ぜんぶ秦恒平文学の話

家族・血縁 2008年

* むかし家族で櫻の頃に川越の喜多院へ出かけた。うまい鰻を食った。もっとほかの何か池か沼のようなところへも行った。電車でなく建日子の運転する車だったろうか、姉娘も、ひょっとしてやす香もいっしょだったか。
喜多院へはそれよりも前に出かけたことがある。此処には「職人尽繪」の優れた伝承品がある。徳川家が大事にした寺だ。そのときは暑い日照りの夏だった。
2008 8・1 83

☆ こんばんは!  琳
おじいちゃまのメールとっても嬉しかったです!
お礼が遅くなりましたが、湖の本頂戴いたしました。
ありがとうございます。
丁度お礼のメールを、と思っていた時でした。
向こうは朝と晩にとても冷え込むそうです。
先生に伺ったところ、今向こうでは湯たんぽを使っているとか・・・
風邪をひかないように気を付けます。
携帯と、ノートパソコンを持って行きます。多分使えると思うのですが、1%程心配・・・使えるようになったら、すぐ連絡します。
今日はbunkamuraで映画を観てきました。パトリス・ルコント監督の『ぼくの大切なともだち』という映画です。中年おじさんの友人探しの話です。コメディタッチで展開を予想出来るのですが、描き方がとてもいいのです!
主役のダニエル・オートュイユさん、味があっていい俳優です。
荷物はほとんど詰め終わりました。
気持ちもほとんど向こうに向かっています。
とにかくいろんなものを、いっぱい自分の目で見てきます。
学校の寮のご飯は美味しくないそうなので、近くのスーパーで買出しするつもりです。
とにかくいろんな事を体験する1か月にしたいと思っています。
たくさんたくさんお土産話を持って帰ってきます。
おじい様おばあ様お身体に気をつけて、この夏をお過ごし下さいませ。
ではでは、元気に行ってまいります!!!

☆ おじいちゃまからもメール頂いたのです!
嬉しいサプライズです☆
益々勇気100倍で出発出来ます!
とても嬉しかったです。
おじいちゃまのメールにも書きましたが、今日は映画を観てきました。パトリス・ルコントの『ぼくの大切なともだち』です。とっても良い映画でした。
おばあちゃまの蝶々のお話、心に染みました。
やっぱりあの蝶々は、やす香だったのかもしれませんね。
(一昨年七月=)25日、やす香の意識はありました。
スマップのCDを持って行ったら、ありがとう、いっぱい聴くねとはっきり言ってくれました。
それが最後の会話になりました。
心を震わせる言葉でした。

向こうに着いて、パソコンが使えるようになったら連絡いたします。
では、それまでご無沙汰いたします。
おじい様おばあ様まーごちゃん、夏バテなさいませんように。
お身体大切にお過ごし下さいませ。
行ってまいりま~す☆   琳

* von voyage 楽しんでいらっしゃい。 平安あれ。充実あれ。
2008 8・2 83

* 阿川弘之さんと娘さんとの記事を「AERA」で読んだ。わが娘にも読んで欲しい。
2008 8・3 83

* 安城市の伊藤暢彦さんからは、スッキリしたデザイン、純白のマグカップを今朝戴いた。翡翠の粉末が練り込まれてあり、微妙な効果があるという。それもいいが、姿が好い。お茶にもビールにもミルクにも、ワインにもスープにも、あるいは花を挿すのにも使える。ボテッと重いところがなく、いい大きさなのに軽妙に軽いのもとても好い。取っ手の付きが上手で、不自然に傾く不安定がない。有難う存じます。
もう久しい、最初からの「湖の本」の読者。ていねいなお手紙も添えられていた。

* 秦さんの「書いて」こられたすべてが秦さん自身を保証しています。信じています。外の雑音などわたくしたちにとっては、何でもありません、と、お便りがたくさんつづく。ありがたい。読者だけではない。大学、各界からも、さりげなく、力づよく。

* 『かくのごとき、死』を読み返していますという読者が多い。その人達は気づかれていよう。
孫・やす香逝去の七月二十七「前日」に「輸血停止」されたらしいことには、確度高い証言がある。それにより起きた結果は、七月二十七日の「永眠」(母親による「mixi」告知)だった。奇しくも(と、云っておく。)「母親の誕生日」であった。この偶然らしき符合に、いろんな甘やかな解釈をした人たちも多かっただろう。
事実を追ってみると、
二十五日火曜日にやす香と病室で会った友人は、やす香の好きな音楽のディスクをプレゼントし、「たくさん聴くね」と、やす香の曇りない痛切な感謝の言葉を聴いている。
その前日、二十四日月曜日には、われわれ祖父母と叔父建日子とが、病室で、やす香と対話していた。
ところが、この晩かつて無いことにやす香の父親から家へ電話が来た。医師と話し合ったが、ここ二三日の寿命と思われるので病院近くに宿を取ってはと伝えられた。医師と…。何なんだそれは。仰天した。
その二日後、二十六日水曜日にやす香を親しく見舞って病室に出入りしていたという或る親友は、なお「土曜日にもまた見舞いに来る」つもりだった。ところがこの水曜の二十六日に、なんと「輸血停止」されてしまったと、迷いなくこの人は断言している。

* 造血機能が完全に破壊された「肉腫」である、輸血停止とは「死」の決定以外の何物でもない。かくて必然、「母親の誕生日」に十九の娘は「命終」の日を迎えたのである。

* ところで、この数日自作の新聞小説『冬祭り』をはからずも読み返していて、おどろいた。熟読してこられた読者は、ドンな作者よりとうに早く気づいてられたかも知れないが、さ、それが偶然の奇遇とみるか、意識された契合とみるか、「不思議な」と云っておこう、不思議な叙事・展開に遭遇して、やす香の死が母の誕生日と同じだったことに、えもいわれずぞぞっとくる愕きにとらわれた。何なんだ、これは。この「はからい」の感触は。

* 我々の娘は、二十余年前、父と親しい神学者・野呂芳男氏に、「わたくしは『冬祭り』の「加賀法子」なんです」と興奮して告げていたらしい。野呂さんの電話で聴いた妻から間接に伝聞していただけだが、あの娘の例のフワフワした興奮・昂揚の一例のようにしか感じなくて、聞き捨てに一度もその後顧みたことがなかった。
たまたま今度『冬祭り』を読んでみようと読み直していって、そんな大昔の聞き捨てをふと思い出し、妻に確かめると、そんなことを確かに野呂さんが笑いながら話されていたようよと云う。
詳しくは書かないが、「加賀法子」は、訪ソの旅に他の作家たちと出かけた私に、横浜埠頭のナホトカ号上から、つかずはなれずモスクワまで絡みついてくる若い女性だった。私は、モスクワに逢いたい人を待たせていたが、その人妻は、かつて此の世に「二日半」だけ生きた「娘」を死なせていた。「法子」はどうも、その二日半だけ生きて死んだ娘、じつは私の娘、であるのかもしれないのだった。

* わたしたちの娘・夕日子は、じつに、「加賀法子」と自分とを、幻想だか妄想だかで「一体化」していたらしいというのが、『冬祭り』を「名作」と新聞書評していた野呂牧師からの情報、かつて他に聞いたことのない「唯一の」情報だった。
野呂さんは、私の今後の作に、また繰り返し「法子」らの魅惑に富んだ復活をと、同じ書評の中で期待されていた。小説を読んで確かめて欲しいので、此処に『冬祭り』をくわしく語ることはしないが、成田へ帰国した場面を参考に引いておく。
同行した宮内寒弥さんはモスクワから単身ヨーロッパに向かわれた。わたしは高橋たか子さんと二人で成田空港へ帰ってきた。
「創作」された小説 (フィクション)なので、他の多くの作品同様、作中の「朝日子」は、当然、マスキングも仮名化もしない。現実の娘とはべつの、著作中のまるで別人と想って欲しい。

☆ 冬祭り  「冬のことぶれ」の章より
──Tさんが先ず朝日子を見つけた。見送りの日のまま、オレンジ色のワンピース姿で手をあげている。
と、──朝日子のすぐうしろから、竪(た)てた指一本を口にあて、ちいさく頷いて咄嵯に人波に沈んで行った、ジーパンの、赤いティシャツは──。
東京箱崎のターミナルビルまで空港のバスを利用し、Tさんともそこでいよいよ別れを告げてしまうと、自動車のにがてな娘にしんぼうさせ、タクシーに大きな荷を積みこんだ。
成田までもご苦労さん。留守中は変わりなかったか。出した手紙はみな届いているか。えらい暑さだが、母さんは夏バテしていないか。
やつぎばやに訊く一方だった、が、答えるほうはのんびりしていた。おやじが、無事に帰ってきたのだ、朝日子にしても連休初日の早起きで、ほっとして睡くもあるのだろう。そう思いつつ、明日ともいわず今日からもう始まるもとの暮しへの無事着陸も果したかった。
そんな、もと(二字傍点)の暮しなどという安直な考えが、日本の土を踏むとたちまち湧いて出るていどの旅だったではないか。つまらないやつだおまえは、と自分で自分が嗤(わら)えたが、その嗤いにしても一種気取りに類する、やはり、帰ってきた興奮なのであった。
「えーと。今日は…」
「日曜日。だから、けさお父さんの古典講座、八回めのラジオもちゃんとお母さん、聴いてたみたいよ。それと北の湖、また優勝」
「そうかい北の湖。そりゃいい。十七回め、か。新横綱はどうだったい。三重の海は」
「よく知らないけど、可もなし不可もなかったんじゃないですか」
「建日子(たけひこ)は」
「本気みたいよ、中学受験」
「へえ……」
「けさも、さっさと勉強に出かけてたし」
「代々木」
「いえ。二学期からは、同じN塾だけど、お茶の水にもあるんですって」
「で……おまえは。矢が、まともに飛ぶようになってるか」
朝日子の弓がどんな腕前か知らない。弓道部がそっくりどれかの流儀に属しているのは当然として、道場に、袴をつけた部員たちが正座して居並ぶわけだ。射手の矢が的を抜けば、すかさず「ヨツシャぁ(良射)」とはやし、逸れれば「ちよいやァ」と泣き、たまたま四射して四中しようなら、声をそろえ、「カイチュウ!(皆中)」とさけぶはなしは、いつか妻からまた聞きに聴いて大笑いした。二本に一本の率で当たれは「ハワケ(羽分け)」たなどともいうらしく、朝日子が、ハワケるまでとても行かないのはまだ半年たらずの稽古でしかたないが、いろいろある同好会のなかでなんで弓道部なのか、妙にくすぐったい気がしていた。
「お父さんこそ、どうなの。ソ連が、面白かったとかって。さっきから、すこしも言わないじゃないですか」
「そりゃ面白かったさ。家へ帰ったらいやほど喋るとも。聴き手は多いほうがハリアイもあるしラクだからな」
「お母さん…心配、してたわよゥ。まいンちうるさいくらい」
「どゥして」
「どしてってことはないですけどね。なンてっても、テキは、ソ連ですから」
「テキはないだろう。お父さん満足してちゃんと帰ってきてるんだからな。ソ連が厳重要注意だとは、やっぱり思ってるけどね。あそこは隅々にドジでドンで、能率の悪いとこが多いわりに、外をむけば、大号令の威力をめちゃに表わしそうだし。……もっとも、本気で日本に親切な大国なんか有るはずないと思う。……マ、隣国の島国からすると、奇妙に、どこもけんのんな大国ばかりサ」
「さかさまだと、安心なのにね」
「どういうことさ」
「日本みたいに、大号令は通らなくても、末端(はじ)は、なんとかテキパキしてる……」
娘は父親の凡庸な大国論を、ほとんど素知らぬ顔でそんなふうにやりすごすと、一言、
「ま、これからせいぜい勉強してね」とつけ加えた。それはそのとおりだった。分からんことは分からんとそれで済ます気はないにしても、見さかいなく通(つう)がるのは、はた迷惑だ──。
タクシーは目白を走っていた。
「仕事……来てそうか」
「暑苦しいくらい。お机に山積みよ」
「やっぱり。どこか涼しそうなトコを見てくるなんて話でも、ないかいな。それにしても、なァんて日本は暑いんだろ」
「取材旅行の話なら、ありましたよ。窯場を見てきてって」
「また…。どこの」
「お母さんが電話で聞いてたけど。山陰のほう…じゃない」
「萩……。出雲。それとも丹波かな。丹波だといいがな」
「どうして」
「立坑(たちくい)の、蛇窯って登り窯が見たいんだ」
「蛇…窯。恰好が」
「だろ。たぶん山坂をうねうね這うぐあいに窯が築(つ)いてある」
「丹波というと、京都府ね」
「兵庫県だよ、丹波焼の窯があるのはね。丹波は昔は丹後も、だぶん但馬も含んで、出雲勢力圏と山背(やましろ)、大和、伊勢とをつなぐ微妙な古代の道だった」
「四道将軍の一人は、丹波に派遣されてましたね」
「ああ。よく憶えてたナ」
「そうそ、パパ」と朝日子は幼い日の呼びようにもどって、
「ホラ蛇窯といえば、あの、Y女史の、蛇の古名〈カカ〉説だけど……」
「………」
「あれと、べつの説が出てたの、ご存じ」
「べつの説なら、幾らもあるんだよ、以前から。ヘビは、ハビ、フェビ、ハブ、ハバ、ビミ、ベミ、ハミ、チャミ、みな同根の名前だって。チ、ツチ、ツツ、カガチもそういうし、沖縄の青マタ赤マタのマタもそうだし、ほかにも、ナ、ナガ、ヌガ、ヌラ、ナワ、ナメ、ノジ、ヌシ、ノロシ、ナブサなどと、きりないね。
柳田国男は〈青大将の起源〉なんて論文を書いてるけど、日本中でそりゃ蛇はいろんな名で呼ばれてて、カカなんて、じつは未知数の新説なのさ。で、なんだって。どこで見たの。きみのその説は」
「中村さんて弓道部のお友だちに聞いたの。彼女は週刊誌で仕入れてギョッとしたんですって。でもお父さん知ってたのね。ナカ=蛇族説」
「……週刊誌はよく見てないんだけどね。柳田が拾った名前にも、ナ、ナガ、ヌガなど挙がってるしホレ、北九州志賀島(しかしま)で見つかった金印。漢に貢(みつぎ)する倭(わ)の奴(な)の国の王に対し漢王が与えたという金印さ。
この場合の〈奴(な)〉は自称か他称かわかンないが、あの辺は大昔アヅミ族の根元地で、シンボルは多分まちがいない、蛇。そして海人(あま)の原郷ともみられる中国江南語では蛇を〈ナ〉と呼んでる。もっと南のタイまでも行くと、頭に角の生えた密林の巨大な怪蛇を〈ナーク〉と呼び、実在が信じ怖れられているそうだし、インド語やマレー語の蛇神が〈ナガ〉……」
「ナークなんて、英語の、スネーク(四字傍点)にもつながりそうね」
「それでね。日本のことを豊葦原のナカツクニというじゃないの。この呼びかたはどうも上中下の中の意味じゃなく、茂った葦原に根づいた蛇族(ナカ)の国だろうという人もある。首領がナガ髄(すね)彦さ」
「中村さんをびっくりさせた週刊誌のK氏説が、そうなのよ」
「そりゃギョッとしたろうね。この、蛇をトーテムにする渡海種族が、それ以前の日本の、粟作と焼畑を主とした農耕生活に、新しく稲栽培を、米を、もちこんだらしいよ」
「じゃ、ヘビという言葉は」と、朝日子。
「これは朝鮮語なんだね。ビミ、ベミ。金思燁という学者は、耶馬台国の卑弥呼をさしてはっきり、蛇姫ないしは光明姫の意味だと言ってる。お父さんはこれは彼女らの自称じゃなく、様子を知った朝鮮、中国の人から見ての他称だろうと思うし、奴国(なのくに)と卑弥呼は、同じじゃないにしても、ナもヒミも蛇族の名のりである確率は高いと思うよ。あの金印の摘まみは蛇のかたちだしね」
「いやァね……」
「でも、それが日本さ。主に海から糧(かて)をえていた、漁(いさ)りをしていた漁夫(いざなぎ)、漁婦(いざなみ)がいて、アマ照ス日の神、月の神、海の神がいて、その子孫が、山の神の娘や海の神の娘と次々結婚したんだもの。日本の神話はおおかたアマの伝承に根づいていた。それを征服王朝である大和朝廷が、じつに上手に彼らの支配を妥当化すべく系譜化しちゃったんだなァ。
国生みの一等最初に出来た淡路島も、出雲国も、伊勢国も、難波(なにわ)も熊野も吉野も山背(やましろ)も、みなアヅミやハヤトらアマの根拠地だよ。その範囲は日本中の海ぞい、山なかにわたって断然広い。まさに葦原の蛇族(ナカ)の国といえる時期がなが(二字傍点)かった」
「そういえば、長虫ともいうわねェ」
「そもそも、なが(二字傍点)いという日本語の語源が、蛇(ナカ)だったとも思える」
「お父さん、おどろいちゃァだめよ。そのナカさんが家を訪ねてみえたのよ」
「えッ」
「ナカ・ノリコさん。ジーパンに赤いティシャツの美人。小説見てほしいって。読者よ。あたしはきのう弓道部で留守だったの。お母さんと建日子と、おそいお午の最中だったので、クロワッサンとスープとご馳走したんですってよ」
「どこの……人」
「よく聞いてませんけど」
「……ナカさん」
「ネコとノコとが、ぬッと例によって脚で障子あけて、右と左からお部屋に入ったの。その方ね、きやァとお座蒲団で、こう、ガードしたそうよ」
「かわいそうに…」
「ほんとね」と朝日子は笑うが、とても笑えなかった。
「写真たくさん撮れて」
「写真…。あ。禁止命令(ニエット)は一度もなかった。自制すべきは、したからね」
「税関で、ぜ-んぶ消されちゃうとか」
「それはぜったい無い。そういうことを、お互いに言ったり思ったりするのはいかんね」
「そうね。ごめんなさい」
娘は頭をさげた。タクシーはやがて西武鉄道を跨ぐ大きな陸橋へかかるだろう。ふっと黙りこんだ。
その、ノリコとかいう名の、中か、那珂か那賀か、名賀かもしれない「読者」が留守中家族に会って帰ったという話の、ほぼ決定的な冬子帰国のことぶれ(四字傍点)であるのを、信じた。カガ、法子──に違いないと思った。空港へわざと姿を見せた、あれも。

* わたしと娘とが話すときは、だいたい、ま、こんな調子だった、大学を出て谷崎夫人のお力添えでサントリー美術館に就職できたころまでは。
訪ソのときも、横浜埠頭へも成田空港へも、頼まなくてもこういうふうに見送りや出迎えに来てくれる娘だった。
そして後に、この場面にまた姿を現している「ノリコ」と自分とをなぜか「一体化」させ、空想だか幻想だか妄想のペルソナ(仮面・役)を「自身に配役」していたらしい。

* この加賀法子に遙かに先立っても、娘は「ノリコ」ちゃんには弱かった。小説『ディアコニス=寒いテラス』の背後に隠れていたのも本名「ノリコ」ちゃんであった。

* こういう追究をあえてしているのは、例の娘による「ハラスメント」という異様な申し立てが、いったいどんな心理的な背景を持っていたか、不思議でならなかったからだ。小説家として追究してみたかったからだ。なにかしら異様なモノとの「一体化」に娘は溺れていたのか。

* むかし、私がある種の成行に対する予測を語ろうとすると、娘は、よく金切り声で叫んで止めた、「パパが云うと、その通りになっちゃうから。云わないで!」と。
娘は、父に、どんな威力を感じていたのだろう。

* どうか。娘と、ふつうに話し合いたい。今起きている何もかもから離れて、上の小説の中でのように。あれやこれやを。それが今の願いだ。

* ★★★は、「秦氏は、私が義父(=秦)に向かって罵詈雑言を書いたという手紙の内容も公表していますが、あれは手紙の一部。前後があるのですが、そこは公表していません。裁判では全文が明らかにされるでしょうが、確かに私は手紙を書きました。おかげで秦家と断絶でき、それから以後、私の妻である秦氏の娘は平和で安穏な10数年間を送ることができたのです。私の妻が、実家と断絶したあとも、自分の父親を罵倒した私との結婚生活を長年つづけてきたのが、その証拠です。」と、週刊誌記者氏に語っている。

* 何をか云わん、「平和で安穏な10数年」どころか、「家庭の崩壊と離婚への足取り」は決定的で、幼い娘二人はいつも泣いて歎いていたことを、必死に堪えて絶望していたことを、やす香の親友ははっきり証言してくれている。どっちが信用できるかは明らかだ。やす香親友の言葉には、ピュアな真情がこもるが、上の★★★教授の言葉には、何が「証拠」で、どこが教授かと眼も耳も疑う、薄っぺらさが露呈している。
もし娘が、父を訴えた事情を本気でぜひ話したいなら、あの週刊誌記者にむかい、娘本人が出てきて率先話していただろう。それでこそ、記事表題通りに、「孫の死を書いて実の娘に訴えられた」といえるが、あの「週刊新潮」記事には、娘・夕日子の名も顔写真も、父を攻め立てる一言葉すらも出ていなかった。
出ていたのは、何処の馬の骨とも分からないように「仮名・高橋洋」を名乗っていた青山学院の★★★教授であった。
2008 8・4 83

* 夜前、日付の変わるまで、妻と話し合っていた、娘のことで。
この対話、かつてない深みにまでおりた。
2008 8・6 83

* さらに『冬祭り』を読み進めた。火まつりの山から、みごもりの湖へ、生死の境をひらいた物語はふしぎに展開して行くが、その際、「わたしは、法子」と、幻想ないしは妄想していたらしい現実われらの娘は、そんな心の荷物をどうかかえて結婚したのか、わたしはなにも気づかず、なにも聞いてやらなかった。
結婚よりもアメリカへ行きたい? 何のために? 分別が、先立った。
華燭の幸福は永くなかったかもしれぬ、と、想像した。
母親は離婚をのぞんだが、父親は孫二人のことを思い賛成しなかった。賛成も反対もない、もう、連絡はかたく絶えていた。
婚家でむごく孤立している娘を両親は想い、年ごとに平安と健康を祈っていたが、むなしかった。
やす香が決然と祖父母を訪れ嬉しい親交を再会したとき、彼女は、どうか母を救い出してと言いたかったのか。
やす香も、妹も、祖父母を訪ねていることを最後まで親たちには知られず、知らせていなかった。秘し隠さねばならないと口にしていた。
だが、一昨年の正月と二月の来訪時には、「でも来年頃にはね」というようなことを、姉妹目を見合わし、口ごもり話していた。「離婚は決定的」とよその人の目にも耳にもほぼ確かな時期にそれは当たっていて、もしその時期に、わたしたちの娘が、自身それに触れて「何かを表現」していてくれたならと、わたしは今にして歎く。
2008 8・6 83

☆ こんにちは!(フランスでは今お昼の2時です)  琳
無事フランスに着きました!
本当はもっと早くにメールを送りたかったのですが、今やっとパソコンが通じました。
今日から授業が始まりました。
授業、少し難しいです。
みんながいろんな国のアクセントでフランス語を話すので、聞き取りにくいからです。
それにフランス語はやっぱり難しいです。。。
食文化も違い少し戸惑っています。。。
弱音ばかり吐くとホームシックと思われてしまうので止めますね!
フランスは空が広くて綺麗です。
この地は暑いのですが、湿気がないので日陰さえあれば過ごしやすい所です。
でも、猫が全然いません。。。昨日やっと1匹黒猫を見ましたが、多くのフランス人は犬の方が好きみたいです。
残念。。。
まだまだ書きたい事があるのですが、午後の授業が始まってしまうのでこの辺で終わりにしますね。
またメールします。
私は勉強で大変ですが、元気です!
どうか、おじいちゃまおばあちゃまもお元気で。
お身体お大事になさって下さいませ。

* パリ無事着の第一信、「琳」さんより元気に届く。写真二葉。シックな宿舎。まばゆい紺碧の空に、白雲。
やす香の分も楽しんで、旺盛に勉強してきて下さい。
2008 8・6 83

* 静かな心のために   承前

「頭脳」と「心臓」と一対にしたとき、「MIND」と「HEART」との異なる二語が胸中にあったのは言うまでもなく、さらに後者に類する「SOUL」も念頭にあって、この一対を同じ「心=こころ」と呼ぶには、双方に差異の幅が大きすぎるという気持ちがあった。当然な前提のようにわたしに有った。
小説家になるまえ、なってからも数年、わたしは医学専門書の出版・編輯に携わり、公衆衛生や保健学にも担当の仕事があった。しばしば関わったその畑の専門家達の、当時盛んに口をついて出た、いわば一つの旗印に、「public minded」という価値観があった。非常に大切な、しかし容易に満たされない目標のように唱えられたのである。
なるほど、と思った。そして思いだしたのである、わたしのように敗戦直後に六・三制の新制中学にすすんだ者の記憶には、耳にタコの「社会性をもて」という先生方のまあ四六時中の大声を。あれだあれだとわたしは思った。ちょっと皮肉っぽかったけれど、裏返しにいえば、戦後二十年経てまだまだ日本は「public minded」の成果にも成熟にも到っていないわけだ…。そして少し顔をしかめた。「public minded」の「minded」といういわば「躾の仕方・受け方」の誰がどんな立場でどっちを分担するというのだろう…。

ところが、また年数を経てとうにわたしは小説家としてとぼとぼ生きるようになっていた中で、今度も耳にタコのように聞くハメになったのが、「mind cotrol」された若い知性たちの、悲劇的なオーム真理教帰依と暴発の大事件であった。
いや逸まってはならない、気が付けばオーム真理教だけがそうではなかった。あらゆる方面、政治的な支配傾向にも、教育現場の管理強化面でも、企業のバブルも怖れぬ貪欲泥のような過剰経営でも、総中流志向の社会と家庭とでも、日本人はあまりに容易く「mind control」を受け入れていたのである。平べったくではない、社会という大斜面を上から下へ下へ下へと水の落ちて行くように「コントロール」の手口も幅も微妙な較差はもっていた、だがそれは急流でもせせらぎでも水は水、質の差はないのだった。
だが、そんな日本の状況も世界的に溯れば、ナチスドイツの覇権主義に発した強硬な宣伝戦や、その背景に見え隠れしてフロイドらの新たな精神医学・精神分析学などが既にあり、その禍々しい系譜上に、今ではアメリカやイスラエルその他の容赦なき政治的マインドコントロールが、厖大な利己主義もおめず臆せず厚顔に傲慢に現代世界を制覇しようと横行している。
いまや、少し者の見える目には、隠しようもない事実だが、わるいことに彼等はいささかもそれを隠そうともしていない。何もかも何もかも好き勝手に理屈を付けてゴリ押しに押し通してアメリカのしていることは、自国の利益のみを確実に守るという独り勝ち世界制覇の覇権主義。イスラエルは、その尻馬にみごとに乗っている。

「マインド」という名の「心」だけが「心」でないのは、狡猾に承知していながら、「頭」や「脳」で賢く(聡くではない)世渡りしている秀才型エリートたちは、取り憑かれたように、「マインド」こそ「心」であり、それだけが世の中で役に立っていると、うわべの科白はどうあれ、頑強に思いこみ、自分より弱者や下位者を都合良く「マインドコントロール」すべく、どす腹黒く常に常に目論んでいる。それさえ成功すれば「コマーシャルコントロール」も「ポリチカルコントロール」もラクに出来るという確信の道を決して立ち止まらない、それが即ち人間の持ちたがる「覇権」というものであり、国家も団体も個人も、大なり小なりそいう覇権がもちたいと憧れる。出世とか、成功とか、地位とか。みな同じことだ、ジョージ・ブッシュだけが覇権者なのではない。だが、いま地球上でブッシュ率いるアメリカが、頭抜けてそういう統制と支配との頂点に居座り、永久にそうあろうと画策してゴリ押ししていることは、世界中の誰しも知っている。そして国際的には、あわよくばアメリカに替わって独り勝ちの覇権を誇りたい野心国家やその追随国家の多いのは現実であるにせよ、実は、そればかりではない「非覇権主義」の底流か潜流もまた静かにねばり強く動いていることを見逃したくない。
この地球上の人類平和と良い共存とは「非覇権」の広い道を拓く以外にないこと、「アメリカ抜き」の世界を考えつつ手に入れるしかないことを、粘り強く説き続ける優れた政治家たちもこの世界にいることを忘れてはならないし、耳をよく傾ければそういう政治家は、人間の「心」すなわち「ハート」や「ソウル」へ静かな期待をかけている。
アパルトヘイトの無惨からあざやかに南アフリカを一新したデ・クラーク元大統領や、イスラム世界のさなかで叡智を傾けて「非覇権主義」の普及に奔走し発言しつづけるヨルダンのハッサン王子、同様に、EU加入選択の中でチェコスロバキアの独特な「非覇権主義」を鮮明に具体的にひろげようとしてきたハヴェル前大統領、たち。
アメリカの強烈なフレームアップ(でっち上げ)も含む情報戦略に政府ぐるみ巻き込まれた日本では、こういう優秀な世界の人材の、姿も言葉も容易に見えず聞こえないが、『「アメリカ抜き」で世界を考える』(堀武昭著・新潮選書・2006.1)のに、どれほど貴重な存在であるか、貴重な証言や論評はすでに着々出始めている。彼等の行動や言説は、それぞれの押し出す波紋のひろがりが、さも輻輳してゆくように広まらねばならずまた拡がっているけれども、それを支援し効果的にするその為には、人の一人一人で考えたり為したりする力にも真に力の在ることを、もっともっと一人一人が聡明に信じて信じて、自分の手に胸に在る思いや願いを、安易に失望落胆して投げ出してはいけないのである。

麹町に外務省系といわれた霞友会館という静かなホテルが昔あって、わたしはそこで何度もカンヅメを喰った。つまり部屋に閉じこめられて原稿を書きに書いたのであるが、窓のすぐ下に、大妻という女子大や女子校のテニスコートがあり、対抗試合のようなことをよくしていて、そんな興奮のさなかいちばん多く叫ばれるのが、「ドンマイ」「ドンマイ」であった。「don’t mind」つまり選手のちょっとした失策を、「気にしない」「気にしない」と励ましていたのである。
ああそうなんだ、「マインド」とは「気にする」「気になる」ことなんだと、仕事の合間になんども思った。
「気にする」「気になる」とは、別の言葉へ敷衍すれば、「気にかける」「思考する」「分別する」「探求する」「論考する」「論策する」「研究する」というふうに、いろんな階段を上りながら、視野を拡大したり、逆に縮め絞り一点へ突き詰めてゆくことではないか。荀子らの説いた「虚」「壱」という方面で働く「心」とは、そういう「マインド」の性質を持っていたんだと、思わずも、思い到ることになった。
「虚」「壱」が「マインドする」働きであるなら、「静」は、その芯のところに支点、始点・原点のように、前二者とは異質に働いている「ドント マインド」を謂うのではないか。そうなんだ、「静かな心」とは、つまり決して「マインドではない心」なのだ、と。
「頭」「脳」の働きとして心理学的に精神医学的に分析され判別されうる「心」とは、絶えず綜合したり分割=分別したり思考したり、それ故に当然のように刻々に変貌・変容・変異という名の「揺れ」や「乱れ」や「砕け」や「騒ぎ」を余儀なくされている「心」なのだと。   06.02.25

* この日付をみると、上の一文は、一昨年。やす香と行幸が最期にわが家を訪れた日に書いていた。
2008 8・7 83

 

* 一昨年の九月十四日に、娘が「木漏れ日」の名で、「mixi」に父親の名も明記しむちゃくちゃなハラスメント妄想を書き散らしていた時期に当たるが、こんなメッセージが、やす香の友達の一人から届いていた。

☆ 日 付 : 2006年09月14日 12時47分
件 名 : 湖さま
以前のメッセージ、お返事できないままですみませんでした。
今でも、作品読ませていただいてます。
メッセージ返信できなかったのは、伝えたいことが自分の中でまとまらなかったからです。
・・・あたしは正直、やすかのママにがっかりです。
あたしは★★家(=原文なれど、お断りしてマスキング。)の深い事情はわからないにせよ、やすかのMIXI を使い続けて、やすかのおじいちゃんについて、なんかいやな感じに書き綴って、、、そーいうことは、やすかのMIXI使わないで自分で新規ログインしてやりゃあいいじゃんって思ってしまいます。
湖さまは、責任感が強くて、頑固で(失礼っ)だけど、優しい方なんだなあってあたしは知っています。
あたしはやすかはこんなこと望んでるなんて思えません。
やすかはおじいちゃんおばあやんを最後、憎んでいたんですか?
最後にやすかに聞けなかったし、わからないけど、やすかが憎んでも怒ってもいないんなら、やすかママとパパの怒りを発表する場所を『思香』のMIXI じゃなく自分たちで作ったらどうなんだって思います。
やすかの築いてきた人間関係をママとパパが勝手に使うほうがおかしいんじゃないかな。。
でも、直接やすかママとパパにメッセージを送る勇気のないあたしです。ごめんなさい。
でも、これ以上なんかあったら送ってしまうかもしれません。。泣

* この状態はいまも続いていて、いまだに「思香」を唯一のマイミクにした新しい会員がわたしの「mixi」へ「足あと」をつけてくる。わたしが何を書いているか気になるらしい。
娘であれ婿であれ、気にしないでまともに覗きに来ればいいのにと思う。とにかくも「思香=やす香」を「まるで幽霊」のように扱い利用するのはやめて欲しい。「mixi」にも抗議するのだが、さてどうなっているか「思香」も「木漏れ日」も、わたしのアクセスは拒絶している。
「やすかの築いてきた人間関係をママとパパが勝手に使うほうがおかしい」という上のお友達の言葉はまともである。
やす香の「mixi」会員登録も、例の★★★ らが大好きな、「相続した財産」だと謂う気であるらしいが。

* やはり一昨年の十二月十八日にも、べつの、やす香の親友からメッセージを貰っている。迷惑を掛けない範囲で、遅ればせにも引用させて頂く、わたしたちが一方的にものを言っているのでないことも、本訴の始まったいま、補強しておきたいのである。
一裁判のことではない、私たちの人生に起きた大事であり、後のためにも分かることは此処でハッキリ分かっておこうというのである。

☆ 日 付 : 2006年12月18日 03時09分
件 名 : はじめまして、やす香さんの友人です。
突然のメール失礼いたします。
カリタスでやす香さんと親しくさせていただいた、**と申します。いつもやす香と呼んでいるので、やす香と呼ばせていただきます。カリタス時代では、高校3年間は同じクラスでした。
今年の3月には一緒に箱根に旅行にも行きましたし、4月のクラス会は、やす香がアルバイトをしていた六本木のお店で開きました。
秦さんのブログを拝見しました。
おじいちゃまの事も大好きで、お母様のことも愛していたやす香の気持ちを考えると、なかなかメールができませんでした。
ただ、やす香がおじいちゃまのことを大好きだったことをお伝えしたくて、メールをしました。
初めて私がおじい様のことを、やす香から聞いたのは、高校の時で、たまたま授業でおじい様のお名前が載った文章を読んだ後、
「あのね、うちのおじいちゃんなの!」
と、教室の片隅でものすごく嬉しそうにコソコソ話しをしてくれたときでした。
にっこりしすぎて、細いかわいい目がとろけていました。
喜んだり、恥ずかしがると、長い手足をくねくねする癖を持っていました。
その後、おじい様に会った話や、行幸(断って、仮名化)ちゃんと一緒に会いに行った話しを聞きました。
ただ、お母様には決して知られたくないようでした。
病気になってから、おじい様に病室に来て欲しいと意思表示したのは、かなり強い思いからだったと思います。
私が会ったのは、7月25日が最後でした。
やす香は一生懸命に「ありがとう」と言ってくれました。その頃はほとんど喋れなかったのに、久々に聞く声でした。
それが最後の会話でした。あの言葉は忘れられません。
23日にもお見舞いに行き、お母様とお話をした時、普段は見せない涙を見てしまいました。そして、「親は無力です」と、仰って上を向いて流れる涙を隠して。
やす香にとっては、お母様もおじい様もとても大切でかけがえのない方なんです。
長々書いてしまい、失礼いたしました。
おばあ様の体調が優れないようですが、いかがでしょうか?
お寒くなりましたので、お風邪など召しませんように。

* やす香の訪れくるわが家に、いやいや、まだやす香の小さかった昔のわが家にも、猫がいて、やす香は、母親ネコの娘ノコも、また今いる黒いマゴも大好きだった。母親であるわたしたちの娘も猫が好きだった。
娘の書いた文章で一等早い時期にまとまっていたのは、母猫の「ネコ終焉記」だった、とてもよく書けていて、わたしは「e-magazine 湖(umi) = 秦恒平編輯」におさめて愛していた。娘も、著作権侵害だ、損害賠償せよと苦情を言ってくることなど、一度もなかった。

* 蕪村のことを思い出す。わたしの見解ではすこし問題があるのだが、通説では、蕪村は年若い娘を嫁がせたものの、先方が気に入らず断然取り返したことになっている。
婚家は有名な京都の料亭で、その子孫だろうか同じ名前で、新宿駅のわきにいい店を今もあけている。
蕪村の場合、実際がよく分からない。嫁に出したときは大賑やかに呑んだくれて祝っていたが、取り返しにかかったのも早い。
2008 8・7 83

* わたしの「今・此処」は、何だろう。
作家としての創作生活。まちがいなく、それが在る。閑却も放擲もしていない。
仕掛けられた、裁判。まちがいなく、それが在る。裁判所へ提出された双方代理人の書類が、最近のだけでもダンボール箱にぎっしり詰まって溢れそうである。みな、A4判の紙書類だ。むろん閑却も放擲もならない。
法のことは代理人に一任しているからといって、わたしや妻の考えは法廷に伝えねばならず、そのためにはそれらを読んで咀嚼し、批判しなければならぬ。関わっている以上責任があり姿勢がある。
第三者からは「放っておく」のも「ほどほどにする」のも簡単だが、私たちには簡単ではない。簡単でない物事を、キザに簡単「がって」嘯く趣味はわたしには無い。ひとさまのことはこの際考慮におよばない、わたしはわたしの「おそらく、それでいいのだ」という道を歩いてゆく。「絶対にいい・わるい」ということは考えない、それこそ高慢なことになる。

* 「おそらく、これでいいのだ」と思い、その道をわたしの「今・此処」と受け止め、歩んでゆく。嗤う人は嗤われてもかまわないが、願わくは嗤わないでもらいたい。
あるいは嗤われずに済む私たちの道が、他にあるなら、教えて頂きたい。

* 書いている小説等の「創作」に類することは、このサイトにいきなり持ち出さない。ワープロソフトをつかい、書き溜めている。「静かな心のために」のように、校正かたがたサイトへ持ち出して、より大きな仕上げのために、人に読んでもらい自分も読み直している仕事もある。
下書きの小説『聖家族』も、未完成のうちは、始終推敲のためにサイトに持ち出し、手直しを繰り返していた。『お父さん、繪を描いてください』の場合などは、実験的に最初からサイトで初稿を書き進めていて、メドの立ったときからワープロソフトへ引き上げ、そこで長編小説として完成させた。

* 娘が、つまり姉娘がブログで小説を書いていると、弟息子・建日子から「ぜひ読んでやってよ」と言ってきたとき、わたしは最初ガセネタだと思い、道草を食うなと息子を窘めた。息子ははじめ、サイトのアドレスだけを言って寄越したので、息子の隠れ遊びのようなモノかと思ったのだ。
「ちがう、姉貴が書いているんだから、読んでやって」と言い直してきたときは、文字通り「驚喜」した。
だが、その不幸な顛末は、もう広く知られてしまっている。
しかし、「顛末」というほど、事は「済んで」はいないと考えてきた。

* 娘は、弟に対し、父に小説を書いていると報せたのを怒り、父が「e-magazine 湖(umi) = 秦恒平編輯」に保存したことを怒り、第四作目に当たるらしい『葛の葉』の出だしが「気をつけないと緩んでいるよ」という父の助言に腹を立てた。のちには、「高慢に批評する父親」といった物言いで、著作権侵害を言い立ててきた。「損害賠償せよ」と。なんたること。

* わたしの記憶では、作品を最初に読んだ時点と、著作権侵害で訴えると言ってきた間に、かなり時間差がある。父親が甘い点をつけ、作品保存・保護の意味からも「e- magazine 湖(umi) 」に掲載していた時期がけっこう永くあり、その間、じつは娘からはなにも苦情は来ていなかった。
すべては、やす香の『かくのごとき、死』直後の、★★夫妻連名での「提訴の脅し」から始まっていた。記憶の間違いがなければそうである。

* なぜ娘はあんなに時季後れで怒ってきたか。怒ったのは、ほんとうに娘だったのか。じつは、夫★★ではなかったのか。
★★は、娘が笑って漏らしていたように、外の世間では、聞かれもしないのに「作家秦恒平の娘の夫です」と口にする男であったという。事実は知らない。しかし、「作家・小説家」というわたしに対抗心か敵愾心をあらわに持ち、妻を前にしきりに「作家」をバカにしたがったということは、彼自作の『お付き合い読本』を読めば、察しがつく。

さ 作家とのお付き合い  作家とはすなわち、自己体験の特異さを専売にする人種。いくつかのタイプがあるが、中でもタチの悪いのは、自分の苦労を絶対だと信じ、自己を客観的に眺める習性を持たない奴。それと、やたら「夫婦はかくあるべきだ」とか「人生はこう生きるべきだ」とまくしたて、常識とかけ離れたところで妄想にふける奴。もっとも、小説とは「ウソ」であるからして、小説家にリアリティーのある認識なんぞ求めるほうが筋違いだという説もある。お付き合いもほどほどに。

わたしはこの言説に「苦笑した」と、小説の中でとりあげている。他のくだらない項目より、これは或る意味謂えている一面も無くはない。
それにしても、彼は、すでに「作家」であり、娘を妻にもらうに際して「光栄です」というウソくさいアイサツで頭をさげたようなその作家に、相当な対抗心・嫉妬心を持っていたのは分かる。彼が筑波でやっと技官に成ったか成らない時期に、舅は、思いもよらず東工大から工学部教授として正式に辞令を受けている。どうせ「ぱんきょう(一般教育) でしょう」と言われたときは、正直、彼が可哀想になり、代われるなら娘のためにも代わってやりたかった。
ともあれ私の前では光栄がっても、妻になった娘には、「作家」なんかボロカスであったろうことは分かる。ありそうな、なにもとくべつのことではない。
しかしながら、その妻までが、自分に隠して「作家の真似事」をしていたと知ってみると、怒りは、まず夫から爆発したのではないか。「著作権侵害」とか「提訴」とかいう「法」がらみは、★★★の昔からの得意技で、わたし自身、東工大時代に彼からそう「警告」されたことがあった。彼から送りつけた親を罵詈讒謗の手紙類を、もし秦が秦の書き物に利用したなら「訴えるからな」という手紙が大学へ届いていた。そういうヘキの人物なのである。
じつのところ自分の妻が「作家」秦 恒平の「娘」である事実が、夫★★には時が経つに連れ、忌々しくて仕方なかったのではないか。

* 「秦氏は、私が義父に向かって罵詈雑言を書いたという手紙の内容も公表していますが、あれは手紙の一部。前後があるのですが、そこは公表していません。裁判では全文が明らかにされるでしょうが、確かに私は手紙を書きました。おかげで秦家と断絶でき、それから以後、私の妻である秦氏の娘は平和で安穏な10数年間を送ることができたのです。私の妻が、実家と断絶したあとも、自分の父親を罵倒した私との結婚生活を長年つづけてきたのが、その証拠です。」と、★★★教授は、昂然と週刊誌記者氏に語っているが、彼の虚勢と虚偽は、明らかに否定されている。
「平和で安穏な十数年」どころか、以下の「証言」は、はるかに真率に★★の自己満足がウソで虚勢であることを告げている。

☆ やす香が「病気になる前」までは、やす香ママとパパの関係は崩壊していました。やす香はたまに呟く様に、家族四人で撮ったプリクラを見せて、「家族四人で撮るのは、これが最後だと思う」と言っていました。やす香が病気になって、今は違うかもしれませんが、やす香ママは一人でした。
おじい様おばあ様がやす香の病室にお見舞いにいらしたと知った時、これでやす香ママに帰る所が出来た、と、私は勝手に嬉しく思いました。
嬉しいという表現は変かもしれませんが。。。
以前、やす香の守るべき宝物は妹・行幸ちゃん(仮名にしてある)だと書いたことがあると思います。
病気になる前まで、ご両親の離別は決定的で、夜になると行幸ちゃんがよく泣いていたと聞きました。
やす香は必死に行幸ちゃんを守ろうと、慰めていました。
私の考えですが、やす香ママはその事を含め、自分自身をとても責めていらっしゃると思います。
私から見て、やす香ママもやす香も、とても不器用で、本当は心の底から愛し合っているのに、お互い伝え合うのが下手なようでした。
やす香は他の人にはとても優しくて、人の心にすっと入っていく人でした。
でも、ママにだけは出来なかったのです。
本当は大好きだったのに。ママの事が好きだと、何回も言っていたのに。
ママにだけは伝えられなかったのです。
やす香ママは今自分と戦っているのだと思います。
そして自分の存在の根源である、おじい様おばあ様と戦っているのだと思います。
多分修復出来るであったろう、やす香とのこの先の時間。。。
いきなり(病魔に 秦注)奪われたその時間。。。
やす香ママは、おじい様おばあ様の事を心の底で愛しているのだと思います。
そしてその愛が、お二人の存在が、大きいからこそ戦っているのだと思います。
やす香ママは、自分がずたずたに傷つくのを承知の上で、あえてずたずたになろうとして、おじい様おばあ様を選んでいるような気がします。

* 十数年前、「大過去」とわたしの呼んでいる「罵詈雑言事件」で、わたしは娘の手を放し、すでに孫二人いる★★家へ委ねた。離婚は望まなかった。その時の騒動ぶりはフィクションながら『聖家族』が伝えていて、だれの想像からも、夫は妻に、最初のうちは知らず、かなり八つ当たりに当たり散らしたとみても可笑しくない。★★の親族間でも、「秦の娘」に親切や同情は寄りにくかったろう。娘は孤立しているだろうな、だが女の子二人は「母の娘」として「心支え」になっていてくれるだろうと想っていた。幸いにもし父親が娘たちを愛していれば、妻への当たりようも和らいでくれるだろうと想ってそう願っていた。

* 小説を書いているのを父親に報せたと、娘が息子に怒ったとき、怒りは、じつは「他の心配」に向いていたのではないか。自分が小説を書き出したなどと夫が知ってしまったら、またまた辛いややこしいことになるのがイヤだったのではないか。父親には、黙ってそっと読んで欲しかったのだろう。ところが愚かな父親は感激し驚喜した。娘は「当惑した」というのが、真実ではなかったろうか。
幸か不幸かしかし★★は、舅のホームページ日記など読む男ではなかっただろう。だから、事実は何も知られないままかなりの月日を経過した。娘は緘黙していた。そして自作「葛の葉」をまた書き始めた、それが一昨年の二月一日だった。
ところが父から、「文章がゆるみ始めている、気をつけなさい」と注意され、むくれたか、直ちに作品を捨てた。弟に怒ってきたのもそのときだったろう。あげく娘の小説創作に関しては、娘・息子・父の三者がバラバラに互いにそっぽを向いた。たぶん、★★★は気づいていなかった。

* その間にやす香の病勢はどんどん悪化し、ところが不幸にもやす香の母親は、始めたばかりの自身の「がくえんこらぼ」サイトに熱中し、娘から全く目が離れていた、なんと入院そして「白血病」の告知まで。
そのことは、法廷に提出されている、貧相で見当違いな何の効果も無かった「入院前受診記録」が、悲しくも雄弁にもの語っている。
あげく、やす香は『かくのごとき、死』を死んだ。

* それにしても、自分の妻が、こともあろうに秦「夕日子」という名乗りで、「小説」を書いて舅のホームページに掲載されていた事実を知った夫・★★教授は、妻がパソコンの「対局碁」という「趣味」に没頭するのを嫌った以上に、嫉妬心や、作家・秦恒平への敵愾心に火をつけられ、激昂したのではなかろうかと、推量する。
娘は、はやくに弟に話していた、自分の書いたモノを分かって呉れるのは、「あの人=父」ぐらいねと。もし、こんな科白が夫に知れていたら、やはりタダは済むまい。舅を罵倒した結果が妻に「安寧」を与えたともし本気で考えていたのなら、彼には妻が小説を書くなど、屈辱としか思えなかったことだろう。

* やす香の親友の、上の証言は、とても大きかった。わたしたちは、「ああ、やっぱり」と思った。十数年の平和と安穏が保証されていたなどという★★の妄言は、粉微塵であった。
だが、もう一つ「先」が知りたかった、「先」へ進みたかった。
その「先」を、わたしたちは見付けたのである。

* 娘は、一昨年二月に書き始めてすぐ、筆が緩んでいると父に注意された『葛の葉』という作を、すぐ、捨ててしまった。あああとわたしは慨嘆し、二度ともう娘のそのブログは、覗きに行かなかったのである。
ところが娘は、「葛の葉」断念のほぼ一ヶ月後、平成十八年三月一日から、「新作」を書き出していた。わたしは、息子も、妻も、それにまったく気づかなかった。わたしがその存在を偶然発見したのは、今年(2008)も今年、たった「数日前」のことだった。
インターネット検索でふと思い出し、ある「碁の術語」をうちこんでみた。無数に出てきて、お話しにならなかったが、渋々サーフィンしているうち、よほど深間のなかで、ふと、記憶にある語彙一つを見付けた。
おや、と開いてみると、まさしく、わたしたちの娘のサイトであった。かつて読んだ三つの作品もそっくり残っていたばかりか、一昨年の三月一日から書き出されている「新作」が、其処に、ウソかのように見つかった。我が目を疑った。

* 娘のつける題は、いつも変わっている。
平成十八年三月一日から四月半ばまで、ほぼ毎日続き、そして六月一日に飛んで、ぷつんと終わっている。これで終わっているとも、中絶とも読める。娘はまた怒るか知れないが、このままでは支離滅裂にちかいが、自然そう見えてしまうシュールな幻想的な作柄でもある。
ところがそのなかに、ギョッとするリアルな現実場面が、ねじ込むように中程に混入している。
と言うより、そういうリアルな場面から作品は「書き始め」てある。作の動機が見える。量としては全体の一割程度。しかし、表現は凄まじい。醜く荒れていやみな暴君夫から、「専業主婦のくせに」「稼いでみろ」と生活費を投げ与えられ罵声を浴び、しかも黙々と頭を下げている妻、そして幻想世界へ涙を押し隠して出かけてゆく「梢」忍従の様子がまざまざと書き出されている。

* わたしの妻によるさらなるサイトの探索では、この同じ作品が、平成十二年(2000)三月のカレンダーでも、十五回分ほどが引き出せるという。しかし十八年 (2006)三月一日からは、一応最後まで引き出せる。
もし本当に書きだしたのが、西暦2000年というのが正しいなら、その記述や表現から看て、「夫婦不和の激しさ」はその頃に既に作者である娘を突き動かしていたと十分推察される。作の動機はそこにあったと読める。
もとより幻想をはらんだ小説で、そういうリアルな推測は普通は邪道であるが、その下地には、夫婦の家庭が崩壊状態にあり、離婚必至の死に体であったという、娘・やす香行幸姉妹を介した、先の親友証言と、もののみごとに符合し裏付けられている。

* そして今しも、とてもとても気になるのは、娘は、父が、サイトの他の小説を読んだと当時十分知っていたこと、そして、「葛の葉」は抹消したが、また重ねて「読まれると覚悟」ないし「むしろ期待」してこの「梢」と名乗るヒロインの物語を連載していたのであるなら、それこそは、娘から我々への「結婚生活は破滅している」というメッセージではなかったのか、ということ。
もしそうとすると、わたしたちは、まんまと二年ないし二年半、その「メッセージ」を知らないで、聞かない、何の手も打たずに過ごしてきたことになる。

* 一昨年の六月一日は、まだやす香の診療が、全く門口にも達しないで、六月十日には、なんと地元の「精神科」で「鬱病」だと診断され「投薬」されているというバカらしさ。入院は六月十九日で、やっと北里病院が容易ならぬ病状と判断し、即日入院に到っている。
その通知の電話で、母親は、娘・やす香からの電話で初めて知らされ、むしろこと決着を安堵したとでもいうことを、「がくえんこらぼ」の七月一日日記に、「初めてやす香に触れて」書いていることは、もう繰り返し言及してきた。
娘は、二月から六月まで、やす香の病状に気づいたり憂慮したりする余裕すらなく、一方では「がくえんこらぼ」に孤独な活動を書きまくっていて、もう一方では、夫婦不和の淋しい泣きの涙もふりこぼれる、不思議な小説を書いていた。
せめて、その時期にわたしがこれを読めていたならと、悔しいのである。

* 小説が、はひょっとして二◯◯◯年二月一日に書き出されたか、やはり二◯◯六年三月一日に書き出されたのか定かでないが、適量の引用範囲内で、最初の出だしだけを引いてみる。しっかり書き初めている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『ざばぶるぐ』 梢 一と二

ノックしても返事がないのはわかっていたが、それでも女はこつこつと戸を叩き、一呼吸おいて、書斎のノブを回した。男は何も気づかぬふうに、コンピューターに向かっている。そのモニターには、お仕着せの初期画面が輝いている。

出かけてきます。

既にコートを着ている女をちらりと見ただけで、男は再びモニターに向かう。そう、何も開いていない初期画面に。

どこに行く。

図書館へ。

男の視線がまたすっと走る。飾りなく束ねた髪、紅さえ引かぬいつもどおりの姿を確かめると、かすかにふんとわらった。

ろくな教育も受けていないくせに、学問の真似事か。

女は身じろぎもしない。

何時に帰る。

申しわけありませんが、きょうは閉館までいたいと思います。

昼飯は。

用意しておきました。

専業主婦のくせに……。

行ってまいります。

男の言葉を遮るように、女は深々と頭を下げた。

春の日射しは、まぶしかった。肺腑の底から空気を絞り出し、梢は歩き始める。ワンブロックも行くと、丈の長いコートは、すでに暑い。だが、仕方ない。夫がモニターの何かを隠すように、わたしもまた、隠さなければならないのだから。久しぶりに履く細いヒールが、突き上げるように梢の背筋を伸ばす。もうどれぐらい、こんなふうに歩かずにいただろう。

柳の青く霞むお堀端を過ぎると、駅が見え、人通りが増える。梢はすうっと息を吐き、萌えいずる昂揚を鎮めて、気配を抑えた。できればだれにも会いたくない。特に、図書館とは反対の、州境を越える列車に乗るところを、だれかに見られたくなかった。太い鉄骨の陰に息をひそめて、ローカル列車を待つ。そして3つ目の駅で特急に乗り換えるまで、梢は緊張を解かなかった。

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* 作品の中程に来る夫婦の場面は、もっと生々しい。或る意味で醜く烈しい。
「小説だ」とも謂える。間違いなく小説である。しかし小説家であるわたしには、その意味は幾重にもいろいろに分かっている。小説を利して書くことも小説に隠れて書くこともある。フィクションの意味である。
娘は明らかに此処から書き出している。此処に動機がある。この「梢」という妻の、いわば夫からの逃避行はあわれに美しくすらある。

* わたしは迷っている。このままホームページ私語を更新すれば娘は「読む」だろう。夫は自分で読まなくても、周囲から聞く耳はもっているだろう。
娘を、ないし行幸も含めて、より窮地に追い込むことになるのか。
それとも、そんなことはお笑いぐさで、今では夫婦は一枚岩で、裁判劇上演に団結し懸命であるだけなのか。
もしいまも娘がひそかに小説を書いていたらむろん読みたいが、そんなことは念頭にもない、裁判に勝つのが日々の目的だと、★★は知らず、娘も、言うのか言わないのか。
『かくのごとき、死』をはさむ二年半の思わぬ「逸機」がわたしたちの判断を惑わせる。
2008 8・8 83

* 横浜埠頭でのバイカル号乗船からナホトカ着、次いでハバロフスクへの列車からみたシベリア風景まで、『冬祭り』の旅の写真が見つかった。中国への旅写真はアルバムに整理したが、ソ連への旅では新聞小説のために手軽に閲覧しやすく簡略にしておいた。のこりの写真がまだ十倍もあろうに見つからない。大きな綺麗な写真にし額に入れて自慢だった何枚かも見つからない。
横浜埠頭では、見送ってくれた当時大学生の娘の写真がある。心優しい娘であった。一本の投げテープで、港の上を遠く長く結ばれている好い写真も二枚あった。
率先大きなわたしのトランクを引っ張り、幾つも電車を乗り継いで、一人で、初めて行く横浜まで見送ってくれたのである。懐かしい。その娘は、なくしたやす香とちょうど同じ年頃。無量の思い。
ロシアから帰国しても、丹波立杭窯の急の取材や、依頼された新聞小説の書き起こしなどで大忙しであった。京都でもかなり沢山な写真を撮っている。未整理のままごっそり見つかったが、だいぶ褪色してきているのが惜しい。
2008 8・9 83

* 見付けた娘の小説『ざ*ぶ*ぐ』の中程で、「梢」は、こういう場面に遭遇していた。断っておくがこういう「リアル空気」の場面は、夢から覚めた瞬間かのように、いわばこの方がシュールな物語の「外」側にある。
梢は「外」に堪えかね、幻想的で「内」側なる異世界へ、例えば「先生」を尋ねてゆくのであるらしい、いや作品世界は、いま一段微妙に屈折している。

☆ 「ざ*ぶ*ぐ」  より一部分

梢の新しい趣味(=秦注・ 娘に独特の、幻想をはらんだ囲碁ふうパソコン対局)を、夫は喜ばなかった。

いや、そんなことは初めからわかっている。息子が幼稚園に入って、梢が母親たちの手芸サークルに加わろうとしたときも、小学校に上がって、保護者の勉強会に出ようとしたときも、夫は喜ばなかった。お茶の会一つに出かけようとしても、身繕いの気配に気づくと、何やかと用を言いつける。応じているうちに出かける時を失った。言いつけを断ろうものなら、「専業主婦のくせに」「だれのおかげで食べていけると思っているのだ」と、お決まりのせりふが降り注いだ。そして次の週、生活費はもらえなかった。書斎の入り口で頭を下げ、「おまえのような育ちの者が、分不相応を望むからだ」と嗤われながら、梢は金を受け取らねばならぬ。その額は、夫の気分次第で、いくらでも下がったが、黙って頭を下げて、退出するしかない。

(以下中略)

メールじゃいけないんですか。

そうつぶやいて逆鱗に触れて以来、梢は逆らうことをやめてしまう。むしろ、家から出られることを喜ぼう。ポケットに小さな本を忍ばせて、梢は電車に乗った。時間は計られ、帰宅が遅れれば叱られるのはわかっていたが、車中で本を読むことぐらいはできたからである。だが、いつも長時間、電車に乗れるわけではなかった。歩くしかないようなところもあった。それでも散歩だと思って、梢は空を仰いで歩いた。

何を泣く、こんなによい天気なのに。

(中略)

先生!

空を仰いでいた男は、ゆっくりと振り返り、穏やかな笑いを含んで言った。

やあ、どんぐりさん、こんにちは。

* 小説は小説である。これを性急に現実の作者家庭の夫婦関係に直結するのは、読む姿勢として是認できない。が、その上でいろいろに読むのは読者の権利に属している。小説はそのように読まれるし、「読み方」という規則は無いのである。
この小説はシュールな場面からいきなり書き出されてはいなかった。
図書館に行きたいという妻と、書斎で自身のパソコン画面を隠しながらいやみを言い募る夫との、極めて冷ややかな場面に始まっていた。
そして女は家を出て、図書館ならぬどうやら秘密の電車旅へ、涙を堪え身を隠すようにし、駅へ、電車へ急ぐ。
動機=モチーフは露出している。「夫」は冷え切った「他人」であった。家の中が、梢には「外」世間だった。戸外が先へ先へ延びるにつれて梢の「内(身内)」世界へ近づいてゆく。なんだか生まれ育った場所へも近づいてゆく。
「先生!」
「どんぐりさん」 という呼び方と呼ばれ方。まるで漱石の『こころ』みたい。分からない。
こう引用してみて分かる。文章にはほとんど揺れも乱れもない。一にも二にも「推敲」と、父は娘におしえた。才能は推敲の力に現れるよと。
娘は漱石が好きだった。『夢十夜』が好きだった。『ざ*ぶ*ぐ』は、堀辰雄の空気と『夢十夜』の世界に添い寄っているとすら読める、ただし未完成。

* 娘が囲碁に趣味深いとは、娘の囲碁友達!?  という未知の人のメールで教えられた。平成十五年(2003)八月はじめだった。五年前だ。
「娘さんは元気にしておられるのでご安心下さい」というメールで、しかもその頃仲間内相手に何かしら「書いている」という話だった。書くなら「本気で書いて」欲しい、風船玉の空気抜きのような真似はよくないと伝え、書いたものを是非読んでみたいと言ったが、本人がいやがるからと教えて貰えなかった。わたしは落胆した。そして忘れた。
もし平成十二年に娘の『ざばぶるぐ』が実際書き始められていたのなら、この奈良県に住むという囲碁仲間氏の云っていたのは、後の三作でなく、此の作品『ざ*ぶ*ぐ』だったことになる。この時点でこの作を教えてくれ読めていたら、事態はよほど変わっていたかもしれない。

* やす香は碁に手を出さなかったが、妹の行幸は小学生の頃すでに碁を打った。メンバーに選ばれ中国まで対局に遠征したこともある。しかし、やめてしまったらしい。
母親の碁は、なぜ娘はやめたのかというかすかな疑問から、遅れて手をそめて行ったのかも知れない、その消息も『ざ*ぶ*ぐ』は何となく書き示している。
ちなみに中学生の行幸は、わが家に訪れ、祖父の挑戦を退けて勝っている。
母親のはじめた囲碁趣味が気に入らない父親の「影響」で、幼かった行幸はなにとなく「罪悪感」をもち、碁から離れたのだろうか。
2008 8・11 83

* 東京を出て行く人たちも少なくない。わたしたちは、居残って染五郎・大竹しのぶの芝居や勘三郎達の夏歌舞伎を楽しむ。「半蔀」といういい能もある。
息子の代表作にもなりうる『PAIN』が「秦組」旗揚げ公演になる。前評判は上乗と漏れ聞いている。
2008 8・11 83

* 今日は、また一と刻み、わたしの人生、わたしと妻の人生に忘れがたい日となる。

* 夜前、零時五十四分に発信された一通のメールを、今朝八時半近くに読んだ。

* 真っ先に言う、このメールの文面から、「人格」というものが寒気のするほど全く感じ取れない。

* メールに「文責」を示す署名がない。宛名もない。終始「私」名義で書かれているが、「私」が誰であるか分からない。原文内に(冒頭にも末尾にも)文責者・差出人の明記を欠いたこれは、単に「怪文書」に属し、誰が誰に宛てたという「私信の体」をなしていない。機械上の設定であるメール発信者は、「h..oshimura」とある。「h..」の意味が分からず、少なくも私たちの娘のイニシアル・名でも、婿のイニシアル・名でもない。「oshimura」も、何とでも読める。忍村も雄志屯も他にもある。

* 以下に「怪文書」を、そのまま記録する。怪文書と雖も原文は変害できず、挙げてある氏名はそのままにする。

★ 発信者:  h..oshimura 日時: 2008/08/12 0:54
宛先: hatak  件名: Re: D+F|;R$K!!Nd@E$K$b$&0lEY!!!!Ic

拒否されていることすら理解できないストーカーに対し、実際的な対応として着信拒否を設定した。今後いかなるメールも私には届かない。

私は最期の日々のやす香を忘れない。そしてやす香を貶めた秦恒平と迪子を終生許さない。支援の申し出など笑止千万。私の望みは、秦恒平が私の人生から消え去ることのみである。

着信拒否を解除する唯一の方法は、以下の謝罪文を一語の修正もなく以下の2カ所に掲示することである。期限は2つのサイトが継続される限り永遠。文字を小さくするなど姑息な手段を用いてはならない。

謝罪文

一、私秦恒平は、故押村やす香の逝去に関連し、故人の尊厳と遺志を踏みにじる膨大な記述を行ったことを認め、衷心から謝罪いたします。故押村やす香は、その死の瞬間まで信仰心と家族、友人への愛に満ち、明確な意志をもって自らの人生に向き合ったものと認めます。特に治療計画における故押村やす香自身の決断と行動について、「19歳でできるはずのない」「錯誤」と侮蔑したことは私の犯した最大の罪であると認め、故人の御霊に深く額づいて謝罪いたします。

一、私秦恒平は、故押村やす香の著述について、その趣旨を歪曲し、誤った目的のために悪用したことを認めます。また、故押村やす香が心を込めたメッセージを根拠なく他者による「作文」と貶めたことを認めます。故押村やす香が親しき人々に遺した言葉に対する冒涜を私の犯した第二の罪と認め、亡き人の御霊に深く額づいて謝罪します。

掲載場所

一、「文学と生活」更新履歴。常に最上段に置くこと。

一、「湖の日記」プロフィールページ。常に最上段に置くこと。

これは法的判断で行う訴訟での要求は全く異なる、私自身の要求であり、現世の法に守られない故人のための要求である。押村家に対する名誉毀損、プライバシー侵害、著作権侵害等、現世の犯罪については、あくまでも裁判において容赦なく追及する。

追伸

* 言っておく、「第二子(弟・秦建日子)誕生以降二十年」のながきにわたり、実父であるわたしから「性的虐待」「ハラスメント」を受け続けてきたと、インターネット上での謝罪と賠償金を「民事調停」の場に求めている「第一子(姉・押村朝日子)」を、わたしは心底軽蔑し、永訣する。

わたしの帰って行く「本来の家」にこの心腐った娘の影は微塵もささせない。わたしが高校生の頃から、いつの日か我が子にと、こころこめて名付けた「朝日子」の名は返してもらう。せいぜいウソつき「木漏れ日」を名乗って生涯薄暗い虚偽の営為に生きるがいい。

希望とあらばいつでも返却する。「朝日子」なる文字列は、今や社会生活上やむを得ず使用する記号に過ぎない。私はとうの昔に「朝日子」であることをやめている。

表現の自由を乱用し、無用な規制をふやすであろう文筆家の敵、秦恒平。社会から認められないことを「天才の証」と称し、間違いだらけの「筆者当て」に興じる「小説読みのプロ」は、孫の死さえ食い物にし、ゴシップネタでもよいから人に思い出されることを待ち望んでいた。「法廷の外でも、あらゆる手を使って」ようやくこぎ着けた取材は、しかし大いに裏目に出て、結果、太宰賞にドロを塗り、ペンクラブの名を汚し、息子の社会的立場を巻き添えにしつつ、後出しジャンケンに負けた。かくのごとき人間と生物学的なつながりがあるというだけでも、虫ずが走るほど不愉快だ。「ペンクラブ理事が500箇所の名誉毀損」などという新たな記事が載る前に、潔く隠居することを心からお奨めする。もっとも、「潔い」ほど秦恒平と縁遠い言葉も少なかろう。「やめる、やめる」とは口先ばかりで何一つやめず、「死ぬ、死ぬ」と家族を脅しながら生き恥を曝しつづける秦恒平は、結局、誰よりも何よりも死を怖れ、目を背け、およそ「死と向き合う」などという試練には耐えられない。だからこそ、それをなし遂げたやす香を愚弄する以外に、恐怖から逃げる方法がないのだろう。

私は金輪際、秦家の人間ではない。押村高とみゆ希とが私の掛けがえのない家族であり、末期の床で私の手をしっかり握った押村襄、多くの知友が私の実の母と信じて疑わなかった押村芳子、そして誇り高く逝った押村やす香の待つ押村の墓こそが、やがて私のついの棲み家となるのである。

たとえ地獄に堕ちようとも、私が秦恒平と同じ天を仰ぐことはない。

ーーーーーー***ーーーーーーー

* 重ねて云う、文初・文末に署名も文責表示もない極めて悪意の「怪文書」であり、文中の固有名詞も誰にでも詐称できる。文責者を名乗る何の表記もない。

* 真っ先に感じる。一歩ゆずってこれを文中「押村やす香」の親が、親たちが、自分自身の実の親ないし舅姑に送ってきたメールかと読んでみた場合、このメールの文面から、「人格」というものが寒気のするほど全く感じ取れない。
またやす香をあれほど病苦に苦しませ、手の施しようなくうら若く「死なせて」申し訳なかったという責任ある親のタダ一言も出ていない。命の尊厳というなら、何よりも先ずそれではないのか。
さらに、この文面は、文体的にいろいろの隙間を余して、筆者が娘であるらしい、娘一人であるらしいとは、とても言えない。われわれの承知している娘の育ちと人柄からはとても出てこない、親に向かって「早く死ね」と言い放つに等しい「すれっからし」の言辞が、随所に、目を蔽いたいほど多すぎる。文面の痩せて乾いて硬直し、人格のまったく欠如した空疎に居丈高で冷血な所など、とても東京都町田市の「主任児童委員」と称した私たちの娘ではあり得なく想われる。親心としてそう思いたい。
以下に、その娘自身の手になったと想われる「小説」習作の一部を読む人は、それぞれの強い「心証」をもたれるだろう。

* この文面には筆者のハートが引き攣れたように干上がっている。撞着もたくさんある。子として人間としての最低限度の礼儀もなく、「礼なきは聴(ゆる)さず」とした古人の教えは蹂躙されている。親の名誉も人権も蹂躙されている。
あまねく「生命の尊厳を尊重」するような人は、信仰の人は、産みの親や妻の親に対し、こんな恥無き、ハートも無き、硬直した文章や言葉は用いない。
h..oshimura の h.. とは、「husband =夫・主人」の意であるのだろうか。仮にもしそうとすれば、私たちの娘はまともな通信手段をもう持っていないのではないか。
そしてこのメールは、全文が、「週刊新潮」誌上で卑怯に名乗った仮名「高橋洋」なる人物の「作文」ではないのだろうか。そう読んでみると筋が通る、

* Re: とあるように、上の怪文書は、私「hatak=秦 恒平」への返信になっている。

* わたしはこれより前に、宛先を「自分の娘」であろうと思いこみ、八月十一日深夜一時四十一分に、久々にメールを発信した。(少なくも一昨年には、娘のメールアドレスとして使用されていた。しかし、現在も「娘が専用または共用、または譲渡」しているのかどうか、確認のスベがなかった。)あとで触れる。

* 翌朝十二日十時四十二分に「短い返信」があったが、その発信者が、前と同じくやはり「怪文書」に属して、不明であったけれど、「娘からであろうか」と期待し、「返信に感謝」した。そして再度その娘宛と信じたい先に、「冷静にもう一度。父」と返信した。それについても後に詳しく触れる。
* では、なぜわたしが、我が娘に、久々にメールを送ったか。その真意と心情を、送ったそのメールで、次ぎに示す。

☆  —– Original Message —–

to:Sent:Monday,August11,2008 1:41AM

きみの小説『ざばぶるぐ』を読みました、夕日子。(=以下、秦の文章では法廷での、またサーバーとの仮の申し合わせにより、★★家のようにマスキング、または「夕日子」のように仮名にする。)

夕日子と呼びかけるのを、いまは、寛大にみのがしてもらいたい。そして声の出るのをおさえて、黙って先へ読み進めてもらえないか。
性急に激昂しないで、黙して、とにかく先へ読み進めて欲しい。

このメールが無事届くようであれば、これは、夕日子と父とだけの交信になる。だれも干渉しない。あとで、夕日子にどんな判断をされても仕方がないと覚悟の上で、夕日子に呼びかけ、以下、少し夕日子に向かい、話したい。

今までになかった一つの「別」状況が出来ている、と、わたしは数日前に思い到った。その「別」状況に直面するのが、こうも遅くなってしまったのを、わたしは、心より悔いている。

わたしたちは、夕日子の小説『ざばぶるぐ』を読みました。そして「私語の刻」に日記を書いたが、その記事は、夕日子も気づいていることと思う、「記事略」として八月八日の項から外へ、外してある。

その「記事」をそのまま、此処へ置いてみるので、部分的に気に障る文言も含まれているだろうけれど、格別の思いで、とにかくも静かに読んでみてくれないか。

そのうえで、わたしは夕日子に「提案」したいことがある。
聞く聞かないは、強いられることでないから、先ずは「記事略」の「記事」を読んでくれればいい。
そしてそのあとでの「提案」を、もう少しガマンして静かに思案してもらえると嬉しい。

「日記」から外していた「記事」を以下に置きます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

* 八月八日 金

* 娘が、つまり姉娘がブログで小説を書いていると、弟息子・建日子から「ぜひ読んでやってよ」と言ってきたとき、わたしは最初ガセネタだと思い、道草を食うなと息子を窘めた。息子ははじめ、サイトのアドレスだけを言って寄越したので、息子自身の隠れ遊びのようなモノかと思ったのだ。
「ちがう、姉貴が書いているんだから、読んでやって」と言い直してきたときは、文字通り「驚喜」した。だが、その不幸な顛末は、もう広く人にも知られてしまっている。
しかし、「顛末」というほど、事は「済んで」いないとわたしは考えてきた。
娘は、弟に対し、父に小説を書いていると報せたのを怒り、父が「e-magazine 湖(umi) = 秦恒平編輯」に保存したことを怒り、第四作目に当たるらしい『葛の葉』の出だしが、「気をつけないと緩んでいるよ」という父の助言に腹を立てた。のちには、「高慢に批評する父親」といった物言いで、著作権侵害まで言い立ててきた。損害賠償せよと。なんたること。

* わたしの記憶では、作品を最初に読んだ時点と、著作権侵害で訴えると言ってきたのとの間に、かなり時間差がある。父親が甘い点をつけ、作品保存・保護の意味からも「e- magazine 湖(umi) 」に掲載していた時期がけっこう永くあり、その間、じつは娘からはなにも苦情は来ていなかった。すべては、やす香の『かくのごとき、死』直後の、★★夫妻連名での「提訴の脅し」から始まっていた。記憶の間違いがなければそうである。

* なぜ娘はあんなに時季後れで怒ってきたか。怒ったのは、ほんとうに娘だったのか。じつは夫の★★ではなかったのか。
★★は、娘が笑って漏らしていたように、外の世間では、聞かれもしないのに「作家秦恒平の娘の夫です」と口にする男であったという。事実は知らない。しかし、「作家・小説家」というわたしに対抗心か敵愾心をあらわに持ち、妻を前にしきりに「作家」をバカにしたがったということは、彼自作の『お付き合い読本』を読めば、察しがつく。

さ 作家とのお付き合い  作家とはすなわち、自己体験の特異さを専売にする人種。いくつかのタイプがあるが、中でもタチの悪いのは、自分の苦労を絶対だと信じ、自己を客観的に眺める習性を持たない奴。それと、やたら「夫婦はかくあるべきだ」とか「人生はこう生きるべきだ」とまくしたて、常識とかけ離れたところで妄想にふける奴。もっとも、小説とは「ウソ」であるからして、小説家にリアリティーのある認識なんぞ求めるほうが筋違いだという説もある。お付き合いもほどほどに。

わたしはこの言説に「苦笑した」と、小説の中でとりあげている。他のくだらない項目より、これは或る意味謂えている一面も無くはない。
それにしても、彼は、すでに「作家」であり、娘を妻にもらうに際して「光栄です」というウソくさいアイサツで頭をさげたようなその作家に、相当な対抗心・嫉妬心を持っていたのは分かる。彼が筑波で技官に成ったか成らない時期に、舅は思いがけず東工大教授として招聘されている。どうせ「ぱんきょう(一般教育) でしょう」と言われたときは、正直、彼が可哀想になり、代われるなら娘のためにも代わってやりたかった。
ともあれ私の前では光栄がっても、妻になった娘には、「作家」秦恒平なんかボロカスであったろうことは分かる。ありそうな、なにもとくべつのことではない。

しかしながら、その妻までが、自分に隠して「作家の真似事」をしていたと知ってみると、怒りは、まず夫から爆発したのではないか。「著作権侵害」とか「提訴」とかいう「法」がらみは、★★★の昔からの得意技で、わたし自身、東工大時代に彼からそう「警告」されたことがあった。彼から送りつけた親を罵詈雑言の手紙類を、もし秦が秦の書き物に利用したなら「訴える」という手紙が大学の教授室へ届いていた。そういうヘキの人物なのである。じつのところ自分の妻が「作家」秦恒平の「娘」である事実が、夫の★★には時が経つにつれ、忌々しくて仕方なかったのではないか。

* 「秦氏は、私が義父に向かって罵詈雑言を書いたという手紙の内容も公表していますが、あれは手紙の一部。前後があるのですが、そこは公表していません。裁判では全文が明らかにされるでしょうが、確かに私は手紙を書きました。おかげで秦家と断絶でき、それから以後、私の妻である秦氏の娘は平和で安穏な10数年間を送ることができたのです。私の妻が、実家と断絶したあとも、自分の父親を罵倒した私との結婚生活を長年つづけてきたのが、その証拠です。」と、★★★教授は、昂然と週刊誌記者氏にこの通り語っているが、彼の虚勢と虚偽は、明らかに否定されている。
「平和で安穏な10数年}どころか、以下のやす香大親友の「証言」は、はるかに真率に、★★の自己満足がウソで虚勢であることを告げている。

☆ やす香が「病気になる前」までは、やす香ママとパパの関係は崩壊していました。やす香はたまに呟く様に、家族四人で撮ったプリクラを見せて、「家族四人で撮るのは、これが最後だと思う」と言っていました。やす香が病気になって、今は違うかもしれませんが、やす香ママは一人でした。
おじい様おばあ様がやす香の病室にお見舞いにいらしたと知った時、これでやす香ママに帰る所が出来た、と、私は勝手に嬉しく思いました。
嬉しいという表現は変かもしれませんが。。。
以前、やす香の守るべき宝物は妹・行幸ちゃん(未成年を慮り、自発的に仮名を用いる)だと書いたことがあると思います。
病気になる前まで、ご両親の離別は決定的で、夜になると行幸ちゃんがよく泣いていたと聞きました。
やす香は必死に行幸ちゃんを守ろうと、慰めていました。
私の考えですが、やす香ママはその事を含め、自分自身をとても責めていらっしゃると思います。
私から見て、やす香ママもやす香も、とても不器用で、本当は心の底から愛し合っているのに、お互い伝え合うのが下手なようでした。
やす香は他の人にはとても優しくて、人の心にすっと入っていく人でした。
でも、ママにだけは出来なかったのです。
本当は大好きだったのに。ママの事が好きだと、何回も言っていたのに。
ママにだけは伝えられなかったのです。
やす香ママは今自分と戦っているのだと思います。
そして自分の存在の根源である、おじい様おばあ様と戦っているのだと思います。
多分修復出来るであったろう、やす香とのこの先の時間。。。
いきなり(病魔に 秦注)奪われたその時間。。。
やす香ママは、おじい様おばあ様の事を心の底で愛しているのだと思います。
そしてその愛が、お二人の存在が、大きいからこそ戦っているのだと思います。
やす香ママは、自分がずたずたに傷つくのを承知の上で、あえてずたずたになろうとして、おじい様おばあ様を選んでいるような気がします。

* 十数年前、「大過去」とわたしの呼んでいる「罵詈雑言事件」で、わたしは娘の手を放し、すでに孫二人いる★★家へ委ねた。離婚は望まなかった。その時の騒動ぶりはフィクションながら『聖家族』が表現し得ていた。だれの想像からも、夫の★★は妻の夕日子に、最初のうちこそ知らず、かなり八つ当たりに当たり散らしたとみても可笑しくない。★★の親族間でも、「秦の娘」に親切や同情は寄りにくかったろう。娘は孤立しているだろうな、だが女の子二人は「母の娘」として「心支え」になっていてくれるだろうと想っていた。幸いにもし父親が娘たちを愛していれば、妻への当たりようも和らいでくれるだろうと想ってそう願っていた。

* 小説を書いているのを父親に報せたと、娘が息子に怒ったとき、怒りは、じつは「他の心配」に向いていたのではないか。自分が小説を書き出したなどと夫が知ってしまったら、またまた辛いややこしいことになるのがイヤだったのではないか。父親には、黙ってそっと読んで欲しかったのだろう。ところが愚かな父親は感激し驚喜した。娘は、夫の手前「当惑した」というのが、真実ではなかったろうか。
幸か不幸かしかし★★は、舅のホームページ日記など読む男ではなかっただろう。だから、事実は何も知られないままかなりの月日を経過した。娘は緘黙していた。そして自作「葛の葉」をまた書き始めた、それが一昨年(2006)の二月一日だった。
ところが四十年近いプロ作家、百冊余の著書を持った父から、「文章がゆるみ始めている、気をつけなさい」と注意され、むくれたか、直ちに作品を捨てた。弟に怒ってきたのもそのときだったろう。あげく娘の小説創作に関しては、娘・息子・父の三者がバラバラに、互いにそっぽを向いた。たぶん、★★★はまだ何も気づいていなかった。

* その間にやす香の病勢はどんどん悪化し、ところが不幸にもやす香の母親は、始めたばかりの自身の「がくえんこらぼ」サイトに熱中し、娘から全く目が離れていた、なんと入院そして「白血病」の告知日まで。そのことは、法廷に提出されている、貧相で見当違いな何の効果も無かった「入院前受診記録」が、悲しくも雄弁にもの語っている。そして、やす香は、不幸にも『かくのごとき、死』を死んだ。

* それにしても、自分の妻が、こともあろうに「秦夕日子」という名乗りで、「小説」を書いて舅のホームページに掲載されていた事実を知った、夫★★教授は、妻がパソコンの「対局碁」という「趣味」に没頭するのを嫌った以上に、嫉妬心や、作家・秦恒平への敵愾心に火をつけられ、激昂したのではなかろうかと、推量する。
娘は、はやくに弟に話していた、自分の書いたモノを分かって呉れるのは、「あの人=父」ぐらいねと。もし、こんな科白が夫に知れていたら、やはりタダは済むまい。舅を罵倒した結果が妻に「安寧」を与えたと、もし本気で考えていたのなら、その妻が父に褒められ喜ばれる小説を書いているなど、屈辱としか思えなかったことだろう。

* やす香の親友の、上の証言は、とても大きかった。わたしたちは、十分推測はしていたが「ああ、やっぱり」と思った。夫婦「十数年の平和と安穏」が保証されていたなどという★★の妄言は、粉微塵の虚言であった。
だが、私たちは、なおもう一つ「先」が知りたかった、その「先」へ、わたしたちは進みたかった。
その「先」を、わたしたちは偶然見付けたのである。

* 娘は、一昨年(2006)二月に書き始めてすぐ、筆が緩んでいると父に注意された『葛の葉』という作を、すぐ、捨ててしまった。あああとわたしは慨嘆し、二度ともう娘のそのブログを覗きに行かなかったのである。
ところが娘は、「葛の葉」断念のほぼ一ヶ月後、平成十八年(2006)三月一日から、「新作」を連載しだしていた。わたしは、息子も、妻も、まったく気づいてなかった。わたしがその存在を偶然発見したのは、今も今、たった「数日前(2008)」のことだった。
インターネット検索でふと思い出し、ある「碁の術語」をうちこんでみた。無数に出てきて、お話しにならなかったが、渋々サーフィンしているうち、よほど深間のなかで、ふと、記憶にある語彙一つを見付けた。おや、と開いてみると、まさしく、わが娘のらしきブログサイトであった。まるで知らぬ筆名らしき物も出ていたが、かつて読んだ三つの作品がそっくり残っていたばかりか、一昨年の三月一日から書き出されている「新作」が、其処に、ウソかのように見つかった。我が目を疑った。

* 娘のつける題は、いつも変わっている、『ざばぶるぐ』。なにごとか?
平成十八年(2006)三月一日から四月半ばまで、ほぼ毎日続き、そして六月一日に飛んで、ぷつんと終わっている。これで終わっているとも、中絶とも読める。娘はまた怒るか知れないが、このままでは支離滅裂にもちかいが、自然そう見えてしまう「シュールな幻想的な作柄」でもある。
ところがそのなかに、ギョッとするリアルな「現実」場面が、ねじ込むように中程に混入している。と謂うより、そういうリアルな場面から作品はまさしく「書き始め」てある。作の「動機」が見える。量としては全体の一割程度。しかし、表現は凄まじい。
醜く荒れていやみな暴君夫から、「専業主婦のくせに」「稼いでみろ」と生活費を投げ与えられ罵声を浴び、しかも黙々と頭を下げている妻、そして幻想世界へ涙を押し隠して出かけてゆく「梢」忍従の様子が、まざまざと書き出されている。

* わたしの妻によるさらなるサイトの探索では、この同じ作品が、同文で、はるか溯る平成十二年(2000)三月のカレンダーでも、前の十五回分ほどが引き出せたという。しかし十八年 (2006)三月一日からは、一応最後まで引き出せる。
もし本当に書きだしたのが、西暦2000年(平成十二年)というのが正しいなら、その記述や表現から看て、「夫婦不和の激しさ」はその頃に既に作者である娘を手荒く突き動かしていたと、十分推察される。作の動機はそこにあったと読める。
もとより幻想をはらんだ小説で、そういうリアルな推測は普通は邪道である、が、その下地には、夫婦の家庭が崩壊状態にあり、離婚必至の死に体であったという、娘・やす香や行幸(仮名化)姉妹を介した、先の親友証言と、もののみごとに符合し裏付けられている。

* そして今しも、とてもとても気になるのは、娘は、
父が、サイトの他の小説を読んだと「当時十分知っていた」こと、
そして、「葛の葉」は抹消したが、また重ねて「読まれてしまうと覚悟」ないし「むしろ期待」して、この、「梢」と名乗るヒロインの物語を連載していたのであるならば、それこそは、娘から我々両親や弟への「自分の結婚生活は破滅している」というメッセージではなかったのか、ということ。
もしそうとすると、わたしたちは、まんまと二年ないし二年半、その「メッセージ」を知らないで、聞かないで、何の手も打たずに過ごしてきたことになる。

* 一昨年の六月一日は、まだやす香の診療が、全く門口にも達しないで、六月十日には、なんと地元の「精神科」で「鬱病」だと診断され「投薬」されているというバカらしさ。
入院は六月十九日で、やっと北里大学病院が容易ならぬ病状と判断し、即日、入院に到っている。過酷な症状は遅くも三月にはやす香を苛んでいたというのに。「mixi」のマイミクや友人達は声をからしてやす香の「shi」をすでに懼れていたというのに。
母親は、娘・やす香の北里大学病院からの通知電話で事態を初めて知らされた。そしてむしろこと結着を安堵したとでもいうことを、「がくえんこらぼ」の同年七月一日日記に、「初めて、やす香の病気に触れて」書いていることは、もう繰り返し言及してきた。
娘は、二月から六月まで、やす香の病状に気づいたり憂慮したりする余裕すらなく、一方では「がくえんこらぼ」に孤独な活動を書きまくっていて、もう一方では、夫婦不和の淋しい泣きの涙もふりこぼれる、不思議にシュールな小説『ざばぶるぐ』を書き継いでいた。
せめて、その時期にわたしがこれを読めていたならと、悔しいのである。

* 小説は、ひょっとして二◯◯◯年二月一日に書き出されたか、やはり二◯◯六年三月一日に書き出されたのか定かでないが、適量の引用範囲内で、「最初の出だし」だけを引いてみる。しっかり書き初めている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『ざばぶるぐ』 梢 一と二

ノックしても返事がないのはわかっていたが、それでも女はこつこつと戸を叩き、一呼吸おいて、書斎のノブを回した。男は何も気づかぬふうに、コンピューターに向かっている。そのモニターには、お仕着せの初期画面が輝いている。

出かけてきます。

既にコートを着ている女をちらりと見ただけで、男は再びモニターに向かう。そう、何も開いていない初期画面に。

どこに行く。

図書館へ。

男の視線がまたすっと走る。飾りなく束ねた髪、紅さえ引かぬいつもどおりの姿を確かめると、かすかにふんとわらった。

ろくな教育も受けていないくせに、学問の真似事か。

女は身じろぎもしない。

何時に帰る。

申しわけありませんが、きょうは閉館までいたいと思います。

昼飯は。

用意しておきました。

専業主婦のくせに……。

行ってまいります。

男の言葉を遮るように、女は深々と頭を下げた。

春の日射しは、まぶしかった。肺腑の底から空気を絞り出し、梢は歩き始める。ワンブロックも行くと、丈の長いコートは、すでに暑い。だが、仕方ない。夫がモニターの何かを隠すように、わたしもまた、隠さなければならないのだから。久しぶりに履く細いヒールが、突き上げるように梢の背筋を伸ばす。もうどれぐらい、こんなふうに歩かずにいただろう。

柳の青く霞むお堀端を過ぎると、駅が見え、人通りが増える。梢はすうっと息を吐き、萌えいずる昂揚を鎮めて、気配を抑えた。できればだれにも会いたくない。特に、図書館とは反対の、州境を越える列車に乗るところを、だれかに見られたくなかった。太い鉄骨の陰に息をひそめて、ローカル列車を待つ。そして3つ目の駅で特急に乗り換えるまで、梢は緊張を解かなかった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

* 作品のもっと中程にあらわれる夫婦の場面は、もっと生々しい。或る意味で醜く烈しい。
「小説だ」とも謂ってしまえる。確かに小説にちがいない。しかし多年「小説家」であるわたしには、小説であるというその「意味」は、幾重にもいろいろに分かっている。小説を利して書くことも、小説に隠れて書くこともある。フィクションの意味である。
しかし娘は明らかに「此の場面」から書き出している。此処に「動機」がある。この「梢」という妻の、いわば夫からの逃避行はあわれに美しくすらある。

* わたしは迷っている。このままホームページ「私語」を更新すれば娘は「読む」だろう。夫は自分で読まなくても、周囲から聞く耳はもっているだろう。
娘を、ないし孫娘も含めて、より家庭的に窮地に追い込むことになるのか。
それとも、そんなことはお笑いぐさで、今では夫婦は一枚岩で裁判劇上演に団結し懸命であるだけなのか。
今日只今にも、もし娘がひそかに小説を書いていたら、むろん読みたいが、娘はそんなことは念頭にもなく、ただ裁判に勝つのが日々の目的だと、★★は知らず、娘自身も本気で言うのか、それとも言わないのか。分からない。通信するならメールしかあり得ない。それは確かだ。

娘の「若さ」や「才能」のための時間がムダに費消されてゆくのは、惜しい。

『かくのごとき、死』をはさむ「二年半」の思わぬ「逸機」が、わたしの判断を惑わせる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

さて、夕日子。

「提案」は、むずかしいことではない。

できれば、この不幸な「二十年間」を双方でさらり忘れた「顔」をして、一度、会ってみないか。静かに美味い飯を食わないか。建日子が一緒でもいいし、ママと三人でも、わたしと二人でもいい。もう一人の孫が一緒でもいい。

夕日子。きみはまだ若い。やり直せる。恋も出来るし再婚も出来る。仕事も見付けられる。なによりも行幸の将来のためにきみの精神生活や経済生活を安定させたい。母と娘とが安息できる住まいも必要だ。
なんとかできないものか。
今のままだと夕日子は、どう苦しくなっても身動きがとれないのではないか。夕日子の気持ちしだいだが、その辺のことをもう一度親子として適切に話し合えるなら、話し合う時機が来ていると痛感しています。しかし、いらいらと急ぐことはない、独りでよくよく考え、返辞を下さい。

あの昔の「不幸な暴発」後のことを、わたしは何度も思い出す。

わたしは、願わくは、きみが我々とどうあらけなく仲違いしようとも、夫婦仲が緊密で愛情深くあってくれるなら、それが一番いいと思っていた。だが、それは所詮ムリな望みではあるまいかとも、永い間深く案じていた。しかし二人の子がすでにあり、二度の外遊生活があり、希望をもちたかった、仲良くあれと。

しかしやす香と行幸とは、自発的に祖父母との親交を求めて来たよ。しかも親には秘し通していた。われわれも、夕日子たちの日常生活が、心配にはなっていた。

ちょうどその頃だ、『ざばぶるぐ』は書かれていた。ひょっとすると、なお六年も以前に既に書き始められていたのかも知れぬと見えるが。
「梢」夫婦の描写には容赦ないものがあり、一方に、まったく同じ、夕日子たちの不和と険悪とが、やす香・行幸経由で「外の世間」へも漏れていたと分かってきた。

一昨年三月四月の時点で、もしわたしたちに『ざばぶるぐ』が読めていたなら、或いは夕日子とわたしたちとの間に、何らか連携があり得たかも知れず、そうすれば、日々にやす香の「mixi」日記を読んでいたわたしは、きみと連絡し協力して、やす香の診療に、より適切な手が打てていたかもしれなかった。
『ざばぶるぐ』がはたして私たちへきみからのメッセージであったかどうかは確言しないまでも、あの不幸に擲たれた、二月初めの『葛の葉』までは、わたしにも夕日子作品はみな読めていたのだから、もう少しガマンよくあのブログに注目さえしていたなら、三月一日からの『ざばぶるぐ』も読めていたのだった。悔いても悔いきれない。

これ以上、今日、ながながしく書くのはよそう。もし、よければ、喧嘩腰でもなく激昂するでもない落ち着いた返辞をくれないか。せく気はないが、よく考えてみて欲しい。
いまこそみんなが、聡明にもの思うときではなかろうか。 08.08.10 父

* 付け加える何も無い。

* いや、少し付け加えておこう、作品『ざばぶるぐ』が「★★夕日子」の作であるという確証も、ブログには表示されていない。「杜野」某という筆者らしき筆名があげてあるが、「外」側の者から見て★★夕日子と同人という確認は出来ない。但し、同じブログに掲載されている過去の三作は一昨年にわたしも読んでいて、娘は自作と認めている。『ざばぶるぐ』も、内容から観て同じ作者と優に推知できるのである。

* 返辞はないかも知れない。あれば、「むちゃくちゃ」を云ってくるかも知れない。しかし、ゆっくり考えて返辞をくれるかも知れない。そんなことを想っていた。

* 返辞は、翌朝来た。娘の名乗りはどこにもない。誰が書いているか判じも付かない。
発信元の名乗りは「h..oshimura」とあり、怪文書並みに、この頭字には全然心当たりがない。

★ 創作と現実の区別のつかない方と、交信する気はありません。
私を愚弄し、みゆ希を苦しめることに
夫婦揃って人生を使い果たしたいなら、勝手にしてください。

* むちゃくちゃに激昂した罵詈の言葉ではないと感じ、可能なら対話を続けたいと、「冷静に、もう一度。父」という二度目のメールを送った。
その際、案じたのは、このメールアドレスはもやが娘でない誰か、夫・★★★にでも使われているか。さもなくても、娘がすべて夫に打ち明わたしの提案を読ませるかも、という危惧だった。
あり得るとも、まさかとも想ったが、一つの思いには、それで娘の態度なり姿勢なりが見えて来るということも有った。

☆ 夕日子に。冷静に、もう一度。  父

h..oshimura という署名の「h」の意味は分かりませんが、夕日子自身の返辞と思い、感謝しつつ短い反問を呈します。冷静に読んで下さい。

> 創作と現実の区別のつかない方と、交信する気はありません。

これは、小説読みのプロとして、幾多の仕事で実績を持っている私には、根拠のない八つ当たりに思えますが。

< 幻想をはらんだ小説で、そういうリアルな推測は普通は邪道であるが、その下地には、夫婦の家庭が崩壊状態にあり、離婚必至の死に体であったという、娘・やす香や行幸姉妹を介した、先の親友証言と、もののみごとに符合し裏付けられている。

< 「小説だ」とも謂ってしまえる。確かに小説にちがいない。しかし多年「小説家」であるわたしには、小説であるというその「意味」は、幾重にもいろいろに分かっている。小説を利して書くことも、小説に隠れて書くこともある。フィクションの意味である。
娘は明らかに此処から書き出している。此処に動機がある。この「梢」という妻の、いわば夫からの逃避行はあわれに美しくすらある。

と(父は前便に)書いています。「区別」の問題でなく意識や動機が小説(フィクション) にどう現れてくるかを、「とらえる」ということでしょう、鑑賞(原文では干渉と誤記したかも知れない。)も批評も理解も解釈も。その「とらえかた」は間違いだというのなら「反証」すれば一応話は分かるけれど。

> 私を愚弄し、

これまた、丁寧に自分のメールを読み返したけれど、意味が分からない。もし強いて謂えば「いまごろになって、遅すぎる」という咎めなら、悔いて悔しいと書いているように当たっているが、「愚弄」という、辞書によれば「人をあなどりからかうこと」という気持ちは微塵も持っていないし表現してもいない。父の「提案」はしごく真面目です。

> 行幸を苦しめることに  (原文だが、私は仮名化しておく。)

これまたわたしたちがどうして行幸(仮名)を苦しめるわけがあろう、法廷にも、行幸を大人の醜い争いのせめて埒外に置いて欲しいと繰り返し懇請して来続けたし、どんなに案じてその平安を願っていることか。
行幸は、かつてのやす香と同じく着実に成人してゆくに違いなく、かならず自立した判断や思想の持ち主に成長してゆくので、或る意味では心配していないのです。
一つには、わが家へ訪れていた頃の嬉々として朗らかな行幸を実際に観ています。やす香とともに、保谷へ来ていることも行幸は確実にきみにすら秘して話さなかった。話してはいけないと姉妹は分かり合い、しかし、最後に訪れた一昨年二月二十五日には、「もう一年のうちには、問題が無くなる」とも頷き合うように話していた。不安におそれながらも親たちの離婚があるかも知れないと姉妹は感触していたのでしょうか。
わたしとやす香が「mixi」の「マイミク」であるのもその時から行幸は知っています。
少しキツク云えば、姉に慰められながら夜ごと泣くほど行幸を苦しめていたのは、両親の「夫婦生活崩壊」ではなかったのですか。行幸が、強い碁の楽しみをやめてしまったのも。
わたしが、サイトに書いてきたことなどにしても、行幸が、自立心のある大人になったときは、冷静に的確に判断するでしょう、賢い子です。
それにしても今の高校二年生という過程は、とても大切。わたしたちが、誰よりもいま心配しているのは行幸の近未来です。苦しめるどころか、なんとか力になりたい気持ちです。手出しは一切していませんけれど。

> 夫婦揃って人生を使い果たしたいなら、勝手にしてください。

わたしたち両親の人生が、どんな日々かは、わたしのサイトの日常の愛読者であるらしい、きみ、夕日子には、よく見えているはずです。
裁判劇などで人生を使い果たす無意味さをよくよく知りつつ、協力して、かなり楽しい満たされた老境を歩んでいます。友も知己も多く、その人たちが期待しているのは、一つにはわたしたちの健康と、たゆみない作家生活、そしてきみ夕日子と行幸との、颯爽と健康な「今後」の発展です。

わたしたちは、云わないよ、夕日子に。

「不味い道草を喰いながらせっかくの人生を使い果たしたいなら、勝手にしてください」 などという放言は、決してしない。
残された多くの時間と努力とで、きみ、夕日子の秘めた才能にみがきをかけて欲しいと、父も母も素直にねがっているだけです。

今朝の「私語」にこう書いた。今分はやはり「記事略」にしますけれども。
2008 8・12 83

今朝の「私語」にこう書いた。今分はやはり「記事略」にしますけれども。

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* 八月十一日 月

* 新しいマイミクさんの日記の末尾に、「罪悪感を無視してみるのも、たまには悪くない。」とあった。
深夜に雨を聴きながら自宅で独りで缶ビールをあけた。お父上の「影響で」自宅では決して飲まなかった、「罪悪感」があった、のに、どうしても飲みたくなった。ま、それはそれ。末尾の述懐も深刻ではないようだが、このフレーズ一つだけを相手にすると、いろんな想いが付いてくる。
かんたんに是認もしにくく、否認もしにくい。人は、こうして新しい曲がり角を曲がって曲がって進んでゆくのだろう。曲がり角の先に深い闇があるか、明るい展望が開けるかは、分からない。たいがいは何でもなく、自然、その罪悪感から遠のいて行く事例が多い。
人の持つ、大小深浅の「罪悪感」とは、何だろう。

* 見付けた娘の小説『ざばぶるぐ』の中程で、「梢」は、こういう場面に遭遇していた。断っておくがこういう「リアル空気」の場面は、夢から覚めた瞬間かのように、いわばこの方がシュールな物語の「外」側にある。梢は「外」に堪えかね、幻想的で「内」側なる異世界へ、例えば「先生」を尋ねてゆくのであるらしい、いや作品世界は、いま一段微妙に屈折している。

☆ ざばぶるぐ  より一部引用

梢の新しい趣味(=秦注・ 娘に独特の、幻想をはらんだ囲碁ふうパソコン対局)を、夫は喜ばなかった。

いや、そんなことは初めからわかっている。息子が幼稚園に入って、梢が母親たちの手芸サークルに加わろうとしたときも、小学校に上がって、保護者の勉強会に出ようとしたときも、夫は喜ばなかった。お茶の会一つに出かけようとしても、身繕いの気配に気づくと、何やかと用を言いつける。応じているうちに出かける時を失った。言いつけを断ろうものなら、「専業主婦のくせに」「だれのおかげで食べていけると思っているのだ」と、お決まりのせりふが降り注いだ。そして次の週、生活費はもらえなかった。書斎の入り口で頭を下げ、「おまえのような育ちの者が、分不相応を望むからだ」と嗤われながら、梢は金を受け取らねばならぬ。その額は、夫の気分次第で、いくらでも下がったが、黙って頭を下げて、退出するしかない。

昔はこんな人ではなかった、と、梢は思う。

夫は大学院生で、梢は学部の事務員だった。祝福され、からかわれながら、2人は連れだって大学に通った。だがしばらくすると、夫は仕事を辞めてほしいと言い出した。院生が事務員に養われていたのでは面子が立たない。その言葉を、梢はほほえんで受け入れた。自宅近くの小さな事務所に経理の口を見つけ、母校でもあった大学を、梢は去った。

やがて助教授職を得た夫は、経理の仕事も辞めたらどうだと言った。仮にも州立大学の助教授なのだから、身重の妻に「そんなところで」働いてもらわなくていいというのである。悪阻に苦しんでいた梢は、むしろ感謝して、その言葉に従った。

事の始まりは、ささやかなプライドの衣を着た控えめな愛情だったと、梢は今でも思っている。思わなければたまらない。少なくとも大学にいる間、夫の給料は「夫婦の」口座に振り込まれていたし、その口座の管理は梢自身がしていたのである。

だが、ある時、あれは息子がようやく歩くようになったころだったろうか、生活費の口座はからになっていた。そして夫は、もう大学に勤めていなかった。問い質すと、なにがしという研究所に「引き抜かれた」のだという。それがどんな研究所か、梢は知らなかった。さらに問うと、おまえには関係ないと言われた。

子どもも小さいのに、生活は大丈夫?

激昂する夫を、梢はあの時、初めて見た。

金ならある、悔しかったら稼いでみろ。

札束を投げつけて、夫は怒鳴った。

何が起こったのか、わからなかった。尋ねる気力は、失せていた。

職を変わってから、夫の生活は不規則になった。「仕事」はほとんど、家で行われた。たまに朝、出かけたので、きょうはと思って遠出をすると、先に戻っていて、昼飯がなかったと烈火のごとく怒った。そうかと思えば、ふいと出かけたなり何日も戻らなかった。梢には、生活の組み立てようがなかった。いつも家にいて、「おい」と呼ばれたら、返事をしなければならなかった。

とはいっても、経済的には、むしろゆとりができたようだった。夫はいつも施しのような態度で梢に金を渡したが、その額は少なくなかった。梢は小さなコンピューターを買うことができたし、それを使って、居ながらに学びを得ることができた。買い物もほとんど注文で済ませて、割高であることは苦にならなかった。やがてこっそりと在宅の仕事を見つけて、ささやかな小遣いも稼ぐようになった。

だが、そうした抜け道に夫は遅からず気づき、梢がコンピューターに向かうと、たちまちに用事がふえた。それはほんの、「お茶」ということもあれば、何が入っているのかわからない封筒を、何をしているかわからない事務所に届けるようなこともあった。

メールじゃいけないんですか。

そうつぶやいて逆鱗に触れて以来、梢は逆らうことをやめてしまう。むしろ、家から出られることを喜ぼう。ポケットに小さな本を忍ばせて、梢は電車に乗った。時間は計られ、帰宅が遅れれば叱られるのはわかっていたが、車中で本を読むことぐらいはできたからである。だが、いつも長時間、電車に乗れるわけではなかった。歩くしかないようなところもあった。それでも散歩だと思って、梢は空を仰いで歩いた。

何を泣く、こんなによい天気なのに。

そうつぶやきながら、歩いた。

(中略)

白い紗におおわれた窓からやわらかな光が広がって、じっとしていると、繭玉の中で夢を見ているような心持ちになる。女はその心やさしさを振り切るように、庭へのガラス扉を開く。そこには丸い芝生がある。杜の中にただここだけ、広々と開けている、青い空。

光の柱のまんなかに、丸太のふたり乗りブランコがある。子どものころは友だちも、よくここまで遊びにきたものだ。ブランコは庭師がつくってくれた。木馬も、滑り台もあった。芝生はさながら、小さな遊園地だった。だが、いつからか、ここにはだれも来なくなった。

わたしが外へ出ていくようになったから。

だれもいないはずの芝生のまんなかに、たった一つ残ったブランコが揺れている。

先生!

空を仰いでいた男は、ゆっくりと振り返り、穏やかな笑いを含んで言った。

やあ、どんぐりさん、こんにちは。
* 小説は小説である。これを性急に現実の作者家庭の夫婦関係に直結するのは、読む姿勢として是認できない。が、その上でいろいろに読むのは読者の権利に属している。小説はそのように読まれるし、「読み方」という規則は無いのである。
この小説はシュールな場面からいきなり書き出されてはいなかった。
図書館に行きたいという妻と、書斎でパソコン画面を隠しながらいやみを言い募る夫との、極めて冷ややかな場面に始まっていた。
そして女は家を出て、図書館ならぬどうやら秘密の電車旅へ、涙を堪え身を隠すようにし、駅へ、電車へ急ぐ。
動機=モチーフは露出している。「夫」は冷え切った「他人」であった。家の中が、梢には「外」世間だった。戸外が先へ先へ延びるにつれて梢の「内(身内)」世界へ近づいてゆく。なんだか生まれ育った場所へも近づいてゆく。
「先生!」
「どんぐりさん」 という呼び方と呼ばれ方。まるで漱石の『こころ』みたい。分からない。
こう引用してみて分かる。文章にはほとんど揺れも乱れもない。一にも二にも「推敲」と、父は娘におしえた。才能は推敲の力に現れるよと。
娘は漱石が好きだった。『夢十夜』が好きだった。『ざばぶるぐ』は、堀辰雄の空気と『夢十夜』の世界に添い寄っているとすら読める、ただし未完成。

* 娘が囲碁に趣味深いとは、娘の囲碁友達!?  という未知の人のメールで教えられた。平成十五年(2003)八月はじめだった。五年前だ。
「娘さんは元気にしておられるのでご安心下さい」というメールで、しかもその頃仲間内相手に何かしら「書いている」という話だった。書くなら「本気で書いて」欲しい、風船玉の空気抜きのような真似はよくないと伝え、書いたものを是非読んでみたいと言ったが、本人がいやがるからと教えて貰えなかった。わたしは落胆した。そして忘れた。
もし十二年に娘の『ざばぶるぐ』が書き始められていたのなら、この奈良県に住むという囲碁仲間氏の云っていたのは、後の三作でなく、此の作品『ざばぶるぐ』だったことになる。この時点でこの作を教えてくれ読めていたら、事態はよほど変わっていたかもしれない。

* やす香は碁に手を出さなかったが、妹の行幸は小学生の頃すでに碁を打った。メンバーに選ばれ中国まで対局に遠征したこともある。しかし、やめてしまったらしい。
母親の碁は、なぜ娘はやめたのかというかすかな疑問から、遅れて手をそめて行ったのかも知れない、その消息も『ざばぶるぐ』は何と無く書き示している。
ちなみに中学生の行幸は、わが家に訪れ、祖父の挑戦を退けて勝っている。
母親のはじめた囲碁趣味が気に入らない父親の「影響」で、幼かった行幸はなにとなく「罪悪感」をもち、碁から離れたのだろうか。

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夕日子。静かな心で、落ち着いて、せっかちなリクツへ逃げ込まないで、もう一度、読み直してみてくれないか。
この際、わたしないし両親に落ち着いて尋ねたい不審があるなら、聞いてくれてもいいです。  父
* そして今朝の「怪文書」「Re:」メールが届いた。
わたしももう一度読もう。一度目のほんの「数行の返信」には、まだ「肉声の湿り」があった。これは乾燥しきっている。何かに強いられ捨て鉢に書いたのかも知れない。
二度目の怪文書、重ねて、そのまま記録する。怪文書とはいえ、これを私たちの娘が果たして言うか、と、気になる物言いを太字にしてみたいが、ほとんど全部になる。

★ 発信者:  h..oshimura 日時: 2008/08/12 0:54
宛先: hatak  件名: Re: D+F|;R$K!!Nd@E$K$b$&0lEY!!!!Ic

拒否されていることすら理解できないストーカーに対し、実際的な対応として着信拒否を設定した。今後いかなるメールも私には届かない。

私は最期の日々のやす香を忘れない。そしてやす香を貶めた秦恒平と迪子を終生許さない。支援の申し出など笑止千万。私の望みは、秦恒平が私の人生から消え去ることのみである。

着信拒否を解除する唯一の方法は、以下の謝罪文を一語の修正もなく以下の2カ所に掲示することである。期限は2つのサイトが継続される限り永遠。文字を小さくするなど姑息な手段を用いてはならない。

謝罪文

一、私秦恒平は、故押村やす香の逝去に関連し、故人の尊厳と遺志を踏みにじる膨大な記述を行ったことを認め、衷心から謝罪いたします。故押村やす香は、その死の瞬間まで信仰心と家族、友人への愛に満ち、明確な意志をもって自らの人生に向き合ったものと認めます。特に治療計画における故押村やす香自身の決断と行動について、「19歳でできるはずのない」「錯誤」と侮蔑したことは私の犯した最大の罪であると認め、故人の御霊に深く額づいて謝罪いたします。

一、私秦恒平は、故押村やす香の著述について、その趣旨を歪曲し、誤った目的のために悪用したことを認めます。また、故押村やす香が心を込めたメッセージを根拠なく他者による「作文」と貶めたことを認めます。故押村やす香が親しき人々に遺した言葉に対する冒涜を私の犯した第二の罪と認め、亡き人の御霊に深く額づいて謝罪します。

掲載場所

一、「文学と生活」更新履歴。常に最上段に置くこと。

一、「湖の日記」プロフィールページ。常に最上段に置くこと。

これは法的判断で行う訴訟での要求は全く異なる、私自身の要求であり、現世の法に守られない故人のための要求である。押村家に対する名誉毀損、プライバシー侵害、著作権侵害等、現世の犯罪については、あくまでも裁判において容赦なく追及する。

追伸

* 言っておく、「第二子(弟・秦建日子)誕生以降二十年」のながきにわたり、実父であるわたしから「性的虐待」「ハラスメント」を受け続けてきたと、インターネット上での謝罪と賠償金を「民事調停」の場に求めている「第一子(姉・押村朝日子)」を、わたしは心底軽蔑し、永訣する。

わたしの帰って行く「本来の家」にこの心腐った娘の影は微塵もささせない。わたしが高校生の頃から、いつの日か我が子にと、こころこめて名付けた「朝日子」の名は返してもらう。せいぜいウソつき「木漏れ日」を名乗って生涯薄暗い虚偽の営為に生きるがいい。

希望とあらばいつでも返却する。「朝日子」なる文字列は、今や社会生活上やむを得ず使用する記号に過ぎない。私はとうの昔に「朝日子」であることをやめている。

表現の自由を乱用し、無用な規制をふやすであろう文筆家の敵、秦恒平。社会から認められないことを「天才の証」と称し、間違いだらけの「筆者当て」に興じる「小説読みのプロ」は、孫の死さえ食い物にし、ゴシップネタでもよいから人に思い出されることを待ち望んでいた。「法廷の外でも、あらゆる手を使って」ようやくこぎ着けた取材は、しかし大いに裏目に出て、結果、太宰賞にドロを塗り、ペンクラブの名を汚し、息子の社会的立場を巻き添えにしつつ、後出しジャンケンに負けた。かくのごとき人間と生物学的なつながりがあるというだけでも、虫ずが走るほど不愉快だ。「ペンクラブ理事が500箇所の名誉毀損」などという新たな記事が載る前に、潔く隠居することを心からお奨めする。もっとも、「潔い」ほど秦恒平と縁遠い言葉も少なかろう。「やめる、やめる」とは口先ばかりで何一つやめず、「死ぬ、死ぬ」と家族を脅しながら生き恥を曝しつづける秦恒平は、結局、誰よりも何よりも死を怖れ、目を背け、およそ「死と向き合う」などという試練には耐えられない。だからこそ、それをなし遂げたやす香を愚弄する以外に、恐怖から逃げる方法がないのだろう。

私は金輪際、秦家の人間ではない。押村高とみゆ希とが私の掛けがえのない家族であり、末期の床で私の手をしっかり握った押村襄、多くの知友が私の実の母と信じて疑わなかった押村芳子、そして誇り高く逝った押村やす香の待つ押村の墓こそが、やがて私のついの棲み家となるのである。

たとえ地獄に堕ちようとも、私が秦恒平と同じ天を仰ぐことはない。

* もう一度言う。真っ先に感じる、この誰が書いたと確認できないメールの文面から、「人格」というものが、全く感じ取れない。
さらに、この文面は、文体的にいろいろの隙間を余して、仮にも筆者が娘である、娘一人であるとはとても言えない。われわれの承知している娘の人柄と文体からはとても出てこない言辞や物言いが随所に多すぎる。一読『ざばぶるぐ』の地の文や文体とも、全然というほど似ていない。むしろ作中の夫の冷酷さに通い合っている。
娘は、『ざばぶるぐ』を、夫に秘したまま、いやもう既にきれいに娘の作品掲載のブログは昨日のうちに消失してしまっているが、娘は、間違いなく「夫との連携・共闘」を選択したということを告げ知らせたいのだろう。夫がわたしからのメールを読んだかどうか、とにかくも上のメールを妻に書かせて、いわば婚家と夫へ従順の「宣誓」を妻にさせたとも推測できる。推測に過ぎないが。

* この際、この怪文書に即応すべく、いとしい孫の死を、祖父が渾身の筆と悲しみとで書き表した日記文学『かくのごとき、死』を、此の位置に置き並べるのが、多大の不審や怪訝とともにアクセスされる方々の判断や批判のためにも、何より適切だと信じる。
『かくのごとき、死』は、電子版・湖の本エッセイ39ででも簡単に自由に閲読して頂ける。むろん有料ではない。

* また此処にも謝罪文をかかげよと云っている「mixi」の「湖」日記に、そもそもわたしが何を書いていたかも、このサイトの「ファイル0」で、全部一覧して頂けるようにした。「mixi」運営当局は、「問題なし」とすでに受け容れている。

* さて、事態は、予想していたように、「むちゃくちゃ」の返信でプッツリ途絶えた。やす香の重病をひとつ「天降の機会」として両家の和解に結びつけようなどと云っていた★★★の本音は、何であったのだろう。

* 親娘ののこされたただ一つのパイプであったメール交信を、強制的に禁じられたからは、夕日子への意思疏通はもはや「このサイト」を使うしか無い。此処へは出さずに話し合いたいと願い、メールで連絡を取った。なのに、一方的に「h..oshimura」から道を塞いだ以上、今後は、此のサイトで「何事であれ書き表す」ことになる。

* 秋から裁判が、つづく。向こうは若い。それだけは彼らが圧倒的に有利である。わたしたちの健康を祈って下さる誰にも、その不安があるということ。
だが、それが何であろう。
誰かが言っていた、たとえ裁判がどうなろうと、こういう「むちゃくちゃ」は、「人間」として必ず敗北すると。人は、ちゃんと見ていると。秦さんには『かくのごとき、死』があり、「聖家族」があり、厖大な「生活と意見」がある。全部を上申書にすれば「決まり」だと思っておりますという声もあった。

* わたしはわたしの「仕事」を通して「太宰賞」にせいいっぱい酬いてきた。ドロを塗ったなどと夢にも想わない。
つい、昨日今日にも、優れた或る文藝編集者は、作品を書いてきた秦恒平も、娘夫婦と敢然闘っている秦恒平も、同じ「作家・秦恒平」さんですと見てくれている。太宰賞の選者の先生達も、お一人残らず生前、受賞後のわたしの仕事を評価し支援して下さっていた。
日本ペンクラブにわたしはいろいろ協力こそしてきたつもりだが、ドロを塗ったなど微塵思っていない。除名の話も、理事を辞めろと云う話も出ていない。来年には好機として久しい退蔵の思いを遂げたいと思っているが。
役員のお一人からは、「こんなバカげたことことで負ける秦さんではない」とも激励されている。

* もう一つ、このメールの中に、わたしが娘をきつく非難している言葉を彼らは引用している。が、その中で彼らは「民事調停」という言葉をつかつているように、この非難は、一昨年秋の「調停」さなかのことで、娘が、自身の「mixi」日記に、わたしには秘し隠して、わたしが「二十年、四十年」にわたって娘に「ハラスメント」を加えていたという、やはり「むちゃくちゃ」な捏造記事を朦朧とした異様な筆致で書いていたのに対する「怒り」の言葉であり、必要ならその娘の日記全部を挙げてみせることが出来る。
しかもなお、わたしは、やす香を喪った母親の動顛をおもいやり、この件については、「赦す」と二度三度書いてきた。現在とは全く無関係な古証文に過ぎない。そうでなければ、此処に挙げたようなメールを娘に宛てて書くわけがない。

* さ、これからまた不毛の日々が続く。とはいえ、この「日録」は、わたしの文藝活動でもある。
好い題さえ付ければ忽ちに『かくのごとき、死』の続刊が出せる。出しても良い。出せなくても、「続いている」と思ってくださればいい。

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電子版 秦恒平・湖の本 エッセイ39

かくのごとき、死  死なれて死なせて  私小説・日記文藝として

闇に言い置く ホームページ「作家・秦恒平の文学と生活」書下し  二〇〇六年六月二十二日―八月十三日

この電子版作品は現在「著作権」をめぐって「係争中」であり、審尋法廷での仮の申し合わせで我々の娘婿の氏名にのみ「★★★」のマスキングをしているが、娘(孫の母親)の名については申し合わせが出来ていない。サーバーも、著作権で係争中のものについては、干渉しないと返答されている。なお、未成年の妹孫の名前および住所は自発的に仮名化または削除している。断っておく。もし漏れ残っていればご示教願う、すぐ改める。

このウエブの電子版・湖の本エッセイ39欄からも長編創作欄からも、すぐに読み出せる。存分、ご覧下さい。

此処には、読みやすく行アキをつくることも太字を用いることもあるが、原文の意味を変えるような変更はむろんしない。

日記である関係上、孫の死の経緯とは全然無縁な記事も時に混じっているのを、それらに限り、趣旨の直通をねがって此処では割愛することもある。

全体の体裁上の整備のために、「まえがき」及び、やす香が「白血病」と自身の名で「mixi」日記で告知した「第一日の記事」だけを掲げて全体の掲載に少し時間をおくか、ないし連載してゆく。そのまえに、順序は逆になるが本巻の「あとがき 跋文」を先頭に掲載しておく。これにより、この衝撃をはらんだ正確な私小説『かくのごとき、死』の趣意は明確に伝わると信じている。

さらに問題の「週刊新潮」が刊行以前に記者氏の質問に答えた全文を、湖の本エッセイ新刊のあとがきから引きだし、掲載しておく。★★★の言葉がいかに虚偽に満ちているかを、一々具体的に反駁否定している。これは週刊誌が出るより早くに、記者の提示と質問にしたがい答えた回答で、「アトだしじゃんけん」どころか、質問のあった六月二十二日即日にウエブに記録している。

私語の刻 『かくのごとき、死』の跋

このショッキングな一巻の内容は一瞥ふつうの日記であるが、昔風にいう、我一人の日記ではない。インターネットを通じ瞬時に地球規模に公開される「ホームページ」の日録を、一部分便宜に「紙の本」に置き換えたものであり、URLアドレス

http://umi-no-hon.officeblue.jp

にアクセス可能な世界中の誰もが、今すぐにも読み取れるのである。
「ブログ」という「場」を借り、日々の暮らしと思いをこのように公開している人は、今や日本国内だけでも無数に増え、一人で、目的別にいくつものサイトをもつ人も多い。
一部上場で急に有名になった「mixi」のように、何百万人もの会員が参加した「ソシアルネット」式の巨大なブログでは、「日記」の「場」を借り、規約に背かない限り自由自在に好きにモノが書け、見知らぬ人達と「コメント」や「メッセージ」を介して知り合ったり、「マイミク」という仲良しになったり、「足あと」を残しながら思うさま人の懐を覗き込んだり出来る。本名も経歴も強いて明かす義務がない。私は本名を明かしてもう幾十という作品を「連載」し「発言」し、会員ならだれにでも読んでもらえる。紙の本時代では夢想もできなかった新しい知人や読者たちと日々に出会っている。

暮らしや思いが、我一人の紙の日記帳に秘匿されるのでなく、刻々に、世界に、あからさまに公開されて行く、良いも悪いもない、人間同士のそんな開放された機械環境は、旧弊な人にはとても容認しがたいであろうが、「インターネット」というワールド・ワイド・ウェブ=世界大に網の目メディアがはりめぐらされた今日また明日、明後日、未来では、それが普通になり、人と人との「意識生活」を避けがたく輪郭づけて行くであろうことは、もはや誰にも妨げられないだろう。あの耳障りで目ざわりな携帯電話の氾濫が、そのような状況を、さらに倍々に、面白ずくにも拡大して行っている。
そういう革命的な新機械環境の効果ないし毒性を前提に、念頭に、どうかこの『かくのごとき、死』一巻を受け止めていただきたい。私の孫娘、★★やす香十九歳の「死」に触れて、著者秦恒平の極く私的で不幸な嘆きの記録である一方、この一冊は、モノ、コト、ヒトの総てに新たまる新世紀に、先駆的な或る「様態」を提示する報告書でもあるからだ。私が言わなくても、いち早く識者は刮目し、「驚き」を隠していない。

春秋社刊「思想の身体」叢書の『死の巻』巻末の「対論」で、中村生雄氏(学習院大学教授)に、以下の発言がある。コトの順序は、正しくは語られているのと逆で、氏の発言後半に「そのホームページによりますと」とある以降が事実は先行していたのだが、それは後で説明するとして、先ず「人の死」の状況激変に驚く氏の言葉を聴いていただこう。

(前略) もちろん古くから変わらない死の普遍的な側面、つまり愛する者の死を嘆き悲しむという、万人に共通する死についての経験は変わらないと思うのですが、一方で死を取り巻いている状況というものは、現在大きく様変わりしていると思います。
一つ具体的な例を申しますと、この一カ月ほど、私がすごく心を打たれ、毎日毎日関心を持って見ていたホームページがあります。それは、ある著名な作家の方が開いているホームページでして、そこにはご自分の既発表の作品やエッセイ、それから創作途上の作品、日々の動静など、じつにさまざまなことが載せられている大規模なホームページです。そこには、ご家族のこと、ご自分の交友関係のこと、作家仲間での公的な業務のことなどが、日記のかたちで毎日じつに詳細に書かれています。したがって、不特定多数の人たちがそのホームページを通じて、その作家の創作活動の裏話とか人間関係とか、普通は知ることのできない内輪の事情を読むことができる。
で、そのホームページでその方のお孫さん、まだ大学二年生で一九歳だったのですが、そのお孫さんが病気になり、短期間で亡くなった経緯が毎日報告されたのです。彼女は今年の三月ごろから体調を崩し、なかなか原因がわからずにいで、最初は白血病だと言われたようですが、あとから肉腫だと宣告され、この(平成十八年)七月の下旬に亡くなりました。
その闘病の期間中の肉体的苦しみ、精神的な不安を始めとして、娘さんと両親との関係や、母方の祖父・祖母に当たる作家ご夫婦との関係など、かなり複雑で簡単には説明できないのですが、細かく書かれていました。
それを読んでいて私が特に重要だと思った点は、そういうごくごく内輪のことを、当事者の側がインターネットというツールを使って公開することで、見ず知らずの人の死のありさまが、誰でも手に取るように読めてしまうということでした。この場合は、特に若い娘さんが突如重篤な病にかかり、半年という短い間にとても苦しんだ末に亡くなってしまうという大変残酷な出来事だったのですが、それが毎日毎日更新されるホームページで刻々と報告され、それを大変多くの人が読んでいるという事態がある。その娘さんの気持ち、ご家族の置かれた状況に胸をつかれるということはもちろんなのですが、そういう気持ちを不特定多数の人がリアルタイムで経験しているという事実もまた、私には大変衝撃的でした。
今は病院で死ぬことが普通のため、なかなか死のリアルな実感を持てないと先ほど述べましたが、一方ではそうしたネット・メディアを通して、今このときに死に臨んでいる患者さんや、それを取り巻く家族の動静もわかってしまう。ある意味で、その患者さんや家族が体験していることを、ネットを通じて同時に体験することができる。そういうことに驚いたのです。
またそのホームページでは、それを読んだ友人や読者などが作家宛に送ったメールが転載されています。毎日毎日の動静をホームページで読んで胸を痛めている人たちが、その娘さんを励ましたり、ご家族の気持ちをいたわったりする。そういう私的なやりとりがホームページに掲載されて、みんなが読む。その結果、その娘さんの病気を中心にして、大変な数の人たちがインターネットを通じて一つの気持ちを共有し、最後にはその娘さんの死に立ち会っているような気持ちまで共有することになる。
ホームページを読むみんながまるで当事者のような気持ちになって見守る中で、その一九歳の女の子が苦しみながら最期の時を迎える。そんな、ある意味で残酷なドラマのような出来事が、つい一週間ほど前にあったのです。こんなことは、以前にはまったく想像できない、死を巡る大変に現代的な現象だろうと思います。
それからもう一つ、今度の娘さんの死のことで気がついたことがあります。先ほど(帯津良一)先生は、病院で死んでも家庭で死んでも、実は死の場所はあまり問題ではない。むしろ、ちゃんとした人とのつながりが確保されていることが重要で、そういう場所があるのなら道端で死んでもかまわないんだと言われましたが、そのことに関連します。
そのホームページによりますと、娘さんは、mixi(ミクシィ)という限られたメンバーだけがアクセスできるメーリングリストのようなサークルに入っていました。ミクシィでは、携帯からもパソコンからも自由にそこに投稿でき、それを特定のメンバーが読み、読んだ人がそれについて感想を述べたり反論を書いたりすることができるインターネット上のコミュニーティです。彼女はそこに参加していて、病院のベッドの上で最後まで携帯のメールを打ちつづけ、死が刻々と迫ってくる状況とそのときの自分の心境をメンバーに伝えつづけでいたということです。
息も絶え絶えの病床にあって、十分には動かせない指先で携帯のボタンを押し、目前にせまった自分の死を巡って克明に自分の気持ちを友だちに伝え、感謝の言葉や別れの言葉を書き込む。それを読んだ友だちが激励の返事を書き、最後のお別れをする。
もう末期の状態ですから面会はできないけれども、ネットを通じた回路で彼女は非常に密に多くの友人たちとつながっていたことがわかるんです。そういう多くの人たちにネットを介して看取られる形で、彼女は亡くなっていった。そこには、一〇年前にはとても想像できなかった新しい人と人とのつながりができていたと思います。携帯やインターネットのなかった時代には、とても考えられないことです。 (後略)

孫やす香の「癌死」への足どりは、彼女自身の詳細な「mixi」日記に、今年(平成十八年)の一月二月から、苦痛の劇症を縷々訴えながら書かれ続けていた。やす香と「マイミクシィ(とくに親密な交信者)」であった祖父の私はむろん、夥しい人数の友人達が、大人達が、行きずりの会員達が憂慮に憂慮し、「shi=死」という文字を以てしてまで一刻も早い適切な診療を受けよと勧め続けていたのだが、思えば異様にも、その厖大な量の日記に、「一つ家」に暮らす家族への愁訴も、家族からの適切な関与も、一言も書き込まれていなかった。そして空しく半年が経過、六月十六日頃か、苦痛を堪え独り訪れたらしい病院から、やす香は母親の電話に「入院が必要」という医師の勧告をやっと伝えているのである。それでも親は、母親は、事重大に驚きつつ、なお自分自身の関心事である地元「(**)がくえんのコーディネーター」と娘の死命との「二者択一でなくていいはずだ」と、自身のブログに書き込んでいるのだった。

*Posted by ぬぼこ(=★★夕日子) at 08:40 | 娘 |
並行宇宙 [2006年07月01日(土)]

ふれあいサタデーに向けて駆け回る私に 一本の電話が入る。
体調不良で でも、「どこも悪くないですよ」と言われつつ、幾つかの病院をめぐっていた長女の その「不調の原因を突き止めてくれた病院」がある そこに入院するという電話。
ありがたいニュース………のはずだった。
だがその病院に駆けつけて以来 私はほとんど病院を出ていない。洗濯のために家に2回帰っただけ。
仕事に大穴を開けたあげく、幾つかのオファーをキャンセルする。
流れていた時はすべて断ち切られ、過去はすべて邯鄲の夢であったように、並行宇宙での活動であったように、今の私に繋がっていない。
こちらが夢ならいいのにと思う。
ふっと目覚めたら、梅雨の蒸し暑い空気のよどむ、自室のベットの上ならいいのにと思う。
だけど、病院にパソコンを持ち込んで、私は試みる、この宇宙と、あの宇宙をつなぐように 病院の窓際に座る私が現実であると同じように (玉川=)がくえんという街と、そこでの活動を 私の現実として取り戻すために。
ブランクはたった2週間だ。
二者択一でなくていいはずだ。
私は負けずに進んでいこう。娘が闘っているように、私には私の闘い方があるだろう。

二週間の「ブランク」と嘆いているのは、六ヶ月に及ぶ適切な検査や診療を欠いた無惨な「空白」の意味ではない。この母親が二月以来熱心に書き込んできた自身の「ブログ日記」が明かすように、町田市の「主任児童委員」を自負する夕日子は、ひたすら地元玉川学園の一画の「コーディネーター」であろうと奔命していた。それの中断した「ブランク」を、七月一日というやす香重篤の時点で、なお悔やんでいるのだ、熱意には感心するが、「長女やす香」の病状に対する関心も言及も、ブログ記事の何処にも片言だに看て取れない。子「やす香」と母「夕日子」の二つの「ブログ日記」をさながら「合わせ鏡」に逐一読み合わせて行くかぎり、子の「寂しさ」と母の「無関心」とが、悲しくもくっきり目に見え浮き上がってくる。

そして「六月二十二日」には、なんとやす香「本人」の名で、「私は白血病」と「mixi」に公開した。「かくのごとき、死」が遁れがたく始まった。
「白血病」はやがて「肉腫」と診断替えされ、驚くまいか、それも十九のやす香自身の「名」で「mixi」に公表した。本人にこの恐怖の病名が告知されている事実に、とび上がるほど私も妻も衝撃を受けた。懇意などんなドクターも「本人に肉腫を告知するかなあ。ボクは絶対しない」と首を傾げた。
それにしても、もし「mixi」というソシアルネットが存在していなかったら、病名はおろか、やす香の入院すら祖父母は知り得ない難儀な事情に、秦家と ★★家とはあった。わたしが自分の「ホームページ」上で愛しい孫の病状や経過に日々心を砕いて嘆き悲しんだのも、「mixi」があってこそであった。

上の中村生雄氏は、何にも先だって「mixi」上に湧き起こった「かくのごとき、死」への実際を、たぶん自身見聞はされていなかったと想われる。しかし、かなり適切に推測され、また或る意味で時代にさきがけた「かくのごとき、死」の「意義」を、哲学的に正当に評価されたものと、敬服している。
人の「死」に関しては、私にも早く弘文堂「死の文化」叢書の一冊『死なれて死なせて』が有り、じつは、この「死なせた」という言葉に躓いたやす香の両親、★★★(青山学院大教授・国際政経)と★★夕日子(私の長女)は、娘の死から数日経たない八月早々から、やす香の祖父である私を、刑事・民事両面から告発すると威嚇し始めたのである。理由? 「死なせた」とは、自分達やす香の両親を「殺人者」と謂うのだ、名誉毀損だ、と。

「死なれて」はひたすら悲しく、「死なせて」では自責の念が動く。私は、やす香の苦しみを知りながら、親たちに直接告げて適切な配慮を求め得られなかった。断絶があった。それを悔しく思い、「死なせてしまった」と泣いてやす香に詫びていた。力至らず「死なせてしまった」思いにひしがれた人達は世間に幾らでもいる。だれが「殺人者」なんかであるだろう。
漱石作『心』の「先生」は「K」を殺したのではない、だが「死なせた」には相違なく、「先生」はその悔いを自ら死ぬ日まで投げ出せなかった。
★★夫妻の言いがかりは、だが、ヒステリックに拡大しつづけ、ついにやす香の母親は、我々両親に向かい、第二子(弟秦建日子)誕生以来「四十年」にわたり虐待・性的虐待を受け続けてきたとまで、会員何百万の「mixi」のブログに書き散らし始めたのである。

インターネット環境は、かくも、不潔極まるドツボとしか思われない悪情報や悪勧誘で氾濫しつづけている。人は他人の持っているブログの総てを確認できるわけがなく、このウエブ世間では、何処でどんな罵声・悪声・罵詈雑言を捏造して流布されているか知れたモノでないし、残念ながら防ぎようがない。つまり「人の口に戸はたてられない」という大昔からの諺が、はるかに大規模に広範囲に行われ得て、おそらくは今世紀も来世紀もこのままに推移してゆくのは確実、それが普通になるであろうと私は観ている。日本ペンクラブの中に、国際ペンすら持たない「電子メディア委員会」を提言し、創設し、最初の委員長に就任したときから、こういうことをわたしは見通していた。
何が起きてくるかわからない、そして大方は容易に防ぎようがない、だからまた「心用意」が必要なのだ、と。

そのもう一つ顕著な事例が、やはり★★と私との確執の中で、起きた。やす香の「mixi」日記の僅かな一部をわたしが日録に引用しているのは、「相続権者」である★★夫妻の権利を犯すものだとの訴えを鵜呑みにした大手プロバイダが、数万枚に及ぶ厖大で多彩な「ホームページ」内の「全著作」を、あまつさえ作者二百人に及ぶ電子文藝誌「e-文庫・湖(umi)」作品までを、残り無く消却に及んだのである。それもユーザーの私へ的確で深切な連絡も意思確認も全く欠いたままである。
電子メディアを表現や言論の「場」にしているウエブ運営の総員にとって、これは脅威・驚愕、悪夢の事例であり、しかも東京地裁審尋による和解判決も、とても納得できるものではなかった。まったく無関係な創作内容を満載の日録を三ヶ月分「全削除」の条件で、プロバイダは「その他」を復旧させたのだ、私は直ちに契約を解約し、別の道を探索し元通りの復旧を実現した。

この巻は、繰り返して言うが、ただの私的な日記ではない。電子メディア時代の表現も言説も、そこでのヒトも、コトも、モノも、ますますこういう新しい強い意思により決定されて行くであろうという事例を此の時代に対し「報告・予告」するとともに、新しいタイプの「私小説・文藝作品」としても提出したのである。

 

秦 恒平・湖の本エッセイ44『きのう京あした』

(この著作は「秦 恒平・湖の本エッセイ」という著作権のある著書である。
本巻は「係争」対象ではないが、ウエブ上での限定されたマスキングの申し合わせを容れて、娘の夫のみを「★★★」としてある。
なお未成年の孫の名は、自発的に仮名化してある。もし漏れていればご示教下さい、すぐ訂正します。)

私語の刻  跋

この巻のことは、第四頁に、簡単に書いた。遠慮なくきびしい言葉は用いているが、わたしの京都への愛情はナミでない。お世辞を使わないだけ。アンビバレントは、年ごとに愛慕寄りに戻りつつあるが、これらの原稿を書いた当時は「いま自分が言っておかねば」といった気分だった。いつも歴史の読みとともにわたしの京都は生き生きしていた。自分の庭を歩いている気分だった。「京味津々」は威張った物言いだが、それもいい。食い物の話だとは思わないで欲しい。

子どもの頃、「あんたに褒めてもろても嬉しゅうはございまへん」と、腹立たしげに憮然としている大人を初めて見て、人を褒めるのにも、相手により事柄により「斟酌」が必要らしいと、深く愕いた覚えがある。「人の善をも(ウカとは)いふべからず。いはむや、その悪をや。このこころ、もつとも神妙」と昔の本に書かれている。智慧である。
「口の利きよも知らんやっちゃ」とやられるようなことこそ、京都で穏便に暮らすには、最も危険な、言われてはならない、常平生の心がけであった。京の智慧は、王朝の昔から今日もなお、慎重な、慎重すぎるほどの「口の利きよ」を以て、「よう出来たお人」の美徳の方に数えている。
「ほんまのことは言わんでもええの。言わんでも、分かる人には分かるのん。分からん人には、なんぼ言うても分からへんのえ」と、新制中学の頃、一年上の人から諄々と叱られた。十五になるならずの、この女子生徒の言葉を「是」と分かる人でないと、なかなか京都では暮らして行けない。いちはなだって、声高に「正論」を吐きたがる「斟酌」に欠けた人間は、京都のものでも京都から出て行かねばならない、例えば私のように。

京都の人は「ちがう」と言わない。智慧のある人ほど「ちがうのと、ちがうやろか」と、それさえ言葉よりも、かすかな顔色や態度で見せる。「おうち、どう思わはる」と、先に先に向こうサンの考えや思いを誘い出して、それでも「そやなあ」「そやろか」と自分の言葉はせいぜい呑み込んでしまう。危うくなると「ほな、また」とか「よろしゅうに」と帰って行く。じつは意見もあり考えも決まっていて、外へは極力出さずじまいにしたいのだ、深い智慧だ。

この「口の利きよ」の基本の智慧は、いわゆる永田町の論理に濃厚に引き継がれている。裏返せば、京都とは、好むと好まざるに関わらず久しく久しい「政治的な」都市であった。うかと口を利いてはならず、優れて役立つアイマイ語を磨きに磨き上げ、日本を引っ張ってきた。京都は、衣食住その他、歴史的には原料原産の都市ではない。優れて加工と洗練の都市として、内外文化の中継点であり、「京風」という高度の趣味趣向の発信地だった。オリジナルの智慧はいつの時代にも「京ことば」だったし、正しくは「口の利きよ」「ものは言いよう」であった。この基本の智慧を、卑下するどころか、もっともっと新世紀の利器として磨いた方がいい。

以上、私・秦恒平の持論である。多年かけて得たほとんど「京都」に関する我が結論であり、早くに『京の智慧』と題し京都新聞にこのまま掲載したこともある。湖(うみ) の本のどこかにも収めている。
ところが以下に掲載する長文は、はなはだ、上の理解・結論と背馳して見え、みなさんを愕かせるだろう。顔色を変えて、こんなことは外に出して言わん方がいい、秦さんの人品をさげるだけだと親切に止める人が多かろう。言う人に言わせておけ、争うな、と。
たしかに「京都風」でない。大切に想う人に教えられたこととも違うようだ。

だが、そのように理非を内へ抑えて、どういう人品が光るというのか。知識人が責任有る言葉を用いず、あいまいに物陰に逃げて「NO」を言わなかったことが、どんな災禍を招いたか、現に今も招いているか。かつてはそれ故に無辜(むこ)の民が戦争の凶悪に無数の命を棄てたではないか。

「法を以て理を破るも、理を以て法を破らざれ」と初めて読んだとき、仰天した。「禁中並公家諸法度」などを京都に強要した江戸幕府の鉄則だった。「いかなる人間の情理も真実も法の力で押し破ってかまわない、いかに人間の情理や真実であろうとも法を破ることはゆるさぬ。」
なんという凄い、物凄い暴力か。法治国家なら当たり前などと思っている出来損なったのが賢いつもりでいるから、此の世は住み辛くなる。事の真偽はどうでもいい、法だと。ナチは、「法を以て理を破るも、理を以て法を破らざれ」の権化だった、彼らの法とはすなわちゲシュタポであった、情理や真実はおろか命も屑のように扱う冷血であった。
いま日本の政権のしていることも、自分たちに都合のいい法を乱立しておいて、真実と情理に富んで誇らしいわれらの日本国憲法は平然と押し破るのである。其処の所を読み違えてはならない。

そもそも法と理とが対立するモノのように思う法理解が歪んでいる。真偽のなかに真実と情理を問わずにどうしてまともな法判決が可能になるか。或る知識人が行きずりの女性の恥ずかしい写真を撮ったり、ウエブに載せたりするのと、祖父母が幸福感に溢れて撮った孫や我が子の写真を、嬉しさ愛おしさ懐かしさで自分のウエブに掲示するのと、ひとしなみに罪するような法なら、いくら法律家がシラーッと「それもこれも同じ違法行為」ですと謂おうとも、わたしの理と真実とは受け容れない。そういう一律の強行こそを「無法」と謂うのである。わたしは京都が好きであるが、陰口は構わない、外へ出てハッキリ言うなという京都風にも日本風にも賛成でない。だからわたしは京都を出てきた。落首もふくめて匿名という「文藝」批評にわたしは反対しないが、文学者が「書いて」言わず、仮名や匿名や「陰口」に萎縮するのは、間違っている。言うべきは、自身も名乗り、相手の名もあげて言わねばならぬ。

六月二十六日。週刊新潮が、「孫の死を書いて実の娘に訴えられた太宰賞作家」という記事を出した。正しくは「婿夫婦に訴えられ」ている。原告筆頭は、娘夕日子(仮名化してある。)の夫である青山学院大学国際政経学部教授の★★★で、名誉毀損と著作権侵害とで千四百二十万円と謝罪状を要求して提訴している。凄い。わたしは ★★の著作など一文字も読んでいない。娘は主婦で、プロの作家でも著作者でもない。本も無い。
週刊誌記事を見た人は、実父を「訴えた」「実の娘」の、名も顔も一言葉も記事の中にないのに看板に偽りを感じたろう。すべて★★が仮名の「高橋洋」なる配役(ペルソナ)を演じて、妻の代弁者ですという風に喋っていた。
青山の教授といえば社会的責任もある公人ではないか、まして原告が名前も所属も地位も隠して取材に応じるなど、「うしろ暗い」事があるのかと、すぐ不審の声が上がっていた。
じつは幸い、発売数日前、★★★に話を聴いてきた記者氏が、六箇条の★★発言を直接話法でメールで読ませてくれて、反論を求められ、すぐに書いて渡した。「後日の証」、に雑誌発売前に自分のHRに記録した。以下に掲げて、原告★★の言いぐさが、いかに虚偽多いかを明かしておく。

湖の本エッセイ39 『かくのごとき、死』参照。

(主張をハッキリさせる意味で、また、こういうことを記者に答えて、秦を名指しで非難しているのがいったいは誰であるかを明かしておくのは公平な処置だと思い、ふだん★★★(=★★★)の名をマスキングしません。(此処ではしておく。)★★が先ず話し、記者が秦に感想を問うています。)

① 実の娘が父親を告訴したというのは、あまり例のないことですが、何でもかんでも書かれてしまうのを止めさせるには法的手段しかない。すでに書かれてしまっている文章も含めて取り消しを求める。やむをえない処置である。秦氏に悪意はないとしても、実の娘に嫌われるのを知りながら、なお勝手なことを書きつらねて世間に公表してしまうような父親がこの世にいますか?

● どうお考えですか?

☆ 反駁  「秦氏に悪意はないとしても」とあります、娘に対して悪意など有るわけがないのは、十年に亘る「日録」で、孫・やす香の死以前のたしか九九ヶ月に至る長期、原稿用紙なら何万枚の大量のなかに、★★★に触れた箇所が、僅か七、八回(全部で千字に満たぬ程)だったと記憶します。それに対し、両親で夕日子を想い、その平安を祈り願い懐かしく記述した箇所は、毎年の誕生日を初め、数十度か百度にも及ぶでしょう。読者はみなよくご存じです。
二○○五年七月二十七日 水  四十五歳になったはずの娘夕日子を祝って、朝一番に、妻と赤飯を祝った。心すこやかにいて欲しい。

* また「実の娘に嫌われるのを知りながら」とありますが、07.09.09に弟・建日子は、父に向かい、「もう百万遍も俺は言ってきたよ」と、また、このように、繰り返しています。
「夕日子は、ビョーキなんだよ。夕日子はお父さんがめっちゃくちゃ大好きなんだよ。その大好きなお父さんから良きにつけ悪しきにつけて、例外というモノもコトも無しに愛されたいヤツなんだよね。是々非々の愛では絶対にダメ。しかしおやじは、いいときは手放しで褒める、しかしダメな時やモノやコトにはきちっとダメを出し、半端にはうけいれないでしょう。俺はそれでい
い。夕日子は、それでは絶対に不満。そして褒められたことや愛され可愛がられたことは忘れても、ダメとつきはなされたことは覚えに覚えて、それが積もって、今では憎さ百倍、何としてでもお父さんに復讐し勝ちたい。そういうビョーキなんだ。仕方ないんだよ」と。

* 「実の娘に嫌われるのを知りながら、なお勝手なことを書きつらねて世間に公表してしまうような父親がこの世にいますか?」などという俗論は、「学者の婿には、舅姑は黙ってイキに金を出せ、」出せないなら「姻戚を絶つ」と、親の頭を殴りつけるような★★★だから出るので、「いいときは手放しで褒める、しかしダメな時やモノやコトにはきちっとダメを出し、半端にはうけいれない」「おやじ」を、まるで理解できないのです。しかし、それが、わたしの、「父である」姿勢なんです。「逆らひてこそ、父」なんです。

* 夕日子は、父が「嫌い」どころか、母にはよう甘えないのに、父には、入院中でも毎日見舞うと、手を掴んで放せずに泣く子でした。女子高時代いやがるわたしを泣き落としにPTA会長にさせたり、作家代表で訪ソ連の時は、大きな荷物をひっぱって横浜港の桟橋まで一人で見送ってくれたり、結婚の時はわたしに★★★を紹介されて、ものかげで母に照れながら嬉しさを告げたり、パリ在住の時も新聞小説のためにシシリア写真集をわざわざ探して送ってきてくれたり、わたしの作品や仕事にはよく意見を語ってくれ、結婚後にも、母の名代でいっしょに婦人雑誌のために四国中国に仲良く旅して和やかないい写真をたくさん誌面にのせたり、何度も親愛に富んだ感謝の手紙や、やす香の近況などを、親に送り届けているのです。全部もらさずモノが残っています。むろん金も頼まれました。そういう「父」と「娘」なのです。

* じつは、息子より先に、娘が才能を広げるかも知れぬと期待していましたから、娘の若書きの雑文でも詩でも、大事にわたくしのウエブに保存し、人の眼に触れて欲しいと願ってきました。多年に亘り一言の苦情も有りませんでした。
だからこそ、「夕日子が小説を書き出したよ、見てやって」と、弟・建日子が知らせて来たときは「驚喜」し、その喜びと感想とをウエブに書き、本の後書きにも書き、編輯している『e-magazine 湖(umi) = 秦恒平編輯』にも、よろこんで掲載・保存して、誰か編集者・いい読者の目に留まって欲しいと願いました。文章上にも気づいた注意をしました。娘に、甘い、うらやましいという読者のメールを、何度ももらいましたよ。
ところが、もはや娘・夕日子は、その父の注意を、なんと、「高慢な」ことを「作者」に言うてくる父という言葉遣いで、拒否してきました。仰天しました。
私が、孫・やす香の入院より以前の十年近く、娘に関してどんな「勝手なことを書きつらねて世間に公表してしまうような父親」であったか、一つでも二つでも「実例」を挙げてほしいモノです。一例も無かろうと信じます。
やす香の入院後は、ないし死後は、嘆き悲しむ涙も絶えない祖父母を目して、告別式から僅か「三日」後には刑事民事の提訴で脅しに脅してきた、寝耳に水の事実と、もはや無関係ではありえません。『かくのごとき、死』は、★★夫妻の非礼と非常識とをきちんと明かしています。
私たちが嫌ってきたのは、★★★なのです。夕日子ではないのです。しかし、夕日子は親に二度まで捨てられたとひがんでいます。しかし、それは私が娘の「離婚を望まない」というところに根があるのです。孫には、母も父も必要です。

* 或るひとは、「夕日子さんは裁判沙汰にしがみついている以外に、★★さんとの家庭をもう維持できない、または、裁判沙汰を続けている間だけは「ご両親」との糸が切れていないのを、一途の頼みにしているのではないでしょうか」という見解を伝えてきています。かなり事実に近いのではないか、じつはこういうメールが、やす香の大の親友から届いています。

To: Michiko Hata
Sent: Saturday, February 23, 2008 2:05 AM
Subject: 秦恒平様 迪子様  ****

こんばんは!
日々、以前とは余り変わりありません。(中略)
おじい様のブログで、綺麗な色のご近所の写真(二月十九日の生活と意見 秦注 もう削除されているかも。)拝見しました。
やす香ママや行幸(仮名化してある)ちゃんへの目印と書いてあるのを拝見して、嬉しかったです。必ず、「ただいま」と帰ってくれる日を信じています。
今まで迷っていたのですが、やす香から聞いていた事をお伝えしてよいかどうか。。。 もちろん、やす香ママは私がやす香から聞いていることをご存じないでしょうし。
今現在の状況は分かりませんが、少なくともやす香が「病気になる前(二○○六前半)」までは、やす香ママとパパの関係は崩壊していました。
やす香はたまに呟く様に、家族四人で撮ったプリクラを見せて、「家族四人で撮るのは、これが最後だと思う」と言っていました。
やす香が病気になって、今は違うかもしれませんが、やす香ママは一人でした。
おじい様おばあ様がやす香の病室にお見舞いにいらしたと知った時、これでやす香ママに帰る所が出来た、と、私は勝手に嬉しく思いました。
嬉しいという表現は変かもしれませんが。。。
以前、やす香の守るべき宝物は妹・行幸ちゃんだと書いたことがあると思います。
病気になる前まで、ご両親の離別は決定的で、夜になると行幸ちゃんがよく泣いていたと聞きました。
やす香は必死に行幸ちゃんを守ろうと、慰めていました。
私の考えですが、やす香ママはその事を含め、自分自身をとても責めていらっしゃると思います。
私から見て、やす香ママもやす香も、とても不器用で、本当は心の底から愛し合っているのに、お互い伝え合うのが下手なようでした。
やす香は他の人にはとても優しくて、人の心にすっと入っていく人でした。
でも、ママにだけは出来なかったのです。
本当は大好きだったのに。ママの事が好きだと、何回も言っていたのに。
ママにだけは伝えられなかったのです。
やす香ママは今自分と戦っているのだと思います。
そして自分の存在の根源である、おじい様おばあ様と戦っているのだと思います。
多分修復出来るであったろう、やす香とのこの先の時間。。。
いきなり(病魔に 秦注)奪われたその時間。。。
やす香ママは、おじい様おばあ様の事を心の底で愛しているのだと思います。
そしてその愛が、お二人の存在が、大きいからこそ戦っているのだと思います。
やす香ママは、自分がずたずたに傷つくのを承知の上で、あえてずたずたになろうとして、おじい様おばあ様を選んでいるような気がします。
私の考えだけで、生意気な事を書いてしまって申し訳ありません。
この事は、いつかお伝えしなければいけない日が来ると思っていました。
おじい様おばあ様にお目に掛かって、私はお二人が大好きになりました。
やす香は、もっともっと何千倍も何万倍もおじい様おばあ様を大好きだったのですもの。
いつか、やす香ママは帰ってくれると信じています。
そしてそれを、おじい様おばあ様が待っていて下さるのが嬉しいです。
それが、やす香の一番の望みだと私は思っていますから。。。
今日はいろいろ書き過ぎてしまったかもしれません。
お二人のお顔を拝見してから、何かほっとして素直に気持ちを伝える事できました。
花粉が飛び始める季節になりました。アレルギーは大丈夫でしょうか。。。
お身体どうぞご自愛下さいませ。またお目にかかれる日を楽しみにしております。

* この若いお嬢さんのメールは、かなり、私どもの知り得なかった、しかし優に想像し得てもいた「真相」に触れていますかも。
夕日子は、口でむちゃくちゃはよう言えない、気の小さい娘でした。夫・★★★は、むろんわが家とのことで、二十年余も妻を責め続けてきたのではないでしょうか、少しもフシギでない。
そして妻・夕日子は親に捨てられたなどとひがんでいるのですから、この裁判で、夫の先に立ってでも「共闘」していなければ、離婚しても行く先が無いと思っているかも知れません。先の、やす香親友のメールは、私の「赤い家」の写真記事に光明をえた気持ちだったと思われます。
「* 近くに、こんな家(アパート)が昨今建った。赤いよと、評判芳しくないけれども、わたしはこの色、そんなにイヤでない。夕日子や行幸が帰ってくる道しるべには、恰好。よく晴れていた先日、撮ってみた。ゴッホなら絵に描くんじゃないの」とウエブ日記に書き、写真も残っています。

② 娘のやす香の死後、その死因に疑問を呈するような書き方で妻の朝日子(原文のまま)を責めている。安楽死させた? などと書いているのがその箇所です。誰に聞いたかも分かっています(フランソワさんは私たちの知人です)。その人も、そんなことを明言しているはずはないのです。疑問があったら、私たちに訊くなり、病院の医師に確認をとればいいのです。それもせずに、勝手な推測を書き散らし、世間に知らしめる。秦氏は作家だから表現の自由はあります。何を書くのもいいでしょう。しかし、疑問があったら、私たちに訊くなり、病院の医師に確認をとればいいのです。それもせずに、勝手な推測を書き散らし、世間に知らしめる。秦氏は作家だから表現の自由はあります。何を書くのもいいでしょう。しかし人の名誉をわざと汚すような違法な内容を書くのだけはやめなさい、と言っているのです。

● このへんは、どう、お思いですか?

☆ 反駁   「死因に疑問」など、有るわけがないのです。「肉腫」で緩和ケア=治療は不可能状態、にあるとは、母・夕日子も「mixi」に公言していて、遺憾にも疑いようのない過酷な癌だとは、医学書院の編集者であったわたしは、明瞭に承知しています。
「死因に疑問を呈する」とは「輸血停止」に関する確かと思える証言を、私が「mixi」上で聴いた、それに驚いたということです。
「疑問があったら、私たちに訊くなり、病院の医師に確認をとればいいのです。それもせずに、勝手な推測を書き散らし、」とは、誠に事実に反した異な事を言うモノです。
祖父母に対してやす香の病状や医療に関する説明や回答を百パーセント「拒絶」して知らせなかったのは、法廷の関係者も認知されているほどの心ない事実です。そして病院は口を噤み、「治療に類する何もしていません」「全てはお母さんがご承知」と、祖母の必死の問い合わせにも首を横に振っていたのです。
何一つ「肉親から肉親へ」知らされないまま、肉親の祖父母が、必死に「推測」と「情報」を頼んで孫の命を憂慮するのは、あまりに当然であり、なんら「それもせずに」ではない、病院も、親も、全く祖父母をやす香の病状・診療から閉め出していた以上、「確かな」と信じうる「情報」に聴くのは、情理ともに自然当然のことです。
しかも何等「名誉をわざと汚すような違法な内容を書」いているのでもない。以下に証拠を挙げましょう。

* 「フランソア」さんという人のことは、われわれは、知りません。意味不明です。「輸血停止」を「証言」しているのも、この人ではありません。非常に重要な言及であり、参考までに、関連記事も保存してあります。以下のメールが証言の核心です。
「MIXI」上にはっきり伝えられている、「見舞客の間近な確実な見聞として、七月二十五か六日に、病院と親とは、やす香の「輪血を停止」したと、『かくのごとき、死』P.239 平成十八年八月一日に、その記事があります。

☆ 「mixi」2006年07月27日 14:39 涙
今朝、身体がフワットした状態で身体を起こしているのがとてもつらく。。。午後の出勤まで横になっていようとうつらうつらしてました。
PCを開き・・・日記・・★★やす香さんの永眠の文字。。。
原因のわからない肉腫と言う癌に侵され、それでも笑顔と周りへの思いやり、優しさを忘れないでいたやす香ちゃん。
娘の同級生であり、活動仲間。
闘病日記を通して、たくさんの友人に囲まれ頑張って生きていた姿が手にとるように分かっていた。
昨日(二十六日 逝去前日)何度も病室を訪ねていた娘から、「土曜日のお見舞い・・無理かも。今日輸血を止めたから、やすかそれまできっともたない。」
心の中で覚悟はしていたけれど、いざとなると、涙が止まらない。
悔しくて、辛くて・・
連絡をいれ、娘に伝え、号泣した娘に、本当は抱きしめて一緒に泣いてあげたいけど、「涙は家に帰るまでこらえなさい。涙顔は見せちゃ駄目よ。不安になっちゃうから。。。顔を洗って、頑張りなさい。」ってしか言えなかった。。。ごめんね。
ご家族の思い、娘を始めやすかちゃんの大勢の友達の思い・・、悔しく、辛いだろうけど、やすかちゃんの笑顔を思い出して、前に歩み続けるしかないんだろう。
日記へのコメントを見ると、やすかちゃんの笑顔を胸に皆しっかりと先を見据えているよう。やすかちゃんらしい思いやりと優しさの心配りのおかげだと思う。
やす香ちゃんの笑顔は、みんなの笑顔の中に生きている。
ご冥福をお祈りします。 (以上)

やす香逝去の七月二十七日は「木曜日」でした。「昨日(水曜日に)病室を何度も訪ねていた」ほどのこの大親友は、なお土曜日二十九日にも「見舞」うつもりでいたのです。それが可能」と、まだ「病状を信頼」していたらしい。ところが、「今日輸血を止めたから、やすかそれまできっともたない」と確言しているではないですか。
この大の親友は、やす香の「病室」に出入りしていました。しかも病院と親とが合意の上ででしょう、「輸血を止めた」と、「mixi」という広い場で明確に断言しています。そのことを語るのが何の「名誉を傷つけるでたらめ」ですか。夫妻はこの優しい悲しみの友人をも名誉毀損で訴えるのでしょうか。
「やすかそれまできっともたない」と、この親友が悲痛にも予知したとおり、正確に、やす香は翌日の朝、母親の誕生日にあたかもわざと符節を合わしたかのように、死んでいきました。嗚呼というしかない。
「輸血停止」には、このように確度高い証言があります。
「輸血停止」とは、患者を人為的に「死なせる」決断であるとみられて当然な処置でもあります。そして証言通りにことは経過し、やす香は友人が予知したとおりに亡くなった。その事実通りの指摘・記述が、何の名誉毀損であるでしょう。

なお、「安楽死」のことは、朝日子のために心底心配していたことだったのは、『かくのごとき、死』に明記してあります。久間十義氏の『聖ジェームズ病院』を読んでいた最中の私は、もしも「安楽死」がマスコミにでも疑われたら、とんでもない苦境に母親が陥ると心配し、夕日子等に助言もして、その配慮に「感謝」されているのです。そのメールが有りました。
安楽死は難しい決まり事もあり、医師と親と本人の「文書」による「インフォームド インセント」が事前に是非必要なのです。やす香の状態からも、そんなものの有るワケがなく、それでもし「安楽死」を外から疑われたとき、夕日子は持ち堪えられないと心配しました。そのことも『かくのごとき、死』は触れて書いていますし、関連の私からのメールもきちんと残っています。
★★は、こういう親の配慮をいったい何と思って、こういう「いい加減」をあなた(記者氏)に話すのでしょう。すべて、裏付けできる材料が手元にあります。

③ たとえ父親とはいえ、実の娘のプライバシーを侵害することは許されないのに、彼女が匿名で書いた作品を自分の書き物のなかで発表し、あまつさえ、その実名をわざわざ公表しています。娘のほうは秦恒平氏の娘であることが知られたくないために匿名で作品を書いたのです。10数年間も交流のなかった実の娘に問えば必ず公表を阻まれると承知の上で、当人に一言の断りもなく勝手に名前を公表してしまった。プライバシーの侵害も甚だしい。父親にそんな権限はありません。自分で娘を愛しているといいながら、その愛しているはずの娘のプライバシーを平気で侵害し、公開するのはおかしい。法を守りなさい。こちらが言いたいのは、ただ、それだけです。

● 法的には★★氏の主張がとおる可能性が大きいと思いますが、この件に関しては、どう思いますか?

☆ 反駁   この回答はそう難しくないと信じています。 ★★は、かなり問題をねじ曲げて、間違った事実に拠っています。
娘は、私の手元で、いわば「文章を書く」ことを覚えました。大学受験の昔、娘に請われて、日本の古典を文庫本で二三尺も積み上げ、その読み方を速成で教えてやった娘です。娘には依頼原稿の下書きすら二度ほどさせて、それは一つに小遣い稼ぎさせるため、一つに経験を積ませるためでした。代理で書いた下書き原稿もちゃんと今に残っています。
夕日子が小説を書き出すのを、母親と、どんなに噂して、待望していたことか。それに成功すれば夕日子は★★から精神的に自由になれるかもと。
しかし★★家と絶縁中、わたくしは夕日子に対しては久しく、指一本も動かさずハガキ一枚も書きませんでした。まして電話は嫌いです。歌集『少年』を送っただけです、そこには夕日子誕生前後のうたが幾つも載っているからです。
しかしすでに世に出ていた弟・建日子から、「夕日子が小説を書いているよ。見てやって」と知らせてきたときの嬉しさは、タイヘンでした。湖の本の「あとがき」に、こう書いていますから、読者には周知の事実です、

「じつを申すと、久しく顔を見ない、親に捨てられたと拗ねているらしい娘・夕日子も、小説を書き始めていたのである、おやじには両手両腕でひしと隠し、隠しながら。
弟・建日子から漏れ聞いたわたしは、そんな娘の長編小説『こすものハイニ氏』も、短篇小説『ニコルが来るというのでぼくは』『天元の櫻』も、インターネットで探し探し見つけて、読んでみた。息子よりももともと文才に富んだ書き手の娘が、かつておやじの書いたフィクションと、なにやら臍の緒の繋がった題材で、かなりおもしろいものを書いていて、わたしは驚喜した。文句があれば言ってくるだろうと、勝手に「e-文庫・湖(umi)」に「秦夕日子作」として入れた。気のある人は、どうか読んでやってください。夕日子も気を腐らせず、悠々、書き続けて欲しい。
此の作品(湖の本本巻)を、「湖の本」米壽記念にと決めたのも、そんな驚喜のあまりと読んでくださる知己・知友、きっと少なくないであろうと思っている。 以上 跋文の一部

* 「匿名」で書いているということには、当時、「ペンクラブ電子メディア委員長」だった私には、大きな危惧がありました。プロは忠告してくれていました、ウエブに匿名で作品を書けば、盗まれてしまう危険がありますよと。私もかねてそう思っていましたから、夕日子のガンバッた作品を作者を明らかにし「緊急避難」しておくことは必要だと判断しました。「苦情」があれば「取りのける」と、ちゃんと断ってありました。そして夕日子の「苦情」を受けると、すぐさま夕日子作品をわたしはすべて、仮置きしていた「e-magazine 湖(umi) = 秦恒平編輯」から、削除しています。★★★のいうことは、事情も知らず、むちゃくちゃ。

* 「娘のほうは秦恒平氏の娘であることが知られたくないために匿名で作品を書いたのです。」
こんなリクツが、どう証明できるのですか、弟に、「書いている」と、サイトまで知らせてきた以上、父親にも読まれない「わけがない」と当然分かっていたでしょう。まして父はそれを「待望し」ていたのですから、読みますよ、それは、他のことを置いても。
「10数年間も交流のなかった実の娘に問えば」というが、「問う」パイプは絶無なのです。「必ず公表を阻まれると承知の上で」とありますが、素直に書いて延びたいと思っている娘ならば、父の好意は、喜びようは、分かってくれるものと信じていました。わたしは芯の所では、いつも娘を信じてきたのです。弟と姉とがともに創作でガンバルかなあとは夢でした。

* 「法的には★★氏の主張がとおる可能性が大きい」かどうかは、知りません。私が娘の「作品」と「書く意欲」に対して、作家である父親としてした配慮に、「人間」として欠けるところがあったとは考えていませんし、文学者としては、それこそが、大切なことです。
父親のちょっとした推敲上の「助言」を、父の「高慢」という非礼の言葉で退け得る無神経は、わたしには理解できません。この「高慢」も、そう書いている夕日子の文章が残っています。しかも周囲には「女流作家」などと謂わせている。あ、ダメだ、これは、と一人の編集者でもある私は、こと文学に関しては「高慢な」娘を見捨てたというしかありません。

* 「当人に一言の断りもなく勝手に名前を公表してしまった。プライバシーの侵害も甚だしい。父親にそんな権限はありません」などという言句を吐いているからおかしいのです。ふつうなら、「親子じゃないか」と窘めるでしょう。こういう杓子定規の「法」依存をわたしは、じつは軽蔑しています。アカの他人がしたのならともかく、父親が娘に終始一貫「驚喜」しながらしていた、しかもすぐ撤去した、それが「法」的に「弱い」などと私は思いませんよ。
大事なのは、「人間」のうちなる、熱いもの、暖かいものでは有りませんか。「ブライバシー」もしかり、それは「人間の真情」を足蹴にしながら主張できるような、やすい価値ではない。違うでしょうか。

④ 秦家と★★家が断絶状態なったのは、父親による実の娘への虐待やハラスメント(言葉などによる嫌がらせ? 内容は裁判で言うそうです)が存在していたことが主たる原因。秦氏は、私が義父に向かって罵詈雑言を書いたという手紙の内容も公表していますが、あれは手紙の一部。前後があるのですが、そこは公表していません。裁判では全文が明らかにされるでしょうが、確かに私は手紙を書きました。
おかげで秦家と断絶でき、それから以後、私の妻である秦氏の娘は平和で安穏な10数年間を送ることができたのです。私の妻が、実家と断絶したあとも、自分の父親を罵倒した私との結婚生活を長年つづけてきたのが、その証拠です。

● 10数年間、両家が断絶していた時代の記述はなかったように思います。どんな心境でいらっしゃったのですか?

☆ 反駁  大きな虚偽が此の★★の言葉には狡猾に挟まれています。私の家内の弁を、先ずお伝えします。

☆ これはもう真っ赤な嘘です。
娘・夕日子が当時「つわり」で 我が家に来て休養していた と、お想い下さい。
私は持病(心房細動)をかかえ 九十媼の姑の面倒 幼い孫の世話等で疲れがひどくたまっていました。重ねて、雨漏りがするのでペンキ屋がはいることになっていました。
ペンキの臭いは つわりにこたえますので せめて一両日帰ってもらうことにして 夫・高に迎えにきてもらったのです。
親子夫婦揃ったところで 就職の定まらぬ間の生活は大丈夫ですか? と 援助のこころづもりもあって夫婦して尋ねました。
これが いたく 高のプライドに触ったとみえ 即座に「大丈夫です。私は常からアルバイトでも他人の初任給ぐらいはとります」と 胸をはりました。「他人の三倍の能力がある」とさえ言い切りました。口癖のようなモノでした。就職も、もう間もなく決まりそうとも。
私は娘から、★★★が背広の新調も我慢していると聞いていたので「援助」が気に入らないなら、就職祝いをはずもうと用意しました。見ていた息子が 僕ももう一度 就職しなおすよ こんなに貰えるのなら と言うほど。
しかし 娘等が帰宅した直後に我々夫婦に届いたのは なんともなんとも無礼な手紙でした。
そして金の出せない非常識な妻の実家とは「縁を切る」と言ってきたのです。

**さん、「おかげで秦家と断絶でき、それから以後、私の妻である秦氏の娘は平和で安穏な10数年間を送ることができたのです。私の妻が、実家と断絶したあとも、自分の父親を罵倒した私との結婚生活を長年つづけてきたのが、その証拠です」という、大人にしては、大学教授にしては、なんともかとも、心貧しい科白には、思わず眉を顰めませんか。
妻の夕日子が、自分の祖母を子連れで見舞うと謂えば、離婚だと★★は脅しました。私も妻も夕日子の口からしっかり聴いています。そして、前にお送りした、やす香の大親友の、★★夫妻に関する、「家庭の危機」「離婚のおそれ」というやす香への憂慮と同情に満ちたメールの文章を、どうぞもう一度読み返して下さい。

今現在の状況は分かりませんが、少なくともやす香が「病気になる前(二○○六前半)」までは、やす香ママとパパの関係は崩壊していました。
やす香はたまに呟く様に、家族四人で撮ったプリクラを見せて、「家族四人で撮るのは、これが最後だと思う」と言っていました。
やす香が病気になって、今は違うかもしれませんが、やす香ママは一人でした。
おじい様おばあ様がやす香の病室にお見舞いにいらしたと知った時、これでやす香ママに帰る所が出来た、と、私は勝手に嬉しく思いました。
嬉しいという表現は変かもしれませんが。。。
以前、やす香の守るべき宝物は妹・行幸ちゃんだと書いたことがあると思います。
病気になる前まで、ご両親の離別は決定的で、夜になると行幸ちゃんがよく泣いていたと聞きました。
やす香は必死に行幸ちゃんを守ろうと、慰めていました。
私の考えですが、やす香ママはその事を含め、自分自身をとても責めていらっしゃると思います。

* ★★は何の「証拠」だと胸を張っているのでしょう。かりにも教育哲学の教授が、知性有る大人が、自分の妻と親との確執を、恰も高見の見物のものの言いぐさは、偽善も極まり有りません。
「親子じゃないか」と、普通なら窘めるのが夫でしょう。かりにも大学教授でしょう。
私たちは、「娘・夕日子と争ってきた」のではありません、あの居丈高に無礼な★★★に憤ったのです、そして今も同じです。私たちの軽蔑は一途に、こういうウソの言葉を汚物のように投げかけてくる★★にあるのです。
久しい「断絶」の期間のことですが、私は、夕日子の「離婚」するのを望みませんでした。やす香やみゆ希のためには両親の家が大事という考えでした。だから、私からは指一本動かさずに、いつもウエブで、夕日子や孫たちの平安と健康を祈っていました。
夕日子が、現在もそうですが、目を皿にして父親のウエブを読んでいることは、弟の伝えるかすかな事情からもよく酌みとれていました。そうして夕日子は父や母の暮らしに一途繋がっているのでしょう。

* ★★★はわたしに向かい罵詈讒謗の手紙を書いた事実を肯定しています。それだけでも、全ての名誉毀損の言い立てなど、砂上の楼閣です。全文を作品に利用していては作品の空気は汚れる一方です。どう全文を出そうとも★★が恥を掻くだけですし、いまごろ変な作文など持ち出さないで欲しい。そういうことも有ろうとすべて記録し保存されています。

⑤ それに、秦恒平氏から「お前達とは義絶する」と最初にいってきたのは、私が手紙を書く前です。こちらの一連の行動は、それを受けた後でした。

● 事実はどうだったのですか?

☆ 反駁  これも呆れた全くの虚偽です。家内も云っている通り「真っ赤なウソ」です。下書
きのフィクション小説『聖家族」』には、時系列で細かに記録した事件の経過が書き込まれています。将来こういう厚顔な虚偽を言い募るであろうことの読み取れた、そういう恥ずかしい人物なのです。全く虚偽です。物証を日付で追ってきちんと証明できますし、すでに書いています。

⑥ やす香は自分から祖父の家に訪ねたのはたしかです。ある日突然、高校生だった娘のブログの中に「やす香に会いたい、会いたい」という呼びかけが始まり、じつに60回にもわたったそうです。若い連中だけのやり取りの中で「ヘンなじいちゃんが混じっているぞ」と話題になり、それで、やす香は祖父との交流を始めたのです。今年の3月には、娘が祖父の家にいっているのは私たち夫婦も知るようになりました。女房がいろいろと、過去のいきさつを話して聞かせておりました。母親の立場を理解してくれたそうです。
その娘が入院したとき、私は「良い機会だから、秦家との交流を回復したら」と妻に勧めました。しかし、妻は断りました。葬儀の案内を出さなかったのも、そのためです。ずっと断絶していたのですから、また、嫌な思いをしたくないという気持ちでした。案の定、やす香の死と同時に、秦氏は「娘が孫を死なせた」というような文章を書き始めました。それが、氏の死生観だったとしても、子供を喪ったばかりの実の娘を「孫を死なせた」と非難し、平然と、しかも嘘っぽい推理を並べ立てて、それを世間に発表する親なんかいないでしょう。

● 「かくのごとき、死」の全面的な削除を求める理由は、ここにあるそうですが、いかがですか?

☆ 反駁   よくこんなウソが平気で云えると、人柄にますます鳥肌だって、軽蔑を覚えます。「今年の3月」には口惜しくも孫・やす香はとうに亡くなっています。
やす香や行幸が祖父母の家に来ていることを知りながら、★★の両親が、そんな「自由」をわが子達にゆるすかどうか、原状の、また現在の、この軋轢を直視するだけでも、明白に分かることです。
やす香がいつ初めて、祖父母と連絡が取れたか、記録は明確です。
二○○四年二月(やす香・高二)二日に、やす香の方から、演劇家である叔父・建日子に「メール」を出しました。建日子はその日のうちに祖父母にその朗報を初めて報せ、相談して、私たちは、「やす香宛の初のメール」を、建日子に託すことにし、転送してもらいました。それが二月三日です。
すると二月四日に、やす香から初メールが届いて、友達との写真も添えられていました。二月五日には、やす香が電話してきて、本当に久々に孫娘の声を聴いたのです。その喜びは、今も胸が痛いほど甦ります。

At Wed, 4 Feb 2004 00:29:01 +0900 gros-bisous.vvv.7237@ezweb.ne.jp wrote:
>Date: Wed, 4 Feb 2004 00:29:01 +0900
>From: gros-bisous.vvv.7237@ezweb.ne.jp
>To:
>>こんなんです♪ (友達との写真二葉 貼付)
——————————————————————————–

宛先 :gros- bisous.vvv.7237@ezweb.ne.jp
差出人名:hatak
題名 :ありがとう

やす香  元気な写真をありがとう。嬉しい。嬉しい。赤い鼻緒の下駄をはいて、白いヴラウスにジーンズスカート、玄関で左右の腰に手を当て、ちょっと上体を左に傾けてポーズしている 89.10.16 のやす香と、みくらべています。高校生なんだ。夢をみているよう。マミーも、それはそれは嬉しそうです。わたしも、むろん。
なんでも、いつでも、気楽に声をかけて下さい。じいやんの機械は、ほとんどいつでも開いています。マミーの携帯は機能がよくない、パソコンの方のメールアドレスが使いやすいようです。携帯なら、マミーには電話がいい。
**** が、マミーの携帯番号。じいやんは携帯は使っていません。
風邪ひかないでね。 では、また。 やす香のじいやん
——————————————————————————–

もしも「両親公認の祖父母との親交」であるなら、姉妹が「親に知られてはならない」と気配り十分に秘匿しつづけた意味がありません。
かつ、私たちも、その事情に応じ、孫達の来てくれる嬉しさを日記に「書きたくて」「書きたくて」しようがないのに、姉妹のためを思い一行も書かずに、「わかい友達」が訪ねてきて楽しかったなどと記録していたのです。その記録はウエブにちゃんと残っています、何度も。
ついにやす香の入院で、ケイタイが調べられ、やす香と祖父との「mixi」のマイミク同士も知られてしまい、しかし、ここで毅然と示した「やす香の意志」は、こうでした。
われわれに、祖父母に、「見舞いに来て、お土産もこれこれ」という親愛の呼びかけでした。
この両親の意に逆らった、「決意」に満ちた祖父母への呼びかけは、両家の確執や、やす香の悲しみをよく知っている親友たちには「大きな驚き」だったと聞いています。やす香の「意志表示」 それは、あの両親に対してはたいへんな「ガンバリ」でした。「NO」でした。なにしろ発病したことも祖父母には知らせないで欲しいと弟に云っていた夕日子でした。
ところが、夕日子がでしょうか、闘病記企画の第一声かのように、「mixi」に「白血病」と告知してしまい、はじめて「mixi」での、やす香祖父の存在に、マイミクの親しさに気づいたのでしょう。
★★の云うことは、データも何も無い、口から出任せ、「六十回」の一度分でもいいから、やす香に「あいたい、あいたい」メールを、正確なデータで出してみよと云えば、黙するしかないでしょう。そんな確かなメールを、あなた(記者氏)は、事実ご覧になりましたか、日付も書き手も確かに。
念のため家内の短い一文も読んでやって下さい。

☆ この★★★の曰くも、真っ赤な嘘です。
やす香は 高校教室での教材配布に、祖父の名を見つけ とても喜んだそうです。お友達に自慢のしまくりだったそうです、やす香のお友達に教えてもらいました。
また私は 息子・秦建日子脚本のテレビドラマDVDを「作者代送」として やす香に贈りました。私の名前では やす香に届かない恐れがあったからです。そして やす香の叔父さんの建日子が タケちゃんが、こんな仕事をしているわよ と そっと知らせたかったからです。ところが母の夕日子が、弟に礼のメールを返してきました。やす香と祖父母とは、直接には全く繋がりの付けようが無かったのです。
二○○三年七月のことでした。
そんなこんなで 二○○四年二月二日、やす香は、やっと先ず、叔父・建日子に自分で連絡をつけ、そしてついに祖父母をも 自発的に訪ねて来てくれました。妹・行幸も連れてきてくれました。嬉しいことでした。
全てはそこから始まり、 やす香の ブログだの 携帯電話だの は、それ以前には全く知るよしもないこと。「六十回メール」だの「あいたい、あいたい」など、思わず笑ってしまう「大ウソそのもの」です。通信記録を見たいものです。

以上で、お尋ねに、全てお答えしました。そして★★★の言葉の安さと偽り多いことに、夫婦で呆れています。こういうことも有ろうと、私は、あなた(週刊新潮記者)に、より正確な「メールで回答」しました。これだけのことを会って、口で喋ったら、混雑は目に見えています。
繰り返しますが、物証の裏付けは、ほぼ完全にのこしてあります。 以上 秦 恒平  08.06.22

わたしは、こう看ている。★★★教授の言い立てる名誉の毀損とは、何か。ミソもクソも一律の法にすがりついた「名誉」である、と。本名では守れず、仮名やマスキングで守られる「名誉」であると。わたしが観るのは、そんな名誉ではない。婿・★★★の「人間」だ。トクトクとして噴飯ものの『お付き合い読本』を書き送ってくる「人間」だ。金を出さないなら「姻戚関係を絶つ」と舅姑を足蹴にできる「人間」だ。
「法」のことは弁護士事務所に任せている。
わたしがするのは、真っ向「人間」を見て「書く」こと。表現しても、卑しいウソで枉げはしないこと。
2008 8・12 83

* 終日、歌舞伎座にいた。楽しんできたが、明日は病院へ朝が早い。

* 今月の歌舞伎座は、三部制。
第一部がいちばん充実していた。『女暫』の福助は初役。このところ福助は初役をいつも気魄と余裕で成功させている。立女形としての自信が漲ってきたのだ。
七之助にひれが付いてきて口跡もゆたかに安定して女形ぶりに確かさとやはり自身ができてきて、かなり安心してみていられる。
三津五郎の手塚太郎光盛には化かされた。ああも背丈を小さく創れるものか、子役かと思ったが、どの子役かなと惑ったほど。
べつだん変わった本舞台ではないのだがいわゆるカブキの醍醐味は溢れている番外十八番。おまけに花道の引き際に「舞台番」でこれも初役勘三郎が出、福助の巴の前とのやりとりで満場を爆笑の渦へ。とりわけ六法を渋る福助に、北島の金メダル二つめを観ないで来ているお客様のためにもやれと嗾す勘三郎のサービスに、みな嬉しく喝采した。カブキ伝来の頓知の嬉しさ。この一幕目で歌舞伎座の夏興行に引き込まれた。
二つめは橋之助・扇雀の両親に、初々しい愛らしいまんまるい国生が子獅子の『三人連獅子』。踊りはまずまずだが、扇雀の母獅子に情がにじみ出た。この際、谷底へ二度もあえて追い落とした子獅子の上に、娘を憂慮するわれわれの気持ちが絡んで、わたしは油然と涙に濡れた。隣席の人はおどろいていたか知れない。
三つめの『らくだ』は本日七つの演し物なか、もっとも纏まりの好い会心の舞台だった、なにしろ勘三郎の紙屑屋久六は「任しておけ」の当たり役、三津五郎の半端やくざの半次も江戸前にしあげた填り役のうえに、死んだ「らくだ」役の亀蔵が、こういう役では天下一品稀代の遣り手であるから、死人が家主夫婦役の市蔵と弥十郎のまえで「かんかんのう」をやる場面など、抱腹絶頭という四文字がこれぐらい当たった場面はない。暑気払いの快舞台でしかも実にほどよく切り上げたのは、大手柄だった。あれで焼き場まで引きずられては堪らない。一等いいところだけで切り上げた『らくだ』は、旨い酒と煮染の何升、幾皿にもまさってご馳走であった。拍手喝采。
2008 8・14 83

* 昨日牧野法律事務所から、月支払い時間給契約を求められた第一回請求書が届いていた。三十数万円。
2008 8・15 83

 

☆ お盆  巌 南山城の従弟
12日13日と親族併せて7人で琵琶湖に行き 帰りは ケーブルカーで比叡山に登って そしてロープーウェイとケーブルカーで
京都の方に下りて戻ってきた
昨日は 川崎に住む母方の従姉夫婦が朝から来られた
先日 この近くの母の郷里当尾に住む別の従姉から電話で
「京都へ夫婦で旅行に来て上狛に住む叔母を訪ねるそうで 私の車で上狛に迎えに行って 千日墓地に恒伯父さんの墓参に行くので その前後に一緒にお店に行こうと思う お盆のあいだだけど お店開けてます?」
と連絡があったので まあ お昼頃に京都入りで 夕方に来られるのかなと思って 朝開店前の掃除をしていたら 外で話し声がして
・・にぎやかに ひさしぶりの ごあいさつ・・
夜行バスでの京都入りだったのか 早朝京都駅に着いて 上狛の伯母のお見舞いの後 電車を乗り継いで加茂まで二人で今来られた
小さい頃 一年ほど一緒に暮らしたお姉さんの事を伺って 秋には会えるかなと期待 そして 家族の近況などをキャッチボール
姉から電話が入り 今から行くから待って貰えるように伝えて と
当尾の従姉の家族や別の従姉も集まって来て みんなに珈琲を飲んで貰いながら この日の予定などを
墓参りに行って そのあとクローバー牧場に寄って 美味しい牛乳を買ってくるから それをここでカフェオーレで飲ませて欲しい ということで みなさん炎天下の中を墓参に出発
しばらくすると姉が来て 一行に電話すると 墓参を終えて この近くの美味しい蕎麦屋の橘さんで昼食中とのこと 店を出られたところで姉も合流して当尾の家に行った様子
従姉夫婦から 川崎に戻る翌日の指定で送って下さる?  と注文を貰った分の豆の焙煎をして
夕方 皆さんが戻って来られて クローバー牧場さんの特別牛乳とうちの「深煎りブレンド当尾」 でカフェオーレを作って 皆に飲んで貰って では今度は秋にまたぜひ と別れた
人もよく集う お盆の一日
///
川崎の従姉の夫は ペットボトルのキャップを集めて世界のこどもたちを救おうという NPO法人に参加しているという
今年頂いた年賀状にそのことが書かれてあった
初耳だったけど とりあえずキャップは貯めおくことにして ネット上で いろいろと調べてみたら いろんなグループがこのような活動を行っていて キャップ400個だか800個でポリオワクチンが一人分になるらしい
なので 送るコーヒーを箱詰めする際の詰め物代わりに 今回は、とってあったキャップを使うことにした

* 「川崎の従姉」とあるのは、わたしの異母妹。もう一人も川崎で暮らしている。久しく顔を合わしていないが、妹に聞いていて、わが家でもキャップを溜めては川崎に妻が送っているようだ。こういう話とは私は知らなんだが。
2008 8・15 83

 

* 二◯◯五年九月から◯六年七月までの、やす香の全日記を、ゆっくり読み返している。友人達の鈴生りのコメントも。
やす香の日記の素晴らしい素質は、自分を飾ったウソを書いていないことだ。この子の眼は、日ごろ家庭でなにを観ていたろう。
2008 8・17 83

* 契約書を作ったのでと、先方捺印済みの、つまり内容を確認済みの契約書を送られ、こっちも署名捺印し契約が成立した。そのあとで、契約内容に「残存ミス」があったのでと、契約とはちがう請求があれば、そりや変じゃないですかと言わずにおれない。
契約書は、むずかしい。
世の中はややこしい。
2008 8・19 83

* 幼いやす香の写真の前に、妻が、変わり種のサボテンが朱く花咲いた小鉢を置いてくれた。鉢は濃い青の、蛸唐草。
2008 8・21 83

* 駅前への妻の用事に付き合って、わたしは図書館への寄贈本を三十冊ほど大袋に入れて運ぶ。地元の市立図書館の分館が駅の上に移転して少し遠くなったが、バスに乗れば持ち運ぶ距離はたいしたものでない。
銀行、薬局そして時計屋で腕時計三つに電池をいれてもらい、病院で処方された薬を受け取って帰った。がんがんの日照りだが、二人で出かけると、双方ともひどい疲労を感じなくてすむ。こういう外出をこれからむしろふやすことで、運動も楽しみすらも兼ねたいもの。
2008 8・21 83

 

* 基本的に、わたしは夏が好き。頭が焦げるほどの炎天下でも、小十分ぐらいならバスを待ちながら「夏気分」が楽しめる。蒸し暑くなければ、日照りは少年の昔を思い出させる。
気の遠くなりそうな京の武徳会の水泳帰り、日蔭のない川端通りを二条の北から三条へ帰って行く暑さ。また丹波の山奥の山の上で、燃えるような赤土の長い急坂を、木橇をえいえい持ち上げては滑り降りていた。よくまあ日射病にもかからなかったものだ。
夏は夏休み。ことに八月一月はまるまる遊んだ。学校の宿題はほとんど全部七月の十日間で片づけておいた。
戦時中で、食べ物の楽しみは極端に少なかったが、京都では流しに真瓜、トマト、ときに西瓜があった。丹波ではなんとなし木の実や草の実が食べられた。蛙の大合唱。蝉は京の街中でも電柱や狭い庭の木へ来てよく鳴いた。
だが街中でも田舎でも、長虫には閉口した。
2008 8・21 83

* いろんなことがある。いちいち対応していると、時間が混んでくる。困るけれど、いろんなことがあって、日々がある。邪魔くさがるのは控えよう。

* 浅草観音裏の「みちびきまつり」案内が太左衛さんから。地図とお店とを大きく刷り込んだ「東京新聞ショッパー」も。是が便利そう、食べ歩いてみるかなあ。明日が前夜祭で、浅草の見番二階で踊りや囃子がある。ちょっと気をそそられている。整理券がいるというのは気になるが。
明後日は建日子の秦組旗揚げ公演に呼ばれている。明日が初日の幕開き。うまく船出しますように。
2008 8・22 83

* 今日、一通のメールが入った。たくさんの、たくさんのことを思った。様子が知れないので、書かない。
2008 8・22 83

* 昨日届いた一通のメールの、様子が知れたので、その人にお断りの上で書かせてもらう。胸を鳴らした理由は、発信者が、あるいは娘自身ではあるまいかと希望をもったから。まさかと、信じなかったが期待はした。
慎重に返辞したが。そうではなかった。私たちの毎日は、まるで「小説」さながらである。

* そのメールは、「がんで死なせた」母親です と題されていた。「ですから、ブログは」わたしのむすめの「立場で読むことも多いのです」とあった。よく分かる。
「秦様の意見は100%正しいと思います。/ 正しいからこそ、***さんは苦しいのだと思います。/ ***さんの立場からすると、『正しさは相手を切り刻む』ものでしょう」とつづき、二年前に或るわたしの読者が直かにやす香の母***に宛てた長い手紙を引用していた。「母親として手落ちの部分があったのは事実で、たしかにお父様の指摘は正しい。でも、」やす香の死後にすぐそれを***に「告げられたのはどんなにおつらかったでしょうと思います」とあったのに、「私もそう思いました」とこの人は書いていた。

* 最後に「空」と名乗ってあった。娘の小説『ざばぶるぐ』の二つの構成体が「梢」と「空」であったから、わたしは凝視した。

* 少し長めの返辞も用意したが、文責者のはっきりしない怪しげなメールは何度も受け取っている。落とし穴に嵌められるのは避けたく、慎重にすこし短く返事を書いた。差し出しが「娘」自身でもあり得るのを念頭に書いた。

* 「空」さん (名乗りと受け取りまして。)
メールを頂戴しました。ほんとうなら、今少し何処の何方かを、正しくお知らせ戴きたいと思いました。
このままでは文責のない文書とも受け取れますし、そういうのを何度も受け取りますので。
しかし、お気持ちは伝わってきます。感謝します。お返事したい多々ありますが、今回は控えます。
娘さんを「がんで死なせた」とあります、傷ましく、同情申し上げます。

> 秦様の意見は100%正しいと思います。

100%正しいことなど存在しません。忸怩たる思いにいつも満たされています。
それでもなお、人は、情と理とのかねあいで自身をバランスするしかありません。苦しくても。
「相手を切り刻む」ために「正しさ」が在るのではなく、情と理との自然な帰趨として正しい状況が把握できるのだろうと思います。

『かくのごとき、死』をお読みになった方でしょうか。

一昨年七月二十七日の朝九時に、やす香の死は「mixi」に、母***により告げられました。私たちはやす香の命永かれと祈り、また***の誕生日を祝ってその朝に、赤飯を食していました。訃報はその直後でした。血の気がひきました。
そして私が真っ先に書いたことばは、こうでした。

2006年07月27日 10:14   秦恒平
やす香 ありがとう ママのお誕生日に、ママに看取られて やすらかであったことと、おじいやんとまみいは、粛然とお前の深い愛にこたえています。
朝一番に まだそれを知らず 朝日子のために例年のように赤いご飯で祝い、メロンを食べながら、やす香が今朝を迎えていたことを、とてもとても嬉しく、喜んでいました。
どんなに残念で口惜しいかはうまく言えませんが、今は、やす香の残していった「愛と元気と誇り」とを、静かに静かに想って、声に出さず、泣いています。
やす香 愛しい孫よ。やすかれ 生きよ 永遠に。  おまえの おじいやん まみい
朝日子  ことばを失いながら お前のことを想っています。 父

「やす香さまが亡くなってすぐに、***さまに告げられたのは」というご指摘は、正確でありません。口頭でも電話でも一切連絡は不可能でしたから。「闇に言い置く 私語」としてホームページに書いたのです。***らがいつ読んだかは分かりません。

> 私がメールを致しましたのは、読者の手紙が私の気持ちを代弁している部分があったからでした。

この「読者の一文」から まる二年余を経過していますが、いま、このメールを下さるべつのキッカケが何かあったのでしょうか。

お気持ちの表現の土台にあるのが、終始或る「読者」の弁の一部分の引用で、私・秦恒平の著作・著述、例えば『かくのごとき、死』などに全く拠って頂いてないのを、やはり残念に思います。
「愛読者」も「読者」であり魂の色は似ているとはいえ、やはり秦 恒平の心事に通暁しているわけではありません。

私たちは、やす香を救いたかった。同時に夕日子と夫との家庭崩壊の実情を推量し憂慮していました。「違和感」とは何を謂われるのか全く分かりませんが、私は一人の作家であることと何の矛盾もなく、やす香や夕日子を、孫として娘として、健康で幸福であって欲しかったのですよ。
あの「ざばぶるぐ」の時点で、もし夫婦仲に事実喘いでいる夕日子と意思疏通ができていれば、夕日子の離婚と自立とに、またやす香の診療にも、もっともっとマトモな対策が出来ていたかも知れないと、真実今も悔しく思います。それと私の作家として、文筆家としての覚悟とは、なにひとつ矛盾するものではありません。
秦 恒平  08.08.22

* 今朝一番に「空」さんからの、きちんと名乗られたメール返信を頂戴した。「娘」からかというかすかな望みは失せたが、有り難いお返事だった。「空」さんのままで、お断りしたうえで、部分再掲させて頂くのは、これまた娘へのメッセージとして意味があろうと願うから。

☆ Re:    「空」
秦様に御関係が厚い**市から、*****(19**年生)と申します。
先ほどはご無礼なメールを差し上げ大変失礼いたしました。ご丁寧なお返事有り難うございました。
ことば足らずで、気持ちを伝えることは本当に難しいですね。

* 『かくのごとき、死』

読ませて頂きました。いつも有り難うございます。
そして秦様の、***さん、やす香さんへの深い深い愛をいつも感じているのです。
やす香さんと娘が重なり、私もどれほど涙したか知れません。娘のことでは3年たっても涙があふれ出ない日は1日もありませんから。私の涙は、秦御夫妻のやす香さんへの涙そのものでしょう。
私の経験からして、病状重いやす香さんに対しての***さんの対応は 母として信じられないものです。なにもかも父上様のおっしゃるとおりなのです。
ブログを「***さまの立場で読む」とは、子を失った1点においてであり 「***さまの味方で読む」ではありませんので。

* この読者の一文から まる二年余を経過していますが

につきましては、最近私が目に触れたというだけで他意は全くございません。

*「ざばぶるぐ」に関して(秦への=)「違和感」

というのは、絶縁された時点で***さんは「ざばぶるぐ」の状態に既にあったのではと思い、もっと早く何らかの接触があったら良かったとの思いからでした。

娘に死なれてからは、他人様であれ、争いやケンカがとても辛いのです。どうしたら双方に救いが訪れるだろうかと、自分のことのようにとても痛ましく思っていました。***さまにも、御両親さまにも、何とか平和が訪れますようにとの思いが、先ほどの失礼なメールになりました。お詫びいたします。
これほどお互いに愛していられるのに、大好きなのに…近くは遠きの世の中ですね。

秦建日子 8月13日のブログは、とても暖かくまわりの者を包んでくださいました。なんだかほっとしました。
「今夜、死ぬ」という大前提に戻って考えない? と問いかけているように思いました。

『もし、今夜、死ぬとして。

もし、今夜死ぬとして、その前に何をするか考えた。
Painは、出来た。さっき、効果音の編集もやり終えた。
音楽は、死ぬ直前に聴こう。死ぬ前に聴く曲を、実は、前々から決めている。ひとつは、ビル・エバンスとジェレミー・スタイグの「スパルタカス愛のテーマ」。もうひとつは、アイザック・スターンのチャイコフスキー・バイオリン協奏曲ニ長調。
その前に、猫に丁寧なブラッシング。缶詰。
部屋の掃除。
シャワーも浴びよう。歯も磨こう。

ブログはどうしよう。
何か書くだろうか。
「もううんざりだ」
「もうたくさんだ」
「もう耐えられない」
いやいや、それはない。
そんなことを書いても意味がない。
ブログは、基本、ポジティブなことを書くと決めている。
時々その禁を破るけれど、それでも10回のうち9回は踏み止まってきた。
最後の最後に台無し、というのは避けたい。

それよりも、遺言だ。
手書きはたいへんなのでワープロでいいや。
ありがとうの手紙をたくさん送らなければ。
好きでしたときちんと伝えなければ。
果たしていない約束に、ごめんなさいもしなければ。
誰に、何を書こうか、一生懸命考えた。
物心ついた時から、今の今まで、縁のあった人たちを、可能な限りたくさん思い出してみた。
遺書の便利なところは、必ずしも住所やメルアドを知らなくても書けることだ。たぶん、誰かが調べて届けてくれるだろう。

そうしていろいろ考えているうちに、ぼくは、自分が実は幸せな人間だったことを思い出した。

そうだ。
ぼくは幸せなのだ。
わざわざ、自分から死ぬ意味なんてカケラもない。

「今夜死ぬ」という大前提が崩れたので、この「シミュレーション」を続ける意味がなくなった。

お。もう4時半か。

8時間半後、「Pain」の初通し稽古。
人生は、痛い。』

* そして「空」さんは、「娘のこと書いてもよろしいですか?」と、喪われたお嬢さんのことを書かれている。涙して読んだ。やす香は十九で逝ったが、この方はほぼ倍の人生を歩んできて亡くなられた。わたしたちの娘にはぜひ読ませたいが、ここにこの方の遺文などを掲載するのは控えよう。
わたしはもう一度お礼の返辞を書いた。

* 「空」様  秦恒平
ご丁寧にご返書、心よりお礼申します。ひょっとして私どもの娘自身のメールかとも想い、またそうではあるまいとも想い、胸を騒がせました。
「死なれる」のはつらいこと、「死なせた」と思い至りますのはまたはるかに苦しいきつい自責です。なかなか和らぐことではありません。「悲哀の仕事=mourning works」は、文字通りに呻き続けです。
しかし、「死なれ死なせて」、それを通して「生きる」者には、「よく生きるつとめ」が遺されています。私たちの娘や婿が、なぜそれに気が付かないのだろうと、これも亡きやす香が遺族にかけた願いともども、心底情けない淋しいことです。
オリンピックでの若者達が渾身の健闘に感動しますにつけ、せめてまだ若いわたしたちの「娘」にも、残された生き甲斐を健康に建設的に全うして欲しいと願われてなりません。わたしのような老境にも、まだ本当にしたい仕事があります。まして若い者にはなおさらと。

争う「愚」はいうまでもありません。しかもまた、平和へ回帰のためにあえて踏み込んで堪えねば、また闘わねばならぬ時機があり、ゆるがせにすることが本質の回復になるとは思えぬ時機があります。当事者のもっとも苦しい避けがたい選択といえましょうか。

見守って頂き、ご支持も戴き、幸せに存じます。
同時にわが「娘」のまわりにも、真の友人や知己がいて、「よく生きよ」と励ましてくださればどんなに安心だろうといつも心より願っています。

お嬢様の御本、どうぞ読ませて下さいますように。また私の著書でよろしければお送り致しますので、お送り先なども、ご遠慮なく仰って下さい。

そちらにはありがたいことに大勢知友・読者がいてくださいます。また参りたいと思います。
時候柄、ますますお大切に、お嬢様のためにも元気に御長命ありますように。いつなりと何なりと、またお便り下さいますよう。  秦 恒平

追伸 お願い致します。二度のお便り、娘へのメッセージとしても、どうか此の「私語」に書きおかせて下さいますよう。但しお名前も、おところも、もとよりお嬢様のお名前や文章なども、「空」様に関わると判読できるようなことは決して無いよう十分配慮します。お許し願います。
2008 8・23 83

* 「雄」くんにしても、新たに演劇集団「秦組」を今日から旗揚げ公演している秦建日子にしても、こうして日々ジワジワと前へ前へ動いている。真っ直ぐではないのだ時に右へ時に左へローリングしている、失意から得意へ、挫折から展開へと。
こういう「雄」くんの日記やときおりの息子の述懐など、目に触れると、わたしは視線を高くあげ、初代早稲田中学校長会津八一・秋艸道人の「学規」に、心新たに、眼を向ける。早中は、建日子が選んで卒業した母校。

一 深くこの生を愛すべし
一 かへりみて己を知るべし
一 学藝を以て性を養ふべし
一 日々新面目あるべし     秋艸道人「学規」

* 八一高弟の宮川寅雄先生に此の八一の書を頂戴した。
2008 8・23 83

 

* 今日旗揚げの秦建日子作・演出の舞台「pain」を観てきてくださった読者がある。ありがとう、感謝します。

☆ 湖へ    珠
お元気ですか。
すっかり秋の気配、涼しいよりも肌寒いほどですね。
先週までの蝉から虫に音の主も替わり、静かな夜を過ごしています。
今日、昼の秦組旗揚げ公演「pain」、拝見してきました。
テレビドラマや映画でしか存じ上げないので、一度、舞台を拝見したいと思っていました。かつて私も20歳代には、あちこちの小劇団の公演を
よく観に出かけ、本多劇場の出来た時にはワクワクしたものです。そんな私にとって、久しぶりの舞台、そして下北沢、でした。
今日はどんな作品か、以前の舞台からのテーマなども、まったく知らず、先入観なしのまっ白なまま、拝見しました。後半、あれ何で?? と思うなか、泪がおちていました。
自分のなかのどういう感情に、舞台の何がどう触れたのかよく分からないままの落涙に、私は戸惑いました。人をぐっと掴んで釘付けにするような力強さや、研ぎ澄まされた美しい科白など、目を瞠り耳を澄ます緊張感は感じないのに。なのに、なのに、泪とめられず。何か自然な風に吹かれ、心のレースカーテンをはらりと煽ったような。そして、普段隠れている影に、ふと風が触れて沁みてしまったような。そんな、感じでした。
「ごあいさつ」に書かれていた、自分が「痛い」ということを、ぼくはいつ知ったのだろう、、という「痛い」が、公演名「pain」に繋がるのでしょうが、これは、最近若い人がよく使う「痛い」という表現、微妙な、うまくいかない感じをいうのでしょうか。私には痛さとしては分からなかったのですが、何層にも襞のある心の、語って言葉にならない、したくない部分の、まるで旧い傷に塩水が沁みたような、これも「痛い」ということかもしれません。

人の出来る最高のことは「待つこと」、
自分が愛しているからって、相手にも愛してっていうのは傲慢ではないですか、
私は自分のこと、愛して愛してくれる人がいいのよ、でもあなたは違うのよね、

人が人を愛するとき、求めてしまう我への愛、かえってこなくともただ愛しい愛、、、生きるうち墜ちる愛の罠のように思えます。日頃、我が身を大事に想う瞬間に、相手に何かを望む瞬間に、罪悪感を覚える、まさにそれ、でした。
でも、そこに変わりゆく人が在り、「待つこと」の提示は生きる鍵かもしれないと、私のこれからの日々に、明るい光も頂きました。
亡くなった人の好いところをあげましょう、、ということ、これは作者の願いにも聴こえました。生きている人は、かつて生きた人の面影を取り合うのではなく、好いところを共有しようと、同じ人を愛した、少し愛し方の違っただけ、、という事と。
作者はやさしい方だと、そして懐の大きな穏やかな方だと、感じました。そして、過ぎ去った日と、今の場面の同時進行には、どこか湖の小説世界の香りもしました。
家族におこった幾つもの出来事に翻弄されながらも、まるで茶室での人間観察のように、息子さんは生きて感じてそれを言葉にしていらっしゃるのだと思いました。
その場で感じたまま、時の移ろひに溶かしてしまわずに、「今・此処」の人の理解や願いを舞台という形に遺してゆく忍耐力に、同世代としても頭が下がります。
「待つこと」の、待ち方はまたいろいろ。作者のおおらかで自然な「待つこと」を思わせるようでした。理屈でも情だけでもない、「待つこと」は、悠久な願いです。
湖の日々に、「待つこと」の穏やかな光さす事を、祈っています。
若い女性のお客様が多くいらっしゃいました。若い彼女たちにはどんな風に映ったのでしょう。
ダンスのいれ方も、また難しく。演劇での表現に、肉体表現をどう織り込んでゆくのか、、以前ダンスに没頭していた私としては演劇とダンスの融合にも興味は尽きず。。。
また次の舞台を楽しみに拝見させて頂こうと、思いました。
予期せぬ泪泪泪に、思わず長いメールを書いてしまいました。
気候落ち着かぬ日々、くれぐれも大事にお過ごし下さい。お気をつけて。湖。くれぐれも。  珠

* この芝居の初演を観ている。リライトして大事に育てれば「代表作になるね」と励ましたのを覚えている。かなり長い間作者は寝かせていたように記憶する。

* この作者の作と舞台とが、いつも、「優しい」と感じられることは、佳い持ち前であると同時に、破らねばならぬ限界だということを、わたしは何度も批評してきた。

* 「待つこと」の可能なのは若い世代であり、しかも「ただ待っている」若い人は、往々心身痩せてゆく危険にあることも知らねばならない。
わたしのような老境で、しかも眼前に、容易く超えてゆきにくい不条理を、莫大な賠償の負担を押しつけられている精神と肉体には、ひよわに「待っている」余命も無い。生死を、死生を待つことは出来るが、現実問題は待ってやり過ごすには過酷なのである。
「今・此処」に立って生きる、花に逢えば花に打し、月に逢えば月に打すという覚悟に、「待つ」は無い。「在る」だけだ。待つのが穏やかであるという理解もない。「今・此処」は「待たない」。「在る」のである。
2008 8・23 83

* 午後、秦組旗揚げ公演、建日子作・演出の「Pain」を観にゆく。先月の松たか子らパルコの、今月の市川染五郎、大竹しのぶや阿部サダオ・松尾スズキらコクーンの舞台が、今も眼にある。秦建日子の、小劇場芝居の骨頂を、観せてほしい。

* 「劇団の旗揚げ」とは、言うはやすいが容易な決断ではない。秦建日子が熟慮し奔走してそう決断したという、そのことにわたしは賛同し祝福する、おめでとう。
その世界の事情など父は全然識らないが、やると決意したのはただの蛮勇でも浅慮でもないことを、父は息子だから信頼する。苦難も嶮しい起伏もあるだろうが、踏み出したのだ、毅然とまた慎重に行くように。
父は何の励みにもならず手助けも出来ない代わりに、いつも此処にいて「秦組」の航海を観ている。
大航海時代の船長には「徳」があった。ただの人徳ではない。知識も技術も判断も腕力も弁舌も、策謀においても全船員にぬきんでていた、それを「徳=力= virtue」と称えられた。まだまだそんな力や徳を備え得ているわけがない以上、謙遜に学んでも欲しいし、健康にも、どうか人一倍留意あれ。気弱くなるな。

* 渋谷、下北沢は、雨だろうか。

* 下北沢では、昨深夜に思い立って切符の手配をし、伊丹から飛行機でわざわざ観に来てくれた、わたしに逢いに来てくれた、関西テレビの報道記者、井筒慎治君にアイサツされ、びっくりし、信じられず、大感激した。興奮した。
彼が卒業して十数年、以来一度だけ京都の産経支局前で逢ったことがある。東京へも一年ほど転勤して来ていたのに、なかなか逢えなかった、が、終始連絡は途絶えなかったので、いつも身近に感じていた。
とは言え建日子旗揚げの芝居をはるばる大阪から観に来てくれたとは。
有難う、ほんとに有難う。
幸い舞台のアト、建日子を引き合わせることも出来た。建日子も、消耗もせずゆったりと元気そうだった。建日子もわたしも大柄な上に、井筒君もっと大柄で、路上混雑の中で三人が、ちいさい妻も入れて四人で立ち話していると、「小山」のようだった。
芝居は、超満員で、通路は三十センチ幅もなかった。

* 芝居のあと、近くのパブで、妻も心嬉しく、井筒君と三人でビールで乾杯、懐かしい歓談に時を移してから、小雨の下北沢駅で渋谷からまた空港へ帰って行く人と別れ。わたしたちは、吉祥寺の方へ帰って行った。雨など、少しも苦にならなかった。

* 芝居は、初演とはまたちがったフレッシュな顔ぶれと演出とで、二時間やすみなく、躍動し面白かった。苦心のリライトと配役。楽しんだ。
その『Pain』の詳細な感想は、まだ上演が始まったばかりでもあり、落ち着いて書いて、建日子に直接メールする。
2008 8・24 83

* 七時に起き、昨日の建日子芝居の感想を書く。発売と同時に完売になったため、知友への案内もしそびれたとか、いろいろこれまでにお世話になった方へは申し訳なかった。昨日の井筒君も、辛うじて頼み込んだんですと言っていた。
2008 8・25 83

* いくら観ていても、見飽きない。妻が撮った。まだ社宅にいた頃。建日子が一歳過ぎた夏前とすると、太宰賞を貰ったちょうど前後か。創作にも懸命、編輯の管理職としても激務のさなか、こういう瞬間が家族みんなの幸せであった。姉も弟も、宝だった。今もだよ。
2008 8・26 83

* さて、九月を迎えるにあたり、まっすぐ立ち向かわねばならないことが、イヤほどある。
最初に、★★側から提出された、やす香が入院前・入院後の「受診・診療に関する証拠」資料を検討した。法廷への陳述の仕方など知らない。弁護士に提出して役に立つなら立てて貰いたい。長文だが、事実は小説より奇妙を告げていて、惘れる。

☆ 甲第19号証~同第25号証 ★★やす香の入院 (06.06.19)以前・以後(06.07.27逝去)の「受診・治療」資料につき、所見を述べます。    秦 恒平

この陳述で、秦 恒平は、二つのことを合わせ主張します。

① やす香「入院前」の診療等の経過を検証し、この段階で、やす香の両親が祖父をとらえて、「名誉毀損」「損害賠償」「謝罪」を言い立てうる情・理の根拠は、全く見られないと云うことです。
② やす香「入院後」にかかわる極めて不備な提出資料の批判を通じて、この段階でやす香の両親が祖父をとらえて、「名誉毀損」「損害賠償」「謝罪」を言い立てうる情・理の根拠の、全く見られないと云うことです。

やす香入院(06.06.19)以前の診療の実態と問題点。

やす香自身による病識(問題点を太字で指摘)は、すでに平成六年一月から「mixi」に公表され、深刻な体調違和の訴えを、加えて、それ以前から体感していた憂慮を、明確に示しています。(絵記号の類は秦には理解不能ゆえ、再現されてあるそのままにします。)

2006年01月11日 (一昨年、やす香自身の「mixi」日記です。)
11:18 痛。

そろそろまずい↓
何もしてなくても痛む腰。
ろくに上も向けない首。
筋が変にきしむ肩。
血の巡り悪すぎ。
手足の先が凍る。
頭が動かない。
原因不明のびみょーな腹痛。
言うコトきかない身体に
もううんざり。

これが見受ける限り、最初の自覚症状の記録です。正月年賀に祖父母の家に来たとき、思い合わせばかなりはっきりした(すぐ寝そべり休むなどの)容態が見えていました。

2006年03月13日
02:45 胸の痛み
恋の病…

ではないんです(^-^;
ホントに痛いんです↓
クシャミとか、
寝返りとかすると
一たまりもありません(*_*)
アイタタタ…
ってなります。
鎖骨、
首の下あたり一帯が。゜(゜´д`*゜)゜。
妹に敷布団とられて、
かたーい布団で寝たから?

あぁ眠れない(:_;)

2006年03月15日
10:41 あんね~

やっぱり痛ぃ(+_<)
筋肉痛ではなぃみたぃ。
首から下がってきて
ちょっと左あたり?
花粉症だから
くしゃみとかするたびにひびく(*_*)
肋骨?!
いゃ、まさかねぇ(^-^;
どんだけ骨もろいんだょ
ってぃぅ(o′艸`o)

原告資料中最も時期の早い、地元玉*学*「野口整形外科」受診治療記録(甲第一九号証)は、2006年4月4日のもの。ほぼ三ヶ月経過していますが、これ以前に、上の愁訴に応じた受診治療履歴は見えません。レントゲン撮影と痛み止め投薬で終わった整形外科の対応は、単に無効でした。
母・夕日子(此処では仮名に)の当時連日書き継がれていたブログ二種類(がくえんこらぼ・小説「ざばぶるぐ」)も、娘・やす香の病状には何の関心も対応も示していません。
受診の翌日、やす香は悲鳴をあげています。

2006年04月05日
00:41 悪化の一途をたどる。。。

☉д⊙) www
咳とかしゃっくりとか、くしゃみとか、
するたびに泣きそうになるわァ。。。
目に涙浮かべてたら察してやってくださいwww
別に悲しいわけじゃなりません^^;
レントゲンにも写ってくれないなんて
いったい何が起こってるのかしら???
いやまァいたって元気ですけどね^^v

2006年04月05日
13:02 凹む。。。

なんでこーゆー時に限って
咳が止まらないんだろ↓↓
咳を流し込むための
水が手放せません。
それでも不意にでてくる咳に涙…。
痛み止めなんて効きやしない。

かがめないし
振り返れないし、
左手に力入れられないし、
走れないし。。。

何が一番嫌かって、
おもいっきり笑えない
。゜(゜´д`*゜)゜。

今まで日常生活に支障なかったのに…↓
今じゃ呼吸にも気を使う。。。

翌日四月六日に野口整形外科が求めた結果か、麻生病院内科での血液検査報告書(甲第二○号証)が出ています。何等の検査所見もなく治療の実施された形跡もない。やす香は訴えています。

2006年04月06日
13:03 Do I have to go ?!

しょーがないから逓信病院にでも行ってきます。。。 (=大学のそばにある。)
お金たくさんかかるかなァ。。。
こんだけ痛くてなんでもないって言われるのもシャクだけど、
なんかあるって言われるのもイヤ。

2006年04月06日
23:25 まぢ

意味わかんない。
CT撮っても原因不明って何?
痛み止め効かなきゃ
大学病院行けだって…。
次から次へと回し者だよ。
ダメだ…。
もう凹みっぱなしだ。。。
怖いとかそういんじゃなくて、
ありとあらゆる行動が
途中で止まるから
精神的に辛い。。。
もういっぱいいっぱいだよ…

堪えかねたか大学のすぐ隣の逓信病院へも自前で受診しています。CTも撮ったとありますが、原告は資料を提出していません。母親のブログに徴しても、両親が娘の苦境に反応し援助している形跡は全く見えません。やす香は病院費用の心配までしています。

2006年04月10日
00:46 ~

笑えない。
眠れない

医者なんてあてにならない。

辛い。

寂しい。

006年04月11日
16:11 なんだか、

最近愚痴っぽぃゎァ。

ぅらむょ。
こないだちゃんと診断下してくれなった医者。
可能性すらも示唆してくれなかった医者。
そもそも内科に行けって行った看護師。

ぁぁ、
ゃっぱ宛てになりませんね。。。

2006年04月11日
23:47 ~最近~

暗い日記ばっかだなぁ(^-^;

なんでか知らないけど、
左腰が痛い( ̄- ̄;)
胸かばって
変な体制で寝てるからかなぁ。

まぁどーでもぃぃゃ。

これらの吐息には、誰の援助も期待できない絶望が読み取れます。そしてこの翌四月十二日に日赤医療センター内科へ出向いていますが、驚いたことに提出された診療費領収書(甲第二一号証)では何かの「撮影」をしたとあるだけで、治療行為や医師の所見等は全く見られない。
しかもこれ以降、提出された資料は六月十日までほぼ二ヶ月間、何も無い。
親たちは娘の容態を本気では把握していなかったのでしょう、しかしやす香自身は、この間に「整体=カイロプラクティクス」にも苦痛に耐えて通っていますが、肉腫をかかえた躰にはあまりに過酷な見当違い。その見当違いのさらに最たるモノは、六月十日付けの提出資料が明かしていますが、以降二ヶ月間のやす香の苦痛を具体的に顧みておきます。

006年04月16日
22:34 気持ち新たに

諦めました!
そのうち治るょね☆
病院行っても凹むだけだし!!
だからもーいぃです。
明日からちゃんと学校行きます。

相変わらず両親が此の娘の苦境と絶望に、支援や憂慮の手や言葉を掛けていた形跡は、母親のブログにも、やす香の「mixi」日記にも、全く見えていません。逆に母親の請け負っていた「仕事」のミスを、バイト帰りで疲労のやす香が手伝わされ、「スパルタ母さん」と苦笑しています。やす香が母親に具体的に触れた「唯一」と言える記事でした。

2006年04月18日
00:10 固。

胸筋~肩筋が
固まってしまったんじゃない?
ってくらい動かなぃょ?
両腕あがりましぇん。
グワングワン
ヒリヒリ
ジンジン
ってかんじ?
どうなってるの、
my body(?_?)

2006年05月08日
15:46 ヘタレ

まずいです。
何もする気が起きません。
5月病でしょうか。
いや待てよ、
3月からずっとこんなんです・・・OTL
何がいけないって、
寝ても覚めても疲れがとれないんです。
最近は腰痛がひどくて熟睡できません。
熟睡どころか寝っころがれません。
布団の上でウダウダするのが至福の時でしたが
今や布団の上は痛みとの格闘の場です。
胸の痛みは大分ひいてきたものの、
今さらながらに
「健康診断の結果がふんちゃら」
と大学の診療所から呼び出しくらいました。
結果やいかに・・・。

2006年05月12日
14:33 へこたれ

ぶっちゃけ
私へこたれてます。
動きたいのに動かないのょ
私の身体~(*_*)
病気でも
怪我でもなけりゃ
なんなのさぁ?
たまに言われるんだよね。
「ストレスじゃない?」
って。
まぁ思い当たる節はあるものの、
除外しようのないもんでして…(- -;)

OTL (=ガックリの文字絵らしい)

「ストレスじゃない?」とは、誰の言葉であるか。友達は皆が「病院へ行け行け」と心配しているときに、これがもし親たちの口から出ていたなら、むごいことです。「思い当たる節」が、すでに証言もされている、もし、離婚も現実化していた両親の不和であるなら、これも、むごいことです。

2006年05月19日
16:50 WHERE R U FROM?

この例えようもない気持ち悪さはいったいどこからくるんだろう??
うげげiI||Ii(ツω-`。)iI||Ii━

2006年05月22日
05:30 遅寝。早起き。

まだ朝の5時ゃん\(*`∧´)/
3時間に1回目が覚めるんだけど、
不眠症なのかしら?
整体行って
腰はなんとかなったんです。
仰向けで寝られるなんて
久々の感動だったわけなんですが、
それでも熟睡できない理由があるのかえ?

まだ節々が痛いんですが、
まぁ要するに疲れなわけです。
整体師さんいわく
全身肩凝りみたいな状態らしい。
胸が痛いのも
恐らく、
本当は呼吸とかの度に動く骨が
周りの筋肉が固まってて
動けないかららしいんです。
だから熟睡したい。
時間はあるんです。
睡眠の時間ちゃんととってるんです。
なのに眠れなきゃ
疲れとれないじゃないですか。゜(゜´д`*゜)゜。
もぅ自分の中のわだかまりとか、
周りのイザコザとか、
全部忘れたい!

これ、
要はストレスなのでしょうか…?

「整体」さんの説明はこの病状に関して全然無効です。ワラをも掴む思いだったのでしょう。それよりこの時機にまだ、「まわりのイザゴザ」などに惑わされて、こんな判断でいたこと、身近な大人が憂慮すらしていないらしいこと、に驚きます。

2006年05月27日
16:34 なんでぇ。゜(゜´д`*゜)゜。

身体が動くことを拒絶してます(´・c_・`)
家の階段の往復するだけでだるくて気持ち悪くなるiI||Ii(ツω-`。)iI||Ii息あがるしOTL
さっきは足に激痛がはしりました(*_*)
いったいどうなってるんだぁこの身体。

2006年05月27日
22:57 どわぁぁぁぁ

どうにか整体行ってきた。
帰り、坂の途中で
倒れるかと思ったOTL
ここ半年の疲れが
また一気にでてきた感じ。
どわぁぁぁぁって。
だるすぎて
ベットに張り付け状態。

2006年05月28日
06:20 くぅ( ̄- ̄;)

いったいいつになったら治るんだ!
。゜(゜´д`*゜)゜。
家の階段すら億劫だょ↓
起き上がるだけで一苦労だし↓
人に会えないのが一番辛い…。
風邪でもないのに
1日中ベットの上なんて
寂しくて死んでしまいそーデス(;c_;。)

2006年06月02日
22:43 久々のケータイ

ベット上の生活もかれこれ1週間。
トイレに行く以外食事もベットの上。
極度の貧血らしいです。
起き上がると
頭に血を送れないらしいです。
ひどい時は
ケータイすらさわる気になりません。

2006年06月04日
06:38 タイトルなし

考えてみたら、
3月以降
私の中の時が進んでない。

ずっと体調不良で、
なんだかんだ
どれも宙ぶらりん。

自分の許容量以上のものを引き受け、
というか、
自分の許容量というものを
全くわかっていなかった。
ただNOと言うことから
逃げていたんだと思う。

後に残った膨大なプレッシャー、
そして20歳を目の前に、
精神的にも体力的にも
あっという間にどん底。

動きたいのに動けない。
食べたいのに食べられない。
笑いたいのに笑えない。

この1週間、
起きては吐いて、
食べては吐いて、
自分で飲み物すらとりに行けない状態の中、
ふと映った真っ青な顔の自分を見て
なぁにしてんだろーって思った。

こうなったのは他人の責任じゃなくて、
自分の責任なんだってわかってるから
どーしようもない悔しさばっか溢れてきた。

自分の思い通りに
自分で動けることが
どんなに幸せなことなのかが身に染みた。

今は辛いけど、
なんで…?って思ったりもするけれど、
ハタチになる前に
こんなことに気付けて
よかったんだって思うことにする。

治ったら、
自分なりに時間を動かしていこう。
NOって言うことから逃げないで、
自分の思う道を進む。
道は一つじゃないんだから、
どの道を歩もうと、
速足で歩もうと、ゆっくり歩もうと
たどり着く先に
確かな夢さえ見えていれば大丈夫だよね。

“ガキ”っていいですよ。
「イヤイヤ」とか「ウン」が平気で出てきます。
私達って、けっこう怖がって、
簡単なことも、余計に難しく
考えがちです。
怖いかもしれないけど
「イヤイヤ」を言えるといいですね。

2006年06月06日
13:19 ◎筋肉◎

って使わないと衰える!!

パパもママもおうちにいなくって、
明日先生のお通夜に
這ってでも行くために

リハビリだ!!!

って凄んで
家の一階に
オレンジジュースとりに行ったの。

大丈夫だから、
大丈夫だから…
ちゃんと頭に血を送れぇ

って自己暗示と共に(笑)

ばぁちゃんみたいに腰曲げて
見るも無惨なかっこで
10日ぶりくらいに食卓に降り立ち、
オレンジジュース入れて

よし、上り頑張れ自分!

って2、3歩のぼってあらびっくり(◎o◯;)
足に力入りません∑(`・ω・屮)屮
手摺りないとフラフラしちゃう。

こりゃホントにリハビリせねば
って思ったね(^-^;

んで、
手摺りにしがみつきつつ部屋に戻ってきて、
ジュースおいて、
ベットに安らぎを求めようと
ヘナヘナ座り込んだ瞬間、

ガタン…。

えっ(i|!゜Д゜i|!)

恐る恐る振り返りました。

そーですとも。
汗と涙の努力の結晶を
ものの見事にひっくり返しました。

滴り落ちるジュース…。
まさかそのままにしておくわけにもいかず、
雑巾とりに下に降りる体力もないので、
木の神様にごめんなさいと謝りつつ
大量のティッシュで後始末。

あぁ意外と動けるじゃん自分…_| ̄|●

と思いつつ↑の退勢で床を拭いてたわけです。

よし、
この大量のティッシュを一度ゴミ箱へ…

と思い起き上がろうとした瞬間、

うっiI||Ii(′◎ω◎`;)iI||Ii

こっ腰が……_| ̄|●))

なんとまぁ
全然伸びないじゃないですか。
真っ直ぐ立てないんですよ。
腰が曲がってしまった
おばあちゃんの気持ちが

よぉぉぉぉぉぉくわかりました。

みんなちゃんと運動しようね(o′艸`o)

すさまじいというも愚かな病状の悪化・激化が観られるのに、原告提出の資料は、この六月十日段階にいたって、町田市内の「すこやかクリニック」の診察券一枚(甲第二二号証)だけ。所見も投薬も担当医師からの説明はなく、入院以後に、いや★★やす香逝去以後に北里大学病院の示した「転科サマリー」(甲第二三号証)によって、この「すこやかクリニック」が「精神科」であり、やす香はなんと「鬱病」と診断されて、抗うつ剤の処方をされているというから、驚く以外にありません。
親たちの眼は、何を見ていたのか。愛の手をかけていた、言葉を掛けていたとは、ここに至るまで、全く、片鱗すら見いだせない。
以降入院まで、やす香はこう書き続けていました。

2006年06月12日
11:10 みんなが恋しいょぉ。゜( ゜´д`*゜ )

世捨て人(?)になってから
かれこれもう
3週目に突入しております(*_*)
お医者さんに行ったら (=六月十日に鬱病と診断した精神科であると想われる。)
「大丈夫です、
夏休み頃には元通りですょ(^-^)」
って…
おぃ\(*`∧´)/
そんなに待たすんかぃ。。

06:22 思香 (=やす香。「mixi」メッセージ)

>おじいやん
甘ったれやだらけで、大好きな大学にもバイトにもいかず友達とも会わず家に引きこもってる理由などあるでしょうか。医者に何度かかかった結果がこれです。二十歳の誕生日前には治ると先生は言っていましたが…。ただただ信じて布団から垣間見える青空に動けぬじれったさを感じる毎日です。

「三週間」も孤独に家のベッドに動けずにいたとあります。家人は留守がち。言語を絶する苦痛の中でジュース一つをとりに階段を上下し、あげく零してしまい泣いています。
人は、はっきり「親の目が離れていた」と指摘しています。「いのちがけで娘の命をまもってみせる」といった入院後のむなしい豪語は、この一月から六月までの入院前でこそ、親として実践して欲しかった。われわれ両家の大人はみな、やす香を「死なせてしまった」に万々間違いないのです。余人ならぬ肉親の家族に、親に、あまりに当たり前のことを批判されて、「殺人者」呼ばわりされた「名誉毀損」「損害賠償」だ、「謝罪せよ」とは、知性のある筈の大人にしては、まこと、無道な居直りです。恥ずかしい逆恨みです。

以上・やす香の入院前

 

やす香入院(06.06.19)後逝去(06.07.27)にいたる治療事情と問題点。

北里大学病院への受診には父親の示唆が有ったかに提出資料「転科サマリー」(甲第二三号証)に見えていますが、この二年にわたりかつて一度も聞いたことのない事情です。このサマリーが何時書かれたかにも、疑問を後に呈します。
平成十八年六月十九日まで、やす香の母がこの入院にどれほども関与していなかったことは、ブログ「がくえんこらぼ」の七月一日の日記、それ以前の全日記がまこと露わに物語っています。
七月一日というと、すでに入院後二週間近く経過していますが、その時点での母親・夕日子が娘・やす香の病気「白血病」に感じていた重みは、自身の「こらぼ」活動と「並行」していてなんら「二者択一」にも及ばない、というものでした。やす香が「白血病」で闘うように自分は「地域活動」で闘いたいと、はっきり書いています。

Posted by ぬぼこ(=★★夕日子) at 08:40 | 娘 | コメント(0) | トラックバック(0)

並行宇宙 [2006年07月01日(土)]

ふれあいサタデー(=地元でのコラボレーション)に向けて駆け回る私に
一本の電話が入る。
体調不良で
でも、「どこも悪くないですよ」と言われつつ、
幾つかの病院をめぐっていた長女の

その「不調の原因を突き止めてくれた病院」がある
そこに入院するという電話。

ありがたいニュース………・のはずだった。

だがその病院に駆けつけて以来
私はほとんど病院を出ていない。
洗濯のために家に2回帰っただけ。
仕事に大穴を開けたあげく、
幾つかのオファーをキャンセルする。

流れていた時はすべて断ち切られ、
過去はすべて邯鄲の夢であったように、
並行宇宙での活動であったように、

今の私に繋がっていない。

こちらが夢ならいいのにと思う。
ふっと目覚めたら、梅雨の蒸し暑い空気のよどむ、
自室のベットの上ならいいのにと思う。

だけど、
病院にパソコンを持ち込んで、
私は試みる、この宇宙と、あの宇宙をつなぐように
病院の窓際に座る私が現実であると同じように
がくえんという街と、そこでの活動を
私の現実として取り戻すために。

ブランクはたった2週間だ。
二者択一でなくていいはずだ。

私は負けずに進んでいこう。
娘が闘っているように、
私には私の闘い方があるだろう。

これが二月二十五日(やす香姉妹が祖父母を訪れた最後の日)に始まっていた夕日子のブログの、以降一貫した姿勢です。母親が自身の「こらぼ」活動に夢中で、やす香が病魔にひしがれた過去六ヶ月に、真剣に一度たりと目も向けていなかったことが、この「七月一日の日記」で明白になっています。ブログでの「娘」というカテゴリーは、この日が最初であることも印象的です。
母親は、「白血病」はくみしやすしと観ていたようです、やす香に呼ばれて祖父母が初めて見舞った六月二十五日、夕日子はしごくあっさりと「治る病気よ」と両親に話していました。そういう認識なのでした。或る意味、願望であったでしょう。

ところがこの母親は、七月七日に至り、真実ぼう然と、なすすべを喪ってしまいます。同じブログの「七月七日の日記」が、初めて母親絶望のさまを表しています。この事実はじつに大きく、後に具体的に触れます。

六月十九日に入院後三日の「mixi」に、知友の全てを驚愕させた「やす香」の名による「白血病告知」が出ました。

2006年06月22日
05:04 みんなへ

長いこと更新しなかったことで
心配してくれた人ありがとう。

人生が逆転したかのような
この一週間。
ここに書き記すことをずっと迷っていたけれど、
やはり自分の記録として
今まで日記を残してきたこのmixiに
書き残そうと決意しました。

「白血病」
これが私の病名です。

今日以降の日記は
微力ながら
私の闘病記録になります。
必ずしも読んでいて
気分のよいものではないと思うので
読む読まないは皆様の判断にお任せします。

コメント等
返信遅くなってしまうかもしれませんが
力の限り努力するのでよろしくお願いします。 2006.6.22

この告知文の筆致は、それ以前のやす香自筆の「mixi」日記とハッキリ異なっています。やす香自身は「白血病と告知」されて、身も世もなく烈しく動顛したことが伝えられています。その際に「闘病記録」などという言葉が本人から出るとはとても思われない。「闘病記録」が母親・夕日子の「発案」であったことは、同時期の弟・建日子へのメールで明らかです。上の七月一日日記の文体と、そっくりなことは誰の目にも明らかでしょう。この「告知」は、いわば親が企画した「闘病記録」の第一弾として代筆されていたものと推量が十分可能です。文体というものに馴染んで学んできた作家として、そう思います。 とはいえ、やす香が、友人知人へ「mixi」を用いて自分の置かれた事態を告げ知らせたかったことも事実でしょう。友人知人こそ、やす香の「支え」でしたから。

宛 先 : 思香 「MIXI」メッセージ  祖父・湖(=祖父・秦 恒平)
日 付 : 2006年06月22日 10時19分
件 名 : いま読みました。

いま読みました。 じいやんは泣いています。診断は確かなのだろうかと、ウソであって欲しいと。
しかし泣いてばかりは居られない。出来る限りをお互いに努めなくては。
同じ病気と闘っている人を知っています。日々、とてもとても慎重に、しかし今は大学を卒業してドクターです。親子してそれはそれは慎重に一日一日を大切にしていました。この闘病は、細心の注意と摂生と聞いています。最良のドクターを親に探して貰いなさい。いい主治医。この病気では、日々の指導にも気配りのいい主治医が大事な大事な鍵と聞いています。
疲労の蓄積。これが、最もよくない亢進へのひきがねになる。余分なムリはゼッタイにだめ。慎重ななかで日々安心して静かな心で元気にくらしてゆくことが肝要です。我をはらないで、我にも人にも素直に柔らかい気持で。
百まで生きなさい。しっかり生きなさい。 愛している。 じいやん

この時点、祖父母はまだ、孫の入院先が北里大学病院であることも分からなかった。★★家からは何の通知もなく、秦の祖父母にやす香のことは「報せない」つもりと、姉・朝日子は弟・建日子に告げていました。何も伝えない、説明しない。排除。
此処にこそ、此の★★側の姿勢にこそ、一切の「根」があったのです。「根」は一方的に★★家で作っていた。「やす香の病気に関する一切の説明も連絡も」、秦家に対し「拒絶」していました。
問いかけても、返辞もなかった。

祖父母は乏しい情報から「推量・推測」しつつ、愛する孫の命脈を、身を揉んで憂慮するしかなかったのです。その正確な記録が『かくのごとき、死』です。
この著は、★★に対する攻撃の著述では全くありません、「孫の死を」おそれ嘆き悲しみ書いていた「mourning works=悲哀の仕事 精神医学のターム」でした。久しい文学史の流れを汲んだ「日記」という文藝作品でありました。★★家に、この著作を「名誉毀損」や「著作権侵害」で否定しうる立場も論拠も、全然無いのです。

やす香が「白血病」入院と秦に知れたのも、両親の連絡があったのはない。孫と祖父とが「mixi」の「マイミク(=親友)」関係であったから、先の「告知」が読めたのです。夕日子らはそんな「我が娘と我が父」との関係を全く知らなかった。とうの昔からやす香たち姉妹が、親に秘して、祖父母と親交を回復していたことなど、両親は気づいてもいなかったのです。そういう形で親は娘達の批判を、或る意味の厳しい「NO」を浴びていながら、気も付いていなかったのです。「無関心なの」と、在りし日のやす香が祖父母に向かい、親の自分に対する姿勢を「要約」していたのは象徴的でした。

「mixi」がなければ、マイミクでなかったなら、祖父母は愛する孫娘の運命を知らされぬ儘であったろうという、此の「重大な事実」を、私は、強く強く法廷に訴えたい。
やす香の病状や治療経過等々について全く秘し隠して、一片の説明すら★★家が秦家に拒んでいたことこそが、『かくのごとき、死』をめぐる軋轢の根源の理由であることを、此処で強く主張します。

さて提出されている「入院後」医療の資料は、甚だ不備で、重い疑点も挟み得ますことを、以下に、訴えます。
原告から提出された資料は、

①「転科サマリー」(甲第二三号証)  (北里大学病院入院翌日の、「急性白血病疑い」による「血液内科へ転科」 (07.06.20)に関するサマリー)

② 診療情報提供書(甲第二四号証)  (06.07.05 北里大血液内科角田裕子医師より、神奈川県立ガンセンター比留間徹医師宛)
③ 比留間医師の角田医師への報告返答書(甲第二五号証)  (06.07.10)

これら資料の日付よりみて、都合四十日間近い入院期間(06.06.19–06.07.27)の「前半」だけ、白血病の疑いから肉腫へ診断替えしたことを伝えるだけ、の不充分なモノに過ぎません。
少なくも、最も問題にされている「mixi」七月七日「肉腫・告知」以降の医療資料は、全く提出されていないのです。

まず提出されている資料を点検します。

六月二十日、即ち入院翌日には「決定」されている「血液内科転科サマリー」(経緯の大要)(甲第二三号証)は、入院前の六ヶ月間、ほとんど何一つ有効な医療を受けていなかった事実だけを明瞭に指摘しています。
やす香自身の「mixi」日記がそれを強く訴えていますが、両親がほぼ全く何の手も愛も娘・やす香の上に掛けていなかった、要するに「目を離したまま」であった事実も、蔽いようがないということです。
ある中学生が、「やす香さんのお母さんは、その責任の恐怖を感じて」祖父母に対しいわば居直ったケンカを売っているのではないでしょうかと、メールを呉れています。ウエブ時代といういわば「判決のでない裁判員」環境があたかも機能しているのを窺わせます。やす香の「mixi」日記や、秦の『かくのごとき、死』は、当時、オーバーにいえば世界規模で注目をあつめていたのでした。やす香の「かくのごとき、死」はいちはやく専門書にも採り上げられ論じられていたのです。

疑問が一つあります。
入院翌日(06.06.20)には決していた院内血液内科への「転科サマリー」(甲第二三号証)が、資料中の日付から観て、「やす香の死(06.07.27)以後」に書かれている不自然さ。「六月二十日以降についての病状推移等」は、当然ですが「全く書かれてはいない」のにです。

必要なのは「六月二十日転科」以降の詳細な「カルテ」「処置」等の資料ではありませんか。無意味です。「安楽死」をすら結果疑わせる「転科以降」の病状の推移や輸血停止等の処置が、日々の「カルテ」はもとより、何一つ提出されていない。無意味です。
もとよりやす香自筆の、また、医師や両親の「インフォームド コンセント」も提出されていない。しかし七月二十六日に事実上安楽死を意味する「輸血停止があった」という「mixi」上の証言、虚言を書く必要の微塵もない、やす香のお友達の真率で確かな証言を、我々は「mixi」上で聞いて、記録しています。
多くの問題がその前後にこそ集中しているのに、これら原告提出資料は、全く何一つも説明・説得できていないのです。

一方、問題にされている『かくのごとき、死』の多くの記述は、もともと肉親の情と理において祖父母等に対し最低限果たすべき「病状説明」等を、故意に全く与えようともしなかった無道への焦慮にも発しています。
人として当然の推測・推量と、わずかな情報によって孫・やす香の容態を気遣い祈るのは、あまりに自然当然の祖父母達の真情であり、それを侵害し蹂躙していたのは★★夫妻の、「子たる親たる非道」であるというしかない。その反省が微塵も示されていないのは何故でしょうか。

やす香は明らかに、両親の、祖父母に対するそのような振舞いを是認していなかった。「見舞いに来て」「逢いに来て」とはやす香の心からな願いであったことを、残されたメール記録は示しています。友人も、やす香の「意志」の強さに、親への「NO」の表明に驚きながら共感しています。

次ぎに、角田医師と比留間医師の交信(甲第二四、二五号証)を観てみます。
いわゆる「セカンド・オピニオン」の取得なら、専門学に属することで介入しませんが、この書簡往来は「セカンド・オピニオン」の要請ではありません。
北里大学側がすでに「肉腫(alveolar rhadomyo sarcoma)」(甲第二四号証)と診断した上で、神奈川県立がんセンターへの「入院治療・転院治療」を要請したのです。そして拒絶されています。がんセンターセンは「緩和治療」を北里ないしやす香保護者に対し推奨しています。

「依頼された七月五日」「答えられた七月十日」という日付に、注目していただきたい。同時進行で日々記述されていた『かくのごとき、死』日録の記事と照合して、幾つか問題点が出てきます。

少なくもこの頃に、弟・建日子へも父・私へも、「セカンド・オピニオン」「サード・オピニオン」ないし「高度の受診・医療」について、親切な紹介の手がさしのべられていました。即刻★★夫妻に伝えましたが、すべて完全に無視され、何らのアイサツすらありませんでした。
「癌の場合、ワラをもつかめ」という通例を、この際故意に無視したのも★★の両親でした。これに対し批判や不満の思いをわれわれが持ったとして、当然です。「やすかれ やす香 生きよ けふも」と祈り続けていたのですから。

日記によれば判然とします、七月五日には、まだ「白血病」は「なおる」というわずかな希望を少なくも母親も、祖父母も持っていました。

ところで大きな不審が出てきます。
比留間医師からの返答「セカンド・オピニオン」(七月十日)がまだ角田医師の手に届いていない筈の「七月七日」早朝の「mixi」に、「告知 やす香」の題と、名乗りとで、

私の病気は
白血病
じゃないそうです
肉腫
これが最終診断。れっきとした

だそうです。近々癌センターなるところに転院します。
やす香の未来はどこにいっちゃったんだろう…

という「日記」が出ています。

先にも云いましたように、北里大学血液内科の角田医師は、七月五日の比留間医師に対する依頼書(甲第二四号証)時点で、はっきり「alveolar rhadomyo sarcoma」要するにやす香は「肉腫」であると、すでに診断しております。つまり、神奈川県立がんセンター」の比留間医師宛に要請したのは、繰り返しますが「診断の確定」をでなく、入院加療希望・転院加療希望を「打診」していたのです。角田書簡(甲第二四号証)には、「本人、家族も可能な限りの治療を希望されております。」と書いてあります。これが七月五日のことです。この「希望」はむろん当然の事でしょう。

七月五日は「水曜日」でした。角田医師の比留間医師への依頼書は、郵送されたか親が持参して神奈川がんセンターへ赴いたか、たぶん六日または七日に母親が単独で出向いたのでしょう、患者は安易に搬送できる容態ではなかったのです。
しかしことは、案に違い、絶望的に立ち往生したことが、七月七日の母・★★夕日子のブログ「がくえんこらぼ」が明瞭に伝えています。母親は、ここへ来て初めて進退窮まり絶句したのでした。

もっともっともっと早くに、入院前に、よく看ていてくれたら。
夕日子によるブログ「がくえんこらぼ」の存在を秦家が知ったのは、すでにやす香も亡くなっていた秋になってからでした。すべて余儀ないことでした。

壁だらけ [2006年07月07日(金)]

街に散在する小さな団体の、小さな壁を
乗り越えたいと思っていた。

だけど今の私は、もっととんでもなく大きな壁に阻まれた
迷路の中をさまよっている。

娘は、幾つもの病院を「異常なし」でさまよったあげく、
今いる病院で
「急性腎不全」として腎臓内科に入院した。
しかしそれは間もなく
「白血病」に変更され、
同じ病院内の血液内科に移動した。

そこで化学療法を目指して型の特定を行うはずが
調べれば調べるほど、
それは「白血病ではなさそうな感触」を増していった。
そして入院から2週間を過ぎてとうとう
彼女は「白血病ではなくて肉腫」と診断された。

そして肉腫の専門医はこの病院にはいないので
(神奈川県立=)がんセンターに転院してほしいと言われた。

だががんセンターには空きベットがない。
がんセンターにかかりつけの患者しか、
緊急入院を受け付けないという。

しかも今週末は、肉腫の専門学会が札幌である。
どこの病院にも、「専門の責任者がいない」という、
患者からすれば信じられない事態が起こる。

とりあえず週があけたらご相談に乗ります
・・・それまで3日以上ある、
「相談に乗」ってもらって、すぐ転院できる保証はない。

ガンは心臓発作みたいに救急の対処でどうなるものでないのはわかっている。
だが、
「一般論として」宣告された余命の
10%以上を無為に待たされる患者の気持ちは
医療の壁を越えていかない。

私は娘を抱きかかえて途方にくれる。
このとんでもない壁を、
私はどう乗り越えたらいいのだろう?

読むも哀れな此の日記を、万事休して遙か後に祖父母は読みました。この歎きを打ち明けられていたとて、もはや何が出来たか分からないにせよ、われわれは我が娘を慰め支えることを惜しみはしなかった。残念です。

この七月七日日記には、やす香が「幾つもの病院を『異常なし』でさまよったあげく」と認識していますが、途方もない間違いを犯していたことに、この母親はまだ気づいていない。直視すべきは頼りない医療機関の「異常なし」ではなかったのです。娘・やす香の半年間の全心身に押村の両親はまるで目を離し、ろくに心配もしていなかったことが、この安易極まる語句と認識とに露呈しています。挙げ句の入院にも、「異常」が把握されてよかった安心と云わんばかりの七月一日の日記は、先に見たとおりです。咎められて仕方ない親の無責任がここにはっきり出ています。

さて、七月十日に、たぶん母親の面前で書かれたろう比留間医師の角田医師への返答(甲第二五号証)はこうでした。
入院も転院も「NO」で、病状は極度に宜しからず、「ご本人が、緩和、Supportive care にも理解がおありのようなら、緩和主体おすすめしたいと思います」「とお話ししたところ、御理解いただきました」と。これが回答の「結論」で、母・夕日子は、或いは両親は、七月五日時点での「可能な限りの治療を希望」から、即座に断念して「緩和主体」に「理解」を示して北里へ回答書を持ち帰ったものと読み取るしかないのです。
あい次いだ父や弟からの「医療支援の情報」も全く顧みずに、「可能な限りの治療」に賭けるべき親が、ただ一度の比留間医師との面談だけで、全てを早々とかなぐり捨てていたことになります。

驚愕の事件でした。
比留間医師の回答も待たず、七月七日早朝の「mixi」に、なんと! 「わたしは肉腫」と、「やす香」の名で広く告知されました。やす香には此のあまりに酷い病名告知を誰がしたのでしょう。医師達でしょうか。親でしょうか。母親であったと本人がどこかに語っていました。「肉腫」は癌のなかでも最も凶悪です。それを母親が娘に告知し、それを広く「mixi」で公開すべきどんな必然性が、理由があったでしょう。

こういう行為を敢えてした理由の一つは、七月五日か前日六日のうちには、既に医師から親へ「肉腫」という診断が伝えられていて、そして事も在ろうに、動揺と絶望の極にあった未成年の患者やす香にまで告げてしまわれていたのです。

この七月七日早朝に、やす香が上のような「肉腫告知」を、上のような冷静な筆致で「mixi」に自身で書きえたと思う、誰がいるでしょう。誰の目にも思いにも不自然きわまりない。その筆致をよく読み取って戴きたい。やす香にはとても書けなかったであろう傍証も以下に明記します。

白血病なら持てた生存の期待を、肉腫は一分一厘の希望もなく打ち砕くのです。それをうら若い患者は親の口から聞かされたのです。
比留間医師の言葉はこうでした、「御本人」に「理解がおありのようなら」と。
比留間医師の前で「御理解」を示したのは決して患者のやす香本人ではなかった。母か、父か、両方か、とにかく死病に恐怖していたやす香のあずかり知らぬ「理解」でした。

この七月七日にやす香を見舞って、大親友の目の当たりにしたやす香「絶望」のさまは、痛ましくも雄弁です。

2年前の七夕の日は、やす香に会いに行きました。
やす香はその日、気分が落ち込んでいて、全く会話が出来ませんでした。
一方的に私が話すだけで、やす香の心は私にはありませんでした。
自分の事で精一杯だったと思います。
肉腫と分かって、まだ数日でしたから。
やす香は疲れ切った様子で、目も合わせてくれませんでした。
その日、沢山の友達がやす香を見舞っていました。
やす香は会いに来て、と言ってくれたけれど、私は病院に行った事を後悔しました。
弱りきっていたやす香にとって、大勢の友達は毒だった気がしました。
やす香に気の毒な事をしたと、悔やんでいます。
私が行った中で、この日が一番心が辛そうな日でした。

この証言の前で、さきの肉腫を報告する「告知 やす香」の一文の、何と冷血なこと。やす香に書けるわけはなかったのです。

さて、「甲第二三号証」転科サマリーの「ノンブル」に目を留めて下さい。「1/1」とは「転科サマリー」がこの一紙で尽くしていることを示しています。が、その下に、手書きで「2」とある。
提出された本資料全部に徴して、他は「1-①」「1–②」また「1」「2」などと正確に枚数を追っていますのに、ここには「1」が欠け落ちている。もともと病院から入手して此処に加えるべき記事が、故意に提出資料から隠されているのではないですか。
「緩和治療」に入って以降、死の転帰に至る病院側医療行為の全容が、説明が、欠け落ちた手書き「1」資料に含まれていたと観られます。
資料全部の、作為されていない誠実な提出を望みます。 以上
以上を通じ、

原告達は、親の責任と愛において、やす香入院前に、適切な何事も果たしていなかったこと、
入院後にも、適切な連絡や説明を秦の両親や弟に対し全く欠いていたこと、
は明らかです。

それらにより、やす香「死後」に、同じ肉親から批判を受けたことは、家族間の心事として決して不当でなく、むしろ原告達に、異様に両親の情理をふみにじる無道のあったことは、明白であると主張します。名誉毀損など全く存在しないと主張します。
正当な文学著作出版物である『かくのごとき、死』への不当な攻撃も、全く論拠のない居直りに過ぎぬと主張します。                             以上・秦 恒平・陳述

* わたしは、不当な提訴に対し、まだまだこういう陳述を、信じられないほど大量に必要としている。誰にもその代理はできないし、これを投げ出すことは、亡きやす香のためにも、また妻や息子のためにも、してはならぬことである。
しかもこれらを「心静かに」わたしはしたい、つづけたい。こういう作業自体をわたしは地獄での座禅・瞑想として受け容れている。
「ばからしいから、いいかげんに、およしなさい」などとカンタンに言わないで欲しい。
2008 8・27 83

☆ こんにちは!  琳
日本では今すごい雨が降っていると聞きました。
今年は豪雨多くて怖いですね。
それとも去年も多かったでしょうか?
いつも異常と騒がれているので、分らなくなります。
私はこれから最後の学校です。
辛いこともありましたが、その分もっともっと楽しい事もありました。本当に素敵な思い出が出来たと思っています。
明日の昼に(日本では19時位)憧れのパリに向かいます。
この一か月勉強してきた事が生かされるといいのですが。。。
でも大丈夫です! やす香がついてます!
やす香の愛するパリ。
楽しみです!!
浮かれすぎて、スリに合わないように気をつけます。
ヒッチコック作品、数作見たことがあります。母がヒッチコックのファンなので、その影響です。
私のお気に入りは「めまい」です。
先日寮に帰ったら、寮のマダムに「チリンチリン」と言われました。
なんだろう? と思ったら、どうやらいつも身につけていたあの鈴の音のマネでした。
寮の鍵にお守りとして付けているので、私が帰ってきたのが分ったようです。
そんな優しいマダムとも明日でお別れです。。。
悲しい!
そろそろ最後の授業に向かいます。
今日は午前で授業は終わり、夜にお別れパーティーがあります。
私は、白に青の線の入った浴衣を着て参加する予定です。
とってもとっても楽しみです!
どうか雨の中での外出はなさらないで下さいね!
温度差が激しいのでお風邪をひきませんように。
では、行ってきます!!

* やす香も、きっとお友達のすぐそばにいるのだろう。
2008 8・29 83

* 六時に起きて、しんどかった作業分二つをファイルにして事務所に送った。一つは、サーバーそして「mixi」当局との折衝の経緯と収束。もう一つは週刊新潮記事関連の経緯と、後日譚一つ。
こんなことを、あと、何度も何度も必要としている。好んで自分からしていることではない。払わなければ火の粉に心身が焦げるからだ。たいへんなたいへんな命と時間の無駄遣い。
2008 8・30 83

* 午後、夕食前にかけて妻と見た北野武監督・主演『菊次郎の夏』は上出来の感銘作であった。この監督作品にはじめて優れた才能を覚えた。
単調に見えるほどのロングショットの時間を、「人間」の味わいで満たしうる力量がすばらしい。時間を人間化して生かせる才能は、一種の魔法であるが、魔法が生きていた。この作中の菊次郎には「enlightend」の佳い「かるみ」「おもみ」が共存し、なんらの「抱き柱」ももたない自在の静かさ。すぐれた宗教性を感じた。
夏休み、何の楽しみもないまま豊橋にいる「生みの母」を捜しに衝動的に浅草の家を飛び出した少年を、いわば行きずりの菊次郎はただただ一緒に連れて行ってやる。
母とは悲しく逢うことができなくて、また東京へ帰って行く。
いろんな人たちに二人は出会っている。
建日子は観ただろうか。
2008 8・30 83

* 『モンテクリスト伯』を初めて読んだのは新制中学の内で、もとより人に借りてであった。
わたしは自宅に自分の持ち物としての文学・文藝本を一冊も持たなかった。自分のものとして持っていたのは幼稚園で月に一冊ずつ配られた「キンダーブック」一年分。それしか持てなかった。漫画などゼロ。講談社絵本などもゼロ。
他に、持てていたのは祖父鶴吉の蔵書であるたくさんな漢籍、すこしばかり日本の古典、評釈。祖父のか、父のか分からない中学用の通信教育教科書、そして明治期の事典や随筆、美文典範、浄瑠璃本の類。母や叔母の数冊の婦人雑誌。
特筆すべきは観世流の謡の出来た父の謡曲本。
仕方なくわたしはものごころついてより、それらを片端から順繰りに繰り返し開いていた。国民学校の生徒、小学・新制中学生には、おそろしく偏った書物環境だった。
だから、本を読ませてくれる人、まして一日二日でも貸してくれる人は、神様ほどありがたがった。少々遠くても、よくは知らない親しくもない人の家でも、本を読ませてくれるなら平気で出かけていった。
「お構いなく」で、ひとり読み耽り、読み終わるとくるりと頁を元へ戻し、必ずもう一度読んだ。そして、「おおきに。さいなら」と帰ってきた。
医者の注射が怖くて大嫌いなのに、医者の待合いはものの読める誘惑と魅力のある場所だった。

* 本のうえで忘れがたい恩人は、思い出して、一軒と二人。
死にかけたほど満月ようにむくみ、母の咄嗟の判断で丹波の疎開先から一気に京都の東山松原の樋口寛医院の二階座敷に入院したとき、枕元の戸棚に、漱石全集のうちの数冊、新潮社版世界文学全集の数冊がならんでいた。漱石本のあの装幀といくつかの題を見覚えたが、読もうとした記憶がない。
手を出したのが『レ・ミゼラブル』やダヌンチオの『死の勝利』やモーパッサンの『女の一生』やフローベール『ホヴァリー夫人』などだった。『モンテクリスト伯』はなかったと思う。読んだとは言えない、病気を治して早く家に帰りたかった。
とはいえ、「本」の世界はどうもこの辺に本道がある、ほんとの世界があると敗戦直後の小学校五年生なりに気が付いた。その感化と恩恵とが大きかった。

* 二人の一人は、恩を受けた順に言うと、与謝野晶子訳の『源氏物語』豪華な帙入二冊本を、頼めば惜しみなく家の蔵から持ち出し貸してくれた、古門前の骨董商、林本家の年うえのお嬢さんだった。叔母のもとへ裏千家茶の湯のお稽古に通っていた。
何度も借りた。源氏物語ただ一種とはいえ、わが生涯に恩恵は計り知れない。その時期が、『細雪』で名高かった谷崎潤一郎の新聞小説『少将滋幹の母』を愛読していたのと重なったのも、言いようなく有り難かった。源氏物語と谷崎とは一重ねにわたしの宝物になったのだから。

* 次の一人は、源氏物語と谷崎愛とも、とても無関係であり得ない、が、今その話はしない。新制中学二年生の夏前に初めて出逢った上級生で、わたしはそのひとを「姉さん」と慕った。その姉さんが、どういうことか、泰西の名作本を次から次へ惜しげなく学校へ持ってきては貸し与えてくれた。十八・十九世紀のヨーロッパの代表的な名作は、別れるまでのわずか半年のうちに姉さんが読ませてくれた。なぜそんなことが姉さんに出来たのか詮索のスベはないが、ゲーテもトルストイもバルザックもフローベールも、むろん『赤と黒』も『女の一生』も『椿姫』も、そして『モンテクリスト伯』も、痺れるように感動して読みに読んだ。
そして、最期に、卒業してよそへ去って行く卒業式の日に、姉さんはわたしの手に漱石の春陽堂文庫『こころ』一冊を、形見のように呉れていった、「呈」梶川芳江と署名して。
『こころ』はわたしの文学愛の原点になった。「源氏物語」と谷崎も同じく。
そして読み物をあまり高く見ないわたしの読み物の最愛作として『モンテクリスト伯』もその方面の不動の原点になった。

* いままたわたしは『モンテクリスト伯』を読み始めている、意図してトルストイの『復活』と並行して。この二作に因縁を求めているのではないが、大学入学の面接で愛読書を聞かれて『復活』と『暗夜行路』とカッコをつけたほど、男の小説としてわたしは愛読してきた。『モンテクリスト伯』もやはり「男」の小説ではないか。そして大デュマのは読み物で最高に面白い大長編であり、『復活』はいわば純文学の極北。ちょっと較べ読みしてみたいと思った。
不愉快な日々の多くを忘れさせる力のあることは分かっている。
わたしは高校生の頃から、嫌なことがあると先ず食べた。だめだと、なけなしの金をつかって映画を観た。それでもだめだと大長編小説を読んで、読んでいる間にたいていはカタがついていた。『モンテクリスト伯」か『戦争と平和』か『源氏物語』を選んだ。今なら『南総里見八犬伝』も加える。『ゲド戦記』全巻もすばらしい。

* で、今読み始めて『復活』の出だしにリードされている。
エドモン・ダンテスが、悪人ばらのたくらみで地獄のシャトー・ディフに落ち込むまでは不愉快きわまること、毎度承知。いっそ孤絶の地下牢に入りきってからが希望が持てる。ダンテスが婚約披露の幸福の絶頂を経て逮捕されてしまう辺までのデュマの筆致は、読み物そのもの、快調だが通俗なお喋りでジャンジャン進めてゆく。だがトルストイは軽い筆付きで運びながらも要所をおさえ、あわれな娼婦マースロワ、かつてのうぶな少女カチューシャの淪落と、何の呵責ももたず彼女をそこへ突き落としていて知りもしなかった青年貴族ネフリュードフの、それぞれの道筋を簡潔に語り継ぎ、そして今これから「再会」の場面に入って行く。そこはマースロワを殺人の罪で裁く法廷であり、ネフリュードフは陪審の役を帯びている。彼はまったくカチューシャのことなど忘れている。

* これから大デュマは徹底的に男の復讐を描いて行く。その規模は雄大で華麗で、一抹のあわれもいたみも秘め持っている。ダンテスを陥れたフェルナン=後のモルセール伯爵の妻となったメルセデス。ダンテスが命と愛した婚約者メルセデス。だがモンテクリスト伯となったダンテスは、凄絶な復讐を遂げて行きながら、救いあげた美しい元奴隷王女のエデをひそやかに深く愛して行く。
ロマンチストのわたしは、メルセデスに姉さんの面影を託し、エデに妻を感じたりしてきた。それは源氏物語の場合の藤壺と紫上にも連動しやすかった。おかしな秦サンではあるまいか。
伯爵大トルストイの筆は、ネフリュードフの贖罪と、甦るカチューシャの魂の物語を、遠くシベリア徒刑地の果てまで追って行くだろう。二つの名作を並行して読むことで、わたしは、物語世界をわたし独りの自在な思いで、さらに豊かに自分のものに創り上げたいのである。この歳だ、ゆるされていいだろう。
2008 8・31 83

☆ 秦組旗揚げ公演「Pain」、無事終了。  秦建日子
今、打ち上げから帰ってきました。
一ヶ月間のハードな稽古にもかかわらず、誰ひとり脱落することなく千秋楽まで走れました。そして本番は、最後の最後まで雨に降られましたが、それすらもいい思い出と思えるほど、素晴らしい10日間でした。
みんなが秦組Tシャツ―――羽座に押し切られて作りましたが、実を言うと、最初はちょっと気恥ずかしかった(笑)―――を着てアップしているのを見るのが、毎日とても嬉しかったです。
仲間のいる心強さをひしひしと感じました。
最終の15ステージ目は、客電が完全に点いた後も延々と拍手が鳴り止まず。。。でも、ぼく自身、最後まで「本編」を直し続けることに全エネルギーを使い果たしていたのでカーテンコールのリハなど一切しておらず。。。
キャストたちはみんな一度は楽屋に戻ってしまっていたにもかかわらず、たくさんの拍手に慌てて戻ってきました。ちょっと不恰好なカーテンコールでした。でもでも、最初からやると決めている予定調和のカーテンコールの10倍100倍心温まる素敵な終わり方を、お客様の温かい拍手によってさせていただけたと思いました。
明日からまた生きていく勇気をいただきました。(大げさではなく、本当にそう思いました)
連日、たくさんの激励のメールやコメントありがとうございました。
心が折れそうな時、何度も読み返し、「力」にさせていただきました。
公演の成功に惜しみない協力をしていただいたケイダッシュ・イーコンセプト・フィットワン・isの皆さん、ありがとうございました。
ビジネス度外視で振り付けの修正に何度も何度も何度も何度も時間を作ってくれた加藤清恵さん&YKDFの皆さん、ありがとうございました。
最初から最後まで、誠実に裏方として舞台を支えてくれた羽座和歌子、竹村千穂、島田友美子、飯田和広、弥野由布子、ありがとう。
連日、劇場に手伝いに来てくれたTAKE1生のみんな、ありがとう。
そして、劇場にて「秦組旗揚げ」の瞬間を共有してくださったたくさんのお客様の皆さん。本当に、本当に、ありがとうございました!
第二回公演で、またお会いできたら嬉しいです!  author : 秦建日子

* 朝一番に「おめでとう、よくやった」と祝メールを送ったあと、「mixi」でこの記事を読んだ。よかった。おめでとう。心満たされた嬉しさというものは、一心に創りおえた瞬間に爆発する。そういう幸福感は、また未来への力でも希望でも不安でもあるのだが、仕事をし終えて得られる本当の自祝なのである。より優れた未来へまた歩みだして欲しい。

* 父の辛い批評も覚えていて欲しい。

* 小説は繰り返して読み直せるし、ナボコフもまたわたしも常言うように、読書とは「再読」以降を謂うのだが、演劇の感銘はふつう一過性に客が持ち帰って、一時の興奮からさめていつまでホンモノの感動として生きるか、それが勝負なのであろう。劇場での拍手は作者や俳優・スタッフらへ、激励と、当座・当日の感謝、なのである。感銘という名の火種をどうその人人の胸や頭のうちで、どう先へ火種を継いで継いでリレーしていって貰えるか、記憶していて貰えるか。そのために、また第二回が必要になる。
一を起こし、二を生む
わたしに『花 風』の大きな二字を額にして下さった荻原井泉水さんは、この言葉を大切にされていた。
まず優れた一を起こさなければ。それなしに二や三は無い。まだまだ小山の大将、大将ですらまだないかも知れないが、建日子はとにもかくにも大きな「一」を起こした。健康を大事に、堅実に大胆にと願う。つまらない事故を起こさぬように。
父は父の晩景を、父らしく思い切り描いて行く。
2008 9・1 84

☆ 九月  恭
9・1  八月尽、裁判に関する記載は、秋を迎えての決意の一つの表し方と受け止めて再読しました。良い方向に物事が進むのを願っています。
以下は、8月13日のわたしの日記から、h..oshimura氏の返事をHPで読んだ後の感想。

「烈しく醜い、その文章は夕日子さん(仮名)がすべてを書いたものではないだろう。少なくとも、自分の家族は夫と娘、まではそのまま受け取ろう。その後で大仰に舅姑に触れ、O家の墓に入ることが望みであるとは・・やす香さんと一緒の墓に入るは 理解大いに理解できるが・・O氏の介入だろうと疑ってしまう。
また、週刊誌記事の件に関しては明らかに見え透いてくるものがあった。
HPでは、(秦さん=)ある程度冷静沈着に答え、書き進めているのは救いだと思えるが、書けない部分でどれほどの葛藤が渦巻いていることだろうか、案じられる。
状況は変わっているとしても、進捗は不可能に近いにしても、繰り返し試みるべきこと、なすべきことは、彼女を夫から「離していくこと、放免していくこと」だ。・・それとも既に遅すぎたのだろうか。遅いとしても、遅すぎたとしないことだ。遅すぎることはない。」

今日は用事があって機械に向かうのが遅くなりました。暑い中を自転車で出かけるのは、それだけで躊躇したくなりますが、普段の暮らしでいっそう怠け者になりそうで、一大決心して出かけるのです。
後で携帯で書いたメールを読み直しましたら、奈良博物館が博物園になっていたり、われながら恥ずかしいやら、可笑しいやら、失礼しました。
「西国三十三所」というのが展覧会の正確な名称です。西国の札所を廻ったのはもう二十年近くも昔ですが、実際に各地に行っても必ずしも本尊やら曼荼羅に直に会えるわけではありませんから、今回の展示は、奇妙な「懐かしさ」を感じながら興味深く見ました。
自在に動くように思われますが、本人としては自在とは程遠いと思っているのです。国内に関しては特に不十分で、東北、北関東、北陸、九州、南の沖縄諸島などまだまだこれからです。もっともすべて網羅してとは考えられません。経済的余裕があって旅行で
きたらいいですが・・これは無理な話で!
9.2   今日も暑い日。昨晩の福田氏辞任のニュースはやはり驚きました。こう慌しく首相が変わって、しかも唐突無責任。一国の首相たるもの、こんなんではあかん!! 問題山積みの日本。
昨日はアフガンで殺された若者の葬式、祭壇に飾られたアフガンの花に思いを馳せます。
何故か、再び、明日姑のところへ出かけることになりました。頼られて、断れないのが・・わたしのいいところ? 微妙ですが。
くれぐれもお体大切になさってください。これから郵便局まで出かけます。
2008 9・2 84

☆ 体調すぐれず  08.09.02 17:38
だるさを感じます。バテッています。
よくばって、暑い中、あちこち寄ったりすると、帰宅したあとはソファに倒れこみ、二時間くらい動けません。無理せず、すこしずつ用を済ませるよう、心がけています。
肩の痛みは、九十パーセントよくなりましたが、食欲がないので、さっき汗だくになりながらじゃがいもスープを作り、今冷蔵庫で冷やしています。
スープや冷たい麺なら、食べようかな、と思えます。
あと少し、涼しくなるまでの辛抱です。
お元気ですか。風は夏バテしていませんか。
風は、体力があるように、花には想えますから、きっと大丈夫。
お大切にお過ごしくださいね。ではでは。 花

* やすみやすみだが、ほぼ終日わたしは自分の世界であれをし、これをし、つづけている、毎日。日盛りの戸外をうかがうと、うかと出かけよういう気がしない。それで事が済むのだから、多彩な家事の必要な主婦さんたちはたいへんだと、思う。手伝わねばいかんなあと思う。妻もすこしバテテいるか。
2008 9・2 84

* 「悪いやつ」とも長い人生にたくさんぶつかって来た。ひとつ言えそうなことは、文学の名作で「悪いやつ」だけを書いたものは少ない。すぐ思い出せない。どうしても「悪いやつ」は懲らしめられている。典型として「悪いやつ」、と子供ごころに脳裏にやきつけたのは、やはり『モンテクリスト伯』のダングラール、フェルナン=モルセール、ヴイルフォール、そしてカドルッスの四人だった。似たり寄たりこういう「悪いやつ」と出会ってきたなあと思う。

* ダングラールは嫉妬深さと出世したさと、尽きるところは金銭欲で、陰険に策を弄して人を陥れたぶん、自分は上へ上へ上がってゆきたいという「悪いやつ」である。究極は金銭欲と物欲。実直で健康な青年エドモン・ダンテスを、卑劣極まる悪知恵で他人を手先に踊らせて地獄へ突き落とし、ダンテスの地位を奪い、善良な主人をだまし討ちにしてゆくような男である。
フェルナンはそんなダングラールの手先につかわれて、恋敵のダンテスを政治犯として訴え地獄の底へ突き落としておいて、女をうばい、小心なくせにきわどいところで後ろ暗い手ひどい悪事をなすことで、思いがけず栄達してゆく卑怯な悪人である。
ヴイルフォールは、栄達と保身の為なら鷺を烏に描きかえても、善良で無実の者を、じつは善良で無実と知りつつも徹底的な地獄に突き落とし、二度と日の目を見せぬ事で身の安全を図り、権勢に媚び諂って地位を高めてゆくような悪いやつである。
カドルッスは、いささかの分別をもちながら身の安全のためには目をつぶり、負い目を酒を浴びてわすれ、目前の欲に目がくらんで悪事の山を築いてゆく陋劣で破産的な悪人である。
デュマという作家は、エドモン・ダンテスの造形以上にこれら「悪いやつ」の典型を栄華や惨憺の巷に活かした作家として凄腕であった。

* わたしは、子供心にこれら悪人像をやきつけたが、これらの亜型・亜流にどれだけ多く出会ってきただろう。会社にも団体にも学校にも大学にも文壇にも、知識人社会にも、うよと蠢いていたのは、これら「悪いやつ」の末流・末裔であったし、だから人の世は混迷の内に滑稽な活況をみせてもいるのである。
彼らにはっきり言えるのは、金、地位、名誉、栄華、偽善、色欲。「抱き柱」に抱きついていない者は一人もいなかったということ。
もう一つ、エドモン・ダンテス=モンテクリスト伯は事実上此の世に存在しない、し得ないとしても、上の、ダングラール、フェルナン、ヴイルフォール、カドルッスなら、うじゃうじゃいるという否定しがたい娑婆の現実。
さらに今一つ。むろんわたしも含めて、人は、己が内なるダングラールやフェルナンや、ヴィルフォールやカドルッスの断片と日々に向き合いながら、堪えて暮らさねばならぬと言うこと。
そこを超えるためにも、人はむやみと「抱き柱」をかついでは、しがみついては、ならない。どう寒くて心細くても「自由」に独りで立たねばと思う。

☆ かりそめの台詞なりとはよも知らず膝を正して頷きし夜や

苦しいよ 口惜しいよ
だが、此の道は
偉い……と言われる人間が
一度は越えた道なんだ

まころびつ越えむか今宵恩讐の岡のかなたに白き道あり

恩讐の岡ふみ越えむ瞬間のわれを抱きて泣かむ人あれ

光明は彼の岸にありわれを焼きし業火はすでに消えにしあるを

けさ見れば小さき花弁にべに染めて薔薇の挿芽に初花ひらく

わが挿しし挿木ゆ青き双つ葉のうら若々し命ゆたかに

初花のうら優しさよ紅つけて小首かしげてたれ待つ汝れぞ

このあした愛し初花ほころびてわが膝のへに露でかたむく

* 上は、わたしの生母・阿部鏡(筆名)が遺して逝った歌文集『わが旅大和路のうたうた』のなかの、極くすこしの抜き書きである。わたしはいまこの本からの、こうして歌詠みであったらしき母の歌を、一つひとつちいさな「ほころび」は調えながら、写経するように書き写している。さだかに、今此処まですすめて引き出してみたわずかなこれらが、いつ頃の感懐であるやらもわたしは判然としない。「東文章」の櫻姫のように、兄北澤恒彦にいわせれば「階級を生き直したような」凄惨な母の生涯であったというが、「苦しいよ。くやしいよ」という呻きのなかからも薔薇の初花にそそいでいる視線は静かに優しいと、子として人としてわたしはよろこぶ。いうまでもないが、母のためにことわっておく。ここに「偉い……言われる人」は、ブッダやイエスを思っていたのである。
わたし自身で歩いて聴いたが、この母はある世間では「魔性」「魔物」といわれ、ある世間では「生き仏」「仏様」といわれていた。
2008 9・3 84

* 大小の講演というのを四十年のうちに百度ちかく重ねてきたが、いま、なかでも楽しく話した講演一つを読み直して、すこし笑み零れている。昭和女子大の講堂で漱石の「心」を話したり、読売ホールで「春琴抄」を話したり、横浜の関内で「日本人の美意識」を話したり、忘れがたい講演はいろいろあるが、芹沢光治良さんの旧居で「知識人の言葉と責任」を話したのも忘れがたい。
この秋に、もういちど実は呼ばれているのだが、『人間の運命』という超大作についてお話しすることは、私の私的な事情でさんざ困惑の日々を奔命してきた今は、とても責任あるお話しは出来ないと思う。残念だが、どうにもならない。いまそれが心の重荷になっている。

* 常軌を逸するということばを、病的に絵に描いたように今しも繰り広げている例を、わたしは二つ、身ぢかに知っている。そばの人は、ないし関わらざるをえなかった他人は、常軌の逸し方に、厭悪だけでない恐怖に近い迷惑を感じているという。
或るサーバーの法務担当は、途方もない量の文書をひっきりなしに送りつけられ、秦恒平のウエブサイトを削除せよと迫られ、ウンザリしているという。或る友人のはなしでは、ある人から仰天する大量のファックスを送り続けられてどうしようもないと歎いている。
病気なのである。こういう病人は自分ではガンとして医者にかからない。それが哀れだ。

* 新たに最高裁判事に任官した弁護士出身の新判事が、裁判では、制度以上に「人間というもの」を観るつもりと、時の人として語っていた。裁判はぜひそうあって欲しい。わたしは法のことは分からないから弁護士に任せているが、自分自身は「仮名人」の原告★★★の「人間」をじっとみつめている。青山学院大学教授としての社会的責任にもめざめて、よく家庭も治めてもらいたい。
2008 9・5 84

* 夕飯前にがまんならず二時間寝た。夕飯を終えて七時過ぎ。あれをやりこれをやり、少しずつ少しずつ平均して仕事を前へ送って行く。いま、そういうことの必要な時。
作家がひとり自殺した由、何かの委員会で名前を聞いたか一緒に会議したか、おぼろに覚えている。自殺の理由は知らない。
顧みてわたしが何かに追いつめられているか、思い当たることは特に無い。創作者として、わたしはわたしの勝手で好きにしている、だから、特別な思いはない。突如としてまた噴火する可能性はあるし、無くても構わない。「今・此処」に生きていれば、おそらくそれが創作的な第一なのだと思う。
わたしは、今度ある種の本をつくる時、題を『非常識な存在』としようかと期待している。物書きやもの創りが「常識的な存在」になったら、お嗤いモノである。ただ非常識を「死」で表現してしまうのは、或る意味で常識的な選択であり表現であると、わたしは肯定していない。

* 妻には妻の心配がある。二人の親から兄とわたしが生まれ、兄に三人、わたしに二人の子があり、兄もわたしも、兄恒彦の子の二人もわたしの子の建日子も、物書き、もの創りであるし、妻の兄も妹もそうである。物書き、もの創りには「非常識な暗闇の世界」が確かにあるから、妻には彼等に関して常識的なおびえがあるのはムリがない。
何ということは無い、一つ「売れねばならないなどと考えない」こと、二つ「名誉の表彰を追い求めない」こと、三つ、緩やかに大きな抛物線を描き、「年齢を同伴者の人生」なのであるから、「若い人たちとの交代現象は必然の必要」と、つねに心得ていること。
そのように心得て「今・此処」に正対していれば、人生には、ふっくらと佳い余禄が無いわけでないのである。
この年で、わたしは、甚だ非常識に不徳のジンであるけれど、御覧のごとく、孤ではない。健康で厚かましく「不当にイバッテ」暮らしている。三田誠広クンがいつか話していた。「文学の世間はヘンな世間でしてね、ちいっとも売れない人が胸をはってエバッテますからね」と。あれは言えているのである。リッチになったらむしろ負けで、いずれ芯からうしろめたく衰える。フェイマスに生きるには「今・此処」を見失わないで、非常識な存在を貫いていれば宜しい。北澤恒 (黒川創)も街子も秦建日子も、常識人に落ちこむなよ。
2008 9・8 86

☆ 中国  建日子
無事着いてます。
ネットは不安定ですが、どうやらメールくらいはやれるようです。
VIP扱いで、江沢民が泊まったのと同じホテルの同じ貴賓館に泊まっています。
とりあえず、平和です。

* 嬉しい便り  父
いまも秦の先考たちの位牌に、建日子たちの元気と無事と、心ゆく仕事を守って下さるよう願っていました。それから手洗いをつかい、二階へ、機械の前へきました。
そのまえは床に安座し、目をとじ瞑想していました。目の奥が澄んできれいな闇になり、闇にじいっと浸っていました。いま、明け前、五時すこし前です。母さんはときどき鼾をかいています。よく寝ています。マゴも。鈴を振って出かけたかな。
今日は母さんと歌舞伎座を楽しんできます。
湖南というと洞庭湖の南側の意味でしょう、途方もない大きな湖があり、わたしの『廬山』の舞台です。九江というところがあります。廬山が見えるといいな。
平和裡に仕事がはかどりまた楽しめますように。熱烈歓迎してくれなくても穏和であってくれれば上等です。よく目をあいて、「中国」の何に興味が持てるか、見てきてください。「人間」を見てきてください。誘惑されないように。では元気で健康で。わたしは少し仕事します。 父
お前が、この近い未来にどんな「構想」を持っているか、知りたいと思っています。

* 重陽の佳節を祝う 父
九月九日の朝でありました。日本では菊の露を綿に含ませてそれで健勝を祝ったりしたそうですが、中国の祭日です。なにか祝うのかな、それらしい風情が目に見えますかどうか。 父
2008 9・9 84

* ひところ娘は「茶」を探索すると言って熱心そうに見えた。「茶」を言い表すには、「テー」「チャイ」の二型がどうやら別系統らしいわよなどと言っていたが、それだけでストップ。
あのまま本格に「茶」学を追究していたら、学界の一角に席が出来ていたかも知れない。根気よく続ければ、視野は深まるものだが。
2008 9・9 84

* 話は急激に変わるが、このところウイルスの「駆除」報告が殺到している。以前は月に一度、二度、最近は数日に一度ぐらいだったのが、数日前から一日に何度も何度も駆除報告が入ってくる。誰かが意図的にウイルスを送ってきているのかもしれぬ。
駆除報告は、詳細を教えてくれているが、背後の悪意まで調べが届くにはもう少しかかるだろう。幸い「駆除」機能は元気なようで有り難いが。
2008 9・12 84

* 亡くなった小田実は、わたしを信頼し、「あんたの意志が活かせるなら、わたしの仕事は自由にウエブの上で活かしてください」と云ってくれていた。ベ平連そのた市民活動でがんばった亡き兄・北澤恒彦への信頼をわたしにかぶせてくれたかと、故人の愛に感謝している。小説『玉砕』が英国BBCでラジオドラマ化されたときも、ディスクとともに英文の一文を預けてくれた。「e-literary magagine文藝館・ 湖(umi)=秦 恒平責任編輯」再開に当たり、感謝して此処にも掲載する。
2008 9・12 84

* 母の十三回忌が近づいてきた。この秋は、忙しい。新しい湖の本の校正も着々進めている。丁寧に、しかし、あまり時間は掛けたくない。来年の話をするとわらわれるが、来年中に「湖の本百巻」が成る、だろうか。
2008 9・12 84

* たったいま、こんな提案と激励がきた。面はゆいが、提案には心動かぬではない。栄誉や世評を追うのではない、どうかして遣い甲斐のある金の使い道がないかと思ってきた、ろくに金は無いけれど、ベストセラー作家の息子に遺す必要は無いようだし、娘は金輪際秦家と天をともに戴かない、名前も返上すると云っているのだから、これも論外になる。死ぬまでに遣い尽くしておいて誰も困らないなら、団体に寄付をと思っていたが、寄付行為というのは生来イヤラシイ気分で生きてきた。しかもバカげた賠償金など支払うぐらいなら、その前に「潔く」使い切れないかと、むしろ困惑していたのである。金が干上がってなおしぶとく生きていたら、喜んで秦建日子にすべて委ねる。子の世話を受けられるのは親の生活力であるというのが、わたしの思想であるから。もし断られたら、そのときこそ、文士の本懐である「野垂れ死に」がいいと。

☆ お元気ですか。ようやく秋の気配が感じられるようになりました。夏に比べて、眠りが深くなるのでわかります。
地球温暖化にヒートアイランド現象と、年々暑さ厳しく躰に堪えるようになっていますが、今年は夏バテしませんでした。食欲が落ちて三キロほど痩せ、面やつれした美女になる予定にしていたのですが、なんと新たな肉がついてしまいました。(こわくて体重計に乗れません)このままおいしいものの豊富な食欲の秋に突入するのかと思うと、つらいものがあります。
みづうみは相変わらず刻苦勉励の日々をお過ごしで、しかも次の「湖の本」のご準備も着々と進行しているごようす。以前「卒業生」の方が、よく働く二割のアリの話を書いていましたが、会社でもほんとうに働く二割の社員が、残り八割を養っているそうです。人間社会全体を見渡しても、みづうみのような勤勉有能な人間二割。残り八割は能力体力気力に劣り、働きがよろしくないといえますでしょう。わたくしが八割グループに属していることはいうまでもありません。
次はマジメなご提案です。
日経のコラムで、ある作家が、自分の作品を自費で英訳を依頼して冊子のような手軽な私家版を創り、海外の友人に配ることにしたと書いていました。外国で自分を「作家」と紹介しても、作品を知る人がいないのを不満に思っているからとのこと。日本語は翻訳されにくい言語ですから、たしかに日本の文学者は不遇です。
以前から何度か申し上げましたが、みづうみも海外を視野にいれるべきなのです。しかも、出来るだけ早くに。(翻訳の出来不出来を作者が確認するためにも。)
一冊でもよろしいので、是非英訳の「湖の本」を製作していただけないでしょうか。
建日子さんは海外におでかけになる機会も多いようにお見受けします。その時にあちらのお知り合いに何冊かずつでも配っていただけると、みづうみの作品が世界に認識されるきっかけになりましょう。もちろん、みづうみの海外読者のネットワークも活用なさることは言うまでもありません。
みづうみの作品の正当な評価はむしろ外国のほうが早いかもしれないと以前から感じていました。今の日本には藝術を評価するシステムがおそろしいほどに欠如しています。
将来に渡って色々な意味でみづうみの作品を守るために(裁判などからも)、是非戦略を立てていただきたいのです。世界の秦恒平になるのです。
とりあえず、翻訳しやすい短い作品として、わたくしは『ディアコノス・寒いテラス』をと思います。この題材は日本文化の素養がなくても読みやすく、世界共通の恐怖で読者を震え上がらせるでしょう。
そして、みづうみの出発点ともいうべき『畜生塚』がよいのではないかと思っています。どんなに素敵な英訳本になるでしょうか。もちろん仏語訳でも他の言語でもよろしいのですが……。
海外に読者を増やすことは、かならずみづうみのためになると信じています。
座して待っていても、日本語の作品の翻訳など進みません。どうか、この作家のように自ら英訳させて世界に打って出てください。日本で名が出ているというだけで、三流作家の作品が翻訳されて海外で評価を受けていると思うと無性に腹が立ってくるのです。どうかご検討くださいますように。
明日から三連休。みづうみはなんの日かなんておぼえてもいらっしゃらないでしょう。わたくしは三日間しっかり嫁稼業に精出す予定です。涼しくなると夏の疲れが一気に出ることもございますから、ご無理なさいませんように。 於菊

* そうか費用を負担して依頼するのか。しかし、その人の英語力や外国語力を信頼しなければならないし、云うまでもないが文学言語と商業英語や法律英語は天地ほど違う。せめて藝術的なセンスのある人に出会わないと。
これはもう他人様の好意有る情報やご紹介をまつしか手があるまい。海外にお住まいで、文学藝術にご自身も関心の深い方からお知恵を拝借できないだろうか。外国語を日本語に翻訳できる人は国内にも多いが、日本人の書く外国語がかなりあやしいことは、医学書院で編集者をしていて、えらいえらい先生方が、外国の雑誌に投稿されるとき四苦八苦の体であったのをわたしは沢山見知っているのである。

* それにしても『ディアコノス 寒いテラス』とはビックリしました。「於菊」は秋成老人をおどして雨月から現れ出た女の名。コワい。

* 息子の名が出ていたが、ことわたしの作品となると息子はほとんど読んでいないし、「湖の本」を助けてくれるような気持ちの余裕もない。何の助けにもならない。彼はいまは自分の仕事で、或る意味ではアプアプしているし或る意味では儲け仕事に手を出して行く物欲の時期、それもムリもない。自分の作品や舞台に父親達の批評はとても欲しがる、それがせめてもの親孝行、それでよいと思っている。
幸いわたしには「いい読者」がいる、そんなときは「一人当千」という古めかしい言葉を思いだしている。
2008 9・12 84

* 建日子、無事に帰国と。よし。
2008 9・13 84

* 今日もたくさん仕事をして、前に進んだ。創作と読書と、「e-文藝館=湖(umi)」、「湖の本」、そして「闇に言い置く 私語」も。余儀なく裁判関係の用事も。夜は、映画『デイ アフター』を楽しんだ。機械から離れて、これから就寝前の本をたくさん読む。
2008 9・14 84

 

☆ 湖、お元気ですか。  珠
珠は、忙しいをよいことに時を過ごしています。
久しぶりに文楽にでかけてみて、mixiにも書くことができました。
日々は淡々として、色つけて言葉にするには無理があるようです。
舞台やコンサートは、行きたいとか行けるかよりも、砂がこぼれるように何もなく過ぎてゆく日々に色の付いた石を転がすように、ひとまず予定しておくものだなぁと思うようになりました。誰と行こうか、行ってみようかなど量っていると、何もできなくなりますね。
思ったら予約、、くらいでないと、私の日常生活は干からびて過ぎてゆくように思いますが、またそれも静かでいいとも。。
今はとにかく、時間を過ごすことを第一に、しています。
mixiに書いた文楽の感想に、お声をかけて頂き驚きました。考えてみます。どうぞよろしくお願いします。
先ほどmixiに書いたのですが、「リレーフォーライフ」というプロジェクトに参加してきました。
私の勝手な思いで、夜のミレナリオに「やす香さん」を偲んだ袋を作り、点灯しました。
湖のお書きになったものから察して、やす香さんは大きな団体や集団で社会に働きかけるような仕事を目指していたように思います。今日のようなプロジェクトを見るにつけ、様々な人のいる大きな集団に働きかけてゆくには、特殊な力を必要とすると感じ、彼女がサバイバーだったらきっと自分にできる何かをと思って動いたのではないかと思いました。
私など、対少人数はやれますが、大人数は苦手です。
1000もの灯が、自分の家族だけでなく、生きて闘う多くの人への想いと願いでそこに輝いていました。あの灯を見て、残された人が痛みを抱えても、なお強く優しく生きてほしいと、祈りました。生きてる間だけですからね。
秋めいた涼しい風、秋は苦手。長い本に没頭しようかと思います。
涼しくなってきました。くれぐれも、湖、大事にしてください。
お気をつけて。どうぞ、お大事に。湖。

☆ 「リレーフォーライフ」@新横浜 2008年09月15日19:40  珠
昨日13時開始、今日13時まで。新横浜にある日産マリノスのグランドで「リレーフォーライフ」が開催され、私は昨日昼~夜中まで参加してきた。
これは、がん患者を支援するプロジェクトで、研究資金を集めたり患者団体の交流をベースに、サバイバーと呼ぶがん闘病中の人を勇気づけ、また亡くした人を偲ぶというもの。
もう20年も前、アメリカでシアトルの医師が24時間得意なランニング゛をして友人達に寄付を頼んだことに始まって、すでに世界規模で行われている。アメリカでは対がん協会の年間予算300億円も集めるという大規模さで、様々な医療・治療に働きかけるパワーを持っている。そのイベントがようやく日本で、がんを患う一人の患者さんが、仲間を求めて種になり、3年前つくばの地で産声をあげた。

大学病院でがん看護を主に勤務してきた私にとって、父を、そして伯母も伯父も喪ったこの病気は、公私共に関わりの深い病である。今も身近で、友や叔父の妻にあたる叔母が長いがんとの睨み合いを続けている。その叔母の果てしない闘いは、側から見ても時間のやり過ごしを中心に据えるしかない日々だったが、そんな叔母が目に留めたのが、「リレーフォーライフ」だった。
病院で知り合った患者仲間は減ってゆく。そのやりきれなさは、「患者である」ことに追い詰められるばかりか、「患者である」ことを隠さないと、周囲に憐れまれて生活しずらいという側面がある。それでも、生きる日々がある。気楽にお互い頑張っている話ができそうな機会かもしれないと「リレーフォーライフ」への参加を決めた叔父夫婦に声をかけられ、姪や甥など親戚多くで”つくば”の第一回目に参加した。
医学界や厚生労働省、患者団体の後援も得て、「歩く」という単純な事の傍らで、様々なリラクゼーションや勉強会、コンサートなども行われる。親戚一同、田舎のピクニック気分で盛り上がり、Tシャツまで作って楽しく温かい交歓の時を過ごした。
昨年は神戸で開催された第2回に妹家族が叔父夫婦について参加してきた。そして今年、叔父夫婦の地元新横浜での第3回目に再び親戚一同で参加となった。

サバイバーと呼ぶがん克服&闘病中の人々の行進に始まり、後は皆それぞれのペースで400mの競技場をテクテク歩く。周回数もペースも全く気にせずに、ただ歩けばいい。多くのボランティアさんが、水を配ったり案内やリラクゼーションの場を提供したりしてくれる。我親戚チームの登録名は「チーム・和」。叔父夫婦の名前には「和」がそれぞれあって、そこから名づけたもの。テントで休みながら交代で歩き、お互いの近況などを話す。祖母が生きていた時は、お盆に田舎で寄り集まったと同じよう。暑さもほどほど、時折吹く風を感じながら歩くのは気持ちいい。叔母はあちこちで顔を知った人に逢うらしく、「元気?! あぁうれしい」と声をかけあっていた。

子供たちのお気に入りは”乳がんチェック体験コーナー”、、乳房そっくりに作った自己チェックの模型を最初は気恥ずかしそうに「えー触っていいの??」と言っていたが、おずおずと手で触れ始めると夢中。。しこりを見つけては「あっこれだ!」と真剣な表情に。サバイバーの方に「お母さんのおっぱい、触ってみてあげてね」と言われて大きく頷いていた。それぞれパパ゜を連れてきて、「こうやって触るんだよ」と得意気に教えていた。妹は食事中、走って戻った息子に「おっぱい触ってきたよ!」と大きな声で言われて噴出しそうになっていた。

教育に優る治療はない。健康は、こうして気遣って実践して守りあうものだなぁとしみじみ思う。生きることの根本的なサポートを考えさせられる。こういう場所では、「自分は看護師。でも、だから何なの?」という気がする。皆それぞれだ。つよく(ありたく)、確かに(願って)、毎日出来ることをする。ちゃんと生きる。それが最低限で、最高。今・此処、だ。

夕刻、とろりとした色の朧月に目を向けながら、”ミレナリオ”点灯。防水した袋を購入し、想う人の名前や気持ちなど書く。水に浮かべた蝋燭を袋に入れて、トラック周囲に並べた。いのちの灯を月も見てるだろうか。予報の雨は降らずに、満月が高く高く昇ってゆく。
初回のミレナリオで、歩きながらこの袋に書かれた一言一言を読んで、泣かずにいられなかった。皆ぽろぽろ落涙しながら、歩いた。喪った想いをもつ人が、こんなにいる、、灯が沁みる。今は小学生になって字を読めるようになった甥が、声にだして読んでゆく。姪とは一つづつ、袋を数えて歩いた。
生きてることは、そちら側とこちら側程度かもしれない。だからこそ、こちら側にいる人は、その痛みを分かち合えるようでありたいと、想う。

来年のことは誰にも分からない。それでも、叔母夫婦は来年の「リレーフォーライフ」を心に願い、また日々を過ごす。一歩、一歩、毎日、毎日。ありがたい目標。

* ありがとう。
2008 9・15 84

 

* のどにつまるほど不快な仕事を、一段落し終えて、目をつむって送り出した。もう、当分何もしないぞ。
2008 9・16 84

* 上野、都美術館で一水会展を観てきた、というより堤さんの入選作を観てきた。入場券と一緒に写真が送られていた。
写真を見ておおっと声が出た。これまでを、グイと超えて出た画面が光っていた。写真でものはいえない。遠慮しぃの堤さんが観てほしいと言ってきているのも例のないことだ、台風の通りすぎるのを待っていた。
すこぶる暑い日ざかりの昼さがりだったが、上野駅から公園を横切っていった。おなじ館内に「フェルメール展」があり人出はそっちへ集まっていた。妻もわたしもフェルメールを束にして観る気はなかった。
堤さんの繪は、ややいつも雑然と盛り沢山にガヤガヤする従来の画面とちがい、主題の壺の花が生き生きと咲いていた。花そのものが明るく命の声を発していた。
周囲が、背景にしても足下にしても、花の邪魔をしないでしっかり美しく咲かせようとしていた。何でもない、それだけでちゃんと花の繪になって我々は花の繪と向き合っていた。
いつもは、時として何の繪と向き合っているのかと戸惑うほど全体にいろんなモチーフがかってに喋りまくっていたのに、今日の繪は明るくてうんと静かで、だから画面が生彩を維持して美しかった。ああ、これで観やすいなあと納得した。
一水会ぜんたいが、甚だ尋常なお絵描き集団らしく、そつのない繪が多くてそのかわりみーんな似ていた。目にばっと飛びついてくる勢いのいい絵にはお目にかかれなかった。物故作家であるが、小山敬三のちいさな「山」の繪が抜群のみごとさで、ああこれなら欲しいと唸った。

* みるからに妻の疲労が濃く、こういうときはと、博物館前からタクシーに乗り、柳通の佳いレストランへ行ってと命じた。運転手が心得ていて、まよいなく店の前で下ろしてくれた。
この店ではとびきりのコースメニューで、赤ワインもシェフの気遣いで上等の実にうまいのを出してくれた。妻はおいしいワインで持ち直し、おいしい洋食でぐんと元気に血色もよくなった。食べないといけないのだ、うまいものを。ゆっくり、腰をおちつけて食事に満たされた。根岸の町通りで風情の店をのぞいたり、横道にそれたりして鶯谷駅から、帰ってきた。

* 建日子が顔を見せに来るらしい。
2008 9・20 84

* 建日子が来て四時間余も話していった。
中国で映画をつくるという前提に一週間ほど湖南省へ行っていた話など面白かったし、その余も親子三人で、こもごも今後のことなど話し合えてよかった。話からなにか結論を生むのは容易なようでそうではないが、出来ることから一つ一つ果たして行かねばならない。
中国の、空気の綺麗な田舎にいたためか、ご馳走ぜめだったからか、大きくなって元気そうだった。こういう機会がこれからなおなお多く必要になるが、忙しさの方も半端でない。わたしのように大方自身の考えと手足とで片づく仕事でない。人と協働での仕事はむずかしい。

* 日付も変わって、わたしの方も裁判所の夏休み明けで、気のしんどい仕事や判断を迫られることが増えて行く。息子を見送って機械の前へ来たら、そんな用事が目の前で増えていた。ま、しょうがありませんな。

* 上野へ行き、繪を観て、旨い酒で美味い食事をして元気になって帰ってきたら、久しぶりに息子の顔が見られたのだから、ゆっくり話せたのだから、いい一日だった。
今日は今日。
明日はまた明日。
それでよい。
2008 9・20 84

* なにとなく不快な用事にせまられると、目の上に黒雲がおりてくる。気乗りのする仕事を、もったいないほどの気持ちでそんなイヤな用事に時間的に混ぜて行く。
2008 9・22 84

* うんざりという黒雲が頭上を去らない。

* 南山城の若い従弟が、それとなく、親切に関西の親族のことや、当尾の父の実家周辺の「秋風情」を、写真などで知らせてくれる。父の、また祖父母の名のある墓地と墓石とを見せてもらった。守叔父に一度連れて行ってもらったはずだが、記憶は薄れていた。稚くわたしも暫く暮らしたという家屋敷と周辺の写真も、また新しく受け取った。
2008 9・23 84

☆ パリの三日目  琳
すっかり秋めいてまいりました。お変わりございませんでしょうか?
では本当に、改めてパリ3日目のご報告です。
この日は、エディット・ピアフの生地巡りに行って参りました。
まず最初にエディットの眠っているお墓に行きました。
彼女のお墓はペール・ラシェーズという集合墓地にあり、ここがとても広いのです。
案の条、迷子になりました。
しかし迷子は私一人ではなく、ここを訪れる人は必ず迷子になるそうです。
無事エディットの所に着いたのは、この場所を訪れて30分程迷った時でした。誰もいないので沢山ある中から、ひとつひとつ墓標を確認してやっと見つけたのです。
エディットのお墓を見つけた後、段々他の人がエディットのお墓の周りに集まってきました。さっきまで人一人見なかったのに。。。
初めからこんなに人がいたら、見つけるのも楽だったのになぁと思いながら、そこを後にしました。
そこの集合墓地には他に、10点程大きなオブジェも飾ってありました。その全てが、ナチスによって殺されたユダヤ人を供養するものでした。
オブジェの多くは人の形をしており、苦しみが表現されていました。あとでフランス語の説明文を訳そうと思い、写真を沢山撮りました。
自分で思った以上に、心に焼き付いていました。
その後出口まで、また30分迷いましたが。。。
次に、エディットの生まれた家を見に行こうと、とても近いので徒歩でベルヴィルまで行きました。
今度は迷わず行けたのですが、ベルヴィルと言う所は下町で少し物騒でした。
イスラム教の人や中国人が多く住む移民の町でした。決して私も身なりが良かった訳ではないのですが、とても浮いていました。他のパリでは見ない物乞いのイスラム教の人たちが沢山いました。
その物乞いの中に子供を抱えた女性が一人いたのですが、その人にお金を渡している男性がいました。
しかしその男性自身もあまりお金がある様には見えませんでした。
私は物乞いと言うだけで、お金を渡す事など考えもせず、避けて通ろうとしていました。他の場所から来た人よりも、その場所に住んでいる人の方が彼らに優しい目を向けていたのです。
確かに物騒ではあり、綺麗な町並みとも言えないのですが、彼らは助け合っていました。ここにいる全員がその男性の様に優しいとは思いませんが、少なくともそこには思いやりがありました。
他にも沢山の人たちが楽しく仲良く談笑をしている場面をよく見かけました。
そんな町でした。
それでもやはり、すこし中心から離れると雰囲気が良いとは言えないので、エディットの生家は結局見つけるのを途中で諦めました。
しかし彼女がどのような場所で過ごしてきたかは、肌で感じる事ができました。
いい論文が書けるといいのですが。。。
最後はシテ島に行きました。
有名なノートルダムのバラ窓がとても綺麗で、私はずっと見とれていました。
写真も撮りましたが、本当の美しさの半分も写す事が出来ませんでした。
その後はシテ島や、その周りをお散歩し、のんびり過ごしました。
やはりシテ島はとても素敵な所、パリの始まりの所でした。
ここはあまり時間が取れず、簡単にしか回りませんでした。
1枚目の写真は、エディットのお墓ではなく、ナチ犠牲者の為のモニュメントのひとつ。小さな石が1つ積まれています。他のオブジェには沢山積まれているものもありました。強制労働をさせられた人達の足のマメが表現されているそうです。
2枚目はポン・ヌフ橋です。シテ島の端っこに位置しています。私の行きたくてしょうがなかった橋のひとつ。
でも淋しい事に、他の人は誰も反応せず、写真を撮っている人はいませんでした。
浮かれていたのは私一人でした。
今朝、姉がドゴール空港へ向け飛び立ちました。
ベルギーで学会があり、ポスター発表をする為です。
ポスターを背中にくくり付け、バズーカ砲を背負っているかの様でした。
2日間パリを楽しんでくるそうです。
羨ましい!!!
帰って来たばかりですが、またすぐ行きたい!!!
涼しくなって参りましたので、院試の勉強少しずつ進んでいます。
パリ便り4日目、またお便りいたします。
時間が経っても、楽しかった事って忘れないものです。
今頃祖母は夏バテなのか、体調不良です。夏バテは秋にやってくるそうです。
おじい様おばあ様も、お身体優しくいたわってお過ごし下さいませ。 琳

* 観たこと、聴いたこと、したことのぜんぶが、ふっくらと栄養になってあまさない年頃。おたより有難う。やす香も「琳」さんの肩にのっけてもらって、大の仲良しといっしょにパリを見聞してきたことかと想う。
2008 9・26 84

* 夜前、例のおそくに建日子が「お茶」をしに来てくれた。
二時間ほど、歓談。
具体的な話題で、相談したいことも相談できた。建日子の体躯が大きく見えて、もしわたしがこれより大きかったりするのなら、「過ぎて」いるなあと妙なことを反省した。
2008 9・28 84

* 若いなあとおどろく。
夫婦ともマイカー運転の出来る家庭は、少し遠出になっても、大きな重い買い物にでも、出て行ける。
七十の坂を立ち居もしんどいほどのわたしたちの人生では、もうそういうことは無い。「車」の自己体験がまったく無いまま此の世を出て行くんやなあと思い、同じそんなことなら、他にも無数にある。
妻は、飛行機にのったことがない。わたしはゴルフのあの細い棒に手を触れたこともない。飛行機には乗せてやりたいが、ゴルフには全然気がない。いまあるがままで足りている。足りているどころか、有るものをどんどん減らして行きたい、それは切実な希望だが、それにもからだを働かせねばならない。
2008 9・28 84

* 二時頃から三時間ほど寝入った。九月が逝く。十月は忙しい。秦の母の十三回忌。実質第一回の裁判がある。三越劇場、国立能楽堂、俳優座劇場、国立劇場、NHKホールとつづく。商業演劇、能、新劇、舞踊、歌舞伎。それに理事会と眼科検診がある。人にも逢うだろう。その間に湖の本新刊、通算九十六巻めの発送という力仕事がある。十一月へも同じ感じで流れ込むだろう。
2008 9・30 84

☆ こんばんは!  琳
昨日は、楽しい一日をありがとうございました。
とても元気になれる劇でした。
一番最初から私は舞台に引き込まれてしまい、チェーホフ役の人が客席に問いかけた時、うっかり答えてしまいそうになった程でした。
私の一番好きな話は、“誘惑”でした。
なんとも巧妙な話で、スルスルと上手く事が運び、私も一緒になって紀保さん演じるマダムを騙した気分でした。最後は上手く行き過ぎたからこその失敗。納得してしまいました。
目指しているものは同じでも、違う答えを出す。
人の考えている事は、分からないからこそ面白いのですね。
チェーホフは人を楽しませ、感心させる天才です!
沢山笑い、同時に納得もさせられた劇でした。
植物画、とても綺麗で家に帰ってからも何度も眺めていました。本当に写真の様で写真以上!
それに添えられた大好きなフランス語。読んでいて幸せです。
とても大切でお気に入りの本になりました。
今日は朝から新宿で、“闇の子供たち”という映画を観てきました。
タイを舞台に、まるでものであるかの様に扱われる子供たちを助けようと、必死で戦う人たちの話です。
しかしこの映画は決してそれだけがテーマなのではなく、人間ドラマでした。誰もが持っている自分の中の闇を、不意に真正面から向き合わされてしまった人間を映した映画でした。なかなか言葉で表現するのは難しいので、是非観て頂きたいです。
昨日の立川三貴さんに続いて、今日もう一人いい俳優さんを見つけました。江口洋介です。軽くて都会的でそれのみの人だと思っていましたが、いい俳優さんです! 日本でもこんなに映画が作れるなんて、衝撃でした。
観終わった後、やっと口から出す事が出来た言葉は、「すごい映画。」でした。
いつか建日子さんにも、この様な映画を作って頂けたら嬉しいです。
朝夕冷え込んできたので、キンモクセイがいい香りを醸し出しています。キンモクセイ大好きです!
前の家にはキンモクセイが2本ありました。
小さい頃キンモクセイのお花は、おままごとのご飯でした。
なんだか懐かしい木です。
どうぞお風邪など召しません様に。
2008 10・3 85

* 新制中学の修学旅行のまえ、父に富士山は「どれぐらい高いか」と尋ねたことがある。父は、ナミの山ならこれぐらいと、かすかに眉をあげ、「富士山はなあ」と、ぐいっと頤を高く上げた。ものの説明であれほど適切だった例をあまり知らない。
秦の父に習ったこと、教わったことをときどきそういう風に思い出す。「秦」は「はた」ではない「はだ」が古い読みだとも正確に教えてくれた。祖父も蔵書に筆で「hada」とローマ字書きしていた。
祖父から口頭で教わったことはないが、想像を超えた大量で良質の漢籍や辞典や古典の蔵書で以て、信じがたいほどわたしを裨益した。
父は、読書は極道やと嫌いつつ、なによりも自ら謡曲という美しい伝統藝を少年わたくしの耳に聴かせ、また大江の能舞台へ、また南座の顔見世歌舞伎へ行かせてくれた。
叔母は茶の湯と生け花をたっぷり体験させてくれた。短歌や俳句という創作へクイと尻を押してくれたのも間違いなくあの叔母であった。
わたしは、新門前のハタラジオ店に「もらひ子」されて、数え切れないトクを貰っていたのである。親孝行をしなかったのが今になって恥ずかしくてならぬ。
2008 10・6 85

* 今日の第一声は息子にゆだねよう。わたしも今の今まで、いまなお続く菅直人民主党質問に答えている麻生総理はじめ諸大臣の答弁に呆れかえっていたところ。
彼らは至近年度の「政策」に関する財源をいまもって何一つ用意していないまま、厚かましくも野党政策に財源は財源はと訊くことしかできない。野党がかなり明確に答えると、それに文句はつけても自身政権のそれは全く具体的に言えない。
わが息子のいわくも、わたしは麻生総理の口から聴いていた。

☆ 世界恐慌の始まりと日本の首相。  建
NYダウ、恐ろしい暴落ですね。。。
そして、為替の円高も物凄いですね。。。
ぼくらは今、100年に一度の規模の大恐慌の始まりを目撃しているのかもしれません。
明日の日経も、当然、下げるでしょう。
1万円割れでしょうか。
「波の上の魔術師」という小説をドラマ化しようとあれこれ勉強したときから、経済の持つ「人間くささ」に強く興味を持つようになりました。
さしずめ、今日の暴落は、「不信」と「恐怖」。あるいは「絶望」でしょうか。
で、そんな世界中の人々の悲鳴に対して、今日、日本国の首相である麻生さんの衆院予算委員会でした発言がこれ。

「(日経平均が)1万0500円を切った。こういった状態はかなりの事態になってきているということは有権者は肌で感じている。その上で、そういったものを勘案しながら然るべきことが必要と判断するのであれば、それなりの対応は当然のこととしてさせていただく」
。。。
。。。こんな格好の悪い物の言い方で、今、恐怖と絶望と戦っている人たちの心に何かが届くと思っているのかな。。。
キムタク総理大臣の出現が待ち遠しい。。。

* 役人に野党議員が必要有って質疑や資料提出を求めに行くと、役人たちは、まず自民党にお伺いをたてている。総理自身が認めている。これは明白な憲法違反であるにかかわらず、総理はこれをつづけるのに何の問題があるかと一蹴した。
覚えていて欲しい、自民政権の進行させている最も恐怖し嫌忌すべき下心の一つに、明治以来戦前にいたる、あの旧「内務省」復活がある、とわたしは予言しつづけてきた。鳩山弟を総務大臣にしていることにその表れが見えている。
いまの人たちの大多数は「内務省」の怖さを知らないが、戦前政治の強権行政の全部がといっていいほどの悪政を強行したのは、軍以上に、内務省であった。その権力行政は内閣そのものを指導していたのである。
国の犯罪はいくつもあったが、それは軍のという以上に多くは内務省の犯罪であった。その氷山の一角の表れが、うえの話である。
麻生総理のあたまにある憲法は、明治欽定憲法のようである。
記憶していて欲しい。このことを。

* 新大統領を待っているアメリカの「政治空白」が、いかに惨状を世界にもたらしているか。日本の国会論議をみているかぎり、これまたやはり「政治空白」の引き延ばしであることを慨嘆する。早く民意を確認し新内閣の背に日本の窮状を背負って貰い国民はそれを助けねばなるまい。
2008 10・7 85

* 紀伊國屋ホールで、俳優座公演を観てきた。
緩和ケアのホスピスを舞台にしていて、わたしにも妻にも厳しい題材であった。終始身につまされて、今回ばかりは舞台にのめり込んで感動するというにもなまなましく、批評的に観る気持ちの余裕もなく、参った。
なにもいえない。見終えて、いっそ辛い思いだった。
丸ノ内線を利用してぐるりと池袋に戻り「船橋屋」で食事して帰ってきた。保谷では雨に降られたが、たいしたことにならぬうちタクシーが来てくれた。
2008 10・7 85

* 秦の母の十三回忌のため、正午の新幹線で、妻と京都へ。
妻を疲れさせないようにお寺へは明日の午前とお願いしてある。
宿はしばらくぶりに二条のホテル・フジタを二泊用意した。五階東向き、好天のもと鞍馬、比叡、大文字山から粟田、華頂、音羽山さらに稲荷山まで東山三十六峰、くっきり。眼下は水鳥も人もあそぶ、鴨川。

* タクシーで、千代の古道から広沢の池へ、そして金木犀のかおり高い清涼寺釈迦堂で下車。経堂の経蔵をぐるぐると押して廻してきた、転法輪の功徳ありや。
境内の茶店で、炙り餅、蕨餅、わたしは善哉。ほっこりと落ち着く。池みずに影をうかべた千代原山の愛らしさ、大覚寺から釈迦堂へ、北嵯峨はどこへ視線を送っても気持ちがいい、民家も古寺もゆたかな緑にくるまれ、金色の日射しを浴びて、木陰や家蔭は涼しい。秋が静かに香っている。
さ、歩けるかなと妻を案じながら、念仏寺や二尊院、落柿舎などなじみのところはみな割愛して近道を通っていろんな花、花の風情に足をとめとめ、山陰線を越えて野宮へ。そして深い濃い竹藪の夕暮れをくぐり抜けて、天竜寺前を渡月橋へ。夕べの嵐山・大堰川を見渡すのは少年の昔からわたしの好きな眺望。欄干にもたれて妻も満ち足りていた。
一路タクシーで二条鴨川にもどり、ホテルで和食。
もうどこへも出ないで、宵闇の鴨川と東山とをたのしみながら本を読んだりテレビをみたり。
2008 10・8 85

* 早朝、五時四十分過ぎ。窓をあけはなてば、日の出まえの山の端は、春ならぬ「秋の曙」が目の真ん前で刻々とあかく静かに燃えはじめ、比叡や鞍馬の上には薄紫の雲がたなびき染めて。息を呑む三十、四十分の内に日輪来迎、山ぎわをまぶしく照らす。
ホテルフジタは、この「日輪来迎」が素晴らしいお値段の内で、こんなに美しい東山はよそで見られない。
二条といえば、平安京の中央であった。まさしく三十六峰の真ん中に真向かってまおもてに黒谷や真如堂が、永観堂や南禅寺がみえる。優れた来迎図が遺されているのはあたりまえ。むろん「月」こそすばらしいが、わたしはここへ泊まれば「曙」に魅されてはやく起きてしまう。妻の睡眠不足になるのは気の毒で気がかりだが、妻も床をはなれて、まじろぎもせず日の出前の東山の山なみと空とに嘆声をもらしていた。

* 十時に、出町の萩の寺へ。まず墓を清めて香華をささげ、十念念仏。わたしと同年の住職は病院に入ってられ、若い住職が本堂で読経してくれた。わたしと妻もときどき唱和。もう一度、墓参。

* わたしの法事は、父にも母にも叔母にも、たいてい妻と二人でだけ。もともと親族のすくない家であったけれど、母方にはわたしの従妹もいて、現に墓参りもしてくれていてじつに有り難いこと、だが、わたしたちの法事にはお呼び立てしない、ただただ夫婦二人でお坊さんと一緒に御経をよむ。木魚を打ち念仏する。それでいいというわたしの考えを、父、母、叔母それぞれの一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌と繰り返してきた。

* 一度ホテルに帰り、またタクシーをつかって、一路、大原三千院へ。往生極楽院の阿弥陀三尊にお目にかかるべく。
日ざしは清く黄に輝いて苔も木立も森も山も濃い緑に映えていた。静かに境内をあるき、呂・律の山川を聴きながら三千院を出て、勝林寺、宝泉院へも。
燃え落ちて立て直したという寂光院は遠慮し、惜しげなく大原を辞して、また一休みのためにホテルに戻り、冷えた飲み物などからだにとりこんでから、今度もまたタクシーで御池大通りを室町まで。
「染」会館で三浦景生さんの展覧会を観た。妻は三浦さんの染めの画境にいたく惚れ込んでいて、面白い面白いと讃美する。小さな野菜や果物をモチーフにたしかに創造世界が奇抜かつ活躍して、しかもシンとした奥のある小画面を成している。面白い。雅趣がある。卆壽を超えた人の若々しくて緻密な構成力がしかも軽妙なのである。かなりの色彩を細緻な線のちからが支配し、画面が音楽を奏でている。広い畳敷きのホールも落ち着いている。
京都美術文化賞で何回目であったか授賞した「先生」が「学生」達をつれて作品の前で講義のためにあらわれた。聴いてみたくもあったが、邪魔になってはいけないので会館を辞して、すぐ近くの「旧・明倫小学校あと」の藝術会館に立ち寄った。明治二年に京都市が全国に先駆けて小学校制を起こしたとき、いちはやく室町の意気込みが発足させた有名な学校だったが、都市中央の過疎化で此処も廃校になり、その建物を今の施設に転用しているのが、なんとも「昔のまま」の校舎・教室の風情。入ってみて、わたしも妻も思わず歓声、嘆声をもらした懐かしさ。粋な、ハイカラな、クラシックな京の「町衆」趣味が遺っているというのか。

* 室町に満足して、錦通りを烏丸を渉って東へ。錦の食品も覗きたいが、イノダ本店の珈琲で一息入れて行こうと堺町を北へ。疲れをやすめて今度は、ま、目新しい観光客向けの店、店が路上にまで溢れたかのような三条通を、寺町まで歩いて、南東の角ちかい老舗の「三島亭」にあがった。
なにしろ「一人前参銭也」の昔からあるすきやきの店。精進あげに恰好だが、この店の肉は、ふるえの来そうな程、高価。めったには上がらない店だけに、いっそ勇躍二階へ。むかし此処から祇園会の鉾巡幸を観たことがある。こんなところで鉾の行列が角道を曲がっていた時代もあったなど、京都の人でも覚えていない。
すきやきは、むろん、うまかった。満腹した。
ゆらゆらと三条河原町まで出たが、妻の疲れ具合を察してタクシーを二条のホテルまでつかった。ゆっくり早めにやすませて、わたしは夜更けまで読書。

* なんとなし不安で、夜中に精神安定剤をのみたくなったが、そうはしないで、本を読み継いで寝た。
2008 10・9 85

* 今朝も六時二十二分、朝焼けの日の出を眺めた。それからまた暫く寝入った。
十時前にチェックアウトし、しかしロビーでゆっくり池の水鳥などみてフレッシュジュースと珈琲とでサンドイッチをつまみ、心身落ち着いてから、タクシーで平安神宮から広道を青蓮院前へ、円山公園の入り口まで走らせた。
氏神の八坂神社に参拝。丹塗の拝殿や楼門に木立がまだ真緑に照り映え、八坂神社境内はいつ来ても何度来ても懐かしい。
弥栄中学前から万亭わきの花見小路でタクシーを拾い、新門前の「菱岩」で、前日に注文しておいた弁当二人前を受け取って、新幹線へ。もう体力も限界で、早いがよいと帰路を選択、黒いマゴの留守してくれている家へ、四時すぎには帰り着いていた。黒いマゴ、驚喜して迎えてくれ、まつわりついて離れない。留守番、ありがとうよ。
酒を仕入れ、持ち帰った二人前の「菱岩の弁当」を、マゴも一緒に美味しく食べた。さすが菱岩、一人六千円の料理の一品一品、すみずみまで美味しいことは。

* 此処へ予告もしないで留守にしたので、「馨」さんや「雄」クンらに心配させたようだ、ごめんなさい。

* こんな簡素な法事でも、そのつど京まで出かけてというと、気疲れはする。一度だけ、妻の代わりに建日子と二人で出かけたこともあった。
まずまず、ほっとした。
2008 10・10 85

* さ、また日常生活。イヤーなことも避けがたいが、ごまかさずに「今・此処」のこととして対処しながら。
2008 10・10 85

☆ 昨夜の雨も上がり、今日も暑い位の良いお天気です。
叔母さんの十三回忌の法要無事お済ませになり何よりと存じます。
私語が更新されていなかったので、もしか京都へお出でになっておられるのかと思いを馳せていましたが、お元気でお帰りのご様子、ほっと安心しました。
的を絞った市内巡り、毎日暮らしている私にも参考になりました。
三島亭のすき焼き、まだ食べに行ったことがないんです。
主人は食い道楽でなく、何でもいいからと家で食べるのが好きな人です。料理があまり得意でない私は外食は大歓迎なのですが。
そのうち何とかおだててでも行ってみたいと思っています。
またお忙しい毎日でしょうが、くれぐれもお大切にお過ごしくださいますよう。 みち  従妹

* いつもお墓へおいで下さり、有難う存じます。みなさん、ご平安に。 恒平
2008 10・11 85

* 仕事もしたけれど、身の汚れそうなイヤな用事にもたくさん時間をとられた。
さいわい、わたしの「窓」は、多方面に開かれ、風も通る。気も変わる。
正月には、松たか子と宮澤りえとの競演、野田秀樹作・演出の舞台が案内されてきた。これは人気で溢れるだろう、二席かぎり、第二希望まで出しての予約になる。十一月も楽しみの舞台公演がならんでいる。まだ七十三歳になる「師走」の予定が決まらないでいる。
2008 10・11 85

* 吾亦紅を、それだけで美しく生けたいと長年思ってきたが、うまく成功しなかった。いま、黄土肌に笑窪のある小柄な酒器を、粗めの布壁のコーナー、板棚に置いて、ひとつかみ吾亦紅だけを投げ込んであるが、願った以上にはんなりと細い枝に空の星たちのように静まっている。
気に入りの、土や石や金属やガラスのうつわに、花や、ときに色変わりした葉だけを枝振りおもしろく投げ入れるのが、楽しい。

* いま、やす香の写真の前で、おもしろう紅葉した小柄なサボテンの寄せ植えから、一茎を伸び上がらせ白い花を咲かせている。ときどきその傍で、歌舞伎座で買って帰ってつるしてある、色佳い鈴を鳴らしてやす香にも花にも聴かせる。
2008 10・13 85

* 自身を省みて、はねのけがたい今・此処の「疲れ」を全身に着込んでいる気がする。そんな自分をただ「観察」している。やがての師走には、七十三。来年三月には結婚して五十年、つまり妻と上京して五十年。幸いに健康を維持してその年内に湖の本が「百巻」へ届くか、どうか。
分からない。未来に対しなにも夢はみない。
2008 10・14 85

* 来て欲しい人の声が届いている。東工大の教授室で歓談の頃から、この人の意志は明瞭で爽快ですらあった。古美術や古文献をあつかうときに不可欠な「糊」の研究成果はみごとだった。母としても妻としても、その日常はたびたび此処に送られてきて、わたしや妻を楽しませてくれる。

☆ ホームページでの討論、拝見しています。 馨
秦先生
ようやく晴れてきて、気分も少し晴れやかになる心持ちです。
先生のホームページ、拝見しています。
「仁」さんの問題提起、私もいろいろと思いは巡るのですが、私自身をふりかえれば、いろいろな意味で発言する権利がないように感じて、あえてお送りするのを控えました。
発言する権利がない、に少し説明を付け加えれば、私という人間が能力以上に恵まれ過ぎているという点に尽きます。
理系の大学に進学していながら、修士では歴史学の手法を学び、しかも学部・修士の双方の知識をまさに必要とする(生かせる)職種に就き、まだ博士号をとってもいないのに研究職として働くことが出来ていることです。独法で、比較的資金にも分析機器など設備にも恵まれていますし、今の研究スタンスだと学部の専門のように深夜まで研究室にこもらなくとも成果が出るという時間的自由もあります。にもかかわらず、特許を取ったりメディアに取り上げられたり、と成果にまで恵まれている。
さらに言えば、定職に就いている夫がいるため、いざとなれば仕事を辞めるという逃げ道すら用意されているのです。そして、上司が通常では考えられないくらい育児に理解があり、三度の育休をすべて1年以上与えてくれて、その分の仕事をひっかぶってくれました。
こんな私が研究者としての問題提起に足を突っ込むのは、あまりにも思い上がりではないか、とモジモジしているのが本当のところです。
ただ、「maokat」さんのお書きになられたの中の、「独法(=独立法人のことか)」というものが帰納的に先細りになってお取り潰しに収束する、という記載は瞠目しました。研究で採算を取れ、ただし取った分だけ予算は減らす、という我が職場でのお上のお達しについてはもう何年も前から胸につかえていたのですが、最終目的が研究所解体、と示されれば深く納得します。
その独法の中では、テーマ設定については確かに強い束縛があります。ハーバードの「雄」さんの文章にも発言者「仁」さんの文章にもテーマ設定という問題提起が含まれていますし、これは研究者として切実な部分であると思います。ただ、このあたりも卑怯で流されやすい私は、ごまかして暮らしてしまっています。お上が決めてくるテーマ設定の中をそっと探索して自分の興味の持てる題材を探し出して研究対象とする,という逃げ方をしています。自分の能力がこれこれでなければ生かせない、というほどに私は自分の存在が大きなものとは感じていないこともあり、正面切って対立するよりも、一見、受け入れたような形の中で、静かに自分が楽しめ、人様の役にもどこかで立ってくれるような部分を見いだしていけばいい、という子どものような態度を取ってしまっています。世の中、じっと様子を見ていれば必ずこの手の隙間が浮かび上がってくるものですし。このあたりが、京都の知人に「あなたは京都の飛び地」と言われる所以かも知れません。
研究者としては明確な目的意識があるべきなのでしょうが、私は自分自身が組織の、家庭の、歯車になることが苦痛でなく、その与えられた環境の中でひそやかに自分が楽しめればよいという程度に利己的です。能力相応以上に恵まれた人間だけがもつ傲慢さなのかもしれません。(もちろん、日々の仕事の中では小さな怒りを持たない日の方が珍しいくらいですが、社会というものがいろいろな価値観で出来ている以上、当然という程度の怒りですんでいます。)
修士の時の恩師は歴史学に数値分析を持ち込んだ先生で、統計的に見た数字からくっきりと歴史的事実が浮かび上がってくるという鮮やかな研究をされていました。この成果を授業で話された時、東大の数値計算系出身者が「先生の話は非常に面白かったのですが、これを外挿(ママ)してこれから起きることを予測したりとかそういう提言はしないのですか」と素朴に、でも少し非難をこめて尋ね
たことがありました。そのとき、先生は「面白い以外に何があるんですか(何が必要なんですか)」と返事をしたのが鮮烈な記憶となっています。
この先生に習ったこと、そして私の父が研究者であり「世の中、何がためになるかなどはわからない。自分が興味を持てることを着実に進めれば道が開ける」という考えの持ち主であったこと、などが私の考えをさらに裏打ちしているかもしれません。
つまり、私は研究を通してスポーツ的な功名を得るという発想を教えられずにこの年まで来てしまい、しかも「食う」手段として研究をやり続けなければならない、という現実的なモチベーションすら持たない状況に身を置いています。それでもやはり、研究を続けているのは、研究を通じて新しいことを発見した時のワクワク感、それを論文や学会で発表したときの達成感、成果を周りから有用だと理解して頂いた時の嬉しさ、などを素朴に楽しんでいるからだと思います。
ただ、こういうものを「素朴に」のみ楽しめる私の状況はあまりにも恵まれ過ぎていて、そんな私が研究者としての葛藤などについて言うのはおこがましい、というのが正直なところです。

研究の話はこのあたりで。また少し歌をお送りします。
歌を作るのは、日々を通り過ぎずにメモ書き程度にでも記憶にとどめたいという気持ちからはじまりました。子ども達の写真を撮る代わりに作っているような。
と、書いて気がつきましたが、このあたりにも文学を志すといった向上心などなく自分の便宜を優先してしまう私の性格が出てしまっていますね。

いつの日にも思い出づらめ半刻も月みる吾子を抱きゐしこの夜と  (十三夜の月見)
湯上がりの桜貝色子の耳に砂粒をのこし連休行きぬ
兄の積木の倒さるる音に泣く赤子(あこ)よ ゆめにも砲弾(たま)の音をな聞きそ

古典は読むばかりで文法をきちんと覚えたことがない(あ、このあたりも努力ギライの性格が…)もので、韻律がいい加減になっている自覚はあるのです
が、どう直してよいかわからず…。
歌を作る、と先生に申し上げた以上と思い、短歌のための基礎的な文法の本を読み始めたりしていますが、おかしい言葉遣いがあればご指摘頂ければとても嬉しく存じます。(下手な歌をあまり公にしないで下さいましね。)
またしても長いメールとなりました。
こういうメールを受け取って頂ける先生のいる幸せを、しみじみと噛みしめています。
裁判沙汰は心身を消耗しますし、生活をささくれ立たせますね。先生、くれぐれもお大事にされて下さい。

* わたしの就任した頃、東工大学生の男女比は13:1ないし11:1と聴いていた。その数少ない女性達にみな男子を凌ぐ気力があり優秀であった。それが楽しかった。
現在、研究という場を離れていても理系の高い教育を受けてきた人たちが(家庭を含む)さまざまな持ち場で果たせる「科学」性についても、「仁」くんは発言してくれている。歌を作り詩を書いて、科学編集者としても佳い仕事をしている女性を二人知っている。その声も、届かないだろうか。阪大にいるすこし若い女性研究員からも。
さらに期待したい、どなたであれふと立ち寄って下さった、この世の中の科学者、科学研究者から割り込んできていただけないものか。

* さらにさらにわたしの娘にも希望したい、イキサツからひととき自由に離れて、お茶の水女子大で哲学を学んだ一人として、こういう討論にもまたちがった立場から発言を寄せてくれると嬉しい。同じことは、いま創作者としてひた走っている息子の秦建日子からも、さらに先輩である甥の黒川創からも、畑違いは違いとしても発言が得られないものかと希望している。
2008 10・16 85

* 五十一年前の今日、妻と大文字山に登った。
豪宕の比叡山を真おもに眺めた裏山原の暖かかったのを思い出す。せっかく持ってあがった魔法瓶を登山途中にぶつけて割ってしまったのも思い出す。
2008 10・16 85

* 黒いマゴの出入りを自由にしているのに便乗して、鼠も入り込んだかと夜中のもの音に起こされたりして。
2008 10・17 85

* 息子が、月が変わったら、蓼科へ一緒に行かないかと聞いてきている。自動車で運ぶ気らしいが、わたしは自動車という閉所の長時間が、苦手。どれぐらい時間がかかるのかな。お喋りは危険だし、ラチもない世間話はするのも聞くのもしんどい。茅野辺まで電車で往き、そこで迎えてくれるというのはどうかな。帰りは車で玄関までがラクでいいが。
2008 10・21 85

☆ 琳 です!
こんばんわ ご本頂戴いたしました。ありがとうございます。
やっぱり、京都にいらしていたのですね!
紅葉は少し早かったでしょうが、青葉の紅葉もまた違う趣きですね。テレビのCMで、JR東海、大原三千院見ました。黄金の阿弥陀様も映っていました。きっと本物は素敵でしょうね!
京都のプロのおじい様おばあ様のご旅行って、どんなに素晴らしいのでしょう! お母様の十三回忌、おじい様もお心を込めて祈っていらしたのでしょう。丁度、『君のためなら千回でも』という映画の原作本を読み終えたところでした。アフガニスタンを舞台にしたお話です。イスラムのアッラーの神を崇めるところが、違和感なく本から入ってきていた時期でした。タイムリーにおじい様の熱烈なお祈り。。。周りの方にも篤い波動が伝わった事でしょう!!
また来週の火曜日に、能を見に行きます。またもや、初心者でも楽しめるという解説付きのものです。今度はどんな風に表現されるのか、楽しみです!
昨日大学院の願書、無事提出いたしました。今後の研究計画書も提出、なんとか自分なりにまとめる事ができました。まだ受かってもいないのに、ひと安心しています。
卒論は12月中旬が締切ですが、院試は11月8日なのでまず院試から。
姉は企業の研究者を目指しています。最近のおじい様のブログ是非見せてあげたいのですが、まだ忙しく教えてあげられません。姉も11月に3つ程、口頭発表を控えています。発表が終わったら早く教えてあげようと思っています。研究者の卵の姉には、なにか心を掴むものがあると思います。
ご旅行のお疲れ、ご本の発送、お疲れ残しませんように。
2008 10・23 85

* やす香が所属していた大学ゼミの人と連絡が付いた。大学生活のことを何も知らずに来ている。ゼミの先生のお名前も知らなかった。詮無いこととはいえ、やす香の像がより整って知れるなら嬉しいことと、喜んでいる。
わたし自身が動顛もしていて、一昨年のあの当時に、やす香の周囲の友達や大人の人から何度もご連絡や励まし慰めをもらっていたことが「mixi」の受信メッセージを繙いていてよく分かる。いま読んでも痛いほど胸が熱くなる。いまとなれば「mixi」をもうヤメて仕舞われている人もある。

* 家中を留守の内に一度、強力燻蒸しようと妻が手配している。わたしは病院へ、妻もべつの施設へ叔母を見舞いに行く。
2008 10・30 85

* 有楽町の「小洞天」まで妻と行き、簡単にランチ。わたし一人先に出て病院へ。
視野検査して、診察受けて。緑内障、白内障、視野、眼圧とも少なくとも悪くなっていず、視野は前回よりもむしろよかったほど。
三時頃に開放された。叔母を見舞っている妻と合流はあきらめ、池袋でひとり、甲州の笹一で天麩羅。そして保谷まで帰ったもののタクシーが延々と来ない。じれったがっているところへ妻が来た。車も来て一緒に帰った。燻蒸も終えていた。
2008 10・30 85

* 最上徳内の仕事をしているという人に、『最上徳内 北の時代』三巻を送った。映像化の仕事を企図されているらしい。成功を祈る。
やす香の大学でのお友達にも、やす香に触れた書き物をぜひ読みたいといわれ、送った。
2008 10・31 85

☆ こんばんは。  琳
寒さが一段と増して参りましたが、お変わりございませんか?
私は、元気元気です☆
大叔母様のお見舞いと、瑞聖寺さんと、いらしたのですね。
大叔母様90歳、お大事になさって下さいませ。
やす香の今度のお花、どんなお花が咲くのでしょう? 春、芽を出すのが楽しみです! やす香のお庭とおばあ様のお庭は、繋がっているのですね! ロマンチックです。
私は先日、院生で、パリの大学院に通っている方のお話を伺う事が出来ました。パリでは、院生なのに研究者の卵として周りの人は見てくれており、今現在の生きている研究が出来ると満足されていました。
その方の友人が映画の研究をしていて、私が来年からお世話になる(院試に合格したらですが)フランス人の先生が映画研究の世界ではょっと有名だという事も教えてもらいました。
そのフランス人の先生を私は前から大好きです。シーズン毎に髪の色を変える(一番多いのはピンク色です。)迫力のある女性です。その先生の元でこれから2年間きっちり基礎を学び、パリの大学に行きたいと今考えています。
やす香がどんな未来を選んだのか、私には分かりません。あの当時の夢のままユネスコに行っていたかもしれませんが。。。
ひとつ分かるのは、お金に直結するだけの仕事は選ばなかったろうという事です。
能楽ですが、行って参りました。。。
実は狂言、寝てしまいました!
見に行く前に新宿まで行ったのが祟ったようです。その日は新宿伊勢丹でワコールのセール初日でした。
母の若い頃は違ったそうですが、私達は大抵ブラとショーツはお揃いにします。セール会場ではそれがバラバラに売っています。しかも大量に、山積みになって。。。大勢の人に紛れて探すのです。初日じゃないとサイズが揃わなく、ペアにもならないのです! 初日でもすごく大変で、会場には選んだブラに合ったショーツを探してくれるスタッフまでいます。それでもなかなか見つからないのです。
当日は、その中で姉と私用に7セットもゲットしました!
すごい成果です☆
能楽までの間に急いで行ったので、往復の電車はずーっと立ちっぱなしでした。しかもこの間買ったお気に入りのヒールの靴を履いていました。
急いで家に帰り、夕飯の用意をし、また急いで能の会場に向かいました。それで、やってしまったのです(泣)!
気が付いたら狂言と能の間の休憩時間でした。
狂言の内容、全く覚えていません。
あんなに楽しみにしていた狂言なのに。。。
休憩時間に展示してあった能面と、能装束を見ました。
紅唐織りの紅葉の装束が、未だ見た事がありませんが、吉野山の紅葉の様でした! とっても綺麗でした。
能は堪能出来ました!
大鼓は残念ながら、ユネスコの時のおじいさんには敵いませんでした。
掛声の裏返る声が、ユネスコの方は力強く、心地良い声でした。それだけで一つの音楽の様で、私は聞き惚れていました。みんながそうだと思い、期待していましたら、今回の声は響きませんでした。会場のせいかもしれません。
やっぱり能楽堂がいいです!
葵上という演目でしたが、六条御息所のお話でした。生霊は怖いイメージでしたが、鬼はなんだか可哀想でした。
悲しみが鬼になるとおじい様は仰っていました。
やす香はあんなに苦しくて悲しかったのに。。。私はやす香の中に一度も鬼を見た事がありません。
もしも、あの苦しみの日を一日だけ私が変わる事が出来たら、やす香は何をしたのでしょう。
もしかしたら、好きだった人のところに駆けて行ったかもしれません。
あるいは、許しを乞わなくてはいけない人がいたら、そこへ駆けつけたかもしれません。
そしてもしかしたら、大切な人全員のところに行き、大好きだよと伝えたかもしれません。
いつも私達にしてくれていた様に。

燻蒸、おばあちゃまやりましたね!
蜘蛛の死骸がゴゾゴゾだなんて、恐い・・・
ネズミも秦家から引っ越してくれるといいですね! まーごちゃんもネズミと同居では怖いでしょう。。。
うちの子は私の知らない間にゴキブリを追い掛け、捕まえてくれます。そして食べてしまいます。。。頭だけ残して。。。恐い。。。私は苦手です。
寒くなったのでメルクルを抱っこしています。
おじい様おばあ様、お風邪を召しません様に。
まーごちゃんをだっこして。。。

* やす香を死なせてしまい…取り返しが付かない。あの二月から六月まで、「mixi」日記を読み続けていた間に、何とか、どうにかしてやりたかったと、今も悲しく悲しく、妻と悔いるばかり。

* 琳さん。優しいメールを、有難う。 湖
十二月に、前にあなたの観た梅若万三郎の能「頼政」があります。今日観てきた友枝昭世とならんで、わたしは万三郎の能もながく観続けてきました。能をとても美しく舞う人です。源三位(げんざんみ)頼政は、驕る平家にいちはやく反旗を翻した源氏の武将ですが、また優なる歌人としても当時名高かった人です。旗揚げは早く潰えましたが、哀れ深く美しい能が観られます。
その前に万三郎の長男が「菊慈童」という神秘の少年を演じます。また三番目には「鐵輪(かなわ)」という怖い能が予定されています。狂言は新年を前に「福の神」。
うちのおばあちゃんは能というと目の玉がでんぐりかえるように眠くなる人なので行きません。自由席ですこし見づらいかも知れませんが、手持ちの入場券を送っておきますので、すこし早いめに行き、すこしでも観やすい席から楽しんで下さい。強いません。券を使わなくてもちっとも構いませんからね、気を遣う必要はありませんよ。
2008 11・2 86

* 息子の車で三人で蓼科へ。松下圭介君経営のプチホテル「カナール」で夕食、歓談。横谷峡の湯に、山荘に泊。スクリーンに映画『覇王別姫』を映して楽しむ。
2008 11・3 86

* ゆっくりゆっくり朝寝。
蓼科のすてきな店で美味しい昼食。最初に出た鰊の酢漬けを主にした前菜から、良かった。スープもパンもワインも。妻と建日子はメインに、店主がおすすめのヒレの肉。わたしは鮭の料理。こころよい接待で、くつろぐ。

* わたしの希望で諏訪へ。白樺湖、霧ヶ峰高原、車山などを経て。
湖畔のサンリツ美術館で、古筆と墨跡を楽しむ。常設展はフレッシュな近代西洋画の小品がコレクターのよろこびそのものを伝えるように、小気味よく展示され、満足した。諏訪湖の眺望も楽しめた。好天、好天。幸福な時間。
諏訪神社をぜひ息子にみせておきたかった。諏訪の凄みを認識しておいて欲しかった。境内も、御柱を包み込んだ背後の山も黄葉うつくしく、夢うつつの心地がして、ここへこうして妻や子と来ているのが瞬時不思議な気がした。
立石からの諏訪湖神秘の眺め。遠山なみのたしかさと美しさ、夕日ののかがやき。もう日没の近い高原を息子はくるまを走らせ、妻は心底から嬉しくて、助手席で小鳥のように可愛らしくさえずり謳っていた。
もう真っ暗な山荘の森林へ帰ってきた。晩の食事のあと、息子はくるまでちかくの温泉へ。わたしたちはまたスクリーンを張って、大きな画面で小林正樹監督の『怪談』を。三国連太郎と新珠三千代の「黒髪」、岸恵子と仲代との「雪女」。山荘は、取り巻く蓼科高原の真の闇に深く沈んで、ことに雪女のメルヘンは、美しく哀れであった。
息子が帰ってきてからは、黒澤明の『天国と地獄』とをつぶさに味わい楽しんだ。この映画も息子にはぜひ観ておいて欲しかった。もういちど「黒髪」「雪女」も観た。息を呑ませる静かな静かな悲しみ。
2008 11・4 86

* ゆっくり朝寝して。

* テレビの開票速報でオバマ民主党候補の圧勝を予感。そうなれば、もうわたしの関心はほかにあった。アメリカの動向に拘泥しすぎないこと。つきはなして冷静に批評的に眺めること。オバマに期待するが、期待しすぎない。

* 家の中を慎重に片づけて。十一時半ちかく山荘に別れて、帰りは、往きの中央道でなく上越から関越へ通り抜けるための別ルートを、心身を黄金色に染めてしまうような黄葉の高原、落葉松の白樺の高原をひた走り、小諸、佐久へ。途中休憩して昼の蕎麦をおいしく食べた。遠くに観ていた白煙の浅間山へだんだんに近づいて行く輝く大空が胸郭を広げてくれる。幾つも幾つもの長い隧道を息子はびゅんびゅんと愛車を走らせた。浅間の腹を通り抜けて、嵯峨とし巍峨とした妙高・妙義の群馬県へ。高崎から一路関越を走り抜けて、谷原でハイウエイを降り四時頃保谷へ帰った。

* 無事帰ってきて、息子はぐっすり寝入っていた。往きにも帰りにもほぼ五時間に及ぶ長路の運転、中の一日も高原から高原を走りに走って両親を心から楽しませてくれたのは嬉しく有り難いが、あまりに過酷な疲労を強いたものと、心底わたしは申し訳なくつらく感じた。われわれで、運転をかわってやれない。息子一人にこんな過重な負担を強いる楽しみはしてはいけないと、感謝は感謝、幸せは幸せとして、申し訳なく悔いも残した。息子はひとやすみのあと、もう次の仕事へ出かけて行った。

* 留守の始末を、いまもう夜十一時過ぎてひとまず終えた。この自動車の旅で感じたのは、嬉しい楽しさと帯同して、想像以上に自身の体力・気力が落ちているという実感であった。ねばりづよく、まだ今日を今日をまだ今日をと生きて行くために、心衰えてはならない。
2008 11・5 86

* 七時前に一度起きたが、もうすこし労(いたわ)ろうと九時半まで寝た。
大きな冷蔵庫が十年で冷凍不能になり買い換え、だと。機能がこまかに広がると、傷みやすくなる。わが家の歴史を眺めてきた最初の冷蔵庫は、娘が生まれたお祝いに京都の両親がはるばる現物を贈ってきてくれた冷蔵専用機、もう四十八年を過ぎているが、いまもちゃんと稼働している。
家中さがしても、半世紀を健康に用いているツールなど、殆ど見あたらない。娘は、心身、健康だろうか。

* 息子から旅の間の夫婦の写真をたくさん送ってきてくれている。

* 山荘へ、愛蔵の花生けを持っていった。四日朝に、広い庭で、よく紅葉した灌木の一枝を手折り、なかば枯れた地這えの平笹と細い蔓蔦をあわせて挿してみた。初め居間に似合い、しかし煖房もつよいので、紅葉だけにして玄関に置いたのがよくはまって美しかった。わたしが置きみやげしたささやかな「文化」であった。明くる朝は、紅葉にもう黒ずんだ斑もはいって、紅いろを引き立てていた。
庭には、落ち葉に埋もれて、あきらかに人手がしたにちがいない岩組が残されていた。何の実か、大粒の真紅の顆をつよく匂わせていた。
こまかないろいろの情景や属目はすこしずつ湧くように思い出す。
2008 11・6 86

* さしせまった用に迫められながら、なんとなし漫然と時を手繰っている。これも休息か。

* 表紙に母校の校章が印刷された大学ノートを手にしている。「芸術学概論」と表題があり、Pf.金田とあって、結婚前の妻の氏名がしっかりした妻の字で書いてある。わたしはこのキチンとした書字にいかれたようなもので、同じそのノートの中に書いているわたしの悪筆ときたら、きわまりない。いまも機械で字を書いている動機の最たるは、自身の悪筆が見たくないことで。
妻の筆記した金田先生の藝術学概論は丁寧に切り取られて無くなっている。未使用の白いところをわたしが利用して、昭和三十六年四月二日日曜日の「序」にはじまり、五月三十日早暁まで、「歌日記」を書いている。その三十日の跋を、「昭和三十三年六月から三十五年歳暮まで二年半にわずか三十六首しかのこせなかった。幾分は収録しないですてはしたが尠い」と書き出している。
中をみると、妻の歌も書き置いてある。三十四年二月末に上京して三月に結婚し、三十五年七月二十七日に娘が生まれている。後に編んだ歌集『少年』にこの三十六首から採った歌はさらに少なく、大方を捨てていたようである。わたしの思いはもう歌をはなれ、小説が書きたい書きたいと思っていた。しかし書き始めたのは三十七年七月末であった。
この大学ノート利用の時期は、わたしが就職した医学書院で編集部に加わり、看護学系の雑誌編輯制作を担当しながら、守備範囲を猛然はみ出て、医学研究書の出版企画にも吶喊しかけたころに当たる。

* ことに『新生児研究』の企画と刊行とは、文字どおり日本の医学史に一画期をもたらした。
当時、産科医は赤ちゃんを新産児とよび、小児科医は新生児と呼んで公然対立し、生まれてくる赤ちゃんを両科で協力し管理する体制は、日本のどの大学にもまだなかった。赤ちゃんの両科での奪い合いすら普通であった。そんな昭和三十五年七月に、わたしの娘は生まれた。そんなころに、はじめて、東大医学部で産科と小児科が「共同」で新生児カンファレンスを計画しているのを医局の黒板で知り、躊躇無くわたしはそれへとびついた。産科の小林隆教授、小児科の高津忠夫教授の部屋をわたしはノックした。当時東大医学部の教授といえば、じつの天皇さんより強大な天皇の存在であった時代。それを構わず教授室をノックして新米無名の編集者は、両科で共同研究・共同執筆の『新生児研究』出版を恐れげなく、いやかなり恐る恐るもちかけたものだった。わたしがもう少し東大医学部という「権威世界」に慣れていたら、こんな企画にはとても踏み出せなかったろう、が、生まれたばかりの我が愛娘の健康管理とまた記念のためにもと願い、破天荒の冒険に独断で突っ込んだのだった。
紆余曲折はあったが、危うく潰れかけた企画の危機もすりぬけ、両科数十人の共同執筆の大研究書『新生児研究』は立派に出来たのである。そして日本に「新生児学会」が生まれる大きな第一歩と成った。日本中の大学や病院に、小児科産科共同の「新生児科」体制が漸次着実に出来ていった。未熟児研究と保育も飛躍的に進歩した。
仙台市でひらかれた第一回の新生児学会に、わたしは会長先生から会員なみに招待されたのである。
そういう時の数少ない短歌と文章とで綴られた拙い歌日記が、ひょいと目の前に現れて、わたしは、それを読んでいたのだ、今日は。

* 跋文はこう続いている、もしわたしの娘が、この日記を見ているなら、心して読んで欲しい。
「しかしこの二年半こそこれからの私たちのどんな一歩一歩にも忘れられないスタートラインであり、土台であり、魂の故郷となることはまちがいない。ここに私たちの一切が芽生えている。ここに私たちの幸福のつきぬ泉があり、わたしたちの努力への尽きない励ましがある。
迪子も夕日子(仮名)も私も、この二年半の月日が形を与えてくれた。それは三人が一人一人ばらばらな存在ではなくて、この上もなくたしかな一つの根源に芽生えた相愛の枝であることを教えている。
迪子と私の枝は夕日子にくらべてすこし老いている。しかし夕日子は若く若く、いつの日か私たち以上に輝かしい芽を次の世代へふき出すだろう。すばらしい枝とならび立ってくれるだろう。もし私たちの家系が育つための豊かな土壌をさがすなら、この二年半を想い出そう。その土壌こそ、そこに根ざした逞しい根こそ、愛し合う鮮烈を幸福と感じた魂、あい寄る魂に他ならない。
夕日子、きっと幸せに。
迪子、かぎりなく健康にかぎりなく私の妻として。
心からの敬意と愛をもって、私のためにも大切なこの集を、まず迪子に、そして夕日子に贈る。」と。
そして跋を書き終えた一年余ののちにわたしはとうとう「小説」を書き始め、さらに七年、昭和四十四年桜桃忌の日に太宰治文学賞に迎えられた。
小説を書き始めて以来、盆も正月も旅も病気もなく、一日として書き継がぬ日はなかった。太宰賞の前年には、いま作家・劇作・演出家である秦建日子が生まれた。みんなが幸せであった。
この歌集の結びの歌は、こうである。昭和三十五年十二月二十一日。秦 恒平が二十五歳の誕生日である。

そのそこに光添ふるや朝日子の愛(は)しくも白き菊咲けるかも

蓼科山と白樺湖を背に。建日子が撮った。 08.11.04

* やがてわたしは七十三歳。妻も来春には同い歳に。その来春は、金婚。半世紀。根底、なにも変わっていない。揺れてもいない。

* 愚痴になった。
心いつか老の境にしづまりて冬の蠅さへいまはにくまず    吉井勇
2008 11・8 86

* 家の中を暴力的にでも片づけないと、冬を迎える用意すら出来ない。手書きの生原稿の未整理なのがダンボール箱に何杯もみつかる。山積みにして物置などに入れようならそのまま死んでしまう。出しておけば生きる機会もあるだろうが、こっちの方で生きているかどうか。
湖の本は、入稿原稿を機械でつくり、機械で入稿する。初校ゲラが出て初校し、再校ゲラが出て再校、ときに部分的に念校する。その校正ゲラが残っている。機械で入稿した機械内原稿を、初校と再校・念校ゲラで照合して直しておかないといけないわけだが、その作業がじつはなかなか出来なくて放置される。機械の中で電子化されている湖の本が「未校了」とあるのは、直しゲラとの照合が出来ていない意味である。
湖の本のゲラはA3用紙で出るから嵩が高い。一校で三部ずつ出るから嵩は凄い。しかも実に重い。裏白の不要分を捨ててしまうのは、裏白の紙を貴重品として育ったわたしにはとてもし辛い。半切し気軽なA4用紙としてプリント用に使いたくなる。十分使える。校正ゲラだけは、機械との照合さえ済めば処分出来片づいて行くのに、それに手が出ないで、狭い部屋は漸々層々占領されて行く。手伝いますと言ってくれる人もいるが、バカに嵩高いモノをひっきりなしに郵送しなければならない。

* 本は、書籍は、諦めることにしている。何を諦めるか。片づけることも、処分して図書館などにまわすことも諦めるのである。どっちにしてもモノ凄い肉体労働になる。たちまち腰と胸に傷みが来る。書庫が書庫として機能しないほど通路にまで積んで積んである。体裁よく総ガラスで作った飾り窓も、ただただ山積みの本の置き場にしたまま、倒れたらどうなるか知らない。強い地震の逃げ場としても堅牢に作っておいた書庫だが、大人二人がたとえ逃げ込んでも、中で崩れてくる本の山が痛い凶器になる。ケセラセラ。
2008 11・9 86

☆ こんにちは! 琳
院試の発表ありました!
ちゃんと受かっていました!
これでひと安心です。
実は頂いたパズル。。。試験の前日なのに我慢出来ずに遊んでしまいました。心配掛けてはいけないので隠していましたが、嬉しくてついつい遊びました。おじい様にお話ししたら、叱られますでしょうか。。。
昨日は、国立劇場に江戸川乱歩の人間豹の歌舞伎『江戸宵闇妖鉤爪』を見に行ってきました。
以前高校の授業の一環で歌舞伎を見ましたが、自分で行った初めての歌舞伎です。私の大好きな江戸川乱歩を、上手に歌舞伎に仕立てていました。小説にはない場面も描かれていましたが、歌舞伎は染五郞さんの人間豹でした。
小説では奇怪さとおどろおどろしさが表面に出ている作品ですが、今回は人間豹の虚しさや悲しみが表現されていました。最後は少しホロリとさせる終わりで、私はとってもとっても気に入りました! 歌舞伎の初心者には、もってこいの面白さでした。
私は江戸川乱歩の、人間の盲点を突いた恐怖を描くところが好きです。
長編よりも短編の話の方が、面白さを発揮できていると思っていました。でも江戸川乱歩が人間豹を一番気に入っていると言う事は、長編の方が自分の思った世界を表現出来ているのでしょうか。
私はその事にも気がつかず、ただ乱歩が好きだなどと言っているなんて、未熟でした。
でもやはり私の好きな話は短編で、『赤い部屋』がお気に入りなのです。今まで誰も考えた事のない、江戸川乱歩独特の魔法にかかった様で、初めて読んだ時に衝撃を受けた話だからです。
まだ乱歩を完全制覇は出来ていないので、卒論が終わったら読破したいと思っています。
歌舞伎って、すごいですね!
舞台装置も大掛かりで、回転したり、下に下がったり。。。驚きました。
背景に描かれていた不忍池も素敵でした!
情緒もあり、奥行きを感じさせ、これにも感心しました。
染五郞さんの宙吊りも楽しませてくれました。
染五郞さんって、すごく綺麗な役者さんですね!
テレビで見た事はありますが、やっぱり舞台役者さんです。
女形は春猿さんでした。
春猿さんも若い役者さんなのに、若い女性もしっとりした落ち着いた女性も、本当に柔らかく美しく演じていました。
まだ歌舞伎初心者なので、ただただ楽しかったです。
院試が終わったので、全力で卒論を仕上げます!
ではでは、ご報告まで。
インフルエンザにお気を付け下さいませ。

* 甥の黒川創が東京へ出てきてうちの近所にアパート住まいしていた頃、ちょくちょく顔を出した。彼には縁の遠かった、たとえば歌舞伎のことなど話してやると、いつのまにか歌舞伎をみて、ひとかどの批評めくことを言ったり書いていたりした。顔を合わすつど、なにかしら新たに身に帯びてそれを私たち大人に感じさせた。そういうところが頼もしかった。
やす香の大親友も、メールをくれるつどわたしたち老人の頬を綻ばせてくれる。映画や能や歌舞伎へのわかわかしい感想が、なにかしら「青春」というものの背に生えた大きな翔のように感じられる。そういうまぶしさにわたしたちは励まされている。
2008 11・15 86

* 何のために、だれの為に「朝の一服」を連載し続けているのだろうと、ときどき、心うつろに倦むこともある。短歌を「つくる」人はやたら多い現代であるが、人の作を心深く読もうという人は必ずしも多くないのをわたしは知っている。この連載の原本は、書いてあるように、わたしの娘が結婚式をしたその日付の「あとがき」を添えて、娘に贈った講談社刊『愛と友情の歌』であり、のちに湖の本で復刊して『愛、はるかに照らせ』と改題した。いま続けている『朝の一服』はなかみはみな同じであるが、それなりに子供達、ことに娘へのいたわりのメッセージであることは、大勢の人がきっと察して下さっているだろう。
極度の悲しみは人を鬼にするとわたしは「葵上」のような能を理解してきたが、ガンに倒れた孫のやす香は、「必死」の悲しみの底で決して鬼にはならなかったと想いますとやす香の親友に聴いたとき、ありがたいことと、祖父母は泪をこぼした。やす香に死なれた母親はどうなのだろう。
2008 11・17 86

* しばらく敢えて忘れていた、忘れ切れはしなかったが、「裁判沙汰」の現実へ袖を引き戻されている。それがわたしの「いま・ここ」なら直面を厭うまい。
2008 11・18 86

* 気を誘われない仕事は、していても、手を止めても、疲れる。疲れると、一服に歌舞伎座の散らしを観る。
師走はわたしたち初の狂言が三つある。甲乙無く楽しみ。なかでも初めてではない「籠釣瓶」は少年時代に南座で歌舞伎に出逢って以来、おなじみ。幸四郎に段四郎がつく。これは昔、吉右衛門に又五郎がついたに負けない贅沢。八つ橋は、あの時も福助だった、のちに大きな歌右衛門になった。今度の福助にもそれが待たれる。次の大きな襲名はそれだろう。栄之丞は梅玉で何度か観てきたが、今度は染五郎。昔は守田勘弥だったか。勘弥という名前ともまた逢いたい。
次郎左衛門に幸四郎は嵌り過ぎるほどで、凄い切れ味の籠釣瓶に出逢うだろう。その幸四郎の佐倉義民伝もぴたり当たるだろう。
何と言っても、富十郎の石切梶原。しかと観ておきたい。もう一つ三津五郎の娘道成寺。踊りでは当代一の脂ののり。

* やはり気がかりの仕事を、と。とにかく再開し、今し方終えた。ウウ。
2008 11・22 86

* 一部屋の畳を新しくした。近所の老職人に頼み、妻は飾り棚の本などをびっしり階段に積んだり廊下に出したりと、健闘。わたしは、気のしんどい辛抱仕事のために機械の前を離れなかった。畳は朝の八時に職人がやってきて一度持ち帰り、夕方にはすっかり新しくなった。新しい藺草の匂いがここちよい。
そして夜分八時半、わたしの仕事も四分の一、一段落。根のつまる重い仕事だ、あと数日かかるだろう。
2008 11・23 86

* 根をつめすぎるのか。歯が痛む。目も霞む。

* 一休みに階下のテレビで、ポンペイ遺跡から石膏により死者たちの最期の肉体を文字通り復元したのを観た。あの噴火の凄さは史上稀な烈しさで、火砕サージの奔った速さは時速二百キロ、たった十キロ距離のポンペイはたった三分で呑みこまれた。シミュレーションと再現ドラマにも泣かされた。
心幼いことだが、わたしは、歴史上のこういう惨事の数々を念じて思い起こし、ケチな悪意に汚されるわが身のちいさな不快など、笑殺する。不幸なことに、そういう哀しみの極限例はなんと記憶に多く堆積していることか。
ヒロシマ・ナガサキ。アウシュビッツ。沖縄。東京大空襲。関東大震災。世界中に起きた無惨な虐殺・餓死・弾圧のかずかず。不条理で無道・極悪な無差別殺人。冤罪のママの死刑。全く無意味な被差別。
ああ、わたしたちのただただ醜いだけの「子」難など、何であろう。

* さ、また読書の寝床へ、そろそろやすみに行こう。
2008 11・24 86

* 七時、冷たそうな雨がまだザザ降りだった。九時、雨の音はやんでいる。歯医者に行く。そのあと、建日子と会う。
2008 11・28 86

* 歯医者の後、江古田で昼食してから、西武新宿線の下落合駅に近い小劇場で、永井愛の鶴屋南北賞受賞作『ラ抜きの殺意』とかいった芝居を、建日子も加わり、三人で観た。劇場で、「ペン電子文藝館」の同僚委員だった牧南恭子さんと出逢った。娘さんが今日の芝居に出演していた。
面白い芝居であった。今日は、俳優達よりも「脚本の面白さ」を評価したい。脚本の掌の上で俳優達が踊らされていた。踊りようにも巧いマズイはあったが、牧南さんの娘さんはなかなか面白かった。巧かった。

* 終演後、タクシーを拾い、三人で池袋西口に走り、東武百貨店の上の「美濃吉」に入った。出た料理には全く感心しなかった、わたしの体調のセイだろうか、とても疲労していてヘンに息苦しくハアハアしたりして。ま、そういうこともあるさと思って深くは気に掛けていないが。
建日子と長時間話せる機会はすくないので、今日のような日は、年ごとに大事になって行く。
料亭の席をいつまでも塞いでるワケに行かず、メトロポリタンホテルへ移動し、二階ラウンジで話の続きを楽しんだ。
池袋駅で別れて帰ってきた。妻をすわらせ、わたしは立ったまま『復活』を読みながら保谷まで。
いまカチューシャは、国事犯たちのなかに混じっていて、男性囚の一人が彼女に愛を抱き、ネフリュードフの理解を求めていた。トルストイがこの作品では国事犯たちとも深く接して「革命」の匂いへも果敢に接近している。ネフリュードフや国事犯男女たちの「人間」認識はそれぞれに辛辣でシャープで、トルストイという「非常識」極まる貴族作家への敬意を、わたしはますます深めている。ある時代の常識に対して優れて批評的に、また孤独に耐えて非常識であるということの凄さとすばらしさ。

* この疲労の背後には黒いマゴの夜中気儘の「運動」が響いているようだ。しかし、まだまだ、有る、今夜もまだ有る、わたしの仕事は。
2008 11・28 86

* 冷えるが、日ざしは明るい。畳についで、居間の障子を貼り替えに出した。黒いマゴが障子枠で爪を研ぐし、わたしたちの気を惹くのに紙に爪をかけることを覚えて、ひどいことになっている。ま、「共存税」かと。
だが先日、ものに乗って壁のすこし高いところへ、歌舞伎座で買ってきた歌舞伎十八番のちょっと面白い絵風呂敷を貼ったはよいが、とんと後ろ向きに足をおろした拍子に体勢崩れ、背中から仰向けになった。ずらしてあった障子枠に背中で激突し、その支えで大顛倒は免れたが、背と腰の痛みだけでなく、障子紙のあちこちがみごと斜めに大きく裂けた。八十キロ超の体重で瞬時障子枠全体が斜めに捻れたのだろう。この分では家の中で大怪我の公算が高い。狭い家の中でつまずくのが何より困る。
妻は、今年もテラスの大きなベンジャミンを、また家の中へ避寒させてやりたいと。天井に届くほど。鉢も大きくて重い。狭い家の中がさらに狭くなる季節だ。棚に満載満積の本を、畳替えのために廊下や階段へ出したままになっている。棚は本来の面目を回復して、部屋が小綺麗になっている。このままがいいなあと云いつつ、しかし階段を上り下りのつどこれではなあと危険にも嘆息する。こんな嘆息ぐらい、だが、知れたものだ。
庭の椿がもう咲き始めている。花が咲き、お日様が明るければ、気分いい。それでいい。
2008 12・1 87

* やす香のお友達に心配かけてしまった。あやまります。

☆ 大丈夫でしょうか?  琳
こんばんは!
すっかり朝晩寒くなってまいりました。
私の小さなお庭の紫蘭やきぼうし達は、葉っぱを黄色から茶色に変えてきました。
冬が直ぐそこまで来ていますね。
お変わりございませんか?
と言うより、久々にブログ拝見して、ビックリ致しました!
おじい様 お顔に怪我、踏み台からの着地失敗、ただただビックリ、心配です!
家にあった、未使用のキップパロールというお薬お送りいたしました。
これも我が家の常備薬です。驚くほど早く、傷が塞がります。
私が小学校で怪我をし、保健室に行った時初めて出会った薬です。保健の先生が、このお薬は怪我が早く治るので、お家でも買いなさいと言って下さったお薬です。
お顔なので、お薬が合わないと心配ですが、合わなかったら何か別の時にでもお使い下さい。咄嗟にお送りしてしまいました。どうぞお大事になさって下さいませ。
お顔に傷なんて。。。そんな貫禄はいりませんので、いつものおじい様のお顔に戻って下さい。
私はいつものおじい様のお顔の方が好きです。
卒論、少しめどがたちました。
昨日未完成ながら、担当の先生に見て頂きアドバイスを頂戴しました。
もうひと頑張り、頑張ります!
終わったら。。。映画の研究です。。。
これからまたもうひと頑張りします。
ではでは、取り急ぎ。

* 恐縮。
2008 12・3 87

* 文学講演集入稿時ディスクのうち、最初の四つ分、全体の約半分、を初校済みゲラから校正した。かなり労力がかかる。当然のように校正段階で、入稿時原稿にたくさん手が入る。それをディスクの上でも直しておかないと、いい形での「保存」にならない。しかし厖大な手間と時間がかかる。
「色の日本」についても「蛇と世界」についても、自分で今言える程度までは言っていると感じた。藤村の『破戒』についても、難しいことだが最後に「驢馬の話」を持って来れた。
嘲弄してくる「人」の子等へ、微妙なところだが、あの藤村が藤村流に切り返した「オオ、倅共か、今日は」という「驢馬」の挨拶が利いている。『破戒』のあの丑松から此の驢馬までの藤村の沈思黙考には、重い時間がかかっていると思えた。
さて、まだ半分在る。まだまだ、まだまだあるのだ。
それどころか、弁護士事務所から用事が届いている。印刷所は、もうはや次の本の初校が明日には届くと伝えてきている。このわたしが、食欲がないなどと、夕食の箸を途中で置いていてどうなるか。
2008 12・5 87

* 黒いマゴは夜中に起きて遊んでくれと言う。これには参る。二時から七時半に二度三度起こされた。
2008 12・6 87

* また気のしんどい用事に一晩を費やしていた。
2008 12・8 87

* やす香のお友達からは、頬の切り傷のための特効薬を頂戴した。幸いに、治っているそうである。
2008 12・8 87

* 滋賀県の読者から、わたしの生母に関して調べた「一文」を下さった。初めて知る新事実は少なく、まだまだあまりに曖昧なところ多く、はっきり間違っている記載もあった。一人の人物の輪郭を辿るのは、こういうことは、実に難しく根気が要るものである。しかも一つの間違いや曖昧が連鎖して、関係者に響いて行く。感謝して、しかし公表などは慎重に願いますと返信。
2008 12・9 87

* 五十一年経った。楽しみの歳末大歌舞伎は、明日に。もう十日過ぎると、七十三歳になる。

また一つ階段を上るのか降りるのか知ったことかの吾が吾亦紅(われもこう)  湖

* 師走も半ばになりました。お変わり有りませんか。
秋ぐちに四国からはるばる頂戴したあの吾亦紅が、まだ二十顆、ぱっちりと元気なんです。水もよく吸い上げています。吾亦紅を三つ四つは風情で愛したことありますが、二十顆も細い細い枝に留まってみんなパチッと空間に位置をしめている星座のような美しさは、すこぶる心ゆくみもので、新発見でした。朝に昼に夕に眺め、今も数を一つ一つ確かめて、励まされる思いで愛しています。
それだけのことを申したくて。
今日は、プロポーズして満五十一年目なんです。生きています。
あなたもお元気で。 湖
2008 12・10 87

* 婚約して五十一年めの一日を、ゆるやかな心地で家で過ごし、上ダネを「和可菜」に選んでもらって鮨と刺身と、妹の伊藤ひろ子の贈ってくれた白ワインで、夫婦二人で夕食した。
2008 12・10 87

* 書庫にあった押村襄著書の中の「ルソーの研究」を読み始めた。著者は娘婿の父君。結婚の直前に亡くなった。白金台の寺墓地に、孫・やす香と同じお墓に名をならべている。専攻の学者の「研究」とあるのを信じ、せっかく読んできた『告白』『エミール』への理解に良き基盤を得たい。

* 昨夜おそく、やす香のお友達のメールをもらい、今朝一番にお見舞いを頂戴した。

☆ こんばんは!
今日は吐く息が白く見える程、とても寒い一日でした。
すっかりご無沙汰いたしております。
卒論、ほぼめどがたちました。
文章を削る事によって、内容が明確になり、さらに良い展開になりそうです。
今週提出なので、もうひと頑張りです!
おじいさま、ごめんなさい。
お怪我なさって痛かったり、びっくりなさったのはおじいさまなのに。。。
偉そうに心配ですなんて生意気な事を書いた為に、“あやまります”だなんて、逆に申し訳ありません!
お怪我が治って、安心しました。
いつもの優しいお顔に戻って下さり、ありがとうございます。
今日、また余計なお節介セットを送ってしまいました。
薬剤師をしている母の友人から送ってもらったものです。
風邪薬の葛根湯と、ビタミンCです。
風邪の引き始めに飲むと、本当に良く効きます!
半分お裾分けです。
ただの風邪なら病院に行って余計な病気を貰うより有効です。
このお薬で効かない時はインフルエンザかもしれないので、病院へいらして下さい。
ついでに甘いものを少しだけ入れました。
私の大好きなお菓子です!
落雁やもろこしの様なお菓子が小さい時から大好きです!
お二人でお三時にでも召し上がって下さい。
梱包、失敗しました。シールで抑えようとしたのですが、袋が弾けた為、余計なシールだらけになりました。
クリスマスシールが付いていますが、クリスマスプレゼントではありません。
お薬がクリスマスプレゼントなんてありえません。
遅くなりましたが、ご婚約51年目、おめでとうございます!!!
お茶室で紅葉を添えて、プロポーズでしたよね?
お若い時のおじいさまは、どんなお顔でプロポーズなさったのでしょう。
おばあさまだけがご存じのお顔なのでしょうね。
いつまでもお二人仲良く。。。
いつか私にそんな時が来たら、こっそりお教えします!
では、また卒論の続きをやります。
お薬はお送りいたしましたが、どうぞお風邪を召しません様に。  琳

* 嬉しく。早速服用。ありがとう。あなたもお大切に。卒論ゴールを、小気味よく元気に駆け抜けてください。
2008 12・15 87

* やす香のお友達から、快哉の声が夕べのうちに妻に届いていた。

☆ 卒論終了!!!
こんばんは!
たった今、卒論プリントアウト終わりました!
終わって直ぐのメールです。
この嬉しさをお伝えしたくて、メール致しました。
雪の結晶の紙石鹸、すごく嬉しかったです!
とてもとても眠いです。。。
あとは、明日起きるのを忘れないだけです。
10時に学校行きます。
そしたら提出して、解放です!!!
バンザーイ☆
明日、学校への電車の中で『ゲド戦記』読み始めます。
愛猫はそばで爆睡中です。
おやすみなさい!!!  琳zzzz

* よかった、よかった。
2008 12・19 87

* 明日は、院に合格した人を祝って祝いたい。
2008 12・20 87

* 誕生日の朝に    七十(ななそ)たび三つを加へて冬至かな

やすかれ、やす香  日あたりの草生(くさふ)の庭にすずめ来て
老いをよぶらし目をとぢて聴く    遠

どなたの御作か 拝借して。だいたい、こんなふうで。もっと
夫妻 老いこんでいますけれども。悲歎も失望も深いけれど。

☆ おめでとうございます。☆☆☆  琳 12.21 0:00
☆おじい様、七十三歳のお誕生日おめでとうございます☆
☆☆☆おじい様のこれからの一年が幸せでありますように☆☆☆
クロマゴちゃんにもよろしく☆☆

今年もやっぱりやす香のセリフです。

やす香の世界で、少女時代の私は一緒に遊んでいるのかもしれません。
きっと今頃、おじい様のお誕生日ね、と話しているのでしょうね。
やす香なら、「どんなサプライズを起こそうか??」と、言うでしょう。
サプライズ起こって!

* ありがとう。午後、楽しく会いましょう。
2008 12・21 87

☆ お誕生日おめでとうございます☆
あらたな年も、どうか健やかに☆
今日は稽古で伺えませんが、近々、どこかでまた保谷に遊びに行きます。 建日子

* ありがとう。きみも元気で、怪我無くと祈っていますよ。父
2008 12・21 87

* 三時半に「琳」さんと鶯谷駅で会い、ともあれと駅前の「公望荘」で蒸籠蕎麦を手繰って、そこで院進学のお祝いに、五代清水六兵衛・六和作「仿仁清翁扇流」の茶碗を呈上。やきものに関心を育ててもらうには絶好かと思う。
タクシーで雷門へ。師走歳末日曜の仲見世はびっしりの人の波。波のうねりにまかせてゆっくり歩いて、浅草寺本堂に上がる。
奥山をもう一度国際通りへ、そしてまた米久わきへ入って、浅草の見本市のような展示場を見物してから、鮨の「高勢」に五時に入る。
うまい肴をたっぷり。「琳」さんと妻とはビールのあと白いワイン。わたしは酒とワイン。主人の親切な応対もたのしく、よく飲んで食べてよく話してきた。銀座の「きよ田」の話なども出来て、懐かしいやら嬉しいやら。
そういえば大学に受かった夕日子を「きよた」でご馳走して祝ってやったのが懐かしい。隣席の小学館篠氏に、小娘に過剰サービスですよと笑われたが、娘にはいいものをいいものとして覚えさせたかった。
今晩は、大学ではない、大学院に合格したやす香のお友達にご馳走して、自分の誕生日も一緒に祝った。この二年、どんなに慰められ癒されてきたか、計り知れない。
食後は寄り道しないでまた鶯谷駅に車で戻って、山手線、池袋で「琳」さんを見送った。
佳い一日になった。
2008 12・21 87

☆ ただいま、私とお茶碗、無事に帰宅致しました。
今日は本当に本当に楽しい一日ありがとうございました。
新宿から各駅停車に乗り、座って眠りながら帰って来たのでこの時間になりました。
お茶碗、私にとっては国宝級です!  琳
2008 12・21 87

☆ 光琳
21日は私の方こそ、お祝いして頂きありがとうございました。
いっぱいお話したい事があるはずなのに、お顔を拝見すると何にも言わなくても楽しいです。
お話しなくても、ご一緒しているだけでお話した以上の気持ちでホッとします。
不思議です!
お茶碗、枕元のお気に入りの飾り棚にメインで飾っています。
もちろん、寝ぞうが悪くても割れないようにガードした場所です。
とても優しい、やわらかい女性を感じさせるお茶碗です。
お紐は母が元通りに結んでくれました。
母は独身時代お茶を習っていたそうです。
お紐結びも先生に教わっていたそうです。
何故か言い忘れてしまいましたが、21日は観世能楽堂で能を見てから伺いました。
菊慈童でした。
以前見た葵上とは違い、賑やかで華やかでした。
おじい様のお誕生日にぴったりだと思いながら見てきました。
あまりにタイムリーでした。
色々一度に体験して、とても贅沢で幸せな一日でした。
まだまだ年末までいっぱい映画を見たり、本を読まなくてはいけません。
ゲド戦記は今二巻までいきました。
以前お話しした川崎市アートセンターで、フランス映画特集があります。
学校のライブラリーにも保存されていない古い映画が盛り沢山です!
全部見たい! 幸せです☆
しかも学生は安いのです。
今日もまた風の強い日です。
冷え込みますので、暖かくお過ごし下さいませ。
またメールいたします。

* 佳い字なんだけど「琳」だけでは少し淋しく、「光琳」さんにしよう。
あの茶碗は、陶聖「仁清」の原作に「倣」えてあった。仁清の風を襲ったのは尾形乾山であるが、より深く濃く兄の尾形光琳が絵で体現したのが「仁清風」だと謂えなくない。仁清の真骨頂は、器胎を軽やかに薄くひき上げる轆轤の神技、そして趣向の華麗、絵付けのみごとさ。
あの六和さんが模した「扇流し」の茶碗は、絵付けの優しさ美しさとともに、轆轤でひきあげながら茶碗に大きなひねりがついている。技として、たいへん難しいのであり、箱に書かれた「倣仁清翁」の四字は六和さんの自信の表現であろう。
いつか平成の「光琳」さん、お母さんのあとをついであの茶碗でお茶を点てるかも知れない。あのひねった器胎で茶筅をつかうのも、なかなかのコトになる。楽しみ。

* 「菊慈童」は、菊の葉におりた露の滴りが不老不死の薬となり、七百歳の長寿を保ったという祝言能の名曲。わたしの上げていた梅若研能会の切符で、松濤の能楽堂に先ず行って、それから鮨の「高勢」へ来てくれた。わたしの誕生日と重なっているのは知っていた。気の利いた「お祝い」をしてもらっていた。
2008 12・26 87

* わたしが、いままで、いまも、来年も、余儀なく立ち向かわねば済まぬ不条理を押しつけられていることは、言うまい。押しつけられたものから距離をおくことは生易しくない。しかし、わたしはじっとバグワンに聴いている。
2008 12・27 87

* 歳末から年始へ、生活を移動する人はそろそろ動き出す。
勤務の昔は、妻子を安全に先に京都へ送るために、汽車の切符を苦労して手に入れた。自分はとり歳末勤務を終えてから東京を発った。
歳末の京都は、思えば嫁である妻には仕事も多く、しんどいことであったろう、が、それなりに、時間が出来れば一緒に町歩きを楽しんだ。晩はよく繁華街へ出歩いた。
幼い娘の手を引いて、わたしは京の古社寺もよく経巡った。三十三間堂、醍醐三宝院。ニッカのカメラで沢山娘を撮した。
新年には祖父母や叔母も一緒に、祖父の思い立ちで写真館で写真を撮らせたりしたこともある。建日子も生まれていて、娘には祖母が丹精の和服の晴れ着も着せた。祇園で花簪なども買った。
夢のようである。しんしんと底冷えする京の大歳であったが、心持ちは暖かかった。

* 京は雪だそうだ。

東山魁夷画  年暮る
2008 12・27 87

* 暮れの地元の用を、自転車でクルクル走って、みな済ませた。大晦日に池袋へ出て蛤を買い、江古田の「リヨン」に立ち寄って注文の品を持ち帰れば、済む。
今日は、妻を誘って池袋西武に出、京の雑煮味噌を二種類買い、わたしに必要な湖の本用のダイアリーを買い、そして中華料理を思うさま注文して食べてきた。のんびりした。帰りに、家に生けてきたのを補充しようかと、花もすこし買った。
カレンダーも掛け替えた。お飾りもした。妻は新しい湖の本のためのいろんな記帳用の用意に念を入れている。
2008 12・29 87

* さて明日と明後日、成るように成らせて、心穏やかに湖の本新刊作業を前へ進め、すこしばかりは身の回りも片づけよう。
今度の元旦は、たぶん、この五十年でもっとも静かに、久々に夫婦二人だけで迎えるかも知れない。
2008 12・29 87

☆ お元気ですか、風。  花
よい天気ですね。
ご近所の掃除機や高圧洗浄機の音に煽られるように、大掃除の真似事をしています。
何も寒い時季にはりきらなくても、普段からこまめに掃除していればいいのですけどね。
さてさて、東京は、行く前は面倒に思っていましたが、行ってみれば夫とふたりで、まあ、楽しみました。
御殿場アウトレットは、いつもながらたいへんな人でした。
広い敷地に更に店舗が増えていたので、目当てのものだけを探し、疲れすぎないようにしました。
考えていた赤地にタータンチェック模様の冬コートはなく、近いものはありましたが、鏡で見てみると、赤がきつい感じがし、結局、オレンジ色のコートにしました。
商品は、既に春物に移行してい、コート自体少ない中、半額で、お得でした。
さて、花は、これからガラス拭きです。
ではでは。

* むかしむかし、妻が大学を出るまえ、東京の兄夫婦の家で正月を過ごし、オレンジ色に細い黒でタータンのオーバーコートを買って、着て、京都へ帰ってきたのを思い出す。
楽しんで、観て、買って、正月を迎えられるのは、この時節、幸せなことである。いつまでもと願う。
若い人たち、年のいった人たち、だれにも平安な新年が来るといい。
2008 12・30 87

* いろいろ言いたいことがあるような、どうでもいいようなアンバイで。あすは、池袋へ蛤だけを買いに行く。日付も変わった。
2008 12・30 87

* 風はあるが、日ざしは明るい。機械の前にいるとさほど寒くない。穏やかな大歳。

* まずまず、今年はこの辺にしておこう。池袋へ恒例の買い物に出かける。帰途、江古田の「リヨン」により注文の料理を持ち帰る。

* 建日子は新幹線故障で「百分」待たされ、おけら詣でに、京の八坂神社へ出かけていった。
2008 12・31 87

* 熊本産の蛤、あわや売り切れにちかく、すべりこみセーフ。デパートは、東武も西武も一昔前の大晦日にくらべれば、閑散たるもの。
パルコに上がって船橋屋に落ち着いたが、客はわたしを入れて二組とはおどろいた。この不景気、来年はデフレスパイラルが深刻にならないか。
しかし船橋屋の天麩羅が今日はひとしお旨く、嬉しかった。天麩羅一本槍で、牡蠣と白子を追加した、これがケッコウで。酒は天花と笹一を一合ずつ。枡敷きのコップに景気よく溢れ零してくれた。美味かった。揚げ玉をお土産に呉れた。
食べながら少し校正も進めた。
「リヨン」に寄り注文の品受け取って帰った。大晦日にしては街なかも静かに感じた
2008 12・31 87

* 外へ出てきたが、寒いとまで思わなかった。手袋をせず家を出たが、手先が痛いほど冷えることも無かった。
建日子は、いまごろ八坂神社への人波に揉まれているだろうか。おけら火を手にくるくる舞わしながら、円山公園に抜けていったろうか。知恩院のあの大釣鐘が除夜の鐘を打ち出すまでに、もう三時間ほどあろう。
2008 12・31 87

* 入浴、髪も綺麗にしてきた。さ、もう半時間ほどで今年も果てる。つまりはこの部屋はまったく片づかなかった。片づかない方が部屋が暖かい。
カレンダーだけが新しくなった。京の瓦屋根に降っていた東山魁夷の雪景色から、もう、奥村土牛の白い牛二匹の表紙に変わっている。これが素晴らしい。さ、一月二月は。上村松園女史の清い美人で、「春芳」は梅花ほころぶ図。

* 平成二十年よ、つつがなく往くがよい。感謝する。
2008 12・31 87

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