* 小一時間に、たちまちに二十人ちかくメールの賀詞が届いた。ペンの小中理事からも。早々に出稿してもらえるらしい。もう仕事が始まっている。
さ、朝には息子達が来る。もうやすもう。静かな、温かな元日だ。朝あかねの美しいいい春に成るらしい。
2004 1/1 28
* 八時半に年賀状を読み、十時過ぎ、帰ってきた息子たちと、四人で雑煮を祝った。
頂戴していた三浦景生さんの函を開いた。申歳のお茶碗を戴いていた。猿の絵が渋く美しく、小振りのツクリながら、堅実に手びねりされていて、土はしっとりと石味をふくんだように、重め。総じて銀灰色に沈透(しづ)かせた肌合いで、息子達には、渋すぎると思われたかも知れない。三浦さんはいわゆるお茶碗やさんではない。独特の絵ごころの染色に境涯を深めた藝術家。
当年申歳の息子の新年を祝って戴いたと思い、昨年奮励の秦建日子に贈った。
* 天神社に四人で初詣した。ことしは社前の行列が長い。地元旧来の古い村社で仰々しくなく、古朴簡素な境内がこころよい。大きい銀杏の木の根方で焚き火されていて、テントの下で鏑矢、神矢や小絵馬を、物静かに売っている。少し日の当たった境内空き地の遠くに、たわわに、柑子であろうか黄色い実の枝が地につくほど垂れていた。
鳥居前から、ぐるりと一回りして家に帰る。息子達は、夕飯まではいるのだろうか。明日からは芝居の稽古をもう始めるという。六日の初日と十日の券を用意してくれているそうだ。
2004 1/1 28
* 建日子たちは九時過ぎまでゆっくりして行った。いっしょに「ハドソン河のモスコー」を見たり。建日子はわたしの機械部屋に来て機械を触っても行った。「日比谷東天紅」からの正月料理をほとんど全部、四人で平らげた。元日ぐらいは好きなだけ飲んで食べて宜しいと聖路加日野原先生の太鼓判を信頼し、あとは自分で調整してゆく。建日子達の御陰で、寂しくない元日が過ごせて嬉しかった。
2004 1・1 28
* 建日子の元旦のサイトをひらくと、或る視聴者の佳いメールを紹介していた。佳いものだった。わたしも嬉しくなった。
2004 1・1 28
* ゆっくり朝寝した。あれで夢をみなくてすめば、安眠、なのだが。正午前の血糖値105。椅子席で、雑煮を妻と祝う。まだ相当ねむたい。
2004 1・2 28
* 一度ぐっすり寝ておきたい。建日子の芝居がはじまる。初日と五日目とを観てくれと云われている。梅若万三郎の「翁」にも行く。俳優座劇場の芝居にも招かれている。京都行きがあるので、今月前半はとくに外出をおさえているが、それでも気の抜けないスケジュールになっている。歯の治療も聖路加診察も委員会もある。
2004 1・4 28
* 今日は秦建日子作・演出「リバース2004」の幕が下北沢で明く。入りの心配は全くないるらしい、もうわたしが八方手を回して応援する必要もない。有り難いことだ。無事をねがう。
* ビルの上の渋谷「松川」で、早めの夕食、わたしは「西の関」一本と妻の生ビールも半分以上貰い受け、鰻。
下北沢は少し苦手な町だが、息子は何度か此処の「劇」小劇場を使っている。師匠のつか・こうへいさんと挨拶したのも、此処で建日子が「ペイン」を演出したとき。今日は、「リバース2004」で、作品じたいのre-birthにも、かなり成功していた。セリフが簡明に要点を掴んでいて、四人芝居が生き生きした。
但し、これは怖い芝居。観念的な創作劇で、基調のフィロソフィがかなりしんどい。感動して涙を流すという建日子の通例の芝居とはちがい、乾いてくる。作劇も相当に難しい方の一つで、はやばや音を上げたらしい年輩の男客ひとりが、開始十分ほどで超満員の客席の奧からむりやり出て行ったのが、いっそ可笑しかった。
建日子達の芝居は、説明的な通俗演劇だけを見慣れている人には、どだいその演劇文法について行けないかも知れない。間違って入場すると出て行くのも大変だ、立錐の余地もない。それでも出て行くのだから同情に値する。
本が読めない読めないと言われるわかい人達が、ああいう難解そうな、展開と飛躍と転換の烈しい舞台を楽しめるのは、彼等なりの訓練が利いているのでなければ説明しにくいが、わたしは、劇画やマンガで仕込まれている御陰なのだろうと思う。劇画やマンガは、コマからコマへ、当然続かない、ないしは隠れている時間と空間とをもって、見た目はヒョイヒョイと飛躍して行くではないか。ああいう、線は線でも、断続展開する鎖線状の場面展開には、通常の小説読者よりも、はるかに劇画フアンの方がついて行ける力を持っているだろう。わかい人達は少なくとも漫画的時空間で小劇場演劇の実験にむしろ親しみを覚えやすいのではないか。
今日の舞台は、三人の女優と一人の男優で演じられ、わたしがはじめて観る主演した女優(滝佳保子)が力量十分、面白く演じてくれ、楽しめた。この人が傑出していて、舞台を成功に繋いだ。ドラマなどで見ているのだろうか、初目見えのようで新鮮でタフだった。
アコムの広告に出ていて顔はよく知っているもう一人の新顔女優(小野真弓)と、正月にわが家に来てくれた連れ添い女優とは、ま、顔なじみ。患者役の築山万有美は二度目の役か。あれはあれで悪くはないが、いかにも、さもありそうに、ありふれた、ふつうの答案を読んだ感じでもある。わたしが演出するなら、もっと様変わりな患者として、極端にいえば、透明な天女かのように人間臭さすべてを吸い出されてしまった一見善良な、軽い空気のような、意識と肉体との乖離した、しかも言うことは痛烈な女として演じて貰ったろう。アコムさんは、少し役回りが掴みにくそうであった。
巨大な肉体の男性君(横山一敏)には、ただもう圧倒されました。
主題は、人間のウソであろうか。それを、登場の四人(カウンセラーの卵、カウンセラーの上司、カウンセラーを受ける患者、三人の女にややこしく関わってくるマッチョな男)共にそれぞれ復人格として画いている。「人間」に、烈しい糾弾が加えられている。それを、そんな風には露骨に感じさせずにドラマの展開で面白く見せて、渋滞や遅滞やへたな混乱・混雑を見せなかったのは、ま、お手柄であった。前回より「倍ほどよくなったよ」と作者に褒めて帰ってきた。
2004 1・6 28
* 七草粥の雑煮を祝う。
2004 1・7 28
* 建日子の三十六歳、誕生日を祝う。力満ちたまた此の一年を、怪我なく、努めまた楽しむようにと言祝ぐ。
* 三十六年前を懐かしく思い出す。特製の年譜をくれば、さっと早だしが出来る。太宰賞受賞の前年になる。まだ作家として世に出ていなかった。
* <<昭和四十三年(一九六八) 三十二歳>>
元旦、払暁ひとり尉殿(じようどの)神社に迪子無事を祈る。女子なら肇日子(はつひこ)と。「母ひとり産むにはあらで父も姉も一つに祈るお前の誕生」祝い雑煮。改めて朝日子とも参拝す。同二日、朝晩味噌雑煮。同三日、清汁雑煮、晩は自前の闇鍋。病院事情が日常化するまで保たせたいと緊張の三が日、また静かに過ごした三が日。同四日、迪子が仕事を再開。同五日、迪子予定日の通院、八日より入院と決まる。一階の永井家一足先に出産。学士会館の年賀会に朝日子と参加。この日、母上京、疲れてタクシーで少し吐き入れ歯落とす。遠藤周作「影法師」よむ。「文学」ということばで創作を真剣に考えることができ、有り難いと思う。
一月八日、朝入院手続きして出社、午後出血前兆ありと電話受け午後休暇保谷に帰り万端を用意し、潤一郎全集第十四巻、文学界二月号、松田権六『漆の話』を用意して病院に。永い永い経過があって午後十時十五分頃、日本大学病院で長男建日子(たけひこ)誕生。三千三百三十グラム。「赤ちゃんが来た・名前は建日子・男だぞ・ヤマトタケルだ・太陽の子だ」迪子は出血多量で千百cc輸血で凝固能を維持。深夜に帰り母に伝える。朝日子は眠っていた。同九日、五時に目覚め六時前に出て産院へ。迪子明け方にリカバリールームに移り落ち着いていた。事務室で手続きなど。「建日子」の名に事務では「次女」と間違い、訂正す。安堵し出勤。三時で早退し母と朝日子に池袋「けやき」でしゃぶしゃぶ。禁酒を解き大いに祝い産院で建日子に初対面、大感激す。京都の父も喜ぶ。同十日、建日子血小板不足で小児科特別乳児室に移る。同十一日、建日子入院手続きする。健常やや尿量少なし、対面すやすや寝ていた。同輸血分の預血返還を求めらる。同十三日、富士預血センターで預血。向山肇夫、持田実・晴美夫妻も献血に協力呉れる。同十四日、朝日子熱発を押して産院に行きすやすやの建日子と対面、帰宅後九度まで発熱深更に至り解熱。同十五日、ナースらへのお礼を買い調える。同十六日、板橋区役所へ届け出。迪子のみ退院、八日以降執拗に続いた出血も収まり婦人科的な問題無し。建日子は血小板浮遊液投与等でもう数日入院、すやすや寝ている。帰宅途中池袋西武で母にお礼のハンドバッグ買い、「名匠展」で泉仙の鉄鉢を食べて帰る。同十七日、とにかくも一人まず生還の実感。同十八日、建日子の退院延びると迪子少し泣く。同十九日、略称「KH」の単行本スタイルハードカバー新創刊綜説誌『小児医学』見本を筆頭編集者日本大学馬場一雄教授に届ける。建日子月曜に退院と決まる。同二十二日、迪子やや情緒不安に陥るのを和らげるため建日子退院、トットトッターで父が迎えに行く。ときどき草笛のような声を発し車中もすやすや寝ている。自分に似ていると思い一度思わず頬を寄せる。同二十三日、岩波文庫『法華経』を読み始む。「これやこの建日子の瞳に梅の花」同二十四日、馬場一雄先生にお礼。晩、免疫学叢書企画に監修者帝京大学安部英教授らと会議、うち一巻に「後天性免疫不全症候群」いわゆるエイズを含む。同二十五日、母疲れて吐く。同二十六日、母帰洛の切符用意。朝日子にやや動揺あるか、いじらし。よく頑張って助けてくれた。これからが親子四人の試練の時期となる。同二十七日、母疲れて、帰洛、ほんとうによくしてくれた、感謝に堪えない。朝日子祖母が帰るとオイオイ泣く。親孝行は子供たちが代わってしてくれる。「仏」主題の掌説を考える。「仏」とは自分にとって何か。「書く」方へ気力を向ける。同二十九日、迪子腹痛吐き気、朝日子頭痛、建日子夜になって吐く。同三十日、一酸化炭素中毒を疑い近所の山田硝子店主人を頼み日本大学病院に急行、穿刺と血液検査で大過無く暫時休養後に帰宅。迪子も出血の治療受く。冷汗三斗。同三十一日、終夜面倒をみる。明け方、大勢至、観世音、阿弥陀如来が相次いで輦車に乗って渡るのを夢見る。その直前に久しぶりに京都の西村龍子を夢見ていた気がする。二月二日、建日子の存在に深く感動している。大国真彦助教授によれば血小板は正常値、むしろやや白血球多く風邪かも知れぬと。同三日、テレビで川端康成原作の映画「古都」観る。同四日、役に立たず文芸雑誌を読むのをやめる。同十日、伊藤整『伊藤整氏の生活と意見』秋山虔『源氏物語』読む。同十二日、「或る折臂翁」読み直しほぼ良しと。今年にも新しい私家版をと思いつく。
* 馬場先生、大国先生、向山君の名前など出ていて、懐かしい。安部英先生の名前がエイズとともにこんなところに出ている。わたしの企画したこの免疫学叢書の中の一巻が日本の「エイズ」研究書の嚆矢であった。安部先生しかこういう本を出そうと思える人はいなかった頃だ。
龍ちゃんの名前が出ている。これまた、とても懐かしい。
ちなみに私が三十六歳の一月をざっと見てみると、ざっとこんなところを歩んでいた。荻原さんに突如として戴いた額が今もすぐ左の壁にある。「秦恒平雅兄一餐 井泉水」とある。すでにたいへんな高齢であった。「春秋」に連載していた花と風の論を愛読しているという添え状がついていて感激した。なにしろ瀧井孝作先生の先生であった人だ。
阿部智子とは、今の作家梅原稜子さん。当時「婦人公論」編集者で私に「怨念論」や「長女論」を書かせてくれた。生方さんも梅原さんも、今でも「湖の本」を応援してくれている。
* <<昭和四十七日(一九七二) 三十六歳>>
元日、帰洛。一月六日、両親とともに帰宅。荻原井泉水より揮毫「花と風」の大字など到来。二月七日、阿部智子、生方孝子が「廬山」芥川賞に外れたのを「樓外樓」で慰労してくれた。同月二十七日、「精衛海を填む(=みごもりの湖)」六百二枚でとにかく脱稿。直ちに手直しに入る。三月二十二日、新潮社へ届け、以後刊行まで二年半を費した。四月、建日子がみどりヶ丘保谷幼稚園に入園。この日、芸術生活社と『廬山』出版契約を交し、筑摩書房に叱られた。「青井戸」を三日で書きあげた四月十六日、川端康成自殺。同二十六日、書き下ろし単行本『慈子』(筑摩書房)見本出来。
* 懐かしい名前の作品が並び、授賞から三年近く、ようやくエンジンがかかり掛けているか。建日子が幼稚園だというから驚く。
2004 1・8 28
* 建日子の芝居、大入り超満員で好調らしい。やはり、芝居に精神面の重きを置くことで、脚本にも重みがつくことになる。当人が芝居を見放しかけるつど、どう赤字であろうが大変であろうが、やはり芝居は書いて演出し続けた方がいいと奨めてきた。
今は、ま、昔風にいえば小芝居をやっている。今の舞台、狭いうえに四角い函様のもの二つを使っているだけで装置は全くない、いつものことだ、大体。客席もあまりにあまりなほど超満杯につめこんでいるが、一回公演の客数は知れている。そうとうお断りを出しているらしいが。
はたして大舞台に転じて行けるのか、行く気があるのかという「壁」が、問題だ。今までは徹頭徹尾秦建日子の内部世界を舞台化してきた。観念的な心境短編のようなものだ。小劇場ではこれがほぼ通例かも知れない。だが演劇はそれだけではない。歌舞伎や能・狂言はともかくとしても、わたしが観てきた芝居ですらいろいろある。そこへ同じる必要は少しもないが、いずれは舞台でもドラマでも「超えなくてはいけない課題」として、例えば「脚色」があるだろう。人の作品を演出しなくては成らぬ場面もあるだろう。そのときものが「読める」のかが厳しく問われる。「読み込む」力を鍛えねばいけない。
* 勤めていた会社をやめたいと言ってきたとき、わたしは留めなかった。わたしでも同じことをしてきたのに、どうして留められるだろう。彼が退社したときは、正直わたしの退社時よりもはなはだ基盤は脆弱で、前途に何の保証もなかった。よく伸び上がってこれたなと思う。がまんづよく、続くように。
猪瀬直樹氏が、わが息子の悪戦苦闘を聞いて、「何が何でも泥水を飲みに飲んででも辛抱して書き続けるように言うて下さい」と激励してくれたのを、感慨深く覚えている。あの忙しい限りの猪瀬氏は、なんと建日子の「ペイン」を事務所の人と一緒に観に来てくれている。彼は「奮闘」と「勉強」の人である。この「勉強」の方も建日子には学んで欲しい。持ち前の才能だけでは必ず涸れてくる。清くても濁っていてもいい、泉は、泓々(おうおう)として湧き続いていたい。才能の泉は奮闘と勉強とで湧き続ける。
2004 1・9 28
* 五時間足らずの睡眠から目覚めて、妻と、朝いちばんの赤飯を祝う。建日子誕生日、健康と、公演の盛況無事を祝う。
2004 1・9 28
* 建日子の芝居、今日も来てという話で出掛けるが、入れる隙間があるのだろうか。あと、妻は友人とお喋りするという。わたしは、三時半すぎという半端な時間に下北澤のような不案内なところで一人になる。やれやれ。どこかで校正でもしてから家に帰るか。
2004 1・10 28
* 今日は、狭いが二階のテラス正面に我々二人の席が用意してあり、見やすいことでは最良であった。手入れが入り舞台はさらに要領を得て分かりよく、通じもよくなっていた。
* なににしても観念で造った「理」の作劇で、いわばコンパスと定規で書いたように、パタンが、下敷きにある。セリフも場面も「繰り返し」が音楽的効果をあげつつ、三人の女の内なるもう一人ずつの「影」のような存在が、バトンを渡し渡し場面を運んで行くような按配。こういう、着想の重層化という「つくり」は、どこかで機械的になり、機械は精密な方が美しく機能的なものだから、要するに演出効果で磨きをかけることになる。つまり「うまさ巧みさ」で舞台を完成させ洗練して行く。その意味では初日より磨きがかかり、初演の昔より遙かに作劇も演出もじょうずに仕上がってきた。
ただ、こういう劇は機械的に磨かれていればいるほど、ヒューメンな人間劇からはじつは遠のく。観念と概念と出組み立てた作り物だから、生々しい感動と興奮は生じにくい。建日子のしごとでいえば、「地図」「タクラマカン(サハラ)」「ペイン」の終幕には劇場がふくれあがるような興奮というものがあり、それを感動といっても不都合でなく、涙が溢れやまぬような生気の迸りが特徴的であった、かなりに感傷も含まれ、作劇として完成度完璧と言うにほど遠くても。
だが今回の「リバース」は玄人の舞台としては作劇にも演出にも格別の進境があるのに、舞台はそうは熱く熱せられていない。終幕の拍手がおとなしく、ややとまどってすらいる。
この大きな理由の一つは、今回に限りいうなら、作・演出に対応する、わずか四人の俳優が、よく応えられていなかったと断定できる。
試験採用されている新人のカウンセラー、この女優だけは、終始活躍している。その身動きもともあれ見るに堪える対応である。一人だけのわけのわからない変な男は、その役どころを活かし、わけのわからなさで烈しく動き回り、舞台が狭いほど働いている。あれで成功なのか、鈍なのか掴みにくいが、ある種の空気ぬき的存在でもある。なにしろマッチョである。
しかしもう二人の女優は、大方が棒立ちで、立ち姿に工夫がない。生身の動く美しさが、からだでも声でも表情の変化でも出し切れない。
なにより作と演出とに応じ得ていない欠点がある。一人の人物中にもう一人の難儀に曰くある別人が生き続けている設定なのに、(それは姓名の違いでも指定されているが)その差異が、せりふや演技そのもので顕著に演じ分けられていず、マコトに曖昧模糊。ちがう姓が呼ばれてああそうかと分かる程度のぬるい演技で、舞台がすすんでくると、初見の人は混乱するだろう、どだい一人の人が二人になりかわる機微は、てんと掴みにくい。それは役者の表現力の弱さ、その根にある作の理解力の弱さ、以外のなにものでもない。把握が弱いために演技表現もよわく分かりづらい。
それで、ますます、設計図は機械的なまでにかなり精密に書かれていても、建った建物は、影薄く入り乱れて貧相に曖昧で、譬えにも居間と客間との違いが、おおそうかそうかと目に見えてこない。つまり、へたなのである。身を削るような工夫で役を造っていない。これでいいのかしらんという悩ましい自問自答が演技に見えてこず、ワンパタン、活動的でない。
おもしろかった、けれど、ものたりなかった。やはり感動したい。工夫されたうまい演技が観たい。たった四人で創るような芝居は、四人共が相譲らずうまくなくては、活気づかなくては、魅力に欠ける。
少し厳しいが、また、粗筋をさえ書かないで言いつのるのだから、此の批評自体が分かりにくいものだけれど、心覚えにも、こう言っておくとしよう。建日子には分かるだろう。
* 妻の友人にはツレがあったので、劇場前で別れて、下北澤の店でひとやすみし、わたしはビール。それからもう遠くへ動く気になれず、渋谷経由池袋に戻って、馴染んだ天麩羅の「船橋屋」で夕食にしてしまい、「笹一」二杯に気分良く酔って、西武線は保谷まで眠って帰った。それでも往路の電車で、湖の本の校正を大略ひととおり終えてしまえたのは助かる。よく整えて、京都の前に凸版へ戻して行きたい。
2004 1・10 28
* 母のちがう妹が川崎に二人いて、両家にむかしは小さい子が何人もいた。けれど。みなもう大きくなった。姉の方の長女が今夜初めてメールをくれた。或る会社に三年、別の会社に三年勤めて、石の上にも三年で落ち着いていますという。とても珍しい心地。
娘の所の孫娘はずうっと幼いけれど、それでも、姉のやす香は高校生だ、たぶんカリタスという学校にいるのだろうと想像している。検索で名前が出たことがある。妹のみゆ希はもう中学生になったかどうか、この子がなんと碁がつよくて、碁をうちに中国にまで行ってきたと、まわりまわった別の方角から教えてくれる人がいた。これまた、びっくり。今の子だもの、メールぐらい出来るだろうになあ。
2004 1・12 28
* 建日子の舞台も、あの翌日にも昼・夜と打ち上げて無事に終えたようだ、よかった。掲示板の反応も「大好評」などという字が目立っている。いい上げ潮に丁寧に乗ってゆくがいい、勘違いせぬように。
2004 1・13 28
* 建日子が引っ越すという。新しいマンシォンの保証人を引き受けるため、いま、実印証明をとりに、近くの庁舎へ建日子は自分の車で出掛けた。彼が少し風邪気味らしいので、車に同乗するのを遠慮した。風邪は万病中の難儀な病気、努めて避けている。
2004 1・23 28
* 海外へ、我が家で誰よりも行きたがったのは、妻。だが、そんなことの言い出せる時期には、つまり三人の年寄りが亡くなったあとでは、妻はもう都心へ遊びに出ても、時にひどく疲労した。余儀ない法事などの帰省でも、滅多には二泊と家を空けていない。一泊よりは二泊の方がからだにラクなのだ、が、三泊は思いも寄らない。ただもう、一病息災をわれわれは願っている。ばか息子殿は、お母さん自動車で北海道中をドライブすると楽しいよ、行こうよと母親を喜ばせたくて親切に誘ってくれるが、出来ればそれは楽しいに違いない、だが、自動車で旅行線を延ばすだけの旅が、どれほど疲れるものか、九州中の窯場を二度に分けて何泊もタクシーで走り回った平凡社の取材旅行で、また西行の跡を訪ねて四国や近畿をタクシーで走り回った「太陽」取材の旅で、よくよく知っている。妻は半日と堪えられないだろう。まだしも列車の方が、立ちも歩きも出来て心臓に優しい。
つまり、飛行機に釘付けから始まる海外の旅は、心から妻のために残念だが、今となれば夢でしかない。腰が重いのでなく、行かない、のである。意味は明白。一人旅も、せいぜい仕事がらみのものか、あっても二泊限度。行きたいが、じつは行かないのである。でも、行きたい。長い自作の小説をつくづくと更に推敲すべく、近間でいいから出掛けたい、どこかへ、二日ほどでも。しかし海外は論外、それこそ中国やソ連の時のように、井上靖や高橋たか子や日中文化交流協会が誘ってくれた、何か公式のよほどの機会でもなければ。
2004 1・31 28
* 新声社を売却し、わずかな元手から新潮社をまた興して雑誌「新潮」が創刊されたとき、広告のことて行き詰まり難渋して町を歩いている途中に、「大日本国民中学会」という看板につきあたって縁が出来た、それをキッカケに新潮社と新潮は滑り出していった、という。その中学会というのは講義録出版を主なる仕事にしていたようで、その「講義録」の何冊かこそが、わたしを読書家にも、国史好きにも育てた原動力であったことを、あらためて佐藤義亮の「おもいで」で知った。今日まで、それは秦の父が勉強したのだと思いこんでいた。しかし新潮が創刊され、佐藤が中学会に出会ったのは明治三十七年で、その頃の父は数えで七つ八つ、とても「講義録」のお世話になったわけがない。わが秦家で好学の人は、明治二年生まれ、わたしに多くの和漢の典籍をのこしてくれたやはり祖父の秦鶴吉であったと明確に判定できる。わたしはこの仮綴じに近いような大日本中学会の講義録を、ことにその「日本国史」を戦争で丹波へ疎開以前から、国民学校の低学年から無二の愛読書にしていたのだった。
フーン、と、わたしは今感慨に唸っている。
2004 2・2 29
* 夕方息子からとても嬉しい電話が来た。
彼の書いた「共犯者」の、注文していたDVDが配達されて来て、母親が昨日から大喜び、テレビ画面で見ている。わたしのこの機械でも見られるが、見ている間にも仕事というわけに行かなくなる。
* 息子と深夜に交信、感謝。
2004 2・2 29
* あす、久しぶりの来客がある。嬉しい客である。お客さまを迎える余裕もない、つねづねひっくりかえった家なので、うまく、かたづけも出来ない。
新たにものをひろげて仕事するのも、珍客を待っての後かたづけを思うと、やめとこかとなり、そんな成り行きで、ふっと息のつける今日一日になった、アトへ皺は寄るけれども。
原稿を鞄に、街に出かけられるかなと期待したが、結局、そうも出来なかった。小宮豊隆の「中村吉右衛門論」という妙なものを校正し始めたり、山積みのものを押入に押し込んだり。わるくはない。思うように行かない、それが「日常」という気むずかし屋の顔なのだから。夕過ぎて、戦争物の名作といっていい、スピルバーグ監督、トム・ハンクス主演「プライベート・ライアン」をビデオボックスにさしこみ、最初の、オマハビーチ上陸場面を、顔に、烈しいシャワーを浴びる思いで観た。数多いあらゆる戦闘場面の、秀逸というよりナンバーワンではなかろうか。
2004 2・13 29
* 心嬉しい来客を迎えかつ送り、深々と呼吸している。喜びのヴァレンタインデーであった。
2004 2・14 29
* 秦建日子の公式ホームページで、ホストの発言を聴いた。おそらく初めてだろう、初めて、自分で自分に問いかけるようなまっとうな述懐を聴いた。いいことだ。
2004 2・18 29
* 父方の遠い親戚筋に望月洋子さんがいる。新潮選書『ヘボンの生涯と日本語』で讀賣文学賞を獲ている。わたしより四つ五つ上、今までに二三度顔を合わせている。ペンの会員でもあるが、例会や総会では出会っていない。出会っていてもたぶん判らないだろう、お互いに。しかし、この人の、上に謂う著書は、優れている。その本の一章にあたる「聖書を日本語に」を「ペン電子文藝館」に貰えないかなあと前から目星をつけている。メールが出来れば直ぐ頼むのだが、ダメ。電話では一別らいのそもそも話が、しんどい。手紙、は億劫で書きたくない。やれ、せんないこと。こういう物色はたくさんしているのだが、思うになかなか任せない。
2004 2・22 29
* 祖父秦鶴吉は、閏の昭和二十一年二月二十九日になくなり、三月一日から、敗戦後「平価」切り替えで、「新円」が流通した。わたしは、たまたま丹波の疎開先から一時京都に帰っており、小学校とのどういう親の折衝があったのか知らないが、京都に帰っている間はもとの母校に通うことが出来た。あの日も、有済校の四年生教室にいた。小使いが呼び出しに来て、そそくさと早引けした。時ならず校門から古門前通りへ出て行ったひっそりした「感じ」を、よく覚えている。祖父が死んだ。
父が、葬儀屋への支払いに「旧円」を使わせて貰う難儀な交渉をしていた苦労など、何も知らなかった。「新円」は一家にどれだけと額枠を決め、支給されていた、いきなり葬儀代をそれで支払うのは余りに辛かったであろう。
* 通夜から葬儀。あれが一連の「文化的複合」であることを、わたしは子供ごころに興味深く体験できた。近所の人達がきて「ご詠歌」をうたったりした。常日頃何のつきあいもなげな人の顔も当然のようにまじるのが異様であった。葬儀屋の手にかかり狭い家の中がくるくるくると模様替えされてゆく魔術的な手際におどろいた。
祖父に死なれた悲しみをわたしは思い出せない。こわいこわい難儀にむずかしい「学者」(=父の弁)のおじいちゃんであったから、わたしにはよそごとの死であるかのように、ただもう「行事」が済んでいった。そしてまた母とわたしとは丹波の疎開先へ戻っていった。丹波には、戦時中の半年にくらべて、戦後ほぼ一年何ヶ月かをわたしと母とは丹波にいたのである。京都の母校の成績表は五年生の二学期から出ているが、腎臓を患いついて二学期はほんの少ししか出ていなかった筈。
あの頃のことは記憶が混雑している。その混雑のなにかしら哀歓をわたしは後に「清経入水」に書き込んでいた。太宰治賞をもらったこの私には大事な文壇処女作は、平家の昔の公達清経を主人公に、現代の丹波や京都や東京を舞台にした一編の「怪奇小説(選者河上徹太郎の感想)」であると読まれていた。わたしはホラーでスタートしたも言えるのだが、むろん、そんなものではなかったことは、次々の作品が明かしていった。
「清経入水」だけは「湖の本」で三刷りしているが、それも残り少なくなっている。これと「蝶の皿」とは、現実にもう本が無くなって行くだろう。もう増し刷りも出来まいか。
2004 2・29 29
* 黒いマゴが、このごろ、わたしのすぐうしろのソファに来ては、すやすや寝ている。いまはまるくなっているが、よく、ずいぶんお行儀わるくひっくりかえって寝ている。昨晩はそのマゴの席を拝借して、わたしの方が三時間ほど昏睡していた。あのときに寝ていなければ、日付が変わってからのメールなどは読めなかったろう。
わたしはいわゆる「不眠」という難儀は背負っていない。出来れば眠りたくなくて、その時間をいろいろにアテたい方であり、昨夜も二時半過ぎてから階下におり、寝静まった中、キッチンでバグワンを読み源氏を読み、寝床に入ってからも今昔物語と日本史と翻訳物のスパイ小説を読んでから、やっと電灯を消した。そして八時に、マゴより先に起きた。曇り空で少し冷えていた。
2004 3・1 30
* 妻が市役所まで納税の手続きに行ってくれている。この二年、高卒の初任給(年)ほども稼いでいない。誰の目にも稼ぐヒマがないとわかっているが、それより何より無用に稼ぐ気が無い。それが昔から、一つの理想の境涯であった。過剰に贅沢する性格ではないし、妻と二人ゆっくり過去の余録を食いつぶし、自然と元の木阿弥に戻っていけばいいのである。子供達に何を残さねばならぬという心配も、ありがたいことに、無い。過去からの利息などもう入ってこないが、時代が激変しなければ、楽しみ楽しみ今のまま生活して行けるだろう。もう未来をおもう蟻の日々はいらない。「今・此処」を日々に満たしたい。
2004 3・3 30
* 黒いマゴに、一昨日から元気がなかった。けさは、すこし回復の兆し。それでもテラスから書庫の上へじかに跳び上がって外出する運動力は回復していない。そうしようと試みる気力はもどったが、成功しない。悪食(あくじき)でもしたか、風邪様の症状はないし吐きもしないが。
2004 3・7 30
* 三月は受験期。学年試験というのもある。わたしの孫娘達は、どうしているであろう。指を折ってみれば、姉は春には高三、妹は中学に進む。すこやかにあれと祈る。
2004 3・9 30
* 孫のみゆ希誕生日。妻と赤飯で祝う。今日もまばゆいまで、好天。健やかに。
2004 3・10 30
* 秦建日子が経営している演劇集団が、三班に人数を分けて、同じ一つの芝居「地図」を、一日に三通り、建日子作・演出で、舞台に載せている。新宿。班により出演の人数に差があり、演出も場面も変わり、出来も不出来もあるというが、意欲的で、けっこうなこと。わたしは、今週容易に動けなくて、最終日にかろうじて飛び込めるかと。同じその日にわたしは観世栄夫の招待で、表参道銕仙会館で「実盛」も観る。前日には扇雀丈の中老「尾上」を観る。そしてどんどん京都行きが迫っている。
2004 3・11 30
* ウイーンから甥の北澤猛が、久々にメールを寄越した。日本製のパソコンを手に入れて、使い始めのテストメールだという。
2004 3・12 30
* あすは、結婚して四十五年になる。午まえに若い生徒と三人で簡単に食事し、午後いちばん建日子が作・演出の「地図」を観る。それから、わたしは一人で表参道へはしり、観世栄夫の能「実盛」を観てから帰る。あさっては、ペンの理事会。それから三日間は休める。十九日に聖路加があり、つぎの週には京都で美術対談と美術賞の選考。押し流されるように月日が逝く。もうもう、腹を括らねばいけない。
2004 3・13 30
* 昭和三十四年(1959) 三月十四日、人事課長野田郁郎、同期入社山本誠の証人署名を得て新宿区役所に結婚届をし、天沼の田所宗祐伯父宅で保富家側在京親族と会同、披露宴にかえた。
朝地震(あさなゐ)のしづまり果てて草芳ふくつぬぎ石にひかりとどけり 恒平
夕すぎて君を待つまの雨なりき灯(ひ)をにじませて都電せまり来(く) 迪子
三月十九日、短歌一首ずつを以て結婚通知。
三月二十日、京都に発つ。同二十一日、迪子同志社大学卒業式。同二十二日、夜行で帰京。同二十四日、本郷辺で一緒のところを見られ、既婚を理由に、翌二十五日、迪子給料五千円を支給され全音楽譜出版採用取り消し失職。同二十六日、電気洗濯機京都の父より着く。同二十八日、食器棚と洋服カバー買う。
四月一日、医学書院に正式入社、三ヶ月は見習いで生産管理部に配属された。給与一万二千円(六月まで八割支給)。取締役編集長に長谷川泉、部長代理に畔上知時(歌人)同期入社に山本誠、粂川光樹(元明治大学教授)らがいた。主任鶴岡八郎の指導を受けた。
* 朝寒。往時をおもいまた昨今を顧み、胸底のみづうみはあけぼの色に静かに凪いでいる。
* 迪子と新宿へ。建日子作・演出の「地図・朝焼けにきみを連れて」の稽古公演を観に。体調、穏和にかえっている。
* 小田急新宿西口で若い人と逢い、十四階「なだ萬」賓館で妻と三人、結婚の四十五年を天麩羅で祝う。それからアイランドホールで建日子の芝居をみた。三人のためにいちばん見やすい良い席をとってくれていた。
建日子が「TAKE1」という演劇塾を立ち上げたときに、どうなることかと思った。今回公演はその演劇塾の塾生達のいわば稽古公演で、おなじ劇を、演出を替え出演視野も人数も替えて三通りに演じ分けているという。わたしたちは、その一つを観た。今までにも三度は別の舞台で観てきたが、舞台も変わり、人も代わり、斬新に劇的の度を増して、さすがに秦建日子も確実にプロになった。若いツレの客も興奮気味に楽しんでくれたようだ。なにもかも承知していて、やはり終盤の盛り上げでは涙が溢れて困った。そのうち「秦建日子のお父さんです」ということになる。それでいい、創作者として建日子が真面目に努力していってくれるなら、なによりだ。
* しばらく三人で近くの店で休息し、わたし一人が抜けて、表参道の銕仙会館へ。観世栄夫さんの「実盛」への招待。ここは椅子席でなく靴を脱いで上がる階段席。ワキ座前のとても佳い席を占め得て、シテの時空に手で触れるほどの近さ、そして最良の「実盛」を堪能した。なにしろ俳優として一流の人、その人が実盛という平家方の老武者を毅然と演じ尽くして、つよく、あわれに、またところどころの型の美しいことにも嘆賞の思い禁じがたいものがあった。もう立ち居にも若い人とは同じに行かない演者が、錦衣をまとい鬢髪も髯も黒く染めて討死にを覚悟の戦の場に臨む。
その凛々、その壮烈。舞台を踏みしめる脚の確かさつよさ。美しさ。わたしは舌を巻いて感嘆し驚喜し満足した。ああよかつた、新宿からひとりこちらへも脚をはこんで本当にいいことをしたと、心も体も熱いほど満たされた。栄夫さんに感謝しなければならない。恵美子夫人(谷崎先生夫妻のお嬢さん)にはお目に掛かれなくて残念だったが、受付ではいつもの係の人から丁重な挨拶を受けた。恐縮した。小山弘志さんも見えていた。
* 表参道の辺を少し散策、しかし食欲も起きなかったし、日比谷へ行っても日曜でクラブはあいてないしと、まっすぐ原宿から池袋へ戻った。池袋西武地下の日比谷花壇で、赤いバラの珍種を一種類十五本、大きな花束に作らせて、それを土産に何処へも寄らずに家に帰った。妻は、わたしが能へ行った後、もう一斑の建日子芝居を若い人と二人で観てから家に帰っていた。
岡山の有元さんにいただいた「天狗舞」を、神戸の芝田さんに戴いた自家製の「いかなごの釘煮」ですこしやり、妻が買って帰っていた焼きチーズケーキと、ワインで乾杯。
* 悲しい思いをしている人達もある。その人達のことも想いながら、はなやかな花のまえで、すこし祈る心地で乾杯していた。
* 機械の前へ来ると、なんと、秦の母方、母からは里の姪、わたしとは義理の従妹にあたる人から初のメールが来ていた。嫁ぎ先の苗字でも名前でも分からなかった。この五十年来没交渉の人である。ごく小さい頃、何度か家へも来ていたし、わたしも母の里へ行くと顔をみた。私のせいぜい二つか三つ程度の年下ではなかったか。そんな人が、ご多分に漏れずパソコンにさわり初めて、わたしのサイトを見つけたという。電子の杖をついた、まさにまた一人のE-OLDW(女性。男性だとE-OLDM)登場である。ビックリした。顔も思い出せないが。
2004 3・14 30
* 昨夜まで、ほぼ一週間、読み継いでいたのは、生母阿部鏡(筆名。本名はふく)の遺著『わが旅大和路のうた』で。これは旅行記ではない、紀行文ではない。もし「旅」というなら、つまり「人生羈旅」をさしている。
母の一生はまことに数奇な旅であった。兄恒彦にいわせれば、お姫様と人外の暮らしとを生き変わったような人であったと。
父阿部周吉(私の母方祖父)は、母によれば、「大、東洋紡績」の経営に任じていた人であったが、内紛に席を追われて、数次の辛苦と失望を経て、滋賀県能登川に隠居した文人肌の人であった。その書跡の一つをわたしは仮所持している。幼時に水口宿本陣の子として、水口在の文人志士巌谷小六に愛され、墨磨りなど手伝って育ったと云うことが、或いはそうなのかも知れぬ、と察しられる筆跡である。
祖父周吉は水口宿より能登川の阿部家に養子に入り、母ふくは、その父親を慕う三人娘の末子であった。いわゆる乳母日傘の御姫さんのように育ったらしいが、周吉の死後、そしてなんと隣家に嫁いで以後、不運と不幸が重なり、四人の子を抱えて寡婦となり、彦根に住んで、彦根高商の学生を下宿人に入れた。それが、恒彦やわたしの父吉岡恒であった。おどろくべき恋と出産を身に負うたまま、故旧のすべてをうち捨てた、まさに革命的な流浪の旅が始まった。
恒彦は彦根で、恒平は平安京の太秦で生まれている。
だが寡婦で子持ちの母と、旧制高校の学生である父との平安などは、あるべくもなかった。父の実家は南山城相楽郡等尾村(加茂町)の大庄屋で、私の父方祖父は京都府視学という教育畑の大物であった。祖父の次弟は瓦斯会社の役員、末弟は同志社大学英文科教授であった。父恒は小枝をへし折られたように母の前から連れ去られ、ついでに、兄もわたしも父方の手で、母の手の届かぬ先へ隠された。恒彦のことは知らないが、わたしなどは「父母の籍に入るを得ず」に独立の戸籍をつくられている。そしてとどのつまり秦家に預けられた。
母の険しい「旅」は二人の子を奪われた、そこから、始まっている。母は、南山城の吉岡家に、わが子を渡せときっと強談に及んだに違いなく、しかし相手にされなかった。若い青年学徒をたぶらかした魔女かのようにあしらわれたであろう。
母は、そのまま奈良へ、そして大阪へ出て、貧窮に堪え艱難苦労、日本で初の「保健婦養成機関」を、四十半ばの年齢で苦学卒業すると、敢然と、奈良県下での孤独な保健活動に挺身したようだ。ありありとそのことが書かれている。故郷も子供達もみな置き去りにうち捨てて、のことである。母は、鷲に攫われた良弁をさがす狂女のように、恒彦とわたしとをひたすら探し求めつつ、「母の家」と称して保健活動にうちこんだらしい。徳とする人達も奈良には少なくなく、戦後初の国政選挙には、あわや共産党推薦で市会議員候補に担がれるところでもあった、が、辞退している。人の行こうとしない地区の保健活動などにもためらいなく入ってゆき、そこで暮らし、通いの医師をたすけつつ医療行為に近い役柄に任じていた。
ま、まことに奇妙に情熱的な活動家であったのだろうと察しられる。
母は歌を作った。句も作った。かなりクセの強い散文も書いた。『わが旅大和路のうた』は、読み解くのもやや難渋な、ただもう、必死に生きた一人の女の、せわしい呼吸で覆い取られた「詩歌文集」である。この一冊をかろうじてやっと上梓してから、不運な闘病の床の上で、孤独に死に絶えた。自殺かとも伝えられるが、噂なのか事実なのかは人により言うことがちがい、分からない。
あまり、わたしも今は此処でうまく纏めきれない、捉えきれない、が、一週間、毎夜、じっくりと母の言葉を噛みしめ噛みしめていた。初読ではない。が、初めてのつもりで読んだ。この人を実感として「母」と感じたことも呼んだことも無かった、ながいこと。
「おかあさん、まあ、あなたも、たいへんな一生でしたねえ」と、今度しみじみそう胸の内で呼びかけていた。先月鴈治郎と仁左衛門で泣かされてきた『良弁杉由来』の舞台が、ここへ、わたしを誘い入れたのは間違いない。
2004 3・15 30
* 秦の母方従妹からも返事の返事が来た。
* 結婚してからずっと金閣寺のすぐそばに住んでいます。船岡の実家から歩いても15分くらいの所です。
娘が二人、長女は40才、六年生になる女の子が一人、次女は38才で六才の男の子と三才の女の子、三人の孫がいます。二人とも京都市内に住んでいるので始終やってきて賑やかなことです。ちなみに私は64才になりました。
船岡の方は建て替えて三番目の妹一家が居ます。妹は三人、それぞれ結婚して市内に住んでいます。
父の悲願だった福田家を継ぐことは誰もかなえることが出来ませんでした。亡くなる前、一年ほどは現実のみさかいもつかなくなっていました。
母も亡くなってから三年がたちました。
「秦ラジオ店」ははっきりと覚えています。よくお邪魔してテレビを見せてもらうのが楽しみでした。
そちら(東京保谷)へ行かれる前に、母とお訪ねしてお別れしたのが、叔母さんたちにお会いした最後です。
* 血縁や親族という「関係」をもともと見失った感覚で育った私には、この母方の従妹たちともうまく距離感がつかめず、ほとんど何事を共有したこともなく、東京へ出る以前から疎遠であった。今このように伯父叔母のこと、船岡山にあった家や家族のことなど教えられると、小説の中の一場面場面かのように、ほうと想われる。従妹達が成人してどんな学校へ通っていたのかも何も知らないで来た。
* 妻の機械も、ADSL化することにした。機械をあちこちして好きに使っていたが、定位置をいちおうつくらねばならない。狭い上に狭い家の中で、かなり苦心して小さな場所を創り出した。わたしの案で、うまく定まった。さ、だが、妻はマニュアルを頼りに設定出来るかなあ。わたしは、そういうのはとんと苦手なのである。
2004 3・15 30
* 困ったちゃんではないか。よその子の「ロンパース」より、自分の子の「ロンパース」を買わんのかなあと、余計なことを思ってしまった。
わたしなど、今でも「自分の子」が欲しい、このままでは秦の親たちに合わせる顔がないという、それが大きい動機だけれど。そればかりでもなく、子供がいれば楽しいだろうなあと思う。黒いマゴがいるだけでもこんなに嬉しいのだもの。ま、そういうことは、夢になった。
「くらむ」という個人誌に小説を書いている倉持正夫さんの近作は、重い病気をして退院してから、奥さんと二人で福祉施設を探し回られる話で、じつに読むのが辛かった。子供がない。自分達のそう遠くもない寂しい限りの行く末をいったいどうすればいいのか、二人でいる内はとにもかくにも、一人が欠ければ、そして二人ともいなくなれば、さて…という話になる。
わたしたちには、幸い建日子がいるし、まがりなりに嫁がせた娘や、その孫娘もある。それでも、建日子からは孫はもう期待できないだろう。船岡の従妹三人がいて、父(私には伯父)が思い残した福田という家を、ついに誰も嗣がなかったと書いているのに、わたしはやはり胸をつかれた。どうでもいいではないかと、自分や他人は思うことが出来ても、あの伯父さんは寂しかったろう、そしてわたしを育ててくれた父や母や叔母も心外に感じてしまうだろうなあと申し訳なく想う。
2004 3・15 30
* 秦建日子のサイトから。わたしも共感をもって読んだので、共感のしるしに此処へ貰っておく。
* 3.11 舞台は怖い。 秦建日子
ワークショップ一期生の卒業公演が続いている。チームA~Cの3チームにわけ、それぞれ同じ題材を違う台本で演じている。
現在、3チームとも一度ずつ舞台を踏んだのだが、お客さんの反応はこわいくらいに正直である。
お客さんに何かを伝えたくて芝居をしている人間には、たとえその本人がド下手でも、きちんと身を乗り出して聴こうとしてくれる。理解しようとしてくれる。一緒に笑い、悩み、最後には泣いてくれる。自分が気持ちよくなるために、あるいは、自分を格好よくかわいく見せるために演技をしている人間には、お客さんは微塵も反応しない。ネタはすべ
り、決め台詞は誰の心にも届かない。
一期生22人の中で、誰が芝居に対して真摯で、誰がナメているか。誰が人としてまっとうで、誰が人としてオイオイなやつか。それがある程度わかるのに、ぼくは1年間かかった。(かかりすぎかな……) でも、本番の板の上に立つと、立ってしまうと、初対面のお客さんはそれを一瞬で見抜く。寸分の狂いもなく。そして、正しい判決を下す。
各チーム、あと二回、本番の舞台が残っている。初日に、お客さんにとことん愛されたチームも、全然愛されなかったチームも、もう一度きちっと芝居を組み立て直し、長かった1年稽古を「有終の美」で飾って欲しいと思う。
* 3.15 TAKE1一期生、解散。 秦建日子
3月14日。13時、16時、19時という怒涛の1日3公演を行い、演劇ワークショップ「TAKE1」の第一期は解散した。チームAもBもCも、最終ステージはそれなりによい出来だった。必死に努力した者はたくさんのモノを、それなりに努力した者はそれなりのモノを、プラスもマイナスもひっくるめて、本番の舞台から得てくれたと思う。
参加者22人――彼ら彼女ら全員と、いつかまた、よりよい形で仕事が出来たら嬉しい。頑張って、役者を続けてほしいと思う。私も、負けずに頑張る。
2004 3・15 30
* 妻の階下の機械がADSL化した。サーバが私のとは変えてあるので、ADSLも別にした。トランプ遊びも少し様変わりするだろう。インタネットに夢中も家事に響くので、DKに本機を据えた。E-OLDが、MもWも揃った。
2004 3・17 30
* 夜中二度も黒いマゴに起こされた。戸外へ出せとのたまう。お仕えもうしておる。
* 遠くで飛行機の爆音が、ゆっくりゆっくり。それにも、なにか心行く安心がある。ふしぎなほど。
2004 3・19 30
* なにとなく生母の歌など書きうつしてみたくなった。
玩具店のかど足早やに行き過ぎぬ愛(いつく)しむもの我に無ければ
(母は六人の子をなしたのであるが、亡き夫との間のすでに成人していた四人は見捨てて、若い恋人との間に兄と私をうみながら、奪い去られていた。)
終列車の汽笛五臓を掻き廻わし断れぎれに消ゆ西の山のは
(この歌の現情は分からないが、凄絶な劇があったと想われる。)
佐保川の葦間の蟲のしのび啼けばあはれ生駒の灯も瞬きぬ
(たしかに大和に母は暮らした。)
われ寝(い)ぬる窓のま下の毛すじほどの草に来て啼く蟲の稚なさ
(当歳の私のことを想っていたか。)
一人来て住む大和路や窓の戸を叩きてゆくは夜半の木枯し
(母には、「一人来て住む大和路や」という上三句の歌が幾つか共存する。)
うつつなにほほ笑み洩らし寝ねし児の夢路守らせ斑鳩の鐘
(どこかの乳児院に働いていたときの歌か。)
吉野茶屋仲居がしらが説きくれし良弁杉にわれ瞬かず
(わが子良弁を鷲に攫われて狂った母。良弁と母とに再会はあったが、わたしの母にはなかった。わたしは母を拒んだ。)
君乞食と称(よ)ばれ給ひそわれ狂女と囃されて来し道灯一すじに
(幼子を奪われた母の生涯はこの通りであったらしい。)
大き手にい抱かれまほし之れや此の裁くの旅路行き暮れし身を
(母には観音でもイエスでも我が父親でも何でもよかった、これは悲鳴である。)
* もう書けない。母が、どんなに優しい人であったかどうかも、わたしは知らないのである。日付も変わった。寝てしまおう、か。いや、も、少し。
2004 3・22 30
* いかりや長介が亡くなった。建日子は通夜に行くとか行ったとか、いう。いかりやに演じてもらった特別番組の二時間ドラマ「孫」は、建日子にはとにもかくにも小さな出世作であった。建日子がほんの小さいときから、ドリフターズの番組は彼のお気に入りだった。わたしも、ああいうドタバタ・バラエティーそのものは好きでないにしても、いかりや長介抜群ののセンスには、いつも共鳴し、笑わされながら大好きであった。彼の力でクレージー・キャッツのあとをドリフターズは大過なく嗣いで発展させた。
演技者に成ってからのいかりやにも、何度も楽しませてもらった。彼が出ると分かるとかなり安心して見る気になれた。植木等や谷啓もわたしは大好きであるが、いかりやの個性には練り上げた神経のこまやかさがあった。そのおかげで、余り上出来とは謂いかねた建日子の「孫」も、助けられたのである。建日子の感慨無量と悲しみとをわたしは感じている。死なれるという怖い意味にも、彼はおそらく初めてブチ当たったであろう。
2004 3・23 30
* 午少し前から、新宿御苑に行ってみた。あまり縁のなかったスポットで、ナニが期待できるとも知らなかった。京都のホテルの冷蔵庫で買ってきたウイスキーのミニボトル二本セットと、おつまみの缶とを、例のよれよれ鞄に入れ、用心の折畳み傘ももって。
花曇りどころでない曇天で、風もよく吹いていた。だが花は満を持してさほど散ろうとはしない。まだせいぜい七分になるならぬの咲きようであった。たぶん、この五日か一週間が程は、大いに春色の楽しめそうな美しい桜をたくさん見てきた。桜は翆・緑あってこそ映える。新宿御苑は意外なほどフラットではなく、また展望にも眺望にも奥行きと変化がある。花より団子ではなく、花もよし団子もけっこうな感じ、で、みたらしの三串も買ってみた。
花より人出がたくさんといった殺風景もなく、庭園の趣致はいろいろの広大に過ぎたほどの「国民庭園」であるだけに、しつこく全部を歩き回るよりはと、先ず新宿口より御苑入りし、ゆっくりゆっくり散策、写真もフイルム一本分をうまく分散して撮り、終点は大木戸口へ出たあたりで、ちらちらと小雨に見舞われた。今岡だったか橋岡だったか達造氏の佳い陶芸をみせる落ち着いた喫茶室で、わたしは濃い珈琲を、妻はグレープフルーツを楽しみ、もう躊躇無く、今度は地下鉄丸の内線を銀座経由で、池袋まで帰った。持っていた自分の原稿をまた十数頁分、読めた。
佳い花見であった。双眼鏡が役に立った。上野の山の初花は、はやくに奏楽堂の帰りに見た。あの晩は韻松亭で奢ったが、今日は、往きに池袋西武の構内で、三八○円の醤油ラーメンを立って食べ、御苑では串の団子を五粒食べただけ。家に帰り着いて四時であった。出来れば、もう一度は、心嬉しい花見がしたい。
2004 3・30 30
* 秦建日子は、ご機嫌さんで頑張っている様子。
* 3.30 近況。 (秦建日子のホームページから)
突然ですが、秦建日子脚本作品が、6月に上演される運びとなりました。作品タイトルは『5(=フアィブ)』。演出は、私の以前からの舞台仲間であり、ワークショップの共同演出家でもある、松下修。脚本協力に、先日、テレビ朝日から脚本家デビューをしたばかりの栗本志津香。ワークショップの一期生から数人、キャスト並びにスタッフとして参加しています。
浅野ゆう子さん主演の土曜ワイド劇場のシナリオを書きました。現在撮影の真っ最中。「Re-Birth」の築山万有美、「TAKE1」の五十嵐貴子、杉本瞳が出演しています。
浅野ゆう子さんといえば、4/6オンエアのCXのゆう子さん主演ドラマのラストに、Cry&FeelItの「さくらさらり」が劇伴としてかかるそうです。自分の書いた詞がドラマでかかるというのは初体験で、とても嬉しく楽しみにしています。
そのCry&FeelItの初アルバム、4/7から発売です。私は一足先にMDで聴きましたが、本当に「GOOD」なアルバムです。ぜひぜひ、一度、CDショップで試聴してみてください。きっと気に入っていただけると思います。
映画のシナリオは、2稿目に入りました。手応えバッチリです。
小説も、楽しく書いています。
ようやく、家でTVが見られるようになりました。カーテンはまだついていません。部屋から、満開の桜が見えます。春ですね。完全に。初心にかえって、新しい年度も頑張ろうと思います。
2004 3・30 30
* 駅前に用事があり、それならちょっと足を伸ばしてと、石神井公園・三宝寺池の花をみに出掛けた。石神井の池と三宝寺池とは事実上東西にながく繋がっている。しかも趣はよほど異なっていて、石神井ではボートが浮かんでいるが、三宝寺の池は幽邃な沼沢の観がある。桜がことに多いわけではないが豊富な翆緑に加えて、今なら辛夷や木蓮など他の花々も美しい。新宿御苑が国民公園ならもこちらは地元公園の親しみがあり、子供連れの若い母親が幸せそうに目に立つ。母が存命の頃、建日子の自動車に車椅子もともに乗せて、ここへ連れてきたこともあった。
東から西へ往復できるが、妻は片道で十分よと言い、三宝寺池の奥から外へ出て、バスで大泉学園駅にもどった。「ゆめりあ」の売店で、食べ物など手当たり次第にたくさん買い込んで荷持ち役をひきうけ、一駅西武線で保谷に戻り、ゆらゆらと歩いて家に帰った。
かすかに花粉を感じていた。
2004 3・31 30
* 黒いマゴに必ず深夜か明け方、戸外に出してくださいと起こされる。仕方なくドアまで行くと、トアの前でひと言「ニャア」とお礼を言われる。お礼でなく催促であろうなどとは想わぬことにしている。そのあと寝入れぬということはないけれど、寝過ごすおそれはあり、どちらかと謂うとメイワクである。
どちらかと謂うとメイワクということは、少なくない。「週刊文春」事件など最たる一つであり、新聞もテレビもそんなニュースばかり。いやいや「メイワク」どころが吐きけのする「不快」に満ちている。よくよく考えてみると、自分自身もそういう「不快」時代にけっこう共演し関与しているオソレ、かなり有る。消えて無くなりたいものだ、「一瞬の好機」を得て。
2004 4・1 31
* 夜通し降っていたかと思うほど、いつも雨を聴いていた。濡れて出掛けるなどは遠慮するが、雨を聴くのはいつも好き、慈雨の季(とき)と観念する。もう雨はあがり、風のものうつ音がしている。
* 昨夜はよくお休みになれましたか? お疲れがとれたか胸を痛めて心配しています。私は夜ふかしして強い雨音を聴きながら、桜が散ってしまうとため息をついて少し酔っていました。お花見しなかったせいかもしれません。
今日は妹のコンサートに出かけ帰宅は四時頃でしょうか。
みづうみの波のしずかに美しい一日でありますように。
* とっぴなことを言うけれど、なくなった秦の母にも、こういうメールを書かせてやりたかった。まったく自己を表現しない、閉ざされた生涯をそれが普通のように思いこんだまま九十六年生きた人である。「電子の杖」に身をあずけて思うまま夢を見させてやりたかった。自分の想いを自分の言葉に自在にのせて電波で闇の奧へ放つ、こういう美しいことばを、電子メールは誘い出している。手書きの手紙では、こうはなかなか書けない。むしろ平安の昔の「こひぶみ」がこんなであったろう、当然ながらむかしの「こひぶみ」は実例がほとんど全く残っていない、かすかに和歌のかたちでしか。やみへむけてほのめかすのが行儀であったから。
平成の男女は電子メールで、まさに情の往来が楽しめる。静かな流露。これは携帯族メールとはたぶんなにもかも違うもの。「電子文藝」の萌芽へ佳い「批評家」が意識してフォローして行けば、時代の先端に一つ新文化の「窓」があくだろう。
2004 4・2 31
* これはわたしの従妹から。
* 桜が満開になりました。明日からあさってにかけて人と車の大渋滞になることでしょう。
お花見は毎年、近くの平野神社です。明日は「観桜会」 お菓子とお抹茶がいただけます、孫と一緒に行くつもりです。
八日が小学校の入学式ですがもう桜は終わっているでしょうね。孫の太郎が一年生になります。男の子ってかわいいですね、やんちゃで甘えたで。3才の妹に負けないようまだ抱っこをねだります。向こうのおじいちゃん、おばあちゃん、おっちゃんにも可愛がられて、幸せなことです。ピカピカの黒いランドセル、身の丈につりあうようになるのは何年生でしょう。
叔母さん(恒平の母)が新門前に居られた頃は、父(船岡山の伯父)もよくお邪魔していたようです。その折に叔母さんから聞いてきたことを、私たちによく話してくれました。恒平さんが結婚して東京へ行かれたこと、生まれたお嬢さんのお名前が朝日子さん、だとか。
先日も田村さん(母方親戚)のお宅に伺いました。丸太町通りの第二日赤の前です。従姉妹(メールの主のわたしの従妹の)の、八十代と七十代の姉妹で住んでられて、お元気にしておられます。
そのときにも恒平さんの話題が出ました。
田村の伯母さん(わたしの母には姉)が亡くなられたとき、ちょうど(恒平が)京都に来ておられて、お葬式に来て
もらったこと、奥様(迪子)のお兄さんが有名な方で、テレビで名前をよく見たとか。
父(伯父)の若い頃の古いふるい話など、頭の中がごちゃごちゃになりそうでした。
新門前に居られた頃の恒平さんと、なんら変わることなく、私たちの中には親戚としての恒平さんが、しっかりと存在していますよ。
* 感謝する。
過去に、いろんな仕方で、わたし方「親戚」からの接触は相当回数続いた。ものぐさで冷淡なわたしが、あまり取り合おうとしてこなかっただけで、なにかの機会に顔を合わせたりすると、先方は、驚くぐらいわたしのことをよく知っていたり、気に掛けていてくれたりした。
(妻の方面は別としても、)わたしには、私自身の「親戚」を三方向にもっている。
秦の父は叔母と二人兄妹で、叔母は死ぬまでわたしたちの身近に同居もおなじであったから、親同然に過ごした。秦家にも祖父以前の親戚があったに違いないが、皆目知らない。
秦の母方には、母の兄や姉が何人もいたというから親戚は少なくないのであろう。大方知らない。
そしてわたし自身には、死んだ兄の北澤恒彦と遺児が三人いて、その一人が今日もウイーンからメールを寄越した。恒彦はわたしと父も母も同じ、実兄である。この他に、母方には父の違う姉と兄が四人いた。もう一人も此の世にいない。この母方の阿部家を通じては、ずいぶん広範囲に「親戚」の有ることはおぼろに知っている。また父方には、母の違う妹が二人健在で、それぞれにかなりの人数の甥や姪がいる。往来はほとんど無い。
さらに父方の吉岡家を通じては、わたしの従兄弟や伯父伯母、叔父叔母などの関連で、数えきれぬほどの「親戚」が拡がっている。おっそろしく社会的に高い地位や栄誉を得ている人達もいる。だが二人の従兄から「湖の本」を支えて貰っているぐらいで、あまりわたしからは触れ合っていない。
言うならば、ま、わたしが傲慢にひとり生きて来ようとした人生であった。あの自決した兄とでも、四十半ばまでは、兄から何を言ってこようと取り合わなかった。だが、みな、概ね気に掛けてわたしの消息をよく知ってくれていたのに驚く。上の、秦の母方従妹の言うとおりなのである。
頭を垂れるばかりである。
2004 4・2 31
* 冷たい手に折りたたみ傘を握りながら、銀座一丁目の名鉄メルサ七階、玉村咏のきもの染色展を見てきた。玉村夫妻とも会えた。技術的な妙や機微はわたしには分からない。好きなのが数点あった。
一階で、目に付いたも佳い服があり、妻に買って帰った。
2004 4・4 31
* 明日は歌舞伎座の「昼の部」を観る。はねたあと、息子たちも合流して夕食をともにする。自動車で保谷まで送ってくれるという。明後日は、夕過ぎた刻限から国立能楽堂で友枝昭世の、大曲「伯母捨」二時間半、に招かれている。濃密な時空間にはまりこんで二時間半、シテもたいへんだが見所(けんしょ)もよほどの気力を要する。
2004 4・4 31
* 六十八歳 妻の誕生日。健康でありますよう。
2004 4・5 31
* 日比谷から私たちを車で送ってくれた息子達が、一時過ぎまでビデオの映画を観ていった。
「たそがれ清兵衛」を二人とも観ていなくて、観て行きたいと。わたしたちと佳い映画をいっしょに観ることを、親孝行の一つ想ってくれているのだろう、仕事の上で必要なことでもあるだろう。共通の話題としてはなはだ無難で、お互い短い感想のつぶやきなども、さりげないいわば意見交換になり、お互い何を考えたり感じたりしているかが如実に察しあえる。「たそがれ清兵衛」は「雨あがり」よりも密度低く通俗で、「阿部一族」からすれば問題にならない程度の出来という基本の感想と、しかし殺陣はなかなか良いという評価など、建日子と一致していた。
そして、二人で帰って行った。
2004 4・5 31
* はねてから松屋の屋上階でマゴの新しい首輪を買い、ゆっくり店をみまわってから、高輪方面からくる建日子達と待ち合わせた。途中、久しいおつき合いの島田正治メキシコ風景画展に立ち寄り、久闊を叙し、墨の繪を楽しんだ。島田夫妻とはほんとうに久しぶりだが、そんな気は少しもしなかった。
* 鮨の「福助」のうまい具合の席に、四人で角にならび、時間をかけ、十分に食事を楽しんだあと、近くのクラブへ席を移し、クラブがサービスのシャンペンで、もう一度妻のために乾杯し、これも年度替わり会員へのサービスの「赤ワイン」の栓を抜いた。残りは持ち帰った。三時間ほども食事と歓談のあと、保谷まで建日子たちに送ってもらった。
妻は、今日は、イタリー製の、麻に墨でうまく渋く向日葵を描いた上着を、銀ラメのTシャツの上に着ていた。昨日の名鉄メルサでのこれが買い物、贈り物であった。よく似合った。
ながい一日であった。よく妻の体調が一日保った、それがなにより。
2004 4・5 31
* ウイーンの甥がなんだか難しいことを聞いてくる。返辞に窮するわい。なんとか返辞もしてやらねばならぬが。
* 深草少将の嘆き死にとは、小町に恋焦がれて死んだという意味と解しましたが、正しいでしょうか。大伴黒主の詐術については広辞苑でも少し言及があるのですが、詳しくはどういうものですか。小野於通の読みは。
下句の鈍い二音繋ぎの聴こえの重さとは、どの部分のことでしょうか。
「日本語「花」と「色」・・・汲める。」とは、理解できる、ぐらいの意味でよろしいですか。
今日、私は「ほんやら洞」のウィーン版を作ることにしました。そこを拠点として翻訳家として生きていこうと思います。院の卒業はまだ3年かかりますが、今までで日本人の卒業生は一人ですので、苦労する甲斐があると思ってます。どうか叔母様とともに、お体にお気をつけください。朝日子さんも健日子さんもお元気でしょうか。草々 猛
2004 4・7 31
* 泪を頬に伝わせたまま、劇場を出た。こんな気持ちのママ、早い夕飯を食うのは妙にわるかったけれど、昼飯が抜けていたので、蟹の「瀬里奈」にはいり、シャブシャブであっさりと美味しく食べた。グラスの赤ワインで、久しぶり蟹をたっぷり食べた。
そしてもうまっすぐ大江戸線練馬経由で家に帰った。家のそばまで来て、「マーゴゥ」と呼ぶと、間近な足下から細い高い声で長鳴きするマゴが走って現れた。よしよし、いい子だ。いや、マゴだ。
2004 4・20 31
* みどりの日、爽やかなよいお天気でした。
主人と二人、東山の方を歩いてきました。東福寺の広さと壮大な建築に目をみはり、人影も少ない通天橋からのもみじの新緑を堪能しました。秋の紅葉がすばらしいだろうと思えど、この橋が人で身動きできないくらいになると聞くと、二の足を踏んでしまいます。
みてら泉涌寺、山懐に抱かれた静かなたたずまいのお寺ですね。京都に生まれ育ちながら、まだまだ行っていないところが多々です。
今熊野観音寺で御朱印をいただき、三十三間堂まで足をのばしました。
ゴールデンウィーク、我が家は暦どおりの休みですが、人と車の混雑を思うと出かけるのが億劫になります。
写真、届きましたでしょうか、なにしろPC操作の覚えが悪いもので。昨年の秋の次女の娘の七五三の時のです。
右端の洋服が私、次女夫婦と三才の彩、六才の太郎、和服の方は次女のお姑さん、趣味の多彩な京美人です。
こんなたあいのないメールご迷惑かと思案しつつ、まあ、たまにはいいのではと勝手に判断してエイャ~と送ります。 従妹
* 洋服の従妹を写真で見ると、若く、わたしより十あまり下に見える。そんなはずはないのだが。幼い日の面影がかすかに記憶にある。次女が、母親より背のすらりと高い和服姿で清潔な表情をしている。二人の子の親とは見えない。七五三か。なんとなく、親類からのこういうアプローチが物珍しい。へえと思い眺めていた。
ご主人と東福寺や泉涌寺や観音寺というのが心嬉しい。せっかくだから即成院の阿弥陀さんや戒光寺のお釈迦さんを拝んで行かれると好かった。
2004 4・29 31
* 電話で建日子が頼んできたので、九時からの倉本聡作という「離婚式」(この題からしてお安い限りの狙いだが、)を録画していた。ついでに見ていたが、もう出だしからバカらしいほど低調な設定と台詞と演技で、げんなりして逃げだした。通俗物の作者のわるいところ全開という印象で、岩下志麻とは永い馴染み、嫌いではないのだが、薄い芝居をしてくれて、ガッカリ。
昼間に、あの、ヘンリー・フォンダの「怒れる十二人の男たち」を見ていたから、反動のひどいこと。ヘンリー・フォンダやE.G.マーシャルたちの映画の、と云うより演劇の劇的な面白さったら、名作とはコレだ、という代表格。
倉本聰のものでは、以前、舞台でもテレビでも顔を顰めた記憶ばかりで、あの「北の国から」の感動とは、落差の烈しいこと、どっちかが作者がニセモノではないのかと訝しまれる。もっともっと好いテレビドラマ、無いではない。視聴者をナメちゃいけない。
2004 4・30 31
* 実父の死には、子でありながら「弔辞」を読ませられた。そういう妙な間柄であった。生母の死んだ時も葬送も墓所も知らない。
秦の父の場合は、医者が生命維持装置を外した。ああそういうことかと、抗議はしなかったが、寂しいものであった。叔母はあっというまにクラッシュして死んだ。母は福祉施設の朝食で餅をのどにつめたらしい。間に合わなかった。
東京で、最初に九十一で逝った父だけは、簡素に告別式をした。何処へも知らせずご近所だけに見送って頂いた。各出版社や新聞社に知らせましょうと、近所の小学館や集英社の人達はすすめてくれたが、一切堅く断った。叔母の場合は葬祭場で、母の場合は自宅で、ひたすら私と妻とで親密に葬送のことを終えた。人を煩わすのもいやであったが、東京に知り人のいない、それに三人が三人とも九十をずっと過ぎたきわめて高齢であったから、縁者のだれを京都から呼び寄せるということも不可能だった。わたしと妻とに丁寧に見送られるのが一番だと分かっていた。
菩提寺は京都である。法事のためには、坊さんに出張ってもらうより、京都ぐらいなら行くのが早い。三人のそれぞれ四十九日、百ケ日納骨、一年、三年、七年、十三年の殆どを妻と二人で、時に息子も加わって、念仏を称えに京都のお寺へ出向いた。
見ようによれば、何という簡素に過ぎて冷淡な葬送だろう法事だろうと思われるかも知れない。しかしもともと親類づきあいの乏しい家でもあったし、子供は養子のわたし一人なのである。そのわたしと妻とが声を揃えて経を読誦し、念仏高唱し、墓を清めるのであり、ほぼ欠かさずそれはつとめてきた。誇る気など毛頭ないが、わたしはわたしの流儀でよろしきを得ていたと考えている。
* わたしたちが死んでから、たとえば息子が、われわれが父や母や叔母にした程度にもできないであろうことは、無理もないと思っている。断念している。第一建日子にはわたしの場合の妻のような柱が、家庭に、樹っていない。「いいお嫁さん」なしにこういうことは出来る話ではない。
わたしもまた、葬儀などして人様に面倒がられない方が有り難い。しばらくして、「へえ、秦さん死んだの。そりゃそりや」で宜しい。妻を無用にわずらわせないで貰いたい。そう思っている。
それにしても、こういうことを、我が家でのように簡素に静かにとはふつう行いがたいのは、よく知っている。東工大の教室で、「家の墓」と「付き合い方ヶについて問いかけた日の学生諸君の回答は、予想を遥かに超えて熱心に書いた文章が多かった、男子にも女子にも。あれは、一度整理しておきたいものだ。
田舎へ行けば行くほど、こういう仕来りは難しいらしい。嫁いだ人の立場がことに難しいと、母を見ていた学生達は、妻として嫁いで行く女子学生たちは、雄弁であった。
2004 4・30 31
* 昔なら、こんな休みに東京にはいなかった。わくわくする思いで京都の家へみんなで帰った。そして一日半日でも永く京都にいたくて、東京になど帰りたくなかった。
妻はどう思っていたか。両親を喪っていた妻には帰る里がなかった。新門前をそのように思い、わたしや子供達に同じてくれていたのだろう。落ち着ける場所が新門前にあったかどうか、深い気遣いをしてやれていなかったかもと、今頃、思う。
帰洛は、ほんとうに待ち遠しい嬉しいことであった。「京都」を貪り食べて過ごした。その感動がわたしの書く「京都」を輝かせた。秦さんの書く京都は、ふかふかした贅沢な絨毯をふんでいるようだと云われた。あれは、あの京都体験の照り返しであった。創作の泉そのものの京都であったとしみじみ思う。
親たちもなく家もなくなった。いま、京都に帰っても、根がない。トンボ返しに東京へ帰ってきてしまうのは、寂しいからだ。一日でも半日でも永くいたかった故郷。わたしたちは、それを、ほぼ喪失している。
2004 5・3 32
* 昼前に、妻と銀座に。若い人に逢い、「松屋」で買い物し、フランス料理の「シェ・モア」で昼食。赤ワイン。歩いて京橋の「ブリジストン美術館」へ。山下新太郎展と印象派展。常設もふくめて、堪能。コローの婦人像、セザンヌの自画像、ルオー、ピカソの赤い服の青年、安井曾太郎の黒いバックの薔薇。「高島屋」で家具を観たがうまく出逢わず、小雨らしくて、地下鉄で銀座に戻り、ぶらぶら歩いてとある二階の喫茶室に入る。帝国ホテルの豪奢なラウンジのコーヒーなみに、凄い値段。美味くはあったけれど。若い人の「彼氏」の話など聴く。すこし驚く。「タルボット」で妻はシャツを一枚買い、そして日比谷線銀座で若い人と別れた夕方には、うそのように晴れ晴れとした空で、雲も美しく。
「池袋西武」へ寄り、家具売り場で、特注で丸い卓と椅子二脚を注文した。晴れた夕空の下をあるいて、家に帰る。ご機嫌の妻は、終始元気で。
2004 5・3 32
* 母の日だという。育ての母も生みの母も、とうに、いない。わが子の母が、いつまでも、健康に長生きしてくれますように。
* 小雨であったけれど、妻と、池袋メトロポリタン・プラザ八階にある映画館で、「真珠の耳飾りの少女」を観てきた。画面が正に克明で重厚で艶麗な十七世紀世界。運河と橋と煉瓦と地下室と屋根裏とランプと雪の、オランダのデルフトであったか。ヤン・フェルメールの名画「真珠の耳飾りの少女」が描かれるまでの、抒情的な、しかもリアルタッチの映画づくりには、何といっても繪と酷似して繪よりも美しいヒロイン、繪の動機にもモデルにもなっているスカーレット・ヨワンセンの純に憧れ多き下婢の役が、抜群の魅力であった。映画の全部が美術品であった、その方面でアカデミー賞にノミネートされていたのは当然だ。おもしろかった。
見おえて、こらえかねたように妻が感動の声を放とうとし、わたしはかえって慌てたほど、満足は大きかった。画室、絵具づくり、色だし、筆、箆。そして画家とパトロンの画商。みな興味深かった。それに今度わたしの出す藝術家小説の長編とも無関係ではないのである。もっとも、わたしの作品は此の映画のようなこってりと濃厚な脂っ気はからっと抜いてあるが。
前から観たかったし、池袋で観られるというのも気に入っていた。妻へ「母の日」のプレゼントとしては佳いだろうと思い、誘った。帰りに東武の地下食品売り場で多めに買い物し、また京都美濃吉の店で「母の日弁当」を一つ買って帰った。一つで二人に十分な、味付けもよく品数も豊かな佳いサービス品であった。
2004 5・9 32
* 梅若万三郎から橘香会の「天鼓」を観て欲しいと招待状。この能は前シテが父、後シテが少年の複式能で、鼓を芯に幻想的な音楽の秘蹟と父子の愛とがあらわされる。少年は罪を得て湖底に沈められている。鳴らぬ鼓が、父が打てば玲瓏と鳴って湖底にとどくのである。
この六月五日は建日子作の「5」という芝居(演出は他の人がする)が下北沢の小劇場であり、妻達と見に行く予定であったが、わたしは「天鼓」に乗り換えさせて貰う。
もう一つ予定と重なってしまったのが、芸術至上主義文藝学会総会が六月六日。これは早くに予約しいい座席券も手に入れてある、成駒屋の「鳴神」の日で。学会で発表するわけでも聴きたい何かがあるわけでもないが、今年から「参与」という名義で加わるように依頼を受けている。ちょっと具合悪いが、勘弁して貰う。
2004 5・11 32
* 三時半に寝て、五時に黒いマゴに、外へ出してと頼まれた。これが利いて、効き過ぎてそのあと延々と熟睡した。気楽な稼業と冷やかす人もいるが、正直のところ稼業なんかしていない。開き直って云えば気楽な筍、いや玉葱暮らしである。筍ならまだ小さくても奧に本尊が蔵われている。玉葱の芯は空。皮をむくだけでも泪はにじむ。だれの泪でもない、自分の泪を自分で流すのだ、気楽な気儘なことである。
そういう老境で、真実、ありたかった。働けるときによく頑張っておいてよかった。まだ老後ではなく先の不安がないではない、が、所詮は経済と健康の不安である。医者はあと十年と云い、大負けに勝手に負けてあと廿年、なら、何とかなるだろう。ならなくても構わない。妻も稼いで下さいなんて云わない。書きたいように書けばいいと云う。
老境の不安には経済より健康より深刻な、処生処死の覚悟がある。稼業など、もうイヤ。書いたり創ったりがイヤなのではない、このホームページは旺盛にそれを示していよう。原稿依頼は今日も来ている。ぽつりぽつり印税様の送金もあるだ、が、流し目に見送っている。原稿は書きたければ書く。ムリには書かない。
* 夕食前に入浴。湯の中でもとろとろ寝ていた。機械の前へきてからも、とろとろ寝入る。からだの好きにさせている。酒は呑まない。それでもとろとろ、うとうとするのは、どうやら今は何もしたくないのらしい。よしよし。
2004 5・12 32
* 颱風が運んで来るという雨、まだひどくはない。それでも明け方に「タダイマ、タダイマ」と叫んで帰ってきた黒いマゴはひしと濡れていた。なぜかこのマゴ、帰ってくると、帰りました帰りましたと声高にアイサツする。
2004 5・20 32
* 死別のかなしみすら、二人の愛と幸せとを全うする小さな一部分だと思って欲しい。そう夫に言い置いてアンソニー・ホプキンス演じる大学教授の美しい妻デヴラ・ウィンガーは、病に斃れた。名匠リチャード・アッテンボロー監督のあの映画「永遠の愛に生きて」は美しかった。
どんなに愛し合っていても、いろんな悲しみや怒りに襲われることはある。現世の人間関係はゴタクサしたものだ。所詮そんなもの、ブッダとイエスとが出逢うようなわけに行かない。そんなとき、「苦しいのも事実ですが、それも大きな幸福の一部ではないのですか」と、真実言い合えるなら、どんなにか人は救われる。安堵できる。身をゆだねられる。
* と、同時に、ともすると人が、「心で=分別や判断で=実は動揺果てない心理で=マインドで」生きているからゴタクサしてしまうのだと、慨嘆せざるをえない。「マインド・コントロール」とはなんてイヤな言葉だろう。歴史上のどんなに優れた何人もが、「無心に」「静かに」と諭し続けてくれたか。それなのに人は口を開くと、「心」が大事「心」を育めと云っている。似非の人ほど偽善の顔付きでコントロールしたがる。教育基本法をいじくり回して自分達に都合良かれと画策したがる。自身の「心」がどんなにはかなく頼りなく始終乱れがちなのにも、平然と眼を背けて。
信じている。ハートとは、ソウルとは、「からだ」なのだ。サイコでもマインドでもない。心理ではない。「からだ」がハートなのだ。心理は平気でウソをつくが、「からだ」はへたな分別より正直だ。
* 自分の心理と「闘うな」と言う人の言葉に、わたしは聴きたい。喜怒哀楽、それら外から割り込んでくるすべてと、あらがい闘う必要は少しもない。それらをただ流れゆく川の波立ちを眺めるように眺めて、逝くにまかせよと。喜びが湧けば純真に喜ぶがいい、怒りを圧し殺すことはない必要なら爆発させよ、悲しければ泣けばよい、楽しみは尽くせばいい。ただ、それらの一切は、来てまた逝くものでしかない。自分でも自身でもない。ただ来ては去って行く川浪に過ぎないと「岸に座って眺めて居よ」と。
わたしは、そうしようとしてずいぶんラクになった。喜怒哀楽をピュアに開放しつつ、それは自分自身ではないのだ、それこそ「心にうつりゆくよしなしごと」に過ぎないと分かっていよう、と。
* 秦の叔母は、生意気な若造にどんなにくまれ口をたたかれようが、「好きに言うとい(やす)」と取り合わなかった。大概なことは自分の外を、泡のように流れ来て流れさる。その連続である。時にどんぶらこと桃が流れてくる。拾いたければ拾い、拾いたくなければ眺めていればよい。「好きにおしやす、」いずれは総て「うたかた」なのであり、自分でもまた自身でもないのだから。自分が在る在ると思っているうちは自分はいない。見つかっていない。無い。自分は無い。そう腹から思えたときに初めて、自分が、海面の無数の波立ちの一つではなくて、底知れぬ海そのものだと分かるだろう。それまでは「好きに言うとい」と眺めているのがいい。何もしない意味ではない。したいようにしていればいい。余計なことをしなければいい。怒り笑い泣き楽しみ嬉しがればいい。毎日をそういう祭り日にすればいい。
わたしは、そのように聴いている、優れた先達から。感謝している。
2004 5・22 32
* 雨はなく、風がものを鳴らしている。家の中には入ってこない。
淡々斎在判、正玄造る銘「一葉」の竹舟花入れを鎖に吊り、紫の鉄線にほの紅いちいさい秋海棠の花と大きい緑の葉をあしらってある。松篁さんの罌粟の花、濃い橙色のと底紫のとが丈を揃えてツンと咲いている。読者でもある当代琳派の鳥山玲さんは、金銀の凝った地に、小花を白く何ともしれず反転させた上へ、はつはつと濃い菖花を咲かせている。どれもみな、カレンダー。
使い切ったパスネット・カードは華岳の「裸婦図」なので、そのままディスプレーの上に真正面に立ててある。スピーカーの上には「阿修羅像」の写真が切り抜いてある。そして、ビタミン愛の澤口靖子が仕事をしているわたしを見ている。谷崎先生もコワイ眼をして見ている。背後のソフアでは黒いマゴがいと静かに、安心しきって朝寝している。
このソフアは三越で衝動買いしたうちの家具では抜群の贅沢品で、息子が盛んに寄越せと狙っている。
2004 5・31 32
* ところで、わたしの場合、その待ち遠しい「楽しい逢い」であろうとも、とても「しんどい」「つらい」ことがある。
わたしへの礼儀や配慮だと思う人が多いらしいが、「時間も場所もどうぞ決めて下さい、その通りにします」と言われると、情けないほど立ち往生してしまう。忙しい時ほど、頭の歯車が瞬時に錆びつく。何事にもほぼ即決派のわたしが、三時間でも五時間でもどうどうめぐりして、決められない。「ほとんど病気」で、あげく綿のように疲れる。音を上げてしまう。なんという珍な病気だろう。
あの王献之は、戴安道に対し「音」を上げたのではない。逢っての楽しみを、逢う前に想像し尽くしてしまった、だから逢う必要がもうないと、門前からくるりと引き返して帰って行くのだが、たしかに、逢いたい人と逢うまでの「想像」は、それは楽しかろうではないか。わたしの病気は、だが、そんな風流とはまるでちがう。一種の失語症か。離人症かも。サボタージュかも。いやいや幼子がこねるダダのようなもの。
* それでどうなるか。そういうことを押しつけない人を、作品に、書いてしまう。現実に甘えられないことを、作品の中で甘える。早くそれに気が付いたのは、いい目をいためるほど原稿を清書してくれていた、妻であった。生まれながら母親からもぎ放された子の、強いられていた自立心のよわい反乱だろうと。なるほど。
* ダイニング・キッチンに、特注しておいた円卓が、椅子二脚といっしょに届いた。このダイニングでの、三つめのテーブルになる。円いのは初めて。
相変わらず風は吹いているが空模様は尋常。外の気温は高い。下巻を揃えて責了した。肩の荷を、一つおろした。
2004 5・31 32
* 六月十一日は、叔母の命日、もう何年になるか。で、車を出町、萩の寺常林寺に走らせて、せめてもと墓参りをしてきた。住職とは会わず奥さんに挨拶して、墓の花もかえ線香もたてて、墓石を水で清めてから、しばらく父や母や叔母とおしゃべりをし、念仏数十遍。それでも墓草を抜きもひきもせず、お寺さんに叱られるなあと思いつつ、それだけで辞してきた。寺の真ん前が高野川の最下流。川中に下りて行くと、向こうから来た加茂川とこの高野川とが合流して、なかの三角地に糺の森、下鴨神社が鎮座しているわけだ。此処まで来ていたら、河合神社にも糺の森にも御手洗川にも、そして本殿にも参らざらめや。心静かに鬱蒼としたしかも整然と掃除の行き届いた参道を、奧へ奧へそぞろ歩んでいった。
同じ神社でも平安神宮は近代の模構、うしろの庭だけは極めつけの上出来だが、柏手を打つてくるという場所ではない。が、下鴨神社はそうではない、山城の国一宮であり崇厳清浄の上古来の霊地である。その心清しさはたいしたもので、本当はじっとその場に不動の時を過ごしたいような空気がある。
2004 6・2 33
* 秦建日子より、ぜひ公演中の芝居を観てくれないかと云ってきた。明日の晩でラクだという。ラクよりも今夜がいいよと云うが、万三郎の能「天鼓」が三時前に終え、七時の芝居では長いアキ時間がつらい。ラクは混むのは知れており席の確保にさぞ困るだろうが、結局、明日昼に国立劇場で「鳴神」を観たあと、その足で下北沢へ行くことにきめた。
明後日午前には「湖の本」が届く。その翌日、電子文藝館の委員会。週明けの十四日には、もう下巻が出来てくる。ごった煮の修羅場になる。しかもその間にも、俳優座の「タルチュフ」あり、ペン理事会があり、太宰賞授賞パーティもあり、そして三十五回目のわが桜桃忌がくる。
桜桃忌の日にはもう作業もあらかた捗り、身軽な気持ちでうまい桜桃が食べられるか、まだまだ汗みどろか、予断がならない。
そのあとに新海老蔵の襲名狂言が楽しみ。二十五日の眼科検診日の夕方にはホテルオークラで新潮社の、二十九日には「NHKブックス」四十年の記念の宴があり、月末にはシェイクスピアの「コリオレイナス」が待っている。
スケジュールを正確に頭に入れ、ユッタリした気分で、楽しみは楽しみ、仕事はまちがいなく済ませたい。十三日京都での同窓会日帰りは、ほぼ断念、体力的に。
2004 6・5 33
* 「花籠」さんご厚意の特上しゃぶしゃぶ牛肉を、妻と戴いた。少しずつ何度にも御馳走になります。妻は今日は、若い人といっしょに息子の芝居を観てきた。わたしは明日の打ち上げ舞台を付き合うと決めた。国立劇場の「鳴神」から引き続きに。
2004 6・5 33
* どこへも寄らず一散に帰ったと云いたいが。千駄ヶ谷で総武線にのり、新宿で降りて池袋行きに乗り換えた。そのつもりなのに、ふと気が付くと新中野駅。慌ててまた新宿に戻った。降りて、また別口から同じ電車に乗り込んだのであるらしい。どうやら、わたしもそろそろ危ない。
家に帰ってもまだ妻は下北澤から帰っていなかった。なんとなく、そのあと、ぼうとして過ごしてしまった。しょうがない、成り行きだ。明日は一日芝居芝居で明け暮れる。「父さん観てくれよ」とわざわざ云ってくる建日子の自信作なら、やはり観てやりたい。
なんでも今日の午公演には、猪瀬事務所の二人が見に来て呉れるらしいとも、建日子は電話で話していた。感謝。
2004 6・5 33
* 真夜中だが暫くぶりに秦建日子のホームページをあけたら、こんなことを書いていた。
* さよならエルビン ジャズが好きである。それも、熱いジャズが好きである。気取ったり、妙にスカしたりせずに、いきなり真正面から魂をわしづかみにしてくるジャズが好きである。そういう意味で、エルビン・ジョーンズとリチャード・デイビスがとことんぶちかましてくれるインパルスの「HEAVY SOUNDS」は、最高の一枚である。気分が塞ぎこんだとき、私は、「HEAVY SOUNDS」を大音量で聴き倒す。そうすると、みるみる現実と戦う気力が戻ってくる。一度でいいから、ライヴでエルビンのドラムを聴きたかった。しかし、それは叶わぬ夢になってしまった。哀しい。
今日の朝日新聞の夕刊に、ウィントン・マルサリスによるエルビン追悼記事が載っていた。その一節を、書き写す。
「彼が音楽において心血を注ぎ込んでいたこと、それは聴衆を高揚させることだった。音楽の高揚というものは、音楽に対して誠実であることからしか生まれない。完全を目指すこと、身を捧げつくすこと、そして、粘り強くやり通すことからしか生まれない」
――当たり前といえば、当たり前のことである。が、その当たり前のことをきちんと行っている人間が、いったいどれほどいるだろうか。「音楽」を「脚本」に置き換えたとき、「ドラマ」に、「映画」に、「小説」に「芝居」に――「表現すること」に置き換えたとき、私は、エルビンやウィントンに恥じない生き方をしているだろうか。
誠実であり続けるということは、ゴールのない登山に似ている。このくらいでいいかなと思った瞬間に、誠実さは失われる。
今、今日3度目の「HEAVY SOUNDS」を聴いている。明日も、戦おうと思う。
* 正直に言って、わたしは舌を噛みそうに愕いている、わたしの息子がこういうことを口にしたのを、初めて聴いた。だいたい、こういう真正面からのメッセージに対していつも斜に構え、嘲弄的でさえあるのが、わがタケちゃんの性癖らしかった、少年時代から、だ。
だが、劇作と演出とを苦労して繰り返し、連続ドラマを血の汗して繰り返し書き上げてきた中で、彼は本気で(と、想われる)こういうことを、及ばずながらものに書き込んで人目に晒せるようになったということ。是非の問題は措くとしても、わたしは、かなり嬉しくなっている。どうか、言葉だけに終わらせず、より良い仕事を心行くまで貫いてもらいたい。まずは明日の舞台をしっかり見せてもらう。
2004 6・5 33
* はねると即座に半蔵門線で渋谷へ。井の頭線急行で下北澤に移動し、「劇」小劇場へ。
秦建日子作・松下修及び秦建日子演出の「5」を観た。昔の作品のリメイクであるが、新作といえるほど面目を大きく一新し、少なくも一時間四十五分のうち一時間半は、見事な仕上がりであった。ほほう、ここまでもって来れるようになったのか、すっかりプロになったなあと手を拍った。作劇も演出も、それにこたえる築山万有美以下の大勢の出演者も、颯爽とおみごとであった。
作劇そのものは、一口に筋が語れないほど組み立てが、たいそう複雑であった。だが、それも初めの一時間半は、間然するところなく、大いに舞台は活躍し、面白く、筋立てで追う必要もなく、場面場面の生彩で理屈なく楽しめた。それで良い舞台であったのだと思う。理をもって取りまとめる必要はなかったのではないか。笑いあり昂奮もあり惹きつけるファシネーションも豊かで、ふーん、わが息子はこんなにうまく確かに創れるようになったんだと、安心し感心し、プロの劇作のカンドコロに、没入して楽しんでいた。
だが、最後の十五分(?)が、いけない。もう終わるのかと思ってからが、長い長い。着陸し損ねた飛行機が飛行場の上をぐるぐる旋回しているように、はらはらと、くどく、説明的に長引いた。鞭を鳴らすようにピシッと的確なエンディングにならなかった。
おいおい、まだやるのかと思うほど、理詰めの説明場面がムダに続いてしまった。惜しいとしか云いようがない。
* 書けない小説家が、一つのマンションだかアパートだかの幾部屋かを場面につかって、いろんな話を書いているのだが、うまく全うできない。その、作中人物や、現実の作家や編集者が、ごったに、舞台で交流しながら、さらにそのホテルだかマンションだかには、大量の核爆発兵器が隠されており、某秘密警察が懸命に捜索しているという、なんともややこしい情況ではあるのだが、それらに「理」に落ちた説明などむしろつけず、要らず、混乱の調和と活気のまま魅力的に放っておけばいいのに、最後の十五分ばかり、蛇足に蛇足が効果悪くくっついた。理に落ちた。おかげで、活溌な感動と昂奮の渦が冷えてしまい、オルガスムスの邪魔されたセックスのようなアンバイ式に、へんてこになってしまった。かえすがえす惜しかった。そこがうまく行っていたら、ドラマ完成度の面白さでは、「タクラマカン」よりも、「地図」よりも、「ペイン」よりも、「リセット」よりも、精度と活気のいい舞台になったのにと、いささか、よそながら口惜しい思いをした。
役者はみな百二十パーセントの頑張りで唸らせた。作劇の遺憾が惜しまれるのである。
* 悲愴に会社を辞めたくない、おじさん社員氏と、築山万有美とが、今回は健闘めざましく、しかし、どの一人一人ももう一度も二度も三度も繰り返し観て楽しみたいほどの火を噴く演技を見せていた。
* 雨は上がっていた。渋谷から池袋へまわり、パルコの船橋屋でおそい食事を美味しく食べてから保谷へ帰った。 さて、明日には湖の本の上巻がまず届く。なにもかも見切り発車ではあるが、落ち着いて作業したい。
2004 6・6 33
* 秦建日子が七夕から一夏の連続テレビドラマをはじめるらしい。わたしの好きな、演技の上でも評価高い「最後の弁護人」の須藤理彩や「天体観測」の田畑智子や、それに初見参の宝塚天海祐希が主役であるらしい。前田利家とまつのドラマでの天海は、長身をもてあまして見えたけれど、最近、保険のコマーシャルをしている彼女はチャーミングで「いいね」と我が家で好感し褒めてもいたところで、息子の脚本を演じてくれるというのを、おやおやと喜んでいる。あのコマーシャルはなかなかけっこう、自然な笑顔。少し惚れていた。秦サンは、いけずな根性悪女でさえなければ、すぐ惚れる、と云われている。ま、それが平和である。
建日子も、脂ののった、勢いのあるうちに、意欲と基本のしっかりした良い仕事を、どしどし続けてくれるといい。演劇舞台の仕事とも、いまのところ両翼うまく羽ばたいている様子であり、功を急がずに手堅く精神性の地盤を築いて欲しい。
2004 6・9 33
* あらわに此処に書けないのが残念だが、私的に、とても嬉しく心励まされる出来事があった。にこにこしている。
2004 6・9 33
* なんとなく疲労もした一日であった。
2004 6・9 33
* 秦の叔母ツル(宗陽・玉月)の命日。十三回忌を京都で営んでから何年になるか。先日京都へ行ったとき、寸暇をえて出町萩の寺へ墓参。父も母も叔母のも、(我が家だけの)葬儀のおりの大きな写真が仏壇上の長押にならんでいる。湖の書庫へはいるつど見上げて、声をかけている。
叔母にはじつに多くを授けられた。恩返しは出来なかった。いま、念仏十遍。叔母を想うとひきつれて叔母の門をたたいた大勢の、あの時期、この時期の社中の顔や名前が時代祭の行列のように思い出せる。享年は九十幾つあったか、しかと覚えないが二つ上の兄である秦の父に、二三年遅れて東京で逝った。明治三十三年京都に生まれていた。
2004 6・11 33
* さて夕食後は、今日届いた払い込み分の挨拶を書き、宛名を封筒に貼って、明日には送り出せるように。それに十一時半までかかった。芝居の感想もそれから書いた。疲れて、肩から首筋が盛り上がるように凝っている。風の柔らかな日の当たりたる枯れ野に沈んできたい。さっきから、シク、シクっ、と歯に痛みが来ている。
明日からはひろく大学や図書館や研究室への寄贈本の発送も始める。もう、とうに日付は変わり二時に成ろうとしている。深夜遅くに隣棟に建日子が帰ってくるというが、わたしは眠ろう。
2004 6・16 33
* 五時半、寄贈本の発送を終えた。終えてみて、順調に送れたことに少し我ながら驚いている。用意がよかった。じつは読者へは下巻の未送が残っているが、これはむしろ或る程度上巻との間隔を開けた方がイイ人達なので、追々に送って行けば事は足りる。
建日子が夜前のうちに隣へ帰っていて、昼飯を一緒にし、晩飯も済ませてから仕事場へ戻ると言っている。今夕は太宰治賞の授賞式とパーティなのだが、ま、息子と付き合って、彼は車の運転があるから呑まないが、わたしは木田安彦にもらったワインか、萬歳楽の純米古酒かで気分をよくしよう。妻は桜桃もちょっと仕入れてきてくれたらしい。これで肩の凝りも少しずつ退散してくれるだろう。
上巻をもう五度も繰り返し読んだという、画家の便りが来ている。鑑賞家とは違い、ほんとうの描き手には今度の本は刺激的であるにちがいない。
* 大吟醸の「口吉川(くちよがわ)」が萬歳楽から届いていた。うまかった。濃厚に口柔らか。水のように引けた。飲み過ぎそうで、やっと抑えた。建日子が付き合っていたら忽ち一升の半分以上が吸い込まれていただろう。酒はうまかったが桜桃の代わりのアメリカンチェリーは今一つ口に硬かった。円卓を三人で囲んで。よかった。朝日子の噂もした。
* 十時前 作業は現在進行形に追いついた。あとは成り行きに自然について送って行けば済む。ジャッキー・チェンの映画は少しばかばかしく、テレビの前を離れてきた。とても眠い。昏睡しそう。
でも、いよいよ日常の仕事と「ペン電子文藝館」とに戻って行く。
2004 6・17 33
* 巣鴨へもどり鮨の「蛇の目」で夕食した。この、妻とは二度目の芝居帰りの鮨が、うまかった。いいタネをつかうなあと感じ入り舌鼓をうった。若い板さんはわれわれをよく覚えていて、息子のことまで尋ねてくれた。
秦建日子脚本の天海祐希主演「ラスト・プレゼント」は七夕の十時から始まる。
2004 6・30 33
* 秦建日子さん脚本の「ラストプレゼント=娘と生きる最後の夏」主演天海祐希は、東京上野出身、娘の従兄弟と高校の同級生で、名前で呼び合う程の友達だそうです。建日子さんとも同年ではないでしょうか。
宝塚での、面接試験で、「落ちたら来年は受けません」(大抵は来年も挑戦しますと答えるらしい)と、意表を突く返答で、その容姿、素質も含めて合格したと、伝説的に聴いています。最短距離でトップ(組の主男役)になり、溢れる贈答品は受け取らず返品、トップになるやまた最短距離で退団してフアンを惜しませ、当日フアンの待つ道を愛嬌を降り巻かずに淡々とした態度で去っていったのも初めてのスターだったとか、風説は数限りなく、一風変ったスターだった、らしい。
かなりのマタ聴きですけれど、さっぱり気質が、私の好む処です。 東京都
* わたしも「さっぱり気質」大好きだ。さっぱりせず、品もない。これはイヤだ。天海祐希の最近のコマーシヤル、すっきり綺麗で、嬉しく見ている。明日夜十時から日本テレビ(讀賣系)の建日子のドラマは、かなり内容はシビアでつらそうだが、佳い顔ぶれが主役を力で助けてくれそう、こころよい展開を願っている。「さっぱり」「品良く」美しく物語が運びますように。
2004 7・6 34
* 秦建日子作・脚本「ラストプレゼント」の第一回(日本テレビ)。主演天海祐希以下、みな気持ちいいさらりとした芝居で、文句をつけるほとんど何物も無い佳い出だしとなった。つらい苦しい設定だが、画面を清潔に明るくたもたせ、陰惨な重みを過度に打ち出さなかったのは佳い演出。ま、この出だしならば温和しい、大過ない、次への確かな繋ぎになったと思う。
ヒロインの離婚した夫も、母に逢いたい八歳の娘も、ヒロインの若い同棲男も、前の夫の新しいフィアンセも、ヒロインの勤め先も、故郷の親たちも、みな、少なくもうわべでイヤな人は一人もいない。願わしきされが普通の人の世というもの、リアルというものでもある。温和な設定だ。したがって不自然なドタバタではない。ありのままの、誰にいつ降り懸かるか知れない悲劇の幕開けである。「余命三ヶ月」の無自覚の死病。そういうのも、有るのである。
天海祐希は、素質的にあの大地真央より「普通」であることにおいてスケールの大きいみりょくてきな芝居を見せている。普通人の清潔さで、異様な困難と不幸にどうにかして立ち向かわねばならない虚脱と哀しみと、まだ信じ切れないようなとまどいを自然に演じていて、好感度すこぶる高い。
建日子の作品としては、むしろ彼の生来の持ち味によく根ざしている。もうこれ以上は異様な状況をムリにつくる必要はない、人間の深い悲しみと勇気とを書いていって欲しい。娘の役をしている女の子は、なにかしら異様なショックを与えるコマーシャルを以前にやってはいなかったか。このドラマではその印象も少しひきずりながら、屈折痛ましい、抑圧された感性を、とてもリアルに出していて、目が離せなかった。
*「天体観測」は元気であったが、混雑・雑駁の元気さであった。船頭が多くて船ががさつに揺れる、それが青春の哀歓を成すという体であった。
「最後の弁護人」、は主人公を演じた阿部寛の芝居と助手の須藤理彩の活気とが、気持ちよく噛み合い、脚本の纏まりもよく、読み切りものの連続ドラマとして、やや異色に成功していたが、それ以上には出なかったし印象も長くは残らなかった。ただ、うまくなったなという段階に入って、真面目に創っていたのがよかった。
「共犯者」は、作者が、創作者という意欲をそそぎこんで、ケレン味をいとわずに特色有る物語を組み立て、大いに凝った。不真面目には堕していなかった。プロの仕事になってきていた。あの意欲は一つの脱皮に相当していたと思う。
「ラストプレゼント」は、これまでの彼の連続ドラマと全く異なる佳作に成ってゆくであろうと、信じたい。切実な、だが決して稀有ではない題材を通して、秦建日子なりの「死なれて・死なせて」を、作者として体験するのだろうと思う。
まだ未熟に幼稚な頃、「死なれ・死なせ」る堪えがたい重いテーマ性について、どうしてもまともに向き合えず、軽く逸らしていつも茶化していた息子が、本気でそういう主題に進んで直面している。感慨深い。わたしも初めて落ち着いて、テレビの前で、ともに感じたり考え直したりしてみたい。
2004 7・7 34
* 昨夜のTV、ご子息の脚本、よかったですね。鑑(み)てから知りました。天海祐希は昨朝4CHの番組に出ていましたが、好感印象を増しました。すでに、明らかに「ひとつ抜けた、性を超えたもの」を持っていますね。 西多摩
* 二シーズン程前だったか、一つだけ楽しみに観ていた、大きく評判になったテレビドラマが、同じ年頃の夫婦が離婚して、同じ年頃の女の子を仕事人間の父親が引き取り、子育てはしているが、母親不在で、子供は少し屈折している処から始まる、ほぼ同じ設定でした。
それとは全く情況も違い、男の子だったけれど、ダステイン・ホフマンの楽しめた映画「クレーマー・クレーマー」を、誰もが思い出すだろう、と、その時思いましたが。
離婚の場合、母親が子供を引き取るケースが普通であり、父親が引き取る事によって、何らかのドラマが生れてくるワケです。その折の女の子の演技がうまく、評判になり、今、CMでよく顔をみかけます。
終盤は予測される出だしですが、例によって登場人物たちのテンポよく、感覚のいい今風のセリフを楽しみに観ます。 東京都
* 秦建日子の今度の作品は、主題が離婚でも、子供でもなく、動かぬ「余命三ヶ月」という決定的な「生死」のこと。「自分自身に死なれてしまい、自分自身を死なせてしまう」切羽詰まった「生きる」ことが主題だろうと見ている。そうあらねばならぬ。上のメールには、その点が抜けていて、軽い。
2004 7・8 34
* 明日の参議院選挙のために建日子が帰ってきている。三時間ほど、いろいろと話す。云うことが少しずつ堅実に変わってきている。苦労はしてみるものだ。おおそういうことを云うのかと、ひそかに頷かせることもある。
「きわめて誠実だが堪え難き凡庸」は困るけれど、非凡な人の非凡な仕事には深く下りた根がある。太く、有る。根を養っていないと非凡も凡に乾いて行く。いつも自身のことを考える。
2004 7・10 34
* 参院選、結果はどうあれ投票率が高いのを望みたい。今から建日子もいっしょに投票に出掛ける。
2004 7・11 34
* わたしたちも、社宅暮らしを十年ちかく経験している。男は勤めに出で居て、留守にどんな女の生活があったのか知らないが、当時の保谷町は、農村のなかへよそものが混じり始めたような時で、近在に喫茶店も食べ物屋も何一つなかった。娘はもう社宅より前の新宿河田町のアパートで生まれていて、息子は、わたしの太宰賞受賞の一年数ヶ月前に生まれた。わずか六世帯の社宅だった。会社へ近くはなかったけれど、鉄筋三階の三階ずまい、六畳と四畳半、狭いながらも水洗の手洗いと浴室はあったし、建物も真新しかったし、有り難かった。あの社宅の北窓の四畳半で、処女作を書き始めた。昭和四十四年(1969)の受賞後一年ほどして、現在の下保谷に家を建てて移転した。
あの社宅で、朝日子と建日子とをいっしょに両腕に抱き上げている写真が好きだ。建日子はおでこに絆創膏を貼り、弟のそんな顔をみている朝日子の笑顔が、すばらしく優しい。可愛い。またやがて娘朝日子の誕生日がやってくる。
* 秦建日子脚本の「ラストプレゼント」二回目も、さらりと済んだ。あまり軽妙がった投げぜりふのやりとりが過ぎると、平凡な普通のトレンディードラマっぽくなるから、注意して欲しい。軽妙でもいいが、その辺で安く気取ってしまって、大事な重いものを零さないように。ま、うまく進んでいる。ヒロインの魅力と子役の存在感とがしっかりからまって来ている。
サバイバルゲームとは驚いた。余命少ないと確定しているヒロインである、あまり遣りすぎると、リアリティーに響くだろうからね。
2004 7・14 34
* 黒いマゴとは日々に仲良くしているが、仲良さのあまりに噛みついてみたり、はずみで引っ掻かかれたりは常習で、わたしの足にも手にも傷が絶えない。丁寧にあとあとまでを数えれば百個所もあろう。生き物と一緒に暮らしている、ま、幸せといわねばならぬ。
2004 7・17 34
* 昨夜熱帯夜のせいか、本の読み過ぎか、なかなか眠れずにいた。もっとも起床も遅かった。
今日は、できればのんびりと外出したかった。原稿が書けないので、そういう気になりきれなかった。まだ書けていない。明日と明後日で始末をつけないと、火曜の歌舞伎通し狂言、玉三郎の「桜姫東文章」が楽しめない。新聞にアナも明けられない。日が変わる前に、今夜は階下へ。『外伝』の続きが読みたくてウズウズしている。妻は、病院の帰りに帝劇下で見つけて買って帰った、涼しそうな服を着て行くのだとはりきっている。この狂言は、妻が自発的に通しで切符を買ったので、すこしおっかない狂言である。
2004 7・17 34
* 運動が得意だったのですね。そうだったのかあ、と、感じ入っています。
むかしはみんな坊主頭だったのではないですか。どうして風だけ渾名が坊主?
最近、風の掌説を読みながら、やってみたいなあと考えています。
今日は曇りで、少し涼しいです。絶好の片付け日和。昨日、横浜の友人に、遊びに行きたいと言われました。散らかっているので、慌てています。
* 高校生のもう二年生ぐらいからは、みな髪をのばしていて、戦争中のように丸坊主の坊主頭は、一人だけでした、目立ちました。いつごろ髪をながくしたか忘れましたが、卒業少し前から大学進学あとまでかけて伸ばしたのだと思います。
そのころまで、東福寺と学校と泉涌寺とをしばしば往来し彷徨して、「少年」の短歌を作っていました。あの歌集はかなりに精選しています。実際には、詞書きも添え日記代わりに大量生産していました。
惜しいことに高校時代から大学時代の日記を、上京前に全部燃してしまいました。京都を棄てるいわば「推進火力」にするぐらいの感傷からしたことです。しかしノートの歌集が三冊ほど、電器屋の広告チラシの裏にびっしり清書した歌の書留など、今も残っているのではないかと思います。歌としては殆ど採れないが、あの時代が、いくらか再現可能な資料になります。
2004 7・18 34
* 一種の熱中症だろうか、急に不整脈に陥って悩む人もある。
わたしの妻も心房細動の不整脈で、もう二十年余も医者から離れられない。秦の父が入院し、余儀ない事情からその付き添いに付いている間に、東京のわたしに「緊急の救出」を求めてくるほど、一気に具合が悪くなった。以来、持病になった。
この時の他には、秦の実家のことで妻に負担をかけた覚えは、殆ど一度も無かったと思う。その一度がきつくこたえた。いつもいつも、わたしは、実家との煩いからは妻を庇うようにしてきた。結婚以来だ。妻がいやがったわけではない。最後には九十過ぎた舅も姑も同然の叔母も、みな東京の我が家に引き取って、最期まで相応にケアして見送ったのだ。
妻には帰る実家がとうに無かったから、京都への家族での帰省も、或る意味では楽しみのうちだった。それに親類縁者の無いといっていい家だった、気楽でもあったろう。結婚後、妻が年寄りに苦いことを云われているような場面は一度として見たことがない。そして妻は妻なりに、としよりたちをよく観察していた。だからのちに、「姑」のような作品も書けた。
それでもなお、男が、鈍感に気付かないでいる女の苦労は、男の実家と妻との間に大きいことは、幾例となく聞いている。いちばん実例豊富に聞いたのは、東工大の大教室で、きみたちは「家の墓」とどう付き合って行く気か、と質問を突きつけたときだ。豊富に旺盛に学生諸君は自分の家での実例を披露し、告白してくれた。ことに遠い田舎の盆と正月と、祀りや祭りづきあいの、大変さ。それに否応なく付き合わせられる嫁としての母親の苦労・心労・疲労をのべる文章を、それは沢山読んだものである。
わたしたちのように徹底してそういう負担から身を遠ざけ得た家庭はいいが、それは稀少中の例外に属する。
ま、それとても田舎の「文化的複合」そのものであるのも、事実だ。わたし自身の実の父方、実の母方も、途方もない大家族一族であるだけに、そういう煩いから、生まれ付ききれいに逃れ得て成人したことは、正直幸運であったと本気で思っている。
近づく盆の行事につれて、一族一門が「習慣」としても「楽しみ」としても遠く各地から里帰りしてくる「田舎」の風俗・風土。都会的なお嫁さんは、しかし、たいへんじゃろうなあとは想う。俄かな不整脈の起きる人もあるであろう。むろん、人もいろいろ、田舎もいろいろ、だが。
祇園会にせよ、諏訪の御柱にせよ、またさまざまな文化的複合の民俗行事にせよ、わたし個人はそれをむしろ容認し肯定してきた方にちがいない。楽しいと思うも、んどいなあと思うも、人それぞれであるが、立場立場は難しい。
2004 7・21 34
* 秦建日子脚本の「ラストプレセント」三回目、かなり息苦しくなってきたのは「余命三ヶ月」を追うドラマとして余儀ないことであり、同じような宣告を受けた「半年余命」のいいおじさんが転落自死をとげもした。
ドラマはヒロインの印象がきれいに生きて、すっきりとしたいやみなさで進んでいる。観ていてさらにさらに辛くなるであろう、ふつうはわたしたちはこういうドラマは敬遠してみない方なのだが、こんどはヒロインを見詰めざるをえない。ヒロインがさらっと美しい天海祐希でよかった、みやすかった、と思う。
海岸でひとり、「いちばんうまいはずの鍋物」を、「うまくない」と呟きながら食べるシーンはこたえた。
また、取引としては大成功しかけた不満な設計を、これが自分の最期の作とは云われたくないと毀してしまう気持ちにも、共感できた。ただ、どうして自分の子供にあれを云ってしまったのかと、母親としてのある種のブレーキの聞かない子への甘えのようなところが、辛さを濃くする。連続ドラマとしては稀有なほど、技術的にケチをつけるところが見つからない。すらりと綺麗に進んでいて心地よい。空気はリアルに近く、軽薄ドラマには堕していなくて気持ち佳い。だが、かなりきわどい低空飛行をもドラマは強いられている。うまく飛び続けて貰いたい。
2004 7・21 34
* 栃木から素晴らしい実入りの梨を、頂戴した。堅い皮の中はこれみな甘露。冷やしておくとひときわの美味さ。
* 季節外れの東福寺で、雀が一羽で、ぼぉっとときを過ごしていた日のこと。お一人で、ベビーカーを押してらした若い女性がありまして、へぇえ、京の人は、記憶もないうちから、こういった空気に浸って育つンだ、たまらんなぁ、と嘆息しました。
先だって訪れた天龍寺で、「ここに寝転ぶこと禁ず」と札があったので、この畳のお部屋、入っていいの? と驚き、もっとびっくりしたのは、妊婦さんがこういったところで編み物などしているというのですもの。
胎教がこれぢゃ、京都にはかなわんはずやわァ。 雀
* どちらも、眼に見えるようだ。晴れた日の東福寺の夕景はあかね色が流れて静かで。高校の帰りにもただただ佇みたくて此処へ来た。
天竜寺へは、建日子と二人だけで菩提寺で法事のあとに、行った。息子と一緒というのに甘えたのか、わたしは、いつしれず畳の堂上で、小一時間もぐっすり寝てしまい、気が付くと息子はそのままお庭を眺めていた。おやじ起きろよとも言わずに放っておいてくれた。あれは嬉しかった。
2004 7・26 34
* 娘朝日子の誕生日。何歳になったろう。四十四歳か。華の三十も四十も、一目もみることなく過ぎてしまった。親二人で今朝は、例年の如く朝日子のため、赤飯。一期一会。健康であれ、心身ともに。
2004 7・27 34
* 秦建日子脚本の連続ドラマ「ラストプレゼント」今夜はひとしおすっきり清んで、美しく流れ、テンポもドラマも各俳優達の演技も、申し分なく心地よく、うまかった。ほぼ何一つ引っかかるイヤミもなくて、しみじみと感じ入って観た。贔屓目でなく、うまい、良くできた演出で写真で、そして台本だと、てらいなく褒めてやりたい。うまくなったなあ、やはりこういうふうになるんだ、真面目に続けていればと、それが嬉しく、場面場面の人物に共感し笑い泣きながら、嬉しく見終えた。早く来週が見たいなどと思った建日子脚本は、初めてである。
天海祐希というヒロインが逸材であること、よくよく合点した。べたつかない、自然ないい女を創作している。「最後の弁護人」の須藤理彩、露伴の孫を演じて出色の田畑智子、それにあの「踊子」の巧いヒロイン、さらに「時宗」の博多商人以来印象濃い設計事務所のキャップにしても、花屋の二人にしても、みな確実に働いている。そして子役がニクイほど胸に来る。
けっこうでした。ありがとう。建日子は三十六歳になっている。ああわたしの「廬山」や「閨秀」の頃へさしかかっている。前者は瀧井孝作先生や永井龍男先生に芥川賞に推して頂いた。後者は吉田健一先生に高く評価して頂いた。そういう具眼の人に建日子も出逢いますように、と祈っている。
2004 7・28 34
* 恒平さん。 天災ではありませんが、忘れたころに来るのが私のメールのようで・・・。恒平さんがお元気の様子はHPを見ればわかります。私の方も、ま、幸い息災というヤツで・・・。船旅で2週間かけて北欧を巡って帰国したばかりです。ちょうど結婚30年(やっと)になりますので。
大分前に恒平さんからE-Magazine「湖」に書いてみないかと薦められました。「京の青春」とか・・・ですね。
こちら(カナダ)の日系新聞や日本(北海道)の雑誌には小文を連載で書いてはいますが、文芸作品的なものにはほど遠く、人様のお目にかけるような代物は書けそうにないので、聞き流してそのままになっていました。
ただ、考えてみますと、私の家族・・・婚後30年の妻や28、27歳になる息子達には、私の生い立ちは知られていませんし、私の死後、読ませて、フムフムと頷かせるようなものを後に遺すこともあっていいのではないかと思い始めたことがひとつ、もうひとつは恒平さんが「早春」で書いているあの時代に、いちばん近いところで付き合っていた友達の私が、どんな風に少年時代を過ごしていたかを知っていただくのも(恒平さんにとっては)案外興味があるのではないかと思ったり・・・で、書き始めたのがかなり前のことなのですが、気が向くたびにワープロ文をつないで「早春譜」(上)をどうにか脱稿しました。
引き続いて弥栄中学時代の(下)に入ったのですが、これが終結するのはいつのことやら、ま、急がぬ旅ではあるのですが・・・。今、恒平さんがひんぱんに出てくるところにさしかかっています。この後を書き継ぐことが出来るかどうかも自信のないままに、とりあえず別メールで送稿してみます。/// カナダ
* ファイルで、「早春譜」と題した少年期の自伝が届いた。その「上」に読みふけって、正午もとうに過ぎた。外出はサボることになった。
「下」に入ると、われらが弥栄新制中学の時代になる、とある。「上」では筆者の粟田小学校時代とともに、学区の自然と伝統、また太平洋戦争時代の家庭や親族のことが、わたしも知っている友人達の名前なども、適切な叙述で走馬燈の繪が流れるように渋滞なく、出て来る。此の「闇に言い置く」私語の中にもよく登場する杉並の藤江もと子さんの夫君藤江孝夫君の名前もちゃんと出て来て、隣校粟田小学校のことはよくは知らなかったので、ほう、ほうと驚いたり懐かしかったりする。中学でわたしと同級、いつも副委員長役で協力してくれた安藤節子さんが、此の筆者の小学校の教室ででも副委員長をしていたとか、人柄も好意的によく書いてある。委員長の安田洋という人とは一度会ったことがある。粟田では伝説的な秀才の一人であったが、同志社中学へ進学したそうだ。安藤節子も最初は同志社に進み、二年生のあいだに公立のわが弥栄へ、そう、戻ってきた一人だった。
* 此の筆者はむろん、わたしの「丹波」「もらひ子」「早春」という『客愁』第一部を識っている。第二部の「罪はわが前に」も識っている。二部は小説だが、一部は記録であり、此の筆者の筆致もそれに近いけれど、記録の手法は少し違う。此の人のほうがはるかに客観的に多く広く目配りしている。読んでいても、あの当時のわたしが全く目配りの気すらなかったいろんな世間や時代のことにも筆を用いてある。わたしは、ほぼ徹して自分の「内景」に関わることにしか関心がなかった。
同じ驚きを、わたしは、弥栄中学新聞に彼が書いた署名記事を読んだあの昔に、新鮮に身に受けた。
彼は、たとえば金閣寺だか法隆寺壁画だかが燃えたことにちゃんと触れていた。触れ方はひととおりであれ、わたしなど、ほとんど念頭にものこしてなかった「よそ」の事件だった。わたしは「自分」を見ていた。世間も社会も政治にもほとんど目も向けていなかった。
だれも信じないだろう、あの当時の友人達は。なにしろわたしは「ワンマン」という渾名をもらい、だれがどう見ても目立ち屋であったし、火の玉のような委員長であり生徒会長であった。いっぱい顰蹙を買っていたにちがいないのだ。だが、わたしは「自分」の内側に悩みも哀しみも憧れも怒りも蓄えていた。外の世間は、その自分にふりかかる火の粉である限りにおいて存在し、払いのけられていた。ふりかからない限り、火の粉などどうでもよかった。自分の内なる青春にのみ恋していたのである。
此の筆者の早春譜「上」を読んでいて、あの隣学区の小学校内で、数人の男子による女生徒「陵辱」事件が起きていたと知り、仰天した。高校中学ではない、小学校で? これはわたしの持っていた性成熟度に関する常識を揺るがして余りある。わたしがかすかな恥毛を感触して慌てたのは、中学の修学旅行にでる直前、三年生の二学期半ばであった。夢精したのは高校へ入って一年もしてからだった。
筆者は、これを私の慫慂にしたがって書いたと言っている。勧めたのに相違ない。読んでいて、だが、このままには公開しきれない微妙過ぎる社会的・歴史的問題が出て来る。わたしの『客愁』一部でも、一度は書かざるをえず、しかし、きわどいところで「割愛」したまま手元にだけ保存している「記事」がある。此の筆者の作品でも、それをどう処置するかが難しい一課題になる。
まずは、「下」を読みたい。
2004 7・30 34
* 早春譜「下」は、書き始めてまだ本の少しで中断し、推敲も未了としてあるが、わたしとの出会いの場面もある。自分が人目にどう映じていたかなど、誰もそうそうはこうして知れるものでないから、うわッと思う。なるほど、そういう思いをわたしはどれほど人にさせてきたことかと、今更に恐縮する。
わたしの『客愁』では、友人達も大事な人達もみな仮名で通したように記憶しているが(記憶違いかも知れないが)、この作者は、自分一人は仮名に、他はすべて「実名」としている。それで、わたしには実に分かりやすい。
* クリーム色の光沢を放つ化粧煉瓦を張りめぐらした弥栄中学校校舎は一階から始まって上階へ一、二、三年生の各クラスが入る。誠は学年に五組ある中の二組にクラス分けされていた。
新学期の第一日目が始まる。わが教室はここかと見定めて入室すると授業開始にはまだ時間があり、運動場に面して開いた窓際に三人の生徒がたむろしていた。いずれも見知らぬ顔でどうやら有済小学校から進学してきた連中らしい。テレ半分の曖昧な笑顔で近付くとそのうちの一人が愛想よく声を掛けてきた。その後、半世紀を超える付き合いとなる秦恒平との出会いだった。人懐っこい笑みに両八重歯をのぞかせて秦が口数の少ないあとの二人を辻幸男、大野耕太郎と紹介してくれた。けっこうおしゃべりと見えて秦がこう続けた。
「一時間目は国語やけど、この寺元先生ちゅうのは有済校から来やはったんゃ。最初に手ぇ上げて本(教科書)読んどくと覚えがようなるで」
授業が始まると、前言に違わず秦がひるまずいちばん先にさっと手を上げた。ためらいなどとは一切縁のない外向性の少年と見える。ひきずられる形で誠が二番手に続いた。
学業全科に優れ、何かにつけて目立つ存在の秦のことを有済校時代から同級だった女生徒たちはなぜか「宏一(ひろかず)さん」と呼んでいた。宏一から恒平へ・・・その改名に小さな疑問を抱かぬではなかったが、誠は穿鑿するでもなく、自分とはおよそ性格の異なるこのクラスメートを新しい友人の筆頭に数えていた。
それからというもの、秦は週に一、二度の頻度で柚之木町の誠宅に顔をみせるようになった。いつも大きな大人用の自転車にまたがり、現れるたびに「なんか、本、持ってぇへんか」と僅かに残った我家の文芸作品を次々と借り出していった。実のところ、戦前の文学作品を揃えていた読書家の兄の書庫は既にほとんど空に近い寂しさだったが、それでも復員後に改めて買い求めたものだろう、まるでザラ半紙に辛うじて印刷のインクが乗ったような河出書房版「川端康成全集」や、姉の蔵書から佐々木邦のユーモア小説などを選んで荷台に積むと秦は意気揚々と引き揚げていった。川端全集は「伊豆の踊り子」のほか「禽獣」「花のワルツ」「十六歳の日記」などの小編を収録していた。
* ハッハッハッと笑ってしまうしか収まりがつかないほど、さもあろうなあと納得する。「誠」君はまさに個対個で見ているから、前後左右へひろがり拡がっているわたしの世界の全部はとても見えていない。人が人を見るとはそういう営為である。
(一)他人も自分も知っている自分、(二)自分は知り他人は知らない自分、(三)他人は知り自分は気付いていない自分、(四)そして他人も自分もまだ知らない自分。
この四つで「自分」は出来ていると、東工大の教室で、学生の一人が書いていた。受け売りかも知れない。が、わたしもそれをときどき使う。
云うまでもないが、自分では、(二)の自分 をいちばん自分に近いと考えているものだ。そして(三)にも少しずつ気付かせられて、ヤバイなと自覚するものだ。分かりの良さそうな(一)は、存外に誤解に近く、自分の自分像と他人からの自分像とは逸れたりズレたりしているもので、アテにならない。付き合いの上での妥協像が此処でかなり捏造されるものだ。
いちばん大事なのは、無論(四)であり、まだ中学高校大学ででも、みな、銘々にこれを「可能性」の名において所有している。その暗闇の可能性をうまく引き出せるか、そのままに死蔵してしまうかは、その先の長い人生にものを言うだろう。中学時代にこれがみんな外へ出てしまうことは、天才かそれだけの者かどちらかであろう。晩成の人はこのあたりでは、とても「自分」を小出しにしかしていないものだ。
どんな時期にも、(三)の自分を他者から気付かされるのは、コワイものである。しかし勝れた人がそれを見つけて教えてくれるという教育は、此処の自分に関わってくる。ここで謙虚でないと大きく成らない。それはまた(四)の自分を掘り当てて光らせることに繋がる。
その意味で、自分のことは自分にしか分からない、自分のことは自分だけが知っている、一番よく知っていると言いすぎる人を、あまり信用しない。そんなことは、むしろ有り得ないと思っているし、それでは(四)の自分が、よかれあしかれ、現れてこない。
* さしあたり「上」を「e-文庫・湖(umi)」に入れたいが、それでも、配慮を要する表現や個所に少し手をかけざるを得ない。
2004 7・30 34
* 三輪の神様がほんとにお出まし? わたしを威している気かな。
PL教団の花火は、いまは知らないが、三十余年昔、富田林まで娘朝日子と二人招待されて行った年のそれは、驚くべき豪奢な大量の大花火で、美しさももとより、爆発音の轟きの深さと重さに圧倒され、朝日子などしまいに自分のお腹をしっかり両手で庇っていた。あのころわたしは雑誌「芸術生活」の常連筆者だった、掌説や短篇や美術論を連載していた。「廬山」という佳いツクリの単行本が出来たのも芸術生活社からで、帯の推薦文を永井龍男先生に戴いたのが嬉しい懐かしい思い出である。その肉筆の原稿もわたしが貰った。
2004 8・1 35
* 画期的日付の一つになったのかも知れない。秦建日子が「初めて」父親の小説を読んで批評してきたのである。
* 建日子です。暑い日が続きますね。
「お父さん、絵を描いてください」読了しました。
ガキの頃に、ちんぷんかんぷんなまま「清経」を斜め読みしたのを除けば、真剣に父さんの小説を読んだのはこれが初めてかもしれません。親不孝な話ですみません。
感想は―――書きにくいですね。今の私に一番興味深いテーマであり、また、細部にドキリとするリアリティがあって、非常に胸痛く読みました。
と同時に、しかし、共感・賛同できない部分も多く、複雑な思いにもとらわれました。
最近、私は、「俗な成功に何の意味があるのか」ということをよく考えます。
と同時に、「芸術家を目指すことに、何の意味があるのか」ということもよく考えます。
すべては、コインの裏表であり、人生が滑稽なものであることに変わりはないのではないかと。その滑稽さを甘んじて受け容れたうえで、人はどう生きていくべきなのか、と。
「お父さん、絵を描いてください」には、「俗な成功にはたいした意味がないが、芸術に身を捧げることには意味がある」という大前提で小説が紡がれているように思え、その「硬直さ」が、私の心に今ひとつ染みなかった一番の理由ではないかと思います。
私としては、あの画家に、小説家に、せめてそのどちらかひとりに、自分らが人生を捧げている「芸術」というものへの懐疑が少しでいいから欲しかった気がします。
また歳を経てもう一度読むと、違う感想を持つのかもしれませんが……
では、続きはまた保谷にうかがったときに。 建日子
* いい批評であり、建日子から出て来て十分頷ける視点である。
* 以前にも、ジャクリーヌ・ビセットとキャンディス・バーゲンの映画、題は「ベストフレンズ」だったか、に触れて、この映画か原作かの原題、「リッチとフェイマス」について、書いたり話したりしたことがある。
リッチとは、俗受けの、金と大量とにつながる成功者のことであり、キャンディス・バーゲンはそういう読み物作家として華麗に生活していた。フェイマスとは金にも大量にも容易に結びつかないが、敬愛される藝術家の意味で、ジャクリーヌ・ビセットはそういう小説家だった。ジャクリーヌは親友キャンディスが泣いて欲しがる評価高い「賞」の早くの受賞者であり、今は選者でもある。
どちらが良い悪いの問題ではない、人生の選択に過ぎない。
* 建日子がまだ中高校生だったある日、芥川賞を受けていた某作家が、或る夕刊新聞に、おっそろしいポルノを常連で書いているのを知り、「本人、恥ずかしくないのかなあ。家族は、さぞ、恥ずかしいだろうなあ」と言った。「あんなこと、よく書くなあ」とも。他にも、似たことをしている元純文学作家が、少なくも一人二人もいて、すでに著名なリッチであった。
わたしは、その人達の純文学上の仕事も少し知っていた。「事情」もあるのだろうし、出来ることをしているだけさと、他人のことであり「判断中止」していたが、建日子の率直な感想から、もし、父親であるわたしが同じようなことをして稼ぎ出したら、やはり息子として「恥ずかしい」と思うんだな、「そんなことしてくれるなよオヤジ」と言いたいのかなと、感じた。ま、そうは思わせてやりたくなかった。
リッチな仕事に走り出すか出さないかの意志決定には、わたしの場合なら、それを「will not」だけでなく、「can not」の場合もあるのを認めめねばならない。たぶん、わたしには「出来ない」藝当だろう。
だが、長い作家生活の間に、もし二者択一せよとあらば、躊躇なくフェイマスを志望し、どっちにしても「恥ずかしい」ようなリッチには、「can not」よりハッキリと、「will not」だった。
むろん本は売れて欲しいし、読者も多いに越したことはない。今度の作品にも書いているが、それを考えない創作者はいないだろう。
その上で、わたしは自分の物書き人生を、願わくはフェイマスにと期し、かつ決心していた。というより、少年時代に、源氏物語や百人一首や漱石や藤村や潤一郎や茂吉や白秋を読んでいて、それ以外に考えようがなかった。
* だが、それは「我が事」であり、他人がリッチであれ、恥ずかしい垂れ流しをいくら書いていようと、その人達の身過ぎ世過ぎであり、わたしの知ったことではないとも思ってきた。尊敬しなかっただけのこと。
それに対し、真にフェイマスな創作者には、作風の違いなど度外視して「尊敬」し「信愛」した。その具体的な表れが、まちがいなく現在進行中の「ペン電子文藝館」、その「招待席作者」や「物故会員作品」へのわたしの深い敬愛に、如実に示されている。「湖の本」に見せてきた姿勢も、また、同じこと。
建日子はそういうオヤジの姿を、とにもかくにも見続け感じ続けて、いま、劇作や、テレビドラマ作家になっている。わたしが、彼に恥ずかしい思いをさせつづけて、わたしの日々をそれ故に軽蔑し慨嘆していたのなら、彼は創作への道には踏み込めなかったかも知れない。少なくも息子の反面教師としてわたしは或る意味頑固な存在であり得たかとやや自負している。違うかな。
* わたしが、リッチ系の作品にもたくさん触れてきて、いっぱいの「時間つぶし」にも熱中してきたことは、ゴマンと家に積まれた海外ミステリーやサスペンスの文庫本だけでも、証言している。映画なら、もっと露骨にわたしは二流三流の娯楽作品でも観てきた、建日子ですら呆れるぐらい。通俗ものには、それなりの効用のあることをわたしはよく知っているし、否定したこともない。小説家として、物書きとして、自分からはそれに手を染めないだけのことである。
* では「藝術」「藝術家」を高く評価して「懐疑心」をもたず、わたしはそれ故に「硬直」していたのだろうか。判断は人に委ねるしかないが、次の二つは言っておきたい。
* 七十年近く生きてきて、勝れた多くのジャンルでの「藝術作品」と出逢ってこなかったなら、わたしの人生、どんなに味気なかったろう。そんな勝れたものが、ほんとにそんなに沢山あるものかと反問されれば、日本のと限っても、かけがえのない藝術作品の実例を、多くのジャンルから、すぐさま百も百五十も挙げられる。何でもない。海外の文学からも美術からも、数多くの素晴らしい作品に出逢えた、魂を養ってもらった。その感激と感謝はジンジンと鳴るように今現在も身内に生きている。
* 建日子は、「藝術」「藝術家」に対して、おやじに一抹の「懐疑」はないのか、それを書いていないのが不満だと言って来ている。
昨日の「私語」の「誠実」云々にも関わってくるだろうが、それを措いても、こんな風に言える。
勝れた「藝術作品」への愛好や信頼は動かない。いわば持って生まれた生理のようなもので、懐疑以前のものだと。しかし、「懐疑したい」「拒絶したい」藝術への態度・姿勢というものが、一般論として厳に存在するとも、わたしは思っている。
あの「山名」画伯のように、「藝術」なる観念を尊ぶ余りに、「藝術」意識を概念的につつきまわして、あげくドツボに陥ちて行くのは、明らかに「硬直」であり、「懐疑」せざるを得ない。そういう非難・批判の気持ちが、わたしにはいつも有る。リクツで「藝術」をいじくり回すのはイヤだということ。わたしが「美学藝術学」という晦渋に過ぎた学問よりも、「書かずにおれないものを書きたい・藝術小説家」をめざして、大学を捨ててきた理由はそれだ。
* そして最後に、もう一つわたしの足場をさらけ出すなら、わたしは、人生も藝術も政治も、そして人類も、地球も、決定的な終末・絶滅の時を待って、そこへだんだん近づいているという、いわば科学的な理解も一応持っている。しかし、そんなことより、もっと決定的な「懐疑」と「諦念」とをわたしは、この現世一切に対し、持っている。
自分のしている一切が「夢」そのもので、そこから醒める瞬間を自分は渇くように待っている、ということ。つまりは、夢と知りつつ、だからこそ夢が夢である間を楽しんで、しかし「早く醒めたい」とその時を切望し待っている、ということ。ぜーんぶ、どうでもいいことと思っていつつ、演戯として、自分はこのまま藝術家を演じていようかな、と。それにすら特別の拘泥はしない、と。「今・此処」の生に自然でゆったりとした「楽しみ」有れよ、と。
それは、あの「お父さん、繪を描いてください」の作中「作家」の思想ではないかも知れない、が、作者である秦恒平の思想であり、その思想だって「夢」に過ぎない。そう、思いつづけている。
「闇」に言い置く、みーんな、花火のようなものさ、と。
* 建日子が保谷へ帰ってきたときの、また楽しみができた。
建日子は自作のどの一つ残らず、わたしに「観て」欲しいと言ってくる。残らず観てきたのである、わたしは。
しかし彼が告白しているように、全くとは思わないけれど、殆どわたしの書き物を彼は読んでいない。わたしが「清経入水」を書いたとき、建日子はまだ生まれて間なしであった。その後「父」として三十数年批評はして来ても、「小説家」秦恒平のことはまるで識らないできたのである。わたしの元気な間にこんな「批評」が貰えるとは、とうに諦めていた。
(昼の食事に呼ばれながら書き飛ばしていた。いま、少し文章として見直しておいた。) 2004 8・2 35
* 秦建日子脚本の「ラストプレゼント」 躓きなく、たとえばコクのある清水をさらさらのどに流し入れるように無理なく楽しんで、胸に迫って観ていた。あの建築事務所の大水漏れは、最近建日子のマンションで起きた突発事故を取り込んだらしい。うまくなった。今度のは安心して、ただもう天海祐希とその娘役とに眼をそそぎ思い入れしながら観ていられる。嬉しいこと。ヒロインの元良人も、その新しい妻候補も、ヒロインの助手役のような佐藤理彩も、田舎の家族達も、みな、気持ちが佳い。初めて、純然と建日子の作劇を無心に鑑賞している。
ヒロインは、建築上大きな商談に結びついたが、俗っぽくて気に入らない自作設計を、客の目の前でぶちこわし、心から気に入っている自信作の料亭で、娘と食事の最中に、余命三ヶ月の病状を俄に悪くしている。この辺の作品の、藝術的かどうか、ともあれ作者としての満足感の落差が、二三日前の建日子の「藝術論」に少なくも反映していたのだろう。
彼は、依頼の「小説」も書き下ろしたらしい。どんなものになったか、その苦労もあの批評に反映しているのだろう。まさか予防線ではあるまいな。
建日子がこうして地道に自身の道を切り開き続けているにつけ、朝日子にも同じような生き甲斐を持たせてやりたかった、まだ遅くないよと言ってやりたい。
2004 8・4 35
* まだ若い若い人から、重い問いをかけられ、今、粛然としている。問いの重みをわたしはながく負わねばならない。
2004 8・6 35
* 今夜よほど遅くに建日子が保谷へ来るという。何ならん。
2004 8・7 35
* 深夜にあらわれた息子建日子と二人で、小一時間「お父さん、繪を描いてください」について話し合った。建日子とまともに私の作品で話し合ったのは初めてである。
創作者としての彼の現在になにか刺戟の、示唆の、啓発の有る作かと思って読んでみたという。あの一枚の繪にいたって、彼もまたゾクゾクっとしたそうだ。一編の長い小説と一枚の繪とが均衡したと感じたらしい。
絶妙の位置にあの繪は必然のかたちで置かれた。小説はもともと原稿一枚のものではない。繪は何百枚も描くものではない。もし作と繪とが均衡して緊張をはらんでいるならば、それは画家山名と小説家幸田との均衡と緊張とが成って、書かない画家は一点の肖像を描きのこして、去っていき長編は結ばれた。結ばれたアトに後日のことが添えられた。そういうツクリになっている。
建日子は、画家も作家も二人とも「藝術」に拘泥した「藝術家」だが、「藝術」なんてと相対化する視点が欲しいなと云っていた。山名の家庭はそうではないのかとわたしは答えたが。
わたしの意図は、むろん「藝術」という観念にはない。「創作」という行為に於ける質と覚悟と煩悶にある。そして何もかも入れ込んでは書けない、主役は画家であり、作家は引き出し役にしておかねば、作の求心力が割れてしまう。二人を繋ぐ工夫に同じ一人の女を「二人」に分割して関わらせ、紐帯の役をしてもらった。天才と謳われた描けない画家の行く先は、一枚の「肖像画」になって、そして悲しい先があった。「ひよひよと無意味に死んでしまわせた」のではないかと建日子は批判していた。「死」より前に作品をエンドに結んで置いたの、そういう批判をいくらか防禦したのだが、そのあとが蛇足か必然かの議論はこれまで出ていなかった。
二人とも眠い眼をこすりながら話していた。建日子も今度新たに小説を書いて、本になるという。そんな創作の間に彼は彼なりの何かを考えたり求めたりして、常は読まない父親の作品を読んだらしい。創作にふれていえば、この私の長編は六十を過ぎ七十を間近に見ている画家と小説家の、通るところを通ってきたあとの創作への姿勢が出ている。三十代を漸く半ば過ぎるか過ぎたかの建日子の創作とは、当然、ちがうだろう。もっと「若い」時期の作品を読むべきだったかなあと建日子は少し苦笑していた。お前の年頃に苦心し五年かけて書いたのが『みごもりの湖』だよと云っておいた。創作に触れてというなら、『墨牡丹』もまさしくピタリと創作者たちの思いを主題にした「藝術家小説」であった。
2004 8・8 35
* 昼食後に建日子と三人でまた四方山の話をした。
話し合えることは何にしても嬉しい。彼はいつも車なので、酒は酌み交わせないが。
だんだん実のある話題に応えてくるようになった。年齢からして当然だが、父親への照れや距離感が、自信もついて落ち着いてきたのだろう。志賀直哉は、息子さんとの共感や対話をたいそう大切にされていたように思われる。阿川弘之さんも佐和子さんとの丁々発止を好かれているように思われる。
朝日子がちかくにいれば、もっともっと多くを娘からも得、娘にも話してから逝けるのにと思う。身の回りにいただれもかもが、朝日子が、いまの建日子のような創作・文筆の生活に入って行けるだろうと期待していたのだった。正直の所、建日子の今日は(まだまだ、小さいものだけれども)両親共に夢にも想っていなかった。ああ、そうかなあと想うのは「ハタ・タケヒコ此処にあり」というようになりたいと小学校からホラばかりふいていた、あれが「力」であったんだなあ、ということ。
とすると、明らかに彼はわたしの遺伝子を濃厚に伝えもっているのである。滑稽なほどの話であるが、高校でも、大学でも、会社でも、「俺はお前達とはちがう」と、はっきり思いつづけていたのが、わたしだ。文壇に迎えられて三十余年、今でも、かなり本気でそう思っている「形跡」がある。滑稽な話である、が、真実かも知れない。建日子が承けついで、朝日子に実は欠けていたのが、どうやら「コレ」であったのか。
こんな「ばか話」が書いておけるのも「闇に言い置く」この場であるから。犬の遠吠えにちかい、ひとりごとである。
2004 8・8 35
* 光が丘での仕事の打ち合わせから建日子が夕食に戻ってきて、食後も十時半までゆっくり話し合った。落ち着いて話し合うということが、漸く親子で出来るようになってきた。もっとも今夜の建日子にすればメインの話題は、可哀想なほどあっけなく否決されてしまったけれども。
それでも彼はいらつくこともなく、吾々と一緒に「ダンシング・ヒーロー」というホール・マーキュリオとタラ・モリス主演のダンス映画を観てから帰っていった。
この間の連続ドラマで建築設計事務所がなにかしら配管上の故障から水が事務所内に降ってきて手ひどいダメージをみなが受けていたが、ああいう事故が息子のマンションで起きて裁判沙汰になるとかならぬとか。嫌気がさして引っ越したいのだが、吾々との一世帯半の住居として新しいマンションを買わないかという大胆な提案。これは思案のほかで、受け入れなかった。生活のスタイルがまるでちがうし、仕事の仕方も、年齢もちがう。健康な間はそういう無謀な冒険をする気も余裕もないわけである。建日子等は、今のまま自由に仕事に打ち込んだ方がいい。
2004 8・8 35
* 建日子とも、昨日、ずいぶんこの作品について話し合えた。「山名」君を死なせたのがよろしくない、どう抜けだしどう立ち直ってくれるかが読者は読みたいのだと言っていたが。そう、あまくはないぞ、この苦しみはと。おもしろづくな、ストーリー・テールにはならない重い問題だ。
2004 8・9 35
* 黒いマゴが明け方に元気いっぱいご帰宅、ご機嫌でノドをならして毛づくろいなど。目がさめてしまった。冷やしたお茶に梅酢を多めに垂らして呑み、空腹感はそのまま二階の機械の前へ来て、二つの佳いメールと出逢った。どうしてるかな、元気にしてるかなと想っていた男性二人、何とはなく安心。福岡から、千葉から、カナダから、札幌から、千葉からと、建日子のもふくめて男性たちのメールもしっかり胸に触れる。
2004 8・9 35
* 秦建日子脚本の「ラストプレゼント」は、今夜も申し分無し、したたか泪を堪えて堪えきれなかった。三人で医者に会いにゆくあたりがきわどく危ないと云えば危ないすれすれだが、ヒロインの、毅いものあはれに支えられて、ドラマは美しくはりつめて前進した。けっこうである。天海祐希がこのドラマにピタリとはまって自然に上手い。こんなに優れた演技者であると知らなかった。建日子は主演女優に恵まれた。観ているわたしたちも恵まれている。
2004 8・11 35
* 八月十五日 日 敗戦の日
* 雨。涼しい。
親たちの位牌に底紅の木槿を飾り、頂き物の梨と葡萄を供え、冥土の夏はいかが、仲良く過ごされていますかと声をかける。黒いマゴは、自分の定位置かのように位牌の前にとびのり、大ぶりの湯呑みに張ってある清水を、位牌に見守られておいしそうに呑む。どこに水を用意してやっても見向きもせず、水は、この位牌達の前の湯呑みからたっぷり飲むのが、マゴなりの敬意と親愛の表し方であるらしい。父母も叔母も、そんなマゴの、きまって目の前へ寄ってくるサマを、賑やかにさぞ喜んでいることだろう。
2004 8・15 35
* 昭和二十年八月、敗戦の十五日を、秀樹は、京都でなく「丹波」の山の中で迎えた。ポツダム宣言を受諾の、天皇裕仁自らのあの玉音放送も、丹波の「田布施」で聴いた。祖父と母と三人で「隠居」を借りていた長山吉之助家の前庭に、あの日は、淡い記憶だが他にも何用かがたしか有って、人が寄っていた。式台に、ラヂオが持ち出されていた。学校は夏休みだった。
放送は、ほとんど聞き取れなかった。戦争に負けた。戦争は終わった。それだけが分かった。点ほどの終末感覚と、かるい明るい安堵感とが、揺れるように胸のうちで交叉した。興奮はすこしずつ増してゆき、ながい夕焼けの茜いろに染まりながら、ピョンピョンはねて走りまわって、わけの分からない声を秀樹はあげていた。国民学校の四年生だった。田布施へ疎開して来て、半年と経っていなかった。
山の中といえ農村に暮らすかぎりは、いわば暦にこびりついた「農繁期」「農閑期」と、秀樹でさえ何とはなし関わらねば済まなかった。「繁」と「閑」とがどんな按配に交替したかをもう秀樹はしかと覚えないが、二番三番もある稲田の草取りの時期が、夏が、農家にとって大変な忙しさであったことは忘れない。田植と草取とはタイミングを失しては大変なことになり、田布施ほど零細な部落でもいくらか農家同士で手伝いに出た。水田が主で、細い街道と那岐の小川に沿った田はほとんど稲の栽培だった。山坂にも僅かながら地を均して水田が作られていたが、二畝もあれば広いほうで、秀樹の目にもよう作らはるなと感心するほど、猫の額ほどの田畑が、家と家とのそばに耕されていた。野菜の畑作もむろん必要で、有ったは有ったけれど、農業組合を通じて売りに出せるほど作れていたのかどうか。茄子、胡瓜、白菜、きゃべつ、トマト、大豆、小豆、枝豆、隠元豆、ほうれん草など都会育ちの子にもごく普通の野菜ばかりで、西瓜や南瓜の大きなのが生ると部落の中で自慢げに噂がはしるというぐらいで、つまりはたいして畑作物に力が入っていたと思われない。 「丹波」より
* 正しくは、当時(今は大阪府高槻市)京都府南桑田郡樫田村字杉生に、長沢市之助家の「隠居」を借りて、わたしは母と二人の疎開生活だった。あの日の暑さ、明るさ、ラジオの音響、山の色、田の色、静かさ、はしるとんぼ、まざまざと蘇る。
* ときどき自分が書いた「丹波」「もらひ子」「早春」の三部の記録、『客愁』第一部を、ぱらぱらと読み返す。申し訳ないがこれは、読者の何十倍も、わたしのわたし自身のための書き物であった、記憶の失せる前のきわどい時期によく書き残しておいたと思う。読み返して、知る限り、多くは間違えていないと思うしよくまあ覚えていたが、もっと補足したいこともまだ思い出せる。書き置いて誰の何の役に立つものでもなかろうが、ま、これも一種の演戯。
* 帰省先からの帰宅ラッシュに入っていると報道されている。わたしたちにもそういう日々があった。往時は渺茫としてうるんでいる。
2004 8・15 35
* 秦建日子脚本の「ラストプレゼント」は終盤に向かい、天海祐希の死期をはやめてゆく美しさと深い寡黙な演技が見栄えしたが、とてもつらくなってきた。犬づれの男の子と子供が家出したりというのは、ナミのドラマの安易な成り行きで賛成しない。ナミのドラマで妥協してはいけない、あの子はその定位置にいたまま長い歳月を忍従してきた、その辛さを濃縮したまま魅せる方が視聴者は深く胸をつかまれる。ああいうガス抜きのような家出は有効と思わない。ああ軽い伏線だ、家出だとわかって少しシラケかけたが、天海祐希のやつれと気丈と緊迫が、騒ぎ立てずに見栄えしたので救われたと思う。つらくなってきた。あんなむすめに死なれる親たちは、子供は、身の回りの者はみなが堪らない。「死なれる者は堪らない」というわたしの主題を、現在進行形で死ぬ者の上におきかえて、作者が誤魔化しなく渾身の表現を与えうるように、つよく深く事態を把握して欲しい。頑張って欲しい。
2004 8・18 35
* 夕方、建日子が珍しく電車で帰ってきて、三人で夕食。オリンピックハンマー投げや水泳や柔道などを、いっしょに、たっぷり楽しんだ。ハンマーの室伏広治は簡単に一投して予選通過。柔道最終日は女子の塚田真希、男子鈴木桂治がみごとに一本勝ちで揃って金メダルにかがやき、会場に相次いで日の丸を高くあげ国歌をひびかせた。塚田の技あり危機一髪をはね返しての押さえ込み大逆転は、諦めない精神の精悍な勝ちにつながり感動させた。女子は何と五階級で金を獲得し一階級で銀メダル。気魄のある選手はみな勝ち上がり一番高い表彰台で月桂冠を受けた。真摯。生彩。そして歓喜。斯くありたいと思うままを実現した男女選手団に拍手を送る。
いよいよ、フィールド競技へ移行して行く。オリンピックはますます佳境を連ねて行くだろう、無事でありたい。
2004 8・20 35
* 雨中の蘇我倉山田石川麻呂。 国立劇場で「伊賀越道中双六」の通しが上演されると知ったときから、雀は待っておりました。昨日、鴈治郎さん、我當さん、秀太郎さん、山田庄一さんが、揃って、鍵屋ノ辻をお訪ねになりましたのに、雀は佛陀寺へ出かけておりましたの。がっかり。
前回、推古天皇陵や叡福寺など訪ねた折、場所が分からなかった佛陀寺(ぶったいじ)は、住宅地の中ですのね。イメージ崩れちゃうなぁとブツクサいいながら、門をくぐると、駐車場と住宅と改修されたお寺にのしかかられるように、古墳がかつかつ囲われていて、いたましかったですわ。 囀雀
* 大和の当麻寺境内につくられた土俵で小さかった建日子と相撲をとった。それから竹内峠越えに河内まで歩いた。鴬がしきりに啼いた。すぐそこら二上山が見えていた。仏陀寺は椿が咲いて石川麻呂の墓といわれる巌と深い苔の上にめざましく散っていた。あの寺は郵便受けが「秦」サンであった。
建日子は覚えているだろうか、懐かしい父と子との二人旅であった。あの足で京都にとまり滋賀県の五個荘や能登川まで行ったのだ、そして米原からこだまで帰った。わたしの生母の歌碑もあの旅の途中でみた。仏陀寺のことは「蘇我殿幻想」に書いた。
2004 8・23 35
* 秦建日子脚本の「ラストプレゼント」は、今夜の集結部で、一つの展開が約束されたように見える。実現するためにはきつい垣根をみなそれぞれに越えねばならない、それがドラマというものだ。
劇的とは、自分に起きる切羽詰まった問題に身をすてて取り組む状態、どうしようもない自己否定によって向こうへ駆け抜ける意味であるが、このドラマは、そういう意味で正統に「劇的」な試みになろうとしている。それでよく、それはとても厳しく悲しく辛いことである。書き上げてからひとり泣くといい。それまでは作者は堪えねばならない。
2004 8・25 35
* ジャン・クロード・ヴァン・ダムの香港映画はあまりに殺伐としているだけで、投げ出した。
建日子が骨休めに数日どこかしら温泉へ行ってくるので猫を預かれと云ってきた。何度か経験している、戸外へ出せない猫なので気を使うが、特大の図体のわりに鈍色の気の優しい温和しいオスである。うちの漆黒金眸のマゴとは互いに敬してやや離れて互いに意識している、いつも。
2004 8・26 35
* 六時前にまた黒いマゴに、外へ出して頂戴、でないと障子破りますと威され、飛び起きて、玄関から外へ出してやった。そのまま起きてしまうには寝に就いたのが二時半か三時前では、身が持たず、そのまま今度は、午前中をほぼ寝て過ごしたのは不覚。これだけ寝ると却って目がきっぱり覚めないからいけない。
2004 8・27 35
* 晩に、マゴと添い寝してうとうと、気が付くとやがて日付代わりの十一時半、驚いた。驚くことは珍しくない。気持ちのいい驚きは、よく効くビタミンだ。だが不快な驚き、意外な驚き、信じたくない驚きも多い、この頃ではその方がビタミンの驚きより多いから困る。新聞も、テレビも。その他いろいろ。
2004 8・27 35
* すぐ背中で、余念無く黒いマゴが身繕いしている。さっきまで、盛んに「あそぼう」と誘っていた。家の中を走って隠れる。見つけて欲しいのだ、声を掛けながら見つからぬふりして捜してやると、ものの蔭などで「ここにいるよボク」と啼くのである。何度も何度も繰り返す。知らぬ顔をしていると寄ってきて「あそぼうよ」と啼く。今はピエール・バルメインの桜色の毛布の上で安心して熟睡している。
2004 8・28 35
* さ、秋。秋の花は草花だ、桔梗、吾亦紅、菊そして花ではないが、薄、紅葉。
猛烈な颱風が西へ来て北を向くという。保谷は小雨、涼しい。気をつけないと寝冷えするなと思いながらゆっくり朝寝した。
気付くまでもなく夏中手も掛けずに何もかも山積みにしたので、階下の書斎も二階の機械部屋も乱雑そのもの、片づけねばならないが、つまりは不要不急のものを思い切りよく捨てないと、お話しにも何にもならない。一週間、集注して廃棄作業に取り組めば何とかなろうか。何ともなるまいと、はなから諦めてしまう。
* 捨てられるモノは、まだいい。捨てるわけに行かない茶道具や陶磁器、絵画の類。わたしの思いで、置いておいて佳いと思うものばかりを取りわけて置いた。このさき建日子がこれらに好みや眼をもつなど、あまり期待できないし。弱った。親たちの残した衣装類。一気に処分するしかない。
2004 8・30 35
* 広範囲に強い風が吹き強い雨が降っている。みんな、怪我の無いように。建日子らも。朝日子達も。
2004 8・30 35
* 浅間の噴火がなにかの連鎖反応を呼ばないで欲しい。長野の方へ休暇の旅をしている息子もいる、なにもかも安全でありますよう。今朝感じた地震もこの余波であったらしい。
* 秦建日子脚本の「ラストプレゼント」緊迫し切迫してきて、つらいほど。こらえて泣かされる。天海祐希の、美しさ以上に表情の深さに惹かれる。いいもので魅せて呉れる。リアリズムだとは思わないし、それでいいのである。リアリズムだけが表現ではない。
2004 9・1 36
* この三、四日、建日子が預けていった(本人は休暇中)愛猫のグーが、わたしのすぐそばにいて、今もキーにむかっているわたしの膝に前脚をかけ、しきりに膝に乗りたがる。腿に頭をすりつける。そしてごく小声で刻むように細く啼く。いまなど、手を伸ばしてわたしの頬に触れたがる。膝に乗りたいらしいが、このグーくんは我が愛猫マゴの約二倍の体形、重さも二倍ある。膝にのせると大きくはみ出てしまう。しかも、極めて、と強調していいじつに気だて柔和で、噛みつきも爪をたてることもない。とうとう今はすり寄ってきてわたしの上腕に顔をすりつけ、ミ、ミと啼きながら、膝に抱き上げてやると顔に顔を擦りつけてきて、グーグー喉をならして大満足、口にチッと赤い舌をみせている。こんなにわたしになついている。妻にもなついている。
もうひとり、お互いに懐き合いたくてそこまで行きかねているのが、マゴとグーとで。鼻先のすりあうほどに対峙して、寝転んだり坐ったり、階段の一段上と下とで凝然とし合っているのだが、思い出したように、マゴが追いグーはものかげに隠れる。グーは隠れる名人なのである。
建日子はマンションの高いところにいて、一歩半歩もグーを外へ出さない。我が家の黒いマゴはその点そんな「ギャクタイ」は受けていない。出たいときに出て、帰ってくる。グーはそれが羨ましくてかなわない。テラスに出して妻が見守っていると、書庫のエプロンから書庫上の庭へ昇ってみたい。戸外への憧れを露骨にみせる。カワイソーになあ。
2004 9・2 36
* 建日子等が長野のやすみから帰って来て、いま、グーを連れて中目黒へ帰っていった。マゴは、来客に気遣いしていたが、また元の生活に戻れる。妻もわたしも。
2004 9・2 36
* 「今回の(ロシアでの)学校立てこもり(虐殺)の結末、どう考えますか?」 これは、わたしからすれば孫のように若い少女の詰問であり、以下は少女の意見である。この意見の前では、わたしのブツクサの愚痴は何の意味もなさなかっただろう。
* 人間は弱い生き物です。あらゆる神の存在は、私たち人間に安らぎを与え、支えとなったことも確かなのです。その神々ですら争いの原因としてしまう私たちの愚かさといったら…。
戦争を考えるとき、互いの国の宗教、歴史を知ることは大切なことです。しかしそれ以前に、人間として、人の死を悲しむことをやめてしまってはなんの意味もありません。いくら事件背景を知ったところで人の死になんの感情もいだけなければ、その人が平和を目指して動くことはないのです。
ことの悲惨さを犠牲者の数でしかはかることのできない今の社会では、悲しみはいつのまにか怒りとすりかわり、その怒りもまた他の利益を手に入れたいがための戦争の理由と化しているのです。事件の被害者はもちろん、テロリストたちでさえ犠牲者なのです。彼らが亡くなったあと彼らの死は報復の理由として利用されるのです。ブッシュをはじめとする報復だなんだと言っては戦争を正当化するいわゆる国のトップが、一番人の死を実感できていないのです。それを国民に正義だなどとと言いまわり、彼らの悲しみまでもを利用している。報復による被害者は民間人や兵士です。報復をうけた国のトップは再び彼らの死を理由に戦争をおこす。常に私たちは利用されているのです。
こんな悲しいことありますか?
* こういう感想を伸び盛りの人に持たせてしまう人間社会、国際社会は、しかし既に制御のきかないグローバルな悪意凶暴の猛獣になっている。教団・教派も哲学も役に立たなくなった。もともと人の幸せの役に立つよりも、不幸せに目ふさぎする方が、信仰を売る聖職者多くの、たぶん哲学者も結果として同じ、役割だった。少女が嘆くような状況を改めうる力は、ほんとうは、民衆・大衆の、叡智とは言うまい、不満や恐怖から立ち上がる圧倒大多数の力でしかない。しかし民衆はあまりに十二分に政治的エネルギーも牙も爪も抜き取られてしまっている。
たとえば「学生」の蹶起しない国で、国々で、国民的な、民族的な、国際的な、世直しへ動けた例はない。
日本でもかつては学生が蹶起した。しかし一度立ったことのある学生も、保守社会に吸収されると、くるりと後ろ向きに、すぐ、民衆の衆愚化や無力化をはかる政権の走狗となり、テレビの前面へ出て例えば「コメンテーター」になる。政府へいつも顔を向けながら、こころばかりの批判意見をお愛想のように本音に混ぜておく。
戦前から敗戦後へかけて、「転向」ということが盛んに論じられた。鶴見俊輔のした仕事の大きい一つはその研究だった。だが同質同様の「転向」は、その後もインテリのなかでぞくぞくと跡を絶たず、政権は安心してそういう転向者たちを、マスコミ世間の前線に放任して代弁させている。かつては「団結」という言葉を働く人や若者や学生が叫んだが、今では民衆への支配層が大まじめに口にしている、そんな時代だ。そこから、「ブッシュをはじめとする報復だなんだと言っては戦争を正当化するいわゆる国のトップが、一番人の死を実感できていないのです。それを国民に正義だなどとと言いまわり、彼らの悲しみまでもを利用している。報復による被害者は民間人や兵士です。報復をうけた国のトップは再び彼らの死を理由に戦争をおこす。常に私たちは利用されているのです。こんな悲しいことありますか?」という少女のもっとも過ぎる悲鳴が起きる。ブッシュを助けているのは、じつは今では誰もかもなのである。
* 言葉を用いれば、だいたい少女のこういう言葉は出て来る、いくらでも、あちこちから、誰の口からでも出て来る。しかし言葉ほど今日欺瞞的なものはない。いい良さそうな言葉を口にすれば、ではどうなるか。伝染力や説得力があるか。聖職者が話しても哲学者が話しても教育者が話しても思想家が話しても、ただ言葉の死骸が山と積まれて終わりだ。言葉では、だめだと皆が内心思っているが、言葉だけをせいぜい許されていて、手足にはとうに縄や錠がかけられつつある。美しい名前のじつは苛酷に人の手をうしろでに縛り足には枷をはめる法律が、もうどんなに多く出来ていて、われわれはそれを見過ごしに甘んじてきたか。
言葉はもう役に立つにはあまりに弱くされている。むしろあのブッシュ批判の映画のように映像のほうがまだしもものを言う。
わたしは少女の深い思いが、ただ言葉により希釈され拡散されてしまうことを恐れる。怒りを胸に深く蓄えよと、おそろしい示唆をしたくなる。ものごとをあまりに一般化してしまわないようにとも言いたい。
* 「人間として、人の死を悲しむことをやめてしまってはなんの意味もありません。いくら事件背景を知ったところで人の死になんの感情もいだけなければ、その人が平和を目指して動くことはないのです」とは、たぶん、これ以上もなく正しい言葉だろう。
しかし、人間の「死」は、難しい。日々に無数の死があり、死としては同じ帰結だが、それへ至る道筋も死に様もあまりにちがう。それをひとからげに「死」「死者」と読んで間違いではないが、少しも正しくもないのである。ほんとうに「死なれた」者、「死なせた」者には、死とは特定されたもので、一般の死にも特定の死にも同じように悲しみを注げるようには人間は創られていない。もし死は総て同じと言うなら、人は悲しみの重さに即死してしまうか、それとも、悲しみを知らなくなるかのいずれかだろう。夫や妻や我が子や親きょうだいや恋人の死と、新聞紙上の報道死とが同じに人を襲うかどうかは、よぎなくも体験や経験や実感が教えている。のこすは、死を通しての深い実感がより広く深く遠くへ及ぶことの可能なように、真実に生きる、生きて死の重みを覚えることが大事なのだ。それが先だ。それは言葉では覚えられない。『死なれて・死なせて』という本を書き、自分の文学の一つの大事な主題に「死」を置いてきた、それがわたしの動機である。
言葉でものを書きながら、わたしは言葉を過信しない。それよりも悲しみなら悲しみの体験から得る真実の実感を大事に思う。ひとは「死なれ。死なせ」て初めて生きることを心身に刻みつける。
この少女には、身近な一つ一つの体験から、言葉を越えたものを具体的に掴んで欲しいと思うし、怒りは深く蓄えて、言葉に載せて蒸散させぬようにと助言したい。
* 書いている途中に少し長い地震が来ていた。
2004 9・5 36
* 秦建日子作のドラマ「ラストプレゼント」、五分前まで昏睡していた。
ああいうドラマだもの、済んでからも暫く水をかぶったようになっている。書きようによれば、にっちもさっちも行かない悲惨のかぎりであり得る状況を、ああいう具合に持っていく、あれが建日子のもちまえなんで、どうしても彼のドラマは、本領としてああなって行くことが多い。甘くて優しい。優しすぎるのかも知れないがピュアであり、意地悪くない。ひがんでいない。あれでいろんなことを配慮しながら我々の家族へもメッセージを送っているのだろう。
これまでに、もう結構多作してきた建日子の仕事の中で、この「ラストプレゼント」と天海祐希の家族達とを、わたしは大切に記憶し続けるだろう。感謝している。
2004 9・8 36
* 天海祐希のような娘を喪うなんて、親は、子は、たまらない。ただの一視聴者なって自分をひとり励ましている。
2004 9・8 36
* 今日は上の孫娘やす香が十八の誕生日。例年のように妻と赤飯で祝った。
* お誕生日おめでとう、やす香。
指折り数えないと幾つになったか分からないぐらいですが、むかしむかしの喜びが蘇ります。これからさきの新たな喜びをも、また、見つめたいもの。元気で初心を大きく生かしてください。 じいやん
* 何はともあれ散髪した。スッキリした。理髪店は夫婦と息子とでやっていて、息子は読書が好きという触れ込みだったので、見繕っては読みやすそうな本をあげている。奥さんは建日子脚本の「ラストプレゼント」の熱愛者で、ご亭主は本気でサインが欲しいと言う。有り難くも奇妙な理髪店。だが奥さんの言う、「あんな風に本当に人を感動させるお仕事というのは、すてき」とは言い得ている。つまり不真面目な、おもしろづくの出鱈目ドラマは本音ではいやがられているのであり、中身がどうあれ、せめてまじめに創れよと言ってきたのと軌は一にしている。
2004 9・12 36
* 田中美知太郎先生のエッセイを読んでいる内、寝た方がイイと思った。昼過ぎて二時ごろだったか。
そのまま朝青龍と黒海の結びの仕切がもう時間という時まで寝ていた。相撲はやはり横綱が勝った。
夢をいろいろ見ていた中で、しつこく「あらゆる水音の音符表現とその理論」という課題を背負っていた。
またどこか部屋の中で立ったまま、娘の朝日子に、「後藤得三の孫」のことを知らないかと尋ねられ返辞できなかった。後藤さんは宗家喜多実の兄であった能の名手で、同じ下保谷に住まわれていた。とうに亡くなられている。気散じな聡明な奥さんがとてもよくお世話されていたが、たしかその元気な奥さんが先に逝ってしまわれたのではなかったか。得三には子がなかったのだから、孫もいないはず。あるとすれば、一時期藝養子のように後藤の人になっていた観世栄夫さんの子がそうとも謂えるが、栄夫さんには谷崎松子夫人の娘恵美子さんとのなかに二人か三人の子がある。そこまで繋ぐと、かろうじて夢で朝日子がそんなことを謂う筋がついてくる。朝日子は松子夫人に可愛がられ、結婚式には主賓としてお招きした。亡くなったときはわたしといっしょに馳せ付け最期のお別れをした。
喜多実も亡く、その次男でわたしも親しくさせて貰った喜多節世も亡く、現家元、節世兄の六平太は、一門とのイザコザで長く、あまりに長く、逼塞している。あんな状態がいいとは思われないのだが。
2004 9・13 36
* 母のちがう妹が二人川崎にいる。それぞれに姪や甥が何人かいる、正確には覚えられない。上の妹の長女からメールが来た。母親が例年のように親戚のある鳥取から二十世紀を送ってくれた礼を、娘のメールへ送っておいたのである。実父の生前に一度尋ねていったときに、まだまだ小さかった女の子に会ったと思う。メールはときどき思い出したように。
* こんにちは。お久しぶりです。メールありがとうございました。風の便りでもあったのでしょうか・・・
私はこの6月で会社を辞めました。今は、家にいて妹の子が生まれてくるのを心待ちにしています。(予定日は10/10です。)
ただ、この家にいるのも後少しのことです。幸せなご報告とかだったらより良いのですが、今度一人暮らしをはじめる事にしました。といっても、自宅から自転車で5分ほどの距離にある京急八丁畷駅徒歩3分のマンションです。
妹も川崎のマンションに引っ越してきますし、(来年2月頃です)叔母さんの家の従兄弟達もみんな近くにいるので心強いです。
やっぱり、姪っ子やらはかわいくて、その成長も一緒に見守っていきたいという気持ちもあって、また、今回希望の物件が見つかりましたので、川崎を選びました。やっと私も自分の生活を考えられるようになりました。
会社に入ったことも、病気になったことも、辞めたことも、本当に良い経験となりました。今は、初めてボランティアに参加してみたり、ミュージカルや、映画や、色々それなりに充実した良い休暇を楽しんでいます。徐々に職探しを始めたところです。
建日子さんのドラマ、とっても”はまって”見ています!久しぶりに良いドラマに出会えたと思っています。最近はドラマもマンネリのものが多く、なかなか昔ほど見ていなかったのですが、とっても良いですね。キャストも良いし、音楽も良いし、もちろん脚本も!彼の本は、ユーモアがあって好きです。前にも、たまたま見ていて、良いなーと思うものがいくつかありました。
また、今回の子供役が「歩」って言うんですよね。なんだか、名前を呼ばれているようで気恥ずかしくなったりしています。
今は、一緒に住まわれているのですか? もう、お幾つになられているのでしょうか? 従兄妹なのですが、2・3度しか会ったことがないので・・・
お食事、今はちょうど休暇中なので私はいつでもOKです。機会があったら、ぜひ。。。では、また。
* 実父が亡くなっておそろしいほど年数が過ぎたことに驚く。もう一人の姪にはもう子供が生まれるというのだ。この姪に、会ってみようと思う。
2004 9・14 36
* 「お洒落」観が来ている。
* お洒落 「外」のお洒落、に限って書いてみる。 兵庫県
「外」のお洒落に、どれほど女たちが捉われて成長してきたか、生きてきたか・・。
女ですもの、ブスと言われるより美しくありたいわ、綺麗な服を着たいわ、お洒落は女の嗜みよ、化粧しないなんて女じゃないわ(若い頃実際に言われたことがある)女なんだから 女に生まれた以上・・ああ、いくつでも並べ立てられるわ、だって言われ続けて女はそういうもんだと刷り込まれてきたでしょう?
東京の方が言いたいことはとてもよく分かるの。たとい同じスタンスをとっていなくても わたしたちは「刷り込み」の幻に膨れ上がった不平だらけの結果物みたい、女はこうでなければ、女だからこうでしょ・・って。
毛染めのコマーシャルだったかしら、「お母さん、女をサボっていませんか?」
女をサボること?そうなんだね、女でいることは大変よね。
わたしにとってお洒落は「あるべき」の義務である以前に、「ありたい」願望で、また自分の気構え、心構え、気概、姿勢かなあ。白い髪の自然のままだとわたし気持ちが落ち込むと思う。気に入らない服を着ていたら気分が悪くなる、消え入りたくなる、落ち着かない。チャンと手入れしていない服を着たら・・恥ずかしい。好きな人に会いに出かけ
るときはやっぱりイイ女でありたい・・(余分な説明、相手が男でも女でも、そしてTPOもわきまえて、ね。)・・なかなかキメラレナイのが悲しい現実。
デパートの婦人服と紳士服、その売り場面積を考えただけで、どれほど女たちが「おしゃれ」に金銭もエネルギーも消費しているか、歴然歴然。世の中の消費生活・・経済生活の多くを女が支えている?
洋服屋の店員は「ええ、これは出会いですから。なんといっても出会いですよ。とてもお似合いですよ。」
ああ出会いのなんて多いこと 女はこの服とは出会いだわと思い込んで服を買わされる。男と出会う機会なんて人生に何度もあることじゃなし、あってもそれは危険、ご用心。服との出会いならいいじゃない、わたしがキレイになるんですもの そう言って女は性懲りなく服を買い込む。「もう少し他のことにお金を使いなさい!」って思うけれど、友達にだって恐くて口には出せない。勿論、自戒も含まれていますが。
東京の方に、少しの反論も。
指揮者のおじさまは、そういう格好しか自信がない、ただ決まりきったタイプの服の中に自分を閉じ込めているだけかもしれない。
モレシャンさんの行動はどうだろうか。そりゃ、綺麗な女は目の保養に違いないだろうから、ありがたいと喜んでくれた男たちもいただろう。喜んだ男たちばかりだろうか? モレシャンさんは一行の中で別格の取り扱いだったかもしれない・・。いっそ、「皆さん、十五分打ち合わせをストップして、休憩して、シャワー浴びてスッキリして、元気になって話しません?」と提案したらもっと良かったかもしれない、それだって心遣いかもしれない、誰だって疲れて汗ばんだ体をなんとかしたかったろう。
ピー子はテレビでいつも言う、「お洒落は我慢なんですーっ!」 これを刷り込まれた十代前半の、ミルク・ティーンの女の子さえ、「お洒落は我慢ですもん!」と言う。
お洒落は我慢か? 全否定はしない、けれどそれを生き甲斐にしたいだろうか?・・わたしは嫌だなあ。我慢も無理もいっときならいいわ、でもあまりに季節に先駆けたら・・貧血で倒れるし、風邪ひきかねないし、締め付けたら内臓にも良くないのよ、外反母趾の足に細い形よい靴は苦しみ、拷問以外のなにものでもないの。
ピー子さん、あなたの意見の多くに、わたしは、そうだなあと頷いているんですよ、でも「お洒落は我慢」に歪められたら・・女はつらいね。
それに「外_」のお洒落にはお金もエネルギーもかかるもの、それも大いなる事実で・・。
ずっと以前雑誌で読んだかしら、女性に求めるものは何ですかと聞かれて、裏千家家元夫人の千登三子さんは、「挨拶の出来る人」「身づくろいできる人」の二つを揚げてらした。半ば納得、半ば納得できない・・・。男性はそのように求められないだろう、少なくとも「身づくろいできる人」とは・・もっとも昨今いくらか変わってきてますね。わたしってホントにあまのじゃく! 駄目おんなだわ。
PS、冷めた目で眺めながら でもわたしも女かなあ、今年の誕生日には自分にご褒美、プレゼントなんて正当化して服を買いました!
* これはもう、女としての女気分・女必要の「お洒落」を語っているようであり、とくに具体的な「相手」「男相手」が「意識」されているようではない。男の側からは、「ああ、そうなんですか」というぐらいのもの、同情も批判もしにくい。
昨日・一昨日の東京都内の人の考えは、その意味では、かなりこれとは異なるサイトでの考えである、つまり対人関係における、男女の間柄に於ける「服装」の仕方という「文化」に関わっている。服装がお互いの敬意や愛の表現になるので、たとえばデートの時には相手に敬意と愛とがあればなおさらきちんとした恰好をします、そうすべきです、というものだった。
こう翻訳すると、或る面で甚だももっともな良識または配慮といえる。我が家でも、今日会うのはこういう人だから、こういう服装にした方がいいとか無難であるとか夫婦で意見交換して決めていないでもない。ただし、プライベートな間柄ないし場面に臨んでは、わたしはせいぜいラクにさせて貰うことにしているし、それで相手への敬意が薄いとも情が足りないとは考えない。しかし「考える人もいます」という意見であった。それはそれでいい、ただそれが内なる真情と乖離した、只の習慣性儀礼であっては堪らないなと思うし、少なくもわたしは親しい相手にはらくにして欲しいとねがう方である。とにかく固定観念や無反省な習慣で服装することはしない。
むしろ仮にデートするとして、相手をいたく信愛していればいるほどわたしはラクな恰好にさせて貰いたいし、そうしてきただろう。気の張る人、他人行儀の必要な人には、ま、ネクタイもしめるかもしれない。他人行儀が必要なような面会・面談は、ま、よほど必要なのはしようがないが、まず、勘弁して貰う。
ただこういうことは、有る。妻以外の人にすることは決してないが、こんなのを着て欲しいと思い、わたしが妻の晴れ着や少し気の張った普段着を頼まれて選んだり、勝手に買って帰ったりすることは、我が家では数十年来普通のことで、けっして亭主の好きな赤烏帽子を強いているわけでなく、妻自身がそれをたいていとても気に入って着てくれている。そんなこととは知らないよその人が、たいてい心からそれを、いいとか、よく似合うとか妻に向かい褒めてくれている。それぎりのセンスはわたしに有り、しかし、それ限りであって、例えば自分自身の恰好ときたら、ま、むちゃくちゃである。仕方がない。それでも自分のモノも自分でたいてい選んで買っている。妻はそれが無難だと思っているようだ。そして妻がしゃんとした身なりで出るときでも、わたしは、ま、二階級か三階級ぐらいはラクな恰好をさせてもらう。背広にネクタイなんて「変な恰好」はなるべくしたくないからである。
2004 9・15 36
* 今日は誕生日だった。秦建日子脚本「ラストプレゼント」の最高のヒロイン「明日香」の。ドラマは美しく終えた。ま、よく考えた無難で、感動も静かに盛り上がる佳い終焉であった。よくやった。ありがとう。よくやった。初めて心からの称讃を息子の創作に送れて、嬉しい。
もっと、という物言いは自分には避けているけれど、若い建日子には、ちいさく自足しないでもっと大きな感動作をまた見せてもらいたい。満足してしまってはいけない。健康で。怪我無く。どんな素材であれ題材であれ、仕事にはまじめに取り組んでください。それが佳い視聴者からのたぶん大きな期待だろうと想う。すてきな誕生日でした、あけぼのの明日香よ。
* ラストプレゼント、淡々と切なかった。 鳶
* ラスト プレゼント 何度か切れ切れにしか見ることができなかったのですけれど、最終回 拝見しました。最後のろうそくに火の灯らない海辺のバースデイケーキのシーン、心に残りました。断片的にしか述べることができませんので感想は控えておきますが、ぼろぼろ涙を流しながら見ました。ちなみにわたしの携帯電話の着信音はこのドラマのテーマソングです。さらなる建日子さんのご活躍を楽しみにしています。 川崎市
* ラストプレゼント 悲しくて、哀しくて、愛(かな)しい、娘から母へのラストプレゼントは、「限りある命を生き抜くことができる力」でしたのね。
昇りくる太陽に希望の光を残してのラストシーンには、もしかして奇跡が起こるかもしれないという思いさえ抱かせられて…。
浄化される心地で、今夜も、涙をぼろぼろ流しながら観ておりました。
建日子さん、本当に素敵なドラマを有難うございました。 花籠
2004 9・15 36
* 終日熱い機械部屋にいて、いろいろと。
妻は聖路加の診察を受けてから、建日子の家を初めて見に行った。わたしもどこかへ出かけようかと思ったけれど、家にいるのが気楽と踏んだ。
妻は八時半ごろ建日子の車で送られて帰ってきた。建日子は前夜例のドラマの打ち上げパーティを明け方まで箱根でしてきたという。
* で、妻と建日子とから出て来た話題が、わたしたち夫婦が「建日子の扶養家族」になってはどうか、健康保険も建日子の方へ入ってはどうか、と。
いささか唖然とし、わらってしまった。
引退のすすめか。とうから隠居同然と見ていたわけか。
やれやれ。寂しくてもこれはわたしの自業自得、いやいや心強いと喜べばいいわけだ、「お父さん、小説を書いて下さい」と言われないだけでも。
* 明日は聖路加。今回はどうも夏場の不摂生がたたって、諸値、よろしからぬ気がする。ま、十一月診察までには改善したい。動ける季節だし。それにしても、今日も暑かった。明日も暑いらしいが、診察のあとは少し羽をのばして来たいもの。朝が早いのでもう寝る。
2004 9・16 36
* 高校生の新しい友達が出来ていて、ときどきメールをくれる。どこかへ遊びに行こうかと話し合っている。
* 今日は(志望校へ)自己推薦の出願にむけて志願理由書を書きはじめました。かなり多めな字数指定なのですが、いろんなコトを書きすぎないように、でもしっかりアピールでるきようにといろいろ内容を考えました。
浅草いいですね。中学のとき遠足で行った以来行ってないです。
最近涼しくなりました。季節のかわりめは風邪をひきやすいので体には気をつけて下さいね! こころ
2004 9・17 36
* 午すぎ、「仕事が終わった。これから室生の観光課で地図を貰って、西谷の万行寺へ行く」と、主人が帰ってきましたの。前回雷雨に阻まれた細く勾配のきつい道を上ると、あいにくお留守。ですが、あいかわらずいい風が通ります。
龍穴を通り、長楽寺へ参りましたら、風が通り抜ける本堂の山側の縁側に、椅子が一脚置かれ、お厨子が開けてありました。ご本尊は地蔵菩薩でしたわ。
彼岸花に彩られた佛隆寺へ寄り、大野の磨崖仏の見える食堂でごはんを食べ、帰ってまきました。
いつまでも暑いこと。どうかお元気で。 雀
2004 9・17 36
* 気分にはずみをつけるのに、新しいおもちゃがわりに何かツールを買ってみたいなあと思うことがある。大学へ入って間なしに、河原町さくらやのショウケースに見つけたライカマウントのニッカの一眼レフが格好よくて欲しくて欲しくて堪らず、日参するように覗きに行った。昭和二十八、九年で五万円余りした。わたしの就職した初任給が一万二千円であった。叔母を手伝って茶の湯の「代稽古」などを引き受けることで叔母が出してくれた。その機械は今も持っている。
そしてこの頃キャノンがデジタル一眼レフの新機を大きく広告していて、いたく気を惹かれている。しかし考えてみると、いまどきわたしがポカポカ写真を撮り歩いてどうなることか。むしろテレビとDVD再生機のようなのを断然新装した方が気が弾むかも知れない、しかし、ますます運動不足を来して、家に居続けるだろう。
建日子は携帯電話カメラのようなものを便利がり、来るたびに新しく買い換えているみたいだが、わたしは携帯電話に縛られるのは御免蒙りたい。だけど写真機能付きで「軽い」「小さい」というのは魅力を覚える。欲しいと思うキャノンのデジタルカメラは何といつても重いだろう。重いのは苦手なのだ、よれよれの穢い革鞄を持ち歩いてテンとして恥じないのもベラボーに軽いのに心底惹かれるのである。重いのはよくないという価値観である。わが体重は明らかに悪しき重さではあるが。
国立近代美術館の工芸館で新しい展覧会が今日から始まるが、ふれこみは、「軽い」工芸品の開発であると。
ずいぶん以前の「工藝」巻頭言に、今の工藝の欠点は何より重量が重く、加えて印象までが陰気に重いこと、それが作家個人の孤立した藝術意欲に寄りすぎているためで、工藝の魅力は「たくみ=手組み」つまり人手の合わせ技にあったはずと嘆いたことがある。少なくも今回、工藝作品を「軽く」という意向から展覧会に選り抜きの十数人が作品を並べているというのだ、見に行きたい。
2004 9・18 36
* また歯が浮くように、へんに頬のへんまで痛んできた。今日は昼前に珍しい来客がある。
* 来客を歓迎し、夕方まで歓談。妻も一緒に見送って池袋西武の「たん熊北店」で夕食し、別れた。今日の蒸し暑さにもほとほと参る。なんだか、顎の当たりが削げたような按排。早くやすもうと思う。
2004 9・20 36
* むかし、一度姫路でわざわざ下車して姫路城を見ようとしたが、生憎と大修理中で美しい姿が見られなかった。その後も姫路へ一度下車したけれどその脚で丹波篠山へ行ってお城は見ていない。これはわたしの聞き違いかもうろ覚えかも知れないのだが、戦前に京都府視学を努めたという父方祖父はまた一時期姫路市助役を務めていたともいう。この人の足跡は北九州にもあるという。それはそれとしても、姫路城の麗姿をいちどまぢかに見たいという夢がわたしにある。姫路市には、わたしのための骨壺を美しく焼いて贈ってくれている陶藝家もいる。いまは疎遠になっているが、ひところ二三度顔も見たし、姫路から篠山の窯場へくるまで案内してくれたのも、それだけでなく室津までも案内してくれた(ような気がする)。どうも小説に書いてしまうと、現実とごちゃごちゃになる。
2004 9・25 36
* 食べに立ち寄りたい店は幾つもあった。けれど今日は肴が欲しくて「福助」まで足を延ばし、お好みの握りに酒を三合。呑んで食べながら、鶴見さんとの対談、下村・西山先生との鼎談を通読。板サンの苗字が、八倉巻。おまけに「そいつ」を巻いてと頼んで、板サン工夫の巻物を喰った。八種類をミックスした丁寧な不思議の味わい、けっこうであった。超満腹して、店を出たときとてもこのままクラブへは行かぬ方がイイと要心。西銀座ビルの中を通り抜けながら、おやっと目にとまった服を妻に買って帰った。ピタリ。
2004 9・28 36
* 「心 わが愛」のキイワードは「身内」だった。身内とは。
バグワンは、ヘッドトリップとハートトリップということをよく言う。ヘッドトリップとは分別心、それでは人間関係のなかで信じたり疑ったりを反復し思議しているに過ぎない。まだ他人の間だ。だがハートトリップなら身内に近いといえる。
疑いは半欠け、信用も半欠け、それは同じことの表裏にすぎないとバグワンは言う。
幼な子は父親の手にすがり
彼の行くところならどこにでもついて行く
信ずるのでもなく、疑うでもなく――
これは「父よ」とただよんでみるだけで済む「子」の全的な信頼・帰依を示唆している。信じたり疑ったりの繰り返し、それを ヘッドトリップという。父と子との譬え、それをハートトリップという。恋は所詮ヘッドトリップ、身内は全的なハートトリップだろうと思う。「恋は罪悪です。しかし神聖にいたる道だ」と心の先生は私に向かって繰り返し言う。神聖とは「身内」の意味でもありうる。先生もKも、恋の心で心騒いで静を得られなかった。彼らは「身内」になりきれなかった。ヘッドトリップの人であった漱石は。それに自身も気付いていたから、則天去私を願った。願ったと言うことはそれに達したという証拠にはならない。先生も漱石も気の毒な人であった。むかしむかし、中学前に、息子の建日子は心をわたしに読んで聞かされて、「なんて可哀想な…K」と泣き出した。わたしは今は、やはり「先生」の淋しさを気の毒に感じる。
2004 10・4 37
* 祇園新橋に「かき春」という店がある。むかしは四條京阪のえきにまぢかい疏水のうえに船の屋形で牡蠣料理の「かき春」は浮かんでいた。いつかこの店に入りたいと子供の頃から前を通るたび奥ゆかしい気がしていた。風情のとても佳い店だった。
大人になり月給などもらうようになって、休暇で帰ったある季節、両親と叔母と、こっちは夫婦とちいさかった朝日子と、つごう六人で「かき春」をわたしが奢った懐かしい思い出がある。父や母や叔母の嬉しそうな顔の佳い写真がのこっている。父はネクタイしてチョッキなど着て、桂文枝にそっくりだ。父はたしかに少し粋ふうの遊び人の風情を若い頃はみせていた。文枝の落語をはじめて聴いたとき、たまらなく父に似ているので、咄のうまさよりもそのことでわたしはオロオロしたのを忘れない。その文枝を、今は名張市の囀雀さんが盛んにオッカケている。たぶんわたしの書いた何かでそんなことも雀さんは知ったらしいのである。
牡蠣はうまい。好きだ。が、鰻とおなじで、ことに生の牡蠣は食べる寸前にすこし緊張する。ぷりぷり煮えていても少し緊張する。あまりにエロチックな食べ物のように想えて緊張するらしい。
2004 10・9 37
* ペンクラブ事務局から、必要がありましてと、わたしの東工大教授退官の年月日を尋ねてきた。オッと、つまる。すぐは答えられないほどもう遠いことだ。本などで調べて、一九九六年三月三十一日付けで、当時六十歳定年という東工大の規定により退官した。前年末の十二月に満六十歳になっていた。想えばその十年前に「湖の本」を創刊していた。あの年、息子建日子が早稲田の法学部に入学し、わたしもあの春から二年間早稲田の文芸科に頼まれ「小説」創作のゼミを受け持ったのだった。
「湖の本」は今年で十八年・八十巻刊行を経過して、明後日には通算八十一巻めが出来てくる。また発送だ。そして息子はやがてまた脚本を引き受けた連続テレビドラマをオンエアするだろう、初春にはまた「作・演出」の舞台も用意しているという。年々歳々人はやはり同じ所にいないようである。
2004 10・13 37
* ゆっくりと気が沈んでいる。たった七日の一週間が、三日熱くて四日冷え込んだり、その逆だったり、茶碗の中に冷や飯と熱つ飯とがまじってよそわれたような、揺すられ揺すられ落ち着かない気分になっている。
あさって朝に新しい本が出来てきて、午后は理事会。夜には実は三つもの会合や催しの予定がひしめくが、三つともサボッて、一人でどこかで息を入れ、翌日からの肉体労働に備えようかなと。「山名」画伯の新作を飾っている割烹の店がある。それもいいし、クラブでもいい。
幸い本を送り出す用意は調っている。勢い、数日は荒い波にわが筏は波間を乱高下して流されることになる、今、マリリン・モンローとロバート・ミッチャムの「帰らざる河」で、そんな筏の闘いを、ぽつりぽつり一服の代わりにDVDで観ている。発送はたぶん十九日中には済むだろう、済ませたい。二十日はユックリ鴈治郎と我當の芝居を、妻と楽しみたい。妻の夏バテがまだ少し尾をひいているのを、うまく切り上げたいところ。二十二日の晩もいっしょにピアノリサイタルに招かれている。
その辺まで来れば、もういろんなアキラメがついてしまい、落ち着いているだろう。月末に、京都で美学藝術学の学会と親睦会とがあり、来ないかと誘いがあるが気乗りしていない。
2004 10・13 37
* こんにちは! こちらはスカッとした秋晴れが続いています。金木犀の香りと共にそちらへ送ってあげたい。
先日「びわこホール」へ初めてのオペラ鑑賞に行ってきました。大ホールはオペラ専用に造られていて全国のオペラファンに人気があるそうです。
バーデン市立劇場によるモーツアルトの「コシ・ファン・トゥッテ」
舞台の両袖に電光掲示板の大きな文字で日本語訳が出ます。すっきりと綺麗な舞台装置、一流の歌い手でしたが、オペラファンにはなれそうもありません。
新しいご本出るのですね。は行に名前入ってますか、楽しみに待っています。
話が飛びますが、多分覚えていらっしゃらないでしょうね。
叔母さんたちがそちら(東京)へ行かれる前頃、京都ロイヤルホテルの地下の中華料理店で、ばったりお会いしています。伯父さんと奥様がご一緒でした。こちらは娘達が短大生の頃で、主人と四人でした。碌にご挨拶も出来ず失礼しましたが、後でお名刺でも頂いたらよかったと悔やみました。
パソコンのお陰でこうしてお付き合いが出来て、感謝です。又お目にかかれる機会がありましたら・・・
奥様の夏バテも早く回復なさいますよう。それでは、又・・・ 従妹
* 名古屋界隈も関西も晴れている、と聞いている。こちら、やや回復しても陰かつ冷の気配で。
ホテルでの奇遇は覚えている。あのとき何用で父とわざわざあそこにいたのかも覚えている。老人達の東京移転も余儀ないかという事情の中で、新門前に準同居(母屋と隠居と)していた父達と叔母との間がやたら険悪になっていた。しかし三人とも引き取らざるを得ない、分け隔てはしたくない私たちが、父の真意を聴きつつ説得もしたくて、あんな場所ヘ誘い出して食事していたのだった。かなり事態は難儀であったために、船岡の従妹から立ち寄ってきて挨拶があったものの、久闊を叙する余裕もなかった。
父も母も叔母も、結局上京し、両親は垣根一重の西棟に住み、叔母は我が家の二階(六畳)に我々と同居した。二階建て隣の一棟に三人で入って欲しかったけれど、両方がガンと拒みあい、我々にはいかんとも仕方がなかった。
2004 10・14 37
* 図書館でつい時を過ごし日食に間に合いませんでした。
さて、「年寄ると、耳に蝉飼い、目には蚊を飼う」。
聞いてはおりましたが、最近、なるほどと思うようになりましたの。ただし雀の耳は蝉でなく、遠く滝波の音がしますが。
今月は年金がなし敬老日 (斎賀 勇)
これも、主人が年金を貰うようになって分かりました。近くの郵便局で「年金相談日」と大きく貼り出しているのにも。この17日が「孫の日」という理由は、たぶん、お盆以来の年金日、孫になにか買ってやれる、一緒にデパートにでも行こうかという日ですのね。 囀雀
* 幸い、子供達にお金を遺してやらねばならない心配が、ほぼ失せている。息子など、わたしをまで扶養家族にし節税したいと、半ば本気で画策しているようだ、けっこうな話だ、長続きしてくれるように。
で、わたしはあまりお金を遺さねばという心配はしていない。妻と一緒に一泊の旅すらろくに出来ないし、いくら美食しても胃袋が縮んでいて、たかが知れたモノ。衣服や持物で贅沢したいとはテンデ思わないタチだし、本も、処分したい一方、それでも増える。能や演劇も幸いほどよく招いて貰えるので、せいぜい自前で歌舞伎座や国立劇場に一日座りこむぐらいの贅沢で、こと過ぎている。霜月顔見世の広告も新聞にもう出始めた。
妻と私とが難儀なかたちで入院生活をしたりすると、息子に迷惑が掛かるかも知れない、その程度の用意は要るだろうか、それも「お任せ」していいのだろうかしらん。
いつか孫二人が大人になったなら、何かしてやりたい。上の、やす香は来年大学へ入る歳だ。どこを志願しているのだろう。遠く漏れ聞くところやす香は小さい頃から英語とフランス語がらくに話せるという。英語圏にホームステイしたりフランスの学校にも身を置いて育ったという。わたしの孫とは想われない。
2004 10・14 37
* 四十七年まえ、紅葉のけはいもうかがえる大文字山に登り、大比叡をながめた。
2004 10・16 37
* 今は雨音がやや遠いが、終夜降り次いでいる。掛け布団の足下に黒いマゴが寝込んでいて、重くて寝返りがうちにくく、四時に目が覚めた。少し胃がむかつき、お茶と漢方の胃腸薬とをのんで、そのまま二階の機械の前へきた。九月分の「私語」を整えてしまい、ついでに「ずいひつ」依頼の原稿を書いてしまいプリントした。
国立劇場へは十時過ぎか半に出ればいい、正午開演の通し狂言だから。このまま起きているのは何でもないが、もう一眠りしておいた方がからだの為だろう。三時間睡眠では芝居の間に居眠りするかも。そりゃ勿体ない。
颱風よ、今日ぐらいは待ってくれ。
2004 10・20 37
* 宮、桑名、四日市、石薬師、庄野、亀山、関、阪之下、土山を経て、わたしの血の一部はそこから流れてきたと聞く水口宿に到る。「母方祖父周吉は水口宿の本陣に、九州の或る大名の落とし胤として生まれ、長じて近江能登川の阿部家に養子に入った、生母ふくはその三女」と、いつ知れずわたしは聞かされている。深い闇がその奧へ奧へひろがっている。闇をひらこうと思い立ったのが、或る意味でわたしの運命を分けたかも知れない。兄恒彦も死んでしまった今、この闇は、もうわたしが抱いたまま往くであろう。
水口からは石部、草津、大津、そして京の三条大橋が、東海道中五十三次の終着駅。育てられた秦の祖父鶴吉の父長兵衛も、これは偶然だろうが、やはり水口宿から京へ入っていた人らしい。鴨川の東寄りには、根は近江、若狭、越前や伊賀、伊勢方面からの家が多かったと思われる。平家物語に知られる妓王・妓女たちも、近江の野洲の辺の出と伝える文献もある。
野洲の辺は近江でも最も古くに多く人の住んだ一中心地であり、厖大な量の銅鐸等の出土がそれを証しているし、古事記に、事あれば八百万の神々のつどうた「安」の河原は、野洲川のイメージを浮かべてはいないかと云われる。野洲川は天井川でよく溢れ、治水の難しい河であった。新幹線で通り抜けると、いまだにいろいと工事をしている。
* こういうことを書いていると自然にわたしはわたしの根を洗いはじめることになる。
2004 10・23 37
* 久々に建日子のホームページを覗いたら、少しサマ変わりしていた。「余命八年」のつもりで頑張るというのはいいだろう、あと何十年も有ると思うと、平気で道草を食ってしまう、と言うのである。八年して秦建日子は、四十五歳に達する。「青春」の期限がその辺で切れ、その先に朱夏二十五年の壮齢期が続くのは、しかしあまり考えに入れず、仕事の「質実」に深く関心したいと謂うのであろう。
その言やよし。しかしながら、下手をすると、新たに豊かに学び加えることなく、いま持ち前の得分をただひたすら消費して八年を駆け抜けたいという結果になっては如何なものか、それまた心細い点である。木彫の名匠平櫛田中翁が、百歳さらに二十年分の良材を新たに買われた逸聞は如何。八年良い仕事を積めばまさかにスッカラカンとは云わない、が、仕事というのは実践との両輪に悠々適切の勉強がやはりいつも必要だった。ちだし、勉強が実践を越してゆくと「山名」君の悲劇がきてしまう、そこが難しい手加減ではあるが、気概はよし、但しせせこましく小成に甘えないように願いたい。
* 関係するかしないか知らないが、ホームページに新設の、「ウエヤとの対話」の如き、「余命八年」の覚悟に背いた精力濫費にならぬよう。ま、常に極く極く少数派のわたしの云うことゆえ、大勢サンにはあんなのがうまみの御馳走なのかも知れないけれど。
* 九時四十五分、また揺れている。さ、今夜はもう機械の前を去って、むしろ悠々休息したい。
2004 10・23 37
* 夕方へかけて妻と家を出た。まず上野の創画展。これはもうサンザンの展覧会で、いまどきこんなヒドイ会派もあるのかと「解散」を勧告したいようなハッキリ言って醜い、騒がしい、デタラメな画展であった。受賞作もことごとく納得が行かない。これが日本画の現状かとほとんど自制のきかない無政府主義に状態に呆れた。審査が出来ているのか。
ムリもない、上村松篁さん、秋野不矩さん、加山又三さんその他有力な人達がぞくぞくと亡くなってしまい、今では石本正氏を筆頭に、他にはこれぞという実力者がいない。上村淳司とか橋田二朗とか。その石本さんの絵に緊張感がなく橋田さんの絵も力よわく、上村さんの作品は見当たらなかった。緊張感が感じられず、汚い繪はいっぱいだが、凛然として美しい繪や感動の繪に出逢えない。参った。貰った券があり図録を渡されたけれど、重いだけなので返してきた。かなしい気持ちだ。
* で、妻はバテてきた。なんとか脚をひきずるように有楽町まで行き、行き当たりばったりの店で、わたしはビールを妻はジュースを。しばらく休息のあと、「笹や」へ行って妻に例の風景画をみせてやり、この間すてきに美味かった鰈をまた焼いて貰い、妻はかぼちゃだの小芋だの蕗だのの煮しめももらって、白いご飯と漬け物。なにしろ六時前に漸く開ける店へ五時にとびこんでしまった。素樸そのもののおじさんとおばさんと二人でやっている、いわば家庭的な季節料理のお店である。
* それから日比谷線で人形町へ、少し歩いて水天宮近くの日本橋公会堂の中の劇場で、望月太左衛主宰の「鼓楽」を三番組聴いてきた。
最初の、鼓一つでの独演はすこしムリがあった。鼓はメロディの楽器ではないし、しかし楽器以外の何物でもなく、鼓一つで何かしら思弁的・文学的意図を「表現」しきるのはいかに太左衛でも容易でない。いっそ思弁も文学性・詩性も一応棚上げし、あくまでも音楽の妙味を演奏の高度の技術で完成させる方へ力点を置き、その音楽性が効果として何かを聴衆に感じさせるというのが、本筋ではないかと思った。鼓も五つも六つもが合奏すればそれだけ余分の表現も可能だろうが、鼓一つでの有意味表現は舌も足らず言葉も結局は足らぬ事になる。むしろ単に鼓演奏の音楽的な秘儀・秘藝の曲を聴かせて貰いたいと思った。
二つめは、連獅子の合奏。浄瑠璃も太い三味線も、笛も鼓も大鼓も太鼓も。それを十五人の編成で、すべて女性の演奏。これはこれで趣向であり、なにしろ名曲である、舞台も目に浮かぶから感情的にはまりやすい。たのしみやすい。例年のように、太左衛はもとよりとして、笛の望月鏡子、大鼓の堅田喜代、やさしく、つよく、小気味のいい演奏であった。
三つ目は太左衛の創作物語を彼女の古鼓、深草アキの秦琴、そして俳優の山口崇が語り手となり、桜木の種の地に落ちみごとな大樹となり花を咲かせ、しかし老い病んで伐られ、いつしかに鼓の里でみごとな小鼓に生まれ変わる。これはわたしは上出来の、太左衛屈指の所有となる作品だと感銘をうけた。秦琴の音色も曲もみごとで、合奏になると鼓がたくさんなことばを、おもいを縷々語り出すから面白い。歌舞伎風の蔭囃子もつかっていた。山口の語りが大らかに優しくいやみなく、佳いのである。わたしこの俳優が俳優座出身の役者として好きだった。男前だし、ことに菊五郎が義経を演じた大河ドラマで勇将平教経を火を噴く気概で演じていた颯爽の生彩を忘れ得ないのである。その山口が桜の生々流転を月とともに雪とともに花とともに温かく話してくれた。目尻に湧くあついものをわたしは尊いと感じていたのである。
* 水天宮まえのスイレンでラーメンとマオタイを狙っていたが、賛成が得られず、どら焼きを買って帰ろうと楽しみにしていたのにもう閉店していて、仕方なく手ぶらで銀座経由、池袋経由、帰宅。お萩が買ってあり、えたりやおうと食べた甘味がよかった。
* メールが沢山来ていた。
2004 10・28 37
* 小田実さんの「随論」は読み進んでいて何一つといえるほど「不審」なく「同感・共感・賛同」できるので、おっそろしく精神衛生が佳い。妻とわたしとで、ひったくり合うようにして互いに読み進めているが、妻の方がだいぶ先へ走っていて頻りに感銘のつぶやきを洩らしている。
こんな世の中に一人ぐらいこういうスカッとする「普通」の哲人・鉄人がいてくれなくては、気が萎えて堪らない。
わたしなど、「べ平連」と長いあいだ聞いていて、亡兄北沢恒彦は京都での活動でいい仕事をしたんだと人に言われても、実状には無知でしかなかった。この間の鶴見俊輔さんに上野千鶴子さんらがインタビューしていた本ででも、鼎談なりの宜しさもあり話題の途切れもあり、十二分には分からなかった。小田「随論」は論者が一人で思うさま語っているので、納得しやすい。
もうよほど昔で、初対面だったと思う、新宿の「風紋」あたりだったかで小田さんと少し話したときに、「あなたのお兄さんは、えらい男やったでぇ」と二度繰り返し言われたのが記憶に鮮やかである。関西弁であるから、文字にした「えらい男やったで」とはニュアンスを変えても受け取れる会話であったけれど、わたしは素直に言葉通りに受け取り頭をさげた。
それにしても黒川創はどうしたのか。湖の本はちゃんと毎回届いているらしいので転居したでも無かろうが、全く音信が無い。噂に聞く兄に関わる本も一冊も送ってこない。題も知らない。
2004 10・30 37
* 千住真理子のパガニーニ「24のカプリース」がこんなに面白い、こんなに美しいソロバイオリンだとは。「耳」からウロコが落ちたみたいに聴き入っていた、今日は。戸外の雨音をしずかな陪音にとりこみながら。
大学時代だった、さあ、二回生か三回生になるその頃だろう、大学を出たところで英文科の吉岡義睦教授(名誉教授)とパタリと出会った。実父方祖父吉岡誠一郎の弟だ、実父吉岡恒の叔父にあたる人だが、当時のわたしにはそれとも正確には知らない、へんに気のつまる親戚風の人であった。なにやらわたしにはワケの分からない親戚風の大人が、父方にいろいろいたのである。生母方にもいたのだが、まったく触れ合わない世間であった。
大叔父さんはわたしを認め、電車を、一緒に三条河原町で下車した。あれはわたしの帰り道に合わせてもらっての下車だったかも知れないが、大叔父はわたしを近くの鮨屋に誘い、たしか鮪の鮨を御馳走になった。
その間にもいろいろ聞かれたり話されたり答えたりしていたけれど、そのうち、専攻の美学藝術学や、わたしの美術への関心に触れてであろう、「音楽は」と聞かれた。大叔父の謂う音楽とは、西欧のクラシックのことであった。わたしは、それ以前に印象にあるクラシックはといえば、弥栄中学から四条河原町の公楽会館だろうか、いや京都新聞の会館であったか、どかへ聴きに連れて行かれた「運命」の、ドドドドーンだけであった。謡曲や歌舞伎囃子なら聴いてきたが。
で、そう返辞したのだと思う。なにしろ妻と出逢った頃、音楽について聴かれ、「美空ひばり」は天才だと答えてそれだけだったために、痛く失望させたような「美学」の徒でしかなかった。
大叔父の吉岡教授は、おだやかに「音楽」がいかに素晴らしいかを説き聴かして、専攻の学問には「音楽」も含まれているはずだと、もっともなことを言われた。わたしは素直に聴いた。何の反撥も反駁もなかった。
翌年「音楽概論」を選択した。甚だ有名な、中国人のような姓名の教授であった。名は忘れた。いきなり毎回クラシックのレコードをながながと聴いて、わたしはかなり毎時間退屈した。しかしまたわたしはその頃持て囃されはじめた「ハイファイ」なるものに興味を持ち、四條河原町の東北角に出来ていたナショナルの「ハイファイ試聴室」へ行き、たぶんサラサーテの官能的な弦楽などに少し惹かれたが、ま、そんなところであった。
しかし、四回生の師走ごろに、妻が下宿していた家の女の高校生に、クリスマスプレゼントをするというので、わたしがバッハの「シャコンヌ」を選んでいるのだから、少しく進歩していたのだろう。
今では、美空ひばりが祟ったか妻は、パソコンのトランプゲームや新聞のクイズが好きで、わたしは少しずつ少しずつクラシックの愛盤を増やしている。場所を取るレコード盤が聴きにくいのが本気で残念なのである。
繪を観るためには脚を遠くへ運ばねばならないが、印刷の繪ほど割り引かなくても音楽は洋の東西となく、かなり佳い音で身近で聴ける。けっこうクラシックが好きになり、満足するつどあの大叔父先生の遺産を貰った気がして、感謝。
2004 10・30 37
* 辷って行くように日足がはやい。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし、と。人生が非情なのか、天道が非情なのか。
あけがた、胸の苦しさに怯えるように目が覚めた。初めてではない、が、異様なものの、背後に迫ってくる気がする。今昔物語は、日本霊異記をうけながら「現報」つまり非道の「むくい」ということをずうっと語り続けている。昨夜おそくに若い若い友達から短いが印象的なメールが来ていた。末尾に、「ブッシュ再選確実?!…堪え難いニュースが続く今日この頃…」と。
2004 11・4 38
* 秦建日子作・演出「月の子供」が、新年早々の十一日(火)より二十三日(日)まで、異例の長丁場公演となる。劇場は下北沢「劇」小劇場。
古代文明に隠された神々の駅――平成16年の小田急線東北沢駅―― 23世紀に開通予定の月面ターミナル「ルナ・ステーション」―― 時を越え、いくつもの駅を旅する12歳の少年の抱えた「最後の宿題」とは?
えらく思わせぶりに、うまく行くと面白そうな設定のようだが、新作。わたしは何も知らない。あの「アコム」のコマーシャルで人気らしい小野真弓が建日子芝居で二度目の舞台。彼女の処女舞台が建日子作・演出の、この前の「リセット」だった。主な女優は他に、松井涼子、久保恵子、築山万有美とある。建日子が経営している演劇学校の生徒達もかなりの数出るようだ。「秦建日子プロデュース VOL.11」公演。全席指定3800円。28日から、ピア、eプラス扱いで発売が始まる。
この師走早々には初の小説の題が『推理小説』も出版されるそうだ。どんなものか、むろん、これも知らない。芝居の方はほぼ安心して観られるようになっているが、小説の処女出版はかなり気になる。
2004 11・9 38
* こんばんは(^-^)お元気ですか? もう11月も終わりですね。木々の紅葉もきれいです。この時期になると、右を向いても左を向いても、前を見ても後ろを見ても、受験の話ばかりです。仕方がないのですが…そんなことばかり考えている毎日です。
寒くなってきたので、体には十分気をつけて下さいね☆ 横浜市 E-YOUNG
* いま、いちばん年若いわたしのE-FRIEND。がんばって。
2004 11・19 38
* 亡き、産みの母がのこした歌文集から、歌を抜き書きしている。
2004 11・21 38
* 夜前、遅くに建日子が来て用を足して帰った。けっこうなことだ、寸暇もなくいろんな仕事をしているらしい。来年も、ずっと先までもう追われ仕事の予定がありそうだ、テレビの連続ドラマも舞台も、演劇塾の運営も、そして小説も。
彼のテレビ社会の先行きを観た観測には、ようやく「時代」を読みながら生きて行かねばならぬ立場の反映が看て取れ、わたしは腹の中で頷いていた。
「テレビドラマ」の未来は、テレビそのものの未来は、そう甘く容易なものではない。電子化の技術自体が首を締め付けてくる時機が意外に早いのだ。ことにスポンサーの広告提供でかなり安易に成り立ってきた商業性が、むしろ電子技術の振興自体で脅かされてくる。ある種の機械化と技術化とが加われば、すでにデッキ録画のなかで実現しているようなコマーシャル抜き録画が、なにでもなく可能になってくるし、そうなるとコマーシヤル提供という宣伝方法に徹底的な見直しが進むことになる。商業テレビのありようは余程の水平思考と工夫とを強いられるだろう。それは東大の坂村健さんらの提唱し普及がいわれている「ユビキタス」との或る意味で猛烈な兼ね合い現象を喚び起こして行くのと、同じ方向を向いている。
建日子も、いやでも業界の生理や病理に鍛えられて行く。時間や時代を多重層にくみ上げて未来を構築する構想がないと頓挫しかねないと覚悟しているのだろう、大事な視野だと思う。
* また沢山の劇映画ディスクを建日子は土産に運んできた。わたしは、のんきなとうさんを演じながら、眼はパチリと明いていたい。
2004 11・23 38
* さっき、ブラウン管と書いたが、ブラウン管との久しく久しい付き合いが、テレビの上では昨晩でついに途切れた。液晶の今までより六、七インチ画面の大きいテレビに買い換えた。妻がわたしに買ってくれて、わたしはDVDデッキを新鋭機に買い換える。
京都新門前のハタラヂオ店にテレビジョンという驚異の機械が新商品として初登場したのは、いつごろであったろう。狭い店先へ幾重もの見物が犇めき合い、まだ猛将藤村富美男が阪神タイガースの三塁を守って巨人軍と死闘を重ねていたのを忘れない。力道山の空手チョップのたまげる威力に喝采したのも忘れない。
人の寄るのはこういう時であった。対談集で対談相手の日展画家堀泰明も見に来ていたと語っていたし、遠く粟田学区からも見に来ていたりした。さ、中学か高校か。すぐは思い出せないが、むろんカラーではなかった。
以来数十年。何台のテレビを買い換えてきただろう、指を折って数台、それ以上か。東工大でも教授室にテレビかあった。みなブラウン管だったし、いまわたしの目の前の日立製しっかり大きいディスプレーもブラウン管で、これも東工大の研究費で買ったのを払い下げて貰っている。
* ブラウン管というと、こんな思い出があり、信憑性は今もわたしの中で曖昧だけれど、大学の二年生ぐらいか、はたラヂオ店の店主である父の命に従い、大阪の門真市にあるナショナルの工場内で、一夏、テレビ技術の講習を受けに遣られたとき、二つだけブラウン管について記憶した。一つはテレビ画面が、何本だか決まった数の「走査線」とやらで出来ていること。もう一つは、ブラウン管の中は天文学的な高圧を頑丈に内包していて、万が一にもこの正面画面の防壁が破壊され不幸にしてその前でテレビを観ていようものなら、瞬時にして内圧の暴風で人間の首は千切れて吹っ飛ぶ、大変危険なものです、と。
走査線のほうは、後年、医学書院勤めで写真製版発注に手を染めていたから、普通の写真なら133線だの、紙質がわるいと80線ぐらいだのと注文し分けていたから、これは類推できた。
もう一つの首が千切れて飛ぶ方は、今も半信半疑で、そんな事故をきいたこともない。しかしへんにブラウン管のまえにいるのは気味が悪い。
そういう因縁もののブラウン管テレビと、昨夜、とうどう訣別したのは「歴史」的である。まことに歴史的である。
2004 11・23 38
* 園藝というか花を育てるのはさぞ楽しいのであろうと思う。妻も花が好きで、家が狭くなるほど植木も買い込む。いまはトイレに、名も知らないとても佳い花が二種類、無造作に長細いギヤマンふうコップに挿してあるのが、挿し方もよろしく、とっても美しい。古くなってきた家で、わたしは手洗いがいちばん落ち着いて好きな場所になっているが、生け花がきれいだと気の和むこと言い尽くせない。
我が家の一番大きな植木鉢は、むかしわたしが衝動買いして帰った小さなパキラだったが、今や鉢も八度も十度も大きく大きくと取り替えてきて、家に入れると天井に触れる。しかし寒さに弱い木だから冬場は出しておけない。狭くるしい家の中で大きなパキラの鉢が場所を取ってかなわないが、部屋の中が緑に潤むようなのも、ま、佳いではないかとまさに温存している。
2004 11・28 38
* 柳田国男の『先祖の話』は、少なくも東京人種の日々の暮らしからは払底したような民俗の探訪であり探索であり推測であるが、日本列島のうちでは、まだこの本の意図し念願された趣旨は、受け継がれうる余地を持つと信じたい。
ああ、新門前の我が家でかつがつ生き延びて、嫁としての母が、毎年の盆や正月にはきちんと守っていた(少なくもわたしがまだ京都にいた頃は。)作法の意味までは、当時のわたしは思い至らずに傍観し、そして忘却し、いまの我が家では、ほとんど新年の雑煮の祝い以外、何一つものこらず過去の記憶からさえ失せてしまった。妻が、わたしの妻ではあったけれど、家の嫁ではほぼ無かったから、母から受け継ぐということを一切しないで来たのだ。
年神と言うほどの意識は、新門前の親たちになにほども明晰ではなかったろう、が、幾つかの小碗に白い飯を盛り、苧殻を折った箸を一本ずつ立てていたのは覚えている。一本箸は目に付いた。その正確な碗の数はおぼろであるが、我が家では十二であったか、家族の五人と別にもう一つであったか。
正月にはむろん小餅を祭っていたが、子供心にその餅のなかに、「星月さん」と呼んで、小餅の上にポチリと親指の頭ほどの餅を積んだ一つだけが必ず加えられていて、その「星月」さん(字はアテ字であるが。)の意義も、一度や二度は母に聞いたか叔母に聞いたか父にも聞いたかと思うけれども、残念なことに覚えられていない。
そのほかに先祖祭や年神の祭りをどうしていたのか、そんな意識はあの家にはもう廃絶していたのか、わたしが迂闊に見過ごしていただけか、凡て分からないのが惜しい。
柳田は、「先祖の話」と題して精細にそういう民俗の拠ってきたとおもわれる背後と過去と現在とを、真実「日本」と「日本人」の暮らしの基盤を探り、愛して語り継いでいて、縷々尽きない。その諄々と説く文体の落ち着いた男らしい確かさには、敬愛を寄せずに居られない。もし書庫の中の「文学以外」で一種類だけ手元に残せといわれれば、わたしは老いての読書のために、この『柳田国男全集』をと指を折るだろう。
2004 11・30 38
* 秦の叔母により裏千家の茶の湯になじみ始めた頃、「今日庵」という家元を示すいわば看板の意義が、すぐには、わからなかった。
叔母はなにも教えてくれなかったが、一つのヒントは提供してくれていた。
稽古場の欄間に、生け花御幸遠州流家元が、なにかの機会に叔母に与えた草仮名の五字「あすおこれ」が上がっていた。「明日怒れ」とは、「永久に怒りを発するなかれ」の義だったろう、此の世こ「明日」は絶対にない、「今日」のほかにはという含意は、子供心にも少しの示唆があれば飲み込めた。「今日庵」も同じだと分かるのにそう歳月は要しなかった。
字句を正確に調べてもいいのだが、だからいくらか間違いがあるか知れない、が、今日の約束を安易に明日のことと違えて他出していた主人の留守に、「できそこないの口先坊主め、今日を怠けて明日と云うか」と、そう、襖に大書し客僧は帰っていった。「今日」庵の名の所以で、「懈怠比丘」という言葉が確かに書かれていた。「不期明日」ともたしか書かれていた。
いずれにしても「明日」という日は実在しない。「今日」しかない。いつまで行っても「今日」だ。「来年」と「今年」の関係も同じこと。来年からする、はじめるとは、永久にしない、始めないのである。むかし、大晦日に、「さ、来年からは勉強します」とトクトクと宣言した男に、誰であったか、「除夕よりはじめよ」と一喝したという。除夕とは大晦日。なぜ来春を待つかと。
「屁理屈」だという人も必ずある。それはそれである。
先日まで徒然草を音読していた中に、ものの名で「ますほのすすき」か「まそほのすすき」か、その区別を知っているのは、今ではどこそこのだれそれしかいないと、聞くや忽ちに、雨風の中へ席を立って出掛けて行く人がいた。雨風がやんだあとで日を改めて行けばいいのにと人がわらうと、その人か自分かは知らず命の火は雨風にいつ消えてしまうか知れないではないか、みすみす一つの知識をもし見失っては済まない、と。
はじめてこれを読んだとき、少年のわたしは、その大げさな、その意義のつまらなさに失笑したが、しかも失笑しながらも、何かしら大変なことが謂われているとも感じていた。それは「あすおこれ」にも「今日庵」にも直結していた。
「明日」は、「来年」は、ふつう夢見る希望の代名詞のようであるが、そんなものはまさに「夢」であっても現実には実在せぬたわことの一つなのはハッキリしている。明日がある、来年がある、という遁辞にこそ、屁理屈が忍び込んでいる。
つべこべ謂わずに、明日を期せよ、来年を待てとは、暢気なトーサンの科白。暢気でいられるのが、若さの特権であるといえば謂える。が、若さのバカさかも知れないと昔の人は一期一会を大事にした。
2004 12・2 39
* シーボルト風に謂うと、今日は白い石で書きたい記念の一日になった。
* 秦建日子が「小説」を出版した。河出書房新社刊『推理小説』ほぼ三百頁。わたしは、まだ手にとってその重さを味わっただけ、読み始めてもいない、が、久しく小説家である父親の次から次への出版を家にいて眺めてきた建日子が、自分でも小説処女作をとにかく世に送り出したということには、さぞ感慨も深く嬉しいことだろう。私家版を除いてわたしの処女出版は、受賞作の「清経入水」や「蝶の皿」や「秘色(ひそく)」などもう一作(忘れてしまった)を収めた『秘色』だったが、記憶を呼び戻せば嬉しいよりも怖かったというのが当たっている。自分の本がどう読書界に受け入れられるのかが分からなかった、わたしの作風はあまりに孤立しているように見えていた。
たぶん、建日子も嬉しい中に或る怖さを感じて緊張しているだろう、題の通りの推理小説らしい。
おめでとう。なにはあれ、おめでとう。ほんとうに実現したんだ、編集者と出版社の関門を通ってきたんだ、えらかった。
建日子は知っているのだろうか、河出書房にはむかし坂元一亀という名高い編集長がいた(その息子が名は忘れたが世界的に働いている音楽家だ)。それより昔にも以後にも佳い編集者が揃っていた。佳い編集者と出会うことが書き手の財産なのだと覚えていて欲しい。
どんな風に書けているのか、読むのはこれからだ。読んだあとは厳しいパンチがとぶか、テレビドラマ「ラストプレゼント」の時のように手放しで褒められるか、一節(ひとふし)でも、ウーンと感心させてくれると嬉しいが。
* 小説本には普通不文律のように著者あとがきを書かない。わたしも小説ではあとがきを書かない本の方が多いと思う。小説本に関しては刊行後歳月を経てからはいいが、出た当座は作者はストイックに寡黙なのがいい。妙にはしゃいで舞い上がって色々書くのは作品の言い訳を作者が始めているようで、あまりみっともいい物ではない。テレビ業界よりはその辺がかなりシビアで、人が騒いでくれるのはいいけれど、作者は楽屋裏や謝辞や嬉しさなどを乱発しない方がいい、ましてホームページなどに。
推理小説と雖も、小説の読者と、テレビの視聴者とはかなり何かがちがうものだと思う。じっとこらえて、とにもかくにも、読んでもらうこと。
2004 12・2 39
* いまいまの若い人の文体の多くは、さすがに時代を反映して似ているが、それをさらに徹底させることで秦建日子作『推理小説』(河出書房新社)は、いわば「現代ト書き小説」のスタイルを創っている。脚本や劇作で簡潔であるべき「ト書き」を、彼はこれまでに多く体験し鍛錬している。
「ト書き」とは、その向こうに「映像」を幻出させるのが根のタチ、いわば「ト書き文学」性というものがある。「レーゼドラマ=読む戯曲」は、昔から「ト書き」を多用して映像や舞台の幻出効果を期待するのが常の作法であった。
秦建日子の新小説は、そういう傾向の最先端を行くこと、ほぼ間違いないだろう。つまりいちばん仕慣れた手法を拡大活用し、自信を持ってリアリティを捻出している。初小説の書き方としては賢いやり方であり、同時に「どうだい」と居直っている。その図太さがともあれのびのびと筆を遣わせている。脚本家の、小説通念に対する挑発のようなもの、それあればこそ、作品を終えた後ろに、この作品は事実に基づくものではありません旨の、よくテレビドラマの終わりに出て来るのと同じキャプションが、愚直なほど厚かましく据えてある。在来のふつう小説作品では「これはウソです」などと、そんなことは滅多に謂わない。むしろ事実は事実として押し出す「ノンフィクション」という文藝も有る。
秦建日子の『推理小説』は、テレビ脚本家で劇作家である作者の、ふつうの小説作法に対するかなり意図的な挑発行為に、結果として成っていると云えそうだ。「現代ト書き小説」と読むと、なるほどその道のプロの書きっプリになっている、と、これは、技法への感想。
まだお話への感想ではないし「推理」の手際への感想でもない。小説が面白いのかどうかはまだ二三章しか読まないから云えない。
が、上のことだけは、一つの批評ないしは、限界または可能性の示唆として、たぶん云いうるだろう。
一気に読ませて貰いたかったが、なにしろ読み始めたのがもう深夜の二時近くであったから、堪えきれず欠伸が出て、急いでお定まりの今昔物語の一語だけを読んで、すぐ寝入った。今昔物語という、読みようではノンフィクション短編小説集のしたたかさとおもしろさを、改めて新鮮に感じながら。
2004 12・3 39
* 建日子の小説を少し読みすすめ、日本史をたくさん読み耽り、今昔物語を二語。その前にジョン・ウエインとキム・ダービーとの「勇気ある追跡」を観おえた。ジョン・ウエインとキャサリン・ヘプバーンとの「オレゴン魂」の姉妹編。どちらも好感の持てる小味な西部劇だが、キャサリンのうまさを以てしても、やはりキム・ダービーの若々しい可憐で強靱な表情や声や演技には魅力を一歩譲っている。キム・ダービーのような娘が欲しかった。で、寝たのは四時半。
2004 12・6 39
* 建日子の『推理小説』はまだ読み上げないが、方法と表現の(わたしには)とても斬新な魅力は、読み終えてなくても、云える。才能に溢れている。作家は、自分の脚で、脚力で、確実に歩んできたことをよく証明している。読み上げて、物語の筋がどうあろうが、それが面白かろうがたとえチンプンカンプンであろうが、それと関わりなく「方法と表現」にみせている才能は、掛け値なく認められる。わたしのような、「父親」でもある、という特殊な読者には、それなりの特別の感慨があり、物語や作品を読んでいる以上に、一行一行とその行間に、我が「息子・建日子」を読んでいる。それが頗る感興をそそり、いちいち、おお、これをあの建日子が語り、書き、感じ、観察していることなんだと思い至る、納得や、意外さや、驚嘆や、顰蹙が、面白い。鏤められたフラグメントの脇や背後や根が、見えたり察しられたり、思わず笑ったり考えたり出来るのは、一般の読者にはない「親ドク」というもの。
わたしの好みであろうがなかろうが、それは関係無しに、秦建日子処女作小説にほっと安堵している。センスははっきり出ている。毀誉褒貶や成功不成功は論外、もうわたしは息子から「卒業」できる。自由自在に行くがいい。
2004 12・7 39
* (秦建日子作)『推理小説』読みました!
面白くて、止まらなくて、あっと言う間に読んでしまいました。
法事のお供養といえばいつも「山本」の海苔を送っていた母の七回忌なので、京都の親類に私も山本の海苔を送ることにして、昨日新宿高島屋に出向き、あと、いつもの習慣であの空中の橋を渡り紀伊国屋へ、ふらふら冷やかして新刊書のところに『推理小説』が棚二段に10冊がど~んと平らに並んでいて、もう私まで何だか嬉しくなってしまいました。
すぐに1冊を手にとってレジへ。
帰りの電車から読み始めたくて、空いている中央線でなく各駅停車を選びあっというまに、もう少しで乗り越しそうな按配で下車駅着。
帰ってからも時間に隙あらば本を開くといった具合で、とにかく最後まで読んでしまいました。(私はせっかちで、先が気になり、推理小説をゆっくりなどよめないのです。)
軽快なリズム、若々しい言葉使いで展開するストーリーの中に、安易に流れる今時の小説、ドラマへの批判精神がちりばめてあって、やはり秦さんの血を引いておられる、父上を見て育たれたんだなあ、と私は(なんたって親の世代ですから)まぶしく感じました。
この数年、息子がテレビ夜9時からのサスペンスドラマに凝っていまして、お付き合いで私も各テレビ局の**劇場を網羅して詳しくなりました。
最初に殺人があって、有能な刑事と無能な上司が出てきて、配役の俳優を見れば大体誰が怪しいとわかり、最後に犯人がわかって種明かしその”ワンパターンなわかりやすさ”が丁度息子には理解しやすいようで、気に入るのもなるほどなあ、と納得していたのです。
その辺りを利用、逆手にとっての『推理小説』は痛快! でありました。
これからあと周囲が放って置かないでしょう。ご活躍がもう目に見えるようです。楽しみにしています。
先週の京都行きは天気に恵まれ、東大谷の墓から清水寺まで足をのばし、もう遅いかと思っていた紅葉がしっかり残っていて夕映えに美しく大満足を致しました。 藤
* 感謝。
* こんにちわ! お林檎喜んでいただき嬉しく思いました。 しばらくご無沙汰いたしました。
上島志朗先生がお亡くなりになられましたそうで、心よりご冥福をお祈りいたします。
先生のご生前にご恩返しのおひとつでもなされて、さすがご立派でございました。本当にいいことをされましたね。どんなに喜ばれて旅立たれましたことかと拝察申し上げます。
私も日吉のときしっかりとお教えをいただきました。出来の悪い生徒でしたが、たしか4を通信簿に下さり、驚いたものでした。
もっと先生をお慕いして文学を読書を頑張っておりましたらと今思います。 重ねてご冥福とお礼を申し上げます。
お元気でしょうか? ますますご自分の境地を深められておられることとお察しいたしております。
山名画伯はいかがでしょうか? (笹や)の絵を観られると思うだけで、いてもたってもいられない心境ですが。最近の私はファイトがなくて。お会いするのもためらってしまいます。これが歳なのでしょうか? 若くてはつらつ? には、ほどとおい。自分を再認識しているところです。
集中的には制作しておりませんが。デッサンだけはと励んでいます。
折角の人生ですもの、美味しいお酒で歳をこしたい願望はすてておりません。が。どうぞお元気でお過ごしくださいませ。 横浜市
2004 12・27 39
* いわゆる「大東亜戦争」宣戦布告の昭和詔勅があった日。日本軍はハワイを空襲し、マレー半島に上陸した。一九四一年の今月今日だった。
あの日も迎えのバスで、馬町の「京都幼稚園」に通っていたと想う。給食のはこびこまれる一種独特の匂いが園内に流れるとき、また嫌いなものがその弁当に入ってないかとヒヤヒヤしていたのを思い出す。ま、師走にまさか茄子はついてなかったろうが。
翌年の四月八日頃、「京都市立有済国民学校」に入学した。幼稚園では「秦宏一」だったし、それ以外の名は記憶になかったのに、たしか「一年黄組」と胸に吊された名札には「秦恒平」とあり、なんとも肝の冷えたことを思い出す。
昭和十七年四月、「広い」と思った運動場の南側に、桜が「はなはな」と咲いていて、北側の「大きい」と思った「軍艦」のような白堊の校舎中ほどに、椋の大樹と、大きな銀杏の木が二、三ならんでいた。椋の根方、木蔭に石柱で囲った中には、塚と小燈籠が起ち、のちに、木曽義仲の愛妾のひとり山吹御前の碑であると識った。
その頃までに日本軍は、仏印やタイと軍事協定し、香港全島を占領し、戦艦大和を竣工し、マニラを占領し、ビルマに進撃し、戦時の大増税案が出され、日独伊は新軍事協定を結び、シンガポールを占領し、食糧や物資の統制令がしかれ、ジャワ島に上陸し、ラングーンを占領し、ジャワのオランダ軍を降伏させ、ニューギニアに上陸し、わたしの入学式の数日後には、バターン半島を占領していた。
たが入学して十日ほど後、四月十八日には早くも米陸軍機は日本本土のうち東京・名古屋・神戸を初空襲した。一月後に日本政府は、朝鮮に徴兵令施行を決定したのであった。この年の歳末に掛けて、戦雲はすでに暗く日本列島を蔽いかけ、大晦日、大本営はガダルカナル島撤退を余儀なくされた。敗色はもう蔽いがたい。
だが、わたしの遠い遥かな実感では、いやだった学校に馴染んでゆくに連れ、この、少なくも昭和十七年中はまだ家の内も外も或る不思議な明るさ静かさと、古きよき時代の行儀良さや清々しさとで、朝顔の花のように新鮮であった。
2004 12・8 39
* 建日子さんの『推理小説』。 昨日の大きな(朝日)新聞広告は、眼を惹きました。面白そう、楽しみにして読みます。
只、人は、女流新人作家と思うでしょうね。
W0Wで録画をしてもらっていた戦場のピアニストを再び観終り、ホロリとしましたが、明るい終章に心が温まります。
まあ、歴史を振り返れば、ポーランドは共産圏で違った苦渋が始まるのでしょうが。
カンヌ映画祭では、最優秀作品賞。アカデミー賞では主演男優賞をとった俳優エイドリアン ブロデイは知らない俳優でした。
手元のパンフを見ると、この映画に備えて、体重を十キロ減量、ピアノも特訓で吹き替えなしとあります。
終戦後に書かれたピアニスト、スピルマンの回想録を元に脚色(アカデミー、脚本賞、監督賞も取り)、子供時代のポランスキーもゲットーから脱走の経験あるユダヤ人。
ショパンを弾くのは、祖国愛を表現している、と。
この世、いい人もいれば、悪い人もいるとも。
観るだろうと思って送っています。カットなし、吹き替えなしならいいけれど。
曇り空、肌寒い日になりましたね。せめて明るい彩りの草花でも植えようかな。 泉
* 正直の所、処女出版は、と限らず、自作の「本」が出版になるのは、それは嬉しいものであった。建日子はいまとても幸せであるだろう。なんともかとも自分を取りつつむ空気が温かく感じられ、自分の踏む足が、やわらかい地に沈み込んだり宙に浮かぶように感じられる、つまりふわふわと舞い上がる。そういうものだ。わたしの場合処女出版の前に太宰賞受賞や授賞式があって随分ちやほやされたから、やはりあの頃がいちばん嬉しかったのだと思うけれど、以降、百冊にあまるかという市販の出版に恵まれ続けてきて、少なくも六十七十回くらいまでは、同じように嬉しかったものだ。あとはもう慣れてしまった。その上に自分で湖の本を皿に八十数冊も出し続けてきた。出版という行為がわたしの場合半ば肉体化していた。どんな雑誌をあけてもどこかに自分の本の広告が出ているというような時期もあった。
一日の気温を克明にグラフ化してみると、比較的綺麗な釣り鐘型になる、と、昔教室で理科の先生に教わった。確認はしないが、そのグラフが、幻のように眼にある。低いところから徐々に盛り上がり、また徐々に沈下してゆく。人生の事業は、横ばいの一線ということもなければ、右肩上がりに途絶えないなどということもない。むしろ存外多いのが最初の一点のあとが続かないということ。「継続」はやはり大きい力なのである。継続の「自覚」が何よりのエネルギーになる。
建日子のこういう時機だから、恥ずかしがらずにわたしは書いておくが、受賞して、まだ最初の本も出ない、その本が出て幸い佳い書評に沢山恵まれてからでも、わたしを痛いほどとらえていたのは、嬉しさなどもう忘れ果てての、日々「不安」であった。「続く」のか…。書き続けることと、作家であり続けることとには、微妙な違いがある。前者は書いていればいいが、後者はいわば新たに構えた「門戸」の問題だ。本人は門戸のつもりでも、開店休業という門戸が多い世間である。
今日自分は「作家」として何をしたか、例えば手帖に記録出来るような、何事があったか。ただ待っていても、そうそうそれは向こうから来るものでなかった。自分でも作りだして行かねばならない。編集者から作品等について手紙や電話が来る。すると手帖に、某社の某氏来信あり電話ありと書けた。だが何も来ない日がある。と、こっちから電話を掛けたりハガキを書いたり、事を作りだして、それへ自分を乗っけて「作家生活」を向こうへ向こうへ運んで行くのだった。そうして励みを感じた。
そういう必要の全く無くなってしまう日が来るまで、三年ほどかけた。そういう、人が見れば下らないこともして、自分をたえず励ましていないと、いわゆる仲間も持たない交際もしないわたしの気は、作家でいようという気は、ともすれば萎えて行く。
書いてさえいればいいと。しかし作家になってしまうと、書いてだけ居ればいいのでは、決してなかった。あれこれ気を使いながら、勤務との二足わらじを、大事に大事に、あの頃、履いていた。
* もうそれらの全部から身を退いた、というのではない。よけいなことは考えなくて済んでいる、だけ。百冊書いた本を百二十冊にしたいなどと、もう思っていない、だけ。
2004 12・9 39
* 四十七年前婚約し、ながくながく夫婦で加餐してきた。ありがたいこと。大文字裏山から仰いだ大比叡は、今日も静かに独座在るであろう。天気予報では今日の東京は雨と聞いていたが、降っていない。三宅坂の劇場へ向かう。
* 国立劇場の、先ずは通し狂言「花雪恋手鑑(はなふぶきこひのてかがみ)」は、上方のじゃらじゃらした喜劇仕立て。それを関東役者若手の市川染五郎が執心して手がけたのは意欲的だ、が、はっきり言ってこれは彼にはむり。彼の狩野四郎次郎元信の芝居は、ああ仁左衛門ならば、ああ鴈治郎ならば、ああ勘九郎ならば、とばかり想わせた。つまり任にないのだ、舞台を支配する強力な威勢というのが花形の実力派役者の独擅場だとすれば、染五郎はまだ此の舞台を支配するほどオーラを発しえなかった。ともすれば広い舞台が寒くなっていた。
なにしろこの芝居、途方もなくじゃらじゃらした、馬鹿げてええかげんな男の、間抜けなフアルスなのだ。だが、そういう任に堪えるのは、当節まだ染五郎では家賃が高い。
そんな次第で、笑えなかったし、喝采もし難かった。だが、間違いなくこれが鴈治郎なら、仁左衛門なら、勘九郎ならば、劇場は爆笑の渦であったろう。そういう芝居が見たかった。染五郎の意気は大いに買うが、まだそれほどの藝ではなかった。
芝雀の小雪は、もう少し綺麗でもよかった。
劇場にはどうやら中学生が歌舞伎教室の見学に来ていた、が、この芝居は、なんと許嫁の夫がそれと知らず闇に紛れて許嫁の妻をレイプしていて、あげく、まわりまわって生まれた乳飲み子の「乳貰い」に、その男がとんだ苦労するという、トンデモナイ芝居。それを中学生諸君はいったいどう見ていたのだろう、えらく気になったが、シーンと静かであった。
* おめあて、幸四郎の弁慶、染五郎の富樫、芝雀の義経で演じた「勧進帳」は、期待通りに、幸四郎が余裕のある佳い芝居を見せてくれて十分感動できた。涙がぶくぶく湧いて煮えた。しかし染五郎の富樫は万事にまだまだ役の荷が重すぎて、気迫においてとても父幸四郎の弁慶には対抗できていなかった。勝負は当然父が勝ち、息子は負け。だがこれは当たり前の話。これを何度も何度も何度も繰り返して子獅子は立派になる。子染五郎をも大いに応援したい、しかしそんな伸びてくる子をいつまでもはじき飛ばしてと、父幸四郎の健在と気迫にも、心より期待をかけたい。それでこそ子獅子は険しい崖を這い上がってくる。何としても、現代でなら、中村富十郎や尾上菊五郎の凛烈颯爽の富樫を観ている。あの燃え盛る活気で弁慶に詰め寄る演技力が、まだ染五郎にはないのだ。
しかし、それでもそれでも、矢張り『勧進帳』は佳い舞台になる。わたしたちは感動し、満足し、盛大に幸四郎や義経や四天王に、むろん富樫にも、拍手喝采してきた。わたしは眼を真っ赤にして泣いた。佳い日になった。
* 今日の席は、松嶋屋片岡我當の番頭さんを通じて、高麗屋の番頭さんにとってもらえた。花道のわきの、「と」で、飛びきりの勧進帳花道芝居がすぐ間近にみられる最良席であった。義経等の出から、弁慶の飛び六方まで。ウーン、感謝というしかなかった。そのうえ、高麗屋のその番頭さんともご縁が出来、今後案内がもらえることになった。これはもう有り難いどころではない、嬉しいこと。
* バスで新橋まで。そして歩いて帝国ホテルに入り、予約しておいた「セゾン」で夕食。食前にシェリー酒。コースのフランス料理は今晩は献立優秀で、とくべつおいしかった。エゾシカの背肉も甘鯛も、とにかくソースがことに親密にうまく出来ていて、どの料理もしみじみ美味かった。デザートもたっぷり、お祝いのオマケまでたくさんついて、食べきれなかった。写真まで、撮ってくれた。
五階のクラブへ席を移して、此処でも佳いシャンペンで祝われ、50.5度という「響」のうまいのをじっくり実感した。さすがにもう食べられなかった、ゆっくり休息した。
* 新橋寄りへ歩いて、バー「ベレー」へ。漫画「フクちゃん」の横山隆一ゆかりの漫画家たまりのバーで、以前はよく此処へ妻と来ていた。糖尿以来疎遠にしてきたが、今年いっぱいで閉店するというので、慌てて、今夜久しぶりに顔を出したが、ママの「すまちゃん」は病気で、バーテンダーの「山ちゃん」に迎えられ、一時間半ほどもユックリしてきた。朝日新聞の渡邊氏と初対面で、建日子の『推理小説』なども話題に、写真を撮ったり撮られたり、いろいろと楽しく話がはずんだ。この店へは、朝日子も建日子も連れてきたことがある。客をみる心眼無比のママに、見合いの日、朝日子と婿殿候補を連れて行ったこともある。すまチャンが渋い顔をしたのが忘れられない。
「きよ田」「ピルゼン」「こつるぎ」また一つ、久しいなじみの銀座の名物店「ベレー」が閉店するのは、寂しい、と言うもおろかである。
* 妻はそこそこ元気であった。ゆっくり、保谷まで電車を乗り継いで帰った。駅からタクシーに乗った。黒いマゴが嬉しそうに迎えてくれた。
2004 12・10 39
* 来る正月の早々に、加藤剛の『次郎長が行く』三越劇場の招待が来た。宮本研の旧作である。正月下旬には三百人劇場の『ゴンザーゴ殺し』を観に来るようにと。ハムレット絡みのこれは文字通りの新劇である。俳優座と劇団昴との競演は、いつしれず私の生活を彩る藝術風景になっている。ありがたい。
正月にはこれに秦建日子の小劇場上演で新作の『月の子供』が下北沢で始まる、これには初めと終わりの二回観たいと座席が頼んである。建日子は一月十二日 (水曜)午後十時から、新しい連続ドラマの開始とも聞いている。今はそういう時だ、しっかりガンガンおやり。小説も第二作が有るに違いない。第二作というのはなかなか難しいものだ、心を籠めてすてきなエンターテイメントを打ち出して欲しい。
すっかりお能から身を退いているが、誰かの森厳な「翁」に出逢いたいもの。歌舞伎は高麗屋へもご縁が繋がりそうで心強い。初代吉右衛門を中心に福助(芝翫・歌右衛門)、染五郎(幸四郎・白鸚)、もしほ(勘三郎)という南座顔見世からわたしの歌舞伎は開幕した。ことに高麗屋はその頃新門前梅本町の「岩波」を定宿にして、先代幸四郎一家は(つまり今の幸四郎・吉右衛門兄弟ら)、わたしの実家のわきの抜け路地を通って行き帰りしていたし、時には、父の店に入ってきて電池などを買っていってくれた。
そんなことがあり、ひとしお幸四郎家をずうっと贔屓にしていた。この家の枝葉は、更に、先の団十郎(長男)、先の幸四郎 (次男)、先の松緑(三男)そして女婿の現雀右衛門へと大きく拡がったから、この一家のことを知っていると、おおかた歌舞伎の世間は見通せたものだ。
その上に、わたしは当時片岡我當の長男であった秀公(現我當)と中学で同期だったし、実は彼は大学もわたしと同じ同志社に入っていた。我當の姉も上級生にいて、文化祭で「修禅寺物語」をヒロイン役で堂々演じてみせてもくれた。
肩肘はって能が一、人形が二、歌舞伎が三などといっていた高校生だったが、やはり歌舞伎の魔のような魅力は随一で、とうとう今日、歌舞伎のいわば虜囚となっている。我當君のおかげであり、さらには扇雀丈とのメールのご縁を繋いでくれた囀雀さんにも、感謝しなければならぬ。番頭さんにも重々お世話になっている。
2004 12・11 39
* 母と娘との関わりについて、また一つの発言が届き、わたしの文学にも及んでいる。
* 娘と母との問題はさほど大袈裟なものにはなりませんし、かといって簡単に自由になれるという性質のものでもなく、ただ「背負っていくもの」だと思っています。母から生涯逃れられなかった藝術家もたくさんいますが、どんな家庭でも、母ほど現実で、世間で、道徳で、真実で、救いがたく、愛ある存在はないのです。どう転んでも異様で異常などという驚愕する事態になりようがありません。それが母と娘とのごく一般的な関係なのです。環境として、秦さんには未知の世界というだけでは。それに、母と息子と、母と娘との関係は、根本的にちがうものです。
もしわたくしが秦恒平文学の研究者であれば「秦恒平の文学世界における母の欠落」をテーマにして長大な論文が書けるでしょう。江藤淳の『成熟と喪失』に対抗して打って出るようなものを是非誰かに書いてほしいものです。
秦恒平の「身内」観は母の存在の欠落がなければ生まれなかったと思うのです。とてもいいテーマです。
秦恒平は生まれた環境において母が不在で、そして結婚という新しい環境においても妻を母にはしなかった。母の不在から、母の役目を担う人間を徹して排除拒絶することによって、空前絶後の孤独、孤愁、悲哀の文学世界が完成された。着眼点として悪くないと、自画自賛しておきます。お笑いください。 東京都
* 人には親があり、親には父と母ないしその亜型しかいないのだから、だれしもが親を、父母を身に承け身に負って生きて行く。あたりまえのこと。この人が、例えば私の場合「母の欠落」という、「欠落」とはどういう意味で用いられた言葉なのか、もう少し知りたい。
わたしがふと自身の廻りを見回せた年頃、わたしのいた山城当尾の祖父母の家には、父も母も、姿がなかった。それ以後わたしは、実父母と一つ屋根の下に暮らした経験を、一日としてもたない。ともに実は生別であったが、「非在」であったことはその通りで、それが「欠落」と謂う意味なら、事実である。
やがて数歳にして秦の家に移されたとき、そこには父であり母である「という」人が実在し、数歳の私には、それが「養」父母であるというような分別は出来なかった。おいおいに知らされた、近所の子供たちの口や、大人同士の囁きを通して。これが「欠落」の証明であるのだろうか。ただの「事実」に過ぎない気がする。
人は、事実だけで人生の空気を呼吸したりしない。独特の観念や理念や構想をもち育みながら創り上げて行くのが人生であり、ことに藝術家はそうである。
人は生まれた瞬間に、広大な海の上に我一人でしか立てない「島」に立たされるというわたしに固有の認識は、このメールの人の云う意味の「欠落」など、人間全般に普遍妥当しているという認識であった。親といえども、島と島とを隔てあっているレキとした「他人」に過ぎぬいう認識から、「身内」という思想をわたしは育んだ。「欠落」がなければわたしの「身内」思想は生まれなかったという、この人の指摘は当たっている「かも」知れない、だが、そういう簡単な筋道だろうかなと苦笑されもする。
* 生まれ落ちて生母を「欠落」同様に喪っていたのは、光源氏であった。その母「桐壺」に生き写の、父帝の新たな愛妃「藤壺」を、理想の女と愛慕し、ついに闇の子を産ましめたのも、光源氏であった。その藤壺と人生を共には出来ぬと断念したときに、たまたま藤壺の面差しに似た美しい姪「若紫」と出逢い、生涯最愛の妻としたのも、光源氏であった。彼には多数の女性が関わり合っていたけれど、紫上の絶対地位は終生揺がなかった。
わたしは、源氏物語に出逢う以前から、生みの母だけでなく実の父も共に完全に見失っていたが、光源氏とは違い、そういう父母を、恋しいとは、思いも寄らなかった。それほど養父母に親しんでいたかというと、それも無かった。頼んではいたが「ちがう親」だと思っていた。太郎冠者のように謂うなら、秦の親たちは「頼うだお方」であり、他方、実父母には用がなかった。無用の人達であった。その意味では「欠落」どころでなく、「排除」「拒絶」の「非在」であった。
実の親が身近にいない事実を、わたしは一度も泣かなかったような子であった。光源氏よりもその点甚だドライだった。自由な想像力で、「親」なるものは好きに創り出せると思い、かえってその境涯が愉快であった。しいて云えば、源氏物語もまだ知らないでいて、わたしは一日も早く「藤壺」に出逢いたかった。「若紫」を知りたかった。まして父親のことなど考えたくもなかったし、念頭に現れる実の父は、少年のわたしには厭悪の対象でしかなかった。秦家に頼もしい父がある以上、わたしを顧みなかった実の父親など、無用だった。わたしは、その頃から、「男は嫌い」だった。
父のことはだから云う必要もない。母について云えば、生みの母など要らないとますます思わせる事態は、新制中学の時に起きていた。
いかなる肉親よりも絶対に親しいと思える人、わたしがわたし流儀に「身内」と思い切れる人に出逢っていた。一学年年上の人であった。ちょうどわたしが与謝野晶子の源氏物語を耽読していたさなかに、その「藤壺」のような人に学校の中でわたしは出逢ったのだ、だが、出逢って半年後、その人はもう卒業し、卒業と同時にどこかわたしの手の届かない知らぬところへ去っていた。
わたしは、「姉」と思い「母」のように慕った此の年上の人の遺していった、漱石『こころ』の耽読とともに、自分の「身内」観をほぼ確実に仕上げた。次に出逢うべきは「妻」であった。
妻とは大学で出逢った。もし生母が「欠落」していたたにせよ、カッコ付きの理想の「母」なるものは、二人の現実の女性のリレーで、正確に、わたしに於いて満たされた。生身の生母はわたしには全く無用であったけれど、「母」なるものは満たされて、少しの悔いもない。現実の母ではなく、「母」なるものの重みが静かに胸に落ちたのである。
* 源氏物語にあれほど打ち込んだ谷崎潤一郎は、また、「母もの」作家といわれた。だが彼が現実に存生の母「関」を書いた筆致と、たとえば少将滋幹の母など「母」なるものを書いた筆致とは、砂と露ほど異なっている。谷崎はじつに巧緻に実母を利用し理念の「母」への愛に至った分別に富んだ「母もの」作家でもあった。構想された「母」もの作家でこそあれ、センチメンタルに生母の愛に飢えていた人ではなかった。泉鏡花がまたそうであった。鏡花はよりわたしに近い感じ方をしていた。ご丁寧に鏡花の妻は生母と名前も同じであった。
メールの人が、終生母親から逃れられなかった藝術家は数多い、と書いているが、鴎外でも漱石でも直哉でも太宰でも、みな絶妙の「距離」を勘定して、決して「逃れられない」ハメには立っていない。譬えに引くのには乱暴すぎるが、佳い意味で「母親はもっつたいないがだましよい」を実演していた。
息子と母親と、娘と母親と、は、ちがうと書いてあるが、普通の意味では息子と母親とは親しみ深く、娘と母親には深層の葛藤が凄いと云うではないか。わたしは、数多くはないが身近にもそういう例を知らないではない。徳田秋声の『あらくれ』であったか、母と娘との葛藤は凄惨なほどで、それがまた名作のリアリティーを確保していた。
どちらかというと、母と娘とがべたべたという様子は、うるわしいよりも、少し気味わるいものが在りはしないだろうか、ま、それには拘るまい、息子と母親とのべたべたなど、さらに気持ち悪いという面もある。
* で、母の「欠落」が私の文学を成している必然性、という、この人の提示のテーマであるが、これについては、私自身が云々することはない。このメールの人の問題提起に感謝するに止めたい。
私にかんする研究書には、原善君の本が一冊あるが、この人は「幻想」にいつも力点を置いた。それにも「非在の母(父)」を考察する視野は有った、けれど、やはり幻想論ではあった。「身内」観に関わって私の人間観に触れるというモノではなかった。
なるほど、このメールの人の指摘は、ちょうど原君の論の「欠落」を、適切に指摘したものと言えるのかも知れぬ。
2004 12・12 39
* 秦建日子『推理小説』も読み終えた。読み終えてみると、いつものテレビドラマの、やや長いのをまた一つ見おえたような気分であった。中身にかんする感想としてはそれで尽きている。ホウホウと、表現と技法とにかんする感想は、すでに書いたし、書き直す必要はない。適切な批評であったと思う。
2004 12・13 39
* 十六日というと半端な数のようだが、民俗行事的に十六日はゆるがせに出来ない意義をもっている。正月十六日も、夏の盆の十六日も。ほかにも有る。たいがい先祖の魂祭りと関連している。それかあらぬか、十六日というと、わけもなく、ふと遠いなつかしいものを感じている。
わたしたちが昭和三十二年の十月十六日に大文字山に登ったのは、むろん偶然であったけれど。
* ごく若い友人の上に、嬉しいことがあった。これからの人生に、よい航海を。
2004 12・16 39
* 兄北沢恒彦の自死からもう何年を経たことか。甥たちや姪はちゃんとやっているだろうか、消息をきかない。
2004 12・16 39
* 色川大吉さんにお許し戴いて『自由民権請願の波』の章をスキャンし、校正氏ながら起稿している。北村透谷の論文もスキャン追加した。一月前に親切が理事会承認された「主権在民史料」特別室に、もうつぎつぎ史料が入り始めている。
こういう事業は電光石火に進める以外、軌道に乗らない。「ペン電子文藝館」を開いてまる三年一ヶ月、これだけの莫大な仕事が可能になったのも、理論や技術は知らないが、電子メディアのメリットだけは直感的に分かっていたからだ。
三年に、「ペン電子文藝館」だけでいうと数十万円しかつかっていない。もしこれだけのコンテンツを紙の本にしていたら数千万円を費消して、むろん殆ど回収不能であるはず。「ペン電子文藝館」はウソ偽りのない「無料公開」が出来ている。インターネットの凄いような強みである。日中文化交流協会年会費の受領証が届いて、理事さんの「電子文藝館」いいですねと添え書きがあった。
* 栃木からたくさんな美しい苺が、川崎の下の妹からワインが二本、贈られてきた。あす、嬉しい客があり、その時に、と。
京都国立博物館の館長から『古写経』という大冊を頂戴した。わたしは古筆の書が大好き、古写経にははかりしれぬ夢を誘われる。わたしの『みごもりの湖』の筆が動き出したのは、京都博物館で石村石楯(いわれのいわたて)の名のある写経をみて息をのんだ、あの瞬間であった。石楯こそは近江湖上に美少女東子の父である恵美押勝を追いつめて斬った当人であった。美しい写経に眼くらむ思いのまま、興奮を静めてわたしは長い小説のはるかな前途を夢見ていた。夏の休暇か出張中の寸暇であったか。国立京都博物館は、限りなく懐かしい想像の惹きだし口であった。興膳宏館長に感謝申し上げる。
2004 12・16 39
* さ、あすのためにやすもう。
二十一日には「六九郎」になる。妻と終日歌舞伎をはんなり楽しみ、そのあと、一日二日もし冬の花など探ねて出歩いてこれたら申し分ないのだが。
2004 12・16 39
* 秦の叔母は人生の大半を職業的に茶の湯と生け花とにかかわって、そのまま逝った人だ。小学校を出た他は裁縫などの技藝学校程度で、本を読む姿など長い間に一度もみた覚えがない、甚だ索漠とした終生未婚の生活者であった。したたかな内弁慶であったにしても、外では徹して如才がなかったのは、女ひとりで生き抜くに必要だったのだ。なにしろ京都であり、茶も花も女の世間だ。勝たないまでも負け始めたらおしまいだった。
そんな叔母の、性格からにじみ出た批評語とは思いにくいのだが、光る一語を、わたしに遺してくれている。意図して遺したのではない、わたしが耳に留めていた。
「お静かに」とは昔人の普通のアイサツであり、その延長と思えばなんでもないのだけれど、叔母は、「さわがしい」のはいけないと、時々言った。床の花をみても、掛け物とのうつりを見ても、人の批評でも、ものごとの批評にでも、再々ではないが、時にぴしり、「さわがしい」と言った。叔母のいつ知れず身につけた美学であったろう、たいした批評語である。
優れていいものは、烈しく動いていても魅力の質に於いてきちっと「静か」で「はんなり」する。そうでないものは、言葉や態度はいくら美しげに飾っていても、仰々しいものは、隠しようもなく「さわがしい」。
褒めるのも貶すのも、静かに「はんなり」と、どこか「さわがしい」とで、おおかた足る。叔母の手厳しい遺産である。
2004 12・17 39
* 好天。来客を迎えて歓談半日、池袋パルコの船橋屋へ出て、夕食。
* 元筑摩の日比さんからも中川さんからも、建日子作『推理小説』に手紙をいただく。売れ行きは好調でもう初版本は手に入りにくい。こういう本は脚が早い、どんどんと行くのがいいので、永くは保ちにくい。
2004 12・17 39
* 「戦場のピアニスト」をもう一度見始めたけれど、あまり残酷でやめた。どうして人間はこうだろう。どんな猛獣でもこんなことはしないと嘆くと、「猛」獣と呼び付けにしているのも人間よ、と、妻。
* 気に掛けてコツコツやっていた仕事が丁度半分がた出来た。半息ついている。息子の置いていったたった三枚の写真印刷用紙に、二枚、デジカメで気に入ったのをプリントしてみた。すこし赤味が加わったが綺麗に出来た。
これから「ER」を見てから、今夜、少し早く階下へおりよう。早くどころか見おえるともう二時前だ。やれやれ。
2004 12・18 39
* バグワンと柳田国男を読んで、そして機械から離れる。すぐうしろのソファで黒いマゴが、わたしのカーディガンに埋まるように、ぐっすり寝入っている。安心しきってるマゴを見ているのが好きだ。心底、嬉しくなる。おやおや、もう階下へ行きましょうと起きてきた。いつも抱いて降りる。
2004 12・19 39
* 超多忙の建日子が深夜に来て、日付が変わると「誕生日おめでとう」とひと言言って、今し方帰っていった。
2004 12・20 39
* 歌舞伎座、昼の部の最初、「嫗山姥(こもちやまんば)」が予想外上乗の一番目で、福助の「しゃべり」と「踊り」が楽しさいっぱい、手事が、めいっぱい大きく悠々と的確、場面が生き生き安定して、見ていて嬉しかった。ファシネーション満点。芝居は荒唐無稽の近松原作だが、筋書きは頭に入れるまでもない、福助演じる荻野屋八重桐、のちに金太郎こと勇者坂田公時の「母なる女」の所作だけ楽しんでいて、一幕の興趣は満喫できる。福助快調。大きく力強く化けてくれる。七之助の赤姫も扇雀の時行(ときゆき)妹糸萩もそれなりに、美しかった。八重桐の夫坂田時行を演じた中村信二郎が、そろそろそれなりの佳い名跡を嗣いで欲しいもの。
* この三十分幕間に、吉兆で食事した。師走の献立、今月はことに美味く、八寸をはじめ、一品として当てはずれがなかった。ことに刺身の寒ひらめ、いかがよく、大根、えび芋、冬至南瓜、菠薐草、ユズという焚き合わせ、いつもなら遠慮したい野菜の味付け上々、そしてゴマ豆腐の白味噌仕立て。焼き物も飯も贅沢であった。めでたい誕生日の食事ができた。吉兆特製の冷酒一合。
* 次の「身替座禅」は笑える松羽目もの。勘九郎と奥方三津五郎、太郎冠者に橋之助は必然のトリオで、腰元に門之助、七之助がつきあい、これはこれで、贅沢な顔ぶれ。勘九郎の色気と気品と愛嬌。三津五郎は「わわしい女」をどこか愛すべき可愛らしさでも演じてくれて、流石。期待通りに笑えて、期待通りにおもしろかった。勘九郎の自信である。
この芝居は、勘九郎の父勘三郎が「もしほ」から襲名してまもない、先代の幸四郎が「染五郎」から襲名してまもない時代に、二人して大名と奥方役で初めてみた。京都南座の顔見世だった、高校一年だったか二年だったか。勘三郎のとろけそうな「花有り=はんなり」の舞台に、少年のわたしは茫然とした。
もしほ時代の勘三郎を、染五郎時代の幸四郎を、初代吉右衛門や福助時代の前の歌右衛門といっしょに南座の顔見世で見たのが、劇場で歌舞伎の洗礼をうけた最初だった。その勘三郎もとうに亡くなり、来る三月歌舞伎座で、勘九郎が父勘三郎の大名跡を襲名する。今月が「勘九郎」の名での最期の興行になる。めでたい。むろん、もう座席は予約してある。
三番目は為永春水作、木村錦花脚色の「梅ごよみ」で、玉三郎の仇吉、勘九郎の米八という深川の売れっ子藝者が色男丹次郎を達引(たてひ)く。丹次郎役は沢瀉屋一門の売り出し段治郎で、期待していたが、大和屋、中村屋の両女形に挟まれては、明らかに男前も芝居も全然力不足。ただただ風情と意地と情緒纏綿の、それでいて堪能できる江戸芝居であり、もっぱら玉三郎の圧倒的な美しさゆえに、舞台は美しくも冴え冴えとした。
* 茜屋珈琲店へ出て、わたしは珈琲、妻はいつものなんだか柘榴をどうしたとかいう呑み物で、休息。
四時半から夜の部。座席は昼も夜も成駒屋の好配で最良。
* 先ず七之助の白井権八、橋之助の幡随院長兵衛で、御存じ「鈴ヶ森」の一幕、ま、あれはあんなもの。二人とも好演としておく。但し橋之助、あれだけいい口跡の、底を抜いて流すような語尾垂れを「悪グセ」にしてほしくない。気取ってやっているが明らかに損をしていると気付いて欲しい。
次いで、沢瀉屋一門の綺麗どころ、右近、猿弥、笑也、笑三郎、春猿以下を大和屋坂東玉三郎が率いての、「阿国歌舞伎夢華(ゆめのはなやぎ)」は、全く綺麗事のレビューで、玉三郎の、一切を圧倒し統率する美貌と麗姿だけがみもの。ま、右近の踊りが切れ味宜しく眼に残ったが、女形たちは玉三郎の前では可哀想だが、屑のよう。亡き山三の霊でせり上がった段治郎も、玉三郎と一と一の辛抱芝居ではとてもサマにならず、まだまだあの程度の色男では、家賃が高い。同じ玉三郎と前に競演した「桜姫東文章」で、持ち崩しの清玄を力演し好演したときは、地が、役によく大きくはまっていた。ああいう為所(しどころ)の多い役はしやすいが、辛抱役の二枚目では、うまくまだ花が咲かない。むずかしいものだ。
三番目は大佛次郎原作の「たぬき」 ちょっと凝り気味の狙い筋だが、そのわりには深みなく、早桶に入れられ葬儀も済ましたところで焼き場で生き返った三津五郎のその後が、今一つ胸に迫る芝居に成りきらない。この舞台でも、福助の妾芝居が頓狂で色気もあり、見せてくれた。福助の兄の幇間役勘九郎は、例の調子で軽妙に笑わせてくれるが、芝居自体が彫り込みが浅いので、笑いもわりと薄いままに流れて行くしかなかった。ただ御坊役の助五郎がしんみりと話して好演、次には源左衛門を襲名して出世するというのを、肯いて声援した。
問題は大切りの渡辺えり子作「桃太郎」で、あれが、成功作なのか失敗作なのか、面白かったと果たして言えるのか、やはり大いに面白かったのか、よく掴みきれない「にぎやか芝居」であった。勘九郎が勘九郎の名でする最後の芝居なのである。彼に新たなレパートリイになったのかならないのか。再演はしないようなことも云う。
かなり大笑いはしたものの、熟していないという感想はどうしても残った。妻も頚をかるく傾げ気味だった。
もっともっと馬鹿げたままで佳いのに、ヘンに時事めく説法がついてまわって、それが今一のくさみにさえなった。野田秀樹の「鼠小僧」がぶっ飛ぶような傑作だったのと比べると、劇作の才能が段違いだという憾みがのこる。楽しんだけれど、満足満足とは行かない脚本だった。七之助らのダンスは面白かった。また桃太郎の女房と赤鬼役とで扇雀丈が活躍していた。
* 妻が今日も行きはそうでもなかったが、帰りには元気になり、歌舞伎座から歩いて「べれ」まで行き、賑やかな店内に歓迎されて、小一時間を「すまママ」や「山ちゃん」や他の客達と楽しんだ。水割りをわたしは三杯ほど、妻も一杯飲んでしまい、続々来るお客に席を譲って帰ってきた。電車では汗ばんだ。保谷駅に降りると冷えた夜気が心地よく、タクシーにものらず、歩いてゆるゆる帰った。家に、かつがつ「今日」の内に帰り着いた。黒いマゴが玄関に鎮座して待っていた。
* もう、二時半。本を読んでから、やすむ。佳い誕生日であった。
2004 12・21 39
* 一月は芝居月。加藤剛の三越劇場を皮切りに、建日子のやや長丁場の「月の子供」公演があり、これは前後二度行こうと思う。十日に梅若万三郎の「翁・高砂」があり、次いで歌舞伎座の通し、そして劇団昴の「ゴンザーゴ殺し」がある。俳優座の何十年とやらお祝いの会も、建日子の新しい連続ドラマ「87% ―私の5年生存率」もまた始まる。わたしの新刊も一月はやばやと初校が出揃ってくるだろう。
京都美術文化賞展のオープンにうまく行けるといいが、通知がない。鬼が笑っても佳い、春のことを想うようにしている。「何もしない」でも心豊かに楽しく過ごせますように。
2004 12・24 39
* もう部屋の掃除も片づけも徹してはやらない、雑然と山になったものを、少し天地左右を揃えて積み直す程度にしか出来ない。そんな労働で疲れても仕方がない、明後日の今頃は、早や元日も通り過ぎようとしているのだ。そういうものだ。妻と二人きりの、それだけにアウンの呼吸でサボれる大晦日になるのである。昔は来客が幾組もあったが、妻の健康と家の手狭化につれて、来客の受け入れが極端に不自由になっている。結句それを是とすれば、夫婦二人の「これぐらいでよろしかろう」が、だんだんと年々に内輪に狭まり、つまり昨日が今日になるだけの越年で迎春、「それでいいよ」となっている。
息子達は元旦早くに帰ってきて、雑煮を祝い、初詣に近くの村社へ足をはこび、あとは歓談・飲食・歓談で、たぶん元日のうちに、泊まらないで仕事場へ引き揚げて行く。まして来る初春は、十一日初日、新作・演出の舞台が下北沢で幕を開け、翌十二日からは讀賣系のテレビでまた新たな十回連続ドラマが始まり、まだ脚本全部は仕上がっていないだろう。なにもかも大勢のスタッフといっしょくたに、組んづほくれつ創っていく仕事だから、建日子の歳末年始は気もそぞろである。せめて元日一日はうちでのんびり過ごさせたい。
* その辺をみまわせば、なんだか、最悪にごっちゃごちゃの状態から、少しはどの部屋も書庫も落ち着いているから、上等としよう。今日もまた江戸の鰻老舗で常用してきた「龍刀」の名酒が一本贈られてきている。「奧丹波」もある。樽から柄杓で掬むのもある。明日の街への買物はどうやら雪らしい、それはもう覚悟をきめ、機械はもう終いにして、テレビの前で少し夜更け酒を楽しんでこよう。
妻はそれでも例年通りのお煮染めを作り始めている。ときどき酒の肴にできたてが廻ってくるのも、年の瀬のきまりの図柄だ、黒いマゴもみんなで顔が揃うととてもご機嫌である。
2004 12・30 39
* 師走いま逼迫。わたしはこれから街へ買い物に出掛けねばならない。それが迎春の恒例。たいした役ではない。雑煮のための京の白味噌。吸い物の蛤。そんなもの。
2004 12・31 39
* 出遅れているうち雪がさかんに降りだした。幸い巡回のバスが来て駅まで乗れた。
今年は東武デパートまでまわらず、何もかも池袋西武で調えた。京都の白味噌、1.5キロ。蛤、36個。干支の箸紙。年越し蕎麦のための海老天麩羅。来年の「湖の本」用の大判ダイアリー。妻のため春のお祝いに花をたくさん。そして、衝動買いの大きな「たらば蟹」を二パック。
何処へも寄らず、重い大きな荷をさげて、雪の西武線で保谷駅へ戻る。幸いにうまくタクシーが来てくれた。
雪といふ不思議なもののふる我ぞ 遠
* もういいだろう、片づけていてもキリがない。五時過ぎ、戸外はもう暮れきった。祝祭は前夜の宵よりときまっている。もう正月は来ているのである、戸の前まで。
零時を期して。 それまでは入浴などして、くつろごう。今宵ばかりは世界中が穏やかでありたい。大晦日に、なにとなく「落ちこんでいる」というメールの人もいて気に掛かる、が、だれもだれも、怪我無く元気でいてほしい。
平成十六年 尽
2004 12・31 39