* 新年 穆々和春 ただ平安を願う。
* 目覚めたときには建日子たちが来ていた。
秦の父、母、叔母の位牌に挨拶し、みなみなの平安を願った。
揃って新年の雑煮を祝った。建日子、わたしのために年玉を呉れた。去年まではこっちで年玉を考えるぐらいだったが、もうよかろうと今度は何も用意していなかった。逆になった。それでいい、素直に嬉しい。もらったジャンパーを着て、近くの天神社に、みなで初詣、一天、元日晴れ。ふるまいの甘酒をいただいて。写真など撮って。
年賀状多数。感謝。
息子達と妻のお節料理で飲み、かつ賑やかに語る。猫たちも二疋(客のグー、主のマゴ)、ご機嫌よう。
飲み疲れて、眠くなる。食べ過ぎないように抑えている。夕過ぎて初めて計った血糖値、案じたより低く、インシュリン注射と投薬とで調整。
* メールの賀詞同送はやめた。メールで賀詞を頂いたのは戴いたのは四人だけ。ありがとう。
2010 1・1 100
* 元日をはばからず、姉千代と母ふくとのことを書いておく。いわば「魂迎えの正月」という私勝手の思いで。
* 大晦日から年を越した夜前も、遅くまで、亡き姉・川村千代が呉れていた手紙を順に重ね順々に読んだ。何度も涙し、息をのんだ。生母と実父との消息で、わからなかったことが、次々に具体的に見えてきた。
これら姉の手紙をたてつづけに貰っていたのは、はじめは昭和五十二年だから、三十四年も昔なのに、その当時わたしは、まだ、そのような手紙に真向かって行くことが出来なかったようだ。思い込みを、ないし理由のないわたしの推量を、姉の手紙は、適切に親切に訂正していってくれる。
姉の亡くなるまで、わたしは姉の手紙と姉自身の短歌稿とを、たっぷり、もらいつづけた。昭和六十年に講談社から『愛と友情の歌』を出したとき、山之口貘の詩と土岐善麿の短歌で始めた「夫婦の愛」の章の、満載作の結びの位置に、敬愛と感謝をこめ、わたしは川村千代の遺した一首を、「姉」とは伏せたまま、採録した。
☆ 我も覚め夫も目覚めて暗闇に言葉交しし夜もありにき 川村 千代
身も世もなく崩折れた辛い死を見送ってから、いつしかに歳月は流れた。やっと、昔、夫と枕を並べたある夜のことどもがこんなふうに静かに思い出せるようになった。とは言え年老い静かに、夜半も過ぎて眠りがたい独り寝の床でのこと…と、言い知れぬ寂しみに歌一首がしんみり優しい。作者は、だが、たしかに今また、「暗闇」でといわず何時といわず、夫と自在に「言葉交し」えているのだろう。 昭和五七年の合同歌集『箱舟』所収。
* いまは「湖の本エッセイ40」の『愛、はるかに照せ』で読めるこの本の「親の愛」の章に、生母・阿部鏡の遺歌集から一首でも採ってやりたかったが、昭和五十四年『昭和萬葉集』巻十・月報8に紹介しただけで終えた。わたしの歌集『少年」に添えた「母と『少年』と」がその一文で、そこに母の歌が一首と六首紹介してある。先の一首が、
此の路やかのみちなりし草笛を吹きて仔犬とたわむれし路 鏡子
昔々の、能登川町時代に、千代が亡き母のために建ててくれた立派な「歌碑」にきざんだ歌で。
阿部鏡子歌碑除幕式は昭和三十七年五月十三日、能登川の安楽寺 変電所前で行われ、引き続き近くの尼寺でお茶の会もと、「御案内」文にはあった。
案内の表に、歌碑と歌の読みと、病床最期の頃の母が眼鏡の写真が掲げてあり、表情はしっかりしている。案内文は「長女 川村千代」が故人の閲歴と供養の意を書き示し、裾に「発起人」四人の連名がある。三人目に「井伊文子」の名がみえ他の三人は識らない。
* ついでながら昭和三十六年二月二十二日、母最期の日より前にすでに用意されていたのではないか、葉書二倍大の厚手白紙の左側に、「さようなら 鏡子」の遺書、右に「奥山は暮れて子鹿の啼くならむ大和の国へ雲流れゆく」の一首と病床最期と思しい穏やかな顔写真が示してある。
裏面には七首の短歌が並び、「京都博愛会病院在院中に詠む」と注してある。兄の恒彦は『家の別れ』という一文の最期にこの七首を掲げている。恒彦は、この一文を書いた昭和四十九年秋には、未だ、能登川の此の歌碑は見ていないと書いている。
兄も引いたこの母遺書裏面の七首と、わたしが「昭和万葉集」に紹介した母の七首とでは、只一首だけ、同じ。同じその一首こそが本当に母の辞世歌だったと想われる、即ち、
十字架に長したまいし血しぶきの一滴を浴びて生きたかりしに
と。
* 姉川村千代の遺してくれた母を語る一文を、いま、元日をハッキリ意識したまま「闇に言い置」きたい。
☆ 阿部鏡子は、明治二十七年十一月三日、大阪四貫島カナキン会社(東洋紡前身)社宅にて呱々の声をあげ(父は専務)幼女時代は文字通り乳母日傘で育てられました。十一才の時父が会社を退陣した為家族と共に故郷能登川に帰り、彦根高女を卒業しました。家族のすすめにより、文学少女の夢を捨てて、商家に嫁ぎましたが死別し、その後親族に反対されながら、看護婦、マッサージ師の勉強をして資格を得、病める人の友として働きつゝ文学の道にいそしみました。
晩年は、大和の無医村の診療所で、部落の人達の為に奉仕していましたが怪我がもとで背柱を病め(いため=傷つけ)三年間病床に苦しみ、ついに癩療養所で働きたいという夢もはかなく消えて、昨年二月二十二日永眠致しました。病中自分のつたない歌をとりまとめ、歌文集「大和路のうた」を出版しました。
阿部鏡子は後半生を自分の生きたいまゝ、生きつらぬいた人で、その為に肉親とも疎縁となりました。今さら子として何もつくし得なかつた事を残念に思いますが、せめて、故人の 「幼い時遊んだ、なつかしい故郷能登川の路ばたに歌碑を建ててほしい」との最後のたのみを実現してその霊をなぐさめたく、ささやかな歌碑を建てました。
名もなき老女の歌碑の除幕式に皆様のお出でを乞う事は真に恐縮に存じますが、御都合をつけて、御来席下さいますよう伏してお願い申上げます。
昭和三十七年四月末日
長女 川村千代
* ありがたい姉をもったと感謝をささげる。
* 夜は、建日子と、クリント・イーストウッドの新作、なにとやらアメリカ産の伝説的な自動車の名前の映画を観た。
* 建日子も妻も二疋の猫たちも寝た。わたしは、冴え冴えしている。
2010 1・1 100
* 深夜まで、姉千代のわたしに宛てた手紙に読み耽る。そうか、そうかと繋がり始める昔の時間。滋賀県能登川、彦根市、大阪市、京都市、奈良市等々が繋がってくる。姉が東京竹早の女子師範に学んでいたことも初めて知る。
2010 1・2 100
* 午、自転車ですいすいとやってきた田中孝介君夫妻を嬉しく迎えて、夕過ぎまで、歓談かつ食べて・飲んで。もうとっぷり暗くなってから見送った。自転車で無事に帰ってねと願いながら。
田中君、わたしの機械の様子を覗いて行ってくれました。この乱雑を極めてモノたくさんの機械部屋へは、ホームページの生みの親である田中君しか、恥ずかしくて入ってはもらえない。
わが家で来客は、じつに久しぶり。もう何年も、失礼を厭わず、わが家にお客さんを迎えるのは極力遠慮していた。玄関まで来られているのを、立ったままお返ししたこともある。なぜかなら、家の中があまりに窮屈であったから。田中君のおとないに、いわば力づけられ、東の和室へ寝室をやっと移せたおかげで、辛うじて客間にお客さんを迎え入れられるようになった。やーれやれ。
客のないとき、客間にモノをひろげて資料を分類したり整理整頓したり探したりも出来るようになった。なんともいえず、これが有り難い。
* わたしの家にまでも、かすかに柳生の血が流れていることを、わりとたしかな資料とともに教えられた。
江戸柳生はしたたかに悪辣だった印象が、いろんなふうに物語にされ劇化もされてきた。わたしのからだへ伝わってきているのは尾州柳生の柳生兵庫の娘から、笠置森嶋家を経由して、わたしの父方吉岡家に流れ込んだという経路。
ま、そんな次第で、バカバカしい原作ドラマであろうけれど「柳生武藝帳」を正月早々観てみるかと、長丁場を、秦建日子と二人で観た。まごうかたなき駄作であったが、ま、身びいきとしよう尾州柳生の兵庫を松平健が大柄に演じていて、これはケッコウで。主演の隻眼柳生十兵衛も、ま、難なく、弟又十郎も清潔な顔を見せた。あとは山本太郎ぐらいしか目にとまらず、高橋英樹の柳生宗矩も敵役の松方弘樹も興ざめであった。
ときどき佳い時代劇も無いではないので見捨てないけれども、触れ込みばかりの長大作など、ムダでは有るまいか。
* と、言いつつ、体調はどうもホンモノでない。図体の中にまちがいなく「腹」という場所が在るということが、常時感覚されている。健康ならそんなこと忘れているのに。
* 昨日につづいて今日も安眠したい。家に、建日子が帰ってきていて、ひっきりなしに機械のキーを叩いて仕事している。それでいて一緒に妙な芝居も観ている。気持ちはとても安心。もう「親」役は降りさせて貰ったよという感じ。
2010 1・2 100
* 雑煮を祝って、建日子愛猫のグーもまじえ歓談、息子と三が日をともに雑煮を祝ったのはもう思い出せないほど久しぶり。で、建日子へのお年玉に、愛蔵の、高台寺蒔絵の中次(茶器)を小帛紗を添えて、遣った。茶器としてつかうことは無茶人の彼には難しすぎるが、書き仕事場に静かに置くだけで、疲れた曇った眼を洗ってくれるだろう。精緻な漆工で、高雅に美しい。とくに古いというものではないが、さすがの作り、「いい仕事」である。箱書きのことなどは、建日子自身がながい年月をかけ、自分でいつか自然に分かれば良く、分からなくても良い。自身の文字通り「器量」によってこの茶器にならべてどんな茶碗がみごと映るか、双方生きるか、を「発見」するのもきっといい楽しみになるだろう。趣味という言葉は使わないでおく。蔵いこまず、さて、どんな場所を器のために創っているか、いつか見に行きたい。
建日子、大喜びして自分の仕事場へ持ち帰ってくれたのが、嬉しい。たかが茶道具、されど茶道具。いい品になると、持ち主の方が気圧される。まかりまちがうと道具に持ち主が蹴飛ばされる。それにも、気が付かない。
* 三が日、正月晴れ。ありがたかった。
* 夜前も、もう寝静まってから、姉千代の昭和五十二年(1977)の手紙を順に読んでいった。この年紀は、わたしがやっと身を起こしゆかりを訪ね歩いて、多くのうちの片端からを知り初めた時期に当たる。
2010 1・3 100
* 妻と、静かな三が日おしまいの夕食を済ませた。その前後に、ジェームズ・スチュアート、ジューン・アダムス、アーサー・ケネデイの「怒りの河」を観ていた。
2010 1・3 100
* 姉千代の、昭和五十二年、歳末までに二十四通の書簡を昨深夜に読み終えた。温かい空気に包まれる心地であった。
* 以下に沢山書いたが、小説作品としてよく纏まった形で読者に手渡したく、メモの方へまわして此処では割愛しておく。
2010 1・4 100
* 今日は、少年時代の兄恒彦が、生母ふくに宛てた数通の手紙葉書を読んだ。高校の頃から大学を同志社と絞った時までで、志望校を二年失敗したらしい。
謹直に、いつも敬意を払って優等生さながらに母に書き、母に返信している。いまのわたしでも、驚く。
兄には驚かされたことが、ほかにも有る。
生まれた第一子の長男に、ためらいなく「恒」と、実父と同名をつけている。思いも寄らなかった。のけぞるほど驚いた。何で…。今も分からない。
母が病気で入院していたとき、秦の親に強いられ、わたしも義理か厄介のハガキを一枚出している。誰かの代筆ではないかと思ってしまうほどの字で、文面も、兄の謹直とは比べものにならず、索然としている。わたしからの年賀状も一枚あるが、「謹賀新年」の四文字だけ。兄のように、その気で書いたものでなく、見るからにイヤイヤで書いたのが分かる。
ほかにも、いろんな人からの、要するに不治重症の母を見舞え、母の意思・理想に添い兄と手を取り合え、あるいは、異母妹たちと親しく交際せよと云ってくる手紙を読んだ。殆どは黙殺したのだが、なかには激しく拒絶した手紙の下書きも残っていた。
眞の身内は他人のなかからこそ得たいと、少年のわたしは祈るほど願っていた。
* 今はあれもこれも読み込んで咀嚼するしかない、けれど、腹痛に直結してくる。
2010 1・5 100
* さて、歌舞伎がある、俳優座の『どん底』がある、建日子「秦組」の『月の子供』もある。これは初演を、やす香と一緒に下北沢で観た。今度は大塚だ、小さな劇場だけに爆発的な亢奮に舞台と客席が熱中するだろう。よりよく手が入っているといいが。
* 疲労せぬように、はやめに休もう。
2010 1・5 100
* 明日は、秦建日子の誕生日。
もう少しで、誕生日だね。おめでとう。思い出すね。
母ひとり産むにはあらで父も姉も一つに祈るお前の誕生 1968.01.01
赤ちゃんが来た・名前は建日子・男だぞ・ヤマトタケルだ・太陽の子だ
1968.01.08 建日子誕生
これやこの建日子の瞳(め)に梅の花 1968.01.23 建日子退院
心ゆく仕事 深みのある仕事を 一つ一つ積んで行かれよ。元気で。 父
2010 1・7 100
* 母ふく・阿部鏡の歌文集出版に親切に対応してくださった当時のジャーナリストの回想の手紙が二通手に入っている。わたしが問い合わせたのへの親切な返信である。
この『わが旅大和路のうた』は校正も不十分、歌稿としてもけっして入念なモノでなく、散文もかなりうわずっているが、瀕死の病床で友人など人手も借りてまとめあげて行ったのだから致し方ない。
奈良県下の地方版等で一斉に報道し、売れこそしなかったが反響は驚くほど有って、当時の新聞や、わたしの手もとに届いている奈良県知事や著名な文学者など沢山な手紙ハガキ等に驚かされる。手厚いほどの同情者・支援者・牧師達が病床に関わっていたようで、中には兄と婚約者の姿もあった。
* 弥栄中学の女先生の手紙によれば、秦の親達は学校へ出向いて、わたしと実の親達との関係について、「なるべく逢わせない方がいいのか」と相談に行っていたらしい。逢わせる逢わせないの前に、わたしがガンとして逢おうとしないこと、実の母や父達は、当然のように先ずは兄とわたしが手を取り合うことを願いとし、父も父の周辺も、わたしたちと二人の妹との親交を盛んに望んでいた。
わたしの在りようは、逆の意味でも秦の両親を戸惑わせていたのかも知れない。
2010 1・7 100
* 赤飯で、建日子の誕生日を祝う。
これは、娘や孫・やす香たちのときも、例外なくこうして祝ってきた。この三が日の雑煮の祝いにも、むかし、パスポート用に母親とやす香とで一緒に撮った小さな写真を食卓のそばに置き、ともに祝った。末の孫はこの春大学へ進む年だが。心ゆく好進路を願っている。
* 好天にうながされ、建日子にもらったジャンパーを着込んで町歩きに出た。カルピス買って、とにかくスイカの利くところへは問題なく行ける、ただし残額は二千円を切っていたが。
2010 1・8 100
* 熟睡。さ、仕事を進めてゆく。
* 姉・川村千代の昭和五十四年の書簡中に、写真二葉が見つかった。
当時に見ていたに相違ないが、あの頃のわたしはこんなうら若い母を「正視」できなかったのに違いない。
抱かれているのはちいさい姉で、母は「二十歳」頃と注してある。恒彦が生まれ恒平が生まれるのは、なお二十年ほど後になる。わたしも姉のように母の胸に抱かれたに相違有るまいが。
かすかにかすかに母に内斜視があるやに見受ける。わたしにも幼時かすかに内斜視があった。
もう一葉は伯母はつ・伯母たか、母ふくら三姉妹。古いアルバムからわざわざ採って母の姪のひとりから、千代姉のもとへひとまず送られ、姉の懐に十日ほど懐かしまれ温められてから、わたしに送り届けられた写真たちであった。身よりのみなが、わたしに心を向けてくれていたのである。
* だれよりもこの祖母ふくの写真を、祖母になみなみでない関心を隠さなかった娘に見せてやりたい。死んでしまった兄恒彦にも逢わせてやりたかった。
それでも、兄は、まだ若い感じの「きれいな小母さん」として養家の近くで何度も声を掛けられていたことを、『家の別れ』に書いている。
わたしが、或いはそうかと怪しみ嫌いつつ初めて見ていた母は、もう五十五歳頃のぼっちゃりした「おばはん」であった。
* 姉の手紙はじつに多くをわたしのために伝えてくれていた、今度つぶさに読み、思い知った。
なによりも姉は、わたしとの出逢いを心より母のために吾がためにもよろこび、わたしを愛してくれていた。晩年はわたしに手紙やハガキを書き続け、ついには町の短歌教室に通って作歌もはじめ、亡くなるまでに随分多くを送ってきた。母に歌文集がありわたしに歌集『少年』ほかの短歌関連の著書のあることも知っていた。上の写真の包み紙にも、
乳呑み児の吾れを抱きし母わかく清きおもかげ匂ふ写繪 と、ある。
2010 1・9 100
* 昭和五十二年という年に、わたしは、一人の姉、三人の兄、二人の妹、実父、何人もの伯父伯母やいとこたち、また甥や姪達、また沢山な親族に、せっせと身を働かせ一気に出会った。私的には激動の一年だった。
川崎で父に会い鮨を食ったときも、だが、わたしは終始「取材」と我が身に釘を刺していた。血縁に相違なくても、わたしのいわゆる「身内」という思いは淡かった。
2010 1・11 100
* 実兄・北澤恒彦の死んだのは、前世紀のうち、九九年の十一月だった。
「兄」と会う気持ちでわたしから京都四条烏丸の市役所出先機関のビルを訪れたのが、七七年七月二十日過ぎの頃。兄は、直後の七月二十六日付で、手紙や著書を呉れていて、以降七九年歳末までに三十通ほど手紙を呉れている。いや仕舞い込まれていて、もっと数あるだろう。忙しい兄としては「心して」筆まめにしばしば「恒平」に話しかけてくれたのだと思う。
兄の書字はウマイ・ヘタなど通り越して、実に読みづらい。で、妻に頼み、いま手許の物を時間かけてみな電子化してもらった。読み取れてない字もたくさんあって、それでも原稿用紙八十枚分ほどが通読可能になった。
それからあと、兄とは二十余年文通していた。兄がメールを呉れるようになったのは最晩年、精華大で講座をもって以降、九八年九月三日分を手始めに二十一通。わたしの応信分も記録があり、兄死後の「湖の本エッセイ」20『死から死へ』に全文掲載した。
八十年から電子メール開通までの十八年足らずの間にも、兄がたくさん手紙やハガキを呉れていたのは間違いないが、この家の中で捜索は容易でない。
* 兄は彼の『家の別れ』を、兄なりの「秦恒平論」のつもりだと手紙のなかで書いていた。そんなふうに思い当たったことが無いので、一つの難しい課題になる。兄との関わりで、わたしの課題、または強い関心事が、他にもある。少なくも、二つ三つ有る。
* 天野哲夫の曰く、「元気がありすぎると羽目をはずす、羽目をはずすがやがて箍をはめ直し、分別くさい大人に育つものだ」と。クスンと笑う。自分は、どうかと思い直す。兄はどうだったんだろう、とも。
兄のこと、おぼろに聞き知ってはいても、ほんとうは殆ど何も知らない。
2010 1・12 100
* 明日は俳優座公演。「どん底」はこの劇団には記念碑的な演目。期待したい。引き続き、秦建日子の作・演出秦組の公演は『月の子供』。しっかり仕上がっていますように。
2010 1・12 100
* 寒い、それに強風。
* 夜前、十数冊の本を読んでいったあと、亡兄恒彦の、昭和五十二、三年の書簡三十通ほどを通読した。実の両親に関わる情報も、感想や見解もほとんどゼロだった。
千代姉の手紙では関連の情報が豊富であった。姉の文面は終始日常の実意に満ち、平明な挨拶や同情や共感にのせて具体的に書ける限りの情報をわたしに手渡そうという意図がはっきりしていた。むろんわたしからも尋ねていたのに相違ないが、そのわたしから姉に、どんな問い合わせや消息が行っていたかに関係なくといえるほど、姉の文面には判読に困ずるところがなかった。分かりよかった。
兄の手紙は、なにかしら書き送ったであろうわたしからの手紙に記憶が抜けていて、兄の返信や反応の文面ばかりであるので、とまどうほど、謂われている具体的な中味・情報が判読できない。わかりづらい。送った著書や文章への批評や感想も断片的で飛躍に富んでいて、推測は推測、断定は断定のままあまりに個性的すぎる「恒彦語」で書かれている。情報や状況が書きこまれてても理解が届きにくい。その点物書きでない姉は一般語で平明に具体的に情報を伝えてくれる。兄は私的とすら云える飛躍語で抽象的に語る。おもしろいけれど、わかりづらい。
* 当時、北沢恒彦と秦恒平とが「事情のある実の兄弟」と世間に知れていって、兄の周辺では「兄弟論」が盛んだと兄は伝えている。桑原武夫さんや鶴見俊輔さんらの名前が出てくる。そういう「京都事情」は東京住まいのわたしには見当がつかない。兄弟への好奇心は当然のように「京都で瀰漫」化していたようだが、東京のわたしは、筑摩書房筋からの細い噂しか耳にしていなかった。また我ながら呆れるほどあの当時のわたしは活躍・活動し続け、べらぼうに忙しく過ごしていた。
作家代表団で井上靖さん等と四人組追放直後の中国へ行って帰り、また同じく高橋たか子さんらとソ連へも出かけていた。講演や取材の旅やテレビ・ラジオも頻繁だった。その事では、千代姉や周辺の「血縁」達をかなり楽しませていたらしく、父方の血縁へも同様だったようだ。
兄は、とても、わたしに心遣いしてくれ、いつも親切で、優しかったと思う。娘をはじめ、わたしの家族へも、こまやかに気遣いを必ず手紙に書き込んでいたし、恒(いまの黒川創)のようすなども報せて、わたしの方へ方へ息子を押し出してくれていた。結果、わたしたち夫婦は、兄恒彦よりずっと頻繁に親密に、甥の恒(黒川創)を受け容れていた。
* 兄・北沢恒彦に関しては、ほとんど「何も識らない」のだということを、今にして確かめている気がする。兄が「ベ平連」で大いに活動した人だとは「事典」レベルで知っていても、具体的には何一つ知らないし調べたことも聴いてまわったことも無い。だから彼の莫大なといえるらしい広い人脈に関しても、百の一も知らない。
他の誰とも分かち合うことのない絶対的な事実は、つまり「両親を共にした兄と弟」であることに尽きている。兄弟の出逢いと親愛・協力を、誰よりも生母・ふくが生前に切望し、実父・恒も同じで、兄は、両親の意向に誠実といえるほど自ら身も心も言葉も働かせてわたしに接近してきた。わたしは四十余年ものあいだ、そんなことは希望もしなかった、拒んでさえいた。そういうことが、それぞれに明瞭になってくる。
* その微妙な齟齬に、それと意識はしないまま、兄は、わたしが『四度の瀧』という五十賀の豪華限定本への礼状に、はからずも手強く触れていた「事」が有る。わたしもそれに返事した内容を大方記憶していて、そしてその後まもなく、わたしは「湖の本」の方へ方へといわば文壇から決然「出家」してしまう。わたしの生涯を象徴した大事だったと、今にして更に明瞭にわたしは気付いている。兄の指摘、わたしの意思、あの辺が、ひとつの分水嶺だったなと思う。
顧みて、微妙なポイント、ポイントにおいてわたしをわたし自身にしていたのは、「血縁」であるよりも、はるか鞏固・はるか痛切に「いい読者」をふくむ真の「身内」という考えだった。今も、絶対的にそうだ。
2010 1・13 100
* 新宿の紀伊國屋サザンシアターで俳優座公演の翻案「どん底」と、ひきつづき、大塚の萬劇場で秦建日子作「月の子供」を観てきた。サザンシアターでは香野百合子さんと出会い、親しく新年の挨拶。
俳優座のあと、新宿高島屋十四階の「庖厨菜館」で中華料理と甕出しの紹興酒を。
さらに建日子芝居の後には、萬劇場の前、銘酒の店で、「浅間山」とおでんとでほこほこ温まってから家に帰った。大塚駅で河出書房の小野寺氏もいっしょの建日子たちとすれちがった。
西武線では『安曇野』第五部の後半に読み耽ってきた。
* 俳優座の芝居は、ゴーリキーの原作を、明治維新早々の東京「どん底」の宿にたむろする人たちに場面を変え創り出していた。可知靖之や村上博、中野誠也、伊東達広、河野正明、島英臣ら俳優座のいまや重鎮たちを選りすぐった達者な舞台作りで、その点に遺漏はすこしもなかった。が、さて、原作を翻案して、派遣村時節の今日に、どんな切なるメッセージを送ってきたかと観ると、じつは「メッセージ無し」という舞台なのに拍子抜けがした。うまい時代物の群像劇として、最下層の暮らしザマを達者に見せくれたのは喜びだが、「ええじゃないか」どころか、こんなことでは明治維新も「ダメじゃないか」の歎きが、時代を突き上げる怒濤の声を呼び起こすまでには、纏まらなかった。非力のまま、無情のまま、の嘆き節を奏でて、力強いうったえや侮りがたい下層民の性根は、ちっとも表現できていなかった。
もともとチエーホフ劇にしてもそうだが、ゴーリキーの「どん底」も、登場人物が百年先の未来へ希望をもつ空しさと悲しみの芝居に、つい、なってしまう。チエーホフやゴーリキーの現在時にはそれで意味が持てても、その百年二百年後の現実を明瞭に「満たされぬ不如意の現代」と知ってしまっている今日のわれわれが、その「希望」の声にそうそう安げに共感できないところが、今日のチェーホフ劇などのまさに「喜劇的な悲劇ぶり」なのであるが、コーリキーには、輪をかけてその「未来への希望」が辛くて空しい。現代に演じる「どん底」が、有効なメッゼージ劇として成り立ってくれない。そもそも最貧困層の怒りが、未来への希望へすりかえられては、お笑いにしかならない。彼等こそ「いま・ここ」の闘いに激動しなければ、ものごと一寸も動きなどしない。それは、今日の派遣村現象にもはっきり言わねばならない現実ではないか。
メッセージのまるで聞こえてこない「どん底」に拍子抜けしたと、脚色・演出家にわたしは苦情を言う。タダタダ、ベテランたちの旨い科白だけが楽しめたということ、これは嬉しさも三分の一である。
* 秦建日子作の「月の子供」はリアリズム劇ではない。
だがシュールの技倆が出来ているわけでなく、シュール沢山な内容で樽の箍がはずれ、かなりばらけた芝居のまま、ダンスのエネルギーだけで継ぎ足し継ぎ足し終幕へ、ちからづく運び込んでゆく。或る意味で無理芝居。或る意味でエネルギッシュに活躍する芝居。ま、整合的にお話などムリに分からなくてもいいや、なんとなく分かるからオモシロイやという芝居である。
わたしのようにダンス大好き男には、その場面がフンダンにあるので「有難うよ」という所。だれが巧くてだれがヘタなどと、ヤボなことも言わなくて済む。
しかし、ぐっとくる感銘が無い。ただもう出演する誰も彼もがセイいっぱい嬉しげに躍動してくれるから、気分はすこぶる弾む。それでも単調感も宿している。勢いよく箍のはずれた樽が、それでも「樽」の感じのまま転がり続ける勢いの好さが、身上であった。
* サザンシアターと小劇場、ま、勝負無しか。いやいや俳優座の懐かしい諸兄のお芝居に、やはり敬意を払っておく。だが、超満員そして若々しい熱気と躍動感では、断然建日子芝居に分があった。芝居のあとで食った、高島屋の手綺麗な中華料理と、大塚の酒とおでんの味わい。そういう「分かれ」のようでもあったなあ、やはり。
* 一等わたしを惹きつけたのは、『安曇野』の踏み込んだ「天皇と天皇制」への小説の中での熱い言及であった。
2010 1・13 100
* 一週間ほど、迪子も体違和に悩み、夜前かなり不快で、今朝、近くの保谷厚生病院へ自転車で運んだ。診察を待っている。無事を心より願う。
* 諸検査があり、週明けにも検査が続く。無事であれと。
2010 1・20 100
* 妻は応急の胃潰瘍薬が効いて、苦痛から免れている。おなじような故障を夫婦前後して感触してきた。
2010 1・21 100
* 晴天。妻を、自転車で、検査のため近くの病院へ連れて行った。無事を願う。
2010 1・25 100
* 胃カメラ検査を受けた妻は、生検(細胞診)も。結果は、一週間後の診察で聴くことに。無事平安でありますように。
2010 1・25 100
* 晴れて、寒い。
* こんな写真が見つかった。遡れるかぎり最も昔の、私の像である。南山城當尾、実父生家である吉岡家のどこであるのか、納屋の中でもあるか。記憶の限りを遡ったときに、元気に駆け回る「犬」がいたことをわたしは何度か書いている。はたして、わが最も古き友はこの犬であった。母とか父とかいう存在も感触も呼びかたも、慕いなつくという記憶すら、この幼年はもうこの時すでに喪っていた。それでも、犬は、いたのだった!
実の父と母の間にわたしは京都市右京区太秦で生まれ、その後この歳ごろ、三、四歳の頃に、ほとんど孤児というに等しい幼年がどうしてこの祖父の吉岡本家にいたのか、旧臘、腹痛に堪えて当時を語る母ふくや姉千代のいろんな記録や手記を読み、およそは見当がついている。犬のほか、一物とて写っていない冷ややかにがらんどうの土間。やがてわたしは立ち上がり、犬と別れて見知らぬ人たちの世間へ運び出されていった。
この写真はだれが撮ってくれたのか。母ふくはむろん、父の吉岡恒も当時此の屋敷には暮らしていなかった、たぶん出征していたことであろう。守叔父か。それとも誠一郎祖父自身であったか。
爾来、七十年…。何であるのか、この七十年は…。熊谷直実が「夢だ」と吐き捨てたより、まだ長い時間。もう醒めていいではないか。
* ちょっと前、夢のさなか、自分が筒のような深いまっ昏い滝壺へ沈み続けていると気付いて、とっさに浮き上がろうと堪えても堪えきれずなお落ち込んでほとんど底に近く、やっと体勢をおこし力を振り絞り上へ上へ浮かんで行こうと水を蹴っていた。水面ははるかな上と思われかすかなほの明かりも感じなかった中で、わたしはただ「呼んで」「呼んで」と願っていたのを覚えている、そして浮き上がれたらしいとも。
じつになさけない自分であると、しみじみ感じている。
2010 1・26 100
☆ お写真
お元気ですか、みづうみ。
幼いお写真を拝見しました。お小さいのになんという面魂。すでに何者かになっています。今のみづうみの原型があります。表情が生きていて子どもながらも一目瞭然。ワンちゃんにも愛されるものを感じて、思わずにっこりしてしまいました。こんな男の子を産み育ててみたかったなあと。
お写真を拝見しますと、みづうみを手放さざるを得なかったお母さまの断腸の思いがひしひしと伝わってまいります。
最近の私語を拝見していて、あえてお書きになっていらしゃらないご事情がおありではないかと心を痛めております。
時々「ご平安に」とご挨拶くださいますが、同じ言葉をわたくしの祈りとともにお送りします。
お元気で、お大切にお過ごしくださいますように。
新しいご本、楽しみにしています。どんな内容かちょこっとでも秘密に教えてくださると嬉しいですけれど、無理でしょう。 では、このへんで。 うすらひ
* 犬とわたしと。それだけの身内。がらんとした無一物の土間。はるかな記憶を確認させたこんなちいさな褪色した写真がいま見つかったことに衝撃をさえ感じています。 湖
2010 1・26 100
* 晴。冷える。
* 何処へ行ったかと思っていた兄・恒彦の著『家の別れ』(思想の科学社)一冊が、多分彼処にと思っていた其処で見つかった。
凝ったと謂うところだが、思い入れの濃い兄の作風で、むかし貰ったときも巻末の附録のような「家の別れ」一編だけ通読し、前の九割がたは、はじめのうちは読もうとしたが読みにくくて、以降ざっと頁を繰っただけ。
告白すれば、そしてわたしが言うのも猿の尻嗤いめくが、兄の書字がよみにくいように、兄の作風も文体もよほど馴染みにくかった。また書かれてある内容や世間も、わたしのよく知らない方面でありすぎた。いまなら、例えば高史明さんの名が出ていて、そのことに心惹かれて叙述を辿るのだが、当時はそれも出来なかった。
昨夜に本を発見し、就寝前の読書をみな終えた後で、最初の「ノート」だけを読んだ。ここだけは、北沢家のご両親や親族のこと、また兄自身の青春がすこし具体的なので、ま、読めるのである。
じつは、わたしはこの北沢家の大人たちとかつて会ったことも文通したことも触れあったことも無かった。あるべくもない事情に隔てられていたし、わたしにもまったくその気がなかった。
本は、「ノート」「本編」という二段構えの数編で進行し、最後に「家の別れ」が「あとがき」かのように置かれて、その末尾に突如わたしの名前が、『廬山』を書いた新作家の「弟」として現れる。まだ顔を合わせたことも、名乗りあったことも、ましてわたしたちが「あに・おとうと」かのように遠慮がちに初対面したより、数年も以前のことである。その初見は、雑誌「思想の科学」に掲載されていたもので、送られてきて驚いた。こわいものに触れるようにザッと読んだだけ。その雑誌は今見当たらない。単行本はもっと後年に送られてきた。
* 単行本『家の別れ』を以来数十年ぶりまた手にとって、(単文「家の別れ」は旧臘にプリントコピーで再読していたので、別。)「印象」はむかしのままであった。「小説」仕立てに「述懐」を添えた「論集」という造りで、それじたい手際のいいものとは思わかった、狭い世間での私的な「演説」のようにも見えた。つまりは触れ合いのすくなかったわたしたちらしく、知的理解にも情緒的にも、この本、接点がすくなかった。読みにくかった。
* ただ、旧臘読み耽った兄の書簡中に、「家の別れ」はそれなりに「秦恒平」論でもあるようなことを兄は書いていて、喫驚した。本一冊がそうだというのか、まさかそれはないとして、巻末の単文「家の別れ」がどのように「秦恒平論」なのか咄嗟には目の前へ指で渦を巻かれた心地で、いまも、よくは分からない。本をぜんぶよく読み直せば分かるか知らんと探していたが、手にとって、あらまし眺めてもやはり分からない。
この、「分からない」ところが「問題」だなと思った。この問題だけは、わたしにしか解けない。兄の子たちにもわたしの子たちにも、見当が付くまい。
* この兄が自殺したとき、わたしは「直観」的に葬儀に参列しなかった。「しのぶ会」にも出なかった。
個と個とで。兄はそういう「考え」だった。兄とわたしとは、顔はなかなか合わなかったけれど、幸いかなり文通やメールを通して余人のはかりがたい親愛を分かち合っていた。北沢と秦とではなかった、あまり幸せとも謂えなかった縁うすき親達の子、兄と弟、として終始し、余人をまじえなかった。
* 戸籍はどうなっていたか。兄のそれは知らない、少なくもわたしは、「吉岡恒」「深田ふく」の子であるとは戸籍謄本が記載しているが、吉岡家の戸籍にも深田家の戸籍にも入っていない。どう探索しようと戸籍上わたしに「恒彦」という「兄」は実在していない。恒彦の方でも「恒平」という「弟」は戸籍上実在していないはずで、誰の企んだ事やら、事実はそんな風に按配されている。わたしの謄本には、「父母ノ籍ニ入ルヲ得ズ」独立の戸籍が造られたと明記されている。
兄は、だから戸籍の縁のない「わたしひとりの兄」であり、わたしは「兄ひとりの弟」であり、兄の「世間」をわたしはまったく知らず、わたしの「世間」を兄もまったく知らないまま、「ふたり」の身内を囲い合って僅かな歳月を過ごした。
しかし兄は、自分の子たちとも付き合って遣ってくれと熱心にわたしに言ったし、わたしの子たちにも熱い気持ちと言葉とを、しばしばわたしに伝えてくれた。「小説」には間に合わなかったけれど、建日子の「芝居」はわざわざ劇場へ観にきてくれた。わたしも、甥の二人(恒・猛)とも、姪(街子)とも、愛情をもって兄と以上に頻繁に会っていたし、その仕事にも関心と声援とをいつも送っていた。わたしの妻は、黒川創(恒)が本を出せば近くの本屋からきっと十冊ずつ買ってやっていた。息子の秦建日子にしているのと同じように。
* それでも、兄とわたしとの世界は「ふたりだけ」で閉じられていたことに変わりはない。葬式に出なかったのも「偲ぶ会」を避けたのも、わたしにすればきわめて自然であった。兄の世間は、兄ひとりの世間として在ればよかった。わたしはよその人間であった。
* わたしの実父が死んだとき、記憶の限りただ三度目の顔を「死に顔」として見たのだった。しかもわたしは父の「世間」から、葬儀に出て「弔辞」を読んで欲しいと望まれた。実の子が実の父の霊前で「弔辞」を読む例が常例かありえない異例か、知らない。それは父が死んだ事実以上にわたしには衝撃だった。
* 兄の葬儀や偲ぶ会で、類似の衝撃に遭いたくなかった。兄とわたしとのことは、一時期、兄周辺で恰好の「噂・話題」になっていたと、兄の手紙の中にもあった。「家の別れ」以降、東京ででも、わたしはときどきその話題で、発言や述懐を求められた。つい、わたしの方から持ち出してしまうことも有ったのである。お蔭で、わたしは鶴見俊輔氏や高史明氏や小田実氏や真継伸彦氏との御縁を得たし、『家の別れ』にいきなり登場の桑原武夫氏とも話したことがある。だが好奇心に曝されやすい話題ではあった。わたしは「わたしひとり」の兄の記憶をよぶんな知識で混雑させたくなかったし、「識らなかった兄」を他人の言葉で過剰に押しつけられたくはなかった。
* つい先頃だ、ウイーンにいる甥の猛から、兄の葬儀直後に来ていたわたしへのメールが、「読め」た。完全な化け文字で手の施しようがないまま保存しておいたのを、ああやこうや機械を試みるうち、パッと日本字になってくれた。マカ不思議。
そのメールは、わたしから、ある「解きがたい不審」について尋ねたのへ、猛なりの理解でくれた返事だった。
「我々の家族の事情を知らない人は、兄弟の葬式に出なかった者と叔父さんをなじるかもしれません。しかし、自分にとってはむしろあの席に叔父さんの姿がある方が何か正常でない気がします。今回、葬式の時改めて感じたことですが、父は私が知らない世界を本当に多くもっていた。葬式に現れた殆どの人と私は初対面でした。」
こんなことを、この甥は書いていた。なんとなく分かった。
この数年後には姪から、「おじさんへの連絡はままならず、わたしも胸が痛みます。また、会いにいきたいけれど」と、事情のありげなメールが来ていたが、解しかねた。いまも解せぬままになっている。
2010 1・27 100
☆ もう一度・お写真
あの写真、みづうみの幼少時代の痛みを甦らせるものでしたのでしょうが、何も知らない人間が見ると、決してさびしさ一色ではありません。
お小さいながらも、被写体の人間力のようなものを感じます。まず幼くして犬という人類最良の友を得ていらっしゃる。そして、すでに何か人生の大切なことを知っている男の子という印象のほうが強いのです。やれやれ、この世というとんでもないところに生まれてきてしまったみたいだ、でも生まれてしまった以上自分の道を生きなくてはと考えている少年、とでも申し上げればよいでしょうか。
みづうみは今、もう一度子ども時代を生き直す必要があるのかもしれません。
みづうみに課せられた宿題のようなものとして……。
ふつうの子どもらしくは生きられなかった、その子ども時代に飲み込んだたくさんの想いや涙を(そうお見受けするのですが)ご自分に許してあげるのです。思い切り泣いて泣いて、お母さまに訴えるように泣く。もう一度子どもの頃を生き直すように、書くべき時がきている。そんな風に思います。(今でもみづうみは愛すべき男の子です。)
失礼なこと申し上げていたらごめんなさい。失礼なのはいつものことですけれど。
みづうみ、お元気ですか。どうぞお元気でいらしてくださいね。 藪柑子
* 自筆年譜 (一)を出して「過去は退治した」ようなものと書いたのに、そのあとで、その年譜記載を部分的には書き直すか、書き足さねばならないほど、深い闇だった奥からいろんなことが現れ出、わたしは腹を痛くしている。「今、もう一度子ども時代を生き直す必要があるのかもしれません。課せられた宿題のようなものとして……」と言われてみて、図星を指されたような心地にもなる。「いい読者」は、有り難くもあり、こわいとも。
2010 1・27 100
* ノートが二、三冊はあったかとぐらいに記憶していた実父・吉岡恒のノートや原稿や備忘録が、ものの三十冊余も大風呂敷から現れ、仰天。
とても、丁寧に見たり読んだり出来ないが、職業方面の几帳面で生真面目なノートも四分の一程度混じるといえ、たいがいは「日記、手記、翻訳、筆写、感想、グチ」の類。おおかた昭和三十二、三年以後、二十数年に及んでいて、わたしのことは、太宰賞受賞時の読売新聞「時の人」記事も発見し、書いている。最晩年には「恒平」の希望を容れて書いていると、述懐の一文などもある。
* 気分的にあまりにフクザツで、感想を出すのも憚られるが、極めて不幸な生涯を「不幸」とつよく意識しつつ生きた「命録の乏しい気の毒な人」であった。もっと柔らかな文体をもっていたら、沢山な私小説の書けた人生保有者であったが、したいことはあったろうに、ロクに何一つしないまま終えていった人のように想われる。
母も見た目は不幸で、悲惨ですらあった生涯であったけれど、しかも「生きたいように生き切った人」と姉・千代のいうとおりだった。強かった。
* この厖大な父手記の類にもやはりザットは目を通しておきたいが、そんな時間が、わたしに与えられているだろうか。
入稿した原稿が。もう明日には初稿組上で届くという。ウーン。マジかよ。
2010 1・28 100
* 生母ふくの遺品の中に、大阪中央放送局でつくって、短歌ラヂオ放送の「入選」「佳作」者にかぎり配布したものか、リボンで綴じた謄写版刷りの小冊子が在った。選者は前川佐美雄、第一級の昭和の大歌人で広く敬愛された人。わたしも生前に一度お目に掛かりまた文通もあって、母のこともかすかに覚えていて下さった。以下に、「選評」を筆写するが、稀有なほどの称讃を得て、「入選」三作の第一席に置かれている。前川さんほどの歌人に褒めて頂き、どんなに嬉しかったろう。母はこの当時、京都市醍醐の「同和園」に保健婦として勤務していたのである。遺品の中でも、ことに大事そうにこの冊子は厚い二つ折りのボール紙に包まれていた。
☆ 短歌選評 選者 前川佐美雄
大阪中央放送局 昭和二十七年二月二十三日放送
数多い投稿歌の中から 京都市伏見の阿部ふくさんの作を先づ選びました。
北満の曠野の墓碑にさす月を養老院に仰ぐその母
戦死したわが子を思ふ母親の歌です。この母親なる人は現在一人身となつて養老院に住まはれてゐます。 或る静かな晩 中天の月を仰ぎ見て、この月はわが子の墓、北満の曠野で戦死したわが子の墓にも射してゐるだらうと聯想せられたわけです。北満の曠野に果してその墓碑があるかどうか、又 それに月がさしてゐるか どうか、などといふやうなことは問題でありません。作者にとつてはそれがあるやうに見えるのです。ありありと眼に見えて来るのです。そういふ感懐を端的に 至極直接的に 簡潔な語で表現したのは立派です。三句「さす月を」と決定的に言つたのも効果的で 結句を「仰ぐその母」と言ふことによつて、墓碑はわが子の墓碑であることを自然に説明してをりますと共に、ここに品位が出、又餘情がこもつて一層感慨ぶかい歌になつてゐます。月による聯想 又は月に托して歌ふことは、歌を古めかしくしがちですが、この歌にはそれが少しもありません
* これは母がそのように「思い入れて」想像し創作して歌った一首であり、北満の曠野に戦死させた息子を持っていたのではない、あるいはその施設にそういう「母」なる人が身を寄せていて、介護の間に述懐を聴いて「代わりて」詠んだのだと思われる。ただし、戦時中に、次男・英作を若くして病死させた悲痛を母は体験していた。
ちなみにこの歌は、母の遺歌集『わが旅 大和路のうた」では、結語の「母」が「仰ぐその父」と置き換えられている。この歌にわたしは◎を付けていたのを今確かめた。
* 実両親のまるで「洪水」に首まで浸って、わたしは何かにつかまり堪えている。堪えなくてもいいのかも知れないが。
2010 1・30 100
* 妻、胃生検の結果、異常なしと。よかった。感謝。軽微ながら胆石の徴候が見受けられるので、対応診療すると。
2010 2・1 101
* 姉・川村千代の手紙・ハガキが、手許で集まった限りでも数年に渡り筆まめに百通では利くまい。妻に、電子化を頼んで、今日から作業を始めて貰った。姉は心優しい濃やかな心遣いの人だった。文面もいかにも懐かしく素朴に率直で、文字も読みやすい。兄恒彦のより、量は数倍でも、読み取りは易しいと思う。
この間に、わたしは、父吉岡恒の厖大なノート類を、これは書き写せない、読めるだけ読んでみる。父の字はじつに几帳面に達筆で読み煩う苦労はない、が、腹はしっかり痛くなりそうだ。
2010 2・3 101
* 夜前、いつもの本をみな読んでから、枕元へ父・恒(ひさし)の遺したノートや原稿の、六、七を持ち出し、目を通していった。
確言はまだ控えるが、父は、戦中からか戦後にか、理研の鍛圧工場の工場長をしていたらしい。その勤務上の、大げさに言えば覚悟や学習・勉強に宛てたノートが何冊ものこり、驚くほど生真面目に思索的・反省的で、云い方を新ためれば記述・記載に「現場臭」が殆ど無い。払拭されたように混乱が無く、整然と時には箇条書きに、メモ一つも乱雑ではない。現場の熱や矛盾や混乱や喧噪や殺気のようなものが、あまりにと言いたいほど止揚されてある。
戦後の共産党シンパなどの工場浸入により、激しい労使の混乱があって、結果的に工場は閉鎖され父は職を失い、しかしかなり執拗に回復を諸方へ歎願したり協力を求めたりしていたように感じられる。秦家から「3,ooo─」といった諸記録もことこまかに残されてある。失意の中で奔走にこれ努めていたと思われ、その間にも箇条書きで自分は何をすべきか、何が足らないか、こうありたいといった思索がくり返し書き留めてある。そして、なにらかの別の職をえたのかどうかも含め、まだ確認できないが、ほとんどすべてが結果的には「失意」「失職」さらには不本意で異様な「入院」などに到っている、らしい。
* ノートのほかに原稿用紙に整然と書かれたものも何種類もあり、整然としているのにどこか異様でもある。書かれてある内容はマジメである。勉強の下地もある。しかしこれにも現実と事実レベルにおいて揉み合い、組み合い、闘うといった臭みや熱が感じられない。本気なのかと読み手に思わせる。しかし、かなり本人は熱く本気なのである。でたらめな走り書きでは全くない。
昭和廿八年八月十五日付「終戦記念日」の「公開状」は、「世界平和促進研究会」と父の名とで、「日本共産党 残留幹部諸賢殿」に宛てられている。理路にせまって決してトンチンカンではない質問の数々も、共産党へのそれなりの訴求力と批評とを含んでいるが、どこかリアルでない。新橋駅前のような場所をえらび自分と党代表の一人とで討論しようと呼びかけてもいる。
昭和三十年二月十一日 これは昔の紀元節、戦後は建国記念日を意識したものか、「世界平和促進に関する 鳩山一郎氏に対する提案」とし、父の本籍地をそえた自署で、縷々訴えている。鳩山一郎は当時総理大臣であり、今日の現総理由紀夫の祖父に当たる鳩山一郎総理が、先年来「友愛革命」を提唱し主張していることにも触れ、かなり空しく、雄弁を振るっている。
昔から、真面目な人ほど、遠く力及ばないまま空しい雄弁に心身を鼓して残骸をのこすものであり、嗤うのはやすいが、それこそは猿の尻嗤いにひとしい。
父の場合、底知れぬ憤懣と失意とのはけぐちとして一時期、こういう雄弁を「抱き柱」にし、懸命に自己の足場を支えたかったのだろうと、そぞろ哀れにも感じる。
母ふくもそうであったが、父恒にも、信仰らしきものが、各所に述懐されていて、それも当然のようにフクザツに捻れ捻れ右往左往している。基督教の言葉がしばしば引用されているが、人間と信仰との間にかなり脹れた隙間も感じられる。
そして、方向を転じてどこかへ行くようだが、実態はわたしにはまだ見えない。そういう「抱き柱」がないととても不安定で立っていられなかったのではないかと、同情と共に想われる。
* 入り口に立ったに過ぎない、まだ。虚心に父の書き物を読み進めて行こうと思う。わたし自身の根を掘ったり洗ったりして、わたし自身が立ちゆかなくなる不安も有る。それは、だが、それとして。
2010 2・4 101
* 夜前も、父の遺していった手書き原稿の幾つもを読んでみた。
「サンタン紳士」とでも言わねばならぬほど、気の毒な惨憺とした人生であったが、独特の文体を持った知性でもあった。知性が父自身を苛み続けていた印象。
兄は、こういう父を知らずに死んだ。妹達は、こういう父遺文を読んではいまい、読まずにわたしへ回送したのだろう、それでよかった。読めば、生活を共にしていただけに、どんなにか辛いだろう。
わたしは。ま、わたしはこういう文書を「読む」のも「仕事」の内と思っている。言いようもなく苦しい体験をするが、それも私の人生。
* 厚着して出て、往きは汗ばんだが帰りは寒かった。ゆうべに、余り気味のミルクの冷たいのをたっぷり呑んだのが響いて、出がけから腹の中が不穏だった。西武の五階はきれいな手洗いが空いているのを覚えていて、ゆっくり使った。
街と乗り物で校正。池袋に戻るとあいにく西武線に人身事故があり待たされて、七時半に帰宅。持って出ていた亡父のノート一冊も読んできた。胸に穴の剔れる心地である。
* 母は実に強かった。父は実にひ弱かった。どちらも親類縁者から圧倒的にはねのけられていた。しかし母は狂者のように罵られもしていたが、やり遂げたことは健常で、根気強剛だった。父はかなりの知性であるが、どこかバネが緩んで平衡を失して敗残視野に甘んじていたように思われる。
いまのところ、わたしは母をあはれとは思わない。昂然と生き抜いた。父は相当に気の毒な落伍者だった。世間や周囲にそうさせられた気の毒さもあるが、それに負けて尻尾を巻いたあはれさ。サンタン紳士だ。
* 難儀なことに、兄恒彦もわたしも、この両親の子なのである。兄は死んでしまった、自らの手で。わたしは、どうなるのだろう。
2010 2・5 101
* 初校を印刷所へ戻した。こう書けば簡単だが、本一冊分を二百頁ちかくにわたり句読点一つ、難漢字一字に到るまで結着を付け、改行・改頁や、一行アキや、行のオイコミ等々の結着を確認して送り出すので、かなりの作業量がある。文字を読んで校正している方があるいはラクである。想えば人生の大半を類似の作業をしながら過ごしてきたなあと思う。
* そして今月はまた法廷がある。
2010 2・8 101
* 夜前、きまりの読書をぜんぶ終えてから、枕元に風呂敷ごと積んだ、父・吉岡恒の大学ノートや原稿用紙記事の全部を、判明の限り垣間見える日付などを頼りに年次等のデータを確認して行き、並べられる限り資料としての順番を付けた。データは昭和二十七、八年から五十二年頃に及んでいたと思う。
職場・職掌・組織や人事にかかわる記事
起業・事業・組織や人事にかかわる記事
基督教を初め宗教にかかわる学習や述懐や苦悩や信仰の記事
生家吉岡家と肉親・親類にかかわる記事
人生の在りよう、覚悟・反省・分析等々にかかわる主観的・概念的・箇条書等々の記事
自身の経歴から得た挫折や苦悩や敗北や後悔や憤怒や私怨等々の記事
共産党や鳩山一郎らへの各種の公開状や権限や非難・批判等々の記事
二度に亘る異様な入院記事
二人の娘姉妹にふれた記事
女の記事
最晩年の恒平とかかわる記事
各種のエッセイ、準論攷的な原稿等
これらを通じて、その九割がたには、曰く言い難い一見整斉、しかしその端然とした言句・言説に籠もる執拗で激越なほどの反省癖には、肌に粟を生じるものがうかがえる。
マインド、マインド、またマインド。分別の度の強度にして執拗なこと、時にはっきり病的である。そうしたものが、私の太宰賞受賞の以降は、がくりと硬さが砕け落ちたようになり、しかし、同時に急速に、うら悲しいほど、分かりやすく謂うと「老い」「諦め」を加えて行く。それでも、其処へ来てやっと読んでいてもホッとする。
* つらいのは、これが明らかに私の父親であるだけでなく、間違いなく娘や建日子や、また北沢の甥二人や姪の祖父であることだ。
兄恒彦は、こういう実父の内面を全く知らぬまま死んでいった。また母の苦闘も、多くは知らぬままだった筈。しかし、知る知らぬに関わらず、血は流れている。私の覚悟して見る限り、ここまで老いた私は別にしても、若い孫達からすれば流れてきた血に負う幾らかは、或る面は、かなり意識してそれと闘わねば済まないだろう負のちからを帯びている。それを私は、やはり重く強くいくらかは懼れる。祖父や祖母を果敢に乗り越え時に克服して生きていってもらいたい。
今は、そういうことを考えている。
2010 2・9 101
* 独居していた実父・吉岡恒の誰にも看取られない死は、昭和五十八年(1983)一月二十五日、午後七時頃であったらしい。妹から電話で告げられたのは翌日であったと年譜は記録している。
わたしの手もとにある限り、父の遺した、日付のある手記で最後のものは、コクヨの原稿用紙にあれこれ断片的に書かれた末の、「昭和五十二年十一月十六日深夜」のもの。
「ついにペンが持てなくなってしまった」とある。その後死去まで五年余が経過するのでその間のことは何とも言えないが、この原稿用紙束の一冊が、事実上の「遺書」を成している。それもよほどの年月に断片的に書き足していたものと見える。
これより以前の原稿用紙束以来連続または断続して父は般若心経をくり返しくり返し筆写し続けていたが、最後の一冊へ来てすぐ、年次不明の「四月一日」には彦根高商卒業後四十数年めの「同窓会」がある、「思案の末出席することにした」と書いている。記事六行に過ぎないが、無視できない述懐が添っている。
そして間隔は不明だが「一九七三・五・二七(日)」の日付を持って、曾野綾子さんの旧約「ヨブ記」に就いての「小論」へ二枚半の感想を述べている。曾野さんがヨブを語られていたのは記憶がある。わたしも「ヨブ記」を読んでみたいとその時思ったことが、『旧約聖書』全部を通読した遠い動機であったろう、しかも文語で書かれた「旧約・新約」の一冊本聖書は、妹を介してわたしへ手渡された、此の父の遺品であった。
* 相次ぐ幾つかの断片的な記事のなかで、父が「現在、齢六十三才である」としてある二枚半は、一九一一年二月十一日生まれ(おお…。気付かなかった、今日こそは亡父誕辰九十九年である!)から一九七四年(昭和四十九年)と察しられる。
さらに月日を、あるいは歳月を経て突如、「暫くペンを絶つていたが、恒平の要望に答えて敢て書くことにした」とわたしの名前が出てきてビックリする。一連とも見える記事がきれぎれに断続して、「ついにペンが持てなくなつてしまつた」と書き出された或る日一枚足らずの原稿用紙には、恒平が「会いに来た」とある。
昭和五十二年(1977)七月二十九日、「川崎で父吉岡恒と食事、あと上の妹の家族と会う。父とは、『阿部鏡』の『取材』という意識に固執していた。この頃までに『秋成』五百六十枚ほども『母問い』探訪と同時進行していた」と、わたしの自筆年譜が記録している。
父は最後の最期に「恒平」の名を二度明記したまま、さも「遺書」を結ぶかのように、自身を含む「吉岡家」九姉弟の現在姓名と現在二十三人の子女の名前を明瞭に列挙している。兄北沢恒彦にも、私・秦恒平に対しても、まさしく、おまえたちは吉岡家に属する一員であるぞと言い含めているようだ…。
* おもしろいというか、奇異なというか、この最期の原稿用紙束のいちばん最期には、何故かしら、現在の鳩山由紀夫総理の祖父である鳩山一郎当時総理に宛てたらしき書簡が、半端に、書き残されている。同趣旨の(同じものかも知れない、また実際に投函されたかどうかは不明な)書簡下書きが、「昭和三十年」の正確な日付をもって残されてある。この或いは絶筆かもしれぬ原稿用紙記事、こう書き置かれている。
☆ 昭和三十年二月七日附朝日新聞ロンドン特派員森氏の
日ソ交渉アジアの將来に重大影響
平和共存へ第一歩 日本人の決意次第
の記事を讀んでこの手紙を認める気持になりました。
私は以前東京に在住、終戦以来の閣下の動静に少なからぬ関心を抱いて参りました。
昭和初頭の京大瀧川事件とそれについての明鏡止水という心境の表現も忘れることはできません。しかし何といつても組閣寸前の追放とそれにつゞく不予の病魔に倒れられ(た)二事件でした。追放事件はまだ御健康の時でしたから必ずや内心甚だしい不満と焦慮をもつてその謀略性に痛憤せられたであろうことは拝察に難くはありません。その後追放解除後、吉田前首相の閣下に寄せられた処遇が甚だ予期に反し非友誼的でありました処に、計らざる病魔の襲うところとなられました。まことに痛嘆の極みであつたことでしよう。
* 早くに残されていた原物は相当長編で、目的は何であったか読み通していないが、父は、縷々何事か述べていた。
以来二十余年経て人生の最後の最期に「絶筆」然として、萎え衰えた精神状態で、何故にこんな古証文をまた書き起こそう、或いは書き写そうとしたのかわたしには分からない。いま、孫の由紀夫氏が民主党を率いて国会に圧倒大多数を擁して総理大臣であることを知ったなら、この父は、何をおもうのであろうか。
* 一つ、笑うに笑えないのは、父が壮年期の、上の筆致である。飛躍などものともしなかった生母ふくの筆致は兄恒彦の難読・難解な筆癖に流れていたなら、実父恒の律儀に組み立てて行く反省的な文の性質は、かなりわたしが受け継いできたのかも知れない。
そして感慨を深くするのは、最晩年絶筆時期へ来ての父の文章が、字は相変わらず整然と正しいが、まるで硬い骨が砕けたように或る意味で自然な、或る意味ではぼろぼろと口からものの零れるような平淡・無飾に変わっていること。思いを添えてなだらかに読み取って行きやすいこと、である。
* 最後の原稿用紙束二冊のうち、先の一冊に一度、後の一冊に二度、わたし「恒平」の名とともに書いた記事がある。何故か、兄「恒彦」に触れた記事は、数十点の文書やノートに一度も出ていない、まだ少年の恒彦に宛てた手紙が大昔に一、二あり、「家の別れ」に兄は書き写していたけれども。
* 以下三点、わたし「恒平」に触れて父が書いた記事を、秘して置きたくない。この「闇」に言い置きたい。
一冊めの殆どが、般若心経をペンで書写して埋められているが、ほんのところどころに吐露した苦渋の述懐が含まれている。その中にある。
☆ わが子恒平は「罪はわが前に」と題して、母を喪つた子の物語を書いた。美事に赤子のまゝ力づくでわが両親からもぎとられて、不潔なものゝ如く(人手により=)捨て去られた実子である。かくも痛切に母を恋い、実子に恨まれてみると、何だか自分も(自分の=)父を憎んでも不思議でないという気がしてくる。 (後略)
* この一冊中に般若心経は二十回余筆写されていて、最終葉には、こうある。
「一九七四、一二、二八 一文を草する積りが何も書けなかつた。そんなはづはないと思いつゝも事実なにも書けなかった。苦しいことだ。」
また、
「一九七五年一月四日
「この道や行く人もなし歳の暮」
「世間是非憂楽本来空」
「出家遁世の本意は、道のほとり野辺の間に死せんことを期したりしぞかし」
「全托、忍耐、信頼、誠実」
右の四句を今後の信条として生きることにきめたい。」
* 筑摩書房から書き下ろし『罪はわが前に』を出したのは、昭和五十年(1975)九月。これに徴しても、さきに「わが子恒平は」と書き起こした記事は、上の最終葉の二つの述懐より少なくも小一年も以後のものと読み取れる。だがそんなことは、そう問題ではない。それよりも『罪はわが前に」は、父の母のというような血縁よりも、はるかにわたしのいわゆる「真の身内」が自分には大切であったし、
今もそうだという切望の小説であったこと、気の毒に、父は作の動機を当然のように看過していたようだ。
それはそれ、事実父親である人の筆で、「不潔なものゝ如く(人手により=)捨て去られた」わたし・恒平であったと証言されているのが凄い。
* 次いで最後の最期の一冊も多くの般若心経で埋められたうち何カ所か記事があり、筆致は、格段に投げ出すように、吐き出すように自然体に変わっている。「恒平の要望」とあるのは、たまたま父からの電話口に出た時に、現在のグチよりも事実有った過去を書きおいて呉れてはどうかとでも押し返したのではないか。
☆ (前略) 現在、齢六十三才である。考へて見ればよく家名をきづゝけた罪人である。一体吉岡家の家名とは何であろうか。どれほど守るに値する宝玉なのだろうか。巨億の価値があるとして、一体どれほど損害を与へたのだろうか。年上の女性に恋をしたことが悪いという。しかし結果において死んでしまつたし、生れた子供は両親の意志を一切無視して、捨て子同然に処分したのだ。そして罪名だけが今も残つている。 (中略) 家名 それは国法にも何の根拠もない空名なのだ。空名のため重大な心理的暴力を加えた方が正しく、受けた方が罪人とは一体どこに根據をおいているのか知りたい。 (後略)
☆ 暫くペンを絶つていたが、恒平の要望に答えて敢て書くことにした。何から書いてよいのかいまのところ見当もつかない。自ら誇る何物も持ち合せてもいないし、苦汁に満ちた過去の連続であり、正直のところペンが頗る重い。嘘は書きたくない。すべてを真実で埋めれば一番よくかつ望ましいが、一族縁者、友人知己がいろいろと言うだろうことは推測に難くない。その苦痛を押し切り自ら堪える覚悟がなければ書き綴る意味が失われる。これが一番苦しいところである。 (中略) 一切を投げ出して「内からの働き」に委ねて書くことゝしたい。
一言でいえば、私の生涯は女難の一生であるのかも知れない。 (後略)
☆ 苦しい一生だつた。悲しい生涯だつた。無益な生き方だつた。人間が定めた倫理や道徳に拘束された空しい今生だつた。 (中略) 男女の結合は恐ろしい。すべては偶然の所産であるのに、結果の責任は自己に帰する。これは業、カルマの故であるのか。所詮は空しいの一語につきる。
私には子供が四人いる。恒彦、恒平、*子、**子である。名前が示す通り前の二者は男児、あとの二名は女子である。
男児の母は阿部ふく、女児の母は(妻=)**である。
☆ ついにペンが持てなくなつてしまつた。理由はわれながらよく判らないが、日毎の思いが過去の苦汁に悩まされているためである。
すべてを忘れよと自己鞭撻をするのだが、あまり効果はない。
いく十年も会い見る機会がなかつた、というよりも会うことに苦痛があり避け(て)いたというのが本当だが、向うから理由は判らない、が会いに来たのが恒平である。
最近エディプス・コンプレックスという本が出ているが讀んではいない。恒平も自分も仝じコンプレックスの持主ではないかと思う。
* これが、丁度九十九年昔の今日紀元節に生まれていた父親の(今目にしうる限りの)絶筆であり、私への最初で最後の「批評」である。
ちちのみの父に相見(あひ)しは三度なり
三度めはあはれ死にてゐましき 恒平
昭和五十八年(1983)一月二十五日、逝去。満七十二歳にわずか到らなかった。いまのわたしより、妻よりも若かった。
想えば、母ふくは、強健だった。
父は母との出会いを「恋」と書いているが「偶然」の所産で「不運な失敗」とも書いている。母の方は、肉親の姉から詫びを強いられても、父との出会いは、封建的な時世の強圧をはねかえした人間的な自由の達成であったと、ガンとしてはねのけていた。父の突然の失踪に狂乱した母が生まれて間もない乳呑み子のわたしや兄を抱いて父の実家へかけこんだとき、母にはわたしたちを手放す気はなく、子供を預けてその場から離れたのも、むしろ父を返せとの談判だったに相違ない。
* この二月には、法廷はあるが、これは代理人にお任せ。あとは歯医者へ通うしか予定がない。珍しいほどカレンダーが白い。
2010 2・11 101
* 楽しいこともあるが、苦汁を嘗めるほどのことも無くはない。おもしろい老境だと思ってそれすら味わうわけである。停頓していたようで、大きく外さずに予定の仕事も大方遂げた。頭痛がするほど手を出したい仕事はあれこれ有る。出来ることは、しかし限りがある。我慢して我慢して日付の変わるのを見送って行く。
2010 2・11 101
* 昭和四十三年から五十二年までの「思索」と「試行錯誤」と「苦難・挫折」の父の歴史を、ほぼ順序を追って頭に入れた。ラクな仕事ではなかったが、何も知らない知らないと思い、それでも構わないと思っていた人の晩年を、十六、七点の原稿用紙束や大学ノートなどでほぼ確かめ得た。
強制的に入院させられていた中で、父は読売新聞「時の人」欄を介してわたしの太宰治賞受賞を知っていた。作品への言及はないが、新聞の切り抜きもノートの中に挟まっていた。
たいへん有り難く貴重に感じたのは、末の妹が父に堅固に厚いノートブックを贈り、手紙を添えていあったこと。
「お父さんに捧げます。 エホバに依頼む者はさひはひなり 詩篇34・8」と最終頁の下に小さく横書きされ「1972 1 21」の日付がある。手紙は角封に入り、父は大切そうに後ろの見開きポケットに入れていた。成人したばかりの妹は、じゅんじゅんと父にむかい敬虔で熱心な信仰をすすめていた。
ノートは、父が退院後に用いられ始めた。たとえ人の文章でも共感すれば父はペンをとって、滔々とそれに関して書いている。
時に人の文章か父の文章か迷うことがあるが、やはり父の文章であり、関心は世界平和であり社会問題でありなによりも宗教問題であったと見受ける。定稿に到らない文には「参考」の二字を頭に置いている。下書き・初稿の意味のようだ。この娘が贈った例外的にシッカリした分厚いノートブックにも、先ず、ガンヂー「手つむぎの生活」にかえれの趣旨で「参考」としながら大きなしっかりした字で四頁びっしり書いている。社会問題のいわば「動機」論である。
次いで、「昭和三十年二月十一日 建国記念日」に書かれた「鳩山(=一郎)首相に対する提言」を書き(写)している。自負の文らしきを父は、煩を厭わず何度も書き写している。これは前後ぎっしり十六頁分もある。
さらに「参考」ながら「宗教界の指導者へ」と題し二十一頁にわたってやはりぎっしりと論攷している。論評は、控える。
このノートは、これでほぼ五、六分の一が使用されて、以降は白い頁の儘になってある。そういう例は、他にも少なくない。
* 父は、戦後、理研で、鍛圧の工場長をつとめ戦後の労使問題でよほど苦労したようだ。父の記録類には、そういう企業や現場や組織内での関心や悪戦や慨嘆や仕事の工夫に関連した記事も相当あり、しかしながらこの世界からは、解職・失職・再起の不成功等で挫折の失意へ沈んで行く経過が観て取れる。
重要なことは、それより以前に、幼くして生母に死なれ、父と継母との日々、二腹に生まれた多くの姉妹や弟との生活に容易に親しめなかった体験が下敷きになっていたし、それが、彦根高商時代、兄恒彦や弟・わたしの母との、父から言わせれば「悪運」の出逢いと恋の破滅へ繋がっていた。神戸商大への合格も振り捨て、父には波瀾と出征の時期があって、そして先にいう妹たちの母親との結婚生活。それも苦しく病んだ妻との不幸な事実上の訣別になるなど、私生活も職生活も帯同してかなりサンタンたるなかで、廃嫡・相続放棄も受け容れたようだ。そのことは、わたしが作家生活に入って幼時以来始めて父の生家を訪れた時に、叔父夫婦から先ず話を聞いた。父と娘二人の住居と経済生活とは、よほど辛かったらしいと父の筆は歎きながら、自然に信仰ないしはそれに準じた関心や行動へ傾いていっている。
たしかに信仰や基督教や神秘主義への傾斜が読み取れてくるが、父のそれは、どうしてもこうしても思索・思弁・反省的で、分別で臨んでいるので、言葉・思考にひきずられて、まさしくマインドで思議し続けていた。だから苦しみは増しこそすれ、少しも緩むことなく失意・失望のまま最期にまで到ったように想われる。
その点、妹たちの基督教に深まる真実は一家をあげて熱烈であるようだ、わたしも、ときどき妹に叱られることがある。
* 母の娘、わたしのいちばん年上の姉に貰っていた手紙は、妻が機械に書き写してくれている。かなりの量であるが、妻は姉の文面の親しみ深く心優しい穏やかさに惹き込まれているらしい。姉が存命の内に、機会が有ればまた逢いたいと何度も書かれていたのに機会をみな失したのは、今になれば心から惜しまれる。
2011 2・12 101
*始めて触れた実父の生涯に、とにかく驚いたままでいる。どうしようも、こうしようもなく、実の父である、父の書いたものであると、逃げ場のないところで驚かされている。死んだ兄は、こういう父を知らずに死んでいったのだから、兄の分まで背負った心地だ。いま、「遺文」の目録を作っている。
根の所で「意外な父」ではなかったのが、ことにショックであった。想っていた父を、父自身が容赦なく自身さらけ出していた。
いま、こういう祖父を、娘や息子に、甥や姪に、実を謂うと伝えたくないなあと歎いている。
2010 2・14 101
* パッショネートなバレンタイン・チョコを亡き孫娘のお友達から戴いたのを、妻とわけ、妻の妹が創ってくれた「やす香人形」ともいっしょに、賞翫、感謝。
2010 2・14 101
* 幸福だったと顧みている、自分のこれまでを。幸運だったとも想う。
自分は不幸だったと思ったことはなく、書いたこともないだろう。
実父の遺文を精査していると、最期の最後まで「自分は不幸であった」と思い込み、肉親や縁者や友人たちを責めて、赦していない。気の毒の極みで、これでは、自ら不幸をまねいているようである。
父の棺桶に手をつっこんでかき混ぜているようであるが、父はそういう自分自身を他者に知って分かって欲しかったという「更なる不幸な心情」を捨て去れなかった。いくら神に近づいてもそれでは苦しくて堪らなかったろう。おそらく、モーレツに誤解や厭悪を受けていた、または受けていなくても受けていると思い詰めていた。それを忘れよう赦そうと思いつつ、出来なかったようだ。
遺文の山を精査して経年経時的に年譜化して行くと、父は「極度に反省癖」の人で、つまり分別し分別して自分の「立ち位置」を確認し納得し、そして修整打開して行こうとしていたが、それ自体をどう連続してもいつも同様の内なる葛藤からは逃れきれなかったろう。寸の短い理性が勝ちすぎていた。しかも感情は包容的でなく、藝術や美への感性を文章表現に滲ませている形跡が殆ど見当たらない。そういう楽しみを、逃げ場としても、もっと積極的にでも、持っていない。
その点が生母とちがう。生母は理性的というより噴火する感情と感性の人であり、短歌をつくり、一寸した繪を描き、戯曲や小説紛いに手を染め、「父恋ひ」を隠さず、仏教や基督教に惹かれながら、時世の変革に反応して共産党からの立候補要請をあわや受けるような気概の人だった。高校生のまま火炎瓶闘争に奔ったようなわたしの兄に「同志」的な紐帯を感じさせるような母であった。そして自身の病弱や窮状に苦しむことはあっても「不幸」とは受け取らない人だった。
* 兄は、どういう心境から自身の長男に実父の名をそのまま与えたのだろう、不思議でならない。
わたしには、父や母を拒む気こそあれ、そのような……感傷や情緒や親和的な傾きは微塵も無かった。
2010 2・15 101
* 発送の用意と、父遺文への付き合いと、で寒々とした一日が終える。ずっしり疲れている。
2010 2・15 101
* 昭和三十三年の父・吉岡恒の遺文中に、それより十一年前、わたしの秦家との養子縁組交渉が大人達の間で隠密に始められようという明らかにそれより少し前の、奇妙な告白を、夜前読んだ。
2010 2・16 101
* 八時、背の高くなった隠れ蓑に真っ白う雪降りそそいでいた。毎朝のように松壽院さん、心窓さん、香月さんにいっとき頭をさげる。
いま、ヴュータンを、ムローヴァのバイオリンで聴きながら。
2010 2・18 101
* 妻の妹が「小さいやす香」を送ってきてくれていた。仲良しにとまた「黒いマゴ」も送ってきてくれた。テレビのそばにいていつもわたしたちに機嫌良く向き合っている。
小さいやす香と黒いマゴと 写真割愛
* 実の父も生みの母も、縁薄く荒けなく遠く行き別れたままになったが、二人とも遺文のなかで、互いを一度もわるく書いていない、むしろ禁欲的なまでになにも書こうとしていないのに気付いている。
母はわたしたち稚い兄と弟とを、両親に断りなく知らぬ間に他人手に捌いた「ブローカー」たちを憎み、父もまた母をでなく、自身の親族達への冷淡ないし悪感情をほぼ最期まで捨てたとは見られない。それをわたしは、幾らか奇異にも不思議にもおもいながら遺文を読んでいる。
父は何度か自分の生涯を、記憶の単語で連記しているのが「ことの順序・連続」としてわたしの理解を助けるが、わざとのように母との「出逢いと別れ」について殆ど書かず、パスしている。そのへんはむしろ千代姉の消息に書き込まれた、側面からきれぎれの情報が、頷かせてくれる。
死んだ兄にも、父と母とを一組の男女として互いの内面へ視線を届かせようと試みた跡がない。もしあるとすれば、単文「家の別れ」の末尾に、突然わたしの名をあげて記述している作品『廬山』の読みだけで。当否は別にして、挙げておく。
☆ 昭和三六年の春先のことだったと思う。「さようなら──鏡子」と表書きのある母の辞世が見知らぬ人の手で届けられた。死因が自殺であることをぼくはすでに知っていた。
月見草髪にかざして十四の
乙女の如く散りたくあるかな
此の夕べしづかにきかむ城山の
堀啼きわたる 五位さぎの声
盲孤児の手とり霜踏み京大眼科の
門くぐりしも幻ろしなりしや
此の角膜の再び生きむ願いもて
今日も祈りぬ日課の如とく
悩みある人に献げむ遂いに及ばず
病苦がゆえに散るはかなしき
穢れ多き褥に悶え伏せむよりも
あま照る星に抱かれ度きかな
十字架に流したまいし血しぶきの
一滴を浴びて生きたかりしに
ぼくとは全く無関係に、また別のところで育った弟、秦恒平は最近一人の作家として少年期に「フクザツ」な思いで避け通したこの「女の人」への思いと、その作品『廬山』の「父が輝く大きな鶴になり母がその背に乗って劉という少年のまわりを、虚空に波打つように幾度も幾度も舞い翔る場面」とがかかわるいくつか反転していく動機に触れている(【波】一九七四・六、新潮社)。
母の悲願はこの作家の手で一つの芸術的結実をみたというべきかも知れない。
母の歌碑は郷里の線路わきに樹つときくが、ぼくはまだ行ったことがない。 (北沢恒彦)
* いま、不覚にもこれだけを読み返し、目の奥を熱くした。「ぼくはすでに知っていた」という確言が何かに拠っているのか、兄の直観が言わせただけか、わたしには判らない。ただおなじような懸念ないし不審をわたしが父の死に感じていたことは、ここへ書いておく。
こういう話題は、父方祖父や祖母の素質を誰よりたぶん濃く隔世遺伝したと想われる娘とこそ、しみじみ推測し話し合ってみたいのだが。
2010 2・18 101
* 仕事しながら藤田まことの最新の「剣客商売」と、映画「明日への遺言」を耳に聴いていた。惜しみて余りある。
* つねだと、校了する際に、この進度は此処までは来ていないといけないという迄を、今日の内に通過した。校正はまだ当分日数を必要としている。
その一方、父の遺文は重く、テキパキとは整理が附かない。
昭和三十年頃から四十八年までに、仔細に読み取ると、三度も、わたしの見る限り理不尽なほど身柄拘束的な入院を強いられている。なぜだろう。誰が、どういう理由で敢えてしたのか、できたのか。やっと成人したばかりの二人の娘に出来たとは思いにくい。
名文とは云わないが、厖大量の父の行文は、文字はこっちが恥ずかしいほど正しく美しいし、行文は理性的・思索的で、説得力に満ちているとは云わないけれど、理路はそれなりに立っていて、支離滅裂なところは無い。一時的に「躁」に走る気味があったのかどうか、むしろ癇癪持ちであったのか、だが概して紳士の域をはみ出ていない。はみ出せないタチだからかえって爆発はあるのかも知れぬが。サンタンたる紳士。どうもそういう印象が大ハズレとは思えないでいる。
2010 2・19 101
* 晴れて明るし。
このところ小鼠との知恵比べがつづいて、夜前は、また、居間においた植木鉢を掘られた。この数日締め出せたと勝ち誇っていたのだが。家屋には表と蔭とがあり、蔭は防ぎきれなくても蔭から表への自由交通だけは防ぎたい、防いだと思っていても、人の親指一本分あれば出入り可能と聞くと、そんな通路を塞ぎきるのが容易でない。
どう見ても通路なんて無いとはずと思うのに、表へ登場する。物陰、モノのうしろなどに昼間潜んでいるなら、そんな蔭は遺憾にもいくらも有るから困る。
2010 2・20 101
* しばらくぶりに夜中不穏、寝苦しかった。静穏は、なかなか得られない。
父の遺文にも揺すられつづけている。わたしの「夜明け前」も容易でない。
2010 2・21 101
* 父の遺文も、もう最後と目されるのを記録している。まだ、書かれた時期などの不明な雑纂がごそっとほかに残っている。
姉・千代の書簡も、現在手近にある全部を妻が、書き写してくれた。これが有り難かった。
2010 2・22 101
* 疲れか肩凝りか、歯が浮いている。今日は歯医者の日。女先生の眼下で阿呆口をあいて、観念してくる。
* 絶好のお天気。これが嬉しい。
歯医者の帰り、妻とバスを一駅歩いて、真言宗の東福寺という徳川吉宗鷹狩りの膳所でもあったらしいお寺をのぞいてきた。それから「リオン」に寄り、ゆっくり昼食。食事もワインもデザートも旨かった。
江古田の銀行から、歌舞伎などの観劇料金をみな支払い済みにしてきた。三月、四月、楽しみ。
* 湖の本の校正をはかどらせ、また、亡実父のくわしい遺文目録を仕上げた。相変わらず歯が浮いている。今日こそ早めに寝ようとと思うが、もう十一時。
此処へ書いているヒマがなく、もっぱら「mixi」に久しい「私語」のエッセンスを抜き書きしている。「足あと」が、足ばやにどんどん増えて行く。
2010 2・23 101
* 疲れたか、機械の前でうたた寝していた。夕方だがすこしやすもう。
* 孫のやす香が、妹と二人で、最後に祖父母のわが家を訪れ雛祭りをしていってから、明日で「まる四年」になる。今にして思えばもうやす香は後の「肉腫を発病」していたのだろう、以降月日を重ねて、苦しい辛い孤独な闘病にやす香は泣いた。そして入院し、死んでしまった。
その孤独な哀れをわたしが書いたからと、以来わたしはやす香の両親により、つまりわたしたちの娘と婿の告発により、被告席におかれ、裁判されている。今日もその法廷があり、代理人に委ねておいた。報告はまだ無い。
2010 2・24 101
* 玄関、階下廊下、階段、二階廊下に限定できるのだが、夜前もネズミの痕跡有り。広大なお屋敷ではない、克明に蔭から表への通路穴を探索すれども容易に見当たらない。ネズミの方が賢い。
2010 2・26 101
* 生母ふくの手記の中に、戦時中、天理病院で「総婦長」を務めたことがあるという記事があり、「オイオイ」と流石に眉をこすっていぶかしがった。いまの天理病院ではない、もっと小さかった時期の病院とはいえ、「総婦長」とはただごとでない。わたしは勤務の昔に何人もの名だたる総婦長を見てきている。院長・事務長・総婦長が病院管理の三役である。
ところが、まんざら眉唾でなく、今日読んだ岡谷実という当時の「病院長」による「阿部ふくさんの思い出」を綴られた私への手紙では、自分が総婦長職についてもらったと、はっきり書かれていて、びっくりした。
もっともこの院長さんはほどなく天理教との間で意見が分かれ、自ら退いて、そして戦時応召でフィリピンへ。母もほどなく退任したと手記に明かしている。
よほど母も緊張したらしい、無理あるまい。大阪の厚生学院で二年の学習。それだけとわたしは思っていたが、じつはまだ滋賀県に暮らしていた若い時期に、彦根高女を卒業後自発的に志望して看護婦の資格もとってはいたのだった。奈良で過ごすようになるとマッサージ師の資格もとっていた。が、それにしてもいきなり病院総婦長とは驚いた。
岡谷先生の手紙によると、昭和二十二年の地方選挙で、あわや共産党から県会議員に立候補というのも、実現はしなかったが、事実であった。敬虔なクリスチャンと聞いていたので岡谷先生もびっくりされたという。なるほど、わが恒彦兄には「先輩」格でかつ母と兄とは「同志」であったのだ。
岡谷氏から数通の手紙を戴いている。本も読んでもらっている。
2010 2・26 101
* わたしは、実の父からも生みの母からも手紙を受け取っていない。母からは一通有ったかもしれない。父にはわたしはやや重苦しい相手であったらしい、父は、わたしの妻に宛てて手紙を三通書いていた。
奈良にいた頃の母に関して、母と御縁のあったドクターから、都合四通の、「母」を語ってくれている手紙をわたしは貰っている。堅い記憶の所が語られていて、有り難い。母の人柄や性格や対人関係にも率直に触れられていて、有り難い。
父の手紙も、岡谷実医師の手紙も書き写して機械に保管した。
* まだ読まねばならない母方、父方からの書簡類が、諸方から沢山届いている。おおかた、わたしから問い合わせたのへの返信であり、適切な問い合わせ先を把握するのにも苦労した。
その点でも上の岡谷医師は親切で、何人もの人の名と住所とを教えてもらっている。
わたしのような仕事の者には、人の名と住所とはどんなときも「お宝」で、うかとも捨てたり廃棄したりしない。思えば、通信のあった「読者の住所録」が手もとに無かったら、「湖の本」の刊行など方途をもたなかった。ありがたい「いい読者」たちの住所が真実頼りで肇められた「仕事」であった。何冊も何冊も、上京以来半世紀を過ぎても住所録をわたしは捨てていない。名刺も捨てていない。手紙もメールも捨てていない。そこにわたしの「歴史」が籠もっているからだ。無用の過去ではない、それもまた現在「いま・ここ」のわたしに関わってわたしの「仕事」を刺戟しうるからだ。
「歴史」とは「いま・ここ」のアマルガムである。
2010 3・2 102
* 今日、一週間前の法廷の報告書が届いた。双方の主張は出そろったと法廷はみて、裁判官の精査期間にはいるらしい。
2010 3・4 102
* 亡き兄が、昭和三十年の一月から四月初めまでに産みの母に宛てて書いていた葉書五通を書き取った。この時期は兄が二度目のたぶん京大受験に失敗して「参っていた」前後にあたる。母はこの頃大津市の「燈影会」という団体に身を寄せていた。この事情はよく分からないが、姉の千代の呉れていた手紙に、いくらか説明されていたと思う。昭和三十年の正月にわたしは大学の一回性だった。
兄と母との当時の関わりがやや具体的に見える。
そのころのわたしはといえば、一切合切、血縁など、拒絶仕切っていた。血縁でない「身内」にこそ渇いていた。
2010 3・5 102
* 体調ややすぐれず、夕食後、二時間ほど寝た。入浴して、印刷所と弁護士方へと、メールを二つ送る
2010 3・6 102
* 亡兄・北沢恒彦の、受験浪人の頃に生母・阿部福に宛てたやや長い封書の二通、また昭和五十三年にわたしに呉れていた原稿用紙五枚もの書簡を、書き写していた。同じ頃の封書とハガキが、もう一通ずつ見付かっている。
さらには遡って、昭和四十年元旦日付の年賀状があるのは、あるいは一等早い時期にわたしに呉れたハガキではないか。兄は京都左京区吉田から発信し、わたしはまだ北多摩郡保谷町山合2275の医学書院社宅時代。前年十一月末に、第一冊目の私家版『畜生塚 此の世』を、わたしから、初めて兄宛に贈呈したのへの禮だった。懐かしや、よく見れば徳力富吉郎描く木版画「先斗町」の繪で。下に、(中略)とした個所には、意味深長な記事が、問わず語りに入っている。
ここにいう小説『畜生塚』は、後に「新潮」に発表し、単行本にも収めてあるものの三倍近いほど量がある。「新潮」編集部は最初からこの作品を認めてくれていて、それだけにまた、わたしは徹底的に推敲し、そんなにもと思われるほど短く刈り上げて公表したのだった。兄の批評が頭にあったかは記憶にないが、名人級の編集者小嶋喜久江さんの鞭撻を素直に受け容れつつ、また自発的に推敲に推敲したのだった。
想えば太宰賞の決定していた『清経入水』も「展望」掲載前の一夜を利して、徹底的に推敲させてもらった。その「校異」は、原善君が作製してくれて、「湖の本」創刊第一巻に入れてある。『畜生塚』も『斎王譜(=慈子)』も、それ以上の推敲で削ぎに削いで姿を整えてあり、「校異」も遺しておきたいなと思うようになっている、が。
☆ 秦 恒平様 年賀 昭和四十年元旦 北沢恒彦
「畜生塚、此の世」ありがとう。 (中略)
「畜生塚」の書簡の部分は圧倒的でした。 作者があまり生の顔を出す部分は感心しませんでした。私の雑文を別郵にてお送りします。
2010 3・7 102
* 生母の遺文のうちに、昭和二十五年六月四日という日付で、十五年に及ぶ奈良での生活から京都市左京区の孤児院「平安徳義會」へ、住み込みで転勤してきた活版の挨拶ハガキが混じっていた。五十五歳。余命は十年余。
だが、その十年余のうちにまた奈良県にもどって、辺地の診療所に住み込み保健活動に従事している。何か体躯に痼疾があってか晩年は自身いくつもの病院を転々し厄介になっていたようだが、不幸せな人達への保健や保育の「意義」に感じる意気は壮んで、上の挨拶も気魄に満ちている。
この孤児院は、地理的に兄・恒彦の家と弟・恒平の家との中間に位置し、道理で、このころ母は中学の小使室を煩わしてわたしにモノを届けたり、校門に待ち受けていてわたしを困惑させ怒らせたりした。「恒平ちゃん」と呼びかけてチルチル・ミチルの石膏像など贈って来、会ったことのない兄との親交を暗にすすめてくるこの「小母さん」の意識と、「眞の身内」を胸を熱くして待つわたしの思いとは、あの頃、冷たく千里も離れていた。
秦の親に、あの「小母さん」への年賀状など出すよう強いられ、「謹賀新春」とただ四字で出した昭和二十七年のわたしの年賀状が生母遺品に含まれていたりする。高校一年の三学期を迎える正月だ、東福寺のそばを通り抜け日吉ヶ丘高校へ通っていた丁度その時期のわたしの作歌は、
刈りすてし浅茅の原に霜冷えて境内へ道はただひとすぢに
樫の葉のしげみまばらにうすら日はひとすぢの道に吾がかげつくる
歩みこしこの道になにの惟ひあらむかりそめに人を恋ひゐたりけり
が当たっている。「境内」といい「道」といい「惟ひ」といい、まるで「別世界」が胸の内に創られかけていた。わたしは満十六歳だった。
* 母方の親戚に中村家があり、いますぐどういう縁戚かを正しく云えないが、母が末期の時まで深く信頼し依頼していたその中村氏から、昭和三十五年 (1960)七月初め頃に、お手紙を戴いている。
消印に「深草」とあるのは、不治の病で京都国立病院に母が入院していた事実と符合し、氏は母の容態やわたしへの希望を、こまやかに伝えてきてくださり、もうこの月末には長女の生まれてくるのすら承知で、母・阿部福の「よろこび」を伝えて下さっていた。
母が重篤の病床にあると知ったおそらく最初の報知であっただろう。心を痛めなかったわけではないが、わたしは、事実上これに完全に目をつむり、やり過ごした。
わたしは、自分が、父や母の子としていかなる事情で生まれたか知らず、いかにして父も母もまったく見覚えぬ状況のママに、京都市内新門前へ、秦家へ、「もらひ子」に出されたのかを、どう知ろうにも知れなかった。釈然としないまま、ただもう近隣から「もらひ子」と囁かれ、不可解の思いのみ強いられていた。その事情は、じつに、この中村氏の手紙を受け取ったわたしが二十五歳時点でも、すこしも変化がなかったのであり、わたしは肉親についてほぼ何一つ満足に知らぬことをむしろ「身の幸い」と観じ、肉親や血縁を自分自身から「拒絶」しきっていたのだった。
働きかけは、父方からも母方からも、兄その人からも断続して有ったけれど、その後もながく、昭和五十二年ころまで、全て受け容れなかった。
* それはそれとして、その後も中村氏に戴いていた七、八通のお手紙の、最後の一通に同封されていた生母・阿部福の中村氏に宛てたハガキは、昭和三十五年十月三十一日消印、京都市博愛会病院内で書かれたもはや死期にまぢかい一通でありながら、筆致と行文はむしろ溌溂と趣致に富み、思わず、今夜、わたしはそれをしみじみ眺めた。
先生 いくら感謝してもつきないほどおせわに成りました 何も報いずゆるして下さいませ お預けの手紙(来信)物はすみませんが皆もやして下さいませ必ず 何もかも皆すんだ事はもやしてしまって下さいませ これからは神と私と二人で生命をともに致します かしこ 阿部福
* ちょうどその頃にわたしは、生まれてまもない娘を目に入れながら、秋の朝日光(あさひかげ)を歌っていた。
そのそこに光添ふるや朝日子の愛(は)しくも白き菊咲けるかも 遠
* そう、そして明日三月十日は、その娘が産んでくれた二人目の孫の誕生日。祖父母の二人で赤飯を祝うつもり。この春は、大学受験であろう。心健やかに日々を送っていてくれますように。せめて元気な消息だけでも伝わってくると嬉しいのに。
2010 3・9 102
* 雪が降っていたのもやみ、晴れへ向かっているか。
* 孫・みゆ希十八歳。妻と赤飯で、心健やかに心ゆく日々であれと、祈る。
2010 3・10 102
* ま、熟睡して覚めた。朝の目覚め時は、黒いマゴがいつもとても穏やか。おっとりして、身を寄せている。
好天。一日一日、穏やかに過ごしたい。
2010 3・16 102
* 一昨日から、息子の書いた『SOKKI!』を読んでいる。息子は単行本で、六ないし七冊の小説をもう書下ろしているが、別に確たる議論ではないけれど、わたしは秦建日子作『SOKKI!』が好きであった。
少なくも主要人物がくっきり書き分けてある。かなりイカすヒロインが個性的に登場し、生理・心理的にも納得のゆく情味ある表現を得ている。語りたち手の彼女に寄せる恋心に、文学的に、同感できる。
しかも「速記」という、得も謂いがたい奇妙な「主人公」が、小説を支配している。昭和戦後の、或る際どい「バブル」と「はじけ」との分水嶺のような時期・時代の、有用にしてたいてい無用でもある「存在」の速記術が、シンボリックな批評的意義を得て活躍しているのは、文庫本の解説者も適切に覚知してくれている。「早稲田」のようなマンモス大学のキャンパスを描きながら「速記」同好会とは、くすぐったいほどの「何か」であり得ているから可笑しい。
軽い。文章を読む大方の人が、思うだろう。軽い、には軽薄、軽率もあれば、軽妙もある。
そもそも「軽み」の的確な表現というのは、芭蕉の俳諧を持ち出すまでもなく、あるいは滑稽本や人情本や川柳などの秀作を持ち出すまでもなく、はるかには歌謡や、今昔の説話を持ち出すまでもなく、けっして容易でもなく軽薄・軽率なものでもなくて、成功すれば確かにたいしたものの一つなのである。
幸か不幸か、息子のこういう文学以外に、わたしは当節の若い人の、作の書かれようをよくよく知っているとは云えない。だれもが似たり寄ったりを書いているのかも知れないが、実状は知らない。知らないけれども、若い人ならみな『SOKKI!』なみに軽く、軽みを、持ち前の文章・文体ですくい取って成功するモノとは、全く信じていない。
早稲田の文藝科での、二年間の指導体験からすれば、どう気負って学生達が書いてみても、作の「軽み」という点で成功例は稀有であったし、むしろ「重苦しい文章や乱暴な文章」やストーリーばかりに出会っていた。
「女子学生は猛獣のように書き、男子学生は坊やのように書く」というのが、わたしの、あの二年間出講の実感であったことは、繰り返し書いてきたが、その大勢の中から、優れた均衡をえつつ自身の文学世界を拡大していったのは、現役作家である角田光代一人だった。創作へと、しっかり背中を押し出せた只一人であった、結果的に。
わたしが臨時雇いの「編集長」として角田らと文藝科の教室で出会っていたころ、角田より一年下の息子秦建日子は、同じ早稲田のあの雑踏の中で、「速記」の同好会にいた。その体験がこの小説へフイクションとして結晶しているのだろう、一読軽口を叩き続けている小説のようで、或る「軽み」の達成は、かなり気難しい読者であるわたしにも、そこそこ成功して見えている、納得がいく。
描写も感想も、ときには一行で、十行二十行をまかなう強い表現力をもっていて、下品でなく、軽薄でもない。効果を勘定に入れて書いている。かつてのわたしの感想通りに謂えば、まさしく「坊や」のような柔らかい感性に徹して書いているが、これが「計算」の内なら、したたかである。
幾つも幾つもこんな風に書くことは要るまい。その意味で、この作品は題材と一回限りの必然性とを「活かした作」である。このヒロインは、強烈にとは謂わないが、花のある優しみで読者の胸に一存在として長命するであろう。
* 身辺のいたるところにモノが乱雑に山積みになっているのが気持ち悪くなってきた。部屋が狭いのに、モノが多すぎる。階下の和室を寝室に取り戻したはいいが、毎日のように増えるものの新たな置き場がなくなったのに、仕事の為にはモノの増えるのを妨げきれない。
2010 3・21 102
* ほかの読書を脇に置いて、秦建日子作『SOKKI!』の後半を読み返した。主なる物語の成り行きには、うまいかへたかと問わせない、しんみりした必然があった。一編としての首尾は、やや形についた気味はあるが、一つの「青春」は書けている。文章は軽く書いているが、田畑、黒田、本多の「此処」に、「人生」の或る時期の断面が写し出されたとは云える。それぞれに、特段無責任な生半可なモノではなかったと云えるだろう。
この作者に『伊豆の踊子』は書けそうにないが、同じように川端康成でも『SOKKI!』は書けない。文学と時代とはそのようにそれぞれにツロクしている。ツロクよろしく「いま・ここ」が適切に書ければ、或いは重々しい、或いは軽妙な物語が生まれてくる。願わくは、そこに「ファシネーション=花」が咲いていて欲しい。
2010 3・22 102
* フクザツを極めて雅でも妙でもありげな夢をみつづけた。六時前に黒いマゴに起こされる前にも、また寝のあとでも、夢はさかんにいろいろに繪を描いていた。すっかり朝寝してしまった。
* なにも出来なかった一日。
2010 3・22 102
* 阿川弘之さん、逸翁美術館の伊井春樹さん、前石川文学館の井口哲郎さんらのご挨拶を戴いている。阿川さんには、直哉全集を熱心によんでいるのへ、「僕から御礼申すのは、半分はヘンですけど─、」と「厚く御礼」を言われ、恐縮している。
☆ (前略) 毎日、飲茶をしながらも、いわゆる「茶の道」には馴染んでこなかった小生ですが、「茶に言葉あり」は興味深く拝見しました。殊に「作」は、小説家=作家の解釈が面白く、「清める」から始まる「扱う」「置く」「かざる」「すわる」から「のむ」「好む」「結ぶ」と動詞形で具体的にやさしく解く、お説に魅せられました。いつもいつも御配慮に預り深謝申し上げます。不一 出版社役員
* ここをこう観て下さったのは嬉しい。ちなみに、「作」をどう書いていたか、『宗遠、茶を語る』を買って下さった読者には少し申し訳ないが、挙げてみる。
☆ 作 (茶に言葉あり より) 秦 恒平
たいがいの場合、私の肩書きは「作家」とされる。小説を作る(書く)からである。絵を作る(描く)人は「画家」と呼ばれ、書を作る(書く)人は「書家」と呼ばれる。作ることにおいてはみな同じなのだから、小説家だけを作家とはちょっとおかしいのだが、難しい議論をしようというのではなく、「作」という言葉ないし文字について、いささか考えてみたい。
「お茶杓のお作は」
と問うのは、茶室での挨拶のつねである。茶杓を作った(削った)方はどなたですか…と問われているのであり、ここは然るべき人の名をあげて答える。
だが、作者の意味の「作」というよりも、茶の湯の場合はもっと作意の意味の「作」や作用・作法の意味の「作」を私は問題にしたい。いやさらに言うならば、「随処ニ主トナレバ、立処ミナ真ナリ」などという、その「主トナレバ」の「ナレバ」が「作レバ」の訓みであることを念頭に、「作」を私は問題にしたいと思う。茶の湯という、創意工夫を、心入れや思い入れのかたちで表現して行くことに妙味も趣味もある藝能では、ただに、茶杓を作ったのは誰で、掛けものの字を書いたのは誰でなどという「作」の意識では、ダメなのだ。
そもそも「作者」「作家」という場合の「作」も、けっして作った人、その氏名、をあげて事足ると思ってはなるまい。作るという一事に籠めて、全精神の微妙に具体的な構想や構築が揺るぎなく実現して行く、ないし実現している、そういう「作」の在りようを面白いとあるいは見て取りあるいは読み取り、そのうえでそれほど見事に作った人なり名前なりに関心が湧いて、
「お作は」
と質問せずにおれぬというのが、やはり本来なのであろう。手前みそになるが人生の諸相を複雑は複雑なりに、微妙は微妙なりに書き表して行く小説のばあい、ことにこういう意味の「作」が、作意や作法が特徴的にものを言う。だから「作家」なのである。
だからといって、例えば茶杓を削るくらいにそんな「作」などあるものか…などと言っていては、所詮、「随処ニ主」も「立処ミナ真」もありえない。いわば長編小説の一つや二つもに匹敵する人生や思索から、あたかも生えて出たようにして一本の茶杓が清らかにかろがろと削りだされて居るのかもしれない、そこを「作」の不思議とも面白さともしっかり眺めながら、その物へも、その物を作り出した人へも、敬意と興味とを持つようでありたいし、そうであるべきだろうと私は思う。「作者」とは、もともとそういう性質の敬意や興味を持たれていい人のことだ。
一席の「茶の湯」が、もっとも佳い意味の「お作」となるように願って茶室に臨んでいる亭主や客が、どれほどいるか。
「作者」は自分自身と、そう思い入れて佳い「茶」を作りたい。
* わたしは、かねて「作」と「作品」とはべつのことと考えている。しいて謂えば前者は行為で、後者は評価であると。人品、画品、文品、品位といったもの謂いから推しても、われわれは対象としての「作」を読む・観るとともに、そこに「作品」の有無如何を問いかつ求めて、味わっている。これが、見落とされ見遁されていると、優れた批評は成り立たない。
* 文でも画でも、また人であっても、その「作」に、まぎれなく品のある、ない、がある。高い、低いがある。
同時に、ややこしく紛れやすいのは、いわゆる「俗語」と化してしまっている「上品」「下品」という感触の介入で、用心しないとコトをまちがえる。「お上品」「お下品」とまでいわれれば、むしろ付き合わずに見捨ててしまえるが、俗にいうふつう現代語としての「上品・下品」は、むしろ批評語としては拒絶し無視した方がよいとすらわたしは考えている。上品といわれるがゆえに作品の弱いもの、下品と見捨てられる中に、ある高質の品位というのがある、こともある。
* 井口さんには、利休の「正座」画像の写真を戴いた。但し、たぶん近代の画作であろうか。
正座画像が美術史的にも普通にあらわれ始める元禄以前では、数点存する利休の座像で正座のモノはやはり見当たらない。元禄期に、三千家の祖である利休孫千宗旦に、はっきり正座画像が出来ている。
女性では、描かれた時期は確認できないが確か信長の妹お市の方画像に、正座とみえる一点があったと思う。
ごく稀に阿弥陀の脇侍などに正座に近似した、跪座かそれに近い座像がある。白州や閻魔の前での土下座例は、すべて正座と同じすわり方である。
元禄以降には、それ以前の歴史的人物であれ、むしろ普通に正座像で描かれ造られている例は多い。
☆ ご本の御礼 作家
秦さま、湖(うみ)の本、新刊102「宗遠、茶を語る」をご恵贈たまわりうれしく、ありがとうございます。
日ごろ、茶を喫するゆとりもない暮らしぶりですが、ご本に書かれた利休の、前後の「茶」にまつわる時代のことなど関心もあり、外の勤めの昼休みに番茶を呑みながら、ゆっくり大人しく読み進めます。
ありがとうございました。どうぞご健勝にてお過ごし下さい。
☆ ありがとうございました。 出版社役員
寒暖差の激しい日々が続いておりますが、秦先生にはますますご健勝のこととお慶び申し上げます。
先日はご高著『宗遠、茶を語る』をお送りいただき誠にありがとうございました。いつもながらのお心遣いに心より御礼申し上げます。茶人として茶道に精通していらっしゃることにも驚きましたが、何より「茶」というひとつのテーマで、これほど縦横無尽に語ることができるのだ、という事実に感嘆いたしました。発表された媒体が多岐に渡っているため、その媒体特性にあわせたエッセイをお書きになっていることもあるとは思いますが、換言すれば、「茶」というものがそれだけ、さまざまな切り口で語ることのできる奥深さを持っているということなのでしょう。何よりその「奥深さ」を秦先生が深く理解していらっしゃるからこそのご労作なのだと、感じ入るばかりでした。重ねて御礼申し上げます。
引き続きご指導を賜りますよう、御願い申し上げます。
メールで御礼申し上げる失礼をお許しください。
不順な天候が続きます。お忙しい毎日、くれぐれもご自愛ください。
2010 3・23 102
* 新刊を出すつど、メールや手紙の他にも、払込票を通してたくさんな感想や激励や叱咤を戴いている。冥加に尽きる。
ところで、死の床にいながら、わたしの生母・阿部鏡(筆名)は、遂に遂に、『わが旅大和路のうた』一冊を出版し、諸方に送って、さまざまに励まされ、新聞報道すらされていた。大きな紙袋に入れ、近江八幡の親戚「中村穣先生」宛てに、「お捨て下さってもよい」と表に墨書して預けられていたそのたくさんな手紙やはがきを、今夜初めて、全部通読した。
来信は、大きく分けて著名人、図書館等、そして知己・知人・親戚から届いている。著名人としてわたしに識別できるのは、順不同に、佐多稲子、丹羽文雄、平林たい子、板垣直子、八木保太郎、前川佐美雄、簗雅子、橋本忍、稲垣浩、二月堂の狭川明俊、奈良県知事の奥田良三、代議士の向井長年氏らの名が見付かり、いずれも文面に実があり、見舞いの金子も含まれていたりする。
正直、おどろくべき親切な反響であるとともに、本に収められてある著者病床の写真はまさに死に瀕して見えている。校正や発送その他は援助する人達の文字通りの好意でなされていたようだが、原稿はむろん、だれにどう送るかまで当人が指示していたようで、必死の、渾身執念の出版であったことがよく分かる。短歌の数も、わたしの歌集『少年』より遙かに数多く、さらに散文や日記が相当な量、ほぼ半々と言えるほど含まれてある。
母は、最後の最期にこの一冊を堂々出版へ漕ぎ着けることで、苦闘の人生を締めくくった。一冊の歌や散文を支える伝記的な情報も資料も、ほぼわたしの手元に十分に揃った。強烈に生き、天晴れというほかない頑強な人生に、恰好の締めくくりを付けて死んだ人であった。後半生は、ひたすら健康的にも環境的にも弱い少年や病者たちのために、誰かが書いていたが、人の二の足を踏む世間へ躊躇なく入っていって働いた。その実質はあるいは半端であるいは貧しく不充分なところも有ったであろうが、志は徹そうとして大方徹してきた。脱帽する。
2010 3・24 102
☆ 三日ほど雨空が続いて、押し込められる思いでした。午後になって漸く雨があがったのですが暗い空です。体調優れず、よろしからず、とあり心配です。そして心身の心も。
内心の声に容易に任せないでください、お願いです。
時の波に掬われそうになる、そして鬱々とした感情にも・・その思いをわたしも強く感じますが、呼吸している限りは生きているのだと、じっと耐えています。
昨日のHP、品位について書かれていた、その内容を噛み締めて読みました。よくぞ書いてくださったとも思いました。あまりに不用意、安易、日常的に使われている上品、下品、品格の問題! それは鴉が指摘される京都の「位取り」でもありましょうか。平等とか民主主義とかの一方に厳然とあるものを見過ごせません。
(お上品、お下品などは、)批評語としては拒絶し無視した方がよい、という言葉もまっすぐ届きました。
お母様の生涯に、営為に、脱帽されたと書かれていること。それを人に伝えたいと(フィクションの形でも)考えていらっしゃいますか?あるいはひっそりお一人の胸にとお考えですか?
明日は晴れてほしいなと思います。桜も開花し始めていますし、穏やかな春の日を浴びたいです。取り急ぎ、
元気に、少しでも元気であってください。 播磨の鳶
* わたしが今、いちばん当面していささか苦痛なのは、「鳶」さんが察してくれているように、母や父とのこと、姉や兄とのことなどを、かりに「人に伝えたい」として、どう伝えればいいか、いわば登山口をどう見つけるか、なのです。なまじいにフィクションに創っても、直截に私小説に創っても、構わないのだが、わたしの動揺までもそのまま吐き出してはいけないし、面白ずくの話にしてもたぶん意に添わない。
はっきりしている一つは、「ぜひ書かれるように」と湖の本の読者の声援や催促のある、それなりの重さである。
機械の前で苦渋を噛みしめ、階下へ逃れると降らない殺しテレビばかり目に付いてしまう。頭のなかをスケスケに白くしたいのである。
だが、いままた丸で別の、ウザーぁッとする用事が持ち込まれてきた。夜の時間をそれにかけるしかない。明日は晴れるなら、ぜひとも白い空気を吸いに出たい。願わくはそれが只のニゲになりませんように。
2010 3・25 102
* 決算でもするような用事を言いつかり、気力を尽くして、ながながと書いた。妻もこれでよいと言うので、明日の朝には送ろう。
2010 3・25 102
* 寒さは緩まず、天気は晴へ向かうとか。
* 早起き、朝一番に難儀な用事を一応済ませ、電送済み。
2010 3・26 102
* 無意味に不愉快なことは、頭からみな投げ捨てて、ゆるされた楽しみを、罰が当たるほどに楽しもうと思う。罰はいずれ当たるのだ。
2010 3・26 102
* やや白濁した中汲みの「梅の宿」は、べらぼうに旨い酒であった。惜しみ惜しみ飲んで、一升瓶の、底にもう一センチほど惜しんで残してある。
諫早の「太鼓山」、壱岐の「尋ね鳥」、すばらしい焼酎。愛づらかに旨い。よそサンの息子なのに、理史くん、わたしのため懸命に探して選んでくれたのだろう。嬉しい。
秦の父は、若いころ茶屋で道楽したと聞いてはいたが、酒は匂いにも参る下戸だった。母は遠慮しながら少しだけ、少しだけと言いつつ晩年はすすめれば坏の数をけっこう重ねた。叔母は嗜む程度で、それは妻も同じ。わたしは誰の血をうけてのことか、早くから酒の香に惹かれて、粕汁も大好きだった。粕汁でならば、苦手な大根や削った人参も食べている。
* 終日、いろんな方面で手を動かし続けていた。日付はもう変わっている。
2010 3・27 102
* 山を越えて行くのに、両脚に鉄亜鈴をひきずって登るだろうか。民主党政権は、三党連立のためそれに似た悪歩行をあえてしている。すっきりと自己責任で歩けなくて閣内不統一というよたよたばかりが目につき、内閣「支持率」を下げる方へ方へ藻掻いている。
* ところで「支持」ということに関連し、すこし「私事」に触れるが、いましも「湖の本」102が「茶」の本で幸い賑わっている。
さはさりながら、「百ないし百一」という大きな「通過点」で、さすがに読者の数は減った。「もういいでしょう」ということだろう、むろん「もっともっと続けるように」といって下さる人は遙かに数多く感謝にたえない、だが、維持はさらに苦しくなる。
思い出す、四半世紀前創刊の『清経入水』初版は、総頁が百八頁、千三百円だった。通算第百巻の『濯鱗清流』下巻は二百頁、二千三百円、百一巻『凶器』は三倍大の三百十六頁、臨時に二千八百円頂戴した。このところの一冊平均頁は百八十頁ほどで、今回も百八十四頁。以前は簡単に「分冊」していたのを、なんとか「一冊」で編輯し、読者の負担を無用に増やすまいと努めてきたのである。お察し頂けるように、甚だしい値上げは避け、むしろ内輪にお願いしてきたつもり。参考までにA5版9ポ46×20組の百八十四頁は、当節では市販単行本の一冊半に当たるほど、随分と容量多いのである。
それでも、やはり「百」代以降の出版維持はラクでない。ラクをしたい気は毛頭ないが、しかし大きな出血の儘ではこの仕事自体が却って高慢で悲愴なものになってしまう。そういう無理な姿勢は避けたい。で、このところの頒価にどうか二百円載せ、「一冊・二千五百円」を許しを願った。受け容れて戴き、さらにいろいろに応援の手を添えて下さる方も多くあり、感謝に堪えない
読者のお一人が、もうお一人ずつ有難い「いい読者」をご紹介頂ければ、苦境はたちまちに免れる。維持できて刊行が続けられるなら私の願いはそれで足りる。蔵を建てる気など無い。
* ところで、一つ、『宗遠、茶を語る』が、多くの読者をじつはほっと明るい気持ちにさせたのは、本の内容が、例の娘達がらみの事件から離れたからであり、二つ、ここへ来て購読部数が減ったというなら、それは、やはり娘達がらみで書かれたらしき巻が目立ったからでしょう、と、率直に指摘して下さる人が、一人二人三人ぐらい有った。
わたしも、もとより自覚していて、「102」の企画を久しぶり「茶を語る」方へ振り向けたのも、「編集者」としての見当であること、言うまでもない。指摘も自覚も当然の処に立地している。
* 私自身の問題は、その先にある。
私生活のいわば紛糾部分を、秦さん、出さない方がいいでしょう、書かない方がいいでしょう、と、もしなったなら、私はどうするか。
躊躇なく、私は、どちらも書く、どちらも「湖の本」にする、何の迷いもない。
* 娘夫婦の「被告」の位置に置かれて以来、わたしは、精一杯対応してきた。法廷でやすむ間なく攻撃されている立場は、生易しいことでない。「四年」になろうという歳月、何をして楽しんでいようと、瞬時もこの件からわたしも妻も安らかになど解放されてこなかったのである。だが此のイヤな事にわたしはいつも真っ直ぐ突き当たり、ひるまなかった。融通の利かないバカだと思っている人も有ろう。しかし「いま・ここ」の稀な題材に目を背け、書くべきを書かなかったら、わたしは作家とは云えぬ。
* では、自分に反省すべき点は無いか。永い期間、わたしは胸に手を当ててきた。
* はっきりしておく。
私が、もし「作家」でなく、したがって作家としての「精神・思想と表現との自由」を大切にする「気」も「必要」も無かったなら、何も書かず、表現せず、婿や娘に何を言われてもされても、謂われなく無難に頭を下げたり、無い金をムリに工面して与えたりなど、姑息にその場その場をやり過ごして済ませたであろう。それが「大人の常識」だ、「親なら当たりだ」とすら言う人も、世間には多数、大多数いるのをよくよく承知しているのである。
その上で、そういうことは、しないと、いまも私は胸に手を当てている。尺度の曖昧な、正しいか正しくなかったかの問題とは、この価値判断は明瞭に異なっている。
* 「島崎藤村が姪の駒子に子まで生ませたことを、私小説と読まれる新聞小説『新生』であからさまそのまま書いたことは、名誉毀損に当たると思うか。」
そう問われれば、「思う」とわたしは答える。
駒子の側に書かれても仕方ない叔父藤村への、なにらの悪意も害意も無かった、むしろ純情が有ったのは明らかだから。
「問題になった***や三島由紀夫らの小説の場合はどうか」と問われれば、上に同じ、名誉毀損が成り立っているとわたしは答える。書かれた人物と書いた作者との間に、謂わば相討ちの対立が無く、一方的・一面的・描写的に書かれ、書いた側は何も傷ついていないのだから。
それでも、書かずにおれないなら、覚悟をして書くしかないでしょうというのが「書き手」の一人としてわたしの思いである。だが、望ましいことでないのは、明瞭。
* ところで、このわたしが、ホームページや、フイクションの上で、大学教授である婿に関連して批評や批判・非難を書いたのは、「名誉毀損に相当すると自覚し自認しているか。」
そう問われたなら、わたしは、ハッキリ否定する。藤村や三島らの例とは真っ逆さま、書いても当然な、それだけの被害を、わたしは先に受けている。婿の妻である娘も、「夫の暴発」「夫の無礼」、最初から認めていた。婿から舅姑へ、凄いまで悪意と害意が加えられたのに対し、十分に間をおいてから、匿名でなく、すべて文責明瞭なかたちでわたしから「逆批判」したのである。名誉毀損は、逆方向に先行していた。
しかも、このようなことは「裁判」にする問題でなく、書いて非難される以前に、潔く「話し合い」すれば解決は何でもなかった。しかし、いかなる話し合いの場へも、「ルソー学者」であるこの婿は一度たりと姿を現さなかった。ことは、礼譲の問題で、権利や裁判の問題とは思わない。名誉毀損というなら、逆様である。
* 娘に関連しても、すべては孫・やす香の重篤の病と可哀想な癌死とを傷む、祖父母の眞情に出ている。誰の入れ知恵か、裁判の場へ持ち出して実の父を被告席に置き、「名誉毀損等を以て多額の損害賠償金を求める」そのような性質の事件では、はなから無かった。一つには死んだ孫の霊も傷つけ、二つには広義の教育に携わる原告夫妻の、親として子としての知識人・公人たる「良識」を疑わせる、見当違いに「恥ずかしい」ことと謂わねばならない。よく胸に手を当ててもらいたい。
* わたしは、ものに隠れて発言したりしない。文責を公開し、誰からも公正な判断を求める姿勢でものを書いてきた。それが二十・二十一世紀の「IT時代」の作法であり、物書きの立場であると信じている。
* せめて、孫・やす香の不幸な死の直後にこそ、冷静に話し合いたかった。話し合おうと求め、その為にも余儀なく「民事調停」も望んだが、却って作家・秦恒平の「ブログ全破壊」など、著作者に対する最も悪質な攻撃と被害を婿と娘から受けただけで、どうにもならなかった。自分自身に、また家族としても、いまも残念で遺憾だと思うのは、そのこと。
もう一つの自戒かつ後悔は、あの病苦を「mixi」に書き続けていた孫・やす香の現状を、ムリを押してでも、母親(=娘)に告げ知らせ善処を求めればよかった…ということ。
だが、孫娘二人は堅く両親に秘したままわれわれ祖父母のもとを訪れ濃やかに交歓していたし、それを無に帰することは孫達のためにも祖父母の喜びからも、とても仕辛かった。ましてやまさかに「癌」「肉腫」などとは、夢にも思い及べなかったのが、致し方もなく、しかし、しかし…と残念至極。
* 作家に、「あれは書かず、これは書いて」は、気持ちは分かるが、ムリと分かって欲しい。
人生はフクザツに推移し、しかも作家には必然、青年の作風と老境の作風は変わる。
上田秋成に先ず「春雨物語」を書き老いて「雨月物語」を書くことは、難しい以上に不可能であった。「レイタースタイル」は、一人一人の書き手の人生苦楽に伴い、必然来る。
2010 3・29 102
☆ 前略 思いがけず恒平様よりの贈りもの 嬉しく存じました。
もう兄も姉もみんな亡くなってしまいました。
あなた様は、母方のたった一人の血のつながった いとこなのですね。
なぜかお話ししたい事が 次から次へと頭に浮かんで参りますが、私は、来年九十才になります。出来ることなら、七十五才まで逆もどりをしたいと思いますがもう残念ながら出来そうにもありません。
さて、ふく叔母様のことですが、娘ごころに与謝野晶子の様な方と思ってをりました。今となっては、その頃私が与謝野晶子の私生活までどれだけ知識があったかは、覚えもありませんが 何となくそうイメージしていたようです。
思へば あの頃の時代だったから 色々冷めたい風に当てられ、それでも女性としての思ひを貫かれた方と思ってをります。
千代さんも年賀状に何時も一首を添へて下さいました。
気どらない それでいて心にしみる温かいお歌でした。
ふく叔母上の姉に当る”高”叔母様は娘時代のお写真に 髪は、昔の何とかいう髪形で 袴に、そしてあみあげの靴、小脇にバヨリン、 そんな素適なお写真を見た事があります。そして間もなく三重県の資産家の旧家に嫁がれたのですが、こんな田舎には きたくなかった、 都会で学者のような人のところへゆきたかったと云ってをられたとか! 末子の私は皆が話しをしているのをよく聞いていたようです。なぜか覚えて居ります 貧乏でもよい 自分らしく生きたかったのでしょうね。
その頃から世の中の女性が欧州流の考へ方に目ざめかけてきたのでしょう。 その後 市川房枝の名が浮かんできますが、女性が、だんだん強くなって、強くなりすぎて来たように思はれます。
扨て、私はお茶に夢中になっていた頃もありましたが 今はすっかりわすれてしまいましたが お抹茶は大好きで家にかゝした事はありません この辺では先代頃までは、植木屋さんにもお抹茶で一ぷくしてもらいました。主人も出勤前必ずお抹茶を飲んでゆきました。
お茶の先生も多く、そういう土地柄のようです。
扨て、私はその後謡曲を習ひ 七十才頃 小袖曽我の能、の母役、七十五才で能巻絹のシテをさせて頂きました。本当によひ思い出になりました。名古屋の能楽堂は、お城の前にあり櫻がとても美しくその頃毎年師の梅田先生の能がありますが もう元気がなく、行く事が出来ません。 七十五才の頃は未だ未だ体力がありましたが八十五才を過ぎると全身が弱ってきた事をひしひしと感じ身辺整理を毎日して居ります。 ”湖” 少し読ませて頂きましたが字が小さく私には少々むつかしく感じましたがちょこちょこ読ませて頂かうとは思ってをります。でも本当に嬉しうございました。どうか御身呉々お大切に未だ未だご活躍を心からお祈り申上げて居ります。ありがとうこざいました。 かしこ。 豊 八十九の母方従姉
* ずうっと以前二三度文通した。わたしがテレビに出たりするのを喜ばれて、必ず知らせて欲しいなどと言われていた。建日子のことをまだ話していない。バトンタッチしたいところ。
わたしの母(叔母)を「与謝野晶子」のように想っていたとは、初の証言で、しかも意味するところは分かりやすい。この「いとこ」は母の一等上の姉(伯母)の「末子」にあたるらしい。こんど『宗遠、茶を語る』を送ってみた中には、この人の能登川の実家からも、千葉の従姉方からも、父方有馬の叔母からも宛先不明等で戻ってきた。母方で「たった一人のいとこ」と。愛知県まで、いまのうちに会いに行きたくなった。九十前とあるが、ペンの文字は明瞭に美しく書かれていて感じ入った。
それだけでなく、一葉の写真も頂戴した。親世代は一人もいないが、姉の千代もともに、上の伯母(阿部本家)方「いとこ」たちの一族が集って、何かの記念写真らしい。親切に誰が誰か写真を透かした裏面に続柄が書かれてある。
本代二千五百円も払い込んで下さった。ありがとう存じます。
2010 4・1 103
* 夢見のない熟睡で、目覚めた。明るく晴れた朝。床を離れると、そのまま、松壽院(秦の父)心窓(秦の母)香月(秦の叔母)さんと、毎朝、暫時話す。妻の、黒いマゴの、建日子の、そして娘や孫娘の恙ない健康を願う。わたしの心ゆく仕事を願う。
2010 4・3 103
* 妻が、またわたしの歳に追いついた。七十四。年の暮れまでは同い歳。怪我も事故もなく、心健やかにと。
2010 4・5 103
* 夜中、きつい腹痛に悩み、朝六時過ぎまで軽快せず。疲れて、もう三時間ほどを寝る。
* 快晴、朝食ははぶき、気分を変えに電動自転車に妻を乗せ、新座、黒目川、東久留米、ひばりヶ丘と、二時間ばかり、遅櫻をさまざまな道の辺、道の奥に、探訪。
静かな郊外には、まだまだ置き忘れたような大小満開の櫻樹があちこちにはんなり咲き匂っていて、十二分楽しんだ。来たことのない、葵の紋所の浄土寺もあったりして。
黒目川ぞいには、菜の花や大きな枯れ芒や真っ白い木蓮なども。
電動のちからで、さほど疲れもなく帰宅。ひばりヶ丘の和菓子老舗「鉢の木」で買ってきたきんとんを、佳い茶で。
二人乗りの危険を冒しているので、のびやかに心を開放とは行かないが、妻に今年の花を美しく、陽気に見せてやれた。素晴らしい晴天にメタセコイヤが高く高く伸び上がっていたりした。
2010 4・8 103
* いわゆる休日とは無関係に、ふつうに過ごしています。めったに出掛けません。ゆうべも日付の変わるまで仕事していました。今朝は十時まで熟睡しましたが起きてしまうと普通です。
機械の前にいて、一服に、テレビの前へ行きましても「仕事」に気のあるときは、あっという間に機械の前へ戻ります。仕事のすすまないときは自然、休憩が永くなりますが、ここのところ、何しに休むのか分からないほど機械の前へさっさと戻ります。だから「仕事」が快調に進むというのではないのですけれど。
機械と向き合って粘るのです、いろんな風に機械を触りながら。機械での時間つぶしなら、コンテンツは多方面に満載、無限に可能ですからね。それでも機械の前にいれば、いずれ「仕事」へ戻れます。
むかしは、メールが日に五十も来たものですが、いまは、一日に一つも来ない日があります。人の「mixi」日記を見たり、ブログを覗いたり、こっちからメールしたりということを、全然というほどしなくなったからです。時間は、おおいに節約できます。
時間があれば、機械の前で各種の本を手にとって読むか、機械の中のコンテンツを整理します。自転車にも乗りますが、それも怪我してからは少なくしています。
医者かよいや観劇以外には、めったに外出しません。隅田川の橋の徒渡りも、まだ残りが幾つも。
今朝息子のメールに返信して、序でに書きました。息子、次々に新刊が出せそうだと。
* 建日子 「仕事」は、とにもかくにも、「心ゆく仕事」を。
象徴的なことだが、江戸末の優れた作者上田秋成の一代の代表作に「雨月物語」と「春雨物語」があります。前者は三十になるならずの瑞々しい傑作、後者はもう亡くなるまえの優れて枯れてみえる老境の名作です。
この二つの作を、同じ一人の秋成の作だからといって順序を逆にして書くことは、ゼッタイに不可能でした。
「今・此処」に打ち込んで忠実に誠実に、建日子は建日子の「雨月物語」を書くように。わたしは及ばずながらわたしの「春雨物語」をと。
読者の人生に同伴して歩みつづけ生き続け、敬愛されて名前で覚えられる、「女」を、あるいは「男」を、魅力的に創造せよ。カチューシャのような、春琴のような、またネフリュードフのような、時任謙作のような。 父
* 感覚のズレた親父のお節介だと嗤われそう。
2010 4・10 103
* 終日、「湖山夢に入る」心地で、母を書き父を書いていた。書いていると、他は、ただ流れて行く。
2010 4・11 103
* 今は何を見つけても考えても、『湖山の夢』に帰って行く、触れて行く。半端に思うままをここに書きつければ、わたし自身が窮屈に脚をとられる。
2010 4・12 103
* 騒がしい夢から逃げだすように目覚めた。晴れ。晴れているのが何より嬉しい。
* 柔らかい胸の内が、ギダギダに傷ついている。グダグタに傷つけられる。もうやめようかと思う。それでもやめてはならぬと思う。投げ出してのがれるより、踏み越えて先へ出たいと思う。もう「往時・往年」のことに触れるのはよそうかと思えてくるが、それでは誠意がない。事実としては往時のこと往年のことだが、わたしには「いま・ここ」の重荷である。重荷は下ろせばいいとは簡単な結論だが、下ろした瞬間にわたしは「生」そのものを喪う。「不条理」ではあるが、硝子に額をこすりつけながら、硝子の向こうへと飛び続ける虫のようで在らねばならぬ。
2010 4・13 103
* また生母ふくの短歌を編輯しておいたのを、仔細に読み直していった。母についてかなり多くを知ってきた今は、歌にも素直な読み込みが利いて、一冊の歌集として見なおしても、水準に十分達して個性的な世界になっていると思われた。
糖尿の方、いいですね、このままで行って、但し体重をせめて八十キロまで下げて下さいと毎度のことをまた言われてきたが。
2010 4・16 103
* 建部綾足の『本朝水滸伝』も、鳶さん、手配してくれたとか、これは大嬉しい! じつに読みたい。孝謙=称徳女帝や道鏡らの強力な「表」世界に対し、地下に潜入した大規模な叛逆・反乱の徒が闘いを挑むらしい。その趣向も構想も顔ぶれも、結託の仕方も、破天荒なものらしい。裏社会・裏文化に関心を寄せ続けてきたわたしは、そんな過激なロマンが天保時代にあったと今時分知って小躍りした按配。
それに似た一部を、わたしは同じ其の時代に、女帝と藤原仲麻呂(恵美押勝)のなかに生まれていた天成の美少女東子の母帝への叛逆として書きながら、現代の寂しい静かな恋物語にした。新潮社から出た新鋭書き下ろし作品『みごもりの湖』だった。この本の帯に、著者もまた「謎に満ちた生い立ち」と書かれていた。謎なんか無いと、実の父が憤慨してわたしの妻にもの申してきた。そんなこともあった。
2010 4・16 103
* あまり晴れやかなのが嬉しく、一段落の仕事を置いたまま、妻を電動自転車のうしろに載せ、菜種のいまが盛りに美しい落合川、目黒川の遊歩道を往来してきた。
気も晴れ、のびやか。春の気配にうっとりする。二時間近く。帰っての缶ビールがうまかった。
また機械の前へもどったが、快い疲労にビールがまわり、うとうと。
2010 4・18 103
* 出がけに、奈良の、母方の姪の娘から、奈良土産を送ってきてもらった。「mixi」で、「手ぬぐい」を蒐集しているというので、珍しいと思うかなあという二、三十本を送って置いた。礼など要らないよというのに送ってきた。
奈良は今、遷都千五百年とかで賑わっているらしい。この子、ではあるまい、もういい大人だが、なんでも遷都関係の事務局のようなところで働いているという。聞いて、ふっと気の遠く晴れる仕事に想われる、大極殿や広野原が目に見えて。
* 考えることは、仕事のこと。生母についても実父についても書かずにおれないことは、たくさん有る。母を越えて母方に及び、父を越えて父方にも及べば、奥はもっと遠くなる。兄のこともある。今となっては、兄のことを、わたし、母よりも父よりも知らない。もっともっと逢って話しておきたかったと悔いが濃く残る。
2010 4・19 103
* 生母の遺品から、高島屋商品券用の木の蓋箱を利用した、今となってはかけがえ無い貴重な書類が見付かった。京都の東山区役所近くの代書人が、父恒名義の依頼で、兄と、わたしとの為にとても大事な申請書を用意していた。さらにまた多くのことが目に見えてきた。
おそらくは母から出た強い希望であったのだろう、だが必ずしも父や母の思い或いは願いは、結果として達成されていない。
それでもその書類は、わたしを幾らか納得させるに足りていた。
この歳になり、わたしはいまだに兄やわたしの「身の程」に関する「新発見」を続けている。なんということだ。
2010 4・20 103
* ほぼ終日、じりじりと、「私」の壁に穴を穿ち、爆薬を仕込んで、一途に突破を策していた。ときどきアタマが痺れてくる。もう、いまは、それしか無いような毎日になっている。
いつか夜になり…あたかも推理小説かのように、遠い昔の暗闇に推理の縄をなげこみなげこみ、ときどき途方に暮れていた。
* 今日、法廷だったはず。結果次第で、五月、六月、七月のうちに強い変化が来るだろうと予想している。少しも息をつくことが出来ないまま、心老いぬようわたしは風の中に立っている。
2010 4・21 103
* 街へ出る前に、七月十三日に出廷して欲しいと弁護士から連絡があった。承知。
2010 4・22 103
* さ、また仕事に戻る。ものすごいような検討で、アタマは沸騰している。断乎乗り超えねばならない。こんなとき、娘も一緒なら、もっと緻密な追究があり得たかも知れない。ベストセラー『推理小説』作者の建日子なら、どう「読んで」行くだろう。あくまで事実または事実性を精緻に追認できる箇条に則って検討されねば、恣になる。恣は避けねば。
2010 4・22 103
* 手洗いに、「花にら」の花が八輪、優しい。テラスでは緋木瓜、鯛釣り草などが、書庫の上ではチューリップが数増してきた。どこも花、春の花。黒いマゴは、そんななかの何処にいてもよく似合う。
2010 4・22 103
* 煖房がとめふあると、寒い明け方であった、脚がしきりに攣った。
夜中の思案は地獄の入り口。引き込まれそうになると電気をつけ、「水滸伝」の第一冊を読み終え、次々にべつの五冊に少しずつ目を通した。
徒然草に、家を建てるなら夏過ごしよいように、「冬は何とでもなる」と書かれていたのに、暫く考え込んだものだが。冷暖房の器具が家庭に普及しこの辺の感覚が分かりにくくなっている。むかしは火鉢。四方から囲んで一家でかき餅を焼いたり、手遊びしたりして冬の団欒とはそんなふうだった。寝るときは火鉢の炭を、蓋附きの部厚な黒い壺にいれて「から消し」にするか、灰で覆って埋み火にし、薬罐や鉄瓶を五徳に掛けておいた。朝には水が湯になっていた。
* 君子蘭の大きな鉢植えがたくさん花をもっている。華鬘草も。
花にらのうす紫や恋ひそめて 湖
2010 4・23 103
* 難儀な難儀な山へようやく登ったが、息切れして四方の景色も未だ見えないという按配。これから、さらにさらに読み直す。あっというまに、日付が変わる。スキャナをつかいプリンタも使い、パソコンを遣っていればこそ出来る煩瑣な煩瑣な仕事の整頓。
創作も、その実験も難しくなっている、却って。
2010 4・23 103
* 社中『水滸伝』を楽しみながら、腰も痛むしと、例の駅前からタクシーで帰って、またすぐ機械の前へ。
生母の手紙をまた数通、じっくりと読んで、吟味。総身に苦汁が湧く。いますこし作の様子を塩梅しようと考え考えする内、そう空腹ではなかったけれど、もう夕食の時間になっていた。
食事終えて、六時三十五分、トツとして、針金ようの力に胸をきりきり、ぐるぐる巻かれる痛み。これと似て瞬時と謂えるほど一過性の痛みを、この数ヶ月内に三度四度五度は感触していて、それかなと思ったが、今日は痛む程度がひどくしつこくて、苦痛もいといと露骨。幸か不幸かアタマの痛みはないが、心筋梗塞か狭心症かと疑われ、舌下錠を二度ふくんでも痛みはむしろ亢進気味、だが脈はやや早めにしっかり強く在る。
安臥してやり過ごそうと床に臥してみたが、まるで効果ない、それどころか不安が募るので、起きた、かすかな吐き気も感じた。手洗いで、じいっと堪えて坐っている内、胸を巻きつけていた痛みの輪が、じりっと下へ、鳩尾から胃のうえへ降りて行った。
もう一度床へもどり、この間からよく繰り返していた夜中の胃痛とも似通ってきそうなので、例の痛み止め「ロキソニン」をぬるい湯で、含み呑む、と……、どうやら、そのまま七時半頃には寝入ったらしい。
気がつくと十時、感触は腹に残っていても痛みは薄れていて、もう無い、と感じられた。
そのとき気がついた、と云うか自己診断したのが、神経性かもしれぬ「胃痙攣」と。
それなら、実の親達の遺品や書簡類を苦悶も半ば抱いて読み始めた去年十二月一日以降、程度はさまざまにも数重ね繰り返してきた「苦痛」と一連の、かなり程度のヒドかった痛みかと「合点」した。
「独り合点」かも知れないが、自身、諒解した。それで機械の前へ来て、記録している。
* もし狭心症や心筋梗塞の方の苦痛であったのなら、救急車を呼んだ方が適切だったろうが、頭はまず落ち着いて働いていたので、結局凌いで過ごした。
* 日付の変わるまで、母の、これこそと謂える長文二通を繰り返し読んで、嚥下。また胃に痛みが這い寄っている。
床へのがれ、本を読んでやすもうと。
この頃は、「水滸伝」「本朝水滸伝」「江戸幻想文学誌」「春雨物語論」「利休の死」「芭蕉」「今昔物語」「もののけ」「老いの微笑」「歌舞伎のチカラ」「新約聖書 コリント前書」「総説新約聖書」「バグワン 一休道歌」「プラトン 国家」「直哉 小説」「直哉 書簡」「ジャン・クリストフ」「フランスでかめろん」を、気の向かうまま、少しずつでも「全部」読む。それから更に今一番楽しい重くない文庫本の「水滸伝」をもう一度好きなだけ読んで読んで、やっと灯を消す。
しかし、また腹痛が確実に来ているぞ。
2010 4・24 103
* 五月はほかにも楽しみがあるが、「講演」のため久しぶりに汽車に乗るという難儀なお役も待っている。その先の先の七月には実の娘と婿との「被告」として、いよいよ法廷に立つという、どんな劇場の舞台よりも珍な場面が待っていて、わたし自身がワケの分からない悲喜劇の主役をふられている。出演料どころか、「千数百万円」もの「名誉毀損の賠償金」が請求されている。どんな名誉なんだろう。そして、此の父親には名誉なんてないのでしょうかね。 2010 4・29 103
* 「述懐」にかかげた母・阿部鏡(本名ふく)の二首、うまいへたとは関わりなく、ずばりと言葉を出して通俗でも月並みでもない。数ヶ月集注してこの亡き生母と関わり続けてきたが、通俗や月並みとはかけはなれた境涯を爆走して死んだ人であったと、こころもち惘れながら脱帽している。
この人にくらべれば、この母の六番目の末子に当たるひよわいばかりのわたしなど、よほど通俗でつきなみであると恥じ入る。
母とは、まだまだこれからさまざまに付き合って行かねばならない。
話したき夜は目をつむり呼びたまへ羽音ゆるく肩によらなむ 母
ほとんど辞世にもちかい思いと時機とに、この歌は、母の万年筆で色紙に書かれ、遠く離れ住むわたしに宛てられていた。手にしたのは母死後何年も過ぎてからだ。「よらなむ」という表記に母の願望がうかがえる。わたしの呼ぶのを待っているのか。だが、まだ母と話したいと云うより、いろいろに想像し推理している段階にわたしは座り込んでいる。
2010 5・1 104
* 昨夜は、おそくから黒いマゴが遊びに出て真夜中まで帰らず、気がかりなまま本を読んでいてすっかり寝そびれたのには参った。
中村光夫著『老いの微笑』を一気に読み上げた。初めに近代文学史風の批評と文明論、ついで、老いの微笑の随筆、そして家庭生活や家族の回顧、そして巻末に小説三編が。
読み終えて、あらためて気がついた。中村先生の少なくもここに載った小説三編は、すこしも上手でないし名文でも可笑しくもない。老いの侘びしさを追求してあるが小説を読む妙味は無い。
それに比べれば、それより前の随筆は、じつに興趣にも示唆にも富んで共感をさそわれながら、なおかつ読んでいて面白い。とても面白く、文藝の妙を満載していた。そして、それらの通読が、中村光夫という文藝家のそのまま佳い「私」小説を読んだ一種馥郁とした効果を挙げていた。
わたしは今度、随筆で書いた「私」小説という結構のなかで、難しい問題を読者の目の前へ突き出すやり方を、余儀なくというより敢えて取ってみたが、そういう実験と方法とをゆるすものが「随筆」という文学の形式には内包されていることに確信が持てた。
* 随筆のように書き始められた小説の名作として、たとえばわたしは人生のとっぱなのところで谷崎の『吉野葛』『蘆刈』に出逢い心酔した。『春琴抄』もそうだった。わたしがはじめた読んだ谷崎作品は毎日新聞に連載され始めた『少将滋幹の母』で、小倉遊亀の挿絵とともに、中学生が毎朝新聞を待ちかねるようにして読んだのである。これもまた随筆を読み始めるかのように物語り世界へいつか引き込まれていた。そして言うまでもない、谷崎の「母」恋いものの絶妙の名作になった。それだからこそ、わたしは読み耽って倦まず、ことのついでに不浄観のようなことも覚えた。新制中学二年生から三年生への頃だ。
もし覚えていて下さる読者があれば、この述懐をぽちりと念頭に残して下さいますように、わたしは、この頃与謝野晶子の源氏物語訳も繰り返し耽読する機会に恵まれていて、わたしの理解だとこの物語は、いと幼くして生みの母・桐壺を喪っていた光源氏が、母によく肖たといわれる「母」藤壺を愛し、またその「母」によく肖た人を妻紫上として愛し生涯を過ごした物語なのだと。
この受け入れは、わたしのなかほぼ不動に生き続けた。
現実のわたしは、一片の記憶もなく生みの母を喪っていたので、求めるのは肖る肖ないに関わらず理念としての「母」そしてその「母」に代わりうる妻であった。わたしの括弧つき特殊な理念である「身内」という考えは、願いは、そのように芽生えていた。理念ではない現実の生みの母、括弧の中に入らない実の母は、わたしには存在の理由すら無かった。
だが、その実の母は、わたしが中学生になる直前、わたしの全く気付かなかった、知らなかった理由と必要とがあって、わたしの極身近で、そう、闘い続けていたのだった。だが、その経緯一切がわたしには、秘されていた。わたしにはそれは無であった。その「無」を抱いたままわたしは、源氏物語を愛読し、谷崎の新聞小説『少将滋幹の母』を読み、☆一つの安さに惹かれて岩波文庫の『吉野葛・蘆刈』を耽読していた。わたしは現実の母に関心も愛もなかった、滋幹の母のような、お遊さんのような括弧付きの「母」を文藝を介して胸に膨らませ続けていた。
* とどのつまり、七十半ばの老境に達してその生みの母に、ついに出逢ってしまった。
2010 5・5 104
* 印刷所から、「湖103」が組み上がってきた。急にきりきりと胃が痛むのに参った。「珠」さんにいただいた諏訪の酒をすこし味わい味わい送り込んで痛みを逸らせた。さて、こうなるともうわたしの連休は完全に終え、この先、激しい緊張の日々が七月の盆まで連続する。
楽しく躱し躱し乗りきってゆかねば。
ものの用意も、やれることから手際よくつぎつぎ積んでゆかねばならぬ。
先ずは慎重な校正。併行して、講演の用意。娘と婿との「被告」席に立つ心用意。さらに次から次への作の用意と進行。
2010 5・7 104
* 資料やゲラを読みに出掛けなければ。どうしても机のある階下へおりても、目の前でテレビが鳴っていては思案も何も。なんであんなにテレビを付けっぱなしでないと暮らせないのだろう。
来週は月曜歯医者、それに演舞場歌舞伎がある。、次週は夏場所、次いで俳優座があり、そして講演旅行。それらの間に、「湖103」を、桜桃忌メドにうまく進めないと、これが遅れると、七月法廷の心用意に障ってくる。忙しい老人だこと。
2010 5・7 104
* 夕食の後、ルノアールの絵画と人とをテレビで観ていた。息子のジャン・ルノアールや親しかった画商の想い出の証言や、ルノアール画法に理解の深い女性画家の画技をまじえた実地の解説などを織り交ぜながら、ルノワールの中年以降、生涯の愛妻となったアリーヌとの出逢いの頃から死までを、つぶさに見せてもらった。感動で胸がつまり、涙の溢れるまま見入っていた。
こういう番組を、息子に、建日子にぜひ見てもらいたかった。
2010 5・8 104
* 幸い家に籠もって、後半を読み終え、手も入れた。跋文も書いた。だが、初校が向こうへ戻ってしまうと、この先の段取りは印刷所の主導で、追いまくられるだろう。できれば再校が来週末までに出るなら、それまでに講演の具体的なこころづもりと、発送用意とを併行して進めておきたい。桜桃忌前後には発送を終わらせ、すると、七月法廷の用意や打合せに余裕が出来る。
2010 5・11 104
* なんと! 物置から、大きなタンボール函にぎっしり、亡き実父の遺品が現れた。
妹から送られていて、わたしが見ないものだから妻が、「お父様遺品」と上書きして仕舞っておいてくれた、それを二人とも忘れていた。
手記類は、以前に調べた風呂敷包みに数十冊・束ものノート、原稿用紙の形で書庫の棚の上に載せてあった。今度のは物置の中に仕舞われていた。
急遽調べてみると、今回の新刊作のためには、決定的な「父方祖父の父に宛てた手紙」が見付かった。天佑というか。数頁増頁しても作に「締まり」をつけたい。
その他にも、見遁せない書簡類や父の手記がたくさん有ったし、父の勤務時代や病状を証言する資料が山のように溢れた。
わたしに対し、父が「怒り」をぶちまけている手記も見つけた。
兄とちがい、わたしは父にも母にも、ことに父に対して永く親しむはおろか非難に近い気持ちをもちつづけ、接触を拒み続けながら小説やエッセイを書いていたので、父にすれば「何様のつもりか」という気があってムリはない。
今回は、父よりもいわば「母の闘い」を主にしていたので、そういう父の思いには触れなかったが、いつかは、向き合うことになる。父は、母もそうであったと想われるが、わたしが実父母に親しもうとしないのは養家の秦の育て方が悪いと見ていたようだ。秦の親が恒平実父母に対する「良識」を与えないからだと。
これは明らかにちがう。秦の親達は、そういう態度も言葉もまつたく私に向けたことがない。すべてわたし自身の態度が「決定」していて替わらなかったに過ぎない。
さて、遺品の山の中から一等期待した、われわれの生母から父への書簡、また兄恒彦から実父への書簡は、残念だが一通も見当たらなかった。
しかし母ふくの若い頃の、おそらく父と出会った頃、兄を生むまえ頃の上半身の写真が写真立てに入って見付かった。無言の、いわば父からのメッセージのようで胸を衝かれた。
2010 5・12 104
* 亡き実父一代の経歴が、容易に掴めないで来た。
今日見つけた遺品の中に、父の「軍隊手帳」が見付かり、こういうモノには万々誤りないはずなので、参看すると、母が兄恒彦を産んだ昭和九年時点の父の置かれた状況は、従来の推測をかなり訂正せざるをえなくなった。入営出征していたとは写真などで分かっていたが、その年次は不明だった。それが判明した。
おおよそ、今日発掘した父の遺品により、父のこともほぼ生涯に亘って足どりは追える気がする。各時期の書簡類が大まかに分類し保管されていたのも、事情をいろいろ明かしてくれるだろう。
2010 5・12 104
* 七時半、快晴。黒いマゴを外へ出してやり。血糖値、98。優良。
今日は街へと思ったのに、マゴを家に入れてやり一緒に二階へ。ズシーンと両脚全体に鈍痛、重い。気を挫かれ、二時間ちかく機械の前にいたが、なんとなく階下へ、なんとなく横になり、なんとなく数冊の本を読んでいる内に寝入ったらしい、気が付くと昼過ぎの二時半。熟睡していた。ま、このところを想えば、適切な休息。
機械の前へ来ると黒いマゴも今朝のまま、ソフアで安眠している。仲のいいことだ。
2010 5・14 104
* 何から何へどう繋いで仕事していたのか用事していたのかも漠として、今日は家でうろうろしていた。そうそう、また沢山見付かった父の遺品や、上京して五、六年の受信郵便物の一部を調べていたが、これはもう痲薬のようなもの、手を付けると幾時間あっても足りず読み耽ってしまう。
都立築地産院の院長で碁敵であった竹内繁喜先生に、中村雀右衛門襲名の券を戴いて観に行っている。「金閣寺」「妹背山婦女庭訓」などの演目だった。わたしは雀右衛門がまだ大谷友右衛門だった頃から京都の南座で舞台を観ていた。
歌集「少年」をつくりシナリオ「懸想猿正続」を印刷したりして、びっくりするような知名人の手紙を沢山もらっているのに驚いた。これはもうわたしには「お宝」の山のようで、うっかり乱暴には処分出来ない。
* 実父・吉岡恒の親族は、わたしなどの想像を超えた大きな一族で、父方だけでも姉が三人、弟一人妹四人があり、叔父の二家族がある。わたしや恒彦の従兄姉にあたる人達の家族を数えたらたいへんな人数になり、日銀理事や国立の研究大学院大学の学長もいる。父は父方長男であり本来嗣子であったけれど、この大家系の中で気の毒なほど蹉跌し挫折して嗣子の座を異父弟にあけわたし、寂しく死んでいった。
生母の闘いにはそれなりの主張も誇りもまた蹉跌もあったが、あくまで人間である女の尊厳を喪わずに死んでいった。
実父には、悔やみ続けた失敗の連続のまま、心の平安を求めて求めきれない苦闘だけの終焉があった。
父の多くの遺品や郵便物に、わたしからの年賀状や、またわたしの名をあげて触れた述懐らしきが、僅かといえ十ぐらいは残されているのに、兄・恒彦からの通信も関連の遺品も一つも無く、父からの言及も殆ど無いに等しい。冷たいわたしに八つ当たりした父の言葉に、恒彦のほうがマシだという言及があるが、具体性はない。
兄自身の遺品のなかに、たしか母と、父とに別々に触れた文章が原稿用紙であったかどうか、覚え違いで有るかも知れず、母から、父から、それぞれ恒彦に宛てた手紙の写しがあったのかもしれない。
2010 5・14 104
* 父遺品を調べて行くと、微妙な内容の証言書簡がつぎつぎに現れてくる。兄の高校時代に関しても、鴨沂高校担任の先生の実父に宛てた書簡などまじっていて、状況がかなり具体的に見えてくる。
2010 5・15 104
* 二階で、階下で、また二階で、階下でと作業を反復し、ときどき機械の前でうとうとする。煖房していたような部屋が、今日は冷房に切り替えたいほど。あいだに挟んで父が父の妻子にあてた手紙や当尾の叔父が父に宛てた手紙などを読んでいる。
2010 5・16 104
* 父遺品のなかで、父が、誰であったか親族の者に、恒平が『廬山』という小説を「展望」に載せたので買ってきた。同じその「展望」のなかに、なだ・いなだ氏が『小さい大人と大きい子供と』という論文を書いている、これを「半ば以上は、自分自身の心境とも述懐とも思って読んでみてくれ」と書き送った手紙の控えがあった。
その「展望」がすぐ手近にあったので、初めて、なだ・いなだサンの論文を読んでみた。驚いた。父の気持ちがたしかに半ば以上よく汲み取れて、もの哀れさに胸の塞がる思いがした。
2010 5・17 104
* 昭和三十四年(1959)を回顧する短い番組を観ていたら、岩戸景気の始まった年であったとか。
わたしたちが京都から東京へ出てきて新婚と就職の生活を始めた、あの映画「オールウエイズ」に間近い頃だ。
わたしの初任給は一万二千円で通勤交通費は出して貰えなかったし、最初の三ヶ月は八割支給。六畳一間のアパートの家賃が五千円。ちなみにそれでも妻に月の小遣いを給料から七百円と決めていた。
わたしは小遣いを二三年は使わなかった。財布には余分の一円も入れて無くて、何事かあれば新宿河田町から本郷の赤門まで歩く構えでいた。昼飯は一食十五円の丼白飯とみそ汁一碗を社の食堂チケツトで。これも二三年はつづけた。白飯にソースか醤油をかけてそれだけ。平気だった。貧乏は当たり前と思っていた。
妻にはすでに両親がなく、兄妹との分配遺産で大学を卒業し、まだ少し貯金を持っていた。わたしにも大学院奨学金の残りが少しあった。それでも要するに、若い内は無い金は極力使わないと決めていた。親にもねだったり頼んだりしなかった。おいおいにボーナスが入っても、そんなものは「貰わなかったもの」と決めてかかり、殆どわれわれは手を付けなかった。
おかげで、わたしは小説の私家版を四冊も作ることが出来た、妻も一言の不承知もなく、惜しげなくあの当時の五十万円近くを支出したのだった。たいへんな冒険で贅沢であった。しかしそれが第五回太宰治賞という幸運を呼びこんだ。岩戸景気がなんとなく、背中を押して支えてくれていたのだとも、今にして思われる。幸運であった。意志強固に堅実にも暮らしていた。
2010 5・24 104
* 持参の背広に着替えておいて、十時に部屋をチェックアウト。車で出町の菩提寺へ走り、日盛りの墓参。人っ子ひとりいない墓地。念仏百遍、父や母や叔母とゆっくり話をし、また念仏し、よく育てて頂いたことへ遅ればせの感謝を。
庫裡で住職夫妻や前住の奥さんと暫く話してから、車で、河原町夷川のギャラリーへ。三浦景生展をゆっくり拝見。三浦さんに会いたかったが、午後見えるというのであきらめた。九十四歳の作品、磨きが掛かってどれもみな美しかった。陶染画とでも謂うか、三浦さんの世界は小さい素材に野菜を描き干支の動物を描きながら、夢のように大きい、美しい。欲しいと思う作がいくつもあったが、なかなか。手が出ない。
眼の法楽だけを静かに楽しんでから、歩いて銅駝校のまえからホテルフジタの一階、おちついた席で、トーストとコーヒー。トースト一枚だけ食べて。
このホテルもわたしは大好き。
* 車で平安神宮の前から、星野画廊の星野さん懸命発掘の名作小品展。図録を送って貰っていたので、これを観て帰りたかった。
また一点、買いました。名前はほとんど湮滅していた画家だが、そんなことでいいわけのない人の、ちと気に入った小品。となりに稲垣仲静の好い裸婦もあったのだが、ウーンといろいろの意味で唸って、隣の繪にしました。
わたしから頼みはしなかったけれど、店主の奮発で、マケテもらいました。支払いも済ませてきた。
* 講演会場の都ホテルまで山上の坂道を歩いて戻ったのが、暑くて息切れして、手足がふるえるほど血圧が上がり気味。用心に持っていった降圧剤を、間隔を少しあけ、二錠のんだ。これがよく効いて回復。
* 瑞穂の間、満員。
京都女子大同窓会総会での講演は、一般にも開放。京都の学校友達や、また南山城から父方の親族が老若そろって何人も見えていたりして。
演題は「京ことばと日本と」
時間きっちり、予定していた話題もきっちりみな話し終えて、ま、無事に済んだ。大分笑ってももらったし、ま、これはわたしの話しやすい、また聴衆の九割九分老若のご婦人たちにも、聞きやすくて分かりやすい話題。
* 話し終えて、アトをひくのもちょっと気が重いので、すうっと抜け出るようにホテルを離れて、京都駅前の新都ホテルで一人おそい昼食をとり、予定の一時間早めに新幹線切符を替えてもらって、帰ってきた。
車中、ずうっと「水滸伝」。もう全十冊の第十冊目の半分まで来ていて、残り惜しくて堪らない。
2010 5・30 104
* ただ人惑(にんわく)を受くること莫(なか)れ
* 神、佛にも拘らないという、それって、凡夫には容易でない。拘らないと謂うことにも拘らないでいるように。思いをひろびろと遊ばせて過ごすように。
* もうよほど以前からわたしは、いわゆる世間づきあいを、絶っているとまでは謂わぬが、それに近い日々を送っている。わたしから世の中へ開いた窓は「湖の本ぐらいといってよく、それで、幸せとともに苦楽も感じている。余のことは、ヒト、モノ、コトともに、触れあうにしても極く稀薄に過ごしている。
それでも、まさか善意ではあるまい、判読不明の怪文書は、やはりメールとして舞い込んでくる。
「人惑」とは、佛や祖師に拘泥するのを戒めた言葉だが、常平生の暮らしにも、わけのわからない正体不明の「人惑」はどうしても避けることが出来ないし、そういう悪意の迷惑は、みな「文責」不明の怪文書として届く。情けない人達(複数か、複数を装った一人二人か不明だが。)である。
今朝も、メールが舞い込み、おそらくここ当分しつこく増えることだろう。メール、は宛先のアドレをは正確に書かねば届かないが、発信元のアドレスはデタラメが効くらしいので、悪戯はし放題、判明しない。判明しないという隠れ蓑に隠れてやる行為は汚いし、性根・心根はもっと汚い。ひとごとながら、恥ずかしい。しかも、これらはみな文面そのものも、とうてい日本語として判読できない化け物なみのデタラメばかりで、ムダな労力ではないか。正確なのは、わたしのメールアドレスへ向けて届いてくること、それのみ。
「mixi」のでも、奇妙な二三人グループが、いやらしく「足あと」をつけてくる。ごくろうなコトだ。
* こういうとき、水滸伝の豪傑たちが懐かしい。宋江、呉用、関勝、秦明、花榮、魯智深、武松、張清、戴宗、李逵、石秀、燕清等々。彼らには礼譲あり信義ありつねにまっすぐ清明であった。
2010 6・2 105
* ちかぢか、わたしは「被告」席で「尋問」を受ける。そんな体験をする人は世間に滅多にいない。
「原告」は、都内の青山学院大学国際政経学部の教授である娘婿と、町田市の主任児童委員や小学校のコーディネーターなどを勤めているという実の娘である。
孫娘の、癌(肉腫)で急死したのを悲しみ悼んで書いた祖父の挽歌(『かくのごとき、死』など)が、彼ら両親への名誉毀損だからと千数百万円の賠償金を請求されている。
どんな内容、どんな経緯かは、私の読者や此のホームページへのビジターは、また「mixi」日記の読者たちも、よくご承知であり、関聨の著作は、みなホームページに収録されてある。
わたしは、文責を明かさずに陰口を叩く真似はしない。このIT時代に守るべきそれがエチケットと心得ている。著作者の著作が電子化されて世に出るのは、この時代、良識と節度ある限り、不当に制限されるべきではない。良識や純真や節度を踏み越えて孫や孫の両親を書いた個所は一行といえども、無い。読者に「裁判員」をお願いする。
恥ずかしいことをしているのは、誰か。
著作を精査し、恥ずべきは私の方と思われる方があるなら名乗って出て欲しい、私は石で打たれて構わない。
* 無用のイリュージョンと無用にストラッグルを強いられかねない日々を、かしこく、楽しみ多く越えて行こうとしている。そういう日々もわたしには「創作」なのである。
2010 6・4 105
* やす香が入院までの三月から六月までを忘れたことはない。やす香の死はあの年九月に二十歳になる直前だった。わたしより五十も若かった。
恵まれれば八十九十も珍しくない昨今であるけれど、あと五年十五年は想うだにかなり重い。医者へ医者へと、妻にも友人にも読者にも云われている、決して云われていないのではないが、わたしが動こうとしないのであり、咎は只一人わたしに有る。明記しておく。
2010 6・6 105
* 六十にもならずに死んだ兄の、二十歳にも成れずに死んだ孫娘の、ブンまでも生きねばと思い逸ることは、無い。そういうことは或いは兄にも失礼、孫にも過剰な思い入れになる。そんなことなら数年後の「新しい歌舞伎座」で花やかな襲名の数々に立ち会いたいと夢見る方が楽しい。そんな楽しみに力づけられて、もう幾つか小説で「実験」を重ねながら、さらにわたし自身がわたしの度肝を抜くような小説を書いて、せめて親しい読者や知人の動悸を速めてみたいものだ。
* 夕方、疲れて、知らぬ間に寐つぶれていた。
2010 6・6 105
* 詩に曰く、 (『忠義水滸伝』第七回)
世に在り人と為りて七旬を保つのみ
何ぞ労せん日夜に精神を弄(はたら)かすを
世事到頭、終(つい)に尽くる有り
浮花の眼を過ぐるがごとく総べて真に非ず
貧窮も富貴も天の命(めい)
事業も功名も隙裏の塵
便宜を得る処(おり)にも歓喜する休(な)かれ
遠くは児孫に在(むく)い近くは身に在(むく)ゆ
* さて、現実問題としては、悟り澄ましてもおれない。
この「私語」は、これから四十日ほど、折に触れ修羅の炎を巻き上げるだろう。頭の整理には、「闇に言い(書き)置く」のが一等効く。どうか、苦々しく思う方は当分の間この欄へのアクセスを中止されるようお奨めします。
* 世にもまれな、娘夫婦の「被告」としてこの私は法廷に立つ。
いったい、なぜ、そのようなことになってきたのか、わたし自身、経緯を顧みておかねば、尋問に答え泥むことになる。頭の中で思い出しているだけでは効果がない。書いて、記録し整備して、自身納得しなければならない。
真っ向、立ち向かう。
それが一等素直で正直な仕方だと信じている。
わたしが、娘夫婦を訴え、巨額の賠償金を請求しているのではない。父親を被告席に呼び出して賠償を請求しているのは、青山学院大学国際政経の教授(婿)と、町田市の主任児童委員(娘)である。教育や教導に携わる公人の彼らが、裁判沙汰にしているのである。
では、この公人たち、いったい「何を主張」して父親を訴えているのか、そんなことから、わたしは「復習」しておかねば、被告席で無用に立ち往生しかねない。
幸い、作家であるわたしには、関聨の著書も何冊も在る。この日録「生活と意見」も十数年来完備している。すべてホームページに公開してあるから、裁判員に準じて下さる方は、青山の職員・学生も町田の先生・市民も、ご自由に閲覧して下さい。きちんと名乗って質問して下さるなら、答えられる限り答えたい。
そういうことの、気にくわない方は、どうぞこの「闇に言い置く私語」から、このさき、当分、耳を塞いでいて下さい。
私には、これも作家の「仕事」のうちなのです。「仕事」である限り、誠意を尽くして努めねばなりません。
2010 6・6 105
* 終日、不愉快仕事に没頭していた。もう夜十時半。何度も不愉快ゆえの腹痛に呻いたが、原因が分かっているので、対応の投薬も相応に効果がある。器質性の病変が無くても、不愉快ゆえに胃に穴のあくぐらいは承知しているから、そうならないでやり過ごすスベも心得ていないといけない。
* わたしは「被告」として尋問を受ける。自分の弁護士からも、娘夫妻の弁護士からも受ける。資料を持参していいのなら、あらゆる形で完璧にちかく大量に揃っているが、素手で立つのであろうから当座の臨機応変で答えねばならない。講演のアト質問を受けるのとは様子は違うだろうが、忘れたことは忘れたと言う。なにしろ、今階下で観ていた映画の出演者の名前ですら、二階へ来るともう思い出せない。
『恋愛適齢期』のジイさんはジャック・ニコルスン、バアさんはダイアン・キートン。覚えていた。女の監督は、忘れた。軽量映画であった。
☆ 詩に曰く (『忠義水滸伝』第十回)
天理昭昭、て誣 (あざむ)く可からず
奸悪を持って良き図(はかりごと)とおもい作(な)す莫かれ
自らは謂(おも)えり冥中に計を施すこと毒(むご)しと
誰か知らん暗裏に神有って扶けんとは 1-333
* また、明日、苦闘する。幸いいま腹痛無し。日付がやがて変わる。
2010 6・7 105
* 二十数年前の今日、帝国ホテル光の間で娘華燭、結婚披露。読者であった当時の総支配人が「光の間」で祝って下さった。嗚呼。
2010 6・8 105
* さて、不愉快仕事の一つの段落を終えた。こうして頭の整理がついて行く。
なにしろ裁判の中から産出されたA4判の原告から被告からの提出文書は、積み上げれば、下からわたしの頤を突き上げそうに多い。なんという勿体ない「紙」たちであり、なんという勿体ないそれのために双方で費やした「時間と精力」であろう。
わたしは作家であるから、それらをすら何かの原材料や刺戟として活用できないわけではないが、五十にもなる娘のためにはあまりに惜しい人生の浪費ではないかと想う。いったい、こんなことから彼女には「何が産出」されるのだろう。ひとえに夫である男の判断や叡智の貧しさが、かかる蟻地獄への墜落を実現したのではあるまいか。
* 以下は、 原告である娘夫妻が提出の証拠文書である。日録『文学と生活』(2006年6-12月)(秦 恒平のホームページ)の全日録のうち、「傍線・原告★★による」の施されていた個所(太字)を含む当日の記事である。6月分には傍線がない。
いったい傍線部分の何が、何処が、実父・岳父への訴訟と賠償に相当する記事であるのか、あらためて私の判断材料としたい。
* *
★ 平成十八年(2006)七月分 整理済み iken0-5.html へ
* *
* こういう「復習」を余儀なくされている。永きに亘って降りかかっている火の粉で、払わねば無用にヤケドをする。勝つの負けるのは考えていない。「いま・ここ」がそれを命ずることなら、懸命に努めるのがわたしの作法である。
なにしろ被告ではあるが自分からの関心事ではない。たいがいなことは忘れているし忘れたいのが本音である。
だが、忘れていては「被告」という「配役」が務まりませんといわれれば、セリフ覚えではないが、ことのおおよそは把握していなければ、たださえこのごろ物覚えが悪いのに、ブザマに証人台で立ち往生することになる。立ち往生ぐらいして恥ずかしいわけでは少しも無いのだけれど。
* 建日子が、ポータブル新鋭の機械を買ってくれた。
昨日メールが来ていて、今日もう業者から配送されてきた。望外のこと、感謝感謝。
外でも使える超軽量の機械で、はんぶんマニアのような建日子が気に入って自分でも欲しいと想っていた機械だそうだ。
まだ包装を解いただけで、いじっていない。設定など、むずかしいことに今の私の頭はとても働かない。すこし気の静まったときにおそるおそる機械化したい。サンキュー・ベリマッチ
2010 6・8 105
* 今日も耐えがたい作業の中で「いま・ここ」の自身に立ち会ってきた。人から身を逸らしたり躱したりは出来るけれど、自分に対しては出来ない。真向かうときは向かうしかない。
* 忠義水滸伝より
万里の煙波と万里の天
紅霞遙かに映ず海東の辺
魚を打(と)る舟子は渾(す)べて事無く
酔うて青き簑を擁(かぷ゛)って自在に眠る 10-14
2010 6・9 105
* 夕食後に新しい機械を開梱し、電源を入れるまでは入れたが、不慣れなキーボードで行き詰まり、はるか設定へも運用へも届かない。機械は苦手だ、使い慣れるまで行くか知らん。軽量の華奢な機械だ。
わたしの場合、何よりも字が、言葉が自在に書けるようでなければ役に立たない。習うより慣れろの初歩に帰っている。ただしこれに時間を取られたくない。その点、今此の永年使ってきた機械には何とも云えない愛着がある。
2010 6・9 105
* わずか四年前、想像を超えた悪路を歩いてきたのだと分かる、そして、今も尚。
今日も、終日、四年前の「十月」の日録を繰り、娘たちが何かしら(意味不明であるのだが)気に掛けたらしいチェック個所を太字に変えて行きながら、前後の文脈から当時のわれわれの日々の悲しさや惨さを思い返していた。こんなことちっともしたくないが、しておかねばならないのである、「被告尋問」を受けるために。ま、久しぶりにテストを受けるようなモノか、但し落第は無い。どうであろうとわたしは通過要事としか考えていない。
* その一方で宮崎県の口蹄疫拡大の報知にまた別様に胸が凍る。警察が行く、自衛隊が行くのも分かるが、こういうハメに、学者の学問が併行して役に立たないのだろうか、立って欲しいと切に願う。祈る。
2010 6・10 105
* 建日子が選んでおくって来てくれた軽量のソニーの新鋭機VAIOパソコンが、さっぱりどうにもママならない。ウインドウズが画面に現れない。わたしの場合、とにもかくにも文字と言葉とで文章が書けなければ話にならないが、ワードでもいい一太郎でもいい、そういう画面に到達しない。マニュアルをよく読むべしだが、いま、とても読める根気がない。宝の持ち腐れの有様で手に負えない。今の此の機械から新機へホームページを移転し、インターネットも出来るようになるのは、ハテ、何時のことやら。首をすくめている。
2010 6・10 105
* 四年前の十月は、「民事調停」のために老夫婦で町田市まで出掛けねばならなかった。そして十一月、十二月。何の役にも実は立たなかった。何がどうしてどうなったか、一片の公文書も渡されず、代理人の説明もなく、「不調」とだけ伝えられた。われわれにはギチギチと細かにやかましい「法」が、かなり杜撰なものだとガッカリしたのを覚えている。
2010 6・10 105
* さて不愉快仕事の第二段階を、今日で通過したい。
もう今朝は、「湖の本」新刊の刷り出しが届いている。月曜には出来本が届いて、すぐ「発送」という筋肉労働になる。
もう三日、出来るところまで不愉快仕事と付き合う。愉快ではないけれど、すこし観点と姿勢とをかえれば、あたかも「不愉快コンチェルト」という創作性の濃い楽曲を自ら構成している気もする。コレって、コレも創作の「実験」みたいだと思えてくる。
このファイルが重くなるので、七月から九月分までは暫定「iken0-5.html」に一括移転した。十月には、★★夫妻によるわたしの「ホームページ壊滅工作」が以後一ヶ月近くにわたり実現した。法廷命令により「回復」され、しかし直ちにわたしはサーバーを見限って息子の配慮下にホームページを移転した。
この問題は、実に社会的にも重大で「反響」も凄いほどだった。わたしは作家であり、思想信条・言論表現の自由と権利、著作する人格権のもとに多年活動してきた。ましてホームページには著名な著作者達を含む多数作品の掲載されて「e-文藝館=湖(umi)」も含まれていたのが容赦なく悉く「消去」されてしまったのだ。
その問題の大きさに鑑みて、当時のわたしの日録から要所を此処に部分再録しておくのである。
* *
★ 平成十八年(2006)十一月五日 日
* 朝、インターネット稼働せず。メールも開けない、送れない、記事の更新もできない、「MIXI」も開けない。
* あきらめて世田谷の国立能楽堂「友枝会」に。「お目当て友枝昭世の「花筐」が始まるまでの休憩中に、堀上謙さんに声をかけられた。ホームページを連日読んでいて心配している、あまりのことに声もかけにくくて。夫婦して心配しているが元気か、大丈夫か、と矢継ぎ早に。ウーンと心が萎れた。
次いで馬場あき子さんともしっかり立ち話。元気か元気かと先輩の馬場さんに心配させているのも、みな、わたしの置かれている理不尽な苦境をご存じなのだ。馬場さんと堀上さんとは親しいお仲間。馬場さんは相変わらずお元気そう。もう四十年ちかいお付き合いになる。優しくされて、やり心は萎れた。
あわやという一瞬、早大教育学部教授、小林保治氏とオオウと廊下ですれ違う。夕日子(娘の仮名)たちの仲人さん。
* 次ぎに萬と万蔵との狂言「牛盗人」まで二十分。わたしは、どこか気が萎えていて、休憩の二十分をガマンできないと感じたので、あとの「猩々」もともに失礼し、国立能楽堂を去ってきた。
池袋で、最上等とふれこんだ黒豚のトンカツを食いながら、当面気がかりな校正に熱中、しかしさすがに豚が美味くて、もう一人前追加しビール生搾りを二本。
* 辛うじて機械復旧していたものの、まだ不安定で不安。
☆ バルセロナの京 恒平さん、多摩川到達おめでとうごさいます。サイクリング記、わくわくしながら読んでいます。
野川公園に行き当たったところで、私も思わず地図を探してみました。恒平さんを追いながら、すっかり一緒に走っている気分です。
ついに多摩川に到達したときには、グーグルアースで是政橋を確かめ、とても嬉しくなりました。
多摩川には、大岡山(東工大)にいた二年間、どれだけ頻繁に通ったことでしょう。二子玉川園の駅を降りてから、土手に出るまでの逸る気持ちが、恒平さんの奮闘を読んで、甦ってきました。
とてもとても懐かしいです。 京
* みな、これは、激励なのである、わたしへの。堀上さんが能楽堂の廊下で、溢れるようにして口を切ったのも、ホームページを読んでいるとあんまりつらくて秦さんに声のかけようがないというのも。そうなんだろうと思う。
アイサツのすべが無い、それほどむちゃくちゃになっていて、何で…と呆れてしまいながら、状況の烈しさに思わず目を覆いたくなるのだろう。それが分かっているので、優しくいたわりの声が掛かると、またひとしお気が萎える。
少女の頃、実の父に、病死した母のあとを追って自殺されているわたしの妻は、だから決して自ら死ぬというようなことは言わない人であったが、先日、「こんどばかりは、そんなわたしでも、もう生きているのがいやになりそうだったの」と、ほろりと漏らした。夕日子は父のわたしだけでなく、家裁への提出文書には、母親への容赦ない憎念をさえ書き込んで憚らない。どうなっているのか。
- (承前) ★★夕日子の申立て条々に答えて 以下に終える。
交流の途絶 時期未詳
インターネット上で、「孫への呼びかけ」を開始。詳細は別紙。
プライバシー侵害、名誉毀損、迷惑行為、未成年者への精神的加害。 ★★★夫妻
* このインターネットの時代に、祖父母がわりなく逢えないでいる可愛い「孫」に、もし、仮に事実呼びかけたとして、その心情と方法とに、何の問題があるだろう。成長した子たちの自由な判断や行動を妨げている親こそ可笑しいとすべきだろう。
また「時期未詳」というかかる具体性を全く欠いた提示、それ自体が「虚言」であることを証している。
時期未詳
★★夕日子の過去の著述を無断改変の上、無断で自営利サイトに公開。
著作権侵害、著作人格権侵害、プライバシー侵害
* 「ねこ」その他の「秦夕日子」名の殆どの著作は、すべて秦家の娘時代のものであり、嫁いだ娘を実家に記念すべく、いずれも「親族」死者に対する「供養」の欄に収録していたし、多年に亘り、一度の異議も受けていない。
* 掲載作は、すべて編輯者であり父でありプロの作家である秦恒平が、作品の出来をいささか評価し、誤字または不体裁等に編集行為を加えて形を整え、あえて「公開と保存」をはかったものであり、無名の作者の作がすこしでも「いい読者」の目に触れるよう親心ではからったもの。
親として十分許される範囲の配慮であり、事実これにより読者からも「秦夕日子」の名は記憶もされ、作品も相応に好評を得ていたのである。こういう夕日子の態度は、情理に欠けた非人格的な言動として、笑止である。 (太字は、原告主張を示すためか、傍線でチェックしている個所。)
これら作品は、初めて掲載に苦情があったとき、即座に全部消却した。いい読者に「読まれる機会」を、狭量に拒み、惜しいことをしたものである。
なお秦のこのサイトは「営利」目的のものでは全くない。公開作品の総てが秦の思想と主張にもとづいて、すべて「無料公開」であることは広く知られている。
- 2006年1月
★★夕日子が匿名で連載していた著述を無断改変の上、実名を特定して無断で自営利サイトに転載。★★夕日子の明確に判別できる顔写真を併載。
著作権侵害、著作人格権侵害、プライバシー侵害、肖像権侵害
* 多くの作家志望者が「羨望」した、父親による好意の裁量であったが、当初来、作者の申し入れがあれば当然削除すると明示してあり、読者に事情を明らかにしてとうに削除済み。当該頁を参看あれ。著作者以前の{習作水準}にあるものを、あえて「e-文庫・湖(umi)」にとりあげた父の配慮も理解できない思い上がった物言いに失笑する。自称「女流作家」である由、これにも失笑する。
- 2006年7月以降
インターネット上で「★★は娘殺し」キャンペーンを展開。詳細は別紙。
* 孫・やす香の死と同時七月二十七日より直ちに、私は、自著『死なれて死なせて』 (死の文化叢書・弘文堂)の一冊を「MIXI」日記に連載し、死なれ・死なせて死を悼む「mourning work 悲哀の仕事」(精神医学の述語)に宛て始めた。同時に日本語を誤解している★★夫妻の「理解」にも備えた。
さらに念を入れ、八月三日には、同じ「MIXI」日記に、「死なせた は 殺した か」という一文を書き、★★夫妻に理解を求めている。
「死なせてしまった」という自責の念をしめす日本語が、どうすると手を掛けて「殺した」「殺人」「下手人」の同義語になるのか。ふとしたことで「死なれた」親を、また子や孫や教え子を「死なせてしまった」と嘆いて自身を責めている人は世に幾らでもいる。★★★は、かりにも哲学を教える青山学院の大学教授、夕日子はお茶の水の哲学に学んだ学士ではないか、しっかりし給えと言いたい。
以下に「MIXI」に書いた一文を添えるので、自身の日本語理解の貧しさを反省して欲しい。
「MIXI」2006年08月03日 「死なせた は 殺した か」 そんな単純なことではない。 湖
そのむかし、わたしの「身内」の説(文壇・学界では秦恒平の「身内」の説として知られている。)を、小学生のように誤解したいい大人(=★★★氏)が、人も驚くヒステリーを起こしたことがあるが、今度は、私の著書『死なれて死なせて』の、その「死なせて」という意味が理解できずに、(舅姑である=)わたしたち老夫妻を名誉毀損で刑事・民事ともに訴訟すると「警告」してきた。
我が子やす香に自分らは「死なれた」のに、それを「死なせた」とも言うのは、「殺した=殺人者」と言われているのと同じだ、謝罪文を書けと言うてきたのである。
やす香の血を分けた祖父でも祖母でもある、わたしや妻も、何度も何度も、今日も、只今も、あのだいじな「やす香を、手が届かないまま可哀想に死なせた、死なせてしまった、自分達にも何か出来ることが有ったはずなのに」と、繰り返し悔いて、泣いて、嘆いているというのに。
どうなってるの。
べつに講義する気ではないが、わたしは、わたし自身孫やす香を「死なせた」悲しみのまま、いち早くすでに「MIXI」に『死なれて死なせて』を連載して、わずかな心やりにしている。
やす香のお父さん 逆上する前に静かに読めば、大学の先生たるもの、「死なれて」「死なせて」の意味の取れぬわけ、あるまいに。
人が、人を、「死なせ」るのは、いわば人間としての「存在」自体がなせる、避けがたい業苦であり、下手人のように「殺す」わけではない。いわば一種の「世界苦(Welt Schmerz)」に類する不条理そのものである。大は戦争責任をはじめとし、ぬきさしならない身近な愛の対象に「死なれる」ときは、大なり小なり「死なせた」という悔いの湧くのが、状況からも、心理的にも、あたりまえなのであり、むしろそういう思いや苦悩を避けて持たないとしたら、その方がよほど鈍で、血の冷たい非人間的なことなのである。
本来はまずそこへ気づき、落ちこみ、苦しみ、藻掻いて、そこからやっと身や心を次へ働かせて行く。むずかしいことだが、そこに生き残った者の生ける誠意があらわれる。
しかし、そういうキツイ自覚には至りたくない。身も心も神経もそこから逸らして、そういう痛苦には「蓋をして」しまい、辛うじて息をつく。無理からぬ事ではあるが、「死なれた」という受け身の被害感にのみ逃げこんで、「死なせた」根源苦に思い至らないようでは、「人間」は、その先を、より自覚的に深く深くはとても「生きて」行けないのである。
人とは、死なれ死なせて、その先へ真に「生きて」ゆく存在だ。ティーンの少女でも、分かるものには分かる。
連載合間の妙なタイミグではあるが、余儀なく、『死なれて死なせて』の刊行時後記を含んだ、湖(うみ)の本版のあとがき「私語の刻」をこの位置へはさむことにする。
「死なせた は 殺した か」。バカな。そんな単純な事じゃない。
著書『死なれて 死なせて』の跋(私語の刻) 秦
こう書けば、一切足りていたのである。
「死なれるのは悲しい、死なせるのは、もっと辛い。しかし、だれに、それが避けられようか。避けられないのなら、どうかして乗り越えねばならない。それにしてもこの悲しさや辛さは何なのか。すこしも悲しくない・辛くない死もあるというのに。愛があるゆえに、悲しく辛い、この別れ。愛とは、いったい何なのか。」
これだけの事は、これだけでも、理解する人は十分にする。そのような別れを体験したり今まさに体験しつつある人ならば、まして痛いほど分っている。
だれに、それが避けられようか。避けられないのなら、どうかして乗り越えねばならない。そのきっかけに、もし、この本が役にたつならどんなに嬉しいかと思って書いた。 (略)
単行本に上の「あとがき」を書いたとき、わたしは、その十月一日付け東京工業大学の「作家」教授に新任の辞令を受けたばかりで、ありがたいことに授業は翌春四月の新学期からと言われていた。そして四月の授業を開始のちょうどその頃、朝日新聞の読書欄に、この新刊は「著者訪問」の大きな写真入りで紹介されていた。学生諸君に自己紹介のまえに、新聞や、テレビまでが、わたしを、この本とともに紹介してくれていた。本もよく売れて版を重ねた。「死なれる」「死なせる」は、「身内」観とともに、わたしに創作活動をつよく促した根本の主題であった。
笑止なことに、親子とて、夫婦とて、親類・姻戚だからとて、容易には「身内」たり得ないと説くわたしの真意を、粗忽に聞き囓り、疎い親族や知人、遠くの人たちから、お前は「非常識」に、親子、夫婦、同胞、親戚を「他人」扱いするのか、そんなヤツとは「こっちから関係を絶つ」と、手紙ひとつで一方的に通告され罵倒されたりする。「倶に島に」「倶会一処」の誠意を頒ち持とうとは、端(はな)から思いもみないこういう努力の薄さから、どうして「死んでからも一緒に暮らしたい」ほどの愛情が生まれよう。真の「身内」は、血や法律で、型の如く得られるものではあるまいに。
「身内」はラクな仲では有り得ないと、「生まれ」ながらにわたしは識って来た。
誤解を招きかねない、場合によって破壊的な猛毒も帯びた我が「身内」の説であるとは、さように現に承知しているが、また顧みて、どんなに世の「いわゆる身内」が脆いものかは、夥しい実例が哀しいまで証言しつづけている。その一方、あまりに世の多くの人が、とくに若い人が「孤独」の毒に病み、不可能な愛を可能にしたいと「真の身内」を渇望している。
よく見るがいい、人を深く感動させてきた小説(源氏物語・心・ファウスト・嵐が丘等)や演劇・映画(天守物語・真夜中のカーボーイ等)のすべては、わたしの謂う「身内」を達成したか渇望したものだ。根源の主題は、愛や死のまだその奥にひそんだ、孤独からの脱却、真の「身内」への渇望だ。あなたは「そういう『身内』が欲しくありませんか。」わたしは「生まれ」てこのかたそんな「身内」が欲しくて生きて来た、「死なれ・死なせ」ながらも。子猫のノコには平成七年夏に十九歳で死なれた。九十六歳の母は平成八年秋に死なせてしまった。
この本の出たあと、読者から哀切な手紙をたくさん受け取った。ひとつひとつに心をこめて返事を書いた。いかに「悲哀の仕事=mourning work」でこの世が満たされていることか。愛する伴侶に死なれ、痛苦に耐え兼ねて巷にさまよい、日々行きずりに男に身をまかせてきたという衝撃と涙の告白もあった。この本の題がいかにも直截でギョッとしながら、大きな慰めや励ましを得たという便りが多くてほっとした。たくさんな方が、悲しみのさなかにある知人や友人のため、この本を買って贈られていたことも知っている。 (後略)
思い出す。この単行本が本になって、いよいよ東工大で初授業の頃に、すでにわたしたち娘の父母、初孫やす香の祖父母は、婿の★★★から乱暴に「離縁」され、以来十余年、まことに不幸で無道な別離を強いられた。
同じその人物が、「死なせてしまった」の意味も掴めないで、今度は「殺人者」といわれたなどと、刑事と民事と双方で娘の父母、やす香を心から愛した祖父母を「告訴」すると言ってきたのだから、また呆れてしまっている。 どうなってるの。 「MIXI」より
- 北里大学病院に対する営業妨害、 ★★
* 北里大学病院から一言半句も、その様な抗議など受けていない。何の根拠とどんな権利とで★★夕日子氏が「営業妨害」などと言えるのか、北里大学と連名での正式回答を求める。われわれは病院主体とただ一度の接触もしていない。
- 著作権侵害、著作人格権侵害、プライバシー侵害、肖像権侵害
- 故人・遺族に対する名誉の毀損、未成年者への精神的加害
- 各種違法、非道行為に対して抗議を行ったところ、それらの私信もすべて改竄のうえ、事実無根の解説を付けて公開。
- 私文書偽造、私信開示、名誉毀損、プライバシー侵害、著作権侵害、肖像権侵害等々
* 事実を正確に物証を提示して発言すべきである。知る限りの文字と言葉とを口から出任せに羅列した愚癡の申し条に過ぎない。
- 秦恒平・迪子によるこれらの行為はすべて、★★夕日子に対し幼少より継続する虐待のバリエションです。秦はこれを「愛」と呼びます。どんな残虐な行為にも、ひとかけらの自責の念も湧きません。それどころか、「愛」を拒絶することこそ「悪」だと主張するのです。★★夕日子はこの抑圧的ドグマの中で成長し、結婚後長く、被虐待による心的後遺症に苦しみました。今は、その抑圧構造を離脱した「悪者」として、日々ネット上で公開リンチにあい続けています。
* この前段については、冒頭に写真等を添えたくわしい秦の主張で、総て覆し得ている。「虐待」「残虐な行為」の何一つも具体的に語らない、ただの一方的な出鱈目な言葉の羅列。こんないい加減で野放図な物言いからなら、どのような「家庭教育」や「躾け」ですら直ちに「虐待」「残虐な行為」になってしまう。これぞ娘の親に対する名誉毀損である。
「日々ネット上で公開リンチ」に遭っているという実例を、夕日子と向き合って、いちいち検討してみたい。「日々」も過剰なら「公開リンチ」も品がない。よほど我と我が「心の鬼」に疼いているのであろう。
* むしろ逆に糺したい。「MIXI」の「木洩れ日」「思香」名義での「隠し」日記に、実の父親を「性的虐待者」などと人権侵害・名誉毀損の虚言を書き散らしてきた、あるまじき無礼・非礼は、どうその事実を証明して主張するのか。明快に答えて欲しい。
* 或る識者は、夕日子氏はただもう遮二無二ものを言い募ろうとし、必ずやどこからどう観てもウソでしかない「性的虐待」までを言い立ててきますよと以前から「予言」していた。
* またある人は、およそものごころついて二十年(四十年!)も暮らしていれば、どんな家庭・親族でも、お互いにバカを言い立てる気になれば何にでもこじつけられるもので、四十六歳のインテリ夕日子氏としては、じつに幼稚にこどもじみた無意味なことばかり言い立ててますねと嗤っている。同感である。
- 現在、私(=★★夕日子)は主任児童委員として、被虐待児を保護する立場におります。虐待は肉体的な傷害をもって初めて発見されることが多く、心的被害、性的被害については、その発見・保護が難しい分野です。また、たとえ一時的に保護を受けたとしても、「親子」の関係は一生涯ついて回ります。措置期間が過ぎれば、結局、「親元」に返されてしまう。「私は親なんだぞ」という脅迫が、多くの子供たちを傷つけ、しばしば暴発の事件に至ります。他人ならば処罰、夫婦なら離婚という措置があるのに、親子の呪縛は一般に、いずれかの死をもってしか、解除されないからです。
* 「主任児童委員」氏にぜひ尋ねたい。秦の日録に、やす香の「病気に悩む日記」の一部が掲載されているのを、プロバイダに愁訴し、こともあるに、秦の厖大なホームページを「全消滅」させた、その本当の「意図」は何処に在ったのか、と。
よう答えまいから、代わりに追究することにしよう。
* ★★やす香が、2006.1.11日以来、自身「MIXI」に半年に亘り報じ続けた、「痛苦の劇症日記」を逐一読み直すといい。痛苦の初記述から入院に至るまでの六ヶ月、実に、ただ一度も父親にも母親にもその悲惨な苦境を「労り・案じられた」旨の記事が、やす香の日記に無い。たったの一行も無い。それどころか苦痛を背負ってやっと遅く帰宅したやす香は、「スパルタ母さん」のウムを言わさぬ言いつけで、母親自身が犯したダブルブッキングの請負仕事を、急遽「半分」手伝わされたと慨嘆していた。やす香が「母親」に触れた記事はその他には殆ど全く無いのである。
「やす香日記」をふつうに読んで、あまりの悲惨さに愕くとき、この「両親・家庭」の冷淡きわまりない「病状放置」としかいえない所業こそ、文字どおり「虐待」「残虐な行為」に等しい印象を与えてくる。「主任児童委員」で「虐待児保護」の★★夕日子氏よ、ひた隠しに此の半年間の「冷淡な虐待行為」に反省の弁を欠いてきた理由は、この大言壮語を「自ら裏切っていた」からではないのか。
* そればかりでない。全く同じ期間に書き継がれていた、主任児童委員「★★夕日子の<ぬぼこ>名義のブログ日記」が存在する。二月二十五日(平成十八年、やす香行幸が祖父母と雛祭りをしていた日である。)に初めて立ち上げたそのブログの中で、夕日子が「やす香入院」に至る六月半ばまで、トクトクと書きつづった日録・著述には、ただの一個所・一行も「我が子を案じる」記事が無い。名前すら無い。全然無い。
記事は大方が、玉川学園あたりの地域「コーディネータ」としての奔命に終始していて、重い病状に悲鳴を上げている我が子には、ひたすら無関心、ひたすら無視、愛ある一顧だに与えていた形跡が無い。精神的・肉体的な具体的な「虐待」「残虐な行為」ととられても全く抗弁できないであろうほど、平然、我が子をネグレクトしていたとしか読めない。
親に労られる感謝と安堵の影一つ言葉一つない、死を目前にした「★★やす香日記」と。
我が子を案じ労るただ一度の行為も、愛の言葉も、温かくさしのべる手も、優しい視線も、それどころか我が子の名前すらも影のささない主任児童委員「★★ 夕日子日記」と。 この二つの日記を「合わせ鏡」に逐一日付を追い照合・検討して行くと、「主任児童委員」の「虐待児保護」の自負たるや、極めて偽善的にいいかげんなことが、やすやす暴露されてしまうのである。
よく安いテレビドラマにある、社会的・教育的に地位ある母親(父親)が、我が子に対しては愛ある一瞥も与えず放置し無視し虐待していた、まさにその顕著にヒドイ実例を、町田市在住主任児童委員・★★夕日子氏は、現に事実演じていたと断ぜざるをえないほど、二つの「日記」の「合わせ読み」は、ミゼラブルなのである。
その事を実に端的に示しているのは、この母親夕日子が、娘やす香の「入院」をいつどうして知ったか、「ぬぼこ」名義、夕日子本人の「ブログ日記」七月一日記事であり、唖然とする。半年にわたるネグレクトのそれが「終点」にほかならなかった。★★夕日子氏と夫★★★氏とは、まだ未成年である我が子の「愛育」責任から、目を放し、手を放して顧みなかったのであり、その大きな逸脱と無責任を人に見られまいと、六月以来ひたすら「恐怖」していたのではないのか。
だから「死なせた」という、語彙としては尋常な言葉にもまさに跳び上がって激昂したのだろう。
それが、秦恒平のホームページを「全抹殺」に出た何よりの狙いであったろうと私は推量している。当たらずとも遠くはない真相と想い、怒るのである。
そこで、★★夕日子主任児童委員、虐待児保護に任じると自負する人間の、「七月一日」日記を掲げてみる。一読歴然としている。もう旬日にして「肉腫」と決定的に診断されるほどの愛児を、母親は、まるで深切に顧みたことが無かったのが分かる。我が子がたいした病気とも直観できていなかった、それよりも地域の「仕切り仕事」に夢中であった。「虐待」を語る人間の資格など、全然無かったのだ。
Posted by ぬぼこ(=★★夕日子) at 08:40 | 娘 |
並行宇宙 [2006年07月01日 (土)]
ふれあいサタデーに向けて駆け回る私に 一本の電話が入る。
体調不良で でも、「どこも悪くないですよ」と言われつつ、幾つかの病院をめぐっていた長女の その「不調の原因を突き止めてくれた病院」がある そこに入院するという電話。
ありがたいニュース………・のはずだった。
だがその病院に駆けつけて以来 私はほとんど病院を出ていない。洗濯のために家に2回帰っただけ。
仕事に大穴を開けたあげく、幾つかのオファーをキャンセルする。
流れていた時はすべて断ち切られ、過去はすべて邯鄲の夢であったように、並行宇宙での活動であったように、
今の私に繋がっていない。
こちらが夢ならいいのにと思う。
ふっと目覚めたら、梅雨の蒸し暑い空気のよどむ、自室のベットの上ならいいのにと思う。
だけど、病院にパソコンを持ち込んで、私は試みる、この宇宙と、あの宇宙をつなぐように 病院の窓際に座る私が現実であると同じように (玉川=)がくえんという街と、そこでの活動を 私の現実として取り戻すために。
ブランクはたった2週間だ。
二者択一でなくていいはずだ。
私は負けずに進んでいこう。娘が闘っているように、私には私の闘い方があるだろう。
この直前の「ぬぼこ」日記の日付は、六月十四日。その日の記事内容にも、それ以前の大量の日記にも、やす香の「や」の字も見当たらない。そして七月一日の「二週間前」に至り、「体調不良で でも、『どこも悪くないですよ』と言われつつ、幾つかの病院をめぐっていた長女」と、 これだけだ。
やす香はあの激痛の苦境の中で、なお斯くも孤独に、医者へ、病院へ、這うようにして出掛け、この日、やっとやっと「その『不調の原因を突き止めてくれた病院』がある そこに入院するという電話」を、初めて母親にかけている、嗚呼。
夕日子には寝耳に水だったようだ。いろんな状況から、これが六月十六日頃と推量され、六月二十二日には愕くべきことに、やす香自身が「白血病」と「MIXI」に告知した。これが、事実だった。
「目を離していた」どころではないのだ。
「ブランクはたった2週間だ」と主任児童委員は言う。
何の? やす香の病状から「完全に目を離していた六ヶ月」の「ブランク」の意味とは、とても取れない。玉川学園あたりの「ふれあいサタデー」のことだ、しかも「(娘と「ふれあいサタデー」とは)二者択一でなくていいはずだ」と断言している。重みはどっちも同じという価値評価だ。これが、孫を見舞った自分の母親にむかい、白血病なんて「なおる病気よ」と呟いた夕日子の「子・やす香の命」にかけた、語るに落ちた「価値判断」だった。夕日子のこの「ブログ日記」は、むろん全記録してある。
- しかしながら、私★★夕日子が求めるのは、長年にわたる虐待や親族内の紛争への裁定ではありません。
* 当然である。虐待の事実など、事実「皆無」と、本人がいちばん承知しているからだ。主張できるワケがない。
そして過去の両家紛争が持ち出されれば、未完未定稿の仮題小説「聖家族」が、フィクションながら取材たしかに真相を適切的確に示唆表現していて、「暴発(妻・夕日子の批評)」した夫の言語道断な非礼と乱暴とは総て明らかになり、「謝罪」必至の事態になるからである。みごと、語るに落ちている。
- 現に今も日々継続されている、純然たる違法行為についてのみ、抗議し、対応を求めております。改善されない場合の法的措置は当然の権利と考えます。
また、このようなネット上での虚言常習者に対して、極めて繊細な個人情報である長女の病状鋭明など、断じてするつもりはありません。
* 孫・やす香の半年にわたり、また死に至るまでの事情は、「★★夕日子ブログ」が「娘」と題した六回のカテゴリにより、ほぼ明らかにしている。凡そ想定内のことであり、今更賛意・不賛意を述べ立てても孫の命は「死なしめ」られており、戻って来ない。
言葉の正しい意味で「極めて繊細な個人情報」とは、ウソ偽りない生前の「やす香「MIXI」日記」をこそ謂うのである。「主任児童委員」で「虐待児保護の専門家」を★★夕日子が厚顔に僭称するなら、まず我が子の「病悩日記」を繰り返し読誦して反省するのが先であろう。
- 私は、「愛」を騙る秦の暴力から、長女を守りきることができませんでした。そして今また秦は次女に対して、「愛」を振りかざし襲いかかろうとしています。14歳という年齢で最愛の姉を失った次女が、これ上、心に傷を負わされることは、絶対に防がなければなりません。しかし現に今もたくさんの誹誇中傷記事がインターネット上に掲示され、次女の心を責めさいなんでいます。
* まさしくこれを「責任転嫁」という。
親に秘して自発的に祖父母を再々訪問し、ともに食べ、ともに観て楽しみ、ともに買い物して、嬉しかった、やす香。高校の卒業にも、大学の入学にも、外遊にも、誕生日にも、お祝いや小遣いを祖父母が微塵惜しまなかった第一の理由がある。過剰なアルバイトで躰を毀して欲しくなかったから。そしてやす香は素直にいつも感謝してくれていた。
それでもやす香は「金欠」を訴えていた「MIXI」に。
「病院にいけばお金がかかるだろうな」と自身の懐を覗き込むような可哀想な言葉も日記に読み取れる。親の裁量すべき領分ではないのか。
* 大事なことを言おう。
やす香が「過剰な」アルバイトに奔命したのは何故か。やす香は「一言」でいつも我々に言った、「★★という家を出て「独立したいから」と。祖父も祖母も叔父も直接やす香の口から聴いている。この年頃にはありふれた希望であるが、自分に無関心でいながら抑えつける親に不満と寂しさをもち、しかも「NO」と言えない無念をいつも抱いていた。
祖父達がもし「愛を騙る暴力」の存在であるなら、何故やす香や行幸に、両親に秘して遠方祖父母の家を訪れてくる衝動や理由が在ったろう。来なければ済む、それだけだ。
だが長女やす香だけでなく、次女行幸も、繰り返し姉とともに訪れ、お年玉に期待し、誕生祝いにも大喜びし、嬉々として雛を飾り、白番のおじいちゃんをみごと碁で負かし、メールアドレスを替えれば必ず祖父母に知らせてきたのである。
○ 2006.2.25の孫二人 行幸(仮名)の誕生日前祝い。 写真
○ やす香と祖父とは、この日「マイミク」の握手!
○ 冗談に大笑いのやす香は、もう、病んでいた。
* 同じこの日から、母夕日子は町田「がくえん」の「仕切り」役?
やす香と屡々メール交換したわたしの記録には、「やす香生彩」と大切に名付けて、今でもすぐ開ける。やす香の声が聞こえてくる。
★★家の母親・夕日子、父親・★★★は、言葉を憚らないで謂うならば、つまり娘達二人に、はっきりと「背かれていた」のであり、事実は動かしようがない。その理由は★★夫妻が謙虚に自問自答すればいい。祖父母が憎い孫なら、嬉々として保谷の家まで繰り返し訪ねて来る道理がない。親たちが、祖父母に「嫉妬」しているというだけの話である。出鱈目をどう言い募っても、やす香行幸ケも、おじいやん、まみいのもとへ「親にナイショ」ででも敢えて来た、断然来た、来ていた、のである。
* 次女行幸に対して、「愛」をふりかざし襲いかかろうと?
知性のかけらも無い何という滑稽で笑止な言い草であるか。やす香入院中に、行幸は、「梨を持って見舞いに来てくれてありがとう」と、自分からメールを呉れているし、返辞も送った。秦の日録に明記されている。そしてそれ以降は、やす香の病変急で、誰もが泣きの泪、祖父母に行幸と口をきく機会は皆無だった。
そしてその後はもう何の接触もなく、「行幸さんのことも忘れず案じてあげて下さい」という多くの「声」にも、我々は敢えていささかも動いていない。上の言いがかりは、口付きの卑しさまでが馬鹿げている。
* ★★★はかつて我々に向かい、自分は「人間として自由な教育」を受けてきたと広言した。けっこうなことだ。
しかしながら彼は、我々から娘や孫への手紙を、何度途中で奪い取り勝手に送り返してきたことか。娘が持っていた父の著書の全部を書架から奪い取り、自身で荷造りして送り返してきたのも★★★の仕事であった。娘はすぐ電話で謝ってきて、「残しておいてよ」と頼んでいた、だから、そのまま残してある。やす香に贈った冬の衣類まで奪い取り送り返してきた。
これが「人間の自由を尊重」する男の、ルソーに学び教える大学教授の振舞いか。高校生になったやす香の、大学生になったやす香の、当然の「自由行動」も許せなかったではないか。
* はや中学生で、何の問題なく祖父母を一人ででも訪れうる次女行幸の自由を、今も何故妨害しているのか。やす香は、親の「それがイヤ」と全身で語っていた。死なせてしまったやす香のそんな「内心」をほんとうに可哀想に思う。これは★★両親のまぎれもない「虐待」ではないのか。もしこれを親の躾けや家庭教育の範囲内というなら、夕日子未成年時の言い分もすべてそれになってしまう。自分は虐待され自分は虐待していないと厚顔に言うのか。
* 「NO」と言いたかったと、やす香は繰り返し日記にも書いている。譬えにもこれが祖父母への「NO」なら、彼女は親に隠してでも喜んで祖父母に逢いに来る理由が無かった。「家を出たいの」「だからアルバイとするの」とやす香はあんなにムリをしていたのである。両親の愛の乏しい「虐待」から守ってやれなかった祖父母の「死なせてしまった」という嘆きは、此処にも根ざしている。
- このままでは、過去40年継続された加害・違法行為が、未来においても我が家族を苦しめ続けることになります。
適切な麻酔策のご呈示をお願い申し上げます。 主任児童委員 ★★夕日子
* お互いに「没交渉」となればいい。我々はそれで十分だ。
中学生の行幸は、やがて大人の判断を自身で持つだろう。行幸にまかせ、われわれは一切干渉しないが、行幸が大事な孫の一人、亡きやす香の妹であることを、むろん祖父母は重く意識している。だが干渉はしない。★★夫妻とは没交渉がいい。それが何よりいい。 以上
★ 平成十八年十一月二十七日 月
* やす香が遠く逝って、今日で四ヶ月になる。『マウドガリヤーヤナの旅』をやす香に贈る。そう思って校正を終え、身のそばのやす香の写真に目をむけたら、双の眸がきらきらと輝いて笑んでわたしを見る。
惜しいお前をわたしたちはこの現世で喪った。泪はかわかない。
* 荀子は、人が身にまとうて膨れあがっている「蔽」つまり襤褸を「解」つまり脱ぎ捨てよと教えていた。およそ似たことは、優れた先達の多くが語ってきた。価値ありげに抱き込んでいたハリボテの多くが、音を立てバラバラと身を離れ落ちて行く、そんな感触にいまわたしは「襲われ」ている。
当然ながら素肌には寒い。漱石流の表現を借りれば「寒い=さびしい」に繋がる。この寒しさを堪えて通過して行かないと襤褸は身を離れない。この寒さに堪えるのを、断念だの諦念だのと勘違いしてはならない。それでは字義どおりの退屈になってしまう。退屈してはいけないと思う。「今・此処」に踏み込んで素肌で立って前へ脚を運ばねば。
容易でないとわかっている。心身脱落へ、さびしがらずにむしろ憧れ寄りたい。
★ 平成十八年十二月十三日 水
* 口を一文字に結んで、胸、腹で深呼吸している。なにかを持して待つのであろう。
* 君閑かに泉壌に入り 我劇しく泥沙にすてらる 天の東と地の下と 聞くに随ひて哭始を為す 菅公
友をうしなった菅原道真の長詩の末尾、太宰府の「西」を、西東京の「東」に置き換えて、やや、私の懐にちかい。
* 第三回の調停にわれわれは出席しなかった。代理人に依頼した。報告はまだ無い。
われわれは「相手方」の和解代案を読み、「見解」「回答」「和解新案」を代理人に託した。調停の場に提示されるかどうかも一任したので、結果は知らない。
相手方は私に「ウェブ上十日間の謝罪文掲載(謝罪文文案付き)」「★★夫妻に対し各五十万円、計百万円の賠償」その他を要求していた。 拒絶。
代理人の報告を聴いて、われわれの「見解・回答・提案」を、必要なら此処に明らかにするが、相手方はわたしたちが相手方案を受け容れないなら調停を切り上げ、告訴し訴訟に踏み切ると言ってきている。そうなれば、むろんそのように対応・対策する。
* 今回調停に先立ち、わたしが敢えて新刊『かくのごとき、死』を出した理由を、明かしておきたい。
一、 上のような相手方の謂われない要求を、「事の経過」自体により闡明にしたかった。
相手方がプロバイダにはかり、我がホームページの厖大な全部を削除させたがった理由も、その「内容」を不利と感じ続けてきた反映であった。
結果的に、核心に相当する六月二十二日から八月半ばまでの日録を、慎重に「紙の本」に再現したことで、相手方の暴状は、「流れ」においてハッキリする。ハッキリさせるなら、今、であると確信していた。
二、 上と重なるが、わたしには、多年親愛の大切な読者があり大事な先輩知人知友もある。また組織の同僚もある。そういう人達に、事態を明白に正確に伝えて、知って欲しかった。わたしのそれも務めであるから。
* この二点では、すでに圧倒多数の理解の声や言葉が寄せられている。ことの経過に、私がたに遺憾な落ち度のたぐいは無いと確信しているが、三百四十頁を超えた「流れ」総てがその事実を明かしている。
「湖の本」は、匿名の怪文書ではない、新時代の「私小説的文藝」として心して真剣に提出した「署名」ある「作品」であり、虚偽も捏造も犯していない。亡き愛孫・やす香への、これぞ「mourning work 悲哀の仕事」「人の業」「挽歌」であり、読者のある人は言ってくれている、「やす香さんは、永遠にこの本に生きて行かれます」と。
三、 その意味でこの『かくのごとき、死』一冊は、単なる「私事」の公開ではない。今度此の本で世に問うたのは、むしろ文学・文藝の問題である。
わたしは文学者として「斯く生き」そして「斯く書い」た。その恥なき証しの本である、この一冊は。何より大切にそれを自覚している。わたしは誤魔化さない。
四、 配本に際しわたしはこう考えていた。
『戦後日本の小説論が優れた探求を遂げたのは事実ですが、電子ツールの「表現」を知らなかったのも事実です。「私小説という小説」のまさに頑張った事実も事実ですが、その「私」は、紙と活字媒体のコアな読者に当面していたに過ぎません。死も愛も喜怒哀楽も。
しかし今、パソコンとケイタイのインターネットは、そんな「私」を瞬時に世界大に開示しうるのが現実です。愛する孫娘の不幸な「かくのごとき、死」を通じて、「私」「私事」の表現が変容・拡大して行く一「報告」としてもお読み願えれば幸いです』と。
五、 最も大切なことを言わねばならぬ。わたしは、「法」よりもはるかに大切な価値「気稟の清質」を、「生き方」としても「人と人との繋がり」にも、観てきた、今も真正面から観ている、ということ。
建前は法治国家であり、だれもがその私民・市民であるとはいえ、人間には、時に、いや、常にとわたしは言う、「法」をも超えて大切な「情理と人格」の問題がある。少なくも娘・夕日子にはそれを知りなさいと訓えたい。
* 人も知る聟・★★★は、早稲田の教育学部助手を経てパリに学び、早大理事であった亡き父上をつぐ教育哲学等の現在教授であり、ヨーロッパの人文主義の系譜にある一学徒かと察している。ところが、不思議なことに、その学習が身についていないというのだろうか、日本語の理解が貧しいのか、とんでもない誤解からかんたんに「暴発」する。
十数年前には、小説家であるわたしの文学上のモティーフである「身内」という言葉を粗忽に誤解して、途方もなく「暴発」し、わたしたち舅・姑にむかい聴くに堪えない罵詈雑言を手紙で繰り返し続け、ついにはわれわれは彼から姻戚「離縁」され、その結果娘や孫との今に至る十数年の断絶を強いられることになった。不幸にもそれがやす香の無惨な死去に影響してしまった。
* わたしの「身内」の説はかならずしも容易でないから、当座の浅慮・誤解にも同情できなくはないが、若輩の無礼ぶりはあまりといえば下品で愚劣だった。呆れた。
しかも今回のやす香の不幸な死に、「死なれた」悲しみもさりながら、「死なせた」悔いと自責も深いとのわたしの言葉を、「死なせた」とは両親を「殺人者」であるというものだ、秦は「殺人者キャンペーン」で★★夫妻を名誉毀損している、「法」に訴える訴える訴えると、手をかえ品をかえ、言いがかりをついに「ハラスメント」にまで押し広げて、脅しつづけたのである。
* わたしには「死の文化叢書(弘文堂)」の一冊に『死なれて死なせて』と題したよく読まれた著書があり、こんな浅薄な誤解を青山学院大学の哲学系の教授が犯すなど、どう思っても不審に堪えない。「死なせた」「死なせてしまった」など、気をつけていれば、テレビからでも日に何度も聞こえて来る普通の物言いではないか。
* まこと心貧しくも★★★・夕日子夫妻は、ことあるつど、「法」の力でわたしを叩きつぶすと言ってきた。争えば「95%の勝訴」だともトクトクと言ってくる。
具体的に挙げる。
わたしが、病苦に喘いでいた孫やす香の「MIXI」日記を、一個所に纏めて多く文章に引用したのは、日記の「相続権者」である両親の権利を「法」的に犯している、と。
当の娘・夕日子と、父親であるわたしのごく穏やかに仲よい旅写真などをホームページに載せると、「肖像権侵害」だと「内容証明郵便」を寄越し、「法」に訴えるぞ、と。
* その娘がとうとう小説を書き始めたと聞いて驚喜し、苦労して片々たるブログから延々再現し、わたしの編輯している「e-文庫・湖(umi)」に仮置きし、「いい読者」たちに少しでも読んで貰えるようにはからい、日記では作の出来を褒めたり助言したりした、そのすべてが、父による「高慢」な著作権侵害・名誉毀損・財産権侵害であって、民事刑事の「法」に訴えると威嚇してくる。いと簡単に、繰り返し言い立ててくる。
「法」「法」「法」の一点張り。情理の具足がまったく無い。アカの他人ではないのだ、親と子とである。どこに、告訴や訴訟に及ばねばならない何があるか。この「私語」ファイルの末尾に敢えて掲げてある、久しい親和の写真や夕日子自身のハガキなどを見れば簡明に分かる、一目瞭然、★★達がどんなにムチャクチャを言っているか。
* 寂しいことに「人格」が全く感じられない。何もかもの物証・挙証が彼らの「人間失格」「人格障害」を自白しているかのようではないか。だが、これを読むやいなや彼らはまたしても名誉毀損だ、「法」に訴える、と言ってきかねない。
★ 平成十八年十二月十五日 金
* 『かくのごとき、死』を出版した気持ちを、あらためて箇条で自覚しておく。数え上げる何にも増して、可哀想なやす香の死に当面した、わが「悲哀の仕事 mourning work」であること、言うまでもない。そして、
一 やす香の、まさに「生死」苦闘の経緯を闡明すべく。
二 読者・知友に心事と事実を。
三 斯く生き 斯く書く 自身を、ごまかし無く。
四 電子化時代の新しい「私」「私事」の表現、新「私小説」の行方をさぐる、一報告。
五 「法」は法。しかもより大事な「人間の情理と気稟の清質」を尊信する。
* 老境をこういう不幸な方角へ歩まねばならないのは残念だが、すべて私の不徳。運命は甘受する。
こうも考えている。大抵の老人は過ぎ去った過去の蓄積や堆積の記憶でものを言う。そんな老人の一人である私は、過去完了ならぬ現在進行形の只今湯気の立った事件と直面しながら、「老境」の今・此処に身を処して、考えたり動いたりしているのだから、人生劇場の最現役ではないか。一種の「天恵」だ、と。ま、なるべく「ゆったりと自然に」日々を送り迎えて行こう。願わくは戦友である妻の心身が豊かに安くありますように。またこれまで以上に、働き盛りの秦建日子のたすけも頼まねばならないかと思う、気の毒に思うが助けて欲しい。
* どっちもどっちとあっさり嘲笑う人も、どんなに多いだろうか、想像に余るが、そういう毒にこそ当たらずに生きたい。分かる人には言わなくても分かる。分からない人にはいくら言っても分からない。中学生だった昔にしかと耳に聴いたある人の声を、いまも、わたしはしかと聴いている。
* 調停委員から最後に伝えられたという「弁護士報告」によると、要するに「相手方は<賠償金支払いの無い案は呑まない>ことを伝えられました」と、ある。つまり「金」ですよと、何人にも予測されていた。賠償金だの謝罪文だのと、理由のない話である。
三回ぐらいで終わる「調停」は「いくらもあるんです」と、弁護士さんは言う。わたしたちは裁判所でただ一度も★★や夕日子の顔も見ていない。大の大人が莫大な勢力と時間をつかつて、ほんの「おしるし」の鼠も出たかどうか。具体的に「五十万円ずつ百万円欲しい鼠」が出たじゃありませんか、と。なるほど具体的だ。
★ 平成十八年十二月十六日 土
* 夜前おそく、アンドレ・モロワの名著『英国史』上下二巻を読了した。本はわたしの書き入れと傍線とで真っ赤になった。以前にも二度読んでいるが、今度はゆっくり時間を掛けた。しかも休みなく興味津々いろいろ納得して読んだから、すっかりイギリスの歴史が好きになった。
英・独・仏・伊。みな中世以来のヨーロッパでは偉大な文化的行跡をのこしてきたが、いま日本国の政治のていたらくを情けなく嘆くばかりの毎日に、英国をストレートに礼讃する気もしないけれど、歴史的に「絶対王政」をゆるさず、王よりも議会がつよく、しかも概して帝国としての安泰をゆるがすことなく、国民の利益や自由をほぼ尊重し優先さえして政治体制をつねにそれに合わせ、バランスよく融通させてきた英知に感嘆する。羨ましい。
明治政府が、ドイツよりもイギリスの政治と制度と歴史を学んで近代日本の道を付けていてくれたらと、つくづく残念に思う。
ローマ法王とも背き、つねに距離をおき、英国独自の「国教」をもちながら、新教徒を育みまた追い出し、世界の植民地と英帝国との政治的な関係もじつに「うまいこと」やってのけて、国運を傾ける大波乱にはついに巻き込まれなかった英国。
わたしは法王・司教らの腐敗した公同大教会も嫌い、絶対王政も嫌い。イギリス人のことはむろんよく知らないが、歴史では英国は善悪ともに余りに多くを教えてくれる。
イギリス留学から帰ってきた上尾敬彦君にいろんな話が聴きたくなっている。
* 年内に確実に『人間の運命』も読み上げる。
* 小松英雄さんに頂いた「土左(土佐は流布名)日記」を素材の『古典<再>入門』はいわば「日本語読み」の論攷・論著で、妻がわたしより先に持っていって読み通し、ついでに目崎徳衛先生の『紀貫之』も読み上げたらしい。引き続き、わたしも読む、ただし伝記はもういい、その本もわたしの赤鉛筆書き入れで真っ赤になっている。
楽しみにしているのが、昨日戴いた小田実さんの『終らない旅』真新しい書下ろしの長編小説。短編集や論説本は何冊もらってきたが、長編小説は『玉砕』に次ぐ。
京都の河野仁昭さんからは『京都の明治文学』を貰った。この人は着眼のうまい書き手で、題で感心させる。大正も昭和も平成も書ける。
もう一冊、ほほうと声の出た来贈本が桃山晴衣さんの『梁塵秘抄うたの旅』だ。わたしがテレビで中西進さんや馬場あき子さんと「梁塵秘抄」を話し合い、それからラジオ講座で九時間ほども話して「NHKブックス」で『梁塵秘抄 信仰と愛欲の歌』を出版した、その頃だった、まだうら若いほどの桃山さんが家に尋ねてきて、梁塵秘抄を、音楽と歌唱として復元したいという熱心を、元気にしかし謙遜に話して行った。
この本は、あれ以来の桃山晴衣の足取り本なのであろう、すこし落ち着いて読みたい。こうして一途に歩いてきた篤志の人がいる、後白河さんも本望に思われていよう。
* 『かくのごとき、死』の分厚さにはみな驚かれ、しかも読み切りの早いこと、一気に通読して震えたと云われる。書いた私はふるえっ放しだった。
☆ 十四年前、『死なれて死なせて』を読んで 私はいたく慰められたことを忘れられません。 「死なせる」痛みを 人とわかちあうことができてなかったら、 どうやって生きていけばよいのでしょう。おからだを大切に、書きつづけてくださいますように。 世田谷区
☆ 漱石の『心』の「先生」は、「K」を死なせたのだという一文を新聞で読んでから、湖の本を送っていただいている私です。「死なせた」という言葉のニュアンスが私なりにわかります。が、このことが裁判沙汰になるなど、しかも実の娘さんから、ということは驚きです。こんなことまで人は自分自身でひき受けられず「外在化」してしまうのですね。情けないなあと、と思います。 名古屋市
☆ 衝撃で言葉がありません。このようなことが有る筈ないと、心が痛いです。私は娘や孫に対して傍観者では居れません、骨を削り、血を流しても、守る!! と思います。動物的本能です。教養、理性、何の役に立ったと云うのでしょうか。理不尽な事柄に寛容や許容は不要です。先生の平安を唯々お祈りするのみです。どうかお体もご大切に。 玉野市
* たった今届いた読者のお便りに、こういう趣旨のものが多い。いつもはただ払い込み通知が、今度ばかりは身にしみて物思われるあまり、いろいろと書いてきて下さる。
* 「MIXI」に無数の縁遠い人から「足あと」がつくのは、或る面で醍醐味にも繋がる。想い寄らなかった発見につながる。先日鹿児島市在住の男性が「足あと」をくれたので表敬したところ、幾編ものエッセイを読むことが出来たが、玲瓏と美しい述懐で、感嘆。一編一編に夥しいコメントがついているのもムベなるかなと。
好きな本に『自省録』とあり、この名で知れるのはマルクス・アウレリウスが最良だと思うが、コメントにメッセージが返ってきて、そうだと。嬉しくなった。じつはぜひ読みたい題名の日記一編があり、まだ読みに訪れてはいないが、そう話してやるとその「題」に妻も満々の関心をよせていた。
* その一方で、ふと顔色の曇るような「足あと」もひょこっと混じって、一過性でない。なにしろ誰であるかは全く分からないシステム。しかし、だれにも一人は「MIXI」に推薦者のマイミクがいるのが原則。だが時にマイミクをもたない、プロフィルも書かない相手から「足あと」のつくことが、もう両三回あった。これはいやな気分。で、その「足あと」人のマイミクを見て行くと、およそ様子は知れるが、こういう人も混じってくる。
メッセージを送ってみた。
* むらっちさん。 七月末には亡くなって、もう数ヶ月経った「思香」さんを、今も「唯一のマイミク」にしている「アルセー」さんを、これまた「唯一のマイミク」にしている「むらっち」さん。
「思香」は、私たちのかけがえない優しい孫・★★やす香のハンドルネームでしたが、可哀想に我々身近な大人の愛の至らなさから、むざむざ「死なせて」しまいましたことは、ご存じなのではありませんか。
ただ「死なれて」悲しいのではなく、あたら目も手も届かず「死なせた」というつらい自責に、祖父母は、いまも、優しい笑みをうかべた遺影を目に、泪のかれるときがありません。
もう、ほんとうに、やす香(思香)を、「MIXI」の雑踏から安らかに静かに逝かせてやってもらえないでしょうかね、いつまでもまるで「幽霊」のように扱わないで。これって、かなり心ないことですが。
「むらっち」さんは、やす香の両親が、――大学教授の父親と大学で哲学を学んだ母親とが――、手を携えて祖父母を、自身の両親を「法廷」に引き出そうとしているのを、ご存じでしょうか。その理由の最たるものは、祖父母がやす香を「死なせた」と云うのは、やす香の両親を指さして「殺人者」だと云っているのだ、名誉毀損だ、というのです。
「死なせた」という言葉は、決して「殺した」の同義語でないぐらい、子供でも知っています。ニュース報道でもテレビドラマででも、頻繁に耳にする、普通の、しかし、「自責の辛い」重い言葉です。
自責のゆえの逆上でしょうか。それとも日本語が読めない・聴けないのでしょうか。それともやはり根の愛が涸れているのでしょうか。
「むらっち」さんのことは知らないから何も分かりませんが、私のところへ「足あと」を重ねて残してくださるのは、私から「何か」がお聴きになりたいのですか。どうぞ率直にお尋ね下さい。答えられることは答えますよ。
私たち祖父母が心の中で「もしや」とほんとに望んでいるのは、「むらっち」さんか「アルセー」さんかが、★★やす香の心許した親友で、やす香の想い出を私たち祖父母に分け与えて下さる方なら、どんなに嬉しいだろう、ということ。
もしそうならそれも、どうか率直におっしゃってください。感謝します。
もしやす香の父親や母親とのお知り合いであるのなら、どうぞ「思香」ならぬ「亡き娘やす香」を、これ以上悲しませ、はずかしめないで欲しいと伝えて下さい。 湖
* 以前にも同じような理由から問いかけた「足あと」人がいた。当然かもしれない、梨の礫で、その名前はわたしの「MIXI」からは消えていった。むろん 「思香」名義を相続した気だろうやす香の母親か父親かであることも邪推できる。十分出来るが、やはり「やす香の親友」「やす香のボーイフレンド」だったら嬉しいがと「おじいやん」は願うのである。
* *
* これで、やす香死後早々に起きた見苦しく聞き苦しい娘夫妻の★★家と祖父母のわが家との紛争(民事調停期 2006)の「点検」
を終える。この「点検」はこの年平成十八年六月から十二月に到る七ヶ月の日録(やす香の癌入院と死。その後の民事調停と不調を含む。)を、いわば「顧みた」のであるが、私の都合や主張に併せて「顧みた」のでは無い。これらを私を訴え出た原告の娘夫妻
は「証拠」の一種として正式に提出し、この膨大な、概算だが四百字原稿用紙32000枚の内容の極々一部に、この個所が「名誉毀損」に当たるとでも云うように傍線でチェックしていた、そういうチェック(太字にしてみた) の在る当日分の「文脈」を探るように、私自身の参考・記憶の回復のためにも、網羅してみたのである。紛争と全く無関係な記事は、また上のチェックの存在しない日々の記録も、省いた。またチェックされた個所に関する意見・感想・反論等は一切しなかった。
* 作業の単純を願い、最も頻繁にファイルの開きやすいこの欄に、数日掛けて開陳してきたが、バラバラでは再利用に煩わしいので、七ヶ月分を一括して、どこかへ纏めたい。
六月二十二日の「白血病」告知の日から、裁判沙汰の「脅迫」(弁護士の言葉)が始まった八月十三日頃までは、日記文藝(一種の私小説)として「湖の本」シリーズに『かくのごとき、死』と題し既に出版されている。本意を云えば、十二月に到る上の抄出分は、何の躊躇いもなく日記体私小説の『かくのごとき、逆上」とでも「題」し前巻に倍する大作として世に出せるとすら見なしている。
ま、暫くは現状で置く。
* 一つ気になるのは、「★★側の傍線」と証拠資料に特定してあるチェック個所(太字で示した個所)の「意図」が、★★には「不満・不服・異論あり」「名誉規則の賠償に相当」の意味なのかどうかが、今一つピンと来ない。中には、★★は論外としても、娘が読んで理會した、納得したという我々へのメッセージかしらと思ってしまいそうなチェックも在ったということ。
逆に、彼らからの非難として尤もだなと思えるチェック個所など「皆無」の印象を強く持ったことを書いておきたい。
2010 6・11 105
* 四年前、十八年の後半七ヶ月の我が「生活と意見 闇に言い置く私語」を、原告・娘夫妻らのチェック個所に応じて、あらまし読み直した。
* わたしへの、先方からの尋問時間は、40分と限られている。娘たちには30分ずつと限られている。わたしは法廷という場所などに立ったことがないから、民事の場合は、どういう立ち位置でどういう角度でモノを聞かれるのか見当も付かない。血圧が上がり、狭心症の起きないように用心しなくては。わたしは講演会場の広さと、演台の有無と、凡その参会者数を知ってさえいれば講演は平気。ま、一種の講演会場での質疑応答と心得ていればいいのか、そういうことは弁護士が教えてくれるだろう。
* 新聞や雑誌にときどき匿名であることが呼び物のコラムがある。あれは一種の文藝を要する書き物で、誰にでも出来るわけでない。わたしは或るメディアの正式の依頼を受けてかなりの期間、そういうコラムに書いたことがあり、湖の本の一冊分近くは在るだろう。かなり面白い稼ぎであった。
だが、プロとして書くそういう特定の場以外でわたしは、「匿名」原稿は一切書かない。わたしの「書く」場所は、著書と新聞・雑誌等の依頼原稿と、ホームページ「作家・秦恒平の文学と生活」の中の、日録「闇に言い置く私語の刻」以外に存在しない。★★夫妻はわたしが「匿名」で自分たちの名誉を傷つけると主張するが、依頼の署名原稿・著書以外にホームページに書くのも「mixi」に書くのも、前者は表題に「作家・秦恒平」と明瞭に名乗っているし、「mixi」でもプロフィールに「秦恒平」ハンドルネームは「湖」と明記してあり、経歴も著作等も明らかにしてある。
前出の「匿名欄」以外に、わたしが匿名で★★らを攻撃した文章があるというなら提示して欲しい。それを云うなら、娘「夕日子」が父親を誹謗して憚らないブログや「mixi」などは、本名の明示のないアレもコレも匿名のものだ。天に唾している。わたしは文藝としての匿名欄以外は、メールであれ、電子化の文であれ、文責を明かすのを当然の当世のエチケットと信じ励行している。
2010 6・11 105
* 新しいパソコンが、ニッチもサッチも行かない。そもそも東工大の昔、機械の使い始めから、変わりなくNECの機械に慣れきっていて、他社の機械だと手も足も出ない。しかし、今度のソニーは使いにくいというのでなく、ハナから使えない。機械にどんなソフトが内蔵されているのかも分からない。建日子の電話ではなんでもOFFICEというのを使うそうだが、わたしの今の機械でも、かつてOFFICEに手を出したことがない。お手上げ。前夜、日付が変わってからいろいろに触れてみたが、ダメ。
そのせいか、寝苦しくて四時半に目が覚めてしまった。眠れない人のメールが来ていて苦笑した。
☆ 睡眠薬をのんでから。 砂
真夜中に、メールというのもよろしくないのですが。星野画廊に、石原薫さんの絵が、そろってあるそうです。機会がありましたら、ご覧になってください。若いころに観たきりなので、いま観たらドンナかなと、思っています。亡くなった麻田浩さんと、同じ頃の人ですが、この方もはやくに亡くなりました。存命なら、どんな絵になっているかな。
南アフリカでの、ワールドカップの試合もみました。日本では考えられない熱気です。もう寝ます。おやすみなさい。
* 眠くなってきた。
* 眠っていられなかった。新刊受け入れには隣家の玄関に積んだ本の山、荷物の山を片づけておかねばならない。取りかかると忽ち腰に激痛が来る。堪えていられる僅かな時間しか作業はムリ。ゆっくりやらない、堪えていられる短時間に一気に決めただけの力仕事をやってしまう。
それからまた機械へ戻って不愉快仕事を一段落まで、やってのける。何のためにこんなこんなことをやってるんだと半ば思い、面白い晩年だともやせ我慢でなく思う。
☆ 忠義水滸伝より
青鬱鬱として山峰は緑を畳(かさ)ね
緑依依として桑柘(そうしゃ)は雲を堆(つ)む。
四辺の流水は孤村を繞り、
幾処の疎篁は小径に沿う。
茅(わら)の簷(のき)は澗(たに)に傍(そ)い、
古き木は林を成す。
籬外には高く酒を沽(う)る旆(はた)を懸け、
柳陰には閑かに魚を釣る船を繋ぐ。 15-88
2010 6・12 105
* 四年前の「七、八、九月」「十月」の裁判資料は、「eken0-5」「iken0ー6」ファイルに移転した。「十一、十二月」分もいずれ「十月」のうしろへ入れておく。
2010 6・12 105
* 原告二人が法廷に提出している「第一の証拠書類」が、今週、長々と検討した私のホームページ日録「生活と意見 闇に言い置く私語の刻」平成十八年 (2006)六月から十二月に到る日録であり、その前半は、私小説でもある日記文藝『かくのごとき、死』として書き下ろされている。
「第二の証拠書類」に「聖家族」が持ち出されている。長編予行の習作であり、今は公開されていない。作リストにも存在しない。
たしかにこの予行の習作が、メインの仕事場であるホームページに掲載され手を入れられていた頃、原告の一人娘の夫である★★★から、人に読まれては自分の事と分かり「恥ずかしい」という苦情と注文が来ていた。自分のことと分かるなどと、これは自分だ自分だと我から吹きまくるなんて可笑しいんじゃないか。明らかにフィクション、読者の九分九厘以上にそんなこと判じもつくワケがないのに。基本のコンポジションにおいて一般読者の眼にこれは明白なフィクションである。
著者の動機と主題は、世の中には「こういう家族」があり、「こういうイヤな男」がいる、その「凄み」を書いてみたかった。小説家として普通の行為である。
では、何故それが巨額の賠償金をともなう原告の「名誉毀損」に当たるというのか、わたしには不可解であるので、それも検討しておきたい。関聨して、被告である私は、婿や娘の弁護士や、裁判官から「尋問」されるのであるから。
「日録」の時と同じく、証拠書類「聖家族」には原告側による傍線チエックが盛んに入っている。云っておく、著者はその個所「を」書いたのではない。その個所「を含むフィクショ」ンの長編小説を書いたのである。
「裁判員」の役を、心ある読者にもお願いしたい、著者への異存を持たれた方には遠慮なくきちんと叱っていただきたい。
* 最初の「一節」を先ず取り上げる。「私のホームページ」は、こういういろいろを試行錯誤する「仕事場」なのである。
作のヘッドは、原告提出書類ではわたしの保存のモノとやや異なっている。原告のコピーした時期が違うからで、表題自体も原告提出の証拠では、『火宅』となっている。試行予行の習作であったことを証している。そのヘッド個所を、先ず挙げておく。
*
秦 恒平 長編小説 9
もう十年ちかく以前に書かれていながら、まだ推敲を一度もしていない、走り書きのママの段階です。
少しずつ手を入れてゆきます。前半の「聖家族」を引き継いでいます。
火 宅
続・罪はわが前に──
これは「私の遺書」である。作品ではない。(奥野秀樹)
上 こどもと私 (後半)
十三
「春生(はるお)がね、あなた。夏生(なつみ)に電話してみたんですって」
*
* これより以下の「聖家族」はアーカイブに保管された私の習作原稿で、出版されていない。とうの昔から公開もされていない。作のヘッドに見える「二○○六年八月」とは、原告夫妻が、父の日録に「死なせた」ということばで孫やす香の癌・肉腫死を書いているのは、われわれ両親が娘を「殺した」という悪罵であり「名誉毀損」である、民事・刑事の両面で訴える、と、日夜両親を攻撃してきた時節に符合している。言い添える。
作の太字個所が、例によって原告側が欄外傍線チェックし「名誉毀損」を主張している個所であることも言い添える。
証拠コピーから私の保存草稿へ、意味が変わるほど表現が著しく推敲されている場合は、証拠書類の表現に戻し「*」を付けよう。
* *
仮題『聖家族』
この作品は、たんに「長編フイクションの未定稿=まだ草稿段階」である。行文・構成もふくめ大きく仕上げて行く。
一九九六年八月という昔に書き起こしている。推敲と改稿とを心ゆくまで行い、脱稿したい。 二○○六年八月。
——————————————————————————–
聖 家 族 未定稿
秦 恒平
これは「私の遺書」である。作品ではない。
(奥野 秀樹)
どんな家庭の食器棚にも髑髏が隠されている。
(フランスの諺)
一
「春生(はるき)がね、あなた。夏生(なつみ)に電話してみたんですって」
「またかね」
「ええ。芝居のあと、手紙を書くからって帰ってったのに。来ないから」
「そんなの来ゃしないさ。で…」
「電話口で…。あんなもんでしょうって。それだけ…でしたってよ。その言い方が…マタね。春生、ブーブー言ってるの」
「夏生にしちゃ、それでホメているのさ。少なくもケナシてない。夏生は、初めてだろ春生の芝居は。あのチャランポランの春坊が……。信じられなかったろうな」
「あれだけ人を集めて、お金いただいて、自分の書いた芝居を自分で演出して見せてるってことに、でしょ。そりゃあ…そうよ。どっちかってば、夏生の方が、芝居でなくっても何でも、目立つことやってみたかった人ですものね」
「専業主婦やってる、きみなんか…」
「そうよ、そりゃバカにしてたんだもの。でも今日までのところ、なにも出来なかった、あの子は…。図版ものの洋書の、あれ…何て言いましたっけ、ネームね…図版の解説文。あの部分だけの日本語訳なんかをアルバイトでやってるらしいのよね。自尊心もなにも、あったものじゃないわ」
「自発的に、内発的に、ものが生み出せない。これをと決めて手伝わせると、春生なんかより遥かに丁寧な仕事ができるけど、自分じゃうまく創り出せないんだ…昔から」
「そこんとこが、夏生…かわいそうでならないの、あたし。あたしに似ているのよ。顔なんかあなたにずっと似てるのにね。自分の…と言えるものは、むしろ春生の方が発揮しだしているのよね」
「羨ましくて、モノが言えなかったんだろな…夏生としては。いつか亭主が、たとえだよ、渋谷だか青山辺で、やっとこさ教授に成ったにしたって、夏生自身の自慢にゃならんもの。それに大学教授なんてもなぁ、狭い日本中に、まともな作家の何百倍もうようよしてるんだからね」
「それでも政治は、天下に大学教授ほどエライもの無いって、春生が大学出るときそうあの子に言って、なんでサラリーマンなんかになるんだって、不思議そうな顔したのよ。それも国立の教授こそ、だって…。
なのに茨城じゃ、助手でも講師でもない技官にされちゃって。結局、教員の籍はもらえずに、次ぎは私立の渋谷…で、講師でしょう」
「渋谷に、やっと拾いあげてもらった…。年齢やキャリアでは助教授なんだろうが、技官という茨城での地位が障りになったかもな…」
「それさえ、あたしたち嫁の実家の責任だなんて言うのよ…。ひどいことを」
「三十過ぎたあんな微妙な年齢で、三年間も留学してりゃ、オーバードクターで溢れた日本では、後輩にどんどんポストをもってかれちゃうの、分かり切った話なのに…。
早稲田の助手期限は切れて、さてポストが無かった。出身学部になく、他の国立にももちろんなかった。格好がつかんと思ったんだろ…」
「そう思い込んだのよね…。夏生にも相談せずに留学試験を受けたんですもの」
「それが受かっちまった。が、そこまでは、いいんだよ、そこまではね。一年が普通なのに、三年留学を志望してしもた。失業のままで、あの時期に三年も日本を留守にするなんて…。あれで遠回りになった。
だがね…潔く決めたんなら、それだっていい。一時の不利も、将来には生きてくるかも知れないんだしさ。なのに、あの時は相談もしないでいて、結果がわるいと、それをオレたちのせいにしやがって…どういう気なんだ一体」
「あ、そうそ、それを言うつもりだったのよ。また、パリに行くんですって。八月のうちに。今度は一年。春生の電話は、それを知らせて来たの」
「………」
一瞬、奥野は反応できなかった。金田にすれば向うの大学に教職を得たい、地位を得たい気があるのだろう、それもいい… と、奥野は反対でなかった。それが出来れば、いい。孫の顔が…さらに遠のくということもあるが、やはり夏生(なつみ)だ、問題は。
二度と夏生に会えずにこと切れる覚悟は、夫婦で口にしてきた。口にするだけでない、現実問題として夫婦の健康は、藤子はもう十数年も、奥野もこの数年、不安を抱えていた。遠い病院まで、気もいい、力もある医者を頼みに、夫婦して定期に診察を受けつづけている。そして、会えなくてもと腹をきめた親はまだしも、なにかの折り夏生の精神に永く癒されない傷ののこるであろうことを、奥野らは本気で心配していた。
現在でこそ肩肘に力をいれていても、それは母も父も生きているからで、このまま死に別れたりしようなら、夏生に、「子」としての無形の負い目を背負いきれる確信は無いだろう…、今しも夏生の精神が荒廃していない保証はなにもなく、春生(はるき)に聞いた姉夏生(なつみ)のへんに太った、みすぼらしそうな身格好にしても、また、拗ねて投げたドロリとした電話の「どうでもいいよ」という声音にも、夏生のやり切れない自棄の惑いがとかく想像されてしまう。
「どうせ、親に捨てられた身ですからね」とさえ夏生は弟に言っていた。
夏生のためにも長生きしていてやらねばならない、それがまた目に見えず奥野らの負担になった。
「パリか…。子供二人つれて、ね…」
「連れて行くでしょ。だって、前のときみたいに半年遅れて行くにしたって、金田の家でお姑さんたちと同居って、これは夏生、しないでしょうよ。出来ない…。あれだけ激しくやッちゃってるんですもの。おまけに、うちともこういう事情ですからね」
「かと言って、今いるとこの家賃を払いつづけるのは、キツい…。無理してでも一緒に行くナ、きっと」
「政治は、前のとき、夏生と信哉の生活費もろくすっぽアテをしないで、先に一人でパリに行っちゃってたんですものね」
「アテは…してたのさ、ウチで面倒は見るものと、サ…。それが当然と彼は考えてた」
「こっちは、そんなこととも、まったく、まだ知らなかったでしょ。ウチの家は、そういう甘えた思想をもってないし」
「学者を婿にするというのは、婿さんの生活を嫁の実家で見るってこと、それが常識だって平然と言うヤツだからな。そのくせ、自分の口では、よう言ってこないんだ」
「言われなくても察してヤルのが、嫁の親の義務だなんて…。あげく、それの出来ない非常識な嫁の実家とは、姻戚関係を断つなんて……、ナンて情けない人なンでしょ」
「周囲はミナそうしている、それが学者を親類に持ったものの常識だ、か…。何のために学問して来たんだろうな。学問て、何なんだ…。学者って何なんだ、いったい」
「そんな気で結婚したのよ。バカよ。いやしい人ね」
「そんなもんだと、本気なんだよ、ヤツは。学者様だぞ、住む家と生活費の半分はそっちで見て当然だ、か。そんなこと、かりに、出来てもしないのがオレの考えだからな。そういう情けない生き方はして来なかった、オレたちは」
「卑怯なのよね、彼。それならそれと言い出すことさえ、彼は自分じゃ一度もしなかった。夏生をうちへせっせと寄越してたのは、夏生に言わせ、お金を取ってこさせる気だったの。でも夏生はあたしたちの考え方を知ってるから…言えなかった。そういういじめかたを夏生はされていたのよ…かわいそうに」
「だから、こっちに来てても、向うへ帰るまえになると、すッごく不機嫌になって帰りたがらなかったな」
「あれが…あたしたちには、最初、理由(わけ)が分からなかった。あとになって、つまり…あぁいうことだったのね。彼は、親にお金貰ってこいと夏生らを寄越してたの。でも気がつかなかった。…かわいそうな、子…」
「何サマだと思ってんだと言うしかないね。あれで教育学、教育哲学なんだぜ、専攻は。これぐらい『教育』や『哲学』に汚物をかぶせる例も無いよ。モンテスキューやルソーが泣くね。大学の先生の皆が、そんな情けない根性だとは…思いたくないがね」
「あなたも、その大学教授をしてたんじゃないですか。まっとうな国立の。でも…あれが、いけなかったわねぇ…。教授になりたいなりたい彼の方は田舎の技官にされちゃってて、お舅さんは、頼みもしないのにいきなり、一流校の教授…。作家なんかと陰で夏生にボロカスだった嫁の父親に、あっさり国立の大学教授されたもんで、彼…切れてしまったのね。あの…すぐアトでしたよ、汚物を吐き散らしたのが」
「そうだったね」
「うちへ訪ねてきて。帰ってったかと思うと、あの手紙よ。…金も出さずにあんたらはおれをバカにした、だなんて…。あの晩うちに来たときだって、あなた生活は、だいじょうぶッてあたしが聞いたら、大丈夫ですと、あんなに胸を張っといて。あの人いつも言うのよ、わたしは人の三倍稼げますからって。なあに…… あぁいうウジウジ男って、大嫌い」
「大学教授の息子は大学教授になるもんだなんて、ケチくさいよ、人生観も価値観も」
結婚まぎわに父親に死なれた金田が、奥野は気の毒でならなかった。父親二人ぶんのことをしてやりたかった。金田はそれを、「黙っていても金を出してくれること」とアテにし、奥野は、「いい人間関係、なんでも打ち明けて遠慮のない、気のおけない婿さん」を望んでいた。そう、夫婦して、願っていた。
どっちもどっち…、奥野の方が甘かった。
金田の望んでいた「身内」とは、つまり金の面倒をとことん見てくれる「舅姑」の意味でしかなかったらしい。夏生は、落差に、さぞガックリきていただろう。夫の誤解を解き、父親の思っている「身内」とはこういう意味よと、説いてやる気力も結婚早々に無くしていたかも知れない。
板挟み――、夏生は窮屈に圧しひしがれていた。だが、金田の、それほどまで金は人が、「嫁の親」が、呉れて然るべきものといった考え方は、ちょっと奥野らには察するにも察し得られなかった。凄まじいと思えた。
そういう親だから、「お金を、ちょうだい」と、夏生はついに一度も両親に向かって口にしなかった。ただ里帰りして来ては、金田へ去(い)に際になると、顔色を曇らせ、イライラと不機嫌になった。分からなかった。分かってやれなかった、奥野らにはその訳を。
娘も親たちも、不運だった。奥野らは、媒ちしてくれた山根教授が、いったいどんな仲人口を利いて金田をそんな気にさせたのか、知りたかった。
「何も言っていません」と山根氏は言う、が、それでも、「奥野さんはお嬢さんをそれは可愛がっていますから。お嬢さんのためにも、絶対に、よくしてくれますよ、大丈夫」ぐらいな物言いはしたのだろう。
言葉どおりには、その通りだと奥野も思っていた。
結婚式にも、自分の流儀は曲げても、力を入れた。身も働かした。だが、「嫁の実家」として金田夫婦に生活費や住まいを与えるなどの考えは、基本的に持たなかった。持てもしなかったし、そんなことは成るべくしない、たとえ出来てもしないのが真っ当な親の気持ちだった。金田の期待とは正反対だった。あげく越村は、仲人の山根教授の家庭でも、奥さんの実家が経済を支えたのは、世間の誰もが知っている有名な事実だ、それも知らないのかと奥野らの「非常識」を口汚く手紙で嗤ってきた。罵詈罵倒してきたのだ。
…情けない、イヤなヤツら……。奥野は爪弾きした。
もともと「大学」というあたかも地位や組織に、奥野は、さほど思い入れがなかった。将来の「地位」を指導教授に示唆されても、大学院をさっさと去り、京都をさっさと去って、双親のない妻との東京での新婚生活を選んだ。
早稲田ほどの巨大大学だと、文藝家協会に所属する文筆家よりも大勢の教師が出入りしており、日本中にどれほど夥しい「大学の先生」がいるやら、比較すれば、世間で通用する「作家」に成るほうがよっぽど難しい。作家には教授、助教授という序列もないし、事実、文化勲章作家に匹敵しながら栄典などと無縁の作家もいる。断わる人もいる。
もともと序列社会に奥野は馴染まない、そういうのの苦手な気象だから、金田がしきりに大学に、教授の地位にこだわった物言いをするなど、はなから笑止だった。学長であれ学部長であれ、お互いに餅は餅屋、奥野はこの数年大学に出ていても、まるで普通に付き合ってきた。
それでもそんなに金田が「教授」になりたいのなら、願いはかなう方が、かなわないより、夏生のためにも望ましい。結婚式にも前学長以下教授陣をずいぶん招くようだから、そのためにも、いい披露宴をしてやりたいと奥野はひどく無理をした。奥野の口から一人一人お願いして列席してもらえた顔ぶれは、連名にしてみれば、おどろくほど立派な人たちが並んだ。だからこそ別格に、谷崎潤一郎夫人に主賓をお願いした。華やかであり、このレディファーストに、少なくも奥野家側で不服を唱える男性客の一人も有るはずがなかった。ひさしい友の駒井次郎など大喜びしてくれた。
まして谷崎夫人は夏生には恩人だった。むずかしい美術館就職のあとも、なにくれと、かげにひなたに気をつけて、可愛がってもらった。
その「新婦方主賓」が、大きに、あとあとで引っ掛かった。
新夫の金田政治は、初めのうち面にも出さなかったものの、披露宴のハイライトに、両家主賓が全列席者のまえで結婚届に「証人の捺印」をという、申し合わせてあれほど奥野の希望した儀式を、勝手にみなフイにしてしまい、そのワケをこう明かしたのだった、谷崎夫人は結婚の証人に不適当だと。
それも奥野夫婦に直接宛てつけた、自作『お付き合い読本――常識編』なる悪ふざけによって。
じつは奥野には、それよりも一つも二つも幾つも以前に、つよく心に拘泥ってきたことが有った、「何故にこんな…」と、金田の「異様さ」に心凍る思いをしていたのだ。
いったい新婚旅行にどこへ夏生らが行ったかも記憶にないが、旅先からの電話で夏生らがせっかくの「結婚届」をせず旅立ったことを知らされ、奥野は思わず眉をひそめた。が、それとても時期の早いか遅いかで、たいしたことでは無いと言えた。
だが、彼等が届けをサボった真の理由が、当時は分からなかったし、娘の親としては出来れば届けを出してから新婚の旅に出てほしかった。
そもそも結婚式という儀式部分は省き、披露宴でそれも兼ねたいとは、金田家の希望だった。奥野らにも異存なかった。ただ、その「兼ねる」意味合いを表すためにも、参会の祝い客みんなの目の前で、主賓二人に「結婚届書に署名」をしてもらい、二人の結婚を列席の全員の代表になって貰おうよと奥野は発案し、越村もはっきり気乗りしていたのだから、希望は叶えられるものと信じていた。
事実両主賓は、揃って、みんなの目前で署名捺印を演じてはいたのだ、だがその届書は勝手に破棄されていた。(届けは一ヶ月近く遅れて、新居の地元で出され、証人にも全く別人を立てたらしい。)
新婚旅行の最中に苦情を言うのは避けたかった。で、帰ってきたとき第一番に、
「届けはしたんだろうね、もう」と金田に聞くと、まだしないと言う。急ぐことは無いではないかと言う。そのときは奥野に分からなかったが、届書の用意も無かったのだ。奥野はむっとして、「なぜ約束どおりではないのか」と詰った。金田政治はとたんに、
「あんた、がたがた、うるさいよ。なんなら、今でも結婚をやめてもいいんだぜ」と。
奥野は仰天した、まったくこの通りの言葉で、誓ってこの通りの言葉で電話の向うから、婿の金田は、舅の奥野を威嚇したのだ。ぞうっと、肌に冷たいものが流れた。
何なんだこいつ…。
奥野は黙った。結婚披露を終え新婚旅行を済ませた今になって、「やめてもいいんだぜ」「あんた」ということを新婚の妻の父に向かって言える男に、奥野は凍えた。かッとなって、「よし、やめろ」と言ってしまいそうな自分を必死に押えるため、奥野は受話器をすぐ置いた。
金田のそばにその時夏生はいなかったようで、奥野のそばには藤子がいた、が、奥野は金田の台詞をかたく意識の底に記憶したまま、妻にも告げずにおいた。
金田の送りつけてきた、ワープロ打ちの『お付き合い読本』には、戯作めかして、いろいろ書かれてあり、「け」の項は、こうだった。
け 結婚式 誰を招くかは迷うところ。注意すべきは、離婚歴のある人、しかもそれを売り物にしているような人は、招待しないことである。かの有名な文豪「T」は、惜しげもなく奥さんを取り替えたそうだが、常識的に考えて、そんな筋の客は来賓として呼んではいけない。招待された他の皆が奇異に感ずるだろう。
なるほどと、咄嗟に奥野は思った、そういう考え方を、すべて否定しようとは考えない。
だが、そういう「気の低い」考え方にとらわれて自分は生きては来なかった。そんな「常識」を大事に思うのなら、前もって奥野に直接、または夏生を通して谷崎夫人の主賓は「遠慮したい」意向を伝えて来ることも出来た。露ほどもそういう意向は聞いていない。聞いていたら――無理はせず、それでも、一人の祝い客としてお招きしたに違いない。むろん金田にも話しただろう、夫人は谷崎潤一郎とは終生添い遂げられ、昭和の名作のほとんどすべてを成さしめたほどの奥さんだった、と。あやかって何ひとつ問題のないりっぱな奥さんなのだと。しかも夏生は大恩も享けている、と。
結婚届の証人欄に谷崎夫人の署名をご破算にし、新婚旅行のあとびっくりするほど日数を経てから誰とも知れぬ代役を立てた理由――が、ここに在ったのかと、金田という男の軽薄で無礼なしたり顔に、奥野は胸を冷やした。
相手もあれ谷崎文学に励まされてきた作家奥野秀樹に、夏生の父に、「文豪T」と「そんな筋」の夫人とをこのような手口で貶しめてかかるとは、奥野の不徳は不徳としても、あまりに心寒い嘲弄、心ない暴言だった。
金田は、薄い唇をいっそう歪めて、離婚歴ある夫人を結婚式の主賓になど「非常識」だと、舅姑をはじめ奥野家側を訓戒のつもりらしく、『読本』には続きがまだ有った。
さ 作家とのお付き合い 作家とはすなわち、自己体験の特異さを専売にする人種。
いくつかのタイプがあるが、中でもタチの悪いのは、自分の苦労を絶対だと信じ、自己を客観的に眺める習性を持たない奴。それと、やたら「夫婦はかくあるべきだ」とか「人生はこう生きるべきだ」とまくしたて、
奥野は中途で笑ってしまった。日本の小説家をこのように見る視線は、やがて廿一世紀の現在でも、ありうる。奥野でも思う。自分はちがうと頑張る気もない。駒井次郎もこれを読まされて、ゲヘヘと笑った。
「遊娼声妓俳優雑劇小説家等改制ノ事…で、明治政府が取締りを考えたの、知ってるか。明治のごく初めの公論公議機関だった集議院の、初仕事なんだよ。沙汰やみにはなったけどね。もうちっと、教えてやろうか」と駒井は、奥野の前でわざと反り返った。
「小説を好むとだな。第一、品行を欠く。第二、女性は不健康で早く死ぬ、閨門を破る。第三、子弟を害する。第四、悪疾多し…。明治開化の、えらい学者さんのこれがご託宣さ。同じご仁の曰く、出版した小説の版木など、みな焚燬してしまって下されと、丁重にお上に願い出ていたんだ、なんだナ…そのケが残ってるんだ、おまえの婿さんには、まだ」
「すさまじいな」
「感心してちゃ困るよ。ついでに、も少し、ものを知らん文士先生に教えてやるがね。明治五年、時の教部省が三条の教憲ってやつを出して、文学の目的を定義してくれたのさ」「………」
「一つ、敬神愛国ノ旨ヲ体ス可キコト 二つ、天地人道ヲ明ニスベキコト 三つ、皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムベキコト。どうだね」
「金田政治が泣いて喜びそうだ。だがナ…ヤツを育てた早稲田で、坪内逍遙の小説神髄をはじめとして、愚にもつかんそういう小説観に、精魂こめて反対してきたのを知らないんだ」
「………」
「福沢諭吉は文学無用論だったけどね。それでも三田文学は荷風なんか招いて、おれたちの趣味にあう、いい伝統をつくった」
「小説家は…常識とかけ離れたところで妄想にふける奴。もっとも、小説とは『ウソ』であるからして、小説家にリアリティーのある認識なんぞ求めるほうが筋違いだという説もある。お付き合いもほどほどに…ですか。婿さん、得々として書いておるのう。幼稚さがよく出てる」と、駒井はつるりと顔を撫でた。
「自己を客観的に眺める習性を、テメエじゃ持ってると思って書いてるんだよ」
「軽薄と未熟を乃公(だいこう)自ら語るに落ちているのに気づいてないね。要は、小説家である夏ちゃんの父親を愚弄してやりたいだけだ。気稟も知性もない」
「こういう男を、夏生におれは押し付けちまった…。それだけでもオレは、ダメ親父でダメな人間さ。取り返しがつかん…。さらに恥かしいのは、こんなヤツであっても、夏生まで離縁されちゃかなわんと、本気で思っていることだよ。
かくあるべきかどうかは知らんが、どんなイヤな奴でも夫婦になっちまゃ、親にもうかがい知れん相性の不思議というものがあるじゃないか。夏生にはもう、子もある。夏生自身がイヤと言いださぬぬかぎり、別れちまえたぁ口が裂けてもおれは言う気がないんだ。家内とは、そこが違う…」
奥野は、苦い物をむりに嚥み下すようないやな顔をした。
こんなことも金田は「常識」と称し、書いていた。
み 見合い結婚 恋愛結婚に比べ、結び付きの必然性が薄い婚姻の形態。周囲がバックアップしてやると、関係はより一層良好となる。とくに双方の実家が率先して、できることをしてあげるのが、不仲を生まない秘訣。それとは逆に、一方の実家が常識知らずで人並みのこともできなかったりすると、その実家を持つ妻や夫の肩身がはなはだ狭くなる。もともと繋ぐ糸が細いので、離婚にまで発展しかねない。
まちがいなく金田と夏生とは「見合い結婚」だった。金田にしたがえば「もともと繋ぐ糸が細い」結婚だった。金銭や物での「バックアップ」がなければ「離婚にまで発展」しても仕方ない結婚だった。奥野家は「バックアップ」をしない「常識知らず」なので、夏生は「肩身がはなはだ狭」いと言ってある。経済の負担を嫁の実家はすべきなのに、何故しないかと金田は言っているのだ。見合い結婚とは、そういう条件付き結婚だと金田は思っていて、条件を満たしてくれると思えばこそ「光栄です」などと言ったのだろうが、奥野も藤子もそんな「常識」とは無縁な思想で結ばれていた。「できることはして」来たつもりだが、金田が「できる」と期待したのと、奥野らの「できる」範囲は、大違いだった。
と 嫁いだ娘への援助 「粋」にやりたいものである。この機を利用して婿に頭を下げさせようなどという気を、ゆめゆめ起こしてはならない。こういうことに関しては、女性の方が敏感なので、妻と娘に協議させるがよかろう。そのため、妻の裁量によって 処分できるお金を都合しておくのが夫の心得といえる。山根某の嫁の出身は千葉だが、この実家は金を出すが口は出さない模範との誉れが高い。
つまるところは「金」を出させたい、それも頼まれてするのでなく、「粋」に、常日頃から用意し、母から娘へひそやかに、「婿」殿に気をつかわせず煩わせずに、早め早めに察して出せということらしい。それが常識である、自分のまわりで学者婿の舅姑は例外なくそのように精勤しているぞと、他の手紙ででも、越村は奥野らを嘲笑し挑発して来た。 奥野は、駒井次郎にだけは、嗤って、「えらい婿殿」の口汚くあつかましい手紙を見せてきた。
「山根某って、仲人サンじゃないのか早稲田の教授で」
「そう…。…ハナシは、聞いてた気もするんだがね。たしかに、末は博士になりそな婿さんを、マル抱えにしたい嫁の親というのは、いたね昔は。いや今も、このさきも、いっぱいいるだろうと思うよ。おれは違うけどね。度を越しゃ、ただの失礼みたいなもんさ。それで平気な男なんか、おれは好かん。もの欲しそうな男が、いちばん嫌いさ」
「はなから金めあてに結婚したんだな、おまえの婿さんは。お門違いだな」
「新井白石の逆様だねこの夏生の亭主は。白石は、おからしか食えん貧乏書生だった。三千両持参金をつけるから婿にならんかと仲人を立てて来た大商人がいたんだよ、若き白石を見込んでね。見込んだ奴の眼力も相当なもんだがね、誰かさんと違ってさ。だが、一も二もなく白石は断った」
「山根某サン、よっぽどテキトーな仲人口を使ったんじゃないか」
「何一つ、言ってないて彼は言うけどね」
「そうかねぇ。でも婿殿のいわく、『常識』の一例たる誉れはエラク高いらしいじゃないか。それにしても、呑んでかかってるね、この助手は。この教授を。陰じゃコイツ、こういう口の利きかたを、どんな先生に対してでもしてるんだな、常平生…得意顔して。そういう自己主張ッきゃ出来ない不自由人なんだよ、なんにもモノが分かってない。センスのない坊やサ、こんなことを『誉れ』に数えてるんじゃ。何を勉強したのかね」
「願望が、即、規範になりうると思い込んでいるんだね。開けゴマ、と、唱えるだけで何でも誰でも自分のタメにしてくれるべきだと。それを自分の誉れだと思ってやがる」
「相手が奥野じゃ、こいつ運が悪かったネ。不運な婿さん、ですよ」
「本気で、不運だ不運だと嫌味を書いて来てるよ。嗤っちゃうよ。こういうことを本気で考えて、かりにも義理の親を蔭から罵倒しといて、一方でモンテスキューがどうだの、ルソーのエミールがどうだのと、やってやがる。ユマニスムの学問が、いかに偽善と瞞着の具にされているか…こういうのが古臭い教授病の重症患者なんだから、学問・学生の受難も甚だしいよ」
「論語読みの論語知らず、昔から御馴染みだよ。弱るな。しくじったな、おまえ」
「しくじった…。たいへんなカスを夏生につかませた。もっとも夏生はどう思ってるのか、惚れてるんだと思うんだ。おれたちの前じゃ亭主の悪口をベラベラ言って…、ゴマカシてやがんだよ。ああいうのは、向うに帰るとこっちの悪口で、亭主の機嫌を買うんだ」
「そいつを、また喜んで亭主は売りまくるワケだ。見えてないからね、モノが」
「ガリレオ以前なんだよ、たいへんな天動説さ。そこが坊ちゃま秀才の馬脚でね」
「山根さんは、何もしないんだな、向うへも」
「知らない…。呑んでかかってたからね、金田は彼を。最初からね。早稲田の平教授だし、自分のおやじは学部長だった理事だったと、位取り、きついんだ。ふつうなら山根さんぐらいな教授じゃなく、総長かえらい理事かに仲人してもらう身分だ、山根の顔を立ててやったんだと、夏生にも、ヤツ、言ってたそうだよ。
山根さんが、また、気が優しくてその辺で位負けしちゃう人でね。なんで山根が金田理事の息子さんの仲人を…なんて先輩や同僚に思われてるものと、ずいぶん気にして、緊張してたもの。披露宴に出て来た客はたいがい彼より格上だったし…、専門は日本の中世文学だし、金田はもともと政経の出なんだよ。そっちにこわい恩師がいるわけだから。そういう仲人口の結婚が、金田の地位も定まらない最中にトラブッちゃ、山根さんの学内での面子がヤバイんだ…。だから学内向けには、あの奥野がよくない、あれは頑固なんだ、ケチなんだと言っとく方が、そりゃラクだもんね。大学人には有るんだよ、そういうふうにしか身を守れんお人がね。……も少し、ジツのある、アテに出来る人だと思っていたが。勝手な坊やの、窘めるべきはピシッと窘めてくれる人かと思ってたが、尻込み一方で…、こっちに、俺たちにゼンブ辛抱させようとするんだ。せめてウチの家内の話を聞いてやってくれと頼んでも、結局逃げちゃった…。大学という序列のシマを、半歩一歩も出られない人だから」
「おまえは、また、根ッから、シマの喪失者だからな。しかし、弱ってるだろな」
「山根さんかい。ああ。おれが許さないからね。あちこちで愚痴ってるらしい、あちこちから、もう山根さんのこと、いいかげんに堪忍したげなさいよなんて言われるよ。だけど非礼は聴すなかれサ、許しゃしない。よそで愚痴るぐらいなら、友人として、おれと面と向かって話しゃいい。なのに友誼よか中立という名目で、結果的に、おれへの悪声を振り撒いて歩いてたようなもんさ。奥野さんも年齢だし、そのうちにきっと折れるから、まぁま辛抱なんてことを夏生に言ってるんだ。許さんよ、おれは」
「よっぽど金持ちだと売り込んだんだ。それに飛び付いたんだ。かわいそうに。おまえ程度の物書きに金があったら、それこそお笑いなのに」
「天は自ら助くる者を助くって謂っただろ。おれは天にゃなれんけど。それにしてもヤツは、テンから、天がおれを助けなくてだれを助けるかと、嫁の実家に粋な天になれなれと強要してきた。自助努力はハナから棚上げ…。しかし、金は、己れを卑しくして貰うもんじゃないぜ。意味なく遣るもんでも、まして、ない。粋に金よこせなんて、そんなイジマシイ教育学や哲学、聞いたことあるかい」
「夏生ちゃんを金づると思って嫁にしたか…。若いくせに、嫁、嫁っていう男だな。おまえの金をアテにするのなら、いっそ養子に来りゃいいんだ。嫁の実家の懐をアテに妻帯するなんて、自分の親の顔をつぶすってもんだ」
「ところが親父さんは死んでいるし、死んだご亭主の金の面倒をみたってのが、金田の母親の自慢なんだから、よくない環境だよ。息子は、だもんだから当然のように夏生に強いたんだ。里へ行って、取れるだけ取ってこいって、母子して嫁にせびったんだ。かわいそうに…、なんでこう再々大泉に来るんだろと心配なぐらいだった。そのワケが、最後に分かった…。向こうへ帰ろうとしたがらないんだよ夏生が…。そりゃそうだ、小遣い程度はやるが、ほかは夏生や子供の物ばかりやっていた。金は、全然…」
「夏ちゃんは、人一倍おまえの考え方で育ってるから。辛かったろうな」
「結婚して最初のうちは、いいお姑さんよ、なんて歯の浮くよなこと言ってたが。すぐに盛大にケンカを始めた。亭主も音をあげたほどガンガンやってたらしいよ」
「つまりは、金を寄越さぬ嫁の実家…かね」
「そうだ。金を出さず、口を出す最悪の三文文士め…で」
「世間でいわゆるその最悪をサ、それこそ最良なんだと思考する、ケッタイな小説家…か。不運だったな婿さんは」
奥野秀樹は笑ってしまった。駒井次郎も大口をあいて笑った。金田が母に出して貰っていた「月3万」の援助をとり上げられ、その母や妹に「働かないなら出て行け」と実家からも追い立てを食っていたのを、まだあの頃、奥野らは知らなかった。
* *
* 必然の動機が、作家を動かす。
『畜生塚』『慈子』『蝶の皿』『清経入水』『廬山』『みごもりの湖』『墨牡丹』『冬祭り』『初恋』『北の時代』『親指のマリア』等々を書いてきた時代のわたしの動機は、「死なれて・死なせて」にあり「真の身内」にあり「時空を超える」こと等にあった。その動機を、上のどの作も裏切っていないと思う。
そして、いつか年をとれば「私小説」や論議性の強い小説も書くだろうと予期していた。いつか私を此の世に送り込んだ生母や実父にふれざるをえない覚悟があったからで、娘夫婦との間に不幸なアツレキが起きよう、孫娘に癌で死なれようなどとは想像だに出来なかった。
まだ前半期に、『罪はわが前に』を書き下ろしたとき、また『迷走』三部作を書いたとき、すこし読者たちを驚かせたが、その系列では『ディアコニス 寒いテラス』も出て、わたしは、徐々老境予定の線へ近づきつつはあった。
昔、知己であった詩人の林富士馬さんは、「小説家になるために生まれてきた人だね」とわたしを評された。必然の動機を大事にするだけでなく、そういう動機をもともと深くに抱いて生まれてきたと謂われたようだ。いやいやわたしはそんな大層な物書きではないが、今も人によっては、「題材」に次々に恵まれる人だと揶揄もし、激励もされる。
それでいいのだ。そう思っていると「書き置く」。
2010 6・13 105
* 明日はもう機械の前にほとんど来れないから、今夜の内に書いておく。
* 「聖家族」を、わたしは、「長編の一環」かのように意図して「一九九六年八月」という昔に書き起こした。ホームページに予行・試作のかたちで掲載され始めたのが、「一九九八年十月」頃か。
原告が、これを「アクセス保存」(現在、法廷に提出している。)したのは「二 ○○六年八月七日」、やす香が亡くなって「僅か十日後」のことであって、ホームページに「初出」から「八年」ほもど経過している。
それ以前、原告の娘夫妻と私や妻とは、やす香の病院へ見舞いに行った以外、不幸にも「完全に没交渉」であった。その不幸を自ら回復してくれたのはやす香と妹とで、姉妹二人は、堅く親に秘し、祖父母との親交を心嬉しく回復していた。その間も、原告と被告との間で「聖家族」のことなど、「全く問題にも話題にもなりようが無かっ」た。
例の、やす香を「死なせた」という祖父母の悲歎をねじ曲げ、「両親がやす香を殺したと云っている=殺人者呼ばわりだ=名誉毀損だ」という幼稚な短絡で裁判沙汰が起きた際に、ことのついでのように「恥ずかしい」と持ち出されてきたのが、この「聖家族」であった。
* だが、見られるように、読まれればさらに明瞭だが、「聖家族」のコンポジションは明瞭にフィクションである。登場人物の氏名も住所も架空である。ある読者が的確に指摘していたように、原告が自分からこの「恥ずかしい」主役の「男」を「自分のこと」だ、「事実」が書かれてあるなどと云いまくらなければ、世間一般の読者は何一つそんな「仮託」のしようもなかった。
* 「ここに書かれていることは、事実か。それともフィクションか」ともし聞かれれば、わたしは笑い出す。
「事実」とは、「真の事実」として把握し説明しにくい「最たるもの」だから。
「事実」とは、「非事実・擬似事実・見立ての事実=つまりフィクション」であるのが普通である。例えば井伏鱒二の有名な『山椒魚』ですら、事実と読めるし、フィクションとも読める。
「ほとんど全部が事実です」と関係者に証言されているほどの谷崎潤一郎の「細雪」だが、そういうレベルで「細雪」を読む人は無く、事実性を超えた優れた「フィクション」絵巻とされている。
問われるべきは、作の「動機・主題・表現方法」なのである。
「聖家族」筆者の小さな意図は、「フィクション」という形式を用いて、ある忘じ難い一連の「事件」経過を、後日のため、客観的な物証(書簡・日記・メモ)を通じて保管・確保しておくことであった。しかし、もっと別にもっと本質的に、「こういうものが世の中にはいる」「こういう事件が起きる」「どんな家庭の食器棚にも髑髏が隠されている」というフランスの諺のような「怖さ」を通して、或る経緯と人間関係とを書いてみたかった。それが「小説」だ。
* では、作中の「男」は、「作の外」の特定の誰かを「指すものか」と聞かれたら、やはりわたしは笑い出すだろう。作中の 「越村高司」とは、『聖家族』なる試作フイクションの登場者「越村高司」なる「男」を代弁し表現しているに過ぎない。
島崎藤村作『新生』の姪「駒子」も、志賀直哉作『或る男、其姉の死』の「父」も「兄」も、全く同じ。谷崎潤一郎作『細雪』の「貞之助」も「幸子」も「雪子」も「こいさんむも、全く同じ。例は他の作家でも幾らでも上げられる。
「作中人物」は、「作世界」の「外の現実」とは、存在の次元を決定的に「異」にしているのが「創作」の「原則」である。
日本の小説と限らず、勝手な当て推量で特定の人の氏名を作中人物にあえて当てはめて読みたがる例は、膨大な数に上る。研究者までがそれを「知識」然として解説し流布したりもしている。しかしそれは作者の精神とは関係がないし、一般読書子からすれば、そんなことの正しいとも邪道とも云えないのが「読書」というもの。「読み方」という規則の、古今東西、「無い」のが読書なのである。フィクションである小説読みの本来からは、「作の中」と、「外の現実」を混同したがるのは、ふつう、「幼稚な勝手読み」「勝手な押しつけ」に過ぎないとされている。
* 「聖家族」のほんの最初の一部を挙げてみたが、恣にこれが「名誉毀損です」とでも言いたげに「太字」個所が、法廷への証拠書類に明記してある。だが、読めば読むほどに、それらはみな「小説の叙述・表現」部分として、「かのように」あたりまえに書かれているに過ぎない。
何の検査なのか、図像を見せて、それが白い盃に見えるか黒い顔の向き合っていると見えるか、と。
何が何でも「名誉毀損」としか見ない一方だから、反対側からの映像=意味が原告氏には見えなくて、「我から騒ぎすぎている」のである。
* 原告の騒ぎようは、わたしの創作意図からあまりに勝手次第に離れている。その結果、「自分で」自分の名誉を傷つけているのではないのか。
2010 6・13 105
* 十一時半、小雨のなか新刊本が届き、以降六時間、ぶっ続けの荷造り、そして最初の発送を今しがた終えて、痛烈にいま腹痛最中。湯に漬かって胃を温めようと思う。それでも、今日にはこの辺までと予定した全部を送りだせ、満足している。
漠然と、桜桃忌には「次」が送りだせるかなあと思いつつ一冊の編成に手を付けたときにはとてもムリと思っていた。思いながら、機をはずすと裁判の日程が迫って「湖の本」は夏遅くになってしまうが、そうはしたくなかった。
まだ若かった編集者時代にも、物書きで月に十数種の依頼原稿と長編の進行をこなしていたときも、わたしは時に相当な集中力を用いることが、ま、出来た。この後期高齢者と謂われかけている今回も、ちょっと意想外に難儀な仕事と作業とをうまく竪繋ぎ出来た。出来ていなかったら、ホントに胃に穴が空いていたかも知れない。
十九日の桜桃忌には、創刊して二十四年めの当日には、ほぼ第百三巻発送を終えようとしているだろう。そしてもう頭にあるのは、法廷のことではない、次の新しい「小説」をどう心ゆくまで実験できるか、だ。
2010 6・14 105
☆ 本のこと 播磨の鳶
湖の本が届き、それからずっと他のものが世界から消えてしまったようで、没頭して読みました。
特に序、基点、序章、補章、私語の刻・・「本章が抜けてしまっているよ!」とご批判を受け止めますが・・呆然と読みました。さまざまな人の思いが幾重にも重なり、しかし紛れもなくあなたへの愛が存在したことを思います。
随筆に対するお考えも、わたしなりに以前からの疑問のいくつかが解けたように感じました。(随筆を軽んじると誤解されるようなことを書いて、叱られたことがありましたっけ。)
頭クラクラしながら、何かを伝えたく、ただ伝えたく。
どうぞお体大切に大切になさってください。
* 書いて本にして、よかったと思う。こんなことは秘め隠しておくモノだと嗤う人もありましょうけれど。
2010 6・16 105
* 幸い、湖の本103 『 私──随筆で書いた私小説』の用は済んだ。京の従妹のいうように、なにより秦の両親や叔母への気持ちをこう表せてよかった。播磨の「鳶」さんがいちはやく、「呆然と読みました。さまざまな人の思いが幾重にも重なり、しかし紛れもなくあなたへの愛が存在したことを思います。」という言葉を噛みしめた。
ほぼわたしの年齢を追って書かれてある「三十二編の随筆」を、今回限りはどうか順番に読んで下さらば、私の思いや理解の変遷もまた文体・文章の変遷も看て取って下されよう。
「序」をここへ挙げておく。
秦 恒平・湖の本103『 私──随筆で書いた私小説』 序
この、例のないスタイルで編成した「私」小説は、三十二編の「随筆」と「補章・母の敗戦」とでバランスされている。いま七十半ばに年老い、私はこの小説を通して、じつに生まれて初めて「生みの母」と、真面(まおもて)に向き合うハメに立ち至った。
この母は「日本の敗戦」を背に負い、昭和二十二、三年(一九四七、八)私が小学校六年生から新制中学にあがる直前、この「私」のため、或る闘いを闘っていた。
私は、まったく気づかなかった。大人たちはみな私のために秘していた。六十余年を経、昨平成二十一年(二◯◯九)師走、初めてあらましを識ったのである。
迂闊であったとも必然とも言(こと)わけは避けるが、ただ私のための其の「母の闘い」を仮にそっくり記録し表現してみても、私の思いはそこを大きく逸れて、自ずともう一人の「私」があの時あそこに生きていた、あの後も永く生きて来たとの長嘆息を禁じ得ない。年齢と年輪を追った三十二編の随筆がそれをありありと表している。
「いま・ここ」で私の実感を謂うならば、生みの母や実の父への思いは思いとして、より大きく深くは、こんな私を、のびのびと育ててくれた秦の両親や叔母への熱い感謝、あまりにあまりに遅すぎた深い感謝である。なんという「私」であったことか。
2010 6・17 105
* 汗になり、肌着を一度取り替えたあとは、めずらしく安眠、八時半になっていた。
発送の作業が済めば、たとえよろよろとでも羽を広げて歩きに出たかったが、妻が歯医者を予約してしまい、しかしそれも、気より、からだが頼りなくて、失礼しようと思う。暑いが、冷房すると違和感が来る。
四日の人間国宝の會から二週間、途中十五日のコクーンでも不調に陥り、いずれも名演・快演のちからに助けられて苦境を凌いだが、連夜夜中の苦痛がつづいたなかで、力仕事の発送を完遂した。完遂は喜びだが、力を使い果たした気味もあり、体力回復のためここ三日は心を解いて休息し、月曜、弁護士との打合せに備えたい。度外れた暑さが難敵として加わってくる。
祝融は南より来りて火龍を鞭うち
火旗は燄燄と天を焼いて紅なり
日輪は午に当りて凝りて去らず
万国は紅爐の中に在るが如し
五岳の翠は乾きて雲彩(くも)は滅(き)え
陽侯は海底にて波の竭(か)るるを愁う
何(い)つか当(まさ)に一夕金風(あきかぜ)の起こりて
我が為めに天下の熱を掃除せん
ことを、水滸伝に借りて願いたい。
* 昼食後、三時間近く寝入っていた。寐て回復しているのか、生気を喪っているのか、分からない。必要なのは、喜ばしい、嬉しいという「栄養」だが、どう探せばいいのか。
2010 6・18 105
*つぎの大きな仕事へのアイデアがホッと点灯した。そのためには、大きな一つ手続き・礼儀を践まねばならない。そしてまた、甚だしい心身の苦痛にまみれねば、とても書けそうにない。「母の敗戦」を今回書いた。母へはそれでもシンパシイが動きやすい。父には動きにくいのだが、それでも、今回「私」を書く形で母を書きながら、じつのところわたしは父の身に負うた、いや父が身に負わされたものの過酷さを、怒り、憎む思いを忘れていることが出来なかった。書ければ、それを書く。そのためには、或る医学者・文学者の教えを請わねばならない。
* 八時半頃、もうやすもうかと思いながら機械へ来て、難儀で手間の掛かる気の乗らない仕事の、どうしても必要なのを見つけてしまい、ただただシンボウして、機械上でのややこしい、めんどくさい操作にたっぷり視力も根気もつかいガマンし抜いた。なんでこんなことをと思うと吐き気がしてくる。もう日付が変わる
2010 6・18 105
* さて、アタマのはたらきを、イヤでもここ三週間、「婿と娘の被告」として法廷で受ける「訊問」に備えねばならないわけだが、よく分からない知らないことでアテズッポーを謂うと、わたしを相手にし質問できるのは、被告代理人・原告代理人・裁判官、そして原告の二人であるのだろう。わたしからも直接原告の二人にものの聞ける機会があるなら、思い切り聞きたいことがたくさんある。しかし、原告と被告との直接の対話は、聞き苦しくなりかねない、無いのではないか。
裁判官が何を聞き、先方代理人が何を聞くか、むろん分からない。分からないことをあれこれ気に病むのはバカげている。
* 当方代理人は、依頼人である私に幾らかの質問をもう予定している。わたしは、率直に「書いて」答え、依頼人のさらなる質疑も容れて、補足というより、短く省略してある。
「書いた」ものは明瞭と思っているが、口頭での応答はとてもこうは行かぬ、台詞を覚える真似はいたってヘタで苦手であるから、どう覚えようとしても十の三か四も流暢に答えられないに決まっている。いっそいきなり聞かれたことに、出たとこ勝負に応答する方がよほど景気がいい。はらも据わる。
* わたしは、「アト出しジャンケン」が卑怯で嫌いである。モノをいう以上はウラづけも添え、さっさと云う。自分の弁護士に問われて、「書いて答えた全部」はもう用意が出来ているのだから、べつに秘密でも何でもないのだから、もっとも適当な時機をみはからい全部予め掲示し公開しておく。
あの青山学院大学教授の婿が、卑怯な「仮名」に隠れ、独り喋りまくった偽りに満ちた「週刊新潮」記事のときも、記者氏は、面談したことのないわたしのもとへ、メールで、婿の主張と称する六箇条を、「★★氏の、ことばどおりです」と念を入れて伝えてくれた。わたしは、即日、そのデタラメだらけの主張に、「書いて」逐一反駁し、週刊誌の「発売後」では「あとだし」になるのを嫌い、ホームページに発売前に掲示し対決した。
そもそもあの「週刊誌記事」は一度もわたしと会わずに書かれている。しかもわたしの顔写真・経歴のすべてをかかげて、「孫の死を書いて実の娘に訴えられた太宰賞作家」という見出しをでかでか載せた。だが、記事のどこにも「実の娘」の名前も顔写真も、なにより「訴え」の言葉一つも「無い」という、当の新潮社の人ですら怪訝な気持ちを漏らす内容だった。要するに娘の夫が「高橋洋」という仮名ででたらめに喋ったにすぎなかった。発売前に書いて公表しておいたわたしの「反駁」は、裁判所への陳述書にも、ホームページにも当時の「湖の本」あとがきにも、「文責」鮮明に今も実在する。
* 同じことを、今回も考慮する。書くのは筋だが、記憶力のとみに衰えた老人が、不慣れな場所に立って口頭で答えるのは、所詮ムリだと自覚しているから。
口頭陳述に応じはするが、この際陳述「書」に準じた意思表示もきちんとしておく、ということ。「もの書き」である。「書いて」すこしでも正確に意見をのこしたい。
* 身の回りを少しでも寛げたいと紙の山へ手をつっこむが、狭苦しいモノの隅からあとからあとから現れ別の山をつくる。いやになる。桜桃を戴いて缶ビールをあけると、すうっと睡魔が来る。それでもまた片づけだし、目に見えてものが減ったとはいえないが、ごったのものが幾らか分類された。分類したのをどうまた片づけるのかが問題。
2010 6・19 105
* 横浜市在住の、太田俊子さんから例年の涼しい水菓子とカステラを頂戴した。わたしより二つ三つお歳かさの、大学の先輩。お目に掛かったことが無く、しかしもう四半世紀、ずうっと愛読して下さり、いろいろ他にも下さる。びっくりする端的な貴金属を頂戴したことも二度三度でない。氣の支えのお一人。感謝。
そして栃木からは、メロンを戴く。
* なかなか御礼状が書けない。妻に代筆を頼むにも、実は妻もわたしと同じ不愉快仕事の資料点検や反証や記録に根限り協力してくれていて。さぞ、つかれるだろう、ときにはわたしの癇癪玉も浴びる。
* つぎつぎに不愉快仕事の点検作業を続けている。幸い、美しいマスカットや桜桃やメロンやカステラに力をもらい、潰えて心身を喪ってしまわぬよう、出来る限り精力を浪費せぬよう、寡黙の中でゆるゆる、しかし力込めて立ち向かっている。あくまで、これは「わがこと」である。
* びっくりして吹き出すことも、代理人は伝えてくれている。
原告たちは云う、「被告の表現は小説であり、被告は一流の評価を受けているから、その好評は公益目的にあること」と。それを、この私が主張していると。
噴飯もの、少なくも作家・秦 恒平が、そんな荒唐無稽のバカを主張するものか、理解に苦しむ非常識なねじ曲げだ。
紫式部は『源氏物語』を書いたのを咎められ地獄に堕ちたという伝説がある。
紫式部はもとより、「公益目的で小説を書いている」と自認するどんな「一流」の作家や詩人がいるのか、そんなバカげたこと、誰が口にするものか。
作品から得られる感銘、それが優れた文学の結果としての功徳であり、かりにそういう読書の喜びを「公益」と言い替え得るにしても、それすら、受け手により千差万別。源氏物語より源氏鶏太のほうが、漱石や直哉よりケイタイの少女小説が好きな人も、いっぱいいる。「作品公表は公益目的にある」というのが、作家・秦恒平の発言だって。バカも休み休み云い給え、失笑に値する無意味な中傷だ。
読者の胸に創作の動機を強い把握と強い表現でちからづよくうちこみ、感銘を得てもらおうと作家は書く、いや、そんな功利的なことなどは考えもせず、ひたすら文学作家は「書く」のである、濃い闇を手探りし足さぐりして、一歩一歩。
被告代理人の、これに先立つ弁論でその辺を確認してみると、
「著名な文学者である被告が、世間に向けて小説を発表・公表することは、それ自体が文学界に貢献・発展を目指すものであり、その主な目的は公益を図る点にあるといえる」とある。これをこね回したのだ、原告側は。
およそ、これなら分かるけれど、それとても、作品が成って後に批評や世評が呼び起こすことに過ぎず、結果として、公共図書館の棚にきちんと並んで読者が喜んでくれる作であれば、ま、ケッコウでしたという程度の「公益」などと頬笑ましきただの「結果判断」であり、作者・著者が本来の文学的動機とは、質も段階も、まるで違う「別ごと」に属している。
要するに「被告が主張しているなどという原告の理解」は、根底からねじ曲げた虚偽を語っている。そっくりお返しする。
* こんなことばかり繰り返しているのか、原告代理人と被告代理人とは。一度も裁判所へ出たことがない。もっと出掛けていってたら、興味有る取材が自ら出来たのだ‥、嗚呼。
* 明日、牧野弁護士事務所と打合せがある。本訴始まって以来、「初めて」弁護士の顔を観る。そういうものなのかとも思い、気楽でよかったかとも、思う。
* 十時半。やがて建日子が来る。明日、付き合ってくれる。
2010 6・20 105
* 建日子、夜前帰宅、わたしに呉れた新しい「優秀機」じつに軽い新機にインターネット等の手続きを全てしてくれ、此の機械から、ホームページなどを移転してくれた。その機械は何処へでも持ち出せるので、隣の書斎へこもって仕事が可能だし、どちらの機械からも内容を簡単に双方へ移動・移転できる(らしい)、まだ実地に試みていないが。
以前から何に使うのか分からない小さい細いチップのようなものを持てあまして棄てずに抽斗に入れていたのが、なんとも便利で強力なツールらしいことも分かった。名前も知らない、聞いても覚えにくい。
おかげで、もしこのまま入院しても、携帯電話を持たなくて済む、此の機械でも自由にメール交換出来るらしいし、ワープロソフトを用いて書き仕事も出来る。ホームページも使える。建日子自身が今使っている同様の機械より遙かに軽量で機能は数倍も十倍もいいんだとか。
ありがとう。
* 建日子、明けの四時頃まで台所で自分の機械を使い続けていた。わたしは、眠れなくて。血糖値を計ると、44、これは低血糖の新記録。なかば茫然のまま、白砂糖を二匙嘗め、カステラを一切れ、ミルクをカツプ二杯、サクランボを数顆、口にして回復。白砂糖って、なんて美味いんだ。やっぱり戦時の、砂糖無し幼児のからだをまだしているのだろうか。
* 九時、建日子の車で妻もともに、新宿へ向かう。昼過ぎまで牧野事務所で打合せ。
54階の聘珍樓で三人で昼食後、建日子とビルの下で別れ、大江戸線で帰ってきた。梅雨の晴れ間というには、あまりぎらぎら照りつけていた。
☆ 御礼 莉
湖の本103巻、頂戴致しました。
ありがとうございます。
日付が変わってしまいましたが、父の日でした。お身体を大切になさって、おじい様の元気なお顔をこれからも見せて下さいませ。
先日、やっと『暗夜行路』を読み終わりました。
私にとっては重い小説でしたが、最後には清々しさを感じました。
最後の、謙作が山で自然と一体となる場面は、私も一緒に何か壁を乗り越えたという印象を受けました。
謙作がそのまま溶けて消えてしまうのではないかと思いましたが、彼の心の中にあった冷えた部分が消えていく感じは温かかったです。
この場面はすんなりと心で理解でき、謙作のこれまでの葛藤を私も少し感じることができました。それまでは謙作の行動を理解するのは難しかったのですが、この場面は謙作の心に少し近づけました。ここが一番好きなところであり、共感できたところです。
おじい様、また大きなことが目前に迫ってまいりましたね。
法の力で裁くということが、私には未だに納得できません。
おじい様はありのままの姿で、やす香ママの前に立って下さい。
永遠に、おじい様はやす香の愛する優しいおじいやんです。
だから、まっすぐ立っていて下さい。
私はいつもおじい様の後姿を見つめています。
私も、おじい様おばあ様が大好きです。
体調のお悪い時に、おばあ様にお背中さすっていただいて、一番の治療薬ですね。
いくらおばあ様の優しい魔法の手がおありでも、お疲れになったらご無理をなさらず、ゆっくりお身体休めて下さいませ。
2010 6・21 105
* 心して御礼など申すべき先々へ、幾らもご無礼のまま打ちすぎているのを、身を縮めて気に懸けている。
* 向島長命寺に参拝の前に名物の「桜餅」を食ってきた。名物にうまいもの無しというが、いいえ、櫻葉の香も品よく添って絶佳と云おう。あまり美味く、もう一つ追加した。二つめの茶代は不要、ちゃんと引いてあったのも気持ちよかった。
くるりと裏へ、見番通りへまわって、長命寺、弘福寺に参拝。そこが遊郭向島の見番なのだろう墨堤会館の前を通って行く。お茶屋らしい家が幾つも目立ち、料亭なども。
長命寺とともにいささか憧れていた三圍神社にも参り、奥の庭もそぞろに歩いてきた。もう一度も二度もこのへんをもっと遊びの気分で散策してみたい。ちょっと、鮨を摘んでから、言問橋を西へ渡った。押上に建設中のスカイツリーが、どでかく太いこと、高いこと、いっそ立派な貫禄だ。それでもまだ三分の二ほどで、完成は再来年の春と、タクシーの運転手は教えてくれた。フーン‥。
* 愉快でない用事のための予習をと鞄の中へ入れていたものの、そんな氣にならず。で、倚子が在れば倚子の店で、乗り物で、電車で、書き下ろしと随筆との『私』に、読み耽ってきた。いま、ひしと身に添って読み返せる。
「序」「基点」そして「序章」「本章」の随筆群から「補章」へ入ると、ほとんど過激に世界が動く。変わる。筆致も変わる。もうそこまで読み進まれた読者が増えて、頂く感想に「はり」が出てくるのが嬉しい。
2010 6・22 105
* ここ暫く息子の「父の日」プレゼント新鋭機の試用・実用に「習うより慣れろ」を実行しよう。
冗談でなく、『私』の次ぎの展開を、まったく異なった観点と方法とで本格に書いて行こうと、視野を凝視し始めている。別に書き継いで相当進んでいる小説も、むろん見捨てない。
2010 6・22 105
* 「次ぎ」が見えているが、そこへ一散に駆け込むには、やはり七月の一件が一応障りになる。
徐々に用意して行く。必要なのは関聨の「年譜」だが、関係者と関聨の事件があまりに多く、的を絞らないと手さきも眼さきもチラチラする。関心の重点をしっかり定めること。
この日録に書き込むことは出来ない。備忘のための場所を他へ移して心おきなく書いて行こう。もう少し、もう少し辛抱しよう。
七月に入れば、建日子の芝居もあり、参院選挙もあり、怒濤のようになにもかもあららと奔って流れ去るだろう。そのあと、腰を据えて新しい目標を元気に建てて行きたい。できる用意を少しずつ積んでおく。
2010 6・26 105
* 外へ出たい黒いマゴのために七時ごろ起きた。松壽院さん(秦の父)、心窓さん(母)、香月さん(叔母)に、ご機嫌よう、わたくしたちも心健やかに健康に、怪我も事故もなく今日を過ごせますようと、毎朝欠かさない対話。「夕日子たち」の名も欠かさない。
わたしを碁できれいに負かしたもう一人の孫娘、元気に大学へ進学したろうか。高校ではパフォーマンスを学んでいたようだが、歌手になりたい素志をまもっているのだろうか。心ゆく日々を元気に聡く生きていてくれますよう。
☆ 秦先生 讃岐
湖の本、ありがとうございました。
通勤鞄の中に入れるのにちょうどよい装幀ですので お送りいただくと必ずもって歩くのですが 表紙(の繪)に少し困るのがこのところ難儀です。 でも、それほどに時間もかからず拝読いたしました。
早いもので私ももう今年で38になります。 不惑の年が近づいてきていることに先日気がついたのですが 子持ちで下の子らが年が近くてまだ幼いという、ちょっと厳しい育児をしていますと、毎日毎日惑う暇もない、というのが現時点の状況で 惑ったあとに確立する「不惑」など、ほど遠いように感じています。
朝、食事やお弁当、下の子たちの保育園の準備など ほとんど鏡をのぞくこともなく最低限に身なりを整えるとすぐに 子どもを連れて家を出る生活をしているほど 「女」を忘れて生活している私ですが、先日そんな「女」のシャッターを開けようとする人が現れました。
仕事先で会った人なのですが、あまりにもあからさまに 私への好意を言動に表すので、目上の方達もいる現場仕事の中で 本当に対処に困りました。
一人だけ、先方をご存知の先輩にこっそり打ち明けてみると もっと前から気がついていたと言われ 自分自身の女感度がもとから低い上に、さらに鈍っていたことに 改めて気がつきました。
こんなに「女」の欠損していた人間のどこがよくて拾ったのか 向こうの気持ちは到底想像つきません。
すっかり忘れきっていた感覚だったので 日常生活に着地するのに数週間かかりました。
地に足がつかないというのはこういう感覚だった、と 遠い昔の記憶が呼び覚まされたり…。
でも、その後小さな会合へマニキュアをしていく気になったり 何年もしていなかったイヤリングを出してみたり ちょっと艶やかな気持ちになっていたのは否めません。
ここから先は先生にお書きするのは大変失礼にあたるかと 悩んだのですが、地方の一読者のたわごとと思ってお許しください。
40歳前後というこの年齢、先生のお母様がお父様とお会いになられた頃ではないでしょうか。
育児に終われ、生活に追われているこの年齢の女が 自分から恋愛にスイッチを切り替えることはほとんどないような気がいたします。
先生はご両親の間に、いえ、はっきり申し上げればお父様の方に恋愛感情があったのか、という思いがたゆたっていらっしゃるよう
にお見受けしますが この年の女は、向こうからシャッターを開けて来なければ 開かないものなのではないでしょうか。
少なくとも、先に見つめたのはお父様の方では、と この年になり、先日の経験があり、肌で感じられるようになりました。
もちろん、先生はそこから先の深い感情について、お母様の方に思い入れがおありなのだとは思いますが ただ、どちらが先に、ということであればまぎれもなく男性側でしょう、と 読者の私は身をもって思います。 そこから先、流れ出る感情の強さ深さは 人生経験が多いだけに年上の女の方が大きいのかもしれませんが…。
私の場合は向こうが三人子持ちの同世代、 全くそういう関係にはならないと思いますし 私自身は仕事相手以上の感情は持ちようがないのですが それでも、長らく忘れていた回路に一気に電流が流れていく感覚は かなり制御しにくいものでした。
まだ自分が「女」たり得るのだ、という感覚。
普段は会わない遠い人、しかもお互い家庭持ちにも関わらず 着地するのにひと月近くかかりました。
ふゆさん(=新刊での著者生母)の場合、家の中にいてずっと年下、どれだけの感情が波だっていたことか、と思います。
そして唐突に姿を消した幼子二人…。
この件りを拝読するときは、なかなか正視できず なんども途中で本を閉じました。
どれだけ辛く探し求めたでしょう。先生が思い入れ深く書かれていることもあり どうしてもお母様のお話は共鳴してしまいます。いえ、共鳴する年齢になってきました、私も。
そんなこんなを思いながら、先生のご本を拝読しましたことを ご報告したくて「メールにて…」と払込票にお書きしました。
失礼、お許しください。
梅雨空で、ご体調を崩しやすいかと思います。
気ぶっせいな作業もお持ちでしょうが、どうぞお体もお心も おいたわりください。
我が家の裁判沙汰もまだ続いております。
能力のない人には何を言っても何をしてもとうてい伝わらないのだ という無力感と、そこに気を持っていかないということでしかこちらは心を守れない、という諦めを、親世代ももち始めているようです。もう2年になります。
ただ、我が家の場合は、相手を憎んでも捨て去っても惜しくない関係であるという部分だけが 最後には救われるところかもしれません。
お辛さ、お察しいたします。
先生もどうぞどうぞ、お大切になさって下さいませ。 讃岐女
栗の花や 強き視線に酔ひし夜は 着地せむとて手を伸べてゐる
黒から白 白から黒にかわりゐて髪ひとすじほどのわが女かな
* 久しく、うろとした耳聞きから、生母と実父の出会ったとき、若い父はまだ彦根高商の書生で、もう寡婦であった母は父より倍ほどの年齢と覚えていたが、当たらずとも遠からずとはいえ、十六歳ほどの年上であった。わたしの生まれた昭和十年の師走に母は四十をわづかに超えていたか。父はもう学生でなく、二人の住まいも彦根から京都へ移っていたが、一年半ほど前に兄を身籠もった頃までは、まだ彦根の母の家に父は下宿していたのかもしれない、京都から彦根へ通っていたのかもしれない。書生時代に母の家に父が下宿していたのはたぶん確かなことであったろう。
父はごく幼くに生母に死なれていた。わたしの生母はおもざしが父の母によく似ていたと漏れ聞いている。「讃岐」さんも察しているように父の「思慕」が母を先ず動かしたのであろう、母の方に青年の思慕を受け容れる素地があったのも確かだと思う。
ただ寡婦の母には、すでに二十歳前後の長女をはじめ息子達が三人いた。長男(わたしには父の違う長兄)は「戸主」であった。末の三兄も、母の産んだわたしの実兄恒彦を背負って「おもり」をしたこともあったと、生前のご本人に聞いている。
* わたしの父は、母との出逢いから別離までを、時に「失敗」と云い、時に「恋」と謂い、驚くことに時には「結婚」と二三度モノに書きつけている。自分は生涯に「二度結婚」したとも書いている。法制度上の結婚は異母妹二人の母と一度だけだ。
だが、いまのところ、仲を裂かれて別離後の母からも、父からも、互いを漫罵する様な一言も観て取れない。そのことに、わたしは、思い和む。
* 「讃岐」の読者の述懐は、身に染みる。歌ふたつ微妙に胸たゆたひ、措辞のゆらぎを超えて佳い「うた」になっている。
2010 6・27 105
* わたしの実父が、もう遠く離れ住んでいたわたしの生母と十余年ぶりに奈良市で再会したとき、父は母へ、金田一京助の『定本石川啄木』と安藤静雄の『啄木の歌』を贈っていた。二冊は母の手からわたし恒平にと秦の親に託されて、今も書庫に寄り添うように仕舞われていた。
金田一さんの本には、実は一時啄木評価を騒然とさせたショッキングな一章が設けられていて、わたしは、それをとても気にしている。しかし、本は紙も活字もはなはだ劣化していて読み取りも難しいほど。なんとかこの本からスキャンして電子化して置けないかと悩んでいる。どこかに、角川文庫にでも新装版が手に入れば何でもないのだが。
* 夜前、寐床へ行く直前に、いまも問題の平成十八年八月以降の「mixi」でわたしの受け取っている「メッセージ」を三十数頁分プリントした。娘が「mixi」で父のわたしを四十年に亘る(性的虐待を含む)ハラスメントの親として書き散らしていた時期に、弁護士もこれは明らかな「脅迫です」と民事調停を勧めてくれた時期に相当している。今からみて、よくこんなにと想うほど「mixi」メッセージをたくさん貰っていて、今更に認識を新たにすることも多い。
* 姉娘はくだんの捏造記事を弟に激怒され、すぐ「引っ込めた」というのだが、引っ込めた事実は裁判所にも代理人にも、今や弟にも全く確認できない。むろんわたしも妻もハナからアクセスを拒絶されていたので、今以て確かめようがない。
しかし今謂う娘の悪質な日記記事の全容(らしき)は、わたしの手もとへ、みな、届いている。届けてくれた人が無ければ届くわけがなく、その人(たち) は、娘とは全く無関係なわたしの読者であった。つまりその人達にも、当時、娘の「mixi」日記が読めたのである、のちに娘は近い友人にしか読めなく設定したらしいが。しかし近い友人になら「mixi」のようなソシアルな場で「何を隠れ書いてもいいのか」という問題、 該当の記事が書かれていた時には、被害者のわたしや母親にはアクセス拒否の設定をしていたにせよ、現に娘となんらのマイミク関係にもない読者が自由にそれが読めていたのだから、その人は、「あまりにひどい」と憤慨し、通知してきてくれたのである。
二十年にわたり、あるいは四十年にもわたり父・私が娘の虐待者であったという正式の訴えに関して、過去四年、娘はただの一点も訴えを立証しようともしていない。出来るわけがない。そのことは、この欄のうしろに敢えて列挙した写真等の物証が論より証拠として例示されてある。
わたしは、公人としてのわが名誉毀損だけでなく、妻や息子のためにもガンとしてこの件で娘の虚偽捏造に猛抗議しつづけてきた。
* 他方、わたしに対し、娘から、婿から、いったいどんな名誉毀損で千数百万円もの支払いが要求できるのか、その立証を求めている。十数年にわたる日録「闇に言い置く私語の刻」、日記文藝『かくのごとき、死』をはじめ、わたし公私の生活と主張は、小説としても日録としても、一点の洩れなくしかも「文責・署名」付で悉く公開されており、アクセス拒否などの卑怯な真似は全くしていない。読者の皆さんや、ホームページビジターを、わたしは厳しい「裁判員」かのように迎え入れて、何一つ隠さない。わたしにもし変な間違いや落ち度があるなら、どうか容赦なくご教示願いたい。あやまりを糺すに憚る日々は送っていないつもりだ。
2010 6・28 105
* 民主党の試みてきた「仕分け」はケッコウなこと、功をあせらず地道に根気よく続けて欲しい。自民党の時代には思いも寄らぬことだった。新築落成の豪華な参議院会館など、今なら「仕分け」の段階で修整されていただろう。
* 他方、ああいう仕分けではない我々人間が良識かのようにしている「分別」という習性。必要であり又それが人を蟻地獄に陥れもする。分別すべき事があり、分別してはならぬこともある。別の言い方をすれば、分析。
☆ バグワンに聴く。
「分析は息の根を止める。死んでいるもののみが分析や解剖に堪える。生きているもの、まさに生は未知のまま不可知のままにとどまる。」「おまえが知る瞬間、おまえは何かを殺している。人々は殺し続ける、たとえば愛をも。ひとたび愛を分析すると、愛はもう死んでいる。」「力(パワー)を誇示したいとき、人々はかならず殺している。知識もまた生きたものを殺す巧妙で執拗な方法だ。」「禅の人は知識にはとらわれない。関心がない。彼らは力(パワー)に関心がないから。彼らの本質の関心は、あるがままの「いま・ここ」の生に向けられる。生きている生に向けられる、死んで知識の分別に晒されるような生にでは、ない。だから、彼らは神ではなく、朝食に関心を持つ。天国でも、魂でも、過去世でも、来世でもない。ただの朝食。かれらは「いま・ここ」の生を観て生きている。」「浅き夢から醒めるのに、分別や分析は、知識は、何の役にも立たない。」
* 相撲。サッカー。どっちも、おもしろい。どうでもいいものが、ほんとうにおもしろい。意味づけを始めたら、それはもう死んでいる。
* 娘夫妻から仕掛けた裁判を、わたしはどうでもいいものと受けとめている。過ぎ去った死骸のようには観ていない。この醜悪な生きものを生きたまま、そう朝食のように食い、食って産まれてくる世界を書き続けるだろう。生かさねば。殺して分別するなど、なんと、つまらない。
2010 6・29 105
* 不愉快仕事も避けて通れないので、平成八年(2006)八月から十二月の記録、日付順に整理した3000ほどのものを引き出しやすいようにさらに整理していた。「思香」(やす香の「mixi」ネーム)「木漏れ日」(娘の「mixi」日記)を用いた聞くに堪えない記事が、読んで惘れた人達からの転送で溜まっているのにもいまさら驚いた。
悲しみの余りとはいえ、人は逆上するとこうだろうかと客観的に驚く。だが逆上するようではとてもまともな物書きにはなれない。
2010 6・30 105
* 七月である。同じ日に娘が生まれ孫娘が亡くなった。孫娘の癌死を悲しんで挽歌『かくのごとき、死』(湖の本エッセイ39)を出版したら、娘と婿は名誉毀損だと私を訴え出て、謝罪せよ、と。膨大な損害賠償金を払え、と。
マゴの死から、四年。此の七月十三日、わたしは法廷に被告として呼び出され、証人席で直接訊問を受ける。
* 今日久しぶり都庁前に牧野綜合法律事務所を訪れ、十三日のための打合せ。前夜から息子が保谷に来てくれ、朝十時の約束に、車で連れて行ってくれた。
* ベテラン弁護士は、致傷や詐欺盗難等でなく、現役作家である祖父が、孫娘の白血病入院から診断違いの肉腫死までの四十日を、衝撃と悲歎のまま哀悼の挽歌を書き綴ったことが、実の娘や婿に訴えられ裁判沙汰になるなど、他に一つも、「聞いたことがありません」と云う。わたしも、無い。
婿は、青山学院大学国際政経学部の教授。娘は、町田市の主任児童委員で、地元第五小学校のボランティアコーディネーター。職員に名を連ねているれっきとした公人で、インテリである。教育・教導に携わる公人である。しかも恥じて、婿は週刊誌取材
に「高橋洋」の偽名を用いてウソを言い放し、娘も町田市に本名を伏せて★★*枝の仮名で勤めている。
* 問題の著書『かくのごとき、死』は、このホームページの中で、(この「生活と意見」のiken0-2 としても)簡単に読める。「秦恒平・湖の本エッセイ39」として、むろん無料公開してある。「長編」文藝の一冊としても、公開してある。
四十日、悲しみをこらえ孜々として書き表しておかなかったら、二十歳の誕生日を目前に、あたら有為の人生を病魔に散らした孫娘の「生き死にのあかし」は残らなかった。やす香は生きていた。もっと生きたかった。生きてしたいことを生き生きと祖父母にも友達にも語っていた。やす香は生きていた。わたしは、愛する孫の「挽歌」をうたい「墓碑銘」を書いたのだ。
この本が娘や婿を攻撃の目的で書かれたモノでないことは、どんな読者にも明歴々であると思うが、読者という裁判員にどうか審判願いたい。
* 仕事のある息子と別れ、妻と新宿から上野広小路に流れて、天麩羅「壽ず亭」で、遅めの昼食、御徒町から池袋経由で帰ってきた。
* 昨日の「mixi」日記に、こんな題の古証文を書き改めておいたのを、思いついて、転写しておく。
☆ 花と自殺と 湖
* ファシネーションとは何だろう、と、いつも考えているが、譬えば、花が即ち、ファシネーションではない。花だけでファシネーションはうまれない。花の、香や、匂いこそが、ファシネーションになる。花の色やかたちではない。
「身内」とおなじだ。それだ。理屈や言葉でどう穿鑿しても、ファシネーションも身内もわかるわけがない。匂い合うように、わかる。そういう文体が、そういう文章が、欲しい。
* わたしは「自殺」というカードを最期まで大事に手にしていたいと思っている。自由というか、権利というか。よほどの全身全霊をあずけるに足るトータルな何ものかが、さあ、そんな自殺のカードは手放してわたしに預けなさいと言ってくれば、喜んで手放すだろう、が、かたくなにそれが悪とか善とかましてや道徳的な理由で「是非」する気はすこしもない。
ほんとうにそうしたければ、少しも躊躇なく、そうするだろう。だれかにゆるされる事ともゆるされない事とも思っていない。
* 「今のところ、わたくしは、人生はどんな苦くまずい味のものでも、最後までとにかく飲み干さなければならないと信じています。最後の最後まで生ききることが人生や命を真実愛することだと思います。」とまで、わたしは堅くは考えていない。
もういい、もう十分と言い切るのはエゴの声であろうけれど、「ほんとに、もういいよ」という内奥の声が聞こえることもあろうではないか。
自殺は、「みこころのままに」という受容を「拒否する姿勢でもありましょう」とは、正しい認識のように思うものの、その「みこころ」が「もういいよ」と決して言わぬでもあるまいとわたしは予感している。一瞬の好機を待っている。
そう。わたしが本当にこころから待っているのは「もういいよ」のゆるしではなかろうか。
2010 7・1 106
* 京都の横井千恵子さんから、祇園萩月庵の、京煎餅を半畳もあるかいう大きな箱で、それはたくさん頂戴した。いろいろに焼いた二十種類に余るほど、その一種類ずつがたっぷり。京都の煎餅はこちらの草加のなどのように石のように堅くない。味も色も形もとりどりに優しい。ベリーマツチで、おおきに、ありがとサン。
* 札幌の真岡さんから超特大のマスクメロンを戴いた。大きい。重い。二キロをはるかに超えていると。しばらく、その辺に転がしておいてから冷蔵するようにと「指示」がついています。ありがとう。
* 凍えるような血縁・親族の悪意。温かく溶かす身内の友の優情。
2010 7・2 106
* わたしには、娘や婿の前で、恥ずかしいなにものも無い。娘には、父として優しくも厳しくも育ててきた。それ以上は本人の問題だ。婿は、眼中にない。
* いま、去年の春法廷に提出された娘の陳述書を、(莫迦らしくて読む気もしなかったのを、)読んで、日頃は大甘で認識の足りない・行き届かない母親も、あまり娘の途方もない恥知らずな物言いばかりに、惘れて、天を仰いでいる始末。
恣に都合のいい父の書き物からのつまみ食い、まずい作文で、ひたすら父を父としても作家としても貶めに貶めようと努めているらしい。哀れだ。
* 丁度良い。タイムリーであるだろう、これから法廷で向き合う娘に、父・私の書いた「陳述書」のせめて一部を、もう一度読ませておこう。
私の文章に、もしウソの匂いのする個所が有れば、どうぞ叱って頂きたい。
*
第一、 主に、娘・朝日子に関連して申し述べます。
平成二十一年四月提出 秦 恒平「陳述書」より。抜粋
(一) 「朝日子」の誕生、そして私の「作家」の歳月
私に、『少年』と題した歌集があります。十七、八歳、高校生の頃の短歌を纏めたもので、過去、何度も姿を変えて出版され、内一首は、著名な歌人岡井隆の撰した『昭和百人一首』(朝日新聞社)に採られています。
その歌集の昭和二十八年、作者が十七歳初冬の作に、高校の在った近く、京都東山の泉涌寺や観音寺を詠んだ、十七首の連作があります。こんな写生歌が入っています。
笹はらに露散りはてず朝日子のななめにとどく渓に来にけり
「朝日子」とは「朝日の光」を意味する古くからの歌言葉で、近代にも、歌人斎藤茂吉や詩人三好達治らが愛用しています。御陵地の清寂をもとおり歩きながら、私は、いつの日か「我が子」を迎える折り、男女をとわず「朝日子」と名付けたいと思うようになっていました。後に述べます詳細な自筆年譜にも、昭和二十八年十七歳一月から二月の項に、「茂吉の歌から『朝日子』という古語を覚え、後年、長女の名となった」と記録されています。
その後九年、昭和三十七年七月二十七日、私の妻は、出血性素因を身に抱えたまま、医師たちの配慮や知友の輸血も得て、長女「朝日子」を産みました。
ひそみひそみやがて愛(かな)しく胸そこにうづ朝日子が育ちゆく日ぞ
「朝日子」の今さしいでて天地(あめつち)のよろこびぞこれ風のすずしさ
迪子迪子ただうれしさに迪子とよびて水ふふまする吾は夫(せ)なれば
こうして私たち夫婦は、我が子「朝日子」を、此の世に抱き取ったのでした。
その娘・朝日子が、いま本法廷の「原告」の一人であり、実父を被告席に置き、両親を指さして「不倶戴天」と広言し、父にも母にも「朝日子」と呼ばせない書かせない、自分も「朝日子」とは名乗らぬと叫んでいることは、ご承知の通りです。
そして世にもまれな、娘と婿夫妻の「被告」として、父であり岳父である私は、いま、本法廷に斯様「陳述」を求められている次第です。
ところで私が、私たちが、世にもまれないったい何ごとを、娘と婿に対ししたのか、しなかったのか。私どもは、何より先に、それを考えます。
娘をのぞく私の家族も、事情を知った大勢の知己知友や私の読者たちも、こと此処に至って、訴えの情理も事理も道義も、ほとほと分かりかねています。私の「陳述」の、そこが出発点になります。
私は、私の多年経営する公式ホームページ http://umi-no-hon.officeblue.jp/ の、数万枚を越す全内容、また全ての公刊された著作を、何ひとつ秘め隠さず、世に問うています。文学と文筆を以てこの歳まで一途に生きてきた私の文業は、大凡すべて提示してあります。どうぞ「ご自由にご判断下さい」といつでも、どなたにも、両手をひろげております。
私ども夫婦は、去る三月十四日、「金婚・五十年」を迎えました。ほかにも、私の全集が、今年の内に「百巻」に届きます。
自祝の思いで、十年来用意してきた詳細な「自筆年譜」(四百字原稿用紙で三百枚。)および単行本等・全集本の「全書誌」を、出版したばかりです。自筆年譜は、量的に考慮し、昭和十年(一九三五)師走の誕生日から、第五回太宰治賞受賞の、昭和四十四年(一九六九)歳末までの「第一部」と限りました。
その中で、長女・朝日子は昭和三十七年七月に、長男・建日子は同四十三年一月に生まれており、翌四十四年(一九六九)六月の桜桃忌には太宰賞受賞の記者会見がありました。
この『自筆年譜』は、どのように一人の男が「夫」となり、二人の「父」となり、どのように一人の「作家」が世に生まれたかの詳細な「記録」を成しております。厖大な日記や、手帖等の記録や、書簡往来その他に依拠し、及ぶ限り正確に詳細に作成されています。
むろん「朝日子」の名前も記事も、細微にわたり至る所に見えています。
どのような「親と娘」の日々があったか、殆ど日付を追うように明瞭に見て取れます上に、なにより私の、多忙をきわめた、編集者としての、また作家志望の猛烈な日々が、日ごと、ありありと記載されています。
年譜「第一部」を通りすぎた昭和四十五年(一九七○)以降のさらなる多忙、そして引き受けてきた仕事の量は、当然、見る見る倍加、倍々化して行きました。『全書誌』の示す「単行本等百冊」、「湖の本百巻」の厖大な収載作品量が、如実に、寸暇も無かった歳月を証明しています。
それらが、そのまま我が文筆家生活の、精魂こめた「足跡」でありました。私は小説家であるにとどまらず、文学・古典・美術・文化史・伝統藝能その他にわたる研究と評論活動にも数十年、とぎれなく携わってきました。それが評価され、東京工業大学教授就任にも繋がったのでしょうが、決して自身多年の業績を誇るためにこう言うのではありません。「途方もなく忙しい暮らし」が、とぎれなく二十年三十年続いたという事実を申し上げたいのです。その余にも、講演、テレビまたラジオの出演、大学への出講などがあり、加えて、三人が三人とも九十歳を越えて行った、義理ある両親と叔母とを、私たち夫婦は、地味な稼ぎの両手に、いつも、ひしと抱きかかえていたのでした。
(二) 朝日子への虐待・性的虐待があり得たか
ご記憶でしょうか。
私の娘・朝日子は、「廿年ないし四十年」の長きににわたって親から「虐待」を、あまつさえ「性的虐待」をも受けてきたと言い募りました。そういうことの、滴ほども、毛筋ほどもあり得なかったことは、上の、多忙で懸命で意欲的な、「書き手」として少しの停頓もなかった私の暮らし向きからも察して戴けましょう。また妻にも、息子にも、あまりに当たり前に一顧だに出来ないと朝日子の言い分は「笑殺」されています。
当時も今と同じ、ごく狭い家屋に、四人家族が額をあわせ膝付きあわせ、私は獅子奮迅子供たちのためにも頑張って、「書いて・書いて・書いて」暮らしていました。
しかも、人が笑うほど子煩悩な父でした。
ただし、無意味には決して子たちを甘やかさない父親でもありました。
1 私・秦恒平が「父」であるということ
『逆らひてこそ、父』というフィクションの長編小説を私は出版していますが、巻頭に、先にも名の出た岡井隆の短歌一首をあげ、こう書いています。
独楽は今軸かたむけてまはりをり逆らひてこそ父であること 岡井 隆
昭和五七年『禁忌と好色』所収。現代の歌人を代表するすぐれた一人。時に含蓄に富んだ歌が、ずかりと出る。
この歌も作歌の状況を越え、幾重の読みにも耐えながら、父なるものと子なるものとの不易の相を想わせる。
「こま」遊びのさまをまず思い出す。こまとこまとを弾かせ合っても遊んだ。鞭打ち叩くように回したこともある。地面でも掌でも紐の上でも回したことがある。
父と子とで、いま「こま」を闘わせているとも読める。父がなかなか子に負けてやらないでいるさまも見える。
だが「独楽」の文字づかいから、子が独り遊びし、父は眺めながら、父としての現在と子としての過去を心中に思っているのかも知れぬ。
「軸かたむけて」は美しい表現だ。力づよくも力衰えても読める。どっちにせよ懸命に回っている。父は子とともに、子よりも切なく回っている。「逆らひてこそ父」と感じつつ心も身も子より早く萎えて行くさきざきのことも想っている。「こま」はもはや心象であり、象徴として父の心に回るのみとも読める。
だが、気楽にくるくる回る「独楽」同然の子の世代に対し、なお父として鞭もあてたい、弾き合いたい、それでこそ「父」だという思いの底に、過ぎし日のわが父の顔や声や落胆の吐息がよみがえっても来ていよう。子への愛に父への愛が重なり、人生の重みに思わずよろけながら耐える。 秦恒平『愛と友情の歌』講談社刊 所収
これが「子と父」にかかわる、私の「基本」の思いでした。子を心より愛しながら、子を無用に甘やかさず、文字通り「鞭撻」の労も惜しまなかったのです。
「虐待」とは、情けない逆恨みとしか言いようがない。私は、子供達の越えていって欲しいいつも「壁」の役をしてきたのでした。その壁を、息子はちゃんと乗り越えて世に出て活躍しはじめ、娘は投げ出した。父が認めようとした才能すら投げ出したのです。
2 自筆年譜にみえる父と娘
いま「自筆年譜」第一部を顧みますと、長女・朝日子を妻が妊娠のころから、私が太宰賞作家として世に立つ日まで、ほぼ十年足らずの間に、およそ180回も、「娘との日々」ないし「親の思い」を記事に残しています。
まだ「小さくても、朝日子に、佳い場所で良いものを見せたい」と、京都でも東京でも、おどろくほど多くの寺社や景勝へ伴い歩き、朝日子もいつも嬉々として同行しています。
幼稚園の頃、「家族で清瀬平林寺に遊ぶ。朝日子の言うことをそのまま短歌のかたちに置き直す」とし、「香ぐはしき花の色して若葉咲く萌え野の原の日の光かな」などと記録しています。
歳末帰省のおりも、「晩、(京都)河原町で朝日子にアンデルセン『絵のない絵本』買い、縄手で白足袋買う。同三十一日(大晦日)、朝日子と知恩院の坂をのぼり花園天皇の十楽院上陵を拝み尊勝院縁側で日向ぼっこ。粟田神社から瓢亭無隣庵疏水べりを経て平安神宮神苑に入る。人がいないので朝日子肩車したりおんぶしたり唱ったり大喜び」とあり、こんなことは、父と子との茶飯事でありました。
そして、昭和四十三年(一九六八)一月早々に、「弟・建日子」が生まれました。
繰り返しますが、原告・朝日子は、出血性素因のある母の建日子妊娠、身動きも禁じられるほど安静厳戒のその頃から自分は親の「虐待」を受け始めたと、唐突に、まこと唐突に、平成十八年(二◯◯六)秋の「民事調停」時に、「初めて」申し出ています。
家族一同、とびあがるほど寝耳に水でした。どこからこんなことが出てくるのと。
爾来、「二十年」(単純に勘定して、朝日子と★★★が結婚して最初の渡仏のころ迄に相当します)、さらに「四十年」に亘り(なんと昨平成二十年迄)、親の、父の「虐待」を「受け続けてきた」と言い募っています。むろん、「何らの立証」もみせたことはありません。
昭和四十二年(建日子誕生まで二ヶ月半前の)十月二十日、「(手伝いに来てくれていた京都の)母帰洛。以降、朝日子と二人で家事の何もかもを捌く。朝日子も懸命に協力いじらし」と年譜は書いています。十日後の文化祭にも父は娘の運動会に一緒に参加しています。十一月十二日、「迪子(=妻)寝たきり。母帰洛以来一日も欠かさず(私が=)朝食つくり、五時で会社退けて買い物し帰って夕食つくり、後かたづけし翌日の用意。朝日子は洗濯係り。父、厳格に禁酒」と記録しています。
これら記事は、すべて現存する当時の日記等にきちんと拠ったものです。
当時私は、勤務先医学書院で、ほとんどが共同執筆の単行本出版企画を、優に100点以上かかえた、文字どおり寸暇もないモーレツ編集者でした。(文学賞受賞時、わが社の上司編集長は、秦を、編集者として第一級と新聞記者に答えていました。)しかも小説というものを、一日も休まず書き続けている、熱意にもえた作家志願者でもありました。そして目下最大の願いは「妻の安全」でした。
「(昭和)四十三年元旦、払暁ひとり尉殿(じょうどの)神社に迪子無事を祈る。男子なら建日子、女子なら肇日子と。『母ひとり産むにはあらで父も姉も一つに祈るお前の誕生』。祝い雑煮。改めて朝日子とも参拝す」と年譜は誌します。五日、本郷学士会館での会社年賀会には、朝日子もご機嫌で父とともに参加していました。
その三日後、昭和四十三年一月八日に、「次女」かと事務員に疑われながら、「長男・建日子(たけひこ)」が生まれました。
3 「ひとり娘」から「弟の姉」に
そうなのです。長女・朝日子は、両親最愛の「ひとり娘」から、このとき「弟の姉」になりました。新しく秦家へきた「男の子」に京都の祖父母や叔母は驚喜し、鍾愛しました。
お気づきでしょうか。
朝日子は親からの「虐待」を、「弟誕生」の自身「八歳」から受け続けたと民事調停に明記していました。
ところが年譜には、「朝日子を中に幸福に。迪子に朝日子を『いとしくいとしく』思う手記在り」とあり、「迪子朝日子を愛している。私は死んではならぬ」とあり、「アルバムへの写真貼りなど、落ち着いた連休。迪子と朝日子に代わる何ものも無い」とも記載し、続けて、家族が四人になった今、もし何ごと有ろうとも「迷わず、現家族を取る」と私は言い切っています。弟と姉とに、親の「分け隔て」の有るワケがありませんでした。
私には、後に「長女論」と題した民俗学の論考(婦人公論)がありますが、長女がいかに一家にとって神秘的にすらも大事な大切な存在かを書いています。弟が生まれようと、朝日子は私たちにとって掛け替えない掌中の珠でした。
しかし朝日子の小さな胸には、弟思いの一方で、親の絶対の「ひとり子」でなくなった寂しさがあったかも知れません。けれど両親になんらの分け隔てなく、おかげで「朝日子ちゃんは太陽です」と、小学校一年担任の、手放しの明るい信頼もありました。
繰り返しますが、むろん甘い一方の父親ではありませんでした。ガンとして「壁」の役をし、どんなに愛する娘にも息子にも、生活慣習はしつけました。無用に過大な金銭も与えず、われわれの収入に応じて贅沢はさせませんでした。親も金のかかる遊びは避けました。八十台の坂を、揃って九十へむかう恩ある育ての親たちを、叔母も含め三人、現に抱えているという緊張が、常にわれわれ夫婦の生活意識を質素に律していました。「子どもにも子どもの責任がある」という基本を踏んで、私は、『逆らひてこそ、父』という覚悟をずうっと持ちつづけていました。この小説を読んで、共感のまま泣けて仕方なかったと告白された高校の校長先生の長い手紙を貰ったりしたものです。
4 何をさして虐待と謂うのか
朝日子はいったい、何をさして「虐待」と謂うのでしょう。
一年、八千七百余時間の「家庭」生活で、親と子との、時に厳しく叱り特に強く反抗したりは、あまりに自然で当たり前な「世の常」です。
親は子を育ててきたと言うけれど勝手に赤い畑のトマト 俵万智
と、若い歌人は歌いました。ある高校の先生は、「十七にして親をゆるせ」の一言で生徒達の目から鱗を落としていました。子は、聡明な子は、そのように成長して行くものと思っています。安定した知性の持ち主なら、いくらか五月蠅い親の仕向けからも賢く自然に身をかわして行くのが、子どもです。親を知らぬ「もらひ子」であった私もそうでした。朝日子にもそれができる筈と思っていました。両親は娘を信頼していました。
それなのに、朝日子の、とてもとても考えられない現在の「異様な恨み」「憎しみ」は、これは、何なのでしょう、何故でしょうか。
その「謎」を解いて行くのが、この「陳述」であり、この先々で、きっとご納得下さるであろうと、私たちは信じております。
反抗期や思春期の子たちにありがちな、親へのたとえ辛い思いがいつ知れず有ったにせよ、なんと、とうにとうに結婚して二児の母となり、現に大学教授の妻であり、自身もお茶の水女子大学に哲学を学んだ、「町田市主任児童委員」の肩書を示し、地元でのコラボ活動にも熱心で指導的な女親の口から、平成十八年、四十六歳にもなっていた大人の口から、いきなり吐物のように、俄かに、初めて、飛び出した「親の虐待」とは……そも、何であったのでしょうか。
5 途方もない親への逆恨み・名誉毀損
それのみか、五十歳まえの大人の朝日子は、それを、朦朧とした幻覚的な文章で、「木漏れ日」名義の「mixi」日記として、「数百万会員」にむかい「公開」し始めたのでした。
作家・劇作家の弟・建日子も、私の妻も、むろん私も、びっくり仰天しました。なんで、こうなるの。あり得ない、絶対にあっていい話ではありませんでした。
弟は激怒し即座に姉を戒め、朝日子はその日記を「取り下げた」と言っているそうですが、時すでに、弟も、驚き怒って私に知らせてきた会員読者たちも、むろん私たちも、もはや朝日子の「mixi」日記には「アクセス不能」にされており、今以て、無道な捏造記事が削除されているとは、我々の誰一人も確認不可能なままでいるのです。
☆ 2006年08月26日01:41 ・・・
裁判長、
私は過去において申立人より性的被害を受けております。
いかなる状況下においても、同席することを望みません。
被害者の精神的苦痛にご配慮賜りますよう、お願い申し上げます。 (押村朝日子)
これは、この日付で書かれた朝日子のその忌まわしい「mixi」日記の一部です。
「裁判長」とは、弁護士牧野氏の助言で町田市簡易裁判所へ「民事調停」を申請した際の調停判事を謂っているようですが、ここで、朝日子は加害者に「母」も加えています。
調停「申立人」は、私の妻・迪子とともに、朝日子の「両親」連名でありましたから、朝日子は、父からも母からも「過去に」「性的被害を受け」たと広言していたわけです。
この時点で、私・父親は、娘・朝日子の事実無根の捏造により、日本ペンクラブ理事としても、元東工大教授としても、京都美術文化賞の選者としても、太宰治賞作家としても、明瞭な「人権蹂躙の名誉毀損」を受けています。そして母親も。弟・建日子でさえも。
むろん朝日子の言い立てる事実など、滴も無い、あり得なかった。しかし、それを口先一つで言うのではない。少しこの件に強く触れさせて頂きます。
(三) ホームページに、朝日子の写真を掲載する理由
この種の「被害」申し立ては、なかなか有効な反証が難しいのですと、専門家は私に「放っておけ」と言われました。百万言を費やしても、コトは微妙すぎると言われたのでしょう、しかし私は、自身の名誉もさりながら、妻と息子の名誉のためにも、ガンとして立ち向かう決意を固めました。朝日子には明瞭な「立証義務」がある、それも強硬に求めながら。
その一手段に、私は、言葉での反抗より先に、多年におよんだ親娘・家族が親愛の「写真」多数を、ホームページに「公開」しました。朝日子から父へ礼儀正しい感謝に溢れた「手紙」も、私の公式ホームページにいわば「証言者」として登場させたのです。
写真は目立ちやすく、あえて「現在進行形で日録の書かれる最新ファイル」の末尾に纏めました。今や話題の「裁判員」ならぬ、人目に触れて理解して戴くことが私の願いでした。私を愛し信頼してくれる知友知己や読者に対する、それは私自身の道義的な義務だと確信したからです。どうぞ、ぜひ掲示された写真等をご覧願います。 (=このiken.htmの末尾に掲載しています。)
1 朝日子のいわゆる「過去」の、「幾重にも」在るという認識
しかしここで折良く、ぜひ申し上げておきたい、それは、朝日子の上の告発にある「過去において」の「過去」のことなのです。
それは漠然と一纏めにつかみ取れる「過去」ではありません。そんな大雑把な掴みでは根底から洞察や観測を誤ってしまいます。真実、「幾重もの過去」があったからです。押村夫妻の申し立てには、往々これを曖昧にすることでわざと物事を攪乱させています。
くわしくは、★★★とのことに触れて、後章で申仕上げるのが適当でもあるのですが、いいえ、ぜひ此処でご理解戴くのが順であろうと信じます。どうかお聴き取り下さい。
こと朝日子と、我々両親・弟との「過去」は、箇条にして、下記のように分類できますし、こう把握されねばなりません。
この際、「弟の生まれる頃から」という朝日子の言に随いまして、
① 昭和四十三年(一九六八)正月、建日子誕生(=朝日子は小学校一年生)より以降、昭和六十年(一九八五)六月、朝日子が★★★と結婚まで。 (= 「大過去」)
② 朝日子らが結婚以降、★★★の秦家両親に対する突如「暴発(=妻・朝日子の弁)」によって、ー★★から一方的に「姻戚関係」が断たれ、余儀なく秦も受け容れ、両家に全面交通途絶・没交渉が始まった平成六年(一九九四)頃まで。 (=「遠過去」)
③ 姻戚義絶から以降、孫やす香が、両親に堅く秘したまま、自発的に祖父母との親交を一気に回復し、やがて妹・***もこれに加わる、平成十五年(二◯◯ 三)頃までの完全な没交渉期。往来はもとより、電話も郵便も全く無かった時期。
④ 平成十六年(二◯◯四)二月四日、やす香が自発的に保谷の祖父母と親交を回復して以降、平成十八年(二◯◯六)、やす香が肉腫に冒され七月二十七日に逝去の日まで。 (民事調停の頃には、「③と④」とを、「近過去」と呼んでいました。)
⑤ 「やす香告別(七月二十九日)」後僅か三日、押村夫妻の「我々を殺人者呼ばわりするのか」という裁判沙汰の威嚇が連日に及んだ平成十八年(二○○ 六)八月一日零時三十四分以降、「調停、仮処分、本訴」と今日なお推移中の、「=過去・現在」。
となります。
2 離れていれば済むのに。娘の根からの父親好き。
さて、言うまでもなく、実の親の「性的虐待」とは、聞くもおぞましく、事実なら被害者当人にはたいへんなことでしょう。少しも早く遠くそんな親もとを逃れたいでしょう。その意味で自身の「結婚」は最適の逃避、「婚家」は最良のアジール(安全地帯)になりえたでしょう。親の顔も見たくない、声も聴きたくなくて当然です。
今となって人は意外に思われるのですが、実は、原告・朝日子の結婚した相手、原告・★★★は、彼ら両人の被告で父親のこの私が、苦心惨憺友人に頼んで見つけてきた「婿」でありました。
苦心惨憺が、私の「眼鑑(めがね)」を曇らせた失策を招いたにせよ、朝日子は当座たいへん満足していましたから、上にいう親からの「被害」に真実傷つき苦しんでいたのなら、断然遠く離れて婚家にあれば、新婚生活の幸福に埋没していれば、それ以上の安全はなかったでありましょう。
ところが、朝日子は、ご近所もときに訝しむほど再々里帰りし、親に甘えていたのです。ただ甘えるだけでなく、父親の文筆業や、多彩な交際範囲にも、もともと娘は親しんでいました。父の手伝いもしてくれました。(娘は、自分でもものを書こう表現しようとしていました。父は、その意味で先輩であったし師でもありました。私にも、この子「書けるかも」という親の欲目があったのです。)
朝日子が結婚後も文学をはさんで父と娘の仲良い適例の一つに、忘れがたいことがあります。私が新聞の朝刊に小説『親指のマリア』を連載中、たまたま夫妻は、やす香もともない、パリに暮らしていましたが、創作のために私がぜひ手に入れたい「シチリア」写真集を、探して見つけて、二冊も、娘ははるばる私の書斎へ送って来てくれました。読めないフランス語を訳してくれもしました。父はたいそう助かったのです。
それのみか娘は、父の仕事をよく激励してくれました。いわば「読者第一号」かのように朝日子は父の仕事に目配りし、ときに手厳しい批評もまたアイデアも提出したのです。私に代わって、少しの小遣いかせぎに依頼原稿の下書きを手伝ってくれたことも、二度三度。
夫のパリ留学先へ追って、フランスで親子が生活するには、多少でも経済支援が必要でした。それらの仕送りに対し、近況と依頼等を告げる郵便が、朝日子・押村から「二年に数十通」も保存されています。夫妻とも秦家両親の配慮に対し親愛と感謝に溢れ、不快な交信など、ただの一通も混じっていないのです。来信リストも、ホームページ日録に、「虐待」の訴えなど根底からくつがえす雄弁な物証として今も記載されています。
さらにさらに雄弁なのは、結婚後の朝日子が、人もあれ父・私と仲良く同行し、大手婦人雑誌の旅行企画に大喜びで加わっていた事実です。
松山、瀬戸内、柳井、厳島等に旅した記事と写真とが、ひろく公衆の目に触れました。娘は、父のそばで、愉快で晴れやかな笑顔や身振りを無心にみせています。
二十年ないし四十年にわたり深刻な「性的被害」まで受けたと広言する本人が、拒絶するなら簡単にできた漫々的な(母の代役の=)旅行に、なぜ嬉しげに父と同行できたのでしょうか。むろん虐待など全く無かったからです。
雑誌「ハイミセス」瀬戸内の旅に、母に代わって父に同行。
仲よく、喜色満面。結婚後であり、長女やす香も生まれていた。
今申し上げた印象的なパリ通信も、仲良し父娘の旅の日々も、みな朝日子が「結婚後」の「遠過去」の話です。真実父の被害者ならこんなことはあり得べくもなく、原告・朝日子の「木漏れ日」日記が、また民事調停への申し立てが、まったく欺瞞と捏造そのものの乱心沙汰であったことを、本人が自ら明瞭に立証していたのです。
では、結婚以前のもっと遠い「大過去」には、どうでしょうか。
朝日子は神経質な病弱な子でした。高校の頃腸閉塞で入院したときも、父は、執筆の合間に一日も欠かさず長途自転車で病院に見舞ってやり、泣き虫の朝日子は父の手を握って放しませんでした。
先生の意を承け、通学するお茶の水女子高の父兄会会長をぜひ「パパ」引き受けてと、朝日子からも、妻からも、口説かれました。会長の七光で卒業式に総代で答辞を読ませてもらえたと朝日子は満悦でした。
大学受験の苦手な古典の勉強にも、父は頼まれて根気よく付き合ってやりました。
作家代表団でロシアへ出かける時も、朝日子は独り横浜埠頭まで大きな荷物を引きずり、はるばる見送り、埠頭からテープを投げてくれました。その写真もホームページに出ています。空港まで独り帰国の出迎えにも来てくれました。そういう父と娘でした。
私は、たくさん「売れる」書き手ではありませんが、たくさん「書ける」書き手でした。がさつには書かない「書き手」で、しかし文化界多方面の話材に亘れる「書き手」でしたから、根は交際家ではないのですが、各界に知己がありました。会合も多く、各社の編集者とも、盛りの頃は毎日のように家に迎えて付き合っていました。
娘はよく文壇のパーティにも浮き浮きくっついて来ましたから、「秦さんの朝日子ちゃん」はかなり広く知られていました。もし私から、おぞけをふるう「被害」など受けていたなら、とても一緒にそうして出歩くことなど出来ないでしょう。
父と娘との愉快な写真にも証言者にもコト欠きません。
サントリー美術館にぜひ就職したいと、顔色を変え思いつめて私に頼んできたのも、朝日子でした。思案に暮れて懇意の故谷崎潤一郎夫人に頭を下げ、怖いほど大勢の競争者の中から、ただ二人の採用者に入れてもらえました。娘は雀躍りして喜びました。
みな、およそ甘い「娘の父親」なら、ま、あり得たことで、私にすれば特別なナニゴトでもなかったのですが、翻って、もしも事実朝日子が父の「性的被害」者などであったなら、上のような全ては、とても「あり得ない」はずです。
そして事実、何十冊も積まれた写真アルバムには、ぜんぶ父が父のカメラで、母親や弟もともに和やかに心嬉しく父の撮影した写真が、今も狭い家に溢れて場所を取っているのです。ほんの数枚だけをとくに苦心選抜した写真ではないのです。たまには機嫌のいい顔もするなどという小賢しい言いわけは、こと愛児達に関しては、わが家では全然通用しないのです。
事実、これら明々白々の反証写真には、朝日子も、乱心気味にふりあげた手のおろしようなく困惑したようです。「被害」を無道に広言してみたものの、「立証義務」の果たせるわけなく、逆にどんな良識が眺めても、とてもあり得ないことと肯ける物的材料を私や妻は、きちんと多年保存し、提出できるのです。日ごとの行動まで把握可能な「年譜」の正確を保証した日記類・記録類も手元に有るのです。
朝日子は、わが家の保存資料を失念していました。
仕方なく朝日子は、内容証明郵便でウエブへの「写真掲示」に抗議してきましたが、私は、平成十九年の押村方「仮処分」提訴のときから、一貫して、朝日子が、「mixi」の「木漏れ日」日記に書き散らした「性的被害」その他云々の、両親と弟に対する「名誉毀損」の捏造を謝し、明確に記事を撤回するなら、いつでも即座に写真は削除すると申し出て来ました。やす香を喪っての乱心には同情を禁じがたい、だからこんなバカげた娘の言いがかりも「赦す」とさえ、再々代理人を通じて法廷に伝えた筈であります。
しかしながら、遺憾にも、この写真等の掲載無しには、私たちへの名誉毀損は半永久的に確実に打ち消すすベが無い。つまり言葉では水掛け論に陥るかも知れぬ以上、「権利」としても「情理」においても、謝罪と妄言撤回とが明瞭にならぬ限り、とてもホームページから削除するわけに行かないのです。
私のことを、押村夫妻は明瞭に「公人」と指さして威嚇していました。私も自分が「公人」だからこそ、不当な「名誉毀損」に対し、反撃の手段は「公世間」を前にし安直に放棄など出来るわけがないのです。繰り返し繰り返し、これは申して参りました。
しかも御覧下さい。誰が見てもなんら名誉を傷つける不快な写真や盗撮であるどころか、実に微笑ましい和気藹々の、親と娘との、家族の、血縁のスナップ写真なのです。
(四) 朝日子の「謎=昏迷」を崩す「二つの側面」
問題点を改めまして、では、なぜ朝日子は、こういうおぞましいことを私たちに繰り返し仕掛けるのでしょうか、そこへ不審をもつのは、誰しも自然なことです。「謎」は解かれねばなりません。
単純なこととも、複雑きわまりないとも謂えましょうが、「二つ」の「大切な側面」を確認することが出来ます。
そして、そのだいぶ先の方に、娘の本音めく「主張」らしきが、昏迷の相を帯び、透けて見えて来ますが、慌てず、その前に、「二つ」の側面を確かめておきたく存じます。お汲み取り願います。
1 両親と娘に「争い」は無かったということ
先ず一つは、
「遠過去」での朝日子結婚以来、「近過去の」やす香死まで、秦の両親と娘・朝日子との間には、険悪な表だった争いなど一度もなかった事実、これを具体的に申し上げます。
我々の確執は、もともと★★★との間で「暴発」したのであり、朝日子はそれに迷惑した第一人とすら言えるのですから。繰り返しますが、この「夫の暴発」とは朝日子が両親に真っ先に詫びてきた手紙に朝日子の認識として出ている非難です。
夫・★★★の突然の「暴発」に、妻・朝日子は「困惑」こそすれ、親たちに向かい悪声を放つナニゴトも一度としてありませんでした。はなから詫びていました。
母・私の妻は娘たちの「離婚」を強く希望しましたが、じつは、私は逆でした。
結局娘は、夫や子たちとの「押村」という「家庭生活」を選択しましたし、私たち両親も、板挾みに引っ張り合うのを避け、すでに妻で母である朝日子の手を、哀しみながら、放したのでした。
朝日子三十三歳の誕生日を祝った父からの手紙に、(ホームページ日録の冒頭ファイルに出ています、)落ち着いた心境を親しく告げ、父名宛てに返信してきた「絵葉書」文面は、この「第一の側面」をよく傍証しています。これが朝日子の自然で普通の筆致であり心情のあらわしようでした。
お手紙ありがとうございました。お陰様でおだやかな誕生日を迎えることができました。尋ねられて悪びれることなく、三十三ですと答えられるのがなによりと思っています。やす香は毎日プール。でもまだもぐれません。みゆ希は汗もと競争でシャワーをあびる生活です。学期中よりむしろ忙しいので、母親としてはいたしかゆしといった夏休みです。
町田市 押村朝日子 (一九九三・七・三◯)
2 週刊誌記事にも朝日子は全く影もなく
関連して、★★★について申し上げる際のイヤな話題になるのですが、此処で一つ申し上げます。名目上、朝日子が主役の「週刊新潮」(平成二十年七月三日号)記事でした。電車の吊るしにも出た記事のメインタイトルは、「孫の死を書いて実の娘に訴えられた太宰賞作家」とあり、私の名も経歴も顔写真も著書の写真までみな挙げ、まさしく「週刊誌沙汰」にして私を貶めようという記事の造り方でした。★★★の「持ち込み」取材だったのでしょう。朝日子はこの件は終始何も知らされてなかったのかも知れません。
と言うのも、その見開き二頁にわたる「記事」には、ところが、肝腎の「実の娘」の名も、顔写真も、また父を責め訴える片言隻句すら出ていなかったのです。
私も、記者と会うことすらしていません。電話取材も受けていません。
誌面で独り喋りまくったのは、なんと「高橋洋」と「仮名・五十三歳」を名乗った夫・★★★(青山学院大学国際政経学部教授)だけで、まぎれもない「独演会」でありました。
なぜ朝日子自身が出て話さなかったか、「訴え」なかったか。分かりません。私たちは、これほどの醜悪な場面で、朝日子の直な訴えの絶無であったことに、かえって驚きました。
07.09.09に弟・松夫は、父に向かい、「もう百万遍も俺は言ってきたよ」と、このように、繰り返しています。
「朝日子は、ビョーキなんだよ。朝日子はお父さんがめっちゃくちゃ大好きなんだよ。その大好きなお父さんから良きにつけ悪しきにつけて、例外というモノもコトも無しに愛されたいヤツなんだよね。是々非々の愛では絶対にダメ。しかしおやじは、いいときは手放しで褒める、しかしダメな時やモノやコトにはきちっとダメを出し、半端にはうけいれないでしょう。俺はそれでいい。朝日子は、それでは絶対に不満。そして褒められたことや愛され可愛がられたことは忘れても、ダメとつきはなされたことは覚えに覚えて、それが積もって、今では憎さ百倍、何としてでもお父さんに復讐し勝ちたい。そういうビョーキなんだ。仕方ないんだよ」と。
もう一つ、こういう側面がはっきり指摘できます。
3 父のウエブで夫が批判されていたこと
両家が没交渉に入っていたころ、私は東工大に教授室と講座をもち、数年で定年退官した平成九年の翌十年(一九九八)三月から、親しい学生達の助けを借り「公式ホームページ」を開設したのです。
そのホームページ『作家・秦 恒平の文学と生活』のなかに、「闇に言い置く私語の刻」と題して「生活と意見」を書き込む「日録」をもち、ちょうど今日までに90ファイル、総量は400字原稿用紙で数万枚もの「批評、評論、エッセイ、意見、交際等々」、そのままでもすぐ売り物の原稿になる文章が満載されて行ったのですが、その中で、朝日子の夫、私たちの婿・★★★にふれて、少しは耳の痛かろう「私語」「批評」が、時折り、じつに時折り、挟まっているのです。
「検索」すれば「★★★」の名が出てしまう、恥ずかしいし愉快でない、と朝日子は不快に感じていたかもしれません。(今どきのこと、子供たちも、簡単に見つけてしまうでしょう。)自分の父親が、自分の夫にふれてウエブに書いている、夫には恥ずかしいことを書かれている、それが、妻で母の朝日子の一つ父への「恨み」になっていたかということ、私は、それを幾らか「理解」します。
この私の「理解」で、さらに「三つの要点」に目を留めておくことが肝要と存じますので、順に申し上げます。
(五) ウエブでの★★★筆誅の要点
1 全て遠過去の「★★暴発」が原点、そして文責明記、インターネット。
夫・★★★にふれた記事の全部が、前にいう「遠過去」に、妻・朝日子自身いち早く批判し非難していた夫「暴発」に関わっている、それ以外は無い、という不動の事実です。その点が非難されるのは「★★★の自業自得」であると今も思っています。
さらに大切なことを申し上げます。
それは私・秦恒平の文章表現は、インターネネットにあっても全て文責明記、それが秦恒平の筆になることが例外なく明記されています。匿名ではないのです。
インターネット犯罪の多くはインターネットの匿名可能を悪用し、無責任な仮名・無名に隠れてなされています。悪例の一つが、後にも申しますが「週刊新潮」を利し、自身は「仮名・高橋洋」に隠れながら私を実名・経歴・顔写真つきで誹謗してやまなかった原告「押村高」の卑劣さに見られます。これは電子メディア委員会をペンクラブに創設したときから、私の最も忌避し嫌悪したことで、「文責明記」はインターネットでの遵守されたいひとつの原則・姿勢でありました。
インターネット上でも、互いに「実名」をあげ合って意見や情報を交換ざるを得ない事態は、いわゆる「紙」媒体時代と同様、いいえそれに倍加して「世間普通」の現象となってゆく動向は避けられないと、此の道の専門家は推知しています。完全に抑止し閉鎖する道はもはや「無い」とみざるを得ない以上、その際せめて「文責明記」といった手続きをルール化すべしと考慮しています。せめてそれがインターネット時代のエチケット・道義でありましょう。いつの時代にも、人の口に戸は立てられない。それがパソコンという機械を介して圧倒的にひろがったのが「インターネット」なのですが、インターネットそのものをもはや禁制することは、あり得ない現代、未来と、現になっています。
2 公人と公人 それは論争
上を踏まえて申します。
作家として、団体役員として、押村らも明言し指摘しますように、私もいわば「公人」であります。全く同様に、「教育哲学」等にかかわる大学教員で、同様「公人」を自称している★★★を文章等で「批評・批判する」行為には、慣習上も何の不都合もなく、公人同士の「論争」に発展すれば済む「普通行為」であると、今も私は「理解」していす。そのために私は「文責」を常に明らかにしています。
まして婿と舅との間です。法廷に持ち込むような事由では全くないと信じています。
かつて文化勲章の梅原猛が、大先達の斎藤茂吉や金田一京助らの実名をあげ、私的な罵倒に近いほどの論難をベストセラーの中であえてしていた事実、その他文壇や周辺で実名をあげた真っ向相互の論難・論争などは、実例を幾らもあげることが出来ます。私も押村も、いわば「そういう世間の住人」である書き手なのです。
★★★も私も、「同じ、人文学の範囲で生活する公人と公人」であり、ことに彼の「教育」という専攻分野にもふれて「道義と倫理の観点から」私が★★★教職を批評し、時に真っ向非難することには、彼からも同様に反論があればそれで済むことなのです。それがウエブであれ雑誌であれいずれも公にされたメディアであり、しかも私は★★のように卑怯に匿名や仮名でなくいつも本名で文責を明かしています。いわゆる②チャンネルなどの誹謗やコメントとは全く違います。
現に彼・★★は、岳父の私にむかい、書簡中、ルソーの教育論『エミール』を読んでものを言えと放言していた位です。ルソーは、彼が父君以来のいわば二代の研究対象であり、その意味では、いかに★★の「大過去」の言動が、ルソーの「自然人の徳」に背いた下劣なものであったかを、私は論証も立証も出来ると今も確信しています。
私は彼の父君の「ルソー研究」も、謙遜に時間をかけ勉強しましたが、その結果、どれほど★★★のルソーが、論語読みの論語知らず、人間の「徳」と「自然」に背いたものかを痛いほど実感しました。
しかも。
3 ウエブの★★批判は、17000枚中の10枚に足りない
私のウエブ上の日録で申して、問題の「遠過去」に★★★に触れた記事は、平成十年(一九九八)三月から十八年(二◯◯六)六月やす香入院月まで、正確に100ヶ月、57ファイル、少なくも17000枚余の原稿量のうち、たった数回、原稿量にして用紙10枚に遠く満たないのです。むろん記事自体を私は無かったと否認するのではありません。
(やす香の死後に、押村家の無礼な挑発に応じざるを得なかった言及は、裁判沙汰に持ち込まれたり週刊誌沙汰にへ画策されての、余儀ない現在進行形の応酬として、私は「遠過去」「近過去」での言及とは、全然異質の「別問題」と思慮しております。)
4 しかも「公式ホームページ」全部の削除を策謀し強行し
しかしながら、そんな現実のもと、このウエブ日録を一部分として含む厖大なホームページの「全部を強引に抹消」させようと、繰り返し、サーバーや「mixi」当局にあくどく働きかけた(一度はBIGLOBEを動かし成功した★★村夫妻の行為は、明瞭に、私・秦恒平や「e-文藝館=湖(umi)」掲載の多数著者達の「著作権・人格権を侵害」したものと言わねばなりません。
是については的確に後で触れます。
5 ウエブでの★★批判の実例
参考までに、ウエブの日録で、★★★に初めて言い及んだ「関連」記事を、ここに例示します。主眼は、あくまで私の「生き方・述懐」にあるとお分かり願えるでしょう。
☆ 湯川博士と婿と 1999 8・12
* 数日前、湯川秀樹博士と夫人との「ノーベル賞」物語のような映像をテレビで見た。結婚するときの夫から妻への誓いに、ノーベル賞を取るという一事があったらしい、それは成就したのだし、めでたい。あの頃わたしは中学生だったが、胸のふくらむような朗報だった。理論物理学がどんなものか知らないが、中間子理論に到達するまでの苦労はさこそと納得できた。
わたしの母と湯川さんの生家とはご近所で、母は湯川さんのそれぞれに著名な兄弟たちについても、聞きかじっていたことを、嬉しそうによく話してくれた。
生家は湯川姓ではなかった、それは奥さんの方の苗字である。奥さんの家は聞こえた病院であった。湯川さんがれっきとした婿養子であったか、たんに奥さん側の姓を名乗っていただけか、そういうことは知らない。
そこまでは、それだけの話であるが。
結婚して間もなく、奥さんは、夫の机に積まれた幾つも幾つもの封書に目をとめざるを得なかった。みれば、洋書など書籍類の請求書の山であった。奥さんは黙ってそれを自分の父親に差し出し、父親は、つまり湯川さんの舅は、黙ってそれをいつも全部支払ってくれた、という。
* おお、これこれと、テレビを観ていたわれわれ夫婦は声をあげた。青山学院大学の教職にあるわれわれの婿殿は、こうして欲しかったのだ。
学者の舅姑たるものは、こういう具合に「住む家」も婿に与え、黙っていても「生活費の半分」も拠出提供すべきだし、学者の嫁たるものは、実家から黙ってそういう金を引き出して来べきものだと、そう、われわれの婿殿は考えていたようで、われわれ舅姑へ罵詈雑言の手紙とともにそれを突きつけてきた。 (手紙は残っている。) つまりおまえたちは、「学者を婿にした親」として失格だ、湯川博士の舅のようであるべきで、それは「常識」であり、自分の知る限り「みーんな」そのように、嫁の実家は学者婿の学問を、黙って喜んで支えていると手紙に書いて寄越した。 (手紙は残っている。)
貧乏文士のわたしを「非常識な世間知らず」と罵って、経済の役に立たないそんな「嫁の実家」とは「親戚づきあいを絶つ」と手紙で宣言してきたのである。 (手紙は残っている。)
よほどけっこうな「仲人口」がつかわれていたのか、よほど稼ぎのいい売れる作家だと勘違いしていたのかも知れないが、九十歳前後の義理ある親や叔母を三人も京都から引き取り、狭い家で喘いでいたわれわれ夫婦には、出来た相談では無かった。
結婚後かなりの期間、二人目の孫が生まれてくるまで、婿殿は、だが、むかむかしながら我慢していたらしい。堪忍袋の緒が切れたように、「非常識な作家」である舅のわたしに、無道の限りの手紙を連発してきて、理不尽に娘の親は娘の婚家と「姻戚の縁」を絶たれてしまった。なんとも、ま、みっともなく情けない話である。
わが娘は、「それ(援助)」が出来ないのなら、形だけでも夫に、婿に、経済支援できないのを「謝ってくれ」と泣いてきた。やんぬるかな。
妻は離婚させたいと言ったが、わたしは魂の色の似た同士「夫婦」で生きてもらいたいと、娘や孫の手を、引っ張らずに、手放したのである。つき放されたと娘は思っているかも知れないが。
やがて十年になる。
* たしかに湯川さんの奥さんや父親の仕向けが「美談」視されたことはありえたし、そういう例は「みーんな」でないまでも、有ったろう事は察しがつく。
ところが婿殿にとって「不運」なことに、わたしは、徹してそういう思想や生活態度の持ち主ではなかった。むろん出来もしなかったが、じつは、出来たにしても、そういう余計なことは、よくよくの場合でない限り、むしろ「努めてしなかっただろう」と思う。その点ではわたしは、湯川秀樹よりは、はるか昔の新井白石の態度を尊敬してきた。
白石また、湯川さんにおさおさ劣るどころでない大学者であり、大詩人であり、優れた政治家であった。彼の青年時代の貧窮は、豆腐屋お恵みの豆腐絞り粕で飢えをしのぐ有様だったが、学問には励んでいた。
優秀さを伝え聞き見込んだ当時著名な豪商は、三千両の持参金附きで娘を嫁に貰って欲しいと申し入れて来たが、白石は潔しとせず、すぐ断っている。自伝にそう書いてある。
同じく美談であるとして、われらが婿殿は、湯川家の例をもって「常識」とし、常識の守れない嫁の実家とは親戚ではいない、利用価値がないと、切って捨てた。
わたしは、断然白石という人が好きであった。湯川さんのことは、はや遠い古であり今は論評しないけれど、ま、わたしは、娘の亭主を「情けない甘えたヤツ」だと軽蔑して思い捨て、惜しいとも思わなかったのである。
仲人口に感謝して乗ってしまった点では、恥ずかしながらアイコだった。わたし自身が、娘を、いわば押しやったような結婚であった。 1999 8・12
説明の必要もなく、★★は湯川型に援助によりかかり、秦は、根から白石のように貧しさの中から立って来たのです。この依存型と自立型との決定的な岐れ、これが「大過去」の不幸な「発端」に在り、間違いなく以後の「全ての紛糾はその延長上にある」のです。
そして★★★が、躍起になり「聖家族」という、フイクションの下書き稿を、人目に触れさせないでと言いつづけた理由は、要するに「恥じていた」のです。恥じながら礼儀なくただ「暴発」したのです。
此処でぜひ「三つ」申し添えねばなりません。
(六) 一つ。秦の日録は「読者」を前提の「文藝」であり備要・収蔵庫なのです。
上の記事のようにこの日録は、「作家・秦恒平の生活と意見 闇に言い置く私語の刻」と題され、厖大な内容は、「読者」を前提に、どの箇所を引いても即座に「エッセイ・随筆・批評・所見・記録等」として作家の売り物になる文章ないし、その大切な素材・備要ばかりなのです。
最近、篤志の読者が、今日までの全日録を「文学・美術・演劇・歴史・ペンクラブ、人生観、読書録、身内・家族、東工大等々」三十項目ちかくに綺麗に「分類」してくれましたが、それらから私は、今すぐにも、七、八十冊もの単行本出版を構想し編纂できるのです。私のウエブ日録「闇に言い置く」とは、そういう展示ないし備要・収蔵庫なのです。
つまり初めから「文藝」意図をもって用意され書かれ、一日も欠かさず無料公開され続まれてきました。だからこそ國内外の読者達を現に数多く迎え入れているのです。
★★★の名にふれた箇所は、大海の一滴に満たぬものでした。ぜひ必要ならそれだけを外せばよろしく、現に要望を容れ、どんな「検索」にも掛からぬよう「★★★」と完全なマーキングが既に出来ています。
(七) 二つ。ウエブで娘・朝日子に触れた記事は、みな思い出と労り。
★★★にかかわる「近過去」の日記記事とサマ変わって、娘・朝日子に関する記事は、上にいう100ヶ月の日録中に、数十倍、百倍もありましょうか。
それらはみな、愛娘や孫達の健在と健康を願って懐かしむ、思い出と労りの文章ばかりです。親の気持ちは娘に向かっていささかも色褪めていなかったのです。
そしてそれは、やす香の死に向かう時期でも全く同じで、問題の『かくのごとき、死』(湖の本エッセイ39)の、「六月七月」やす香が「逝去以前の全記事」が、内容的に明瞭に示しています。
* 朝日子に 泣いて心配している。朝日子のことも心配している。やす香のためにも、われわれが元気でいてやりたい。朝日子も元気でいてやりなさい。そして万全を。建日子でもいい、母さんでもいい、お前の気持ちさえゆるすなら、虚心に何でも告げ語らい、おまえの重荷を軽くして長期の苦しみに耐え抜いて行かなくてはならない。
この数ヶ月、私の見ている限り、あんまりにもやす香はムリを重ねていた。わたしはヒステリーの起きそうなほど心配でした。思いあまってやす香にもモノ申したが。
ああ、なんとかもっと早くに、なんとかしてやりたかった……
朝日子がいま共倒れしたらたいへんです。大事にしてください。 父 2006.06.23
* やす香の目覚めのさわやかでありますように。朝日子も疲れを溜めませんように。 2006.06.29
やす香祖父母の心配は、危篤の孫だけにでなく、常に娘・朝日子の上にもかかっていたことを、読み間違え、読み落とした読者など、押村ら以外に、一人もいなかったでありましょう。
あえて、娘や孫達への思いを兼ねた、もう一つだけ押村批判の記事を昔の「私語」から抜いて書き添えます。
☆ 生き別れ 2002 01/26 「家族・身内」
* わたしの学生諸君は大方知っているから話すが、わたしたちは、一人の娘と、娘の生んだ二人の孫とも、十年以上? 顔を見る機会も文通もない。いろいろな事情があったからで、娘と両親とに直接争いがあったわけでなく、つまりは、娘の夫とわたしたちとの齟齬に発して、へたをすると娘が離縁されそうな懼れから、すべて身を引いて交通を遮断したままなのである。だが、三十代という娘の女盛りを見ることなく過ぎ、まして孫娘の上はもう中学を出ようか、中学に入ろうか、その辺も覚束ない記憶だが、そういう可愛い盛りをまったく見ることもできずに過ごしてきたのである。
わたしたちは不幸に感じているが、娘や孫の気持は忖度できない。ただもう運命を恨めしく感じているだけ。察しられるように、わたしは東工大の学生諸君に、どれほどこの寂しい恨めしさを慰められたか知れない。
* 事実は小説より奇なところがあるが、わたしが東工大教授に突如慫慂されたとき、娘の夫★★★(現在は青山の国際政経学科の助教授か教授らしい。) は、大学にポストを求めて浪人中であった。わたしへの教授選考会申し入れを聞いた彼は、言下に、「パンキョウでしょう」と云ったが、それが「一般教養」への蔑称だとすら、わたしにはあの当時理解できなかった。
やがて彼の方は紆余曲折あって、筑波大技官の地位を得たものの、甚だ不本意な成行きであった。娘が、「高より先に、お父さん就任しないで」と電話の向こうで呻いたことも忘れられない。そういうことどもが、つもり積もって、不幸な、力づくの「生き別れ」にされた。
頭を坊主にし手をついて謝れとまで婿殿にわたしたち舅姑夫婦は云われたのだ。いったい何をわたしたちがしたというのだろう。わたしたちが貧しく力無く、ただ国立大学の専任教授に迎えられたということだけである。私にすら寝耳に水の白羽の箭だった。
妻は娘を取り返したいと云ったが、わたしは、そうは考えなかった。
夫婦は、まして子までなした娘は、夫や子とともに生きて行くのが自然なことと、自分から、娘の手を放した。手を放さなかったら、娘の離婚が実現していたかもしれぬ。
その決意にいささかの悔いもない。が、孫達は、孫たちの祖母は、むろん祖父であるわたしもだが、不当に受けてしまった離別の不幸、計り知れない。
孫達は我々祖父母を忘れ果てているだろうか、下の孫娘など、かろうじてわたしたちに一度抱かれたことがあるきりの、赤ちゃんであった。
この孫達の父親は、早稲田の政経に学んだ昔から、父君譲りの教育哲学の学徒である。ルソーやモンテスキューの研究者である。「教育」とは「ヒューマニズム」とはいったい何だろうと思う。どんな学生をどう育てているのだろう。「闇」の底へ、事実のみを「言い置く」のである。 2002 01/26
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* 婿は婿で、わたしの書いたモノから単語に等しい語彙・文節を挙げ、これがわたしの書き物に「何百」もあると云っているらしい。わたしのホームペイジの「私語」だけでも、原稿用紙にして五万枚に達していよう。二千万語。その中にその単語レベルが何百語有るとは、何が云いたいのか。
また、わたしの「私語」の中に、たくさん取り込まれているいろんな方たちのメッセージやメールや手紙を、それらは秦恒平が捏造している「作文」に過ぎないとも云っている。思わず噴き出す。嗤う。わたしは創作者、書けと謂われれば作文ぐらい平気だが、なんでこの日録にそんな真似をするだろう。噴飯とはコレで。随分以前にも唾を吐きかけるように同じことを娘は書いていた。
* 平成八年の七月二十七日に孫・やす香が亡くなり、八月一日からやす香両親による裁判沙汰の「脅迫(事情を判断した弁護士の感想)」始まり、メールボックスは錯綜し輻輳したメール文書や記録で山を成した。大まかに整理はしてあったが、今後もものの役に立てるには整然と順序立った整頓が必要で、午前中をかけてそれをした。集中力をつくす以外になく、投げ出したらみな役に立たなくなる。ことに内容の確認も大切だが、データの書き方の統一がないと整然と並んでくれない。6.8.9ではいけない、06.08.09と統制しておかないと。それが混在しているのもみな訂正して行く。不毛の仕事ともいえるし、この事件にもしも関心のわくミステリー作家や伝記作家や研究者がいないとも限らないのを、わたしは夙に知っている。手渡すなら使いよくて改竄されていない原資料を手渡せるように用意しておきたいし、わたしも、健康がゆるせば書き続ける。それを勧めて下さる先輩や編集者もおられる。
裁判の二つや三つで、物書きの根性は摩滅したりはしない。
* しかもフィクションの書きようはいろいろに「実験」が利く。モデルの穿鑿は読者や研究者の自在の好みであり、作者はそんなこととは無関係にフィクションとして小説を書く。
「原材料」は加工が利く。「加工」とは改竄ではない、仮構されたコンポジションの中へ適切に正確に組み込まれ、作中人物達の性格や行動の形成に寄与して行く。「作中人物」は「作外人間」とは次元を異にして生きている。いかに光源氏のモデルを詮議しても、源高明でも藤原道長でも菅原道真でも藤原伊周でもあるように見えて、しかしそれは誰でもない光源氏なのである。小説とはそういう生きものである。たとえ私小説を装ったツクリで、現実の妻や娘や息子と同名で書き表しても、じつは似ても似つかない。善美へも醜悪へも作者は確信して「理想」化できる。している。そういうものだ。
それでもなお、その、例えば醜悪で卑劣でウソツキに書かれている「作中男」のモデルは、「自分だ自分です」と、自分から言い立てるなど、醜悪で卑劣でウソツキと自身で自分を認定したその読者の、奇態で希代の気儘勝手であり、ある種の悪趣味なのである。 「似てますかね、あなたに」
「バカを云わんで下さい、ちがいますよ」で済ものを、自分から恥かきの穴へ飛び込んでくるとは。どなたかが云われていた。このインターネットの時節、書いたものは、本人は消しても他所で幾らでも残され伝わり広がって行く。
わたしは、恥ずかしくも何ともないから、書きたければこうして書く。書いたものを、機会が有れば人手に手渡す。青山学院の学長にも届ける、学部長にも、理事にも届けることが出来る。少しも恥ずかしくない。わたしから手渡さなくても人から人へ届いている。先生も、学生も、読んで知ってくれている。今度の法廷へもひょっとすると週刊誌も新聞記者も来るかも知れない、みんな知っているのだ。町田市でも、何人もの市民が知っている。市長も校長も知っているかも知れない。
* 十日もすれば、わたしは、もう、うまい肴でうまい酒を快く飲んでいるだろう。法は、法は、法は、法外な行方を示すのかも知れないが、言論表現・思想信条、そして著作権・人格権のために闘っているのは、賠償金目当ての原告ではない、被告で作家の私の方である。
2010 7・3 106
* アメリカから池宮さんの電話をもらう。写真では、差し上げた淡々齋短冊「萬事如意」を短冊懸けに綺麗に仕込まれて。また時代秋草の大棗をつかって、秋口には釜を掛けると。茶会は楽しい。
実は見失っていた昔の胸ポケット用の医学書院手帳一冊が、寝室の箪笥の隙間から見付かった。干物のように堅く乾いているが、一九六二年の分。あっちこちに、ちっちゃかった娘が鉛筆でラクガキしている。父親と同じように「字」が書きたかったのだ。七月二十七日の「朝日子 Birthday」には京都の祖父母達から祝電。電話はないから、電報だ。金はなかったから外食は出来ないが、ママがご馳走をつくった。この月、十二日から十八日まで、嬉しい夏休みで京都に。この祇園会の日々、をのちに『慈子』に書いている。
同じ年の五月七日に、さっきアメリカから電話のあった池宮さんの家を落合に訪ねている。お茶のパーティだった。この日のために貯金をつかい、迪子に純白のワンピースを買った。朝日子も可愛い帽子と服で参加している。写真が残っている。わたしはまだ小説を書き始めていない。
* 思いがけないものが見付かると、いっとき不快を忘れる、が、現実に戻ると、途方もない。
2010 7・4 106
* 息子の秦建日子が河出書房から新刊の小説『ダーティ・ママ』を出した。今朝一番に版元から贈られてきた。
建日子、よく頑張っている。
明日からは「秦組」の公演、建日子作・演出のどうやら時代ものらしく、初めて俳優座劇場をつかう。わたしたちも観に行く。
さらに今週からテレビの連続ドラマも始まるという。「逃亡弁護士」 建日子が噴出している。いいことだ。そしておいおいに上質の仕事へ、手を上げて行くように。
仕事の向きは違うけれど、同じ創作の道を一緒に歩いている。十五年前には想像もしなかった。此の道の厳しさが、微妙に異なってはいても分かち持てるのが嬉しい。息子がうんと父に優しくなった。息子なりに激励してくれているのだろう。
* しかし、一週間後に父をとうどう法廷に引きずり出す娘夫婦は、その陳述書に、いかに秦恒平が出版界から見放されたおちぶれたダメ作家に過ぎないかを縷々書いているという、弁護士も妻も惘れて、読まなくて好いですと原告達の心根の痩せと貧しさを嗤っているが。やれやれ、恥ずかしい。
2010 7・5 106
* 娘がお茶の水女子大に入学した春、今は亡い尾崎秀樹さんに、いっしょに中国へ行こうよと誘われた。仕事の障りがあり、代わりに娘を連れていって欲しいと頼んだ。入学祝いに恰好だと思った。尾崎さんの娘さんらお連れもあって、娘は、老作家や若い書き手や編集者や美術史家たち大人に混じって、大学の方をサボッて、おおはしゃぎ大喜びで出掛けていった。上の手紙の作家も、一行のお一人だった。お元気になられますように。
中国から帰ってきたときの、娘の、跳ねっ返るような大興奮ぶりはたいへんなものだった。
そういえばお茶の水女子高を卒業したときにも、銀座の「きよ田」の鮨で祝ってやった。こんど、文藝家協会の会長になった当時小学館の篠さんとたまたまカウンターで並んだのを思い出す。娘はご機嫌だった。
「きよ田」へは、辻邦生さんに最初連れて行ってもらった。山本健吉さんと二人の晩もあった。文壇人には知られたそれは佳い店だったが、もう無くなっている。妻も何度も連れて行った。懐かしい店。
2010 7・5 106
* 「湖山夢に入る」と題したメモのファイルを持っている。昨二十一年年師走二日に、こう書いていた。
七時に起き、生母ふくの手紙を解読しつつ電子化しているが、いま十時、朝から最初の一通がまだ写し切れない。
しかもいろんな事が新たに見えてくる。察していたことばかりだが、あらためて母自身の口からいろいろ慨嘆され哀訴されてみると、そもそもまだごく幼い小さい兄やわたしの「処分」の仕方にどうもその場凌ぎの中途半端があり、そのために幼い兄弟も、兄弟をそれぞれ預けられた北沢家も秦家も、十年にわたりじつに気味のよくない宙ぶらりんの気分に悩まされてきたし、母も、無意味に「我が子」二人を手の届かぬ場所へ隠されていた哀しみを持ち続けていた。「処分」に際し仲に立って半端に暫定の処置だけを施したいわば第三者を、母は「ブローカー」という際どい言葉をつかって、今回(=昭和二十二年から三年)の法的な養子縁組に際してはそういう第三者の好き勝手にはされたくないという意思を強く打ち出している。背景に戦後の新民法があり、母の発言権を後押ししているのも分かる。
およそは察していた。裏付けされてきた。
この頃、小学校五年から六年生へ向かおうとしていた自分の記録は、湖の本44『早春』に残している。
* まだ、手にした資料をどう出来るともわたしは思い到っていなかった、ただもう生母の遺した手紙を機械に書き写していた。「湖の本103」の着想は、毛筋も頭に無かった。
* 午前、午後、夕方まで、気を集注して「一つこと」の理解と整頓に費やした。疲れると一服がわりに山中裕さんの『源氏物語の史的研究』を読む。元服、加冠、添臥、新枕、三日夜餅、露顕などなどを源氏物語の各所の本文をひき読みながら理解して行く。それからまた「わたし被告」の法廷に立ち戻る。おもしろいでしょう。
* 頭の奥には、だが、本命の問題として「実父」のことが、在る。これはすぐに次の「湖の本」には間に合わないが、「おやじのこと」という感じで主題化が進行している。膨大な父資料・父遺文を読んでいて、これはと胸の疼く大事件がおやじには生じていた。そこへ肉薄しなければと思う。そのためにも、いま目の前の不愉快な法廷のことなど、早く「飛んで行け」と思っている。この裁判は娘と婿の持ち出したこと、わたしは実は被告でなく「被害を蒙っているだけの父親」である。ま、いい。
わたしのタッグを組むのは、今度は「わたしの父親」とだ。
* 十時から、建日子が脚本監修の連続「逃亡弁護士」第一回を観たが、安心した。堅固に書けていて主人公の状況に相応に胸も騒いだ。中村獅童がさすがに役の味を滲ませ、歌舞伎の舞台でよりもしっかり演じた。むろん、これにはあのハリソン・フォードとトミー・リー・ジョーンズの秀作映画「逃亡者」が前提に思い出せるし、このドラマ自体になにか劇画風の原作が有るとも聞いている。それはそれで、それなりに第一回がっちり観せて呉れた。贔屓の北村一輝も大事な役で憎体にすでに登場している。ま、本で謂えば読み物だが、映像としてリアリテイとクウォリテイのある作に繋ぎつづけて欲しい、最初から及第点が出せる。うまくなったものだ。
* 建日子の弁護士ものは、阿部寛の「最後の弁護人」、上戸彩と北村一輝の「ほかべん」があって、「どらごん櫻」の阿部寛も職は弁護士だった。みな印象的に成功していた。世の中、いい弁護士もいるしイヤな弁護士もいる。わたしもこれで多少の体験を持っている。
* 気をよくして、今夜はもうやすもう。あすもガンバラねばならぬ。目が霞んでいる。
2010 7・6 106
* 不愉快な、しつこい要事の合間に、一服の感じで、いろんな本に手を出す。いまさきも、直哉の『暗夜行路』を読み継いでいた。こんなところへ行き当たった。
この作品の時任謙作は、父の子でなく、父の父、祖父と、父の妻、母との子だと、この年齢になって初めて告げられた、東京から遠い瀬戸内の尾の道にいて。
『暗夜行路』の大きな構想の一つが、これだ。言うまでもない作者直哉の仮構したフィクションである。多くの読者をおどろかせる設定であり、少年であった昔々のわたしも驚いた。
☆ 暗夜行路 前篇・第二 13
そして、彼は何といふ事なし気持の上からも、肉体の上からも弱つて来た。心が妙に淋しくなつて行つた。彼(=時任謙作)が尾の道で自分の出生に就いて信行(=戸籍の上の兄)から手紙を貰つた、其時の驚き、そして参り方は可成りに烈しかつたが、それだけにそれをはね退けよう、起き上らうとする心の緊張は一層強く感じられた。然し其緊張の去つた今になつて、丁度朽ち腐れた土台の木に地面の湿気が自然に浸み込んで行くやうに、変な淋しさが今ジメジメと彼の心へ浸み込んで来るのをどうする事も出来なかつた。理窟ではどうする事も出来ない淋しさだつた。彼は自分のこれからやらねばならぬ仕事──人類全体の幸福に繋りのある仕事──人類の進むべき路へ目標を置いて行く仕事──それが藝術家の仕事であると思つてゐる。──そんな事に殊更頭を向けたが、弾力を失つた彼の心はそれで少しも引き立たうとはしなかつた。只下へ下へ引き込まれて行く。「心の貧しき者は福(さいはひ)なり」貧しきといふ意味が今の自分のやうな気持をいふなら余りに惨酷な言葉だと彼は思つた。今の心の状態が自身これでいいのだ、これが福になるのだとはどうして思へようと彼は考へた。若し今一人の牧師が自分の前へ来て「心の貧しき者は福なり」といつたら自分はいきなり其頬を撲りつけるだらうと考へた。心の貧しい事程、惨めな状態があらうかと思つた。実際彼の場合は淋しいとか苦しいとか、悲しいとかいふのでは足りなかつた。心が只無闇と貧しくなつた──心の貧乏人、心で貧乏する──これ程惨めな事があらうかと彼は考へた。
これは確かに生理的にも来てゐた。尾の道にゐた頃、既に彼はさうなりかけてゐた。其処に自身の出生に就いて知つた。此事は然し一時的に彼の心を緊張させる上に却つて有効な刺激となつた。が、その刺激がなくなり緊張が去ると其処にはり一層悪いものが残された。これなしにさへ弱つて行きつつあつた彼の心はその為め不意に最も悪い状態にまで沈められて了つた。
* 少年の私は、謙作の運命にもかなり驚かされたけれど、ここでは、この状況で牧師が出てきて「心の貧しき者は福なり」などといえばブン撲るという謙作の気持ちに、立ち止まった。わたしは新約聖書「マタイ伝」山上の垂訓をすでに家にあった小型の聖書で識っていた。(ちなみにこの聖書は、叔母が若い日に心惹かれていたという男性から贈られていた。今の話には関係がない。)そして、引っかかっていた。
心豊かなという物言いが称讃の感じで有るのに、正反対の「心の貧しい者は福」は呑み込みにくかった。むりやりにも加齢とともにわたしは理解してきたつもりで今はいるが、あれだけ直哉はキリストの協会に通って牧師先生に傾倒した人だが、いかにも此処は若い謙作らしいと、今でも謙作に共感する。
わたしの出生も、いまやわたしの読者には全面的に知られているように、そうそう尋常ではない。しかし父は独身で母もすでに寡婦であったから、その点に問題は無かった。ただ母には子があり、父は母よりも余程若かったので、周囲のとうてい容れる間柄とは成り得なかった。そしてそんな事実をわたし自身は何も知らずに秦家で育てられたから、『暗夜行路』の謙作のように「参つた」体験は全然といえるほど無かった。
それでも今日何度目か此処を読んで、謙作の気持ちに心身を添わせるのは自然に容易であった。謙作の鬱屈はよく書き示されている。
* 今日、ある遠方の女性造形家からはるばる『私』への礼信があった。その文言に、
「今回の表紙は、一段と官能的ですね。そして、今回のテーマは「私」だったので、官能的私小説…? という印象で、ちょっとドキッとさせられました。
以前にも少し書いていらっしゃいましたが、興味深い生い立ちでいらっしゃいるのですね。」と。
* なるほど、「興味深い生い立ち」かと苦笑した。
むかし、あるアマチュアで小説を書いていた年かさの女性と対話したとき、会話の中にひっきりなしに「ちゃんとした育ち」「ちゃんとした普通の」という物言いが頻発するのに、いささかげんなりした記憶がある。
今度の作にも書いているが、就職の最終面接の席で社長が、わざわざ、「君は此の戸籍の記事を気にしているかも知れないが、ボクは気にしていないからね」と言われてビックリした。わたしは、むろん自分の原戸籍を読んで知っていたけれど、社長のわざわざの思いやりにビックリしてしまうほど、まるで念頭に無かったのだ、「そういうもんなのか」と初めて学んだ気がした。
「ちゃんとした」にも「興味深い」も、参りはしないけれど、軽く胸をおされる。
時任謙作の参るははるかに深刻であったろう。実の父上とながいあいだ不和でうまく行かなかった直哉の気持ちを思って読んでいた。
2010 7・7 106
* さて、今日も終日、暗い重いいやな気分で、不愉快な要事にかかずらわって過ごした。こんな父親の、こんな暗鬱な日記を欠かさず読んで、あの娘は愉快なのだろうか。そんなことをしているより、へたでもいい、創造的な仕事に打ち込んで欲しい、「アキサンカク」の愚形を恐れず、囲碁の腕をあげて、一度わたしを此の機械の上ででもコテンパン負かしてみるのもよかろうに。いやいや、烏鷺を闘わすような根気をつかうのは、わたしはもう時間も体力も惜しい。
2010 7・7 106
* 朝、6時前に血糖値を計った。108。懸命にコントロールしている。すぐ、放っておけない要事に立ち向かい、あまり心の寒さに、いま、「マドレデウス」を聴いている。なよやかに輝いた繊細なこの女声とともにいると、わたしは孤りでない。ポルトガルの言葉は一言も分からないが。「O Olhar」というとても好きな歌をいま歌っている。目を閉じ、静かに静かにわたしは沈んで行く。
2010 7・8 106
* さ、出来はどうだろう、俳優座を使っての息子の作・演出の芝居は。ほんとうは、家にじっとしていたい気分だが。昼前から出掛ける。気の晴れる芝居であれよ。いま、「A lira-Solidao no oceano」を歌っている。身に染みてうつたえてくる美しい声音。
* かなり内心危ぶんでいた。
俳優座劇場での秦組公演・建日子の作・演出で、時代ものの「らん」とは、「乱」なのか。大丈夫かなと。黒澤明にあったじゃ無いのと。「らん」はヒロインの名であった。
大丈夫も大丈夫、感動を誘ってみごと心優しく、思想や体制の批評も強く打ち出した「意欲の建日子らしい」作品で、十分見応えがした。かなり上出来だった串田和美演出・勘三郎主演の「佐倉義民伝」よりも、身贔屓を超え、人間の彫り込み深く、劇物語も面白かったのである。
* 題材は<類型的な>とも言えなくないが、さて類例は、人間差別の問題とも絡んで、「むしろ少ない」だろう。露骨な悪政の支配と、狡猾で我が侭な、しかし収奪されて貧しい貧しい農村農民と、さらに、露骨な人外の差別を受ける谷の者達との「三層の軋轢と武闘」という難しい折衝を、ぶざまなチグハグをみせずに作者は、演出家は、役者たちも、真率に一致し表現しきっていた。
彼・建日子のかつて描いた弱者達の死闘「タクラマカン」を、リアリティにおいてもずっと上越す、充実した、しかも余裕をさえみせた作劇に成った。科白はじつに自在で、拘泥がなく、無謀にも走っていない。会話も所作も運動も目的に添っていて面白いのである。
* なにしろ「秦組」という、役者としては途上未知数の若者達を、いっぱい舞台に立たせているのだから、口跡たるや言葉としてロクに成り立たず、むしろただの紛れない「人間の声・叫び・呻き」として記号化してしまっている、だが、そういう只もう「音声」の怒りや歎きや高慢を含んだ「渦」をさも素地にして、「主なる役」を占めた数人の先輩俳優達に課せられた、一筋縄で括れない難しい言葉・科白が、逆に多彩に浮き立ってくる。きちっと聞こえてくる。その他大勢の台詞は、大事な、主なる生きた言葉たちを盛り上げる「背景」とも「素地」とも成って、邪魔にならず効果的にまるで発射されていたのが、それでいいんだなと、観て聴いていて、面白かった。ぶっちやけたハナシ、台詞のへたをへたなまま演劇の生気・生彩として使った。皮肉でなく、もしあんな大勢の沢山な早口の音声が、あのまま明晰な言葉として皆聞こえてきたなら、喧しくて騒がしくて、かえって堪らない「混雑」を招いただろう。あれらは、良く意味の聴き取れない叫びのようなままで良かった、彼ら「三層」の利害や思いや恋を抱いたとらえどころない群像たちは、若いからだを敏捷におもしろ可笑しく躍動させ、舞台に弾みをつけ、観客に理づめの知解などをいっそ持たせまいと、演劇そのものを肉体の舞踏に開花させまた結実させていた。
それが無ければ「おはなし」にならないほど、人物の出し入れは、終始適切にリズミカルで、渋滞しなかった。「演出」とはこうでなくてはと思わせる、細部まで精微な注意が行き届いていた。うまいじゃないかと、観ていながら、かなり度々感心し、共感した。
言葉は悪いが、バカ役もバカ役なりに極限まで人間の心理と行動として追いつめ煮つめて働かせたので、瞬間風速に似たキュッと来る感動を誘い、何度も涙したし、不覚にも嗚咽に近いところへまで追い込まれた。図式的な人物を演出の力で人間の感動にまでバカならバカを締め上げ追い込む。そのために、マンガのようでありながら、マンガの閾をグイと超えて、演劇が熱を帯び舞台が沸騰してくる。舞台とは、そう有らねばならないものだ。どこかで半端に妥協したら、そこから汚く不細工に空気が抜けてしまう。
* 主役ヒロイン矢島舞美の、ひよひよといかにも初心そうな<ヘタッピー>と見える芝居ぶりが、脱皮して行くようにぐいぐいとリアリティを光らせ増して行き、ついには強い優しい戦士として「人間の死」をいっそ高貴に完成する。よくやったと、少女を褒めたい。
谷の者たちの実質首領のような、ベテランといっておく、築山眞有美と瀧佳保子とが、二人だけ生き残るまでの、鞭の鳴るような活躍で、被差別者の挫けぬ強い精神の美しさをみせ、この抵抗劇が、本当の人間の劇であることを、しっかり体現し、わたくしにも伝えてくれた。
ほかにも清水弘や松下修や工藤里沙・出合正幸、鈴木信二など、懸命に勤めて、ブレなかった。いやいや「秦組」の若いみんなもみな楽しそうによくやっていた。
* 新人大勢の、ともすれば混雑芝居になりかねないところを、混雑は混雑の味のまま、躍動へ、戦いへ、怒りへ、歎きへとやすみなくエネルギーを変容させていった速度感が、渋滞の鈍をすべて蹴散らて昇華した。で、話がどんどん面白くなり、盛んに客のにぎやかな反応も引き出していた。
心地よく、大きな拍手を送ることが出来、愉快だった。嬉しかった。そしてこの芝居、もう一度も二度も、さらに稽古し練り上げて大きな財産にして欲しいと願った。また観たい。人間への愛を底辺から掘り起こそうとする、この思想や態度を大切にしたい。
* 劇場の外で、建日子の肩を、とんとん叩いてきた。どこへも寄らずに妻と帰ってきた。気が晴れた。
* 愉快に気が晴れ、建日子の勉強ぶりにすくなからず励まされて帰ってくると、一転して、娘夫婦の父・わたくしに対する罵倒の陳述書を読まねばならなかった。情け無い。
わたしの陳述書は、理路を分け問題を整理するのを目的で書いている。やれやれ。
* ああ、疲れた。明日は病院へ行く。
2010 7・8 106
☆ 湖様
ごぶさたしていました。ご連絡ありがとうございました。
さざなみはいつも湖の上に音もなく揺れています。
せめて七夕にはお逢いしたいのですが。
お体に十分気をつけてお過ごしください。
わたしも身も心も健康体とは言えないのですが医者に行く時間もないまま、あわただしく過ごしています。 さざなみ
* 「mixi」で久しく御無沙汰の人が、七夕に、久しぶりに帰ってきたので、即興の歌を寄せておいた。昨日。
さざなみの行方ひさしき七夕や天の川瀬の星影ににて
* こういう、ほっと一息もある。こういう「やりとり」はみな、父の妄想からする造作だと娘は書いている。そうでしょうか。
* 記憶している人もあろう、平成十八年八月七日ごろに、ある人が、わたし宛てにでなく直接わたしの娘に宛てて、かなり長い手紙を下さった。娘の弟もとても説得力があると言うので、「mixi」の日記欄に出したのが、今も、そのまま残っている。「mixi」当局も問題ないと認めてくれている。ところが娘はあれは父の捏造した作文であると攻撃している。その人は、娘に、お父様をしのぐ名作を書いてお父様にお勝ちなさいとも書いていた。わたしも、真実そう願う。
☆ お嬢さまの印象に残るようなメールではあったのでしょうが、内容のほうに少しも着目していただけなかったのは、筆の力の及ばないところでほんとうに残念でした。
なんとか訴訟を避けられないかと願っていましたから長いメールを、あのとき、お送りしました。まったくの無駄でした。
人品というものは自ずとにじみでるもの、一瞥でわかります。ふつうに法廷にお立ちになるだけで、裁判官には人間の誠がおわかりになることでございましょう。
頑固一徹に病院にいらっしゃるおつもりはないようですが、訊問がお済みになりましたら、かならず診察をお受けください。
お元気ですか、みづうみ。あまり心配させないでください。お大切にお過ごしください。 もじずり
* 創作でしょうか。
2010 7・8 106
* 足の攣りで七時前にめざめた。ゆうべが遅く、疲労が失せなくて血糖値、やや高い。早めに病院へ向かう。
* 病院での成績はわるくなかった。どこへも寄らず一時過ぎには家に帰っていた。病院でも、往復の乗り物でも、夢中で『星を帯びし者』を読んでいた。ヘドのモルゴンの旅は益々遙かなものになり、死の危険はひっきりなしに身に迫っている。狼王ダナンのもとで、ヴェスタ(大鹿)への変身を習い、いまはまたハールのもとで、三つの星の秘密に導かれながら、深刻をきわめた世界の崩壊の危険と懼れとでモルゴンはいっそうの飛躍を強いられている。
* 家に帰ると、すぐ不愉快な要事に埋没を強いられる。もう八時だ、汗を流してまた更に。
* がまんならない。眠い。
2010 7 9 106
* 六時間、やすみなく、アタマを不愉快の樽につっこんで、ドボ漬にしている。草臥れているが、一段落まで漕ぎ着けておきたい。
2010 7・10 106
* よく寐た。八時前の血糖値118、まあまあ。九時。なにより投票を先ず済ませてきたい。
* 選挙も法廷も、ここまで来れば、成るように成る。もう、わたしには、その翌日の顔が見えてきた。
2010 7・11 106
* それより身に降りかかる火の粉だが、ま、おぞましき悪意の火焔を浴びて真っ赤な火達磨になるのも、不動の境地のようなものか。話の種と心得て。
「書く」なら、まだ幾らでもほぼ自在に書けるけれど、証人席で口頭で質問に答えるには、口のまわりが、とんと鈍くなっている。舌が縺れ、喉が傷んでいて、何よりこのところのド忘れ、物忘れはヒドい。アタマでの理解が、思わず笑ってしまうほどに、口頭の言葉として乗って来ない。
ただ、わたしは、そういう状況におちいることが、恥ずかしくは無い。幸い、わたしにはこの「闇に言い置く 私語」が実在している。著作として『かくのごとき、死』『愛、はるかに照せ』『凶器 言論表現の為に』それにあの『逆らひてこそ、父』や保存された「聖家族」がしっかり遺っている。わたしの「生」をそれらが間違いなく「証言」してくれている。「悪意に強いられる老いのサーカス」など道化に過ぎない。サーカスはやらない。
* さ。
2010 7・12 106
* 建日子 父
つかさんのこと、おまえのためにも、なんとも言葉を喪って悲しんでいる。哀悼といった言葉では追いつかないが、おまえの気持ちに寄り添って、心よりご冥福を祈っています。
今夜ないし明日の(=法廷行き)ことだが、 母さんと、電車で出掛けることは可能なのだから、恩師を見送ることで手落ちや粗略の無いよう、私たちに気を使わなくて良い。どうするかだけを、早めに知らせておいて下さい。
明日については、うまく話せる・振舞えるという自信など何も無い。見苦しい失敗も十分有りうる。
しかし、法律家の舞台とはいえ、父さんは、文学者である人間。「文学者の言葉で話す」しかない。それすら話せないかも知れないが。
母さんには気を使わせて申し訳ないと思っている。
父さんは、自分の作品の中で、すでに去年に死んでいる。つかさんより一足早くね。おまえは「嗣子」だ。りっぱな獅子にもなってもらいたい。 では。 とりいそいでのメールだ。
☆ 大きな事が目前に迫りました。
おじい様はもちろんのこと、おばあ様も心騒ぐ時をお過ごしと思います。
何も言葉が見つかりませんが、おじい様がいつもどおりの平常心でいられますように。
おじい様の体調、どうぞおばあ様、いつもどおり優しくフォローしてさしあげて下さい。
* やす香のお友達の優しい言葉を、わたしたちは、胸に生きている「やす香の肉声」と嬉しく聴いている。ありがとう。
そして、わたしの伝えたい唯一の言葉は、伝わるかどうか、云えるかどうか、娘に向かい、
「朝日子。 やす香、可哀想だったね」と、
決定的な離別に到る前に、一言、いたわってやること、それだけ。その機会は無いであろう。ここに言い置く。
☆ 祈っています。 慈
今は帰宅中です。
落ち込まず、めげず、神様が守っています。
☆ (長い前略 のあとへ)
これを明日のみづうみへの一つの激励とお受け取りくださいましてお許しくださいませ。
お母上が猛然と闘い抜いたように、明日、どうぞ奮い立って賢い世間と闘ってくださいますように。
お母上に比べれば、まだらくな闘いかもしれません。
朝日子さんはもうもう大人です。愛あればこそ、全力で倒していらしてください。
今回の件、避けられた訴訟であったと今でもわたくしは悔やまれます。しかし、みづうみの命がけに書いて生きていらしたことは、絶対に正しいことでありました。みづうみは朝日子さんの誇るべき父親なのです。
祈っています。
急いで書いていてまとまりのない文面になってしまいましたが、みづうみのお傍にはいつも助けがありますことを感じていらしてください。 千巻
2010 7・12 106
* かねて「予告」して置いたように、明日の法廷のために、仮に私の代理人から質問されるであろうことに、とても「口頭でうまく答える技」は持てないので、「書き遺し」て置く。
これが偽り無い私の「思でい」ある。
☆
* 被告代理人の主尋問に秦 恒平はこう答える。
第1 はじめに
(1) あなたは本日、どのような気持ちで此処に立っているか。
回答 ① 言論表現の自由と、② 著作権と を守るため、です。
③ もう一つ。 父として、祖父として、こう、言うために。
「朝日子。 やす香、可哀想だったね」
(2) あなたは、作家として、作品も含めて、出版界・文化界から、どんな評価を受けてきたか。(甲22・11頁に対して)
回答 お尋ねにより、ありのママお答えします。卑下でも自賛でもありません。
① 1969年、太宰治文学賞を、選者満票で受賞、 ② 新潮社、講談社、中央公論社、文藝春秋、筑摩書房等の出版社から、百冊を越す著書。新聞連載も。テレビ・ラジオ出演、講演など数多く。 ③ 現代日本文学の全集にも何度も入る。 ④ 江藤淳氏の後任として国立東工大の教授に就任。 ⑤ 哲学者梅原猛氏らと倶に京都美術文化賞選考委員を、二十四年、在任中。 ⑥ 2千人の会員選挙で、日本ペンクラブ理事に6期連続当選、在任中。 ⑦ さらに、作品集「秦恒平・湖の本」を25年にわたり現在103巻まで、途切れなくなお継続刊行中。購読者のほかに、各界知名人、大学研究室・図書館、高校、出版人・編輯者等の広範囲に、読者・支持者を持っています。 ⑧ チャタレイ裁判の弁護で有名な、元最高裁判事だった故環昌一さんも、愛読者の一人でした。
(2ー1) それら、たくさんな著作活動に対し、著作権や名誉毀損の訴えやクレームが付いたことがありましたか。
回答 ありません。
(3) (乙6 被告陳述書を示す)この書面は、あなたが自ら作成した陳述書か。
回答 はい。
(4) 内容に間違いはないか。
回答 ① 推測や、記憶に頼らず、 ② 日記、手帳、メール、手紙等の、詳細な記録、豊富な物証をそばに置き、 ③ 慎重に、間違いなく書いたつもりです。
第2 著作権(やす香さんの日記)
(5) やす香さんの日記をホームページや書籍に引用、転載することについて、やす香さんから承諾を得ていたか。
回答 むろん、得ています。 引用・使用に何の制限も無い、信頼の口約束です。
(6) (乙6・91頁を示す)
回答 ① 平成十八年二月二十五日でした。やす香姉妹、祖父母の四人で、雛祭りの雛飾りをしていた最中でした。 ② あの時に、二人とも「mixi」に入っていると分かって、いっぺんに「マイミク同士」になったんです。 ③ おじいやんは、やす香と限らず、いい文章や心に残る文章を見つけるとね、ホームページに紹介させてもらうんだが。やす香もいいかねと確かめ、 ④ 「おじいやんの好きにしていいですよ。オッケーです」 ⑤ この「オー・ケー」が、米大統領アンドルー・ジャクソンの滑稽な書き違い(正しくは ALL CORRECT、エイ・シー )であったのを、笑話にしたので、記憶に間違い有りません。やす香はこういう会話が好きでした。
(7) その後、やす香さんから、ホームページでの引用、転載を止めて欲しいと言われたことはあるか。
回答 有りません。
(8) 一部を太字で強調するなどしたことにより、何を表現しようとしたのか。
回答 ① 論述中の引用の心得として、都合のいい「つまみ食い」はしません。 ② なるべく文脈を生かして引きますが、 ③ 自然と過剰な範囲も混じって「引用」の意図を弱めかねません。 ④ そういうとき、要点を、引用者が、太字で示すのは、文の意味の改変でも悪用でもない。 ⑤ その点、原告等の訴状や陳述がしばしば冒している、「単語レベルのつまみ食い」濫用は、我田引水になりかねません。
第3 著作権(原告あるいは原告両名の創作物)
(9) 「生活と意見」(甲1の1~8)は、A4版の紙の、大体何ページくらいになるか。
回答 ① 概算、(40字40行)A4判用紙 「925枚」 に相当。 ② 四百字原稿用紙、約 「3700枚」に当たります。
(10) 「生活と意見」の中に、原告らが作成した文章を使用したか。
回答 ① 生まれて間もなかった孫・やす香に、母親の書いた「子守唄」があります。やす香が「入院後」にそれを引用したことが「二度」ほど有ります。 ② 「祖父・娘・孫娘」という密な血縁の仲で、母親の詩句を用いて、祖父が、病篤い孫を、遠くから励まし祈るなど、赤の他人が「使用」「流用」「引用」するのとは自ずと別の情愛を示しています。 ③ その他は、「やす香の状況を理解し表現」するため、④ また「抗争上の反論に必要な文献・情報」として利用したのです。
(11) 原告らが作成した文章を使用したのは、「生活と意見」(甲1の1~8)全体との対比で、何%くらいの分量(ボリューム)か。
回答 ① 3700枚中「1%」にも遠く及ばない、というのが ② 「実感」です。
(12) 原告らが作成した文章を、「生活と意見」内に使用した意味。
回答 ① 母親の、「子守唄」一篇を引用したこと、その理由も、先に申しました。 ② やす香危篤の状況を書き表す上に、母親の言動に注目するのは、当然。 ③ やす香の 医療方針なら、「お母さんがすべてご存じです」と、病院は、我々に口を噤むほどでしたから。 ④ メールや 「mixi」日記や ブログ等の母親の文章 は、抗争上の批評や反証の為、「引用した上で反論」しています。論争に必要な「文献」に当たります。 ⑤ これは★★★にも同じで、使用例は★★の妻に比べ全然少なく、有っても、すべて「抗争」反論のためです。
(13) 「かくのごとき、死」(甲4)の中に、原告らが作成した文章を使用したか。
回答 「生活と意見」つまり当時の日録と、時期も、内容も、ほぼ全面重なっています。先に申したとおりです。
(14) 「かくのごとき、死」(甲4)は、全体で340頁からなる書籍であるが、このうち、原告らが作成した文章を使用したのは、「かくのごとき、死」全体との対比で、何%くらいの分量(ボリューム)か。
回答 概算「原稿用紙740枚」のうち、よっぽど多く見て、3%前後、20枚ほどでしょう。
(15) 原告らが創作した文章を「かくのごとき、死」の内に使用した意味。
回答 ① 「かくのごとき、死」は、孫・やす香の生き死にを、日々に思い、歎き、記録して行っ「挽歌」なんです。 ② 母親の言動は、常時やす香の上に直結していたのですから、終始関連して書いて行くのは、当然です。 ③ そればかりか、私の筆は、その娘を、日々、心から、労り励ます言葉、親の言葉を、たくさん書いていました。それも、多くの読者の胸を打っていたのです。
更に言いますと、 ① 「かくのごとき、死」では、やす香の死までと、死の後日とで、状況が激変しています。
② 葬式から数日もたたず、原告による、被告への執拗な裁判沙汰の脅しが始まったのです。 ③ 否応なく反論・抗議するとき、 ④ 被告は、原告夫妻の言動を、★★妻の「殺してやる」という電話の向こうの叫びも含めて、もはや「引用」でなく、身を守る姿勢で、抗争上の「反論・反駁」の目的で取り上げています。凡て記録があります。
第4 肖像権(朝日子氏の写真)
(16) (乙8木漏れ日日記を示す) あなたは、この内容を誰から受領したか。
回答 ① 平成十八年(2006)八月当時、私の知らぬ間に、息子が、また彼を介して
妻も、娘★★朝日子による、「自分の父は、二十年ないし四十年にわたる、娘の虐待者・性的虐待者」と書き散らした「木漏れ日」日記を読んで驚愕し、激怒し、あまりに内容が下劣なので、私には「知らせまい」と決めていました。
② ところが、当時、朝日子の「mixi」日記を「自由に読む」ことの出来た「ある読者」が、余りにヒドイと、問題の、捏造された中傷日記の一部を転送してきてくれました。 ③ 平成十八年(2006)九月十三日の日録「つづきの続き」に、詳細に書かれています。 ④ この「読者」は★★朝日子らとは全く無関係な会社社長さんであり、また朝日子のマイミクではありませんでした。
(17) (乙●=波さんメールを示す)このメールの差出人が、今おっしゃった「読者」か。
回答 そうです。
(18) 「私が情報をお知らせしていた」というのが、中傷日記の転送を指すのか。
回答 そうです。
(19) その方は、この木漏れ日日記がごく少数の者にのみ閲覧可能なものであったと言っていたか。
回答 そういう対話は在りませんが、★★と全く無縁なご本人に、木漏れ日日記が当時問題なく「読めていた」事実は、モノが示しています。
(20) ここ(=朝日子の「mixi」木漏れ日日記)に書かれている内容は、真実か。
回答 ① 微塵も事実ではありません。 ② そもそも「性的虐待」のカミングアウトは、当人にとって、実に容易ならぬもの、原告朝日子のように自身の「実名」を平気で名乗って、「mixi」に書き散らすような事は、世界的に例が無く、これ一つをみても、原告の曰くが捏造の作文であること間違いないと断言する識者もありました。
また、 ③ 娘朝日子とは、娘が結婚後も和やかな文通が沢山あり、同行の旅さえあり、その際の写真は、大手の婦人雑誌に広く公開されています。 ④ 娘を書いた父の文学作品も数有り、 ⑤ また、結婚後も、朝日子は近所の人の訝しむほど、里帰りの多い嫁でした。父に虐待されて深く傷ついていたのなら、その父はいつも家で書き仕事していたのですから、娘の言動は、まるで矛盾しています。
⑥ この捏造と中傷は、実の父親へ、実の娘が犯した、破廉恥な名誉毀損でした。たいへんな迷惑でした。 ⑦ 娘の暴言を信じる人など、有り難いことに、一人もいません。 ⑧ しかも朝日子は、この四年間、只の一度も、木漏れ日日記を証拠立てる何一つの提示も出来ていないのです。 ⑨ 木漏れ日日記は私の家族にはアクセスが拒絶されていて、読めない。卑劣な仕方であり、記事の、明確な撤収と謝罪を強く要求します。
(21) (乙9を示す)あなたがこの写真をホームページに掲載したのは何故か。
回答 ① 痴漢や性的虐待の訴えを否定し否認するほど難しいことは無いと言われています。 ② しかも、明白に捏造であるのですから、これほど悪質な親への人身攻撃はありません。 ③ 名誉毀損は私一人にでなく、妻にも、現在活躍中の作家である弟に対しても及ぶのです。 ④ 私は作家であり、現に団体役員でもあり、大学教授でもありました。読者も知己も教え子も大勢ある「公人」なのです。 ⑤ 「mixi」というソシアルな「不特定超大多数」に公開された、不名誉な暴言を放っておいていいワケはない。
⑥ 長期間に亘る父と娘との和やかに仲のいい写真は、論より証拠、一目瞭然、絶好の反証であり、
⑦ ほかにも多くの小説、エッセイ、また日記、手帳の記録、文通の書簡等々を、反証として提出できます。 ⑧ そうすることは、家庭人・公人として当然の義務なのです。
(22) 写真の掲載が自分の名誉を守ることに繋がるのは、どのような理由か。
回答 ① 言葉は完成された「説明の道具」ではないのです。 ② ところが、これに、一見して雰囲気の伝わる写真等を添える証明効果は、明瞭で抜群です。
雑誌「ハイミセス」企画の瀬戸内父と娘の旅。母の代役を
欣然と志望、ご覧のように父親より遙かに楽しそうだった。
実際にご覧になって下さい。(=このファイルの末尾にもいろいろ掲載してあります。) ③ 殊に、朝日子が、もう結婚しもう母親となってからの、大手某誌の「四国・中国・瀬戸内」旅企画、何枚もの公開写真。 ④ 性的虐待のおぞましい関わりの父と娘になら、絶対ありえない、誰の目にも実に愉快で和やかな楽しい写真です。
第5 名誉毀損、プライバシー
(23) あなたは、★★★氏、朝日子氏を、私人であると認識しているか。それとも公人であると認識しているか。
回答 ① レキとした公人です。 ② しかも両人とも「学生や学童の教育・教導」に関わっています。 ③ その教育者の立場で、「子が、親を訴える」という信じがたい行為に出ている。 ④ そもそも四年前に、原告らが老いた親を裁判沙汰で威してきた「第一の理由」は、孫やす香の死の直後に、やす香を「死なせてしまった」という祖父母の「自責」の表現を、「殺した」の意味に誤解し、作家である祖父が、孫の両親を指さし「殺人者」と譏っているのは「名誉毀損」だという、 ⑤ 青山学院大学の教授、自治体の主任児童委員といった、インテリにあるまじき幼稚な「誤解」、それが原告夫妻の主張でした。 ⑥ また娘は、町田市の役員からよからぬ風評を叱責された、迷惑だと言っていますが、自業自得でありましょう。 ⑦ 娘は、現在、町田市立第五小学校のボランティアコーディネーターとして、教職員一同の末席に名前を出しています。「若木」というパンフレットに出ています。親に貰った「朝日子」の本名をやめて、「★★●枝」という名に変名している所にも、やましさを感じます。
(24) あなたが、やす香さんの治療に関する一連の経過を、ホームページに掲載したのは何故か。
回答 ① この若い、希望に溢れていた少女の生き死にが、どんな状況で不幸な最期へ推移して行くのか・行ったのか、を ② 能う限り適切に「記録」し「表現」するのは、表現者で、作家である祖父・私の、第一義的な仕事、「心からの挽歌」であったのです。
③ 私のホームページは、作家たるメインの「仕事場」であり、そこで ④ 入院以前のやす香の状況、また入院以後「死に至る」やす香の状況を、日々の推移の中で同時進行的に明らかにして行くことは、 ④ その時をのがせば、すべてがアイマイに「闇に沈み」込んでしまうのでした。 ⑤ 『かくのごとき、死』という表題の意味するところは、愛する孫の悲しい「死への足どり」を、及ぶ限り明らかにしておくこと。それが、 ⑥ 生き残った者の反省のためにも、また文学者のモチーフとしても、是非必要と考えました。
(=秦 恒平・湖(うみ)の本エッセイ39 在庫。このホームページで無料公開してあります。ダウンロード自由です。 )
(25) あなたは、自分の掲載した内容を、真実であると認識しているか。
回答 ① 作家的良心において ② 「ほんとうの事」「真実」です。
(26) どのような資料、根拠から、そのように認識したのか。
回答 ① やす香の詳細な「mixi」日記、 ② 母親のブログ日記・メール、「mixi」 ③ 母と娘とのそれらを日付けを追って「合わせ鏡」に読み込み、 ④ 更に、「mixi」等を通して入ってくる大量の情報や、 ⑤ 医者・識者の意見も併せて、認識しています。
しかし、 ⑦ およそ全ては、やす香自身が、また母親が、明瞭に示しています。 ⑧ 邪推や曖昧な想像を加えず、判断には努めてウラをとり、推理し、認識し、論証しています。
(27) 医者の意見も聞いたのか。
回答 被告家族のよく知った ① 医者や、② 知人の研究者 たちに質問しました。
(28) (甲2「聖家族」を示す)これは、現在、公開されているか。
回答 現在、公開されていません。
(29) ここに書かれていることは、真実か。それともフィクションか。
回答 「リアリティのあるフィクション」です。
(30) 「越村高司」とは、原告★★★を指すものか。
回答 「越村高司」とは、 ① 『聖家族』というフィクションにおいて ② 「越村高司」なる ③ 「男」の全容を表現している名前 に過ぎません。
④ 島崎藤村作『新生』の姪「駒子」も、『夜明け前』の父「青山半蔵」も 全く同じです。例は、他の作家でも幾らも上げられますが、
⑤ 「作中人物」は、「作品」世界の「外の現実」とは、存在の次元を異にしているのが「創作」の「原則」です。
(31) 「越村夏生」とは、原告★★朝日子を指すものか。
回答 先に同じ。架空の作中人物です。
(32) 「奥野秀樹」とはあなたを指すものか。
回答 先に同じ。作中人物です。
(33) あなたは、「奥野秀樹」「越村高司」「越村夏生」という名前から、登場人物が「秦恒平」「★★★」「★★朝日子」であると認識することはできるか。
回答 ① フィクションである小説読みで、② 作の中と、外の現実をむやみに混同したがるのは、 ③ いわば勝手読みに過ぎない。 ④ しかし、本には読み方という規則は無い。 文学の常識です。
(34) 登場人物の名前は、今も同じように記載されているか。
回答 少し変わっていますかも。
(35) どのように変更されているか。
回答 ① 男の名前を、「金田政治」としたような。
(36) 変更した理由は何か。
回答 自発的に変更した記憶はありません。
(37) 「生活と意見」、「聖家族」、「湖さんの日記」、「かくのごとき、死」は、私小説か。
回答 ① 「生活と意見」は、膨大量の「日録」ですが、 ② 広いジャンルでの、文藝表現です。その中から ③ 『濯鱗清流 秦恒平の文学作法』上下巻が最近出版され、好評を得ました。 ④ 「私小説」のように楽しまれた反響も、たくさん貰っています。
① 「聖家族」は、小説形式の未定稿、むろんフィクションです。そして今は存在しません。
③ 「湖さん日記」とは、「mixi」日記のことだとすれば、これを「小説」と受け取る人は一人もいないでしょう。 ② 押村夫妻の、「ホームページ全削除の暴行」等に対する抗議も書いています。 ③ 「mixi」当局も、内容に何ら問題なしと容認し、今も公開されています。 ④ 朝日子の「mixi」木漏れ日日記のように、親たちにだけはひた隠しにしておいて、広い世間へ、父親の中傷と捏造の記事を振りまくようなことは、断じてしていないのです。 ⑤ 私は、この電子化の時代、文章は、文責を明記して書くのを、原則・エチケットとしています。
① 『かくのごとき、死』は、明瞭に「日記文藝」として文学史の流れに添い、「私小説的展開」であること、間違いありません。 ② 心から孫を哀悼の「挽歌」なのです。
(38) (甲21・8頁を示す)ここには原告★★★氏に対する「代表的名誉毀損表現例」が「計11例」「計111個所」登場するとわざわざ数字を挙げてあるが、あなたは、実際にこれらの記述の数を数えたか。
回答 ① 原告陳述書が、数字を麗々しく挙げながら、具体的な表現の「個所」を全然示していないことに疑問をもち、 ② 挙げてある「代表的な表現例」が、みな単語レベルのいわゆる「つまみ食い」なのを幸い、 ③ 「検索」機能を用い、 ④ 原告の証拠として提出していた全部を、克明に数えました。
(39) その結果、どのようなことが分かったか。
回答 ① 「名誉毀損の表現例」には、例えば「★★は娘を見殺しにした」「★★にはやくざな弁護士がついている」などと、それら表現が、みな、「★★」の名を指さして書かれていると明記されています。
② ところが「21個所」もあるはずの、「★★は金めあてに結婚し、金をせびった」という表現は、740枚の『かくのごとき、死』3700枚の「生活と意見」に、「只の1個所」も存在しないのです。
② 小説「聖家族」に「たった一個所」だけ表れる「金めあて」という単語も、なんら原告「★★」とは無関係な、駒井次郎という架空の文学者の会話中に表れているだけ。
④ 「★★にはやくざな弁護士がついている」など只の一個所も無い。世の中にはわるい弁護士もいますから、いずれにしても十分注意してとは、すべて「読者・知人からの助言」ばかり、★★を名指しで私が「弁護士」の話など只一度も書いていないのです。
⑤ 「聖家族」では「暴発」という単語は原告の挙げている「9個所」の5倍も実は在るのですが、これは、このフィクションが、もともと『暴発』と表題されてもいいほど、それが「大きなモチーフ」だからで、しかも、「★★は暴発した」という、原告が挙げた、名誉毀損の「代表的表現例」としては、只の1個所も存在していないのです。 ⑤ つまり「聖家族」でいえば、「★★」に対する「代表的な名誉毀損表現例」など、全然存在しないのです。
⑥ そして、「かくのごとき、死」でも、また、これと相当量、同内容でかぶっている膨大な「生活と意見」にも、★★を指さした「代表的な名誉毀損表現例」など、「どこにも存在しない」のです、限りなく、「ゼロ個所」に等しいのです。
(40) なぜ、そのような齟齬が発生したのか。
回答 ① ★★原告が数字を挙げて主張する「代表的な名誉毀損表現例・111個所」が、指さして一つも示せない「口から出まかせ」に等しいことを示しているのです。
③ ましてや、「代表的」でなくて、全然具体的な提示のないその他の「500回以上」(16 頁)の名誉毀損例など、推して知るべし。
第6 頒布について
(41) あなたは、「生活と意見」や「かくのごとき、死」を、読者や公的機関に送付したか(甲22・4頁に対し)。
回答 ① 「生活と意見」はホームページの「日録」です。日々更新されています。
② 「かくのごとき、死」は「秦 恒平・湖の本エッセイ39」として刊行された書籍ですから、読者に送られます。
③ さらに私の文学活動として、文化各界の先輩・知己・友人等、また大学研究室・図書館・高校の教員室・図書室等に寄贈・謹呈しています。
(42) それは、あなたから購入を要求したのか。
回答 ① 二十五年、読者からは購入申込を有難く受けています。 ② 寄贈した方や施設から、代金を貰うワケがありません。
第7 その他
(43) (甲21・17頁を示す)あなたは、かつて**氏や**氏から叱責を受けたとのことだが、これは事実か。
回答 ① とんでもない。 **氏は原告の親族で、当初原告★★★ の代理人として突如現れ、 ② 最初から甥を、何が何でも庇って、舅姑に、折れて欲しいの一点張りでした。 ③ しかし、★★自身が舅姑へ寄越した、非礼極まる手紙や「お付き合い読本」等を示し、④ さらに★★の妻・朝日子が両親に詫び、金銭に関わる夫の性格や言動を、辛辣に解析し非難した手紙を両親に寄越していた実例を示しますと、 ⑤ 事情を何も知らず登場した**氏は絶句し、ついには、**氏の提案で、★★★に私たちへの「謝罪文」を書かせるところまで行ったのです。
④ 此処に出ている**氏の手紙は、自筆署名すらない、ワープロ書きの所謂「最期っ屁」のような大人げない悪文で、事実は誰が書いたとも判然としない。 ⑦ 何より私に言わせれば、大の大人の原告★★★が、意気地なく親戚縁者の袖に隠れて、自分の播いた種を、一度といえども我々と面と向かって自分で始末出来なかった、これこそが、両家の不幸を、今日まで長びかせたのです。
① **氏は、もともと私より年少の心友で、② ★★ を婿に紹介してくれた仲人さん、かつ ③ 今も、私の読者です。私を叱責などする立場の人じゃありません。
④ 逆に、元**部長で大学理事の息子だと鼻を高くしていた★★★は、仲人してくれた此の**教授に対し、ヒラの教授が「遠慮もせず仲人とはね」と、さも迷惑という軽蔑心を隠さなかったことは、娘の口から苦々しく聞かされていました。 以上
2010 7・12 106
* マキリップの第二部を読み進んで、二時に寝て、七時半、すっきり起床。機械を使う。人事は尽くした。
建日子も来て、裁判所へ送ってくれる。迪子もさぞ疲れているだろう、終始懸命にいろいろ手伝い心遣いしてくれた。ありがとう。
水戸からも愛知からも有り難い声が届いている。言うことは、ない。
* 妻の入れた手洗いに「もじずり」が、直く高く40糎ほども淡紅の花を、細い茎に巻き巻き登らせている。美しい。
もじずりのひたすら直く桃いろに 湖
* 夜前遅くに帰って来てくれた建日子、すぐわたしの新しい機械にインターネット可能の設定をしてくれた。あとは、慣れて慣れて覚えて行くことに。感謝。
* さ。
* 建日子の車で、十時半に家を出た。十二時に東京地裁に入る。午後一時に六階の小さな法廷に入る。
先ず原告二人に順に原告側代理人が訊問し、次いで被告側代理人が訊問した。十分休憩の後、わたしが証人席に座り、まず代理人の訊問を受け、次いで原告代理人の尋問を受けたが、甚だ拍子抜けするほど相手側の訊問内容は低調。なんだかお話にならない感じだった。傍聴席には妻と建日子とだけ。★★家の親族など一人もいなかった。
* 閉廷後、弁護士と別れ、建日子も仕事の打合せに行き、妻と帝国ホテルで食事のあとクラブへ入って小憩。妻はここでは紅茶、わたしは、ブラントンと、コニャックのカルバドスとを。
雨にも降られず。どっさり重い資料を抱えていたので、日比谷から車で、家まで帰った。一段落。
* 多年の家庭生活を、狭い一つ家にくらして熟知している母親と弟の目の前で、泥のように顔色を喪ったまま、われわれの娘は、なんとまあ、吹き降り・土砂降りのようにウソと出任せとを吹きに吹いた。これは嗤えた。惘れた。その夫も、輪を掛けて。
人間、ここまで堕ちるか。
☆ 鴉へ
お疲れのことと察します。
案じています。
心身ともに安らかに休息してください、多くのことの少しでも脇に置いて。
光が先に見えますよう。 鳶
☆ お疲れになったでしょうね、祈っております。 司
2010 7・13 106
* 娘が、両親に貰った名前「朝日子」を、朝日子は正式に家庭裁判所により「改名手続」していた。相手方弁護士に感想を聞かれ、「親不孝」と思うとわたしは端的に答えた。親が子にしてやれる、ほとんど唯一の大事なことは「命名」であり、まして「朝日子」の場合、父が高校時代からの久しい由来がある。由来の短歌まである。
いたましい‥、あたら、光り輝く美しい名前を。
法廷で、もう今日が最後と思い、冒頭、証人席から 「朝日子」呼びかけ、「やす香、可哀想だったね」と一言労ってきた。
* 「朝日子」という、わたしたちの娘は、もう思い出の中にしか、いなくなった。もう今後は「夕日子」などという気味の悪いマーキングはやめ、今日(七月十三日の法廷。正式に改名の通告があった。)より以前の「わたしたちの娘」を語るときは、生まれながらわたしたちが命名した「朝日子」と呼んで懐かしもう。今日より以後、もう、わたしに「朝日子」という「娘はいない」。「原告女★★▲▲(ひろえ)」がいるに過ぎない。
この「私語」の中でも、今日より以前の気味のわるい「夕日子」というマーキングは、凡て親の名付けた元の美しい「朝日子」に戻す。本人がもう変名・改名したと裁判所の法廷で正式に証言したのだから、「朝日子」はもはや★★★の妻の名ではなくなった。「秦朝日子」の思い出は「親の所有」であり、「★★朝日子」もすでに「存在しない」。「朝日子」という名は、秦の家族の所有に帰している。
かくも、わたしの思いは一面、感傷的である。だいじなものを無残に足蹴にされた怒りもある。「親不孝者」と一喝した理由である。
* だが、それだけではない、極く重要な点を、今・此処で、ハッキリ書き加えておく。皆さんに、どうか、ご記憶願う。
* 娘の改名が、もし「法廷戦術」であり、改名理由として、家裁へ「父親の虐待や性的虐待」を理由にしているなら、まして家裁も一切調査せず、係争中のいまの「裁判を全然考慮もせず改名を承認」したのであったなら、そしてそれを今の裁判に持ち込んでさも「ハラスメントが立証された」などと言い出すなら、これは不正に卑怯なことであると。
* いま、しかと釘を刺しておく。
二十年ないし四十年にわたる(=最初の訴え)「父親の(性的)虐待による」「トラウマから逃れるため」という「理由づけ」での「改名許可」なら、その理由は、全面的な虚偽であること。
牧野法律事務所にも、朝日子の改名理由を家庭裁判所に確認し、間違いない善処をとすでに要請した。
* 娘・朝日子は、この裁判沙汰になって四年、ただの一つといえど「虐待の立証」など出来ていない、しようとすら只一度たりとしてこなかった。
他方、虐待などみじんの影もない、父と娘・四人家庭の、和やかに愉快な楽しい思い出が大量にある。三十冊にあまる写真アルバム、和やかな大量の文通、日記等の日々の精細な諸記録、幼時から中学高校大学、結婚前・結婚後の娘朝日子の暮らし・歴史が、悠々と遺されて在る。
何度も何度も何度もこうして娘は父の家へ里帰りしていた。
撮影するのは、いつも父。孫の前には祖母。何が虐待か。
そして狭い家に一緒にまぢかに暮らしていた妻や息子の、朝日子の言い分を全否定する明るい記憶がいっぱいある。またわが家をよく知る知人たちの完全否定の証言がある。
* 改名理由が「記録」に残ったり「開示」されることは「無い」のかもしれない。
しかし、娘が、自身で、「改名理由」を、まかり間違って家裁が認めた「虐待」「性的虐待」であるなどと、ネットへ公然言いふらし書き散らすことは、「mixi」の「木漏れ日」日記という」無茶苦茶な捏造の前例がある。あり兼ねないこととし厳格に対抗せねばならぬ。
更にこの際考慮すべきは、娘の改名が、「家裁の改名許可」を「虐待を証明する切り札」かのように「今の裁判」に持ち出されかねないことだ。まさかと思うが「改名理由が、裁判に不利益に文書化・証拠化」されないよう、代理人は確実に対処・対抗してほしい。
朝日子たちは、父のハラスメントとやらを、そのうち「立証できる」と法廷で言い言いしていたらしいが、改名と家裁のこんな利用が「奥の手」であるなら、法機関の悪用として看過できない。
なにより、もしそんなことなら、私方について聴き取りを全く欠いた、係争中をも顧みない家裁の軽挙ということになる。
* それでも、わたしは、娘が心から「朝日子」にまた戻って末の孫娘とわが家に帰ってくるときは、ゆるすもゆるさぬもない、何ごともなく受け容れる。それも書きおく。
2010 7・13 106
* 熟睡した。妻もわたしも、「肩の荷をおろす」青天のような晴れやかさ、身軽さを昨日は満喫した。むろん、それはなんら裁判の行方を占うモノではないのだが、マズイという思いは何一つ無かったのは確か。こういうのを、ノー天気というのだろうが。
* もじずりと別に、どこで手に入れたか、妻は、純白の手洗い台に、直径七センチもある清い翠の毬栗を一つ置いた。綺麗。
* すこし自転車に乗ってきたい気持ち。事故を起こしてはいけないが。
* アメリカからも、不愉快な用のひとまず一つ済んで良かったと、お見舞いの電話を戴く。
2010 7・14 106
* 建日子の呉れた機械は、いまのところ「お蔵入り」に近い。
インターネットの設定が建日子は出来たよと言っていたが、慌ただしく口であれこれ説明されたときが、法廷の前夜・深夜で全くアタマに入らず、マニュアルも有るのやら無いのやら。
いちばん困るのが一太郎で字が書けない。 ATOKが利用できなくなっていると機械に警告されている。ホームページが読めず・書けず、文が書けず。むろん機械は優秀なのだろうが、わたしに新しい機械の記号やロゴを呑み込む力が無いのだ、参った。参りました。十数年、機械に触れ続けているが、出来ることしか出来ない。路線を逸れると闇雲に分からない。だんだん分かって行くより、だんだん老いて理解が摩滅して行く。新鋭機は私にはムリだったか。建日子にわるいことをした。じりじりと、何か一つ、又一つと覚えて納得して行くよりないが、機械を壊したくないと、臆病になる。軽いけれど、持ち歩くメリットが今のところなにも手に入っていない。
それでも、名前のどうしても覚えられない、そうそうなんとかメモリーというのの使い方だけはほぼ実践して覚えた。此の目の前の機械から、たくさん、新機に移してみた。しかし、インターネットはどうしても使えない。出るエラーの意味も分からない。
「http://umi-no-hon.officeblue.jpが使えません。新しいhttp://umi-no- hon.officeblue.jpに移転したのかも知れません」なんて全く意味が分からない。
* さ、そんなことより、わたしは、新しい仕事へ踏み込んで行きたい。
書きたいのは、「父」だ。わたし自身のことではない。わたしの「おやじ」殿である。
もう、必要以外に「実父」と突き放して書くのはやめよう。秦の父、秦の母は、叔母も、日夜、暮らしを今もともにしている、この家で。いつも呼びかけている。
実父や生母とはそうでない。生母ふくは、「母」という名であたまにある。「おふくろ」という単語はわたしのものではない。実父恒は「父」と謂いにくい。「おやじ」のほうがいい、親しめると謂うより、むしろ客観的に言いやすい。気持ちも少しずつそれに馴染もうとしている。
「おやじ」を書く気だ。
2010 7・15 106
☆ 今か今かと待っていました。安心しました。 e-OLD 葉
☆ 二日ほど家を空けていましたので連絡が遅くなりました。秦健日子さんは確かご子息ですよね。先週、たまたま買った夕刊フジの一面全面に顔写真入りで記事が載っていました。作家とは聞いていましたが、視聴率の高そうなテレビの連続ドラマの原作者とまでは存じませんでした。秦さんとは大分作風が違うようですがご活躍ですね。
秦さんは未だインスリンを打ちながらご執筆に精を出されていらっしゃるとは存じますが、週末から猛暑がめぐってきそうな勢い、御身ご自愛ください。 謙
* メールありがとう。 秦 恒平
建日子(健 ではなく。たけひこ)は息子ですよ。亡くなったつかこうへいさんの劇作・演出の直門で、今は「秦組」を主宰し、もう十年ほど小劇場を何時も満員の客であふれさせ、つい数日前まで俳優座で「らん」といういい芝居をみせていました。また河出書房や新潮社、講談社から「推理小説」「SOKKI」「アンフェア」など小説のベストセラーを何冊も出し、つい最近新刊の「ダーティ・ママ」を出したばかり、親父が生涯で稼いだよりすでに上超していますよ。ハハハ。
テレビでは、「どらごん櫻」「ほかべん」「最後の弁護人」「ラストプレゼント」など人気の連続ドラマをもう十本ほど書いて活躍しています。
わたしとは方角の違う娯楽読み物系ですが、それなりにいい真面目な仕事をしようとしていますので、どうぞ応援してやって下さい。
息子の話をするのがご機嫌の老いたおやじをしています。親孝行な息子です。
わたしは、いま、生涯前半の谷崎潤一郎に学んだ藝術小説から、レーター・スタイル(晩年の作風)へ切り替え、自身の置き去りにしてきた人生をまっすぐ見つめようとしています。この数年、少年以来尊敬していた志賀直哉に更に傾倒し、今も時任謙作の「暗夜行路」を毎日熟読しています。そのつど謙作クンを思い出しているのです。
長谷川泉さん(編集局長。鴎外研究の泰斗。故人)もいっしょに雑誌「胃と腸」で鵜飼にゆきましたね。懐かしく思い出します。
長谷川さんが社におられたので、わたしは後ろ姿をじっと観ながら太宰賞へ歩み寄って行けました。
また会いましょう。 なにか書いていませんか。書いてみませんか。出来たら読ませて下さい。 湖
* 調べれば日付も分かる。階下から足音高く階段を駆け上がり、のけぞる息子の勉強机(わたしが高校時代から愛用してきた机だった。)に、出刃包丁の刃先を叩き込んだことがある。剔れたその刃傷はいまも机に歴然と遺っている。一瞬後、大学生(高校生だったかも) の息子は、顔を蔽ってあのとき泣き声をあげた。わたしは刃物を引き抜いて静かに立ち去った。何一言も言わなかった。逆上していたのでは無い。息子(息子には息子の言い分があったろうけれど)に対し、百万言にまさるこれが一番と、落ち着いて考慮し流し場の下の刃物を掴んだ。
卒業し、就職し、つかさんと出逢い、作家秦建日子の今日が出来た。超多忙の建日子が、十三日の法廷傍聴席へも、前夜来時間を割いて最後までいてくれた。「親孝行を」と母親には話していたそうだ。姉の分もと思ってくれているだろう。
* このコトを、法廷で娘は、父の「自分への家庭内虐待の典型例」のように証言していた。娘にそんなことはしていない。むろん、してもいいのだ、考えがあってなら。獅子は時あって子獅子を谷へ蹴落とす。その冷静と愛とを、だれも虐待とは謂わない。
わたしは何かの折、娘のジーンズというのか知らないが、上着の袖を目の前で裁ち鋏で切り落としてみせたことがある。そのときも、高慢な娘に対し、無言のそれが一番だと考えた。だが、失敗。娘へのこの例は、役に立たなかった。
またこんなことが一度有った。高慢の度を過ごして言い募ってくるとき、そうかそうか、これぐらいやらないと効果はないなと、わたしは書き仕事していた最中の、愛用の座卓を、目より高く目の前の襖に叩き込んだことがある。鴨居に今も剔れ傷が残っている。これも娘には無効だった。そして、やはり家庭内虐待の典型例にあげて訴えていた。誰かの科白だった、「バカか、お前。」
* わたしは人に教えられた、昔。
「分かる人には云わんでもわかるの。分からん人にはなにを云うても分からへんのえ」と。
言葉は説明や説得の道具としてはあまりに足りない。「問答無用」とは思わない。だが「話せば分かる」というのも、あまりに暢気だ。それが分かっているから、わたしは親獅子として庖丁を机に突き立て、鋏で袖を切り落とし、机で襖をブチ抜く。
わたしの力ずくは、子育ての何十年、この三度きりである。その時はもう姉も弟も子どもではなかった。ふつうなら十分親と節度をもって立ち向かえる年齢で、息子は高校から大学へ、娘も大学生から社会人にすらなっていた。そういう真似を親にさせては当人達が恥ずかしかろう年齢であった。
東工大で、ある学生は、高校時代の先生から聴いた「十七にして親をゆるせ」という言葉を、感動とともに大教室で報告し、学生達はどうっと揺れた。そういう年齢だった。
* われわれの娘は、法廷の証言席で、二度、極度に、顔をそむけた。
一つは、弟さんは活躍されている著名な作家ですねと弁護士に聞かれた時、顔を歪め、ものの数呼吸おいて渋々「はい」と答えていた。憐れで、わたしは泣けそうだった。
また「ハイミセス」の企画で、もうやす香の母親であったこの娘が、父と瀬戸内を数日旅して、雑誌に公開された和やかで楽しげな父娘の写真を弁護士につきつけられたとき、娘は顔を歪め、正視できなかった。憐れでわたしは泣けそうだった。
旅には、「同行を強いられた」などと云っていた。からだの弱い母親の代役だったのだ、断る気なら、当たり前だ、簡単に断れた。そもそもこういう「旅企画」に出て行くなど、わたしは気が進まないのだから。だが、娘は道後の宿でも、鞆の宿でもそれは楽しそうだった。みんなと、カラオケの歌をそれなりに歌う娘など、父親は初めて観た。柳井の町では、醤油づくりの大樽の上へ上げられ、こわがる私のへっぴり腰を編集者やカメラマンと嬉々として下から冷やかしていた娘の顔、よく覚えている。
* 病的な人間は知らず、わが家のように、狭くて狭くて余裕のない家屋での、ご近所迷惑なほど談笑家庭、四人が四人ながら鼻先を付き合わし合わし暮らしていたのであり、反抗期は反抗期なりに、追々息子は勝手に上手に育っていったが、娘は親に過剰に求めて自律がきかなかったようだ。
祖父が孫娘やす香と「マイミク」になった頃、四年前だ、べつの場所で娘は弟に打ち明けている、「世界広しと言えども、わたしの作品を分かってくれるのは、あの人だけかな」と。
「あの人」とは、むろん「おやじ」と弟は言い切っている。娘の夫★★★は口を歪めて「実の娘に嫌われるのを知りながら」と云うが、07.09.09に娘の弟・建日子は、父に向かい、「もう百万遍も俺は言ってきたよ」と、こう、繰り返している。
「朝日子はお父さんがめっちゃくちゃ大好きなんだよ。その大好きなお父さんから良きにつけ悪しきにつけて、例外というモノもコトも無しに愛されたいヤツなんだよね。是々非々の愛では絶対にダメ。しかしおやじは、いいときは手放しで褒める、しかしダメな時やモノやコトにはきちっとダメを出し、半端にはうけいれないでしょう。俺はそれでいい。朝日子は、それでは絶対に不満。そして褒められたことや愛され可愛がられたことは忘れても、ダメとつきはなされたことは覚えに覚えて、それが積もって、今では憎さ百倍、何としてでもお父さんに復讐し勝ちたい。そういうビョーキなんだ。仕方ないんだよ」と。
何で仕方ないのかは分からない、が、憐れで、わたしは泣けそうだ。
* その息子が電話を掛けてきて、ゆきずまっている新機械のインターネットの設定などを、いちいち、開いた機械の画面に即して教えてくれた。すこしずつ様子が知れてくる。あたまの硬く朽ちかけてきている父親は、ハイハイとすなおに息子に聞いている。機械の画面が表情をいきいきと変えてくる。ありがたい。
2010 7・16 106
* 秦さんの「書いて」こられた「すべて」が秦さん自身を保証しています。信じています。外の雑音などわたくしたちにとっては、何でもありません、と、お便りがたくさんつづく。ありがたい。読者だけではない。大学、各界からも、さりげなく、力づよく。
* 『かくのごとき、死』を読み返していますという読者が多い。その人達は気づかれていよう。
孫・やす香逝去の平成四十八年七月二十七「前日」に「輸血停止」されたらしいことには、確度高い証言がある。それにより起きた結果は、七月二十七日の「永眠」(母親による「mixi」告知)だった。奇しくも(と、云っておく。)「母親の誕生日」であった。この偶然らしき符合に、いろんな甘やかな解釈をした人たちも多かっただろう。
* 事実を追ってみると、
二十五日火曜日に、やす香と病室で会った友人は、やす香の好きな音楽のディスクをプレゼントし、「たくさん聴くね」と、やす香の曇りない痛切な感謝の言葉を聴いている。
その前日、二十四日月曜日には、われわれ祖父母と叔父建日子とが、病室で、やす香と対話していた。
ところが、この晩かつて無いことにやす香の父親からわが家へ電話が来た。「医師と話し合ったが、ここ二三日の寿命と思われるので病院近くに宿を取っては」と伝えられた。医師と…。何なんだそれは。仰天した。 (すべて、その時の記録がある。)
その二日後、七月二十六日水曜日にやす香を親しく見舞って病室に出入りしていたという或る親友は、なお「土曜日にもまた見舞いに来る」つもりだった。ところがこの水曜の二十六日に、なんと「輸血停止」されてしまったと、迷いなくこの人は、正確にはこの親子は「断言」している。「mixi」にきちんと出ていて、保管してある。
★★★は週刊誌の記者に「そのフランソアさん」ならよく知っていると云っているが、わたしもそんな人は知らないし、この証言、この記録とは無関係である。
* 造血機能の完全に破壊されているのが「肉腫」である、輸血停止とは「死」の決定以外の何物でもない。法廷で原告弁護士はわたしに、どんな意味かと問うていたが、わかりよく云えば「生命維持装置の停止」に、効果として同じいと教えると、絶句して質問を替えていた。
かくて必然、「母親の誕生日」に、十九の娘は「命終」の日を迎えたのである。
* ところで、この数日自作の新聞小説『冬祭り』をはからずも読み返していて、改めて、おどろいた。
熟読してこられた読者は、ドンな作者よりとうに早く気づいてられたかも知れないが、さ、それが「偶然の奇遇」とみるか、「意識された契合」とみるか、「不思議な」と云っておこう、不思議な叙事・展開に遭遇して、やす香の死が母の誕生日と同じだったことに、えもいわれず、ぞぞっとくる愕きにとらわれた。
何なんだ、これは。この「はからい」の感触は。
* 我々の娘は、当時の秦朝日子は、二十余年前、父と親しい神学者・野呂芳男氏を訪ねた際に、「わたくし、『冬祭り』の「加賀法子」なんです」と興奮して告げていたらしい。野呂さんの電話で聴いた妻から間接に伝聞しただけだが、あの娘の、例のフワフワした興奮・昂揚の一例のようにしか感じなくて、聞き捨てに、一度もその後顧みたことがなかった。
たまたま今度また『冬祭り』を読んでみようと読み直していって、そんな大昔の「聞き捨て」をふと思い出し、妻に確かめると、そんなことを確かに野呂さんが笑いながら話されていたわよと云う。
『冬祭り』を読んで欲しいのでいま詳しくは書かないが、「加賀法子」とは、ソ連作家同盟との交流目的で、「訪ソ」の旅に、他の作家たちと出かけた作中人物「私」に、横浜埠頭のナホトカ号上から、つかずはなれずモスクワまで絡みついてくる若い女性だった。「私」は、モスクワに「逢いたい人」を待たせていたが、その人妻である「冬子」は、かつて此の世に「二日半」だけ生きた「娘」を、死なせていた。「法子」はどうやら、その二日半だけ生きて死んだ娘、じつは「私」の娘、であるのかもしれないのだった。むろんこれは「、秦文学・畢生の恋物語」と本の帯に書かれていた、大きな構想で動いた全然のフィクション小説であった。
* わたしたちの娘・朝日子は、じつに、この父に絡みつく「娘・加賀法子」と自分とを、幻想だか妄想だかで「一体化」していたらしいというのが、『冬祭り』を「名作」と新聞書評していた野呂牧師からの情報、かつて他に聞いたことのない、「唯一の」情報だった。「冬子と法子」とは、『清経入水』の「紀子と和子母子」の後身であると、批評した野呂さんは書かれている。そしてこの現世の「私」を愛してまといつく二代の不思議の母子は、ともにとうに「ほぼ同日に死んでいた」のである。
* さて、もう一度、念のため、ハッキリしておく。
* 「朝日子」という、わたしたちの娘は、もう思い出の中にしか、いなくなった。今後は「夕日子」などという気味の悪いマーキングはやめ、今日(七月十三日の法廷。正式に改名の通告があった。)より以前の「わたしたちの娘」を語るときは、生まれながらわたしたちが命名した「朝日子」と呼んで懐かしもう。あの法廷の日より以後、もう、わたしたちに「朝日子」という「娘はいない」。
この「私語」の中でも、今日より以前の気味のわるい「夕日子」というマーキングは、凡て親の名付けた元の美しい名の「朝日子」に戻す。
本人が決意してもう変名・改名したと裁判所の法廷で正式に証言しているのだから、「朝日子」はもはや原告★★★の妻の名ではなくなった。「秦朝日子」の思い出は「秦の親の所有」であり、「★★朝日子」もすでに「存在しない」。「朝日子」という名は、秦の家族の所有に確実に帰している。「朝日子」は自分だなどとは言わせない。
かくも、わたしの思いは一面、感傷的である。だいじなものを無残に足蹴にされた怒りもある。改名は「親不孝」と一喝した理由である。新刊の、『私 随筆で書いた私小説』に一九七七年「家庭画報」十月号に書いた「ぼくの子育て」が出ている。どんな思いで「朝日子」と娘に名付けたかを書いている。
長い一文だが、ほんの書き出しを再録しておく、昔の娘よ、読むがいい。
☆ ぼくの子育て 冒頭の一部
ゆらゆらと朝日子あかくひむがしの海に生れてゐたりけるかも
たたなづく青山の秀(ほ)に朝日子の美(うづ)のひかりはさしそめにけり
こんな歌を斎藤茂吉の自選歌集『朝の螢』に見つけた昔、いつの日か生れるわが子の名前は「朝日子」と決めた。歌集は昭和二十一年十一月に出ている弐拾円の新装版だが、私が古本屋で参拾円で買ったのは二十七年暮だった。茂吉に教えられたままを、「笹はらに露散りはてず朝日子のななめにとどく渓に来にけり」とうたった自作の一首が、翌二十八年二月、高校二年生三学期の歌稿に残っている。
茂吉は「朝日子」という文字とことばを愛したらしく、『赤光』『あらたま』の二歌集からえらんだ『朝の螢』三百五十余首のうち四首に用いており、モーニング・サン・シャインか、美しいことばがあるものだと感じ入ったのを私は忘れない。
その娘・朝日子が、いま高校二年生の夏休みを待っている。男女いずれにもいいと思っていたが、女の子の名前になってみると親はその方がよかったと思うし、当人も気に入っているらしい。ただし呼びようで「アサヒコ」君に聞こえてしまう咎は私が負うしかない。
梅さきぬ
高き梢に
梅さきぬ
朝日子に
花三四
的皪(てきれき)と
蘂(しべ)は黄に
香はほのか
とうたい出され、さらにながくつづいてまた、
的皪と
蘂は黄に
花三四
香はほのか
梅さきぬ
朝日子に
とうたいおさめた三好達治の詩「梅さきぬ」と出逢ったのは、娘がもう幼稚園の頃だった。弟の「建日子」はまだ生れていなかった。
姉の場合より、もっと弟の命名で親は、というよりもっぱら父親の私は、重い咎を負うことになる。日本の土俗タケルの、勇気に満ちて熱くたけった活力をと願って名づけた建日子が、誕生の早々、産院の書類に「次女」と記入され、大慌てで取り消してもらわねばならなかった。まことに申し訳ないが、それでも私は朝日子にまさる名前と思っているし、当人もいやでないらしいのは何よりだ。.
親と子の間に権利や義務が、有るという人も無いという人も居よう。私はこの、生れ来たわが子に名前を付けてやる、少くもそれだけが親から子への権利であり義務だと思っている。親はわが子への最初の愛情をそこに添える。籠める。
人の名前と限らず、私は久しく生き抜いて来た、すべて物の名前、というものに関心をもつ。それを、その物を、その事を、その土地や山や川や木や草を、人が何と名づけ、呼び馴れて来たか、そこに生きた語感を注意深く受けとることから、私は私の感受性をつとめて大事に育ててきた。
語感とは、ことばのただ意味のことではない。ことばの生命感でなければならない。物や事の名前は、多くの人がそこに見出しえたそれぞれの生命感をながの歳月かけて秘蔵し、豊かな秘密や魅力を表現しえていることを、私は信じている。姓名判断のようないたずらに観念的な思弁は私の好まないところだが、その時代、その土地、そこで生きて暮した人々に一つ一つの物や事がどう名づけられ呼ばれていたかを知ることで、実に多くのことが正しく判ってくる。そう思っている。なぜなら人は自分の使うことばにこそ具体的な愛を籠め批評を籠め、願望も理想も、また忌避の念も縮めていたはずと思うからだ。ことばは「心の苗」と思うからだ。
そんなわけで私は、他の何をおいても、自分の娘に親が「朝日子」と命名した一切を心して受けとめて欲しい。また同じことを「建日子」にも望んでいる。というより、それだけを望めば十分なのだ。
* さ、すこし、心身をやすめたい。
2010 7・17 106
* つかさんとは一度だけ立ったまま話した。下北沢の小劇場で息子が、秦建日子が作・演出のあれは「タクラマカン」であったろうかをわざわざ観に来て下さっていて、芝居のはねたあと、劇場のすぐ外で顔が合い、名乗って御礼を申し上げた。建日子の父親であることは建日子自身が早くにつかさんに告げていた。もの静かに丁寧な答礼があって、人混みのなかソレより以上は話せなかったが印象深いいい出逢いであった。
建日子の芝居には、あの忙しい猪瀬直樹氏がわざわざ人を連れて観に来てくれたことがある。彼は、仕事をする若者の支持者であり、息子が芝居をしていると知ると、表情をあらためてそれはいい、たいへんな業界だけれどどんどんやって欲しいとわたしに云い、ついに劇場へも来てくれたのだった。仕事をする人は仕事をする人が好きなんだと思わず気持ちよく笑えた。
* 河出から貰ったままのその建日子の新刊『ダーティ・ママ』を読み出そう。雪平夏見に次ぐ、また女刑事物とか。クリント・イーストウッド主演の面白かった映画シリーズの「ダーティ・ハリー」を思い出す。新作ごとに共演女優が交替した。ソンドラ・ロックやルネ・ロッソのが優れていたと覚えている。はなから映像化期待の小説というのはわたしは決して書かないが、いまでは言語作品の映像化け刃は流行で常態になっている。面白く読めればありがたいとする。
2010 7・18 106
* わたしも常習の久しい腰痛持ちですが、対症的には「ロキソニン」「バファリン」といった痛み止めが有効で、漢方薬もつづけて服用すると効きます。
またわたしの場合、右が痛ければ右へ敢えて負荷を懸け、後ろなら後ろへ、左なら左へ負荷を懸けると、やがて著しく緩解します。ずうっと逆へ、痛みの反対側へ負荷を懸けてかえって非道くしていました。体験的に観察を重ねて、見つけました。今は、腰痛とかなり仲良くできています。但し人により原因によるでしょうが。
今は攣縮、つまり、こむら返りに相変わらず怯えます。それでも、ゆっくりの街歩きや川沿いの橋わたりも楽しめています。
糖尿病にめげず、注射も薬も几帳面以上に励行しながら、酒も食い物もほぼ無制限に楽しんでいます。病院での診察時成績は悪くならずに、時に褒めてもらいます。
「書き」仕事は少しも変わりなく、むしろ楽しんでいます。次から次へ自分を見つめ直す新しい材料が目の前へやってきます。置き去りにしてきた自分の人生を今時分になって真っ直ぐ見つめています。
自転車は危険なので、ほとんどやめています、暑いからでもあるが。かといって他の運動もしていません。機械の前に腰掛けていても、少しも腰痛にならないので助かります。パソコンを今は三台つかい、スキャナもプリンタも屡々活動してくれます。
外出は、通院と歯医者と、芝居と、独り歩き。月に十回ぐらいかな。ステッキが欲しいな。似合わないけど帽子も。少しも変わらず旺盛に読書も楽しみます。人とは、ほとんど直には接しません。互いの安全のためにも、家内と二人一緒によく出ています。
息子は、小説本と連続ドラマと舞台「秦組」とで超忙しく、それでも親父たちを芝居によんで呉れ、新鋭の機械を買って呉れたり、法廷や弁護士事務所へも運転手なみに付き合って呉れます。すっかり、いい「創り手・作家」になりました。
どうぞ、元気いっぱいの老境を健康に過ごしてください。わたしのように、よれよれのよろよろでも、それなりの元気は可能なのですから。過去より「いま・ここ」の元気を楽しみませんか。
京都のもとの都ホテルでの講演も、たくさん拍手をもらってきたし、もう外向きの仕事などムダな疲れ仕事はやめて、好きなこと、したいことをして過ごしています。病気とも仲よく。 湖
2010 7・18 106
* いま、妻に、かつてパリにやす香をつれて夫と暮らしていた二年間に、わたしたち両親や弟に彼らが寄越した「数十通の航空郵便」を機械に書き写してもらっている。★★★は、結婚した直後から舅による婿への暴言や無道がひっきりなしに続いたと証言席で云っていた。自分の妻は父の虐待に傷つき続けていたと云い、娘もそう云って憚らなかった。
この「★★パリ通信」は、むろん彼らが結婚して以後、★★がわれわれに「暴発」する少し以前の両家の自発的な交渉を証言しているが、その文面や内容は、すべて穏和で親愛に満ち、★★★も繰り返し感謝の言葉を送ってきているし、娘もさまざまに和やかに近況を伝え、支援を求め、感謝し、また父の仕事や健康や文運を励まして極み無く平和な親愛を伝え続けている。
抗争上野反論として、全文、公開する気でいる。少なくも、そのリストは今すぐ公開できるのである。
*
結婚して★★夫妻にやす香の生まれたのが翌年九月、更にその翌年に★★★はパリに留学し、朝日子とやす香とはまた翌年に追っかけて渡仏しました。支援と感謝の交信があったことは、以下の記録に明らかです。揉め事など、なに一つ有りませんでした。有ったというなら、それは嫁・朝日子の★★姑に対する日々のバトルぐらい。我々はそれをイヤほど娘から聴かされていました。
1 平穏無事だった不動の物証
1988年・昭和六十三年 ★★★・朝日子・やす香 渡仏 (25通)
① 1988/4/7 はがき
残して行った食品に添えられたもの
② 1988/04/15 はがき 秦皆様 パリ
やす香と自分の近況
③ 1988/04/19 はがき 秦様 皆様 パリ
やす香の様子
④ 1988/04/28 封書 秦恒平様 皆様 パリ
滞在許可証を取るにあたり 125万円必要につき・・・欲しい
⑤ 1988/05/10 12時出 はがき 秦様 皆様 パリ 近況
⑥ 1988/05/10 18時出 はがき 秦様 皆様 パリ 近況
⑦ 1988/05/11 封書 パリ
秦恒平様 ★★★ 礼状
⑧ 1988/05/17 はがき 秦様 皆様 パリ 近況
⑨ 1988/05/26 封書 秦様 皆様 パリ
近況・住まいの紹介
⑩ 1988/05/31? 06/01? はがき 秦様 皆様 パリ
おむつカバーを送って下さい
⑪ 1988/06/14 はがき 秦様 皆様 パリ
小包の礼
⑫ 1988/06/28 はがき 秦様 皆様 パリ 近況
⑬ 1988/07/01 封書 秦様 皆様 パリ
★★★発 虫歯で 神戸先生(秦家主治医・東京沼袋)にかかりたい
⑭ 1988/07/08 封書 秦様 皆様 パリ
近況・小包の礼
⑮ 1988/07/27 はがき 秦様 皆様 パリ
誕生日の感慨
⑯ 1988/08/01 はがき 秦様 皆様 パリ 近況
⑰ 1988/09/02 封書 秦様 皆様 パリ
雑用依頼・送金方法のことなど
⑱ 1988/09/29 はがき 秦恒平様 パリ
シシリーの本(秦・朝刊連載「親指のマリア」参照)を送る・送料の事など
⑲ 1988/10/17 はがき 秦様 皆様 パリ 近況
⑳ 1988/10/18 封書 秦建日子様 パリ
パリへいらっしゃい
21 1988/10/31 はがき 秦様 皆様 パリ 近況
22 1988/11/03? はがき 秦様 皆様 パリ 近況
23 1988/11/23 封書 秦様 皆様 パリ 近況
24 1988/12/09 封書 秦様 皆様 パリ 近況
25 1988/12/16 封書 秦様 皆様 パリ
秦恒平の婚約記念日・誕生日お祝い・X’mas
1989年・昭和六十四年分 (18通)
① 1989/01/11 封書 秦様 皆様 パリ
クリスマス・プレゼント(お金)の礼
② 1989/02/11 はがき 秦様 皆様 パリ
父恒平へのお見舞い
③ 1089/02/11 はがき 秦建日子様 パリ
用の依頼
④ 1989/02/22 封書 秦様 皆様 パリ 近況
⑤ 1989/03/06 はがき 秦様 皆様 パリ
お茶を送って
⑥ 1989/03/30 封書 秦様 皆様 パリ
朝日子の山一の預金のこと・30万円送って
⑦ 1989/04/24 はがき 秦様 パリ 近況
⑧ 1989/06/22 封書 秦様 皆様 パリ 近況
⑨ 1989/07/03 封書 秦迪子 パリ
雑用依頼
⑩ 1989/07/07? はがき 秦様 皆様 パリ
父上 作家生活20年おめでとう
⑪ 1989/07/25 封書 秦様 皆様 パリ
お小遣いの礼
⑫ 1989/08/07 封書 秦恒平様・皆様 パリ
★★★発 そろそろ帰国・援助の礼・今後もよろしくおつきあいを
⑬ 1989/08/08 封書 秦様 皆様 パリ
100万円貸して
⑭ 1989/08/16 はがき 秦建日子様 パリ
パリにいらっしゃい・父上の「初恋」に誤植あり
⑮ 1989/09/03 封書 秦様 皆様 パリ
思想の科学へ朝日子エッセイ掲載のこと
⑯ 1989/09/14 はがき 秦様 皆様 パリ
やす香の誕生日のこと
⑰ 1989/09/16 封書 秦様 皆様 パリ
帰国日時とやす香の絵
⑱ 1989/09/???? 封書 秦様 皆様 パリ
「思想の科学」朝日子校正
「無事」「平和」「親愛」でなければ、とてもこう頻繁に交信しないでしょう、互いに。しかも金銭の支援や文学上の手伝い、★★★の感謝状、子供の手紙なども入っているのですから。一二通を抜き出すより、「交信内容も付記したリスト」がご理解戴くのに有効だと思いました。
*
* どこに虐待や横暴があるというのか。このような和やかな関係から、どう「暴発」したのか、その分析はじつは必ずしも難儀でない。
「三年」もの留学は、掌をさすように、たちまち帰国後国内での就職難と経済難と、★★家内の軋轢を呼び起こしていた。
「嫁の実家はなぜ金をださぬか、常識はずれめ」と★★は「暴発」して、「姻戚関係を断つ」と通告された日付も、手紙も、きっちり残っている。平成三年の九月九日だ。
そして十月一日、わたしの方が、夢にも望んでいなかった東工大教授の文部省辞令を受けた。正直可哀想だったが代わってやることも出来ない。
こういう「証言」が、右から左へ、魔法のように直ぐに機械の中から持ち出せる。物証である。「機事」の恩恵、確かに実在する。無視してばかりでは、やはり暮らせないというのが世知辛いということか。いやはや。
* ★★★は証人席で、両家「姻戚の断絶」を通告してきたのは秦家がさきであったなどとむちゃくちゃのウソを話していたが、バカげている。なぜなら、それより以前はとなると、バッチリ、彼らがパリ暮らしの時期なのだ。五十近い親愛の手紙はどうなるのか、★★は自身の書いた「感謝と久しい厚誼を冀う」自分の手紙をまるで忘れている。
わたしは、娘の離婚して帰ってくるのなどハッキリ否認していた。妻は離婚を望んでいたが、わたしは夫婦は夫婦で暮らして行けと離婚に終始反対だったのである。離婚もわたしの強要していたことだなどと★★は言い立てていた。むちゃくちゃ。
2010 7・18 106
* おやじ殿の関連資料があまりに厖大量で立ちすくむ。資料の方は時間をかけ先ず整頓し分類した方がいい、その必要のあまり無い、少ないモチーフから接近したい。
* しかし併行して、手がけて久しい珍しい作へも根気よく手を出し続けたい。半ばまで読み直して、自分の読みたいと思う小説が誘惑的にかなりよく進行しているのを確かめた。ここまで来ているなら、なまじニゲを途中でうたないで、厚かましいほど凝ってゆったり彫り上げたい。欲が出る。枚数も恥ずかしからぬところまで出来ている。
2010 7・19 106
* 六本木から丸ビルへ。髪の薄くなったアタマの焦げてくるのをおそれて、帽子を買った。
学童や学生の昔を除いてわたしが帽子をかぶったのは二度ほどのごく短い期間だつた、だれもが吹き出すほど似合わない。似合わないとみなが笑う、いや嗤う。
で、どうせ嗤われるならチンケなやつをわざと選ぼうと。店員の薦めてくれた柔らかい藁を編んだようなのは妻に譲った。妻の方にはるかに似合った。わたしは、どうしようもない赤や緑など色とりどりパッチワークのような妙なやつを買った。
帽子がないとこの炎暑の下を、物騒で歩けないのだから仕方がない。そして東京駅のスタンドで鮨を食ってから、帰った。電車の中では息子の『ダーティ・ママ』を読んでいた。まるでマンガのようなカバーが恥ずかしかった。湖の本の満ち足りたヌードの方がずっと美しい。
2010 7・21 106
* 聖路加病院で優に二十年余もお世話になっていた妻の主治医が、引退される。引き継ぐに必要有る患者は引き継がれるらしいが、五パーセントほどのほぼ大丈夫とみられる妻のような患者は、地元の医療施設へ紹介状が出て引き継がれることとなり、今日は一応最終の診察日となった。妻にとって「聖路加時代」という大時代に幕がおりる。淋しいこととも、それほどに健康を維持し得てきて喜ばしいとも謂える。
幸い、ごくと謂って言い過ぎでない近くに比較的大きな病院があり、院長先生が診療を引き受けてくれている。わたしが自転車で運べば数分で行ける。歩いても知れている。
一時代を通りすぎてゆく。
わたしの聖路加は十年やや過ぎたが、継続。「十年で死にますよ」とおどされていたが、幸い、十年過ぎた。糖尿病も眼科も、いっそ楽しんで通院するぐらいに考えている。
2010 7・22 106
* わたしの此の親機械は、なぜか分からないが「音」が出ない。静かなのである。音楽も映画も繋いだ子機の方で楽しむ。親機は布谷君が秋葉原を駆けまわってパーツを買いとのえてわが家で組み立ててくれた機械。マニュアルも何も備わっていないし、ウインドウズ98とウインドウズMEとが入っている、今で謂うと大時代の古物なのだが、快適に働いてくれて馴染みに馴染んでいる。子機のノートパソコンのほうがずっと新しいし性能もいいらしいが、もっぱら左翼にいて、バックアツプしてくれている。
この両機にスキャナとプリンタと電話が連動している。そおっと、仲よく仲よく付き合っている。
今は右翼に、つまり右手のとどくデスクに建日子が買って呉れたじつに軽量のSONY VAIOが在る。まだ持ち歩いて活躍してくれるには到らないが、文章を書き慣れたなら、性能がもう一段二段つかめて納得できたら、隣棟の書斎へ持って行こうと思っている。
2010 7・22 106
* 菅総理は宰相として立ったとき、たしか人の「最少不幸」を願う政治と言った。
ある歌人は、「生きているだから逃げては卑怯とぞ 幸福を追わぬも卑怯のひとつ」と歌った。
ロマン・ロランの作中人物ジャン・クリストフはこう言っている。
「人が(他に=)要求してもかまわないのは幸福の最小限度である。それより多くのことを求める権利は誰にもない。溢れるほどの幸福──それはただ自分で自分に与えるべきものである。これを自分に与えてくれるべき義務は他人にはない。」
* 大の男や女が依存心をまるだしにし、酬われねばストーカーのように他を恨むなど、なさけない。人に恵まれる幸福なんて。幸福を追うなら自分で追え。
2010 7・22 106
* で、『ダーティ・ママ』を読む日だった。だが、宜しくなかった。きついことを言う。
* 『ダーティ・ママ』の宜しくないのは、又も、斜めに読んでしまえること、それは説明の文ばかり多いからで、加えて、俗な慣用句も平気で使われ、通俗読み物の悪弊を平気でふりまわしている。いくら今日の文壇を通俗読み物作者達が占拠しているからと言って、真似ることはない。残念ながら、必然、この作者にはある、ピカッとしした「表現」味が全編に薄い。
ヒロインと出逢ったトタン、一歳の子のシングルマザーだというのにKIKI KIRINを感じてしまって、印象がどうしても抜けないのにメイワクした。どうかして例えば篠原涼子に読もうとしても、だ。こうなったら篠原涼子主演で印象を改めてもらいたい。
身びいきで読んでいるから相応に面白くも読みすすめたけれど、ま、作者がよその人なら、指一本触れない。俳優座の稽古場で「ブレーメンの自由」ほど身に迫る、人間の自由と絶望、俗世の愚と偽善に嶮しくふれたあとでは、いやいや同じ俳優座の本舞台で同じ秦建日子が作・演出の舞台で見せた「らん」の、思わず呻かせたせつなさのあとでは、安い紙芝居を拍子木に誘われみせてもらったようだ。
どうやら「小説」の世界では、此の作者、根源の自身のモチーフのためでなく、売らんかな人形作者を演じてみせている。「小説」というジャンルの真摯な輝きと、真面に向き合って欲しい。きみの先師は、舞台の傑作だけでなく、小説でも血のにじみ出る秀作をのこされた。子連れ狼やダーティー・ハリーの二番煎じと見られてしまうのも、手軽い感じを倍加する。
二部めの、どうしようもない夫をもった香水にくわしい奥さんのようないい女も作者は書いている。
どうか概念だけで造作されたボール紙のような人間でない人間の「活躍」を見せて欲しい。推理小説でも刑事小説でも犯罪小説でも構わないのです、その主人公がネフリュードフでも時任謙作でも立派にそれは書けるのだ。わたしは最近、1970年生まれのジョシュバゼルが書いた『死神を葬れ』というじつに手荒いメディカルスリラーを読んだ。ベストセラーだ。好みではなかったけれど、主人公はがっちり書けていた。概念で書かれたヤツでは無かった。この男を使ってならかちっとしたまるで別の純文学が書けると感じた。
ちなみに、戯曲「ブレーメンの自由」を書いたファスビンダーは、映画「マリア・ブラウンの結婚」「リリー・マルレーン」などでニュー・ジャーマン・シネマの旗手とうたわれ、40本以上の優れた映画、18本の意欲の戯曲を残し、フルスピードの37歳で此の世を駆け抜けていった。
やれば出来るだろう! 体躯ではない。体躯の底から、内から、芯から、大きくなれる。小山の大将でなく、なれる。
2010 7・23 106
* あまりに迂闊な読み落としをしていたと、三里も五里もさがつて気が付くという情け無いことが、ある。今日、それに気が付いた。十年前には気が付くのはムリであったとして、せめて去年には、父の遺品をしらべ遺文に読み耽っていたときは気が付いてよかった。
2010 7・25 106
* ★★★の平成三年の突如「暴走」、つまり舅姑への罵詈罵倒の手紙を連発してきた、あれより以前から、★★夫妻に対し私ないし秦家から、とめどない暴言や攻撃が★★★に対し続いていた、だから「暴発」したのであると★★★は先日の法廷証人席で証言し、娘も同調していた。
それが全くの虚偽である抗争上の反論・物証として、先立つ昭和六十三年から平成元年・二年へかけての★★らのパリ留学・パリ住まいの間に、彼らが秦家に寄越した数十通の手紙を、すでにリストにして挙げてあるが、いま、「通信の全文を一切原文のまま証拠として電子化」している。むろん「原物の写真」も用意できる。
文面に微塵の不和も軋轢も無い。
すべて親愛にみち平静で穏和で家庭的で、パリでの日々を親しく親や弟に伝えて幸福感にさえ満たされ、私たちにぜひパリへ来るようにと繰り返し勧めてきているし、金銭や物品の願いや謝辞は、★★夫妻から何度も何度も届いている。我々が付き合いの長い歯医者の紹介も★★★は頼んできて、一時帰国し治療を受けたらしい。
この厖大な手紙やハガキの往来と文面を読む人の、百万人有れば百万人ともが、先日の原告法廷証言を虚偽として退けるだろう。抗争上の反論行為として、つとにわたしは「虐待」などという訴えを跳ね返す写真などをホームページに掲載しているが、少なくもあのバカげた「暴発」の直前まで、秦の両親から、父から、★★夫妻が攻撃の傷手に喘いで泣いていたなどと言うのが、どんなに虚偽そのものであるかを、適切に証明するであろう。
妻もわたしもつくづく読み返していて、「ああこの時代に戻りたい」と嘆息するほど、親しく★★夫妻は秦家に頼り、秦家もそれに応えて平和そのものであった。なによりも★★★本人が私に対し、ごく平静に、帰国後も相変わることなくご厚誼を願い上げますと懇請している。
証言にウソがあれば処罰されますと裁判長は釘を刺されていたが、★★の虚偽証言はどうなるのか。
* ことに顕著なのは、娘が父の文筆生活の久しくなったのを祝ってきたり、新聞連載小説のため是非欲しい資料としてシシリーの大きな写真集を、二冊も手に入れて送ってくれ、必要なら写真のフランス語解説を翻訳しますよとも言ってきている。
さらには、わたしのたぶん「春琴自害」という批評で、他の論者の名前をあげて論難しているのは、行き過ぎではないか、相手の名前は伏せておいていいと思うなどと意見も言ってきている。
但し、この娘の意見は正しくない。
論争的な批評の場合は、批評している相手の論者の名を伏せたまま論難するのはそれこそ中傷に当たり、論議が発展的に進むのを妨げてしまう。論争に興味や関心を持つ他の論者・読者達は、誰と誰とが、どのような論文と論旨とで衝突しているのかを正しく知れればこそ、双方を読み取って自身の意見をまた積み上げられる。近代文学史中、論争史の範囲も事例も夥しいが、激しければ激しい論争であればこそ、アイマイに中傷に類する半端な議論などしてはならなかった。「異邦人論争」「風俗小説論」「歴史小説論争」その他の文学論や、また梅原猛氏の斎藤茂吉や金田一京助を極度に激しく罵倒に近いまで攻撃したなど、すべて例にとるまでもなく、議論は率直にかつ公明で、ま、紳士的でなければならなかった。相手の名を伏せておいてその所説を論難するなど、かえつてそのほうが卑劣になる。わたしは、そういうことはしない。論難される場合も、当然自分の論攷を真っ向批評ないし非難されてそれでよいのである。
2010 7・25 106
* いま、わたしの手に、文庫本の「新約聖書」が在る。1954年改訳。1955年に銀座の日本聖書協会から出ている。表紙の全面を、手づから黒い柔らかみの紙でカヴァーし、内側へ折りたたみも丁寧に、ホチキスできちっととめてある。気を入れた「愛装・自装」の一冊で、手に取った感じがしなやかで柔らか。文字は7ポイント活字でわたしには小さすぎるが、本紙にこわばりが全然なく、たいへん手に持って心地よい。最近、納屋にしまい込まれ、妻の字で「お父さま遺品」と書かれたダンボールの箱から見つけた。
わたしは、いましも引証付きの「旧約・新約」を一冊にした大きな聖書を、すべて読み終える間際まで来ている。読み始めてらくに二三年になるが、この本も、父の形見かのように妹達がわたしに譲ってくれた。そちらは大判。こちらは文庫本大。
今この、文庫本新約聖書の表紙ウラ、いわゆる「表見返し」の右に、
熱愛を受けし
祖母の負托を憶ひて
とある。父・吉岡恒の謹直な達筆だ。
父は自身の母を出産のために喪った。祖母「りょう」の手に熱愛されて育ったのだろう。本の出版されたのは昭和三十年であるから祖母がこの聖書を孫に与えたはずはない。祖母が基督者であったかどうかもわたしには分からない。父方吉岡家に基督教のかげがいろいろに落ちていたのは間違いない。しかし墓地はそのようではなかった。同志社大学の名誉教授であった大叔父吉岡義睦は基督者として亡くなったと聞いている。祖父吉岡誠一郎は「自称基督者」であったと繰り返し長男でありわたしや兄恒彦の父である吉岡恒は批評的に、時に非難をこめ、皮肉な調子で書きのこしている。
では、父は。父の二人の娘達は、家族もろとも敬虔な熱い基督者であり、父の葬儀も教会で行われた。わたしは「実子」でありながら来会の知人かのように「弔辞」を頼まれた。
では、父自身は。
父はこの文庫本聖書の表見開きの左に、美しいとおもうほど謹慎の楷書で、こう書いている。
私の過去は凡て誤りででありました
心から神の前にざんげ致します
今後は
一、常に神に導かれていることを信じます
二、常に正しい道を歩むことを信じます
三、神が道なきところにも常に道を作ることを
信じます。
神と共にあればすべてのこと可能なり
一九五六、四、二一 実朱印(吉岡恒印)
* 父の、謹慎を極めたこの達筆に目をあてたわたし秦恒平の疼くような感想は、「作」の方で書こうと思う。ただ、この日付、この年次は記憶に値する。昭和三十一年。わたしの大学三回生に進んだ春だ。妻とわたしはまだ出逢っていない。
2010 7・26 106
* 平成三年の★★★の突如「暴走」、つまり舅姑への罵詈罵倒の手紙を連発してきた、あれより以前から、★★夫妻に対し私ないし秦家から、とめどない暴言や攻撃が続いていた、だから仕方なく「暴発」したのであると★★★は先日の法廷証人席で証言し、娘も同調していた。
それが全くの虚偽である「抗争上の反論・物証」として、先立つ昭和六十三年(1988)から翌平成元年・二年へかけての★★らのパリ留学・パリ住まいの間に、彼らが秦家に寄越した数十通の手紙を、すでにリストにして挙げてある、が、いま、「通信の全文を一切原文のまま証拠として電子化」している。むろん「原物の写真」も用意できる。
すべて読み返して、文面に微塵の不和も軋轢もない。親愛にみち平静で穏和で家庭的に遠慮無く、パリでの日々を親しく親や弟に伝えて幸福感に満たされ、仕事の取材かたがた両親揃ってぜひパリへ来るようにと温かに勧めてきているし、金銭や物品の願いや謝辞は、★★夫妻から何度も何度も届いている。我々が付き合いの長い歯医者の紹介も★★★は頼んできて、一時帰国し治療を受けたらしい。
この大量の手紙やハガキの往来と文面を読む人の、百万人あれば百万人ともが、先日の原告法廷証言を虚偽と退けるだろう。抗争上の反論行為として、つとにわたしは「虐待」などという訴えを跳ね返す娘との旅写真等々をホームページに掲載しているが、少なくもあのバカげた「暴発」の直前まで、秦の両親から、父からの、攻撃の傷手に喘いで★★夫妻が泣いていたなどと言うのが、どんなに虚偽であるかを、実にありのまま適切に証明してくれる。妻もわたしもつくづく読み返して、「ああこの時代に戻りたい」「こういう朝日子に立ち返って欲しい」と嘆息するほど、親しく★★夫妻は秦家に頼り、秦家もそれに応えて平和そのものであった。なによりも★★★本人が私に対し、ごく平静に、帰国後も相変わることなくご厚誼を願い上げますと懇請している。
証言にウソがあれば処罰されますと裁判長は釘を刺されていたが、★★の虚偽証言はどうなるのか。
* ことに顕著なのは、娘が父の文筆生活の久しくなったのを祝ってきたり、新聞連載小説のため是非欲しい資料としてシシリーの大きな写真集、二冊も手に入れて送ってくれ、必要なら写真のフランス語解説を翻訳しますよとも言ってきている。
さらには、わたしのたぶん「春琴自害」という批評で、他の論者の名前をあげて手厳しく論難しているのは行き過ぎではないか、相手の名前は伏せておいていいと思うなどと、よくこうして議論し合った秦家の昔の、朝日子らしいシンラツ口調の意見もザックバランに言ってきている。
但し、この際の娘の意見は、やはり、正しくないように思う。
文学論は、昔から学術誌にだけ書かれたわけでなく、ことに文士の議論は「新潮」「中央公論」「改造」「太陽」など一般誌や新聞紙上に書かれて、それにより多くの読者も、気持ちの上で参加できた。文士の論争は、実例は幾らも挙げられるが、概してじつに激しいのが常態であった。
ことに論争的な批評の場合、批評し批判している相手の論者の名を伏せたまま論難するのは、それこそ中傷や当てこすりに当たり、論議が発展的に進むのを妨げてしまう。論争に興味や関心を持つ他の論者・読者達は、誰と誰とが、どのような論攷と論旨とで衝突しているのかを正しく知れればこそ、双方を読みとって自身の意見をまたそこへ積み上げられる。近代文学史中、論争史の範囲も事例も広く夥しいが、真摯に激しければ激しい論争であればこそ、アイマイに中傷に類する半端な議論などしてはならなかった。「異邦人論争」「風俗小説論」「歴史小説論争」その他の文学論や、また梅原猛氏の斎藤茂吉や金田一京助を激しく罵倒に近いまで攻撃しながらの立論など、多くが議論率直かつ公明で、ま、自然の気合いで喧嘩腰にちかくなるのもけっして珍しくなかった。わたしの論難など理路を追ってむしろ普通の語調であった。なによりも相手の名を伏せておいて所説を駁撃するなど、かえってそのほうが卑劣で因循姑息になる。
わたしは、そういうことはしない。
むろん論難される場合も、当然自分の論攷を真っ向批評ないし非難されてそれでよい、当然なのである。陰口ほどイヤなものは無い。
* 朝日子たちのパリ便り1988 1989 両年の便りを、凡て丁寧に書き写した。読み返した。
感想は三つ。
一つは、朝日子はもとより、★★★の手紙も、我々への親愛と感謝とに満ちあふれて、いささかの渋滞も遠慮も他意も汲み取れない。
二つは、予期していたより遙かに朝日子の手紙は、文藝味すら帯びて適切によく書けていて、誰もがその精神的な安定と人間的な視野やセンスに親しみを覚えるだろう。
即ち三つには、これらの全部が、★★と結婚後、それもあの「不幸な暴発」より以前(直前とすら。事件は、やがて帰国して起きている。)に書かれている。この事実から、次の二つが結論できる。
一つ。これら両親に宛てた朝日子の手紙には、八歳以降「二十年」にわたり続いた父の虐待、性的虐待など「ハラスメント」の、かげもにおいも、全然感じられないこと。もしそんなカミングアウトに相当した何かが一人の父と娘の間に継続してあったなら、とても父親や母親や弟に対してこんな爽やかで明瞭で健康な手紙は書けるものでない。
二つ。結婚して四年目、五年目にこれは当たっているが、★★原告が先日の法廷で述べ立てたような、両家に解きがたい不和があった、それが原因で★★は「暴発」ししたのだというようなことは、これらの手紙がまさに「暴発」のすぐ前に書き連ねられていた事実からみても、虚偽・暴言というしか無い。「せっかくなのに」と、父と母と連れ立ち新聞小説の取材も兼ねぜひパリへも来ないかと真率に奨めてきている。二十年陰惨にハラスメントを受けながら、だれがそんなことを云えるものか。そんな根のない訴えは、みなあの2006年のやす香の死後に、朝日子の心を乱しての妄言に過ぎなかったと、ハッキリする。
2010 7・26 106
* 四年前。孫やす香 十九年を生きて逝きぬ。
* 五十年前。娘朝日子 生まれきぬ。
* 朝日子の生まれる日、私の勤め先であった本郷の医学書院では、緊急輸血に備えて同僚の何人もが待機してくれた。母親に出血性素因があり、それゆえにわたしは院生の日々をうち捨てても、東京の医学書院を就職先に求め、妻とともに京都を離れてきた。優れたドクターとの出逢いを心頼みにして。
その願いは叶い、血液学会の会長をも務められた森田先生により妻は万全の援護をえて慎重に慎重にわれわれ両親は朝日子の出生を待ち受けた。そして、
七月二十七日朝日子誕生二首
「朝日子」の今さしいでて天地(あめつち)のよろこびぞこれ風のすずしさ
迪子迪子ただうれしさに迪子とよびて水ふふまする吾は夫(せ)なれば
* 編集長の長谷川泉氏は、すぐさま本の表見開きに、このように書いて朝日子の誕生を祝って下さった。この本『近代名作鑑賞』は、長谷川さんの代表作の優れた一冊で充実した研究書。ちょうどこの頃、この著で、第一回久松潜一賞を受けられた。この人の背中をみつめながらわたしは、「めぐし子」朝日子を恵まれたことにも励まされ、作家への道を初めて歩み出したのだった。
* 長谷川氏も森田教授も、朝日子の結婚披露宴にはよろこんで出席して下さった。往時ははるかに、渺茫と。
* それでも今朝も、朝日子の心健やかと心穏やかな日々を守ってと、秦の親達に祈った。
* 今日はやす香の仲良かったお友達を誘い、やす香もきっといっしょに、中村勘三郎の楽しい芝居を観に行きます。
2010 7・27 106
* じりじりと「初稿」の筆が前へ動いている。骨格もいくらか目に見えてきた。
不愉快な他用に、邪魔されたくないが、不愉快なことほど放っておくと汚れや悪臭が拡大しかねない。
* なんといういやらしい日々が続くのだろう。それでも生きて行く。気概・気力で。楽しんで。気儘に、ものに泥まないで。そして私自身に根を生やしたモノを、モノの命を創り出して。そのためには
七十五歳になることなど綺麗に忘れ、高校生か大学生か青年のような青臭さに身いっぱいを包まれながら歩いて行く。歩けなくなれば這って行く。
* 先日の法廷でみた私たちの娘は、まぐろのように太って見えた。父のわたしと、まるで同じだ、健康ではないなと感じた。顔色は青い土のようだった。そして途方もないウソを口走りながら、子どもの頃から今に至るまで自分は父親にいじめられ通しで生きてきたと泣いたりした。私や、傍聴席の母親と、只の一度も視線を合わせられなかった。
低い声でぼそぼそと喋っている★★★はひたすら陰気に、自分たちは結婚以来舅にいじめられ続けてきた。だから暴発も仕方なかった。姻戚を立つと先に言ったのは秦の方だなどと、途方もないことを喋っていた。パリ通信も朝日子と父と結婚後のいろんな写真も、その言い分のウソであることを明瞭に証している。
わたしは被告席でも証人席でもまっすぐ娘夫妻や相手方弁護士の顔を見て話した。話しながら、朝日子の表情に注意・注視を怠らなかった。すべてはきはきと即座に答弁し、相手方弁護士はしばしば質問を小声にアイマイになり尻すぼみにやめた。時にはわたしの前ですねているのかと可笑しかった。
* こういうことを、娘を、朝日子を、憎んでいるから言うのではない、逆である。
* もうすぐあの日の法定資料が出来るだろう。わたしは青年のように青臭くかつ容赦しない。ハッキリしておく、わたしは法廷に持ち出して攻撃している「原告」ではない。火の粉を払う「被告」である。容赦なく火の粉は払うのである。老人らしからぬ、大人げないと口の端を枉げる人には、気取っていないでわたしの立場に一度立ってみなさいと躊躇わず云う。
* 赤坂ACT劇場で、中村屋の「文七元結」と、七之助の「鷺娘」を観てきた。やす香の親友を誘った、やす香もきっと一緒に観ていたろう。はねて、千代田線で原宿へ、「南国酒家」で中華料理を食べてきた。いい小半日を過ごして、妻と池袋経由で帰ってきた。したたかに暑かった。
2010 7・27 106
* 終日、昔ごとに、かかずらわっていた。昔が今を蝕むのを見遁すことは出来ぬ。必要なら必要なようにわたししは努める。無視して済むなら無視する。
2010 7・28 106
* 雨。すこし涼しい。駅の方まで用足しに出た。二人で出ると、手が四つある。そういう機会に冷蔵庫などを満たす買い物をしてくる。もうこの頃は駅との間を歩かない。往きは時間を見計らい近くから市の花バスに乗り、帰りは玄関までタクシーを使う。相当の買い物をしてもラクに帰れる。ひどい雨でなかったし涼しいのが有り難い。
* じいっと、思い想う。我ありと納得するためでは、ない。
2010 7・29 106
* 薄暮の四時に黒いマゴを玄関の外へ出してやり、そのまま玄関の外でマゴとふたりで暫く坐っていた。強かった雨のあとの静かな静かな、朝。マゴは悠然とどこかへ散歩に行き、わたしはもう一度床に戻った。しばらくしてから、本を読み始めた。
2010 7・30 106
* むかし、本郷の或る昼飯屋さんの、昼飯時間の過ぎた明き店を店主姉妹の好意で借り、社の勤務時間中に小説を書いていた。そういうことをしていても仕事に穴をあけたことはないし、編集者は二十四時間勤務と長谷川編集長に言われていた、それは時間は自分で宰領せよという含意でもあった。そのお店は夜はバーになり、しかしわたしは一度も酒の客にはならなかった。店の姉妹はわたしが太宰賞をもらう以前から小説を書いているのを知っていた。そして受賞すると、お祝いに、お店に掛かっていた「問一問」という扁額を呉れた。いまも大事にしている。
* 「なによりも大事な一問」を問いなさい。三字はそう告げていた。わたしはいつも三字を黙って見上げていた。正しく問うのは難しいが優れた問いを人は問わねばならぬ。「問いの悪い者には答えるな」と荀子は教えている。厳しい。「とっぷ」の優しい店主姉妹は喜んでその三字の額を贈ってくれた。あのころのわたしは、文字通り寸暇もなかった。せっかく受賞しても仕事をとぎらせたら落ち零れる。編集課長という中間管理職は月刊誌の定日発行を五冊も担当し、企画した単行本の取材進行分をわたしは百二、三十冊分も抱えていた。依頼原稿の書き後れをそのセイにすることは出来なかったし、新潮社の「新鋭書き下ろし」作品や、テレビやラジオの出演依頼もあった。おまけにわが社は本郷台に名高い熾烈な労使闘争を繰り返す会社で、管理職は上から下から追い使われつるし上げられた。
あの頃、「なによりも大事な一問」は何であったろう、わたしにとって。
文学。
だがそれ以上に家庭であり家族であった。妻が、朝日子や建日子がいてくれる、その支えと励みとが、文学へわたしを没頭させた。家族の前で恥ずかしい安い仕事は出来ないと思っていた。さもなければ、あんなに仕事に打ち込めなかったろう、創作そして批評。読み物の書き手ではなかったから、沢山は売れないから、贅沢な暮らしは出来なかった、させもしなかった。まさかそれが虐待かい。
* 朝日子。きみは、大事な大事な問いを置き去りにして来なかったか。父さんは、受賞からわずか十年たらずで六十数冊も本を出していた。覚えているだろう、来客もひっきりなし、京都の老人達は三人とも九十へ老いの坂に喘いでいた、やがては三人とも引き取らねばならなかった、保谷のこの狭い家にだよ。
父さんも母さんもあれらの日々、どんなに忙しく疲れに疲れながらも、誇りをもって頑張っていたよ、きみを虐待などしているどんなヒマがあったかい、あのころほど父さんは勉強していたこと、なかった。そういう日々が嬉しかった。それでも、ずいぶん姉とも弟とも賑やかな楽しい時も一緒に過ごしたではないの。
* 問一問。いまもわたしは三字を見つめる。そして何も問わないでいい時を待っている。
* 今しもバグワンを読んでいたが、この師に質問してくる何人もが、これは「友人(誰それ)の代わりに聞くのですが」と言ってくると。このウソはすぐ分かる。問題に直面していないなによりの証拠だ。都合の良い答えを期待して自分の問いを棚上げしたフリをしている。
「自分の問いに直面するがいい」とバグワンは言う。「もし自分の質問の動機を見つけることが出来たら、百の九十九の質問はあっさり消えてしまう。問いの中に深く入って行き、根源に到ること、それが答えを見出すことだ」と。わたしは想う、「そうなれば答えは要らなくなるだろう」と。
バグワンに聴こう、「自分で答えを得られない一つの問い‥‥、それを尋ね問うことはとても重要だ、それは貴重な橋になる」と。「自分の問いの無意識の根源にまで入って行きなさい」と。
2010 7・30 106
* 太左衛さんからお誘いがあって、行きますと返事。追っかけて「いま金澤にいます、すぐ帰ります」と。恐縮。
去年は草臥れ果てていて行けなかった。ことしは、花火のアトの帰りを急かず慌てず、浅草でゆっくりして、車が動いてくれるようになってから、上野か鶯谷を経て帰ってこようと思う。観音裏から鶯谷駅までの徒歩が暑くて遠くて腰が痛んで、いつも帰り道虫の息だつた。夜中に家に帰ればいいと思えばいい。
* 四年前は、やす香の送り火として花火を見上げ、泣いてきた。
それより前。卒業生の柳博通と彼女とを連れて行き、結婚へ、グイと、グズついていた二人の背中を押してやった。今では幸せにパパママしているが、忙しいのか、いっこうに無沙汰。 2010 7・31 106
* 以下は、両家にとって最も平和で幸せであった時期の「証明」である。そのような記念のものを、不幸な裁判沙汰の抗争上の反論・駁撃の物証として持ち出さねばならないのを、こころから残念に思う。
もし、これらの手紙ハガキの文面から、秦家と★★★・朝日子との間に、婿夫妻に対する陰惨な「虐待」という訴えに相当する只の一通でもあるなら、ご指摘願いたい。
それどころか、私・秦 恒平・父の目には、微笑と親愛とをさそうほど和みあった「親交記録・パリ便り」と読める。断っておく、迂闊な転換ミス以外、只一行の脱漏もなく、誠実に妻が書写した。さらにわたしが、丁寧に読んだ。
* これを此処に掲げる今一つの理由と抗議の意思とを掲げておく。
* 平成二十二年七月十三日東京地裁法廷で、原告の一人★★朝日子(被告長女)は家裁への申立てにより「改名」が認可されたと証言した。一般に改名は、めったに認可されないと言われる。それが認められた理由として朝日子が父による「虐待」「ハラスメント」を申し立てたことが推量されるが、もしその通りなら、家裁は、現在係争中の事情すら知らされず、一方的に無調査のまま認可しのである。原告の、父に対する事実無根の名誉毀損の申し立てが、ただ一方的に認められ、それに原告が便乗し、被告のあたかも「虐待」「ハラスメント」が公に原告に対し認められたというが如き「虚偽と中傷を公然」押し広げたときは、被告は、ならびに被告の家族は、無意味に事実無根のまま社会的な名誉を傷つけられてしまう。代理人牧野二郎氏とその綜合法律事務所にも善処を依頼してあるが、以下の書簡公開には、このような事態への私たちの抗争上、抗議と反駁の意思が籠められていることを、厳重に附記しておく。 2010.08.01 秦 恒平
* いずれにしても、現在すでに秦家の長女であった「朝日子」なる名乗りの者は実在しない。家裁の改名認可は今年の四月であったと証言されていた。「朝日子」と気味悪くマーキングしていたのはすべて無効となり、われわれの記憶にあって大事に娘に触れた過去の記事一切を、「朝日子」の名に戻す。
★★家在パリ88-90秦家へ来信全文
1988年分・・25通 1989年分・・18通
1988年・昭和六十三年 ★★★・朝日子・やす香 渡仏 (25通)
① 1988/4/7 はがき
両親の秦家に残して行った食品に添えられたメモ
かつおぶしは(=のこ・当時秦家の飼猫)に
お米は西(=棟)の長者様(=秦の老祖父母)に
その余の物は適当に
母上様(=朝日子母・迪子)のものなま乾きゆえもう一度すすぎを
父上様(=朝日子父・恒平)にはお便りありがとう 朝日子
② 1988/04/15 絵はがき 秦皆様 パリ 朝日子
やす香と自分の近況
やす香は、不思議なくらいすぐ、父親と新しい家に慣れました。きのうくらいから、時差もなくなり、ちょっと遠いけれど、快い、広い公園で、言葉の壁なく、遊んでいます。最初、黒人の姉妹をひどく熱心に見ていましたが、もう気にしなくなったようです。
私も、スーパーではないお店に好んで入り、あたりさわりのない買物で、地ならしをしています。4/15
③ 1988/04/19 絵はがき 秦様 皆様 パリ 朝日子
やす香の様子
近ごろのやす香の遊び
・公園で遊ぶ・近くの託児所の子供たちに、入れてくれと外から叫ぶ・家の中を車で走りまわる・車についている電話でジーヤン(=祖父・恒平)やバータン(祖母・迪子)と話す・人形をねかせてハンカチをかけ、「ねんねんころころ」という・「へにょんへにょん」といいながら落書をする。これは、パパがおしえた、へのへのもへじ。・本を読む・はんぶん、はんぶん、と言いながらおむつをたたむ(まるめる)・いろんなものを指して「ん?」と名前をきく・
④ 1988/04/28 封書 秦恒平様 皆様 パリ 朝日子
滞在許可証を取るにあたり 125万円必要につき・・・欲しい
こちらへ来て、20日が過ぎようとしています。みなさん、おげんきですか。
最初のうちは、近所を、ベビーカーを押して、ぐるぐる歩いていましたが、この頃ではメトロに乗ることも覚え、やす香と二人で、グランパレへドガ展を見に行きました。当方では子供を連れて歩く習慣がないようで、展覧会のような公式の場ではひどく目立ちますが、人に迷惑のかからないかぎり、気にしないことにしました。
まだしていない予防接種をすませば、公立の託児所にも入れるようです。本人はいきたがって(?)いますが。
私たちの住んでいる14区は、パリの中ではごくあたりまえの住宅域で、つまり、日本人はちょっと目立ちます。公園でも、毎日だれか3っつから7つくらいの男の子がやって来て、やす香のエスコートを買って出ます。大人のふるまいを見つけているためか、手をとったり、髪をなでたりする感じが、笑ってしまうくらいキザにできあがっています。そして、私のところに走って来て名前をきくと、発音も苦にせず”ヤスカ・・・”と呼びかけるのも、なかなか堂に入っていておもしろいです。
日々の買物ややす香の身の回りのものなどの買物は、すっかりとどこおりなくできるようになりました。日本人カソリックセンターという、家からメトロで4つ目の所にある語学教室に入る予定ですが、なんだか先生が入院中とかで、待機中です。そこは、やす香を勉強中あずかってくれるシスターがいるようです。
・先日、**おじ様おば様(=★★★の叔父か伯父か)が、仕事でこちらにみえ、家で夕食をご一緒しました。
・住宅街ということもあって、老人の多い街です。そちらの御三方(=恒平の両親と叔母。この当時秦家は揃って九十歳を越して行く老三人を京都より引き取っていた。)よりはるかに足腰の弱そうなおじいさんおばあさんが、そのうちに日も暮れよとばかりのスローモーションで歩いている姿をよく見かけます。パリの老人にまけないように散歩なさいませとお伝え下さい。
・写真は、「ハーフ」ということがうまく伝えられなくて、日本ではあり得べからざる仕上がりとなりました。せっかくのカッター(=湖の本の必要で備えていた器械。)ですから、どうぞ、きれいに切って下さい。
おくればせながら、 建日子君(=朝日子の弟。当時早大生)に、ありがとう。
・ところで、まったく「さっそく」で申し訳ないのですが、お金の話をさせて下さい。
「滞在許可証」をとるにあたって、預金の確認が必要となりました。●は「働かない」条件の学生ですので、扶養という適応がなく、私自身の名義で5万フランをキープする義務があるというのです。「キープ」ということで、毎年の確認時に大きく割りこんだ記録(毎月の残高証明を提出)がみつかると許可が下りなくなるというのです。
ですから、原則的に、「帰国時まで使えない」お金が125万円、必要になってしまったわけです。ともかく、すべての登録に類する作業が、この「滞在許可証」からはじまるわけで、生活費用の預金の最後の分をけずり込むつもりでいますが、もし、例のお金を「帰国時まで」日本でなく、パリでキープできれば、とてもとても幸いです。いかがでしょうか。近々、東京銀行へ口座を開きますので、送金の許諾を、至急はがきででも、お知らせ下さい。否の場合は、学園に解約手続きの連絡をする必要があり、ぜひお急ぎ下さい。
ところで、西よりいただいた分は、すでに●さんの口座に入っていますが、もちろん、私の学資として、わけて考えてもらっています。・・・
これは今年の語学教室と、来年の学校入学に使ってしまうので・・・
その他、出発時に頂いた分、および、●さんより、今年の小遣いとして、10万円もらったのは、手持ちがあります。ですから、あくまで、許可のための「見せ金」で、使うつもりでお願いするつもりではないというところをくんで「諾」のお返事を下さるようお願いします。
日々の暮らしでは、外国人に寛容な街ですが、ともかく、事務手続きになると、どうもイヤな国であります。
筆記具をつぎつぎ取られるのでおちついて書けません。
やす香は、「ちい」が言えるようになり、・・・パーフェクトではもちろんありませんが、だいぶ楽になりました。今まで、ジーヤン、バータンや、学園のみんなに分散していた甘えを、集中的にパパに注ぐようになり、ママにしかられると、パパ、パパといって泣く、というあり様です。パパが出かけるとベソをかき、帰ってくると、「カイリー」といいながら、走って出迎え、荷物をうけとろうとし、おしりをあと押ししながら、居間に入ってくるという、笑える光景です。
その他、「おんもん」といって外出を要求します。
牛乳と、パンが、言えるようになりました。でも最大級におかしいのは「ぎゅう」で、抱きしめたり、キスしたりすることを言うのですが、公園やメトロでアベックが抱きあっていたりすると、自分も、パパとママに「ぎゅう」を要求します。先日などメトロの中で、アベックを指して、「ぎゅう!ぎゅう!」とさわぐのでこまってしまいました。
そろそろ散歩の時間なので、これも投函します。ここには全自動の洗濯機がついていて、帰ってくるころは、おむつが洗えています。
今、つみきが届きました。 4/28 朝日子 うらに追伸
追。●さんにはまだ何もいってません。
借りる、ということでも、かまわないです。
⑤ 1988/05/10 12時出 絵はがき 秦様 皆様 パリ 近況
雨です、雨にはまいります。ボール投げをするスペースや、かくれんぼの場所にはことかきませんが、やはり、昼や夜の寝つきが悪いし、買物にも行けないし。ところで、街中でのギュウの一件ですが、これはあくまで「自分も!」という意味なので、おでこあたりにキスしてやりさえすればなんとかなります、ご心配なく。先日、あるギャラリーで、とてもすてきな画に出会いました。幸い画家本人もそこにいたので、あやしい仏語と、下手な英語でほめちぎったら、ポスターやカタログをくれてサインもしてもらいました。でも本当は7000F17,8万円の花の絵がほしかった! そうそうお金の件はともかく高さんがなんとかしてくれるというので、静観することにします。 朝日子
⑥ 1988/05/10 18時出 絵はがき 秦様 皆様 パリ 近況
メトロの乗り方は習ったのですが、やす香をつれていると階段の多さがこたえるので、思いきって自分でバスに乗ってみました。中々、良好です。きのうは、その「初乗」で、オルセー美術館(旧印象派美術館)まで行ったのですが、観光バスが10台以上いて、100メートルくらい人がならんでいるのであきらめて、(ゴッホ展をやっていた)セーヌ川を渡って対岸のチュイルリー公園で遊んできました。中のカフェで軽食をとったら、やす香のこぼすパンくずに、すずめやはとがたくさん集まって、やす香がこわがって、大さわぎでした。5/7 朝日子
⑦ 1988/05/11 封書 パリ
秦恒平様 ★★★ 礼状
秦恒平様
思いがけずあちこちに桜をみつけてパリの春を迎えました。
とはいえ、街角で目をひくのは、ところかまわず貼られた大統領選ポスター。日本のような広報車こそ走らないものの、地下鉄の落書きまでが候補者の名前という加熱ぶりです。
さて、日本ではゴールデンウィークが充実したと聞きます。
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。
この度、家族と合流して、下記に転居しました。メトロの駅に徒歩十分、大学に三十分弱と便利ながら、たえず鳥の声を聞く静かな住宅街で、勉強部屋も一室確保し、報告に追いまくられながら充実した留学生活を継続中です。また、新聞社に出入りを許され、今回の大統領選をつぶさにフォローすることができました。
★ ★★
chez M.Mousseau
- Villa Brune.
75014.Paris
FRANCE
tel.45-45-57-28
何もかもお世話になり御礼の申し上げようもございません。おかげさまで三人とも元気で楽しく暮らしております。辺りは落ち着いた環境でやす香も問題なく適応してくれました。研究の方も予想以上の成果を挙げております。
そちらはさぞお賑やかなことと存じます。皆様一層の御自愛の程。
⑧ 1988/05/17 絵はがき 秦様 皆様 パリ 近況 朝日子
お電話、ありがとう、あいかわらずです。●さんが、週4日、朝早く出るので、その内3日は、午前中公園で遊び、1日は街中へ出ています。●さんが家にいる2日は、ちょっと遠くまで、お弁当をもっていったりします。ブーローニュの森にも2度いきました。ところでこの絵はがきのような空は、夜九時くらいなので、まだ夕焼というものを知りません。
⑨ 1988/05/26 封書 秦様 皆様 パリ 朝日子
近況・住まいの紹介・図版入り
家の北側は、Villa Brune という100m程の袋小路で、我家はそのつきあたりにあります。道の終点と我家の敷地の西端は、昔の建物をしのばせる石積の壁になっています。その西は新しい、大きな郵便局ですが、そこへはVilla Bruneをもとに戻って、一本南の大通りへ出て、そしてまた同じだけ、歩かなければなりません。Villa Brune の北側は、深い堀のようになっていて、昔の環状電車の線路が残っています。今はときおり貨車が通るだけの(点検のために、・・・まだ一度しか見たことがない)木や草のすき放題にのびた谷になっています。鳥がとてもたくさんいます。・・・という2つの条件の下、我家は大層静かです。
外壁は白で、玄関の扉だけが黒です。ワイン倉の入口みたいな、大きな、厚い、重い、アーチ型の扉です。エントランスホールは共用、卓球のできる広さがあります。外扉が重く、入ったとたん、とても暗いのに対し、反対側の三枚はガラスで、一枚は庭に、二枚はそれぞれの家に通じますが、どちらの入口も庭にむかって窓があるので、この三枚のガラス戸は、いつも明るくて軽やかです。
さて、玄関を入ると、保谷と同じく、廊下の貫通している家です。東側は、隣のアパルトマンと共用も壁ですから、窓なし、タンスなど置いてありますが、充分な幅があります。(パリは、京都のように、壁面共有の家がべったり並んで、庭は坪庭式になっている)外からは庭、緑があるとはとても見えないのに、それぞれ、ビルの管理人が、とても熱心に庭づくりをしている。
茶色に塗ってある部分の床は朱いレンガです。ちなみに壁は全部白、水まわりは白いタイルです。黄色の部分は、床も白いタイル、といっても、30cm四方の大きな、つやけしのタイルです。ぞーきんがけがきくので、やす香がすわりこんでもあまり苦になりませんが(当然、スリッパでくらしているので)、髪ひとすじでも落ちていると、ひどくめだつので苦労ではあります。緑の部分は、茶色のジュータンがしきつめになっています。一階の緑は●さんの勉強部屋、二階は寝室です。
廊下から、右に入ると居間、正面は台所ですが、ぐるっとつながっていて、やす香の環状道路となっています。おかげで雨の日も、ある程度運動量を保てます。居間にはソファーがひとつ、階段下のくぼみにサイドボード(小)、これはやす香のおもちゃ入れになっています。その上に小さな白黒テレビ、大統領選速報、フランスオープンテンス、これからは、国民議会選挙と大活躍です。「おかあさんといっしょ」式子供番組、デイズニーアワーはまあよいとして、一日三時間くらいずつ、日本のアニメが流れています。日本で見たことのあるもの(ベルサイユのバラとか!)が10本余、みたことはない(流してない?)けど、東映アニメーションのマークが出て、ずらっと日本人のスタッフ名が並ぶのも、同じくらいみつけました。もちろん全部フランス語です。例のルペン氏が、「我小国民を、ジャポンのテレビで育ててよいのか!」と叫んでいました。ジャポンの私も、そう思います。やす香は今のところ、テレビには大した興味はないようで、「おかあさんといっしょ」の動物ぬいぐるみにあわせて踊ったりするくらいです。
居間と台所の間に食卓、xxxxx のマークの部分が、私のコーナーになっていて、日本でもはやりの「ユテイリテイーカウンター」があります。そこでたいていの勉強はできます。近ごろは、文法書の勉強のかわりに、フランス語のレシピなど、読んでいます。
台所は、ワークトップの下も、上も戸棚になっていて、すべて扉は白、ただし、絵にもかいたように、ワークトップは、強烈なオレンジで、我が家で唯一の、自己主張している「色」です。レンジは4口あって電熱、残念ながら、これは火力調節がよくない・・・・ガスの方がいいです。もちろん長時間の煮込みにはむいているので、こちらの料理」にはよいのでしょうが、フライパンがあったまるのにえいえいと待たねばならず、またひと煮立ちして火をさっと弱めたい・・・ときに、スイッチをOFFにしても、これまたえいえいと余熱で沸とうしてるし・・・ではといって、隣になべをうつすと、むきだしの熱盤の熱くてこわいことといったら!! 毎日悪戦苦闘中です。
冷蔵庫は小さいのが一つ、冷凍庫なし、オーブン・グリルあり、また、全自動洗濯機も、流しの下にあります。粉石ケン、ためしてみましたが、情報どうりで、まったくダメでした。こちらの洗剤も、テレビ広告で「子供がサッカーでよごした服に母親がため息をつく、新製品登場、新品(同様)になる、母親が子供にキスして、子供が試合に勝つ」という、くだらないパターンを見せてくれます。ただ違うのは、60度以上で、30分以上も洗わなければならず、すすぎにもまた、30分かかること、フランスには全自動洗濯機しかないのですが、(少なくてもデパートで二そう式などみたことない)、どれも加熱器つきで、化繊のための最低めもりが30度、最高90度、最短で、全行程40分くらいです。水でよくて、すすぎが4分、はやっぱりどこかおかしい・・・と、班会議(保谷の秦家近隣で生協の斑ができており、妻達はよく会議していた。)で発言しましょう!!
トイレは・・・幸い風呂とは独立にあり、我家で唯一のまともな四角形の空間であることも含め、じつに平凡なトイレです。
寝室でおもしろいのは、ベッドの頭のところに、天井まである飾り板があって、そこにマネのサインのある、しかしどちらかというと・・・ム、名前がでない、ともかく、かなり甘い、森に貴婦人が二人くつろいでいて、青年が一人、その一人をかきくどいている、というような絵があることで・・・笑ってしまいました。
風呂場は、南向きの天窓のおかげで、我家一、明るい空間です。もちろん、まっ白、ただバスタブのわきの壁には、「つたのからまるアーチ」が、わりとあっさりしたタッチに、レリーフタイルでうきあがっています。そのツタの緑が、なかなか清々しくてよいです。
ただ、このとても気持ちのよい風呂場にも、また「電気」の愚痴がありまして、こちらの温水器(我家の)の容量が足らない。三人入れないのです・・・もっとも、強力なる温風器つきなので、部屋をあっためて、シャワーですます、という手で、しのいでいますが、大きなバスタブに、手足をのばして・・・というわけにはゆかないのでした。洗面台の正面には、3つの棚があって、鏡の扉がついており、左右の扉をあけると、三面鏡になります。
さて、我家では、どこに洗濯物を乾かすのでしょうか?
以上、なれるまで、じつに、本当にめまいがした、という、我家の構造についてお伝えしました。(今でも、ものを捜したりして、ぐるぐる三周したり、遠まわりしたりしてしまう家です)。
次回は、外出編(買物・公園etc)をおとどけします。
やす香語録
★ボンジュ(もちろんボンジュール) アヴァ(オーヴォア)
この二つは教えないのに、公園などでおぼえた
★パタパタ(パカパカ・・・馬)ポリスが乗っていたりするので実物を見て覚えた。
公園の彫刻、絵本でも識別する
★フーン(質問に対する答えに納得(?)した様子)
★マオユー(?) 暗い時
★アーリー 虫一般
★イタイ? ニガイ? さわってはいけない 食べてはいけないものについて
⑩ 1988/06/01 絵はがき 秦様 皆様 パリ 朝日子
おむつカバーを送って下さい
湖の本、写真(やす香はちゃんと識別したようです)、どうもありがとう(まだ読んでないけど)申し訳ないけどお願いがあります。おむつカバーが全部ダメになりました。もうはずれるかと一ヶ月紙おむつでがんばったら、家計の一割をもっていかれた上、「ちっこ」といわなくなりました。こちらは紙おむつ主流で、おむつカバーはビニールの三角巾しかありません。化繊でよいので、二枚至急送って下さい。とても大きくなったので、24ケ月用(13Kgぐらいある)。もし、出かける元気があったら、あのオルゴールもあるとうれしいのですけど、それはどうでもよいです。つまんない用ですみません。週に二回、やす香をつれて、カソリックの日本会でフランス語をならっています。
今回はめずらしく行ったことのある場所の絵はがきです。写っている木の切り株にやす香が小石をいくつかずつのせてあるいたノートルダム寺院
○ 1988/06/08 POSTAL PARCEL 外国小包郵便物受領証
幼児の衣類 保谷市 秦迪子 から パリ 朝日子宛
⑪ 1988/06/14 絵はがき 秦様 皆様 パリ 朝日子
小包の礼
今日、おむつカバー他たくさん、とどきました。どうもありがとう。上等なので恐縮です。ワンピースは大層かわいいですね。やす香は、脱ぎ着を自分でしたがるようになり、ワンピースもさっそく着てみて、姿見の前で、あっちむいたり、こっちむいたり、そういうしぐさは、まったくはるひちゃんそっくりで笑ってしまいました。写真をとりましたから、できたら送ります。華岳(=父の出版物『墨牡丹』)読了。後半は・・・ちゃんと泣けましたけど・・・でも、論文・評論・伝記調が、やはり前半の「小説」に比し強いかな、という気がしました。6/14
インスタントルーを使わないカレーの作り方を送ってください。
セーヌ河岸の古本市、古美術品で掘出物があると先生方は口をそろえるけど、みつける目がないし
⑫ 1988/06/28 (テルトル広場)絵はがき 秦様 皆様 パリ 近況
”うさぎのオルゴール”は大変役立っていますが、その後、お便りないのは、はりきって西武へなぞでかけたせいではないかと、心配しています。うっとうしい気候とは思いますが、皆さんお元気ですか。
今、テレビで、キャグニー&レイシーをやっていますが、会話がわからないと筋もわからないたちのドラマなので、ちょっとお手あげです。
- さんは、無事学年末の試験に合格し、”博士論文提出資格者”というものになりました。130人の登録者の中で、合格したのは30人余りだそうです。
やす香は、単語はふえましたが、あいかわらず、一語文のみです。ただ私がひととフランス語で話したり、また、ひとがやす香にフランス語で話しかけたりすると、それが”違う”言葉だということに、ひどく関心がでてきました。
○ 1988/06.27 朝日子 パリよりTEL
⑬ 1988/07/01 封書 秦様 皆様 パリ 朝日子
神戸先生(秦家歯科主治医・東京沼袋)にかかりたい。
6/30 いろいろ大変そうですが、(=この頃、老父長治郎入退院・通院繰り返す。)その後、いかがですか。
私は先日、オーランジェリー美術館へ行きました。これは、個人のコレクションを死後に寄贈して創られた、ごく小規模の施設ですが、ピカソ、マチス、セザンヌ、ルノワール他が、それぞれ四、五点から十作くらいあり、わざわざ集めた展覧会に匹敵する見ごたえでした。しかも来館者はごく少なく、やす香もひとりで、ごく気嫌よく、絵をみたり、歩きまわったり、いすに安んだりしていました。しかしなんといっても圧巻は、”モネの水蓮”で、・・・ここにあるとは知らなかったのですが、・・・サロン2つが、その専用にあてられ、中央におかれたソファーにかけると、水蓮の池に沈んでいるような気分になります。印刷物でみると、何の絵だかわかりかねる大作で、本物も、・・・やっぱりわかりにくいといえばそうですが、印刷でみている時のような不満はすっかりないので、おどろきます。日が照ったりかげったり。雨が降ったりします。とても心が安まる空間でした。
ところで、大変急なのですが、7/6から28まで、●さんが一時帰国します。実は書きませんでしたけれど、ひどい虫歯のための頭痛で、試験もはうようにして受けていたのですが、こちらの歯医者というのがどうしようもなくて・・・実際、こちらへ来てからの最大のカルチャーショックはこの歯医者だというくらいなものです。
そこで神戸先生(=わが家の久しい歯科主治医)にお便りしましたら、集中治療をして下さるということで、帰ってもらうことにしました。●さんは、私も帰るか、と言ってくれていて、やす香をみんなにみせたいという気もするのですが、
1,このシーズンで直行便がとれない(20時間以上かかる)
2,時計をみて自己暗示できない赤ん坊の時差調整は、一週間くらいかかるので、短期日の往復はむずかしい。
3,こちらの気候がとてもよい、また、生活にもリズムができている
などを考えて、のこることにしました。主治医の先生は日本語がペラペラですし、日、英、仏のどれかで話の通じる友人もたくさんできましたし、 Villa Brune を出たところに救急病院(2分でつく)もありますし、日常生活では、日本にいる以上の不安は感じません。
ということで、あまり心配して、高さんにぐちっぽいことをいったりしないでください。大丈夫です。それよりは、食欲なく、眠れず、体力もおちている高さんの方を、気づかっていただけるとうれしいです。だいいち、ここにいる限り、私はどうどうと、一家の主婦ですし・・・そういう点でも”こっちにいたい”というあたりもご了解下さい。
夕食の支度の軽くなるこの20日間で、何をしようかしらん、と、考えています。ともかく、毎日曜は、未踏の宝島ルーブルに挑戦の予定です。火、木はフランス語のレッスンがあるし、ギメ美術館の”日本の南蛮美術”などという展観は、やっぱり行かないといけないかなアなんておもったりもします。この三ケ月を、そろそろまとめて、一誌創るか・・・とかね。
神戸さんまでゆくのだから、保谷へも顔をみせるということなので、こちらの暮らしぶりなど、(歯医者のひどさも含めて!)、●さんから、じかに聞いて下さい。
朝日子
追、借りれるかもしれない、ということだったお隣の件(=意味不明。隣家柴田家の買収はこの年二月二十四日決済、二十六日には京都新門前を引き払い、両親と叔母は保谷の秦家に入居している。)は、どうなりましたか、思いきって、買った! などということはあんまりないだろうなア、などと考えていますが。
⑭ 1988/07/08 封書 秦様 皆様 パリ 朝日子
近況・小包の礼
その後おかわりありませんか。
こちらは、順調に日々をすごしています。
やす香が添寝なしで寝てくれるようになって、自分の時間が飛躍的にふえました。やす香の単語もふえましたが、二語文にはいっこうになりません。(例外、もういい、と、もうない)あいかわらず非名刺が多いのが特徴です。(まだ、もっと、どんどん)”いたい”を覚えて、むやみと使うので心配ばかりさせられます。但し”肩がいたい”と言うと、たたいたりもんだりしてくれます。また、日本語とフランス語、日本人とフランス人が”違う”ということに気づいて今、ちょっとしたフランス嫌いになっています。ともかくフランスの子供は無闇とやす香に親切で、それがかえって負担になっているようです。まあ、じきになれるでしょう。その反動で、8才になる”あさ子”ちゃんという、フランス生まれの子にべったりとなついています。お父さんが画家、お母さんが宝石商だということで、日本語は幼稚園程度ですが、フランス語はペラペラ・・・但し、私たちには必ず日本語で話しかけてきます。
写真は、ブーローニュの森と、リュクサンブール公園です。
追 あっと驚く本が届きました。なつかしー、西(=保谷の秦の西棟)の荷物にあったんですか。
⑮ 1988/07/27 絵はがき 秦様 皆様 パリ 朝日子
誕生日の感慨
28才の誕生日は快晴、●の帰宅前に中華街へ買出にいきました。バスで10分位、店の近くの公園で少し遊んだのですが、黒い髪の子供ばかりの空間というのは、実に久しぶりよいうか、もうはや少し異様に感じるようになっているのがおかしいです。まあ誕生日といっても他に変化もなく、腸捻転の時(=中華蕎麦を食べ損じて吉祥寺の病院に緊急に運ばれ、医療事故もあり退院また入院。父は連日自転車で保谷から見舞ってやり、泣きミソの朝日子は父の手をつかんで帰したがらなかった。友達に見舞われても泣いた。)ほどではないにしてもさえない日だなアと思ったら、あれは18才の誕生日(=1978)でした。なんともう10年たったんですねえ。まだどことなく”学生”を一番身近な肩書に感じている私としては、えらいショック、もう30才が見えたというところです。(1988.7.27)
写真のサンジェルマンデプレ教会は、パリで一番古い教会ですが、我家の近くにも、ほぼ同じ様式でもっと古風な(手の入ってない)教会があり、とても好きな空間です。
⑯ 1988/08/13 絵はがき 秦様 皆様 パリ 近況 朝日子
(モンマルトルのサクレ・クール寺院)
パリの街にはよくこういう回転木馬がひょこっとあります。こんな豪華なものも、もっとずっとソマツで、中古の三輪車や自転車をとめただけのようなものと・・・先日は、チュイルリーに来ていた移動遊園地で、大観覧車にのりました。まったくそういうものが嫌いだということを忘れて乗ったおで、動き出したトタン、ひどく後悔しました。生きたここちなくやす香を抱きしめて一周・・・ところが止まらない・・・二周・三周、ようやくパリの街並の美しさが目に入るようになったら、五周で、こんどはテッペンで止まってしまった! 結局十周、しかし、やっぱりみごとな街です。
⑰ 1988/09/02 封書 秦様 皆様 パリ 朝日子
雑用依頼・送金方法のことなど
- さんは、帰国(?)後、連日新聞のバイトに励んでいましたが、螢友会の岸さんと異なり、こちらの経営者はまったく”勉強のかたわら”という配慮をしてくれないので、(払いも悪いし)新学期を控え、撤退することにしました。もちろん仕事の質は”塾の先生”よりいいのですが、どちらにせよ、本末をとりちがえては、もともこもというところです。授業が本格化する前に、”一冊書く”とはりきっています。
私は・・・まあ、あいかわらずです。展覧会は今のところ夏枯れで、カソリック会なども休みですから、バスをのりまわして、観光を楽しんでいるといったところです。9月から、もう一つ、日本人会のフランス語をうけようかなアとか考えています。ともかく外見上”話せない”というのは、まるで中身までバカになったような不愉快を感じるものですよ!!
”半値!!”というバカンスのバーゲンが下火になり、ショーウインドウの飾りつけが、すっかり秋の色になりました。まだ彼岸前だ!と半そでで出歩いたりすると、ハーフコートや冬のセーターをまとった人とすれちがったりして、、たしかに空気はすっかりつめたくなってしまいました。
長い梅雨の後は猛暑とききますが、お元気ですか。
やす香は、一連の予防接種もすみ、ちょっと早めの二歳検診も無事(84cm12kg)、すこぶるつきの元気であります。ことばも、あいかわらずの単語文ながら、だいぶふえました・・・というか、童謡などは一曲の8割方の単語を、20曲分くらい覚えています。例えば、や”ぞーさん”と言うので あ”ぞーさん”というと、や”はーな”あ”ながいのね”や”そーよかーたん”あ”も、ながいのよ”・・・といった具合で、これにはおどろきました。ひどく残念なのは、”おむつ”であります。
ところで、日本でうけていた、リンガフォンの通信講座をつづけるために、費用を追加しなくてはならないのですが、”小額の日本の切手で”ということなので、お手数ですが、40円を1枚 60円を35枚、を封筒の中の” MEMO”にはさんで、リンガフォン宛送って下さい、お願いします。
また、銀行口座については、やはり私の名義ではつくれず、また●さん名義の東京銀行は送金するのも受けるのも、ともかくいちいち高くつくところなので、もし何かありましたら、郵便局の局留めという方法があるそうです。その場合は、
局名 Bureau de Poste (Paris 14 Bachelard)
住所 105. Bd. Brune 75014 Paris です。
詳しくは日本の郵便局できいてみて下さい。また 郵便小為替というのもあったように思います。
同封の写真は・・・もっとかわいいのを送るつもりが、写真屋が一枚ずつとなりを焼いてきたので、多少ピントがあまいですが・・・
送っていただいた服をきています。所はブーローニュの森です。
こちらの写真屋は、2枚ずつ焼いたり、ハーフはやらないといったり、まちがってきたり、ともかく むさしの写真(=秦家の近くの写真屋)がなつかしい。原則的には現像だけして、帰ってから焼くつもりです。一枚が高いしね!
こちらでやすいのは、やっぱりくつとバッグです。やす香がすぐかばんをあけてこまるので、しっかり閉まってあけられないようなのを一つ買いました。くつも一足・・・誕生日用です、ハイ
では、みなさん お元気で。
建日子君 気をつけて
私は、こっちでとろーかな(=不明。運転免許か)と思っています。 8/31 朝日子
⑱ 1988/09/29 絵はがき 秦恒平様 パリ 朝日子
シシリーの本(秦・朝刊連載「親指のマリア」参照)を送る・送料の事など
どの程度お役に立つかわかりませんが、シシリーの本を二冊別送します。もちろん両方とも仏語ですので、ごく簡単に・・・というのは私にできる程に・・・メモを付してあります。また、少し長めの訳出は、二、三日おくれますが、これも送ります。ローマのものは、日本でもかなり手に入るのではないですか。観光ガイドの類もけっこう馬鹿にできないものがありますよ。先日、二泊三日で仏西部を旅行しました。この城と、モンサンミッシェルという、(江ノ島か宮島の、ずっと大きいの)を見ました。・・・つまり海の中に教会がある・・・
本代送料1000フラン(22000円位)Bnnk of Tokyo Paris Branch 69064-C-02540 名義 Asahiko Osimura
P.S もしよい訳者がみつからないときはコピーを返送してください。●さんがみてくれます。
⑲ 1988/10/17 絵はがき 秦様 皆様 パリ 近況 朝日子
先日送った写真について、こちらの意図が伝わっていないようなのでお便りします。
やす香が小さくしか写っていないのがご不満のようですが、あれは、やす香ではなく、モンサンミッシェルをみせるために入れたのです。あれは「城」ではなく、全体が「教会・僧院」です。そもそもは遠浅の海の中の岩山で、難船の多い所だったに違いなく、流刑のためのろうや・・・ガンクツ王のいたような・・・時代もあったようですが(遠目には今も悪魔の島みたいでもある)、それをすっかり神の家に創り上げてしまう力というのは、どこから来るのかなアと、あの巨大な教会の前で思ったのです・・・ほんとうに、はるかかなたからでも、海の中のシンキロウのように、あの山はうかびあがってみえ、この夏最も人を集めた観光地でもあります。そうでなくても、フランスのいたるところにある教会は、京都市内の寺をしのぐほどで、カソリックのエネルギー底力というものは、日本で考えるのとは、ぜんぜん違っていますよ。(ところでシドッチはほんとに神父ですか。修道士(兄弟)と神父ではずいぶん違いますが)
⑳ 1988/10/18 封書 秦建日子様 パリ 朝日子
パリへいらっしゃい
元気ですか。家のこといろいろ大変そうだけれど、頑張って下さい。
ところで、天皇の一件は、どう見ているのですか。最初の危篤報の時はこちらでの各ニュース・新聞がこまめにとりあげたので情報量も多かったけれど、さすがに一週間くらいで、すっかり忘れ去られてしまいました。日本の異様な雰囲気(だろうと思う)を見物できないのはいささか残念ですが、でも大旨のところは、たすかった、と思っています。
こちらの論調は、明らかに”戦争責任者”ですが、日本では美化の傾向が出てるのじゃないかと、心配しています。
オリンピックをTVでみましたが、数少ない”君が代・日の丸”のシーンにはついにお目にかかりませんでした。
・・・で、この二つのことから、近ごろ思いついて、時々我家の話題になっているのが、”国旗・国家(歌?)自主制作運動”であります。政治運動ではなくて、[小学生の部、中学生の部、青年の部、成人の部]・・・という例のお習字コンテストのようなものを企画して・・・まア、まず、国旗、国歌に現状、法的根拠がないんだから、この際、新しく考えようじゃないか、というくらいの投書からはじめて、”僕の手で創ろう僕の国の旗”とか、”高らかに歌え、私たちの国歌”なんていうコピーのコンテストをするとか、もし、文部省や教育委員会通達に反対している学校」とか、”日の丸きらい”の一般人が祝祭日に掲ヨウしてくれるようなモノができればスゴイじゃない。
まあ、これをやってこわいのは右ヨクの襲撃と、自民党の日の丸・君が代法制化かな。
ともかく、天皇の死によって、反、君が代日の丸の運動がへんに鈍るというか、一種の”みそぎ”効果で、新天皇の格が上昇したりするのは、いやだなアと思うわけですよ。
”オピニオンリーダーになるんだ”といっていた、たのもしい弟に、この企画ゆずるから・・・私には実行の手だてがないからねエ。ただし、思想の科学を使っちゃダメですよ。ともかく、非政治的(反じゃないよ)にやってほしいなアと思います。早稲田という地盤は、けっこう、使えると、外から見てて思うけれど、ダメでしょうか?
フランス人が、三色旗や、ラ・マルセイエイズに抱く親和的、そして誇り高き雰囲気は、やっぱりうらやましい。もっとも、マリー・アントワネットの映画など見ていると、それが、どのくらい血ぬられた歴史をもっているか、ということは思うけれどね。何も日の丸と君が代だけが血の呪いの中にあるわけではないから、だから、日の丸や君が代を、表立って攻撃するのは無用なる闘争心かもしれない。無視してかかったら、どうかしらんね。
・・・なんて、”忙しい大学生”にこんな話をするのは、”ひまなおばさん”と思われたでしょうか? ま、頑張って下さい。本気で期待しています。 あ、それと、パリへ遊びにいらっしゃい。3年生のうちに。 ではまた 朝日子
21 1988/10/31 絵はがき 秦様 皆様 パリ 近況 朝日子
リクエストされた手紙というのは、なかなか書きにくいものです・・・。
また小旅行してきました。ふらんす西北海岸、イギリスの対岸にあたる部分です。バカンスのための別荘や、別荘ホテルの多い所で、10月の旅行時には半ばゴースト・タウンという趣きのところもありましたが、同時に商店街などの造りが優雅にぜいたくっぽくなっているのが、それらしい雰囲気で楽しめました。こちらには12才以下の子供「ただ」というホテルチェーンがあって、ツインの部屋に無料でエクストラベッドを入れてくれます。ほとんどどんな街にもあるというすぐれもので、2回の旅行4泊の内3泊もお世話になりました。こちらのホテルは大層安い。ツインで6から7000円くらいです。
3人様(=老祖父母・叔母のこと)、おそろいで4つめの元号(=明治・大正・昭和・平成)をお楽しみ下さいますようお祈り申し上げます。
22 1988/11/03 絵はがき 秦様 皆様 パリ 近況
その後いかがですか。もしや毎回タクシーで(=老人の通院)通っているのですか。建日子君を使いましょう! 車をお買いなさい、ぜひ!!(湖の本の営業用とかいうことで・・・) ●さんもおばあさんの入院時に、とりたての免許で八王子へ通ったそうです。もちろん父上の時も必需品でした。免許なんて、持っているだけではくずですし、友だちと乗りまわしたりするより”仕事”で腕をならす方が安全というものです。おすすめします。 朝日子
23 1988/11/23 封書 秦様 皆様 パリ 近況
その後、いかがですか。建日子君には手紙がとどいたでしょうか。ともかく、郵便局のストにはお手上げです。それでも今年は電気や水がとまらないだけマシなそうです。
私が台所に立っている間に黙々とつみあげたやす香の作品をごらん下さい。背景がよくないので写真としてのデキはまた不評でしょうが、なにせたおれる前に、ということですので・・・ あのいいかげんなカットのつみきを、今ではだいたい10段らくにつみます。写真は一ヶ月以上前のもので、新記録だったので映してやったら、以来何かというと”シャーシントッテエ”とやって来ます。なかなかおもしろいものをいろいろ創ります。文字は”か”だけおぼえました。”カータン、カータンのか”といいます。
絵の方は、「みかん」や「りんご」のを皿にのせてフォークでつついたり、おもちゃのフライパンに「たまご」をいれたりしてあそんでおります。
小さい丸をたくさん(紙一面ぎっしり)とか、長い平行線とか、そのくみあわせで、円の中に線がはいらず、しかも一方行にだけ(平行線が)出る、そう決まっているようです、とかいろいろ書きます。
ベビーカーの安全ベルトもはずせて、買物の途中でおりて逃げだしたりするので、たまりません。ぼたんは自分でとめたりはずしたりしないと気がすみません。まあそうじて器用だと思います。
言葉も、同じことを一日中言いつづける感じで身につけていきます。私のフランス語を、もうすぐ抜くのではないかと思うくらいです。きのうは、朝、きたばかりの服をトイレでよごして、こっちが何か言うまえに”せっかく洗ったアに”と叫ぶので笑ってしまいました。そうしたら、手を洗ったあとボールペンでよごれたり、その他、ことあるごとに、一日中”せっかくあらったア!”をくりかえしていました。
こっちのいったことを、全部否定形に直せるようになり、もーれつな反抗期です。
それにしても、おむつはとれません。
海の写真は前の葉書にかいた旅行のもので、右はしに写っている白い船はイギリスのポーツマスに行くフェリーです。やす香は近ごろB&Bの洋七だか洋八だか、あの丸くて小さい”もみじまんじゅう”に似ているのですが、この写真ではまさにそっくりなのでかなしくなります。どちらの写真も同じかっこなのはぐうぜんです。このセーターは”ジーヤンジーヤンセーター”といいます。
ではまた
24 1988/12/09 封書 秦様 皆様 パリ 近況 朝日子
ぞおーさん ぞおーさん
おーはな が ないーよ
そーよ かーたん
もう なーかないよ
さいたあ さいたあ
ちーぶっち はなが
ならんだ なーらんだ
あかし きろい
ちょおちょ ちょおちょ
なのはに とらめ
ひゃくねん ちくたくちくたく
おじーさん ちくたくちくたく
いまは もー おーかない
とーけーい (庚午氏の唄=祖母迪子の兄・保富康午の訳詞)
さっちゃんはね はーながすき
ほんとーよ
だけど ちっちゃい ばーな はんぶんしか ないよ
かわいそうね さっちゃん
おむかいの ゆう子ちゃんとくらべて いかがでしょうか。せんりつは まあ高低が多少あるという程度ですが、リズムはかなりしっかりしていますし、それぞれちゃんと個性を維持しています。
かいちゅう電灯をマイクに、次々と唄うのを得意としています。
他に、まったく創作のながいながい唄もあります。
テレビで見てフランス語や英語の唄も、好きなものを識別します。
父上の手紙は、ほぼ一ヶ月がかりで落手、つずいて母上の手紙を受け取りました。まったくカルチャーショックを感じるストライキです。
いろいろな方の消息ありがたく、ところで松子様(=朝日子の可愛がって頂いた谷崎先生夫人)はいかがでしょうか?
隣のアパルトマンに、一人暮しのおばあさんがいて、背の高い、やせた、ちょっと”西”(=祖母秦たか)に似た人ですが、やす香がとてもなつきまして・・・近所ではどうもぼけているとか、へんくつだとか、敬遠されている節のある様子ですが、私たち母子には今やもっとも親しいフランス人となりました。あれで進むからふしぎだ、というテンポで毎日散歩する、その姿をみつけると、やす香は”あ、マンマンブーだ(マダムだ)”といって走っていって、他の誰ともしないのにフランス式握手のあいさつをし、別れぎわには、オーボワ モンシェリー アビアント(さようなら 愛する親しい人よ またね)と言います。
モンシェリーも、おばあさんがやす香をそう呼ぶのをまねたので、他に人にはつかいません。
おばあさん、大層よろこんで、私の手をにぎって、
”この子にあうのが、一日中の楽しみだ”
”この子はアン・アムール(ひとつに愛=天使)だ”とくりかえします。
- さんは”ちょっとやめたらいいのに”というくらいの勉強ぶりで、そういう時のつねで生活時間帯がまったくずれていますから、まあ、つまらないといえばつまらないんですが、しかしやっぱり よいものだなア と思います。
その分、というか私は可もなく不可もなく、細々とフランス語をやっいる、という毎日です。
しいて言うなら 無心(放心でなくて)という状態で、しんとしている訓練はそーとうできてきたように思います。あんまり あれこれ考えたりせず、2時間ぐらい公園にいたりするわけですから。
25 1988/12/16 封書 秦様 皆様 パリ
両親の婚約記念日・父秦恒平誕生日お祝い・X’mas・やす香の絵
父上、母上 婚約記念日おめでとう
父上、 お誕生日おめでとう
皆さん めりーくりすます
皆さん あけましておめでとう・・・ちょいと早いか・・・
なんだか、”祝い酒”という演歌が放送自シュク(=昭和天皇不予)になったそうですけれど、そうすると、年賀状などというものも、自シュクですか。
母上より、ありがたいお小遣い、父上より、ありがたい自筆信を続けて頂戴いたしました。 ありがとう。 また、父上の谷崎論は、”なつかしく”拝読いたしました。内容について申せば、まあ私にとっては(読み筋は)あたりまえ、ということですが、なにゆえ、いつもこう、ケンカ腰かしらんと、それもなつかしく、読みました。論文ならともかくも、あれ、一般誌に出したのとちがいますか。谷崎・佐藤の一件、松子夫人のことはまあともかくとしても、”千葉”、だの”何某”、だのの研究については知らない人の方が多いはずでしょう。”自害”の論証に重点をおいて、もっともっと具体的引用をふやし、”佐助犯人説”はかるくいなした方が・・・学者の名前なぞくりかえし”叫ば”ない方が、品がよいというものだと思います。あれでは”自害”説のかげがうすれます。とても残念です。まあ”こごとこーへい”らしいといえば、それまでですが。
それから、引用について、どうも谷崎自身の(又は作中の)言葉か、諸氏の説か判読しがたいところがありましたので、せめて谷崎の分だけは、二重カッコにするとか何か、明示した方がよいと思います。 以上。
ところで、シシリー取材の件、maman同伴という線はないですか、せっかくなのに。
やす香は、唄のレパートリーが、すごいいきおいでふえていますが、もう、きりがないので書かないことにします。
12月10日に(めでたい日だこと=両親の婚約の日)、とつぜん三輪車の操縦を体得いたしまして、今は夢中です。
母上のご援助により、クリスマス、正月をかね、久方ぶりの寿司をたべようとか、しゃぶしゃぶにしようとか、計画中であります。・・・フランス料理の店はやす香を入れてくれないので・・・もっとも、日本料理もたべたいですが、私の正直なところでは、実はドーナツがたべたい! ダンキンドーナツとか、ミスタードーナツとか・・・フランスにはないよ!! ドーナツというものが、そもそも。
フランス人って、歩きながら食べるということをナーントモ思っていない国民で、子供若者はおろか、昼どき、おやつ時には、しっかりおしゃれしたおばさんとか、きちんとしたおじさんとか、おじいさん、おばあさんも、サンドイッチ(バケットかクロワッサンに何かはさんである)ハンバーガー(マクドナルドはたくさんある)クレープなんかをむしゃむしゃかぶりながら歩いている。
日本のおむすびやアメリカのドーナツもこの市場に参入すればよいのにと思いますがねえ。 建日子君”おむすびやさん”というのはいかがでしょう、日本じゃもはやめずらしくないけど、パリではうけるんではないかしら・・・
ところで、建日子君は 以来 お元気ですか。
こちらは、日の出が8時半、日の入りが、4時50分という短日生活です。
おじいさん、おばあさん、おーおばさんに よろしく。
(別便の年寄りにプレゼントに添えて)
メリークリスマス
数字をたしかめに
一組あけました。
二つあるので、
病院にも一つ届けてあげて下さいませ
皆々様のコミュニケーションのために、
京都といえば思い出す、
トランプを選びました。 A
1989年・昭和六十四年分 (18通)
① 1989/01/11 封書 秦様 皆様 パリ
クリスマス・プレゼント(お金)の礼
Meillers Voeux (平成元年が穂り豊かでありますように)
・クリスマス基金で、しゃぶしゃぶと寿司を楽しみ、サーカスを家族で見にゆき、(やす香もなかなかのって楽しんでいました)。髪を出発の時と同じところまで切り、やす香におもちゃと服を買い、・・・十分十分、豪華なクリスマスと正月の料理も用意させていただきました。・・・どうもありがとう。で、残りで年末の週刊朝日とフォーカスと、加賀氏の”フランドルの冬”を買いました。フランドルは一度車で走ったことがあるので、そういう面からも、大いに興味深く、処女作でこれだからなア・・・と嘆息もさせられました。その上、自分がいかに読書に飢えていたかもつくづく思い知って、何度目かの文庫の”桃李記”を読んでいて、突然どうして今まで、自分の指標に井上(=靖)さんをおかなかったかと、あぜんの思いで気付きました。だいたい、同じものをめったに二度読まない私が、桃李記に限って、もう、五回は読んでいるし、”天平の甍”にしたところで、なんと一晩で読み通していながら、”好きな作家”がずっと、高橋(=たか子)・加賀(=乙彦)・又は夏目(=漱石)で動かなかったというのは、片手落ちというものでした。幸い、カソリック会の蔵書に”蒼き狼”があったので、借りて読みはじめました。ところで、学燈のマテオリッチ論は89年再開の予告があったのですが、始まりましたか? 軽音楽嫌の●さんを横目にフランスの軽音楽をあびるように楽しみ、画廊めぐりで、けっこう、”軽絵画”も楽しめる自分が、こと、文学だけは、重厚長大一途であることに、近ごろようやく”意味”をみとめるようになりまして、やっぱり”美術館”はちょっとより道だったなアというのが正直なところです。
・”天皇”の一件は、おちつきましたでしょうか。こちらで見ていて、この視野は私にとって十分、有効だったと信じます。”日の出る国の太陽神天照の124代の子孫である生きている神”などという記述にも出会えば、かつて日本では見ることのなかった、南京ギャク殺のフィルムが、NHK7時のニュースに相当する番組でばっちり流れ(・・・おそろしいショックだった!!)天皇と戦争はまったく一つでありながら、また、彼が戦争をおわらせ、その復興を支えた”偉大な君主”であるという評価にも、ずいぶん考えさせられました。天皇の神性などまやかしだし、天皇制も方便で、好きではありませんけれど、この国のミッテランを見、また、日本から出てゴルバチョフやレーガンを眺め、ミッテランと握手するチャールズ王子を見・・・もし、天皇制をやめた時、だれが日本のミッテランになるのか、そう考えたらぞっとします。まったくのところ、権力と権威をまったく分割してしまった天皇制は、一つの奇蹟というほど、日本の風土と、必要悪である政治とに、むいているというのが、今の感想です。また、至るところに血のにおいのする革命が二百年目の”栄光”を受けようとしている時、日本の”戦争”の思い出について考えるのも、これもなかなか複雑な作業です。比較的平穏な歴史をもつ日本に較べたら、やはりこちらでは、”殺した”過去より、”生きて行く”現実の方に、重きを置く構造が、はっきりできているようです。そしてだからこそ、正直に”ナチ”をあばけるのであって、日本のように後悔はしてみせるけど、正面から見すえない、という幼稚さとは程遠いものを感じます。天皇の戦争責任について、”学校でならわなかったからよくわからない” とコメントした女子大生の映像の流れたときは、まったくはずかしかった!!
追・・清水さん(=お茶の水女子高の頃の友人か。)にお祝いを買ったのですが、日本で課税されるかもしれないので保谷に送ります。転送して下さい。
② 1989/02/11 絵はがき 秦様 皆様 パリ 朝日子
父恒平へのお見舞い
父上も”病院通い”の由(=循環器)、いかがおすごしですか。当方では、カソリック会の60過ぎの神父様が狭心症で、2,3日中に手術、その後転地、ということで・・・彼はいわゆる外国宣教師で長く日本にいた人ですから、もっと話をききたかったけどなアと、いささか残念です。
日没4:30の冬至から、10時まで明るい夏にむけて、おどろくべき明快さで日が長くなっていく毎日を、心地よくすごしております。
③ 1989/02/11 絵はがき 秦建日子様 パリ 朝日子
用の依頼
早々と会社訪問などしているとか、元気ですか。ところでお願いがあります。FM東京で週日の夜中12時に放送の、”ジェット・ストリーム”という番組を、一回分、60分、前後の日航のコマーシャルもこみで、録音して送って下さい。カセットはケースをはずして、二重になっている日本の封筒に入れ、手紙を入れなければかなり安くてすむと思います。よろしく!!
④ 1989/02/22 封書 秦様 皆様 パリ 近況
元旦の記念撮映と、冬服フル装備のやす香を送ります。なんと大げさな、というのが、こちらの子供たちの冬服への私の感想ですが、たしかに寒い日は頭痛がするほどで、(・・・そんな日は数えるほどしか経験しなかったけれど)どの子もどの子もすっぽり帽子をかぶっているのは、まあしかたないことかもしれません。しかもたいがいは(絵)・・・こういう風に頭・耳そしてえりまきも兼ねるというスタイルですが、それはあまりにもやす香に似合わないのでやめました。オーバーも綿入れのもので、でもこいう”みんなといっしょ”を買うとよろこぶようになってきたのが、おかしいです。
⑤ 1989/03/06 絵はがき 秦様 皆様 パリ 朝日子
お茶を送って
手袋・ひな人形のカード、ありがとうございました。こちら、日がどんどん長くなり、暖くもなり、きもちのよい気候になってきました。その上、やす香を月・木の午后2回、保育所にあずけることになり、私の生活も、いささか軽快になりました。もっとも、エンジンを全部とめて、省エネ、滑空飛行というべき家計ですので、保育費は多少痛いですが、これでも紙おむつの出費がなくなれば、なんとかやっていけるでしょう。ところで、もしまたお手しきの折があれば、生協のせん茶の一番よいのを、3パックほどお送りいただけないでしょうか。酒・たばこのいらない●さんですが、どうも日本茶だけは欠かせず、学園からもだいぶ送ってもらっているのですが、・・・よろしくお願いします。
PS 建日子君に”お願いした件”はどうなっているかときいておいて下さいませ。
⑥ 1989/03/30 封書 秦様 皆様 パリ
朝日子の山一の預金のこと・30万円送って
なかなか充実した記念日(=両親の結婚記念日)だったご様子、あらためて、おめでとうございます。こちらは残念ながらご難つづきで・・・というと大げさですが、台所の壁のタイルがはがれ落ち、ついで洗濯機がこわれまして(来仏一年で、やっと洗濯機用粉石ケンを発見したところだった!!)・・・いずれも大家氏の問題ではありますが、実際にあたふたと人が出入し、工事するのは当方の台所なわけですから、おちおちお礼の手紙も書いておれず、遅くなってしまいました。ごめんなさい。ありがとう。まったくのところ、”ゴミを入れる大きな袋をください”だの、”足台がありますか”だの、”明日は9時に来ます”だの・・・まあその程度でこそあれ、なかなかひんぱんに声がかかるので、脳みそをいつもフランス語にしておかなければならず・・・もちろんいい練習になりましたけどね、その点やす香に至っては、”工事のおじちゃん”がくると、まず走っていって握手して、ひととうりあいさつをするし、帰りもちゃんとそれをくりかえすし、といったあんばいで、おそれいります。
保育園の件 ”まだ2才なのだから”とのことで、もちろん我家もその辺でまよったのですが、当地では、市役所にとどけさえすれば、2才から、混んでいる地区でも3才から、公立の幼稚園に入るというシステムですから、まあ、問題ないのではないかと思っています。しかも、幼稚園の場合は、エコール(学校)という名が示すとうり、日本同様、歌だのおゆうぎだのを”指導”されて行動することになりますから言葉の問題もありますけれど、やす香の行っている”ギャルドリー”は”看る”という意味ですから 2人の婦人が10人弱の子供の遊んでいるのを見ているだけ、又、読んで、唄って、といわれれば相手をする、というぐらいのことのようです。対象は6ヶ月から18ヶ月の年少と、それ以上の年長組の2つで、上記の幼稚園に何らかの理由で行ってない子をのぞけば・・・少なくとも体格的には・・・やす香は最も大きい子供になります。月・木の2日いっていますが、本人又は家族が風邪・・・とかいうとあずかってもらえないので、まだ5・6回しか行っていませんが、毎朝食事がすむと、”ヨーチエン行こうか”と言いだすぐらいですから、気に入っているのでしょう。自分でかばんにパンツの替えだのタオルだのをつめて、しょって歩きまわっていますから、”今日は行かない”というのもなかなか大変です。しかし、さすがにつかれるのか、帰ってくると、夕食まで寝ています。おむつは、3日うまく行って1日だだもり、というような具合ですが、寝るとき以外はあずしました。保育園へも、保母さんが。いい、といってくれたので、パンツを3枚も持っていって・・・全部ぬらして帰って来ました。
ところで 税金は無事帰って来ましたでしょうか。当方は、●さんがアルバイトをやめて以来 勉強はとても充実していますが、生活はいささか苦しくなってまいりました。本来高さんは就労禁止の身分なのですが、そこを内密にアルバイトを世話する・・・というか、例の新聞社では●さんの語学力+専門知識をほしがっていたわけですが、そこで働くのとひきかえに今の家を得た・・・といういきさつがありまして、・・・にもかかわらずアルバイトをやめたわけですから、実をいうと、この、やす香にとって大変よい環境の家は、・・・家賃が少し高いわけです。・・・私たちにとって・・・しかし、これを動くと、また滞在許可からやり直しで・・・というのも、大家氏が一種の保証人として機能していますのでね。・・・私ももちろん就労禁止の身分ですから・・・生活はきりつめるだけきりつめているのですがね。
その上、東京銀行という、この腹立たしいほど自国民を食いものにしている銀行は、そもそも口座を開くのにお金を取った!! 上、残高が一定額を割ると、そこから毎月罰金を引き落とす!! というシステムになっておりまして、実はどうしても6月中に、その額を割りこんでしまうわけです。学園(=町田市玉川学園の★★実家)からの送金が7月の頭なものですから・・・
・・・というようなわけで、件の税金と、お預けしてある山一証券の残高全額を、4月中に、送金していただきたいのです。ぜひお願いします。お忙しいと思いますので、山一の出金は建日子君にお願いするということで、念のため、委任状も同封しておきます。身分証ももって行って下さい。
山一の出金方法は”赤坂見附市店”(赤坂支店ではない)に電話で確認して下さい。(これは女性の声の方がよいとおもいます。)
いつ: 電話から4,5日後でないと出ないはずです。
どこ: 赤坂見附へ行くのがめんどうなら、どこか支店をきいて、指定して下さい。見附は駅のすぐ近くです。
項目: カードを使って機械ですみますが、そのボタンの項目がややこしいので、きいておいてください。
カードのコードは****です。
又は、税金+山一分として、30万円お送りいただければ、帰国時に私が出金してお返しします。いずれでも、けっこうです。
というようなわけで(両親の結婚=)30周年もようお祝い申し上げませんが、ジーヤンもバータンも忘れていないやす香に免じてお許し下さいますようお願い申し上げます。
いろいろお忙しい中、うっとうしいお便りをして申し訳けありません。
シドッチはその後いかがですか。読みたいとは思うのですが、(朝刊に連載中では=)”一冊”送っていただくという種類のものでもないので、帰るまでがまんしましょう。こちらでは、地下鉄で5つ目ほどのところに、フランシスコ・ザビエル教会という大きいのがあるのを見つけまして、もう少しフランス語の勉強がすすんだら、イエズス会関係の本でもみせてもらいに行こうかと思っています。・・・ま、たぶん夏休み中にでも・・・。
シャンゼリゼ通り近くに、画廊の集中している・・・まあ銀座のような所がありまして、そこに、祇園画廊、日動画廊、ギャルリーためなが、そして吉井画廊も店を構えています。あの時無理にも (=就職していたサントリー美術館に)つとめていれば・・・と、思い思い絵だけみて黙って帰ってくるのですが・・・ このあたりは右岸(セーヌの)の高級指向な街ですが、もう一ヶ所 左岸に これは実に前衛的な、そして小さな画廊の密集している地区があって、ここを歩くのを、私は楽しみにしています。
全体としては、実に楽しく暮らしているのだと、念のため書き添えておきます。近ごろは、高さんも暇な時は一緒に公園にいって、ベンチにならんで、やす香が遊ぶのを見ていたりします。幼稚園の効果か、またフランス人の子供たちと遊べるようになってきました。公園のベンチに夫婦ですわっているのが、ごく自然だ、というところが、パリのいいところだと思います。 ではまた。 朝日子
(他に 1989年3月28日 山一証券御中 の書類一枚)
⑦ 1989/04/24 絵はがき 秦様 パリ 近況 朝日子
おかげ様で無事一年が過ぎました。やす香の病気、などということがないおかげで、いいかげんきわまりない私のフランス語もたいした不自由には感じずにすみます。カソリック会の会話も今はすっかり個人授業で、テキストが一冊終わったこともあり、フリートークの練習になりました。やす香が保育園に行っている間は極力街歩きに精出しておりますが、近頃”物がたくさんある”という状態が以前にも増して苦手になり、美術館博物館とはいささか縁遠くなりました。最近気にいっているのはパリの西郊外、ムンクの住んでいた、サン・クールの街です。
⑧ 1989/06/22 封書 秦様 皆様 パリ 近況 朝日子
やす香の絵が沢山かかれた紙 が 同封
大変ごぶさたしてしまいましたが、お元気ですか。
今日6月21日 コメデイー・フランセーズでモリエールの”人間ぎらい”を見て来ました。カソリック会で知りあった女性が、日頃から”いろいろ見ろ”と忠告してくれるのに、私がいっこうに腰をあげないので、ついに業を煮やしてひっぱっていってくれたという次第で・・・ま、家のこともあるからマチネの”高校生のための演劇教室”みたいなところにまざって見たのですがね・・・一応、古典演劇としては最高峰の劇場ですので、出番の少ない外出着、父上に揃えていただきましたところの、帽子、アンサンブル、白いくつ、を身につけまして・・・あ、もちろん芝居も十二分に楽しみました。前もってしっかり日本語で読んで、筋の方はその記憶にたより、あとは各役者の細かなしぐさをしげしげ観察して、そういう見方も、けっこう楽しめるものですね。(家中でよく観に出かけた=)俳優座の芝居がなつかしくなり、それぞれの役を俳優座の誰それで・・・とか考えたりもしました。今日の演出では、主人公は中年、いささかヒステリックにすぎたけど、(俳優座の=)中野誠也!! とかがよいかな。私の読みではむしろもう少しニヒルに、仲代(=達也)あたりの雰囲気がほしかったですが・・・
実は六月のはじめに、こちらは●さんからの結婚記念プレゼントとしてパリ管弦楽団のコンサートにもいきまして・・・一人で・・・つまり●さんの”子守り付き”というわけです。もちろん今日もですけれど・・・なにせ、くだんの女性が、毎晩コンサートか芝居にゆく、というたぐいの人で、●さんがたまたまコンサートに行った日にそこで出会って”奥さんを芝居に誘いますから、お嬢さんをよろしく”なんて言ってしまうんですから、まけます。いずれにせよ、今日は、すこし、”パリしてる”雰囲気を楽しんでおります。
革命記念日(7/14)か、遅くも誕生日 を目標に、小冊子パリ便り を製作の予定でおります。
同封の絵は、むろんやす香の作品で、「顔」であります。輪カクの外についている○は耳、線は手とか足とか だそうです。時折 鼻と口が逆転したりしますが。
また写真の方は、身分証を作ったあまりです。
ではまた。 お元気で。
⑨ 1989/07/03 封書 秦迪子様 パリ 朝日子
雑用依頼
母上様 お元気ですか。 いろいろ大変でしょうが頑張って下さい。
* 同封の手紙は 私たちの先住者が大家氏に宛てたものなのですが、私たち宛のものと取り違えて開封した上、外の封筒は”ばーたんのおたんぎ(お手紙)” と思ったやす香の手にかかりまして・・・
もちろん大家氏に正直にいうのが筋なのですが、ヴァカンスで留守、発送人もヴァカンスで留守、という三重苦で・・・しかたないのでとりあえずもう一度日本から至急発送してもらいたいのです。(中身は無事でしたので)すみません。父上にいうといろいろ心配しそうなので・・・母上にお願い申します。発送人には8月末に会いますので、ちゃんとあやまっておきます。切手120円です。
* 薬局で”マイ・ルーラー”という薬を買って、私に送って下さい。大して急ぎませんが、薬屋さんが変な顔をしたら、”娘のだ”とおっしゃって下さい。(避妊薬ですから)
* 妙な手紙で申し訳ありません。”パリ便り”は半分くらい書きましたが、当方は、コピー代が高くて大変です。まあせいぜい20部くらいだけのつもりです。それができましたら、またお便りします。
⑩ 1989/07/01 絵はがき 秦様 皆様 パリ 朝日子
父上 作家生活20年おめでとう
作家生活20年、おめでとうございます。湖の本エッセイ(=創刊)頑張って下さい。私のフランス語も、やす香の幼稚園も、長い長い夏休みにはいり、さあどうしよう、と少し途方にくれます。何せ市街地はもう革命記念日まっしぐらで、お祭りムードも、その警備のための兵隊さんも、とてもヨチヨチした母子なんか受け付けてくれそうにないのです。で、公園かワープロと遊んでいる二人のために、折り紙を少したくさん、送って下さいませんでしょうか。
小さいクラリネットをパパに買ってもらって、やす香は音階が上手に吹けます。
⑪ 1989/07/25 封書 秦様 皆様 パリ 朝日子
お小遣いの礼
たくさんのお小遣い。他いろいろ。ありがとうございました。
社会党勝利の由、おめでとうございます。
コラソン・アキノを”最新の革命”のヒロインとして7月14日に招待したフランスは、当然中国の学生を”現在進行形の革命”と評価していますが、日本の今回の選挙も、”ミニ・革命”ともちあげております。政策というよりは、自民の自滅につけこんで、という気もしますが、何でもよいから”長つづき”してもらいたいものだと思います。
同窓 土井たか子様によろしく。
- さんは いよいよフランス語での”論文”執筆を開始、ワープロを持っていかれてしまって、私はあがったりですが、朝、彼の起きてくる前に少しずつ書いて、もう、あと一息、今月中・・・は無理か。
やす香はめちゃくちゃ器用で、同封の”やっこ”は自作です。ホント、もうこれに関していえば手順も覚えたようです。
ただし、言うことをきかない、うるさい、この辺が難点です。
ご近所に、早稲田法学部助教授”31才!”という家族がこしてきて、そこに4才の女の子がいます。いるんだかいないんだか、というくらい、大人の前では静かな子で、どうすると、ああなるかなアとながめております。くだんの助教授氏はなんと学院出身という、●さんとは”ふたご”みたいな方で、多少めげます。 (=★★★は早大教育学部助手を失職したまま無冠の留学中だった。)
近頃やす香が保谷や学園の写真を持ってきては、”日本のおうちに帰る”とうるさいので、こまります。どこをどうすると、かくも古い記憶が浮上するんでしょうか。しまいには”猫のおうち(=保谷の祖父母家にはネコとノコの母娘猫がいた。)に行く!”ですから、おどろきます。
同封の写真は5月ごろのもので、あつくるしいかっこうをしていますが、このところパリも連日30どC近く、あせかきのやす香には男の子みたいな頭をしてもらっております。
7月25日 朝日子
(目鼻のついたやっこさん二枚 と 手紙の裏にやす香の絵)
⑫ 1989/08/07 封書 秦恒平様・皆様 パリ
★★★ そろそろ帰国・援助の礼・今後もよろしくおつきあいを
日本ではいよいよ暑さも盛りでしょうか。皆様お変わりございませんか。盆と正月、オリンピックと万博が一緒に来たといった感じの仏革命200年祭も峠を越え、バカンスで藻抜けの殻のパリに静寂が戻ってきました。
お陰様でこの二年、無事にパリ生活を送ることができ、やす香もすこぶる元気でいてくれました。正直いって家族皆これ程元気で何もかもうまく運ぶとは思いませんでした。研究もまた予想以上の成果を収めたことから、滞在も一段落、成すべきは成した、という実感があります。そこでそろそろパリを引払おうかと考えている次第です。
実を申しますと昨年来就職の話も二、三出かかっており、この辺が時機かとも思い決心しました。
朝日子とも相談の上、朝日子とやす香は長く厳しいパリの冬を避け、滞在許可の一旦切れるこの秋に、私自身は当初の予定より半年早い来年早々帰国しようかと考えています。
帰国後はまた、何かとお世話になるかもしれませんが、よろしくお願い申し上ます。またこの二年間、色々と御援助下さったこと、改めて御礼申し上ます。また、皆様にお会いできるのを楽しみにしております。建日子君の就職、蔭ながら応援しています。 ★★★
秦様、皆様
⑬ 1989/08/08 封書 秦様 皆様 パリ 朝日子
100万円貸して
八月の声を聞いたら、一気に涼しくなりました。東京はこれからが夏、本番でしょうか。母上様、父上様ともに、体にこたえる季節 どうぞ、お大事に。
ところでパリでは、大目玉の記念祭もおわり、その陰で地味に行われていた学会等も、ようやく終了の相をみせてきました。
八月中に、夢よもう一度とばかりに、同じシャンゼリゼ通りでカーニバルがありますが、もうそれも、どこかさびしいくらい、秋のにおいです。
- さんも”二百年”に関しては主だった資料収集、学会出席等を終え、本業”モンテスキュー”については、論文の前半をすでに仏語で執筆、秋には教授に提出できるため、この後は、たとえ日本から後半を郵送するのであっても、かまわない状況になっています。
ということで、そぞろ秋風の中、帰ろうかなア という次第になり、私の滞在許可が切れることもあって、とりあえず私とやす香は九月中に、●さんも正月を目度に、引きあげることにしました。
実をいえば去年、二件も就職の話がありながら、一件は”日本にいない”ということで流れ、他方は、中づりのままとなっています。来年の四月から講義を持てる体勢にしないかぎり話がすすまず、パリにとどまって得るものを、天秤にかけたら名残りはつきねど、”帰国”が重いようです。
やす香のこともあって、花のパリ滞在も、比較的地味に過ごしてきましたし、洋服も日本から持参の品を着つぶす覚悟で使ってきました。帰国が決まったら小旅行をしよう、パリのモードも少し買おう、と楽しみにとってあった定期預金があるのですが、帰国が早まったせいで、これがまだ満期になりません。
もちろん航空券も、それで買う予定だったのです。
九月初旬に、このみお姉さん夫妻(=★★★の姉夫妻)がみえることもあり、みんなで旅行を、と思うのもままならない、というわけです。
・・・で・・・
申しわけありませんが、百万円、お貸しいただけないでしょうか。年内に、定期(私名義の)満期になりますので、必ずお返しします。彼岸頃の航空券は九月に入るとすぐに購入しなければなりませんので、できましたら、八月中にご送金いただきたいのです。
もし、無理というのであれば、至急ご連絡下さい。学園に連絡して解約の手続きをしなければなりませんので。
また、今回は高額ゆえ、お手数ですが三菱より、東京銀行宛にご送金下さい。郵便局では口座がないので、少しずつ引き出すわけにもいかず、このパリで、たった10分ほどとはいえ、現金をもって歩いたり、またそれを家に置いたりするのは、避けたいのです。
東京銀行には、私の名義の口座ができています。
BANK of TOKYO Paris Branch
No. 6906-c-02540
ll ここだけが アルファベットです
Asahiko ★★
帰国後は、学園に生活基盤を置きますが、前のように、いろいろお世話になると思います。やす香はもう、おやの様子をかぎつけて、”日本に帰ったらジーヤンがいるの”とか”日本に帰ったら・・・・があるの”とか、なまいきなことを、いいつのって、おおさわぎです。やっぱり、パリは少しさみしかったのかもしれません。
いつもいつもお願いばかりで申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。 ご連絡くださいますとう、お待ち申し上げます。 朝日子
(手作りの冊子)
『秦朝日子 回転体の詩 Ⅲ
スクワール・ジャン・ムーランに革命二百年の風が吹く』 に添えて
(=本人が「秦朝日子」と名乗っていることに注目!)
心の荷造りは 終わったな、というかんじです。
あと一ヶ月はあわただしく、過ぎてしまうでしょう。
(谷崎=)松子様、小林(=保治・秦の友人・仲人・早大教授)先生、野呂(=秦の友人、牧師・立教大学教授)先生、内田様(未亡人)(=元サントリー美術館での上司夫人)にもお送りしました。 朝
10部しかつくらなかったので創氏(=黒川。秦の甥)の分がありません。帰国したら作るつもりですけど、もし遊びに来たら、見せて下さい。
⑭ 1989/08/16 絵はがき 秦建日子様 パリ
パリにいらっしゃい・父上の「初恋」(=講談社刊)に誤植あり
JCB(=建日子の就職先)おめでとう!! 意外な選択ですが、つまりその分”自分で考えた”結果だろうと、安心しています。頑張って下さい。朝日新聞は残念でしたが、あの世界は、うっかりすると独善におちいって世界が見えているようで、実は自分の眼でみているのじゃなく”朝日の眼”に染まってしまったりするものです。むしろ”権力”と化したジャーナリズムよりは、今、日本で最も”国際化”の可能性のある経済界で頑張るっていうのはすてきなことだと思います。ところで、決まり祝いにパリというのはいかがですか。私はおそらく9月24日にこちらを発ちますので、それまでに、また、一緒に帰れたらそれもいいなアと思います。むろん大学の都合と相談の上12月までなら、●さんを訪ねる手もありますし・・・パリの宿泊と食費は出します。交通費と小遣いと、地方へ行くならその分を工面なさいませ。航空券こちらで手配できます。その方が安いですよ、きっと。
すでにお気付きかとは思いますが、『初恋』84ページ左から2行目に誤植があります。念のため。 朝
⑮ 1989/09/03 封書 秦様 皆様 パリ
思想の科学へ朝日子エッセイ掲載のこと
その後いかがですか
”二百年の風”の件 いろいろお心遣いいただき、ありがとうございます。私が煮え切らない答え方をしていたもので、生意気などという誤解まで生んだようで、どうもはなはだしく残念に思っています。当方としては、”鼻を高くする”どころでなく、実をいえば今回の”失敗”にいささか気折れしているくらいなのです。そう、”回転体の詩”は、私にはまったく失敗でした。
確かに”前半”の”文章”について私の注いだ力は、父上の”彫む”という、又、母上の”散文詩”という言葉で、十二分に報いられたと思っています。事実、そういうものを、そういうように創ろう、と念じて書いたに違いないのです。
けれど今回のモチーフのすべては、実は”後半”にこそあったのでした。
一年半のパリで、私が”二百年の風”と感じたものは、内の多様をかかえたまま、外に溶解していこうとする、”ヨーロッパ統一”の風に違いないのです。
二百年前の革命をふり返るよりは、次に来る革命としての”統一”を、日本が他人事でなくどう受けとめるか、それが私にとって、一番大きなテーマでした。
でもとりあえずは、”そういう風がふいているよ”と伝えたかった 伝えたかった・・・
今も、そう思っています。
事が大きすぎて、手におえなかったのは確かです。”後半”がプロの読みに耐えないことも、知っています。だから十部しか作らなかった。あれは、それ以上の物ではないのです。
十部のうち九部発送して、反応は四部です。私の思いが伝わったものはなく、”前半”はもう私の手を離れて、(従弟黒川創のはからいで「思想の科学」誌に掲載された。=)歩き出してしまいました。作品なんて、いつまでも作者の手許にはいないものです、いない方がよいとも思っていますが、今も毎日スクワールで、”あの人たち”にあう私にしてみれば、”完成度”の分だけ、彼らがもう彼らではない絵空事に思えます。私のした”造型”は無責任ではなかったかという思いさえ、あのベンチにいる私を悩ませます。”二百年の風”を伝えたかった。伝えるための方便であったはずの”前半”の評価は、私には、つらいものでもあります。
しかし、それであってもなお、従来の”フランス便り”とは少し違ったパリ観を、少しでも”日本”に知ってもらえるならば、その価値ありと、鶴見(=俊輔) さんまでがいって下さるのであれば、もう潔よく、私はそれを手放すことにします。若干の”明確なミス”を直したく、数日中に赤を入れてお送りしますが、もし急いで組に入るのであれば、おしまいの、”フランスはひとつ”だけを変更させていただきたいので、あとはせいぜい字句の直しだけになるはずです。よろしくお願いします。
★★のお姉さん夫妻がみえるので、ここ四、五日は原稿をひろげる余裕がないかもしれませんが、なるたけ早く送ります。
”出す・出さない”の結論を長びかせて迷惑をかけたことを、恒君(=北沢。黒川創)にあやまっておいて下さい。
そして改めて、よろしくお願いします。ありがとう、とお伝え下さい。
体を大切に、ちゃんと眠って下さい。
朝日子
・タイトルの”スクワール”は、”ジャン・ムーラン公園”にして下さい。
但し本文中のスクワールは、そのまま残してほしいと思います。
・フランス・ユニの章の、ポスターのコピーを La Furance unie est en marche.
ラ・フランス・ユニ エ オン・マルシュ に治して下さい。
⑯ 1989/09/14 絵はがき 秦様 皆様 パリ
やす香の誕生日のこと
9月12日、やす香3才。3つっていうのは、こんなもんですかねエ、と、あきれながら、超おしゃべりな我が子が、ヤッコだとか、風船だとか、はては、三方なぞを折っているのを、眺めています。今日はフランス最大というパリ動物園に行き、象、熊、猿、キリン、ライオン、虎、みんな”実物大”を見て、いささかあっ気にとられていました。パンダとかけっこもしました。キリンの前のカフェで雷雨に会い、これが一番”こわかった”みたいです。
⑰ 1989/09/16 封書 秦様 皆様 パリ
帰国日時とやす香の絵
幼稚園で、”もうおしまいです”と言ったら、今までに描いた”作品”を返してくれました。誕生日にねん土を買ってやったら”ヨーチエンでした”などと初耳なこともいうし、けっこういろいろなことをさせてもらていたらしいなアと今さらのように考えています。日本で三年保育に入れるような情況になるかどうか、・・・それに一クラスにせいぜい10人で先生が2人か3人いる、という環境も、もう望むべくもないでしょうからねエ。幸いこのみさんたちの滞在のおかげで”日本”への期待が大きく、幼稚園や公園を失うということはまるで理解していないわけですから、本人はひどく楽しそうで、毎日”日本、日本”と言っています。
10月1日にエール・フランスの直行便で発ち、10月2日の午前10時55分成田着の予定。おかまいなく。
(他にやす香の絵数枚同封)
⑱ 1989/09/???? 封書 秦様 皆様 パリ
「思想の科学」朝日子校正
(校正と別に 一枚同封に)
新しい”フランスはひとつ”の仕舞方は別に連載を望んでいるわけでなく、むしろ、そうならないことを、今は望んでいます。全部書き直す暇も気力もなさそうですから・・・
単なるあいさつ、ということで、とっていただければ嬉しいです。よろしくお願いします。 朝
○ 1990/03/22 封書 秦 迪子様 玉川学園 ★★ 朝日子
切手170円分 消印 町田(2.3.22 8-12) 保谷(2.3.22 12-18)
やすか と大きく 幼いやす香の文字 と 人物とネコ?の絵
(朝日子の字で) 3月22日に みんなで デイズニーランドにいきます マミー(=秦迪子)の誕生日のころ また
○ 1990/06/13 着 と 便箋一枚 下隅に 迪子の筆跡で。
遅くなってごめんなさい
家庭教師の生徒が試験期間で毎日通っているため なかなかうかがえません。
やす香はここのところジレていて、自分は保谷に住むなどといっています。月末には行きたいと思っています。
局まで行けないので、切手、もし不足だったらごめんなさい。 朝
*
* これが、これこそが、われわれの娘・朝日子だった。この書簡集、通読に堪える内容を多々含んでいる。身びいきでなく父はそう思う。
書き写し読み直していても、懐かしく心が和む。いったい、この両家に、この父と娘に、どんな「虐待」関係がありえたと謂うのか。必要なら、全部の手紙を写真にすることも出来る。
* なによりも、雄弁。
娘・朝日子は自分の書いた手記を自ら小冊子にし、何の躊躇なく「秦朝日子」と署名している。現に訴訟に及んでいる「秦」の姓に躊躇っていない、現に改名までした「朝日子」の名に少しも躊躇っていない。しかもそれは虐待・性的虐待・ハラスメントの真っ最中であったと現に法廷に訴えている「正にその時期」のことである。
* 朝日子たちのパリ通信物の「写真」もたくさん撮った。抗争しなければ虚妄申し立てから名誉毀損され、それが私だけでなく妻や息子に及ぶのであるからは、断乎抗争のための物証による駁撃を計らねばならない。
88-⑦ 秦 恒平様 ★★★ 「なにもかもお世話になり御礼の申しようもございません」
88-⑨ 新居の図入り朝日子長文 心に鬱屈ある関係ならこんな嬉々とした長文を寄越すわけありません。
88-⑮ 朝日子二十八歳誕生日 十年前の腸捻転入院を思い出しています。両親を心配させ、連日父に自転車で見舞ってもらっていたのです。鬱屈があればわざわざ回顧するわけありません。
88-⑱ 父にシシリーの写真集 朝刊連載小説への進んでの協力・激励、親切の表明です。
88-25 両親の記念日、父の誕生日を祝い、小遣いをたくさん貰った御礼。さらに父の新刊への率直な感想と協力 親と娘とに微塵の陰もさしていません。
89-⑩ 父の作家生活二十年を自発的に祝ってくれています。 いつものように、モノを送ってとも遠慮無く頼んでいます。
89-⑫ 秦恒平様 ★★★ 「また皆様にお会いできるのを楽しみにしております」とあり、先に帰国する妻子のことをいつものように宜敷頼むと言っています。いささかもこの時点・段階で剣呑な間柄で無いことが文面・筆致に明瞭です。
☆ 朝日子の雑誌「思想の科学」に掲載された在パリ通信は、★★の妻である本人が何の躊躇いもなく「秦朝日子」と自身署名しています。「秦」にも「朝日子」にも何等の拘りを持っていないばかりか、この文章を父親に褒められたのを本人がはっきり手紙の中で多とし感謝しています。 だから「e-文藝館=湖(umi)」にも父は掲載し、読者や編集者からも褒められていたのです。朝日子当人からも、いささかも掲載に異議など出てなかったこと、当時の日記からも証明できます。
* ご理解頂きたい。これは妻も同意見です。 もし父と娘とにおぞましいイザコザがあれば、それは父と娘との問題に止まらず当然母も生活的に心理的に関わってきます。「母はこの際は別」などと謂えるハナシではない。しかも母親は三百六十五日、家庭に居座っていた大黒柱の主婦であり、その家は狭いのです。にもかかわらず、娘は、微塵の屈折もなく母親に手紙を書き、父にも書き、両親に金銭や物の援助を頼み、幸せなパリの日々を謳歌して明朗です。親夫婦でこっちへ来ればいい、「せっかくなんだから」と、来てくれないのに不満ですらいた娘達でした。
娘とやす香とがパリにいたのは二年足らず、帰国したのは、朝日子たちが結婚して満四年後。誰の目にも雪のように明らか、これらの書簡内容に、原告が先日の法廷証人席で言い立てていた両家にどんな虐待や険悪な仲があったか、「明白にウソを証言」していました。まして結婚以前に娘に対し父の陰湿な虐待があったなどという「片鱗の事実も感得できない」のが、これら朝日子の書簡の筆致・内容です。
* 朝日子とやす香とは、89年秋に先に帰国し、ほぼ秦家で起居していました。そして、90年には早々★★も帰国しましたが、案の定「三年」も日本を留守にしていては大学への就職はむずかしく、90、91年をぶらぶらと、★★家内の不満も浴びせられ、進退に窮しているうちに、逆に、私のほうが思いがけない東工大教授の辞令を正式に受ける仕儀となりました。そして、必然、★★は、妻の朝日子も認めて我々に詫びたような「秦家に対する暴発」を起こし、それは一にも二にも、やはり生活苦から来ていたのです。しかし彼はソレを認めなかった。認めないまま「嫁の実家」は黙って金を出せばいい、それが「学者を婿にした嫁の実家の常識」だと、常識が守れないなら「姻戚関係を断つ」と宣言してきたのです。
* ★★は証人席で、「姻戚関係を断つ」と言いだしたのは秦が先だと何度も言っていましたが、「先」という時間帯はバッチリ彼らのパリ時代なのです。そのパリから、★★★は、帰国してまたお会いするのが楽しみと私に書き、是からも是までのように宜しくと書いていたのです。手紙は残っているのです。
* かくして、朝日子の「虐待」「ハラスメント」など乱心の発言以外の何でもなく。★★の結婚するやいなや両家は不仲の日々というのも、パリ通信の健康で平和な二年の文面が、あり得ようもなく完全自己否定していること、御覧の通りです
2010 8・1 107
* 朝、ウイルス駆除通知が固めて5本。6本、7本。10本。昨日から今日へ30本に迫っている。 ウイルス発信者の大半、いや、より数多くが「一つの同じ名乗り」である。情け無い、しかもヒマな人である。
2010 8・2 107
* 父の生涯を追うていて、次から次へ意外な事実に遭遇する。驚愕。事実を、あっさり此処に書いてしまえない事にも驚きは深まる。いったい、どうなっているのだろう。どうなっていようと、父は「書いてくれ」と呻いているようだ。
* 出掛ける日は、わたしは早くにバタバタ家を出ない。二三時間で出来るだけの「仕事」を一つ二つ三つぐらいしておいて、心おきなく出掛ける。
父のことを書いて前へ進め、スキャン原稿を二三校正し、「mixi」の日記を新たに送り出し。
日照りは相当であったが、風が吹いて意外にしのぎやすく。例の気になる帽子が頭上で日ざしを防いでくれる。かなり気になる帽子だが役に立つ。
2010 8・3 107
* 妻の、新しい病院での受診時代が今日からはじまる。恙ない長命を祈ります。
2010 8・4 107
* 妻が、一つかみほどのアベリア(筑波嶺うつぎ)を、透明なガラス瓶に挿して手洗いに置いた。黒みの、小さいが毅い緑の沢山な葉に入りまじり、白い小鈴のような花が無数に咲いて、ぷんと香り高い。道ばたで枝をながながと延ばして咲いているときより、場所柄か新鮮に見える。香りも身近にせまって心地いい。
2010 8・5 107
* 晩、思いがけず建日子が帰ってきて、十一時半までいろいろ相談したり食べたり話したり。わたしのパソコンにも知恵を入れていってくれた。
* 近い将来へかけて懸案もあるし、希望もあるし、困惑もある。何が有ろうと乗り越えて行くしかない。ま、わきをすり抜けて行くということも有るだろう。幸い、建日子が活躍して元気でいてくれるのは、妻にもわたしにも頼もしいし有り難い。健康で、怪我も事故もなく、心穏やかに心健やかにと、みな、互いに願わずにいられない。
2010 8・6 107
* 何というモノか、妻にあてがわれ、頸に、空色したネクタイようのものを巻いている。両端は結びの部分。真ん中当たりにたっぷり水を含ませておいて頸に巻くと、かなりの時間ひんやりしている。これが日盛りの外歩きで相当モノを言う。長持ちもするし、温んできても裏返すとひやりと。また水さえあればいつでも新たに水気をたっぷり含ませられる。これと帽子とで、あまり暑さも気にならずに外出していたのだった。
* 明日はまた歯医者さん。もう日付が変わっている。建日子とたくさん話して、元気。
2010 8・6 107
* 日照りにひるまず、歯医者まで。首に「マジクール」を巻いていると首筋にひりひりと汗だまりができず、これが有り難い。帽子をかぶっているので頭頂の焦げな苦痛もない。帰りに、見覚えたスタンドのラーメン屋で、手揉みラーメンとギョウザ一皿に生ビールで遅めのほどよい昼食。
* デンタルの待合に週刊朝日が置いてあり、妻が手にとってあいた頁が、見開き二頁のつかこうへい追悼インタビュー記事だった。と、インタビューされて「つか先生」を語っているのが秦建日子なので親はビックリした。要点を押さえてしっかり話していた。週刊朝日ほどの場所で建日子がきっちりした話しをしているのを見たのは初めて。
* 歯医者の前に六時起き、せっせと仕事。帰ってきてからも休まずに仕事。もう一息で一つ大きい山を越える。
2010 8・7 107
* 午後七時、思い切って、送稿済み。また、創作の方へ戻る。
もう一つ、七月法廷の「証言」録が紙の形で届いた。弁護士事務所からは、こうせよ、そうせよと何も云われていない。
2010 8・8 107
* どの家庭も夏休みだろうなあと想う。昔は京都へ帰るのがそれは楽しみだった。
帰ると朝日子たちを都ホテルのプールに連れて行ったり、暑さにめげずに家族揃ってよく出歩いた、あの暑い京都で。秘蔵のニッカで惜しげなく写真を撮り、自慢の作は大きく焼いた。アルバムが今では邪魔なほど残っていて、それらの写真で具体的にいろいろと思い出せることが多い。
PLの雑誌に連載していた縁で、富田林の教団本部に大花火に招かれ、はるばるバスの送り迎えで朝日子を連れて花火を見に行った。花火だけでなくたいへんなご馳走にもあずかった。ドーン、ズシンと花火の音がお腹に響くと朝日子はちいさいお腹を抱え込みながら観ていた。あんな豪華な多彩な莫大な花火など、むろんあれが初体験だった。朝日子も忘れてはいまい。
* お茶の水女子大で朝日子はたしか日置流の弓道部にいた。合宿したときに、お友だちと大学ノート一冊にいっぱい書き合っていたのが、わが家に他のものと混じって遺されている。丁度、入学祝いに中国旅行をさせてやった直後の夏合宿とみえ、朝日子は「中国」「中国」と嬉しいのか得意なのか盛んに吹聴している。そして余白が出来ると、三好達治「朝日子」の詩を胸を張って書いている。
梅さきぬ 高き梢に
梅さきぬ 朝日子に
花三四 的皪と
「朝日子」の名がそんなにも好きだったのだ、「朝日子」の名を胸に、「胸張って生きて行く」とものに書いていたのも、そんな昔ではなかった。
2010 8・8 107
* 父の話を、物語るのは容易でない。例えば「痴人の愛」のナオミとジョウジは起居を倶にしながらのお話だから、お互いにベツタリ話材に事欠かないが、父をわたしは父生涯に三度しか顔を見ていない。三度目は死に顔であった。それで父の生涯を、とまでたとえ云わなくても相当な人生を活写しようとなると、容易でない。なにしろわたしが既に七十五、父を知っていた人はあらかた此の世にないのである。幸い娘や孫達は、わたしからは妹や甥姪たちは、いてくれるが、思い出という聴き取り取材のあいまいさをわたしは好まない。
一度書きかけた原稿を棚上げして、また新たに試み始めた、が、当分こういうことは繰り返さねばならない。こつちの寿命があるかどうかさえ不確かだが、裁判沙汰にくらべれば、これは仕甲斐がある。母にもぶつかり甲斐あるが、父のことはかなり甘く半ば始めから見捨てていたほどだが、どっこい、そうでなかった。決して華々しくはないが、個性から云うとはなから小説の主人公そのもののような紳士だった、敗残の紳士というわたしの「観」は狂っていないけれど、ちょっとわたしの話を聴いただけで息子も、オウと声を放って、早く書いてよ読みたいよと言うほどの内容は持っている。いや、わたしは、どんな方法でアタックしていいのか、当分はおやじ殿と組んずほぐれつ格闘しなくちゃならない。
2010 8・9 107
* 朝日子が正式に改名してくれたおかげで、というのもヘンだが、(ワケが分からないが表記を)禁じられていた名を、遠慮なく朝日子と書けるのが有り難い。嬉しい。朝日子という娘はもう現実にはわれわれにはいない。名前は変えてもわたたちと実の親子であ
るとは肯定している。はっきり云って迷惑であるが。
高校生以来の思い出の「朝日子」の名は、まさしく両親と弟との占有に帰した。思い出は海山のようにあり、それを「夕日子」などと気色の悪い替え名で呼んだり書いたりしなくて済むようになった。★★夫人をどうしてもという場合は「★★▲▲」氏と呼んだり書いたりするが、夕日子なみの替え名に思えて困る。そういう「場合」には遭遇したくない。
* 帰宅後も「仕事」に没頭し気が付くと三時とはね。ビックリ。 2010 8・11 107
* 十三日の金曜日が、日本国の禁忌でないとは承知しながら、ちかぢか十三日の金曜が来ると頭の隅に有った。今日だった。
* 私の「生活と意見」を述懐している、此の、「闇に言い置く 私語の刻」は、言葉通りのもので、先ず「読者」を期待して書いているという性質のもので、ない。
どなたでも自由にアクセスされてよく、自由に去られてもよく、ただ私の「文責」だけは明らかにしてある。「作家・秦 恒平の生活と意見」である。
その上で今日あらためて書いておく、ここ当分は、余儀なく私の今置かれている迷惑な立場、即ち、実の娘(本人が地裁の証人席で認めている)とその夫とにより「裁判の被告席」に置かれてある現実に即して、余儀なく、去る七月十三日東京地裁で実施された原告・被告への「訊問と証言」とを、事実どおりに此処に掲示・保管して行くので、そういうのを読むののイヤな人は、(実に実に不愉快なものであることは、間違いなく請け合う。)どうか随意、アクセスしないで此の場から遠のいていて下さるよう。強いるのでも願うのでもない、ご随意にと言うだけのこと。
読まれてから不愉快だと私に小言を言われるのは、「私語」のたてまえ困惑するという、それだけの話である。
* 地裁の法廷は秘密会ではない。傍聴席は公開され、だれでも自由に入れる。禁止されていない。当日、私の妻と息子とが二人だけ傍聴席にいて、原告夫妻側は誰一人来ていなかった。
誰にも公開されていると云うことは、かりにマスコミが入っていて即日証言内容が報道されても構わない仕組みであり、日本ペンクラブの理事会に各新聞記者が傍聴していて、必要なら理事発言や決定事項などをすぐ報道しているのと、全く同じ。秘密会では無いとは、そういう意味である。むろん、裁判官からも代理人からも何らかの「制限する」申し渡しなど、何も無い。このことを先ず明瞭にしておく。「証言速記録」は、裁判所が厳格に内容を確認の上、公式に発行するもので、関係者の恣まな要約でも抄録でもない。これも確言しておく。
* 開廷されると、原告被告とも「宣誓」する。
「良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います。」と音読し、氏名の項に「自筆署名し捺印」する。そして個々に証人席に立ち裁判長に対面したとき、改めて「虚偽証言をすると処罰される」旨、念押しがされる。これを先ず書き表しておくのは、以下原告夫妻の「証言」を逐一、「父」「舅」として私・被告が検討するにあたり、重要な大前提なので明確にしておくのである。
* 「私語」であるゆえ、初めに私一人の「ガス抜き」をしておきたい。
原告「★★★」「★★▲▲(証言中、すでに三年前十一月に★★「朝日子」から「▲▲」と改名届が家裁受理されているとのこと。)」の上記「宣誓」に基づく「証言」内容が、仰天するほど虚偽に満ち、真実憤怒し惘れ返っているという気持ちだけを先ず明記し、確認しておきたい。
もとよりそう云う以上は、言葉を尽くして逐一証拠等を挙げ、正心誠意「反論」「証言虚偽の証明」に尽くすという事である。不愉快極みなく、しかし落ち着いて事理を尽くして行く。
* 最初に原告が一人ずつ証人席に立ち、まず原告弁護士から質問し、次いで被告弁護士から質問する。裁判長は進行指揮にほぼ終始。次いで被告の私が立ち、先ず被告弁護士が質問し、次いで原告弁護士が質問する。弁護士は各二名付いていた。
で、断っておくが、ほぼ三人による長時間講演を細かく区切って記録したような「速記録」であり、それへ、私が逐条「反論」を書き加えて行くので、思いの外大量になる。
読む人の気持ち次第では、「事実は小説より奇でおもしろい」と読む人もあろうか。
いやいや、事実上、この私の「生活と意見 闇に言い置く私語の刻」は秦 恒平の「私小説」同様に読んでいるという反響は『濯鱗清流 秦恒平の文学作法』上下巻(湖の本エッセイ47.48)の時に沢山戴いていた。
* 法廷の「速記録」が代理人を介して送られて来たのは、三日ほど前で、幸い「湖の本」104の入稿を果たしておいて、さて著者の「父」小説を進めかけた間際であったので、残念ながらそっちは延期。
* 先ず、「法廷速記録」を扱いやすくスキャン電子化しておき、文面内容はむろん変害せず、組体裁を明快に読み取りやすく整備しておいてから、原告「★★ ★」の「証言」を、徹底的に読み込んで行った。そのあと「★★▲▲」分を三分の一程度まで読み込み、妻とともに、あまりの虚言に満ちた「ひどさ」に言葉を喪い、それで、此の場への「掲載・保管」を覚悟した。私たち秦家の生活を多年にわたりよく知り、当時の娘・朝日子をよく知った人達も、まだまだ数多い。
で、先ずは「★★★」分を先に検討し、現在初稿のみ仕上がっている分を、もう一度よく読み返して、順にまず「★★★」分の全文を此処に、「闇に言い置く 私語」の内として、提示し保管すると決めた。アクセスして読む・読まれぬは、私の知るところでなく、アクセスする方の随意である。だからといって掲載内容を「いいかげん」なものには決してしない。
* 驚いたことに「★★★」は、証言のなかで、自分は「私人」であると明言、「青山学院大学国際政経学部教授」である「公人」の立場をはっきり・あっさり無視しているが、大学教授が「私人」で済むわけがないことを、体験からも確信している。大学教授であるが故に破廉恥な行為を公開追及され地位を失っている例は、まま有るではないか。
また「東京都町田市教育委員会」に勤務していると証言している「★★▲▲」もあたりまえに「公人」であり、夫も妻も、ともに学生や児童の教育・教導に責任を持つ「公人」であること、私は信じて疑わない。
* これまでわれわれの確執は、双方の言い分を一つの「場」で均等に付き合わせる機会を得なかった。噛み合わないでいるという「逃げ道」を持った按配で、アイマイと言えばアイマイに傍観・遠望している人も多かった筈だ。
だが「法廷」でのこのような「訊問と証言」とは、少なくも形式だけ調った「対等の場」での「宣誓発言」である。意味は明快で、重い。
この際を利して、双方の言い分を検討し合うのは一種の「対質」であり、「公人」同士の対論・討論が望ましいとしてきた私の希望・意見の、ともあれ一つの、十分ではないが、実現とみていい。
そのつもりで、アクセスして読み、関心を持たれる方は、それなりに大いに討議され批評され、場を広げて戴きたい。
ことに、私もまた「公人」である。私の場合は、著作家の団体や、読者や知人たちの場で、また原告の場合は、少なくも青山学院大学の理事者層、教授・教職員層・学生さん、父兄会らの間で、大いにこの不可解な裁判の実態認識を展開して欲しいと願うし、同様に東京都町田市市民、ことに教育関係者・父兄たちの間に同様の認識を展開してほしいと願う。
* また原告の二人も、われわれ被告家庭のアクセスを拒絶しておいて、こそこそと秘められた物陰で陰湿に中傷や捏造記事をふり蒔くのでなく、私たちにもしかと読み取れる公開の場で、堂々と、そのかわり一つ一つに極力データのある証拠を挙げて、自身への理解を世に堂々と訴えればよろしい。インターネット時代の典型的な一つの「事例」になるだろう。ペンクラブにいち早く「電子メディア委員会」設立を提案実現していた理事・私の予見も、そのようにして一つの時代の「証言」に結びつく。
適当なもし一つの場が出来れば、連載討論をも進んで私は受けて立つ。
* もう一つ、はっきり断っておくこと。
* 家庭内の私事ではないか、秦さんも「ほどほど」「いいかげん」に娘夫妻をあしらい、「黙殺」していれば好いではないかという類の善人ぶり・大人ぶりの勧めは、いま、この際は受けられないと云うこと。
もとより「それ」が私の基本の考えであった。婿が暴発した昔も、私は返事一つしないで黙殺しつづけた。そのあげく婿は「姻戚関係」を断つと通告してきたのである。
姻戚を断つだの裁判沙汰だのにする「何事であるのか」という大方の感想や感触は、当初から、私たち夫婦=両親=祖父母また作家である弟・秦建日子の共通した考えである。
だが、現実には、★★夫妻は私・秦恒平を「被告」として裁判に及び、紛糾は丸四年に及んだ果ての、此の「七月十三日」法廷での初対面であった。「抗争上の対抗措置」をふり捨て、ただ為されるがままに委せていれば、一度は蒙ったように「全文学活動の根拠地である私のホームページ」は壊滅され、またこの父親は「二十年四十年にわたる虐待・性的虐待者」と言いふらされ、そしてこの際の「証言内容」のような露骨な虚偽で穢され続けるのである。
* 私たちの家庭は、大様に遊んでいるのではない。ふりかかる火の粉どころでない損害と、「懸命に抗争」している。それも、それをかぶる理由は道義の問題として皆無と信じているのである。ただし、いずれ後期高齢者に手を掛けた私も妻も、体力衰えて「暴害」の前に崩れるであろうが、だから諦めて放棄することは、この裁判の収束まで断じてしないと云うことを、明記しておく。
* では、お見苦しい限りのケンカ沙汰で「私語」が無頼に満たされることを予告し、そういうことのお嫌いな向きはアクセスをお控え下さるようにと申しておく。
* 今日は、ここまで。
2010 8・13 107
* 市川市の矢口さんという読者から、湖の本103『私 随筆で書いた私小説』を読んで、私の「父」が勤務しまた近所に暮らしていた時期もある「理研」という会社、工場などの記憶を書いてきて下さった。むかしすぐ近くで暮らしておられたという。「父」は夥しく住まいを移動していた人立つと遺品から推量しているが、昭和十二年に就職し、兵役をはさんで二十年ほど勤め工場長の地位にも就いていた理研時代はいちばん永かったのではないか。ありがたいお手紙であった。この辺からも数奇な道を歩んで艱難の多かったらしい「父」へのアプローチが拓けると嬉しい。実の娘に悩まされているこの頃、もう無くなって久しいそんな「父」などが懐かしまれる。妙なことになっているモノだ。
2010 8・14 107
* かつて、娘・朝日子が、育った家で、つまり保谷のわが家で、父のさんざんの「虐待」「ハラスメント」を受け、結婚後も、同じことは結婚直後から深刻に続いたと「法廷証言」し、その夫も、妻はだから実家へはほんの年に数回行っただけと「宣誓証言」していた。
* それならばと、「★★朝日子・結婚後の里帰り記録」を妻に作ってもらった。
妻には日記と家計簿とがあり、わたしには稠密を極めた日々の手帳日記があり、あの詳細な「自筆年譜」の原記録をなしている。
受発信、受けた電話、来客、外出先や会合、そして仕事の進行等、ほぼ洩らしていない。朝日子・やす香や★★の来訪、泊、滞在、帰宅なども、ミリ単位でとまで云わないがセンチ単位に及ぶ限り、つまり記載を忘却しなかったかぎり正確に記録されてある。走り書きで字が読みづらくなっている程度のことは有るが。
以下は上の表題の通りの記録。時期は、娘と★★★が結婚した昭和六十年(一九八五)六月八日以降、昭和六十三年、平成元年の朝日子・やす香がパリに暮らした一年半をはさみ、留学から帰国後、婿の★★★が「暴発」し「姻戚を断つ」と通告してきた平成三年(一九九一)八月までのもの。尚、中途資料であるが。
結婚当年の以後半年だけは、まず尋常な「来訪」「二泊」程度であるが、おいおいに、いかに頻繁に、原告朝日子が実家へ帰り続けていたか、驚くほど明らかになる。父親のハラスメントを訴え、それで「▲▲」と「改名」までしたと云う朝日子が、どうしてこうまで里帰りと滞在とを重ね続けていたか。現に結婚している娘だ、不快なことが有れば帰って来なければ済む話だが、なんとまあ夥しい回数の「里帰り」か、どこの家庭でもそうなのか。どこの家庭にも父の「ハラスメント」は無いだろうからそれでも不思議でないが、私の娘は父の私を、千里もくだった平成十八年になって「mixi」日記に放言しはじめ、現に父を「被告」席に置いている。
それは、あまりに変で、あり得ないウムを云わさぬ「事実記録」が、これである。これだけではない。ともあれ父と母との、詳細な日記や手帳や家計簿等から慎重に復元・確認した。
* 自分は、幼少来父に虐待・性的虐待を受けていたと言い立てる娘、而もその父は四六時中家で執筆しているという狭苦しい家へ、せっかく婚家といういわばアジール(逃避場)を持った嫁が、どうしてこう異様に頻々と、また長逗留の里帰りが出来るのか。そんな家へは寄りつかないというのが、「被虐」の言立てが真実なら、当然ではないか。寄りつかないのが本筋ではないか。
* パリから両親に宛てた、親愛に満ち、感謝にも満ち、率直で生き生きとした四十数通原物の手紙も、既に、理由のない悪意の訴えへの「抗争上の対抗手段」として公開してある。仲良い和気藹々の家族写真も多数公開してある。
それらと併せて、この記録も公開する。
なお、具体的な日付は、どんな「悪作為に捏造利用されてもいけない」ので、集計部分を公開する。詳しくは必要に応じ法廷にも提示出来るきちっとした用意が出来ている。
* 集約した、各年別「朝日子・里帰り」の実状
1985年 6月結婚以来 「4」回来訪のうち 「2」泊
1986年 一年間に 「6」回来訪 都合「54」泊 「64」日滞在
1987年 一年間に 「19」回来訪 「58」泊 「77」日滞在
1988年 3ヶ月で 「9」回来訪 「30」泊 「39」日滞在・・・・・・・・・04/09渡仏前の3ヶ月
1989年 3ヶ月に 「5」回来訪 「47」泊 「51」日滞在・・・・・・・10/02帰国以降の3ヶ月
1990年 一年間に 「16」回来訪 「95」泊 「111」日滞在
1991年 8月10日までに 「12」回来訪 「34」泊 「46」日滞在
1月の 雑誌「ハイミセス」の父との旅日数は加えていない。此の年★★★「暴発」。
小計 満四年半余に 「71」回来訪 「320」泊 「386」日滞在
* 「四年半」の間に実に「まるまる一年間以上」父や母や弟と狭い家で暮らしており、むろんやす香をほとんどいつも連れてきていた。その間の嬉々とした写真は沢山アルバムに残っている。
両親で予測していたよりも遙かに多い夥しい数字で、実状にビックリしているが、記録は正確を期し丁寧に調べてある。
大家族でも大家屋でもない、父と母と弟のいる、時には九十老人も同居していた「娘朝日子の実家」である。しかもその実家で娘・朝日子は幼少来「父に虐待され続けた」と父・私を現に訴えているそんな実家に、なんでまあこれほど厖大な「泊」数や「滞在」数が有りうるのか。娘の訴えが虚妄で虚偽の捏造である以外にあり得ない。それは可笑しいと云われる人が有れば、お考えをぜひ聞きたい。
* 付け加える、原告である娘が父を「虐待者」だと突如「mixi」の「木漏れ日」名義の日記に書き散らし始めたのは、昭和六十年(1985) の「結婚直後」でも何でも無い。実に平成十八年(2○○6)七月末に、孫・やす香がガンでなくなった直後の八月九月になってのことである。「結婚して実に21年も以後」のことである、妻も弟も私も仰天し、むろん一同笑殺、弟は即座に姉を厳しく叱っている。
だが、娘はもう今やこれにしがみついていて、「改名の理由」にもこうしたことを家裁に訴えたのであろう、私への聴き取りなど一切無くて決めた家裁決定は軽率そのものだと思う。だが、改名は決まった。それみろ家裁も認めた「ハラスメント」だ事実だと娘は吹聴したいのであろうか、それなら、なんとも愚かしい。
* 娘は、弟建日子が生まれて「のち」に虐待が始まったといい、現在まで「40年」に及ぶと云い、また弟の生まれた年から結婚までを以て約「20」年の虐待とも云っている。平成五年以降は完全に両家没交渉となっていたので、そんな間まで何が「虐待」かと失笑するが、いずれにしても、結婚して以降に、これだけ親元にべた漬けでいた「他家の嫁」なのである。そしてパリへ離れてもあれだけの手紙の山であり、いずれも事務的に素っ気ない手紙どころか、金銭支援依頼も含む親愛の交信であるのを、読む人は毫も疑いようがないだろう。
* やがてその同じ娘・改名して★★▲▲原告の「宣誓証言」を、聴く人には聴いてもらおう。今は夫・★★教授のそれ、及び私の反論を読み直している。
地裁の民事法廷は誰にも公開されていて、秘密会ではない。もし当日、新聞雑誌記者の傍聴があって報道されていても、ペンクラブ理事会などと同様で、問題ないのである。
* やがて実際の「速記録」で理解されるだろう、私には「弁護士からの質問」に関して一つキワだった感想がある。
私の弁護士が私にした質問にはいわゆる「誘導」がなく、おおかた「事実」の有無や内容を尋ねていた。
原告弁護士の原告への質問は、なんらの検討も経ていないことも、さもすでに確定したことかのように被告の責めを既成事実として原告に「そのとおりです」と答えさせていることが多かった。
実は、そのために原告の「虚偽証言」がどんどん誘い出されていたのだと謂える。「弁護」とはああいうウロンなことで済むのかといっそ可笑しかった。先方弁護士の手法らしきモノに初めて実際に接しての感想で、これまでにわたしは先方弁護士の批評など一度もしていないことも書いておく。
* 原告★★★の「宣誓証言」が虚偽に溢れている事実を、能う限り証拠を添えて逐条論策し、代理人に書き送った。原告は言い訳に窮するだろう。週明け月曜、代理人に届いたあとで公開する。
* 原告★★▲▲の同様の、夫のそれよりもっとあくどい証言については、ゆっくり、読み進めて逐一反論している。
2010 8・14 107
* あの日、丹波、南桑田郡樫田村字杉生で天皇の放送を聴いた。秦の祖父と母とわたしとで隠居を借りていた長沢市之助宅。その前庭にラジオが持ち出され、部落の人が何人も取り巻いていた。真夏の照りは容赦なかった。負けた・勝ったではなく、戦争が済んだ、よしッという昂ぶりで国民学校四年生のわたしは庭をぐるぐる駆け回った。
あの年の二月末の晩もおそく、雪の凍てた杉生部落の街道十字路にかつがつ着いた秦の一家は、山の家の大きなあばら屋から、街道ちかくの豊かな長沢家へ転居していた。
* 昨日も妻と話していたが、脆弱かったわたしが曲がりなりに体の基礎体力を付け得たのは、あの二年足らず、山なかでの疎開生活のおかげだったと、つくづく思う。山一つ峠を越えて隣の田能部落にある国民学校に通わねばならなかった、村の子等と一緒に。教科書の鞄すら重さに堪えかねてしまう疲労を日々に凌いで通学した。都会もんの疎開もんは上級生にもよく撲られた。挙手の敬礼を怠ったと教師にもいたるところで張り飛ばされた。そういう時代だった。
* ま、思い出しているとまた本が書けてしまう。あれから六十五年。わたしの記憶力は、古い昔ほどまだかなり鮮明で。
2010 8・15 107
* わたしは「楽しめる」という得な特技をもっている。いまわたしが頸まで漬かっている裁判沙汰など不愉快の限りであるが、幸いその気になればすぐそんなドツボを離れて、いろいろ楽しみがある。前言を翻すが、圓生も聴きながら、なぜかゲーテの『ヘルマンとドロテア』が読みたくて堪らない。隣棟に行って書架から持ち出してきた。こっちにもあっちにも、本は溢れている。眼を大事に大事にしなくてはと思う、痛切に。
2010 8・15 107
* 先日、赤坂で勘三郎としのぶとの「文七元結」でホロリと泣いてきたが、昨日の圓生では、娘お久のけなげで一途な親孝行ぶりに、また泣かずにおれなかった。こういう娘に育てたかったと云うのではないにしても、お久のように貧しい悲しい限りの日々を強いられていて、果ては身を売ってもそんな親父の道楽を諫め、母の苦境・窮境を救おうとするお久のように、もしあの娘・★★▲▲を育てていたなら、被告どころで済まなかったろうか。
同じ悲しい涙は、先日の「狐忠信」でも流れた。初音の鼓の皮二枚にされてしまった父狐母狐の子狐は、その両親を慕いに慕って忠信狐に化け、初音の鼓に逢いにくる。静の深い情けにも義経の温情にも恵まれて忠信狐は初音の鼓を賜り、驚喜乱舞して花吹雪を浴びながら天涯へ去って行く。どんな思いで父と母とが海老蔵芝居の花やぎの中で泣いていたか、証言席で「被告と実の親子に相違有りません」と肯定したあの原告・★★▲▲は、いったい何を考えていたのか。誠実ももののあはれも反省の表情も無かった。
* もとより、では、親である私たちに反省は有るのかと問われるだろう。
甘やかしたという反省が、なにより大きい。
いまにも駆け落ちされるかと思い、仲人の薦めに喜んで自分から★★★に娘を会わせ、食事を奢り、結婚式場も父が自身で用意して、晴れ晴れと光の間で披露宴をさせた。その失敗が、反省される。「目をすったのは秦さんですね」と云われたこともある。
銀座のバーの年功をつんだママに★★を観て欲しいと、二人を連れていったあと、「どうだろうね」と聞くと、ママは、クイと小さく鋭く頸を「横に」振った。母親は縁談を流したいと云ったが、わたしは目をつむってそのまま進めた。彼処でも失敗した。先方の父君が結婚式直前に亡くなったときは一つの機会で有ったに拘わらず、本人たちや先方の意向に乗り、結婚式を予定通り進めた。それも判断ミスだった。
だが、わたしには二人の「或る一場面」が目に焼き付いていた。
* 娘は、自分より親の方に年の近い、ある学者との恋に煮えたぎっていた。先方でも、秦の親が反対なら娘を連れて出ればよいとまで心用意していたらしい。その人は、学問的には私も敬意をもっていたし、広い意味では同好のジャンルの人だ、人としても申し分なかった。だが、何分にもあまりに二人の年が離れていた。
わたしたち夫婦は四ヶ月しか年が離れていない。あらゆる話題を共有できた。協力もしやすかった、人生への記憶量も同じだった。だからともに頑張れたと思いこんでいた。
それからすると、娘らの場合二人の年の差ぶん、二人で「共有して生き合う年数」を、はなから大きく差し引かれてしまう。そうわたしたちは懸念した。
それで、人に相談し、もっともだ、ということから★★★が婿がねとして推薦された。
「会うだけでもいい、一度会ってみてくれ」と私が娘を説いた。しぶしぶ、まさにしぶしぶ、娘は★★と会った。村上華岳展の会場でわたしは娘を★★に引き合わせた。ひとわたり繪を観てから銀座で夕食をご馳走し、バアへ連れて行き、ふたりだけを街で解放しようかとも思ったが、自分ももう帰ると云われかねないので、付き合っていた。
ところが、いよいよ銀座街頭での別れ際、ちょうど阪急デパートの前、地下鉄へ下りて行くその其処に、色とりどりのビー玉を出店で売っている。
と、娘はここ半年の内に観たことのない笑顔をほころばせ、つと店出しのビー玉を二つつまみ、一つを★★の掌におとしてやり、自分も一つ嬉しそうに握りしめたものだ。
「なんだいコレは」と呆れながら、これはキマリだなと直観した。
あっというまに娘の気持ちは★★に傾いて、一潟千里で結婚式へ直行。娘の気持ちが渋々どころでない以上、少なくも私は娘のために喜んだ。喜んで結婚式場も、来会して下さるお客様も懸命に選んだのである。
☆ 独楽は今軸傾けてまはりをり 逆らひてこそ父であること 岡井隆
* これが父である私の根の思いだ。子が父に逆らひ、父も子に逆らふ。それでよく、ただそこには限度がある。ましてや二十年、四十年父に虐待、性的虐待されてきたなどという、「とほうもない虚言を捏造」して「訴える」などというのは、娘としてあまりに無道。一つ、また一つと益々大きな反証が出て来て、娘のあげた拳は、いかにも醜く「宙」にさまよっている。母親も弟も真っ向否定し笑殺している。少女から結婚後に到る数々の写真には微塵くらい陰が無い。本人が父母に宛てて率直で和やかな手紙をたくさんたくさん書いている。結婚後の里帰りは親もおどろくほど、たった四年半のうちに「71」回来訪 「318」泊 「386」日も滞在している。結婚したらもう金輪際実家になど寄りつかないというなら、人も訝しむだろうが。
* それでも反省をケチろうなどと思っていない。道理に適って秦を非難・批判せばやと思われ方は、少しも遠慮無く、どうぞと書いておく。
* まるで小説のようだが、妻も私も息をのんだメールが届いた。心から御礼申します。
朝日子が娘の頃、双方の家庭で、少なくもわが家では最も望ましい仲の二人と期待をかけていた、中学以来のいい友達がいた。その人が、建日子のホームページを通って、いろいろと事情を知り、驚きと心配の頼りを呉れたのだ。もとより娘が結婚後の何事もこの人は知らず、別々の人生を歩んできたので、書かれているのは娘が結婚以前の思い出だけだが、差し支えない範囲で、とても大事なことを書いて呉れている。
☆ 前後略
彼女(=朝日子)は、中学、高校、大学、院と、私にとって尊敬する女性でした。中学2年で知り合い、当時、何故こんなに大人なのか、何故はっきり物が言えるのか、気になって仕方のない存在でした。
私の知っている、彼女は、当時からお父さんを強く意識していました。会話の中にお父さんを意識する言葉が、よく出てきたように思います。尊敬している、だから少しでも認めて欲しいと。家庭で厳しく教育されていたからこそ、彼女は大人なのだと感じました。
強がっても見せているところ、意地っ張りなところもあり、そこで頑張っている彼女が好きでした。
中学2年から大学院2年までの約10年弱、結果は残念ではありましたが、私にとって、苦くはあるものの貴重な思い出でありました。
* このように書かれてある「娘・朝日子」こそ、本来のわたしたちの朝日子であり、これにビタリと重なり合う「朝日子像」は、私の筑摩から書き下ろしの長編『罪はわが前に』に書き取られている。
この手紙、出来れば朝日子に読ませてやりたい、こんなにも友達から大切に思われていたということを。
* 何度も繰り返してきたが、弟の秦建日子が、ボクは「百万遍」も言ってきたよという「朝日子と父」とは、こういうことだ、
「朝日子はお父さんがめっちゃくちゃ大好きなんだよ。その大好きなお父さんから良きにつけ悪しきにつけて、例外というモノもコトも無しに愛されたいヤツなんだよね。是々非々の愛では絶対にダメ。しかしおやじは、いいときは手放しで褒める、しかしダメな時やモノやコトにはきちっとダメを出し、半端にはうけいれないでしょう。俺はそれでいい。朝日子は、それでは絶対に不満。そして褒められたことや愛され可愛がられたことは忘れても、ダメとつきはなされたことは覚えに覚えて、それが積もって、今では憎さ百倍、何としてでもお父さんに復讐し勝ちたい。そういうビョーキなんだ」と。
* ほんとうに「ビョーキ」なら★★家に仕方が有ろう。相談があらば相談に乗る。だが「裁判」というヤツは、足下のゴミのように片づけられない。片づけられるのは「取り下げ」ることの出来る原告夫妻だけである。被告はどうぞお好きにとは行かない、懸命に対抗しなければ、私だけでなく妻も息子も迷惑する。
虐待など有りはしなかったし、今有るのは上のような証言から結果的に察するしかない「ビョーキ」の昂じた「被害妄想」であり、わたしも妻も朝日子を心から可哀想だと思っているが、被告側から打開の名案がない。おまけに夫の★★がまたむちゃくちゃな虚偽証言を振りまきながら、週刊誌まで呼び出して「暴走」している。この暴走、「お付き合い読本」の昔から実に満二十年に及んでいる。ブレーキが利かない。
* 原告★★宙枝の七月証言速記録を読み進めていって、「朝日子」から「▲▲」への「改名」が家裁で容認されたのは、昨年十一月かと思っていたら、なんと三年前の平成十九年だった。しかもこの原告は、その後の法廷へ「の陳述」書などに「★★朝日子」と、事実上の偽名を署名し続けていた。法廷を欺いていた事になりはせぬか。被告代理人にも通告しないままこの七月直接尋問時に到っていたというのは、法廷を侮辱していないか。
* ひたすら原告娘の法廷証言を読んでいた。
なにより驚いたのは、母親への嫉妬心対抗心の強さと侮辱とで、母より自分の方が父に近くいてよく知っていると。
両親とも、失笑し、それも凍り付いた。
明らかに、父が娘を、ではなく、娘の方が「父を性的に」眺めていたのだ。
こんなファザー・コンプレックスは世の中に幾らも有りうることだが、娘のそれは度がすぎている。老人を掴まえて裁判沙汰にまでされては非常識で、迷惑だ。
証言の場で、娘は被告弁護士の追及の前に、みずからそれを明かしてしまった、「自分の方が母より父の近くにいて父をよく知っている」のだと。あわれなこと。
2010 8・15 107
* 原告二人の証言速記録を仔細に検討した結果は、「放恣な逆用」に曝されないよう、弁護士に委ね、此処での掲示は今暫く慎重にする。
* 今日初めて、私自身の証言速記録を読んだ。きっぱり間違いなくモノを言っている。時間が押していて、私方代理人の主訊問は少なかった。相手方弁護人との対論部分も、速記録をスキャンしておこうと思う。
* それでは本来の仕事コースに戻る。「私語」も、ふだんに戻る。刻一刻老い衰えてゆく自覚は深い。それだからこそ、思うままに思って、書いて、また思いながら思いを淡いモノに澄ませてゆきたい。
2010 8・17 107
* 近くのレストランへ席を予約して六時にでかけ、夕食。満腹してかるく腹痛。なんのこっちや。この店はなかなか美味しい、が、このごろコース料理を通して食べると満腹が過ぎる。
ここへは孫のやす香も妹も一緒に来て、賑やかに談笑の記憶がまざまざと老祖父母にある。懐かしいが、いたましい。
妹の方は今年から大学に進む齢だが、噂にも、何も聞こえてこなくて、とても心配している。クラーク記念国際高校はもう卒業したであろう、心ゆく日々を送っていてくれるといい。親は親。たった独りのこされた孫娘に祖父母は、せいいっぱいのこともしてやりたい。消息が知りたい。
2010 8・17 107
* 大府の門さんから大著『江馬細香』が復刊されると報せが来ていた。表紙のカバーに細香さんの風景画を使ったので、それだけでも「お慰みにご覧下されば嬉しく存じます」と。
門玲子さんは、普通の主婦から、ご主人の転勤先で手にした時間を利して古文書の勉強をはじめ、その刻苦精励の線上で頼山陽に愛された閨秀江馬細香の研究に入って、専門家も讃嘆した美事な成果を大著に纏めて栄誉を得られた。そればかりか今や江戸時代の女流文人研究の第一人者に。ずうっと久しく湖の本も支援して貰っている。
* わが家ではよく口癖のように夫婦で語り合うが、少なくも「十年」一つことを継続し没頭して学べばなんとかそこそこのところへ到達する、まして門さんのように才能と大きな運とに恵まれれば大輪の花が咲くと。
わが家の息子も、たしかに十年がんばって噴出した。
亡き井上靖はよく話された、人には生涯に二度の噴出の機があります。二度あります。これをのがさぬことと。だが、その前に十年の真摯でねばり強い勉強が必要だ。
* ちょっと驚いたが、朝日子が学生のむかしに書いていたものに、自分は井上靖のことをしばらく忘れていた、損をした気がすると。これには父のわたしもびっくりした、朝日子は漱石だの高橋たか子だの加賀乙彦だのとよく言っていたが、井上靖の文学に興味があったなどと知らなかった。
今からでも遅くない。井上さんの作品集が読みたいなら手もとにたっぷり揃っているのを送ってあげてもいい。そのかわり気まぐれなつまみ食いではダメ、何にもならない趣味の読書に終わる。むろんそれも好いけれど、まだ五十歳だ、裁判沙汰など放擲して六十還暦までに半チャラケで終えてある習作を完成し、また本当の文学作品を一心に心がけて、遅ればせの新人作家として栄誉を後世に望んではどうか。
凍り付くようにもし孤独に過ごしていても、文学への熱い志は胸の凍ても溶かしてくれる、愛読者という身方も必然迎えられる。親を訴えた裁判でたとえ親に勝とうとも、それでは人間としてみじめに大敗し、人に嘲られるだけのこと。門さんは頼年八十歳に。朝日子がそこへ行くのに三十年ある。三十年頑張る気なら、一作の名作に希望が持てる。
2010 8・17 107
* さ、建日子が関わっている連続ドラマを見て来よう。
2010 8・17 107
* 妻から御礼をメールした朝日子の昔の友人から、さらに返信を貰った。「建日子さんのご活躍、ドラマ、本を読ませて頂いています。先日は、『明日、アリゼの浜辺で』、表紙絵に魅せられて、購入しました。一気に読みました。これからのさらなるご活躍を祈念しています」とも。
朝日子に関しては、「迷ったのですが、私の希望する方向とはどんどん離れていくようで、堪らなくメールしてしまいました」と。
むかしの溌溂として元気だった朝日子、担任の先生にもクラスの「太陽です」と謂って貰えたような小学校、中学、高校の朝日子を知る人達の、これが「異口同音」であることを知って欲しい。
* ただ、年ごとに、朝日子に、何とも謂えな気になるいところが出てきた。
この友人は前便で、「彼女(=朝日子)は、中学、高校、大学、院と、私にとって尊敬する女性でした。中学2年で知り合い、当時、何故こんなに大人なのか、何故はっきり物が言えるのか、気になって仕方のない存在でした。」と書いてくれている。「会話の中にお父さんを意識する言葉が、よく出てきたように思います。尊敬している、だから少しでも認めて欲しいと。家庭で厳しく教育されていたからこそ、彼女は大人なのだと感じました。強がっても見せているところ、意地っ張りなところもあり、そこで頑張っている彼女」と。
* 此処で改めて断っておくが、いま、私たちの娘である「朝日子」は此の世に存在しない。そういう存在は此の世に無くなっていて、両親や弟や、また知人友人たちの記憶にしか生きていない。
私が「朝日子」と書いても、それは今は完全に存在しなくなった朝日子の懐かしい腹立たしい嬉しい困ったいろんな「思い出」を語っているのであり、現実の存在としては片鱗も実在していないことを明言しておく。そういう風にしてわれわれは自分の娘と娘の名とを取り戻せたのだと思うと、複雑な気持ちは気持ちだが、無垢の朝日子はわれわれの思いと記憶との中で生まれ帰っている。もうこれは渡さない。
* だが私たちがべつに案じたのは、得も言われぬ自我の主張というかが、露骨に汚い「物言い」に現れだした。私は、「語是心苗」(言葉は心から生えた苗である)という裏千家淡々斎の軸を叔母の稽古場で見つづけて大きくなった。言葉の汚いとくにがさつな女は嫌いだった。大学に入って、中国の旅から帰ってきてだんだん露骨になった。
ときどき朝日子は自分から求めて若い人たちの集まりに参加していたようだが、ある日、昔昔からの友人である或る夫人から、同い年の息子さんと娘とがおなじそんな場に参加していて、娘の物言いの荒さに辟易したと。内容は知らない、が、言葉の荒さもさりながら発言の出てきかたが「凄かった、お友達にはなりたくない」ねと苦笑していたと、わざわざ教えてくれたのである。意外に思えなかったのがつらかった。似た噂を聞くようになった。
美学会という学会に入会したばかりの朝日子が、仙台だったかの大会で発表者に敢然と質問したらしい、それはいいのであるが。「勇ましかったわよ」とある教授に後日笑って告げられ、眉を曇らせた。美学というのはややこしい学問なのである。美術館の事務員になっただけの新入会員が何を勇ましくやったのか。
美学は父・私の専攻であり、院でもひきついだ。そして退学した。美学論文たちの「日本語」は或る意味でむちゃくちゃであった。小説が書きたい、谷崎論が書きたいと願い始めていた。より大きく妻の出血性素因が頭にあり、妻に「母」にならせてやりたかった。幸い先輩が一人就職していた医学書院に入った。
驚いたことに娘は大学にはいると、専攻は「哲学」そのなかで「美学・美術史」と決めてきた。卒倒しそうに仰天した。それは無いだろうと思ったが、アトの祭りだった。「受かっていた」慶応を振って「お茶の水」を選んだのは、通学に近いうえに学費も段違い。親としては有り難いが、おやじが擲ってきた「美学」だよ、「何で」と驚いた。これも父を「意識していた」ということか。もっとも父も母も同じ美学だが。そして朝日子は卒論に「ムンク」を書いた。 母親に聴けば、お父さんに読んでほしくて書いたのに、読んでくれないとこぼしていたという。「ムンク展いいよ」奨めたのはわたしだった、だがわたしは当時余りにも忙しすぎた。娘に原稿の下書きを一、二頼んだほどであった。娘は勇んで書いてくれたので入念に手を入れ、本屋さんにわたしたことがある。
* ま、朝日子は、朝日子だけでなく家族は私の多忙に振り回されていたのが、手帳を覗くと分かる。
それでも「サントリー美術館に就職したいの」と手を合わされ、甘い父親は谷崎夫人に相談した。一発で話はきまって只二人が採用された。
* こんな日々の、どこに父の娘に対する陰惨な「ハラスメント」などあり得たか、機会が有れば娘は父にくっついて、井上靖や梅原猛さんらのいるパーティーに出た。「秦さんの朝日子ちゃん」のご機嫌さんは、結婚後にも引き続いていた。無心な写真はウソをつかない。そんなことが出来るほどひっきりなしに里帰りしていた実状は、明らかにした。妻の精査では、もう「二」泊、「二」滞在分、数字は増えたという。
* 抗争上の対抗はせざるを得ないので、しかも今や原告夫妻の力点は「ハラスメント」に傾いてきているので、徹底的に先ず原告の娘の虚偽を批判することになる。わたしは、昨年三月に法廷に出した陳述書で、こと朝日子と父ないし秦家には「争い」など丸でなかったということを書いている。
長大な「陳述書」なので、ごく一部を引くが、私が自分で書いたのはむろん。
ーーー☆ーーー☆ーーー
3 「ひとり娘」から「弟の姉」に
そうなのです。長女・朝日子は、両親最愛の「ひとり娘」から、このとき「弟の姉」になりました。新しく秦家へきた「男の子」に京都の祖父母や叔母は驚喜し、鍾愛しました。
お気づきでしょうか。
朝日子は親からの「虐待」を、「弟誕生」の自身「八歳」から受け続けたと民事調停に明記していました。
ところが年譜には、「朝日子を中に幸福に。迪子に朝日子を『いとしくいとしく』思う手記在り」とあり、「迪子朝日子を愛している。私は死んではならぬ」とあり、「アルバムへの写真貼りなど、落ち着いた連休。迪子と朝日子に代わる何ものも無い」とも記載し、続けて、家族が四人になった今、もし何ごと有ろうとも「迷わず、現家族を取る」と私は言い切っています。弟と姉とに、親の「分け隔て」の有るワケがありませんでした。
私には、後に「長女論」と題した民俗学の論考(婦人公論)がありますが、長女がいかに一家にとって神秘的にすらも大事な大切な存在かを書いています。弟が生まれようと、朝日子は私たちにとって掛け替えない掌中の珠でした。
しかし朝日子の小さな胸には、弟思いの一方で、親の絶対の「ひとり子」でなくなった寂しさがあったかも知れません。けれど両親になんらの分け隔てなく、おかげで「朝日子ちゃんは太陽です」と、小学校一年担任の、手放しの明るい信頼もありました。
繰り返しますが、むろん甘い一方の父親ではありませんでした。ガンとして「壁」の役をし、どんなに愛する娘にも息子にも、生活慣習はしつけました。無用に過大な金銭も与えず、われわれの収入に応じて贅沢はさせませんでした。親も金のかかる遊びは避けました。八十台の坂を、揃って九十へむかう恩ある育ての親たちを、叔母も含め三人、現に抱えているという緊張が、常にわれわれ夫婦の生活意識を質素に律していました。「子どもにも子どもの責任がある」という基本を踏んで、私は、『逆らひてこそ、父』という覚悟をずうっと持ちつづけていました。この小説を読んで、共感のまま泣けて仕方なかったと告白された高校の校長先生の長い手紙を貰ったりしたものです。
4 何をさして虐待と謂うのか
朝日子はいったい、何をさして「虐待」と謂うのでしょう。
一年、八千七百余時間の「家庭」生活で、親と子との、時に厳しく叱り特に強く反抗したりは、あまりに自然で当たり前な「世の常」です。
親は子を育ててきたと言うけれど勝手に赤い畑のトマト 俵万智
と、若い歌人は歌いました。ある高校の先生は、「十七にして親をゆるせ」の一言で生徒達の目から鱗を落としていました。子は、聡明な子は、そのように成長して行くものと思っています。安定した知性の持ち主なら、いくらか五月蠅い親の仕向けからも賢く自然に身をかわして行くのが、子どもです。親を知らぬ「もらひ子」であった私もそうでした。朝日子にもそれができる筈と思っていました。両親は娘を信頼していました。
それなのに、朝日子の、とてもとても考えられない現在の「異様な恨み」「憎しみ」は、これは、何なのでしょう、何故でしょうか。
その「謎」を解いて行くのが、この「陳述」であり、この先々で、きっとご納得下さるであろうと、私たちは信じております。
反抗期や思春期の子たちにありがちな、親へのたとえ辛い思いがいつ知れず有ったにせよ、なんと、とうにとうに結婚して二児の母となり、現に大学教授の妻であり、自身もお茶の水女子大学に哲学を学んだ、「町田市主任児童委員」の肩書を示し、地元でのコラボ活動にも熱心で指導的な女親の口から、平成十八年、四十六歳にもなっていた大人の口から、いきなり吐物のように、俄かに、初めて、飛び出した「親の虐待」とは……そも、何であったのでしょうか。
5 途方もない親への逆恨み・名誉毀損
それのみか、五十歳まえの大人の朝日子は、それを、朦朧とした幻覚的な文章で、「木漏れ日」名義の「mixi」日記として、「数百万会員」にむかい「公開」し始めたのでした。(「mixi」会員が数百萬であろうと、実際に読まれる数がそうであるまいことは「推定可能」ですが、実際に想像以上に読まれているとすることも機構上「推定可能」なので、こう言い切って可と考えます。)
作家・劇作家の弟・建日子も、私の妻も、むろん私も、びっくり仰天しました。なんで、こうなるの。あり得ない、絶対にあっていい話ではありませんでした。
弟は激怒し即座に姉を戒め、朝日子はその日記を「取り下げた」と言っているそうですが、時すでに、弟も、驚き怒って私に知らせてきた会員読者たちも、むろん私たちも、もはや朝日子の「mixi」日記には「アクセス不能」にされており、今以て、無道な捏造記事が削除されているとは、我々の誰一人も確認不可能なままでいるのです。
☆ 2006年08月26日01:41 ・・・
裁判長、
私は過去において申立人より性的被害を受けております。
いかなる状況下においても、同席することを望みません。
被害者の精神的苦痛にご配慮賜りますよう、お願い申し上げます。 (★★朝日子)
これは、この日付で書かれた朝日子のその忌まわしい「mixi」日記の一部です。(入手できている全「木洩れ日」日記も資料として事務所に提出してあります。)
「裁判長」とは、脅迫メールに困惑のあげく弁護士牧野氏の助言で町田市簡易裁判所へ「民事調停」を申請した際の調停判事を謂っているようですが、ここで、朝日子は加害者に「母」も加えています。
この時点で、私・父親は、娘・朝日子の事実無根の捏造により、日本ペンクラブ理事としても、元東工大教授としても、京都美術文化賞の選者としても、太宰治賞作家としても、明瞭な「人権蹂躙の名誉毀損」を受けています。そして母親も。弟・建日子でさえも。
むろん朝日子の言い立てる事実など、滴も無い、あり得なかった。しかし、それを口先一つで言うのではない。少しこの件に強く触れさせて頂きます。
(三) ホームページに、朝日子の写真を掲載する理由
この種の「被害」申し立ては、なかなか有効な反証が難しいのですと、専門家は私に「放っておけ」と言われました。百万言を費やしても、コトは微妙すぎると言われたのでしょう、しかし私は、自身の名誉もさりながら、妻と息子の名誉のためにも、ガンとして立ち向かう決意を固めました。朝日子には明瞭な「立証義務」がある、それも強硬に求めながら。
その一手段に、私は、言葉での反抗より先に、多年におよんだ親娘・家族が親愛の「写真」多数を、ホームページに「公開」しました。朝日子から父へ礼儀正しい感謝に溢れた「手紙」も、私の公式ホームページにいわば「証言者」として登場させたのです。
写真は目立ちやすく、あえて「現在進行形で日録の書かれる最新ファイル」の末尾に纏めました。今や話題の「裁判員」ならぬ、人目に触れて理解して戴くことが私の願いでした。私を愛し信頼してくれる知友知己や読者に対する、それは私自身の道義的な義務だと確信したからです。どうぞ、ぜひ掲示された写真等をご覧願います。 以下略
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* パリ滞在の一年半に秦家に宛てた親愛と感謝に満ちた四十数通の残り無く掲げた原告夫妻の文面は、それより以前の★★には結婚後の数年、朝日子には八歳以降三十年に、「ハラスメント」どころか父の薫陶だけが有った事実を示している。その証拠に、結婚から三年に満たない間に、父のいつもいる家に年に数回どころか夥しく里帰りし夥しく泊まって滞在日数を山のように積んでいるのです。虐待される親の家に、既に結婚している娘がなぜこのように頻繁に、惘れるほど頻繁に里帰りをするものか。理由は一つ。嫁いだ朝日子と秦の親、父親との間には「厳しい仕付は」はあっても何の争いも無かったからだ。
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(四) 朝日子の「謎=昏迷」を崩す「二つの側面」
問題点を改めまして、では、なぜ朝日子は、こういうおぞましいことを私たちに繰り返し仕掛けるのでしょうか、そこへ不審をもつのは、誰しも自然なことです。「謎」は解かれねばなりません。
単純なこととも、複雑きわまりないとも謂えましょうが、「二つ」の「大切な側面」を確認することが出来ます。
そして、そのだいぶ先の方に、娘の本音めく「主張」らしきが、昏迷の相を帯び、透けて見えて来ますが、慌てず、その前に、「二つ」の側面を確かめておきたく存じます。お汲み取り願います。
1 両親と娘に「争い」は無かったということ
先ず一つは、
「遠過去」での朝日子結婚以来、「近過去の」やす香死まで、秦の両親と娘・朝日子との間には、険悪な表だった争いなど一度もなかった事実、これを具体的に申し上げます。
我々の確執は、もともと★★★との間で「暴発」したのであり、朝日子はそれに迷惑した第一人とすら言えるのですから。繰り返しますが、この夫の「暴発」とは、朝日子が両親に真っ先に詫びてきた手紙に朝日子の認識として出ている非難です。夫・★★★の突然の「暴発」に、妻・朝日子は「困惑」こそすれ、親たちに向かい悪声を放つナニゴトも一度としてありませんでした。はなから詫びていました。
(甚だ端的で事実その通りの朝日子の認識でした。これら「遠過去」関連の基本証拠になる★★の手紙は、全部一括牧野事務所に提出してあります。また「証拠資料として原告提出」の秦の創作下書き資料『聖家族』には、★★の原文を変改せず引用した文面がそのまま、フィクションストーリーの中で活用されています。それらの手紙原本を、★★は「書いた」と自認・確認こそすれ、かつて秦の偽造であるとは、むろん一度も言いません。)
母・私の妻は、娘たちの「離婚」を強く希望しましたが、じつは、私は逆でした。
結局娘は、夫や子たちとの「★★」という「家庭生活」を選択しましたし、私たち両親も、板挾みに引っ張り合うのを避け、すでに妻で母である朝日子の手を、哀しみながら、放したのでした。
朝日子三十三歳の誕生日を祝った父からの手紙に、(ホームページ日録の冒頭ファイルに出ています、)落ち着いた心境を親しく告げ、父名宛てに返信してきた「絵葉書」文面は、この「第一の側面」をよく傍証しています。これが朝日子の自然で普通の筆致であり心情のあらわしようでした。
お手紙ありがとうございました。お陰様でおだやかな誕生日を迎えることができました。尋ねられて悪びれることなく、三十三ですと答えられるのがなによりと思っています。やす香は毎日プール。でもまだもぐれません。行幸は汗もと競争でシャワーをあびる生活です。学期中よりむしろ忙しいので、母親としてはいたしかゆしといった夏休みです。 町田市 ★★朝日子 (一九九三・七・三◯付)
2 週刊誌記事にも朝日子は全く影もなく
関連して、★★★について申し上げる際のイヤな話題になるのですが、此処で一つ申し上げます。名目上、朝日子が主役の「週刊新潮」(平成二十年七月三日号)記事でした。電車の吊るしにも出た記事のメインタイトルは、「孫の死を書いて実の娘に訴えられた太宰賞作家」とあり、私の名も経歴も顔写真も著書の写真までみな挙げ、まさしく「週刊誌沙汰」にして私を貶めようという記事の造り方でした。★★★の「持ち込み」取材だったのでしょう。朝日子はこの件は終始何も知らされてなかったのかも知れません。
と言うのも、その見開き二頁にわたる「記事」には、ところが、肝腎の「実の娘」の名も、顔写真も、また父を責め訴える片言隻句すら出ていなかったのです。
私も、記者と会うことすらしていません。電話取材も受けていません。
誌面で独り喋りまくったのは、なんと「高橋洋」と「仮名・五十三歳」を名乗った夫・★★★だけで、まぎれもない「独演会」でありました。
なぜ朝日子自身が出て話さなかったか、「訴え」なかったか。分かりません。私たちは、これほどの醜悪な場面で、朝日子の直な訴えの絶無であったことに、かえって驚きました。
もう一つ、こういう側面がはっきり指摘できます。
3 父のウエブで夫が批判されていたこと
両家が没交渉に入っていたころ、私は東工大に教授室と講座をもち、数年で定年退官した平成九年の翌十年(一九九八)三月から、親しい学生達の助けを借り「公式ホームページ」を開設したのです。
そのホームページ『作家・秦 恒平の文学と生活』のなかに、「闇に言い置く私語の刻」と題して「生活と意見」を書き込む「日録」をもち、ちょうど今日までに90ファイル、総量は400字原稿用紙で数万枚もの「批評、評論、エッセイ、意見、交際等々」、そのままでもすぐ売り物の原稿になる文章が満載されて行ったのですが、その中で、朝日子の夫、私たちの婿・★★★にふれて、少しは耳の痛かろう「私語」「批評」が、時折り、じつに時折り、挟まっているのです。
「検索」すれば「★★★」の名が出てしまう、恥ずかしいし愉快でない、と朝日子は不快に感じていたかもしれません。(今どきのこと、子供たちも、簡単に見つけてしまうでしょう。)自分の父親が、自分の夫にふれてウエブに書いている、夫には恥ずかしいことを書かれている、それが、妻で母の朝日子の一つ父への「恨み」になっていたかということ、私は、それを幾らか「理解」します。
(但し、現在は「検索」しても★★★の名は出て来ません。)
この私の「理解」で、さらに「三つの要点」に目を留めておくことが肝要と存じますので、順に申し上げます。
(五) ウエブでの★★★筆誅の要点
1 全て遠過去の「★★暴発」が原点、そして文責明記、インターネット。
夫・★★★にふれた記事の全部が、前にいう「遠過去」に、妻・朝日子自身いち早く批判し非難していた夫「暴発」に関わっている、それ以外は無い、という不動の事実です。その点が非難されるのは「★★★の自業自得」であると今も思っています。
さらに大切なことを申し上げます。
それは私・秦恒平の文章表現は、インターネネットにあっても全て文責明記、それが秦恒平の筆になることが例外なく明記されています。匿名ではないのです。
インターネット犯罪の多くはインターネットの匿名可能を悪用し、無責任な仮名・無名に隠れてなされています。悪例の一つが、後にも申しますが「週刊新潮」を利し、自身は「仮名・高橋洋」に隠れながら私を実名・経歴・顔写真つきで誹謗してやまなかった原告「★★★」の卑劣さに見られます。これは電子メディア委員会をペンクラブに創設したときから、私の最も忌避し嫌悪したことで、「文責明記」はインターネットでの遵守されたいひとつの原則・姿勢でありました。
インターネット上でも、互いに「実名」をあげ合って意見や情報を交換ざるを得ない事態は、いわゆる「紙」媒体時代と同様、いいえそれに倍加して「世間普通」の現象となってゆく動向は避けられないと、此の道の専門家は推知しています。完全に抑止し閉鎖する道はもはや「無い」とみざるを得ない以上、その際せめて「文責明記」といった手続きをルール化すべしと考慮しています。せめてそれがインターネット時代のエチケット・道義でありましょう。いつの時代にも、人の口に戸は立てられない。それがパソコンという機械を介して圧倒的にひろがったのが「インターネット」なのですが、インターネットそのものをもはや禁制することは、あり得ない現代、未来と、現になっています。
2 公人と公人 それは論争
上を踏まえて申します。
作家として、団体役員として、★★らも明言し指摘しますように、私もいわば「公人」であります。全く同様に、「教育哲学」等にかかわる大学教員で、同様「公人」を自称している★★★を文章等で「批評・批判する」行為には、慣習上も何の不都合もなく、公人同士の「論争」に発展すれば済む「普通行為」であると、今も私は「理解」していす。そのために私は「文責」を常に明らかにしています。
まして婿と舅との間です。法廷に持ち込むような事由では全くないと信じています。
★★★は、仮処分申請の訴状にも、肩書として「青山大の所属地位を記入」していたのを記憶しています。
「大学教師は公人」とという自覚と責任を求められました、東工大教授就任時にも。
藝能タレントでも犯罪に関わると明瞭に公人扱いされています。「作家」も団体役員などは当然に公人です。そう自覚していますし、マスコミはそのように扱っています。
かつて文化勲章の梅原猛が、大先達の斎藤茂吉や金田一京助らの実名をあげ、私的な罵倒に近いほどの論難をベストセラーの中であえてしていた事実、その他文壇や周辺で実名をあげた真っ向相互の論難・論争などは、実例を幾らもあげることが出来ます。私も★★も、いわば「そういう世間の住人」である書き手なのです。
★★★も私も、「同じ、人文学の範囲で生活する公人と公人」であり、ことに彼の「教育」という専攻分野にもふれて「道義と倫理の観点から」私が★★★教職を批評し、時に真っ向非難することには、彼からも同様に反論があればそれで済むことなのです。それがウエブであれ雑誌であれいずれも公にされたメディアであり、しかも私は★★のように卑怯に匿名や仮名でなくいつも本名で文責を明かしています。いわゆる②チャンネルなどの誹謗やコメントとは全く違います。
現に彼・★★は、岳父の私にむかい、書簡中、ルソーの教育論『エミール』を読んでものを言えと放言していた位です。ルソーは、彼が父君以来のいわば二代の研究対象であり、その意味では、いかに★★の「大過去」の言動が、ルソーの「自然人の徳」に背いた下劣なものであったかを、私は論証も立証も出来ると今も確信しています。
私は彼の父君の「ルソー研究」も、謙遜に時間をかけ勉強しましたが、その結果、どれほど★★★のルソーが、論語読みの論語知らず、人間の「徳」と「自然」に背いたものかを痛いほど実感しました。
しかも。
3 ウエブの★★批判は、17000枚中の10枚に足りない
私のウエブ上の日録で申して、問題の「遠過去」に★★★に触れた記事は、平成十年(一九九八)三月から十八年(二○○六)六月やす香入院月まで、正確に100ヶ月、57ファイル、少なくも17000枚余の原稿量のうち、たった数回、原稿量にして用紙10枚に遠く満たないのです。むろん記事自体を私は無かったと否認するのではありません。
(やす香の死後に、★★家の無礼な挑発に応じざるを得なかった言及は、裁判沙汰に持ち込まれたり週刊誌沙汰にへ画策されての、余儀ない現在進行形の応酬として、私は「遠過去」「近過去」での言及とは、全然異質の「別問題」と思慮しております。)
4 しかも「公式ホームページ」全部の削除を策謀し強行し
しかしながら、そんな現実のもと、このウエブ日録を一部分として含む厖大なホームページの「全部を強引に抹消」させようと、繰り返し、サーバーや「mixi」当局にあくどく働きかけた(一度はBIGLOBEを動かし成功した)★★夫妻の行為は、明瞭に、私・秦恒平の「著作権・人格権を侵害」したものと言わねばなりません。
是については的確に後で触れます。
5 ウエブでの★★批判の実例
参考までに、ウエブの日録で、★★★に初めて言い及んだ「関連」記事を、ここに例示します。主眼は、あくまで私の「生き方・述懐」にあるとお分かり願えるでしょう。
☆ 湯川博士と婿と 1999 8・12 「人生」 略 この日付のわたしの私語で読める。「湖の本エツセイ」濯鱗清流にも採ってある。
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* ★★が罵詈讒謗の手紙を寄越すという仕方で「暴発」したのは一九九一(平成三年)だった。「暴発」にしぶしぶ無礼な「詫び状」を寄越して妻や息子を憤激させたのが二年後だった。その二年前の九月三日、朝日子が、夫★★の両親に対する無頼無礼を「暴発」と自身確言して、先ず電話で、ついで長い手紙で謝ってきたのを、朝日子自身で読んでみることだ。それを、用意する。
2010 8・19 107
* 腹部不快はほぼおさまっていて、起床。
黒い猫と外へ出て、ポストの新聞を取り出し、ちょっと玄関外に据わっていた。冷え冷えと涼しかったが。
十一時、もう涼しくはないだろう。庭は八重葎なす草木で覆われ、少し熱暑枯れしてもいる。朝日子に、最初の「ねこ」の死を書いた小長い作文がある。せっかく「e-文藝館=湖(umi)」に載せていたのだが、著作権侵害だと訴えられて外した。その「ねこ」をテラスの外、書庫との間へ、隠れ蓑と南天の植わっている足下へ、もと紅葉の木のあった辺に、布にくるんで埋葬した。紅葉は玄関外へ植え替えた。のちに、「ねこ」の子の「のこ」も、同じ場所に、長く生きたあと母親と一緒に埋葬してやった。可愛いすてきな母娘猫だった。
* そこの隠れ蓑も南天も背丈は低かった。延びてくると頭を刈っていた、が、いつごろからか放っておくようにしたら、いま隠れ蓑は書庫の屋上より高く、遙かに高く育って悠々と風に吹かれ、日に当たっている。朝日子ややす香がいたら見て驚くだろう。書庫上のちいさい細い庭も、一面の丈高い夏草に覆い尽くされている。
2010 8・20 107
* 今日も湖の本の校正を進めていたが。
もう一つ。嫁いだ先で、どんなに朝日子が苦しい立場にいたか、それでもたすけてやれなかったと。結婚、また親族という思考があまりに両家でちがっていた、と。
2010 8・21 107
* 平成三年(一九九一)三月二日町田発の朝日子の自筆長文の手紙を書き起こし始めた。こんな風に始まる。
★ 平成三年九月三日着・消印「町田」九月二日発 大型竪封筒
THE RIGHT LIVELIHOOD AWARD印章ロゴ
Protect the environment of Earth Search for the Lifestyle coexisting with Nature と天部に細字印刷の便箋15枚使用
ほうやししもほうや
2-8-28
はた こうへいさま
おしむらやすか
まちたしたまかわがくえん
内容にやす香の手紙無く 以下 ★★朝日子自筆の三つ折り長文の手紙。
独立したがっている***さん(=★★★実妹)は、母上(=★★★実母**。現在は没。)に対して私たち(=★★★・朝日子夫妻・その長女やす香)との同居拒否を口実として、ついに、出てゆきました。人口が減って、浄化ソウの問題等は軽減するものの、今まで「半々」だった比重は崩れました。 食費として(姑から=)頂いていた3万円は停止になり、重ねて水道光熱費を負担するよう言われました。母上は今後独りで食事をなさる由、5人分のところを3人分でよくなるわけですから、額面通りの減収、支出増というわけではありませんが、ヒッポ(=やす香の外国語教育)もやめ、無農薬野菜、生協等からも、手を引かざるを得ないでしょう。貧乏人は麦を食え。これが現代の社会です。
以上が当方の現情です。
*
秦注 ★★家は敷地三百坪と再三聞いた。その三分の一を分割して別姓の長女夫妻が新築して住み、三分の二にある、もともとの★★家家屋に、姑・次女と長男★★★夫妻と幼長女・やす香が暮らしていた。
★★は、この七月の法廷証言で原告代理人の経済的に困ったことがあるかという質問に、こう答えている。
原告ら代理人(**)
先ほど,あなたがお金に困っていたのではないかというお話がありました。
あなたは結婚後,今に至るまで,自活できないという状況はあったのでしょうか。
★ ありません。私どもの誇りの1つは,今までに借金をしたことがないということで,
まあ住宅ローンは別でありますが,そういうことはございません。
代理人 具体的には,どんなことをされてましたか。
★ 例えば留学のときは,それ以前に助手を務めておりました。あの頃は金利が
7%の時代ですから,3年間助手をやってフランスに行くつもりでおりましたので,恐らく
1000万近くの貯金をしたと思います。
で,フランスにいるときは国費留学でありましたので,フランス政府からのお金をもって
やりくりを,そんなぜいたくはしておりませんでしたので,やりくりをしておりました。
それから帰国してからは,私の友人が学習塾をやっておりまして,そこで女房と私をほぼ
フルに雇ってくれましたので,そういう意味で困ることはありませんでした。
上の朝日子の手紙にある「現情」と大違いだが、これは★★の謂う「帰国してから」まだ間もない、直後、の時期に当たっている。フランスでは支給された国費でやりくりし、貯金は「1000万近く」の筈ではないのか。
* 朝日子の手紙に戻る
まず私は、もう金輪際、(=玉川)学園に住んでいたくありませんし、また、経済状態の変化から、それは不可能にもなりつつあります。
御同意頂けるものと思いますが、やす香には友人が、私には平安が、そして★さんには一種の独立が必要です。(=かなり手厳しい批評でもあり、自覚ある自立を、の意味か。★★は朝日子にアルバイトさせ、自分は塾講師など引き受けると就職審査に差し支えると働かなかった。つまり、ブラブラしていた。耳にたこほど聞いている。)
父上(=朝日子の父・秦)はよく秦家、★★家といういい方をなさいますが、これはまったく幻想で、そこ(=朝日子の今在る「場」の意味か)にあるのは、秦家と私たちと山下家(=正確には承知していないが、★★★の亡父は★★襄氏。妻即ち実母未亡人は「山下氏」で山下家は亡き★★氏を援助し続けたという話を聞いた気がする。現に★★祖父母と孫やす香との墓は「山下家墓所」の一辺を割いて在る。)であります。(=この朝日子の認識では、★★★の母や娘はあだかも★★でなく、「山下家」の人ということになる。理解できない。そして)山下家はもう★★★とその家族を見限っています。(=見限るという意味はいろいろあるだろうが、★★★とその家族は秦家が全面的に支えよという意味なら、とても理解が及ばない。★★★を人格として見限る意味では、秦家も惘れて見限っていら。)
また、父上と母上とが決して、秦家と保富家(=妻・迪子の言姓。結婚時には両親既になく、兄、妹がいた。)でなかったことも、思い出して下さい。ですから、私たちに対する接し方…… 特に経済的な接し方で、婚家、里方という分類は捨てて下さい。
*
秦注 私のように、生まれながら父方・母方どころか、それらの戸籍とすら関連・関係を奪われ「自立」していた者には、こういう親族観はまったく通用しない。私たちは、娘を★★家に嫁がせた。嫁にやった。★★も盛んに朝日子を「学者(自分)の嫁」と書いている。心情としては別だが、★★ 朝日子は秦朝日子ではなくなった。★★の家庭のことは★★で頑張っておくれ。わたしも保富迪子を妻にして、保富家に何一つせがんだことも助力を乞うたこともない。妻は秦迪子なのだから、秦恒平とともに協同協力して生活する。頑張る。それで半世紀以上を現に生きている。
先月の法廷で妙なことを聞くなあと聞いていたのが、先方の姑が「秦家は何もしない」と零していたと。
秦家は娘のためには実にたくさんのことを、娘の夫にも金を何度も与えている(家計簿等に控えがある。)が、★★家のためにといって特別なにもしない、出過ぎたそんな必要は何もないと思っていた。なにしろ四十数坪の敷地で四人家族でやってきて、金満家でもベストセラー作家でもないのだ。現に★★は秦を、「ろくな資産もないくせに」とカッパしていたのだ。その通り。
★★の姉は他家の人に嫁いだが、住地として相続したのであろうか★★家の敷地内に、夫の親がよろこんで家を新築したという。よそながら、これはめでたい。夫との実家が息子たち夫妻のために新築した。ちょうどわたしが親の助けを半ば借りて手に入れた土地に、自力で私と妻と子供たちの家を新築したのに相当している。私の場合、妻の実家に何の負担も掛けていない。
ところが、法廷証言に飛びだした「嫁の里は何もしない」という★★母の歎きは、その実は、「★★★と朝日子の為にも同じ敷地のなかに秦が、嫁の父が、一軒の家を新築して欲しいのに」という意味ではなかったろうか。だから「暴発」の手紙に、しきりに住宅を与えよ、更に生活費の半ばを与えるのは「学者の嫁」の実家の常識だと繰り返したのではないか。
山下家は★★★とその家族を見限っているとは、そういう意味であるようだ。「何の権利があってあんたたちは此処に住んでいるのか」とまで★★はないし嫁は言われるという娘朝日子の歎きはそこにあったようだ。
「私は、もう金輪際、(=玉川)学園に住んでいたくありません」とはそういうことであったらしい。
だが、逆立ちしても秦家にそんな真似は出来もせず、する気も無い。今も無い。そうするのが「嫁の実家」というような「常識」など、塵ほども私は持っていない。それは婚家ないし夫婦の努力すべきことであると。お祝いなら弾むけれど。
* 朝日子の手紙に戻る
さて、私は先日も少し申しました通り、この家を出るための緊急の方便として、万やむを得ず、”依頼心”をもって、保谷の西家(=垣根を隔てて買い入れた西棟に、京都から移転して秦の両親が暮らしていたが、父は二年前亡くなり、母は入退院を繰り返していた。二階一室は秦の仕事部屋、もう一室には息子が入って夜分祖母の用心棒をつとめていた。)を借して下さるよう懇願いたします。その条件は以下の通りです。
①、家賃はお払いできません。(できれば光熱費も)
②、設備は現状のままでけっこうです。
③、建日子氏には申し訳ありませんが、その間東家(=わが家。息子のもと居た二階に、やはり京都から移転の秦の叔母が入っていた。むろん息子の居場所は残っていない)へ御同居願いたいと思います。
④、”湖の本”の仕事、(従来のものの他、カードの入力等)を請け負わせて頂くことで、私が家庭教師をやめるのに相当する現金収入の道を拓いていただきたいと思います
⑤、父上の部屋はそのままでけっこうです。
⑥、たか様(=祖母)帰宅の折は、お世話いたします。
⑦、大型の家財は、筑波へ移るまで(=玉川)学園に置きますので、衣類、書籍の移動に多少の支援を頂ければ幸いです。
⑧、基本的な家庭生活は東西分離で行います。やす香の世話等は極力お願いしません。
⑨、生活クラブ(=生協)の資材を、実費でわけて頂きたい。 等々です。
虫のいい申し出であることは百も承知です。
これらのお願いの基本にあるのは、これまで★★という名の山下家(=★★の母。父の未亡人を即ち意味している。)から受けた支援を清算したいという願い、私の切なる願いです。
家と、月3万の支援を受けてきたということが、私たち夫婦をどれほど束縛してきたでしょう。(=恩に着せられているという意味か。息子に働きが無いのを咎められている意味もあろう。嫁の里は何をしているという嫌味も。しかし★★は、秦から援助の用意を告げてもいつも大丈夫と豪語して口で断る男だった。)むろん、新しい束縛を二重に受ける形になりますが、その一方、私の対山下というストレスは減じることができます。結婚式及び祝金の一件以来、(=式費用は両家で折半という約束。式の「秦家」への祝い金は★★★には渡さなかった。)”財産ねらいの女”という不当なレッテルをはられてきた私としては、事のゼヒを論争するより、手切金を山と積んで離脱する方を(=要するに、無数の嫁が泣いてきた居場所のない苦痛から実家へ遁れ帰りたいということか。)望むのです。しかし、積むべき金を、私は持っておりません。同じ束縛なら、私は秦から受ける方を選ばざるを得ません。私は山下と(=どう言葉を換えても事実は★★未亡人の家と、の意味。)手を切りたいのです。しかし、★★★と切りたいわけではありません。ですから、私たち母子2.5人(=次女を妊娠中)ではなく、家族4人を、まとめて、引き受けて頂きたいのです。(=この辺で甚だ分かりにくくなる。朝日子本位には分かるが、つまり離婚はしないので夫も丸抱えに秦家で面倒を見てくれと。)
* 以下、ながながと続くが。
* この二十年近い以前の嫁いだ朝日子の手紙には、幾つもの大きな意味がある。
① こんな甘えた手紙、「虐待され」「性的虐待され」ていて、「恐怖」していたという父親・私に宛てて書けるわけがない。甘えに甘えて本人も「百も承知」で「虫のいいこと」を書きならべている。 ② 此の時点は、先だって「八月十四日初着」の★★★の義父母に対する無礼きわまりない「暴発」の手紙や手記連発の、ほぼ中途、に当たっている。これより一週間の後、「九月九日」には★★★は一方的に「姻戚関係を断つ」手紙を寄越している。この間、私自身は一切黙殺し、★★に対し只一度も何一つも応答していない。 ③ 朝日子は、斯く、あからさまに婚家での現状と、私には理解に窮する事情を赤裸々に語って来、かつ夫・★★を完膚なく批判もしている。 ④ それでいて、捨身飼虎(朝日子は捨身虎餌と。)の精神で、★★★と家族(朝日子とやす香)を保谷の秦家に家賃抜きで住まわせると倶に、その際、秦の側から従来の非礼を詫びつつどうかご光来願いたいと婿に対し一礼してやって欲しいと言う。
* これは洒落か冗談でないなら、娘・朝日子はこの時或る意味必死であったと分かる。
残念ながら、物理的に成る話しでなく、心理的にも、経済援助せぬ非常識な嫁の父と罵倒されたまま、仕事場のある一つ家の中でいっしょに暮らせるほどの善男子であるわけがなかった。創作の仕事は実に神経質である。書いている時は、愛されている猫ですらおそれて近づかないほど。ましてや非常識な婿に詫びかつ頭を下げ、恭しく、此の家へどうぞ来てお暮らし下さいましなどと、そんな逆さまゴトの言えるワケは露ほどもなかったのである。ま、私たちとしては、ワケもわからぬままこの手紙から一週間して、「姻戚関係」を婿から真っ向断たれてしまった。謝るなら、頭をまるめて手をつけと。
* この手紙、★★のウソを明らかにするためにも、朝日子の「ハラスメント」の訴えに何の根拠も無しと証す意味でも、★★「暴発」の根が何処にあったかを明示するためにも、最後まで検討する。一つには、当時の朝日子の、そしておそらくは長くその後の朝日子の、★★家にあってさぞ苦しかったろう立場をも証してみせる意味でも。
2010 8・21 107
* さて。以下は、この「私語」を聴き続けているであろう娘に、どうか読んでもらいたいと、母親の手を煩わせた。公開するのは妻ではない。私がするのである。
* わたしは既に読ませて貰った。これが娘の母の、孫の祖母の、わたしの妻の、変改のない原文のままの三年日記(ただし、朝日子・やす香と★★とに関わっている個所のみ)である。
三年日記は同じ日付で三年分を同頁の三段に書くので、去年、一昨年をその場で読み返せるのが、妻の好み。だから手書きである。この際、煩をいとわず電子化してくれたのである。
このような秦の家の、秦の親子の、どこに原告・娘の言い散らす「ハラスメント」など有るか。そしてどんなに★★の「暴発」が両家にとって不幸な事件であったか。
* 人に見せるために書いた日記ではない。妻は日記をみせびらかすような人ではない、それなのに、これだけは夫の秦の手で公開されてもと思うのは、よほど胸を痛め、また娘に目を覚まして欲しいからだろう。
* 言うまでもなく、この証拠公開は原告二人への被告の「対抗上」論争行為として敢えてするのである。
しかし、娘にしみじみ読んでほしい。
★★★「暴発」から秦迪子三年日記帳 (原文のまま)
(91/07/20から94/03/24まで )
注 簡単三年日記帳から・・・A=朝日子に関係する記述を残らず「全文」書き写す。
たまたま買ったばかりの日記帳で、年半ばの、07/19から書き始めたというのが、いささか残念。事情の説明に(= )を用い加筆した個所がある。 秦迪子 10.08.21
注 平成三年(1991)は、★★★「暴発」の年であった。その「八月十二日」を軸に、前後の「経過一束」を物証と保存記録どおりに云えば、こうなる。 秦恒平 10.08.21
六月 二七日 朝日子・やす香、秦家来泊。秦と朝日子、銀座へ。食事・朝日子買い物など。
七月 一日 朝日子・やす香、★★家へ帰宅。
一◯日 (秦恒平に国立東工大より専任教授就任の依頼と打診の電話が来る。)
一二日 やす香の電話で(戸外から?)朝日子妊娠したらしいと聞く。朝日子はやす香に話させ、側に居た。母迪子が応対。「めでたいが、朝日子は大変だな」と思う。
一三日 朝日子の電話。妊娠のこと確認。迪子が応対。初回に懲りて「つわり」を案じる。
一九日 朝日子へ発信(秦)。手書き。妊娠に対し、心して専一大切に、無事出産を、と。
二◯日 朝日子の電話。前便への感謝。
二四日 朝日子電話。つわりの由、保谷へ休息に行きたいと。
二五日 朝日子電話、明日、やす香と二人で行きたいと。(つわりひどいと聞き、前回例もあり、)安全上、★★に送って来てもらうように勧める。
二六日 ★★親子来訪。★★のみ帰宅。風邪気の由。出産等の★★側の対策等何の話も出ず。筑波大学の方、就職難航につき説明すこしあり。翌日朝日子誕生日、31歳。
八月八日以前 ★★★宛て発信。
八日 ★★★に電話。つわりも、やや軽快しており、前便の趣旨をふんだ、ともあれ対策の為にも、一度迎えに来てやって欲しい、と(迪子応対)。
明日、行くと。迪子に疲労あり。
九日 事情で、明日行くと★★の電話。秦家では迪子の体調、依然、違和。
十日 ★★★来訪。当方の事情(迪子不調、秦大きな仕事へ着手)あり、いったん朝日子は帰すが、今後について、「経費等の経済面はどうか」また就職もかなり難航の様子だが、こういう際は『道は開ける』(カーネギー)の説ではないが、(自分はいつもそう心掛けてきたが、)「最悪の事態(不採用)も予測してかかる程の心用意をしつつ、『待つ』も含め、いろいろに対処を」とも求めた。朝日子の親としては自然な思いであり、又、その時は、★★も普通に聞く様子だった。
出産については、産後はともあれ、幸いなことに現在夫婦とも在宅状態なのだから、協力して妊娠の安定期を過ごす方がいい。それが自然なように思う、それでも、「ときどきは骨休め、気休めに秦へ来ること、いっこう構わない」と勧める。もっとも秦の夫婦とも、老人介護をはじめいろんな面で楽隠居とは言えぬ事情、承知していて欲しいとも。
★★の三人、帰る。この日の対話内容は双方の手紙に在り。
八月 一二日 朝日子の電話。「今、高が手紙を投函したようだ。どうも、むちゃくちゃなモノに想われる。受け取っても気を悪くせず、忘れてくれ」と。まことに唐突な話。迪子が応対。
一四日 ★★★の秦恒平宛て、第一便(厳存)。迪子が読み、高宛て迪子が返信。
一五日 朝日子の電話。★★家での母子・兄妹紛糾のことども。
一八日 高の手紙を「無かったことにして」と、朝日子の電話。この先不安と。
一九日 迪子、朝日子とやす香に手紙だす。控えはない。電話掛けて来易いようにテレホンカード入れる。
二◯日 ★★★、再度、秦恒平・迪子宛て、第二便(厳存)。秦旅中、迪子開封せず翌日へ持ち越す。
二一日 迪子、★★の手紙を息子・建日子に先ず読ませ、建日子は母に「読むな」と示唆。帰宅の秦、読む。親子三人で事態を協議。★★★の非礼・非常識には、一切黙殺を以てすると。
二三日 電話往来の便に、朝日子へ予備の電話カードをまた何枚も送る。
二四日 朝日子、やす香の電話あり。
二七日 朝日子の電話(母・迪子応対)。姑小姑と同居の★★家を出たいと。高の浪人状態に、★★家族の懸念も募っているかと、推測。
二八日 朝日子の電話(迪子応対)。「高の家族」はこの家を出て行くよう、姑に言われた。高の妹は、高らが同居している限り、自分が出て行くと言う由。「働け」と兄に言うらしく、しかし「高は何の対策もしていない」と。
仲人の小林保治氏へ発信、時候挨拶と近況報告の程度で、控え無し。
九月 二日 朝日子の電話(迪子応対)。迪子病院へ出がけで話していられず。
三日 朝日子宛てに秦発信。行き違いに朝日子の手紙届く。封書の宛名は、やす香の文字で(現存)。秦方の西宅から建日子をよそへ出し、★★★ の家族に明け渡して欲しい旨。読んで、感じたままを書中に走り書きする。
一家で協議。物理的にも心情的にも成る話ではないと。
四日 秦外出中に朝日子の電話。母の応対では致し方なしと、切れる。
六日 朝日子の電話、秦受ける。保谷へ行きたいが、自分からの手紙はみたかと。前便の、老母の病室のある、また建日子の部屋や秦の仕事場のある西宅を、★★★一家に明け渡すのは、どうやりくりをしても論外、心情に於ても不可能と返事する。
「それなら(話しに)行かぬ」と。「来た方がいい。来て休息するがいい。よく話し合えば道が開けるだろうし」と。電話切れる。終日待てど来ず。朝日子へ手紙書く。
七日 朝日子宛てに、長文発信(現存)。
九日 秦の前便と行き違いに、★★★による、秦恒平宛て(現存)及び迪子・建日子宛て(「お付き合い読本」付き)の第三便届く。一方的に、「姻戚関係を解消」通告など、異様な内容。
十日 かねて用意の、やす香の誕生祝い品を、宅配。また「親展」「速達」で、朝日子へ父から手紙を出す。
十二日 ★★★の一存になると明白に読める手紙(現存)とともに、秦発「朝日子」宛て「速達親展便」が、速達で返送(未開封のまま。現存)されて来る。通信の勝手な遮断はかかる際の意思疏通や事態打開を妨げ、また親書の往来を侵す卑劣な行為。 怒り加わる。
仲人で友人でもある小林保治氏へ電話で、面談を願う。明日にと約束。
この日の午後、さらに、九月七日に秦から朝日子へ宛てた長文の手紙が、★★の「独断」で未開封状態のまま返送されて来る。この時点で、この手紙が朝日子の手に渡らず目に触れなかったのは、痛恨の事態。高も朝日子も、冷静を欠いた処置と、嘆息のほか無し。
十三日 池袋メトロポリタン・ホテルで小林氏と会う。ごく一部の手紙を見てもらい、「これはヒドイ」と小林氏の顔色変わる。
(小林氏と会うにあたり、俄かに手帳等により書き起こしたので、尽せてはいないが、往来した手紙の前後関係を明らにする程度には、足りていると思う。)
以上
以下 秦迪子の日記 原文どおり 秦恒平が公開する。
1991年
07/20土 朝日子から第二子を妊娠の電話あり、ツクバ、マチダ、ホウヤどこで生むか迷っている由。また悪阻用の薬をすみれ薬局から送ってもらってほしいとのこと、大相撲がはじまる前にと。早速薬局へ走る。3月5日が予定日。やす香がママの負担にならぬ様に、電話で話す。恒平さんも赤ちゃんを産むのは嬉しいらしいが、我が家(=での創作仕事)に心身の負担のかかるのは嫌だともめる。やす香乳歯一本抜けた由。
24水 朝日子から電話あり。ツワリは以前よりは楽ながら、すでに3Kg減ったとか。
25木 朝日子から電話。明日からこちら(=保谷の実家)で養生したいとか。嘔吐が激しくて。
26金 (駅まで出て=)やす香にゴム草履、そして簡単でのど越しのよさそうな食品を持てる限り買い集め、タクシーに乗る。ところがまだ2時過ぎだったため、(通学路指定で車の通行制限をうけ=)建具屋さんの三叉路からは歩き・・ムムム・・2時半、玉川学園へ電話を入れる。まだ出ていない。高さんにちゃんとついてきてもらいなさいよ、と念を入れる。ありあわせの夕食ながら高さんも一緒に、9時過ぎまで。
27土 夏休み中のご近所のお友達と、やす香遊ぶ。顔はマッ赤。(略)夕食後島村さんが花火をして下さる。やす香を預けて、30分ぐっすり眠る。8時に出かけてみると丁度終わったところであった。
28日 (秦長治郎様三回忌・ツル様四十九日・位牌入霊・納骨のため京都へ)
30火 朝日子にイタリー製のTシャツを土産に帰宅
31水 聖路加通院の帰途 ★★家その他お香典返しをデパートから。
08/04日 やす香は毎日島村さん姉妹や五十嵐さんの悠子ちゃんたちと遊べてげんきが良く、食欲も確っかりしてきた。高さんの就職は一体どうなるのか。もう大学は夏休みでどっちみち動きはない。それだけに7月には辞令が下りるという話の空約束が先行きを不安にする。朝日子にも一向に熱がなく、ツワリだけでない気分の落ち込みがあるのではないか。夫婦ともになげやりな気持ちでいるのでは困る。
05月 やす香をつれてお使いに出る。(略)公園でしばらく遊び、文房具屋で着せ替え人形を買ってかえる。
06火 ペンキ屋の足場が組み上がる。やす香は島村家が旅に出たのと足場組みが危ないのとで終日家の中に居らされる。その声のうるさい事、とても子供らしい可愛い声なのだが。
07水 (やす香と)お使いに出て、三仁さんでやす香花火をもらう。夕食後マミーと二人で花火。朝日子はいたって機嫌が悪く、体調以外に気持ちも病んでいる雰囲気が気に入らぬ。話し合ってどうなる訳でなく、本人の気のすむ迄と好きにさせている。私は精一杯、やっている。
08木 やす香今日もお友達無し。午后体力つきて(私)寝る。
09金 高さんの都合が悪くなり明日になる。それならば清瀬(姑入院中)へ行こうと思うのだが体がゆうことをきかない。昼寝する。私が苦しいといって横になると、やす香が深いため息をついて部屋を出て行った。さぞつまらない思いをしているのだろう。いよいよペンキ塗りがはじまって、シンナーの臭いが殊に台所と洗面所に立ちこめる。
パパと朝日子、徹底的に(働こうとしない高と、就職の選り好みなど=)話し合う様子、その間やす香は心をいため、聞き耳をたてる有様。子供というのはあなどれぬ。一緒にピアノを弾くなど、お相手をつとめる。
10土 高さん来る。おみやげは桃、やす香にも絵本と花火。でも私が昨日おととい、疲れがひどいこと、ペンキ屋が入って空気も悪く、やす香の外遊びも出来ないので、皆で一緒に帰ってもらう。朝日子一人残ってもいいと思ったが朝日子にその気が無かった様子。生活費の話もした。(略)朝日子とやす香が帰って肩から力がぬける。心配の種は尽きぬ。
11日 町田へ電話を入れてみる。朝日子はなんとか。やす香は大変な元気。その元気さが私をホッとさせる。
12月 朝日子から明るい声で電話をかけてきた。玉川学園の駅そばの内科・小児科併設の産婦人科で検診をうけてみたところ、評判も感じもよく、赤ちゃんの心音も確りとらえられ、第一その医院は家から五分でゆけるという。安心したらしい。一方高さんが何やらお父さんにあてて大分興奮をおさえられない手紙をかいたらしいので、余り本気でとりあってくれるなとも言ってきた。朝日子の苦労はいろいろある。
14水 高から手紙が来る。余りの手紙で朝日子の電話も忘れ、私はイカル!!恒平さんには読ませられない。実に不快。思わず返事を出してしまったが、朝日子にリアクションが及ばぬか、ひたすらそれが心配。
15木 朝日子から電話あり、夫婦仲に異常なし、とか。ヤレヤレ。
17土 旅行から帰宅の建日子に 高の手紙を見せる。曰く、お父さんの言辞にいたく気を悪くした、プライドを傷つけられた余り、という二分は割り引いてあげても、全くイヤシイ、アツカマシイ手紙。一銭の援助もならん。親に学費や小遣いの送金を期待する下宿学生の感覚から一歩も出てない、と。
18日 (私の留守に)朝日子から電話があり、建日子がやす香とも話した由。また電話があって、高の手紙は無かったことにしてくれ、こののちまたどうかなると思うと夜も怖くて寝られないと、朝日子は泣く。やす香や朝日子にシワの寄るのは私も耐え難いけれど、ヒッポのための送金をことわる。私のささやかな楽しみをとりあげる高に、無性に腹が立つ。
(おなじ日付で別紙便箋一枚が挟み込んであり、以下の文章。鬱積を吐き出したメモのよう。私の手紙の文体ではないから。)
朝日子は大人だし、もう31歳!! 親の方へだけ甘えて無理を言ってくるのは困る。
つわりで苦しかったら高に看病させなさい。仕事に出られなかったら仕事を止める、と言いなさい、我家で養生するのは我家の好意で義務でしているのではない。そっと目立たぬ様に援助していたのは、我々の好意で義務でしているのではない。それをきちんと認識すべきだ。夫婦で責任を完結させてもらいたい。プー太郎でも生活出来るこの人手不足のときに、失業者だとイバルな!! 無かったことにして欲しいというのは高の口からでないと話にならない。腹を立てているのは私自身で、秦恒平のかわりに怒っているのではない。例え娘の夫でも、私の夫をブジョクするにも程がある。
朝日子に結婚を続ける意志がある以上、これ以上にアラ立てない、ただひたすら口惜しいのはやす香が幼稚園にもヒッポにもゆけぬ事。高は多分、私たちのせいにするだろうが、それは高自身の責任。
やす香のことを思うと涙が出そうになる。
高の就職祝にパパが百万円包むといって建日子にたしなめられたことがある。
金持ちぶってる、と、よい気持ちを与える額ではない。自分ならかえって足が遠のく、と。建日子が(高の)手紙を読んで、曰く、これは高さんは(=建日子とは)違うようだな、ホイホイヨロコブダケの様だと。
19月 朝日子・やす香あてに簡単な手紙をだす。朝日子はしっかりすることを願う。ひとを頼りに泣いていてはダメです。
20火 やす香と高から手紙が来た。高の分はまだ開けていない。読む気になれないので。とりあえず建日子に読んでもらおうと思う。
21水 建日子 高の手紙を読んでくれた。私やお父さんには読むな!! 無視しろ!! 不快が増すだけだよ、と。迪子宛にバリゾウ言と、前便の写しを(読む気のない)パパ宛に再度封入されている由。
22木 朝日子とやす香に宛てた手紙を出してあるのだけれど、一向に電話が来ない。朝日子・やす香・高が円満な家庭をつくっているならそれはそれで良し。高の性格をみきわめて離婚するならやす香もつれて帰って来て欲しい。
27火 朝日子から電話あり。高に対し援助を求めてきた。隣の家(=買い求め京都から両親が引っ越してきた一棟。舅死後、姑が階下に。二階に夫の仕事部屋と建日子の部屋)を提供して欲しいという。夜三人で話し合ったが簡単にノー、と結論が出る。
28水 恒平さんの留守に朝日子から電話。★★のお母さんから何の権利があってここに住むのか、出てゆけ、と言われたとか、***ちゃん(=高の妹)が、ひさしを貸して母屋をとられるとはこの事だわ、私が出てゆく、と100万円の用意で独立を宣言してアパートを借りたとか、そして高の魂を救ってくれと(朝日子は)いう。高をここで甘やかしてはいけないこと、パパに助けを求める前に高にしっかりしてくれと励ますこと、と忠告する。高はやす香の手をひいてふらふら散歩している由。何ということ、妊婦に心配をおしつけて、手をこまねいているとは。
29木 昨日朝日子にハッキリ言いすぎたと思うと、心配で心配で昨夜もよく寝られず、一日、気になって仕方がない。やす香はヒッポも幼稚園も友達も得られないという文字通り弱いところにシワがよる。高というパパはここで奮発しないでどうするのか、私は気が気でない。
30金 **氏来訪 なんとしたことか恒平さん高の件をこぼしている。
31土 夕方やす香から電話あり。朝日子は、相変わらず吐いているのに、買い物、夕食づくりをしているらしい。高は手伝わないのだろうか、私は不満。
09/02月 朝日子から電話。静脈瘤に悩まされている由。一度うちへ来てゆっくり今後について相談したいものと思う。
03火 朝日子から手紙が来た。相変わらず高温存、パパに助けを求めるもので、愛ゆえというか恋ゆえというか盲目である。電話や手紙ではラチがあかない。といって来て話しても仕様がない気もする。高を失いたくない、という一点だけが(そうは書いていないが)よくわかる。
04水 恒平さん東工大へでた留守に朝日子から電話。いささかならず高姿勢というか元気というのでないテキパキした様子。この週末に一人で来たいという。私も電話ではラチがあかないから来て話すのはよいと思うが、一方ヒステリックになられたらどうしよう、と案じられる。電話では、ツクバの事(=就職運動が学内抗争のこじれで立ち往生)など吹っ飛んだ状況なのがヒッカカる。深夜建日子も交えて、A子の手紙とこの一件を検討。この手紙(=隣棟の建日子の部屋を、★★★に頭を下げて、明け渡せ)の趣旨に関する話し合いのための来宅なら拒否する旨結論を出す。
05木 あ子のことが心配で、恒平さんと二人、アーアと溜息ばかり、私は出産に関わる医療費を出してやろう、というと、恒平さんは(大学勤めだけが職場ではない。まるで働こうとしない無責任な★★★に)現金は絶対やらぬ、という、そして全くツクバが黒白きまる迄おあずけ、その一方で高が(=自筆で)借用証を書くなら100万円(=程度なら)貸してもよい、とも。
06金 あ子から電話 西の話は無し、とパパに言われて結局来なかった。やす香の誕生日祝いに約束の(おもちゃの)洗濯機を買って来たのに、どうしたものやら、一旦物置にしまう。
07土 お父さんは昨日から必死でA子に手紙を書いている。原稿用紙400字詰めで30枚になるか、出しても読んでもらえないかもしれない、と言いつつ、ポストへ。
08日 お父さんが朝日子に手紙を出したときいた建日子曰く。まともに読めば感動的なもののある手紙なんだよ。でも朝日子は根本からいかれているから、読まないか、読んでもわからないのではないか、と。
09月 笑ってしまうがまたまた高から手紙が来て、宛名が建日子まで拡大した。本当は笑うどころでない、アキレ、改めて怒り、悲しく淋しくなり、この日記をひろげた時には、こう書き出していたわけ。建日子の帰宅を待ちかねて、建日子にも読んでもらう。金をくれぬくれぬとこういつまでもワメケルものだ、というのが建日子の感想。他所へ愚痴をこぼさぬこと、高にさわらぬ事、というのが建日子の意見。そして我が家にダゲキをあたえた、という実感がつかめるまで、イラ立って繰り返すだろう、と建日子は推察。
10火 パパが一日かけて朝日子へ手紙を書いた。親展として速達で出した。朝から(私)具合がおかしくて安定剤を呑んで午睡、夕方やす香に約束の洗濯機を贈る。宅急便はこういうとき便利ねえ。やす香がどんな風に手紙を読むか、包みの届くのを待っているか、届いたときどんな声を出すか、想像して楽しんでみる。やす香から礼状が来るかしら。お父さんは遺言状を認める。
12木 高ときたらお父さんが朝日子に出した手紙を、無礼な文言とともに送りかえして来たのだ。あらためて、今迄目を通していなかった分も含めて、高の手紙を読み返してみたが、仮に恒平と対立しても夫婦親子としての絆が強いのならば、などと私が考えていたのは大甘であった。確り気がついた。建日子のいう様に今は泣いても離婚して新しい人生を選んだ方が、朝日子も結果幸せだろうと思う。
13金 今日は小林先生におめにかかるつもりであった。昨夜、建日子の忠告を受け入れて高との一件は持ち出さないことにした。故に私は出かける必要がなくなった。建日子の曰く、高とお父さんでは挌が違う。高に返事を書いて挌を落とすな、平然と無視するのがよい、つまらぬ事でこの様な文章を後世に残すな。高から小林さんへ持ち込まれ小林さんから働きかけがあった時に一切うち明けるのがよい。どう客観的にみても非は高にあるから堂々としていなさい。朝日子へは建日子がコンタクトをとり、パパの手紙を手渡してあげる、と。そして今朝、早速あ子と連絡をつけてくれた。感謝。
14土 昨夜の建日子の報告で、朝日子に与えた著書が段ボール箱につめこまれて送られて来ることはわかっていたが、もう一包み、とても軽い衣類と書きこまれた袋が届いた。やす香のダッフルコートであった。ひろげたり、たたんだりしながら思わず泣いてしまった。この冬着るべき120サイズのコート、私が送った洗濯機で一悶着のあと、腹いせにコートを送ってよこしたに違いない。何という父親か、建日子が高には我が子、父親という意識がないのだという。何で、とききかえすと、カセガンと一言、一日中保谷の悪口をわめきつつ荒れているという。
15日 私は発想の転換をし、やす香のコートまで送り返して来たのは即ちこれ程の援助ももはや受けぬという、独立自尊の表現ととらえて、これでよかったのだと思うことにする。思い出したが私もお見合いの経験がある。NHKのY氏と。Y氏と見合いをし祖母・母御さまとも見合いをし・・・(略)・・NHKはおつきあい次第、おつき合いが大変なところなので給料はそちらへ使う、家庭生活は奥さんが支えて欲しいがと、資産をたずねられた。高も最初にそうやって(秦に)たずねればよかったのだ。
16月 高から封書届く。表に秦書簡集在中とあるので、こちらから出した手紙と、いやみの一言も入っているかと推測されるので、開封せず。
17火 毎日朝日子一家の有様、はなはだ気にかかり、ウツウツと楽しまず。ちょっと電話してくれればと思うものの、朝日子にも意地があろうし、都合もあろうし、私たちとて様子が知れたからさて、何をしてやれるものでもなく、やはりしばらくは下手な手出しはならぬ、と気をとりなおしている。
18水 (秦恒平東工大教授会で教授として迎えることにOKが出て)それにつけても高のこと案じられ、ともかくも10月末までは静かにしていることを再確認する。建日子は(略)朝日子の態度にがっかりしていて、やはり静観派。
20金 晩9時伴頃か、朝日子から電話あり、後ろに他人が並んだからと短く切れたらしい。電話に出たパパは何一つこちらの気持ち・心配を告げることが出来なかったと悔やむ。
21土 昨日のA子の電話で不如意が気がかりで、電話をかけてみよう、などというが、私は反対。もう一ヶ月程は音無しでゆく。
25水 (恒平山形県へ講演に出かける)A子から電話。やす香が手紙を書いたから出すけれど返事はくれるな、市の福祉課から出産費用を出してもらうことにしたから心配するな、テレフォンカードでも送り返されるだけだから送ってくれるな、ケンカになるから、と。着るものもなんとかなっているから電話がなくても心配しない様に。そして建日子とした様に夕食なら一緒に出来るからということであった。
26木 やす香から手紙が来た。そして夕食の話題はやはりA子のこと。A子が栄養をつけて(二人の健康のために)無事出産のための金銭援助を、例えば郵便局の通帳(=朝日子名義の)に入れるということで、出来るかどうか、まとめてがよいか、月々がよいか、A子のかかっている産院へ十分な手当を依頼し、請求書を保谷へまわしてもらうか、などなど。しかし、健康な夫35歳は、生活保護を受けるということをどう考えているのか、就職のための活動をしているのか。
27金 金曜だが朝日子から電話なし。朝日子が結婚し、建日子が就職し、あとはお年寄りをしっかり見送るのみ、と思っていたのにとんだ心配事が降ってわいたもので、しかし、高ももうあとへはひけないとなると、若い二人にまかせて・・・というしかないか。
10/02水 (秦 恒平に東工大工学部教授の文部省辞令)
03木 やす香に会いたいと思う。子供は状況になじむものだから、気にすまいと思うものの、会いたい。やす香は幼稚園・保育園を経験できるのだろうか。
04金 A子から電話なかなか無し
11金 (台風大雨で)金曜(妊婦の都内アルバイトの日)と思うと朝日子は大変だったじゃなかろうか、と、気になる。高の就職のことも、改めて気になる。(ご近所の)島村さんに、やす香ちゃん、しばらくみえませんねーーーと。悩みを話すわけにもゆかず・・・・。
13日 夢を見た。私が朝日子達の家を訪ねる。不機嫌な高と話しをする。もうすぐ(就職)きまるという、11月という。やす香が私の肩程大きくなっていた。
15火 朝日子からは一向に連絡入らず、あれこれ考えあぐねるが、やはりどちらへ向くにしろ、私がのこのこ出かけて解決を計るのは、コッケイかと、高や朝日子の齢を考えるとどうしてもそこへ結論が。
16水 やす香から手紙が来た。いい子にしている、保谷へ行きたい、手紙がほしい、と。*崎***さん(★★★の嫁いだ姉で同敷地内に新築し夫妻で住む。)の領収証がどうした訳か入っていたので、それを返送しがてら、やす香に返事をかいた。ドーナルカナ
18金 藤平先生(秦の友人でもある早大文学教授)よりいただいたはがきに、高、筑波大に専任できまった、とあり、我々??? どうか本当でありますように。
26土 (二人で外食しながら)A子をつれて来てやりたい、とパパ。
29火 すみれ薬局の前でふと思いついてA子に栄養剤を送ってもらう。
31木 午后朝日子から電話。栄養剤が届いてありがたいこと、貧血していること、明日は***さん(義姉)がやす香をあづかってくれるので、早く家を出られるから、池袋で一緒に食事をしたい、と。私は(昨日の交通事故で)動けないのでお父さんが行くことにする。
11/01金 午すぎA子に頼まれた化粧品ややす香のパジャマ、500円玉貯金箱の中身も持ってお父さん出かける。欲しいものを買ってやろう、と出かける。出かける前美濃吉に鯉コクは出来ないか、など電話をして出かける。朝日子は無理無体にお父さんに折れてくれという。高の就職は2年後などという。産院は費用の安い市民病院とのこと、追いつめられている、というか、辛抱しきれぬというか、前後の見境がついていない、哀れである。
16土 朝日子から電話あり。やす香にお茶の稽古の真似ごとをさせるから、茶筅とふくさが欲しい由。月曜、お給料をもらいにゆく、パパと池袋で会うこととする。
18月 朝日子と会う予定でお父さんは出かけた。(略)(朝日子に)表情のないのが心配な様子。それでもお茶を飲んで何がしかの会話はかわしてきたみたい。曰く、(★★★は)東北福祉大学から招かれている、曰く、筑波が四月迄には何とかすると言っている、曰く、出産後、(★★の親と)別居したいが、月々のアパート代が出ない、曰く本が大切なので学園の家から遠くは無理、ママがしんどいなら行かない。
29金 お父さんが明日能を観にゆくから そこで小林氏に出会った折に、何か頼みたいことでもあるか、と私に聞く。が、結局なにも言わない。何がどうなって欲しいのか、もう、わからなくなってしまった、ということであろう。やす香ほどの子供、赤ちゃん、妊婦さんなど目にすると、胸がさわぐ。が、何もしてやれない。が心配する一方で、何はともあれ、ドーンと落ち着いていることが必要なのだ、と、そういう気持ちもしきりにする。
12/02月 やす香から手紙が来る。コート預かってるよ、と返事をかく
03火 朝日子の大學時代の奨学金の返金を立替え払する。
05木 朝日子へ栄養剤をすみれ薬局から送ってもらう。
16月 朝日子から電話があって、20日金曜午後2時新宿駅南口から5分とかからないホテルサンルート東京のロビー、ときまる。和式寝間着一着持ってきてほしいと。
19木 明日は朝日子の約束だったが、A子からキャンセルの電話。
20金 朝日子から電話あり、来週27日に昼食と一緒にすることとなった。建日子もいうように、お父さんもいうように、どうもA子の態度に可愛げ、というものがない、淋しいことで、情愛というものが伝わって来ない。どこに朝日子の真意があるのか、どうもうまくゆかぬ親子で、うまくゆかぬなりにも、朝日子が意気高く幸せであればよいのだが、変にみじめったらしいのが気に入らぬ。悲しい。建日子も帰宅後一番にA子との話どうだった、と。キャンセルをわすれてたずねてくる。気にかけているのだ。
25水 やす香の名で、誰の字かわからない上書きの宅急便が届く。赤いきれいな包み紙に金のリボン、何事かと胸がドキドキしたが、あけてみたら、やす香の手紙と小さなリース、クッキーそして***さんと*崎さんと(義姉夫妻)でリス園とかへ出かけた写真。
26木 明日、朝日子と何を話そうと、気が重い。
27金 新宿駅南口近くのホテルで(恒平さんと一緒に)A子と会う。昼食を一緒に。これ迄の何もかもが行き違って居るようで、話はつきないのだが。別れてのち殊に家に帰ってから何やらとりかえしのつかぬ思いで胸が痛み胃が痛み、あ、餅代も与えてやれなかった、と、淋しいこと限りない。やす香のコートについては、次の子が着せてもらえるように、それくらいのスタンスでとA子はいう。帰路大変な雪、胸が痛み吐き気がし、食欲なし。
29日 〔略〕ただ朝日子のことが心と頭から離れないのでウツウツとして楽しまず。しかし(朝日子)親に向かって説教する一方というか小理屈でねじ伏せようというか、あわれであるが、これではいたし方ないのかと思われる。高は専門馬鹿で致し方なしとA子はいうから、私らも放っておくとして、A子が己のために何とぞと率直に物を言ってくる迄待とう。
1992年
01/04土 鳴る電話は朝日子から。新宿からだという。もうすぐ (妊娠)九ヶ月に入ること、無事正月を迎えたこと、1月いっぱい週2回(アルバイト)の塾通いのこと、(お茶大の友達)*又さんが国連係りだそうで、関連に職・アルバイトを与えられたらよいな、という話など、専らおだやかに世間話。
25土 やす香からはがき届く
27月 A子から電話 pm8:45 これで代々木通いはおしまい、とのこと。
出産後、やす香、赤ん坊、嫁、姑、失業夫、等、いよいよとなったら(子連れで朝日子、保谷へ)来なさいよ、というとハイと素直な声が。
28火 朝日子が定期検診後の電話をくれる、ということだったのに、電話なし。
(通販で部屋着を)朝日子の分も一緒に注文したが、いつ彼女が着ることやら。やす香には大好きよー!! と返事を書く。105度分のNTTカードも入れて。
02/03月 朝日子から電話があり、薬は当分不要のこと。やす香から手紙が来て、どうしてお手紙をくれないのですか、と書いてある。
15土 お父さんは喜多節世夫人のお葬式に出、その後小林保治氏の出版祝い。二人だけで。その席で、★★★の就職がなかなか難しい事、○○先生にその事を尋ねようとしたら、カンニンしてくれ と手を振って逃げ出されたとか。
17月 無言電話あり、溜息まじりに切れたので、追いつめられたA子でないかと、とても心配。
18火 朝日子から電話あり、穏やかな良い声で安心する。ひら仮名のハンコの半勉強おもちゃ、やす香はとても気に入って、文字としてだけでなく、図柄遊びにも用いている由、うれしい。
29土 2月が終わる。朝日子の出産気がかりなり。
03/01日 今日から3月、A子のBabyのことがあるので、この3月は特別だ。やす香に手紙を書いた。
03/05木 3月4日と日付の入ったやす香のはがきが届く。あかちゃん まだ うまれていません。と書いてある。今日は予定日
08日 朝日子から連絡なし
10火 A子から電話があった。やす香に妹が誕生した。午前5:30分だそうだ。熟睡中の午前2時頃、プチンと音がした様な気がして目覚め、異常に気がついて高をたたきおこし入院。既に破水にて、感染防止の注射のみの自然分娩、3260g。我が家サイズなり。やす香とそっくりで不思議な安心感があるとか。漠然と男子を想像(A子と建の如く)していたらしいが、こればかりはどっちだからどうと言えることではない。高が厭世気分がとても強く、当分保谷へ来ない由。胸が痛む。
11水 夕食は朝日子の無事の出産を祝って特上寿司計5人前を一つ桶に盛ってもらって華やかに。
15日 夕食後A子から電話。明日退院とのこと。大事にする様、念をおす。そのあと、お父さんとお祝いの件相談する。やす香のときはうちに居たA子に小遣い5万円とお祝い20万円あげたが、今回は高の件もあってまことにお祝いを出しにくい。突きかえされるのも不快だから、A子に努力賞10万円、そしてベビーには祝いを借りておくことにする。
16月 雨の中早速郵便局へ出向き、A子の通帳に10万円入金す。3月3日に10万円の入金あり。その数字をみながら、なんとかやっているらしい、とふと安堵する。建日子が帰宅して、そのことを話した。建日子は金銭でもめた相手に金をやるかなア、僕なら徹して放っておく、という。私は何のかんのと言っても、出産は女性が生命をかけている、A子は変な情況でも無事の出産よく頑張ったね、という気持ちであげた。やす香のときの半分以下なのよ、と話す。建日子は僕も子供つくって10万円もらおう、だって。10万もあれば、とてもうれしいと。
22日 お父さんは能をみたあと小林(保治)先生とうなぎをたべて。高の(就職)状況、なかなかうまくはない由
26木 もう名前も届け出たであろうが、A子達から連絡なし。
04/09木 朝日子から電話あり、やっと10万円郵便局の口座に入れておいたことを告げることが出来た。私の写真も入れたやす香宛の手紙をやす香がひらひらさせて走りまわっていること、みゆ希の写真を送ったことも知らぬ顔でいてくれということを話して、みゆ希が泣いているといけないからと、きれた。
11土 今年の正月から4/3迄の写真をアルバムに貼る。みゆ希の写真も貼る。
14火 朝日子から電話。みゆ希の声もきこえた。二人とも順調、みゆ希は1Kgの増とか。高は(期待の専任講師でなく、教職外の)技官としてツクバ大学に5月1日から奉職、連休には転居のつもり、の由。東工大の資料によれば、技官が助手の下で、気になる。朝日子には希望と自由のある生活を祈る。
05/01金 やす香から封書がきた。つくばへ引越しのこと、みゆきちゃんの絵、まみいにたずねて来て欲しいこと、など。玉川学園の駅からの地図の如きものを添えてある。いい環境であったと思うので、さてつくばの住居はいかがなものか。
07木 やす香の手紙(5/1着)によれば、今日は引越し予定日。これでこののちA子達から連絡がなければ、我々としては連絡を直接とれないこととなった。昨日も今日も電話一本ないのだから、技官の件にしろ、こちらには心配がいっぱいあるが、仕様がない。建日子に言わせれば、高は誇りをウン百万円の損益とひきかえているわけで、その上、世間を狭く切りつめているのが良くない。狭くすればする程生きにくい、馬鹿だなー、としみじみ言う。やす香は幼稚園に入れるかな、A子と赤ちゃんは健康でいるだろうか。
12火 A子から電話あり、住所305つくば市並木4-913-201 Tell 0298 51 9303 高は毎日登校していること、学校と家はやや離れていること、森の中の団地のこと、二階のこと、やす香が帽子とカバンのみお揃いの私服の幼稚園に入ったこと、二日で緊張のあまり熱を出したこと、でも電話も手紙もくれないでくれ、とのことで、電話がきれてから、がっかり。
22金 筑波のA子に電話してみる。タイミングがとてもよかったようで朝日子とゆっくり話すことが出来た。技官の件、金銭の件、幼稚園の遠足のこと、朝日子のアルバイトのこと、町田の皆さんのこと、建日子のこと、建日子はド素人なのにつか(こうへい)さんにどうしてああ可愛がられるのかしら、といったら、私と一緒よ、その場を煙にまく位の口が口だけならたつのよ、でも実力がともなわないので、私も近ごろは言わないようにしているのよ、だって。
06/01月 朝日子から午后電話あり。やす香はお古ながら自転車を手に入れたこと、高が風疹で寝込んでいること、小林先生からみゆ希にお祝いが町田の方へ届いたので、筑波へ転居した由お礼状出したとか。建日子の車、不要になったら欲しい由、団地にスーパーと薬局はあるのだが、街へはバスが必要で、みゆ希の乳母車は大きくてバスに乗れないとか。章小父様(迪子の親戚、岡井章産科医)ご他界で私はとても悲しい気分なので電話は嬉しかったが、家でかけられない電話とは・・・・。みゆ希がアーアー言っていた。よくお喋りすること、ミルクの他に家族のたべている物を欲しがること、しっかりオシャマサン。
06土 一人でふと目をやると朝日子の写真が笑っていて、その横にやす香の絵。なんで私はこうして一人なのだろう、どうしてやす香やみゆ希をだけないのか、と。積極的解決方法何がないかなーと皿を洗いつつ思う。
14日 お父さん能に行く。小林先生と会ったこと、不快をかくさず、高の件を話したと。
25木 朝日子から電話あり、幼稚園の夏祭りのためゆかたが欲しい。お父さんが電話に加わって、お父さんはだんだん声が高くなるし、とうとう朝日子が泣いてしまった。今のままでも、朝日子が意気盛んで輝いていればそれでいいのだろうが、なにかびくびくしている雰囲気が伝わってくるので、何とかならんのか、といういら立ちが当方に出てくる。結局ゆかた数枚、レターセット、哲学のライオン、それに500円玉で25000円、下駄代?としてじいやんから入れた。久しぶりの宅急便なり。
26金 午後3時、電話をしたらやす香が家に居るというので出してもらった。お友達が複数遊びに来ているらしいので、ほんのちょっと、まみいよ!!と挨拶ていどできりあげたが、やす香は遊びにゆくからね、と声音が優しく、まみいをしっかり認識してくれていると実感出来て、私はとてもうれしい。
17金 昼前、朝日子に電話をしたら留守で高が出た。タカ様(秦の母)の病状悪化したので朝日子に話すことがある。都合のいいとき電話を寄越す様に言う。午后、ゆっくり話す。タカ様の様子、医者のことば、そして、先だったお二人(秦の父、叔母)の例からして、我々の観察、我々の感じ方はプロの人達より甘いこと、それから意識がなくなってからでは、やす香もみゆ希もないので、頭の確りしている間に、会わせられるものなら、と。あとは、朝日子の気持ちと判断にまかせた。朝日子はしきりにパパはどう言っているの、をくりかえす。
20土 やす香のゆかた姿と、みゆ希の写真が届いた。とりあえず、タカ様に見せてくれ、という気持ちであろう。
23木 朝日子に電話、写真のお礼とタカ様の様子の報告、やす香と高は学園へ行って留守、とかでゆっくり話せた。タカ様一時帰宅に会わせて行きたい由。
08/06木 朝日子から電話あり。みゆ希の泣き声をたっぷりきいた。ハイハイの前段階にあるらしく元気な様子をきく。タカ様が食欲不振ながら意気(息か意識か)まだある様子を伝えたところ、みゆ希の咳もまだあるし、暑いことでもあるので、やす香の誕生日あたりなら、見舞いにゆきたいという。私もそれでいい気がする。もっとも建日子が送り迎えしてくれるならいつでも来るって。
13木 朝日子に新潮、やす香に手紙を送った。
21金 私は一眠り、お父さんは散歩、の留守に朝日子から電話。うたたねから覚めるのに好都合であった。来週頭に来てよいか、というのが主な話で、私の順天堂ゆきが26日(水)なので、出来無くないが、と返事。小林先生ご夫妻の来宅のないこと、それから私が送った新潮とやす香への手紙は、うけとっていない由。言葉にならぬ落胆なり。
24月 A子から泣きながら電話がかかって来た。もう鞄の用意もすっかりして玄関に出してあるのよ、でも高が行くなら一人で行け、とか、離婚するとか、ドダイムチャクチャを言うらしく、家庭をこわしてまで行けない、と言って泣くのである。高は我々と断絶を求めておきながら、ピタと拒絶されてみると、逆にそれをうらむらしく、金の卵であるはずの高がそれに値する待遇を誰からもうけられず、妻子のために技官などひきうけねばならぬ。全部何もかも秦恒平のせい、と。高のどの知人も、★★家のどの友人も何一つしてくれない、と。
25火 朝日子に電話をかける。生協の日だそうでなかなか電話に出なかったが、結局4,50分話し込む。(朝日子が)ビールやワインでウサを晴らそうとするらしいのが心配。みゆ希はベッドの中から室内をしきりに見渡すようになり、今日もベッドから出してやると転がって一直線? にお姉ちゃんの本棚へ向かい、出せないので叩くばかりながら、一向にその場を離れないで御機嫌らしい。
09/03木 建日子が休暇をとって私を車にのせてみゆ希に会わせてやる、という。とりあえず朝日子に電話をして、建日子がどんなことを言ったの、ということから話をはじめたが、気持ちがうまくかみあわず、結論は持ち越す。やす香の元気のよいセーラームーンという歌をきかしてもらう。やす香はやさしい声音で、あいたくて思考回路がショートしそうよ、などとうたうので、三度もうたってもらった。思いがけない歌だった。夜小林先生がお電話を下さった。とったのが私だったので思わず現状をルル訴えた。訴えているうち頭痛がおこりはじめ、パパとかわってもらう。今日は胃痙攣・下痢・頭痛・吐き気でぐんなり。
07月 (聖路加主治医の)林田先生を通して予約の聖路加の心理士野付さんと面談
09水 建日子の車でA子の家まで出かける。みゆ希も朝日子も発熱しているし、高も音楽会に出かけず帰ってくるらしい。忙しかったが、やす香の幼稚園も見、やす香と食事もし、会ったときは嬉しそうにとんで来てくれ、帰るときはおしっこたれるほど泣き悲しんでくれて、保谷の家族を忘れるどころか、ちっともかわっていないやす香でとても感動した。みゆ希はおっとりとひと見知りもせず、愛らしかった。祝い金20万置いてくる
10木 A子に電話。どうもA子は会っても話しても心配を残す。気掛かりですっきりしない。建日子に言うとA子は根暗だから、という。高はみゆ希を高い高いしながら、そうかみられちゃったかーーと言ったとか。パパがA子に与えたお金でピアノを運べる、それで御機嫌なのか、と私も嫌なカングリ。
21月 心理士野附さんと話す。私の留守にお父さんは朝日子に電話したががっかりした由。木で鼻をくくったと言うか愛想がないというか、それをしも親に甘えるポーズととるか。
22火 タカ様のためにやす香とみゆ希の写真をひきのばし、さしあげる。(略)帰宅後朝日子に電話。タカ様は体力的には一応持ち直したが、薄紙をはぐように(?)ボケてきている。写真の効果も大してなかったとつたえるつもりが、突然朝日子が興奮しだして、電話を切るに切れない、この間の訪問がよくも悪くも大変な刺激になった様で、その興奮の大きさが、またしても心配の種となる。
23水 朝日子の家庭 *秦と無関係ならよい家庭
*秦から金銭援助がないとトラブル
*朝日子はホレているが高は冷淡 どれだろう
10/05月 聖路加野附さんと面談。朝日子のゆれる心をそのままきいてあげるしかないでしょうとアドバイスを受ける。A子の家族はA子が父親(という大きな存在)から独立するための大切な拠点。高の気位の高さと、金銭感覚は、可哀想に、大学教授の家庭にあっての最悪の伝統。偉い人は金をかせがず、貢がせることを当然とする。
12月 午后やす香と電話で話した。お友達が5人来ていること、みゆ希はハイハイが出来ること、だからダイニングルームもきれいに拭き掃除が必要なこと、ハンガーでも何でもなめること、ママと言えることなど。ママは子供達へのサービスで忙しいと言って、元気よ、と言っただけ。A子の為に電話をかけてあげているのに。
14水 午后A子へ電話をしてみる。静脈瘤について話す。雨に降り込められたやす香ともちょっと話す。保谷へ来てまみいとお風呂にはいりたいという、温度計の舟をうかべて遊んで、いいにおいのお化粧をつけたいという。14,5ヶ月も前のことを、実によく覚えていて、するする話題にするのが驚く程、また会いにゆきたい。
18日 建日子が、土浦方面へ車で出たときは朝日子の家をたずねてみようか、そのつど考えるよ、などと話す。
23金 朝日子に電話したが、かえって気がめいる。
29木 やす香たちへ贈り物を宅急便で出す、届くかな?と思うところが悲しい。
11/09月 やす香が一輪車にのっているところ、やす香とみゆ希が二人並んでいるところ、向き合って遊んでいるところ、など写真が届く。A子はアルバイトの収入でやす香に電子ピアノを買った由。咄嗟に年末に来る育英会の返還をどうするのかしら、と思う。でも、放っとくこと、放っとくこと、と思いなおす。私はかまいすぎてはいけない。
21土 やす香から手紙が来た。便箋一枚にぎっしり書いてあって、殊にみゆ希とのあれこれは具体的に書けていて、やす香の成長ぶりにおどろく。その旨電話した。ついでに自転車が欲しいか、ときいたら、引っ越す予定だから寒さにむかうことでもあるし、いらないという。
24火 やす香に返事を出す。幼稚園の前でとったマミイとやす香の写真を入れた。
30月 静脈瘤は外科、血管外科というのがある由、聖路加できいたのを朝日子に電話する。元気がなく、何も話さず、またもやがっかりする。
12/11金 朝日子に手紙を出す、お父さんも同封、ほんの近況報告。
21月 (三越で)思案のすえにやす香とみゆ希に服を、これは、とてもとても可愛かったので、お年玉に贈りました。夜も11時がすぎてからA子より(秦の誕生日)おめでとうの電話あり、お父さんよろこぶ。
24木 X’Massカードが届いたから、と、冬休みに入ったばかりのやす香から電話が来た。背の高さは120cmだって。お年玉はぴったりだ。入学式に着てもらえるとうれしいな。
1993
01/11月 午后A子に電話した。高は春から青山学院の専任講師に就職する由。そのためにまた引っ越す、3月中に。やす香のランドセルはもう自力で買ったと。静脈瘤の治療は東京へ帰ってから。小林先生は筑波で辛抱した方がいいという説であるとか。高が今日フランスへ行ったので、私に遊びに来いという。
14木 建日子が車で水戸へ出る途中、私をA子のところへ連れて行ってくれると言うのだが、今一つ気が進まないので、ことわりを言うためA子に電話したら、建日子はA子の方へも電話を入れていて30分も話し合った由、建日子の心根に感謝する。でも、今回は流れ、ということか。建日子もウンザリしてるかな、と思うと悪いね、でも気持ちはありがとう、と言った。
15金 朝日子・やす香・みゆ希が(里帰りに)来た。午后7時半ごろ。みゆ希は智恵がついてきた、というのか、よく泣く。ママの衣服をしっかり握って、ママのそばを離れない様、頑張る。積極的意欲的でもある。ママとならお風呂も泣かない。やす香はすっかりいいお姉さんで、みゆ希のママがわりが出来る程。でも食べてお風呂に入って寝ただけで、いわゆる話は皇太子妃の話題程度。
16土 小豆がゆとお福茶の朝食ののち、A子たちは出発。やす香のために(タカ様がA子のために昔用意した)着物・本・おもちゃ少々・お茶二箱・例のダッフルコート・リンゴ・クッキーなど盛りだくさんの荷を車に積み込んだ。やす香には5000円・A子は腕時計がお年玉。(タカ様を見舞って)建日子の車で帰宅。彼女ら3人が帰ってしまうと、重い空気が残った。電話があって、忘れ物をしたから送って欲しいという。A子はその電話に出ずやす香が。
17日 朝日子に電話をかけて少々お説教をしておいた。忘れ物は宅急便にして出す。
18月 朝日子が機嫌の良い声で宅急便が届いたと礼を言ってよこした。これで良いのだ。建日子が繰り返し甲斐のないお姉さんだとなげくが、朝日子が今日の電話のようであれば、皆に愛されるのです。
02/25木 国立大学入試(監督)にて恒平氏は早朝より出かける。筑波も入試で高も留守かな、と思ったが気が進まずA子に電話せず。いつ引っ越すのだろう。
03/03水 お父さんが、高の絶縁状にこたえて、こちらからも絶縁という挨拶を、少なくも結婚式に出てくれた方々に送りつける、というので、建日子と二人で一所懸命とめる。
09火 (昨日のTVで話題になった谷崎潤一郎の書簡の件で)朝日新聞にもチラ、と秦恒平の名が出たので、A子も電話を寄越した。曰く、3/31付で筑波退職のこと、学園8丁目に3/20以降というマンションと契約したこと、やす香の卒園を待って引っ越すこと、入学式は4/6のこと、タカ様のお見舞をしたことで高が大いに荒れたので、電話もする気になれなかったこと、写真はいらないこと、次の連絡は引っ越してからすること。
10水 やす香から手紙が来た。去年の暮れに贈った洋服を着て、みゆ希の手をひいている写真も添えてある。早速返事を書いて、出す。
29月 建日子が今日A子に電話をしたという。(建日子結婚式の)招待状を寄越すのでしょうね、と言い、夫婦で出席して、おめでたい席のことでもあるから冷静に話し合うことが出来るのでは、と夢のようなことを言う、と建日子はあきれている。解決に至らないのは母さんのせいだとも言われ、建日子は何のことやらとキョトンとしてしまったともいう。明日引っ越すそうです。建日子が話に出向いても、建日子がその場で激怒しそうだというし、ものの順序として、高との話し合いが必要ともいえるし、さてどうしたものか。
04/05月 夜遅く帰宅した建日子が、会社に電話があったがママか、ときく。話し合って多分A子だろうと。留守電セットしないで留守にして、後悔する。
07水 A子から電話。青山大學国際政治学部講師ヨーロッパ(仏)担当、給料も大幅にあがって、本人は大変機嫌がよいが、家庭教師をクビになり、家賃13万(筑波は1万3000円、)敷金、礼金を***さん(義姉)と母上(★★母)に夏のボーナス迄借金、手もとに現金がなく、初給料が待たれる由。
08木 朝日子から手紙と写真が届いたが、宛名は秦様、差出人は書いていないという、なかば怪文書の様で、中身がまた味も素っ気もないもので、寒々とする。建日子はしかしバリゾーゴンが書いてないのだから、ヨシとしようよ、という。差出人が書いていないというのは、万が一にもこの封書が戻ってくる事の無いように、ということだろうか。
05/10月 A子と電話。少しゆっくり喋って、やす香ともお喋りが出来てよかった。やす香は今日から***さんのところでピアノのレッスンを受けることになったこと、バレーボール部に入ったこと。高はA子の前では偽悪的というか、どこが本音か分からないところがあるので、田*さんにそこのところを聞いて貰うのだという事。予定は5月29日田*氏を訪問の由。
21金 A子から建日子の結婚式に(★★ぬきの)母子三人で出席する、と電話あり。
29土 やす香から手紙 朝日子は田*さん(★★★の保護者)に相談に出かけた。夜分いささか電話で話す。田*さん大変困られた由。すくなくも、朝日子や孫たちが保谷と交際するのに、いちいち高がモンクをつけ、あれる、ということを止す様、注意してくださる由。但しそれがいつになることやら。
06/08火 朝日子から電話あり。彼女らの結婚記念日なり。田*さんが高と話し合って下さり、高がA子が里との交際を邪魔だてしないと約束したとか、また小林先生も高に話して下さったらしいこと、ただ、高はそのことをA子には話さないこと、外面のいい人だから、小林先生や田*さんにはそこそこ耳ざわりのよい返事をしているかも知れず、でもやす香に手紙を書くなどのアクションをおこしてほしいという。
22火 朝日子から電話があり、直接お父さんが出たので、大変な口論となった。結論は出ずじまい。私は腹痛をおこすが、お父さんは(朝日子の)ガス抜きになった筈だという。しばらくしてやす香から電話あり。私が出したはがきを実にすらすらと読むのでおどろく。もっと漢字を書いても読めるという。
08/03火 小林先生からお電話をいただく。高の問題で私からいろいろきいていただいたが、(★★)高夫婦がおかしくなった、というならお役に立つがこの夫婦はうまくいっているので、この問題にはかかわりたくない、というお気持ち。小林先生が田*さんと連絡をとって<金曜日に会合がきまった。
04水 二年ぶりに高の手紙を読みなおしてみて思ったこと。○・自己中心的で他への配慮の無さ ○・結婚と経済援助をイコールで結んでいること ○・自分の子を宿しているA子への冷淡 ○・我々への無礼 ○・妻子への責任の欠如 ○・協力を求める態度皆無 私には手紙の文章の逐一に反論有り
05木 必要が生じたらいけない、というのでコピーをとり、でもしかし、高の手紙はやはり見せないでおこう、と結論する。その手紙の中に何ほどの物産も(秦家は)持たぬくせに、とあるのを発見。また迪子がどれ程の金を持っているか、などとある。私にだって財があり、お父さん(夫・秦)のお金をも使い放題だと知ったら、何というでしょう。とにかく高はいやしい。
06金 小林保治先生田口迪太郎様と恒平・迪子、池袋のホテルで会談 (★★★夫妻は終始只一度も自分の顔を出さない。)
12木 私は相変わらずA子のことで悩んでいる。どうしても口惜しい。私たちの生活態度はどうして理解されないのか?
15日 朝、田*様より電話ののちFAXあって、17日午后1時半、メトロポリタンでお目にかかることとなる。そのあとお父さんが、ここが正念場とFAX内容と取り組み、家族と相談したいので、建日子に家に居て欲しい、即ち**さんとのデートをとり止めて欲しい、と血相を変え、三人の話し合いがもつれ、とてもとても疲労する。
17火 メトロポリタンへ出向く。高の手紙がひたすら我家から当然出さるべき経済援助のないのを罵倒する手紙であることを、田*様としてはどうしても信じられないが、それはさておき、無礼な態度は詫びさせましょうと、ようやくそこへこぎつける。会談
30月 昨日田*さんに電話したら今にもFAXや速達がくるようだったのに、来ない。夕方、建日子から電話があって、A子に電話してみたら、田*さんもおられるとのこと、「(★★は)謝罪するでしょう」とまるで他人事のような口をきくらしい。心配をかけた、でも、すまなかった、でもなく、小林先生や田*さんに悪いから本心ではないが、という雰囲気とか。
09/01水 田*さんが仲立ちを断ってこられた。そのままワープロに向かって第三信を用意する。(★★の問題の)手紙がそんなにおかしいものか(読もうともせず)疑わしい、鷺を烏と言っているのではないか、とおっしゃるので、その手紙が来ることになったきっかけ、と、その後の2年間のことを、書いた。
02木 一人留守番をしながら昨夜の手紙は田*口さんに届いたろうか、電話をしようか、迷えに迷う。
03金 建日子が朝日子に電話を入れて様子を探ってくれた。朝日子は我々から捨てられた(愛されていないのだ、と思いこんだ)ように感じて、すっかり元気をなくし、落ち込んでいるようで、建日子は可哀想で見ておれないらしい。理非を越えて、高と話しに行ってやって、朝日子の気持ちをなんとかなぐさめてやりたい、と言う。朝日子、という娘は心配をかける、という点では天才か? 我家の三人の心痛は一通りではない。
04土 建日子は一晩寝たら高と会うの、話すの、が億劫になった、もう僕は動かないかもしれない、といって出かけた。
05日 朝日子に手紙を書いた。一日がかりで書いた。9月9日までに届くだけでなく、何かしら朝日子の気が動いたときに時間があるように、そう思うと、是が非でも今日でなくてはならなかった。この夏はあなた方と関係修復を全てに優先して懸命であったことから書きおこして、びっしり2枚。一所懸命書いたのに投函したら、がっくりきた。
06月 今はA子のことばかり気になるので、電話をしてみたが、これが大変大変、それこそ気が狂ったようにわめきたてる。相手が私だから思う存分言えるのだろう。が、それにしても一方的で、誰のせいで此の騒ぎなのよ、小林先生、田口さんが二人して激怒しておられるそうで、お父さんと高は同罪だ、などという。ところが夜も10時半頃、田*さんから電話が来て、FAXを送るとおっしゃる。いつまでも何回でも仲立ちをするとおっしゃる。
07火 昨夜のFAXは、A子の手紙を持ち出したことへの非難と、解決しなかったら関係者に、ということへの非難、そして高に提出させた手紙は、暴発でも非礼でもなくアイロニーで味付けがしてあるだけだ、と、おおむねこの三点で、和解案が示されているわけでもなくて、一方的非難であったので、またまた返事をしたためていたら、何と5時までかかって、少し寝て、8時半すぎ、田*家へFAXする。私3枚、お父さん3枚
08水 聖路加へ出ようとしているところへ田*様から電話あり。FAXを送るとおっしゃる。もう出かけるところだし、提案が無いのならいらないと申し上げると、帰宅後見て貰えばいいこと、提案があるとのこと。夜になったが返事を送り返し、また考えを改め、ともかく提案の ①が実行されれば ②③を受け入れる、と返事、ただ、夜中の12時、①と②を同時に小林先生に提出と聞いて、それは拒否した。
09木 お父さん一睡もせず高の手紙の再検討に入る。午后 ①の実行にかかると電話あり。午后8時過ぎて ①の文案が届いたが、これは言い訳だけで謝罪の意志なく撤回の文字のみ。念のため、残業中の建日子に電話して、読んで聞いてもらったら、「馬鹿ぬかせ、蹴り返せ、それは謝罪でない」、との意見なり、受け取れぬとFAXをして、12時過ぎる迄まったが、音沙汰なし。万事終わった。しかし、田*氏、★★とも謝罪すべき、と考えざるを得なかった、と、我々は解釈した。
12日 お父さんは★★関係もう一押しして、22日まで日限をのばして、水に流せるよう、頑張っています。ここからはお父さん一本立てでゆきます。建日子は押しすぎぬよう、心配しています。追い詰めると、よくないことが出てくることを心配しています。
16木 朝日子がやす香へのバースデーカードと、高への小冊子を未開封のまま、返送してきた
21火 朝一番の速達で小林先生と、田*さんと手をつないだように。小林先生に一所懸命返事を書いた。*口さんは高のコピーのようになってきた。どちらも高の手紙の無礼云々より、お父さんの持ってゆきかたになじめず怒っているとみえる。
22水 お父さんが高の研究室へでむいて置いてきた冊子がお父さんの部屋(東工大教授室)へ送りかえされていた由。青山学院をまきこむことは、一番嫌われる方法なので ① お父さんにまかせる、② 私も一緒にに泥をかぶる、③ 反対する、という考えを右往左して、なやみがつきない。
10/01金 やす香からはがきが来た。まみいはやす香が大好きよ、どうやって知らせたらよいのか。
02土 やす香のはがきはやす香の自主的なものでなく、A子の作為だと建日子もお父さんも言う。そうだろうか。
11/17水 湖の本の私語の刻の内容についていささか話あい、そして私はそれを忘れたい。A子はA子の人生を自分でつくって欲しい。私は気にしない気にしない。
12/15水 日記をつけるついでに去年の、おととしの、と読んでしまうのだが、お年寄りとの件は、こんな事もあった、という思いで読めるのに、A子に関しては、胸が痛むばかりで、とても読み続けられない。
1994年
03/10木 行幸ちゃん二才ね。行幸が何才で朝日子と和解出来るかな、と考える。
24木 昨夜朝日子から電話のかかってきた夢を見た。声は細く弱く、何を話かけてきたわけでなく、多分もしもしとしか言っていないのに、私はすぐ朝日子だと思うのだった。何を話かけたかも覚えないが、とにかく私も呼びかけた、心から。
以上 書き抜き校訂終了 10.08.22
2010 8・22 107
* なにごころなく手にし、持ったまま移動した先の用事で手に持ったものを其処へ置いて立ち去り、さ、その置いてきたモノを捜そうとすると、家中を捜さねばならぬ。今もその伝で一つものを見失い閉口している。頼まれゴトを忘れる、電灯を消し忘れる。いまいまの仕事と無関係なコトほど忘れる。
今のわたしは、必要上、極端にいえば朝日子誕生以来今日只今までを、必要に応じて記憶を甦らせ把握していなければならない、必要に応じて資料を目の前へ呼び出さねばならない。その大方をそのように差し繰りして日々を送り迎えている。そんな必要が無ければどんなにいいかと思う、が、その必要が「いま、ここ」のことゆえ、それがわたしを活気づけているのも事実。わたしは、そういう活気を「作業禅」として迎え入れている。必要ですることは無心に必要に応え、必要がすめば他の多くの別世界に遊んでいる。
質において、遊びと、必要に応じているのと、違わないのが良いと思いながら。
* ところで妻の精査で、こういうものも用意できた。七月法廷で原告★★★は原告代理人の質問に対し、被告の秦は「結婚直後」から暴言また暴言の迷惑行為に終始したと。では、彼は「結婚直後」からいったい何度わが家へ来ていたかと。
★★★・結婚後の秦家来訪の実状
85年婚約結婚から91年「暴発」まで
★★★の秦家来宅記録 を精査した。補注末尾に。
結婚後6年間に(実3年半に) 17回来訪(年平均5回弱) 4泊
1985/04/30 ★★婚約のため来訪 帰宅
05/28 父君病死★★家へ弔問(恒平・朝日子は通夜も)
29 葬儀列席(恒平・迪子)
06/01 ★★ 朝日子の荷搬出の手伝い 帰宅
1985/06 08 朝日子・★★結婚披露宴
16 仲人夫妻へお礼に★★・秦揃って出向く
22 朝日子来宅 祝い小遣い50万円与える
07/28 朝日子と会って誕生日の祝いなど
09/05 ① ★・朝日子来宅夕食 帰宅
20 朝日子里帰り一泊
11/29 朝日子来宅一泊
1986/01/02 ② ★・朝日子年賀、一泊
02/11 ③ ★・朝日子来宅夕食・朝日子悪阻療養滞在
23 建日子が送って朝日子帰宅
04/06 ④ ★・朝日子一泊・帯の祝い 祝い金 帰宅
09/12 朝日子女児やす香出産
18 ⑤ 朝日子母子来泊 滞在 祝い金 ★帰宅
10/12 ⑥ ★来訪 母子迎え 帰宅
1987/01/01 ⑦ ★一家で年賀、一泊
03/03 ⑧ ★一家やす香の初節句に来宅 ★帰宅
28 ⑨ ★ 滞在中の母子を迎えに 帰宅
06/10 ⑩ ★来訪 母子滞在中 帰宅
08/12 ⑪ 恒平主催★壮行会(保谷武蔵野)後来宅 餞金 帰宅
09/03 ★渡仏 恒平見送る
1988/07/24 ⑫ ★来宅 歯科医にかかるため約3週間帰国中 帰宅
1989 ・・・・フランス滞在
1990/03/03 ★帰国
13 ⑬ ★来宅・帰国祝い・建日子の就職祝い 帰宅
09/29 ⑭ ★一家来て夕食 ★のみ帰宅
1991/01/02 ⑮ ★一家年賀来泊
07/26 ⑯ ★一家来宅 朝日子悪阻療養のためやす香と滞在
08/10 ⑰ ★母子を迎えに来る 帰宅
08/12 押村高手紙で「暴発」以降やす香病室まで15年顔も見ず。
85年結婚後、91年暴発決別まで
マル三年半に ★来訪17回 うち4泊
補注:
① 原告★★は「結婚直後」から被告は暴言を浴びせ続けたというが、結婚の年は挙式後三ヶ月の九月に只一度の「挨拶の来訪」であり、ロクに対話なく帰宅している。
翌年になっても、★★は形式的来訪で、妻子を運んできて、また連れ帰りに来て、そそくさと帰って行くのが常、わたしも特に引き留める理由がなかった。双方で談笑の楽しめる相手でなかった。挨拶がすめば秦は仕事場へ戻っていた。
② 三度年賀で来泊しているが、この当時の秦家の新年は甥夫婦や読者親子らがつどって大賑やか、秦は、ほぼ敬遠。★★との対話など、ほとんど無かった。
③ それでもやす香の生まれる前は、嬉しく、帯の祝いを。やす香歓迎のためにキッチンも改装。また★★が留学の時は壮行会を催し、餞もしし、和やかに祝っている。そんなとき何の暴言があり得よう。
④ だいたい、来客(私には、押村は来客)を迎えて「暴言」また「暴言」などという非礼の出来る性格ではない。「秦さんは人とていねいに付き合われる」 と言われこそすれ、癇癪も努めて抑え、暴発などしない。
* 法廷ではこうであった。(☆は、秦の追記の反論。★は法廷速記録のまま。)
原告弁護士 あなたの記憶ではいつから被告による迷惑行為というものが始まっていったんです か。
★ 結婚直後からです。
☆ 結婚直後に迷惑行為を受けたというなら、被告・私のほうで。披露宴の場で、結婚届 に双方主賓の証人署名捺印を戴いて「結婚式」に替え、それを届けて新婚旅行に出る という事前の「約束」をはずし、旅行から帰ってもなお結婚届はされていなかった。電 話で押村に糺すと、言下に「あんた、がたがたうるさいよ。結婚なんて今からチャラにしたっていいんだぜ」と。これこそ、暴言。仰天、肝が冷えた。それでも、黙って仲人宅までうち揃い御礼に参上。
折角の主賓署名捺印の結婚届書は勝手にボツにされ、朝日子の手で私の手元へ内密に返されてきて保存してある。
弁護士 具体的にはどういう迷惑行為を受けていたんですか。
★ いろいろな暴言を浴びせられました。例えば,秦文学を読まぬおまえは親戚ではない,あるいは家内がやす香を懐妊した折に,職のない分際で子供を作るとは何事だ、おろせ,あるいは時がたってからは離婚しろ、それから、朝日子を奪った★★に復讐する、 などの暴言を浴びせられました。
☆ 結婚式「直後」電話の★★暴言を浴びて人間的に信頼を失って以来、ごくごくタマの★★来訪にも、私は、なるべく会わず話しかけず。一つには話題がない。私は京育ちで、他人を面罵という行儀を嫌い、批評は厳しくても暴言など吐かない。
被告は、「おまえは親戚ではない」と云われたと証言しているが、それは「身内ではない」の誤魔化しであること、『聖家族』に用いた★★自身の物証が詳細に示している。
私には「秦の身内の説」と学界でもとりあげられる独自の「身内論」があり、文学の根の主題の一つになっている。「親戚」とは完全に無縁に、きちんと展開された理念であり、それに照らせば、★★★は「親戚」だが、「身内」でありえない「他人」だった。私の理解では人間・人間関係は「私」「身内」「他人」「世間」に分けられ、夫婦・親子・兄弟すら、まして親戚などもむろん、「私」自身でないのだからひとまず「他人」のうちに入る。秦の「身内」の説はそこから展開された。「やはりきみは『身内』じゃない」という一文も私は書いている。
私の文学を読む読まぬではない、結婚式直後に妻の父に向かい「あんた、がたがたうるさいよ。結婚なんて今からチャラにしたっていいんだぜ」と暴言出来る男とは、人間同士として「「身内」とは受け容れにくい。しかもそれを、「親戚でない」と言い替えて誤魔化しながら舅の暴言というのは、いかにも浅はかな幼稚な態度。この裁判沙汰の最中でも、遺憾にも彼は形だけは「親戚」に相違なく、その親戚らしい思慮が有れば、大勢の同意見の世間と同じく、裁判など起こす理由がないと今でも私は考えている。面とムカツテの話し合いをこの数十年只の一度もようしないで来たのが、★★★なのである。
やす香を娘が妊娠の頃、両親の驚喜は尋常でなく、直ちに家屋を一部改築して備えもした、重いつわりに医療の助言や紹介もした。なにより原告証言の虚偽は、朝日子が初子妊娠当時、この原告は「職のない分際」どころか早大助手として勤務中であり、仲人教授も、採用年限の延長もまた他校に地位を得る可能性もありますと保証され、なんら不安を持ってなどいなかった。「孫ができる」のを喜ばない祖父母は、わが家には存在しない。今でも改築した部屋を我らは「やす香堂」と呼んでいる。
「時がたってから離婚しろ」という「時がたってから」はアイマイ至極で、しかも被告・私はこの裁判沙汰以前、只の一度も朝日子の離婚を望んだりしなかった。離婚を望んでいたのは母親である。私は安易な離婚には子のためにも反対の考え。
「朝日子を奪った★★に復讐」とは、噴飯モノの物言い、他の男達の求愛をむしろ阻んでしまい朝日子を進んで押村に「たぐえ」たのは父・被告自身であること、「結婚まで」の経緯と私のさまざまな配慮が明瞭に示している。
* こういうことを法廷で平然と言う「大学教授」をわたしは娘に引き合わせた。悔いて余りあり責任は痛感している。
* 疲れて、夕食後に横になり、十時まで熟睡。冷房に冷えて目が覚めた。もう日付が変わっている。
2010 8・23 107
* 脚本に建日子が関わっている連続ドラマ「逃亡弁護士」は、一回一回が力作で、気を入れて見ている。しっかり見るに堪える展開でサスペンスとしてクオリティはわるくない。主人公の成田誠役の俳優をわたしはまるで知らなかったが、なんでも「オバカ扱い」されるのを持ち役とするようなタレントであったらしい。それを聞いて知って観ていると、この真剣な役をこう堅苦しくも真剣に演じていることが逆に迫る力になっていて、好感をもって観ている。毎回ゲストスターが出てきて狂言が回って行く。その一人一人も堅実に持ち前のカラーを生かしよく観せている。今日のゲスト女優は初めて観るような美人さんだったが、面白かった。
2010 8・24 107
* 難儀な仕事にも、今日も、随分時間をかけた。行くところまで行った。
2010 8・24 107
* 平成十八年八月、突如として四六歳になった娘・朝日子が、「mixi」の「木漏れ日」名義日記に、自分は弟誕生の八歳以来二十年乃至四十年にわたり父の虐待、性的虐待、ハラスメントに深刻に悩んできたと朦朧とした文章で書き散らし、死んでいった孫やす香も同じ毒牙に誘われていた書いた。その日記は、息子から、また朝日子とは無縁な読者から私の手元に届いた。弟は激怒して直ちに撤回と削除を姉に求めたが、私には撤回された確認が四年を経てなお取れない。
それのみか私は娘夫妻に訴えられ、経年裁判沙汰に苦しんでいる。妻も苦しめられている。そして、此の七月には初めて法廷に呼ばれて証言した。また娘夫妻の証言も聞いた。妻と息子が傍聴した。原告二人の証言にあまりに多い虚偽証言が混じるのに、夫婦・親子して惘れた。
* わたしは妻子に、それのみか知己友人読者学生たちにもいわば恥をかかせている事態に徹底対抗して、反証に努めてきた。他方娘・今は改名した★★▲▲からは一片の立証も為されてこなかった。
* 早くにこのホームページに ① 娘が幼少から結婚後に到る和気藹々、親愛に溢れた写真やハガキを掲げて抗議してきた。
このところ、これに加え、② 在パリ期間の数十通の親愛に溢れた朝日子自筆の親書四十数通 ③ 結婚後断交に到る満四年半の三百八十余日に及ぶ夥しい「里帰り」滞在記録の詳細 ④ 被告妻の三年日記に見える朝日子・やす香らの、わが家での親密な生活記録 の全てを「証拠」として用意した。すべて物証に基づいている。
これらから包括判断して、父と娘に、朝日子の訴えるような何事も無かった明瞭な証拠が揃っていると考えるが、さらに今一つの明証を提示しておく。
★ 此の一通の「★★(当時)朝日子」自筆の手紙
この平成三年九月三日秦家着の手紙一通は、平成二十二年七月法廷での、
原告・★★★証言で、自分には貧困・生活苦など全くなかった、秦家をそれゆえに煩わしたことはなかったという証言の虚偽を、また
原告・★★▲▲(改名前・朝日子)の、父のハラスメントを幼来深刻に受けてきたという訴えの全く事実無根、証言の虚偽を
二人分同時に証している。
注 朝日子自筆文面は、誤記も含め、原文のまま。
書簡中、単なる( )内は、筆者朝日子の文。
(= )内は、父。私による言及・批判。
言及する場所を替えると分かりにくくなるので、やや煩雑でも、その場その場へ記入。
その方が理解に自然な流れが出来ると考えた。
平成三年九月三日着・消印「町田」九月二日初 大型竪封筒
ほうやししもほうや
2-8-28
はた こうへいさま
★★★★やすか
まちたしたまかわがくえん
内容にやす香の手紙無く 以下 ★★朝日子の三つ折り長文の手紙。
THE RIGHT LIVELIHOOD AWARD印章ロゴ
Protect the environment of Earth Search for the Lifestyle coexisting with Nature と天部に細字印刷の便箋15 枚使用 朝日子自筆
独立したがっている***さん(=★★★実妹)は、母上(=★★★実母*子。現在は没。)に対して私たち(=★★★・朝日子夫妻・その長女やす香)との同居拒否を口実として、ついに、出てゆきました。人口が減って、浄化ソウの問題等は軽減するものの、今まで「半々」だった比重は崩れました。 食費として(★★母から=)頂いていた3万円は停止になり、重ねて水道光熱費を負担するよう言われました。母上は今後独りで食事をなさる由、5人分のところを3人分でよくなるわけですから、額面通りの減収、支出増というわけではありませんが、ヒッポ(=やす香の外国語教育)もやめ、無農薬野菜、生協等からも、手を引かざるを得ないでしょう。貧乏人は麦を食え。これが現代の社会です。
以上が当方の現情です。
(=原告★★★は法廷で、かつて自分は借金をしたことのないのが誇りで、経済のやりくりに困ったことは一度もなく、フランス留学にも1000万近い貯金があったと証言している。事情は不明だが、六年前父君逝去後に遺産相続があったことも朝日子は当時話していた。)
まず私(=朝日子)は、もう金輪際、(=玉川)学園(=の婚家)に住んでいたくありませんし(=一つに家屋に居候の問題、一つに姑・小姑と嫁の険悪。両方、聴かされていた)、また、経済状態の変化から(=一つに失職している夫押村が只ぶらぶらとアルバイトもせず就職運動もせず、棚からぼた餅の待ち姿勢、そして妊娠している妻朝日子を遠距離の塾アルバイトに出し続けていた。秦からは朝日子に重ね重ね内々に金品支援。)、それは不可能にもなりつつあります。
御同意頂けるものと思いまずが、やす香には友人が、私には平安が、そして★さんには一種の独立が必要です。
(=一家の主としての自立と責任と実働。その意味なら同意。母支配から逃れて舅姑の飼養を待つ独立なら、言語道断。)
父上(=朝日子の父・秦)はよく秦家、★★家といういい方をなさいますが、これはまったく(夫★★ないし ★★家に期待するのは=)幻想で、そこにあるのは、秦家と私たちと山下家であります。
(=こういう包括的親族一体観を秦恒平の家族は持っていない。朝日子は秦家から★★家に嫁いだ、姓も★★に変わった、と。)(=正確には承知していないが、★★★の亡父は「★★氏」、妻即ち実母未亡人は「山下氏」の出で、山下家は亡き★★氏を生涯援助し続けたという話を聞いた。現に★★★ の父母と長女やす香の墓は「山下家墓所」の囲いの中に在る。)(=この朝日子の認識では、★★★の母や娘はあだかも「★★家」でなく「山下家」の人ということになる。こういう事情を、他家の私はそのまま受け取れない。そして、)
山下家はもう★★★とその家族を見限っています。(=見限る意味はいろいろあるだろうが、★★★とその家族朝日子やす香は、今後秦家が全面的に支えよという意味なら、常識の範囲外。また★★★を人格として「見限る」意味であるなら、すでに秦家は惘れて「見限って」いた。)
また、父上と母上とが決して、秦家と保富家(=妻・迪子の原姓。秦と結婚時には両親既になく、兄、妹がいた。)でなかったことも、思い出して下さい。(=この朝日子の曰くは混乱している。秦は迪子を妻として力を協せて生きてきた。両親のいない保富兄家に依頼依存の気はまったく無かった。迪子は幾らか親の遺産を受け取っていた。有り難かったが、それにも依存しなかった。)ですから、私たちに対する接し方…… 特に経済的な接し方で、婚家、里方という分類は捨てて下さい。
(=★★が朝日子の婚家で、秦が朝日子の実家である、それは生活態度をだらしなく混乱させないため社会も「戸籍」として容認した規律である。★★へも侵入しない、秦へも無意味に侵入して欲しくない。家の中で真剣に、神経を研いで創作の執筆に打ち込む秦としても、あたりまえのこと。当時の ★★★は三十半ば、健康に何の問題もない屈強の男子。一家の当主。その自己責任は重いし、それを果たしてこそ人間も見直せたろうが。)
さて、私は先日も少し申しました通り、この家を出る(=何故出るのか、その生活者としての反省がまるで見えないのは困る。)ための緊急の方便として、万やむを得ず、”依頼心”をもって、保谷の西家を借して下さるよう懇願いたします。
(=垣根を隔てて買い入れた西棟に、京都から移転して秦の両親が暮らしていたが、父は亡くなり、母は入退院を繰り返していた。二階一室は秦の仕事部屋、もう一室には息子が入って夜分祖母の用心棒をつとめていた。東棟の元書斎には京都から叔母が移り住んでいた。)
(=わずか前に、★★★は、秦の家族三人を真実憤激させた罵詈雑言を投げつけ、学者の嫁の実家は、婿に住居を用意し生活費を半ばも支給するのが世間一般の常識であると、舅も姑ももろとも侮辱の限りの手紙を寄越していた。秦は黙殺。あげくの此の朝日子の手紙である。で、妊婦朝日子とやす香とで帰ってきたいと言うのか。それなら、思案できたが。★★★と一つ屋根の下で、微妙に神経をつかう「創作」の仕事は出来ない。)
その条件は以下の通りです。
①、家賃はお払いできません。(できれば光熱費も) (=娘や孫から費用など取るワケがない。)
②、設備は現状のままでけっこうです。
③、建日子氏には申し訳ありませんが、その間東家(=わが家。息子のもと居た二階に、やはり京都から移転の秦の叔母が入っていた。むろん息子の居場所は残っていない)へ御同居願いたいと思います。
④、”湖の本”の仕事、(従来のものの他、カードの入力等)を請け負わせて頂くことで、私が家庭教師をやめるのに相当する現金収入の道を拓いていただきたいと思います
⑤、父上の部屋はそのままでけっこうです。
⑥、たか様(=祖母)帰宅の折は、お世話いたします。(=ここまでは、母子だけの移転と受け取れたが。)
⑦、大型の家財は、筑波へ移るまで(=玉川)学園に置きますので、衣類、書籍の移動に多少の支援を頂ければ幸いです。 (=?)
⑧、基本的な家庭生活は東西分離で行います。やす香の世話等は極力お願いしません。
⑨、生活クラブ(=生協)の資材を、実費でわけて頂きたい。 等々です。
虫のいい申し出であることは百も承知です。(=上の条件には★★★本人も含まれているので、秦の三人は仰天し、その気味の悪い無神経さに惘れた。)
これらのお願いの基本にあるのは、これまで★★という名の山下家から受けた支援を清算したいという願い、私の切なる願いです。
(=「押村という名の山下家」といった秦としては与り知らぬ物言いで当然のように迫られても理解は遠く及ばない。一つ、推測を働かしてみる。
★★は自宅のある敷地を三百坪と口にしていた。朝日子もそう言っていた。その土地の三分の一が★★★の姉に分けられ、★の結婚後に、姉は結婚し夫はそこに新築し夫妻の生活をしていた。結婚披露宴に秦も招かれている。新築には夫君の実家が力を致されたとも聞いた気がする。
★★★も、同様にすでに同じく三分の一の地所を分けられていた、が、新築どころか助手失職後に三年予定のパリ留学を決行し、帰国して後の就職事情は最悪、新婚時は贅沢なと驚いたマンション暮らしだったが撤退して母親や妹の住む元の家に帰るかたちで同居した、それが朝日子の謂う「居候」の意味だと取れるなら、今更だが、たちまちにモノが見えてくる。仲人さんからも一言も聞いたこと無し、★★★の口から一度としてほのめかされたこともなし、朝日子は何一つそんなことは親に告げなかったけれど、実のところ★★はその自前の敷地に、黙って舅の秦が家を建ててくれるのを数年待っていたのではないか。「むしゃくしゃと」数年はガマンしていたがと証言席で「暴発」の理由を私からの「暴言」にかぶせようとしていたが、その暴発の手紙に、生活費は半ばをとある以上に、「住居」「住居」と繰り返して、その世話をせぬ学者の嫁の実家の非常識を、言を切して罵倒していたのは、それなのではないか。今にして、そう思い当たる。
たとえ昔にそんなことを要求されていても、わたしは言下に断った。そんなことは自力でするか★★家で考えなさいと。わたしは親の力を借りて家族のため土地を手に入れ、自力で新築した。言うまでもない妻の実家に頼むなど露ほども考えなかった。
★★★と朝日子たちが妹からも、「何の権利があってここにいるのか」と詰られていた理由はそれ以外に考えられない、おそらく残る三分の一は妹に分割されていたのかも知れぬ、それは私には無縁の想像に過ぎないが。)
家と、月3万の支援(=此処に「家と」とある。つまりその家は、もはや★★の育った実家と言うより、無権利の借家ないしやはり居候であったのだ。以下の個所で「大家」という言葉を朝日子の使っている意味が明瞭になる。)を受けてきたということが、私たち夫婦をどれほど束縛してきたでしょう。むろん、(保谷の秦へ居候すれば=)新しい束縛を二重に受ける形になりますが、その一方、私の対山下というストレスは減じることができます。
(=これは、当主で戸主である★★★が真っ先に身を働かせて策を講じるべき自己責任で、妊婦である朝日子の「頼れる夫」としていったいこの時★★★は、何の努力をしていたかということ。独りで保谷へ来て、深く頭を下げて非道な無礼を詫び、自分の言葉で真率に援助を求めていたなら、妻も私も用意は何時もしていたのだから、打開の道はあった。かつては★★の尊敬していた東大名誉教授が、保谷の宅を売って出られと洩れ聞き、買い取って押村夫妻に住まわせようとしていたのに、結婚式後の無礼に惘れ、そんな気は雲散したことがあった。)
結婚式及び祝金の一件以来、(=式費用は両家折半という当初の約束を、いざとなり★★側に不公平といわれ、実費を支払った。秦家への祝い金は★★★には渡さず、後日朝日子の祝い金に加算した。)”財産ねらいの女”という不当なレッテルをはられてきた私(=朝日子)としては、事のゼヒを論争するより、手切金を山と積んで離脱する方を望むのです。(=要するに、無数の嫁が泣いてきた居場所のない苦痛から実家へ遁げ帰りたいということ。)
しかし、積むべき金(=手切れ金とは何の意味か分からない。)を、私は持っておりません。同じ束縛なら、私は秦から受ける方を選ばざるを得ません。(=此処には些かも夫婦二人して頑張って窮境を脱しようという自立・自律の精神も根性も無い。ただもう親への甘えである。そもそも★★★がこの際何を真面目に考えて現在と将来を観ているのかが、さっぱり分からない。指一本妻子のために働かそうとしていない。これは何なのか。)私は山下と(=姑と)手を切りたいのです。しかし、★★★と切りたいわけではありません。
ですから、私たち母子2.5人(=次女を妊娠中)ではなく、家族4人を、まとめて、引き受けて頂きたいのです。
(=何故。この辺から、甚だ分かりにくくなる。朝日子本位には分かるが、つまり離婚はしないので夫も丸抱えに秦家で面倒を見てくれと。それが秦家の家族にとってどんなに不快な存在かも、まるで忘れている。また、朝日子アルバイトの自助努力のほか、夫★★に努力・奮闘の片鱗も見られない。)
★さんがそちらへ差し上げた手紙について申し上げます。
その表現の烈悪(=劣悪?)に、また、大いなる思想の落差のために、(=そんな大層なことでなく、単に無礼なだけ。せっかく顔を合わせて相談まで持ちかけていたのだ、大人の心構えで素直に話せば済んだこと。)精神的な苦痛をお与えしたことについては、重ねて、おわび申し上げます。
私も読みましたので、(小林先生<=仲人>宛のものが、ついに投函されないまま残っていましたから)これから書くことは” 承知の上”とお考え下さい。(=この朝日子便は平成三年九月二日、町田発。八月二十日もう一通「劣悪な」★★★発の便が来ている。)
今回いろいろ話し合ったり言い争ったり、ののしりあったしたあげく(=★★夫妻の間のこと。★★★に対し、秦は「暴発」以後、完全に黙殺)、どうしようもなくわかったことが一つあります。それは、★さんには”赤裸々”などという言葉が恐怖に近い存在なのだということです。
一般論ならともかく、衷心から、好き、嫌い、苦しい、つらい、などと、表現することは、どうしてもできないのです。先日、”生活は大変か”ときかれて ”はい。大変です。助けて下さい”と一言 言えばすんだものをと言った時にみせた彼の反応、チアノーゼをおこすほどの緊張の中から、”そんなことはいえない”としぼり出された苦痛の声は、どうやっていやしたらよいのでしょうか。(=本人が責任有る大人になって乗り越えること。)
その彼が、しかし、(容易に就職できない=)筑波へも、(父★★氏が理事・文学部長だった母校)早稲田へも、★★家(=母未亡人や妹=)へもぶつけ得ずにいるそのような”赤裸々”の一端(=つまり住居と生活費の援助希望)を、たとえ、どんなにゆがんだ 不当な表現であれ、そちらにぶつけたということの意味を、どうか、受けとめて下さい。(= ★★が秦の義親に甘えたいという意味か。)
彼は、たとえ無礼のうらがえしのインギンとしてでさえ、敬語を使ってことをやわらげる術をさえ、失っているのです。(=人は時に激昂するだろうが、ほんとうのインテリなら抑制できる。★★は三十数歳の自称学者。専攻してきたルソーやモンテーニュやヒューマニでズムから何を学んでいたのか。)
★さんを追いつめたものは、秦家と私と、彼との関係にしぼっていえば2点あります。(=娘と結婚後の正味三年半にわが家を★★が訪れたのは十三回。その殆どが妻子の送り迎えで、そそくさと独り帰って行く。ゆっくり対話し議論し意見交換したことなど無いのが事実。)
まず第一点はむろん経済です。
(=秦家は★★の経済に関わっていない。内政干渉はしない。★★自身が手紙に吐き捨てたようにも「ロクな資産もない」秦家、老人を抱えていた秦家として、当然のこと。)
第二点は、父上と★さんとの思想の差です。(この時★★に「思想」といえる何があったか、全く承知していない。彼は、面と向かっても生きた言葉をまるで持たぬ人の如くであった。)そして、30年来父上寄りの判断をしてきた私の存在も大きいでしょう。
(=これが、この十五年後に、「幼来父のハラスメントに悩んだ」と父を被告席に置く娘の弁であるとは、撞着している。もとより朝日子は「30年来」父・私に躾けられ教えられてきたこと、誤り多いとはいえ此の父に語りかけて率直な筆致にも、はっきり露われている。この十五年没交渉の後になってのハラスメントの言い立ては、明白に父への、度し難い名誉毀損である。)
まず第二点について申し述べねばなりません。
父上は、孤独、孤高をもって任じうる藝術の人であり、激情の人であります。(=激情では書けない。つねは観察し判断し対処する。)
一方、★さんは、常識(=非常識で未熟?)、一般、世の中、又は、後指さされない、……などを生活信条の根幹としている人です。
歩み寄りの余地は、一歩たりともありません。キリスト教徒とイスラム教徒に信仰上歩み寄る余地がないのと同然です。(=こんなことを言うのが、朝日子自身の、また★★の思い上がりではないのか。ものの譬えとしてもバカラシイ。)しかし、どちらかが他方を折伏するまで争うわけにはいきません。すっかり離れてくらす、これは最も容易な方法で、私という存在がなければ、それですむことでしょう。(=「朝日子という存在がなければ」と。なぜそんな理屈になるのか。朝日子は★★妻であり、秦家を頼らず、夫妻でしゃきっと自立して暮らせば何事も問題無い。結婚するとは、そういうことだ。)
しかし、フランスにイスラム教徒が住んでいるように、秦家に高さんの入る余地がなければ、私は私の存在をのろわざるを得ません。(=「私の存在」とは何の意味か。朝日子は嫁いだ先の★★の妻であり、★★と話し合い力を合わせ、夫婦一丸で生活の知恵と汗を絞るのが第一。「存在」を自ら呪うような無力・非力な妻では存在価値無しと自己告白しているに過ぎない。)キリスト教徒はどのようにイスラム教徒やユダヤ人と共存するか。それは”宗教の話”をしない、という原則に尽きます。(=そんなにまでして★★と秦とが同居しなければならぬどんな理由があるのか。自分の親きょうだいと自分の育った家に住んでいればいい。★★には老いゆく母親を扶養して行く義務もあった筈。)
もしこれまでにも父上が★さんに向って、文学論をふりかざした論争をしかけず、(=わたしはホンの一二の友とでも熟さない文学論などする青臭い真似は嫌ってきた。それでも、婿がルソーやモンテーニュの勉強をしたと知れば、いわば同じ畑の興味有る歴史の人、話してくれれば耳を傾けたろうがテンで貝の口。)心してその話題を避けて通している彼(=避けて通すという意味も態度も全く理解できない。)に、” 文学音痴””世間知らず””身内でない”等々の嘲笑(=と取るのが偏狭で、いわばお話しにならない、相手に出来ないという憫笑のあらわれ。話し相手もできないのなら、わたしは失礼していつも仕事場へ戻っただけの話。)をあびせることをしてこなければと、ことはここまでこじれなかった(=気に入らねば元気に率直に反論も議論もすれば済む。そういう率直なら大歓迎の父とは、一家談論風発でやってきた朝日子なら分かるはず。夫に、そういうことを助言するのも妻の心遣い。「心して話題を避けて通している」こと自体、実に失礼な、和み無い態度ではないか。)という事実だけは、どうか、心にとめて下さい。(=事実誤認の最たるモノ。妻として、娘として、双方の間にいる気なら、このような朝日子の態度こそ、舅と婿とを根幹から謬らせた張本人ではないのか。)
あの手紙をあそこまで(★★に=)狂わせた遠因は、自身の信念にかかわらず(=?? 何一つ話そうとしないそんな信念を、秦の家族はどう察知するのか。)宗教裁判にかけられ、悪魔呼ばわり(=??)されてきたという、抜き難い怨念にあるのです。(=バカバカしい。恨まれる何一つ働いたことなく、★★の恨み言を、秦も妻も一言でも彼の口から聴いたことがない。)(あの★★暴発の手紙は=)今まで一度も用いたことのない、こちら側(=★★★)の法典に従った逆裁判を彼にさせたに等しいのです。(=?!。)
その結果が、単なる”翻訳者”(=仲に立った妻・朝日子の意味であるなら、朝日子は、夫と父との間に立ち、はいったい何に努めたというのか。親に甘える以外はゼロであった。)まで惨殺する(=夫・★★★の)”愚挙”であっても、構造的なる力学の解説だけに的を絞るなら、(=?!) 以上のようになります。
私は、今後も、相入れない別個の思想を持った二人、ないし三人と一人(=やす香は幼齢。とすると三人とは秦の親娘で一人とは★★★か。)をカク離することですませたくはないと思っています。私は心安く双方を行来したいし、やす香とその弟妹からも、その権利を奪いたくありません。(= 朝日子は、大きな間違いを犯している。なおかつ、自分を、両家を好きに気儘に往来できる位置に甘く温存しておきたい気持ちばかり前面に出て、★★と自分との、やがて二人の親としてどう生活を堅固に建設して行こうかという覚悟も展望も、これらの言句には何もにじみ出ていない。)ですから、今後、文学と人生哲学を双方の関係に持ち込まないよう、伏してお願いします。これがすべての大原則です。
(=何が何の大原則か。文学も人生も哲学も、作家生活とは不即不離。文学に日々勤しむ者が、それをすてて、何のために三十半ばの妻子を養うべき退屈な男とムリに付き合わねばならないか。)
第二に、経済について申し上げます。
私の金銭感覚は、人生観以上に秦の血をついでいると言えます。てすから
★さんを”弁護する”などということは、苦痛であり、したくもないことです。
しかし、困っているのは(=★★が努力せず、只ぶらぶらしている結果。)彼だけでなく、私でありやす香であり、もう一人の(お腹の中の=)子供です。(=結婚以来、数えきれぬ回数と相当な額の金銭を朝日子に手渡し、また郵便通帳に入れてきたのは、みな★★との生活に使い切ったのか。少なくも孫のやす香のことは、心から案じていた。親がシッカリしないなら預かって育てるのも大賛成だった。)
私はこれまで、彼(=★★)の、どん底での力(=具体的には何を? それが見えない。)を期待して耐えてきましたが、(=要するに期待に何一つ応えないばかりか、)今回のような不幸な暴発の結果、それを待っていられない立場となりました。(=待つ待てないの意味不明。暴発は★★が秦家にしたこと。)
これから書くことは、彼の立場を支持したり、正当化したり、または救援したりするためではなく、私と二人の子供の保身であり、また、そのために必要不可欠な、”夫””父”としての★さんを死守したい思いからのものであることを、まずご理解下さい。(=この時点、必要にも応えていない、不可欠にもなんら応えていないのが、父であり夫である★★★なのは明白。これは朝日子の一つの惚気話を出ていない。そうと承知で、だから、父の私は終始★★夫妻の離婚に反対してきた。)
先日(=八月十日)私を迎えに来た★さんが、(秦家の屋根の=)ペンキの工事を不快に思ったことは想像に難くありません。(= まだ話が見えないが。)学園の(婚家の=)老朽化は目をおおうばかり、中に人がいてこそ建っているので、さもなければ廃屋の観ありです。この(★★=)家のいそうろう(=居候)であることと、そちら(=秦家)のいそうろうであることの、どちらが心安いか、どちらが大家(=おおや)としてふさわしいかと、彼(=★★★)も考えたことでしょう。(=飛んだ比べられようである。かりにも玉川学園の★★家は★★★が育った実家であるが、秦家は★★の家でもモノでもなく、たんに彼の妻の実家であるだけ。秦の方が自分の母親より大家として「ふさわしい」などと、翌日にも舅姑を口汚く罵倒する★★に言われたくない。)
(良い家に住みたいという意味ではありません。もう寄宿されるだけの力が、ここ<=婚家、または夫★★>にはないということです。)(=秦家の知ったことではない。)
★さんには、秦家からみれば2つの欠点があります。
まず、親切の手は相手から第一にさしのべられるべきであり、しかるのちに こちらが返す。という中華思想。(=!)
また、その親切の度を金額に換算する、という習慣です。
こう字に書くと実もふたもありませんが、夏目流の拝金主義者(=意味不明)と異なる点は、いずれにせよ一度”受けて”しまえば、これに応えるのに誠心誠意であるという点です。(=「応える」とは? まこと身も蓋もなく、かつ無意味)じつに不思議ではありますが、まったく彼の “計算” は門口だけで働くのであります。(=要するにエゴイズム。) でも、私たちは(= 彼ら夫婦の意味か、秦家の意味か、曖昧)、それを初手、つまり結婚式で(=否、結婚式を挙げてしまったことで、)やり損ったわけです。
双方ともある種の親交、親頼関係を望んでおりながら、位どりの……まったく初手の位どりのためだけに時を逸しつづけて(=?)、雪だるまを大きくしながら奈落へおつるほどおろかしいことはありません。悪循環はどこで断つべきか。
* 力の弱いものが負ける……なら今負けるのは★さんですが、これはあの性格から望めないことですし(=★★に秦が勝ってみて何の意味もない。)、これは “ケンカ” の解決法であります。(=秦はにケンカを売られ、黙殺した。買わなかった。)
* 心の大きいもの、ゆとりあるものが手をのべる。 ーーーーー
私(=朝日子)のお願いはここにつきます。 (=働き盛りの★★★に手をのべる理由は、初手から無い。まして妻まで侮辱されて、受け容れる気は微塵もなかった。)
私たちは、私は、単に経済的の問題だけでなく、精神的にゆきづまっています。助けて下さい。 そう、お願い申し上げます。
(=そうなった原因は。対策はどう講じたか。今まで★★★は家族の責任者として自ら何をしてきたのか。)
(=朝日子と殊に子供たちを引き取る気になっても、★★を受け容れるどんな理由も秦家には無かった。ところが、以下の朝日子の言い分は、我々を噴飯かつ憤激させた。全て朝日子の曰くは、反古と帰した。)
西家の件につき、お受け頂ける折には、
父の発案として、★宛 お便りを下さい。
その折、誠に恐縮ですが、以下のような文面にて短めにお願いいたします。
① (★★★発の暴発の=)手紙を読んだ。少しくショックを受けたので、返事がおそくなって申し訳けない。
② お互いの考え方は、ずい分 遠いということを改めて知った。一足飛びに親しくなろうと試みて話したことが、すべて君の不快にしかならなかったことは大変残念だが、しかし、その不快についてはここでおわびする。(=!) そして、私と妻が受けたショックと相殺にして(=?)、もう忘れたいと思う。
③ 今後、お互いによき隣人として、ある種の距離をもってやってゆけるようにしたい。
(「④ 生活、大変とのこと。今まで学園で(=★★母が)したとほぼ同等の生活を、保谷で」) (=として、この条「見せ消ち」。)
④ 生活、大変とのこと。朝日子の健康も気がかり。また(★★の=)母上も大変であろう。(保谷秦家の =)西家に来て住むつもりはないか。今までどうり(★★母に支払っていなかったろう通りに秦でも=)家賃はいらない。朝日子の希望通り、(= 父の虐待ハラスメントに泣いたという、そんな実家で出産したい、のが「朝日子の希望」と。この矛盾撞着は如何。)母親の下で出産できるだろう。筑波へ移るまでのことだから(=筑波大技官としての就職まで、まだまだ時間が必要だった)、身の回り品だけで気軽に移って来てよい。
決心がついたら連絡をくれればうれしい。(=!?) 朝日子が動きやすい秋のうちに決めてくれたまえ。
彼の主張する “実家の支援をうけた学者”は、(=自分の親の意味なら、本来普通。嫁の実家の意味なら、勝手な主張。)大方、妻の家族と住むという立場を(朝日子文案の上の文面④で=)受け入れているわけですから、★さんも同意すると思います。(=何という鉄面皮。)本当に本当に申し訳けなく、”こんな扱いでは★がつけ上がる” とお思いになるのは無理もありませんが、先にも書きましたとうり、受けた恩には素直なたち(=!!)ですので、好転するものと信じたい(=!?!)と思います。
何度も申し上げますが、
捨身虎餌(=捨身飼虎?)の大徳をもちまして、
娘の窮地と その伴侶の魂をお救い下さい。
水曜日に、お電話申し上げます。
以上
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* この朝日子の手紙には、父へ、よくここまで言えると思うほど我が侭にむちゃくちゃ甘えているけれど、些かも朝日子自身の父への恐怖や厭悪や怨みなど露われていない。夫の劣悪を詫びた上で、要するに亭主ごとまる抱えに父に面倒を見て欲しい、もう婚家で姑と同居していたくないと、すっかり「嫁」の座を逃げ腰になっている。
* ところが二十年後になると、姑と自身のことを実の母と娘のように慕い愛されたとメールに書いてくる。ウソかマコトか、変わり方が凄まじい。
2010 8・25 107
* こころもち、今日は涼しい。
* 唐銅の瓶にアベリアの残り花を投げ入れて手洗いの床に置いてある。残花の風情がなかなかのもので、咲き残っているもう僅かな花が、なお白く小さくリンとしている。花の落ちたあとも、例の濃い緑の小さな葉もわるくない。
* 昨日は「子別れ」の中と下を圓生でしんみり聴いた。江戸弁の美しいほどの口跡も楽しい。
2010 8・25 107
* 昨日、朝日子の父に宛てた昔の自筆書状をここに掲示したのは、言うまでもない、朝日子を攻撃する目的ではない。朝日子には昔も今も、つまり「バカか、お前」と苦笑して「甘え」を叱れば済んでいる。要するにむちゃくちゃと知りながら父親に甘えてなんとかしてくれるとしがみついている手紙だ。
だが、受け容れてやらなかった。躊躇いなく「逆らひてこそ、父」でいた。それを怨んだというなら、そこに娘の問題がある。今もある。それに気がつくかつかないかは、今や予測出来ないが、気がついて欲しいと願っている。だから、敢えてあれも世に曝してみせた。むろん一つには無道な娘の訴えに父は懸命に「抗争」を強いられている。わたしから裁判所にだけ訴えて済むとは考えていない、大勢の知己の前にもわたしはコトを明らかにせねばならぬ「公人」「私人」の義務がある。
* それはそれ、しかし、わたしの攻撃しているのは★★★である。朝日子は、最もコトの簡明であった時点で自分の夫★★★に就いて正直な筆を用いている。どうしようもない男だが、夫であり子の父だから受け容れて欲しいと。それは分かっていた、「バカかお前」という気持ちは容赦なく有ったけれど。しかし、 ★★は、自身の指一本も動かさず、困窮の妻子のために働きもせず、妊娠している朝日子を週二回の都心への塾講師として働きに出していた。ただもう何時か落ちてくるかも知れぬ棚から牡丹餅の「招請人事」を待っていた。罵詈雑言の手紙ももとより、この生活者としての努力の無さは容認できなかった。ましてわが家に同居したいと妻に頼ませているとは。
この★★★という男は、最初の暴走の始末をつけようという話し合いのときも、只一度として自身顔をだして率直に話し合おうとしなかった。他人を頼んで私たち夫婦と話し合わせた。これでは何も纏まらない。そして永い永い両家没交渉となり、それを自力で自発的に解消しようと祖父母の家へ訪ね始めたのが、成長したやす香でありまた妹であった。そのやす香がガンで二十歳前に斃れた。死なせてしまったのだ。この時にも機会はあった。★★自身両家和解のための天降の好機だと思っていたとやす香死後にメールを寄越しているが、好機をいかすどころかやす香を死なせたとは、われわれ両親を殺人者だというのだと「名誉毀損」で裁判沙汰にすると脅迫してきた。この「死なせた=殺人」があまりに滑稽で浅薄な「読み」と人にも言われたかひっこめて、思いつく限りの訴因を挙げはじめ、ついには朝日子の父は虐待者という、もはや今ではそれが芯の争点と変容しているのである。
* 朝日子の曰くが、母親にも弟にも笑殺し敢然否定されるような、捏造の事実無根であることが、次々と朝日子自身実際の過去の言動から無残に浮き彫りになってきた。昨日掲示した手紙は、父への恐怖どころか、抱きつくような甘えの物言いに終始している。パリから寄越した数十通の朝日子の手紙、★★の手紙も親愛と感謝の文面に明朗に満たされつづけている。結婚して僅か四年半に、やす香も連れ朝日子は「里帰り」を重ねに重ねて、約「390」日も滞在し、父や母や弟と楽しそうに気楽に過ごして、ご近所でももしや離婚したかと訝しむほどだつた。そのさまは、母親の三年日記が如実に記録している。それらの見た目の証拠となり実に数多い仲良い写真が在る。雄弁な朝日子も、これでは我が身にとり陰惨な秦家であったなどとは立証出来ないだろう、事実「ハラスメント」など只の一つも現に立証出来ていない。もはやお笑いぐさに等しい。
* わたしの不信と怒りとは、依然青山学院大学に教授として籍をおく★★★にある。朝日子の手紙に描かれた★★★像は、わたしが書いたものではない。現在の妻の筆でシッカリ批評的に書かれている。その事実が大きい。これより以降に夫妻によっていろいろ弁解がましく言われてきたすべては、みな「アト出し」のいじましい言いのがれに過ぎない。
2010 8・26 107
* 湖の本104の初校を印刷所に戻し、表紙やツキモノも入稿した。これで、待ったなし発送用意へ追われ出す。九月には法廷もあり、日程はいろいろと立て込んでいる。暑いままの熱い九月になる。少し骨をやすめて置かねば。
2010 8・29 107
* アタマがなかなか働かない。十日以上も不愉快仕事に熱中しなければならなかったし、湖の本の校正にも拍車をかけつづけていた。アタマに風が通らず草臥れきっているのだろう。
明日、葉月尽。
2010 8・30 107
* http://umi-no-hon.officeblue.jp の転送が出来た。サーバーで何かを変更していた。建日子から連絡があり、試みたら簡単に済んだ。やれやれ。
2010 8・31 107
☆ こんばんは
とうとう、明日が出発となりました。念願のパリへと旅立ちます。
昨日は、やす香のところへ行ってきました。今回は、一緒に行こうね、とは誘いませんでした。
途中から来てね、と言ってきました。だって、おじい様おばあ様をお連れして欲しいから。
留学中に、モナコとルクセンブルクへ行きたいなと思っています。
モナコにある、グレース妃のバラ園をお散歩したいのです。“秘密の花園”みたいで、とても憧れてしまいます。
パリでインターネットがつながり次第、またメールいたします。それでは、行ってまいります。
3人で写した金婚式の写真と、いただいた鈴と、おじい様のご本、持ちました。 稟
* ご無事で。すばらしい留学の一年になりますよう。いつも心より、やす香とも一緒に、声援を送ります。
健康で怪我も事故もなく、心健やかに、心穏やかに、元気で過ごしてください。
勉強の邪魔にならぬ程度に、いつでも明るい声を送ってきて下さい。老人は二人とも興味津々です。きっとやす香も。
きれいなあの鈴を持っていってくれるんですって。すばらしい。嬉しい。 秦 恒平
2010 9・1 108
* 厄介な要事、たっぷり手を取られるしかし通らねばならぬ仕事。すこしも遊んでいなかった、もう夜の十時。
2010 9・4 108
* 今日も終日、仕事と要事。どっちも捗らせた。かなり疲れたが、元気にしている。
2010 9・5 108
☆ 無事パリへ到着いたしました。
今日でパリ生活3日目です。さきほど、やっとインターネットが繋がりました。連絡が遅くなってしまいました。
学校はまだまだ始まらず、最近は散策や買い物をして過ごしています。
私の寮があるのは国際大学都市というところで、ここでは何棟もの寮が大きな公園内に点在しています。
メイン通りから少し離れていて自然も多いため、静かで過ごしやすい所です。
ただ、買い出しに行く際は、スーパーまで10分程歩かなくてはいけなく、少し不便! 日本で暮らしている時は、家から走って10秒のところにコンビニがあるのに。
それ以外は文句のない、本当に素敵な場所です。
写真を添付いたします。茶色い建物は、私がいる***館です。他の寮から比べると、駅から比較的近い場所にあり、この写真では分からないのですが、コの字型になっています。
他にはお城みたいな寮や、日本館もあります。日本館は、外観が少々暗いのですが、ちゃんと日本風の池もついています。ただ、池で泳いでいるのは鯉でなく、ただの金魚なのですが。
パリとは言いましたが、ここは外れなので、まだエッフェル塔も見ていなく、パリへ来たという実感が湧いていません。
明日は、やっとパリの中心へ出かけます。
第一日曜日はどこの美術館も無料で入れるので、人生2回目のルーブル美術館へ行ってまいります。思いっきり堪能してまいります!
それでは、またメールいたします。
木葉が茶色くなりかけているパリより 稟
* メールについて五枚の写真ファイルが一度に来て、しばらく機械がパニック。一つ一つの写真がきれいで、「稟」さんの弾む気持ちが伝わってくる。ルーブルか。羨ましい。
2010 9・5 108
* 今日も一日、ものを読んで暮らしていた。もう少しガンバルしかない。
2010 9・5 108
* 妻は、三越劇場へ息子が書いたという歌手の「和田アキ子伝」とかを観に出かけた。あとで息子がご馳走してくれるというが、わたしは失敬して、留守をしながら、午前中、たくさんものを読んでいた。
午後は国立近代美術館で大きな「上村松園展」の特別内覧会に招かれていたが、これも失礼し、別の日に気儘にゆっくり見せて貰うことに。
すこしでも着実に仕事を前へ前へ押し出しておきたく、午後も、その方にかかる。かなり空腹、おそい昼食に暫く階下へ。
2010 9・6 108
* やす香のお友達のお母さんという方から、「mixi」のマイミクにというご希望が来た。かえって御迷惑を掛けるかも知れぬと、ご遠慮した。
* 理解できない。「心証」などという言葉や態度や判断から、最も遠くに立って在るべきは、誰、なのだ。
曰く不可解、そして不愉快。
優れた文学者の作品に触れていると、不愉快なヤカラたちは、紙屑のように遠くへ散らかって行く。喝。
2010 9・8 108
* やす香の誕生日。二十三歳になった、生きていてくれれば。昼に、赤飯でささやかに祝った。
☆ こんにちわ。
今日はやす香のお誕生日です。
パリから、おめでとうと伝えました。
ここへ来てまだ1週間ですが、やす香のパリを愛する理由が少し分かる気がします。
人々はとても明るく、ちょっとしたきっかけさえあれば、友人なんて100人ほどできてしまいそうな気さくさがあります。
常々日本人の閉鎖的な行動に疑問を持っていたやす香ですから、この雰囲気が心地よいのだと思います。
やす香の愛するパリ、素敵な魅力が溢れています。
前回のメールに、たくさん写真を付けてしまいました。
そのせいでおじいさまのパソコンが不機嫌になってしまったようで、すみません。
少しずつお送りいたします。
成田からパリへは、飛行機で12時間半ほどです。
機内食は2度、ぐっすり睡眠を2回、席に付いているミニテレビで映画を1本と、数独の遊びをしていたら、あっという間に着いてしまいました。
ただパリへの空路には、気流が悪い個所が3つほどあるようで、毎回飛行機が揺れ、少々ドキドキもします。
寮の部屋は、一人用です。
広さは、象が2頭入るくらいでしょうか、高さもあります。
シャワーの作りは簡単で使い勝手も悪いですが、他は文句のつけようがないほど快適です。
少しモダンな雰囲気のするお部屋で、部屋ごとに冷蔵庫も付いています。
食べることが好きなので、冷蔵庫が近くにあると何だか強い気持ちになれます。
料理は得意ではないので、中はがらんどうですが…
国際大学都市は、外部の人もお散歩をしに来ることができます。
晴れの日は、野原に寝っ転がってみんなが日向ぼっこをしています。
しかし私のお気に入りの場所はこの野原ではなく、近くの池のある公園のベンチなのです。
本を読んだり、曲を聞きながらアヒルたちを見たりと、そこにはのんびりした時間があります。
パリへ来てから毎日が目まぐるしく過ぎ去っていますが、ときどき自分のペースを取り戻したい時、そのベンチに座っています。
今回は写真を2枚添付いたします。
私の大好きな公園の池と、今回初めて行ったオランジュリー美術館のモネの睡蓮です。
本当に素敵な絵で、思わず見入ってしまいました。
私は今フランスの学生なので、美術館へは無料で入ることができます。
これから何度も見に行きたい絵です。
こちらでは、最近よく雨が降ります。
空気が乾燥しているので、とても助かります。
それでは、またメールいたします。 麟
* のびのびと、そして無事に。
2010 9・12 108
* 厚労省村木元局長の無罪判決は当然であり、検察の無道非道はあまりにひどい。検察は勝手に描いた「心証」にもとずいて拙劣な下絵を強引に本画に仕立てたのだ、これまでもどれだけ似たような「心証」検察の過剰な犯意を聴かされたろう、こういうのはそれこそ犯罪として逆に被告席へ置くべきではないのか。
* 村木もと局長は、家族や知人の名誉や支持のためにもガンとして闘い抜いたと語っている。わたしは、それがすばらしい覚悟、基本の覚悟だと賞賛する。
* わたし自身のいま置かれている「被告」席で、わたしが娘夫妻に訴えられていることは何か。
もう昔昔に、婿が、我々家族に対し信じがたいほど幼稚に「無道で無礼な暴発」をした。しかもその結果、われわれは娘や孫との当然の接触すら不可能にされてしまった。その不幸をかこち、インターネットの上でホンのたまに婿を咎めたことに対する名誉毀損、名誉感情の毀損の訴えで、わたしは「被告」なのである。
また、時期降って数年前、悪性の癌に冒されて死んで行った孫娘の生と死の悲しい経緯を、日記として日を追い書き留めていったいわば痛恨の「挽歌」、それを「湖の本の一冊」として出版した『かくのごとき、死』が、孫の死を侮辱し、両親の名誉を毀損した、名誉感情を毀損したと、それで「被告」せきに置かれている。
婿と娘とは、上記の二つに対し、千数百万円の損害賠償と謝罪とを父である私に要求している。
昔の婿の暴れようがどんなものであったを十分具体的に推察させるであろう小説も、わたしはフィクション化して書いている。また孫への愛惜、痛恨の挽歌がどのように書かれてあるか、ちゃんと本になっている。わたしは、このさき判決の如何にかかわらず、作家として何の悔いも恥もなく、世に向け、自身の思いを証してある。
本来裁判になどするような問題では全然無かったと信じているし、社会的には原告二人の方が、自らを自らの手で制裁して余りあったろうと想っている。大学教授としても、自治体の教導をこととする委員としても、婿も娘も、父を訴え自らの手で自らを辱めたのである。
裁判の結果は、分からない。事態の根底に横たわった「人間」的な事実がどうであれ、法と裁判との行方は、或る意味奇々怪々であることは、連続した冤罪事件などが露わにしている。裁判官が、「心証」にもとづいてか「法文」に基づいてか下される判決の、なによりも「人間的に、人道的に穏当」であることを願うばかりだ、お任せしている。いずれにしても、わたしの精神は傷つかない。
2010 9・12 108
* 押尾某が薬剤使用の性行為で女性を死なせて救命行為をも怠ったと裁判されている。
今日の昼テレビで、とにもかくにも間に合う合わぬは別として、何故救急車を呼ばずに放置し、自身は身を隠してしまったか、それをコメンテータは口を揃えて言い、その他も含めて、一般私民の「心証」は百パーセント真っ黒に見受けるけれど、そこでも、同座していた弁護士は、「問われている罪状の有罪証明」はそんな一般の「心証」とは離れて、まるで形式的な細かしい条件が立証できるか出来ないかにかかっているのですと、千里も隔たった話を「当然」のコトとし、口にしていた。弁護士の法律家としての説明と、われわれ一般の実感とは、まるでかすりもししないほど隔たっている。
これだ。
裁判に余儀なく関わらせられていて、私の実感の願いや思いや主張は、ことごとに法律の専門家からは半ば憫笑されねばならなかった。争点と関わりないことを実感こめて幾ら言い立てても、かえって裁判官の「心証」をわるくして、敗訴することもあるなどと聞かされると、所詮「裁判」とはそういうモノかと、失望もし、バカらしくもなり、投げ出したくなる。
なるほど、私たちの曰くはみな「素人考え」なのだろう。その素人考えから観れば百が百有罪かと実感している押尾某の「裁判員」裁判が、さあどういう判決にいたるか、刮目注目したい。
2010 9・13 108
* 昨日母方の従姉、現在血を分けた只一人きり、九十歳になった従姉の手紙をもらった。往時を偲ぶ手紙でとりたてて新しいことが知れたのではない、が、そぞろ懐かしい気がした。母方の甥や姪は何人もいる。
母よりずっと若かった父方には、叔母も一人二人は健在であろう、いとこは何人も健在。母のちがう妹二人の家族も元気にしていることと想う。
2010 9・14 108
* 脚本作りに統括的に建日子の深く関わってきた「逃亡弁護士」が終わった。昨日の最終回を今朝観た。
法の運用も含めて、最も深い好い意味で、「人間を人間が裁け」という裁判へのメッセージは、この三年、わたしの求め続けてきたこと。必ずしも法律家が無条件に法の精神を体現しているわけでない、逆に法律家もまた犯罪に表裏してもっとも近くにいることをこの連続ドラマは告発していた。ことに冤罪の場合にそれが露呈する。地裁の法廷で証人席に一度立ってきた体験が、法廷ドラマをなまなましく思わせる。
2010 9・15 108
* 夜通し雨の音。十二時過ぎ黒いマゴが頭を濡らしてテラスから駆け込んできた。朝まで妻の足下に熟睡していた。涼しい。肌は冷えてさえいる。お彼岸にまだ暫くある。
2010 9・16 108
* それにしても今日は涼しい。風邪引いてはならぬ。
* この連休明けには九月の法廷があり、愉快でない書類など届いているが、ま、弁護士の力に任せて放っておく。信頼する以外にないのだから。
* わたしたちが、娘の前名「朝日子」を返却されたと、此の日記にもこの頃朝日子、朝日子と書いているのがけしからんと法廷に申し出ているようだが、それは無いだろう。
「朝日子」の名については、改名届自体が、わたくしどもの与り知らぬ「三年も前」に家裁で決まっていて、今々のことではない。三年も前からすでに「★★朝日子」はこの社会に存在しないのであり、しかし私たち秦の両親には「朝日子」は五十年前に名付けた本来の名前であるから、やっと私たち親もとに「帰ってきた」「返却された」本来名付けた娘の名の「朝日子」なのである。いろいろの思い出を朝日子の名で語りかつ書くのは、親兄弟の自由であり、権利であると信じている。
★★★夫人で親を訴えている原告とは、もはや「朝日子」の名は何の関わりもない。それに苦情があるのでは「改名」自体が無意味になるだろう。親や弟にすれば、「夕日子」などという名で愛した娘を思うのは堪えがたいこと。
また、もともと朝日子を「夕日子」と替えていたのは、★★★の場合とちがい、法廷の示唆や指導によるものでなく、単にサーバーが、原告からのあまりのうるさい抗議に困惑し、私方へ頼んできたのを仮に聞きいれたまでのこと。もともと自分の娘を親や弟が「本名で呼んだり書いたり出来ない」などという方が、裁判員ならぬ「私民」感覚から大きく大きく逸れているのである。
* わたしがこの私語の場で、率直に裁判にも触れてもの申していることが不当だと原告は法廷に申し入れているらしいが、親が子に躾の意味で率直にものを言うているに過ぎない。どんな家族にも有る話だ。それを無視し、傷害や詐欺事件があったわけでもなく、もとも親に対して甚だしい無礼があって隠しようもなく、また孫の死を傷む挽歌という祖父の文藝を孫の親への名誉毀損だなどと何の根拠もないラチもない訴えで、親を「被告」席に引きずり出しているという、考えられないバカをやっているのは原告夫妻なのである。対抗上の正当防衛措置として、このような場で率直に事態を証して抗議し続けるのは、後期高齢者に手の届いた親のせめても、友人知己らへの、公人として社会への発語にほかならない。
婿夫妻(娘夫妻)の親への所行にどんな理があるのか、わたしたち両親には皆目分からないのである。★★夫妻がじかに言えないのなら、彼や彼女の友人・知人の方からでいい、遠慮なく私や私の妻を説得して頂きたい。
2010 9・16 108
* すこし出遅れて。身近な掛け物を一新。
メインに玄々齋の懐紙「翫月」を久しぶりに。ふつうに謂う歌懐紙ではない、右寄りに、題と、和歌一首を墨も美しく。左は大きく大きく白地のまま、月光の満てるさまに。佳い趣向。幕末の玄々齋が高弟であった加賀の前田に与えて前田で表具したもの、箱底にまで書き入れがあり、気が入っている。
書も表装も趣向も嬉しくて。叔母自慢の所蔵であった。大学時代、これを持ち出し、妻の下宿していた真如堂まえ坂根家の二階で、翫月の茶を楽しんだ。『慈子』に、来迎院の秋の茶遊びとしても書いた。
* 玄々齋のわきに、森川曽文の「紅葉と鹿」の細い長軸を垂らしてみた。目の覚める紅葉と芒をかすかに点じ、下に、雄鹿がゆったり真向きに起ってわたしを観ている。春の「落花と雉」繪と双で。はんなりと、しかも寂びている。
* 玄関には西村五雲の「秋香」すなわち土の香ものこった松茸三つが無造作に転がしてある。よくこんな軸を買っておいてくれたと叔母に感謝。
一気に秋の風情が家の内に。せめて美しいモノに眼も思いも静かにと願っている。
2010 9・22 108
* ずうッと明け方いい夢を見つづけていた。だいたい夢見は好い方でないわたしだが、このごろ、さほどイヤな夢をみない。
ああこんな夢ならありがたいなと思いながら今朝も心穏やかであった。ひとも、われも、健康で、怪我も事故もなく、心穏やかに心健やかに元気に今日を過ごせますようと、朝起きると一番に秦の父、母、叔母に話しかけている。廊下の奥の棚に、三人の位牌を置いている。
2010 9・23 108
* 今日も明日もひどい雨ではないようだ。涼しければ有り難い。と云ううちに、ひどい土砂降り。遠くで雷も。ま、こういう日もある。土砂降りよりも不快なことが人間の世間にはある。
とはいえ不快は半ば気から来る。気を大きく確かにしていれば不快も薄まり流れて行く。洗い流してしまう気力の問題。
「なんじゃい」と。
2010 9・23 108
* 休もうかと思ったが、やはり予約の歯医者へ出掛けた。往きは寒いほど、雲もあつく垂れ陰気だったのが、帰りはからっと秋晴れの明るさで。誰の心に似たのか秋空を澄んだ光が流れていた。
しばらくぶりに「リオン」で昼食、シェフの大サービスで、うまかった。満腹。気分の悪い日が続いたが、いい店で気分を変えて妻と問題点を見出し思い出し出し検討していくうちに、視野も展望も開けてくる。
2010 9・25 108
* 「外交とは悪意の算術」とは、わたしの十数年来用いてきた「造語」であり、「確信」である。これに最も長けていたのは、中国であり、かつてはイギリスであった。イギリスのかわりをアメリカがつとめ、今日では文字通り「中・米」の世界になっている。
日本は大化の昔から「外交」はへたで、成功を収め成功の長続きした実績が一つもない。「覇権」を歴史的な国是とした中国が、日本の手をねじ上げるのは何でもない。なにしろ世界中から蚕食されていた時代にも、あの中国朝廷は、世界の使節に謂わば平伏を強いてそれが当然と思いこみ続けた、そんな「天然」の自己中心国家。世界の中央を占めた気の「中国」なのだ。
* 菅内閣と民主党が「検察」をして拘束していた中国人船長を国外へにがしてやったのは、明らかに「悪意の算術」落第であること云うまでもない。愚策の早出しで。
では、だが、何が日本に出来たか。尖閣が固有領土である「事実資料」を、世界へもっともっと具体的有効にアピールし、菅は国連演説の内容を急遽切り替えても、パネルや映像やナレーションを有効巧緻に用いてでも一気に世界世論へ「史実・事実」を分かりよく投げ込むべきだった。
また中国の痛いところ、世界世論の前には脛に傷の面子を的確に刺激し、そのお話しにならない厚かましい国柄にたいしチクチクと批判を浴びせかけ、いかに、大人げないゴリ押しを中国が敢えてしてくるか、他例もふくめて世界の世論の前へ投げ出すべきだった。「粛々と」などと愚にもつかぬ恥ずかしい決まり文句はやめ、いっそ「笑いをトル」ほどユーモラスに「中国」という国の「悪意の算術」の露骨さを世界へ向け「嗤って上げますよ」と、怒らても
いい所詮中国に分のない方面で非を非として論いつつ厚顔な要求を方向転換させるべく智慧を絞るべきだった。
鳩山の「友愛」は国内ではそれなりのスローガンになりえても、あの東支那方面の「海」世界では屁のつっぱりにも成らない。好い意味で攻撃的な「悪意の算術」を早く早く超党派的に日本の政治は学習しないと、どうにもこうにもならないのである。
* 「mixi」で秦建日子が、めずらしくこれに触れていた。政治の話はしたくないのだがと言う「但し書き」は、だが高邁でない。それでも「書いた」ことは評価するが、中身は薄い。創作者としての意見らしきは、ひらめく批評は、ちっとも無い。頼りない。
2010 9・26 108
* わたしの「父」を書き始めていながら、不快事件の煽りでつい手が止まっているところへ、メールが来た。
☆ 父親のことを書いて。
秦様 彼岸が過ぎてやっと凌ぎやすい気候になりました。
迪子様ともにお差しさわり無くお過ごしでしょうか。
この頃しきりに思う実父の事を知る限り書きました。
今日のHPでの「志賀直哉に聴く」の雑談の話を読ませていただいた後に送りにくいのですが、雑談として聞いてください。
添付いたします。ご批判いただければ幸いです。
急な気温の変動に夏のお疲れが出ませぬように。お二人ともどうぞお身体お大切にお過ごし下さい。 淳
* 心して読ませていただく。
「お父さん」をお書きなさい、なぜぶつかってみないのですかと私から奨めてきた人が、実は他にも。しかし、書けないらしい。わたしの娘は、「孫の死をあしざまに書いた」と父=私を裁判所に訴え、法廷への陳述書の中で、いかに自分の父が作家として、公人として、何の値打ちもない小さなみすぼらしい存在でしかないかを汚い言葉で書きなぐっているが、それだけでは、娘自身のためには何の意味も名分もなさないし、父親の仕事や地位にふうふしてケチをつけているなど、人間的に恥ずかしい真似でしかない。
それよりも、りっぱに「作品ある」文章でその憎い「父」を、存分書き表してみればいい、どんな「運」が舞い込むか知れないのだ。だが横綱白鵬が昨日の優勝インタビューでいみじくも話していたように、幸運は、それだけの「努力」をした人にしか来はしない。身に染み、わたしはそれを体験的に知っている。文学賞も教授や理事の地位も、わたしは自ら求めたことは只の一度も無いのである。自分で求めて努力したのは「作家」になるという、それ一つだけ。
* 娘や婿に噛みつかれている醜い事件は、それでも作家として眺める限り、わたし秦恒平の晩景に、或る特異な生彩を投げかけている。そう自分は見ている。誰にも彼にも与えられる体験でない。場面場面に応じ、その体験に取組み作家としての「実験」をわたしは繰り返し試みた。それが、わたしの、或る意味「存在理由」なのだから。
* かつて若い日のわたしは、幻想味や抒情味とともにブッキツシュな趣味も濃い「清経入水」や「慈子」や「みごもりの湖」などを書き、文壇に招き入れてもらった。それらから見ると、近来のわたしの作は大変化た、趣味や抒情や幻想からあまりに遠のいたと一部の読者を歎かせている。
だが直哉も云っている、「作者はどんなに変つたものを書いたつもりでも、真似でないかぎり、決して自分以外には出られない。安心してどんな事でもやつて見るがいい」と。
「一つのきまつた手法で仕事をするのは便利な事だ。一つのきまつた物尺で物をはかるやうなものだ。材料さへあれば幾らでも仕事は出来る」と。直哉は言外に、吐き出すように「そんなのはダメだ」と云っているのだ。
作家は目前の現象をただ捉えるだけでなく、それを「どう書くか」に生気を与え、工夫をこらさねばならぬ。「方法」への好奇心にちかいほどの執心がなければ、馴染み狎れた安易さで、似たような物ばかりを造り出すことになる。それではへたな画家の個展の退屈さに似てくる。
むかし『誘惑』という本を出し、中に「誘惑」「華厳」「絵巻」「猿」の四編を入れたとき、一見同じ一人の作家の集と思えない「方法」「表現」のちがい、なのに、やはり秦恒平の作風で貫通されていると驚いてくれた人がいた。わたしの願いは、いつも、それだ。
幻想には幻想の方法があり、あらけない人間の葛藤や、かなしい挽歌には、それぞれの方法を見出さねばならず、作家に義務があるとすれば、それへの努力と誠実こそ、それだ。
たぶん、わたしは、大学教授の婿や自治体児童委員の一人という娘からの無法な攻撃に対し、「作家として」の表現を今後も、死ぬまで、やめない。どんな方法が可能か、その創意が、工夫の力が、気力が、涸れないで欲しいと願うばかり。
2010 9・27 108
* 下巻の初校を戻せるところまで、荷造りもした。九月が逝こうとしている。十月は、好い意味では活気の秋。然し愉快も不快も入り交じる。久々に月前半二度も関西へ向かう、ただし行って帰ってくる、が。
2010 9・28 108
* いよいよ、九月が逝く。十月は、楽しい嬉しいこともたくさん予定されているし、婿や娘の被告としての、うんざりする抗争にも堪えて闘わねばならない。云っておく、わたしから攻撃しているのではない、執拗に攻撃され、仕方なくなく応戦するのである。それだけ。ほんとなら働き盛りの、世に名を挙げていていい教授と教授夫人の二人を、同時に一度に迎え撃つのだ、七十五のわたしは人の三人分ほど元気でなければ勤まらない。よしよし、相手は今や他にすることもない裁判愉快犯のようなものらしい。好きにさせて置いて、わたし一人、せめて老境を心豊かに祝いたい。
2010 9・30 108
* 「mixi」の連載のために、古い以前の「私語」をサーフィンしていたら、こんな記事が出ていた。今、必要なので此処へ再録しておく。
* 理解に苦しむ 秦恒平
* 平成十八年(2206)八月四日付け 娘★★朝日子が夫と連名で、「e-文庫・湖(umi)」自身作品の掲載削除を求め、削除しない場合、「刑事・民事の訴訟」をもって父・義父を告発すると実印つきの手紙を寄越した。
掲載の趣意と真意は当初から欄外に明記していた。作品への或る程度の評価と共感や過褒ともいえる好意がなければ掲載し保存をはかるわけがなく、「むろん本人が掲載して欲しくないと言ってくれば外せばよい」と考えていた。
いきなり親を「告訴」とは、すさまじい。凄い時代になった。
なおこの作品を読んだ際の、作家としての、父親としての驚喜と激励のことばは、秦の当時の「闇に言い置く私語の刻」にくわしく、また大勢の読者もそれを知っている。突如「告訴」されるに相当するものか、読んでくださればお分かりになる。
欄外の紹介を掲げておく。
「コスモのハイニ氏」
この小説は習作のまま作者★★朝日子が無署名で 2004.9.21 – 2005.7.27 ブログに連載していたもの。インターネット上での無署名作品の盗難等難儀な事態をぜひ防ぐべく、当座、編集者(秦恒平・父・小説家)一存で此処に保管する。編輯者だけが知らないともいえるが、これは類のない題材で、一種の創世神話かのように物語られている。「こすも」(原題)なるモノが、不思議の多くを担っていて、かなり壮大に推移し変異してゆく。ほぼ十ケ月、一日の休むこともなくブログに細切れに毎日連載した、わずか二作目、事実上は一作目といえる処女長編の習作としては、行文にも大きな破綻なく纏まり、身贔屓ぬきに言う、相当独自な長編小説一編に仕上げてある。作者は1960生まれ。現在名は★★朝日子だが、従前の筆名のままに。編輯者の長女である。 2006.2.9 仮掲載
「ニコルが来るというので僕は」
この小説は習作のまま作者★★朝日子が無署名で 2005.8.18 – 2006.1.8 ブログに連載していたもの。インターネット上の作品盗難等の難儀を防ぐべく、当座、編輯者(秦恒平・父・小説家)の判断で此処に保管する。たわいなげなきれいごとのようでありながら、不思議な批評を底ぐらくはらんで終末部へ盛り上げてゆく。ブログに細切れに毎日連載した、わずか三作目の習作としては、行文に破綻なく纏めて独自の小説一編に仕上げてある。作者(現在の本名は★★朝日子)は、編輯者の長女、仮に筆名としておく。 2006.2.9 仮掲載
「天元の櫻」
この小説は、習作のまま作者(★★朝日子)が無署名で 2004.3.3 – 2004.3.29 ブログに連載していたもの。作品の盗難等の難儀を事前に防ぐべく、当座、此処に編輯者(秦恒平・父・小説家)一存で保管する。この作品はまだ小説の体裁を堅固に備えていず、小手調べの習作めいているが、物語は囲碁の勝負ただ一局を芯に据え、十分巧んで運んであり、なかなか面白い。ブログに細切れに毎日連載した、作者最初の習作としては、一風ある準小説の一編に仕上げてある。ないし仕上がる可能性がある。
原題は「櫻」である。これも編輯者の一存で仮題にしてある。 2006.2.9 仮掲載
* 朝日子本人の希望であるので、三作とも、「e-文庫・湖(umi)」の読者へ割愛の事情を添え、作品は即、削除した。
* ★★家は加えて、この『生活と意見』(闇に言い置く私語の刻)の全部を削除せよと言ってきている。どういう根拠と権利があるのだろう。質と量(何万枚に及ぶだろう。)の両面から、厖大なわたしのそれこそ「著作」なのであるが。
* わたしたち夫婦は、この広い世間では「極めつきの少数派」であると自任している。広い世間の「常識」と称する多くとわたしたちは、いや私だけは、と妻のために限定しておくが、かなり背馳している。多数決で勝ったことなどなかなか無い、総選挙もしかり、である。。
わたしは、世間の常識に勝とうなどと、ちっとも願わない。気の低い常識とやらが、わたしからモノを奪い取りたいのなら、寄ってたかって、どうぞとも言わないが、「勝手におしやす」と思っているし、自分は行けるところまで自分の思うままに行く。
その「思うまま」なるわたしのあらゆる思想が、この「ホームページ」に集中している。それを全く読まないで、見ないで、不当にあっさり型どおり断罪したいというなら、「大いに不当」だと鳴らすけれども、また、きれいに人生一巻をしめくくれば済むことと思っている。
ホームページなんて、何であろう。
なるべく広い場所に出て議論出来るなら、わたしは手元に蓄えた豊富で正確な資料を駆使し、書けるだけ書き、話せる限り話して見たいのである、なるべく大勢の視・聴者の前で。わたしに喪うモノといえば、経費と健康ないし命だけである。特別惜しいモノではない。
名誉なんて、問題でない。識る人は識ってくれている。十分だ。
2006 8・4
*
* 以来四年二ヶ月。わたしは今以て裁判所で婿と娘との被告として、上記の「著作権侵害者」として多額の損害賠償を求められている。
理解に苦しむ。
2010 10・1 109
* もし読者の皆さんの内、私・秦 恒平のホームページhttp://umi-no-hon.officeblue.jpの中から、「秦恒平作」『聖家族』という「表題作」の読み取れる方は、恐れ入りますが、お教え下さい。そんな作は掲載も発信もしていませんが、原告の婿と娘とは、そういう題の作が被告・私のホームページに今も公開されていて、しかも、そこに書かれた途方もない「ある男」を婿は、「自分のことに相違ない」と、執拗に今も法廷に「小説」家である舅を訴え出ていて、迷惑しています。小説を読んで、これは自分のことだと自慢自賛の投書は昔々の婦人雑誌などの投書欄によく出たものですが、今日の大学教授がムキになって小説仮構の人物と現実の自分自身との合致を強調してやまぬ図に、ほとほと辟易しています。
2010 10・2 109
* 昨日の帰りに読み切ってきた久間さんの小説『刑事たちの聖戦(ジハード)』、彼の小説としては出来イマイチであったけれど、なかに深く頷いたいわば「思索・思想」が見え、思わず朱線を入れた。作中人物の思い入れとして書かれていたが、こういうのが自然に出てくるところにわたしの此の著者への信頼がある。
わたくしも同じことを、「錯覚する能力こそが幸せの実体なのだ」と思い、かつ覚悟している、いつも。
☆ それまで幸せな微睡(まどろ)みの中にあった自分自身の存在が、実は一種の錯覚の産物だったと思い知ったのだ。そしてさらに言えば、実は幸せが錯覚に由来するのではなく、錯覚する能力こそが幸せの実体なのだと思い至ったのだ。 久間十義
* ほかにも、その通りだと思うこういうフレーズが出ていた。小説とは無関係にわたしは深く頷いたので披露しておく。
☆ 「おまえが何を思おうが何を悩もうが、決まったことは決まったことだし、おまえが配慮して配慮しきれないことについて、配慮するのは思い上がりというものだ」
一にも二にも、配慮しきれるものと配慮しきれないものを峻別して、自分が出来ることに集中することだ。
出来ることと出来ないこととを峻別して、出来ることをする。そして結果をあらかじめ憂いなどしない。
* 注をつけるが、これは大研究や大冒険のはなしではなく、いわゆる私民レベルの普通の日常感覚や場面でのことと聴いたほうが間違いない。
たとえば、わたしが今置かれている程度の裁判騒ぎなどで、過剰に反応してみてもはじまらないということだ。配慮できることをきちんとして、異常で異様で良識や常識を超えたむちゃには、まともに関わり合わない方がいいのだ。つまり、
☆ 何かの要素が足りないために”解”に至らない不完全な設問
* になど、強いては答えようとしないことだ。
☆ ご都合主義的な観測は最初っから捨て去れ。
対処すべきは最悪の事態であって、希望的な事態については人は何ら対処する必要はない。
すべては最悪の事態を考慮して行動せよ。
* こう来ると、これは敗戦直後の世界的な大ベストセラー、カーネギーの『道は開ける』などから、当時新制中学生だったわたしが真っ先に学び、爾来金科玉条のように人生を律してきた、「真っ先に、最悪の事態を見抜いて、最悪の事態から発想し行為・実践せよ」というのと、ちっとも変わらないので思わず笑った。若い心親しい久間十義さんと「会話」しているような気がした。気も、また、軽くなった。
2010 10・6 109
* 作家で元中央公論編集長だった粕谷一希さん、元新潮の坂本編集長、歴史学の小和田哲男教授、笠間書院編集部の重光徹さんらからもお手紙を戴いた。
「スッキリした文学論をお送り頂き感謝に耐えません こうした時期こそ落着いて 文学、古典を読むべきでしょう 私も残り少ない時間をどう過ごすか 模索中です ご自愛下さい」と粕谷さん。
「『作品がある』とはの御指摘は大いに考えさせられました。私も現役時代から厖大な原稿を読んできましたが、『作品』は実に限られているなと改めて想起致しました。本文はそれぞれ題名が魅力的で、大いに楽しませていただきます。季候異変の今年、呉々も御体調に留意され、一層の御健筆、御発展をお祈り申し上げます」と坂本さん。
「齋藤茂吉『萬軍』についての御文はご発表より十五年経つ今なお一層の重みをもって小生の胸に迫ってまいりました」と重光さん。
「前の方に(子規と浅井忠のこと)南禅寺の塔頭金地院の話が出ていました。私も好きなところです」と小和田さん。
☆ そろそろストーブ maokat
hatakさん
湖の本104巻今日届きました。御礼申し上げます。
帰宅が3時4時の生活をかれこれ一ヶ月、ついに疲れが出て寝込んでおります。2年前にも同じようなことをし、体力を過信して大変な思いをしましたので、今回は自重して大事に至る前に自宅で大人しくしております。
こういう時だけ、まわりの風景がよく目に映り、寝ながら窓越しに見た夕景の、白いビルに当たる夕日のオレンジ色が、とりわけ美しく感じられました。
編集者時代に(今もそうですが)、あんなに沢山の仕事を並行して進められていたのは、なにか秘訣があったのでしょうか?切り替えがうまかったのかなぁ。
私はマルチタスクがどうも苦手で要領が悪いのです。
食事にたとえれば、お向こうを食べてからでないと、椀ものの蓋を取れないし、香の物が出てからでないと、湯桶にいけないのです。この調子ですから、バイキングの皿にローストビーフもエビチリもサンドイッチも同時に載せて食べられる人と較べれば、時間がいくらあっても足りないのはあたりまえなのでしょう。
お向こうや椀ものの代わりに、特許の拒絶理由書、科研費の申請書、学会の開催準備と自分の講演要旨、学位論文の審査、などなどを枕辺に並べて一日を過ごしました。
再来週から国連の会議でインドネシアに出張します。行き帰りの飛行機の中で、今回の『秦恒平が「文学」を読む』か、前々作の『宗遠、茶を語る』を読めたらいいなぁ、と思っています。
暑かった今年ですが、札幌ではそろそろストーブを使い始めています。どうぞお元気でお過ごし下さい。
* 懐かしい、いいメールをありがとう。ハハハ。なんだか批評されちゃったかなあ。
何かしら一つ事にだけ根をつめていると、その仕事が絶対化されてしまいそうで、他のいろいろとの間で感覚的にも質的にも相対化しながら、同時に仕事の能率を挙げないと何も勉強できないほど自分が忙しいのを分かっていた。編集者の時、単行本企画だけでも常時百種かそれ以上を担当(自分で企画しパスしていたのだから当たり前であった。管理職の時はそのほかに月刊誌の定日発行責任を多いときは六冊分も抱えていて、そのほかに「作家・批評家」としての依頼原稿を抱えていたのだから。行儀良く順に茶懐石の馳走にあずかっているワケに行かなかった。
その流れで、わたしの仕事はとても「書く」だけで済まない、いつも「読んで」底荷を蓄えていなければならないのだから、本も一冊読み切ってから次をまた読むなどという真似はとても出来なかった。その鍛錬で、今でも毎日きまって多いときは十七、八冊を併行して読んで少しもこんぐらかることはない。但しまことにこう云うと、お行儀はわるく、雑駁に乱暴に騒々しく感じられる。それはむろん承知していたが、勤めていた頃のわたしの小説もエッセイも、勤務の時間を盗んで、喫茶店の相席であろうと、取材先の先生の教授室前の壁に凭れたままでも書き進めていたのであり、自分の書く文章がそれでも「静か」であるようにと気をつけていた。『畜生塚』も『慈子』も『蝶の皿』も『清経入水』も『みごもりの湖』も『墨牡丹』もすべてそういう場所、そういう勤務中に書いていた。家へ帰っては「書く」よりもむしろ「読む」仕込みに時を用いていた。なぜなら仕事場へ重い大きな本は持って歩けなかった。
ハハハ。言いわけしています。
☆ ご本を有難う御座いました。 正
秦様 湖の本をお届けいただき有難う御座いました。次回の代金の振込みを致しましたのでご確認ください。
今回のご本で、文章の巧拙と内容の良し悪しについて(尾崎)紅葉を素材に論じられているのを拝見し、まことにその通りと感じました。
その人の問題意識なり世界の切り取り方は、選ぶ題材に反映され、そこに書き手の品位が自ずと滲み出してきます。志賀直哉
のように。
文章自体を磨くことは大切ですが、それはあくまで技術論のような気がします。
* 文は人なりと謂われてきた。なかなかどうして、技術だけで文は磨けない。むしろ文を磨くのは気稟の清質であるだろう。瀧井孝作や吉田健一など、悪文と謂われる名文の事実在りえていたのは、その為、その証左なのである。かつての昔昔には美文と謂われた名文らしきものが盛行した時代があった。美文こそ技術の所産であったが、人間の感銘は籠もらなかった。
* 今度の新刊で、ちからをこめて書いた一つは、間違いなく「紅葉の文章」であった。それと、「あとがき」かなあ。
「漱石作『こころ』の先生は何歳で死んだか」や「斎藤茂吉の歌集『萬軍』」や「北原白秋の短歌にも、こんな」は、短いが刺激的な発言になっていると思う。
それにしても、わたしの文学生涯にいかに谷崎潤一郎が大きな存在であったかが、否応なく顕れたのも、一結果である。
* ところで、どおっと届いてきた新刊への反響の中には、こういう一文も含まれた。
☆ お嬢様と婿殿のこと、常にホームページで拝見しご心労をお察ししております。これは秦様の作家としての存在に深く関わることで、おろそかにすべきことではないでしょう。しかし僭越ながら敢えて申し上げれば、それはそろそろ水面下のことにしておいてもいい時期が来たようにも感じます。
秦様お二人にとって大きな問題であり、現実の訴訟に多くの時間と労力を取られることはわかりますが、その巨細を表現なさると、折角の明澄な水を湛えた「湖」が墨に汚されるような気がして、そのことに心を痛めるのです。そして何よりこのことはもっと別の形で高い調べの秦文学に昇華できるよう思っています。
私は家庭を捨て子供たちとは全く没交渉となっています。それぞれに十分以上の教育を受け、子供も授かっているようですが、やり取りはなく孫も見たことはありません。しかし子供といえ別人、それぞれが幸せであればそれで十分、そのことについて書く気持ちはありません。世の中にはもっと声を上げねばならないこと、すべきことがあると思うからです。
ご事情を知らぬまま勝手なことを申し上げることにお詫びします。お心に適わないときは一読者の妄言とお捨て置きください。
* まことに忝ない、ありがたいメールであり、先ず心より御礼申し上げます。その上で、落ち着いてやはり私として考えて見ねばならない。
前にも書き写した。直哉のこんな言葉。
☆ 作者はどんなに変つたものを書いたつもりでも、真似でないかぎり、決して自分以外には出られない。安心してどんな事でもやつて見るがいい。
☆ 創作家の経験は普通、経験が多いと云つて、ほこつてゐる人間のやうな経験の仕方では仕方がない。経験そのものが希有な事だつたと云ふ事もそれだけでは価値がない。経験しかたの深さが問題だ。
「経験それ自身が既に藝術品である」といふやうな文句があるが、そんな事を自分で思つてゐるから、尚藝術品にならないのだと思つた。
* 「折角の明澄な水を湛えた「湖」が墨に汚されるような気がして、そのことに心を痛める」と言って下さる。「明澄な水」の①と「墨」の②との混合で「湖」が「汚される」というご心配のようだが、「湖」とは、もともと①と②とで出来ていて、表現方法の差であるだけ、所詮は「自分以外には出られない。安心してどんな事でもやつてみるがいい」と直哉の言うように、「いま・ここ」の視野にひたと目を向けて仕事をせざるを得ないしそれが創作者の正しい姿勢に思われるのです。
もとより②の方面と雖も「もっと別の形で高い調べの秦文学に昇華できるよう思って」下さるのは実に嬉しいし、実現の時機をぜひ得たいが、必ずしもそれが①のようであれば佳いとは限らない。
秋成の晩年にもう一度『春雨物語』でなくぜひ『雨月物語』をと望むのは自由だが、秋成の年齢と意識とはやはり『春雨』を必然とした。創作者の「次」にはどんなものが飛び出すかはほんとのところ読者にも作者本人にも分からないのである。
ただ、概して言えることは、読者からは今の②でなくて以前の①をになりやすい。
しかし作者の意識ではせいぜい「②の①のよう」で在りたいのかも知れぬのである。いずれにしても、むしろ①を①をに服従してしまってはかえって大きな間違いを犯しかねない。「墨」の世界を必然に歩みながら「明澄な水」に渇いていては自己矛盾に陥る。墨には墨の美と透徹を願えばよいし、そこでわるく藻掻けばおぼれ死ぬであろう。
* まして日録の「私語」について言うなら、「闇に言い置く私語」であり、現実から目を背けて光を仮象していては自他を偽ることになる。
* また御家庭の御事情については、一律のことは言えない。
人それぞれの最善が在るであろう、たまたま私の場合は一私民にも過ぎず、しかし作家・創作者でもある。それに私は「慈」という文字を「心あつきもの」と読み取りヒロインに「慈子=あつ子」と名付けたような男であるから、人一倍の熱をもつて人間と人間との関わりを大事に見ている。個性というものか。
だから「子供といえ別人、それぞれが幸せであればそれで十分、そのことについて書く気持ちはありません」とは言って済ます気はないのである。
私の場合、娘は明白に客観的に「不幸」であり、たぶんもう一人の「孫」もそうだと思って悲しんでいる。作家であり、かつそれを悲しみ心傷ついてそれを「書かない」というのは自己撞着である。書いて「悲しみ」をお互いに和らげて行けないだろうか、わたしの生きている内にムリでも、せめて死後にも機あつて娘が、あるいは孫が、父は、祖父はどう考えて生きていたろうと思って呉れるようなとき、よすがとなり足場や手がかりになるものは書いておきたい。それは、他の人にも奨めたり強いたりは決してしないし、わたしもまた強いられたくはない。
「世の中にはもっと声を上げねばならないこと、すべきことがある」のは仰せの通りだが、さて、人が人として最もせねば成らず、また声を上げておかねばならぬ事は、何であろうか。ひとにより異なるだろう、この方にとっては何か察しもつかないが、幸い自分のことは気が付いている。何をどんなに言うて見ても始まらない、ま、たわいない夢であるのは間違いないとして、それを承知で言うなら、するなら、「いま・ここ」で目前にあることに向かい誠実であることだ。
いま、政治も藝術も自然や人の美も大切だが、わたしは、その大切を、妻や息子や身内と思う人達や、また娘や孫娘から思いをわざとらしく逸らしたりしないで生き抜くことだと思い定めている。それらと別にわたしの「湖」が、また「文学」が、在るのでは無い。
2010 10・6 109
* バグワンに、わたしは聴いた。
☆ ひとつの欲望が挫折し始める前に、おまえはどこか住み処を得るために新しい欲望を造り始める、一つの希望が消えるとすぐさまおまえは別の希望を造り出す、あらゆるものが朽ち果て塵となり消滅すると知りながら。
生は、どこでもないところからどこでもないところへの旅だ、堂々めぐりの旅、夢の旅だ。
希望は地平線に似ている。向こうの向こうの何処かで起こっているかのように見えるだけ。それはおまえの観念のなかにしか存在しない。
生に完全に挫折することは智慧のはじまりだ。おまえは七十余年も生きてきた──その収穫は何かね? 自分の両手をのぞいてごらん。空っぽだ。アレクサンダーでも、やはり空手で逝ったんだ。彼はそれを人々に知らせなくてはと遺言した。
誰もがそのようにして死んで行く、が、そうなってから気付いても手遅れだ。生のただなかでそれに気付くことがなにより大事なんだ、そうなって初めておまえに根本的(ラディカル)な変化が可能になる。仏陀はわずか二十九歳でそれを自覚した。彼はサニヤシン(遊行僧)になったんだ。
サニヤスとは何か? <生>が流れるように過ぎて行く夢であることに、<生>のただなかで気付くことだ、わかるかね。
たびはたゞ うきものなるに ふる里の そら(空)にかへるを いとふはかなさ 一休禅師
* わかるかねと聞かれて、わかっている気はしている。ぼんやりとわかったまま、まだ深く夢見ているとも。
* 裁判のことも、娘たちとの紛糾のことも、その帰趨も、みーんな夢だとわかっていて、だがだから投げ出してしまうという夢の見方にも随わない。幸か不幸かふるさとの「空」に帰るのをわたしは少しも厭っていない。なるようになる、夢は覚める、そのときを待っているだけ。努力などしないのである。努力は夢の中にしか必要がない。錯覚する能力とは夢をみているだけの話で、幸福などというのは夢にしかなく、不幸とはつまり夢の意味なのであろう。
2010 10・6 109
* 昔、妻は「姑」一編を書き、参考までに湖の本にも入れたことがある。今度は晩年のわたしの母と最期までいろいろに付き合った断片の記録を日記帳から書き抜いてくれた。わたしの知らない秦の母が満載されているらしい。ありがたい。おそるおそる読み出すのが楽しみでもある。
2010 10・7 109
* ほんとうに、時間が無い。それを感じるだけで腹痛する。不快な用事に、仕方なく、だが冷静にかかりきりでいる。 そんなときでも、幸い下巻の校正をはじめると、機嫌が治って行く。それほど今度の『秦恒平が「文学」を読む』は、心ゆく仕事になった。有り難い。
2010 10・8 109
* 終日、つまらぬ所用に明け暮れていた。つまらなくても為さねばならぬ。そういう要事をどれほど意味のあるものにするか、頭をやはり相当つかう。郵便物の来ない日曜は好きでないが、今日ばかりはそれで時間を浮かせ得た。
2010 10・10 109
* 疲れた。だが、いくらかメドがついてきたか。週末の神戸行きのこころづもりも始めねば。式服が身に添いますように。
京都ですら日帰りはしたことがない。が、どうしても今回は神戸まで日帰りしないと、半日という時間が浮かせられない、半日が大事。二十日過ぎまでに、所用のメドをちゃんと立てたい。やるかぎりは徹底的・実証的に気力をそそぎたい。
妻にも根限り手伝って貰っている。なにしろ被告は私一人で、原告は娘と婿と二人。その二人分の「陳述」に対し、一人でそれぞれに対し抗争し陳述しなければ済まない。書き上げて行く量も半端でない。わたしだから出来る。書ける。
* だが、妻の助力がなかったら、父親に暴力的に性的に「虐待されて不幸の極みでした」とべしょべしょ裁判所の証言席で泣きの涙であった娘・朝日子が、 ★★★と結婚してから両家が没交渉期に入るまで、(パリ在住の一年半を除く)実質僅か四年半のうちに、その父の家に、その父が常時狭い家で執筆に明け暮れていた保谷の実家に、なんと「72」回も里帰りし、「322」泊もし、父の家に滞在していた日数はのべ「397」日に及んでいたという、惘れるほど頻繁で莫大な「里帰り」数字の精査は出来なかった。
* 結婚直後から、舅つまり私の「暴言また暴言」に傷つけられ続けたとまことしやかに法廷で証言していた婿★★★が、結婚後に秦家を訪れ、また宿泊した回数は、娘と逆に実に数少なく、殆ど舅と婿との対話の機会も時間もロクになかったことが、やはりハッキリ数字と日付で精査されている。
しかもその★★と家族は、パリへ発つにも住むにも帰るにも、物心金銭ともに具体的に父や母の手厚い支援を受け、また四十数通のパリ発朝日子や★★からの書簡は、両親の厚情と親切とへの感謝と親愛に溢れていて、帰国後もどうぞ変わりない厚誼と支援に与りたいと、夫も妻も筆を揃えて書き寄越していたではないか。険悪な何事も実在していない。
いったい、「虐待」「暴言」なんてものは、どこに有ったのか。何故に何十年も以前のことが、孫のやす香の死後になって初めて裁判沙汰として持ち出されるのか。虐待や暴言が事実なら、二十年も二十五年も昔に訴えていたら良かろう。
ことほど左様に、原告の証言や陳述は、俄か造作の虚偽と捏造で出来上がっているのには、今更に呆れ果てるしかない。
* 上の数字などを確認の上、この「私語」ファイルの末に掲げてある、とりわけ「ハイミセス」企画の瀬戸内の旅、父と娘とのカメラマンが撮影したツーショット写真など見直してみる。
「顔で笑って心で泣いていた」ので、写真の笑顔など「虐待の無かった」何の証明にもならないと、常套の逃げ口上を云うに拘わらず、それらの写真は、「顔」だけではない、娘自身が自分の「身を働かせはるばる四国や瀬戸内海や中国路へ嬉々として父と二人で行動している」のである。むろん編集者たちもカメラマンも賑やかに一緒に。
この時、朝日子は既に妻であり母であり、婚家に暮らしていた。保谷と町田とに遠く離れていた。もし恐怖するほど父の虐待に泣いていたのが事実なら、いとも簡単に同行は断ることができた。虐待が事実なら当然断るべきだ。ところが体の弱い母親の代役にもかかわらず、一も二もなく父に同行してきての、あの晴れやかに愉快そのものの写真たちである。
* 娘の「虐待」虚言・偽証は、幾重もの物証・書証により確実に決定している。
このように実の父や母を侮辱していながら、町田市の「教育委員会で地域コーディネーター」をしていますという法廷での朝日子、いや「改名」した★★夫人の証言は、奇怪至極。★★教授の幾つもの虚偽証言も奇怪である。彼は「高橋洋」という偽名を用いて「週刊**」取材に応じてまさに「独演」しながら、週刊誌に持ち込んだのは秦恒平のほうであり、自分は記者に脅迫され仕方なく会って話したなどと法廷証言している。
わたしが記者から電話での面談希望を拒絶し、一度も会わなかったことは、この日録に、電話があった当日、きちんと書いて記録している。事実は押村による持ち込みであったと、「**社」筋からわたしは既に漏れ聞いてそのメールも保存している。記事が出たとき、公人である青山学院の教授たる者が偽名に隠れていたのを、「うしろめたいことがあるんでしょう」と云う人がいたが、ど忘れというような過失なら兎に角、ウソはいけない。
* まだまだ、先がある。不当に訴えられている受け身を安んずべく、わたしは当然の抗争を、正当防衛を少しも厭わない。作家としても人間としても厭わない。とらわれもしない、ちっとも。
2010 10・10 109
* 最初の一山を越えたと思う。あとは思いを尽くして、要事を終局へ調え、必要な附録書証を用意する。二十日過ぎには、ともあれ代理人事務所へ提出できるようにしたい。
イヤでもオウでも、娘と婿の吐き出す言葉に向き合わねばならなかった日々が、三週間半ほど続いた。不快で、じつにキツかった。平穏にまともに事理を尽くし合う討論なら何でもない。が、もう、むちゃくちゃ。一息に、此処へなにもかもを掲載して裁判員ならぬ余の裁判員さんたちに読んでほしいとつくづく思う。
* もっと、しみじみ有り難いと思うのは、わたしが、今も休み無く文学や文学的・藝術的な世界に脚をおろし手を働かせて「仕事」をし「書き続けて」いること、それが大勢の人達の目に触れ、励ましや感謝の言葉すら頂戴できている、そのこと、だ。
どんなに理不尽な不快感に苦しめられていても、たとえば今しも出版して送り出した、今しも校正していてやがて出版できる「湖の本」の文章を読みはじめると、黒雲がたちまち晴れて青空にかえって行くように、わたしは静かな嬉しい気持ちに成れる。「仕事」を続けている有り難さだ。
2010 10・12 109
* 「夫」を指さして「夫」と云う人に出会ったのは、筑摩書房の親しかった担当編集者が最初だった。
昔の小説で、「宅は」という夫の呼び方を何度も読んだ覚えがあるが、日常対話的には「うちの人」が多かった。が、もっと多いのは断然「主人」で、最近はどういう風の吹き回しかインテリ女性のなかにも、「さん」でも「さま」でもない「旦那」「だんな」と呼ぶ人も増えている。これは、わたしなど、聞くも読むもイヤな方だ。「主人」「あるじ」には、まだしも一家を代表する者の意味があるが、「旦那」は高位からの支配者めき、時には囲われの女が囲っている男を尊称しているようで、一瞬顔を顰める。そして依然、夫を「夫」と口にする人とは、めったに出会わない。アメリカに住む友人は夫のことを「名」で呼んでいる。日本でも、「秦は」「恒平は」という工合に姓や名でいう例が、タマに有る。愛称で呼ぶ例はもつと増えているようだ。
* ところで、「ニッポン」では、男は、女を、いつもひどく下目に見て愚弄し軽蔑し支配し虐待しているとまで、一般論できめつけられるとは考えていない。せいぜい「概して」その気味が見受けられやすいということ、必ずしも一般論にしてしまえる実感は、男にも女にも、実はそう手ひどくないであろうと想っている。
わたしは「女文化」という言葉を、自身の造語として最も早く初めて使用したと自覚していて、反証に、まだ出会った事がない。
その「女文化論者」の私にして、平安時代の「女文化」を、女の、女による、男のための文化と「定義」してきた。訂正する気はないのである。
だがしかし、人生や生活のディテールにおいて、敬意に値する女に対して昔男たちは、払いうる敬意を、深切を、特に惜しんではいないとも眺めている。それとても、大きな支配・被支配の枠内での行儀礼儀に属したものに過ぎぬとは、概ね謂えるのであるが、概念観念でなく、生活・日常の感覚にまでたち入れば、降り立てば、必ずしも女は男の力にいつもいじめられていたとは言い難い文化が実在していた。
時代が降っても、江戸の町くらしの、また農村ぐらしの女たちが、みな男の圧制と虐待に喘いでいたとは謂えない反証は山のように積みうる。公家貴族の男は、存外に賢い女に依存してもいたし、庶民の男も、女の協力なしに思う侭に生きがたかった事例は、例えば落語や笑話にもやはり山積みされている。性風俗においてすら、必ずしも男だけが女を悪用・利用していただけといえないものが有る。問題は、武家の世間・生活・建前であったろう。
* 社会学が見なければならぬ「人間の孤と群衆」との基本の在り方は、微妙な心理的・性格的な「位取り」でも規定されていやすく、力関係が男女の仲でも日々に逆転また逆転しながら「微妙に協働」していたし、今日でも少しも変わらない。
社会学が一概に視点を固定して、ある種の結論めくところから視野を特殊に設定してモノを云いすぎると、たとえば「不幸」向きだけの辛口を装った議論となり、いわば「幸福」の一面は、故意か故意でないかは別として、敢えて見落とされやすく、しかし、そのまた逆も大いに在り易い。それでは議論が、ときに、タメにするような偏った癖をもってしまいかねない。
* わたしは、いま実の娘の持ち出している「虐待」という語彙の、不快極まる刺激臭にアテられ、困惑し迷惑している父親の一人である。
ところで、昨今稀にとも謂えず、むしろ屡々報じられる例えば児童「虐待」の極悪な事例には、まさに血も凍りそうな恐怖と不快と激怒を覚えることがある。
と同時に、あきらかにむちゃくちゃな拡大解釈で、みそもくそも「虐待」呼ばわりされてしまい、人間が、むろん男も女も、親も子も、上司も部下も、さながら「なんにも、しない、出来ない」「平々凡々の萎縮」へ追いやられかけている不審にかきたてられることがある。
* 私には、二人の子、五十歳の姉娘と、作家である弟息子とがある。そして現在進行形の父娘間の紛糾に関して、弟の方には「百万回も云うてきたよ」と惘れている批評がある。
それによれば、姉は、父から百パーセント受け容れられたく、そうでなくてはダメな人間。
ところが、おやじは良いことは手放しで褒める大甘の父だが、いけないと思うことには遠慮のない厳しいダメをだす。弟は、そんな父で良い。ところが姉は、そんな父はイヤ。褒められたことはみな忘れてしまっても、叱られた批評されたことは怨み続けているんだよ、と。
この怨み続けているという全部を、娘は「父の二十年ないし四十年にわたる虐待」と、言い募ってやまない。それも五十歳近くなってから突如として、「八歳以降の虐待」だと云う。しかし事例も何一つ出せない、証明もできない。
惘れてしまう。
それでは親の、父の子に対する教育や薫育や躾の部分が、子の恣まに全部「親の虐待」にされてしまう。現にそうなっていて、裁判で損害賠償金を千数百萬も莫大に父は請求されている。
弟も、母親も、そんな虐待などわが家にはまったく無かった、あり得なかったと、冷静至極に明言し断言しているのである。
* ものの云いようで、そういう過剰きわまりない「虐待」騒ぎが、世に横行しかねない大きな実例の一つを、今わたしは冷静に払いのけている。それは「逆らひてこそ、父」である者の、矜りですらある。娘は、恐怖とともに虐待されていた筈の、父仕事場の実家に、結婚して後も四年半に一年一ヶ月も「里帰り」し、雑誌企画の同行の旅をすら欣然と楽しんでいた。「虐待」など、どこに。
*わたしは、早く早くから親子の縦社会より夫婦の横社会の強い支持・実践者であり、娘にも息子にもそう在れと望んできた。ところが娘は今のこういう仕方で、事実上は父にぶらさがりしがみついているに過ぎない。このことは、実に大勢の私の読者たちも早くからそう指摘されてきた。裁判にしがみついてでも父との縁の切れてしまうのを恐怖しているのだろうと。そうではないかと、想う。
* 婿の方は、娘の夫であると以外、一人格としてはわたしの眼中に無い。
2010 10・13 109
* 宵の六時半から建日子が来てくれている。もっと話していたいので、日録は明日へ廻す。
* たくさん、たくさん話せた。朝日子もいっしょならと、三人とも心の中で思っていた。建日子も上野さんの新著『ニッポンのミソジニー」に興味を示してかなり目を通していった。どうしても話題は朝日子になりやすかった。
そして十時、建日子帰路へ。帰路、無事にと祈る。
2010 10・13 109
* いま妻を介して、秦建日子の読者の建日子作品に対する感想が転送されてきた。此処に転載させて頂きます、お許し下さい。このようにして息子も読者に見守られ、「仕事」を重ねている。健康で、怪我も事故もなく、心穏やかに、心健やかに「作品」ある仕事を続けて欲しい。
☆ from ** 2010/10/13 1:53 PM
すごく久しぶりにコメントさせて頂きます。ブログはずっと読ませて頂いていました。私は秦(建日子)先生は、すごく個性のある作家さんだと思います。しかも色々な色が出せる。私はドラマばかりみていて、本はあまり読まなかったのですが、秦先生のファンになってから、よく読むようになりました。先生の作品は『明日アリゼの浜辺で』『ダーティママ』『ラストプレゼント』を読みました。
それぞれ雰囲気が違う作品なのが凄いと思いました。共通して言えるのは、温かさを感じることです。読み終えた時に、どこか爽やかさも感じました。これは、秦先生の特徴のような気がします。
長々とすみませんでした。
2010 10・13 109
☆ 毎日が慌ただしく、
気が付いたらひと月が過ぎておりました。
最近の私はと言いますと、パリの生活に慣れてきて、日本での生活スタイルに戻りつつあります。
映画、勉強、ときどきお買い物、そして友人とのお喋り…
先日はオペラ座近くの“ブックオフ”へ行ってまいりました。
日本でも有名なブックオフですが、ここのお店はフランスに長く滞在した日本人が帰国する際、荷物を軽くするため本を売りに来るそうです。
そこで建日子さんの『推理小説』を2冊見かけました。
パリのお店に2冊もあるだなんて、本当に多くの人に親しまれ読まれている、ということです。
そしてもう一つ、日本語を勉強しているパリの人たちには、建日子さんのドラマ『ドラゴン桜』が人気のようなのです。
何人かが、「ドラゴン桜観てたんだよ、面白かった」と私に話してくれました。
海外の人にも楽しんでもらえる作品を作っている建日子さん、ステキです!
東京はやっと涼しくなったと聞きました。
これからあっという間に寒くなり、気が付いたら年末に…
少し気が早いですね。
お風邪を引かないよう、温かくしてお過ごし下さいませ。
また写真をお送りいたします。
パリで花粉症に悩まされている パリ娘
2010 10・16 109
* 私に長篇「風の奏で 平家擬記」を昔書かせてくれた人と、当時大学一年の娘・朝日子とは、尾崎秀樹さんらと訪中一行の仲間であった。
朝日子が、「父が秦恒平であることを、いく分屈折した形で自慢に思っていたようです」と手紙に書き添えてくれている。
*< 昨日車中で『秦恒平が「文学」を読む』下巻を校正していて、えらい先生方からも、ちらと、朝日子の話題になることの両三度もあったことに感慨を覚えた。宮川寅雄先生は文字通り絶筆になった私へのお手紙に、ちかいうち阿佐ヶ谷で一献、「お嬢様御一緒」でもどうですかとお書きになっていた。宮川先生がお亡くなりになったわよとわたしに一番に出先から知らせてくれたのも朝日子だった。
そういうのが普通であった朝日子が、どうして今になり父の虐待の恐怖で日々不幸のどん底にいたなどと法廷の証言席で言いまくれるのか、ほとほと分からない。
* 終日、機械に向かって。じりじりと、用の切り上げへ向かう。もう一両日か。
2010 10・17 109
* 昭和三十四年二月末に上京して結婚生活に入って以来、受け取った郵便物、ことに私信は一通として捨てていない。手帳や日記も捨てていない。
どういう心境であったのか大学に入ったとき高校三年間の日記帳を発作的に焼いてしまった。要らぬコトをしたものだと悔いている。そんなものを保管保存して役に立つのかと。保管保存は未練がましく褒めたこととは実は思っていないが、役に立つかどうかとなると、小説家にとっては「必需品」のように役に立つ。今回の裁判沙汰でも実に役に立つ。
「記憶」は、実に冷酷無残に訂正を強いられる例が増えて行くが、その日のその時に「記録」したものは、若干の書き損じが無いでないにせよ、大方の事実はその通りに確認できる。受けた電話、来訪者、出先、会合、出会った主な人、等々。創作や執筆の依頼や進行や脱稿もかなり精確に分かる。分かりにくくなっているのはわたしの字が、紙やインクの劣化もあり時に読みづらいが、これだけは仕方がない。
* 今度、四年を経てやっと初めて一つ、日付のある事例で娘・朝日子は「父からの虐待」例を挙げてきた。一九七八年七月二十七日、自身十八歳、高校三年生の誕生日に烈しい腹痛(腸捻転)で入院の際、苦痛に泣き叫ぶのがうるさいと、父は娘に「猿ぐつわ」を噛ませた、そして四十日もの入院中、十日に一度しか見舞いに来なかったと。自分は娘・やす香の入院には終始付き添っていたのに、と。
妙に幼稚な物言いだとすぐ気が付く。
* 救急車でとんできた病院の救急員が、舌嚥下の危険から気道確保の手当をしたのであろう、わたしもそれを希望したと思う。舌を呑み込むのは窒息の最も怖ろしい早道。しかも素人の手ではほぼ不可能な対応。
さらに十日に一度しか見舞ってくれなかったのは虐待だという訴えようが可笑しい。しかも此の娘の場合と、やす香のように肉腫という最強最悪の癌で緩和ケアの個室に入って絶望的な場合との「混同」も、五十歳の大人のものと思われない。
* ところが、わたしの手もとには、「朝日子**病院入退院記録」とわたしが自筆した大きな袋があり、中に、日々わたしも母親も病院に日参し、病状を観察記録し、弟も見舞い、時に出版・編集者やご近所のお見舞いも受けていた詳細が、大きな紙にまとめ書きしたり、メモ用紙に走り書きしたり、大きく一つかみもちゃんと保存されていた。
その詳細はおどろくべきもので、術後の排ガスや水分の摂取量や、排便排尿の回数から色や形状までを妻とわたしで記録している。自転車でよほど疾走しても三十分かかる吉祥寺の向こうの病院へ、わたしは朝ごとに見舞い、日により晩に家に帰ることもしばしば。当時むちゃくちゃ文債を抱え込んでいたわたしは、ベツドサイドでも、近所の昼飯屋でも喫茶店ででも原稿を書いていたのを覚えている。
三、四日前に保谷へ帰ってきた建日子の記憶でも、「よう行くなあ」と驚いていたほど父も母も娘を見舞っていた。
娘だから頻繁に見舞ったというより、息子が交通事故で脳神経外科に入院したときもわたしは毎日見舞っていたし、妻の御産や盲腸での入院にも、勤めの往き帰りに必ずのようにわたしは病室へ顔を出していた。そういうタチなのだから仕方がない。
* 娘の入院は四十日も永くなかった。七月十六日の盲腸入院から、二十七日に退院して直ぐ腸捻転を起こし、翌朝緊急再入院して開腹。八月十日に退院している。二度の入院で「前後二十五日」ほど。看病記録はいま我々が驚嘆するほど精密で、「十日に一度しか見舞ってくれなかった」どころの騒ぎでない、わたしは自転車で、妻はバスの乗り継ぎやタクシーで連日のように出向いていた。鼻から管を挿しこまれた朝日子はべそべそ泣いて、わたしの手をつかんで放さなかったものだ。
そういうことをキレイに忘れているのか、忘れたフリか、朝日子は「虐待された」例としてやっとこの盲腸・腸捻転の入退院を提示してきた。わたしたちに詳細な「記録」があるとは夢にも予想しなかっただろう。わたしも忘れていたが、その気になれば直ぐ見つけた。こんなことも、三十数年もして思い出され、役に立つのかとビックリしているが。
* 朝日子も、八歳から結婚まで、結婚してからやす香入院・死まで、二十年も四十年も父に虐待されて不幸の極みであっと訴えるなら、なぜに二十数年以前、例えば結婚して直ぐ訴えなかったのか。
なぜ、今から四年前、やす香の死後になって「mixi」の日記などに朦朧として書き散らしたのか。
* この四年間、虐待例の何の明証も出せなくて、今年の九月になり、やっと一つ裁判所に陳述してきた「被虐待」の実例が、この三十八年昔の「猿ぐつわ」と「十日に一度の見舞い」とは、とんだ道化たハナシになった。
あと出しあと出しの被虐のつくり話などは、迷惑至極。それを青山学院大学教授の夫★★★が原告に名を連ねて妻の後押しをしている図も、かなり滑稽にわたしたちの目に映る。世間にはどうだろう。
* 陳述書、まず、目論んだ段階まで、手も足もかけることが出来た。先月来ちょうど一ヶ月、不快で重苦しくのしかかるイヤな要事まみれの日々であったけれど、ひるむこと無しに徹底的に「陳述書」を書き続けた。原稿用紙にすれば400字用紙に千枚近く書いたのだ。その間にも、「湖の本」の上巻を発送し終えたし、下巻192頁ももう責了に出来る。俳優座大塚道子・岩崎加根子・川口敦子の「樫の木坂 四姉妹」の競演に嬉しく酔ったし 「たん熊北店」「菱岩」のご馳走をふくむ京都美術文化賞オープニング展では誰よりも田島征彦の爆発する表現の美しさに歓声を上げての一泊が楽しめたし 新橋演舞場での松嶋屋三兄弟歌舞伎も満喫したし 原知佐子好演の「私だけのクラーク・ゲーブル」もとてもよかったし 松本幸四郎名演の日生劇場「カエサル」にも励まされて大満足したし そして、井筒君新夫妻の晴れやかにめでたい首途を神戸で祝って、元気に日帰りにも成功した。
こういうことが、不愉快ごとの間に、生き生き挟まり挟まってわたしはとにもかくにも、ま、乗り切ってきた、これた。妻にも莫大に手伝って貰った。感謝。
* 弁護士の諸君がわたしの果たしたことをきもちよく受け取ってくれるか、厖大な量に呆れて渋面をつくるか分からないが、それはもうわたしの裁量の範囲外。わたしは、ここまでして、それだけ無心で無欲であれる。それでよい。
* 結婚後、六年で★★★教授が「暴発」してしまい、娘とも孫とも強引に縁を切られてしまったのだったが、その後もかすかに断続して母親と娘朝日子とには連絡のあったことを、妻は日記・家計簿等の諸記録から拾い出してくれた。わたしは、あまりそういうことには疎かった、余りにも仕事が忙しく、東工大の教授室の方により多く学生諸君との時間も用いていた。
だが妻の記録してくれたそれらを今読んでいると、そぞろ朝日子が可哀想でならない。
☆ 妻の記録と述懐と
1991年
08/14 ★★★の「暴発手紙」一通目が届き、「以降、★★の来宅は全く途絶える」。
朝日子との電話往来等は、この以降一、二年かすかに断続し 完全な没交渉へ推移していった。
以下は、妻の記録。
08/12から8月中=朝日子から電話5回。
夫・★★が興奮してとても怖い、★★の手紙を無視してと言うのもあった。
(迪子の反省。この時迎えにいって療養に無理にも連れて来ればよかった。)
09月中=朝日子から電話・手紙6回
★★★からは、手紙の他に、我が家からの手紙、やす香の衣類、秦の書籍の返送など。
10月中=17日朝日子から電話あり、容態に合わせ薬局から薬を送る。あたかも朝日子
の注文に依る如く「秦」の名はださずに、薬屋から送ってもらう。
朝日子からは礼の電話あり。
11月中=朝日子の塾講師のアルバイトを利して、秦家と朝日子面談・相談・食事二回。
12月中=朝日子の「奨学金返済肩代わり」・栄養剤・薬の送付など。
やす香からまみいやおじいやんの手紙がほしいと葉書など来て、泣かされる。
X’masプレゼントがやす香から来る。
27日 朝日子と食事
1992年
1月=朝日子・やす香から電話・手紙3回
2月=朝日子の電話2回
3月=みゆ希誕生・退院などの朝日子電話2回 迪子祝い金を送金
4月=朝日子の電話1回
5月=朝日子の電話3回 筑波へ引っ越すこと・その住所など。
6月=朝日子の電話3回 やす香のためのゆかたを送ってなど
7月=入院中のタカ様(秦の母)終末期かも?と医者に言われて、知らせる。
取り敢えず曾孫たちの写真が届く。
8月=朝日子の電話4回。迪子の郵便物が届いていないこと、見舞いにいく用意をしてい
ると、子供をおいてゆけ、行けば離婚だと言われたと朝日子泣く電話も。
9月=此方から電話3回 筑波へ一度家族で訪問 恒平祝い金を手渡す。
10月=電話のやりとり2回 届くかどうかと危ぶみながらやす香にプレゼント
11月=電話・手紙のやりとり4回 中に孫達の近況写真あり
12月=朝日子から恒平誕生日を祝う電話など3回
1993年
1月11日=朝日子の電話で、★★★が青山の専任講師に決まったこと、フランスへ出かけたから訪ねて来ないか? と言う。が、体 調不良で実現せず。
14日=建日子が朝日子と長電話の由
15日=朝日子・やす香・みゆ希 午后7時半来宅
16日=建日子の車にみやげ満載して まず祖母を見舞い帰宅
17日=朝日子に電話し、忘れ物は宅急便
18日=朝日子から電話
3月9日=朝日新聞に秦の名を見つけた朝日子が久しぶりに電話をよこし、近況報告
10日=来信孫達の写真も。
29日=建日子が朝日子に電話・**さんとの結婚式出席について。
この紛糾解決に至らないのは迪子の所為だと言われ、建日子意味わからず、
出向いて話し合うと激怒しそうだと心配顔
4月7日=朝日子から電話青山大学国際政経学部講師ヨーロッパ(仏)政治担当と。
8日=差出人の書いてない封書届く。朝日子だった。
5月10日=朝日子・やす香から電話・★★の偽悪的? というか本音の分からない態度に
困っている由 ★★伯父の**氏に相談したいとか。
21日=朝日子等3人で結婚式に出席すると電話あり。
29日=夜朝日子から電話=朝日子が**氏に相談にでかけた。
**さんは大変困られたが、少なくも、朝日子や孫達が保谷と交際するのに、
いちいち★★が文句をつけ、荒れる、ということを止す様に、注意して下さることに。
6月8日=朝日子から電話・結婚記念日なり。**さん、小林先生が ★★ に話して下さり、
朝日子が里との交際を邪魔だてしないと約束した、と言われたが、★★はそれを
朝日子には云わない。★★がその場限りの耳ざわりのよい返事をしたのかもしれない、
が、保谷からやす香に手紙をくれるなどのアクションを起してほしい、と、朝日子。
22日=朝日子から電話・直接恒平が出る。紛糾か。ややあってやす香から電話、祖母
が出した葉書をすらすら読んでくれて、もっと漢字がはいっても読めるよと。
(やす香に電話させたのは、朝日子の宥和の智慧であつたろう。恒平)
8月3日=小林先生から電話。夫婦間に問題ありならお役に立つが、夫婦に問題がないよ
うなので、と私の悩みはとり挙げていただけない。
しかし**氏と連絡をとって会うことに。
6日=小林先生・**氏・秦夫婦 池袋メトロポリタン・ホテルで会談。
15日=**氏より電話・FAX
17日=**氏と会合・★★の手紙は見たくないと。経済援助の ないことで 秦の両親を
罵倒する手紙があるとはどうしても信じられないが、無礼は詫びさせましょうと。
30日=建日子が朝日子に電話をしたら**氏が見えて居る由。(姉が)★★は謝罪する
でしょうよと、まるで他人事のような口をきくと、建日子。
9月1日=**氏より仲立ちを断ってこられた。曰く★★の手紙がそんなにおかしい物か疑
わしい、と。手紙の実物に目をむけもししないまま、秦の方で鷺を烏と言って
いるのではないかとおっしゃるので、★★の無礼な手紙が来ることになったきっかけ、
と、その後の2年間のことを、書いた。
3日=建日子が朝日子に電話を入れて様子を探ってくれた。朝日子は我々から捨てら
れた、愛されていないのだ、と思いこんだように感じて、すっかり元気をなくし、落ち
込んで、建日子は可哀想で見ておれないらしい。理非を越えて★★と話しに行ってや
って、朝日子の気持ちをなんとかなぐさめてやりたい、と建日子言う。
朝日子という娘は、心配をかける、という点では天才か? 我が家三人の心痛は
一通りではない。
* こう昔を見なおしていると、この頃までに父に虐待されていたなどという事の絶無であったこと、押村の暴発に迷惑したのは我々だけでなく、その何倍も妻の朝日子が泣かされていたらしいとよく分かる。
2010 10・18 109
* とにもかくにも、五便に托してファイルで「陳述書」を牧野綜合法律事務所に送った。無事、届いていて欲しい。写真もかなりの枚数送ってみた。役に立てる立てないは専門家任せだが。
2010 10・19 109
* 明日は国立劇場で、吉右衛門の真山歌舞伎「天保遊侠録」と「将軍江戸を去る」。後者では山岡鐵太郎を染五郎がやる。
* 今日、十一月演舞場の顔見世興行の通し座席券が届いた。昼に通し狂言「天衣紛上野初花」で幸四郎の河内山と菊五郎の直侍が競演。夜は「逆櫓」で樋口次郎兼光を幸四郎が、「都鳥廓白浪」で忍ぶの惣太を菊五郎が主演し、中幕で例の子供衆を引きつれた芝翫らの所作がある。「逆櫓」では富十郎が畠山重忠をやる。秀太郎、魁春、時蔵そして菊之助ら女形も充実、楽しみ。
師走の国立では仮名手本の「祇園一力茶屋」など、父の由良之助に息子の染五郎が寺岡平右衛門でぶつかるのが楽しみ。わたしは師走のその日、七十五歳になる。
2010 10・19 109
* ノイローゼやストレスは、「ノイローゼ」や「ストレス」という言葉が一般に知られるまで、誰も自覚してなかったという「説」があった。そうかも知れない。
『医原性疾患』という専門書を企画し出版したことがある、編集者の昔に。ひょっとして「人原性疾患」も在りはせぬかと思う。
* 先日の卒業生君の結婚披露宴で祝辞の中で披露してきた、俵万智の一首。
親は子を育ててきたと言うけれど勝手に赤い畑のトマト
この「勝手に赤い」の「勝」の字を虫食いにアケておいて問うと、当時の学長をはじめいちばん大勢が「両手に赤い畑のトマト」と解答した。その理解として、「親は子を育ててきた」どころか、自分たちのことに、商売や道楽や関心事に両手とも塞がれていたではないかと恨めしがる解釈も有って、秦教授はウンザリした。
さりとて「勝手に」子は育ったんだい、親の世話になどなるものかという感じは、行き過ぎだ、という解釈もかなり広かった。そんな中に、「上手に赤い畑のトマト」というのがあり、わたしはこれに心惹かれて、佳いではないかと推奨した。「親への感謝もあり、親への拘泥は少なく、我も張らないが、適当に自分の思いを遂げながら」「上手に赤いトマト」にわたしは成りましたよ、と。
「十七にして親をゆるせ」という一語が、高校の先生から聴いた最高に教えられた言葉ですと教室で明かしてくれた学生に、学友はどうっと揺れるように共感や感心を示したのも同じ頃であった。
* いま、自身の至らなさ未熟さを棚に上げて、親の「虐待」などというところへ自身を甘やかしていろんな意味での人生の責任のがれをしてしまう大の大人達が顕れてきているのではないか、その傾向が、本当に不幸な新の「乳幼児虐待」などの実態をかえって見つけ難くしたりしてはいないかと憂慮する。
なんでもかんでもを、都合が悪いと「虐待された」というところへ持ち込んでしまう。学問や研究の顔を装いながら、本当に大切な教導や躾の側面をも都合良くぶちこわして行く。
鞭打てとか叩けとかぜひ体罰をとか、そんな過剰なことは決して謂わないが、やはりどこかで「親は子を育ててきた」と謂える余地は健全に残さねばウソであろう。親に虐待されたされたと謂わんばかりの少女達が渋谷や新宿や池袋で幾晩も幾月も浮浪しているのは、悲しい。似而非の大人や学者顔したのが、とほうもない病気を手柄顔して生み造り出しているのでなければいいがと願う。
まして、大人達の下手なウソが混じり出すと、ことはひどくなりまさる。鬼の首をとったように「虐待され」ごっこ「虐待し」ごっこを演じられては、健康でありたい社会が不健康な病状へ崩れて行く。
なにより怖いのは、真実の「虐待」が発見されにくく糾弾しにくくなることだ。
親に甘えるのは、ま、いいとして。甘えられないと反転、親が虐待したなどと裁判沙汰にまでもちこむ「いい歳の大人」が顕れたりしては、これを何現象と謂えばいいか。こういう身勝手に、真に憂うべく憎まねばならぬほんものの「虐待」が霞んだりしては、有害としかいえぬ。
いましも、祖母、母、娘の三世代間の真理の葛藤を、ことごとしく賢しくテレビで論じていたけれど、「上手に赤い畑のトマト」で有りうるように、みなが心がけるべきだろう。「十七にして親をゆるせ」とは、親の罪咎を無罪にしてやる意味では絶対に無い。十七にもなったら、真に自立してゆきたまえということだ。自立が無さ過ぎて、無用に近いほど心理の蜘蛛の巣にみずから引っかかりすぎているのが病気、時代や社会の病気になりかけている、それこそが危ないという見極めが大事なのではないか。
2010 10・20 109
* 夜十一時前に、建日子が今夜泊まるよと、来る。二、三時間、いろいろと話し合う。
建日子なりにいろいろ思い付くことあり、わたしたちへの助言など、意見など、お互いに波長のあった内容いくらも有り、助かる。
* 来るたびに、新しい機械やツールを持っている。そういう趣味があるのだ、わたしには建日子の今の年頃にそういう気はすこしもなかった。
東芝トスワードの一号機にとびつき、買ったその日から、「世界」の連載小説『最上徳内』の途中から使い始めて妻の清書の労を一気にはぶいたぐらいが、唯一で、ただひたすら「書いて」日を送るだけであった。
編集者も記者も、出向かなくても家に来てくれた。そのぶん妻は接待にとてつもなく忙しくした。手早く酒肴を用意使途ソツがなかった。家はいつも賑やかだった、しかし、これでは妻が潰れてしまうと、わたしの方で外へ出掛けて行くように切り替えていったが、自分で自分の車を使うと言った気はまったく動かなかった。それは「書く」ための何の役にも立たない、むしろ機械に弱いわたしには危ないと分かっていた。
* 息子を観ていると楽しそう。あんなのもよかったなとチラとは思うが、わたしは京都に九十の坂をのぼってくる三人の恩有る育ての親がいて、この先にどれほど金の必要が生じるかと思うととてもムダは出来なかった。例えば住むにも喰うにも困っていない働き盛りの娘夫婦に住居や生活費を与えるよりは、何が起きるか知れぬ親達のこの後に備える方がはるかに大切だったし、どうまちがってもわたしはベストセラーを書く書き手では全然無かったし、建日子の前途は何にもまだ見えず、自分たち夫婦の老後を誰が助け支えてくれるアテもなかった以上、「専守防衛の必要」は秦にこそあれ、娘の嫁ぎ先にはなかった。まかり間違えば四十四坪、上下に四部屋とキッチンの家に九十に手を掛けた親達三人を引き取らねばならなかった。垣根越しの隣家が手にはいったのは天佑としか謂いようがなかった。
2010 10・20 109
* 息子が仕事に出掛けていった。幌がけ、一人乗りのような新しい自動車で。怪我をするなよ。
2010 10・21 109
* まだ八時にならず、隣室で妻のピアノがしきりに苦吟のていで鳴り続いているが、わたしは眼をとじるとそのまま濃い睡りに沈み込んで行く。はやく休もうと思う。
2010 10・23 109
* 何年掛けてきたことか、よほど幸運に出会えば昔の「私語」から読み初めの日が見付かるだろうが。もう三四日で「ヨハネ黙示録」を読み終え、旧約・新約を通読したことになる。
旧約を一度であたまに容れるのは難しいが、多くの多くの印象は得ている。もう通読までは二度と無いにしても、部分的に読み返してみたいところが幾つもある。「ヨブ記」など。
新約聖書は、四福音書の外へ踏み出して読んだのは初めてで、多くの書簡の意味合いにはかなり親しんだ、そういうことかと、使徒行伝も含めて新約の世界がかなり見渡せた。
旧約も新約も、聖書それだけを通読しても通読に終わると思い、『総説 旧約聖書』『総説 新約聖書』で、いわば研究成果と解説とに手を引いて貰った。これなくして旧約世界など「世界」として朧ろにも全容が見えてこなかったろう。聖書研究は最も精微博大の伝統をもつと聞いている。さもあろうと思う。
わたしが読み切ろうとしている旧約・新約聖書の一冊「合本」は柔らかい革表紙の文語訳本であった。実父が亡くなったときに、異母妹二人から形見分けのように貰ったのが、随分永く隣の棟の書斎の机に置いてあった。此の父は、遺品の中に文庫本大の新約聖書を一冊持っていて、それもわたしの手にある。それは現代語訳で、それで「ヨハネ黙示録」を読んでみると、文語文の訳よりよほど読みやすい。文語文で読んでいるとかなり威される。
2010 10・25 109
* 赤坂見附から銀座へ。有楽町のビッグカメラで消耗品を補充し、生憎と不味い中華料理を酒で流し込むように食べて帰ってきた。やはり網野善彦『中世の非人と遊女』の圧倒的な面白さに、満員の電車を立ちづめも気にせず保谷まで。
冷えていた。建日子に貰ったもうジャンパーを着て出て荷物にもならなかった。
* 発送の用意しながら、篠原涼子主演の「金の豚」とかいう題のドラマの初めらしいのを観た。この女優は、息子の書いた女刑事の「雪平夏見」役で弾けて、抜群にイメージアツプされた。もっと昔から、ちょっと味わい有る女優だが脇役かなと気に掛けていたのが、雪平夏見で俄然生彩を発揮し、トップスターにのしあがり、魅力ますますのいい女に成った。コマーシャル写真を見ていても表情完熟、いつも目を惹く。是は観たいと思った。
うん、いい出来だった。会計検査院の検査員というのが新しい。
このあいだ、似た名前のもう一人売れっ子、米倉涼子の国税査察官もの「ナサケの女」も観て、ま、面白かったけれど、あれには今や懐かしいほどの宮本信子がご亭主の監督映画で大活躍した「マルサの女」という先行作がある。会計検査院の、しかも元刑事かと間違えられるような隠れ前科者という設定が、篠原涼子の味を引き立てていて、ちょいと身を乗り出して観ていた。
20110 10・27 109
* 「そうだ。 京都 行こう」というキャッチフレーズは、添削の粋かのよう。京都の庭園と紅葉と和菓子とを美しく紹介している番組を観ながら、少し用事を進めていた。
黒いマゴに誘われて機械の前へ。わたしの直ぐ背の処に息子も欲しがっている柔らかい黒革の二人がけのソファがあり、無粋にモノが積まれている残り半分に柔らかい毛布とクッションとの席、そこが黒いマゴの専用席かのようなお気に入りで、真上から煖房の暖気もおりてくる。わたしが機械で仕事していると安心しきって熟睡する。留守番の時も、よく此処へ来て寝入っている様子。真っ黒いマゴ、どこにいても色美しく映える。あまり大きくならなくて愛らしい。
2010 10・30 109
* 建日子の呉れた機械が、まだ思うままに使えない。腫れ物に触るようにおっかなビックリで触るからかも。こいつステキ! と思いこめるメリットを二つも三つも掴み取って自信を持ちたいのだが。
2010 10・30 109
* 一時三十五分、『舊新約聖書 引照附』読了。日本聖書協会1964刊行。中形 9ポ活字 文語聖書。旧約1593頁 新約536頁。読み始めたのがいつであったか、少なくも五年は掛けて読んだのだと思う。実父吉岡恒の逝去後に、異母妹二人から形見分けのように受け取ったと思う。聖書世界があたまに宿ったと自覚している。それには、併読してきた『総説旧約聖書』『総説新約聖書』に大いに助けられた。聖書の正典(カノン)がいかに定まってきたかを今、後者に教えられている。
2010 10・31 109
* 夜前の読書では、新たに読み始めた角田文衛博士の『日本の女性名(上)』が面白かった。T博士(『風の奏で』に登場して頂いたときの呼び名)に直に頂戴した昔に読んでいるが、読み返し初めて実に新鮮に興味津々。
一つには、戦後もかなりしての風であるが、女子の銘々に「花子」「松子」「道子」風の接尾「子」名が激減して殆ど出会わないかとさえ思われることにわたし自身が驚いていた。
* わたしたちの娘の「朝日子」の「子」は、接尾「子」ではなく「朝日子」そのものが「朝の光」を意味した名詞であるが、それとても朝日に「子」を添えた歴史的な一種の美称ないし愛称であった。
はるかに昔から、女子の接尾「子」名は、貴族さらには皇女らに占有されたとすらいえる命名であった。それを徐々に庶民も倣い始めてはいたろうが極く稀、或る元禄時代の夥しい女子名調査で、接尾「子」名は、絶無。
ところが明治の頃から庶民平民の女子にも接尾「子」名が慕い倣われはじめ、或る調査では、明治十六年の公立都第二高女と日本女子大の卒業生名簿に接尾「子」名はゼロに近かったが、十年後では17%、二十年後では37%に増え、大正二年には75%、昭和八年には83%、昭和十八年には実に85%に接尾「子」名の女子が増えていた。わたしは昭和十年生まれであり、此の最後の数値の正に示している同時代女子とともに人生を歩んできた。いまでも、女の子の名としては接尾「子」名をこころよく感じる習いを捨てきれない。澤口靖子、田中裕子、松たか子などの名が贔屓されてしまう。それも漢字一字「子」のほうが二字「子」より、なんとなく良いように思われていたと覚えている。それでも娘に「朝日子」命名の迷いはなかった。
2010 10・31 109
* 十月尽。おそらくこの年の明けには、裁判の行方になお波瀾が在ろう。何が有ろうと、乗り越えて行くのである。
* もう二年前になるか「週刊新潮」は、「孫の死を書いて実の娘に訴えられた太宰賞作家」という見出しで記事にした。記事内容は「高橋洋」という偽名で話す、婿独りの独演だった。
この記事、わたしへの弾劾かという意味でなら、ほとんど無効の空振りで、何の実害もなかった。当の新潮社の人からも、「よくわかんないヘンなモンでしたね」と聞いたし、公人である大学教授が「偽名」で出てくるなど、「なにかうしろめたいのか」と云われていた。
記事に驚いた人はいたが、肉腫という最悪の癌に罹った「孫の死を書い」た本とは、『かくのごとき、死』一冊であったし、それはこのホームページでも誰でも読める。「湖の本エッセイ39」としても刊行されている。それを読まれれば何が両親への名誉毀損に当たるか、誰にでもその不当が直ぐ分かる。無垢の真情が日々に記録させた、「日記」そのものが真に「挽歌」であったことは明瞭なのである。
* この時にも、婿と娘とは年甲斐もないミスを犯した。孫の葬儀のまさしく直後からわたしや妻を裁判沙汰で脅迫(弁護士の当時の判断)し始めた最初の彼らの言い分は、祖父であるわたしが孫を「死なせた」と書いている、親が子を「殺した」「殺人者」だと書いて云っているのであり、名誉毀損だというのだった。
失笑するしかない浅慮の誤認・誤解であり、わたしには早く、東工大教授に就任直前に、『死なれて死なせて』という「死の文化叢書」(弘文堂)の一冊があり、幸いに広く読まれて話題にもされた。云うまでもない、「死なれる」は受け身の悲歎、「死なせる」は自責の痛苦をともなう悲歎と、明瞭に同書に定義してあり、日々のマスコミにも「死なせる」という言葉は少しも珍しくない。これを「殺した」「殺害」の同義語に読む人など、まともな大人なら一人もいないのである。これまた二十年も昔の「身内」の誤解と、「珍」一対の逆上・八つ当たりとしか云いようが無かった。祖父母が自責の痛苦に身もだえるように愛しい孫を「死なせた」と歎くのを、両親への名誉毀損ととる、そのような大学教授がいていいのだろうか、★★★はまして教育哲学の学者であり、わたしたちの娘の当時「朝日子」(現在は、改名している)も、国立の女子大で哲学を専攻してきたのである。
これほどの珍妙が二つも重なると、逆によけいに、この夫妻には舅や父を怨む「よくよく別の何か」があるのではと、またしても、ふつうの第三者ほど想像されることになる。かれら原告は、今やもう「身内」の話も「死なせたは殺しただ」とも言い出さなくなった。だが、かわりに、突如として、弟・秦建日子の生まれて以降「二十年(=結婚まで)ないし四十年(=現在まで)」にわたる、父の娘に対する「虐待」「性的虐待」「ハラスメント」というのが飛びだしてきた。これには、妻も弟も、わたしも、惘れ返った。しかも、それが法廷に持ち出されて以来四年というもの、娘達は一度も一件も、データや証明のある具体的な申し立てが出来なかった。
そしてやっと今年九月末になり、初めて、「三十八年も昔」に腸捻転で入院の際、苦しむ娘に父はうるさいと「猿ぐつわ」を噛ませ、四十日もの入院期間に十日に一度しか見舞いに来なかったのは明らかな「虐待」だという「事例」を陳述書として提出した。
* 笑い出すしかないほど嘆かわしいウソであった。当時朝日子の「入退院と、両親自筆による看護・看病」記録が大きな袋にどっさり保存されており、他に、当時の日記やダイアリー記事もあり、詳細・稠密、わたしも妻も、息子が思い出して笑い出すほどわたしも妻も、日ごと夜ごとベッドサイドで、術後の排ガスや尿便や食べ物や処置等の経緯と実状とを書き残しているのである。わたしは、自転車で毎日のように見舞い、病院や近くの食堂で忙しい原稿も書き、編集者まで病院へ見舞いに来てくれていた。
「猿ぐつわ」とは噴飯モノだが、二度目の緊急入院の際、救急員に「気道確保」を間違いなくと頼んだのでもあろう、苦痛時の舌嚥下による窒息のおそろしいことは、医学書院で多年の編集者体験で承知していた。
* と、こういう工合で、この、三十八年前の頼りない父弾劾は、確実な物証の前に煙と消え失せた。
* それどころか、「虐待」を受けていたどころか、父や母に甘えてこの娘はたくさんな親愛と感謝との手紙を書き寄越しており、結婚後実質たった四年半のうちに、「397日」も、つまり一年と一ヶ月もの間、父が日々物書き暮らしをしている狭苦しい実家に「里帰り」していた。さらにそればかりか、結婚して子もある朝日子は、編集者に頼まれると大喜びで父と同行の婦人雑誌旅企画に加わり、ご機嫌に仲良いツーショット写真を雑誌にたくさん公開していたのである。どこに虐待が、どこに性的虐待が、どこにハラスメントがあるか、惘れた話である。
* わたしは意識し意図して、これらを繰り返して「書く」ように努めている。時間の波間に堆積し埋没してしまうのだから「放っておけばいい」とも謂えるが、あえて断乎として放っては置かないのである。裁判が終わり、被告席から無事降りるまでは、抗争上の正当な手段としても、せめて、五十の大人になっても親に躾けられ叱られる幸福ぐらい、不幸な娘のために残して置いてやらねばならぬ。
独楽は今軸傾けてまはりをり 逆らひてこそ父であること 岡井隆
2010 10・31 109
* 「弦」という短歌を主にした総合誌が毎度贈られてくる。辺見じゅんさんの主宰誌。その、昨日か今朝かに届いていた新刊巻頭に、清水房雄さんの作がならんでいる。わたしよりよほど高齢の筈、こうしてお目にかかるのが喜ばしい。
作のなかに、目ざとく妻が見つけた一首が、
親子とて他人のうちといふ記述さうかさうよと頷き合ひぬ 清水房雄
明らかにわたしの何れかの著作から引かれている。
わたしは、「自分」でない存在は、ひとまず親も子も親類も「他人」と思い、そのかなたに「世間」を置いてきた。同時にこのほかに、真に「身内」といえる存在を望んで、一人また一人そんな「身内」を見つけ・得て行くのが、人の、人の生(よ)・世を生きて行くさだめと思ってきた。
親子とて、夫婦とて、恋人とて、友とて、よほどの覚悟がなくては「身内」になり難い。人はそれをじつによく知っていればこそ、神話このかた最現代の多くの創作まで、そういう言葉こそ用いないまでも「真の身内」を求め合いつづけている。
オデュッセイと妻も、ロミオとジュリエットも、フアウストも、ヘルマンとドロテーアも、ネフリュードフも、モンテクリスト伯も、また光源氏も、雨月物語の人達、さらには時任謙作も、春琴と佐助も。多くの崇高な、また烈しい嶮しい主題に挑み得た大勢の深奥には、「真の身内への渇望」があり、そんな身内から得た深い励ましがあった。
よく、創作の真の主題は「愛と死」だといわれるが、そのまだ奥に実在する「真の身内」への渇望こそ「藝術内奥の主題」なのだとわたしは考えてきた。今も考えている。
* ちょうど孫娘やす香の生まれた頃、夏目漱石の『こゝろ』に胸を借り、俳優座の舞台に『心 わが愛』を書いたのも、作者であるわたしの主題は、そういう「真の身内」の思いであった。
ああ、だが、紀伊国屋ホールでその舞台を一緒に観た娘の夫は、当時早稲田大学で助手という地位にいながら、上の清水さんの歌のようには「さうかさうよと頷き合」ふ理解力を欠いて、舅と婿とが「身内」でないとは何事か、暴言だ、辱められたと怒りだした。今なお、舅のわたしを被告席に据え、青山の大学教授になっている婿が、妻と連名の原告として、舅であり実の父であるわたしを裁判沙汰にしつづけている、この辺が二十数年前の「発端」であった。「やはりきみは『身内』じゃない」と云わざるを得ない。
* 婿夫妻にすれば「よくよくのことが有るのだろう」と、ま、ふつう第三者は考えられるだろう。そういうものだ。その当て推量をわたしは免れ得ないけれども、真実は、事実の積み重ねが明らかにする筈だ、この後も。わたしは「書く者・作家」である。必要があれば、「書いて」表す。隠したりウソを云う必要は何もない。
* 『愛と友情の歌 =(愛、はるかに照せ)』から、『青春短歌大学』にまで、清水房雄さんの歌を一つ二つならず感銘深く引用させてもらい、何度か文通もあった。機縁となったのは、やはりこの歌であった。
思ふさま生きしと思ふ父の遺書に( )き苦しみといふ語ありにき 清水房雄
この一字の虫食いを埋めて、むかし、東工大の学生諸君はたくさんな漢字一字を宛てて来たが、作者自身による、いや、この「父」自身の遺書が書いていた「長き苦しみ」という、平凡なようで実感に満ちあふれた佳い表現に手の届く理解は、数少なかった。清水さんのような高齢に成られてそれはしみじみと身に堪えた、亡き父君の「長き」の思いであったのだろうなと、初めて読んだ昔にわたしは胸打たれ頭をさげた。わたしたちの娘は、まだ結婚していなかった。
2010 11・1 110
* 久々に妻と近隣の寿司「和可奈」へ。鯛の兜煮や鰆の西京焼も食べて、お酒も美味しく三合も。帰って七時半、妻のピアノが隣の部屋で鳴っている。そうだ、少し落ち着いてピアノ曲など聴こうか。
2010 11・3 110
* 滑るように日が経つ。
身に纏うた、荀子の所謂「蔽=ボロっきれ」の重さに喘ぐ気分。黙々と作業。済ませるべきはやはり早く済ませたい。
* アイズビリの颯爽とした線体美にアテられ、一入萎縮しているようで情け無い。
* それでいて、横になり手の届く限り本を読み廻しているときは、惹き込まれている。
2010 11・7 110
* 機械の前へ来ると、昨日池宮さんの呉れた写真一枚、彼女の姉の当時大谷良子さんとわたしとがならんで写っている。わたしは大学生、もう三、四年生か。いずれ、池宮さんの家で夫のエディさんが撮って呉れたに違いなく、大谷さんはYの字に胸元をあけたドレス姿。二人とも至極ご機嫌の笑顔で。
もともと大谷さんが叔母宗陽のもとへお稽古に通っていた。池宮さんはべつの先生に通っていて、大谷さんは池宮夫妻の家に同居していた。わたしこの家でいわば「アメリカ」という異文化にはじめて接したのだった。エディさんの車で伊勢志摩までドライヴしたこともあり、その日の写真も昨日もらった。
大谷さんもわたしの結婚後に、アメリカにわたり結婚して、そして亡くなった。寂しかった。わたしたちより半回りほど年上だった。
この姉妹に、わたしたちの恋と結婚とは大いに励まされた。その心丈夫と感謝とがいまも我々に生きている。大谷さんとわたしとがまさしく姉と弟のように懐かしく一枚の写真に収まっている。ああこの人ももう向こうで暮らしているのだなと、あの世がその其処のように親しげに想われる。
2010 11・21 110
* 先週火曜、十六日に予定の法廷があった。一週間経ってもいつもの報告が弁護士から、ない。問い合わせると、原告代理人が出廷しなかったのだと。日を、十日、間違えたと。
前回は、約束を違えに違え、もうオシマイと謂うことになっていた原告陳述書をまたまた提出してきて、それならば、被告にももう一度陳述の機会を与えましょうとのことで、十月のあの「陳述書」をわたしからも提出した。
そしてその今月の法廷も、日を間違えていたと、事実上原告側が「流して」しまった。「請求棄却・却下などの制裁もありうる」ズサンな失態であり、しかし裁判所は十二月中にもう一日設定し、その辺で「結審」にしたい旨の、当方代理人から、今さき報せがあった。
判決が出るのか、和解勧告なのか。娘の例のハラスメント云々などの訴えなど、完膚無きまで娘自身が「成し」ていた莫大な証拠により、無残なまで潰え去っている。
なにしろまるまる四年余の裁判沙汰。
此処まで来て法廷をすっぽかすというのは、敗訴覚悟と思われて当然の失態だとか。一月後には満七十五になる実父・岳父を被告席に置いて、娘も、婿も、いつまでこんなことをしていて、いいモノか。裁判所の判断も伺いたいが、広い世間のいわば「裁判員」諸兄姉にもうかがたい。
2010 11・22 110
* 妻を電動自転車のうしろに乗せ、落合川、黒目川の、もう冬ざれの風情を眺めてきた。大きな大きな鯉たちがいたし、たくさんな鴨たちもいた。凄い雲行きだったのが東からきれいに明るんで、立つ雲が美しかった。
* 明日は歯科。明後日は眼科。
2010 11・23 110
* 遅くまで根をつめて、済さねばならぬ要事に没頭。また疲れました。
2010 11・25 110
* 法廷は十一月十六日にあった。ある筈だったが原告側は二十六日、つまり「今日」だと思った。「間違えました」という理由一つで法廷に現れもしなかった。原告代理人は少なくも二人以上。二人揃って、肝腎の次回期日を忘れるだろうか。裁判所が「原告請求棄却」してもおかしくない失態だと当方の代理人から報せがあった。
裁判所は原告側欠席の法廷で、原告代理人と電話を繋いだまま、「和解」の意志を双方に問い、原告は、即座に「和解は無い」と答えたそうだ。わたしの代理人は裁判所の意向を受け容れ、「和解に臨む用意はある」と答えたという。先方も最後には、「和解を検討する」と答えて、その上で、裁判所は次回法廷を「十二月十六日」に、被告側提出の「証拠」(被告陳述書)を検討し、一応結審したいと。
もし「和解の話し合い」となった際の今後のスケジュールは「裁判官が仲に立って和解へ調整」するらしい。しかし、なによりその前、次回十六日法廷で、わたしの提出した「陳述と証拠書証」を、どうか仔細に調べて頂きたい。
2010 11・26 110
*永く手を掛けている作に新たな展開の有効な手がかりが一つ出来ている。早く手を付けて行きたい。
なんと言ったらいいだろう、魔法陣のような作と、老いの性を主題の作と、実父を想う作とを、等分に進めてきているが、九月十月の阿修羅な要事でみな停頓していた。停頓は今暫くつづかざるを得ないが、少しも諦めていない。
2010 11・27 110
* 京都から東京へもどってきた池宮さん、お土産に一保堂の濃茶を送ってきて下さった。
たとえば初釜などで、十人ほどの濃茶が十分練れる堂々の重みと大きさの赤茶椀、普通の一倍半の豪快な碗で、十四世淡々齋が「宗叔」若宗匠の昔の手造りである。当時当代の楽家が「焼いた」と銘記がある。その用にと、とびきりの濃茶を、きっと京都で仕入れてこられたのだろう。アメリカでは、めったに「楽」と名の付いた茶碗を持った人が、淡交会支部あたりでもいないと洩れ聞いている。
初釜の本席床に、どんな軸が掛けられるだろう、茶入れは高取の肩衝を所持されている。元気にめでたい初釜が祝われますように。
* なんだか、もう一度も二度も、自分も釜をかけてみたくなる。昔は叔母のために用意した四畳半に床の間も置ききちんと炉も切ってあった。医学書院からはるばる通ってきて、稽古した人もいたのだが。やす香の生まれるのを記念して家を改造し、四畳半のかわりに「やす香堂」と笑って呼んだ、板の間に卓や倚子のダイニングキッチンに造り替えた。今は、そこが「湖の本」発送の作業場になっている。炉を切り直すなら六畳の茶の間しかない。
2010 11・28 110
* なにをして一日過ごしていたか。もう夜十時半をまわっている。
* していたのである、一所懸命に。その始末も付けた。一息ついている。何をしていたか。それは書く気がしない。すこし寛いでから寝たい。また、澄んだ秋の空気を満腹するほど吸ってきたい。
* 志ん生で大笑いしながら寝入った。 2010 11・29 110
* 難しい要事が、年の瀬へも、暗い波の寄せるようにつづく。堪え忍びつつ立ち向かわねばならぬ。
2010 11・30 110
* 今月以降、少し様態のかわった月日となるだろう、永かった裁判が一応結審され、「和解」勧告による折衝ヘ場面が移動しそうな按配。まだ原告の娘夫婦が和解勧告を「検討する」という段階で予断はできないが、わたしは、その心用意の元に代理人との相談を始めている。これももとより、容易ならぬことと思わねばならぬ。
* 終日、愉快になれぬ要事に奔走し没頭していた。外へ出ても、家に戻っても、気疲れした。
そんなとき、つい甘いものを食べる。
昨日、隅田河原でカルピスと一緒に食べようと保谷駅で買っていったクッキー包みが美味くて、今日家に帰ってから頻りに喰っていた。いろいろの豆の甘納豆のカンヅメも食べていた。何十年もしなかったコーヒーに砂糖というのも、この頃してしまう。低血糖に落ちこむと急いで口にする白砂糖の味をしめたのだ、いつのまにか。
* それでも幸い生きている。痩せないし、よほど疲れていてもお元気そうと言われる。いいことでもイヤなことでも真っ向からいつも組みついているからだろう。愚か者だ。
* 本を読みながら寝ていた。湯に漬かったまま寝ていた。機械の前で寝ていた。気が付けば日付が変わっている。
2010 12・1 111
* 夕食後に、ハタと寝入ってしまい九時に。なんでこう睡いのか。なんで、こうか。
* 不愉快な要事が、まだまだ身に迫っていて免れ得ない。そういえば、去年の師走にもわたしはしきりに腹痛に悩んでいた。
明朝は、わたし独りで歯医者に行く。
2010 12・2 111
* 明日はもう、日曜。ほんのこのまえ「イ・サン」を観たばかりなのにと、あまり一週間が早さに惘れる。あすには舞台は回って、難儀の要のいわば第一幕に一仕切り入れたい。
2010 12・4 111
* ウィキリークスによる米国外交機密文書のリークが大騒ぎなのは分かる。
ただ、これも「マトリックス」現象。機械環境の管理や支配の根底の難しさを露呈したに過ぎない。いまや文明社会の人士は、機械環境を利して「生活」していながら、こういう事に仰天しているのは、国も関係者も、理解が浅い。こういうことの起きるのがネット社会なのであり、だからわたしは、日本ペンクラブといえども、もう言論表現委員会だけではコト足りぬ時代に向かうのだから、いち早く「電子メディア委員会」がぜひ必要だと提言し、やっと委員会が出来て最初の責任者になった。わたしが委員長を辞して人に譲ったら、やがて委員会自体が無くされている。
サイバーテロ、サイバーポリス、それに加えてサイバーリークスが大々的に表面化した。だが、そうなる前兆はじつはメールやホームページ・ウエブやブログや、ケイタイや、いろんな放埒な「めちゃくチャンネル」の普及ないし瀰漫化に、だれもが予知していたのではないか。国家の外交機密にして斯く然り。そんな時代、人間の創り出した機械環境は、、考えられるあらゆることを可能以上の氾濫状態まで爛熟させている。
そしてその幾分かは、むしろ自然当然の時代の推移を示しているだけになっている。
* わたしはこのホームページで、政治家はもとより、藝術・藝能・文藝等々の「公人」の大勢を、実名で率直に評判し批評しているし、また親族や友人知己や読者の名前も、さほど遠慮しないで出している。
但し、わたしは某新聞の売り物でもある匿名欄以外は(それももう、十年以前に退役している)、一切全てを「文責」を明かして書いたり話したりしていて、卑怯な変名や偽名や匿名は全く使わない。それが最低限この時代のマナーであり、エチケットであり、道義の責任だと承知している。もとより家族や親族のほかは、私民・私人を名を挙げ非難し批判し厳しく批評することはしない。しか大学教授や教育機関に所属した「公人」は別である。
* ネット社会のいい一面の一つには、国などの「公」とともに「公人」への批評の権利を、皆が平等に持てて、ことあれば声を上げて良い点にある。また、ぜひ、そうであらねばならない。フイリッピンの政変などはそれで可能になったと聞いている。
では、この時代の「公人」とは何か。
かりにも、新聞・テレビ・雑誌・書籍等で意見や表現行為や自作を曝している者は、「公人」の責任感をもち常に批評を受けるものと自覚していて当然である。そしていまや、ネット社会の人間として、かりにもブログやケイタイやツゥィッターを通じてモノを国内外に言い放っている者は、「自分だけは別」などと逃げる資格はもう自ら放棄しているに等しい。そういう機械環境を「世界」として生きているのだから。リスクも負わねばならぬ。
だが、いや、だからこそ、変名、無名、匿名等で他に論究してはならない、まして譏ってはいけない。その辺の週刊誌も、仮名の公人をつかって実名の公人を貶めるようなことに軽薄に荷担してはいけない。
2010 12・5 111
* 銀座三笠会館の「榛名」で、二時間、フランス料理とワインでゆっくりした。
婚約この方「五十三年」の思い出がある。
こまやかに気の入ったメニューで、胸にも腹にももたれず、デザートまで、なにもかも、すてきに美味かった。もうクラブに寄るまでもないと、銀座一丁目から帰路へ。雨にも降られなかった。竦むほども寒くなかった。
* と、まあ云うものの、むずかしい要事も併走するように追ってくる。頑張るのは必ずしも好きじゃありませんが、生きている限りは頑張らねば済まぬ、ということはあるのです。
投げ出してしまって「いさぎよい」と思う人もいるのだろうが、わたしは、そんなウソくさい「いさぎよさ」は嫌い。
* 七時過ぎには帰宅していたのに、もう日付が変わる。この間、弁護士のわたしへの質問メールにみっしり答えていた。一言で言えばそれだけだ。楽あれば苦ありとは真実ですねえ。
2010 12・7 111
* 夜中雨。あさになって明るい日ざし。毎朝の習い、秦の父、母、叔母とひとしきり話してから、少し遅めの朝食。冷えたものを口にすると、冷えしぶりのように腹がかすかに動揺する。
* 昨夜遅く送ったメールにも朝一番に建日子返事をくれていた。諒解。今日は今日の一つの始末を付けねばならぬ。
2010 12・8 111
* あるところまで、要事は始末を付けた。この先を思うと、しかし、嶮しい。呼吸を深くやすやすとし、しかもボケていられない。 2010 12ー8 111
* 昨日が、むかしの開戦の日だったのを、これも珍しく忘れてやり過ごした。何しろ六十九年経てきた。あの日も馬町の京都幼稚園にいた。なにごととも思わなかった。
四年後の敗戦の日は国民学校四年生になっていた。ヒロシマとナガサキの原爆も知っていた。
よく今まで生きていたなあと今は思うのである。真珠湾奇襲から六十九年もの歳月が過ぎた。生まれて以来あの日までに、わたしはどれほどの人と出会っていたろう。それと思い出せる人数は、五十人に満たない。あの日から、今日までには……。頭がくらくらする。
* 「合邦庵室の場」で、父合邦がけしからぬ娘玉手に怒り刃物を持ち出し、母おとくが懸命にかばう。あのあたりから、わたしも妻も泣いていた。ついに父に刺され、苦しい胸のしたから声をしぼって玉手が「ことの次第と本心」とを明かし、合邦もおとくも俊徳丸も朝香姫も折兵も泣く。娘玉手はかろうじて父の手を取り、「わかってくれましたか」と声を絞り、父合邦は「おいのう、おいのう」と泣くと、わたしたちは、堪らなかった。いうまでもない、娘のことが想われるのだ。
* 何度も書いたが、わたしちの娘は、正式に改名した。だから、もうこの世にわれわれの名付けた名前の娘はいないのである。存在しないのである。
息子は、いっそ今後はこの日記にも書きものにも、かつての娘の名「朝日子」を書かないようにしたらどうだろうと、奨めてきた。わたしは即座にこう返事した。
* 前略 一つ、物書きのおまえが、今後、あらゆる著述から「父」「母」「こうへい」「みちこ」といった「語彙」を奪われたとして、堪えられますか。書けないというのは、その内容の全部が聾唖・盲目のように消えてしまうのです。わたしや母さんにとって彼女の改名した名は無いも同然だが、「朝日子」という名は父や母の人生の宝物なのです。もしあらゆる場で「建日子」と書けなくされたら、父は生きている気はしないでしょう。
* 玉手御前にも、合邦やおとく両親の名付けた「娘」としての宝のような本名があったのである。名前だけが宝物なのではない。
2010 12・9 111
* 寒くなると聞いていてしっかり用意して出たが、ナイキの運動靴をはいて、セーターの上にダウンでは暑いほどだった。普通の厚着の他に、薄いタイツの上に分厚い膝サポーターをつけ、腰もサポーターでがつちり締め、そのうえ腹の冷えをかばって小さいタオル二枚を金太郎さんの腹掛けのようにしているのだから。ま、それだから風邪もひきそうにな
く。もう終盤に近づいた隅田川の橋尽くしも上流では、白髯橋、中流で永代橋、下流では相生橋が残っているだけ。で、浅草裏、ひさご通りの例のすき焼き「米久」で「特」の肉を二人前平らげてきた。此処の酒は「櫻正宗」。肉の旨さは、云うまでもない。今日の本は、やはり文庫本の『中世の非人と遊女』で無数の朱線の上を三読めの今は黒いペンでさらに上から。まさしく「読み潰し」ているようなもの、とことん頭に入れてしまおうと、このところの読書では例になく熱中の度が我ながら凄い。
* で、帰ってきたら、またも、避けがたい要事が待ったなしで待っていた。即座に機械の前にすわり、三時間、ぶっ通しで「半分」を処理した。もう半分は、明日に。
2010 12・9 111
* 五十三年を経てきた、今日がその日。祝意は七日の歌舞伎で、一足早くに。
* むかし医学書院で最初の上司だった歌人に<こんな歌があり、佳い歌だと思った。一字虫食いにして東工大で学生に読ませたが、作者の漢字一字、「常」を見つけた学生、ゼロに近かった。
妻の手は軽く握りて門を出づ( )の日一日加はらんとす 畔上知時
それで今度は、「常」を意味すると考える「英語」を挙げてほしいと求めた。これは、わたしも勉強させてもらった、数百人の学生がめいめいにいろいろの英語表現を提出してくれた。
そのなかに「ALWAYS」もあって、なるほどねと頷いた。映画になっていた最初の歳は、慥か昭和三十三年か四年だったと思う。五十一、二年昔で、五十一年前にわたしはまだ京都で、学部を卒業し院に入り、その前年に妻との結婚を決心していた。五十二年前には妻の学部の卒業を待ってわたしも院生を抜け、二人で東京に出て新宿区の一隅で結婚生活に入っていた。
「常」の日といえば謂えたし、鬱勃として本気の勉強をまたはじめようとしていた。あの映画の中の、作家志望青年は独身で芥川賞を狙い続けていたが、わたしは、そういう野心は持つまいとしていた。書きたくはあったが、ついに書き出したのは昭和三十七年の真夏だった。二十六歳半だった。
賞を狙うなどわたしにはハナから問題外で、とにかく、盆も正月も病気も例外とせず句読点一つでも朦朧とした「かな文字」の二つ三つであろうと書いて、書き続けて決して休まない、それで四十歳になるまでに一作でも売れたなら有り難いと。間違いなく、日々励行した。そしてまた、読みに読んだ。小説も研究も歴史も雑学も。それがわたしの、わたしたちの「常の日」であった。貧の底で、手作りの私家版を四冊造り、四冊目の巻頭作『清経入水』が、天運に恵まれ第五回太宰治賞に招待受賞した。三十三歳半だった。
* その五十三年の今日は、娘夫妻との裁判の和解折衝の用意のため、あいつぐ弁護士のメールに答え、答え、答えて過ぎた。いまはそれも含めた「常の日」に、挫けずに立ち向かい続けている。
* 死刑と求刑された裁判が、無罪と判決されていた。いったい、どういう裁判がされてきたのか。心寒い世の中である。
* そう云えば、先の、「常」一字の英語化でわたしを感心させた学生回答の一つに、「CALM」が有った。静穏。望まれる。
2010 12・10 111
* 永く参照し読み続けてきた『総説 新約聖書』も、第一章から始め、第十章「新約正典成立史」から最後の年表等まで500頁余を相当熱心に読了した。以降は、手元にも二、三種ある聖書を折に触れ読み返して行こうが、そのまえに『旧約聖書』の「ヨブ記」を今度は岩波文庫版で読み返してみたい。すでに読み終えてある『総説 旧約聖書』をもう一度参看しつつ聖書本文に沈潜してみたい。
実父がこの「ヨブ」の巻を読むようにと姉に勧められていたことが、残った書簡や手記に見えている。曾野綾子さんの「ヨブ記」に触れられた文章にも父は関心をみせていた。
旧約は無かったが、文語の新約聖書は秦の家にもあり、どうやら叔母が傾倒していた或る男性から贈られていたもののように想われる。その人は日本をはなれ渡米していったとか、母にチラと聞いたことがある。叔母の聖書を手にした図は見たことなく、少年時代からわたしの「もちもの」と化していた。「マタイ伝」冒頭の系図や山上の垂訓など、よく声に出して読んでいた。
しかし教会などに心を惹かれることなく、わたしは小さい頃から家の宗旨どおり浄土経の雰囲気に自然になじんでいた。仏壇に灯がはいるとよく折り本の般若心経を声に出して読んでいた。灯明のゆらゆる美しさに心惹かれる子であった。
2010 12・12 111
* とって返して、今度は我が方の例の要事に。人事を尽くしておきたい。
2010 12・12 111
☆ 浄瑠璃寺は三度目です。 泉
妹が市内から離れた、人の少ないお寺、と選んでくれました。はんなりと拝観者がありました。
体力的にここへは最後かと思われます。好美ちゃんのお宅の前を通りがかりましたが留守だったのでメモを入れておきました。
お元気ですか。初冬、お大事に。
* 浄瑠璃寺は実の父方吉岡家が大庄屋を勤めていた南山城の当尾に在る。明治の廃仏毀釈で九体仏が危なかったのを、曾祖父かその前の吉岡らが身を挺して守り抜いたということを父は何度か我々に伝えていた。この紅葉黄葉のめでたさに目を洗われる。
2010 12・12 111
* このところわたしの心性を彩り誘っているのは、歴史的な「旅」、それも「女の旅」の可能性やむずかしさ、のようだ。手がけて願っている「仕事」とも当然結びついている。後深草院二条らを含む川村学園今関敏子さんの『旅する女たち』という架蔵の本にも目を向けてきた。角田先生の『日本の女性名』上巻や、網野さんの耽読した本もふくめ、それに林晃平さんの『浦島伝説の研究』すらもふくめ、わたしは今、わたしを、ある種のカオスの靄に置いている。がまんづよく、と云うよりも深く楽しみながら、自分の「仕事」へ辛抱のいい眼を見開いているということ。取り組める時間、取り組める心的状況が欲しい。いまは、ムリか。
2010 12・13 111
* 先月末から調整を計り続けてきて、ほぼ最終の微調整をいま終えたと思う。とても疲れたが、始まりの始まりに過ぎない。
2010 12・13 111
* 払暁、寝ている妻を起こして、一つ提案し相談した。賛同を得て、建日子にも伝えた。建日子も、とてもいいと。
2010 12・15 111
* 散髪。歳末のひとつ気重な用を済ましたという感じ。石より硬い体だと。肩も背も掴めないと。いいんですかと。また、散髪してくれる人に同じ事を云われた。
睡眠が足りていない。
この三週間の、気ぜわしかったことよ。去年の暮れは、親たちで悩ましかった。だが憂いに加わる幾分の懐かしさがあった。この霜月師走は、砂漠を歩みながら何度も何度も転んできたようだ。口の中まで砂を噛んでいる。堪えねばならぬことでは去年も今年も区別無し。
2010 12・15 111
* 寒い。報告を待たねば分からないが、今日「結審」するのではないかと聞いている。「和解」折衝に入るよう裁判所に奨められわたしは勧告を受け、和解案も代理人に提出してある。それも提出間際の昨日に重要な変更を敢えてした。妻も建日子も賛成してくれた。
2010 12・16 111
* 寒い日だった。心身とも縮んでいた。心も寒いとき、今も折しも機械のそばに『浦島伝説の研究』があり、煙草代わりというよりも、半ば逃げ込むようにこの本を開いて心を癒している。「浦島子」であれ「浦島太郎」むであれこの噺は、亀でも竜宮でも蓬莱山でも玉手箱でも、ずいぶんいろいろのことを思わせる。
「玉手箱をあける」という浦島の行為はこの伝承ないしお伽噺の行き着くクライマックスであるが、これの受け取りよう一つでこの話が悲しい噺に落ち着いてしまう印象は避けられなかった。竜宮の姫の、立ち去ってゆく男への悪意かのようにすら取れた時もあった。だが、そうなのであろうか。
愛、ないしは根源のいたわりではなかったろうか。故郷故人を悉く喪失した浦島は、それでも若くて力ある男のママさながら異郷に生き延びたかったろうか、と、そんなことも想うのである。
竜宮の女は、愛といたわりとで浦島を「死なせて」やったのではないか。現に幾つもの伝承やお伽噺では浦島はそのまま死に、葬られて神と祀られている例がある。神になるならぬはどうでもいいが、老いて死ねたのは浦島のためには極上の救いではなかったか。
* 浦島子ないし浦島太郎の境涯を、夥しい伝承や文献とともにたどっていると、言語道断な小沢一郎の我が侭勝手な横紙破りも、仮免総理が率いる民主党のなさけない有様も、あるいは海老蔵事件のなさけないカケヒキも、通学バスへ刃物をもって乱入した「死にたい男」の無道なニユースも、借りた金が返せない主婦達を売春の巷に誘い込む業者のあくどさも、そうした事件の背景になっている日本の政治のダメさ加減も、みな、いっときでも忘れていられる。是もまた情け無いことだ。
* さ、こういう日は、はやく寝てしまおうッと。それも出来ぬ人は本当に気の毒だ、が、幸い出来るのならそうしよう。玉手箱を開けて結着がつくぐらいなら、わたしは玉手箱をあけるのを悲劇だと、今は少しも思わない。
2010 12・17 111
* 建日子から明日夜遅くに帰るがいいか、明後日昼飯を一緒にと。残念。明晩は早く休み、明後日は朝が早い。
明後日、七十五歳になる、朝はやに出掛けて、国立劇場で幸四郎の初役という殿中の高師直を楽しみにしている。幸四郎、染五郎、福助の主な三人で、仮名手本忠臣蔵を、三段目刃傷から、四段目判官切腹・城明け渡し、浄瑠璃お軽勘平の道行を経て、七段目祇園一力茶屋、そして大切り十一段目討入りまで。左団次、彦三郎、友右衛門、錦之助、家橘、秀調、右之助、由次郎らが脇を固める。「大星由良之助本伝」と銘打ってある。
染五郎の重い三役、判官、勘平、寺岡平右衛門、殊に父幸四郎と真っ向ぶつかる平右衛門に大いに期待している。一舞台一舞台に大きくなってゆく「染高麗」を楽しみに。先日七日の「菊之助=玉手」に満たされてきた。負けないで欲しい。
2010 12・19 111
* 朝一番に、めで「鯛の浜焼」を戴いた。
* 妻、用心のためのMRI検査を受けに出掛けた。
2010 12・20 111
* 頂戴したお祝いの鯛と、赤飯とで、誕生日の前夜祭を妻と二人で。日本酒がうまい。
2010 12・20 111
* 法廷からまる四日、弁護士の出廷報告書が届いた。
さ、またもや年を越えて、裁判沙汰のために私は不愉快なだけの塵労をかかえこむ。取りかかれるかと手を動かし始めたわたし自身の「仕事」は、また、先へ送らざるを得ない。冷静にねばり強く対決する。わたしは娘達の被告であり、自分から裁判なんてヤメタとは言い出せないのだ、そういう状況へわたしを追い込んでいるのが、原告の娘と婿。
2010 12・20 111
☆ お誕生日おめでとう☆
正月には帰ります。
健やかに☆
☆ 秦建日子 ☆TAKEHIKO HATA☆
* 冬至
朝寒むを心よしとぞ声晴れて
朝餉のわれも妻もこと祝ぐ
寒いのがめでたい日とや壽(とし)とりて 七十五叟 2010 12・21 111
* わたしが、今も心中に深く憂慮し懸念しているのは、亡きやす香の妹・みゆ希のことである。
みゆ希は普通の学齢でいえば今年は大学一年生として、どこかの大学で青春を謳歌していて自然。しかし、かいもく様子が知れない。
高校生になった一時期自身のブログや友達のブログに姿や言葉を見せていたが、もう行方も知れなくて心配している。高校は、目白辺とは知れていたし、高校の名前も知れていて、みゆ希はそこでパフォーマンス科というのに学籍を置いていたのは、暫くのうち盛んにいろんな友人や先生の写真などをブログにのせ、キャピキャピとした若い人の言葉でツウイットしていたが、今は全く見付からない。進学したのか就職したのか、好きな歌唱の技藝をどこかで学んでいるのか、分からない。叔父建日子の仕事にことに興味を寄せていた子であるだけに、叔父と連絡してくれると嬉しいし安心できるのだがなあ。
* 両親と祖父母との確執や裁判沙汰に、もともとみゆ希は無関係で、だから姉のやす香と共に祖父母の家へも繰り返し訪ねて来ていたし、叔父が作・演出の芝居にもみゆ希は率先して観に来ていた。だが、やす香の入院で、姉妹が祖父母と仲よくひそかに交流・交歓していたことが、やす香の「mixi」やケイタイからすぐ両親に知れて以降は、すべてが窮屈になったのか、やす香入院中はみゆ希のメールも来ていたが、やす香死後はぷっつりと音信が途絶えている。
* 初めてやす香が祖父母を訪れ来たのは高校二年生だった。当時みゆ希は中学生。いま、そのみゆ希も大学二年にすらやがて進んで普通の年格好。知性のある意志も確かな子であった、落ち着いてものを見て見分けることも十分出来る子だ。
わたしが、「mixi」に籍を置いて退会しないでいる一番の理由は、いつか、やす香が訪れてくれたように、みゆ希も少女期を脱した意識と知性と配慮とで祖父母に、普通に、連絡を呉れるだろうと待っているからだ。
裁判所へは、早くから、みゆ希の自由を親は束縛しないでもらいたいと、わたしたちは心からうったえ続けている。やす香の分も祖父母として心からの愛情をかけたい、しかし、不幸にしてわれわれの健康も年齢も、もうそう長くは恵まれていない。
* そう思いそう願いつつ、わたしは「mixi」に、なるべく内容のある日記をと、連日「述懐」の文を送り続けている。わたしの「mixi」ハンドルネームは、もちろん「湖」で、みゆ希は知っている。
みゆ希のお友達、やす香のお友達や町田市地元の人からも、なにかしら片端でも、元気で仕合わせに過ごしている只一人の孫みゆ希の便りが届きますように。
2010 12・22 111
* ところで、余儀ない要事の一つともいえるが、『かくのごとき、死』を、打ち込んで丁寧に読み直し始めた。孫やす香を痛恨哀惜の「挽歌」として出版したが、わたしを被告として訴え出た娘と婿とは、執拗にの著作を攻撃してやまない。やす香両親への名誉毀損であり亡きやす香への侮辱であるという。販売も配布も再刊も許さないという。裁判所が斡旋の和解にも決して応じないと云うらしく報告が来ている。
* はたして、この日記文藝の、何が、何処が、娘や婿への名誉毀損で、愛しい孫の尊厳を傷つける侮辱であるのか、もう一度、自分の目で確かめたい。そして、もし、よろしければ、このホームページにアクセスし続けて下さる国内外の大勢の方にも、どうかもう一度、読み確かめて頂きたいと切望するのである。この一作は、作家秦恒平のやす香を記念するかけがえない「著作」「創作」であり、「文藝表現」である。これが許されなくて作家は、創作者には「何が在る」といえるのか。
* 口はばったいが、もう半ばを読み進んで来て、謂わば「孫娘の死と作家の一夏」を内容とする、文藝古来の此の「挽歌」、少しも恥ずかしくない日記文学に成っていると想う。
どうか原告に近くおられる青山学院大学や早稲田大学近縁の先生方、学生諸君達、またお茶の水女子大・高校の人達、また町田市民や教員委員会の人達、ご親族の方達に、ぜひ原告側に立って頂いてもよいので、心静かに読んで頂きたい。孫を愛し娘を労り想う祖父の、父の気持ちに、邪慳や悪意があるかどうか、忌憚なく呵責なく読んで頂きたい。ご意見を聞かせて頂きたい。
もう二三日のうちに、此処に、このファイルに、ほんの極く極く若干の修正も加えて、一挙、全掲載します。私語の日記は、ファイルを通例の移管先に移して、便宜、年内、書き継ぎたい。
2010 12・23 111
* 今日は終日、どうしても通り抜けたい要事をしていた。それが今日明日のだいじな「いま・ここ」に他ならないから。
* 集中のおかげで、いつもの現行ファイルに、思い切って、『かくのごとき、死』全編の読み直し原稿を、一挙に全再掲した。思うところは、察して頂けると信じる。
2010 12・24 111
* 滝壺へ身をなげるようなことを自分がしつつあるのを、わたしは、今にして自覚しているのではない。小説というものを書き始めたときから、そういう覚悟であっただろう。「書く」というのは、そういうことだ。
* 「法的に争われることと、「真実」とは、別の次元にあるということを、風を想う人たちは理解していることを、忘れないでくださいね。」と、一昨日の「花」さんのメールにあった。裁判沙汰に持ち込まれた瞬間から、わたしはそれを受け容れている。その上でわたしはい
わば、闘ってきた。
上の、読者であり友である人の言葉は、云うまでもない、「法的に争」うときには、わたしの思いとはまるで別の形式論理、たんに条文的な論理が働いてくることを示唆していると。承知している。
いわゆる「アカの他人」との法的な争いではない。
わたしは、原告らの実の父であり実の岳父であり、死なせた孫の祖父である。孫はガンで病死した。わたしは祖父として一作家としてその死を哀哭し、挽歌としてそれを言葉で彫刻したのである。それにより、どれだけの人達が孫の死へ、愛ある心をそそいでくれたか。それが「文学」なのである。死んだ孫は祖父の気持ちを汲んでくれていると信じたい、彼女自身が全身の苦痛を振り絞って「mixi」に日記を書き、白血病だとも、間違いでした肉腫でしたとも公表した。原告らもそれを阻むどころか、死の見送りをも「お祭りお祭り」と「プロデュース」していた。
わたしが彼らのプライベートを公表したのでは、決して無い。わたしは、ひたすら孫に哀哭した。万葉の昔からの「挽き歌」だ、それが。
2010 12・25 111
* 今朝から、新たなスキャンをはじめているが、これは頁をはぐるごとに機械を操作しなければならず、かなり煩瑣にこまぎれの作業で忍耐を要するが、こまぎれのその合間にも、『浦島伝説の研究』のおもしろさに惹かれて、朱筆で本を汚し続けている。
浦島ともなると本当に大昔から、浦島子から浦島太郎への変遷の中で、莫大な引用関連の文献が生産されていて、林晃平さんの探索はじつに断簡零墨もみのがさず、それらの系譜と類同や異質を精査されて行く。むろん詩句や詞章や絵図へのコメントまで具体的に挙げていられる。それを読んで行くのが興味深く、亀も女も海宮も玉函も七代孫も松も死に方も死後も、それらに関わってきた人も文献も和歌も能や芝居もはてしなく面白い問題を呈している。とほうもない癒しを受ける。
林氏の学風の克明にして明快なのも大いに有り難い。
わたしは、いまのところ百パーセント長閑に楽しいという生活ではない。だが、だからこそこういう楽しみに接するのが不可欠なのだ。その楽しみ楽しさが、実にいくらでも存在するのだから、幸せである。
昨日と一昨日とは、孫やす香の死んで行く二ヶ月を綿々と追探検して泣かされっぱなしであったが、浦島太郎の世界は、ふしぎな薬効でわたしを包んでくれる。
そして、スキャン、またスキャンで新しいまた仕事一つを始めている。
2010 12・25 111
* わたしの「いま・ここ」は、有り体に一言すれば「不愉快」に尽きている。だから執拗に腹痛も起きる。だからこそわたしが刻々に積み上げて行くのは「愉快」な豊かさ。幸せ。
生きているだから逃げては卑怯とぞ幸福を追わぬも卑怯の一つ 大島史洋
2010 12・29 111
☆ お元気でしょうか。
今年は12/31まで打ち合わせが入ってしまいました。
終わり時間が分からないのですが、終わり次第、保谷に向かうつもりでいます。
年が越える前に保谷に着いて、年越し蕎麦がご一緒出来ればいいのですが。
当日、打ち合わせの進捗を電話入れます。
正月 何日までいられるかは大晦日の打ち合わせ次第という感じです。
ではまた。 ☆秦建日子☆TAKEHIKO HATA☆
* 建日子 健康で、怪我と事故との無いように。
八一先生の「学規」四則より、最初と最後のとを、歳末、父より贈る。
ふかくこの生を愛すべし。
日々新面目あるべし。
* 一日はやく池袋西武で雑煮用の京白みそも祝儀の蛤も、年越し蕎麦の用意も調えてきた。来年のダイアリーも買った。八階の「伊勢定」でゆっくり本を読みながら、鰻重と「うざく」とで二合の酒を楽しんで帰った。「焼はま」に出来るほどの蛤を三十買ったら一万五千円もした。それ程堂々の蛤で、蛤の汁にはすこし堂々すぎたほど。帰ってさっそく焼蛤にして旨く食べた。
2010 12・30 111
* 二階はなにも片づけない、飾らない、山種美術館の呉れるカレンダーをかけかえるだけだ。
玄関には、はるかな梢に鶴のおりたみごとな巨松と天高くしづまる旭日とを描いた長軸を掛けた。足下に松と薔薇と菊を丈高に金銀日月の大壺に生けた。居間には、裏千家十三代圓能齋が、墨で寶の入舟を大きく描き、淡々齋として十四代を次ぐ若子の宗匠宗叔が波と海老とをやはり墨で描き添えた、めでたい一軸を掛けてみた。千家の家什であることを証した大きな丸の朱印が捺してある。古門前の古美術商林を経て叔母が入手していた。
さてキッチンの床には、秦テルオの「出町雪景」か、思い切って松篁さん鶴二羽の「雪」にしようか。
2010 12・30 111
* 例年だと、仰せつかる買い物を大晦日に、池袋まで出掛けていた。今年は一日早くしたので、あますもう一日の大晦日をまるまる家で過ごせる。トクをした気持ちだ。
2010 12・30 111
* 十時過ぎ、建日子たちが猫もつれて来た。四人で、幸四郎にもらった年越し蕎麦を、天麩羅を添えて祝った。池宮さんからのカーディガンを着て祝った。
2010 12・31 111