなりマゴマゴしてシラケている。
2003 11・19 26

* 妻と八丁堀から茅場町の方へ歩いたが、土曜日で店も開いていないので、日比谷へ戻り、例により「東天紅」て小さなコース料理を堪能した。ボジョレーヌーボーをグラスでとり、わたしは別にフェンチュウを二杯。静かなわたしたちの穴場の一つ。ゆっくり芝居のことや何かを話しながら、佳いメニューのうまい中華料理であった。
とっぷり暮れた宵の有楽町を歩いて地下鉄一本で保谷駅まで帰った。北風が吹いて冷えてきていたが、妻は元気で歩くと云う。風に向かって歩いた。黒いマゴが迎えに出てきた。
2003 11・22 26

* 秦建日子が今日のミュージカル「EDITORS」に関心を示して、公演予定を教えてくれと云ってきた。きわどいことに、もう明日の二時開演で千秋楽である。観られるとよいが。ただし、むちゃに高望みはしないで。しかし忙しい人だから、今夜の明日ではムリだろうな。
2003 11・22 26

* そうだった、わたしも、親に、買ってとたのむ前から断念していた。ま、それほど哀しみもしなかった。断念の方が深かった。それに父はわたしに、学歴と養育と謡曲の美しさとを呉れた。母はいろんなことを識っていた。叔母は茶の湯や生け花や女の世界を呉れた。もらったものを、まずまず活かしてきたつもりだ。
2003 11・25 26

* 妻は朝から体調をダウンさせていて、わたし一人で六本木へとすら言っていたが、やはり一緒に出て来た。雨の路上に出たとき、大丈夫だというので、日比谷線で銀座に出、読者でもある画家鳥山玲さんの個展を清月堂画廊で観た。芸大の大学院を出て、ずっと若い頃に受賞もしている画家で、綺麗な絵を描く。工藝的なセンスに優れていて、書物の装飾や屏風や衝立を美しく創る人だと覚えている。

* 清月堂のとなりが海老の「中納言」なので、入って、早めの夕食にした。ワインをハーフでとった。産地は知らないがいわゆる伊勢海老の大きいのを主にした、懐石を食べた。最初にドーンと大きな海老が出てうまく、料理も多彩で、味噌椀も海老飯も箸洗いの豆腐汁もけっこうであった。妻がよろこんで、元気を回復してくれてよかった。
銀座一丁目から、保谷駅まで一本で帰った。北口には近年料金百円の簡素なバスが走る。
2003 11・29 26

* 太平洋戦争の開戦を国民が軍により告げられた日であった。日付を書くまで忘れていた。それほど遠くなったということか。昭和十六年(1941)だった、わたしは毎朝迎えのバスに乗り、馬町の京都幼稚園に通っていた。秦宏一(ひろかず)と、自分の氏名を疑ってもいなかった。
南山城加茂当尾の共は大庄屋吉岡家から、京都新門前の秦家にもらわれて来たのが正確に幾つの歳の何月何日とはもう調べようもないが、昭和十四年か五年、四、五歳までであろう。
あれから幼稚園を終えて国民学校に上がり、二年生夏休み頃までの記憶では、生活の空気が、ふしぎにからりと澄んで明るかった。昔の風儀のいいところが家庭内に習慣というより肉体化してのこっていたし、質素ななかに、祖父は祖父の位置を占め、父は父らしく務めていたし、母は主婦というより嫁の立場に精勤していた。母より一つ上の小姑であった未婚の叔母は、自立を模索し稽古事に人一倍精進していた。
世の中のむずかしいことは、我が家ではてんと話題にもならなかった、お上も我が家のことなど、ただ数の外のその他大勢であったろう。たしかにお国は戦争していたのだが、我が家の生活全部が戦争におおわれてはいなかった。幼稚園で毎月もらってくる、楽しみのキンダーブックの絵本の空気と、さして変わりない今日只今平穏無事の空気が、まだ家にも、幼稚園にも、学校にも世間にも流れているかのようであった。あの透明なエアポケットにはまっていたようなあの頃を、ときどき、とても懐かしく感じる。テレビもなかった。携帯電話やパソコンなど影も無かった。電化製品は極く数も種類も少なく、電器屋だった父は、ラジオ、扇風機、電気行火などが売れたら大喜びしていた。百円札など滅多に見たこともなく、真空管や電池や電球が貴重品であった。三十燭や三十ワットの電球で生活していた。よくて四十ワット。六十ワットは贅沢で、百ワットのでんきゅうなんて眩しくて堪らなかった。
いけない、いけない。こんな思い出にひたっていると、幾らでも時間が過ぎてしまう。
わたしたちの町内は、たった数十軒のちいさな両側町であったけれど、どの家がサラリーマンであったろうととても思い出せないほど、親が、大人が、いつも家にいた。店屋が多かったということか、但しいわゆる外国人向けの美術骨董商の多かった通りで、自然戦時中は火が消えたように静かであったが、月給取りの風は何処の家にもまるで感じられなかった。月給取りの生活というのが想像出来なかったような少年時代をわたしは過ごしてきた。

* あの頃の不思議に澄んで明るかった、なにかしら人の身動きにも暮らしにも貧しいながら整頓された清潔感のあったあの時代への懐旧の念は、当然ながら、今今の風俗の、情報の溢れかえって騒然・混濁・腐臭への厭悪感にも導き出されているのに相違ない。どうなってしまったのだろうと嘆きながら、ワケはかなり分かっている。機械化の便利と引き替えに、人らしいキマリのある日々をかなぐり捨てたのだ。便利になっているのは間違いない、それなのに世の中は快適かというと、とんでもない、不快でだらしのないさなかにある。機械がしみだしている毒に毒されているのだ、人間が。むろん、わたしも。
映画「マトリックス」の最初のバージョンに、痺れた、のはその嘆きからだ。

* 有り難いことに障子窓の外が、はればれと今日は明るい。日の光に恵まれる嬉しさ。そして目の前であの阿修羅像が息をつめて合掌している。ああ、どうしたらそうっと静かに死ねるだろう。
2003 12・8 27

* 夕食は妻と、近所の「ケケデプレ」に。時間を忘れて、イラクも憲法も歌舞伎も親類や子供のことも、よく話す。

* 秦建日子脚本の「共犯者」は、もう、来週には収束する。よほど綺麗に合理的におさまめないと、客はガッカリする。仕上げをごろうじろと言って欲しいものだ、楽しみにしている。
2003 12・10 27

* 巣鴨の寿司「蛇の目」は、休日。一路、家に帰った。建日子が夕方から来ていると分かっていた。花籠さんに戴いたおいしい牛肉に、三人で嬉しい舌鼓をうった。建日子はすでに「共犯者」の最終回のビデオを持参していて、親子三人で観た。その感想は、だが、放映が済むまで書くまい。ひきつづいて、ニコラス・ケージのものすごいまで乱暴な「コンウエイ」を観て、ヒャアとみなで呆れた。ニコラス・ケージらしい主演映画ではあったけれど。
終えたところで、十一時前に建日子はまた五反田へ車で戻っていった。
秦建日子作・演出の「リ・バース」は一月松の内に一週間ほど下北沢で。その稽古もたいへんらしいが、「天体観測」「最後の弁護人」「共犯者」と続いた一人書き連続ドラマの稿料が揃って入ったのでと、少し裕福そうで、嬉しそうであった。親も、なにがなしにこにことそんな話を聴いた。来るたびに、新しいハイテクのツールを披露してくれる。今日は何機目かの、とても小さい胸ポケにも入る恰好いいデジカメを見せてくれた。ソニーであったろうか。先日の小闇@東京の「私語」に触発されて買ったらしいが、小さくて、裏のスクリーンの明るく大きいのが印象的だった。わたしにはお古のちいさな録音機を呉れたが、電池を入れておくとたえず消耗するので、使用してないときはいちいち電池を出しておけというから、こりゃメンドクサイ。 2003 12・13 27

* 身辺の散らかりようも甚だしい。片づけを億劫がるようになった。明日あたり、二階も階下も、すこし整頓しなくては、新しい仕事に手が附きにくくなる。

* 五反田に戻った建日子から、新しいデジカメで撮ったわたしと妻との写真一枚ずつをメールで送ってきた。一枚のサイズが三百五十万サイズほどあり仰天。妻のがクリアに、わたしのはソフトなポートレート。おもしろい時代になった。ところでわたしは、やっと文章はファイルで送れるようになったが、写真はどうして電送するのか手順を知らないで居る。
2003 12・13 27

* 秦鶴吉といった祖父が七十八で老衰死したとき、たいへんな長生きに思われた。わたしの年で数えると、あと十年。フームという心地である。朧ろな記憶からいえば今のわたしの方が、その年頃の祖父より活溌な気はするが、父長治郎の六十八はどうだったろう、父は九十一まで長命した。母タカは九十六歳で卒去した。もう二十三年または二十八年ガンバラないと追いつかない。フムフム。推量のとても利かない長い歳月だ。
2003 12・14 27

* 秦建日子脚本の連続ドラマ「共犯者」が、予定通り十回で完結した。このまえの「最後の弁護人」のように一話完結のシリーズでなく、その前の「天体観測」同様、全体で纏まる長編ものであった。ふつうは複数の脚本家で担当分担する連続ドラマが多い中で、この一年二年の間に三作も単独執筆ドラマを仕上げたのは、建日子、よくやった。単独とはいえこの業界は、外野からの干渉や制約が多くて思うに任せないのがまた適当な「逃げ口上」にも成るらしいけれど、人間関係で成り立つ勝負を辛抱してし遂げたのだから、オヤジより、よほどえらいる。無事の収束、おめでとう。

* さて、そういうことであるらしいと云うところへ、筋書き的には落ち着いた。擬近似作があるなどと新聞に書かれていたが、少なくも日本のテレビドラマでは珍しい作り方であった。演出と撮影と俳優達とがかなり熱く、遠心化している作柄を、求心的に取りまとめてくれた気がする。熱意は上乗であった。
ドラマでは知らないが、他のジャンル、小説や演劇ではママ有る作り方である。はっきり云って作者は「影」を書いた。前にも触れたが、アーシュラ・ル・グウィンの名作『ゲド戦記』の第一冊は自分の「影との戦い」であった。建日子は少年時代にこれを「思想の科学」に「書評紹介」しているぐらいだから、深く焼き付いている。そして父親私には「加賀少納言」という小説がある。これは建日子は読んでいまいけれど、紫式部の自ら編んだ家集を締めくくる歌の読み手が「加賀少納言」という女房名の人である、が、これほど源氏物語研究や紫式部研究は無類に進んでいながら、「家集」を締めくくるほどの大事な人物が、今なお皆目謎のママになっていて、わたしは、これが紫式部の、またものを創り手の、「影」の別名であろう、と、想像した。我が影との対話でこそ、微妙な創作は成ってゆく秘儀に触れたのだ。
建日子の「影」は人間のうちなる、或いは外側から添い憑ってくる「共犯者」を書いている。そして「自分」を殺すことで「影」を殺そうとしていた。だがそういう影は、誰にでもいつでも憑いて来るとも示唆していた。その意味では、俳優座でこの間妻とわたしで見てきた、イヨネスコ作の「マクベス」の「魔女」にも相当している。あの魔女は「共犯者」であり、そして仕事を終えてしまうと、悪徳と悪行の種をしっかりその場に残して、また別の誘惑のために、共犯のために、時空を超えてゆく。
この世の者でない者が、人の目に触れたり失せたり変身したりしながら、自在に人に交じっている世界なら、そういう世界観は、わたしの、ある時期まで商標登録のようであった。幽霊の世界に半足を置いている作家とわたしのことを云った批評家もいた。「清経入水」も「蝶の皿」も「冬祭り」も「四度の瀧」も、そして「加賀少納言」も「北の時代」も、みなそんな「影」「非在の生」を書いた。だからダレに云われるまでもなく今度息子の書いたものは、わたしにはたいへん心親しく、またそれだけに批評も利くと思っている。
が、もうとうに済んでしまった仕事だ、仕上がった嬉しさは、またこの先への不安や期待は、本人に近い感じでわたしも分かっている。無事に済んでよかった、またがんばれよと云っておく。

* 妻もわたしも、やはり、ほっとしている。そして、こういうことなら、姉の朝日子にも、また別の創作の道を努めて開拓してみて欲しかったなあと思うのである。建日子は父親を世襲はしなかった。つかこうへい氏との出逢いを自力でバネにし、わたしとは別世間へ出て行った。それが良かった。朝日子にもまた別のなにかしら世界がありえたろうに、と、惜しい。娘が、「東京の小闇」のように、またちがったセンスのエッセイなどをホームページで書いていてくれたら、どんなにわたしも妻も嬉しいだろう。元気にしているのだろうか。娘達の「お受験」に狂奔したりしていないといいが。

*「共犯者」は、心の闇が創り出したもう一人の自分だった、という思いがけない結末に唖然としました。
現実に多重人格者が存在していることは知られていますけれど、こういう形で、映像で、表現されるとは思ってもいませんでした。
これであの異時空間的映像が、重要な意味を成していたのだと思い至りました。
「すごく怖かった!」というのが本音。
最近の残虐な犯罪事件を見聞きしていると、この「共犯者」がけっしてドラマの中だけに存在する者ではないのだということ。
自分の影に忍び込もうと隙をうかがっているかもしれない「共犯者」がいることに、目を逸らさず、見据えて、生きることが出来ればと。
そんなことを考えさせられたドラマでした。
花籠に佳い水を豊かに満たしたいものです。
ご無理なさいませぬように。ご自愛くださいませ。 徳島県

*「共犯者」の最終回拝見しました。なんとなくそのような気がしていた「共犯者」の謎解きがなされ、事件の全貌も解き明かされました。やはり他に類をみない非凡なドラマだったと思います。毎回楽しみでした。
ただし私は血を見たり人殺しのシーンを見たりするのはあまり好きではないので、そういう意味では、心に残る映像はありませんでした。
空気が冷たくはりつめてきました。お風邪を召されませんように。  神奈川県

* 「共犯者」は三回目あたりからは、身内に住む悪の分身と分かって観ていたので、まあ最後の種証しを驚くに至りませんでしたが、女性の共犯者に男性を、その体力を象徴的に持ってきた処に、女性の怖さ、底力を表現していると、私は解釈しました。そう、現代の女性は怖いのよ。
あなたが云っていたように、テレビ映像でのあのカメラアングル、特に顔半分の怖いアップなんて、とても若い売り出しの女優では撮らせてもらえないでしょう。
中山忍、温和な印象のかわいい女優さんだったでしょう。お姉さんの影に隠れて気の毒ですが、演技賞も数取っています。  京都 2003 12・17 27

* 秦建日子の脚本「共犯者」をめぐって、かなり多彩に意見交換がされているのを、少しべつのサイトで垣間見た。その議論が、かつて単発に書いたり芝居を公演していた頃よりも、質的によくなっていて、中には作者がよく聞くべきだと思われる意見も少なからず見受けられる。作者の幸せである。一例だが、私の眼で記録に値する一つと、医学的な解説とを、わたし自身の興味と共感からも、転記させて頂く。改行と行アキとは、わるいが、このサイトの量的・表記的な都合から適宜つめさせてもらうのを許されたい。

* 僕の意見 投稿者:本田  投稿日:12月20日(土)02時55分53秒
僕も初回から毎回録画し、何度も見て、楽しみにしていました。このような良い場所(=掲示板)があるので、自分の意見を書かせて下さい。
まず、このドラマ(=共犯者)の魅力のかなり大部分を、浅野さんと三上さんの演技とカメラワーク、この2点が構成していることは誰しも異論がないでしょう。これは文句なく素晴らしかった。そして多くの人が、この点に惹かれて見ていたとも思います。(それが視聴率という商業的な成功に結びつかず、より多くの人の目に触れなかったことは、ファンとして残念ではありますが)
では脚本はどうだったか。
僕の見たところ、迷いやブレ(または詰め込みすぎ)があり、完全に煮詰め切れていなかった、という印象を受けました。その理由の一端は、様々なところで必要以上に一般化や可能性の示唆を行ってしまった点でしょう。
たとえば、この掲示板でも指摘がありましたが、ウエヤの継続的な服薬は、彼/彼女が何らかの病気に冒されていることを示唆しています。肉体的な問題はなさそうなので、当然、精神的なものと考えられるでしょう。
また、最終話ラストや引きこもり少女の「私にもそんな彼がいた」は、「ウエヤ」は誰にでも起こりうる現象(存在)であると一般化する内容と言えます。
こうした可能性の示唆や一般化は、視聴者に色々な想像をさせるのに役立ちます。言ってみれば「想像の余地=後味」を残すわけです。しかしながら、本作はその方法が雑だと感じます。それゆえ、「途中で放置した」「意味もなく謎だけをばらまいた」ような印象を持つ視聴者が出るのです。
どのパートをどのような意図で描いたか。こうした十分な意識がゆき渡っていないように感じます。
そのために、「十分な批評に足る水準の作品として練られていない」という主旨をもって、感情的な批判が目立つのではないかと僕は思います。そしてそれが、何よりも僕は残念です。
色々なテーマが盛り込まれていますが、それらをもっと適切に描くことができたのではないか。その「可能性」を想像してしまうこと。これは脚本家としても、視聴者としても、やはり残念なことでしょう。本当に素晴らしい作品というのは、「これは真似できない、素晴らしい、偉大な仕事だ」と、圧倒されるものだと思うからです。たとえば三上さんや浅野さんの演技には、誰もこんなに批判をしていませんよね。それは彼らの演技が、文句なく素晴らしく、圧倒的だからです。
色々なテーマの描き方については、たとえば、「ウエヤ」を一般化したいなら、「いつでも僕を呼べ」みたいな最終回ラストのシーンは冗長で興醒めします。舞に「ウエヤ」が見えた、というその一点だけで十分に表現できたでしょう。(「ウエヤ実在」と誤解される可能性を除くために冗長にしたのかもしれませんが、何しろあのシーンは興醒めです。せっかくの「ウエヤ」というあまりに貴重で魅力的な存在を、そんなに安売りして良いのですか?)
ただ、このドラマの中で、最終的に何より精彩を放っていたテーマ、「人間の心の闇」「罪を犯すことの重さ」といったものは、十分によく描けていて、相当な迫力があったと思います。
そういうわけで、僕の結論としては、「中途半端なところや煮詰め切れていないところもあったが、大きなテーマはかなりの迫力を持って描かれていて、いいドラマだった」・・・という感じです。
DVDを買って、「見たいけど途中からだと話がわからないから・・・」と言っていた母と友人に、見せてあげようと思います。
散漫になりましたが、僕の意見は以上です。

* 見るべきはよく見て見抜いた、秀れた感想だなと思った。われわれ夫婦も、こういうことを話し合いながら観ていたし、最後にわたしが呟いた感想も、優れて意欲的だったけれど、脚本は随所にヘタであった、と。こういう、強いて云えば幻想性の作品は、観たり読んだりの客に文句を言わせない魅力的・美的で強力で強引なウマサが必要になる。それが足らずに、自分の手際に説明がつくようになると、そこから腐り出す。

* (無題) 投稿者:因みに  投稿日:12月20日(土)14時10分6秒
解離性同一性障害(多重人格)というのは精神病ではなく神経症です。
<解離>の例
・行動した形跡があるのに記憶が無い。
・まるで自分に起きていることが夢のようでとても現実だとは思えない。
・気付けば知らない場所にいるが、どうやってここまで来たのか記憶が無い。
・(自傷行為を含み)身体的な痛みを感じない。(痛覚における解離)
・自分の身に起こっている事が他人事のようにしか感じられない。(離人感)
<解離後の現象>
・記憶していることが夢なのか現実に起きたことなのか区別が全然つかなくなる。
・移動したり会話したりしていた形跡があってもそれをまったく覚えていない。
人生の重要な出来事すら覚えていない。
・自分の知らない人が自分を別の名前として呼んで話しかけてくる。
・自分に買った覚えのない品物を見つける。
・ある場所にいて自分がどうやってそこへ来たのかまったく覚えていない。
主人格や他人格のタイミング、相性などによって稀に記憶の共有をできる時があります。
実際に表に出ている人は一人ですが、その人の視線での景色や外の音などを感じることができます。
コントロールもできないので本当に稀な出来事です。
人格によっては自分の意思でできる人などもいるそうです。

* こういう文章とこういう声音で、まともな感想が響き合ってきたというのは、いささかミーハー的に感じられた脚本作者が、少しずつマトモになってきたことの反証でもある。ホームページに書き込む作者その人の感想や意見や述懐や情報提供も、それ相応に誠実に落ち着いて読むに足ることが期待される。もうその時期へ入って行けて当然ではないか。
2003 12・20 27

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