* 元旦、二時が過ぎた。そろそろやすもうか。もうすこし、呑んで寝るか。もう起きているのは、わたしと、建日子の連れてきた猫のグーだけ。黒いマゴの方は、妻と枕をならべて熟睡している。
2006 1・1 52
* 建日子と三人、マゴとグーで新年の雑煮を祝った。読み始めはバグワンを選んだ。
* 年賀状をたくさん戴いた。メールでも。三人で天神社に初詣。人出多く。
2006 1・1 52
* 建日子と二日の雑煮を祝う。今日も年賀状が来ていた。
* 雨をおして、若い人達が年賀に訪れ、建日子も入って、歓談のうちに、妻が念入りの二十種ほどの正月料理をおいしく食べた。会津のとびきりの清酒、またフランスワイン。談は八方に飛んでは飛んでは、若々しい声が弾んだのはなによりであった。
* 建日子の車にわたしも妻も同乗して、若い来客二人を住まいの近くまで送っていったドライブが、また一つの楽しい賑わいであった。帰りは親子三人のドライヴになり、面白い正月二日になった。
2006 1・2 52
* 二匹の猫が家中をうろうろするので、いつのまにか猫の匂いが満ちている。と、思っていたら来客のグーくん、ゆるいウンを粗相していた。ま、正月である、しかたあるめい。
* さて五日からの小旅行に、荷物の用意を。好天を、少なくも悪天候でないことを祈る。
2006 1・2 52
* 三日目のお雑煮を三人で祝う。昨日のながいドライブで建日子の時間も体力もとってしまった。しかし、心嬉しい夜景の往来であった。
午後、グーを連れて建日子は仕事場へ帰った。年賀状を一枚も書かずに済ませた三が日、わたしはのんびりしている。
2006 1・3 52
* あふれ出る思いを一気に書きあげた歌を読ませていただき、感動しました。
朝地震(あさなゐ)のしづまりはてて草芳ふくつぬぎ石に光とどけり 恒平
夕すぎて君を待つまの雨なりき灯をにじませて都電せまり来(く) 迪子
どれもこれも素晴しく、何度も読ませていただきました。 俶・大阪市
* ほんのかぎられた知友に、この二首で、結婚を通知にした。新宿区河田町のアパート「みすず荘」に六畳一間を借り、新婚の新居にした。近くの若松町から都電に乗り、飯田橋、お茶の水も経て万世橋のちかくで乗り換え、本郷五丁目の医学書院へ通勤した。慣れると順天堂前で都電を乗り捨て、会社まで歩いた。その方が遅刻の心配が少なかった。
当時わたしは定期券以外に、長い間財布を持ってなかった。余分の一円も使えなかった。会社では、食券十五円の白い丼飯と味噌汁の昼飯。汁を飯にぶっかけ、ときどき、備えてあるソースか醤油の味を汁かけ飯にくわえて、それで一年も二年も過ごした。
小遣いができるようになると、少し背の高い岩波文庫古典の古本を見つけては買った。その中に『梁塵秘抄』があり白石の『西洋事情』があり『耳袋』の上巻だけがあった。
そんなビンボー暮らしの中から、三年して小説を書き始め、五年目には私家版をつくりはじめた。
結局わたしは四冊もの私家版で、百五十、二百部と、小説やシナリオ本を作ったが、妻はひと言も苦情を言わなかった。表紙の繪をいくつも描いてくれた。かかった制作費用は、四冊とも足すと、信じられないほど莫大であった。
後に、古書の市場で「四冊」五十万円以上していたときは、思わず唸った。すでにわたしの懐とは無縁な、よその売り物でしかなかった。しかし、一度も手持ちの私家版をその手の古本屋になど持ち込まなかった。
2006 1・4 52
* 明日は、建日子たちと松本へ行き、美ヶ原へ、ホテルが迎えの車で登る。吹雪かれませんように。七日に帰る。
2006 1・4 52
* 新宿発、スーパーあずさに乗る。われわれの荷物は半ば建日子があらかじめ仕事場へはこんで帰り、今朝、提げてきてくれた。助かった。グリーン車を用意してくれていて、空いており、四人で、らくらくと広い席が使えた。
快適に走って、塩尻経由松本へ、すとんと着いた。美ヶ原の「王が頭ホテル」まで迎えのバスが来ていた。
あの山のテッペンまで行くのだと運転手指さして示され、言われ、ビックリ。二千メートル余、日本で最も高いところにあるホテルだそうだ。
松本市街を抜け出て山へ掛かると車はチェーンをつけた。もう雪道で。二千メートルというとあの比叡山の二倍半ぐらい高いんだと想う。運転手には慣れた運転なのだろうと、身を預けてしまった気分で、落葉松ばっかりの山の上へ上へ、うねりうねり登っていった。
直(ただ)に立ち山はら蔽ふ落葉松の根にしづまりて雪の真白さ
これしきの歌なら幾つでも口をついて出来るが、面倒くさくて頭から追いやる。
宿に着くまでに一時間半あまりもかかったろうか、おっそろしく乗り物が上下左右に揺れた。こんな高い山に登ったことは一度もない。
* 夕方へかけ、宿の部屋からはまぢかな山もみえないほどガス雲がたちこめていたが、それもあれれと想うまに視野が広がり、晩には晴れていた。
夕暮れる迄にちょっと外へ出て雪を踏んで歩いてみたが、零下十何度の寒さに、顔は「シバカレ」ているみたいに痛くこわばり、妻は、たちまち気分がわるくなって建物へ逃げこんだ。
浴室で温まった。もう窓の外は何も見えなかった。いわゆる温泉ではない、が、温まるのは何よりのご馳走。とは、いえ、わたしは、此処へ来てかすかに息のつまる、呼吸が浅い感じで、舌下薬のニトロを二三度口に含んだ。清潔な新しい建物だけれど、畳の部屋に何の趣味もない。ただ広くて暖かい。ベッドも入り口に近く、つまり山上の空気にまぢかい窓側からは遠ざけて用意してあり、落ち着いた。
ホテルのいたるところに山の写真や高山植物の写真が豊富に陳列してある。部屋にはない花が、廊下や踊り場やロビーには、ふんだんに咲かせてある。
ロビーに、一斗ほど入るアルミの大薬缶に「笹茶」をいつも沸かしてあり、アルミの大杓子で汲んで湯呑で呑むのが、いちばん、わたしの気に入った。乾燥もあるだろうし空気も少し稀薄なためか、口が渇きがちであった。
食べ物のことは、言うべくなにもなく、多彩に多量であったというだけ、「やまめ」を串で焼いたのが美味であった。
高所を用心して酒もあまり呑む気はなく、部屋で、湖の本の気がかりだった校正を、どんどんはかどらせ、疲れると湯につかりに行き、背中や腰を機械にもみほぐさせ、わりとさっさと床に入り「八犬伝」を読みふけってから灯を消した。息子達とは、食事どき以外とくに交流もなく。
2006 1・5 52
* 朝食も、種類たくさん、満腹。妻は、息子にもらったかなり精度のいいデジカメを盛んに使う。建日子らはカメラマンなみに大きな機械をかかえ、撮影も大わらわなら、パソコンまで持っており、「仕事」「仕事」がはかどっているやら、いないやら。わたしは、下界でなら一週間以上かかると歎いていた校正仕事を、期待していた以上に全部仕遂げて、大満足。なにしろ外は寒いし危険だし、テレビはつまらないし、退屈するに違いないとフンで校正仕事に期待をかけてきたのである。
* 朝、雪上車にのせられて美ヶ原高原の「美しの塔」まで行く。
奇蹟のように珍しく快晴に恵まれ、富士山も遠くにくっきり浮かび、東西南北、何十座もの名山高嶽のオンパレードを、心行くまで雪の上で眺めまわした。
ことに蓼科山や赤岳など八ヶ岳連峰から、右へ富士山 そして霧ヶ峰 さらに甲斐駒 北岳 槍ヶ岳 仙丈岳 塩見岳等の南アルプスに眼が吸い取られた。
浅間はかすかに煙を上げていた。
山の名前にはとらわれないで、ただただ首をめぐらして眺めていた。吹雪とガスとだけで何一つ見ないで帰って行く客もいると聞いたが、あれほど変わる山の天候・表情ではさもあろう。めったにないお天気ときくだけで、気分がよかった。また前日の夕方ほど寒くもなかった。
ホテルにもどると、さて、することは仕事しかない。十二時に多くの客がバスで山をおり帰って行く。ホテルは閑散、浴室はまったく独り占めになるので、行ってきたと思うと又息子に誘われて行く。からだの芯が冷えているのか、湯に深くつかると一瞬体奧に或る寒さを感じ、こらえて漬かっているうちに温まって行く。
部屋は妻と二人。大きな展望窓にそって椅子にこしかけたまま、眼前の山塊が天然に繪を成している「造化の妙」に感嘆する。
こういう山岳画を展覧会でよく見かけるが、画家が極度に抽象化して描いていると見ていたあれこれが、想像を絶してかなり「写実」の姿勢で表現していたんだと思い当たれたのは、収穫。
* 四人でなにくれと少ししみじみ話もしてみたかったが、建日子は急ぎの仕事を抱えてきており、顔が合うと、さて、あらたまった話にもなりにくい。
ま、結局そういうことは諦めて、二日目の晩もわたしは校正の能率をがんがんあげ、そして持参の『八犬伝』をどんどん読み、四人でわけて呑んだ売店のワインにすこし酔ったまま寝入った。
2006 1・6 52
* 寝過ごして電話で朝飯に起こされ、ぐうっと気分がわるくなり、息ぐるしく、脈も結滞し、十時頃までわたしは休息した。雪上車にのって動く気もなく、十時に部屋をあけて階下におりてから、二時間近く、ロビーで校正の最後の仕上げを励み、食堂の、なかなかの蕎麦を一杯食べ、下山の十二時を待った。
雪は夜の間に降ったらしく、いたるところ白さを深め、スターダストがきらめくほど太陽光は澄んでまぶしく、下山バスも何の心配も無しに、やすやすと松本市内へ入っていった。
松本駅で妻とわたしはコーヒーをのみ、息子達はいろんな人へのお土産を買いにかけまわり。そして定刻の特急グリーン車に、二時前にのりこんだ。
妻は窓際で外の景色によく声をあげ、わたしは『八犬伝』を読んだり、話しかける妻に相づちをうったり、うとうとしているうちに、もう八王子まで来ていた。むしろ八王子から新宿までがいちばん遠い長いように感じた。
新宿で若い二人と別れた。急ぐ用のないわれわれの荷物の半分は、息子が担いでいってくれた。有難い。
建日子は、明日で満三十八歳。いつまでもこっちは子供のように思ってしまうけれど、それではいけない。今回の旅も、万事は建日子のプレゼントであった。嬉しいことだ。
* 家に帰り着くと、ま、黒いマゴの、鳴くこと鳴くこと鳴くこと。待って待って待っていたんだよう、と。
* 例年とは事変わって、夕食に、七草粥を二人で祝った。
* 年賀状も宅急便も、たくさん。メールも。しかし不正「info」メールの数は、あわせて八十ほども。削除に時間が掛かった。
2006 1・7 52
* 年末には記念のご本をありがとうございました。何種類かの『少年』の中でも今回のものはひときわ小ぶりに愛らしく初々しく、ただただなつかしい、そんな思いでありがたく拝受いたしました。 上北沢
*「看護学雑誌」編集の頃の看護婦さん筆者の一人。わたしより少し年輩。数十年の懐かしい仲良かった友でもある。この人ものちのちエライ看護学研究者として大学の教壇に立っていた。朝日子が、わたしの注意を尻目に弓を引いたりバドミントンをやりすぎ、右の肱を傷めたとき、日赤へ入院の世話をしてもらったのが、この人。滑り台から落ちて腕を折り東大に入院したり。盲腸炎の術後をこじらせたり、朝日子もあれでけっこう吾々を心配させた。たくさん喜ばせて呉れもした。
2006 1・7 52
* 秦建日子、三十八歳。おめでとう。
* 黒いマゴの甘えること。安心、安心したようす。
2006 1・8 52
* 十三日は、襲名の山城屋坂田藤十郎を歌舞伎座に祝う。十八日には俳優座の新春公演、紀伊国屋サザンシアターで「歌麿」とか。納得できる、俳優座ならではの歌麿を見せて下さいよ。
二月は先代松本幸四郎(白鸚)追善と漏れ聞く、大歌舞伎。幸四郎、吉右衛門の一座共演が嬉しく、むろん予約。
三月には、三谷幸喜作・演出の高麗屋染五郎・澤潟屋亀治郎・中村屋勘太郎共演で「決闘高田の馬場」、三月四月に流れ込んでは串田和美演出のコクーン芝居、中村屋勘三郎、成駒屋扇雀、橋之助らで、南番・北番二た様の「東海道四谷怪談」がある。これらも南・北ともに喜んで予約した。
いま、心臓に疲労の種を抱いた妻と一緒に楽しめるのは、体力的に、芝居がいちばん適している。おかげで、妻も歌舞伎いっぱしのファンである。テレビでの歌舞伎の映像も、むかしは見向きもしなかったのに、今では独りででも観ているから、エライもんだ。
2006 1・8 52
* 夜十時十分、篠原涼子主演の「アンフェア(『推理小説』をドラマ化)」第一回をみた。一回目としてはそれなりの味と速度感ももち、通俗な画面であるが、ソツなく立ち上げた。ふつうの刑事物と、一味かわるか、半味ないしは幾味も変わり映えするかは今後に待つしかない、が、感動の押し売りはしないだろう、そのぶんドライに、また組み立て不思議に面白くひっ張れるかどうかが、成功と失敗への分かれ道。
建日子の刑事物では、以前に、アンパン顔の田中美佐子が、コワモテの女刑事役をやりわるくなかった。篠原の演ずる女刑事は、あれより個性がどぎつい分、ややこしい性格と過去を預けられている分、どこまで持ちこたえて盛り上げ腰砕けしないか、才能に期待したい。才能はある女優だ。少なくも今夜のところは主役を張るにふさわしい魅力と意地を美しく見せていて、好感。他の役者達のことは馴染みも殆どなく、分からない。
建日子の原作は、小説それ自体がブッキラボーに簡潔な、「ト書き」風の表現で終始持ちこたえていた、しかもストーリーの展開には駆け引きが多く、すんなりは読み取らせない方へ工夫がしてあった。タッチをわざと粗く創った、ぎらつくサスペンス。短い端的な文字表現に、ときどき光る砂金効果をみせていた。それが、いくらかドラマの科白にも反映していた。
とはいうものの、やはり文藝のおもしろさと、映像でひきだすおもしろさとは、よほどちがうことが、よく分かる。へたをするとテレビドラマは、結局凡百の刑事物へ映像的に滑落して行きかねない危険性をもっている。表現方法それ自体にはらんでいる。脚本家の大胆不敵な健闘を祈ろう。
2006 1・10 52
* 今日、ひまにあかせ機械を操作しているうちに、得難い一つの出会いを確認した。まだ、それはどのように評価していいことか、単なる出来事の一つであるか、分からない。しかし、予感として、大事なことに成長して行く一つの出会いであるかも知れない。まだそれだけしか謂えないが、よかれあしかれ、しきりに胸の騒ぐことではある。
2006 1・12 52
* さてあすの木挽町は、妻の体調から推して、むしろかなり苦闘に類するかもしれない。わたしはまずまず問題ないけれど、妻の喉をやられての咳き込みは、軽減の傾向とすらなかなか言いにくい。幸い熱発はない。咳は体力に響くので、たださえ弱い呼吸器系統が終日堪えられるかどうか。
だが、此処まで来ては、妻がガンバルか、妻は家で休むかのどちらかしかない。代わりに観てもらえる人も見つけようがない。妻は、歌舞伎はよろこぶが、能はイヤだという。同じように歌舞伎なんて御免という人の方が多いことをわたしは知っている。せめて冷たい降雨・降雪がありませんように。何年も前から楽しみに「待ってました!」の坂田藤十郎襲名なのだもの。
* はやめに寝よう、今晩は。
2006 1・12 52
* すこし寝坊したが、つつがなく、小豆粥の雑煮も祝いおさめた。
大晦日に蛤のつゆ、紅白の大根なます、年越し蕎麦を祝い、三が日を雑煮と煮染めのお節料理、蛤のつゆで祝い、初詣でし、年賀状をいただき、四日には焼餅と水菜の雑煮を祝い、七日には七草の白粥で雑煮を祝い、松飾りをはずし、十日過ぎて鏡餅を割り、善哉を炊き、十五日には小豆粥の雑煮を祝って、これでお正月さんを見送る。
東京へ来て四十七年、我が家の恒例はこの通り、ほぼ崩したことはない。ただ、京都の三が日は払暁に雑煮を祝ったけれど、東京では時間のことは、うんとラクにゆるめている。
2006 1・15 52
* 「新しい書き手」の小説が舞い込んできた。一挙に三作。一番長いのは、三、四百枚ほどあるだろうか、それを読み始めている。
ユニークで、筆はよくこなれている。「のようというのだ」などに気配りして推敲すれば俄然佳い作品に纏まるだろう。コンピュータを作中にとりこんで、リアルである以上にシュールな構想と味わいに才能を感じる。くどい書き方でなく、行間に不思議な風が流れている。不思議な異界へ爽快に流されてゆく感じの、「e-文庫・湖(umi)」には、かつて例のない、あるとすれば昔、娘朝日子の書いた文章の感じに似ている。読み進めるのが楽しみ。
2006 1・17 52
* 久しぶりに伊勢丹のわきの「田川」で河豚にしようと行ってみたら、「虎福屋」という河豚は河豚の店であったけれど<「田川」は看板をもう三年も前に降ろしていた。ま、いいかと二階に上がり、「とらふぐ」で、テッサにはじまり揚げ物や河豚ちり、雑炊までゆっくり楽しんだ。何十年馴染んできた佳い店が、また一つ消えたかとほろにがく寂しかったが、気を取り直して芝居の話や昔の「田川」や伊勢丹、新宿の話をしながら過ごした。そして一路、帰宅。黒いマゴが、機嫌をそこねながらニャーニャー鳴いて、二人が一緒に帰ってきたのを喜んでもくれた。
2006 1・20 52
* 七十になり、もう一ヶ月たった。矢のようだ。夜中から朝へかけ三度起きて、午前中をうとうとと寝て過ごした。からだ、ラクになった。
暮れからこちらへ、いろいろ善くして頂きながら礼状も書けなかったのを、纏めて書いた。少し肩の荷をおろした。雪がまだちらほら舞い、書庫の上に、十センチほど積もっている。黒いマゴが小さくまるくなっている。
おどろいたことに、二十七届いていたメールの全部が不正勧誘のものらしく、むろん開かずに全部まとめて削除。
2006 1・21 52
* いま一番感じ入っているのは、送られてきている小説の一作で、まだ読み通していないけれども、不思議な手応えがある。
一読して、あ、これは買い手が付く、少なくも本にしてイイと思う先が現れると思ったのは、先日本になって届いた松尾美恵子さんの『北条政子女の決断』で、題材に惹かれる惹かれないにかかわりなく、送られてきた文章の運びのほぼ間然するところない筆致に確かさがあり、読ませる「勢い」があった。
今度のそれは全く作風がちがうし、少なくももう一度二度は適切な助言のもとにディテールを推敲した方がいいけれど、もはやそれ自体はあまり問題ですらなく、物語の運びに、さ、これはわたしが不慣れで確信できないモノの、よほど独特の材料で、思い切った書き方で、淡々とかつ意表をついており、若い適当な編集者に読んでもらえれば「乗る」人がきっといる気がする。いて欲しいなとわたし自身希望し期待する、が、まだ一作品の三分の一も読んでいない。それでいてそう思わせる力が、作品のなかみと、作者の無欲の筆致・筆力に隠れている。
2006 1・21 52
* 息をのむメールが届いていた。あっさり消去しかけ、あ、題名に「もらひ子」を読んでとわたしの作品の名が出てあるのに声をあげた。
* 「もらひ子」を読んで。
(琵琶)湖南にもふたたび雪がちらついて参りました。
先生のホームページは昨年の夏頃から、ふとしたきっかけで毎日読ませて頂くようになりました。「私語の刻」は欠かさず拝読しています。ながく(滋賀県) 大津におりますが、大学が立命(館)だったのと、なによりも母の実家が上賀茂でしたので、京都には愛着があり、先生のお作のなかや、私語の刻のなかに京都や近江のことが出てくると、とくに熱心に読みこんでしまいます。
数年前から年に二回ほど蓼科のカナールというペンションに通うようになり、ご主人は大学のいわば先輩にあたることもあって、遊びにいくたびに、昔の京都のことや大津あたりのことを話して下さるので楽しみにしているのですが、あるとき先生のホームページに接し、作品のなかに先生の同級生として登場する「松下さん」が、そのペンションのご主人松下さんご本人であることに気がついて、吃驚しました。
ところが今夜「もらひ子」を読んでいてまたまた吃驚することとなりました。それは文中に登場する「安井修身」が近江水口宿の本陣鵜飼氏の出であり、水口藩出身の書家巖谷一六に書のてほどきを受けたとあることです。私は水口町(現在は合併で甲賀市となりましたが)の資料館に勤務しておりました折、巖谷一六と子の小波の記念室をつくったことがあり、一六や小波の事績を色々と調べ、作品も集めておりました。小波は墨を磨らせるのにそれを子どもにやらせたことは、子息大四氏からもお聞きしたことがありますが、一六居士もそうだったのかと、それと、鵜飼本陣は維新後早くに没落したということで、その子孫のことがわからなかったのですが、それが作品にあるような活躍があったこと、しかも先生に有縁であったことを知ったわけでございます。
それぞれのことには本来脈絡はないのかもしれませんが、今夜はなにやら不思議な縁に心が騒いだことでございます。 大津 鳰
* わたしの知らぬところで、知らぬお人が、こうしてつづけてホームページの「私語」などを読んでいて下さる。そういう大方はずうっとお互い連絡もないママに過ぎているのがふつうだが、ときにこういう御縁を生じて、闇の彼方の有難い存在に気が付く。北海道もオホーツク海に面した佐呂間からは、この前「昴」さんが便りをくださり、『最上徳内』のような特殊な感じの長い小説を愛読して下さった。
このたびは、京都といい大津といい、まして水口といい、わたし自身の根にふれた御縁であり、そのうえ国民学校、中学、高校の親友松下圭介君まで関わっていたのだもの、ビックリした。
ここに「安井修身(おさみ)」としてあるのは仮名で、わたしの母方の祖父「阿部周吉」のことである。周吉は水口宿本陣鵜飼家の子であったが、のちに能登川の阿部家に婿入りし、女子三人の父となった。その三女がわたしの生母ふくである。生母ははやくに隣家深田家に嫁いだが、一女三男をのこして夫に死なれ、寡婦となった。
のちにわたしの実父と彦根で恋におち、兄北澤恒彦を彦根で、私を京都西院の産院で産んだが、父と母とは添い遂げられる運命になく、兄もわたしも、「もらひ子」として父方吉岡家のはからいで、北沢家や秦家にさばかれたのである。「鳰」さんの読まれたのはその『もらひ子』一件のわたし一人の記録である。
阿部周吉の原戸籍はついに追跡できなかった。水口の脇本陣であった小島家や朏(みかづき)家、また京都山科に転居の、もとの水口宿本陣鵜飼家等を尋ね歩いて聴いた話では、祖父周吉は水口本陣で生まれた、実はさる九州の大名の落としだねであり、明治半ばまで九州から何かしら扶持が届いていたらしいとか、奇妙な話であった。
周吉はのちに東洋紡績や近江鉄道の創業にかかわったり、実業界の人として半生をすごし、能登川に退隠して晴耕雨読、自適の生活をしたと聞いている。一度だけ訪れた生母の実家阿部家には、一六の書や周吉の書蹟がたくさん遺っていた。
* こういうことを小説になどしてみても仕方がないと、わたしは、みーんな投げ出してしまったが、調査した草稿は千枚近くに及んでいる。
* 読者は有難いなあとつくづく思う。こんなことを、お返事の代わりにしておこうか。水口のことなどお教え願いたいことが幾らもある。
* 無関係なことではあるが、わたしの「もらは」れた秦家も、養父長治郎の祖父の代に滋賀県の水口宿から京都に移転してきたと聴いている。その方の調べも出来ていないが、水口に秦姓の何軒かあることは分かっている。ただし本陣の鵜飼家とはたぶん無縁で、わたしが秦家へ預けられたのにも何の連絡もないことである。
滋賀県からは大勢が永い期間に京都へ流入し、おおかた川東に定住したであろう事は、史実としても推察できる。それに秦家へわたしを預けたのは、南山城当尾村の大庄屋であった父方吉岡家であり、吉岡家と、母の実家能登川の阿部家とは、当時から険悪に没交渉であった。父方が、水口本陣鵜飼家出の(阿部) 周吉に何の連絡も関心ももっていなかったことは察しが付く。
2006 1・22 52
* 送ってこられた長い小説は三分の一ほど読んで、(少なくもわたしには)ユーニクな展開と温かい澄んだ筆致に日々心惹かれている。一作を読み終えるのに、まだ当分の時間が必要。
この人の書き方は、むかしのわたしの姿勢に似ている。どっと書きとばしていない、「毎日」欠かさず何年もつづけて少しずつ書き継いでいる。この方法が強い。
一気に書き飛ばしていい時は、ごく限られていて、そういう書き方は、一度びプツンと途切れると橋が落ちたように前へ進めない。そしてやめてしまう。
書きたいことが胸にたまっていても、むしろ辛抱して明日へのこし、翌日また気合いを入れて書きたかったことをまた書き継ぐ。忙しい人ほど、これが適切。量より質にも、それが向く。
それと真夜中に書いた文章には夢魔のよごれがついていて、朝日に当たると、どぎつい過不足が歪みや臭みになって目に見え、容易に是正(推敲)できない。
わたしは一日に五枚ときめて年に千八百枚、それで毎年五六冊の単行本を出し続けた時期が長かったが、無名の時代は、一日に十行でも、二枚三枚でも、たった五字でも、病気の時は一字と「、」だけ書いたこともあるが、ただ、盆も正月もけっして休まず書き続けていた、むろん小説を、である。量を稼ごうとするより安定して毎日書く方が、続く、のである。文、文にあらず、続ぐをもて文とす。
2006 1・23 52
* 終日、とぎれとぎれにも、ひとの小説を読んでいた。そのことについては、また纏めて書いてみる機会があるだろう。
2006 1・23 52
* 大津の「鳰」さんから、あらためてまた有難いメールを、いましも頂戴した。これはもうわたし自身の根に触れてくる、渇望しながら容易に得難くて手に入らなかった類の示教であり、早々に読むのも勿体なく、わくわくとからだの動き出すような文面であった。
* 東海道水口(みなくち)本陣のことなど(ご返事)
秦恒平先生
年頭以来の冷え込みでございます。
「私語の刻」拝読いたしました。突然のメールに丁重な「ご返事」を頂戴し、たいへん恐縮致しております。
さて、「鵜飼」「朏(みかづき」「秦」いずれも水口辺の者であれば、どの辺りの家なのか、おおよそ見当がつく名字でございます。
「鵜飼」は甲賀の著姓で、遠く戦国時代に活躍した甲賀衆の雄、その流れの一つが水口に定着し、宿(しゅく)の東、作坂町に広大な敷地を占めてやがて本陣を営むようになったと聞いております。
幕末維新期の当主はたしか鵜飼喜苗と名乗り、「甲賀古士隊」を編成していわゆる「東征」戦争に参加した人々ともいくらか関わりがあったように記憶しています。
旦那寺は水口一の大寺で、朱印寺であった浄土宗大徳寺でしたか。
近江東海道では、建物の大半を残す「草津」本陣、玉座などを伝える「土山」本陣、宿帳などが残る「石部」本陣に対して、建物も史料も残らない「水口」本陣と、残念の思いをしておりました。
「小島家」はその本陣と脇本陣の間にあった大きな旅籠で、脇本陣とともに現在もその母屋部分を残し、街道を歩く人々が、写真に納めたり、壁に掛け並べられた講札などを覗いています。
そして「秦」と「朏」は水口宿の東、新城村あたりに多い姓で、秦にはつい20年ほど前まで造り酒屋を営む家もあり、一帯では比較的有力な一族であったと記憶します。
朏(みかづき)はまことに珍しい名字ですが、ほかに「三ケ月」「三日月」と書く家もありました。このうち水口本陣のあった作坂町の西に接する旅籠町に住んだ朏重五郎は代々の宮大工で、今も水口神社の祭礼にでる曳山の多くはその手になるものであったと記憶しています。
余談ですが現在京都府総合資料館に収蔵される、郷土玩具の一大コレクション「朏コレクション」は、その子孫で水口から京都に移られた朏健之助氏の収集したものでした。
一体、維新後の宿場町の衰退は、大店や旅籠で毎週のように「売り立て」があったと伝えるようにひどいもので、本陣鵜飼家をはじめ、屋号だけは今も伝わる多くの分限者の退転も多く、その上に小さいながらも城下町でもあったことが、町をさびれさす一因となったようです。
大名を客とした本陣をはじめ、東海道の旅人を相手にした大小の旅籠や、それにぶら下がって生きていた商人たちが、遭遇した「ご一新」は、たいへん過酷なもので、とくに鵜飼本陣のあった宿場の東部は、問屋場を含め本陣や脇本陣など宿の主要な施設、規模の大きな旅籠や有力商人が軒を連ねた「分限者」の町だっただけに、数多くの「物語」もあったことと想像いたします。
巖谷一六が「徴士」として東京に移ったのを「筆頭」として、多くの有能な人材の水口から「流出」したのもこの時でした。しかし、これはむしろ水口藩のような狭い世間から解き放たれ、活躍の場を得たわけですから、むしろ喜ぶべきかもしれません。幸い一六も巌谷小波も「近江水口」を「故郷」と呼んで、終生愛着を持っておりましたし、水口人も格別の思いをこの二人には抱いて参りました。町の郷土資料館の一角に小さな小さな二人の記念室をつくられたたのも、先人顕彰の意図ももちろんありましたろうが、そんな浮き沈みの多かったこの町の近世から近代への歩みを、記録しておきたいという気持ちがあったからで。
しかしこのようなことは、先生にはまさに釈迦に説法であろうかと存じます。千枚というご草稿の数字だけで、私はすでに色を失っております。
しかし、また、あるいはお役にたてることがあるかもしれません。近世の絵図など水口宿に関する資料もございます。
本日は改めて、心より感謝申し上げます。 大津 鳰
* 京都山科の鵜飼家とは、生母ふく(筆名=阿部鏡)やその父阿部周三の遺跡を尋ね歩いたころから、幸いに今も淡い誼みに恵まれているし、郷土玩具蒐集で著名な朏(みかづき)健之助の京都市内の旧居に遺族を訪ねたこともある。しかし「鵜飼家」がどういう歴史を経てきた家かなど、こうして教わるまで、どうしてもわたしには分からなかった。「小島」家を訪れて、ものの隈々にいかにも時代を畳み込んだ家屋の様子も見せて貰ったし、宮大工の朏家、ではなかったか、すぐ近くの家屋へも連れて行ってもらった。
この探索行は、つらいものでもあった。それまでのわたしは、頑強に実の父や母にちかづくことを拒絶仕切っていた。それを一転して探索に歩き出したとき、父方も南山城の豪家で枝葉の拡がりは大きく、母方もまた大きくてわたしは途方にくれて、しばしば音をあげたのである。いやいや結局音をあげっぱなしに厖大な草稿はそのまま埃をかぶってしまっている。
天涯孤独とおもってきた「もらひ子」のわたしは、この探索行の結果、両親をともにする実兄一人と母方に父の異なる姉兄四人、父方に母を異にした妹二人、大勢の伯父伯母や従兄姉を一気にみつけだしてしまい、その体験は、若い日のオオクニヌシが、山坂をころげ落とされた火に焼かれた大石を、獲物と思って抱きとめ大やけどしたのと似ていた。わたしは、あのとき、一度死んでしまった。そして、息を吹き返すとそれからは、それまでとは少しちがう自分をまた生き始めたのだと思う。
* ああもう日付が変わって一時半を過ぎている。「鳰」さんに心からお礼申し上げながら、今夜は階下へ降り、また本を何冊も読もうと思う。
2006 1・23 52
* ドラマ「アンフェア」の三回目を観た。今回は問題なくすうっとドラマ線が延びてきて順調。雪平役の篠原涼子にうまい味が出ている。建日子の原作『推理小説』のストーリイは皆目記憶になく、とくに印象にもない。わたしは「どう書けているか」に重きをおいて読み、筋は二の次にしていた。だから脚本が、原作とどの程度に異なっているか分からない。妻は、原作に照らして言うと、ドラマの進行がとても早いというが、分からない。セリフの中に建日子の味は、ちゃんとにじみ出ている。
2006 1・24 52
* 今日も、届けられた小説の長編を、機械上に展開しながら読んでいった。不思議な話が壮大な規模で想像を絶して拡がってゆき、飽かせない。まだ、やっと半分か。
2006 1・25 52
* 志ん生師匠の「千早振る」「たがや」「岸柳島」「たいこ腹」をつづけざまディスクで聴きながら、送られてきた小説の必要なものを大量にダウンロードし、一太郎に置き換えていた。
志ん生のおかしさは天衣無縫、クスクスと鼻のおくまで笑いがこみあげる。こんな短編でも、いまどきの噺家の長丁場よりはるかに実があり、十分満足させる。圓生師匠は笑わせる藝であるより聴き入らせる藝。志ん生師匠はしんそこ笑わせる。ムリにではない、聴く側の無条件降伏という笑い。
2006 1・26 52
* 仕事のあいまに「長い小説」に読みふける。わたしの夢に在ったような小説だ。注意深く読み返せば、文章としての推敲はさほど難作業には成らないだろう、壮大な構想のディテールにおける補強や修訂は、この作者の力なら出来るだろう。まだ全一編を読み通すのに数日かかりそうだが、物語世界に惹きこまれている。
むろんこの手の作品は、今日の若い書き手世間にはむしろ数多いのかも知れない。わたしが、「精経入水」や「冬祭り」や「北の時代」を書いた頃の文壇には、こんな異界・他界と交通自在な小説は、ほぼ絶無だった。幻想という名にかけ、美と倫理ということをいわれるのが常のようなわたしの文学であったが、美と倫理はともかく、幻想性は昨今の映像作品を通してでも、むしろ普通にちかく普及しているのではないか。あとは独自性というところに勝負があるのだろう、その点でもわたしのいま読んでいる新人の長編は、題材においてユニークな、類のない創意工夫を示している。
作品が重苦しくない、世界がはんなりと透明に明るくて、読み通すのが楽しみ、毎日それがアタマにある。二十代では書けないだろう、もう少し、いやかなり知の蓄えがありそうな世代にあるらしい。
2006 1・26 52
* 読み上げた小説は、ほぼ四百枚あった。大きな破綻なく書き継がれていた。ナミの作品ではなかった。『ゲド戦記』を引き合いに出すのはル・グゥインに失礼だが、サン・テグジュペリの、評判ほどに思わない『星の王子様』より、わたしにはストーリイの運びや題材が面白かった。
率直にいえば、遠心力のほうが求心力より以上に働いているため、運ばれるストーリイがやや拡散して強力に引きこまれるということが、やや乏しい。エンディングにも今一段の壮大な盛り上がりが期待される。人物関係をたえず頭の中で組み立てまた組み立て直しながら読んでいた。
ちょっと類のない題材からの物語化で、まだ雑炊に似たバラツキもあるにはあるが、巧みに更に火をとおせば、渾然とした佳い味の粥かスープかが出来るだろう、意欲はよく生きて働いている。
一種の創世記ふう・神話ふうな史譚とも謂える。なにをメッセージしたいか、その辺が求心的に芯になってほしい。
さ、これを、どうしたものか。とりあえず、もう一つの短編か中編か、を読み始めている。
2006 1・27 52
* 送られてきた小説のうち百三十枚程度の小説を読んだ。この作者の美徳は、はんなりとしたファシネーションの軽やかさと透明感とを、作品に自然に表すことの出来ること、そしてディテールに至るまできちんと表現できて、ところどころにはっとする美しいイメージを象嵌できること。ムリ書きや渋滞感を感じさせない。
いわゆるリアリズムではない。美しいガラスに映った向こうの世界かのように書いている、情景も、人物も。それがリアルな世界にない謂うに言われない哀情とも優情ともなって読者に柔らかにせまる。
この短編ないし中編の完成度はかなり高い。そしてそのロマンチズムの底を脅かすほどの思想性または批評の昏さが、重い碇になっている。この作品を、わたしは無意識に以前から読みたかった。
2006 1・27 52
* 我よりも長く生きなむこの樹よと幹に触れつつたのしみで居り 斎藤 史
* 仮に「幹」とでも作者を呼んでおくが、「幹」から送られてきた三編の小説の最初に書かれたという八十枚ほどの小説を最後に読んだ。連載中のブログに、一回分を二つ行き方を変えて書いたりなど、いかにも習作であるが、厳しい勝負世界の内容を、不思議にシュールに、しかも生活そのもののなかで表現している。作中単身赴任の寂しい「男」を「父」として面倒をみにくる「娘」の活気には、不思議に目に見えない「はたらき」がある。たわいなげなオハナシのようで居て、凄みのきいた背後の闇をかかえ、そこから人生を厳しいとも温かいとも読み取らせる「複眼の照り」も有る。四百枚の長編とも百数十枚の中編とも異なった、しかも双方の基盤になっていそうな体験が描かれているようで、「幹」がやがてまた新たに書くと予告しているブログ小説を、わたしは楽しみにしている。
2006 1・28 52
* いま、わたしのアタマを占めているのは、「幹」さんの、読み終えた三編の小説。どうするのが、いいか。
好機は、逸してはならない。作者と話せれば。
いま、妻が熱心に読んでいる。
2006 1・29 52
* もう会期の切れる当代の「楽茶碗」を、もう一度観に行きたかったが、美ヶ原への留守二晩のあいだに黒いマゴが額や耳を傷めていたらしく、改善しないので獣医に診せに行った。完治にはしばらくかかるらしく、五日に一度ほど投薬を受けに運ばねばならない。 2006 1・30 52
* この人にわたしは、こう言ってある、「花の日常生活はなかなか目に浮かびませんが、花楕円が二つの焦点を求心的に結ぶように風は祈っています。一つは主婦であること、これは当然として。もう一つの焦点が「創作」ならば、そこへ求心的に意欲と勉強を注ぐように。なにより毎日確実に少しずつでいい、書き続けるように。それが出来てこそ「望み」も膨らみます」と。
* 最近に読んだ人の四百枚ほどの作品は、ブログの一日に原稿用紙一枚半せいぜい600字ずつ程度、その代わり大晦日にも元日にも一日も休まず書いていた。フログの制約でもあり、その程度の書き時間しか日々になかったのだろう。そのかわり誤字誤植がない。なによりも大きな構想や展開に、書きとばしたために起こる厄介な齟齬や破綻をがっちり食い止めていた。
急がば堪えて、これが結果として作品にまっすぐな骨身を徹す。書き飛ばしてしまうと、あとの推敲がにっちもさっちも行かなくなり、なかなか完成してくれない。ブログに三百日、少しずつ書く。アドレスを公開していなければ、孤独な書斎になる。孤独に書くこと、それもお日様の上がっている時間帯で書くこと、が大切だ。読んで欲しい人が決まれば、その時サイトのアドレスを伝えればいい。
2006 1・31 52
* わたしが毎日本を読むように、妻は晩景に一時間ほどピアノを鳴らして楽しんでいる。いまも新しい曲をたどたどしく行きつ戻りつしている。
妻は寝る前にこのごろ猪瀬直樹集を読んでいるし、外へ出るときはわたしと歌舞伎だけでなく、いろんな演劇を楽しむ。映画はもっぱらテレビから録画する係で、よく観ている。そしてパソコンであれこれ楽しんでいるようだ。
これで、もう少しわたしと旅行が出来るといいのだが。
2006 1・31 52
* 黒いマゴを自転車の前籠にのせて獣医院につれてゆき、二度目の施薬。症状はすこぶる改善している。ついでわたしの散髪。髯ボーボーだったが、さしあたり明後日の歌舞伎座に敬意を表すべく。
2006 2・3 53
* たまたま通りすがりの署名無しのブログから引き抜いたのであるが。こんなふうに小説が書き出されている。
――気をつけてくださいね。
二、三歩行きかけてから思い出したように、女は振り返って言った。私がちょうどポケットから出したばかりの携帯灰皿を振ってみせると、
――ああ、火もそうですけれども、・・・いろいろ出るようですから。
意味ありげな薄笑いを浮かべて、私の背後の茂みを小さくあごで指し、それから、形ばかり会釈すると、この山なかには全く不似合いなスーツに、さらに不釣り合いなガーデニングブーツをぱこぱこいわせながら、母屋へと去っていった。
これだけでは状況はよくは分からない。とくに悪い出だしではない、が、
二行目のアタマは、「二、三歩行きかけ、思い出したように女は振り返って言った。」でいいだろう。
「から」という、心理的または実時間のちいさな経過は、「行きかけ」と読点でおさえれば表せるし、そうすることで「行きかけて」「振り返って」の「て」のダブリを消せる。「て」という音は、不用意に多用しやすい「そして」の「て」も含め、文章の緊迫度をいたずらに間延びさせる「毒」の一つ。読点でおさえて済む、その方がよくなる例が多い。原文は「思い出したように、」と読点を置いているが、「女」の動作を緩くしてしまう。「思い出したように……言った」までは気合い一つながりであり、この読点は邪魔をしている。
次の文で、作者はまた「ポケットから」と、「から」を用いている。どっちが動かせないかといえば、この「ポケットから」だろう、その為にも間近に二度使いの先の「行きかけてから」の「から」は、文の調子、文体的に、まちがいなく無用な邪魔をしている。
「私がちょうどポケットから出したばかりの携帯灰皿を振ってみせると、」も、うまいとは言えない。
「ちょうど……ばかりの」は、どちらかが説明的に過ぎたムダになっている。また、文頭にくる「私が」が、この位置で適切か、「私が」と言わねば用が足りないのか、書き手は殆ど一思案もしていない。
「振ってみせると」という物言いは、さきの「女」へ向けた動作と読めるので、強いて「私が」は要らないし、文頭の「私が」はたいがい音が重いのである。
こうではどうか。
「ポケットから出した携帯灰皿を(私が)振ってみせると、」だけで、先の女の物言いに必要なだけ応じ、次の女のセリフにもちゃんと繋がっている。ごてついた出だしが少しすっきりする。
「意味ありげな薄笑いを浮かべて、」には書き手の集中のよわさが出ている。「薄笑い」はもう「意味ありげ」なのだからこんな重複はぶちこわしになる。
「薄笑いを浮かべ、私の背後(うしろ)の茂みをチッとあごで指して、そして形ばかり会釈すると、」と、此処は、問題の「て」「て」を早い音調に逆に活かしていいのでは。「それから」は鈍いし重いだろう。
次の、
「この山なかに(は全く)不似合いなスーツに、さらに不釣り合いなガーデニングブーツをぱこぱこいわせながら、」は、名文ではないが、「は全く」がほぼ不要に思われる程度で、「スーツに、さらに」の「に」の早送りが利いている。
だが、「母屋へと」の「と」に、作者はどんな語感を示しているのか。この無用な「と」の使用例は一般にたいそう多く、だが「母屋へ去っていった」と「母屋へと去っていった」にどんな差があるか。「と」は効果なのか、効果は有るのか。何もないなら、一音でもムダな文字は使わない方が、普通の文体の場合、文章がシャンとしてくる。
* こういうところをバカにしていては、文章はゆるんだり、よごれたり、ゴタついたりする。その染みはクセになると取れない。抜けない。早くこういうことに気付いて、初稿からピンとした筆遣いを心掛けた方が、結果もいい。いい物語であるなら、よけい、いい文章で書こうと気を引き締め、気を弾ませた方がイイ。
ホンの参考意見に過ぎないが。
* 明日は歌舞伎座。とっても、楽しみ。
2006 2・5 53
* 十数年両親とは離れている娘朝日子が、自分のブログで「小説」を書き始めたことを、弟の建日子に報せてきて、それを建日子は誰のサイトとも言わず、わたしに報せてきた。
誰のとも分からないあやしげなブログになど触ってみる気はないと返辞すると、まあ、そう言わず覗いてくれと強って言われ、建日子自身の「隠れ書斎」なのかと思い、あまりお遊びに手を広げていないで、当面の大事に一心に集中したらと返辞した。電話がすぐ来て、「朝日子が書きだしたんだよ」と言う、わたしは、びっくり仰天した。作品の出来がどんなであれ、嬉しかった。
読みにくいブログ原稿を、長い時間と手間をかけ、読みやすく一太郎に転記して読んでみた感想は、この「私語」に、つづけざま、たくさん書いた。何度も書いた。しかし朝日子の作品だとは言わなかった。言えなかった。弟が父親に伝えることを、姉は、朝日子は、「厳重に禁じている」からだと建日子は言う。それでも建日子は伝えてきたのである。
朝日子は、それを予想しなかったろうか。わたしに伝わることを期待していなかったろうか。朝日子は、以前からわたしのホームページは見ているのである、それは分かっていた。わたしが、今度の朝日子三作品を珍しくたいそう褒めている、評価していることも知っている。そう思う以外にない、直接に確認出来ないが。そしてその事に関して、姉が弟のところへ「なぜ親に伝えたか」と、怒ったり、苦情を言ってきたりしていないことは、妻から息子に確認して、分かっている。
朝日子は問題にしていなかったようだ、が、建日子は、姉弟の関係がわるくなるので、おやじたちはあくまで知らないことにしておいて欲しいと繰り返した。親心として、なかなか理解しにくいことだった。
* 一月二十八日、朝日子の二つの仕上がり作品を読み終えた時点で、わたしは、嬉しい気持ち、驚きの気持ちを建日子にメールした。全文を挙げる。
* 建日子へ 父
この間は、朝日子のメールもともに、朝日子の「創作」を読む好機を贈ってくれて、心より礼を言います。
朝日子が碁の仲間との、チャットか掲示板かに「ちょこちょこ書いている」という情報は、彼女の碁友という男性から、ちょうど去年の今頃に報せてきていました。
わたしは、そのとき、書いている「そのもの」を一部でも読みたいと頼んだのでしたが、朝日子を憚って、何処に書いているとも、此のようなものとも、見せてはもらえなかった。わたしは失望のあまり、朝日子には細切れの空気抜きのような文章は書いてほしくないのです、しっかりしたものの書ける力があるのだからと、やや八つ当たり気味の返辞をしたものです。
今度、四百枚前後の長編『こすものハイニ氏』(わたしの付けた仮題です。原題は「こすも」)と、百三十枚ほどの『ニコルが来るというので僕は』を、多大の興味をもって通読し、正直、感嘆しました。
この二作とも、初稿のままでしょうが、水準をしっかり超えた、慎重に手を入れれば独り立ち可能な、売り物にもなろうと思う作品でした。
両作とも朝日子の仮名・無署名のブログに、一日も欠かさず書き継いでおり、前者は十ヶ月も連載し、構想的に大混乱させることなく綺麗に書き切っています。文章も、せいぜい一度二度の推敲でぐんと良くなるほど、朝日子本来の文章センスが生きていました。一種独特の魅力を、ファシネーションを、はんなりと発揮していました。まがうかたない才能の所産でした。
後者の中編は、今年の建日子誕生日に脱稿されていました、贈り物として上等なもので。文学賞に佳作入賞してもおかしくない、ピンとした、ロマンティツクでもあるが不思議な批評性を根に秘めた一編の物語、かなり独特なものでした。父は感心しました。
朝日子と逢えなくなって十三年ほどですが、じつに嬉しい「再会」でした。
十数年、わたしには、朝日子にも書いて欲しい、書けるのだから、という信頼が強く根づいていました。弟が活躍すればするほど、へんな雑念はもたず無心に「書き表す」嬉しさを朝日子にも味わって欲しいと、それこそいつもいつも思い、母さんとも話し合ってきました。
朝日子は、その願いを、大晦日も正月もなく少しずつ書き続けるという、父さんの思い通りの仕方で、無欲に無心に新世界を紡いでいたた、書きつづけていた。完成度のかなり高い、ユニークな文学世界を。
あの悲劇的な醜悪な事件このかた、こんなに嬉しいことは初めてです。自発的に「書いた」「書き続けた」「よい作品になった」のですから、父は、言うことなしの満足で、感謝です。
作品の感想は、父だからという身贔屓なしに、一人のきつい「読み手」としての平静な批評です、称讃です。ウソは言わない。
こんな喜びを、建日子の配慮から得られたことに、もう一度お礼を言います。おまえからも、さらに励ましてやってほしい。
これらの作品は、好機を得て、よく出来る親切な編集者に読んで貰いたい気持ちです。
方面の全く異なった「創作」で互いに屹立出来るかも知れない 秦建日子と秦朝日子。 おまえはヘキエキかも知れないが、父さんと母さんの夢が一つまた出来ました。しかしそんな世俗のことはともかくも、朝日子が期待通りの力を発揮していたこと、それも肩に力の入らない清明な纏まりのいいものを、なにより自発的に書いていてくれた事、で、わたしは大満足です。嬉しい。
もういちどこの弟と姉とに、感謝します。
建日子。さしつかえなければ、このメール、朝日子に転送してやって下さい。 父
朝日子。あわてなくてもいい、書きたいこと、書かずにおれないことを、しみじみと、心行くまで書きなさい。苦しみをも楽しんで。 父
* 建日子は、だが、朝日子にこのメールは伝えない方がいいと言ってきた。よく理解できなかったが、作品への称讃やわたしたちの喜びは、ホームページを通して伝わるのだからと諦めた。
母親は、妻は、朝日子は父親のホームページを見ているのだから、それを通して話しかけてやってと提案し、わたしもそうしようと思った。このメール時代に、なぜ朝日子とわたしとの間に「個と個」との対話や交感が不可能なのか、建日子にずっと以前から頼んできた「朝日子のメルアド」をなぜ教えては呉れないのか、ほとほと理解できなかった。もし親と姉娘とを引き離しておく必要が有るのなら、朝日子の小説ブログをわたしに強いても教える建日子のはからいは、真意が汲みにくかった。
* そのうち予告通り、二月一日から朝日子の新作がはじまった。だが、(起こる頃だと)心配していた「運び脚の重さ」や行文のちいさな「杜撰」が重なり見えたので、早く注意して、より良く書いた方がイイと思い、妻も賛成していたので、「私語」として、作品書き出しの一部に、すぐ気の付くダメ出しを、具体的に書いた。むろん朝日子の作に、とは、ひと言も触れなかった。
だが建日子は折り返し咎めてきた。自分は、弟は、即座に姉に対し、父にサイトを報せた「信義違反」を「詫びました」と言ってきた。咄嗟に、この際もっと大事なことがあるのにと思った。大事なのは姉弟の関係というより、これを好機に、朝日子と親たちの多年「喪ってきたもの」が回復出来ないか、みなで深切に情意を尽くすことではないかと感じた。もともと、吾々一家と朝日子との間に、何一つ喧嘩の種など無かったことは、経緯に照らして明瞭なのだから。朝日子は「状況」に対し殉じたのであり、わたしは理解していたから、それでよいとして、朝日子に向かい久しく一指も動かさなかった。古稀に辺り歌集『少年』を妻から送っただけである。
ところが、わたしがホームページに、すべて、ああいうことは書かない方がよかったと建日子は断定する。父親の「独善」だと。朝日子は、「少なくとも父である秦恒平からだけはアドバイスされたくないと思っているのは明白です」、と。
現に朝日子は書きかけていたブログを閉めている。
父への、みごとな一刺しであった。
* そうなのか……。わたしは、建日子のメールを読んで、瞬時に積年の鬱を散じた。すべて忘れること、少しも不可能ではない。こういうことも有ろうかと、自分の胸にも問うていた三句が、幸か不幸かムダでなかった。
冬の水一枝の影も欺かず 草田男
一筋の道などあらず寒の星 湖
己が闇どうやら二人の我棲めり 遠
呵々。 (朝日子の作品に関連して私語したすべて、愛情も称讃も懸念もウソ・イツワリなく、そのまま機械に保存しておく。)
* 建日子がどんなことを思っていたか、書いているので読んでやれと妻は言う。わたしに宛てられたものではなく、建日子の外向きの「私語」である。わたしの「私語」と同じで、その手のモノは、読みたければ読み、気がなければ触れることもない。わたしに直に宛てて別に、今朝も建日子のメールが届いていた。それは読んだのだ。それとブログの物言いとに齟齬あっては可笑しいわけだ。建日子はわたしに宛てて言っている。
朝日子の作品にふれて褒めるにせよ貶すにせよ、ホームページに、すべてああいうことは、書かない方がよかった、と。父親の「独善」だと。朝日子は、「少なくとも父である秦恒平からだけはアドバイスされたくないと思っているのは明白です」、と。
それで足りている。
嬉しさの余り、ことが「小説・創作」でもあることから、わたしが出過ぎた、と。そういう咎めである。「独善」だと。
分かった。
わたしはそういう「独善」が好きだ。自分の熱いいい性格だと、独善的に肯定している。朝日子も建日子もそういう「独善」に愛されてきた。育ってきた。よかったではないか。これまでもそうだったように、この先も、その場その場で「おやじのせい」に出来る。親は「壁」という、それがその悪い方の意味である。良い方の意味があるのかないのかは、銘々に考えたらいい。
* 二月は、ただただ寒い。
2006 2・7 53
* 今日は何をして暮らしたのだろう。妻の歯医者へ出た留守の間から、ぼんやりしていた。ぼんやりしながらいろいろ用事を片づけていた。ホームページや日録などをバックアップした。校正もしたし宛名も書いたし明日の用意もした。
2006 2・8 53
* 黒いマゴに六時前に起こされ、なかなか寝付けないので、起きて原稿を一つ書いて、大阪へ送った。産経のエッセイは気の向くまま一編また一編と楽しんで書いているが、さて「本の少々」談義がどう伝わっているとも、上方の反響があるともないとも知らない。わたし自身は、面白く書いている。
* 今から黒いマゴへ三度目の投薬のために、袋に入れて自転車で獣医に運ぶ。妻と歩いてゆくと片道に二十分かかるが、わたし一人の自転車だとあっという間に着く。もうマゴの不快症状はすっかり失せたらしいが、念のために。
* 投薬してもらってきた。青天の下保谷をゆるゆる自転車で帰ってきた。袋から目と鼻だけ出しておいてやると、わたしと目も合い、ひどく鳴きもしない。治療、一応終わる。 2006 2・9 53
* 世間をせまくせまく暮らしてゆくのは、いわばわたしの特技のようなもので、幸いに著書という身方が気遣ってくれて知友は多く、かなり深切につきあっているものの、実際に顔を見合わせ言葉を交わす交際にはほとんど踏み込んでいない。「淡交」こそ理想と思ってきた。
ゆうべ、夢を見た。あれは京都にちがいない、東山線より西、およそ五条から建仁寺・祇園への範囲内であったろう、が、そのほぼ全域が南北に流れる大きな墓地であった。鬱蒼とした古代の墓地ではなく、いまいまの、空もカラリと広いゆるい斜面の墓地だった。そのどこか近在で、賑やかな同窓会か親睦会めくパーティがあり、しかし賑やかであけっぴろげな参会者の誰一人も知った人がいないのに、わたしは親切に迎えられていて、なにやかや気遣いしサービスに努めてくれる人たちが多かった。五十代めく女性が多く、和服が多く、さてお洒落な会でもなかった。がさつに喋っていた。しまいに、きらきらしい服を着た漫才の紳助ひきいるグループが割り込んできて、いっそう賑やかになり、みながわたしに紳助と向き合わせようと気をつかうらしかったが、対面しないまま散会した。
広い墓地の中の道をつたい、わたし一人でなく数人ががやがやと北向きに帰って行くところで、宅急便に起こされた。
湖の本の刷りだしが届いた。本は午前ないし午過ぎまでに届く約束だが。
また妻と二人で発送する。この仕事など、わたしの世間を極端に狭くも、また或る意味豊かに広くもしてくれている。夢に墓地のなかを歩いてきた感触がいまも残っている。学生の頃から広い墓地なかが嫌いではない。賑やかに、そして落ち着くから。
* 一つ、我が家にエポックメーキングなことが起きた。当然予想していたことだが、ついに貯金を、生活費のために取り崩して暮らす日々に入るらしい。
東京へ出て来て四十七年、この間、何の浪費もしないまま貯金は増えていた。去年、今年まで、増えても減ることは一度もなかった。それがとうとう頭をうち、これからは貯金で暮らしてゆくことになる。稼ぐ気がまるで無いのだから、それはわたしが予期しつつそこへ身を寄せたことである。金をのこして死んでも何にもならない。頭に置くのは、世間の変動、不時の災難の予防、そして当然来る老病であり、心構えがいやでも要るが、寿命の方はもう、ほぼ図れるところへ来ている。秦の母の九十六迄など夢にも期しがたく、それならいまの儘に暮らしていて、まず問題ないであろう。あくせくすることは何ももう無い。
湖の本は今日のが出来て、創作四十九巻、エッセイ三十七巻、秋にはわたしたちよりよほど早く「米壽」に達する。卒壽を迎えるも、目の前。そのあたりで、少し真剣に先のことを考えていいだろう、何よりわれわれの体力がこの力仕事に、もう、もつまい。若い手助けを期待することも所詮ムリ。
なーんにもしなくて遊べるときになり、老いの不自由が訪れるとは、人生の苦味か、はからいか。それが甘露であるのか。
2006 2・10 53
* 私語にて、朝日子(建日子)さんへのお手紙を読ませていただき、感銘を受けました。父親が娘に贈る手紙の最高の一つでした。お嬢さまへの愛のしみじみ溢れる手紙でした。胸に迫って、私は読んでいて涙がこぼれました。
朝日子さんがブログを閉じられたことなど、お父様には痛ましいことかもしれません。ですが、失礼を承知で、書きます。
お手紙の真情は、お力落とす必要もなく、かならず朝日子さんに伝わると思います。朝日子さんは一時的に反発し拒絶しても、最終的には強く強く励まされるはずです。私の確信です。
父をつよく避けた娘の一人だからこそ言えることですが、父の愛の娘にかならず届くことは、早いか遅いかの違いだけです。私の場合は父が死んでからわかりました。遅すぎたかもしれませんが、それが私にとっての「時」でした。愛はその「時」がくれば必ず見えてくるものでした。
朝日子さんが、父の愛を知らないはずはありません。これからのお二人の関係に希望は、ある、にきまっています。また、
「小説」に関して父親の指導を受けたくないという朝日子さんの拒絶の理由は、私にも、ある程度同感できます。お父上は並みの物書きではないのです。空海が他人のお習字に手を入れたらどうなりますか。本気のアドバイスでも同じことです。あっという間に本人のものでない名作になってしまうのです。幼稚でも下手でも、作品はかならず自分のものでなければ書く意味がありません。お父様の力を借りるという誘惑をきっぱり撥ねつけるだけの性根のすわった朝日子さんのことを、むしろ喜ぶべきだと思います。
推察しますに、そもそもお二人の今の状態は、父と娘との問題なんかでないのはもとより、秦さんと★★さんとの関係でもない。父にも娘にも「想定外」の、「まったく別」のところに在ろうと思います。しかし、私はこれ以上のことを申し上げる資格はありませんね。
色々失礼を書きましたが、朝日子さんへのお手紙について書いたのには、もう一つ理由があります。
私はこの手紙に胸打たれましたが、この手紙は朝日子さんに宛てられたものにもかかわらず、私の人生を変えてしまうようなものであったことも申し上げたいのです。朝日子さんへの手紙(メール)を読んで、真実愛しているものに書く手紙とは、このようであるのだと、私は目が覚めたようでした。
朝日子さんへの手紙は、今までお書きになったあらゆる文より強くて、烈しく内に溢れる愛が感じられました。秦文学中のヒロイン達への愛すら、「慈子」への愛すら、この愛に比べたらなにほどのものでもないと思わせるほどです。『聖家族』を読んでうなされた時の感じと似ていると言えるかもしれません。(『聖家族』の凄まじい迫力は、秦さんほどの作家が全身全霊で憎しみを描いたからというより、骨肉の愛を描いたからなのだと思います。)
以前に、自分は愛を知らないとお書きになっていたことがあります。ちがいます、朝日子さんへのそれは、無比の愛。娘を愛するのは父親として当然ですが、それを考慮にいれてもなお、朝日子さんに(建日子さんにも)真実の愛の花を咲かせているお父上なのだと痛感しています。
愛とは、まさにあのように励ますものです。祝福するものです。幸あれと祈るものです。期待するものです。相手に大きな可能性があると喜ぶものです。花咲かせようとするものです。相手に、痛むまで与えて与え尽くし、求めないものです。
こんなことを書いて、バカ正直もここまでくると犯罪かもしれません。許してください。
ご本の発送でご無理なさいませんように。湖の本の到着を楽しみにしています。 藍
* 恐縮。
* 波 朝日子さんのこと
雨戸を開けるとパンジーの花が寒さに縮み上がっていました。このたびの朝日子さんのことに少し触れてみてよろしいでしょうか?
よけいなことだと・・・ 思われるかもしれませんけれども・・・。
> 朝日子は、それを予想しなかったろうか。わたしに伝わることを期待していなかったろうか。朝日子は、以前からわたしのホームページは見ているのである、それは分かっていた。わたしが、今度の朝日子三作品を珍しくたいそう褒めている、評価していることも知っている。
⇒ 朝日子さんは、湖の熱い期待を 親心を、もちろん誰よりも知っていました。そしてブログというかたちで、ひっそりとお父様に作品を読んでいただくことも望んでいらしたに違いありません。
> が、建日子は、姉弟の関係がわるくなるので、おやじたちはあくまで知らないことにしておいて欲しいと繰り返した。親心として、なかなか理解しにくいことだった。
⇒ 湖も 建日子さん 朝日子さんも、並みの方ではありません。建日子さんの「推理小説」も拝見しましたが、その構成は、表現こそ異なるにしても、湖ゆずりの非凡であっと息を呑むようなものでした。「あくまでも知らないこと」としながら、「実は知っている」という小説の世界をお子様たちは期待していらしたのではないでしょうか。すべてを直接伝える必要はない、直接伝えないけれども強く伝わっているというような関係を望んでいらしたのではないでしょうか。
それは、おそらくお父様の一言が特に娘である朝日子さんには、お父様が想像する以上に強烈に響き あるいは呪縛のように束縛するからではないかと思うからです。建日子さんにはお姉さまの気持ちがよくわかるので、賞賛のメールでさえ「これは伝えないほうがよい」と湖に伝えていらしたのだと思います。
> 朝日子の作品にふれて褒めるにせよ貶すにせよ、ホームページに、すべてああいうことは、書かない方がよかった、と。父親の「独善」だと。朝日子は、「少なくとも父である秦恒平からだけはアドバイスされたくないと思っているのは明白です」、と。
それで足りている。
嬉しさの余り、こと「小説・創作」でもあることから、わたしが出過ぎた、と。そういう咎めである。「独善」だと。
分かった。
わたしはそういう「独善」が好きだ。自分の熱いいい性格だと、独善的に肯定している。朝日子も建日子もそういう「独善」に愛されてきた。育ってきた。よかったではないか。これまでもそうだったように、この先も、その場その場で「おやじのせい」に出来る。親は「壁」という、それがその悪い方の意味である。良い方の意味があるのかないのかは、銘々に考えたらいい。
⇒ 朝日子さんは湖さんに似た熱い性格の持ち主だと思います。「並みの親子」でしたら、ブログをそっと読み、ホームぺージにのせることもなく直接メールのやり取りをすることもなく、遠くから可能性を信じて見守っていると思います。
私の娘も、私が絵の批評をすることを何よりも嫌がります。もう一歩で絶縁状態になりそうなこともありました。私は並の親ですからそこで口をつぐみました。朝日子さんほどの才能はなく、多くの辛らつなアドバイスを必要としている娘に批評をしないことは、ある意味で親としての「逃げ」かもしれません。芸術家としての娘に厳しい批判をして絶縁状態になるよりも、親子としてメールをやり取りし、いっしょに食事をしたり おしゃべりしたりできる関係を望んでいる寂しい 並みの親です。そう、「親だけにはアドバイスされたくない」のが「娘」なのかもしれません。
私は実の父を知りません。厳しい批判やアドバイスを受けずに育ちました。ただし義父は私を信じ、肯定して、至上の愛を注ぎ、私を育ててくれました。実の母もそういうタイプです。どちらがよかったかわかりません。どちらがよい ということもないでしょう。今の私はそうして存在しているだけです。
お子様たちは非凡な才能の持ち主で熱い性格、鋭い頭脳を備えた立派な大人に育たれたのです。「おやじのせい」にするほど子どもではありません。信じて差し上げてください。交流の持てる才能豊かで活躍中の建日子さんも、直接交流が持てずとも湖の育てた芸術作品である朝日子さんも、元気に同じ時代に生きていることを・・・
大きな喜びで感じ取っていただけたらと思います。寂しくはない・・・ 幸せなのだ と。 並の波
* 恐縮。
* こういう感想を、忠告を、よびさますことになっているのを、苦笑もしつつ、予期していた。「闇」のむこうでの「自問自答のよすが」を呈したようなモノである。愛知県の方が「想定外」の「まったく別」の何かと暗に示唆されている、そこに娘のうらみも葛藤もあり、娘はそのうらみと葛藤に「殉」じている。そこに何らか朝日子の愛や聡明が関わっているかと人さまの思われるのは常識的だし有難いことだが、父娘の間の問題でも葛藤でも実は「ない」ところにややこしい根がある。ま、親が子離れしないのが良くない、ことにしておこう、と今は思っている。
しかし、こと文学と表現の問題とするならば、初心のうちほど厳しい眼に謙遜に作を曝されていなければ独善に陥り、(在るとも無いともともかく才能は)腐り出す。わたしの危惧は一にそこに在る。わたしは編輯者でこそあるが必ずしも父親ではないから。メールを楽しんだり、会って飯を喰ったり、世間話をしたりという類のフツーのことは望んでいない、まったく、と言えるほど。苦笑しながら、わたしはいつも、「山の音」の「父親」を思い出している。わたしはむしろ、優しい心遣いのお嫁さんの方が欲しい。呵々
2006 2・11 53
* ロサンゼルスから、わが息子の文庫本『推理小説』を読みながら、いましも脚色されて放映中の連続ドラマ「アンフェア」を観てるのえと、京言葉の電話。ウワオ…。
* 「ジョー・ブラックをよろしく」という映画は、題材の扱いに照れ隠しのドタバタがなく、とても落ち着いた懐かしい画面の展開で、生死と情熱の問題を、アンソニー・ホプキンスの父、クレア・フォーラニの愛娘、父を迎えに来て、娘に真剣な恋をした死神ブラッド・ピットの三者が、静かに心優しく解いて行った。予想をずっと超えた佳い映画で、二度見て二度目はさらによかった。六十五歳の華やかな誕生日に父アンソニーを連れて行くジョー・ブラック。情熱を尽くして愛するジョーと父とを見送るクレア。そこで、小さからぬ変化が訪れる。名優アンソニーのよいのはもとより、ブラ・ピの青年像はすばらしくセクシー。しかしクレアの父へ、ジョーへ向けた愛の真率は、涙を誘って、美しい。娘は父の死を、恋人が死神なのを最後には悟っていた。
観ていて、父と娘との、不幸どころかとても幸せな華やいだ終焉を、やはり…わたしは羨んだ。
2006 2・12 53
* 建日子の至急欲しいという本を速達で送るべく、早々に郵便局へ自転車で。
あやうく一、二秒差、曲がり角で自動車との衝突を避けた。分厚く紙質もかたい粗末製本で、必要個所をスキャンすることの出来ない本だった。むりにしてもキレイにとれる可能性はなく、スキャンには泣かされてきた体験でわかる。それで速達にした。速達も明日の午前にはと。宅急便の時間指定にした方がよかったかと、あと知恵。
お天気、いい。寒くない。
2006 2・14 53
* 湖の本と速達、ありがとうございました。
ところで、ミクシィで、しかもプロフィールが本名では、全然匿名性はありませんよ。
あっさり見つけてしまいました。 建日子
* mixiの利用法 父
匿名の便宜は全く期待しない。だれが読もうと見ようとお構いない、まったくわたしの「孤室」のつもり。「あ、秦恒平が此処にいるぞ」と、もしも訪れる人がいても拒まないが、だれも来なくてもちっとも構わない、むしろその方が静かで佳い。
比較的行儀のいい、ま、安心なソーシャルネットワーキングだというし、そこで「日記」欄を「専用の原稿用紙」に援用し、かねて懸案の一仕事を進めよう、と。いいきっかけに使えると思いました。此処で仲間が欲しいとも、メッセージし合いたいとも、ちっとも思っていないのです。
本名を敢えてしたのは、「書く」ことに責任をもちたいのと、無署名の危険を避け、ライセンスを確保しておきたいためで。ちらちら見えているあれこれの記事やメッセージや自己紹介など、匿名に隠れて浮游するダストのようなもの、関心も興味もありません。そもそも匿名で「ものを書く」という姿勢が、わたしには理解できない。「らくがき」としか思われない。
目的を持った匿名コラム、たとえば某新聞の「大波小波」などの場合、批評・批判に、方面も方法も前提されています。趣向なんです。わたしも数年にわたり、びっくりするほど大量に書いたし、言わねばならぬ事を書いた。
けれど、インターネットに匿名で書くのは理解できない。いやがらせ電話に同類の危険さもあり、第一に匿名で得られる「自由」には「無責任」の裏返しを感じます、そうでないのも在るに違いないが。
初めて「新潮」編集長に会ったとき、筆名はおやめなさい、本名でお書きなさいと言われた意義が、年がたつにつれよく分かってくる。
「ラクガキ」は昔から嫌いなことの一つだった。
もう一つ、湖の本全巻の「内容一覧」を造って、ここへ出して置こうと思っています。およそ役に立たないだろうけれど、「役」という利益は考えていません。売り込むのでもない。こんなところに、こんなヤツがいるぞ、というだけ。
こういう加入者はMIXIも歓迎してないだろうなと思いますが、御縁ゆえ、勘弁してもらいます。いまぶん、人を推薦する気も、人を探す気もありません。ホームページが満杯なので、勝手のきく「別室」を見つけたという気持ちです。
今日、連載三度目の稿を掲載しました。いい覚え書きになるといいが。
2006 2・17 53
* わたしの「孤室」に訪れた人たちがもう二十人あまり、その中で、息子を見つけた。平凡でへんな「ニックネーム」だが「ブルー」などとしていなくて宜しい。
ところでその秦建日子の小説第二作が、講談社から出て、題して『チェケラッチョ!!』なんのことだか? 第一章が「父の押し入れ」だって。
読んでみるとベラボーな速度感で、完全無欠のタメグチ小説。語り手は女の子。姉がいる。英語の話せない二十歳の姉が日本語の話せない四十歳の米兵とアッケラカンと結婚式をあげ、父親は押し入れに籠もって結婚式に出なかった…。舞台は沖縄であるらしい。
これは、わたしの読者も読みたいかもしれない。才能は、いやこんな物言いは渋谷や歌舞伎町や原宿でウンザリするほど拾えるだろうから才能の尊称はもったいないが、それを駆使に駆使して速い速い。その文体が珍しいのか珍しくないのかわたしは知らない、むろん逆立ちしても私には書けない。書けても書かない。
だが、本気で読み出せば機械仕事の途中の今にも、まるまる一冊簡単に読んでしまえる程度の、厚紙に刷ったいまいまのお安い本である。「読ませる」という力と勢いとは十分有る。
作品そのもののことは、第一章だけ読んでなにも言えないが、時間つぶしがイヤで、一応本はそばへ置き、父親からの「紹介文」をさきに書いておいてやるとした。なんだか、この夏にも映画化されるとか。マスコミの鼻くそみたいなものになりませんように。
* 小説では、作中の父親はしばしば一升瓶を手に「押し入れ」に隠れるとある。「押し入れ」を、『北の時代最上徳内』の冒頭から繰り返し書いている「部屋」と同じと観ることはできるが、建日子は読んでいないだろう。だが、感じてはいたのだろうか、むろん小説と我が家とは別物だが。
* 我が家の姉娘の結婚式は、先方父君が逝去直後だった。当時帝国ホテル支配人であったわたしの読者にたすけられ、式場もきまったし、来賓の多くもわたしからお願いした。
それより以前に、年齢からするとわたしたち夫婦へずっと近い熱烈候補者を娘が連れてきて、ああ、それは避けたい(理由は有った。)と、私も妻も心を痛め、たまたま早大の小林保治氏に紹介された教育学部の助手君と会わせてみたら、あっさり娘は若い美男子に乗り換えてしまったのである、それが娘の結婚への経緯だった。
結婚後に生じた不祥事は、尾をひいて今に至っているが、分かりよく謂えば「学者の妻の実家は、娘の夫を経済(家と生活費)支援するのが常識」という、わたしから謂えばバカげた要請を当然「断った」ため、「妻の親」はひどい暴言を浴びせられ「絶縁」を言い渡されたというワケ。
わたしたちは、親子よりも夫婦の横軸を大切にする思想なので、娘が離縁されて戻されるより、娘を諦める(引っ張らずに手を放す)道を選んだ。「親に勘当された」と娘がいまも言うらしいのは、そのためである。
わたしが、娘に望んでいるのは、一つ、健康でいて欲しい、もう一つは才能を活かし心行く人生を送って欲しい、その二条に極まっている。
娘は、何が有ろうと私たちの娘で、建日子の姉である。みんな、心から愛している。夫の存在は、きれいに脳裡から削除されている。
息子には息子の思いがあるだろう、その思いがいくらか今度の戯作に反映しているとしたら、わたしも好奇心をむけて読んでみよう。文体も推敲も利いている。推敲の苦労を避けるために一文が極端に短い、これまた建日子の得意な「ト書き」小説風を貫いているようで、『推理小説』と行き方はかなり異なっている。新鮮。みなさん、読んでやって下さい。
2006 2・19 53
* そして昨日は秦建日子の『チェケラッチョ!!』も一冊読み終えた。
推理小説に次いで今度は幼少読み物。詳しい感想はじかに作者に伝えた。
手短かに言うなら、終始タメグチできびきびと面白くよく書けており、「読ませる」藝とちからに感心したが、筋書きはやすいテレビドラマなみの、イマドキ演歌。息子の作でなければ読まない。わたしの読まないようなモノほど、間違いなくよく売れる現代日本だ、大成功してほしい。
2006 2・20 53
* 娘朝日子のブログ連載小説を、こつこつとダウンロードしては読み、また同様に読み継いでいたあれでどれぐらいな期間であったか、幸せだった喜びが、いまもともすると甦ってくる。
毎日、ブログをひらくのが楽しみだった。どこかで会って飯を喰おうが話をしようが、そんなのとは比較を絶した、小説を介した娘との日々の対面だった。十数年見ない顔が行間に行文にありあり見え、声まで聞こえるようであった。
ま、わたしが出過ぎたのであろう、亀が頚をすくめるように、新しいブログ作品そのものが中途で消え失せ、行方知れない。どうか、わたしを気に掛けないで心行く創作を続けていてくれるよう、心から願っている。
弟の活躍ぶりに立ち向かう必要など少しも無い。書いて生きればいい。
いったい誰が朝日子の小説を読んでくれるのか、いい読者にも恵まれて欲しい。そして、心身ともに、健康に。
2006 2・23 53
* きのう、秦建日子の「処女作」の機械にファイルされていた小説らしきものを、読み直してみた。こういう調子、こういう表現から、彼は彼の表現手法を獲得しつつ磨いているんだと、(ぜんぜん巧くなかったけれど)興味深いモニュメントであった。わたし自身でいうと処女作『或る折臂翁』に当たっていた。
2006 2・24 53
* 若々しい客二人を歓迎し、少し早い雛飾りを。七十年前の妻が初節句の人形たちが、さほど古びもせず品良く筺のなかで今日を待っていた。棚飾りはたいそうなので、あり合わせの卓にならべた。
* 妻が手作りの蛤汁にかやく飯。雛あられ。ケーキ。夕方、池袋へ出て景気のいい鮓店で、たっぷり。大とろ、中とろ、うに、あなご、鯛、鮑、牡丹海老、かんぱち、鯵、烏賊、白魚、玉など。さらに大とろと美味いサーモン。客も主も、大満足、満腹。このところ食をひかえていたのが、パー。ま、いッか。
2006 2・25 53
* 雛を飾ったりすると、とたんに夫婦の寝る場所もなくなる、家のせまさ。ゆうべ、妻はこの機械部屋のソファで寝た。わたしは雛人形のオーケストラを聞きながら階下で寝た。
2006 2・26 53
* 三日過ぎての永飾りはしないものと、雛飾りは仕舞った。一週間ちかくお雛さんたちと抱き合うように間近に寝ていた。江戸時代繪所預をしていた誰であったかが、優美に精緻に柳を添えた蛤に、雛一対を描いた軸モノがあったのを、探し出して掛けられなかったのが残念。何処へ仕舞ったろう。
* ほぼ十時間近く寝たが、睡眠不足は取り返せていない、いや、この眼の感じはどうやら花粉か。黒いマゴが外から帰ってくると、ほおずりしに来る。漆黒の毛にたっぷり花粉をもらってくるのだろう。
2006 3・4 54
*「アンフェア」おもしろく観ている。篠原涼子がまたとない嵌り役で、感情移入しやすい。「ばかか、おまえ」は、原作者の父親であるわたしのキメ癖で。娘も息子もだいぶやられている。ニクマレている。
2006 3・7 54
* 建日子がふらりと帰ってきて、ゆったりオシヤベリしてまた仕事場へ戻っていった。明日「小屋入り」と。旧作を徹底改作した芝居を彼の演劇塾の生徒達が卒業公演するらしい。土曜日に目白へ見に行くことにした。そのあと引き続いてぴあのリサイタルがある。 建日子は超お忙氏。本もしっかり売れている。わたしは、その点で心配がすっかりなくなった。
2006 3・13 54
* 新宿区役所に結婚届を出して満四十七年。よく歩いて来た。忘れない。
2006 3・14 54
* 渋谷で、上京以来久しい馴染みの、鰻の「松川」で昼食。
* パルコ劇場で、「決闘! 高田馬場」を、五列目真まん中という貴賓席なみ絶好の席で楽しんできた。
なにもかも、若い。若々しい。完成品ではない、終始一貫、気合いの舞台。気合いを楽しめばよろしく、染五郎も勘太郎も亀治郎もよく楽しませてくれた。市村萬次郎など、つねの歌舞伎舞台では違和感をもちこむばかりの風変わりな女形であるが、水を得た魚のように今日の舞台では溌剌と楽しそう、そういう役者をみるのは嬉しいことで。
勘太郎はおやじさんの勘三郎、というより前の勘九郎に手の届くところへ肉薄していながら、おやじの域になかなかまだ届かない。演技をみながら、ああ勘三郎 (勘九郎)だとこう笑わせていると想像が働いて働いて、そのうえで、ヨシヨシ勘太郎も一所懸命だなあと嬉しくなる。
亀治郎という役者にはじめて強い印象を持ったのは、猿之助といっしょに踊った湯屋のなめくじ湯女の役だった。いらい亀治郎をわれわは可哀想に「なめくじ」と呼んで親しんでいるが、彼は、とてもよく踊る。なめくじが印象的であったのも、よく踊って見せたから。達者な佳い佳い役者で、今日も大いに楽しみにしていて、十分期待にこたえてくれた。
今日の役者達の芯は、市川染五郎、座頭である。縦横無尽に元気で旺盛で楽しませてくれた。舞台からヨヨイノヨイと一本締めで、わたしたち今日が四十七年の結婚祝いまでしてくれた。ご苦労さん、の元気元気な舞台であった、楽しかった。
三谷幸喜の作・演出としては、まだ洗練されていない、ぐさぐさとした舞台で、さらに一段二段の洗練が期待された。
* 東急本店で、妻に佳い服を、上下のアンサンブル、きれいに見立てて買った。五十歳台で似合うと見たが、四月はじめに古稀の妻に、しっくりり似合って、見つけ甲斐があった。スカート真っ白のチューリップ・フレアーが、ベージュのデザインが面白い軽快な上着にうまく合った。
東急から坂をおりる途中、ビル八階のワイン・レストラン「シモア」で夕食した。食事に合わせてもらったスペインの赤ワインが格別の美味、妻もわたしも、大満足。食事も、絶好、落ち着いて悠々味わい楽しみ、満足して、疲れることもなく帰ってきた。
* 妻の服をあれこれと面倒見てくれていた二人の店員も、われわれが結婚した四十七年前には、まだ生まれてないのだった。長い道のりを歩いてきた。まだまだ健康であって欲しい。四月五日の妻が「古稀」誕生日までに、いろいろ楽しめるようにと、七十万円、用意した。二人して七十まで生きてきた、信じられない気もするが、事実だ。もうもういつまでも体を動かしてカジュアルに二人して楽しむことは、難しくなってゆく。ながくもがなと思いつつ、みな今のうちのこと。怪我をしないように。
2006 3・14 54
* 今日は、夕方、目白で秦建日子作・演出、若い人達の「比翼の鳥」を観てから、サントリーで浅井菜穂子のピアノリサイタルは、ベートーベンなど。
2006 3・18 54
* 目白駅から六七分歩いて、建日子主宰の演劇ワークショップの発表公演「比翼の鳥」を観た。
運動量豊富な、みーんな出演させてやろう、やらなきぁという、親心? のような舞台であり、若い男女の肉体と声帯が、おめずおくせず狭い舞台で躍動するのだから、それだけで飽きずに観ていられる。
筋書きのお芝居ではない、大勢をひたすら動かせまくり、喋らせまくり、なにとなく粗筋めくストーリィを、強硬に観客席へ押しこみながらの一時間半、飽かせるひまもなく、一瀉千里に何もかもガンガン運んで行く。つまり百パーセントが演出のちからわざ。役者はそのためにほとんど酷使に堪え、いろいろに作者・演出家の、好き勝手に嵌め込まれるジグソーパズルのピースのようなもの。
男と女が出会い愛し合い、しかし本意なく別れることになる、と、片方が、男の方が、自殺しかねない。そういう自殺願望男のために「自殺予防課」なる施設があやしげに活動している。ま、そんな設定などどうでもいい、乱暴で乱脈な舞台のように見えていて、しかし、ゆるやかに筋は造られてり、荒唐無稽でもないから可笑しい。
なぜ男と女は出逢い、愛し合い、しかし別れるのか、舞台は、ある種のアピールはしようと目論んでいる。なんだか、観客席もシンとしそうなアピールとも見うけるが、バカタレ、「甘いよ」と言いたいようなアピールでもある。大甘な愛のポーズへ話を運んでゆく過程では、けっこう辛辣な批評もしてあるに拘わらず、やはり主役めく、同棲していてあげく女に悪態を垂れられてふられた男は、それでもおれは、俺一人は最後の一人になってでも永遠にお前を愛しているから忘れるななどと、アメリカへ逃げて行く女に未練なセリフを吐くのである、バカかお前。なんとも甘ったるいことを叫んで終わるのだ、バカかお前。ワケが分からん。
ところがワケなど分からなくても、ちっとも毒にも薬にもならないドラマなのであり、印象に残るのは、ただもう、若い男女が圧倒的に踊り踊り踊り、動き回って、お前ら、ようやるわという感嘆一つである。ああいう芝居は年よりの役者では出来ないし、むろん似合わない。こんな汗ばかり飛び散る芝居を観ていると、なみの新劇風の新劇は、よっぽどの舞台を創り出してくれない限り、あほらしいほど退屈してしまう。若い人達が新劇なんか、なみの商業演劇なんか観ない気持ちが良く分かる。年よりのわたしでも、風邪をひきそうに薄ら寒い新劇はこのごろ退屈でつまらなくて仕方がない。同じなら若い男女が必死のドタバタで踊り狂ってくれる舞台の方がワクワク興奮できる。演劇という劇はこういう劇動のことであり、それを内面から統御してあやまらない劇的構成と生きたセリフの呉れる感動の意味。存外に優れた歌舞伎劇にはそれが、ある。歌舞伎役者は所作という舞踊の修練を積んでいるからである。
* 正直の所、わたしは、今日は熱っぽくてだるくて元気でなかった。ぐたっとしていた。ちまちました普通の芝居なら吐きけを訴え逃げだしていただろう。そうならずに済んでよかった。
2006 3・18 54
* 「比較」という「批評」や「分別」が昂然と、トクトクと学問のジャンルにすらなっているが、ナニ、たいしたことではない。太古来、人は、日々に比較し分別し選択して暮らしてきた。逆にそういうことを「一切するな」と命じられたら、インテリも、そうでないのも、みんなヘキエキして狂うだろう。比較しない、分別しない、選択しない。これが「無心=静かな心」への、初歩でほぼ終点なのだから。わたしなんぞの、求めて出来ることでは、ない。情けない。情けない。
僅かな間、東工大に教授室をもっていた。もっと前には二年間であったが早稲田の文藝科で、いま花盛りの角田光代らの創作の勉強に付き合った。
教授会に象徴される学内行政には、小指の先も触れる気がなかった、ただただ学生達とよく話した。東工大の教授室はいつも近隣からヘキエキされるほど学生の談笑で賑わった。大学生という名の知識人またはその卵達の内面をなるべく深く覗き込んで、それに応えられるだけ応えたかった。同僚の先生方の多くが、はなから学生達の「幼稚さ」に絶望気味だったが、わたしは彼等の内深くに隠れている言葉を、思いを、せいいっぱい引き出した。わずか四年間で、東工大のわたしの学生達は、一冊(原稿用紙)三百五十枚勘定の単行本ならば、実に「百冊分」をわたし宛に書いて提出しつづけ、わたしは悉くを読んだのである。
その体験が、禍い? してか、たとえば、今わたしの孫娘は、やがて大学二年、秋には選挙権も手にするけれど、日々に書いているブログ記事など読んでいると、これが本当にこの子の深くから湧き出る自分の言葉なんだろうか、毎日毎日これっきりなんだろうか、これでは「言葉」そのものが下痢のようなもんだなあと、つい分別し批評してしまう。したくなくても、してしまう。とっても、つらいイヤな気分である。
分かっている。よけいなお世話なのである。
だが、言葉は「生き」の現場をはたらかせる血潮のようなもの。そうもそうも、これはハレの言葉です、これは気楽なケの言葉です、ちょっと軽く道化てみせてます、とは、したり顔に使い分けの利かない、気難しい、イヤーな生きもの、それが言葉。
おセンチに、トホホめいて、下痢のようにしか書かない話さないでいると、そのクセは、大事な肌にも表情にも立居振舞い、ファッション・センスにまでしみついて、そういう汚染(しみ)ほど、とても拭き取れない。
一度だけ、「闇」に言う気で、書いておく。おじいちゃんが、こんな場所でエンゼツしているとは、孫はまるで知らないのである。
2006 3・20 54
* 「比較」という「批評」や「分別」が昂然と、トクトクと学問のジャンルにすらなっているが、ナニ、たいしたことではない。太古来、人は、日々に比較し分別し選択して暮らしてきた。逆にそういうことを「一切するな」と命じられたら、インテリも、そうでないのも、みんなヘキエキして狂うだろう。比較しない、分別しない、選択しない。これが「無心=静かな心」への、初歩でほぼ終点なのだから。わたしなんぞの、求めて出来ることでは、ない。情けない。情けない。
僅かな間、東工大に教授室をもっていた。もっと前には二年間であったが早稲田の文藝科で、いま花盛りの角田光代らの創作の勉強に付き合った。
教授会に象徴される学内行政には、小指の先も触れる気がなかった、ただただ学生達とよく話した。東工大の教授室はいつも近隣からヘキエキされるほど学生の談笑で賑わった。大学生という名の知識人またはその卵達の内面をなるべく深く覗き込んで、それに応えられるだけ応えたかった。同僚の先生方の多くが、はなから学生達の「幼稚さ」に絶望気味だったが、わたしは彼等の内深くに隠れている言葉を、思いを、せいいっぱい引き出した。わずか四年間で、東工大のわたしの学生達は、一冊(原稿用紙)三百五十枚勘定の単行本ならば、実に「百冊分」をわたし宛に書いて提出しつづけ、わたしは悉くを読んだのである。
その体験が、禍い? してか、たとえば、今わたしの孫娘は、やがて大学二年、秋には選挙権も手にするけれど、日々に書いているブログ記事など読んでいると、これが本当にこの子の深くから湧き出る自分の言葉なんだろうか、毎日毎日これっきりなんだろうか、これでは「言葉」そのものが下痢のようなもんだなあと、つい分別し批評してしまう。したくなくても、してしまう。とっても、つらいイヤな気分である。
分かっている。よけいなお世話なのである。
だが、言葉は「生き」の現場をはたらかせる血潮のようなもの。そうもそうも、これはハレの言葉です、これは気楽なケの言葉です、ちょっと軽く道化てみせてます、とは、したり顔に使い分けの利かない、気難しい、イヤーな生きもの、それが言葉。
おセンチに、トホホめいて、下痢のようにしか書かない話さないでいると、そのクセは、大事な肌にも表情にも立居振舞い、ファッション・センスにまでしみついて、そういう汚染(しみ)ほど、とても拭き取れない。
一度だけ、「闇」に言う気で、書いておく。おじいちゃんが、こんな場所でエンゼツしているとは、孫はまるで知らないのである。
2006 3・20 54
* 建日子、用事があって日付変更の直前に来て、一時間ほどお喋りしてまた戻っていった。河出書房と小野真弓からの献花、そしてワインを一本置いていった。
中学生の下の孫娘が、友達と二人で芝居を観に来たという。それはよかった。
2006 3・20 54
* 連続ドラマ「アンフェア」が終わった。建日子原作『推理小説』に拠ったのはほぼ最初の二、三回と雪平夏美の個性的設定だけで、あとは脚本家の自主的な追いかけであったのは、脚本を建日子の書いた『ドラゴン櫻』の場合と同じこと、追いかけ部分に本の原作者としては全く関与していないそうな、そういうものだろう。
トラマは、力作であった。凡百の刑事物とは断然ドラマの空気がちがっていた。ま、所詮は殺しモノである、そこに感動が流れていたとは謂いにくいが、そして結末もいじくり過ぎてくどかったし、やはりかなりセンチであったけれど、視聴者のことを勘定に入れれば、仕方がない。
こういう類の作物をつぎからつぎへ提供しなければならないとは、さりとてもテレビ屋さんはご苦労さんである。
2006 3・21 54
* 称讃は、百人分で一人分。(激励も含んだ)批判ないし非難は、一人で百人分と受け取るべきである。わたしが出版すれば百人の称讃はすぐにも届いてくる。批判や非難はめったなことで来るモノでない。しかし、上のように思っている。苛酷なこの事実に堪えられなくては、創作者にはなれない。
称讃だけはホイホイ受け容れ、厳しい批評からは背を向けてしまう例は、娘朝日子の実例もふくめ、その方が圧倒的に多い。脆弱な神経では当然だろう。
だが、そんなふうに都合よく身につけてしまう安直な自負心は、猛毒である。この毒はたいした美味なので、簡単に嚥下・賞味されてしまう。毒のまわりは早く激しく、折角の才能を速やかに蝕んでしまう。
子供は褒めて育てても良い。しかし大人は、たとえ善意で褒められていても、当人の愚かさにより我から褒め殺しにあう。すこしも早く気が付いたほうがいい。謙虚も、大きな大きな才能なのである。
2006 3・22 54
* ひるすぎの四谷土手で、かすむ青空をふりあおぎ櫻の幻をみた、何年前か。四谷から市谷までの土手を櫻に酔って歩いたことも。何年前か。神楽坂を下り、法政の前の土手を散る花にまみれて市谷まで妻と歩いた、あれは去年。今年は、まだ「土手の花見」をしない。
『土手の花見』という随筆集を、亡き伊馬春部さんに貰ったのは、何十年前か。年年歳歳花相似 歳歳年年人不同。これぐらい手厳しい詩句はすくない。
2006 3・28 54
* 芝居はねて、まっすぐ渋谷から地下鉄で日本橋高島屋へ。六階の画廊で「石本正展」の初日。裸婦を中心に花もすこし。さすがに天才画家の力作揃いで、しかもみな新作、それもこの一年間で描いた新作と謂うから、驚嘆。なやましい姿態の裸婦たちに、イヤに思わせぶり文学的な題の付いているのがスケベイ爺さんらしいが、繪はきりりとしまり、足腰のまがった老画家の創作とは思われない、エロスの昇華。すべて、線のもつ確かな毅さと清さでモチーフが確保され、微塵のムダもバカな遊びもない。女達の肉は、ししぶとに豊かに弾み、締まり、美しい。しかもあやうく情欲をそそりかねない描写力の深さ。脱帽。
会場で、旧知のブリジストン美術館長富山秀男さんに久しぶりに声かけられ、むろん石本さんにもお祝いを申して、満たされた心地で会場を出た。
上野広小路まで地下鉄に乗り継ぎ、風月堂で軽く夕食をさきにとり、やがて黄昏色の濃さまさる上野の山へ、連ね連ねた紅灯に誘われながら、うち重ねうち重ね満開の櫻匂う木の下を、妻と、さまよい登っていった。もうすっかりの夜桜が紅を含んで、低い雲のように波打ってどこまでも続いた。
繪にも花にも満足して、上野駅から一路保谷へ帰ってきた。つよい風のかなり冷たい三月末であった。
2006 3・29 54
* わたしの、今、苦のタネは、mixiにいると知った大学生孫娘の日々の日記を「読む」こと。むろん何もかも書かれているわけでない、しかもひょっとして舞文曲筆の戯れごと(それなら、どんなにいいだろう!)かも知れないが、想像のほかの生活ぶりに胸をいためている。「大学生」のかなりな実像を東工大で見知ってきたし、退職後もたくさんな付き合いがあり、むろん校風や専攻のちがいもあるにせよ、また知的内容の落差も考慮しなければなるまいにせよ、そんな程度の、そんな範囲のことではない。たんに「いちびって」いるだけなら、まだしも。
てんで手の届かないところで祖父母は新たな歎きを抱き込んでいる。mixiを介してじかに物言えば、孫はきっと仰天するだろう。
2006 4・3 55
* 「価値観」という言葉が、とても新鮮に響き始めた時期が、我が国の近代史に、はっきり在ったと思う。マルクシズムが新鮮に日本の知識人を魅了したころから、インテリの普通の日常会話にも浸透した。女も、つかいはじめた。そしていつか、「価値観がちがう」「価値観を押し付けるな」という物言いで、自己主張したり、自己弁護や防禦もしたりするのは、すこしくインテリめく人や家庭の常套手段になった。昨今はむしろ「価値観」という言葉もあまり耳に目に、しなくなっている気がするが、どうか。
人にもよるだろう、が、わたしは「価値観を押し付けられる」という気に、あまり深刻になった覚えがない。互いの間で問題にする程度のことなら、自分にも自分のそこそこ価値観は用意できていて、議論も相談も出来たし、互いに考え方の摺り合わせがきいた。それが普通だった。
結果として、より良い価値ないし価値観を手にしてゆけばいいのだし、そもそも、これは京都人だからかもしれないが、価値決定の仕方に、「イエス」と「ノー」としか無いといった窮屈なことは、あまり無かった。だいたいのことに、「そうかもしれへんけど、ひょっとして、ちがうのとちがうやろか」と、いつも二枚腰というか、撓め腰というか、少し狡いともいえる緩衝地帯を胸に抱いていて、そこで調整する余裕があった。
かりに親や教師にきついことを言われても、一応承っておいて、やっぱり親や先生が言うとおりだと納得したり、少し時間をかけて既成事実で逆に説得したりした。好きにさせてくれない大人を、価値観をおしつけるから「大嫌い」などとは言わなかった。
世の中には、一国覇権主義のブッシュ・アメリカのように、まさに「価値観と自己利益を押し付けてくるヤツ」もいて、これぐらいになると温和しいわたしもほとんど憎悪するが、また我々のレベルでも、「礼なき」相手は簡単に聴(ゆる)しはしないが、人はたいがい互いに価値レベルがちがうぐらい当たり前なのであるから、状況の差や、力の差で、そこに多少の出入りが生ずるぐらい、人の世に生きている以上は、覚悟の上でなければならないだろう。それを見極めながら、つまりいろいろにローリングしながら航海して行くのが、人生の「海」というもの。
少し知性を備えていれば、自然に弁えも反省もできるものである。
人にはみな余儀ない建前と本音とがある。本音の部分にはうしろ暗いもの、底昏いものも隠しているのは、誰一人として例外ないだろう。人は、或る程度の「衣服」を身につけて世に交わり世渡りするしかないのである。赤裸々に生きているわけではない。赤裸々が良いのでも、必ずしも、ない。むしろその「衣服の程度、着こなしの程度」で、恥を掻いたり敬意を持ったり持たれたりし合っているのである。むろん、そこに偽善も欺瞞もしのびこむ。
そういうことの余儀ない凡てを或る程度正しく分かってくるのが、よい面もよろしくない面もあるけれども、つまり「大人になる」ということだ。
大人は、未熟なこどもにたいして、或る程度は価値と価値観とを伝えて行かねばならない。それは大人の帯びた義務の一つであった、歴史的に。それが出来てなかったら、人類はとうに亡びていただろう。いま人類社会が危うく滅びかけているとすれば、人類自体の責任が、その辺にある。こども世代はそれを聡明に手直しして行けばいいのである、聡明に、である。
ものの例えにも、海外留学させた娘が殺され、海を渡り親がかけつけてみると、信じがたいほど乱脈な娘の暮らしがみえてきて、親は石のように固まっている…という実例が、今日もまた報道されていた。
国内にだって、それは有る。毎日のように実例は目に見えている。親や大人からの責任ある視線をちゃっかり免れて「自由だぁ」と叫んでいる大都市部の高校生や大学生たちにことに特徴的に見えている。
今日報道された例など、留学していったその娘の自己責任も大きい、が、甘い考えや判断で手放した親や大人の価値観にも、洞察にも、用意にも、躾けや養育にも、問題はあったであろう。
それにしても進取の精神や自由の謳歌と、ハメを外して「いちびる」のとは、まるで別ごとのはずである。「十七にして親をゆるせ」も極めて大切、それは「十七にしてホンモノの大人になれ」という意味である。好き勝手に「いちびっていい」権利では決してない。
2006 4・3 55
* 建日子たちが、隣の棟の「置き荷物」の整理に来た。あと一時間ほど歓談し、母親が古稀の祝いの乾杯をしてまた戻っていった。
2006 4・4 55
* 冨森幽香のことでメールをくれる人があった。
* 巌谷大四さんに富森幽香のことを聞いたような朧な記憶がある。もしそうならこの人は明治の志士で書家として名高い巌谷小六やその子巌谷小波の肉親にあたっていないか。わたしの母方祖父旧姓鵜飼い周吉が年若い頃に小六に親しみ、よく傍で墨擦りなどしたという話は能登川の阿部家(周吉が養子に入った家。周吉三女でわたしの生母ふくの実家)の人に聞いたことがある。MIXIも思いの外の縁を誘ってくれる。
2006 4・4 55
* 妻も古稀。お互いによくここまで来たものだ。
* 雨にわざわいされることなく、歌舞伎座に終日。昼の部は北条秀司の「狐と笛吹」梅玉、福助、我當。期待していたが期待以上に美しい、身にしみる舞台であった。好演。こういう小説をながいあいだ「狐草紙絵巻」で考えていたが、この作品が先行し、よく書けていた。
次ぎに雀右衛門の「高尾」。
昼食に吉兆へ。美味かった。満足した。それから芝翫の狂える淀殿で「沓手鳥孤城落月」。
昼の部のオシマイが「関八州繋馬」で魁春の小蝶蜘、仁左衛門の将軍良門が立派に大きく美しく演じた。舞台半ばに吉右衛門、東蔵で、玉太郎初舞台のお披露目。
夜の部は、先ず吉右衛門と魁春の「井伊大老」が佳い舞台であった。それぞれの親の先代幸四郎と六代目歌右衛門との舞台が瞼にあり、吉も魁も誠実に力演し好演して感銘を受けた。
ついで歌右衛門五年祭の「口上」。
三つめは坂田藤十郎と中村梅玉の「時雨西行」驚嘆の名演で、藤十郎の底知れぬ力をこわいほど見せてくれた。なんという美しい所作であったろう、梅玉もとてもよく舞っていた。今日随一の舞台。
大ギリは、福助の初役万野という期待の「伊勢音頭恋寝刃」は、福岡貢に仁左衛門。まずまず期待通りにおもしろく。
* 帝国ホテルのクラブで、妻の古稀をシャンパンで祝って貰った。とっておき絶妙のブランデーで乾杯し、サーモン、角ステーキ、エスカルゴ。一息入れて、まっすぐ帰宅。
* その余のことは明日にして、今日はもう休む。
2006 4・5 55
* 上野の櫻はまったく盛りを過ぎて。このまえ妻と夜桜を観て歩いただけで、今年ほど盛りの花を観ずに終えた年はなかった。
2006 4・6 55
* 秦先生 こんばんは。「私語の刻」にありました 冨森幽香は、ご指摘の通り明治の書家巖谷一六居士の娘。お伽噺の小波の姉にあたられます。
冨森家は赤穂義士の一人冨森助右衛門の末裔。
水口との縁が生じたのはは助右衛門の子長太郎を水口藩主(当時は下野壬生藩主)加藤氏が招いてその家臣としたからです。
赤穂義士の子弟を諸藩が競って仕官させた、その一例であったのでしよう。当時の藩主加藤明英は柳沢吉保に重用されて外様ながら若年寄にまで出世した人物ですが、そういうこともあったということです。
このあたりのことは冨森叡児氏の『うろんなり助右衛門~ある赤穂浪士とその末裔~』(2002年 草思社刊)に詳しく紹介されております。同氏はご兄弟と数度水口にお越しなり取材をされました。
幽香はその後裔にあたる冨森篤氏と結婚し、篤氏を亡くしてからは櫻様のお書きになっている通りでございます。
幽香は早くにキリスト者となり、旧城下にある水口教会の初代の伝導師となりました。
水口教会には今も一六居士が娘幽香のために揮毫した扁額がかけられており、幽香さんは教会の礎となった人として強く記憶されているようです。
同教会の歴史には、水口藩の大庄屋で豪商であった山村氏の後援がありましたが、小波さんの妻となった勇子さんはこの山村家の令嬢で、例の金色夜叉の題材に使われたごとき小波さんのの女性関係を心配した幽香さんが、
小波を水口に招き、勇子を紹介したことは、小波自身も書いていますし、巖谷大四氏の小波伝『波の跫音』にも触れられています。
以前水口教会の明治期の寄付台帳を拝見していましたら、小波と勇子の寄付も記されていました(これは結婚前の時期でしたが)。
小波が青年時代に麹町の番町教会で受洗したのは、当時の流行ということもあったでしようが、姉である幽香の影響もあったと思われます。
『波の跫音』にもあるように小波は終生女性問題と切れなかったようですが、勇子はそんなこともあって、むしろキリスト教に深く帰依し、とくに無教会主義に傾倒したと関係者からお聞きしました。
小さな田舎の城下町の教会史としては、なかなか魅力のある人物が揃っていると関心しています。
昨冬東京へ参りました折、泉岳寺へ助右衛門のお墓を訪ねました。人を訪ねることで歴史がつながっていく。そんな思いを新たにしたことです。 鳰
2006 4・6 55
* このところ、また、いたずらの無言電話をときどき受けていると妻が言う。わたしは昔から電話は、するのも受けるのも嫌いで、仕事場に電話機は置かない。無言電話、いたずら電話、そして商品の勧誘電話は、われわれの同業では少しも珍しくない一種職業病なみ「憑きもの」で、不快さに軽蔑しても、多年の習い、家人も慣れている。電話会社だけが喜ぶのだろう。陰気なことだ。
2006 4・8 55
* むかし、富士山が高い高いと言うけれど、どれほど高いのかしらんと聞くと、秦の父が、普通の山なら「これぐらい」とちらと眉だけ動かして視線を少し挙げ、富士山は「これぐらい」と顔ごと天井を見上げて見せた。三千何百メートルなどという知識でなく、そのときの父の教え方にわたしはある種の感動と称讃を覚え、今も忘れない。
姫路城へも室生寺へも竹生島へも桑名や伊勢へも、新潟の村上や、それに一度淡路島へも、行ってみたいが、なんとなく自分の体力がつよくはそれを奨めない。歩きに出よ出よと妻も奨めるが、ちっともそんな気は起きない。花粉を感じるとたちまちジーンと眉わきの奥の方が痛んでくる。
2006 4・9 55
* 秦建日子が、引き続いて講談社から小説『SOKKKI!』とやらを出したらしい。二月に『チェケラッチョ!!』を出したから、順調に出版が続いている。
十年ほども、年四冊ないし六冊ずつ出版しつづけた父親に迫れそうか。まだ新刊は手にしていないが、この息子が早稲田で「速記」部に属していた頃の<目も当てられない体験が、私小説風に活かされたか、フィクションとしてハジけたか、なにしろ「速研」という各大学横並びの組織活動は、我が家にも影響深刻だった。連日連夜・深夜の「アッシーくん」出動であったし、女の子たちの長くて頻繁で、死ぬの生きるのという電話の四六時中絶えなかったのが「速記」の時であった。建日子が「ばかかッ、お前」と、売れない物書きのおやじに怒鳴られつづけていたのが、あの頃だったなあと、懐かしいやら可笑しいやら。
その速記研究会が新刊の応援に大きな紹介記事を書いてくれて、「すごく嬉しい」「すごく嬉しい」とホームページに作者は書いている。さもあろう。
但し作家たるもの、「すごく」「すごく」はどうかねえ。漢字で書けば「凄く」だが、これは凄惨を意味する鳥肌立つ漢字。お岩さんに抱きつかれたではあるまいし、街中のギャルと同じ物言いは、日本語を正し豊かにして行くのが役割の「物書き」先生としては、オソマツだよ。
* 今日の郵便物で秦建日子作『SOKKI!ソッキ』が著者謹呈で届いていた。いま、113頁まで読んだ。息子の本でなければ読まないか、この辺で失礼する、が、やはり読んでみたい。『坊ちゃん』だってこんなふうに書いてあると、言えば言えるのかも知れないが、建日子くんのは、漱石先生と比較するには推敲が足りない。気になるよけいな文字や措辞がたくさん続出する、が、フイクションの進め方は明快で明朗で、ところどころこの作者の長所であるおもしろい物言いが表現効果をもち、全編が時には軽率に、時には軽快に、時には軽妙に弾んでいる。どうみても「軽」の字ぬきには語りにくいから、これは「ライト・ノベル」か。
語り手の大学一年生男子と、ヒロインであり語り手を速記部に勧誘した先輩女子は、軽いけれど、それなりに造形されている。この女子が、また女子への後輩の好意が、恋が、最後までうまく表現できていれば、ま、成功…と思い思い、ここまで読んできた。まだ半分来ていないから「楽しみ」ということにしよう。
この文章とお話の運びは、やはり若いプロの物書きのそれであり、推敲がきちっと出来て磨けていれば、文藝の魅力ももっと期待できるのだが、まだ純文学の藝術品にはほど遠い。だが把握と表現との均衡と、「読ませる」テクとは、ちゃんと出来ている。頼もしい。
私小説の匂いはあまりしていない。それは、よかった。この作者、私小説ムキではない、創作した方が力が出るのではないか。
小休みして階下におり、ふっと進行中のテレビドラマなど目に耳に入ってくると、やに「感じ」がちかいので、ああ、やっぱりそうかと、秦建日子の読者としては気が腐る。テレビドラマのノベライズみたいな軽さではないと思いたいが、それでは、困る。やはり漱石先生の『坊っちゃん』は名作なのである。何が。どこが。それは秦建日子氏が自分で見極めた方が良い。
2006 4・10 55
* 200頁めで力尽きて、また休息している、『SOKKI!』読みは。いくらか斜めに流したいところもあった。佳境は、まだこの先にありうる。読み継ぐ気は、むろん、持している。
何というか、現代の若いリアルをとらえるセンスは、「溌剌」という表現を以てしていいほどだ、が、その一方その現代はあくまで「流行現代」であるから、不易に長持ちの保証はない。数年、十年、十数年も経ず、全体におそろしく古びてしまうだろう、分からなくなってしまうであろう物言いや譬えが、平然とあちこちに使われている。
作品は使い捨ての読み捨てで構わないという、消耗を前提に容認した鮮度の出し方、日に日に刻々に古びて行くのは承知の助という書き方、になっている。わたしなどの、せいぜい留意し注意し避けた点であるが、この作者は大胆に消費的で、今通用すればそれでいいという行き方だ。裏返せば、どうすれば今々の若い読者に売れるかを心得ている。売れればいいという書きザマに徹している。
それと、映像化される際の効果を勘定に入れてあちこちの場面がつくられている。わたしなど、映像化できるならしてみろと思いつつ言葉で表現していたところが、映像化しやすいようにように場面が描かれている。それが今様のフツーの在りようであるらしい。
* 十一時前。『SOKKI!』読了。若い人達の恋愛小説として、感情や言葉の入れこみ様も破綻はなく、描写の粗い手抜きは二度三度感じたものの、それもメリハリのうちぐらいな感じで、わりと気持ちよく読み終えられた。
最後の甘いところも、作者の持ち前であり、本人は哲学だと思っているだろう。それなら、それでいいでしょう。さすがに「ドラマ」を書き慣れていて、落とすところへ話を落として、意外にソフトランディングした。ソツがなくて、少し拍子も抜けたけれど纏まりは良い。額縁はすこし薄い細い感じで必ずしも上等に美的ではないが、ま、この辺が分というものか。いい意味でのセンチメントをいやみなくうっすら涙のように溜めて、一篇の小説になった。
三十八歳か、作者は。もう少しも若くない、が、気は若い。その若さに半分羨望し、半分呆れた。こういう小説は、わたしにはとても書けなかった。仕方がない。新しいのか普通なのか分からないが、漱石が『三四郎』を書いた新しさも、その当時としてはこんな風に同時代人に受けたのだろうか。
三十八、この作者と丁度同い歳で、わたしは、『みごもりの湖』と『墨牡丹』を、同時に世に問うた。もっと書ける、という気持ちが静かに湧いてくる。息子と「同時代人」として「作家」になっているのを、幸せに感じる。結局建日子は、素直に生きてきたんだなあと思われて、それも良い気持ちだ。
ちょっと悔しいのは、もっと丁寧に推敲していれば、(そんなに難しいことではないのに。)陳腐な決まり文句やうたい文句の幾らかは省けて、更にスッキリ作品世界が統御できたろうにと、惜しい。まだまだ「のようというのだ」の無神経な頻出もあり、例えば「忠告する」でいいものを、「忠告をする」式の安易な弛みなども。
一度気が付けば二度と犯すワケのない推敲のポイントに気づけないまま、無神経にあちこちに放置されている。クリアされていれば、もっと律動感の内在したシッカリした文章になっていたろうと惜しい。
2006 4・10 55
* 夜前も、くらくらしてしまい、早く寝た。寝ながら、読み終えた秦建日子作『SOKKI!』を反芻していた。
じつは前の『チェケラッチョ!!』は、もう粗筋すら忘れているが、この小説はそんなことはないだろう、若者達のむら気な付き合いでなく一応「恋」が書かれていて、筋が通っている。一抹もののあはれも書き留められてあり、なによりヒロインがある種の玉の輝きを帯びて存在している。女が、というより、作者が語り手にのせて「感じ」ている一人の女が、ちゃんと伝わるように書けている。語り手も、一つの個性として、印象的に明瞭であるし、周囲の「友人」たちの書き分けも、疎かにもアイマイにもされていない。「人」を比較的よく観て掴んでいる。そういう長所を支えているのが、またそういう長所により支えられているのが、叙事の溌剌感になって、作品が、上等かナミかは別にしても、とにかく生き生きと生きている。「読ませる」勢いが、そこから湧いている。
三島賞作家でわたしが好意を持って読んできた作家がいる。名前を瞬間度忘れしてしまった(久間十義)が、その『海で三番目に強いもの』という、題からは想像しにくいがデパートで万引きする少年たちの物語を、筆致にも惹かれわたしは一冊まるごと「ペン電子文藝館」に貰ったことがある。
秦建日子の作品は、前作も今度のもむろん全然異なった作柄ながら、不思議と気持ちで通っているものがあり、それは少年や青年達の呼吸を、リアリティを失わずにしかもイデアールに把握しているということだろう。少なくもそれが創作の姿勢として歪んでいないということだ。大事なことである。
2006 4・11 55
* MIXIの「日記」欄を利して「<静かな心>のために」を三十一日、次いで「本の少々」を三十一日、連載してきた。今からは、湖の本新刊の発送期にかかるので、この「私語」や他の仕事のほかにMIXIに割ける余裕なく、思い立って、わたしの思想を、従来袖も触れ合ったこともない読者達の前に、読まれる読まれないは別にして、投げ出してみたいと願い、既刊の『一文字で「日本」を読む』を、段落ごとに一行アキに連載しはじめた。その末尾に、少し述懐したりしておこうと。以下の二つの例は、末尾に別に付け加えたものである。
* MIXIで傍観していると、(孫娘は、いつでも「笑」っていたい、人にも「笑」っていてほしいと、口癖にしているようだ。「おじいさんの大きな古時計」の訳詞で知られる母方大伯父の童謡に、「お花が笑った」というのがあり、その感化なのかどうか。
「笑い」は著名な西欧哲学書の主題であり、藝能では「笑いを取る」のにいつも苦心している。
爆笑、哄笑、微笑、微苦笑あり、失笑、冷笑、憫笑あり、つくり笑いもへつらい笑いもある。泣き笑いというほど、泣くと笑うとは同じ地平にある。
もう孫も大学生、一度は「笑」一字を、もう少し語源的にもフィロソフィカルにも深く読みこみ、自身の「思い」を今一段「思想化」してみてはどうか。佛教には、拈華微笑という一切会の啓示もある。漢字の字源も、白川静博士の『字統』などで確かめてみるといい、オオウとおどろきの声が出るかも知れない。そこから、また新たに「笑い」の価値観を自身で鍛錬・洗練してみてはどうかしらん、いかが。)
2006 4・11 55
* 妻も今日一日で息子の小説『SOKKI!』を読み終え、全身がガチガチに堅くなり、胃薬を飲んでいた。わたしの頭痛もそれかなあと可笑しい。
2006 4・11 55
* この人たちの言うように、ほんとにだいじなのは「機械」なんかでなく、わたしの「こころ」や「からだ」のほうである。わたしは「機械」ではない。
たとえば糖尿病にしても頭痛や疲労にしても、つまり病状に類する「身から出た錆」は、すべて「心の吹出物」である。
いったいに、真情だかご挨拶だか常識だか自身の不安からだか知らないが、決まり文句のように「からだ」の心配だけを一方的にしてくれても、「こころ」や「きもち」について何も分かっていないか、斟酌無しということが多いものである。人はみなお互いに相手のことに「察しがわる」く、ほんとはこれが一番の困りもの。深い「察し」の抜け落ちたまま、免罪符の行使めいて連発される口先の親切や、思いやりや、注意というのは、或る意味ではなはだウルサイ、五月蠅い、煩わしい。当の相手への薬効はほとんど無い。薬効があるとすれば「こんなにわたしは親切に言っているんです」という自己満足としてお喋りな当人に吸い取られるだけ。
二輪の車が傷んで弱ってくるときは、片方の車輪だけ傷んでいるのでも弱っているのでもない、つまり「こころ」も「からだ」も、おなじように傷みかけている。一方の車輪にだけモノを言い、手をかけてみても、かえって車全体は片輪車を強いられ、傾いてゆく。大破を早めてゆく。老境の車にはそれが「躁」に表れたり「鬱」に表れたりする。わたしは、そんなとき、よく実兄北沢恒彦という有能だった良い車が、大きく傾いて自殺していった経緯を想像してしまう。兄とは生まれながらに遠く隔てられ、ついに終始共生できなかった。
* 十字架上に死んだ人の一滴の血しぶきを浴びたまま「生きたかりしに」と呻いてわたしの生母も自殺した(らしい)。実父はだれに看取られることもなく忽然と孤死した(らしい)。
その二人から生まれた二人兄弟の、兄は老境というほどの坂ものぼりきらず自殺した。社会的に徳あり敬され慕われて多くの「身内」を得ていたに違いない兄であったが、「こころ」と「からだ」との不均衡は急激に進んだ(らしい)。そのとき病院の病牀には文字通り老養父がまだ横たわっていた。妻とは別に住んでいた。三人の子はそれぞれに遠く離れ住んでいた。そう聞いている。
弟のわたしは不徳であるが孤ではない。さいわい運転操縦してかろうじて車の両輪に均衡は得ている気でいる。だが、たぶん兄もそうであったろう、わたしもそんな操縦に倦んできている。とにもかくにも毎日がだんだん五月蠅い。政治も社会も五月蠅い。ああ五月蠅い。
2006 4・20 55
* 一日の終わりに、秦建日子がテレビで映画『チェケラッチョ!』の原作者としてインタビューされた数分の映像をみた。話している内容はともあれ、早口で聴き取りにくい。物言いはだんだんにもっと明晰に。小さい頃にわたしの庭で撮ってやった写真が、うまく可愛く使われていた。
今日も読んでいたわたしの小説によれば、かれが大塚の小さな劇場で『地図 朝焼けにきみを連れて』を初めて自主公演したとき、建日子は二十七か八であった。いま三十八歳。つまり十年間、意識的に良い方へ良い方へまじめに仕事を続けて、今日の第一噴出期へ繋げたのだ、十年というのは大事な年数だ。
二十七か八でわたしも小説を書き始め、三十八歳で書き下ろしの長編『みごもりの湖』や『墨牡丹』や評論『女文化の終焉』などをを出し、二足の草鞋から、独立した。十年。右顧左眄しないでがんばる十年の集中はバカにならないことを、建日子もいま噛みしめているだろう。
2006 4・20 55
* 七時間続けて眠れると十分な目覚めになる。暖かくなったせいかとぎれなく眠れて、有難い。朝のうちに、しっかり用事や仕事ができる。
今日は校正刷りをもって外へ出る。家の中に校正刷りをひろげて丁寧に読める机がないのだから堪らない。
家を建てたとき、すでに作家になっていたが、建築屋さんから「書斎」が無いじゃないかと指摘された。年寄りの三人を迎え取る予定からしても、書斎なんてものはとてもムリだった。
隣棟を買い入れてやっと書斎を造ったが、今は息子の山のような荷物に占領されている。
ペンをつかって書く仕事は、ものをひろげて読む仕事は、わたしは大体テレビのなっているキッチンでしてきた。そんな按排で生涯を終えるらしい。
幸い、喫茶店でひとと相席でも小説を書いていた勤めの昔の余儀ない習慣が、雑踏のなかでの仕事も可能にしてくれている。修業といえばわたしのそれが修業であった。そんなところで書いていたんですか、そんな風には思われませんと、「慈子」や「みごもりの湖」の世界の静かなことを指摘してくれた人も少なくなかった。
2006 4・26 55
* 銀座へ、京の田舎料理を、また食べに行った。先日は「清滝」、今日は「大原」というのを食べた。「しめくくり」の料理にヒレ肉の炙ったのが出た以外は、京野菜ばかりであるのだから、わたしにはテンでむかないのであるが、妻は大気に入り。酒肴とおもえば、酒がうまく飲める。白い炊きたての飯もうまい。料理を出してくれる娘さんがすこぶる愛らしく、親切。わたしをちゃんと覚えていてくれた。
玉村咏の着物染めをもう一度妻と覗いてから、地下鉄で外苑前への馴染みの眼鏡へ。妻は二つ新調し、わたしは少し色の入った遠近両用をつくった。パソコンのディスプレイが眩しいので。白内障が進んでいるのだろうか。
* もう一度銀座へ戻って、木村屋でパンを買い、有楽町線でまっすぐ帰宅。六時間余りの外出になった。
2006 4・28 55
* 「湖の本」を責了したところで、機械部屋の構図をうんと変えた。大道具を入れ替え、妻と、階段ののぼりおりで、大汗かいた。わたし自身はまたも穴の底に隠れ栖む按排。まだ部屋はとりあえず移動したり仮置きしたもので混雑、足の踏み場に窮している。なによりコードの連結がやたら難儀なのを、そっくりそのままで機械机を交換したり新しくしたりしたのだから、気が気でなかったが、あらかじめマスタープランを頭に入れていたので、何一つ故障なく機械は順調に、もとどおり稼働している。次は、従来の子機と子機に連結した外付けのディスクと古いスキャナーとを取り外して、新しいノートパソコンと置き換える。これがすらすらとうまく行くかどうか、もう少し周辺を片づけてから取り組む。
小一年も念願の大仕事をして、息が切れたが気は晴れた。老夫婦、もう一年あとではこんなことは出来ないだろう。
2006 4・29 55
* 快晴。新装成った歯科医院へ、当る戌歳の香合を土産に持参。繪は、壁面の感じが分からないと、嵌らなければムダになる。われわれと同年配、少し上の父上は大先生になり、下のお嬢さんが新院長。ご両親はご安心。
* 新江古田ちかくのレストラン「リヨン」で昼食。メニュが大当たりで、質も量も好適、すこぶる美味かった。オードブルもメインの鶏肉もデザートも、そして赤ワインも、それぞれに思わず声を発するほど佳い調理で、こういう店を知っているのが、幸せなほど。この店を知ってからは歯医者の帰りが楽しみになっている。
駅近くのブックオフに、建日子の『SOKKI!』が安く出ているのが外から見え、妻が買った。保谷駅に戻って、こんどは、オレンジ色の涼しげな軽いニットのアンサンブルをみつけた。よろこんで、また買った。
2006 5・1 56
* 快晴。三月に雛人形を飾ったのだから、今日は大将人形を出してもよかったのだが、飾る場所がなく、断念。
2006 5・5 56
* hatakさん 那覇でトゥシビー(生まれ年のお祝い)があり、石垣(島)まで足を伸ばしています。昼は人口七十人の鳩間島で音楽祭、夕べに蛍の乱舞を見、夜は昔住んでいた町内会のメンバーや元職場の同僚と、繁華街美崎町で明かし、明け方に米原ビーチでリーフにあたる波の音を聴く生活です。腕時計を外しました。時間がゆっくりと過ぎて行くので、気が急きません。
先月末とこの月曜日、映画『チェケラッチョ!!』(秦建日子原作・脚本)を、二度観ました。以下感想をノートから転記します。 maokat
『チェケラッチョ!!』で知る、「ウチナーヤマト口」の功績
沖縄の石垣島で県立高校水泳部のコーチをしたことがある。沖縄の高校生の日々の生態を、好き嫌い良い悪いを含めて、一年間じっくり観察した。だから私の興味は、この映画に限っては作品の出来ではなく、ユニークな地理歴史文化背景を持つウチナーンチュ(沖縄人)の日々の生活を、ナイチャー(内地人)の製作者が描ききれるかにあった。
天真爛漫で、「今」目の前にある日々をひたすら純粋に楽しんでいた沖縄の高校生。
この映画を作った人々が、彼らをどのように把握し、映画の中にどう造形していくのか。見たままをリアルに描くのか、都会から物珍しげに描くのか、全くの思い入れで描くのか、そこに興味を持っていた。
札幌で一度、地元沖縄でもう一度観てみたが、観客席のリアクションはやはり那覇の観客の方が良かったような気がする。沖縄の高校生のリアリティーは半々というところだろうか。実に正確なウチナー(沖縄)の「ニーニー(兄々)」「ネーネー(姉々)」の生態描写もあったし、急に「ヤマトー(大和=日本)」の子になってしまったようなところもあった。しかし全体的には把握、観察が行き届いていたといえる。
子供達を取り巻く人々もまた、よく描けていた。外人婿を持ってしまって当惑するウチナーンチュの父親、本土から沖縄に夢を抱いてやってきたものの年を経るにしたがい、シマの生活も夢だけでは立ち行かないことに気付き、現実的な生活の糧を得て沖縄に定着したシマナイチャー(島内地人)や、本土に帰っていくナイチャー。よく働き、普段は男たちを自由にさせていても、たとえば結婚式で喧嘩を始めた男たちを、一喝で黙らせてしまう力強い沖縄の女。下らない冗談ばかり言っているが結構優しいところもある「ニーニー」。シマで生きている外人婿。
こんな人達は映画の中にしかいないだろうと思うかもしれないが、私でも実在の人物を何人も挙げることができるほど、リアルな人物設定になっていた。
いったい、この脚本はどれくらいの現地取材をして書き上げられたのだろうか。仕事の合間に沖縄にちょこっと通って、シマの人々の生態をつかんで書けたのなら、プロの才能と仕事のレベルに驚かされる。
意外なことにこの映画で私が最も注目し、また再評価するきっかけを得たのは、「ウチナーヤマト口(ぐち)」という言葉遣いだった。主として沖縄の若い世代に使われている言葉で、半分沖縄方言、半分標準語の言葉である。マスメディアの普及で正しい沖縄方言を喋れなくなってしまった若者が主な使い手であるが、沖縄のメディアの中で十年以上前から使われている言葉でもある。
八十年代終わりから九十年代の始めにかけて沖縄版吉本興業ともいえる「笑築過激団」や、オキナワンポップスバンド「りんけんバンド」のメンバーたち、藤木勇人、玉城満、嘉手苅聡といった人達がこのハイブリッドな言葉に注目し、メディア上で「ウチナーヤマト口」を駆使したコントや楽曲を量産した。その結果、この言葉は若者だけでなく多くのウチナーンチュに受容された。こうして、「ウチナーヤマト口」による、沖縄独自の新しい笑いとポップミュージックが創造された。
この映画の舞台になっているコザ(沖縄市)の文化はチャンプルー(混合)文化だといわれる。おそらく、セリフのディテールでは、コザ出身の上記現地スタッフの大きな協力があったのではないだろうか。標準語と「ウチナー口」を自在に混ぜ合わせて操れる彼らのノウハウが、この映画の中に巧く取り入れられ、活かされていた。本当の「ウチナー口」でやられたら、ナイチャーにはテロップをつけなければ理解できなくなる。しかし「ウチナーヤマト口」を採用することで、沖縄の雰囲気を出しつつ余計な説明なしにロードショーで全国上映することが可能になった。実際、札幌の観客が観てもちゃんと会話の内容が理解でき、また沖縄の観客もそんなに違和感なく「ナイチャー」が語る沖縄言葉を受け入れていたように思う。
以前NHKの朝の連続テレビ小説『ちゅらさん』でも堺正章や田中好子が「ウチナーヤマト口」を使っていたが、本作ではさらに自然な使いぶりになっていた。藤木勇人ら現地スタッフの方言指導も作を重ねるごとに確実に上達している。この映画の成功の秘訣として彼らの働きを強調しておきたい。
このレビューを書いていて、「ウチナーヤマト口」の功績に気付いた。もともと「ウチナー口」には不幸な歴史がある。戦前の皇民化教育で沖縄方言を喋った者は、「方言札」を首からかけられて辱めを受けた。このマイナスイメージが尾を引いて、「ウチナー口」は人前では口ごもり隠される傾向にあった。しかし八十年代にメディアに登場した「ウチナーヤマト口」は、かつて対立していた言葉をチャンプルーにし、「笑い」や「音楽」というポジティブな形で世に押し出した。これが若い人に評価され、やがて無意識のうちに全ての世代から「ウチナー口」の引け目を払拭してしまった。いままで「ウチナーヤマト口」は、「若者の崩れた言葉遣い」「ポップカルチャーの軽い言葉」など、あまりよい評価は受けていなかったように思うが、積極的にメディアに取り入れた使い手の功績とともに、この言葉遣いの果たした役割を、いわゆる「沖縄学」の専門家から再評価して欲しいものである。
「ウチナーヤマト口」の台頭とちょうど時期を同じくして、「スーパーモンキーズ」のメンバーとして安室奈美恵がマスメディアに華々しく登場し、 SPEED、DA PUNP、仲間由紀恵、BEGIN、夏川りみ、オレンジレンジに到るオキナワンカルチャーの黄金期が始まる。
そして、この映画で本部高校の屋上で叫んでいた高校生三人組のシルエットは、そのまま北谷高校の屋上で叫んでいたであろうオレンジレンジのシルエットに重なる。そういう意味では、『チェケラッチョ!!』は次々と登場してくるオキナワンカルチャーの旗手たちの濫觴を観せてくれる映画にもなっている。
ただし忘れてならないのは、その視点は本土側にあり、ナイチャーの目で沖縄の人々を巧みに表現しえたということだ。つまりあくまで外から見た沖縄の表層を描き得たということであって、皮一枚下の深く冥(くら)い沖縄の根には届いていない。しかし、この映画にそれは必要ではない。沖縄の内部を描いた映画を観たい向きには、中江祐司監督の『パイパティローマ』『パイナップルツアーズ』『ホテルハイビスカス』『ナビィの恋』など一連の作品をお勧めする。本作とはまた違ったテイストの沖縄の現実を感じることができるだろう。
さて映画では、子犬のようにじゃれあう仲のいい高校生四人組が描かれていたが、現実世界では彼らの仲の良さは高校時代だけではなく、これから一生続いて行く。進学、卒業、就職、結婚または離婚、子育てなどなど、それぞれの立場や環境が変わっても、彼らの関係は壊れることなく、同級生の絆として一生維持される。いくつになっても「モアイ」と称する飲み会を月に一度開いて、髪に白いものが混ざってもなお、学生時代さながらに、沖縄の居酒屋の一角でおしゃべりに花を咲かせていくのだ。本作には東京を舞台としたスピンオフ作品があるが、メジャーデューをしなかった四人組のその後を綴った作品があっても面白いと私は思っている。
『チェケラッチョ!!』監督:宮本理江子、原作脚色:秦建日子、出演:市原隼人、井上真央、平岡祐太、柄本佑ほか。 (4/26札幌シネマフロンティア、5/1那覇シネマQ)
* やっとわたしの「いい読者」からも、秦建日子作品に本格に眼を注いでくれる人が現れた。嬉しいこと。
息子によく話していた、そうでなきゃあ、と。
MAOKATさん、本気で書いてくれている。しかもいちばんこの作を観てくれるに適した人である。メール、息子に転送。
2006 5・6 56
* 『かくれ里』に 雀
白州正子さんが地元郷土史研究家に案内され、宇治田原町をドライウ゛した一章があります。
高尾は信長に追われた佐々木氏が落ち延びた地、また、田原郷の旧家はみな俵藤太の子孫といって系図を所蔵していると書かれていて、蕪村の「鮎落ちて…」の句は、落人の佐々木氏の末裔が、尾に住む藤原氏より“高き”ということかと思いました。
その佐々木氏をたずね、昨日、沙沙貴神社と桑實寺にいってまいりましたの。伊賀忍者をみていくとなにかと佐々木六角氏にであうと主人が言うもので、それをだしにしましてね。
晴れ渡った一日。
ところが、桑實寺の石段に息が切れて、雀はその先の観音寺城跡、観音正寺どころではありませんのよ。お寺の受け付けで、「山のやからカライけど、よかったらどうぞ」、と三宝に盛って出してくださった梅干しを遠慮なくいただい
てしばらく本堂で風に吹かれ、いまきた来た道を戻りました。
正面に三上山がくっきり。
クルマはといいますと、駐車場満車につきこちらで空き待ちを、と道の入り口で止められましたわ。次回へ持ち越し。安土城考古博物館を見て帰りました。
日野で一休みしましたら、祭が終わったばかりで、次は藤、今日はしゃくなげが見頃ですよとすすめられまし
たわ。長谷寺や室生寺もにぎわっていることでしょう。
友人にたのまれ、これから松伯美に行くところです。雀は元気。
紫外線が強くなってまいりました。日々お大切に。 囀雀
* 安土に近い桑実寺といい沙々貴といい日野といい、『みごもりの湖』を書くために昔々に歩いたが、あの寺の石段、きつかった。がんがん照りに頭も焦げた。それでも、目の前にその黄金色の日射しや風のそよぎまで蘇る。みーんな投げ出して、ああいう世界に舞い戻りたい。名筆は樹木の深くにまで墨がしみ通るという。書道のことを入木道と謂う。読む人の心身にしみ通るような小説を書いて世を忘れて暮らしたい。
2006 5・6 56
* 会議が延び帰りが遅くなったが、行き帰りに、松本幸四郎丈にもらった光文社智恵の森文庫「カーテンコールの弁慶」一冊を読み終え、つくづく感心した。
見た目は片々たる短文の集積ではあるけれど、一編ずつ読み進んで行くにつれ、この著者が第一級の歌舞伎役者・俳優であるだけでなく、優れた一人の人間であり藝術家であることがよく納得でき、胸を打たれ続けたのである。
なにより、立場上もこの人は、或る何か大事なモノを「伝えられ」「承け継いで」「鍛え磨き」さらに「伝えて」行く姿勢をもっている。あたりまえのことだ、歌舞伎役者なら誰でも同じさとは軽く言わせない、独自の力強さで、幸四郎はそのことを語っている。
独自さとは、何か。かれが歌舞伎以外のジャンルでも活躍しているからとか、藝が佳い工夫が深いからとか、その程度のことを押し越え、幸四郎がすべて「本気」なこと、其処がじつはあまりに当たり前で、だからいちばん素晴らしいのである。
両祖父七代目松本幸四郎、初代中村吉右衛門への、また両親八代目松本幸四郎と正子夫人への、なみなみならぬ尊敬と愛情との敦さ。彼は繰り返し繰り返し又繰り返し語ってやまない。また夫人藤間紀子さんへの感謝と愛情の深さ。それらがまた子息市川染五郎や娘二人への期待と慈愛に深く熱く反転して行くその誠実さ。それはただの身贔屓などというちゃちなものでは全くない。たんなる家族愛でもない。それらを打って一丸とした歌舞伎ないし演劇ないし藝術的な人間への自覚と責任が、彼の語る日本語を飾り気なく素朴に適切に引き締めている。
ひとつ読み違えれば、ただの藝自慢とも身内自慢ともあるいは高慢とも傲慢とも、それこそ軽薄に読み違えるムキも有るかも知れない、が、それは間違いである。間違える人の至らない間違い、恥ずかしいような間違いである。
これはただの藝談でも世間話でもない、自問自答の体裁をかりた、真の意味でのエッセイなのである。
貰った初めは、わたしはすこし軽くうけとり、歌舞伎役者の隠し藝かのように気楽に読もうと思っていた。なにしろ好きな芝居の世間であるのだから。
ところが、そんな軽率な読み始めが、前にも書いたが、淡い佳い色の塗り重ねられて行くやさしさやおもしろさで、わたしは、意外な言葉の真実に触れていったのである。嬉しい体験であった。
わたしは、この文庫本に、私自身の署名でわたしの息子秦建日子に贈り伝えたい気がした。彼が、これを謙遜な真っ白い気持で読んでくれるなら「嬉しいな」というほどの気持を抱いて、あらけた言論表現委員会から我が家に帰ってきたのである。
2006 5・18 56
* 黒いマゴを布袋に入れ、顔だけ出してチャックを絞り、飛び出さぬよう用心して自転車の前籠に入れ、一時間十五分、ゆっくり走り回ってきた。尉殿神社前を奧へ奧へ進み、ゆっくり右へ大回りしている内、何処を走っているのか皆目分からなかったが、相当に南へ南へ大回りしていた。マゴははじめの十分間ほど吼えるように啼いていたが、慰め慰めあたまに触ってやっている内、すっかりおとなしくなり、籠の網目越しにずうっと外を眺めていて、おとなしかった。マゴに話しかけ話しかけ走っていると、連れのある嬉しさで退屈しない。前からこうやって走ってみたかったのを、実験してみて成功した気がする。一時間十五分、家に帰ってからも、マゴは、精神的に動揺した風もなくおっとりと憩っていたのは、さして不安でなかったのだろう。
武蔵野である。まだまだ大きな森のような場所もあれば、新緑の溢れかえった場所もある。なるべく車の多い幹線道路は避けて、もとのままの林道か農道のような道を選んでゆっくり走ってきた。
2006 5・21 56
* hatakさん 恩師の受勲祝いが銀座で催され、日帰りで参加。今札幌に戻りました。
帰りの飛行機まで、共謀罪のメールに唯一返事をくれた茶友と、最終日の「永楽保全・和全展」(三井記念美術館)へ。三井の本館へ始めて行きましたが、少なくとも茶道具の展示には向いていませんね。あそこには得意の切手コレクションを並べたらいい。
永楽さんを見に行ったのに、帰って目に残っているのは、大名物の唐物肩衝茶入銘遅桜。このところ、茶道具の\\\(カネカネカネ)に嫌気がさしていたのですが、大名物の雄渾さに、やっぱり良い物は良いと安心しました。永楽さんには気の毒でしたが。 maokat
* 永楽の保善 和善らの鉢物を持ち、茶碗も二三枚はあるが、わたしは替え茶碗として人気の永楽茶碗にあまり興味がない。鉢物などは好きで、ことに保善、和善の優作にはときに魅入られる。
茶入ごときと、ナメルわけに行かない、たしかに大名物には、ちいさい丸でも肩衝でも存在のデカイことに驚嘆することがある。
* おはようございます 風
> 不備は不備なりに優れた把握と表現とがかなり達成された作品も無いわけではない。
そう思います。この点にも触れねば、と思っています。
>「純」文学と謂われた不足感と、お話本意の中間小説のもつ不足感とが、ともに視野にはいると豊かな論になるでしょう。
私小説について考えていると、自然、中間小説のことも考えます。この点について、触れられるかなあ、と思っていますが、中途半端に触れるなら、風のおっしゃるとおり、一気に無理せず、次の課題にしようか、とも思っています。
きのうは白糸の滝、青木ヶ原樹海、本栖湖へ行って来ました。ひさびさにいい天気で、暑いくらいでしたが、水の近くは涼しい風が吹いていたので、とても気持ちよかったです。
自殺の名所の青木ヶ原樹海も、オームのサティアンで有名な上九一色村(旧)も、とてもいいところでした。
牧場で牛たちののんびりしているようすは、先頃行った北海道の景色を思い出させます。北海道と違うのは、雪のない、あたたかな日であったことと、道路が狭く、曲がりくねっているところ、でした。
> 風は黒いマゴを荷籠に入れて自転車で走り回ってきました。
マゴはおとなしく乗っているのですか。目線高く、風を切って、マゴは気持ちいいかもしれませんね。ときどき、自転車のかごから顔の出ている犬を見ますけれど、あれはとてもかわいいものです。
午前は英語サークルです。帰宅したら、さっそく私小説論に手をつけます。 花
* 食べすぎないようにと、たぶん奥様が戸袋に仕舞われたのを、夜中にそろりと出してカリカリと「かたパン」を食されているとひそかに想像して、ほほえんでおります。ときどき妻に「袋で出しておくと、わたしのぶんまで全部たべてしまうんだから」と叱られます。なにも考えずにただ食べて、袋が空になってから、これはマズイとビクつくのですが、先生の場合は如何。
真部照美さんはご指摘のとおり、「湖の本」読者です。長く短歌集団「音」に属していて、歌集『心宿』は、彼女の遅すぎる第一歌集です。数年前に砂子屋書房から発刊されたのを、彼女のよき理解者である大成繁さんを通じて購入いたしました。そしてついこの間、よい歌のたくさんあることに気づき「不覚をかぞふ」の一文をしたためたわけです。
市民運動をともにした最愛のご主人を失くされたあと、真部さんは印刷業を継いでお子さん二人を育て、嫁がせ、かわいいお孫さんにも恵まれています。
楽しい歌があります。
産むといふ性をもたざるをのこ子のつんとあかるき突起をもてり
みどりごを抱きて揺りやるばばの膝この世の波をたてて眠らす
拙文を「ゆっくり」読んでくださっているよし、感謝しております。 六
* おはようございます。 昨日はとても佳いお天気でしたね! マゴくんと一緒にサイクリングって、篭に入ってですか?
最近ときどき遠出されてるようですね。西東京市、東久留米市、小平市あたりは本当に森や林がたくさん残っているのでいいですね。小金井公園も自転車で行けば30分かかりません。すっかり葉桜になった「桜の園」のあたりをぐるっとまわってくることもあります。フェンスごしに「江戸東京たてもの園」のレトロな建物や町並みをみることもできるんですよ。(ここにある「子宝湯」はあの「千と千尋の神かくし」のお湯屋のモデルになった建物です。)
いま森にエゴ(白雲木)やハンカチの木、そして鈴蘭といった真っ白い花々がたくさん咲いていますね。初夏だなあと、とっても嬉しくなります。 ゆめ
2006 5・22 56
* 自転車で出たら、すぐ雨もよい。仕方なく家の近くの三百足らずの舗装された坂道を、三往復。上りは休むことなく脚を使って登り切る。五往復。息も切れず。そのまま帰った。今日は黒いマゴもさすが疲れたか、ものかげに入って昼間に熟睡していた。
2006 5・23 56
* 講談社の小説現代だか現代小説だか、雑誌巻頭に、秦建日子の若々しい、さすがプロのカメラマンはうまいなあと思う佳い写真が、大きく二枚出て、珍しく写真写りがよろしい、実物以上。そして本人の駄文が添えてある。作家である親爺に反撥してサラリーマンになったのに、いつのまにか親爺と同じ道を歩いていますなーんて。
むろん、これは正確ではない、大学を出たけれど、反撥もなにもない、サラリーマンにでもなる以外に別段なーんの取り柄ももたなかっただけのハナシ。ただおやじの一徹な仕事ぶりを見知っていたのが幸いして、つかこうへい氏に「おまえ書いてみるか」と水をむけられたのにとびついたのだ。とびつけたのは、「書く」という何かを日々に見知っていた前体験があった。むろん、息子はそんなことはもう分かり切って、そんなふうに照れて見せているにすぎない。わたしは、そういう息子の顔を写真にみて、喜んでいる。とても喜んでいる。
怪我なく、蹉跌なく、どうか元気よくがんばってほしい。
一つ、伝えておいたほうがいい。わたしは、ある親しい知人に質問された、「建日子さんは優しい人ですか」と。それも続けざま同じ言葉で二度質問され、わたしは、一度目は言下に肯定した、二度目は少し考えてやはり肯定した、が、なぜそういうことを訊くかとと反問はしなかった。
その人の聴き方に、秦建日子の「優しさ」はホンモノですかという、かすかな問い重ねが感じられたのと、今一つ、の「優しさ」ということの表現自体に、秦建日子氏の問題は隠れていないでしょうかという問いすらも感じられたからである。
奇しくもといえるかどうか、同じことをおやじは、彼の脚本家としての駆け出しの頃から直接彼に言っていたし、秦建日子は、彼なりにそれに応えて「共犯者」や「ドラゴン桜」や『推理小説』も書いてきたように感じ取っている。それでも、そういう「質問」を胸に抱いている人のいることも、少し念頭にしていていいかもしれない。
このごろおやじの点が甘くなったと息子はコボシているらしいが、当たってもいるし、当たっていなくもある。
* 機械の不調は相変わらず。従って、この「私語」も更新出来ない。機械の気まぐれな回復を待つばかり。
2006 5・26 56
* 歯医者に出掛け、その脚で、すこし郊外へ出てみようかと。日照りの下は辛いが、うす曇りで降りはすまいと予報があった。菖蒲など咲き頃ではなかろうか。
* 堀切菖蒲園の菖蒲は、あれで沢山な「田」に、千種類もその上も咲いているのだろうか、咲きそめての生彩・生動、美しい極みで、大満足した。日暮里で乗り換えて、たやすく行けた。駅から徒歩十五分と聞いていたが、タクシーに乗ればあっという間に着き、帰りはゆっくり歩いたが、たいした時間はかからなかった。菖蒲祭りの景気よさと、照りつけない静かな好天に恵まれ、人出もそこそこの和やかさ・賑やかさで。
もともと菖蒲の花が、わたししは、すこぅし気味悪いのであるが、美しさはしっかり感じている。鏡花の作品で菖蒲が咲いていると、妙に「不思議」なモノがあらわれてくる。だが堀切菖蒲園のように、人手を尽くして多彩に見事に栽培されていると、「こわい」感じはやわらぎ、花そのものが楽しめる。一つには、咲き盛りへむかってゆく生気・元気のよさが嬉しかった。菖蒲の花は盛りが過ぎて萎え・朽ちてくると、堪らない気がする。一日でも最高の盛りより早くに行きたかったが、ピタリ最良の見頃であった。
なんという種類の多さであったことか、しかも一つ一つに凝った名前が付きに付いているのが、笑えた。
疲れるほどの広い庭園ではないが、奥行きを拾い上げるように歩んでは、たくさん写真にしてきた。期待していたのと、まるで夢に見たかのようにぴったり思い叶った堀切菖蒲園だった。
「山手環状線」の外側へ電車で出ることのほとんどない吾々だったので、京成成田線も面白く感じた。
* 堀切菖蒲園駅のちかくの「鳴・ミイ」という中華料理の店を、今朝の歯医者さんが教えてくれた。ちいさい店であったが、調理が清潔で佳い味なのにも満足した。妻もよく食べたし、瓶だしの紹興酒もうまかった。期待をうんと超えて美味しかったのは幸い、幸い。
* で、足を伸ばして柴又まで行き、映画の風情を見確かめてきた。妻は寅さん映画の大フアン。帝釈天へも「とらや」へも前から行きたがっていたし、わたしは二度目だが久々に行ってみたかった。以前に「ミセス」に連載していた頃、編集担当の田辺兵昭さん、カメラの島尾伸三さんとで矢切の渡し辺の写真をとりに出掛け、川魚の「川甚」で食事し、帝釈天へも立ち寄った。あの日はだが、自動車を利用していた。
寅さんとさくらとの場面が眼にある柴又駅のホームにも立ってみたかった。「とらや」の草だんごが、団子も餡もおいしかった、あっさりと。
妻は帰りの電車ですこし疲れたようであったが、ご機嫌の、ちょっとした遠足であった。
2006 6・5 57
* MIXIの「日記」を利して、校正かたがた『最上徳内北の時代』を連載していたのが、上中下の「上巻」を通過した。最上徳内先生と作者のわたしとは、連れ立つように襟裳岬をすぎて、いつしかにやがて厚岸に着こうとしている。
江戸の蝦夷見分は歴史的な一大事であった。北方四島の問題にもからみ、アイヌ差別の江戸資本主義支配にもからみ、「世界」にもからんで、忘れていいどころか、今の今の問題にもからんでいる。もう数十日かければ、読み上げられる。スキャン原稿を校正して、いいかたちでホームページに掲載しておきたいのが願い。
* 同じ目的でもあるが、加えて、孫のやす香ら若い青春ともかかわりたく、やはりMIXIの「日記」欄を利して、もう一つの連載を始めた。「東京工業大学」というコミュニティもあり、大勢がMIXIの中でたむろしていると分かり、たまたまやす香も大学二年生になっていると分かり、それなら二年生の多数を主に対照にしていた『青春短歌大学』を再掲連載して行きながら、平成十八年の出題も試み続けてみたいと思うようになった。うまく続けられるかどうか。
それかあらぬか、どっと「足あと」が増えてきている。
2006 6・10 57
* 仔猫を初めて飼い始めたと聞くと、奇妙に和やかな心地になる。どんな名を付けてどんな猫なで声で呼んでいるか、たぶん、あっというまに引っ掻かれているだろうなどと想う。わたしなど、いまも、諸方に全身にちっちゃなひっ掻かかれ跡が残っている。猫に悪意はない、こっちで勝手に構うから、向こうも対抗上爪を立てる。親が子にやたら構うと、子もむやみに反抗してあばれるようなもの。
* 終日、雨。終日機械の前にいたが、何がはかどったのか、はかどらなかったのかも曖昧なほど、日曜気分だった。日曜は、欲しいメールも来なくて、間断なくスパムメールが積み上がるばかり。
2006 6・11 57
* 夕食に妻を誘ってひばりヶ丘の「ビストロ・ド・ティファニー」へ。妻は生ハム・ステーキを。わたしは鶏のクリームシチューと、店特製のハンバーグを。赤い芋製のシャーベットをおまけしてもらった。赤ワイン。コーヒー。パンは蓬をまぜて、自家製のバターとジャム。二人でアハアハ笑ったり喋ったり。電車は一駅五分かからない。駅へ歩くのに二十分ほど掛ける。ひばりヶ丘は保谷よりよほど賑やか。
2006 6・12 57
* めざめて床に半身を起こす、と、すたすたと黒いマゴが寄ってきて、アタマでちょんと当たってくる。「ゴッチュン」という、仔猫の昔からの、黒いマゴとのきまりの挨拶。これが佳い。
2006 6・13 57
* 日付がかわる刻限に建日子が来て、母親に使い古しではあるが、いま妻の使っているのより機能のいい新しいパソコンを持ってきて、動かせるようにしていった。
桜桃をたっぷり食べ、話していった。帰り際に、自分と同じ年頃におやじはどんなものを書いていたか読んでみると、「みごもりの湖」と「閨秀」とを持って帰った。
* 姉孫のやす香がからだをこわし入院していると聞いた。入院して治療を受ける、それは、「MIXI」日記に露わなここ数ヶ月間の目をおおう疲労と苦痛の蓄積からすれば、いい決断であり、わたしはむしろ、ホッとしている。
その機会に、母親の夕日子が、娘達が保谷の祖父母と連絡をもっていたことを初めて知ったらしい、「それはそれで(母親としては)干渉しない」と弟建日子にメールしてきていると。ま、これも朗報に当たるか。
2006 6・21 57
* やす香が「MIXI」日記に自身で「白血病」発症と、告知。
* 信じがたい、信じたくないことが起きていた。くじけているわけに行かない。この成り行きに堪えるには、わたしたちがみな懸命に元気でいる以外にない。細心に慎重に、それだけだ。
* なにも、考えられない。
* 「MIXI」でやす香(思香=綽名スーシャ)にメッセージ送る。
* 思香 2006年06月22日 10時19分
件 名 : いま読みました。
いま読みました。 じいやんは泣いています。診断は確かなのだろうかと、ウソであって欲しいと。
しかし泣いてばかりは居られない。出来る限りをお互いに努めなくては。
同じ病気と闘っている人を知っています。日々、とてもとても慎重に、しかし今は大学を卒業してドクターです。親子してそれはそれは慎重に一日一日を大切にしていました。この闘病は、細心の注意と摂生と聞いています。最良のドクターを親に探して貰いなさい。いい主治医。この病気では、日々の指導にも気配りのいい主治医が大事な大事な鍵と聞いています。
疲労の蓄積。これが、最もよくない亢進へのひきがねになる。余分なムリはゼッタイにだめ。慎重ななかで日々安心して静かな心で元気にくらしてゆくことが肝要です。我をはらないで、我にも人にも素直に柔らかい気持で。
百まで生きなさい。しっかり生きなさい。 愛している。 おじいやん
2006 6・22 57
* 此処に、孫やす香のこの一月以来の病状の激化を顧みて、後日のために、その闘病記を記録する。
06.1月 – 06.06.22「白血病」告知に至る、身心違和の日記である。06/1-6月の「思香=やす香」全日記から、病状の深刻な推移と心情を告げた部分のみ、抄出した。注目される記事を祖父が太字にした。やす香生前或る闘病記に作成したものである。
日を追い月を負い、目をそむけたいほど深刻で具体的な記事が続く、急激に病魔が、やす香を切り刻むさまが見えてくる。十九の大学生女子が無残な「死」に引きずられてゆく、怖ろしい記録になっている。しかも、やす香の人柄がよく表れている。 友人達とのコメントの応酬も、相応にとりこんだ。
大量の日記から、病状と心情とを語ってある個所のみ抄出したが、大きな推移の相で、モノが明瞭に見えてくる。一括して記録し、「流れ」で観ないと把握を間違えてしまう。
これを読めば、やす香を愛した吾々なら、やす香の上に家族の温かい視線も助けの手も優しい言葉一つも与えられていなかったらしいことに、悔しいが、否定のしようもなく思い至る。わたしは、そう、はっきり此の「闇に言い置く」。 一月から六月半ば過ぎまで、よく、眼をこらしてみたい。 「寂しい」と叫んでいるやす香を想い悔しさ申し訳なさに、妻と涙した。
* *
思香の06/01健康日記 (注・現在法廷で係争中のため、以下の「健康日記」を代理人と協議の上、一時的に掲載を見合わせる。)
* 一人の優れた素質をもてあましたような、聡明でもあり、また愚かしく日々を孤心に生きた、優しかったやす香よ。
どうして、この数ヶ月の間にこそ、おまえは親にもっと甘えられなかったのか。なんとこの異様に烈しい危険な容態の毎日に、やす香、お前の身のそばに、日記の記述のなかに、親の注意深い視線や、優しい声や、差しだす手のぬくみの、希薄というよりも、ゼロに近いのは、どうしたことか。
そして「死の受け容れ」が、おまえの生涯最大の誇り・尊厳だったって。 えッ? どんなフィロソフィーのつもりなんだろう。
やす香はそんな誇りよりも健康の回復を、適切な救いの手を、狂わんばかりに切望していた。それは不可能であったのか。
山形県の中三女子は、やす香の親は、「責任を恐怖しているのだと思います」と推測している。何の責任だろう。親を告訴したり、ばかげたメッセージを世間に投げかけたり。そうとでも説明するよりなさそうな、愚行だ。
* 二月に三月に四月に五月に六月にと、目を覆いたい異様な容態悪化が、扇形に進行している。読むだけで分かる。三月に四月にもうわたしはヒステリーを起こし、やす香の病容激甚に「親と相談しろ」と怒り心頭であった。
2006 6・22 57
* 2006年06月23日 MIXI日記 湖の、おじいやん 14:17 MIXIに
MIXIに頼りなく初ログインしたのは、今年の二月十四日でした。十日ほどして、二月二十五日に、孫娘ふたりが訪れてくれ、わたしは妻に、大学一年と中学二年の二人に「雛祭り」をさせるように奨めました。二人は大喜びで妻の雛人形を飾りました、嬉々と声をあげながら。
もともと姉妹の母親、われわれの娘が、嫁ぎ先へもっていっててもよく、上の孫娘の生まれたときにもって帰っててもいい雛人形でした。しかし、不幸な事件から、かえって娘達とわたしたちとの交通は阻害されてしまったのでした。娘達やわたしたちの誰にも不本意な不幸なことでした。
以来、両家の往来は拒まれてきました。むろん我が家の門は、いつも娘や孫達のために明けてありましたが。
吾々夫婦は、二人の孫の育って行くのを見ることは出来ませんでした。娘の顔も見られませんでした。娘もあえて顔を見せませんでしたが、つい二年ほど前、高校三年生の上の孫が、母親の弟、叔父を介して、わたしたちに連絡をくれ、その後、祖父母に顔を見せに来てくれるようになり、いつしかに妹も連れだって遊びに来るようになりましたが、親たちにはナイショにしていたのです。(いま、母親は容認してくれています。)
雛かざりをみなで楽しんだ日、「おじいやん」 (幼い頃、そう呼んでいました。祖母は「まみい」と。)が「MIXI」に入ったばかりと聞くと、姉孫は「あたしも入っている」と、その場ですぐお互いに「マイミクシイ」になったのでした。姉の方はもう大学に入っていて、やがて二年生になるのでした。
それからの「MIXI」日記で垣間見る孫娘の日々は、しかし、「おじいやん」を心配させました。聞きしにまさる極早朝からの接客アルバイト、夜分の接客アルバイト。気の小さい祖父は、癇癪が起きそうなほど孫の心身を案じました。苦言も呈しましたし、こんな心配をするぐらいなら、MIXIもやめたいと、何度も思いました。「おじいやん」はさぞうるさい「おじいやん」であったろうなと、いま、泣いています。
このアリサマでは、からだを必ず毀すと恐れていた、その孫が、まさかそんなことはと考えもしなかった病魔につかまってしまいました。信じたくない。が、当人が、(ついに入院のためでしたが、)暫く休んでいた「MIXI」日記で、みなさんに病名「白血病」も告げてしまいました。母親は、弟を通じ、わたしたちには伝わらないようにはからっていたのですが。夕日子は、娘は、自分の娘達が祖父母の方へ行っていることも今では知っていて、それをとやかく言う気は自分には無いとも弟に伝えたそうです。
「おじいやん」も「まみい」も、泣きながら堪えています。あたりまえなことですが、代われるなら代わって病気を引き受けてやりたいです。人に、いつも「笑っていて欲しい、笑っていて欲しい」と求め、自分もいつもいつもよく笑う孫娘ですが、なんと泣かせる孫ではありませんか。ああ…
しかし、泣いて済むことではなく、今からは、孫に、精一杯希望をもち気力を尽くして生き抜いてもらいたいし、そのために、わたしや、わたしたちのどんな「力」が、「精神の力」がつかえるか。センチメンタルになるのでなく、悲しみへ遁れ沈んでしまうのでなく、いまこそ心を静かにして、「今・此処」の自然な一歩一歩を歩んで行きたい。私たちの息が切れたのでは、孫のための力にはなれないでしょう。
やす香。 みんなして、生きて行こうよ。
おじいやんは、だから、いますぐ飛んでいってベッドにいるやす香を見舞おうとは思いません。しっかり治療を受け、軽快し、退院し、社会復帰出来た日に、元気な顔で逢える日に、がっちり将来を祝福の握手がしたい、おまえと。
生きて行こうよ、やす香。 おじいやん
* お見舞い下さっているみなさん、ありがとう。
2006 6・23 57
* 建日子が夜遅くに来た。話して帰った。
やす香は、来週早々から強烈な化学療法がはじまり、始まってしまうと、当分見舞客は謝絶される。診断が出たのは、やっと「三日前」だったと建日子の話で、二十三日の早朝辺がやす香にも夕日子にもさまざまに心乱れて辛い頃合いであったろう。
医者の見通しでは、「九月中頃の二十歳の誕生日頃に一時帰宅、来春に退院」と。これは、想像以上の病勢で、聞いてわたしは愕然とした。しかしまたそういう慎重な見通しは、着実な治療効果への期待も持たせるし、そうあって欲しい。
やす香が体調不良で、「MIXI」日記で、痛みや疲労を訴え家でぐたぐだしつづけ、悲鳴をあげていたのは、もう少なくも一月余も前から、もっと前からのことで、様子の掴めないわたしは、かなり案じもし、イライラしていた。大人と「相談」し早くきちんとした手を打たないとと、やす香にメッセージしていたが、やす香にはまだ何も分からず、ただおじいやんに叱られたもののように不機嫌な返辞を寄越していた。なにしろ、あれこれ医者通いもすべて頼りなく、そしてその間に、残念極まるが、或る意味の逸機もあったろうか。とうどう入院して、決定的診断が、わずかに「三日前」と聞けば、暗涙をのまずにおれない。
病室からのメールで、明後日の日曜には「まみいたち」に病院に来て欲しいと書いてきている。和梨が食べたいなどと言っている。
夕日子が盲腸手術の失敗で腸閉塞を起こして長く入院したとき、わたしは自転車で毎日毎日毎日見舞ってやった。鼻から管など通されていたりした。わたしの手を握って泣いていたのを思い出すが、やす香を襲った病魔はとてもそんなものではない。なんたることか…
* 夕日子 泣いて心配している。夕日子のことも心配している。やす香のためにも、われわれが元気でいてやりたい。夕日子も元気でいてやりなさい。そして万全を。建日子でもいい、母さんでもいい、お前の気持ちさえゆるすなら、虚心に何でも告げ語らい、おまえの重荷を軽くして長期の苦しみに耐え抜いて行かなくてはならない。
この数ヶ月、私の見ている限り、あんまりにもやす香はムリを重ねていた。わたしはヒステリーの起きそうなほど心配でした。思いあまってやす香にもモノ申したが。
ああ、なんとかもっと早くに、なんとかしてやりたかった……
夕日子がいま共倒れしたらたいへんです。大事にしてください。 父
2006 6・23 57
* 移る一刻一刻が限りなく重い。重い。
* お見舞いをたくさん戴いているが、返礼はご勘弁願っている。
* お孫さまのご病気、よくなられることを心からお祈りしています。
このかわいいやす香ちゃん(と親しくお呼びすることをお許しください)のお顔を、見ずに過ごされておられたことを思うと、胸がつぶれる思いです。
大きくなられてのご再会、どんなに喜ばれたことかと、こちらもうれしくなるご成長ぶりでございますね。
長年の、音信さえ不通の時を経て、美しく成長したお孫さん二人と会えたことの感激は、他人の私にも十分伝わってきました。じいちゃん、ばあちゃんにとって、孫ほど愛しい存在はなく、会えない悲しみは、人生でのどんな苦痛よりも大きいものと思います。
やす香ちゃんのお写真を拝見し、先生の「私語」のお言葉の意味が胸にしみるようにわかりました。
ご病気のご回復と、楽しいご再会を心からお祈りしています。 読者
* 作品を通じてしか存じ上げないごく遠方の方であるが。恐れ入ります。
二つの写真のあいだに横たわる奪われた歳月は、親としても祖父母としても筆舌に尽くせぬモノであった。やす香にもそうであった。このモノを、いかようの語彙にも翻訳可能であるが、いまのわたしは単に失語症である。
だが、やす香は親の意に反してでも祖父母の方へ動いた。動いてくれた。どんなに嬉しかったか、嬉しさを露わに書くことすら憚らねばならなかったけれど。
* 歯医者へ。「リヨン」で昼食して帰る。光通信設定できないでいる。
* やす香が、ベッドから電話を寄越した。ひどい出血があったようで声が潰れていたが、話している内に少し戻ったように感じた。とてもとても、普通には私も話せなくて。妻に電話を戻してから、泣いた。何ということだ。光通信の設定で紛らわせようとしても設定は迷路。
湯につかってこよう。やす香。おじいやんは何をしてあげられるのか…
2006 6・24 57
* やす香は堪えて闘っている。わたしや私たちにもそれが出来なくて何としよう。
* 梅雨の晴れ間。少しも晴れやかにと、願う。
2006 6・25 57
* 十時半ごろ、保谷駅を出て、相模大野まで。そして病院へ。清潔な新病棟の個室。やす香は白い顔で額を冷やされながら、かすかな笑顔で、床にいた。妹がいた。母親の夕日子とは、あとで指折り数えて、「十三年半」ぶりに再会したのだ。そのことについては、とても此処で書き表すことができない。
やす香が好物の梨が食べたいといっていたので、池袋東武の「高野」で五つ買っていった。やす香は九月に、二十歳になる。その日には一時帰宅も可能にと医師は予定しているらしく、夕日子の成人したおりに京都の母がつくってくれた、はんなりした佳い絞り模様の着物を持参した。このまえ姉妹で雛祭りにきたとき、やす香は嬉々として保谷の家で羽織っていた。あの頃は、だが、まだ、持って帰らせるワケに行かなかったが。どうか、少しも早く回復し、元気になって、着て、喜んで欲しい。みなを喜ばせ安心させて欲しい。
気を奮い立たせ闘ってもらわねばならない、と、付き添っている夕日子にベッドサイドでせめて読んで貰うといいと、ゲド戦記の初巻『影との戦い』を持っていった。「おじいやんの大事な本だよ、早く良くなり、自分の脚で歩いて保谷の家へ返しに来るんだよ」と励まし、約束させた。午の食事に手を付けてないやす香は、まみいにむいてもらって梨を、嬉しそうに、一つの四分の三も、おいしいと食べた。右腕の腹に、目をおおいたいほど広い大きな紫色で、内出血していた。やす香の小さい頃に保谷で撮っていた写真も何枚も手軽にみやすいようにして持っていった。繪はいいと思うが、何としても画集は重すぎる。疲れさせたくない。
夕日子に「十五分だけ」と念を押されていた。それでも三十分ちかくいたかも知れない。入室の際には手指消毒とマスクをした。手先に手先をふれると、やす香は掴むようにわたたしの手を求めた。むかし入院中の夕日子がそうだった、やす香より泣き虫だった。それを思い出した。
短い時間になにをどれだけ話せたか、言うてやれたか覚束ないが、視線をあわせてきた感じと、白い顔色は忘れられない。
夕日子の私用のためにと用意したものを封筒で手渡し、帰ってきた。妻は病室まえの廊下で娘を抱きしめて、いた――。
* ロマンスカーだと新宿へ二駅。池袋で晩の食事用を買って帰った。六時間半で往復していた。父親をはじめ、親戚や友達などとさしあうかしらんと予期していたが、われわれの他の見舞客とは誰ひとり出会わなかった。
* インターネット、あいかわらず不調。いまも機能していない。そして光通信の設定はうまく行かない。
2006 6・25 57
* ゆうべ遅く、独りの病室から「力をかして」と呼びかけるやす香の声を「MIXI」に聴いた。すぐ返信したが、先だって友達の何人かがコメントを送ってくれていた。
ひきついで「やす香母」と名乗った夕日子が、やす香の「MIXI」にもぐりこんでメッセージしていた。
* 子供の、親きょうだい家族にたいする、また親のわが子、ひとの子らに対する攻撃的ないたましい犯行が話題になる。
わたしのような凡庸な父は、自身の願望にも素直に、しかも子へのいつわりない愛情をもって接する以外に、「方法」をもてなかった。
わたしは我が子だからといって「容赦」したことは無い。よその子ヘよりも、はるかにムチャクチャ厳しくて、「ばかか、お前!」は、わたしのいつも端的な批評だった。建日子の『推理小説』で、カッコいい女刑事が後輩男刑事に二言目に同じそれを言い放っているのに、わたしは笑ってしまった。
とはいえ、わたしはまたムチャクチャ子供達に甘い父親だった。いつも彼等の味方だった。姉も弟も、まさか本心で「お父さんは愛してくれなかった」などと思っはいないだろう。
にもかかわらず、子への「批評」は、いつも遠慮会釈なく厳しかった。このごろ少しは励ますモノだから、息子は、「親爺の点が甘くなった」と、かえって心配していると、母親を通じて漏れ聞いている。むろんよければ大いに褒めるし励ますし、しかしテキトーに批評するわけには行かない。我が子なればこそ余計に、過剰なほど厳しい批評や罵声をわたしは遠慮なしに投げ付けてきた。「他の人は褒めてくれてるよ」などと聞いても、一蹴した。
子供の主張するジコチューで都合のいい「常識」をわたしは信用していなかった。だが、性格とそれに相応した能力や才能はいつも信頼していた。
建日子は、学校でもご近所でも札付きの「アホー」扱いであったが、わたしはそうは見ていなかった。担任教師をはじめ、親以外は誰も信じてくれない早稲田中学へも、息子は自力でホイと合格した。笊に水ほどざーざーとやくざに遊びまくっていた中・高五年のあとの高三一年間で彼は大集中し、またもホイと早大法科へ成績推薦されて入学した。その早稲田では、まるまる四年間ともやくざな日々を極めていたが、そのやくざなゴロツキぶりを、つかこうへい氏との出逢い一つで、あざやかに変身し活用した。会社をやめて劇作やテレビでやってくよと言いだしたとき、わたしは内心の心配は心配としても、息子の決心に即賛成し、ひと言の不承も口にしなかった。
姉の夕日子は、弟より遙かに優等生であった。しかし優等生とは危ういもので、性格はアイマイにひ弱くなる。弱い分をむりに頑張ると、へんに頑なになる。あれにもこれにも手は出すが、路線の変更自在が利かなくなり、どれもホンモノとしては手に付かない。そのくせ生き方に勝手な旗印を押し立ててしまい、それを下ろすにも替えるにも、思い切りがつかなくなる。結果、隠し持った才能の開花を、むしろ自身の手で阻むようになる。遠い遠い遠回りをして、それにもリクツをつけて、自己肯定の勘定をつけてしまう。(つまり、これは、わたしがわたし自身のことを言うているに等しいのである。わたしは優等生であった、ただ、娘よりは本質的にゴロツキであった。ゴロツキ文士というのは、意外に拡散しないで集中が利くのである。)
わたしは、父であるわたしは、まだまだ夕日子の未来に、娘やす香の闘病と併走して闘う「戦士としての自覚」がつよく生まれて、新しい自身の誕生日を、娘と共に、自分たちの手で創り出すだろうと、内心で励ましている。
ながいながい子供達との付き合いの中で、いろんな思い出が蘇る。
腕力にうったえる腕力はお互いにないので、つかいはしなかったが、わたしに、父の「激昂」を演戯で示す工夫ぐらい、いつも持っていた。子供に暴力へ走らせるより、暴走させるより、意識して父から先ず、過剰に振舞ってやる。その方が、よほどいい。建日子を追いかけて包丁で勉強机をえぐってみせたのも、度肝を抜いてしまうべく先ず卓で襖をぶち抜いたのも、子供たちではない、父親のわたしがした。してみせた。今もそんな痕跡を家のアチコチで見るつど、あれでよかったなあと思っている。姉にも、弟にも、あれはまずかったなあと悔いるようなことは、思い出せない。親にとっても子にとっても、わたしは「逆らひてこそ、父」と信じてやってきたし、今もそうしている。
親子の間に「時効」なんてモノは存在しない。在りたいは「愛」である。夕日子は、それを今はやす香に注いでいる。建日子にもそうするに足る「子」を持ってほしいが。
* みゆです。 昨日は、梨、ありがとうございました!! 新しいメアドです。
* みゆ 新しいメアド 受け取りました。
お姉ちゃんをよく励ましてあげて下さい。これから一月ほどが、ほんとうにやす香にもみんなにも厳しいときです。そばのみんなが平静に明るく元気でいてあげるのが励ましです。
さびしく辛くなったら、保谷へおいでなさい。あるいは、街で逢いましょう。
堅くつっぱって頑張っていると、糸でもきれやすく、棒でも折れやすくなる。ママの気持をやわらかにさせるよう、みゆはさりげなく気をつけてあげてください。
みんなで、しっかり堪えながら乗り切り、やす香の元気な回復を助けましょう。 おじいやん
2006 6・26 57
* お孫さまのお見舞いの「私語」拝見しました。
「おじいやん」がどんなにどきどきされ、どんなにご病気の早い快癒を願われたか、伝わってまいりました。
あの(私語の写真の)やす香さんが絞りの振り袖を着られた姿を想像し、うれしくなっています。
私も孫娘用に、山吹色に花の模様の友禅の着尺を用意しています。(二反も!)来年は高校生になるので、仕立ててやるのを楽しみにしているところです。孫の成長ぶりを喜びながら、自分の年勘定を忘れている、ばあちゃんの私です。
「雀」さまの秋篠寺の記事の「井上内親王」「伊予親王」に、どこかで見た名前だと思いましたら、最近読んだ永井路子の『雲と風と』に出てくる名前でした。
また、先週金曜日以来、私も「重い。」「重い。」事実と向き合っています。
全く個人的なことですのに、いつも何かしらはっとするいくつかのことどもの一致を発見し、「私語」からはなれられない毎日となっています。
先生のHPにアクセスできた幸運に感謝しています。 元教員
* やす香の骨髄穿刺がはじまったらしい。治療が軌道に乗り安定してくるまで、しばらくは毎日がつらい極みだ、しかも孤独で。泣くことをさえ、力にしてくれ。
2006 6・26 57
* やす香の苦痛すくない安眠を切に願う。おやすみ。
2006 6・26 57
* So, you don’t have to worry, worry.
守ってあげたい
あなたを苦しめる全てのことから
‘Cause I love you, ‘Cause I love you.
ん~~~これって古い?
あ、私はやす香ではなくて、「やす香母」です。やす香パスで侵入しています(・_・ゞ
私が、ちょうどやす香ぐらいのときにはやった曲かしらん?
たくさんのお見舞い、ありがとうございました<(_ _)>
時間制限、人数制限を掛けざるを得ず、おいでいただけなかった方もあり、ほんとに、ほんとにごめんなさい<(_ _)><(_ _)>
正直、こんな大勢の激励を受けられるとは思ってもみませんでした。
大学に入って急に親の手を離れてしまって、どんな生活をしているのかも、よくわかりませんでした。
でも、こんなふうにすてきな人たちから大事に思ってもらえる娘に育っていたのだなと思うと、ほんとうに嬉しい気持ちでいっぱいです。
20年前、私のお腹にいた娘は、ほんと悩みの種でした。
つわりがひどくて、私は毎日、毎日、泣いてばかりいました。普通3カ月といわれるつわりが6カ月も続きました。
入院して、点滴も受けました。
今、二十歳の誕生日を目の前にして苦しんでいるやす香を見ると、あの日々を思い出します。
二十歳、一人の大人になる新しい誕生日。
やす香は今、生まれ変わる準備をしているんだろうなと思っています。
この試練を乗り越えて二十歳を迎えたら、もう、ママ、ママといって泣いている小さなカータンではなくて、たくさんの友達に囲まれて輝いている、すてきな女性になるのでしょう。
やす香を「守る」役目もきっと、たくさんの友達と、そしてとってもすてきな「だれか」にバトンタッチする日が来るのですね。それまでママは命がけで、やす香を守ります。
だから、やす香も一人の夜を、強く、静かに乗り越えてください。
* ほんとに、ほんとに ほんとうに ほんと と、娘夕日子の口癖が出て、ほとんど肉声のママにこれを「MIXIやす香」の「日記」欄で読んだ。夕日子こそ、いまこそ、名の通りに晴れやかに元気でいてやって欲しい、やす香のために。さぞ、つらかろう、かなしかろう。
2006 6・27 57
* やす香の「MIXI」に沢山な仲間や友達の励ましが寄せられている。
2006 6・27 57
* やす香の生まれたときの「やす香母」の詩を呼び起こす。
:::::::::: 子守唄
障子に揺れる 母の影が唄っている
あきらめなさい
あきらめなさい
ばば抱きだから
おっぱいはないの
おまえのままはおねんね
だからおまえもおねんね
あきらめて
ねんねしなさい
眠りに揺れる 私の心は叫んでいる
あきらめるな
あきらめるな
新しい生命(いのち)よ
人生の最初に学ぶものがあきらめだなんて
そんな馬鹿なことはない
泣け 泣け
力をふりしぼって
おまえの母の目覚めるまで
そうして 泣いている ・ ・ ・ おかまいなしに
* 泣け 泣け ちからをふりしぼって。あきらめるな あきらめるな。
2006 6・28 57
* やす香の目覚めのさわやかでありますように。夕日子も疲れを溜めませんように。
2006 6・29 57
* 休息に、サンドラ・ブロックとヒュー・グラントの娯楽映画をみた。吹き替えでないと、映画を見続けてなくてはならず、仕事出来ない。ま、いいか。そろそろ、はやめに今夜はやすもう。「個室」に戻って、やす香は安眠しているだろうか。
2006 6・29 57
* やす香が呻いている。
* 生涯に たつた一つの よき事を わがせしと思ふ 子を生みしこと
沼波美代子(「山彦」昭和二二年)
やす香母の夕日子はそう思っているよ、きっと。ママの手を夢にもにぎり、ママの声を耳の奧にいつも聞き、そのママといっしょに闘いなさい、姿なき「影」と。戦士ゲドのように。
やす香、お前には大勢の味方がいる。心の眼をみひらき、なるべく平静に自分を客観視してごらん。闘うべきこわい「影」の正体がみえてくる。
それで、勝てる。 おじいやん
2006 6・30 57
* やす香が「MIXI」の日記にみずから「おはよー」と書いていて、ああ、なんといい言葉だろうと嬉しかった。やす香の襲われている病気は、二次的な感染や疲労がまこと怖ろしい禁忌であり、せめて、よくてもよくなくても当分は診断と治療の対策が定まるまで、安静に、心境と体調とを保つことに心強く専念して欲しい。沈みきってはいけないが、わるく浮かれてはもっといけない。あらゆる危険に、きりっとした覚悟で向き合い落ち着いていること。
2006 7・1 58
* MIXIでの知人から、やす香の病症に関するたいへん親切な助言や示唆を得ることが出来た。感謝に堪えない。そのまま夕日子に転送して参考にするよう伝えた。
2006 7・2 58
* 心嬉しいメールを受け取った。MIXIで知り合った人が、自身の体験も踏まえながら、やす香の病気に親切な適切な具体的な声をかけて下さった。夕日子へぜひ参考にするようすぐ転送した。
* お孫さんが入院されていたことを、今日、知りました。ご心痛、お察しいたします。
全く違う私の体験や経過なんかを書き連ねても、何のお役にも立ちませんが、当時の心境などを思い出しつつ少し、書き送らせて頂きます。
入院当初は検査が忙しく辛かったこと、毎日がだるく重く、考えもまとまらず、何もやる気がしなかったことが思い出されます。特に薬物の大量投与時は体全体が熱っぽく、自分が湯たんぽか何かになったようで、本当に何も手につきませんでした。只、寝ているしかありませんでした。副作用の一つにある「憂鬱~」な精神状態が続き、不機嫌な自分に嫌気がさしたりもしました。と同時に心は体の働きの一つなんだと初めて認識した、貴重な体験でもありました。「気をしっかり持つ」ためのエネルギーは検査や治療で使い果たしてしまい、病室に戻ったときにはもうぐったり、といった状態でした。
そして、入院中はいつも、どこかしら気が張った状態で、心から寛ぐことが出来ないのでした。家族が来て、そばにいるときだけは何とかほっと安心することが出来ました。友人などの他人でなく、話すことが何もなくても、少しの時間でも肉親や家族がそばにいてくれることが、何よりの安心でした。
このことは、私自身が入院するまで、ここまでとは思いも寄らないことでしたので、気づいた今は、家族が入院した際などは特に注意して、条件の許す限り出来るだけ見舞いに行き、顔を見せるよう心がけています。
それから、特に思い出されることがあります。
ある程度病状が落ちつくまでは、病気そのもので自分自身が振り回されてしまっていました。この時に思ったのが「どうも、病気とは、『闘う』というのとは違うのかもしれない」ということでした。
入院した際、***大の院内で、創始者の、「病を診ずして、病人を診よ」という言葉に出会いました。これは「病める人を全人的に診る医療」を表したものだそうですが、私の勝手なイメージでは、罹患中の時、患者の存在そのものに病気が存在していて、病気と患者は分かちがたいもの・・・という印象でした。自分と病気は別のものとして、まるで病気に見舞われたかのように思い病気と対峙するのは、実はすこし、考え方がずれていて、実際は自分の中に病気が発生し、今、伴に存在している・・・と考える方が自然に思えました。ですから「病気と闘う」のではなく、「病気とともに、平癒に向けて協力し合う」のかもしれないと感じたのでした。
そしてもう一つ、ストレスとの付き合い方によって病状がリアルに左右される、というところです。ここで重要なのが、所謂「心労」だけがストレスではなく、「張り切ること、頑張ること、元気に飛び跳ねること」もストレスになるのでした。もし、悪いことを-、良いことを+と考えたら、心労や心痛等は-、頑張る・張り切る・元気に行動する等は+。でも、どちらもストレスとして、体に負担をかけるのです。
ですから、悲観しないのも勿論のこと、前向きに頑張ることも控えて、一番良いのはノンビリ気楽に・・・・心静かにリラックスして、に努めることでした(この場合「努める」もストレスのうちになってしまうのですが・・・)。
この、緩やかな、穏やかな気持ちを維持するために、本当にいろいろな工夫をしました。
少しでも心地よいことを探しては、身の回りのものを可愛いモノにかえてみたり、インターネットで基礎化粧品を買ってナースセンター宛に届けて貰ったり、写真や絵を眺めたり・・・。でも、ここでも、一番有効だったのは、家族の顔を見ることでした。それから同病の友人と仲良くなれたのも良い思い出です。自分では分からないことを友人達が知っていて、医師や看護婦の方々より役に立つことも多く、同病でないと分からない辛さや決意を分かち合うことが出来、お互いを支える力になりました。
☆長々と書き連ねてしまい、すみません。最も大切なことの一つは、家族の入院で、周囲の生活が疲弊しないことだと、今はなき人がよく語っていました。
先生がお孫さんのことでお辛い気持ちを抱えつつ、きちんと毎日をお過ごしなことに安心し、尊敬申し上げます。どうかお孫さんのためにも毎日をお元気に、ご無理をなさらず、お過ごしくださいませ。 百合
* このメールには、日頃バグワンに聴いているわたしには、相通うて示唆に富んだところが何カ所もあり、感心した。若い人のようであるが、観念的でなく言葉が適切に響いてくる。感謝します。
2006 7・2 58
* さて来週には京都での対談を控えている。この対談はラクではないが楽しいモノで在らねばならぬ。そして同じ来週には、岩下志麻と篠原涼子がぶつかり合う、秦建日子脚本の連続ドラマが、また始まる。熱など出していないで、作者クン、しっかりおやり。
2006 7・2 58
* 秦恒平さま お孫様の身になんということが—–
ただただ、治療が順調に進みますようにとお祈りしています。
年が明けてから同年の友人が急死したり手術したり気の滅入ることばかり、気分直しにとカナディアンロッキーへの格安ツアーに突然に申し込みました。
去る22日から28日息子と二人で心洗われる一週間の旅をして帰国、留守中に溜まっていたメールなど読み、秦さまのHPを読んでたった一週間の(私たち親子が氷河や森や花を見て幸せだった同じ)間にご一家をこのようなご心痛が襲っていたなんて!!
障害を持った息子が生まれたとき私はもう一生外国旅行など出来ないのかなあと悲しいでした。
でも今彼は旅の一番楽しい道連れです。
山や川や氷河に素直におどろき、若い女性添乗員さんと記念撮影し、レストランのウエイトレスを「「ベリーグッド!」といって喜ばせ、むつかしい顔の税関のオジサンをにっこりさせ、ツアー参加者と自然に接してこれぞノーマライゼーション こんな幸せな旅が出きる日が来るなんて、人生わからぬものです。
ただただお祈りしています。 2006/7/3 藤
* すばらしいこと。わたしの心も晴れる。自転車で黒目川に沿って自然な小川のせせらぎや草のしげりをみて走っているとき、かつてこの辺で、母と子とのどんな時間があったろうと想うことがある。歳月というものの豊かな懐の深さを信じたい。
2006 7・3 58
* やす香の病気「白血病」は、以前に比べて新しい治療の進歩で、軽快への希望が見られるというテレビ番組に、力強い頼みを覚えている。どうか、そういう医学的な幸運に恵まれて欲しい。
2006 7・5 58
* ミシェル・ファイファーのしっかりした映画をみたあと、息子の新しい連続テレビドラマの始まるのを、見た。
よくもまあ、というほどの駄作で、落胆。
場面と台詞をさわがしく繰り出すわりに、動的なテンポの練り上げもなく、リアリティーもなく、人間の造型もなく、むろん演劇的なクオリティーもなく、要するにドタバタのへたな作り物で、演出も写真も演技も、お話にならない。
一回目だけで全体を推測はしないけれども、一回を見た限り、篠原涼子も、まえの「雪平女刑事」の颯爽とした造型からくらべれば、陳腐でウソくさい、面白くもない芝居ぶりだし、筋書きの設定も、カードの撒き方も、真実感が少しもない。女優が可哀想みたい。騒々しさを面白さと勘違いした低俗ドラマの低俗演出、いただけない軽薄さに、しんから呆れる。このぶんでは、岩下志麻のミスマッチも予想され、がっくりくる。
そもそも京都のワコーめく会社に、何年勤めたからといって、福島育ちの青年に、あんな完璧な関西弁を柄悪く駆使されては、そもそも「ことばや方言、訛り」というものへの理解がどうなっているのだろうと想う。福島の桃つくり農家の母親岩下志麻は、どうやらかなり端正な標準語をしゃべり出しそうなアンバイだが、この脚本家は、「ことば」「方言」「訛り」「風俗」を、小道具として、今後巧みにドラマの筋書きに組み入れる算段なのか。それなら少し期待してもいいが、「ことば」はバカにならない生き物、またこの予定された筋書きから見れば、そんなことをすればするほど、不自然負けするのではないか。
* がっかり……。
2006 7・6 58
* 黒いマゴに足さきを軽く噛んで起こされた。早起きすると、用事ははかどる。
* 予約は一時だが、検査を早く済ませておくと診察も少しでも早く済むので、十時前に出掛ける。聖路加へは保谷で有楽町線に乗車して、一時間あれば受付へ着く。一時過ぎに気分良く昼食出来るかどうか、今日は雲行きが良くない。
* 出がけに、やす香の「告知」と題した「MIXI」日記が出た。癌センターに、転院、と。Ah…。
夕日子に様子を聞かせて欲しいと連絡したが、あいかわらず夕日子からは、見舞いの日以前も以後も、わたしへも妻へも、何一つ報知も連絡もない。
2006 7・7 58
* 2006年07月07日 07:58 告知 やす香
私の病気は
白血病
じゃないそうです。
肉腫
これが最終診断。
れっきとした
癌
だそうです。
近々 (院内の)癌センターなるところに転院します。
やす香の未来はどこにいっちゃったんだろう…
* 愕然! 白血病ならばまだ何とか…と希望を持っていた。最悪の事態。言いしれぬ憤りのようなモノに苦しむ。
* 2006年07月07日 14:31 会いたい やす香
親友に会いたい
友達に会いたい
先輩に会いたい
後輩に会いたい
先生に会いたい
みんなに会いたい
最後の土日に
みんなに会いたい
* おお、やす香は恐怖している! 行くよ、やす香。行くとも。
2006 7・7 58
* こういう話ばかりだといいが、今はそうは行かぬ。猛雨の災害も厳しいし、北朝鮮をめぐる日本の外交のもたつきも、なんだか後手にさえ回りかねた総理の無策にもいらだつが、やはりそれどころでないのは、孫やす香の病状。
「白血病」として一度下りた診断がぐずついていると、やす香自身が前に「MIXI」で報せていたが、「肉腫=癌」と決定し、今日九日をかぎりに今の個室を出て「がんセンター」に転院すると「告知」していた。病態の表現としては肉腫とだけでは少し分かりにくい点もあるが、ともあれやす香自身、まだ、わずかなりとケイタイを通じてメッセージを送り続けてくるし、友人達の激励もまた涙ぐましいまでにしきりであるけれど、いかなる吾々の問い合わせにも、★★家からは、ただ一度の返信も返辞もこない。転院先の「がんセンター」が、相模大野の北里大学内にある施設をいうのか、たとえば東京築地の「国立がんセンター」などをさしているのか、それも分からない。「会いたい」「会いに来て」とやす香のメールは叫んで呼びかけているが。
母親も父親も、この期になにを考えているのか。
2006 7・9 58
* サイトでお孫さんのご様子を拝見しております。ご心配になるお気持ちが文面を通してこちらによく伝わってきます。治療の成果があがり快方に向かわれることを心よりお祈りしています。
最近の一連の動きをめぐるご家族のご様子や、特にお嬢様へ言い及んでいるものを拝見していると、自らを振り返りつつ親子のことをあれこれ考えさせられます。
水上勉氏の御令息である窪島誠一郎氏が、「人生60半ばになると、結んだひもがこぶたん玉になっているところがある。ところが僕は、こぶたん玉を隠そうと、ひもを両端からぎゅーと締めてごまかそうとしてきた。だけど、ひもに手をやると、やっぱり、コブがあることはわかるんですよ。あのとき、なぜコブをほどかなかったか、そういうチャンスは何度もあったのに・・・。」という発言をされたことがあります。
これは窪島氏を育ててくれた養い親のお母様とのことをおっしゃっているようですが、それに限らず肉親との関係で未熟であった自分の対応に気付き、それを悔やむということは誰にでもあるでしょう。
ただそれに気が付くには時間がかかります。月次な表現になりますが、孝行をしたい時には親はなしということになりましょうか。
では親は、祖父母はどうすべきなのか。
昨日81歳になる母と長いこと話をしたときにも、そのことに及びました。
人は、自分の肉親であったとしても上の世代のことを考えるのは難しい、そこに思い至るまでには長い時間がかかる、それが当たり前なのである、上の世代としては思っているという気持を伝え続けるだけであるというのが、私の母の締め括りでした。若い世代がそのことに早くに気付いてくれれば、それは僥倖です。
繰り返しとなりますが、お孫さんの治療の経過が良いことを願い、お嬢様(それにお孫さんのお父様を含め)、そして秦様御一統が心安らかとなることをお祈りします。 正 英国
* 物心着いたときから、わたしは「親」をいつも観察していた。身の傍にいた親は、わたしを「もらひ子」した育ての親たちであった。実の親たちのことは知らなかったが、もののほつれからこぼれる糸屑のように、ぽつぽつと年数に応じて何かしら知れてはきた、ただ、確かめる術は、ほとんどなかったし、なによりわたしに確かめたい気持がなかった。「自分」以外は自分でないのだから、一律「他人」と思い、親だから、きょうだいだから他人ではない、などと思わなかったのである。
大事なのは、自分のほんとうの「身内」を自分でみつけ、一人でしか立てないはずの「島」に一緒に立とうと願っていた。「妻」とはそういう身内でありたかった。恵まれた子供達や孫達も、子や孫という関係によって身内であるのでなく、「身内」で在りうる子や孫であればいいなと願っていた。
事実上なかなか容易でないことを、わたしは知っているのである。
わたしが子や孫達に愛情を失ったことのないのは、誰もが信じてくれるだろう、が、それゆえに彼等がわたしの謂う「身内」であるという「保証」は何もない。無条件にそんなことをわたしは彼等に強いも、求めもしていない。それは親たちに対しても、終始そうであった。
* 娘が波瀾のあげく結婚した相手は、通俗な「親類縁者」観の持ち主で、婚姻により結ばれた家庭と家庭や、家族と家族とは、当然に「身内」であるという常識から半歩も出られない、大学で哲学を教えている先生である。学者であるそういう婿を持ったからは、妻の実家たるもの、婿にたいし、家屋や生活費の経済支援をするのは当然の義務であり、そんな常識も弁えないバカな親なら、「姻戚関係」をこっちから断つと離縁の手紙を寄こし、それきり一切の交通を断ってしまった、そういう「哲学」の持ち主であった。
その当時、わたしたち夫婦は、自分を育てあげてくれた、三人とも九十歳台になる・なろうという義理ある父や母や叔母を、一手に抱えていたのである。
わたしたちは、妻は、夫との暮らしに拠るのがいいという考えだったから、娘が離婚して戻ってくるなど、全く望まなかった。
「他人」でったら愛情はもたないとか、捨てるとかいうような考えは微塵もなく、娘や孫達が幸せならそれでよいと考えて、孫のやす香からの嬉しい働きかけがあるまで、何一つよけいな手は出さなかった。それでよいと考えてきた。
そして孫達は、親に内緒という窮屈さもむしろ楽しむかのように、姉も妹も、二人とも、祖父母の家を何度も訪れ、街でもデートしたり芝居も観たりしてきたのだが、その心優しいやす香(大学二年生)の方が、いま、あまりに酷い難病に不運に蝕まれている。
どう遠目に「MIXI日記」を介して眺めていても、大学生やす香の毎日は、適度を遙かに遙かに超えた、過剰も過剰なアルバイトや遊びの毎日らしいのが、前から見えて、分かっていたし、今年になって体調をどんどん崩しているのもはっきり分かっていた。
わたしはヒステリーを起こしそうなほど心配し、せめて「親に相談しなさい」と再々孫をうるさがらせていたけれど、後に母親夕日子の述懐を漏れ読むかぎり、一緒に家居していながら、「大学生になって以降のやす香の日常について、何も知らなかった、分からなかった」という。そういうものかなあと、憮然とした。
そんな不幸な事態になって、いわば非常時、一つの大事な命の危機にさしかかって、★★家は、孫の病院への見舞いを「一度は黙認する」という「はからい」であった、それも、やす香が「つよく求めた」からである。
病院を訪れたときも、母親は真っ先に、「十五分だけにして」と言い置いて病室を出て行き、吾々と孫二人と四人だけにした。
「三十分」ほどして母親は戻ってきて、そのままわれわれは退去した。父親は顔を見せなかった。
「おまえがいま倒れてはどうにもならないよ。だいじにしなさい。やす香を頼むよ」とわたしは娘夕日子に廊下で言い、やす香「九月の誕生日」「来春成人の日」のための晴れ着一式や、付き添う日々の夕日子用にと相当の金包みも手渡してきたが、夕日子はほとんどわたしたちに口を利かなかった。わたしが、この「私語」に、あの日娘との久しい再会に関し、ほぼ一語も書かなかったのは、「書きよう」がなかった、「書く気持ち」になれなかったからである。
「上の世代としては思っているという気持を伝え続けるだけ」「若い世代がそのことに早くに気付いてくれれば、それは僥倖」とある、上のメールの人の言葉は、ああ、まったくその通りだ…と思っている。それで仕方がない。
ただやす香という孫の命は、そんなこととは別の次元ではなかろうか。この孫は、祖父母にむかい、自身の意思と行動とで、優しい手を伸べてきてくれた。今度の病気でそれが親に知れたとき、母親は、「この際黙認」するとだけ言ったそうであるが。
2006 7・9 58
* 建日子も忙しそうだ。自身を鼓舞し鼓舞して、たぶん懸命に日々を過ごしているだろう。そんな中でも、ときどき、いや毎日かも知れないのだが、わたしの「私語」にも耳を寄せているらしい。此処で、親たちの日々がいくらか察しられて、安心も不安もあることだろう、電話で話し合うのは二人ともあまり上手でもなく、好きでもない方だ。
いま「MIXI」にわたしは二種類の連載をしている。わたしにすれば「旧作」を読み直して校正するのが目的の大きな一つなのだが、『青春短歌大学』の方は、三十八にも成る息子へそう言っては気の毒だけれど、父親からのそれとない「授業」の気持も無いではない。同時にほんの一服の時でもあってくれればと願っている。わたしの肉声はこういう仕事に、より良く通っているつもりでいる。ときには、一服の気持で観てくれるといい。
* 今日は短歌でも俳句でもなく、一編の詩を出題した。転載しておく。漢字一字分あけておいた「虫食い」に字を補ってみて、ふと「生きる」思いを味わって欲しい。やす香は必死で「生きたい」と今日も叫んでいた。
* 「病む父」 伊藤 整
雪が軒まで積り
日本海を渡つて来る吹雪が夜毎その上を狂ひまはる。
そこに埋れた家の暗い座敷で
父は衰へた鶏のやうに 切なく咳をする。
父よりも大きくなつた私と弟は
真赤なストオヴを囲んで
奥の父に耳を澄ましてゐる。
妹はそこに居て 父の足を揉んでゐるのだ。
寒い冬がいけないと 日向の春がいいと
私も弟も思つてゐる。
山歩きが好きで
小さな私と弟をつれて歩いた父
よく酔つて帰つては玄関で寝込んだ父
叱られたとき母のかげから見た父
父は何でも知り
何でも我意をとほす筈だつたではないか。
身体ばかりは伸びても 心の幼い兄弟が
人の中に出てする仕事を立派だと安心してゐたり
私たちの言ふ薬は
なぜすぐ飲んで見たりするやうになつたのだらう。
弟よ父には黙つてゐるのだ。
心細かつたり 寂しかつたりしたら
みんな私に言へ。
これからは手さぐりで進まねばならないのだ。
水岸に佇む( )のやうに
二人の心は まだ幼くて頼りないのだと
弟よ 病んでゐる父に知られてはいけない。 2006 7・10 58
* やす香の状態が、よくない。「MIXI」に、やす香自身が静かな筆致で書いて告げている。一日も早いうちに逢いたいと「みなさん」に訴えている。
北里大学病院は治療を放棄したのか。親たちから、事情はわたしたちに何も伝わってこない。何も来ない。妻がやっと電話口に夕日子を掴まえたが、電話なんかやめてと泣き叫んだという。
* 7.11 19:04 みんなへ やす香
母が私の「肉腫」という癌について、専門の場所の専門の先生と面会をしました。残念ながら私の癌は「骨」と「肉」の癌で治ることは絶対に有り得ないそうです。
厳しい治療で得られるほんのわずかな時。あるいは治療はせず、痛みや苦しみを緩和しながら暮らす日々。そのどちらかが私に残されたわずかな選択肢だそうです。
余命は誰にもわかりません。
みんなにお願いがあります。病院に来て下さい。mixiを知らない私の友達にも伝えてほしい。みんなに会いたいと。
20才の誕生日を迎えられるかわからない。もしかしたらしばらく生きてられるかもしれない。全然わからない。だからみんなに会いたい。さよならを言うわけでもなく、哀れんでほしいわけじゃない。ただこの遠い辺鄙なところにある私の病室がみんなの笑いの場所になってほしい。その中で生きることが一番私らしい生き方だと思うから。本当に遠いだろうけど、みんなに会いたいです。
すごくすごく重い話だけど、これは嘘でも冗談でもないんです。
ただ生きたいとわめいていても、事実はかわらないんだと…みんなにもわかってほしい。
今日を、明日を生きる。 やす香
* こんなに静かなやす香の言葉を聴くとは…。五臓六腑が動転する。
* 折から堀上謙さんの電話。お誘いは受けなかったが、話は聴いてもらった。
「あきらめて投げ出してはいけない、最期の最後まであきらめないで、わらの一すべでも掴まなくては」と。もはや「緩和ケア」に入るというのは、あまりに諦めが早くはないか、と。
わたしもそう思い、建日子を通して伝えたが。母親は動転している。
* 建日子に。 (建日子宛の夕日子のメールが母親に転送されてきたのは、)母さんから、内容を聞きます。
今が大変な非常事態であることは、初めから十分分かっていたし、容易ならざる事態とわたしは分かっていました。診断が遅れていることで、その不安は増大していました。
やす香の「命を守る」ということは、言葉は平凡でも「万全を尽くす」「手を尽くす」ということであり、北里大学病院に拘泥せず、一級の専門医を懇請して懇切に往診を頼むなり、国立ガンセンターなどの緊急の再診を、いわゆるセカンド・オピニヨン、サード・オピニヨンを、せめて「データ的」にも求めるべきではないですか。
そういうことに一家を挙げ奔命・奔走しなくてはならぬ時に、それをしているのか。万一していないなら、「今すぐしなさい」と夕日子に伝えて下さい、これ以上の手遅れにならぬうちに。
病院の言いなりに流される必要はない、むしゃぶりついてでも最善を計って貰えと奨めます。
いまは、父親も母親も、★★家の親族も、挙げて、やす香の延命のために最善をつくす時、それが、真っ先です。
医学書院時代の昔のわたしなら、なんとか医学的なツテが求められたかも知れないのにと、残念です。 父
2006 7・11 58
* バルセロナの京から
恒平さん
二十年振りでしょうか、七夕の飾りを作りました。
~ささの葉 さらさら~
いや、これはどう見ても、かさかさ、だなあと思いながら、道端で折ってきた茶けた笹に、輪飾りを、切り紙を、そして短冊を掛けると、華やかな、ちょっと郷愁誘われる祭りの気分になりました。
七夕が出産予定日だった親友を見舞うと、笹の葉の飾りにひととき言葉を失っています。
二人で今日が晴れだったことを、誰のためにともなく喜んで、生まれたばかりの赤ちゃんの寝顔をほっと見つめました。
友人は子を望まれる境遇にいなかったため、つくる決心をしたものの、健康で生まれてくるかどうかが、最後まで肩に重く圧し掛かっていました。
私は知らない(日本の)藤江さんのことを何度となく想い出し、これを機に、また『ふつうのくらし』を読み返してみました。
病院に毎日足を運びながら、やす香さんのことも想っています。 京
* ありがとう、京。祈るということを、意識して暮らしのワキに置こうとしてきましたが、やす香のためにわたしは思わず祈っています、今も。
* やす香が初めて「痛」みを「MIXI」で訴えたのは、「一月十一日」だったと思う。あの正月には、初めて妹の行幸も一緒につれて来て、保谷の祖父母を驚喜・狂喜させてくれたし、「一月九日」の日記には、わたしが話したことを、やす香の表現と理解とで、丁寧に「日記」に書き記していた。それを読んだわたしの気持は、どう月並みであろうと、張り裂けそうであった。
あの「痛み」に、あの頃から適切に対応できていたら、と、くやしい。わたしはまだ「MIXI」に入っていなかった、やす香のそういう表白を知るに知れなかった。
「二月十四日」からわたしは「MIXI」に日記(=いわゆる日記ではない、書き下ろしの「静かな心のために』)を連載し始め、「二月二十四日」には、今度は、行幸があたかも姉やす香を連れてくる体で、二人で保谷にやってきた。行幸の誕生祝いもかね、姉妹は嬉々として「雛飾り」をしたのである。そして池袋パルコへ出てにぎやかに鮨をいっぱい食べた。姉妹は夢中で、しかもせいいっぱいはしゃぎ、美味しい美味しいと沢山食べ、若い板さんに愛想をふりまいてもらい、嬉しそうだった。
この日、誕生祝いを引き立たせるために、妹にお祝いをやりながら、姉にはとくに何もしてやらなかったのが、今更に可哀想で寂しい。
しかし、やす香には二十歳成人の日のための振り袖の晴れ着を披露し、ざっと服の上から羽織って見せた。帯こそ締められなかったが、その姿が今となって眼にやきつく。(=後日妻の日記で確認したが、この晴れ着を羽織ったという記憶は、正月二日のことであった。)
やす香二十歳の誕生日は、この九月十四日。ほぼ二十年前、生まれくるやす香のために今の家のキッチンを、急遽兼用居間に造りかえた。やす香誕生のあの年の九月だった。われわれはそこを、「やす香堂」と呼んできた。
* バルセロナの京の、静かなお見舞いがわたしを揺する。静める。
2006 7・12 58
* 昨日の「あいにきて」というやす香の呼びかけには、六十人ちかくの若い友達がどうっと瀧のように反応してくれていた。
今朝、母親夕日子が、十六日に、大学病院内のどことやらで音楽会をひらくので参加して欲しい、最初に夕日子が歌います、参加者は何を歌ってくれるか、前もって報せて欲しいとメッセージしてきた。
音楽会はやす香の希望であること間違いなく、病院もそれを許しているのは、すでに「緩和ケアの一環」としてであろう。
やす香の気持ちは分かる。しかし、この呼びかけに反応した友人が一気に数人以下になっているのは、もちろん事の異様さに一旦はフリーズしたのではないか。
まるで「お別れ会」ではないか、それもただの別れではない。そんなところで、どんなふうにどんな顔をして歌えるだろうと、一旦は、ギョットした人が多そうに思われる。
今は、貴重極まる時間であり、惜しみて余りあるやす香の体力。金無垢のように時間と体力を惜しんで、ただただ疲れないで「成人」の九月誕生日を目指して生きて欲しい。それがわたしの願いだ。
「すべきことは、すべてした」などと言っていい、今ではない。今この瞬間からしなくてはならない「延命」の努力なのである。やす香には医療の万全を信じ、しかも体力をうしなわず、苦痛に勝って貰わねばならない。周囲も諦めて手を離してしまってはならない。正念場へ来たということだけが間違いない。
夕日子よ、不肖の娘時代に百も千も父はおまえに口を酢くした。謙虚に聡く在るべきは今だよ。おまえも不安だろうが、母さんや父さんは離れているだけもっと不安で様子が知れないのだ。母さんがようすを知りたがったら、心優しくせめて答えてあげなさい。やす香は、まみいに優しいよ、こまめにメールをくれて、逆にまみいを慰め励ましているではないか。
* こうしてメール差し上げるのはずいぶんと間が空いてしまいました。mixiや先生のホームページを拝見しつつ、お目にかかっている気持ちになっておりましたもので。
唐突ですが、宮部みゆきの「たった一人」という短編をご存知でしょうか。『とり残されて』という文庫本に収録されています。解説を書いている北上次郎氏が、他の収録編については触れもせずひたすらに 絶賛している短編です。
初めて読んだとき、私はこの小説がそれほどのものだと思わなかった。
けれど、やす香さんのご病状を読ませて頂いてこの話を思い出しました。話の内容をここで記してしまうのは気が引けますが、人が「自分が離れたくない人=たった一人」を助けるために奇跡を起こせるかどうか、が、隠しテーマで あったことが最後の最後でわかります。
主人公は、一度奇跡を起こして大事な人を助けるのですが、失ってしまう。そして最後に、もう一度同じ奇跡を起こしに出かけて行くのです。一度できたのだ。もう一度できる、と。
こう書くと安っぽくなってしまうのですが、これは私の表現が至らないためで、白磁の壺のようにやわらかく丁寧に描かれた佳品です。
先生が奥様のご病気を治されるためにご尽力されたご様子を「湖の本」の中で書かれていたのを思い出しつつ、今日もう一度読み返しました。
やす香さんに、もう一度軽やかに歩ける日が来ますよう。あれほどたくさんの方たちから注がれている愛情をその養分として惜しみなく用いてくだされば。
ご報告が大変遅くなりましたが、息子はお陰様で健康にすくすく育っています。抱きしめても女の子のようなやわらかさがないのは残念ですが。母親として子どもに手塩にかけられる一年を一時も無駄にしないよう、娘の方にもにわかに口うるさくしております。母親が今までそばにいなくても、それなりに育ってくれた娘は私にとって「授かりもの」でしたが、親族で初めての男の子の方は「預かりもの」のように感じています。託されたのだからきちんと育てて世の中に還そう、と。小さくてもいい、人のために何かできるようなヤツになれよ、と思っています。
子どもが増えて、人をつくることに関わる深さをさらに感じている今、やす香さんのことが心を離れません。毎日毎日、祈っています。
先生も、ご体調が優れないご様子、どうぞ大事になさって下さいませ。「たった一人」では、主人公は奇跡が起きるその時まで「死ぬことさえないかもしれない」と、結ばれます。もう一度奇跡を起こすその日まで、先生どうぞごどう
ぞお健やかに。 典
* ありがとう。
2006 7・12 58
* 重い鉄の丸を嚥んだままのような歌舞伎座観劇であった。鏡花の輝く四篇、「夜叉が池」「海神別荘」そして「山吹」「天守物語」だから、どうやら昼夜とも観て来れたけれど、そしてむろんとても面白かったけれど、胸の底には一枚のガチンと揺るぎない不安と動揺とがあり、それに逆らうことも同調することもできない苦痛。
やす香はもちろん、夕日子も建日子も、妻も、みな同じである。そしてみなが、やす香のために少しでも少しでも良かれ、髪の毛一筋の希望でももたせたいと願っている。そう信じる。ただ人間のこと、まわりの者達の思いは、少しずつ、願いも、苛立ちも、悲しみようも、異なるのである。
* 朝いちばんに岡崎の国立研究機構に在籍する岩崎広英君から、親切な助言と協力の申し出があった。すぐ夕日子にメールで伝え、建日子にも夕日子に勧めて欲しいと願い同報した。
やす香のケアへの、祖父母等の口出しや提案を、夕日子ないし★★家は無言で拒絶し、口を出すなら「見舞いもさせない」と娘は、母親へのメールにも、母親からの電話にも、答えている。いま、大人達が手を合わせなくてどうするのだろうと、蚊帳の外へ押し出されている祖父母の、あてどない不安は限りなく、鉄の丸を嚥むような苦痛は倍加している。
明日見舞いに行っても、はたして孫やす香に逢わせてくれるのかも、正直不安心なまま出向くのである。
やす香は、「わたしは、気持ち、わかっているからね。よくわかっていますよ」と苦しい息の下から、われわれへ、まみいのメルアドへ、メールを寄越している。
やす香の、ケイタイで辛うじて打っている今日の「MIXI日記」は、「今日はね 大変だったの…。体力消耗~」とだけ。
この肉腫という病気治療がどんなに苦痛で体力を消耗するかは、常識。それを何とかしてすりぬけすりぬけ、一日一日延命を図らねばならないときに、やす香の希望もあるではあろうが、大勢とのひっきりなしの面会や、音楽会・歌唱会を院内で開いて、患者自らも歌を歌おうなどというのは、「消耗」の極限を越えてしまわないかと、わたしは真剣に、そして不安にたえられず、心から憂慮する。
そしてわたしは空しくも願うのである、親たちや病院の、それは、もはや「断念」のサインでなど無いことを、と。
正直の所、わたしたちに、あれこれ確言できる何の自信も確信もない。情報もなく満足な説明も受けられないでいる。だからまたあてどなく不安なのであり、常識的に判断するかぎり、十六日午後に予定されている「歌唱音楽会」の、楽しいメリットと消耗一途のデメリッとトの落差に、深刻に惑うのである。命を縮める暴挙には、切に切に、して欲しくない。それが、夕日子の「命がけでやす香の命は守って見せます」ことになるのか。
* 湖さま 14年前 北里病院の庭の周りにはくちなしが香っていました。
北里病院の七夕 夏祭り ・・・ 19歳の娘と過ごしました。
静かに 穏やかに ときが 長く 長く 長く 過ぎていきますように。 波
2006 7・13 58
* 窪田空穂の歌に
たふとむもあはれむも皆人として片思ひすることにあらずやも
今にして知りて悲しむ父母がわれにしまししその片おもひ
* この「片思ひ」の歌に寄せて思うことがある。いま、「MIXI」に、東工大の教室で試みていた『青春短歌大学』(平凡社刊 秦恒平「湖の本」版上下巻)を、「校正」かたがた連載しているが、じつは、あれより前に、講談社から、数人の責任編者制で、数巻の詩歌鑑賞の本を出したことがあり、わたしは『愛と友情の歌』の一冊を担当した。それが、大学での授業に大いに役立ってくれたのである。
いま「MIXI」での「連載」に、新たに毎回出題している作品の多くも、その本から採っている。
『愛と友情の歌』は昭和六十年九月十日に刊行され、「あとがき」は同年六月八日に書いている。「娘(夕日子)が華燭の日に」と日付に添えてある。その「あとがき」の末行は、こう書きおさめている。
「愛」の、あまねく恵みよ! しかし「愛」の、難(かた)さよ! 努めるしか、ない。
娘への父のはなむけであった。この本はひとりの女として生きて行く娘への、またひとりの男として生きて行く息子への、贈り物として編んでいた。幸か不幸か、二人とも読んではいない。
いま、その娘はわが子の、想像をはるかに超えた急な重篤な病のかたわらに、母として、在る。
* 教室で出題した日の「後始末」を『青春短歌大学』上巻から此処に再記して、わたしの気持を静めておく。
* ☆ 痛み
たふとむもあはれむも皆人として( )思ひすることにあらずやも
今にして知りて悲しむ父母がわれにしまししその( )おもひ 窪田 空穂
虫くいには、同じ一つの漢字を補うように出題した。さて作者は……。いやいや作者の説明などはじめると、とたんに学生は退屈する。東工大の学生は概して人名、ことに文系の大物の名前に無関心であり、また、知らない。太宰治は通用しても小林秀雄は通じない。ときめく梅原猛などでもテンで通じない。まして突然の短歌の作者を、有名であれ無名であれ、それらしく納得したりさせたりするにはずいぶんな言葉数と時間とを要する。それは困るから、歌人についての解説は原則として省く。窪田空穂ぐらいな人でも、近代の短歌の歴史でベストテンに入る立派な人としか言わなかった。学生は当面問われている作品にしか意識がない。短歌史の時間ではないのだから、それでもいいとしている。
四七四人中で、「片」思ひ、と入れた学生、一二七人。四人に一人は超えた。好成績であるが、こう答を知ってみれば、こんな簡単で通常の物言いが、なんでもっと多くないのかと呆れる人もあるだろう。
一年生は五分の一しか正解していない。二年生になると、三分の一近くが正しく答えている。一九歳と二〇歳とのたった一年の差だが、ここに一つの意義がある。そんな気がいつもする。
試みに解答を羅列してみよう。「物」思い、「親」思いが多い。前者は手ぬるいなりに当たっていなくもない。ただ把握は弱い。表現も、だから弱い。後者だと後の歌に適当しない。意外に多く、「恩」という字を拾っている。なんとなく歌の意へは近づこうとしているのだ。しかし詩歌たる表現にはなっていない。「心」「子」「我」「恋」「愛」「人」「罪」「内」「昔」「熱」「温」「夢」「情」「苦」「深」「相」「今」「憂」「長」や「先」「女」「常」など、ほかにまだ二、三〇字も登場している。
「片思ひ」では、なんだかあたりまえすぎてという弁明が、次の週に出ていた。「片思ひ」といえば恋愛用語であり、この歌に恋の気配は感じられなかったので採らなかったという言い訳は、もっと多かった。空穂のこの短歌は、いわば二十歳の青春のそんな思い込みへ、食い入る鋭さ・深さをもっている。
人の世を人は生きている。世渡りとは人付き合いなのである、好むと好まざるとにかかわらず。無数の人間関係がこみあい、理性でだけの交通整理が利きにくい。人の心情や感情はとかくもつれあう。言葉というものが重要に介在すればするほど、必ずしも言葉が問題を整理ばかりはしてくれずに、むしろ足る・足らぬともに過度に言葉は働いて、不満や憤懣を積み残していくことになる。こと繁きそれが人の世である。
「たふとむ=尊む」も「あはれむ=愍れむ」も、このさいは人間関係に生じてくる一切の感情や言葉を代表して言うかのように、読んでよい。むろん親と子とのそれかと、第二首に重ねて察するもよく、もっと広げた人間関係にも言えることと読んでも、少しもかまわないだろう。要するにどんな心情・感情も、どこかで足りすぎたり足らなさすぎたりして、そこにお互い「片思ひ」のあわれや悲しみや辛さが生じてくる。それもこれも「皆、人として」避け難い人情の難所なのであり、だからこそ自分が他人に「片思ひ」する悲しさ・辛さ以上に、知らず知らずにも他人に自分がさせてしまっている「片思ひ」に、はやく気がつかねばならない……と、この歌人は、痛切に歌っているのだ。
残念なことに、自分のした「片思ひ」ばかりに気がいって、自分が人にさせてきた「片思ひ」にはけろりとしているのが「人、皆」の常であり、自分も例外ではなかった。そう窪田空穂は歌っているのである。しかも例外でなかったなかでも最大の悔い・嘆きとして、亡き「父・母」が、子たる私に対してなさっていた「しましし片思ひ」を挙げている。「今にして知りて悲しむ」と指さし示して歌人は我が身を恨むのである。父も母ももうこの世にない。この世におられた頃には、いつもいつも自分は、父母へ「片思ひ」の不満不足を並べたてていた。なんで分かってくれないか、なんで助けてくれないか、なんで好きにさせてくれないか。しかも同じその時に、「父母がわれに(向って)しましし」物思いや嘆息や不安の深さにはまるで気づかないでいた……。
「片思ひ」も、このように読めば、恋愛用語とは限らない。それどころか人間関係を成り立たせるまことに不如意にして本質的に大事な、一つの辛い鍵言葉であることに気がつく。ここへ気がついた時、初めて他人のしている痛みに気がつく。愛は、自分が他人にさせているかも知れぬ「片思ひ」に気づくところから生まれる。差別という人の業も、これに気がつかずに助長されているのではないだろうか……。
二年生が、一年生よりもうんと数多く「片思ひ」を正解してくれていたことに、「成長」の跡を見ていいと、わたしは、つよく思う。
そんなふうにわたしの理解を語った当日の学生のメッセージのなかに、「秦さんに教わっている多くのことは、いつかは忘れてしまうでしょう。でも、今日の『片思ひ』という一語だけは、忘れません。ありがとうございました」と書いたのが、あった。
たふとむもあはれむも皆人として片思ひすることにあらずやも
今にして知りて悲しむ父母がわれにしまししその片おもひ
巧みであるとかそうでないとか、そんなことだけで「うた」の値打ちを決めてはいけない。どれだけ自身の「うったえ」たいものを「うたえ」ているか、金無垢の真情が詩を育む。巧緻のみを誇るものに、恥あれ。ただし概念的にのみ翻訳されて愬えている詩歌も困る。窪田空穂のこの歌などは、真情のより優ったかつは微妙な境涯にある歌だと言うべきか。
* 妻と連れ立ち、相模大野の大学病院にやす香の顔を一目見て声一つかけてやろうと、いましも出掛けるところである。
われわれは「やす香の祖父母」である。「片思ひ」は無い。
2006 7・14 58
* 熱暑。湯の中をあえいで泳ぐ心地であったが、シャツにネクタイし、ジャケットも着て相模大野の、北里大学病院に出掛けた。
* やす香は眠っていたので、暫時待機してから病室に入った。
やす香の希望で、今回も池袋東武の高野で「梨」と「桃」とを用意していったところ、もう新宿につくという車内へ、やす香から妻に電話が入り、ぜひ「お蜜柑」もと。で、新宿高野で冬蜜柑を買い足し、ロマンス特急を町田で乗り換えて、相模大野まで。
* 病室には夕日子とやす香とが二人きり。四人で、あれで一時間ばかり、まさに「水入らず」の静かな時をすごした。やす香は、梨も蜜柑も、京都の佳い軽いせんべいも、少しずつ食べ、べつに昼食も美味しいと食し、妻はずうっとやす香の脚をさすっていた。
ほとんど、目だけでものを言い合う静かな時間であったが、窓の外は遠くに薄い濃い山並みが重畳していて、時に垂直に強い稲妻と驟雨が来たりしていたが、病個室はあかるく穏やかで、やす香は母にも祖母にもあまえ、私にも気を使っていた。わたしは、ただもうやす香の顔を見ていた。言葉は無力に感じられた。
食べるとそれだけまた睡眠へひきこまれて行くやす香は、わたしたちにも気遣うか、寝入りかけてはうすく目をひらきひらき、顔を見ようとしていた。手を握りあい、ただかすかな握力と視線とだけでうなずきあい、うなずきあい、「がんばるんだよ」と声をかけて病室を去ってきた。目は閉じていても「耳は聞こえているよ」ともやす香は言い、あわれで、泣いた。
* 雨は晴れていた。わたしも妻も新宿まで、池袋まで、ほとんど黙していた。特急の中で、瞑目しているわたしのとなりで、妻は幾度も幾度も涙をすすり上げていた。
池袋で、互いにいたわり合うようにバルコを上へ上がり、遅い昼食に、「船橋屋」の天麩羅を食べた。わたしは甲州笹一をのみ、妻は抹茶のアイスクリームを。
黒いマゴまでも、ひっそりとわれわれの様子を気遣っている。
2006 7・14 58
* これはわたしひとりのヘキかも知れないが、人と会うと、どんなに楽しい時間であろうと、それなりの疲労があり、人の多い街へ出るだけでも人のもつエネルギーの波動に揺すられ、疲れて帰る。
気の乗らない会議などとくにそうだし、タダのお付き合いでもそうである。
最高に嬉しい出逢いからはとても佳いエネルギーをきっともらうけれども、それとて快い疲れとが裏表であることも免れない。いやな疲れの無い、ないしふつうの疲れの極めて少ないのが、やはり妻との家庭である。
* やす香は、基本的に今、疲れて疲れすぎてはいけない。しかし、友達や家族や知人と全く会わない会えないのでは、不安な孤独さ寂しさという消耗と動揺と焦慮が湧くであろう。
今何よりも願わしいのは、人と会う、大勢と会う「嬉しいプラスの値」が、それから身に受ける「消耗や疲労のマイナスの値」よりも、一ミリでも二ミリでも、一グラムでも二クラムでも多く、そうして得た体力や気力を、薄紙を貼り合わせて行くように蓄積しつつ、どうかどうか「快方へ転じて行って」欲しいこと。これが、わたしや妻の身を刻むほどの切望である。
あした、病院の食堂で、大学、中高校、地元、ヒッポの仲間達が来て演奏会をしてくれるそうだ。一時間ほどと。
やす香のために、何という嬉しいことか。
だが、予定されていたやす香自身も歌うことは、避けられた。ほっとしている。疲れがみえれば、残念でも打ち切られることだろう。
やす香よ、元気だけをたくさん身に浴び、疲労しすぎないで、よくおやすみ。夕日子も。
2006 7・15 58
* ご夫妻へ お見舞い
じっとしていても耐え難いこの暑さの中を相模大野へ向かわれたお二人のお姿を想像するだけで、私は胸が一杯になります。
箱根(や江ノ島)へ行く特急の中で、お孫さんの病床へ向かわれるお二人の姿が、切なく目に浮かびます。(娘の住まいが鵠沼なので私はよく相模大野を通ります)
子どもを授かることは(孫を授かることは)沢山の楽しい想い出と喜びに恵まれることなのだけれど、悲しみの種も増えるのだと以前(長男が交通事故で死にかけたとき—幸い生き返りましたが)思ったことがありました。
医師に長男の生死の確率は五分五分と告げられた日は次男の養護学校の学芸会当日でした。
私は学芸会に行きました。そして知恵遅れの子たちがお腹の前に茶色のクッションをくくりつけて踊る猩々寺の狸囃子に笑い転げました。
どうか暑さとご心労にお二人が体調を崩されませんようにと祈っています。
京都は祇園まつりですね。 藤
* お見舞い、有り難う存じます。
* わたしはもう涙を流して泣くのをやめている。泣いてどうなろう。水を打ったように静かにしている。玉三郎達の鏡花に見入っている最中は、少なくも心をうちこみ楽しんでいた。いましも喘いでいるやす香のためにも、わたしは、せめても楽しむときは楽しみたいと思う。わたしの肩に孫がきて乗っていると、一緒にそれをし、あれをしていると想う。
2006 7・15 58
* おそらく夕日子が自身一存にちかい、懸命の思いで今しも守っているのは、やす香の命の尊厳と安静であろうと、わたしは推量し理解している。
それほどに無残に重篤で差し迫っていることは、北里大学と夕日子とのあいだで、よほど深く確認されているのだろう、ジタバタしないという、なるべく静穏で平和な最期の時間を創り出そうとしているのだと、わたしは分かっている。それをしも母の深い思いやり、慈愛、とうけとらねばならない痛切な悔い口惜しさは、いかんともしがたいけれど、少なくもわたしは、おそらく妻も建日子も、夕日子に代わって、夕日子のほんとうは言いたいであろう言える限りの繰り言を、言い紡いでやらねばならない。そして哭いてやらねばならない。
* やす香の笑みこぼれて幸せでありますよう。夕日子、どうか、よろしく頼む。 父
* やす香 やす香 やす香
今晩には、やす香のための「音楽会」がある。やす香が、こころから「みんな」との静穏で平和な楽しみを味わい、やす香の大好きな「笑い」が顔いっぱいに匂い出ますように。 おじいやん
やす香 わたしたちは、みな、やす香を、自分の命そのもののように愛し、尊重し、そしておまえの呉れたこの上もないわたしたちへの「贈りもの」に、深く深く深く感謝していますよ。 おじいやん・まみい・たけひこ
2006 7・16 58
* ホスピスから生還した知人がいます。好きなものを飲んで食べて毎日楽しく、大いに笑っているうちに、症状が改善されてしまって、ホスピスを出されたのです。笑うことには不思議な力があるそうです。
医療の現場はじつに厳しいものですが、それと同時に奇跡は決して珍しいことではありませんし、希望はいつもいつも出番を待っています。
どうか、他人の無責任な気休めとお受け取りにならないでください。奇跡はすぐそこに。やす香さんに笑顔があふれること、そのことがすでに素晴らしい奇跡でなくてなんでしょう。信じています。 夏
* 音楽を絶えず聴き、ワインに気持ちを静め、息を詰めて……苦しい。すべて、予感し覚悟し呻いてきたことだけれど。
* バク yurikoさん(>_<)突然のプレゼント
本当にありがとうございました。
大切にかかえて夜をすごしています。悪夢が減り増すように(〃_〃)
音楽会 うまくいくといいなぁ。
まずは私の体調が… やす香
* 獏のぬいぐるみをいただいたらしい。こわい夢を獏よ、食べてしまっておくれ。
2006 7・16 58
* > 言葉もなく、深く深く感謝しています。
いいえ、やはり余計なことを書いてしまったのだと思います。夕日子さんのお気持ちはとっくにご存知だったのですね。私の書いたことは、他人からの単なるだめ押しでした。
> 日記を読めば読むほど、「ああ手遅れ」したという悔いは、口惜しさは募ります。
先生のお気持ちには、本当にもう、何も申し上げられる言葉がありません。やす香さんの日記を、体の不調と痛みを訴えていらっしゃる所を中心に、読んでみました。
確かに日に日に状態が悪くなっているのが分かりました。
でも、一番驚いたのは、4月の始めに病院で検査をしているのに、そこでは何も見つけられず、只「うちでは分からないから、大学病院にでも行きなさい」と言うだけの対応をしているところです。
ここですぐに付き合いのある大学病院を紹介する等の措置があればと、怒りも覚えますし、これが地域医療の限界なのかとも、愕然としました。
今頃はお祭りが宴たけなわでしょうか。やす香さんが楽しんでいらっしゃることを願っております。
入院生活で一番の敵は、一日のメリハリが無くなることでした。行動が著しく制限されていて、することが何もないと、具体的な、生活のはりあいが失われてしまうのでした。特に、長期入院になると、これが一番困りました。そんな生活の中、面会のお客さんは、外の世界を運んでくれ、「会って話す」というはりあいを持ってきてくれるので、只会いに来てくれるだけで、華のある生活になるというか、そういう部分はありました。確かに疲れるので、体調によって制限なさった方が良いとは思うのですが・・・。
日記を読みますと、やす香さんは今年の春頃から、肩から胸の辺りが痛くて安眠できない日々が続いていたんですね。
今は安眠できているでしょうか。夜に眠りが浅くなるなら、ご家族がそばにいらっしゃる昼間、のんびり眠るのも良いことだと思います。勿論薬の副作用もありますが、お母様の前でうとうと眠ってばかりのやす香さんは、きっと、安心していらっしゃるのだろうとも思いました。
先生も、どうかお体を苛まれませんよう。
とても難しいことだと思いますが、どうかお元気でお過ごしください。 百合
* ありがとう。ありがとう。
2006 7・16 58
* 「MIXI」での意思疎通には、「日記」への「コメント」があり、これは一首のチャットで、誰でも参加でき誰にでも読まれうる。もう一つ「メッセージ」があり、これは相手へ個と個との通信として直通し、誰にも読まれない。
「コメント」では埒が明かないとみて、私は「四月十二日」に、やす香にメッセージしている。これは、もはや言語に絶した苦痛でありなが、まだやす香はひとり堪え、わけわからずに狂った昆虫の一匹のように、日々過ごしていた時点である。
* 宛 先 : やす香 日 付 : 2006年04月12日 20:38
件 名 : MIXIに加わってから、
やす香の日記を欠かさず読んできました。もうまる二ヶ月ちかくなります。一言で言えば「心配」の連続でした。
人から耳の痛い何かを言われるのを、頑固に拒絶しているらしいのは知っていたので、直接、何も話し掛けませんでした。
書かれてある日々の生活、それを話している書き方・話し方。そして会話。それは、ま、本人の勝手であるから好きにしていいことですが、最近の日記には、「心身の違和」が猛烈に語られはじめ、こと健康、こと診療となると、心配は、もう極限へ来ています。
ことに今日の日記など、これが「ピーターと狼」の例であるならべつですが、本当に本当にこんな有様なら、やがて神経や精神に響いてきます。両親とも、本気で何の相談もしていないように見受けるし。
やす香日記をみてくれている「大人」の知人・読者には、日記じたいが心幼い一つのパフォーマンスであり、自我の幼稚な主張であり、或いは遊戯に近いかと解釈する人すらあるのですが、わたしは、おじいやんは、そうは思っていません。かなり危ないと、ほんとうに心配しています。
相談したい事があるなら、素直に柔らかい気持ちで、遠慮無く言うてきてくれますように。とても「笑って」られる状態・状況とは思われない。
まさかやす香は他人からの「愚弄愛」に飢えているわけではないでしょう。だれからも、正常で正当な「敬愛」を受けたいのではないか。それにしては、あまりに言うこと為すこと「幼い」のではありませんか。
やす香は、こういうことを身近な誰それから直言されるのを、極端に嫌っている気はしますけれど、心の健康すら心配される今、手遅れにならぬうちに、「話しにお出で」と声をかけることに、おじいやん一人で決心しました。 祖父
* 「親に話しなさい、父親に話しなさい、母親に話しなさい」と、もっともっともっとハッキリ指示すべきであった。この、四月半ばにも成らぬ時点で、すでに「手遅れ」に近いほど、やす香の訴える苦痛は深刻を極めていた。おお、しかも、やす香が今の病院に入院し、精密検査され、「白血病」と告げられたのは、なお「五十日も遅れた六月二十日前後」であった。
その間にもやす香は、ひとりカイロプラクティックの治療を受けに行っている。弱り切ったやす香の骨に、きついカイロの治療は無用な苛酷ではなかったか、骨の肉腫は、骨が溶けるように砕かれ弱ってゆく病気なのである。
* こんにちは。先生のホームページを久しぶりに拝見し、驚き、なんと申し上げてよいのかわからぬままにメールしております。
やす香さんのご病気の回復を信じてお祈り申し上げます。秦先生もご家族の皆様もどうかお体をこわされませんように。
早稲田大学の在学中、私は欠席がちな学生でしたが、1986年に受講した先生の授業で、先生が「今年、こどもが二人生まれます。」とおっしゃったのを憶えております。
その記憶のせいか、私はなぜだかやす香さんは「湖の本」と同じ6月生まれだと思っておりましたが、お誕生日は9月なのですね。
きっとその日を迎えられると、非力ながら私も強く念じております。
蒸し暑い毎日ですが、どうぞ皆様お大事になさってください。 濱
* ありがとう。ありがとう。
* 今日、看護・介護の仕事に携わっている友人に尋ねたところ、リラックスして自然治癒力・免疫力を高めるという方法もある、そのために無理な治療をするより緩和ケアを選ぶこともあるよ、との答えでした。
それを聞き、音楽会が少しでも、やす香さんの力を引き出せますように、と祈っておりました。
毎日、祈っています。
どうぞ秦さんも御大切にお願いいたします。 清
* 下関の方が、ごく身近な温かみでこうして親切にしてくださる。嬉しい。
建日子が電話で夕日子に聞いたところでは、音楽会には百人もあつまって成功し、やす香に疲労での急変もなく、無事と。ありがたい。ありがたい。静穏でありつづけますように。
2006 7・16 58
* 祇園会。ひたすら京都が懐かしい。永遠に帰ってしまいたいとも思うが、それはタワコトに過ぎない。そんな京都は、もうわたしの念裡にしか実在しない。
* 祇園祭、降り続く雨の中での巡行になりました。テレビで観ていますが何もかもずぶ濡れのお祭り。
この雨と共に災厄も一掃され流されますように。
やす香さんのご回復を信じてお祈りしています。
どうぞ、皆様も少しでも心安らかにお過ごしになれますよう、お祈りしています。従妹
* ただただ 祈る 甲子
私語にて、やす香さんの入院を知り、六月二十三日、若い頃に起こりがちな病の一種、それにしても祖父母のご心労いかばかりか、と、何はさておきお見舞いのメールさしあげました。が、翌日の「私語」文中、
* お見舞いをたくさん戴いているが、この返礼はご勘弁願っている。
とのお言葉、さもありなん、忙中の雑音、痛苦の源。と、以後の発言は控えて下りました。
ところが、その病根の深さ言外のことと聞くに及び、見舞いの言葉など空疎にひとしいものと知りました。
しかし、昨・日曜、建日子さんの電話で音楽会には百人もあつまって成功し、やす香さんに疲労の急変もなく無事。とのこと、それそれ、医・智・に限りはあっても、気・には計り知れない力がある、と信じます。
どうぞ、周囲から、特に先生の「持ち観念」であられる「身内」の方々、有声無声の励ましによって、やす香さんの内なる気力を高め、現前させ、快癒の方向へ向かわしめるよう、祈ってやみません。
何の知識もなく、お役に立てる提言のひとつだに申し上げること適いませんが、ご心労のほどは深くお察しいたします。そのあまり、日々のこと、体調などに齟齬の来たらすことなきよう。お過ごし下さいますように…。 060717 甲子
* 恐れ入ります。
秦と★★という、錯雑した多年の確執のなかで、ただ愛おしい孫娘に思いを凝らすしかない、ややこしさにもわたしたちは翻弄されています。一期一会。繰り返しの一度一度にその思いをひそめ、先日の見舞いにも、めったにしないネクタイをしめ、せめて孫の眼に、祖父のきちんとした姿をみてもらっておこう、もう二度と来れないかも知れぬと覚悟して参りました。そういう宿世なのでしょう。
2006 7・17 58
* 発送用意の作業に追いつこうと頑張っている。もう、明日から三日間しかない。うち一日は、相模大野へ見舞いに行く予定。二十一日に出来本が搬入される。今度は二百頁、作業の重量負担が大きい。本はときに石のように重い。
* やす香の妹、中学生の行幸が声もなく「MIXI」のわたしの処に「足あと」をつけている。行幸もさびしいことであろう。
* 行幸 久しぶりに逢って、まさに再会して、おじいちゃんは行幸に、碁でみごと一敗したんだなあ。夢のように懐かしく思い出されます。
やす香もまみいも一緒に、四人で保谷駅まで、みなで手を繋いで歩いたのは、あの日だった。やす香は元気だったね。
お正月には、タケちゃんもいっしょだった。玉川学園まで彼の自動車で走ったのも、夢のようです。行幸の誕生日前祝いをした二月には、お雛さんを姉妹で声をあげて飾っていたね。そして池袋のお寿司屋さんで、四人で、板前のお兄さんに煽られながら、にぎやかに沢山食べました。
どうかして、また、また、行幸もやす香もみないっしょに、手を繋いで歌うたって歩きたいなあ。みんなで食べて話したいなあ。
一月の十日過ぎに、やす香は、はじめて日記に「痛」という字を書いて異状を自覚していました。
二月のあの日のやす香は、みたところ元気そうだったけれど、なんだか上半身に異様な違和と苦痛をもうもっていたらしいと、今でこそ、ねその姿態が目に浮かぶように思い出されます。あのときが仮にまだ早くても、なんとか三月中に、あのやす香の苦痛に、異様な全身状態に直観が働いていたらなあ、気が付いていたらなあ、「ママ、これ、なんだか普通じゃないよ」って訴えていてくれたらなあ、身近なだれか大人が一人でも異状に驚いて、最初から大学病院へすぐ駆け込んでくれていたらなあと、おじいちゃんたちは、及ばぬ繰り言を話し合って、毎日泣いています。 おじいちゃん
* 今日はさすがに昨日の疲れがあるのか、やす香自身は「MIXI」で語っていない。建日子が見舞いに行ったときも寝ていて、しばらくは外で待っていたらしい。今夜も、雨降って地堅まり、バクに護られて平安でありますように。
2006 7・17 58
* 西向きに、新幹線に飛び乗ってみたい気持でいた。今日も雨がつよい、と聞いている。
* 音楽会は盛況で、やす香のために、やす香を愛してくれている大勢のために、佳いひとときであったろう。その一つの山を越え、やす香がまた新たな目標を持ってくれるといいと心から願う。
さすがに昨日は疲労したか、見舞った建日子への反応もぼんやりしていたとか。疲れの溜まるのをどうかして避け、新たなちからの蓄えられる看護を、介護をと願う。
せめて「MIXI」に反応できるちからを、と、心からねがう。何が食べられるだろう、飲めるだろう。
笑うのの大好きな孫のために、つみのない志ん生や小さんのテープを持っていってやろうかなと思っていたが…。
2006 7・18 58
* 秦建日子のブログから転載する。篠原涼子さん、ありがとう。建日子、ありがとう。建日子の御陰で、やす香母娘も、われわれ老人も、みんながどんなに負われ助けられ力づけられていることか。
* 篠原涼子さんの手紙とビデオ。 秦建日子
昨日から今日にかけて、こんなことがありました。
姪は、明日をも知れぬ重病の床の中、それでも「花嫁は厄年ッ!」だけは頑張って観てくれています。
と、それを知った主演の篠原涼子さんが、昨日、彼女宛の激励メッセージを私に託してくれました。
ドラマのポスターへのサイン。
色紙へのサイン。
別の色紙には、手書きのお手紙。
その上、ハンディ・ビデオで撮影した姪への激励メッセージ―――
連ドラの主演女優といったら、それはもうびっくりするくらいのハード・スケジュールで、体力も神経もすごく磨り減るハード・ワークなわけで、なのに、僅かなオフの時間を使って、サインに手紙にビデオ。。。
ビデオが出来た時、、そしてそれを渡して貰う時、篠原さんが「あ。ラベル貼るの忘れた」って言って、ぼくが「あ、いいですよ。ラベルなんかなくてもそのままで」って言って、でも篠原さんが「ううん。ラベルは絶対あった方がいいよ。私、今すぐ書くから」って、ペンを取りにだだだだって走っていって―――その時、ぼくは不覚にも、スタジオのメイク・ルームの前で、篠原さんの優しさに泣きました。
ぼくは、その「篠原涼子メッセージ」の山を大事に大事に抱えて家に帰り、今日、7話の撮影で緑山スタジオに入る前に、姪の―――やす香の病室に届けました。
やす香はちょっと疲労していて、一日の大半は笑顔っていう子だったのに、じっと無表情で、見舞いに来たぼくを見るのもしんどそうだったけれど、でも、篠原さんからの手紙を差し出すと、それをしっかりと手に持ち、にっこりと微笑みました。
それからビデオをじっと何度も観ました。
看護婦さんが、とても興奮して、「すごい。うらやましい」と何度も言ってくれました。
ぼくの姉が、いそいそと、色紙とポスターをやす香のベッドの真正面にドーンと貼りました。
病室のカレンダーを見たら、ちゃんと7話のオンエアの日も、最終回のオンエアの日も書き込まれていて、「篠原さんがね、最終回の感想、絶対、聞かせてねって言ってるよ」と言うと、強くうなづきました。
そしてぼくに、篠原さんに、
「ありがとう。私、頑張るからって(篠原さんに)伝えて」
と、しっかりと言いました。
ぼくは、「また来るね」と彼女の手を握り、それからスタジオに向かいました。
やす香の手はとても暖かくて、きちんと命がそこにありました。
* 佳い息づかいで、建日子の優しさがよくあらわれている。
2006 7・18 58
* 百合の花が咲きました。 いい香りで、家に帰ってくると、うれしくなります。
やす香さん、音楽会楽しまれてよかったですね。
それから今「私語」を拝見すると、ビッグスターからの励ましも・・。
大いに楽しみ、いっぱい笑って、病気を吹き飛ばしてください。
今日、田舎の、産直市場に、ハウスもののニューピオーネがありましたので、1つだけお送りしました。『一房の葡萄』です。
召し上がってくださるとうれしいです。
『こころ言葉』と『光悦・宗達』を並行読みしています。からまっていた糸がするすると解けていく快感を味わっています。
先生は、ほんとに京都がお好きなのですね。
なつかしき
故郷にかへる思ひあり、
久し振りにて汽車にのりしに。 讃岐
* ひとことでいい、やす香のメッセージが「MIXI」に流れてくれるかしらんと、願っている。音楽会の反動、よほど強かったのではないか。次の目標をなにとか工夫できないだろうか。
* やす香母の「きょうのやす香」の容態が「MIXI」に報告されている。とろとろと寝ているとも、うとうとと覚めているとも。見舞いの友達の手を手でまさぐりにぎると。
やすかれ、やす香。
* やす香はときに「詩」を書いた。書くことばがそのまま詩になることもあった。はっとするほど、失礼ながら見た目のやす香を裏切るほど、ピッカリ光った詩句を紡ぎ出していた。
大学へ入学時の「自己推薦文」は、提出前にわたしに見せてくれた。
今年の正月の目標はフランス語の検定試験だった。
正月早々、フランス語で、覚悟の程を書いていたりした。
* 秦恒平様
*「わたしは、ただもうやす香の顔を見ていた。言葉は無力に感じられた。」
じいやんの、この痛切な記述を前に、何もいうべき言葉が無い。最近の「秦ブログ」を読むのが、辛くて仕方がない。メールもそうそう気楽に送れるものではない。だが、じいやん、やす香さんに逢えてよかった。
気のきなかい読者は、ただただ、声にならない言葉を、言葉にならない声を、密かに心で念じ入るのみ。それでも、秦さんのいわれる「世間」は、何事も知らぬげな顔して動き、通り過ぎていく。それが人の世の習いかもしれないし、所詮私も「身内」にはなれない一読者に過ぎないのであろうが・・・。ひとえに秦さん自身の「消耗」を心配しつつ・・・。
※ クロネコのクール便にて「製造元」より、ささやかな暑気払いをお届けします。一両日中に届くはず。
七夕はとっくに過ぎましたが、越後名物の「右門の笹だんご」です。年に一度、七夕の時期に知人が送ってくれる私のひそやかな楽しみを、人生で一番かもしれない苦しみにあえぐ秦さんにも、お届けしたいと思いました。冷蔵庫で冷やして2日は味わえます。固くなれば電子レンジで数十秒温めて下さい。くれぐれも、余り温め過ぎないように。
残りは必ず「冷凍」して下さい。新鮮なヨモギと、熊笹の葉の薬効が、適度な甘さの小豆餡に共鳴して秦さんの心を癒してくれるようにと願いながら。 円 四国E-OLD
* 恐れ入ります。
* 奪われていた十余年が惜しまれる。痛切に惜しまれる。
2006 7・18 58
* 雨。散髪のひまもなく、やす香の顔を見に行くつもり。頭の芯まで、やす香になっている。生きていると謂うこと。
* 雨中、相模大野まで。病棟に入って、ロビーで待機。
廊下へ出て来た夕日子に、「命のあるやす香とは、今日が最期と思って欲しい。病室には五分間だけ。厳守して」と。朝いちばんに、四国からはるばるいただいた「笹餅」も「葡萄一房」も、また「タカノ」の梨も、やす香の口には入らなかった。くやしい。
妻はそうまで差し迫っているのかと動揺していたが、わたしは、堪えた。
もう、夕日子達の★★家は、やす香の命からは手を放していて、そのまま、なに一つもする気はないのだった。やす香に苦痛を味わわせることなく見送ると、夕日子達はきめていて、やす香にも引導を渡すようにそれを分からせてあるのだろうか。やす香の言葉にもそれが出ていた。
やす香自身の希望であったのかも知れないが、あの音楽会は、文字通りのつまり「お別れ会」であった。人事は尽くされたか。わたしが夕日子の為になら、けっしてあのまま諦めたりはしなかったろう。
* やす香はうとうとと眠っているようであったが、「やす香」「おじいやんだよ」「まみいよ」と小声で呼べば、手先で少し反応した。少し肯き、何か言いたそうに、くちびるを動かしたが、言葉としては聞こえなかった。
手を握ると、かすかに握りかえし、また手を動かして、わたしや妻の手を探し求めた。ほうっと、うっすら目をあけ、マスクをはずしたわたしたちを認め、肯いた。「わかっていますよ、まみい、おじいやん」と言うようであった。
わたしは、何度も「ありがとう」と言った。「ありがとう、やす香」と繰り返して言った。
わたしちに、かけがえのない喜びを届けてくれたのは、やす香であった。奪われ失っていた孫の、希望に満ちた元気な声と笑いとを、決然、保谷の我が家に届けてくれたのは、やす香一人の愛であった。妹の行幸までも連れてきてくれた、両親の意向に頓着せず、何一つの説明も言いわけもなしに、である。
わたしは「ありがとうよ、やす香」という思いのほかを、口にするどんな言葉も知らない、「ありがとう、やす香」と。
* 病室には、夕日子のほかに、父親が椅子に腰掛けていた。黙っていた。わたしたちは、彼に言うどんな言葉も持たなかった、
* やす香は、かすかに左手を、また右手を、あげて、わたしたちに手を振った。妻は「おやすみ、やす香」と言い、わたしは「ありがとう、やす香」と声を掛けた。薄目をあけてやす香はうなずき、ゆらっと、ゆらっと手を振った。わたしは、白い細いとても綺麗なやす香の少女らしい手を握り、ふっくらと微熱を帯びた柔らかい頬に唇を添えた。堪らなかった。
やす香は、目を開けるようなとじるようなまま、かすかに肯いて手をゆらゆらと動かした。
* 一度、ロビーにまで出たが、妻とわたしは、そこで動けなかった。妻は、ナースステーションで、ほんとうにそんなに差し迫っているのでしょうかと訊いてきた。
「わかりません」「お母さんがよくご存じです」という返辞であった。ただ、やす香が平穏・平安にいられるようにだけ最善は尽くしているが、「延命のための措置は何もしていない」と言うのである。つまり、親も、病院も、苦痛のないやす香の最期をねがうだけで、すべて手を放しているのだった。そうとしか、道がないのだろう、だが、まあ、なんと口惜しいことだろう。なんと口惜しい、口惜しいことだろう。
* 「白血病」ですと、やす香自身が「MIXI」に公表したのが、六月二十二日、あの時は夕日子も「治る病気なんだから」と、私たちの愁嘆を禁じた。あれから一月たたないのだ、まだ。
ほんとうに最善が尽くせたと言えるのか。残念だ。
まして、やす香の日記をつぶさに読み返す限り、三月、四月、少し大人が注意していれば、こんなむちゃな事態には絶対にならずに医療の威力が十分期待できた。疲労と病勢とは相乗加速し、やす香の肉体をぼろぼろに蝕んだ。三月四月に治療体勢に入っていたら、確実に緩和し延命策が奏功または奏功の見込みを持ったろう。
やす香は、友人達がしきりに言っていたように、命にかかわる「異様な病変」を、「孤独に、ひとりで抱え込んだ」のである、友達はそんなことをしていると「SHI」だよと威して、繰り返し警告していた。
わたしも心配しメッセージを書いた。メールもした。「親に告げよ」と。
だが、やす香は自分からは、母親にも父親にも訴えていないし、両親は六月半ばまでなお気づけなかったおで。くやしいことだ。「やす香、親に相談しなさい」とメールで伝えても詮無いことだった。そしてわれわれには、やす香の親たちに直にものを言いまた伝える「道」が、酷いように断たれていたのである。むりやり伝えても★★家は聞く耳もたなかったのだ。くやしい。くやしい。
* 帰りの小田急線でも妻は泣いた、わたしも泣いた。池袋で、おそいおそい昼飯に西武の「たん熊北店」に入ったが、食べながら妻は泣き、呑みながらわたしは泣いた。あきらめきれずに、食べて飲んだ。美味ければ美味くて泣いた。やす香と三人でこの店で食べたことを思い出して泣いた。
* 建日子は、そんなに差し迫っているとは思わなかったがなと、電話で母親に言う。母親もそれを言う。
わたしは、あの音楽会が盛況で、やす香が顔を輝かせて笑いかつ楽しみ喜んだ反動は、深刻なものになると予期し、覚悟していた。すぐ次の目標になる生き甲斐をすかさず設定してやらない限り、音楽会の反動は、深刻な心身の衰弱をひたすら招くだろう、と。
予想通り、翌日には、もう、とろとろと半醒半覚の状態にやす香は沈み込んでいた。あの催しは、なんら「医療」ではなく、さながらやす香を小舟にひとり乗せて、底知れぬ夕闇の沖へ、みなで「さよなら」と押し出したようなものである。それがいいと、病院も親も、半ば自身の安堵ゆえにきめたのであろうか、もうそれ以上の何もしない方がいいのだと。もう何ひとつも医療は試みないで。すべて、あきらめて。
望まれていたのは、やす香の安静と平穏な、終焉。
おお、それは大きな大きな愛情のようでもある。だが、病院と親との、自己慰安の申し合わせではなかったかとも猜される。善意にさしのべられた医療支援の手は、一顧もされず謝絶された、じつは返辞もなく、すべて。一か八の祈願も、試みも賭けも、すべて、なかったのである。藁など掴む気に、親も病院もならなかった。それほど容態が悪すぎるというのだ。
苦しい選択であったろうと、想うことは思う。だが、残念だ、念は残る。
* 夕日子の母心はどんなに悲しかろう、わがこととして、私も妻もしんそこ察している。夕日子の分も私たちは血を吐くように悲しんでいる。代わってやりたいという気持にウソは全くない。夕日子達をどう、いま、責めてみても詮無い。
どうか奇跡が起きて、やす香が、ママの誕生日のこの二十七日までもちこたえ、八月までもちこたえ、……。ああ、九月のやす香二十歳の誕生日までが、何十万年ものように、ながく、遠く、嘆かれる。
がんばるのだよ、やす香。お前はまだ、そんなにも無垢に瑞々しく若いのだ。
2006 7・19 58
* 歌舞伎座から帰宅しました。お見舞いのことが気にかかり、なぜか胸騒ぎがして、すぐに私語を拝見しました。涙があふれて文字がかすみ、どうにか読み終えた今、言葉がありません。すべてが痛く感じます。
メールを書きながら時間ばかりが経って、何をどう書いていいのかわからなくなってきました。やす香さんを愛している多くの方々と共に祈り続けます。希望を持ちます。 夏はよる
* やすかれ やす香 生きよ けふも
やすかれといまはのまごのてのぬくみほおにあてつついきどほろしも
このいのちやるまいぞもどせもどせとぞよべばやす香はゆびをうごかす
2006 7・19 58
* 雨あがり、今朝も涼しい。 やすかれ やす香 生きよ けふも。
2006 7・20 58
* 先生が、フルーツの「高野」で求められた果物を病床に持参された由拝見して、健康な初物のフルーツをと、失礼ながら送らせていただきました。
ご丁寧なお便りいただきまして、恐縮に存じます。
それにしても、なんという病勢の激しさでしょうか。
めまぐるしく変化するご病状に、どきどきしながらHPを拝見しています。お見舞いのご様子、泣きながら読みました。
まして、やす香さんはまだ花のつぼみのような19歳、そして、おじいやんとの長い途絶の時間の後のうれしい再会をしたばっかりというのに。
あの(ホームページ「私語の刻」の)お写真のかわいいやす香ちゃんが病魔にあわや連れ去られようとしている。
どんなにつらく悔しい思いをなさっているか、言葉で言い尽くせません。「ふしまろびて嘆き悲しむ」と言った、昔の人の表現こそ言いえてくれているような気がします。
代わってやりたいと、私も思うでしょう。
奇蹟を信じます。
近くに、聖武天皇時代の国分寺があり、霊験あらたかな観音さんがいらっしゃいます。
毎日祈っています。どうぞどうぞよくなりますように。 讃岐
* おたよりのあらましを摘記しながら、感謝している。バグワンは「思考」はモノであり力であると説いている。このような思いの数々が癒しの力となりやす香の病症をきっととりつつんで力を発揮してくれるのだと想っている。
2006 7・20 58
* 妻は定期の診察をうけに出掛けた。心臓の主治医の話では、「肉腫」は若い人を突如襲って病勢はげしく、症例は多くなくて診療基盤を成す情報にいまなお不足している強烈な病気だと。
やす香の母親夕日子が幼稚園にもまだかという幼い頃、滑り台から転落骨折し、東大整形外科に入院したとき、同じ病室にいまのやす香ほどの少女が「肉腫」で治療を受けていた。今のやす香とはくらべようもないほどさわやかに元気そうに見えていたけれど、途方もなく難しい病気と漏れ聞いて心から案じながら、夕日子は先に退院した。その記憶があったので、「白血病」という初診が「肉腫」に転じたとき、わたしたちは、ハンマーで殴り倒されたような恐怖を覚えた。夕日子達もそうであったろう。
全身状態に未だ少しでも力のあるうちに、発症を食い止めねばいけなかった。そこで決定的に逸機した以上は、緩和ケアか、一縷の望みに縋ってあらゆる医療の手を尽くすか、選択肢は二つしかないと分かっていた。
どんなに若いぴちぴちした肉体も、過剰な疲労の蓄積と放置とは、病魔をここぞと立ち上がらせる。だれもだれも適切に用心して欲しい。親子・家族がお互いにいたわりあい用心して欲しい。こんな悲惨なことを繰り返してはいけない。
それにしても、妻の主治医いわく、「あっさり告知したものだなあ」と。おそらくは母親は、やす香の平安を、命の尊厳をまもりぬく平安をと、娘の叡智とも真っ向むきあって申し合わせたつもりであろうか、厳粛な申し合わせをあえてしたつもりであろうか。ああ……。祈るしか、ない。祈るしか、ない。
* やす香のケイタイに。
やす香 ありがとう おじいやん
ありがとう ありがとう まみいと二人で やす香に ありがとう! ありがとう ありがとう ありがとう。
今夜の篠原涼子に、逢えたかな。
がんばれ やすか。おじいやんの、だいじな、やす香。
* インターネット不調で送れない ああ。
* いま、送れた。日付がもう変わる。やす香、明日も生きよ。
2006 7・20 58
* 昨夜見なかった、息子が脚本の、題のまるで覚えられないドラマ、えーと、「花嫁は厄年!」篠原涼子と岩下志麻の連ドラ三回目も観た。
一般の視聴者にはまったく分かるまいが、息子の、ドラマを介しての私小説風発信がおもしろい。岩下志麻の母親役を此のわたしに、息子を娘の夕日子に置き換えると、およそは、きれいに当てはまってドラマが作られている。母親の死んだ夫、息子の父を、いわば夕日子の夫かのように読み取れば、取材と脚色はなかなかうがっていて、佳い意味でしたり顔に如才なく巧みに出来ている。
おお、やっておる、やっておると、わたしも妻も、特別の「桟敷」鑑賞で、笑ったり手を拍ったり話し合ったりできる。楽しめる。「メーッセージ」が如何様に優しくまたシンラツに展開するのかも、期待しよう。
2006 7・21 58
* それよりも、我が息子秦建日子のブログの、今日のコメントに、少し、たちどまってみよう。 全文は必要ない、前の半文で足りている。題以下に、こうある。
* 2006.07.21 Friday ウンコ投げ競争はガマン!
以前、スティーブン・キングの「ウンコ投げ競争の優勝者は、手が一番汚れていない人間だ」という言葉をこのブログで紹介したことがありました。
「どれだけ他人にウンコを投げて命中させるかが大事なのではなく、そんな無意味なことで手を汚さないのが人間の品格なんだ。それよりは自分がやるべきことをちゃんとやろうよ」(村上春樹さんの解説)
無性にウンコを投げ返したくなると、ぼくはこの言葉を思い出しては踏み止まることにしています。他人にウンコを投げつけたいウンコ野郎は、静かに無視すればいいのです。あるいは、静かに軽蔑すればいいのです。あるいは、哀れに思えばいいのです。だって、他人にウンコを投げるしか自己実現の方法を知らなかったりストレス解消法を知らなかったりするわけでしょう? そんなウンコな生き方、哀れですよ。
それよりも! (以下は、此処では略しておく。わたしの批評とは関わらないからである。 秦)
とまあ、ちょっとここ数日、立て続けにウンコな気分になったので、自分自身に言い聞かせてみました。
ウンコ投げ競争はガマン!―――「ウンコ」「ウンコ」書き過ぎですかね(笑)
* 引用されている村上春樹の「解説」が、一部引用でしかないかも知れず、問題を一般化し、ここでの言及は氏とは一応「無関係」としておく。その限りにおいて上に引用された一文は、わたしには、タワイないものに思われる。秦建日子はこれに賛同しているようだから、わたしの「物言い」は、彼の理解や共感に対してだけ及ぶとしておく。
* 先日、歌舞伎座で、泉鏡花昨の「山吹」という芝居を観てきた。これだけが幻想性を庶幾しない一応現代劇で、ほかに「夜叉が池」「海神別荘」「天守物語」があった。
わたしと妻は、昼夜に、この四つともみてきたが、四つに共通して言えるのは、異界・魔界と俗(人間)世間との火花の出る対決であり、作者の思想は、眼をみはり思わず呻くほど烈しく、後者、つまり俗な人間・世間への侮蔑と憎念を示している。
鏡花世界の構造は複雑で、こんな簡単に割り切って尽くせるモノではないが、鏡花の「根の哀しみと不平」との思いには、「そんな無意味なことで手を汚さないのが人間の品格なんだ」という式の、「世間」の行儀・判断に対する「不信」が重々しく沈んでいる。それが無意味であったり意味ありげであったりする、そんな判断を、誰が、どんな目盛りの物差しで決めつけているかの批評抜きに、どうして人間の「品格」にまで言い及べるのであろう、と。
わたしもまた、したり顔のそういう軽さや浅さや薄さに、おいおいおいと目を剥いてしまう。
* で、「山吹」の話にもどるけれど、この戯曲は、三島由紀夫がやけに執着し称賛したほどは纏まりいいモノではない。ないけれど、なみの世間の判断や価値観からすれば、極めて過激に非常識な価値転換の凄みを主題にしているとは、はっきり、いえる。
芝居の粗筋をくどくど書き立てる根気はないのだけれど、或る資産豊かな料亭の美しい娘が、本意なく華族家に嫁いで、暴慢・強欲な夫に虐待され、もう死んでもいい、死にたいと、家出している。
その家出の旅先で、たまたま、娘時代にひそかに思いを焦がした新帰朝の有名某画家と出会い、女はかつての思いを男に告げて、死にたいとも、あなたに一夜でも添いたいとも、嘆くのである。
画家先生は、死んではいけないよと諭し、しかし自分には妻子もあり現世の名声も備わっていて、女の情をたとえ一夜なりと受け容れるわけにゆかないと、窘める。それとても男画家は動揺しており、女の気持ちに添いたい欲求も隠しきれないのだが、しかし、終始毅然と腕組みし、拒んで、起っている。「そんな無意味なことで手を汚さないのが人間の品格なんだ」と、絵に描いたような「紳士」なのである。
そのもう一方に、これが「主役」ともいえる、落魄流浪の乞食くぐつ師がいて、これも先の美しい人妻と舞台の上でさきに出会っている。
この地を這うような乞食男は、ものに襲われ傷つき腐った池の鯉を、「土にほうむってやろう」と言いつつ腰袋に拾い上げていた。我が身とも思いなぞらえたいそんな腐れ鯉を、女はもの哀れに見つめていた。
そしておいおいに、女は、乞食男の秘め持っていた「過去」を知ってゆく。
男は過去に、理想の貴婦人と出会い、しかも心なく傷つけ、死なせていて、その悔い一つを焼け石のように抱き込んで、呻きながら人外境を流浪しているのだった。
乞食男は出会った女に、美しく品のある家出妻についに懇願し、ただひたすら女の手で打ち打擲されたい、骨も砕けるまで「憎い、畜生」と打擲してくだされと、人目離れた山なかで、女に向かい切望する。その責め苦を受けるより外に、かつて犯した美しい貴女への罪苦は、増しに増すばかりだと泣くのである。
女は、ついに、婚家への憎しみを想い描きながら、狂ったように「くぐつの男」をとめどなく木の棒を掴んで打擲するが、それを制止したのが、ひとり山なかを散策していた、先ほどの画家紳士であった。
制止の言葉も態度も、世間の常識にいかにもかなっていた。家に帰れとすすめる言葉を、だが、女はことわり、あなたが自分の宿へ連れて帰ってくださるなら従うが、それが叶わない上は、死か、流浪か、と絶望する。ついに画家は、わたしには家も仕事もあるが、当分の時間の余裕を呉れるなら、あなたと添うことすら考慮していいとまで、オトコくさい譲歩もするのだった。
女は、即座に拒む。それならば、自分は目の前の人形つかいの乞食男と「人外の境」に進んで落ちて行きます、この男と暮らして、男の望むまま、朝に昼に晩に五体を折檻しながらでも、ともに生きて行きますと言い切る。そして人形遣いに、何処へでも何処までも連れて行ってくれるかと頼む。
乞食男は随喜の涙をこぼして、女に礼を言う。そうと聴くと女はいきなり「ここで祝言」したいと、男がさっき腰袋に入いれた無残に腐った鯉をとりださせ、やにわに女は口ずからその生き肝を吸い、男も躊躇わずそれにならう。「悪食の共食」が、すなわち二世を誓う「祝言」になった。
画家紳士は、茫然とし顔を背け、しかもなお女をいさめるが、自分を受け容れる気があるのかと女に迫られると、「仕事があります」と思わず逃げ腰になり、観客席に失笑の渦が湧く。
そしてそして、鏡花ゼリフの、最も痛烈な一句が、男と抱き合うように立ち去る女の花道から、本舞台の画家紳士に向かって、投げつけられるのである、
「世間へ、よろしく」
と。花道は魔界に入る至福の道であり、本舞台は「品格」を守って「そんな無意味なことで手を汚さない」紳士達のいかにも堅固そうな「世間」そのものを示現していた。
* 何が「うんこ」で何が「うんこでない」か、また「うんこ」はきたないだけのものであるのかどうか、俗な「世間」の掟いに従えば明白・明瞭かもしれないが、人間の誠からみれば、そんなに甘い判断ではない。
鏡花は、それを言い、実は夏目漱石も繰り返し繰り返しそれを書いてきた。漱石と鏡花とには、よほど意気の通じ合うもののあったことは、実証可能である。
* 「うんこ」どころではない、泉鏡花の凄い短篇の代表作に、「蛇くひ」というおそろしい幻想の作があり、その先に「貧民倶楽部」という現代小説の秀作があり、まさしく「そんな無意味なことで手を汚」してでも、人間としての尊厳や自由を闘いとらねばならない世界が描かれている。その世界は、しかし、なみの「世間さま」からみれば、堪えがたい汚辱に塗りつぶされたような、「品格」とは絶対に無縁な世界に映る。そう侮蔑的に眺めてトクトクと生きている安く思い上がった人間紳士どもへの不快感、憎悪感を痛切に吐き出しつつ、鏡花の傑作戯曲は、四編、すべて光り輝いている。この不思議を、その輝く価値を知った・理解した者の胸には、「うんこ」も「うんこでない」も、それを「投げる」も「投げない」も、とうてい本質の問題にならない。
自身の「誠」を、そこに一途に賭けねばならないなら、たとえ「うんこ」で「手を汚し」ても、「蛇」をそのまま喰いちぎって俗世の驕慢に酬いても、それらを躊躇いなく掴んで投げ付けられる「全的自由への気迫」こそ、本当に必要なのではないか。
「うんこ野郎」より「品格の紳士づら」の方がはるかに薄汚い例が、あまりに多ければこそ、批評をはらんだ「創作」行為が、大切に機能するのではないのでしょうかね、秦建日子氏よ。
* あす、読み直してみるけれど、言いたい趣意は変わらないと思う。
たかが「うんこ」ででも、「いやみな世間」へ凛然と反逆できないような創作者なんか、あれどなきがごとき、不用なモンです。そもそも人は、人それぞれの「うんこ」を持っているし、それを敢然と投げ付けてでも是非守りたい乗り切りたい譲れない何かがある。それなのに、「うんこ」をただ握りつぶして如才ないごアイサツだけを大事がり守るような「品格」って、いったい何なのよ。
「手を汚さない」意識と、みせかけの「品格」とが、気色悪く「世間」へむけてわれ賢こに演技している光景、たとえば、選挙演説のマイクを握った、真っ白い手袋。
投票という「うんこ」もよう投げ付けないで、「品格」という名の怠惰や遊惰に嬌声をあげている日本の「世間」へなんぞ、うち背きたい方の気持に、むしろホンモノがあるんじゃないですかねえ。
2006 7・21 58
* やすかれ やす香 けふも 生きよ。 「白血病」と告げてきたあの日から、まる一ヶ月が経った。
2006 7・22 58
* 京都 のばら です。 早速に新しいご本届きました。いつもありがとうございます。創刊満二十年をお迎えになり、通算第八十八巻の出版、心よりお祝い申しあげます。これからも益々ご活躍されますよう応援しています。
今度の小説は遠い時空を行き来して頭がこんがらがる事もなさそうだし、楽しみに読ませていただきます。
ご心痛の絶え間ないご日常、発送などのお疲れがでませんようにお大切にしてください。
やす香さんに皆さんの祈りが届きますよう切に願っています。
* 湖の本届きました。ありがとうございます。
哀しい大きな苦しみの中でも、粛然とお仕事をなさる姿勢に敬服いたします。それと共に尚一層のおじいやんとまみいの苦しみを思います。聡明な夕日子さんもどんなにかお辛いだろうと身を案じています。
お心の傷が体に障らぬはずがありません。くれぐれもお体おいといください。
夕飯の後片付けもそこそこにずーと頁を繰るのももどかしく読みふけっています。それがやす香さんの生を祈ることにもなるように思えて。
ご本が届く前の昼には「細川ガラシャ」の書かれた本を読んでいたのですが、毎日何か祈りに通じるものへ身を置きたい気持ちでいます。
重ね重ねお二人のお体をお大切に。 晴
* 明日は建日子と一緒に、三人で病院へ出掛けてみる。逢えるかどうか、分からないが。
2006 7・22 58
* 朝いちばんに夕日子のメッセージが「MIXI」に公開された。
* 05:53 ほんとのこと (やす香ママ)
ここ数日大勢の面会をお断りしてきました ほんとのことを言えないまま でもさっさ先生にはお話しました そしてやす香を愛してくださったたくさんの方々の代表として夕べ遅くおいでいただきました
やす香の命は終わりの時を迎えています もう皆さんとこの病室でお目にかかることはないでしょう
やす香は今 苦しい呼吸を繰り返しながら ゴールを目指しています やす香の新しい朝はやわらかな靄に包まれています― 願わくばやす香に残された歩みと ゴールと そしてその先の世界のやすからんことをお祈りください
* 十時半に建日子と出会い、彼の車で相模大野へ向かった。夕日子のメッセージがあるなしに関わらず、今日われわれは出向く用意をしていたし、夕日子にも伝えておいた。
* やす香は、われわれを認めてうなずくようであった。息は喘ぎ、胸元は上下し、がくっと首を落としてはまた懸命にもたげ、薄目をあけて、われわれの顔を見るような見えないようなアンバイであった。「聞こえるだけ、耳だけ」とかすかに呟いたようであり、涙が溢れた。
手をにぎると熱は高く、持参の大好物の梨を掌に添えてやると、しばらく梨の冷たさを感じているようであったが、冷たいか、手の温度が抜けてしまいそうで、手放させた。
指の長いまっ白い、それは綺麗な無垢な手であった。
顔付きはそれほど変わっていないが、可哀想なほどいろんな施薬や介護の管に繋がれていた。
疲れさせてはいけないので、一度退室し、上の階のきれいな食堂で昼食し、しばらくして、また病室へ戻ってみた。病室には、カリタス高校の先生だろうか (=上の夕日子の発語にみえている、「さっさ先生」と後に分かった。)、やすかの側で、極くこごえで、どうやら聖歌を歌っておられた。その側に立ったままやす香の顔を見ていた。ときどき薄目をあけ、われわれを認めて肯いていたが、何かを言いたそうにした。
父親が口を覆ってあるものをはずすと、「どうして…、勢揃いしているの」と。これには、皆で笑い声もあげて、いろいろに話しかけた。建日子は、やす香と共著で本を出そうよ、約束だよ、と言うと肯く。妻は、安心しておやすみ、やす香のいい顔を見に来たのよとはんなり話しかけ、わたしは「やす香、大好きだよ。やす香、ありがとうよ、優しくしてくれて」と感謝した。やす香はときどき、大きく目をみひらくようにし、首を動かして、まくらもとに飾ったあれこれへ視線を配るようにしていたが、「つかれた」とつぶやく。
ああそうだろうよ、安心して、よくおやすみ…と、そこで、別れてきた。
* 連ドラの撮影と打ち合わせに緑山のスタジオへ向かう建日子の車で、相模大野駅まで送ってもらった。妻は疲労困憊し、駅の階段に腰をおろしてしまい、うとうとさえした。通りかかる人が心配の声を掛けたほど疲れていたが、幸いロマンス特急でやすめた。新宿から大江戸線で練馬へ、そして保谷からタクシーをつかった。
* 朝の夕日子のメッセージには、信じられないほど大勢のやす香をはげますコメントが集中していた。わたしは、お礼を申さずにおれなかった。
* みなさん ありがとう。祖父の湖です。
いましがた、やす香を、相模大野に見舞って、また西東京の家に帰ってきました。
さっさ先生もふくめて、わたしたち祖父母と叔父の秦建日子とで、ベッドサイドでやす香を見守り、声を掛け、手を握っていますうち、やす香はせわしい息の下から小声で、「どうしたの、勢揃いして」と、逆に、私たちをはげますほど明晰な意思を持っていました。私たちは思わず笑い声さえあげました。
息子はやす香と「共著」でぜひ本を出そうよ、約束だよと声を掛け、やす香はウンと肯いていました。
わたしは、寂しかった祖父母のもとへ、敢然として会いに来てくれた優しかった孫に、こころから「ありがとう、やす香」と感謝を告げずにおれなかった。
「つかれた」と、やす香は、ひとに取り巻かれた今日の時間に、かすかに手をふって、これまで、とサインを送りました。そんなにもやす香は心身をはたらかせながら、全身の苦痛に堪えていました。
ああ、俊足のあのイチローのように、**のモーションをあざやかに盗んで、盗塁し、また盗塁して、やす香が日一日をまだまだ生き延びてついに生還してくれるものと、この祖父は、逆転勝ちに望みを持っています。
どうか、みなさんも、切なる思いを、力ある思いを、やす香の上に集めてやって下さいますように。 ありがとう。
* 心身を臼に投じてさんざんに餅に搗かれるように疲れる。妻はあきらめずにまた出掛けると言うが、妻を倒れさせてはならない。
2006 7・23 58
* 私の目・私の手 理
ごぶさたしています。梅雨とばかりによく雨が降っています。内陸の山間で土砂崩れがかなり起きていて、中国山地の険しさを思い知る心地です。
たいへんおつらい日々をすごされているところ、このたびの湖の本、いつにもましてありがたく受け取りました。「逆らひてこそ、父」・・・楽しみに、読みます。
(払い込みですが、平日郵便局に行く時間がないので、前回のように直接お届けするか、また払い込むにしても少し日にちがあくと思います。お待たせしてすみません。)
会社はなかなかたいへんです。楽しくやっているとは言いませんが、日々何かしら失敗し、そこから学び、充実しています。
配属されて、いきなり職場に自分の机とパソコンをもらい、担当の上司と先輩について回っています。来年いっぱいまではこの体制で、’08年1月から独り立ちせよ(担当の部品を全て自分の判断で買いつける)、とのことです。
私は変速機のチームに入り、手動変速機用のギア部品を受け持っています。ギアすなわち歯車です、私の机には歯車のサンプルが置いてあり、さわりすぎて錆だらけになってしまいました。
自動車は大半が鋼でできており、歯車も同様です。(近年、プラスチック、アルミ、マグネシウムなど、素材の多様化が進んでいます。ただ、日本の自動車メーカーは鉄鋼会社への依存度が強いです。それだけ日本の鉄鋼は優秀なのですが、フェアな取引ができているかという問題はあります。)
鋼を刀鍛冶の要領で叩いて(鍛造といいます)円盤状にします。これを加工して歯車にするのですが、鍛造された鋼は組織の密度がつまって硬いため、加工しにくい。
そこに焼きを入れて組織の質を変えてやります。すると強度を保ちつつ組織に柔軟性が生まれ、加工しやすくなります。
加工には刃物が必要です。円盤の中をくりぬき、外周に歯を削りこみ、表面には磨きを入れます。それぞれに異なるカッター、磨きには砥石を使います。歯車ひとつのできるまで、加工用の設備は四、五台用意されます。
加工のすんだあと、もう一度焼きを入れます。はじめの焼入れとは違って、歯車全体をとことん硬くするために行います。その上にマンガンや亜鉛などを吹きつける表面処理をほどこすことで、中身は硬く、表は滑りのよい、立派な歯車になります。
鍛造、加工×5、焼入れ×2、表面処理。それぞれに人件費、設備投資、償却、製造時間によるばらつき、といったコストが発生します。そこに洗浄、検査、梱包、物流が加わります。すべて合わせてこの歯車ひとつ300円です、こいつは高い精度を出しているので500円です、といった見積もりが出ます。
歯車は地元(広島、山口)の下請けに造ってもらっています。下請けは親と一蓮托生ですから、価格交渉というより、一緒に努力して製造コストを下げていこう、といった協働作業がほとんどです。そのぶん下請けは見積もりの細かい明細を出してくれ、工場も隅々までよく見せてくれます。
大手の独立系や、他社系列の有力企業(系列外とも取引があります、それだけ優秀ということです)、また異業種(電子部品、商社など)は、こうはいきません。見積もりをとっても総額しか載っていないし、工場に行っても「見学」しかさせてくれません。こういう相手とはまさしく交渉で、騙されているとわかりつつ、こちらもはったりで対抗するしかない・・・のだそうです。
たまたま私は地元中心の部署に配属されました。教育の一環で近隣の取引先工場を見て回りました。大手メーカーのきれいで自動化された大きな工場を見て、いやあすばらしいと感心はしますが、見学を終えても何をどう造っていたか、よくわからないままです。いいところも悪いところも全て見せてもらって、いわばむきだしの「ものづくり」は、何よりの勉強になります。
少しずつ、自分の目、自分の手で何かつかめている、という実感があります。まだまだ目は方向違いだし、手は先輩の足を引っ張っているのですが。
大学の後輩が、いま四年生ですが、潰瘍性大腸炎という病気にかかり、一年半ほど入退院を繰り返しています。本来であれば就職活動に取り組み、もう進路を決めていておかしくない時期ですが、むしろ悪化し、先日また入院したそうです。今までは抗生物質で抑えていたものを、手術で取り除く・・・大腸を切除し、人工のものに取り替える。それで完治の可能性はある一方、たいへん難しい手術で、失敗の危険性もある、と。手術に賭けるか、完治をあきらめるか、悩んでいるようです。
私はいままで大きな病気にかからず、健康に恵まれています。だから毎日仕事に行き、休みの日は遊びに行ける。つらいこと、いやなこと、苦しいこと、あるにはあります。しかし、それは健康だから降りかかるものであり、健康であれば乗り越えられるものです。健康に生まれたことの幸せ、よろこび・・・。
秦さん、迪子さん。どうか、おからだお大事になさってください。やす香さんの若い、たくましい、強い生を、私も祈ります。
* この若き友は、彼らしい話し方で、懸命にわたしたちを慰め励ましてくれているのだ。なんという生き生きとしたことばと暮らしぶりであることか。頼もしい。嬉しい。
2006 7・23 58
* いつも「湖の本」お送りくださいましてありがとうございます。
最近職場で大きな変化があり、毎日とても疲れてしまってパソコン開けるのもお手紙出すのも難儀で、失礼しておりました。
勤務先は今年度から「指定管理制度」が導入され、「**区地域振興公社」から抜けて「株式会社***メソッド」が、区から直接委託されてホールを運営するようになりました。
しかし、大幅な人員削減(私はかろうじて居残り)と新しいシステムが始まったため、勤務日数が増えて大変なことになりました。(お金は増えないんですけど)企画や事業も提出しなければなりませんし。
先生、人生ってこんなに疲れるのでしょうか。
創作もやりたくてやりたくて、何かたくさんの「やりたいこと」が頭を渦巻くばかりです。
母はなんとか元気にしてくれています。
ただ10歳の飼い犬が、なんと糖尿病になってしまいました! 治療はしてやれないので(ほんとに動物医療は高額です)食事療法で持ちこたえています。彼女(メスのヨークシャーテリアでジャスミンと言います)がわたしの今一番の生きがいです。
先生の「自分の幸せと健康だけを考えて」とのお言葉、胸に染みる日々です。
先生、奥様、どうぞお元気でお過ごし下さい。 弓
* 持ちこたえて下さい。
* 秦先生 ごぶさたしております。 道 神戸
生活と意見は拝見しておりますが、なかなかメールのタイミングが掴めませんでした。
やす香さんが病気で大変な折のご発送ありがとうございます。
晩婚だったので、長男が今大学2年で、やす香さんと同じ年です。息子は先月誕生日を迎えましたが、やす香さんが二十歳の誕生日を迎えられますことをお祈りしております。
* ありがとうございます。
* ご不調と伺っていますが、その後いかがでしょうか。御高著『湖の本』50号をお送りいただき、ありがとうございました。
大変おもしろく、考えさせられながら拝読しましたが、巻末の「未了」には悔しい思いをいたしました。
早く続きが読みたいです。代金は明日振込みいたします。 ペン会員
* 秦 先生 ご本、いただきました。
たいへんななかをお送りくださいましたこと、また、ただならぬ時を、「濯鱗清流」の寿詞を賜りましたこと、どう、申しあげたらよろしいのか。
どうぞ、おたいせつになされますよう。
メロスのごとイチローのごと走りませ**のモーション盗みて
相模大野に病む乙女子に届きますように。 香
2006 7・23 58
* 「湖の本」届きました。ありがとうございます。
どのようにも、
抗うことができない(恐怖の)緊張感が覆っているとき、
何かに取り憑かれたように、
何かに取り憑かれないように、
普段どうりの、
やるべきことをしました。
自分が生きてて、
できることは、それが精一杯でした。
そういうことが、私の祈りでした。
(数年前、今の先生と同じような時間を持ったとき。) 樹
* やすかれ やす香 生きよ けふも。 もう日付は動いている。母夕日子の誕生日は来週。夕日子をその日病院で祝ってやれればいいが。夕日子の祝われるのをやす香が見て聴いて、喜んでくれるといいが。
2006 7・23 58
* 祇園会後祭、むかしは鉾ではない山車の群れが、殿(しんがり)の船鉾ともども、都を巡幸したものだ。
* 昨日の夕日子の「ほんとうのこと」というやす香の容態を告げたメッセージに、夥しい「祈願」のコメントが届いている。「MIXI」の一角で、真実の「生死」の劇がまぎれもなく進んでいる。若い大勢、若くはない大勢にも、やす香は身を以て「何か」を伝えている。この真実は重いものとして多くの胸に永く伝えられる。
* やすかれ やす香 生きよ けふも。
* 秦建日子のブログから。
* 2006.07.24 Monday まだ、声が出た―――
皆さん、姪・やす香へのたくさんの激励、ありがとうございます。
今日は、父と母と三人で見舞ってきました。
病状は、とても深刻な状態に進んでいましたが、でも、とにかく私たちは彼女に会えました。
☆(父・恒平の日記より転載)☆
やす香は、われわれを認めてうなずくようであった。息は喘ぎ、胸元は上下し、がくっと首を落としてはまた懸命にもたげ、薄目をあけて、われわれの顔を見るような見えないようなアンバイであった。「聞こえるだけ、耳だけ」とかすかに呟いたようであり、涙が溢れた。手をにぎると熱は高く、持参の大好物の梨を掌に添えてやると、しばらく梨の冷たさを感じているようであったが、冷たいか、手の温度が抜けてしまいそうで、手放させた。指の長いまっ白い、それは綺麗な無垢な手であった。顔付きはそれほど変わっていないが可哀想なほどいろんな施薬や介護の管に繋がれていた。
疲れさせてはいけないので、一度退室し、上の階のきれいな食堂で昼食し、また病室へ戻ってみた。病室には、カリタス高校の先生だろうか、やすかの側で、極くこごえで、どうやら聖歌を歌っておられた。その側に立ったままやす香の顔を見ていた。ときどき薄目をあけ、われわれを認めて肯いていたが、何かを言いたそうにした。父親が口を覆ってあるものをはずすと、「どうして…、勢揃いしているの」と。これには、皆で笑い声もあげて、いろいろに話しかけた。建日子は、やす香と共著で本を出そうよ、約束だよ、と言うと肯く。妻は、安心しておやすみ、やす香のいい顔を見に来たのよとはんなり話しかけ、わたしは「やす香、大好きだよ。やす香、ありがとうよ、優しくしてくれて」と感謝した。やす香はときどき、大きく目をみひらくようにし、首を動かして、まくらもとに飾ったあれこれへ視線を配るようにしていたが、「つかれた」とつぶやく。ああそうだろうよ、安心して、よくおやすみ…と、そこで、別れてきた。
☆ それからぼくは撮影所に向かいました。
「花嫁は厄年ッ!」の9話を決定稿にし、7話を2シーン撮り、それから秋ドラの会議に出ました。
何を話していても、頭の片隅に、ベッドの上で最後の命を削って懸命の呼吸を続ける姪の姿が消えませんでした。
まさか、会話が出来るとは思わなかった。。。本人も、もう声は出ないと思っていたようだった。。。でも、出た。きちんと、意思の疎通が出来た。
これはもう、奇跡と呼んでいいほどの出来事だったと思う。
「花嫁」のセットには、玄関脇に両目の入った達磨が飾られていて、なんとなくすがりたくなり、ぼくはそれを写真に撮った。
☆ 夜十時。緑山スタジオを出て、東京に帰りました。
なんとなく、無人の仕事場にまっすぐ帰るのが嫌で、ワークショップTAKE1の連中の、稽古後の飲み会に合流しました。とにかく、大声で笑いたかったのですよね。
飲み会では、かーなーり頭に来た不愉快な出来事も実はあったのですが、それを吹き飛ばすほど、四期の青木さんと西野くんと加藤さんと武田くんがぼくを笑わせてくれました。四人に感謝。
☆ 家に帰ってきて、姪のMIXIのページを読みました。
激励のコメント、63件。たったの一日で。
いい友達がたくさんいるんだね、やす香。
いい友達がたくさんいる人生は、何よりも豊かな人生だと思う。何よりも。
* やす香、おまえは誰からも誰からも愛されているよ。ときどき、ひとりでブツブツと沈んでいたけれど。凹んでいたけれど。それでもすぐ笑い飛ばしていたんだ…おまえは。
ああ、あんなに五体の苦しかった日々、三月、四月、五月のはやい時期に、おじいやんがヒステリーのように怒り癇癪を起こし、ナニをやってるんだとおまえに「MIXI」で噛みついていたあの頃までに、どうして、だれもそれに気づいてやれなかったのだろう。友達の多くが、声をからすようにし、お前の体調に「MIXI」その他で警告しつづけていたのに、おまえは、なんで親に訴えなかった…、なんでそばの大人達はやす香のあれほどの大異状に気が付けなかった… か。
繰り言だけれど口惜しい。それが口惜しい。肉腫の病状は扇形に急激に拡大する。それでもああも手遅れになるまえの早い時期に手を打てていれば…と、やっぱりそれが口惜しい。二月の雛祭りのあと、せめてもう一度逢えていたら、わたしたちに何かがしてやれたか知れなかった…と口惜しい。「ひとりで(魔物を) かかえこんで」……
* 歯医者に行く。発送は、あとは、もうゆっくり、出来たところで、でいいのである。
* 「リヨン」で昼食して帰ってきた。やす香への思いと口惜しさであふれるものを、妻は飲めないワインの酔いにのがれようとしていた、可哀想に。
家に帰ると、「MIXI」にやす香母のメッセージが出ていた。
* 006年07月24日 やす香mama 10:05 黄金率
意識を保ちたい、コミュニケイトしたい
その思いがずっと、
やす香の苦痛を取り除く邪魔をしていた
だけど、もうそんなことは言っていられない
眠っては悪夢におびえ
目覚めては痛みに苦しむだけなら
何の命だろう
モルヒネの継続投与
「終わりの時」の始まり・・・
たとえ夢の中であれ
安らかな時の流れんことを
だけど
皆さんの温かなメッセ-ジは奇跡を起こす
鎮痛と平静の間の、ほんのわずかなバランスの瞬間に
やす香はたくさんの人と出会った
ずっと会いたかった「ムッシュ」
「さっさ」と親友たち
夏祭りで会えなかったプールの仲間たち
祖父母や「たけちゃん」
連絡が取れなかった黄寿源も
「ケータイ止められて」と大急ぎのメールをくれた
たくさんのメッセージを受け取ることもできた
承認待ちのマイミクを一人ひとり確認した
だけど
時は止まってくれない
やす香の苦痛は更なる薬を要し
やす香の意識は今
夢と現実のあわいを漂っている
だけど
「現実」の方が大事だと誰に言えるだろう
苦しむ肉体を離れて
たくさんの友達を訪ねていっていないと
誰に言えるだろう
やす香の胸には小さなモニターが取りつけられ
ナースステーションに脈拍160の細かな折れ線を刻む
天恵の黄金率を過ぎ
眠っているやす香の窓の外は
きょうも深い靄
* 少しマッスグ読み取りにくい字句もないではないが、疲労困憊した母夕日子の静かな叫びと聴いてやりたい。
ああ、だが、大方の大勢の、真の願いも祈りも、やす香「現実」の「命」にあるだろう、「生きよ けふも」と、奇蹟の生還を待ちたい気持にあるだろう。「おわり」へと、吾々から先に手を放していいだろうか。
やす香はひと言、振り絞るように「生きたい!」と「MIXI」の日記に叫んでいた、わたしたちは、あれを忘れない。大勢の友達を、あんなに大事にした友達たちを、苦しい息の下で一人一人確認しあいさつを送っているやす香は、さぞ苦痛であろう、それでも間違いなくやす香は生きて、生きようとしているのだ、やす香の「命の尊厳」はそこにこそ実在し輝いている。ああけっして、わたしから、「やす香、さようなら」とは手を振らないぞ。真実苦しいだろうが、やす香よ許せ、別れのあいさつなど、おじいやんはしないからな。
* 歯医者から帰ってあれこれするうちに、建日子から、相模大野へもう一度一緒に行こうと言ってきた。大急ぎで用意して、五時四十分に町田へつき、建日子の車をみつけて病院へ。
* やす香はうとうと、しかし息をあえがせて、眠っていた。眠っているのかどうかも判じかねたが、ベッドのわきから熱発したほそい長い手をとり、じいっと見守り続けた。
夕日子が部屋を出ている間にやす香は、発語してはっきりこう言った。
「生きているよ」「死んでない」と二回ずつ。
妻と建日子とわたしとのその理解は三人三様に異なっていたけれど、「生きたい」「生きていたい」という望みには相違なく三人とも聴き取った。
「そうだとも、やす香は生きているよ、死んでなんかいないよ」と三人は思わず声を掛けた。
わたしは、「やす香は生きているよ」「死んではいないよ」とやす香が言うたと聴いたのである。
建日子は「まだ生きているのに」「死んでいないのに」と聞こえた、そしてその二語の前に、「にげてばかりいて…」と聞こえたと言い、だれかに叱られ責められているように聞こえた、と理解していた。
妻は、また少しニュアンスを異にしていたが、生きたいとやす香は言葉にしたのだと言う。死ぬのはコワイと訴えているのではないかと言葉を詰まらせた。
* やす香の言語能力は三人共にまだハッキリ感じ取れて、脳の混濁は認められない点でも一致していた。まだ生きられる、どうにかなるのではないかと、三人とも希望をもった。希望を繋ぎたかった。つよい希望を胸に抱いて、病院を辞してきた。
* 保谷まで建日子は送ってくれて。鮨の「和可菜」でおそい晩飯を食い、家に帰った。
帰るか帰らぬかに建日子のケイタイに夕日子の夫が電話してきた。初めてのことだった。
夕日子自身はわれわれに伝えたくなさそうだったそうだけれど、「じつは、医師との話し合いでやす香の寿命は明日、明後日のウチとのこと、何なら病院の近くのホテルを予約されては」とのこと。
これには愕然とした。
医療のことは分からない、が、今晩逢ってきたやす香に、明日・明後日だけの寿命しか残って無いなんて、実感できなかった。
夕日子誕生日の二十七日にはまた行って、やす香を少しでも喜ばせてやりたいし、それも可能と三人とも感じていたのである。
* と、今度は、夕日子から、なんとわたしに電話が来た。興奮していた。声が小さく、よく聴き取れなかった、受話器を息子に渡した。息子が話し、妻が話し、また息子が話して、夕日子の興奮は静まったらしい。話の内容は、よく察し得た。緩和ケアに託すると決断した日から、夕日子は、★★の家族四人だけで過ごしたかったが、そうは行かずに外向きの顔付きで過ごさねばならなかった。もう最期と医師の託宣を受けてしまったのだから、水入らずに過ごしたいと切望していた、ところが夫は建日子に電話してしまい、病院近くに宿泊してはとまで伝えた。自分の本意は、もうもうお見舞いはなくていいと思うと。
夕日子の願いは察し得ていたし、あまりにも、もっともだった。わたしは「うん、わかった」と答え、うちの家族二人も承諾した。
わたしは一期一会と覚悟して見舞っていたので、それでよいと自然に感じまた決した。今日出掛け、今日やす香に会えてやす香の生きたいと願う言葉も耳の奧に聴きとどけて、わたしは、もう覚悟は出来た。妻にも建日子にも、そう告げ、やす香と夕日子とののこされた時間に祈ろうと告げた。
* いましがた建日子は都心へ車で戻っていった。建日子に怪我などけっして起きませんように。
* やすかれ やす香 生きよ けふも。 2006 7・24 58
* 不如意な夢に悩みながら、はっと目覚めたとたんの、痛いような喪失感に悲しんだ。やす香は確実にまだ生きて闘っている。だが、逢うことはない、もう…。今生の別れをすでに呑み込んでしまった、なんという運命。
夕日子たちがやす香を胸に腕に親子三人で抱き囲って最期の時を迎えたいからという気持、よくわかる。
だから「うん、わかった」と即座にわたしは返辞したし、妻も建日子も断念した。断念とは、つまり断念なのである。アキラメである。寂しくないワケがあろうか。
十余年奪われてきたやす香を、やす香自身の決意でわれわれはふたたび抱きしめることが出来た。ここにあげる二枚の写真は、正確に吾々の「隔てられた時間」の長さを示している。
やす香はそれを一気に回復してくれた。どんな嬉しさ、どんな歓声で、この初めての孫の成長した笑顔を、保谷に迎えたか。その前に、どんなに胸を高鳴らせて、やす香の初のメールを読み、やす香の「まみい、おじいやん」と呼ぶ久しぶりの電話の声に息をのんだことか。
ありがとうよ、やす香!
まだ、ちっちゃかった保谷の姉孫やす香
再会した、大学合格通知の保谷のやす香
「生きているよ」「死んでないよ」と苦しい息の下からやす香は、昨日の見舞いで、正確に気持をわたしたちに伝えてくれた。
たまたま病室でやす香を見守っていたのは、叔父建日子とわたしたち父母の三人だけであった。
「そうとも、やす香、生きているんだよ、死んでなんかいないよ」と、期せずして三人の声はやすかに注がれ、やす香は息を喘ぎながら静かに眼をつむっていた。「耳はきこえているよ」と、昨日もやす香はかすかに示唆していた。おお…やす香よ。
* 余儀ないあはれではあるけれど、今朝目覚めて、もう、やす香の熱に火照った真っ白い指のきれいにのびている手を、掌を、包んでやることが出来なくなったと、文字そのまま、痛感した。
今日からは、奇蹟を願いながらむなしく、あてどない時間を堪えて過ごすしかないのだということが、苦い霧のように真っ向わたしをとらえた。妻を手伝い、回収される故紙をよそへ運びながら、わたしは、路上に正座して私たちの作業をじっと見ている「黒いマゴ」の名を、ただ呼ぶだけであった、「まご…、まご…、まご…」と。
この我が家に紛れ込んだ、掌にも満たなかった黒い仔猫を拾い育てて、ためらいなく「マゴ」と名付けたとき、わたしたち祖父母は、未だ、やす香を★★家に奪われたままであった。「黒いマゴ」はやす香の明らかに身がわりであった。
* やすかれ やす香 生きよ けふも。 めめしい繰り言はよそう。建日子がきのうのことを「最期の見舞い」とブログに書いている。同感である。情理を尽くして、われわれの息子は、姉の弟は、優しい。
* 2006.07.25 Tuesday 最後のお見舞い。 秦建日子
本日(昨日)は、撮影は日中のみ。夜は、「花嫁」のキャスト・スタッフで、中打ち上げ。私も、当初は参加しようと思っておりました。
が、午後、姪のやす香の容態が更に悪化。モルヒネの常時投与を行うので、もう今後は、普通のコミュニケーションは無理になりますとの連絡が。
なので私は、失礼ながら中打ち上げは欠席し、両親とともにまたやす香の病院を訪れました。
病室でのやす香は、昨日とは違って呼吸は小さく、脈拍は弱く、その代わり、苦痛もだいぶ軽減されているようで、その両方が、モルヒネの効果なのだろうと思いました。
昨日聞いた声が、ぼくの聞くやす香の最期の声なのかもしれないなと思いました。
眠っているのを起こしてしまわないよう、父と母と三人で、夕景が、とっぷりと暗い夜に変わるまで、無言でやす香の手を代わる代わる握っていました。
30分くらい、そうしていたかな。
と、突然、やす香が目を覚まし、はっきりとした声で言いました。
「逃げてばかりいるのに?」
それから
「まだ生きてるのに?」
そして最期に、
「もう死んでるの?」
彼女の脳内に、どのような意識があったのかはぼくにはわかりません。
推測は出来ますが、正解かどうかはわかりません。
ぼくらはただ、「死んでないよ」「生きてるよ」と大きな声で答えました。
何度も、繰り返し。
「死んでないよ」「生きてるよ」
―――たぶん、やす香には聞こえたと思います。
再び彼女は眠りました。
静かな白い病室に、父、母、姉、ぼく、そして孫のやす香、そしてもうひとりの孫。
血のつながった家族が、こうして同じ場所にいるのは、実は10年以上ぶりなのだとぼくは気付きました。
その後、西東京の実家まで、両親を車で送りました。
と、姉夫婦から、一本の電話が来ました。
曰く、「医師はもう、あと一日か二日の命だと言っている。最期の数日だけは、誰も呼ばず、夫婦と娘ふたりの家族四人で水入らずで過ごしたい」
「そうだね。気持ち、よくわかるよ」
とぼくは答えました。
母親として当然の願いだと思ったし、何よりも最優先されてしかるべき願いだと思いました。
というわけで、結果的に、今日が生きているやす香とのお別れの日になりました。いや、なりましたという書き方はおかしいか。多分、なるのでしょう。淋しいけれど、もう、お見舞いには行けない。実感はまだ全然わかないけれど。
姉は頑張ったと思う。たくさんのお見舞いのお客さん相手を、精一杯の明るさでもてなし続けた。オフィシャルな母親を演じ続けた。
せめて最期は、家族にしか、実の娘にしか見せない素顔で、やす香へ愛を注いで欲しいと思います。
* やす香母の夕日子も今朝の「MIXI」に書いている。
* 2006年07月25日 08:14 生きる やす香母
あれはいつだったろう 、やす香がいった
奇跡が起きて そのさきにあるのが「命」なら 今生きてる私は 意味ないってことになるよ
治ることだけが目標なら 今生きてる私は意味ないってことになるよ
奇跡がなくっても 私は今生きてるし 私の人生はすてきだと思うよ
新しい朝がきて
やす香はきょうを生きる
* あの音楽会で、やす香自身もう「お別れ」などとあきらめていたろうか。「生きたい」とやす香は日記に書いた。やす香真実の本音を聴いてやりたい。
「生きてるよ 死んでないよ」と、殆ど叫んだ昨晩のやす香の声が、一箭の西天をすぎるを感じるほど、鮮烈に蘇る。
やす香、生きよ。奇蹟を切望するのもまた懸命に「生きている」ことだよ。大勢の大勢の友達が、人が、わたしたちも、そう願っているよ、おまえと一緒に。
* 私語の刻を読みました。
「生きている、死んでいない」と発っせられた言葉が胸に、涙がとまりません。今日を、明日に繋がる今を、生きて欲しいと祈ります。 花籠
* いやです、しんじたくない。24日の「私語」拝見しました。
奇蹟を信じます。 讃岐
* 孫娘のやす香さんのこと、なんとも言えません。
「肉腫」といえども、適切な治療が、早ければ、ほかに転移せず、手術と化学療法で、3人に2人は、再発しないまま、5年経過(5年再発しなければ、治ったというそうですね)する確率が高いということを知りました。
それだけに、悔しい秦さんの思いが、私の胸にも、高波のように、どっと押し寄せて来て、なんとも言えなくなってしまいます。お許し下さい。
「湖の本」(50)安着しました。エッセイも(38)まで揃っていますから、88の米寿達成ですね。次は、とりあえず、白寿が目標。
きのう、受け取り、きょうまでに、一気に読んでしまいました。批評、感想などは、いずれ、直接お会いしたときに述べるとして。
御自身の体も御自愛下さい。 英
* 湖の本 50 私でも理解できそうな感触を得ています。送金も近いうちにさせていただきます。 有難うございました。
さて このところのHPで毎日毎日胸のふさがる衝撃を受けております。どんなに深いご心痛の日日かと。奇跡よ起こって! 心からのお見舞いを申し上げます。
私はこのところすこしさぼりながら、それでも一水会展本展に向けての制作をしています。2点 どちらもパッとしない作品になりそうで私も胸がふさがりそうです。時折気分転換にモデルを描いたり、展覧会をのぞいたり・・・と、このごろのお天気のように、晴れない日日でもあります。 もううんざりでしょうが、そのうちまた絵の添付をさせていただくかもしれません。 郁
* 本(ツヴァイク「メリー・スチュアート」)が、たとい僅かでも苦しみを紛らせてくれたら・・。
怖くてHPをあけられない。やす香さんのこと、祈るばかりです。 鳶
2006 7・25 58
* やす香の様子が間断なく気になるが、手が届かない。平安でありますように。
やす香の「MIXI」日記に何度も何度も「OTL」とあるのが分からなかった。建日子の解説によると「ガックリ」の姿勢を示した絵文字の類ではないかと。わたしも妻も、いまは、「ガッカリ…」萎れている。
七月も八月も、もう、なーんにも無くなってしまった。よし、仕事をしよう。
2006 7・25 58
* 2006.07.26 Wednesday 奇跡はなくても、今日を生きる。 秦建日子のブログ
あれはいつだったろう やす香がいった
奇跡が起きて そのさきにあるのが命なら 今生きてる私は 意味ないってことになるよ。
治ることだけが目標なら 今生きてる私は意味ないってことになるよ。
奇跡がなくっても 私は今生きてるし 私の人生はすてきだと思うよ。
新しい朝がきて
やす香はきょうを生きる。
☆
やす香・母の文章です。
電話が鳴るたびに、嫌な予感に胸がドキリとしました。
無関係の相手に、八つ当たりもしました。
でも、何の連絡もなく、また日付は新たになりました。
世の中には醜いニュースが溢れているけれど、それでもでも、この世の中に踏み止まっていられる幸運に感謝して、今日をもっと前向きに生きたいと思います。
* 2006年07月26日 08:08 爪 やす香母
深い夜の底で苦しみもがくやす香は
美しく整えた爪を
私の腕に突き立てる
自由を失った体で
唯一残された左腕に渾身の力を込めて
爪を立てる
こんな病床でさえ
笑顔と心やさしさを大切にしてきたやす香の
奥底に秘められた
恐怖が 絶望が
怒りが
そして悲しみが
鋭い痛みとともに
私に流れ込む
非力な母親だけど
その爪はしっかりと受け止めるよ
疲れ果てて眠りに落ちたやす香の窓に
新しい朝が来た
* やすかれ やす香 生きよ けふも
おまえの生まれたとき 生まれ落ちてすぐさま、母は、こう歌ってお前に教えた。
やす香、もう一度 お聴き。夢中でお聴き。優しかった 強かった おまえの母の声を 耳を澄ましてお聴き。 おじいやん
:::::::::: 子守唄
障子に揺れる 母(=祖母)の影が唄っている
あきらめなさい
あきらめなさい
ばば抱きだから
おっぱいはないの
おまえのままはおねんね
だからおまえもおねんね
あきらめて
ねんねしなさい
眠りに揺れる 私の心は叫んでいる
あきらめるな
あきらめるな
新しい生命(いのち)よ
人生の最初に学ぶものがあきらめだなんて
そんな馬鹿なことはない
泣け 泣け
力をふりしぼって
おまえの母の目覚めるまで
そうして 泣いている ・ ・ ・ おかまいなしに
やす香 生きよ けふも
神よ やす香に 生きる強い歓喜を 恵みたまへ おじいやん まみい 建日子
* メールがこないので、体調が優れないかと 心配の中で心配し寂しく感じていました。
六月二十二日に「白血病」と報せてきた孫娘は、その後に最悪の「肉腫」と診断が変わり、今をも知れない危篤の床にあります。なにもしてやれなくて…
発送も九割余終えていますし、もう急がなくていいのですが。ぽっかり時間もからだも空いてしまい、放心しています。 悲しい報せが永遠に無いといい。 せめて明日の母親の誕生日に意識有って笑顔を贈ってやってくれると、と願っています。
息子も、「切り抜けて呉れる気がしてならないんだ」と呟きます。わたしもそう想って願って堪えています。
2006 7・26 58
* 21:15 やす香母の夕日子に
やす香のようすを「MIXI」のみんなに報せてくれて、ありがとう。さぞ君も疲れ切っているだろうが、此のかけがえのない一刻一刻をやす香とともに静かに豊かにすごしてください。
もう三時間で、君の四十六歳の誕生日だ。
ひそみひそみやがて愛(かな)しく胸そこにうづ朝日子の育ちゆく日ぞ
朝日子の今さしいでて天地(あめつち)のよろこびぞこれ風のすずしさ
(一九六○年七月二十七日夕日子誕生)
そのそこに光添ふるや朝日子のはしくも白き菊咲けるかも
安保デモで国会の揺れた初夏から、君の生まれた真夏から秋へかけての、わたしの歌だった。
あした、可能なら、やす香の病室で、ママとわたしとでえらんだ、目に明るい真っ赤のストローハットに、大きな白い花をつけたのを君にかぶらせ、目に立ちやすい大きな七宝のブローチを、胸元にかざらせ、やす香に、
「そーら、ままの誕生日だよ」と声かけて、一目でも目をあけ、思わずやす香に、吹き出し笑いをさせてやりたかった。やす香に、一と声、「まま、おめでとう」と言わせてやりたかったよ。
いまの君に「おめでとう」は、なかなか言いづらいけれど、やす香を授かってくれて、「ありがとう」と心から、いま言っておく。
どうかして明日を乗り越え、七月から八月を乗り越え、こんどは九月「やす香の二十歳」を迎えたい。やす香はつらいだろうが、迎えたい。やす香はせつないだろうが、迎えたい。やす香の「生きの命のかがやき」のために、迎えたい。 みんなで、心一つに迎えたい。
夕日子 やす香をお願いする。 父
* 意識だけがはたらき、五体は、冬瓜をとろっと煮ふくめて、うす青う透けているかのように感じている。時間というものに溶けてしまっているようだ。
2006 7・26 58
* やす香 とわに生きよ やすらかに。
* 2006年07月27日 09:40 ★★やす香 2006/07/27午前8時57分 永眠
やす香母四十六歳 (誕生日)
たくさんの応援、ありがとうございました。
やす香は今私のかたわらで最後のおしゃれをしています。
やつれもせず、色白のままで、髪はメッシュのままで
長い爪は美しく整えられて
夏祭りに着た、あの浴衣に白い帯を締めて
家に帰りましょう。
******************
通夜・告別式につきましては、
引き続きこの場でご連絡申し上げます。
ミクシを見ていない方々にもお知らせいただければ幸いです。
まことに勝手ながら、自宅への弔問はご勘弁ください。
明日の昼までは、家族だけで過ごしたいと思います。
よろしくお願いします。
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2006年07月27日 09:52 秦建日子
やす香、お疲れさま。
最期まで、ちゃんと話ができて嬉しかった。
約束、きちんと守るから待っていてね。
やす香ママ、お疲れさま。
不出来な弟はあなたに何もしてあげられないけれど、
このコメントは、あなたを抱きしめるつもりで書いています。
やす香が、最期まであなたに甘えられてよかったです。
2006年07月27日 10:14 秦恒平
やす香 ありがとう ママのお誕生日に、ママに看取られて やすらかであったことと、おじいやんとまみいは、粛然とお前の深い愛にこたえています。
朝一番に まだそれを知らず 夕日子のために例年のように赤いご飯で祝い、メロンを食べながら、やす香が今朝を迎えていたことを、とてもとても嬉しく、喜んでいました。
どんなに残念で口惜しいかはうまく言えませんが、今は、やす香の残していった愛と元気と誇りとを、静かに静かに想って、声に出さず、泣いています。
やす香 愛しい子よ。 やすかれ 生きよ 永遠に。 おまえの おじいやん まみい
夕日子 ことばを失いながら お前のことを想っています。 父
2006年07月27日 09:59 さっちゃん
やす香、おはよう。いつものあいさつは忘れないよ。
頑張った。お疲れさま。
最期までやす香は人を思いやる優しい子だったんだね。
あなたの大好きな優しい家族のもとで、やす香の大好きなおしゃれをめいいっぱいするんだよ。
ありがとう。ありがとう。ありがとう。
2006年07月27日 10:01 kayo
やす香、行幸、夕日子、そしてぱぱ。
お疲れ様でした。
落ち着いたら、連絡ください。
やす香にあえて、ほんと、嬉しかった。
ありがとう。
2006年07月27日 10:06 えみんちゅ。
やすか、おはよう。
今私の頭に浮かぶのはやすかの笑顔☆
あの素敵な笑顔だよ。
こんな幸せになれる笑顔をありがとう。
大好きなやすかの笑顔わすれないからね。
ありがとう、やすか…
2006年07月27日 10:08 よぉ
やすかおはよう。
お疲れさまでした。頑張ったね。
これからもやすかのこと思い続けてるよ。
大好きだよ。ありがとう。
2006年07月27日 10:08 YCeooIpoIp
やす香、おはよう。
頑張ったね。やす香に会えて本当に幸せだったよ。
今まで本当にありがとう。
また一緒に遊ぼうね!それまで待っててね。
* 「MIXI」に早くも入っていた声を添えさせて頂きました。
* 七月二十七日 朝 メール拝見、深く感謝申し上げます。お心入れ、ありがとう存じます。
たった今、「MIXI」に報じられたようです、今朝ほどに、やす香はわたくしどものもとを離れて行きました、いま息子を介して知らされました。母の誕生日まで、よく頑張ってくれました。いい子です。
2006 7・27 58
* 七月二十七日 朝 メール拝見、深く感謝申し上げます。お心入れ、ありがとう存じます。
たった今、「MIXI」に報じられたようです、今朝ほどに、やす香はわたくしどものもとを離れて行きました、いま息子を介して知らされました。母の誕生日まで、よく頑張ってくれました。いい子です。
* 7・27 HPを読みました。旦夕に迫る悲しいことを思うと言葉を失います。口惜しいです。今朝出品する絵を運んでくれる人に託し、送り出したところです。ガンジスの岸辺にしゃがみこんでいる女を描いた絵、テーマを思うと複雑な気持ちで描き続けてきました。
数日前のHPに(清水)九兵衛さんのことが書かれていましたが、あの方に京都で会ったのが今月初めで、あまりに急な知らせだったと、本当に人は、この世は・・悟れないわたしは嘆きます。生きているというのは死なれることだとも嘆きます。
それでも、それでも、鴉、どうぞ。 「ただ一心に生きて行こうぞ。」と書かれた言葉が響きます。 鳶
*
やすかれとやす香恋ひつつ泣くまじとわれは泣き伏す生きのいのちを 祖父
つまもわれもおのもおのもに魂の緒のやす香抱きしめ生きねばならぬ
* もう、泣くまい。
凝視す永訣の空
静思す自然の数
心無きにあらねど
怨まず生死の趨 宗遠
2006 7・27 58
* 「やす香は、残念ですが、亡くなりました」という通知も、「通夜・告別」の通知も、メール一つも、保谷の両親は受け取らぬまま、すべての事が果てる。「MIXI」の有り難さというものか。
* 数多い哀悼の「コメント」が、「永眠」の告知に続いて、「MIXI」を続々と埋めている。哀別の情誼に溢れている。
だが、「なんで、こんなことになったの」という不審や残念を、あえて口にした人は、まったく、いない。それが世間常識の作法・行儀なのであり、当然だろう。有っても、せいぜい、「悔しい」と漏らした数人いたか、どうか、だ。
* 通夜と告別式とを、「故人の遺志」にしたがい「お祭り」風に賑やかにしたいと、すでに「MIXI」に告示されている。ま、けっこうではある。「お祭り」だと!?
* だが、あの元気だったやす香が、まだ一日一日家族と共に一つ家に生活しながら、日々何ヶ月の日記が示している、ああも言語道断な苦痛に呻き呻き続け、援助の手と適切な医療とをもとめ喘ぎに喘いでいた時に、その時に、まさにその時に「生きていたやす香」に対し、家族の、つまり父親や母親の優しい細やかな注意や支援が、何で無かったのか。その欠落していた(事実上の)事実は、可哀想に、覆いがたいのではないか。
* 二月には(日記によれば)症状がもう始まっていた。
三月には「急」を告げていた。日々の「やす香日記」は、痛いほどそれを明示し明記している。
四月ともなれば、病状は烈しさを加え、五月は、もはや眼を覆わせるひどさになって、やす香はほとんど連日泣いていたではないか。そして孤独に、見当違いの病院や、カイロプラクティクスなんぞに一人で出掛けては、でたらめな診断に、微塵の改善も無さに、荒れに荒れたグチと罵倒を、絶望感を、繰り返し書いていたのである。
* 結局、相模大野の北里大学に入院したのは、「六月」二十二日の「白血病」告知(「MIXI」)の、わずか数日前であった。
そして白血病も誤診で、結果は「肉腫」の、それもあんまりな「手遅れ」と宣告され、いきなり「緩和ケア=ホスピス=死へ向かう患者をそのように扱う介護」を、やす香は、医師と親とから、告知されたらしい。
この本人への告知にも驚愕した。
他で意見を聴いてみた医師もおどろいていた。言葉はキツイが、引導を渡されたようなものであった、やす香は。
そして、「やすか祭り」と呼ばれたような、早や「お別れ・音楽会」が催された。やす香は大いに楽しんでくれた、何よりであった。よかった。
だがあれで、がっくりとやす香の余力は減殺され、すべてが落ちこんだ。ただ、それより以外にやす香を慰める手がないと医師と親とは判断し、音楽会を楽しく盛り上げたらしい。せめてものことであった。
だが、親切な、真剣な、幾つもの「医療援護」の申し出は、みな、すげないほどあっさり見捨てられてしまった。つまり、それほどに、ことは全く「手遅れ」であった。
* 「なんでこんなことになったの…」と、そのことに、若いお友達の大勢が学んで欲しい。わたしはそう願う。
過剰に過剰な疲労(朝の四時起きのアルバイト、そして終電車に遅れそうになることもあった夜のアルバイト、そして大学の授業や、お遊び)の蓄積が、こわい病魔に、「待ってました」と、つけ入らせてしまった。
一刻一刻が、文字通り倍々ゲームのように病勢を烈しく燃え上がらせる、肉腫、若年の癌。
だからこそ半日一日も早く、適切に気が付いて、医療の手を求めなければならなかった。それを、うかうかと欠けば、やす香が抱えたと同じ不幸な「病例」が、またも、あちこちで「再発」するのである、そのオソレがあるのである。
この貴重な「生死の劇」から、のこされた吾々はそれをこそ学ばねばならない。「生きる」難しさと有り難さとを心底学ばねばならない。
* 「手遅れ」にしてしまった、それが悔しい、それこそ悔しいと、その口惜しさの結末の、あまりに悲惨だった事実から、「死なれ・死なせ」て今しも生きているわれわれが、深刻に反省し真剣に学ばなければ、やす香の死は、可哀想に、「不毛」の苦痛だけに終わってしまうではないか。「お疲れさん」「ご冥福を」で、さも賑やかげに偲ぶ「お祭り」葬儀だけでは、それこそ繪に描いたような「あとの祭り」で済んでしまうではないか。
* 何故三月に、せめて四月早くに、やす香の苦悶に、苦痛に、衰弱に気づいてやらなかったのか、と、それが悔しい。やす香の「MIXI」日記も、大勢のマイミクからの注意や忠告や助言も、大人は知らなかったのではないか。あげく「手遅れ」をただ「確認」するために、おくればせにやす香の「MIXI」を利して、つまり「広報」に用いただけではなかったか。
* やす香存命のあいだ、わたしは、こう露わには書かなかった。しかし、やり場無く怒っていた。怒りながら、わたしは、それ以上の何もしてやれず、やす香宛てメールやメッセージで、不興を買いながらも、「一刻も早く親に相談しなさい」としか言ってやれなかった。親に対し、直に何一つ伝えられなかった。そういう大人同士の理不尽を招いていたのは、ただに両親と祖父母との「愚」であり、やす香は無縁であった。だからやす香は、親たちにナイショで、嬉々として保谷の祖父母との時間を、二年にわたり、楽しみに来れたのであった。わたしたちも嬉しかった。
そのやす香が、もう、いない。「かぐやひめ」は月へ帰って行った。……悔しい。
2006 7・27 58
* 2006年07月28日 08:21 お祭り、お祭り やす香母
お祭りが大好きだったやす香、
まあ、今度ばかりは「賑やかに」というわけにいかないけれど、
あなたの人生最大の晴れ舞台をプロデュースするよ。
とはいえ
ほんといえば、あの「夏祭り」以上に
どうなるかわからない、見切り発車です。
だってあなたは私に、準備の時間をくれないのだから。
でもね、
私は信じています。
多分私が何をするよりもずっと
あなたの友達たちが、
二つの式をすばらしいものにしてくれると。
皆さん、よろしくお願いします。
* せめて「プロデュース」の成功を、翁と姥とは祈るが、十九のやす香の通夜と葬儀とが、何故に「あなた(やす香)の人生最大の晴れ舞台」と謂えるのか、怪訝、といわざるをえない。「やす香、国連に勤めて、国際舞台で語学の力をいつか発揮するの」と、わたしたちに向けて面を輝かせたやす香を思い起こせば、悲しみのあまりとはいえ、こういう公言は、意味不明、聞き苦しい。
* 秦 恒平様
運転しながら腕が震えていたらしく、「危ないから、止めて」と妻に制せられました。路肩に停車し、「秦さんのお孫さんのこと?」と聞かれたとたん、どうと涙があふれて、数分間、妻とふたりで遠くより、やす香さんのご冥福をお祈りいたしました。
それにしても悔しい。かわいい姪っ子を亡くしたような心地です。
先生には気を落とされませんように。そしてどうぞ、いつものごとくわたくしどもを叱咤してくださいますように。
私事ながら、「秦恒平論」少しずつ書き進めております。 六
* 秦さん とうとう、けさを迎えてしまったのですね。
お孫さんのご逝去、心から哀悼の気持ちをお伝えします。
私も、先週、7・19の夜、連れ合いの母を亡くしました。92歳でした。
いまも、遺骨と遺影が、私の傍にあります。
親しい人に亡くなられると、心に穴が空いたような空漠感に襲われます。
空があり、地があるということの不思議さ。世界が存続しているのに、あの人はもういないということが、不思議な気がします。
まして、若くて、未来のある人に先立たれると大きな空漠感で、心が潰れる思いだと思います。御心痛をお察しいたします。
奥様ともども、御身御大切に。切に、切に、祈ります。 英
* 娘に死なれて 11年が経ちました。
娘はまだ 23歳のまま 心の中に 生きつづけております。 波
* わたしは、今日は放浪する、せめて美しいものを見て、見つけて。
* 秦先生 あまりのことに、あまりの事の早さに、先生のホームページを読んだ時に、手足がさっとしびれて凍りつきました。いくら若い方とは言え、こんなにも早いものとはとても予想できず、涙が止まらず・・・。
身内の若い方を見送るのは、どんなにお辛いかと、先生の悔やみきれない思いを遠くから感じております。
私にもやす香さんと同じ年の姪がおります。亡くなった姪ではなく、一浪して今年大学生になった姪です。その姪と比べても、やす香さんのお心の優しさ、お健やかさはすぐれて高いものと思っておりましたので、本当に惜しい方を失ってしまった、と一度もお目にかかった事のない私ですら喪失感にさいなまれています。
ただ、先生に一つだけ、お伝えしたくてメールしております。
娘を育てている今、毎日が試行錯誤の連続ですが、その中で、子どもがいくつになっても「目を離してはいけない」ということを、私はやす香さんに教えて頂きました。
娘はいま5歳。得意なものと不得意なものが少しずつあらわれています。世の中の風潮は、「個性を大切に」ということで得意なものを伸ばすことに重点がおかれていますが、親としては「それだけではいけないのだ」と最近の娘を見つつ反省しているところでした。
もちろん、最終的には個性を伸ばしていくことでこそ、人は生きるすべを手に入れるのですが、その土台として、しっかりとした人間としてのいしずえを築く過程では、不得意な部分こそ、親が必死で見つけ出ししらみつぶしに穴埋めし、頑強な基礎をつくらなければならないのだと、最近の娘には実に口うるさい母親になっています。手まめ口まめに子どもの欠点を見つけ出し、そこを訂正していくのは、褒めて育てることよりも、はるかに心身のエネルギーを消耗します。この口うるささ、いったいいつまで続ければいいのか、と、こちらのほうが気の遠くなっていた毎日でした。高校生になったら、いやその前までで、などと考えていましたが、たとえ成人を目前にしても、口は出さずとも「目は離してはいけない」のだと、やす香さんのことに泣きながら、肝に銘じています。
自らを振り返っても、大学生にもなると親などに口は出されたくありませんでしたし、自分で何でもできるように思っていました。確かに、そのくらいの年になると、普通の大人よりはるかに優秀な方もいらっしゃいます。けれど、若者が逆立ちしてもかなわない部分、「それは経験値の部分」です。スケジューリングの仕方、健康管理、世間付き合い、そんな部分では、やはり親が口を出し続けなければならないのだ、と。
思えば、口うるさい心配性な我が母親は、先生と同年同月の生まれです。戦争の経験のある世代の方達は、小さなサインへの敏感な対応に長けていらっしゃるのかもしれません。私たち姉妹三人は、母のその口うるささに実に辟易していましたが、今思うと、親としてのあり方の「一つの正解」であったのかもしれません。ただ、あまりにも口うるさすぎた母に抵抗して家を飛び出した姉は、結局幸せを上手に掴みきれずに終わりました。あれから三回目の夏になります。
口うるさく、けれど子どもの幸福をつぶさず、そのあたりの加減の仕方がこれからの私の親としての課題だと思っています。
こういう形で、いのちについて、人育てについて「考える機会」を与えて下さったやす香さん、そしてそれを包み隠さずに報告して下さっていたご家族の皆様、特にお母様に心から感謝しています。やす香さんから教えて頂いたたくさんのこと、決してわすれません。もちろん、やす香さんご自身についても。一度もお目にかかることはありませんでしたが、これほどたくさんの方に愛され、思いやり深かった方のこと、決してわすれません。よいお嬢さんに育て上げられたお母様にも深く敬意を覚えます。
なぜか不思議なほど「奇跡が起きる」と信じていました・・・。言っても栓のないことですが。
お書きした内容に、大変失礼もあると思いますが、お許し下さい。ただただ、やす香さんに教えて頂いたことを忘れません、決して、ということだけをお伝えしたかったのですが、上手に表現できず、お気にさわる書き方になっていましたら申し訳ありません。 典 卒業生
* 約(つづ)まるところ、これが「親」の位置だと、わたしも信じてきた。「逆らひてこそ、父」「逆らひてこそ、母」を、愛情と責任をもって生きるしか、未成年の子の親に、適切な道は、なかなか、ない。それでも失敗することがある。
まして命に関わる重大な徴候から「目を離し、口を噤んで」いて、子の健康や幸福が、どう守れようか。「生きたい!」と叫んだ十九歳のやす香無念の死は、このことを痛切に教えている。
死なれた「あとの祭り」を「晴れ舞台」めいて盛り上げるより、その前に、我が子から目を離していて「死なせて」しまいました、残念でなりません、やす香にも、応援してくれた皆さんにも申し訳なかった、という親の「真摯な挨拶」がなければ、通夜は「お祭りだ、お祭りだ」、葬式は「人生最大の晴れ舞台」だなんて、しらじらしい。参会して下さる皆さんのピュアな情愛や親愛は微塵も疑わない、が、それとこれとは、断然別事である。
* わたしは死なせてしまった愛孫のと限らず、もう死んでしまった人の葬儀には、加わらない。大事な人であればあるほど、わたしは、いつもその人を自分の胸の内に迎えて、静かに話し合うだけである。そのための「部屋」を常に持っていることは「MIXI」に連載中である長編小説『最上徳内北の時代』の冒頭の辺にくわしく書いている。
* ずっとマタイ受難曲を聴いています。武満徹さんが病床で最後に聴いていた曲です。ほんとうに悲しい時にはこの曲しかないのです。
底力を見せてごらんと、文学の神様が待っているのです。よく体調をコントロールなさって、無理な自転車運動はなさらないで、お元気にお過ごしください。 春
2006 7・28 58
* hatakさん
ご無理はしていませんか?
豊平川の河辺に建つホテルから、目の前に上がる花火を観ました。今日の札幌は日中は暑かったものの、夕方から涼しい風が吹いて、今年最後の花火をみるには少し肌寒い夕べでした。
プールサイドのテラスで、静かに、はじまりからおわりまで、一部始終を観ました。
川岸には大勢の人が出て、ときおりざわめきが遠く聞こえてきました。
茶友が昨日師を失い、このHPも読んでいて、「心がきしん」で泪をこぼし、メールを送ってきました。
その茶友が贈ってくれた時代物の帷子に、細い帯を締めました。
秋のような柔らかな夕日が去ると、空は清らに澄んで、張りのある大きな音が響きます。最後の一瞬は、色のない、白い光りの束が、大空に、縦横無尽に広がって、無垢で清らかで美しい世界をみせてくれました。
『みごもりの湖』冒頭の送り火や、『チェケラッチョ』で、渚が透のために、本部のホテルで上げる花火。
夜を焦がす火の色には、送りや励ましの願いが籠もります。
帷子(かたびら)で野辺の送りぞ白花火
お体をおいといください。 maokat
* 身にしみ、思わず瞑目する。
昨日浅草の望月太左衛さんの弔電が来た。河出書房の小野寺優さんからも戴いた。
今夜は浅草の花火だ。お誘いもいま届いた。
* 秦先生、おはようございます。大変な時に、と思いましたが、隅田川花火、もしよろしければいらしてください。私も今年は浅草におります。よろしくお願いいたします。 太左衛
* 妻は精神的にも疲労困憊していて、安静が必要。今日は、遙かに遠い斎場で、やす香告別の「お祭り」だという。行かない。花火にわが「送り火」の思いをこめて、はかなく、くやしく、浅草にひとり行って、やっぱり泣いてきたい。
* 昨日、「MIXI」の「足あと」をさぐっていて、とある若い人達の会話にまぎれこんだ。事情の正確なことは分からないが、やす香の死に触れ合って、やす香は「使命」を果たした、遂げたのだということが話されていた。
おどろいた。
おどろいたことに、「使命」とは「命を使いはたす」意味であり、やす香は命を使いきって「ラク」になれた、だから「お疲れさん」「やすらかに」「よかったね」と自分達もほっとして見送れたというのだ。「命を使う」とはウマイ謂い方だねえと感心しあっているのだった。
それは、その若いやす香の友達たちのオリジナルな解釈では、どうやら、なく、通夜の「お祭り」で披露されたやす香を「送別の意味」づけのひとつであったらしい。
わたしは仰天し、思わずコメントを添えた、やす香の祖父だとことわって。
* ★★やす香の祖父です。みなさん、ありがとうございました。
使命ということが語られていたので、ちょっと割り込ませて貰います。
「使命」とは、命(めい)つまり神の命令、天命、天職を、使(し)つまり「全う」するという意味です。もし命(いのち)を使う、使い切るという意味に取るとしても、それは、生まれ来て、そう生きたいと願った「天命・天職を、満たす」というのが、本当の意味です。
病に倒れた私たちの孫やす香の場合は、例えば、生前に面を輝かして話してくれました、「いつか国連に勤め、語学の力を思いきり活かして、国際的に活躍したいの」という「願い」が満たされたときに本当に「使命が全うされた」のであり、その意味では、半途に若く落命したやす香の残念・無念をこそ心から惜しんでやりたいと思うのです。
やす香が、自ら「死にたかった」と思われますか。「生きたい」「生きたかった」と苦しい息づかいで叫んでいました、きっと自分の落ちこんだ事態が、悔しくて悔しくて仕方なかったはずです。
「ラクに死ねてよかったね、お疲れさん」とは、言ってやりたくないのです、可哀想に。
「いったい、どうしてこんな事になっちゃったんだろう、何かが間違っているよ、こんなのイヤだよ」という、痛切に残念な、悔しい思いを忘れてしまい、文字通り「あとの祭り」に流してしまえば、やす香の無念の死、満たされなかった命は、そのまま、本当のムダになりかねません。
若いお友達には、やす香の真に願っていた「使命」って、ほんとは何だったんだろう、と考えてやって欲しいのです。
その無念・残念を、お友達の一人一人が「自身の使命」を考えることで、どうかやす香を慰めてやって下さい。
「命を使ってらくに苦しまずに死んだ」なんて、それでは安い洒落になってしまうのが、悔しいのです、祖父であるわたしは。
わたしは愛していた孫のやす香に、「死なれた」のだ、とは思えないのです。「死なせた」のです。あんな手ひどい「手遅れ」の大苦痛に追い込んでしまっただけでも、ほんとうにやす香にも、みなさんにも、申し訳ないことをしたと心からお詫びしたい。
身のそばの大人が、子供から目を放さず、せめて三月四月のうちに適切な医療の手を打っていれば、「らくに死なせてやる」どころか、命を救い得た可能性は高かった、有った、と思います。残念です。
* そのあとにつづけて、何かコメントがあるかと待ってみたが、一夜を経て、寂として声がきこえない。
* われわれは往々愛する者に「死なれた」と受け身の涙を流すけれど、「死なせた」という自責からは、つとめて目を反らせてしまう。死なせてしまいました、やす香にもやす香を愛してくれた皆さんにも申し訳なかったと、わたしも妻も悲しい。なにが「お祭りだ、お祭りだ」であろう、なんで通夜や葬儀がやす香十九歳の「人生最大の晴れ舞台」なのか。バカなことを言ってくれるな。
人は、人として現世に「存在する」かぎり、夥しく人を「死なせて」いるのである、自ら下手人にならないだけだ。
時には自分自身が愚かなために、自身をついに死なしめることも屡々実例があり、孫のやす香も、まちがいなくその実例の一人であった事実から、目を背けていては、その無残な落命から何一つも、此の世に残されたわれわれは、ことに若いお友達たちは、学び取れないだろう。
どうか、やす香のおよそ十ヶ月の「MIXI」日記を、一字も曲げず、「会話」のすみずみまで読み返して欲しい、やす香が自分の「命の使い方」に本当に聡明であったとは言えないのである。死者に鞭打つのではない、「なぜこんなことになったんだろう」「間違っていたよ」「こんなのイヤだよ」と、心底から思い直したい、のである。
わたしは「生きよ けふも」と呼びかけつづけた。やす香に命あるかぎり、やす香に「死」という文字とことばとで触れることは、絶対に避け続けた。言忌みした。
だが、ついに、死なせてしまった。わたしたち祖父母は、「生きよ けふも」と願い続けながらも、やす香が間違えたことに目を背けてなどいなかった。やす香もやす香の親たちも、或る意味で賢い者達であったにしても、聡明ではなかった。まもるべき最大の命に真っ正直に直面しないで「目を逸らし・目を離し」続けていた、最期まで。
そして「あとの祭り」で、やす香は「使命」を遂げて、つまり命を使い果たして安楽な天国に行ったのだと、もし意味づけたりするのなら、それは真実から、いまなお目を背けたいやらしい「ごまかし」である。やす香は命の限り、生きたいよ! と叫んでいた。死の恐怖から逃げ出したいと怯えていた。この苦しみを「死」へでなく、「生」の方へ救い出して欲しいと願っていた。
だれが観念して死んで往きたがるものか、あの若さで。
* 死にたいほど苦しかった日々を、四月、五月、六月の日記でやす香は偽りなく、喘いでいた。しかもやす香は、生の本能をうしなった可哀想な命として、爪を研ぐ死神の恐怖におびえたまま、入院までの日々をあまりに孤独に過ごしていた。いや、孤独ではなかったのだ、少なくもやす香の友人の何人も何人もが、はっきり「気づいて」「見るに見かねて」「思いあまって」忠告し勧告し、はっきり「SHI!」という文字まで用いて、適切な診療を一刻も早く受けよと、半ば威嚇さえもしていた。だがやす香は「こわくて」「おびえて」右往左往し、しかもそんな一人の理性や判断力を喪っていた十九歳から、大人たちは、「目を離し・口を噤ん」で、言語道断な「手遅れ」をむざむざ招いた。
「白血病」と見誤り、「肉腫」と診断を決定した即座に、もう診療不可能な「緩和ケア」を、つまり「死」を前提にした状態を、まるで神の思し召しかのような言い訳を添えて受け容れ、死後の「お祭り」へ、一直線にやす香をやすやすと見送ったのである。そのうえにもし、やす香は「使命」を果たしてラクになった、「おつかれさん」「やすらかに」と本気で誰もが言うのなら、可哀想に、やす香はまさに「見殺し」に遭ったようなものだ。
* やす香のそばにわたしがいてやれなかったのは、わたしにも責任の一半がある。わたしはやす香に死なれたから泣き嘆くのではない、「死なせた」と思い申し訳ないと自身を責める。わたしはやす香の日々を現実に目に見ていてやれなかったが、日記からは目を離さなかった。危ないと見ていた、だから「親に相談せよ」と喧嘩腰にすらなったのだが、それもメッセージやメールで言うよりなかった。逢うことが出来なかった。親にも伝えられなかった、聴く耳もなかったろう。わたしたちもその点、やす香の大勢の友人達の域を出られなかった、いや友人の大勢は「生きている」をやす香を見て話せていたのである。
* 寂しい花火になる。
* 秦 恒平さま 四国の****です。
メールしにくく、我慢しつつも、堪え難く、ついにメールしました。
残念です。
毎日のブログを開くのが怖くもあり、気にもなり、目を瞑りながらの訪問でした。
その間、湖の本・米寿のインパクトを交え、ネット環境にない読者には味わえない(創造者・表現者の)極限に触れる戦慄を味わい、体験し、なおかつ、若き「生命力」への信仰のごとき僥倖への渇望を託しながらの日々でした。
しかし、夕日子さんの誕生日をこのような形で迎えるとは。
「老少不定」とはいえ、余りにも早すぎる「逆縁」の訪れです。
しかも、予告されたかのような、母娘の絆。長くつづくのは、「苦しむ」のは、死者以上に、残されし者の現世の営みであり、それゆえにこそ秦さんが忌避される、形骸化された死者への「祭典」であり、儀式なのでしょう。「レクイエム」は、本来、苦しみを共有した、限られた者だけが、しめやかに内心で唱える「鎮魂」のメロディであるはずです。
しかし、少女は苦しさに堪え、友の手向け(音楽会)を素直に受け入れ、あたかも「逆修」のごとく現世でそれを実現させた。
やす香さんの優しさは、「おじいやん」の想いの深さを超える天使のような境地だったのかも知れませんね。これもある種の「因縁」と割り切らねば、私のような凡夫でも、他人ごととは思えない身を切られるような「痛み」の原因が納得できません。
人と人が信じあい支え合って生きてゆく「生物」としての、あるべき姿、ありたい理想。内外の理不尽な「死」が永遠のごとく絶えない世界への、成人前の「やす香」さんからのメッセージを、苦痛とのセットで重く受け止め、抱きしめていたいです。心をこめて合掌。 円
* 有り難さに涙が噴き零れる。この知己の言われる如くである。
「おじいやん」の思いは、いま、ただただ堪えがたく奔騰していて、わたしはそれを意識し、認知している。平静に激し、平静に言を切し、この不条理な劇をわたしはかなり平静に観察していると謂って間違いない。
やす香の厳然たる不幸な最期の前で、それをしもあたかも平安な必然の死であったと謂うがごとき、ごまかしは受け容れたくない。それは生者の自己慰安であり自己弁護に過ぎない。
わたしは、堪えかねてこの間にただ一度だけ「神」を呼んだけれど、わたしは、いわゆる「神」なるものには頼まない。神をむなしい抱き柱にはしていない。
やす香の気持ちに、あたう限り近いところで、このかけがえなかった孫娘の魂と共生したいと願うのみである。
わたしは神を憎みも賛美もしない。神はいない。神に願う者に、神はけっして訪れないことを、わたしは感じている。やす香も、いまはそれを知っている。
2006 7・29 58
* この花火 やす香は天でみているか 遠
* 浅草へ、例年のように花火に招かれ、出向いた。
ひとり、いつもの場所に椅子をもらい、花火を間近に眺めた。送り火をたく気持ちであったが、あはれ美しさ・はかなさに、何度も胸つまり、宵闇と花火の響 (とよ)みに隠れて、嗚咽をこらえた。
* 花火で、悲しみを散じることは、とても出来なかった。ほとほと身も心も、ますます萎え疲れた。やす香は帰らない。
言問大通りを、花火から流れて帰る人波と共に、とにかくJR鶯谷駅まで歩く以外に、車もとても拾えないのは、例年のこと。
だが、もう歩く元気がなかった。いつも目に付いていた「高勢」という佳い寿司屋の暖簾をはねた。もう三十分ほどで店をしまうがいいですかと主人に念をおされた、それでよかった。
肴を次々に切らせて、銚子は一本。気持ちは深く沈透(しず)いていたが、美味さに思い和み、それでもともすると気は遠く、引き沈んでいった。両脚が、しきりに痛く攣った。
心地和らいで、「高勢」をやがて出、信号のあるところで、向かい道へ渡り、人波にまじって歩いたが、そのうち、わたしは、歩きながら、わが肩に来ているやす香を感じ、はじめてやす香に詫びて、路上、おいおい泣いた。
* 親に隠れてやす香が我が家へ来るようになり、以来二年半、どれだけ、やす香はわれわれに向かい、こう言いたかったか知れなかったのを、少なくも、わたしは感じていた。
「どうか、父や母の犯した、おじいやんやまみいへの無礼や我慢を、ゆるしてやってください」と。
やす香は、それがどんなに言いたかったか。なによりそれを言おうと、親に告げず思いきって祖父母の家までやってきたに違いない。
だが、わたしたちは、やす香にそれを口にさせなかった。わたしも妻も、母夕日子の幼かりし若かりし昔の話を次から次へして聴かせたけれど、父親に関してはたったひと言も触れようとしなかったのである。
だが、やす香の、「父や母をゆるして」という声なき声は、いつも少なくも私の耳には届いていた。
わたしも妻も、やす香にそれを言わせたくなかったし、それを言うなら、婿であり、大学教員である、教育者である本人が、夕日子の夫として、やす香らの父として、礼にかなった大人の態度と挨拶とを、きちんと示すべきだと思ってきた。「礼にあらざれば聴さず」と。
そしてやす香も、いつか諦めていたかも知れない。
* わたしは夜の言問通りを歩きながら、頑なに過ごしたおじいやんの「無言」を、今更やす香に詫び、絞るほど声を放って泣き、とぼとぼとぼとぼと、気落ちした、重い痛い疲労困憊したからだをずるずるひきずって、JR鶯谷駅まで、やっと辿り着いた。保谷の家が、まだ千里もあるかと絶望するぐらい、疲れた。
* それでも、わたしは、帰ってきた。そして、知った。
★★家は、「MIXI」での「やす香=思香」と「おじいやん」の「マイミク」関係を、一方的に拒絶解消し、もはや「やす香=思香」の「日記」をどうクリックしても、「このユーザーの記事にはアクセス出来ません」と通告されてくる始末。
まさか亡くなったやす香が、自分からこんな「無道」な措置を「おじいやん」相手にするワケがない。そんなことをしてみても、他のルートを通れば、今日の ★★家の葬儀の「御礼」は、ちゃんと読みとれる。
* わたしたち「やす香の祖父母」は、ついに一度もやす香が何日何時何分に亡くなりましたという通知も、通夜・告別の通知も、★★家から受け取れなかった。「白血病」告知以来の見舞いの経緯すべてからみて、なぜ「やす香の祖父母」であるわれわれは、そんな仕打ちをやす香の親たちに受けねばならないか、理解に苦しむ。親へ、子のとるべき最低の礼儀ではないのか。
「だいじな孫を死なせてしまいました、ごめんなさい」と、それが、大人として真っ先にする当然の礼であり挨拶ではないか。
* もっとも、十数年来心臓を病んできた老妻は、いま疲弊の極にあり、遠方の「お祭り」になど出て行く体力も気も無かったし、わたしは、「生きているやす香」にこそ「生きよけふも」と願い続けたが、やす香の死に顔は見に行かぬと決めていた。
わたしはつねづね葬儀という儀式に重きを置く思想は持たない。告別には私なりの作法を持っている、花火をやす香と一緒に観るとか。
だからといって★★家が、やす香の祖父母へ何一つ通知もしないでいい「理」も、「礼」も、無いであろう。
* やす香は、こういう、ややこしさに板挟みにされていた、可哀想であった。
それでもわたしたちの処へ、親に構わず、自発的に進んで来てくれた。ありがとう。
* 2006年07月29日 23:02 御礼
やす香は、たくさんの皆さんに送られて、
………延べ600人!!!………
みんなの歌う「栄光の架橋」に送られて
棺に入りきらないほどの花とメッセージに包まれて、
そして、
さまざまな事情でおいでいただけなかった方々も含めて
たくさんの友情と祈りに包まれて
「終わらない旅」へと旅立つことができました。
ありがとうございました。
★★★・夕日子・行幸
* 「やす香を、なんで、むざむざ、こういうことにしてしまったか」。死なれた受け身だけを「人生最大の晴れ舞台」と飾り立てて、「死なせた自責」は、ついにひと言も、この家族、両親は、口にしない。たくさんの友情と祈りに対し、それが正しい「礼」であろうか。
この「御礼」のさばさばしたこと、だいじな子に死なれ死なせた哀惜、感じ取れるだろうか。わたしには、感じ取れない。
* 浅草へは、やす香と一つ年下になるか、望月太左衛さんのお嬢ちゃんでこの春藝大に入学した真結(まゆ)ちゃんのお祝いに、小池邦夫から昔に買い、ずうっと身近に掛けてきた好きな絵を持参。やす香にかわって、元気に、天賦の音楽の才能を伸ばして欲しいと、祈念して。
太左衛さんと一門の人達に優しく迎えられ、ビルの屋上で、(見物のお客はいつもより大勢だったが、)ひとり、いつもの場所に椅子をもらい、花火を眺めた。
* 太左衛さんは、同じ浅草の雷門近くに新しい稽古場を開いたという。
わたしの事情をホームページでつぶさに知っている太左衛さんは、あえて花火に誘ってくれた。花火のあと、わたしをわざわざ見送って、しばらく、言問通りまで一緒に歩いてもくれた。ゆかりのお地蔵様に二人で、元気な真結ちゃんのためにも、他界したやす香のためにも参拝し、ひさご通りで別れてきた。
* 「高勢」はいい寿司屋だった、肴の吟味がすこぶる上等、備前などのいい食器(もの)を出してくれ、心地よかった。鮨飯は海胆にだけ添えてもらい、銚子の数は控えた。花火を観ながら酒もビールもお握りなども振る舞われていた。
2006 7・29 58
* 虚脱。あれをしこれをしていても、ボーゼンとしているだけ。ひきこまれるように瞼ふさがって睡眠へ落ちこんで行く。
* このカリタス高制服姿のやす香の写真は、2004.12.17日、保谷へ遊びにきて祖父母を大喜びさせた日の、一枚。たくさんたくさん話し合ったあと、見送りかたがた西武線にのって夕食に出掛けた、その空いた車内で向かいの席から「おじいやん」が撮った。やす香がこころもち右に傾いでいるのは、となりの「まみい」へ寄り添うていたのである。(こんなに大きく載せるのはひとえにわたし一人の「闇」の思いであって、人様にみせるためではない。遠慮無くカットしてくださるように。)
在りし日の 愛しき孫 やす香 十九歳にして遠逝。 写真
* この日の歓談で印象深く記録されているのは、母夕日子について、「謎です。ワッカリマシェーン」と笑ったひと言。
* この日の歓談で印象深く記録されているのは、母夕日子について、「謎です。ワッカリマシェーン」と笑ったひと言。
* 悲しみは、人から人へ、波紋のように拡がり、人の悲しみを想像すれば、自分もその悲しみに染まるものです。
事実、風のHPからは、大勢の人の涙しているようすがうかがえました。
一緒に泣くこと。それも一つの、風への励ましかもしれません。はじめ、わたしも、風の悲しみ、無念を想い、自らも沈んでしまいました。
けれど、これではいけない、と思い直しました。
風がふと視線を投げかけたとき、そこに咲く花のように、わたしは、自身の日常を溌剌と生きるべきで、それが、風への励まし、支えになってほしいと思いました。
お孫さんの亡くなったことについて触れるのは、風の悲しみに拍車をかけるみたいな気がするので、今後、わたしからはしない、できないと思います。
でも、風が、話したい、吐き出したいと思われたら、もちろん話してください。花はいつでも両手を広げ、風を受け止める姿勢でいます。
上に書いたこと、黙っていても伝わるかなあ、とも思いましたが、メールのやりとりだけの間柄なので、念のため記しました。
今日は、遅く起き、遅くにとんかつを食したので、夜になってもおなかが空きません。
風も、おいしいものを召し上がって、元気にしていてくださいね。 花
* ありがとう。花の思いは分かっています。
2006 7・30 58
* やす香月が尽きた。母の誕生日を自身の命日に書き換えた、やす香。おまえは、何を思っていたろうね。
* この四月十二日にまさしく「思いあまって」やす香にメッセージを送ったのが、「MIXI」に記録されている。これを同文で母親の夕日子に送る手だてがもし有ったなら、と、残念だ。わたしは、かなりこのときやす香に対してもカンカンに怒っていたのである。
* 宛 先 : 思香(=やす香) 日 付 : 2006年04月12日 20時38分
件 名 : MIXIに加わってから、思香日記を
欠かさず読んできました。もうまる二ヶ月ちかくなります。一言で言えば「心配」の連続でした。
人から耳の痛い何かを言われるのを、頑固に拒絶しているらしいのは知っていたので、直接、何も話し掛けませんでした。
書かれてある日々の生活、それを話している書き方・話し方。そして会話。それは、ま、本人の勝手であるから好きにしていいことですが、最近の日記には、「心身の違和」が猛烈に語られはじめ、こと健康、こと診療となると、心配はもう極限へ来ています。
ことに今日の日記など、これが「ピーターと狼」の例であるならべつですが、本当に本当にこんな有様なら、やがて神経や精神に響いてきます。親とも、本気で何の相談もしていないように見受けるし。
思香日記をみてくれている「大人」の知人・読者には、日記じたいが心幼い一つのパフォーマンスであり、自我の幼稚な主張であり、或いは遊戯に近いかと解釈する人すらあるのですが、わたしは、おじいやんは、そうは思っていません。かなり危ないと、ほんとうに心配しています。
相談したい事があるなら、素直に柔らかい気持ちで、遠慮無く言うてきてくれますように。とても「笑って」られる状態・状況とは思われない。
まさか思香は他人からの「愚弄愛」に飢えているわけではないでしょう。だれからも、正常で正当な「敬愛」を受けたいのではないか。それにしては、あまりに言うこと為すこと「幼い」のではありませんか。
思香は、こういうことを身近な誰それから直言されるのを、極端に嫌っている気はしますけれど、心の健康すら心配される今、手遅れにならぬうちに、「話しにお出で」と声をかけることに、おじいやん一人で決心しました。 湖
* この翌日にも親もともども東大とか慶應とか医科歯科とか、検査能力の高い病院へ駆け込んでいてくれたらと、此の後二ヶ月半ものほぼ空白の苦痛ばかりが傷ましく、悔やみきれない。これを七月尽のわが呻きとして言い置く。
2006 7・31 58
* みずから「プロデュース」と称し、肉腫にあえなく落命した亡き娘やす香十九歳の、「人生最大の晴れ舞台」として「お祭りだお祭りだ」と、司会に女優さんを緊急に雇い、通夜・葬儀の演出に奔走した母夕日子にとって、それは、「死なれた」悲ししを、涙ではなく笑いで乗り切るのが「やす香を見送る最良の方法」と思い決めたことであったろう。
それはそれ、である。参会した六百人の誰しもが、「やす香」の人徳のまえで、じつに美しくピュアに悲しみと親愛とを表現してくれたという。すばらしいやす香の生命力である。わたしはそれを微塵も疑わないし、わたしもまたやす香の徳を心から称賛してやれる。
六百の参会者に満ちあふれた、「死なれた」受け身の思いは、あまりに自然で当然である。
* だが、むろんわたしたちもふくめ、やす香の家族に、やす香をむざむざ「死なせた」という強烈な悔いと自責とを欠いていては、おはなしにならない。
それほどの「やす香」を、家族の愛ある目の、手の、口のまるで及ばなかったため、「むなしく死なせてしまいました、やす香にも皆さんにも申し訳なかった、ごめんなさいね」という表白が、やっと葬儀のその日に夕日子の口から少し漏れ出ていたようだ、「父さんが書いていたのを読んだと思われる」と、建日子は、わたしたちに告げてくれている。
何であれ、それでこそ、やっと本当の親の心情が流露したものと、やす香のために、また夕日子たち自身の心の平和のために、頷いてやりたい。
* 「死なせてしまった」という家族の痛恨を欠いた、ただ葬儀の「プロデュース」など、いかに「死なれた」大勢の世間様を感銘させ得ても、肝心要の家族の振るまいとしては、本末を転倒した、偽善的なごまかしに堕する。まっさきに、自分自身の不注意と愛の薄さからやす香を「死なせてしまいました、ほんとうにごめんなさい」という痛惜・痛恨が吐露され自覚されないかぎり、そしてそのうえでやす香のため、精いっぱいみなに参加して貰える晴れやかな儀式を仕組むのでないかぎり、真の愛からも情からも薄く逸れてしまう。文字通り「情けない」ことになる、わたしはそう思ってきた。
* わたしは、この「私語」に、いままさに夕日子達の、頭(こうべ)をまことに垂れて言うべき言葉までを「書いて伝え」ねば成らなかった。
建日子によれば、「やっと父さんの思いが届いたようだよ」、と。少なくも、そうと漏れ聞いて夕日子達の悲しみに、わたしも涙を添えることが出来る。よかったと思う。
* 妻と歯医者に通う。妻は疲弊している。わたしも元気ではないが、元気に生きてゆかねばならない、二人とも。
* 大急ぎで特筆・感謝したい、香川県下の(固有名詞を避けるが、)或る、准看護師資格を志して勉強している生徒さん達が、主に「MIXI」の記事をみて、やす香の祖父である私のために、全員が優しい所感と私信とを届けて下さっていた。
書かれていたのは、まだやす香生前で、大きな郵便物が届いたのは二十七日、亡くなったその日であった。
とりまぎれて御礼も申し上げられず、なかなか読み始めもならなかったが、告別の日の二十九日、わたしは浅草の花火へそれを鞄に入れて持ち出し、電車の中から百人百枚にちかいであろうみな鉛筆自筆の手紙を、一枚一枚、一人一人ぶん、丁寧に読んでいった。そして今日、歯医者の待合ですべてをありがたく切なく全部読み終えたのである。
みなさん、ありがとうございました。こういうふうに生徒さん達にし向けて戴いた先生にも心より御礼申し上げる。
胸にしみ通る言葉が多かった。看護師さんになろう、なりたいという人達であることも、記述にしっくり来るところ多く、教えられもし頷いて涙をぬぐって読んだ。
わたしが数十年前、妻と上京して医学書院に就職、いきなり担当したのが「看護教室」という准看護師ないし志望者対象の雑誌であったなあと、懐かしく思い出しもした。あの頃、雑誌編集委員は、東京女子医大総婦長の関光さんと、もうお一人が高野貴伊さんであった、お二方とも大先生だった。いろいろお世話になった。
看護師の卵さん達、ありがとうございました。やす香は残念ながら七月二十七日朝、母親の誕生日にしっかり手を掛けて、永逝しました。
* 届いたご本を見てなぜか胸がどきどきしました。
長いことパソコンから離れていましたが、しばらく振りに今日ホームページを拝見し、初めてお孫さんのことを知り本当にびっくりいたしました。そしてお写真を見てはっと息が詰まりました。自分もいろいろな想いを経験したつもりでいましたが、こんなことがあり得るのか、あっていいのかと、胸ふさがる想いです。
言葉にしようのない気持ちのまま、心からお悔やみを申し上げます。 竹
* ありがとう。
* 二十三日にやす香を見舞った日、やす香の床のわきで、静かに静かに聖歌を歌って下さっていた方から、やす香生前の思い出などをメールでたくさん教えて頂けた。ご親切にも頭がさがるばかりであるが、告別式のあと、あまりに卒然として手早にやす香を運び去られるに堪えかね、夕日子が声を放ってついに泣き崩れ、あとを追って駈けたというのを読み、夕日子が可哀想で可哀想でわたしはとても堪えられなかった、さぞ悲しく悔しく辛いことだったろう。
発病以来、長い間泣くのをこらえて笑おう笑おうとしていた、賢いようでバカなバカな娘よ。やす香は重い「十字架」になった、われわれは生涯背負って行きますと、この母は漏らしていたそうだ、「死なれて・死なせた」われわれの、それは到底遁れようのない負担である。
夕日子がつらいのは、この先の日々だ、だがよく堪えて、妹行幸から節度ある愛情深い眼をどうか離さないで、幸せ一杯にみごと育てて欲しい、心優しいやす香はそれをかならず喜んでくれる。
2006 7・31 58
* 博物館で見た知恩院の、「早来迎」を想っています。 雀
* なによりのお心入れです、感謝。 湖
* おとといに、夕日子が「MIXI」に出したアイサツを引いておく。冷淡なほど冷静に、かなりうまい文章になっている。だが言っておく、これは「死なれ・死なせ」たものの痛苦を希釈し、
「ごめんね、やす香」
「やす香をむざむざ死なせて、お友達のみんな、ごめんなさいね」
の、ただ一と言も先立てない、それどころか堂々と若い人達の人生を「教訓」している一文である。装われたひとつの「文藝」「文才」ではあろうけれど、ほとばしる「誠」は、はなはだ薄い。
「バカかお前。おまえはセリフだけはリッパそうに言うが」と、娘の昔によく窘めたのを、またしても思い出す。「闘病記」という言葉はあるが、やす香は六月十九日ごろに入院し、二十二日に自ら「白血病」と「MIXI」で打ち明けるまで、「闘病」の二字もおぞましいほど孤り病躯の進行にのたうっていたが、その後七月二十七日の遠逝までは、親と病院との敷いたレールの上を(参考までに「病院は延命のための何もしていません」「すべてお母様がご存じです」と、やす香祖母は北里大病院の看護師からて聴いて確かめている。)運ばれたに、ほぼ同じい。音楽まつりも、再三の死決定を予測したような発語、そりに伴うモルヒネ増量、輸血停止の最後まで、また通夜・葬儀まで、また「MIXI」日記の運営にまで、それは何らかの意味で「プロデュース」(母夕日子の言葉)またはディレクトされた、人為的に進められた経過であったと謂えないだろうか。治癒改善への医療に伴う「闘病」は少なくも「肉腫」と決定後は無かった、直ちに終末期の緩和ケアを実施したことは明らかだ。
ここに書かれたやす香の言葉も、死後の「あと出し」で、しかもやす香の文体とは甚だ異なった「作文」臭を感じざるを得ない。やす香の日記やメールをつぶさに読んできた作家であるわたしには、やす香のまちがいない文章と、代筆ないしやす香に仮託された文章・文体との差には、比較的容易に気づける。また、連続して川の流れのように記述されたやす香日記の前後をよく見渡してみると、母親が関与したやす香文にあらわれるニュアンスに、著しい落差が認められる。秦建日子ブログに記されたとあるやす香文は、それがそんなに大事なら、当然「MIXI」に当日出されてもいいものだが、「MIXI」当日のやす香による記載は、
2006年07月13日
19:23 今日はね 大変だったの…。体力消耗~
に尽きている。建日子のブログに送られたものは、夕日子が掲示したものよりさらに長い。「お別れ会」で紹介するほどだいじなやす香のメッセージなら、やす香の気持ちとしてこの書かれた当日に「MIXI」に告知されて良かったが、無いのである、「体力消耗」の嘆声または悲鳴以外には。建日子ブログに送られている時刻は早朝。夜の夢に悩み眠れなくて悩んでいたやす香の朝は、うとうとの心落ちたまどろみの時刻であろうに、こんな堅苦しいやす香の文体でない文章を書けたろうか、果たして。わたしには、不審が残る。
* 2006年07月30日 09:07 そして、明日を、生きる。
皆さんに支えていただいたこの短い闘病記を終えるにあたって、母・夕日子から、皆さんにお伝えしたいことがあります。
言わずもがなかな、とも思うのですが、
でも、やす香が命をかけたメッセージです。間違いなく、届けたい。
長くなりますが、読んでください。
*****
不思議に思われるかもしれないけど、私(=やす香)笑うことがすごく、すごーーーーーく好きだから、そして人は必ず誰もが死ぬものだから、最後まで友達と他愛もなく生きていることを自分で選びました。自分の命が見えた分だけ、自分が本当に何が好きなのか、どうしたいのかを見つけることができたんです。
*****
お別れ会でご紹介したこの文章は、やす香の叔父・秦建日子のブログに、お見舞いへのお礼として記されました。軽く流したようでいて、考えに考えて書いた文章です。
だけど、
やす香の人生において「本当に好き」なのが、「他愛もなく生きる」ことだったわけではないと、どうか忘れないでください。やす香は「未来を生き、夢を実現する」という、もっとも大切な道を奪われました。その断崖に立ったとき、残された日々を、悲嘆や、悔恨や、憎悪や、絶望で過ごすか、あるいは、「他愛もなく」「笑って」過ごすか、やす香は後者を選びました。究極の選択であったことを、忘れないでください。
それは、やす香がみずからに課した最後の規範でした。お見舞いの賑わいが去った病室に一人残され、恐怖と絶望がにじみよる夜の闇の底で、やす香は何度も泣きました。失われた未来を思って、泣きました。あるいは、苦痛を早く終わらせたいと、泣きました。けれど朝が来ると、やす香は自らの規範に立ち戻りました。そうやって残された日々を、大事に、大事に生きました。
友達は大事です。偉大です。やす香の最後の日々を支えたのは、医療でも、親でもなくて、まぎれもなく「友達」でした。そのことを私は何度も、何度も感じました。
でも、言わせてください。
いえ、やす香のこの言葉を聞いてください。
*****
NOと言うことから逃げないで、
自分の思う道を進む。
道は一つじゃないんだから、
どの道を歩もうと、
早足で歩もうと、ゆっくりと歩もうと、
たどり着く先に
確かな夢さえ見えていれば大丈夫だよね。
*****
「友情」にがんじがらめにならないでください。
あなたたちに有る「明日を生きる」道程で、もし「友情」が、あるいは「愛や善意」の名のおいてなされる「干渉や束縛」が、あなたを損なうと気づいたら、自分を守る勇気を、どうか、忘れないでください。
もう少しだけ、つきあってくださいますか?
「何もできなかった、後悔でいっぱいです」
夕べ、そんな電話をいただきました。
いえいえ、あなたはやす香の命を支えました。
「できなかった」という悔恨は、私たち両親だけが、しっかりと胸に抱えて生きていきます。それで十分です。それは私たちに科された十字架でもあります。
だけど、やす香はけして、私たち二人にも、「悔恨だけの日々」を望まないでしょう。だから私たちも、やす香のように、明るくこうべを上げて歩む未来を選択したいと思います。
「この痛みを一生忘れたくない」
そんなメッセージもいただきました。
いえいえ、忘れていいんです。
私たちは皆、これから、未来を生きます。
やす香の望みは皆を引き止めることではなく、生きて進んでいく背中を押すことだったはずです。勉強に、バイトに、恋に、日々流れていく時間の中で、私たちは皆、やす香を忘れている自分にふと気づくでしょう。そのときに、後ろめたく思わないでください。むしろ「やす香のことを、ふっと思い出した」、そのことを喜んでくだされば十分です。
「やす香のように生きよう」とか、「やす香の夢を引き継ごう」と思っていただく必要もありません。
人がそれぞれに違うということを、やす香はよく知っていました。「異」を受け入れる世界を、望んでいました。だから、皆がそれぞれに、自分らしく、違う未来を歩んでくれることを望んでいると思います。もしそれがやす香に似た歩みになったとしても、それは「あなた自身の歩み」であると、胸を張って宣言してください。
私はこの一月に、知らなかったやす香をたんさん教えてもらいました。特にカリタスの方からは、たくさん、たくさん伺いました。でも、大学のお友達とは、なかなか話す機会がありませんでした。いつか、たくさん、聞かせてもらえたらと思っています。
でも、振り返るのは、少し先にしましょう。
それまで、しばしのお別れです。
今日を、明日を、生きるために・・・・・またね♪
* 「究極の選択」をしたのは、病院と家族であり、あの苦しみの中でやす香にそれが出来たと考えるのは、錯覚か作為であろう。病床のやす香自身は、まだ強い意志と意識のあるうちに、ともあれ、こう書いていた。胸をうってやまない言葉を書いていたという「演出」された綺麗ごとではないのかという不審が、どうしても残る。割り切れない。分からない。
* 2006年06月28日 02:54 夢 やす香
自分のやりたいことが、自分の思うように自分でできないって、こんなに悲しくて悔しいことなんだ。今まで、自分がどんなに、たいした病気もけがもせず、恵まれて生きてきたのか、思い知らされた。
こうやって、みんなに励まされながら思うことは、みんな、想像以上に多くの人が、今までけがや病気と闘ったことがあるんだなっていうこと。
「私だけ」なんかじゃないんだな。
頑張らなきゃいけないんだなって。
今までずっと、同じ夢見続けてきたから、今、こんな体になって、それが叶えられるような体に戻れるか、すごく不安でしかたがない。自分の特技や経験を全部集めて叶えようとしてた夢だから。
だけど、こうやってベットの上で病気と闘うことにも、何か意味があるのだと信じて、きっとこの経験も何かに生かせる日が来るんだと信じて、闘っていかなきゃいけないんだと思う。
今、多くの人に助けられて生活している。私は丸裸の心一つでベットの上に寝ている状態。気持ちだけが自分のもの。その中で、見たこと、思ったこと、精一杯みんなに伝えていこうと思う。
これからもよろしくね。
* いかにもやす香の文章である。
* 2006年07月03日 18:05 命の重さ やす香
私が
ただ普通に生きたいと思うことが、
こんなにも多くの人を
巻き添えにしなくちゃいけないことだなんて
思ってなかった。
家族、友達、医者…
ただ普通に生きたいだけなのに。
感謝の言葉すら言い切れなくて、
悔しさばっかりたまっていく。
一つの命が
自分の力で生きていけなくなったとき
そのたった一つの命に
一生懸命になってくれるみんなの重さが
命の重さなんだと思う
命は決して自分だけのものじゃないんだよ
* やす香の言葉だ。
* 2006年07月07日 07:58 告知 やす香
私の病気は
白血病
じゃないそうです。
肉腫
これが最終診断。
れっきとした
癌
だそうです。
近々 (院内の)癌センターなるところに転院します。
やす香の未来はどこにいっちゃったんだろう…
* 何のゴアイサツでもない、ぎりぎりの実感(ハート)を、苦悶の下から白い蓮の花のように、柔らかに開いている。この直後から、やす香は「肉腫」患者として、待ったなしの即時「緩和ケア」対象にされていた。文字通りの「治療断念」である、「どう死を迎えさせるか」だけが、病院と親との対応だった。幾つもあった診療援助の提案や斡旋も顧みられない、つまりあまりに手ひどい「手遅れ」だった。六月二十二日の「白血病」から、この七夕の「肉腫」までの半ケ月余は、いったい、やす香のために「何」であったのか。
だがここへ来て初めて、やす香は、「平安な最期を」という選択をむごく「説得」されたようである。やす香は絶望し、健気に受け容れたかも知れない、やす香は心優しく周囲を慮るタチだ。
だが、やす香は実際はこう叫んでいた。
* 2006年07月07日 14:31 会いたい やす香
親友に会いたい
友達に会いたい
先輩に会いたい
後輩に会いたい
先生に会いたい
みんなに会いたい
最後の土日に
みんなに会いたい
* 2006年07月08日 19:20 嫉妬 やす香
私の命は私だけのものじゃないけれど、
痛みや苦しみと闘うのは私しかいない。
矛盾。
うらやましい。
動けることが。
生活できることが。
私の下半身は
しびれて思うように動かない。
私の胃も腸もまともに動いてくれない。
管が増える。
もうここにいるやす香は
みんなの知ってるやす香じゃない。
嫉妬でいまにもおかしくなりそうな
一人醜い身体でしかない。
* 2006年07月10日 01:32 夜 やす香
夜が嫌い
必ずおいていかれる夢をみる
歩いても走って
絶対に追い付かない
夢でも管に繋がれ、
食べたいものも食べられない
そんな夢を見る夜が大嫌い
* 2006年07月10日 08:09 タイトルなし やす香
生きたい
* やす香から命の火の消えたのは、このあと十七日め、だんだんやす香自身は「MIXI」に書けなくなって行き、多く、「やす香母」が代筆していた。口授の代筆と仮託の作文とは、ちがう!。
* この、「生きたい」の、やす香ただ一語は、千万言の装った、繕った、演出した綺麗事よりも、地球よりも、重い。
* 七月二十三日、建日子も一緒に三人で北里大学病院に見舞った日、やす香は、カリタスの先生もいっしょにいる吾々を目を開いて認め、
「どうして勢揃いしているの」とはっきり問いかけた。わたしたちはその明晰な物言いと状況とに、驚喜も狼狽もして、笑い声をさえあげて、やす香に言葉をかけることが出来た。
そして翌二十四日、もう一度建日子も一緒に見舞ったとき、たまたま夕日子が病室を出て、やす香と吾々親子との四人だけになったとき、やす香はうとうとと寝入っていた中から、突として発語し、まず、「まみい」に「手をにぎって」と言い、妻は寄り添い、もうそこにしかやす香の命も感覚もない左手を、しっかりにぎってやった。やす香はきゅっと握り返したのである。
やす香は、それから、語幹だけを謂うなら、「生きている」「死んでない」と明瞭に発語した。
そうだよ、「やす香は生きているよ」 「死んでなんかいないよ」 「生きなさい」 「生きていっしょに本を書こう」などと三方から声をかけあった。やす香は頷くようにし、しばらくして、「ツカレタ」と呟いた。
それが、やす香とわたしたちとの「お別れ」になった。「明日からはもう来ないでほしい」と言い渡されたのだ。
「MIXI」上にはっきり伝えられている、なお見舞客の間近な見聞として、翌二十五か六日に、病院と親とは、やす香の「輸血を停止」した。
七月二十七日の母の誕生日をやす香も祝い、そして七月を乗り切り、八月を堪え、九月十二日の「成人」の日をと、わたしたちは、みな「生きよ けふも」と願っていたが、夕日子はあの「生きよ けふも」の祈りが、やす香をいちばん苦しめると分からないのかと激昂し、わたしたちに電話で怒鳴り込んできた。嗚呼。
輸血を停止されて、どう肉腫のやす香が生きられよう。はっきりと、やす香は医療から、「これまで」とそこで見放された。病院はやす香を人為的に「死なせ」る決断をし、親たちは承知したのだ。
余儀ない措置と、たぶん手遅れ「肉腫」の常識は教えているだろうが、やす香はどんなに「生きたかった」ろう。「くやしかった」ろう。どんなに、「死」の手に鷲づかみにされながら「生」の側にいる者達に「嫉妬」していただろう…と、想う、可哀想に。
* われわれに漏らした最期の言葉を、わたしと妻と建日子とは、それぞれに聴き取った、すこしずつニュアンスを変えて。
朦朧とした眠りの渕から浮き上がったやす香の言葉を、或る者は、「やす香は生きているよ。死んでなんかいないよ」と聴いた。また「やす香は生きていたい、死にたくない」と聴いた。また「やす香は、まだ生きているの、もう死んでいるの」という悲しい不安な声と聴いた。
いずれにしても、それは母夕日子がやす香の「本意」と伝えているゴアイサツとは、甚だかけ離れている。説得された出来合いの覚悟と、まだ十九歳の生命の根から噴き出た「生・死」を問う熱い執着と不安の言葉と。うら若きやす香の本音は、あまりにハッキリしていて、夕日子の「陳述」は装ったうわべをすべっている。
やす香は「まだもっと生きてくれるよ」と、祖父も祖母も叔父も信じて、あの日二十四日月曜、保谷の家へ帰りついた。
だが、あの翌日から見舞いは断られ、そして輸血停止の決定があった。たまたまそれをまぢかに聴いていた、またそれを伝え聞いた、最期を伝え聞いたやす香の知人・友人は、思わず「号泣」したと「MIXI」に書いている。
* 人は、久しい文明の歴史を閲(けみ)して、「死」を、幾らでも空疎に飾り立てるスベを覚えてきた。それを「手」として使った政治家達も、いやほどいた。偽善と欺瞞とのアイサツを「みなさん」へ向けて達者に書き綴ることなど、すこし賢いものには容易に出来る。なんと気色の悪いことか。
「死なれた」という受け身の感傷だけで、「死ぬ」という死の凄さとは、なかなか正しくつき合えない。関わりの深かったものほど、「死なせた」という痛悔に根ざした「棘ある自責」をもつものだ。そのきつい棘を免れたいために、ワキへ置いておいて出来る、そんな白々しいアイサツが、世にあっていいのだろうか。
我が娘ながら、わたしは、最期に、コンナモノを読まされたかと、どうにも気色が悪い。
妻は言う、夕日子と同じ気持ちでやす香の死を悲しめないのが悲しい、と。同感だ。
* それよりも、或る方の伝えてくださった、こういう夕日子の姿に、わたしも妻も、ああさぞやと、声を放ち泣き、我が子の夕日子を、二人して抱きしめてやりたかった。
* お葬儀のあとのことをお話します。マイクロバスに乗るほどもない距離を走り、あっというまの野辺の送りとなりました。到着後はすぐに手はずも整ってしまい、神父やお坊さんでもいればそこで一緒にお経を唱えたりもするのでしょうが、係の人にうながされてただ黙祷。あれよあれよという間に、柩が乗ったストレッチャーは運ばれていきました。
それまで決して人前では声を出して泣くことのなかった夕日子さんが、泣き崩れて、鉄の扉が閉まるのを止めようとするのを係の人にやんわりとかわされて、また柱にもたれて泣いていらっしゃるのがつらかったです。一番つらい場面でした。 (やす香の知己)
* こういう悲しい場面を、わたしは実父を荼毘に付した日の異母妹たちにみて、忘れがたい。
どうか賢しらなパフォーマンスで、悲しみをうつろに鎧わないで。
喜怒哀楽をあるがままに解き放ちながら、それに囚われないように、わたしはしているよ。夕日子、お前が家に残していった、あのバグワンに、十年十余年、一日も欠かさず教えられて。
2006 8・1 59
* やす香の写真を大きくプリントして、家の何ケ所にも、飾る。わたしも妻も声を掛ける。
お見舞いには何がいいかなあ。
「梨ッ」
「お蜜柑!」
「桃もッ」と、元気な声で電話をよこした、やす香。
いいとも、梨も桃もあげよう。あの日は、もう最後ですねえと「タカノ」の店員が探し出してくれたが…もう、さすがに探し回らないと、ないなあ。落語に、夏に、冬の蜜柑をさがしまわるハナシ、あったなあ。
あんな、まだまだはんなりはじけたやす香の声を聴いた六月二十五日、日曜日。やす香はまだ「白血病」患者のはずだった。
「治る病気だから」と、あの日夕日子は母に向かいぶっきらぼうに呟いていた。
重大な誤診(=診断ちがい)と決したのは十日も「あとの祭り」だった。
* 散髪してきた。七十一のところを「六十九歳ぐらいに若く」刈りましたそうな。
2006 8・2 59
* そのむかし、わたしの「身内」の説を小学生のように誤解したいい大人が、人も驚くヒステリーを起こしたことがあるが、今度は、私の著書『死なれて死なせて』の、その「死なせて」という意味が理解できずに、わたしたち老夫妻を「名誉毀損で訴訟」すると「警告」してきた。
やす香に自分らは「死なれた」のに、それを「死なせた」ともいうのは、「殺した=殺人者」と言われているのと同じだ、「謝罪文を書け」と言うてきたようである。
べつに講義する気ではないが、わたしは、わたし自身孫やす香を「死なせた」悲しみのまま、いち早くすでに悲哀の仕事として、「MIXI」に、『死なれて死なせて』を連載し、ほとほと心やりにしている。
逆上する前に静かに読めば、大学の先生たるもの、「死なれて」「死なせて」の意味の取れぬわけ、あるまいに。
人が、人を、「死なせ」るのは、いわば人間としての「存在」自体がなせる、避けがたい業であり、下手人のように殺すわけではない。いわば一種の「世界苦 (Welt Schmerz)」に類する不条理そのものである。大は戦争責任をはじめとし、ぬきさしならない身近な愛の対象に「死なれる」ときは、大なり小なり「死なせた」という悔いの湧くのが、状況からも、心理的にも、あたりまえなのであり、むしろそういう思いや苦悩を避けて持たないとしたら、その方がよほど鈍で、血の冷たい非人間的なことなのである。
本来はまずそこへ気づき、落ちこみ、苦しみ、藻掻いて、そこからやっと身や心を次へ働かせて行く。むずかしいことだが、そこに生き残った者の「生ける誠意」があらわれる。
だれも、しかし、そういうキツイ自覚には至りたくない。身も心も神経もそこから逸らして、そういう痛苦には「蓋をして」しまい、辛うじて息をつく。無理からぬ事ではあるが、「死なれた」という受け身の被害感にのみ逃げこんで、「死なせた」根源苦に思い至らないようでは、「人間」は、その先を、より自覚的に深く深くはとても「生きて」行けないのである。
人とは、死なれ死なせて、その先へ真に「生きて」ゆく存在だ。ティーンの少女でも、分かるものには分かる。
今後わたしの発信がながく停止されたときは、娘夫婦の手で牢屋に入れられていると想って頂き、老夫婦とも命のある間は、紙筆記具やおもしろい本の差し入れをよろしくお願いしておきましょう。
2006 8・2 59
* 建日子と話し合う、メールで。
* 今日は街へ出る。
* 『死なれて死なせて』は、わたしのエッセイでは、今も広く読まれ、贈答にも用いられて、識語を求められたり、この本を契機に、いらい久しい知己の縁にも多く恵まれたりする著書であるが、どうも、「死なせて」「死なせた」という意義を読み取れない人もいて、それが大学の先生であったりするから、迷惑する。
いましも、「MIXI」の日記欄に公開再連載しているので、読んで下さっている人には、万々誤解など生じようもないのだが、オイオイ、大学の先生、落ち着いて読んでみたらどうかねと言っておく。
念のために、「死の文化叢書」の「あとがき」も含んだ、「湖(うみ)の本」版の後記を、此処に挙げておく。
本を読んでも理解できない個所は、(嗤われて平気ならご希望通り「日本ペンンクラブや日本文藝家協会へ公開質問状」をだすのもご勝手だが、率直にわたしに会って尋ねたらどうですかとも言っておく。
* 秦恒平著『死なれて 死なせて』の跋(私語の刻)
こう書けば、一切足りていたのである。
「死なれるのは悲しい、死なせるのは、もっと辛い。しかし、だれに、それが避けられようか。避けられないのなら、どうかして乗り越えねばならない。それにしてもこの悲しさや辛さは何なのか。すこしも悲しくない・辛くない死もあるというのに。愛があるゆえに、悲しく辛い、この別れ。愛とは、いったい何なのか。」
これだけの事は、これだけでも、理解する人は十分にする。そのような別れを体験したり今まさに体験しつつある人ならば、まして痛いほど分っている。
だれに、それが避けられようか。避けられないのなら、どうかして乗り越えねばならない。そのきっかけに、もし、この本が役にたつならどんなに嬉しいかと思って書いた。
この本は、他人様(ひとさま)の体験を伝聞し推量して、その断片を切り接(は)ぎして書いてみても、真実感に欠けてしまう。それほどに個人的・私的な抜き差しならない体験なのである。「自分」の体験を根こそぎ大きく掘り起こすくらいにしないと、そんな自分の実感や体験をさえ人に伝えるのは難しい。
「生まれて、死なれ・死なせて、」やっと人はほんとうに、「生きる・生きはじめる」のだと私は思ってきた。その意味でこの本は、知識を授けて済むといった本では在りえない。自分の「人生」を、率直に顧みる以外の方法をもたなかった。言わでものこと、秘めておきたいことも、だから書いた。書くしかなかった。
ただ「私」の表現に加えて、いくつかの、誰にも比較的知られた「文学作品」との出会いを交ぜてみた。作品はその気になれば誰とでも共有できる。まるまる他人の体験に、当て推量に首をつっこむことにはならないので、叙述を単調にしない工夫としても、やや重点をさだめ、そう数多くない古典や現代の作品について深く関わってみた。文学を「私」が「読む」という、その行為もまた、私の場合「人生」であったのだから、たんにこの本のための方便ではなかった。
この初稿を脱稿した日、一九九一年.平成三年の師走二十一日に私は、五十六歳の誕生日をむかえた。まだまだ、この先、一心に生きて行かねばならない。
単行本に上の「あとがき」を書いたとき、わたしは、その十月一日付け東京工業大学の「作家」教授に新任の辞令を受けたばかりで、ありがたいことに授業は翌春四月の新学期からと言われていた。まる半年を用意にあてる余裕があった。
前から頼まれていたこの書下ろし原稿をきっちり一ヶ月で書いてしまい、そして四月の授業を開始のちょうどその頃、朝日新聞の読書欄に、この新刊は「著者訪問」の大きな写真入りで紹介されていた。学生諸君に自己紹介のまえに、新聞や、テレビまでが、わたしを、この本とともに紹介してくれていた。ラッキーだった。本もよく売れて版を重ねた。
人は、一度死ぬ。めったなことで二度は死なぬ。だが人に「死なれ・死なせ」ることは、なかなか一度二度では済まない。従来の「死」を扱った著作のおおかたは「己(おの)が死」であった。いかに己れが死ぬるかを考えたものが多かった。わたしを訪問した朝日の記者は、他者の死を己れの体験として人生を考慮していることに、「意表をつかれた」と話してくれた。「死なれる」「死なせる」は、「身内」観とともに、わたしに創作活動をつよく促した根本の主題であった。
笑止なことに、親子とて、夫婦とて、親類・姻戚だからとて、容易には「身内」たり得ないと説くわたしの真意を、粗忽に聞き囓り、疎い親族や知人、遠くの人たちから、お前は「非常識」に、親子、夫婦、同胞、親戚を「他人」扱いするのか、そんなヤツとは「こっちから関係を絶つ」と、手紙ひとつで一方的に通告され罵倒されたりする。「倶に島に」「倶会一処」の誠意を頒ち持とうとは、端(はな)から思いもみないこういう努力の薄さから、どうして「死んでからも一緒に暮らしたい」ほどの愛.情が生まれよう。真の「身内」は、血や法律で、型の如く得られるものではあるまいに。
「身内」はラクな仲では有り得ないと、「生まれ」ながらにわたしは識って来た。
誤解を招きかねない、場合によって破壊的な猛毒も帯びた我が「身内」の説であるとは、さように現に承知しているが、また顧みて、どんなに世の「いわゆる身内」が脆いものかは、夥しい実例が哀しいまで証言しつづけている。その一方、あまりに世の多くが、とくに若い人が「孤独」の毒に病み、不可能な愛を可能にしたいと「真の身内」を渇望している。
よく見るがいい、人を深く感動させてきた小説や演劇・映画のすべては、わたしの謂う「身内」を達成したか渇望したものだ。根源の主題は、愛や死のまだその奥にひそんだ、孤独からの脱却、真の「身内」への渇望だ。あなたは「そういう『身内』が欲しくありませんか。」わたしは「生まれ」てこのかたそんな「身内」が欲しくて生きて来た、「死なれ・死なせ」ながらも。子猫のノコには平成七年夏に十九歳で死なれた。九十六歳の母は平成八年秋に死なせてしまった。
この本の出たあと、読者から哀切な手紙をたくさん受け取った。ひとつひとつに心をこめて返事を書いた。いかに「悲哀の仕事=mourning work」でこの世が満たされていることか。愛する伴侶に死なれ、痛苦に耐え兼ねて巷にさまよい、日々行きずりに男に身をまかせてきたという衝撃と涙の告白もあった。この本の題がいかにも直截でギョッとしながら、大きな慰めや励ましを得たという便りが多くてほっとした。たくさんな方が、悲しみのさなかにある知人や友人のため、この本を買って贈られていたことも知っている。
そういうふうにして、この湖(うみ)の本版『死なれて・死なせて』も読まれてゆくなら、恥ずかしい思いに堪えて書下ろした甲斐がある。どう悲しかろうと何としても乗り越えて行ってもらうしかないのだから。
「湖の本」創刊十二年、桜桃忌にちょうど間に合ってお届けできる。折しも太宰治賞も復活されるようなことを報道で耳にした。いくらか幽霊に逢う気分でもあるが、いい作家、いい作品があらわれて欲しい。
さて四月半ば(1998)過ぎてから始めたホームページヘ、現在、新しい長編小説を、日々推敲を繰り返しつつ草稿の初稿そのものを、書き次いでいる、仮の題を『寂しくても』とつけて。
脱稿できるかどうか保証のない新作を粗削りの段階、下書きの段階から公表するのは無謀なようだが、日ごろ無謀に生きているといえば言えるので、もうそんな斟酌はなにもしない。流れるように流れて生きている。無責任にではない、「退蔵」の日を待って「心して」「一心に」流れに身をまかせている。(=この『寂しくても』は、題をあらためて『お父さん、繪を描いてください』上下巻に完成している。)
この昨今、日本ペンクラブに「電子メディア対応研究会」設置を理事提案し承認された私の動機も、毎日新聞等に書き伝えた。(=2006年現在、この研究会は、正式に「電子メディア委員会」及び「ペン電子文藝館」に発展している。) (1998.6.) 秦 恒平
* 思い出す。この単行本が本になって、いよいよ東工大で初授業の頃に、すでにわたしたち娘の母、初孫やす香の祖父母は、婿殿から「離縁」され、以来十余年、孫を奪われていたのだった。
* 同じその人が、わたしが、自分の「私語」や「MIXI日記」に、「死なせた」という言葉遣いを繰り返しているのは、やす香の親である●・夕日子夫妻を「殺人者」だと侮辱したものであり、刑事と民事と双方で「告訴」すると言ってきたのだから、また呆れてしまっている。
どうなってるの。
やす香の血を分けた祖父でも祖母でもあるわたしや妻も、何度も何度も、今日も、只今も、あのだいじな「やす香を手が届かないまま可哀想に死なせた、死なせてしまった、自分達にも何か出来ることが有ったはずなのに」と、悔しくも、泣いて、嘆いているというのに。
* なさけない世の中である。片棒を担いではいないとも強弁できないところが、また、なさけない。
2006 8・3 59
* 平成十八年(2206)八月四日付け 娘★★夕日子が夫と連名で、「e-文庫・湖(umi)」作品の掲載削除を求め、削除しない場合、「刑事・民事の訴訟」をもって父・義父を告発すると実印つきの手紙を寄越した。
掲載の趣意と真意は当初から欄外に明記していた。作品への或る程度の評価と共感や過褒ともいえる好意がなければ掲載し保存をはかるわけがなく、むろん本人が掲載して欲しくないと言ってくれば外せばよいと考えていた。
いきなり「告訴」とは、すさまじい。凄い時代になった。
なおこの作品を読んだ際の、先輩作家としての、父親としての驚喜と激励のことばは、秦の当時の「闇に言い置く私語の刻」にくわしく、また大勢の読者もそれを知っている。突如「告訴」されるに相当するものか、読んでくださればお分かりになる。
欄外の紹介を掲げておく。
「コスモのハイニ氏」
この小説は習作のまま作者★★夕日子が無署名で 2004.9.21 – 2005.7.27 ブログに連載していたもの。インターネット上での無署名作品の盗難等難儀な事態をぜひ防ぐべく、当座、編集者(秦恒平・父・小説家)一存で此処に保管する。編輯者だけが知らないともいえるが、これは類のない題材で、一種の創世神話かのように物語られている。「こすも」(原題)なるモノが、不思議の多くを担っていて、かなり壮大に推移し変異してゆく。ほぼ十ケ月、一日の休むこともなくブログに細切れに毎日連載した、わずか二作目、事実上は一作目といえる処女長編の習作としては、行文にも大きな破綻なく纏まり、身贔屓ぬきに言う、相当独自な長編小説一編に仕上げてある。作者は1960生まれ。現在名は★★夕日子だが、従前の筆名のままに。編輯者の長女である。 2006.2.9 仮掲載
「ニコルが来るというので僕は」
この小説は習作のまま作者★★夕日子が無署名で 2005.8.18 – 2006.1.8 ブログに連載していたもの。インターネット上の作品盗難等の難儀を防ぐべく、当座、編輯者(秦恒平・父・小説家)の判断で此処に保管する。たわいなげなきれいごとのようでありながら、不思議な批評を底ぐらくはらんで終末部へ盛り上げてゆく。ブログに細切れに毎日連載した、わずか三作目の習作としては、行文に破綻なく纏めて独自の小説一編に仕上げてある。作者(現在の本名は★★夕日子)は、編輯者の長女、仮に筆名としておく。 2006.2.9 仮掲載
「天元の櫻」
この小説は、習作のまま作者(★★夕日子)が無署名で 2004.3.3 – 2004.3.29 ブログに連載していたもの。作品の盗難等の難儀を事前に防ぐべく、当座、此処に編輯者(秦恒平・父・小説家)一存で保管する。この作品はまだ小説の体裁を堅固に備えていず、小手調べの習作めいているが、物語は囲碁の勝負ただ一局を芯に据え、十分巧んで運んであり、なかなか面白い。ブログに細切れに毎日連載した、作者最初の習作としては、一風ある準小説の一編に仕上げてある。ないし仕上がる可能性がある。
原題は「櫻」である。これも編輯者の一存で仮題にしてある。 2006.2.9 仮掲載
* 夕日子本人の希望であるので、三作とも、「e-文庫・湖(umi)」の読者へ割愛の事情を添えて作品は削除した。
* ★★家は加えて、この『生活と意見』(闇に言い置く私語の刻)の全部を削除せよと言ってきている。どういう根拠と権利があるのだろう。質と量(何万枚に及ぶだろう。)の両面から、厖大なわたしのそれこそ「著作」なのであるが。
* わたしたち夫婦は、この広い世間では「極めつきの少数派」であると自任している。広い世間の「常識」と称する多くとわたしたちは、いや私だけは、と妻のために限定しておくが、かなり背馳している。多数決で勝ったことなどなかなか無い、総選挙もしかり、である。ハハハ。
わたしは、世間の常識に勝とうなどと、ちっとも願わない。気の低い常識とやらが、わたしからモノを奪い取りたいのなら、寄ってたかって、どうぞとも言わないが、「勝手におしやす」と思っているし、自分は行けるところまで自分の思うままに行く。
その「思うまま」なるわたしのあらゆる思想が、この「ホームページ」に集中している。それを全く読まないで、見ないで、不当にあっさり型どおり断罪したいというなら、「大いに不当」だと鳴らすけれども、また、きれいに人生一巻をしめくくれば済むことと思っている。
ホームページなんて、何であろう。
なるべく広い場所に出て議論出来るなら、わたしは手元に蓄えた豊富で正確な資料を駆使し、書けるだけ書き、話せる限り話して見たいのである、なるべく大勢の視・聴者の前で。わたしに喪うモノといえば、経費と健康ないし命だけである。特別惜しいモノではない。
名誉なんて、問題でない。識る人は識ってくれている。十分だ。
2006 8・4 59
* 返信に対し、以下のメールが届いたことを、日録に記録しておく。
* 秦恒平様
改悛の情なきことがはっきりと確認できました。
事務所からの指示により、これにてメール連絡は途絶とさせていただきます。 ★★★・夕日子
* こういう調子で「姻戚関係を絶ちます」と手紙でぶつけられた昔が、妙になつかしいくらいだ。
このメールと対比のために、★★からの提示に対し述べた、「改悛の情」なしとされるわたしの所感を、改めて此処に転記しておく。「改悛の情」などという言葉、わたしたち老夫妻に対し此処へ使えるものだろうか。
「闇」の彼方にも、さぞ声なき声のたくさんな感想があろう。
* 今日届いた娘の夫からのメールは、「告発」という意図で書かれたものゆえ、わたしも大切にこの日記に記録しておく権利が有ろう。なぜかわたし以外に、秦建日子ほか未知の何人かの名が添えてあるが、分からん。
* ★★★ 訴訟にさいして系争点となる、秦恒平氏による違法行為疑いの一覧を作成しました。
「生活と意見」 →プラィバシー侵害、侮辱、信用毀損、名誉毀損
「聖家族」 →私文書偽造、プラィバシー侵害、侮辱、信用毀損、名誉毀損
「コスモのハイニ氏」→著作権侵害(匿名公開著作物の筆者開示、無断転載、無断改編)
「ニコルが来るというので僕は」→著作権侵害(匿名公開著作物の筆者開示、無断転載、無断改編)
「天元の桜」 →著作権侵害(匿名公開著作物の筆者開示、無断転載、無断改編)
なお、★★★と★★夕日子は違法行為者秦恒平氏の告訴に対する全権限を保留することを申し添えておきます。 ★★★
* わたしの回答も記録する。
* 秦 恒平 ★★夫妻殿 はなはだ厳密と適切を欠いたアバウトな申し出です。
「生活と意見」は、多年にわたり数万枚にも及ぶ、著作者・創作者秦恒平の著作・創作物です。この申し出の一々の主体・主語が誰であるのか明記せず、この申し出が、一々その全容中の、何年何月何日のどういう個所をさして言うのかすら指摘していないのは、甚だ杜撰な申し出です。具体的な指摘も、具体的な理由も付けずに、著作・創作物の削除を、著作・創作者に請求するのは非礼・非常識です。
「聖家族」は、未完未定稿の仮題フィクションながら、創作者秦恒平による明瞭な「創作物」です。創作を紙や電子で出版するのは創作者の基本的に自由な権利です。
★★夕日子氏の三作品を掲載した編集者の善意の意図は、当初から掲載位置に大きく明示しています。今回夕日子氏の申し出を受けたので、「e-文庫・湖 (umi)」読者へ、折角割愛に至った理由を書きのこして、すでに削除済みです。作家であり父でもある編集者の、作品に対する好意と善意の配慮は、感謝されて自然です。 以上 06.08.04
* 秦さん。 こんばんは。
孫娘のやす香さんの死の痛手から、到底癒えていないという時期であるのに、娘の夕日子さん夫妻から、こういう時期に、とんだ、「いちゃもん」で、さらに、御心労が募るばかりと心配しています。
ご家族のなかでのことですから、他人は、口出ししない方が良いと思っておりますが、夕日子さんの作品掲載の削除は、別として、大兄の「生活と意見」全削除とは、なんと非常識な申し出と吃驚しています。「凄い時代」というより、これは、かなり特殊で、凄い夫妻(あるいは、両親)ということでしょう。
★★★さんは、直接は存じ上げないけれど、藤原保信ゼミナールでは、私の何年もの後輩に当たるし、先年の藤原保信著作集刊行パーティでは、同じ会場に居たかも知れません。すでに、数冊刊行された著作集の最新刊の「5巻」は、ことしの5月に刊行されていて、★★教授(青山学院大学)ら2人が、責任編集者でしたから、やす香さんの病状が不明なまま進行している時期、教授はご多忙だったのではないでしょうか。
藤原さんが、生きておられたら、教授夫妻の、このような言動に、到底肯定などしないと思います。
ことは、表現の自由の有り様に関わりますから、私も看過できないという気持ちになりました。
それで、老婆心ながら、余計なことかも知れませんが、念のため、私の意志をお伝えしておこうと思った次第です。
秦文学については、私は、いかのように考えています。
複雑な出生の事情、貰い子に出された幼少年期の体験などから独特の「身内」観を形成し、その身内観を基底にしながら、「幻想的私小説」ともいうべき、独自の文学空間を構築し、それが「死なれて、死なせて」という人生観に結晶して来た秦文学だけに、夕日子さん夫婦の言い分は、作家の「身内観、死生観」を理解しないまま、名誉毀損などと、いちゃもんをつけているとしか言い様がないと思います。
秦恒平という作家生命からみても、提訴されれば、受けて立つしかないでしょう。
いざと言うときは、私のの知り合いの、信頼できる弁護士さんを紹介しても良いと思っております。
そういうことには、ならないよう祈念しますが、一応、頭の隅に留めておいてください。 ペンクラブ会員
* 心強く感謝に堪えません。
憮然としていますが、こういうとき、たじたじしているのは嫌いです。踏み込んで向き合うつもりでいます。
私には 孫の非在がいまも悔しくて、悲しいのです。死なせて一週間もたたぬうちのこの騒ぎよう。ま、そんな子の親ですから、大きな事は言えませんなあ。呵々
またお目に掛かります。
またお力添えをお願いすると思います、どうぞよろしく。 秦生
2006 8・4 59
* わたしは、自分が冷静な批評家だと思ったことはない、熱い批評家だと、鋭い批評家だと言われれば黙して低頭するけれど。
わたしは称賛するために批評を書きはじめた、最初の「谷崎潤一郎論」がそうであった。小説「清経入水」で選者満票を得て第五回太宰治賞をえたときも、あれはそもそも私にすれば一方的な「ご招待」受賞でもあっただけに、それはそれは嬉しかったけれども、筑摩書房から最初の評論集のメインに、書き下ろしの「谷崎論」が入ったときも、匹敵するほど嬉しかった。
新聞小説の『少将滋幹の母』をはじめて貪り読んだ中学生いらいの、ほぼ同時に与謝野晶子の源氏物語に夢中で抱きついていらいの、いわば「本望」をそのとき、一つ遂げたのであった。
失礼ながら平凡作といえども、本の活字に唇をそえてう蜜を吸うようにわたしは谷崎文学に親しみ、源氏物語などの古典も読んできた。それらへの思いを「批評」として書かせてもらうのには、先に「小説家」として世の評価をえられればいいなと願望していた。
わたしは幸運な書き手のひとりとして、文壇に向こうから手を取って引っ張り上げられたのである。
しかし、わたしは冷静な批評家ではない、論旨は綿密に紡ぐけれども、熱くて烈しくて、ときに人を困惑させるのであるが、動揺したり惑乱したりしながらものを書くことはけっしてしない。その意味で、わたしはいつも批評家であるより、観察者なのである。
* この際、自分自身への観察や批評は棚上げさせてもらうが、わたしが自分の二人の子、姉夕日子、弟建日子を深く愛してきたことを疑う人は、ないと思う。この「私語」をながく読んでいてくださるみなさんは、ことに、けっして疑われないであろう。もし疑う者のあるとすれば、それは厳しい観察の対象ともされてきた、当の二人の子たち、であろう。夕日子にも建日子にも、わたしは、褒められないことを褒めたりしなかった、端的に、「バカか、お前」ともきめつけた。この口癖が建日子の処女作『推理小説』の雪平夏見女刑事の後輩男刑事に対する口癖であったことは、読者はおぼえておられるだろう。
建日子はああいうふうに父親から「門出」していった。このごろ親爺の点が甘いよと心配しているそうだ。
夕日子は、親に、「どうせ捨てられたの」と人に漏らしていたそうだ。そのように思うであろう経緯もわたしはつぶさに「観察」してきた。夕日子のいいところを懸命に観察して、のびるものなら延びて欲しいし、手伝えるものなら本当に手伝ってやりたかった。頼まれもしないのに夕日子の小説の習作を、時間と手間を掛けて貧弱なブログの日記から、手元で一日分一日分再現し、「e-文庫・湖(umi)」に仮におさめて作品の盗難を防いでおいたのも、編集者の目に触れてくれないかなあと願ったのも、それであった。滑稽なほどわたしは娘の習作をこの「私語」でも褒めてやり、「驚喜」したとも最近ものに書いている。
だが、夕日子の反応はそのわたしへの「告訴」であった。「著作権侵害(匿名公開著作物の筆者開示、無断転載、無断改編)」だそうだ。
わたしの読者の中には、やす香をうしなった夕日子の「かなしみを想ってあげてください」と言ってくる人があり、むろん夕日子の悲しみに両親は涙を溢れさせてきた。そしてどうかトチ狂わないで、なんでやす香を吾々は「死なせてしまった」かの反省をもたなくてはと、此処にも書いてきた。
それに対しても、「死なせたとは何事か、殺したと言うのか」と「告訴」に至るのである。ことばを深く心して読み込めなくては、とうていまともにものを書いて世に立てはしない。夕日子には文才はあるが、口にすることばは、日頃から横柄で、なげやりなのが最大の欠点、人間的な欠点であった。
久しぶり、十四年ぶりに再会したわが娘に関して、わたしがこれまで少しも具体的な印象を語ろうとしなかったのは、娘が大学のころから日々に眉をひそめさせられた印象と、ほとんど違わないのに内心仰天したからだ。
娘やす香の死の初七日に満たず、親を法廷に訴えよう、と。
そんな事例が世にあるのかどうか、わたしは聞いたことがない。わたしの観察が不幸にしてピントを外れていなかったのが、いま、いちばん悲しい。
* 申し訳ありませんでした。まったく見当はずれなメールをお送りしたことを恥じています。
というより、想像を絶した 常識からは考えられない 子を死なせたばかりの親とは思えない事態が起きていることに 驚き 憤りを感じております。
世論が湖を支持することでしょう。有能な弁護士が法的に解決してくれることを祈っております。 波
* こんなメールを戴いた。失礼ながら、これから本格に法廷で向き合うことになるのなら、「力」になって戴けるどんなことばにも励まされたい。
* 秦恒平 様 突然、そして初めてのメールにて失礼いたします。
不仕付けで大変申し訳ありません。不穏当なメールでしたら、削除下さい。
私は、*****と申します。
ご子息様の
『ラストプレゼント ――娘と生きる最後の夏――』に、涙した者でございます。
最後に「明日香さん」が亡くなる場面を描かなかった、そして、このドラマは登場人物が皆気持ちいい人だった。
私は、テレビドラマを見る習慣がなく、そんな私にとってラストプレゼントが始めて最初から最終話まで見たドラマでした。
そして、秦建日子様の世界観に魅せられたのです。
そんなだけの私が何してるのか。。。ご家族のことに、他人の私が口出すことでないと承知で申し上げます。
私は、秦恒平様の文字からは、「愛」そして信念を感じます。
随分と昔の文章も読ませて頂きましたが、厳しさと優しさ、そして、「思う気持ち」「思う姿勢」きちんと伝わってきました。
やす香さんとの再会。
やす香さんの誕生日。
その時の心弾んでらっしゃるご様子。
自分の子供への厳しい発言に隠されてるもの。
甘い言葉だけじゃなく、本心でぶつかっていくお姿。
そして、やす香さんを愛されていた。
なのに。
今は、投げられた「うんこ」をどう処理するのかでなく、
そのうんこを投げ返すのか?
手の汚れていない人が正しいわけでない。
うんこを握ったら、手を洗ってもなかなか臭い(うんこを握ってしまったという気持ちのコントロール)は消えないものです。
ただ、自分に信念がある限り、うんこを投げることも必要な時があると思うのですが、
申し訳ありません。私が熱くなってしまいました。
私は、貴方様が名誉毀損だとか、おかしい!!
と、強く思っておりますことをお伝えしたいと思いメールしました。 紀
* ありがとうございます。
* いま、日本ペンクラブの事務局一同で「お花」が送られてきた。わたしのこの「私語」を、日ごとつぶさに読まれていて、この事態に、「ことばもありません」とメッセージが。単簡にして適切なのに、微笑。
ありがとう、みなさん。 朱夏 お大切に。
われわれに「改悛の情」がないと決めつけてきた婿さんにも、「事務所」とやらの人にも、落ち着いてわたしの書いてきたものを「読んで」むむもらいたい。
これまで知らなかったので婿殿をたんに教員といってきたが、青山の教授だそうだ。国際政経学科だったか。
2006 8・5 59
* 娘夫婦に寄す。
* 娘夫婦の名儀で、実父・舅であるわたし(秦)を、民事・刑事の両方で告訴するだけでなく、「日本ペンクラブ理事会、同人権委員会全員、ペンクラブ会員で住所の判明した三十人、人権擁護局、DV・ハラスメント相談室ほか」への配布文書をつくった、配布されるのがいやなら「要求する総て」を容れ、「謝罪せよ」という文書が届いた。
* 上の申し出は、ところが、本人である私へ届いたのではない。宛先は、「妻と息子秦建日子」への連名になっている。両人に、わたしの「英断」を説得・誘導して欲しいというのである。
★★は、ここ数日の「秦氏の生活と意見」(=この「私語」)における記述は、「徹底して親から子への説得という形であり、1人の人格として扱われない夕日子(=★★妻・秦の長女)の態度を硬化させるばかり」と書いている。
そういう受け取り方を、わたしは理解しないではない。が、夕日子は四十六歳の誕生日を迎えた「人格=大人」であり、わたしはいつも夕日子や●の「年齢相応」ということに、期待をかけている。
* ところで、夫★★は、問題をいつ知れず、「夕日子と恒平」との、「娘と父」との「対決」模様に転じよう・すり替えて行こうとしている。ところが、わたしたちは、「娘夕日子との対決」など、十四年間の完全な没交渉を経てなお、一度として考えたことがない。十四年前、夕日子との間に何ら問題があって訣別したわけでなく、夕日子に門戸を閉ざしていたことは全くない。
わたしたちが、「孫やす香との再会」という嬉しさを噛みしめながらも、なおかつ許さなかったのは、十四年前にわれわれに加えられた「言語道断な非礼」だけである。
* 簡単に言えばこうである。
婿の●が、学者である婿(自身)に対しては、「妻の実家が住居や生活費の経済援助をするのは常識」だと言い張った。地味な一作家のわれわれ家庭には、当時九十前後の老父母・叔母三人の生活と介護をかかえ、そんな過大な余力はない。若い健康な夫婦が力をあわせて生活してほしいと断った。
彼は激昂し、そんな「非常識な妻の実家とは、姻戚関係を断つ」「頭をまるめ、膝をついてあやまれば、ゆるしてやる」と手紙を叩きつけてきた。むろん手紙は他のさまざまな罵詈雑言の紙礫とともに保管して在る。
われわれは「非礼は聴(ゆる)さない」と、離縁された★★家とは関係を絶った。妻は離婚を望んだが、やす香という子供もいたし、夫婦は夫婦で生きよとわたしは夕日子の離婚を望まなかった。夫の方へと、娘の手を放したのである。正しい判断であったと思う。
この「非礼」が一切の原点。彼はそこへ潔く立ち戻るべきだろう。
* 今日、彼は、できることなら、妻である夕日子に、「実親を訴えるという手段を採らせたくはありません」と言ってきている。当たり前である。そんな愚挙で恥をかくのが誰かはハッキリしている。
わたし自身はどうか。娘に無道に告訴されたら恥かしいと思うか。否である。恥ずかしいのは本人である。
ただ、親としてそういう無残な真似はさせてやりたくないと、父も、母も、心から願っている。それ以外に喪う何物もわれわれはもたない。
* そもそも夕日子は、父親や母親にもし不満があるのなら、自身望むように「一人の人格として」堂々単独ででも親に会い、言いたいことは向き合って正々と言えばいい。
ところが、今回の「やす香の死」をめぐる経緯でも、両親へ、当然娘としてなすべき何一つの連絡・通知もせず、両親からの電話、メール等の問い合わせや、夕日子への慰問・激励や見舞いにも只一度の返答もしてこないという、やす香危篤さなかにも終始幼稚な態度を一貫してきた。ついには、「もう見舞いに来ないで」とも。
昔のわたしなら、そういう不行儀な娘には、「ばかか、お前」と一喝したが、夕日子はそれをしも「ハラスメント」「虐待」と言おうとしている。そしていきなり「告訴」といい、誹謗文書を配布すると迫っている。国立の女子大で哲学を学び、「人格」を自負する四十六歳の母親たる所為かどうか、父や母への礼として自然かどうか、夕日子は真っ先に胸に手をあて考えてみるとよい。
* 父であるわたしが「追いつめた」のだと、わたしに責めを迫る世間も、必ずあるであろう。その方が多数であるやも知れない。
しかし一般論で律しがたいモノが、必ずこういう葛藤には蟠っている。他人には分からない。そして創作者であるわたしには、創作者ゆえの道がある。たとえ牢屋に入ろうと、創作者は、真実の動機や主題を殺して筆を折るなと、わたしは自身に律してきた。そう書いてきた。
* 妻もわたしも、娘夕日子を拒んで閉ざしている門口など、一つも持っていない。今度の入院中にも、娘の悲しみを想い胸を潰していたことは、気配りしたことは、気遣ったことは、此の「闇に言い置く 私語」(この七月以前)のそれぞれの場所で、誰の眼にも容易に読み取れよう。
* 夕日子の、今回配布するという文書から、「夕日子の言葉」に少し聴いておく。当事者として親として当然の権利であり、夕日子には天地に恥じない内容なのであろうから、わたしも率直に、この場の「闇に言い置き」ながら、読み直そうと思う。
* 私こと(★★★の妻=)夕日子は、幼児期より父秦恒平氏による様々な言葉の虐待やハラスメントを受けてまいりました。秦恒平氏主宰ホームページ(http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/)子ページ「生活と意見」(http: //www2s.biglobe.ne.jp/% 7Ehatak/iken.htm)において、現在でも言葉の暴力を受け続けております。
「我が娘ながら、コンナモノをよまされたかと、どうも気色が悪い」(注3A) (手遅れで喪った子の通夜や葬儀を、「お祭りお祭り」と公言し、やす香の「人生最大の晴れ舞台」だという異様な夕日子のぶろぐでの公言には、仰天した。秦、)
「(夕日子の)こういう公言は意味不明、聞き苦しい」(注3B)
「夕日子の陳述はうわべをすべっている」(注3C)
しかも、私夕日子が某サイトに匿名で連載しておりました小説『こすも』『ニコルが来るというので僕は』『櫻』を、高慢なコメントを付して無断で転載、改編の上、作者を夕日子と開示して秦氏のホームページに掲載しました。これは明らかに著作権侵害に該当します。このような著作権感覚の秦氏が、日本ペンクラブにおいて「言論表現委員会」に席を置いているのですから驚きです。
これらはほんの一例に過ぎませんが、秦恒平氏は親であることを笠に着て、私を籠のトリか何かのように扱い(表面上は「愛している」「抱きしめたい」を繰り返します)、現在でも夕日子個人の独立した人格・人権を頑なに認めようとしません。著作権侵害を理由に同3編のホームページからの削除と謝罪を要求しましたが、むしろ小説を護ってやったのだから「感謝されて自然」(注3D)と述べており、いまだに私に対する謝罪の言葉を耳にすることはできません。
* 娘の生まれた頃からわたしは「書いて」きた。娘はいま四十半ばでやっと小説らしき習作を始めたばかり。そんなモノにも、父がどんなに好意的な批評や感想を「私語」に書いてきたか、「娘さんがうらやましい」と言ってきた人もいた。それを「高慢」とは言ってくれたもので、言葉は心の苗、これは父としてかなり恥ずかしい、娘のあらけた魂の透けたこんな言葉づかいが。
悪意で取り上げたどころか。ブログの無署名作品は盗難に遭いやすいという情報をわたしはプロからも早くに得ていた。娘のほぼ相当な作品を無事に保存できる一種の幸福感にも満たされ、こつこつとブログ日記から一日一日、一作一作に起こしていたことは、読者も見知っているし、妻もよく見知っている。妻も、初めての娘の小説を喜んで読んでいた。
親ばかのわたしには、できることなら、作家秦建日子と、筆名秦夕日子とが、ともに行き方を異にした姉・弟創作者としてならんだら、どんなに心行くだろうという、夢は夢でしかないが、淡い夢があった。他の場所でもその気持ちを「驚喜」という二字でわたしは書いている。夕日子への害意があると思う人がいたら、わたしは仰天する。
夕日子のブログ作品は弟建日子がわたしに教えてくれた。ごく自然にその時こう感じた、夕日子はわたしにも読んで欲しいのかなあと。どこが可笑しいだろう。異様だろう。高慢だろう。
さて、今日届いた夕日子たちの文書は、最後をこう結んでいる。
★ 私共★★やす香の遺族は、なぜ愛娘を亡くした上に、このような悪質な「娘いびり、婿いびり」の仕打ちを受けなければならないのでしょうか。やす香の高額医療費の負債が残った私共には、民事告訴を展開、貫徹するのに十分な余裕もございません。どうぞ、この場を借りて秦恒平氏の「文学表現に名を借りた言論の自由の濫用」を告発する私共の自助防衛努力をお許し下さい。そして、どうぞ、皆様の温かいご支援、ご協力をお願いいたします。
★★夕日子・★★★
* わたしたちと夕日子とは、「十四年間も完全に没交渉・不通」であった。やす香が、親に秘して祖父母の家へ嬉々と顔を見せに来てくれるまで、その後も、たぶんわたしの古稀自祝、歌集文庫「少年」を送った以外に、指一本動かしていない。
正直なところ、わたしは夕日子との無用の接触を、「孫やす香との嬉しい再会」の半分も望んでこなかった。はっきり言って「謎(娘やす香の言)」の夕日子とは、ま、用の無いかぎりは避けていたかった。言うまでもない、夕日子はかけがえない娘だし、いつも健康でいて欲しかったし、誕生日には欠かさず妻と二人で赤飯を祝ってしんみり噂してきた。夕日子を愛していたか。むろん心から愛していたことは、何千何万遍と用いるわたしのパソコンパスワードが、娘の幼い昔の愛らしい綽名にしてあるだけでも、分かる。何の「ハラスメン」トか。
* 孫やす香を、「肉腫」という怖ろしい病気で急激にうしなうという悲嘆、それは六月二十二日のやす香の「MIXI」告知で初めて知れた。
夕日子夫婦と十四年ぶりに接したのは、やす香が、病床から祖父母を呼んで、病院へ「逢いにきて」というメールや電話を寄越したからである。わたしと妻とは、はるばる相模大野の北里大病院まででかけ、付随的に、十四年ぶりに夕日子と顔を合わせた。
こんなさなか、どうして「娘いびり・婿いびり」など出来たろう。★★とは一度の挨拶もなく、夕日子ともほとんど会話は無いまま、やす香は遠逝。その最期すらも、吾々にはついに通知されず、通夜や告別の儀についても、何一つ★★夫妻は、やす香のまみいにすら告げてこなかった。妻は泣いていた。
そんなわたしたちも、「ああ、やす香を死なせてしまった」と悔いて嘆いて責任を感じていたのに、その、「死なせた」という言葉ひとつの意義を、はなから誤解し、両親がやす香を「殺したと言うのか」と大脱線し、それが「告訴」という逆上へ直結している。なんという、幼稚さ。父 秦恒平には、『死なれて死なせて』というよく読まれた著書もあるのに。
「死なせた は 殺した か」と題し、「そんな単純なことじゃない」と、わたしは「MIXI」日記に、「湖」署名で書いている。可能な人は参照されたい。
* 親子の行き違い、舅と婿との確執など、世間に掃いて捨てるほどあるが、およそ無意味に「子が親を告訴し侮辱しそれを世間に流布して回ろう」などという例は、聞いたこともない。たいした夫でたいした妻だと、まさか褒めそやされないことは確実である。わたしの方は、四十六歳にもなる娘のこういう幼稚さを、親として恥じる気もあるが、もうリッパに「一人格」扱いせよと言うぐらいであるからは、わたしが恥じいることはない。
わたしは、心行くまで書く、一人の物書きにすぎない。他は、わが妻の健康を心から気にかけるだけである。わたしの妻はやす香のことで格段にいま衰弱し疲弊している。
* 今、わたしが敢えて、こういうふうに、恰も「うんこ」をつかんでいるのは、(此の場に「書く」のは。
夕日子達がこの「私語」日録を「読んでいる」と分かっているし、これより以外に、もう、「情理をわけて事態の愚かしさを伝える手段」を、「冷静な再考を促す手段」を持たないからである。
* 八月十日までに謝罪せよ、そうすればゆるすと娘夫婦の★★二人は、親・舅であるわたしに高飛車に言っている。その「英断」を、妻と建日子により誘導して欲しいと、夫の方は懇願している。「英断」とは驚いた用語だる
* 提案しておく。
あの原点の非礼へも立ち返り、両親、★★夫婦、弟建日子の五人で、落ち着いて話し合う「時機」だとわたしは考える。みな大人だ、介添えは要らない。
名誉毀損と誣告との長期間の相打ちが果てないことを、まさか希望していまい。それでもと言うなら、断乎踏み込んで受けて立つ。
メッセージが友人から届いている、「告訴」なんて不毛も不毛も、疲れ果て精根尽き果てて、それでも不毛と。しかも何も残らないと。
* わたしの妻から婿への返辞も返信した。
* ★★★様
1 この十四年来の私の思いは あのとき 他人を介さずに なぜ 私たちが「直接」話し合えなかったか ということです。
今こそ それが必要な時機と考えます。
その機会を持ちませんか。当然で最適の方法と信じます。これが 私の返辞の要点です。
2 「実の娘に実の親を訴えるなど させたくない」とのお考え 当然です。よくわかります。
夫であるあなたが、妻夕日子の「人格」のためにも、「実親を告訴」など とうてい 情理に叶うことでないと 心から説得・誘導なさるのが 当然のことと考えます。
私は 夫である秦と よくよく話し合い、そして歩調を揃えます。娘が父を告訴するという非道を 娘にさせたい母も、親も、この世界にはいないと信じています。
3 お尋ねします。 「告発」の原告は、 あなたなのか 夕日子なのか 夫妻連名なのか。それにより わたしたちの考え方も岐れて来ざるを得ません。
4 提案します。 余人をまじえず、「両親、夫妻、秦建日子」が同座し、落ち着いて「何が問題であるのか」を話し合う。
この際それが 理性ある大人同士の踏むべき順序だと思います。
建日子も「ぜひ参加したい」と言っています。 06.08.06 署名
* 「条件」の、やたらついた★★の返辞が届いたそうだ。わたしは見ていない。妻は、こう返辞しましたという。
* ★★ ★ 様
1 先に送ったのは、秦迪子の返辞です。すでに夫と話し合った結果ではありません。
2 「話し合い」は、無条件に始めるのでなければ話し合いにならないと思います。
3 夕日子の、やす香入院以降のわれわれ両親への態度は、実に非礼でした。この際、夕日子の気持ちを、夕日子の言葉で聴いて置きたいのです。あの陳情書のような文書に書いていた、あのような父を罵る言葉で、少女時代の両親との家庭生活全面を泥足で踏みつけ、父に対しても母に対しても、夕日子は恥ずかしくないのですか。
わたしは、烈しく怒っています。父に向かい、こと文学にかかわって「高慢」などと言えるどんな資格があるのか、魂の荒廃を感じます。 06.08.06-2 秦 迪子
2006 8・6 59
* とびこんで来た下記のメールは、「夕日子様」とあるように、わたしに宛てたものでなく、いきなり「娘夕日子に宛てられ」ていて、「ぜひ読んでほしい」とある。むろん、わたしが頼んで書いて貰ったものではない。思いあまって書かれたモノのようである。
天才だの名作だのと少し仰々しくて閉口し照れるところが多いが、また不用意に少し語弊を生じるところもあり、その辺は斟酌してあるが、つよい「お気持ち」であるから、思案の末、此処へ置く。夕日子に直送の手段はない、しかもこの「闇の私語」にはつねづね注目しているようだから、「伝える」には恰好であろう。
このメールには、以前に貰っている東工大の卒業生からのメールが一部引かれていて、その個所は、わたしにも感銘があった。
* 夕日子さま
初めて書き込みさせていただきます。私は夕日子さまより少し年上で、似た年頃の娘のいる母親です。
ネットで、やす香さまの発病からお亡くなりになるまでの経緯を毎日胸を痛めながら読ませていただいておりました。やす香さまのご逝去、衷心よりお悔やみ申し上げます。
やす香さまのご葬儀の日、七月二十九日は隅田川の花火大会でした。私は花火大会に出かけるという娘に浴衣を着付けながら、旅立たれたやす香さまに昨年の夏祭りの時の浴衣を着せたという夕日子さまの記述を思い出し、涙がとまらなくなりました。
昨年の夏には元気に浴衣を着ていたやす香さまの身体に、その同じ浴衣を着せる母親の心はどのようなものかという想いで、泣けて泣けてどうにもなりませんでした。生きている娘に浴衣を着せて花火大会に送り出すことのできる母親と、柩の中の娘に浴衣を着せる母親の運命は、あまりにちがいます。なぜやす香さまが天に選ばれたのかと心から悲しみました。
一度もお会いしたことのない夕日子さまですのに、やす香さまのご病状に一喜一憂して夜も安らかには眠れぬほど心配していたのは、私がお父上の湖の本の愛読者であるという以外の理由はないでしょう。
「夕日子」というお名前は秦恒平の作品の中に宝石のように散りばめられてきました。夕日子さまは作家秦恒平の掌中の珠でした。ですから、夕日子さまのことはどうしても近しい人に思えてならなかったのです。
本日お父様のホームページを拝見し、夕日子さまがそのお父上を「告訴」なさるおつもりということを知りました。ご家族の問題に部外者が立ち入るのは失礼と承知で、私の考えを書くことをお許しください。
夕日子さまが告訴という強硬な手段にいたったお気持ちは想像できます。夕日子さま以上にやす香さまを愛していた人間は世界のどこにもいないのに、お父様に「目が届いていなかった」と言葉にされ、ご自分のせいでやす香さまが手遅れになったと言われたとお感じになったのでしょう。世界の誰よりも「死なせた」くなかった娘を、死なせたと言われて心底お怒りになったのだと推察します。夕日子さまの気も狂わんばかりのお悲しみと悔しさは、察するにあまりあり言葉もありません。
そのお父様の指摘について、私はこう考えています。病気の診断が手遅れになったことは、どうしようもなかったこととはいえ、母親として手落ちの部分があったのは事実で、たしかにお父様の指摘は正しい。でも、この時期に、やす香さまが亡くなってすぐに、夕日子さまに告げられたのはどんなにおつらかったでしょうと思います。
ふつうの父親であれば、もう少し時期をみて言うのでしょうが、夕日子さまのお父様は作家です。それも文学史に残るような大きなお仕事をなさる天才的な方です。一本のマッチを見ただけで、すぐに山火事を予言してしまう。人よりずっと先を見て、書いてしまうそういう定めの方なのです。娘と孫の不幸から、人間存在そのものの痛苦に目が開け、書かずにはいられない業をお持ちなのです。
書かれた夕日子さまの無念のお気持ちは理解できますが、これは天才を父親にもった子どもの幸福でもあり不幸でもあるのだと、そう申し上げるしかありません。
夕日子さまがお父様に対して告訴するまで過激に反応なさる必要はないのです。なぜなら、お父様の書かれたものを読んだ読者は、夕日子さまが悪かったとは決して読まず、我が身のこととして読むからです。自分のいたらなさ、どうしても愛する者を「死なせて」しまわずにいられない人間を想い、わがこととして、身震いせずにはいられないのです。
夕日子さまは、次の「私語の刻」に掲載されたメールをお読みでしょうか。このメールは多くの読者の素直な感想を代表していると思います。お父様の「私語の刻」の読者は、きちんと読むべきことを読んでいます。
* 秦先生 あまりのことに、あまりの事の早さに、先生のホームページを読んだ時に、手足がさっとしびれて凍りつきました。いくら若い方とは言え、こんなにも早いものとはとても予想できず、涙が止まらず・・・。
身内の若い方を見送るのは、どんなにお辛いかと、先生の悔やみきれない思いを遠くから感じております。
私にもやす香さんと同じ年の姪がおります。亡くなった姪ではなく、一浪して今年大学生になった姪です。その姪と比べても、やす香さんのお心の優しさ、お健やかさはすぐれて高いものと思っておりましたので、本当に惜しい方を失ってしまった、と一度もお目にかかった事のない私ですら喪失感にさいなまれています。
ただ、先生に一つだけ、お伝えしたくてメールしております。
娘を育てている今、毎日が試行錯誤の連続ですが、その中で、子どもがいくつになっても「目を離してはいけない」ということを、私はやす香さんに教えて頂きました。
娘はいま5歳。得意なものと不得意なものが少しずつあらわれています。世の中の風潮は、「個性を大切に」ということで得意なものを伸ばすことに重点がおかれていますが、親としては「それだけではいけないのだ」と最近の娘を見つつ反省しているところでした。
もちろん、最終的には個性を伸ばしていくことでこそ、人は生きるすべを手に入れるのですが、その土台として、しっかりとした人間としてのいしずえを築く過程では、不得意な部分こそ、親が必死で見つけ出ししらみつぶしに穴埋めし、頑強な基礎をつくらなければならないのだと、最近の娘には実に口うるさい母親になっています。手まめ口まめに子どもの欠点を見つけ出し、そこを訂正していくのは、褒めて育てることよりも、はるかに心身のエネルギーを消耗します。この口うるささ、いったいいつまで続ければいいのか、と、こちらのほうが気の遠くなっていた毎日でした。高校生になったら、いやその前までで、などと考えていましたが、たとえ成人を目前にしても、口は出さずとも「目は離してはいけない」のだと、やす香さんのことに泣きながら、肝に銘じています。
自らを振り返っても、大学生にもなると親などに口は出されたくありませんでしたし、自分で何でもできるように思っていました。確かに、そのくらいの年になると、普通の大人よりはるかに優秀な方もいらっしゃいます。けれど、若者が逆立ちしてもかなわない部分、「それは経験値の部分」です。スケジューリングの仕方、健康管理、世間付き合い、そんな部分では、やはり親が口を出し続けなければならないのだ、と。
思えば、口うるさい心配性な我が母親は、先生と同年同月の生まれです。戦争の経験のある世代の方達は、小さなサインへの敏感な対応に長けていらっしゃるのかもしれません。私たち姉妹三人は、母のその口うるささに実に辟易していましたが、今思うと、親としてのあり方の「一つの正解」であったのかもしれません。ただ、あまりにも口うるさすぎた母に抵抗して家を飛び出した姉は、結局幸せを上手に掴みきれずに終わりました。あれから三回目の夏になります。
口うるさく、けれど子どもの幸福をつぶさず、そのあたりの加減の仕方がこれからの私の親としての課題だと思っています。
こういう形で、いのちについて、人育てについて「考える機会」を与えて下さったやす香さん、そしてそれを包み隠さずに報告して下さっていたご家族の皆様、特にお母様に心から感謝しています。やす香さんから教えて頂いたたくさんのこと、決してわすれません。もちろん、やす香さんご自身についても。一度もお目にかかることはありませんでしたが、これほどたくさんの方に愛され、思いやり深かった方のこと、決してわすれません。よいお嬢さんに育て上げられたお母様にも深く敬意を覚えます。
なぜか不思議なほど「奇跡が起きる」と信じていました・・・。言っても栓のないことですが。
お書きした内容に、大変失礼もあると思いますが、お許し下さい。ただただ、やす香さんに教えて頂いたことを忘れません、決して、ということだけをお伝えしたかったのですが、上手に表現できず、お気にさわる書き方になっていましたら申し訳ありません。
私はとくに、この部分を強調します。
もちろん、やす香さんご自身についても。一度もお目にかかることはありませんでしたが、これほどたくさんの方に愛され、思いやり深かった方のこと、決してわすれません。よいお嬢さんに育て上げられ たお母様にも深く敬意を覚えます。
これは私の同感することです。夕日子さまはよいお嬢様をお育てになったことを誇っていいのです。「私語」の読者は秦先生の「死なせた」という言葉の奥に「夕日子は、ここまでよい娘を育てたのに」という嘆きをもきちんと読み取っているのです。一体どこの誰が夕日子さまを殺人者でいい加減な母親だったなんて思うのでしょうか。そんなことは誰一人として思いません。
母親というのはどんなに愛が深く、注意深くしていても、ふっと子どもから目を離してしまうことはあるものです。私とて例外ではありません。恥をしのんで申します。
娘がまだ幼稚園に入る前のことです。友人の車に娘と一緒に乗っていました。その時に、もう一人の友人が先に車を降り、半ドアになっていました。誰も気づかぬまま、車が発進しました。車が幹線道路に右折した瞬間、半ドアだった扉が大きく開き、娘が車から転げ落ちました。友人は慌てて急ブレーキを踏みましたが、一瞬のことで私は娘の服の一部を掴むのに精一杯。放り出された娘は道路に両手をつきました。私がそのまま服を引っ張って車に戻しました。心臓が破裂しそうにパニックになりました。この時、他の車が通っていたら、娘は即死だったでしょう。大きな道路ですから、車が通らなかったのは奇跡です。当時はチャイルドシートは義務化されていませんでしたし、友人の車であればついていないのは当然でした。この危険な事態への責任はすべて母親の私にあります。
子どもが無事に生きているというのは親の愛の深さに関係なく、運に左右されるものです。私はたまたま好運に恵まれたので子どもが生きているのです。紙一重の差でした。断言してもよいですが、子どもが自分の落ち度で死んでいたかもしれない経験のない母親などいないと思います。
病気についても、運不運はあります。肉腫のようなごく稀な最悪の病気に、まさか自分の子どもがかかるなど予想できる親は少ないでしょう。お父様の「死なせた」という意味は、すべての人間に対してのものと、そうとしか読まれないと思います。
人間は自分の手にしているものの価値をなかなか理解できず、信じられないものです。
夕日子さまは、これ以上ないほどの父親の愛を受けながら、ご自分がそれを手にしていないと思い込んでいらっしゃるようです。「親に、どうせ捨てられたのだと人に漏らしていたそうだ」というご心境は、「聖家族」を読んである程度は想像していますが、私はこの作品を読んで、これほどの娘への愛を描いた作品はないだろうと感じていました。
秦先生の作品を読んで痛感することは、娘の夕日子さまをいかに深く愛されているかということです。その愛はときには手放しの、読んでいて気恥ずかしいほどの賛美にもなりますし、滅入るほど峻烈な批判にもなります。しかし、そのどちらも深い愛がなければ存在しないことはたしかです。
夕日子さまがブログに書いていらした「コスモのハイニ氏」などの小説を読まれた時のお父様のお喜びのごようすに、読者として羨望を感じずにはいられませんでした。文学への志はあっても才能に恵まれないために読者にしかなれない私のようなものにとって、秦恒平にここまで認められる才能はただものではありません。「e文庫」に掲載されている夕日子さまの詩は素晴らしく、私は大好きです。夕日子さまは可能性に満ちた方です。
問題の「聖家族」ですが、一読して私がまず感じたのは、凄まじいまでの作品、名作であるということでした。モデルがどうのこうのとか事実かどうかなどという興味でなく、人間の真実に到達する恐るべき身の毛もよだつ作品だと思いました。
この作品の中のご家族の姿が、そのまま秦家の姿とは思いません。当然これはフィクションとして読むものです。
このフィクションに描かれているのはある人格障害(現実にはたまにいるタイプ)の男を夫とした夏生という不運な娘と、その人格障害に真っ向からぶつかってどうにもならない両親の姿です。
奥野家には家族愛溢れて、父親にはできないはずの母親の役までこなそうとするスーパーマン的父親と、理想の妻であるがために(そう思われて当然の美徳の持ち主ですが)、夫と思考も行動も同化している母がいます。しかし、子どもの利益のために動こうとするしたたかな母親が決定的に欠けています。
婿の人格障害は治らない。治せない。父親は正義あるいは信念を生きるしかない生き物でこれも変えようがない。それを埋めるとしたら、母親の狡猾さしかないのに、その存在がない。妻の美徳など棄てた狡猾な母親なら、夫に過保護にされることなく修羅場をくぐってきた母親なら、父親に内緒で人格障害の婿に土下座してでも、娘との縁を保とうとするでしょう。そうして父親の立場と娘の利益を守るのです。汚れ役です。
内心で婿に舌を出しながら、異常に言語道断な婿と折り合いをつけ、大切な娘の手を放さない。他に娘と切れない方法がないなら何でもする。そういう存在が良くも悪くも母親です。母親が父親と同じ正義に生きたら、娘はどうしようもありません。この作品に描かれた娘は、私の目にはじつに気の毒な、それでも父親に熱烈に愛された娘として、キャラクターが生きています。父親に抗いながら、不思議な魅力を湛えています。
どんな家庭の食器棚にも髑髏が隠されているというフランスの諺がありますが、「聖家族」はこの髑髏を見事に描き切った作品です。お父様の代表作にもなるでしょう。
この「聖家族」と「生活と意見」が、夕日子さまの告訴の対象となるようです。
この告訴は愚かしいの一言です。
まず、★★家は勝てないと思います。常識でも法律でも。
そして、万が一勝ったとしても、百年先には負けています。必ず負けます。この世からお父様の著作を抹殺することは不可能です。名誉を棄損した、された、というのは当事者が生存している間でのことで、子孫に関係はありません。秦恒平が天才である以上、そして「聖家族」も「生活と意見」も疑うことのない名作である以上、必ず後世には復権して作品として正しい評価を受けることになります。モデルがどうのなど問題になりません。
むしろ告訴の記録があることで、これは本当の話なのだと見られてしまうでしょう。汚名が後々まで残ることになります。
夕日子さまは、お父様をご自分の父親としてしかみていらっしゃらないようです。ご自分の私有の人間だと勘違いなさっています。秦恒平は娘一人の父ではなく、多くの人、世界の宝物です。娘の願うようには書いてくれなくて当然です。天才は周囲を泣かせますが、それ以上のものを世界に与えてもくれるのです。普通の家庭でさえ、子どもは大なり小なり親に迷惑を受けるものですから、天才であればなおのこと。どうか、お父様が天才だということを覚悟してください。同じように愛らしかったやす香さまも母親一人のものではありません。視野を狭く判断しては道を踏み違えます。目を覚ましてください。
そもそも、告訴することは逆効果になりませんか。★★家を傷つけませんか。
あれは小説だと流せばそれで済む話なのに、しかもコアなファンが読んでいるだけの作品ですのに、告訴に至れば急激に世間の注目を浴び、作品は益々広く人に読まれ、そして面白ずくの噂になるだけです。たとえ勝利を手にしても、世間はあれは嘘の話だとは思わないでしょう。告訴は、自分がモデルだとかえって大宣伝するようなものです。
告訴して勝利したとしても、夕日子さまに得るものがありますか。
お父様を社会的に抹殺したいというのが目的なのでしょうか。書くことにしか生きる場所のないお父様の場所を奪うことが目的ですか。そうすれば復讐がかなうのですか。気が晴れますか。
あれほどの愛をもって育ててくれた父親を切り倒すのですから、同じだけの傷はご自身にも致命的に及ぶでしょう。お父様を葬ることはご自分を葬ることでもあります。
復讐も憎しみも愛の変形です。どうぞご自由になさったらいいと思います。しかし、告訴などという方法は、ただただお金と時間の無駄でしかありません。膨大な人生の浪費です。
夕日子さまは意味のない告訴で、ご自分の人生を投げやりな悲劇で終わらせるおつもりですか。親に棄てられ、娘に死なれたかわいそうな人間としてこれから捨て鉢に生きるのですか。そんな甘えが許されますか。もっと生きたいと血を吐く思いで願っていらしたに違いないやす香さまは、そんな母親の行動を喜びますか。
夕日子さまは、やす香さまがなぜ母親の誕生日にお亡くなりになったかわかりますか。この世に起きるすべてのことに偶然はありません。お母様の誕生日に逝かれたのは必然だったと私は思います。
やす香さまは、母親であるあなたに最後の大きな大きなお誕生日プレゼントをしたのです。若くして逝くご自分の残りの寿命と果てしない可能性と才能を夕日子さまに託されたのです。新しい命をお母様にプレゼントなさったのです。今こそ作家になってと。
書いて生きてください。作家になってください。才能はお父様の太鼓判です。作品もあります。デビューするに足るコネでさえ充分です。父親が秦恒平で弟が秦建日子なのですから。
もし、お父様に復讐なさるのなら、どうぞご自身の作品で打ち倒してください。呪ってください。それが真実のものなら、必ず人の心を揺り動かします。お父様を呻かせる作品を書いてください。あなたほどの才能なら書けるはずです。
今すぐなさるべきことはやす香さまの闘病について書くことでなくてなんでしょう。告訴などしている暇がありますか。やす香さまはおじいさまが訴えられることをおよろこびになりません。やす香さまが祖父母に逢いたい、逢い続けたいと思った意味を想像してみてください。
夕日子さまと夫である★★さまは別の人格でありましょう。夫婦一緒の自暴自棄の怨みの告訴など、恐ろしく不毛です。愚行です。
夕日子さまらしく、ご自身を輝かせて、この素晴らしいお名前のように生きてください。あなたは素敵な人です。人生はこれからではありませんか。
天才の娘に生まれて、本当に大変だと思います。でも、これも必然のこと。死後も名前の残る存在として生きる幸せがある以上、並大抵でないご苦労も背負わなければならないのはしかたありません。
どうぞやす香さまのご不幸から、なんとしても幸福を掴み取ってください。幸せになってください。奮い立って書いてください。やす香さまのために。
夕日子さまの作品を読ませていただく日を楽しみに、凡人の娘で母親である私は生きてまいります。どうぞ夕日子さまご自身のために、告訴はおやめください。
とても長くなってしまいました。凡女ゆえに、たどたどしく要領悪く書いてしまい申し訳ありませんでした。どうぞ、お元気で。お元気で書いて、生きて、お幸せにと祈ります。
* 本日私語を読ませていただいて、心底驚きました。父と娘の間がここまで惨状を呈するとは想像もしていませんでした。
夕日子さんは悲しみのあまり正気を失っていらっしゃるのだと思います。
愛してやまないやす香さんを理不尽な病魔に奪われた憤りや悲しみや悔しさ、そして強い怨みを、まったく見当違いの方法で晴らそうとしているようです。あってはならないことです。これほど杜撰で無意味な告訴というのは信じがたい思いです。
看病の日々から告別式がすんだばかりです。極度の興奮と錯乱状態のまま、思慮もなくご主人様にひきずられて告訴などという、ものすごい事態になってしまったとしか思えません。
だれの目にもばかげた、こんな父を娘が告訴などということにならないよう、必死にお祈りいたします。何より、このような事態はお亡くなりになったやす香さんのお望みになることではないでしょう。
万が一、訴訟になられた時には、なるべく格上の弁護士をお頼みください。弁護士間のランクの上下が訴訟の行く末を左右するそうです。また知り合いが遺産相続で揉めたときに、やくざ弁護士がからんでひどいことになりました。どうか、細心のご配慮を。
ミクシィのやす香さんの日記は保存されていますか。私などが言うまでもないことですが、意図的な改竄などありませんように処置をとられたほうがよいと思います。
以上、とり急ぎ申し上げた上で、私にできることはないかと考えています。 青山
2006 8・6 59
* 妻が倒れた。娘夕日子たちへの、血の退くほど、身震いするほどの烈しい嫌悪感と拒否感で、心身違和と不眠へ突き落とされている。
* わたしは決意した。いま何が大事か。
一つ 妻の命。絶対に守らねばならぬ。
二つ やす香の死をわたしの手法で小説として書きのこすこと。
三つ 実の娘に 実の父を告訴するという非道をさせてはならぬこと。魂の荒廃以外の何でもなく、それを放置するのは、娘の、もはや無きに等しい人格を、さらに死なせることになる。親として、しのびない。それぐらいなら、わたしが自身を否定したい。残した夕日子への最期の愛の一滴を、斯く、つかい果たしておく。
この際、わたしの「ホームページ」を閉じる。とうの昔からそういう時機到来をひそかに期待していなかったのではない。「書く」すべも、場所も、意欲も、他にある。
この機会に所属団体の役職も、さっぱりと退きたい。なるべくは退会したい気がある。「退蔵」は久しい願いであった。このことには、息子はつよく反対している。
妻は、「二人」での静かな老境を希望している。娘は、生んでなかったものと忘れ果てたいと言う。同じ思いである。
★★★(青山学院大学国際政経・教授)・★★夕日子(妻)を、婿としても娘としても拒絶し否定する。
裁判には力ある誠実な代理人を立てて対応したい。
* 決意に導いた事情を、汚物に等しいのは情けないが、やはり最後に示しておこうと、昨夜この「私語」と「MIXI」日記とに更新しておいた。久しい、好意に満ちた読者への、礼と感謝の気持ちである。「MIXI」は、小説とエッセイの今の連載を終えてから考える。
「ホームページ」たる「遺跡」はのこしておく。
コンテンツのバックアップと総削除には丹念に時間をかけたい。「e-文庫・湖(umi)」には大勢の作品があり、娘の作は悉く排除したが、他の大勢の寄稿者への責任からも、考慮を要する。
* HPの文言(八月六日・娘夫婦★★★・夕日子に寄す。)をじっくりと二度読みました。実に論旨明確でわかりやすかったです。
(八月六日つづき、ある読者の投稿)夕日子さん、読むといいのですがね。
裁判に95%勝つとのたまう(★★側)弁護士事務所より、このメールの方(かた)の分析の方が、はるかに説得力はありますね。 小説家 東京
* 秦さん 帰国からあっという間に一ヶ月が経ってしまいました。環境の変化にも少し慣れて、ようやく落ち着いて呼吸が出来るようになった感じです。
余裕なくご無沙汰していた秦さんのHPにも、久しぶりに訪れました。それが何ということでしょう。言葉が見つかりません。
お孫さんのご冥福を、心からお祈りいたします。健全な若い生が、避けがたい力によって終わってしまうのは、本当にいたたまれません。
娘さんご夫妻との事も、さぞやお心を痛めておられるでしょう。何ということでしょうか。秦さんのお子様方への愛情はすばらしいと、いつも思ってきましたので、尚更やるせなく感じます。
ここまで出来る★★氏とは一体・・?? 分からないものです。
秦さんも書かれていますが、顔を突き合わせての話し合いが何より必要と、若輩の私にも、それは自明のことと思われます。いきなりの何もかもすっ飛ばしての告訴など、一体何になるのでしょう。立場あり多くの学生を預かる方が、冷静に考えた上で選択される方法とは信じられません。(お子様をなくされたばかりで、冷静な判断など酷なのかも知れませんが。)
秦さんが、それで無くとも体調がすぐれないご様子でしたのに、その上に数々の心労を背負われて、お体に障らなければ良いがと、非常に心配しています。 ★★ご夫妻の、ある意味でのmourning workが、秦さんとの対決にすりかえられて、その大きなエネルギーが、結果として健康を奪ってしまうのではと・・
どうぞどんな時でも、お身体は大切に過ごされて下さい。 敬 国家公務員
* いろんな機械的作業を要する日々に入るので、ここへも多くは割けないだろうと思う。メールなども戴いておきながら、つい返信は失礼させていただくことが、ますます増えるのをお許し下さい。メール機能は平常通りですが。
2006 8・7 59
* 妻も、わたしのよく使った手にならい、ながいながい面白い本に没頭して読み終えるまではイヤなことを忘れ去るのがイイと思う。『モンテクリスト伯』など、ぜひ奨めたい。
* 今日は余儀なく予約してある歯医者に妻を連れて行く。
* 歯医者へは、今日妻と同行が、よほど大変だった。特別あつらえの照りと暑さとであった。診療後、やはり例の「リヨン」の美味しいランチで、休息しながら力を付けねばならなかった。
シェフがわれわれの顔を見て、特別メニュに切り替えてくれた。なにしろ毎週来ているから同じ献立になるのを避けてくれたのであり、オードブルは、妻とわたしとで料理を変えて二皿出してくれ、半分ずつ取り替えながら、いろいろ楽しめた。すてきに美味かった。メインの肉も鴨を使ってすばらしいソース。堪能した。
絶品はデザート、冷たいパイナップルのスープ仕立てにプリンが浮かんでいて、食べるのが惜しいほどの美味、大満足。赤ワインも、いいのをねと頼んだので、一段と美味かった。
それでも妻は疲労し、食後に少し、息ぐるしそうな肩を揉んでほぐしてやった。
電車の中が涼しくていいのだが、駅の階段は二人とも苦手。ゆっくり上がる。保谷駅からはこの頃はいつもタクシーを使う。この「熱い」と書きたい日照りの夏である、自衛するしかない。
2006 8・7 59
* このわたしの「闇に言い置く 私語の刻」に、このところ続いている、下記のようなことを、書き込むのは、もとより、★★★と妻夕日子による、わたしへの告訴・告発への、「情理」両面からの心用意であること、言うまでもない。そういう立場に強いて置かれたからは、今、これに打ち込むのは当たり前の姿勢であると思っている。
むろん、これもみな現世を生きる浅ましい夢の泡であると承知している。わたしは今そんな夢の「観察者」である。
* 妻に、わたしへの「説得誘導」を懇願してきた★★★に、妻から出した返事はこうであった。再録する。
* ★★★様
1 この十四年来の私の思いは あのとき 他人を介さずに なぜ 私たちが「直接」話し合えなかったか ということです。 (=秦はすべてに自身出席したが、先方からは終始事情のよく分かっていない、身贔屓一辺倒の伯父さん、そして仲人の小林教授が出て、要するに秦に我慢しろ、であった。我慢の問題でなく、親と子との基本の「礼」の問題であったのに。)
今こそ それが必要な時機と考えます。
その機会を持ちませんか。当然で最適の方法と信じます。これが 私の返辞の要点です。
2 「実の娘に実の親を訴えるなど させたくない」とのお考え 当然です。よくわかります。
夫であるあなたが、妻夕日子の「人格」のためにも、「実親を告訴」など とうてい 情理に叶うことでないと 心から説得・誘導なさるのが 当然のことと考えます。
私は 夫である秦と よくよく話し合い、そして歩調を揃えます。娘が父を告訴するという非道を 娘にさせたい母も、親も、この世界にはいないと信じています。
3 お尋ねします。 「告発」の原告は、 あなたなのか 夕日子なのか 夫妻連名なのか。それにより わたしたちの考え方も岐れて来ざるを得ません。
4 提案します。 余人をまじえず、「両親、夫妻、秦建日子」が同座し、落ち着いて「何が問題であるのか」を話し合う。
この際それが 理性ある大人同士の踏むべき順序だと思います。
建日子も「ぜひ参加したい」と言っています。 06.08.06
* ★★は話し合いを「歓迎」の一方、一方的な条件を前提としてつきつけ、秦が受け容れぬかぎり、話し合いの場にはつかないと答えてきた。妻宛のメールであり、わたしは読む気になかなかなれなかったが、妻の再度返辞の内容はすぐ聴いた。
* ★★★ 様
1 先に送ったのは、秦迪子の返辞です。すでに夫と話し合った結果ではありません。
2 「話し合い」は、無条件に始めるのでなければ話し合いにならないと思います。
3 夕日子の、やす香入院以降のわれわれ両親への態度は、実に非礼でした。この際、夕日子の気持ちを、夕日子の言葉で聴いて置きたいのです。あの陳情書のような文書に書いていた、あのような父を罵る言葉で、少女時代の両親との家庭生活全面を泥足で踏みつけ、父に対しても母に対しても、夕日子は恥ずかしくないのですか。
わたしは、烈しく怒っています。父に向かい、こと文学にかかわって「高慢」などと言えるどんな資格があるのか、魂の荒廃を感じます。 06.08.06-2 秦 迪子
* おとなしい妻にしては、異例の「詰問」が爆発した。無礼な娘の頬に一発くらわしたという体である。
ひと言の対話も手紙もなく、こう十分な時を経て、なおいきなり親の「告訴」へ突っ走るわが娘に、ごく当たり前なことを母である妻は言い、きっちり叱っている。だれもそう読まれるだろう。
これに対し、「さようなら」という「結論」の返辞が、その日のうちに折り返し★★★の名で届いた。
「話し合い」になんぞ出てくる気も、勇気もあるもんかね、と、わたしは自分でも話し合いを提案しながら、成る話とは思えなかった。
その「さようなら」という返辞だけは、双方で最後の交信だけに、ここに記録しておく。
* 秦迪子様 ★★★
お返辞届きました。
そばに夕日子がいます。
もともと夕日子はそちらが条件を満たしても「よりは戻したくない」、と申しておりましたが、いま話し合った結果、「もはや秦家と話し合う余地はない」という結論に至りました。現局面で「秦家が条件を付けられるはずがない」というのが根拠です。
あとは文学でも親族関係でもなく、法が決着してくれると思います。
さようなら。
* 「秦家が条件を付けられるはずがない」という日本語の意味が、手前味噌に曖昧模糊としている。しかもはなから高飛車ないし喧嘩腰。六カ国会議での北朝鮮なみに、そういうのを「勝手な非常識」というのである。
要するに夕日子は、親への「情」もうしない「理」もうしなって、母親がまっすぐ指摘し娘のために懼れた「魂の荒廃」に、ずぶずぶと沈没しているのだろう。
* わたしは、フェアな気持ちから、ここで、★★★の、「子を喪った父」としての悲哀の深さが、相当なものであったことに共感して、認めておく。
病院内の食堂で、ひとりぽっち食事している彼を遠目に認めたときも、やす香のベッドサイドで本当に悲しかったわれわれに黙って席を譲ったり、すすめたりしていた彼をも、わたしは目に留めていた。気の毒に可哀想にと感じた、悲しくないわけがないのだ。互いに「娘」の父親だ、分からないワケがない。
だがまた、彼の面持も姿勢も、おどろくほど傍観的に感じられたのも事実であった。●は、あまりに静かだったという感想を、われわれは、家に帰ってからも、幾らかずつ分かち持っていた。
そして、例の「お祭りお祭り」「やす香の人生最大の晴れ舞台」と、母夕日子が「プロデュース」した、女優さん司会の「通夜や告別」の場で、わたしたちのもとに届いている、幾つかの証言では、見た目に最も悲嘆にくれうち沈んで傷ましかった「只一人」「最も目立った一人」が、★★★であったということを、わたしたちは、聴いて即座に素直に信じた。さもあろうと同情し、わたしは覚えずもらい泣きしたのである。好感を持ったのである。わたしも妻も息子も、同じく。
但し、こと、それだけに関しては、である。その理由は以下に言っておく。
* 話し合いに、★★の条件を事前に秦が容れるなら応じようと言ってきた★★からの返辞には、こういう文面が含まれていた。
二つの段落に尽くされるが、前半は、★★★の思いであり、もし真実を真率に語っているのなら、わるくない話だと、わたしも、息子も読んでいた。
後半は、夕日子の態度を示しており、しかも「うそいつわりない」事実だと★★に言われてみると、やっぱり我が娘は、やす香もきっぱり言っていたように、「謎」としか言いようがない、ごく控えめに言って、である。
文面はこうである。
* もとより私(★★★)は、やす香が白血病の告知を受けたとき、それを「秦家と★★家が仲良く暮らしなさい」という天降のメッセージだと捉え、やす香にも夕日子にもそれを伝えました。それゆえ私は、秦夫妻が見舞いに来たさいにも抵抗なく受け入れ、「余命2~3日」との宣告も、夕日子の反対を押し切って建日子さんに伝えました。
* もし真実なら、それこそ吾々もまた、強く期待していたことだった。
そのためにも、われわれが病室の前まで来たときに、たとえ廊下の立ち話ででも、まず、「遠方をようこそ見舞ってやって下さいました」という父親らしい、当主らしい挨拶から対話が始まるのだろうかと、期待した。
「十四年前は、若気の至りでほんとうにご無礼を働きました、申し上げたことなどもすべて撤回し、あらためておわびします」ともし言われていたら、やす香のためにも、われわれは喜んで直ちに和解に応じる気だった、既往はもう咎めず、物理的に応じうるならいろんな希望を聴いて受け容れようと。
「やす香の見舞い」がなにより絶対の先決であるにしても、ひとつには、その「和解」の為にも、われわれはやす香が呼びかけるままに、はるばる病院へ出向いていた。父親でなく、やす香こそ、枕元での両家和解をどんなに切望していたか、それを信じる方が、高の先の弁より、遙かにリアリティがある。
高に強い意志がほんとうに有ったのか、以降の経過から見て、首を傾げてしまうのは、どうだろう、間違いだろうか。
事実はこんな経緯を辿ったのである。
★★家の主人である彼は、ついに、わたしに視線をあわせることもなく、終始吾々とやす香との場面にただ同座していただけで、帰るときにも、ひと言の挨拶もなかった。その気なら、直ぐ近くに静かな談話コーナーもゆったり用意されてあったのに。
われわれもそういう★★に、ましてそれより仏頂面な夕日子に、とりつく島もなく、むりやり口をきくきっかけも持てなかっし、そんな気にもなれなかった。 ★★側から自発的に話しかけられて応ずる以外に、ありえない、入院・病棟の状況であった。
だが、この高の言を、やす香の死から、もう長く経って、それも今回妻へのメールの中で初めて読まされても、遅いのだ。
やす香のためにも、ああ惜しい惜しい逸機であったと悔やまれるけれども、★★は、書いているふうには、望んでいる方向へは、何ら一ミリも動かなかったのは事実である。
* もう二三日でやす香は死ぬだろうから、病院近くのホテルに泊まり込んではどうだという、建日子への提案にしても、やす香の死ぬことなど考えたくもなかった祖父母には、一種異様な寒さで聴かれたことも付け加えておく。「もう二三日でやす香は死ぬだろうから」とは、何かしら、語るに落ちた人為的な冷ややかさではないか。その「二三日」に何がやす香の上に為されたのか。
* さて、つづく文面は、妻「夕日子の様子」を夫の●が伝えている。
* けれども、そのときすでに、われわれ(★★)の方針、治療、看護の進め方に対する恒平氏のすさまじい介入や攻撃が始まっていました。しかも事情を余り知らずに、またネットの上で。夕日子は、恒平氏が死を受け容れたやす香にあのように語り掛け、やす香をあのように描写したさいに、「殺してやる」と絶叫しました。断じて誇張ではありません。
* 「そのとき」とは、何時のことか特定されていないので、これまた曖昧にアバウトなのであるが、それより何より、重大なことを、★★は意識してか、無意識にか、看過している。
「われわれ(★★)の方針、治療、看護の進め方」を、誰が、いつ、われわれに、話してくれたか。全く無かった。百パーセント何ひとつわれわれは伝えられていない。
「事情を余り知らず」どころか、もしそれが、やす香の「病状」にしても、実は「病名」にしても、「危険な度合い」にしても、故意に夕日子は、「ただひと言も」わたしたちには告げていない。それどころか、「入院」したことも、「白血病」ということも、「保谷の親には知らさないで」と夕日子は弟に口止めもしていたらしい。
やす香自身が「MIXI」に「白血病」と、もし公表しなかったら、われわれは、「入院」も「発症」も、まるで知らずじまいであった。そのことに★★は、都合良く、全く、頬かむりしている。
* 「介入」とは、事態や状態を承知のうえで「異を唱え、割り込む」行為であろう。われわれは何一つ直接にも間接にも、やす香の容態に関する「状況説明や医学的説明」を受けなかった。その有様で、どこに「介入」の道があろう、方途や場面が有りえようか。
一つ有ったといえば、こういう親切な申し出があると、医療のツテを「情報」としてメールで急報しただけ、しかしそれにも一片の受け取ったとすらも、まして謝意も、夕日子も、★★も、伝えてきていない。
あげく、「肉腫」。 待ったなしの、「緩和ケア」。自然死では断じてない「人為死への直行」。
これですら、やす香が、「MIXI」で、みなに伝えてくれたから、わたしたちにも知れたのであり、★★の両親は、何一つ報せてこようともしなかった。
その非情で非礼と謂えるだろう「事実」を、改めて確認すると、さきに★★が書いてきた、『やす香の白血病は、「秦家と★★家が仲良く暮らしなさい」という天降のメッセージだと捉え、やす香にも夕日子にもそれを伝えました。それゆえ私は、秦夫妻が見舞いに来たさいにも抵抗なく受け入れ、』という物言いが、つまりは、ただの後出しの「作文」のように、そらぞらしいと、いやでも、思えてくる。
* 両家仲良くとの天の教えを、本気で言うのなら、たとえ夕日子は疲労し気も顛倒していたにしても、★★★自身が、診療の「方針」や「考え方」を、電話やメールで、また院内で、紳士的に告げて祖父母に緊急説明し、必要なら協力を要請すればいいではないか。ところがその為には指一本も★★は動かさなかった。
全くこんなことだから、やす香の目に見えてきた衰弱と、「生きたい」という叫びを「MIXI」で聴くにつけても、不安と悲嘆の余り、わたしたち老親の思いが「攻撃」性をたとえ帯びてたとしても、血を分けた祖父と祖母の感情として、許されるのではないか。われわれはヒステリックに喚いたりしなかった。「私語」にも「MIXI」にも、秦恒平のすべての「言葉」は、そのまま人目にも触れている。読み返せる。
* 「生きたい」やす香に、祈りをこめて、「やすかれ やす香 生きよ けふも」と、わたしは心から願った。祖母も祈った。同じ願いの人達は、たくさん、たくさん、いた。
* ところが夕日子は、その、「生きよ けふも」を憎悪して、父を「殺してやる」と絶叫していたのだ。「断じて誇張ではありません」と、夫はわざわざその事実を強調して認めている。いい年の、教育も受けてきた大人、「人格」を自負している大人が、かりにも父親にむかい発する言葉か。父親の行動や言語の、どこにどんな邪まがあったか、「夕日子、言いなさい」と言いたい。
* では、なぜ「殺してやる」になるのか。問題はこれだ。
* 「死を受け容れたやす香に」 「生きよ けふも」などと祈るな、という意味らしい、今日この頃の★★からの文面で、やっと、それが分かる。
そして、「死を受け容れたやす香」と聴けば、今も、わたしたちは、忽ち涙にむせぶ。骨に喰い入る「肉腫」の激痛に喘ぐわずか十九歳の娘が、未来に希望を山のように描いていたやす香が、みずから「死を受け容れたい」わけがない。
つまり親をふくむ誰かが、説いて、説得して、とうとう「受け容れさせた」というのでなければ、全く理に合わない。ついにやす香の真意など知れるモノでないが、それにしても、なんと酷いことであったことか、医学的には所詮助からぬと分かっていても、やす香を愛する友達や、知人や、われわれ祖父母には、「やすかれ やす香 生きよ けふも」と祈ることは許されていたと信じる。「殺してやる」と「絶叫」されて当然のことか、「夕日子、よく考えなさい。」
問題は、「何一つ説明も要請もしなかった、お前の頑なに自己中心な態度が招いていた事ではないのか。」
* 最後に逢った日にも、つよいモルヒネ効果の中で、あのやす香は、右手をとっていた祖父と、「握って」と孫に言われ涙ながら左手を握っていた祖母と、顔を覗き込んでいた叔父建日子とに、驚くほど明瞭に、「やす香生きている」「死んでない」と目を開いて話しかけ、この言葉を、わたしや息子と心持ちニュアンスを異にして、祖母は、わたしの妻は、「やす香はまだ生きているの」「死んでないね」と問いかけ「怯えていた」と、聴き取っていた。
ああ、それが可哀想で、祖母は、廊下へ出て泣いた。
* それでも、われわれの真率の願いは、やはり「生きよ けふも」であった。生きていて欲しかった。それは「MIXI」でも、恰も「大合唱」のように流れていた「祈り」でたあったと、感動的によく読み取れた。
わたしたちは、やす香の日記一切を、入院以前からよく読み、「やす香生彩」という題で正確に記録してきた。「MIXI」に流れた関連の祈りや見舞いの声も、なるべく、多く。
だが、夕日子は、なんとそれらの願い・祈りにむかい、「殺してやる」と。「絶叫」したと。
これをわたしは、こう思う。
我が子やす香が、「遁れがたい死を前にして動揺するから」という気持ち、それが夕日子を烈しく揺らしたのであろう。わたしは、それはそれで、とても可哀想にと思う。
思うけれども、ここへ来て、今日只今、山形県から届けられた「十三歳の中学生」の言ってきた、「娘さん(夕日子)は、自分を責めることに恐怖を感じているのではないでしょうか。」が、思い出される。
「死なせた」という言葉を、「殺した」と読んでしまい激昂したのも、それであろう。やはり可哀想にとわたしは思うが、日数をかさねてなお、親と対等の「人格」を自負する割には、あまりに頑迷に硬直しているのは、どんなものか。
そういう妻夕日子の自暴自棄を、夫★★★教授は、どうして自ら「説得・誘導」出来ないのか。
2006 8・8 59
* この「秦恒平 生活と意見」=「闇に言い置く私語の刻」は、総体が小説家であり批評家である、実績も持っているわたしの、間違いない創作物であり著作物であり、それを闇の奧で自発的に読まれる人は、国内にも国外にもびっくりするほど多くおられる。その大部分はわたしのいわゆる「いい読者」であり、情理をともに備えた読者に支えられている。
* ★★★と夕日子とは、父に対し、その「生活と意見」全部を削除せよと要求している。厖大な量で、おそらく原稿用紙なら何万枚という大量になっていて、すでに六十ちかい「私語」のファイル一つ一つ、多いところでは一つで単行本の二冊三冊分を含んでいる。
★★夫妻に、その全部を消却せよなどと求める、どんな権利があるのか、理解に苦しむ。理由は★★★夫妻宛て直接問い合わせて欲しい。
秦建日子は、たとえ一歩譲って消すにも、★★と夕日子の「求める個所だけで十分だよ」と言っている。あたりまえだ。
わたしも、ファイル1 以降の、厖大量のうち、どのファイル、どの個所の、どんな記事を削除してほしいと言うのか、具体的に列挙して来るのが、仮にも告訴側の当然の手続きだと思っている。そう伝えてある。
* 例えば、こと訴人の一人「夕日子」の名前を、手始めにファイルで「検索」してみても、いや検索などするまでもなく、親として、娘を大切に思い、健康を遠くから願ったり、赤ちゃんから大学生にいたる娘の思い出を、妻と語り合ったり、そんなのばかりである。だいたい、孫やす香に向かっても、われわれは夕日子の悪口など、たったひと言も吹き込んだりしなかった。
★★のことには、また、ひと言も触れなかった。
その「★★★」の名前も、「私語」には自然登場する。たまたま今、目に付いた、例えば平成十三年の「私語」では、こういう「★★★」が登場する。
* 平成十三年九月二十五日
* 徳田秋聲の「或売笑婦の話」を読んだ。佳かった。淡々と出始めて、どきりと終わり、大げさでないのに劇的であり、純文学の優れた興趣をしっかり表わし得ている。うまく「つくった」話なのだが、散文に妙味と落ち着きとがあり、作り話だけどと思いつつ、ふうんと唸らされる。佳い文学に触れた嬉しい気持ちと、ほろ苦い生きる寂びしみとに胸打たれる。この胸打たれたのが響いたのだろうか。いまも、胸は安定しない。午後には美術館へなどと思っていたが、無理か。晩には一つ日比谷で会合がある。夕日子の披露宴会場と同じ場所で、フクザツな気分。
* 九月二十五日 つづき
* 猪瀬直樹の出版記念会(励ます会)が帝国ホテルであるというので、行く気でいた。昼間から出て、上野辺をまわってと思案していたが、朝からの体不調で昼間はとりやめ、晩には出てゆこうと思っていたが、心身大儀でとりやめた。帝国ホテルの光の間というのは、娘の結婚披露宴の会場だったところで、往時に触れるのもイヤではあった。
(主賓・来賓の=)谷崎(=潤一郎先生)夫人も藤平春男氏(=早大文学部長)も尾崎秀樹氏(=夕日子をわたしの代わりに中国の旅に連れて行って下さった、日本ペンクラブ会長)も森田久男先生(=夕日子の、危険の予測された誕生時、実に親切に母産婦を医学的に保護して下さった東邦大学内科教授)も亡くなられた。
離婚の経験のある谷崎夫人を新婦側主賓におくとは非常識なと、婿の★★★(青山学院大国際政経学部)に罵倒されたとき、正直のところわたしは虚をつかれ、じつにイヤな気がした。およそそのようなことは、考えたこともなかった。谷崎文学とわたしと、谷崎夫人と我が家と、の縁は知る人ぞ知る、深いものがあった。まして娘を孫のように愛して、自ら何度も身をはたらかせて夕日子を本人熱望のサントリー美術館学芸部に就職させてくださったのも谷崎夫人であった。離婚も再婚もそれが何だというのか、松子夫人あって昭和の谷崎は名作の山をつみ、二人は添い遂げて、夫君没後も夫人が谷崎文学のために奔命されたことは、まさに知る人はよく知っている。
よそう。
* たまたま飛び出したこの記事など、名誉毀損もなにも、正確な事実そのもので、★★の罵倒の手紙も保管しているし、なぜ、これを自分の著作物から除かねばいけないのか、「心情」として納得しにくい。
第一、この文を削除すれば記事の主体を成している前段の思いは不当に損なわれる。ももともと後段の無念や不快へ流露して行く文脈は自然であり、端的にいえば、わたしの「文藝」に属している。しかもわたしに恥じるところはなく、削って貰いたいほど恥ずかしいのは言うまでもなく、★★の「非礼」の方であろう。
* この調子で「★★★」の名前の出てくる個所を、彼が具体的に引き出して削除を望んできたとき、場合によって応じないではないが、法的な力に強制されてするのではない。
しかもその前に、書かれてある内容について、いちいち★★★に、説明や自己弁護を求める権利が、わたしにもあるはずだ。
事実は消えはしない。事実を真実として表現し創作物に仕立てていく権利を、わたしが抛棄するわけはないから、際限なくいろんな場で、後世まで、★★は恥をかき続けるだろう。
わたしは証拠もなく、こういう記事を書きはしない。法的に勝つの負けるのなど、人間的真実の前には、なにほどのコトでもない。
* 厖大な量の「私語」から、何処の何を外して欲しいか、一つ一つ指示して希望するのは、告訴側事前の手続きであろう。
だが★★はそれを、ようしないだろう、言えば言うほど、非礼は自身にあったことにまざまざと思い当たるであろうから。
それでいて、「八月十日」という期限を高飛車に切って「告訴に踏み切る」と言ってきている。★★★一人の告訴なら問題なく受けて立って簡単だが、夕日子にも訴人の名義をかぶせているのが、夕日子のため、将来の行幸のために、我慢ならない。
だが、むろん受けて立ち、コトそこに至れば、ねわたしはそれらを裁判所が具体的に命じるまで、現状に保存し、またその内容や表現に従い、著作権をあらそう申し立ても出来る。
* いざやり出してみると、厖大な量のコンテンツを消去していくのは、手作業としても容易なことでなく、乱暴にどんどん消して行くより手がない。もう「私語」の二から始めているが、★★★に来させて手伝わせたいほどだ。バカげている。
* hatakさん
二十世紀の終わりごろから私は、「闇に言い置」かれた言葉を聞くことから一日を始め、眠る前に再読することを一日のとじめにしてきました。
「闇に言い置く」の膨大な文章の蓄積は、hatakさんの著作物であると同時に、私が石垣島や札幌に暮らし、エジンバラや中国やハワイの島から、想いを送り続けた八年間のかけがえのない記録でもあります。
私と同じように、この蓄積の中には、高校生だった少年が、親元を離れて大学へ入り、卒業し、就職した成長の記録や、私が密かに「参拝上人」「参詣聖」と呼んでいる、おびただしい数の社寺仏閣訪問記、卆寿を超えた「押し掛け弟子」の初々しい作品が世に出る記録もあるのです。
これらの貴重なアーカイブを、インターネット上から消し去ることができるのは、サイトオーナーであるhatakさんだけで、「闇」をどうのぞいて見ても、誹謗中傷や名誉毀損を訴え得るような何人も見出すことができません。
国公立機関に属する図書館が独立行政法人化され、交付金運営費を5%など数値を示し削減されるようになってから、学術論文の紙媒体による購入を取りやめ、コンテンツサービス会社などから、電子ジャーナルの供給を受ける契約をするところが増えてきました。経費や時間の節約になる反面、電子媒体は、例えば、配給会社が倒産したり、公権力が悪意を持って介入した場合には、あっけないほど簡単にこの世から消えてなくなります。紙媒体では、サーキュレーションが薄く広いので、一旦発行されたものは簡単には回収できず、どこかで生き残る可能性があります。
わが身の一部のようなサイトが突然このような事態を迎え、インターネット上の記録媒体の利便性と脆弱性をあらためて感じました。
いずれにせよ、闇の彼方に、事の成り行きを見守っている多くの「目」があることを忘れないで下さい。 maokat@帯広市にて
* わたしも九八年ころからの「私語」を眺め初めて、maokatさんのいわれることが、有りがたく、よく分かる。
所詮★★★も夕日子も、このような「世界」とは異邦人であり、読んでいないのだ。この数万枚もの、秦恒平の思索と批評、まさしく「今・此処」で生きているという生彩、その意味も価値も、テンデ★★には分かっていないというだけだ。
おそらく、これが、量的にも質的にも個性的な「日記文藝」であることは、自分で言うからおかしいけれども、間違いなく読み返して行って、すぐ分かる。わたし自身、興に惹かれて読みやめられなくなってゆく。ナルシストだとわらわれるだろう、それはそれでいいのである。
上の、maokatさんのような読者が、ずいぶんな人数実在するらしいとは、わたしが言わなくても、広い範囲でいろんな人から、わたしが言われている。「あれは、読まずにいられませんよ」と。
この厖大な「日録」の中で、およそ★★の姿など、大海の一尾の鰯ていどにしか現れてはこない。その先生が、「生活と意見」全部消去しないと「告訴する」と、卑怯にも自分の妻を訴人の連名に、自分より前に引っ張り出してくる。やり方が汚い。
わたしの「私語」の中で、わたしの舌鋒に娘が刺されているのは、この六月下旬、やす香の「白血病」入院から、酷いような痛恨の遠逝と、それ以降の不当極まる告訴さわぎの時期に、はっきり限られている。
わたしは、娘の批評はしても、名誉を傷つけるようなことを、それ以前のこの「私語」で、一度として書いた記憶がない。有るというなら、「これ」と指さしてわたしに示してみなさい。
2006 8・8 59
* いま、本当に胸痛め困惑すら覚えるのは、例のイスラエルと、ヒズボラとの、根の混雑した血戦の惨劇で、とても論評のちからも無い。
「靖国」問題など、この中東の死と恐怖の泥沼からみれば、理性と感性とだけで聡明にカタをつけてしまえる、つまりは政争と外交の具=愚にされているにすぎない。前者には念々のうちに命がかかり、後者では単に欲と思惑とだけが動いている。政治屋どもの場合、英霊はただダシにつかわれ、拝礼という信心信仰は空洞そのもの。
鳥居をくぐって拝殿の前に手を拍たねば遂げられない崇敬や感謝などというものは、無い。それは、こと死者に関わる場合、ただの「まつりごと=政・祭」であり、真実の思いでいうなら、心籠めた遙拝ないし祈念で十二分に足りる。死者や(在るとして)霊魂が特定の場所に集中して蠢いて在るなどと想う方が可笑しい。より的確には、人の一人一人の記憶と敬愛の中に在る。遙拝と祈念。そして思い出して倶に在ること。それで足る。
* 「遠逝」とわたしは孫やす香の死を書いているが、しかもやす香は、ふだんに、わたしの肩にきて耳に語りかける。わたしは自在に聴き、わたしも自由に語りかける。対話できる。
いままで思いもしなかったが、そうそう、いずれやす香の墓が★★家では用意されよう。しかし祖父母はついにその場所すら知るまいが、知っても知らなくてもわたしは、たぶん妻も、行く気がない。その必要がない。
お寺さんにはわるいが、わたしは「墓」なる装置に、慣習としてはよく付き合っているけれども、そもそも死者の記憶を、重い重い石の下敷きにおしこめて、もう出てこないでという陰険な意図には、共感しかねる。言葉はイヤだが、いつでも化けて出ていらっしゃいという気で待つし、こっちからも逢いに行く。『最上徳内』に書いて働かせているあの「部屋」が、まさしくそれ。
生者は自在に死者とともに生きて在る。在り、得るのである。京都まで、恩ある秦の親の墓まいりにわたしはよく行く方だが、そこの墓石の下に親たちが縮こまって身動きならないなどと、そんな失礼なことは想わない。
たった今も、じつの親、育ての親たちも、姉も兄たちも、孫のやす香も、それどころか多くの先達友人たちも、みんないつでもわたしの此の身のそばに、在る。そういう人達と倶にと、わたしは毎夜静かに本を音読して欠かさないのである。
* わたしが、いわゆる葬儀のたぐいの祭式に気が乗らないのは、大事な人の死ほど、他人(ひと)と共用して済ませたくないからで。やす香との一応の「わかれ・おくり」も、わたしは、ただ賑やかなパフォーマンスにしたくなかった。大勢寄れば、どうしても思いは雑駁に混雑する。だからわたしは浅草の花火という「送り火」を、ごく静かな場処をいただいて、やす香と二人だけで眺めてきた。やす香はすでに自由自在に花火の空を飛翔し、笑っていた。わたしはビルの屋上の一隅で、やはり泣いていたのだが。
* ただ人は情あれ 花の上なる露の世に 閑吟集
2006 8・9 59
* ご決意読みました。こんなに早く、こういう不幸な形は想像もできませんでした。
この「私語」は私にとって、単なる毎日更新されるホームページではありませんでした。電子書物でもありません。この「私語」と一緒に生きていたのだと思います。特別な存在でした。「私語」は人生の伴侶、魂の親友でした。今は万感胸に迫って、言葉がありません。実はずっと泣いていました。
私語は秦恒平らしい、秦恒平にしか書けない形の素晴らしい生彩ある文藝作品でした。知の巨人の仕事でした。この創作を心から愛していました。今までのものを保存して愛蔵し、文学論やいくつかの本になりそうなテーマでエッセーの編纂めざして集めているところなのです。もう間に合いませんか? 仕事の途中なのでほんとうに困ってしまいます。愛読者としての最後の切実なお願いです。
この痛ましい「愛」の決断が、大きな愛の代償が夕日子さんの胸にまっすぐ届きますように。もはや★★家の訴訟対象がなくなるのですから、せめて愚かしい告訴の不毛が避けられますことを切に切に祈ります。
これからは、やす香さんへの喪の仕事と奥様の看病の毎日でいらっしゃることでしょう。かならず奥様をお守りください。そしてご自身のお身体も大切に大切にお守りください。
やす香さんは、お書きになる小説の中で、とわの命を得るでしょう。やす香さんとの再会を楽しみに待ちます。そして私語との再会も信じています。どうか「聖家族」も本になさってください。
「私語の刻」長い間ありがとうございました。パソコンのホームページに深々と一礼いたしました。 町田市
* 愛読者は斯くも嬉しい有り難い存在であるが、照れくさくもかなり熱い存在、とても、ピュアな存在でもある。だが、いかなる大金でも自由には買えない宝である。娘夕日子の、おおむかしの名セリフを借りれば「魂の色の似た人」とは、作者にすれば、読者こそ第一である。
* ただ、作者という化け物は、創作行為や自分の創作物のためには、ひたすらな愛読者より、かなりしぶとく、油断ならない闘う存在でもある。
* 「どうして」という眩暈に苛まれたまま、思念が膠着しております。
高橋新吉の「心」という詩に「心は虚空よりもやはらかい」の一節があります。
告白すれば、私は、ただそれだけのことを「わかる」のに三十年余かかりました。五十歳を過ぎていました。
詩のつづきにこうあります。
「何もないが心だから、心は通ぜぬところがない」
すでにそのような状況に無いことを知りつつ、あえて、私自身の父に対する悔悟の心から、お叱りを覚悟で申し上げます。
どうぞ、待ってあげてください。どうぞ、夕日子さんを待ってあげてください。
涙しつつ、お願いいたします。 六 香川県
* 有り難いことだ。いま、わたしは、こういう、「夕日子」を想っての呼びかけに包まれている。
ご安心を。わたしも妻も、忘れるどころか、少しも変わらず、じいっと夕日子誕生から十四年前までの娘のあれこれを見守り、思い出していて、娘が、自前の理性と自覚とでしっかり立ち直るのを待っている。
子は変わっても、親は変わりようがない。
一時の言葉などそれは灰のようなもの。言葉はついに言葉であり、真実は言葉にされた瞬間に真実から遠のくと、異なるモノになると、仏陀も、老子も、バグワンも正確に語っている。その時その時にわたしは胸の奥からまっすぐ言葉をつかんでは来るが、それが言葉であるというはかなさを、文学者の覚悟として、いつも持っている。
* 真実に近づける言葉は、わずかに、「詩」としてのメタファー(喩)があるのみ、だから文学・演劇の真の創作者は、「表現」という「文藝」に、命を削る。「月=真実」をさししめす「指=(言葉」は、けっして「月」ではない。ただ優れて「喩」となりえた言葉だけが、月=真実に近づいて、人にもそれを感じさせる。ただの「おしゃべり」ではどう賢しらを言ってみても、情けないが、届きはしない。情けなさを一番いま噛みしめているのは、いま、わたしである。
* わたしの「言葉」は上のことを痛いほど知っての言葉であるから、少なくも、囚われていただかないように。
ウソを言い散らしているという意味ではない。言葉より、思いを汲んで下されば有り難い。
* 「待ってあげてください」とは、なんと、私たち親子にとり嬉しい有り難い言葉であろう。また「待つ」しかないということでもあり、それは★★★についても言える。
彼はいま、妻へのメールによれば、途方に暮れているようだ、そしてひたすら夕日子が自身告訴の決意をかため、わたしのこういう「私語」からも、聴く耳を塞いで、近づかない様子を伝えてきている。
そういう娘の硬直ぶりは、娘を観たことのない方には、なかなか想像もされないだろう、夕日子のいささかの文才だけを遠目に愛して下さる読者達にも。
* ★★は、やす香病床にいながら、わたしたちに「礼」を以て接する好機を、空しく逸したが、今更にあえて胸中を忖度はしない。逸機はまた、吾々の咎でもあった。
* おそらく今回夕日子たちの不幸の最大なのは、やす香の医療継続と緩和ケアとのはざまで、親としてせざるを得なかった、痛恨の「死へ向かわせる決断」を、祖父母にすら秘して漏らさなかったことにある。もし漏らされていたなら、間違いなく最終的に同じに決意していたと思う。
しかし、そこのところで、異様な、わたしには考えられないことが起きていた。それが、今にして、夕日子自身の言葉により分かってきた。
思うだに酷いことであったのは、病名を、その行方までも、当のやす香に向かい告知し、いわば「ラクな死」を、やす香本人にむかい「母自ら説得してしまった」こと。わたしにはこの選択はとうてい信じがたい。やすやすとは、とても受け取れない。だが夕日子は自分でやす香に告知したと言っているらしい、弟に。
わたしの親しい優れた医師も、肉腫発見の遅さ、この病気の激越な進行から見て、ホスピス=緩和ケアの選択は、その時点で余儀ない、或る意味で正しい選択だったろう、けれども、
「それをお子さんに告知するかなあ」
「僕ならぜったいしない」
と言われる。
わたしは、夕日子が秘めていた、そういう仕儀一切を全く知るすべなく、しかも当のやす香が、病名も、死の免れがたいことをすら、公然口にしているその事態には、愕然とした。「死を受け容れたやす香」と、夕日子は、昨日か一昨日の妻へのメールで言っている。言われている「言葉」の、ああ、なんという怖ろしい意味であることか。しかもわたしは、死の「受け容れ」を説いた場面も言葉も、その事実じたい、も、むろん知らされてなかった。
あのとき、「死」を説得されたやす香と知っていた人が、誰かいたろうか。友人達がみなそうと知っていたわけがない。そんな時に「生きよ けふも」とひたすらやす香のために祈るのは、いずれ人為的に輸血の停止される前提または結末を予想していない、予想したくもない、やす香を愛する全員、の自然当然必然の願いであったろう。
わたしは、やす香が最初に自分から「白血病」と、ソシアルネットに公開したときにも、何故にと、すでに病名の本人に告知されている事実に、仰天した。それでも夕日子も、母にむかい「治る病気よ」と呟き、またどの段階でであったか、「命がけでやす香の命は守って見せます」と「MIXI」に公言していた。誤診が、だが、その後に有った、ということか。
肉腫。これは、もう、……。医学書院の編集者であったわたしは「肉腫」を、ともあれ識っていた。そしてまた驚愕したのは、「肉腫」「緩和ケア」という言葉すら、やす香自身の「MIXI」が、告げていたではないか。さきの医師の「信じられない」という愕きを、わたしはあの瞬間に愕き、色を喪った。
緩和ケアの方針が親と医師とで定まるのは、病状の進行しだいでは仕方がない。だが、やす香の精神的な安楽を守ってやるのに、酷い告知と「死の受け容れ」の説得が、なぜ必要だったか。黙ったまま優しく静かに見送ることも、モルヒネを使用し輸血停止の決断も予定されていたぐらいなら、難なくできたろうし、夕日子のより賢いプロデュースで、音楽会も、大勢の友達の見舞いも実現出来たろう。
やす香を、いとやすらかに死に至るまで、せめて「だまして」おいてやるのは、何かの正義の前に「罪」だとでもいうのだろうか。
* これはもう「繰り言」である。わたし自身、早く繰り言をやめて、新しい創作にかかりたい。夕日子もそうしたら。
お父さんに「復讐」したいというなら、母としての名作に、やす香さんを「書いて」なさいませと、人の言われていたのは、核心を射ている。わたしの寿命のある間にわたしも読みたい、ぜひ。
* だが、なかなか。
夕日子は、告訴の決意が鈍らないように、わたしの「私語」からも、パソコンからも離れて、触れようとしないと、夕日子の夫★★★は、わたしの妻に伝えてきている。これでは、「待って上げてください」が、道をうしない宙にさまよう。「今こそ抱きしめてあげてください」も、途方に暮れる。そんななかで、余儀なく、わたしは、一つまた一つ「私語」のファイルを消しているが、あまりに、ばかばかしい。
突きつけられた期限の明日に、消去作業の間に合わないことは明瞭だし、間に合わそうと慌てた操作で機械を傷つけたくない。当然である。
ホームページを開設したとき、これは、わたしの「原稿用紙、作品発表場所、電子書籍、作品展示室、作品保管庫、文学活動そのもの」と認識していた。これを全部「消去せよ」とは、だが凄いことを言うなあ。
* その夕日子にあてて、七月二十六日の夜の九時に「MIXI」の日記で、「やす香の母夕日子に」こんなメッセージを送っている。
二日続きで、われわれは建日子ともどもやす香を見舞っていた。そして、「もう見舞いにはこないで」と言われていた。二十四日のやす香は、言語もはっきりと祖父母と叔父とを認めて、話しかけた。脳は言語という難しい機能とともに生きていたのは間違いようがない。
このメッセージは、一つの山として待ちに待っていた母夕日子の誕生日の日付に入る、ちょうど三時間前。なにも知らないわたしは、やす香の明日を迎ええそうなことを喜びながら、四十六歳になる娘夕日子の誕生日を祝ったのである。
* 2006年07月26日 21:14 やす香母の夕日子に 湖
やす香のようすを「MIXI」のみんなに報せてくれて、ありがとう。さぞ君も疲れ切っているだろうが、此のかけがえのない一刻一刻を、やす香とともに静かに豊かにすごしてください。
もう三時間で、君の四十六の誕生日だ。
ひそみひそみやがて愛(かな)しく胸そこにうづ朝日子の育ちゆく日ぞ
「朝日子」の今さしいでて天地(あめつち)のよろこびぞこれ風のすずしさ
(一九六○年七月二十七日夕日子誕生)
そのそこに光添ふるや朝日子のはしくも白き菊咲けるかも
安保デモで国会の揺れた初夏から、君の生まれた真夏から秋へかけての、わたしの歌だった。
あした、可能なら、やす香の病室で、おまえのママとわたしとでえらんだ、目に明るい真っ赤のストローハットに、大きな白い花をつけたのを、君にかぶらせ、目に立ちやすい大きな七宝のブローチを、胸元にかざらせ、やす香に、「そーら、ままの誕生日だよ」と声かけて、一目でも目をあけ、思わずやす香に、吹き出し笑いをさせてやりたかった。
やす香に、一と声 「まま、おめでとう」と言わせてやりたかったよ。
いまの君に「おめでとう」は、なかなか言いづらいけれど、やす香を授かってくれて、「ありがとう」と心から、いま言っておく。
どうかして明日を乗り越え、七月から八月を乗り越え、こんどは九月「やす香の二十歳」を迎えたい。やす香はつらいだろうが、迎えたい。やす香はせつないだろうが、迎えたい。やす香の「生きの命のかがやき」のために、迎えたい。
みんなで、心一つに迎えたい。
夕日子 やす香をお願いする。 父
* まさかに夕日子がやす香に「死を受け容れ」させ、時刻は知れないがこのわたしの「日記」を書き込んだ時間より早く、すでに「輸血停止」を実行してしまっていたとは。嗚呼。
知らなかった。知らぬまま、わたしたちは、ひたすら「やすかれ やす香 生きよ けふも」と祈る以外の道をしらなかった。
わたしは、そんな前だか後だかにやす香の母に「殺してやる」と絶叫されていたと夫★★に確証されてみると、ああ生きがたしと、この不条理な人生にひしがれる心地がする。
2006 8・9 59
* ホームページを閉じられることについて・・
秦さま あまりの物事の速い進みに深く悲しんでいます。
全く存じ上げない方の生と死について、こんなに深く考えることも初めてのことかも知れません。
今日のやす香さんの写真は大学に入られてからなのか、少しオトナっぽいお顔ですね。穏やかな笑顔です。
ホームページを閉じられる決意をされたことを、一昨日に読み、少なからずショックを受けています。
ただ、その決意は心して受け取らせていただきます。
私にとって「生活と意見」は、正直に言いますと毎日かかさず見るというものではありませんでした。
ただ、何かが起こったときに(戦争や、政局に関することが主なことでしたが、)秦さんはどんな意見を述べておられるだろうと開けてみて、心の中で会話をするという場所でした。
もちろん、日々のご活動も読むのが楽しかったですし、同志社大学の寒梅館で食事をされたりしているのを読むとこんなにすぐ近くにいるのに!!と、妙に悔しがったり・・・(私は**大学**学部の研究室事務室で働いています)
閉じられると聞き少し、いえ、かなり途方にくれています。。
今日は一日再度読み直しておりました、朝までまだ少し・・・続けて読ませていただきます。
もちろんこのメッセージには返信は不要です。
建日子さんのページにもメッセージも残さず時折足跡だけを残す失礼な私をお許しください。(これはご本人にちゃんと言うべきですね、でも今は、文学と生活のページに戻ります。
くれぐれも奥様も先生もともにお体ご自愛くださいませ。 京都市
* 昨日★★から届いた妻へのメールで、夕日子は、父親の「私語」にあらわれる上記のような交信は、秦恒平の都合のいい「創作」だと言っている。マトモに向き合う柔らかい思いが働けば、よもやそんな心ない読み方はしないだろう、父親の作文能力を称賛してくれたものと思っておこう。
わたしは、もう早くにであるが、「私語」に紹介・転記されたくないメールには、 @ マークを付けるか、明記しておいて欲しいと「読者」「知友」には、おおかたお願いしてある。同時に、どの方と人に名指しされるような特定の記事は省くか、記号化している。互いに綽名をわざと付けていたりするのも、幾つかの点で有効だと互いに馴れているからである。
いかにわたしが多方面に発言しても、そこは、一人だけの世界。闇の彼方から覗き込み、聴こうとしてくださるエッセイや事件や見聞にも、単調さがにじみ出てくるオソレは否めない。
一つには作者と読者はふしぎな「身内」感覚で近づきあえる。当たり前の話で、「ことば」は「心の苗」であり「精神の音楽」である。魂の色が似かようような嬉しさが互いにふと味わえれば味わえるほど、同じ一つの大きい世界を組み立てあっているとも言える。そして此の「闇」という場が、時に東京の人と北海道の最果ての人との場になったり、名張の人の様々な歴史紀行に何人もの読者が出来ていたりする。それは、そのままわたし自身の「世界」の豊沃を示してもくれる。
わたしの「私語」の闇を、大勢がなんとなく交感・交歓の場にしてくれている。わたしは、それで、また大いにラクをさせてもらえるのである。
* 秦 恒平様 この夏も蓼科へ行ってきました。
車山のニッコウキスゲは昨年のような全山黄色というわけには行きませんでしたが、一株(写真)お目にかけます。
その後秦さまご夫妻はどのようにお過ごしかと、ただただ心痛み、帰宅して恐る恐るホームページを開きましたら、なんと思いもかけぬ展開になっていて– —呆然といたしました。
やす香さまを喪われたご両親が平静なお心で居られるのはご無理としても、どうしてそこまでと思い、この悲しみがせめてもこれまでのご両家の確執のとける契機になればとの私のはかない望みも、単に傍観者の楽観であったのかとうち砕かれました。しかしやす香さまの仲直りして欲しいとの願いがきっとよい方向へとみなさまを導いて下さるであろうと、まだ私は(ご事情もよくは知らず勝手に)希望を持ち続けています。
回復の見通しの立たぬ病の人にどう声をかけるか、とても難しいことです。
私の親友のおつれあいが致死的な難病のALSで身動きも発語もかなわず、蓼科の山荘で療養して居られるところへ私が息子と立ち寄った時のことです。
別れ際に息子は、「おばさん、おじさんはきっと治ります、大丈夫です」と懸命に励ましました。
私などは到底こんな言葉を心から発することは出来ませんでした。
知恵が邪魔をするのですね。
どんな状況でも、生きていてほしい、元気になってほしい、と祈ってどうしていけないのでしょう。
末期ガンで清瀬の救世軍ホスピスにいた友人を何度か見舞いました。
彼女には知的障害のある息子さん二人と病身のおつれあいがあり、しかしあまりの治療の苦しさに、死んでも死に切れぬ思いを絶って、自らホスピス入りを決心されたのでした。
それでも投薬等で苦痛が治まると、自分はここでこんなにして楽していて、死んでしまって、良いのだろうか—と悩み苦しむ、と私に告げられました。
このような心の葛藤を繰り返し、やっと最後は安らかな気持ちになられたと、お世話をした救世軍のシスターが葬儀の時話してくださいました。
そんなこんなを思い出しながら、HPを拝読しています。 2006/8/10 藤
* 昔、私が父に激怒した時に、母から「パパの言ったことではなく、今まであなたにしてくれたことを思い出しなさい。言葉で判断してはいけない」と諭されました。
あれだけ父に苦労していた母ですが、ありがたい言葉でした。許すということのきっかけになりました。
私語で、やす香さんのミクシィの記述を読みました時、「治ることは絶対にあり得ない」という部分に実は驚愕しました。医師に対して湯気の出るほど憤っていました。
夕日子さんがキューブラー・ロスの「死ぬ瞬間」を読んでいらっしゃらなかったとしたら、残念でした。
高校生の頃に恐怖に震えながら読んで、そしてとても学ぶことが多かった。ご存じのように、これは死にゆく人々に取材したものです。
印象に残ったのは、よい死を迎えるためには、絶望させてはいけないということでした。たとえ不治の病であっても、その告知にはどこかにかならず希望を持たせなければならないというのです。
余命の宣告は非常に慎重にと。
つまり嘘をついてもいいのです。治らないとわかっていても、治る可能性も延命できる可能性もあると伝えることで、患者は救われる。
そういう意味のことが書いてあったとうろ覚えながら記憶しています。
私は自分の遺言ノートの中に、病名の告知はしてほしいけれど、余命の告知は不要と書いています。何しろ悟りなんか全然ない。弱虫で怖がりの臆病なんで、死ぬのが恐ろしくてたまらないのです。
夕日子さんに告知について助言できる人が周囲にいなかったことは痛恨の極みです。夕日子さんはご自分の孤独な責任で告知を背負っていかれたのですね。そのご胸中をお察しすると涙しかありません。
それでも、一つ救いは、女は男より告知に強いということです。テレビで看護婦さんが証言していました。男の人は誰も誰も告知でよれよれになってしまう。実に弱い。
でも、女の人は強いですよ。きちんと後始末までしていくと。 夏
* いま、わたしの知己たちは、大勢が、夕日子の心事に思い入れて娘の立ち直りを励ましてくださる。またはわたしを宥めたり窘めたりすることで、間接に夕日子をなだめたり窘めたりしてくださる。バルセロナの京など、わたしをむちゃにやっつけながら、「夕日子さん、いっそのこと、『やーめたっ』と、無責任に、実に無責任になって、手を放してみたらどうですか」などと言ってくれる。わたしが昔娘の手を放したように、★★の方へ預けたように、夕日子ももう父親の手なんかを放してしまい、穏やかに、家族とのこれからの日々を過ごしたらという勧めか。但しわたしは映画「ショコラ」の読みではすこし京と、見方ちがうかもしれない。
* あるサイトを開いていたら、作詞「タケ」さんという人の、たぶん若い人の、こんな詩がいきなり目にしみた。
私を捨てるのですか 飲み干された空き缶の様に 未練も無く捨てるのですか
私を殺すのですか もう生きても仕方ないのだと言う様に
それを 安楽死だと貴方は言うのですか
私を 独りぼっちにして
行く当ても無くふらりと街へ出る 私は この世を彷徨う浮幽霊の様
貴方を探してふらりと立ち止まる 私は 何がしたいのだろう
気付いていますか 私に 「わすれないで」
☆ゆらり ゆらり 心が揺れます 風に乗って貴方へ届け
恨んでいます 愛しています 心から 貴方のこと
私を独りぼっちにした 貴方のこと
用事も無くぽつりと押したボタン 電話の 鳴り響くバイブはポルターガイスト
寒空からぽつりと雨粒に 私は 何を願うだろう
気付いてください 私に 「わすれないで」
☆さらり さらり 身体流され 心裏腹 離れたくないのに
恨んでいます 愛しています 心から 貴方のこと
私を独りぼっちにした 貴方のこと
私を捨てるのですか 私を殺すのですか 安楽死だというのですか
私を 独りぼっちにして…
* どんな人だろう、「たけ」サンは。どういう気持でいるのだろう。
* 建日子の連続ドラマ「花嫁は厄年」が、今夜で何度目かちょっと覚えないが六度目ぐらいか。
最初は好まなかった。駄作だとこきおろした。
続けてみていて、断然篠原涼子の溌剌のうまみが全編をリードし、岩下志麻が対極をガンとおさえて、このシーソーゲームは、支点の位置が甚だしくずれているままの好バランスになっている。その他大勢はその他大勢の模様になり、みな楽しそうにバカをやっている。この、楽しそうというのが、甚だいいミソ味になっている。
今夜で、この連続ドラマははっきり水準を抜いて、独特のハートを躍動させ始めたとわたしは見て取った。
気がつくと、これは珍しい農業ダネでもあり、農作業や農家やとりまく自然の豊かさによって、作品のストーリーを支える佳い実景になっている。わたしは、それを評価する。
やはり、安土家の岩下母に、わたし。
家を出て十年帰らぬ長男一郎に夕日子。
両者のあいだで奮闘する明子に、作者は、ね自身を擬していると、この私流に眺めていると、建日子「作意」の優しい情感が、ほんのり伝わってくる。
* だが、そんなのんびりしたことは言ってられない、★★の告訴攻勢は執拗で、気はぬけない。
2006 8・10 59
* 妻はいわゆる「三年日記帳」の実践者で。『鍵』の老夫婦のようには、わたしは、決して覗き込まないが。妻が今年一月二日の日記を全文書き抜いて持ってきてくれた。
* 2006.1.2 月 晴
午后から やす香 と 行幸が来た。叔父さん(=秦建日子)からもお年玉が出た。
夕日子のお振袖を出して やす香に着せかけて 楽しむ。
建日子が恒平さんの気持を察して 皆で 車にのり込んで 玉川学園(=姉妹の家がある。)まで送ることになった。
この日変に臭い我が家、帰宅後わかったのは Goo (=建日子が連れてきていた、巨大な灰色の愛猫)の下痢 !!
* まみいの、腕によりを掛けたお節料理やその他のご馳走を、「やす香」「ヶヶヶ」と書かれた祝箸を、翔ばす勢いで、大いに食べに食べ、ご機嫌で大笑いしていた、やす香、行幸。まみいに振り袖を着せかけてもらって、大いに照れながら、喜色満面で少しポーズしてみせたやす香の笑顔が、今も目の真ん前に浮かぶ、涙ににじんで。
あのとき、「今年九月にはやす香二十歳だけれど。成人式は、もうすぐ(此の一月)の成人の日にするのかい」と聞くと、「それは来年のお正月ですよ」と答え、この着物を今夜貰って帰ることは(親たちにナイショで来ている今は=)まだ出来なくて残念無念だけれど、「来年まで…。この一年のうちにはね、きっと…この振り袖が着られますように」と、独り言のように呟き呟きうち頷いていたのを、
「思い出します」と妻は言う。
用事で席をはずすこともある私と違い、わたしの知らない会話も、妻と孫娘とにはそれはそれは沢山あったであろう。まみいの方へ愛らしく顔をかしげた写真を今も身のそばに大きく眺めている。
母の夕日子に家で着物を着せて貰ったことがあり、「保谷の家には、ママの着た佳いお振り袖があるんだけれど、貰いに行くわけにも行かないしねえ」と言っていたとも、やす香はまみいに話している。
夕日子はいったい、なにに義理立てをしていたのだろう。とにかく十四年、保谷では夕日子が尋ねてくる夢を見るか、帰ってきてもこの辺の変貌にきっと道に迷うぜ、キット迷うわねなどと話し合って、「待って」いたのだ。
* 理事・委員など務めている日本ペンクラブその他諸団体・諸組織に宛て、わたしへの「詰問書」を配布すると言ってきている。その殆ど全部は、やす香のことをめぐるこの春以来の、わたしの「私語」「MIXI日記」に関係している。★★★と妻夕日子とは、それらの全部を廃棄せよと「告訴」「訴訟」の名において要求してきている。
なにより、それらはわたしの「著作」であり、つまり日記文藝、またエッセイという「創作物」である。
またこの間両家に会話対話が全然不可能だった以上、それら「日録」は、字句をつまみ食いした詰問内容のすべて不当なことを、経時的文脈において正確に示している資料であり、読み返せば、すべて判明する。
まして名誉毀損で告訴を前提にした廃棄請求になど応じられるわけがない。
ものごとは、日かずを経つつ、いろんな側面をみせては変容し、転移してゆくものである。そのものごとの経緯を記録するのは、創作者の日々の「用意」というもの。「歴史」に幼来熱心に学んできたわたしの「方法」は、そうした推移や変転のなかから「人間」のいわば秘密をつかみだし「表現」することにある。だがかなしいことだ、客愁に生きる者の、はかない夢よ泡よと、識ってする、「創作」といえども、やはり愚癡のわざに相違ないことは。
* 山形県から、ホームページを閉じるなんて、ぜったいやめてくださいと言ってきた「中学三年生」は、なんとなく同年である孫行幸との対照で、男子と勝手に想像していたが、中三女子、女の子であったと知れた。失礼しましたね。ごめんなさい、ありがとう。
2006 8・11 59
* 秦 先生
『死なれて・死なせて』を、ミクシイの電子版で拝読していましたが、やはり、活字のほうがと、「湖の本」版を取りだし、読みはじめました。
先生の掌中の玉、白珠乙女をお思い申しての、わたくしのモゥンニング・ワーク(=悲哀の仕事)でございます。
以前、拝読しましたときにもまして、作家の厳しい自己裁断に息を呑み、「死なせた」存在としての自分がつよく意識されました。
『源氏物語』の読みを変えてくれたのも、『死なれて・死なせて』でしたし、「死なれ・死なせる」というキイ・ワードで諸々の書を読むことも、この書から学びました。
しかし、この度は、拝読していまして、先生のこのほどのお悲しみ、痛苦に思ひの及ぶことがしばしばでございました。あたかも、今のお悲しみが予見されていたかのような個所もあり、「言の葉もなし」、謡の一節でしたか、ひそかにつぶやくばかり……。
奥様がお倒れなされた由、これも心の痛むことでございます。どうぞ、おだいじに。大切な背の君のためにも早く、ご恢復なさいますよう。先生もご心労のあまり、お身体を損ねることのありませぬよう。白珠乙女が守ってくださいましょうが、わたくしにも祈らせてくださいませ。 香
* どうやら、★★の「告訴」するぞという威嚇前提の争点が、だいぶ推移している。現在までに、わたしの方で処置済みのことを、整理しておく。
一、 夕日子名の著作全部を、希望を容れ、「ホームページ」からすでに削除してある。
二、 ★★夫妻が「ホームページ」から外して欲しいと切望する「創作物」を、★★夫妻の言う理由からではなく、「作者の一存」で、すでに外してある。
三、 「生活と意見=闇に言い置く 私語の刻」の全部 (= 現在58ファイル、原稿用紙換算すれば何万枚に相当) を「全削除」との要求に対しては、過剰で不当な「著作権侵害」であると拒絶し、その一方、或る「決意」から、やむなく「准・全削除」作業にも慎重に取りかかっていた。
ところが、「全削除は求めない、★★夫妻に関する個所のみでよい」と変更されたので、それならば、請求側の当然の手続きとして、★★・夕日子両名、それぞれの「データ (=ファイル・ナンバー、何年何月何日の何段落め、どの文面等) 」の正確な提出を求めた。大海の中で鰯の一尾、一尾を探して釣るような作業であり、それは、わたしの負う仕事ではないからである。請求側からデータが提出されれば直ちに検討し、「もっともな希望であれば即時削除も吝かでない」と答えてある。
同時に、当然ながら、取り組んでいた「准・全削除」作業は停止し、復旧を考えている。
四、 それでもなお、「告訴」「訴訟」をもし強行すれば、「二」は直ちに「復旧」し、「三」には、十四年前の「非礼」と不幸な「何の関わりもない孫と祖父母との断絶」にも溯り、また別の、或る重要な「情報開示」も求めて、裁判所で、夫妻の反省を望むことになると伝えてある。
* これに対し、★★夫妻は、上の「三」の範囲を、今回「やす香」の、入院前から遠逝に至る辺りに限定し、「生活と意見」内の「関連個所削除」を求めて、それが容れられれば「告訴」「訴訟」しないと告げてきた。
その趣意は、記事がやす香の死の尊厳をそこなうからだとあるが、実は、やす香の死に、家族も病院も咎められる何もないという保証を得たいのが関心事のようにも推察される。
わたしにも妻にも、孫やす香を喪った痛恨・悲苦こそあれ、そしてそれはやす香の両親にも妹にもより深いと十二分に知ってこそおれ、そのことで★★家を弾劾する気など毛頭あろうワケが無いのである。
しかも祖父母は、思いあまる「死なせた」くやしさを感じ続けている。
そもそも吾々の全員に、「死なせた」という人間としての痛悔がなくて、やす香はどう浮かぶ瀬があるかと、わたしは悲しむ。だから、やす香を喪って直ちに、わたしは、著書『死なれて死なせて』の「MIXI」連載を開始し、関係した大勢の人にも、「悲哀の仕事=
MOURNING WORK」の何たるかを伝え始めた。
最大の関係者である★★夫妻が、それを心静めて読みもしていないことに、そして父のわたしを「殺してやる」などと「絶叫」することに、わたしは実に驚愕するのである。
* ともあれ、上の請求には、上の、「三」の第二段落、を以て答える。厖大な量の文章から、そのごく一部を探し出すことの大変な難しさを、わたしが負うてすることではなく、削除して欲しいと求めている側が、「データ」として具体的に提示すべきなのは、あまりに当然の手順だろう。(妻が試みても、とても探し出せなかった。)
* ★★家は、もう、「告訴」「訴訟」「誹謗文書」配布という「威嚇」を先立てて、あれこれ老親に対し高飛車に「要求」するという悪手段を、まずきれいに撤回し、むしろ「今回やす香のこと」で、終始一貫祖父母に対し、何一つ「報知」「説明」「相談」しなかった非礼をこそ、真っ先反省するのが道だと言っておく。
* それでもなお理由薄弱で無謀な「告訴」「訴訟」の強行となれば、「争点」は、★★家の予想外に (または懸念している方面へ) 重大に展開してゆくだろう、確実に。
* ★★夫妻は、なにより真っ先に、こう言ってくるのが当たり前でないのだろうか。
「告訴」は撤回します。十四年前の「非礼」へも溯って反省し、当時の暴言はみな撤回してお詫びします。「やす香」の遺志を深く思って、総ての回復と前進へ、両家で立ち向かいましょう、と。
2006 8・112 59
* 妻が、気持ちをひきしめ、しっかり立てるようにと、八月は行かないはずでいた歌舞伎座に連れて行って欲しいと言う。終日はとてもムリな体力だが、幸い八月納涼歌舞伎は三部制なので、一部だけ、成駒屋に頼んで席を用意して貰った。少し気が晴れるだろう。
高麗屋からは十月の大歌舞伎の案内があった、九月の秀山祭もとうに頼んであるが、十月もぜひ楽しみたい。
幸四郎は昼の熊谷陣屋、夜の髪結新三。仁左衛門が勘平腹切や「お祭り」など昼夜に活躍の予定。なにより市川団十郎の無事の舞台をぜひ観たい。忠臣蔵では、海老蔵がはまり役に想える、例の中村仲蔵の伝説をしのぐ、秀逸の斧定九郎が観てみたい。
高麗屋は、十二月国立劇場という案内も来ている。真山青果の元禄忠臣蔵の通しである。
2006 8・12 59
* ★★夕日子・●夫妻は、わたしを「告訴」「訴訟」と決したらしい。午后十時ごろにメールで伝えてきた。受けて立つしかない。
メール差し出し署名は、「★★夕日子・●」となっている。告訴・訴訟は主として夕日子がするものと読むしかない。
* 夕日子が「父告訴」「父訴訟」を強行するのでは、いかなるわたしの配慮も無意味になった。
ホームページから消去し、「たいへん感謝します」と言われていた創作も、元通り公開する。「生活と意見」を含むホームページを撤収する必要もまったくなくなったし、「准・全削除」しかけていたファイルも復旧する。
* 明日から、不快な日々がつづくが、わたしは、夕日子とちがい、「法」よりも、「人間の真実」を大事に思う。父は無価値な「信義」をせいぜい言いなさい、自分は、夕日子自身は、ひたすら「法」「法」で、父を打ち倒してみせると言ってきている。なにをか言わん。
2006 8・12 59
* やす香の母、わたしの実の娘夕日子が、やす香の祖父、自身の父であるわたしを、「告訴する」「訴訟する」と決めた由、昨夜、「夕日子・●」という連名で伝えてきました。夫とは、やす香父である青山学院大学教授、教育哲学などを教えているであろう、★★★氏です。
訴状はまだ届きません。何を以て娘が父をと、異様さに、おののく思いです。
「死を受け容れたやす香」の死への静安を乱し、わたしが「やすかれ やす香 生きよ けふも」と祈り続けたのを、★★家の「方針」も知らないくせにと夕日子が激昂し、わたしのことを「殺してやる」と「絶叫」したと、夫★★は、!!付き、でわたしに対し確認しています。
「方針」? よほど「隠された事情」があったのでしょうか。
推測を出ませんが「終末期医療」にかかわる「安楽死」へと、「肉腫」の診断が定まった決定的な手遅れの当初から、病院と家族とは「方針」として何かを協定していたのでしょうか。
病院職員に妻がいろいろ尋ねましたとき、「お母様がすべてご存じです」「病院として延命のためには何もしていません」と聞かされています。
安楽死問題は、世界的にも、日本国内でも、まだまだ容易ならぬものです。これは自然死を本来とする「尊厳死」ではありません。「輸血停止」劇薬投与等によるいわば人為死・医療死に至る、法的に関係者で協定されたいわゆる「方針」と思われます。情報開示を求めていない以上は、やす香の場合推察に過ぎませんが。
じつに正確に母夕日子の誕生日迄「生かされていた」とも、今になれば受け取れる感じがあります。感触ですが。
もしも安楽死なら「インフォームド・コンセント」「説得された患者本人の承諾」は、法的にも人道的にも正しくなされていたのでしょうか。そもそもやす香は平静に「死を受け容れた」などと言い得るのでしょうか。あんなに「生きたい」と叫び「くやしい」と呻いていた十九の、烈しい病苦のなかの、やす香が。
見舞った、わりとまだ早い段階でした。母夕日子から、「生きているやす香に逢うのは、もう今日だけよ」と釘をさされ、ギョッとしたことがあります。なんでそんなことを言うのか?!
しかし、その後日にも重ね重ね見舞って、やす香に逢いました。死の三日前、七月二十四日には、祖父母と叔父とは、明らかにやす香と「対話」しています。やす香の脳は、言語能をまだしっかり保っていました。喪っていませんでした。
ところがその一両日後、「永眠」の前日ぐらいに、なんと「輸血が停止され」た事実を知りました。自身で聴いた、見聞した? と、「MIXI」ではっきり語り、日時まで定められていたかのようなやす香の最期を伝え聞いて号泣したとも記録されています。
もし可能で、この異様な「告訴」に関心をお持ちの方にお願いしたい。
わたしのホームページ http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/ の、やす香遠逝記事をふくむ、七月分「生活と意見私語」file58 をそっくり他のワープロソフトにでもコピーしてくださいませんか。証拠保全の意味でも。
其処に、また、「MIXI」日記に僅かながら書いてきた、やす香永逝までの私の思いに、更に連載中の『死なれて死なせて』にこめた「悲哀の仕事= mourning work」に、もしも、孫やす香への、娘夕日子への、深い「愛」ならぬねじけた「悪意」を少しでも読み取れるなら、わたしは、娘夕日子による「父告発」に、進んで頭を垂れましょう。
告別に歌われたと聞く「栄光の架け橋」が、このような「やす香母」「★★夕日子」の行為で汚されて行くのを、亡きやす香のために祖父母は深く悲しみます。孫やす香もあまりのことに泣いているでしょう。まみいは憔悴し、また倒れました。
あのやす香の死が、申し合わされたいわば「安楽死」に近いか等しいか、で、もし事実あったならば、通夜や葬儀に参会してくださった大勢様には、間違いなくピュアに記憶にのこる「お祭り」でしたでしょうが、夕日子や★★★氏には、病状重篤の手遅れゆえに余儀なく「プロデュース」した、「やす香の人生最大の晴れ舞台」だったのでしょうか。やす香はもう諦めていたかも知れませんが、本心は、さぞやもう生きられないのが悔しかったでしょうね。
やす香は何度も、目はつぶってても「耳は聞こえているよ」と言いました。やす香は何を聞いていたでしょう、「輸血停止」と聞いたかも知れない、その瞬間! わたしは繰り返します。 やすかれ やす香 とはに生きよ けふも。
* ★★夫妻に、わたしの「ホームページ」からぜひぜひ外して欲しいと懇願されていた創作『聖家族』(未完成・未推敲・フィクション)は、わたしの一存で消去していたが、「告訴」「訴訟」を決行するという以上、もとへ戻して、このまま広く読まれることに期待したい。なぜそうも執拗に「外してくれ、外してくれ」と告訴・訴訟で威嚇してまで外して欲しかったのか、外せばたちまちに「深く感謝します」と喜んできたのか、語るに落ちた真相も、読者は推知されるだろう。
わたしはこれを「奥野秀樹の作品ではない。遺書である」と作中人物の名をかりて冒頭に明記している。事実、そうなるだろう。
* 「私語」ファイルも、ほぼ全文の削除をすすめていた作業も中止し、復旧する。ホームページを閉じる理由は完全になくなった。娘夕日子は、父を「告訴」したのである。
* 夕日子に父を「告訴」させまいと願い「決意」した大きな「理由」を明記しておく。
「争点」の一つに、「安楽死」問題が不審・疑念として浮かび上がるのを、夕日子のために避けたかった。
その危惧と推測とは、昨日より以前に★★家に伝え、「理解して頂いて感謝する」と言われていた。
あげく「告訴」「訴訟」になった。
法的なことは知らないから、言わない。「輸血停止」等の措置が行われて、計算したようにやす香の「死」が為されたらしい措置が、すくなくも不審や疑念とともに法廷で話題になるのを、わたしは避けたかった。他の誰にも秘めていただろう夕日子(例外的に只一人夕日子から知らされていた人がいたらしいのを、夕日子自身が語っているが。)の十字架を、それ以上重くしたくなかった。久間十義氏の『聖ジェームズ病院』を読んでいて、あんなきたない取材や裁判の渦巻きに夕日子が巻かれかねないと思い、とてもイヤな気がしていた。
* なぜ此処にこういうことを「書く」のか。
相手を刺戟し、相手に手の内を明かし、「みんな父さんの損になるよ」と息子も妻も言うが、そんなことは百も承知している。
わたしは「物書き」以外の何者でもなく、それしか生きる道も処世の道ももたない。書いて人の胸にうったえる以外手はない。それが法にかなうかなわぬは、知らない。わたしが、わたしに、「書いてうったえよ」と奨めることは書くのである。賢いことでないと言われても、賢いというのはそんなに尊いことかと思っている。
2006 8・13 59
* お人柄も力でも、最も信頼できるペンクラブでの知友を弁護人に依頼し、快諾してもらえた。安堵。妻も愁眉を開いてくれた。それが有り難い。
この方なら、相手方の夕日子にたいしても配慮してくださると信じられる。わたしは娘に勝とうなどと考えていない。受け止める裁判であれば好く、出方がつよければ強く押し返すし、ひっこむならそれでよい。そこまでしないと気の済まない娘に、好きなだけさせてみる。
* 今日一日、超多忙のあいまに建日子は、なんとか、★★家と会おうと折衝をつづけてくれたが、夕日子は一切応じず、★★はあすの九時から十時まで一時間だけ時間は提供する、大学まで来れば、と。しかし「告訴・」訴訟に賭ける意思は一ミリももう動かない、「法的システム」はもう動いている、来てもムダだよという話だったらしい。
賽は投げられたのだ、それなら受けましょうと、わたしは建日子の奔走に感謝し、冷静に代理人よしなにと依頼した。躊躇わなかった。
* 問題になっているたぶん中心、此の七月の「私語」を資料としてプリントしてみた。A4用紙に112枚。一枚が原稿用紙四枚と換算すると、この一ヶ月の「私語」だけで、「湖の本」一冊の二倍ある。七月分には他からの書き入れも多いから、全部わたしが書いたモノではないけれど、それだけにここから僅かな字句を探し出して、こと、この「七月私語」に関する限り、夕日子の名誉を傷つけた悪意の証拠など、どう探し出しようもないであろう。
日記は、いわば一回読み切りの連続ドラマに見えて、さにあらず、大川のように流れて行く連続ドラマであり、その文脈において眺めるとき、ときに長編小説よりも興趣に富み躍動し、また悲劇にも喜劇にもなる。「日記文藝」とはそういうもので、日付こそなくても『蜻蛉日記』を始めとし、現代に至るまでの充実した日記文学には、やはり独特の味わいがある。「創作」なのである。訴訟・告訴などというコトよりも、重いものである。
* 建日子が仕事ですこし遠くへ出るので、留守のうち頼むと、巨大猫クンと、なんと小さい円い亀とを預けに来た。
その息子の説によれば、夕日子は、父親に百パーセント「無償の愛」を求めているのではないかと言う。
何のこっちゃ…。
翻訳すれば、秦恒平にはいつも文学ないし「書く」こと、また自分の信念や思想にしたがって生き貫くということが先立ち、何が何でも子供が一番、ではない。たとえ子が何をしでかそうとも理屈抜きに子の味方というところがない、めったに褒めない、遠慮無く批評する、あれが「大嫌い」というんゃないかと。
ハハーン。聴いておきます。
* 西国の方から、声。
* (私も)考えました。
何とも気が重いです。が、それはやはり秦さんの書かれるものは、同時に「考えよ」という力を持っているので、「読む」と、「考える」のです。逃げやごまかし、後回しはなく、読むともうそこに、考える私が引っ付いてしまいます。
そういう読者は多いと思います。
夕日子さんが父親を告訴して、勝訴しないことには生きられない、生きる術がないということ(★★さんも同意していること)、とはどういうことなのか。
父と娘…。
母親と娘は同性である、母親の胎内で育ち母という身体から産み出た「繋がり」の事実が、先ずある。
父と娘は同性ではない。父という男(性)は、結婚した場合、生涯で、母、妻、娘という三通りの女(性)に、凡そ、その名のもとに愛を掛ける。
秦さんは、物書きだ。
秦さんは…、
たいていの人は、普通当たり前に、特別に意識することもなく、自分を産んだ人のことを、「母」と呼び育つ。何でもないが神聖なその当たり前の「生の故郷」は、身体ごと「赤ん坊」になってこの世に産み出る。 母と子である。
秦さんは事情から、人が生きる時に意識することなく、予め備わっていて、それを以って、それが生きるという始まりの「生の故郷」を、特別に意識するハメになり、それは普通意識されるようなものでなく、だからこそ人は、そこから生きていく(いける)のに、そこがどこかと戸惑いながら、問いながら、乞い(恋い)ながら、生きていかなくてはならなかったこと。
一心に、書いて、生きてきた。のですね!
生まれたばかりの赤ん坊は、まだペンを持たないけれど、生きてきたから、それは、私が私に書けということだ。 秦さんは書いた。
「物書きである父」の娘への愛情は、夕日子さんは解せないのでしょうか。
父である秦さんが書いたものを読む読者には、娘さんへの愛情が深く読み取れ伝わるのに。
夕日子さんのお父さんは、書いて生きてきた人(これからも)ですから、「物書き」を抜いて、「父」だけでは部分のようで、「秦恒平」にはならないでしょう。
物書きでそれも秦恒平となると、愛情にもそれなりのキツさがあるけれど、それだけに愛情も深い。
夕日子さんは一般の読者とは違い、子、娘ですから、いつまでも父のそのキツイ愛情に反抗しているのでしょうか。
母親、こどものことなどは、どのように考えていらっしゃるのでしょう。
ご自分でさえこのようなことで、何かの決着が付く筈もないと思われますが。
このような事態は、ホントに気が重いですね。
父と娘、 先のこととしても、願うこと(歩み寄るとか笑い合う)は一緒、ではないのでしょうか。 福
* これは、夕日子にもわたしにも、有り難い知己の言葉、滋味あふれた言葉であるが。
* もう二時過ぎた。
2006 8・13 59
* 熟睡。起きて、黒いマゴ、灰色のグーと、それぞれ少し遊ぶ。ピンポン玉のような亀には興味がない。
* 内藤昭一さんから、また此の夏もすばらしい「桃」を一箱頂戴した。青山学院大学の元学長さんで、十四年らいおつき合いがある。
* 湖様 おはようございます。 「私語」早速 7月分1か月分をPCにコピーいたしました。
思わぬ方向に進み、言葉も失っておりました。よい弁護士さんにお頼みになったとのこと、安堵しております。
やす香さんがご家族を一同に集う機会をつくり、その後の円滑な交流が復活することを願いながら逝かれたことと思い、そうなることをひたすら祈っておりました。しかし、事態はまったく逆の方向に進んでしまいました。
娘さんである夕日子さんがどうか平常心にもどられ、お孫さんのヶヶヶさんがご自分の道を健やかに進まれることを祈っております。
実の親子というものは、なかなか難しいものですね。
私の娘も(絵画)自作に対する批評を好みませんし、まったく受け付けません。少しでも口を開けば反発し、親であることを否定するような発言をすることすらあります。
それでも率直に批判して伝えるか、壊れ物に触るようにそっとしておくか・・・。鋭いガラス片のような娘の言葉に傷つきながらも、真綿でくるみ、娘のガラス片が少しでも丸くなっていくことを願っている日々です。
本当に傷ついているのは娘のほうなのではないかと思いながら。
大きな猫と亀と、日々少しでも心静かに過ごされますように。 波
* こんな日頃であったけれど、妻は、永田仁志氏から贈られてきた中西進さんの文庫本『日本語の力』にはまりこんで、心やりに一度読みまた二度目を読んでいる。面白いという。万葉学の大家中西さんのいわば研究余話であり、上出来の美酒の滴りのようなもの、面白くてあたりまえ。そういう気にはまる本に出会う、それが幸せということの一つである。妻は、もう一冊、友だちに贈られたらしい、草の花、木の花をめぐる、写真も入ったエッセイ本を読んでいて、いつも枕元にある。我が家のつねの風俗で、行儀がいいかわるいかは別にして、変わることがない。
新刊本がぞくぞくと贈られてくる。研究書も評論もエッセイも小説の大作も絵本や写真集もある。詩歌句集も雑誌も常のように届く。目を通さないということがない。返礼を失念することもあるが、その点メールの可能な方は、御礼も、ちょっとした感想も言いやすい。
一冊読んだら次の一冊という読み方を、わたしはしていない。いつも八冊ぐらいを併行して少しずつ前進するが、混乱しないし感興を殺ぐこともない。おのずと興をひかれれば、就寝前だけでなく外出時に持ち出す。読み物はそれで通過して行く。文庫本が軽くていいが、時に久間十義作のような大冊も持ち歩く。
2006 8・14 59
* 深更、こんな読者からの通報があった。いたずらをするような人ではない。久しいおつき合いがある。
* MIXIで「思香=やす香日記」に次のような内容の文が掲載されていたことを お知らせいたします。 波
2006年08月15日 17:36 このMIXIの「(★★)やす香(=思香)日記」も、アクセス数が30,000を越えました。皆様の想いが、天国のやす香にまで届いていることと思います。皆様のご要望により、この日記は数ヶ月間記録として保存することにしました。
さて、このような折に誠に残念ですが、皆様にお伝えしなければならないことがあります。自称文筆家の某氏が個人開設のブログに、「死を受け容れたこと」を最大、最期の誇りにしていたやす香の名誉を毀損する記事を掲載している、との複数の情報をお寄せいただきました。
また某氏は、MIXIの「やす香日記」だけを根拠に北里大学病院の診断を「誤診」と決め付けたり、日々、私共遺族のプライバシーに踏み入って、告訴云々と自作自演らしきストーリーを掲載していると聞きます。
私共は現在、対抗手段を取るために情報を収集しております。ただ、当該ブログにアクセス拒否が掛けられており、真相の把握が叶いません。つきましては、この点に関するどのような情報でも結構です。お持ちの方は、「メッセージ」で私共宛にお寄せいただけませんか。
また、娘やす香の名誉を護るこの闘いに、どうぞ皆様の温かいご支援、ご協力を賜りますようお願いいたします。
★★夕日子・★★★
* 驚いた。この署名の二人は、恥ずかしながら、わたしの実の娘・その夫(青山学院大学教授)である。どうして、こんなことをするのだろう。
なぜ、「自称文筆家」などというのか、わたしの名前を使えばよいではないか。「逃げ道をつけているのよ」と妻は言う。
八月初めから、わたしが、娘と婿から「訴追」で威嚇され続けてきたことは、経緯がくまなく明かしている。「話し合い」の道もすげなく断たれ、余儀なくわたしは弁護士に依頼せざるをえなかった。そんなことは、この「私語」でも「MIXI」日記でも、あまりに明瞭になっている事実。
まだ彼等が「投げ出してくる余地」はあると観ていたが、ま、もう仕方がない好きにやるがよろしい。何がわたしの「自作自演らしきストーリー」か。バカはよせと幾ら言っても、建日子が幾ら言っても、なんだか「聖戦」じみて頑張っている二人ではないか、何が欲しいんだろう。わたしからいったい、何を、取り込みたいのだろう。
「対抗手段」とはこの際「被告」のわたしが言うならわかるが、「原告」の夫妻が情報を今更募集するとは、何のこっちゃ。真相の把握も何も、アクセス拒否も何も、わたしは妻にも人にも窘められながら、思うまま書き、たくさん書き、自分の「ホームページ」を、世界中の誰一人にも、拒絶していない。わたしの考えなら、そこに満載されているのだから、また二人ともそれを読んでいるのは分かっているのだから、上の「情報不足云々」は、なにか狡猾そうな「ごまかし」の手なのであろうか。へんな人達。
* ま、窮したら、上の「MIXI」発言も、「他人のいたずら」だと言い出すのだろうか。今、北海道で読んだ建日子からも、「明いた口が塞がらない。読んでみたら」と、今し方メールで●・夕日子メールを「転送」してきた。
* 大学病院のとったであろう方針に、わたしたちは異をとなえていない。難しい判断だったろうと思いつつ、親からついに何一つ聴けなかったいささかの説明なら、うけたい気はあるが。
* やす香の名誉をわたしが傷つけたとは、何ごとかと思う。裁判になれば、みっちり議論しましょう。
* 一つ、いいことが書いてある。やす香の「MIXI」日記を当分そのままにすると。少なくも一月から七月永逝までのやす香の日記は、じつに多くを明かして雄弁であり、大勢の方に読み返して欲しい。わたしたちは、やす香の片鱗も惜しんで、入院とほぼ同時に悉くそのまま保存した。
ことに自身の健康の悪化を書いているのが、びっくりするほど多くを語っている。
わたしは、「対抗手段」のひとつとしても有効すぎるほどだが、やす香の、生きたい願いのせつなく潰えて行く悔しさを表した、かくも人が不幸に不運に死にゆくものかを露わにした、貴重な日記だと思うので、抄録を、とうに終えていた。
大勢の人にぜひ読まれたい。通して読むと、日々断片を読むより、はるかに訴求力が濃く、また強烈。
以下に、一月から六月下旬「白血病」通告までを、一覧で記録しておく。
大量なので、やがて別に移すつもり。関心深い人は、コピーして下さい。
* 孫やす香06/1-6月の体調違和を語る日記を抄出した。
日を追い月を負い、目をそむけたいほ深刻で具体的な記事が続くど急激に病魔が、やす香を切り刻むさまが見えてくる。十九の大学生女子が無残な「死」に引きずられてゆく怖ろしい記録になっている。しかもそこにやす香の人間がよく表れている。相当な量である。
大量の日記から、病状と心情とを語ってある個所のみ抄出したが、大きな推移の相で、モノが明瞭に見えてくる。一括して記録し「流れ」で観ないと間違うとつくづく思った。
やす香を愛した吾々なら、だれもただ「死なれた」受け身の悲しみにだけは浸っていられまい。わたしは、そう、はっきり「闇に言い置く」。一月から六月半ば過ぎまで、よく、眼をこらしてみたい。
「寂しい」と叫んでいるやす香を想い、「死なせ」た悔しさ申し訳なさに、妻と読んで、また涙した。
* ★★やす香の、06.1月 – 06.06.22「白血病」告知に至る、身心違和の日記である。病状の深刻な推移と心情を告げた部分のみ、抄録。注目される記事を太字にしたのは、私。
* *
やす香の06/01健康日記
2006年01月04日
05:14 初仕事。
今年初バイト也。
学校ないのに(:_;)
以下略
2006年01月06日
05:21 逆転
最近生活が逆転しております。今は大学休み中だから前みたく他人の2倍起きてるわけじゃないけど、朝の6時とかまで起きてて午後に起きる生活…。いい加減どーにかしなきゃ↓、と思いつつできない…みたいな。今日はこれからバイト。案の定寝てません_| ̄|●))何してるって友達としゃべってます。3人でだったり2人だったり。毎日延々と。よく飽きないねってくらい。もうね、空気みたいな存在なんです。もうね、大好きなんです。大切なんです。そろそろ中毒ですwってな具合。クレイジーな関係ですw
2006年01月11日
11:18 痛。
そろそろまずい↓
何もしてなくても痛む腰。
ろくに上も向けない首。
筋が変にきしむ肩。
血の巡り悪すぎ。
手足の先が凍る。
頭が動かない。
原因不明のびみょーな腹痛。
言うコトきかない身体に
もううんざり。
時間がほしい。
負けたくない。
誰にも負けたくない。
何も生み出さない
意地とプライド。
ただただ過ぎ去った19年もの歳月。
怖い。
恐ろしい。
自分に負けるのが一番嫌。
コメント コメントを書く
2006年01月11日
12:45 LeeVancho->
激しく賛同!自分の一番の敵は自分自身の中に眠る弱さや怠惰。それをぶち壊したい。だけど甘えてしまう。
思香(=やす香のあだな、スーシャと読む。)ちゃん~無理すんなって。あなたの体・命が一番大事だって分かっとるだしょ?肉体的に休んでも精神を休ませなきゃ何の意味もないのよ。休みなさい。
……ってテストやレポートあるじゃん(゜Д゜)笑
2006年01月11日
12:59 なるみん
…あんまり無理しすぎないでね(ノд・。)?
2006年01月11日
20:32 フミ
どーしちゃったい?!
2006年01月11日
23:58 カフカ
そーいうときは自分を責めないほうがいいよ☆自分の体あってこその自分なんだから体に休養をあたえないとね♪
2006年01月12日
08:27 思香
みんなありがとね(>_<)ほんと元気なんだけどね、身体の方がついてきてくれない(:_;)寝る時間がもったいないよー (≧д≦)人間って絶対効率悪い気がする↓やりたいコト多すぎ!やらなきゃいけないコトも多すぎ!とりあえず今はテストとレポート??
2006年01月12日
16:27 にゃー
せっかく今日体育で、縄跳び1000回跳んで卓球とテニスで必要以上にはしゃいで動き回ったのに、お昼、サイゼリアによってたらふく食べてしまった_| ̄|●))お腹だけはいっちょ前にすくんだもん(:_;)
2006年01月12日
08:47 リスト!
テスト勉強。
→残り4教科
レポート。
→残り1.1200字~2000字
2.A4が10枚_| ̄|●))
TOEIC勉強。
→目指せ700点越え
仏検勉強。
→目指せ準1級
韓国語。
→ハングル覚える
国際政治。
→基礎知識なすぎ(:_;)
運動。
→地道に体力挽回
バイト。
→夏の研修旅行費。
独り暮し費。
貯蓄。
とりあえず2年生になる前にざっとこんなもん??
サークルとかゼミとかその他諸々多々ありますがw
2006年01月16日
13:02 タイトルって考えるのめんどくさいw
眠すぎる~。
けど寝れない~。
最近のスタバがマイブーム☆彡
コーヒー飲めないけどねw
今でてるマシュマロモカとか
モカバレンシアが限界w
あれ以上苦いと飲めません。
オ子シャマです。
でもあまり通いつめると…
金欠になります↓↓
2006年01月18日
05:35 みにでぃすく。
昨日久々に 以下略
相変わらず今日も眠いよ。
でも午後学校ないし、
明日はバイト休みだから
頑張ってパン焼いてくる。
2006年01月20日
05:11 思香
なんかみんなに励ましてもらっちゃった(>_<)ありがとう。でも私元気だよ(笑)っていうか若いもん私。腰とか痛いけど若いもんwただ寒そうだなぁって思っただけ(^-^;私服に慣れると、寒けりゃ暖かいカッコしたくなっちゃうからさ?そしてスカート短くしてるくせにジャージをはく気持ちがわからなかったの(* ̄ロ ̄)
2006年01月20日
11:14 よしっ(゚-^*)
一週間終わり!
今週はフルでバイトだった(>_<)
けどまぁ
最近朝早くても
あんま苦痛に思わなくなってきたのヾ(・c_・。)
もう生活の一部なのかな☆
2006年01月20日
05:27 夢
妙にリアルな夢見ちゃった(* ̄ロ ̄)
やだやだ。
いや、
別にイヤじゃないけど…
なんか変な気分。
っていうか
今日寒すぎ(´Д`)
最近なんか元気な自分☆
SKYPE始めてから
生活リズムは狂いっぱなしだけど、
携帯代は減るし、
友達とは一晩中しゃべれるし、
まぁいいんじゃない?
タダはおいしいってw
ウィルコムとかラブ定額
なんて目じゃないって(笑)
学校休みだから
バイトしかしてない毎日だけど
友達としゃべれてるから
めげなくてすむよ(>_<)
今日で一週間終わるわぁ。
今週は長かったなぁ。
2006年01月21日
17:17 泣いてもいいですか?
この寒さはまずいでしょ…
)
今日はね、
とっても帰るのが面倒臭そう。
あの坂は
絶対にこの雪じゃ登れません。
家出てくる時も
何回もこけそうになった↓
んで膝ひねった(:_;)
痛い…。
冷え症なんだよ~私!
手先も足先も感覚ない…。
雪だし
ブーツはいておしゃれして…
って思った。
思っただけ。
そんな元気も根性もセンスもないよー
そしてやっぱり
寒いよー…
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2006年01月21日
17:24 るか
がんばれえええヽ(ヽ´Д`)(´Д`ノ)ノ ☆☆
きょうゎおしゃれとかゆってるばあいじゃなさそおだねえ(´∀`;)冷え性だとつらいよね。。あたしも。。
2006年01月21日
17:27 思香
>るか
よりによって今日かよΣ(=∇=ノノって感じです(:_;)ただでさえ知らない街(銀座w)に行くのに、凹むわぁ。
006年01月23日
18:26 連日連夜。
いやぁな夢ばっかり…
昨日の夜ついに私は
人の命をうばってしまったた。
こわかった。
夢の中で
気がつくと私は隠れていた。
隠れて自分がもといた所を
必死にうかがっていた。
そこには警察がいる。
横たわる実際に昔仲がよかった友達。
恐かった。
必死に逃げた。
目が覚めた。
なんでこんな夢を見るの?
怖かった。
目が覚めた時
人がそばにいてよかった。
私の頭は今どうなってるんだろう…
2006年01月24日
05:51 タイトルなし
まずいよぉ。
明日テスト↓
通年で必修科目のテスト↓
…だけど何もしてない(:_;)
なのにとっても無気力。
バイトも遅刻寸前~;
せっかく授業でてノートとっても
ノートなくしちゃ意味ないよねぇ…
後期授業でてたかどうかもあやふや。
ダメだこりゃ。
ホリエモン逮捕。
2006年01月29日
05:07 日曜なのに。。。
ついに
目覚ましがなくても
朝4時に目覚める体になっちゃったみたい(・c_・`)
恐るべし朝バイトil||li _| ̄|○ il||li
)
でも明後日終わればなっがーい春休み♪
_|\○_ ヒャッ ε= \_○ノ ホーウ!!!
昨日はあまりにもヒマすぎた(>ω<)
劇場版コナンとかみちゃうくらいヒマだったw
んで、
夜に「いま、会いにゆきます」見て
切なくなって寝たw
勉強?!
・・・なんて文字は私の辞書にはありませんw
あしからず。。。
2006年01月30日
19:20 心の葛藤。+楽器バトン
地理学の試験のりきった!
直前3時間でよく追い上げた自分=3(笑)
なんとか単位はもらえるはず…。
これでもらえなかったら
よっぽど先生と相性が悪いんだと諦める。
やればできるのに
やらない自分(^-^;
=できない…OTL
あぁもったいない。
明日も真面目にやれば
できそうな政治学。
だって今やってるの
倫理なんだもん。
倫理好きだもん。
やっぱやろうかなぁ。
プリント10枚…。
おそっ(ノ>ロ<)ノ
バイト休みもらったから
詰め込むくらいの時間はある。
でも帰ったら眠いだろうなぁ。
だって今日起きたの4時だもん。
2006年01月31日
19:45 健康生活。
最近、早寝早起きなの。
バイトがなくても8時頃にはすっかり目が覚めてる(。☉_☉)
へんなのー(^ω^)
で夜7時くらいになると眠くなる。
特にすることもないから夜10時には夢の中w
ちょっと前との生活とは全然違う!
でも、起きてる時にしてることや、
食べてるものは依然として最悪。。。
映画とか見てなーんにもしてないし、
体に悪そーなもんばっか食べてるし、
食べる時間不規則だし。。。
思ったのは
早起きすると1日が長い!
時間を有効に使えれば色んなコトできるんだろーなァ。。。
★★やす香の06/02健康日記
2006年02月01日
17:10 80 人。
今日バイトが異様に忙しかった。
いつもなら朝の時間帯はそんなに混まないのに・・・。
2006年02月02日
21:27 どーんより。
今日はなんとも気が重い一日だったわ;
胃がキリキリ言い出しそうー。
ってことでワインなんか飲んでみた(๑→‿ฺ←๑)
なかなかおいしい♡
そーいやこの前友達んちで、
うちのパパさんのコト書いてあるサイト見て
爆笑したっけ。
だってインタビューとかキャラ違うんだもん(。→ˇ艸←)ププッ
うちのパパさんてナゾだなって思った。
2006年02月09日
16:53 my music
ついに母親まで風邪ひきひさんな我が家。
今日何作ろう。
冷蔵庫ほぼ空なんだよなぁ…。
2006年02月10日
00:55 うにょ~
眠いのに寝られない!
頭ん中いらんコトばっかり…↓
あぁ誰か
1、2、3、パチン
で寝かせて下さい。
2006年02月20日
05:39 早朝から深夜まで
今日は
急遽夜もバイトということで、
もちろん
早朝バイトは今日もあるわけで、
つまるところ、
本日のワタクシの活動時間は
起床する朝(?)3時半から
帰宅する夜0時半
ということになります。
驚異的(*_*)
がんばりま~す★
_| ̄|●))
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2006年02月20日
06:39 You-Z
TaKe it easy( ̄▽ ̄)b
無理はしないでv( ̄∇ ̄*)v
2006年02月21日
14:07 夜のお仕事v
急遽、昨日(02/20)から
新しいバイトが始まりました(*_*)
六本木です★
2006年02月24日
05:41 夢の国
楽しかった(>_<)
TDL&TDS♪
めっちゃ歩き回って足パンパンだけどw
も気心知れた相手だったから、
ごい楽しかった。
そしてホントにラクだったw
seaめちゃめちゃ天気よかったから、
景色がすごくきれいだったの(*´▽`*)
私はseaの方が好き★彡
あの町の雰囲気とか夜景とか。
でもやっぱ
大好きな人と行ってみたい。
そんなコトを思った2日間(’ω’*)
夢の国はその名の通り、
いーっぱい夢を見せてくれました!
目が覚めればそこには
極度の金欠と
眠気と必死に闘う早朝バイトが
残っていましたとさ。
2006年02月28日
15:49 喉が…
かゆすぎる…。
花粉のばか(:_;)
薬高いし↓↓
金欠だし(´д`)
私目は結構平気なんだけど、
喉がひたすらかゆくなるの。
で、悪化すると痛くなる。
花粉のばか(:_;)
バイト中、
飴なめてるわけにもいかいし…。
花粉のばか(:_;)
やす香の06/03健康日記
2006年03月01日
20:31 歯は大切に★
やっとこさ歯医者に行ったの。
欠けてた前歯治しに(^-^;
ずっとアホ面さらしてたんです私…
ごめんなさい━。゜(。ノωヽ。)゜。━
初めて行った歯医者なんだけどさぁ、
先生が若くて、
元ギャル男…?みたいな面持ち(笑)
助手の皆さんも
ギャル…?みたいな面持ち(笑)
なんか異様な風景だった(*´▽`*)
前行ってた歯医者は
おじいちゃん先生で
「あれ?…ここでいいんだっけ?」
って治療中に口走っちゃうような先生だったの。
でも今回のトコは、
「大丈夫だからねぇ、
痛くないからねぇ(>_<)」とか、
「思香(=スーシャ。「MIXI」でのハンドルネーム)ちゃん、
ちょっときれいにするからねぇ(ノ^-^)ノ」
などなど、
私は一体何歳なんだろう…?
と疑問になるくらい
ご丁寧な対応(笑)
いやぁ異様な空間でした(^-^;
頑張って歯、治します(___)
2006年03月02日
05:55 Are you all right ?
誰か!
この花粉をどうにかして!
鼻と喉が辛い!
マスク…
マスク…??
私はたけしぃーに降参すべき?!(笑)
昨日いっぱい寝て復活した私は今日も
朝大手町→夜六本木
でバイトです(*´▽`*)
ただでさえ花粉症だから
どんなに寝不足でも、
風邪ひいてても、
だるさが
花粉症のせいなんだか
違うんだかわからない(^-^;
とりあえず昨日は
朝バイトから速攻帰ってきて、
友達との約束にも
会議にも行かず
(ごめんなさい…)
寝てました(>_<)
だから今日は
とりあえず乗り越えられる!
問題は明日だυ
バイト終わって帰るのが…
夜中1時?
んで…?
もちろん明日も
4時起床~。
(* ̄ロ ̄)
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2006年03月02日
08:15 You-Z
そんな働いて大丈夫Σ(゜ロ゜;)!?
2006年03月02日
11:14 に~さん
睡眠3時間?ΣΣ(゚д゚lll)ズガーン!!
俺は耐えられないw
2006年03月02日
11:16 LeeVancho->
働きすぎはよくないよぉ~~~><
2006年03月03日
05:37 なが~い、いちにち!( 昨日ね★)
(学校やバイト先の様子が書き込まれ)
なんかすんごいテンション高い日記だけど、
私の昨日の活動時間、
朝の4時から、
夜の2時。
長い!!(笑)
んでもって
睡眠時間2時間で
かーなーりー
眠い!!(笑)
2006年03月06日
10:55 ドン
バイトしてるとつくづく感じるの。
自分が鈍臭いって(^-^;
どんなに急いでも、
絶対他人より仕事遅いんだよね…。
んでもって変に急ぐと、
いろんなとこにぶつかる↓
こける↓
物倒す↓
寝不足の日なんて
それに拍車がかかる(*_*)
時間と勝負の仕事は
とことん向いてないと思うわぁ。
あるコトに集中すると
まわりが見えなくなるし、
まわり気にしだすと、
いろんなコトが中途半端に…
はい、問題児です私(*_ _)σ゛
2006年03月07日 ( これは病気とは関係ないけど、要注目)
16:36 back to the future?
you-zさんや、たけしぃーに便乗して、
未来についてツラツラと…。
ずいぶん前から
書き途中でほったらかしてあったネタです(^-^;
未来を向いて生きることって
すごく難しい。
だって未来は見えないから。
でも私たちは
いつまであるかもわからない
そんな未来を向いて
生きなきゃいけない。
過去を振り返るのはすごく簡単。
だって過去には
明確なビジョンがあるから。
どんな過去だろうとそこには
実際に起こったこととしての
記憶がある。
だから後悔したり、
こうだったらよかったなぁって
記憶をもとに
夢を描くことも簡単なんだ。
でも私たちは
未来を向いて生きなきゃいけない。
夢は未来に描かなきゃいけない。
どんなに不安でも、
どんなに怖くても、
生きなきゃいけない。
私は生きる意味なんてないと思うんだ。
…というか
あるかないかは人それぞれ。
夢をかなえる為に生きる人、
人を愛する為に生きる人、
ただただ楽しむ為に生きる人…
生きる意味をみつけるために生きる人。
そんな目的もみいだせなくて悩む人。
意味なんてない。
ただ生きてる。
それだけ。
だけど私たちは
自分じゃない人=他人と
必ず関わって生きてる。
家族、友達…。
誰かに愛されて生きてる。
誰かに必要とされて生きてる。
生まれてきた時点で
誰かにお世話になって、
誰かの力になってるんだ。だから生きなきゃいけない。
例え今私が死んだって地球は回るよ。
そう思ったら、
自分の存在なんてものすごくちっぽけなもので、
虚しくて壊れてしまいそうになる。
だけど、
生きたくても生きられない人がいっぱいいる。
生きててほしい人に
死なれてしまう人がいっぱいいる。
そんな人たちを前に
自分の命を粗末に使うことは
私にはできない。
生きなきゃいけないって思うんだ。
それに、
私には大好きな人がいっぱいいる。
みんなにも大好きな人がいるでしょ?
その人が
自分が死んで悲しんでくれるかはわからないけど
少なくとも私はみんなとまだ別れたくない。
どうしても生きなきゃいけないなら、
たとえ未来がわからなくて、
どんなに不安で
どんなに怖くても
明日今の楽しさが
虚無感にかわっても、
それでも今を楽しむ。
今を大切にする。
どんなコトしてたって
必ず明日に繋がるんだから。
寝てるだけでも
体力温存になるんだよ(笑)
そんなこんなでバイト先に到☆
みんな大好き(o′艸`o)
2006年03月08日
06:13 しめて5秒の出来事也
(ツω-`。)ネムネム
2006年03月08日
18:37 よし!
腹が減っては
戦はできぬともうしませう。
ということで…
2006年03月10日
00:46 さすがに
疲れる(o´c_`o)ノ
今の生活~。
いまさら?って感じなんだけどね(>_<)
今月末から夜も週4だそうです☆
昼の12時に朝のバイトから一回家帰ってきて
2時間ほど寝て、
夜のバイトに行くの(o′艸`o)
夜のバイトから1時に帰ってきて、
2時間ほど寝て
朝のバイトに行くのヾ(*’-‘)
こんな感じ。
1ヵ月前の廃人生活には
すっかりおさらば☆
だけどまぁ今の生活も
ある意味壊れてるね (。・`д・´)
だけど、
なぜか今の追われてるよーな生活が
好きだったりする(‘▽’*)
何もしないで、
寝て、
映画見て、
友達と一晩電話して
みたいな生活してた1ヵ月前より、
まともな食事(まかない)食べて、
働いて、
人と実際に触れ合って
っていう今の生活の方が
いいに決まってるね(^-^*)
土日はかーっつり寝てるから、
全然平気なんだぁ☆
でも大学始まったら
ちょっときついかもね(*_*)
授業も
ちゃんとうけなきゃいけないもんね。
朝バイト辞めようかなぁって思うんだけど、
っていうか2年の時間割り次第では
辞めざるをえないんだけど、
捨て難い(´・c_・`)
なんだかんだ愛着があったりする。
なんか言い出しにくいし(:_;)
どーしよ━(*´・д・)━!!!
2006年03月10日
12:14 うはっ
寒ぃょぉ。゚(゚´д`*゚)゚。
雨だょぉ(´・c_・`)
眠ぃょぉ(*´・д・)
ということで…??
みゆき、
お誕生日おめでとう☆
あっ、
ちなみに妹ねヾ(*’-‘)
5つ下にもかかわらず、
私の身長を
早くも追い抜きそーな妹ヽ(*’O’*)ノ
今日は友達が
わんさかウチにくるんだって(o´c_`o)ノ
居場所がないおねーちゃんは
ライブにでも行ってきます☆(。ゝω・)
2006年03月10日
22:58 Long time no see.
今日も例によって、
NEOGRANDに招待してもらったので、
ドリンク代だけで、
ライブ見て来ました♪
中略
今日は帰っても、
隣の部屋で
妹の友達がわしゃわしゃしてるので、
まったく落ち着けません(*_*)
せっかくの休日なのになぁ━(*´・д・)━
2006年03月12日
06:44 歌舞伎町の女王
なんてことはありません◎
歌舞伎町でオールをしたまでですヾ(*’-‘)
カラオケからでてきてびっくり(◎o◯;)
人がわしゃわしゃいました。
オール明けの人いっぱいでした!
久々な仲間と久々オール♪
途中で二人寝ましたw
残り二人で頑張りました(。・`д・´)
もー音程もへったくれもありゃしません。
楽しけりゃいーの☆(。ゝω・)
でも私歌が下手くそ。
お酒入ってると余計下手くそ。
いやまぁ、
カラオケなんて所詮自己満ですが、
高音がぜーんぜん上がりきれなくて、
うぉ~(* ̄ロ ̄)
ってなるの(:_;)
もぉーぃゃぁねwww
でも楽しかったぁ♪
あのメンツなかなかイケてます(o′艸`o)
それはそーと、
私実は大役をおーせつかりした。
二部(夜間)の文化系サークルを集めた連盟の
会計になるらしーです。
連盟の中の
総務っていう中の
その中でもまた三役と呼ばれる、
委員長、副委員長、会計
の会計をやるらしーです。
ことは重大ですwww
だって私、
数字が大の苦手なんですものwww
2006年03月13日
02:45 胸の痛み
恋の病…
ではないんです(^-^;
ホントに痛いんです↓
クシャミとか、
寝返りとかすると
一たまりもありません(*_*)
アイタタタ…
ってなります。
鎖骨、
首の下あたり一帯が。゚(゚´д`*゚)゚。
妹に敷布団とられて、
かたーい布団で寝たから?
あぁ眠れない(:_;)
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2006年03月13日
08:29 のんたん
あたしも、たまに心臓が痛くなるよ(爆)やばいんじゃない自分…みたいなw
2006年03月13日
10:21 思香
あっ私もそれわかる!!うちらやばいΣ(・Д・ノ)ノ
2006年03月13日
12:29 ゆきの
肋骨にひびではないんですかね??
2006年03月13日
12:39 思香
>ゆきの
まさかぁwwヒビが入るよーなことしてないよヽ(^д^;)ノ
2006年03月13日
13:24 ゆきの
かたーい布団・・・かたすぎた笑?
2006年03月13日
16:21 You-Z
肋骨は簡単にイクから、骨折ありえるかも(´・ω・`)
2006年03月13日
22:18 たけしーたけ
俺もたまにあるよ~息吸ったら「痛っ?!」みたいな
2006年03月13日
23:52 思香
>YOU-Zさん
簡単っていったって固い布団で肘ついてねっころがってただけじゃ折れませんよね?!(>_<)
>たけしぃー
それは心臓らへんとかある!今はなんか筋肉痛みたいな感じ?(笑)
2006年03月13日
23:42 タイトルなし
今日はバイト早くあがれた(≧∀≦*)
でも帰ってからもう一仕事あるの(*_ _)σ゛
母親がダブルブッキングで
受けてしまった仕事を
片方手伝わなくちゃ(*_*)
この期に及んで
まだ私に仕事をさせるつもりらしいw
スパルタ母さんww
2006年03月15日
05:24 タイトルなし
けーたい復活(゜▽゜*)
やっぱりないと不便(*_*)
乗り換え迷うしぃOTL w
今日も眠いょ~
だけどバイトだょ~
っていうかね?
なんでこんなに寒いの?!
暖かくなったり寒くなったり
おかしいよヽ(`д´)ノ
日本の天気と女の気持ちは
かわりやすいんだってぇ。
そーかなぁ?
男だってかわるでしょぉ~?
所詮、
男と女は別物なのかしら?(笑)
今週はパン焼きの週。
なにげに好きなの。
パン焼くの。
自分が作ったもん買ってもらうのって
やっぱ嬉しいもんだょね(〃´―`〃)
2006年03月15日
10:41 あんね~
やっぱり痛ぃ(+_<)
筋肉痛ではなぃみたぃ。
首から下がってきて
ちょっと左あたり?
花粉症だから
くしゃみとかするたびにひびく(*_*)
肋骨?!
いゃ、まさかねぇ(^-^;
どんだけ骨もろいんだょ
ってぃぅ(o′艸`o)
コメント コメントを書く
2006年03月15日
17:37 たけしーたけ
骨粗しょう症?!Σ
2006年03月16日
05:43 何を隠そう…
私はミーハーです(≧∀≦*)
NANAを読んで、
タクミにときめきます。
.:*゜・;*:(●´∀`):*゜・;*:
NANAを読んでること自体
ミーハーですかね(>ω<)
朝っぱらから
こんな日記ですいません(*´・ω・)ノ
最近
朝ホントに起きられない。
夜のバイトから帰って来て、
寝ないで朝のバイトに行くのは
さすがにまずいから、
1、2時間だけでも寝ようと
試みるんだけど、
一回寝ちゃうと
目覚ましが何回なっても
止めちゃって、
気付くと出なきゃいけない時間の
5分前とか…(i|!゜Д゜i|!)
しょうがないから
次の電車で行くんだけど、
次の電車だと
ホントに遅刻寸前。
結構気まずい(ツω-`。)
どうにかしなきゃ(`・Θ・´)
2006年03月17日
05:51 春思わせる風舞う夜は…
なんて悠長なこと
言ってられませんヽ(`д´)ノ
なんなのあの風!
うるさくて、
ちょっと恐くて、
寝られなかった\(*`∧´)/
おかげで遅刻寸前!
ぃゃ、
ただの言い訳ですが何か…?
。゜(゜´д`*゜)゜。
でもあの強風、
絶対一部の人間に
多大な悪影響を及ぼしたんだって!
じゃなきゃ駅に
凹みまくりの金色のやかん
とか、
クイックルワイパーの本体
なんて持って現れないでしょ?!
゜°*+:。.。:+*°゜゜°*+:。.。:+*°゜
それはそうと、
昨晩一仕事終えて気分爽快の思香です。
初めて
人様の曲に歌詞をつけました(o′艸`o)
デキはともかく、
気に入ってもらえたみたいで、
結構嬉しい(〃_〃)
2006年03月20日
00:17 助けておくんなまし。
どーしてこう
寝たい時に眠れないのかなぁ(*_*)
明日バイトなのにヽ(`д´)ノ
もっと
ワイン飲んでこよーかなぁ(。・`д・´) (痛みの緩和にか?)
2006年03月20日
11:06 ぶらぶら。
朝のバイトが終わって、
夜のバイトまで
とぉぉぉっても時間があるので、
原宿~表参道コースを
ぶらぶら(〃´―`〃)
しようと思います(≧∀≦*)
ちょっと風が冷たいけど、
あの辺は
この時間日当たりいいから
大丈夫かなヾ(*’-‘)
もうキャッチには
つかまらないよ(。・`д・´)
お散歩に疲れたら、
六本木まで行って、
スタバで
今週末に待ち構えている
TOEICのお勉強(>_<)Ф…
700点宣言
が脳裏をよぎります(^-^
2006年03月22日
05:48 おはよ~。
最近朝家をでるとき
空がちょっと明るい◎
真冬はもちろん、
真っ暗なんです。
朝の5時前なんて。
そんなことに
春の訪れを感じる思香です
+゜(o´c_`o)゜+
でも、
今日怖い夢見た(*_*)
昔からよく見るの。
逃げ遅れる夢。
火事とか地震とかから。
自分が逃げ遅れる夢だったり、
家族が逃げ遅れる夢だったり。。。
目が覚めた時、
息があがってたょ(>_<)
あっ、朝日!!
きれいな朝焼け(*´ω`*)
2006年03月22日
10:41 やめられない。
朝のバイト。
何度となくやめようとは思った。
だけど、
ちょっとメルヘンちっくなおばちゃん
いつも仲良し二人で
一緒にくるおじちゃんたち
入れ墨のお兄さん
ダイエットに成功して
「この調子だと年末には僕空飛べます。」
て自負したお兄さん。
などなど、
みんな毎日くるお得意さん☆
せっかく顔を覚えてもらったのに、
やめちゃうのは
ものすごぉぉぉく
もったいない…と思う。
っていうか、
私がさみしい(。・`д・´)
だからぁ、
やめられない!!!
つくづく
『人』
が好きなんだと実感する今日この頃。
テレビの中の、
まったく知らない人だって、
笑っていてほしいと思う。
それくらい「人」が好き。
バイト先のテレビで見る
世界のニュース。
毎日
暴動や戦争のニュースばかりの国。
動かなくなった
たくさんの人が映る。
泣いてる人。
叫んでる人。
バイト中ですら泣きたくなる。
006年03月26日
12:41 日本工業大附属高等学校より生中継です。
TOEIC直前の思香です…。
やっぱり寝そうOTL
ちゃんと寝たのになぁ。。
2006年03月30日
07:58 あああああああ。
6時32分に目覚めました。
バイトは6時30分からでした。
はぁ…OTL
Syrup16gのセンチメンタル
でも聞きながら
センチメンタルにもっかい寝ます。。。
2006年03月31日
15:28 一大決心。
朝のバイトを辞めます。
今朝限界を感じました↓↓
なんだかんだ1年。
朝は辛かったけど
楽しかった。
パン焼くとか貴重な体験だったなぁ。
なんて思いながら、
これ以上
お店に迷惑かけるわけにもいかないので
思い切って言いました。
たつ鳥、跡をを濁さず
だっけ?
めちゃくちゃ濁してる気がします(^-^;
4月いっぱい、
時間割によっちゃ4月半ばまで…。
とりあえず来週がピークです。
頑張ります。
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2006年03月31日
17:37 フミ
お疲れさん。確かに無理があるよ。バイトもほどほどにね。
23:33 ゆき
汚疲れさω(??*`≧ω0*)y★+゚:*最近の姉ゎちょL1頑張り過き”て”すΣ!!(O□o`pq*)ちゃωと寝て下さL1(●+0vo`*)p圉 q゚??*.
ぁとくぅちゃωのアルハ”ムぁりが?d(+喜*^∪^o)∩゛
2006年04月01日
08:36 思香
>ゆき
ゆきって誰じゃい(*_*)ヾ(笑)読みにくいわぃ=3まぁ夜は頑張ります。アルバム喜んでもらえてよかったです♪
やす香の06/04健康「MIXI」日記
2006年04月05日
00:41 悪化の一途をたどる。。。
☉д⊙) www
咳とかしゃっくりとか、くしゃみとか、
するたびに泣きそうになるわァ。。。
目に涙浮かべてたら察してやってくださいwww
別に悲しいわけじゃなりません^^;
レントゲンにも写ってくれないなんて
いったい何が起こってるのかしら???
いやまァいたって元気ですけどね^^v
2006年04月05日
13:02 凹む。。。
なんでこーゆー時に限って
咳が止まらないんだろ↓↓
咳を流し込むための
水が手放せません。
それでも不意にでてくる咳に涙…。
痛み止めなんて効きやしない。
かがめないし
振り返れないし、
左手に力入れられないし、
走れないし。。。
何が一番嫌かって、
おもいっきり笑えない
。゜(゜´д`*゜)゜。
今まで日常生活に支障なかったのに…↓
今じゃ呼吸にも気を使う。。。
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2006年04月05日
13:38 ハジメちゃん
マジで大丈夫かよ!ほんと早い目に手を打たなきゃ…先何が原因かつきとめないとな…
2006年04月05日
15:04 You-Z
だから病院行けて( ̄Д ̄;;
2006年04月06日
12:55 思香
>ハジメちゃん
ホント原因なんだろーね;炎症とかかな??
>You-Z
整形外科でも内科でもひっかかってくれませんでした;;; (=逓信病院)
2006年04月06日
13:03 Do I have to go ?!
しょーがないから逓信病院にでも行ってきます。。。 (=大学のそばにある。初の受診)
お金たくさんかかるかなァ。。。
こんだけ痛くてなんでもないって言われるのもシャクだけど、
なんかあるって言われるのもイヤ。
_l ̄l●lll
もーなんか色んなコトやる気しなくなるわァ。
バイト先にも委員会にも迷惑かけてるし、
サークルの勧誘もできてないし。・゚゚ ‘゜(*/□\*) ‘゜゚゚・。
寝返りうてなくていちいち目覚める。
☉д⊙)
2006年04月06日
23:25 まぢ
意味わかんない。
CT撮っても原因不明って何?
痛み止め効かなきゃ
大学病院行けだって…。
次から次へと回し者だよ。
ダメだ…。
もう凹みっぱなしだ。。。
怖いとかそういんじゃなくて、
ありとあらゆる行動が
途中で止まるから
精神的に辛い。。。
もういっぱいいっぱいだよ…
2006年04月07日
00:14 はけ口にしてごめんなさい。
笑いたい。
おもいっきり。
大口あけて。
笑わせないで下さい
なんて言いたくないの。
いつになったら治るの?
ねぇ誰か教えて。。。
元気ないねって、
笑わせてくれるのに、
顔は笑えるのに、
呼吸だけままならない。
楽しい時間がどんどん逃げていく。。
ふざけんな。
お金だけとって
異常なしだなんて…。
あとは他の病院にお任せなんて…。
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2006年04月07日
00:40 たけしーたけ
大学病院行ったほうがよくない??ほうっておくと大変なことになるかもよ?
2006年04月07日
00:53 You-Z
異常なしとかおかしいべよ!?
異常あんから苦しいんじゃき!!
医者のクセにまったく・・・。
でっかい病院の呼吸器科とか行くべきなんかね(´・ω・`)
2006年04月07日
01:58 思香
>たけしぃー
きっとたいしたことないんだろうけど、日常生活に支障が出るのがホントにいや。笑えないとか精神的にすごくまいる・・・。
>You-Z
そーいうこと何にも言ってくれなかった・・・↓
胃が荒れるような強い痛み止め渡されて、
これでだめなら大学病院へ行けって。
内科なら内科のことしか考えてくれないんだね。。。
神経系とか呼吸器系とか、
何の可能性も教えてくれなかったよ。
2006年04月07日
03:47 ハジメちゃん
昨日言ってた後の検査も異常なしだったん?
おかしいよなそれ…
2006年04月08日
14:31 思香
>はじめちゃん
おかしいねぇ・・・睡眠不足でへろへろ~;
2006年04月08日
12:48 ぐちぐちぐち…。
痛くて眠れん\(*`∧´)/
寝返りうてないどころか、
起き上がるのに1時間もかかった…↓
寝坊じゃないょ(*_*)
あっちむいたりこっちむいたり、
どうやって起きれば痛くないかとか悶々としてた。
ホント痛くて力入らない。。。
2006年04月09日
16:58 変な一日。
痛いながらも、
毎日外出している思香です。
電車の中で涙目になることもしばしば。
哀れみの目を向けられることもしばしばwww
昨日は学校行かないつもりだったんだけど、
英語のクラス発表だってコトに気付き
それを見に学校に行きました。
病院行っててクラス分けテスト受けなかったから、
一番下かとおもいきや、
なぜかDクラス(2限)。
嬉しいんだか悲しいんだか。。。
んで、
もう一つの英語のクラス(出席番号順)が
Bクラス(1限)になっちゃったOTL
大学生活始初の1限授業。
ちゃんと起きれるかな(^^;)
サークルにもちょこっと顔出した。
お花見の日だったんだけど、
1年生が結構いっぱいいてびっくり(@д@)
大学生になって初めて先輩ぶってみた(≧ε≦●)ノ彡ギャハハハ
その後、六本木でバイト。
お客さん、はけるのめっちゃ早くって、
最後の方めっちゃヒマだったwww
オーナーが
カウンターで携帯のマー●ャンゲーム始めちゃうくらいw
んで高校の友達と会ってはっちゃけた。
まだまだ若いよ私。
おまえはホントに病人か・・・っていうね;
なんかでも、久々に楽しいって思った一晩だったかな。
家に帰るたびに凹んでたからさ;
寝るのが辛いって重症だよ。
だって寝るの大好きなんだもん。
ってか、笑うことも大好きなんだけど、
この大好きな二つが思うようにできないなんて
)
でもあんなにはっちゃけていいもんなのかなァ。
思香はどんどん道を外れていくかもしれない。。。
弱いなァ。
2006年04月10日
00:46 ~
笑えない。
眠れない
医者なんてあてにならない。
辛い。
寂しい。
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2006年04月10日
00:55 トム&田中
日記ごとに病状悪化してるよ~なΣ( ̄□ ̄;。
辛さが実際わからない自分が、頑張ってなんて簡単に言っちゃいけないだろうから、とにかく早くよくなることを願ってます。
2006年04月10日
01:04 思香
>トム&田中さん
ありがとう(>_<)一応全然外出してるし、あんま病人…怪我人…?ぽくはないんだけどね。隠れて苦戦してるわけです(^-^;
早く治れぇ(*_*)
2006年04月10日
01:04 ハジメちゃん
ほんまどうなってるんやろ…ありえんよな(´Д`)
2006年04月10日
01:06 思香
>ハジメちゃん
ホントだょ…。まぢ医者腹立っわぁ。あとは精密検査しかないのかなぁ。゚(゚ ´д`*゚)゚。
2006年04月10日
01:10 マコト
多分その先は shi だよ。。。
気を付けて★
2006年04月10日
01:11 思香
>マコト
え…(i|!Дi|!)
2006年04月10日
01:13 マコト
気を付けて人生&生活してね^^
2006年04月10日
09:37 YCeooIpoIp
いったい思香に何が??!!
2006年04月11日
15:42 思香
>マコト
努力しま~す。
>melodie
さァ。。。私も知りたいわ~。
2006年04月11日
16:11 なんだか、
最近愚痴っぽぃゎァ。
ってか病院って不便ね。
でっかくなればでっかくなるほど不便。
患者のことなんぞ頭に入ってなぃんじゃなぃかってくらぃ。
どうやら呼吸器系内科ってトコで見てもらうべきみたい。
「せき、痰、息が苦しい、胸が痛いなど症状がある方は
肺炎、肺癌、気管支喘息、間質性肺炎、肺結核、肺気腫、胸膜炎、肺真菌症、サルコイドーシスなど、気管支、肺の疾患全般にわたる診療を行っています。」 (日本赤十字社医療センターHPより抜粋)
だって。
症状ぴったしだしね(+ω+)
どれになっても嫌な結果ばっかり;
入院なんてしてる場合じゃなぃんだゎ。
ゃりたぃことぃっぱぃぁるんだから。
ぅらむょ。
こないだちゃんと診断下してくれなった医者。
可能性すらも示唆してくれなかった医者。
そもそも内科に行けって行った看護師。
ぁぁ、
ゃっぱ宛てになりませんね。。。
(この間に同窓会の幹事を務めている)
2006年04月11日
23:47 ~最近~
暗い日記ばっかだなぁ(^-^;
なんでか知らないけど、
左腰が痛い( ̄- ̄;)
胸かばって
変な体制で寝てるからかなぁ。
まぁどーでもぃぃゃ。 (恐怖から来る自暴自棄傾向か)
最近
杏酒がお気に入り(o′艸`o)
梅酒は前から好きヾ(*’-‘)
どっちもロックが一番♪
ラム系のカクテルもぃぃね(*´ω`*)
お酒飲むことが
親公認になったのをいいことに
家でもちょびちょび飲んでるオヤジっぷり(o′艸`o)
(気楽そうな日記があって…… )
(此処へ、思いあまった祖父の「MIXI」メッセージを挿入する。)
宛 先 : 思香
日 付 : 2006年04月12日 20時38分
件 名 : MIXIに加わってから、思香日記を
欠かさず読んできました。もうまる二ヶ月ちかくなります。一言で言えば「心配」の連続でした。
人から耳の痛い何かを言われるのを、頑固に拒絶しているらしいのは知っていたので、直接、何も話し掛けませんでした。
書かれてある日々の生活、それを話している書き方・話し方。そして会話。それは、ま、本人の勝手であるから好きにしていいことですが、最近の日記には、「心身の違和」が猛烈に語られはじめ、こと健康、こと診療となると、心配はもう極限へ来ています。
ことに今日の日記など、これが「ピーターと狼」の例であるならべつですが、本当に本当にこんな有様なら、やがて神経や精神に響いてきます。親とも、本気で何の相談もしていないように見受けるし。
思香日記をみてくれている「大人」の知人・読者には、日記じたいが心幼い一つのパフォーマンスであり、自我の幼稚な主張であり、或いは遊戯に近いかと解釈する人すらあるのですが、わたしは、おじいちゃんは、そうは思っていません。かなり危ないとほんとうに心配しています。
相談したい事があるなら、素直に柔らかい気持ちで、遠慮無く言うてきてくれますように。とても「笑って」られる状態・状況とは思われない。
まさか思香は他人からの「愚弄愛」に飢えているわけではないでしょう。だれからも、正常で正当な「敬愛」を受けたいのではないか。それにしては、あまりに言うこと為すこと「幼い」のではありませんか。
思香は、こういうことを身近な誰それから直言されるのを、極端に嫌っている気はしますけれど、心の健康すら心配される今、手遅れにならぬうちに、「話しにお出で」と声をかけることに、おじいちゃん一人で決心しました。 湖 (祖父秦)
2006年04月16日
18:42 トム&田中
なんか元気を取り戻しつつあるね(・∀・)☆よかったよかった(´∀`)
2006年04月16日
18:53 思香
>トム&田中
ありがとう(>_<)なんかもーふっきれた(^-^;相変わらず痛いけど、そのうち治るよ(笑)
2006年04月16日
22:34 気持ち新たに
諦めました!
そのうち治るょね☆
病院行っても凹むだけだし!!
だからもーいぃです。
明日からちゃんと学校行きます。
ってことで気分転換に
美容院行きました♪
昔っから切ってもらってた人が、
別のお店で働き始めたんで、
そっちのお店に初めて行きました!
表参道の美容院(>ω<)
やっぱ
シャンプーの時の体制(体勢)が
ちょっと痛かった(^-^;
だけど友達紹介したから、
カットと
ポイントカラーと
最高級のトリートメントしてもらったのに
1万ちょい!
満足です(o′艸`o)
今、
金と黒のポイントカラーが入ってます♪
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2006年04月16日
22:51 シオリ
まだ治らないんだ;;大変だな;;
俺も染めてぇ。ちなみに最近ずっと秋葉系ヘアーです。
2006年04月17日
04:01 思香
>シオリ
治らないねぇ(^-^;
秋葉系ヘアーかぁ。髪までヲタじゃ救いよぉがないね(o′艸`o)ププ
2006年04月18日
00:10 固。
胸筋~肩筋が
固まってしまったんじゃない?
ってくらい動かなぃょ?
両腕あがりましぇん。
グワングワン
ヒリヒリ
ジンジン
ってかんじ?
どうなってるの、
my body(?_?)
今日は久々に
まともに授業受けた☆
NGO論!
うん、
やっぱり好きだなぁって思った。
面白い。
国際関係だの、
国際協力だの、
「繋がり」を勉強するのは
すごく楽しい。
それはそーと、
バイト先にヘッドフォン忘れた↓
コメント
2006年04月18日
15:28 たけしーたけ
針治療とかいろいろしてみたら??
2006年04月18日
15:31 思香
針?!痛い?!。・゚゚ ‘゜(*/□\*) ‘゜゚゚・。でもなおるかな?
2006年04月19日
22:34 どーにか☆
大学復帰を遂げた思香ですヾ(*’-‘)
懐かしい顔がちらほら☆
やっぱり大学好き((((*´∀`)ノ
もー痛かろうがなんだろうが
無理矢理にでも
笑うしかなさそう(o′艸`o)ププ
あのメンツで
笑うなって言う方が無理ですょヽ(`д´)ノ
GWには
同窓会も待ってるし、
関西行きも決まって、
気持ちはウキウキo(^o^)o
身体ょついてこぃ\(*`∧´)/
2006年04月28日
ママが風邪ひいた~。
目の前でゲホゴホやってる↓
お願いだからうつさないでぇヽ(`д´)ノ
今は風邪ひいてる場合じゃないの(:_;)
第一今の私に咳はご法度ょ(。・`д・´)
やす香の06/05健康「MIXI」日記
2006年05月02日
02:50 くっそぅヽ(`д´)ノ
暑くて眠れん\(*`∧´)/
クーラーほしい(:_;)
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2006年05月02日
02:59 トム&田中
寝ろ!!
2006年05月03日
10:15 朝の紅茶+追記
紅茶を飲みながら、
只今体力の限界に挑戦中~。
よくよく考えてみたら、
3日間まともに寝てません。
(* ̄ロ ̄)ガーン
自分若いです。
気合いで勝負です。
今日は素晴らしい天気◎
どこか遠くへ
一人ふらふらと旅にでたくなります。
こういう日に
真っ青な空見ながら歩いてると
幸せな気分になるよね((((*´∀`)ノ
全然関係ないけど、
なんか今日
今更だけど、
自分の新たな一面を知った気がするww
結構自分でびっくりなんだけどね(^-^;
何はともあれ、
「テンションぶっちぎりハイ、
ダーリン待っててねぇv」
by倖田來未
じゃないけど、
まぁ
気持ちだけでもUP↑な一日を
過ごしたいと思います♪
2006年05月07日
00:58 ばいばーい+α
相変わらず
「バイバイ」が苦手。
たとえ明日会えたって、
楽しかった日の「バイバイ」は
この上ない淋しさに襲われる。
でもそうな風に思ってるの
自分だけなんじゃないかなぁ、
なんて思ったりして、
ばれるのヤダから必死で隠す。
こどもみたいだね。
帰りたくないってダダこねて。
笑顔で
「バイバイ、またね!」
って一日終われたら
楽しい思い出になるのにさ。
変に次期待して
ずるずる引きずって、
楽しい思い出も
いつのまにか
淋しい思い出。
さっぱりとした大人になりたい。
2006年05月08日
15:46 ヘタレ
まずいです。
何もする気が起きません。
5月病でしょうか。
いや待てよ、
3月からずっとこんなんです・・・OTL
何がいけないって、
寝ても覚めても疲れがとれないんです。
最近は腰痛がひどくて熟睡できません。
熟睡どころか寝っころがれません。
布団の上でウダウダするのが至福の時でしたが
今や布団の上は痛みとの格闘の場です。
胸の痛みは大分ひいてきたものの、
今さらながらに
「健康診断の結果がふんちゃら」
と大学の診療所から呼び出しくらいました。
結果やいかに・・・。
最近のマイブームはやっぱりSyrup16gとGRAPEVINE
B型の私は、
はまるととことんそれしか聞かなくなるんですwww
この二つのゆらゆらした雰囲気が好き。
それに、どっかに影が落ちてるような雰囲気。
展開もなかなか面白い。
最近気付いたんだけど、
私やっぱメロディックなのが好きなのかも。
で、どっちかっていうと暗めの音。
そんでちょっとひねくれた展開。
だって私ひねくれモンですからwww
2006年05月12日
14:33 へこたれ
ぶっちゃけ
私へこたれてます。
動きたいのに動かないのょ
私の身体~(*_*)
病気でも
怪我でもなけりゃ
なんなのさぁ?
たまに言われるんだよね。
「ストレスじゃない?」
って。
まぁ思い当たる節はあるものの、
除外しようのないもんでして…(- -;)
OTL (=ガックリの文字絵らしい)
ストレス解消するにも、
この身体じゃ
バレーもできやしない。
カラオケも実は発声辛いし(:_;)
あとはお酒?
そろそろ
飲ん兵衛の道を辿りつつあるな (=苦痛の緩和か)
iI||Ii(ツω-`。)iI||Ii
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2006年05月12日
14:45 いそ餅
まぢで大丈夫なの?!悪化してない?
まぁのんべぇな日はいくらでも呼んで下さいよ。笑
この前のクーポン使おう(*^□^*)/”
2006年05月12日
18:51 たろけん(West
そんな時は遊びまくるべさぁ。体力の限界まで遊んで、調子悪いの忘れれば問題ない!!w
てかバイトのしすぎちゃうん?またがっつり遊ぼうなー。
2006年05月13日
00:15 マコト
Come on to Nonbee life♪
2006年05月14日
04:47 思香
>いそ餅
さー??? 気合で乗り切…れたら苦労しないよねOTL
クーポンはやく使わなきゃ!!!
>たけろん(West
バイトのし過ぎねー。。。一理あるなwww
>マコト
Sounds good!!!LOL
2006年05月14日
04:17 『天使と悪魔』 Dan Brown
眠れないので読書にあけくれ、
気付けばもうこんな時間(@@;)
朝ぢゃんOTL
まァ明日は何にもないからいいんだけど。。。
携帯が壊れた↓
おとといの夜、
気付かぬうちに水がかかったらしい。
勝手に電源がついたり消えたり。
FOMAカードが入ってるのに入ってないっていう表示。
ひどい時なんて、
ボタンというボタンが反応せず電波も圏外。
通話はものすごく遠く聞こえるしぃ。。。
1年経ってないんだけど変えちゃおうかなー。
今度902のSシリーズがでるみたいだし
ちょっとは安くなってるかな~???
*:.。..。.:*☆*:.。..。.:*☆*:.。..。.:*☆
暇つぶし (以下略)
2006年05月19日
02:38 よーやっと
一仕事終えました☆
気分爽快!!!
でも椅子に座ってるのがツライかったっす(+∧+)
2006年05月19日
04:41 うぎゃぁ(*’с’*)ノ
わからん!
いくら考えても答えが出ない時は
どうしたらいいんでしょう?
やらないで後悔するより、
やって後悔した方がいーんだよね?
じゃぁやるよ?
やっちゃうよ?
世の中の流れって残酷ね。
多=正
な世の中は永久に続くのかしら?
2006年05月19日
16:50 WHERE R U FROM?
この例えようもない気持ち悪さはいったいどこからくるんだろう??
うげげiI||Ii(ツω-`。)iI||Ii━
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2006年05月19日
22:06 マコト
TSUNAMI改めTSUWARI…(・w・)ノあとインフルベンザ★
2006年05月19日
23:56 エリンギ
iI||Ii(ツω-`。)iI||Ii━ ←激しいねぇ笑;
大丈夫???
2006年05月20日
02:26 いそ餅
どしたんだ!!
2006年05月20日
12:26 えっちゃん+P
SUTORESU社会に揉まれる日本人特有の症状ですな。
大丈夫?カラOKでも行って発散すれば~。
皆で遊ぼうじぇー。 P
2006年05月22日
05:30 遅寝。早起き。
まだ朝の5時ゃん\(*`∧´)/
3時間に1回目が覚めるんだけど、
不眠症なのかしら?
整体行って
腰はなんとかなったんです。
仰向けで寝られるなんて
久々の感動だったわけなんですが、
それでも熟睡できない理由があるのかえ?
まだ節々が痛いんですが、
まぁ要するに疲れなわけです。
整体師さんいわく
全身肩凝りみたいな状態らしい。
胸が痛いのも
恐らく、
本当は呼吸とかの度に動く骨が
周りの筋肉が固まってて
動けないかららしいんです。
だから熟睡したい。
時間はあるんです。
睡眠の時間ちゃんととってるんです。
なのに眠れなきゃ
疲れとれないじゃないですか。゜(゜´д`*゜)゜。
もぅ自分の中のわだかまりとか、
周りのイザコザとか、
全部忘れたい!
これ、
要はストレスなのでしょうか…?
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2006年05月22日
06:43 ♫ayu♫
えぇ・・大丈夫?汗
土曜行ったぁ?!
2006年05月22日
07:49 思香
>★Ayumi★
ゴメンm(´・c_・`)m結局行けなかった(:_;)っていうか土曜日最悪だった↓↓
2006年05月22日
08:41 なー
そっかちょっとは良くなったんやね☆☆よかったゎ(´∀`)
早く寝れるようになるといーなぁ。。(´`;)
てか遅れてもいいからメールはちゃんと返してね、どうしたらいいか分からんくなります
2006年05月22日
22:07 笑笑
久しぶり、やすか(^^)
でも久しぶりに見たら、なんかちょっと大変な事になってない?大丈夫?ぎっくり腰??
昨日ね、友達と六本木のやすかちゃんが前バイトしてるって言ってた地中海料理屋さんに行ったよ。でもお休みだった・・・。ははぁ。やすかちゃんを驚かそうと思って行ったけど、入れなかった。えへぇ。今度はやっぱりちゃんと連絡してから行くねぇ。
その前に、ちゃんと腰直してね、あまりバイトしすぎないでね!
2006年05月22日
22:29 ♫ayu♫
まぢで? どぉしたどぉした~(><) なんかグチあったら聞くでよ(´ε`)
2006年05月22日
23:00 荒木
針がええで~針が・・(苦笑
2006年05月23日
01:14 思香
>笑笑さん
ぎっくり腰よかタチ悪いですよコレ^^;
すいません、お店日曜日お休みなんです(;-;)また来てくださいね(>ω<)待ってます!!!
>★Ayumi★
ありがとー(;ω;)またメールでもするゎ~!!
>荒木さん
針。。。探してみます!!!
(この間にもアルバイトに行っている記述あり)
2006年05月27日
16:34 なんでぇ。゚(゚´д`*゚)゚。
身体が動くことを拒絶してます(´・c_・`)家の階段の往復するだけでだるくて気持ち悪くなるiI||Ii(ツω-`。)iI||Ii息あがるしOTLさっきは足に激痛がはしりました(*_*)いったいどうなってるんだぁこの身体。
以上愚痴
以下日記
こないだ 以下略
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2006年05月27日
16:41 LeeVancho->
やすか…マジやばくない?悪化してるじゃん。。。今日もバイト?
2006年05月27日
16:54 思香
バイト休ませてもらっちゃった…↓六本木に行くまでにつぶれてしまいそうだもん (*_*)
2006年05月27日
18:39 Miorinha
大丈夫??早く治してクラブ行こう~(。→∀←。)
2006年05月27日
20:21 ないとぅ
や…やすか??
死んじゃう??
私に会えないから??
2006年05月27日
20:28 ♫ayu♫
そんな悪いの?! やだぁ~大丈夫(><)?? はやく治して一緒に踊り行こ☆
2006年05月28日
06:31 思香
>MIO
行きたぃょ~。゚(゚´д`*゚)゚。でも身体動かないOTL
>ないとぅ
??(`・ω・屮)屮そーかも!!お見舞い来てくれたら治るかも(笑)
>★Ayumi★
踊りたい(。・`д・´)!!治れぇ自分\(*`∧´)/
2006年05月27日
22:57 どわぁぁぁぁ
どうにか整体行ってきた。
帰り、坂の途中で
倒れるかと思ったOTL
ここ半年の疲れが
また一気にでてきた感じ。
どわぁぁぁぁって。
だるすぎて
ベットに張り付け状態。
でも、
でてきてくれてよかった…(*_ _)
身体ん中でヒシヒシいわれてるより
ずぅぅぅっとまし。
もう少し頑張れば
全部でてってくれるかなぁ。
早く健康に戻りたい。
2006年05月28日
06:20 くぅ( ̄- ̄;)
いったいいつになったら治るんだ!
。゚(゚´д`*゚)゚。
家の階段すら億劫だょ↓
起き上がるだけで一苦労だし↓
人に会えないのが一番辛い…。
風邪でもないのに
1日中ベットの上なんて
(i|!゚Д゚i|!)
誰かヒマな人
1.メール
2.電話
3.メッセの音声チャット
(起き上がれないから打てないOTL)
4.skype
のどれかで相手して下さい(*_ _)
寂しくて死んでしまいそーデス(;c_;。)
やす香の06/06健康「MIXI」日記
2006年06月02日
22:43 久々のケータイ
ベット上の生活もかれこれ1週間。
トイレに行く以外食事もベットの上。
極度の貧血らしいです。
起き上がると
頭に血を送れないらしいです。
ひどい時は
ケータイすらさわる気になりません。
インフルエンザでも
1週間もベットにいたコトありません。
たいてい2日もすると
ちょこまか動いてました。
なのに今回は
治る気配がありません。゜(゜´д`*゜)゜。
ってことで
メール返信できていない人、
約束をすっぽかされた人、
ホントに本当にごめんなさい。
治ったら必ず埋め合わせします(*_ _)
2006年06月03日
04:32 魔法゜°*+: 。.。:+* °゜
夜中3時になると (家庭にいるのである。ヒマで、ひとり。)
パチッ(◎c_◎。)
っと目が覚めます。
必ず3時。
必ず毎晩。
そしてそれ以降眠れません。
いゃ、
昼寝ちゃうんです。
ヒマすぎて。
テレビもないし、
本も疲れるし、
パソコンする気力もないし、
第一パソコンとられてるし(^-^;
ベットの上ってすることありません。
だから寝ちゃうんです。
完璧昼夜逆転しています。
夜中目が覚めると
もーれつにお腹がすいてて
それが気になる。
早起きのカラスがかぁかぁ鳴いてて
それが気になる。
夜中3時の魔法(呪い?)
はしばらく解けそうにないですね(´・c_・`)
2006年06月04日
06:38 タイトルなし
あまりにヒマ過ぎて
不意に勉強がしたくなった。
高校時代に使ってた
日本史の参考書とか、
フラ語の教科書とか、
手の届く範囲の本を引っ張り出して (=自宅のベッドと分かる。)
ベットの上でお勉強。
疲れては寝転んで
血を頭に送ってはまた起き上がる。 そんな早朝。
写真は思香の大切な
おっきなクマのぬいぐるみ。
ヒマだから軽くスケッチ。
今日TOYTRAPのツアーファイナルなのに
これじゃ行けない…。
夏服買いに行かなきゃ。
浴衣ほしいなぁ。
水着もほしい。
゜°*+:。.。:+*°゜゜°*+:。.。:+*°゜
考えてみたら、
3月以降
私の中の時が進んでない。
ずっと体調不良で、
なんだかんだ
どれも宙ぶらりん。
自分の許容量以上のものを引き受け、
というか、
自分の許容量というものを
全くわかっていなかった。
ただNOと言うことから
逃げていたんだと思う。
後に残った膨大なプレッシャー、
そして20歳を目の前に、
精神的にも体力的にも
あっという間にどん底。
動きたいのに動けない。
食べたいのに食べられない。
笑いたいのに笑えない。
この1週間、
起きては吐いて、
食べては吐いて、
自分で飲み物すらとりに行けない状態の中、
ふと映った真っ青な顔の自分を見て
なぁにしてんだろーって思った。
こうなったのは他人の責任じゃなくて、
自分の責任なんだってわかってるから
どーしようもない悔しさばっか溢れてきた。
自分の思い通りに
自分で動けることが
どんなに幸せなことなのかが身に染みた。
今は辛いけど、
なんで…?って思ったりもするけれど、
ハタチになる前に
こんなことに気付けて
よかったんだって思うことにする。
治ったら、
自分なりに時間を動かしていこう。
NOって言うことから逃げないで、
自分の思う道を進む。
道は一つじゃないんだから、
どの道を歩もうと、
速足で歩もうと、ゆっくり歩もうと
たどり着く先に
確かな夢さえ見えていれば大丈夫だよね。
“ガキ”っていいですよ。
「イヤイヤ」とか「ウン」が平気で出てきます。
私達って、けっこう怖がって、
簡単なことも、余計に難しく
考えがちです。
怖いかもしれないけど
「イヤイヤ」を言えるといいですね。
(大好きな一冊より抜粋)
2006年06月06日
13:19 ◎筋肉◎
って使わないと衰える!!
パパもママもおうちにいなくって、
明日先生のお通夜に
這ってでも行くために
リハビリだ!!!
って凄んで
家の一階に
オレンジジュースとりに行ったの。
大丈夫だから、
大丈夫だから…
ちゃんと頭に血を送れぇ
って自己暗示と共に(笑)
ばぁちゃんみたいに腰曲げて
見るも無惨なかっこで
10日ぶりくらいに食卓に降り立ち、
オレンジジュース入れて
よし、上り頑張れ自分!
って2、3歩のぼってあらびっくり(◎o◯;)
足に力入りません∑(`・ω・屮)屮
手摺りないとフラフラしちゃう。
こりゃホントにリハビリせねば
って思ったね(^-^;
んで、
手摺りにしがみつきつつ部屋に戻ってきて、
ジュースおいて、
ベットに安らぎを求めようと
ヘナヘナ座り込んだ瞬間、
ガタン…。
えっ(i|!゜Д゜i|!)
恐る恐る振り返りました。
そーですとも。
汗と涙の努力の結晶を
ものの見事にひっくり返しました。
滴り落ちるジュース…。
まさかそのままにしておくわけにもいかず、
雑巾とりに下に降りる体力もないので、
木の神様にごめんなさいと謝りつつ
大量のティッシュで後始末。
あぁ意外と動けるじゃん自分…_| ̄|●
と思いつつ↑の退勢で床を拭いてたわけです。
よし、
この大量のティッシュを一度ゴミ箱へ…
と思い起き上がろうとした瞬間、
うっiI||Ii(′◎ω◎`;)iI||Ii
こっ腰が……_| ̄|●))
なんとまぁ
全然伸びないじゃないですか。
真っ直ぐ立てないんですよ。
腰が曲がってしまった
おばあちゃんの気持ちが
よぉぉぉぉぉぉくわかりました。
みんなちゃんと運動しようね(o′艸`o)
コメント書く
2006年06月06日
20:08 yu
お大事になぁ~
2006年06月07日
00:10 に~さん
がんばれ!!
2006年06月07日
00:35 えっちゃん+P
おぃおぃやべぇじゃん!
バリボーでもバシバシして筋肉つけれ~。 P
2006年06月12日
11:10 みんなが恋しいょぉ。゜( ゜´д`*゜ )
世捨て人(?)になってから
かれこれもう
3週目に突入しております(*_*)
お医者さんに行ったら (=どこの医者か。)
「大丈夫です、
夏休み頃には元通りですょ(^-^)」
って…
おぃ\(*`∧´)/
そんなに待たすんかぃ。。
学校の単位とか、
この際どーでもいぃから
みんなに会いたいょ(>_<)
みんなでわしゃわしゃ飲んで騒ぎたい!!
お願いだから
みんなやす香の存在忘れないでね(:_;)
後期にぽっと出没しても
誰?って言わないでね(___)
みんなの日記読んでると
うらやましくて仕方ないょ。
私も普通に
買い物したり
美味しいもん飲んだり食べたり
DLとかDS
遊びに行ったりしたいょm(´・c_・`)m
コメントへの返事コメント
2006年06月12日
11:25 思香
>みゆち
2年になってからずっと体調悪くて大学行ってないんだょ(>_<)ここ2、3週間なんてずっとベットの上だし↓授業はともかく友達に会いたい (´・c_・`)
12:23 湖
おじいやん(湖)です。
とてもとても心配しながら、六月十日のわたしの「日記」で、やす香(思香)宛てにメッセージを送ったが、見ていないようだ。
からだの具合がそんなに悪いのかと、心配が加わり、まみい(おばあちゃん)とも眉を顰め合っています。
ただ甘ったれてダラケているなら論外だけれど、ぐあいが本当に悪くて大学へも行けないなら、やはりきちんと医学的な対策をしないといけないね。
元気でいて欲しい、とてもとても大切な、二十歳まえだもの。
06:22 思香
>おじいやん
甘ったれやだらけで、大好きな大学にもバイトにもいかず友達とも会わず家に引きこもってる理由などあるでしょうか。医者に何度かかかった結果がこれです。二十歳の誕生日前には治ると先生は言っていましたが…。ただただ信じて布団から垣間見える青空に動けぬじれったさを感じる毎日です。
02:38 はたぼう
ずっとベッドの上はつらいね。
お見舞い、何かリクエストはないですか?
2006年06月22日
05:04 みんなへ
長いこと更新しなかったことで
心配してくれた人ありがとう。
人生が逆転したかのような
この一週間。
ここに書き記すことをずっと迷っていたけれど、
やはり自分の記録として
今まで日記を残してきたこのmixiに
書き残そうと決意しました。
「白血病」
これが私の病名です。
今日以降の日記は
微力ながら
私の闘病記録になります。
必ずしも読んでいて
気分のよいものではないと思うので
読む読まないは皆様の判断にお任せします。
コメント等
返信遅くなってしまうかもしれませんが
力の限り努力するのでよろしくお願いします。 2006.6.22
宛 先 : 思香 「MIXI」メッセージ 祖父・湖
日 付 : 2006年06月22日 10時19分
件 名 : いま読みました。
いま読みました。 じいやんは泣いています。診断は確かなのだろうかと、ウソであって欲しいと。
しかし泣いてばかりは居られない。出来る限りをお互いに努めなくては。
同じ病気と闘っている人を知っています。日々、とてもとても慎重に、しかし今は大学を卒業してドクターです。親子してそれはそれは慎重に一日一日を大切にしていました。この闘病は、細心の注意と摂生と聞いています。最良のドクターを親に探して貰いなさい。いい主治医。この病気では、日々の指導にも気配りのいい主治医が大事な大事な鍵と聞いています。
疲労の蓄積。これが、最もよくない亢進へのひきがねになる。余分なムリはゼッタイにだめ。慎重ななかで日々安心して静かな心で元気にくらしてゆくことが肝要です。我をはらないで、我にも人にも素直に柔らかい気持で。
百まで生きなさい。しっかり生きなさい。 愛している。 じいやん 以上一覧
* 一人の優れた素質をもてあましたような、聡明でもあり、また愚かしく日々を孤心に生きた、優しかったやす香よ。
どうして、この数ヶ月の間にこそ、おまえは親にもっと甘えられなかったのか。なんとこの異様に烈しい危険な容態の毎日に、やす香、お前の身のそばに、日記の記述のなかに、親の注意深い視線や、優しい声や、差しだす手のぬくみの、希薄というよりも、ゼロに近いのは、どうしたことか。
そして「死の受け容れ」が、おまえの生涯最大の誇り・尊厳だったって。 えッ? どんなフィロソフィーのつもりなんだろう。
やす香はそんな誇りよりも健康の回復を、適切な救いの手を、狂わんばかりに切望していた。それは不可能であったのか。
山形県の中三女子は、やす香の親は、「責任を恐怖しているのだと思います」と推測している。何の責任だろう。親を告訴したり、ばかげたメッセージを世間に投げかけたり。そうとでも説明するよりなさそうな、愚行だ。
2006 8・15 59
* 「未来についてツラツラと…。ずいぶん前から書き途中でほったらかしてあった」とあのやす香はこんな詩句を書き置いてくれた。やす香の思いも願いも、「未来」にあった。
* 2006年03月07日 やす香
16:36 back to the future?
未来を向いて生きることって
すごく難しい。
だって未来は見えないから。
でも私たちは
いつまであるかもわからない
そんな未来を向いて
生きなきゃいけない。
過去を振り返るのはすごく簡単。
だって過去には
明確なビジョンがあるから。
どんな過去だろうとそこには
実際に起こったこととしての
記憶がある。
だから後悔したり、
こうだったらよかったなぁって
記憶をもとに
夢を描くことも簡単なんだ。
でも私たちは
未来を向いて生きなきゃいけない。
夢は未来に描かなきゃいけない。
どんなに不安でも、
どんなに怖くても、
生きなきゃいけない。
私は生きる意味なんてないと思うんだ。
…というか
あるかないかは人それぞれ。
夢をかなえる為に生きる人、
人を愛する為に生きる人、
ただただ楽しむ為に生きる人…
生きる意味をみつけるために生きる人。
そんな目的もみいだせなくて悩む人。
意味なんてない。
ただ生きてる。
それだけ。
だけど私たちは
自分じゃない人=他人と
必ず関わって生きてる。
家族、友達…。
誰かに愛されて生きてる。
誰かに必要とされて生きてる。
生まれてきた時点で
誰かにお世話になって、
誰かの力になってるんだ。だから生きなきゃいけない。
例え今私が死んだって地球は回るよ。
そう思ったら、
自分の存在なんてものすごくちっぽけなもので、
虚しくて壊れてしまいそうになる。
だけど、
生きたくても生きられない人がいっぱいいる。
生きててほしい人に
死なれてしまう人がいっぱいいる。
そんな人たちを前に
自分の命を粗末に使うことは
私にはできない。
生きなきゃいけないって思うんだ。
それに、
私には大好きな人がいっぱいいる。
みんなにも大好きな人がいるでしょ?
その人が
自分が死んで悲しんでくれるかはわからないけど
少なくとも私はみんなとまだ別れたくない。
どうしても生きなきゃいけないなら、
たとえ未来がわからなくて、
どんなに不安で
どんなに怖くても
明日今の楽しさが
虚無感にかわっても、
それでも今を楽しむ。
今を大切にする。
どんなコトしてたって
必ず明日に繋がるんだから。
寝てるだけでも
体力温存になるんだよ(笑)
みんな大好き(o′艸`o)
* 四ヶ月と二十日後には自分が病魔に斃されるとは、まだ夢にも思えなかったろう十九のやす香の、この詩句の静かな輝きはどうだろう。わたしは、ベッドサイドで「サッサ」先生が静かに静かに歌っていられた日、やす香に、「お前は佳い詩人だよ」「ほんとだよ」と褒めた。本気でそう言う。やす香の「MIXI」日記には他にも思わずわたしを立ち止まらせる詩句が象嵌されて在る。
やす香から「白血病」と「MIXI」で告知してきた日から、わたしは、散逸させてはいけないやす香日記を、妻と二人で祈るように拾い続けて、悉く保管した。またやす香に触れて頂いた多くの「声」も、あたう限り採拾させて頂いた。いま、しかし、「思香」へのアクセスを、はっきり拒絶されている。
* 今日は、今年の一月から「白血病」までの日記に、体調の違和が、日を追い月を重ねて深刻に激越に悪化していたあとをピックアップしてみて、その孤独な経過に暗澹とした。すでに一月十一日にやす香は書いている。
*2006年01月11日
11:18 痛。
そろそろまずい↓
何もしてなくても痛む腰。
ろくに上も向けない首。
筋が変にきしむ肩。
血の巡り悪すぎ。
手足の先が凍る。
頭が動かない。
原因不明のびみょーな腹痛。
言うコトきかない身体に
もううんざり。
時間がほしい。
負けたくない。
誰にも負けたくない。
何も生み出さない
意地とプライド。
ただただ過ぎ去った19年もの歳月。
怖い。
恐ろしい。
自分に負けるのが一番嫌。
* 二月に三月に四月に五月に六月にと、目を覆いたい異様な容態悪化が、扇形に進行している。読むだけで分かる。
三月に四月に、もうもうわたしはヒステリーを起こし、やす香の病容激甚に「親と相談しろ」と怒り心頭であった。
* それにしても、まみいに最後の最期までくれていたメールの優しさ、聡明さには、妻もわたしもただただ泣かされる。やす香には言ってあった、一人でおじいやんとまみいを相手にしていたらおまえさんも大変だ、メールはせいぜいまみいに送ってやっておくれと。妻はむろんそれをみな、わたしに伝えてくれるのだから。
2006 8・15 59
* ■気に入る愛情 福
愛情は伝わる、伝わらないではなく 、気に入るか、気に入らないか。
その愛を自分のもの(自分という人間)にできるか、どうか、ではないか。それは、親と子でも、男と女でも、お互いが言えること。
どんな愛も愛に違いはないけれど、
人は自分(の愛)を届けたい、自分(の愛)にあてがう愛が欲しい。
いくら愛している、これが愛だと言われても、その愛はあなたの愛で私の愛にならない、私の愛にもなり得る安らぎがその愛にはないと思うことがある。
秦さんはご自分の確信の愛を以って…父であり…その愛を子へ。
父はしかし、父であるが、、個「私」だ。
同じように親である、「父と母」を横並びに考えにくい夫婦がいる。
母のようには、到底くるめられない父がいる。
父は自分の気に入る愛情を示してくれない、受けたことがない。
自分は否定されている、自分は認めてもらえない。
かつて、夕日子さんが「魂のいろが同じ」と言ったのは、男性に、自分の求めていた愛の気配を感じたから? 自分のもの(自分という人間)になる愛だと。
父は母と横並びの父で充分だ、否、夕日子さんも物を書く父の子で、物を書く。夫は哲学が専門だ。
以前どこかで、夫が、子どもが…でなく、自身で大きく羽ばたいてみろよと 声かけされてましたよね。
父から娘へ、それは物書きとして生きてきた父から、物を書く娘へ、最愛のメッセージと聞き取れましたが。
* ホームページに復旧した『聖家族』を、四章の終わりまで、つくづく読み直していた。「どんな家庭の食器棚にも髑髏が隠されている。 (フランスの諺)」と。
2006 8・15 59
* また夕日子が「MIXI」のやす香日記の欄を借りて、昨日と同じような、こんなことを書いていると報された。「これって、なんてデタラメなの」と、妻がまず失笑。困ったコドモだ。
* 信頼できる法律事務所で、今後の基本姿勢を固めてくる。わたしたち、もう考えはかなり定まっている。最初自分の訴訟だ告訴だと息巻いた★★★が、じりじりと「妻」夕日子のうしろに消え入りそうに退こうとしている。ことさらに「父・娘の争い」に仕組もうとしているようだ、が、わたしは★★★となら腰を据えて対決する。長期戦を闘う気で居る。
* 資料を幾種類もきちんと整え、新宿高層ビルの、高い階にある法律事務所で、懇意であり、力量に定評ある弁護士さんと、二時間近く綿密に話し合ってきた。この告訴も訴訟、もそもそも「成立の余地」がないでしょうとハナから笑われてきた。もし無思慮に強行すれば、★★側は、二人とも手痛い傷を負うことになりますよと。お任せ下さい、と。
★★★とは徹底的に闘うが、夕日子は窮地に追いつめたくありませんと言ってきた。
われわれは、十四年前から夕日子と争っている気など、まるでない。★★「妻」でまた孫の「母」あるから「手は放した」が、それだけのこと。夕日子が依怙地に泣こうと喚こうと悪声を放とうと、娘は娘、仕方がない。
やす香の曰くも、夕日子は「謎」だ、腫れ物のように対処するしかない。
万事、弁護士先生にお任せしてきた。
妻も大いに安堵し、また回れ右して保谷へ帰ってきた。また、元の暮らしへ戻って行ける。
* 肝心なところ やす香ちゃん(=七月末に死なせた秦の孫)は、「家」に暮らしていたのではなく、「孤室(個室)」に暮らしていた!?
20歳前の子どもです。
学生、バイト、交友…それに自分の部屋があるので、今頃の子どもは、家族の前にさらす姿が圧倒的に短い。親もまた、然り。
大人も子どもも、何かに、それぞれに塗(まみ)れ、紛れて、日々を送っている。
それでも、親は、自分が身を以って知り得ることで、責任云々よりも何よりも、図体が大きくなって測り知れないものも多くなった目の前の(愛しい)子どもにでも、目は離さない。この自分(=親)が出来る最大の(愛)とは、生きるツボを押さえ(てや)ることぐらいで、他人は、本気で気遣うことがない。
遅い帰宅や、一緒の食卓でなくても、「ちゃんと」寝てるよね、食べてるよね、と親は子に「気持ち」を向ける…。ヨシヨシ笑っている、と。
一人住まいでなく、同じ屋根の下に暮らす家族四人とお聞きしてるので、同居する子どもの心身の異変に気が付かないほど、(親が)日常に塗れていたもの、紛れていたもの、それが何なのか、どういうことなのか、ご両親が、家族がこれから生きるためにも、そこのところが、うやむやにできない「肝心のところ」で、目をつぶってはいけないところだと思います。
家族、身内は、大きな問題に触れるとムズカシイ。
愛はあっても、ひとりひとりが問われることが大きい。 永
* 私は、私小説、日記文学を、事実の或る一面しか書かれていない、と思いながらいつも読んでいます。
作者の考えを表現するために、事実そのものが変わらなくても、その順番が違ったりしていると思います。ですから、そこに描かれている登場人物が、モデルとなった人と全く同じ人物だと思いながら読んでいません。創造された人物として捉え、どのような主題が隠れているのかを探しながら読んで、楽しんでいます。読者が小説の中の人をモデルと同じだと考え、どうこう言うのは、違うと思っています。 北海道
* 本日、HPで「聖家族」読みました。
思えば私は、ここのところ秦さんの書かれた物を読み追っています。
何故。
秦さんの生き方の発するものには、自分の途絶えることがないテーマがそこに見えるからでしょうか。
私はマセていました。高校生のころ秦さんのいう「身内」論(のようなもの)を、寂しいかな、厳しいかな、自覚してしまって。表面上と違い、オイソレト!自分の島に誰も立たせないし、また人の島にも一緒に立たない。恋愛結婚、仲良し夫婦だった夫でも、やはりそうでした。まさか島の話はしませんでしたが、最後まで「解らない」という夫から、私は離れました。
身内ではなかったので、未練は、だからないのです。
(子どもは、また別問題です)
敢えてひとりを選んだり、好んだりする性分は、また切に私が「共に島に立つ」というコトを大事なテーマにしているということで、これは「個」で生まれた私という人間が、死まで、どのように生きてきたかということに繋がりますから。
秦さんの書いたものから、目が離せない! 神戸市
* 大文字 送り火
大泉から孫娘が一人で京都へ帰ってきて一週間居ました。中学二年ですが背丈はわたしより高くなりました。これ以上伸びたくないと本人も言い、回りも同じ思いですがこればかりは…。おっとりとして心優しくしおらしい子です。
左大文字を一緒に見て、パパと、桂にある向こうの実家に帰っていきました。
大文字の炎に、あのほっぺの愛らしいやす香さんの笑顔が浮かんだようで、心を込めてお見送りしました。
やす香さんの日記、読んでいて胸が締め付けられるようで、なんとかして助けてあげられなかったかと悔やまれるお気持ち痛いほどわかります。
奥様共々くれぐれもお大切にお過ごしください。 のばら
2006 8・16 59
* やす香を夢に見て、目覚めた。
夜前も七、八冊も本を次々読んでから枕元の灯を消した。「千夜一夜物語」がまた好調におもしろくなっていた。ただ、このところの肩凝りが、頸筋へ這い上がっていてあまり心よくない。
あけがた、つづけざまにいろんな夢を追っていたが、気分しか、覚えない…、おおかた人懐かしい夢であった。
そして…家の近くを家の方へ帰っていた。
すぐうしろに連れがいて、妻ではなくもっとずっと歳幼いもののように感じ、建日子か夕日子のように感じ、ときどきふりむきもせず声だけかけていた。
と… 道には、青々、あえかに蔓だつ草むらが静かにそよいで、白い…ごく小さい蝶の、一つ、二つ、と舞うのをわたしはみかけた。うしろへ「蝶だよ」と声かけた。ああ、やす香かしらん…。
「やす香が来ているね…」と声にしかけたとき、蝶がみるみる数を増して、広くない道の、空は青い道の、頭よりわずかな上を、たちまち五十も六十も爪先ほど小貝ほどの白い蝶たちが、乱れ舞いにひらひら上下しながら、わたしの…前へ、前へ。
「やす香がいる」とわたしは口にし、手を、右の掌(て)を挙げて、蝶たちの群れを小走りに追った。空が、黄金色(きんいろ)に…。と…すぐ、ことに小さな蝶の二つが、からみあうように掌へ来て、そのちいさい一つをわたしは掬うように掌にうけた。
もう一つはひらひらと掌の上で舞っていたが、ひとつは羽をすこしいためているか、そのままわたしにかすかに傾くように受け止められ、そして…さも、わたしの顔を見るのだった。
「やす香」と呼ぶと、白い蝶はそのまま…ちいさなちいさなやす香の、「MIXI」にのせているまみいの方へ顔を寄せたあのやす香の「顔」になった…だが、あんまり小さくて可愛くて、膨らむ涙に白い花のようににじんだ。
目が覚めた。
わたしのうしろにずっとついていた幼いものの気配が、あれもやす香であったと、わたしは覚めて感じた。
執拗だった左頚の痛みがウソのように消えていた。
* 妻はうらやましがり、絵のようねと言う。まこと、夢のような夢だった。
その同じやす香笑顔の大きくした写真が、手の届く、ファックス電話の受け台にもたれて、いまも…わらっている。
* 自著『死なれて 死なせて』第四章の末尾でこう書いていた。
* もし世界中に「死」の文藝といえるものがあるとすれば、もっとも多く広く深く「死」を描いているのは、我が国の「謡曲」だろうか。『源氏物語』や『平家物語』に取材したものは、まず例外なくそうであるが、ほかにも、『隅田川』では母が子に、『海人』では子が母に、『綾鼓』や『恋重荷』では下賎の老人が高貴の女御に、『砧』では夫が妻に、『善知鳥(うとう)』では鳥獣が漁師に、『松虫』では相愛の友が友に、『松風』では姉妹がともに愛する男に、『求塚』では二人の男が一人の女に、『藤戸』では母が子に、『楊貴妃』では皇帝が愛妃に、『錦木』では男がつれない女に、『定家』では定家が式子内親王に、それぞれに「死なれ」たり「死なせ」たり、まことに、挙げれば際限がなく、もろもろの幽霊が夢と幻に舞台にあらわれては、嘆き、迷い、怒り、泣く。
私が文壇へでた最初の作の『清経入水(きよつねじゅすい)』は、題が示すように平家の公達(きんだち)の清経が、一族にさきがけて孤独に海にひとり沈んで果ててゆくという『平家物語』の記事に取材したが、彼の死こそは、平家の人たちに、こぞって「死なれた」という大きな負担と衝撃をあたえたことは、繰り返し物語のなかで指摘されている。能の「清経」では、「死なれた」妻が「死んだ」夫を恨んで遺品を受けとるのを拒むといった、ごく異色の展開のうちに、夫婦死別のおそろしい悲しみの深さが表現されるのである。
歌舞伎や人形浄瑠璃もまた「死」の種々相の多彩な表現で溢れている。ことにそこでは封建的な主従社会における無惨な身代わりの死や切腹死が、また、やはり封建的な身分社会の身動きならなさゆえの、心中死が、あまりに惨(むご)い。
『義経千本桜』の舞台では、鮨屋いがみの権太は、妻子を主(しゅう)の身代わりに敵(かたき)の手に渡しながら、しかも自らも謬って父親の手にかかって死なでもの命を死んで行く。狐忠信は、初音の鼓の皮と化した親狐たちを恋い慕うあまり、静御前の身辺に侍って鼓の音色に身も世もなく泣き嘆く。
『熊谷陣屋』にも『寺子屋』にも『先代萩』にも、身代わりに「死なれ・死なせ」る無惨な展開があり、忠臣蔵では判官がまた勘平が腹を切る。「死なれ」ての嘆きが復讐の「死なせ」に転じ、よくもあしくも人が泣く。『心中天網島』といい『鳥部山心中』といい『曽根崎心中』といった凄い情死があれば、おさん茂右衛門のような哀れな愛ゆえの惨い刑死もあった。
舞台でどう美化しようとも、現実の「死なれ」「死なせ」の結末は、いつも酷くつらい「死なれ」の負担を人の心にのこした。お夏は清十郎に「死なれ」て狂い、お七は吉三郎に逢いたさに江戸を火にして磔(はりつけ)にあった。
そういえば近世も半ばちかくまで、いま幕末にいたっても、キリシタンの「死なせ」には、世界が目をおおう劇しさがあった。
愛・相聞(そうもん)の歌とともに、人に「死なれ.死なせ」た嘆きの歌は、挽歌は、記紀歌謡や万葉集の昔から日本人の、心をとらえていたが、古今集は死をこころもち避け、代わりに恋とならぶ四季の歌を大きく取り上げた。それでも人は死に、つまり人は「死なれ・死なせ」てきたのである。そうであり続けてきたのである。
なにも日本人の問題とは限らない。世界中、人間の歴史がそうであり続けてきた。いたずらに知識や記憶を誇って網羅する必要など、ない。身近なところで、ヒットした映画の数々を思い出してみても言える。『禁じられた遊び』では、幼い二人の子の「死なれ」ざまが悲しかった。それだけ彼らの親たちを「死なせ」た戦禍・暴虐のはげしさにも心は騒いだ。『ウェストサイド物語』のあのトニーたちの死、マリアの悲しみは、何であったか。
ああ、そういえば、そもそも釈迦の死は、イエスの死は、またソクラテスの死は、人類のために何であったのか。オイディプスの死は、ハムレットの死は、ジャンヌ・ダークの死は、何であったのか。彼らに「死なれ.死なせ」て人類は何をえたのか、学んだのか。はじめて『ハムレット』を読んで、また舞台でみて、何人の人が「死なれ」また「死なせ」るのかと震えた。若きヴェルテルを「死なせた」のもむごく、恋するアリサに「死なれた」のもむごく、阿部一族を「死なせた」のもむごい。
安楽死や尊厳死の問題は、もう遅すぎるほどに思われる今日の大課題となっていて、そこにも、もはや、死者のために生者が嘆くだけの「死なれ・死なせ」でない、生きているが故に生きて互いに堪えねばならない「死なれ・死なせ」との真っ向の対面がわれわれには強いられている。
言い換えれば愛する「対象の喪失」という恐れを、人は、それぞれに「喪失」を予期して日常の覚悟に織り込んで行かねばならなかった。ないしは、そうせねばならない状況が確度を増しているということになっている。つまりは互いが互いに徐々に「死なれ」つつある、「死なせ」つつある状況、愛する「対象」の「喪失」を覚悟しながら暮らすという状況を強いられ、それを例えば「無常」といった認識にゆだねてきたし、今後ますますそうなるだろうと恐れねば済まないわけである。
もとよりこれにも「悲哀の仕事」はついてまわる。必ずしも現に「死なれて」から「悲哀の仕事」が始まるのでなく、免れがたい「死」を予感ないし実感しつつそれに堪え、また堪えられずに、人はすでに多くの「悲哀の仕事」に従事を強いられている。その場合、死に直面している当人が、ただに自身の不本意な死を悲しむよりも時に何倍して、じつは「死なれて」生き残る者たちゆえに痛烈な「悲哀の仕事」を強いられる。
例えばまだ幼い子を残して行かねばならない親は、愛する妻をたずきなく残して行かねばならない夫は、老いた親を残してゆかねばならない子は、みな、我が事以上に残された者たちの悲しみまでも悲しみながら死んで行かねばならない。
死別のむごさは、むしろ、ここにあり、例えば歌舞伎の舞台が、えんえんと死に瀕した人物に喘がせてみせる作為には、「死なれる」者のために「死ぬ」者が嘆くところを見せつけているとさえ言えるのである。
もとより、それらの多くはとうてい免れることのできない運命であり一定(いちじょう)死ぬるさだめにあらがう力は、人はもっていない。しかし、だからこそ、無用の死、不急の死、不自然な死、暴力による死、殺人行為は、最大の努力と執念とで徹して避けねばならないのだ。平和への努力とはつまりそういうことである。
治せる病気は治せるようにだれもが医学と看護の恩恵に平等にあずかりたい。
罹らなくて済む病気に、出遭わなくて済む事故や怪我に、戦わなくて済む戦争に、いわば過度な欲望や愚かな不注意でとびこんで行ってはいけないのだ。冒険と無謀とは、どこかで深刻に矛盾していることを悟らねばならないだろう。脳死判定の複雑に難儀な問題もここへ関わって来るのである。
死は左右できない。しかし「死なれ」ても「死なせ」ても仕方がないのではない。死は必要悪ではなく、死は悪なのである。左右できない悪である。だからこそ戦っても負けるだけと諦めてはならない、最後の最期まで不条理な戦いの相手なのである。念々に死去するという覚悟も、ただ死ぬ覚悟でなく、それは死を見返して念々に新生する覚悟なのだ。死ぬまいと死から逃走するのではなく、死ぬと定まっているからそれを見据えて、深く生きることを考えるのが、本筋なのである。
しかも大事なのは、己れ一人の覚悟にとどまらず、いつも「身内」を、「他人」を、「世間」を、そして「時代」や「世界」をあい伴って確保されるべき覚悟なのである。ほんとうに時代や世界が渾身の努力で戦いを挑みつづけねばならないのは、たとえそれが神であろうとも、その名は「死に神」なのである。
いま私は、だれより妻に「死なれ」たくない。出逢ったその瞬間から、私の人生の戦いは妻を「死なせ」まいと始まった。感傷的で、しかもエゴイズムだとかしこい人には笑われるかもしれないが、人を愛するということは、とどのつまりは、そういうことのように私には思われる。世界中の、ありとある時代の感動を与える藝術や説話伝承や事件はそれを教えている。ごく身近な人の世のありさまもそれを教えている。
「死んで花身(芽)が咲くものか」と人は言ってきた。「命あっての物種」と言ってきた。「死んだらおしまい」とも言ってきたのである。それは、冗談であったか。
いやいや、それは、かなりの怯えに堪えながらの本音だった。と同時に、人は、それをいつもいつも自分ひとりの励ましに口にしてきたのでは、ない。より大きく、より深く、より強く、自分の「愛する者たちの命」のために口にしつづけて来た。まさにそれは「祈り」の声であった。「願い」であった。それが「愛」というものであった。
「風立ちぬいざ生きめやも」と愛する人は「死なれ」行く不条理に堪えて祈った、祈りつづけて来た、のである。
* 夕日子はやす香が「死を受け容れた」というが、一歩譲っても、誰かがそう「説得した」のである。やす香は受け容れて頷いたにしても、「説得された」のである。思いがけぬ死に逼られ、だれしも簡単に死を受け容れられるものではない。まして受け容れさせて良いものではない。
死なれるのは限りなく悲しい、死んで行くのはもっと限りなく悲しく悔しい、ましてやす香のような、若い可能性に満たされていた命には。その母もまた痛嘆限りなく、悲しかったに違いない。
悲しみに堪えて、死なれ往く者も、死んで往く者も、それぞれの「悲哀の仕事」を績み紡ぐものだろう、が、絶対してはならないのは、生き残るモノが、死んで逝く愛する者を「用いて」、自分たち自身の「悲哀の仕事」を「プロデュース」することだ、それこそ無残な自己中心行為ではなかろうか。
やす香は「死を受け容れた」、だからその死を「音楽の楽しみ」で、「お祭り!お祭り!」で明るく盛り上げましょう、など、一見やす香を慰めるようでいて、じつは家族が、夕日子たちが、自身の「死なれる」悲しみを、「プロデュース」行為にすり替えたに同じくはないかと思われる。血の気がひくほど、わたしが不快を覚えたのは、そのためだ。
* むごい「肉腫」の「告知」など、誰にも増してやす香にはしないで、「ガンの苦痛からは医療的に精一杯ラクにしてあげるよ、気を強く安らかに一日一日生きて、生き延びて行こうよね、わたしたちが側にいて精一杯手伝うからね、頑張るのよ」、と言ってやり、その上で、音楽会を催したり、お友達にたくさん来て貰ったり、明るい病室を「演出」してやって欲しかった。
「死を受け容れ」させるなど、以ての外の苛酷な負担を、やす香に掛けただけではないかと、思えば想うほどわたしは夕日子達の対応に、疑問をもつ。
「生きよ けふも」の祈りに、「殺してやる」とは、何事かと言いたい。それをしも悲しみのあまりと、言い宥めてくれる人には感謝しなければならないが、そもそも完全な手遅れ「肉腫」の、苦痛の極を、避けがたい終末を、本人に告知したのは、情けない行き過ぎであった。やすらかに伏せ通してやりながら、緩和ケアの終末期医療を考慮すべきであった。
それより何より、三月から六月にいたる、親の目も手も言葉もやす香の上に、まるで温かく届いていたとは思われない仕儀こそ、問題だったのではないか。
そういう反省無しに、親のわたしを告訴する訴訟すると息巻き、話合いも何も突き放してきた★★夫妻に、わたしは「人格」として、失望する。
* 「MIXI」の「思香=亡きやす香」日記に、今日も(★★夕日子・●連名で)、こういうものが出ていますと知らせてくれる人がいた。わたしからは、この日記にアクセス出来ないのである。だから、実見したのではないが、伝えてくれた人はいたずらをする人でない、名の知れた大人である。
* 2006年08月19日 09:42 思香 (「MIXI」日記に。思香は先月末に逝去している。)
本当に、本当に沢山の温かいメッセージをありがとうございました。皆様から寄せられた情報で、発信人を特定することができ、ブログの内容を掴むこともできました。
発信人は、やす香が冷静に死と向き合って終末期医療を選択した翌日、やす香本人に「そのままだと親と病院に殺されますよ、誰か他の人に生きたいと叫びなさい」という心無いメールを送りつけた張本人のようです。
当該のブログは、「やす香」の写真と名前で注意を引いた上で、「死なせる」「殺す」「安楽死」などの単語をひたすら連呼するという悪趣味なもので、自分の別のHPに誘い込み、足跡を辿ってメッセージを遣り取りするのが狙いだったと考えられます。
また発信人は、そのさいに「やす香親族」を名乗り、やす香や私共のプライバシーを探っているという情報もありました。実際に被害に遭われた方も、何人かおられました。
発信人が私共により「告訴される」云々と口走り、怯えているのも、発信人自身の行為への「後ろめたさ」ゆえだと思われます。発信人は、かつて女流作家の著作権を無視して作品を全編無断転載、改変するなどの行為を犯した人物でもあるとのこと。
それにしても、当該ブログの中で私共の名前が頻出し、演技までさせられていたのを見て、愕然としました。ただ、私共が懸念しておりましたほど、「やす香の死についての歪んだイメージ」が伝播していなかったことも、皆様のメッセージでよく分かりました。
ともあれ、ブログは一目見れば虚言と分かる代物で、その内容もMIXIに掲げるには場違いなものに映っていたので「無視するのが良いのでは」、という大方の皆様のアドバイスに従うことにしました。
あそこに描かれているのとは無関係に、私共一家3人はお陰様で平穏無事に暮らしております。やす香の遺産でもある開放プールを引き継ぎながら・・・どうぞご安心下さい。
ありがとうございました。
★★夕日子・★★★
* 内容が毎日少しずつ増補改変されていて、「夕日子さんの精神の状況が心配です」と書かれていた。確かに心配。何を言っているのか意味も文脈も不明。なにより、「発信人」として「わたしの名前」を特定していないことで、逃げ腰の「怪文書」に類しているし、わたしが書かれているような品のないメールを孫にあてるわけがない。メールは、変改出来ずにトップ表示つきで保存される。虚言は効かない。
わたしのホームページは逃げも隠れもしないで、此処に莫大な質量で実在するし、「ブログ」というのが「MIXIの「湖」名義日記を意味するのなら、また逃げも隠れもしない内容がすべて公開されている。いささかも怪文書ではない。そしてわたしは、その他に「ブログ」を持つほど、ヒマではない。
「女流作家」と自称しているのが、万一夕日子自身の自称であるなら、これはお恥ずかしい。
いくら何でも夕日子がこんなことを書くだろうか、信じられない。しかし夫婦で堂々と名乗っているのだから匿名の怪文書とも言い難い。
2006 8・19 59
* 我が家は、これから、より厳しい事態へ覚悟をきめて立ち向かう。娘夕日子を前衛にたてた、★★夕日子・●の「告訴」「訴訟」が決行されれば、仕方がない、強い力で対応する。
たんに威嚇のまま、遠吠えのような情理伴わないいやがらせが続いても、対応する。バカげて腐った根は、抜いて処理しないかぎり両家の不幸は治癒しない。
話し合って本筋を正すこと、もしドチラにも非とすべき問題があるなら、穏当・正当に正すこと。心情的なものの急速に一時に回復するわけはなくても、時間の治癒効果に自然に任せうるまで、「話し合い歩み寄る」落ち着きが必要だが、その為にはかなり厳しい場面も必要になろう。やす香の死についてすら、私たちには「聴きたい・知りたい・確かめたい」ことは幾らもある。
一切私たちとは話し合わない、民事刑事宣伝の三面から私を追究し、95パーセントの法的勝利を確信していると高らかにメールしてきている★★夫妻に、そんな真似は事実上とても出来まいと、わたしも、代理人も冷静に観測しているが、それでも決行するときは受けて立ち、踏み込んで反撃する。
しかし私たちは、「話し合い」でのまっとうな落ち着きを一に考えている。★★★はゆるしていないが、娘と争ってきた気はわれわれ両親には無い。夕日子に父を告訴・訴訟・誹謗などという真似はさせてやりたくない。娘をそこへ追いつめる気はないのである。「バカはやめなさい」ということ。
すべて、すでに、対策した。
2006 8・20 59
* また今夜も、「MIXI」の「思香」日記が、錯乱状態のようで、第三者としても見るに堪えなくなっていますと、報せてくれる人がある。わたしは、大分前からこの日記にアクセスを拒絶されていて読むに読めないのである。
* 夕日子さんの精神の状況が心配です。ますます精神状態が混乱しているのか それを装った創作なのか わかりません。
2006年08月20日 19:54 思香(=★★夕日子・●)
↑
大変、ご心配をお掛けしました。
その後も、多くの情報をありがとうございます。類似した別のサイトを見つけたというご報告もいただきました。
いずれにしましても、皆様のお話を総合いたしますと、発信人のサイトは次のような特徴を持っています。
1 やす香親族の名を語っている
2 やす香の写真を掲載したり、名前を連呼したり、まるで売名行為を行っているようだ
3 その割には、MIXI「やす香日記」だけを見て話を組み立てていて、やす香の闘病や最期の様子についてほとんど知らない
4 何が何でも自分のHPに引き込もうとする、「~を見てください」を繰り返す
5 説明や解説、言い訳が長く、くどい。ほぼ毎日同じストーリーを循環させている
6 「死」「殺」など遺族の感情を害する単語をわざとちりばめている
7 「誤診」「安楽死」など北里大学病院を中傷している
8 誰かを挑発したい様子で、何か情報を得たいのか、日々反論を待っているようだ
何かお気づきの点がありましたら、ご一報下さいますようお願いいたします。 夕日子・●
* わたしには、こんな品のないねじまげたことは、幾ら何でも夕日子は書かないと思う。こういう頓狂な文体には、あああれだ、あれと似ていると、わたしの創作の中から想い当たる人があるだろう。
わたしは、夕日子が人に宛てて、それなりに落ち着いて書いている手紙などを読んでいる。小さい頃から何度も何度も文章の書き方を手を取るようにして教えてきたのだから、夕日子の調子はよく知っている。わたしの読者も大勢知っていて下さる。人は或る程度身につけた文体は、変えようにも簡単に変えられるモノでない。こういうバカげた駄文を書く人間はそうそういない。
* 不思議なモノで、ま、普通かややマシな、またかなりマシな文章に、書き手に知られず、数枚分の原稿用紙にたった十個所もそっと手を入れておくと、それだけでずいぶん作が立ってくる。力ある推敲とは、そういうことである。夕日子の書いてきたエッセイや小説まがいも、本人はまともに書いたと思っていても、細部にそういう手がこまかに入って、なんとなし立っていることに、本人は気づいていないだろうが。
文章は謙遜に書いた方がいい。力のあるモノを知った編集者に出会えば、なみのものでは、ひとたまりもないのだから。
2006 8・20 59
* 頼まれ原稿をじりじり書き進め、「MIXI」には『最上徳内』と『死なれて死なせて』を連載し、日なかには図書館に本をはこび、夕方には、自転車で、東大泉から石神井三宝寺池へ、そして新青梅街道を保谷新道まで走り、保谷新道を戻りながら郵便本局前で左折、尉殿神社前から斜めに、住吉町を通り抜けて帰った。最後の長い坂道を疾走して登っては降り、また疾走して登り、三度繰り返してから帰宅。体力はまだ有る。
* 「MIXI」に、わたしのアクセスは遮断しておいて、わたしに当てつけた怪文書が連続して出るらしい。知らせてくれる人が、「世にも不愉快極まる、これは男性の文ですね」と、送ってきてくれる。嗤ってしまう下品さであるが、なによりもよくまあこんなものを書くよと、信じがたい。夕日子がこんなものを書くだろうか。
なにより、亡くなった孫やす香が可哀想でならない。先日まで「★★夕日子・●」連名だったのが、今日漏れ聞いたものでは、「やす香親族一同」となっている。
* やす香親族の名を語り、このMIXI日記をやす香の名誉の蹂躙と遺族や病院の誹謗・中傷のために悪用する心無い人物が現れています(この人物は、かつてハラスメントを繰り返した挙句に、逆上してやす香とやす香ママに「生も死も含めた100%の義絶」を言い渡した男で、やす香親族ではありません。親族一同より「親族」の名を語るのを拒否されておりますのでご注意下さい)。
対抗手段として、現在、日記には著作権を設定しております。再公開は数日後になります。ご了承下さい。 やす香親族一同 2006年8月21日
* これまた喜劇である。じつに不出来の喜劇である。
2006 8・22 59
* 逃げない。
私が、なぜ「MIXI」に、自著『死なれて死なせて』を再録しているか、もし続けて読んでいて下さる方があれば、これが、マイミクシイを約束し合った「孫やす香の祖父」である私の、「悲哀の仕事= mourning work」であり、もう今はなにもかも自在に理解できる「やす香への呼びかけ」であることを、分かって下さるであろう。やす香も静かに聴き取って呉れているであろう。
私たちの悲しみは果てないのであるが、やす香のためにも、私たちは、残り少ない歳月とはいえ、しっかり眼をみひらき、毅然と生きて歩んで行かねばならない。
やす香をこれ以上悲しませても、また恥ずかしめてもならない。
どう生きるか。
古稀の関をくぐり抜けてきた、私は、それを思う。
やす香は、日記の中でも、ここぞという際の「痛い悔い」のように、自分は大事なときに「逃げて」事態を見据えなかった、闘わなかったという意味を漏らしている。真意は察するに由ないが、あの、我も人にも「笑い」を求めつづけたやす香が、時に突如として「号泣」して友人達を驚愕させたという。
やす香を、私たち祖父母と、叔父で作家の秦建日子とで最後に見舞ったのは、七月二十四日であった。
うとうとしているやす香を見守って、病室で私たち四人だけになったとき、やす香はふと眼をひらいて、私たちを認め、まずひと言を発した。
そのひと言を、息子建日子はこう聴き取っている、「逃げてばかりいて」と。祖母は手を「にぎって」と聴き取り、私はやはり息子と同じに「逃げてばかり」と聴き取った。
やす香はつづいてしっかり発語し、「生きているよ」「死んでないよ」と、私たちは聴いた。「そうだとも、やす香」と、私たちは声を揃えた。
その二日後に、「輸血停止」が「MIXI」に伝えられている。三日後母夕日子の誕生日に、心優しかったやす香は、大勢に、大勢に心から惜しまれて永逝した。
(小説家として人間の情理を多年読んできた私は、此処で書いておく。
夕日子は、おそらく自身の誕生日を「考え」に入れていただろう、と。自分の誕生日を、二度と「おめでとう」と思うまい、言われまい、と。それが、愛児を「死なせた」母の身を切る悔いと「悲哀の仕事=mourning work」とであったろう。もし当たっているなら、父も母も、娘夕日子とともに泣きたい。)
そう、大事なときに「逃げて」は、心行く「生」はつかめない。「逃げるが勝ち」という如才を一概に否定しないけれども、痛い悔いは、「逃げた」ために生じることが多い。
私たち祖父母は、愛する孫を「死なせた」悔いと咎を身に負いながら、決して老いの坂を、逃げない。
2006 8・23 59
* 北海道から帰った息子たちが、愛猫グーと鶏卵ほどの亀とを引き取りに来た。グーは心優しい温和しい猫だが、マゴの三四倍の十五キロほどもある巨大猫。亀と来たら暖冷房つきの大きなケースに入っていて、神経質に気温に反応して、すぐ死にかける。
妻も私も、だれよりも我が家の黒いマゴが、へとへとに疲れた。一度はグーが外へ出て行方知れずになりかけ、妻とマゴとは肝を冷やして捜索に協力奔命。堪らん。
やっと、マゴといっしょに熟睡できる。
* 「MIXI」の★★日記は、どっちにしても夫婦「合作」と読むしかないよ、わらってしまうねと、建日子。あれだけ大騒ぎしておいて、告訴・訴訟は保谷の「自作自演」とは、インテリジェンスはどうなっているのだろう。いずれにせよ夕日子に裁判などさせまいために、私たちは強い手をきっちり用意して抑止に努めた。
あんな幼稚に愚かしいことをトクトクと「MIXI」の公衆相手に遣っていたら、大学教授の地位も失いかねませんねと、法律事務所はそこまで心配しているが。
2006 8・23 59
* 建日子作の「花嫁は、厄年!」観た。建日子の、また岩下志麻と篠原涼子のだから観ている。
わたしには、自作ながら『北の時代最上徳内』の達成感に心を惹かれる。蝦夷地と現代とを把握し得た「方法」と、細部にいたるまで「表現」のこまやかさ、つよさに、あの旅の懐かしさがこみあげる。地味な仕事だと思い思われてきたが、「天明蝦夷地検分」の歴史的な仔細をただ説明的にでなく、北海道や、見も知らぬクナシリ、エトロフ、ウルッブ、の風光や厳しい自然とともに、あたう限り想像力を駆使して書き取れているのが、我ながら面白い。
わたしの、この方法も文体も、オリジナルで、こういう行き方の作をわたしは他に知らない。長編小説『親指のマリア』『冬祭り』『みごもりの湖』『罪はわが前に』そして『北の時代最上徳内』のどれ一つも同じ手口でなく、それぞれの「方法」と「趣向」を貫いた。今、読み返しながら、何ともいえず「徳内さん」がわたしは好きだ。キム・ヤンジァも好きだ。
* 「MIXI」の『死なれて 死なせて』も三十回連載で終わる。
『徳内』も終われば、そして、やす香ももういないし、「MIXI」を撤退してしまうかどうか、迷っている。
* ホームページに掲載されている未定稿の小説『聖家族』を、必要あって、丁寧に読了した。場合によって出版を考える。
2006 8・24 59
* 暫くぶりに夕方から新有楽町ビルの故清水九兵衛追悼展に出掛け、奥さん、ご子息八代目六兵衛さんにご挨拶してきた。京都でのご葬儀に弔辞を求められていたが、ちょうどやす香の永逝と時をともにしていたので失礼させて頂いた。ついこのあいだ、京都美術文化賞の授賞式や晩の嵯峨吉兆での理事会でもご一緒してあれこれお喋りを楽しみ合ってきたのに……、はかないお別れとなった。
会場は、さすがに文学系の人は一人も見かけなかった、そのまま失礼して久しぶりにクラブに行き、66年もののすこぶるうまいブランデーを、サーモンを切って貰って、たっぶり呑み、そのあとクラブの特製だという鰻重を頼んで食事にしながら、九大の今西教授にわざわざ送って頂いた、或る古典の、ながい研究論文を半分近く読んできた。
アイスクリームとコーヒーをゆっくりと。クラブは客が多かった。ホステスを二人も連れ込んでいる社用族もいた。
* 一回のアーケードで、妻に腕輪にもなる時計を土産に買って帰る。この夏は旅もならず、さぞ気もくさくさしたであろう、元気を回復して貰わねばならぬ。
* 車中は、文庫本の、アラビアンナイト。どんな雑踏も満員も忘れてしまえる。
2006 8・25 59
* 信じられない下品さで、夕日子自身が、ミクシに新しい名前で、わが母親を嘲弄するような日記を、とくとくと書いていると人に報され、情けない限り。
書くなら、堂々と、われわれのアクセスを拒んだりしないで、オープンに書いたらいいだろう。そちらで拒めば「MIXI」の仕組みとして、当然此方へもアクセス出来なくなるのは公平な約束事である。
わたしは「MIXI」であろうと此のホームページであろうと、★★や夕日子達のアクセスをこっちから拒むような、卑屈な真似はしない。ソシアルネットで、人に読まれるのが約束事の場所で、引用すれば著作権を侵す物として法に訴えるの何のとタイソーに言っているが、「MIXI」の精神にも背いていないか。誰が読み、誰がコメントしても自然当然の建前なのに、居丈高なのはよそながら恥ずかしい。
* 「MIXI」でのやす香を思う「悲哀の仕事=mourning work」は、ちょうど三十回三十日かけて『死なれて死なせて』連載を終えた。もう「MIXI」で、やす香を思い出すことはあっても、★★★・夕日子との無意味な応酬は一切しない。夕日子のわたしに対する告訴・訴訟の愚をさせず、他方★★★とはとことん話し合うべく、弁護士の助言により裁判所に対し「民事調停」を申し入れ、受理された。遠吠えのように繰り返し告訴の訴訟のと無意味に喚かれつづけるより、踏み込んで向き合おうと思った。「逃げない」と謂う意義であり、第一回、九月の調停日ももう通達される。「聖家族」の髑髏を戸棚から引きずり出すのである。
2006 8・25 59
* 久しぶりに荷風の短篇『勲章』をスキャンし、校正している。荷風など読んでいると、心持ちが落ち着く。会員から預かっている作品もあり、とりこんでいてつい棚上げしていたが、きちんと処置したい。
今まで繁雑・混雑の極みであった機械部屋の右ワキが、わたしの工夫からとても明るくすっきりして必要な本へも手が出やすくなった。もっともそれは椅子から振り向かない限りの話で、いちど振り向くと、まだ、かなりひどい有様。だが、片づくであろう希望は見えている。
* 近刊のあとがきでわたしはこんなふうに書いている。
* 大久保(房男)さんの尊重されるようには、わたしは、文士として「のたれ死に」しようとは思わない、が、伊藤整の説いたように、わたしもまた物書きとしての根は「ゴロツキ」に近いし、その思想に殉じたい気がある。好もうと好まずともついには「のたれ死に」するのであり、だから、書きたいことは何としても自由に書くのであり、へんに筆を曲げたりしないし、自分の恥も他人の上の取捨も遠慮なく、それを書くべきだと思えばそれを書くことにしている。親類縁者や知友の中に、まことヤツは「ゴロツキ」だとわたしのことを想っている人は多い。だが、わたしは、敬愛した漱石や藤村や鏡花や潤一郎の、また永井荷風や徳田秋声や志賀直哉や瀧井孝作や高見順の文学精神に学んできただけのハナシである。いやいや、こういう人達とくらべて自身の「俗」を恥じているだけのハナシである。
* ゴロツキという言葉はきついが、知性派文士の代表格だった小説家・詩人さらには卓越した文藝批評家であった伊藤整は、最も文士らしい文士は高見順のような人で、あれは「ゴロツキ派です」と言っていた。
伊藤さんはまた「日本の文士にはプライバシーはないんです」とも言っていた。こういう意味であったと大久保さんは伝えている。「文士自ら己のプライバシーをかなぐり捨て、一般市民ならひた隠しにする恥しいことをさらけ出すからだ、つまり作者が傷つきながら血を流して書いたものが読者に感動を与える」と。「これが日本独特の文学風土」だと。伊藤整が「ゴロツキ」という意味には、「一般市民」の「世間」から眺めた文学者・文藝家への視線と陰口を積極的に逆用したまでの個々と読み取れる。
時代はうつり動き、かならずしも伊藤整のいうままでなく、大久保房男氏の共感するままでもない今日の文学風土ではあるけれど、こと「私小説」に拘泥することなく、わたしは文学に生き文藝に生きてきた一切を賭して、大本においてこういう精神を肯定している。敬意を抱いてきたのである。
このこと、ひと言、書いておきたかった。
2006 8・26 59
* 孫やす香の遠逝から一月経った。なんということか。
* あれだけ親を罵倒し、告訴の訴訟のと無残に言いつのり、弟建日子が懸命に「話し合い」の場を用意しようと奔走したのも一蹴しておいて、それで、今、 ★★たちは何をしているか。
四十六年前に「夕日子」という美しい名前を親に享けながら、今は「木漏れ日」と名乗って私たちの娘は、「MIXI」に、生みの母や父を愚弄する駄文を書き散らしていると聞く。可哀想に。なさけない。
* 夕日子、いい小説を書きなさい。はずかしくない小説を堂々と立派に書き上げ、父親や弟を顔色なからしむるがいい。それによりなにもかも誇らかに乗り越えて行くがいい。風船玉を針の先でつついて、いじましい空気ぬきなどするんじゃない。パーンと大きく爆けるがいい。おまえのやす香は、それをママの名誉と呼んで、心からよろこぶだろう。
やす香、ママを手伝ってやりなさい。
おじいやんも、書く。
2006 8・27 59
* やす香、おはよう。
* まだまだこれからと言うお歳でしたのに…お慰めする言葉もございません。今はまだ、お孫様との切ない思い出の中におられると存じますが くれぐれもお身体お大切にお過ごし下さいませ。 「生死ー如」とは、70歳近くになってようやく理解出来る様になりましたが本当にこれからは一日一日そして一瞬一瞬を良い縁に触れ合いながら大切に生きて行きたいですね。お孫様の分もお幸せにお過ごし下さいませ。お孫様のご冥福を心からお祈りいたします。奧様にもくれぐれもお元気にお過ごしになられます様よろしくお伝え下さいませ。 あやめ 奈良市
2006 8・28 59
* 鴉様へ
東京はいくらか暑さが和らいでいるでしょうか。お体大切にお過ごしでしょうか。
週末に帰国して以来、徐々に日常に戻っています。帰国当日から何故か眠る時間は日本での日々とまったく変わらない時間になりました。二晩ぐっすり眠れたのは本当に幸せでした。一気に回復したいと体が叫んでいるような感じでした。が、大袈裟なものではなく、一人旅の疲れや時差ぼけから抜けて、涼しかったヨーロッパから西日本の残暑に早く適応して・・そのためにもう少し時間が必要ですが。週日が始まり、今朝は友達数人と電話で長話したりして時間が過ぎてしまいました。
HPを閉じる可能性あるとの記載を読んだのは、旅に出る直前でした。どのように状況判断したらいいのか分からず、ただただ旅行の準備を脇において、わたしはHPの記載をコンピューターにコピー保存する作業をしました。(お笑いください。でも、愚かに慌てるなかれ、慌てん坊じゃなあ、など決して言わないでくださいな。)
旅行中、旅先のインターネット・カフェやホテルのロビーにある器械からHPの様子を知りたい衝動にかられましたが・・怖くてそれさえ避けてしまいました。できませんでした。
帰国して今日午後になって初めて、きょう、ゆっくりゆっくり書かれたものを読みました。繰り返し読みました。わたしが感想をどんなに述べても言葉足らずになりましょう。
この一ヶ月、つらい時間の流れの中でいっそ精力的なほどにあなたは書かれています。
既に既に、あなたが言葉を尽くして書かれています。そして、
「わたしは「物書き」以外の何者でもなく、それしか生きる道も処世の道ももたない。書いて人の胸にうったえる以外手はない。それが法にかなうかなわぬは知らない。わたしが、わたしに、書いてうったえよと奨めることは、書くのである。賢いことでないと言われても、賢いというのはそんなに尊いことかと思っている。」
と。
一切はそこにあります。物を書く人・あなたが決してHPを閉じたり、書くことをやめることはないのだと、改めて強く思います。
現実においても、あなたが毅然と状況に対処されていかれるのを確信できます。そしてたとい裁判になっても恐れることは何もないのだと思います。
夏の暑さが大の苦手なわたしは、夏の旅行はまったく考えていませんでしたのに、何故か説得されて、そして行く以上はと、例の如く欲張りになりました。
八月八日に発って二十五日に帰国、十八日間の旅行でした。その間ロンドンでのテロ未遂事件などニュースも耳に入りましたが直接的な影響を受けることも脅威に出遭うこともありませんでした。
十二日から一人でオランダとベルギーを・・以前立ち寄った街は避けて、殊にベルギーを丹念に廻りました。思いがけない避暑を兼ねての良い旅になりました。相変わらず1ユーロ150円近い状況で金銭的には決して優雅とはまいりませんでしたが。
旅のこと、書き溜めたメモ、手紙もありますが、まだ整理できません。本当は旅の途中から、推敲も整理もせず送る方が本来でいいのですが、裁判のことなどで忙しく「交信」できないとのあなたのメールに・・いささか悲しくなって、そして「遠慮」して書けなくなってしまったのですよ。
これから少しずつ反芻し楽しんで旅を思い起こしたい。帰ってくればそれなりの日常のさまざまに取り囲まれています。子供たちのことが現在は一番の問題のようです・・。
夕方になってしまいました。今日はここまで・・。 鳶
* 民事調停への陳述書を書いた。むろん、調停の申請であり、訴訟でも告訴でもない。 2006 8・28 59
* 熟睡したか。目覚める少し前、原善君の、善君自身のではなく彼から届いた手紙の夢を見ていた。一号大ほどの大きな字で数行書かれていて、「慶應大学教授」として赴任がきまったという内容なので、彼のために快哉を叫んで夢醒めた。正夢かどうかは、久しく顔も見ず、声も聞かず、何も知らない。たしかいまは、前の武蔵野女子大にいるはずだが。
* 栃木県の読者からやす香に供華を贈られる。写真の前に。写真が、ときに笑顔に、ときに寂しそうに見えるの、と妻は言う。
* 法律事務所で、今後の「民事調停」進行に関し入念に打ち合わせてきた。
2006 8・29 59
* 「夕日子や同僚弁護士の強い薦めもあり、メディアにおける侮辱、プライヴァシー侵害で(私・秦恒平を相手取り)法的手段を取ることに決めました。」と娘婿の★★★が、当の私にでなく、妻と息子宛にメールを寄越したのは、「八月二日」であった。
息子秦建日子から「話し合い」のための提案メールを受け、しかしこれを拒絶して、「明日手続きを開始し、来週中頃にも司法プロセスが機能し始めますので、そうなると、別ルートで和解を話し合うこと、またこちらの訴訟方針に支障をきたすような解決策を話し合うことは、できなくなります。再来週はちょうどその頃かと存じます。
建日子さんの折角のお申し出に応ずることができないのはまことに心苦しい次第ですが、時期的な問題もあります。事情ご賢察のほど、お願いいたします。 ★★★」
と、言って寄越したというのが、「八月十三日の午前」だったと息子から聞いた。
「告訴・訴訟・誹謗文書配布」で威嚇し続けていたのは★★★と妻であり、われわれは、★★とならいつでも対決するが、夕日子にはそういう愚行をさせまいと苦慮し続けた。
「誹謗文書の配布」など出来るわけがありません。それでもなお「告訴・訴訟」を夕日子さんが強行するというなら、その前に「民事調停」を申請しましょうと、ペンの会員で知友である弁護士は奨めてくれた。
氏は、しかし、★★夫妻の言うこんな告訴を受理する警察はなく、こんな訴訟に及んで最高裁まで闘える何の根拠もありはしません、バカげていますとわらっていた。よほどタチのわるい弁護士ならともかく、普通に考えて、とてもありえない話ですと。威嚇や脅迫のための自作自演でしょうと。実はそれならそれで、こういう威嚇や脅迫は「犯罪行為」にすら近いとして反撃することも出来ますよと。
わたしも息子も、★★が裁判へもちこめるなど不可能としか思ってこなかった。児戯に類していると。
はたして今日まで、★★から告訴や訴訟に及んだ形跡は何もなく、それどころか聞き及ぶところ、(と言うのも、「MIXI」のブログを、夕日子の「木洩れ日」とやらも、●・共用の「思香」日記も、私のアクセスを「拒絶」しているから読めないのであり、おそらくそんな処置をすれば平等に彼等から私の連載なども見られないのであろうかと思う、分からないが。私は、アクセスを彼等に拒絶するような自信のない真似は一切していない。)
告訴も訴訟も、私たちの方での一人芝居、自作自演であったとか、その他、生みの母親を愚弄したり、いろいろ愚かしい駄文をは書き散らしているらしい。なぜ、そういう自身をイヤシクするような誇りのない真似が平気で出来るのだろうと、人ごとながら、恥ずかしい。
* 九月から民事調停が始まったら、★★教授も教授夫人も、正々堂々出席し、人格に支えられた公正で平静な物言いで、話し合いに応じてくれますように。
* 何故か知らない、★★★が、私のホームページからの削除を再三再四「懇願」していた未完未定稿の創作フィクション『聖家族』への読者のアクセスが日々に増えている。
2006 8・30 59
* 「今・此処」で内発する「行為」だけをせよ、「過去」に催されてする「行動」はするなと、バグワンは、いつも言う。バグワンに聴くとき、最も厳しい難しいのがこれだと凡俗の私は、へこむ。腹が空いたら食べよ、食べるために食べるなという意味に、しいて翻訳・翻案して聴いているが、容易なようで容易なことではない。行為していればリラックスできるが、行動していてリラックスは出来るモノでないと聴くと、わたしもその通りだと思う。
行動的にしたいこと、心の催しとしてしなくてはならんなあと思う用事、たくさん抱えている。それにもかかわらず、今日は何もしなくていいんだと、ゆるやかに身を「今・此処」に預けたように茫然とし放念しているときが、昔より遙かに増えている。なあんにもしなくていいんだ…と、それでいいんじゃないかと… 観じて、その状態に満足していられる時間空間が増えている。
* 六月七月八月と余儀ない波に煽られて「行動」を我が身に強いてすごす日々にウンザリしてきたけれど、あれらのなかにも「行為」の自然や必然に従っていたことも有るにはあった。行動らしきを行為らしきに転じて行く内発の動機というものも有るのであるかなあと思ったり。そういうぼんやりした気分に抵抗しないで身を預けているとき、とても気がらくなのである。
* 今日もそういう一日であったが、その中でも、やはりやす香を思い出し、妻とともに何度も悔い泣きに泣いた。
2006 9・1 60
* 雨。いつもより一時間ばかり、朝寝した。暑くなく冷えもせず、クーラーなしで過ごしている。黒いマーゴがやす香のぶんも甘えてくる。
ゆうべ「ペン電子文藝館」の親しい委員から、十一日の委員会に出ますかとメールで見舞われた。出席のつもりと返辞。
* 秦さん。こんばんは。少しは、落ち着かれたようで、何よりです。
11日の電子文藝館委員会出席されますか。大兄が、出席されるようなら、私も、なんとか、仕事を調整して、休みを取り、委員会に出席するようにします。
さて、秀山祭は、3日(日)に昼夜通しで、観て来ました。
昼の部は、1階、2階とも、補助席の出るほどの大入、夜の部は、1、2等席とも、若干空きがありました。
昼の部では、吉右衛門、富十郎の「引窓」が、良かったし、珍しい兄弟出演、幸四郎、吉右衛門の「寺子屋」も、見応えがありました。私は、2階の後ろで観ていましたが、「寺子屋」の兄弟「対面」の場面では、この場面のみ、高麗屋の御内儀が観に来ていました。私の席の隣に立っていました。
「引窓」では、富十郎の上方訛りの科白が、暖かく、良い工夫でした。
11日にお会いできると良いですね。 英
* 私たちは、明日。楽しみに。七月の鏡花劇四作の日は、舞台は舞台で満喫しながら、泣きの涙のつらい観劇であったが。走り去るように二ヶ月が過ぎていった。
* こんなメールが「MIXI」の運営事務局から届いた。湖・秦恒平
* mixi運営事務局です。突然のご連絡失礼いたします。
このたび、お客様のご登録内容について、他のお客様より複数のご指摘がございました。こちらで確認させていただきましたところ、「秦恒平」様であるとお名前をご使用になっており、日記内においても本人として発言をなさっておりますが、ご本人でいらっしゃいますでしょうか。
また、日記の内容は以下サイトの転載であることを確認いたしております。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/home.htm
無断で転載や名前を騙っている場合、法令に違反し名誉毀損や肖像権の侵害等にあたる可能性がございます。転載の許可やご本人であることを証明できるものがあれば、ご提示いただければと思います。(書類でも結構です)
なお、以下の期日までにご連絡、ご対応いただけない場合は、ご使用中のアカウントを運営事務局にて削除させていただきますので、あらかじめご了承くださいますようお願い申し上げます。
■期日 2006年9月8日 午前10時
* 「湖」のプロフィールには、きちんと秦恒平であることが明示してある。「湖」という名乗りが「秦恒平」の代名詞のような「秦恒平・湖の本」に由来することは、私の読者ばかりでなく、文壇でも、文化界でも広く知られている。二月以来の私の連載はもう数多いが、すべて私・秦恒平の作品であることも知られている。
「MIXI」をやめることは、私には何でもないが、私に「秦恒平」という名で「MIXI」へモノを書かれると、よほどイヤな人、都合の悪い人がいるということか。
私「湖」が、作家秦恒平であることは、マイミクシイの、ことに、「はたぼう」氏が誰よりもよく知っている。息子秦建日子なのだから。「木漏れ日」の★★ 夕日子もよく知っている、私の娘なのだから。
潮時であるのだろうか、「MIXI」などおやめなさいという。
私の方角へ「悪声」をとばしているらしい「一団」のあるらしいことは、風の噂に察しているが、わたしは、そんなものを耳朶にも歯牙にもかけていない、見ようとも聴こうともしていないが、「困った人達」は、どこにもいる。
2006 9・6 60
* ゆうべ全部は観られなかった建日子脚本の「花嫁は厄年!」を見直し、少し泣かされた。桃農園の母親と十二年も仲違いしていた長男一郎が、ニセ花嫁の竹富明子の奔命で母への誤解をとき、仲直りが成る。
建日子の作意は、はやくに見通したとおりに、(或いはわたしの推察又は批評に乗ってか) 父わたしと娘夕日子の確執に取材してハナシをうまく煮詰めてきた。岩下志麻 篠原涼子 そして一郎役の役者。それをとりまくみんなの熱心に心をあわせたうまさで、アホラシイようなドラマであるのに、随分質実に優しいドラマづくりになった。佳い意味でも、よくないとも云われかねぬ意味でも、作家秦建日子の「気の優しさ」がにじみ出てきた、美味しく熟した桃のように。息子に感謝している。
* 来週から二十一日まで忙しくなる。
2006 9・8 60
* やす香のことが直に響いたとも思わないが、勢い足を取られている間に、なにとはなく環境が色を替えてきたような、様を変えてきたような、気もする。なによりも毎日のようにメールをかわすということが、余儀なく、そして自然に減った。メールの頻繁な習慣化を警戒し意識して避けてきたけれども、この六月七月八月を経て、避ける避けないよりも絶対数が減った。スパムメールの数も少し減っているのではないか。習慣というのはこわいもので、習慣自体が暴力化してくるとプレッシャーという以外の何者でもなくなる。内容も価値もある人間関係は、メールでは築けない。習慣になってしまっては、いけない。ケイタイだのメールだののために人間関係のいわば反肉体化が、没精神化にも精神衰弱にも成ってゆく。いつもバーチャルに出逢っていて、それが何の出逢いでもないのである、真実。そのようにして人は自分自身を見失ってゆく。
適切な間をおいてそれでも確実に送り届けられるメールの輝きは、たいしたものである。それで佳いと思う。
2006 9・8 60
* 建日子がなにやら体調を損じているようだけれど、大事にしてくれますように。
小さい頃からアレルギー体質に悩んできた建日子。内科的に全身状態をよくバランスさせることを考えて欲しい。不規則な暮らしをだいぶ続けてきたようだが、余儀ないことであったなれども、佳い仕事も、ながもちする仕事も、やはり平均した優れた体力にかかってくる。
2006 9・9 60
* 暁どころかお午すぎまで「つつがなく」寝入っていた。一両日の疲れが出たか、リラックスしているのか。明日からの十日ほどは、いろいろなことがある。委員会も理事会もあるし、最初の「民事調停」もある。
★★も夕日子もヘンな取り巻きもあれだけ騒ぎ立てながら、当然ながら告訴も訴訟も、ようしなかったらしいのは、(してみたものの受理されなかったかも知れないが。)空騒ぎに終えたのは、だれより夕日子のためによかった。まだ「MIXI」をつかって、ぷすぷす品のない悪声を燻らせつづけていると、風の便りに耳にせぬではないが、妻も私も呆れたまま、耳を洗って近づかない気でいたが。
2006 9・10 60
* やす香のもう此の世にないことが、わたしも妻も、どうしても信じられないときがある。二時間も自転車で走りながら、しばしば肩に乗っているやす香と、話す。「おまえはなあ…」と何度も絶句する。歌舞伎の舞台でなんども聞くセリフだなと思いつつ、この絶句に籠めた、かなしさや、なさけなさや、あきらめは深い。
2006 9・10 60
* もう寝ようかと思っているところへ、★★夕日子の個人名で、「著作権泥棒が図書館長?」と題した、甚だ幼稚な品のない誹謗文書が手元へ舞い込んだ。文書は、夕日子のメールアドレスを用いてわたしに届いたけれども、宛先は「日本ペンクラブ電子メディア委員会」その他、理事・会員各位となっている。「同報」したとある。
相談している法律事務所が予測していた、夕日子には最悪の選択・行動になるだろう。来週にも第一回「民事調停」が予定されている今、こういう怪文書まがいの一方的な配布が、配布者のどういう状態を暴露しているかを考えれば、わが娘の精神的な頽廃がみえるようで、いっそ、いたましい。
こういうバカげた暴発をさせまいために、「民事調停」を申し出たのであったが。
そしてもし、これも訴訟の告訴のと言っていたと同じ、ただ不発のイヤがらせに終わるなら、それまた、あまりにバカげている。
「失礼ですが、それにしてもヘンな娘さんですねえ」と、今日も、つい辛抱しきれずに口にしたペンの会員がいた。娘が初めて父親に呉れたメールが、「著作権泥棒が図書館長?」では、どこに知性が雲散霧消したのか、恥ずかしい。なにより、これが夕日子一人の「仕事」になっていて、夫「★★★」は雲隠れしている。「やす香」の著作権を言うなら父親ももの申すべきだろうに。「娘に父親を誹謗させる」ことで、わたしの名誉を傷つけたいのだろうが、そんな脆弱な名誉なんぞわたしに何の必要が在ろう。
* ★★★殿 ★★夕日子名義の下記の文書到来。夫妻同意のものとして対応します。以上 秦恒平
* この間までひっきりなしにメールを寄越した★★のメールアドレスは、上のわたしの転送メールを、受け付けずに戻してきた。拒絶しているのかアドレスを韜晦したのか不明だが。
2006 9・11 60
* 孫やす香が元気でいたら、今日は満二十歳の誕生日。どんなにこの日を迎えさせたかったか、「やすかれ やす香 生きよ けふも」と、あんなに日々祈り続けたが、空しかった。祝って食するはずの赤飯を、泪でほとびさせながら、「やす香堂=我が家のダイニング」で。
「おめでとう、やす香」と言ってやりたかった、いや、今日ばかりはそう言おう。
建日子のホームページも、我が家の前であかい椿の花に彩られて立つ、まだカリタスの高校生だったやす香の写真、おじいやんの撮った写真をはりつけ、二十歳の誕生日であるべき「今日」を、彼も心から愛おしみ惜しんでいる。このわが愛機のすぐ傍でも、やす香は、まみいのほうへかしげた愛らしい笑顔をみせている。
* このカリタス高制服姿のやす香の写真は、2004.12.17日、保谷へ遊びにきて祖父母を大喜びさせた日の、一枚。たくさんたくさん話し合ったあと、見送りかたがた西武線にのって夕食に出掛けた、その空いた車内で向かいの席から「おじいやん」が撮った。やす香がこころもち右に傾いでいるのは、となりの「まみい」へ寄り添うていたのである。(こんなに大きく載せるのは、ひとえにわたしたち祖父母の思いであって、人様にみせるためではない。遠慮無くカットしてくださるように。)
2006 9・12 60
* 夕日子から送ったという公開文書なるものに関連した、ペンその他からの連絡や問い合わせは、全く無い。夕日子独りでの示威・威嚇に類するものであるかどうか、まだ判断できないが、内容・形式も、とても専門家の指示や示唆に従ったとは思われない、コドモじみて一種異様なものなので、われわれは、むしろ夕日子の心的事情を心から案じている。「★★★」の名が完全に脱落し、「★★夕日子」独走の挙と見受け得るのも、心配でならない。いずれにせよ強行すれば、 ★★★の社会的地位まで当然巻き込んだ、とても厄介な問題となる。
そもそも、告訴の訴訟のということは、「★★★」による高飛車で見当違いな「警告」から、この八月極初、つまりやす香死後すぐに始まったことだが、いつ知れず、そういう威嚇が「夫妻連名」になり、それもいつのまにか「★★★・夕日子」から「★★夕日子・●」となり、ついには、夫「★★★」は妻の蔭にすっかり隠れてしまい、「★★夕日子」単独の「悪声」に転じ続けてきている。そのような経緯を、わたしたちは、娘夕日子のために心から憂慮しているのである。
「★★家」や「MIXI系地元」で、夕日子が孤立してしまい、自暴自棄に類する「孤独な暴走」を心理的に強いられてはいないだろうか、と。
本当の意味で、聡明で愛に溢れた友人が、いま、夕日子の間近に独りでも二人でもあるといいのだが。こういうときは、おもしろづく以前の「未咲」とかいうような悪意の野次馬がワルノリしてくる。いまは弟建日子からの連絡にも夕日子は応えていないらしいが、冷静で、夕日子のために今いちばん優しくて聡いのは弟だろうと思う。弟とのパイプは大切にして欲しい。
成人したばかりのやす香よ、母のこころを慰めよ。守れよ。
もう一両日で、いわゆる四十九日になる。
* 弁護士とも、この状況について、落ち着いて意見交換した。わたしは、平静に事態を目撃している。楽観も悲観もしていない。何が起きてくるか分からない、そういうものだ、と見ている。
* むかし夕日子に代筆させた『徽宗』の時代を、いま「世界の歴史」で読み返している。夕日子はもっぱらこの本一冊をつぎはぎして書いていたようなものであるから、書き入れや傍線の後がアチコチに残っている。調べ仕事やいわばダイジェスト仕事はそつなくやる方であった。だがそんな仕事はそれまでのことで、発展はしない。何としてもほんものの仕事とはオリジナルに創り出せる力によるし、創ったものに生気を与える、文章なら文体が生動しないと、お話にならない。文体とは独自の呼吸である。それが分からずに一人前なことを考えて「作文」だけで自足して自称「女流作家」なんてのは滑稽で危険なことだ、あたら少しある才能も腐蝕させてしまう。
2006 9・12 60
* 読者のひとりりから、「木漏れ日」こと、娘★★夕日子が、「MIXI」に書いた「今日の日記」を送ってもらった。
読んで、おどろいた。これはひどい。
「MIXI」という広範囲なソシアル・アナウンスで、こうむちゃな誹謗・中傷がゆるされていては、流石にがまんならない。がまんの問題でなく、被害である。「MIXI」に対しても厳重に抗議する。「木漏れ日」や「思香」日記のムチャクチャをずうっと無視してきたけれど、自衛のためにも言うべきを、ハッキリ言っておく。「MIXI」をこういう目的に使わせて良いものか。
* 孫やす香が生きていたら、今日は二十歳の誕生日。夕日子の日記前半は、さもあろうと共感もした。だが、後半は、事実無根の捏造といえる「悪声」で、こういうことを、亡くなった孫やす香二十歳の誕生日を期し、その名に借りて「公開のブログ」で書き続けていること自体に、しんから驚いた。精神の頽廃、傷ましいと言うほかない。
こういうことを「木漏れ日」が「MIXI」に書き散らしている「目的」は、何なのだろうか。
もし両親への抗議や弾劾なら、なぜ、それを、両親にも「読める」ようにしておかないのか。「MIXI」のアクセスを、親には「拒絶」しておいて、「悪声だけ」を好き勝手にとばしているのは、すくなくもフェアではない。少なくもわたし「湖」は、夕日子等の眼をふさいでおいて、彼等を批判したり非難したりはしていない。
(亡きやす香とわたしとは「MIXI」での「マイミクシイ」同士であった。これをアクセス拒否したのは、やす香死後に「思香」の「MIXI」を勝手に使用しはじめた、★★★・夕日子達からであった。自然、夕日子達も「湖」の「MIXI」が見えなくなっているのかどうか、わたしは知らない。どうもそうではなく、彼等はわたしの日記を見ているらしい。むろんわたし自身は彼等のアクセスを拒絶したりしていない。)
われわれの眼を機械的に塞いでおいて、ものかげで公衆相手に捏造した「悪声」を飛ばし続けているのは、文字どおり誹謗中傷そのものではないか。ちがうか。
* 夕日子が今日の日記「MIXI」に書いた文面を、わたしは書き写す。悪意の誹謗から身を守るために。
* やす香、二十歳になったね。
昨日までは「子供」のやす香を抱きしめて過ごしてきたけれど、
もう「大人」になったんだし、
あなたが大空にはばたいていくのを、静かに見送ろうと思います。
ちょうど明日、四十九日だしね。
別に仏教徒ではないので、だから何と言うことでもないんだけれども、
あなたと病院で見た映画のように
あなたとどこかで出会えたらいいのにと思う。
たくさんの人が「やす香の夢を見たよ」と言ってくれるけれど、
相変わらず、私の夢にあなたは出てきません。
ああ、これは夢なんだ、夢なんだから、夢から覚めればすべて元に戻っているんだ、と、思い続けてるような夜ばかりで、ちょっと悲しくなります。
でも、この前、とても楽しい夢を見たの。
指導員とわーわー遊んでいる夢でね、
私は「ざ・ぶーん!のおばさん」ではなく、「指導員」なわけ。
目が覚めて、変だよな、私がキホよりいっこ下? ・・・と思って気がついた。
あのときママは、やす香自身だったんだね。
昨日は、ないちゃんたちや、あやのたちが訪ねてくれて、
お花もたくさん届いて、
あなたの好きだった「お誕生日メニュー」をそろえたりして、
とても楽しく過ごせたけれど、
* ここまでは、少なくも、一人の母親が亡き子との「対話」として、わたしもしんみり読むことが出来る。こういう物言いは、誰でもうわべ取りなして、綺麗事で簡単に書ける。
だが、このあとは、いけない。こうである。
* 一方でまた母から、
私がやす香を見殺しにしたと言ってきました。
私があなたのBFを公認したのも、
とても「変わった服装」を容認したのも、
「愛情もなく、無関心だったから」だそうです。
* これは全然事実を言っていない。あるいは事実を、夕日子が都合良く「自己弁護」しているに過ぎない。
こういうことを母親に向かい言い出すなら、はっきり、父であるわたしは言う。
* 今年の一月から六月まで、夕日子や★★★は、両親は、やす香の「過激な病悩」を救護すべく、何をしていたと言えるのか。自分達の手で、北里病院の前に、いつ、どこの、どんな確かな病院や優れた医師のもとへ、やす香を連れて行っていたか、正確な記録を見せて貰いたい。
やす香の「病悩日記」を読んだ人達は、「やす香さんと親御さんとは、一つ屋根の下で暮らしていたんじゃないんですか。この病状の烈しさに、親がまるで気付いたふしがない、六月まで病院へ連れて行った気配もない」と驚愕するが、それは、われわれ祖父母の驚愕そのものでもあった。
そのありさまだから、「死なせた」ないし、少しつよく「見殺しにしたようなものじやないか」と人さまに言われて、適切に弁明一つできないのではないか。
* 病院で病気の告知があってから、初めて、「やす香の命は命がけで守ります」と綺麗事を言うより前に、今年一月から六月下旬に到る半年間にこそ、「やす香の命を救う」まだしも可能性があった。もはや「全く手遅れの緩和ケア」に入ってから、「命を守る」どころか、今度は「死を受け容れ」させたり、あげく「輸血停止」したり、葬儀を「プロデュース」して「お祭りお祭り」「人生最大の晴れ舞台」などと口走ったり。
何もかも、そもそも順序が違うではないか。
死後の四十九日になって、むざむざと死なせた子に優しそうな口をききながら、一方で生みの母を、公然、ウソで譏ったり。
あまりに非道なのではないか。
* 夕日子は、この三月頃、すでにやす香に「異様な異常」のはっきり出ていた頃、それには全く無頓着、ないし気が付かないまま、自分は現在、速記者格で「就職している」と人に言い、また、かけがえのないほど立派な囲碁の先生に出会っている、と、囲碁への愛着や執心を嬉しそうに語り、さらに小説を書いていくことに一種の意欲を述べている。そのメールが残っている。
それ自体は夕日子の自由であり、それだけを問題にすることでもない。しかしながら、愛しているはずのやす香の「死病」からは「無関心」に近いほど「目が離れ」ていた事実の歴然の「傍証」にはなっている。その延長上で、三月以降もずうっと会社勤務し、碁の先生との付き合いないし囲碁を楽しみ、ブログ小説を書き継ぐことにも熱中していたのだろうか。
三月四月五月六月と、やす香の病態があれほど険悪に進行していたことに、とんと気も付かず、或いは気がつきながらも、何も有効に医療や救命の手を打たず、あまつさえ、ある日など、疲労困憊して帰宅したやす香に、母親自身の仕事上のミス、ダブルブッキングの尻ぬぐいを、半分やす香の助力でしのいで、「スパルタ母さん」と苦痛に悶える娘に慨嘆させてもいた。
日記上のそうした悲劇的事実は、まがまがしくも、やす香の命運を損ない続けていたと言えるだろう。
* 親の目が、やす香に温かく深切に届いていたとは、日記から見る限り、お義理にも言えない。★★夕日子も夫・★★★も、その点を言われまい為に、無謀に声高に、「死なせた」は「殺した」だとか、やす香の命の尊厳を祖父母が傷つけただとか、「生きよけふも」と祈ったりするなら「殺してやる」と喚くとか、すべてがあまりに異様ではないか。
こういう自己弁護ないし問題のすり替えを夕日子達がしかねなければこそ、わたしは、やす香の全日記、ことにも『病悩日記』をいち早く正確に、そのまま記録し、保存しておいた。やす香の言葉は、まさに生ける証しとして貴重であったから。むろん今度の調停のためにも大事な資料として提出しておいたのである。
* 「責任への恐怖」で自暴自棄になっているのではと指摘した若い人がいたが、夕日子のことばに、やす香入院に到る「半年」の無為無策・愛の欠如への痛悔と反省とがいっこう現れてこない理由と、やす香祖父母への(言葉だけは装った)ヤケクソの八つ当たりとは、まさに「表裏している」ということを、言っておく。
* 「愛情もなく無関心」の、「愛情もなく」は夕日子の勝手な言い添えであり、一方「ママはわたしには無関心」と来訪早々いくつか例を挙げて話してくれたのは、孫やす香自身であったことは、祖母が聞いた「当日の日記」に、印象的に記録されてある。
* そもそも、やす香が、確執久しい両家の隔てを敢然と自分の手でぶち破って、両親に秘しても自発的に祖父母のもとへ親しく訪問し続けた彼女の真情を、 ★★村の両親はどう思っているのか。
さて、夕日子による「木漏れ日」日記の、その次。
* もちろんその何百倍も、もう一人から来るわけだし、
パパへの悪口に至っては、A4用紙で何百枚あるでしょう。
その分厚く重たい封筒が、
あの二人からあなたへの誕生日プレゼントなのです。
裁判所に呼ばれる日まで、あと一週間。
私はあなたにもらった勇気を糧に
あなたとの20年を、そして私の生きてきた46年を
しっかり振り返って、その日に臨まなければね。
そのためにもう少し、この日記を使おうと思っています。
* 「もう一人」とは、父親のわたしのことのようである。「何百倍も」わたしが夕日子に、かりに伝えたいとして、どういう方法で、どう伝えられるのか。メール等の交通は完全に夕日子側から遮断されている。
★★★への「悪口」の量と言うが、これは悪口どころではない。わたしのホームページに久しく未完の未定稿として掲載されているフィクション小説『聖家族』のことであろう、これは読者が判断されるだろう。
それからまたホームページの私の日記「私語の刻」をいうのであろうか。それも、誰一人の例外なく、自由にわたしのホームページで読めるのであるから、どうぞ判断願いたい。
★★★の悪口などで、手間や時間を費やしているほどわたしはヒマでない。現に「MIXI」に、わたしが書き込んできた内容は、のこりなく、誰でも読める。それで判断されればいいことだ。
* 「分厚く重たい封筒」とは、察しるところ、「民事調停」の簡易裁判所から、わたしの「陳述書」とともに、未完未定稿ながらフィクションである小説『聖家族』全編や、この六月七月八月の日記『闇に言い置く私語の刻』、それに、やす香による半年に亘る『病悩日記』、まだその上に、八月一日二日から連日のように★★夫妻から送りつけられた、「告訴・訴訟・誹謗」の「威嚇メールや手紙」の全コピーが提出してある、それが、夕日子たちへも届けられたのではないか。
これらは、すべて、わたしの代理人が用意したものだと思う。陳述書とともに★★に届いたのは、もっと早いのではないか。
* 民事調停は九月二十日に始まる。★★★そして夕日子が相手方当事者であり、わたしたちは夕日子と衝突したい気はない、あくまで★★★との対決を希望している。それほども、われわれは★★★をゆるしていないのである。
わたしは、決して訴訟を起こしたのでもない、告訴したのでもない。娘・夕日子にそんな真似はさせたくないので、先だって、★★家との落ち着いた話し合いを、手続き的に求めて受理されたのであり、「民事調停」は、相手方地元の簡易裁判所で行われるが、「裁判」ではない。われわれは★★夫妻を訴えたりしていない。
だが卑怯な手法で「悪声」が「MIXI」に流され続けるなら、弁護士の強力な助言と判断に従うつもりでいる。
一両日前に夕日子からメールでわたしに届いた、「日本ペンクラブ」と理事・会員宛電送すると威嚇してきた「誹謗中傷文書」が、どんな勝手なシロモノであったかも、場合によりホームページに公開することを辞さない。 「MIXI」湖
2006 9・13 60
* ほとほとウンザリもしながら、確実にその一方で自分の人生ってなんてオモシロイんだろうと眺めている気持ちもある。下手な小説より奇であり、飽きている、また厭きているヒマもないなあと。ことなかれと、如才なくまあまあ生きていたなら、視野の変化に富んだ人生は、望む望まぬの選択は別にしても、ま、もののたまった重苦しい単調、便秘をもやもや抱えたままのような単調になりそうだ。
ことさら複雑多岐を求めてなどいないが、くさいものにフタ・フタ、アタフタしながらお行儀よげに便秘を堪えていたいとわたしは願わない。
如才なく、右顧左眄の意味で「賢く」生きたらと何度も何度もわたしは言われてきたけれど、「心行く」まで生きたいとこそ願え、姑息な賢さは願わない。我にもむろん、ヒトにも必要なら、「ばかか、お前」と吶喊しながら平静に歩んでいたい。
ぎりぎりいっぱいのところでひたむきな愛憎に生きている人間を、例えば溝口健二の優れた映画は追究している。それも光と影と、ただもう黒白の濃淡だけの写真で底知れず美しく追究している。あれがいい。
建日子の仕事にも、そういう味わいがにじみ出てくるといいが。今夜、は連続の何回目の放映になるのだったか。
2006 9・14 60
* 「MIXI」の値の付かないほどの株式上場の報道に、ビックリした。「やす香ママ」の「MIXI」での日記、イヤになってきましたとやす香の友人が書いているのを読んだ。わたしのおそれているのは、それだ。
夕日子がこれまで地元や身近でたぶん受けていたであろう、それがたとえ浅いものであろうとも、敬意や評判を、みずからうしない地金を露わにしてしまう、そんな真似だけはしないでいて欲しかった。
アランという哲学者に、ヒトは、素裸でこそ自分自身であるのか、衣裳を身につけていてこそ自分自身であるか、という問いかけがあった。大学生の頃にその問いかけに応えようと試みたことがある。その後も、何かの場合にはそれを問い直し答え直す機会が何度もあった。夕日子も、問い直して欲しい。
* あけの四時だ。すこし寝直してきたい。明日は、つまり今日は、久しぶりにペンの理事会。
2006 9・14 60
* 昨日宵寝して見損ねた建日子脚本の『花嫁は厄年!』を観たが、今回は味うすく戴けなかった。老人の病変を借りてクライマックスをつくるのは安直、もっと奇想天外な展開を期待していた。おいおいおいという失望感。どう次回で大団円にするのやら。しっかりしぃや。
2006 9・15 60
* もうよほど前になる。
聟夫婦である★★★と夕日子とが、手遅れの肉腫で二十歳前のやす香を死なせた直後、八月一日から始めて、執拗に両親を「告訴する訴訟する」と騒ぎ立てていた八月の、ある日、事態を心配した或る知人が、こんなメールを呉れていた。
長いメールだった、こういうことに詳しい立場の人であった。長いメールの、以下に抄した辺を読んでいたとき、実はわたしは失笑して、まさかァと呆れていたのを思い出す。
* 私には、あなたが作家としてご自身の作品を守り、言論の自由を守り、それでも夕日子さんのためを思い、訴訟には強いて勝たなくてもいいとお考えのように見えてしまいます。
これは、最悪ではないでしょうか。
さらに訴訟があなたの心身の健康に与える負担を思うと、ぞっとします。何十年も訴訟している例をいくつも知っています。泥沼です。
そして、相手の弁護士を甘く見てはならないと思います。
まず、実の娘からの告訴を煽るということは良識ある弁護士ならしません。「九十五パーセント勝つ」という妙な強気もおかしい。これはかなり質の悪い「やくざ」な弁護士がついていると推測すべきです。
さらに私がもっとも恐怖するのは、裁判が不利になった場合に、夕日子さんが「言葉によるハラスメント、虐待」だけでなく、少女時代に「性的虐待」を受けたと「嘘を訴える」ことです。夕日子さんはそこまでしても勝ちたいでしょう。負けないために身辺・周囲が煽るでしょう。アメリカでは無実の父親がこうやって社会的に葬られた例が山ほどあって、本になっているくらいです。
もし、そのような根も葉もない訴えがあった場合、裁判は女の味方です。自称被害者のほうが強いです。痴漢の冤罪よりも無実の証明は絶望的です。あなたの作品はことごとく抹殺され、百年は埋もれなければならない。あれほどの名作なのに。日本語の宝なのに。
私の願いは、一先ず譲歩して、「告訴」騒動を鎮めてくださることです。ご家族、弁護士さんなど色々な方々とご相談して、あちらの要求がこれ以上傲岸に過大になる前に、お考えいただけないでしょうか。
その上で決断されたご判断は一番正しいことですし、それを心から支持して、あなたとご家族の皆さまのお幸せをお祈りし続けることに少しも変わりありません。
* いくら何でも度はずれていると、わたしはメールのこの辺は読み飛ばしていた。
ところが、夕日子は「木漏れ日」名義の「MIXI」日記を利し、しかもそれがわたしには「読めない」ように画策しておいて、八月以降、公衆相手(六百万人)に、じつに、読むも忌まわしい上記に危惧されたとおりの「嘘を訴える」ことをしていた。
わたしには、今日まで、それが読めなかった。人がコピーして送ってきてくれない限り。
よほど見るに見かねて癇癪玉を破裂させた人が、全文を、今日送ってきてくれた。
ひと言だけにしよう、あきれ果てた。
もうひと言、何と情けない人間になったのだろう、わたしの娘は。
* わたしは、ものに書く場合、それが批判や非難にあたる場合は、いわゆる「ウラ」を確保してでなければ、断定しないようにしている、当然の作法である。推測は人性の自然であるが、それも前後の状況から推して、蓋然性を堅くにらんで、する。まともな評論や批評は、そうでなければ出来ない。
それぬきに、好き勝手なでたらめな「作文」は、幾らでも出来る。誰にでも出来る。上のメールの人が、「心から危惧」し予測していたことを、夕日子は臆面なく、とうに、やり始めていたんだ。それも実の父や母に向けた、むちゃくちゃな「悪声」「誹謗と中傷」。
* そこまでやって、いったい夕日子は、何の自意識から責任遁れしようとしているのだろう。
* 我が家はきわめて狭い家で、しかも妻と私は何十年、常にまぢかに暮らしてきた。わたしが一人の時は、書斎とも呼べない机に向かい、夢中で依頼原稿を書きまくっているときだけだった。
妻や建日子に、こういう娘や姉のむちゃくちゃを、どう思っているか、どうか尋ねてみて欲しいが、妻は、夕日子のこの日記部分をまだ読んでいない。弟は、姉とマイミクシイのようだ、どうだろうか。
* 昨日やす香の友達がメッセージを送ってきてくれたことは、書いた。全文は遠慮せねばならないが、夕日子の恥知らずな「MIXI」日記を通読してみれば、申し訳ないが、少し引用させてください。
* ・・・私は正直、やす香のママにがっかりです。
私には★★家の深い事情はわからないにせよ、やす香のMIXIを使い続けて、やす香のおじいちゃんについて、なんかいやな感じに書き綴って、、、
湖さまは、責任感が強くて、頑固で(失礼っ)、だけど、優しい方なんだなあって、私は知っています。
私はやす香はこんなこと望んでるなんて思えません。
やす香はおじいちゃん、おばあやんを最後、憎んでいたんですか?
やす香の築いてきた人間関係をママとパパが勝手に使うほうがおかしいんじゃないかな。。
でも、直接やす香ママとパパにメッセージを送る勇気のない私です。ごめんなさい。
でも、これ以上なんかあったら送ってしまうかもしれません。泣。
* この「声」に、実情は尽きている。夕日子は「道」を踏み外している。
* 夕日子が結婚するまでの、大冊のアルバムが何十冊も溜まっている。弟より六七年長く付き合ってきた夕日子と父や母との写真は、千枚できかないかも。みな自然に、健康そのものに、それはそれはよく撮れているではないか。
ホームページに余力があれば、各時代の「夕日子写真館」を此処へ開いてみようか、百聞は一見にしかないであろう。
* 結婚したあとでさえ、夕日子は、母親の代理で、雑誌「ミセス」だったか「ミマン」であったか、父親といっしょに、編集者やカメラマンたちともいっしょに、編集部に着せ替え人形のようにいろいろお洒落させてもらって、楽しそうに四国松山や中国路取材の何泊もの旅をしているではないか、ちゃんと雑誌が刊行されている。
文壇関係のパーティーといえば、いそいそと父にくっついて来て、作家や先生達と、忘れもしない岡本太郎や梅原猛なんかともそれは嬉しそうに話して、編集者にはちやほやされて、興奮していたではないか。
父が作家代表でソ連へ旅するときも、夕日子は一人率先して、横浜港まで大きなトランクを引きずって、波止場での出航を見送ってくれたではないか。あれはもう大学生だったろう。
大学入学を祝いに銀座の「きよ田」でうまい鮨も嬉々として喰って、呑んで、あんなに上機嫌だったではないか。カウンターにたまたま並んだ小学館の編輯者に、「秦さん、コドモに、きよ田は過剰サービスですよ」なんて言われたのを、わたしは忘れない。
盲腸の手術あとがこじれて夕日子が二度も入院したときも、わたしは自転車で、毎日保谷から吉祥寺の向こうまで走って見舞った。夕日子は毎日、パパを待ちわびていて、時にはベソを書いて父の手を握って放さなかった。あれも、そんなに小さいコドモの時じゃない、高校生ぐらいな夕日子だったではないか。
もっとも、わたしは夕日子だけでなく、建日子が交通事故入院したときも、一日も欠かさず自転車で顔を見に・見せに通ったが。
なりたくもないお茶の水女子高校の父兄会長を強引に押しつけられたときも、お父さんの七光りで「卒業生答辞」が読めたなんて、晴れがましそうな得意顔もしていた、あれも高三を終えた夕日子ではなかったか。
そもそも夫★★★と出会わせるために、仲人の小林保治教授に頭を下げに行ったのも、美術展での見合いに引き合わせたのも、この父であったのを夕日子は忘れたのか。
* なにが「セクシャル・ハラスメント」か。
2006 9・15 60
* 三枚の写真 平成三年(一九九一)一月、この頃、今夏亡くなったやす香は、四つ半になっていた。娘夕日子は結婚して足かけ六年。妻といっしょにと依頼されたが、体力的に長い旅に堪えない、また晴れがましいことは苦手な妻の代わりに夕日子と、四国・中国(松山や柳井や厳島)を旅したときの写真である。
なんと娘は楽しそうであったことか、夕日子が旅館やホテルのカラオケであんなにじょうずに歌うとも、わたしは、ついぞ聴いたことがなかった。国木田独歩のゆかりの地、醤油づくりで名高い柳井市の、屋根より高いような大醤油樽の上へ追いあげられたわたしが、オッカナビックリへっぴり腰なのを、下から見上げて「ミセス」編集者やカメラマンところころ笑っていた娘の上機嫌を懐かしく思い出す。夕日子結婚後にも、こんな楽しい笑顔の父と娘との旅が、有った。父の方が終始照れていた。
こういう屈託なく愉快な家族・親子仲良し写真が、夕日子の誕生時から、こうして結婚・やす香出産後までも、文字どおり枚挙にいとまない。写真も、撮っておくモノだなあ。この夕日子の自然な表情の、どこに、父子の不幸な確執が読み取れよう。
すべては、この直後に、夕日子のいわゆる、夫★★★の「不幸な暴発」が起きた。嫁の実家である私と妻とが、★★★により一方的に「姻戚関係」を絶たれた。聖家族とも見えた家庭の食器棚に、どすぐろい髑髏が投げ込まれたのである。それから始まり、それが十数年後のやす香の死に繋がっていった。やす香を「死なせて」しまったと謂う意味も其処に在る。むざむざ「死なせて」おいて、あとで千万言綺麗事を飾ってみて何になろう。まして夕日子までが「不幸に暴発」して、何になろう。
2006 9・16 60
* わたしは昨日今日まで何も知らなかった。なにか「MIXI」日記に夕日子がむちゃくちゃ書き散らしているらしいと感じていても、アクセスを拒絶されていて自力では読めないし、人も、あんなことが書かれていては、うっかりわたしにも伝えにくかったろう、息子はやす香の日記は読めるのだが、わたしには、伝えてこなかった。息子から聴いていた妻も、わたしには黙っていた。伝えるに忍びない夕日子の嘘八百と知っているからよけいわたしに話せなかったと言うが、なさけないことだ。わたしは真実がっかりした。
おそらく、三枚の写真は、その自然で親密な父と娘との姿勢や表情は、夕日子の「MIXI」日記が無残な虚言であることを明かしてあまりある。既に★★家にいたのであり、父親がイヤなら、御免蒙ると同行を断れば済む。喜んで付いてきてかくもご機嫌サンである、自然な笑顔である。
それにしても、わたしはウカツに笑い飛ばして気にも掛けなかったが、ある読者の「予言」メールは、的確に夕日子の無道なウソ行為を見抜いていた。これには参りました。掌をさすようにとはこれだ。
家族も知らぬ顔してわたしに隠していたのに、しっかり「助言・忠告」していてくれた。もう一度、感謝して此処にひいておく。
* 私には、あなたが作家としてご自身の作品を守り、言論の自由を守り、それでも夕日子さんのためを思い、訴訟には強いて勝たなくてもいいとお考えのように見えてしまいます。
これは、最悪ではないでしょうか。
さらに訴訟があなたの心身の健康に与える負担を思うと、ぞっとします。何十年も訴訟している例をいくつも知っています。泥沼です。
そして、相手の弁護士を甘く見てはならないと思います。
まず、実の娘からの告訴を煽るということは良識ある弁護士ならしません。「九十五パーセント勝つ」という妙な強気もおかしい。これはかなり質の悪い「やくざ」な弁護士がついていると推測すべきです。
さらに私がもっとも恐怖するのは、裁判が不利になった場合に、夕日子さんが「言葉によるハラスメント、虐待」だけでなく、少女時代に「性的虐待」を受けたと「嘘を訴える」ことです。夕日子さんはそこまでしても勝ちたいでしょう。負けないために身辺・周囲が煽るでしょう。アメリカでは無実の父親がこうやって社会的に葬られた例が山ほどあって、本になっているくらいです。
もし、そのような根も葉もない訴えがあった場合、裁判は女の味方です。自称被害者のほうが強いです。痴漢の冤罪よりも無実の証明は絶望的です。あなたの作品はことごとく抹殺され、百年は埋もれなければならない。あれほどの名作なのに。日本語の宝なのに。
願いは、一先ず譲歩して、「告訴」騒動を鎮めてくださることです。ご家族、弁護士さんなど色々な方々とご相談して、あちらの要求がこれ以上傲岸に過大になる前に、お考えいただけないでしょうか。
その上で決断されたご判断は一番正しいことですし、それを心から支持して、あなたとご家族の皆さまのお幸せをお祈りし続けることに少しも変わりありません。
* わたしはこの助言を聴いて、親しい弁護士を頼む気になったし、娘に父親を告訴・訴訟させるようなバカを止めたさに弁護士の勧めに従い、すばやく「民事訴訟」を申し立ての勧めにも従ったけれど、それでもまだ、夕日子があれほどひどいウソを平然と、得々と世間に言いふらして恥じないなど、夢にも想えなかった。そんなバカナと思っていた。
言葉で何をあとから言い繕っても、なかなか人の耳には入らないものだ、だが、夕日子が、★★と結婚して五年余も経っているあの自然な父娘の旅写真は、幼来のわたしの痴漢なみの「虐待」など、百パーセント打ち消してくれる。そして昔へ溯ればさらにお互いの信愛や慈愛や敬愛なしには有り得ない写真の数は夥しい。母親と弟友達と、また一人で。写真機を向けているのはみなわたしであり、夕日子が元気に笑っているのはみなわたしのレンズとファインダーへ向かってである。演技で、ああいう顔は、お互いにできっこない、何百枚も。
それにしても我が親を、隠し「MIXI」でありもせぬ自分への痴漢呼ばわり出来る娘も娘だし、される父親も間抜けである。知らぬは父親ばかりなりというのも、情けないほど間抜けである。小説より奇である。おもしろいではないか。
* 「MIXI」へ厳重抗議したのが利いたか、夕日子の「木漏れ日」は、自身のマイミクシイとその周辺に「日記」へのアクセスを制限したらしい。弟すらも外したという。範囲を制限したらその範囲内で何を誹謗しウソを書いてもいいということには絶対ならない。弁護士は強硬な手を打とうとするだろう。だが、わたしは娘を訴えたりはしないつもり。
しかし、もし、悪質なこういう不特定超大多数への誹謗行為が、★★夫妻の「共謀」であるのなら、夫である★★★青山学院大学国際政経教授を、大学も視野に入れながら、徹底追究する。電車の中で女の子の尻を撫でたとかいう教授よりも、まだはるかに陰険で悪質だから。昔から悪質だから。
息子は、たぶん「あの夫婦」は気を一つにしてやっているよと推測している。
* 挑発に乗るのは賢くないと、賢い人はとめにかかる。それでは、この舞台劇がつまらない、おもしろくない。
わたしは、どこかで、ひとごとのように平静にこの事件の推移を面白く堪能したいのである。「まあまあ」などと賢こぶるのは好みでない。
2006 9・16 60
* 素晴らしい葡萄のいろいろを相次いで頂戴する。妻の大喜びの健康食、わたしは糖の魅力をすこしずつ味わう。
2006 9・17 60
* 代理人の判断で、わたしは町田(簡易裁判所)へは出向かなかった。いま、正午。第一回の「民事調停」がもう済んだだろう。
* 建日子から。そして「いい読者」の二人から。メールが来ていた。その一人、今朝十時過ぎのメールが、わたしのホームページが「消えています」と書いているが、何の事か。もう一人の分。
2006 9・20 60
* 建日子に。 どのような紛争も、ややこしければややこしいほど、「終結」は必要なのです、つまり落としどころ。それが無いと、十数年経てからも、根の反省無しに、突如として今回のように「告訴する・訴訟する」が降って湧く。形の上で結論を出しておかないと、先へ行ってまた臍(ほぞ)を噛む。わたしも母さんも、幸い今回はまだ気力あり対応しているけれど、もう五年後になれば、言いたい放題が出て来ても対応できないでしょう。そんなとき、建日子が代わって闘ってくれるかどうか。
「これでおしまい」という形をつくること、それが「民事調停」に依頼した必要十分条件なのです。過去に、、あいまいに流しておいたから、今回の騒動が起きたと思いませんか。このままやがてわたしが死ねば、当然のようにまた両家に紛糾が起きかねない。母さんは、そんなハメになったら、どうなると思いますか。
この紛争には、きちっとした「収束」こそ必要。だから「調停」を願いました。プライベートな話し合いは、建日子の尽力にかかわらず、簡単にフイにされた。紛争の火種を残しておけば、いつでも簡単に燻り、発火の引き金は★★夫妻に与えたままになり、その迷惑は、今回の比ではないこと、想像できませんか。彼等にはむちゃくちゃが出来ること、今回が証明している。若さもある。反省もなくおどしにかかる。
わたしには「書く」しか無い。
母さんには何ひとつ無い。
わたしには「書く」しか無い。彼等がヘキエキしているのは「書かれる」ことでしょう。辛うじてとれている、このバランス!
黙って引いて見せるのもまた、器の大きさ、愛の形とは、平凡な、百万遍も聴いてきた常識・良識? です。そんなことも念頭に置かずにわたしが生きていると思うのですか。わたしは母さんの身の安全や名誉のためにもガンバッテいるし、建日子に、空疎で事なかれの世渡りが、ほんとうに聡明な人間的なことかどうかを、身を以て教えている気でもいる。人間対人間は、人間の数だけ違った対応が在る。ニンを観て法を説けというのはその意味です。★★★たちの一切は、コレまで彼等が吐き出してきた「言葉」が、如実にあらわしていることは、「言葉」のリアリティで生きている建日子には、分かるでしょう。
わたしは黙って引いて見せるのもまた、器の大きさ、愛の形といった腹藝や覚悟の実例も、たくさん知っている。知らないのではない。しかしその正反対の例も知っていて、前者はえてして、俗ないし超級の悟りに近く、後者は俗を離れるかわりに、悲劇的な自爆へ向かう例も少なくはない。わたしが、どちら寄りに人生を歩んできたかは、評価してくれなくて構わないけれど、お前は知ってはいるはずだ。
器の大小などわたしは気に掛けない。気概と気稟の一途さをより尊いと思っている。
「非礼を受け入れる」のは、「非礼を働く」よりも仁に遠いと昔の人はきっちり覚悟している。もしそんなにわたしの「名」が大切なら、生きている間はわたし自身の覚悟で守るし、わたしの死後は、子であり教え子である建日子おまえ自身の「言葉と行為」とで、きっと守り抜いて呉れるだろう。
助言はありがたく聞きました。わたしのこういうメールのひと言ひと言も、あるいはむちゃくちゃ間違っているかも知れないのだけれど、「今・此処」「今・此処」での、大切なお前との「対話」だと思っていてくれますように。
わたしは、聴くべき意見には素直に従うタチだと、笑うなかれ、思っています。 ありがとう。 父
追伸 お前達 姉と弟とのことは、なにがあろうと心配していない。「MIXI」の写真に出ている夕日子と建日子。わたしや母さんがいなくなったとき、お前達二人はただ二人だけのかけがえない存在になる、必ず。目先のことで視野を喪わないように。夕日子には、父の生みの母を、夕日子自身の祖母を渾身の力でよく調べて書くように奨めてやっておくれ。右顧左眄していないで、もっともっともっと大きく朝の光のように健康に生きて欲しいと。
2006 9・20 60
* ホームページの「転送が不可能」になっている。手元でホームページに書き込むことには問題ない。他のインターネットもまともに稼働している。
ところが、昨夜遅くまで何の問題もなかった ホームページ転送が「接続」しない。「正しいパスワードを入れよ」と言うが、パスワードなど、久しく固定したまま触ったことがない。念のためホームページ契約のパスワードを正確に入れてみるが、何度やっても「パスワードが違う」という。
何としても、いま、ホームページが動かないとどうにもならない時期なので、困惑している。
* 第一回の調停には、★★は二人で出席し、弁護士はついていなかったという。大量の書き物を提出してきたが、内容は「むかつく」ほど過激極まるものだという話。まだ告訴だ訴訟だと言うているらしい、わたしたちは、まだ何も見ていない。
* ホームページのことで、電子メディアのプロに問い合わせた。
状況から見て、機械的な故障以外に考えられる唯一は、悪質な悪意の中傷をプロバイダというのかサーバーというのか、とにかく大元がそれを鵜呑みにし、全部削除したとしか考えにくい、と。
ふつうは数日前にメール予告してくるはずだが、しなくてもいい約款になっていると。そんな予告は一度も受けていない。
法律事務所に連絡し、厳重に対応して欲しいと深夜ながら連絡。
心配するメールが続々。
「MIXI」には予想以上に鳴りをひそめながらも関連記事を覗いている知人達の多いのは分かっているので、「MIXI」日記で、わたしのホームページに何らかの「悪質な妨害」が入って「潰された可能性」があるむね、通報した。
* 「闇に言い置く 私語の刻」を、暫定、「MIXI」日記に移管する。
2006 9・20 60
* 心配し懸念する声がぞくぞくと。
* 萩焼 6.9.20 21:43 バド(ミントン)の後、北の丸公園で「三輪寿雪の世界」を観てきました。これまで持っていた萩焼のイメージを覆す豪壮な、そしてはんなりとした品のある色合いの数多くの作品に出会えて満足し、初秋の北の丸公園を少し散策しました。
先ほど「私語」を開きましたが繋がりません。こちらに不備があるようでもなく、どうかしたかと案じています。お返事下さい。
一日が一週間が一月が慌ただしく過ぎていきます。元職場や同窓からの古稀を祝う会のお知らせが幾つか届いています。嬉しいよりも一抹の寂しさを感じています。 泉
* 慌てふためいて、あちこち検索していますが、出てきません。
何か、異変があったのですね。
勘三郎のこと、薄井八代子さん(「ペン電子文藝館」に力作『お止橋』を出稿の会員)のこと、お茶のこと、「磬子」(私の母と同じです)という名前(小説『慈子』登場人物)のこと・・・。
いっぱいいっぱい聞いていただきたいことがあります。
他の人のHPから、先生に関連の項目を抜き出して読みつつ、先生や、先生のお仕事の大きさを改めてかみしめました。
時々刻々、先生とともにあることを体感していた、その場所が不意になくなり、ネットの迷子になっています。
早く、自分のあるべき場所にたどり着かせてください。
お体どうぞご自愛くださいますよう。 讃岐
* 「MIXI」に「木漏れ日=夕日子」の「足あと」が来ている。初めてだろう。へんな名前で怪しげな名乗りは他にも見つけているが、わたしの方からは、夕日子が「MIXI」で何を書いていたか一度も読めていない、アクセスを拒絶されているから。憤激したわたしの読者から伝えられて読んだだけ、全部かどうかは分からない。
「不正なアクセス」をしかけているなどと夕日子は書いていたらしいけれど、「MIXI」の作法にしたがい何方も読まれているはずで、わたしは埒外。
ひとのアクセスを拒絶しておいて、物陰で「二十年間虐待されハラスメントを受け続けていた」などと「悪声」を放ち続けている★★夫妻のむちゃくちゃぶりに、わたしは汚物を踏んづけた不快な気がする。
しかし、その夕日子がわたしのところへ「足あと」をつけてくれたとは、嬉しいではないか。「虐待」「ハラスメント」が既に「七歳」から始まったと彼女の言う、その「八歳」の昔、わたしのカメラに真向かった、みるから可愛い夕日子の自然な笑顔、また結婚後も父と同行して旅を楽しんでいた自然なご機嫌の笑顔や身ごなしを、ゆっくり自分の目で眺めて、いま現在の「行い」をよっく顧みて貰いたい。
わたしは、これらの写真を眺めて、しみじみと心癒され慰められている。皮肉な話、この頃の不愉快な日々の一の慰めや嬉しさが、娘のこれらの写真をながめることだとは、ね。だが、これらが、わたしのいつわりない娘夕日子だった。何枚も何十枚もの写真はなにも偽らない。
* ああ、おどろいた。
やはりホームページは「誰かがBIGLOBEあてに申し出」、「BIGLOBEで鵜呑みに削除していた」ことが、判明した。法律事務所が連絡し、わたしへBIGLOBEのサポートセンターから電話が来たが、説明にも何もならない、電話口の自分は何も知らない、専門部署がしていることで、返辞をさせますとだけ。
わたしに、事前にも事後にも通知したはずと言うが、何一つそんな連絡は来ていないのである。
わたしのホームページは昨日や今日のものではないし、その量も厖大で、わたし以外の人の原稿も沢山入っている。何の確認もせず、全部を闇に葬ってしまうというこの暴挙・暴行には呆れる。
削除要求が誰から来たか、知らないという以上なにも今は言わないが、法律事務所が追究する。
* BIGLOBEからはじめて、本当に初めてメールが来て、やす香の病状経過を表している「MIXI」日記を引用しているのは著作権違反なので、わたしのホームページ全部を削除したむね、通知してきた。
なんと無断でバッサリである。
やす香の件(くだん)の日記は「MIXI」のやす香全日記の一割量にも遙かに及ばない。しかも、その部分こそ、わたしを告訴の訴訟のと迫っていた件の「最有力の反証内容」になる部分であり、★★両親がいちばん触れられたくない部分なのは明らか。半年間やす香から家族が「目を離していた」まさにやす香自身の慨嘆であり、またそれあるがゆえに「死なせた は 殺した」だと言いがかって彼等が見当違いに激昂した問題点なのである。告訴や訴訟や誹謗の悪攻撃から身を守るために、私たちにはやす香の『病悩日記』はぜひ必要になってしまった。
またその分量からして、わたしのホームページの全量は万倍以上になるはずた。しかもそれはわたしの文藝作品であり主催する文藝雑誌である。何の通達も無しに無断でいきなり削除がゆるされることか、と言いたい。
* 全く、内情を知らない者からみれば、プロバイダーがユーザーの承認を得ず、カヤの外に置いて、抹殺してしまえるものなのか、不可解です。wwwの不気味な部分ですね。
昨日も、たった二万円の資本で五億円もの大金をネット株で懐に転がせた青年の話が話題に上り、ナンジャコリャ、汗水たらす並のサラリーマンはどうなるのよ、ややこしい世の中になったわね、と今の世についていけない老女たちで嘆いていました。
インターネットから手軽に得られる過剰な情報を、賢く選択出来ない人が増えれば、この世の行く末が恐ろしくなります。
mixi等のブログも、顔を合わせば云えない話が出来るからと、株式に上場する程に賑わっていますが、人は顔を逢わせてこそ本音が分かるのです。インターネットやメールだけのお付き合いなんて、真実の真実は汲み取れません。
一日も欠かさず長く続いたH・Pの「私語」、早い復帰を待ちます。
サイクリングに良い気候になってきましたね。今日は何処を走っているのでしょう。
明日は下谷へお墓参りです。 泉
* 遠距離の人はともかく、身を働かせば顔の合う同士が、メールのケイタイのと過剰なまで中毒しているのは、精神の衰弱以外の何ものでもないのは明らか。電子の杖をはたらかせて有効なのは老人。若い人達に電子メディアの濫用は、どう考えてもクスリにはならない。
やす香にもしあの半年、メールやケイタイが無かったら、もっと悲惨だったろうか。もっともっと早くに、肉声で、身のそばの家族に、「ママたすけて」「パパたすけて」と声を掛けなかったろうか。
あの、家族みんなの留守に、苦痛をこらえ階段をおりて冷蔵庫のジュースをとりにゆく…、あの日記の悲惨さ、読んでいても目を覆いたかったと先日も友人の口から聴かされ、わたしは思わず泪をのんだ。
何が、何が、何がこの九ヶ月、本当に大事だったのか。あんな苦境から一日も早くやす香を救い出すことであったはずだ。そのあとの総ては、どんな綺麗事もつまり言い訳ではないか。
おじいやんのホームページを葬り去り、まみいを悲しさで絶句させれば、あの優しいやす香が「パパ、ママ、よくやった、よくやったわね」と、褒めてくれるのか。
* ホームページが表示されなくなって驚きました。卒業生君の指摘のように考えるのが自然です。
mixiにコメントしましたように、ホームページには繋がります。コンテンツを強制削除して、トップページ(index.html)を入れ替えて単に「ページが見つかりません」と嘘を表示しています。
biglobeと言えども、ネットの法的なことについては素人であることを露呈し、どう対応していいのか全くわかっていず、その場しのぎをやって誤魔化しているのでしょう。ネットの脆弱性を示しています。
すでに法律の専門家に対応をお願いしているとのことですから、その専門家のアドバイスに安心してまかせられたら良いと思います。
しかし調停と時期を同じくした思わぬ展開に、こういうこともあるのかと言う気がします。
何のお力添えもできませんが、このメールが少しでもお気持ちの平穏に役立てばと思います。 ペン会員
* 適切な抗議の通告書をBIGLOBE社長宛、書いてもらった。内容に異存ない。わたしからは、メールで担当者宛てに電送した。
いまホームページの全容を分かるように表紙部分だけでもとプリントし始めたが、途方もない量になっていて、ほんの主要部分だけで割愛した。
やがて建日子のドラマの最終回、これは見逃したくない。建日子はいま下北沢でまた芝居の公演中。明日はムリだが、明後日には観てやりたい、観て欲しいらしいし。
* 「MIXI」で文学を話し合っている若い(らしい)人たち。いっしょに話したいと思う。イヤなことに追いかけられている。わたしのところへ、今も「思香」が「足あと」を残す。ほんとうにやす香だったらどんなに、おじいやんは嬉しいだろう。だが、やす香はいまもわたしの肩に来ている。いま「MIXI」の「思香」とは「生きた化け物」である。きもちがわるい。
2006 9・21 60
* もう日付は変わっているのだが。
思えばやす香が自分は白血病と「MIXI」に公表した日から、きっかり二ヶ月経った。二十年経ったような、昨日のような気もする。
* この不快だった一日に、なぜかそれでも一掬の、しかもちからづよく澄んだものが胸に残っているのは何だろうと、さっきから思っていた。
それは「MIXI」に今日連載を終えた小説『三輪山』への想いであった。昭和四十九年の末に平凡社の看板雑誌「太陽」に書いた。妻は好きな作の一つだといい、読み直してくれている。わたしは久しぶりに読み返したが、何度もこみあげるものがあった。『秘色』もそうだったが『三輪山』もそうだ、わたしは「生みの母」のことをずうっと想っていた。顔もろくに知らない、口もほとんど利いた覚えがない。秦の家にその人が姿を見せるとわたしは二階から屋根づたいに逃げだした。あんな振舞いをわたしは今も自身にとがめはしないが、悲しくなる。
この小説は、「織物」を特集した雑誌の「特集小説」として依頼されたので、どうしても織物に的をしぼる約束があった。どうしようかなあと思案しながら、ある夕暮れ、保谷野を妻と散歩に出た。そして自然にものの熟するあんばいにラストを創った。唄も創った。一個所だけ、わたしは「おかあさん」と書いている。その言葉は、わたしの堅い禁句であったのに。あの小説は書きながら何度も泣いた。
今日も建日子の「花嫁は厄年!」最終回を観ながら、ふっと『三輪山』の感じに重なってくるものを感じていた。篠原涼子がさいごまで気を抜かずによく付き合ってくれたし、誰よりもさすが岩下志麻はリッパに我をとおして美しかった。俳優のみんなが、ま、あの娯楽作にしんみりと朗らかによく付き合ってくれたなあと、建日子の喜びが伝わってくる。ものを創るという嬉しさを建日子は覚えてきた。わたしは造る醍醐味を懐かしみながら、ひそかに構想している。
* これだけを書いて寝ようと想っていた。疲れた、とても。
2006 9・21 60
* 脳裏に悪意と卑劣の毒気に居座られないよう、いくつか親切なメールを静かに読み、耳も眼も洗いたい。
三時から六時まで、法律事務所で打ち合わせ。所長と少壮弁護士とじっくり懇談。だが人間の気稟は、「法」では所詮どうにもならないのだと思う。法のことは弁護士に任せ、わたしはわたしの既に決意している「書き手の道」を、決然歩む。
* 「MIXI」で、こんな「声」を聴く。おゆるし頂いて一つの声援として励まされたい。
* 秦さま 京都の中君です。 「私語の刻」を読み進めています。
HPの削除のこと、驚きと不信の気持ちで読みました。
最近での日課は「私語の刻」を読むこと、でした。八月最初のころHPを閉鎖されるかも・・・という時に、過去分をすべてワードにコピペして、少しずつプリントアウトして読んでいるのです。
「言い置かれて」いることに、いちいち会話しています。(一方的にしゃべることを会話というのは変ですけど。)
このひと月ずっと、秦さんに向かってしゃべりながら読んでいるので、本当に少しずつしか読めません。
お能のことはさっぱりわからないし、読めない漢字もたくさんあって、自分の不勉強が恥ずかしくなっています。
今は2000年9月のところを読んでいます。
思い立って、古典『夜の寝覚』を借りて読もうとしております。さて、古文の素養のない私にどこまで読めるかわからへんのですけど、ちょっとチャレンジ。
2000年8月のところに杉本秀太郎さんのお名前がありましたね。私が秦さんの『清経入水』から「湖(うみ)の本」を読むようになったのも、杉本さんのお名前が「あとがき」にあったからです。手に取るきっかけを杉本さんが作ってくださいましたので、秘かに感謝しています。
娘さんご夫妻とのあれこれは、片方に寄らず出来るだけ冷静に読もうとしてきました。ですから今までもコメントはできませんでした。
mixiでは「思香」さんの「日記」は友人までの公開、「木洩れ日」さんのは友人の友人まで公開となっていますので、現在は私からは読めない状態です。
いつでしたか、数時間ごとに「自称文筆業」の方を非難されている日記が更新されたときは、これは常軌を逸しているなぁと、更新されるたびにコピーして置いてあります。どなたかも書いてらしたけど、男性の文章だったように思いました。
大学の先生の割には幼いなぁと思ったんですけど(笑)
これでは誰の共感も得られないんちゃうやろか? と。
ちょっとこの先生、ヤバイな、実は追い詰められてはんのか? とか、いろいろ考えてしまいました。
いい大人の書くメールじゃないんですけど、私の言葉で思ったまま書くと、こんな感じになってしまいます。
mixiの日記を転載されたことが著作権違反になるから一気にページそのものを「全削除」というのも、かなりの驚きですね。
ネットでの著作権違反は深くて、考えるとますますわからなくなってしまいますが、著作権違反は親告罪なのでまずは当事者に通告をするのが当たり前のはずではないのでしょうか?
「大学の先生」に言われたからばっさりいってしまった、なんてまさかまさかの話ではないでしょうね?
そんな風に失礼な当て推量してしまうのも、「日記の非公開」が原因なんだろうなと思います。
日記を非公開にされるのはご自分の自由なのでしょうが、秦さんのHPに不満、文句があるのなら、事実と違うと言うのなら、陰でこそこそして (いや、がなりたてて) いないで、万人の目にさらされることをお勧めしたいですね。
ごめんなさい、なんだかとりとめも無く、ぐちゃぐちゃに書きなぐってしまいました。
次回のメールでは湖の本の購読をお願いしたいと思っています。
ユーロが強くなって外貨貯蓄ですこーしですが儲かりましたので、その分を使いたいと思っています。
それでは。 中君
* 長い長い、しかしじつに深切を極めて、ものを観た、感じたね考えた、そしてわたしを、わたしの家族を案じてくれるメールが届いていた。いま此処に紹介している、もう今日はわたしに、体力がない。しかし今わたしの考えている、今日も弁護士さんたちと話していた際の秘かな思いに、ぴたっと重なる意見もあり、真っ向異なる意見もあったけれど、一つ一つにある種の「凄み」を感じた。この凄みはまったくの称賛である。ながくてご迷惑どころではなかった。
* 建日子の芝居も、今回は両親とも休ませてもらうことにした。その建日子が電話をくれた。その話がわたしを元気づけてくれた。それは、書かない。
* 一昨日は気がつかなかった彼岸花がいっせいに茎を伸ばして咲き始めました。
HPが読めない状況,気になります。 鳶
* 今日も爽やかに晴れています。
ホームページが見られませんが、機械の不都合ならよいのですが。体調でも崩されておられるのかと心配しています。
今日は誕生日、67歳になりました。
萩の寺もそろそろ見頃でしょうか。明日お参りに行ってきます。
お元気でお過ごしのことと願っています。 のばら 従妹
* どなたかから、HP送信のいい解決法が届きましたか。もしまだなら、プロバイダへのメール問い合わせをおすすめします。とにかく、何らかの手段を伝授してくれるはずです。お忙しいでしょうが、簡単ですから、ちょっと送ってみてはいかがでしょう。
まだまだ暑いですね。
湿度が下がってきたので、窓を開けるのですが、何かの花粉が入ってくるみたいで、咳き込みます。
焦らず、けれど、風に早くお逢いしたいなあ、と想っています。 花
* 先の日曜日、毎回楽しみにしているKBS京都制作の15分番組で久多の松上げと花笠踊を紹介していまして、その上、志古淵神社も映ったのには思わず声が出ました。
短編集『修羅』に出てきますでしょう。行ってみたいと思いながら夜の久多へひとりは心細くて実現しませんの。
他の機会と併せて行った、祭り準備も始まらない真昼の花背八桝と祭り翌日の雲ヶ畑で目にした景色を重ね合わせ、この早春、お水取りの神事を特集した奈良のタウン誌で見つけた小川光三さんの写真と記事、白洲正子さんの文で、わずかずつ想像を膨らませていましたが、画面から受ける感じでは久多の景色や景気はさほど観光化して
いない感じで、鞍馬の火祭りと、京で体験した地蔵盆の夕暮れとを足した印象をもちました。一面火の海になる迫力は想像以上でしたわ。
灯籠木がお水取りの籠松明そっくりで、お水取りや鵜の瀬の景色を思い出しました。
いまも小浜市、名田庄村、美山町あわせて10ヶ所。京都市内では雲ヶ畑、久多、広河原、八桝で行なわれているそうです。
3/2のお水送り、8/15.23.24の松上げ、10/22鞍馬の火祭り、岩倉の石座神社の松明を使う祭り、2/15南山城湧出宮の居籠り祭初日の行事、2/12の島ケ原正月堂の達陀と3/12に汲む二月堂若狭井。小川さんは若狭から大和へ文化が伝わった足跡と書いてらしたけれど、雀は7/14の那智の火祭りまでつなげて想いたい。
愛宕神社はミヅハノメノカミの次にうまれたワクムスビノカミとイザナミを本宮に、雷神とカグツチノカミを若宮に祭り、現在西山の金蔵寺に預けられている愛宕権現勝軍地蔵は幽冥界と現世の境に立つ菩薩だそうですね。
若狭湾から那智勝浦へ龍がのびて、愛宕と花の窟(いわや)がつながりますでしょう。
花の窟秋の神事が来月2日と迫ってきました。丸く白い石に寄せてかえす波音が、そうよそうよというように耳の奥によみがえって誘っています。 囀雀
* こういうメールに触れていると、こんな静かな人もいて、一方には下劣な画策で人を苦しめ舌なめずりしているようなのもいる。
人の世は、あれもあり、しかしこんなのもある。おもしろや、人の世。
ただ人はなさけあれ 花のうへなる露の世に
* 小金井公園は、車でも自転車でも比較的近い(といっても二、三十分)ので、お昼弁当とビニールシートを携え、孫守り(実は孫に遊んでもらっているのかも)を兼ねてちょくちょく出かけます。これも幼稚園までですが。
今はコスモスの群生するあたりが綺麗かも。一度は郷土館にも入ってみては(必要があれば、洗面所は無料区域で清潔!)。お奨めデース。
去年からの中日を避けてのお墓参りは、正解。程よい気候。
ごく近くの中華のお店も楽しみで、ウエイターのサービスよく、美味しいのでお気に入りの店です。
朝、物干しから今日開いたばかりの沢山の真っ白い花に交って、二、三輪の濃紅に酔いのまわった昨日の酔芙蓉を眼の下に観て、胸キュンになりました。ほんまにうっとりとさせる、佳い花。下からでもなく横からでもなく、上から見下ろすのがいい、と毎年変わらず、モノ想う心は後退していないようです。
「私語」を読めないのは、山葵の利かないお寿司みたい。 泉
* 「MIXI」日記にいくつもコメントが寄せられている中で、今日、一人夕日子の友達らしい男性からのものがあり、まじめに返辞しておいた。そのあとは、まだ見ていない。もう今夜は疲れ切っている。小説の新連載も講演のつづきも、今日は終えなかった。小説には、夕日子の登場する長編を連載してみようかと思っている。
2006 9・22 60
* 湖さん 「人格障害」でも、社会生活は成り立ちます。社会的地位すらかちえています。しかし、周囲の人間に、おそろしいまでの苦痛を与えずにはおきません。「治療不可能な病気」ですから、どんな非道も、責めても無駄です。本人に責任があるのはもちろんですが、資質と生育環境などで、こういう風な、周囲を不幸にする人はたくさんいます。うわべがどうあれ、まっとうな人間と思って相手にしてはいけません。安穏な共存を希望するならどんなに不条理に思えても、正常な人間の方で耐えに耐えて、できるだけ早く一方的に折れてやる以外に、いかなる方法もないのです。
精神科医は言います。精神病は薬が効くけれど、人格障害は薬が効かないから、一番始末が悪いと。人格障害には一方通行の強硬な自己主張しかありません。話し合いが成立しません。自分の言いたいことしか言わず、聞く耳もたないのですから。闘いや話し合いは「不毛」で、もともと闘うにも話し合うにも意味のある相手ではありません。ふつうの人間なら一生に一度も言わないことを平気で言い放ち、実行もするのです。脅し屋、ゆすり屋です。落としどころは往々お金になります。
どんなに話し合っても無駄です。謝罪を求めるなど徒労以外の何物でもありません。そもそも人格障害の人間は人格が一ミリも変わらない。言語道断に無礼なのは火をみるより明らかでも、そういう道理が通じないから人格障害なのです。見切りと諦め、それが何より何よりで、その方法しかないんです。
私は今島尾敏雄の「死の棘」の狂気と究極の愛を描いた世界を思い出しています。 医師 表参道
* 逆説的に聞こえるかもしれませんが、夕日子さんほどお父上の愛に値する人間はこの世にいないでしょう。お気づきでないかもしれませんが、夕日子さんは、ご家族の中で一番の秦恒平の理解者です、きっと。夕日子さんに有って、奥様と建日子さんにないものが確かにあります。一日も早い和解と、秦文学の最高傑作が書かれることを、夕日子さんも手の込んだイジワルは切り上げて、しみじみとした美しい小説を書かれるよう祈り続けます。
ホームページの一日も早い復旧をお祈りします。
けれど、もしかしたら、これは一つの天の啓示、あるいはチャンスともとれます。「私語」よりも、一心に「小説」にだけ向かいなさいと、天が行く道を示しているのかもしれません。マイナスの条件をいつもプラスに変えてきた方です。今回もこの経験をしたたかに生かしていかれることでしょう。
私たちのような秦文学と共に生きているつもりの人間には、ホームページ閉鎖はひどくつらいことですが、書かれた言葉はすべて後々まで残りましょう。今読めなくても嘆く必要はないのです。ホフマンではありませんが、あなたの「言葉」は消えません。しぶとく生きて、書くのが、秦さんの運命です。
「世の中は地獄の上の花見かな」ですね。でも花だけでなく、地獄も楽しみましょうよ。 世之
* 娘さんについて考えたことを書きます。まず娘さんが「MIXI」に書いた性的虐待の日記ですが、そもそも娘さんがハンドルネームを使っているとしても、周囲に自分とわかるように書いていること自体、そういう事実はなかった「嘘」とわかります。性的虐待のカミングアウトというのは、女にとってよほどのよほどです。使命感でそういう「活動」をしている人以外には、ほとんど例がないのでは。
私は子ども時代の虐待について本人の書いたものをいくつか読みましたが、まずあまりの傷の深さに、そういう著作自体少ない。そして、書かれたもの二例では、本人が自分の名前を戸籍から変えていました。「MIXI」に載った娘さんの写真は、みごとに雄弁です。
次に、娘さんがこのように「変貌」したことについて、私の考えを書きます。不快に思われる部分もあると存じますが、失礼をお許しくださいますように。心安だてに実際失礼なことを書きます。自分の、父親として、人間としての大欠陥を棚に上げてエラそうに書きます。
田辺聖子さんでしたか、子どもは「当たりもん」と書いていらした。どのような子どもを持つかは運次第、くじ引きと同じ当たり外れがあるという意味です。子どもの健康や能力や容姿や性格など、たしかに親の努力や心がけの範疇にはありません。その上で、ある程度は親が防げる不幸があります。
当然よくわかっていらっしゃることですが、娘さんの今の異常ともいえる言動は、もし躁鬱の躁状態という病気でないとしたら、その根は、秦さんご自身にも、かなり大きな部分があると感じます。娘さんが結婚にいたった経緯はこれは「ご縁」でこうなるしかなかったことでしょう、当然ご両親に責任はない、娘さんのもって生まれた「運」だったんでしょう。ですが、それにもかかわらず、あのとき、秦さんに、父親として防げるところが防げなかったのではないですか。
もう昔、太宰賞を受けられたとき、その『清経入水』を、その以前に読んでいた「新潮」の酒井編集長が、「目をすったか」と苦笑して受賞を大いに祝って下さったというお話をされてました。
秦さんも、つまり、あのとき、仲人口に耳をひっぱられ「目をすった」ってことですかね。 稲
* コワイ読者達が、喋りだした。疲れるなあ。
2006 9・23 60
* また新たに、長編小説『罪はわが前に』を連載し始めた。いままさに父のホームページを全滅させた当人が、小説では、早々に六年生の元気なあどけない少女の横顔を見せる。筑摩書房の書き下ろし。この表題、覚えている人は『三四郎』を思い出すだろう、が、もっと遠くはバイブルの「詩編」のもの。
また講演は「マスコミと文学」を副題「あなた自身の問題として」連載し始めた。ちょっと歴史的な証言に身ぶるいされるだろう、この講演では時代も私自身も、まだパソコンをまるで「意識していない」のである、その頃の文学とマスコミとを証言している。
2006 9・24 60
* 東京地裁はホームページの一方的「無断削除事件」を重く見て、専門部「著作権」で審訊することにしたようである。
2006 9・25 60
* 秦建日子の新刊『アンフェアな月』(河出書房)が、著者と版元から贈られてきた。『推理小説』の続編であり、「刑事雪平夏見」と副題がしてある。大売れ篠原涼子の拳銃を向けた写真が「応援」の弁を、帯に述べてくれている。
お世辞にも心静かでなどいられない派手な表紙絵。だが相談されたとき、わたしはこれに票を投じた。単行本の表紙は、つまり題と作者の名がくっきり見えていること。その狙いによく合っている。背表紙も明瞭、これで良い。なかを読むのはこれから。
建日子は今三十八歳と九ヶ月。わたしが医学書院を退社して草鞋の一足を捨てた年齢と、ぴったり重なる。あのときわたしは新潮社新鋭書き下ろしシリーズの『みごもりの湖』を出版し、同時に当時大判の純文藝雑誌「すばる」巻頭に長編『墨牡丹』を発表。いよいよの独立に、気を引き締めていた。そしてその先を一心に歩んでいった。そういう歳なのだ。建日子のますます真剣な健脚と勉強とを、心から願い、この上梓を心底喜んで祝う。
2006 9・26 60
* 建日子がまた親切な報せをくれた。だんだん息子に頼るようになるのも自然の数か、感謝。
2006 9・26 60
* 例年のメール年賀状を少なくも、文化各界、新聞・出版・編集、大学、読者、知人など少なくも五百人には送っている。そういう方達だけでも、ホームページの無道な消失について報せておかないといけないのではないか、と、文案を弁護士にチェックしてもらっている。
2006 9・26 60
* ホームページ消失への問い合わせや不審がぞくぞくと毎日届いている。
「MIXI」以外の読者には、まだ何も伝えていない、が、法律事務所も、やはり挨拶はしておいた方が良いと認めているので、用意の文面を先ず見てもらった。
メールアドレスのある先に、一斉に「同報」で事情を説明することにする。マスコミや文化各界や大学・施設等にひろく及ぶのでどんな波紋が起きるか分からないが。どう考えても、確認も取らないでの一切合財の一方的削除は、むちゃくちゃである。何故そんなことになったか、コトの発端にも触れざるをえない。
* はじめまして 見知らぬ「足あと」誰かと思われたでしょうね。
建日子さんのドラマが好きで、ブログをずっと拝見していました。
やす香さんの病気のことを知り、やす香さんの「mixi」を亡くなられるまで見守らせて頂きました。どうにも気になって陰から病気が回復されるのをお祈りしていましたが、20歳になる前に亡くなられ さぞかし無念だったでしょうね。
その後「湖」様のホームページも拝見させていただいていましたので、突然「見当たりません」のメッセージには驚いてしまいました。
お父様の本心が素直に娘さんに伝わりますよう お祈り申し上げます。
部外者ですが、お父様を応援いたしております。 不二
* 「足あと」とは「MIXI」用語。記事などを覗きに、読みに、きた人のニックネームとコレまでの総人数が記録される。二月十四日に加入して以来、二月三月は数えるほどもなかったが、今見ると「七千人」に手が届いている。毎日鰻登りに増えている。連載の小説とエッセイと、そして日録「闇に言い置く私語の刻」を、ホームページ事件を機に此処へ移転させた、それが読まれている。
* こんばんは ホームページ閉じてしまわれたのでしょうか。メールは届くのでしょうか。
こちらは毎日秋晴れの気持ちのよいお天気です。常林寺さんも萩が咲き乱れていました。十一月になれば、又、娘の所へ行きたいと思っています。
お元気でお過ごしでしょうか。 のばら 従妹
2006 9・27 60
* ぞくぞくとホームページの消滅に怒りの声や提案が来るが、みな此処へ書き込むことは出来ない。心知った人の分だけ、参考までに。
* >>> こういう時節に、上のようなBIGLOBEの処置は、遺憾余りあります。ユーザーへの親切の為にも、当然もっと確実な「電話」確認や、「郵便」文書による確認を以て、「ユーザーの正確な意思決定」を手に入れて為すべきが、理の当然でありましょう、
インターネットの専門家でなくとも、少しは知識があればインターネットメールが送信先に確実に到達する通信手段でないことは理解できることであり、到達する保証がないことは世間の常識です。
こともあろうに、プロバイダー(ISP)を標榜するbiglobeが、biglobe ドメインのメールアドレスに通知したから、それでもって相手が承諾したとみなすことは極めて身勝手な論理と言えます。
ホームページのコンテンツを削除するという極めて重要な案件では、電話もしくは文書によって確認するのが世間の良識と考えます。
弁護士事務所は、著作権侵害に対してはもちろんですが、この無謀な意思確認の方法を攻めるべきでしょうし、そうするものと信じます。
この程度の対応しかできなかったbiglobeはさっさと、プロバイダー事業から撤退するのが世の中の為であると思いたくなりますね。 I T 専門家 神戸市
* 私は、以下のようなことをすべきだと思いますので、お知らせします。
まず、問題の所在を簡潔に明らかにし、ペンクラブの会員が、裁判所に「仮処分」を申し立てたことをペンクラブとしても、電子メディア時代の表現のありよう、著作権侵害の実状を踏まえた「ルール」(事実上の 一方的な措置)のありようなど問題提起をし、かかる問題の所在の普遍的な影響(ペンクラブ全体に限らず、表現者全般に関わって来る可能性がある)を広く訴え、具体的には、当面、裁判所に対して、当該「仮処分」の申し立てをすみやかに認めるよう要請し、当該ホームページの原状回復をすることが大事なのではないでしょうか。
ペンクラブの言論表現委員会の動きはどうなっていますか。 ペン委員
* ご連絡を有難うございました。どうしたのか心配していました。
調停の結果ホームページを閉鎖するという合意に達したのかと思いましたが、このホームページが秦様の作家としての表現の場であることを考えれば、そのようなことはないはずと考えました。ご連絡をいただいて得心しました。
一刻も早く復旧なさることを期待しています。基になるファイルはご自身のパソコンにあるでしょうから、この際プロバイダーを替え装いを改めるのも、一つの方法かもしれませんね。
神沢杜口の『翁草』のうち初めの100巻は1772年になり、その後100巻を加えたところ1788年火災でその半ばを焼失し、再び編述して全200巻の成ったのは1791年、杜口82歳の年であった由。
どうぞご自愛下さい。 正 在・英国
* 鴉さま メールを読んで事態が今も信じられません。酷い話です。biglobeはせめて確実な問い合わせ、そして意思確認をすべきでした。かりに一歩譲ってもせめて最小限の「処置」にとどまるべきでした。あまりに理不尽です、表現の自由どころか抹消など。プロバイダーを変えるという単純な方策はもちろん可能でしょうが、それで済む問題ではありませんね。できる限り早い時期にHPが回復されることを願っています。
調停、審訊、どれほど大変なものか、わたしには想像もできませんが、時間的にも精神的にも重い負担になっていること察するにあまりあります。
メールの返事はどうぞ無理になさらないで、ただ時折、そうかそうかと読んでください。HPに載るのを無意識であっても半ば「想定」して書くのではなく、より素直に? 書いてしまうかもしれませんが、それもそのまま笑って受け止めてください。少しでも慰めになれるなら、たとい微力でも、嬉しいことです
ここ数日は心配で落ち込んでいました。何もできず、ただ時間の流れるに任せて本を読んでいました。
今日は京都市美術館に出かけようと思います。院展、例年のことで、それなりに「予想」もできますが、一作一作に注がれた時間とエネルギーを汲み取り、自分への励ましにしたい。今週はよい天気が続くようで、まだ汗ばむほどですが、久しぶりの京都を楽しんできます。 鳶
* BIGLOBEは、削除する前に秦さんの言い分や意思をきちんと聴くべきでしたね。
よほどの有害サイトでない限り、問答無用で削除するなど間違っています。 文京区
* こんな話よりわたしの心を呼び寄せてやまないのは、こういう時だから余計そうなんだが、バグワン。
それから好きな歌人や俳人の歌集、句集。
『井伊直弼修養としての茶の湯』という研究書を手に取ってみる。するとすぐ世外の人となり、なぜか亡き白鸚や松緑の顔が思い浮かぶ。歌舞伎舞台の『井伊大老』やテレビドラマの『花の生涯』を思い出すのか。されば連想は歌右衛門にゆき、あれは淡島千景であったか、に、行く。
人にも逢いたい、芝居の日もはやく、と。しかし難儀な糖尿診察が待っていて、不快なだけの「調停」や「審訊」もある。難儀で不快なことほど、踏み込んで受け取らねばならない。
* わたしにしても強い人間ではない、が、弱さに甘えたり逃げこんだりはしていられない時がある。ほんとうに弱いとほんとうに逃げこんで頭をかかえてしまうが、頭を上げていなくてはならないときはちゃんと頭をあげて当面するしかない。しかない、のでなく、おそらくそれが当然の精神衛生というものだ。楽しいことしか楽しめないのでは楽しみの味は単純だ。時には苦みや鹹みも楽しみとしたい。
* 「MIXI」に連載している『罪はわが前に』も講演『蛇と公園』も楽しんで校正している。
2006 9・28 60
* つまりは「時代」そのものが人格障害をおこしているようなもの。ゲドは、それを直しに世界の一番奥まで行ってきた。『マトリックス』のあのキアヌ・リーヴズ演じる救世主もキャリー・アン・モスのマドンナも、世界の一番奥へ飛び込んでいった。
いま、妻もいっしょに「人格障害」のおそろしさを勉強している。
* 私は、PC音痴で、よい方法など全くわかりません。すみません。でも私にでもできることがありましたら、なんでもいたします。
ある日突然、いつものHPが開けなくなりました。
何となく予感はしていたのですが、先生のおっしゃるように、こんなに突然、そして、全くゼロになるなど、思いもよりませんでした。何度検索しても「見当たりません」の表示ばかり。それでも、むなしく、毎日同じ行為をくり返していました。
だから、今日、メールをいただいて、やっと、少し安心しました。真っ暗な宇宙で迷子になっていた私に、かすかな、通信の回路が復旧した感じです。
読み終わったメールや、送信済みの自分の返信メールも、私は消すことができません。そのとき、そのとき自分がどう考えたか、感じたかの記録です。私という人間の、「今・此処」をどう生きているか(大げさですが)の記録だと思えば、簡単な文章でも削除できません。そして、明らかに、その記録は、私の歩いている足跡になっています。面はゆさや、悔恨も含めて、やはりいとおしむべき足跡です。
まして、先生のHPは、作家秦恒平氏そのものであり、紛れのない「作品」です。
毎日拝読しながら、その思想と、行動を垣間見させていただき、自分の人生の指針としてきました。
私のような人が、この電子の大海の中にどのくらいいるか、それはもう数え切れないことでしょう。先生の作品と、その作品を読む読者の権利とを、こんなにもたやすく奪えるのだということが信じられません。この、人権、著作権の叫ばれる時代に・・。
そして、一方で、このIT時代の怖さも感じます。
書物になったものであれば、「焚書」でもしない限りなくなるということはありません。もし、そうであったとしても、隠し持つ心ある人は必ずいます。
でも、この電子上の情報は、こんなにも、いともたやすく削除されてしまうのですね。
「私語」にあったので、7月・8月分はCDに保存しました(してもらいました)。でも、たったそれだけです。
早く、復旧しますように、全作品が取り返せますように、切にお祈りしています。
どうぞお体おいといくださいますよう。 讃岐
* 数日前からエラーになってしまい、いろいろ試してみましたがどうしてもアクセス不能で気がかりでした。理由を知って驚いています。
お役に立てるほどの知識を持ちませんが、応援しています。 竹
* こんなひどいことがあって良いものでしょうか!!!
普通の人がHPを作っているのとは訳が違います。
日本文学の歴史・財産をこうも簡単に一方的に消されてしまうとは!! 今日ほど《IT世界の恐ろしさ・怒り》を感じたことはございません。
どのような事情があろうともプロバイダー『BIGLOBE』が勝手に完全消去する権利など、何処にもない筈です。
たとえIT社会の時代でも、通告・勧告などは、《文書による確認》が(本人であることを確かめた上での)大切と思います。
『作家:秦恒平の文学文学と生活』が《どれほどの宝物》であるかを確かめもせず。。。《恐ろしい時代》になりました。《振り込め詐欺》どころの問題ではありません!!!
HPを拝見できなくなってからというもの。。。日に何度もクリックしては、先生のご健康とPCの調子? リニューアル? などと心配しておりました。
《決してこのような酷いことがあって良い筈ありません。》
《応援いたしております。》
《手立て》がないものでしょうか?
プロバイダー『BIGLOBU』に抗議いたします!!!
《末恐ろしさ》さえ覚えます。
先生・奥さま、くれぐれもご自愛ください。 岡崎市: 枝
2006 9・28 60
* 昨夜から、ホームページ消滅への怒りと愕きの声、途切れずぞくぞくと。
ペンの委員会で正式に取り上げましょうと委員長からも。ある学会では、ホームページにわたしの「通知文」をそのまま告知し広く訴えると言うし、自分のホームページにも転載し、またメルトモにも広く同送して、この無道な処置に社会的な運動を起こそうという提言もたくさん来ている。もとより、やす香の「MIXI」日記を相続したという著作権者への痛烈な批評・非難も数多い。
技術的、また法律的な、提言や助言も多い。相手のあることで全部を此処へ載せることは戦略的にも、また遠慮もありとても出来ないが、心安くゆるして頂ける人のだけに限って、以下、順不同に「応援」していただく。
* プロバイダの行為に憤りを感じます。もしやと思い、先生のお名前で検索をしましたところ、「このページは、G o o g l e で 2006年9月18日 11:37:45 GMTに保存されたhttp://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/ のキャッシュです。G o o g l eがクロール時にページを保存したものです。」
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&lr=&q=+site: www2s.biglobe.ne.jp+ 秦恒平
という形で復旧までのあいだはこちらを「お問い合わせの方にご紹介」されてはいかがでしょうか。
また、先生のお手元に記録がない場合にはこちらからDLをすれば、被害を最小限に留めることができるのではないかと存じます。ご存知のことは思いますがご参考まで。
また、プロバイダ「BIGLOBE」への抗議の意志を表わすため、当組織のサイトでも先生から頂戴したメールを公開させていただきたくご相談申し上げます。
とり急ぎ要件のみにて失礼いたします。以上。 国文学の学会責任者
* 残念でなりません。
プロバイダというのは、一人の要求で、一方的に、万人の権利を奪うことが出来るのでしょうか。
法的な通告というのは「内容証明」によるものでなければならない筈です。「仮処分」手続きはお進みとの事ですが、結果を待つのが「長い」と思います。頑張りましょう。応援します。
秦さんのページが読めなくなって本当に落ちつかず、メールにしようか郵便にしようか、あれこれ考えていました。ご検討の事と思いますが、他のプロバイダからのホームページは如何なのでしょうか? 読者のみな さんも待っていると思っています。
実は、私も「法律事務所」や「地裁」へ通い長い長い戦いをした事があります。苦労もありましたが、正しいものは正しいのですから頑張りました。
それにしても、こういう事をして、やす香さんの相続権者は何がいいのでしょうか。そちらも心配です。
秦さん くれぐれもお大切にお大事にいろいろお気をつけください。
私はいつかお会いした時くらいには健康戻ったつもりです。なんでも食べています。お時間があればやっぱりまた遊びましょうか。 千葉 E-OLD
* 「民事調停」の席で、★★氏のあまりの虚言・暴言に先生がカンシャク玉を破裂させて、帰宅するやいなや、「えいっ」とばかりに器械の接続を切られたかと案じつつ、一日に何回も接続を試みておりました。
事情がわかり、一安心・・・でもないようですね。お察しいたします。
さて、さて、「秦恒平論」だいぶ進んでおります。読むのが八分、書くのが二分の牛歩ですが、これが楽しい、うれしい。あまりに没頭しているものですから、家内がおかんむり。ちょっとは、わたしの話も聞いてと、すり寄られても、なにせ秦恒平を読み解く方が、数段おもしろい。いろいろと勝手なことを書いています。
事態の好転を願っております。ご自愛ください。 六
* やはり何かあったのだと思っておりました。
BIGLOBEの勝手な処置には怒りを覚えるとともに、あらてめてネット上の著作物の危うさを認識しました。
秦さんのHP『作家・秦恒平の文学と生活』の中には、私の作品を含め、そこでしか読むことのできない貴重な作品が収蔵されていました。
作品収蔵の当事者として、早速BIGLOBEに抗議をしたいと思います。まず私個人で抗議文を送付することを考えますが、もし「e-文庫・湖 (umi)」寄稿者の中で、同様な考えをお持ちの方がおられましたら、まとめて、という方法でもよろしいかと思います。「仮処分」審訊中とのことですので、一応弁護士の方にも許可を得たほうがよろしいのでしょうか? お考えをご返信下さい。
そのほか、私にできることでしたらなんでも致しますので、いつでもご連絡下さい。
また、私はMIXIに入会していないので、現在唯一となってしまった秦さんのHPを見る事ができません。もし可能でしたら入会のためのご紹介をしていただけないでしょうか。よろしくお願いいたします。
札幌は冷え込み、ついに今日からストーブを使っています。 真
* プロバイダは、単価競争の中Webスペースをばらまいており、表現の場、というインフラ意識は薄く、消費するためのスペースを間借りさせてやっている、という姿勢ではないかと思います。有名な中堅プロバイダの夜逃げの話を先週聞いたばかりです。よくある話で、そういう業界です。
Webページを放置しておくと、一瞬でどんどん広まります。たとえば、今でも先生のページの影(キャッシュ)が、Googleで確認できたりします。件の著作権を云々されたページも、多分読めます。
プロバイダにとって、削除は時間との戦いです。Biglobeの取った措置を弁護する気はありませんが、無数のWebページへの無数の削除要請に対応するには、電話や手紙などの、いつどんな返事がくるかも分からない方法
よりも、約款で一方的削除を宣言しておいて、今回の措置をとる、これが一番、彼らにとって痛手の少ない方法なのかもしれません。
ただ、私が今回非常に「問題」に思っているのは、削除の判断基準です。
よく言われる話だと思いますが、先生は、「引用」なさっています。これは、先生のページの総容量から見れば微々たる量で、かつ、容易に「引用」であることが分かります。にもかかわらず、著作権を理由に削除された。
著作権云々というが、評論・批評の中に引用を認めないというのが、信じがたい。
多分プロの弁護士さんたちが色々対応してくれているのでしょうが、著作権を理由に、引用を行っている著作を、無関連なものも含めて全て削除する行為は権利の濫用、これを争点にしていくんだと思ってます。
こういうのが嫌で、若い(50代くらいの)方々は、独自ドメインを取って、専任スタッフに管理してもらっているのだと思います。
e-Oldの孤軍奮闘を見ていると、悔しく感じます。
一方で、先生が今年PCに投資した額の1/10があれば、独自ドメインの立ち上げを行うサービスはあるのではないかとも思います。
(その先の具体的なアドバイスができませんが、分かりそうな人にきいてみてください。)
では。 イチロー
* 先生、驚きました。このような事が行われる事、私にはとても理解できないことです。怖くなりました。牧野弁護士に確りとこれからのためにもお願いしたい気持でいっぱいです。 芹沢先生ご遺族
* びっくり致しました。
いち早くサイトを利用された作家として、そのような目に遭ってはいけませんよね。
弁護士さんに御相談されていらっしゃるとのこと、その指示を仰ぐのが宜しいのだと思いますが、多少法律を勉強した私としては、BIGLOBEとの契約内容が、どのようなものだったのか、興味があります。
しかし、BIGLOBEの対応もさることながら、お嬢様との関係がそこまで悪化されてるとは思いませんでした。
どちらも早く修復できますように、祈っております。 美術工藝家
* ご通知拝見、お怒りごもっともと存じます。「生活と意見 闇に言い置く」、ときどき、訪ねてました。作家の命をかけているサイトと評価していました。
なんの連絡もなしに、勝手なことをされたこと、私にも似た経験があり、よく分かります。ちょうど、私のホームページ上に、「官こそ恃み」(二言・三言・世迷い言)という一文の中にそれを書き、昨日それを含む私の同人誌『琅』19号の印刷を印刷屋さんに御願いしたばかりです。
弁護士にまで依頼されたこと、そこまでしなければならないことに対する心痛・心労、ご推察申し上げます。応援しています。 ペン会員
* メールは、無事なのですね。調停の過程での一時的な停止、もちろん秦さんの意思によるものと思っていました。プロバイダーがわが、一方的にはっきりした確認もなく、削除してしまうなんて、信じられないほどのお粗末、おそろしさです。恣意的に何でもされてしまうような、そんな危なっかしいところで生活しているのですね。
さいわいまだ日本では、手紙もあるし電話もあるし、くちこみも。
どうすればよいのか、具体的なことに、手がつけられないのですが、腹をたてています。
お二方とも、お元気でいらしてくださいね。
もう! という感じです。 沙
* 実に大変なことが起きていたのですね。
おかしいとは思ってましたが、私のPCのせいかと感じていました。
メールで述べられていた通り、紙の資料と違ってかくも簡単に消えてなくなるものなんですね。
私に出来ることなどあまり無いと思いますが、これからも強く秦さんを支持して行く気持ちにかわりはありません。
もし私にも協力出来そうな事がありましたら遠慮なく言って下さい。
湖の本の読者は皆同じ気持ちだとおもいます、尊敬する先生の味方ですから…
とりあえず、一読者として応援メールを送ります。 東
* この度のBIGLOBEのとった処置は、非常識で多大な被害を、多くの人たちに対して与えるものであります。
秦氏のホームページは 通常のホームページとは異なり私設図書館のようなものであり、そこには秦氏および多くの人の作品が蔵書としてしまわれていました。いずれも厳選された宝石のような作品であり、多くの読者が訪れる図書館でありました。
BIGLOBEのとった処置は「図書館の中に、自分たちに関わる書籍があるので 図書館をつぶしてほしい」という 一部の人の誹謗中傷を鵜呑みにして「図書館をつぶし、書籍を全部焼却するぞ」という通告を一方的に行い、館長の返事を待たず、館長の許可なく、図書館をクレーン車で壊し、蔵書をすべて焼き捨てたようなものです。
WEBの世界ではこのような非道が許されるのでしょうか。
BIGLOBEの誰が、どんな権力を持って出版物の内容が不適正であると判断し、このような処置をとったのか鋭く追及する必要があります。
私もホームページを持っていますが、許可なく、一方的な誹謗中傷があった場合にこのように全削除される恐れがあるものなのかと非常に不安を抱いております。
一刻も早く、この事件が法的に 解決されることを祈ってやみません。 日本ペンクラブ会員
* 秦さんからのこのようなメールただただ吃驚しました。
正直、この時勢にこのような出来事が起こるなんて全く考えられませんでした。良い事悪い事の判断基準を持合せていない人間が主観で行動したであろう恐るべき事であると思います。
もしそうでないとしたらもっと恐ろしい事です。
何れにしてもホームページ全消失が復活不可能かどうか先ず元の所に確認調査し、呼び戻す事が可能であれば直ぐに復活してもらわないといけません。その点については如何だったのでしょうか。
何れにしても迅速な調査と行動が必要であると思います。
秦さんのショック度最悪だと思いますが、とりあえずうまく復活する事お祈り申し上げます。
Sept. 29, 2006 京都・宇治
* 秦恒平先生 驚きとともに拝読いたしました。
この実情を是非多くのインタネット利用者に伝えたいと思うのですが、どこかにこの文章は公開なさっていらっしゃいますか? そうであればそのページをお知らせしますし、まだそのような準備がなければこの文章を私のブログで転載許可をいただいたという形で公開したいと思いますがいかがでしょうか? ペン会員
* 全くひどい話です。Biglobeの処置に憤慨しております。あれだけたくさんの内容のものが一瞬のうちに消失してしまうとは・・・。先生のご落胆、ご憤慨ぶりが目に見えるようです。これは他人ごとではありません。明日は我が身に降りかかることでもあります。
私ごとですが、パソコンが2度壊れてしまい、復旧に困難の極みを体験しました。こちらは全く自分のミスだけに納得ものでした。しかし今度の事件はまさに「事件」です。明らかに告訴ものです。御健闘をお祈りしております。 星
* 『作家・秦恒平の文学と生活』削除、確認しました。なんともひどい話です。
ただ、プロバイダは著作権という言葉におびえていて、こういう不用意な削除が日常的におこなわれているのも事実です。
BIGLOBEの担当者は深い考えもなく、日常業務として機械的に処理したのでしょう。
推測ですが、BIGLOBEは穏便な手打ちを求めてくる可能性が高いと思います。
ぼくとしては、秦さんにここで踏んばってもらって、「判例を残す」のが日本の言論のために必要ではないかと思っています。
規約に何が書いてあろうと、こういう社会常識に反することを許すような規約は、それ自体が無効です。規約が免罪符にならないという当たり前の事実を無知なプロバイダに周知させる機会となるでしょう。 ペン会員 I T専門家
* 秦さま、ほかみなさま
プロバイダー責任法の過剰運営のいったんを見た思いです。
もしよろしければ、「私事」ではなく「社会的重大案件の1例」として、さっそく、小生の怠慢により「休眠中」の委員会議題として緊急会議を開催したいと思いますが、いかがでしょうか。
まずは、ご本人のご意向を尊重しつつ、みなさんのご都合をお伺いいたします。 委員長
* 委員長の御提案に賛同します。
これまでもアカウントが抹消され、消えていったホームページはたくさんありますが、それは大抵アイドルの画像を勝手に載せた明かに著作権・肖像権を侵害したページでした。
しかし、そんなページといっしょにされては困るわけで、プロバイダ業界に一石を投じる機会になるかもしれません。
さて、「湖」サイトという発言の場を奪われた状態ですが、BIGLOBE側によって事前通告なしに、一方的にアカウントを抹消されたという事実を読者に知らせる場を設けられたらどうでしょうか?
無料のblogサービスか「さるさる日記」あたりがいいかと思います。
一番簡単な「さるさる日記」ですと、
http://www.diary.ne.jp/
にアクセスし、「新規作成」という赤い大きなボタンを押して、所定事項を書きこむと、メールでパスワードが届くようになっているようです。 ペン委員
* 9月20日にぷっつりとHPの画面が出なくなって、これは機械の不調ではなく、★★様夫妻とのいざこざと関係があるにちがいないと、そのくらいは私にでも想像はできました。
それでも往生際悪く、もしや復旧しているのでは—-と毎日いくどもいくども、何度いつものアドレスをクリックしたやしれません。
ご事情を承り、そんなアホな!! と驚愕しました。
個人のHPがそんなにたやすく、プロバイダーの一方的判断で閉鎖したり削除出来るなんて、信じられない事です。
誰かがクレームつけたら「はいわかりました」でプロバイダー自身ではでそのHPの内容や、クレームが妥当かどうかなど検討もしないで、本人から返事の確認もせずに、勝手に閉じるなんて無茶です。
秦様のHPの一つの問題ではなく、一般論としてもこんな信用の出来ない契約があって良いものでしょうか。
「e-文庫・湖(umi)」の私のささやかな文章も消されたのですね。
勿論それらの”著作権”は載せていただいた時点で秦様に委ねているわけですが、それでも、★★様と私はまるで関わりがないのですから、十把一からげはひどすぎやしまいか—-と憤慨しています。
もし私にでも出来ることがありましたらおっしゃって下さい。やります。
いくらなんでも、こんな無茶が通るとは思えないので、近い将来きっとHPは再開されるものと信じて楽しみにしております。
すっかり秋めいて金木犀が香っています。
先の日曜はミュージカルの練習があって東久留米に行きました。私は時間の関係で車で走ってしまうのですが、青梅街道から所沢街道に入り、六角地蔵からひばりヶ丘団地横を通り、落合川、黒目川を渡りながら、もしや秦様が自転車でひょっこりとお姿を見せられるのでは、と思ったりしたものでした。
お陰様で一同息災に暮らしております。 2006/9/29 藤
* なんという事なのかとただただ驚いて居ります。私も秦さんのホームページを時々読ませていただいて居ります。お孫さんのご不幸には心を痛めており、又、ご活躍の貴方様のお姿を想像してひそかに喜んでおりました一人です。
長きに渡る過去の資料を一瞬に消され、どれだけ悔しい事でしょう。同情申し上げます。 信 京都
* かねてからHPにアクセス不可能となり、六さんともども心配していたところです。
「調停期間中」に限り閉店しているのかなと思っていたのですが、とんでもない事態になっていたのですね。
ひどい!! 本当にあきれ返ってモノが言えないほどの非常識です。
営々として積み上げてきた秦さんのお仕事は、単なる一作家の営業ではないのです。あの中に含まれている秦著作をはじめとする数多くの方々の創造物は、日本の文学を左右するほどの内容であり規模でありスケールでした。それを一朝にして完全削除(それも一方的に)するとは、著作権の侵害どころか「文化の破壊」そのものです。歴史上、数限りなく繰り返されてきた「焚書」の現代版ではないですか!!
腹が立って、ハラガタッテ、憤りを通りこして、怒り狂っています。沢山きているという「不審や抗議」は、向けるべき方向を間違えています。
BIGLOBEのやり方と、その背後の陰険な策謀にこそ向けられるべきです。「父娘の情」の手前、他人がいらざる口を挟むまいと、従来黙ってきましたが限度を超えています。
友人に自身「詩作」をし、HPも持っているネット関連のプロがいますので、秦さんのメールを転送し、有効な措置がないか問合せしています。色よい返事があるといいのですが。
ご心痛のほど(本当に長い暑い夏を乗り切ってこられた末の結果がこれとは)お察し申し上げると同時に、こうした社会的不正には断固として反撃すべきだと、心からの応援を致したくぞんじます。どうぞ、奥さま共々、お心丈夫にお過ごし下さい。 円
* 新資料郵送とのこと、お待ちしております。到着次第、検討することにします。裁判所に出せるものは直ちに出しましょう。
皆さんの反応がありがたいですね。ビックローブへは、ガンガンと批判がいってほしいですね。顧客に背信的な行為をすることの意味を、思い知らせなければならないでしょう。
参考になるご示唆などありましたら、お伝えください。よろしくお願いいたします。 事務所
* まったくもって晴天の霹靂以上の、ものでしょう。これからもこういったことは多々あることと推察できます。
それだけに、ちゃんとした結果が問われます。文筆に携わる者にとって生命線でもありますデータの削除は、許しがたい。全面的に応援するものです。 苑 ペン会員
* 事情が判り、少し安堵いたしました。私には、何もご助言できませんが、どうか、くれぐれもおからだ大切にとお祈りいたしております。 都 ペン会員
* H・Pを読む事で、いつも傍にいたような人が、霞と消えたような物足りない気分でいます。
再開を待っています。 泉
2006 9・29 60
* 朝一番に娘、★★夕日子から「内容証明」の郵便が届いた。
* わたしのホームページやブログから、★★夕日子による著作物[小説・随筆・日記・手紙等]の全て、★★夕日子が収録され、★★夕日子本人と確認できる写真、映像、イメージの全てを、本書面到達日より3日間のうちに削除せよというのである。わたしのホームページは、孫やす香の「相続権者」である★★夫妻の申し入れで BIGLOBEにより完全消滅している、いまさらその話は無いであろう。
では、ブロク。これは「MIXI」のことか。
「MIXI」に夕日子の作品を載せたりしていないのは明白。載っているのは見る人が見れば夕日子かと分かる「写真」が出ている。父と娘との公刊された商業雑誌取材中のスナップ写真で、いわば旅の記念写真。それで利を稼いだわけでもないふつうの何でもない写真で、それが秦恒平自身と娘★★夕日子の写真と分かる人が公称「六百万人」中の百人もありはすまい。家族が家族の写真を人に見せて、何の不都合があるのだろう。
夕日子に聞きたい、削除を強いる「理由」を。
一つ、はっきりしている。
「MIXI」の日記に、夕日子は父親私によって、七歳から二十年の長きにわたり、「虐待」「ハラスメント」を受けてきたと「公言」してきた。アクセスをブロックされていたわたしはそれを読めなくて、知らなかったが、伝えてくれる人達が何人もあり、知って呆れかえった。むろん母も弟も呆れかえった。
それで、夕日子八歳時の、また夕日子結婚後の、私自身がレンズを向けて撮った、また私と一緒に撮られている、屈託なく和やかに自然な夕日子八歳時の健康な写真や、成人した「ミセス」の夕日子が父親と一緒に嬉々として楽しそうな写真を「MIXI」に披露したのは、千万言にまさる「夕日子虚言」を証明する「最適の物証」だからである。
わたしには「「MIXI」六百萬公衆の前に、「虐待者」等の悪声による不快な誤解を解く権利がある。これまで出した写真の娘に、いささかでも黒い陰翳が見られ得たろうか。
夕日子は、自分の「蒔いた種」をあまりに明らかに否定された自分の写真が出てくるのに、堪えられないのであろう。バカな虚言を公にした、父親だけでなく母親へも弟へも犯したことになる犯罪的な失礼は、どうなるのか、と夕日子に聞きたい。
* なお夕日子の愛すべき幾篇かの作品は、今は私のホームページを「消滅」に導いた本人がよく知っているように、わが愛機中に存在しない。写真のほかの、「映像」「イメージ」とは何のことか分からない。しかし「日記」にせよ「随筆」にせよ、私が攻撃されている際はその「反証に引用する自由と権利」はわたしも所持している。
* 「なお、本書面到達後も、私(★★夕日子)の承諾なく著作物や写真を掲示し、著作権や肖像権の侵害行為を継続する場合には、法的措置を講ずる旨を申し添えておきます」そうだ。。
よほど「法的措置」が好きらしい。そのまえに、人として、人の子として、人の親としての「誠の掟」を自問するがいい、夫婦ともども。
* むこうが千人殺すというなら千五百の産屋を建てて。
どうか生きて、書いてください。 雀
* ブログに「ご通知」全文、転載させていただきました。
お心落ちのないよう、という言葉はここではあたらないと思います。
どうぞ一日も早く復旧されますように。 ペン会員
* ただただ驚いて 驚いて おどろいて びっくりして びっくりして 信じられなくて残念でなりません。
夫も事の重大性に驚いて、こんなことがあっていいものか? と怒っています。こちらの承諾なくして削除など出来るわけがない! と怒っています。
一体、何が起こっているのでしょうか? 理解に苦しむことばかりが続いていまして、挙句 HPも読ませていただけないなんて!!
大きな嘆き! 悲しみ、でもあります。
お役に立てることなど皆無ではございますが 心からの声援と応援を申し上げます。変なやくざ的な弁護士などに惑わされることなしに、当然な正直者が勝利されますように心から願ってやみません。 頑張ってくださいませ。 勝利祈っております。
お静かにお暮らしの御身の上にとんでもない衝撃的な事件が重なり さぞかしご心痛深いものがおありのことと拝察申し上げます。頑張って乗りきってくださいませ。 ”ひどいことが起こるものだと” 世の中には! 人生には!
御身どうぞお大切におすごし下さいますように心から祈念申し上げます。 彬
* もう同じ怒りや声援のメールを掲載するのも、足りていよう。
この「私語」にも、問題提起の意図をふくめ、あらためて、信じがたい「事件」が起きていたと「通知」の一文を此処に掲げておく。同じことが、いつ誰の上に降りかかるか知れない顕著な事例として、多方面で議論されたい。転記されても構わない。
* 前略 ますますのご健勝をお祈りします。
さて、私のホームページ『作家・秦恒平の文学と生活』完全消失の実情をお伝えします。ご理解下さいますよう。
私が、1998/3月以来多年運用してきたホームページ「作家・秦恒平の文学と生活」は、今年二○○六年九月二十日、突如、プロバイダ「BIGLOBE」により、事実上「無断」で、私の「確認」を一度も取ることなく、一方的に「初期化・全削除」されました。ホームページが読めなくなっている、何故か、困る、という読者ほかの皆さんの不審や抗議がたくさん来ています。
このホームページは、原稿用紙換算六万枚を越すかと思われる私の創作物を擁し、内容として、「湖(うみ)の本既刊八十八巻の全電子化」、八、九年に亘る、日々欠かさぬ日記文藝としての「生活と意見 闇に言い置く」、三好徹氏、高史明氏ら著名文筆家の寄稿や一般の投稿作品約二百を含む私の責任編輯「e- 文庫・湖(umi)」、そして私の「書斎作品の多く」を含んでいます。
ところがBIGLOBEは、上の「日録」のなかに、今年七月二十七日に、癌「肉腫」で急逝しました私どもの「孫・やす香」十九歳の生前日記を転載しているのが、やす香の「著作権相続者」と称する者(=ちなみに★★やす香の両親は「★★★氏・青山学院大学教授、同妻夕日子氏・私の長女」です。)の権利を侵害しているとの申し入れを、そのまま受理し、一方的に強行削除したのでした。しかし、引用・抄出した日記は、全体の極く極く一部(日記全部から見れば七、八十分の一程度か。原稿用紙にして十枚余か。私のホームページ全容からすれば、大海の小魚にもあたらない分量なのです。)
しかも、私はそのようなBIGLOBEの通告など、全然見た覚えなく、またホームページを全削除してよいなどと意思表示した覚えもくないのです。有るわけが、有るでしょうか。BIGLOBEは、受発信設定が全く出来ていない、使用していない、私のbiglobe.ne.jpメール宛てに発信していたのです。
しかし私はパソコン使用以来、一貫してニフティのみを全面使用し、私の機械操作能力ではbiglobe受信設定は「存在しない」のです。
更には機械的一律削除を「日課」にしなければならぬほど「不正広告メール・SPAMメール」が九割を越す大氾濫の今日です。やたら数多い大概の「営業通知」も、私の日常活動からは「ほぼ削除対象」なのです。
こういう時節に、上のようなBIGLOBEの処置は、遺憾余りあります。ユーザーへの親切の為にも、当然もっと確実な「電話」確認や、「郵便」文書による確認を以て、「ユーザーの正確な意思決定」を手に入れて為すべきが、理の当然でありましょう、もし一家で旬日余にわたる旅行でもしていたら BIGLOBEは一体どうするというのでしょうか。
むろん言うまでもなく私が、かほど多年運営のホームページの「削除通知を、黙過する」わけが無いのです。加えてBIGLOBEは、私以外にも、他の多くの著作者・寄稿者の権利まで侵しており、全く言語道断な暴挙、厖大量の「著作権侵害」と抗議せざるを得ません。
ホームページの此の無道な削除に対しては、地裁に「仮処分」を申し立て、日本ペンクラブの同僚会員である弁護士の総合法律事務所に、善処をすべて依頼しました。地裁は事の重大性を慮り専門部に審訊を託したよし、法律事務所の通知がありました。
この電子メディア時代に、かかる奇怪に強引なことが、いとも簡単に為されてしまうおそろしさに愕き呆れながら、ともあれ、事情を申し上げまして、アクセス不能が只の機械のエラーによるものでないことをご通知致します。いずれホームベージは復旧出来ると確信しています。ご理解・ご支援いただけますようにお願い致します。
日本ペンクラブ理事
日本文藝家協会会員 作家・秦 恒平 2006/9月末
* やす香さんの御不幸こころからお悔やみ申し上げます。
もっと早くと思いながら、どのようにお声かけをしたらよいのかと、心弱くなってしまった次第です。
奥様いかがお過ごしでしょうか。
すこし時期はずれになりましたが岡山のマスカットをお届けします。月曜日に着く予定です。
秦さんにはもう少し涼しくなる十一月には、お酒をお届けしたいと思っています。
ポスト小泉も全く期待がもてず腹立たしく暗い気持ちになっています。
建日子さんを含めて皆さんの御健勝をお祈りしています。 元
* 秦様の貴重な作品が消えてしまったこと全く残念です。
加えて、私は何時もホームページを通じて「社会」との関わりを持たせていただくことが出来、今後も貴重な意見を拝聴できることを糧とも楽しみともしてきました。
BIGLOBEの会社に対し憤りを感じるとともに、全面的に信用を失いました。BIGLOBEを利用することは今後一切しないと決意しています。
私個人は何のお力にもなれないこと申し訳ありませんが、きっと有識の方々がお側に沢山おられて、良い解決になることを切に切に願っています。
ご夫妻の心の傷が心配です。それがお体に障りませぬようにまさに朝夕祈っております。
今日は喜多六平太記念会館で「佛原」と「菊慈童」を見てまいりました。緑泉会の例会で、菊慈童は坂真次郎先生が舞われるはずだったのですが、夏に急逝され「偲ばれる」会にもなり、緑泉会主宰の津村禮次郎師が勤められました。
緑泉会は女性の方が活躍なさって、日ごろとは違った舞台が新鮮でした。「佛原」のシテなど優しい舞姿で、他の舞台でももっともっと女性の力が認められるようになればと思いながら見ておりました。
津村先生の小書きのついた「菊慈童」は先生らしいきりっとした軽快な楽の舞でした。秦様にもお心の安らぎとしてお見せしたいと思いました。
重ねてゆっくりと静かな平安なお時間がありますように、祈っております。お体お大切に。 晴
* みなさんにお返事を失礼している。あまりに何事にも時間が足りない。時間が貴重なのは必ずしも良いことでない。時間など気にならない日々こそよろしく思われる。
2006 9・30 60
* 昨夜おそく、建日子がきて暫く歓談、また戻っていった。床に就いたのは二時半。それから何冊も本を読んだ。
太平記では資朝卿についで俊基朝臣も鎌倉の手で斬られた。源平盛衰と南北朝の物語は少年の昔から網羅的に頭に入っている。
音読しやすいのもあたりまえ、「太平記読み」は「平家読み」についで室町時代以降盛行した。ほんとはもっと声を張って読みたいのだが真夜中のこと、憚る。
漢文、唐詩、宋詞、元曲と謂う。元という帝国は極端に尻すぼまりに衰えた国だが、ジンギスカンの子孫の帝王達には、歴代酒色にすさむという悪癖とも宿痾ともいえる遺伝があった。ああいうモンゴル第一主義の北方民族も、手もなく中国化してしまう中国の懐深さに感嘆する。
宋というのはダメ帝国でもあったけれど、どうしてどうして、とても無視できない「文化」と勝れた官僚政治があった。「科挙」という制度のよろしさを宋ほど仕上げた帝国はなかったし、人物も多彩に豊かだった。
2006 10・1 61
* 秦さん あれ程に充実した内容のホームページを、運営者の確認を取ることもなしに全削除するとは、そのような事が起こり得ることに、心底驚愕しています。
デジタル社会における表現の自由は、かくも危うい足場の上に成り立っているという事なのでしょう。権力者による言論統制も、さぞや簡単な事でしょう。
自分にとっても、この10年近くの大事な歴史が消し去られたようで、どこかにポッカリ穴が開いたような心持です。
決して許されて良い事ではなく、一日も早い復旧がなされるべきと思います。
と、ともに、どうぞご心労がお体に響きませんようにと、お祈りしております。 敬 卒業生
* 先生のブログは、私にとって毎日の家庭教師のような存在です。
それが開けないとは、誠に残念ですし、これまで蓄積された私たちの財産を奪われたような感じで、ほんとうに腹がたちます。
しかるべき方法による説明もなく、着信したか読んだかの確認もなく一方的に消去してしまうなど許せることではありません。
法的手続きによってすぐ復旧できると思いますが、電子的著作物の保存の権利について、確実にしておきたいものだと思います。
一読者として、抗議の手を挙げさせていただきます。 重
* 電力,ガス,水道に電話など社会的インフラは,本来ギャランティのある社会基盤です。
一方,インターネットはギャランティがないベストエフォートという宿命的脆弱さをもっていながら,今や完全に社会的インフラとなってしまいました。
プロバイダーがむいている方向は、政府ではなく社会に対してであり,責任は表現の自由の確保なはずですが,残念ながら無自覚すぎますね。
ネットが誰でも自由に参加して発言できるという市民参加型革命の幻想がいまだ続いていて,過剰に反応した結果が「プロバイダー責任法」という論理破綻な法律ができたと思っています。
「責任」のとるべきベクトルが間違っています。
本来,決めるべきことは電話と同じ通信の秘密や信書の秘密を保証することだったのではないかとも思います。 ペン同僚委員
* やす香さんのご逝去をお悔やみ申し上げます。さらに今回の事件が重なり、さぞおつらいこととお察し申し上げます。
それにしても、このようなことがあるのですね。
ビックリしてしまいました。今までのご苦労が一瞬にして消えてしまうなんて、アナログ人間の私には、信じられない出来事です。よりによって先生にこんな事件が起きてしまうなんて。これを契機に世の中が著作権、ホームページのありかたなど再認識するようになるきっかけになればと願いますが、いずれにしても、先生のホームページの内容は復活できるのでしょうか。当然出来ますよね。
先生が怒りや、このことで仕事をする時間がなくなってしまうことなどの様々なストレスで、体の調子を崩しませんように、案じております。どうぞあまり無理をなさいませんように。また、先生の願っている方向に解決するよう祈念しております。 安
* 湖様 心晴れない日が続いていることと思います。
HPが何らかの形で完全に復旧することをお祈りしております。
今日は本当に久しぶりに家に閉じこもり、一人で休日を過ごしました。
「市民ケーン」のDVDをワインを飲みながら見ました。オ-ソン・ウエルズが20代で主演・監督したというこの作品、実は初めての鑑賞でした。
アメリカで成功を収めたケーンの心象のジグソーパズルの中で見つけることのできなかった1つのピース「バラのつぼみ」・・・・ 。
人の心の痛みも愛も「親子関係」という逃れることのできぬ人間関係に始まるのですね。
だれもが完全なジグソーパズルを完成させることは不可能なのではないかと思いますけれども。
雨が静かに、終わりかけた芙蓉の花に降り注いでいます。
心落ち着くフォーレのレクイエムを聴きながら、一人の夕食を始めることといたします。 波
* なにごともさっさと退却しようとは考えない、そういう「退屈」は嫌い。しかし、それに「重き」を置いているかとなれば、じつは、成るものは成り、成らぬものは成らないとだけ考えている。「退蔵」は本当の人間なら理想としていい最も優れたこと。わたしはねばり強い、が、執着しない。退却はしない。つまらぬことに吶喊もしない。
* 明日の晩、久しぶりに卒業生と会う。
2006 10・1 61
* BIGLOBE問題、読者からの応援や憤懣の声に続いて、専門家、法律家、学者、技術者等のむしろ弁護士さんを応援する助言等が入って来始め、またペンの関連委員会ではもう討議の議題に取り上げようとしている。場合により理事会議題にもなる。わたしのもホームページなら、ペンクラブにもホームページはあり、「ペン電子文藝館」ですら同じ抹消の対象にされかねない。
* 「MIXI」でわたしは「マイミクシイ」を積極的には持とうとしていない。やす香の「思香」が強制的に外されて以降、十人ほどである。「足あと」は自然マイミクシイがつけやすい。私の日記など、当初は一日にせいぜい十か十五の「足あと」だった。この八月九月で一気に七千三百を越えている。
* 読みたい、読まねばならないメールも沢山来ているが、ゆうべの睡眠が少なかった。日付の変わる前に機械を閉じる。
2006 10・1 61
* 「MIXI」に、自分の写真を載せていた。自分だけでなく結婚後の娘夕日子と仲良くにこやかに旅を楽しんでいる写真を載せていた。それを見るのが、おかしなことに、近ごろの嬉しい憩いであり心和む一ッ時であった。のに、「内容証明」の手紙で、三日の内に「削除」しないと「法的手段」に訴えるとまた夕日子に威された。情けない話。
弁護士先生は肖像権を認めている法は法であるから、削除して下さいと。
法のまえには悪意も優情もごちゃまぜ。法は「三章」つまり三箇条もあれば足りているのだと古代の人は喝破した。今の時代は、やたら尻抜けの法を立てに立てて、大勢の「私」の情意を一律に踏みつけて行く。
* 唖然としています。私はてっきり、「調停」が始まったシルシかと受け取っていました。恒平さん側に、ホームページを一時的に削除した方がよい、という判断があった、と。
それなら騒がず静かに待とう。そう思っていたところが・・・。大変な世の中になった、と思います。
相手は、そういう騒ぎを起こすのを、「生きる最大の目的」にすらしている感じです。
どうか、相手の息の根を止めても、止められることのないよう(事故、病など)、くれぐれもご留意ください。
『聖家族』を本で読む日を待っています。 バルセロナ 京
2006 10・3 61
* 夜は、女刑事雪平夏見の「アンフェア」二時間半ちかくを見た。凡百の刑事物、警察物の安いドタバタや人情ものやパタンものに比するなら、異色のクウォリティーを持っていて、ドラマとして引っ張られた。原作は秦建日子『推理小説』としてあったけれど、このテレビのスペシャル版は、前の放映連続ドラマ「アンフェア」をほぼ独自に脚色していた佐藤嗣麻子の作品のように思う。
いくらか気になるコンピュータ万能ぶりで、いかに公安といえども、十数年二十年前の日本のコンピュータ駆使の水準は、サイバーポリスにはほど遠かったと思うけれど、まして中年を越していたろう雪平刑事の父親などに、どの程度の技術またどんな優秀機がありえたかと気にはなるけれど、概して、しっかりドラマは構造化されていた。
篠原涼子の女刑事役には、もっともっと乾燥した硬質の芝居をさせてみたかったけれど、魅力は十分発揮していた。
2006 10・3 61
* 孫・★★やす香の「著作権相続人」とBIGLOBEにより、原稿用紙にして優に六万枚を越す「ホームページ」を、文字どおり無残に全削除されてしまってから、もう二週間が過ぎた。
幸か不幸か日記「闇に言い置く 私語の刻」だけは、急遽「MIXI」へ移転させたが、過去八九年のものは読んでもらえない。
東京地裁の「審訊」がやがて始まる。この問題は、もうこれだけの私的事件でなく、法的にも社会的にも時代的にも、電子メディア世間の根底へひろがる難儀な問題意識に包まれはじめている。或る関西の法学部教授は、「徹底的に裁判してぜひ判例をとってもらいたい、日本ペンクラブ理事といういわば時代のオビニオンリーダーの一人としての責務ですらありましょう」と、何ともごっついハッパをかけてこられている。弁護士のほうへ直接いろんな示唆や意見を送られているようでもある。
「ホームページ」をどう復旧させるか、それとも削除されたままになるか。それがわたしには当面の勝負であるが、問題はもっと大きいことをペンの同僚委員達はわたしよりはるか前を走って指摘されている。ウーン…。
* 難儀にも、二言目に「告訴・訴訟」と吹っかけてくる★★★夫妻との、わたしは余儀ない「民事調停」という厄介もかかえている。「世間の人」には、よせばいいのにと嗤われもしていようが、「今・此処」に生きるとは、そんな賢いだけのことではない。まして賢こぶることではない。ものに、ことに、ひとに、「真向かう」ということである。
* 秦様 (BIGLOBE事件=)胸中いかばかりかと、お察し申しあげます。
表現というものへの認識及び評価についての、この国のレベルの低さを改めて感じ、怒りを覚えます。私に何かできることがあるのかどうか、毛頭わかりません。ただひたすら今は秦さんを取り巻く、相手側の行動と認識に怒りを覚えるばかりです。
若年の私が申しあげるのもおかしいのですが、どうか精神を強く、体をいたわってくださいませ。
弁護士さんがついてくださっているとのこと、この件についての専門的な作戦については何もご心配申しあげることがないと理解しました。とりあえずは、どうかお心を大切にお過ごしください。 未来
* どうしていらっしゃるのだろうと、とてもとても心配しています。ご様子のわからないことはこんなにもさびしいものなのですね。湖を想い、胸が痛くなります。
最近考えるのは、成長する過程で、志を棄てる、あるいは変節させてしまう人は多いなあということです。人間やはり志は最後まで貫かなくては生きた甲斐がありません。世渡りは下手でもいいし、成功なんてしてもしなくてもいい。志を高く持ち続ける人になれたらと。
今どのような豊かな世界に遊んでいらっしゃいますか。どうぞお元気で、ご無理なさらずにお過ごしください。 秋
2006 10・4 61
* 申し込んでおいた『雅親卿恋絵詞』が届いた。フフフ…。幸か不幸かもうわたしの役には立たぬ。
以前、或る国立の大学教授お二人と小学館版の「日本古典文学全集」にかかわって、鼎談したことがある。そのときに一人の先生が、用の済んだ後の歓談のために、それは見事にやわらかに描かれた枕絵巻を持参して見せてくださった。あれにはだいぶ負けるし、なにより原本のかなり精巧なしかし複製に過ぎないのだから仕方ないが、巻物で繪と詞とを我が物で読むのは初体験。妻には見せないが、いずれ息子にやってしまう。息子は見ないかも知れないが。
2006 10・4 61
* 秦恒平様 ホームページの完全消滅、大変驚いております。プロバイダのあり方の問題で、今後多方面に関わる課題ですね。
もし、こんなことが許されるなら、誰も安心してHPを立ち上げることができなくなりますし、悪意の第三者あるいは
権力者がこのように自分に都合の悪いHPを消失させる可能性もあります。本人の意思確認と削除の根拠についてのきちんとした方針あるいは基準の設定が求められます。
どうか、これからのプロバイダのあり方について、利用者全ての人々のためにご健闘下さいますようお願い申し上げます。 女子大学学長
2006 10・5 61
* ようやく秦建日子の新刊『アンフェアな月』を読み上げた。十日もかけたか。
これだけ読むのに時間をかけさせた、それが、今回の本の顕著なマイナス点であろうか。それはわたしがいろいろに忙しかったからか。
端的に言えば、前作同様、前作よりももっと、映像用の大胆なコンテ、一篇の物語の動的なシノプシスに類していた。作者の得手を存分発揮した、要領のいい「ト書き小説」であるところは、前作『推理小説』よりも徹している。時間に追われてやっつけてしまうには、この作者にこの手法は効果的に向いている。
「ト書き」は、簡潔に動的に映像・画像や演劇の舞台が目に見えるように把握する、まさしく「文藝」の一種であり、この著者は、多彩に経験的にその「藝」にたけている。
文体の動的な統一をこの方法は、一見とりやすそうで、実は実に難しい。いいかげんにやったなら、収拾のつかない「説明羅列」に陥る。
それにしても作者は、その「演劇」手法の得意技で「小説」を終始するトクをとったけれど、また、それにより喪うソンの方も犠牲にしたのではないか。その「思い切り」のよさで、作品が自律し自立したけれど、文学を読む喜びとしては半端な印象も否めない。
この作者は、前作『推理小説』で、初めて「ト書き小説」といういわば文藝の新ジャンルを開拓して見せた。それは事実として動かない。だが、在来の文藝、優れた文藝がかかえもった、「読む喜び」「読ませる魅力見」の味わいをも、此の手法で発揮するには、まだ「文藝」そのものが足りていない。当然、はなはだ「読む喜び」は希薄になっている。走り書きの「あらすじ」を走り読みさせられるような錯覚に陥る。
とはいえ、字句や章句のなかには、ずいぶん面白い、耳目を惹く「表現」が意気盛んに、しかも落ち着いて散らばっていて、決して索然としたただの「ト書き」ではない。新味も深切味も文章として決して味わえないわけではない。大げさに認めて言うなら、「新しい文体への、これも試み」かなり「有効な試み」であるのだろう。大事な意欲の表れと解釈することで応援しておく。
だが、ちぎれちぎれにしか読ませなかった散漫な弱点はやはり覆えない。譬えて謂うと、投げ出された一つかみの、くしゃくしゃの紙切れ、それがこの推理小説の原体。その紙の皺を興味を持ってのばしのばし、作者と読者とで前へ前へ歩いて行くのだが、最後に、すうっと最後の皺をみーんなのばしきって見せて、あれれ、たいした紙ではなかったんだ、と少し拍子抜けする。結果として、面白い珍しいお話を堪能したという程の思いは、させてもらえなかったのである。秦建日子の作だからわたしは読んだけれど、人の本なら読まないか、途中で厭きていたかも知れない。
今度の作では、前回とちがい、作者の「述懐」がときどきややペダンチックにでも露出していて、それを面白い、興有りと受け容れるか、深みもなくちっとも面白くないと見棄てるか、どっちに読者がつくかは、わたしには一概に言えない。わたしという読者はそこへ行くと、やはり特別の読者であり、おお建日子はこんなことを言うか、思うかと、次元を異にした興味にもひきずられる。
さて女刑事・雪平夏見が、前作でよりも一段と魅力的であったか、というと、難しい。すこし水気をふくんで、あの硬質に乾いた、敲けばカンと鳴るような魅力はややうすれ、普通に近づいたのではないか。この作者が昔に田中美佐子という女優を使って書いていたテレビドラマの女刑事程度へ、気分、退行していたかなあとも思うが、映像ではどうなるのやら。
それにしても、こういう風に、実験的に文藝・文学を作って行く意欲は、凡百の推理小説氾濫の中では、すぐれて良質に満たされているのは間違いなく、孤独では有ろうがその意欲は金無垢にたいせつなものと、わたしは声援を惜しまない。
しかしまた、この作品のように、はなから安直に映像化期待に隷従した文藝・文学は、わたしには、本質、頽廃現象であるという基本の評価をくつがえすことは出来ない。息子と同じ年に『みごもりの湖』を書いていたとき、「映像化」など、できるものならしてみろ、できるもんか、とわたしは思っていた。新潮社の担当編集者が映画化権がどうのこうのと話していたときも、腹の中でわらっていたのを思い出す。
秦建日子のさらなる新作をわたしは、だが、楽しみに待っている。そして旧作ばかりでなくわたしの新作も読ませてやりたいと心掛けている。
* 建日子には、わたしがいま「MIXI」で連載している「講演集」の、ことに文学・文藝に触れたものには目を向けていて欲しいと願っている。夕日子にも同じである。同行の我が読者にもむろん同じ気持ちでいる。
* 四国讃岐の方から、やす香を偲んですばらしい梨を下さった。都内の読者からも、霊前に豊かに供華を送って下さった。
2006 10・6 61
* 一両日前、親族内のトラヴルに悩んだある女性が、テレビ番組の中で四人のゲストコメンテーターや司会者に親類の誰それを非難して泣訴していた。話の中味をわたしは聞いていなかったけれど、親類の誰かがむちゃくちゃに自分の悪口を言いふらすらしいとは、すぐ分かった。ゲストの主なるひとりの或る作家が、しかし、テレビ番組であなたがこういうふうにその親類を非難して悪く言えば、それはもうお互い様ではないか、と。
こういう論法をわたしも何十度となく聞かされたが、バカげていると思う。理に合わないバカげたことを一方的に言いつのるバカに向かい、どんなに正当に反駁し反攻し反論しても、それは相手の域に身を落として「どっちもどっち」になるだけだから、やめた方が賢いと。
わたしは、こういう賢こそうなものの考え方が嫌いだ。大嫌いだ。むろん無視してもいい。しかし完全と立ち向かってもむろんいいのであり、どちらも自由で、時宜と状況に適しているならどちらの道を選んでも良いのである。「どっちもどっち」だから恰好の悪いことは止しておこうというのは、むしろ姑息で卑怯な逃げ腰に終わりやすい。それでいて、ものかげではブツクサ愚痴がつづくなど、これぞ愚の骨頂である。
人間の自由はふくざつで微妙な価値であり、時代により時に悪徳でもありえたが、悪しき沈黙はつねに姑息である。怒らねばならぬと信じるなら、怒って良い。憎むべきは憎めばこそ、愛や慈悲の意義にも近づける。ただし、怒りにも責任があり、憎むのにも責任がある。責任を果たす覚悟が有ればそこに怒る自由も憎む自由も生きてくる。自由という基本的な人権の基本には、喜怒哀楽の美しい開放がなくてはならない。その抑圧をよしとする考え方にはいつも力ずくの危険がしのびよる。無価値な断念や妥協が人の魂を蝕み始めるほど素早いことはない。
2006 10・6 61
* 今回のホームページ『作家・秦恒平の文学と生活』のプロバイダ「BIGLOBE」による無断の削除事件をお知らせ頂き、事の重大さを痛切に直感致しました。膨大な文化遺産がいとも簡単にこの世から消滅することがある。誤操作とか人間のミスとかではなく『意図的な行為』で。
高度な知識産業に携わる企業人、経営者の倫理観の欠如。非常識極まりない行為のように思いますが、『電子の世界』では一瞬にして情報が無に帰してしますことが常にありますから、今回は『バックアップ』などの処理は全くとられていないのでしょうね。
驚きのみで根の深いこの事態へのいい智恵は浮かびませんがどうか健康を害されないように、お体をご慈愛下さい。
もし消去したのは「表向き」だけで『データのコピー』が何かにとられている(良心的に)ようでしたら有り難いのですが、現場の操作員、責任者がどこまで事態の重要性を認識してこの分野の仕事に携わっているかという企業倫理
の問題もありますね。情報化社会の大きな社会問題であります。 川崎 e-OLD
* もう程なく地裁の「審訊」がはじまる。ペンの委員会での討議も、日程が決まった。「民事調停」は私事に類してているが、この「審訊」は問題としての周縁がひろい。
2006 10・7 61
* やはりBIGLOBEらのやり方は許す訳にはゆきません。京都で再会した友人と話題になりましたが、現在のIT関連法体系の不備は喫緊の要事だとの認識で一致しました。根本的な対策が確立されるまで、とりあえず貸しサーバー上でのHPのモロサをふまえて、とても面倒なことですが「バックアップ」を日常化、自動化する以外に方法はないようです。
本来、創作にそそぐべき精力の一部を下らない下世話な俗物対策にあてるなど、実に情けなくもったいない話ですが、それも自己防衛(読者を含めた文化共有の)措置として、やむを得ないことなのでしょうか。どうぞ、これからの無駄と思える日々のあれこれも、「秦ワールド」の一部として取り込まれ、文学に咀嚼するタクマシサで乗り越えられんことをと祈っています。お元気で。 円亀山人
* BIGLOBEとは徹底的に戦ってください。 波
2006 10・11 61
* 栃木から美味い新米が二十キロ贈られてきた。ご飯好きのわたしは、とても贅沢な豊かな気分にさせてもらっている。子供の頃、家の米びつにいつも米が入っているかと、母は心配し、父は感心に米を絶やさなかった。父は他のなにより米の飯の好きな人であった。梅干しはぜったいダメだったが。わたしは梅干し大好き。滋賀県の読者から毎年ご自慢の梅干しが贈られてくるのが、すばらしく美味くて、わたし一人が、つい摘んで次々に食べてしまう。残り少ないと惜しいなあと思いつつ食べてしまう。
2006 10・11 61
* これから家の新築が始まるという。颯爽と花が咲けばよい。わたしたちはあれから三十五、六年ほど経った。まだ花は生まれてもいなかったろう。建日子がまだ赤ん坊の域を脱していなかった。
* 建日子の健康を祈っている。仕事師の仕事の大きな一つに健康管理がある。むちゃくちゃ仕事をするだけではない、「からだと相談」しながら長続きするよう願うよ、建日子。思いつきの民間療法を無統一に試みていないで、本当に佳い医者の身近へ引っ越してでも長期間統一的な診療を受け続けてくれるように。医者には、幼稚園の児童と博士とほどのピンからキリのあることをわたしは医学書院時代の見聞で知っている。人間は感じ悪いが医学にはトビキリという医者も世の中にはいる。不条理のようだが現実です。
2006 10・12 61
* ★★家から「民事調停」に提出された文書を、先ず妻が読み、内容を聞いたが、惨たるもの。信じられない。
夕日子は吾々夫婦の夫婦生活に到るまで言及して罵詈をあびせ、自分は「第二子(=建日子)誕生」以来間断なく父親からの「虐待とハラスメント、性的ハラスメント」を受け続けてきた、その苦痛に対し★★夫妻はインターネット上に謝罪し賠償金をしはらえといったことを、書いているという。
親の愛を弟に奪われ虐待されたという妄想であり、そもそもそんなことで親を鬼のように憎めるものだろうか。妻はそんな娘が恥ずかしいと言う。恥ずかしいどころの騒ぎでない。
で、そんな虐待や不仲の片鱗も見えない写真を夥しいなかから数枚えらんで「MIXI」やホームページ日記に載せておくと、「内容証明」通達で写真は使うな、使えば訴えると言ってくる。
明後日には第二回の調停があり、妻と町田の簡裁まで出かけるが、こころみに、数十冊あるアルバムから、建日子誕生以降の、我が家で撮った写真を選んでみた。数万言で反証するより一瞥して夕日子の虚言が立証される。写真はみなわたしが撮影し、夕日子はわたしに向かって撮られている。
また限定本『四度の瀧』に付した詳細な年譜があり、そこには父と娘とで過ごした楽しい同行記事などが、また病気にさいし、就職にさいして奮闘した父の記録が詳細に出ている。そのいわば「秦家の『夕日子』略史』を一気にざっと編集・記録してみた。
わたしが調停に申し出た「陳述書」とその略史とを、のちのちのために此処に記録する。
* ★★★からの申し立ても、よくぞまあというシロモノで、これも、夕日子のものも、公に提出された文書なので、此処にも「公開」する気はあるが、ひとごとながら気の毒千万。
* 「民事調停」陳述書
先ず、「調停」お願いを受け容れて戴きましたことに、感謝申します。ご厄介をかけますが、どうぞ、よろしくお願いします。
秦 恒平 (七十歳) 平成十八年(2006)八月二十七日
* 「調停」をお願いした理由を二つ、先ず、申します。
一 今年(平成十八年)七月二十七日に、孫★★やす香(十九歳。法政大学二年生)を肉腫というがんにより喪いました。
その直後、八月二日以来、先ず★★★(長女夕日子の夫。現青山学院大学教授)の名で、以降、むしろ妻★★夕日子(私の長女。)の名を先立てて、私夕日子の父。小説家・元東京工業大学教授)を相手どり、再三再四、「告訴・訴訟・誹謗文書の諸団体<私が理事また電子文藝館館長等を務めます日本ペンクラブその他へ>配布」を以て威嚇され、息子秦建日子(劇作・小説家)の再三の「話し合い」仲介も拒絶され、「司法プロセス」に既に入っていて「話し合いは無用」と通告されるに到ったためです。
(この威嚇は、孫娘やす香の入院から死に至るまでに、われわれ祖父母がやす香両親の名誉を毀損・孫娘の死の尊厳を傷つけたというのが一理由になっています。かかる理由の余りの無意味さについては、十分に申し上げる用意があり、どうぞ調停中にお聴き取り下さいますように。)
★★★との話し合いは強く望むところですが、娘夕日子に、父を告訴・訴訟・誹謗する等の愚行をさせまいためには、先だって「民事調停」をお願いするのが適切であろうと、知友、ペンの同僚会員でもある牧野弁護士のお奨めに、進んでしたがいました。
二 ★★夫妻からの告訴・訴訟の申し立てには、今一つ、大きな理由が在るようです。
実は両家には、平成二年にも溯る紛糾があり、少なくも十四年もの間、没交渉でした。
その状態を、平成十六年(2004)二月以来、自発的に、また両親に内密に解消して、祖父母との和やかな嬉しい再会や親密を取り戻してくれたのが、不幸にも病魔に斃れました孫やす香(当時高校二年生)でした。また妹孫(当時中学二年生)でした。母親夕日子らは、この娘達の内密の行為を、やす香の発症入院まで気づかなかったのでした。
それについても調停に臨んで、ぜひ申し述べ、★★★と話し合いたい経緯がありますが、その経緯の核心に、私の仮題未完の草稿ながら創作『聖家族』一編が存在します。★★側は再々にわたり此の創作(フィクション)を、私のホームページから「外して」欲しいと、執拗なほど懇願しています。
問題の、その長編創作の草稿を、重い資料として、調停前に提出しておきますので、どうぞご一読を宜しくお願いします。多くをお察し願えるものと信じております。
私どもは、上のやす香の死をめぐる問題よりも、遙かにこの方の「話し合い」を重くみております。★★★と向き合い、ぜひ話し合いたいと願っています。
「話し合い」が拒絶され、どうしても実現しませんので、その為にも牧野弁護士のお奨めにしたがい、「民事調停」を申請しました。
* 今一つ、娘★★夕日子から申し立てている一点があります。娘の創作物を、私の責任編輯しています「e-文庫・湖(umi)」に掲載したのは、著作権の侵害だという申し立てです。
娘夕日子の作品と謂えるものを、私は、自身のホームページに、過去に七点掲載しています。内三点、「ねこ」「回転体の詩」「エッセイ」及び、父名での代作「徽宗」は、秦夕日子の名で、親族関連の作品欄に八年来掲載されていましたが、これについては過去にも全く故障の申し立てはありませんでした。
父の私は、娘夕日子の文才を、息子建日子のそれより以前から愛し、評価し、幼来懇切に指導してきたのですが、不幸な両家断絶以来、娘は、とうに文筆を断念したかと父は惜しんできました。その間に息子建日子はつかこうへい氏の薫陶をえまして、劇界・テレビ脚本界また小説等の世界で、新進作家として今まさに活躍しています。
ところが、今年早々、その息子秦建日子を介し、娘夕日子が、或るブログに、匿名で、日記なみに長い小説を次々書きついでいる、ぜひ読んでやって欲しいと頼まれ、驚喜して、三作「こすも」「ニコルが来るというので僕は」「桜」を読みました。私自身の手で労を厭わず片々たる日々の「日記」から、順次書き起こし、それぞれに読みやすい形にすべて置き換え、通読の上小さな誤記等も訂正して、私の編輯する「e-文庫・湖(umi)」に「仮掲載」しておいたのです。
これには、次の二つの理由がありました。
一 匿名でのブログ作品は盗難に遭ったとき防ぎようがないこと。
日本ペンクラブに電子メディア委員会を私が創設し委員長を務めていた頃から、この手の情報をよく耳にしていました。
二 私の「e-文庫・湖(umi)」の読者には、編集者や知識人、優れた読者等が大勢いて、自然、娘の作品を人目に触れる好機になること。(ちなみに「e-文庫・湖(umi)」の筆者には文化勲章の梅原猛氏作品始め、知名人の作品も沢山掲載されています。)
いずれも娘の作品を評価し愛した父親の「情」として、また先輩作家、電子メディア関係の情報も持っていたこと等による、悪意どころか、善意と愛情による予防と配慮との所為であったことは、当時の私の「日記」の記述にも歴然としています。日記には夕日子作品への推讃のことばや、期待の批評のみいっそ嬉々として書き込まれています。
それでもむろん、当人から苦情が出ればすぐ対処するとして、「仮掲載」の名で懇切に紹介、三編ともに掲載保管していました。掲載にも、また今回削除にも、それぞれの理由を付して、ホームページ上に残してありますので、御覧下されば明白です。
少なくも父であり先輩であり指導者であった私の好意に依る「掲載・保管」でこそあれ、それにより娘夕日子が受けた被害など、微塵もないはずです。
証明できる記事が、はっきり、数多くのこっていますので、調停時に提出もし、くわしく説明させていただきます。
次いで、「調停」により、何を、私どもが望んでいるかを申し上げます。
孫やす香の六月下旬近い入院、「白血病」という診断、インフォームド・コンセントはどう為されたか、そして十日の余を経て診断変更の「肉腫」、すべて手遅れの即時「緩和ケア」、そのインフォームド・コンセントはどう為されたか、そして「延命治療」は一切無し(病院職員の弁)の終末期医療への推移、モルヒネ多用、輸血停止から人為的な七月二十七日の終焉。そして通夜、告別式。
それらの経緯一切を、われわれ祖父母は、★★家より、相談は愚か何一つ報されることなく過ごしました。
やす香自身が「MIXI」やメール・電話などで報せてくれなかったら、私たちはその入院も病気も最期も、何一つ知らずに過ごしたかも知れないのです。
従ってやす香のすべての病状経過について、祖父母は知りたい多くを、説明して欲しい多くを胸に抱いています。そして当然にも入院以降のやす香を案じる余り、「やすかれ やす香 生きよ けふも」と祈り続けましたが、これに対し★★夫妻は理不尽にも、親を名誉毀損し、やす香の死の尊厳を傷つけたと、死後、告訴・訴訟の威嚇を続けました。「やす香には<死を受け容れさせた>のに、<生きよ・生きて欲しい>とは何ごとか」と、やす香祖父、自身の父に対し、「殺してやる」とも娘夕日子は怒号したのです。
どう名誉毀損し、どう尊厳を傷つけたか、真っ向話し合う用意がありますが、やす香の命はかえらず、やす香の霊をいたずらに悲しませる必要の何一つないことも思います。
端的に、
★★夫妻に対し、秦家両親に終始無礼の極みを尽くしたことに、礼儀ある謝罪を求めます。それの為されない限り、上記の不審等に対し説明責任を求め、安楽死問題としての疑念と不審にも、病院と家族との適切な弁明を求めます。
今一つ、過去の十数年来の数々の「非礼」に反省と謝罪を求めます。
その詳細は、仮題未完の創作草稿「聖家族」のほか、調停の間に大量の証拠資料を提出し、上の要求の当然であることを逐一説明申し上げます。
多年に亘る不幸な時間を経てきたことです、曖昧で放恣な、「言った・言わない」の水掛け論は、ただ不毛です。双方から、当時の物と確認できる「資料」をきちんと出し合いながら「話し合い」を進めて戴けますように、善処をお願い申します。 以上
* ★★夫妻から出たそれも、公に提出した文書ではあり、必要と思えばどんなことをわたしが言われているか、一つの興味ある資料としても公開を辞さない。今夜はスキャナーにとるヒマがない。
* 秦家の「夕日子」略史
(弟建日子誕生・姉夕日子七歳以降のアルバム・父年譜から。)
(2006.10.14 15日に急いで作成、完備の記録ではないが、事実だけは正確におさえてある。この「年譜」記録、また掲示した写真等を以てしても、夕日子の「二十年(四十年)以上続いた父の虐待、ハラスメント」などの発言が虚偽・強弁であることは一目瞭然です。秦記)
68 正月八日 弟建日子誕生 七歳の夕日子に祖母より戴いた和服で父と初詣。母の無事出産を祈願。 * 私には、あなたが作家としてご自身の作品を守り、言論の自由を守り、それでも夕日子さんのためを思い、訴訟には強いて勝たなくてもいいとお考えのように見えてしまいます。
これは、最悪ではないでしょうか。
さらに訴訟があなたの心身の健康に与える負担を思うと、ぞっとします。何十年も訴訟している例をいくつも知っています。泥沼です。
そして、相手の弁護士を甘く見てはならないと思います。
まず、実の娘からの告訴を煽るということは良識ある弁護士ならしません。「九十五パーセント勝つ」という妙な強気もおかしい。これはかなり質の悪い「やくざ」な弁護士がついていると推測すべきです。
さらに私がもっとも恐怖するのは、裁判が不利になった場合に、夕日子さんが「言葉によるハラスメント、虐待」だけでなく、少女時代に「性的虐待」を受けたと「嘘を訴える」ことです。夕日子さんはそこまでしても勝ちたいでしょう。負けないために身辺・周囲が煽るでしょう。アメリカでは無実の父親がこうやって社会的に葬られた例が山ほどあって、本になっているくらいです。
もし、そのような根も葉もない訴えがあった場合、裁判は女の味方です。自称被害者のほうが強いです。痴漢の冤罪よりも無実の証明は絶望的です。あなたの作品はことごとく抹殺され、百年は埋もれなければならない。あれほどの名作なのに。日本語の宝なのに。
私の願いは、一先ず譲歩して、「告訴」騒動を鎮めてくださることです。ご家族、弁護士さんなど色々な方々とご相談して、あちらの要求がこれ以上傲岸に過大になる前に、お考えいただけないでしょうか。
その上で決断されたご判断は一番正しいことですし、それを心から支持して、あなたとご家族の皆さまのお幸せをお祈りし続けることに少しも変わりありません。
* いくら何でも度はずれていると、わたしはメールのこの辺は読み飛ばしていた。
ところが、夕日子は「木漏れ日」名義の「MIXI」日記を利し、しかもそれがわたしには「読めない」ように画策しておいて、八月以降、公衆相手(六百万人)に、じつに、読むも忌まわしい上記に危惧されたとおりの「嘘を訴える」ことをしていた。
わたしには、今日まで、それが読めなかった。人がコピーして送ってきてくれない限り。
よほど見るに見かねて癇癪玉を破裂させた人が、全文を、今日送ってきてくれた。
ひと言だけにしよう、あきれ果てた。
もうひと言、何と情けない人間になったのだろう、わたしの娘は。
* わたしは、ものに書く場合、それが批判や非難にあたる場合は、いわゆる「ウラ」を確保してでなければ、断定しないようにしている、当然の作法である。推測は人性の自然であるが、それも前後の状況から推して、蓋然性を堅くにらんで、する。まともな評論や批評は、そうでなければ出来ない。
それぬきに、好き勝手なでたらめな「作文」は、幾らでも出来る。誰にでも出来る。上のメールの人が、「心から危惧」し予測していたことを、夕日子は臆面なく、とうに、やり始めていたんだ。それも実の父や母に向けた、むちゃくちゃな「悪声」「誹謗と中傷」。
* そこまでやって、いったい夕日子は、何の自意識から責任遁れしようとしているのだろう。
* 我が家はきわめて狭い家で、しかも妻と私は何十年、常にまぢかに暮らしてきた。わたしが一人の時は、書斎とも呼べない机に向かい、夢中で依頼原稿を書きまくっているときだけだった。
69 夏 桜桃忌に父「第五回太宰治文学賞」受賞後に 家族で京都帰省 子供達元気な写真
69 秋 下保谷新築始まる 夕日子も楽しみにしていた。
69 秋 最終の社宅生活 家族で楽しい写真 夕日子の愉快そうな笑顔写真多し
70 正月 叔母新築新宅に上京 家族和やかな写真 新宅での佳い家族写真 続々
70 三月 夕日子雛祭り 縁側で和やかに揃った家族写真
70 七月 夕日子誕生日にお風呂で水浴後、お友達ら六人と嬉しそうな誕生パーティ写真
70 八月一日 父と夕日子と二人で大阪府富田林の大花火楽しむ。
71 正月 揃って尉殿神社初詣の夕日子の愉快そうな写真 ピアノの下で建日子と遊び興じる夕日子の写真
73 四月 夕日子、保谷市立青嵐中学入学
74 正月 のびのび笑顔の天神社初詣の写真
74 五月 父の退社意向を夕日子にも相談し異議無いことを確かめる。作家自立は夕日子達の将来の生活にも響くかも知れないので。
75 正月 京都で夕日子総疋田の晴着着付け、喜色満面の晴れ姿何枚も。茶会にも。真如堂坂根家訪問。
75 夏 家族で和歌山へ旅。潮岬に興奮、周参見の浜で荒波に揉まれる。和歌山市の三宅家に歓迎され夕日子はプールで大はしゃぎ楽しんだ。
75 秋 青嵐中学の運動会に両親も行く。夕日子懸命のリーダーシップ空振りの様子可哀想。女の友達が無いといえるほど無く、学校生活はかなり浮き上がっていた。
76 正月 夕日子新調の着物で、縁側で澄ましたり噴き出したり。家族で仲良く写真。叔母も。
76 初春 お茶の水女子高の受験勉強を手伝い 古典本を山と積んで「音読」体験を授ける。
76 四月 妻、夕日子ともども父の谷崎論に関して議論・検討、いい解決へ。脱稿。
76 十一月 居間で愛猫ノコを片掌にもちあげパパに写真せがむ夕日子。父、作家代表団で中国へ。そのためのピッカリコニカでパチリ。
77 正月 父の中国土産の中国服を着て満悦の記念写真。
77 一月 島田正治画展に家族で。このころから努めて夕日子を文壇や各界会合に連れて行く。夕日子もよくくっついて歩いて、「秦さんのお嬢さん」「夕日子ちゃん」と呼ばれて、ご機嫌だった。むしろこの頃は建日子が教室での「いじめ」で意気銷沈、親は苦慮した。
78 四月三日 湯河原の谷崎潤一郎夫人邸に、夕日子と招かれる。親交を一段と深める。
78 七月十六日 夕日子救急入院、十八日虫垂炎手術。手術の失敗に父が気付き、二十七日、病院派遣の救急車で即再入院。腸閉塞。父はその間、した保谷から吉祥寺の奧まで毎日欠かさず自転車で見舞い、夕日子は日々待ちわび、父の手をつかみ、しばしばベソをかく。八月十日退院。
78 十一月 家族で仲代達也無名塾公演「オイディプス」に招かれる。
79 一月 夕日子共通一次試験
79 三月十五日 夕日子と井上靖敦煌展レセプションに参加。梅原猛ら著名人と何人も逢い、話し、夕日子上機嫌。帰りに銀座「きよ田」で知人に「過剰サービス」とからかわれながら、鮨。夕日子お茶の水女子大に合格。お茶の水女子高校を卒業。父・父兄会会長の「七光り」で晴れがましい「卒業生答辞」が読めたと夕日子は鼻高々の大喜び。成績は上から三分の一程度と。
79 五月 父の代わりに尾崎秀樹団長の中国訪問旅行に、切望する夕日子を送り出す。入学祝い。
79 九月 秦、ソ連作家同盟との交歓訪問の代表として訪ソ。夕日子、率先、大きなトランクを引いて横浜港へ一人父を見送る。
79 十一月 父の新聞小説取材、京都への旅に夕日子望んで同行。
80 五月 夕日子とソ連からの来客ノネシビリ夫妻、エレーナらを銀座のホテルに土産持参、訪問。
80 秋 小学生の頃の夕日子に「英会話の個人教授」を相次いで二人に依頼していた、その一人の先生の父親が中日新聞の役員だったと知り、びっくり。
80 十一月下旬 長谷川泉氏の出版を祝う会に夕日子も父とともに招かれ出席。大人達に珍しがられご機嫌。原善君に初対面。
81 正月 夕日子袴をつけて颯爽と初詣に。 八日 弟の誕生日に夕日子は晴着盛装、家族で観世能楽堂に喜多実の翁、野村万作の狂言を父と見にゆく。
81 一月 夕日子に一切を下書きさせた「徽宗」四十三枚に父が手を入れ成稿を出版社に渡す。文藝の才を育ててやりたく、こういう「調べ仕事」を手伝う機会を父はつねに娘に考慮していた。
81 四月七日 夕日子 関西へ旅
81 七月九日 夕日子と二人で歌舞伎座で猿之助「黒塚」など観る。
81 九月四日 夕日子、父旅中、谷崎夫人の招きで歌舞伎座に。「恋を知る頃」など。
81 十月二十日 夕日子と父と、谷崎夫人の招待でサンシャイン劇場「玉三郎リサイタル」を観る。
81 十二月八日 夕日子と谷崎夫人とで明治座観劇。
81 十二月末 夕日子建日子京都の祖父母の家で正月をと。この頃、夕日子はのちに結婚を考えあうI 君と「魂の色」の似たのを意識し、この京都への旅にも、東京駅でI君も同行していたとあとで知る。夫婦だけで迎春。
82 六月十五日 ペン例会に夕日子と出席。帰途、銀座のバー「ベレ」に夕日子の名で初めてボトル置く。翌日父の「世界」連載原稿を夕日子が岩波書店に届ける。
三十日 夕日子と父と、尾崎秀樹夫妻の会に出席。
82 七月 夕日子誕生日の佳い写真。その腕には父の読者からせしめた外国の高級時計。この当時、夕日子の洋服も父がよく選んで買っていた。
82 十月 夕日子の懇望によりサントリー美術館への就職斡旋を谷崎潤一郎夫人に懇請、谷崎夫人・娘恵美子さんの努力で、紹介者村山治江さんの強い推薦により、十月末サントリー美術館就職の最終選考に残り、十一月四日、就職内定、夕日子欣喜雀躍。御礼に村山夫人の店で大きな「買い物」をする。
歳末 京都の舅介護の疲れから母迪子心臓病発症、入院を勧められる。以降継続して今日まで要治療。
82 十二月末 夕日子、双方の親が結婚を念頭に交際していたT君とドライブの写真。
83 正月 書庫の前でみんなで写真撮りあう。
83 三月家族四人で伊勢鳥羽へ旅行
十四日 夕日子と父と、上野の「ボストン美術館展」レセプションに出る。
83 三月二十三日 夕日子お茶の水女子大卒業式。両親参加。謝恩会の洋服も父と選ぶ。卒論「ムンク」は「パパに読んで欲しい」と書いたとか、母の弁。「ムンク展」を早くに奨めたのも父。
83 四月一日 夕日子、サントリー美術館に初出社。父、深々と一安心。谷崎夫人、ハンドバッグを下さる。
83 七月一日 夕日子日赤整形外科に入院、バドミントンや弓術で痛めた肘を手術。
83 秋 夕日子、書庫前のテラスでノコを抱いて父のカメラにポーズ。
83 九月 青山で観能後 夕日子と合流、夕食して帰宅。
83 十一月 夕日子と連日無名塾公演「ハムレット」や歌舞伎座芝居を観て、親子で食事も楽しむ。
84 三月 両親の結婚記念日に親子四人で帝国ホテルで。夕日子佳い表情で母に寄り添って父に写真を撮らせている。
84 四月 家族で熱愛した猫の「ネコ」死去。夕日子が発見して泣く。のちに一文在り。
84 五月十一日 夕日子と父、「井上靖展」「植村松篁展」「横の会展」を観て歩く。
この月、夕日子は初の美学会に出席。父のあとを追い美学・哲学の道を歩いていた。
84 七月 夕日子の誕生祝いに家族で六本木に会食し、俳優座公演を観る。
銀座のバー「ベレ」に親子四人がならんで、夕日子もご機嫌の笑顔で水割り。父が馴染みのバーで「夕日子ちゃん」はママにも客にも可愛がられ、結婚相手はママが必ず前に婿殿の品定めをする約束だった。
(限定豪華本所収『年譜』はここまでで一応終えている。)
85 正月元日 みなで仲良く初詣の写真。
85 春以降 夕日子 高齢のM氏との恋愛から同棲・結婚を熱望、I 君再度の求婚を一蹴、一転単独アメリカ住まいを希望、また一転★★★と見合い結婚に奔走。この間のてんやわんやは秦家を揺るがした。両親も弟も必死で対応した。
85 六月八日 夕日子、★★★と結婚式。新婦側主賓谷崎松子夫人 加賀乙彦、尾崎秀樹、長谷川泉氏ら。父は著『愛と友情の歌』跋文に愛の難さを告げて努めよと激励。
86 正月二日 ●・夕日子来泊、三日に帰る。和やかな写真。
86 つわりあと 夕日子は大きいお腹で父と二人或るパーテイに出席している。
86 九月十二日 やす香誕生 退院の翌日から保谷で母子暮らす。家中でやす香夢中で可愛がる。夕日子も寛いでいる写真数多い。●も保谷へ来てやす香を抱いている写真。みなが幸せそう。
86 十一月以降 観世恵美子さんに戴いた服など着て、保谷でのやす香・夕日子家常の写真いっぱい。●も迎え取りに来て、佳い親子写真を舅が撮っている。
87 正月二日 ★★一家来賀。北澤夫妻・原夫妻らもともに歓談盛り上がる。
87 雪の頃 弟建日子、やす香を胸に抱いて姉の婚家に戻るのを送る。
87 三月 やす香と来泊 雛祭りしてご機嫌の夕日子達。●も来訪。
87 四月下旬 ●も来て、みな和やかな写真
87 五月下旬 夕日子達の引っ越しに母、やす香の子守に行く。
87 六月十一日 夕日子と父でかけ、池袋サンシャインで夕日子の夏洋服と帽子とを買う。
87 夏 夕日子とやす香来泊 みんな和やか。写真係はいつもおじいやん。
87 七月二十三日 叔母の茶道具保谷へ移送。老親たち三人の東京移転近づく。
87 八月十二日 ●、パリ留学、歓送会。餞別贈る。夕日子とやす香 多く保谷で暮らす。やす香立ち始める。
87 十一月 夕日子親友の結婚式にも保谷から参会。
87十二月 従妹北澤恒の会か。父と二人で参加。
88 正月 夕日子とやす香来賀 一家団欒の楽しい写真いっぱい。曾孫を可愛がる老親たちも。
88 三月 書庫カウンターにやす香と雛と祖父と。夕日子が撮影。
この頃母娘の里帰り頻々、近所でも評判。大きなアルバムを埋め尽くす母と娘との写真。老親たちも大喜び。
88 夕日子母娘パリへ。この時に夕日子結婚資金の残高百万円を送金。旅など楽しんだと。
88 七月十二日着 パリ、ブーローニュ等での夕日子とやす香の写真。その他にも再々写真来る。
89 正月 パリの★★親子の写真届く。
89 八月末 秦の父・夕日子祖父逝去 葬儀
89 秋十月 やす香・夕日子帰国 母子とも概ね保谷で暮らす。仲良しの日々、写真多し。
89 十二月 父の誕生日を祝う夕日子とやす香、書庫の前で母と娘との写真祖父が撮る。
90 正月 老母・叔母らと夕日子・やす香新春を祝う。おじいやんのお年玉の洋服でやす香嬉しい。
90 二月 まみいと夕日子やす香は伊豆に遊ぶ。
90 三月三日 ●帰国。夕日子たちの保谷生活は終わる。帰国祝いを保谷武蔵野で。
90 四月 母の誕生日に夕日子母子も機嫌良く参加・天麩羅
90 春 やす香にマミープレゼントの自転車。夕日子も喜色満面で小さい自転車に乗ってみせ保谷の家の前を走る
90 夏 やす香と夕日子来泊 保谷のテラスでみなで花火で遊ぶ。夕日子の両親・やす香を撮った写真もたくさん残っている。
90 八月末 やす香と夕日子来泊 婚家へ帰りたがらない夕日子。
90 九月二十九日 ●も来訪 機嫌良く写真に写っている。夕日子ものびのび笑顔。やす香は保谷のご近所にお友達何人も出来る。
90 十一月初め 夕日子・やす香来泊 やす香おじいやんの自転車に乗せてもらいご機嫌。
90 十二月二十日 父の誕生日を祝うために来夕日子ら来泊。やす香連れて森林公園で自転車乗り。二十一日父五十五歳を親子孫五人、夕日子らの従兄弟の北澤恒も加わって呑んで喰って談笑尽きず。
91 正月二日 ●も年始に来訪。やす香お年玉の着物、冬のコートで、玄関で撮影。
91 正月八日 弟の誕生日に夕日子単独来訪。夕日子父のカメラにご機嫌Vサインのポーズ。
そして、引き続き、父と、母代役の若いミセス夕日子とは、文化出版局「ハイミセス」編集者カメラマンとともに、四国松山、中国柳井・厳島等への「旅」に出た。雑誌掲載以外にも佳いスナップ写真が何枚も。だれもが「見るから仲のいい父娘」と評判。
91 四月十日 建日子の車で夕日子やす香とも宮沢湖・川越方面にドライヴ楽しむ。遊園地・食事などの楽しい写真いっぱい。
91 四月二八日 夕日子と母と誘い合って両国で「ヤマトタケルオラトリオ」楽しむ。
91 五月末 夕日子やす香来訪 ご機嫌の写真
91 六月 秦の老叔母逝去 通夜に夕日子 初七日入院中の老母も一時帰宅 夕日子やす香来ていて世話なども。
91 十月 秦、東京工業大学工学部教授辞令・就任。●、オーバードクターのまま地位定まらず。この余儀ない落差が、この直後、●「暴発=夕日子の言葉」に繋がる。その経緯は、秦の創作草稿仮題の『聖家族』に、的確に示唆・表現されている。
92 三月十日 行幸誕生 この頃か、★★★ 筑波大学技官就職成り家族宿舎に入る。
92 九月九日 建日子の車で筑波在のやす香幼稚園を三人で訪問、やす香驚喜。行幸の顔も初めて見る。夕日子たちと、●不在の数時間を筑波で過ごす。やす香別れ際「イヤ」だと烈しく烈しく泣く。
93 初冬 ●不在を利して夕日子と二人の娘、保谷来泊。祖母を病院に見舞う。
この頃以降行幸の成長写真再々送られ来る。夕日子からの手紙もある。
* むろん、夕日子の虐待やハラスメントの訴えに、データなど何一つ付いていない。捏造する以外に在るわけがない。
ちなみに「★★夕日子」提出文書には「主任児童委員」と肩書きがつき、前にペンの委員会等へ送りつけると脅してきた文書には「東京都町田市付 厚生労働省民生・児童委員」としてある。
また「MIXI」の日記では「女流作家」と称していたし、父わたしのことは自分夕日子の小説を批評する「高慢な」「自称文筆家」ともあった。こういう物言いは、どういう「人格」から湧き出てくるのだろう。
2006 10・14 61
* 明日、ああいう娘夫婦の顔を見に町田簡裁まで行くのかと思うとひたすら情けないが、人生劇場、この年になってかくも活況を、むしろ、よろこぶべきか。
人に言われてわれながら驚いたが、自転車乗り平気でこの頃は二時間半も休みなく走り回ってくる、それって新幹線で東京から京都へ着くほどなんだ、と。そうなんだ。我ながら驚いた。
2006 10・15 61
* 八月二十一日にもらっている或る人のメールの一節に、「さらに私がもっとも恐怖するのは、裁判が不利になった場合に、夕日子さんが「言葉によるハラスメント、虐待」だけでなく少女時代に「性的虐待」を受けたと嘘を訴えることです。夕日子さんはそこまでしても勝ちたいでしょう。負けないために周囲が煽るでしょう。アメリカでは無実の父親がこうやって社会的に葬られた例が山ほどあって本になっているくらいです。
もし、そのような根も葉もない訴えがあった場合、潔白を信じてもらえる可能性はほとんどない。裁判は女の味方です。被害者のほうが強いです。痴漢の冤罪よりも無実の証明は絶望的です。あなたの作品はことごとく抹殺され、百年は埋もれなければならない。あれほどの名作なのに。日本語の至宝なのに。」とあったのは、、おそろしいほどの炯眼というか、分かっている人には掌をさすように分かっていたのだと、今更におどろいている。
九月二十三日にはビックリのメールが固まって来た日だが、その一つはこうであった。これも明快におそろしかった。
* 娘さんについて考えたことを書きます。まず娘さんが「MIXI」に書いた性的虐待の日記ですが、そもそも娘さんがハンドルネームを使っているとしても、周囲に自分とわかるように書いていること自体、そういう事実はなかった「嘘」とわかります。性的虐待のカミングアウトというのは、女にとってよほどのよほどです。使命感でそういう「活動」をしている人以外には、ほとんど例がないのでは。
私は子ども時代の虐待について本人の書いたものをいくつか読みましたが、まずあまりの傷の深さに、そういう著作自体少ない。そして、書かれたもの二例では、本人が自分の名前を戸籍から変えていました。「MIXI」に載った娘さんの(結婚後にも父親と楽しそうに並んで旅している、また自然な笑顔の幼時の)写真は、みごとに(上の嘘を証明し得ていて) 雄弁です。
次に、娘さんがこのように「変貌」したことについて、私の考えを書きます。不快に思われる部分もあると存じますが、失礼をお許しくださいますように。心安だてに実際失礼なことを書きます。自分の、父親として、人間としての大欠陥を棚に上げてエラそうに書きます。
田辺聖子さんでしたか、子どもは「当たりもん」と書いていらした。どのような子どもを持つかは運次第、くじ引きと同じ当たり外れがあるという意味です。子どもの健康や能力や容姿や性格など、たしかに親の努力や心がけの範疇にはありません。その上で、ある程度は親が防げる不幸があります。
当然よくわかっていらっしゃることですが、娘さんの今の異常ともいえる言動は、もし躁鬱の躁状態という病気でないとしたら、その根は、秦さんご自身にも、かなり大きな部分があると感じます。娘さんが結婚にいたった経緯はこれは「ご縁」でこうなるしかなかったことでしょう、当然ご両親に責任はない、娘さんのもって生まれた「運」だったんでしょう。ですが、それにもかかわらず、あのとき、秦さんに、父親として防げるところが防げなかったのではないですか。
もう昔、太宰賞を受けられたとき、その『清経入水』を、その以前に読んでいた「新潮」の酒井編集長が、「目をすったか」と苦笑して受賞を大いに祝って下さったというお話をされてました。
秦さんも、つまり、あのとき、仲人口に耳をひっぱられ「目をすった」ってことですかね。
* 目をすることは、ほかにも、いろいろ有る。目をすったわけでないが、ものごとを「ほっとく」「ほっといた」ことで、多年まったく思い違いしたまま過ごしてきたんだということに、やっと気づくことがある。今が今にもある。
弟は、再三再四最後の最期まで、わたしや妻の娘・夕日子に対する見方は「甘い」、まるでズレていると言い続けてきた。どう甘くて、どうズレているのか、わたしたちは信じられなかったが、要するに吾々両親には、娘である夕日子を憎んだり嫌ったりする理由が無く、十数年、いつ帰ってくるかな、いつでも帰っておいで、門は開けてあるよと思い込んでいた。だからこそ、娘に実の両親を告訴したり訴訟したりさせてはいけないと思ってきた。夕日子の胸の芯には、人らしい娘らしい柔らかい気持ちがあるに違いないと信じていた。
弟は、「そりゃないね」と言い続けてきた、夕日子は親を、ことに父親を、明確に「敵」として憎悪し、その気持ちは「石」のように硬いよと。
なんでそんなことを言われるのかと、わたしは、いささかならず弟の言い分を受け取りかね十数年来たのである、妻もきっと同じでは無かろうか。
われわれ両家の間には、十数年前の「大過去」に属する事件があり、この時に夕日子の夫★★★は「暴発」した。われわれは●から「姻戚を解消・離縁」された。一つには「金」だった。二つには、わたしが天から降って湧いたように「名門」国立大学の専任教授に就任し、オーバードクターの★★の方はなかなか職が決まらなかった。決まっても不本意極まる筑波の「技官」待遇だった。夕日子は「●の職のちゃんと決まらない内は、パパは教授になんかならないでッ」と叫んだ。
★★★は金のことは執拗に言ったけれど、地位のことでは黙っていた。わたしには、就任依頼を受けたらいいと言った。「どうせパンキョウ(一般教養)」でしょ、と。
わたしに当時働き盛りの若い健康な夫婦の生活を抱え込む、余裕も気もなかった。九十の老人を叔母も含めて三人かかえてきた。わたしはベストセラー作家ではなかった。勤勉だが地味な文学者だった。
そして機械音痴のわたしは、東工大に、コンピュータ世界との有縁を心頼みにしていた、明らかに。わたしは「時代」をほぼ正確に読んでいた。文壇でも極めて早い時期からワープロを使ってきたが、ワープロではダメだと見通しをもっていた、知識は絶無なのに。
わたしは★★に金を与えることもせず、東工大の門も真っ直ぐ潜って躊躇わなかった。
* あのとき、わたしを憎むことにおいて、じつは夕日子の方が夫★★よりも激越であった、と、●は言いたいらしい。わたしたちは、夕日子は夫と父との板挟みで苦しかろう、どっちかなら親子の手を放して、夫婦でがんばりなさいと思っていた。わたしの思想では当然至極。わたしはヨコ型社会に少年時代から憧れていた。基本は親子じゃない、夫婦だと。だが、夕日子のはそんなものでなかったらしい。つまりわたしが甘かったか。
* あの大過去事件のあと、二年ほどおいて、両家和解の談合がもたれたが、★★★も夕日子も、只の一度も出てこなかった。わたしと妻とは、終始★★の親代わりの叔父さんだか伯父さんだかと、仲人の****教授とに向き合うしかなかった。それでは、どう納得のしようもなかった。余儀なく双方ではっきり「物別れ」したあとで、その伯父さんから手紙が来ていたが、わたしたちはもうもはや読む気がなく、厳封のまま「ほっとい」た。今も見ていない。
もう一通、夕日子からも手紙が来ていたはずと彼等はいうのだが、全く記憶にないのであるが、その手紙で、夕日子は、よほど思い切った「秦家との絶縁」を敵意を籠めて述べ立てていたらしい。「民事調停」の場に出て来たその手紙を妻は初めて読んだらしい。わたしは読まない。あの当時、夕日子はいつも肉筆書きであった。肉筆の手紙かワープロのものかも確かめていない。フォントはどうか。電子文字ならその辺の見極めがあろうと思う。
なににしても、その手紙のことを聞いた上で、久しい弟の物言いを思い起こすと、なるほど、親とは甘い者であった。十数年、われわれは娘の思い出をだいじにだいじに慈しむ思いでいつも噂し、健康を祈っていたのだから。誕生日には必ず赤飯を祝い、日記にもなにかしら書いた。わたしの今年七月以前の日記に、夕日子をわるく書いている例など、ありえない。
さまりは今度のことで、夕日子がいつのまにか夫の前へ出てまで、頑強至極に父親を「罪人」にしたがる一半の理由が、とうどう見えてきたわけで、父親がよくよく憎いのであるらしい。どんなウソを言い放ってでも、何としても父親を「罪で圧し潰してしまいたい」らしい、弟は、「そういう人です」と姉を見定めていた。「どうしようもないんです、姉上は」と。
* 夕日子から十数年前に送られていたという憎悪の手紙に、わたしはまったく記憶の片鱗もないが、「ほったらかし」に失われたのか、そんなのは届いてなかったか、何にしても知らなくてよかった、少なくも十数年のあいだまだ吾々には「娘」が生きていたのだから。嬉しい気持ちももって毎日のように夕日子の噂を、父と母とでしてこられたのは授かっていた天恵である。
それにしても、わたしが「目をすっていた」のは夕日子も●といっしょだったと気づかされたのは、情けない。明日その夕日子の罵倒の声を聞かされに町田まで夫婦して出向くかと思うと、天恵どころか、これはわたしには天罰だと思われる。
天罰を受けて当然なことは、山ほどしてきたのだろう。それでも昨日から今日へ無数にシャッターを切ってきた夕日子我が娘の可愛い、和やかな、自然な笑顔や嬉々として笑み崩れたり澄ましたりした夕日子の写真を、数十冊の大アルパムから、百枚ほども編集していた楽しい思いは、忘れたくないものである。
年貢のおさめどきが来たのであろう。あるいは、こんな世の中に生き過ぎたかな。
2006 10・15 61
* イヤな日だなと思いながら起きたが、思い起こせば、十月十六日は、妻とわたしには懐かしい記念の一日だった。四十九年まえ、ふたりで大文字山にのぼり、大きな比叡山が目の前に見える温かさを思い切り吸い込んできた。あれから二た月とかからず婚約した。一年半足らず後に、昭和三十四年二月に大学を出る妻と上京して、新婚生活を始めた。初冬には妻のおなかに夕日子がいた。
父となり母とならむの朝はれて地(つち)にくまなき黄金(きん)のいちやう葉
ひそみひそみやがて愛(かな)しく胸そこにうづ朝日子が育ちゆく日ぞ
2006 10・16 61
* わたしがいま何を思っているか、当てた人はえらい。子供のとき、そんな風に言い合って遊んだ気がする。
* 昨日だったか散髪してもらいながら、マスターと自転車乗りの話をしていて、わたしが死ぬとすると交通事故が一等可能性が濃いと、あはあは笑ってきた。新幹線で東京・名古屋どころか京都に着くまでぐらい長時間走り回っているうちには、何度も危ないめを見ている。起伏の多い武蔵野で、えいえい登り坂があると必ず数百メートルもブレーキを握りしめながら疾走する降り坂がある。降って走るこっち側だけではない、登ってくる車と対向するのだから、あの坂で瞬時でも眼を閉じたなら、確実にわたしは大怪我をするか死ぬるであろう。まだまだ用意が出来てないから、そうやすやす死ぬわけに行かない、注意の限りを尽くして走っているけれど、このごろ「生きていたい気持」はとみに薄れている。妻を安心して息子に委ねられるなら、わたしは、「一瞬の好機」をはやく自ら求めて空中に炸裂したい。
* わたしの中にまだ闘おうという気と、闘うほどくだらぬことはないという気がある。この葛藤は、しかしたいしたことはない。生きていてもつまらないと思う気と、生きてなにかしらしなくては、楽しまなくてはという気とが、いっこう拮抗しない無力感にヘキエキする。いやヘキエキではない。だらしなく生きているほどみっともなくつまらないことは他に無いよという囁きが、耳の奧に聞こえ続けるだけ。
わたしは、「今後の自分」をかつぎながら無意味な未来へ歩いて行く気がしない、もう。ああそうか…、独りでしか立てないちいさい「島」に、投げ落とされるように此の世に「生まれた」自分なのだし、その島から海のなかへ独り退散するのは、父母未生以前本来の最期であるのだ、当然だなあと思う。
* ごく最近、ある学会誌の巻頭記事として書いた原稿を、「遺書」のように、此処に掲載しておく。わたしは、こういうことを思い思い生きてきた。こういうことを思い思い、「自分の家」に帰って行くときが来ている。
* わが「島」の思想と文学 ―わたしの「身内」観― 秦 恒平
島を見る・島から見る「島の文学」という特集企画と聞いたとき、その主題が、「日本近代・現代文学」のためのものと限れば、何が言いたいのか、正直のところ合点がいかなかった。
「島」と書く限り、それは島である。「シマ」と書けばすこし意味がひろがる。「うちのシマ」を守るの侵されるのということは、ある種「領分」「配慮下」を意味して、昔から例の親分子分たちの言い分であったし、今も、そうらしい。「島」を、「あの世」の意味で謂う地方もあるが、あまりに特殊すぎて、特集企画の意図は、そこまで逸脱していないだろう。もっとまっとうに、大島小島、離れ小島、あの島この島の「島」の意味であるのだろう。わたしはそう理解し、お鉢がわたしへ及ぶとは夢にも思わなかった。
だがまた、わたしは、ごく限られた範囲でではあろうが、「島の思想」の持ち主だと思われており、わたし自身も繰り返し発言してきた。その「島」も、明らかに例の島の意味やヴィジョンを離れた島ではない。海に浮かぶ「島」を踏まえたままの「島の思想」といわざるを得ないが、だがしかし、また、やくざ衆たちの謂う「シマ」とも、必ずしも背馳していないかもしれないのである。私にお鉢が回れば、やむをえず私はそのような自分の「島」を語るしか手がない。それでよいという依頼なので、その気で書いて行くのをお断りしておく。
とはいえ、「総論」ふうにとも謂われている。持論や持説を書いて「総論」とは凄まじい。で、そこへ行く前に、漫然と前置きを書くことも許して頂きたい。
日本は「大八州国」といわれる。「豊秋津島」とも「日本列島」とも総称され、日本が、東海粟散の「島国」という自覚は大昔からあった。そのような日本で書かれる文学が、大なり小なり、深くも浅くも、「島」生まれ「島」育ちの文学であり、島にも大小のあることなどを、申し訳のように付け加えることが妙にわざとらしいほど、つまり日本は「島」の寄り合い所帯だと認めざるをえない。その世界からとびぬけて出たような文学と、いかにも「島」めく文学とが「分別」出来ると謂われれば、むろん否定する段ではないが、どんな区別差別が本質的に見極められるか、遣ってみないので分からない。
島には、陸や大陸とはちがい「狭い」意味、海に「封鎖されている」意味などが、つきまとう。「島国根性」は日本人のぜんぶに言われているので、広い本州の人はちがう、小島暮らしの人にだけそれを謂うわけではない。そうなると「日本人」らしいちまちました料簡の人物が活躍する小説や演劇は、どこか「島の文学」だという大雑把なかぶせようも、まんざら否定できなくなり、そしてそんな指摘にはたいした意義の生まれようもない。
しかし明らかに「島」という環境と時代に取材した小説は、幾らもある。「硫黄島」「八丈島」「沖縄」「佐渡島」「沖永良部島」「隠岐」「対馬」「五島」「桜島」「竹生島」「伊豆大島」「千島」「樺太」「淡路島」「小豆島」「松島」「厳島」「鬼界ヶ島」「児島」瀬戸内の島々、果ては架空の「鬼ヶ島」まで、作品の世界になっていない現実の島はないと言って良く、芥川賞や直木賞や太宰賞やその他で評価を受けた作品を思い出すことは、そう苦ではない。しかしながら、戦争文学の舞台でもあれば幻想的な舞台でもあり、瀟洒な、あるいは貧窮の舞台でもある。それはもう「各論」的に語られ得ても、どう総論して、かりに分類などしてみても、それがどうしたというに留まるだろう。一つ一つの作品に触れて「読む」、そして個々に「楽しみ」「感じる」だけのことではないか。そして、そうなるとことさら「島」の文学という特定に、たいした意義は失せている。残るのは個々の作品の出来と不出来とだけではなかろうか。
で、わたしは、気の進まない前置きから、この辺で撤退する。以下の発語は、よほど方面が異なってしまうことをお断りしておきます。
生きとし生けるものは、此の世に「生まれて」くる。この、「誕生」を意味する日本語は、「生を享ける」などと難しく言わない限り「生まれる」の一語しかなく、この「れる」は、文法的には「自然」または「受け身」を意味すると、教室で早くに教わった。また英語の時間には「was born」という「受け身」形で、「生ま・れる」と習った。英語の文法でもっと別の解釈や解説があるかどうか知らない、「was born」は受け身を意味していて日本語に翻訳すれば「生まれる」しかないなあと、敗戦後すぐの新制中学一年生は合点したのである、その余のことは知らない。
では、人はどう受け身で「生まれる」のだろうと、私は想った。私はその頃まで、自分が秦家の「貰ひ子」であると人の噂にも重々知りながら、実父母のことを何も知らなかったから、そういう想像・空想・妄想にはふだんに慣れていて、つまりそれが幼いながら思索・思想の下地を成していた。
私は、育ててくれた秦家に黙然と服して育った。事実はゆめにも冷遇などされず、むしろ大事に可愛がられて育っていた。昔風に謂うと「最高学府」にまでやって貰えた。お前は「貰ひ子」だなどと言われたこともない。親も子も黙って実の親子のように、ほぼ大学をでる間際まで過ごしていた。そして家に子供はわたし独りだった、つまり私は祖父と両親と独身の叔母という大人達のなかの、見た目も「一人ッ子」だった。淋しかった。
こういう境遇で、友達も少なくいつも独り遊びしていた私が、人はどう「生まれて」来るのだろうと想うとき、その「人は」の「人」とは「何」であるのだろうと想うことから、あれこれと問題が展開したのは自然だった。むろん「人間とは何ぞや」などと難しく思索したのではない。
「人って?」という関心ないし疑念は、自然と「自分」という「人」を起点にした、「人の分類」へ向かった。「人はどう生まれてくるのか」は、その先の問題として、むくむくと太ってきたのだった。
「自分」と謂えるものは、此の世にただ「一人」だけいる。一人しかいない。これは疑えなかった。
自分以外は「自分でない」以上、みな「他人」だと思った。すると親子も夫婦も兄弟も親類も「アカの他人」同様に「他人」なのか。「自分」でないのだもの、当然に「他人」だった。世間の人はそういう存在を「身内」と呼んでいたけれど、疑問だった。疑問は到底拭えなかった。そんなのはみな、ただの「関係」を示す呼び名であるだけだ。疎遠な親子も、仇同士の親類も、他人の始まりの兄弟も、琴瑟和すにほど遠き夫婦もいる。
「身内」ってそんなものか。ちがう、と私は断定した。現に育て親に私は親しんでなかったし、実の親は非在、そしてどこかにどうやらいるらしい兄や姉や妹の、顔すら一度も見た覚えがない。所詮「自分」じゃない、向こう三軒両隣の人、町内の人、学校の友達らと同じみな「他人」、つまり「知っているだけの人」という意味の「他人」であると、私は厳正に決定した。
そして「知っているだけの人達=他人」の、背後に、遠くに、「まるで知らない人達=アカの他人」という「世間」が在る。世界中にそういう世間として「人類」が実在している、それは疑えない。軽くも見られない。そう思った。「男」「女」などという分類は、「アメリカ人」「ギリシァ人」などという、「黒人」「白人」などという分類は、わたしの関心や思索とは無縁の、つまり科学的・社会的事実でしかなかったのである。
纏めるとこうである、「自分」と、「(自分でない=知っているだけの人達=)他人」と「(その人について日常的に何も知らない人達=アカの他人の=)世間」の三種類が、此の人の世に「人」として存在している。幼いわたしは、そう考えたのである。
そして、こういう「人」達は、自分も含めて、どのように此の「人の世」に「生まれて=was born」来るのだろうか、と。むろん、生物的な出産・出生の生理現象を問うたのではない。
産み落とすという言葉がある。「生まれる」がほんとうに受け身の形であるなら、つまり絵に描いて想像してみるなら、「生まれる」とは、「此の世=世間」という広い海に、神様だか誰かは知らないが、石を投げ込むように人を投げ込んだのではないか。われわれは、此の世に「投げ込まれた」ように受け身に「生まれた」存在ではないのだろうか。私は、子供心にそう想った。その先は、よちよちと思索の進展である。
もし「生み=海」に投げ込まれた石ころの一つのようなもので「人間」があるなら、溺れて沈んでそのまま死んでしまう。人は魚ではない。
わたしは、こういう想像をした。眼を閉じ、どうか、私の謂うとおりに想い描いて戴きたい。
見渡す限りの、海。広い広い、海。よく見ると、その海に小豆をまいたように無数の島、小さい小さい島、が浮かんでいる。さらによく見ると、それら無数の小さい島の一つ一つに一人ずつ人が立っている。
島は、その人の二つの足を載せるだけの広さしかない。島から島へ渡る橋は無い。橋は架かっていない。「人」は斯くのごとく孤立して此の世という「海」に、「自分」独りしか立てない「島」に、あたかも投げ込まれるようにして「生まれる was born」「産まれ落ちる thrown down」のであると、わたしは想像し、銘々に「自分」なる「人」本来孤独・孤立の「誕生」を、脳裏の絵に描いたのであった。誰一人として、この想像を否定できないと確信した。
海(人の世)と島(「自分」孤りの生=無数の「他人」「世間」の生)との、世界。父母未生以前本来の「人」の在りよう。そんな構図の世界観。
そして思索は、先へ、また動いて行った。
天涯孤独は人間として当然の前提らしいと私は納得していた。その上で、「寂しい」という気持ちを、世界苦(Welt Schmerz)のようにもてあましている自分自身に、いつか気づいていた。手近に謂えば「独り=孤り」はイヤという、苦痛に似た思いである。
気が付いてみると、(本なども読むようになると)、橋の架からない島と島との間で、自分の足ひとつしか載らない小さな島の上で、人が人へ、他人の島へ島へ、さまざまに呼び合っている声が聞こえてきた。自分もまた渇くように呼んでいると痛感し始めていた。人の「愛」が欲しい……。「個」としての「孤」は絶対の世界意思(Welt Wille)であろうとも、「孤」を脱したい人間の意思(Mensch Wille)も確かに在る。人は「愛」を求め合っている。本来不可能と分かっていても、島から島へ橋は架かっていないと分かっていても、なお「愛」を求めずにおれない渇仰が酸の湧くように心身を痛める。愛が受け容れられねば、この世界、底知れない孤独地獄でしかない。
私は、かくて真の「身内」を真剣に考えるようになった。名前をもった社会的・生物的「関係」ではない「真の身内」を、人は寂しさの余り渇くほど求めている、いつも求め続けて、他の島へ呼びかけ呼び交わしていると思った。
だが、それは可能なことか。私は本気でそれを考えた。
そして、こう思い詰めていったのである。
幸いにして、人は、自分独りしか立てないはずの小さな島に、ふと、二人で立てていることに気が付く。三人で、五人で立てているとすら、気づくことがある。恋をしたり、すばらしい親友が出来たり、信じ合える先生や教え子が出来たり、水ももらさぬ伴侶が出来たり、愛し合う子、敬愛してやまぬ親、すばらしいチームメート、慕い合える知己などと、倶に島に立てているではないか。
一過性の相手もあれば、崩れゆく信愛もある、が、生涯変わらない単数の、また複数の相手と、この時に、あの時に、時々に出逢い、それら出逢いの幸福感や充実感ゆえに、ああこの人と一つの「島」を、運命を、分かち合って立っているぞ、と信じられる。
こんなことは、人により多少と深浅の差はあれ、体験する人は必ず一度ならず体験しているものだ。
私は、こういう相手を真に「身内」と呼ぶべきであると思った。親子だから、夫婦だから、きょうだいだから、親類だから「身内」であるといった思いようは、子供心にも軽薄だと思ったのである。
「自分」が独り、自分の他に「他人」が大勢、「世間」はさらに無数。しかも、日々生きて暮らして、「自分」は広い「世間」のなかで「他人」と知り合う。より大切なのは、そういう「他人」や「世間」のなかから、孤り=独りしか立てぬはずの「島=いわば運命」を共有しあう「身内」と不思議に出逢う。不思議にそういう「身内」を見つけ出す、見つけ出したい、見つけ出そう、と「生きて」行く。人として何よりも根底から願っているのは、名誉よりも富裕よりも権力よりも、本質的にかけがえない「身内」だ。世界中の誰も誰もがそう根の思いで欲し欲して生きているはずだと私は信じた。
自著『死なれて 死なせて』(弘文堂<死の文化叢書15>一九九二)に私はこう書いている。
それにしても不思議なことではないか、東京のような巨大都市に暮らしていると、百メートルと離れない近くのお葬式にも、胸にさざ波ひとつも立たないという事実がある。その一方で、顔も見たことのない、年齢も仕事もよく知らない文通だけの一読者の訃報に思わず涙をこらえるという体験もある。十年、二十年たってもまだ「悲哀の仕事=mourning work」の終え得ない死もある。これはいったい、どういうことなのか。なぜ、そうなのか。
それを誠実に考えつづければ、私は、どうしても「世間」「他人」「身内」と感じ分けてきた「自分」の「島の思想」へと立ち帰らずにはおれない。
「死んでからも一緒に暮らしたいような人――そんな身内が、あなたは欲しくありませんか」
私の戯曲『心―わが愛』(俳優座劇場、加藤剛主演、一九八六)では、「K」が「お嬢さん」にそう問いかけ、彼女は声をつよめて「欲しいわ」と答えていた。
あなたは、どう、思われるだろう。
世界中の名作小説や戯曲を私は思い出す。
谷崎潤一郎は、こんなことを言っている。むかし、あるところに男(女)がいて、その男(女)を愛する女(男)がいた。小説はつまりその幾変化であると。
そう簡単ではあるまい。
万葉集の基本の部立ては時代(治世)のほかに「愛(相聞)と死(挽歌)」であった。人は愛し、そして、死なれ・死なせて、生きてきた。幸福に、また無残に苛酷にと。そう謂えるだろう。
そう見極めた上で、私は、人は「生まれ」ながら孤独であり、もともとその運命=足場としての「島」「島」は絶対的に孤立していると観た。島から島へ橋は架かっていない。だが、それでは到底寂しくて叶わない人間は、錯覚、貴重きわまりない錯覚としての「愛」なしに生き難い。互いに島から島へ呼び交わして、広い「世間=海」から「他人=島々」から、「身内」を渇望し、我一人の「島」にともに立とう・立てたと幻想するようになる。必ず、なる。これ以上必要で価値多い幻想はほかに無いのだ。
そして、いつか、そんな身内にも人は「死なれ」る。いや「死なれる」どころか、苛酷に「死なせ」てしまう実例も事実数知れない。光源氏は最愛の藤壺も紫上も「死なせ」ている。薫大将は宇治大君を「死なせ」ている。勇将平知盛はむざむざと目の前で愛子十六の知章を「死なせ」て自身生きのびたのである。ヒイスクリフはキャサリンを「死なせ」、ジェロームはアリサを「死なせ」、王子ハムレットもファウスト博士も愛する「身内」の女を「死なせ」ている。わたしに言わせれば、春琴と佐助も、いわばともに相手を「死なせ」るに等しくして、ともに生きたのであり、世に愛し合うものたちは、時に親を棄て子を棄て伴侶を棄てても、より愛おしい「身内」と運命を分かち合おうとする。
「身内」とは何であろうか、通俗に言えば、まさしく「死んでからも一緒に暮らしたい人」の意味でなくて何であろう。
阿弥陀経に「倶會一處(くえいっしょ)」の四文字がある。意味するところは極楽であろう、が、私は仏門の意義に聴きながらも、囚われない。死んでからも同じ一つの「家」に心おきなく住み合える人達。私はそんな人達を「身内」と思ってきたし、あらゆる文学・文藝に登場して、愛と死とを深く身に刻み合い分かち合った同士は、本質、これと少しも異ならない、その示現そのものだと観ている。
しめくくりのモノローグに、ごく初期の自作『畜生塚』から一部を引かせていただこう。私の主な仕事は、すべてこの作よりあとから生まれた。少年の、青年の、少しはにかんだような「理解」が語られているが、私の死んだ実兄が最も愛してくれた「手紙」である。静かな気持ちで、どうか読みおさめて頂きますよう。
*
もう夕暮といいたいほどの陽のかげが広くもない境内に斜めにきれいな縞をつくっていた。甃(いし)みち、築山、それに萩があちこちにうずくまったようにみえる。鶏がいる。自転車がある。ふとんが干してある。セーターを着た若い人が庫裏(くり)をせわしげに出たり入ったりしていた。それでいて堂前の庭のたたずまいなど清潔で美しい。薄ぐらい感じはない。案内を乞うまでもなく、門を入って右の方へ甃の上を歩んでゆくと立派な石碑がならんでいた。瑞泉寺、前関白と割書きして一段大きく秀次入道高巌道意尊儀と刻んだ大きな石塔を真中に、右に篠部淡路守外殉死諸士墓、左に一之台右府菊亭晴季公之姫外局方墓と刻んだ石塔が並び、これをぐるりと左右後にとり囲んで、普照院殿誓旭大童子とか容心院殿誓願大姉とか妻妾子女の墓石がびっしりと居並ぷ。だが、どうみても非業の死をとげた人たちの畜生塚とはみえない、白いみかげ石がまだ新しみさえ帯びていて、きちんと墓石が整列している。さっぱりしている。
町子はセーターの青年に博物館でみた掛物の残りが寺にあるかときいていたが、それはやはりみんな博物館へ渡してあるとのことだった。
何の恐しげな古塚を期待したわけでもなかったが、仕合せそうにちんと鎮まっている秀次たちの墓所には、妙な皮肉な味があった。町子も私もこの皮肉がよくわかっていた。眩しいほど真黒な猫が門のわきの萩むぐらの下に碧い目と茶色の目とをけいけいと光らせて私たちをみていた。妖しく美しい姿態をきりっと緊張させて、黒き猫は萩の下にいた。ああこれがそうだ、この猫がそうだったのだと感じた。何がそうなのか言葉にはならずに私は合点した。黒猫が目をみはるほど美しいこと、すこしも気味わるくないことが私たちの気分を救っていた。
東京から長い手紙を書いた時も、私はあの萩の下に輝いていたものの美しい光沢を意識していた。文面はともかくとして、町子に伝えた夢想とは大体こんなものだった。
私はもともと定まった自分の家と家族をもっていたのです。いつか私は必ずその家へ帰り、私は家族(身内)と永劫(えいごう)一緒にすごすのです。その家族とは親子同胞といった区別のない完全な家族ですが、その家族が本当にどんな人たちなのか今の私は忘れていてよく想い出せないのです。なぜなら、私はその家を出て、この現実世界の混乱の中へ旅に来ているからです。
今の私の生活はすべて旅さきの生活であり、家庭は仮の宿です。私はいつか、死ぬという手段であの本来の家(この本来という言葉はよくいう父母未生(みしょう)以前の本来です)へ戻り、本来の家族(身内)に逢うでしょう。私より先に帰って来ている人もいるでしょうし、あとから帰る人もあるでしょう。
私がいつか死ぬようにあなたも死ぬでしょう。あなたはあなた自身と家と家庭とを本来もっているのですから、その家へ帰ってゆくのです。その家にはあなた自身の家族(身内)が住むのです。私もその中に入っているでしょう。そして、私の家にあなたはもちろん居るわけです。
この意味がわかりますか。死後の世界、いいえ、本来の世界では、私という存在はただ一つではありません。私のことを身内と考え愛してくれた人たちの数だけ、その人たちのそれぞれの家で私はその人たちの家族として生きるのです。同じことが誰にでもあてはまるのです。
私の家にいるあなたと、あなたの家にいるあなたとは全く同一異身なのです。私の家には迪子(=妻)がいますが、あなたの家に迪子はいないかもしれない。しかし私の家では迪子とあなたは完全に一つ家族です。こうして無数の家がある。
あの世では、一つ蓮(はちす)の花の上に生まれかわりたいと昔の人は願い、愛を契る言葉として実にしばしば用いていますが、それは私のいうこの本来の家と家族との意味を教えているように思います。
笑う前に考えてみて下さい。これは私の理想です。これが信念になるとき、私は死を怖れず望むようになりましょう。これが極楽であり、地獄とはその永劫を一人で生きることです。人は現世での表面的な約束ごとで結ばれた家族、親子、同胞、夫婦や友だちをもっていますが、真実の家族は本来の家へ帰った日に、はじめてわかる。
私は私の家へ、あなたはあなたの家へ、迪子は迪子の家へ帰ってゆくのです。私の家にいる私と、迪子やあなたの家にいる私とは別のものではない。どの家にいても、私は私を分割しているのではないのです。どれも本当の私であり、どの家を蔽っている愛も本当の全的な愛なのです。
年齢も容儀も思想もどんなことも詮索することなしに信じて愛し疑わない身内だけの世界がある。このふしぎな私の夢をあなたもいつか信ずるでしょう。そう信じなければ、人は寂びしくてこの旅の世界に惑い泣いてしまう。
私はこういうことをあの博物館の中で花火のように想い描き、瑞泉寺を出るときに信じはじめました。私の得たふしぎな安心は大きなものです。死をおもうことに恐怖がうすれています。
迪子はこの私の描いた夢を理解したようでした。 06.08.23 ――了――
* 言っておく、「第二子(弟・秦建日子)誕生以降二十年」のながきにわたり、実父であるわたしから「性的虐待」「ハラスメント」を受け続けてきたと、インターネット上での謝罪と賠償金を「民事調停」の場に求めている「第一子(姉・★★夕日子)」を、わたしは心底軽蔑し、永訣する。
わたしの帰って行く「本来の家」にこの心腐った娘の影は微塵もささせない。わたしが高校生の頃から、いつの日か我が子にと、こころこめて名付けた「**子」の名は返してもらう。せいぜいウソつき「木漏れ日」を名乗って生涯薄暗い虚偽の営為に生きるがいい。
* 今日は、風につらいことがおありだったのではないかなあと、一日想っていました。
どうして風を辛い目に遭わせるのか、誰をというではなく、風をそういう環境に置く見えない力に、腹を立てています。
言葉が見つかりません。
お元気で、風。 花
* なんじゃい こんなこと。夕日子さんの悪役大芝居と思いなさいませ。夕日子さんなりに父親にぶらさがって文学史に名前を残そうとあがいているのかもしれませんよ。
秦恒平はこれからが益々花の盛りではありませんか。書いて書いて生きて女たちを愛してください。
それにしても「畜生塚」いいですねえ。何度読み返しても惚れ惚れします。二十七歳でこれを書いたなんて……。湖は天才の人生を全うするしかありません。
お元気でいらしてください、湖。 月
2006 10・16 61
* やす香さんの遺したものがこんな悲惨な結果であることが 本当に辛く思えてなりません。
愛するものを共に失った夕日子さんと心の交流が復活することを心から希っていたのですが。
湖さま。
やす香さんのぶんまで 生きて差し上げてください。
ケケケさんのためにも。今の夕日子さんは 病んでいてその力はありませんから。
三枚の絵 私は バラの絵と川の絵に心惹かれます。さりげないバラの絵ですが、力強い生命があります。イタリアの娘(画家)の感想も聞いてみようと思います。
毎日 本当に夜七時 八時まで忙しくしています。
でも 一度 にごり酒のおいしいお店にご一緒したいですね。久々お逢いしてわかるでしょうか・・・・。 波
:結婚し母となってなお、父と嬉々として旅する夕日子 写真
* 平成三年(91) 正月、わたしと、母の代役の若いミセス★★夕日子とは、文化出版局「ハイミセス」編集者カメラマンとともに、四国松山、中国柳井・厳島等への「旅」に出た。これはその旅中の仲良しな父と娘との写真。雑誌掲載以外にもこういう佳いスナップが何枚も手元にある。「見るから仲のいい父娘」と評判された。
見るがいい。この夕日子の笑顔の自然なこと。二十年にわたり父の「性的虐待」に悩み続けたと「調停」の場で訴える暗い多年の影が、この表情のどこに見えているか。
そもそも結婚して五年半もの主婦であり、母親であり、実家の父がそんなにも疎ましいなら、何泊もの長旅に同行する必要は少しもなく、誰も強いることなど出来ない、夕日子はニベもなく断って少しも構わなかった。ところが母に代わって父と旅が出来ると、夕日子は幼いやす香を家族に預けてでも、大喜びで西国へ仲良く同行してくれた。晴れやかな顔をした同じ時の写真が、このファイルの末尾にも三枚ならんで出ている。
だいたい、我が家では父親はいつもカメラマン。父親とならぶ写真は自然少ないが、このときは幾らでも同行の編集者がわたしのカメラで撮ってくれた。
夕日子は「肖像権」を楯に、「内容証明郵便」で自分の写真を使うなと削除要求してきた。わたしも肖像権は心得ている。だが、データも具体性も何一つない口から出任せの虚言であっても、また「夕日子さんは父親に勝ちたい一心から、ウソの性的虐待をすら平気で言いかけてきますよ」と、その危なさを早くに予想してくれていた観察者もいたわけであるが、それでも、「セクハラ」や「痴漢」裁判は「女の勝ち」が世間の常識であるらしい以上、わたしには、娘の破天荒なでたらめ虚言を、娘の母、わたしの妻、である者の名誉のためにも、「物証」で示して身を護る「権利」がある。訴えられるなら訴えてみればいい。
弟が生まれて以降、自身が「七歳」の春から父のセクハラが急に始まり、自分の結婚まで二十年間ずっと続いたと夕日子は訴えている。
何のことはない、七年も親の愛を独占できていたのが、弟の誕生に親の愛も祖父母の愛もみんな奪われたと、世間普通なら一過性に通過するいじけやひがみの表れを、なんと二十年も、いやいや今四十六だか七だかまで引きずってきましたと、自ら「解説」しているに等しい。
わたしは、妻もむろん協力してくれるが、われわれの夕日子が、いかにのびのびと両親に愛されて育った娘であったか、遠慮無く、みごとな「夕日子アルバム」を此処へ一ファイル分「編集」してみようかと思っている。心なごむ、この際恰好の「癒し・楽しみ」で、ばかげた腹立たしさがいっとき忘れられるだろう。
写真はもう、各年代にわたりたっぷり用意した。それだけでアルバムが三冊。みな、上の写真のように、生き生きと可愛い昔昔のわれらが娘夕日子の、ウソも仕掛もない像である。こんな佳い写真をこんなに沢山撮ってもらっていたかと、感謝してくれなくてもいいが、内心にきっと驚くことだろう。
見る人は、みな、これら夕日子が、父親から「性的虐待」を受けつづけけていた可哀想な娘の像と見えるか、きちんと、判定して下さるだろう、裁判官にもぜひそうして欲しい。
それにしても夫・★★★=青山学院大学教授は、西欧のヒューマニズム時代の人間哲学にくわしい学者であり同時に若い学徒を預かる教育者であって、社会的な地位と責任をもつ紛れもない公人である。わたしからの真っ向批判を浴びてしかたない、地位有る「先生」である。自分の妻の、我が父親に対するかかる破廉恥な狂乱を、どう傍観しているのか、あるいは容認しているのか、聴いてみたい。
わたしは、一般市民であるたとえば向こう三軒両隣のオジサン、オバサンを公然非難したり批評したりは決してしない。するのは、政治家や、知名度で以て働いている創作者や演技者や教育者や文化人・知識人や、組織団体に対し何かを感じたとき、その時はきちんと遠慮なく批評する。褒むべきは褒める、非難すべきは非難する。むろん自分がそうされることにも異存はない。
ただし、夕日子よ。★★★よ。でたらめなウソはいけないね、恥ずかしいじゃないか。
そうそう、わたしは、自分の家族にむかっても、お互い何の遠慮もしない。建日子でも夕日子でもむかしから何かあると父から「バカかお前ッ」とやられてきた。しかし、二人とも大いに可愛がられもした数々の記憶、忘れたなどといえた話ではあるまい。家族写真は、その点、ウソをつかない。一枚二枚ではない、我が家のアルバム、大判で三十冊はあった。カメラマンの父親が向けるレンズの前で、ウソの迷演技などできるものでない、そんなことは、今はプロの建日子がちゃんと保証してくれるだろう。
こういうことを、秦さんが自ら言うのは情けないという声が聞こえてくるようだ。だが、わたしは、一糎でも逸れて行く火の粉は払わないが、ふりかかる没義道(もぎどう)な、しかも実の娘から狂ったように繰り出される火焔を黙って受けるような、グズな偽善的な聖人ではない。わたしはハッキリ胸の内で怒鳴っている、「バカか、お前ッ」と。
2006 10・17 61
* 妻の衰弱が目にあまってきた。体調よりも精神の疲弊。この苦境は二人が死ぬ日までつづくこと、はまちがいない。
* 随分早くにこう観測して、わたしに懼れねばいけないのは「夕日子」だと教えていた人があった。夕日子達がこういう「作戦」から父母を圧迫しようとしていることを、経験あるその道の「観察者」は正確に見通していた。
* 私がもっとも恐怖するのは、裁判が不利になった場合に、夕日子さんが「言葉によるハラスメント、虐待」だけでなく少女時代に「性的虐待」を受けたと嘘を訴えることです。夕日子さんはそこまでしても勝ちたいでしょう。負けないために周囲が煽るでしょう。アメリカでは無実の父親がこうやって社会的に葬られた例が山ほどあって本になっているくらいです。
もし、そのような根も葉もない訴えがあった場合、秦さんの潔白を信じてもらえる可能性はほとんどない。裁判は女の味方です。(自称)被害者のほうが強いです。痴漢の冤罪よりも無実の証明は絶望的です。 読者
* 掌をさすように夕日子は「そう」出て来た。建日子が生まれて以来(夕日子が七歳以来)二十年、絶え間なく父親から虐待されてきた、と。しかし、こういう別の観察もきっちりされている。
* まず娘さんが「MIXI」に書いた性的虐待の日記ですが、そもそも娘さんがハンドルネームを使っているとしても、周囲に自分とわかるように書いていること自体、そういう事実はなかった「嘘」とわかります。性的虐待のカミングアウトというのは、女にとってよほどのよほどです。使命感でそういう「活動」をしている人以外には、ほとんど例がないのでは。
私は子ども時代の虐待について本人の書いたものをいくつか読みましたが、まずあまりの傷の深さに、そういう著作自体少ない。そして、書かれたもの二例では、本人が自分の名前を戸籍から変えていました。「MIXI」に載った娘さんの(結婚後にも父親と楽しそうに並んで旅している、また自然な笑顔の幼時の)写真は、みごとに(上の嘘を証明し得ていて) 雄弁です。 読者
* わたしの読者はほんとうに多彩で、その道、道で著名な人もいっぱい、いまは亡くなったけれど最高裁判事の一人もながいあいだ「湖の本」の熱心な支持者であった。
* この写真。上のが六九年秋深く、九歳数ヶ月の娘・★★夕日子が、二歳に近づきつつある弟と大笑いしている。撮影は、むろん父親のわたし、ニッカの愛機で。保谷泉町にあった医学書院社宅時代。翌年早々には下保谷に新築の新居に移転した。この写真の年の六月桜桃忌にわたしは第五回太宰治賞を受賞し、文壇へ仲間入りを遂げている。
ところで夕日子の「民事調停」陳述では、これらより二年二年半も前から、すでに「父親による性的虐待等」を受けて苦しんでいたとある。
この頃わたしは激務の編集管理職のかたわら、新潮社新鋭書き下ろしシリーズ『みごもりの湖』をすでに依頼されていた。受賞第一作に旧作『蝶の皿』を新潮に、また新作『秘色』を展望のために書き継いでいた。編集職の繁忙と新進作家への意欲や不安とで寧日なき日々、こういう写真を写せる機会が、ほんとの憩いと楽しみであった。わたしは一にも二にも自身とひたと向き合い「創作」に打ち込んでいた。さもなくて生き延びて行ける世間でなかった、純文学の文壇は。
子煩悩過ぎるとまで人に笑われたわたしが、なんでこんな無邪気に可愛い娘を性的に精神的に虐められるだろう。この当時の医学書院鉄筋六世帯の社宅は、一世帯、襖で隔てた六畳と四畳半だけ。家族は妻と四人。妻はわたしの夥しい手書き原稿を、日々家事と育児のかたわら懸命に清書してくれていた。
* その妻とわたしが、今、古稀を過ぎて、★★★の妻となった娘・夕日子のいわれなき狂暴ででたらめな攻撃に苦しめられている。
やす香に「死なれた」悲しみはもとより、半年にわたりあの重篤なやす香の劇症から「目を離し」て、薬石の甲斐はおろかいきなりの終末期医療で残念にも「死なせて」しまったと、そう祖父母は嘆いた。ところがそれを、「両親を殺人者と謂うのか」「殺してやる」と激昂してのあげくである。
わたしの妻は、母に先立たれた父に自殺されている。それを今でも自分の気のゆるみから父を「死なせて」しまったと悔いて嘆いている。まともな親なら我が子に死なれれば「死なせて」しまったと嘆き悔いてむしろ自然ではあるまいか、祖父母ですら、そう嘆いているというのに。「死なせた」が「殺した」と同じ日本語なものか、どんな語感でいるのだろう。文学音痴は、「哲学」に学んだ夫婦ともどもなのか、情けない。
わたしは、ふつうの言葉ではもはや言い解きようのない娘夫妻のこういう卑劣な言いがかりに応える、これより他の「方途」を知らない。弁護士も教えてくれない以上、こういう写真を二十数年分一枚一枚掲載して行く。自身を守り妻の名誉をまもってやる、他の方途をわたしは知らない、持たない、からだ。 2006 10・18 61
* 歯科の神戸一三先生葬儀に妻と列席してきた。葬式は寂しい。
江古田の神戸先生は上の写真の社宅時代から御世話になってきた。お嬢さんが二人、上の蘭子ちゃんはお茶の水女子高で夕日子と同学年、下の葵先生には夫婦していま歯を診てもらっている。その、上の蘭子ちゃんのご主人の舅・神戸先生を悼んだ遺族挨拶の言葉には、妻もわたしも感動して泣いてしまった。なんと世の中にはこうもちがった「娘夫婦」がありうるのかと。はっきりしている、神戸先生に徳があり、わたしたちが不徳であった、それに尽きている。
* 幼い日の娘の写真を見ている間は、老いた父と母はひととき心癒されている。なんという皮肉なことか。
* だが必ずしもそれだけではない、『千夜一夜物語』を文庫本で読み始めると、わたしはあっというまに他界に翔んでゆける。午前・午後、葬儀からの帰りの電車で本をポケットから出すとたちまち、わたしはシェヘラザーデのお噺に溶け込んでしまい、気が付くとクツクツ笑っていたりする。四百十九夜「男女の優劣についてある男が女の学者と議論した話」には吹きだした。わたしの妻にもどうか、こういう何かしら別世界をもって溶け込み、何の意義もない不愉快を押しやり押し払って日々過ごして欲しいと思う。
* ブッダは無益な修業をしないと、こんなことは、達磨だから言える。獅子吼とはこういう言明をいう。
* 無心の本性は根源的に空であり、清浄でも不浄でもない。心(マインド)のレベルであれこれしている限り、だから当然、無心にはなれない。心はいつも思考で溢れて在る。心とは思考の容器にひとしい。そしてそんな心の働いている過程は、清いか汚いか、なにしろ容易に空ッぽに成れないのが心(マインド)である以上、それは清浄か不浄かのどちらか。心はけっして二元対立を超えることはできない。いつも賛成か反対かであり、いつも分割・分別されていて、分裂症の状態にしかない。けっして全一(トータル)にはならない。なれない。二元対立を免れうるのは「無心」という静かな、心ではない心だけだ。それは曇りなき大空のようなもの、トルストイの『戦争と平和』でアンドレイ公爵が戦場で斃されて見上げていた無限の青空がそれだった。
* いまわたしのマインド(心)の世間は黒雲が渦巻いておはなしにならない不浄な世間だけれど、わたしはそれがそういう世間だと知っていて、無明の闇にいる自分を感じているが、そこから抜け出せるときを持っていないのではない。雲に目をむければひどいものだが、雲と雲のかすかな隙間を通して広大無辺の澄んだ大空を垣間見ることもそれに気づくことも出来る。そのとき★★●も★★夕日子もない、何の価値もないただの雲屑とすらも意識しないでいられる。
それなら大空になればいいではないかという催しがあるにしても、まだそれが理であり言葉であるあいだは、わたしは慌てて覚り澄ますフリなどしたくない。まだマインドで分別してなんとかしようなどと思う自分を完全に否認し得ていない間は、ま、現世風に闘わねばならず、苦しまねばならない。
2006 10・18 61
* まことに奇妙なものを読まされた。一字一句そのままに、まずさしあたり、「秦による★★夕日子に対する40年にわたる虐待行為」と題してある。調停の町田簡易裁判所へ提出された公式文書で、前にあげたわたしの「陳述書」に相当する。
放っては置けない。すべて、順に応えてゆく。
わたしの「伝記」を書きたいと言うている人もある、恰好の資料になるだろう。毎日「つづき番外日記」として書いていこう。先ず太字の「第一項目」から。年次が挙げてある。それだけでデータは無い。
*1967年
秦家弟二子妊娠をきっかけに、夕日子への虐待が始まる。性的虐待を含む精神的蹂躙等。 ★★夕日子
* 母迪子の妊娠を「きっかけに」とは何を謂うのか、意味も因果関係も全く不明、事実の証挙も全然無い。こういうことを言いかける以上、明確に願う。
この年の夕日子はわずか七歳、だが、書いている今は四十六歳、もう少し大人の言葉を使って欲しい。
母迪子には生来出血性素因の出産危険があり、一度は医科歯科大で、妊娠しないようにと警告それていた。その対応に結婚以前からともに憂慮してきた我々夫婦は、夕日子を妻が妊娠したとき、会社先輩を通して当時血液学会の泰斗であられた森田久男先生を頼り、「任せなさい」と太鼓判をおしてもらい、それでも出産に当たっては会社同僚から献血してもらったり、予定日二ヶ月も前から入院したり、病院も両親も懸命に努力した。秦の上司で著名な文学者長谷川泉編集長の夕日子誕生祝いには、氏の著書の見返しに、そのことを含めた温かい献呈詩が書かれて残っているし、後年夕日子の結婚式には御世話になった森田教授と助教授にも、長谷川氏にも出席して祝って戴いている。
第二子建日子の妊娠を永く夫婦がためらったのは、そういう母親の体質上の懸念があったからだが、第二子をぜひにと奨めてくださる先生もあり、日本の「新生児学」草分けの馬場一雄先生に御世話戴いて、日大病院産科と小児科との緊密な協力のもと、建日子の誕生へ、むろん姉夕日子の期待もふくめて、家族が心を一つにしていった。
わたしには永年の手書き日記がすべて残っていて、今此処にも、まさしく一九六七年から八年九月までの大学ノート二冊が在る。
昭和四十三年元旦、それは一週間後の建日子誕生をまだそれとも知れず、ただただ病院の空白な正月休みを何としても無事乗り切りたいと肝の冷える思いで年を越してきたところだった。その日記にはこうある。わたしはまだ作家ではなかった。
1968年 昭和四十三年元旦
使い馴れ、沢山の仕事をしてくれた古いペンのインクを抜き、この新しいパーカーにインクを入れることから新年は迎えられた。このペンで今年は良い、納得のゆく作品を生みたい。多くということより、良い作品を一つでもと願う。会社の仕事は難しい一年を迎えるだろう。朱い校正ペンのインクもしっかり入れかえた。
つい先刻、私は一人で尉殿(じょうどの)神社へ参ってきた。(大晦日の)十一時十五分頃だったからまだ人はいなくて、あかあかしとかがり火がたかれていた。祈ることは一つ、迪子の無事と安産。誕生する子の無事健全。そして夕日子の健やかでつつがない成長。父、母、叔母の安穏で健康な老年時代。それに私の力強い生活。
しかし、何よりも迪子の無事だ。私は参拝に出かけずに居れなかった。何という緊張の月日だったことか。九月中頃、病院へ呼び出され、手術か安静かで心を悩ませ、一時入院し、母の上京を乞い、そしてマル二ヶ月余にわたる静臥の日々。やっと十二月十日の婚約記念の日から(出産への最低)目標圏に達したが、その後も大事に大事をとり、ついについに年を越えたのである。大晦日のマル一日の長く切なかったこと、刻一刻、私は祈らずに居れなかった。しかもこの日、社用で(本郷の)編集長宅へ出向かねばならなかった。
だが、私は1967年に感謝する。私たちにもう一人の子を授けてくれた。どうか1968年がつつがなく夕日子につぐ私たちの建日子(男子なら)、肇日子 (女子なら)を迎えさせてくれますように。
日の出まつ祈りは一つ父と母
母ひとり産むにはあらで父も姉も一つに祈るお前の誕生
私の思うことは今はただただ迪子の無事安産だ。その瞬間まで私はベストを尽す。迪子、頑張っておくれ。Good Luck! 1968年!
南無阿弥陀仏、南無観世音菩薩、南無大勢至菩薩、 合掌
* なんとも気恥ずかしい男三十二歳であるが、さ、此の切なる祈りの日々のどこに「夕日子への虐待が始まる。性的虐待を含む精神的蹂躙等」の影がさしているか。
「夕日子への虐待が始まる」どころか、この夏から翌年一月八日の建日子誕生までの日々は、ただただ母胎の安定を祈りながら切迫流産の危険に堪えて暮らしていた。わたしは、なんどか夜にひとり近くの尉殿神社に無事祈願に通っていたし、それでも、秋口までは同じ社宅にいた、いまは米沢女子短大学長である遠藤恵子さんや親友の小椋春美さんという女子社員に「茶の湯の作法」も教えていた。妻がきわどく入院しそうになると京都から母も手伝いに来てくれたし、夕日子もじつに懸命に洗濯や風呂の用意などそれはそれはしっかり手伝ってくれて、どんなに両親は助けられたか知れないのである。感謝こそすれ虐待、性的虐待、精神的蹂躙? どこにそんなものがありえたろう、いったい何のために。わたしは、もう孜々として小説を書き継いでいて、それに命がけだったし、夕日子のためにも弟か妹が出来るといいと、「一人子」で育った淋しさをよくよく知っているわたしは、妻に身の危険を冒してもらったと言えば言えるし、妻も同じことを夕日子の為に願っていた。親として当たり前の願いである。
だが、あの「絶対安静」はしんどかった。とにかくも出産予定日に一日でも近づけたいと医師にいわれた。そのためには暮れ正月の病院の空白期を跨がねばならない、気が砕けるほど心配し日々祈った。家の掃除もするな、埃りで死にはしないと医者に言われるほど、母迪子は安静を要し危険であった。
その状況で当時七歳の夕日子の懸命の協力は、よくやってくれると親として感謝感激であった。父は主任編集者として部下とともに月刊雑誌数冊の定期発行、さらに単行本企画やその刊行の責任を帯びていて、言語道断の激務であったが、日々食材の買い入れから簡単料理、おりしも正月を迎えるための雑煮やご馳走の用意など、生涯に二度となかったほど、朝に晩に台所に立った。夕日子は洗濯や風呂の用意などを良くしてくれたが、閑散とした郊外の社宅ではあり、買い物はごく近所へだけ。だが、よく手伝ってくれた。わたしは池袋の地下ショッピングセンターで毎日帰宅途中ひたすら肉の細切れや卵など、ワケの分からない買い物をして帰った。正月のご馳走は仕方がないので、むやみに買ってきたいろんなものをぶちこんで、闇鍋風にしたのを覚えている。
京都から老母がまた手伝いに来てくれたのは、一月八日に建日子が生まれて後であったが、この建日子の状態が夕日子の時よりもそう簡単ではなかった。建日子だけの院内生活が長引いて母親は嘆いた。京都の祖母は夕日子のために和服の晴れ着を土産にくれて、それを着て一緒に宮参りしたりした写真もある。
その後も、弟との生活が嬉しくて楽しくての、おもしろい姉と弟の仲良し写真は何枚も何枚父が撮っている。
いったい、どこにその父親から性的虐待を受けたりハラスメントされた暗い影があるか、写真は一目瞭然で、要するに冒頭の第一項など、何の裏付けも無い夕日子の「虚言」「妄想」である。この当時から、太宰賞を受けて文壇へ出た父親には、ひたすら文学、文学の創作意欲で貫通された歳月が続くのである。新人離れした年に四、五冊平均も単行本を出し続けて十数年、息もつかないような中で、わたしと娘との触れあいは、たくさんな自慢の可愛い子供達写真が雄弁に物語るであろう。
* ただ一条、わたしは夕日子のために言い添えてやりたい。夕日子は1960年、昭和三十五年七月二十七日、われわれがやす香をついに死なせてしまったその日付けに生まれていて、弟より七年半の年長である。わたしは妻の危険を懼れるあまり第二子出産をためらいつづけた、そのために夫婦生活にも厳格に注意をはらい妊娠を避けた。それでも実は一度妻は初期の内に妊娠中絶も敢えてしたのである。それだけに夕日子への両親また京都の祖父母達の愛も深かった。まさに夕日子は大人の愛を一心に集めていた。鍾愛とはあれであったろう、妻とわたしはのちのちにもそれをこう言ったものだ、「夕日子は建日子より七年半もながく、あんなに愛されたトクをしてきたんだなあ」と。
しかし建日子という男子の、生まれたときからやや健康につまづき多い弟の、誕生は、一つには両親を心配もさせ、また男子なるが故に京都の老祖父母達の驚喜をもかちえたのは自然の数であった。「男の子というのは、あんなに喜ばれるんだ…」とも、両親はしんじつ驚いた。それが夕日子をよほど心外に落胆させていたのでもあろうことは、当時から理解していた。すこし可哀想な気もしていたが、秦家に限った現象でないのも事実で、姉は七歳半の年長ということに、われわれは当然「期待」していたし、まして両親である我々に弟・建日子を偏愛したなどというバカげたことは微塵もなかった。「良くできる夕日子ちゃん」「わすれもの上手なアホーのタケちゃん」という、ま、幼少期からの人様からの定評は永く動かなかったのであり、「良くできる」「いい子」の夕日子にそれゆえの負担があったにしても、そんなことは世間には「愚弟賢兄」の顰み余りあり、ほんとうに聡明な兄や姉は、みなふつうにそれを乗り切っていっている。まして七歳半も年長ならば。
現に四十六歳で「町田市主任児童委員」の肩書きを自負する大の大人の夕日子が、わが母の「第二子妊娠をきっかけに虐待が始まる。性的虐待を含む精神的蹂躙等」の、と拘泥し当時の状況に明らかに極端に背馳した妄想を持している点に、むしろ★★夕日子個人の或る意味「病的な未熟さ」までが察しられる。
2006 10・18 61
* 今日は大部の校正刷りを抱いて、頭をつかいに電車にのったり美しいモノをみたりしに街へ出る。晩には谷崎賞のパーティーがバレスホテルである。いちおうそれにも出る気で出掛ける。
* 夜にはまた夕日子の申し条を読んで応えよう。
* ほぼ終日、家の外へ出て過ごした。頭をつかい視力をつかい、もう何度も読んだものを細部まで神経をとがらしながら大量に校正するのは、しんどい仕事だ。院展があり創画展があり、足を運べばいくらも観るべきはあるけれど、何処へ行ってもあまりに大量展示。そして店に入っても、呑んでは出来ない仕事をするのだから。たくさん水を飲んだ。
それでも、秋晴れはけっこうであった。
* 今日はBIGLOBE削除問題で第一回地裁審尋だった。法律家同士の話し合いは、なかなか部外者には理解しにくい。明日か二十三日にまた打ち合わせて二十四日午前に第二回を、と。疲労が溜まっているので明日は勘弁願い、二十三日午後に法律事務所へまた出掛ける。
2006 10・19 61
* 夕日子の次なる申し条は、1985年に飛んでいる。ここには関連して何箇条も書かれているが、順に一条ずつ検討する。
* 1985年
夕日子の交友関係をことごとく妨害した後、「孫がほしい」と見合いを強要。
* これまた具体的な何一つのデータもない。これではただの「言いがかり」に過ぎず、まさに言いがかりであることを以下に個別に示す。
* 昭和六十年、夕日子は二十五歳、この六月早稲田大学教育学部助手の★★★と結婚している。お茶の水大学の「哲学」専攻を卒業し、谷崎松子さんら父の知人の多大のご尽力、ご推薦を得、なにより夕日子自身の熱望黙しがたく父母の奮闘努力のおかげで、念願のサントリー美術館に就職していた。まともにはとてもパス見込みのない人気の就職先であった。
この年までに、わたしは六七十冊の単行本等を出版し、人もおどろく多忙・多産。そんな働き盛りの中で、夕日子の複雑多岐な恋愛問題にも巻き込まれて、両親も弟も重ね重ねの家族会議などを要し、心底ヘキエキしていた。
そもそも夕日子の「交友関係をことごとく妨害」しながら、連年ぞくぞくと出版し執筆し、新聞雑誌に連載し講演し放送放映にも作劇依頼にも応じて、それぞれ満足にこなしていけるものか、父親の仕事量も質も、半端ではなかったのである。その意味で、夕日子の交友関係のとばっちりに一番父が迷惑を忍んでいた一例だけを言っておく。狭い狭いわが家の中で、執筆創作中にも絶え間ない長電話長電話の連日には、癇癪が起きて当然だったろう。
一番呆れたのは、そんな多忙な中で、父が当時唯一の「執筆」道具であるワープロを、恋人の何だかの用のために二三日貸してあげてくれとと廊下に正座し両手ついて夕日子に頼まれたこと。何を考えているか、「バカかお前」と言う以外に言葉がなかった。
当時の予定表を観ると、わたしは常に十数種もの依頼原稿を抱えていた。書かねば済まなかった。それがわたしの一所懸命の仕事であり、ワープロは絶対に寸刻も手放せないツールだった。
夕日子の恋愛がいかなる経緯で、何度何人との間で継起したか、むろん正確に覚えているわけがない。けれど、言える範囲でも、この85年近い数年のうちに、顕著に、三人の男事件が同時に継起・併行していた。
妨害どころか、その一人とは親同士でも何となく望ましい間柄として見守っていた。東北大院生で中学時代に同期だった温厚なT君。何度も彼の自動車で夕日子はドライヴデートしていたし写真ものこっているが、残念ながら観るからに体温の低そうなカップルだった。親たちのいくらか未練も残しつつ、自然解消した。親は終始傍観していたのであり、何ら干渉していない。
今一人は、お茶の水在学中からの、夕日子より一つ若い、どうやら夕日子を熱愛していた 他大学のI 君がいて、「魂の色が似ている」からと、一時は夕日子も結婚前提の交際を受け容れたがっていた。大学卒業後は遠い故郷に帰り家庭科教師になる「約束」のある男性で、夕日子がそんな海山の向こうへついて行けるとは思われもしなかったし、なによりその男性に対し夕日子が敬意を少しも持っていないこと、下目に見て軽蔑口調にだんだん移っていることからも、むしろ I 君に気の毒という印象を持っていた。まして婚約の結婚のに親として賛成できなかった。妨害といえば妨害でも、ちゃんと理由があった。それでも夕日子は親に隠し弟をダシに京都へ一所に旅するなど、あとからバレた行跡不明朗が一度ならずあった。時代も時代と諦めていた。そしてあげく、夕日子が完全にこの I 君から逃げ回ってすげなく袖にしたのであつて、親が妨害したのでも何でもない。
彼が、三年の冷却期間を置いたあと、諦めきれず改めて求婚してきたときも、夕日子はニベもなかった。たいした「魂の色」だと親はむしろ唖然と観ていた。
若い I 君を剣もホロロに夕日子が振ったかげにいたのが、夕日子より両親の方に年齢の近い、或る美術研究家のM氏だった。この人は学問的には勝れていて、友人としてなら父親の方で歓迎しいろいろ教わりたいぐらいだったけれど、若い夕日子の夫としてふさわしくはないと、これにはハッキリ賛成しなかった。理由は色々持っていた、問答無用で「妨害」したわけではない。イヤほど話し合った。他の家族もあげて此の件では夕日子の欲求に反対したのである。
だが夕日子は家を出て同棲をすらしかねまじき日々の惑溺ぶりであった。われわれは心底苦慮し苦渋を嘗めていた。
ところが、「二つ」の別々の様相が夕日子に兆すと、夕日子は、あれほど狂乱的であったM氏との結婚希望を、忽ちに打ち捨てて、父の心友野呂芳男教授の提案するアメリカ遊学に乗り換え、両親にむかい夢中で渡米を切望した。むろん何をしたいという具体的なプランも何も無くて、である。九十老人三人の介護を目前の大事に控えていたわたしの家には、そんな無目的なお遊びにまわせる余力は皆無だった。
もう一つは父の依頼を受けて早大教育学部****教授が紹介してくれた、★★★との「見合い」があった。だれもがアアッと驚く電撃的早変わりとなり、夕日子は★★との結婚へ短距離疾走して、忽ちに六月挙式となった。
この見合いは、わたしたちが「強いた」とも言える。だまされたと思って会ってみよと奨めたのである。ところが夕日子は、母にむかい、「パパは今頃になってあんないい男をみつけてくるんだからあ」とボヤキのていで、やにさがっていたのである。
夕日子は男性にもてるタチでなかった。弟もそう観ていたし、父親は、遺憾ながら、いくらか相手になる男の方にいつも気の毒な気がしていた、 I 君のときのように。だからこの四人の男性が去来した以外に、親密な男友達の気配はほとんど感じられなかった。むしろわたしが気を利かせ、美術研究の方面からの若い知人学芸員などに家まで遊びに来てくれるよう頼んだこともある、が、夕日子を魅力的に感じてくれる客はなかった。小説『ディアコニス』に書いたN子ちゃん一人が夕日子と結婚したいと殺到してきた事件の方が強烈な印象だった。大学生の夕日子は障害を持った昔のクラスメートの来襲の日々、机のかげに隠れて怯えて震えていたのである。
「孫が欲しいと見合いを強要」という夕日子の物言いは、二つの全く別のことを、強引に繋いでいる。
「孫が欲しい」のは真実の事実である。一つにはわたしを貰い子してリッパに育ててくれた「秦家」を、子として継ぎ伝えられるようでありたい、わたしの義理の気持ちが強かった、今も強い。娘と息子とがいて「孫の欲しい」のは親なら自然の願いというもので、誰が咎められようか。
ところが「見合いの強要」などしているヒマは、執筆その他の文学活動に大わらわなわたしには、クスリにしたくもなく、現に夕日子の見合い体験は、ご近所から来た富士通社員とのホテルでの見合いが一度、これはお義理であったし、双方から断りとなった。
もう一度は、うんと年上のM氏との同棲結婚事件への緊急回避策であった★★★との見合い以外、わたしは一例も記憶しない。そして「強要」はしたけれど、 ★★との見合いがいかなる素早い展開を見せ、夕日子から「ぼやき感謝」をされたかは、これら総てに詳細な記録がのこしてある。
もう一つ、これは先方からメールでわたしのもとへ舞い込んできた、ミセス夕日子の男友達か、趣味の囲碁のかかわりで奈良にいて、上京の時には逢っているらしくえ、夕日子が元気であることなどをわざわざわたしのために報せてくれたことがある。どういう人か、どの程度の碁敵なのか知らない。が、夕日子はやす香が苦しみを露わにしていた今年三月ごろ、弟へのメールに、自分が速記職として就職していることと並べて、じつは或る得難い「碁の先生」を自分は大事に持っていると特筆していた。その先生とメールの主が同じ人かどうか分からない。この例など、私には、妨害のしようもない。
* 以上「夕日子の交友関係をことごとく妨害した後、『孫がほしい』と見合いを強要」など、これまた夕日子の身勝手な「つくりごと」に等しい物言いで、ことの経緯は、各男性事件の推移を略示したわたしの日記が軌跡を残していて、簡単に記憶の再現が利くのである。ちなみに、かの家庭科教師になった I 君は、つい最近も我が家を訪れて夕日子の消息を知りにきたし、大学院を出て結婚のときには、わたしに「証人」になって欲しいと頼んでも来た。妻としみじみ「夕日子と結婚しなくて I 君、幸せになれたね」と話し合ったものだ。彼が夕日子の結婚を知らず、誕生日に赤い薔薇の二三十本もを我が家に贈ってきたとき、母がミセス夕日子に電話で報せると、「棄てちゃって」とただ一言、妻は、我が娘の凄まじさに憮然としていたのを忘れない。
* 夕日子一歳半、社宅ベランダでのこの写真こそ、われわれ夫婦両親と娘夕日子の「今生」を象徴するはずの一枚であった。
喜びに溢れて撮影したのが父親の私であること、言うまでもない。
愛とは高貴な、だがしばしば苦々しい錯覚であるのが本来と、だが、わたしは根源の認識で少年の昔から自覚してきた。いまこの両親はこの娘の汚辱の暴言により、裁判所で公然はずかしめられている。その一々に私たちは応えねばならない。
2006 10・19 61
* 風のメールを、大切に、懐かしい想いで読みました。
風、がんばって。
客観・俯瞰してみれば、人間世界は愚かなものでしょうね。
でも、まだ、自分の創造するヒーロー・ヒロインは、聡明であってほしいなあと思ってしまいます。 花
* 聖人君子を書きたい、読みたいなんて思わない。感心するかも知れないが面白くはない。花は「聡明」という言葉を書いてきた。わたしは如才ないと同義の、また偏差値や知能指数の高い意味らしい「賢い」ことには、敬意を感じない、賢人という言葉も実質も、気持ち悪い。しかし聡明な人にたいする敬慕はふかい。残念ながら深い敬慕の思いは、だが、めったなことで満たされない。七十余年の人生で、何人に逢えたか。
娘にも息子にも、言いつづけた、賢くなくていい、聡明に生きてくれと。
2006 10・20 61
* 夕日子による「秦家」指弾の第三弾はこうである。
* 1985年
結婚式直前になって、「子供ができたら離婚して帰ってこい、子供は私のものだ」「風になって、夫婦の寝室でもどこでもついていく」などと脅迫。 ★★朝日子
* 妄言とはこれかと、思わず嗤ってしまう。先ず、後段のいやらしい言いがかりから始末を付ける。
父・秦恒平には「昭和六○年六月八日 娘が華燭の日に」「あとがき」を書いて祝った、講談社刊の叢書「詩歌日本の抒情」第四巻『愛と友情の歌』編著の一冊がある。子弟への祝儀などに好んで贈られた好評の一冊であり、わたしはこれを執筆の間、嫁ぎ行く娘や育ち行く息子を念頭に、古来・現代の厖大な詩歌から、心籠めて佳い作品を選びまた心籠めて鑑賞文を書いた。「結婚式直前」というより、夕日子が幾つもの恋愛迷走で一家を混乱させていた頃の書下ろしであった。
多くの掲出作品中、「親への愛」の章に伊藤靖子さん作のこの一首が在る。わたしの読みとともに掲げる。
抱かれて少しずつかわりゆくわたくしを
見ている風は父かもしれず 伊藤靖子
思い切った五・十・五音の上句に、手粗いが素朴に新しいリズムも生まれている。「わたくし」を「われ」として強いて五・七・五に音を揃えなかった感覚に、誠実な若さが感じとれる。「わたくし」と「父」との対応に、おそらく一首の真実は隠されているのだから、作者の意図をあるいは超えて読めば、恋する男の愛の手に「抱かれて」「少しずつかわりゆく」うら若い女の状況は、まさにさまざまに「風」のなかにある。その喜怒哀楽のそれぞれの場面で、「わたくし」は、男でもある「父」の目と存在とを体温のように、体重のように同時に感じ取っている。おそれ、愛、怒り、不安、希望。父と娘とだけの余人のはかり知られぬ交感を率直に歌いえている。「未来」昭和四十六年十一月号から採った。
* 歌を選ぶ作業をしていたのは、依頼されてから執筆に入るまでの、およそ刊行より二年以上も以前からになるだろう。むろん夕日子がとびつくように結婚した★★★の存在は、、一ミリの影もまだ我が家にさしていない。そして選歌の段階から、たぶん校正中にも、我が家ほどの「談笑」家庭では、ひっきりなしにいろんな話題が具体的に出て、この歌など、新鮮な衝撃度で食事時の話題にあがっていたかも知れない、そういうとき夕日子はけっこう雄弁な存在であった。その記憶をねじ曲げるのでなければ、「風になって」という具体的な表現の一致は、とうてい考えられない。こういうのを都合のいい、品のない、ただ為にする「言いがかり」と謂うのである。
ことのついでに、「子への愛」から夕日子・建日子を念頭に選んでいた作品をアトランダムに挙げておこう。どの一つ一つも、父・恒平の深い共感から選抜している。言うまでもない、夕日子の結婚より二三年前から半年余も前の仕事。夕日子は百パーセント秦家の「アコ」であった。
お望みなら「親への愛」の作品もすぐさま書き抜いてお目に掛ける。
十五年待つにもあらず恋ひをりき今吾にきてみごもる命よ 長崎津矢子
万の朝万の目覚めのふしぎよりわれの赤子の今朝在る不思議 池田季実子
産みしより一時間ののち対面せるわが子はもすでに一人の他人 篠塚純子
乳のますしぐさの何ぞけものめきかなしかりけり子といふものは 斎藤史
ぢいちやんかといふ声幼く聞え来て受話器の中をのぞきたくなる 神田朴勝
花びらの如き手袋忘れゆきしばらくは来ぬわが幼な孫 出浦やす子
混み合へる人なかにして木耳(きくらげ)の如く湿れる子の手を引けり 長谷川竹夫
吾と臥す肉薄き孫の背を撫でつ此の子を召さむいくさあらすな 吉岡季美
あはれ子の夜寒の床の引けば寄る 中村汀女
わが顔を描きゐし子が唐突に頬ずりをせりかなしきかなや 岡野弘彦
我が家の姉と弟 写真
おどおどと世に処す父に頬を寄す子は三年を生きしばかりに 島田修二
神は自分に一人の女を与へた。
女は娘といふ形で
おれとともに生活をし出した。
おれは権知事さげ
この城の番人となり
神をもまだ軽蔑しないでゐる。 室生犀星
此秋は膝に子のない月見かな 上島鬼貫
幼き息子よ
その清らかな眼つきの水平線に
私はいつも真白な帆のやうに現はれよう
おまへのための南風のやうな若い母を
どんなに私が愛すればとて
その小さい視神経を明るくして
六月の山脈を見るやうに
はればれとこの私を感じておくれ
私はおまへの生の燈台である母とならんで
おまへのまつ毛にもつとも楽しい灯をつけてあげられるやうに
私の心霊を海へ放つて清めて来ようから。 佐藤惣之助
こんにちはさよならを美しくいう少女 岸本吟一
汗くさくおでこでクラス一番で 篠塚しげる
強くなれ強くなれと子をわれは右より大きく上手投げうつ 福田栄一
光の中を駈けぬけて吾子母の日に花弁のごとき整理もちくる 嵯峨美津江
生々となりしわが声か将棋さして少年のお前に追ひつめられながら 森岡貞香
人間は死ぬべきものと知りし子の「わざと死ぬむな」とこのごろ言へる 篠塚純子
子の未来語りあふ夜を風立ちて父我が胸に鳴る虎落笛(もがりぶえ) 来島靖生
安んじて父われを責める子を見詰む何故に生みしとやはり言ふのか 前田芳彦
花菜漬しくしくと娘に泣かれたる 清水素人
外国に留学したき娘(こ)の願ひ抑へおさへてわがふがひなし 松阪弘
人の世のこちたきことら娘(こ)にいひて娘が去りゆけばひとり涙す 村上一郎
花嫁の初々しさ打ち見つつ身近く吾娘(あこ)といふも今日のみ 山下清
生涯にたつた一つのよき事をわがせしと思ふ子を生みしこと 沼波美代子
赤んぼが わらふ
あかんぼが わらふ
わたしだつて わらふ
あかんぼが わらふ 八木重吉
* わたしが今嫁ぎ行く娘に「風になって、夫婦の寝室でもどこでもついていく」などと脅迫」するようないやらしい父なら、いつか華燭をも念頭に祝って、こういう作を選ぶことも、こんな本を書くことも、それで人の胸を打つことも、決して無い。文は人であり、言葉は「心の苗」だと信じているわたしが。「気稟の清質もっとも尊ぶべし」と娘や息子にも身を以て教えて来た父が。
上掲の室生犀星の詩を、村上一郎の短歌をよく読むがいい、夕日子。
* さて前段の結婚式直前になって、「子供ができたら離婚して帰ってこい、子供は私のものだ」と父・私が娘・夕日子に言ったという。
これはまあ何という破廉恥な言いぐさであるか。小説家の想像を用いるまでもなく、文脈は、こういう翻訳を可能になる。「お前の腹には父である私の子が宿してある。結婚だけはして来るがいい、そして子供を出産したら離婚して子供を連れて帰ってくるがいい。其の子の父はお前の父である私なのだから」と。
これこそ父親・母親に対する破天荒な名誉毀損であり、いわばやす香は★★★との子ではないと主張しているありさまですらある。
この恥知らずなむちゃくちゃな物言いと、わたしの思いをそのまま映した上の諸作品とを、しみじみ読み比べてみて下さい。すでに「女流作家」を自称するらしい★★夕日子の妄想力は安直さにおいてもすさまじく、狂気にちかいと愕かされる。診察が必要ではないか。町田市はどこを評価してこういう人物を「主任児童委員」に任命しているのだろう。
わたしは妻と異なり夕日子の「離婚して帰る」ことに終始反対だった。やす香の生まれている、ケケケも生まれてくる、夫婦親子が一家をなすのが当たり前という理由である。そのことは、いろんな場所で繰り返し繰り返し書いている。そもそも離婚して帰られたら要介護の九十老人を三人抱えようという狭い我が家のどこにも、いて貰う場所はなかったではないか。
* こういうことを書き継がねばならないことを、秦さんのために「傷ましい限り」と言うて下さる人は多い。しかし、黙っていてはこの調子で何を言い立てられて窮地に陥るか知れたモノでない。また相対ではつまり「お話しにならない」現に調停の弁護士委員はそれを案じている。
* こういうばかげたことを言いだしながら、われこそ世界一正気と信じているので、つけるクスリがない。結局は「金を要求してきますよ」と人に注意されてきたが、OH! たしかに★★夫妻は現に「金を払え」と要求している。
* お気に入り登録の「生活と意見」をクリックすると、今日もまたのBIGLOBEリサーチの画面でがっかり。
先のみえない確執はひとつ措き、プロバイダーを替え、「生活と意見」の化粧がえをして新規に立ち上げてみるのも一興かと存じます。
小生、多量な迷惑メールに辟易し、いちいち削除するのも面倒になり、腹立ちまぎれにプロバイダーごとアドレスを替えてしまいました。いずれまた、疫病神は舞い込むことでしょうが。
ちかごろ、介護センターから人を派遣してもらうような怪しげ体調になってしまいましたが、貴殿も老躯はしっかりいたわり、多難に対処してください。 ペン会員
2006 10・20 61
* 母親が「目を離し」ていた隙に、浴室から幼児をさらって、サンザンに性的暴行を加えて殺したという外国の事件が報道されていた。人間の「犯罪者」だけがつけ込むのではない、子供の場合は「病魔」もまんまと親の目を盗む。子から「目を離す」危険を、その体験を、わたしの読者は二人も三人も大切に言い寄越していた。
いま★★★・夕日子夫妻は、「目を離して」いたまさに証拠物件に等しい「やす香日記」を人目から隠したいと躍起になり、わたしのホームページを BIGLOBEに潰させたのも、「やす香日記の著作権継承者」としてであった。やす香のあの「病悩日記」は、あまりに雄弁に「真相」を示唆しているからである。
わたしは「やす香白血病」と「MIXI」に公表されると即座に、妻とも手分けして「MIXI」の全日記を「記録保管」した。万一の時には「MIXI」により消却されるかも知れないと懼れたのだった。
* 地裁審尋の提示書類などが牧野事務所からいま届いた。第二回へむけての意見交換は昨日からメールで交信しあっている。明後日に打ち合わせ、火曜には第二回審尋が開かれる。
* こういう堪らないアレコレを受け身に受け止めていると、気分的には陰惨な地獄を這うような思いを嘗め、生きているのがイヤになる。わたしは、足腰を痛めた力士が、引き技でさらに身を痛め、押し技に徹してやっと勝機を得ているように、踏み込んで姿勢を前傾させている、引き技にかからぬよう気をつけて。バカげた夢の所業と見切ったうえで、夢なら夢なりに無心の相撲がありうる。親しい読者たちのたくさんな支えが、力強い後押しになっている。感謝している。
* 情けない、こんな事を書いて応えないと調停もままならないのであるから。
* わたしのホームページの「私語」は、近年は一ヶ月ごとに一つのファイルに整備されている。
現在六十ファイルに日録が分蔵されているわけであるが、第一ファイルだけは、「現在進行形の私語日記」を、毎日上へ上へ積み上げている。つまり「日付逆順」で、一番上に一番新しい日付の記事が書き込まれている。
しかし、月をまたいで十日半月するうちには、前月分を一度「一太郎lite」へ転写し、一太郎ソフトの上で、変換ミス等の誤記や句読点、冗漫等を訂正しつつ、総て「日付順」に直してゆく。
直し終えれば順番の明いたファイルに、一ヶ月分一括して収め、その段階で第一ファイルから「移転した同内容分を消去」する。その操作に気づかない人も、馴染みの薄い人にはあるけれど、その由は、update欄内にも、第一ファイルの冒頭にも、きちんと案内し明示してある。文字検索でしか見ないような不親切な読者には、その実情がまるで飲み込めていないだけの、つまり誤判断がある。
今回BIGLOBEや★★はソレに気が付かず、第一ファイルから別ファイルに移動した同内容の記事を、一度削除したと思わせてまた別の所で復活していたなどと、自分達の時間差発見を、不用意・不親切に悪意に誤解していたのである。
要するに、BIGLOBEの不親切な早とちりで悪意に取り、削除を強行したのである。
* 「再三通知」したと言うが、どんな手段でいつという特定が出来ているかもともかく、そもそもBIGLOBEメールをわたしは一切使用していない。ホームページ開設以来、受信設定もせず、どうしても出来ず、すべてそれ以前から愛用の「ニフティですべて送受信」してきたのだから、そんな通知の読める道理がなかった。
周知徹底したなどととても言えない「一方的で勝手な内規」にのみしたがい、「不確実な通信方法」にあぐらをかいたまま、「超過剰な削除を不用意に決行」したBIGLOBEの「不親切と無責任」はきわまりない。もし、長期の海外旅行をしているなどの時も、情け容赦なくこういう強行を敢えてするのかを厳しく問いたい。
これを機に、われわれ「日本ペンクラブ電子メディア委員会」とも協力し、時代に合わなくなっている「プロバイダ法」の見直し等の機運をはかってもらいたい。協同でシンポジウムを開くなど委員会は考えている。プロバイダ間のあまりに不統一な慣行も、ユーザとしては不安不信に堪えない。
2006 10・21 61
* 夕日子らによる「秦家」指弾の第六弾はこうである。
1985年
結婚式で作成した結婚証書を「谷崎夫人の直筆だから提出させない」と没収。 ★★夕日子
* これにも嗤ってしまう。
* 一九九一年(平成三年)九月九日付、聟・★★★から舅・私に、「学者である聟には経済支援が常識、それの出来ない嫁の実家とは『姻戚関係』を断つ」旨を、一方的に通達する手紙が届いている。その一通には、★★★著述『お付き合い読本――常識編』がくっついている。得意の作とみえ二度同じものが送られてきている。五十音順に警句でも書いたつもりらしい。その中の「け」には、こうある。
「『け』結婚式: 誰を招くかは迷うところ。注意すべきは、離婚歴のある人、しかもそれを売り物にしているような人は、招待しないことである。かの有名な文豪Tは、惜しげもなく奥さんを取り替えたそうだが、常識的に考えて、そんな筋の客は来賓として呼んではいけない。招待された他の者が奇異に感ずるだろう。★★★」
この「文豪T」が谷崎潤一郎であり、「そんな筋の客」として、夕日子側の主賓をお願いしたのが松子夫人であった事実は、何度も、作品やエッセイでわたし自身が書いている。
わたしはこれを読んだとき、筆致の下品さはともかく、少し意表をつかれた気がしたのを隠さない。ああこれが「世間」かと。一方、そんな凡庸な「常識」一般論とは没交渉な思想を自分が持っていることを是認もしたのである。
谷崎文学の大成に終生いかに貢献された夫人であったかを思うだに、★★★のこういう侮蔑の言葉は恥多く、当人の性根の汚さを想わせてあまりある。たいしたルソー学者である。
* 要するに★★夫妻は、結婚式前の「両家」懇切な、「双方異存無く賛同」の申し合わせを、仲人の小林教授夫妻にも私たち秦家の両親にも無断で「破棄」したのである。
打ち合わせでは、結婚披露宴に際し、参客全部の目前で、双方の主賓が「結婚届書に署名捺印」し、それを以て「人前結婚式」にあてると、堅く約束できていた。
ところが署名捺印された「その結婚届書」は、上記のような「★★による谷崎夫妻への軽蔑・侮蔑」から「届」として使用せず、誰だか我々の知らないまったく別人に再依頼した届書を、結婚式よりよほど後日に届け出ていたらしいのである。だからこそ、問題の清水司氏・谷崎松子さん署名の「結婚届」が★★夫妻の手に残っていたのだし、それと知ってわたしが憤慨したのは当然である。そんな無礼をしたのなら、せめて秦家念願の「記念に貰っておく」とわたしの手元へ、夕日子に届けさせたのも当然である。考えても見よ、彼等★★家がわたしに手渡さなかったら、わたしたちにはそんな経緯も所詮わからず仕舞であった。実物は、夕日子が夫に内緒でか「申し訳なかった」と秘かに我が家に届けてきたのである。実物は、今・此処に在る。
清水司氏・谷崎松子さんお二人の署名・捺印、★★★・秦夕日子の署名捺印、完備している。
申し合わせでは、二人は披露宴のあとそれを役所へ届けてから新婚旅行に出るはずだったが、彼等はその約束も反故にしていた。ウソを演じていたのである。
「届書」は、かりに新婚旅行から帰ってすぐでも届け出られた。だが、この届書が現に提出されずに夕日子から私に届いていて、しかも二人の結婚・入籍はなされているのだから、証人は別に立てたのである。何故か。前掲の★★の「常識」に従い、清水・谷崎両氏証人の書類は「勝手にボツ」にしたこと、歴然の事実である。
* 思えばこういう「文学者への軽蔑」を誇示することが「学者」の卵の当時★★★にはよほど愉快であったらしい。こういう姿勢が我が家に出入りの始めから ★★には在った。
一方新婦である夕日子が、サントリー美術館への就職・また結婚式主賓の以前から、どんなに谷崎夫人に可愛がられ、わが娘のようにことごとによくして下さった数々を、夕日子もまた、挙式したばかりの夫とともに、まるで足蹴にしたのだった。
* 言うまでもなく谷崎家とのその様な親交は、「谷崎愛」作家と自他共に広く知られた父親・秦恒平の谷崎文学敬愛と多くの関連業績に発していた。国文学の世界で、また文壇でそれを知らない人は少ない。
★★★は、まさにそこを目がけて、結婚式の当日からすでに文学の秦家への侮蔑、「嫁」夕日子への軽視を明白にし、誰かの弁で謂えば「うんこ」を投げ付けはじめていたのだった。
*『結婚式で作成した結婚証書を「谷崎夫人の直筆だから提出させない」と没収』とはホトホト嗤わせる。
谷崎松子さんを当方の主賓・結婚の証人に得て、晴れて娘を送り出したいとは、秦の両親の熱望であったし、それは事前の何度もの打ち合わせで確認され、披露宴の場でだけは「一応実現」していた。
だが★★★はまさしくそれを「反古」にすることで、人をバカにし愉快がって『お付き合い読本』をトクトクと書いていたのである。廃棄された空しい「清水・谷崎署名届書」が役所に入っていないことで、事実は、明明白白 落とし紙にもされぬうち、かろうじて夕日子が届けてくれただけでも、せめての心やりであった。わたしが「没収」しに★★家へ押しかけ得た道理がない。それが「使われた」ものと信じていたのだから。
どこの世界に披露宴までした「結婚届書」を「没収」して届けさせない花嫁の親がいるものか。建日子作の主人公なら「バカか、お前ッ」と吐き捨てるだろう。
* こういうことが有った。新婚旅行から帰ってきた★★★から、結婚届けのまだなことを聴いて一言、早い目にと言うやいなや、「あんた、がだがたウルサイぜ。文句があるなら結婚なんぞ取りやめてもいいんだぜ。いいのか」と電話機の闇の向こうで★★★に凄まれた想い出は、凄まじかった。ああこんなヤツだったんだ…。しかも顔を拭ったように、後にまた「暴発(夕日子の批評)」するまで、この聟殿・★★★は、如才なく我が家を何度か訪れている。
* 何と謂うことか、つまり、こういうウソを、続々と平気で夫婦二人して言い立ててくる。いずれにしても主張できるはずのない矛盾・撞着を、厚顔に言い立てているのである。大学教授・主任児童委員の質のわるさ、憮然とする。
第一考えてもみよ。これが、実の親を娘達が告発するに、そもそも値する事項か。
「常識」を疑われるのは、思い上がった、謙虚のひとかけらも無い★★★と妻・夕日子の方である。こういう経緯の総てが、フィクション創作である『聖家族』に、語り手の思いを籠めて書き尽くされている。聟・★★★の舅姑に対する「無礼・暴発」の多くが描写され、これを読んだ読者たちはつぶさに理解されている。「暴発」とは、当時の夕日子が夫・★★★を自筆長文の手紙で評した、辛辣で適切な直言であった。その手紙も必要なら今・此処にある、そのまま書き写すことが出来る。
* 夕日子らによる「秦家」指弾の第五弾はこうである。
1985年
結婚式祝儀を没収。 ★★★
* これは、まさか夕日子が親に言える義理でなく、昔から★★★の何だかくやし紛れの「言いがかり」なのである。
此の、結婚式当日の秦家への祝儀金については、夕日子と両親との間で、挙式前からきちんとした「約束」があった。★★家は結婚式の少し前に父君の病没があり、その為かどうかは知らないが「結納金」は勘弁願いたいと申し入れがあった。こころよく承諾し、「持参金」といったものも持たせませんということにした。両家の了解事項であった。
帝国ホテル光の間での披露宴その他(当時総支配人は、わたしの良い読者で先輩でもあった。最大限のサービスをして貰えた。)可能な限り★★家に負担はかけず、表向き費用は「請求書折半」という申し合わせになった。このとき、借り衣装代も折半かと私が早合点する失敗があったりした。
そんな中で、しかし結婚後の生活に「夕日子個人の自在・自由になる金額」はぜひ持たせたく、さしあたり五百万円のいわば小遣い金を与え、さらに後々も振り込めるよう口座を開かせておいた。わたしも妻も何かあると数万ずつ振り込んでやった。
その代わりに、ややこしい勘定など当日にするヒマもなし、結婚式当日に持参の祝儀金はいわゆる「お祝い返し」に当てるということで、夕日子と我々とはきちんと「合意」していた。これにも理由がある。
結婚に際し、両家各四十人という客をと求められたとき、私たちが当惑したのは、そんな人数を東京であれ京都からであれ、どう集めようかという事だった。夕日子は学生時代の友人を一人も呼ぼうとしなかった。僅かにサントリー美術館の上司と同僚。私には生い立ちからして、親類というものが無いにひとしい。仕方なく、主賓の谷崎夫人はじめ文壇や大学や各界から知名人に、いちいち私が頭をさげてお願いするしかなかった。日本ペンの会長を務めた尾崎秀樹氏、副会長の作家加賀乙彦氏、また早大文学部長の藤平春男教授、紅野敏郎教授また小松茂美氏、長谷川泉氏ら堂々たる顔ぶれが揃うことになった。
そこで秦家のわれわれが案じたのは、まさか★★家がそういう秦家の客にまで心入れの「お祝い返し」はしてくれないだろうし、失礼が有ってはこっちの立つ瀬がない。それで、結婚式当日持参の祝儀に限り「お祝い返しに当てるからね、お前にはお前の自由に出来るお金を当座渡しておくよ」と約束したのである。
秦家に下さる祝儀が新婚旅行で聟殿に勝手のきく「小遣い」になるなど考えてもいないし、それでは、『女の一生』の悪聟ジュリアンと同じではないかと呆れたのである。
秦家で前後をよく考慮の上、夕日子とも申し合わせてしたことで、★★★に嘴の挟めるコトではない。
夕日子は結局五百万という現金を自分名義でもって結婚したのであり、のちのちも里の親から数えきれず金を振り込んでやり続けた。★★★の金を「没収」したわけでは全然ない。あの日からはや二十余年、今もそんな皮算用のハズレを種に「嫁の親」「孫の祖父母」にみっともない愚痴を言い立てるとは、ほんまにケッタイな聟殿ではある。
2006 10・21 61
* 『愛と友情の歌』から「子への愛」の章の選歌を摘録した一両日前の記事に、複数の読者の感銘を得られた声あり、「親への愛」の章の、せめて選ばれた作品だけでも読ませて欲しいと。
「子」たる者の「親へ」の思いを、また「親」たる存在の「子へ」もつ意味を、秦さんがどのように感じながら作品を選んでいたか、このような際であり、知りたいと云われる。
育ててくれた、生んでくれた「親への愛に気づく」という、その大事を、わたしは娘・夕日子、息子・建日子の日頃も十分念頭に、一つ一つ鑑賞していったあの日々を今思い出す。
作品のみ、全部とはいわない、適宜に並べて行く。
「町田市主任児童委員」を自負しながら、破廉恥にでたらめに現在の両親を公然辱めて「虐待」を訴えている、娘・★★夕日子よ。
ここにいう「母」とは、まず我がことなどと自身を甘やかさず、お前をこの世に送り出し慈しみ育てた母・迪子その人を思うがいい。またあれほどの苦しみと寂しさとに悶えていたお前の娘・やす香から「目を離していた母」なる己れを省みながら、「親」なるものをせめて謙虚に思惟するがいい。
* 「親への愛」の章より 秦恒平著『愛と友情の歌』より
父母よこのうつし身をたまひたるそれのみにして死にたまひしか 岡本かの子
独楽は今軸かたむけてまはりをり逆らひてこそ父であること 岡井隆
まぼろしのわが橋として記憶せむ母の産道・よもつひら坂 東淳子
闘ひに死ぬるは獣も雄ならむ父へのあこがれといふほどのもの 東淳子
かくれんぼいつの日も鬼にされてゐる母はせつなきとことはの鬼 稲葉京子
<父島>と云ふ島ありて遠ざかることも近づくこともなかりき 中山明
雲青嶺母あるかぎりわが故郷 福永耕二
あゝ麗はしい距離(デスタンス)
常に遠のいてゆく風景……
悲しみの彼方、母への
捜り打つ夜半の最弱音(ピアニシモ) 吉田一穂
雪女郎おそろし父の恋恐ろし 中村草田男
母の胸には 無数の血さへにぢむ爪の跡!
あるひは赤き打撲の傷の跡!
投石された傷の跡! 歯に噛まれたる傷の跡!
あゝそれら痛々しい赤き傷は
みな愛児達の生存のための傷である! 萩原恭次郎
十六夜の長湯の母を覗きけり 津崎宗親
進学をあきらめさせた父無口
幼子のわれのケープを落し来て母が忘れぬ瀋陽の駅 佐波洋子
抱(いだ)かれて少しずつかわりゆくわたくしを見ている風は父かもしれず 伊藤靖子
あなかそか父と母とは目のさめて何か宣(の)らせり雪の夜明を 北原白秋
草枕旅にしあれば母の日を火鉢ながらに香たきて居り 土田耕平
いねがたき我に気付きて声かくる父にいらへしてさびしきものを 相坂一郎
父の髪母の髪みな白み来ぬ子はまた遠く旅をおもへる 若山牧水
薬のむことを忘れて、
ひさしぶりに、
母に叱られしをうれしと思へる。 石川啄木
よく怒る人にありしわが父の
日ごろ怒らず
怒れと思ふ 石川啄木
寝よ寝よと宣らす母ゆゑ目はとぢて雨聴きてをり昼の産屋に 田中民子
女子(をみなご)の身になし難きことありて悲しき時は父を思ふも 松村あさ子
先ず吾に洗礼をさづけ給ひたり中年にて牧師になりしわが父 杉田えい子
背負ひ籠が歩めるごとき後姿(うしろで)を母とみとめて声をかけ得ず 平塚すが
眠られぬ母のため吾が誦む童話母の寝入りしのち王子死す 岡井隆
どっと笑いしがわれには病める母ありけり 栗林一石路
卯月浪父の老いざま見ておくぞ 藤田湘子
挫折とは多く苦しきおとこ道 父見えて小さき魚釣りている 馬場あき子
夜半を揺る烈しき地震(なゐ)に母を抱くやせし胸乳(むなち)に触るるさびしさ 野地千鶴
病む母の生きの証(あかし)ときさらぎの夜半をかそかに尿(ゆまり)し給ふ 綴敏子
<病む父> 伊藤整
雪が軒まで積り
日本海を渡つて来る吹雪が夜毎その上を狂ひまはる
そこに埋れた家の暗い座敷で
父は衰へた鶏のやうに 切なく咳をする。
父よりも大きくなった私と弟は
真赤なストオヴを囲んで
奧の父に耳を澄ましてゐる。
妹はそこに居て 父の足を揉んでゐるのだ。
寒い冬がいけないと 日向の春がいいと
私も弟も思つてゐる。
山歩きが好きで
小さな私と弟をつれて歩いた父
よく酔つて帰つては玄関で寝込んだ父
叱られたとき母のかげから見た父
父は何でも知り
何でも我意をとほす筈だつたではないか。
身体ばかりは伸びても 心の幼い兄弟が
人の中に出てする仕事を立派だと安心してゐたり
私たちの言ふ薬は
なぜすぐ飲んでみたりするやうになつたのだらう。
弟よ父には黙つてゐるのだ。
心細かつたり 寂しかつたりしたら
みんな私に言へ。
これからは手さぐりで進まねばならないのだ。
水岸に佇む葦のやうに
二人の心は まだ幼くて頼りないのだと
弟よ 病んでゐる父に知られてはいけない。 伊藤整
<無題> 高見順
膝にごはんをこぼすと言つて叱つた母が
今では老いて自分がぼろぼろごはんをこぼす
母のしつけで決してごはんをこぼさない私も
やがて老いてぼろぼろとこぼすやうになるのだらう
そのときは母はゐないだらう
そのとき私を哀れがる子供が私にはゐない
老いた母は母のしつけを私が伝へねばならぬ子供のゐないため
私の子供の代りにぼろぼろとごはんをこぼす 高見順
死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる 斎藤茂吉
今絶ゆる母のいのちを見守りて「お関」と父は呼びたまひけり 谷崎潤一郎
今死にし母をゆすりて春の地震(なゐ) 岸田稚魚
父をわがつまづきとしていくそたびのろひしならむ今ぞうしなふ 岡井隆
思ふさま生きしと思ふ父の遺書に長き苦しみといふ語ありにき 清水房雄
柩挽(ひつぎ・ひ)く小者な急(せ)きそ秋きよき烏川原を母の見ますに 吉野秀雄
亡き母の登りゆく背の寂しさや杖突峠霧にかかりて 阿部正路
山茶花の白をいざなふ風さむし母は彼岸に着き給ひしか 佐佐木由幾
命惜しみ四十路の坂に踏みなづむ今日より吾は親なしにして 安江茂
凍(し)み蒼き田の面(も)に降りてみじろがぬ雪客鳥(さぎ)の一つは父の霊かも 大滝禎一
病む祖母が寝ぐさき息にささやきし草葉のかげといふは何処(いづく)ぞ 岡野弘彦
玉棚の奥なつかしや親の顔 向井去来
いくそたび母をかなしみ雪の夜雛の座敷に灯をつけにゆく 飯田明子
庭戸の錆濡れてありけり世にあらぬ父の家にして父の肉われ 河野愛子
お父様 ほんとは一番愛されたと姉妹はそれぞれ思っています 利根川洋子
亡き父をこの夜はおもふ話すほどのことなけれど酒など共にのみたし 井上正一
子を連れて来し夜店にて愕然とわれを愛せし父と思えり 甲山幸雄
これひとつ生母のかたみと赤き珊瑚わが持ちつゞく印形(いん)には彫りて 給田みどり
この鍬に一生(ひとよ)を生きし亡き父の掌の跡かなし握りしめつつ 佐竹忠雄
明珍(みやうちん)よ良き音を聞けと火箸さげ父の鳴らしき老いてわが鳴らす 藤村省三
墓石の裏も洗って気がねなく今夜の酒をいただいておる 山崎方代
たふとむもあはれむも皆人として片思ひすることにあらずやも 窪田空穂
今にして知りて悲しむ父母(ちちはは)がわれにしまししその片おもひ 窪田空穂
百石(モモサカ)ニ八十石(ヤソサカ)ソヘテ給ヒテシ、
乳房ノ報ヒ今日ゾワガスルヤ、
今日ゾワガスルヤ、
今日セデハ、何(イツ)カハスベキ、
年モ経ヌベシ、サ代モ経ヌベシ。 和讃
父に虐待され精神的に蹂躙され性的虐待すら受けた日々と告発しているその時期に、社宅の庭で、父のカメラに向かう娘・夕日子の元気な自然な笑顔のこういう写真が、何枚も何枚も有る。以前にも以後にも、結婚するまで、結婚してからも、とぎれなくアルバムに「まとも」な夕日子の日々が残されている。 写真
* すべて親から子へ強いている詩歌ではなく、すべて子から親へ献じている詩歌の真情である。やはり親も子もこういう風でありたい真実の希望をわたしはもちながら、無慮何百万もある詩歌の中からこれらを選んで、日々に心を洗われ励まされ泪していた。
伊藤整の「病む父」をはじめて読んだのは大昔だ。わたしには現実に兄弟がなかったけれど、何かの折りにはこの「兄」のように夕日子が弟建日子とともに心美しく元気に生きていってほしいと心底願望していた。今も書き写しながらわたしは、悲しい声を忍ぶことが出来なかった。
わたしは、自身のためにも、さらに大事には「妻や息子の名誉」のためにも、理不尽に心ない娘と闘わざるをえない。
2006 10・22 61
* 夕日子らによる「秦家」指弾の第七弾はこうである。
1985年
★★が「見合いにもかかわらず、従順な婿でない」と激怒。
* 誤解のないように。この一行のほかにに縷々★★の憤懣が具体的に書かれてあるのでは、全然、無い。ただこれだけ。
文脈から推して「激怒」したのは舅の私ということになるのか。しかし「見合いにもかかわらず」とは何が言いたいのか。「見合い」結婚すると舅に従順でなくてはいけないのか。恋愛結婚なら従順でなくてもいいというのか。「従順」の二字で何が言いたいのか。わたしが★★★に「従順」でいて欲しいどういう具体的な事態や希望があるというのか。玉川学園と保谷である。夕日子はご近所にも目立つぐらいよく実家へ帰ってきては母親からモノを貰っていったり、私と出て服を買ったり食事したり、小遣いを貰ったりしていたけれど、★★には早大の助手生活があり、総じて後に「暴発」するまで、数えれば実に数少なくしか妻の実家には来ていない。来てもろくに談笑しない。世間の出来事で議論もしない。酒は飲めない。「従順」を強いるどころか話題も乏しくて退屈な限りの聟殿であった。わたしは歓待に厭きると仕事場へ遁れて自分の仕事をしていた。だからといって、何を「激怒」する必要があるのか、話せない男だと想っていただけである。
よくよく「見合い」ということに拘りがあるのか、彼から来た手紙には「見合い結婚した嫁の実家は学者の聟には口は出さず金をだすものだ」と書かれている。そういう気で結婚していたらしいが、我が家で夕日子に婚約指輪をはめてみせて、私たちには「夕日子さんを幸せにします」と神妙だった。私からすれば、それだけをちゃんと果たしてくれれば他に何の文句も無いのだった。いったいこれが麗々しく裁判所に持ち出して、「秦(家)による★★夕日子に対する 40年にわたる虐待行為。並びに★★★・やす香・行幸に対する加害行為の経緯」などと言い立てうる事柄か。
譬えにも五年あれば二千日、時間にすればその二十四倍。どんな家庭のどんな家族にも喜怒哀楽がある。ところが★★★とは、喜怒も哀楽も無く、同座した時間はせいぜい百時間にも遙かに満たないだろう。口を酸くして夕日子に不足を言ったものだ、そういちいちお前が男二人の中に割り込んできては、どうしてわれわれは●君と話し合えるんだね、と。しかも私の文筆の仕事は新聞小説や雑誌の長い連載も加わってきて、正直の所、★★どころではなかった。若い者は若い者でやってくれというのが、多忙に追われた作家の本音であり、聟の従順を求めるなんてバカげた事には指一本動かす気もなかった。
* 夕日子らによる「秦家」指弾の第七弾はこうである。
1985 年
頻繁な電話による嫌がらせを開始。
* わたしは、極端な「電話嫌い」で、そばで長電話されるのがいやなのは物書きとして当然としても、自分に掛かってくるベルを聞くだけでも嫌い。顔も見えずに電話口で「口を利く」というのが気持ち悪くて嫌いなのである。よくよくよくの必要がなければ、自分で電話はかけない。
★★には一度、新婚旅行から帰ってきた頃に、「結婚届」の事情を聞くべく掛けた。その時の★★★の「やくざ」ソコノケの物言いに愕いたことは、前に述べた。そんな相手に電話で何をこっちから話すというのか。せいぜい何年もの間に一度二度。その一度はわたしが東工大から教授就任を求められたとき、夕日子に伝えたぐらいか。通話記録を提出して欲しい。
電話嫌いなわたしから電話を貰う人は、よほど心親しい人であり、★★へ片づいた夕日子に電話したことも、たぶん他には一度もないだろう。
現在息子は別の家で生活しているが、父親から電話をもらったことは無いに等しいはず、電話番号すらわたしは覚えていない。息子は必ず自分から電話してくるし、常はメールで十分。一般にどんな電話の用事も、今でも妻にかけてもらっている。ガンとして携帯電話もわたしは持たない。
わたしがコンピュータに飛びついたのも、メールが使えるからというのが大きかった。この八九年メールは愛用しているが、電話は昔から自分ではかけない男、かけてきて欲しくもない男なのである、私は。
会社で編集者をしていたときは電話無しに仕事が捗らない。あの頃に一生ぶんの何十倍も電話は使い切った。
此処でも、わたしという人間を全く知らない★★★、私の当時の作家としての超多忙を全く分かっていない★★★が、まるで「口から出任せのウソを捏造」している。
私の関心は、ひたすら依頼原稿の山を崩すことに集注されていた。
第一★★にいったい何をどう「イヤガラセ」する必要があるのか、データも事例も皆無、口先一つのまさしく「言いがかり」、作文としてもあまりに拙劣。
2006 10・22 61
* 雨。牧野法律事務所へ出掛けて、ホームベージ消滅の第二回審尋のための打ち合わせをしてくる。
* ホームページ復旧を、多くの読者たちはどんなにか待望していることでしょう。でも、プロバイダーの問題はまだ未解決で、これから大変と存じます。
重大な社会問題、全ての利用者のためにも、くれぐれもよろしくお願い申し上げます。
米沢はすっかり寒くなり、学内の植木に雪囲いを施している最中です。太い丸太でできた雪囲いです。それだけ重い豪雪なのでしょう。
公私共に多事多難な毎日と存じますが、どうぞお体をお大切にお過ごし下さいますよう。 短大学長
* この今は学長さんに、わたしはむかし、医学書院の狭い社宅で、茶の湯の手ほどきをしていた。いま夕日子が、父に「性的虐待」され「精神的蹂躙」を浴びていたと云っているまさにその真っ最中のことである。建日子を妊娠していた妻は切迫流産のおそれを抱いて絶対の静穏を要したので、稽古は中断した。が、出産のお祝いに、白玉の佳い湯呑みを六人前揃えて戴き、それを、私たちは今も毎年の正月王福茶のために、恒例として使っている。夕日子が我が家でどう愛されていたかを目に見て日々に知っているお一人である。
2006 10・23 61
* 或る大主教の説教を聞いたエドモンド・バークは、説教への称賛を聞きたがる大主教に「白痴的」だと言い「知性ある人があんな事を言うなんて信じられない」と答えた。気色ばんで大主教は反問し、バークは答えた。
「君はイエス・キリストを信じ、善行を施す人は天国へ行き、イエス・キリストを信じず、悪徳を為す人は地獄へ行くと説教したが、これが白痴的だと思わないのか」と。大主教には理解できなかった。バークは云う。
「では教えて上げよう――もしイエス・キリストを信じないが善行を施す人は、どこへ行くのかね。イエス・キリストを信じるが悪徳を為す人は、どうかね。行為の善悪が決定要因なのだろうか。だとしたらイエス・キリストを信じる信じないは余計なことだ。あるいはイエス・キリストを信じるかどうかこそ判断基準だとしたら、行為の善悪は無関係ということになるがね」と。
人は宗教などひとつも信じなくても、預言者や救世主を少しも信じなくても、間違いなく彼の生は、英知と善にあふれた生になりうる。逆もある。神やイエスを信じていようと、その人の生はまさに動物的な生以外のなにものでもないかもしれない。
「抱き柱」は抱かないというところへ直観的にわたしが出て行った筋道を、バグワンは指さしてくれている。
* さ、今日からわたしが是非しなくてはいけないのは、いや、して置きたいと希望するのは、「七十年の人生」をさっぱりと閉じるための「後始末」だ。頭の中に、あれ、これ、それと思い浮かぶ、妻のために、建日子のために、夕日子に、と。どうするかの思案はあまり要らない、いろいろ考えてきたからである。小一年掛ければたぶん総て始末は付けられるだろう。
BIGLOBEとのことでは、あまり引きずらない、仮処分申請は取り下げれば済む。わたしや電子メディア委員会での関心事や問題意識など、法律事務所は気にも掛けていない、要するにこっちも大きく譲歩して、BIGLOBEにも大方を復旧させようと。わたしの本意は、そんなつまり「取引」のために九月二十日以来「審尋」までに時間をかけてきたのかと憮然とした思いが残るだけ。「後始末」して浮き世におさらばするためには実はパソコンもホームページもあまり用はなくなるだろう。
書庫の蔵書・辞典等の書物では、またわたしの著書では、まず建日子に欲しいものを譲っておきたいが、行き方の大きく異なる作家だけに、古典や美術や文学や歴史の書物は欲しがるまい。せいぜい図書館に寄贈するとし、こういうものが欲しいと希望のある人に上げてゆきたい。
すこし価値のあるものでは相当量の叔母から譲り受けた骨董・茶道具、わたしの買い入れたり貰ったりした美術品がある。この始末がいちばん頭が痛い。満足な金に替えるというようなことは考えられないが、その値打ち値打ちにふさわしい貰い手がいてくれないかと思案している。建日子には、この方面、皆目値打ちが分かるまい。お茶の先生をしている友人や読者は京都にしかいない。ロサンゼルスに一人。お茶に趣味のある友人や読者も数少ない。惜しげなく形見分けする方が、道具屋の手に棄てるよりいいに決まっている。東京・横浜の道具屋が何軒も熱心にわけて欲しいと云ってきているので、任せてしまう手はあるが、十把ひとからげの二束三文になるのは目に見えている、叔母に申し訳ない。これがいちばん頭が痛い。京都だと知り合いが多いのだけれど。
「湖の本」の在庫分は、最終的にはぜんぶ屑に出ししまうことも考えねばならない。大学の講座に、希望が有ればまとめて寄附して教材にして貰えればと思うが、その手順・手続きはよほど繁雑になるだろう。後始末を建日子と相談する手は残っている、彼に、少し考えがあるようなことも云っていたから。幸い、同じ畑の本に生きるしかない同士だから、彼に任せたいと思う。
土地家屋の不動産についても、もう建日子と話し合っている。幸いわたしは他に何も収集したりしていない、書庫に溢れた蔵書だけ。
* 現金は妻の今後に十分なものをと思うが、建日子も快調に仕事を伸ばしているし、「母さんのことは安心して任せて」とかねがね頼もしく確約してくれているので、過剰に考えることはない。久しく一所に頑張ってきたのだから、妻にはそれだけの権利がある。具体的にどうするか、だ。
またわたしが、何にどのようにその残りを心おきなく費消するかだが、いい車を買い、いい運転手をそのつど雇って、思うさまの旅を妻とマゴとでしてみたい気もある。わるい娑婆心がついては困るが。
幾ら好きでも酒は飲めずものも食えず、衣服や持ち物に何の興味もない。基金を積めば、質の良い「電子文学賞」をペンか文藝家協会が考えてくれる気があるなら寄附を、などと今は空想しているだけ。
* 只今は、何はともあれ、自分の作品。
2006 10・23 61
* ★★による指弾のつづきはこうである。
1986年
★★家第一子妊娠に際し、「★★の子など要らない」と中絶を主張。
重篤なつわりに衰弱する夕日子に、電話による嫌がらせを継続。夕日子、入院。
わたしは昭和三十四年(1959)医学書院に入社し、「助産婦雑誌」「臨床婦人科産科」という月刊雑誌をともに何年か編集担当し、その間に、新人ながら、東京大学で産科と小児科と協力協著の、画期的な大冊『新生児学研究』を企画し刊行した。これが契機となり推進力となり、ついに日本の医学界に「新生児学会」が創立されていった。
その強い動機は何であったか。妻の夕日子妊娠をぜったい「中絶」させたくなかったから、そして無事に出産して欲しかったから。その為にも産科と小児科との間で「あかちゃん」を取り合っているような医学の間違った体制は正されねばならないと信じたからである。
わたしは若い若い一介の編集者だったが「功績」に感謝され、第一回新生児学会が仙台でひらかれたとき「会員」待遇で学会に迎えられている。『新生児学研究』編集に当たって下さった、五つ子成育など未熟児学の草分け馬場一雄先生(当時東大助教授からのち日大医学部長、病院長)との今もつづくご縁は、久しく久しい。
安易に「中絶」などする「怖さ」を、わたしは多くの症例報告や医師・助産婦達との付き合いで熟知しており、それでも妻に一度敢えてしたイヤな怖い思い出からも、そんなバカげた「主張」を、吾が娘の初孫のために思いつくだに道理一片も有りえず、それどころか妻も私も、また秦の親たちも、夕日子の懐妊をみな雀躍して喜んだ。
★★夫妻が口にするこの前段の、お話にもならないバカらしさは、「第一子やす香」の誕生を迎えた夥しい数の歓喜に溢れた写真アルバムが雄弁に物語っている。
もしそんな険悪な間柄なら、夕日子母娘が、★★家と我が家とどちらが多いかと云うほど頻繁に里帰りして、ご機嫌であった数々の写真の説明がつくまい。 ★★★本人もこの頃は何度も我が家に現れ、ごく尋常につきあっているし、私や妻の、やす香を可愛がりようは、まさに手放しの有様であった。それもあまたの写真があまさず伝えてくれ、それが何年にも及んでいる。やす香の死に至るまで我々祖父母や叔父建日子がやす香を愛し愛したことは、あまりに多くの物証や記録が残りなく証明してくれる。
祖父母達に嫌われた孫なら、あのやす香が、親にナイショで祖父母と祖父母の家や、銀座や新宿や、また建日子公演の劇場などで、死ぬまで深く親しみ、祖父に真っ先に「大学志望で要提出の論文」を「読んで欲しい」と届けに来たり、躊躇なく即座に「MIXI」の「マイミク」同士になったりするワケがない。
★★★が筑波大学で技官として就職できたとき、やす香の祖父母と叔父とは筑波まで出向いて、夕日子の案内でやす香の幼稚園へ訪ねてゆき、いま家に帰ろうというやす香に声を掛けた、あの瞬間のやす香の驚喜したこと、驚喜したこと、とうてい忘れられようがない。祖父母との都内各所での洋服の買い物で、こぼれそうな笑顔で喜びを隠さなかったやす香。あれもこれもやす香が秦家で無上に愛された反映である。★★両親には、この事実がよっぽど悔しかったのは察しられる、現に次女ケケケに対し祖父母を敵のように教唆し監督するのに大童らしい。
ところが★★★がかつて送ってきた「お付き合い読本」の第一条には、たしか「人間の精神の自由」などと書いてあった。娘や孫へ送った手紙、娘に与えた父の著書の揃え、孫に与えた季節の衣服等を、率先途中で奪い取りそのまま保谷の祖父母へ送り返してくるのは★★★という「人間の精神の自由」をうたう専門の哲学学者・教授なのだから、撞着もあまりに低級ではないか。
それに言って置くが、夕日子のいわゆる「夫・★★★の暴発」(1991)に至るまでは、★★家での姑と嫁との葛藤こそ屡々聞かされたものの、そのことが逆に教えているほど、★★親子と秦家の状態は「静穏・尋常」で、★★の留学に際しても、わたしたちは相当な餞別を与えて歓送している。
数ヶ月日本に残った夕日子母娘が保谷の実家で過ごす日々が多かったのもごく自然であった。「嫌がらせ」「虐待」など、どこにありえよう。
みな我が家での写真で、上二枚は秦が、下上は妻が、下の孫と祖父とは夕日子が撮影。どこに忌まわしい虐待や険悪な間柄の暗さが見えるか。この当時、★★は町田の玉川学園、我が家は西東京の保谷、当然、別世帯である。
秦は書き仕事や早大出講などに多忙で、ともすると書斎に逃げこんで客の応対もろくにしなかった。おじいやんを見上げたやす香のなんともいえず身をよじった可愛らしさはどうだろう。 写真
* 夕日子の妊娠悪阻が異様にひどく重かったことは事実である。せっかく就職したサントリー美術館も退職してしまったくらい。わたしが多年懇意な日赤の看護学教授の斡旋を得て入院を世話してもらったのも事実で、ひどく心配させられた。ところが、入院した夕日子の「我が儘が過ぎ・迷惑」と、仲に立った人から苦情がきて再三再四眉を顰めたことも両親の記憶に苦々しく残っている。
夕日子に「電話による嫌がらせ」とは何を以て謂うのか、作り話の一つも具体的になく、これが「言いがかり」でなくて何だろう。もしそんなに険悪なら、とても出産後に我が家へなど尋ねても泊まりにも来れなかったろうに、そんな気配一つ無く、実家の母親にも父親にも頼り切りの産後の里帰りは近所でも評判になるほどであった。むしろ★★の姑との育児意見の相違など、どれほど夕日子から聞かされたことか、「ぜったいあんな人とは一緒に住みたくない」と夕日子自身の口から父も母も聴かされ、「考え方が違うんだろうなあ」と妻と私はよく苦笑した。
書き立てていることの、あまりな非常識ぶりと稚拙な言い分に、呆れるしかない。
* 当時わたしの日々は、そんなことにかまけていられるヒマなものではなかった。『秋萩帖』という小野道風らを書いた見切り発車の連載小説に苦闘し、また頼まれて早稲田大学文藝科のゼミに出講し、建日子を早大法科に入学させ、「湖の本」を創刊し、俳優座で秋公演の『心 わが愛』脚本の仕上げや稽古。夕日子のことはただもう無事に生んでくれと願いながら、妻も私も作家生活に没頭協力しつつ、加えて老親たちに三人の介護にも日々心を砕いていた。
「若い夫婦は若い夫婦でちゃんとやってくれ」というのが超多忙な私の本音であった。何が「ハラスメント」か。玉川学園と保谷とはずいぶん遠いのであり、私たちは父君の葬儀以外に玉川学園の★★家を訪れていないのである。わたしは夕日子たちのアパートの住所も電話番号も覚えなかった。必要がなかった。我が家では電話は妻の役なのである、今でも。バカもやすみやすみ言えと云うしかない。
1986年
長女誕生。★★夫婦で命名したところ、「命名権の侵害、遺産相続権を剥奪する」と脅迫。
* 生まれてくる子にどんな名前がつくかと、祖父母が楽しみにあれこれ噂するのは、何処の家庭でも当たり前のこと。我が家も例外ではなかった。しかし「命名権」などとご大層な意識などあるわけなく、吾が子の名前を親が付けるのも当然の話、権利があるというなら当然親にある、何をバカなと呆れてしまう。
娘「夕日子」の名前を、わたしが、いつの日にか男でも女でも「夕日子」と名付けたいと心に願ったのは、昭和二十八年、高校三年生になる直前に、京都泉涌寺の山でえた「笹はらに露散りはてず夕日子のななめにとどく渓に来にけり」の作が最初だった。斎藤茂吉や三好達治や古歌などの「夕日子」という表現について、幾度夕日子に教えてやり、どんなに夕日子が誇りに思って喜んでいたかは、夕日子自身もものに書き表していたことがあったと思う。「建日子」のときも、女なら「肇日子」と予定していた。祖父母に「命名権」なんてバカげたつくり話はやめて貰いたい、少なくも我が家では絶対にありえない。その上に、何の理由有って此処へ「遺産相続権」などというヨタ話がくっついてくるのか、非常識というか突飛というか、異様な「病状」をすら推測したくなる。
わたしは自分のお恥ずかしい限りの遺産のゆくえどころか、日々の作家活動に孜々として日々勤しんでいたし、そうでなくては暮らしの立つベストセラー作家なんかでなかったことは、天下周知のことである。お笑いである。
* しかし一つだけ、やす香にも夕日子にも「すぐ謝った」一つの事実がある。やす香を初めて保谷に連れてきた日だったか、「名前は」と楽しみにしていたことを尋ね、「やす香」と聞かされ、わたしは咄嗟に「舞子か芸妓みたいやなあ」と口にして、夕日子が泣いたこと。これは悪かった。
わたしは京都の祇園と背中合わせ、骨董商たちの通りで育ち、いつも親とは祇園の廓なかの銭湯に通ったが、脱衣室にはたくさんな芸妓・舞子の名披露目の団扇が飾られていた。わたしは幼時からそれらのひらかなや漢字を読んで字を覚えたし、祇園のあちこちを通り抜けても、軒下の表札にはそんなような名前がいつでも何処ででも読めて、身にも目にもしみついていた。
わたしも妻も根は「靖子」とか「節子」とか「明子」とか「子」名が好きでもあったし、「やす香」には意表をつかれ、思わず口走ったのである。ま、悪い悪いとその場で詫びた。その少し前であったか後であったか、著名なタレントに生まれた子が似たような名だったことを、むろんわたしは知らなかった。やす香の短かった生涯に一つだけ悔いと負い目を覚えることである。これだけは両親にも重ねて詫びておく。
それにしても「命名権」にも仰天するが、それが「遺産相続権」に直結して「脅迫」となる筋書きなど、三文小説でも成り立たない拙劣なセンス、これがまともな大人の言い立てることだろうか。痴愚の言としか云いようがない。
2006 10・23 61
* ぼく個人としては、父上が、夕日子への反論で疲弊してしまうより、それを消化し昇華して、長大な小説をものにしてくれることを望みます。それを、心して読みたいと思っています。物書きの後輩として、父上の作家としての矜持をぜひ見せていただきたいと思っています。
HPは、堂々と新たにおやりになればいいと思います。
電子文藝館などの「湖の本」の事業(非営利含む)は、いずれはぼくが引き継ぐのがよいと思います。
時間は貴重です。不毛な消耗はつまらない。
本当に裁判になった暁には、ぼくはぼくの持つすべての力(人脈。メディア)を使って夕日子の卑劣な嘘と戦うつもりでいます。有能な弁護士を雇って延々と裁判を闘う経済的基盤もあります。
なかなかに難しいとは思いますが、夕日子のことは一度忘れてしまうがよいと思います。彼女は、大人になるというハードルを越えられなかったのです。よい土ではあったのかもしれないけれど、不完全なまま焼かれ、固まってしまった器なのです。もう戻りません。
古典美術文学歴史の本は、遠くない未来に、一度勉強のための長い休みを取るつもりにしているので、処分はしないでいただきたいです。
茶器の類は、***が真剣に今も茶道の稽古をしているし、ぼくもその方面の勉強もいずれはしたいので、やはり処分はしないでいただきたいです。
車を買い運転手を雇うのはいいアイデアだと思いますね。うちの若い役者でもいいかもしれない。
母さんの健康も心配です。
気の晴れる用事を努めて入れてほしいなと。 では。 建日子
* いまのような混乱の最中で趣向のある長編にとりかかるのは、やはり難しい。その前に片づけておく仕事が二つある。
建日子のメールにくっつくように、長いメールが一読者から届いている。これが、わたしへも夕日子へも相当な「批評」である。
* いまのような混乱の最中で趣向のある長編にとりかかるのは、やはり難しい。その前に片づけておく仕事が二つある。
建日子のメールにくっつくように、長いメールが一読者から届いている。これが、わたしへも夕日子へも相当な「批評」である。
* お元気ですか。とてもつらい思いで「私語」を拝見しています。
ひどい事態ですが、これは「想定内」のことでした。こういう濡れ衣に苦しむのは湖お一人のことではなく、今までもこれからもたくさんの人が経験することです。今朝のフランスのニュースでも、同じ職場の人間からの告発で無実にもかかわらず築いてきた事務所を失った人の闘いが取り上げられていました。
人間はよくこの手の煮え湯を飲まされて、理不尽な左遷や退職になります。告発者が正義感ですることなら許されるでしょうが、殆どは社内のライバルを蹴落とすためにハメルのです。自分も会社の方針に同じに従っていたのに、正義の仮面をかぶって、まんまと逮捕させてしまう。ねたみ、そねみ、ひがみが支配するのがこの世界のようです。
湖は幸いにも職を失うわけでもなく、ご家族が路頭に迷うわけでもありません。これからも書き続けることで、湖の真実はかならず伝わります。事情を知らない人から万が一ひどい誤解を受けたとしても、湖の業績は微動だにしません。湖は世界の続く限り生き続ける文学者です。どんと構えて、もっと周囲の人間を信じてください。悪が栄えることはありません。結局は真実が生き残るようになっています。安心して幸せにお過ごしくださいますように。
私の個人的考えでは、湖の潔白の証拠となるのは、八月二十一日のメール、「さらに私がもっとも恐怖するのは、裁判が不利になった場合に、夕日子さんが「言葉によるハラスメント、虐待」だけでなく少女時代に「性的虐待」を受けたなどと嘘を訴えることです」を読んで、湖が失笑したという事実、まさかと思って無視していたという事実、今苦悩していらっしゃるという事実にあります。そして先の、ご家族の細かい略史や湖の日記のほうが、写真よりずっと良い証拠のように思えます。写真はこの略史を裏付けるものとしては、やや、役立ちます。写真を使われます時は、できるだけ夕日子さんお一人でないものがいいと思います。ご家族、とくに奥様とご一緒のものが一番かと。
今の事態の打開に、何より重要なのが奥様です。「母親としての迫真の陳述」が伝われば、かならず、湖の潔白は証明されると信じています。奥様は夕日子さんと刺し違えるほどの覚悟で説得してくださることと信じています。奥様の力次第です、すべては。
さて、これから本題です。お元気のある時にお読みください。
この長くなるメールを書こうかどうかずいぶん悩みました。湖を傷つけるでしょう。でも、今の「私語」の惨状と湖の痛ましさをこれ以上見ていられません。
わたくしが明日死ぬとしたら、書いたことを後悔するか、書かなかったことを後悔するかと考えました。答えはでましたので、書きます。
湖の作品論、作家論の一種と読んでくださってもかまいません。いえ、そんな立派なものではなく、わたくしの妄想と妄言の羅列です。でも、一つの見方として、何か湖のお役に立つことがあればと願います。
湖への深い尊敬と信頼そして、湖にとっては迷惑千万なわたくしの「使命感」から書くことをどうぞ信じてください。
私のごく若い頃、今から二十年近くも前のことです。あなたは遥かかなたの尊敬する作家で、私は本屋であなたの本を見つけるたびに購入する読者でした。
湖の本を読みこなす力など殆どなかったと思いますが、あなたの作品を何より愛していました。
そしてある時、あなたの作品を読みながらふと、「この著者はいつか娘を失うかもしれない」と感じました。私は幸か不幸かあまり直感を外したことがありません。
たとえ小説であっても、湖のような形で娘に愛を表現すれば、それはどこか不吉でした。災いを招く、そう思えてなりませんでした。
今手元に見つけられないので、正確な文章ではありませんが、「赤毛のアン」の中で、マニラが養女にしたアンを愛していることを自覚して、このように深く誰かを愛し執着してよいものか、こんなことでは神の罰を受けて失うのではないかと不安にかられるという場面がありました。
知り合いの文学趣味のある先生から、自作の詩や短歌などを自費出版した本をいただいたことがあります。その中に「娘を恋うる唄」という詩がありました。胸騒ぎがしました。そして翌年、その先生はまだ若い娘さんに突然に先立たれました。
愛の中には隠したほうがよいものがあります。とくに、親から子への愛については、秘めて小出しにしていないとこわい。魔物が潜んでいるからです。
湖がふつうの家庭の在り方を知らずにお育ちになったこと、真実心底孤独にお育ちになったことがはじまりだったかもしれません。高校生の頃から将来のお子さんの名前を考えていらしたなんて、普通ではありません。どんなにおさびしい境涯でいらしたことかと胸がつまります。
湖が愛する女性と出会い家庭を持たれた、そのお喜びは察するにあまりあるものでした。他の人間には当たり前のものでも、湖にとっては生まれて初めて得た家族です。命にかえても守らなければと決意なさった。もともと内に豊かな愛の溢れていらっしゃる方が、そのまままっすぐ家族に、とくに初めてのお子さんの夕日子さんに躊躇うことなく愛を表現なさったのだと思います。
結論から言うと、湖は愛しすぎたのです。娘への愛を表現するについて抑制することを知らなかった。息子さんのほうは男ということもあり、どこか厳しく鍛えるという発想がおありだったと思いますが、異性の娘さんに対しては手放しで愛し可愛がったのだと思います。
そもそも父親というのは言葉のない男です。想いを言葉にするのが不得手です。そこに溢れる愛とのバランスがとれていた。
ところが湖は文学者、しかも天才的表現者でした。愛をそのすばらしい文藝で表現してしまいました。現実の生活でいくら「バカか、お前」と叱っていらしたとしても、書かれたものを読む限り、湖は「夕日子」の存在の喜びを表現せずにいられなかった。
ひそみひそみやがて愛(かな)しく胸そこにうづ朝日子が育ちゆく日ぞ
「朝日子」の今さしいでて天地(あめつち) のよろこびぞこれ風のすずしさ
本当に夕日子のまぶしく輝く佳い歌です。私語の「e文庫」夕日子さんの作品に写真をつけて、湖は「詩人夕日子は」と書いていらっしゃいました。たとえ逢えない娘への「励まし」としても、私はこの「詩人」という表現に実は驚きました。たしかに、夕日子さんの詩には舌を巻きます。プロの域です。しかし、「詩人」は、文学者に対する最高の敬称ではありませんか。それをあなたほど一流の文学者が娘に使うとは、たとえその力があったとしても適切だとは思えないのです。夕日子さんがご自身を「女流作家」と自称していた素地は、こんなささいなところにも見えています。賢い娘は砂が水を吸い込むように父の愛の言葉を受け入れたのです。そして自分を特別の存在と思い違いしていったのかもしれません。
「湖の本」を一読した時に、どうしても理解できなかったのは「夏生」の恋愛についてでした。誰も誰も夏生の愛に値する男たちに思えなかったからです。何より夏生は青春お決まりの手痛い失恋さえしていない。
読者の自由とも、物書き的飛躍とも受け取れるでしょうが、私にはひらめくものがありました。
夏生は誰でもよかったのです。父親を選べないのなら、父を夫と出来ない定めなら、相手は誰でも同じでした。アメリカに留学してもよかった。見合い相手でもよかった。夏生が理想とし、愛していた男は父一人なのです。
そう読むと、今の異常事態への理解も可能な気がします。性的虐待と表現している夕日子さんのあなたへの憎悪は、父親であるあなたとそういう関係になることが出来なかった烈しい怒りと恨みの噴出です。長年の無念の爆発です。男女の愛を望んでいたのは、あなたではなく、娘の夕日子さんのほうでした。夕日子さんはご家族の中でおそらく一番お父さんの天才を理解した娘です。さぞ自慢の父親であったことでしょう。そして、その父に愛されることに特別の喜びを感じていたと思います。
父親に深く愛されすぎた結果、父を理想とし、男としても愛した娘の不幸な人生に、私は涙を禁じ得ません。夕日子さんはあなた以上に愛せる「男」、自分を愛してくれる「男」とめぐり逢えないことを知っていた。夫の★★★が夕日子さんの愛に値する人間ですか? 妻子を愛せる人間ですか? やす香さんを失うという人生最悪の不幸をきっかけに、夕日子さんが父親であるあなたのせいで自分の人生がこうなったと、自暴自棄の行動に出ている背景はここにあるのかもしれないと、私は想像するのです。
しかし、原因はそれだけではないでしょう。父を理想の男と恋する娘は世間にごまんといるからです。あくまで「聖家族」の一つの読みとして書くので、許してください。ご家族の歴史についても、現実についても何も知らないのです。作品からの感想です。
夕日子さんは母親との関係がうまくいっていなかったと感じられてなりませんでした。
以前にも申し上げましたが「聖家族」の家庭に妻はいても、娘の母はいませんでした。それが事実だったのかどうか勿論私には判断できませんが、父と子はもともとうまくいかないのが基本です。子どもに対する責任は三と七の割合で父親より母親に重いと私は考えています。
さらに、今更言うまでもないことですが、夕日子さんの結婚相手が最悪でした。父のように愛してくれる男など現実にいるはずがないのですから、父を理想とした娘は不運です。惨憺たる生活だったと推察します。しかし、夕日子さんに離婚の選択はなかった。離婚したところで、あなたとは所詮父と娘にしかなれない。夕日子さんの精神は蝕まれ、憎悪が芽生えました。
夕日子さんが幸せな結婚生活を送ってさえいれば、色々なことがすべて潜在意識の中だけの妄想ですんだのです。それは恥じることでもなんでもなく、人間なら誰しも色々な形で抱えている妄想ですから、夕日子さんの溢れる才能で小説の中に美しく昇華することも可能だったでしょう。
とどめはやす香さんの悲劇でした。
湖は百パーセントの人だとつくづく思います。いつも、ご自分の信念に向かってまっしぐらに完璧を求めていらっしゃる。
芸術においてそれは素晴らしいことですが、今回の件でも最初から百パーセント勝つという発想でいらした気がします。しかし、複雑な親子関係にそれが可能だったでしょうか。正義が貫ける状況だったでしょうか。
私の考えではアラブとイスラエルのように、決着はつかないことに思えてなりません。女の味方になりやすい「調停」にも私は不賛成でした。妥協を最小限にとどめることだけが可能な解決と信じていました。それが湖にとって一番傷が浅くてすむ、そう書いたことは今も正しいと思っています。
人格障害を相手にして何かが解決することはありません。被害を小さくすることだけが可能な、不治の病と思うしかなかったのです。糖尿病と似たようなものです。寿命尽きるまでなんとか暴走をコントロールすることでやり過ごすしかないのです。十字架は最後まで背負うしかない。
私は人格障害者と四十年以上苦闘してきた女です。理由なく湖のご家庭の問題に対してあんな失礼なことは書きませんでした。
しかし、湖はわたくしの意見を聞くべきものと判断してはくださらなかった。湖のほうが正しいのでしょう。でも、正しいことがそれほど大切ですか。
わたくしは、正しいことより、湖ご自身とご家庭とその作品やホームページを現実的に守ることを大切に考えていました。毎年文化勲章の時期になると腹立たしい気持ちになっていた読者です。ノーベル文学賞でもそうです。湖は、決してご自身の作品が埋もれることを望んでいらっしゃる方ではありません。作家なら当然です。一人でも多くの読者がほしい。作品が名作ならなおのことです。
湖はネットだけでなく、ご自身の作品を海外に発送するなど、もう少しご自身の名作を広く認知させることに欲望を働かせる必要があるのです。あなたはご自身の価値について知らないのでしょう。自分の天才を信じていないのです。過小評価しているのです。
ことさら悲劇的な方向に、狭い穴に、あえて不遇な状況に進むあなたを見ているのは身を切られるようです。それが自分の道と開き直るのは一種の傲慢と甘えではないかと感じます。類まれな才能を与えてくれた天に申し訳ないと思いませんか。
夕日子さんは湖のこの百パーセント「自分の道」主義をよく受け継いでいるように感じます。父親の百パーセントの愛が得られないくらいなら、百パーセントの憎悪なのです。父の世界の徹底的破壊なのです。あなたと夕日子さんは表裏一体です。
湖による夕日子さんへの愛の文学表現は感動的でした。娘は自分の父への愛の成就の不可能から逃れるために、それが自分の崩壊につながることも覚悟で恐ろしい反撃に出ているのです。
私は批評家でも作家でもなく、ただの読者です。凡人で素人で文学のことなどわからない。ただあなたの作品を熱愛している読者として湖の文学世界に問いたい。
湖の作品は芸術の香気溢れる名作ばかり。今の形でしかあり得ない美しさです。湖は以前、名作なんてお笑いだと書いていらっしゃいました。そんなことは二度と書かないでください。ご自身の真価を知ってください。あなたの書いたものは総て後の世に残るものです。
私はこれからも今までのように、湖文学の熱い熱い読者です。生涯の敬愛を捧げています。
建日子さんは「どうしようもない姉上」と表現したそうですね。どうしようもない。たしかにこれは正気の沙汰ではない。心の病気かもしれない。真剣に病院に行く必要があるだろうと思います。
しかし、なぜ夕日子さんはこうまで無茶苦茶な行動に出るのでしょう。病気としても、烈しい愛の裏返し以外にありません。そして、その夕日子さんに対して、あなたは今「私語」に書いている方法以外に、答えようがないのでしょうか。無惨です。
あなたの潔白を完全に証明するには、実は夕日子さんが「嘘だ」と「認める」ことしかないのです。法律で勝つより大切なことです。私はそれが絶望的なこととは思いません。可能です。でも、あなたの方法ではむずかしいと思います。
今、あなたの私語に書き綴っていることは、相手に手の内を見せるだけのこと。そしてあなたの人間性までおとしめてしまいます。公表なさる必要性もわかりますが、あちらと同じレベルにならないで、弁明は私語から独立させたらいかがでしょうか。
あなたに出来なくて、あなたのご家族に執念がないなら、私がいつの日か夕日子さんに「嘘」と認めさせてみせましょう。でも、今私など出てはややこしくなるだけなので、かかわれません。時を待ちます。
何より、あなたご自身の手で、夕日子さんをどんな形でもいいから、小説の中だけでもいいから、必ず取り戻してください。あきらめないで取り戻そうと闘ってください。
私はこの世に天与はあっても天罰はないと思っています。だから、夕日子さんの今の行動は湖にとって天罰ではありません。このようになったのは、何か大きなはからいによって、湖に一つの課題が与えられたのだと思うのです。
湖は、人間を問われているのです。真実娘を愛せるか、人を愛せるかと問われているのです。
湖は、以前に「愛を知らない」と書いていらした。今回のことで、私はその意味を知りました。湖はどこかで自分を棄てられない人です。その部分だけ愛が足りないのです。母なるものを知らない湖は、そういう愛しかたしか知らない。(同じ言葉が、こう書く私の身にもあてはまることは充分承知しています。許してください。)
今こそ湖が愛を知る、愛を示すその時なのだと思います。夕日子さんが湖の愛に値しない人間に成り果てても、そうだからこそ愛すべきなのです。残骸でもいいから愛してあげてほしい。心が腐っていても抱きしめてほしい。到底愛することのできぬ非道をしている娘だからこそ、愛してあげてほしい。「本来の家」に迎えいれると言ってあげてほしい。「夕日子」という名前をとりあげないでほしい。湖のお心の奥にはそのような娘への熱い愛があるにちがいないのです。
湖は今、島に立っている「だけ」でいいのでしょうか。動かない島であり続けるのでしょうか。真実「愛は錯覚」なのですか。
私の理想の愛は、湖の考えるような、一人しか立てない島に一緒に立つと錯覚する愛ではないのです。
自分の島を棄てる愛です。自分から相手の島に泳いでいく愛です。相手の島には一人しか立てない。それでも、自分の島を棄ててひたすら泳いでいく。相手の島には上がることができないから、相手を見ながら溺れて海の藻屑となりますが、そのことに悔いなく喜んで死ぬのが私の求める愛です。
あるいは、自分の島を与える愛をめざしたい。相手のために自分の島を与える。自分だけが海の中に消えてゆく。愛は身を棄てることでしか完成されないものではありませんか。
このような愛は人間には成し難いことですが、もしそう出来ないとしても、そう試みること。愛せないことに苦しみ抜くこと。それこそが「貴重な愛の錯覚」だと思います。
身内を探し求めるのが愛ではなく、縁あって自分に与えられた人を受け入れ、身内になろうと死ぬまで格闘することが私の考える愛なのです。
天才とは愛する魂です。そして、湖はそのように愛せる高貴な魂だと知っています、わたくしは。
やす香さんと夕日子さんによって、どうか湖に新しい文学世界が与えられますように。
天は湖に比類なき才能を与えた。ですから、代償としてその才能に見合う酷い苦悩を与えて、もっと高みをめざして書きなさいと言います。天才の人生が平穏無事だったためしがないように、あなたは人生の集大成の老境を迎えて命のかぎりを尽くして書くべきものを与えられたのです。これこそ天与です。
凄まじい女というものについて、血を分けた人間たちであるからこその、恐ろしい葛藤と愛憎を描いてください。今までの湖世界にはない世界、狂気と修羅場の果ての人間への愛を読ませてください。愛の可能性をその作品の中で描ききってください。気高い湖の魂を書いてください。一世一代の名作を書いてください。
この課題を果たすまで、湖は「一瞬の好機」に身をゆだねるわけにはいきません。
だから生きて書いてください。湖が書かなければやす香さんは永遠に生きることができません。やす香さんにどうぞとわの命を与えてください。夕日子さんもやす香さんも、湖に描かれるためにこの世に生まれてきたのです。湖の筆によってしか命を生きられない女たち、最高のヒロインになります。
以上です。 どう思われてもよかった。お力になりたかった。ただそれだけで衝き動かされて書きました。書かずにいられなかった。私はただ一通のこのメールを書くために湖に出逢ったのかもしれないとさえ思います。
次の作品で、湖の答を期待しています。湖は強い人です。食えない男です。さあ、新しく美しいものを見に、地獄の花見に、元気に出かけてください。
お元気ですか、湖。どうぞお元気で、いつもいつもお元気でいらしてください。死ぬまで生きてください。 一読者
* 建日子
谷崎潤一郎は「母」ものの作家としても知られています。幾つも名作があります。
これはわたしの「読み」であり、また肉親を書くどんな作家にも或る程度共通しますが、ことに親や子に対しては、たとえば生身の母や娘とカッコ付きの「母」「娘」ないし「妻」とでは、全然・意図的に異なっている例が多いのです。カッコのない母や娘への、妻への日々に遠慮会釈無い愛憎や嫌悪感をもっていながら、「創作」という力学や美学の磁場に「母」「娘」「妻」などとカッコ付きでその影像を書き込み送りこむとき、当然ながらモチーフにしたがい理想化や、少なくも異化を働らかせて、それにより思いも寄らない別次元の世界を創り出そうとする。
このメールの人は、カッコのない夕日子も、カッコ付きの「夕日子」も同じに見ています。わたしの作品の中の「夕日子」は或る意味で現実の夕日子とは似て非なる異化を経ていることに、この人は理解が届いていない。輝いているのは当たり前なのです、わたしはそのように愛情こめて表現している。しかし日々の日常の場で接していた夕日子は、相当にちがう。
夕日子が何を考えていたかは分かりません、正直のところ。このメールの人は基本的に錯覚しているように思うけれど、また際どいところを容赦なく見ているのも事実で、教えられることが少なくない。こういう「批評家」もいるんだね。
わたしは「今・此処」でずうっと努めてきたし、その時々の仕事にも、満足はしないがひど仕事はしてこなかった自負はあり、この先へ「今・此処」がどう延長するしないにかかわらず、いつも一期一会です。ぶつっと命が絶えたとてその意味で悔いはないんです。ありもしない明日に対して義務など感じていない。「今・此処」に在るばかりです、わたしの理会での「一期一会」です。 父
2006 10・24 61
* BIGLOBE問題は、第二回審尋で「和解解決」したと法律事務所から知らせてきた。今年の六月七月八月の「私語」のみ削除し他は復活すると。
何の感慨もない。過剰な削除であり、★★★らが著作権を相続したというやす香の「MIXI」病悩日記の引用のほかにも、わたしの創作的な文章やエッセイ・批評はこの三ヶ月の日記に実に満載されている。引用にも適切な個所の方が遙かに遙かに遙かに多いはず。乱暴と云うしかない。
一応結末を待ってみたわけで、用は済んだ。BIGLOBEとのホームページ契約はすぐに解約する。
2006 10・24 61
* ★★による指弾のつづきはこうである。
1987年
度重なる嫌がらせ行動を回避するため、★★、海外留学を企図。幼児を伴う渡欧計画に秦激怒し、離婚を主張。
* 「度重なる嫌がらせ行動」というなら、どう「度重なる」のか、いつ、何を、どのように「度重なった」というのか、具体的に挙げてもらいたい。八七年の DIARYが手元の此処に在る。日記もある。その日付と照合してみようではないか。高利貸しの取り立てなら知らず、どこの世界に、そんなことの「回避」のために「海外留学を企図」するヤツがあるだろう。
これには実にハッキリした理由があった。
★★★は結婚当時、早稲田大学教育学部の助手。助手は内規で三年間が限度、その後は自力で地位を見つけねばならない。★★★は三年経過して、どこにも講師の地位が得られなかった。学部長・理事の息子だ、親爺の世話になった者はいくらもいる、世話をしてくれないワケがないとは口癖だったそうだが、だれも希望通りの世話をしてくれなかった。もう一年二年学部内の特例で何とかならないでもないと、舅のわたしは漏れ聞いていたが、★★★は妻・夕日子にも隠したまま、フルブライトだかの留学試験を受け、パスした。それだと留学に手当が出て給与なみの支給があるという。
問題はそこに一つ起きた。普通なら一年留学のところを、★★は、またも独断で「三年」留学に決めた。夕日子から聞いた。オーバードクターに地位の払底している日本事情である、日本を三年も留守にすれば、帰国後の就職難は目に見えて嶮しいであろう、それは常識だった。わたしの若い友人にも血眼で地位を求め、履歴書を山のように書いて撒いているのがいた。★★★はそれすらしなかった。夕日子はじめ★★の家族の不安は当然で、わたしたちも娘夫婦親子のために極く普通に心配したのは、理の当然だった。
だが、また、ものは考えようで、パリでの三年の修学が将来によく反映することも有りえようからと励ました。そのことは、わたしの作品にもその通り書かれている。夕日子はかなり心配していたが、パリへ呼んでくれて向こうで親子で生活体験ができるのを歓迎もしていた。
そして半年と遅れず母娘も渡航した。勿論相応に援助もした。
やす香に遠く去られるのは流石に辛かった。書庫の奧でちっちゃいやす香を抱いておじいやんがおうおう泣いたのを、「かすかに覚えています」と高校三年生になったやす香は云っていた。その記憶にも驚かされた。
婿殿が資金供与を受けて三年パリに留学する、いわば慶事の一つを、何故舅が「激怒」する必要があるか。すべて彼等が欲して彼等が決めることで、舅が采配するいわれはない。そんな関心はない。ましてそれで「離婚」せよと主張したなんて、バカげていて笑い話にもならない。
繰り返して云うけれど、わたしは「夕日子が離婚して戻る」など絶対イヤであった。どんな夫婦でも夫婦は夫婦で問題を解決せよと云うのが、わたしの思想である。やす香なら引き受けても、夕日子との日常は御免であった。やす香も苦笑していた、「ママは謎でーす」と。わたしは謎々は苦手なのだ。
それどころか夕日子達は、自分らがパリに居る間に、なんでハパやママは遊びに来てくれないのと云っていたではないか。わたしが新聞の連載用に、シチリアの写真が欲しいと頼むと大きな良い写真集を二冊も見つけて送って日本へ送ってくれたではないか。パリからの夕日子の手紙、パリ通信はかなりの量、今も保谷に残っている。留学を「激怒」され「離婚を主張」された父親なら、とてもそんな気にはなれまいに。
1990年
夕日子・長女が半年早く帰国したため秦家に逗留すると、「ただ飯を食いに来た」などと痛罵。3歳の長女に「勝手に冷蔵庫のジュースを飲むな」と罵倒するなど。
何故か知らないが、夕日子母娘だけは一足早く帰国して、ほぼ我が家に起居した。
さて何でこれしきが夕日子の云う「虐待」で「ハラスメント」なのか。事実であったとしても、どんな家庭でも冗談交じりの繪に描いた茶飯事だろう。子供にも体調はみてやらねばならず、食べすぎ飲みすぎは子供の得意技である。度重なれば注意もする。この程度の会話を「痛罵」と感じていたら、世界中の日常がみな「ハラスメント」「虐待」になる。云うことが幼稚に過ぎて、読んでいても恥ずかしい。
それどころか、夕日子とやす香との何年かの間で、★★はパリに、夕日子ら母娘は保谷にというこの時期。これぞ、本当に水入らず三世代、わたしの老親たちも含めて四世代が、幸せに酔えた、ほんとうに幸福な日々であった。数ある団欒遊楽の写真がそれを雄弁に証明してあまりある。夕日子は母親任せにのうののうと怠けていた。渋々★★の実家へ帰れば、嫁と姑とは険悪そのものであったのだから、夕日子もまさに鬼の居ぬ間の命の洗濯をしていた。
わたしは前年から「湖の本エッセイ」シリーズも出し始めていたし、相変わらず書きまくっていた。仕事、仕事。わたしは仕事が好き。夕日子達を虐めるどんな理由がそんな日常にあるか。あったなら、それは酷いと云うほどの一例でも挙げればいい。
2006 10・24 61
* 秦先生 Web消滅から一ヶ月もたって、ようやく片が付きましたね。
弁護士を交えて和解というひとまず結びに入ったわけですが、和解というのは、裁判官の判断が入らないものなのか、(知らないので)興味があります。裁判官の判断を含むのであれば、これは大騒ぎになる事案だと思っています。
生活と意見、読んでいます。先生のWebのこと、また何かありましたら遠慮なくおっしゃってください。
先生。言われなくても分かっている…と言われるのを承知で。
先生が続けられている消耗戦は、先生方を疲弊させるためだけのものでしょう。奥様のご健康を承知でやっているとしか思えません。
それでも、戦いを続けることしかないのではないかと思います。そして、相手方にヒビが入り、続かなくなる方法しか。まだどんな手を控えているか分かりません。
できる限り、正面は事務方に任されることを願っています…。 卒業生
* ありがとう。
消耗もまた人生の一局面とおもい、懸命に消耗しています。まだまだ何が起きてくるかしれませんが、そういう人生を選んできたものと。わたしの「今・此処」がくっきりと続いて行くだけ。
BIGLOBEの復旧を早く目で見たいけれど、更新しようとしても「パスワードが正しくない」といわれ、BIGLOBEは以前のままのパスワードでいいのだと云い、つまり復旧を「確認できない」ままでいます。今となれば空しい話ですが。
今日は一人で 劇団昴の三百人劇場での残り少ない公演を見てきます。わたしの人生劇場の只今の「場」よりは楽しめるでしょう、「夏の夜の夢」です。
またのんびり飲み食いがしたいな、イチローと。 湖
そうそう、むろん裁判官の判断があっての「判決」だそうで、正式の書類は届いていません。
2006 10・25 61
* ★★家による指弾のつづきはこうである。
1991年
★★家第二子妊娠に際し、再び強硬に中絶を主張。つわりに衰弱する夕日子に対し、連日、電話による脅迫。★★、たまりかねて抗議文を送付。秦激怒し、夕日子への虐待を強化。
夕日子、被虐待退行に陥る。「こうすれば楽になれる」という迪子の甘言に乗り、「★★との不和を自白する手紙」を書く。この手紙を後に「証拠」としてインターネットに公開され、そのまま現在に至る。
秦が「紛争」と呼ぶのはこの一時期のみ。
ここへ来て、上の文の書き手は、夕日子ではなく、夫・★★★のものかと推察される。最初から一貫してそうなのではないかとすら思われる。
夕日子は外向きであればあるほど、行儀よげに取り澄ました文章を得意に書く。書ける。★★★の手紙その他も沢山読んできたが、特徴的に大人げなく、むちゃくちゃを平気で言いつのる。
この項に関しては、秦の未完の創作草稿『聖家族』を以て答えるのが、フィクションながら適切だと思う。このホームページの長編小説欄「ファイル8」に掲示されている。
* 他家に子供が生まれるのに、「強硬に中絶を主張」する、われわれ秦家にどんな必要や動機があろうか。そんな非常識を誰ができるだろうか。割り切って云えばすべて★★家のことであり、よそ事であり、妊婦が吾が娘といえども戸籍上も他家へ嫁いだ主婦、すでにやす香という可愛い孫も有る。
「中絶」の怖さは職業的に熟知していたし、体験的にも懲りていた。
それを「連日、電話による脅迫」とは何というおどろおどろしき虚言であることか。何をどう脅迫したのか、一片の具体性もない。「連日」とはいつからいつを謂うのか、そこまで云うなら通話の物証を示して貰いたい。何度も云うが、秦は生来大の電話嫌い、しかも夕日子たちは頻繁に我が家へ里帰りしていたではないか。
みな、我が家での団欒。この母・夕日子に父から虐待を受けている娘の暗さがありますか。
この写真はみな父が撮っているのです。下左にはちらと最晩年の秦の祖父も見えます。
* 要するに「妊娠した嫁は、実家で面倒をみよ」というのが★★★の一方的な希望であった。★★★著『お付き合い読本』の、「つ つわり」の項を★★★はこう書いている。
「つ つわり きわめて厄介な代物。妊娠中、とくにつわりが続くと、夫婦の仲もギスギスしがち。統計ではこの期間に夫が浮気したという例も多い。あまりひどければ、実家に籠ることが肝要であろう。嘔吐する姿を最愛の夫にみられずに済むし、症状について気軽に相談できる両親がいる。出産の際も同様だ。ただ最近は住宅事情などのため、隣に借りて貰ったアパートに里帰りする嫁もいる。肉親が近くにいれば問題はなかろう。」
「浮気」の話など、★★★の知性の無さ、品の無さを露わにし、その人物を表してあまりある。つまり、自分のいやなことは他人任せ。これは「夫婦愛」ではなく、「夫の身勝手」である。「被虐待退行」という難しいことが書き込まれているが、「妊娠中、とくにつわりが続くと、夫婦の仲もギスギスしがち。統計ではこの期間に夫が浮気したという例も多い。あまりひどければ、実家に籠ることが肝要であろう。嘔吐する姿を最愛の夫にみられずに済むし、」などとドギツイことの平然と書ける、この夫・★★★こそ、職の定まらないフラストレーションから、妻を日々に虐待していたのではないのか。「わたしは、★★家では<財産狙いの嫁>といわれ、孤立無援」とは夕日子の親に漏らす愚痴の、最たるものであった。
★★★が、再々、「インターネッとからの削除を懇願」してくる創作『聖家族』を読めば、真相は一目瞭然。
* わたしの妻は、「甘言」とやら術策とやら、そんな卑劣な策の弄せる性格でない。夕日子がもってまわった「夫・★★との不和を自白する手紙を書く」なども、聞くだに不自然きわまりなく、要するに今更にその手紙の内容の「真実性」を糊塗したい「言い訳」を大童で「捏造」していることも、『聖家族』には、正確に事情や真相を表現し、証拠資料を用いて書かれてある。
作品が「公開」してあるのは、間違いなく秦の創作著作である以上当然の活動であり、一連の事態の正確な証言をその創作の含んでいることが、★★★にはよほど恥ずかしくて堪えがたいのであろう。
* この年の秋、秦は、東京工業大学の専任教授に就任し、就任に至る迄には種々の手続きや用意に手を取られ、また『死なれて死なせて』書き下ろしの仕事も版元弘文堂に督促されていたし、さらには老人介護にも、いろいろ出版の仕事にも、相変わらず大童であった。そんな最中に、夕日子の第二子妊娠・出産は、夫婦相揃って自宅にいる状態なのだ、力をあわせて無事出産してもらうのが自然で当然だった。いたかった。われわれには手が回りかねる日々の生活があった。
だが幸い、★★★が夕日子のいわゆる「不幸な暴発」をするまでは、両家に「紛争」などなかったことは、やはり同時期多数の両家団欒の写真が示している。写真は偽らない。夕日子の悪阻もやす香の時に較べれば観察していてもラクなようであった。夫・★★は、「働く」のに何不足もない健康体そのものだった。
では、なぜ★★は「暴発」したか。留学から帰国後、オーバードクターの彼に、案の定就職のチャンスがなく、辛うじて筑波大学での一縷の希望も、延々と学内での対立に煽られてか、話がきまらなかった。その上、★★自身が★★家の母や妹たちに「働かないなら家を出て行け」とまで険悪に云われていたと、夕日子は「手紙」に赤裸々に書いている。パリ「三年の遊学」が大きな皺を寄せて、彼の就職は遅れに遅れたあげく、「技官」名義の就職を受け容れる以外になかったらしいのである。
それらも、みな創作『聖家族』に正確に示唆・表現されている。
上の申し条などは、あまりに馬鹿げた「捏造」と謂うしかない。
2006 10・25 61
* もうわたしの以前の、http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/ というホームページサイトは存在しない。数万枚ものわたしの著作・創作を、何の顧慮も躊躇もお構いもなく、適切・確実な通知も確認もせずに一気に全削除してしまった。言語道断なそんなプロバイダを安心して使うわけに行かない。プロバイダを替えてこのホームページはもとのままに送信している。アクセスして下さっている方は、秦のホームページがもとのまま支障なく復旧していると、どうぞ新しい「URL」をお知り合いの方々にお伝え下さい。リンクもご自由になさってください。
* 地裁審尋の「判決書」が届いていた。大山鳴動して鼠も出なかった。長くて「数日」ということだったから「仮処分申請」に同意しお願いしたが、「一ヶ月余」もかかり、結局復旧したという画面も見ること出来ず、BIGLOBEを解約した。何の必要があってわたしのこの六月、七月、八月の全部の「私語」削除を容認して「和解」なのか、わたしには全然理解できない。わたしのために何の利益をはかろうと仮処分申請してくれたのか、尽力の成果がどこにあったのか、全く理解できない。
この事件で法律家とも当事者として話し合わねばならず、ほとほと驚愕したのは、法律家の言葉はじつに私たちの耳に入りにくいと云うこと。しかし裏返すと、法律家の耳にはわたしのような文学者の言葉はほとんど一顧もされないほど無意味で無効なのである。裁判官は「そういう訴えには一顧もあたえません」と、さらさらと云われる。ダメダ、コリャと「人間」を務めているのが情けなくなる。
* 情けないときは、さような「世間」をわたる人間の「役」をしばらくやめて、じっと自分の内側を覗いて過ごすのがいい。
「禅」という文字のことなど、思ってみる。
「禅=ゼン」という日本語には何の根拠もない。中国の「禅=チャン」が訛って伝わっただけであり、その「チャン」にしても中国語ではない。パーリ語の「ジャーナ」という言葉で達磨が、つまり「禅」に相当する教えを伝えた。禅はただの宛字である。
ブッダは佛教を、民衆の言葉パーリ語で語った。インドの学者達に専有されていたサンスクリットでいえば、「ジャーナ」は「ディヤーナ」だった。そこまでは、要するに「知識」の範囲であり、あまり意味がない。そんなことを知っていても屁のつっぱりにもならない。
(このごろオヤジの日記のことば、ナマになっているぜ、おやじらしい抑制の利いた文章で読ませてよと息子の方から声が聞こえている。言葉は「心の苗」であり、いつも一本調子は偽善的なウソにちかくなる。言葉の生彩は、喜・怒・哀・楽の情感に適切な出口をつくってやって生まれる。それが自然であれば、言葉は生き生きはずみ、不自然であればことばは過度に飾られるか表情を喪う。此処は、屁のつっぱりにもならないと言わせてもらいたい。)
* 「ディヤーナ」とは、心を超えること、分別し思考するプロセスを超えること、またはそういう心、分別、思考を落とすこと、静寂のなかにはいることだと分かりやすい言葉で言い換えられている。何一つ動くもののない、なにひとつかき乱すもののない、完全な静寂、純粋な虚空、そのスペース=時空が、「禅」といわれる。
「禅」は中国では宋の時代に相当な感化をのこしたが、ほんとうに禅が落ち着いたのはむしろインドでも中国でもなく、日本だったといわれていて、そうとも言える、が、かなり逸脱して「禅趣味」が日本人に根付いたと正確に謂えるというのが、わたしの批評で持説である。禅と禅趣味とをいっしょくたに混同していると、禅も遊藝化してくるから危ない。
あらゆる宗教や信仰の中で、「禅」だけが、ほぼ「抱き柱」を抱かずに、人間の内奥に生死の動静を把握する。禅宗とは云わないが、わたしが「禅」に心親しむ思いがそれであり、なにが人に大事か、自身の内奥にenlightenment=無明長夜の眠りからの眼覚め=気付き、を得ることより有り難い「生」はあるまいなあと、わたしは只今も感じている。金無垢にピュアで確かな生が、さてこそ、予感される。外の世間には、余りにもくだらないものがゴミためのように淀んで流れもしていないと、ま、そんな風に毒づくのは簡単だけれど、気付いてしまえば、綺麗も汚いも大事も不大事も何にもないであろう、だって、「ディヤーナ」であれ「禅」であれ、その静寂は虚空で、分別する「識」を無に帰している。きれいのきたないの、くだるのくだらないのというのは、夢の中の悪夢に悩まされているという以上のなにものでもなく、夢は醒めてしまえばおしまい。
* こう思っていると、おもしろいことにその夢が、ま、シェイクスピアではないが「夏の夜の夢」めくお芝居のようで、長い狂言にはいい幕もいやな幕も、明るい幕もくらい幕もあって当然と思えてくる。どうせ醒めてしまう夢に違いないと信じているから、ならまあ、あいつとも、こいつとも、どいつとも夢の中で適当に付き合ってやるかとアキラメがついてくる。なに、高見の見物などと気取ることはない、自分も自分の「一役」をぎしぎしと演じてみるがいいのである。夢と知りせば覚めざらましをと嘆いたのは、無明の夢と知りつつしたたかに悦楽出来た、まちがいなくあれぞ「女の強み」だったろうなあと、ふと思う。誰だったかな、小町にきまっている。
思ひつつ寝(ぬ)ればや人の見えつらん夢と知りせば覚めざらましを 小野小町
あはれこの雨に聴かばやうつつとも夢とも人にまどふ想ひを
みづうみをみに行きたしとおもひつつ雨の夜すがら人に恋ひをり みづうみ
* ここ数日、私の心は羽を味方に遊びにでかけては、夜遊びで元気になって戻ってくるようになりました。
今後ともご面倒でない程度に、羽のはえた心の勝手なふるまいにお付き合い頂きたく思います。
美しい時間が訪れますように。 珠
* やす香の日ごとに増しゆく劇症を見舞って、はるばる四国から、准看護師の勉強をしている一と教室六十五人の生徒たちが、私に激励の手記集を送ってきてくれていた。やす香の亡くなった日に全部読み上げて泣いた。もうまる二月になろうとしている。やがて戴帽式と聞いて、今日『死なれて死なせて』六十五冊を四国へ御礼に送った。せめてもの気持ちに。
* 思いがけない戴帽式の記念に、ご本ご贈呈くださるお話、ありがとうございます。
びっくりするとともに、先生のお気持ちがしみじみ伝わってきました。『死なれ死なせて』は、私はまだ拝見していないのですが、看護師を目指す人たちにとって、何にもまさる座右の銘となるものだと思います。
あの手記を書きました中に、エリザベス・キュープラー・ロスの『死ぬ瞬間』という本の存在を教えてくれた男子学生もいました。きっと、深い理解と感銘を得られると思います。ほんとうにありがとうございます。
別件をここに書いて、すみません。
一昨日、『乙御前』・『雨雲』・『園城』に逢ってきました。『光悦』を、事前・事後熟読しました。少しは理解が深まったかもしれませんが、やはり難しいです。
『乙御前』は写真よりずっと明るい色で、むしろ桃色といいたいくらいかわいらしい色と思いました。
『雨雲』の、とくに口部の厳しさはぞくぞくするほどでした。
『園城』は、二条城書院の茶にぴったりの風格とともに、荒法師の恐ろしさを感じました。
またおたよりします。 讃岐
2006 10・26 61
* ★★家による指弾のつづきはこうである。
1992年
次女誕生。電話による嫌がらせ、継続。
* 孫・行幸の誕生は、三月だったと思う。この前後に、★★★はやっと筑波大学技官として就職し、筑波の宿舎に家族で移っていった。
嫌がらせどころか、我々祖父母は、やす香はむろん、まだ顔も見ない行幸に会いたい一心で、息子・建日子の運転する車にのり、★★が留守という情報を利して、筑波の宿舎まで逢いに出掛け、幼稚園をひけてくるやす香を驚喜させているし、まだやっと首の据わった程度のケケケとも、嬉しい写真を何枚も撮っている。
また夕日子は、行幸とやす香とを連れ、やはり★★★の不在を利して、かつがつ保谷を訪れて、当時骨折入院していた秦の祖母を見舞い、曾孫二人の顔を見せてやってくれている。その写真も大きく撮ってある。
上は筑波の★★宿舎。下は清瀬の病院へ孫と曾孫のお見舞い。 写真
「秦の病人を見舞いに行くなら、離婚する」と夫★★の口癖に脅され威嚇されていたさなかの、スリリングにきわどい慌ただしい夕日子らお見舞いの決行であった。「虐待」していたのは誰なのか。
「電話による嫌がらせ、継続」などと曖昧模糊としたこんなことが、まさか夕日子に言えるワケが無く、これまた★★★の下手なウソ八百と云うしかない。
2006 10・26 61
* > こんな問いかけが来ています。
> いつも、ふと感じることなのですが、芸術・・・例えば華道などで、
> 何を表しているのですか??
> こんな事を表現しています。
> そー言った物を見るたび、聞くたびに、デザインや、表現と言う物には、そー言った
> 事が必要なのかな? と、思います。確かに、なるほどって思ったりする事もあるの
> ですが、あえて何か足さなくても、心で良いと感じる物であれば良い様な・・・け
> ど、世間ではそー言った何かを付けないと良いとは言えないのでしょうか? それだ
> けでは自己満足。表現では無いのでしょうか・・・そー言った要素を満たして初めて
> 技術、芸術と呼ぶのでしょうか?
>あなたは、どう思いますか。 湖
「作品は誰のものか」ということのように思います。 珠
表現は誰もがいろいろな方法で試みるでしょう、私も作ります。
試行錯誤の製作には、思いや目的、分析した結果からの方法..など ”自分はこう考え作った” というまず ”自分” という「個」があると思います。
それはまず第一歩。
芸術は技術の話ではなく、もっと ”他者” の近くにあるものだと思います。
作品そのものではなく、作品とそれを受け取る他者との間に生まれるその空間が思いがけず心震わせるとき、そこに芸術がみえるのではないかと思います。
だから私は動かない物にだけ芸術が在り得るのではなく、人の行為など瞬間過ぎゆく現象にも芸術は在り得るのではないかと…。
誰もが芸術を求めて彷徨い「言葉」を尽くすのでしょうが、作品自身が受け手と交感をはじめていれば「言葉」は不要でしょう。
ただ受け手によっては、「言葉」を聞くことによって作品と受け手との間の空間がより色濃くふくよかになる場合もあるのかもしれません。
作品は、作者が手を離した瞬間から受け手に向かっていくのではないでしょうか。受け手が作品と対峙してみえてくるそれが芸術..、そう思ったら ”みる” ということの重大さに今更ながらに気がつきます。作品の前では謙虚になって自分と作品を対峙させられるように、日頃から奥深き鍛錬が必要なのですね。
”拝見させて頂きます”の言葉の奥にあるもの、そこへ難しいけれどゆきたい。
* 動かない造型のほかに演劇、舞踊、体操ないしは茶の湯の手前作法にも藝術または藝術味がある。ときとして日常の人と人との情理をともなった関わりの瞬間にもそれがあるということをこの人は云おうとしているなら、尊いことだと思う。
* わたしは、この問うてきた人に、こう答えておいた。
* ここで、華道が一例にあげてある何か理由があるのか、察しがつきませんが、云われている「華道」が、伝統的な、投入れ 盛り花、また生花などとは別趣の、いわゆる「造型」「オヴジェ」風の花術についていわれているとすれば、同様の質疑は、ことに前衛彫刻やオブジェ造型の現場でもされているし、絵画でも、極度のアブストラクトやシュールなものにふれると、頻繁に同じ質疑がされていると思われます。もっともっと普通の作品に対しても同じ質問、同じように答えている場面に、よく行き当たります。
沢山な個人展覧会のお誘いが来ますが、物書きのわたしもビックリするような、まるで「詩」かあるいは「演説」かのような「ことば」で、自身の創作について書き込んだ葉書や郵便物の多いのに、苦笑することがあります。
展覧会に行くと、作品の題に、じつに凝った題がついていて、それだけの「文学的な」苦心を、むしろ絵筆なら絵筆の「表現」に集注したらと苦笑する例もあります。
作者が自作について自己批評したり反省したりするとき、たいてい内心の「ことば」に翻訳してされている例が多いはずで、これは余儀ないことですが、個展に出掛けたところ、作者にぴたりとくっつかれてあれこれ苦心談や説明をされますと、とても落ち着いて観てられるものじゃありません。
むろん尋ねている方もあります。「何」を表しているのですか?
この質問は、たとえ答えて貰っても、多くは得られない、作品というのはそういう表面の「何」という現象だけでは片づかない謎をふくんでいるからです。説明されても無意味で、自分の眼で観て、直観するしかない。直観を豊かにするためには、結局「深く観る」以外にないんですね。
文学でも造形美術でも、「説明的」なものはどうしても浅い。説明の付かない或る魅力を、説明的な「何」とか「彼」とかの奧から、彼方から、汲みとらねばならない。いや汲むという以上に一度は作品の前に自身を「明け渡さねば」ならない。その意味では、努めないで聞いてもダメ、努めないで口で説明しても、両方とも、得るところはあまり無い。有っても本質的じゃない。
以前或る美術展で講演しました題が、『絵の前で<わかる>と<みる>と』でした。その「枕」にこんなことを話しています。
落語に『抜け雀』という、亡くなった志ん生師匠なんぞの旨(うま)かった咄(はなし)があります。小田原の宿場で宿引きをしていた、気のいい小宿の主(あるじ)が、見るからにこきたない若い男を引き止めます。のっけから、内金に百両も預けようかなどと言う男です、が、発つとき払いで結構でございますと、宿の客にしてしまいます。朝に昼に晩に、酒を一升ずつ飲んではごろごろ寝ている客を、おかみの方が気にします。せめて五両でも内金をと亭主にもらいにやりますと、案の定この客、一文ももっていない。仕事をきいてみると繪師だと言う。大工ででもあるなら家の傷みを直させることも出来るけれど、「繪なんか、みたって、わからないし」と亭主は困ってしまいます。この亭主の「わからない」という言いぐさを、お耳にとめていただきましょう。
それでも自信に溢れた若い繪師は、これも宿賃の代わりに旅の経師(きようじ)屋に造らせてあったまっさらの衝立(ついたて)に目をとめまして、亭主のイヤがるのも構わず、手練の墨の筆を走らせます、と、そこに五羽の雀が生まれ出る。けれども亭主は申します、「何が描いてあんのか、わからない繪ですな」と。雀だと聞いてやっと頷き、「そういや雀だな、わかりましたよ」とも。
で、この雀五羽を宿代のカタにおき、繪師は江戸へ向かうのですが、この雀たち、毎朝、朝日を浴びますと、チュンチュンと元気に鳴いて衝立から抜け出し飛んで遊ぶんですね。「抜け雀」の題のついている所以(ゆえん)でありますが、じつに生き生きとしている。 ま、咄は、私の口から聴かれるんじゃつまりませんから、みんな端折りますけれども、ここで、宿の亭主が「繪をみてもわからない」と言い、また「何が描いてあるのか、わからない繪だ」と言う、そして「雀か、あぁわかった」とも言っている。ま、これくらい世間でもよく聞く言いぐさは無いんでして、繪を「みる」と「わかる」とが、たいてい対(つい)になりまして、途方もなく厄介な関所になっている。これは、ひとつ、ぜひ、考えてみなけぁならんと、そう久しく考えて参りました。
いったい、どういうことなんだ、繪を「みる」と繪が「わかる」とは、と。どうにも気になって叶わんなと。
ま、こういう難儀にアブナイ話題には、専門家は、ふつうお触りになりません。かと言って、放っておいていい問題でもないことは、こんなに大勢お集まり下さったことからも察しがつきます。手に余るかも知れません、が、みなさんの方でもご経験で補い補い、お聴きください。ひとりの自由な小説家の言説を、半分は冷やかすぐらいにお楽しみいただくということで、私も、気楽に、でも真剣に、お話ししてみようと思っています。
で、以下話して話し終えてきたのですが、「何だかわからん」客にに対し、言葉で解説する作者や演者じゃ、一般に、仕方ないんです。せいぜい「雀だ」ぐらいで済んでしまいまして、作品の秘密には関わってこない。この絵描きは名人でしたから別段の噺が進みますけれど、一般に「何が」「わからん」に対し、「これだ、これこれ」などと説明し始める作者の作品には、豊かな謎なんて、魅力なんて、無いのが普通でしょう。無いから、気楽に表面を説明してくれる。
自分のもっている動機(モティーフ)や主題(テーマ)について、作品の説明としてでなく、つねづね考えたり語ったり書いたりすることはありますね、それが藝談、藝術論になっている例はいくらでもあります。たいてい深い自問自答の苦慮や思慮のなかから生まれています。「説明」することじゃない、「説明」してしまったら停まってしまう。
ま、そんなふうに考えています。華道ではよく分かりませんが、作者が、作品を成し遂げるまでに、ある体験的な基盤や強い契機というものが、むしろ佳い仕事にほど必ず有ります。それをあらかじめ知っていると、非常に深くまで作品が見て取れる、読み取れるということがあります。批評や評論にはその効用がありますが、作者が自身の作品に簡明にそれを添えていてくれたのが有りがたい例は、志賀直哉などに佳い例があり、ほかにも在りますね。わたしは作者のエッセイは大切に好んで読んでいます。
しかし作品をその場で指さすように「何が」「何を」と聞いたり話したりは、イヤですね。自分でも答えませんね、普通は。ま、先ずはよく「観て」下さいとかよく「読んで」下さいと云います。
* こんなわたしのくどい話より、先の人の、物静かな述懐が適切に機微をこたえている。
2006 10・27 61
* ★★家による指弾のつづきはこうである。なんというガサツな物言いであろう、裁判所に正式に提示する知性ある大人の文書とはとても思われない。
1993年
★★就職に際し、職場に中傷文事を送付。まともに働けると思うなと脅迫。
夫か親かと迫り、夫と応えると、「生死を含めた十割の義絶」を宣言する。夕日子受諾の手紙を送付。その後、宣告どおり、祖母の死去に際し何の連絡もなかった。
秦の「証拠書類」はこの件を隠匿している。
* ★★の「暴発」後は、文字どおり★★とは「交流杜絶」して、★★★がどこに、いつ就職したか就職替えしたか、どういう地位・職種かなど、知れもせず知りたくも無かったが、能楽堂で仲人筋とのわずかな立ち話や、或いは息子からの伝聞ていど。不本意な筑波大をやめ、青山学院大学講師に転じたというのもいつのことだか、知らない。いずれにしても、そもそも★★に対し、軽蔑と怒りのほか一片の関心もなかった。
「職場に中傷文事?」を送付というなら、どの職場へいつどんなモノと実物を示すべし。「マトモに働けると思うな」と脅迫とは凄まじいが、これも、どこで、どういう方法でなされたか示せ。わたしは「暴発」後の★★★の顔を見たのは、2006年のやす香病室まで、ただの一度も無い。
この年一月十五日、十六日に、夫・★★の不在を利して、夕日子と二人の娘・やす香、行幸が保谷に一泊している。祖母を病院に見舞っている。これを ★★●はどう説明するのか。この頃以降ケケケ成長の写真が再々夕日子から送られて来ているのは、どう説明するのか。夕日子の「おだかやな誕生日7/27」と近況を告げるごく尋常・穏和な手紙も来ている。消印が示している、平成五年、まさしく★★達のいう1993年の夏のハガキである。どう説明するのか。
上に申し立てているあらけない文面とあまりに食い違う、夕日子の当時の文面。
捏造・虚言がどちらかは、かくも歴然。 ハガキの写真
* やす香・行幸の写真は、このハガキのなお二年ほど後に、夕日子から送られてきている。この写真は、じつは多くを語っていると思われる。高校生のやす香が、祖父母をひとり訪れ来るようになって、ときおり片言のように漏らすことに、「親は、行幸贔屓なんです、仕方ないけどね」が、何度かあった。しかし母・夕日子のように、第二子が出来てから「親に虐待された」などとバカげたことは決して言わなかったが、よほど寂しかったらしい。相模大野の病院に見舞った日、母親を独占して食事をさせてもらい、あれこれ甘えてすっかり子供返りしたようなやす香を見ながら、わたしも妻も、やす香の、やっと母を取り返したかのような幸福そうな様子に、烈しく胸をつかれた。姉妹と雖も難しいものだと思った。むろんケケケに何の責任もない、やす香のかなしい思い過ごしであったろう。たとえ四十六歳まで生きていても、突如として「虐待されていました」などとい言い出すやす香ではなかった。
* そもそも娘が二人も生まれている母親の夕日子に、「夫か親かと迫る」そんな滑稽な選択がどこの世界にあるか。
わたしたちは、板挟みに苦しむ娘の「手を放し」て、夫婦親子で幸せになるように、保谷の両親に思いを残して苦しむことのないように、少しも親の気持ちについて心配しなくていいとは言ってやったが、根本で「離婚」は不可と堅く考えていた秦として、ここで「手を放してやる」のは、情においてごく当然で自然なこと。
叔母ツルの葬儀には喪服で来て通夜している夕日子の写真がある。しかし、母(祖母)タカの死には、ただ秦の夫妻だけで通夜し、見送った。夕日子をわざわざ煩わすことは無用であった。「秦の『証拠書類』はこの件を隠匿している」とは何の「件」か。夕日子が何を「受諾」したのか。
★★の妻として、子供達の母として生きて行くのが夕日子の自然、順当と、「手を放し」たことか。「受諾」とはものものしい物言いであり、親子として切ない一つの別れであった意味でなら、事実が示している。夕日子がのちのちまで「親に棄てられた」と弟にも漏らしていたことを斟酌すれば、夕日子は★★との生活をイヤがっていたことになるが、やす香や行幸の父親はまちがいなく★★★であり、それを否認する気持ちはわたしには全くなかった。妻は夫と、子は両親と暮らして欲しかった。しかし★★★とわたしたちとは、彼の妙な物言いを借りるなら「生死を含めた十割の」断絶を宣言したかったし、今も同様である。
この年、秦は東工大教授の実質二年目、学内で学生達との時間は充実していた。教室や教授室タネの著書も実りつつあった。ものすごい多忙、楽しい多忙であった。一片の共感もない★★★の足を遠くからひっぱっいるヒマなど全然無かったことは、著書『東工大「作家」教授の幸福』『青春短歌大学』いずれも平凡社を一瞥して分かるはずである。
* かくて、どこに一体「秦による★★夕日子に対する40年にわたる虐待行為並びに★★★・やす香・行幸に対する加害行為の経緯」が明らかにされたのであるか、児戯に類する捏造された口から出任せの陳述と云わねばならない。何の証拠提示もなく何の説得されるにたる表明もない。
わたしのこの反駁の後でまたまた捏造しても、それは後出しの作り話。確実なモノは確実に始めからデータを添えて出て来ていた筈である。
* この以後の十数年に及ぶ「長い断絶期間」については、今直ちに何も云うことはない。わたしが東工大生活の余録としてインターネットで発言するようになったのは、1998年春以降であり、時に★★★を日録であげつらい批判し批評したことは前後の文脈にも引かれて、何度もあったろう。当たり前のことを、当たり前に云ったので、わたしは虚妄を捏造して書いたり話したりはしない。しかも一度も苦情が届いたわけでもない。
* やす香の可哀想な死に至る、また死後の★★家の「再度の暴発」に関しては、いずれわたしに一冊の著在って、多くを、きちんと明かすであろう。著作『聖家族』もぜひ一読されたい、わたしはこれを自分の「作品」としては評価していないけれど、記録性という点では保証付き正確である。
2006 10・27 61
* やす香さんの三回目の月命日になりました。三カ月が三十年にも思われるひどい時間でございました。喪われたものの大きさ、かけがえのなかった日々を思い、私も涙を抑えきれない日々を過ごしていました。
このような日々では心身ともにお疲れになりますことは当然ですが、どうかお元気でいらしてください。切なる願いです。
>なにか、あたらしいことを始めてみたくないですか。
もちろん始めたい。今少しでもお役にたてることをしたいです。 「あたらしいこと」とはなんですか。教えていただければ嬉しいことです。役に立ちそうな時にはどうぞお声をかけてください。喜んで働きましょう。
>創作にとりかかりたいが、余震のある間は手をつけまいと思います。かならず文章が汚れるから。
創作姿勢を教えていただいたようです。
余震の勢いで書くもののよさというのもあると思っていました。文章はあとからでも書き直せるけれど、当事者の感情は冷静に書かれたものより、今此処の感情の迸るに任せるほうがインパクトがあるかもしれないなどと思いました。時間が経つと忘れる部分もあるから早く書かなければなどとつい焦ります。湖速攻のメールほど喜ばせてくれたものはありませんけれど……。
>お稽古は順調でしたか。お母さんの体調はこのごろどうですか。猫はお元気ですか。
扇を飛ばしまくる(つまり不細工に落としまくる)「桐の雨」がすんで、「朝戸出」を始めました。袂から抜いた襟元に手を出すという緋牡丹お竜一歩手前のどっきりする所作(色気のある人がすれば)のある舞いです。
母は季節の変わり目で不調ですが、入院するようなことはありません。猫はびっくりするほど大きくなりました。家に来た時には掌サイズでしたのに、体重は三倍になっています。啼いて甘える手練手管はたいしたもの。猫ながらあっぱれな女で半ば呆れながら感心しています。
ゆっくりおやすみくださいますように。やす香さんが湖の夢に現れてくださいますように。 東雲
* 新しい「URL」を、「MIXI」の沢山な人が聞いてこられる。裁判官も弁護士もわたしを人間的にまもってくれるかどうか、分からない。だが、あたたかい人の輪は在る。分かる人は、分かってくれると信じられる。それでいいのだ。たとえわたしが牢屋へ抛り込まれようと、分かっている人は分かってくれる。
「分かる人は、言わんかて分かるのん。分からへん人には、なんぼ言うても分からへんのえ」と昔、「姉さん」と慕った人はわたしを肩から抱くようにして、そう言った。その人は思えば当事十五歳だった。京都という町は懐が深い、たった十五の女の子がこれほどのことを言う…と、京大の有名な数学教授がものに書いていた。
しかしわたしは、いま、愚かにも、聞いても見ても「分からへん人」相手に分からせねばと闘っている。そんな相手と同じ列に降りてものを言うな書くなと、傷ましがってくれる人がいる。そのリクツは分かっているが、わたしは、やめないだろう。「今・此処」のわたしがそれをせよと命じるかぎり、わたしは闘うことで自分を見詰める。そんなとき、いつもあの鏡花劇「山吹」の舞台を思う。
2006 10・27 61
* 小説が書けない書けないと息子クンが、「MIXI」やブログで嘆いている。そんな外向きに嘆いていられる程度だからさほどは案じないが、「書けない」という不安は物書きには死ぬほどくるしい。太宰賞をうけると、すぐ新聞や雑誌からの依頼が来始め、しかしあのころは、「何でもいい、お任せします、エッセイを四枚で、五枚で」という註文にわたしは、ハラでも切りたいほど呻いた。「題自由」の作文はいちばんの難題で、東工大の教室でも、とにかく具体的に「いま、真実、何を愛しているか」「いま寂しいか」「不惜身命か、惜身命か」「地位とは何か」などと聞くと挙って山のように書いてくれたが、たまに「自由に書いてください」となると、何を書けばいいのか分からずにノタウツようであった。
エッセイでなく「小説」が書けないのは、註文と自身のモチーフが重ならないときが多い。その点、噺家が三題噺をとにかくも纏めていくのに倣える蓄えが、底荷が、常備されていないと、どうにもならない。持ち前の財を費消してしまうのは早い。いつも片々としていても多彩な断片に感動する気持ちが要るし、それを脳内電池に充電し分類しておく日頃の用意がぜったい欠かせない。しかし小説の場合はなにより作者の日常がいつもフレッシュでないと、蓄えも腐ってしまう。
* わたしは電車や汽車にひとり乗っているあいだに、よく想を得た。じっと座って思案していたもたいした智恵は出ない。からだを適切に揺らしている方がいい、つまり静かな揺れと移動とはからだに小刻みな曲がり角をつくりだし、思わぬモノが曲がり角からあらわれたりする。自転車は危ない。注意力を運転から欠くと命取りになる。自動車の運転も論外、危険そのもの。人が身近にいても邪魔。そこへ行くと、山手線ほど人がいてもみな世間の影のようなもので、邪魔にはならない。空いた新幹線やローカル線の一人旅も、その気なら絶好。
歩いて、は、かなり危ない。いま放心しながら歩いていたら迷惑な危険を路上に置いているのと同じ。
* わたしは日頃いろんな短いエッセイを書いておく。この「私語」にも拾い出せばタネはたくさん植えてある。その気に入ったのを、原稿用に手で書き写してゆくと、それが新作の書き出しにつかえる。「清経入水」の序詞がそうだった、「みごもりの湖」の書き出しがそうだった。エッセイは小説の文体で書いておく方がいいし、時には事実でなく小説として書いておいた方がいい。わたしは小説家のエッセイはただのエッセイストのそれとはちがうものだと、谷崎先生に教えられた気がしている。
いつか使おうと、意図してフィクションを書き入れてあるエッセイが幾つかある、わたしにも。
* 建日子。 根本はしかし健康だよ。夜中に焦って書いた文章は、たいてい夢魔の所産、朝の光があたると畸形であることがよくある。静かな夜は落ち着いた推敲にあてるようにわたしはしてきた。「推敲の力は才能のあかし」だ、それも大切にするといい。
2006 10・28 61
* ホームページでよそ様ご家族の ”もめごと”を読むというのもおかしなもの、と思いつつも目が離せず拝読しています。
しかし、読むほどに一体全体このような事が裁判の対象になりうるものなのかと、法律にうとい私は困惑してしまいます。
確かに「訴状」はきつい言葉で書かれていますけれど、内容を普通の言葉で言い換えれば、親子のあいだ、父娘の間、娘夫婦との間でそんなに珍しいことでしょうか?
訴えるほどのことなのでしょうか?
自分の下に弟妹が生まれて親の愛情が移ったと感じた子どもはちっとも珍しくなんかありません。
女の子より男の子の誕生を周囲が望みちやほやするのも(個人的には不愉快ですが)、家族制度の改革を訴えるのならともかく、親を訴えるのはお門違い。
父親が可愛い娘の縁談につぎつぎケチをつけて”妨害”したという笑い話はそこここに転がっていますし、結婚式の時に両家のいわば習慣の違いでぎくしゃくし、中に入った子ども夫婦が困った、などと言う話も山ほどある。
結婚後、夫が海外に行っての留守中に娘が孫連れて実家に来るなんてごくごく普通の話、その間に何をどれだけ食べたとか、何を買ってやったとか「いろいろかかって大変なのよ」とうれしげに友人にぼやいて見せる祖母はいても、それは孫自慢の延長線。
どれも、どうしてそこまで”角の立つ”言い方が出来るのかと、全く不思議ではありますが、事ここに至っていちいち反駁せねばならぬ秦様ご夫妻のお気持ちを思うと、どれほどにお辛かろうかと、それがご健康にさわらねばよいがと、ただただお案じしています。
順調で幸せなときには、内在されていても目立たなかった人間関係のひずみや不満が、不幸な出来事をきっかけに露呈し極端な場合夫婦やその周囲の関係を破壊する、長年「親の会」の相談員をしている私は障害のある子どもの生まれた家族で体験します。
逆に不幸を共有することで関係がしっくりと良くなる例も沢山見ます。
やす香さんの突然のご病気が良い方へのきっかけになれば、と祈っていた私なのですが、どうも逆に出てしまったようです。あまりにも早い死への経過だったからでしょうか。
なんとか、どうか穏やかに納まりますようにと祈っています。
それはきっとやす香さんの願いでもあると思うからです。
お身お大切になさって下さいませ。 2006/10/28 藤
* その通りだと思っている。夕日子も★★★も、よほど秘め隠して、やり過ごしたい負い目をもっていた。その糊塗のために、父親であるわたしを「性的虐待者」とまで捏造して視野をくらまそうとした。
十三歳の少女が的確に指摘していた、夕日子さんは自分の「責任に恐怖」しているのですと。やす香から半年ものあいだ「まったく目を離して」いてあのような事になった、その「責任に恐怖して」、しかも白血病・肉腫と知って愕然と、とりかえしのつかぬ責任を自覚していた。「死なせた」と自身嘆いている祖父母に、自分達を「殺人者」だと「キャンペーン」していると逆上したのもその自覚の裏返し、一種の糊塗行為だった。
「やす香との「マイミク」であった祖父のわたしに、(★★の両親は少なくもやす香が「白血病」と知るまで「MIXI」と無縁だった。またやす香が二年半も以前から祖父母と仲良く復交を楽しんでいたことも知るよしなかった。)ただもうヤミクモに「敵意」だけをぶつけてきた。やす香の悲しい死をまんまと「かくのごとき、死」に仕立てて行ったのである、この両親は。
* ごく最近知らせてくれる人があった。娘・★★夕日子は、今年2006年の二月ごろ(すでにやす香が「肉腫」発症の苦痛を露わに「MIXI」に語り始めていた頃)から、新規に、大がかりなブログを開設し、ブログを通して一種の「新聞論」から始まり、いわば近隣での「タウン活動=ふれあいサタデー」を単独企画していたことを。
小学校時代から人の先頭で「仕切る」のが好きな子であった、「三つ子の魂」というものだろう、それ自体に何の問題もない。しかし現今の新聞事情に対する判断は、はなはだ見当がずれている。それは別事だが。
しかしながら、その「七月一日の夕日子(=ぬぼこ)日記」は、こう書かれている。此処に引用しているのは「ぬぼこ」全日記のごくごく一部分である。煩瑣な割書きを整理したが、一字一句そのままである。
* そのまえに、六月六日と十二日との、やす香の悲惨な「MIXI」日記を、対照に掲げておく。やす香全日記の百分の一にも当たらない適量内の引用である。印象を鮮明に保つべく、そのままに書き込む。
思香(=やす香)2006年06月06日13:19
◎筋肉◎ って使わないと衰える!!
パパもママもおうちにいなくって、
明日先生のお通夜に
這ってでも行くために
リハビリだ!!!
って凄んで
家の一階に
オレンジジュースとりに行ったの。
大丈夫だから、
大丈夫だから…
ちゃんと頭に血を送れぇ
って自己暗示と共に(笑)
ばぁちゃんみたいに腰曲げて
見るも無惨なかっこで
10日ぶりくらいに食卓に降り立ち、
オレンジジュース入れて
よし、上り頑張れ自分!
って2、3歩のぼってあらびっくり(◎o◯;)
足に力入りません∑(`・ω・屮)屮
手摺りないとフラフラしちゃう。
こりゃホントにリハビリせねば
って思ったね(^-^;
んで、
手摺りにしがみつきつつ部屋に戻ってきて、
ジュースおいて、
ベットに安らぎを求めようと
ヘナヘナ座り込んだ瞬間、
ガタン…。
えっ(i|!゜Д゜i|!)
恐る恐る振り返りました。
そーですとも。
汗と涙の努力の結晶を
ものの見事にひっくり返しました。
滴り落ちるジュース…。
まさかそのままにしておくわけにもいかず、
雑巾とりに下に降りる体力もないので、
木の神様にごめんなさいと謝りつつ
大量のティッシュで後始末。
あぁ意外と動けるじゃん自分…_| ̄|●
と思いつつ↑の退勢で床を拭いてたわけです。
よし、
この大量のティッシュを一度ゴミ箱へ…
と思い起き上がろうとした瞬間、
うっiI||Ii(′◎ω◎`;)iI||Ii
こっ腰が……_| ̄|●))
なんとまぁ
全然伸びないじゃないですか。
真っ直ぐ立てないんですよ。
腰が曲がってしまった
おばあちゃんの気持ちが
よぉぉぉぉぉぉくわかりました。
みんなちゃんと運動しようね(o′艸`o)
2006年06月12日
11:10 みんなが恋しいょぉ。゜( ゜´д`*゜ )
世捨て人(?)になってから
かれこれもう
3週目に突入しております(*_*)
お医者さんに行ったら (=どこの医者か。)
「大丈夫です、
夏休み頃には元通りですょ(^-^)」
って…
おぃ\(*`∧´)/
そんなに待たすんかぃ。。
* 母・夕日子の、やす香入院後十日余、今年七月一日のブログ日記。
* Posted by ぬぼこ at 08:40 | 娘 |
並行宇宙 [2006年07月01日(土)]
ふれあいサタデーに向けて駆け回る私に 一本の電話が入る。
体調不良で でも、「どこも悪くないですよ」と言われつつ、幾つかの病院をめぐっていた長女の
その「不調の原因を突き止めてくれた病院」がある そこに入院するという電話。
ありがたいニュース………・のはずだった。
だがその病院に駆けつけて以来 私はほとんど病院を出ていない。洗濯のために家に2回帰っただけ。
仕事に大穴を開けたあげく、幾つかのオファーをキャンセルする。
流れていた時はすべて断ち切られ、過去はすべて邯鄲の夢であったように、並行宇宙での活動であったように、
今の私に繋がっていない。
こちらが夢ならいいのにと思う。
ふっと目覚めたら、梅雨の蒸し暑い空気のよどむ、自室のベットの上ならいいのにと思う。
だけど、病院にパソコンを持ち込んで、私は試みる、この宇宙と、あの宇宙をつなぐように 病院の窓際に座る私が現実であると同じように (玉川=)がくえんという街と、そこでの活動を 私の現実として取り戻すために。
ブランクはたった2週間だ。
二者択一でなくていいはずだ。
私は負けずに進んでいこう。娘が闘っているように、私には私の闘い方があるだろう。
* この直前の「ぬぼこ」日記の日付は、六月十四日。その日の記事内容にも、それ以前の大量の日記にも、やす香の「や」の字も見当たらない。
「体調不良で でも、『どこも悪くないですよ』と言われつつ、幾つかの病院をめぐっていた長女」 これだけだ。
やす香はあの激痛の苦境の中で、なお斯くも孤独に、医者へ、病院へ、這うようにして独りで出掛け、この日、やっとやっと「その『不調の原因を突き止めてくれた病院』がある そこに入院するという電話」を、初めて母親にかけている、嗚呼。
夕日子は寝耳に水だったようだ。いろんな状況から、これが六月十六日頃と推量され、六月二十二日には愕くべきことに、やす香自身が「白血病」と「MIXI」に告知した。嗚呼、これが事実だった。「目を離していた」どころではないのだ。
* 「ブランクはたった2週間だ。」と夕日子は言う。
何の? やす香の病状から完全に目を離していた六ヶ月の「ブランク」の意味とは、とても思われない。「ふれあいサタデー」のことだ、しかも「(娘と「ふれあいサタデー」との)二者択一でなくていいはずだ」と断言している。どっちも同じだという価値評価だ。これが、自分の母にむかい、白血病なんて「なおる病気よ」と吐き捨てるように呟いた母・夕日子の「子・やす香の命」にかけた価値判断だった。夕日子のこの「ブログ日記」を、むろん全記録した。
2006 10・28 61
* 新しいURLでの復活安堵致しました。嬉しく読ませていただいています。日常の生活に張りが戻ってきた感じです。またMixiでも新しく秦さんの読者も共感者も増えたご様子、私まで何か心強い思いです。是非その方たちのためにも、ご健康で過ごしてください。
今週の始めに「湖」宛に書かれた「一読者」の長いメールを読ませていただきました。
どうしても引っかかるものがあります。
「今の事態の打開に『母親としての迫真の陳述が必要』とか『娘と刺し違えるほどの覚悟で説得』とか書かれていました。後のほうには『聖家族』の作中には、「妻はいても娘の母はいない」とも書かれています。
読みが浅いのかも分かりませんが、筆力がなく言葉足らずになりますが、私も思い余って。
この家族にはよき妻とそれ以上に慈母がいます。
そしてこの母は刺し違えるのでなく、どれほど自分一人を刺し、苦しんでいることでしょうか。
あれほどの母恋いの作品を書かれておられる秦さんが愛されている妻です。その妻がよき母親でない筈がないのです。子どもたちを慈しみ愛し育てた母です。
秦さんの多くの作からも読み取れるのではないでしょうか。
今回の件に関しても、普通人には考えられないほどの執拗さで(ゴメンナサイ)書いて身を削り削り決着をつけようとなさっておられるのも、妻への限りない深い愛情がさせていると確信しています。
迪子さんのお気持ちを思うと辛くて分かって欲しくって書きました。何よりもご夫妻のお心の平安を祈っています。
運転手つきの車でのご旅行案など書かれていましたが、良い季節も短いです。自然はお二人を大きく包んでくれることでしょう。ぜひ実現してください。 晴
* 妻にもわたしにも有り難いお気持ちと読んで、感謝申し上げる。たしかにわたしが「普通人には考えられないほどの執拗さで(ゴメンナサイ)書いて身を削り削り決着をつけようと」しているのは、自分を守ると同じく、妻であり息子である者の名誉を守りたいからで、それを愛情と呼ばれればそれに相違ない。
「この家族にはよき妻とそれ以上に慈母がいます」は、妻には嬉しい声援だと思う。この場合の「この家族」とは、とりもなおさず「秦家」を意味されているだろうし、あの「一読者」の筆致もまた似たものではあったけれど、『聖家族』という未完のフィクションの「奥野家」「妻」と、「秦家」のわたしの妻と、この両人、は区別した方がいい。これはモデル小説を意図してはいないから。
建日子への最近のメールに添えて谷崎潤一郎の例をあげたと覚えているが、谷崎は、きこえた「母恋い」作品の作家であった。だが、現実谷崎家の母、カッコのつかない母と、母恋い作品の「母」、カッコのつく「母」とは、書き方が違っていた。一般化してまでは敢えて言わないけれども、向き合い方も表現の質も谷崎の場合意図して「異化」されているとわたしは読んできた。
おなじことは、わたしが「妻」を書くときと、ま、日記にしか書かないけれども現実の妻とは、やはりちがう。このちがいを、「一読者」さんは、作品の「妻」側から読み込んで混同され、「晴」さんは妻の親友として平生のわたしの妻から見て同じく作品の「妻」と混同されている。
現実の妻は慈母という美称には照れるであろうけれど、確実に言えるのは、妻がなにより実の娘の、またその夫の無道な、考えられない蛮行により日々五体と精神を痛めていること。わたしは、それを許さない。
* 正確な日付のない、おそらく下書きか心覚えであろうが、1993年に妻が書いていた夕日子への「呼びかけ」が、夕日子のモノをまとめた大きな筺の中から、つい今し方見つかった。
もう今夜はあまりに遅いので後日に回すが、妻の「思い」はかつてこうであり、いまもこうであろうと思う。
わたしは怒ることが出来るし、憎悪することも出来る。わたしは一つの悟りかのように、自身の喜怒哀楽に鍵をかけていない。わたしの妻は、悲しんで堪えることしかできない。堪えるというのも危うい。
決して「刺し違える」人ではない。むしろ「救いたい」と思う人だ。「慈母」とか「悲母」と読みかえて良いのかも知れないが、それを「母の弱み」と見て娘夫婦が露骨に付けいっている。四十六歳になる「主任児童委員」と称しているわれらが娘・★★夕日子に、母への愛はひとかけらも残っていないらしい。
* 死んだやす香のことも、もう助からぬ命と諦めてから、夕日子は、いろいろ言って書いていたが、今年二月以来大量に書き継がれていた「ぬぼこ」こと★★ 夕日子自身のブログ日記には、こと「教育」の大切もをしきりに話題にし滔々と論じていながら、ついにあの劇症に呻いて泣いていた我が子・やす香にふれた「只の一個所もない事実」に、わたしは心底驚愕する。
ブログを開設してまる五ヶ月というもの、一本のやす香の電話まで、母・夕日子は只の一度も我が子の「容態の変」に触れていない。ことの重大さに気付いたふうも無い。やっと劇症の病体の「入院が必要」と認めた病院を見つけてきたのは、苦痛を堪えて一人で出向いたやす香当人であり、その電話に、母親は初めて、ただ驚き慌てている。「容態の深刻さ」に初めて驚愕したこの日(六月十六日頃か)まで、雫ほどの愛情も、思い労りも、やす香に与えた形跡が無い。それはやす香の「MIXI」日記にも絶無であった。
ひたすら大きな風呂敷を「がくえん」というタウンや学校や世間にひろげて、学校子弟の「善導や教育の効果」に演説していても、目の前の、家の中の、「肉腫」に呻吟して泣いている我が子には、指一本、足の半歩、温かい一瞥すらも働かせていなかったらしいことだけは、二人の相異なるブログ日記ほ「合わせ鏡」に逐一読み込んで、歴然としている。
夕日子は市会議員にでもなりたいのだろうか。
だが当然にも、ブログに書かれている中味は、中にはわたしの関心をひく論点も在るけれど、総じて言葉をただ操った空疎な演説に終始しがちで、小説のユニークさよりよほど落ちる。文章は昔から父親に「虐待?」されたおかげでシッカリ書く、が、ハートが伝わらない。理に落ちて情が働いていないのだから、読む者の胸に熱く届いてこないのはムリもない。わたしと意見を同じくする、国歌・国旗の強制に反対の弁などが、わずかに印象に残るが、一つハッキリしているのが、夕日子は「フォーラム」へ「公衆」へさながら「上から下目に」弁舌している。わたしは、「闇に言い置く 私語」をしか語らない。わたしは「わたし自身に先ず話しかけ」ている。夕日子の言葉が、とかく上滑りに飾られるのはそのためで、白い手袋でマイクを握り宣伝カーから慇懃そうに呼びかけている候補者に似ている。偽善にスレスレだと言っておく。
2006 10・28 61
* 自然にゆったりと。それは古来の覚者たちに共通する在りようであった。
そんなことをして「何になるか」と考える人がいる。何になるかは「翻訳」の利くことばである。何の役に立つか、何の効果があるか、損か得か、という意味もあり、弁護士になるか大臣になるか絵描きになるかといった意味もある。いずれにせよ、少なくもこの両者に共通するのは、「未来」依存「未来」期待である。
ところが人間に「未来」はない。未来は予想できるだけである。在るのは「今・此処」の連続する常に「現在」の時空だけである。
自然にゆったりと、も、その「今・此処」に於いてでなければならない。「今・此処」で自然にゆったりするためには、「今・此処」と向き合って「今・此処」を生きる、ごまかさずに生きることが総てであり、如才ない世間のリクツをあやつって喜怒哀楽もごまかしながら、問題を先送り先送りするのが、自然にゆったりであるわけがない。
老子が無為自然といい、親鸞が自然法爾と謂うとき、何もしないでごろりと昼寝が良いと謂ったわけではない。いま、自分は何で在るかをみつめて自然に行為せよとと言ったのである。
むかし「梵天丸はかくありたい」と幼時の伊達政宗が口癖にするドラマがあったが、人は「何になるか」を在りもせぬ未来に空しく問うのでなく、人は「何で在るか」の根本の本性に繋がりながら、為したきを為せばよい。ゆったりした気分で烈しくも強くも優しくも静かにも、為せばいい。ごまかしてはいけない、それは見苦しい。
* わたしはこのところ毎日毎夜、人のわらうであろうことを一心にしつづけているが、それが何になるかを問いも求めても居ない。わたしは「何で在るか」を問うている。それが必要ならそれをする。ひとに頼めないことは自分でする。喜怒哀楽に鍵は掛けずにする。自然でゆったりは、そんな「今・此処」に在るからだ。
* 虐待を指摘された親が家族の写真を出してきて、「こんなふうに笑っているのに虐待のはずがない」と、抗弁する。「不幸です」って書いて顔にはっておかなければ子どもは救われないのでしょうか?
困難な環境にある世界の子どもたちの写真、深刻なまなざしやうつろな表情の写真だけが 世界の過酷を表現するのでしょうか? 笑っている子どもは、みな、放っておいても幸福なのでしょうか?
「教室で結構、笑いをとっている子でした、いじめられていたとはとても思えません」
ひとかけらの笑顔も浮かべられなくなるまで、子どもは放置されるのでしょうか。笑うしか術のなくなった子供は、
みずから命を絶つしかないのでしょうか?
病人やいじめられっ子は常に苦痛の表情を浮かべ、笑っている人間は健康で幸福なはずである。
こういう単細胞な反応は、いいかげんやめましょうよね
★★夕日子のぶろぐ 10/20より
* 秦恒平はと、なぜ父親の名前を出さないのだろう。礼儀でではない。逃げ道を用意してしか、ものが言えないのだろう。
第一段落の「?」に至る二つの文段は、乖離している。「書いて顔にはら」なくても、本当に不幸で「精神的に蹂躙」されている人は、まして子どもは、まして虐待者のむけるレンズへ自然に美しい笑みはみせられない。そんな演技は出来ない。
第二段落の弁も、野放図に「世界」に話題をおしひろげて拡散させている。だが、「深刻なまなざしやうつろな表情の写真が 世界の過酷を表現する」例は圧倒的で、その中に可愛い笑顔の一枚二枚が混じっても、現実の悲惨は覆われないだろう。
しかしながら都合良く混乱させてはいけないだろう。いま此処で問題なのは、たった四人の両親姉弟のちいさな家庭、二間の社宅ずまいの「秦家」の日常であり、広大な「世界」ではない。そのまだ幼い姉ひとりが、父親から「性的にも精神的にも虐待」されて「苦しんで」いながら、その父親のカメラに現に向けている「顔」の問題である。
弟と嬉々として笑い合う姉の顔は、ただ一枚でもこんなに雄弁ではないか。「MIXI」の写真も、今月二十二日つづきに出したのも、わざと同じ時期の写真が選んである。夕日子は演技で同時にこんな笑顔が幾つもつくれたと強弁するのか。
* 「一会一切会(いちえ・いっさい・え)」という。「一事が万事」ともいう。「一瞥でわかる」とも謂う。一が全を示唆し会得する例は多くあり、ここで夕日子の軽率にあげつらってみせたことも、「観る眼」さえしかとあれば、その笑顔が自然な笑顔か、引き攣ったつくり笑いかは、すぐ分かる。性的虐待ほどのくらい虐待に怯える子供が、どんな演技力を発揮したとて、内心の地獄は隠せない。そんな被虐を言い立てている夕日子が、八歳から結婚後にいたるまで、どの年代にも、にこにこと「虐待者?」のカメラにむかいじつに自然な喜色満面の笑顔やポーズを示し、四国中国へ一緒に長い旅をしたり、一緒に文壇のパーティに出たり、食べたり飲んだり出来るものかどうか、示してある実例・物証そのもに適切に反駁してみるがいい。
父と母と弟との日々、夕日子は「笑うしか術のなくなった子供」であったと本気で言うなら、ふくれて仏頂面の写真もみてみるといいね。
そして極めつけ、★★との両家葛藤のいわば絶頂期に、「虐待者」と指さしている当の父親宛てに寄越している自分自身の繪ハガキを、良く読むがいい。「聖母・神が造り給うた山」というイコンの絵葉書だ。
* 保谷市 秦恒平様 町田市 ★★夕日子 平成五年(1993)七月三十日
お手紙ありがとうございました。お陰様でおだやかな誕生日を迎えることができました。尋ねられて悪びれることなく、”三十三です” と答えられるのがなによりと思っています。 やす香は毎日プール、でもまだもぐれません。ヶヶヶは汗も(傍点)と競争でシャワーをあびる毎日です。学期中より、むしろ忙しいので、母親としてはいたしかゆしといった夏休みです。
* ごく自然に実家の父に語りかけているではないか。文面の実物が、一昨日、十月二十七日の「つづき」に挙げてある。よく見るといい。
「四十年」に亘り父親に虐待されつづけて苦しんでいると訴える娘が、なんで婚家からこのように便りをよこすか。なんでわが子達の成長の写真をその父親や母親に送り届けるか。四国中国への旅にたくさん見せた夕日子の笑顔は、子供の頃の笑顔をそのまま開放して、実に気持ちがいいではないか。
* 無理無理につくウソというのは、かくも黴のように増殖するが、自らの愚をただ暴露しているのである。よそごとに逸らすことなく、自分自身の写真の数々に見入って、正しくモノを言うがいい。どこの世界にこんなことで親を訴える子があるでしょうと嗤われていることに羞じらうがいい。 父
2006 10・29 61
* 秦さん。民事調停と審尋、ともにお疲れさまです。
大兄のホームページに以下のような記述があってから、電子文藝館のメーリングリストに何らかの告知が載るのかなと思っていました。
大兄からの告知があれば、メイリングリスト上で、一言書きたいと思っていましたが、とりあえず、大兄宛に書くことにします。
* 地裁審訊の判決書が届いていた。大山鳴動して鼠も出なかった。長くて数日ということだったから仮処分申請に同意しお願いしたが、一ヶ月余もかかり、結局復旧したという画面もみることなく、BIGLOBEを解約した。何の必要があってわたしのこの六月、七月、八月の全部の「私語」削除を容認して「和解」なのか、わたしには全然理解できない。わたしのために何の利益をはかろうと仮処分申請してくれたのか、尽力の成果がどこにあったのか全く理解できない。
この事件で法律家とも当事者として話さねばならず、ほとほと驚愕したのは法律家の言葉はじつに耳に入りにくいと云うこと。しかし裏返すと、法律家の耳にはわたしのような文学者のことばはほとんど一顧もされないほど無意味で無効なのである。裁判官はそういうことには一顧もあたえませんと、さらさらと云われる。ダメダ、コリャと人間を務めているのが情けなくなる。
「プロバイダ責任制限法」に基づく、今回の大兄のホームページの全面削除問題に対する審尋での裁判所の「判断」は、私も腑に落ちません。
私の拙い知識で判断するに、「プロバイダ責任制限法」は、免責手続法なのですね。
迅速な手続きを最優先するため、類型的、形式的な、つまり、あまり、判断力を必要としない、機械的な判断で、「迅速かつ適切な対応」をするように法は、薦めています。
インターネット上での個人の権利侵害が多発する中で、プロバイダに迅速な対応を求める代りに、手続きさえ、ルールに則っていれば、最大限に免責する法律のようです。異義申し立てがあったら、プロバイダは、発信者に連絡をして、7日間経っても、反論がなければ、速やかに削除する、という手続きは、この法律が定めています。従って、ビッグローブには、瑕疵がないというのが、そもそもの裁判所の前提なのでしょう。
著作権上の問題があるとすれば、当該の日記の引用だけのはずなのに、一部を削除するという対応ではなく、まったく無関係の「秦文学館」ともいうべきホームページ全体を削除したという「過った判断」は、何ら問題にされず、ビッグローブには、何のおとがめもなしということなのでしょうか。せめて、過った判断だというような裁判所の見解が示され、その上で、過失の重大性の有無を判断し、云々という文脈ぐらいには、なるのかなと期待をしておりました。
ビッグローブの問題点は、
1) 削除した範囲の是非→これは、明らかに、「非」であって、過剰な対応です。
2) 判断基準の是非→1)の判断をした基準は、なんであったのか。これは、是非とも知りたいですね。
3) その上で、今回の削除にあたって、ビッグローブに「重大な過失」があったのか、どうか→今回の審尋の結果示された裁判所の判断を見ると、裁判所は、ビッグローブに「重大な過失」があったとは、認定していないんですね。情報が、プロバイダによって、「過って削除」されても、ほとんど免責されてしまうということのようですね。
プロバイダ責任制限法の「著作権関係ガイドライン」という文書を読むと、ガイドラインは、「プロバイダ等が責任を負わずにできると考えられる対応を可能な範囲で明らかにした」として、さらに、「裁判手続においてもプロバイダ等が責任を負わないものと判断されると期待される」と明言していますが、今回は、本当にその通りに進行しています。
さらに、新たに、審尋で示された削除範囲も、ビッグローブの全面削除の「精神」と通底していて、「私語」の、6、7、8月分の全てという、類型的、形式的、機械的な判断で、規模は、ビッグローブより小さいものの、「過剰な削除」という点では、同根なのです。因に、例えば、6月の場合、6・22以降は、日記の引用などが多用されるものの、それ以前は、「普通の」の「私語」という作品です。
審尋の結果、ひとつのプロバイダの問題にとどまらず、プロバイダ責任制限法の問題性の深刻さを改めて浮き彫りにし、この問題については、裁判所も当てにならないということがはっきりしたわけで、自分のホームページやブログを持つ、私たち(個人も、ペンクラブのような団体も含む)としては、誰かにいちゃもんを付けられ、それぞれのプロバイダにたれ込まれたら、7日間以内に、精々反論をしないと、今回同様の目に遭うこと必定ということです。法も法の番人も、電子メディア時代の情報発信を保護してくれないということを社会的に訴えて、問題を顕在化するしか、私たちの前には、途はないようですね。
民事調停に関する記述も痛ましく、是非とも、いずれは、文学作品に昇華させてください。ご子息が、冷静に父上を支援しているのには、ホッとします。奥様ともども、心身共に、御自愛専一にと願っております。 英
* がっくり消耗のあまり二つの委員会に「報告」すべきを失念していた。問題は、指摘されているその通りだと思う。こういうことが平然と為されて差し支えない不備な法律のまえで、不当な不利益を「和解」の美名で結局押しつけられるのでは、堪らない。
2006 10・29 61
* 『畜生塚』に併行して、大原富枝さんとの懐かしい対談『極限の恋』を「MIXI」に連載しはじめた。汚されきったいまの気持ちを、絶妙にバランスしてくれる。
こういう小説を書き、こういうことを思っていた、考えていた、まさにそのさなかで、わたし秦恒平は、実の娘・★★夕日子を、「虐待」「性的虐待」していたと、娘の七歳以降「二十年」「四十年」にわたり、ずうっと「虐待」「性的虐待」されてきたと、その「実の娘」から、いま公然とうったえられている。 ★★ 夕日子は夫・★★★(青山学院大学教授)とともに町田市に暮らしていて、「民生・児童委員」を務めていると「肩書き」にいう。
父親のこのむちゃくちゃな悲しみが、わたしの生き方・書き物を通じて、はたして人に伝わるのだろうか。絶望にちかい絶望を堪えてわたしは絶望などしてはいけないのである。わたしは「今・此処」に生きて懸命。そのあかしはわたしの「文学と生活」とで示す以外に無い。
* ★★★と秦家との確執は、★★が、オーバードクターとして就職難に喘ぎ、わたしが偶々東工大教授に就任したまさにその時に表立った。★★からムチャクチャに親を罵倒した手紙で「暴発」(当時、妻・夕日子の表現)した。
さらに時久しき断絶を経て、不幸、今年の夏、★★の長女やす香が劇症の癌「肉腫」で亡くなったときに、またも★★★の名で、わたしを「告訴・訴訟する」と今度は「威嚇」してきた。その「理由の最たる」ものは、われわれ祖父母自身、手も尽くし得ないで可愛い孫を「死なせてしまった」と嘆いていた、その「死なせた」を、「やす香の両親を、やす香を殺した殺人者だと謂い広めている」「キャンペーンしている」とねじ曲げて釈ったのだ。
わたしには、早くに弘文堂「死の文化叢書」の一冊に、版を重ねよく読まれた『死なれて・死なせて』の著書があり、その「死なせて」と謂う意義は、誤解しようもなくハッキリしている。「死なれる」のは主情的な悲しみであるが、「死なせる」のは人間存在のかかえた根源苦・業苦のようなもので、自責の悔いとして表れる。『心』の「先生」の友人「K」を死なせたのも、薫大将が宇治大君を死なせたのも、ハムレットが多くを死なせたのも、建礼門院の存在がじつに多くを死なせたのも、知勇の宗盛が我が子知章をむざむざ死なせたのも、ヒースクリフがキャサリンを死なせたのも、ファゥストがグレートヒェンを死なせたのも、みな「殺した」というのとは異なる。下手人ではないが、「死なせた」のである。
たとえ一時逆上したにせよ、しばらくもすれば、青山で教育哲学を教えるという教授が、またお茶の水で哲学を専攻し、いまは市の民生・児童委員を務めると称し、さらにどういう気か「女流作家」をすら自称するほどのインテリ夫婦が、ものの道理の分からぬ筈はないと思うのだが、エスカレートにエスカレートして躍起になり、いまわたしに「インターネット上での謝罪」や「賠償金」を請求している。
* 十数年前の「暴発」にも、★★★の滑稽としか謂いようのない「浅解・誤解」が引き金になっていた。娘の聟である自分が、なぜ秦恒平の「身内」ではないのか、と。そう叫んで彼は暴発した。
いきなり誤解と言っては失礼かも、しかし早稲田政経出の「秀才」という仲人口であったのに。秦恒平の「身内」観が独自・独特のものだとは、彼を娘に引き合わせた仲人さんの****教授もよく御存じである。ただの知人ではない、わたしの「いい読者」であった、氏は。むろん娘・夕日子も父親の「身内」観は十二分に聴いている。
ましてその★★の誤解を生んだのが、紀伊国屋ホールで上演された、俳優座加藤剛主演になる漱石原作『心 わが愛』を、家族みんなで「観た」あとだったのだから、それはもう、お笑いというしかないのだった。わたしが脚本を書いたこの『心 わが愛』は、漱石の原作を借りて、利して、といってもいい、わたしの「身内」観を主題に劇化したと謂えるものだった。劇場は通路にも客の座るほど、消防署から注意が来かねないほどいつも満員だった。劇評もびっくりするほどよかったし、「真面目な作の真面目な感動」と謂われ、分かりにくいなどとは謂われない芝居だった。いま、NHKが藝術劇場で放映したビデオで見直しても、どうするとあんなバカな★★★の憤懣がとびだすのだろうと笑えてしまう。
むろん娘の夫になったばかり、ろくに話す機会もない★★★が、わたしの「身内」でなどあるワケがなかった。
彼は親類縁者だから「身内」だと言い張る、が、わたしは舞台の上でも著書の上でも、人間とは、「自分」「他人」「世間」の三種類しかなく、親も兄弟も親類も自分ではない以上「他人」=知っているだけの人の意味だと、子供の頃から思い決めていた。「世間」とはつまり知らない人。
しかし人はそれでは寂しすぎる。だから死んでからも一緒に暮らしたいほどの「本当の身内」が堪らなく欲しくなる。その「本当の身内」とは何だろう、というのが平たく謂ってわたしの文学の動機であり主題であった。その一つだった。★★★はそれが理解できず、また文学への、あるいは文士である舅への軽蔑の念から、理解しようとすらしなかっただけのことなのである。そして秦の家に行っても、夕日子とやす香の写真は飾ってあるのに俺のはないと、家に帰ると妻に当たり散らしたというのだった。
* わたしの多年の「いい読者」たちは、こんなことは、寝言でも言えるだろうほどよく知っている。やす香の死をめぐる信じがたいような紛糾の経緯も、よくよく知って貰っている。
わたしには何の闘う武器もない、「書く」ことでしか身も守れない。裁判も法律もアテにはならない。
秦さん いたましいと、また、そんなことバカげている、放っとけばいい 相手にしなければいい と言われても、この「死なせて」「身内」の象徴的な二つの事例からしても、相手はもう盲目滅法に暴走している。わたしの読者にはさまざまな地位や職種の大人が多いが、その中にはこういう★★夫妻の動きを、掌をさすように懸念していた人もいた。何度も紹介しているが、何度でも紹介する必要がある。そしてわたしは絶望などしてはいけないのである。どんなに言う大勢が在ろうとも、わたしはわたしと妻とのために、かかる無道の前に絶望してはならないのである。
その読者の一人は、はっきり、こう予想していた。
* 私には、あなたが作家としてご自身の作品を守り、言論の自由を守り、それでも夕日子さんのためを思い、訴訟には強いて勝たなくてもいいとお考えのように見えてしまいます。
これは、最悪ではないでしょうか。
さらに訴訟があなたの心身の健康に与える負担を思うと、ぞっとします。何十年も訴訟している例をいくつも知っています。泥沼です。
そして、相手の弁護士を甘く見てはならないと思います。
まず、実の娘からの告訴を煽るということは良識ある弁護士ならしません。「九十五パーセント勝つ」という妙な強気もおかしい。これはかなり質の悪い「やくざ」な弁護士がついていると推測すべきです。
さらに私がもっとも恐怖するのは、裁判が不利になった場合に、夕日子さんが「言葉によるハラスメント、虐待」だけでなく、少女時代に「性的虐待」を受けたと「嘘を訴える」ことです。夕日子さんはそこまでしても勝ちたいでしょう。負けないために身辺・周囲が煽るでしょう。アメリカでは無実の父親がこうやって社会的に葬られた例が山ほどあって、本になっているくらいです。
もし、そのような根も葉もない訴えがあった場合、裁判は女の味方です。自称被害者のほうが強いです。痴漢の冤罪よりも無実の証明は絶望的です。あなたの作品はことごとく抹殺され、百年は埋もれなければならない。あれほどの名作なのに。日本語の宝なのに。
私の願いは、一先ず譲歩して、「告訴」騒動を鎮めてくださることです。ご家族、弁護士さんなど色々な方々とご相談して、あちらの要求がこれ以上傲岸に過大になる前に、お考えいただけないでしょうか。
その上で決断されたご判断は一番正しいことですし、それを心から支持して、あなたとご家族の皆さまのお幸せをお祈りし続けることに少しも変わりありません。 読者
* いくら何でも度はずれていると、わたしはメールのこの辺は読み飛ばしていた。
ところが、夕日子は「木漏れ日」名義の「MIXI」日記を利し、しかもそれがわたしには「読めない」ように画策しておいて、八月以降、公衆相手(六百万人)に、じつに、読むも忌まわしい上記に危惧されたとおりの「嘘を訴える」ことをしつづけていた。
わたしには、それが読めなかった。人がコピーして送ってきてくれない限り。よほど見るに見かねて癇癪玉を破裂させた人が、全文を、送ってきてくれた。
ひと言だけにしよう、あきれ果てた。
もうひと言、何と情けない人間になったのだろう、わたしの娘は。
* わたしは、ものに書く場合、政治と外交とは、別。それが普通の批判や非難にあたる場合は、いわゆる「ウラ」を確保してでなければ、断定しないようにしている、当然の作法である。推測は人性の自然であるが、それも前後の状況から推して、蓋然性を堅くにらんで、する。まともな評論や批評は、そうでなければ出来ない。
それぬきに、好き勝手なでたらめな「作文」は、幾らでも出来る。誰にでも出来る。上のメールの人が、「心から危惧」し予測していたことを、夕日子は臆面なく、とうに、やり始めていたんだ。それも実の父や母に向けた、むちゃくちゃな「悪声」「誹謗と中傷」。
* そこまでやって、いったい夕日子は、何の自意識から「責任遁れ」しようとしているのだろう。
我が家はきわめて狭い家で、しかも妻と私は何十年、常にまぢかに暮らしてきた。わたしが一人の時は、書斎とも呼べない窮屈な机に向かい、夢中で依頼原稿を書きまくっているときだけだった。
* もう一人の読者はこう書いてくれている。
* 娘さんについて考えたことを書きます。まず娘さんが「MIXI」に書いた性的虐待の日記ですが、そもそも娘さんがハンドルネームを使っているとしても、周囲に自分とわかるように書いていること自体、そういう事実はなかった「嘘」とわかります。性的虐待のカミングアウトというのは、女にとってよほどのよほどです。使命感でそういう「活動」をしている人以外には、ほとんど例がないのでは。
私は子ども時代の虐待について本人の書いたものをいくつか読みましたが、まずあまりの傷の深さに、そういう著作自体少ない。そして、書かれたもの二例では、本人が自分の名前を戸籍から変えていました。 読者
* 夕日子はおそらくこの二つの読者メールを「逆手に利用」しようとしたのではないか。「使命感」を偽装して仁義なき闘いに勝利をめざしているのだろう。上の「読者氏」は、つまりは秦さんが「★★★」で「目をすった」のが根本原因でしょうと冷徹だ。一言もない。だが絶望してはならぬ。
この半月ほど克明に「★★指弾条々」に答えてきた全部を写真ももろともに印刷した。これは個と個との間の内緒ごとではない。町田簡易裁判所に公然提出された文書そのものへの否定の反駁である。
裁判所に提出するが、わたしの気持ちは裁判官や調停委員や自分の弁護士よりも、インターネットの「読者」に向いている。わたしはそこで身内ならぬ「身方」を得なくてはならない。異例の手段であるが、「インターネット時代の一つの実験」をもわたしは意図している。すでに「MIXI」を舞台にくりひろげられたやす香の死への「全逐一」は「死」を迎える全く新しい次代の新しい「先駆の一例」を世界に提示したと、専門書の中で冷静に評価されている。そういう時代、そして「かくのごとき、死」が在った、現実に在ったのである。愚劣きわまりない「かくのごとき、闘い」もまた在ることから、わたしは身を退かない。夕日子が「MIXI」で隠れてしていたような卑劣なこと、何一つの裏付けも実感もなく、父を「性的虐待者」として指弾していたようなことは、わたしはしない。アケスケに真っ当に、わたしはそれと闘う。
2006 10・30 61
* 秦 恒平 様
プロバイダの大問題が法律上では、そういうことになるとは驚きです。司法は、法に書いてないことは何もできないのですね。法も司法も、技術の現実の進歩に追いついていないのでしょう。本当に残念です。
「闇に言い置く」を拝読して、私たち(**さんと私)が、御礼に差し上げた湯呑みが、今もお役に立っていると知り、嬉しいやら恥ずかしいやら、ビックリ致しました。
毎週のように(社宅の部屋へ)押しかけ、全く月謝も払わず、それどころかいつもおいしいお菓子までごちそうになって茶の湯の基本と心を教えていただきました。
その当時の夕日子さんはよく覚えています。おっとりと上品でしかも賢くしっかりしたお嬢さんでしたね。虐待など、とうてい信じられるものではありません。当時の社宅の物理的環境から考えてもあり得るはずもないと断言できます。もちろん、当時の夕日子さんのご様子から考えても。
どうぞ、奥様ともども、お大切に。 米沢女子短大学長 遠藤恵子
* ご心配下さって、有り難い。ほんとうに有り難い。
* 時計を見ると、まだ台所に立つのには早い時間。日暮れが早くなりましたね。
HPを読んでいて 紀伊国屋ホールで俳優座再演の『心 わが愛』を観せて戴いた頃は、まだ両家交流のある時でしょう。
姉弟(夕日子・建日子)であなたの事を話しているのが、耳に留まりました。なんて? それはナイショ。大した話ではなかったから。食いしん坊とか・・・なんとか。分かる分かる。(^o^)
私は中央のいいお席を戴いていました。隣りが婿殿だったのでしょう。その向こう隣りが夕日子さん、その後ろに建日子さん。幕間に弟さんがお姉さんにフランス語で新聞読んでいるの、凄い、ただのマンガだけよ。なんて、私一人だったので、会話が聞こえてきました。小さいお孫ちゃんはお留守番の様子。
書きたいのは、幕が下り、誰もが拍手をします。普通、拍手はパチパチパチパチと。感銘を受ければ更にアンコールの拍手になります。
ところがお隣りから、パーーチパーーチと間延びした拍手が聞こえたのです。こんな拍手を聞くのは初めてでした。 ウン? 何故?
その不審の想いが永らく脳裡に蔓延(はびこ)っていました。
婿殿との関係を全く知らなかった頃の挿話、初めて話します。
私は、あなたを信じています。
秋の気候、いいですね。走っていますか。
ほな さいならは云いません。ほな 又。 泉
* それでいて、「●、なにかというとスグ、秦恒平の聟だって自分から言うのよ」と、夕日子はよく笑っていた。東大の女性教授が一言で言ってのけたものだ、「嫉妬です」と。
2006 10・30 61
* いつか、涼しくなったらお酒をと申しましたが、お体に障ってはと気懸かりで、とりあえず小ぶりですが塩蒸しの桜鯛をお届けします。2日に到着予定です。
お酒も召し上がられるようでしたら清酒・焼酎(麦,芋,黒糖,米などのどれか)その他指定していただいたものをお誕生日前後にお届けしたいと存じます。
夕日子さんはきっと病んでおられるのだと思います。どこかの時点で自分が過ちをおかしたことで自分を赦せなくなっておいでなのではないでしょうか。その怒りの矛先が、最も安全な父親へ向かったのではと推測しています。
時の解決を待つほかに、よいてだてがみつかることを願っています。外側の人間の無責任な言葉をお許しください。お二人の御無事をお祈りしています。 元
* 夕日子は病んでいると言ってくださる人の気持ちは、言うまでもなく庇っていてくださるのであり、有り難いと思う。病んでいるのかどうか、わたしには確言できない。
* しかし、今年の二月二十五日から今日に至る、「★★夕日子」発信になる、『がくえん・こらぼ』という個人ブログの日録が、幾つかの意味で甚だ独特。自称「特技」が「机上の空論」で、「長所」は「おもしろがる」とある、この夕日子自身の自覚と、相当よく符合しているらしいのは、事実と思われる。
* いったい夕日子は、やす香と行幸とが我が家へ嬉々として遊びにきた、正にその二月二十五日以来、そのブログを用いて、何を、実現したかったのか。
(ちなみに、その日の姉妹の保谷へ行きたいのという申し入れは、行幸からまみいに先にあり、「一人で行く」というオファーだった。だがそれと知ったやす香も「一緒に行くわよ」と、二人で尋ねてきたのだった。行幸は少し早めの誕生祝いを貰って帰った。やす香にはまた適切な機会にねと、ご馳走しかしてやらなかったのが今となっては心残りで、今もそばのやす香の写真に詫びている。)
* で、「ぬぼこ」こと★★夕日子は、在住する町田市内らしい「がくえん、という小学校区に散在するグループや個人をコーディネート(=取り纏め、仕切りを=)したいとひそかに願っている、一主婦のブログです。具体の活動報告より、『思い』を書くことのほうが多いかも。きのうを整理し、あしたに臨む、きょうの私の心の内・・・かな(笑)」と、真正直に看板が掲げている。ブログに筆録された総量は、「一太郎」に置き換えて、七十頁分に及んでいる。
「ぬぼこ」が分からない人もありそうだ。
浮き橋の上から天つ神さまが、地表の混沌をこおろこおろと攪拌したあの鉾だ、夕日子は「かき混ぜる」のが好きなのだ。
その肝腎の「コーディネート」という目的の方は、「笛吹けど人踊らず」まだ寥々と、協力者にも去られて、事実上空回りしているようだが、こういう仕事はそう簡単に短時日で成るわけがなく、折角踏ん張って、初志をのべたら良い。まだ文字どおり「机上の空論」を「おもしろが」っている程度らしいが、その軽薄さが、願いの筋を人の和や輪とともに成しえられない「理由」なんだろうと思うし、昔から父親によく呆れられたように、いまだに、「おまえは、セリフしか知らないんだ」ということだ。
夕日子自身もブログの中で何度か自認している、「口さき」「口八丁」だけで「お祭り」気分でやれると勘違いしているあたりが、贔屓目にも歯がゆい。つまり自分が「おもしろが」りたいのでは、舞台の役者が率先笑ってしまっているのと同じ、ハートのない上滑りだけを招くのは目に見えている。
だが、何とかの上にも何年と謂う。、コケの一念とも謂う。なにより人に信頼され愛されて歩むべきだろうに、とんと、それが見えないのは、つまり「自己満足」を追いながら、こうすれば人も満足するに違いないのにと、暗に「お祭り」を他に強いているからだ。方法論なしに手探りで奔走しても、大きな仕事は成らない。協力を断念して去っていった人の意識の高さにくらべると、「机上の空論」とは、よく自分が分かっていると褒めてやるべきか。
* ま、それだって、いいのだ。好きにする「自由」は本人にある、他人にトバッチリをひっ掛けないなら、だ。夕日子のとにかく飯より好きそうな「コーティネート」は、いずれ、モノの「上手」になり、市会議員くらいに推されるのかも知れない、ハハハ、頑張るがいい。
* しかしながら、夕日子は、トバッチリをひっ掛けなかったろうか。
夕日子が此のブログ始めの「二月二十五日」という日付に注目する。先も言うように、、やす香とヶヶヶの姉妹が我が家に遊びに来て、雛祭りに打ち興じ、池袋で「寿司田」の寿司を大騒ぎで食べて帰った、当日のことである。即座にわたしがやす香と、入会したばかりの「MIXI」で、「マイミク」を約束し合った当日である。
夕日子は、もうブログの立ち上げに夢中のようだし、やす香は、これに先立つ一月十一日に、「痛」一字を「MIXI」に掲げて、はや劇症の進展を言葉で自覚していた。
* わたしたちは、どうか。
妻は二月二十五日のやす香が、ともすると畳や廊下に寝そべるのがとも気になったと言っていた。だが、あのような「病気」を、その時点ではとても想像も出来ず、その後は、もう、病院に「肉腫」を見舞う日まで、やす香とは一度も逢えなかった。しかし「MIXI」は毎日観ていたし、メールも祖父母ともにやす香と交換していた。
気が狂いそうなほど、やす香の「MIXI」に連発する「容態」が心配で、わたしは妻にも当たるほどだったが、メールしたりメッセージする以外の「手」はついに出せずじまいだった。われわれがやす香を「死なせてしまった」と嘆くのは、そこだ。
* では夕日子のブログでは、どうか。日々の「思い」も書くと夕日子は言い、事実たくさん書かれている中で、「やす香入院必要」と電話で知らされるその瞬間まで、夕日子のブログ日録は、ただの一個所ででも、やす香について触れていない。我が子の異様な容態を懸念した記事も、言辞も、じつに「絶無」なのである。ひたすら「コーディネート」へ熱中、また高邁そうな言説も展開していて、ただ「読む」だけなら、父親をもつい嬉しくさせるほどツンツンと身を反って得意満面書いているけれど、あれほどやす香が病苦に呻いて、泣いて、愁訴し激怒しているどんな日にも、ただの一個所でも、二人の書いている「記事内容」は、ほんの一ミリも接触した例が無い。全然みつからない。
どうか、只の一個所でも、「やす香が心配で母親はこうした」「ママが気遣ってこうしてくれた」という一致点が見つからないかと、詳細なやす香の「病悩全日記」と夕日子の「全日記」をくわしく照合してみたが、わずかな接点のただ一つも指摘できなかった。
* これで何となく合点が行く。「著作権相続」を楯にわたしのホームページをぶっ潰した★★夫妻が、何を恐れて人目から「やす香日記」を隠したかったか。
言うまでもない、やす香の「MIXI」日記が明白に刻々と告げている「病症」の烈しさだけではなくて、それから完全に「目を離していた」「手も出さなかった」「言葉もかけなかった」らしき事実であったのだ。いやいや「目を離して」いたどころか、「目もくれていない」のであり、その責任を指弾されるのを ★★夫妻は「恐怖」していたのだ。
* 悲しいことにしかし<事実は否定できそうにない。昨日引用しておいた「七月一日の夕日子日記」は、それより「二週間」前に、突如として「入院」の必要を告げてくる、病院からか、やす香からか、の一本の電話に仰天する夕日子を浮き彫りにしている。
それでいて、わたしの「死なせた」という、語彙そのものに根拠も意味づけもきちんとされている言葉に対し、祖父母は、われわれ両親を「やす香殺し」「殺人者」と言っている「キャンペーンしている」などと、中学生以下の理解の薄さで、告訴の訴訟のとわめきだした。
頭を少し冷やせば「死なせた は 殺したでない」ぐらい、やす香のお友達でも分かってくれている。「わたしは大学で哲学を学んだ」とブログにも立派に自負している夕日子のこのお粗末には、お茶の水女子大学も嘆くだろう。
* わたしは、例の「二十年ないし四十年」もの「虐待」「性的虐待」という夕日子の「言いがかり」が、いかに慌ただしく捏造された虚妄であるかを、もう縷々この場で反駁した。この場でしたのは、この場でこそ知友にも読者にも一般にも分かって貰えるからであり、その他に、この様な破廉恥な言いがかりを逆に攻撃するどんな場所も無いからだ。わたしは、わたしの名誉も妻や息子の名誉も守りたい。そのために紙の本を出版しているヒマもない。
誰かの予言の如く夕日子と★★★とは、「真っ赤なウソ」を恥ずかしげもなく言い立てて、その立場を喪っている。此処に書いたものをわたしはむろん活字媒体で世に訴えることも辞さない。
* 繰り返し指摘する。夕日子は、やす香生前のあのように激越な症状の展開に対し、おそらく六月十六日前後の「入院勧告」を受けるまで、事実上有効な何一つもしていなかった、もしローティーンの子に対してなら、それぞ「虐待」といわれて仕方ない、情けない冷淡さを、自身暴露していた。
夕日子のブログとやす香のブログのいわば「日付合わせ鏡」を見れば、露骨なほど二人に愛と信頼の連繋が無かったのは明瞭であって、それが、ブログにただ一言(かなりアイマイに綺麗につくろって、だが)出ている「自責」の一語に繋がっている。
この母親も父親も、親・舅を告発できる何一つの権利も足場も持ってはいなかった。祖父母は一切のやす香の医療事情を知らされていなかった。しかもわわれは、一度と
して★★の両親がやす香を「殺した」などと口にも書きもしていない。殺人者なんかであってはそれこそ大変だった。よくわたしの日記を読めばいい。
* こうも批判した上で、これはおかしいけれど、足かけ九ヶ月の夕日子のブログを逐一日付順にならべ、字句は触らないが無用な分かち書きなどを整理していって、つくづく夕日子の文章に接しながら、けっこうわたしは純粋にものを「読む」楽しさも楽しんでいた。
なるほど「机上の空論」の多さに苦笑してしまうが、その一編、一編だけで読んで「なかなかよく書けているエッセイ」が幾つかあり、「おう、うまいうまい」などと内心褒めていた。こう書ける人はそうはいない、しばらく音沙汰ない東京の「小闇」の短いエッセイとは、またちがったいい味をみせることもある。多くはない、たいていはいやみに空疎に文を舞わしているだけだが、でも書けるじゃないか、それならこんな駄文にいま力を磨り潰していないで、本格の小説を書かないか、書かないでいるともう「小説の文章」が出てこなくなるよと、すっかり忘れ果ててしまうだろうよと、心配した。
何の「高慢に」自称文筆家が自称女流作家に批評するなと、また喚かれるかも知れないが、わたしは「書ける夕日子」の長生きを、まだ心底願っているというのが本音だ。
* 代理人から「和解案」というのが送られてきた。よく、検討するが、わたしはこんな段階で妥協する気などない。
* 日付はもう変わっている。十月は尽き、十一月だ。さ、機械を消して、この椅子のまま「瞑目」しよう。三十分。小一時間。
うつつあらぬ何の想ひに耳の底の鳥はここだも鳴きしきるらむ 湖
2006 10・31 61
* 「MIXI」に『畜生塚』を終え、同時に加賀乙彦さんとの対談「創作への姿勢と宗教」も一回でみな載せてみた。とても気持ちよく、あわせて「畜生塚と加賀さんとの対談」として日記に少し述懐した。
* 畜生塚と加賀さんとの対談 この二つをならべて、ここ「MIXI」へ書き置くことができ、わたしは、なぜともなく深く安心している。
「畜生塚」の末尾近くに書かれてある手紙を、何年か前に、そう十一月に自殺した実兄が、わたしの書いたもののなかでいちばん印象深く読んだように手紙をくれていた。この兄とはただの一度も一つ屋根の下でくらした記憶がない。顔を見合って出逢ったときは二人とも五十前後であった。
「讃岐町子」というヒロインを創らなかったら、わたしのその後はまるでちがっていた気がする。この初稿を書いたのはわたしが二十七か八ぐらいのときだ。川の流れのように時は流れてきた。
いまは息子の秦建日子が創作者として健闘している。死なれてしまった兄北澤恒彦の息子黒川創もりっぱに小説家としてやっている。川の流れのように人生はあり、もうわたしの海までは遠くない。帰って行く「本来の家」でどれほどの人たちと暮らすだろうと想うと、思わず顔がほころぶ。 湖
2006 11・1 62
* 人生を、今の四月一日に始まる「学齢一年間」の長さと譬えて、「きみたちは今、何月何日あたりを生きているつもりか」と東工大の学生諸君に尋ねたことがあった。おもしろい返辞が聴けた。
わたし自身は、東工大教授を(当時は=)六十歳定年やめるとき、つまり平成八年(1996)三月末日を目して、明くる四月一日をわが人生の「文化の日」つまり十一月三日に宛てて想っていた。二学期のまだ半ば、と思っていた。そう、記憶している。
あれからもう十年半生きてきたが、仮にわたしを育ててくれた母の享年九十六歳までを想うと、まだ二十五年も生きて歩まねばならない。よほど健脚が必要だ。
二十歳に手も届かせ得ず永逝した孫・やす香は、あまりに早く行ってしまった。代わってやりたかったとは言うに易くも、叶わぬ願いであり、無残なことであった。さきの譬えで謂うならやす香は春のゴールデンウィークも迎えたか迎えない間に人生をあとにした。帰って行ったやす香本来の「家」で、いま彼女は誰と暮らし、誰の帰りを待っているのだろうか。
2006 11・3 62
* 書いても更新を忘れていることがある、夜前の私語もいま送りだしたという按配。
* 朝からいいメールをもらった。都下の玉川学園で、地域というか学区域というかの「コーディネーター」に熱中している娘・★★夕日子のブログを、「検索」で簡単に見つけました、みな読みましたという人から、その「批評」が届いていた。辛辣で痛烈だった。
2006 11・4 62
* 今日は、不愉快な仕事の、半分でもうよそうと思っていた、もう残り半分の、夕日子・★★からのむちゃくちやな売り言葉を買い受け、調停委員に提出文書をひとまず仕上げた。妻もこれでいいと納得したので、形を整え弁護士に伝達しておく。効果があるなどという期待は少しもかけない、ただ言うべきはきちんと言うておくだけのこと。なげやりに済ますとよけい不快になる。推敲をあすにまわす。
2006 11・4 62
☆ バルセロナの京 恒平さん、多摩川到達おめでとうごさいます。サイクリング記、わくわくしながら読んでいます。
野川公園に行き当たったところで、私も思わず地図を探してみました。恒平さんを追いながら、すっかり一緒に走っている気分です。
ついに多摩川に到達したときには、グーグルアースで是政橋を確かめ、とても嬉しくなりました。
多摩川には、大岡山(東工大)にいた二年間、どれだけ頻繁に通ったことでしょう。二子玉川園の駅を降りてから、土手に出るまでの逸る気持ちが、恒平さんの奮闘を読んで、甦ってきました。
「○○荘」と名のついた錆びれた風呂なしの部屋でいいから、多摩川沿いに住みたい、と***君と夢見たものです。
湖の読者の甲子さんが、確か多摩川沿いに住んでいらっしゃるかと。
とてもとても懐かしいです。 京
* みな、これは、一種の激励なのである、わたしへの。堀上さんが能楽堂の廊下で、溢れるようにして口を切ったのも、ホームページを読んでいるとあんまりつらくて秦さんに声のかけようがないというのも。そうなんだろうと思う。アイサツのすべが無い、それほどむちゃくちゃになっていて、何で…と呆れてしまいながら、状況の烈しさに思わず目を覆いたくなるのだろう。それが分かっているので、優しくいたわりの声が掛かるとまたひとしお気が萎える。
少女の頃実の父に病死した母のあとを追って自殺されているわたしの妻は、だから決して自ら死ぬというようなことは言わない人であったが、先日、「こんどばかりは、そんなわたしでも、もう生きているのがいやになりそうだったの」と、ほろりと漏らした。夕日子は父のわたしだけでなく、家裁への提出文書には母親への容赦ない憎念をさえ書き込んで憚らない。どうなっているのか。
* (承前) ★★夕日子の申立て条々に答えて 以下に終える。
交流の途絶
時期未詳
インターネット上で、「孫への呼びかけ」を開始。詳細は別紙。
プライバシー侵害、名誉毀損、迷惑行為、未成年者への精神的加害。 ★★★夫妻
このインターネットの時代に、祖父母がわりなく逢えないでいる可愛い「孫」に、もし、仮に事実呼びかけたとして、その心情と方法とに、何の問題があるだろう。成長した子たちの自由な判断や行動を妨げている親こそ可笑しいとすべきだろう。
また「時期未詳」というかかる具体性を全く欠いた提示、それ自体が「虚言」であることを証している。
時期未詳
★★夕日子の過去の著述を無断改変の上、無断で自営利サイトに公開。
著作権侵害、著作人格権侵害、プライバシー侵害
「ねこ」その他の「秦夕日子」名の殆どの著作は、すべて秦家の娘時代のものであり、嫁いだ娘を実家に記念すべく、いずれも「親族」死者に対する「供養」の欄に収録していたし、多年に亘り、一度の異議も受けていない。
掲載作は、すべて編輯者であり父でありプロの作家である秦恒平が、作品の出来をいささか評価し、誤字または不体裁等に編集行為を加えて形を整え、あえて「公開と保存」をはかったものであり、無名の作者の作がすこしでも「いい読者」の目に触れるよう親心ではからったもの。親として十分許される範囲の配慮であり、事実これにより読者からも「秦夕日子」の名は記憶もされ、作品も相応に好評を得ていたのである。こういう夕日子の態度は、情理に欠けた非人格的な言動として、笑止である。
これら作品は、初めて掲載に苦情があったとき、即座に全部消却した。いい読者に「読まれる機会」を、狭量に拒み、惜しいことをしたものである。
なお秦のこのサイトは「営利」目的のものでは全くない。公開作品の総てが秦の思想と主張にもとづいて、すべて「無料公開」であることは広く知られている。
2006年1月
★★夕日子が匿名で連載していた著述を無断改変の上、実名を特定して無断で自営利サイトに転載。★★夕日子の明確に判別できる顔写真を併載。
著作権侵害、著作人格権侵害、プライバシー侵害、肖像権侵害
多くの作家志望者が「羨望」した、父親による好意の裁量であったが、当初来、作者の申し入れがあれば当然削除すると明示してあり、読者に事情を明らかにしてとうに削除済み。当該頁を参看あれ。著作者以前の習作水準にあるものを、あえて「e-文庫・湖(umi)」にとりあげた父の配慮も理解できない思い上がった物言いに失笑する。自称「女流作家」である由、これにも失笑する。
2006年7月以降
インターネット上で「★★は娘殺し」キャンペーンを展開。詳細は別紙。
孫・やす香の死と同時七月二十七日より直ちに、私は、自著『死なれて死なせて』(死の文化叢書・弘文堂)の一冊を「MIXI」日記に連載し、死なれ・死なせて死を悼む「mourning work 悲哀の仕事」(精神医学の述語)に宛て始めた。同時に日本語を誤解している★★夫妻の「理解」にも備えた。
さらに念を入れ、八月三日には、同じ「MIXI」日記に、「死なせた は 殺した か」という一文を書き、★★夫妻に理解を求めている。
「死なせてしまった」という自責の念をしめす日本語が、どうすると手を掛けて「殺した」「殺人」の同義語になるか。ふとしたことで「死なれた」親を、また子や孫や教え子を「死なせてしまった」と嘆いて自身を責めている人は幾らでもいる。★★★は、かりにも哲学を教える青山学院の大学教授、夕日子はお茶の水の哲学に学んだ学士ではないか、しっかりし給えと言いたい。
以下に「MIXI」に書いた一文を添えるので、自身の日本語理解の貧しさを反省して欲しい。
「MIXI」2006年08月03日 「死なせた は 殺した か」 そんな単純なことではない。 湖
そのむかし、わたしの「身内」の説(文壇・学界では秦恒平の「身内」の説として知られている。)を、小学生のように誤解したいい大人(=★★★氏)が、人も驚くヒステリーを起こしたことがあるが、今度は、私の著書『死なれて死なせて』の、その「死なせて」という意味が理解できずに、(舅姑である=)わたしたち老夫妻を名誉毀損で刑事・民事ともに訴訟すると「警告」してきた。
我が子やす香に自分らは「死なれた」のに、それを「死なせた」とも言うのは、「殺した=殺人者」と言われているのと同じだ、謝罪文を書けと言うてきたのである。
やす香の血を分けた祖父でも祖母でもある、わたしや妻も、何度も何度も、今日も、只今も、あのだいじな「やす香を、手が届かないまま可哀想に死なせた、死なせてしまった、自分達にも何か出来ることが有ったはずなのに」と、繰り返し悔いて、泣いて、嘆いているというのに。
どうなってるの。
べつに講義する気ではないが、わたしは、わたし自身孫やす香を「死なせた」悲しみのまま、いち早くすでに「MIXI」に『死なれて死なせて』を連載して、わずかな心やりにしている。
やす香のお父さん 逆上する前に静かに読めば、大学の先生たるもの、「死なれて」「死なせて」の意味の取れぬわけ、あるまいに。
人が、人を、「死なせ」るのは、いわば人間としての「存在」自体がなせる、避けがたい業苦であり、下手人のように「殺す」わけではない。いわば一種の「世界苦(Welt Schmerz)」に類する不条理そのものである。大は戦争責任をはじめとし、ぬきさしならない身近な愛の対象に「死なれる」ときは、大なり小なり「死なせた」という悔いの湧くのが、状況からも、心理的にも、あたりまえなのであり、むしろそういう思いや苦悩を避けて持たないとしたら、その方がよほど鈍で、血の冷たい非人間的なことなのである。
本来はまずそこへ気づき、落ちこみ、苦しみ、藻掻いて、そこからやっと身や心を次へ働かせて行く。むずかしいことだが、そこに生き残った者の生ける誠意があらわれる。
しかし、そういうキツイ自覚には至りたくない。身も心も神経もそこから逸らして、そういう痛苦には「蓋をして」しまい、辛うじて息をつく。無理からぬ事ではあるが、「死なれた」という受け身の被害感にのみ逃げこんで、「死なせた」根源苦に思い至らないようでは、「人間」は、その先を、より自覚的に深く深くはとても「生きて」行けないのである。
人とは、死なれ死なせて、その先へ真に「生きて」ゆく存在だ。ティーンの少女でも、分かるものには分かる。
連載合間の妙なタイミグではあるが、余儀なく、『死なれて死なせて』の刊行時後記を含んだ、湖(うみ)の本版のあとがき「私語の刻」をこの位置へはさむことにする。
「死なせた は 殺した か」。バカな。そんな単純な事じゃない。
著書『死なれて 死なせて』の跋(私語の刻) 秦
こう書けば、一切足りていたのである。
「死なれるのは悲しい、死なせるのは、もっと辛い。しかし、だれに、それが避けられようか。避けられないのなら、どうかして乗り越えねばならない。それにしてもこの悲しさや辛さは何なのか。すこしも悲しくない・辛くない死もあるというのに。愛があるゆえに、悲しく辛い、この別れ。愛とは、いったい何なのか。」
これだけの事は、これだけでも、理解する人は十分にする。そのような別れを体験したり今まさに体験しつつある人ならば、まして痛いほど分っている。
だれに、それが避けられようか。避けられないのなら、どうかして乗り越えねばならない。そのきっかけに、もし、この本が役にたつならどんなに嬉しいかと思って書いた。 (略)
単行本に上の「あとがき」を書いたとき、わたしは、その十月一日付け東京工業大学の「作家」教授に新任の辞令を受けたばかりで、ありがたいことに授業は翌春四月の新学期からと言われていた。そして四月の授業を開始のちょうどその頃、朝日新聞の読書欄に、この新刊は「著者訪問」の大きな写真入りで紹介されていた。学生諸君に自己紹介のまえに、新聞や、テレビまでが、わたしを、この本とともに紹介してくれていた。本もよく売れて版を重ねた。「死なれる」「死なせる」は、「身内」観とともに、わたしに創作活動をつよく促した根本の主題であった。
笑止なことに、親子とて、夫婦とて、親類・姻戚だからとて、容易には「身内」たり得ないと説くわたしの真意を、粗忽に聞き囓り、疎い親族や知人、遠くの人たちから、お前は「非常識」に、親子、夫婦、同胞、親戚を「他人」扱いするのか、そんなヤツとは「こっちから関係を絶つ」と、手紙ひとつで一方的に通告され罵倒されたりする。「倶に島に」「倶会一処」の誠意を頒ち持とうとは、端(はな)から思いもみないこういう努力の薄さから、どうして「死んでからも一緒に暮らしたい」ほどの愛情が生まれよう。真の「身内」は、血や法律で、型の如く得られるものではあるまいに。
「身内」はラクな仲では有り得ないと、「生まれ」ながらにわたしは識って来た。
誤解を招きかねない、場合によって破壊的な猛毒も帯びた我が「身内」の説であるとは、さように現に承知しているが、また顧みて、どんなに世の「いわゆる身内」が脆いものかは、夥しい実例が哀しいまで証言しつづけている。その一方、あまりに世の多くの人が、とくに若い人が「孤独」の毒に病み、不可能な愛を可能にしたいと「真の身内」を渇望している。
よく見るがいい、人を深く感動させてきた小説(源氏物語・心・ファウスト・嵐が丘等)や演劇・映画(天守物語・真夜中のカーボーイ等)のすべては、わたしの謂う「身内」を達成したか渇望したものだ。根源の主題は、愛や死のまだその奥にひそんだ、孤独からの脱却、真の「身内」への渇望だ。あなたは「そういう『身内』が欲しくありませんか。」わたしは「生まれ」てこのかたそんな「身内」が欲しくて生きて来た、「死なれ・死なせ」ながらも。子猫のノコには平成七年夏に十九歳で死なれた。九十六歳の母は平成八年秋に死なせてしまった。
この本の出たあと、読者から哀切な手紙をたくさん受け取った。ひとつひとつに心をこめて返事を書いた。いかに「悲哀の仕事=mourning work」でこの世が満たされていることか。愛する伴侶に死なれ、痛苦に耐え兼ねて巷にさまよい、日々行きずりに男に身をまかせてきたという衝撃と涙の告白もあった。この本の題がいかにも直截でギョッとしながら、大きな慰めや励ましを得たという便りが多くてほっとした。たくさんな方が、悲しみのさなかにある知人や友人のため、この本を買って贈られていたことも知っている。 (後略)
思い出す。この単行本が本になって、いよいよ東工大で初授業の頃に、すでにわたしたち娘の父母、初孫やす香の祖父母は、婿の★★★から乱暴に「離縁」され、以来十余年、まことに不幸で無道な別離を強いられた。
同じその人物が、「死なせてしまった」の意味も掴めないで、今度は「殺人者」といわれたなどと、刑事と民事と双方で娘の父母、やす香を心から愛した祖父母を「告訴」すると言ってきたのだから、また呆れてしまっている。 どうなってるの。 「MIXI」より
北里大学病院に対する営業妨害、 ★★
北里大学病院から一言半句も、その様な抗議など受けていない。何の根拠とどんな権利とで★★夕日子氏が「営業妨害」などと言えるのか、北里大学と連名での正式回答を求める。われわれは病院主体とただ一度の接触もしていない。
著作権侵害、著作人格権侵害、プライバシー侵害、肖像権侵害
故人・遺族に対する名誉の毀損、未成年者への精神的加害
各種違法、非道行為に対して抗議を行ったところ、それらの私信もすべて改竄のうえ、事実無根の解説を付けて公開。
私文書偽造、私信開示、名誉毀損、プライバシー侵害、著作権侵害、肖像権侵害等々
事実を正確に物証を提示して発言すべきである。知る限りの文字と言葉とを口から出任せに羅列した愚癡の申し条に過ぎない。
秦恒平・迪子によるこれらの行為はすべて、★★夕日子に対し幼少より継続する虐待のバリエションです。秦はこれを「愛」と呼びます。どんな残虐な行為にも、ひとかけらの自責の念も湧きません。それどころか、「愛」を拒絶することこそ「悪」だと主張するのです。★★夕日子はこの抑圧的ドグマの中で成長し、結婚後長く、被虐待による心的後遺症に苦しみました。今は、その抑圧構造を離脱した「悪者」として、日々ネット上で公開リンチにあい続けています。
この前段については、冒頭に写真等を添えたくわしい秦の主張で、総て覆し得ている。「虐待」「残虐な行為」の何一つも具体的に語らない、ただの一方的な出鱈目な言葉の羅列。こんないい加減で野放図な物言いからなら、どのような「家庭教育」や「躾け」ですら直ちに「虐待」「残虐な行為」になってしまう。
「日々ネット上で公開リンチ」に遭っているという実例を、夕日子と向き合って、いちいち検討してみたい。「日々」も過剰なら「公開リンチ」も品がない。よほど我と我が「心の鬼」に疼いているのであろう。
むしろ逆に糺したい。「MIXI」の「木洩れ日」「思香」名義での「隠し」日記に、実の父親を「性的虐待者」などと人権侵害・名誉毀損の虚言を書き散らしてきた、あるまじき無礼・非礼は、どうその事実を証明して主張するのか。明快に答えて欲しい。
或る識者は、夕日子氏はただもう遮二無二ものを言い募ろうとし、必ずやどこからどう観てもウソでしかない「性的虐待」までを言い立ててきますよと「予言」していた。
またある人は、およそものごころついて二十年(四十年!)も暮らしていれば、どんな家庭・親族でも、お互いにバカを言い立てる気になれば何にでもこじつけられるもので、四十六歳のインテリ夕日子氏としては、じつに幼稚にこどもじみた無意味なことばかり言い立ててますねと嗤っている。同感である。
現在、私(=★★夕日子)は主任児童委員として、被虐待児を保護する立場におります。虐待は肉体的な傷害をもって初めて発見されることが多く、心的被害、性的被害については、その発見・保護が難しい分野です。また、たとえ一時的に保護を受けたとしても、「親子」の関係は一生涯ついて回ります。措置期間が過ぎれば、結局、「親元」に返されてしまう。「私は親なんだぞ」という脅迫が、多くの子供たちを傷つけ、しばしば暴発の事件に至ります。他人ならば処罰、夫婦なら離婚という措置があるのに、親子の呪縛は一般に、いずれかの死をもってしか、解除されないからです。
「主任児童委員」氏にぜひ尋ねたい。秦の日録に、やす香の「病気に悩む日記」の一部が掲載されているのを、プロバイダに愁訴し、こともあるに秦の厖大なホームページを全消滅させた、その本当の「意図」は何処に在ったのか、と。よう答えまいから、代わりに追究することにしよう。
★★やす香が、2006.1.11日以来、自身「MIXI」に半年に亘り報じ続けた、「痛苦の劇症日記」を逐一読み直すといい。痛苦の初記述から入院に至るまでの六ヶ月、実に、ただ一度も父親にも母親にもその悲惨な苦境を「労り・案じられた」旨の記事が、やす香の日記に無い。たったの一行も無い。それどころか苦痛を背負ってやっと遅く帰宅したやす香は、「スパルタ母さん」の有無を言わさぬ言いつけで、母親自身が犯したダブルブッキングの請負仕事を、急遽「半分」手伝わされたと慨嘆していた。やす香が「母親」に触れた記事はその他には殆ど全く無いのである。
「やす香日記」をふつうに読んで、あまりの悲惨さに愕くとき、この「両親・家庭」の冷淡きわまりない「病状放置」としかいえない所業こそ、文字どおり「虐待」「残虐な行為」に等しい印象を与えてくる。「主任児童委員」で「虐待児保護」の★★夕日子氏よ、ひた隠しに此の半年間の「冷淡な虐待行為」に反省の弁を欠いてきた理由は、この大言壮語を「自ら裏切っていた」からではないのか。
そればかりでない。全く同じ期間に書き継がれていた、主任児童委員「★★夕日子の<ぬぼこ>名義のブログ日記」が存在する。二月二十五日(やす香行幸が祖父母と雛祭りをしていた日である。)に立ち上げたそのブログの中で、夕日子が「やす香入院」に至る六月半ばまで、トクトクと書きつづった日録・著述には、ただの一個所・一行も「我が子を案じる」記事が無い。全然無い。
記事は大方が、玉川学園あたりの地域「コーディネータ」としての奔命に終始していて、重い病状に悲鳴を上げている我が子には、ひたすら無関心、ひたすら無視、愛ある一顧だに与えていた形跡が無い。精神的・肉体的な具体的な「虐待」「残虐な行為」ととられても全く抗弁できないであろうほど、平然、我が子をネグレクトしていたとしか読めない。
親に労られる感謝と安堵の影一つ言葉一つない、死を目前にした「★★やす香日記」と。
我が子を案じ労るただ一度の行為も、愛の言葉も、温かくさしのべる手も、優しい視線も、それどころか我が子の名前すらも影のささない主任児童委員「★★ 夕日子日記」と。
この二つの日記を「合わせ鏡」に逐一日付を追い照合・検討して行くと、「主任児童委員」の「虐待児保護」の自負たるや、極めて偽善的にいいかげんなことが、やすやす暴露されてしまうのである。
よく安いテレビドラマにある、社会的・教育的に地位ある母親(父親)が、我が子に対しては愛ある一瞥も与えず放置し無視し虐待していた、まさにその顕著にヒドイ実例を、町田市在住主任児童委員・★★夕日子氏は、現に事実演じていたと断ぜざるをえないほど、二つの「日記」の「合わせ読み」は、ミゼラブルなのである。
その事を実に端的に示しているのは、この母親夕日子が、娘やす香の「入院」をいつどうして知ったか、「ぬぼこ」名義、夕日子本人の「ブログ日記」七月一日記事であり、唖然とする。半年にわたるネグレクトのそれが「終点」にほかならなかった。★★夕日子氏と夫★★★氏とは、まだ未成年である我が子の「愛育」責任から、目を放し、手を放して顧みなかったのであり、その大きな逸脱と無責任を人に見られまいと、六月以来ひたすら「恐怖」していたのではないのか。だから「死なせた」という、語彙としては尋常な言葉にもまさに跳び上がって激昂したのだろう。それが、秦恒平のホームページを「全抹殺」に出た何よりの狙いであったろうと私は推量している。当たらずとも遠くはない真相と想い、怒るのである。
そこで、★★夕日子主任児童委員、虐待児保護に任じると自負する人間の、「七月一日」日記を掲げてみる。一読歴然としている。もう旬日にして「肉腫」と決定的に診断されるほどの愛児を、母親は、まるで深切に顧みたことが無かったのが分かる。我が子がたいした病気とも直観できていなかった、それよりも地域の「仕切り仕事」に夢中であった。「虐待」を語る人間の資格など、全然無かったのだ。
Posted by ぬぼこ(=★★夕日子) at 08:40 | 娘 |
並行宇宙 [2006年07月01日 (土)]
ふれあいサタデーに向けて駆け回る私に 一本の電話が入る。
体調不良で でも、「どこも悪くないですよ」と言われつつ、幾つかの病院をめぐっていた長女の その「不調の原因を突き止めてくれた病院」がある そこに入院するという電話。
ありがたいニュース………・のはずだった。
だがその病院に駆けつけて以来 私はほとんど病院を出ていない。洗濯のために家に2回帰っただけ。
仕事に大穴を開けたあげく、幾つかのオファーをキャンセルする。
流れていた時はすべて断ち切られ、過去はすべて邯鄲の夢であったように、並行宇宙での活動であったように、
今の私に繋がっていない。
こちらが夢ならいいのにと思う。
ふっと目覚めたら、梅雨の蒸し暑い空気のよどむ、自室のベットの上ならいいのにと思う。
だけど、病院にパソコンを持ち込んで、私は試みる、この宇宙と、あの宇宙をつなぐように 病院の窓際に座る私が現実であると同じように (玉川=)がくえんという街と、そこでの活動を 私の現実として取り戻すために。
ブランクはたった2週間だ。
二者択一でなくていいはずだ。
私は負けずに進んでいこう。娘が闘っているように、私には私の闘い方があるだろう。
この直前の「ぬぼこ」日記の日付は、六月十四日。その日の記事内容にも、それ以前の大量の日記にも、やす香の「や」の字も見当たらない。そして七月一日の「二週間前」に至り、「体調不良で でも、『どこも悪くないですよ』と言われつつ、幾つかの病院をめぐっていた長女」と、 これだけだ。
やす香はあの激痛の苦境の中で、なお斯くも孤独に、医者へ、病院へ、這うようにして出掛け、この日、やっとやっと「その『不調の原因を突き止めてくれた病院』がある そこに入院するという電話」を、初めて母親にかけている、嗚呼。
夕日子には寝耳に水だったようだ。いろんな状況から、これが六月十六日頃と推量され、六月二十二日には愕くべきことに、やす香自身が「白血病」と「MIXI」に告知した。これが、事実だった。
「目を離していた」どころではないのだ。
「ブランクはたった2週間だ」と主任児童委員は言う。
何の? やす香の病状から「完全に目を離していた六ヶ月」の「ブランク」の意味とは、とても取れない。玉川学園あたりの「ふれあいサタデー」のことだ、しかも「(娘と「ふれあいサタデー」とは)二者択一でなくていいはずだ」と断言している。重みはどっちも同じという価値評価だ。これが、孫を見舞った自分の母にむかい、白血病なんて「なおる病気よ」と呟いた夕日子の「子・やす香の命」にかけた、語るに落ちた「価値判断」だった。夕日子のこの「ブログ日記」は、むろん全記録してある。
しかしながら、私★★夕日子が求めるのは、長年にわたる虐待や親族内の紛争への裁定ではありません。
当然である。虐待の事実など、事実「皆無」と、本人がいちばん承知しているからだ。主張できるワケがない。そして過去の両家紛争が持ち出されれば、未完未定稿の仮題小説「聖家族」が、フィクションながら取材たしかに真相を適切的確に示唆表現していて、「暴発(妻・夕日子の批評)」した夫の言語道断な非礼と乱暴とは総て明らかになり、「謝罪」必至の事態になるからである。みごと、語るに落ちている。
現に今も日々継続されている、純然たる違法行為についてのみ、抗議し、対応を求めております。改善されない場合の法的措置は当然の権利と考えます。
また、このようなネット上での虚言常習者に対して、極めて繊細な個人情報である長女の病状鋭明など、断じてするつもりはありません。
孫・やす香の半年にわたり、また死に至るまでの事情は、「★★夕日子ブログ」が「娘」と題した六回のカテゴリにより、ほぼ明らかにしている。凡そ想定内のことであり、今更賛意・不賛意を述べ立てても孫の命は「死なしめ」られており、戻って来ない。
言葉の正しい意味で「極めて繊細な個人情報」とは、ウソ偽りない生前の「やす香「MIXI」日記」をこそ謂うのである。「主任児童委員」で「虐待児保護の専門家」を★★夕日子が厚顔に僭称するなら、まず我が子の「病悩日記」を繰り返し読誦して反省するのが先であろう。
私は、「愛」を騙る秦の暴力から、長女を守りきることができませんでした。そして今また秦は次女に対して、「愛」を振りかざし襲いかかろうとしています。14歳という年齢で最愛め姉を失った次女が、これ上、心に傷を負わされることは、絶対に防がなければなりません。しかし現に今もたくさんの誹誇中傷記事がインターネット上に掲示され、次女の心を責めさいなんでいます。
まさしくこれを「責任転嫁」という。
親に秘して自発的に祖父母を再々訪問し、ともに食べ、ともに観て楽しみ、ともに買い物して、嬉しかった、やす香。高校の卒業にも、大学の入学にも、外遊にも、誕生日にも、お祝いや小遣いを祖父母が微塵惜しまなかった第一の理由がある。過剰なアルバイトで躰を毀して欲しくなかったから。そしてやす香は素直にいつも感謝してくれていた。それでもやす香は「金欠」を訴えていた「MIXI」に。「病院にいけばお金がかかるだろうな」と自身の懐を覗き込むような可哀想な言葉も日記に読み取れる。親の裁量すべき領分ではないのか。
大事なことを言おう。
やす香が「過剰な」アルバイトに奔命したのは何故か。やす香は「一言」でいつも我々に言った、★★という家を出て「独立したいから」と。祖父も祖母も叔父も直接やす香の口から聴いている。この年頃にはありふれた希望であるが、自分に無関心でいながら抑えつける親に不満と寂しさをもち、しかも「NO」と言えない無念をいつも抱いていた。
祖父達がもし「愛を騙る暴力」の存在であるなら、何故やす香やケケケに、遠方祖父母の家を訪れてくる衝動や理由が在ったろう。来なければ済む、それだけだ。だが長女やす香だけでなく、次女ケケケも、繰り返し姉とともに訪れ、お年玉に期待し、誕生祝いにも大喜びし、嬉々として雛を飾り、白番のおじいちゃんをみごと碁で負かし、メールアドレスを替えれば必ず祖父母に知らせてきたのである。
2006.2.25の孫二人 ケケケの誕生日前祝い。 写真
やす香と祖父とは、この日「マイミク」の握手!
冗談に大笑いのやす香は、もう、病んでいた。
この日から母夕日子は「がくえん」の仕切役?。
やす香と屡々メール交換したわたしの記録には、「やす香生彩」と大切に名付けて、今でもすぐ開ける。やす香の声が聞こえてくる。
★★家の母親・夕日子、父親・★★★は、言葉を憚らないで謂うならば、つまり娘達二人に、はっきりと「背かれていた」のであり、事実は動かしようがない。その理由は★★夫妻が謙虚に自問自答すればいい。祖父母が憎い孫なら、嬉々として保谷の家まで繰り返し訪ねて来る道理がない。親たちが、祖父母に「嫉妬」しているというだけの話である。出鱈目をどう言い募っても、やす香もケケケも、おじいやん、まみいのもとへ「親にナイショ」ででも敢えて来た、断然来た、来ていた、のである。
次女ケケケに対して、「愛」をふりかざし襲いかかろうと?
知性のかけらも無い何という滑稽で笑止な言い草であるか。やす香入院中に、ケケケは、「梨を持って見舞いに来てくれてありがとう」と、自分からメールを呉れているし、返辞も送った。秦の日録に明記されている。そしてそれ以降は、やす香の病変急で、誰もが泣きの泪、祖父母にケケケと口をきく機会は皆無だった。
そしてその後はもう何の接触もなく、「ケケケさんのことも忘れず案じてあげて下さい」という多くの「声」にも、我々は敢えていささかも動いていない。上の言いがかりは、口付きの卑しさまでが馬鹿げている。
★★★はかつて我々に向かい、自分は「人間として自由な教育」を受けてきたと広言した。けっこうなことだ。しかしながら彼は、我々から娘や孫への手紙を、何度途中で奪い取り勝手に送り返してきたことか。娘が持っていた父の著書の全部を書架から奪い取り、自身で荷造りして送り返してきたのも★★★の仕事であった。娘はすぐ電話で謝ってきて、「残しておいてよ」と頼んでいた、だから、そのまま残してある。やす香に贈った冬の衣類まで奪い取り送り返してきた。
これが「人間の自由を尊重」する男の、ルソーに学び教える大学教授の振舞いか。高校生になったやす香の、大学生になったやす香の、当然の「自由行動」も許せなかったではないか。
はや中学生で、何の問題なく祖父母を一人ででも訪れうるケケケの自由を、今も何故妨害しているのか。やす香は、親の「それがイヤ」と全身で語っていた。死なせてしまったやす香のそんな「内心」をほんとうに可哀想に思う。これは★★両親のまぎれもない「虐待」ではないのか。もしこれを親の躾けや家庭教育の範囲内というなら、夕日子未成年時の言い分もすべてそれになってしまう。自分は虐待され自分は虐待していないと厚顔に言うのか。
「NO」と言いたかったと、やす香は繰り返し日記にも書いている。譬えにもこれが祖父母への「NO」なら、彼女は親に隠してでも喜んで祖父母に逢いに来る理由が無かった。「家を出たいの」「だからアルバイとするの」とやす香はあんなにムリをしていたのである。両親の愛の乏しい「虐待」から守ってやれなかった祖父母の「死なせてしまった」という嘆きは、此処にも根ざしている。
このままでは、過去40年継続された加害・違法行為が、未来においても我が家族を苦しめ続けることになります。
適切な麻酔策のご呈示をお願い申し上げます。 主任児童委員 ★★夕日子
お互いに「没交渉」となればいい。我々はそれで十分だ。
中学生のケケケは、やがて大人の判断を自身で持つだろう。ケケケにまかせ、われわれは一切干渉しないが、ケケケが大事な孫の一人、亡きやす香の妹であることを、むろん祖父母は重く意識している。だが干渉はしない。★★夫妻とは没交渉がいい。それが何よりいい。 以上
2006 11・5 62
* 法律事務所に書面提出分を送った。自分で自分に、おまえは何もしていない、サボルなとは言わせたくなく、少し頑張った。いまは逃げずに頑張るときだが、逃げだして構わないことはいくらでも逃げ出す、それも足早に。
2006 11・6 62
☆ 城景都氏の描いたHPの表紙絵が画面に現れ、湖の全貌が再復活して、本当に久しぶりに安堵したのですが・・今現在、機会の調子はどうでしょうか?
非常時! ・・十二分に察していても、やはり寂しいです。
夕日子さんのブログを見ました、読みました、繰り返し、重なる記載も、読み落としはないか確認しつつ読みました。記載量自体が多くありません。そしてmixyの方はまったく読んでいませんので、果たしてこれだけの「曖昧」な記述から、わたしが感想を述べることに、懸念も戸惑いもあります。
またあなたのHPから多くの事実も先入観もわたしの中には既に存在しています。できる限り静かな目で物事を観察したいといつも自分を牽制してきました。これまで思ったさまざまも、敢えて書くのは押しとどめてきました。夕日子さんを突き放して眺め、批評批判することも「保留」してきました。
やはり親子なのだからと、夕日子さんはいくらか問題ある人だとしても、親子の情けは分かってくれるだろうと・・冷静に「保留」したいと、今も半ば思っているのです。人を見る目のいかにも甘い・・と指摘されるとしても。
そしてブログを読みつつ思いを敢えて書いていると、いつしかそれは半ば以上夕日子さんに向かっての文章になっていました。
わたしは彼女に、できる限り人を傷つけない静かな人であってほしいと思います。親を、わが子の四十九日も終わらないうちに告発することなど、どんな理由であれ考えられないのです。
人間関係の修復を今更言っても現段階で、おそらく不可能でしょう。せめて書かれているように「没交渉」であればいい。これ以上裁判などを行い互いを傷つけることは、意味がないこと、虚しいことです。
以下は簡単な感想です。
ブログから窺われる、一主婦の像は、実を言っていかにも掴みにくい。ブログを立ち上げる動機も、伝えたい思いも、中途半端で底が浅いのです。コンピューター画面でであう多くのサイトは・・かなりがその傾向にとどまっているのが実情ですけれど。
「ひそかに取り纏めたい」とコーディネーターを目指していますが、訴求力の弱さ。一回限り、単発的なイベントなら何とかなるかもしれませんが、離れていった友人の主張するような息の長い、展望をもったものを作り上げていくことはできないでしょう。(当人はそれでいいと述べていますが・・・)
今月初めに行われた地域のイベントの記事に、「安請け合いのコーディネーター、つまりわたし」と書かれています。夕日子さん、あなたは安請け合いの祭り好きなコーディネーター、それでいいのですか? それを一年に一度すれば、それでいいのでしょうか?
祭りを行ったこと、その意味も充実感もあるでしょうが、たとい一地域と限っても、小さな集団をまとめてコーディネートしていくだけでも、やはり日常の中で培われた信頼関係が必要でしょう。そしてそれがあなたの本当に目指していることかどうかも。
最初の画面の左側に出てくる項目で留意されるのは、「愚痴」。
何故、この教育や地域を考える人が愚痴というものを「強調」するのか・・愚痴が人生の生き甲斐・・それはい
かにも寂しい感じがしました。
そして一番愕然とするところ、七月三十一日、「娘というカテゴリーは、今日で終わりにしよう。」という記述でした。娘というのはカテゴリーに過ぎないのでしょうか。カテゴリーとは、部類、範疇・・。
存在の基本的な在り方という意味で娘を家族をとらえてカテゴリーとしているなら、それならいっそう「今日で終わり」など決して言えないと思うのです。
自分が産み育てた大事な大事な娘。もちろん彼女にとってそうであったでしょう、喪失感に打ちのめされていたでしょう・・それはあまりに当然、自然の思いと察するのですが・・だからこそ、それはどう考えても「娘というカテゴリーを終わり」としていくような類のものではないはず。
娘の死後、母は茫然自失し・・一種の「忘却」を課してカテゴリーを終わりにすると書いたのかもしれない。けれどもわたしは納得できませんでした。封印、忘却と思っても、どんなに思っても、それはできないし、長い長い時間の中でようやく、やっとやっと否応なく受け入れていくしかないこと、悲しみを緩和させていくしかないことでしょう。
確かにこのブログが書き始められて以来、直接的に「娘」の存在が書かれ語られたことは入院の記事にいたるまでありませんでした。娘が通っていたらしいフランス語を教える私学のことは語られますが、その時も身近な娘の教育やこれからの彼女の夢とともに、彼女の大学生活が語られたことはありませんでした。それが娘の日常に何ら問題が生じていない状況であったら、ただ読み過ごしていったでしょう。が、この時期すでに深く静かに悲劇は進行しており、そして凄絶な悲劇が逃れようなく突出してしまったとは・・。
死までの非日常的な、混乱した、動揺激しいさまざまな展開は察するにはあまりあることであり、母として必死な時間だったでしょう。何もできないことに、娘に代わって上げられないことに絶望するしかない。その間の記述に、七月の記述の痛ましさに、頭を垂れるしかありません。
が、二週間の自分の活動の「ブランク」云々は、理解に苦しみました。娘の生死をかけた最期の闘いと自分の闘いは同列でないことを、母は謙虚に受け止めなければならなかったでしょうに。
娘は、在るはずだった時間をすべてすべて諦めなければならなかったのです。どれほどつらいことだったでしょう。「世界は広いのに。わたしはもっともっと生きたかったのに」と。
十月十日、「社会復帰はこのイベントからということになった。」と。
夕日子さん あなたの社会復帰とは何か??
それまでの大きな事態はなんだったでしょうか? 社会復帰できなかった、果たせなかった、永遠に断念するしかなかった娘・・それこそが問題だったのに、口惜しいことだったのに。
HPで露わにされている、被害妄想としか思えない告発文・申し立ての条条!
なんと大げさで、ぎらぎらとおどろおどろしく、汚い羅列、わたしにはそのように見えました。
裁判などで過ごす時間ではない、今こそ亡くなった人を静かに思い偲ぶ時間ではないでしょうか。
ただし誤解してほしくはないのです。わたしは自分が子を喪うという、そのような大きな苦しみを体験していないのであり、あくまでも母としてあまりに過酷な体験をしてしまった人を、さらに苦しめたくはありません。苦しみの中から人を受け入れていく大きな愛を、さらなる愛を望みたいのです。それだけを望むのです。痛みを、傷みを知る人だ
からこそ、わたしは望むのです。
補足; 「ぐんもー」と書かれた人の一人だろうか、わたしは? そのように一括りされることは、拒否する。秦氏が、ある読者が述べたような100パーセントの人だとは思わないし、大げさな礼賛もしない。しかし秦氏は実の娘を何十年にもわたって性的虐待するような人では、ない。
PS
今日は立冬、木枯らしが吹きました。風邪引かぬよう、くれぐれもご自愛されますように。拙い感想です、どうぞ許してください。 一読者
* 多くのいわゆる聖者や賢者たちがいて、バグワンは指さす、彼らは「苦行」していると。だが、それら苦行はすべて彼らの「心=マインド=分別」がしていること。彼らはイツも正しいことをしてはいるが、その正しい行いは内発的なものでない、と、バグワンは指さす。「それは意図的な、計算ずくのことだ」と。彼らはいつも経典と首っぴきで、なにが正しくてなにが誤りなのかを「調べ」ている。彼らは彼ら自分自身の洞察を持っていない。凡庸な学者と同じだ。修行や苦行や訓練は彼ら自身の心の投影にほかならないのである。
わたしもそう思う。自然、いわゆる聖者や賢者と呼ばれ自分でもそう思っているような多勢は、行き着くところニルヴァーナ(涅槃・解脱)の罠に陥ってしまう。彼らはひたすら欲望する「光明」を得ようと。目的はそれなのだ、だが、問題が其処にある。「光明」は「悟り」は、欲望の対象になんかならないものだ。悟りを、enlightenment を、欲望し渇望した瞬間、おまえは罠に落ちている、と、ブッダは明言する。
光明は、悟りは、慾の対象にはできない。野心の対象にはならない。解脱は「目的地」ではない。達成目標なんかでは在りがたい。そんなことでは、なにもかもエゴトリップになる。最悪の罠―――。
深く静かに自分自身をのぞきこめとバグワンらブッダは教える。此のわたしは、己のうちなる闇におそれず沈んで行くだけだ、自身の本来、本性、光明を感じながら。
* なにもしないで、なんでもする、それがぜひ必要なら、うんこをつかんでも投げる。
* 「今・此処」で、かりそめの遊びなど、したくない。
2006 11・7 62
* 朝六時五十分の血糖値、110。良好。
機械の前に来ると奇蹟のようにルーターのランプ四つとも眩く青い。大急ぎで「私語」更新し、メールを受信。百ちかいダメ・メール。胸に届くメールも連絡のメールもある。しかし「MIXI」を開くまでは保てず。
* 建日子がラスベガスへ行くと。無事でと祈るメールのみ、辛うじて発信。そこまで。そして受信したメールを読んでいる。
あと二時間で、菊五郎や団十郎や仁左衛門や三津五郎に会いに行く。胸はずませて来たい。
2006 11・10 62
* この機械部屋のすぐ近くへ、等身大に夕日子が来て立っている夢を見た。三十台の半ばに見えた。声をかけて、夢は醒めた。それから暫く『人間の運命』を読み継いで、また寝た。
2006 11・20 62
* うしろのソファに黒いマゴがまるくなって寝入っている。暖房のぬくみを浴びて安心しているのだ。飛行機の爆音が屋根の上を流されて行く。
2006 11・20 62
* 英國屋の仮縫に行く約束。気乗りしないが。
本の発送のために急いでしなくてならぬこと、に、今回は手が出ない。しなくてはならぬ、そんなことは、しかし本当にしたいことではない。ただ、放っておくと煩いが重荷になる一方。どうせ運んでしまうしかないのだから。今週中に手を付けたい。
* 銀座の京料理「つる家」であっさりと遅い昼食をし、英国屋でスーツの仮縫。退屈。妻に付き合った。二人とも一度で済まず、もう一度出向くことになる。わたしなど、大きささえそこそこ合ってれば、既製品で十分だ。自分の服装にはむかしからほとんど興味がない。どんな高級品を着てみても、もとの体躯が不格好でおはなしにならない。鏡に映るとうんざりする。
2006 11・22 62
* 戴いた「磬石」の鳴りが佳い。黒いマゴも畏まって耳澄ましている。
2006 11・26 62
* やす香が遠く逝って、今日で四ヶ月になる。『マウドガリヤーヤナの旅』をやす香に贈る。そう思って校正を終え、身のそばのやす香の写真に目をむけたら、双の眸がきらきらと輝いて笑んでわたしを見る。惜しいお前をわたしたちはこの現世で喪った。泪はかわかない。
2006 11・27 62
* 明日、渋谷の大きなホテルでの花柳春の会に招かれている。息子に、一緒に眼鏡を新調し、(建日子が両親に奢ると言っている)、あと一緒に食事の予定であったが、日延べしてもらい、踊りの方へ妻と出向くことにした。
いつかの正月、テレビで「細雪 松の段」を舞ってくれた人である。会にはもう一度二度招かれたことがある。肌寒い日々に、なぜともなくはなやかに姿優しい花柳春にあいたくなった。
さらに翌日には電メ研。専門家を招いて、例のホームページ全削除事件にかかわる問題点などを聞くことになる。珍しく夕刻以降の会になる。その次の日に息子と逢う。それからは湖の本の発送がおおごとで、これが無事に済んでくれないと落ち着かないが、師走は師走でいろいろ、ある。第三回目の「調停」もある。
2006 11・27 62
* 天気はわるく少し冷えるかも知れないが、出掛ける。昨日に続き、今日、明日、明後日と外出がつづく。四日とも夜分へかけてというのも珍しいが、まだ十一月のうち。「秋」感覚でいいだろう。昨日は有楽町・日比谷。今日は渋谷。明日は日本橋の委員会。明後日は恵比寿へ息子に誘われている。
今し方までずっとペンで字を書いていて、少し肩凝り気味。
* 渋谷のセルリアンホテル能楽堂で、金田中の酒肴がまずふるまわれて、六時半、花柳春の「鐘の岬」を観た。荻江寿友が自ら出て謡った。能楽堂は清潔に座席もゆったりと、居心地は満点。松羽目の松がすこししつこい色なのが惜しい。妻はとびきりお洒落していたので、能楽堂の中で人の少ない内に写真をとった。
しかし、いまどき、いくら「金田中」の酒肴つきといえ、三十分の「鐘の岬」だけで七千円支払って観てくれる客は少なかろう。かといって我々のように招待して特等席を与えていて大丈夫なのかなあと、よそながら俗なことを心配した。入れ替え制で第二部では吉井勇詞の「松風」を舞うらしかった。
花柳春は上品な美人で、姿は満点。舞いとして踊りとして、切れ味で見せる藝質ではなく、おっとりと素人っぽく美しく。受付で西川翆扇が迎えてくれた。二人とも細雪「松の段」を何度も舞ってくれている。
* 駅前のビルの高いところ、ロシア料理の「ロゴスキー」で妻と晩餐。懐かしい店だ。東京へ出て来て間もない頃、一度二度線路脇にあった「ロゴスキー」店で食べているが、店が別になり、表へ出て来た。このビルに入ってからも一度二度。千葉俊二と呑んで喰ったこともある。黒ビール、ウオツカ。美味かった。コース料理もこのところでは目先かわって、ボルシチも壺料理も、なにもかも、パン以外はデザートや紅茶までみな美味かった。お土産にボルシチを二パック買って、少し汗ばむぐらい満腹して保谷へ帰った。
2006 11・28 62
* 恵比寿駅まえで四時に建日子と会い、代官山の眼鏡店で、建日子のすすめてくれる眼鏡を新調した。妻も新調し、建日子も新調した。建日子の贈り物。店の持ち主はは女優浅野ゆう子だそうな。佳い店だった。
* そのあと西麻布で晩飯をご馳走してくれた。よく呑んでよく食べて、お店独特の野菜も、また魚も、鍋料理もその雑炊も、みなおいしかった。佳い店だった。帰りがけには満員の盛況だった。楽しんだ。嬉しかった。
* 家を出がけにふとその気になり、裏千家十四世淡々齋宗室好みの「つぼつぼ」の竹蓋置を土産に持っていって、建日子達に贈った。亡き叔母もわたしも愛して何度も茶会で使ってきた逸品、とてもお洒落。「拝見」を請われることも多かった。好みものの本歌である、けっこうお宝の筈。
茶の、道具の「取り合わせ」は微妙で、蓋置ほどのわきのモノに、家元のこのような「好み」ものを使うと、他の諸道具が自然それにそぐわねばならなくなり、相応に日頃の苦心も用意も必要になる。眼鏡にしてもそうだろう、眼鏡だけがひょこんとお洒落ではなるまい。さ、どんなふうに調製されてくるか仕上がりが楽しみだ。
* 恵比寿駅まで送ってもらい、山手線で池袋から家に帰った。
2006 11・30 62
* なんとも気が沈滞している、わたし自身は体力問題なく思われるが、妻が、風邪か胃腸か、元気がない。我が家は夫婦二人と黒いマゴの暮らしだから、ひとりでも調子が落ちると沈滞する。あさってには新しい本が届くのに、発送用意が滞っている。今日明日にそこそこ行き届いていないと混乱してしまう。気の晴れることがない。
七日の俳優座稽古場が「野火」そして二度目の仮縫い。十日の国立劇場は幸四郎の大石内蔵助で真山忠臣蔵。吉右衛門の十月、藤十郎の十一月も見逃した。師走の討ち入りで今年の厄を落としたいが。
2006 12・3 63
* 妻の体調よろしからず、近くの病院へ運んだところ、医師は点滴をほどこし、明日にもくわしい検査をしたいという。点滴で体調をとりもどしたようだが、精査に越したことはない。聖路加とも相談し、明日の検査は地元病院でひとまずうけることにした。心から心から無事を願う。
本の発送は山場へ来て、今回は妻を多く煩わせることも出来ず、それでも兎に角進んでいる。
2006 12・6 63
* また★★から条件が出て来て、ホームページ上に、★★★と夕日子とにたいし心からの深い「謝罪状」を十日間掲示せよと「文面」までつきつけ、さらに夫妻それぞれに「五十万円」ずつ計百万円の「賠償金」を払えと。いったいわれわれ祖父母は何を彼らに対ししたというのか。だれか教えて欲しい。わたしは捏造も中傷もしない。事実に基づいてしか語らないし書かない。
2006 12・6 63
* 地元病院での妻の胃カメラ検査が済んだ。歳末にもう一度聖路加病院で念を入れる予定。点滴と投薬とで、妻に食欲も出て来た。★★★・夕日子夫婦の、理由も権利もない見当違いな「あやまれ」「金を払え」などの申し立てには、わたしも呆れ果てるが、心優しい妻に心労の募るのもムリはない。俳優座稽古場の「野火」招待を遠慮し、英国屋の仮縫いも延期してもらい、今日は妻は休息し、わたしは本発送の大部分を終えた。まだ出来ていない「趣旨送本」や「寄贈」追加の気を遣う「人」選びをしなくてはならない、甚だ気が重く、しかし本の維持のためにはぜひしなくてはならない。
* もう各地から、本が届きましたと、読者の有り難い声が届いている。
* 十三日の第三回調停のための心用意に、昨日深夜と今夜とをつかった。録画してある「ミリオンダラー・ベイビー」を観たい。
* 明日建日子と恵比寿界隈で昼飯を食い、調製された新しい眼鏡を受け取りに行く。そんなことで体力的にも精神的にも妻の復調がすすめば有り難い。
2006 12・7 63
* 真珠湾奇襲を報じられた日である。
わたしは馬町の京都幼稚園に通っていた。明けての春四月には国民学校に入学。あの当時の「空気」をいまも肌身に思い出せる。東山も、新門前も、古門前も、馬町も。
* 正午に恵比寿駅のちかくで建日子と昼食し、代官山の眼鏡店「アバーロ」で調製されたお洒落な眼鏡を顔にあてて調整してもらった。両親分ともに建日子の贈り物で、建日子も「お洒落な老夫婦です、とても似合う」と上機嫌。感謝、感謝。この店は某有名女優がオーナーだそうで、清潔によく整った店の雰囲気、落ち着いていて好ましい。
* 恵比寿駅ちかくへ戻って、喫茶店で一時間あまり、相談かつ歓談。わたしは新しい「湖の本」のことに多く言葉を割いて、いわば「覚悟」のほどを二人に分かってもらおうとした。
妻も、建日子といっしょだと、よほど心和んで嬉しいのである。顔色も体調もかなり落ち着いていた。それでも何処へも寄り道せず、仕事へいそぐ建日子の車を見送ると、恵比寿駅から一路帰宅した。
* いま、書きたいことは多々ある。だが、なんだか機械がむやみに重い。また故障するかもしれない、今日は慎重にしたい。
2006 12・8 63
* あの日から四十九年経った。あっという間だったと想えるが、よくもあしくも二人で歩いてきた。最近結婚した「MIXI」の友に贈った歌、
良き日ふたり悪しき日も二人あからひく遠朝雲の窓のしづかさ
は、われわれが婚約を経て一年半、結婚したときの思いであった。
* 国立劇場で真山青果作『元禄忠臣蔵』の大詰めを観てくる。
2006 12・9 63
* 芝居の魅力はただ筋書きでは決まらない、筋書きなら歌舞伎劇の大方は観る前から識っている。やはりその日の役者の藝の真率と理解の確かさ、所作の美しさ、それらを支える人間力の容量と白熱度で、印象は、そのつどまるで変わってくる。
今日「十二月十日」我々が喜びの日の国立劇場は、じつは「元禄忠臣蔵」にさほどの期待はしていなかった、高麗屋の芝居で今年を嬉しくしめくくりたい、そしてそのあと「英国屋」仮縫いを仕上げてもらい、どこかでの佳い食事で四十九年めの祝いをしようと思っていたのだが、ドカーンと『元禄忠臣蔵』松本幸四郎ほかのお芝居に魅せられ、満ち足りた。楽しかった。ほんとに良かった。
* 前から三列目で花道に近かった、文句ない最良の席で<舞台の内蔵助ともきちっと視線が合い、渾身「初一念」の本懐を以て、私たちまで祝ってもらった気がした。
* 高麗屋夫人とも二度三度ロビーで立ち話をし、「オール読物」で進行中の幸四郎・松たか子「父子」往復書簡のことや、四方山、気さくな奥さんはなにごとにも親切な笑顔だった。しまいにわたしたちが見損ねた十月十一月の「元禄忠臣蔵」第一、二部舞台の「NHK収録ビデオ」を贈ってさしあげます、とまで。恐縮してロビーで別れてきた。
* タクシーで銀座四丁目、英國屋で妻のオーバーコート、わたしのスーツの二度目の仮縫いを終えた。三十日仕上がり、送ってもらうことにした。
* 日曜なので帝国ホテルのクラブは休みだからと、銀ブラの足任せのまま、三笠会館四階の「秦淮春」でしばらくぶりに支那料理、此処のは揚州料理、を食べた。酒は甕入りの紹興酒とフェンチュウ。妻はロックで飲みやすい果実酒を。
量的にも過剰でなく、料理の一皿一皿が、デザートまで、しばらくぶりもあって申し分なく美味かった。妻も少し元気を回復し、そして二人とも、息子に贈り物された新しい洒落た眼鏡で、おかげで良い四十九回めの十二月十日になった。少し銀座夜分の賑わいを歩いてから、一路帰宅。
* 横浜の堤さんから林檎を、栃木の渡辺さんから苺をたくさん戴いていた。
2006 12・10 63
* 口を一文字に結んで、胸、腹で深呼吸している。なにかを持して待つのであろう。
* 君閑かに泉壌に入り 我劇しく泥沙にすてらる 天の東と地の下と 聞くに随ひて哭始を為す 菅公
友をうしなった菅原道真の長詩の末尾、太宰府の「西」を西東京の「東」に置き換えて、やや、私の懐にちかい。
* 第三回の調停にわれわれは出席しなかった。代理人に依頼した。報告はまだ無い。
われわれは「相手方」の和解代案を読み、「見解」「回答」「和解新案」を代理人に託した。調停の場に提示されるかどうかも一任したので、結果は知らない。
相手方は私に「ウェブ上十日間の謝罪文掲載(謝罪文文案付き)」「★★夫妻に対し各五十万円、計百万円の賠償」その他を要求していた。拒絶。
代理人の報告を聴いて、われわれの「見解・回答・提案」を、必要なら此処に明らかにするが、相手方はわたしたちが相手方案を受け容れないなら調停を切り上げ、告訴し訴訟に踏み切ると言ってきている。そうなれば、むろんそのように対応・対策する。
* 今回調停に先立ち、わたしが敢えて新刊『かくのごとき、死』を出した理由を、明かしておきたい。
一、 上のような相手方の謂われない要求を、「事の経過」自体により闡明にしたかった。
相手方がプロバイダにはかり、我がホームページの厖大な全部を削除させたがった理由も、その「内容」を不利と感じ続けてきた反映であった。
結果的に、核心に相当する六月二十二日から八月半ばまでの日録を、慎重に「紙の本」に再現したことで、相手方の暴状は、「流れ」においてハッキリする。ハッキリさせるなら、今、であると確信していた。
二、 上と重なるが、わたしには、多年親愛の大切な読者があり大事な先輩知人知友もある。また組織の同僚もある。そういう人達に、事態を明白に正確に伝えて、知って欲しかった。わたしのそれも務めであるから。
この二点では、すでに圧倒多数の理解の声や言葉が寄せられている。ことの経過に、私がたに遺憾な落ち度のたぐいは無いと確信しているが、三百四十頁を超えた「流れ」総てがその事実を明かしている。「湖の本」は、匿名の怪文書ではない、新時代の「私小説的文藝」として心して真剣に提出した署名ある「作品」であり、虚偽も捏造も犯していない。亡き愛孫・やす香への、これぞ「mourning work 悲哀の仕事」「人の業」であり、読者のある人は言ってくれている、「やす香さんは、永遠にこの本に生きて行かれます」と。
三、 その意味でこの『かくのごとき、死』一冊は、単なる「私事」の公開ではない。今度此の本で世に問うたのは、むしろ文学・文藝の問題である。
わたしは文学者として「斯く生き」そして「斯く書い」た。その恥なき証しの本である、この一冊は。何より大切にそれを自覚している。わたしは誤魔化さない。
四、 配本に際しわたしはこう考えていた。
『戦後日本の小説論が優れた探求を遂げたのは事実ですが、電子ツールの「表現」を知らなかったのも事実です。「私小説という小説」のまさに頑張った事実も事実ですが、その「私」は、紙と活字媒体のコアな読者に当面していたに過ぎません。死も愛も喜怒哀楽も。
しかし今、パソコンとケイタイのインターネットは、そんな「私」を瞬時に世界大に開示しうるのが現実です。愛する孫娘の不幸な「かくのごとき、死」を通じて、「私」「私事」の表現が変容・拡大して行く一「報告」としてもお読み願えれば幸いです』と。
五、 最も大切なことを言わねばならぬ。わたしは、「法」よりもはるかに大切な価値「気稟の清質」を、「生き方」としても「人と人との繋がり」にも、観てきた、今も真正面から観ている、ということ。
建前は法治国家であり、だれもがその私民・市民であるとはいえ、人間には、時に、いや、常にとわたしは言う、「法」をも超えて大切な「情理と人格」の問題がある。少なくも娘・夕日子にはそれを知りなさいと訓えたい。
* 人も知る聟・★★★は、早稲田の教育学部助手を経てパリに学び、早大理事であった亡き父上をつぐ教育哲学等の現在教授であり、ヨーロッパの人文主義の系譜にある一学徒かと察している。ところが、不思議なことに、その学習が身についていないというのだろうか、日本語の理解が貧しいのか、とんでもない誤解からかんたんに「暴発」する。
十数年前には、小説家であるわたしの文学上のモティーフである「身内」という言葉を粗忽に誤解して、途方もなく「暴発」し、わたしたち舅・姑にむかい聴くに堪えない罵詈雑言を手紙で繰り返し続け、ついにはわれわれは彼から姻戚から「離縁」され、その結果娘や孫との今に至る十数年の断絶を強いられることになった。不幸にもそれがやす香の無惨な死去に影響してしまったのだ。
わたしの「身内」の説はかならずしも容易でないから、当座の浅慮・誤解にも同情できなくはないが、若輩の無礼ぶりはあまりといえば下品で愚劣だった。呆れた。
しかしも今回のやす香の不幸な死に、「死なれた」悲しみもさりながら、「死なせた」悔いと自責も深いとのわたしの言葉を、「死なせた」とは両親を「殺人者」であるというものだ、秦は「殺人者キャンペーン」で★★夫妻を名誉毀損している、「法」に訴える訴える訴えると、手をかえ品をかえ、言いがかりをついに「ハラスメント」にまで押し広げて、脅しつづけたのである。
わたしには「死の文化叢書(弘文堂)」の一冊に『死なれて死なせて』と題したよく読まれた著書があり、こんな浅薄な誤解を青山学院大学の哲学系の教授が犯すなど、どう思っても不審に堪えない。「死なせた」「死なせてしまった」など、気をつけていれば、テレビから日に何度も聞こえて来る普通の物言いではないか。
* まこと心貧しくも★★★・夕日子夫妻は、ことあるつど、「法」の力でわたしを叩きつぶすと言ってきた。争えば「95%の勝訴」だともトクトクと言ってくる。
具体的に挙げる。
わたしが、病苦に喘いでいた孫やす香の「MIXI」日記を、一個所に纏めて多く文章に引用したのは、日記の「相続権者」である両親の権利を「法」的に犯している、と。
当の娘・夕日子と、父親であるわたしのごく穏やかに仲よい旅写真などをホームページに載せると、「肖像権侵害」だと「内容証明郵便」を寄越し、「法」に訴えるぞ、と。
その娘がとうとう小説を書き始めたと聞いて驚喜し、苦労して片々たるブログから延々再現し、わたしの編輯している「e-文庫・湖(umi)」に仮置きし、「いい読者」たちに少しでも読んで貰えるようにはからい、日記では作の出来を褒めたり助言したりした、そのすべてが、父による「高慢」な著作権侵害・名誉毀損・財産権侵害であって、民事刑事の「法」に訴えると威嚇してくる。いと簡単に、繰り返し言い立ててくる。
「法」「法」「法」の一点張り。情理の具足がまったく無い。アカの他人ではないのだ、親と子とである。どこに、告訴や訴訟に及ばねばならない何があるか。この「私語」ファイルの末尾に敢えて掲げてある、久しい親和の写真や夕日子自身のハガキなどを見れば簡明に分かる、一目瞭然、★★達がどんなにムチャクチャを言っているか。
* 寂しいことに「人格」が全く感じられない。何もかもの物証・挙証が彼らの「人間失格」「人格障害」を自白しているかのようではないか。だが、これを読むやいなや彼らはまたしても名誉毀損だ、「法」に訴える、と言ってきかねない。
2006 12・13 63
* 語られうる「道」など、本当の道ではない。語られうる「真実」など、本当の真実じゃない。覚者は、だから書かない。大抵の聖典は弟子の解釈が入った文書であり、仏陀の、イエスの、ソクラテスの書いたものは残っていない。真実は語られ得ないし、教えられ得ない。書く人間は痛いほどそのことを知っていなければならず、その上で自身にきつく爪をたてながら、「書く」のだ、「覚悟」して。覚者は概して「言葉」に厳しい。言葉に対して安易に賛成しない、いつも反対なのだ。言葉を頼めばその瞬間から足もとに我と我が手で陥穽を掘っている。「書く」人間はそれを知っていなければならない。私は、知っていなければいけない。
* ホフマンの小説『黄金宝壺』に、人の書いた文書を、壺にはった不思議の水につけると、ろくでもない文書はたちどころに文字が消えて流れてしまう場面が書かれている。消えて流れない書き物。その可能不可能は論じがたく、ただ水につけると流れてしまうという厳しい審判だけがある。
審判を恐れていてはならない。ひたすら書かれる命の文字がありえて、消えも流れもせず宝壺の祝福を受けることを、内心に期待すらせずに、「書く」べきは「書く」生きようがある。わたしは、そのような生きを願っている。
* 昨日の町田簡裁での第三回民事調停で、裁判官は「調停不成立」を「決した」という。たった三回、それも一度の当事者対面もなく、わたしたちの意向を電話一つで確かめることもなしに「不調」ときまった由、今朝、いとも簡単な弁護士の報告がメールで入った。その余は何一つ報告は来ていない。裁判官と調停委員二人がそう決めたというが、相手方か申し立て側か、どっちかがそれを希望したのだろうか。相手方には、「本訴」の用意ができたと想像すべきか。いったいどんな話し合いがあったのか、何も知らされていない。分からない。
* 今日も、ある人の手紙で「調停」というものは、「公」への不信感以外に何一つ残らないものですと書かれていたが、一度だけ調停委員と向き合って、ああ空しいとわたしたちも痛いほど感じた。「ダメだこりゃ」と思った。それにしてもたったの三回。難しいこじれをたった三回、しかも当事者同士が一度も顔を合わせずに終わってしまう「民事調停」って、何なの。
これで、事は何の見通しもなく、来年以降へ持ち越されることになった。逆らひてこそ、父。ねばり強く対応する。裁判になれば、法廷外でも、決着のために有効なあらゆる「手」をつかう。
* 『かくのごとき、死』を、きちんと出版して、よかった。いろんな評価はあるに違いないと、最初からしっかり予測し覚悟して、だが、わたしの一分を貫いた。ちいさな無用な一分であると自身分かっていて、したのである。意地ではない。「今・此処」を「生きている」という、それだけのこと。はかないか、はかなくはないか、そんなことは考えない。読者に届けるのはもとより、広範囲に各界の人達に贈っている。そしてもう数え切れない反響が、佳い反響が手紙やハガキや書き入れで、ぞくぞくと。あまり数が多く、書き写すことができない。
「本」にして良かった。
「序」の文を、此処に掲げておく。そのうち長文の跋文も。
* 永く生きていると、つらいことにも、奇妙なことにも出あう。平成十一年(一九九九)、七年前の真夏七月に江藤淳の自死にあい、晩秋十一月、実兄北澤恒彦の自死にあった。『死から死へ』と題し、「湖の本エッセイ」第二十巻を編んだ痛い記憶は、まだ私の身内にあたらしい。
今年、平成十八年(二〇〇六)七月、また一つの「死」に向き合った。九月に二十歳になるはずの孫娘★★やす香を、「死なせて」しまった。手の施しようない「肉腫」であった。だが自覚症状は遅くも正月早くに本人の手で記録され、以降、扇を拡げたように急激な苦痛・苦悶がソシアルネット「mixi」の日記に克明に記され続け、しかも、北里大学病院に入院したたぶん六月半ばまで、只一度の有効な医療や介護を受けた形跡が見えなかった。責任の一半は、私にもあった。私はやす香との盟約(マイミク)で、互いの「mixi」日記を毎日読んでいた。繰り返し、「親と相談し適切な医療を受けよ」と癇癪も起こし、だが、両親に対し直接警告してやれなかったのである。娘・夕日子の婚家★★★家と私たち秦家とは、十数年一切の交通を断たれていた。
だが、二年半前から、両親に秘し、孫やす香ははるばる玉川学園から保谷の祖父母を訪れつづけ、驚喜させてくれた。やす香は、生まれ落ちた時から、私たち祖父母にはそういう愛おしい初孫であった。
驚くべきは、やす香が永逝して一週間せぬまに、私は★★両親により「告訴」「訴訟」を以て威嚇されはじめた。『死なれて死なせて』の著者私に向かい、やす香を「死なせた」とは、両親家族を「殺人者」と呼ぶ名誉毀損だと謂うのであった。
奇怪な事件はなお「調停」半ばにあるが、私は、孫やす香の「かくのごとき、死」を、ためらいなく、斯様「闇に言い置い」て、重ねて、やす香の前に悔いて詫びたい。 二〇〇六・九・二七
2006 12・14 63
* 『かくのごとき、死』を出版した気持ちを、あらためて箇条で自覚しておく。数え上げる何にも増して、可哀想なやす香の死に当面した、わが「悲哀の仕事 mourning work」であること、言うまでもない。そして、
一 事の経緯を闡明すべく。
二 読者・知友に心事と事実を。
三 斯く生き 斯く書く 自身を、ごまかし無く。
四 電子化時代の新しい「私」「私事」の表現、新「私小説」の行方をさぐる、一報告。
五 「法」は法。しかもより大事な「人間の情理と気稟の清質」を尊信する。
* 老境をこういう不幸な方角へ歩まねばならないのは残念だが、すべて私の不徳。運命は甘受する。
こうも考えている。大抵の老人は過ぎ去った過去の蓄積や堆積の記憶でものを言う。そんな老人の一人である私は、過去完了ならぬ現在進行形の只今湯気の立った事件と直面しながら、「老境」の今・此処に身を処して、考えたり動いたりしているのだから、人生劇場の最現役ではないか。一種の「天恵」だ、と。ま、なるべく「ゆったりと自然に」日々を送り迎えて行こう。願わくは戦友である妻の心身が豊かに安くありますように。またこれまで以上に、働き盛りの秦建日子のたすけも頼まねばならないかと思う、気の毒に思うが助けて欲しい。
* どっちもどっちとあっさり嘲笑う人も、どんなに多いだろうか、想像に余るが、そういう毒にこそ当たらずに生きたい。分かる人には言わなくても分かる。分からない人にはいくら言っても分からない。中学生だった昔にしかと耳に聴いた、ある人の声をいまもわたしはしかと聴いている。
* 調停委員から最後に伝えられたという「弁護士報告」によると、要するに「相手方は<賠償金支払いの無い案は呑まない>ことを伝えられました」と、ある。つまり「金」ですよと、何人にも予測されていた。賠償金だの謝罪文だのと、理由のない話である。
三回ぐらいで終わる「調停」は「いくらもあるんです」と、弁護士さんは言う。わたしたちは裁判所でただ一度も★★や夕日子の顔も見ていない。大の大人が莫大な勢力と時間をつかつて、ほんの「おしるし」の鼠も出たかどうか。具体的に「五十万円ずつ百万円欲しい鼠」が出たじゃありませんか、と。なるほど具体的だ。
2006 12・15 63
* 「MIXI」に無数の縁遠い人から「足あと」がつくのは、或る面で醍醐味にも繋がる。想い寄らなかった発見につながる。先日鹿児島市在住の男性が「足あと」をくれたので表敬したところ、幾編ものエッセイを読むことが出来たが、玲瓏と美しい述懐で、感嘆。一編一編に夥しいコメントがついているのもムベなるかなと。
好きな本に『自省録』とあり、この名で知れるのはマルクス・アウレリウスが最良だと思うが、コメントにメッセージが返ってきて、そうだと。嬉しくなった。じつはぜひ読みたい題名の日記一編があり、まだ読みに訪れてはいないが、そう話してやるとその「題」に妻も満々の関心をよせていた。
* その一方で、ふと顔色の曇るような「足あと」もひょこっと混じって、一過性でない。なにしろ誰であるかは全く分からないシステム。しかし、だれにも一人は「MIXI」に推薦者のマイミクがいるのが原則。だが時にマイミクをもたない、プロフィルも書かない相手から「足あと」のつくことが、もう両三回あった。これはいやな気分。で、その「足あと」人のマイミクを見て行くと、およそ様子は知れるが、こういう人も混じってくる。
メッセージを送ってみた。
* むらっちさん。 七月末には亡くなって、もう数ヶ月経った「思香」さんを、今も「唯一のマイミク」にしている「アルセー」さんを、これまた「唯一のマイミク」にしている「むらっち」さん。
「思香」は、私たちのかけがえない優しい孫・★★やす香のハンドルネームでしたが、可哀想に我々身近な大人の愛の至らなさから、むざむざ「死なせて」しまいましたことは、ご存じなのではありませんか。
ただ「死なれて」悲しいのではなく、あたら目も手も届かず「死なせた」というつらい自責に、祖父母は、いまも、優しい笑みをうかべた遺影を目に、泪のかれるときがありません。
もう、ほんとうに、やす香(思香)を、「MIXI」の雑踏から安らかに静かに逝かせてやってもらえないでしょうかね、いつまでもまるで「幽霊」のように扱わないで。これって、かなり心ないことですが。
「むらっち」さんは、やす香の両親が、――大学教授の父親と大学で哲学を学んだ母親とが――、手を携えて祖父母を、自身の両親を「法廷」に引き出そうとしているのを、ご存じでしょうか。その理由の最たるものは、祖父母がやす香を「死なせた」と云うのは、やす香の両親を指さして「殺人者」だと云っているのだ、名誉毀損だ、というのです。
「死なせた」という言葉は、決して「殺した」の同義語でないぐらい、子供でも知っています。ニュース報道でもテレビドラマででも、頻繁に耳にする、普通の、しかし、「自責の辛い」重い言葉です。
自責のゆえの逆上でしょうか。それとも日本語が読めない・聴けないのでしょうか。それともやはり根の愛が涸れているのでしょうか。
「むらっち」さんのことは知らないから何も分かりませんが、私のところへ「足あと」を重ねて残してくださるのは、私から「何か」がお聴きになりたいのですか。どうぞ率直にお尋ね下さい。答えられることは答えますよ。
私たち祖父母が心の中で「もしや」とほんとに望んでいるのは、「むらっち」さんか「アルセー」さんかが、★★やす香の心許した親友で、やす香の想い出を私たち祖父母に分け与えて下さる方なら、どんなに嬉しいだろう、ということ。
もしそうならそれも、どうか率直におっしゃってください。感謝します。
もしやす香の父親や母親とのお知り合いであるのなら、どうぞ「思香」ならぬ「亡き娘やす香」を、これ以上悲しませ、はずかしめないで欲しいと伝えて下さい。 湖
* 以前にも同じような理由から問いかけた「足あと」人がいた。当然かもしれない、梨の礫で、その名前はわたしの「MIXI」からは消えていった。むろん「思香」名義を相続した気だろうやす香の母親か父親かであることも邪推できる。十分出来るが、やはり「やす香の親友」「やす香のボーイフレンド」だったら嬉しいがと「おじいやん」は願うのである。
2006 12・16 63
* 息子の秦建日子がブログに書いている。代筆して貰ったことにさせて頂く。
☆ 年賀の挨拶は失礼させていただきます。
今年は、私の姪・★★やす香が、わずか19歳という若さで病に倒れ、なくなりました。
新年のご挨拶は、失礼させていただきます。
* 建日子は此処にやす香の写真を一葉掲げている。「赤い花緒のジョジョ」はいて玄関で「ハイ、ポーズ」の健康一杯の孫・やす香。祖父も祖母もこれが大好きで、再会の日までの十数年、いちばん目に付く場所に置き、日々「やす香、元気にしているか」と声を掛けてきた。つづく叔父・建日子の哀悼と願いも胸に迫る。さこそとわたしも思う。
☆ 写真は、幼い頃のやす香が、私(建日子)の実家に遊びに来た時の写真です。
撮影者は、私の父だと思います。
この時代まで時を遡って、ほんの少しだけでも運命を変えて上げられたらと、今でもふと思ったりします。今更、どうしようもないことですが。
命って、ただそこにあることだけで、大きな奇跡なのですよね。
当たり前のことなんだけど、当たり前すぎて、ぼくもずっと忘れていました。
姪の冥福を祈ります。
そして、世の中が、彼女が願っていたように、「愛と平和」の方向に少しでも向くよう祈ります。
広い意味でも。
狭い意味でも。 秦 建日子
* わたしも、わたしの大好きな、なんとも可愛いやす香のもう一枚をかかげて偲び、あまりにも苦しく悲しかった「今年」をそっと送り出したい。出張ったお腹に当惑のおじいやんを慰めてくれる孫・やす香。あの日に、帰って行けたらと思う。
2006 12・17 63
* いちばんに、とても嬉しい便りをやす香の親友からもらった。文面の一部からご本人が察しられてもいけないので、三分の一ほどを此処に頂戴する。委細をつくしてテキパキと心優しく書いてくださっている。感謝に堪えない。
☆ はじめまして、やす香さんの友人です。突然のメール、失礼いたします。
親しくさせていただきいつもやす香と呼んでいるので、やす香と呼ばせていただきます。
秦さんのブログを拝見しました。
おじいちゃまの事も大好きで、お母様のことも愛していたやす香の気持ちを考えると、なかなかメールができませんでした。ただ、やす香がおじいちゃまのことを大好きだったことをお伝えしたくて、メールをしました。
初めて私がおじい様のことを、やす香から聞いたのは、高校の時で、たまたま授業でおじい様のお名前が載った文章を読んだ後、「あのね、うちのおじいちゃんなの!」と、教室の片隅でものすごく嬉しそうにコソコソ話しをしてくれたときでした。
にっこりしすぎて、細いかわいい目がとろけていました。
喜んだり、恥ずかしがると、長い手足をくねくねする癖を持っていました。
その後、おじい様に会った話や、妹さんと一緒に会いに行った話しを聞きました。
ただ、お母様には決して知られたくないようでした。
病気になってから、おじい様に病室に来て欲しいと意思表示したのは、かなり強い思いからだったと思います。
私が会った最後の日、やす香は一生懸命に「ありがとう」と言ってくれました。その頃はほとんど喋れなかったのに、久々に聞く声でした。
それが最後の会話でした。あの言葉は忘れられません。
やす香のお母様とお話をした時、普段は見せない涙を見てしまいました。そして、「親は無力です」と、仰って上を向いて流れる涙を隠していました。
やす香にとっては、お母様もおじい様もとても大切でかけがえのない方なんです。
(略)
長々書いてしまい、失礼いたしました。
おばあ様の体調が優れないようですが、いかがでしょうか? お寒くなりましたので、お風邪など召しませんように。 ****
* 医院にでかける妻にはすぐプリントして持たせた。電車の中で泣き出しはせぬかと危ぶみながらも。帰ってきて云う、繰り返し繰り返し繰り返し読みましたと。わたしは留守の内に御礼を伝えた。
* ****様 嬉しいお便りをくださり驚喜し、また泪しました。プリントして妻にもたせ、妻は医院に出掛けました。電車の中で妻も感謝しつつ泣いたであろうと想っています。
帰宅しましたら二人でまた読み読み、御礼のことばをさぐることになりましょう。留守をしながら、わたくしも読み返し読み返したい。やす香の写真がそばで私に微笑を送っています。そして猫の黒いマゴもそばにいます。
この仔が掌よりも小さく我が家に迷い込んでいましたとき、私たちはためらいなく「黒いマゴ」と名付け、せめて★★の孫達のかわりにと愛してきました。すると、やす香が突然連絡を呉れ、嬉しい十余年ぶりの「再会」に私たちは湧きました。ケケケも来てくれて、おじいやんをみごとに碁で負かしました。みんなで雛祭りもしました。買い物も食事も街歩きも楽しみ、やす香たちには叔父の秦建日子作・演出の芝居も一緒に観ました。
不幸が不幸を呼び続けた中で、やす香の優しいはからいは、最良の贈り物でした。なんとか平穏に両家がもとへのきっかけが欲しいと願っていましたが、裁判沙汰へもちこまれようとは悲しい驚きでした。
いま、あなたに、また知らなかったやす香のことを沢山お教えいただき、心より感謝しています。あまりにも知るところ少なく過ぎてきたやす香でしたから。
恋もしていたかに漏らしていました。相手の男性から何か聞かせて欲しいなあと、よく夫婦で話してきました。
わたくしたちは、やす香の母親と、静かに過ぎ越しを顧み、親子として話し合いたいのです。いまは、それも叶いそうにないのですが。
出版したばかりの『かくのごとき、死』は、私たちの「mourning work 悲哀の仕事」になりました。お読み下さるなら、差し上げたいです。
とりあえずの御礼を先ず申し上げました。 秦 恒平
☆ やす香の祖母でございます。秦へ、メッセージを下さってありがとうございます。
君も読みたいだろうと言ってプリントしてくれましたので 何度も何度も、胸をふるわせて読みました。
今 私の前に、やす香の写真があります。カリタスの卒業が近いので、と制服姿を見せに来てくれたときの写真です。この写真に向かって呼びかけては涙し、謝っては涙しています。
強い思いがあって尋ねて来てくれたのでしょうに 至らぬ祖父母は嬉しい一方で、どんな思いがあったのかゆっくり聞くこともなく死なれ死なせてしまいました。残念で申し訳なくて。
私の方から引き出してでも真剣な話をきいてあげたかった 疑問にも答えてあげたかったと 後悔ばかりが次々溢れます。
幼稚園に入る前から、やす香の両親とわれわれ祖父母とが仲たがい状態で そのように幼い頃に、大人のいざこざを理解するなど無理のことと私は思っていました。
その頃も、電話で、当時流行っていたテレビアニメ・セーラームーンの主題歌を繰り返し繰り返し歌ってくれ、でも保谷は遠いから(一人では)行けないのよ、と慰める口調で言うのです。
そして高二の秋、保谷は「行動範囲内ですよ」と、来てくれたのでした。
久しぶりに逢うと、成人したやす香は、その昔まみいと一緒にお風呂にはいって歌った、ローロー ローユアボートも セーラームーンも、今でも歌えますよ、と。
(ここまで書いて また声を放って泣いてしまいました。)
やす香は「家を出て独立したい」といいました。
この年頃の誰でもが口にすることと、軽い気持ちでうけとめて、「またまたまたぁ」と話を逸らしたのです、私は。
どうして一言、なあぜ? と聞かなかったのか。
はじめて見舞いに行って帰るとき、「まみい」と鋭く呼び止められました。
明くる日から白血病の抗癌治療にはいると聞いていたので、苦しくても頑張って欲しい また来るからねと一方的に話して (疲れるからと母親が急かすので) 部屋を出ました。
どうして一言、なあに? と聞かなかったのか。
それもこれも、若いやす香が祖父母より先に逝くなど思いもよらない、また聞ける日が来ると後日を頼んだからでしょう、無意識に。
その上私たちはやす香のために医師を捜すことも、病院へ無理にも連れて行くこともしませんでした。なんと愚かな祖父母でしょう。
やす香から優しい心、嬉しい思いをもらうばかりでした。申し訳なくて申し訳なくて、後悔の涙ばかりです。
こういう思い出や後悔をあの母親とこそ話し合い、涙して慰め合いたかったのに出来ません。
ですから、やす香と本当にお親しい方と知って、つい長々と愚痴を申し上げました。
許して下さいね。
メッセージに 心から感謝いたします。ありがとうございました。
師走十八日 宵に 祖母・やす香のまみい 迪子
* メッセージを(できるだけ意思疎通していたいので)転送した建日子からも、すぐメールが来た。
☆ 嬉しいメールですね。胸が熱くなりました。
夕日子は、こういうメールを読んでもまだ、裁判裁判と言うつもりですかね。
そのうち、ぐう(猫)を連れてうかがいます。
よろしくお願いいたします。 建日子
* やす香も猫が好きだった。
2006 12・18 63
* 「MIXI」にバグワン・シュリ・ラジニーシに親しい気持ちを持った方が何人かいらっしゃる。そのお一人の「足あと」が見えたので、メッセージを送った。返辞も直ぐに来た。
* この十五年ほど、一日も欠かさずバグワンの本を何冊も、繰り返し繰り返しただ無心に音読してきた者です。バグワンの実像に関してはなにも知りません、ただ、日本語に訳されている本ではありますが、読んでいて、世界史的にもそう例のない「透徹した人」だという帰依の思いを、あっというまに持ち、しかし「知解に陥らない」ように、ただ「肉声を聴き込む」ほどに、声に出して読み続け読み続けて、そして日記にもその喜びをときおり書き付けてきました。
そういう老人の一人です、私は。
なにかお聴かせくださらば幸です。 秦 恒平・湖
☆ 涙が出るくらいに 懐かしい思いになりました。
貴方からのメッセージを読ませていただき 様々の思いが交差します。
僕も今から20年ほど前でしょうか? 若かりし頃、聖書から真理を模索しはじめて 諦めかけた頃に バグワンとの出会いがあり、様々な宗教を自由自在に語るその言葉に触れたとき 紛れも無く此処に真実を語る方がいると
僕は直感的に受け止めました。
キリスト教的に凝り固まった宗教観人生観の頭を 体を 柔軟にしてくれる柔らかさがあり 肌のぬくもりがそこには在るよな躍動感に体が震えたのを思い出します。バイブレーションというのでしょうか?
バグワンに触れたことの有る方であれば誰もが同じ思いを抱いたのではないでしょうか?
僕も貴方と同じように 直接彼を知りませんし 彼のお弟子さんを知りません
オレゴン州でのユートピア建設と、その崩壊、暗殺
その事実関係ヲ正しく知ることができませんが今も彼の存在は大きく 今の僕を支えてくれているのかもしれません
秦恒平・湖さんとの初めての出会いに感謝いたします。
又これからも 是非よろしくお願いいたします。 北海道
* バグワンは全く未知で、関心の何一つも持ったことの無かった人物だった。お茶の水女子大に入って間もない娘・夕日子が他大学の学生達とグループをつくり「瞑想」集団と称していたとき、夕日子の机の上に三冊ほどのバグワンを瞥見し、ちらと観て、失礼ながらこりゃムリだわと感じていた。案の定、あっというまに夕日子の机上からバグワン本は追放され、結婚のさいに物置に投げ込まれていた。
わたしは「大過去」最初の★★暴発のあと、夕日子と会うことも叶わないなかで、ふと「あいつはあの頃、何を瞑想していたのか、瞑想しそこねたのだろうか」と、好奇心から物置のバグワンを救出し、『存在の詩』『究極の旅』『般若心経』三冊をいとも真面目に読み始めた。その後にも何冊も買い足し、すべて毎日欠かすことなく音読し続け、最初の三冊など、それぞれ四度も五度もただ無心に音読してきた。バグワンはいわば家を出て行った娘・夕日子から父親への「置きみやげ」となり、わたしの生きのその後を、そして今も、今より後をも支える「糧」になったのである。この日記も、どこかでバグワンを聴いてともに歩む思いを書き置こうという気持ちで始めた。
2006 12・18 63
* メッセージをもらったやす香のお友達から、私へも妻へも、心温かな佳いお返事をまた貰えた。若々しい優しい孫・やす香の生前の様子が知れ、さらに嬉しいのはこの後も話して貰えるし、わたしたちからもいろいろ聴きたいと願えたこと。なかなか出来ない行き届いたご挨拶で感じ入った。ありがとう。
2006 12・19 63
* 栃木からは赤ちゃんの拳ほどもある、宝玉のように赤く輝いた苺が八パックも贈られてきた。週末に息子がくるときに食べさせてやりたい。広島の理史くんからも純米と吟醸と二種の土地の名酒。冷え込みがちな師走の胸懐を、みな心優しく温めてくださる。
* 金澤にいる画家の「お父さん」からもありがたい心親しい手紙をもらった。彼の苦闘もつづいている。広い世間には、つらい、悲しい、苦しい思いの人達が、少なくないどころか、あまりに多いことが分かる。わたしのように書いてあからさまにする気も勇気もなく悶々と我一人の胸にかかえ持った人達を、今度の『かくのごとき、死』をきっかけに何人も何人も知った。
2006 12・19 63
* 朝まだき、六時ごろ二階でドッスンと音がして見に来たが、屋根でどこかの猫が走ったか。黒いマゴは妻といっしょに寝ていた。
そのまま機械の前に。『好き嫌い百人一首』のかるた読み連載も、西行法師の前まで。
* 七十歳の最終日。明日は「七十一郎」になる。
2006 12・20 63
* 述懐 あはれともいふべきほどの何はあれ冬至の晴の遠の白雲 七十一郎
* 日のいちばん短い日に生まれた。
* 朝一番にお祝いの名酒・お干菓子をもらった。
昨日頂戴した、手作り、竹の長い細い「耳かき」が嬉しかった。美しく削れてある。
むかし茶杓削りを試みたことがあった。弥栄中学茶道部のみんなにも削って御覧とすすめたら、中に、美しく削ってきた二人が居た。いまはどこかで、もう、しっかりいいお婆ちゃんになって元気でいるだろうが、幼かった面影が、みな、目にある。
「耳かき」といっしょに大好きな最中と抹茶ももらっていた。このごろわたしは、朝晩に抹茶を自服でのんでいるので、さっそく新しいお茶で最中を頂戴した。お茶は子供の頃から好き。餡菓子がむかしはとびきりの貴重品だった。佳い干菓子もお茶にはうってつけで、酒の重なりそうなときはお茶にし、どちらも気長に楽しみたい。
* 誕生日にゆっくり家でくつろいでて、出掛けないのは珍しい。大勢さんに早め早めからいろいろにお祝い戴いていて、ふくよかな思いに、温まるように家で落ち着いているのも、樂、福、というもの。鳶の呉れたカッスラーを読んでくつろぐか、ドン・キホーテのとてもみごとそうな訳本を読むか。自転車で走るには寒すぎるようだが。「元禄忠臣蔵」第二部を妻と楽しむのがなによりだろう、美味い酒、肴で。そしてお茶とお菓子で。
☆ お誕生日おめでとうございます。
仕事がうまく片付かず、ろくにお祝いもしてあげられず申し訳ありません。
それまでの一年間がつらかったぶん、71歳の年が幸多いことをお祈りします。
23日の夜に、そちらに行きます。 建日子
2006 12・21 63
* 内匠頭の殿中刃傷の前には、「浅慮の暴行」と謂われて仕方ないあの江戸城ないし大名家来達世間の「常識」というものがある。だが、そればかりでは律しがたいものも厳然としてあった。武士道を超えて出た「人間」の、或いは「人情」の真実があるはずという観測や意見がある。感動はもっぱらそっちに生まれてくる。
内匠頭は即日腹を切った。切らされた。吉良上野介はおとがめ無く全快した。そこでまかり通った「常識」には、お上「ご政道」という権威も法度もものを言うていた。「法」というなら、内匠頭は「法」のままに裁かれた。両成敗の喧嘩とはみなかったのだ、上野は刀に手も掛けず遁れようとしていた。「法」は「法」ですといえば、文句の出る筋ではない、内匠頭のつまり「負け」であった。
だが、必ずしも「法」だけでことの真相を観ない、測らない意見が広く沸騰した。「法」だけを笠に着た「ご政道」ですら沸騰する批判の前に凹んできた。だが死刑が執行されてしまっていては、もう高級審のやり直しも利かない。
内蔵助らの「討入」にはそんな事態の推移を踏まえ、公儀ご政道へ歯向かい楯突く超法規的な「抗議の情理」があった。むろん天下ご政道からは「討入は暴挙」とする「法」の建前が生きている。生きているとのリクツはやはり浪士達の上にも通されたのである、だから浪士一同「切腹」となった。「法」は「法」だ。
だが、内匠頭の刃傷にも内蔵助ら浪士の討入りにも、天下の支持は熱いほどであった。型にはまった冷えた「法」と、「法」だけでことは見えるものかという「情理」「志義」と、の差であったと思う。
* 刃傷の直後、仇討・討入などとんでもない、そんなことをされては迷惑すると思う「世間」も、明らかに実在していた。もしそんな最中、人の世のしがらみの中で浪士が討入を公言していれば、「法」は、簡単に大石以下の浪士を処分できただろう。だからそんな「法」をすり抜けて行く道を、大石以下の彼らは、英知と忍耐とで見つけて、歩み進んだ。
しなければならぬことは、しなければならぬ。
* 坂田藤十郎の内蔵助で、また中村梅玉の綱豊卿、片岡我當の新井勘解由、中村翫雀の富森助右衛門で、「元禄忠臣蔵」の「伏見撞木町」「お濱御殿」「南部坂雪の別れ」をおもしろく観た。
藤十郎にも梅玉にも我當にも、芝居気分を豊かに満たされた。満たされながら、わたしは、人を、軽薄で無道とすらいえる「法」一律で何でも彼でも律し縛ることの罪重きこと、権利一辺倒で、正義と到底想われぬ権利をゴリオシする人間社会の情理の歪みにも、決して承服しかねる気持ちを胸に抱いていた。 2006 12・21 63
* 「空」と抹茶と最中、それに藤十郎、梅玉、我當、翫・扇雀兄弟らの芝居に酔い、当る亥歳、昨日は、生まれてきた日を静かに過ごした。
あすありとたがたのむなるゆめのよや まなこに沈透(しづ)くやみの湖
2006 12・21 63
* 師走十三日の三回目の調停で、思いもよらなかった突然の「調停不成立」を代理人弁護士から告げられ、「何で?」と驚いたまま、翌日の三百人劇場最後の舞台を折角招待されていながら、夫婦とも失念欠席してしまうハメになった。恥ずかしくまた至らぬことで、残念の上を越して申し訳なく、福田理事長さんにお詫び申し上げた。
ようすなど少しうかがえ、じいっと目をとじしばらく、無念。
2006 12・22 63
* 晩に建日子が来てくれた。巨大猫の「グー」を預けに来たのである。おみやげに私のためにセーターを三枚持ってきてくれた。
うち一枚は岩下志麻にもらってきたという。
両腕がシースルー、夏前か秋口にいいだろう。息子が照れて着ない洒落たものを、七十一のわたしに着させようとは、建日子も人がいいのか、わるいのか。優しいのだろう。
建日子の生まれるより余程早く、新宿河田町のフジテレビ地下廊下で、すれ違いざまにっこと笑ってくれた若い若い日の岩下志麻の美しかったのを瞬時に思い出す。あの時妻も一緒だった。二人は家でたいくつすると夜分近くのフジテレビスタジオを覗きに出掛けていた。「スター千一夜」などやっていて、菅原謙二の日に、とびいりのその他大勢喫茶店の客役で雇われたこともある。
岩下志麻はあの晩、廊下を行ったり来たり、化粧品のコマーシャルの科白を覚えていたらしかった。「バス通り裏」でフアンになり、小津映画や「五弁の椿」や「夕霧伊左衛門」や「極道の妻」や「写楽」などでいつもビリビリ感じていた。文壇のパーティで篠田監督と一緒に、書家の篠田桃紅さんも一緒に暫く立ち話したこともあった。
それがこの間までは、秦建日子作の「花嫁は厄年!」に出て貰っていた。ご縁である。
2006 12・23 63
* 快晴 市会議員の選挙に行ってくる。
* 投票後、お天気はよし、自転車のうしろへ載せ、昔より妻も身軽と感じたのと、歳末の日曜でなにとなく閑散なのを見越して、落合川まで妻を連れて行った。ほぼ自然の川には濃い緑の水草が流れに浮き沈みし、水鳥があちこちで群れていた。日射しは明るく、わたしは汗ばんだのでダウンを妻に着せ、遊歩道をほどほどに上下して、ま、一時間あまりゆっくり自転車走を楽しんできた。帰りにエビスビールを買い、帰ってボーンハムをナイフで削りながら、猫も一緒に休息した。
いまのところ黒いうちのマゴと、建日子たちの灰斑のグーとは温和しく共存している。
運動後のビールのせいか、機械の前でだいぶの時間うたた寝していたようだ。穏やかな時が過ごせていて、清閑の師走心地。
2006 12・24 63
* 崩れ落ちるような睡魔のおとずれを歓迎して、雨を聴きながら、夕ちかき二時間ばかりを寝入っていた。そのあいだに川崎にいる異母妹の二人が次々に長電話で妻と話していた。長電話は女に似合うらしく、このところちょくちょく。わたしは可能な限り自分で受話器はとらない。あっというまに妻に渡している。
* しっかり雨。それも冷たそうな。暖かな家で本降りの雨を聴いていると、幸せ。
2006 12・26 63
* 台湾南部で立て続け大きな地震があったとか。建日子達は石垣島へ行っている。誰も誰もの無事を祈る。
2006 12・27 63
* あすは押し詰まっての迪子の胃カメラ検査。無事を切に祈る。
検査自体は前後二十分ほどのもの。家にいても仕方ないので、猫たちを家にとじこめ、わたしも出掛ける気でいる。カッスラーか、千夜一夜をもっていれば待ち時間は何でもない。
2006 12・27 63
* 佳い日でありますよう。
* 聖路加病院での妻の胃カメラ検査は、何事もなく済んだ。ほっとした。
* 快晴のもと築地から八丁堀をへて、茅場町の「日本ばし鈴木」でゆっくり鴨鍋を食べてきた。酒は「浦霞」で。思いがけず女将から誕生祝いなどもらっていたので、年内にもう一度食べに行きたいと思っていた。二度目にもかかわらず旨かった、野菜までも。鴨も、雑炊も、刺身の比目魚も。板さんも覚えていてくれて。
妻も満足、医者の太鼓判もあって、ふとるためによく食べた。奉書鍋で煮た鴨は牡蠣鍋よりあっさりとしつこくなく、卵雑炊も食べきれるかしらんと思ったのを二人でぺろり。ご馳走さんでした。年越し年忘れの佳い食事が出来た。新年早々の勧進帳などの座席代金も支払ってきた。
* 註文した医学書院の本も、小林謙作君の手配で家に届けてもらえることになった。
2006 12・28 63
* 「MIXI」に歳末雑感を毎日書いている。「思いつきバッタリ」で。バッタリは、場当たり、か。カッスラーの『ロマノフの幻を追え』が佳境に。ダーク・ピットが主人公のシリーズになじんでいたが、また別のヒーローの活躍するNUMAシリーズも出来ていたんだ。
いつのまにか日付を越えている。やす香の写真の前で戴いた小薔薇の四輪が今を盛り。やす香、おやすみ。
2006 12・28 63
* 禅のお坊様から、新潟の、心癒しのワインを紅白頂戴した。久しい文学の友からも、すてきな紅茶。そして客人のグーと主人の黒いマゴとは穏やかに対座している。二月の歌舞伎座、予約が出来た。燦々、歳末の陽光。風は吹いている。近場を、あれこれお使いに出掛ける。
2006 12・29 63
* じーぃッとしていて、自分が眠いのだと気が付く。暮れの三十日なのに、わたしは眠いなら寝ても構わない。どこかへ買い物にいっても好きに昼飯を食いにでかけても構わない。正月は簡略に迎える。息子が来てくれるだろう、一両日ボンヤリしていてもちっとも構わない。
言論表現の同僚委員である長田渚左さんがめずらかなお酒を下さった。恐縮です。
英国屋へ、この暮れに出掛けるのは面倒なので、仕立て上がったわたしのスーツと妻のオーバーコートは家へ送ってほしいと頼んでおいた。今朝着いた。お天気が良ければ正月の歌舞伎座にと思うが、一日中座席に座っているのだからあまり意味がないか。
2006 12・30 63
* 沖縄から建日子が夜前、帰ってきた。二階の洋間に蒲団を敷いて愛猫のグーとよく寝たようだ。建日子が家にいると、なんとなく安心する。
* 恒例の買い物をしてきた。京の雑煮味噌。蛤。年越蕎麦用の海老天麩羅。おいしかったのでもう一度「森八」の和菓子。そして妻に薔薇の花束。
図書館に寄附本を一箱分運んだ。
神経質に片づけたりしない。片づきようがないし、なにとなく、おさまるように、おさまっているのだから。それよりは、自然に来年へ流れ込めるように。
2006 12・31 63