* 平成十九年(2007) 元旦 月 晴天
* 新年になった。「今・此処」がつづくのである。だれもだれもの平安を、ただ願う。
* 元旦、やす香の写真もある膳について、雑煮を祝う前に建日子に読んでもらった。
☆ back to the future? やす香
未来を向いて生きることって
すごく難しい。
だって未来は見えないから。
でも私たちは
いつまであるかもわからない
そんな未来を向いて
生きなきゃいけない。
過去を振り返るのはすごく簡単。
だって過去には
明確なビジョンがあるから。
どんな過去だろうとそこには
実際に起こったこととしての
記憶がある。
だから後悔したり、
こうだったらよかったなぁって
記憶をもとに
夢を描くことも簡単なんだ。
でも私たちは
未来を向いて生きなきゃいけない。
夢は未来に描かなきゃいけない。
どんなに不安でも、
どんなに怖くても、
生きなきゃいけない。
私は生きる意味なんてないと思うんだ。
…というか
あるかないかは人それぞれ。
夢をかなえる為に生きる人、
人を愛する為に生きる人、
ただただ楽しむ為に生きる人…
生きる意味をみつけるために生きる人。
そんな目的もみいだせなくて悩む人。
意味なんてない。
ただ生きてる。
それだけ。
だけど私たちは
自分じゃない人=他人と
必ず関わって生きてる。
家族、友達…。
誰かに愛されて生きてる。
誰かに必要とされて生きてる。
生まれてきた時点で
誰かにお世話になって、
誰かの力になってるんだ。だから生きなきゃいけない。
例え今私が死んだって地球は回るよ。
そう思ったら、
自分の存在なんてものすごくちっぽけなもので、
虚しくて壊れてしまいそうになる。
だけど、
生きたくても生きられない人がいっぱいいる。
生きててほしい人に
死なれてしまう人がいっぱいいる。
そんな人たちを前に
自分の命を粗末に使うことは
私にはできない。
生きなきゃいけないって思うんだ。
それに、
私には大好きな人がいっぱいいる。
みんなにも大好きな人がいるでしょ?
その人が
自分が死んで悲しんでくれるかはわからないけど
少なくとも私はみんなとまだ別れたくない。
どうしても生きなきゃいけないなら、
たとえ未来がわからなくて、
どんなに不安で
どんなに怖くても
明日、今の楽しさが
虚無感にかわっても、
それでも今を楽しむ。
今を大切にする。
どんなコトしてたって
必ず明日に繋がるんだから。
寝てるだけでも
体力温存になるんだよ(笑) 2006年3月07日16:36
* やすかれ やす香 生きよ とはに。
2007 1/1 64
☆ 新しい年になりました。
去年は苦しい一年でした。忘れられない想いを大切に抱きつつ、新しい年を過ごしていきたいと思います。
先日は、ご本ありがとうございました。
「少年」、温かいものが伝わってきました。やす香を重ねて読んでしまいました。建日子さんの、サイン入りのご本まで頂けるなんて、感激です! まだ読んだことがなかったので、楽しみに読ませていただきます。
すぐにお礼を送れなくて、申し訳ありませんでした。
今日は、元旦からアルバイトでした。
去年、(旅次に)四時間だけ時間があったので、京都のお寺を三箇所まわりました。乗ったタクシーの運転手さんの勧めで、泉湧寺にも行ってきました。紅葉には少し早かったのですが、感動しました。門をくぐった時の趣き、威厳と品格のあるお庭、素晴しかったです。「少年」の後ろに、高校が泉湧寺の近くだとありましたが、羨ましいです。
(略)
やす香のフランス語は、学校一でした。
他にもフランスからの帰国子女はいたのですが、みんな自分のものとして上手く活用できていませんでした。
やす香は、小さい時からヒッポにいたせいもあるかもしれませんが、ただの言語に留まらず、自分の一部として使いこなしていました。
誰もが、やす香のフランス語力を褒めますが、やす香はフランス語限定ではなく、国語力がとても素晴しかったです。
国語の授業の時は、先生と対等に意見を交わすことが出来ました。
私は、ただすごいなと眺めていただけです…
やす香は、心の底から溢れ出す表現力を持っていました。
苦手な教科があった記憶はありません。
今年は成人式です。
いろいろ迷いましたが、***市の成人式に出席します。
成人式は、自分だけのお祝いだと思っていましたが、おじい様の文章を拝見して、愛してくれる家族の思いもあるのだと思いました。
やす香は、この日を迎えたかったので、当日はやす香と撮った写真を持って一緒に行きます。
おばあ様、お体に優しいものをたくさん召し上がって下さい。
心配症のやす香が、また心配してしまいますので。 慈
* ありがとう。嬉しいお年玉を戴きました。
* 年賀状も年賀のメールもたくさん来た。
2007 1/1 64
* 午後、NHKが美空ひばりの、今までにないユニークな大特集を放映してくれた。釘付けにされ、泣いて泣いて、目の縁が燃えそうに熱かった。
呆れる人もあろう、だが、昭和の天才といえば、彼女が一人だけである。そのひばりとほぼ同時代を歩いてきた。すでにスターになりつつあった「色の黒いちっこい雀みたいなヤツ」を幾重もの人の輪をかいくぐって、さわれるほど間近に見たわたしは新制中学に入って、さ、一年生か二年生だった。真夏で、パンツ一枚の素足に近かった。家からすっとんで行った。初恋が芽生えたような出逢いだった。
* 何度も同じことを書いている。
今日の、かつてなかったことは、建日子が一緒に、観て、聴いていた。建日子はひばりなんぞ初体験に近いのだ、が、誰とかと誰とかと誰とかとを足してまだそのずっと上を行くなあと嘆賞してくれたのが、じつに嬉しかった。
ひばりの声や演技や歌唱力は褒めるのもヤボ、わたしが心酔してきたのは美しい日本語の発声・発語であった、どんな歌い方をしても日本語が明晰で崩されない。それだけでなく、アアと歌えばアアの意味と深みとが伝わってくる。青いといえば優れて青く、なみだといえばひとしおになみだが感じられ、一語一語の深みと表象とが見える。正確なだけでなく、言葉がただの指示・説明でなく、表現と象徴とに達している。くだらない歌詞と曲とが、ひばりの天才により名曲に化ける。歌そのものに泣かされてしまう。
* 泣きながら、拍手しながら、だがなんでひばりにこう惹かれるのだろうと思い続けていた、今日は。
こんなことを言うのは憚った方がいいのだが、わたしが真実「死なれた」と嘆いて身に刻んだ人は、それは何人もある。ある、が、だが、思うつど泣かされるのは、やす香と、死んだネコとノコと、そして美空ひばり。それほど同行者の思いが「ひばり」にはあり、そのセンチメントがどこに湧いて出ているのか、わたしはこれまで自分で自分に封印してその先を考えなかった、が、今日は、泣きながら、封印が溶けてしまう思いにとらわれていた。
* わたしがひばりの存在を知り、ひばりの歌「唄も楽しや東京キッド」「わたしは街の子巷の子」「りんごの花びらが」「角兵衛獅子」などを聴き始めたころ、わたしは「孤児感覚」に苦しんでいた。「もらひ子」であることの不条理に乾くほど苦しんでいた。ひばりの歌う歌詞の中に、今はいない「父さん」「母さん」を恋い慕う言葉が出るだけでわたしはひばりに一体化する感情を押し殺すのに懸命を必要とした。ひばりは歌がうまい、天才だと思う方へ方へ自身をリードした。そういう気持ちがわたしの独特の「身内」観を育んだ。血縁よりはるかに濃い慕情を、他人達の中へ注ぎ込みたかった。ひばりのレコードを買う金などどこにもなく、しかし、わたしは現にわたしを魅する「身内」の存在を日増しに身近に疑わなくなっていった。
* こんなことは、誰にも言わず気取られもしなかったと思うが、今日、わたしは思わず妻と息子とに、気恥ずかしい告白をしてしまった。肩の荷がかるくなった。
多くの作品や文章の中で、わたしは久しく強がってきた。現実の父や母を恋い慕ったのではやはり全然無かったのだけれど、かっこ付きの「父」「母」にわたしは恋いこがれ、苦しいほどであった時期をもっていた。そこから救い出してくれた人達にたいする感謝は親の恩に匹敵したのである。
* 晩は一転、東天紅の料理で、紹興花彫酒を堪能した。建日子がいて、ネコが、マゴとグーと二匹いて、妻と、私。いい歌を聴き嬉しいメールももらい、心晴れて佳い元日だった。「mixi」日記には、この時代…わたしの絶望と希望、を語った。
2007 1・1 64
* ゆっくり朝寝してからお雑煮を祝う。猫たちが神妙に共存していて、えらい。
* 去年の今日、やす香は妹みゆ希をつれて此の我が家で一日賑やかに楽しんでいった。建日子も来ていた。少し時間もおそくなって、建日子の運転する車で玉川学園の家の近くまで姉妹を見送った。みなでドライヴしたい両親の口にしない気持ちを建日子が察してくれたのだ、疲れていただろうに。
ありがたい、楽しいドライヴだった。やす香とみゆ希とは車内で歌も歌った。夜道をさがして車が少々右往左往するのさえわたしたちはひそかに歓迎していた。
暗い山坂の途中で姉妹をおろしたとき、残り惜しかった。そしてまたたくさん時間を掛けて保谷へ帰った。
今思えば長時間の自動車の揺れは、やす香に痛い思いをさせてなかったかと、気の毒になる。だが、まさかあの日は、やす香でさえ病ににじり寄られている自覚がまだなかったろう。いや、あったかも知れない。
「痛」という自覚を初めてやす香が「mixi」に書いたのは、去年の今日から、十日ほどあとであった。今にして読み返せば、まちがいない自覚である、その同日にわたしにこれが読めていたらすぐ、「親と治療の相談をせよ」と、強要すら出来たろう。わたしが「mixi」に入ったのは二月、やす香も「mixi」にいて互いにすぐマイミクになったのは、二月二十五日だった。やす香の「mixi」日記を前年九月以来総なめに保存に掛かったのは、もっともっと後日、「白血病」とやす香自身が病院のベッドから「mixi」で公表して以降だった。嗚呼ああ…。
☆ 2006年1月11日11:18 痛。 やす香
そろそろまずい↓
何もしてなくても痛む腰。
ろくに上も向けない首。
筋が変にきしむ肩。
血の巡り悪すぎ。
手足の先が凍る。
頭が動かない。
原因不明のびみょーな腹痛。
言うコトきかない身体に
もううんざり。
時間がほしい。
負けたくない。
誰にも負けたくない。
何も生み出さない
意地とプライド。
ただただ過ぎ去った19年もの歳月。
怖い。
恐ろしい。
自分に負けるのが一番嫌。
2007 1・2 64
☆ 事始め?! 新年早々アルバイトに行ってきました☆
コンビニなのでもちろんお正月なんかは関係ないです (๑→ˇ㉨←)ノ
猫のグーは写真で見た事があります(♥ó㉨ò)ノ おっきくてかわいかったです♪
自転車では遠くまで行かれたのですか?? でも…飲んで乗ったら飲酒運転ですよ(。→ˇ艸←)笑
わたしの可愛がってるセキセイインコは“ピーちゃん”です(>∀<)ノ でも…丸いのでひよこみたいです(・´з`・)笑 よく私の名前を呼んだり、とにかくおしゃべりです
湖さんの写真はやす香さんですよね。おじいさんを見上げている感じがほんとにかわいいです。
みなさんがやす香さんの写真と…一緒にお正月をお祝いされたことをうかがい、みなさんのやす香さんを思うお気持ちが伝ってきました。 耀
2007 1・2 64
* 雑煮を祝ったところで、建日子はグーを連れ車で仕事場へ戻っていった。明日からは二月公演の稽古で明け暮れるらしい。
暮れの三十日夕刻から新年の三日午前まで、建日子の帰宅は例になくゆっくりし、親子三人と猫二匹、それにやす香遺影の加わったお正月は静かに和やかであったけれど、やはりせめてもう一人娘が加わっていたらという寂しさはみなが胸に持っていて、ともするとそういう思いが言葉ににじみ出る。昨夜は、ほぼ明け方に近いまでいろいろ話し合い、時を忘れていた。
* 今日もう一日わたしはボーゼンと過ごす気でいる。年賀状は失礼したが、やはり沢山戴いた。例年の正月はその返礼に追われるが、今年は一枚も書かず、寛いでいる。石牟礼道子さんなど何人かの人が、老境に入ったひとつのけじめに、来年からは年賀状を失礼したい、と。それでいいとわたしも思う。
2007 1・3 64
* 明け方まで建日子と起きて話し込んでいたので、さすがに今夜は眠い。一仕事はしたので、今夜はそろそろ機械をしまおう。
2007 1・3 64
* 四日はすまし汁に焦げ目つけた餅の雑煮を祝う。京都の頃は水菜を添えた。今朝は春菊と紅白の蒲鉾を。そして花鰹。黒いマゴもそばにチン座して。
2007 1・4 64
* 散髪した。もう一度正月がきた気がした。
思ったより沢山、例年とちがわないほど年賀状を戴いた。返礼はみな御免願っているが、アドレスへ書き写しておくのが、わたしの仕事ではさぼれない。ふしぎに、読まねばならぬ個所ほど極端に字がちいさくてしばしば閉口する。メルアドとか電話番号とか郵便番号とか、間違えていけない個所がなんだか一律字が小さすぎる。はがき一面に小さな活字がギッシリというのも、日に日に視力の衰えに怯えている者には、かなり酷。敬遠してしまう。
2007 1・5 64
* 七草粥を祝う。曇って風。予報された雨はさほどでなく通っていった。冷え込みはきつい。気がかりだった仕事を再開、これを済ませると区切りがつく。小さな区切り区切りを確実に付けて行くと、大きな動機が動いてくる。
2007 1・7 64
* 建日子が三十九歳になった。芭蕉は四十歳で「翁」と自覚しそう呼ばれていた。それほどの足跡をもう残していたわけだ。
わたしは、詳細な自筆年譜を、三十九歳(昭和五十年)から、「三」に移している。「一」は「作家以前」だから、いわば「二」の受賞後二足のわらじ期を経て、作家として第二期に入ったという自覚か。
* 昭和五十年(一九七五) 三十九歳
一月二日、筑摩書房の電話で、『筑摩現代文学大系』は吉村昭、金井美恵子との三人集になったと知る。同三日、鳴滝の先輩西村豊嗣宅で挿絵を恩師橋田二郎に頼み「三輪山」を限定本に自身出版してみたいと申し出あり。同五日、NETテレビ「大いなる絵師―宗達と光琳―」(朝の美術散歩)放映。同十一日、正岡子規と浅井忠について調べ始める。同十三日、(海)編集長近藤信行来訪、特集にまとまった谷崎論の依頼、同時に中央公論社より全集『日本の名画』村上華岳の巻に書くよう依頼。月末、小学館『人物日本の歴史』に「山名宗全」を起稿。二月五日、アートセンターの旧友重森執・(ゲーテ)の紹介で来嶋靖生と初対面。同十四日、玉川大学出版部『手さぐり日本―「手」の思索―』見本出来。同十六日、樋口覚と村上一郎を訪問。三月二日、村上一郎徒歩で来訪、雛人形の前で茶を献じた。三月十三日、筑摩書房の日比幸一新装版『秘色』を持参。同月下旬、大和三輪へ遊ぶ。同二十九日、村上一郎割腹、初対面このかた最も好意あふれる知己であった。翌日、通夜。四月一日、告別式。この日、山中智恵子にわずかに初対面。四月二十一日、東横短期大学へ初出講。同二十三日、東京大学五月祭に参加発言の依頼。同二十四日、谷崎作「夢の浮橋」論を書き出す。同二十七日、西沢書店『雲隠れの巻』見本出来、同行の沖積舎主人に『みごもりの湖』が泉鏡花賞に挙げられていると聞く。五月一日、六興出版の城塚朋和来訪、資料による谷崎論の企画相談。同六日、「谷崎の『源氏物語』体験」脱稿、中央公論社の伊吹和子にも目を通して貰って、(海)九月号に発表。五月十六日、野村尚吾逝去。谷崎論や井上論を終始好評してくれた知己であった。翌十七日、告別式。同二十日、古川書房『趣向と自然―中世美術論―』見本出来。同二十四日、五月祭で佐伯彰一と対談。
* 以降十年、わたしは噴火していた。わきめもふらなかった。どんな脇見も力になった。健康と妻とが助けてくれた。怪我もしなかった。
建日子に願うのも、それ。健康であること、怪我をしないこと。だれが観ても、もう大人も大人。
* この「大人」がややこしい。「おとなしい」を「温和しい」と書く人が多くなり常識になっているが「大人しい」の方が先行していただろう。「大人びた」「大人なみの」「大人っぽい」の意味。子供をほめるときに大人が自分の都合から「いい子」に決めてしまうとき「おとなしい子」といった。ほめてもいるが、ほんとうにほめられたほめ方かどうかは疑問符のつく場合もある。こういう都合のいいことを都合良くやるのが「大人」という勝手なヤツだという批判も当然ある。
「いい加減に大人に成れ」などと若いのを叱るかと思うと、「大人ぶって」「大人のまねをして」とさもイヤなヤツのようにも叱られる。「大人の判断」という物言いがあるが、どう思うかと東工大の教室で「挨拶=問答」に押し込んだことがある。押し返す学生諸君の判断はなかなか厳しかった。「大人」であることは、むずかしい。ずるくもなり、つらくもなる。狡猾に使い分けられると子供は堪らない。
* 夕張成人達の自主成人式が、よかった。青年達がまず声をあげて身を働かせ、それに感じた大人達も応援した。他地方の人も応援した。
こういうかたち、若い人達が提唱し実践し、大人や周辺が賛同して盛り上がって行く。これが「運動体」の理想であろう。
憲法「九条の会」も、もともと学生諸君や青年達から力強く声が上がり、実践され、そして引きずられるように大人達が応援し声をあげ団結して行くのが本筋だった。そうはなっていない。
翁や媼といってよい知名人だけがポスターで美しくもない顔を売っている図は、わたしには、一つの「ひ弱い逆立ち現象」にみえる。あれでは若い力は動かない。老人は背後へ回り、若人達を激励したかった。夕張成人式の方式に希望をもちたい。
そもそも何のために成人するのか。
それを考えたとき、見据えるべき「時代」の行方は嶮しい。逆立ちの運動では長途は歩けない。走るべき時に走れない。「やらないよりマシ」などという運動は、免罪符を自身のために発行しているようなもの。勝負なら、必死で勝ちにゆかなくちゃ。「運動」の基本は走力。
あのポスター写真の人達は、応援させたら口は達者でも、十メートルも自分では疾走できない。若い力が前へ出て引っ張らない限り、しょせん勝てない。「勝つのが目的じゃないんです、意思を表明し、表明したことが歴史に残ればいいんです」という詭弁に等しいリクツを何度か会議の席でエラソーな人からも聴かされたが、「ばかか、お前」とわたしは思う。
* 近代と限ってもいい、日本の「運動」史を見るがいい。上から下へおろす運動は権力がらみの圧力で強引に成り立たされて行く。下から上へ上げてゆこうとする抵抗や提言の運動は、ほぼ九割九分がみな、腰砕けに潰れている。なぜか。
「団結」と口で言いながらかげで主導権を争って喧嘩になる。離間工作の利きやすいことでも、民衆運動は、脆い脆い。そして今やついに、労働者諸君に有効な運動体が失せ果ててしまっている。
社民党の福島委員長は二言目に国会へ見に来て下さいと言うが、じつは社民党の議員達は率先して「国会の外で」働いて、その後押しの力で国会活動しなくちゃウソではないか。「憲法」だけでは票にならない。票にならない勢力で憲法が守れますか。勝たなきゃ話にならないことを、残念ながら自民党がいちばん知っているのだから、この国の行方はあまりに危ない。
学生を目覚めさせ奮い立たせる教授も「大学」にいないのだから、情けない。
* 町田の成人式にはやす香も晴れ着を着せて出してやりたかった。
2007 1・8 64
* 三時前、妻が年初の歯医者へ行くのを自転車で駅まで送り、その足で、荒川の秋ヶ瀬橋をさいたま市まで渡ってきた。晴天、いと心地よし、寒くもなくて。
で、帰り道を真っ赤な太陽の方へ足任せに走るうちお日様はあしばやに落ちてゆき、わたしは方途をうしない、適当に見当をつけてぐるぐる走っていたがすっかり宵闇に道は包まれて、気が付くと、思いがけない東久留米市の西寄りへ来ていた。東久留米からひばりヶ丘へ近寄って行く道は、いつも狸に化かされるかとおもうくらい苦手なのだが、暗くなって見当もつかず、交番で聞いても人に聞いても要領を得ず、ところが幸か不幸か妻の歯医者の治療もうんと長引いていて、二度目の電話で、いま神戸歯科を出るという。
そうとう疲労し、しきりに足が攣りはじめ、とうとう歩道と車道とのあいだの灌木帯に堪えようもなく横転した。灌木にからだを掴まえられ、その上に自転車が乗っかって、身動きが取れない。車は通るが人通りは少なく、もがいているうち、女の子連れの若いお母さんにひっぱり起こして貰えた。幸い厚着もしていたし怪我は無くて済んだが、恰好のわるいのも気にならないほど、ボウとしていた。やせ馬ロシナンテを御したドン・キホーテの悪戦敗北のごとくであった。そんなおかしな「自分」が、傍観するように目に見えていた。
その道をそのまま行くと家からもっと遠ざかるようで、向きを変えて暗い道をまた走り続けたが、かなり難航し、まるで思いがけない方面からやっと西東京市に戻っていった。エビスビールの冷えたのを三本買って帰宅、妻はまだ帰ってなかった。鍵はわたしが持っていて、よかった。
三時間半の初乗りであったが、流石に今日は疲労した。
2007 1・9 64
* 五つ六つのころ、新門前の家のくらい中の間で、母が針挿しを膝にひきつけ、つくろいものをしている。母にはりつくようにちいさなわたしは座って、独りごとを言うたり、母にお話をねだっている。祖父も叔母も二階にもうあがっていて、父は寄合いか何かでまだ帰ってこない。隣のまっくらい部屋で先にひとりで寝かされるのが、わたしはイヤだ。時計がチーンチーンと鳴る。「なぁおかあちゃん」「なんやいな」「おはなししてえな」「も、お寝やす」「いやや…」
そんなことを思い出している、今。
2007 1・9 64
☆ おやすみの前に 「も、お寝やす」「いやや…」今日の私語の最後のところ、とても素晴らしい繪になっています。なんでもないことをこういう風に書ける。読みながら溜息をついていました。 春
* 秦に嫁いできた母は、秦家の父や叔母や祖父とはすこし異なる「文化」をもっていまして、若い頃はときどき歌を歌ってくれましたが、ときにはヘンな、妙なのもまじりました。
おじいさん おじいさん
あなたの眼鏡でもの見ると
ものが大きくみえますね
そんならカステラ切るときは
眼鏡はずしてくださいな
ちょっとしたゴシップにも通じていて、谷崎先生の細君譲渡事件や松園さんのアンマリド・マザーであったのを幼かったわたしに話してくれたのも母でした。 湖
2007 1・10 64
* 二月七日から十八日まで、下北沢本多劇場で、秦建日子作・演出『月の子供』の公演。昼14:00開演のあるのは、土曜日曜だけ。他は日曜を除く夜7:00開演のみ。
三倉茉奈・三倉佳奈姉妹と風間トオルをはじめ新鮮な出演者たち。一昨年初演以来満を持して改訂を重ねた自信作のようで、初演の時も佳いねと褒めた覚えがある。圧倒的なダンスが観られるだろう。
売りの言葉をチラシから書き写しておく。
「ありふれた、通勤通学の朝のラッシュ。しかしそこで少年は、奇妙な狭間から、「下」にこぼれ落ちる。プラットホームの「下」そこには、少年の喪われた「名前」が待っていた!
ファンタジックなのにリアル。ブラックユーモアにしてハート・ウォーミング。笑い、迷い、そして泣ける。秦建日子の舞台最高戯曲。最強キャストを得て、満を持しての再演!
人生迷ったら下を見ろ たまにはホームの下を見ろ」
とある。
やす香と妻と三人で観た想い出の舞台だ。そうそう、全席指定。六千円。前売りは五千五百円だそーです。超満員つづきできた此処数年の建日子舞台だが、今度は劇場が広い。盛況を!
「月の子供」オンラインチケットサービス http://www.tsukinokodomo.com セブンイレヴンでチケットはすぐ発券されるという。 2007 1・16 64
* 建日子の『月の子供』の成功を祈ろう。
* さ、もう寝よう。
2007 1・16 64
☆ 本日、超小型ビデオカメラいただきました。
いい年して誕生日プレゼントをねだって恐縮です。
大切に使わせていただきます。
ありがとうございました。 建日子
2007 1・20 64
* 『かくのごとき、死』の公刊を、わたしは、踏み込んで是認している。ホームページの片々としたその日その日の日記では、部分的な刺戟感だけ印象にのこり、大事に連携している事態を、読み落としてしまう。
一冊の、それも大冊に、読みやすく纏まれば、さながら経緯は統一体となり、全巻に拠って経緯の如何も真情の拠りどころも、冷静に過不足なく読み取れ、判断も理解もできる。やす香入院以来、惜しい永逝に至る経緯の中に、娘らの名誉を傷つけるような僻事を、曲事を、わたしは本当に公言していたろうか。していない。
死なせた悲しみに自責の念の混じるのは人として当たり前で、無い方が訝しい。それなのに唐突に四十年にもわたる父の「ハラスメント」を言い立てて訴訟に及ぼうなど、信じられぬ暴挙だった。父であるわたし一人の名誉毀損で済まない、妻にも息子にも被害は及んでくる。その不当で無道なことを社会的にも証する全容が、あの本一冊で確然公になったことは、些末な「法」の云々以上に、遙かに大事な決断であった。
2007 1・28 64
* 一昨日にトラヴルが起き、落胆のままたくさん本を読んで、さて寝付けなかったので、起きて原稿用紙に手書きで「私語」しはじめた。五枚書いてから、二階へあがり未練な試行錯誤をつづけたが成果なく、寝床に戻って、『イルスの竪琴』をまた英語で読み続けた。
寝入ったころで宅配に起こされた。栃木から苺を頂戴した。そのまま起きてしまうには疲労があり、気が付くと午後になっていた。
* 親機だけでなく新機にも異様な異常がつぎつぎに現れ、昨夜に持ち出しておいた古い以前の機械を使って、喪ったアレコレの復旧を試みた。成果は乏しく、MOの外付けにやっと成功したものの、ディスクからの再現にいろいろ故障があった。
ことに手痛いのは、多年大事に保存し、大事に思うあまりパスワードで保存していた膨大な資料群が、全く意味不明に「パスワードが間違っています」と全拒絶され、にっちもさっちも行かなくなったこと。
ことの次第の残酷さにあきれたが、ほぼ即座に断念した。諦めた。機械に入っているそうした全ては、つまり「過去」に属している。作品も記録も備忘も、いわば「過去」であり忘れ去っていい「過去」もあるといつも思ってきたのだから、痛恨はいっそ好機でもあるのだ。
* 妻が、もう使っていない自分の古い機械を持ち出してきてくれた。これだと、このように日本文が書ける。書けるなら、「日記」に類する「私語」に原稿用紙を費やさなくていい、原稿用紙では小説が書きたい。原稿用紙にまだ文章が書けるだろうかと少し不安があった。だが蘇る行文の感触には懐かしさも湧き出る。
ここ数年わたしは、いつも「小説」をという頭でいた。小説を書いたり書きさしの作に触れたりしてきた。ことにこの一年、mixiを利してかなり多くの旧作を読み返すうち、技癢を覚えることしばしばでもあった。そう自身を刺激すべく「mixi」を利用してきたに相違なく、目的にまっすぐ向かうには、機械に関わっている時間や精力を思い切り割愛すべきはむろんだった。機械に不調をきたすつど、わたしは時機至るかと刺激された。だが原稿用紙をもちだすまでに至らず、いつもそのうち機械がもとへ戻った。安心と同時にわたしはかすかな失望すら感じた。
今度の機械破壊はただの「不調」ではない。これが易々と早期に復旧すれば、おそらくわたしは或る落胆さえ覚えるにちがいない。
* 小説家が小説を書くのは本来の自然である。まして書きたいならぜひ書けと自身に向かい言いつづけてきた。作品を売る必要は今更ない。「書く」ことが、「良く書く」ことが、大事だ。つまらないものなら書くに及ばない。良いと自身思える良い小説が「書ける」かどうか、諦める時ではない。
* 送信できないが、「闇に言い置く私語の刻」は、こうして持てている。
先日もすこし「闇」に漏らしていたが、「mixi」は、やす香とマイミクになって満一年の二月二十五日で、事実上収束し、時間をこれに大きく割かれるのをやめたいと考えていた。やすかとの一年は満了したかった。
またおそらくペンの理事や委員も、また京都での選者も、自然に、辞してゆく時機にあると観測している。この際に十年ちかくフルに関わってきた機械環境から、いい感じに足抜きをして、良い小説書くべしとは、他人に言われなくても望み、また覚悟している。人に言われてすることでは、もとより、ない。
2007 1・29 64
* スキャナーが幸い働いたので、何はともあれ本一冊を一気にスキャンした。これで新しい「湖の本」入稿の希望がもてる。一気にというが、火事場の馬鹿力に類した。
通算で第九十巻になる。この本を選んだには理由がある。
『逆らひてこそ、父』にせよ『かくのごとき、死』にせよ、「世間」には、違和感を感じ顔をそむけた人もいたに違いない。予想よりうんと少なかったけれど、「湖の本」をもうやめると言ってきた数人も有った。もっと有ると予測していた。やめないまでも、こんな本は出さないほうがいいと思った人は、多年の読者にすら何人かいたに違いない。気持ちはわからぬでない。
だが、わたしは覚悟を決めていた。腹をくくってわたしは「本」にした。「分かったか」と大喝したのだ。次の「湖の本」は、そんな「世間」への、わたしの「答え」になる。この本を数年かけて用意し書き下ろしていたとき、頭には間断なく誰より娘と息子とがあった。これがおまえたちの父の「声」だよと。「思い」だよと。柔らかいハートで聴いてほしい、受け取っておくれと。去年の夏も秋も同じ思いでいた。
出版に際して此の本に「あとがき」を書いたのは、娘が結婚した当日だった。
2007 1・30 64
* 二月になった。例の「寝る前読書」に惹き込まれ、目がさえて、また灯をつけマキリップ作の英語『イルスの竪琴』、小松英雄さんの「土左日記」論、そしてツヴァィクの『メリー・スチュアート』を、耽読。気がついたら七時前。起きて血糖値をはかる。97。
* 目のさえた理由に、書きたい小説のことがあった。世に問いたい、称賛が得たいというのではない。だれにでもない、建日子に、父が老境の小説作品を遺したくなってきた。それだけだ、だが深夜それが強い熱い衝迫になり、健康なうちにという思いに身をひきしめた。床から高くさしあげた両の腕に電灯が照って、このごろ気づいて気にしていた痩せと弛みと無数の小じわ。しみじみとしてしまった。
「きれいな手をしてますねえ」と、昔、あれは伊豆の飲み屋で、店の女だったか隣客だったかにほめられ、自覚のなかったことを意識させられた思い出がある。会社あげて慰安の旅の宴会から逃げ出し、湯の町の小店でひとり飲んでいたときだ。
その手が、二の腕が、すっかり痩せ衰えている。そのようにわたし自身がやせ衰えてきているのに相違なく、そのまま衰え過ぎてはのちのち建日子を励ましてやることが出来まい、それでは可哀想だ。
夜中しきりにそんなことを想っているうち、少し苦しくなり、灯をつけて読書へのがれたと言えば言える。
2007 2・1 65
* おととい俳優座公演の後、船橋屋での食事の途中からやす香を思い、今・此処にあの孫娘の決定的に非在であることのたまらぬ悲しさに、わたしは泣き出した。新宿の街を泣いて歩き、新宿駅の構内を泣いて歩いた。妻は黙ってそばにいた。
機械の動かなかった先月二十七日、はるばるメッセージが来ていた。
☆ やす香さんがお亡くなりになって半年過ぎてしまいました。今ふり返ると、やす香さんのことが、わたくしの何かを変えてしまったように思えてなりません。
最後にお逢いした日のことを思い出しています。すべて憶えています。お話しするのはあまりに痛ましくて。
私の中では、積んだものはなくなりません。通りすぎてもいません。生きて知らねばならぬことを知ったと、そう思います。すべてはさびしい色をしているのに美しく見えたりするのはなぜでしょう。
お元気ですか。おやすみなさい。 森
* 目の前で、御数寄屋坊主の河内山(を演じた六代目)のような谷崎先生と、静かな笑顔のやす香の写真とが、並んで、わたしを見つめている。
2007 2・4 65
* 「TVタックル」を聴いていても、情けないばかり。
* 郵便物の仲から「茶道の研究」二月号をとりあげ巻頭の茶碗の写真に一瞬声が出た。一瞥、魅された。観ると、当然だ、大きな窯割れ、金繕いがみごとな景色に化けた本阿弥光悦作、赤楽の「雪峰」ではないか、光悦茶碗でわたしの一二に好きな、まろやかな一碗。理屈も何もない、それも写真にすぎないのだが、ジーッと観ていると目頭が熱くなる。
安倍総理だの柳沢大臣だの桝添代議士だのという不快なモノを拭うように忘れた、残念ながらしばらくの間だが。
たった一度だけ、鷹峯の光悦会に叔母にくっついていき、茶席で、光悦の黒茶碗で一服戴いた。上気していたがお茶はおいしく、茶碗の器量は莫大であった。茶碗に負けていると思い、その思いを大事に思った。茶碗の銘をそのまま忘れた。銘という名前を通して大切なものが逆に忘れられてしまいそうなのを畏れた。
光悦寺。鷹峯。光悦会や洛趣会。懐かしい。
自転車に光悦籠と魔法瓶とを積み、新門前から鷹峯へ走って、入り口の竹筒に十円玉を落としてひっそと庭に入り、紙屋川の瀬音のきこえる山の斜面、数ある中の一つの茶室の板戸をあけ、畳に腰掛け、鷲と鷹とのまろやかな山容を「感じ」また「眺め」ながら、一服、二服のお茶を点てて喫んだ。嵯峨といい北山といい、ああいうことが高校生、大学生のわたしに出来た街であった、京都は。
妻とも行った。娘夕日子も連れて行った。
2007 2・5 65
* 「インスパイア」という言葉に一種の信心を寄せてきた。藝術家なら多くが分かち持っている思いだろう、もし「抱き柱」というなら、何か「力ある天恵」にインスパイアされたい、息を吹き込まれたいという願いは、創作者のいわば「抱き柱」だ。凛々と力のわき起こる実感を、わたしも、何度も何度も何度ももった、過去に。まだ持てる、その機がまだ来ると思っている。いや願って待っている。
悲しいかな老境には励みの力が乏しい。人は嗤うかも知れないが、妻に、子供たちに、より大きな喜びを励ましを満足を与えてやりたくて励んできたのは事実であった。それをわが力にし、ものを創りものを書いていた。その必要が無くなったとは思わないが、その力は無いに等しいほどとうに弱まってしまい、そういう意味の励みを心身にもう感じない。
いまわたしを真に励ましてくるモノは何だろう。
名誉でも金でもない。自己満足でもない。あのハリスのマクレーンか、あのデュバルのサンドラか。前者なら、死なねばならない。後者なら別離。
「ベーコンサンド」は物理的・生理的な命しか育まないだろう。ハリスにとって「ヘミングウエイ」は喪ったもののシンボルであった。
2007 2・6 65
* 今日は建日子の作・演出『月の子供』を下北沢へ見にゆく。「超満員」だそうだ。劇場が一気にぐんと大きくなったので案じていたが。よかった。
初演の時は、待ち合わせて、やす香と一緒に観た。役者のからだがよく動く芝居で、楽しんだ。これは財産になるよ、練り上げるといいねと作者に告げたのも思い出す。
行きがけに新しい湖の本の組見本原稿とディスクとを投函する。原稿はファイルで送っておく。これで明日から街歩きの余裕もできた。
* 本多劇場は初めて。かなり広いロビーを花、花、花が埋め尽くしていたのに驚いた。岩下志麻、篠原涼子らスターの名にならんで「イチロー」選手が主演の三倉茉奈・佳奈姉妹に花を贈ってきていた。むせかえる花のにおい、印象だが、大小二百鉢できかなかったろう。
観客席には十分な勾配があり、とても見やすい。舞台の広さも十分。なるほど人気の劇場なんだと合点。見やすい高さの席に思いがけず岩下志麻さんと並んだ。先日手紙をもらっていた。
* さて『月の子供』は、予想どおり、フルに役者のからだを駆動させ活躍させて、場面場面の隅々にまで活気に溢れた適切なダンス(舞踏=所作)の演技指導が徹底していた。だらりんと板の上に置いた人形のような人物がいなかったのは大いに劇的であり演劇の面白さであり、うまいへたは別としても役者は油断も隙もゆるされない芝居をしていた。強いられていたと謂うてもいい。むろん舞台はそうなくてはならず、所作できない役者、動作しか出来ない役者など不要なのである。建日子演出は、その点、過酷なまで役者の肉体をしごいて活躍させていた。それは賛成、そしてそれは魅力的だ。
主立った役のモノたちと一緒に、総勢六十人もが、舞台狭しと群舞する、演技する、もみ合う、へし合う。建日子主催の演劇塾の塾生たちがここを先途と汗を流し、流せるだけの場面作りがたっぶりしてある。それは作・演出家で塾長である建日子の渾身のサービスであり、つきつけた課題なのでもあろう。舞台を間抜けにせず、台詞一つなくても夢中で跳躍し運動し舞踏し働いていた塾生たちの意気に拍手を送りたい。
* 三倉姉妹の起用は、生彩あり、かすかなもののあわれも見え、気持ちよい成果であったと思う。巧いも不味いもない、小気味よくじつによく動いた。あれで、台詞がきっちり客席にとどけばどんなによかったか。早口を要求されると、やはり届かない。声量ではない発音と滑舌に不足が出る。マイクなど使わせると、音量の殺し方を知らないからかかえって言葉が潰れたり裂けたり割れたりして聞き取れない、だが、このかなり観念的な訴えを帯びた劇では、より丁寧な「ことば」の訴求力が必要になる。どうしても耳によく聴きとめねばいけない台詞がいっぱいある。本と違い、芝居ではもう一度読み直すということが出来ない。すると、相当に難しい、分かりにくい芝居になってしまう。これはむろん茉奈佳奈姉妹には限らない、風間トオルや春田純一ら、場慣れしているだろう役者でも、高調した場面になると、早口で大声の台詞の「キイ」になる大事な言葉を、揉み潰し圧し潰してしゃべってしまう。そういう難がたとえば円城寺あやにはなかった。滝佳保子にはなかった。
* 演劇は「科白」と謂う。「科」は運動だ、所作だ、舞踏だ。これは十分及第で、欲を言えばさらに洗練された振り付けがあり得たかも知れない。問題は「白」つまり言葉、物言いだ。
先日の歌舞伎座でも、俳優座でも思った。いやいつでも思うこと、一級の俳優であればあるほど台詞がどんな場合にも明瞭明確で、その分母に乗っかって分子としての表現や感情移入や個性を発揮する。言葉はわるいが下っ端へ行けば行くほど不味い。早口ならほんとの早口にしてしまい、結果アイマイにしか意味を伝えられない。今日の演出家も、あれだけの早い激しい動きのなかでする台詞の明瞭な観客席への伝え方を指導しなければ、せっかくの凝った台本の観念的効果も言語的伝達能も活かせないと、気づいてもらいたい。
それにしても佳い女優を大勢出して楽しませてくれた、卓越して巧いとは誰にも思われなかったけれど、一人一人にわが好みの女の魅力を覚えた、が、これは余談。演技者としては円城寺あやに興趣を覚えた。あのままもう少し彼女の人生の悲しさやバカらしさや嬉しさが一人の個性としてにじみ出ていれば見応えになったろう。いや、みんな、よかった。こりゃアカンワというのがいつも一人二人はいるものだが、女優はよくがんばっていた。男では、久しぶりに納谷真大が観られた、彼らしい「警官」を造形していた。オーラをもった男優のやや乏しい中で、身動きのキレのよさは納谷芝居であった。
* さ、問題は秦建日子の作劇である。『月の子供』はじつに聴き取るのにも難しいメッセージを、それもたいそう大切な意味深いメッセージを抱き込んでいるが、抱き方に、いや抱いたモノのそとへ出し方、届け方、与え方に「不十分」があり、おそらく演じている俳優たちの大方はこの作者、何が言いたいのと迷いに迷って理解しきれないまま初日を迎えたのではなかろうかと案じられた。
俳優がそうであるから、観客は、「圧倒的な」舞踏場面や群衆のやっさもっさからくるカタルシスに幾らか瞞着され誤魔化されて「ああ、よかった、おもしろかった」と言ってしまいそうであっても、その実、ポケットの中に今日の芝居「月の子供とは」という分かりのいい「土産」は、とても手に入れにくかったろう。なにも割り切れた分かり方の必要はないが、それでも琴線の震え方に人それぞれの納得があろうというもの。納得が持ち帰れたろうか。
わたしは、小説でも絵画でもそう思うが、「把握が強ければ表現も強くなる」と創作的にも鑑賞的にも、考えている。今日の『月の子供』には、フラグメントとして貴重な思想や主張や意図がちりばめられてあるのに、それも反復されてすらいるのに、「貫く棒の如きもの」が芯棒としてガンとは徹っていない。把握がもっと確かならそれが「見えぬ魅力」の棒になり徹ったであろう。俳優も難しく感じ観客にも「ハテ。では…では…」と思案投げ首にさせて帰しては、作・演出として改良の余地がまだ有るということではなかろうか。主題を概念に翻訳して観客に持ち帰らせよと言うのではない。言葉に置き換える必要なく「理解させる」筋の通し方が、出来てよいのではないか。もう一つ言う、主題を、あるいは舞台の場面場面を「説明」的にせよと言うのでは決して決して、無い。それをやったら通俗のへたな読み物小説のような舞台に堕落してしまう。
* 『月の子供』って、何? そう観客の一人一人が自問自答して、ああこれだったと帰り道のポケットにそのおのがじしの答えを探り当てる幸せを、与えたのか、与えきれなかったのか。前へ前へ進むばかりの筋書き舞台でないだけに、かなり複雑に複式に時空が前後し回転し交叉するだけに、作者・演出家の水面下の把握は、俳優や観客のそれの五百倍も千倍もつよくなければならない。そしてその水面下に支えられた水面上の舞台をもっとやすやすとした表現で活躍させてもらいたい。
観念ということばを用いたが、よくもあしくも作者の観念がこれを創っている。観念を「説明」しようとしたら「オール読物」ふうに臭く堕落する。観念は観念でためらわなくていいが、説明でなく、みごとに「表現」しなくてはならず、表現の強さや的確さは、適切さは、真実は、美は、所詮は観念がどれほどの強さで把握されているかに懸かる。
* 数年前、初演の時、このドラマは佳い財産になるねと作者に告げたとき、わたしが何を望んでいたか。佳い意味、確かな意味での「作」の観念性をさらに強くみこどに強く「把握」して「表現」し直してみる余地があるねと言いたかった。そう言ったかも知れない。
* 妻は、ロビーで、建日子に紹介され岩下志麻さんと話してきた。わたしも、もう一度声かけられ、おいで戴いてとお礼をいった。「ああいうの、好きですの」と芝居を喜んでもらえ、「まだまだ至りませんで」と感謝した。
フジテレビの地下廊下で初対面から、いやどこかのパーティでの夫君も一緒の立ったままの談笑からでも四半世紀は過ぎている。小津映画の岩下志麻、夫君監督の「写楽」の岩下志麻、はるか遡っての「バス通り裏」の綺麗な岩下志麻を思い出しながらお互い笑い声も漏れた。
* 往きも新宿から小田急線をつかった。帰りも小田急線から、千代田線に乗り換え、有楽町の帝劇モール「香味屋」で夕食し、帰ってきた。電車では『千夜一夜物語』を読みかけたが、ビールとワインとのあとであり、気持ちよく寝入ってもいた。往きに凸版印刷へ入稿原稿を郵送し、帰って「mixi」に、昨日につづき今日は「近江の蘇我殿」を掲載した。
2007 2・10 65
* ほんとうに独りだとわかるとき、部屋の中でも、戸外の自然でも、ふとした階段の踊り場ででも、わたしは自分でも気づかぬうちに、ふわーっと踊っていることがある。踊ると謂うと語弊が有ろうか、つまりからだが浮かぶように、手も脚も羽になる感じだ、意識してするのではない、が、覚えは何十度と知れずある。記憶では、一度だけ通りすがりの若い女性に見つかり、くすんと、やや軽蔑の表情で通り過ぎられ、我ながら慌てたことがある。そのときを除いて、そのように心身が軽い羽のようにふわーっと浮かんで舞うときのきもちは捨てがたい安堵と安心に在る。
わたしは戦後の京の町で、夏になると盆踊りをたのしめる少年だった。あの踊りは踊りたくてする踊りだった。いま謂う全身が羽のように舞い立つのとは性質がちがうけれど、嬉しさは通っている。
* 茶の湯を好んで叔母にならい、高校生の頃には叔母の代稽古や学校の茶道部で人に教えてもいたが、茶の湯の作法とは一種の舞踊・ダンスであると、「所作」とは質的に舞踊でありふだんの「動作」とはまったく異なるものと、当時から思ったり考えたりしていた。手前作法は、ダンス、徒手体操、サーカスなどとも通じた、肉体の、身心の「演戯」だと納得していた。むろん能や歌舞伎等の演劇の演技も、新劇の演技も、いかにリアルを尊ぶ場合でも、動作ではない、「所作という表現」に参加するモノと眺めていた。踊れない身心で芝居が出来るものかと眺めていた。
「科」と「白」との「所作」次元での統一と渾然。それがあれば、表現への道がついてくる。「地金が出る」意味での「地」の演技というような物言いは軽薄すぎると思ってきた。
* 昨日観てきた建日子の作・演出の芝居が、心底楽しかったのは、若い演技者のそういう広義のダンスがかなり堪能できたからであった。
むろん異議あって、たとえば武者小路の作の『その妹』のような静かな芝居が、なんでダンスであるモノかなどという人がいれば、日本の演劇の今でも基本の一をなしている能の所作は静かで、静かだから舞ではないのかとわたしは反問するだろう。
魂のあるともないとも、たとえば人形をつかった浄瑠璃の演戯。あれは所詮動作ではあり得ない、満ち足りた「ダンス・舞踏」としての演技であろう。人の体がハツハツとした新鮮さをにおわせて、静かにまたはげしく動く美しさ。わたしは、そういう運動美が好きだ。
なぜだろう。本質的にそれが羽のように軽くて美しいからだ。
富十郎でも三津五郎でも、彼らが踊りまた舞うとき、わたしはその物理的な体重の「殺しよう」にいつも賛美の思いをもつ。軽やかは、清い美しさに舞い立つ。重苦しいは騒がしい醜さに落ち込む。
「科」の領分では、どんな激しい弁慶の引っ込みのような、「達陀」の踊りのような、またどんな静かな「雪」のような座敷舞であれ、要は質的に軽やかに舞い踊れる「所作・表現の達者」だけが、名優になる。「白」の領分では、どんな大声小声早口ため口であれ、明晰に言葉を、言葉の「詩性」を表現として観客に届かせる者だけが、名優になる。わたしはそう思う。比喩として「踊れない者に役者の素質はない」とわたしは眺めている。
* 同じ意味合いで、文体という独特の「音楽」をもたない、ただ図像的に説明している文学は、「滓・カス」だ。
2007 2・11 65
* 次のマイミクさん、わたしの誕生日に、お花を戴いた「新婚」さん。秦建日子のTVドラマのフアン。わたしの方へ移動してきて、マイミクに。本多劇場の『月の子供』が、生まれて初の観劇と。感想に感謝。とても、ビビッド!。
昨日は、四国高松からわざわざ見に来たという有り難いお客さんの「足あと」が、わたしのところへ来ていた。日記の感想を読み、お礼を告げておいた。
今日のマイミクさん、「感想」此処へも頂戴させてもらいます。建日子の眼にも触れますように。若い人の「mixi」語としても面白い。
☆ ~初観劇体験~『月の子供』 槇
昨日、生まれて初めて舞台を生でみた。
『月の子供』
人生迷ったら下を見ろ
たまにはホームの下を見ろ
舞台には無縁の私。
が、
私が大切にしているドラマ「ラストプレゼント」を描かれた、秦建日子さんが作・演出。
昨日、旦那さんと下北沢の本多劇場で「月の子供」を観劇。
三倉茉奈・佳奈ちゃんが主演
風間トオルさん 春田純一さん 円城寺あやさん
伊藤裕子さん 宮地真緒さん 林泰文さん
川津春さん 白石みきさん
総勢60名の大掛かりな舞台
好きなアーティストのコンサートには、何度も行ったことがある私。
だが、舞台は初。初体験!!そうなると。。。
そんな私が、まず、
チケットを取るのも迷いに迷うわけだ。
コンサートなら、少しでも前の方がいい。少しでもアーティストの近くに行きたい!!
う~ん。舞台は、どうしたらいいのだ???
前の方がいいの?? 舞台の全体が見渡せる後ろのほうが良いの??
端より中央がいいよね。
舞台によっても、近い遠いもあるかな??
素人が舞台近くは、失礼かな??
え~~~~っと、
それでどうしたか??
おこがましいと思いつつ、D列(4列目)の真ん中のチケットをとったの。
4列目も近くて、ちょっと緊張するなぁ~と、思ったのですが。
あっーーーー。劇場に入って席を探すと、
ウギャーーーー。実際にはD列が、2列目。
え??A・B・C 「D」 でしょ。
なんで?C席が1列で、D席が2列目。
名付けて『D席2列目事件』
4列目でも緊張で、って、なんで私が緊張するのか意味不明なのですが。。。
でも、もっと緊張したのが、
入場前、階段で(作・演出の)秦さんをお見かけし、舞い上がってしまいました。
しかも、話しかけてしまい。。。
あ~~~。嬉しかったけど、反省。
しかし、そんな私にも丁寧に対応していただき、感激しました。
名付けて、
『秦さんに 観劇前に感激事件』
まず、劇場に入って驚いたのは、
なにより、お花。これは、すごかったです。
いいとものテレフォンショッキングでみるお花がロビーにづらづらづらづらのづらり。
凄い数だよ。お花に圧倒されたのは、初めての体験でした。
お花の香りがロビーに漂い、そして名前を見ているだけで楽しかった。
凄い人の名前がいっぱいでした。イチローもあり、
ちょっとそれだけで興奮しました。本当に見ているだけで楽しかった。
ロビーでパンフレットを購入。
そして、このパンフレットが、嬉しいのと、困ったのと。
まず、嬉しかったのは、
秦さんが「ラストプレゼント」天海祐希さん主演の連ドラに触れ、改めて天海さんが死ぬシーンを描かなくてよかったと思っていると、おっしゃっていたこと。
私は、「ラストプレゼント」が単なるお涙頂戴ドラマじゃないから好きだ。
このドラマの何が好きなの? って、良くみんなに聞かれるけど、見てない人への説明としては、みんなが良い人のドラマなんだよ、と、説明に付け加える。でもね。実はね。私は、もう数え切れないほど見ているけど、まだ分からないシーンがあるの。これは、どういう意味なんだろう??って思うシーンがあって、そこは私なりの解釈しかできない。そして、凄いのが何度見ても涙が溢れる。ストーリーは知っているのに、涙が溢れてくるのよ。登場人物の描き方が1人1人丁寧なんだよね。「不治の病」を扱ってるドラマで、単なるお涙頂戴ドラマじゃないのって、これ凄くない。
で、で、で、だよ。とにかく「ラストプレゼント」ってドラマは、凄いのさ。ぽっぽちゃんは見てくれたけど、他の人も見てみてくれさぁ!!
「ラストプレゼント」に巡り合ってから私は秦さんワールドにグイグイっと、引き込まれたんだ。
おっと、そして、パンフレットを読んで困ったのは、
出演者の方たちが、
「月の子供を読んだときの感想」との質問に対し、
・はじめはちょっと解りにくくて、難しい作品
・どう読めばいいのかわからなかった
・難しいな。。。
・内容がつかめない
・正直わけがわからなかった
出演者の方たちがこうおっしゃってるのですから、このパンフレットを読んだ時、初心者な私は、少し不安になったよ。まぁ~よく考えれば私が不安になる必要はないのだが。
さて、いよいよ期待と不安といろんな気持を乗せ、私の初観劇体験が始まった。
いや~
すんごいよぉー。
圧倒された。
汗が、唾が、
雰囲気に圧倒圧倒です。
でも。難しかった。それが、正直な感想。
ダンスの時は、頭はフ~ッとするんだけど、2時間頭がフル回転状態。
笑いのエッセンスは、絶妙でした。
結構ブラックだったりもするんですよ。
心にバシバシ響く台詞で心は揺れる。
メッセージがあちこち詰まってて、その解釈を追っていると進行している舞台に追いつかなくなる。
まず、月の子供っていうのがすごいさ。もし月で生まれたら骨や筋肉は重力の少ない月でしか育ってない。その子が地球に来たら潰れちゃう。もし 本当に月の子供がいたとしたら、砂漠しかない月の子は、海も川もある地球に憧れるだろう。行きたいと思うだろうなぁ~地球に。
だから、自分たちは、月の子に比べれば。。。。。。
プッシュプッシュプルプル プッシュプッシュプルプル
耳に残った。
人生押してだめなら引いてみろって、こと。
そんな単純じゃない。いや~書けんわ。感想。
「生きる目標って??」
初めて舞台を観劇し、迫力に圧倒されたのと、舞台の内容について、うまくかけそうにないのだけど、メッセージがたくさん詰まってて、それにも圧倒。昨日は圧倒圧倒の1日だった。なんだろうね。この感覚って。この感覚も始めてなんだよね。なんかな?モヤモヤしてるのに爽快みたいな。この舞台からのメッセージを受け取って、考えて、なのに言葉にならない。
だ・け・ど
自分は、今めちゃくちゃ幸せだ!! って改めて思えた。
それが、一番大きかったかな。
私には、名前もあるし。。。
と、っと、っとぉ~。
初観劇は、モヤモヤ爽快。
個人的に、風間トオルさんかっこよかったっ酢。
円城寺あやさんは、素敵だった。素敵。
生で演劇って、この言葉で終わるの嫌だけど、
初心者らしく、
この舞台、すげぇ~~~よ!!
* 一度観て、よく感じ取っているのに感心。作者の思いや意図とのあいだに温かく平仄(ひょうそく)が合っている。魂の色が、こうして似てくる。創作者の冥利。
2007 2・13 65
* 今日は曇って少し冷える。久しぶりにペンの理事会。明日は病院。あさってはもう一度『月の子供』を見る。
2007 2・15 65
* 買ってきたモニタが古い親機に接続でき、親機から消えたかと案じたなかみが現れ出た。B&Aの見立て通り、日立の大きなディスプレイに寿命が来ていたということ。必要なモノの保全だけは万全にしておきたい。前のはテレビのブラウン管と同じディスプレイで昂然と大きく場所をとっていたが、貫禄で、部屋全体の中心の観もあった。
買ってきたACERのディスプレイは、画面はその日立並み以上に大きく、嵩はひくい。棚が一気にスマートになった。画面も当然ながら明るい。
* ひさしぶりに、おじいやんを見上げてかわいい小さい昔のやす香の写真を、恋しく眺めている。おじいやんはお腹の出張ってきたのに、俯いてごきげんがわるい。
「いいじゃない、おじいやん」
やす香はきっとそう言って、はげましてくれたんだ。
2007 2・15 65
* 荀子に聴くまでもなく、人は人と生まれてこのかた、余儀ない襤褸を幾重にも身にまとい、臭いぬくみに慰められて寒い裸に立ち返る勇気を磨り切らせている。
わたしは毎々謂うように、「時代」という掌の上で「人・事・物」が人それぞれの人生を形なしていると観ているが、「もの・こと・ひと」こそが、或る意味で財産であり或る意味で襤褸すなわちボロそのものである。この財産は、むろん死後に持ち越せない。それどころか執着という意味の邪魔にこそなれ、真の平安や無心・静かな心のためにはほぼ何の役にも立たない。
ほんとうに価値あるそれと、にせもののそれとがあり、にせものの方が圧倒的に多く、にせの最たるひとつが「自分自身」である場合がひょっとして「常」ではないかと思っている。したがって、ほんものとにせものとに、外界のあれこれ、もの・こと・ひとを分別して選択するのは愚かしい。着重ねた襤褸のたとえ一枚二枚でも脱いで棄てられる機会は尊く生かしたい。
* 物。これが比較的分かりよい。少しのお金。ほとんど価値のない不動産。溜まりに溜まった書籍。いくらか佳い茶道具をふくむ美術品。それで、わたしの場合、おしまい。
妻のため以外に、お金の役立つだれもいない。息子に遺そうと気を配る必要がほぼなくなっている。娘は考慮外。だから、ごく普通に妻と私とはもうしばらく生きてゆけるし、それで有り難い。妻をひとり家において自分だけ旅したい気など全然ないし、飲み食いの贅沢はドクターストップで許されなくなってきた。せいぜい都内でものを観るか、衣服で楽しむかだが、わたし自身は着物・持物でおごる気などこれも昔から全く無い。もっと満足できる世界がたとえば読書などで手に入る。
まずしい家と土地とは、建日子が適当に処分するだろう。
茶道具など美術品は建日子のほしいと思うものを手渡せば済み、他は成るようになって行く、誰の手でもまさかゴミ捨て場へぶちこまれることは無いだろう。息子たちはそういう美しいものの値打ちにまだまだ疎い、まして茶道具となると、長年お稽古しているという彼の友人でも、目はまるで見えていない。値打ちがわかりかけ切望の気が芽生えた時機に譲ったほうが、モノたちも喜ぶ。骨董屋にさばくより、本当に欲しい使いたいというひとに頒かつ方がモノが生きる。
書籍は何とでもなり、気にしない。息子と地元図書館とが欲しいというものを渡してしまえば、わたし自身の単行本著書や湖の本の在庫は息子が処置してくれるだろう。ことに単行本著書は読者の中に、手元にあれがそれが欠けていて欲しいという人もあるにちがいなく、しかし読者のあいだで不公平の生じるのもイヤなので、あえて大小と無く一律の値段でさばいてしまってもいい。本は、かりに棄てるにしても何とでもなってゆくだろう、どんどん処分してまだこの先に読みたいもの、利用価値のある学問的な全集や辞典事典のたぐいだけを残しておこうと思う。
さいわい建日子が「書く」仕事をしているので、彼に役立ちそうなモノは大事に遺したい。
* 事。これは厄介だ。七十年のいわば心理的な凹凸がガチャガチャと年譜的に遺っている。名誉心を払拭し、同時に恥辱や不平不満を脱ぎ捨てて忘れ去る。言うに易く難儀なことではあるが、具体的には仕事と肩書き。
仕事は棄てない。仕事はわたしには座禅のようなもの、うまくその境地に入れば雑念も生じない。
肩書きは、棄てると決めて実行すればいい。ただ社会人として現に生きて仕事もしていて、家族はそれがわたしの健康法になっていると判じている。なっていないとも謂えないが、難しい。ペン理事改選で自然に落選すれば大きな一つが「済む」。
* 人。難しいようだが、要するに放っておけばいい。来る人は来て、去る人は去る。この年齢だし、この不徳な嫌われ者だから、死別・性別、遠ざかって行く人の増えて行くのは甚だ自然なこと。人には、愛し敬して、執着しない。磨いた鏡のようにクリアに映し、きれいに見送る。見送ることに嬉しさを感じる美学を大事に思う。幸い「いい読者」にわたしは恵まれ、不徳なれど弧ではない。うすい言葉にも口先にもだまされない。年々歳々花は花であるが、歳々年々人はうつろい動く。
もっとも厄介な、もっとも興味深い、人はまた、物の一つ。
心などというアヤシゲなものを無意味にふりかざして自分を飾り立て売り込んでくるぶん、人は、お金より、資材よりもクサイ物である。人間の世間はクサイ世間。ぼろぼろなんだもの。だからぬくぬく暮らしていられる。古い「さよなら」と新しい「こんにちわ」とがいつも無責任にジャレ合っている。鏡は映していれば済む。値打ちはすぐ見えてくる。
* 人といえば、ときどき付き合っている若い三人の女の子がいる。渡辺綾香、加藤いくみ、伊藤奈美繪さん。ごくたまに気の鬱しているとき、機械の中で「半荘の麻雀」につきあってくれる。九人ほどから相手が選べる中で、顔写真ではない顔漫画が愛くるしいので、よくこの三人を相手にする。勝ったり負けたりしていると妙に人柄まで想像され、ロンされて悔しがったり、勝って可愛いい声をあげたりすると、かろがろと気が晴ることもある。ハハハである。
* 壁にとりつけた大きな書架の上段に、淡交社版「古寺巡礼京都」の三十何冊かがならび、なぜか、その前に「北野天満大神」の大きめな御符が立て掛けてある。いつ戴いたものか。このわたしに、いま「北野天満大神」とは「何」でありうるのだろう。じいっと考えてみる。襤褸の一つか、それにも当たらないか、存外もっと魔術的に秘密にかかわりあうエネルギーなのか。妙なものを無意識にひとは、いや私は、かかえこんでいるのだ。
2007 2・17 65
* さてさて三日外出の三日目は、妻と、もう一度下北沢「本多劇場」での、『月の子供』を観てきた。喉に痰がからみ、花粉性の洟がひっきりなし、熱っぽい大儀感に悩みながら出かけた。
前回と変わりばえの前方下手での観劇。展開にかなりすっきり手が加わっていて、あれほど激しい動きとはやい台詞を、演者たちが、作・演出の要求によく応えるものだと感心した。総じて急流と奔騰、ダイナミックに舞台は走ってゆき、役者と役者とがただ向きあってただ話すような一カ所もない、すべて振り付けられた所作、所作、所作で間を弾ませる。
あれだもの、ストーリイの少々の晦渋などに観客は立ち止まっているヒマがない。ひたすら舞台は舞台のリズムを刻み続けて躍動し前進する。それで成功している。ちまちまとした筋書きの整合性に拘泥などしていられない、演出も演技もそんな悠長なヒマは観客に持たせない。秦建日子の独特のダイナミズムが今回の舞台で特徴的な効果をあげていた。それで作の意図がかえってよく力を持った。分かり良くなった。胸のポケットにかなり正確にたたき込まれた土産を抱いて劇場をあとに出来ただろう、プッシュプッシュ、プルプルで生きられる幸福感、それは与えられるのでなく創り出すものだ。
* からだはシンドかったが、前回と同様に有楽町へ迂回し、「きくかわ」の鰻を、しばらくぶりに妻と。そして有楽町線で一気に保谷へ。酒とビールとがきいて保谷駅まで寝ていた。
2007 2・17 65
* やす香の友人たちが『月の子供』をみてくれた。ありがとう。やす香にももう一度あの舞台をみせたかった。
北海道からは「昴」がわざわざ飛行機を利用して本多劇場まで来てくれたらしい、まさかムリであろうと思っていたが。ありがとう。
2007 2・18 65
* 夫婦二人の家を新築するというのは、たとえようもない気持ちだろう。肺活量が一気に十倍するような、世界がひろがったような。覚えがある。我が家にはもう子供も二人いた。それでも広いと感じたものだ。
だが、まだ京都にいた、叔母を含む老親三人を、遠からず迎え入れねばならぬ家であった。それには結局狭かった。はじめのうちは使わないあいた部屋が二つもあって襖をあけるといつも新しい畳の香が。佳いものであったなあ。
* 京都・関西の畳は広い。京都時代、我が家の階下は四畳半がいちばん広い家だった。東京へ出てきて借りたアパート一間は、ちいさな流し場のついた六畳だった。浴室はなく便所も共用。
社宅に入ったら六畳と四畳半にキッチンと浴室・便所があった。
新築した家には六畳部屋が四つと四畳半一つつ、そしてキッチン・浴室・便所。少し改造し、堅固な書庫を建て増したが、ほぼそのまま今も暮らしている。終生、六畳より大きな部屋を持たずに人生を終わるのだなと苦笑している。それとも、無い有り金を使い果たして夫婦二人の十二畳と八畳二間の新しい家に作り替えようか、ハハハ。邪魔くさい。
2007 2・22 65
* やす香と「mixi」のマイミクになったのは、明日。みゆ希と一緒に保谷の祖父母を最期に訪れてくれてから、明日は満一年。「mixi」に入れて貰っていて、つらいやす香の永逝に立ち会うことになったけれど、「mixi」に在籍していなかったら、極端な場合われわれはやす香の発病も闘病も悲しい死もあわや全く知らずじまいにつんぼ桟敷にいたかもしれなかった。「mixi」もまた運命であった、招待されていて有り難かった。
まる一年、わたしにとって「mixi」の意義もほぼ尽きた。明日で一区切り、以降ごく普通の在籍会員の一人と謂うにとどまり、ここへ掛ける時間と手間とを節約する。「闇に言い置く 私語の刻」はホームページで継続する。
メッセージは戴くし、必要な返事もさしあげるが、保存上、電子メールがありがたい。
* この前はわたしが新宿で、一昨日は妻が渋谷の街で、やす香を惜しんで、悔やんで、泣いてしまった。とりかえしのつかない宝をもぎ取られた悔しさに。ジャンヌダークの火刑にあったのが十九のときであったのに、妻はつよく感じたようであった。
2007 2・24 65
* 手のとどくところで、カリタスの制服の孫やす香がわたしに微笑んでいる。可愛い写真だ。写真だけがこの世にのこって、もう手をつないで歌をうたって保谷の里道を歩くこともできない。
* 去年の今日、やす香は妹のみゆ希といっしょに保谷へ遊びに来た。もともとみゆ希は独りで来る気であった。お姉ちゃんはと聞くと、お姉ちゃんも行く行くと言ってますという連絡があった。みゆ希の三月の誕生日が近づいていて、早めのお祝いをとわたしたちは思っていた。
お雛様を久しぶりに出して、二人に飾らせてはと提案し、用意しておいた。
* やす香の不調にはハッキリ気づけなかったが、あとで思えば全身の違和感を心もちもてあましていた気はした。クセのひとつかのように幾らか見慣れていた。
ひな祭りはほんとうに楽しかった、姉妹はきゃっきゃ笑いながら一つ一つ飾ってゆき、飾り終えて写真も撮った。みゆ希のお祝いもした。ああ、やす香にもしてやればよかった……。
おじいやんは「mixi」に入っているよと言うと、やす香は「あたしも入ってまーす」と内緒事を打ち明けるように笑った。すぐ「マイミク」の約束ができた。運命であった。やす香はおじいやんがマイミクである窮屈さもとっさに感じたに相違ない。日記はすべて読まれてしまう。それでもやす香は「マイミク」を即座に受け入れてくれた。おじいやんを喜ばせてくれたのだろう。ありがとうよ、やす香。おかげで、おまえの最期の日まで、わたしたちは「mixi」を介してもおまえを見守り哀しみ泣きつづけることが出来た……。
保谷の家で歓談・談笑のあと、まみいも一緒に池袋パルコへ出て、「すし田」で、思う存分二人に食べさせた。若い板さんに陽気に煽られ、二人ともご機嫌さんであった。ことにやす香はこういうとき陽気に心優しかった。
そして……JRの改札で、「さよなら」と手をふりあった。あれが、まだまだ元気なやす香を見た最期となった。
* 「mixi」に参加して、つまり満一年と十一日めになる、今日は。去年の今頃、もうやす香とみゆ希とは我が家の人であったろう。あれから只今まで、「12865」という「足あと」数と夥しい量のわたしの作品で「mixi」は埋められた。長編の『最上徳内北の時代』をはじめ『秘色・三輪山』も『初恋 (雲居寺跡)』も載せた。長編のエッセイも講演録も数えきれぬほど載せつづけてきた。「秦恒平」という見知らぬ小説家・作家の名前と仕事とにはじめて出会われた、出会って下さった方々も多かった。いい出逢いに恵まれてきた。なかにはやす香のお友達もあった。
しかし、わたしにはやす香があっての「mixi」であった。胸を抉るほどきつい思い出に彩られてしまったけれど、嬉しいことも有った。そして満一年を経てしまった。呆然としている。
* わたしは、仕残している仕事を幾つも胸のしこりに抱いている。その一つ、一つをクリアするには、残された時間はあり余っていない。体力も。
どこかで余力を按配し、節約しなくては。
ホームページには、十年になんなんとする歴史があり、パソコンは、わたしの書斎・書庫・記録と保管の場所である。喩えていえば原稿用紙でも初出の発表誌でも刊行著書でも全集でもある。主宰する文藝雑誌でもある。わたしは「ホームページ」というものを、さように(当時は常識ではなかった。)活かす前例を、率先実践してきた。機械が働いているうちは、それに対し責任を負わねばならない。
その一方、わたしは久々に「手で書く」創作、万年筆を再び活かす道へも戻りたいと切望している。われながら容易ならぬ決意。もとより二兎を追うとも思っていない、手書きが主だ。パソコンは補助の記録作業および「私語」の場に落ち着いて行くだろう。小説は、少なくもその第一稿は、原稿用紙へ手書きされるだろう。
わたしのための急務は、家の中に原稿用紙がひろげられる、何より「書き机」の確保だ。わたしは今は、我が家でありながら、それすらが持てない。
この家を建てていたとき、ちょうど太宰賞をもらい新作家と迎えられたばかりだったが、ある日、仕事している大工さんが、首をかしげて妻に漏らしたそうだ、
「旦那さんは小説家と聞いたけれど、書斎は無いんだねえ」
わたしの当時の生活は、書斎どころか、京都の老人三人をどう迎え入れ、育ち行く二人の子をどう励まし、妻に生活の不安をどう与えずにおくか、そんなことに掛かっていたし、れそを一所懸命にやった当然の励みだった。本業の方は、喫茶店であれ食べ物屋であれ、「卓」のあるところならどこでも利用し、家へ帰れば本を読んだり調べ仕事をしていた。勤めていた間は外での時間が多く、それでも済んだ。
勤めをやめたあとがタイヘンだった。狭い家でまぢかに人の話声や電話声やテレビの声のする場所でわたしは締め切り仕事をいつも「書かねば」ならなかった。いらいらしても、我が儘勝手だと非難されもした。わたしは時勢にも救われ、ワープロやパソコンという機械の恩恵と便利さへ走った。実は逃げ込んだ。必然の退路であった。退路とみえたものをアクティヴな進路に変えていった。それが、「ホームページ 作家・秦恒平の文学と生活」になった。そうするしか「書け」なかったからだ。パソコンへわたしを導いた東工大就任は、まさに天恵であった。
だが、万年筆と原稿用紙との生活へ、老境、馬の鼻を向け直すことは、このさき並大抵のことではない。ストレスはいや増すことだろう。
* やす香との思い出に胸を濡らしたまま、今日この日を、そんな再出発にと、わたしは考えてきた。そして今日を迎えた。
* 愛蔵の秦テルオのしみじみと冴えた「出町雪景」をだしておいても、この二月ばかりは画趣がまるで生きない妙な陽気の冬であった。厳寒はつらいけれど、一日も雪をみない真冬も異様だ。やがて夏の暑さが、思いやられるどころか怖くなる。
* 出前の鮨を奢って妻とふたりきりやす香を偲んだ。それから松たか子に、と言うよりお母さんの藤間さんにもらった、竹内まりやが作詞作曲して松たか子が歌っている『みんなひとり』という音盤を聴いた。ほかに松たか子が作詞作曲し歌っている「幸せの呪文」「now and then」も。 『かくのごとき、死』を高麗屋へ送ったら、すぐ何も言葉はなくこれが贈られてきた。有り難かった。
いま、となりの部屋で妻はビアノ曲「月光」のあたまを繰り返し弾いている。
2007 2・25 65
☆ 秦 建日子作 『推理小説』 河出書房新社
実はドラマ(「アンフェア」)は見ていません。
小説だけ読む限り、作者は新本格系の推理小説をとりまく様々な蘊蓄に、ある意味うんざりしていたのかな、と。
その点は私もとても共感。
推理小説を読み終わった後に、犯人の動機には文句を付ける気はないけれど、殺害をした後の犯人の心理描写に「そういうこと思わないんじゃないかなぁ」という微妙な違和感を感じたことは数々。
他にもいろいろと新本格系蘊蓄への違和感を作者は瀬崎に述べさせているけど、この小説ではこの手の違和感を感じることだけはなかったです。小説購入金額 3000万円の内訳など、微妙なディテールに実にリアリティがあるからだと思う。あと、私自身の「冷めてる」部分が犯人のキャラとかぶるからかな。
個人的には、文体というものは生まれつきのものだ、というテーゼが流れているあたりに、作者の背負っているものを何となく感じたりして。
ただ、巷では「かっこいい」と言われている雪平夏見。私には全く頂けないキャラでした。プロじゃない。
その点、瀬崎にはいろいろな意味でプロを感じます。
ホントは星は2.5だけど、半星がないので四捨五入して三つです。 馨
* この批評が有っていいと思っていた。
2007 3・1 66
* 朝起きるとわたしは湯を沸かし、一服ないし二服抹茶を点ててのんでいる。いただいたお茶を缶のまま古びさせてはもったいこともあるが、少年の昔からお茶が好きで、叔母の稽古日には稽古に来た人のお茶をずいぶん飲んでいた。たてようの下手なのによく閉口した。わたしの点てた茶はだれもが美しいし旨いとほめてくれた。茶筅の通しがいいのだろう。ただし今は行儀がわるい。キッチンで、時には床に立ったまま点てているが、無茶人の茶、勢いがついてひとしお旨い。
2007 3・2 66
* 建日子がふらりと来て、いろいろと話し込んで。
建日子が家にいると、ほっとする。『バグワン』読みと『太平記』読みとを建日子はじっと聴いていた。
2007 3・2 66
* 三時半に寝て、六時半に目が覚め、しばらく中國の「明」史や、チムールやその他北アジアの英傑たちの歴史を読んでいた。妻と寝ている黒いマゴの手をにぎったり、手先をマゴに噛ませたり。八時に起き、湖の本の校正。
妻をきのう自転車にのせて春散策に出たのは失敗だった。わるいことをした。だいぶ疲れてしまったらしい。
2007 3・4 66
* 一人のこされた孫・みゆ希が、今日十五歳を迎えた。この春から高校生になる。朝いちばんに、妻と、赤飯で祝った、元気で心ゆく日々を過ごすように、と。
「十五の春を泣かすな」と謂う。泣かずに、姉・やす香があんなに望んだように「笑って笑って」幸せに姉のぶんも生きておくれ。おじいちゃんも、まみいも、いつでも手をひろげてみゆ希を抱きとめ、前途を祈っています。
2007 3・10 66
☆ 突然のメール失礼致します 治 若い父方従弟
秦 恒平様
昨夜 「mixi」のサイトをうろうろと眺め漂っておりましたら、偶然、サイトにたどり着きました。
お会いしたのは25年程前になりますでしょうか、私の上石神井のアパートに訪ねて来た母が突然 秦様に会いに行きたいと言い出し、姉と私を連れ 連絡もせずに保谷のお宅に伺った事を記憶しております。
その母も 一昨年 癌を患い亡くなりました。来月には三回忌を迎えます。父の後を追うようにして 逝ってしまいました。もっと孫たちと過ごす時間を持って欲しかった、逝かせてしまった思いがのこります。
母は晩年 白内障にて随分視力を落とし、その為 長らく送って頂いていた「湖の本」もお断りしたようですが そのたくさんの本を、今また私が読ませていただいております
私は 昨秋 長く勤めた会社とともにソフトウエア技術者の仕事を辞め 父母の残してくれた家屋と地縁を使わせて貰って 新たな仕事に就こうとしております。
建日子さんの著作を書店で見つけて読み ご活躍を知り、姉や 従姉妹ともども、TVや著作を楽しませていただいております(関西におりますのでなかなか舞台を拝見する機会がありません)。
さて 昨夜 恒平様がサイトに書かれていた ご自身の近況に関わる事などを読ませて頂き 大変驚きました。
母と伺った後も 私のひょんな行動から お宅に招きいただけることになり、美味しいすき焼きを皆様と一緒にごちそうになりました。
そのときの恒平様がお子様達にしめされるこまやかな愛情と暖かい家庭の雰囲気が、今も、しっかりと記憶に残っております。
「mixi」の私のサイトへ、「足跡」から辿っていただいたのか、訪れていただきありがとうございます
突然のとりとめもないメール失礼致しました。
* 「mixi」について「足あと」を辿って山城加茂の従弟だなとすぐ分かった。若い父方叔母が突如我が家にあらわれた日の驚きは憶えている。
わたしには、実の父方に、たしか七人の伯母叔父叔母があり、ほとんど知らない。自然いとこも大勢らしいが、おおかた知らない。実の母方にも二人の伯母があったらしく、いとこも何人もいるのだが、ほとんど誰とも会ったことがない。育ての母方にも、一人の伯父と大勢の伯母がいたらしいが、伯父しか知らない。自然いとこも大勢らしいが、伯父の娘のひとりとだけ、今、メールのやりとりがある。甥や姪は数え切れないほどいるはずだが、ほとんどつきあいがない。わたしが、独特の「身内」観を育てたのはあまりにも当たり前の成り行きだった。
2007 3・10 66
* 四十八年という歳月が過ぎていった。
三月十四日、総務課長の野田さんと同期入社の山本誠君に「証人」署名をもらい、新宿区役所に、妻と二人で結婚届をしに行った。その足で荻窪の妻の伯父さんの家に行き、座敷の上座に妻と並んで据えられ、妻の親類一同にあいさつをし、食事をご馳走になった。それが、ま、お世話になりっぱなし妻方への、結婚披露宴であった。その晩その座敷で床をならべて寝た。伯父さん夫妻、叔父さん、妻の兄など、もう早くに亡くなった。
* 妻は心臓がよわく、わたしは糖尿病。ウソにも元気旺盛とは言えないが、「一病息災」にじょうずに甘えながら生き延びて行きたい。妻の健康を心より第一に願っている。
病院がもう少し適切な健康指導をしてくれるといいのだがな。
わたしは我が儘な飲み食い以外は、健康には注意しているのだが、糖尿には何よりその我が儘な飲み食いがいかんというのであるから、生きにくいよ。
2007 3・13 66
* よそやとせ(四十八年)あゆみあゆみて今朝の晴れに風光るとは妻がことばぞ 恒平
* 二人で赤飯を祝った。健康に、怪我なくと。新しい創作が日一日ふくらんで行くのも願おう。旧臘新調の服を着て、体力をいたわりながら歌舞伎座に。老境に、過ぎたるこれが楽しみ。
2007 3・14 66
* 歌舞伎座は通し狂言『義経千本桜』の、今日は昼の部。六列目中央の絶好席、しかも我々の一列真ん前の二席が終始空席とは。感謝感謝。
夜の部は別の日に。
* 開幕の『鳥居前』は大きくは盛り上がらなかった。梅玉の義経が猫背でのっそり立ち、老けた桃太郎のよう。四天王(松江、男女蔵、亀三郎、亀寿)が若々しく揃って、まずまず、助けられた。福助の静は絵に描いたような赤姫で可も無し不可も無し、では、福助にしてはよろしからず。
左団次の弁慶もこの場では気の毒千万な出方で、笑うに笑えない。忠信の花道への出からは音羽屋が、菊五郎が、若々しく舞台を保ってくれて何とか落ち込ませなかったが、亀蔵の笹目忠太ひきいる軍兵どもの、忠信に迫るも終われるも、いまいち迫力もおかしみもなく、音羽屋の、花道狐六法のひきあげに拍手するのが関の山であった。
* 「吉兆」雛祭りの献立は鯛の刺身はじめ、どの一品もけっこうで、一献白酒を振る舞ってくれてたら申し分なかったよと、マスターと笑ってきた。
* つづく『渡海屋』『大物浦』は高麗屋幸四郎の独擅場。渡海屋銀平は、今少し漁師っぽく、ざらっとくだけたまま芯が徹していいのかも知れない。「実は知盛」腹の内の悲愴が「銀平」からもう出溢れている。大きく化けて知盛であらわれたとき、おおそうか、より、やっぱりな、と観客に思わせかねない。だがまあ、あれが高麗屋の芝居なのだろう。
此処でも梅玉の義経、もう少し性根に工夫、所作に切れ味が欲しい。ぼやーと立ったままではないか。あれでは碇知盛も遣る瀬が有るまい。
山城屋の藤十郎さんは、せいいっぱいのきっちりした思い入れと歎きとで、出色のお乳の人であった。さすがになあと、やはりこの優の藝力に惹かれる。
渡海屋での相模五郎(歌六)はまだしも、大物浦注進はけっこう見せ所なのに冴えない。颯爽若侍にやってもらいたい、歌六はもうオジサンすぎて、この役のニンではない。入江丹蔵(高麗蔵)ですら、まずまずに演じたものの、颯爽も悲愴も感じさせ得ない。海老蔵や松緑ならビビビと来る役なのだが、客としては残念。いっそ松江や亀寿にさせたかった。
それでもなお幸四郎の藝にピタリの碇知盛、さすがに大きく盛り上げて拍手が沸き上がる。劇作の妙も大きい。この場の左団次弁慶の花道は、まず締めくくっていた。
* お定まりの「道行」は、なんと芝翫の静に狐忠信の菊五郎。まず当代では大顔合わせだが、芝翫がよくない。菊五郎に踊らせておいて静御前どころか露骨に「芝翫」の顔で音羽屋の藝をまるで監督・品評しながら、表情も芝翫そのものという、名優には似合わぬ行儀悪さに呆れた。静御前が口をパクつかせたり曲げたり、ときに声音をもらしたりして相手役を観ているというのは、客としては迷惑だ。菊五郎が抜群に踊りが巧いならそっちへ視線をあつめていれば済むが、あいにく今の音羽屋は必ずしも踊り手ではない。
この舞台を、断然盛り返し盛り上げて劇場感覚を一つに統べたのは、松島屋片岡仁左衛門が、華麗に、選り抜きの花四天を従えた大馳走の「逸見藤太」だった。これはおそらく初役か。じつに悠々綽々の道化芝居。完全に音羽屋と成駒屋とを食い囓って圧倒した。客はもうもう大喜び。妻も隣席でウハウハ笑い続けて喜んでいた。これあるかなの仁の徳。なみの藤太だったらたいがい眠くなってしまう。
芝翫の静でなく、せめて福助であってほしかったが、松島屋にわれわれも救われたのである。ウオオオッと盛り上がった気分で歌舞伎座を出られた。
* 大物浦のあとの幕間に、高麗屋の奥さんに声かけられ、ロビーの雑踏でしばらにこにこ立ち話。染五郎のめずらかなカレンダーを貰った。
はねてからは「茜屋珈琲」で、今日もふるいつきたいような佳いカップで珈琲をのみ、マスターと歓談、劇界のうわさ話など聴く。
* 仏蘭西料理の「レカン」にちょうどまだ一時間の間があり、デパートの松屋へ入った。妻は新調したコートに似合うブローチを買い、わたしはたまたま開催中の「シャガール展」で、無署名ながら刷りの佳いリトグラフを見つけて買った。愛蔵のダリ署名入りのリトグラフより小品だが、シャガールの美しい赤が引き立っていて、気に入った。会期が過ぎたら家に届く。
「レカン」の晩餐はさすが。すっかり馴染んだ店の人たちが、飲み物にも食べ物にもデザートにもよく気を遣ってくれた。写真まで撮ってくれた。書きかけている新しい小説のはなしなど妻としているうち、一番乗りだった店内がいつか満席にちかくなっていた。シェリーもワインもよかった。
銀座は落ち着く。
2007 3・14 66
* 晩飯を近くの「ケケデプレ」で。いまはもう一昨年のことか、やす香とみゆ希とを連れて行き、四人でこの店で食事した。そのテーブルはそのままそこにあり、孫二人はいない。まみいは、また泣いた。
いましも校了前の「湖の本」再校ゲラを妻に読ませ、案の定、妻は読んで泣きまた読んで泣いていた、やす香のことなど何も書いていないのに。
おそらく、読者の多くもほんとうに読み進められる方は、今度の本に感動の涙をたくさん流されることと想う。
いちばん読んで欲しいのは、今度こそは、建日子であり、夕日子である。
2007 3・24 66
* 去年は、ろくに花見もしなかったのではないか。やす香の学校に近いというので妻と飯田橋から市ヶ谷へ土手の花見を楽しんだのは、去年ではあるまい、一昨年。
それでも堀切の菖蒲をながめ、柴又の帝釈天をおとずれたのは、去年だった。寅さん映画を四十八本ほぼ全部は観てきただけに、ときおり柴又へ無性にまた行きたくなる。
2007 3・26 66
* 夕方、建日子が、糖尿病に欠かせないインシュリンに相当するとか、「きくいも」を持って来てくれるらしい。ありがとさん。
2007 3・27 66
* 夕方、「レベル9」の碁敵と黒番で対局中に、建日子ら来訪。かろうじて十五目あまり勝ち、次は「最強」と称するレベル10と対戦することになる。
建日子たち、日立牛とキクイモとを持参、一緒に食事していった。巨猫のグーも同伴だった。いましがた仕事場へ戻って行った。
* 建日子が、同世代ないし上世代の「他」ジャンルの人たちで、互いに力を認めあえ敬愛しあえるような存在と、次々に出逢って行けるといい、充実と飛躍のためにはそれの必要な時機に来ている。それを痛感する。ちいさなお山の大将に甘んじていると、真の力の点で置いて行かれるだろう。力のある人たちにこそ認められ敬愛され信頼されるように。そう願う。同じ業界だけのぬるま湯でへたな風邪をひかぬように。
2007 3・27 66
* 西棟の庭の桃の木が、溢れそうに花をつけて、まばゆい。木蓮も、しゃがも、あれもこれも咲いている。
* 湖の本の通算第90巻を「責了」で印刷所に送っておいて、妻をうしろの荷台に乗せた自転車で、田無、ひばりヶ丘の方へ「探花」のサイリング。
なるべく車のいない裏道をすり抜けていった。
うらうらと申し分ない好天。公園のわきの喫茶店で一休み。
名どころの花見のポイントで人だかりに揉まれるまでもなく、武蔵野ではいたるところで隠れた花盛りに出逢う。
裏道を行くと、お寺の経営しているらしい幼稚園が、日曜でもあり、春の開園は早くて明日であろうし、ひっそりかん。人一人の影もない運動場に、幾株も、途方もない大桜が、沸き返るように、松の緑を優しく抱いて、大満開。日の光、燦々。ああ、お酒があったらと。妻の写真を何枚も撮った。
すぐ近くの小さな遊園地にも人けなく、二連のぶらんこを並んで揺って、しばらく声をあげ興じてきた。デジカメでブランコの写真がいくらでも綺麗に撮れる。
ひばりヶ丘の団地の中に、長い距離のみごとな大桜満開の並木道があり、ゆっくりゆっくり妻を荷台にのせたまま、往って復って、往って復って花の盛りを、しまいには胸もつまりそうなほど、満腹・満足してきた。
大きくは迷わず、ひばりヶ丘駅の西踏切をわたって、家路についた。花粉に我慢の限界ごろに帰宅。佳い花見が出来た。ウーン、お酒欲しかった。
2007 4・1 67
* 西棟の庭の桃の木が、溢れそうに花をつけて、まばゆい。木蓮も、しゃがも、あれもこれも咲いている。
* 湖の本の通算第90巻を「責了」で印刷所に送っておいて、妻をうしろの荷台に乗せた自転車で、田無、ひばりヶ丘の方へ「探花」のサイリング。
なるべく車のいない裏道をすり抜けていった。
うらうらと申し分ない好天。公園のわきの喫茶店で一休み。
名どころの花見のポイントで人だかりに揉まれるまでもなく、武蔵野ではいたるところで隠れた花盛りに出逢う。
裏道を行くと、お寺の経営しているらしい幼稚園が、日曜でもあり、春の開園は早くて明日であろうし、ひっそりかん。人一人の影もない運動場に、幾株も、途方もない大桜が、沸き返るように、松の緑を優しく抱いて、大満開。日の光、燦々。ああ、お酒があったらと。妻の写真を何枚も撮った。
すぐ近くの小さな遊園地にも人けなく、二連のぶらんこを並んで揺って、しばらく声をあげ興じてきた。デジカメでブランコの写真がいくらでも綺麗に撮れる。
ひばりヶ丘の団地の中に、長い距離のみごとな大桜満開の並木道があり、ゆっくりゆっくり妻を荷台にのせたまま、往って復って、往って復って花の盛りを、しまいには胸もつまりそうなほど、満腹・満足してきた。
大きくは迷わず、ひばりヶ丘駅の西踏切をわたって、家路についた。花粉に我慢の限界ごろに帰宅。佳い花見が出来た。ウーン、お酒欲しかった。
2007 4・1 67
* 春の花は桜だけではなかった。桃も梅もまだ咲いている。鉄砲水仙、花にら、クリスマスローズ、連翹、木蓮、しゃが、チューリップ、はやくも皐月までちらほら。数え切れない。
明日は妻が妹や従妹と、母方叔母を見舞いに行く。留守の午後をひとりで、西武線の奥の方、秩父までも探花の遠足に出かけようかなと思ったが、寒くて雨もよいの予報。それなら家で映画を「耳」で観て仕事しながら、骨休めをしよう。江古田の「リヨン」かひばりヶ丘の「ティファニー」まで午を食べに謂ってもいい。これで三日間、アルコールを自然に絶っている。エヘン、えらいものだ。
2007 4・2 67
* わたしは、「ベッタリつきあい」の少ない男で、ことに文壇人と私的に出会って、話し込んだり、飲み食いしたり、泊めたり泊まったりということは全くしない。わたしには党派という「つるみ」がないから、どう、もの陰でわたしをサカナにしていても、誰にも悪影響がない。一方わたしはそういうバカげたことをするアイテも機会もない、何よりその気が無い。批判するならこの「私語」で名前や状況を明らかにし、文責のある感想を述べる。いちばんこれまで多く触れてきたのは例えば猪瀬君だろうが、わたしは彼の探求心の豊かさと裏付けのある論考力をいつも褒めちぎっている。敬服し信愛している。その一方で彼の与党的素質や横暴なほど強引な例えば会議の引き回しなどは、批判してやまない。要するに文人としてごく自然な立ち向かい方をしている。
そして、わたしがたとえ文壇の孤独な嫌われ者であるにしても、わたし自身はその評判に実質なにも関与したり葛藤してきたワケではないのだから、気にかけない。身に降りかかる火の粉がわたしを直に焼き立ててこない限り、わたしの知ったことではない。
その一方で、矛盾したことのように読まれるか知れないが、わたしは各界にかなり多くの知己を得ている。わたしも敬意をささげ、向こうからも敬意を示しながら「淡き交わり」の妙味を味わわせて下さる人は少なくない。各方面の学者、研究者、著述家、編集者、記者。また優れた美術家、演劇家。その上に二十年、いやもっともっと以前からの「湖の本」の読者たち。ただの読者ではない。魂の色の似た知己である。
わたしが孤独を本来の在りようと思いつつ、身を切る孤立の寂寥に毒害されずにおれるのは、こういう人たちのおかげである。そしてさらに基盤に妻子が居てくれる。
* どんな世間を游いでいても、赤身に塩をすりこまれるような辛いこと不快なことは有る。無くなることはない。そして不条理なものごとほど、千万の言い訳も利かない。
建日子も、いま、そういう不快な毒水をあびせられていることだろう、出る杭は無道に打たれるし、打たれる意味が無道でなく、本人が気づいていない場合もある。
特効薬はない。
しかし、このあい間家に来たときわたしは彼に言った。自分より格下と思われる相手でなく、今までのつきあいとは角度や方面のちがった目上の「良い知己」を求めて触れあうようにと。知己をえて、身内をえて、いろんな意味で豊かになるがいいと。
この父とも、臆せず高ぶらず、ときに静かに話すがいい。
亡き父をこの夜はおもふ話すほどのことなけれど酒など共にのみたし 井上正一
このお義理にも上手と読めない歌一首に出逢ったころ、建日子はまだ中学に入るかどうかだったが、いつかこういう感懐に胸を濡らす日が来るであろうことをわたしは痛ましく感じていた。わたしはまだ死んでいないが、建日子にはもうキツイ日々がきているだろう。何かの折にはすこしも気遣いなく顔を見に帰ってきてよし、呼び出してくれてもいい。
独楽は今軸かたむけてまはりをり 逆らひてこそ父であること 岡井隆
子が父に、父が子に、逆らう。
だが待て。わたしが父であるだけではない。建日子がまたみずからも父であって初めて、この岡井さんの歌の示唆する境涯が、人生が、複眼で観えてくる。
2007 4・4 67
* 妻も七十一歳になった。きのう息子からお祝いの電報配達、熊のプーさんが我が家を訪れて、迪子、大喜び。一年、また一年きざみに、いつまでも元気に一緒にいてください。
今日はいっしょに二代目錦ちゃん誕生の歌舞伎を楽しむ。あの夜色の闇にうずもれている石段下弥栄中学や祇園町。そこでともに育った片岡我當と、秀太郎、仁左衛門三兄弟もそろって出勤の四月歌舞伎座。「吉兆」で、今夜は乾杯。
* 「京都市東山区」の歴史をつぶさに文献で顧みている。古くから霊地、葬地、風光明媚、別荘地、大寺社支配、平家六波羅館、六波羅探題、大貴族支配、門前町繁華、遊郭、藝能発祥、寺社御用等の工藝・商業、散所の民等々。
同じ京都のなかでもひときわ異色の地区。南山城の父、東近江の母に生まれ、運命にさそわれて京都市東山区で育ち人と成った。この運命にわたしは感謝している。大気を呼吸するようにわたしは今でも「東山区」を呼吸している。三月末にこの「私語」にかかげた、祇園八坂神社西楼門からの四条通夜景は、そのままわたしの根の「心象」だ。
2007 4・5 67
* 歌舞伎座の夜の部は、すべて予想通り。
『実盛物語』は後年の加賀篠原の実盛最期までをきちんと視野に入れた手際もむまとまりも佳い歌舞伎で、当代断然の立役者仁左衛門がすっきりと丈高い実盛を小気味よく演じ、孫である千之助を天晴れ手塚光盛に仕立てて一緒に乗馬の晴れやかさ、こころよい歌舞伎で楽しませまたほろっともさせる。
源氏の白旗を死守した母小万を秀太郎が献身的に演じ、じつは小万の父瀬尾という儲け役を、坂東弥十郎が堂々と演じ振舞い、幼い孫の手塚太郎に討たれて、後の木曽義仲股肱の臣たる「初手柄」にさせてやる。その義仲は、つい今し方、亡き源義賢の未亡人葵御前(魁春)のお腹に生まれたばかりなのである。
亀蔵も家橘もそつなく、まちがいのないきちんとした舞台で、仁左の魅力は花満開の美しさ。
二代目中村錦之助襲名の「口上」は、親族方の上席に播磨屋中村吉右衛門や兄中村時蔵。後見役は中村富十郎で大きく決まり、列座は中村雀右衛門、中村芝翫、それに松嶋屋三兄弟など賑々しく。錦之助という名前が晴れやか。妻の誕生日にうまくはまっておめでたい。
そして夜食は「吉兆」で、献立よく、少し乾杯。
その錦之助にうまくくあてがった狂言が、『双蝶々』の「角力場」。なよなよとした二枚目の若旦那と、天下の大関取り濡髪長五郎(冨十郎)に挑む素人角力の放駒長吉と二役。新・錦之助、これをなかなか気前よくやってのけ、危なげなく新鮮であった。
「角力場」はおもしろい場面で歌舞伎味も濃く、さすがに師匠冨十郎にがっちり演じて貰えて、弟子の錦之助、眦を決する意気があった。不安なかった。
大切りは、待ってました中村勘三郎の『魚屋宗五郎』で、出色の女房時蔵とともに勘三郎芝居を堪能させた。
一人の妹を奉公させた屋敷の主君に斬り捨てられたうらみを泥酔しながら盛り上げ、ついに屋敷へ駆け込んで行く強い流れを、中村屋は、息をのばさず集中して、眼光に、魅力の芝居を表してみせた。ま、中村屋だものという安心な期待があり、期待を決して裏切らない愛すべき役者なのである勘九郎、じゃなかった勘三郎は。
勘太郎も七之助もそれなりに熱演した。片岡我當がかれらしい役どころの温厚で賢明な家老職を丁寧に演じ、新・錦之助は綺麗な綺麗な殿様役。
満足して劇場をあとに、そのままクラブに入り、サービスのお祝いシャンパン、そして例のブランデー。妻が自祝の気持ちで18年ものの「山崎」を買ってくれた。クラブ年度替わりのサービス品に佳い赤ワイン一本をうけとって、電車に揺られ持ち帰った。電車ではわたしは『宇宙誌』を、妻は猪瀬直樹著太宰治論の『ピカレスク』に熱中。
2007 4・5 67
☆ 微妙な年齢? 馨
入学してちょっと「お姉さん」の自覚がでてきたのか、娘が最近、少し難しいことを聞いてくるようになりました。
先日、夕飯を食べようと着席した時のこと。
娘が突然「ねー、人間ってなんで生きてるの?」
???
「えーと、それは何を食べてっていうこと?」
「ううん、どうして生きてるの?」
うーん、もうこういう質問が出る年齢になったのかしら。ちょっと早いような気もするのだけど。
私は子ども向けに上手にかわすのができない性格で、たいていのことは直球勝負で打ち返してしまうので、今回も大人と会話するようにストレートに回答。
「いろんな人がずーっとそういうことを考えてきて『哲学』というお勉強もできているし、『宗教』っていうのもある。でも一つの答えはないんだって。ずっとその質問を考え続けてごらんよ」
「えー、いやだぁ。どうして答えがないのー」
「世の中、答えがないことも多いの。でも、考え続けるっていうのが大事なことなの。人生、これからはそういうことが多いんだよ。」
よい対応だったかどうかわかりませんが・・・。
そして、昨日。
主人と、何時頃選挙に行く? と相談していると突然
「どうして選挙ってするの?」
これまたストレートに打ち返してしまう私。
「国民の義務だから」
ここでかつて「おべんきょ」のできた主人が、訂正。
「選挙は義務じゃないよ、権利。そんなこといったら現代社会の試験で×つくよ」
「へぇー、義務だと思ってた…。現社なんて寝てたもの(言い訳です)。」
「罰則ないでしょ」
「労働の義務だって罰則ないよ。あれと同じじゃないの?」
「違います!」
と、話は横道にそれて行きましたが、その後選挙に行く道々、娘から質問攻めにあい、なぜ選挙をするのかから始まり、守秘義務だのなんだのまで説明し続けました。
自分自身が同じ年頃の頃は、読んだ本の主人公になりきっていたり、虫をずーっとながめてたりと、ぼんやりした子どもだったので、あまりにも違いすぎて、この年頃の子どものこういう質問にどう対応してよいのか…難しい。
でも、鋭い質問をしてくる一方でこんな一面も。
まだ春の浅い頃、雨戸を立てていたら夕焼けの中に星が見えたので「一番星が見えるよー」と声をかけると
「ひかるクンの星だね」
「・・・・」
「お葬式で、パパが『一番星になった』って言ってたもん」
そうだね。
一緒に卒園式を迎えることはできなかったけど、今でもずっとお友達だよね。
ひかる君のパパとママに、時が優しく流れて行ってくれますように。
二人でしばらく一番星を見ていました。
* 仏陀もイエスも老子も、答えられない質問には「沈黙」で答えていた。
「世の中、答えがないことも多いの。でも、考え続けるっていうのが大事なことなの。人生、これからはそういうことが多いんだよ。」
優れた対応だと思った。選挙のことも。一番星も。みんなで お幸せに。
* 夕日子にも幼稚園のころ、上の、「ひかる君」と同じようなお友達がいた。その夏京都へみんなで帰り、ビルの屋上で大文字をみたとき、すぐ東の山原にも大谷墓地に無数の送り火が燃えていた。夕日子は火の色にしろい顔を真向けて、涙をこぼしながら事故でなくなった仲良しを彼方へ見送っていた。『みごもりの湖」だったろうか、それを書き込んだ。わたしは今、十九で逝ってしまった孫のやす香を想っている。
2007 4・9 67
* 藝術のつぎにあまりに貧乏くさいはなしに思われるが、ま、しようがない。とにもかくにも書き机が身の回りに無い。狭くて置けない。
溜まり放題のあれこれを片づけようもなくダンボール函になげこみ、積み重ね、思い立ってその函四方の蓋を立て、四隅をガムテープで支えてみた。戸棚の棚板のあまった一枚を見つけ出し、これをその函の上に載せると、そこそこ机の代わりをすると見込んだ。見込みどおりでホクホクしている。ラジオの空き箱に風呂敷をかぶせて、卓袱台代わりに妻と三度の飯を食っていた新婚時代を思い出してしまう。なんだかあの頃に舞い戻ってきたみたいだ。
2007 4・11 67
☆ 初夏のような日 巌 従弟
今日は朝から良く晴れて。
店の前で 中学時代の恩師が市議会選挙に向け事務所開きをされていたので、激励に。 週末に法事があるので 前日には墓掃除をと思ってましたが 明日は雨だと言う人がいて 雨が降って山道がぬかるむと不精をしてしまいそうで 慌てて掃除に行ってきました。
相変わらず 山のお猿さんに荒らされてましたが 途中の木津川辺りの桜 少し花が散って隙間ができて いい感じに。
* 実父の末の妹に、わたしより少し年かさな恵子叔母が、木津川に近い、南山城の加茂にいた。一度会い二度会い三度めが無いまま亡くなって三回忌とか。合掌。
従弟は親の家へもどって新生活に。
桂川、鴨川、木津川、宇治川が流れ込んで淀川になる。そのなかでも木津川沿いに、木津、笠置までも南へ遡って行く一帯は、日本古代の民俗の底知れぬ宝庫のようなところ。残念ながらわたしはほとんど足をおろしていない。父方の親類も一二となくこの辺にと聞くのだが。
2007 4・12 67
* そういえば理事会で吉岡忍さん、さきごろ京都で鶴見俊輔、黒川創と三人で話してきましたよ、と。甥の黒川も元気らしい。よかった。姪・街子の「SURE」の方も順調に仕事を続けているらしく、それもよかった。
2007 4・16 67
* 冷え込む。ほっこりして何も手につかず、寒さのぶり返しに呆れている。
妻の医者通いの留守に、黒いマゴのために防虫剤を獣医に買いに行った。蚤をほぼ完全に防いでくれるが、値段の高いにも驚く。
* 南山城の加茂駅近くに喫茶店をもうすぐ開業する若い、若い従弟から、美味しそうな各種ブレンドの珈琲豆をもらった。宅急便の荷がすてきに良い匂い。四袋にそれぞれ当尾、加茂、瓶原(みかのはら)、泉川と名がついているのも懐かしい。
泉川は木津川の古名。
みかのはら わきてながるる いづみ川 いつみきとてか こひしかるらん 百人一首になだかい良い歌の「泉川」がこの木津川のことか、いまの京都御所の南西の辺へ流れていた泉川か、両説がある。「みかのはら」というまぎれもない知名を冠しているので南山城の木津川説がつよいが、藤原定国の邸だった泉殿の池庭を流通していた泉川には、この歌の作者とされる中納言兼輔に近縁がある。
しかしながらこの知られた名歌、じつは兼輔作でない「よみびと知らず」の作である公算が高い。木津川説はやや動かしがたいか。 2007 4・17 67
* このごろでは少し珍しいことだけれど、四人のメールがそろって届いていた。
花月まさしく春。家の中でつい靴下をぬいでいる。テラスに君子蘭の大きな鉢植えが五つも六つもはじけるように満開。書庫うえのチューリップは盛りを過ぎたが、他の花々はあれからこれへ、それへと咲き次いでくる。手洗いには、唐銅に妻がいちはつの三本と白い小さな花とを入れていた。背が高いので、わたしが床におろした。これが視野にやさしくて、花の嬉しさも伝わってくるよう。うちの手洗いは、花がよく似合う。
2007 4・23 67
☆ 建日子です。 詩歌集、ありがとうございました。少しずつ読んでいます。
文藝家協会から入会案内が届いたのですが、父上の段取りでしょうか。入った方がいいでしょうか。
『宇宙誌』読みたいです。貸していただくことは可能ですか。
そういうジャンルの本であれば、ホーキングの『宇宙のすべてを語る』という本も、父上の心を揺さぶるかもしれません。特に最後の「人間主義」というやつが。
今度保谷に行くときにお持ちしましょう。
* こういう内容のメールは、むしろ父子では珍しい。嬉しい。以前協会事務局の人とかるくそんな話題で立ち話したことはあるが。会費を滞納しないでくれるなら、入会はこのシマに身を置く一つの通過儀礼のようなもの。思うままにすれば、いい。
『宇宙誌』よろこんで、傍線で真っ赤になった本を謹呈するよ。「感銘深甚」と持ったままの朱筆で読了の日付が入っている。バグワンなど、よっぽどの本に限って読了の日付を入れて署名してある。
2007 4・23 67
* いつも元気いっぱいの人だった。お医者に叱られるようになったかと、わたしより一つ下、相憐れむ。子にも孫にも友人たちにも恵まれた人。ま、しぶとく、この先を元気元気に楽しみましょう。わたしたちのもう一人の孫娘は、元気にしているだろうか。風のたよりに、日本一の歌手になりたいとか。
2007 4・23 67
☆ フロリダ産のフグにご用心 ハーバード 雄
昼過ぎに,電気生理のセットアップに詳しいエドがやってきた.他所のラボでメインに働いているが,僕の研究室が所属するセンターのセットアップ全般を担当しているのだそうで,こうやって僕らの実験を助けてくれるのも、仕事のうちなのだそうだ.そんな人がいてくれるというのは,実に有難い.
昨日,JCが破壊してしまった部品も特殊な機械で取り除いてくれ,さらに,必要な部品を作製してくれるという.他にも,こちらの要望を聞いて,それに見合う部品を明日中に発注し,来週頭にはかなりの部品が出来上がるという.感謝.
4時からはセミナーに参加.生物発光に関する内容だったので,てっきり発光現象を利用して生命科学の研究に役立てるという内容かと思いきや,発光する生物そのものに関する内容だった.面白いことは面白いが,ちょっと期待はずれだった.
演者はフロリダにある海洋研究所から来た女性研究者だったが,遺伝子改変されたウミホタルの入ったフラスコまで用意しての熱の入れよう.部屋を暗くしてフラスコを振ると,ぼうっと青い光が見えた.天然のウミホタルの入ったフラスコもあったが,明るさが全然違う.
演者によれば,生物が発光するのは,食べられないようにするための威嚇なのだという.実際,発光するものの中には毒をもったものも多いという.本当かどうか僕は知らない.逆に,発光することで,毒を持っていると勘違いさせる効果もあるのかもしれない.
そうした毒を持った発光生物の例として,演者は,フグ毒に関する話をしていた.フグ毒はテトロドトキシンと呼ばれる物質で,普通,フグの肝臓に蓄積されている.テトロドトキシンはナトリウムチャネルという神経や筋肉に発現しているタンパク質に結合し,ナトリウムイオンが細胞内に流れ込むのを阻む作用がある.致死量を摂取してしまうと,呼吸のための筋肉が収縮できなくなり,窒息死する.
これが定説なのかどうかは知らないが,これらの毒はフグそのものの体内で作られるのではなく,寄生している微生物によって作られるのだという.そして,その微生物は発光するらしい.
ところが,同様に発光する微生物の中には,サキシトキシンという別の毒を作るものもあるという.フグの毒はほとんどがテトロドトキシンだが,サキシトキシンも1パーセント位含まれている.サキシトキシンもナトリウムチャネルの働きを止める働きがあり,テトロドトキシン以上の猛毒である.
余談だが,このテトロドトキシンとサキシトキシンの両方を併せ持つという恐ろしいカニが日本近海にいる.名前はスベスベマンジュウガニ.猛毒を持つ恐ろしいカニにしては,名前が可愛らしすぎる.
恐ろしいことに,フロリダには,サキシトキシンを分泌する微生物で,フグの肝臓ではなく,筋肉に寄生する種類があるそうで,実際に、内臓をきちんと処理したフロリダ産のフグを食べて死に掛けた人もいるのだという.そうした被害の分布を示す地図によれば,フロリダの大西洋側沿岸に亘って,びっちりと丸印がつけられていた.
とりあえず,フロリダに行ったら,フグだけは食べない方が良さそうだ.
* なんて読みがいのある、おもしろい記事だろう。夏目漱石という人も、こういう専門外の研究余話を聴くのが好きだったに違いないと、『我輩は猫である』や『三四郎』を読んでいると気がつく。なにしろ身近に寺田寅彦という物理学のお弟子がいた。ほかにもいろんな畑の学者がいて、漱石は「いい聞き手」でもあったように察しられる。
わたしは、もう、そんな面白い話を小説に取り込んでやろうなどという色気はない。面白い話は面白い話だと純然楽しんで聴いている。「雄」くんのこの日記に出てくる舌を噛みそうなしかも妙にリズミカルなカタカナの「名前」のいろいろを口ずさんでみるだけでも、気分が軽く浮かんでくる。
そういえば、歌舞伎の「外郎売(ういろううり)」早口言葉を、テレビに出ていた市川団十郎が舞台でもスタジオでも披露してくれていた。NHKの男女アナウンサーもとても歯が立たない早口言葉を団十郎はあの朗々の口跡でやってのける。彼のお父さんは、この芝居を久方ぶりに復活したけれど、早口言葉の所は舞踊化してあらわし、当代の成田屋が文字通りの早口言葉の藝を復活した。「売り」言葉なのであるが、とても長々しくとてものことでうまく言えない。舞台ではとちりもなくやってのける団十郎に感心した。
白血病から立ち直ってくれた団十郎。やす香の「白血病」告知があったとき、一抹成田屋の例もあると治療効果に望みをもったのだったが、「肉腫」では…。くやしい。
2007 4・27 67
* いま、いちばん安らぐのは、うちの手洗い。
手洗い棚にも、床にも、草花や青葉が上下になって、いっぱい。うちでいちばん落ち着いて、豪奢に目を楽します場所。
2007 4・28 67
* ひとりだけのこされた孫娘、やす香の妹みゆ希が、幸せに高校一年生の日々を満たしているだろうか、元気でいて欲しい。風の便りに、すこし風変わりな学校・学科へ進んだらしい。心ゆく日々、そして何より心身の健康で安全な毎日を祖父母は心より願っている。
2007 5・5 68
* 実父吉岡恒と生前に話す機会はほとんどなかった。わたしが避けていたからだが、妻は父の電話をうけて、いろいろ聴いていたようだ。柳生の里との血縁についてもそうだったか、しかと二人とも覚えていないが、「柳生」は父の母方または祖母方の里のように聞いた気がしている。それで柳生へ一度は行ってみたいと想いつつ、願いつつ、果たせていない。この先のことも分からない。
南山城加茂の若い従弟が、その「柳生」のことを書いてくれている。有り難い。
☆ 柳生へ行って来ました 孝
遠方の知人がコンサートをしに奈良市に来るというので 顔出しだけでもと思ったら 柳生でとのこと。
天気も良く 午前中で予定の仕事が片付いたので 加茂からJRで一駅を笠置に出 そこから 歩いて行ってみた。
昔は この地とはよく交流があったようで うちにも、母方の家にも、柳生や柳生家から嫁いで来ている先祖がいる。
笠置から柳生へは、二つの道がある。
一つはまず笠置山・笠置寺に登ってから尾根沿いに (おそらく元弘の乱の際 笠置の後醍醐帝の行在所へ 柳生郷から兵糧を運んだであろう道らしき辺り)と、
笠置寺へはいかずに 打滝川沿いに 登っていく (一般の用事ではこちらをとっていたであろう) 道。
今回は 打滝川沿いを歩いた。
打滝川は笠置山地を奈良市の東部から出 笠置へ流れ 木津川の手前で白砂川に合流し 木津川となる。柳生から笠置までは ただ滝が連なっている。
このあたりは巨石が多く もう少し広くとらえれば 大坂城の石垣も多くこの地域から運ばれ 途中幾つも備蓄された址がのこり それらは今 「残念石」と呼ばれている。
大きな岩は柳生にもあって 手力雄命 天岩戸を引き開けたとき 力余ってその扉石 空を飛んでこの地に落ちた といういわれを持つ神社があり
その側にも (写真の)一刀石がある この辺には大きな岩がいくらも露出している。
大きな岩を伝って落ちる水の音と、谷を渡る鶯の鳴き声とを、ずーっと聞きながら一時間登り道を歩いていくとポンとひらけた土地に出る そこが柳生の里だった。
渓流と野鳥らの響の援けがなければ とてもこの坂道今は歩き通せない。
古くからの豊かさを感じさせる柳生の里は 剣豪の里ということだが 建て方からすると元は商家であったのでは とおもえる家が 山間の里にしてはことのほか目に付いた。
柳生家の家訓に
大才は 袖すり合った縁をも生かす という部分があるらしい。 感度 工夫 精進 ということなのか。
建物については物識らずの間違い勘違いかも。
コンサートの会場となる アジア食堂 Rupaに到着。知人の車かなと思えるナンバーのものがあったが 皆出かけているらしく こちらもあちこち散策してみた。
どこをみて回るにも 春の坂道 足がお腹一杯というので 帰り道の事もあるので 近くで休憩していると 皆が戻ってきコンサートの準備が始まった。知人に声をかけ 少しだけお話をして 明るいうちにと また 歩いて笠置駅まで戻った。
とにかく ひさしぶりにたくさん歩きたかった そしてよく歩いた という一日。
* 柳生への道のりを、しっとりと、臨場感もたたえて教えて貰った。嬉しい。正確な筆致で書かれている。
父恒の生母が「良」という名前ではなかったか、裏に「良」と一字ある写真が手元に伝わっている。美しい人だ。この人は不縁になり柳生に帰ったとも聞いたような。その母の末っ子であった父は、彦根高商に学んだとき、彦根で下宿を営んだ寡婦「福(筆名阿倍鏡)」と出逢い、兄恒彦と私とを儲けたのであるが、父は母ほどの年の福に、幼くして生別した生母の面影を観ていたらしいという噂もわたしは聞いている。
2007 5・5 68
* 妻が髪結いに行っている留守を、のーんびり過ごしてしまった。まだ、のーんびりすることにいささかの後ろめたさを感じるとは、ダメな境涯。本気もウソ気もなく、のーんびりしなくちゃ。
2007 5・7 68
* 妻は近くの眼科へ。わたしも行って良かったが。
なぜか、今、本機のインターネットが不通になった。どうすれば回復可能か見当がつかない。それならそれで仕方がない。
2007 5・8 68
* いま眼を洗われて心落ち着くのは、手洗いに咲き溢れている花花を眼下にじっと眺めているとき。
花は、ふつう、やや高い、たとえば食卓や棚に花瓶をおいて眺めている。やや上目に、咲いた花をみあげている。花の首筋を下から見ている。床の間のしつらえが今日つい割愛される、と、自然そうなる。だが、テラスの植木鉢の花など、もともとは咲いた花容を上から眺めて楽しんでいる。盆栽や鉢植えはそれが普通で、花の顔はその方が自然に美しい。
で、家や部屋の中でも、倒れる危険のないかぎり、なるべく花は眼より低めに置きたい、玄関でも、そして手洗いでも。
その手洗いの、およそ二十数輪も一斉に咲いた愛らしい洋花を、「少女が口いっぱいにあいて合唱しているようね」と妻はよろこんだ。「合唱」という「表現」が、花容にふさわしいとおもしろく聴いた。
花が咲くと書くその「咲」の字を、昔の人は「わらふ」と訓んだ。「初めに月と呼びし人はや」と亡くなった山中智恵子はうたったが、初めて、「花咲ふ」と謂ってみた人の「表現」力は、センスは、たいしたもの、ことに草花の魅力を言い尽くしている。
だが今われわれが、相変わらず安易に「花わらう」では、何といってももはや慣用句の流用になりやすく、よほどでないかぎり、避けて通る。他の表現を探る。「お花がわらった」としきりに繰り返す現代の童謡を聴いた記憶があるが、ま、その辺までにまかせておき、よほどでない限り「花がわらっていた」と散文の作品には書かない。
一輪挿しの花を合唱とは謂うまい。淡い桃色五弁の花の芯に口紅ようの小さい底紅。そんな花の顔が上を向いて一斉に二十四、五も咲いていれば、なるほどね、「合唱」の容貌愛らしくて、眼がはなせない。おかげで手洗いがさながらの、明浄処。
2007 5・12 68
* 草まくら旅にしあれば母の日を火鉢ながらに香たきて居り 土田耕平
☆ 今夕 お願いした四冊届きました こんなに早く届けていただけたので 一と組はこの火曜日に機会があり その席に持って行こうと思います
感謝。
あと
もう 「体調のことも大事な仕事」と 不義理をされても良いではありませんか おからだの事 奥様・働き盛りの息子様の為にも あまり私されませぬよう お大事にと
まだうまく伝えらるように話できませんが
父が脳梗塞で倒れ10ヶ月弱入院し逝きましたが 母はその間 体調の不良を自覚しながらも 父を最後まで自分が守る・看病する 一緒に入院するわけにはいかない
その為 検査は受けない もし何らかの病で 手遅れとなっても自分の責任と 家族・医者にも宣言し 結果 父の死後に検査を受けた時は すでに末期癌でした
母の父 誠一郎は二人の妻ともに先立たれており 最期は 守伯父夫婦と嫁ぐ前の母が世話をしていた その体験もあり 自分は夫を看取るのだという意識 吉岡からの嫁として 病で弱った夫を 歯医者として 尊厳をもたせたままおくるのだという意識 父への愛 いろんな思いがあったのだと思います
検査を拒否した時には 話もしました
ただ こちらも迂闊にも納得してしまってました
ただ 子からすれば 今もやはり 母はそのからだと命を 私して逝った と
ですから ...
母の日に 拝 巌 従弟・南山城
* 泣く。
* 従弟はほかにも柳生の里との地縁や血縁にふれて分かる限りを教えてきてくれる。ありがとう。
むかし、わたしは一大発心して、自分の血縁やルーツ探訪の行脚を試みた。作品の中で「当尾(とおの)宏」とよく名乗っていたが、その加茂町当尾村に実父の生家、往年の大庄屋吉岡家も訪ねて当時府立木津高校の校長先生だった守叔父夫婦に歓迎されたし、加茂駅近くの医家に嫁いでいた従弟の母上恵子叔母にも逢ってきた。
わたしの遠い遠い朧な吉岡での記憶に、お姉ちゃんが二人、元気な犬が影のように浮かんで消えていなかったが、恵子叔母さんはその小さい方のお姉ちゃんだったことに合点がいった。どんなに嬉しく懐かしかったことか。東京へ帰ってからもわたしは妻や子が驚きあきれていたほど興奮しつづけていたのである。
その叔母と従弟とは西武線の石神井公園駅ちかくの親戚を足場に、突然保谷の我が家を一度だけ訪ねてくれたこともあった。今でも、石神井公園を電車で通るつど同姓の医院の広告が目にはいるときっと恵子叔母さんやいとこをわたしは思い出すのである。
2007 5・13 68
* 心嬉しいことがあった。
医学書院時代の後輩で、わたしのデスクに配属されてきた同僚中島信也君、筆名小鷹信光君が大著『ハードボイルドと私』で評論部門の推理作家協会賞を受けていた。新聞で見つけた。この著は十分それに値すると、もらったときすでに独り思っていたが、適切に実現した。推理作家協会というのはわたしには無縁世界だが、知人には大勢会員がいる。我が息子の秦建日子も現にそうであるらしいが、ペンの同僚の阿刀田氏も猪瀬氏も此の本に名前の見えていた権田萬治氏も、その他大勢が入っている。ま、仲間内、内輪の賞といえども、心ゆく心嬉しい受賞の報に胸が温かい。
2007 5・17 68
* 芝白金台の寺に、孫・やす香の墓参。
目黒駅前で建日子の車にひろってもらった。夏を想わせる日照り。庭園美術館や自然教育園前を通りすぎてゆく。医学書院のむかし、この道をとことこ歩いて、取材の仕事で白金の公衆衛生院によく通った。今は大通りの西側におおきな高層住居がふえているが、印象は昔とそう変わらない。むしろ左に、広尾の方へ降りてゆく広い道路ができてから、東側へ空間が明るく開けたと感じられる。わたしの歩いていた頃は迎賓館がまだ庭園美術館になってなかった。自然教育園へは東工大での授業の帰りに立ち寄ったりした。
八芳園に車を預け、表通りへ戻って、黄檗宗であるらしい寺院の参道へ入った。道の脇の季節の花も、つよい日差しにつぶされたように萎えがち。やや殺風景な石道がまるで夏日にぎらつき、額を灼かれる心地で小門の内、右に大きな扁額を掲げた堂の前へ出た。
境内、木立まばら。真昼時の閑散とした小径を、ためらわず墓地に入った。
そう整然とした墓地ではない、が、ゴミの籠は通路脇にみな空で、掃除は行き届いていた。木立も木陰もまばらで、目立つ大樹は目に入らないが、道や墓の根回りに季節の花がいろいろに咲いていた。紫陽花も。皐月も。山吹も。
★★家の墓所を、墓石を、教わっていた見当に少しもはやく見つけたかった。ただただ見つけたかった。「やす香、みんなで来たよ」と呼んでいた、胸の内で。
両親に打ち明けないで、おじいやんやまみいをあえて保谷へ訪ねた、やす香。どうかお墓に参ってあげてください、きっとみなさんを、やす香はお墓で待ちかねていますと、顔も見知らない人に誘ってもらった。有りがたかった。嬉しかった。
* 「★★家」とだけ表に書いた墓石を、ちょっと意表に出た角地に、建日子が先ずみつけた。おかめ笹と十薬の花とに少し囲まれ、右の脇道へまわると、「やす香」の命日と享年が、★★の祖父・祖母についで三行目に刻してある。その「やす香」の文字を、おもわず掌で何度も何度も慈しみながら泣いた。泣くよりほかに、墓石の裏面に向かい合うすべをわたしは知らなかった。妻も、叔父も、何度も何度も同じように「やす香」の文字を掌に包んだ。いつでもいい、何度でもいい、来たいときはいつでも何度でも好きな格好で保谷に訪ねておいでと言って、やす香より何倍も歳のいった三人が、孫を、姪を、心から惜しんで泣いた。墓正面の枯れた花や、散らばったものや、雨風の汚れ水を、妻が、少しばかりきれいにした。
「やす香」から立ち去りがたく、けれど、ほかにどうしようもなかった。卒塔婆や水塔婆を建てる備えもなかった。
たまたま表に「★★家」とある墓石の裏面が脇道に真向いていて、名が刻んである。わたしたちは、それをこそ「やす香のお墓」と眺め、掌を合わせてただ佇むしかなかった。わたしはただもう念仏十念、十数念。
「また来るよ、やす香」と声かけ声かけ墓地を辞してきた。あまり強い日差しに、わたしは堪えかねまた墓前へ立ち返って、鞄に持ってい冷えたペットボトルの水の栓を切った。「やす香」「やす香」と呼びながら、刻んだ名に、墓石に、また亡くなられている★★祖父母の名にも、せめてそんな水を注ぎかけてきた。
* 境内から脇の石段を道路へ下り、八芳園本館で三人で軽食し、ゆっくり話した。
妻が建日子の仕事場へ行きたい、猫のグーの顔を見て帰りたいというので、遠くない、いや近いと謂えるほどのマンシォンに立ち寄ることにした。脚はよほど痛んでいたが、脚の投げ出せるソファにすわり、ウイスキーを所望した。なんと到来物の「ブラントン」が封切らずにあり、建日子は気前よく振る舞ってくれた。好きなバーボンだ、感謝。
やがて恵比寿駅まで送ってもらい、一路保谷へ帰った。
* やす香に逢ってきた気がする、嬉しい、寂しいことであった。
そして今、わたしたちが心から毎日毎日気に掛けているのは、もう一人の孫娘、たった一人になった孫・みゆ希のこと。心ゆく、元気な日々、満ち足りた日々を、新一年「パフォーマンス科」の高校生らしく満喫しているだろうか。「日本一の歌手になりたい」とか風の便りは伝えてくれている。わたしたちは、ただただ、心身健康でいて欲しい、安全でいて欲しいとみゆ希の幸せを願っている。
* 杖なし、歩いて目黒まで行き恵比寿から帰ってきたが、脚は痛んだ。六月の京都行きは断念した。旅行鞄が必ず脚へ負担になる。それまでにも、二度三度四度とどうしても都内に出歩かねばすまぬ用がある。一日中、ペンの理事会・総会・新理事会・懇親会というハードな日もある。それにこの痛みに対する治療は、神経内科でもされ得ない、つまりは糖尿病を管理するしかないようで、痛み止め毎食後三週間分が、わたしの希望で、念のために出ただけ。とくに近くのその医院に通うわけでもない。
2007 5・23 68
* 次の、「優」さんの「mixi」日記は、ぜひ此処へも戴きたい。そして声を大きくして、此処で告げたい。お願いすらしたい。「今」を憂えているどなたにも、迂遠にきこえて端的・確実な、「おすすめ」を書き添えておきたい。
わたしの「今・此処」を目下励まし力づけてくれているのは、中公文庫『世界の歴史』第十巻、桑原武夫責任編集の『フランス革命とナポレオン』です。これを愛読し熟読しながら どうか日本政治の現状の巨大な危うさ、途方もない退廃に気づいて欲しいのです。易しい筆致で、的確に歴史を再構築し記述してくれています。記述は公正で立派です。莫大に教えられます。すぐ手に入る示唆豊かな好著です。
☆ 蔓延するスノビズム、労働者よ団結せよ! 優 e-OLD
「けなげなる茶髪少女を貧乏人と 吐き棄つる汝(な)はスノブの卑劣」 (都下多摩、一加齢茶髪男)
東京新聞等に掲載された、母子家庭に育ち家計を助け、将来は進学、獣医志望の夢を持つ16歳の茶髪のバイト少女が不当解雇に立ち上がった一件 (以下、記事転載)
2CHスレに早速こんな名無しの言葉が吐き棄てられた。
「茶髪って貧乏人に多いんだよな」
上流気取りの勝ち組と錯誤するスノブが、とくに親のすねかじりの若者がはびこり続けている、暗くジメジメと。
俗物根性、紳士気取りは辟易する。
お前らは何なんだ。親の丸抱えで進学校を出て、一流企業に就職したとして、偉そうに….かつて自分の足で立ったこともないくせに、
おまけにいつも名無しで、弱者を低く見て省みない、卑劣のきわみ。
笑止では済まぬぞ、
情けなや。
私の回りでは、労働者階級から、苦学(働きながら勉強すること)し――奨学金で学校を出て社会で自立している若者を多く見聞きする。そういう彼らを陰ながら応援する。
言っておくが、茶髪はファッショナブルだぜ。
中には、恵まれぬ生育環境にあって、いまは外面しか磨けない落ちこぼれもいるけど、みんな同じ制服着て親の庇護・過保護と見栄で囲われている血色の悪い子らの方がずーっとダサくて気色悪いんだ。
こんな姿(な)りで、日本の一部保護区域だけでなら通じるけど、厳しい社会、広い世界に飛び出りゃおおかた落伍するぜ。
も一つ言っておくが、英語のgentleman はgentle+manであって、元は「奴隷を、家僕をいたぶらぬ、傷つけぬ」なんだ。
☆ 『「茶髪は解雇」覆す フリーター泣き寝入りしない 2007年5月20日』 (東京新聞)
「茶髪」を理由にアルバイト先から解雇されそうになった16歳の少女が立ち上がった。東京都内に住む福家(ふくや)菜津美さん。フリーターらの労働組合「首都圏青年ユニオン」に加わって団体交渉に臨み、会社側の姿勢をただした結果、雇用継続を勝ち取った。
「自分と同じような目に遭った人のためにも言わなくちゃって、がんばった」。
少女の笑顔は、不当解雇にも泣き寝入りしてきた非正規雇用者たちに、希望をもたらしそうだ。 (佐藤直子記者)
「まじめに働いてきたのに、なぜ辞めなくてはならないのですか」
4月下旬、団体交渉が行われた豊島区内の会議室。机の向こう側の会社幹部や解雇を言い渡した店長、顧問弁護士に向かって福家さんは一息に言った。弁護士が答えた。
「髪の色が、店の規則に合っていないからです」
地元のファミリーレストランでアルバイトを始めたのは中学卒業後の昨年4月。時給820円で週3日、夕方6時から深夜10時までフロアで働く。週5日は早朝から隣町の牛丼店でも働き、バイトの掛け持ちで毎月の収入は14万円ほど。体はきついが、将来の進学や家計の援助のために頑張ってきた。
そんな生活が今年3月に変わった。ファミリーレストランの新任の店長が従業員の身だしなみを細かく注意し、福家さんには、従業員マニュアルの色見本に沿って、髪の染め直しを求めてきた。
福家さんは、突然の指示に戸惑った。仕事中は清潔感を保つため長い髪を小さくまとめ、装飾品は一切、外した。客から苦情が出たことは一度もなかったという。
「前の店長には注意されなかった。すぐに髪を黒く染めろと言われても納得できません」。
反論する福家さんに、店長は
「一緒に働けない。辞めてもらう」
と解雇をほのめかした。半年ごとに更新されるバイトの契約期限は7月末だったが、その期限すら守られない“通告”だった。
福家さんは4月、知人の紹介で首都圏青年ユニオンのドアをたたく。フリーターの若者たちが、個人で加入している労働組合。組合員になれば団体交渉権が行使でき、会社側と渡り合えることを知った。
「前の店長は仕事ぶりを認めてくれて時給も20円上げてくれた」。
交渉の席上、涙ぐんで声を上げた福家さんの横で、同ユニオンの河添誠書記長は
「有期雇用を繰り返してきた福家さんを雇い止めにするには正当事由が必要」
と主張した。これに対し
「(店長の言葉などに)解雇の意味はなかった」
とする会社側は、約1時間の交渉の末、雇用の継続を約束した。
同ユニオンによると、非正規雇用者の増加を受け、労働者の組合組織率は2割を切っており、残り8割は不当解雇にも泣き寝入りしているのが実情という。
同ユニオンなどは20日正午から、東京・千駄ケ谷の明治公園で集会を開催。福家さんも体験を報告する。参加無料。問い合わせは集会実行委員会=電03(3468)5301=へ。
* 親子三人で食事しながらの会話も、どうしてもこうしても安倍総理と内閣への、与党への、野党への、また世上の事件への、そして大きな格差や差別問題への慨嘆と希望のなさに話題があつまり、よそうよ、ほかにいい話題ないかなと舵をとっても、つい、うんざりする世の中への意気地のない愚痴へ戻ってゆく。
三菱東京UFJ銀行が超歴史的な好決算を出しながら、国の補助は受け取りっぱなし、しかも役員退職報酬は各一億円も支払い、安倍総理の身内であるそんな一人への未払いを詫びても、血税による支援になんら応えようとしない強欲を一言でも詫びる気はないようだと、新聞が暴いていた。ホリエモンや村上ファンドは刑罰されても、社会保険庁も日興證券もその他大企業の不祥事はほぼ一度も刑罰されていない。この不公平は何なんだと息子は怒る。父親は腕組みして天井を振り仰ぐ
2007 5・23 68
* やす香のお墓参りをしたことは、言葉にならない或る「ちから」になった。もののあはれは、ちからにも安心にも繋がっている。
* 五月末から六月へ、はや押し寄せるように用事の波が。
幸い、苦になる用事はほとんど無い。その気で楽しめばみな楽しめること。新年度に入り、日本ペンクラブの方が、各委員会も含めてどうなるか、新執行部がどんな方向へペンの舵を取る気か。すべて、この三十日の総会から始まる。
* 電子メディア委員会が総務省へ出向いて、先方官僚と対面の会議も予定している。例のわたしのホームページ全撤去というサーバーの暴行にもからんだ話し合いであり、参加する。
2007 5・24 68
☆ 慈雨 百
やす香さんのお墓が白金にあると伺い驚いています。十代のその昔、毎日のように通学で前を通っていました。今も、お願いしている呉服屋さん(店舗のない職人さん)が真ん前なので近くに行きます。付属の幼稚園もありました。
境内に入ったことはなくほとんど意識したことのないお寺でしたが、うちからこんな近い場所にお墓がおありとは不思議な縁のようなものを感じます。
お墓参りさせていただく立場にはございませんが、近くを通る時にはやす香さんのことを想いそっと手を合わせお祈りしたいと思います。
もうじき十回目の月命日です。
「わたしは今、二つの長い小説をゆっくり書き継いでいる。」
これほどやす香さんを、そして多くの読者を喜ばせている言葉はありません。やす香さんがお作のなかで「とわに」生き続けてくださいますように。
湖の本を注文させてください。エッセイシリーズから、
洛東巷談 9・10
死から死へ 20
私の私 知識人の言葉と責任 25
計四冊です。おついでの折にお願いいたします。『私の私』はプレゼントの予定ですので、ご署名はいりません。つまり他にはご署名が欲しいということみたいで、なんとも……ごめんなさい。
雨ですけれど、今日の雨は恵みの雨に感じます。お元気な一日をお過ごしください。
* 「お墓」でやす香の所在を再確認したという覚えではないのだが、それでも墓石の裏に「やす香」の刻字を観て掌にふれ愛おしんできた感触は、妻にもわたしにも言いしれぬ或る安心を与えてくれた。
こうして月命日を記憶していて下さる方々の数多いにも、胸を熱くする。
2007 5・25 68
* 滝の落ちるように、雨の音。わたしは童謡の歌詞にはこうるさい批評童子であったが、「アメアメ フレフレ カーサンノ ヂャノメデ オムカヘ ウレシイナ ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」は好きであった。「カーサン ボクノヲ カシマショカ キミキミ コノカサ サシタマヘ」「ボクナラ イインダ カーサンノ オホキナ ヂャノメニ ハヒッテク ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」と続くと不覚にも泣けた。わたしはそんな自分の母を知らなかった。持たなかった。
2007 5・25 68
* 黒いマゴが背後のソファで手脚をのばして、ときどきチラと尾を振って、ここちよげに眠っている。家中の好きな場所で憩ったりはしゃいだりしている。こちらも幸せな気分になる。
昨日来てくれた「臻」くんが、少年の晴れやかさをうしなっていないと妻がほめる。わたしの感想では、それは多年掛けて彼が獲てきたいわば成果なんであって、大学ではじめて会った頃の学生「臻」は、どっちかというと「うつむき」がちだった。それでも可愛いような笑顔をもっていた。しかも行動は超級アクディヴだった、まるでマニアックに。イチローとあだ名を奉ったものだ。
手を入れていってくれた機械のあれこれ、まだ、手があちこち届いていない。本機、旧機のファイル移送ができると聞きながら、手順など教わらずじまいに今、ウーンと唸っている。ま、よろしい。ボチボチやろ。
2007 5・28 68
* 五月が尽きた。六月。それは孫・やす香の悲しい思い出につながってゆく月だ。我が三十八年目の桜桃忌を迎える月でもある。
2007 5・31 68
* 言葉を喪ったまま口を結んで、じいっと眼を虚空にこらす。あげた視線のさきに、ピカソの描いた、「平和の鳩」の顔した健康そうに美しい女の顔が見えている。好きな絵だ。京都の四条縄手で、むかし愛猫ノコのために買って帰った尾をあげた愛らしい犬ころがわたしをいつも見下ろしている。やす香もあのノコを可愛がった。うるむ目の奥からもえる夏草に根を囲まれたやす香の平たい墓石が目に立ってくる。視線をさらに高くずらすと、玄関から移してきた会津八一書の「学規」の額が。
一 ふかくこの生を愛すべし
一 かへりみて己を知るべし
一 学藝を以て性を養ふべし
一 日々新面目あるべし
秋艸道人 印 印
七十を幾つもすぎた老境のわたしだが、少年のように「斯くありたい」と思う。
2007 6・4 69
* すうっと睡魔に惹き込まれる。眼が覚めなかったら、どんなにいいだろう。妻を困らせることは、しかし、できない。
2007 6・5 69
* 叔母の十七回忌が来る。京都へ行ったら墓参にと予定していたが、脚の怪我でやめた。昨日から、位牌所のまえで読経している。阿弥陀経。栄夫さんのためにもと思う。
転鬼簿と題した芥川の作があった。古稀をもう二年すぎて、それをもし試みれば途方もない人数になる。谷崎夫妻、志賀直哉、中村光夫、唐木順三、臼井吉見、河上徹太郎、滝井孝作、中河与一、中村真一郎、荻原井泉水、森銑三、福田恆存、斎藤史、井上靖、永井龍男、立原正秋、辻邦生、水上勉、和田芳恵、野村尚吾、杉森久英、長谷川泉、藤平春男、村上一郎、江藤淳、上村占魚、古田晁、酒井健次郎、また上村松篁、森田曠平、麻田浩など、指折り始めればきりがない。美空ひばりも忘れることが出来ない。養父母、叔母、実父母、実兄、異父姉兄、そして愛する孫・やす香にも先立たれてしまった。身内と愛した妹にも死なれている。
* 心弱いことだが、こう数えていくと、なあんだ、あっちの方がずっといいなあと心底思ってしまう、いや、思いかねない。
* 一日、三度にわけ、阿弥陀経、観無量壽経を前後二度に、読誦。
2007 6・10 69
* 叔母・高月宗陽の十七回忌。早起きしして、阿弥陀経と、般若心経三遍、読誦し念仏百遍。
きまってお経の誦しはじめは、俗念にとらわれる。すすむにつれて落ち着く。昨日の観経も、阿弥陀経も心経も文句精緻清潔で、いわゆるお経誦みに読んでいても時として文藝としても感嘆する。漢字ばかりならんでいてもお経誦みに読んでゆくことは数重ねていればそう難儀ではない。般若心経のことはいま毎夜バグワンに聴いているし、阿弥陀の浄土三部経は読み始めて何十年にもなる。
秦の父にも母にも叔母にも不孝の限りをつくしてきた。ほんとうに何もしてあげられなかった、さぞ心ゆかぬことであったろう。いつでも一に目につく家のま真ん中、廊下の奥の棚にわざわざ仏壇から三人の位牌をうつし、華で飾り、日に幾十度となく前を通るたびに、父には松壽院さん、母には心窓さん、叔母には高月さんと呼びかけている。感謝であり、しかし多くは慚愧からである。
* 父は明治三十一年に、叔母は三十三年に、母は三十四年に京都市内で生まれた。父は先ず平成元年に亡くなった。九十一であったか。叔母は二年おくれて九十で、母はやや後れて九十六歳で亡くなった。三人とも京都から西東京へひきとりながら、最期は三人ともそれぞれの病院や施設で死なせてしまった。両親はわれわれに垣根をへだた隣家を遺してくれた。叔母は多くの茶道具を遺してくれた。父は大学院にまで行かせてくれたし能・謡曲・歌舞伎の妙味を与えてくれた。叔母は茶の湯と生け花と京の女文化を与えてくれた。母はくるしい女の一生を身を以て教えてくれた。
2007 6・11 69
* 六月歌舞伎座昼夜通しは、盛り沢山の演目と、役者たちと、眞中央通路際の五列目、六列目の絶好席に恵まれた。夜は通路を隔てた左に「塩爺」さんがいた。暑いと聞いていたのでジャケットはやめ、息子が岩下志麻さんにもらった軽やかな、両腕はシースルーという色目渋いシャツ、おやじにいいよと呉れたのを、明るいズボンに合わせて着ていった。妻も、とびきりオシャレなベージュのニットアンサンブル。ラピスラズリの二重のネクレス、同じ色のイヤリング。わたしの母に貰った大きな佳い色の翡翠の指輪。まだそれらが似合う。歌舞伎座はわれわれのほとんど唯一の楽しみ場。及ばずながら佳い気分ででかけ、良い気分で帰ってきたい。生き苦しい日々、どんな他に楽しみがあるだろうと指折り数えて、観劇、読書、花を観るぐらい。酒と食欲を糖尿で厳しく抑えこまれ、頭を大石でおさえられている気分。だんだんメリ込んで行く。ハハハ
2007 6・12 69
☆ 日本古寺美術全集 泉
新聞広告で見た集英社出版月一配本二十五巻を、矢も楯も堪らず、やりくりをして購入したのは、生活、教育費にアップアップしていた遥か昔でした。長閑な老後の楽しみにしようと想ったものです。
当時も帰京すれば、両親の好みに任せ、車で神社仏閣巡りに余念がありませんでしたが、私の場合、当然、頭を垂れて手を合わせますが、偶像崇拝の気持はそうありません。
でも、古の仏像には魅せられ、ハマリます。
その筆頭が興福寺の阿修羅像。私のアイドル。今でも大好きな人にやっと出逢えたよな高揚で胸キュンになり、この古稀すぎた老体にも若い血潮の残っているのに戸惑い、くすっと笑えたりします。
で、ある配本の月報で、あなたのエッセイを読みました。
先日、岩清水八幡さん近くの友人宅で一泊お世話になることになり、ご主人のご好意で「あんたの行きたい処へドライブするから何処がええのん」と電話があり、場所柄、咄嗟に、「ながれ橋と浄瑠璃時と岩船寺」と返事をしていました。
時代劇によく嵌るながれ橋の傍は幾度も車で通っていますが、機会があれば渡ってみたかった。風情の佳い橋でした。
奈良とは紙一重の位置にある加茂は、その昔に親達(親は初めてではなかったらしい)と車で訪れています。路線バスは一日四、五本のダイヤで、つまりは当時と同じ風情のたたずまいを保ち、当時は珍しかった無人販売の吊るした野菜などが、あの頃も百円だったのかどうか、友人は柔かいやろかと筍を、私は梅干とお茶を購入しました。
そうだ、と昔の愛読書「ミセス」に掲載されたあなたのエッセイを読んでみました。
そうそのまま、何も変わっていない、なと。
そんな交通事情の平日でも、さすがに国宝、阿弥陀堂、国宝、九体の阿弥陀様の拝観に、途切れながらも人影を見ます。再び来る機会はなかろうと、正座してしばし瞑目しました。
池を挟んだ薬師如来がおわす国宝三重の塔へ池を巡って散策をし、叢からの蛇の歓迎に大騒ぎをして、花ははんなり控え目、早や蝉の声を聴いたような・・・
理系のだんな様には、「ええとこを教えてもろた」と、えらい悦ばれました。
岩船寺は駐車場から少し登り、本堂でお住職さんにしっかりとお説教、いや苦情の聴き手かな、を戴き、つまりは「最近の学生や参詣人の多くはなんの知識もなく物見遊山気分で来る。花ばっかり追おて、雨が降ってきたら雨宿り代わりに本堂に入って来る」と。
鬱蒼とした池の蓮は開花寸前、紫陽花は色鮮やかに咲き、あの三重の塔の鮮やかな丹の色も塗り替えて日を経ないのか、木漏れ日の新緑に映えていました。
浄瑠璃寺を少し下った車道には猿群が出没していました。
* 尻枝という部落まで入ってゆくと、わたしの実の父生家の吉岡家が街道から大きく見える。
すごいほど巨きかった柿の樹は、まだ伐られずに在るだろうか。
吉岡は当尾の大庄屋だったとか。両親を見失っていたちっちゃかったわたしは、この父方祖父の屋敷で二三年も暮らしたのだろうか、よく分からない。
そしてある日訪れた秦の父と母とに手をとられ、京都へ。秦家に正式に入籍したのは戦後、新制中学入学のおりであったようだから、いわゆる里子として出されていたのだと想う。京都府視学も務めたという吉岡の祖父と祖母とは、何回か、わたしの顔を見に新門前の秦の家を訪れていたらしい、なにも覚えていない。
父と生木を裂かれていた生みの母は、必死でわたしを探し回っていたらしい。戦後の法手続き改定で、実父母の承認なしに養子縁組が出来ないことになり、余儀なく交渉の場へ母も探し出され加わってきたが、そういう陰の折衝はむろんわたしには一切隠されていた。自分がこの秦の家に生まれた子でないことは、しかし、人に囁かれて昔からわたしは知っていた。東京へ出て行く直前まで「知らぬフリ」をし通した。
浄瑠璃時も岩船寺も、むかしは吉岡で裁量していたんだと言いながら、亡くなる少し前の当主守叔父さんはわたしを両寺へ連れて行ってくれた。あの日の帰り、いちばん若かった恵子叔母さんと加茂駅のちかくの婚家で逢ってきた。その守叔父も敬子叔母も亡くなってしまった。
* こういう思い出は、ただ懐かしいというようなものでなく、時にはわたしを呻かせる。
2007 6・17 69
☆ 才能ってなんだ。 謙
昔、ぼくに向かって「才能っていうのは携帯電話がつながることだ」と仰ったプロデューサーさんがいらっしゃいました。
今でもぼくはそれをよく思い出します。
「深い言葉だな」と思うわけです。
決して、ものづくりをナメた言葉だとは思わないんです。
「才能がある人というのは、携帯電話一つにも24時間きちんと気を配り続けられるほど、チャンスというものにハングリーで居続けられる人のことだ」
と、こう書けばどうでしょう。ちょっと印象が変わりますよね?
一瞬だけなら、たくさんの人がハングリーになれます。
ハングリーになって、これからは物凄く努力するぞと決意したりします。
でもね。365日ハングリーでいられる人はあんまりいません。
なぜなら、世の中には、たくさんの楽しそうな寄り道があるからです。
家で本を読むより、友達と飲みに行って噂話したりする方が楽しいです。
台本と睨めっこして「この役の気持ちは―――」なんてしてるより、ショッピングの方がそりゃ楽しいです。
うるさく小言を言う人より、「今のままの君でいいんだよ☆」なんて言ってくれる人の方が、一緒にいて楽しいに決まってます。
で、いつか、せっかくのオーラが、ユル~くなってきます。
もったいないなと思うのです。
芝居勘とかルックスとか目力とか、いろいろ素敵な物を手にしているのに、それを生かさずに消えていく人のなんて多いことか。
結局、最大にして最強の才能は、「自分を甘やかさずに努力し続けられる」ということなのですよね。そういう風に、ぼくはプロデューサー氏の言葉を解釈しています。
自分を甘やかさずに努力し続けられる!
んー。おれも気をつけよう。
日々努力。これ最強。
* こんな述懐というか決意表明をおしまいの太字になった結語まで読んで、この結語そのものの、閃かない、手あかの付いた決まり文句にびっくりした。
この人にはまだ「昔」なんて無いのではないか。プロデューサー氏のハッパは、まさしく駆け出し作者むけのニンを見て説いた法だと、この人は分かっていない。
駆け出しの頃は、四六時中、ありとあらゆることを刺激や励みにして創作生活の「持続」に熱中する。わたしもむろんそうだった。原稿依頼を断れない。だから村上華岳なんて知らないのに依頼原稿を引き受ける。しかしそれが縁になり起爆力になり財産になって行く、財産に変えてゆく。
この、変えてゆく時機から成熟へ進む頃には、ものの見えている人の助言は真逆様にこう変わってくる。
「才能っていうのはね、携帯電話を捨ててしまうことだよ」と。
この人は、まだ、こういう助言を得るにまで至らぬことに気がつかないらしい。まんまと自分を甘やかしている。少し皮肉にひっくり返して言うと、携帯電話による「ひも付き」に甘んじて仕事してくれよとの企業都合の管理に、四六時忠実に従うことで「おれなりに」「日々努力」しているのであり、だがこの口実は、いずれ創作という骨身を削るこの道では、通らなくなる。
たしかに二十四時間「携帯電話」に払う注意や集中の必要な時期もある、が、とんでもない邪魔になってくる時もある。
此の、後の方の到来こそ、実は「努力」の成果なのであるが。成果は、ただチャンスや注文で積むのではない、良い仕事で積むのである。
2007 6・18 69
* 一年。去年の今日にはもう孫・やす香が入院していた。嗚呼。今も尚、お見舞い下さる人がある。
2007 6・19 69
* 去年の今日までは、平常…であった。明日、六月二十二日に孫のやす香は「mixi」に自身の「白血病」を公開し、それも診断違いで、やがて最悪の「肉腫」と判明し、七月二十七日に亡くなった。わたしたちの世界は明らかに色を変えた。
今日、わたしは、ふらりと家を出る。たぶん帰ってくるが泊まってくるかも、泊まりを重ねてくるかも知れない。泊まり歩くということにわたしの希望はない。外を歩いて日頃見知らぬ凡山凡水に視野を染めてこようというだけ。またそれが運動にもなる。
* 幸い、校正という差し迫った用があり、作業場として空いた列車内が最適なので、うまくすれば今日のうちに済し終えてくるかも知れない。そうなれば家に帰り、印刷所にもどす用意をし、ボールを向こうに回しておいてすぐ発送用意にかかることになる。通算して九十一巻めを造るのである。九十巻代は、おそらく最後の坂道になる。ゆっくり行く。
2007 6・21 69
* 熱海へふらりと出かけたが、大いに思惑違いでヘキエキした。
車で海岸へ出て、お宮の松と称する貧相な松の前を通りながら、運転手に話を聴くと、ちょうど午前の時間だったが、予約なしで、食事させて温泉にも入らせて泊まっていかない客を迎える宿はないですよ、と。何軒かまわったが、なるほどその通りなのには、風来坊のわたしもわるいのだが、熱海全体の火の消えたようなショボーと寂れた印象とイヤに連動していて、あ、この温泉街はもう末期を迎えているんだと感じた。
えいくそと、目に入った熱海城が高い場所なのであそこで海をみたいと車に連れてゆかせ、しばらく凪ぎに凪いだ好天の太平洋を眺めていたが、立っているだけで眠くなり、空腹を満たすために大きめなホテル旅館に連れて行ってもらった。後楽館といったか。そこも右に同じいささかの愛想もなく、顧みればわたしの風体はいかにも実に無頼そうなうさんくさい爺。こりゃ抵抗してもムダとあきらめ、十八階のレストランに上がり、せめて洋食であれ何であれご馳走を食ってやると決心していたが、メニューはじつに陳腐な安料理。仕方なく中でも上等らしいヒレステーキの定食をキリンビールで飲み込んだ。
フロントでタクシーを頼み、駅に帰って熱海を遁走しようかなと、それでも何処かあるかと尋ねると、ハーブ・ローズガーデンというのがとても気持ちの良いひろびろしたところですと。一昨日帝国ホテルのクラブでハーブ入りのカクテルをサービスに振る舞われたのを思い出し、じゃそこへ行こうと。
* 園内バスに乗せられ、一キロばかりの舗装した山道を登っていった。そこでおろされて、下りは庭、庭を見て回りながら歩いて行けといわれ、腹をくくって、ラベンダーやハーブや薔薇や、やたら沢山な花の庭をぐるぐる回って下りるうち、ローズの紅茶なんぞが売り物の喫茶店があった。カウンター・テーブルの海にいちばん近い席を占めて、気分良く長居させてもらった。
店を出てまたぐるぐると経巡りながら、ふと気づいた木陰のベンチが、真っ向に錦ヶ浦を遠く見下ろせる、左右の山と背後の木立に包まれた、なんだか母の胎内にまた包まれているような場所にあった。時間をせくわけでなし、そこに座って茫々の遠い外海や、初島へ往来の白いフェリーや、錦ヶ浦に寄せて返す波を持参のオペラグラスで覗いたり、妄想したりしていた。
この園内にずいぶんいた。閉園の時間さえ近づいていた。
入り口でまたタクシーを呼んだ。この運転手に熱海の愚痴を言い、せめて美味い魚が食いたい佳い店を教えてと頼むと、熱海駅に近い店へ連れて行ってくれた。店は、東京根岸の香味屋とはとても行かないさびれた店で、客も一人もいなかった。東京じゃないんだからと自分に言い聞かせ、雑駁なナリの女将に品書きをみせてもらい、いきなり伊勢海老という大きな字をみつけた。次ぎに兜煮を見つけた。よし、この二つと刺身定食だ、酒は土佐鶴の冷酒二合。
これぞ大当たりだった。どでかい伊勢海老の髭も目玉もまだ生き生きと動いていて、刺身にした身はうっと呻くほど美味い。最高。定食の刺身がまたいい。東京や京都の華奢な店でならこの一切れを四切れに分に薄くそいでくるなあと思う、そういう豪快さでどかんどかんと幾いろも盛ってある。
こういうのが食べたかったんだと、吠えそうになった。
暫く時間かけて出てきた兜煮の豪快なこと、目の下何尺と想われるほど兜が大きく、大鉢から溢れそうに濃厚に煮てある。わたしの大好物、鯛は刺身と共に兜煮をせせりきるのが楽しみの楽しみ。
酒はおさえて、この豪勢な魚料理をわたしは悉く美味しく退治した。嫌いなものは何にもない。そしてときどきやす香のことも思い出していた。
間近な駅から、買い置きの切符で、校正しながらさあっと一気に東京へ帰った。保谷まで混んでいた。なにかしらん、もうひと味足りないなあと、駅の食堂で生ビールの小さいのを一つ。そして此処でも校正を少し。そしてタクシーで帰宅。入浴。
二階の機械の前へ来て、用事の出来ていたのをメールで知り、その対応に慎重に時間をとるうち、日付も変わっていた。
2007 6・21 69
* 涙雨。 去年の今日の「mixi」で、わたしたちは孫のやす香自らする「悲報」に泣いた。今も泣いているが、それではやす香も悲しかろう、淋しかろうと気を励ましている。西武線のすいた車中で、まみいに寄り添い私の方へ笑んだやす香の遺影が、いま手の届くところに。
やす香…やすかれ。
さにはべの草葉なみうつ慈雨の季にひとりを堪へてやす香恋ひしも
おぢいやんと呼びて見上げて腕組みてはげましくれし幼なやす香ぞ
あの日から、わたしは凍っている。
2007 6・22 69
* いま、しきりに袋田の瀧がみてみたい。妻と行った日光の奥の奥の宿、小さかった建日子を連れて行った中禅寺湖畔の宿なども
2007 6・27 69
* 今朝嬉しかったのは、すこし早いが山種美術館のカレンダーを七月にめくった途端、西村五雲の愛らしい金魚の繪があらわれたこと、題の「金鱗」は重いが、繪は清冽、軽妙、爽快。受け網にさらっと掬われた三四尾、体躯は短くふっくらと尾鰭のひらきようが美しい。観た瞬時、わたしの身内に
どんなに莫大に幼年のころへの懐かしさがのこっているかが感じられ、涙ぐみそうになった。泉水に游がせていた金魚たちは、こういう姿でなかったし、ちいさい川魚もいたが、わたしの夏はいつもかれらといっしょだった。笹竹がそよいでいた。奥の四畳半の押入には仏壇がおさまり、その前での食事には祖父がいて両親がいて叔母もいた。ガラス障子を夏向きに葭簀のに替えて開け放ち、黒い昔の扇風機がまわり、縁側に向いてわたしのちっちゃな勉強机があった。風鈴が鳴った。
故山入夢…。
2007 6・28 69
* 息子が袋田へ車で連れて行こうかとと言ってくれている。あそこまで脚を折って狭い車での往復は、ひとしお疲れそう。常磐線で一時間、そのさきの水郡線は袋田までけっこう時間かかるけれども、のんびりできる。思い立つか立たないかが問題だけれど
2007 6・28 69
* 秦の祖父の箪笥や長持に沢山な漢籍があった。ごついのは辞典・事典の類となぜか韓非子の立派に装幀した「枕」ほどの本があった。兜虫の肌色した、なかみは知らないが本の姿や色に圧倒され尊敬した。和綴じの本も小さな文庫ふうのもあり、和綴じの唐詩選五冊と文庫の白楽天詩鈔は子供ごころに最も親しめた。
白詩に接していたことが、わたしを創作生活へと長い期間掛けて押し出した。反戦詩の『新豊折臂翁』を繰り返し読んでいなかったら、あの六十年安保の年にしきりに小説が書きたいとは、また三十七年七月末突如として処女作『或る折臂翁の死』を書き出しはしなかったろう。
漢詩や漢文にはひょつとすると和文の古典より早くに心惹かれていたのではなかったか。白詩だけでなく唐詩の絶句など、よく朗唱した。さすがに漢文はらくに読めるわけがなかったが、同じ蔵書の中の頼氏による訓みくだしの『通俗日本外史』という大冊がわたしのお気に入りの朗読本であったし、おそらくその感化はわたしの文体に相当色濃く残っているのではないか。
久しく漢詩や漢文に遠ざかっていた、が、近年、興膳宏さんの本を重ね重ね頂戴し始めてからまた昔の好みを思い出しかけている。京大教授から京都博物館の館長を務められていた興膳さんは中国文学者。「湖の本」を介してこういう方とご縁の出来るのがわたしの嬉しい余禄というもの。いまも氏の著書を毎晩の読書に加えて、本を赤い傍線でたくさん汚している。
2007 6・30 69
☆ 開店一ヶ月経ち 近況です 巌 ・従弟
梅雨もそろそろ半ばとなりましたか 身体・気持にはしんどい事も多い時候 大事無くお過ごしでしょうか。 ホームページはいつも立ち寄り読ませて頂いています。
こちらの小売店舗 六月一日に開店し一月が経ちました。 お客さんは少ないながらも毎日あり 元気にやっております。
お客さんに焙煎した豆を手でも触れるように 友人に焼いて貰った夏茶碗のような朝鮮唐津と 家に在った朱塗りの菓子皿に飾っています。
「今採ってきたのよ齧ってみるか」と胡瓜の差し入れを 持ってきて頂いたご近所さん それを見ておられてたのか 淡交社刊の雑誌「なごみ」の唐津の特集の号も。
それで今 「茶の道廃るべし」を読んで頂いていて
「金沢(=宗推・宗汀・宗也)先生の事が出てきてびっくり この叔母さんと書いてある方も秦さんというの? 私も金沢先生三代の一門なのよ ...」
父と同い年のご近所さん 長らくお茶を教えもされていて 今でも五条まで折々行かれているそうでした。
このご近所さんや従姉達にいろいろ助けをして貰って やっています。
近況も この拙いメールだけではなんともですので コーヒー豆を送ります 明日には届くと思います。
嗜好品ですので好みというのはありますでしょうが ちゃんと焙煎業者として出せる 楽しんで貰える物です なにがしか伝われば幸せです。
それでは またメールします。 拝
* 感謝。南山城の加茂駅にまぢかく、お店を開いたと。一度わたしも訪れたことのあるご両親の住まいを利しての開店。もし焙煎のコーヒーを買ってみようと思って下さる方には仲介したい。
* 加茂といえば、一つには当尾を思い出すが、今ひとつは後醍醐の笠置蒙塵、そして楠木正成。と、なると今も毎夜欠かさず音読している『太平記』に行き着く。全四巻本の二巻目の半分まですすみ、新田義貞、北畠顕家ら官軍は今しも三井寺を攻めている。天皇は比叡山に隠れ、都は逆徒にして征夷大将軍の足利尊氏が占拠。ここで尊氏は情勢を見失って、やがて西国へ遁れゆかねばならないだろう。
この膨大な大冊はとても黙読では読み切れない。音読すると快調、いささか陰惨で平家物語とはだいぶ意趣であるにせよ、たいした名文である。昔の人はこんな文章を暗誦しては型にはまった美文を書きたがった、その誘惑に嵌って得意だった連中はぜんぶダメになったのである。露伴のように、自身の偉大な文体を創出しなければ文学には所詮成らない。
2007 6・30 69
* 夕飯に建日子が来るという。隣に積んだ自分たちの荷物を片づけ、引き上げてくれるという。
2007 7・3 70
* 息子たちを迎えて、折良く「美術京都」の親会社からお中元に届いた美味しいビーフシチューで夕食した。恰好のご馳走がおいしかった。
息子たちは隣棟に積み置いたたくさんな荷物の大半を整理し、車に積めるだけを積んで帰った。まだ少し残っていて、余は処分してくれと。そのなかには夥しい文庫本のいわゆる洋物の読み物やハードボイルドや推理小説・冒険小説がある。わたしも昔に大方読んだが、もう読み返している時間が惜しい。処分する。つまり捨てるか綺麗な本なら図書館に寄付する。
作業のあと、しばらく話していった。たいした話ではなく、わたしはおおかた黙って退屈して聞いていた。こういう団欒の時間はめったにないのだから、同座して聴いていた。
2007 7・3 70
* 夜前はほとんど眠った気がしないので、十時半、もうやすもうと思う。夜に読む本も、夕方の内に読んでおいた。バグワンと大拙と太平記の音読だけしてからだを休ませたい。今日は午前中脚も痛んだ。自転車で走る元気がなかった。建日子たちに心配させたか知れない、眠いだけだから心配しなくて好いよ。
2007 7・3 70
* これで気持ちよく外出できる。
建日子は元気だろうか。しんぼうづよく通院してくれるように。アレルギーはなまやさしい病気ではないのだからね。
黒いマゴは夏やせしている。わたしの掌に顔をうずめて寝入るときもある。眼のちからはしっかりと、美しく光っている。
2007 7・5 70
☆ 今年の山一番は 巌
三十六年ぶりに蘆刈山だそうですね。
先日のメールに書きました ご近所さん 当方の開店初日にお祝いも頂き コーヒー豆もよく買って頂いているのですが 先程
「本、もう少し貸しておいて ゆきつもどりつしながら ああか こうか と楽しませてもらってる」
と仰ってました。
お弟子さん達にも読ませてみようとの様子もあり そのご近所さんの「宗静」さんに贈りものとしてしたく
『茶ノ道廃ルベシ』
『死なれて・死なせて』
の2冊を 加茂の私の住所に送って頂けるよう御願い致します。
「湖の本」の送金先としては郵便口座のみで 銀行の口座はお使いではないのでしょうか 昼間なかなか店を閉めては出歩きにくいので もし銀行振り込みで許して貰えるのであれば 御願いしたいのですが。
* 「山一番」とは、祇園会巡行の、籤の順。鉾では長刀鉾が籤とらずの先頭を行く。籤引きは今ではなにか安っぽい福引き並みに思うか知れないが、神意を問う大昔はたいへん重い方法として、他国にも例は少なくない。
「宗静」さんというお茶名では、秦の叔母の友達で千家十職袱紗の徳斎ゆかりの方が、梶原宗静さんといいこの方も金沢宗推さんの同門だった。叔母が生きていたら百十歳前後、梶原さんも同年配であったから、もう他界されているだろう。わたしの愛用した何枚もの茶袱紗はみな梶原さんに戴いた。わたしの点てるお茶がおいしいと、よく所望された。いまも梶原さんから手に入れた茶通箱や盆点や臺天目など、ゆるしもの専用の佳い袱紗が手元にある。
2007 7・5 70
☆ アラビアのワイン 巌
コーヒーノキの原産地はエチオピアの高原とされている
今もエチオピアではコーヒーノキの葉を乾燥させ 場合によってはそれを焙煎し浸出させて飲料とすることがあるらしい まるでお茶のように。
コーヒーについて文字で書き残された物は どうも九世紀を遡る物はでてこないようで。
陸羽の茶経は八世紀半ばに著されているので 焙煎し浸出して飲む事も それのセレモニー化も イスラムと中国の交流の中から生まれでたのかも知れないなぁと思ったりする。
出エチオピアを果たしたコーヒーは アラビアのワインとも表現され モカの港からヨーロッパヘ運ばれていった。
当時はまだ コーヒーカップには取っ手はついてなく また 大きめの器で回し飲みをする事も多かった様子。どれくらいの温度で飲まれていたのかなと思う。
今 エチオピアのイルガチャフィ 冷めたのを口に含むと 確かに アラビアのワインです。
* 「コーヒーノキ」というのが固有名詞かどうか判読出来ない。「コーヒーの木」か。「アラビアのワイン」ですか、おもしろい。
娘が、いっとき「茶」の伝搬地図に関心をもって調べていた。「テ」の国と「チャイ」の国とがあるとか、あれこれ。チャイナというと陶磁器だが、なぜかジャパンというと、漆器。漆器のことも調べていたようだ。結婚後は、もうそんな余裕もなかったか。
2007 7・6 70
* 山種美術館の今年のカレンダーは、主題が「愛らしきもの」。表紙に竹内栖鳳の重文「斑猫」だった。たぶん水温む三月四月だったろう、やはり栖鳳の蛙を描いた「緑池」がすばらしく、この二枚はめくったあとも捨てがたくて、置いてある。
いま七月八月分に西村五雲の金魚の「金鱗」また絶妙。
狭いながらも我が家でも草花や木の花を四季とりどりに愛して、わたしはよく写真に撮る。めいめいのデジカメで撮って、たいていわたしの方が好く撮れていると妻は悔しがる。妻は地面に目をくっつけて、いろんなものを見つけている。
2007 7・8 70
* 二十年前、早稲田の文藝科の教室で出逢って、いまも連絡、あるいは連携のある人が四人。その一人、たぶん角田光代さんと同期であったろう松島政一君とは、間歇温泉のように間をおいては定期的に両方から噴き上げ合ってきた。湖の本エッセイ21『日本語にっぽん事情』のなかの「日本語で『読む』ということ 春琴と佐助」「再び日本語で『読む』ということ 名作の戯れ」で、わたしに呼びかけられている「M君」である。
その「M君」がまた佳い手紙をくれて、たくさんの「近況」も知らせかたがた、今しも関わっている仕事へ「招待状」を送ってきた。
井土紀州監督作品、三部作の映画『ラザロ』だ、チラシに角田光代が推薦している、「ざらついていて、乱暴で、毒気に満ちた作品なのに、私は至るところに静かな愛情を感じた。それがなぜなのか、映画を見てからずっと考えている。これはそんなふうに、心にべったりはりついてしまう映画だ」と。雨宮処凛も高橋洋もいまおかしんじもそれぞれ興味有るエールと感想を寄せている。
映画『チェケラッチョ』を創った秦建日子の感想もわたしは聴いてみたい。
松島君はそれだけでなく、その秦建日子の仕事への率直な批評も書いてくれているのが嬉しい。批評の向きはわたしにも分かる、納得できる。ちいさなお山の大将でいがちな、その意味では力量ある人との切磋琢磨、しのぎを削る戦闘の乏しいとわたしには見えている秦建日子には、ぜひ欲しい批評であったし、咀嚼してほしい。健康をしっかり回復して、折角、タケって欲しい。体力がゆるせば一緒に観にゆきたい、あるいはパートナーと一緒に観てくれるといい。
☆ 大変ご無沙汰しております。 松
『歌はうたえども、破れかぶれ』という冊子を、以前にプログに書いていただきました。覚えておられますか? その井土紀州が、同封チラシのように、それ以来の大きな仕事をし、私もその手伝いでパンフを作りました。肝心のパンフの方は、初日会場必着というギリギリの進行ですので、まだ手元にはありませんが。
同封しましたのは、ここ何年かに編集した冊子です。ご覧になってもいない映画の冊子、パンフですが、対談部分などパラパラ見ていただければ、と。
様々な出会いがありました。
自分の創作ということにも、正直、気持ちが残りながら、ものを作り出す人の持っている強さに触れることで、百分の薄弱さに40歳を越えてやっと思い至ったような有り様です。
今でも、『畜生塚』など、折に触れて読み返しています。『古典愛読』のように読んでいければ、と思います。
『こころ』は、読み返し観返すことはなくとも、深く心に刺さっています。
先日、ご子息が作・演出した『月の子供』を、本多劇場で拝見しました。ホームレス、ニートといった現代の棄民を、仰々しく描くのではなく、もっと小さく観客に下ろしていく姿勢には、いろいろ考えないことはなかったのですが、それが、80年代演劇的な狂騒や言葉遊びのレベルのポストモダニズムで描かれているようにも感じ、反復によって波のように染みてくる、でも、もっとストレートに、もっと直裁に! と、正直、歯痒いものも感じました。
作者にとっての、役者にとっての「今」は一回だけ。でも、「継承」ということがあるだろう、と。作り手にとっての一回性という以上のものが欲しいと思うわがままな観客ですし、また、その批判は、そのまま自分の送っている日々や、作っている冊子、パンフにも振りかかってくることだとも思っています。
ご子息が脚本を執筆された『ドラゴン桜』の原作マンガが、先日完結しました。情報マンガでありながら、嫌悪を秘めたマンガだと信頼して読み続けてきましたが、それでも大きなところで、体制の維持に加担している主人公であり、マンガである、と。でも、そんな中にも、人と人の絆が生まれていく。いや、さらにそれが、だからこそ、その甘さが毒なのか、とも。志賀直哉が抗い、「和解」してしまったように。
私自身、日々、塾生と接しながら、いろいろに考えます。考えながらも、進んでいかなければならない。考え込むことで、進むことをやめてしまった人も、身近によく見るのです。
徒し事を書き綴ってしまいました。お時間があり、全編3時間余の三部作ですので、体調のよろしい時に、ご笑覧いただければ、と。建日子様にも、お薦めいただければ幸いです。
変わらぬご発展を祈念いたします。
* おりしも毎朝に『ドラゴン桜』が何度目か放映されている。建日子のドラマで、もう一度みたいと思ってきたのは、わたしの場合、これで、原作マンガは知らないし彼も原作にのったのは設定だけと言っていたから、全体に建日子作品と受け容れた上で、やはりあの限りでは相当のところを代弁してくれたと思った。ディテールをいえば、ああいうラフな仕事では至らぬ隙間はいっぱい有るものだし、所詮は現代という体制の掌をはみでることは難しい。そうと知りつつどこまで表現しようとしたか、出来たか、が問題。
もっと他流試合して甘い狭いワクから勇敢に飛び出してゆくリキとハキとがすでに必要になっている。痛いほど磨かれ擦られイジられアプつかねばならないのは秦建日子自身なのだから。
このあいだ駒場でみた「リオ」のある種徹した冒険性にはアトのない潔さが感じられた。「アトのない」吶喊には、未完成な未熟と共に現代の先頭で沸騰する命がけの魅力も感じられる。
* じつはわたしの育った京都知恩院下の新門前、同じ町内にわたしの一つ年上のヤンチャ坊主がいた。その人は早くに東京へ出て、今もテレビドラマの「監督」を続けている。間断なく仕事をしているのでときどき画面に名前をみつける。長く続いていて、さてさほど知名でもないということは、手練れの職人仕事をして業界にしっかり落ち着いているという意味だ、わたしはその点でいつも敬服しているが、そのドラマは何度か見てきたかぎり、通俗な、どうしようもない通俗で普通のテレビ画面でしかない。それも一つの生き方だろうが、行き方でもあろうが、そんなところへ落ち着きたいのかとわたしはときどき内心に建日子の方へ聞くときがある。
そんな仕事ならさっさと、しないでやめるか、心ゆく会心作へねばり強く歩み続けるか、わたしなら、どっちかしかできない。後者をしっかり目指している建日子に今、一つ言ってやれることは、勉強して「伝統をしっかり盗め」ということ。「伝統」に何を読み取るかは彼次第だが、反語めくけれどこういうことだ、「伝統はいつも現代の最先頭で沸騰している」と。また「現代はいつも伝統の最先頭で沸騰している」と。
* 体調を心より案じています。 父
体質改善は一朝一夕に行かず、ことに姑息的療法で遠回りしてきただけに、復元療法は苦痛であろうと心より同情しています。落ち着いて堪えて治して元気にと、切望・深祈。がんばって治そう。
珍しい便りを受けた中に、建日子への批評もありました。早稲田で角田光代さんと一緒だった学生で、おまえと同じ方面でもう長く精力的に仕事をしています。いまはエディショナルな仕事のようです。映画を観て欲しいと言ってきました。「ラザロ」三部作。建日子にも観て欲しいと言っています。角田さんも推薦しています。これに触れて「私語」し、建日子にもあえて触れました。「私語」で観てくれるといいが、松島政一君の手紙はここへ入れます。ひょっとして仕事の上で連携可能かもしれないし。
手紙のほかにいろいろ送ってくれた雑誌やパンフやチラシの中身も、沸騰感があり興味深く眺めました。建日子はあまり人の物を見ない人ではないかと思いますが、処分可能の参考として、興味が有れば郵送する用意はしてあります。
袋田の瀧へも、山形の村山市へうまい蕎麦をたべにも、行きたいと思っています。山形では最上川沿いの宿も紹介されています。一度最上徳内記念館に講演したり取材したときに泊まっています。雄大な甑山など見えて、館岡はいいところでした。
ドラゴン桜 観ています、ときどき。
元気で。わたしの脚は腫れて痛いけれど、自転車で一日二時間ずつ走っています。湖の本の九十一巻めをもうすぐ送り出します。
2007 7・10 70
☆ 心配、感謝。 建日子
生活習慣の根っこから徐々に改め頑張ります。
袋田は、電車より車が楽だと思いますよ? 広く大きな車をレンタルして行くという手もあります。どうでしょう。
批評は拝読しました。
そういう意見も出るだろうなとは思っていました。
難しいところです。
* ウーン。誘惑。ただ自動車では「校正」ができないんだなあ。しかしいっしょという楽しみは大きい。いつまでも機会があるわけでないし。
2007 7・10 70
* いま建日子のブログを観ると、関係した映画作品の紹介のすえに、「しみじみな映画」と書いている。こんなふうに今、謂うのだろうか。
わたしは「しみじみな」とは使ったことがない、が、ほんとはこう使えるといいんだがなあとは、思ってきた。
「しみじみ好い」「しみじみ感じる」「しみじみ辛い」などと副詞に用いるが、「しみじみと思う」とも謂う。「しみじみとした」と言い終えることも、「しみじみとした情愛」「しみじみとした場面」などとも謂う。そういうとき、「しみじみな」という形容動詞につかえると簡明なんだがと思ったこともある。
じっさいにしかし「しみじみな映画」と謂われると、すこし前のめりになる。建日子のいい加減さがやっつけた表現か、思慮のすえの表現か、分からん。
2007 7・12 70
* 珍しい広島の秘酒ももらい、「虎屋」の水羊羹ももらい、黒いマゴとも仲良くしている。『マイ・ガール』という、死と生とをていねいに描いて落ち着いた映画を観た。やす香を想いながら。一年前の悲しかったこと。悲しがるのはよそうと妻と話している。やす香のために可愛そうだから。元気にやす香らしく向こうで生きているのだからと。
2007 7・16 70
* 秦建日子最愛の巨猫グー氏 保谷から都心へグッバイ。(写真割愛)
2007 7・17 70
* 息子の愛猫を写真にしたら、うちの黒いマゴも出してやりたくなった。
* 写真の凛々しい美青年は我が家の黒いマゴです。つねは歌舞伎座で調達の音色すずしい鈴をつけていますが、思いつきで赤いタイを結んで澄ましています。甘え上手のボクです。 湖 (写真割愛)
☆ 数年前から『黒いマゴ』の存在は「闇」で知っておりましたが、初めてその「精悍なる」容姿に接しました。漱石の猫とは世紀が違いますから栄養も十分だし、人間へのなれあいと信頼も違う、「堂々と自己主張」をしています。明日の政治をうれうることもなく、清き一票など関係なく、今日の一日を湖さんのそばで「天運にまかせて」生きる。 楽しみました。 瑛 e-OLD 川崎
2007 7・18 70
☆ 岡の風景 巌 従弟・南山城
そろそろ梅雨も終わりになり 昨日は 両親の月命日でもあり 朝から墓掃除に行ってきた
写真(残念ながら、割愛)は 恭仁宮址の方から その岡を見た風景。
横を縮めると秦テルヲの「黄昏」に描かれた風景にも見えるが 年代が違うか さて。
————————————————
彼は、かつてない、妻に、やがての致仕つまり退職願い
の意思のあることを、あらかじめ告げた。
妻はおもわず顔をあからめた。そのようないわば男の
秘めごとを夫が口にした、それに虚をつかれたのである。
「お宜しいように、なさいませ」
そう言うであろうように、妻はそう言った。彼は頷き、
そのことに就いてはそれ以上言わなかった。
————- 秦恒平 著 「親指のマリア」
こんなふうな場面があって 丁度一年経った。
* そんなこともあったであろうかと、想像していた。画家秦テルオの『黄昏』、なつかしい。彼は晩年を南山城に住んだ。
2007 7・20 70
* 今日明日のうちに読み終えようと、『ゲド戦記』第一巻「影との闘い」を読み進めてきた。とても、やす香は病床で読んでもらいようがなかったろう。明日は、やす香の諦めきれない一周忌。せめてと、読み聞かせるように今わたしが読んでいる。
おそらくやす香の写真は、一枚でも母親や妹は欲しいのではないかと、ダウンロードできるように「mixi」にすこし載せてやっている。
2007 7・26 70
* 一日一仕事というか、今日のように外出してくると、あとは休みたくなる。老いの自然なのだろうか。明日は晩に、三百人劇場をはなれて東京で初の劇団「昴」公演がある。やす香を偲びつつ、妻と観てくる。きっといい芝居だと思う。
明後日、新しい「湖の本」が出来てくる。ところでその二十八日には浅草の花火、望月太左衛さんから招きがあった。去年はやす香の告別の晩だった。やす香は花火の夜空を舞いながら「おじいやん、泣かないで」と泣いていた。
本の発送は少し延び延びになってもいいではないか。八月に入ってしばらくして松たか子の『ロマンス』という芝居があり、翌日に言論表現委員会が予定された。その頃までに送り終えていればいいので、せかせかと慌てて暑苦しいのはよそうと思う。のんびりするということを、少しは楽しまねばいけない。
2007 7・26 70
☆ 秦恒平先生 大変ご無沙汰しております。**テレビの「晨」です。「生活と意見」で、やす香さんのことや、先生のお怪我のことを知り、東工大の秦教室で育った「一人の息子」として、折々にご連絡をしなければと思ってはいたのですが、本当に長い間ご連絡を差し上げておらず、申し訳ない気持ちでいっぱいです。
今回ご連絡をさせて頂いた理由が、また全くもって私事で恐縮なのですが、実は弊社の7月の異動で私が東京に転勤になりまして、そのご報告をと思ったからです。
社宅が東急目黒線(今は目蒲線とは言わないのですね…)の***駅近くにありまして、つい最近、***での生活を始めました。東京に住むのは学生時代以来のことですから、実に10年ぶりとなります。
まだ実質作業には加わっていませんが、何より、各スタッフが「真心を込めて」仕事に取り組んでいる姿勢に驚きました。(実は、そんな当たり前のことに “驚いている”自分に気付いて、自分自身に不安を感じてしまった、というのが正直なところですが…)もう一度、初心を思い出して頑張らなければ、と気合を入れ直しています。
昨日、着任の挨拶をしました。以前に秦建日子先生とお仕事をさせていただいたことのある上司のいる職場に着任したことをとっても嬉しく感じております。
もしお時間を頂けるタイミングがございましたら、先生と久しぶりにお話をさせて頂ければと願っております。今後とも、変わらぬご指導ご鞭撻のほど、心からお願い申し上げます。
* おお、こちらこそ、よろしくよろしく。嬉しい便り。京都で一度会って話し込んだ記憶がある。出来れば建日子も一緒に一夕の歓をつくしたい。
2007 7・26 70
* 一年萬感
あるはなくなきは数添ふ世の中にあはれいづれの日まで歎かむ 小野小町
つまもわれもおのもおのもに魂の緒のやす香抱きしめ生きねばならぬ 祖父
* 墓参も先日に。
* 今日は、1960年生まれ娘・夕日子の誕生日でもある。健康でありますように。
2007 7・27 70
* 少し早めに出て、高島屋十四階で、久しぶりに中華料理の店に入ったのは成功だった。ビールや老酒も入れて盛りだくさんに幾品も出て、二人で一万円でおつりが来るのは珍しい。どの一品一品も量は知れているが、味は空腹も手伝い「絶」であった。満足した。老酒の徳利が優に一合以上、口までたっぷり、しかも佳い酒を出してくれていた。前菜、スープから、デザートまで、一つの例外もなしに満足した。
それでも、祖父母の思いは、料理が旨ければ美味いで、つい、やす香の上へ動いた。一つ明いた椅子席に、どうしても十九の孫娘の姿が顕つのである。同じ新宿の小田急で、初めて服を買ってあげると言ったときの、好きに選んでいいよと言ったときの、やす香の弾けて溢れる笑みを、堪えられない笑みの無邪気さを、わたしたちは忘れようがない。なんという超短いパンツを選ぶんだろう‥。おかしくて、恋しくて、思いだして老人は涙のとめようがなかった。老酒を飲み込んだ。
それでも、舞台を前に、酒ゆえの睡魔に侵されたりはしなかった。
帰りは大江戸線で練馬へ、そして西武戦で帰宅。可哀想に黒いマゴをピアノの部屋にしめこんでいた。御免。
2007 7・27 70
☆ 一年萬感を見て 優
写真の中の少女がごく自然な優しい表情でこちらを見ています。
一年前の今日、彼女はみんなを置いて先に逝ってしまいました。
彼女の病気は私にとってもかなりの衝撃でした。
知り合いでもなく、マイミクでもなく、彼女のお祖父さんのフィルターを通してしか知らないのに。。
mixiの日記を読んでいきいき、文章に、今どきの女子大生を想像していました。
何年か前に一度、彼女の名前で検索してみたことがあります。中学生のときに英語のスピーチコンテストで表彰されてた記憶があります。今もどこかにログ残ってるかな?
七月に入ってから時折、去年感じた気持ちを思い出すことが多くなったので、言葉に、文章に、とも思ったけれど思うだけでキーボードの上で手が止まってしまう。
それでも、つたなくても今日は書いてみようと初めての日記を書きました。
* ありがとう。ほんとうに、「優」さん、ありがとう。あなたの日記が読めたのはほんとうに初めてですね。やす香が喜んでいます。
2007 7・27 70
☆ 日記というよりメモ 巌 南山城
関西で夏の花火といえば 来週八月一日のPLの花火。
開催地の大阪府富田林市には「毛人谷」という旧地名がある。地名は簡単にはいかないというか読めない。これは「えびだに」と読む。
このあたり葡萄の産地なので 昔も葡萄が良く採れて エビと言ったのか。河内の蘇我との関わりなのか。
日本の伝統色の色見本の”葡萄色”はエビイロ と読む。(紫の上は、葡萄染にやあらむ、色濃き小袿・・・は、エビゾメと振られている。)
大きなエビは海老で 小さなエビは蝦と書く。
毛人で蝦 とくれば 蝦夷 これを カイ。アイヌとよばれた人は 自分たちの事をカイ カイノーといったとし それをとって北加伊道とした人が 松阪の松浦武四郎 明治政府はそれを受けて 北海道としたらしい。(その北海道では近頃はぶどう色をしたエビで ぶどうえび を、幻の海老と宣伝している。)
松阪のある三重県はこの辺りのおとなりの県。
カイ カイノーは時と場所が変れば甲斐や戒能とも表したのだろうか
『北の時代=最上徳内』を読む傍ら PLの花火の日程を調べていたらの考え事 メモ。
* 従弟のメモ。秦檍丸という、俊足の民間学者の持説の一つに、蝦夷は「かい」と読むのが本来だというのを読んで、面白かった。頷けた。それで『北の時代』の書き出しの辺につかった。主人公の最上徳内とも縁の濃かった人物だ。
富田林のPL学院が主催の大花火に招かれたことがある。その頃「藝術生活」という雑誌をPLは出していて、何年も連載していた。それで招いてくれたのだが、たまたま夏休みを京都で過ごしていたので、富田林まで行くことが出来た。わたしは娘・夕日子の手を引き二人で遠路を出かけた。
盛大を極めた花火で、あんまり音が大きくておなかに響くと娘がいっしょうけんめいお腹を両手で庇っていたのを思い出す。
「巌」くん、嬉しいことを思い出させて下さった。花火の話題、それとなしにわたしの胸の内にふれてくれたものと、感謝します。明日の晩、去年とはまたちがった思いで、浅草へ花火を見に出かけようとしています。
* やす香にふれて、それとなく今日一日を見送ってくださった大勢に、お礼を申したい。一周忌、いま、日付が動いて無事に過ぎていった。
一年萬感。寂しい日であった。「mixi」から、もう、やす香の写真ははずします。
2007 7・27 70
* やす香の一周忌までにと思っていた『ゲド戦記』第一巻「影との戦い」は二十七日に日付の変わるころに読み上げていた。何度読んでも優れた作。第二巻はたしか娘・夕日子がお茶の水での何かの教室で読んだか使ったかしたらしい英語版が書庫に置いてある、あれを、マキリップと同じように読んでみよう。
『ゲド戦記』をアニメ化したという評判は聞いていたが、観る気がしなかった。右から左に軽い気持ちで脚色できる世界ではない。 2007 7・28 70
* 「mixi」に、やす香の大学での友達かと思われる人が足跡を置いていた。大学でのやす香のことも知りたい。
2007 7・28 70
* 浅草花火
満月も待ちかねている花火かな
満月を上客にして花火かな 宗遠
* 鶯谷から言問通りをタクシーで。鮨の「高勢」で下車。
去年のわたしを覚えていてくれた。去年は、やす香告別の日だった。花火の後、太左衛さんに見送られ、「道引地蔵尊」に二人で手を合わせてやす香のために祈ってから別れたが、悲しみに堪えられず、みちすがらの「高勢」に飛び込んだのだった。
白身は鱸、平目。そして中とろ。伊勢鯖。烏賊。あなごの白焼き。蛤も焼いて。塩辛も。美味い玉も。そして握りは、しゃこ、うに、もう一つは珍しいネタで名前は失念、すべて、じつにうまかった。すっきり江戸前の、なにもかも潔い鮨店。特長のひとつによく選んだ備前ものが目について、酒は二合。去年の親方をわきに、気持ちの良い青年の職人が細心にたねを吟味してくれた。
大満足して、そしてお目当ての花火のよく見える、太左衛さんお招きの屋上へ、六時半に上がる。例年のように、ビニールシートの席は避けて、うしろの壁際に椅子をもらう。「特等席」です、感謝。
まだ明るかった、が、七時に近づくにつれて、から打ちがはじまり、雨を案じた大空はあおやかに晴れながら黄昏れて行き、満月が徐々に色濃くなる。あの満月が、今年のやす香だなあと見上げていた。去年のように息くるしく胸くるしいことはない、が、一緒に花火を観る気持ちは同じ。
太左衛さんのお弟子さんたちが、飲み物や食べ物を気遣ってくれる。飲む方は缶ビール一つに控えた。つまみものは、少しずつ甘えて戴く。
花火は、八時半までおやみなく色も形もとりどりに美しく夜空を染めつづけた、「ああ美しい」と手を打つことが多かった。終始一人で観ていた。屋上には大勢の浴衣の客が歓声・歓談、涼風もたえず渡って、蚊のわずらいもない。間合いのいい爆発音と、鮮麗な火の色・光のおおきく空にひろがりそして闇に消え落ちて行く音楽的な絵模様に、飽きず心打たれる。ときどき、とろりとうたたねに引き込まれて、ちいさな夢をつぎつぎに観る心地も、花火の効果なのである。そして、ぴたりとすべて終える。
* 太左衛さんに今夜も途中まで見送ってもらい、「リスト」の洋菓子を妻への手土産にもらって、群衆の波の言問大通、ゴロゴロ会館の前で別れてきた。
さ、それからが、タイヘンだった。
おっそろしい暑さ。気温と体熱と疲労とが集中的に腰の痛みになって表れ、ゆらゆらと一足一足ずつしか歩けない自分を路上に発見。乗り物は絶対に拾えないから鶯谷駅まで歩くしかない。この足取りと痛さでは、鶯谷までが気の遠くなる遠さ。店に入って食べて休むという余力は腹にのこっていなかった。
こらえきれず、何度も路上ものに腰掛けて休んだ。休むと痛みはおさまりらくに歩き出せるが、長く持たない。
なさけないなあ、花火は今年でもう諦めねばならんなあと侘びしがりながら、タクシーなら十分もかからない街通りを、一時間もかけとぼとぼと鶯谷駅へようやくたどり着いた。花火のにぎわいで幸い街の表情はさながらのお祭り、それを楽しむ視線や気分は失せていないので、腰の痛いだけを苦に、時間は気にしないでゆっくり歩いたのである。ペットボトル百五十円のカルピスを二本買って、一本はすぐ飲んだのが冷たくて美味かった。「初恋の味」などと昔のうたい文句を思いだして楽しんだ。
山手線も満員だったが、幸い席をゆずってくれる若い人がいた。感謝。池袋始発の西武線は座れる電車をえらび、保谷ではタクシーが待っていて、スイと帰れた。帰ってしまえば、からだは元の元気に。
ややふがいない日本の対韓国サッカーの敗戦ぶりを観てから、機械の前へ。
2007 7・28 70
* 岡山の鰆の味噌樽をいただいた。到着後三日は待てと指示がある。明日にはと生唾をのんでいるところへ、群馬と山口から清酒到来、香川からはすばらしい葡萄も頂戴した。息子は大きな車を借りて袋田へ瀧を見に行こうよと誘ってくれている。山形からはうまい蕎麦を食べに来ませんかと深p切にお誘いがある。来週には松たか子主演の『ロマンス』そして言論表現委員会。『閑吟集』の評判も上々で、梅原猛さんら大勢の便りがある。ぎらぎら照る暑さの中で、体調は体調としても生気みなぎっている。元気に過ごしたい。
2007 8・4 71
* 熱帯夜になんと五時前に寝坊助の妻がたまらず起きてシャワーをつかっていた。わたしも六時前には起きてしまった。
2007 8・9 71
* 八月のお盆、夕方から歌舞伎座で勘三郎らの納涼芝居を楽しむ。二十五日には三鷹で、声楽を楽しむ。
九月には四日に渋谷で幸四郎と松本紀保らとの『シェイクスピアソナタ』が楽しめる。それと歌舞伎座での秀山祭。播磨屋吉右衛門と高麗屋染五郎たちのお芝居を昼夜楽しむ。
十月は国立劇場で高麗屋の歌舞伎を観、また新橋演舞場で昼は中村屋・成駒屋らの歌舞伎、夜は勘三郎奮闘、森光子や波野久里子らのお楽しみ演舞場祭りの賑やかなお誘いが来ていて、早速予約した。妻と、食事付きで芝居を観てくるのが、結局はいちばん疲れない楽しみ。それぐらいは黒いマゴも辛抱して留守番をしてくれる。
みなさん夏休みで家をはなれて遠くへ出かけられるようだが、半ば羨ましく、半ばはご苦労さんという感じだ。「いながらの旅」も、負け惜しみでなくいいものである。創作、読書、映画、私語の刻、そしてインターネットという電子の杖の旅もある。階下へ降りればいつも妻が居て一緒にテレビを観たり談笑したり議論したりする。黒いマゴも寄ってきてそれは上手に甘える。
仕事場の二台の機械の一台は、バックアップの用にも立てながら、いつでも好きな音楽が聴けるし好きな映画が観られる。妻が録画してくれるディスクは和洋の秀作二百枚をらくに越して、日々に増えてゆく。本を読むように、いつでも何度にも分けて気軽に観られる。わたしの「煙草代わり」である。その上息子たちが顔を見せに来てくれれば云うことはない。
* その建日子が四度の瀧へ車で連れってくれると云うが、もう少し脚を伸ばして山形の村山市まで、「あらきそば」まで運んでくれると楽しそうだが。長途の車はしかし疲れるだろう。疲れてはいけないのである、妻もわたしも。
2007 8・10 71
* また繰り返し『海は見ていた』をじっくり観なおしていた。
今日はなんにも出来ない日だったが、ひょっこり夜になり建日子来訪。日付の変わるまで親子三人でもろもろ歓談。
建日子は「二人乗り」の新車で来た。二人しか乗れないのに、車はそこそこの大きさ。遠くへでも連れて行くよと誘ってくれた。が、助手席に並ん
で、ひとなみよりデカい男二人の走りは、イキでないし、いかにも窮屈そうやなあ。
* 「おとずれ」の全くなかった一日の最後に、心優しいメールが二つ、そして息子の顔がみられたのは、なにより。感謝感謝。
2007 8・19 71
☆ 夏祭り 巌
親戚が取りまとめ役になっていて ぜひおいでとお誘いを受け 近くの当尾小学校で行われた、子供向けの夏祭りに家族で行ってきた
いろんな出し物もあり 「おかげ踊り」という 幕末の ええじゃないかのおかげまいり の名残のものも この時初めて見た。
猿害に苦慮する大人住民を前に 演じられた猿回し 親方は過去に吉本新喜劇で活躍されて 被害にあっている世代はみんな知っていた人気者。この親方は 被害の事も知っていて 少し前口上でも触れられ 皆苦笑しつつも 猿の藝は目出度き物で 親も子供も拍手喝采。
この当尾小学校 在校生総勢32名という状態ではあっても 内戦の続いたカンボジアなどへ児童書を贈るボランティア活動を行うなど 視野の広さを持つ事での地域の核ともなれている でもこのままでは存続も難しい。
住民を増やす事は 簡単にはいかないので 「小規模特認校制度」の適用による広域からの学童受け入れを並行し推進しているグループもあり その方(実はうちの店のお客様でもあり)とも 従姉を交え そこで今後の町興しの事へ少し話しもできた。
最初 小学校に着いた時はまだ設営中で 始まるまでに一時間ばかりあったので 近くにある母の実家でお茶を頂いて時間待ち。
子供達はそこへは初めてで アマガエルが部屋に入ってきたりするのがめづらしく よろこんでいた。
* 旧当尾村には、浄瑠璃寺 岩船寺 また石仏などがある。わたしの初期小説で、語り手に「当尾宏」という少年や青年のあらわれるのは、巌君の掲げている写真の家、巌君の「母」なる人=わたしの叔母の実家、わたしの実父の実家でもあった家で、ごく幼年期の二三年? を暮らした記憶に拠っている。ほかには何も知らない、こうしてそれとなく教えてもらい、ああそうかそうかと想っているばかり。
2007 8・20 71
* さきほど「運命」という文字を、書き用いたばかりである。「外へ外へあくせく生きねば生きられない日々が、いつまた来るかは計りがたいし、それは運命だと思う。幸いに運命の表情の穏やかで、それらのゆるされて在る今は、なまじいの社会生活よりも、自然な生活、自身の内側と見交わして生きる日々を大事にしたい」と。
その時に、「予感」があった、なかったという話は適切でない。
だが、「運命」の表情は変わるものだ、たった今しも、『梁塵秘抄』のための作業最中に、青山学院大学国際政経教授で、わたしたちの娘婿である ★★★、東京都町田市主任児童委員と名乗る娘・★★朝日子の「連名」による、東京地裁への申立てと、「審尋」通達が届いていると、階下の妻が二階へ知らせてきた。作業の手をとめずに、一応目的の処まで仕事をし終えた、まだ件(くだん)の郵便物の内容を観ていない。これから観るが、去年末までの騒動を、半年余の間隔をおいて、またしても繰り返す気であるらしい。
* わたしたち老夫婦は、またしても「死の淵」を覗き込む日々になるのであろう。それが運命(劇=ドラマ)だ。
* 昨年の十二月であったか、町田簡易裁判所は、申立てた調停の不調に終わった件で、一片の通知ないし通達も我が家には呉れなかった。また代理人である牧野二郎法律事務所からも、結局、メール一本で不調を知らせてきただけで、依頼人に対するその余の説明も文書通達もなかった。そのまま、しかしわたしたちは、いつどんな形で蒸し返してこない相手でもないからと、「継続」してこの件での弁護士活動を依頼しておいた。牧野さんには、もとから「★★家との紛糾の全部」について指導し弁護して欲しいと依頼していた、「調停申立て」も、「仮処分申請」の審尋も、牧野事務所の作戦ないし対策として奨められ、よろしくお願いしたものであった。依頼人としては、頼むべきは頼み、願わしいことは願わしいと率直にいつも伝えた。
で、早速、事の次第を、新宿の牧野法律事務所に伝えた。伝える以外、第一「手」はなかった。
* ★★夫妻らが「申し立て」趣旨を、かいつまめば、
★ 湖の本エッセイ『かくのごとき、死』を出版・販売・頒布してはならない、
★ ホームページの日記『生活と意見:-闇に言い置く 私語の刻-』及び未刊の小説『聖家族』を、
★ また日記『MIXIソーシャルネットワーキングサイト』を、出版、インターネット上のウェブページへの掲載等、方法の如何を問わず、公開ないし閲覧に供してはならない、
★ また『作家 秦恒平の文学と生活』と題するウェブページに掲載されている写真全てを抹消し、インターネット上のウェブページへの掲載等、方法の如何を問わず、公開ないし不特定多数人に対する閲覧に供してはならない、との「裁判」を求めているようである。
七人もの男女弁護士の名が列記されている。一つの法律事務所のメンバーをみな挙げたのかどうかは、分からない。
要項は以上であるが、三十頁を越すらしい「理由」等にはまだ目を通していない。闘うべきは闘うだけのこと。
* 問題は、こう単純化できる。
どうぞ『かくのごとき、死』をよく読んで欲しいと。また以降一連の続く『愛、はるかに照せ』も、ぜひ参照願いたい。日記には「裏」打ちの物証が十分整っている。
同じことは、仮題の未完未定稿ながら純然創作である小説『聖家族』についても、はっきり謂える。
そんなに★★がこの小説を人に読まれたくないのは、だが「何故」なんだろう。「虚偽」だからと謂うなら、裏打ちの証拠で争う。事実だから読まれたくないというなら、「恥ずかしい、勘弁して下さい」と言えば、すぐに済む。親たちを、好き放題に辱めておいて、何かといえば「裁判」で脅すとは。
もし「書き手」であるわたしの「創作や執筆や表現の自由」を本気で侵そうというのであるなら、ペンクラブの会員であり文藝家協会の会員として、むざむざ引き下がることはしない。牧野弁護士もわたしの推薦で日本ペンクラブ会員になったお人である。
* 一会員として言論表現委員会に提議したい。さきの「ホームページ全抹消」問題も含め、「言論表現と創作権の自由」の問題として取り上げ、ぜひ踏み込んで議論願いたい。その便宜のために委員を辞任したのではないが、タイムリーにそういうことになる。期待する。
* 最初の審尋は八月末日で、厖大な資料提出が求められている。やれやれ。
2007 8・22 71
* 肖像権ときくと、著作権ほどではないが、そんなのも、当然あっていい。
思い出すのは、昔、めったに出ない文壇のパーティなんかに出た晩、当時はまだ親しいご縁もなかった三好徹氏とふとすれ違ったのと、カメラを持った人が氏をパチリとやったのと、同時だった。三好さん、きッとして、即座にカメラマンにクレームをつけた。パーティで雇いのカメラマンか、只の参会者かは分からなかったけれど、その三好さんに教えられた。肖像権だかどうかより、無礼だと思ったから。
しかし、家族が仲良く家族の写真を撮るのは、まさか「権利」関係ではあるまい。嬉々としてハガキにしたり、ブログに乗せたりしている例はいくらもある。可愛くて自慢の子や孫の写真を、祖父母が自慢にしているのを、財産権だの人格権だのと、子が親を、孫の親が祖父母を「裁判」沙汰にする図というのは、どんなものだろうか。
たしかに法律というヤツの乾いた杓子定規流いえば、三好さんの先の例も、わたしが娘や孫としごく上機嫌に仲良く映った各年代の写真を喜んで人に見せるのも、イッショクタに権利侵害と判決するのかも知れない、が、文学や藝術やふつうの市民感覚で生きている者には、そんな裁判の勝ち負けよりも、底に流れている「人間」の気品や気稟を大切に思う。挨拶もなく撮る無礼も無礼、しかしそういう親を子が法律に違反だと訴えて出るのはもっと無礼であろう。
わたしが、此のホームページの第一ファイルに、何枚かのそういう写真を並べているのには、むろん「理由」がある。
その写真の一枚一枚を撮ったときの、「嬉しさ」や「よろこび」をわたしがよく覚えているというのも、大きな大きな一つの理由である。
しかし、もう一つ余儀ない理由がある。
娘・★★朝日子が、父は、息子・弟の建日子の生まれて以降、姉である自分の結婚後に至るまで、二十年乃至四十年の久しきにわたり自分を虐待(ハラスメント)し続けたと、「mixi」のブログで、しかも「わたしたちには読めぬようブロックしたなかで」口汚く言い散らしていたことが明らかになり、「調停」の場にまで、支離滅裂の文書でそれが持ち出された。
むろんすべて完全に否定されたが、百万言の言葉を否定に費やすよりも、厖大に愛蔵されてきた、多年、各年代の「写真」たちに語らせる方が早い。一枚や二枚ではない、そして一瞥で、なにもかも分かる。
言語道断の虐待を受けたと書いているその年の、そのどまんなか、自身三十三歳の誕生日に、父宛てに寄越している「ハガキ」の写真文面も、どこに虐待、どこに迫害の微塵の影も落ちていないのである。これまた著作権のどうのというのであろうが、辱められた父には「反証・反駁の権利」があるだろう。
「ハラスメント」などという問題で闘うのが、どんなに難儀なことかは推察できる。弁護士すらも守ってくれる有効な手だてを、もちにくい。現にわたしの弁護士もその点まるで無策であった。わたしは「自分で身を守る」しかなかった。
幸か不幸か、狭苦しい家の中で、仕事の関係から年柄年中家で創作し執筆し客と談合している夫が、娘を虐待(ハラスメント)していたなどという娘の血迷った放言には、妻も呆れ、息子も姉のムチャクチャにただ呆れていた。
我が家にはいつも次々に編集者も記者も読者も訪れていた、が、誰一人、父と娘とにそんな気配すら感じていないどころか、どんなに可愛がっていたかの証言なら、山のように。多くの作品の中にも、いっぱいその証言がある。
それにしても、とんできた火の粉は敢然払わねばならぬ。わたしは、「肖像権」とやらを犯してでも、自分自身の父なる「人格」「名誉」を自分で守らねばならない。
わたしが子供や親や夫婦の「愛」に関して、どんな思想と感情との持ち主であるかは、『かくのごとき、死』と連作を意図して出した、『愛、はるかに照せ』一冊がきっちり示している、朝日子よ、高よ、襟を正して静かに読むがいい。
人間の世界、法だけで切り分けられて済むものかどうか。きみたちは「人間」ではないのか、そんなに不自由な精神で時代をあくせくしているのか。
* 終日、働きに働いた。もう眼がつかえないほど霞んでいる。
2007 8・23 71
* たまたま、こんな一年も前のものを、与えられて読んだ。「木洩れ日日記」。その他の記事も陋劣・卑猥、のけぞるほど嫌らしいが、その汚いクソは曝さない。わたしが読めなかっただけで、読んでいた人は大勢いたのだろうも「知らぬは親父ばかり」であったが、むろん人に聴かされていた。簡単に否定できることは、すでに肖像権の写真も利して、嗤っておいたが、次の、この箇所だけは「mixi」に関わるもの、はっ
きり「★★朝日子」の署名で会員むけに「公開」していた一文であるから、嗤って此処に取り上げておく。
★ 2006年08月31日 17:13 mixi管理者への公開質問状 ★★朝日子
mixi管理者様にお尋ねいたします。
mixiは会員制であることを「安心」として提供しているブログサイトであり、 「本名での交流」を推奨さえしておられます。
ところが、私ども「思香」1507957ブログの大部分は、ある公開HPに無断で流出しています。
「思香」本人の記述のみならず、コメント欄まで、投稿者名と共に、無許可でコピー&ペーストされています。
時には、恣意的な改竄もされています。
問題のHPは、mixi会員である秦恒平、ニックネーム「湖」、ID3099149によって運営されています。
「小説家」秦恒平の宣伝活動を行って会員を募り、自作を通信販売する、れっきとした営利サイトです。
秦恒平は、mixi会員として「思香」ブログにアクセスし、わざと問題を起こして自ブログへのアクセスを増やし、「思香」並びにその友人たちの記述を無許可でHPに取り込み、そのことを逆にmixi内で宣伝して、さらに自HPのアクセスを増やそうと試みています。
「思香」ブログ管理者が「湖」をアクセス禁止設定にしたにもかかわらず引き続き書き込みが漏洩しているのは、mixi会員内に共犯者がいるからでしょう。
残念ながら日に200を超えるアクセスがありますので特定はできません。
「思香」ブログでは筆者の闘病・死去にあたり、大勢の方々からお見舞い・弔意のコメントをちょうだいしましたが、それらがごっそり、営利サイトに「泣けるコンテンツ」として掲げられている様には嫌悪を感じずにいられません。
mixi内のだれがこのような事態を想定して、日々、書き込みをしているでしょう。
これは、mixiの「安心」を揺るがし、本名での交流を阻害する行為ではないでしょうか。
私どもは秦恒平本人に厳重抗議を行いましたが、 「文学活動を妨害する不当な要求」と一顧だにされません。
むしろ、わざと関係者の本名をHPに書き散らすことで、検索エンジンでのヒット数を稼いでいます。
秦恒平は、ペンクラブ理事という肩書きを持ち、「著述活動におけるメディア活用の権威」と自称しているにもかかわらず、自らの営利のために多くのブロガーの「著作権」を公然と侵害し、「会員制であるがゆえに公開されているプライバシー」をも侵害しています。
mixi会員規約を無視し、「会員制」であるmixiにおいて、人々がどのような交流環境を望んでいるか全く理解していません。
「思香」の友人の多くが、「いつあのHPに流出して悪用されるかわからない」と感じ、あるいはワンクリックで自ブログへ乱入されることを嫌い、かかわりを避けるために「思香」ブログへのコメントを控えているのは、当然と言えるでしょう。
mixi管理者におかれましては、
「会員制の安心」を脅かすこのような行為を、どうお考えでしょうか。
「表現の自由」と「ペンクラブ理事」を錦の御旗に掲げその実、mixiにおいて営利サイトの宣伝を打っている人間が、多くの会員の「自由な交流」に暗雲を投げかけるのを、このまま放置なさるのでしょうか。
mixiは「私営」の会員サイトですから、管理者は、断固たる態度によって逸脱者を制限する権限を有するものと信じます。
善処のほど、よろしくお願い申し上げます。
「思香」1507957のページを継承・管理 ★★ 朝日子
* 「法的措置」云々の警告はリフレインのように出てくる。しかし名指しで全く事実無根が具体的にいわれている以上、今も日々に「mixi」を利用している会員としては、わたしにも言い置く権利がある。
* 孫・思香=★★やす香と祖父・私とは、やす香の親たちの知るよりもはるか以前から「mixi」のマイミクであった。しかもやす香は「mixi」に自身の思い病状を書き続けていて祖父母を心配させていた。そして白血病で入院、肉腫と診断換えがされて直ちに緩和ケア、つまり手遅れと治療不可能の判断が為されてきた。祖父母はやす香の貴重な日記を散佚前に保存するのが当然の措置と実行したし、ことに「病脳」の具体的な経過に対しては日記保全が大きな意義をもつと判断し実行した。その引用や援用を大事な時は敢えてしたが、その経緯は著書『かくのごとき、死』が正当に証言している。ぜひ必要なやす香の生きた証跡である以上、故意に文章の改竄などするワケがない。
* アクセスを増やす。そんな無意味なバカげたことにわたしは滴ほどの関心もない。増えれば増えたなあ思って愕いても、足跡は人様がつけられるもの、わたしの関心の外にある。連載してきた作品とのご縁であろう。どんな作品が載っているかも、歴然としている。私の日記の九割以上が小説やエッセイで、余の日記ふうの文章は、ごく少ない。それも何を書いていたかは纏めて判るようにしてある。見れば全貌が判る。
* わたし=秦恒平は、「mixi」に、数えれば去年一年間に数千枚の各種作品を、受賞作『清経入水』はじめ小説、評論、エッセイ、講演、対談等々を、すべて「無料公開」し、「湖の本」も希望者には時として「差し上げ」ているのである。
わたしは原則として、著作権者のわたしが意図し容認している事例である限り、自分の作品にしつこい著作財産権を主張しないことにしている。「パブリックドメイン=公共財」に準じて、作品を広い範囲で無料提供して良いと考えている、当節希有の作家の一人なのであるから。著作・創作は「時代」に書かせて貰った所産。一定の収入を獲たあとは、適切な時期に不自然で著者の過大な負担にならぬかたちで、「時代」に向けてひろく利用されてむしろ自然なことだという思想である。それを「mixi」ででも明瞭にわたしは実践している。
* 話頭を少し転じて、
じつは、わたしも秦建日子も、期せずして、★★家との紛争を、ただ親子血肉の喧嘩とは考えていない。そっちは呆れてしまえば済む。『かくのごとき、死』や仮題未完草稿の『聖家族』や、湖の「mixi」日記や、作家・秦恒平の「私語の刻」へ、意味はよく知らないが「仮処分」を朝日子らは法廷に持ち出した。彼らはそこから「刑事告訴」へ移動し、最終は金で勝とうともくろんでいるのかも知れぬ。推測である。用意もしている。
あるいは、憎い父のわたしを牢屋へ入れたくもあるのであろうが、実は、建日子とわたしが、内心まだ茫漠と考えている「事件の本質」は、そんなものではない。
* この電子化新時代での文学表現や著作の自由が、むしろ拡大より狭小化されて行く傾向がすでに見えている。わたしの前の「ホームページ」の、理不尽な削除や仮処分判決が、よく示している。むしろそれにこそ大きな意味で「待った」をかけ、表現者の活動を法的にも自由で自然な権利としても自衛して行かねばならない、そういう新世紀の運動の「最初の大きな契機」に、この作家・秦恒平の事件を「構築」していっていいのではないか、と、いうのである。
その意味で、むしろ事件自体を、踏み込んで「世」に曝した方がいいのではないか、と。
一例が『かくのごとき、死』のはらんでいる、また「私語の刻」等のウェブでの文藝活動のはらんでいる、「表現の自由の問題」は、他の色々の抵触事項もともども考慮しつつ、むしろ「新時代へ押し出す課題」として、いっそ拡大して宜しいのではないかと。
いわば「これしき」のことで娘が父親を訴えるという、それは前代未聞ではあるがことは「和解マター」に過ぎずに、最高裁まではとても行くまい、行っても構わない。
だが、それではなく、新しい「電子メディア」での「表現の自由」か「法的規制が先行する」のか、それが本当に「前代未聞の文学や表現者の問題だ」と、そう、父と息子とは同じ思考の先で、今しも確かに触れあっている。
* こういうつよい話題で、父と子とが本気で交叉しえたのは、実に「初めて」のことだった、とても頼もしかった。
2007 8・25 71
* この機会に、ハッキリさせておく。
わたしの「私語」は、いつでも、のちのちまでも気をつけて、文章として落ち着きまた文意の通りやすいように「推敲」されている。プロの表現者には当たり前の覚悟、不可欠の作法なのだから。
だから、こう諒解していて欲しいと、いつもアクセスされる方には願っている。
この「第一ファイル」は、忙しい「書斎・仕事場」に相当している。此処では変換ミスもいとわず、いわば「初稿」を創っている。そして例えば現在只今、今月八月分にかんしていえば、やがて専用の「第七十一ファイル」に、日付順に直して、文章もつとめて推敲されて慎重に保管される。いわば作品の「第二稿」に事実当たるけれど、作家は、推敲を極端にいえば生涯かけて行うから、気づいた限り何十年前の作でも、推敲はされて行く。著者自身で自身の作品に飽くことなく手が入るのは、当然の働きで、他人からの「改竄」とはちがう正当な仕事である。誤解のないよう、明記しておく。
少しでも良い文章のためには、字句の斡旋は心ゆくまでする。しかし文意は改変しない。例えば一過性の機械事故のような、時を経れば無意味な記事は削除もする。そういう取捨も著者の当然の働きでありる。これを「改竄」など間違った語彙で間違える人がいると、迷惑である。
* 「私語」の読者は、秦さん、また大きく逸脱してきた、変転したと思われるだろう、が、わたしはわたしの「今・此処」に、まっすぐ向き合って行く生活者で表現者で、それが秦の基本のが在りようと見て下さるなら、秦の、このところ、またこれからの毎日は、「外」からの、とても善意とは言われぬ侵害に揺れているものの、どう「内」なる思いで咀嚼し濾過して行くか、それを、見ていてやろうと思っていただきたい。
* だいじなことは、妻もわたしも「静かな心」で日々を送り迎え、「かかるものの餌食とならず」生きて行くこと。
死ぬぐらい簡単なことはない、わたしは日々にその正確で簡単な手段すら与えられている。だが、われわれ夫婦は「死ぬまでは生きて行く」気だ、当然だ。
* 明日朝、難しい日程を割愛して、秦建日子も法律事務所との打ち合わせに参加してくれる。場合によってわたしの代理として法律事務所と全接触してもいいかなあ、その方が弁護士も歓迎かなと笑って昨夜言っていた。なるほどそうかも知れない。おやじは法廷とは「無関係にしていていいと思うよ」、とも。
2007 8・26 71
* 本日、事件を担当する法律事務所より、私の婿・★★★(青山学院大学教授)・私の実娘・朝日子(町田市主任児童委員)夫妻の提起した、舅・実父秦恒平 (太宰賞作家・日本ペンクラブ理事、元東京工業大学教授)への訴え、すなわち夫妻の社会的声価をおとしめた秦の著作・創作『書くのごとき、死』や小説『聖家族』による、「名誉毀損」その他各種財産権(生前の孫からの日記・メール、また娘の作品の引用等の著作権侵害、また娘や孫の写真をウエブに利用した肖像権侵害等々)の侵害を咎める訴えに関しては、裁判所判定の出るまでは、今日以降、この「私語」にも、「「mixi」にも、要するに、「書かない」ようにと「指導」があって、従うと決めたことを、此処で、このサイトへ日ごろアクセスして下さる方々に、お伝えします。
* なお、裁判に関しては、息子・秦建日子(小説家、劇作・演出家・脚本家等)が、父に代わって法律事務所との折衝に任じたいと本人の提案があり、感謝してわたしは従った。法律事務所も受け容れてくれた。息子は、後の仕事で一時前には退席し、わたしは三時まで居残って担当してくれる主任弁護士の質問に答えていた。
* わたしは「法」という乾いた価値観や概念の前では、文学者の内なる思いも表現も、創作者の強い動機も、あたかも「一片の紙くず」のようであることを、今はよく思い知っていて、しかも、あくまで創作者である自分が曲げられない。そういう男は、法律家は難儀で扱いにくいのも分かる。
秦建日子の親切で思いやりに溢れた代理の提案も、それに快く賛同してくれた法律事務所にも、感謝している。
* それにも関わらず、物書きであることに命を賭けてきた者が、片々であれ大事であれつまりは「書かない」約束に応じたというのは、「自死」に等しい実感である。「恥ずかしい」退屈である。
* かつて柳美里さんの表現が法廷で争われていたときも、わたしは、サンケイ新聞にかなり大きく発言の機会があった。無意味に人を傷つけるのは問題の大きいこと勿論である、避けるべきである、が、もし書き手が命に替えても、たとえ牢屋に入れられても、そう書かずに済まぬ、と考えたのならば断じて「書くべきである」、それが作家・創作者の「生きる」ということだ、と、書き手の誠実な覚悟をつよく求めた上で、容認し、肯定した。わたしの実感である。むずかしいことではあるが、今もそう思う。
* そのわたしが、『かくのごとき、死』をウエブに書き、「湖の本」にし刊行したのは、「これを書かずにどこに作家が生きるのか」という覚悟であった。
二十一世紀の新しい私小説の探求でもあり、同時に人間の日々の「今・此処」を、極限の緊張や情理の中で、いつわりなく書き切ろうとした。
ところが、その本が主に問題とされ、結構な知識人でもあるだろう実の娘や婿が、実の父・舅を法廷に「訴えて出る」(この言葉を法的厳密に用いる力はないのであるが。)という、文字通り物凄い事態に立ち至ったのは、なによりも「文学表現」のためにわたしは傷ましいと思うのである。
この是非は、しかし裁判官よりももっと適切に最終的には「読者」が判定されるだろうと信じている。わたしには「読者」「知己」が大切である、法廷の判断よりも何倍も。
裁判の裁定には、失礼ながら多くは期待できない。譬えて謂えば、千に九百九十九の真実の愛や歎きの文章が溢れていながらも、ある一箇所に「こんなバカげたことが」と仮に書かれていると、その「バカ」という一語だけその箇所だけで、もう名誉毀損や誹謗や中傷や人権蹂躙だと言われてしまうらしいからだ。なにをか言わんや。人間の自然と精神の自由を大事に思う藝術家は、法の前のそういう真情や誠実の紙くずなみに扱われるらしいことに、思わず大笑いしてしまう。
* そんな次第で、今日以降、「私語の刻」には、ある種の記事は「書かない」と約束してきました。みっともないが、ご理解下さい。それでも、書くだろうかなあ。
* 親鸞センターの依頼原稿に、もう四日しか余裕がない。眼科にも、歯科にも、行けない。浅井奈穂子さんにお誘いを受けていた声楽の会も失礼するしかなかった。提出すべきものと思いこんでつくった資料は、すべて作家の思いの自然を訴えたもの、数日寝る間も削ってつくったが、法の前では「紙くず並み」であったような気がするなあ。呵々。あまり紙の山が重く、トランクに入れ、保谷から新宿の高層ビル三十階まで、ハイヤーを頼んで運んだんだがナア。お笑いです。
2007 8・27 71
* 極端にいえば、世界中にわたしを見守って下さる視線が、声が、感じられる。ここへ取り上げさせて貰うのは、むろんそれをゆるして下さる方に限定しているが、わたしは、見知らぬ大勢の知性と感性とに背を支え手もらっている。ありがたい。
* 一週間余、不快で、忙しかった、が、渾身の力で、なしうることは為し、悔いをのこさなかった。むなしくても、むなしくなくても、とにかく、するだけはして、静かにいたいのである。
明日は、第一回の「審尋」と。
すべて専門家に依頼してある。短期間にご苦労を願った。ありがたい。
わたしは、ゆっくりと、ふだんの生活のテンポを得て行きたい。書いてはいけないと言われたことだけは、此処に書かない。
2007 8・30 71
* 緑につつまれた家の、正しくは家の「前景」の写真(割愛)は、人に頂戴したもので、記憶にあやまりがなければ、京都市内西院辺の産院で生まれてのち、いつの頃からか、もう二つか三つか、四つ前のころか、父方祖父母にひきとられていた、南山城の、実父生家である。
自伝『丹波』につぐ『もらひ子』(時期的には『丹波』に先立ち、さらに三冊目に『早春』があり、『客愁』三部作を成している。)の冒頭辺に出てくる、大庄屋を務めた代々の屋敷。 廃仏毀釈のむかしには危機に見舞われた村内の浄瑠璃寺などを、曾祖父の頃か、身を以て守ったと聞いている。
* わたしの人生で、かすかに記憶ののこった、此処が原点。四つか、五つになっていたか、この畑道を、秦の養母に手をひかれ、京都へ預けられ、貰われ、そして大学院を一年ですてて妻と東京へ。やがて西東京へ。以来妻とずうっと暮らしてきた。
後年、『蘇我殿幻想』を「ミセス」に連載していたときにも、カメラマンたちと一度訪れたが、その少し前、生母の数奇な人生のために書き下ろしていた『生きたかりしに』の途中に、ひとり、何十年ぶりかに此の家を訪れ、叔父夫妻にも、また加茂で叔母にも会った。初対面に等しかった。
その前後に、わたしは、異父姉兄三人や、実父と異母妹二人や、実兄北澤恒彦やその子たちや、各地の親族をとぼとぼと訪ね回って会っている。いずれも初対面か、それに同じだった。一人ッ子のはずが、一時に多くの血縁につながれて愕いた。
この静かな静かな一葉の、何と謂うのだろう「長屋門」とでも謂えば当たっているのか特徴のはっきりした「家屋敷」の写真をみていて、久しく息苦しかったおもいは実にきれいにみんな流れ去っていることを、こころから嬉しく思う。なつかしく思う。
* わたしは自身の墓についてなにもアテはしていないが、定まった墓よりも、何ヶ所か散骨してほしいと切に願う場所はもっている。
当尾の里、みごもりの湖、新門前狸橋の白川、弥栄中学校庭、泉涌寺来迎院の門前渓流、黒谷墓地の三重塔、鞍馬火祭りの門前、さらに新宿河田町元みすず荘近く、そして今の家のネコやノコの墓と一緒に。
2007 8・31 71
* 第一回審尋への法律事務所の答弁書も本日の審尋報告も受け取っている。穏やかな気持ちでいる。
* 平成十九年 八月尽。
このはつき 尽きてものおもふたれあらむ あはれ なさけといふさけは酌め 湖
2007 8・31 71
* ちょいと拝借します。息子クン。
☆ バカ? クズ? 建
言いたいことを、ひとつも我慢せず、すべて口から出すのはバカだ。
でも、言いたいことを何一つ口にせず、ただ、損得ばかりに汲々としているやつはクズだ。
バカとクズなら、バカの方が魅力的に思える。
でも、バカとクズなら、バカになる方が勇気がいる。
ぼくのiPodには、裏に、「最後の弁護人」の主人公・有働和明のセリフが刻印されている。
「六法全書には、賢く生きろとは書いてない」
有働は強く、ぼくは弱い。
「最後の弁護人スペシャル」を書きたいなと思う。
* 謂えている、ようだけど。
でも、フクザツカイキな人の世の。まして生きようは。意気に「箴」めかしても、皮膚一枚もなかなか把握しきれないからなあ。そいつは、自分で自分に仕掛ける落とし穴になる。
ま、クズより、バカがいいか。バカに甘えてしまうのは見苦しいけれど。
建日子。きのう、岩下志麻さんに手紙をもらったよ。
2007 9・1 72
* 去年、朝日子が建日子に宛てて書いた一通のメールを、今日読む機会があった。
あ、これだと、「小説家の読み」で、かなりクリアに視野がひらけた。納得がいったというナットクでは全くない。
2007 9・2 72
* だが「ロマンス」では、やはりチェーホフを、あとへ、わたしは引きずった。
「シェイクスピア・ソナタ」では、いろんな警句的人間論や役者論への断片の記憶は別としても、劇場をでてしまうと、「ああ、楽しんだなあ最高に」の一言に感謝と感想を煮詰め、もうその余は、ほぼ無用だった。無だった。
挨拶のあった高麗屋の奥さんに、番頭さんに、感謝。
そして渋谷の街に出たわれわれは、新宿駅西口行きのバスで、都心の緑風景を眺めて行った。下車すれば小田急デパート。ここでやす香と天麩羅を食べたなあ、気取った店でよくなかったなあ、服とパンツとを買ってもらえると決まると、あれかこれか選んでいたやす香の、あの笑みこぼれた赤い頬っぺたが忘れられないなと、二人とも思いだしていた。あのころは病魔の影もささない健康な時だった。
フレンチの「清月堂」に入って、ゆっくり夕食してきた。
2007 9・4 72
* こういうことも考えている。
* だいたい、ふだんの感覚のまま自分でつかう「一人称」は、書くとき、話すとき、ほぼそれぞれ固まっている。
人と「話す」ときや、人なかで「話す」ときは、状況に応じて自分を、「私」「わたくし」「わたし」「手前」「僕」「おれ」などと相手により場所により使い分けることの多いのは、もう随分昔に「週刊朝日」の連載で論じたり、著書でも繰り返したし、人に引用もされている。
しかし一人称で「書く」ときは、かなり固定しているのが普通で、日ごろ「わたし」の人が、ときに「私」になっても、甚だしくは変わりっこない。「あたし」とか「うち」とか「こっち」とふケイタイ電話などで書き慣れている人が、なかなか「私や「わくたし」にはならない。
個と個との「手紙」のやりとりなら、むろん、長上に書く手紙とギャル仲間で書くのとでは変わるだろう、が、「mixi」日記やメールでは、だいたい例外なく一定する。「一人称の縛り」は、なかなか書き手にきついのである。
だから、日ごろ「うち」「あたし(あたしゃ)」などで通してきた人が、「私」になっていたりすると、その文章は他者の作為ないし作偽でありやすい。筆跡もなかなか真似られるものでないが、その人に固着した「人称の縛り」や「口癖」は、なかなか他人が真似られるものでない。真似てもポロが出る。断片の口真似はできても、書き癖の真似は難しい。口調の真似も難しい。
* 自分で自分を、自分の名で、「まさみ」とか「かずや」とか言ったり書いたりする人はいる。おそらく会話での例はより多く、「書く」人はより少ないだろうが。
日ごろからそんな「自分呼び=自称」などしない人物の手紙などに、それが出て来ると、まして頻出してくると、少なくもそれら文書は、他人の「作為」「作偽」の形跡を露わにしている。「お宝鑑定団」に出てくるお寶の「書蹟・書簡」に偽物があらわれるとき、筆跡もむろん問題だが、その人の使わない、しないことを侵して作為・作偽してある、それがバレる。あるわけがない署名をわざわざ入れてしまうとか。
ひごろ、「うち」「あたしィ」「アタシャぁ」などと言う人、そして間違っても自分を「まさみねえ」とか「かずやはサ」とか自称しない人が、「私」「僕」また「まさみ」「かずや」と手紙やメールに書いてきたら、精神状態を疑うか、作為・作偽を疑わざるをえない。しかもそういう文章・文体にかぎって整理の行き届いた、ツンと澄ました無表情なきれいなものに仕立てられる。
まして同じ日の内に、同じ場所に二通り三通りの文体や人称や名乗りでものが書ける、書いても不自然でないことなど、文体の力学としても、生理としても、有り難いことに属する。
* よく世に現れる「終焉日記」「闘病記」に、まぎれもない傑作の在ったことは、いくつも記憶にある。とりわけ中島湘烟の最期の日記は、まぎれもない。正岡子規の最期の日記も、まぎれもない。
だが、こういうものばかりでは、ない。関係者が、当人没後に、善意または不善意できれいに死の経過を整え、或る意味で作為し、ときには作偽もしたかと猜される「闘病記」や「終焉日記」の出版例、在る、のではないか。
そういうときに、死者本人が書いていない作文や代筆がむしろ主筋を通しかねない。一般論をいうが、そういうのはむしろ「追悼記」にした方が正直というものだ。
* ともあれ、上手と下手は問わぬかぎり、みな自分自身の物言い癖、口癖、書き癖を持っている。不思議に「指紋」のようにしみついた似而非文体を所有している。
その気になりさえすれば、少し気を入れて落ち着いて読めば、誰でもと謂っていいくらいだ、ある程度その真偽は「見分け」がつく。これは「まさみ」が書いたとしてあるけれど、「かずや」の書いたものではないのか、とか。やり手がタカをくくって間違うからである。「かずや」の他の文章例とよく比較し、むろん「まさみ」の他の文章例ともよく比較してみれば、実感も添ってその辺の「真相」が見えてくる。批評家には大事な手続きであり、軽率に読み飛ばしてとんだ目に遭うこと、あるのである。
「文」は、たしかに「人」である、少しこの格言の意義から少しずれてしまうけれども。
* 入院後の「やす香」筆とされる「mixi」日記には、作為された他社の筆のものが、幾つも感知できる。なぜそんなものが現れ、なぜそんなことが必要であったのか。
2007 9・5 72
* 南山城の従弟から秋の香を託した新しいブレンドコーヒーが幾種類も送られてきた。ありがとう。
珈琲豆といっしょに、南山城の古寺社案内の略地図もブレゼントしてくれた。恭仁京や海住山寺も出ている。浄瑠璃時や岩船寺も出ている。奈良や京都や、また木津川などとの位置関係もよく見えて嬉しい。地図に見入っていると時間を忘れます、感謝感謝。
☆ 台風のさなかになりましたが 今は無事(珈琲豆)お手元と安心しました こちらは良く晴れ凪いだ 残暑の一日でした。
海住山寺は わが家の旦那寺というのでしょうか (南山城の方はお寺とお墓が一体でないことも多く わが家も身墓(埋墓)と参り墓 ともに寺域とは別にあり あまり菩提寺という感じがありません。)
先般の「mixi」日記の「百回忌」の知らせも 海山さんからでした。
ご注文確かに ありがとうございます 明日 発送致します。 巌
2007 9・7 72
* 京都南山城古寺探訪と題してある略地図には、一休寺(酬恩庵)、法泉寺、観音寺(大御堂)、蟹満寺、神童寺、海住山寺、禅定寺、山城国分寺(恭仁宮跡)、現光寺、笠置寺、岩船寺、浄瑠璃寺(九体寺)の名が上がって写真も。木津川は東から西へ流れ、もののみごとに木津で眞北へ折れて北流している。川の東に沿ってJR奈良線が、川の西に沿って縒り合うように近鉄奈良線とJR学研都市線が走っている。
* その近鉄山田川駅に、国民学校一年生の折の吉村ひさの?先生が住まわれていて、何の用でか、その学年を終えた春休みに、秦の父につれられ、はるばる山田川まで先生宅を訪れた記憶がある。大人の話にすっかり退屈していたが、帰り際、先生は私に「古事記」を訓み下した古本を下さった。日本の神話にどっぷりつかった最初で、あの春休み中に、同じ本をわたしは何度も何度も何度も繰り返し読み、ほとんど暗誦した。二年生になり、わたしは日本神話を、先生に命じられ教壇にあがって「話す」役を、何度もつとめた。泣き虫のダメ一年生が、元気に立った転機であった。
2007 9・8 72
重陽 独り酌む 盃中の酒
病を抱き 起ちて登る 都西の階
* 朝、起きるのが、楽しめない。気がつくと、黒いマゴがわたしの片手を両手で抱きかかえ、かるく噛んでくれる。安定剤は避けて、のまない。与えられた一生を避ける手はない。
2007 9・9 72
* えっ。雨か。今日は新宿に出なくてはならない。
2007 9・10 72
* 建日子と十二時に会い、鮨店で小一時間話す。法律事務所で一時間ほど打ち合わせ。
* 喫茶去。
2007 9・10 72
* 二代目中村吉右衛門は、初代の「秀山祭」を、去年以上に盛り上げた。熊谷も重忠も清正も、あっぱれ好演し名演した。次いで福助の相模、村雨、秀頼の大きな進境を讃えるし、左団次の奥方と家康の秀逸を喜びとしたい。染五郎の龍馬も意気盛んに実在感を見せて刺激的だった。そして玉三郎の阿古屋は、さすがになにもかも大きく美しく、阿古屋の人間的な容量でも納得させた。芝翫の義経も冨十郎の弥陀六も、言うまでもない、さすがであった。
満たされて歌舞伎座から帰ってきた。歌舞伎座の中の稲荷社に、初めて手を合わせ詣ってきた。建日子や妻の健康と日々の無事を、そしてやっぱり朝日子のことも、わたしは祈ってきた。誰もかもの幸せを祈ってきた。
2007 9・11 72
* 妻がやすんでいる。気疲れもあり、体疲労もあろう。小さい旅でも旅のまえで、心配する。だが、なんでこう忙しいのだ。部屋にモノがいっぱいというのは恥ずかしいことだ。忙しいというのも、とても恥ずかしい。
2007 9・12 72
* 安倍総理の辞意は、突然であったが、もっと早く辞職してよかったのであり、囁かれているように健康こそが大きな理由なら、折角養生されたい。
* このわたしも、驥尾に付したのではない、もうずっと前に一つの「辞意」を告げて、永かった言論表現委員を辞めると、八月二十一日に届けた。押村の「仮処分」申し立ての通知が地裁から届いた、二三日前のことである。山田委員長から真意の問い合わせがあり、すぐ答えた。それによりもう処理されたのであろう、希望通り「ML」からもはずしてもらっている。
明日が、委員会の予定で、同じ刻限に、わたしは京都で美術の「対談」をしている。
* 自身の「けじめ」のためにも、山田さんに答えておいたメールを記録しておく。一度は引き受けたが、同じ委員会の委員を「二十年」は、例も少なく度外れてもいて、わたしの持論にも背くのである。もう休ませてもらっていいだろうと思うと、気がラクになった。
* 山田さん お気持ちを煩わせ、恐縮です。お詫び申します。
辞任のことは、かねがねの思いをふと実現したくなりましたもの。さきに電子文藝館の館長をやめて委員会を退きましたと同じく、一つの地位や肩書を一人が永く占めるのは宜しくないと考え、繰り返し、発言もしてきました。
私の言論表現委員を務めますことは、はや二十年に及びます。そして私の委員会での発言が、かりに一方で何らかのプラスがあろうとも、またその発言の姿勢や調子におのずからな(多年任にあったという=)高慢が忍び込んでいなくもないかと、反省していました。前者のプラスは他で補い得ますが、後者のそれは健全な委員会の運営に障り、しかもあくまで自身に原因します。老害と謂うべきでしょう。
加えて糖尿病の推移から、健康の日ごと悪化していることも間違いなく、身の晩年を大事に自戒していいことと思いました。
今ひとつご指摘があり痛み入りましたが、組織での地位・肩書に、かならずしも本来活動の意義に添わず、かえって虚栄の満足とか出世意識とかが冗談にも委員の口ぶりに思わずあらわれたりしますことと、ペンの伝統の中で「言論表現委員会」が占めてきた実に重要な真の役割との間に、いやな隙間が見えかけているのを心に嫌いはじめていました。
一つにはそれも私の高慢、老害の勝手な意識と反省しました。
また、より大事なことですが、ペンクラブの中で、理事や委員の席を、同じ人間が幾つも重ねて占めてしまう安易な事態にも、寒心を覚えてきました。じつは私自身、多いときは理事、委員長、館長、委員などと、ある点では自然な成り行きでしたが複数の「役席」を占めてしまっていましたが、他方、会員の中から、ときに理事にも、またどうかして委員会の委員になりたい意向を漏らされ、うったえられることが、ここ、十年、増えていました。
会員の一人でも多くが有益に意欲を持って委員会に参加することは、一人の者が幾つもの「役席」を同時に占めて譲らず多年に及ぶよりは、実に大切なことで、これも、かねがね一理事としての強い思いでありました。これも繰り返し発言してきましたが、全く改善はされませんでした。
さて、ところが、(予期は皆無ではありませんでしたが) 委員辞意を通知しましたその直後に、実に不本意ながら、婿と娘との連名で「債務者」席に置かれる「審尋」通知を東京地裁から受け取りました。文字通り、只今電子メディア委員会を合併したばかりの新・言論表現委員会のほぼ唯一主要主題、「言論表現の自由」「創作表現の自由な権利」に対する真っ向の挑発・挑戦を受けたのです。私は、今もペンの会員・理事であり、委員会とは実に深い久しい関わりをもって働いてきました。真実心を曲げることは成りませんが、この際、正式にこの問題を山田委員長にご審議またご支援いただきたいと、幸便にお願いしたいと存じます。
告発の要点は、さきに刊行した『かくのごとき、死』に著作権侵害と名誉毀損があるということ、同様にウエブに単に保管されている未完・未定稿の草稿『聖家族』を、同様の理由で出版差し止めの処分をということ、私のウエブの日録「秦恒平の生活と意見」をも、「mixi」に掲載してきた「日記」をも同様に、ということです。「mixi」に多数公開している秦恒平作品は、ハンドルネーム「湖=秦自身」による盗用だと、複数を動員して事務局に「削除」を要請し、読者たちの憤激を買ったこと、その直後に例のホームページ全削除の策動をし、不幸にもサーバーの一方的な処置で「全削除」されたことも関わります。文字通り一会員の上に起きた、これは「言論表現委員会」マターの議題です。
この審議に当事者の私が加わってしまわない方がいい。そのためにも、たまたま「委員辞意」を申し入れたこと、或いは天与の示唆であったと私は感じています。
以上、あらあら申し上げました。この由は、このまま委員会にご提示下さいまして構いません。暑さの折から、お大切に願います。読み直さずに発信します。これは内密にといった内容でなく、すべて山田さんの高配に託します。 不一 秦 恒平理事
* 役につくのはむしろ容易い。辞める・退くのは難しい。退きどきを失うとサマにならなくなる。成りたい人がいるのだから、その道を適切に譲るのも、大事な「地位の心得」だとわたしは考えている。安倍総理は、だが、時機を見失ったようだ。
それでも、まだ当分の間、日本ペンクラブの理事役で、思うところを人前で述べたり、用を命ぜられたらその用を務めたりしてゆく。
* 今日第二回の「審尋」があった。報告も来ている。また先方からのなにやら書類らしきも届いているらしいが、すべて京都から戻ってのこと。
2007 9・12 72
* ホテルに戻り、しばらく休憩してから、夕食には洋食。赤のグラスワイン。メインはひれ肉。ソースと、添えた野菜の料理が斬新にうまく、食べきるのが惜しいほど。前菜もスープもパンも、デザートも。時間を十分掛け、グリーンを読みながら、落ち着いた。ひとりは寂しいようで、最高に落ち着く。身の回りの空気にすっぽり穴ごもりする心地。あと、どこかへ出かけ、それ以上呑む気は、全くなし。
部屋で、テレビを観ながら、縄手の交番東で買ってきた美味い「餡しら玉」を、ひとり心ゆくまで食べきった。そして、映画も観ず、本も読まず、妻に電話だけ掛けて、すぐ眠った。眠たかった。
* 妻との電話で、妻の受け取った胸をうつ或るメールのことを聴き、わたしは、電話の途中から、あと一人になってからも、泣いた。
生前の孫・やす香のために、わたしは、恰好の細長い綺麗な袋に、五百円玉が手元に来るつど容れて溜めていた。保谷に来てくれるようになった或るいい機会に、わたしたちはやす香にそれをやったのである。数万円を超していたが、そんな金額のことでなく、やす香はよっぽど嬉しかったと見え、何度も何度も友達にその話をし、嬉しさを胸いっぱいに大切にし隠さなかったという。
こういう、わたしたちを泣かせるいい声が、声々が伝わってくる。なんという、ありがたさ。
そしていまわたしたちの置かれている苦境もよく知っていて、慰めの声が、励ましの声が、まるで、やす香自身の声かのように伝わってくる。
なんという嬉しさ、ちからづよさ。
2007 9・13 72
* 亡き愛しい孫のやす香に贈ろう。「闇に喰われしもの」として地下宮殿に幼くより閉じこめられていたテナーが、ゲドの助力をかり、ついに自由を選択して闇から脱出したときの描写である。
☆ テナーは両腕に顔をうずめて泣きだした。その顔は塩辛くぬれた。彼女は悪の奴隷となっていたずらに費やした歳月を悔やんで泣き、自由ゆえの苦しみに泣いた。
彼女が今知り始めていたのは、自由の重さであった。自由は、それをになおうとする者にとって、実に重い荷物である。それは、決して、気楽なものではない。自由は与えられるものではなくて、選択すべきものであり、しかもその選択は、かならずしも容易なものではないのだ。坂道をのぼった先に光があることはわかっていても、重い荷を負った旅人は、ついにその坂道をのぼりきれずに終わるかもしれない。
ル・グゥイン作『こわれた腕輪』より 清水真砂子訳
* この「テナー」を、誰もがたとえば自身の名に置き換えて読むことは、例外なくゆるされる。だれもが脱出せねばならぬから。
* 以前も引いたが、去年の三月七日、やす香は長い「mixi」日記の一部にこう書いていた。再度引用して、わたしは心からやす香を愛おしむ。「おじいやん」に聴いてまだ間もないことばを、如実にやす香は此処に用いている、やす香の実感のままに。
☆ やす香 2006 03 07 より一部引用(太字は秦)
だけど私たちは
自分じゃない人=他人と
必ず関わって生きてる。
家族、友達…。
誰かに愛されて生きてる。
誰かに必要とされて生きてる。
生まれてきた時点で
誰かにお世話になって、
誰かの力になってるんだ。だから生きなきゃいけない。
例え今私が死んだって地球は回るよ。
そう思ったら、
自分の存在なんてものすごくちっぽけなもので、
虚しくて壊れてしまいそうになる。
だけど、
生きたくても生きられない人がいっぱいいる。
生きててほしい人に
死なれてしまう人がいっぱいいる。
そんな人たちを前に
自分の命を粗末に使うことは
私にはできない。
生きなきゃいけないって思うんだ。
それに、
私には大好きな人がいっぱいいる。
みんなにも大好きな人がいるでしょ?
その人が
自分が死んで悲しんでくれるかはわからないけど
少なくとも私はみんなとまだ別れたくない。
どうしても生きなきゃいけないなら、
たとえ未来がわからなくて、
どんなに不安で
どんなに怖くても
明日、今の楽しさが
虚無感にかわっても、
それでも今を楽しむ。
今を大切にする。
* 「今」という言葉遣いに重きがかかるのが分かるが、このやす香の「今」にも、よくわたしの謂う「今・此処」という物言いにつよく反応していたやす香を思い出させる。「今・此処」は重い。ほんとうに重い。ハーバードの「雄」くんのレポートにもそれは感じる。学者の「今・此処」にもいろいろあるのだろうが。
☆ Karl Deisseroth ハーバード 雄
3時過ぎにラボを出て,MIT(マサチューセッツ工科大学)に行って,セミナーを聞いてきた.演者はKarl Deisseroth(スタンフォード大学,assistant professor).ホストは利根川進ともう一人別の教授.
会場はMITのPicower institute for Lerning and Memoryのセミナールームだったが,驚くほど立派な建物だった.現代的かつ綺麗で,ハーバード大学のセミナー室とは大違い.おそらく今ハーバード大学が作っているCenter for Brain Scienceの新しい建物も,このようなものを目指しているのだろう.
演者と,ホストのもう一人の教授は定刻より10分位前に会場にいたが,ホストの教授が演者について説明し始めた頃に,ようやく利根川進が現れ,セミナールームの最前列中央の席にどっかりと腰を下ろした.
セミナーの内容は,以前この日記にも書いた,「光で神経細胞の活動を制御する」というもの(4月6日の日記参照).バクテリアで見つかった,チャネルロドプシンというタンパク質には,青い光を当てると神経細胞の活動を活性化する働きがある.これと逆に,黄色い光を当てると,神経細胞の活動を抑えるタンパク質もあり,Deisserothはこれらの分子を神経細胞に発現させるような線虫を作って,光を当てると全く動けなくなるような線虫を作ることに成功していた.
今日のトークでも,光を当てると動けなくなる線虫の映像が出てきた.黄色い光を当てると,途端に動けなくなってしまう様子が見事に映し出されていた.さらに,青と黄色の光を使い分けることで,線虫の動きを停めたり,また動かしたりと自在に操っていた.まるでゾンビのようだ.この線虫を作った理由は「単に面白いから」と言ったので,皆笑う.
さらに,「ボストニアンにもこの遺伝子があれば,黄色い信号で停まるのに」というジョークに全員爆笑.ボストンの人達は,とにかく信号を守らない.平気で赤信号でも横断歩道を渡る.かくいうDeisserothも,今はカリフォルニアにあるスタンフォード大学にいるものの,生まれはボストンとのこと.だからこそ言えるジョークだろう.
さて,この技術を応用した話が今日のメインテーマだったのだが,これもまた圧巻だった.Deisserothのグループは,他のグループと共同で,青い光を当てると神経細胞の活動を高めるようなチャネルロドプシンを,ヒポクレチンという神経ペプチドの受容体を発現している神経細胞に作らせることに成功した.
ナルコレプシーという病気をご存知だろうか.約2千人に一人の割合で見られる睡眠障害で,眠り病とも言われる.一日中寝てばかりいる人は大勢いるが,ナルコレプシーの最大の特徴は,情動性脱力発作を伴う点.怒りや喜び,驚き,笑いなど,強い感情によって,突然体中の筋肉が弛緩してしまい,覚醒状態から深い睡眠状態へと移行してしまう.
セミナーでも,ナルコレプシーの犬とヒトのビデオを見せてくれた.ナルコレプシーのモデル動物として系統維持されてきた犬がいるのだが,この犬に餌を与えると,喜びのあまり寝てしまう.食べながら寝たりもする.ヒトの例としては,この病気の少女が出てきていたが,ホームパーティーか何かで,皆が楽しそうに踊りだしたのに釣られて,本人も笑いながら踊りだそうとした瞬間,突然床に倒れこんでしまった.家族が慌てて覗き込むが,やがて少女は笑いながら目を覚ます.
この病気には,ヒポクレチン(オレキシンとも言う)という,脳の中の視床下部で作られるペプチド(アミノ酸が連なったもの)が関係することが分かっている.
オレキシンは,そもそも食欲促進物質として,テキサス大学ヒューストン校の柳沢正史教授と筑波大学の桜井武助教授が見つけたのだが,このペプチドが作られないマウスだと,ナルコレプシーと同じ症状を引き起こすことを突き止めた.当初,柳沢教授らは意外な結果に驚いたらしいが,食欲が充たされるとオレキシンの分泌が収まるわけで,お腹がいっぱいになると睡魔に襲われるのも,オレキシンの働きと考えると腑に落ちる.
一方,上記の犬を使って十年以上にも亘ってナルコレプシーを研究してきたグループも,どの遺伝子に異常があるのかを丹念に探していった結果,ヒポクレチンに行き当たった.確か1999年のことだったと思うが,科学雑誌Cellの同じ号に,柳沢グループのオレキシン欠損マウスの論文と,犬のナルコレプシー原因遺伝子としてのヒポクレチンの論文が同時に掲載され,ラボの皆と読んで興奮したのを思い出す.
話を元に戻すと,Deisserothのグループは,上記のチャネルロドプシンを発現しているマウスを使い,視床下部にファイバースコープを使って青い光を当てると,それまで寝ていたマウスが突然起き出すことを見出した.つまり,ヒポクレチンを受け取ると活性化する神経細胞を,ヒポクレチンではなく,代わりにチャネルロドプシンで活性化したことで,睡眠状態から覚醒状態へと急激に変わったのだろう.まるで白雪姫だ.
今日まで知らなかったが,Deisserothは研究者であると同時に精神科の医師でもあり,こうした精神・神経疾患に強い関心があるらしい.だから,線虫を使った実験などは,まさに「お遊び」に過ぎなかったのであり,本当の目的は,こうした医療面への応用だったのだろう.
セミナー中も,随分と若いボスだなあと思っていたが,ラボに帰ってきてウェブサイト(http: //www.stanford.edu/group/dlab/)を見てびっくり.なんと学位を取ったのが,僕より1年早いだけ.しかも,相手はメディカルスクールも出ているわけだから,研究歴は僕の方が長いはず.
まあ,こういう人と比較してはいけないのだろうけど,頑張らなくちゃと発奮する自分と,諦めの境地に達しようとしている自分とが,自分の中で交錯する.
* おもしろい。
2007 9・14 72
* 深夜、また低血糖症状で、ひとり起きて対処。砂糖を一なめし、牛乳一杯で、強いてやり過ごす。
六時に起き、ひとり簡素に朝食のようなもの。
息子が自身のブログに書いていた。「mixi」を介して読みに行った。
☆ 生きていればいろんなことがある。 秦建日子
知っている方はもうとっくにご存知だけれど、とある裁判沙汰に巻き込まれ、定期的に弁護士事務所に通っている。
実の姉が、実の父を名誉毀損で訴えるという―――なんというか―――事実は小説より奇なりを地で行くような話である。
私は、落ちこぼれではあったけれど、一応法学部の出なので、親孝行を兼ねて打ち合わせのたびに父に付き添っている。何せ、齢70を超える、しかも病人である。
裁判の詳細はブログでは書けない。(書かない)
ただ、実の親子でも裁判所の力を借りないとトラブルひとつ解決できないという現実を前にすると、世界各地の紛争など解決できなくて当たり前、という気がする。
人という生き物に対して、ひとつ、ネガティヴになる。
*
連ドラ終了と前後して、たくさんの新たな仕事のオファーをいただきました。
で、そのうちのひとつである、とあるスペシャル・ドラマにチャレンジすることにしました。
そのドラマを見てくれた方が、ひとつ、生きることや人を信じることにポジティブになっていただけるように。
* わたしは、書き手の一人として、もし希有なら希有で、娘に訴えられ、バカげてよしない汚名を、汚物のように浴びせられるというイヤな体験をすら、「人間」のきたなさ情けなさを見極める恰好の演習素材だと、半ばは興味深く受け容れている。そして何故こんなことが起きるのかと謎解きのように考えている。歴史記述者のように見守っている。
* これを書かなくてどうするか。書き手として避けては絶対いけない、「人間」の見極めどころの一つと信じるから書くのであり、それを読まれたら「人という生き物に対して、ひとつ、ネガティヴになる」かなと心配したり、これを読まれて「ひとつ、生きることや人を信じることにポジティブになっていただけるように」などと願ったりして、ものを書くのではない。書き手わたしの信と実とが、たとえどう伝わり、どう受け取られようとも、それは受け手の問題で、書き手が、わたしが、干渉することではない。わたしはそこに書くに値する「人間探求」の道があるから、その道を進んだのである。「ワケ知り」に陥って、現実の「ワク組み」と安易に妥協したくはないのだ、わたしは、いつも。
* 「mixi」のマイミクさんに、「人を許せない」心は醜いという題の日記が出ていた。抽象的な話題ではなく、ご自身の身辺実話が体験として語られていたのである。
このような題目でなら、わたしにも日ごろの物思いは有るので、ちょっとコメントを添えさせてもらった。ここには、もう少し手が入るかも知れない、書き写しておく。
* 久間防衛大臣が、アメリカの原爆投下は「しようがなかった」と発言したとき、日本人のかなり多くが、怒りました。発言を暴言としてゆるしませんでした。あれは、どれほどの実感を伴った怒りようであったでしょうか。
あの無残な原爆投下に対し、日本の国会は、政府は、日本人も、公式の怒りを結局は一度も発してこなかった。心優しく美しく、既往の咎として、もうアメリカを「ゆるして」あげたのでしょうか。それは称賛されることなのでしょうか。
学問的には異説無くはないのですが、ホメロスの『オデュッセイア』 あの叙事詩の英雄「オデュッセウス」という名は、「怨みの子」という意味を帯びています。ながいながい海洋彷徨の苦難の旅の果て、彼は辛うじて故郷に帰りつき、留守を守った妻子達のために、彼らの屋敷を占領し無道で無礼なふるまいをし続け居座っていた者達に、じつに徹底的に「怨み」を晴らし「復讐」します。
そういう名作が、人間の歴史の初原にちかい昔にあり、人々は感銘を、感化を受けてきました。
ハムレットは、怨みと怒りとを母にすら向けました。
古事記のヤマサチは、兄ウミサチへの怨みを、何容赦もなく徹底的に晴らして服属を誓わせ、犬のように遇しました。
『嵐が丘』二代を生きたそれぞれ真の男と女とは、怨みや憎しみを、精神の濃いエネルギーに、執念深く怨みを晴らしながら、ついに深い真の愛への浮揚と清冽とを得てゆきました。だれも、生半可にゆるしたり、仇に感謝したりはしませんでした。しかも物語は妄執の暗さ重さからみごとに立ち上がっています。感動は、ゆるし にではなく、ゆるさなかった事から沸き上がって、昇華されました。
『心』の「先生」は、父の遺産をよこしまに奪った叔父を、徹底的にゆるしませんでした。あるいはそのような業苦が彼の頽落を招いたかも知れぬにせよ、彼は、ゆるすべきでないものをゆるさないことに、人間たる命の意義すら認めていたのではないでしょうか。
『モンテクリスト伯」は、あれほど愛したメルセデスをすら許さず、怨み憎んだ全員への徹した復讐を完遂して、愛するエデとともに汚い世界から、遙か遠くへ去って行きました。
ゆるしてはならぬものは、徹底してゆるさなかった彼は、そのことで人間の真価を喪っていたでしょうか。醜い男として生きたのでしょうか。
赤穂浪士の面々は、吉良上野の高慢と強欲と小心を憎み、幕府の無道な片手落ちを憎み、ゆるすなどという考えは微塵もなく復讐を完遂して死んで行きました。
かれらが、もし吉良や幕府を如才なくゆるしていたら、いったいどういうことになっていたでしょう。脱落武士の運命はあまり美しくは無かったようです。
武士道なんてものにわたしは惑わされませんが、人間が、最期の一筋で守る ゆるす ゆるさない「気概」の真実にこそ、心をひかれます。
ゆるすべきをゆるす美しい勇気、ゆるすべきでないものを徹してゆるさない美しい勇気。
ごっちゃに、甘くいい加減にひとしなみにすることは、人間の奥の底の気稟の清質そのものへの冒涜にならないでしょうか。
ひ弱な通俗の道徳や、社交的な行儀の良さや、そんなものから出てくる ゆるし、あるいは ゆるさない には、ともに醜いものを感じます。
社会や、教育や、政治や、時代の強い力で一律に押しつけてくる「ワク組」、損得の思いや、つまり無意味な妥協がつい作りあげてしまう「枠組み」。こういう「モラル」ともいえない惰性の強圧に背中を押され、安易に受け容れてする ゆるし ゆるさない など、わたしはイヤですね。
自身の内奥からわき出てくる、何の「枠組み」への追従でも妥協でも屈服でもない ゆるし ゆるさない そういう決断なら、すばらしい。
与えられ 押しつけられ 従わせられている「ワク組」に対する、強い批評、疑問、不審や葛藤から、ぎりぎり選ばれる ゆるし ゆるさない でありたいです。そうでないとイヤだなと、わたしは願っているのですよ、「麗」さん。 湖
2007 9・15 72
* いまも息子に何の用というほどでもなくメールを送って、あわや、葉から露の零れそうに書き添えてしまいかけたものを、消した。いまわたしがものを書けば、それは画家麻田浩が現世の皮一枚をひっぺがして自ら命を絶つまで観ていた、見詰めていたあの地獄でしかない。しかし言葉をかえていえば、あれが麻田さんの理想世界でなかったと誰に言えるだろう。
ちょうど九年前の真夏に、二十日ほどつづけて必ず日に一篇ずつ書いた「掌説」の一つにこんなのがあった。「新潮」の元の編集長が、つよい印象、とわざわざ手紙をくれた。
わたしの地獄か。そうか。
* 星空 秦 恒平
寒かった。
男はほそい襟を立て首をちぢめていた。行くアテがなかった。叩けば音のしそうな星空だ。月はなかった。家ひとつなかった。
男は妻子を殺してきた。殺す理由はなかったが、刃物が目に入り、手にとった途端に殺意が来た。妻は、やっぱりという顔をして薄わらいしながら殺された。白い喉のわきから血飛沫が壁を染めた。三つになる男の子は逃げ場をもとめてキョロキョロした。太い一の字を書くように男は力まかせに子の胸を薙いだ。赤い口をいっぱいあいて、男の子は最期の息をした。ちいさな掌がなにかを掴もうとひくひくした。
男は刃物を手から放し、家を出た。なぜだか、ひどく眠かった。だが眠い以上に寒かった。戸外は、凍った無数のさながら針の束だった。身をもがくように男は天を仰いだ。天はなにも言わなかった。
男は歩いていた。歩いていた。ただ歩いていた。歩いていた。星が瞬いた。天にも地にも瞬いた。いつからか男は足下に踏むべきなにもかも喪い、ただ歩いた。歩いていた。
妻を愛していた。子煩悩な父親だった。暮らしに痩せ窶れたりもしていなかった。なぜ殺したろう。ようやく男はそれを思っていた。思い当たらなかった。
うしろから男は呼ばれた。妻が走って追ってきた。子供もおぶっていた。父親をよぶ男の子の声が、綺麗なガラスが割れるように朗らかだった。殺してなかったんだ、男は歩をゆるめ、それでも前へ前へ出ながら頷いていた。妻も子も殺してはいなかった…。
母親の背を離れ、うしろから駆けながら抱きついてきた我が子を男は掬いあげるように高くさし上げた。子供の胸が、斜めに太い一の字にざっくり裂けていた。しろい細い肋の骨が肉といっしょに砕けていた。ふりむいて見た妻の喉のわきも、骸骨の目ほど刃物のあとが口をあいていた。妻も子も、だが、そんなことにはお構いなく、いつものように喋ったり黙ったりして男といっしょに歩いていた。山も野も川もなかった。星ばかりがぴかりぴかりと大きく瞬いていた。
「おとうちゃん。寒いね」と男の子は言い、声はさほど寒げではなかった。もう大丈夫よと母親が答えた。なにが大丈夫なんだろうと男は思った。自分が声と言葉とを喪っていることに男はやっと気がついた。
この前の前の前の世に生まれたとき、男は女だった。子供を二人産み、姉娘はめしいで弟息子はおしだった。娘の父も息子の父も、濃い煙のように女を息苦しくさせ、風に運ばれ消え去った。
女はめしいの娘に笛吹くすべを教え、おしの弟に鼓を打たせた。母はいい声で歌をうたった。河原は寒く人はなかなか寄らなかった。三人はつむじ巻く雪風にあおられて高い崖から抱き合うて海に落ちたが、母ひとり死んで、子の二人は笛を握りしめ鼓を抱きしめて助けられた。めしいの目はあき、おしは口が利けるようになっていた。姉は長者の妻になり弟は長者のあととりになった。死んだ母親は馬に生まれ、長者の家で迫めに迫められこき使われて、前世の子供たちよりさきに死んだ。
ーー男はいつのまにか馬になって、妻と子を乗せ、歩いていた。ひりひりほ、ひりひりほと妻が笛をふきはじめた。男の子はぽんぽんや、ぽんぽんやと鼓を鳴らす。馬はすこしうなだれ、膝をこっぽり上げては空を踏んだ。行く手で大きな大きな光の輪がとめどなく膨らんだり縮んだりしていた。
殺したのか殺していないのか。馬になった男はまだ考えていた。ひりひりほ…ぽんぽんや…と、大きなまぶしい星にのみこまれても聞こえていた。
2007 9・20 72
* 同じ有楽町線の新富町でおり、妻は聖路加受診、わたしはタクシーをつかって国技館へ。
* 真っ先に、相撲茶屋の感じがよく分かり、興味深く。
案内されて、西真正面の桟敷に入った。
妻と二人だけで見せて貰おうと決めて、よかった、正解だった。四人入ったら、お互いに一時間で音をあげそう。二人だと脚がのばせて、悠々。
テレビで察していたより遙かに遙かに土俵がみやすい。歌舞伎では欠かせない双眼鏡が要らない。国技館という建物かなかなか機能的にうまく造られているのだと感心した。
* わたし一人、先ず十一時過ぎに入った。まだ広い館内の桟敷、砂かぶり、一階二階席を通じて、客は五、六十人。じつにノンビリと楽しかった。
三段目当たりの相撲が次から次へとつづくから、退屈全く無し。
貴乃花がりゅうとした佳い姿勢で向こう溜まりの審判をつとめていて、行儀の良さに感心した。また彼のスマートになっているのにも。
昔懐かしい審判達を一々確認した。
但し西真正面のため審判も背中、土俵に上がって仕切る西方相撲取りも背中。ただし相撲になれば土俵は円くて、テレビでよりずっと臨場感豊か。相撲はテレビ桟敷が最良というのはウソだと、直ぐ分かった。
* 四人席を頂戴していたので、茶屋のシステムはどういうものか見当がつかないなりに、いきなりわたし一人の桟敷に、お弁当だけでなく、無慮十種類ぐらいの食べ物が四人前ずつ積み上げられ、飲み物は好きなモノの飲み放題みたいで、仰天した。
妻が診察を済ませて駆けつけるまで、わたしは相撲は楽しむ、呑んで喰い、呑んで喰い、とにかくも山と積まれた茶屋到来の品々を少しでも減らそうと大わらわに飲食。こんな結構な有り難いことは、そうあるものでなかった。お相撲にお招き下さった群馬の渡辺さんに心から感謝申し上げます。
* 妻は二時にかけつけ、まだ場内は満員にホド遠かったけれど、確実に時間を追い取り組みを追うに連れ人が入ってきて、フーンうまく盛り上がるもんだなあと感じ入った。また広々とした館内のあちこちから、女性の声で贔屓力士の名を呼ばわること、賑やか賑やか。男の声も大きいが、女の声も能く響く。妻もだれであったか、勇を鼓して力士の名を叫んでいたのは、この時節柄めでたくも楽しそうで、妻のために喜んだ。わたしは取り組みに手を打ち笑いころげ、そして喰って呑んで休むまがなかった。
さすがに三段目から幕下から十両へ来ると、相撲が大きく強くなる。幕内になるとてんで貫禄が違うのに感じ入った。
土俵入りもはなやかに面白い。色彩は、呼び出しと行事の装束や衣裳もそうだが、幕内になると締め込みの色や下がりの色がにぎやかになる。懸賞もかかる。
高見盛の人気にはおどろいた。むかし林家三平の寄席人気におどろいたのと似た驚愕だったが、その相撲が又おもしろかった。
豪榮道と謂ったか、今場所優勝すると九十年ぶりの初入幕優勝と聞いて、大声援したが猛者の安馬だかなんだかにつりあけられ、土俵にたたきつけられて二敗になったのは残念だった。
横綱の白鳳はなかなか晴れやかでよろしかった。やっぱり朝青龍が此処へ出てきていたら興奮したろうなあと、無数に並べた優勝掲額の朝青龍をながめまわして、やはり初場所には戻ってこないかなあと願った。あまり気に入ったので、初場所も見ようよと予約を入れてしまった。
かえりに、さらに「お土産」という大きな袋が四つも届いて、とてものことに持ちきれない。茶屋が宅急便で送ってくれることになった。またまた愕いた。景気のいいことではある。気も晴れた。
* 凄い人の流れでどう帰ろうかと気を揉んだ目の前で、車から降りる人があり、これ幸いと新富町まで車を走らせ、有楽町線で一気に保谷まで。幸い妻一人は座り席があった。わたしは保谷まで立ち、さすがに終日脚腰を折っていたので、あわや攣りそうに何度もなったが、持ち堪えて帰宅。
* だが、メールをひらくと、なんともイヤーな仕事を命じられていた。一度に一日の楽しい気分がすっとんだ。深夜まで、仕事。
2007 9・20 72
* 終日心晴れぬイヤな仕事にかかって、ほんの一段落。まだまだ、かかる。
2007 9・21 72
* きのうのお相撲を楽しく思い出し出し、気を励まして日を暮らした。或る意味では希有に実の入った日々ではある。堪えて、為すべきは為すしか、ない。奮起してまた無心に泥の中へ潜り込まねばならない。明日朝目覚めても、いやな気分のまた数日がつづくけれど、それが我が「体験」だ。財産のようなモノだ。
* 佛は常にいませども 現(うつつ)ならぬぞあはれなる 人の音せぬ暁に ほのかに夢 に見えたまふ
2007 9・21 72
* 八時に起きて、いま夜の十時半。食事以外は乾いた目を濡らし濡らし、小説家冥利に尽きるケッタイな仕事を続けてきた。
2007 9・22 72
* 三日間、小説家としては、冥利に尽きる仕事。
☆ ココッ子 三の二 秦迪子
長女(=朝日子)と七年半はなれて次の赤ちゃんが出来るとわかったとき、思わず、一人っ子を二人育てるようなものだわ、と言ってしまいました。決して、一人っ子は困ったもの、などと考えていたのではありませんが。
生まれてみると、やっぱり赤ちゃん(=建日子)は大人三人に囲まれている一人っ子のようでした。一年生の長女はあたかも親のよう、というよりおばあちゃんの役どころのようですらありました。
ところが赤ん坊の方にはそんな頓着はありません。三ヶ月なるやならずで、もう赤ん坊は姉と親との区別をはじめました。せい一杯姉を呼び、親に向けない愛嬌も姉には示しました。はじめての笑い声も、話しかけや身ぶりも大慨は姉に向けてでした。さすがにママ、パパだけは早かったのですが、す
ぐ「ココ」 (長女はアコと呼ばれていますので)と呼ぶことも出来るようになりました。それも、面白いことにママが女の人、パパが男の人をさす融通のよさなのに、ココだけははっきり固有名詞です。大声をあげてココを追い、ココさえいれはお留守番も平気、ネンネもココと一緒でなければというようになりますと、ココの方でも、「建日子はココッ子ですからね」と、何かにつけてかまいたくてたまらぬ様子。そこは子ども同志、いくら姉が大人ぶったところで、このココッ子はおばあちゃん子の変種ではありません。七年半はなれていてもお互いにきょうだいの値うちはあるらしく、上の子はその七年半、案外さびしい毎日であったのかもしれず、おくればせなら弟が出来てよかったなと思うのです。
そのココッ子が、今も姉の留守にパパが机に飾っている写真の方へ 「ココ、オイデオイデ」と話しかけています。母親ともう大して違わぬ背丈のココを、本当に自分の仲間とでも思っているのかしら、と、ふとその横顔を私はくすくすぬすみみているのですが。
(保谷第一小学校PTA「白梅」 昭和四十四年十二月十五日刊 P。17)
* これが、わが家の「太陽」であった娘・朝日子の、母の手で描かれたプロフィール。
この朝日子が今、この弟・建日子の誕生このかた四十年、自分は、親に、父親に「虐待」され「性的虐待」され続けたと、いましも、父を法廷に呼び出している。
また自分は幸い「手にかけられず」逃げおおせたが、「その男」は自分の身代わりに「孫娘」を「人質」におびき寄せていた、と書いている、「mixi」の「木洩れ日」日記に。親たちには「アクセスを拒絶」しながら、物陰に身を潜めてである。
此の母・★★朝日子は、祖父の性的対象であったかのように「あてこすっ」て、亡き娘・やす香の霊を、無残に冒涜し陵辱している。「町田市の主任児童委員」だそうである、この錯乱した母親は。手短に要点を字句のママ「引用」する。
★
「連絡しなければ、きっとまたママが何かされる」 そう気遣って、あなた(やす香)は祖父母に病院を知らせた。
自分が「人質」になってしまったと知っていたあなたは、「見舞い」の最初の日、私が席を外すのを許してくれた。
あの男に近づかれることが私にとってどれほど苦痛か、あなたは既に気づいていたんだろう。
★
私はあなた(やす香)を守れなかった。黙って遠ざけておけば、それですむと思っていた。けして近づいてはいけないと、事分けてきちんと説明しなかった。だからあなたは、おびき出されてしまったのだろう、私の目を盗んで。
★
あなた(やす香)の短い人生について私(朝日子)が最も悔いるのは、あなたをこの呪いの連鎖から守れなかったことだ。私が逃げていたから、現実から目をそむけていたからだ。
せめて私が(祖父母の)見舞いを拒む勇気をもっていたら、あなたの最期の日々は、もう少し穏やかだったろうに。
★
結婚したら、家を出たら、この忌まわしいささやき声ともおさらばだ。
どんなに陰湿なハラスメントも、物理的に距離ができてしまえば、なし崩しに自然消滅だ。
そう思っていた。それが、甘かった。
私は気づいていなかった。あの男にとって私の結婚は、孫を得るための、いや、新しい「娘」を得るための、手段でしかなかったのだ。
★
私は気づくべきだったのだ。
自然消滅どころではない。
物理的な距離ができればむしろ、
現実という束縛を離れて、妄想は激化するのだ。
男は日々、虚構の世界をさまよいながら
娘が孕み、新しい娘、
「私の娘」が新たに生まれくるのを
手ぐすね引いて待っていたのだ。 (以上、すべて昨年八月以降に掲載されていた「mixi」★★朝日子「木洩れ日」日記から。)
* 今にして「明瞭」になった最大の唯一事は、この悲しい母親が、娘達二人に確実に「背かれ」、もう二年の余も娘達が祖父母らとの「親愛と平和」とを実現し享受していたという「真実」が、あまりに悔しくて堪えられなかったのだ。
それで亡き娘にあたかもシャーマンのように囁きかけて、娘にまで連鎖的に掛けていた父の「呪い」を「祓う」という妄想のオハナシを段々につくりあげ、しかもそれを天下の「mixi」を利用し、しかも当の両親にはひしと隠したまま、猛烈な「陰口」「中傷」を始めていたのだった。
* このおぞましい作為と欺罔とを、じつに鮮やかにひっくり返す証拠を、両親が矢継ぎ早に繰り出せることを、この賢そうで愚かしい娘は、気づかなかった。
* 朝日子は、夫のパリ留学にしたがい、娘・やす香と三人でフランスに暮らし、その一年半に、四十三通もの手紙を、一ヶ月に二通以上を、私や秦家に寄越しているが、どの一通も、文字通り「親愛」ならざるはなき、実に和やかな情愛に溢れていて、陰鬱な例外など微塵も無い。綺麗に保管され、動かしようがない。「著作権」にうるさい朝日子をはばかり、ごく一部を適切な範囲内で「引用」してみる。
☆ どの程度お役に立つかわかりませんが、シシリーの本を二冊別送します。もちろん両方とも仏語ですので、ごく簡単に‥というのは私にできる程に‥メモを付してあります。また、少し長めの訳出は、二、三日おくれますが、これも送ります。(後略)
(夕日子発絵葉書、八八年九月 シドッチと白石を書いた父の新聞小説『親指のマリア』への協力で、この写真本には助けられた。)
☆ 父上・母上 婚約記念日おめでとう
父上 お誕生日おめでとう
皆さん メリークリスマス
母上より ありがたいお小遣い 父上よりありがたい自筆信を続けて頂戴いたしました ありがとう また 父上の谷崎論は、”なつかしく”拝読いたしました。(後略)
(夕日子発封書、八八年暮れ 谷崎論に触れた長文の、冒頭。)
☆ 作家生活20年 おめでとうございます 湖の本エッセイ 頑張って下さい (中略) 公園かワープロと遊んでいる二人(朝日子とやす香)のために 折り紙を少したくさん 送って下さいませんでしょうか?(後略)
(夕日子発絵葉書、八九年七月)
☆ (前略)そこでそろそろパリを引き払おうかと考えている次第です。(中略)この二年間、色々と御援助下さったこと 改めて御礼申しあげます。また皆様にお会いできるのを楽しみにしております。(後略) ★★★
(★★★発封書繪ハガキ、八九年八月)
* この平和さ優しさ親しさの、どこに「木洩れ日」日記の毒々しい妄想の陰が落ちていますか、絶無です。
弟・建日子誕生以来「四十年」の「虐待」「ハラスメント」などを謂える基盤が、もともと朝日子には「皆無」だったということです。幼来父への憎しみや苦悩がもし真実なら、その怨念が最も安全に働いて良いはずの幸せな「結婚後生活」にあって、かくも★★夕日子は、父とも母とも「穏和に親愛」に満ちて幸福であったのですから。
* 雑誌「ハイミセス」の「旅」企画で、母・迪子の代理に、嬉々として父と四国・中国のフェリーの旅を楽しみ、観るも和やかな「父娘の写真」を天下に公表していた夕日子は、もうバリから帰国後の、むろん「★★」妻の夕日子でした。そんな非道の父親との「同行」なら、ニベもなく拒絶して当然でしょう。ところが、その嬉しそうな笑顔の数々。写真の一部は、この「私語」の末尾にも掲示してあります。
下の子のみゆ希きが生まれてのちも、夕日子は自ら夫の禁止をかいくぐり父母の家に来て、老祖母を病院に見舞ってもいますし、自身「三十三歳の誕生日」にも、じつに落ち着いた述懐のハガキを父に呉れている事実は、これもこの「私語」の末尾に「はがき」そのものが掲載してあります。
* 娘・夕日子らが月に二通以上も書き寄越した、「パリからの来信リスト」ほ参考までに掲げておく。ごく簡単な内容も摘記しておいた。偽装して書ける内用でき全くない。必要に応じて文面の公開も辞さない。
* ★★夕日子パリ発 来信書簡集
1988年4月以降分・・25通 1989年9月まで分・・18通
1988年・昭和六十三年 ★★★・夕日子・やす香 渡仏 (25通)
① 1988/4/7 はがき
残して行った食品に添えられたもの
② 1988/04/15 はがき 秦皆様 パリ
やす香と自分の近況
③ 1988/04/19 はがき 秦様 皆様 パリ
やす香の様子
④ 1988/04/28 封書 秦恒平様 皆様 パリ
滞在許可証を取るにあたり 125万円必要につき・・・欲しい
⑤ 1988/05/10 12時出 はがき 秦様 皆様 パリ 近況
⑥ 1988/05/10 18時出 はがき 秦様 皆様 パリ 近況
⑦ 1988/05/11 封書 パリ
秦恒平様 ★★★ もろもろの礼状
⑧ 1988/05/17 はがき 秦様 皆様 パリ 近況
⑨ 1988/05/26 封書 秦様 皆様 パリ
近況・住まいの紹介
⑩ 1988/05/31? 06/01? はがき 秦様 皆様 パリ
おむつカバーを送って下さい
⑪ 1988/06/14 はがき 秦様 皆様 パリ
もらった小包の礼
⑫ 1988/06/28 はがき 秦様 皆様 パリ 近況
⑬ 1988/07/01 封書 秦様 皆様 パリ
★★★発 虫歯で 神戸先生(秦家主治医・東京沼袋)にかかりたい
② 1988/07/08 封書 秦様 皆様 パリ
近況・もらった小包の礼
⑮ 1988/07/27 はがき 秦様 皆様 パリ
夕日子自身の誕生日の感慨
⑯ 1988/08/01 はがき 秦様 皆様 パリ 近況
⑰ 1988/09/02 封書 秦様 皆様 パリ
雑用依頼・送金方法のことなど
⑱ 1988/09/29 はがき 秦恒平様 パリ
シシリーの参考本(秦・朝刊連載「親指のマリア」参照)を夕日子が選んで父に送る・送料の事など
⑲ 1988/10/17 はがき 秦様 皆様 パリ 近況
⑳ 1988/10/18 封書 秦建日子様 パリ
パリへいらっしゃい
21 1988/10/31 はがき 秦様 皆様 パリ 近況
22 1988/11/03? はがき 秦様 皆様 パリ 近況
23 1988/11/23 封書 秦様 皆様 パリ 近況
24 1988/12/09 封書 秦様 皆様 パリ 近況
25 1988/12/16 封書 秦様 皆様 パリ
秦夫妻の婚約記念日お祝い・父上誕生日お祝い・メリーX’mas
1989年・昭和六十四年分 (18通)
① 1989/01/11 封書 秦様 皆様 パリ
クリスマス・プレゼント(お金)の礼
② 1989/02/11 はがき 秦様 皆様 パリ
父上へお見舞い
③ 1089/02/11 はがき 秦建日子様 パリ
用の依頼
④ 1989/02/22 封書 秦様 皆様 パリ 近況
⑤ 1989/03/06 はがき 秦様 皆様 パリ
お茶を送って
⑥ 1989/03/30 封書 秦様 皆様 パリ
夕日子の山一の預金のこと・30万円送って
⑦ 1989/04/24 はがき 秦様 パリ 近況
⑧ 1989/06/22 封書 秦様 皆様 パリ 近況
⑨ 1989/07/03 封書 秦迪子 パリ
雑用依頼
⑩ 1989/07/07? はがき 秦様 皆様 パリ
父上 作家生活20年おめでとう
⑪ 1989/07/25 封書 秦様 皆様 パリ
お小遣いの礼
⑫ 1989/08/07 封書 秦恒平様・皆様 パリ
★★★発 そろそろ帰国・援助の礼・今後もよろしくおつきあいを
⑬ 1989/08/08 封書 秦様 皆様 パリ
100万円貸して
⑭ 1989/08/16 はがき 秦建日子様 パリ
パリにいらっしゃい・父上の「初恋」に誤植あり
⑮ 1989/09/03 封書 秦様 皆様 パリ
思想の科学へ夕日子エッセイ掲載のこと
⑯ 1989/09/14 はがき 秦様 皆様 パリ
やす香の誕生日のこと
⑰ 1989/09/16 封書 秦様 皆様 パリ
夕日子やす香帰国日時とやす香の絵
⑱ 1989/09/???? 封書 秦様 皆様 パリ
「思想の科学」夕日子校正
* 死なせた娘の霊にむかい、囁きかけるように実の父を呪う★★夕日子と、これらの手紙ににじみ出た、父や秦の家庭への娘らしい親愛や感謝と。
どっちがホンモノか。
前者は異様な妄想をシャーマンよろしく毒々しく唱えているが、後者は、ふつうの健常な家庭生活・日常生活・親子の情から自然に書いた手紙の山である。
父の「作家生活二十年」を祝い、「湖の本エッセイ」創刊を祝し励まし、父と母との婚約記念日まで祝っている。
しかもこの時期にも、この前後にも、じつに「四十年」という長きを通して、娘は父に「虐待」されつづけたと夕日子は、まさに今にして言うのである。それを、自分自身の、不幸に死んでいった我が子・やす香の耳にむかって吹き込んでいる。無惨である。
この「私語」の最後にならべた夕日子と父や母や弟との写真を、とくとご覧あれ。
2007 9・23 72
☆ ココッ子
ふと手にした、なんとも愛らしい写真。
* とても疲れた。とても。とても。「凄い」小説が書けて行く。
2007 9・24 72
* 睡眠をけずり地獄を巡り歩くような、ダンテめく仕事をしながらも、精神は静かな平衡を保っている。だからモノが書けるし、本が読める。どんなに疲労しながらも読書をわたしは楽しんでいる。
2007 9・25 72
* フェルメールの内覧とレセプションの招待が来ている。新国立美術館など、「新」とついた施設には行くヒマがなかった。このところよく一緒に頑張った妻と、一息つきに、出かけてみようか。六本木というのも、気が晴れるか。ただ内覧とレセプションというとむやみに混雑し、何を観ているのか分からないときも有る。レセプションの方を失礼する気でピークを外すのがコツだが。
「真珠の耳飾りの女」と謂うたか、前に妻と池袋で観たフェルメールの映画を、昨日NHKが放映した。録画した。
2007 9・25 72
* 明日、歯医者。明後日、打ち合わせ。金曜には観世栄夫さんを偲ぶ会。九月、十月。猛烈。
2007 9・25 72
* 思い切って六本木へ出かけた。新しい国立美術館も観ておきたかった。
案の定フェルメールは『牛乳を注ぐ女』だけ、あとはエピゴーネン。この手の西洋絵画展が常套になっているのは、日本の受け容れ手に毅然とした見識や交渉力がないからだろう。フェルメールのその絵が、小品でありながら、世界史的な大作の風格を湛えた名画中の名画であるからガマンするものの、他の追随者達の絵は無残に程度がわるい。残念だ。
しかし『牛乳を注ぐ女』は、言葉もない名画。レセプションがあり、図録までもらって、その限りではずいぶんワリのいい招待を受けた気がしたほど、妻も私も、フェルメールの只一点には帰依し降参した。どれだけ長い時間、人山に埋もれながらその作の前に佇立してきたことか。
妙な建物の美術館だ、落ち着きはよくない。しかし珍しくて楽しんだ。レセプションでは、ホルスタインの牛乳が旨かった。
* もう本当に久しい馴染みの喫茶室「クローヴァ」でゆっくり一休みし、お腹もくちくて、まっすぐ帰ってきた。レセプションのワインがきいて、喫茶室ではわたしは眠かったが、往き帰りの大江戸線では「湖の本」の校正を。放ってはおけない。追いかけて校正をすすめねば。
それにしても十四日から昨日、今日まで、わたしは不毛にめげず自身をよく激励し続けた。
2007 9・25 72
* さ、新宿へ。建日子は同行しない、今日は彼、沖縄に。無事に。よく楽しんでから帰って下さい。
2007 9・27 72
* 午後の法律事務所での打ち合わせ。疲労困憊。
* 『聖家族』を「読みました」という読者のメールが、けっこう届く。
せめてもっと出来のいいものにしたいと、作者としては忸怩とした気持ち。だから「未定稿」のままであり、完成作ではない。いつでも手がかけられるように、長編作品の「ファイル8」に常住、置きっ放しに掲載してある。わたしのホームページは、わたしの「書斎」なのであるから、あたりまえの話。まだ仕上がっていない草稿である。
* それでも読んだ人は、「人物」把握の強烈さを存外に正しく読み取ってくださる。感謝もし、照れもする。小説はやはりそれ、だ、やはりそこ、だ、と思う。
私小説だか何だか断定できずに読んできたが、作中の若い男の性格が、あんまり「胸糞」わるく、途中で読みやめていますという人もある。作品の、それが得点でもある、作者の正確な「批評」である、と言うてくださる人もある。
早く単行本に、待っています、と催促してくださる人もある。
きっぱりと、「もっと良い作品」に有効に再構成し、すみずみまで推敲し、問題の「男」像を峻烈に造形し表現して、「胸糞」のわるさはわるさのまま、「典型像」として現代史にのこる一人を彫琢したい。言うまでもない、「小説」作品として。
2007 9・27 72
*「茶道」という言葉をわたしはたいていの場合避けている。「茶の湯」で足る。茶の湯の開祖といえるだろう一休さんの頃の村田珠光にこんな言葉がある。
☆ 此の道、第一悪き事は、心の我慢・我執なり。巧者をばそねみ、初心の者をば見下す事、一段と勿体なき事共なり。巧者には近づきて、一言をも歎き、又、初心の者をばいかにも育つべき事なり。
* 珠光はむろん「此の道」を「茶の湯」と考えていたが、わたしは「文学」とも、常に思う。「勿体なき事」とは「とんでもない事」の意味、「歎き」とは謹んで教えを請うとか、不審を尋ねるとか、学ぼうとする姿勢の意味。
わたしは、文学の「師」という人を、特定して持たなかった、持つツテも便宜も無かった。だから、古人・先輩の「作」を師とした。だから、よく「読んだ」。もののたとえに、鏡花が好きだから秋声は読まないとか、谷崎が好きだから直哉は読まないとか、荷風が好きだからプロレタリア文学は読まないとかいうことは、決してなかった。
その姿勢は、私の興した、私の創り上げた「ペン電子文藝館」での、私の作品の「選び」をみれば、すぐ分かる。有名無名をわたしは問わなかった、優れた文学とは何だろうと「歎いて」「歎いて」敬愛をこめて選びに選んだのである。関係者達の誰一人、否定出来ないだろう。
わたしは、こと「文学」に関して功名心よりも、深い畏怖をいつも持ち持とうと自身を律してきた。
* 同じ姿勢から、わたしは、文学に志ある人を、どうかして、いいところがあれば伸ばして欲しいと願い、接してきた。わたしの家来にしよう弟子にしようなどと考えたことは全くない。
石久保豊さんという百歳に近い婦人が、八十代の頃から「おしかけ弟子」と自称して近づいてこられ、亡くなるまで親しかったが、それでも私は、いい作品ならほめて紹介し、杜撰な作には率直にそう告げて厳しかった。石久保さんも孜々として推敲された。わたしの「e-magazine 湖(umi) = 秦恒平責任編輯」に掲載されるのを、謙虚に、よろこばれた。
その優れた一代の短歌撰を、わたしは躊躇なく「ペン電子文藝館」の「招待席」にも入れた。すぐ、高名なある詩人から、石久保さんの「兜」がすばらしかったですねと褒めてもらった。
わたしは、佳い素質に出逢うと、伸びて欲しいとほんとうに思う。それは我が子の秦建日子でも、秦夕日子でも同じであった。
* 弟・秦建日子は、永く永く、父にひとことも褒められず、脚本も舞台も貶され放題だった。彼は腐らなかった。初めの頃は、頼まれ脚本の科白を父と二人して推敲した一晩さえあった。それが、「このごろおやじの点が甘いよ、心配だよ」と母親にそっと漏らすところまで、自分の脚で着々と歩んで、世に出てきた。
姉・夕日子の方は、小さい頃から、手を取って文章の書き方や推敲を父に教わってきた。そして、大学の頃から、わたしの読者達も褒めて下さる詩や文章を書きだし、早くから「e-magazine 湖(umi)」に掲載されてきた。その掲載に、一言の「不足」も聞かされたことがなかった。
だが父のことを物陰で「自称作家」「自称文筆家」と書いたり、自身を物陰で「女流作家」と書いたり、作品に対する父の「褒めた批評」は黙って受け容れていながら、すこし杜撰を指摘されるに「高慢に口を出すな」と言うようになっては、やはり珠光の言葉からははるかに遠く、「巧者をそねみ」「我慢・我執」が出てしまっている。
さらにこのうえに、自分は物書きになどなる気はないとか、本気で書く気なんかないとか、自分に「逃げ道」をつくってしまうと、ますますいけないことになる。
* 藝術家の心は、「やわらかい花びらのようであれ」と、亡き森田曠平画伯の若き日々に師の安田靫彦は口癖のように教えられたという。わたしは森田さん自身のお口からそう伺い、感銘を得た。珠光のいう「我慢・我執」が、靫彦のいう「やわらかい花びら」と対蹠の「第一悪」であること、言うまでもない。
「高慢」で言うのではない。早く自身の「やわらかい花びら」の心に気がつき、立ち返って欲しい。
2007 9・28 72
☆ 昔、懐かしい 巌 南山城の従弟
ながらく 生まれた育った土地を離れて生活していたので 随分久しぶりだった
今朝 外で聴き思えのあるお囃子の音がしている
伊勢の大神楽が秋の門付けに廻ってこられていた
子供の頃に その獅子の口に咬んで貰ったり よく後ろについていったりした というような事を覚えている
その頃は 先振れするというか先廻りする人が お囃子の聴こえる範囲で各家にご祝儀を集め ご祝儀を出した家の入口の地面に
その金額にあわせ何か符牒か 印を書き記していく
大神楽の一行は その印に従って 門付けの振る舞いを変えているようだった
今朝の一行は その小振りの獅子頭や道具も 振る舞いも 昔の見覚えがあるもので でも若者も中にいて 後継者もいる様子
符牒での印 舗装された道路となった今 どうやっているのか うしろに着いて回らな かったので わからない。
* 今にして大都会暮らしをしている者には、胸しめつけられそうに、懐かしい。
2007 9・28 72
* 久しぶりに三枝が司会の「新婚さん、いらっしゃい」を見ていたら、この真夏にも冷房を使わないで節約してきた夫婦が、いた。なぜかと聴くと、双方の両親にクライスラーの車を買ってあげたいからだと。この若いご亭主は、求婚になけなしの自ら稼いだ「五十万円」を、少なくてごめんなさいと投げ出している。
ちがうものだ。
娘を貰いたいという或るご家庭の婿さんは、結納は勘弁してくれと最初から正直だった。よろしい。要りませんよ。ところが、「学者の卵」である「婿」の住まいと生活費とは、「嫁の実家」で、黙ってイキに用意するものだと、舅・姑の横っ面をいきなり張ったから、親はビックリ仰天。それほどの「常識」もない嫁の実家は無用だと、「離縁」されたから、もう一度、仰天。
実話ですって。
まさか、そんな。
信じられない‥まさか、が有るから、此の世は面白すぎる。
* 漱石の『こころ』の「先生」を好きだという読者にたくさん出会ってきたが、わたしはそうでもない。どっちかというと鬱陶しい。しかしわたしは彼が、親からうけた遺産を奪っておいて娘を嫁に押しつけようとした叔父を、じつに執拗に死ぬる日までも断乎として許さなかった事実にだけは、なぜか「先生」の唯一熱い血に触れる心地で認めている。欲や得の問題で彼が叔父を赦さなかったとは思わない。わが叔父であればこそ人間のクズを赦さないという気であったのだ、わたしはその点でだけは「先生」に共感する。
2007 9・30 72
* 息子がおもしろおかしげにわが家に持ち込む業界のウラ話を聴いていると、「人の世」のアホらしさやウソだらけに呆れ、一刻も早くこんな世間にサヨナラが云いたくなる。もう、生きていても何一つよいことはないなあと思う。
それでいて、ゆうべおそく、わたしはこんなメールをわたしよりも十も年上の人に書いていた。
* つややかな新米をたっぷり賜りまして、大よろこび、早速戴きました。ふくよかに匂う瑞々しさに感嘆。美味しうございました。有り難うございます。妻も大喜び、よろしく御礼をと申しおります。
急に秋冷えの風情におどろいていますが、なかなかそうは行くまい、まだ暑い日もつづきそうなどと、あれこれお天気の行方を占っています。そういうことを強いられている地球環境の熱化、心配ですね。つい、自分たちは、ま、ひどいめにあう前に‥ などと思ってしまうのも、老境の意気地のなさかと、反省したり、へこんだり。
お互い、大切に長生きして、一つ、先行き「此の世」はどんな風になって行くか、とことん見ていてやりましょうよ。
お大切に、*****さん。 秦 恒平
* 世阿弥の娘婿に金春禅竹、その孫に禅鳳が『禅鳳雑談』をのこしている。そこに、またも「珠光の物語とて」と聞書きしてあるのが、「月も雲間のなきは、嫌(いや)にて候。これ面白く候。」という、一文。
「これ面白く候」は、禅鳳共感のことばかも知れないし、ここまで珠光が云ったとも読める。
いうまでもない、先行した、また併走した同様の喝破に、兼好法師の、「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」(徒然草一三七段)がある。藤原道長の「此の世をばわが世とぞおもふ望月のかけたることもなしとおもへば」からは、千里も遠く離れている。
「月も雲間のなきは」など、深読みはいくらも効いて、批評家の腕を摩するところだが、現在のわたしなど、単純に、「ああ雲間ですか、こりゃこりゃ。なるほどケッコウ」という気持ちでいる。満月ばかり観ていたいなどと思っていたら、夫婦二人の一日の食費が八十円しかなかった日々月々は暮らせなかった。ラジオの空き箱に風呂敷を置いて、そんな「食卓」に妻とチンと向き合っていた新婚の日々は、あれは雲間だったと謂うてもいいし、けっこう満月のように気は澄んでいたとも懐かしく顧みられる。恥ずかしい真似はしてこなかった。今も、下界からは日々黒雲に汚されて見えようとも、雲の背後にはいつも澄んだ天空があるということを、わたしも妻も、ちゃんと分かっている。
「月も雲間のなきは、嫌にて候。これ面白く候。」
* もう十月だから、おどろく。次々に人が亡くなって行く。人って、何のために生まれてくるのかな。ときどき、「きのう」生まれたばかりのように思うことがある。
2007 10・1 73
* よろしいことではないが、走りながらいろいろに「もの」を思う。心騒がしくはない、が、あまり「もの」を思うよりは、やはり無心が懐かしい。だが今はそうは行かぬ。
ひとの親のこころは闇にあらねども子をおもふ道にまどひぬるかな 兼輔
思ふさま生きしと思ふ父の遺書に長き苦しみといふ語ありにき 清水房雄
堪えるしかない。
それにしてもわたしは、我が実の娘の心事が理解できない。あの聡くけなげに優しかった娘・やす香を死なせて、三日、四日しかたたぬうちに、「死なせた」とは何事だ「殺した」というのかと、実の親たちを告訴や訴訟で脅す文書を夫婦して書いている、送りつけるという、図。まるで、地獄図。
人の親の、子に死なれた堪らない悲しみを、そんな風に表現できる気持ちって、何なのだろう。祖父も祖母も、ただただ孫を死なせて泣いて悲しんでいた真っ最中だった。
これほど小説家に「もの」を思わせる題材はない。「書く」しかない、か。
* 第三回審尋の報告をもらった。じりじりと揉み合っているようだが、裁判長による「『虐待はない』という事実」判断が示され、一つ、展望がひらけた。先は、まだ、長い。長くても、たじろがない。
明日、ゆっくり検討する。
2007 10・1 73
* 学習院大学の中村生雄さんが担当された、編著『死の巻』は、「思想の身体」と題された叢書(春秋社刊)中の一巻。
去年春から真夏へ、私たち最愛の孫娘の、激しい癌(肉腫)死にいたる経緯と、ウエブゆえのグローバルな反響とが、「mixi」や「私語の刻」において、現在進行形で日々「表現」されていたことが、この本に、いちはやく取り上げられていた。今日の死生学、「death and life studies」の一環として、じつに素早くとりあげられていた。知る人はとうに知っている。
この本は、中村さんの執筆による「はじめに」から、示唆に富み、死や生への新しい思惟にも富み、すぐれた現代への寄与であることを一読、期待させる。
「私たち現代人は、生と死という問題を、私ひとりの生、私ひとりの死の問題として受けとめることに慣れているが、思い切って視点を切り替えてみれば、私ひとりの生、私ひとりの死などという問題は、じつは存在しないかもしれないということに気づくだろう」と、中村さんは書いている。
この本よりはるか以前に、やはり「死の文化」叢書の一巻として私の書き下ろした、『死なれて・死なせて』もまた、死と生との問題が、「私ひとりの」問題では済まぬことを、現実の諸体験を足場に、提言していた。広く多く読まれた。
去年末に刊行した「湖の本」の一冊『かくのごとき、死』も、また同じ。
この本は、孫・やす香の身近で「企画」されていたらしい「闘病記」の「プロデュース」とは、全く異なる。祖父・私の、日々「今・此処」に生き、孫娘への堪えがたい哀惜を胸に、「かくのごとき」一つの「病と死と生」への「直面」を、胸かきむしるように記録し表現したものだった。
すでに避けようのない「ウエブ時代」の「私小説」「日記文学」そのものであった。「私が書いた」とすら言いにくい。あたかも毎日毎日つづく「日々が書いて」いたと譬えたい。作家・秦恒平のやみがたい「新世紀」への、反応と表現。それが『かくのごとき、死』に自ずと成った。為したのではなく、成った。中村さんは、それへ最も早く具体的に視線を送って、ひろく報告紹介して下さった。
その『かくのごとき、死』が、いま、やす香の両親から「販売停止」をと訴えられ、裁かれている。
2007 10・3 73
* すぐ以下に出る、「世に」という古語は、此の「世間で」の意味に重ねて、「むちゃくちゃな」という強意の意味もある。人をあざとく陥れようと、まことしやかに、実はむちゃくちゃな、悪質な作為と虚偽とを世に吹聴してまわる人間がいる。
また、聞く側にもさまざまな反応が出る。
何百年も昔に、兼好は、すでに、そう書いて笑っている。
兼好の才能の、ないし性質のおもしろいところは、そのような「虚言」に反応する、そういう「世人」のさまざまな表情や反応を、のがさずすばやく捉えてしまうところ。
その「さまざま」は、読みやすく、原文のあとへ、生形貴重さんに教わり、今の物言いに置き換えてみる。
☆ 達人の眼 兼好 徒然草(第一九四段)より
達人の、人を見る眼は、少しも誤る所あるべからず。
例へば、或人の、世に虚言(そらごと)を構へ出(いだ)して、人を謀る事あらんに、素直に、実(まこと)と思ひて、言ふままに謀らるる人あり。余りに深く信を起して、なほ煩はしく、虚言を心得添ふる人あり。また、何としも思はで、心をつけぬ人あり。また、いささかおぼつかなく覚えて、頼むにもあらず、頼まずもあらで、案じゐたる人あり。また、実しくは覚えねども、人の言ふ事なれば、さもあらんとて止みぬる人もあり。また、さまざまに推(すい)し、心得たるよしして、賢げにうちうなづき、ほほ笑みてゐたれど、つやつや知らぬ人あり。また、推し出(いだ)して、「あはれ、さるめり」と思ひながら、なほ、誤りもこそあれと怪しむ人あり。また、「異なるやうもなかりけり」と、手を拍ちて笑ふ人あり。また、心得たれども、知れりとも言はず、おぼつかなからぬは、とかくの事なく、知らぬ人と同じやうにて過ぐる人あり。また、この虚言の本意を、初めより心得て、少しもあざむかず、構へ出したる人と同じ心になりて、力を合はする人あり。
愚者の中(うち)の戯れだに、知りたる人の前にては、このさまざまの得たる所、詞にても、顔にても、隠れなく知られぬべし。まして、明らかならん人の、惑へる我等を見んこと、掌(たなごころ)の上の物を見んが如し。但し、かやうの推し測りにて、仏法までをなずらへ言ふべきにはあらず。
* 上の「虚言」を聞いて、こんな人たちがいるものだと、仮に十箇条を兼好は数え上げている。
一 素直にだまされる人。
二 あまりに信じ込んで、さらに嘘を作り上げてつけ加える人。
三 まったく関心を示さぬ人。
四 すこし怪しいぞと思われるので、信じることもできず、思案し続ける人。
五 本当とも思えぬのに、人のいうことだからさもあろうと思う人。
六 いろいろ推測して、解ったふりをして、質そうに頷き笑ってはいるものの、まったく解っていない人。
七 嘘を見破って、こうだろうと思いながらも、自分も間違っているかもしれぬと思い、疑わしく思う人。
八 格別違ってもいないのだと手を打って笑う人。
九 嘘だと解っていても、知っているとは言わず、知らぬ人と同じようにしている人。
十 嘘を言った人の意図を初めから解っていて、その嘘に協力する人。
* 兼好の観察のたしかなこと。本当に眼のある人の前では、このような「さまざま」は、言葉や態度から、すぐに解る。兼好はそう見抜いている。そしてもちろん、仏法の方便を上のようなあざとい嘘と同列に論じてはならないと結んでいる。
あざといウソは、冷静に裁く人の眼には、「そんな事実は無かった」と、結局バレてしまう。あたりまえだ。
* かかる「世に虚言(そらごと)」を、自分の身にふりかかって体験してみると、上に列記の「さまざま」は、可笑しいほど目に見える。そんなときにはっきり「身内」も見える。
2007 10・4 73
* 帰宅すると、もう気持ちの重くなる用事が待っている。そういうものだ。くさってはいけない。
2007 10・5 73
* すこしまた此の世が寂しくなりました。
町子も、紀子も和子も、秀蓮も、菊子や直子も、冬子や法子も、雪子も、京子も、また貞子も、また夕日子もやす香も、みんな、わたしから死んで行きました。 湖
2007 10・6 73
* 死なせた孫・やす香がまだ幼く、それでももう秦・祖父母と★★・両親とに不幸な途絶を生じていた頃に、たどたどしい字でわが家に送り続けてくれた、約役二十通の手紙やハガキを、妻が大事に保管してきた。
無差別にふと手にした一通の絵葉書は「黄色い深海魚」の繪に「1993 SUMMER」「暑中お見舞申しあげます」と印刷してある。繪の周りにはやす香が描いたモノの絵、たぶん母・やす香が描いたモノの絵の一つ一つに、やす香がこれは何とこれは何とひらかなで書き添えている。
宛名のある表消印をみるともう夏ではなく、九月三十日の十八時より後に投函していて、「41」円切手である。「ほうやし」の「はたみちこさま」に宛ててある。やす香は満七歳の誕生日を迎えて間がない。同じ年の七月二十七日には母・夕日子は三十三歳になりましたと穏やかに自足した述懐の繪がきを、父・私あてに寄越していたのは、このファイルの裾の方に出してある。
やす香の文面を辿ってみる。祖母はまたこれを見て泣き崩れた。
☆
マミイへ げんき! わたしは、げんきだよ
このごろマミイ さいきんてがみも、でんわも、しなくなちゃたから「どうしたのかな。」とおもって手がみをだしたんだ。わたしは じぶんから手がみをださなかったから ときどきはてがみをだそおとおもったんだ。
こんど いつかわかんないけど マミイのうちに あそびにいくからね! ★★やす香より (七歳)
* いまリストをつくっているが、すべて祖父母と保谷の家とへの、こういう親愛に溢れた文面である。と同時に、直ちに言えるだろう事は、やす香の自発ももとよりであるが、宛先を間違いなく教え、切手を貼ってやり、例えば夕刻過ぎ、もう九月末の六時過ぎないし晩にはポストへの道は暗いから、母が手づから、または母娘二人で投函に出ていたということ。
* 孫・やす香が保谷へ祖父母を訪ねて呉れて以降、「mixi」でマイミクになりメッセージ交換が可能になるまでのやす香メールも、「やす香生彩」と名付けて、わたしはみな保管している。やす香の「著作権」は親たちが相続したから、それを引用するのは「著作権侵害」だと夫妻は躍起になるが、なにがそんなに「気」になるのだろう。「金」を払えと言うのか。
すべて、懐かしく読み直し読み直しして行く気でいる。
2007 10・10 73
* やす香の五つから七つぐらいでの手紙を沢山読んで、今日は「おじいやんむも「まみい」もたくさんたくさん泣いてしまった。
⑥ 1991/10/13 封書・消印町田・迪子宛て
こんにちわ
やすかです まみいげんきですか やすかはげんきですよ
まみいのかってくれたせんたっきであそびました たのしかったです
まみいのところにあそびにいきたいです やすかがてがみをかきますから まみいもてがみをおっくてくださいな やすかはいいこにしています
まみいもげんきでね。十月十三日
(洗濯機らしき絵)
⑦ 1991/10/24 封書・恒平宛て・消印町田
おじいやん
げんきですか またあいたいですね
またいったらいっしょにあそびましょうね それからまみいにもよろしくいっといてくださいね。
このかみは おはなしをたくさんきいたので としょかんのおねえさんがくれたの
いまからえをかいたげるよ(絵=顔)
宛名に至るまですべて、やす香の自筆だが、切手また投函等に関しては、自然母親と、五歳ないし七歳の幼い娘との、心を通わせた純然親愛の合作とすべきだろう。
2007 10・10 73
* 今日から、来週土曜まで、この土日をのぞいて、おやすみがない。盛りの秋と思うことに。元気に乗り切りたい。
* 冤罪の人を、満期服役させていたと。何なんだ、「法」って。
三輪そうめんの名声を悪用して、類似の名で商売をしていたヤツ。これを知った本家筋が、ウエブで相手の実名をあげて批判しても、「法」にふれるのか。馬鹿げている。いや公共性があるからその場合はいいんだというなら、なるほどね。わたしもそう思う。
かつての文学世界では、相手の実名を挙げて、作品や評論や時に世界観や処世観を藝術観を、互いに木っ端微塵に批評し非難し痛罵しあう例は、当たり前のように、いくらもあった。読んでいて震えそうなこともあったが、それが雑誌にも、新聞ででも、公表されていた。文藝家はその意味で常に公人として互いに遇しあい、プライバシーの侵害だなどといわれなかった。いわれたら、いいかえせばよかった。
学者でもある程度同じであった。学説の差が批判されあうこともあり、辛辣を極めた。梅原猛氏が柿本人麻呂や法隆寺の論で、著名な学者や藝術家を、実名をあげて罵倒に近い非難を敢えてしていたことは記憶している人も多いであろう。それをだけ謂うのではなかったけれど、氏の文藝を「猛然文学」とわたしは評したこともある。しかし氏が訴えられても仕方がない等とは思わなかった。
* 佐高信氏は優れた批評家であるが、彼の筆鋒にかかってさんざんに料理された実名人物は、そのための何冊もの本もあり、数えているヒマもない。相手はみな公人であったのだから、やられてしかるべきは当然と眺めていた。だめなら反論すればいいのだ。
わたしも、自分のウエブで実名を挙げて批判し非難し批評してきた人は、数え切れない。そのなかにはうちの娘婿も入っているが、婿が、その辺の商店主であったり一サラリーマンであったら、私はむろん書かない。婿は名門私大で西欧ヒューマニズムの伝統を教える教授であり、教育者・教育学者として国際的に公人なのだから、こと教育や人間の行儀・礼儀に即して、そこに「非」「無礼」があれば、真っ向、論らわれてあたりまえの話である。口に「リベラル」を誇りながら法廷沙汰へ舅を引き出すなど、聞いたことがない。
2007 10・11 73
* 高校二年生の、ひさしぶりのやす香のメール、また電話。頻々とメール交信の開始。以来、それらを、「やす香生彩」の名で保存しておいた。裁判所にいつでも持ち出せるように、今日、プリントした。読み直した。
* 先日のやす香の手紙やハガキは、此の孫の五歳から七歳頃のものだった。みな優しい、あどけない、仲良い文面で、往時を茫然と懐かしがらせた。
今日のは、もう高校生以降。そして自らの意志で、まっすぐ祖父母へ歩み寄ってきて以降の、すっかり成人した意欲にも元気にも親愛にも溢れた文面ばかり。
数えないが、百に優に余っているだろう。
* なぜこんな「探索」がつぎつぎに必要か。わたしは、このようにして、自分にフリカカる「娘難=コナン」を、懸命に自分の手で払わねばならぬ立場に置かれているのだから、仕方がない。放っておくことはできない。
* 去年八月から九月へかけて、「木洩れ日」こと、やす香の母の「mixi」日記には、祖父母のアクセスを拒絶したまま、あたかも物陰で、亡き子・やす香の霊に向かい、「あの男」祖父が、つまり私が、娘の自分の身代わりに、孫娘「あなた」を性的餌食にすべくおびきよせて「人質」に取り、「四十年」にわたる久しい「呪い」の「連鎖」へ「あなた」やす香を絡め取ったといったことが、毒々しい口調で書きつづられていた。
人の親切で聞き知ることが、またそれら日記の文面も読み取ることが、やっと出来た。裁判所は、いまそれを問題にしているのである。
* 去年七月十二日は、やす香の死にもう二週間しかない。やす香の声のとだえを案じるわれわれに、そのやす香は辛うじてケイタイで伝えてきている。
☆
06/07/12 re.お見舞いにいきます まみい
まみぃ心配しないで(>_<)携帯メールちゃんと全部よんでるから。返信はmixiも携帯も友達にもなかなかしてないの。でも言葉は全部届いています。ありがとう。
06/07/12 re.re.お見舞いにいきます
やす香ちゃんの優しさには ァーァ 涙ぐんでしまいます。 返信させちゃって ごめんね。疲れたでしょ。
もう 返信なくても心配しないからね。
06/07/12 re.re.re.お見舞いにいきます
まみぃの気持ち全部わかってるからね(>_<) みんなみんな想ってくれてることちゃんとわかってるから。
06/07/14 re.re.re.お見舞いにいきます
今日はいい天気★彡梨と桃もたべたいなぁ(>_<)気をつけてきて下さい!
06/07/14 re.お見舞いにいきます
本当にいいお天気。まぶしいお日様ですよ。迪子
06/07/14 re.re.お見舞いにいきます
何時にきますか?!
* この交信、「まみぃの気持ち全部わかってるからね(>_<) みんなみんな想ってくれてることちゃんとわかってるから。」と読み直してわたしは、噴き上げて哭いた。これではわたしの「涙眼」はわるくなる一方だ。
☆
Date: Wed, 4 Feb 2004 07:09:00 +0900
Subject: おはようございます☆
今日はこれから学校です ☆午前中だけですけどね(^-^) 私立の女子校に通っています。みゆきもおととい受験に合格し春から晴れて中学生です。
夢をみているようなのは私もかわりません。私たちの間で止まっていた時間がまた動きだしたみたいです。
私のその写真おぼえがあります。いくつになっても私の笑顔は相変わらずです。人と話したり笑わせたりするのが大好きな女子高生です。
みゆきの写真も撮れたらまた送りますね。
今はこのへんで失礼します。
やす香
電話、嬉しかったよ、やす香
びっくりしたけれど、やす香が、穏やかな佳い声音の持ち主で優しいとすぐ分かり、ジイヤンは感動して、アガッテしまいました。じいやんは、すぐ、あがる、この歳になっても。
マミーの声を覚えていたかな。こっちからは掛けられないから、(あなたがどこに誰といるのか確認できないものね。)いつでも、かけて頂戴。保谷は二人とも留守ということは、せいぜい月に二三度ですから、どっちも大抵家にいます。マゴも。
きょうは寒いという人も暖かいという人もいました。わたしは、終日暖かかった。これは、やす香の御陰だと思う。
この頃はなにかにつけ物騒な時節だから、かしこく用心して、怪我に遭わないで。それをいつもいつも願ってきました。 じいやん
Date: Thu, 5 Feb 2004 23:18:38 +0900
From: gros-bisous.vvv.7237@ezweb.ne.jp
私もお話しできて嬉しかったです。とっても。声覚えていました。顔を思い浮かべながら話していました。
すぐでてしまうとこ一緒ですね(^-^) 私もあまり長く入っていられないんですょ。
早く会って色々なことお話ししたい。ますますそう思いました。
確かに物騒ですね。気をつけますちゃんと。私の命はたくさんの人に支えられてます。私だけの命ではないですからね。
おじいゃんや、まみぃのもですょ! 怪我、病気には気をつけて下さいね(^-^)
やす香
* このやりとりで可笑しいのは、わたしの「アガッテ」を入浴していたようにもやす香が取っていること。事実わたしが湯にいたときの電話だったかもしれないが、上気したのである。
あの日の、あの電話。ああ、取り戻したい。
* あまり引用していると、また著作権がどうの、相続したのを侵したのどうのと「法」の顔が出てくる。
やす香の、真っ先におじいやんに読んで欲しいと送ってきた、大学入学のための提出課題文は、しっかり書けていて、わたしは友人にも読んで貰ったのを思い出す。その友人からの長い感想も届いている。
どういう気で、やす香の母親は、ああいう欺罔・捏造のツクリバナシを「mixi」なんぞに書き散らしたのだろう。もっと他のブログでも書き散らしているのだろうか。やす香を死なせた錯乱の「悲哀の仕事」であったろうと可哀想にも思うが、どうしてそれに大学教授の亭主までが同調したのだろう。ふつうなら制止するだろうに。
2007 10・13 73
* 湖の本の初校を戻した。短い追加分の入稿も終えた。すこし肩の荷がかるくなっているが、明日は理事会。
できれば午前中に眼科に行ってみたい。あさっては弁護士との打ち合わせ。以降土曜の歯科と萬三郎の『卒塔婆小町』まで、ずうっと続く。
2007 10・14 73
* 相変わらずの右眼。ほとんど、開いていられない。朝など、一度に四種類の眼薬を右眼にさすのだから、眼球もたまったものじゃあるまい。器用に右目だけ塞いでいられないから、つい両眼閉じてしまう。瞑目瞑想の体である。
* 午後は、妻と新宿に。建日子も来てくれる。
* 精衛海を填む。
2007 10・16 73
* 今夜から息子の新しい連続ドラマだとか。題も覚えられない、なんだかガサツな出演者の前売り口上を、さっき、ちらと見聞きした。しょせん静かに人間の内奥の闇を覗き込む手の仕事ではない。
* 十時から半過ぎまでみていたが、浴室へ。
第一次第二次バルカン戦争から、オーストリア皇太子夫妻の暗殺までを読み、さらに第二次インターナショナルの推移を読んだ。帝国主義の支配者側の強欲非道の暗闘をイヤほど読んできた。これから暫くは、下からの抵抗の動きを読んでゆく。日本からは日露戦争のあと、片山潜が参加している。議長と二人壇上に立ち、万雷の拍手が五分は鳴りやまなかった有名な話は聴いてきた。
2007 10・18 73
* 一週間、遊んでいたようなもんだけれど、じつは、ほとほと苦痛をいろいろ堪え続けた一週間であった、遊んで楽しんでいなければもたないほど、疲れていた。いつもいつも、じいっと錐を揉むようにして、わたしはいっぱいいっぱい考え続けていた。考えたくもないことばかり考え続けていた。そして一つまた一つ動いていた。動いているから保てていた、心身の平衡が。
こういうときは、一種の離人症的にもなりがちで、メールひとつも自分からはなかなか書けないし、貰っても返辞が出来ないし、そんなこんなで自然来る数も少なくなり、無くなり、するとどうしても「見ぬ世の友」にすりよって行って、眼を酷使することにもなった。眼は、ちっとも良くならない。
* ま、色々の意味で奔命の一週間で、安定剤にも一度お世話になったりした。勘三郎、幸四郎、我當や藤十郎や玉三郎にたすけてもらった。萬三郎や銕之丞にもたすけてもらった。そういうたすけ手に恵まれているのが、わたしの、不徳ながらの徳かも知れぬ。いつも妻が一緒についてきてくれる。なにもしらぬよその目には、さぞや幸せ者にみえるであろう。いやいや幸せ者なのである。
2007 10・20 73
* 「何」が、なんだろう。「いつ」だったんだろう。ものごとの経緯を歴史的に(必ずしも経過時間的に、ではない。)眺めようとすると、この「何」または「いつ」の見極めが欲しくなる。
必要があって「過去」を見ていて、ああ、これが大事な一点ではなかったろうかと思う私自身のある日の「私語」に出逢った。それをわたしは「娘と息子と」と題をつけて何故ともなく別に抜き出しておいた。いま、もう一度それを、一年半あまり経った今、此処に「置いて」みようと思う。
井上靖先生はよくこの「置く」という言葉を印象的に使われた。そうだ、もう一度、それを此処に「置いて」みよう。あのときも、いまも、わたしには実は解せない、理解できないものをこの「私語」のなかに持っている。一年半経ってわたしにはああそうかといまも合点できていないものがある。
* 時点で謂うと、まだ、何も起きていなかった、わたしは娘達に訴えられてもいなかったし、やす香も生きていた。
この日記の一月前の正月にはやす香は妹みゆ希といっしょに、わが家に遊びに来て、ご馳走をたくさん食べてお年玉も貰って、晴れ着にも袖を通して、そして建日子叔父もいっしょに彼の車で玉川学園の家の近くまで送っていった。姉妹は車の中で歌も歌った。
また一月後にも姉妹二人は遊びに来て、みゆ希は少し早い誕生日のお祝いをもらったし、みんなで雛祭りもした。
そういう一切を、姉妹の父も母もまったく知らなかった。親には言わない。それが二人の姉妹の堅い姿勢で、やす香が「白血病」になって入院した六月半ば過ぎまで、守り抜かれた。
父親の日常は知らない、母親はそれまで「小説」を書いていたのが、新しい地域のコラボレーションに、精力を掛け替えようとしていた。碁の友をもち、速記会社にどういうかたちでか勤務していた。そう本人は弟に語っていた。大学生になったやす香のことは「よく何もしらない」とも語っていた。だが、やす香は、もう二月末には、からだがふつうではなかった。
そんな時点だった。まだ大きくは何も爆発していなかった。
*********
☆ 娘と息子と 平成十八年二月七日 火 父私語
* 十数年両親とは離れている娘夕日子が、自分のブログで「小説」を書き始めたことを、弟の建日子に報せてきて、それを建日子は誰のサイトとも言わず、わたしに報せてきた。
誰のとも分からないあやしげなブログになど触ってみる気はないと返辞すると、まあ、そう言わず覗いてくれと強って言われ、建日子自身の「隠れ書斎」なのかと思い、あまりお遊びに手を広げていないで、当面の大事に一心に集中したらと返辞した。電話がすぐ来て、「夕日子が書きだしたんだよ」と言う、わたしは、びっくり仰天した。作品の出来がどんなであれ、嬉しかった。
読みにくいブログ原稿を、長い時間と手間をかけ、読みやすく一太郎に転記して読んでみた感想は、この「私語」に、つづけざま、たくさん書いた。何度も書いた。しかし夕日子の作品だとは(外へは=)言わなかった。言えなかった。弟が父親に伝えることを、姉は、夕日子は、「厳重に禁じている」からだと建日子は言う。それでも建日子は伝えてきたのである。(=彼自身は読んでいなかった。)
夕日子は、それを予想しなかったろうか。わたしに伝わることを期待していなかったろうか。夕日子は、以前からわたしのホームページは見ているのである、それは分かっていた。わたしが、今度の夕日子三作品を珍しくたいそう褒めている、評価していることも知っている。そう思う以外にない、直接に確認出来ないが。そしてその事に関して、姉が弟のところへ「なぜ親に伝えたか」と、怒ったり、苦情を言ってきたりしていないことは、妻から息子に確認して、分かっている。
夕日子は問題にしていなかったようだ、が、建日子は、姉弟の関係がわるくなるので、おやじたちはあくまで知らないことにしておいて欲しいと繰り返した。親心として、なかなか理解しにくいことだった。
* 一月二十八日、夕日子の二つの仕上がり作品を読み終えた時点で、わたしは、嬉しい気持ち、驚きの気持ちを建日子にメールした。全文を挙げる。
☆ 建日子へ 父
この間は、夕日子のメールもともに、夕日子の「創作」を読む好機を贈ってくれて、心より礼を言います。
夕日子が碁の仲間との、チャットか掲示板かに「ちょこちょこ書いている」という情報は、彼女の碁友という男性から、ちょうど去年の今頃に報せてきていました。
わたしは、そのとき、書いている「そのもの」を一部でも読みたいと頼んだのでしたが、夕日子を憚って、何処に書いているとも、此のようなものとも、見せてはもらえなかった。わたしは失望のあまり、夕日子には細切れの空気抜きのような文章は書いてほしくないのです、しっかりしたものの書ける力があるのだからと、やや八つ当たり気味の返辞をしたものです。
今度、四百枚前後の長編『こすものハイニ氏』(わたしの付けた仮題です。原題は「こすも」)と、百三十枚ほどの『ニコルが来るというので僕は』を、多大の興味をもって通読し、正直、感嘆しました。
この二作とも、初稿のままでしょうが、水準をしっかり超えた、慎重に手を入れれば独り立ち可能な、売り物にもなろうと思う作品でした。
両作とも夕日子の仮名・無署名のブログに、一日も欠かさず書き継いでおり、前者は十ヶ月も連載し、構想的に大混乱させることなく綺麗に書き切っています。文章も、せいぜい一度二度の推敲でぐんと良くなるほど、夕日子本来の文章センスが生きていました。一種独特の魅力を、ファシネーションを、はんなりと発揮していました。まがうかたない才能の所産でした。
後者の中編は、今年の建日子誕生日に脱稿されていました、贈り物として上等なもので。文学賞に佳作入賞してもおかしくない、ピンとした、ロマンティツクでもあるが不思議な批評性を根に秘めた一編の物語、かなり独特なものでした。父は感心しました。
夕日子と逢えなくなって十三年ほどですが、じつに嬉しい「再会」でした。
十数年、わたしには、夕日子にも書いて欲しい、書けるのだから、という信頼が強く根づいていました。弟が活躍すればするほど、へんな雑念はもたず無心に「書き表す」嬉しさを夕日子にも味わって欲しいと、それこそいつもいつも思い、母さんとも話し合ってきました。
夕日子は、その願いを、大晦日も正月もなく少しずつ書き続けるという、父さんの思い通りの仕方で、無欲に無心に新世界を紡いでいたた、書きつづけていた。完成度のかなり高い、ユニークな文学世界を。
★★★とのことで、あの悲劇的な醜悪な事件このかた、こんなに嬉しいことは初めてです。自発的に「書いた」「書き続けた」「よい作品になった」のですから、父は、言うことなしの満足で、感謝です。
作品の感想は、父だからという身贔屓なしに、一人のきつい「読み手」としての平静な批評です、称讃です。ウソは言わない。
こんな喜びを、建日子の配慮から得られたことに、もう一度お礼を言います。おまえからも、さらに励ましてやってほしい。
これらの作品は、好機を得て、よく出来る親切な編集者に読んで貰いたい気持ちです。
方面の全く異なった「創作」で互いに屹立出来るかも知れない 秦建日子と秦夕日子。 おまえはヘキエキかも知れないが、父さんと母さんの夢が一つまた出来ました。しかしそんな世俗のことはともかくも、夕日子が期待通りの力を発揮していたこと、それも肩に力の入らない清明な纏まりのいいものを、なにより自発的に書いていてくれた事、で、わたしは大満足です。嬉しい。
もういちどこの弟と姉とに、感謝します。
建日子。さしつかえなければ、このメール、夕日子に転送してやって下さい。 父
夕日子。あわてなくてもいい、書きたいこと、書かずにおれないことを、しみじみと、心行くまで書きなさい。苦しみをも楽しんで。 父
* 建日子は、だが、夕日子にこのメールは伝えない方がいいと言ってきた。(その真意はとうてい=)よく理解できなかったが、作品への称讃やわたしたちの喜びは、ホームページを通して伝わるのだからと諦めた。
母親は、妻は、夕日子は父親のホームページを見ているのだから、それを通して話しかけてやってと提案し、わたしもそうしようと思った。このメール時代に、なぜ夕日子とわたしとの間に「個と個」との対話や交感が不可能なのか、建日子にずっと以前から頼んできた「夕日子のメルアド」をなぜ教えては呉れないのか、ほとほと理解できなかった。もし親と姉娘とを引き離しておく必要が有るのなら、夕日子の小説ブログをわたしに強いても教える建日子のはからいは、真意が汲みにくかった。
* そのうち予告通り、二月一日から夕日子の新作がはじまった。だが、(起こる頃だと)心配していた「運び脚の重さ」や行文のちいさな「杜撰」が重なり見えたので、早く注意して、より良く書いた方がイイと思い、妻も賛成していたので、「私語」として、作品書き出しの一部に、すぐ気の付くダメ出しを、具体的に書いた。むろん夕日子の作に、とは、ひと言も触れなかった。
だが建日子は折り返し咎めてきた。自分は、弟は、即座に姉に対し、父にサイトを報せた「信義違反」を「詫びました」と言ってきた。
咄嗟に、この際もっと大事なことがあるのにと思った。
大事なのは姉弟の関係というより、これを好機に、夕日子と親たちの多年「喪ってきたもの」が回復出来ないか、みなで深切に情意を尽くすことではないかと感じた。もともと、吾々一家と夕日子との間に、何一つ喧嘩の種など無かったことは、経緯に照らして明瞭なのだから。夕日子は「状況」に対し殉じたのであり、わたしは理解していたから、それでよいとして、夕日子に向かい(秦家としては=)久しく一指も動かさなかった。古稀に辺り歌集『少年』を妻の手から送っただけである。
* ところが、わたしがホームページに、すべて、ああいうことは書かない方がよかったと建日子は断定する。父親の「独善」だと。夕日子は、「少なくとも父である秦恒平からだけはアドバイスされたくないと思っているのは明白です」、と。
現に夕日子は、書きかけていたブログを閉めている。
父への、みごとな一刺しであった。
* そうなのか……。わたしは、建日子のメールを読んで、瞬時に積年の鬱を散じた。すべて忘れること、少しも不可能ではない。こういうことも有ろうかと、自分の胸にも問うていた三句が、幸か不幸かムダでなかった。
冬の水一枝の影も欺かず 草田男
一筋の道などあらず寒の星 湖
己が闇どうやら二人の我棲めり 遠
呵々。 (夕日子の作品に関連して私語したすべて、愛情も称讃も懸念もウソ・イツワリなく、そのまま機械に保存しておく。)
* 建日子がどんなことを思っていたか、書いているので「読んでやれ」と妻は言う。わたしに宛てられたものではなく、建日子の外向きの「私語」である。わたしの「私語」と同じで、その手のモノは、読みたければ読み、気がなければ触れることもない。わたしに直に宛てて別に、今朝も建日子のメールが届いていた。それは読んだのだ。それとブログの物言いとに齟齬あっては可笑しいわけだ。建日子はわたしに宛てて言っている。
夕日子の作品にふれて褒めるにせよ貶すにせよ、ホームページに、すべてああいうことは、書かない方がよかった、と。父親の「独善」だと。夕日子は、「少なくとも父である秦恒平からだけはアドバイスされたくないと思っているのは明白です」、と。(=何が明白なのか?)
嬉しさの余り、ことが「小説・創作」でもあることから、わたしが出過ぎた、と。そういう咎めである。「独善」だと。
分かった。
わたしはそういう「独善」が好きだ。自分の熱いいい性格だと、独善的に肯定している。夕日子も建日子もそういう「独善」に愛されてきた。育ってきた。よかったではないか。これまでもそうだったように、この先も、その場その場で「おやじのせい」に出来る。親は「壁」という、それがその悪い方の意味である。良い方の意味があるのかないのかは、銘々に考えたらいい。逆らひてこそ父であること。
* 二月は、ただただ寒い。
2007 10・21 73
* あのとき、わたしには、夕日子の、わたしを後に「高慢な」となじる気持ちがまったく理解できなかったし、今も、分からない。また建日子がわたしを即座に「独善」となじる気持ちもよくわからなかった。
わたしはただもう夕日子がついに書き始めたかと「驚喜」していた。湖の本の通算八十巻の記念号には、「じつを申すと、久しく顔を見ない、親に捨てられたと拗ねているらしい娘夕日子(あさひこ)も、小説を書き始めていたのである、おやじには両手両腕でひしと隠し、隠しながら。弟建日子から漏れ聞いたわたしは、インターネットで探し探し見つけて、読んでみた。驚喜した。文句があれば言ってくるだろうと、勝手に「e-文庫・湖(umi)」に「秦夕日子作」として入れた。気のある人は、どうか読んでやってください。夕日子も気を腐らせず、悠々、書き続けて欲しい」と書き添えた。
わたしは大きな「希望」を持った、あのときに。誰よりも娘・夕日子のために。
だが娘も息子も父には理解不能の暗部を秘め持っていたらしい。それならいったい、息子は、渋る父に強いてまで、なぜ姉の小説をむりやり読ませたがったのだろう。知らぬママでいたら、揉め事は少なくも一つ起きなかったろうに。
読めばこの父は大喜びして何か言うし、言うとすれば父には「闇に言い置く私語の刻」しかないのは、それを姉も読んでいることも、建日子は重々知っていたのだから、なにが「独善」だったんだろう。
* 分からない、今も。
わたしの中では、私生活がどうあろうとも、文学・文藝・創作のことは別の価値だ、いかにイヤな嫌いな相手であろうとも、文学を語ったり読んだりするときは、作品で観る。医者と同じだ。善良な藪医者と、イヤなやつでも治せる医者となら、命は後者に預ける。そもそも、娘にそんなに憎まれるわたしは、血も涙もない父親だったとは思っていなかった。それに母親を通じて伝わってきたところでは、自分の書くものを分かってくれるのは「あの人しかいないだろうと思う」と娘は漏らしていたとも。
* 分かりよいことをわたしに告げる人が、皆無であったのではない。好きな旦那さんをケチョンケチョンに言われては、娘さんは旦那さんにつくしかないですよ、と。
じつは、それはわたしの、わたしたちの、娘の手をこっちへ引っ張らずに、離してやった一つの理由なのである。
わたしは、親をかりに憎んでも亭主とは別れるな、別れてくれるなよと最初からそういう腹でいた。わたしは親子軸より夫婦軸を大切に想う者である。
とはいえ、わたしはヒマではなかった。★★★をいつもいつも繰り返しケチョンケチョンに言い続けてきたか。とんでもない。
平成十年三月から始まった「私語の刻」は、やす香が白血病で入院した去年六月までで、きっちり100ヶ月、ほぼ3000日強、控えめに観て原稿用紙にして一万六、七千枚になっている。その間に「★★★」という婿の名が出てきた回数は、たった8回、原稿枚数にしてその関係記事は合算しても10枚にすら達しない。そもそも裁判沙汰になるのが滑稽で、どんな家族親族でもこの何十倍もの口喧嘩をするだろう、世間一般に。
一方、夕日子に関しては、健康を祈り心身の平和を祈り、懐かしい昔を親同士で噂する記事ばかりが、亭主に触れての何倍も何倍も書かれている。
* 分からない、今も。分からないなりに、上に「置いた」一日の私語は、今も気になっている。分からない。
2007 10・21 73
☆ こんばんは! 京ののばらです。
昼間は秋晴れで過ごしやすいですが、日が暮れるとぐっと冷え込んできます。
今日は久しぶりに東京の孫たちが来て、賑やかに水炊きを食べて帰っていきました。
11月には東京へ行く予定です。
京はまだ樹の葉も青々として、紅葉にはしばらく間がありそうです。
お身体もお気持ちもお疲れのご様子ですが、お大切にお過ごしくださいますように。
眼も無理されませんよう。
お返事もなにも要りません。
平穏にお過ごしになれますように願っています。 従妹
2007 10・21 73
* 死なせたやす香が、われわれ祖父母にひさびさにおとずれ寄ってきてから、亡くなる一月前まで、「白血病」で入院までの、事情知れぬママの「よろこび」の記録を、妻の三年日記をもとにさぐってみたら、「二年余」ではなくほぼ「まる三年間」がそこに置かれていた。
妻は日記を帳面に書いているから、赤裸々に名前も事実もその日のうちに書ける。わたしは、このウエブに書いているから、やす香やみゆ希との親愛の日々は、細心の注意であらわには書けなかった、書かなかった、少なくも夕日子は私・父親の「私語」をよくよく聴いているらしかったからである。やす香が来て、何をした、食べた、観たと、嬉しさをあらわに書けないのが、ひとつ口惜しい「苦の種」だったが、それでもそのときどきにそれとなく書いている。こんどは、それをこの「闇に言い置く 私語」の中から拾い出しておこう。
妻の日記、わたしの日記。祖父母と過ごした最期の三年。その時どき、やす香の優しさや健康さが、きらきら光っている。
* このウエブにそれぞれ適切な「場」を用意し、いつでも誰の目にも読んで貰えるように、やす香記念の文献を積んでゆきたい。それはおのずといまの「歪んだ状況」を是正してゆくだろう。
2007 10・22 73
* 自然、「父なるもの・父たること」が念頭にあって、東工大の教室でも、学生諸君の胸をついそれで叩いたものだ。いま、ふとその「本」に手が伸びたので、頁を開き彼らの「挨拶」をもう一度聞いてみたくなった。彼や彼女たちは、わたしの授業を聴きながら、それでもわたしから押し出した問にも「書いて」答えていたのである。
父へ ー父なるもの・父たることー 『東工大「作家」教授の幸福』より
☆ 大学生になって初めて故郷を立って長春に向かう時でした。生まれて18年間、親を離れたことのなかった私の初めての旅立ちに父も母もすごく心配そうでした。母が「お金がなくなったらすぐ手紙を書いてね」とか「食べものに絶対ケチしないでねー」とか言うのにくらべて、父は無口に黙っていました。列車が間もなく来る時に、父が「ゆでたまごを買ってくるから」と一言を言い残し、広場の向こうへ走って行きました。広場が混雑していて、父の前へトラックが来た。そのトラックの前に立ちとまった父の背影(うしろ姿)が小さく、弱く見えました。その一瞬、なぜか涙が溢れてしまいました。私のことを愛して心配してくれている父に、「安心して下さい」と言いたかった! その時、親に安心させるように立派に強く生きていくようにと決心したのです。今でも父のそのうしろ姿が忘れられません。 (中国人研究生 女子)
★ 夫君がドクターを修了直前の、小さい子のある奥さんが、わたしのところで一年間だけ、主として漱石周辺の勉強をしていた。学部の授業にもよく出て来て、みんなと一緒に書いたり考えたりしていた。大学は中国で卒業していた。卒論には漱石の文学を書いたそうだ。
東京へ単独で出て来て暮らしている学生たちの、ことに男子は、むろん女子も、お母さんには最敬礼にちかいのが、まず、一般的である。有り難みに日常の具体的なものがしみついている。
そこへ行くとお父さんとは、アンビバレントなものがある。その辺を、引き出してみたかった。
漱石作『こころ』の「私」が、しきりに「先生」と「父」とを比較している。中山明という若い歌人によれば「父島」という島は厳然と常に在り、しかし、息子も娘も、その島から遠ざかることも近寄ることもない距離をおいて、人生という海を航海したがっている。で、「父なるもの・父たること」について、問うてみた。 (秦)
☆ 率直に言うと、我が家はどちらかといえば貧乏である。衣食住に困っていることはないが、私を私大に入れるとか下宿させるとかいうことになると、さっとお金を出せるほどではない。家も大きくないし、車も隣の家の400万円の新車と比べると見劣りする。私はその事を思うたび父を恨んでいた。父は「世の中にはもっと貧しい人もいるのだ」と言って今の状態に満足し、上を見ようとしない。私は内心、「もっとばりばり働いてよ」と思っていた。
その父が脱サラした。二年程前のことである。
「上に命令されるばかりの仕事はもう嫌だ。自分なりに働きたい。働いてお金を稼げばいいってものではないんだ。」
これから受験もあるのに、我が家はもう終いだと私は絶望的になった。しかし家族で父の仕事を助けているうちに、働く父を見るのははじめてだなあと思い、今までになく頼り甲斐のある人に感じた。父に対する私の憤りや恨みは完全に消えた。そして私は東工大に入学し、生まれて初めてバイトをしている。予備校のアルバイトである。友人は、時給も安いし時間も拘束されるし、家庭教師の方がいいよ」と、さんざんなことを言った。昔の私だったら割りのいいバイトにさっさと変えていただろう。しかし今の私は違う。
「家庭教師は自分一人での孤独な仕事。私は、先輩がいて一年生がいて事務の人がいて、そういう中でわいわい仲よく仕事をするのが好きなの。」
父に言いたい。「お父さんがあのとき今までいた会社を辞めた理由が分かってきたよ。働くってことは、ただお金をもらうことでも、肩書きをつけることでもないんだってことが…。自分のしたい楽しいと思う仕事をするのが一番幸せなんだよね。」
ろくに口も利かず顔も合わせなかった父が、だんだん身近に感じられて、とても嬉しい。 (女子)
☆ 「十七にして親を許せ」ですか。ぞくッとしました。だんだん父に対する目が厳しく冷たくなっている自分に、はっと気付いて。また自分の傲慢に気付いて。
先日母が弟を叱っていた。そこへ父が帰って来て、「また同じことを言われてるのか、バカ野郎。何度言われたら分かるんだ、バカ野郎…」
僕はそれを聞いて、帰ってくるなり叱られてしゅんとしている弟に、バカ野郎、バカ野郎とえらそうに言う父に腹が立ち、
「バカ野郎しか言えねえのかよ。もうちょっと言い方を考えろよ、頭わるいんじゃねえのか」
父は黙った。僕は叱ってほしくなった。なぐってくれと思った。苦しかった。2日後、父に僕はあやまった。父の目を見れなかった。父はなにげない返事をした。父がどんなふうに考えていたか分からないが、つらい2日間だった。 (男子)
☆ 私にとっての父は、小学生の頃は絶対的なものだったのを覚えている。共に遊んでくれたり色々教えてくれたりしたけれど、さからえる人間ではなかった気がする。(暴君ともいえたかもしれない。)私が成長するにつれ、父も人間がかわった。よくなった。
中学から高校にかけて、私は父を否定していた。(父親を認めなかった。)父は憎悪と軽蔑の対象だった。(その背景には、まあ、いろいろあった訳だが。)その反面父を尊敬していたと思う。父の中にある天才性を感じていた。しかし、それを否定した。2つの相異なる感情が心をうごき、憎悪etc.が勝った。人を好きになるより嫌うほうが楽だったからかもしれない。
そのころ私は父とはほとんど話をしたことがない。話しかけられても、無視していた。自分が男なら、何度も、なぐりたい、と思ったことがあった。一度、父を挑発して、なぐりあいになりそうなこともあった。(母にとめられたが。)
今は、私たちの間にそういう溝はない。父も、私もかわったし、私のそういう状態は、父には、けっこう痛切に感じられるらしかった。(母曰く。)それに、これは何のいい結果ももたらしはしない。
父は決して太い大黒柱ではない。しかし、今思うと父親として失格ではなかったと思う。夫として失格であった。そこに様々な感情がうごめいていたのである。今、私は、憎悪より尊敬の念を持っていると思う。(軽蔑の念はまだ持っているかも。)しかし父親を尊敬するなんて、愚劣な事の1つだと思うが。どうであれ、私の成長の中に、大きな位置を占めたのは父であったことは確かだと思う。 (女子)
☆ 受験の済んだ今年の3月、東京へ出てくる前に父とキャッチボールをした。4、5年ぶりだった。その時、僕の思い切り投げた球を父は捕らずに避けた。同年代の中では非力な方の僕の球を、「見えない」と言ったとき、どうすればいいのか迷ってしまった。
「ドクターコースまで進むと、父の定年にひっかかるかも知れない」という事もその時初めて認識した。今まで父に対しては「おとなしい人だ」という思いだったが、それでも「強い父」を期待していたのだと気付いた。
父とじっくり話し合ったことがないので、この夏あたり広島に帰った時、酒でもくみかわそうと思っている。 (男子)
☆ 父は好きです。本当に何でもできる。小さい頃から遊んでくれたし、料理も上手。父の考え方も私は大かた同意ができます。父は8割ぐらいは理想的な父であったし、今もそれは変わらないと思います。だんだん私が大人になって、父を父としてだけでなく1人の人間としてみる様になって、(母の人間としてのおろかさと比べて)ますます父が立派に見える様になりました。母の、子供のような部分をどうしてあんなに寛大に許せるのか。とても父が大きく感じられます。
父は昔の日本の父のように無口で家族を支えるタイプではありませんし、家族にバカにされて、すねてしまう事もありますが、父の事を自慢できる位、私は父が好きです。友達はみんな父親なんて別に好きじゃないと言いますが、私は父と仲良しです。でも普段は気付きませんが、最近父が急に老いたように感じる瞬間があり、そういう時は非常に心細くなります。今まで私の上から私を見下ろしていた父が、だんだん私より小さくなって消えてしまう様な恐怖を感じます。そんな時は父が死んでからの事etc.を考えてしまうけど、父が死んでも平気なように強くならなくてはいけないと思っています。 「父。安心して死んで行けるようにするから、何も心配しないで、疲れたら死んでいいよ」と言える様になりたいです。 (女子)
☆ 別に感動させる話はありませんが、誠実なあの父に愛されていることが私は嬉しい。昔はケンカもしたし殴られたりしたけど、そのおかげで、いい父親と思えるようになった。祖父が頑固で、父はそれが嫌だったから、今、こうしていると思う。普段言えないので、ここで、父に、一言。
「少しは尊敬もしているんだからね。」 (男子)
☆ 昨年の夏、ほんのささいなことがきっかけで父とけんかをしました。その日以来、私は父と口をきかなくなりました。父の顔すら見るのも嫌でした。父に話しかけられても、私は何も答えようとしませんでした。
それから1か月後、この状態を見かねた母の仲介で、父と話しあうことになりました。
父はかなり頑固な性格で、決して自分の言い分を崩そうとしません。私はそれを崩したくて、必死であれこれと父に言い返しました。その最後に、私は、思わず、こんなとんでもないことを言ってしまったのです。
「お父さんは家にいても邪魔で、自分勝手なことばかり言って、私や母のペースをくずしているのだから、休日もゴルフにでも行ってしまった方がよっぽどマシだ」と。
その言葉を聞いた瞬間、父は急にこれまで有った勢いがなくなり、力の抜けた様子で、
「おまえ、ひどいこと言うなあ」とぼそっと言いました。その時、私は久しぶりに父の姿をまじまじ見たのです。白髪はいっそうふえ、なんだかやつれたように見えました。どっと後悔の念が私の中にこみあげてきました。一か月にもわたって父と口をきかなかったことに何の意味があったのでしょうか。とても自分が恥ずかしかったのを覚えています
。それ以来私と父はうまくいっていますが、まだまだ若いと思っていた父も、あと七、八年で定年になります。そして私もいずれは結婚などで父と別れて暮らすときが来るでしょう。父にはただ一人の娘である私にとって、将来の父の姿を考えると、ちょっと心配になってしまいます。 (女子)
☆ 僕の父は、父親に早く死なれているので、僕に、「おまえはお父さんがいて幸せなんだぞ」とよく言います。
小学生くらいまでは、父はなんでも知っていて、父のする事はなんでも正しい大きな存在でした。中学生、高校生の時は、父などというものは僕にとっては何をするにも障壁となり、敵でした。それは今でも変わりませんが、1~3年前から父が感情をあらわにするようになり、弱さを見せるようになったと感じています。
先日も父と2人でお酒を飲む機会があったときも、酔っぱらいながら、「今日は楽しかったなあ」と何度も言いました。その時、(父親=祖父に早く死なれて)お手本の無いまま、父が父として悩みながら僕を育ててくれたのだと思い当たりました。
今、僕はやっと父がいて幸せだったと感じはじめています。 (男子)
★ 読んでいて、感傷と笑われるだろうが、わたしは涙ぐんでいた。このお父さんの「今日は楽しかったなあ」が、しみじみと分かるからである。わたしの息子はもう社会に出ているが、まだ幼稚園だった昔から今まで、かわりなく息子の「存在」そのものにどんなに励まされ慰められてきただろう。そんなことを思うのも、わたしの「弱ってきている」証拠なのだとは分かっているが、わたし自身は、むかし、実の父のためにも育ての父のためにも、この学生のような、わが息子のような息子では全く無かった。それだけでもわたしは自分の人生を失敗であったと痛切に思う。 (秦)
☆ 父よ。現世からあなたと語り合おう。酒をくみかわしながら明るく楽しく語り合おう。現世から天国。天国から現世。このすれ違いは人の若さと老いとのすれ違いである。ただただ、未来について語り合おう。私とひざをつめて語り合おう。生きるとは何かを。 (男子)
☆ 私はものごころついたときから、父よりも母のほうが好きでした。父は私にはとても優しい人です。それでも私は彼が好きではありませんでした。おそらく自分自身が嫌いな部分が、父に似ているからでしょう。ふだんは私の奥底に隠れている激しさや他人への批判やもののい方、それらが、彼から受けついだものだということが、苦いほどによく分かるのです。彼のそんな部分を見るたびに私は彼を不快に思ってしまうのです。
けれどもこの春(進学し)私は家を出ることで、心の中に少しの変化が生じました。一人になって、考えや生活が私の裁断一つにかかったことで、私は自分を支えているものが彼からの影響を多大に受けていることに気づきました。それらは彼が言ったことそのものであったり、全く反対のものであったりしますが、彼あってこそのものであるのは確かです。そのことにまだ多少の苦々しさを感じはするものの、今までの私と彼との歴史を感じさせられ、胸にくるものがあります。
おそらく彼は私より先に死ぬことでしょう。私がそのとき何を思うかはよく分かりません。けれども、そのときこそ、私は彼にゆずられた全てのものを、苦さを感じることなく、誇りさえ感じられるときだと思います。 (女子)
★ まるで、わたしの娘が語っているような錯覚にとらわれる。いやいや、それはわたしがまだ甘い。せめてこうであってくれればいいがと、願うにとどめよう。 (秦)
☆ 私は父が嫌いでした。今は、そうではありません。酒を好み、ものに感動して涙など流す父。理不尽なことには心から怒る父。父への感謝をうまく表に出すことができません。
近づきもせず遠のきもせず、一定の距離を保ったまま。それでもじっと見守ってくれている父です。父が好きです。 (男子)
☆ 自分が成長するにつれ「絶対なる父」は崩れ去っていった。父の言葉にも疑問を持つようになり、父がそんなに強い人間でないと感じるようになったとき、私は悲しいような、寂しいような気がした。そんなふうに私に思われている父がかわいそうになった。父にだって弱いところがあって当然だ、が、父には常に強くあってほしいのだ。せめて私には弱いところを見せてほしくない。 (男子)
☆ 少し前、母から、私のまだ小さかった頃の話を聞きました。父は最初は会社勤めをしていましたが、業界の不調もあり、数々の会社を転々として非常に苦しい生活だったそうです。あげく祖父のやっていた店を継ぎたいと申し出ましたが、祖父と揉めて、ずいぶんひどいことも言われたそうです。それでも父の努力で商売は好調に推移し、今では一戸建ての家も持てるようになりました。
私の記憶にはそんな苦労を見せた父の姿はありません。私には見せたくなかったのです。ふだん陽気な父にそんな苦しい日々があったとは夢にも想像できなかった。私は父の雄大さをはじめて感じ、父が越えられるだろうかと思いました。越えたくも、越えられて欲しくなくも、あります。 (男子)
☆ 父の実家はとても複雑で、家中で裁判をやっている。親と子で。兄と弟で。兄と姉で。姉と弟で。父の実家には愛、家族愛などというものは存在しない。その裁判は今は20年以上にも及んでいる。私の生まれた頃から争っているのだ。
その反動であろうか、父は私たち家族を非常に大切にする。我が家は3人家族なのだが、いつも一家で行動する。両親を私は一番に愛している。今、東工大でこんな楽しい思いをしていられるのも、父の教育への理解があってこそだ。裁判のせいで、父の親、つまり私の祖父母は私の父の溜めていたお金や家を取りあげ、会社までくびにしたのだ。父は私と母とをかかえて、ひとりで一円からお金をためて、30歳にして新入社員(再就職)となって、初めからやり直して来たのだ。どんなにつらかったろう。どんなにお金をかけて私をこの大学まで入れてくれたろう。
父はよく私に、「自分のような思いはさせたくない」と言っていた。私を愛するあまり父は私の受験の終わるまで、自分の学歴さえ私に偽り生きてきたのだ。
大学生になって、幾つもの父の苦しい過去を知った。父はその間も私に「苦しい」の一言も漏らさなかった。なんと偉大なのだろう。私はこの年になり初めて父を尊敬している。
大学生になるまで、尊敬する人はと聞かれると、偽善で「両親」などと言っていたのだが、今では本当に尊敬している。 (女子)
☆ 父は船乗りなので私は人生の半分も父と一緒に生活してはいないし、これから先も一緒に暮らす機会は無さそうだ。そのせいかも知れない、私は父に嫌悪感など感じないが常に緊張する。幼い頃も休暇で帰ってくる父は、父という名の特別の客のような気がして、妹たちがするようには抱きついていけなかった。そういうふうに甘えるのはいけないんだという意識があった。あのときの父の気持ちはどんなだったろう…。今だに緊張は解けない。父と二人で話す時はとてもぎごちなく、かろうじて父にそれと感じさせないようにしている。なにかマニュアルに従って話しているようで、母とのようには喋れない。
しかし父は変わりつつある。年を取り、単身赴任するようになり、父は以前ほど厳しくなくなった。娘の機嫌をとるようになった。自分から家族に溶け込もうとするようになった。そして私は父のそういう変化が分かるようになった。
父と私の関係は、「これから」であると思う。 (女子)
☆ 子供の時、父は世界中で最も偉大な人でした。父を見る私の目にはいつも尊敬と畏怖の念がありました。父は私の行動や考えにいつも絶大な影響を与えました。そんな父を憎んだことも少なからずあります。いつも私の前を歩いていた父。しかし今は父への劣等感はかなり小さくなり、父の背中に手の届きそうなほど近づいているように感じられます。尊敬の念は残りましたが、畏怖の念は消え去りました。もはや完璧な支配者などではなく、欠点だって少なからずある一人の人間として見られるようになりました。
将来父と私は完全に横に並んで歩くことになるのでしょうか。どんどん成長するにつれて変わって行く「父」とは何なんでしょうか。自分が父になったら分かるのかな。それでも分からないのかも。
ともあれ「私」を一番よく知っている人間、それが「我が父」です。 (男子)
★ 「これから」という一語に、希望が光る。また、「我が父」と囲った気持ちが、びしっと胸に届く。
まだまだ、ある。
子供の病気に心を砕いた父親。死にかけてこどもにその命を必死で祈られた父親。学歴にこだわり、子供に「いい学校へ行ってくれ」と辛かった過去を切々と語る父親。
まだまだ、ある。全部をここへ挙げたいほど、いい文章がここに揃っている。
嫌われ、憎まれ、敬遠され、疎まれ、敵にされ、壁にされ、無視され、それでも子供達は「父親」を見捨ててはいない。安心した。むろん甘い気持ちでは居られないのが父親である。峻烈な父批判もある。憎悪の的にもなっている。
ただ、こういうことは、ある。
半年たち一年たったところで、そういう過酷な父への言葉を、静かに訂正して来る学生も、事実、いるのである。だから、あえてそのテの「過酷に過ぎる」乱暴な文章はここに拾わなかった。
学部の一般教育でも、「知識」を授けるのは主たる目的であろう。しかし東京工業大学での「文学」の教師を引き受けたわたしは、文学の知識をあたえるのを第一の仕事とはしない。
文学・芸術に接したとき、そこから「人生」を感じたり知ったり、また深く強く励まされたりできる為の、「自分の言葉」を紡ぎ出させることに力点をおいてきた。文学史なら読書でまかなえる。文学の研究方法は東工大の学生にほぼ無用である。篤志の者には教授室のドアがいつも開けてある。
アカデミックに文学を概論し講義せよという、大学側のらしい、声が聞こえて来ないでもない。お望みに応じるのは容易である、が、くみしない。
文学部でなら大事である。東工大でも数人になら可能だろう。わたしは、しかし、一人でも多くの「東工大」学生たちに、「文学」の面白さと、面白さの深さとを、己が感性と思索とにより発見し体験してほしいのだ。ただ五人や十人のために、作家生活の道草をくうのでは堪らない。わたしは、わたしにできる最善を、学生たちのためにしたい。故郷や親や友人についてしばしば学生に考えさせようとするのも、自身の「根」に、とらわれることなく、だが枯らさないで欲しい、それが二十歳の「文学的青春」を豊かにすると思うからである。
一読、なんと幼いのだろうと学生の手記を侮る人もあるかも知れないが、間違っている。これは高校生をやっと抜け出てきた世代の文章であり感慨である。述懐である。幼いのではない、真面目なのである。
この素直さは、現代がもっとも大切に見失わないでいたい希少価値だと言っておく。 (秦)
* 十数年ぶり、東工大の大教室に戻った懐かしさ。こういう「あいさつ」を、わたしは四年間に単行本の「百冊分」も学生達に書かせ書かせ書かせて、毎週一枚も余さず読んでいた。毎週毎週、突き刺すような質問を学生諸君につきつけ、唸らせつづけた。だが、だからこそ彼らはよく「書いた」のだ、希有な自問自答の体験として。
一枚も散佚させずそれらは今もわたしの身近に保存されている。結婚式の披露宴で久しぶりに披露してビックリさせたことも何度か。
2007 10・24 73
* 建日子からメールがあった。いま返事を送った。階下の作業に移動する。建日子の連続ドラマ「ジョシデカ」とかいう二回目が始まっている時刻。
2007 10・25 73
* バグワンの『十牛図 究極の旅』は、第三「見牛」に入った。いま、就寝前に三冊を音読し、床に入ってから九冊を順次読んでから灯を消している。
いま『千夜一夜物語』がべらぼうに面白く、観世栄夫の遺作自伝『華から幽へ』も興味深く読み進んでいる。
この家の近くに、昔、喜多流の宿老後藤得三さんが住まわれていて、榮夫さんは観世流を離れて一時、後藤得三の藝養子になっていたことがある。わたしたちが気さくな後藤夫人と親しくなっていたころは、もう栄夫さんは観世流に復帰のころで、能以外の劇界での多彩で旺盛な活躍はよく耳にしていた。後藤夫人からも良く彼の名前がおもしろそうに口をついて出た。
栄夫さんとのご縁はそれだけではなかった。彼は谷崎夫人の娘さん、恵美子さんと結婚していたから、谷崎潤一郎のお婿さんでもあった。その方角からもわたしは榮夫さんとご縁を繋いでいた。
観世に復帰されて最初の『楊貴妃』から最期に近い『邯鄲』までわたしは幸いたくさんな彼の能をいつも見せて貰えた。『景清』や『檜垣』や、小町の老女ものなど印象に濃い。舞台や映画にふれあう機会が意外に無かったけれど、能は観てきた。彼の生涯を載せた分母は確実に「能」であった。やはり「能」であった。
ひとまわりは私より年かさであったけれど、おだやかにいつも応対して下さり、「ペン電子文藝館」に谷崎作の欲しかったときも、お頼みすると「秦さんがなさることなら、なにも問題ありませんから。どうぞ」と簡単であった。恵美子夫人もいつも親切にしてくださり、夕日子がサントリー美術館への就職を熱望したときも、谷崎夫人の口利きで、じつは、この観世夫人恵美子さんが親しい自分の友人を動かして、只二人の採用の一人に夕日子を押し込んで下さったのだった。夕日子の結婚式にもその三人が揃ってお祝いに参加して下さった、谷崎夫人には新婦側の主賓をお願いしたのであった。列席の尾崎秀樹、加賀乙彦、長谷川泉、紅野俊郎、藤平春男といった人たちが、松子夫人の主賓を、とても歓迎されていた。わたしも嬉しかった。わが谷崎愛のひとつの結晶のようにそれはそれは嬉しかったのである。
2007 10・26 73
* 幸い雨風はすこしおさまっていて、有楽町線の銀座一丁目駅まで、そう苦労せずに歩けた。座って帰れた。前の席に、練馬まで乗って、親子づれがいた。その四つか、五つにはなるまい元気のいい可愛い女の子が、どうみても昔のやす香によく似ていて、懐かしくて嬉しくて、妻も私も眼が離せなかった。それでも車中、「湖の本」の校正もしていた。もう本文は責了に出来る。
* 玄関のうちで黒いマゴがやあやあ鳴いて、帰ってくるのを待ちわびていた。ひとしきり家の中で隠れん坊遊びをしたがり、かけずりまわっていた。
2007 10・27 73
* 霜月来る。
* そばに置いた生母・阿部鏡(=ふく)の遺著を手に、ふと眼についた、歌。
儚きはこの世の旅の常なりとわが燻(く)べる香の衿にしむ朝
この頃母が何歳でどこに暮らしていたか分からないが、『わが旅大和路の歌』と本には題してある。ただの「旅」でなかった。「客愁」にぬれた孤独な「過客」の旅路であったようだ。一つ前に、「人は去りわれは老いしに福寿草は在りし日のごとより添ひて咲く」ともある。
大阪市に出来た日本で初の保健婦学校を、第一期四十数歳で卒業し、主に奈良県北部で活動していたらしいと遺著は示唆している。
在りと見て在らざる影へ燈(と)もし来し此の業火消す原子粒無きや
奥山は暮れて子鹿の啼くならむ大和の国へ雲流れゆく
母は詩文集をこう結び、わたしたちにちょうど娘・夕日子の生まれた頃、十字架に果てたひとの血しぶきの一滴をうけても「生きたかりしに」と辞世し、大怪我から再起不能の重症の命を、突として、どこかの病院で喪ったという。
* この母から、兄・北澤恒彦も弟・秦恒平も、生まれた。兄は母をうけいれ、弟は拒みとおした。
* このファイル末尾に置いた、娘らの写真を数葉をのこして、おおかた撤去した。昨年八月から九月十二日亡き孫・やす香が二十歳を迎えるはずであった日まで此の母親が「mixi」に書き散らしていた妄想の「木洩れ日」日記は、愛児を二重に喪い心乱した「悲哀の仕事」であったものと、父も母も、もう「赦して」いる。
2007 11・1 74
* 大きな国語事典に新版ができるつど、時代に根付いたと目された語彙の幾つかが付け加えられる。なるほどと思ったり、どうかなあと思ったりする。時代に置き忘れられた語彙もあるだろう、そういうのは割愛しているのだろうか。
いまわが家を念頭に、わたしが秦家にあずけられたたぶん四歳頃を思えば、家屋の造りで歴然とちがう箇所がある。まがりなりに畳の部屋が上と下に五つあった。いまのわが家に畳の部屋は三つしかない。畳でない部屋が二つある。どっちも狭い小さい家である。ただ、今は地所つづきに西にもう一棟を亡くなった両親が買って京都から移ってきた。わが家に溢れたモノたちで物置に使われている。
* 「台所(キッチン)」が、今は、昔ふうに謂うと「おいえ」の上にある。昔は土間に「流し」場があった。「走り」と呼んでいた。表から奥へ細く通じた土間を、ことに流し場や洗い場や井戸のある辺を、「走り」と謂っていた。「走り」なんて、昔の辞典に出ていたろうか。今はどうだろう。ときどき昔のわが家の「走り」のさまが目に浮かぶ。
* 隣組があった。いまでも「班」といった緩い縛りがあるのかも知れない。むかしの我が隣組は、たしか滋賀県だか隣県にいる一人の「家主」の持ち地所・持ち家だけで組まれていた。東西南北、ほぼ正方形の地所であった。北側に表通り(新門前通り)があり、通りに面して三軒が在った。東の一軒と西の二軒長屋との間に、自転車ならかろうじて裏ン町へ走り抜けられる細い抜け路地が通っていた。
この路地の奥に、表の二軒二階長屋の幅と同じ奥行きの三軒二階長屋が、抜け路地へ表間口をあけていた。短冊なりの地形に、北間口の表の二軒と、路地向き東間口の裏三軒とが、かたまって「借家」を成していた。路地の東側は「母屋」の体に、表通りに間口を開き、奥に離屋(はなれ)と土蔵と、もう一つ奥にも平屋の離屋が、一連に出来ていた。奥の建物はみな抜け路地へ西向きに間口を開いていた。
ほんらいならこの路地の東に「大家」が住むという「つくり」に、全体で大きな正方形の地形が構成されていた。
秦の父は、敗戦後に、借家住まいだったその「母屋」の「表」と、離屋(裏)との二棟を家主から買い取った。その以前は、離屋にはべつの母子家庭が暮らしていた。奥の土蔵まで、さらに奥のもう一軒まで、父には買う気も余裕もなかった。
狭い狭いと思っていたが、近隣では平均的な家屋だった。「母屋」ふうなだけ、長屋づくりより奥行きがあった。「走り」が長かった。離屋を買ったのは、独身の叔母がそこで茶の湯や生け花の師匠をして自立できるように兄である父がはからったのであり、勇断であった。叔母は叔母なりにかなり成功した。戦後のどさくさで世にあふれ出ていた由緒のある、筋のいい茶道具を、古門前の老舗の道具屋「林」を介して可能な限り手に入れ続けられた。
* 「走り」という言葉を思いだしたばかりに、ついものを思いだした。あまり、よい傾向ではない。
これから聖路加へ受診に。気分次第で都内を楽しんできたいけれど、じつは夜中に攣って痛めた左足が歩行不自由なほど痛い。美術展がダメなら寄席か映画でもとひとり思案しているが。いまはたまたま校正すべきゲラもない。世界史と千夜一夜物語とを持って出かける。
2007 11・2 74
☆ 走り 藤
お陰様で夫婦そろって元気にしております。
秦様のHPを拝見するのが日々の楽しみ。
”はしり”って「走り」なんですね! 言葉自体は勿論知っていたし、使っていましたが、どんな字なのか考えても見なかった。
私の生家京五条の家の「走り」は、もとが造り酒屋だから 広いというか、長いというか——
中学生の頃「ローラースケートはいて台所仕事をしたらどやろ」と本気で思ったことがあったくらいです。文字通りの「走り」、女たちが走るように行き交っていました。
「流し」のあたりのことは前にも『新宮川町五条』の中に書きましたが、大きなおくどさん、鍋などの入った戸棚、流し、井戸が順に並ぶ対面に 一間幅くらいの板の間が、舞台のように土間よりも高く作られていて そこで大家族が一列に箱膳を並べて食事をしていました。
上座には火鉢があり、いつも「ほうじ茶のやかん」がかかっている。今で言えば、DK(ダイニングキッチン)。給仕役は土間を背に座る決まり、大柄な母は後ろのたたきに落ちそうでした。
落ち着かなくて、しかも冬は恐ろしく寒く—–
「他に一杯部屋があるのに、どうして走りで食べるんやろ」と不満でした。
—などと昔語りをするのは
あまり、よい傾向ではない
と秦さん言われてしまいますね。
そのせいかどうか、今でも私はDKとかLDKが好きではなく、家の台所は4・5畳あり一人二人なら食事が出来ないこともないけれど、
絶対にテーブルや椅子を置かない、置かせない。他のことにはずぼらもののくせに、冷やご飯を一人で食べる昼食でさえも、せっせと隣室のテーブルまで運びます。このこだわりは何?
月に二度やそこらは自分で車を運転して東久留米まで行きます。
運転しながら「秦さんがヘルメットかぶって現れはったらどないしょ」
でもあの辺の道は、車の方も自転車の方に接触しないかととても気を使います。どうか、どうか、気を付けてサイクリングして下さいませね。
* こんな桁ちがいに大きい広い家で育った人も世の中には、いっぱい。わたしは、ついに畳が八枚敷かれた部屋を持たないまま死ぬらしい。丹波に疎開していたとき、裕福な農家の離屋を借りて暮らしたが、この離屋に八畳間があったがあれはわが家とは謂えない。家は、しかし、ただの「壁」だもの。これで良いと思っている。隣室では妻がピアノを楽しんでいる。わたしは此処で機械に触れている。
2007 11・2 74
* 昔から、なぜか天気のいい日とされてきた。
* やす香のお墓に、好きだった「のど飴」をあげてきましたとお友達の優しいメールが届いていた。ありがとう。
* 親しいある人の言葉ですとして「人生の消費税」ということを書き込んだメールも届いていた。消費税はやむをえないが、無用に高く払いすぎないように言われた、と。その人の創意になる言葉であるなら、近頃にないいい表現だ。
むやみと消費税を払い、心身ともに困憊してしまう人がいる。想像以上に大勢いる。自分だってそうかも。
過剰には払わない確かな調節に、「生き方」の、或いはうまい或いはへた、が現れる。ケチってもいけないが、ほどほどに惜しまないと、放埒に自身をモノの餌食にしてしまう。
しづかなる悲哀のごときものあれど われを かかるものの餌食となさず
石川不二子
みずから求めて餌食になろうとし、自虐の自己表現を自意識する人は、少なくない。「われをかかるものの餌食となさず」という歌人の決意はまれに見る強い表現になっていて共感する。よく生きるための消費税は「適切に」支払うのがいい。払いすぎて「元本」を、身も蓋も無意味に無くしてはならぬ。
2007 11・3 74
* 市ヶ谷河田町。東京へ来て、六畳一間の新婚生活をはじめた町。となりが牛込だった。牛込という地名だけは京都にいた頃から頭にあった。都電の駅に牛込とか神楽坂とかあって不思議なほど親しめた。
女子医大の看護短大に学んだという人からメールをもらうようになり、しきりに河田町十二番地みすず荘の昔をよく思い出す。ここから六十年安保の国会デモにも通い、ここで夕日子が生まれ、肌を接するほど直ぐ近くに東京女子医大があり、フジテレビがあった。三島由紀夫の自決した旧陸軍省も、国立東京第一病院も近かった。
牛込北町へ坂を下りて行く途中には古いちいさな映画館もあり『おはよう』『秋刀魚の味』などを妻と観た。
あのころは乗り物賃を出せなかったから、ひたすら歩いた。歩いて身にしむようないい場所は近くになかった。それが京都懐かしさになり、それが小説へわたしを追い立てていたかも知れない。秦さんの書く京都は、ふかふかの絨毯をふむように足下が豊かに深いと筑摩の編集者が言ってくれたことがある。必ずしもホメタとは限らないが、宝のように保存してきた京都を書いているという自覚は、いつももっていた。
2007 11・4 74
* 第五回の審尋のある日。報告しだいで、また当分、イヤな心労の日々になるのであろうか。
* 人を傷つけるのは容易いが、人を励ますのは難しい。藝道にある人は、おそらくこの言葉を金科玉条とされているだろう、日本の藝の基本が祝言藝であり、衆人皆楽、壽福増長にあるのだから、当然である。この当然が、必ずしも今の藝能で大切にされているか、かなり疑問のムキもある。
* 文学の徒は、では何を大切にしてきたのだろう。古めかしいかも知れないが、やはりわたしは「人間探求」であり、そうである以上、人を励ますという最終の効果は願わねばなるまいが、目的としてそれを過剰に意識することには賛成してない。
また人を愚かしく傷つける暴発は嗤うべきだが、探求の鋭さが必然人を傷つけることがあって、それまた至当で必然のことだと考えている。それを懼れていては社交は円満であろうが表現や創造は半端に終わる。文学は祝言藝ではない。文学は追究の藝術であり、その表現や達成が結果として人を励ますモノであれば最良だと思う。文学は妥協の所産であるとき必ず通俗な読み物に終わる。ひまつぶしは出来ても人間の底知れぬ闇に光をさしこむことは出来ない。
2007 11・5 74
* 古希過ぎた病気持ちの実の父親を、理不尽なリクツで裁判所にひきずりだし、是が非でも勝訴して賠償金をせしめ、頭を下げさせたいと、額を付き合わせチエを絞って訴状をつくるのにヤッサモッサしているわたしの「娘」や「婿」というのは、いったいどういう陰気な生き物なのだろう。
また、こんなことを書くと、一つ名誉毀損への「得点」が増えて賠償金が高くなるのかなあ。いい友達が一人もいないんじゃないか。それでも学生や子供たちの前では、モラルと教養の権化みたいな顔をして澄ましているのかな。覗いてみたいな。
2007 11・6 74
* からりと晴れているかと想ったが、そうでもない。天気はふしぎだ。心身の元気に照応し呼応している。天も身内もおなじ空なんだ。
☆ バグワンに聴く 講話の訳者に感謝しつつ
恐怖から、おまえは他人に従いつづける
恐怖から、おまえは<個>になれない
だから
もしおまえが本当に<牛=真のお前自身>を探しているのなら
恐怖を落としなさい
なぜならその探索は、危険の中を進む
冒険をしなければならない、そうしたものだからだ
それを、社会や法や群衆はよく思うまい
社会や法や群衆はなんとかしておまえを引き戻し
恐怖を抱いたまま姑息な安全に安住していたいおまえでいさせたがる
もしそこに恐怖があると
おまえは,それと遭遇する代わりに
神に祈る、助けを求める──
貧しさ
おまえの内側の貧しさを感じる
と、おまえはそれに遭遇することよりも
富を蓄積し続けていって
自分が内側で貧しいことを忘れられるようにする
自分が自分自身を知らないことがわかると
この無知に遭遇することよりも
おまえは知識を寄せ集め続ける
知識人と呼ばれたがる
おうむみたいなものだ
そして、借りものの知識をくり返し続ける
みな逃避だ
もしおまえが本当に自分自身と出会いたかったら
おまえはどうやって逃避しないかということを学ばなければなるまい
例えばもし、真実怒りがある──
それならそれから逃げないこと
遭遇 encounter
生は遭遇されなければならない
それが何であれ目の前に来るものを
おまえは深ぁく覗き込まなければならない
なぜなら、その同じ深さが
おまえの<明知=自己知>となってゆくのだから
もしそれが怒りなら その怒りの背後に、牛の足跡がある
もしおまえが
あれこれから恐怖と怠惰とで逃げ出していたら
おまえは探し求めている「牛の足跡」からも逃げていることになる
* わたしも怖くて逃げ出したいが、バグワンに聴くまでもなくそう思ってきたから、いまは「抱き柱」は抱かないでいる。社会からも法からも群衆からも嫌われ見捨てられるだろう、まちがいなく。だが、わたしは内なる「牛」を求めている。だから逃げない。遭遇したモノは深く覗き込んで、それが奈落へ誘う闇かも知れなくても踏み込む。「いま・ここ」に立つ、だけ。
* 逢花打花 逢月打月 花に逢へば花に打し 月に逢へば月に打す わたしは上のように、此の花も月も受け容れる。見ようによれば今のわたしは、晩節をけがし汚濁と醜悪にまみれて藻掻いていると見えるだろう。だが、そうだろうか。一人の作家として、人として、それが「月」で「花」でないわけがない。
この日録『闇に言い置く私語』は、『晩節』と題されていいわたしの「文学」である。書くな、書くな、書くなという声もある。身辺にもある。父を法廷に引きずり出して躍起になっている者達は、まさに「書かれる」のがイヤなのである。
なるほど。
だが、しかし。
なぜ、なにを、父に書かれているのか。それは考えないのか。
2007 11・7 74
* 昼前からたった今(夜の十時)まで、ぶっつづけの大仕事にかかっていた。
* 建日子が仕事で、わたしの知らない、海外の、島のようなところへ出かけた。無事を願う。
2007 11・7 74
☆ 私語で書かれた「打」 珠
水を浴びたような気分でした。すっきり目が覚めた心地。
湖のおかげです。
先日来、女子医大の頃のことを文字にしたせいか、あの日々が急に鮮明に思い出されてきています。
今と違った意味で、必死に仕事に向かい合っていました。
看護師としてどう患者さんと向き合うか、という私の看護がハッキリみえたのは、1年半闘病したある女の子との時間があったから。
その子は19歳で発病し、もうすぐ21歳という直前、逝きました。湖の愛しいやす香さん、同じ年頃だと、、、昨年の「私語」、私は彼女とやす香さんをかさね、胸くるしく読ませてもらっていました。
彼女の形見にご両親がくださった小さな金色のペンダントトップ、それは今も私の宝物で、楽しいお出かけには首で揺れつつ一緒に出かけます。
思い出すことしかしてあげられませんが、いつまでも思い出してくれる人がいるかは、生きた時間数とは違いますよね。きらきらひかる、輝く時に逝ったやす香さん、
もしかすると、どこかで私のような看護師の心にも何かを残しているかもしれません。
湖に思い出させて、悲しくさせてしまうと思うのですが、私には、書くとまた彼女が生き生きとするようなそんな気がして、様子をみながら女子医大での出逢いと別れ、書いてみようかと思います。
私の記憶の中、今もまだ鮮明に、あの時に、生きてるのです。これは、私の「喪」の仕事になるのかもしれません。
湖、どうぞ泣いて目薬ながさないで。
大事にしてくださいね、湖。
ありがとうございます。
* 瞬間風速を受けるようにわあっと仕事が殺到し、うろうろしながら気をひきしめて、一つ一つ片づけ片づけ、それが「用意」になって行く。用意がなければ仕事はどこかでくんずほぐれつ、固まってしまう。
ほっこりとした正月をいまから期待してしまうのだけれど、ほっこりどころでない、苛烈な不快な事態が予想され、予告・警告すらされている。倒れないようにしなくちゃ。
法廷を経由して、夕日子たちの作成した文書が届いているが、まだ見ていない。代理人からの出廷報告もまだ落ち着いて読めていない。それは、わたしにすれば、全く不毛の、単なる迷惑、単なる厄介。
それより「湖の本」の新刊を無事に送り出したい。また書き下ろしの仕事も仕上げてしまいたい。
2007 11・8 74
* 妻が、ついに芹沢光治良の超大作『人間の運命』を読了したという。わたしが半年掛けたとしたら、妻は三分の一ともかけず、朝と言わず夜と言わず熱心をきわめて読みふけっていた。口を開けば「次郎さん」であった。
わたしにしても、そのつど作のいちいちを思い出すから、これだけでも夫婦は厖大に話し合い批評しあったことになる。妻には、向いた文体で向いた叙事で向いた表現であったようだ。ひとこで「おもしろかった」のだ。すぐ繰り返しもう一度読めば、いろんな意味で妻の財産ができるだろうに。
折しも作者の息女である岡さんから、来年か、おそくも再来年にまた「ホール」で話して欲しいがと、お手紙を戴いた。わたしもまた読み返すかな。
2007 11・10 74
* 十五時間、用事に没頭していた。
* 半眼で機械に向かってする十五時間は堪えた。もう、今夜はなにも書いていられない。
2007 11・12 74
* 時は金(きん。カネではない)なりと、つくづく思う。実感で言うと、細いペンがペン筒にぎっしりつき立っているように、いま時間にゆとりがない。ないと感じているだけであるが、五本の手を使って同時にしなくてはならぬほどの用事が殺到している。バカげているが必要なことはボヤイテいるより、片づける。それが特効のクスリ。
2007 11・13 74
* やはり芝居は楽しい。いやなことどもも、幸い忘れたように舞台に溶け込んでいられた。よかった。
帰りの地下鉄では、席を譲られて、ラクをさせてもらった。迪子も朝から忙しかったわりに元気であった。妻が元気だと、わたしの疲れも少ない。
* 海外に出ていた息子も、無事、今夜帰国し帰宅していた。よかった。
2007 11・14 74
* 法律事務所への用事もほぼ終えた。それでも、まだ、ある。まだまだ、ある。
2007 11・18 74
* 暫くぶりに建日子が電話をくれて、しばらく近況を話し合い、気持ちが吹っ切れた。良薬であった。
ロサンゼルスからも電話のお見舞いがあった。感謝。
2007 11・26 74
* 肌着が、絞れるほど汗をかいて着替えた。すこしでも夜着から手を出していると烈しく咳く。すっぽり籠もっていると汗みずくになるが、咳き込まずに済む、と前夜の体験で覚え、その手で夜を過ごした。
妻は胸と腹に響く咳に悩んで眠れなかったようだ。
わたしの困惑は、声で。言葉が話せないことで。我ながらおどろく声だ。文春の寺田さんが仰天して電話を切られた。
* 八時には起きて仕事を始めた。仕事がクスリだ。妻は近くの病院にいった。思った通り、インフルエンザではない、風邪のたぐいと診断されてきた。貰ってきたクスリを分けて貰って呑んでいる。
猛烈に痰と洟が出るのを、容赦なく、喚きちらすほどにして吐き出し排出してしまう。幸い、はじめから髪の毛を触っても痛まない。わたしの苦しい風邪は、それですぐ自己診断できる。インフルエンザでなく風邪熱でもないなら、ワクチンに当たったのだと思うことにしている。そして海鳴りのように寄せてくる仕事を、今日も、朝から夕方まで。
一段落したところへ、また事務所から長文の要検討文書が送られてきた。とても誰にでも読んで分かりやすい文書ではない。思案投げ首でジリジリと読んでいる。誤解してはならず、難しい。
* 芹沢光治良さんは、日本国が敗北した大きな理由の一つに、陸軍は陸軍だけに通じる言葉、海軍は海軍にだけ通じる言葉で喋っていたんだもの、と、慨嘆されていた。日本人ほど、一人称の多種類な国はよそにもアルのだろうかと思う。猫でさえ「我が輩は」と言う。弁護士さんは「当職は」とおっしゃる。花魁は「あちき」などといい、暴れん坊将軍は「余の顔を見忘れたか」と一喝し、天子は「朕おもふに」と来る。落語の押しかけ女房は「みづからは」と気取るし、西郷さんは「おいどん」である。
2007 11・29 74
* 喜多流の塩津哲生さんから、師走と正月との喜多能楽堂の招待券を頂戴した。一月の「翁」にぜひ出逢いたかった。ちかごろ、梅若は正月に限って満席になり「翁」に出逢えなかった。塩津さんのご厚意に、こころから感謝申し上げる。師走の「道明寺」も楽しませていただく。
喜多では、友枝昭世とならんで、塩津哲生、香川靖嗣というもう二人に、四半世紀も注目して、たいていの場合、期待を裏切られることがなかった。ふとしたことから、メールもつながるようになり、ひとしお身近に感じてきた。友枝昭世、塩津哲生、また梅若萬三郎、また宝生流で久しい読者でもある東川光夫さんも、来年から能に誘ってくださるという。能にふれる機会がまだ幾らか残っているのをわたしは喜んでいる。
2007 12・5 75
* 婚約して「五十年」経った。昭和三十二年・一九五七年だった。まだ黒谷に紅葉がのこっていた。真紅の一枝をもちかえり、大きな水盤に葉さきを潜らせて、叔母の茶室で二人で茶をたてた。
一年三ヶ月後、昭和三十四年に、東京の市ヶ谷河田町で、結婚生活をはじめた。翌年の夏に長女・夕日子が生まれた。昭和三十七年夏、夕日子二歳の誕生日直後から、小説を書き始めた。
* 国立劇場で、吉右衛門や染五郎たちの忠臣蔵三題を楽しんでくる。
うまくすれば、そのあと建日子とも一緒に食事が出来そうだ。英國屋でつくった背広で、今日一日、こころよく過ごしたい。幸い好天。
2007 12・10 75
* 六時に、稽古場から馳せ参じてくれた秦建日子と、ソニービルの前で会い、三笠会館の中華料理「秦准春」で、二時間余もゆっくり食事し、歓談。銀座の路上で別れて、われわれは有楽町線で帰宅。十時前だった。
* あれから五十年が経ったのだと、ことさら二人とも口にしないが、やはり、たやすいことではなかったと、静かに思う。
2007 12・10 75
* 昔々のわたしの「私語」を必要あって調べていたら、一九九九年六月十八日の記事の中に、「朝日子の葉うれを洩れてきらきらし という句をえて、下句も出来ていたのに、忘れた」との一行があった。
この「朝日子」は文字どおり「朝日の光」を意味しているが、それを念頭に娘に名付けたのは偽りないのであるから、娘の印象とも、しょせん無縁でなかったろう。
はっとこれに目を留めたのは、嬉しいはなしではないが、昨年来、あるいは今も、娘が「mixi」での自分のニックネームを「木洩れ日」と付けていることである。じつは、西東京市というより旧・保谷市の市営のホールが「こもれびホール」なので、そんなことも知って夕日子は「木洩れ日」を名乗ったかなどと想像していたが、わたしの、上の、「朝日子の葉うれを洩れてきらきらし」という、歌の上句らしきを読んでいたのかなあとも、今朝、はじめて想像したことである。
夢の中での話なのだろう、下句も出来ていたのに「忘れた」というのは。
* 「必要」というのもことごとしいが、わたしのすでに七十四におよぶ「闇に言い置く 私語」のファイルの中から、すでに夕日子の婚家の姓、また夕日子の夫の名は、漏れなく他に置換ないし消去されていて、「検索」で拾い出すことが出来なくしてある。「理由」はともかく、「そうして欲しい」という希望を容れたまでの話。ところが更に妻・夕日子の名前と「対」のように記事に出ていると、夫の名では「検索」されなくても「朝日子」を「検索」すれば、すぐワキで夫の実情が分かってしまって心配だと、追加の希望も持ち出されているとか。
よほどそんなことがイヤだというらしいから、面倒だが、それも全部記事内容を調べ、該当しそうな箇所は置換してやろうと、ま、調べ始めて見たのである。
ファイル1から11まで、とりあえず調べてみたが、「夕日子」の名の出る記事は数十あったものの、すべて「娘」を思いやる回想や情愛の思いやりばかりで、夫との関わりで名前を消してしまう必要など、皆無であった。読んでいても、懐かしい、こころよい記事ばかり。
暮れの内に、のこる全ファイルも調べてみる。なんでそんなことが必要だろうと訝しむ気はあるが、すべて先方の思惑。やれやれ。
2007 12・11 75
* 平成十五年九月十二日 金曜日の「私語」を見るとこんな記事になっていた。
☆ 初孫のやす香が十七歳の誕生日を、朝一番、赤飯で妻と祝った。いちばん娘らしいこの十年を、同じ東京に暮らしていながら顔を合わすことが許されていない。惜しい十余年であることは、やす香やみゆ希にもそう、われわれ祖父母にはましてそうである。
ま、こんな非道も、世間にはいくらも有るのだろう。たぶん世間並みをやっているわけだと、わがことながら仕方なく「眺めて」いるのである。娘や孫達が、せめて健康でいてくれればいい。
捨てかぬる人をも身をもえにしだの茂み地に伏しなほ花咲くに 斎藤 史
あまりの残暑厳しさに電子メディア委員会は人が寄らず、流会となった。今日の戸外のギラギラと眩しいこと暑いことは、言語道断。
暑さのせいではないが、昨夜は三時間余を眠っただけで、六時には物音で目が覚めてしまった。もう一度寝入るのも面倒で起きて、妻と赤飯を祝ったのである。
私の留守に、妻は十余年来、初めて娘と電話でしばらく話すことができたという。二人のためにとても良いことであった。
母と娘とのあいだに、表向きであれ裏側でであれストレスが緩和されるなら、まちがいなく良いことである。
「親不孝をしていて申し訳ありません」と、すぐに夕日子は母にアイサツしたという。
* 夕日子もきっと覚えているだろう。平成十七年二月までの「私語」に、夕日子の婚家の苗字は、只一箇所も無い。夕日子が夫と「対」のかたちで間近に記事にされている箇所も只一箇所もない。もともと無かったのだ。
2007 12・11 75
* 今から、秦建日子脚本のドラマがある。
* 二時間ドラマは、ゆるゆると始まり、ゆっくり盛り上げ仕上げていた。秦建日子らしい気の優しい、人を励ますドラマになっていた。
概念の概念らしさに頼る気味のあった作者が、今回はわりとよくその臭みを消していた。情感を、自然に物語の進行にあずけて無理なく思いを運んで行きながら、淡泊すぎて大味なお話に陥らせなかった。
北海道の少年、沖縄の少女のほかに、誰が演技者としてうまいなどと一人も指ささせないまま、それゆえに克ち取れたリアリティー(実感)が、素直に視聴者の胸に生きたのではないか。いわば「年賀状」の宣伝ドラマであろうけれど、構わない。臭みにならず、ムリなく生かせていたのだから。
暫くぶりに秦建日子ドラマを観た。いま連続中の『ジョシデカ』とか謂うのは殆ど観ていない、が、今夜の二時間特別ドラマは、これまでの建日子の二時間もので、初の合格作品だった思う。水族館の即物的な大きさやみごとさが迫力となり、しかも物語との間に木に竹のような齟齬も乖離も生んでいなかった。言わず語らず、秦建日子の体験的に葛藤もしてきたであろうメッセージも、邪魔にならない巧みさで、熱く発信されていたように、わたしは聴き取ったつもりだ。
作者は「体験」をおろそかにしないで、懸命に生かしている。それ自体が才能となり、体験をなまで用いないで、烈しくはないが温かい、ウソのないドラマに換骨奪胎している。なまぬるいとか、センチだとか、きれいごとだとか言う人も在ろう、けれど、わたしは贔屓目でなくそれはちがうと思っている。「不可能」「希望」「命」といった概念化すれば出来てしまい、それゆえに痩せてしまうおそれのドラマを、痩せさせずに「情感の海」へ溶かし込んだのは、必然の表現として、あれでよいのだとわたしは賛成して観た。佳いドラマ、ひょっとして、「目標」として次はこれを追い越し乗り越えればいいというほどの作に仕上げた。「いま。ここ」の仕事に成った。
ドラマの表情は、決して深い彫り込みではない。つるりとまだめりはりなく平たいし、毒々しいほどのつらい汗も作者はかいていない。「不可能」といった言葉を否定的に、いや肯定的に強く乗り越してゆくには、今少しえげつない苦難があるものだという思いは、わたしにも、ある。いずれそこを歩いて歩いて地道に歩いて越えて行かねばならない。その難路を行く作者の「脚力」を、信頼し期待させるだけのものは、今夜のドラマ、にじみ出させていた。そう思って次をまた期待する。
2007 12・14 75
* 建日子のドラマの感想、夜前は眼が半ば塞がっていて、書きっぱなしだったのを、いま、読み直し手も入れた。
2007 12・15 75
* 目黒駅に降りて外へ出ると、無性に懐かしい。
ここから目蒲線に乗り換えて大岡山・東工大まで、四年半も講義に通った。
それだけではない、今日も行った喜多能楽堂は、東京でいちばんさきに誘われた能楽堂、誘ってくれたのは馬場あき子さん。
ここではじめて亡き村上一郎や、桶谷秀昭氏とも引きあわされた。喜多節世とも、むろん喜多能楽堂ではじめて逢った。太宰賞の『清経入水』のころだ、すべては。
この能楽堂で、一度二度は存命であった先代の喜多六平太翁を見かけている。宗家の喜多実、兄の後藤得三、高弟友枝喜久夫、佐藤章またワキの宝生弥一らの舞台にいつも引き込まれた。そしてあの、前田青邨描く見事な松羽目。
節世もハンサムだったが、節世の夫人もじつに佳人だった。わたしは結婚披露宴で祝辞を述べている。
名をあげたみんながとうに亡くなってしまった。友枝昭世の能もたいてい国立能楽堂で見るようになった。塩津哲生のご厚意で今日は久しぶりの喜多能楽堂だった。そこで馬場あき子と会った。親切な彼女は、わたしに正面前から三列まんなかの絶好席を譲ってくれた。わたしは風邪薬の副作用とと咳込みとで気が気でなかったが、おかげで哲生の「道明寺」を遠めがね無しでしみじみ観られた。すばらしい後シテだった、神能に準じためでたい能一番で、年の瀬を清めてもらった。嬉しかった。
* いまの体力では、つづく『玉葛』まではムリだった。馬場さんも堀上さんも、席を変えて梅若能へ移動するというので、わたしも『道明寺』だけで失礼し、ひとり香港園でかるい昼食のあと、やす香の墓参りをしてきた。
風が強く、しかし雲一つない晴天。日射し明るくさして寒くはなかったが、瑞聖寺墓地に人ひとりの影もなかった。
三十分ほども、やす香に話しかけ話しかけ、持ち合わせていた本から、少し長い詩をやす香に読んでやった。読みながら泣けて泣けて、どうにもならなかった。墓へ来て泣くなという歌のはやっているのは聞いているけれど、それでも堪らなかった。
じいやんやまみいを、おまえこそが見送ってくれるはずであったのにと、愚痴まで聞かせてしまった。「やす香」と刻んだ文字に何度も何度も触れて、話しかけ話しかけて来た。
あんな寂しい墓地にやす香がいるとは想わない、いまこうして機械に向かうすぐ左にも右にも、ご機嫌のやす香がいるではないか。「おじいやん」とちいさいときにも、亡くなる前にもやす香はわたしを呼んだ。耳に聞こえてくる、その声が。今も。
2007 12・16 75
* 秦建日子の主宰グループの舞台公演が、目白でと知り、行ってみようと心づもりしていたが、夕食後、あまり冷えるのとうたた寝してしまったのとで、行けなかった。昼間なら行っていたろうが。
建日子も三十代をあますところ「二十日ほど」とブログに書いている。三十代はまだ青年で通るが、もう青年とは呼べなくなるわけだ。昔の芭蕉なら「四十で翁」であった。いとおしいような二十日間だろうが、四十代こそは働き盛り。
これまでは、なにもかもガムシャラにやれたろう。これからはモノを鑑る目で仕事を選ばねばならなくなる。選びすぎてもよくない、選ばないと始末がつかなくなる。大人としての眼と言葉とを誰よりも自身で自身に求めねばならなくなる。
「地に足をつける」ということの大事さが増してくる。
2007 12・19 75
* 岡山から珍しいお酒「破天」、群馬から食べよいソーセージ類を戴く。広島の理史くんが選んでくれた純米のお酒もじつに美味しかった。それで疲れが抜けていって寝たのだと思う。酒に油断はしていないが、百薬の長という信仰だか信頼も確かにちらと生きている。
* 今夜で、息子の書いていた「ジョシデカ」なる連続ドラマが終わるらしい。十時から、おしまい編を、観よう。七十一歳最後の晩の酒の肴にしよう。
2007 12・20 75
* 零時過ぎ「一番乗り」のメールをじめ、朝一番に、何人もの、「誕生日」を祝って下さる便りが届いていた。感謝。感謝。
ことに、やす香のお友達が、やす香のぶんもともに、優しく祝い、見舞ってくださり、感動。息子の連続ドラマ最終回も観ていて、「好きでした」と。ありがとう。みなさん、ありがとう。
* 心静かな一日、妻と二人で楽しんで過ごしたい。
* 歌舞伎座を終日楽しんできた。昼も夜もなかなか変化のある番組で、十一時から夜の九時四十分頃まで、十二分楽しめた。「吉兆」の食事も「茜屋珈琲」も。もう夜もふけているので、芝居の感想などは明日のことに。
2007 12・21 75
* 一日六編、変化に富んでみな楽しめた。良い誕生日になった。妻は来年の干支の子の飾りを二種類買い、わたしは何と言うことなしにまたすずしい音色の鈴を一つ買いたした。自転車のハンドルにつるしておくと、小気味よく鳴って要慎にもなる。
2007 12・22 75
* 建日子 目白(=の劇場)へ行こう行こうと初日から思っていながら、日が暮れてそぞろ寒くなると意気地なく脚がすくんでいます。
そこそこ好評らしく、けっこう。もう終わりますか。 寒さに負けず、元気でね。 父
2007 12・23 75
* すでにわたしのウエブ過去の日記の全てから、たっての希望を容れ、娘婿の姓名、姓、名の全部を「★★★」「★★」「●」の記号に「置換」し終えてある。また、この「ファイル1」末尾に余儀なく掲示していた「記事」の多くも、殆どを、仮にウエブから他に移転した。もし余儀なく必要が生じればすぐ「復旧」する。
「mixi」日記の中にも、なにか懇願の筋があるらしいが、簡単に検索も置換もしにくい。具体的に、何年何月何日のこの記事のここは、これは、勘弁して欲しいと分かりよく指さすように言ってきてもらいたい。
2007 12・24 75
* 故福田恆存先生の奥様からお手紙を戴いた。ことに湖の本の『愛、はるかに照せ』を褒めて頂いていた。これはやす香を喪った悲しみの日録『かくのごとき、死』のあとへ送り出した一冊で、もともと、二十余年まえ、娘・朝日子が帝国ホテルで華燭の典を迎えた当日に「あとがき」を書いた、講談社からの刊本『愛と友情の歌』の復刊であった。
「絶唱」という言葉があるなら、この本でのわたしの撰歌と鑑賞とは「絶評」と称えたいと、劇作家の松田章一さんが手紙を下さったように、たいへん好評で、校正を手伝ってくれた妻など、今でも「あんなに感動して泣いた本は無い」と言ってくれる。福田夫人もまたそう告げてきて下さったし、贈り物にという追加の注文もとぎれなく来ている。
今日も禅家の方が贈り物にと注文してきて下さった。嬉しいことだ。
* やす香の死このかた、理不尽な苦しみに悩まされ続けてきたし、それなりにわたしも踏ん張るしか堪えようがなかったけれども、その中でわたしの根の立場をと表現すれば此の『愛、はるかに照せ』であった。これ有って、わたしは悔いなく迷い無く「いま・ここ」に立ち続けてこれた。それは、そう言い切れる。
2007 12・24 75
☆ ひとりごと。 秦建日子
もうすぐ2007年が終る。
ぼくの30代も終る。
今年は、芝居を始めた頃から目標だった本多劇場で公演し、小説を一冊出し、春と夏と冬にOFFICEBLUE制作の舞台をプロデュースし、そのうちふたつは演出もし、そして秋には連続ドラマとスペシャルドラマを書いた。
よく働いた。
でも、もっとやれた気がする。
逆に、そんなにたくさん働くべきではなかったという気もする。
昨日、駆け出しの頃に、何度も何度もぼくにチャンスをくれたプロデューサーの方と食事した。
詳細は伏せるけれど、いろいろと厳しい意見をいただいた。
ボロカス、にかなり近い感じだった。
でも、とても愛のある言葉だった。
そして、少しだけ、今ぼくを包んでいる霧が晴れたような気がした。
狂えばいいのだ。
わがままであることを怖れる必要はないのだ。
上手に賢く生きて行く必要はないのだ。
作家で、ありさえすればいいのだ。
青臭い独り言だな。
でも、今の自分の記録として、あえて消さずに置こうと思う。
一年後に、自分がこの文章をどういう気持ちで読むか、読めるか、楽しみだ。
* 息子のと限らず、若い人のこういう述懐に触れると、わたしも洗われる。
* 「狂えばいいのだ」に、すこしドキッとした。閑吟集の、またわが中世の一つの鍵ことばだ。
何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ
と言いたいのか。「わがままであること」とどう繋がるのか。彼の仕事を包み込んだ環境は、或る意味「わがまま」にも「狂ふ」にも向かいにくいかも知れない、「上手に賢く」を強いられやすかろう。分かっていてなにかを手まさぐりしながら、四十という年代に踏み込んでゆく。「健やかに」と願う。それは「炎」さんにも願う。
2007 12・27 75
* もう幾つ寝るとお正月、とは、待っていない。もう幾つか寝た時分には、お正月さんはまたどこかへ帰ってゆくだろう、と想っている。なにも片づかないし片づけようともしていない。
けさ、妻が、かつてない強いめまいに時間永く襲われて、少し途方に暮れた。首をかしげるとめまいが来ると言う。首や背をさすり、幸い視力にも言語能にも歩行にも変化はないというので、救急車は呼ばずに、平静にやりすごすことにし、午後になって落ち着いた。そのあいだ、『瑤泉院の陰謀』という稲森いずみ主演のながいドラマを観ていた。意識を症状から逸らし逸らし姿勢の自由を復旧させようとしたのである。
お互いに、もういつ何が起きるか知れないのに、正月のために無用にからだを使いすぎることはない。このドラマは、数多い忠臣蔵
もののなかでは異色で、後半部を以前に観たことがある。余り馴染みのなかった若い女優がしっかりと所作の芝居を演じて出色であった。
だが、わたしはわたしで、眼が乾ききったつらさで、あまりものがマトモに見えていない。
つまり徹底的にこの際は「やすめ」という天の声の正月だと思い、怠けて過ごすことにしたい。
2007 12・29 75
* 秦建日子がブログで今年を総括していた。
気稟の清質を大切に。来年、健康であれ、怪我無かれ。
* 好天。暮れの買い物に出かけ、とんぼ返しに帰ってきた。手にした蛤の一つ一つの大きいのに驚嘆。例年の小粒のが扱われていなかった。
和菓子は京の「鼓月」のにした。
今夜十時過ぎには建日子がきて、元日を一緒に迎える。
* 来年の真の平安を願う。世界も。わが家も。
2007 12・31 75