* 賀正 平成二十三年(2011) 元旦 秦恒平
雲中白鶴
これやこのゆくもかへるも別れ路の
旅のあなたの有明の月
朝ぼらけありあけ月のゆめ覚めて
朱( あけ) にたなびけ遠やまの雲 遠 七十五叟
* かかげた新年「述懐」のうたに付いて少し補足する。
宮澤賢治の言葉は、手帳に手早に書き遺された詩句の冒頭である。
病身賢治の「われはこれ 塔たつるもの」の気概が、せつない。尊い。
和泉式部の「おどろかで」は目を覚まさずにという自戒・自嘲。それも、わたし自身の。
伊東静雄の一首は、彼の「初」詩集に、まっさきに言葉を寄せてくれた人へ、後年の思いを、しみじみのべている。そういう人や人たちがあって「今」がある。同じ感慨が在る。
わたしの述懐歌は、十八歳の昔の作、だが。胸奥の鳩のはばたきを、じっと今も聴いている。
* 新年の歌は、百人一首のなかから口に浮かんだ詩句をとっさに借りた。年賀状は、ハガキでもメールでも書かないことにした。
* 毎朝、父や母や叔母の位牌に甘えているがままに、
今年も、健康で、怪我も事故もなく、穏やかに、 健やかに、元気に過ごせますように。 それで足りている。
2011 1・1 112
* 雑煮を祝い、建日子と話した。
* 晴。天神社へ四人で初詣。
* 仕事。呑んで、あまり食べず、睡くて、寝たり。
* 夕食のあと、 四人で、もう一度、ベートーヴェンとアンナ・ホルツのすばらしい映画を観た。元日に力と魂とを高められるまさに「作品」の最たる一つであった。よかった。建日子といっしょにこれを観たことをわたしは忘れない。建日子にも憶えていて欲しい。 2011 1・1 112
* 建日子たちは、巨猫のグーももろとも、朝、 二日目の雑煮を祝ってから、一休みの後、もう早々の仕事の打合せのために仕事場へ戻って行った。建日子は、新年早々からオリジナル書き下ろしの連続テレビドラマ「スクール!!」を放映し始める。もう元日の夕過ぎた頃から頻々と打合せの電話が入っていた。大勢で創り上げるしかない仕事だ。
* わたしは出来れば明日か明後日の早めに新刊分の入稿を遂げておきたいと、暮れも元日もなく努めている。もう夕過ぎて行く。戴いた年賀状で、メールの可能な人達には、メールで返礼した。正月気分はとくに無く、このまま自然にやり過ごして行く。今年は、祝い箸の箸紙も建日子にめいめいの名を書かせ、祝い雑煮の発声も建日子に委せた。七十五叟は、もうそんなことも卒業。
2011 1・2 112
* 静かに妻と二人で三が日の雑煮を祝いおさめた。
2011 1・3 112
* 不快な要事、いきなり始まる。
深追いしないで成り行きを眺める一方、他の楽しみや喜びを懸命に創出し、タイトロープをバランスして行く。
2011 1・4 112
* わが家にもちょっとしたスカイツリーが立っている。手洗いに。せいぜい高さも横も十センチあまり、梟二羽を描いた扁壺に、まっすぐ、ものの四十糎もの水仙一軸が直立し、三輪白い花を咲かせている。壺の口に、千両の赤い実と青葉とが小さく、しかし、あでやかに挿してある。妻が近来の腕前で、観るからスカッとしている。嬉しくなる。
新日鉄の写真カレンダーが、正月、可愛らしいキタリスに変わった。去年一年は概して動きのない写真だったが。今年は、どうかな。
* 玄関の蓬莱山の松が佳い。妻の買ってきた盆栽花も梅が咲いて薫る。茶の間に、いましも病と闘っている人の花の繪をかけて励ましている。がんばれよ。僕もがんばるからなと。
2011 1・4 112
* 一月、裁判所で裁判官と和解のための話し合いをする予定が、まだ立っていなかった。弁護士がいま調整しているらしいと妻の電話問い合わせで知れた。原告側が和解折衝に乗る乗らぬはわたしに関わりなく、乗らねば判決が出る。判決次第で高裁へ移転するかどうかなど、今考えることではない。
今、わたしのしていること、しなければならぬことは、やす香の死の翌月( 2006.8月) 分の「私語・日録」を点検すること。ここに、そのご四年半の裁判沙汰の発端が露呈していて、ものが「あからさま」にむしろ歪みなく、よく見える。「見なおす」ことは、いま、 幾重にも必要なのである。
* 正月気分はふっとぶが、私たち被告の家族にすれば、いささかもこれは過去完了どころか「現在進行形のオオ迷惑」なのである。その経緯をわたしたち自身の胸と言葉とで反芻しつつ、裁判所の意向に添おうとするのは妥当で必要な心構えだと想う。
* 前にもお願いしたが、正月の日記は、「生活と意見112」で御覧下さい。ご不快の向きはこの「生活と意見 表紙頁」はどうぞ回避して下さい。お気持ちのある方々はどうか、私の四年半前の「八月記」から、どうぞもう一度読み流して下さい。
やす香の祖父であり朝日子の父である私に、歪んだ、間違った、邪まが見られるのかどうか。見られれば歯に衣着せずわたしを叱りとばしてご助言下さい。
ただ、こういう仕儀が父親らしいかどうか、「父親」論は、この際、別に願いたい。
わたしはいま単に父親でありえない「被告」として、一審の終盤に臨んでおり自発的には回避できない立場にいる。
2011 1・5 112
* 和解のための裁判官との話し合い日時が決まった。何が、どう為されるのか、わたしには、分からない。水のように対応することが出来るといい。
そのためにも、ことの推移を心得ていたい。平成十八年、やす香の死後の「九月」を顧みたのを、「生活と意見の表紙フアイル」に、「八月記」についでもう一度関連記事のみ取り出してみた。この月には、わたしたちのアクセスを拒絶しておいて「 mixi」 に誹謗の記事を書き散らしたり、「 mixi」 当局にわたしを除名せよなどの働きかけをして門前払いされたり、あげく、わたしの巨きなホームページが「壊滅」に追いやられる椿事が起きた。まったく被害者にされていた。
経緯を確認しておきたかった、もう一度。同時に、心ある人にも、ああそうだったと事のひどかったのを思いだしていただきたくて、あえてこんな作業を省かなかった。
* なんというバカげた事を秦は繰り返しているのかと思われもしよう。百千承知している。
もしわたしに、「やーめた」の決断が可能なら、なーんにもしなくてハナからやめている。
それの絶対的に出来ない被告の立場にわたしは立っているのだ、わたしは死力を尽くして対抗する以外に無い。出来ることはしなくてはならず、何が出来て何をすべきか、それは原告二人の「非」を追及しつつわたしの側に何の邪まがあるのかを、わたし自身も検証することだ。それが「裁判」であろうと言われるだろう、常識として心得ているが、その一方で、わたしは一人の人間であり、父であり夫であり祖父であるし、幸い作家でもある。「書いて」闘うしかわたしには道も手段もない。大声で叫んでも世間には届かない。
わたしは「書いて」生きてきた。「書いて」途中で死ぬなら、討死であり、「書き残したもの」がわたしの気持ちを語り継いでくれる。覚悟は出来ている。不正や欺瞞や捏造は「書かない」。正直に書いている。
* しかし断言する、らくらくとは書いていない。書けない。
妻は昨日わたしの書いた「八月記」をわずか読み始めて震え上がって泣いてしまった。読めないという。読めば四年前八月、娘達から手紙やメールで連日威嚇されたときの発狂しそうな恐怖と厭悪とがまざまざ甦って、呼吸も出来なかったあの時に戻されるというのだ。
妻は、今、それを言う。
妻と同じ、いやもっと激しい嫌悪と不快とで呼吸もままならず、このまま死ねるなら死にたいと思ったのは、今、ではない。この四年半、一日半日としてわたしは安まりなどしなかった。朝起きても、不快感で歯も折れよと噛み合わせていないと、全身が石のように強張り、それを全力で堪えて抑えて、そして生きようと努めてきたのだ。
わたしの日録にはいちいち書かれていないそういう毎日毎日が、あの八月から此の正月にまで、欠かさず、途絶えなく、続いてきた。懸命に懸命にそんな発作を跳ね返すためにわたしは生きているのだ、今日も。それしか、わたしには無い。だからこそ無数に本も読み、煽るように芝居も楽しみ、食べて楽しみ呑んで楽しみ、そして大勢の人に励まされたり慰められたりして、かつがつ生きてきた。力は「書いて」こそ涌いたのだ。
わたしを嗤う人は多かろう、嗤える人がわたしは羨ましい。だが嗤われようが蔑まれようが、わたしは生きて「仕事」を続けたい。小説が書きたい。だが、全身が怒りにふるえながら、静かには書けないだろうと、それでも試み続けてわたしは生きている。わたしは死んでいない。死ぬわけに行かぬではないか。
* ま、いい。わたしの魂はまだ乾いていない。身の傍の『浦島伝説の研究』のつづきを少し読み出せば、すぐ、浦島世界にひたってわたしは柔らかな気持ちになれる。『栄花物語』の世界もとなりの庭のようにのぞき込める。谷崎も直哉も、バグワンも、その天才や慈悲真実でわたしを引き起こしてくれる。彼らは嗤わない。十分だ。それで十分だ。
* さてあの年の十月になり十一月になると、民事調停の場で、父であるわたしが、娘八歳から四十半ば過ぎた今日まで「虐待」の連続であったと言い募りつづけたらしい。わたしの代理人はわたしを調停の場に連れて行ったのは一度だけだった。
私たち家族には娘らの言い立てに対抗するまでもなく、あまりにバカげた事実無根なのが分かり切っていた。
だが、わたしは、反証した方がいいと思い立った。
一例として娘が結婚してから正味四年半に、いったい何度「虐待」激しく恐怖そのものと言い募る父の家に、いったい何度里帰りし、何日わたしたちと狭い家で起居を共にしたかを調べてみた。
正確な記録には事欠かない、じつに三百九十数日も、すでに結婚していた娘は実家で寝泊まりしていた。その間の母親の日記もあり、それは和やかな日々の連続。父とも同行していろんな会合にも欣然と顔を出していた。
また、結婚後にパリで暮らした一年半に、娘夫妻は四十数通の手紙を寄越していて、その文面は、和やかそのもの、経済支援や物品の送付や種々の配慮への親愛と感謝の言葉に溢れ、父の作家活動にも協力したり祝ったり作品に感想を寄せたりと、微塵の違和もそこには介在していない。
帰国後にも、「ハイミセス」の旅企画にも母に代わって父と同行し、楽しくて堪らないという写真を沢山撮影されている。虐待され、恐怖であるなら、既に結婚して婚家にあるものが、同行など拒絶すれば済む話しで、矛盾撞着もいいところであった。
そのような物証や記録は山のように現れているのに対し、娘は、長い間具体的な何一つの虐待の立証も出来なかったあげく、去年の秋にはじめて一つ持ち出した例が、盲腸と腸捻転とで入院したとき、「十日に一度しか見舞ってくれなかったのは虐待だ」と。ところが父と母とが詳細を究めて記録したものが保存されていて、じつに連日・終日といえるほどベッドサイドに両親は交替で付き添い、排便・排尿や術後排気の回数まで記録していたのだった。完全な虚偽の申し立てであることが暴露されている。
* 去年七月の証人としての証言で、虚偽を申し述べれば罰されると宣誓した。だが、原告二人にどれほど多数の虚偽を述べ立てていたか、わたしは事細かに反証を上げて後日「陳述書」を提出している。
* 愚かであるか、嗤うべきか、それは裁判と無縁の他者には言えるが、わたしは、「抗争上の対抗」を続けなければならない立場にいて、透明なガラスにぶつかって飛ぶ虫のように、羽根や手足をとめれば落下する、そういう不条理と闘っているのだ。
誰かが代わってくれるなら、おお喜びで自由な他界へ飛び立つだろう。妻のように震えて泣いていることは出来ない。
2011 1・6 112
* わたしの嶮しい日々は、「述懐」することで救われているようなもの。だれにともなく「胸懐を打ち明けて打ち明けて」すり抜けて行っている。
* アメリカから、「生活と意見」の「112」ファイルはどうしたら開けるかと問い合わせが来ていた。申し訳ないことです。すぐお返事した。
2011 1・7 112
* 建日子が四十三歳に。妻と二人、赤飯で祝った。新年早々の開幕と聞いている新連続テレビドラマ「スクール!!」はオリジナルとか。心ゆく仕事になりますよう。四十三か。芭蕉だと、とうに「翁」と呼ばれていた歳だ。
怪我も事故もなく健康にと、願う。
* 昭和五十四年の年譜にわたしは四十三歳とある。長篇『風の奏で』を書き、『日本史との出会い』を書き、ソ連作家同盟に招かれて旅した年だ。朝日子は大きな荷物をひきずって横浜港まで見送ってくれた。
この年に朝日子は共通一次試験を受け、大学入試のために古典の読みなどせっせと父は手伝ったし、お茶高卒も盛大に祝い、お茶の水大合格の祝いには、中国への旅に出してやった。わたしの文壇のパーティに朝日子はよくくっついてきて、井上靖や宮川寅雄や梅原猛や岡本太郎らにも声をかけてもらい嬉しそうだったが、建日子はまだ子供だった。
* 六時に黒いマゴに起こされたあと、枕元の書架の本を読み始めた。
2011 1・8 112
☆ 湖様
新年早々、ますます厳しい状況になっていらっしゃること、改めて拝見いたしました。
ともかく、不条理につきます。
この件は、むしろ湖が原告になって、名誉棄損や虚偽の申し立てに対して訴えるべき状況なのではないでしょうか。また、このことによって実の親に対して精神的苦痛を与えていることに対する補償を求めることはできないのでしょうか?
セクハラの件については、ご家族の証言こそ第一ではないでしょうか? 奥様、建日子様が最も明瞭に反論し否定できるお立場にあるのではないかと思います。
法的なことについてはあまり詳しくありませんので、あくまでも私の思いです。
(厚生省の)村木さんの事件を通じて、検察側がストーリーを捏造するということを知りました。(同窓の= )彼女も今、この不条理に対する訴訟を起こしています。
湖の場合も法律の専門家たちが真実を見極めることを信じたいと思います。
ご心労でお体にさし障りが出ないように祈っております。
心から応援させていただきます。 波
* おおよそわたしの思ってきたことを云って下さっている。わたしからは訴えたりしたくない。しかし、法廷の証言席で、瑕疵に類する間違い記憶違いは仕方ないとして、いまや訴因の最たる位置に置いて「改名」までしている「虐待」「ハラスメント」の訴えに関しては百が百まで虚偽であることが明白になっている。偽証は罰しますと宣誓させた法廷に、厳格な対応をわたしは、家族も、求める。七月法廷の証言のあまりに多くが証明などとても出来ないウソであったことは、当日傍聴した妻や息子の即座に一致した確認であった。そういう裁判になってきたのである。
わたしの読者で、ホームページに、父の配慮で「 e-文藝館= 湖(umi)」に掲載された朝日子の詩やエッセイや小説の試作を読んでくださった大勢の方で、あれが父の娘の著作権侵害だ、損害賠償に値すると思われた人など、只一人もおられないだろう。
2011 1・9 112
* さて、 明日は万三郎正午の「翁」で清まわって来る。明後日は、むかし朝日子が学校の英語劇で演じた「十二夜」を、松たか子のコクーンで、初笑いしてくる。もう一度、 二日に吟じた戯れ句を上げておく。
松立てて卯の春の憂(う)はおもはざれ 遠
* 今度の裁判官呼び出しのためには、もう、何もアクセクしない。
2011 1・9 112
* 今朝、十五日の小豆粥を失念していた。記憶の限り、こんな失態は結婚後一度もなかった。歯医者へ行き、帰ってきて、いま、遅ればせの粥を用意している。雑煮とか、松の内とか、〆の内とか、鏡割りとか、いちいち大きな意義を謂う気はないが、欠かさず践んできた年中行事は暮らしの、折り目、けじめ。忘れていては、生活に締まりが失せる。締まりのない暮らしはイヤだ。
2011 1・15 112
* 今夜九時から、秦建日子の新連続テレビドラマ「スクール!」が始まる。建日子のオリジナルと聞いている、刑事物や殺しものでないのも歓迎する。視聴率よりも、心ゆく作劇を期待している。続けてみてきた「イ・サン」と時間が重なるので、二台の機械で録画しておく。
昨夜遅く幸四郎の「カエサル」を放映していた。高麗屋の熱演、さぞ疲労しただろうと思う。それにしても彼の音吐朗々はかわりないのに、もっと若い連中が声を嗄らしているのは、これも歴然と藝の差だなと思わせた。娘の松たか子が「ひばり」というジャンヌ・ダルクの芝居で、信じられないほど大量の科白を全身全霊で熱演して悠々だったのに、新劇の男連中が声を嗄らしてハーハーしていたのにも驚いた。役者が舞台で声を嗄らすのはいただけない。
2011 1・16 112
* 建日子のドラマは、明日、落ち着いて観る。録画してある。つづきものの「イ・サン」を観た。ずうっと好感を持って観てきた。録画の必要はないが時間帯が同じなので、建日子の「スクール!!」が録画してある。もう一つ「レッドクリフ 赤壁」も録画した。視聴率はこれにさらわれたであろうが。
2011 1・16 112
* 我が子が生まれる、それは、ほんとうの感激であった。
* 妻は娘を わたしは『新生児研究』を、生んだ。
「 mixi」2006 年08月15日19:16
言うまでもなく、いい医者に縁ができれば妻の健康に展望が開けると信じ、私は躊躇なく京都を捨てた。東京本郷台の医学書院に身を投じた。愛し合った夫婦に子供が欲しくて出来ないなど、ゆるされない不自然だと思った。子供を産ませてやりたい。上京と就職との一切の、それが動機だった。秦の母のように、よその子を貰って育てるしかないようなことは、妻にはさせてはならない。なにより、よくワケの分らない病気で「死なれ」ては堪らない。「よき友」として兼好法師のいちばんに挙げていたのも、「くすし」医者であった。
医師と医学とへ、その勤め先は、予想以上に至近距離にあった。全国の大学医学部・ 研究所や各専門の研究者・ 臨床家・ 看護婦との折衝で、会社の全出版は成っていた。編集部に配属されれば、いやでも付き合いができる。すくなくも関連の情報にこと欠かない。妻は勤めてすぐ解雇されてきたが、私は、財布に一銭の現金ももたない日があっても、もう妻のことは大丈夫と、たわいなく安心しかけていた。会社は東大医学部や病院の、すぐ近くにあった。その規模も権威も、新米社員には白い巨塔をものの三十も積んだような超巨塔に見えた。安心のかたまりのように見えていた。
相変わらず妻はときどき腹痛に悩んでいた。昭和三十四年( 一九五九) 二月末に上京してそして五月、たまりかね、私は先輩に紹介を頼んで医科歯科大学外科の教授診察を妻に受けさせた。予診では、むろん「死なれ」た母の病状を妻は話した。盲腸が肥大していたが、諸検査のための入院が必要とされた。盲腸なら、あらゆる手術中でいちばん安全という思い込みを私はしていた。そのくせ私はかつて一時間に及ぶ痛いめをみせられ、やっとの思いで移動盲腸を取っていた。
検査の妻は二日とせず退院してきた。血液の状態が不安定で、盲腸の症状は薬で散らそう手術は避けましょう、そのうえ「出産も危険」と妻は言われてしまった。退院まぎわの妻の電話を私は職場で、殴り付けられたように聞いた。「死なれる」という言葉が、大音響となって初めて我が身のうえに具体的に炸裂した。まだ生みの母の死も実の父の死もない前だった。文学や表現のうえでしか「死なれる」厳しさは知らなかった。
あの日、定刻すぎて私は会社から駆け戻った。一歩足をふみだせば、その足元にくらい穴が沈んだ。都電をおりるとアパートまで泣いて走った。妻の顔を見るなりおうおうと泣いた。何の言葉も口には出せなかったが、不安のあまりに泣くしかできない自分を思い知った。怖くて辛くて胸が潰れていた。情けない。そんなことが、あってたまるか。
日本一の血液学の先生を、私は、先輩に紹介してくれと頼んだ。そして妻は、大森の東邦( 当時医科) 大学の森田久男教授にかかることになった。私も何度も一緒に遠い大森まで行った。死んだ妻の両親が上京のむかし、一時期大森ちかくに住んだらしいという記憶が、妻を奇妙に安心させた。
通院の最大目的は、出産できるようにという事だ、私は大声でそれをお願いした。森田先生は大丈夫と太鼓判だった。さきに腹の痛いほうを治そう、これは腹膜炎だからねと。以来、少なめの血小板に対する継続治療と腹膜の治療とに、妻は市ヶ谷河田町から大森へせっせと通院した。その秋には妊娠した。出産も中絶も同様に危険、それなら産もう…。
お腹が大きくなってからも私は、当然のように、よく妻の産科外来につきあった。廊下の壁のふるいしみを見つめながら、小説が書きたいなどと思っていた。まわりに妊婦ばかりでも平気であった。医書編集者の仕事があんなに好都合であったことはなく、内科にいようと産科にいこうと、つまり「仕事」にしてしまうことが出来る。月刊雑誌も担当していたが、書籍の企画という仕事には、かなり自在なところがある。その証拠に妻に「死なれ」たくない、子供も「死なせ」たくないと祈る気持ちから、いつしか私は、「新生児学」という、当時の日本にはまだ輪郭さえ漠然としていた真新しい医学分野の成立へと、しゃにむに関与していったのである。
「出産」は明らかに母親の産科的行為である。しかし「出生」した赤ちゃんの医学的管理者がだれなのか、新米編集者の私の目にも当時は暖昧であった。母親の付属物めいて産科の担当のごとくであったが、産科医は小児科医ではない。小児科医は生まれた子を新生児といい、産科医は産まれた子を新産児といっていた。『新産児学』という本は一、二出版されていたが、『新生児学』はまだ無かった。
これは、困る。赤ちゃんは、両方の科が協力して誕生させ保育すべきだ。むしろ「新生児科」が出来ていいのでは…。父親になるべき私は、妻にも子にも「死なれ」たくない一心で困っていた。当時の小児科ではまだトピックスの未熟児保育のほうに関心ふかく、けれど見ているとそこから、じりじりと新生児へも研究範囲がひろがり始めていた。
忘れもしない、東大産科に取材に行った或る日、医局で、学内産科と小児科と合同の、新生児に関する小研究会( コンファレンス) のあるらしい掲示に目をとめた。
これだ! 東京大学が全国に率先して両科協力の新生児学・新生児科を建設してくれれば、そうすれば、気運は各大学や大病院にひろがる。私は確信した。
とはいえ東大医学部の権威と権勢は、かけだしの編集者である私には身にしみて絶大であった。要するにこれを出版企画へ仕上げるには、何としても東大の産科と小児科と、双方の主任教授の同意をとりつけ、平等に監修に祭り上げなければ絶対にできない。まだ医学部改革の火の手があがるだいぶ以前のはなしだ、企画成立は聳え立つ大断崖を素手で登るような難事に思えた。なにしろ教授室のドアをただノックすれば済むはなしではない。ただ面会して済むはなしでもない。素人の私が専門家のトップに趣旨を説き、納得して協力の指揮を具体的に承知してもらわねばならない。
どうしよう。しかも妻も子も「死なせ」てはならない。絶対「死なれ」たくない。
社内企画を先に通した。当時はまだ看護婦対象の雑誌課にいた私が、純然たる医学書籍の企画へ首をっっこむのは、縄張り感覚からすればどこか非常識な逸脱であった。しかし、会議を主宰した金原社長も長谷川編集長も「よし」と言ってくれた。やってみろと激励された。手立ては自分でつけるしかなかった。チームを組んでといった編集部の体制ではなかった。
私はいきなり教授室のドアを叩いたりはしなかった。小児科の助教授室をまず訪れた。両科コンファレンスの小児科側の責任者が、その馬場一雄先生であった。それは生涯の出逢いであった。三十年余を経ても今もそう思う。先生はのちに日本大学の病院長や学部長を歴任され、また初の五つ子保育の主治医としても著名な方であり、息子の誕生はこの馬場先生にご厄介になった。それだけではない、のだが、今は措く。
だれかが百済観音のようなと評していた長身の馬場助教授の研究室で、あのとき私は、たぶん、おそるおそる、しどろもどろの熱弁をふるったに違いない。先生は、企画『新生児研究』を、東大の産科・ 小児科の現在の総力をあげて最新の研究書に仕上げていただけないかという私の提案に、賛成してくださった。感動した。
次は産科側。
次は双方の教授へと、とほうもない説得と依頼。そして企画立案の会議。
次は分担執筆者の人選・ 分担と趣旨徹底のための大会議。外科からも麻酔科からも、基礎医学からも執筆者は加わっていく。そのつど両方の教授に報告し承認を得ねばならない。馬場先生が斬新な目次を組み上げられた。生前生後の「新生児」の世界が見えてきた。
私は、ひとつひとつ、夢中で階段をのぼった。ただ登っていった。
筆者や編集者の会議はふつう会社の会議室で、した。会議は必要だし、私は必死で調整しながら日取りを決め、予定筆者の全員呼集に没頭した。教授も助教授も出席なのだから、さすがに否やをいう人は少ない。
ところが女性の大先輩に横から注意され、私は受話器を手に、絶句した。社内に、そんな五十人を越す先生方を入れる部屋は、どこにも無いではないか。社屋のまだ手狭な昔だった。
長谷川泉編集長は、即座に学士会館の大きい部屋を頼んでくれた。昼飯を御馳走してから、会議だ。
大会議当日、編集長は、カメラマンを手配して記念写真をとらせた。その写真を見ると、私は、あの当日の興奮をまざまざと思い出す。
あわや事は流れかけたりもした。馬場先生の助け舟と、高津忠夫. 小林隆両教授の、こうして御馳走を食ってしまったことだしナという掛合いで、すべては収拾された。
うそ偽りなく画期的な『新生児研究』は、大冊の書物となって二年ちかくかけ刊行された。吾等が長女朝日子は、昭和三十五年七月二十七日に、生まれた。もう日に日に可愛く育っていた。住まいも新宿のアパートから、郊外保谷の社宅へかわっていた。
妻はおかげで森田内科と産科との緊密な協力により、むしろ安産であった。お産の半月もまえから入院して予備治療がはじまった。本郷の会社から大森の病院へ私はせっせと通い、毎日寄るおそくに市ヶ谷河田町のアパートヘ独り帰った。苦にするどころではなかった。
まだ妻の入院まえには、六十年安保反対の国会デモにも熱心に参加し、樺( かんば) 美智子さんの死にも間近に出会った。兵役忌避を扱って処女作になった『或る折臂翁の死』の想が、デモ参加の間にじわじわと熟していった。
白楽天詩集は、秦の祖父鶴吉の書架にのこされていた、私にも読める有り難い本であった。ごく幼い日にそのなかの長詩「新豊折胃翁( しんほうのせっぴおう) 」を知り、私は感銘をうけた。
翁は、若い日に、征きて帰る者なしといわれた兵役を忌避し、深夜にひとり大石( たいせき) を槌( つい) して肘の骨を砕き出征を免れた。いまでも寒夜には腕が痛むけれども後悔はしていないと、翁は童児に話して聞かせていた。
私はちょうどその童児の年頃でしかなかったが、翁が、みずから「死なない」以上に、身寄りに「死なれ. 死なせ」たという苦痛をあたえなかった勇気に感じ入った。あつかましくも小説になると思った。私はその少年以来の久しい思いに、とりついて行ったのだ。
思えば私たち夫婦の、疾風怒涛の時代であった。朝日子はそんな時代に二人して掌にした珠の愛児であった。妻は後日、また森田先生にたすけられて東邦医大で懸案の盲腸手術もしてもらった。腹痛は消え失せたように出なくなった。
付け加えていえば、『新生児研究』の後、全国的な「新生児研究会」がようやく組織され、発展して「新生児学会」となり、たしか現在は日本医学会総会の正式の分科会にも昇格した。昨今、新生児科を独立させた大学や病院は少なくなく、そうでなくても赤ちゃんのことは両科で協力してというのが常識となっている。仙台で発足した第一回の学会では、幹事の先生のはからいとみえ、会員名簿に私の名前が加えてあった。あれには、びっくりした。東北大学におられたその産科の先生とも、私は今も親しくお付き合いをつづけている。
「 mixi」2006.08.15 秦恒平著『死なれて死なせて』より 当時連載中 湖
2011 1・17 112
* 秦建日子脚本の新連続テレビ劇「スクール!!」第一回を観た。
映像劇では「空気」の質を先ず観たり感じとったりする。リアリティ、クウォリティはそれで最初の見当が付くが、これはリアリズムで「ある・ない」とはべつごとである。テレビドラマではリアルな画面にはめったに出会わない。むしろある種の「調子」をわざとのように持ったツクリモノにされている。ツクリモノですからね、そのつもりで観て下さいという「調子」である。それで成功するのもあり、チャチにひゃらひゃらしたりもする。
寅さんのリアリティーはあれでリアルだった。柴又にああいう私民の暮らしがそのままあり得た。
「どらごん櫻」は、ああいうリアルでない調子ではじまり、しかし主役がガアッとちからづくリアリティを主張して、みなが乗せられてしまった。成功例である。
あれも頽廃した学校が舞台だった。東大という名前を強引に持ち出すことで牽引力が出来た。あとは脱線したり失速したりしなければリアリティを主張できた。クウォリティすらくっついて来た。殺しもののようにあくどくなく、病気もののように感傷に助けられずにドライに運べた。
「スクール!!」も学校だ、ああいう学校も生徒も教師も或る意味でリアルなはずだが、逆にマサカアと思われてしまいそうな所から走り出して、まだすきま風がすうすうして、ウソくさい設計図のまま走って行く。
民間登用の素人校長とベテラン教務主任との「対抗」に批評性が鋭く起ち上がれば、存在理由がきちっと「繪」になってくるだろう。いまのところは、ありふれた手札ただがバラ巻かれて、どんなカルタになるか、茶番か、リアルな追究か、リアリティのあるむしろ喜劇になるか、分からない。
第一回も危うくセンチメンタル美談に落ち込みかけたのを、無感動な教務主任の反撃で、次回へ繋いだので、ほっとした。ああいう又かいナという気のいい主役教師が、案に相違して案の定「徹底的に潰れて行く、潰されて行く」ドラマとして「批評が凄惨に展開」すれば、また一つの意欲的な成功例ができそうだが。
メロドラマに落ち着けば、消費的なふつうの、下手をすればふつう以下のテレビドラマで終わる。
日本は現に学校から破滅の道を歩んでいるのは慥かなのだから、主役先生には満身創痍の絶望劇の先にかすかな光を点じて貰いたい。
2011 1・17 112
* さても、曰くのついた新年であった。それなりに踏み込んで対応してきた。悔い残る日々ではなかった。
2011 1・17 112
* 用事済ませ、日比谷で建日子と三人で遅めの昼食し、帰ってきた。二合の紹興酒が効いて、機械の前に来たがそのまますうすう寝入ってしまった。
2011 1・8 112
* 昨日の裁判所への呼び出しで、聴取と話し合いの上、裁判官は「和解不調」と判断した。わたしは和解を求めて、案を文書で裁判官に提示、趣意を述べた。原告側は口頭で、現時点で、原告側家族に触れた「生活と意見」記事の全てを削除し、また原告が指定した謝罪文を被告が書くのでなければ和解の席に着かないと伝えたらしい。歩み寄りの余地無しと判断されたらしい。
* 誰が観ても分かるように、わたしの日録・生活と意見は、現在112ファイルも進行中で、のべ十四年、原稿用紙に換算すれば、五万枚もあろう。ご存じのように内容は、作家秦恒平の九割九分は文字通り「文学的な述懐であり思索思想の表現であり多彩な生活記事である。それら厖大な中に、「押村高・宙枝( 改名前は、朝日子) 」夫妻の家族四人にかかわる如何なる記事掲載をも原告が許さないとして、それぞれ実に微々たる記事であると同時に、想像を絶して分散しており、112ファイル数万枚から即座にそれらを正確に検索し抽出しカットするのは不可能、作業量として、相当な月日を要する。
それにも、「今回紛争に直接触れて書かれた部分」で、「押村高また押村朝日子・宙枝と名指した非難や批判や強調の語句・字句」ならともかく、「一般論としての言論や議論に属する批評や表現」も含まれるとなると、著作権侵害でもあり、境界が判然しない。「やすかれ やす香 生きよ けふも」といった祖父母愛惜の表現をまで、何故削らねばならぬ。娘と婿とは父のわたしを原告としている当事者であるが、亡くなった孫やす香は私たち祖父母には愛しい孫であり、その思い出などまで抹殺する権利が原告押村に有るわけがない。
いずれにしても、原告の要求通りに即座に出来るワケがない。
* いまここで議論しても始まらない。謝罪など論外として、原告のそんな削除要求をわたしが聞くとは、事実どういう事態になるのか。
ひとつ実験してみよう。
それで、あと三日の猶予を予告して、一月二十三日日曜日から、わたしは、ホームページの「生活と意見」とを、残らずすべて「更新しない」でみようと思う。それ以外に手の施しようはない。
もし心ある人には、願わくは、電子メディア上に刻印していた「作家・秦恒平の生き方」として、「関連資料」として、可能な限り記録し保管しまた記憶して頂ければ有り難う存じます。
むろんわたしは毎日のように自由に書き続けていますし、書いた全てを我が手で「抹消する」のではありません。
http://umi-no-hon.officeblue.jp では更新しないだけのこと。
原告らの要求は、読者に読まれたくない、目にふれないようにしてくれということ。
* 際どい時機であるが、しかし、一つ、わたしの文学者ふうの発言をここに記録する。法学者にはお笑い草という類であろうけれども。
わたしの原告たちは、名誉毀損という表現をいつか希釈して、「名誉感情侵害」とすると同時に、わたしの文章表現を手あたり次第に抽出しては「名誉感情」に触れると主張している。「名誉感情」が法的に何かを解説するのは、わたしの任でも能でもない。
一私民として、独りの文学的人間として感じていることを、わたしは昨日、書いて法廷に提出しておいた。
わたしの「批評・議論」として遺しておく。
☆ 原告の「名誉感情被害」の申立てに、
被告は反論否定します。
被告・秦恒平 平成二十三年一月十八日
まず一般論として申しますが。
人は、社会生活の上で、人を「批評し・批評される存在」であり、「批評」にもとづいて相応の「議論」もします。何の特異なことでもなく、人の世で「生きる」に際し、実に自然な行為であり、普通であり、日常的な事実です。
例えば、「お元気そう」「機嫌悪いね」「大丈夫か」といった挨拶も「批評」であり、それらに対し、「とんでもない」「バカ云うなよ」「大きなお世話」といった応答も自然当然な「議論」の内です。
口喧嘩に近く互いにもっと手厳しい応酬もありえますが、もともと日常レベルの批評や議論と、悪意の罵詈讒謗、誹謗中傷とは「別次元のもの」です。
原告・娘の、父親や母親に隠して、「 mixi」 といった物陰での「被虐の捏造と公布」は事実無根の誹謗であり、すべて文責を明かして著述された被告父の「著述」は妥当な批評・議論に他なりません。
原告の訴状に申し立てているあれこれの「文」例は、みな被告による「普通の批評ないし議論の範囲内」です。誹謗のための誹謗も、捏造された非難も一つも実在していません。
しかも原告らは前後の文脈を無視し、「名誉感情」などという曖昧で節度のない言いがかりをつけて、列挙の仕方も恣まに過ぎます。
被告は、原告が恣まに「抽象」し提示した「文」例を、今回も原文の文脈・流れで落ち着いて読み返しました。
原文の読者たちも、筆者の表現や言説を「一連の文章」として読んで受容します。単に「書き抜きの単語や短文」を読むのではありません。
また云うまでもなく「名誉」とは、原告が我独りで決しうるモノであり得ず、他者(この場合読者)と共在の「世の中」でこそ「云う・云われる」に値するものです。「名誉」とは、他者が認める形で与えられるものです。個人私人が手前勝手に言い募れるものではありません。
また自己責任ゆえに恥ずかしいのと、不当に他から恥じしめられるのとは別であり、原告の場合は前者に相当し、名誉に関わる根の原因は原告自身にあるのです。
そして、この場合、日記にせよ作品にせよ筆者の批評や表現が、「批評・議論として妥当・適当」と読者に共感されてこそおれ、原告らの名誉をまで傷つけて「ひどい」という非難や批判を、被告は、受けていません。
原告らが謂う「名誉感情」とは、要は私的心情としての「不快感」を些かも超えたモノでなく、「不快」は、喜怒哀楽と同じくあらゆる人の常時の持ち前で、論理とも名誉とも無関係な、ただの「心の動き」に過ぎません。人が「人の世を生きる」とは、例外なく、名誉など論外に、誰しもが、さまざまに、お互いに、しょっちゅう、そういう「不快というかすり傷」を負い続け・与え合うという営みなのではありませんか。
まして家族や近親なればこそ、遠慮のない批評や議論は、むしろ大いにありがちです。それを「名誉毀損」だの「名誉感情」だのという大げさな持ち出し方は、険悪な利害や暴力行為で敵対し合うアカの他人同士ならともかく、普通の社会生活で、ましてや大学教授や学童の教導者という公人・知識人でありながら、子から親への裁判沙汰など、非常識で根底の礼節を失しています。教育者が率先そんな根拠のない真似をしていて、はたして健常な世の中が維持できるものでしょうか。
しかも原告ら昨年七月の法廷証言には、目に余る虚偽が次々暴露されています。
経歴を積んだ著作者である筆者の、これら普通の言論表現の自由と権利とを、原告らのように、 かくも偽証さえ交えて否定否認されては、著作者の思想信条は立ち行きません。
時代は明らかにI T 社会であり、総理でも国会議長でも個人でネット機能を使われています。ネットで表現や言説が行われるのはもはや世界的慣習であり、しかし、その常識社会を乱し汚す最悪の卑怯な慣行は、「匿名」なのです。
私は、著作者として常に「文責」を全て明かしつつ、世の「公人」にたいしては、批評を躊躇いません。原告の一人ように、アクセスを拒否しておいて、物陰に隠れて「捏造の中傷を振りまく」ような「名誉毀損」も、「名誉感情侵害」も絶対にしていません。
必要なら、議論すれば、互いに家族なのです、話し合えば済むことです。ところが原告は、ついに一度もそれをせず、逃げ続けての裁判沙汰なのです。
批評には議論を。原告らにはそれが可能なのです。
原告らの恣まな申し立ては、子として、公人として、教育者として、それこそ「名誉」に欠けた、卑怯な振舞いではないでしょうか。
裁判所のご判断を切望します。
2011 1・19 112
* 三日連続の外出で、留守居の黒いマゴが可哀想だった。お土産は有ったけれど。
2011 1・20 112
* 山になった書籍の中からはときどき思いがけない掘り出し物が見付かる。『「オンライン読書」の挑戦』という津野海太郎・二木麻里編には、ホームページ「作家秦恒平の文学と生活」が取り上げられていた。本の出版は二○○○年、今から十一年前だ。
☆ 「作家秦恒平の文学と生活」 生活者の息づかいが伝わる創作サイト
インターネットを執筆活動の一環とする物書きはもはや少なくない。だが発信者の秦氏は一九三五年生れ。おそらく最年長の世代だろう。絶版や品切れになってしまう自著をみずから再出版してきた活動を背景に、このサイトでも自作の小説やエッセイが発表されている。表紙をスクロールするとそのまま各項目に案内される簡素なデザインで、「掌説の世界」「生活と意見」「中長編小説」などがならぶ。冒頭の「ページの窓」では自己紹介や、各項目の丁寧な解説を読むことができる。未定稿も含め、生活の息づかいが伝わる発信だ。 (二木麻里)
* 以来十余年、電子版「湖の本」全百数巻、また「 e-文藝館= 湖(umi)」には幕末から平成まで、数百ものわたしが選んだ秀作や問題作や新人の新作もが、満載されている。
日々書き継がれた日記「宗遠日乗」ファイルは、現在112。五万枚。この全日記が、暴風に遭うように、みな消えることになる。 2011 1・21 112
* 日々の日録である、作家・秦恒平の「生活と意見 闇に言い置く 私語の刻」は、必ず毎日読んでいるので、ぜひ読み続けられるよう工夫して欲しいと、アクセスされる大勢の方から熱心に望まれたことが、過去にも何度もあった。
「現在進行中の最新月分」、今なら平成二十三年「一月分」だけは、二月になれば「二月分」は問題なく読んで戴けるよう、「別サイト」を緊急用意しましたので、ご遠慮無くメール
「FZJ03256@nifty.com」
に問い合わせて下さい。
既成の「生活と意見」は過去十余年分、五万枚、すべて暫定、明日にも此のファイルでは読めなくします。
2011 1・21 112
* 志賀直哉の第十巻のあたまに『八手の花』という短章があって、「奈良に住んでゐた頃、私は仕事で興奮してゐるやうな場合、家内が何か子供の事など云ひ出すと、癇癪を起し、『俺は子供の為めに生れて来たんぢやないからね』と云った。」とある。直哉のこういう「癇癪」は有名どころの騒ぎでないが、物書きでこの程度の悲鳴をあげなかった者は希有であろう。世間一般の理屈は何であれ、書いて仕事中の本人には堪らないことである、そんな雑音は。「家内は私の家に来て、八人子供を生み、長女は五十幾日、長男は三十幾日で亡くなつたが、あとの六人ほ兎に角、皆丈夫に育て、小さいのが少しロを利きだす頃には次がもう腹にゐるといふ風で、年中子供の事で明け暮れ、全く子供の為めに生れて来たやうな女であつた。私には女は──特に家内のやうな女はそれでいいのだといふ考へがあつた。然し男である私は家内と一緒にさうなるわけには行かないと、それをそんな言葉で云つたらしいのだが、子供が皆、大きくなり、子供に子供が出来るやうになつた今日、もうそんな事を云はなくなつたのは勿論である。」そしてそんな父である書き手を数十年もして虐待者だと訴えた子女も、聞いたことがない。
だが、今問題にするのはそんな話ではない。直哉は急角度に家族の話題から転じて、こんなことを言う。
☆ 志賀直哉曰く。 『八手の花』より引用 昭和三十二年一月「新潮」
然し、私はこの二三年、今度は「俺は小説を書く為に生れて来たんぢやない」 と云ひたくなる事が時々ある。そして私は「生れたから偶々小説を書いたまでで、小説を書く為めに生れて来たのではない」と本気でさう思ふのだ。後にも先にも只一度の生涯をよく生きる事が第一で、その間に自分が小説を書いたといふ事は第二だといふ気がするのだ。」と。そして更に、「画家には絵を描く為めに生れて来たやうな人が時々ゐる。 私は前から画家は死ぬまで描く事が出来るが、小説家は死ぬまで小説を書くといふわけには行かないものだと決めてゐた。体力から云つても年をとつて小説を書くのはつらい事である。その上、私自身の場合でいへば人事の煩瑣な事柄が段々厭にになつて来た。さういふ事を総て避けてゐては所謂小説は書けない。その点、画家の仕事は遥かにいい。自分が厭だと思ふものまで描かなくてもいい。自然を対手に美しいと感じたものを描いてゐればいいのだから、画家は幸福だ。
私は今、七十四歳で、前に考へてゐた事から云へぼ何も書けなくなつてゐる筈なのに、何かこまごましたものを書いてゐるが、それは知らず知らずに、画家が描くやうなものを文章で書いてゐたやうな気がする。
私は所謂小説らしい小説を書きたいとは思はないが、仮りにさう思つたとしても、その為めに自分が嫌ひになつた人事のイザコザを見たり聞いたりする気にはならない。其所で私は「自分は小説を書く為めに生れて来たのではない」と云ひたくなるのだが、生れて来て、小説を書いたといふ事は勿論後悔はしてゐない。他の事をするよりはよかつたに思つてゐる。只、若い頃のやうに一も二も三も小説といふやうな気分は今の私には無くなつて了つた。
* わたしは今七十五、しかも「人事の煩瑣な事柄」の最悪不幸・ 不孝のドツボに嵌められて、わたし自身の決意や意向では抜け出せない。「自分が厭だと思ふものまで描かなくてもいい。自然を対手に美しいと感じたものを描いてゐればいいのだから」幸福だといえるような立場を決定的に親族の手で奪い去られている。直哉の曰く、「私は今、七十四歳で、前に考へてゐた事から云へぼ何も書けなくなつてゐる筈なのに、何かこまごましたものを書いてゐるが、それは知らず知らずに、(幸福な老境の=)画家が描くやうなものを文章で書いてゐた(る)やうな気がする。」と。
ところがわたしは、そんな「こまごました」ようなものが今書きたいのではない。心ゆく大作を二つも三つも書き継いでいて、とても物理的にも心情的にも書けないでいる。「虐待」にあっているのだ。
* だが、云っておくが、わたしは、そういう境遇・境涯にいて闘うことを懼れていないし屈してもいない。不幸にして小説として書きたいものを書けないでいるが、書こうという意思は誰にも踏みつぶせない。そしてまた、創作としては偏屈な異様なモノでしかないけれど、わたしは「被告の闘魂」を剛情無類にまさに「逆らいてこそ、父」の文章を書き継いでいる。煩悩迷惑の文業ではない、有漏路にいて無漏路へむかう暴風雨の一休みを明るんだ気持ちで書いて過ごしている。
直哉は書き継いでいる。
「あと何年生きられるか分らない。又、生きてゐても頭が駄目になつて了ふ事も近頃は頻りに考へられるのだが、それでも兎に角、一人の人間として、この世に生れて来た事に就いて、何ものにも捕はれる事なく、もう少し、自分なりに、考へて見たいといふ気がある。死んで了へば永遠に還へる事のない人生だが、あと僅かな歳月であつても私は深い愛惜を感じてゐる。」と。有り難く、大先達に遺書をまで代筆してもらっている。直哉は八十八まで生きた。わたしは実はもう死んでいると同じ境涯に生きていて、だからこそ無欲に剛情に書けなくなるまで書いて、一瞬の好機を待ちたい。
2011 1・23 112
* 「更新状況」の先頭に、以下を掲示した。
* 「平成二十三年(2011)一月二十二日現在、当ホームページ中の「作家・秦恒平の生活と意見」、「125」に及ぶ「全ファイル・約五万枚」の全アップロード停止を、暫定的に余儀なくされています。いずれは必ず復旧出来ると信じています。 秦恒平 11.01.23」
2011 1・23 112
* 問い合わせに、たくさん、お詫びをしている。これまで交信の全くなかった方々からも。ありがたい。申し訳ない。
☆ いつも拝見しています。
少し心配していましたが 暫定的に配信していないとの事 残念です。
お体の具合も悪かったりすると 心配ですし 更新されていないと 本当に心配致しております。
私も主人もHP 更新しています。更新されていないと 心配になりますね。
先生は茶道もなさっておられた事もあり、本で拝見する機会も多く 何時の頃からでしょうか毎日お邪魔しておりました。
もう3年以上でしょうか。お考えや思いに共感する事が多くて お勉強になっています。 幡
☆ 今日もとても冷え込んでいます。お元気ですか。
振り返れば、パソコンを始めたのは、ただただ湖の本が欲しかったからです。ホームページを読みたかったからです。そうでなければパソコンと縁が出来るのはずっと後だったでしょう。
今、私語の刻が読めなくなって、あらためて思い知るのは、自分がパソコンをネットに繋ぐ理由はみづうみを読むためであったということです。
無惨に消えてしまった「生活と意見」の頁を見ながら、呆然としています。もはやパソコンは実用情報を得るもの、気晴らしのネットサーフィンか買い物をするだけの安っぽいツールに成り下がってしまったことにため息をついています。
闇の中には無数のサイトがありますが、みづうみのホームページは圧倒的な存在でした。変なたとえかもしれませんが、日々呼吸し、熱い血の流れている命ある生きものでした。みづうみを感じました。命がけの、他に類を見ない傑出したお仕事でした。その存在の大きさははかりしれません。以前からこのホームページを失う日が来たらと思う度、慄然としていました。今、喪失感の大きさにうちのめされています。
このような不幸な状況になっていることは、大きな文学者が命がけでなさっていた仕事の招いた、一つの避けがたい宿命と言えるのかもしれませんが、悲しいし悔しいし憤りを感じます。
一日も早く事態の打開されますことを切に切にお祈りいたします。そしてこの状況すら、創作の豊かな糧となっていますことを信じています。
2011 1・24 112
* 「村上天皇」ともちだすと、なんとなくオヤと思う人がいるだろう。桓武天皇、明治天皇、昭和天皇といった諡(おくりな)と様子が違うから。村上さんという知人はこれまで何人かいた。高校の女友達にもいた。ご近所の誰かさんという感じになる。
村上天皇はしかし、父醍醐天皇とならんで聖帝とうたわれた。源氏物語の冷泉の帝のモデルでもある。穏やかな色好みの、惚れっぽい天皇さんであった。おぞましいほど猟色の天皇もいたなかで、村上さんの後宮は平和であった。学も藝もあった。ちょっとニクいいたずらで後宮の女人達を閉口させたりした。穏和ないじわるサンであった。ある日も、大勢のお妃達にもれなく一首の歌をやった。ふつうに書けば、こういう歌です。逢坂の関に関守はいないよ、尋ねておいで、来たら帰さないから。
あふ坂もはては往来(ゆきき)の関もゐず尋ねて訪ひ来(こ)来なば帰さじ
ただ一人、広幡の御息所は、美事に合わせた薫き物を帝に参らせた。「合はせ薫き物すこし」所望と天皇の頼みをこの和歌に読み取ったのである。なかには、仰山に着飾って、この時とばかりおそばへ伺候した人もいたのだが。 だが、こういう心見をされては、ふつうの人は叶わないよなあ。
栄花物語にも大鏡にも出ている王朝一景である。「私語には窓を明けて」など、なにも難しくはないのだが。
* いい機会ではないか、この際、ホームペイジの全体を整備し、もっと充実させよう。これまでやや跛形に日録に重点がかかってきたが、「 e-文藝館= 湖 (umi)」 を充実させたい。また整備の手の届いていなかった個所を、充填し整頓したい。「秦恒平・単行本全書誌」「秦恒平・湖の本全書誌」も然るべき場所に。同様、年譜も、まだ万全でないが、「四度の瀧」版は、きちっと収めたい。
また「 e-文藝館= 湖(umi)」には「古典鑑賞」の部屋を新設したい。まえから念願していた。
* だが、何のために。
「ため」は無い。自分の為とも思わない。昔は、妻のため子供達のため恥ずかしくない仕事がしたかった。安心して暮らさせたかった。蔵は建ててやれなかった。そんな気は初めから無く、金をつかって遊ぶこともしなかった。ひたすら書いていた。それが自分の一生だと思っていた。
幸い、ふつうの平安な暮らしはさせてきた。娘を嫁に出し、息子が物書きで身を立ててからは、贅沢はしないし、裁判費用も必要だし、しかし、しみったれないで安楽に暮らしている。妻にもわたしにも体力が在ればもっと楽しむだろうが、うまくしたもので贅沢に遊び回る元気は失せている。
稼ぐだけならとっくに息子はわたし以上に稼いでいる。「父さん、おれに金残さなくていいよ」と、云うてくれる。
だが物書きは水商売だ、この水は甘くない。思い知るがいい、業界の非常勤雇い、定まらぬ身分でしかない。雇い主やご贔屓筋にそっぽを向かれればたちまち干上がって行くのがこの世間だ、わたしのようにこっちからそっぽを向いな物書きは、いないのである、ただ一人も。
息子よ、謙虚に努めるがいい。
ろくろくと積んだ齢( よはい) を均( な) し崩し
もとの平らに帰る楽しみ 六六郎
そんな歌で新年を述懐したのはまる九年前だった。家の中にいても外へ出ても、独りで生きている実感が身に迫る。「ろくろく」を「しちろく」まで齢を積んできたのではない、九年ほどは均( な) し崩してきた。「もとの平ら」に帰って行く。
2011 1・25 112
* いま、この「私語」を聴いてくれている人は、極度に限られている(はずだ)。
妻も息子も、夫が、父が、日記などネットで書いてくれない方が気楽で安心なのだ。裁判沙汰がイヤなのだ。わたしは、だが、イヤでは済まない。「被告」という「当事者」は、わたし独り。どんなに孤独でも「ひとり」闘わねばならぬ。娘達の思うツボであろう。大いに笑える。
笑えることは、ありがたいことだ、次から次へ、 有る。
2011 1・26 112
* 江戸の頃以降のわれわれ庶民が日々の「お寶」に「銭」「金」を思っていたのは自然なことであったが、そのほかに「寶」「寶物」と謂ってモノと限らず「子寶」のようにヒトも謂ってきたし、得も謂われぬ貴き値の何かを心中に抱いていたこともある。むしろ子供の頃はそういう寶モノを身にも心にも抱いていた。最近では人気のテレビ番組に感化されて、書画骨董を「おたから」と観じて価値の鑑定を求めるヒトが少なくないし、奇妙でもなく価値はいつも金額で鑑定される。ホンモノですという段階でとどまるのを物足りないと誰もが思っているからだ。ムリもないが嬉しくもない。「ナンボにしましょ」と司会の紳助はまず当事者に吐かせる。「ナンボ」時代であるなと思う。
* 書画骨董を粗末には思わないが掛け替えのない「寶」とも思っていない、いまぶん私には始末を考えねばならぬ、むしろある種負担でさえある。すべて真贋を確言できるわたしに眼も知識も無い。それにホンモノであるかどうかより、それを自分が愛せるかどうかを、いつもより大切にしている。気に入らぬホンモノはつまり宝の持ち腐れと思うし、好きな物はニセモノでも平気である。
それよりもだ、もっともっともっと大事にしたい「寶」を、自分は、今、持ったり観じたりしているだろうか、わたしは。否定しないが此処へは何も書くまい。
* 司馬温公の箴言がある。漢字だけで書いては読みにくいだろう。
「金を積んで以て子孫に遺すも子孫未だ必ずしも能く守らず。 書を積んで以て子孫に遺すも子孫未だ必ずしも能く読まず。如かず陰徳を冥冥の中に積んで以て子孫長久の計となすに。」
とても陰徳の士でなく、積んだ金も無い。積んだといえるほどの書も持たないが、聚めた書籍の殆ど何物も受け継いでくれる子を持てなかったのが心残りだ。金は喜捨も蕩尽も可能だが、書物は棄てたくない。しかしいまどき嵩張る本を欲しい人などいない。二束三文にもならなくていいのだから、古書の業者を呼ぶしかないだろう。
* 昨日家を出がけに、とうどう秋石の長軸を巻いた。はるかに喬い松樹に用いた色に堪らない魅力があり、もう巻かなくてはと思いつつ惜しみ続けていた。
代わりに、宗旦の「水仙の文」と極めのある消息文を思い切って掛けてみた。表千家の誰かの箱書のある、付属文書も函底にありそうな曰く付きだが、わたしには読めない。宗旦の紛れない花押が文末にみえる。総じて渇筆、かなりの速筆と見える。甚だ侘びている。鑑定を求めたこともない、間違いなく古門前の林から出ている。来歴はどうでもいい、掛け物としてわたしは愛している。万が一ほんものなら、こういうものは相当な施設なり家元筋へお返しした方が佳い。ニセモノなら悦んで我がタカラモノに愛玩する。
2011 1・28 112
* 平成十八年に次いで十九年の「全・日録私語」を35セクトに分類して、また送り込んで頂いた。厖大な年々わたしの全日録記事を、おおよそ35ー38程に分類するという、当の私ですら二の足をふんで手も出せなかった仕事を、一人の篤志の読者が、私の記事と文章への愛情ひとつでひたむきに進めてきて下さった。
いま、それらの全部約五万枚分が、裁判沙汰で、更新をストップされていて、その方の作業も余儀なくストップしてしまっている。
いま、わたしは、「 mixi」 に、ただただアトランダムに昔の日録から抜粋しては送り込んでいるが、いわば随筆雑纂の体で、相当な「足あと」を集めている。それも、この有り難いご厚意が在ればこそも思う様にスイスイと出来ている。
いま厖大なそれらの分類から、その人が「家族血縁」として括って纏めているファイルを開けば、わたしの電子日記の中で、例えば娘や婿や孫に触れて、何年の何月何日に何を書いていたかが一目瞭然に分かる。裁判沙汰が起きた平成十八年八月以前に限ってみれば、婿に関しては退会の一滴ほどの言及、娘に触れてはひたすらに健康を祈り、往年を懐かしんでいるだけ。孫達にはひたすら逢いたがっている。
わたしの気持ち、この血縁家族の記事だけで本にし、広く読んで頂きたいとさえ思う。わたしは「書く」だけである。実の娘や婿に訴えられねばならないほどの何をわたしは「書いた」というのか。
* それはそれ。わたしは今は、親切な読者にこころより御礼申し上げる。
2011 1・29 112
* 奈良から、わたしの生母方長兄、もう亡くなっている深田太郎の孫娘が上京し、隣町のひばりヶ丘で今日の夕刻に用があると電話をくれた。その前に会おうと決めた。初対面だが、両方で、出会えば分かるという気でいる。あいにくひばりヶ丘に地の利は得ていないが、一二時間話せる喫茶店ぐらいあるだろう。食事をと思ったが、あいにく三時という時間は、たべものやは店をあけていない。
2011 1・31 112
* 約束の保谷駅で母方姪のむすめ、鞠子と会い、ひばりヶ丘駅から鞠子の目的とする先をまず探し当てておいて、先方約束の五時まで一時間半ほど、初対面のおしゃべりを喫茶店で楽しんだ。食事の店も見付からなかったが、その喫茶店はときどき自転車で行って校正などしたこともある店で。鞠子はむかし印刷所勤めもしたことがあるという。わたしの生母の面差しを( と謂っても、母がもう五十半ばの頃にせいぜい一、二度ちらと見ただけ。ただ、長姉にもらった若い頃の写真を観ている。) 伝えもっていた。美人だった。鞠子の祖父がわたしの親ほどの長兄にあたるが、一度だけ会った。日本の上古史に関心のある、一冊の本も持っていた人だった。母の婚家の跡取りで、母はさんざんこの長男に苦労させた。
鞠子は最近まで南都ケント君の建都記念の事務所に勤めていて、ひきつづき同系のセクトで職が得られたらしい。けっこうなことだ。
谷崎と乱歩と田辺聖子が好きだそうだ。わたしの大好きな竹内栖鳳の「斑猫」が観たくて、また速水御舟の「炎舞」が観たくて山種美術館に行ったのに観られずに松園を観てきたという。
五時の約束に間に合わせて、わたしはタクシーで帰宅。鞠子は今日の内に奈良へ帰ると。
2011 1・31 112
* 息子の新しい連続ドラマは、なんとも薄っぺらい。貧にしても、イジメにしても、材料への立ち向かい方が通俗で安易、小耳に挟んできたような話材が何の独自の深い歎きも怒りも愛もなく、はなはだしく陳腐に、あだかも記号のように投げ出されている。生徒の一人一人も記号、先生達も記号、拾われる事件も記号。安いレシピ通りに調理されていて、フアストフードそのもの、これでは観ているこっちで肉体化できない。折角の食材をイージィに料理して出されたときにいちばん激怒すると、志賀直哉は食い物の話をしていたが、「創作」にもそのまま当てはまる。こどもに責任を自覚したたことのない大人の半端さがモロに出ている。仕事をあまくみていると、マスコミの鼻くそになってしまう。抜けだせなくなる。
むろん、それもこれからへの伏線、展開の方向付けと云い遁れの道はある。最初回に期待しておいたように、この熱血先生が一度は潰れて行くか、教務主任が隠し手をつかってドラマを烈しくして行くか。どうも生徒は主になれるだけの扱いを受けていない以上は、教師と校長との真の苦闘へ深まる以外に救われようが無い。観る気がなくなる。
今日逢った人は、「ホカベン」を誉めていた。わたしもあのシリーズは共感して熱心に観ていた。「ドラゴン櫻」もみていた。「逃亡弁護士」も観ていたが、みな原作のマンガなどがあるとも聞いていた。これらで表現された或る思想化そして感銘が、原作の保証によるだけとは思わないが、今度のこの「スクール!!」は原作に制約されない脚本家の持ち味だけで出来ているのなら、このイージィな劇化は何なんだろう。そう、心配する。画面がリアルでなく展開にリアリティもない。常識的な感傷で強いてくる涙でとまっている。胸を衝いてくる悲しみも怒りも湧いてこないで、問題や話材があまりに陳腐に記号化されている。心配する。
* 血縁の一人にまた出逢った、そういう記念の日だった。あと三十分で、一月が果てる。
2011 1・31 112
* 湖の本の再校が出そろった。容赦なく追われる。発送の用意に取りかかる。二月も、これがあり、アレもあり、変わりない地獄になる。極楽などありはせぬ。
2011 2・1 113
* ムリはしたくない。が、胸の内の火山灰は掃きのけ続けないと息も焼けてくるだろう。新燃岳の大噴火。これこそ、凄い。現地の困惑と不安、察して余りある。
* あれこれとやはり心づくしの一日中、かすかな腹痛はつづいている。校正をテキパキと進めたい。発送の用意は、必要な郵送用の封筒の注文から始めねばならぬ。隣の家から、大学等への寄贈の本をこっちへ運ぶのがキツい。本は石のように重い。二月の法廷も近づいてくる。先がまるで見えない。
2011 2・2 113
* 帰って、節分の豆撒きを勤めた。宝船、来るかな。寶船は裏千家圓能齋が描き、波と海老とは嗣子淡々齋が若宗匠宗叔と花押して描き添えている。二つの朱印が千家の由緒伝来を証している。裏千家にお返ししてもいいい画跡なのだが。
2011 2・3 113
* 何のと特定できなくても、ストレスはわたしの意識などすりぬけて身内にしみこんでくる。腰や足が痛んでも外歩きして気持ちを開放しているときは腹痛など忘れている。腰や足は明らかに年齢から来る疲労で、ない方が不自然だろう。ときおり寝汗をかく。
* いま、ほとんど人と話していない。家の中でもほとんど無言で暮らしている。最小限の用事もボソボソと小声で済ましている。談笑していない。外へ言葉で働きかけなくても言葉は身内に充満しているし、補充の必要が有れば読書の意欲や好みは制しきれないほどある。
じいっと目をとじてしまうと素早く睡魔が寄ってくる。睡魔と親しみ闇に沈透( しず) いて底の底まで行く感覚がいい。ぜひとも現世にもどらなくてもいいと思っているが、し残した片づけ仕事も確かに有る。いまは何よりも「遺言」の作定だ、そのための必要書類なども取り寄せている。モノの処分はあきらめている。心おきなく旅立てる用意が出来たら、外国へも出て行ける。「後顧の憂い」とはうまく云ったものだ、わたしは今後顧の憂いを苦にしているのだろう、家族のために。それは小さな思い切りで処置できるのでは無かろうか。成るように成れ、委せるとするだけでもいいのだろうが、わたしのいない跡でも今と同様の血肉の争いがつづくと予想されるだけに、それは可哀想だと思う。最低限、最小限の意思表示はしておいてやらねばと思う。
2011 2・5 113
* あからさまでないメッセージというのは、出せばきっと受け取られるというモノでない。概してむしろ素通りしてしまう。とはいえ、ハッキリ言えば済むと限らない微妙な、ときにかすかなメッセージも、人は、余儀なく云わず語らず送り出している。「闇に言い置く私語」の如きも、それとなくそれとはない相手にメッセージを送り続けているが、現在のように甚だ不自由しているときは、届く先が限局される。あらわに相談もならないことが、有る。妻や息子に向かっても有る、が、存外ツーカーと行かないことが有る。メッセージの送り方が下手なのであるが。
2011 2・8 113
* 贔屓の歌舞伎役者にお茶碗を贈りたいと、ずうっと心に置いていたが、これだと思う佳い作を選べた。
平成から先を担って行く人だ、骨董ではいけない、新世紀に壽命長い優れた藝術品をと選んだ。むろん気に入られるかどうかは分からない。楽屋でお茶をたてて喫むという人なので、さぁ、ちょっと気になる点もありはするが、五十年も稽古に日用に、じつは今日までも愛用してきた黒楽茶碗も、できればバトンタッチして貰いたくて上に添えることにした。
公演中でもあり、手渡しはしないし、顔を合わせたり話したりはじつは苦手なので、楽屋へも通らない。明日、番頭さんに預ける。なんとなく気持ちもウキウキする。
* 骨董や、ことに茶道具は、あとへ遺さない。愛用するには斯道への素養がいる。素養のない人には無用の品、使いようがない。繪や繪軸は装飾的に建日子にでも愛用できる。欲しがるモノはみな遣る。出来れば深い趣味の力を進んで養って愛好してくれるならどんなに安心か知れないのだが、そういう気も力も今はまるで持ち合わせていない。それが書いたり創ったりしている仕事に浮薄に露呈されている。少しも早く、いい眼を創ってほしい。
真贋はあげつらわないが、わたしの気に入っている消息や墨跡や書軸は趣味のある人に贈ってしまいたい。道具屋に売る気は、ほとんど無い。甥の黒川創がもっと再々姿を見せてくれればと願うのだが。彼はとにもかくにも「若冲」を書いて世に出た作家だ。姪の街子も繪の描ける子だ。美しい良いものには心惹かれることだろうが。
* 節分も過ぎたので、寶船も、また宗旦の水仙の文もしまい、玄関に、「画所預従五位下土佐守藤原光貞」と細字である、じつに品位の佳い雛の繪軸を掛けてみた。大きめの蛤貝のなかに、御所風の雛一対が描かれ、その蛤二つといい背後の柳の枝葉といい、たいした写実の技が美麗。叔母が古門前の林から預かってきて、この「光貞」をどう思うかと聞かれた。美学など学んでいた咎のようなものだったが、わたしは叔母に買っておくように強くすすめた。学生の昔のことだ。もうあまり露わに外へ晒さない方がいい華奢な繪であるが、雛祭りにはよく掛けていたから、朝日子は観れば懐かしいだろう。
2011 2・9 113
* 息子の「スクール!!」三回目後半と四回目とを独りで観た。第一回の感想を書いたときにそのようになって行けばと期待した方へ、少し動いているのだろうか。
2011 2・12 113
* 秦建日子「スクール!」の五回目も観た。終幕の教務主任のかすかな破顔一笑に立ち至って、ドラマが動いてきた。それにしても生徒達は固有名詞を与えられているものの、いろはにほへとか、ABC の域を出ていない。ムリもないと云うのでは困る。
それと、表向き今はこうだけれど、「実は」という歌舞伎の化け芝居が乱発されないのを望みたい。人物が生(き)の儘で生きて苦しんだり喜んだり出来る人間になっていて欲しい。
2011 2・13 113
* ふらりと旅に出たい誘惑を身内に感じているが、とにもかくにも通巻106巻を無事送りだしてしまいたい。裁判はとめどないだろう、我が方の弁護士事務所がどう考えどう対処してくれているのか、わたしたちにはよく分からない。知らない。
* 春までもう少しですと、遠いパリからチョコレートが届いた。励まして貰っているのだと分かるのだが、春がすぐそこにという実感は皆無。胃が痛みかけ、顔をしかめて。
珠さんからも、妻からも、チョコレートをもらった。
2011 2・14 113
* 妻は聖路加で最新鋭の検査機械でなにやら検査されてきた。目当てにしていたのと、別にもう一つとを受けてきたという。雪の積もった道を保谷駅まで歩いて行ったという。雪と通勤ラッシュとで閉口したらしい、疲れて午后遅くに帰ってきた。検査結果は来週らしい。
わたしは留守の間に発送用意を進めていた。
谷崎の『検閲官』も読んでいた。冷静に、奇態な傾向を帯びないよう帯びないよう運転しながらよく書けている。藝術家も検閲官も熱くなったり冷えたりしながら些かの滑稽も加味されて、丁々発止。力作だ。
2011 2・15 113
* 二月十日の法廷報告がようやく今日届いて、事情が知れてきた。要するに娘と婿とは「和解」の席に着く気がなく、俄に上申書を出したので、裁判所は対応して私からの上申書も、もう一度提出すれば受け取ると。
娘と婿の側の上申書を今日はじめて読んだが、狙いは「判決」をとり、それをテコにし、サーバーに対して秦恒平のホームページ全削除を要求しよう、以前のBIGLOBE と同じ事をサーバーにさせたいということ。恐るべき執拗な作家生活への妨害意図ではないか。
すぐ、わたしの思いを理路を通し箇条書きで一応書き上げた。明日丁寧に読み返して、弁護士事務所に送り、明日一日折衝してから、アタマに「いい風」を通しに出掛けたい。
2011 2・15 113
* 終日、不愉快な対応をはさみながら、愉快であるワケのない谷崎不屈の『検閲官』にも向き合っていた。そして、昨日書いて置いた上申書の文案に手を入れたり。しかし、さらにさらに慎重にわたしは、わたしたちは、対応を間違えないようにしたい。
☆ あはれともあはれともいふ我やあるべき
あるはずがなしわれは我なり 湖
* わたしの世界がまだ狭いのだなと思う。広い広い世間から比べ観れば、どれほどのものだと謂うのか、わたしの迷惑如きは。娘や婿がわたしに向かい名誉毀損という裁判沙汰で騒ぎ立てるぐらい、餓えや寒さも凌げず生きる希望を踏みにじられている人達や、冤罪の身を官憲に威されて罪されていた人達や、いやいや人目には小さな、しかし本気で失恋した少年や少女達と比べてさえ、道化ほどのものだ。それにしてもかれら原告二人の無意味な逆上ぶり、執拗極まる害意は、正気の沙汰と思われない。そして必死になり躍起になり、わたしの書いてきた小説やエッセイや述懐の多くを此の世から抹殺したがっている。いったい、わたしが何を書いたというのか。
何故か。
本人達は事実か事実相当のしかも人間として恥ずかしいことが書かれているのを怒っているのだろう、だが、順序がちがうだろう。恥ずかしいならわたしに怒るのでなく、自らの反省が先だ。わたしは作家だ。書くべきは書いて表現する。
* 静かな心で小説を書き継ぎたい。書けば読んで下さる人達がわたしには、 ある。「いい読者」にいつも恵まれている。書きたい。書ききれないまま、死ぬのかなあと想う。
2011 2・16 113
* わたしは善人でも徳人でもない。幾皮とも剥かなくてもけっこう不徳も悖徳も演じてきた。その筈だ。
それでもとにかくも自分を卑しくしては生きたくない。出来ることは出来るだろう、出来ないことを人手を煩わしてまでムリにすることはない。そのことが咎められるなら、さよう、天命というほど大層なことでない、単純に損はするだろうというまで。
* 朝一番からムカッとくる不快に出逢い、蹴飛ばすようにして、家を出て、半日余。呑んで喰って読んで、腹痛に堪えながら空を観ていた。うたたねさえした。あ、寝ているな、どうかして目がさめないといいと願ったが、そうは行かなかった。
2011 2・17 113
* 慎重に慎重にイヤな事態に対応している。気力が挫けてはいけない。たぶん一審最後となるだろう上申書提出を、代理人j 牧野二郎氏の事務所に正式依頼した。
2011 2・20 113
* 夢は見ていたが熟睡でもあった。夢では娘が習字していたようだ、和やかな談笑のあっただけしか、もう記憶は溶暗している。 2011 2・21 113
* 発送用意に「今日明日」が残ってくれた。今日はこれから出掛ける。明日はなお出来る限りのことに一日が使える。じつに苦しい日程であったが、間に合った。二月中にほぼ今年の第一冊が送りだせる。いつもなら四日掛けてする作業を一日でして、疲労と心労とで奥歯が浮き上がり、モノが噛めなくて、痛くて、閉口した。いまも腹のシクシク痛みはあるが、緊張と心労と、不快によることは分かっており、こういう日々はわたしに余命の在る限りつづくものと覚悟している。余の永かれとは祈らない、ただ気力在れと願う。そして無心に静かに成れるようにと。
娘の家に置いていったバグワンが、いまのわたしを導き癒やしてくれているとは。運命の面白さ、いやおかしさ、だ。呵々
2011 2・21 113
* 菱沼さんに戴いた中国現代の長篇小説二作の一つ『牛』を、妻は昨日今日で読み上げてしまった、興味津々の内に。おどろきました。妻は先日もとの聖路加で新鋭機をつかっての或る検査を受けたが、軽微かもしれないが血管の欠陥が二三見付かり、治療を奨められてきた。この年になれば誰にもありそうな欠陥であるが、医学がそう奨めるのであれば家族が立ちあってでもやはり対処することになる。
わたしなど、いろんな検査を受ければたちどころに十や二十の異状が見付かるだろう。医学が進歩すればするほど微妙な病症が創りだされて行く。むずかしいことだ。
2011 2・22 113
* やや早起きして待機していると、九時前には出来本が届いた。用意が出来ていたので、午前午后の効率はすこぶる良好、夕方にはまず好調の発送が始まった。
* だが割り込んで不快な用事がとびこみ、その対応に、晩の予定を狂わせられた。
2011 2・23 113
* 寝起きのあとの気分が悪く閉口した。堪えて、発送を続けた。予定通りまで終えた。我ながらよく頑張る。しかし快適ではない。怪我も事故もないが、心穏やかでも心健やかでもない。生きている事への嫌悪と憎しみとがわたしを焼きたてようとする。
2011 2・24 113
* 笑えてしまうが、めったにしないことをした為の笑劇と思うべし。ペン国際大会にしたわたしの寄付金50萬圓には、領収書も来なかったし、今日わたしに届いた或る理事の曰く、「猫ばば」されていると思うと。指定されたとおりの方法で寄附したのはわたしの自己責任だから笑い飛ばすしかない。「国際大会は成功したんだからいいんだ」というらしい阿刀田会長の言は、放言に近い。成功などというのは何で計るのか、自画自賛に過ぎない気もする。それにそれと会計のむちゃくちゃとは、厖大な放漫赤字とは、別次元にある。
* それよりも書架から引き抜いたわたしの「T 博士」こと角田文衛さんの本から、「陸奥守藤原基成」という論文を読んだのがバカな読み物小説より格段に面白かった。面白さを此処に書き立てるには論攷の内容が濃厚過ぎて歯が、いや筆が立たない。ただ一つ、あまりに名高い秀衡らの平泉文化の淵源を、秀衡が陸奥守に赴任しついに定住した藤原基成の娘を妻にしていた事実に求めているのが示唆的であった。雅びた妻女とその侍女集団との京風女文化が平泉を華やがせたと。なるほど。
もう一つ、あの牛若丸が秀衡を頼んで鞍馬から奥州へ走ったこと、また吉野や安宅の関などで苦労した義経がふたたび秀衡の手に身を投じて兄頼朝を歯ぎしりさせたのも、実は頼っていった直接の先はこの基成であったと教えられたこと。
こういうのを読んでいると、なんとしてもこのわたしのホームページを、プロバイダを威しても破壊させてみせるといきごんでいるらしい、つまらない手合いのことも忘れている。
2011 2・24 113
2006.02.25 今は亡き孫娘が最後に飾った。
* やすかれと呼びて笑まひて手をふりて
やす香は今しあゆみ来るなれ 祖父
* なぜか知れず寝起きは、じっと堪え、仕事をはじめてやっと心落ち着く。今朝は「 mixi」 に昔の日記を送り込み、村上華岳にふれて書いた自分の文章で心静かになっていた。こういう、こころよい「もの」や「ひと」になら、たちどころにわたしは出逢える。ゆっくり話したければその人と「部屋」に入れば、なににも邪魔されない。邪魔。そうだ「邪魔」というみにくい魔性が、現世には、いるのだ。
☆ むかし、前漢かもう後漢のころだったか、いずれその時分に、趙(ちよう)なにがしという逸人があって、生前に自身の墓を築いた。墓の内には手ずから古聖賢四人の画像を賓位に画(えが)いて、自分の場処は余白のまま残し、そして折あれば世人を避け墓に潜んで、その時幽明の隔てなく、主客は自在に談笑して倦(う)むことがなかったという。
超は九十余歳、やがて己(おの)が死の遠からぬを悟ると、主人の座を負うた壁へ彩管を揮(ふる)って、生けるがままの一体の自画像を画(か)いた。そしてそれなりその墓は封じてしまった。文字にのみ伝えた史上最も夙(はや)い自画像の例として知られるが、幸いこの趙なにがしの自像墓は、何でも掘り返すのが好きな昨今の中国でも、見つけられていない。地下に二千年、気稟(きひん)の清質最も尊ぶべく、和顔愛語(わげんあいご)の今も絶えないであろうことが嬉しいと、この話をはじめて聞いて、私は羨ましかった。
が、かく言う私にも幼来、一の、墓ではないが似たような小部屋がある。それもいわば折り畳み自由、いつ何処へなり脳裡に蔵(しま)って持ち運びができる。このさい雅(が)な名前を如何様(いかよう)につけてもよいが、端的(ただ)に「部屋」と自分では呼んできた。古人多く死せるあり、理の当然ながら、この死んだはずの古人が招けば気安く「部屋」を訪れてくれる。様態(なりふり)は客の勝手だが、今日(こんにち)の風儀に、たいがい背かない。つまり気らくで、互いに堅い挨拶が要らない。君ぼくでも俺お前でもないけれど、面と対(むか)って何を訊ねても、答えてもらえる。訊かれれば私も応える。趙某が寿蔵のように、不得手に筆を用いてさながらに人がたを画く必要などない。それに気の多い私のこと、「お客」は聖人君子(えらいひと)と限らない。好きな人を好きに招(よ)びたい。
但し識らぬ人を呼びようがない。「部屋」へ入(い)り浸(びた)りでもおれない。むろん趙さんみたいに、「またですか」と奥さんに雲隠れの苦情は言われない。私の妻もなんとなく感づいているらしいが、肝腎の「部屋」へ出入りの戸口が妻の眼には見えないのだから、止めだて出来ない。
で、この数年に限っても「部屋」の客、なかなか数寡(すくな)くはなかった。ひところ後白河院(ごしらかわいん)に再々お見え願っていたし、前後して建礼門院にもお越しいただいた。お二人ともごく話し好きで、生前こそ畏(おそ)れ多けれ、この「部屋」へ「お客」となれば至って自在なもの、遠慮がない。ご一緒にと願えばお揃いででも見える。
また、繁々と近ごろ顔を合わしている新井白石氏は、藍大島のすっきりした着流しに汚れめのない白足袋で現われ、とみに熱心にキリスト教などを論じて行く。
氏は、宝永六年冬に、自ら望んでローマ人宣教師シドッチを尋問している、あの折の感想や観察を私が訊きたがり、白石氏もあれに就ては『西洋紀聞』その他に表むき書かれたのと、また調子(トーン)のちがった認識をその当時から持っておられたらしい。
シドッチの潜入意図について、万々疑念ははさみながら、だが彼を、決死の覚悟でローマからはるばる日本へ駆り立てた信心の根というものを、新井先生は心中に否定してしまえなかった。
言えば、──際限がない。が、際限ないそのような訪客との歓談や質疑の中で、ことにこの数年、しきりに望んで交際を重ねてきた、今一段ざっくばらんな人物がある。昔ふうに言うと身丈(みのたけ)「五尺二寸」「イロ白く鼻高く中セイ。」わけは──いろいろある。出逢いも、あった。出逢いから話すのが、順というものだろう。 秦恒平作『最上徳内 北の時代』の冒頭部
* こういう「部屋」が、在る。
* とにかく、この心労と体疲労に日々打ち勝って行かねばならない、創作意欲を失うことなしに。
2011 2・25 113
* 娘と婿と、原告二人の要求にどう応じるかを調べたくて古い日録を読んで行き、平成十二年・西暦二千年の秋に、朝日子に触れたこんな記事が連続していた。
* 娘の朝日子は、昭和六十年より以前に、手作りの、奥付をさえ持たない、そんなことへ気も行かないような質素な私家版を二冊創っていた。わが娘である。その創刊の一冊を「e-magazine湖(umi) 」の最初のファイルに積み重ねた。今夜一晩かけてワープロ版からスキャンし、丁寧に読み返し読み返し、校正した。贔屓目でなく、娘には文章のセンスがあった。さりげなく自然に清明に書ける力があった。いつも、わたしはそれを褒めてやりながら、自発的に「書く」よう期待していた。書けば、書けたのに、続けなかった。またいつか書き出すのだろうか。わたしがそれを読んでやる機会があるのだろうか。
湖に載せた作品は、尋常な題材であるが、よく書いていると思った。よく書いて置いてくれたと、少し、泣いた。こういうかたちで公表されることを今の朝日子は好まないかもしれないが、幸せに穏やかな親子四人のいた日々を思い出し、心しおれながら、いいものを読んだ嬉しさをいま反芻している。読んでやっていただきたい。二十三か四歳ごろの作である。
* 十月三十日 月
* 朝日子の「ねこ」を褒めてくれるペンの友人のメールも来ていた。ゆうべ、娘の置いていった「回転体の詩」の二輯を読んでみた。初読であった。拙い詩集であったが、数あつめてあったので、全体から来る情感は汲み取りやすかった。ま、最初の出産を体験したうら若い母親なら、だれしも内心に抱いた思いかも知れない。だが、それを言葉に置くのはやはり力業である。ある限られた時機にこういうものをこう書き置いたことは、やはり尊いことだと思い、大袈裟な親ばかに照れながら、すこし涙をこぼした。
これも、記録して置いてやりたいと思った。
* 十月三十日 つづき
* マスコミがもう「e-m 湖」をとらえはじめた。新聞記事が知らされてきた。アクセスが増えている。
* 朝日子の「詩集小さい子よ= 回転体の詩 2」を、すべて「e-m湖」の一頁に書き込んだ。スキャンでは、かえって手間がかかるので、一つ一つ自分の手で書き込んだ。娘と孫娘とのそばにいて、体温も息づかいも感じられた。
* 十一月三日 金 文化の日
☆ 朝日子様の作品に時のたつのを忘れて、読みふけりました。
仮に、今はお休みされていても、これほどの力の持ち主ならば、必ず、またいつかペンをおとりになられましょう。その日の訪れを、そして、新しい作品を読ませていただける日を、心静かに待たせていただこうと思います。ありがとうございました。 読者
☆ 朝日子さんの作品、一気に読みました。一気に読み進めたい気持ちを抑えられぬほどの情感にあふれた作品でした。
朝日子さんの目から見た「ねこ」「ご家族」は同じ被写体を別の角度から写した映像であり、けれどもそれらがぴったりと重なり合ってさらに立体的に見えたような、そんな想いがいたしました。ぴったりと息の合った幸せなご家族だったのでしょうと・・・。
朝日子さん どんな想いを持って日々をおすごしなのでしょうか。 読者
* 優れた創作者やいい読者からのありがたいメールが届いていた。三編をとりまとめて掲載したのも効果的であったろうと親ばかの編輯人は思っているが、身贔屓で採用したわけではない。載せるよと断わる道がないので、娘の本意ではないかも知れないが、ゆるして欲しい。あとにもさきにも、これだけしか「秦朝日子」のものはわたしたちの手元にない。親と娘でありえた昔の思い出にという感傷がないわけではないが、根本は、作品を、わたしが認めているということだ。繰り返して言うが、娘の本意ではないかもしれない。
むかしこの娘は父親に代わって、実は、二人の中国歴史上の人の、小説風の評伝を書いている。或る社の文庫本の中におさまっている。小遣いに惹かれて大学の頃に代作したもの、むろんわたしが読んで推敲した。いまもこつこつ書いているといいがと、いつか晴れやかな日のあれと、わたしも、内心願っている
*
* これが、朝日子の父だ。私だ。
朝日子は、この父を、「著作権泥棒」という言葉で裁判所に訴え、賠償金と公開の謝罪を要求してやまない。
どういう精神状態なのだろう。
これ以後はまだ読み返していないが、これ以前の何年もの日記に、婿の名は一度も出ていない。朝日子の名は当然たくさん出てくるが、親として娘の平安と健康と幸福な日々を遠くから祈る言葉以外に、何もない。一度だけ、息子を通して朝日子が、いましも娘、つまり我々には孫のやす香の「お受験」に熱中していると聞いて、あの朝日子がねえ「お受験かい」と唖然としていたぐらいが批評に類するだろうか。
* 親の真情や愛情が汲み取れず、裁判沙汰で親達を苦しめるという、その心情もインテリジェンスもわたしには理解できない。はたして親たるのこれを「不徳」というのか。「徳」とは何か。
2011 2・28 113
* 上申書が今日、裁判所と原告代理人とにファックスされたそうだ。私の筆を代理人が制した個所は、代理人が直接裁判所へ口頭で伝えたいと言うので、それに随って上申内容を改めた。
* 何をして過ごしていたのか思い出せないほど熱中して時間を使っていた、ああいうのも無心というのか知らん。
2011 3・2 114
* 今日もとても寒々と感じた、日射しは明るかったのに。 気持ちを落ち着けるために、HPと向き合っている時間が長かった。
2011 3・4 114
* 昨日テレビ「映画の「遺恨あり」をもう一度見て印象を謬っていないと確信した。
何度も何カ所でも熱くこみあげたが、印象的な一つは、山岡鐵舟が弟子の臼井六郎に禁制の仇討ちの志を感じ取り、理性では反対しながら最後の猛烈な稽古で六郎に必殺の気合いを教える場面、思わず顔を蔽うほどの烈しさで師は弟子をうちのめしていた。そして師は行けと送り出す。打てば響く師弟の、また北大路欣哉と藤原竜也の決死の場面だった。感動した。
いま師があのように弟子を打ちのめして励ますとして、打たれる弟子に師の愛を感じられる志があるだろうか。なんと厳しい、厳しすぎると怨むのではないか。打てば響く人間関係が無くなろうとしている。その極の荒廃と退歩を建日子の「スクール」などが証言しているのだ。
「遺恨あり」で泣ける美しさが、荒廃した学校では非難されて喪われている。
* 打てば、響け。
2011 3・5 114
* ケイタイと営業サイトとが連繋して、大学入試に巧妙なカンニングが露顕し大騒ぎになっている。軽率で愚かしい行為であるのは免れないが、そういうことの横行しうる「時代」だとの認識
が、世の大人世代に無さ過ぎた方が滑稽に見える。今回の場合、営業サイトが関係していたからバレたが、もし優秀な連中がどこ家庭の一室に待機して、そこへ正解を求めていたら、これはバレようがない。あの少年より悪辣な連中がそれをやっていない証明は出来ない。
* なによりも時代が変わり環境が変わっている。ペンの仲間達が「環境環境」と鬼の首を取ったように騒いでいた「環境」は、わたしがいつも指摘して嗤っていたように、自然環境の一点張りだった。そうではない、人間の環境には自然だけでなく、今日
は「機械環境」が猛烈に力を持っていて、それが人間精神を傷つけまた無感覚化してしまう、その怖さを認識しなくてどうして「文学」が対応できるかと。わたしが、「電子メディア委員会」を世界のペンに先駆けて提案し実現した根の深い理解はそれであったが、今期理事会や阿刀田執行部は理解できず、安易に言論表現委員会に吸収させ、潰してしまった。「言論表現」の問題は余りに広大、しかし「電子メディアが引き起こしてくる問題」は具体的にそれ以上にますます広大になる。両輪両翼で対応しなければ追いつかないのに。
* 今の今もわたし自身が背負い込まされている裁判は、やはりネットサイトでの言論言説の問題が根・源になっている。わたしは、もはや世界大のネット社会では、せめて最低限度のエチケットとして「文責を明らかにして発言し言論し批評し合うべし」と考えている。「書いてはいけない」などという愚かしくも古くさい制限に閉じこめ切れる機械環境ではない。
日記にしても、いまやノートブックに手で書く日記が標準ではない、「 mixi」 のような「facebook」のような大公開の場ですら、人は日記を書いている。個人のサイトで、親が情愛豊かに息子や娘や孫達の平安を願ったり苦言を述べたりするのが裁判沙汰になり賠償の問題になるなど、それがもし法律なら、徹底的に漏れなく摘発して不均衡に陥らぬようにすべきだが、そもそもそういう発想自体が時代後れに過ぎている。
文責を明記して討議や討論に堪えられる批評行為は「あたりまえ」であらねばウソだろう。
* いまわたしは娘や婿の強硬な要求で「生活と意見」と題していた全部を「更新出来無く」されている。そうしない限り「和解」の席に着かないと言うのだ、裁判所も代理人も「和解」に入ろうと願うなら一時的暫定的に、従って欲しいという。
ところで、総量五万枚に及ぶわたしの「生活と意見」を、冒頭から慎重に読み直していると、すでに七年分三十数ファイルまで来て、婿の実名はおろかマーキングしたものも皆無、娘の旧名(娘は三年前に、親が付けた朝日子という名を放棄し、改名している。今では朝日子は親や弟の記憶の他に実在しない。)はむろん沢山出てくる。どういう出方であるか、今、全部を拾い上げているが、万人が万人の目に、思いに、微塵の悪意もないどころか、両親や弟の溢れる愛に朝日子が包まれていることだけが明確になるだろう。なぜそれらが裁判沙汰に成りうるのか。なぜ賠償金の根拠になるのか。いずれ全部を明白に示したい。わたしの日録は何人もの人が手元に記録していてくれるので、現在のわたしが思うまま改竄したりしていないことも、容易に証明できる。
* 新世紀に入って時代は急角度に急速度で変わってきている。わたしが東工大で初めて買ったパソコンに一太郎をインストールするのに、四角い小さいディスクを二十数枚使わねば成らなかった。容量は1G しかなかった。やっとホームページを学生君に創ってもらえたとき、世の中にケイタイなどまだ影もなかった。平成十年だ。十三年には新世紀に入り、いま平成二十三年。どれほどの「機械環境」か、若い人ほど知っている。しかも若い人ほど十二三年前のホンのまねごと時代など、全然知らないのだ。
* いまわたしを裁こうとしている裁判所の関連の法律がどのようなものであるのか。それを思う。徹頭徹尾、わたしの裁判は「ネット裁判」なのである。撲った、傷つけたでも、ダマしたでも、ない。そしてそれはわたしだけの問題だろうか。時代の問題である。週刊誌が取り上げるなら、そういう根底の「時代」を問う取り上げ方をすべきであった。
2011 3・6 114
* 建日子のテレビ「スクール」を観た。廃校と統合問題が出てきて複雑な思いだ。わたしの小学校も中学も廃校された。後者は今月末で廃校と決していて、学校は、三月十二日に校舎へ「お別れにどうぞ」と卒業生に呼びかけていると聞いた。
ドラマではこの問題と、家庭内の兄から妹へのDV問題とが、終盤に絡み合ってくるようだ、かなり真面目に進んできて、教師というか職員室にも民間人校長との間の緊張をすこしずつ消化して来ている。有終の美をなすか、ありきたりに終わるのかはこれからの見せ場だ、期待させて欲しい。打てば響けよ。
2011 3・6 114
* 朝日子が十時に行くと云ってきたので家で待っていたが、遅いので外へ出ると、向こうから黄色っぽいオーバーの裾をひらめかせやたらに駆けてくる朝日子が見えた。そこは京都の花見小路、新門前と新橋との間、西側で、わが家がその辺にあり、離れに迎える気で用意していた。朝日子は北の白川有済橋を渡ってこっち向き、はあはあ息をはずませ駆け込んできた。そこでブツリと夢は覚めた。時計を見ると五時前だった。何をしに夢の朝日子は駆けてきたのだろう。
そのまましばらく眠れなかった。
* そのまま又寝の寝坊をして、起きて行くと秦建日子新作の『CO. 命を手渡す者』という河出書房の新刊小説が、河出から贈られ届いていた。臓器移植を扱ったらしく、すでに連続ドラマとしての三月放映予定が進行しているらしい。少し読み出してみると、しっかりした文章で安心した。期待して読み始める。出版おめでとう。
劇作・ 演出・公演と、連続ドラマ脚本と、こうして、小説と。よく頑張って続けている。父の願うのは、ただただ健康です。怪我も事故もなく、健康に、心健やかに心穏やかに元気でと、父はいつも願っています。
2011 3・7 114
告男性の実名もマーキングも一個所もないこと、原告女性である当時の娘朝日子に関しても、誰に読まれても悪声と聞かれる只一個所もなく、われながらよくまあと心しおれるほど心から慈しんで書いている。批評している。それらの一切をわたしと妻とで他へ抜粋し、可能なら裁判所、それは今回はもう成らなくても読者や知人、第三者の明らかな眼に照らしてもらえるようにと用意している。
どこに裁判沙汰になる悪意の文があるか、全く無いのを、事実で、ぜひ示したい。
2011 3・7 114
☆ 前略
現代作家のなかで京について最も含蓄のある方のこの本文を何より最初から拝読致したくてなりません。「私語の刻」 同世代者として、様々な御感慨が身に沁み入りました。殊に志賀直哉七十四歳の時の『八手の花』の御引用から「ぜひにと願うまとまった仕事を二つ三つも書き継いでいて、しかも裁判沙汰に寸断されてかけないでいる」という 御心中は拝察してあまりあるものがありました。
どうぞ呉々も御体調には留意され、剛情に御健筆をお祈りいたしてやみません。 元文藝誌編集長
* どうか奮い立ち、剛情に立ち向かいたい、創作に。まだまだ、まだまだ裁判沙汰は已むまいと思われるが。
2011 3・9 114
* 「秦建日子脚本」と明瞭に出ている連続ドラマ「スクール」が一般受けしていて、朝の理髪店でも家族中で誉めあげてくれた。「殺し」「犯罪」ものに飽いて嫌気の人たちにも歓迎されているのだろう、どの材料、どの話題も、これまでに何かの形で一度も二度も報道されていたのは確かだが、建日子らしい優しさと真面目さでソツなく毎回取り纏めながら、シリーズをゆっくり盛り上げてきている。しっかりした仕上がりへ近づいている。評判など気にしないで、心ゆく仕事として一つまた積み上げて欲しい。
『CO命を手渡す者』は臓器移植にいろんな立場からかかわる人達の厳しい場面が展開されて行きそうだ。文学的な感興とはどれほどの距離かモノが言いにくいけれど、創られて行く「画面」の為に「言葉」が奉仕しているのは事実のようだ、画面のノベライズでは無いだろうと想っているが、内情は知らない。いずれにしても「言葉」はかなり適切に的確に運ばれていて才能を感じさせる。文学としての魅惑とは、重なりにくいかも知れぬ、もう少し読み進まねば。 2011 3・9 114
* 跨いで通るにしても脇へ取りのけて通るにしても、その道を通らねばならないなら、わたしは引き返さないで通る。
2011 3・9 114
* あの孫やす香の癌死の当月、平成十八年(2006)七月末に至る平成十年(1998)三月HP設営以来、八年数ヶ月の『日乗』58ファイルから、娘朝日子の実名とともに記述した記事を、文脈に載せたまま「全面」拾い上げてみた。
裁判沙汰になりうるような父の娘朝日子に対する、悪意・虐待・ハラスメント即ち名誉毀損(要賠償)を示す言説や表現など、皆無。
あまりにバカバカしくて捨て置いたけれど、この作業結果は、明白な「証拠書証」として早く裁判所に提出しておくべきであった。なぜこういうことを専門家はわたしに助言勧奨してくれなかったのだろう。
2011 3・13 114
* 五十二回目の結婚記念日、新橋演舞場昼の部を観る予定でいたが、東北激甚災害を想い、また計画停電と西武線不通予告なども考慮して、とりやめた。五十二年前の朝にも、東京新宿区河田町の新居に地震があった。
華燭を自祝しこんな歌で、知友に新出発を報せた。
朝地震( あさなゐ) のしづまりはてて草芳ふ
くつぬぎ石に光とどけり 恒平
夕すぎて君を待つまの雨なりき
灯をにじませて都電せまり来(く) 迪子
* 藤間様 みなさま。
どうぞお気遣いなく。それよりも舞台お大切に。
大変な惨害ですね、胸が痛みます。
舞台にお怪我がないようにとそれを心より願います。
かつがつ街へ出られても帰宅難民になるのも病弱の二人こころもとなく、むしろはっきりと心に決めて失礼したことでした。
七十五年、五十二年のうちにはこういうことも有る、これが人の世、と思い静かに家で、叶うだけの赤飯やご馳走で自祝しました。お舞台、どうかご無事でと祈りながら。
何のお気遣いにも及びません、どうぞ、心ばかり高麗屋さんへのお見舞いに代えて下されば幸いです。
みなさま、お大切に。 秦恒平
* 余震はやまず、福島原発は予測通りまたの爆発を繰り返し、なんら安心の状況に無い。
2011 3・14 114
* 朝は赤飯を蒸し、午后は近くから、よく吟味してもらった刺身と鮓をとり、テレビを観ながら寛いでいた。明後日の俳優座稽古場招待も遠慮した。こういうときは、ざわざわ動かなくて済む者は動かないのが一種の「協力」だと思う。停電すれば寝てしまおうと思っている。建日子たちが仲間と何処かへ出かけるので猫を預かってくれないかという話も、沙汰やみとなった。それがよい。
2011 3・14 114
* 十一日以来の緊張で、固いからだが一層強張っている。せめて春暖が待たれる。
* どっと疲れたか、家猫が二匹になっている余波で夜中に起こされ起こされしたのが響いたか、宵から睡くて溜まらない。このところ機械の処理用事が多かったのと、花粉で目がやらているのもあり。こういうときは休んでいたい。
2011 3・178 114
* 秦建日子脚本の「スクール」最終回二時間分を見終えた。感傷の涙は誘われたけれど、劇作としては在りそうに在り、成りそうに成り、「劇」性に乏しく言葉も場面も盛り上がらなかった。いつかどこかで繰り返し見聞したような成り行きで、殺しや犯罪モノよりは好感はもてたし、心優しくも元気そうでもありながら、オリジナリティを置き忘れ、リアリティをほどほどにし、クウォリティーをもてなかったのは残念だった。
こういうありきたりを続けていると、創意や、作品への真率な意欲を摩滅させかねないのを惜しみ懼れる。小説も劇作も脚本も、無垢無欲の熾烈な噴火を期待したい。マスコミの便利屋に落ちこんでいっては怖い。
作者は、蓄え持った巨大な底荷の質量で勝負しなければならない。いまのままでは、お手軽に過ぎている。調査の物知りは大切でも、それだけでは思索も体験もうすいままで流れて行く。作者の生の苦渋が、「ER」 のように、せめて「寅さん」のように、できれば谷崎の「途上」や「小さな王國」のように映し出されて欲しい、出来て当然だろう、それを把握し表現せよと望まれたとして、もうニゲの打てる年齢でもキャリアでもない。
* 自分を棚に上げて言うのは苦しいが、誰一人、こんなことはハッキリ言ってくれないものだ。実際は、 自分で分かるしかないのだから。
2011 3・20 114
* 秦建日子のドラマ「スクール」にやや、逆らいてこそ、父のきつい批評を書いた直後、うちではふつう観られないW0WW0Wとかいうチャネルで、同じ秦建日子原作・脚本の「CO臓器提供」ドラマを観たのは幸いだった、これは単発のドラマとして観ても、オリジナリティあり、リアリティありクゥオリテイもきちっと兼ね備えて、最近出色の劇的な構図であった。
吉岡秀隆、ユースケ・サンタマリアの持ち味もはまっていて、わたしも妻も見知らぬ、人工透析患者で夫に死なれた妻の役をした女優もほぼ完璧の演技で、唸った。
幸か不幸かわたしはこのドラマ分のストーリーを、建日子の原作本で、すみずみまで覚えていた。小説とは謂うが、小説を読む妙味も美味もない、わたしの感想では、ノベライズしてかなり書き込んだ、その分、すらすら読めて分かり好いつまり「梗概=シノプシス」だった。
今夜観たドラマは、本では三話ある第一話で、脚本としては堅実そのもの、まことに過不足無かった。本を読んでいなかったら、ああ美味い脚本だなと想ったろう、いやよく書けていた。劇的で意外性が厳しく辛く展開して胸をしめつけた。ありきたりな何もなかった、こんな世界があるのかと、知ってはいたが現実に突きつけられる衝撃はなまなしかった。
感動したか。感動した。それでよいのだ。
感傷的にお涙を強要してはいけないのだ、必然が必然を呼んで、観ていて、いても立ってもおれなくさせるのが「ドラマ 劇」なのだ。満たされた。特筆しておいて、、もう深夜。寝にゆく。
2011 3・20 114
* 十一日の激甚災害発生から十一日、その間にわたしは自転車で文房具店へ走った一度しか外出していない。隣棟にも入っていない。「湖の本」在庫分などが棚から落ちているかも知れない。
またこの間に、四半世紀を超えた京都中央信用金庫の財団・美術振興基金の理事および京都美術文化賞の選者を、正式に辞退した。妻を独り置いてよんどころなくたとえ京都までといえども、是非にも出掛けて行かねばならぬ仕事としての必然性を、もうわたしは認めなかった、少なくも二年前から辞意を伝えてきた。財団の公益法人への改組が必要になるというこの四月を機に、辞意が容れられ、ほっとした。
明日に予定の最後の選考会議には出て、梅原猛さんや石本正さんらにもご挨拶したかったのだが、新幹線すら正常ダイヤでなく、この午后だけでも数度も関東東北には強い余震が繰り返されていて、原発の危険も依然としてそのままでは、敢えて欠席通知したのが正しい判断であった。
さて、もう一つ、日本ペンクラブ理事の方が残っているが、なにしろ意識的に二年間執行部への不信を表明して国際大会をすら、寄付金だけで非協力を貫いたのだから、ちょうど締め切られた理事改選により、放免してもらえるだろう。
六期十二年、十分務めたつもりだ。
あいにくなことに日本が主催した去年のペン世界大会は、執行部のズサンな放漫会計により、あまりにバカげた超大赤字を出してしまい、「日本ペン興行クラブ」の不面目をみごと発揮してしまった。後始末の理事会が、十五日から来週三十日に延期されたが、わたしは出られない。これも延期された聖路加の眼科の診察日に、きっちり、あたっている。意見だけを、書簡にして事務局と理事会宛てに出してある。
* 書きたい仕事、読みたい本 したい仕事、またしなくては済まぬ用事はたっぷり在る。怪我も事故もなく、健康に、心穏やかに心健やかに元気に過ごしたいと、毎朝、秦の父、母、叔母に話しかけている。
2011 3・22 114
* バグワンにわたしが出逢ったのは、ホームページを開いた1998・平成十年より一年以前で、以来ほとんど一日も間をあけず読み暮らし、また書き暮らしてきた。こんど「生活と意見」として括っていたホームページの日録をやめたあとへ、十数年「バグワン」に触れて書いた記事を、談話風に取り纏めて行こうかと思いかけている。
わたしのバグワンへの思いが、日録を訪れて下さる方々にどれほどのものであったかは分からない。若い人にはバグワンはまだ早いかも知れないが。永い期間継続してバグワンとの思いを書き込み続けてきたわたしには、われ独りででも顧みておくに足る大きな体験であった。
* 万一にも娘・朝日子の目に触れる機会が有れば、なにかしら感慨が湧くことだろう。バグワンゆえにわたしは多くを支えられてきた。朝日子が手渡していった「一生の奇会」であったと、シドッチ神父を接見し訊問したときの新井白石の言葉を借りることも出来る。
* 今日も『一休道歌』から少しバグワンに聴きたい。
☆ 論理は人間が創った、世界の論証だ。論理は人間が実在を押さえつけようとする小さな知解だ。ところが実在は矛盾や神秘すら孕んで、とてつもなく大きい。大きな実在に近づくには小さな論理は落とさなければならない。
よく観るのだ、すべて小さな論理は、まるでものごとが分割され、完全に分割され、橋渡しが不可能なほど分割されているかのようにおまえを説得する。だが観るがいい、そうではなくすべての両極はともに結ばれ、橋渡しされている。たとえば誕生と死は同じ実在の二つの局面だ。安易に分割することで実在を限局してはならない。論理は分割する。そしてそれが上分別だと主張するが、だから間違えるのだ。愛は愛、憎しみは憎しみ、二つは出逢わないと謂うが、とんでもない、二つはいつも出逢っている。愛は憎しみ無しでは存在し得ない。憎しみは愛無しでは存在し得ない。論理は謂う、いつも愛しなさい憎んではいけないと。それは愛の虚構、憎しみの虚構を幻想しているだけだ。あげく愛は殺される。生は、実在は、愛は知っているが、そんな分割の論理など知らない。気付いてもいない。生は非論理だ。論理的なマインドが常に陥っている馬鹿馬鹿しさを見るがいい。
論理的な人は遅かれ早かれ、生は不条理だと言い始めるが、生が不条理なのではない、生に論理を押しつける、そういうおまえたちの努力が生を不条理に見せてしまうのだ。おまえのマインドはおまえの勝手な意味を生に押しつけようと躍起に働くが、生には何も押しつけられない。するとおまえは生は無意味な何かだと腹を立てる。
ところが鳥たちは生を無意味だと感じない。河も感じない。花も風も感じない。彼らが論理を持っていないからだ。すべてあるがまま、生と共に寛いでいる。
論理で生きている人は、じつは臆病なのだよ。論理はおまえを守るからね、だから恐怖はいつも論理と一緒にいたがる。
いつであれ、愛に似た何かがおまえのハートで動き始めると、論理から抜け出せる可能性がある。勇気が湧いてくる。
論理は果てしなく論議するが、愛は、生は、笑い出す。踊り出す。そういう生や愛にわたしは賛成だ。論理に反対はしないがね。
2011 3・23 114
* 東京電力の「無計画」停電の右往左往に振り回されている。二十八日に予定されている妻の心臓の検査手技が実行できるのか停電に中断の危険があるのか、見通しが立たない。自家発電の設備がない地元病院での、どんな新鋭機械を用いての手技も、電気供給が確認できないままの強行は、困る。
2011 3・26 114
* わたしは昨夜 海外にいる若い友人にメールを書いた。その一部にこう書いた。
「激甚災害、後遺症は深刻で、原発災害は想像や報道以上に危険が進行していそうに想われ、憂慮しています。千年に一度の地震という以上の、千年に一度の国難のように総合的に集中的に科学的に渾身のちからで立ち向かわねばならないようにわたしは心配しています。プルトニウム汚染や臨界に及ばぬよう、必死に対策してほしい。遠くにいるあなたをむやみと心配させるのは心ないことですが、『油断大敵』は今の今のための四字のようです。若いあなたには、放射能被曝の懸念される間は、むしろそちらにいて欲しいとわたしは本気で考えています。
場当たりの(無)計画停電にもふりまわされ、この二日後に予定されている家内の心臓手術も、停電のおそれで延期されるかも知れません。電気系統が安全に確保されていないと、高度の新機械に頼った手術手技は逆に危険になります。不要ではないのですが、不急であるのなら秋まで、せめて電力事情が安定するまで延期してはどうかと迷っています。
被災地の人々の苦境は想像を絶しています。しかし、悪性のパニックも起きず、優れた国民性がにじみ出て、日本人が本当の先進文化と精神を身に帯びてきていたのだと実感できます。嬉しいことの一つです。」
2011 3・27 114
* ようやく今、晩九時半になって明日の東電計画停電のこの地区の予定が分かったそうだ。
明日、万事無事平安に良かれと願う。
2011 3・27 114
* 妻を近くの病院に送る。十一時、検査終えて病室に入る。午后二時半ごろ、経皮的に心臓内に処置する手術手技を。一泊入院で退院できる。立ち合いを求められていて、建日子も来る。停電のないことが確認されたので実行に踏み切った。聖路加でも検査を受け、元の主治医にも奨められていた。
* 一時半に来た建日子と再度病院へ。二時半、医師の説明を受けて手術開始。三時半、手術順調に終えて医師の説明を受けてから、病室に戻る。三人でしばらく話し、少し仕事のしたい建日子と家に帰ってきた。夕食をしてからもう一度病院に見舞い、建日子を帰す。予後の平安を願う。
* 一度建日子と家に帰り、「和可菜」にムリを言って、鮓と刺身の盛り合わせと、「三千盛」の大吟醸を出前して貰った。鯛の兜煮をサービスしてくれた。二人で食事して、また二人で病院に見舞った。妻も夕食を終え、昨日貰ったばかり、小谷野敦さんの日本人の「名前」を穿鑿した一冊を、面白い面白いと読んでいた。まずまず落ち着いていると見え、安堵した。建日子も安心して帰って行った。建日子も立ちあってくれて、妻はどんなに安心したろうと思う。感謝。
暫くわたしは妻と話していたが、やはり休息するのが双方いいだろうと、七時、面会時間の切れるときに独り自転車で帰ってきた。自転車ならものの数分で往き来が出来る。これは有り難い。
* 順調なら明朝九時半に迎えに行けば、十時で退院できる。
2011 3・28 114
* 夜中、いつもは妻の床に入る黒いマゴが、わたしの床の中へ二度入ってきて、寝た。妻の入院は、建日子誕生の時以来。極度に狭く細まっていた心臓血管の一部をひろげる手技が行われて、無事に終えたと医師はわたしと建日子とに映像で説明してくれた。
いまから、退院予定の病室へ独りで行く。自転車なら数分とかからない。これは、 安心だ。
* 黒いマゴも寂しい一夜をすごしたのであろう、朝七時半には頼もしくわたしを起こしてくれて、そして玄関から戸外へ出掛けていった。
* 十時半、妻、無事帰宅。あとは、能く用心して生活を。
2011 3・29 114
* 早起きしてしまい、順調に乗り換え乗り換え、つまり座席に坐れるように乗り継いで、早くに聖路加病院に着いたけれど、受付番号は早いのに予約が十二時半から十三時なので、しっかりその時間まで二時間待たされ、我慢会のように我慢し、『アンナ・カレーニナ』も読まずに、何度も何度も歴代天皇百二十五代を指折り数えたり手洗いに立ったりして廊下で待ち尽くした。
診察は何と言うこともなく数値も順調で、体重を減らしましょうね、よく歩いて下さいと。
妻と同様の狭心症気味の胸ふたぎなどは、ま、機会を見て別の検査と診察を受けよう、それより先にして置かなくてはならぬ死に支度というヤツがあるのを早く片づけたい。裁判はどっちみち長々と続くのであろうし、それはわたしの手ではどうしようもないこと。支度は支度で勝手にしておく。
2011 4・1 115
* クイズという言葉を身近に耳にし始めたのは、敗戦後の人気ラジオ番組だった「二十の扉」「話の泉」が、二大横綱級であった。知識欲に燃えていた少年のわたしは、むろん「話の泉」の徳川夢声、渡辺紳一郎ら物知り小父さん達に魅された。名前は忘れたが唱歌の作曲だか作詞だかで知名の人が、抜群に物知りだった。「二十の扉」は、ややたわいなく感じていた。
だが、後になるほどわたしは「話の泉」というタイトルにも、瑣末に重箱の隅をつつくような知識自慢にも或る疎ましさを覚えるようになった。つまり、それらは人の生きるという難しさや悩ましさや嬉しさとはあまり関わっていなかったから。わたしは知識の切り売りをあまり立派な素養とは感じなくなっていった。
京都では、「あの人は学者や」という評判は、軽からぬものであった。秦の祖父のことを、秦の父は、「うちのおじいちゃんは学者やった」とときどきわたしに褒めた。なるほど、貧相な小家なのに秦家にはいま手にしても驚くほど堂々たる漢籍や古典が積んであった。大きな辞典も何種類もあった。本を読むのは「極道や」とわたしく叱った父にして、観世流の謡曲の稽古本を百数十冊ももっていた。小さかったわたしが、どんなに祖父や父のそういう蔵書に触発されたか、いまも座右にその余録を備えたまま、時に愛読し謹讀している。
それにしてもわたしの知る限り、祖父も父もたいした学者ぶりではなかった。父の謂う学者とは、概していえば「物知りのこと」であるらしかったが、実質を感じ取って感心した記憶はなにも残っていない。そしてわたしは物知りだからえらいと、はだんだん思わなくなった。時として知っているだけのモノゴトとは埃同然で、払えば落ちてしまうに過ぎないと感じるようになった。積んだ知識から、オリジナルないしそれに近い発見や思想や行儀が生まれてくるなら兎に角、知識の切り売りだけでは軽薄だと思うようになった。本を書くようになってからも、知識本ではなくて、そこから見つけだした、新たに感じた、発明し得たことを書きたいと思ってきた。
* 知識の切り売り本、少なくない。御苦労なことだと思う。身内から血の滲み出たような仕事が、しかし、貴い。
2011 4・2 115
* 『名前とは何か なぜ羽柴筑前守は筑前と関係がないのか』という、えらく長い題の小谷野敦氏の本を貰った、と思うまに妻が病院へ持っていき、入院中に面白がって読み終えてきた。目次を見ただけで何が書いてあるか分かり、実際に読んでみても新たに教わるものはなかった。知識欲のある優等生は、たいがい昔からこういうことに関心を持つ。うちの息子の小学校は、小学生なのに「卒論」のようなことをやらせ、息子は気張って「名前」を論じ? た。それも『ゲド戦記』その他、「名」の持つ神秘性に触れながら、日本の有力氏族の名字に関心を持ち、せっせと書いていた。
諱や諡や号や通称や、武家名など、名前への興味の持ち方には選択肢がたくさんあり、歴史好きの子供ならなおさら興味をそそられる。わたしの育った京都では、近辺根生いの家などでは、奥さんにも女中にも「替名」がついていた。名を替えるという行儀に子供の頃から馴染んでいたのである。
そういえば「 ペン電子文藝館」 を創設の頃、同僚委員の森秀樹さんは、「百姓名を読む」という論攷を呈示されていた。
* 小谷野さんの本でガッカリしたのは、「秦」「漢」氏らに、ことにわたしの縁あって称している日本列島での「秦氏」に、まるで触れてないこと。日本の秦氏は、べらぼうに多数の苗字を派出して、ま、昔から有名であり、法然上人も、長曽我部という大名も「秦氏やで」と、昔、秦の父に教えられた。島津も桜田も井出も和田もなどと聞いたことがあり、井出孫六さんに電話をもらって「同族ばなし」に花が咲いたりしたこともある。
真偽を調べるまでの興味はないが、それよりも、名前に関しては、大津父とか馬子とか不比等とか家持いった「古代な名前」の時代に、どんな幼名や通称があったのか無かったのか、或る時期から急に、なぜきっぱりした良房とか道長とか義家とか時宗とか家康とか吉宗とか隆盛とかいう諱ができたのか、それでいて、天皇の諡など、桓武だの清和だの光孝だの難しげだったのが、なぜ急に一条だの堀河だの鳥羽だのとくだけていったのか、上流下層とも女の子には名付けたのか名付けなくても済んでいたのか、遊女や花魁の名はどんな変遷をしてきたかなど、興味は尽きないのであるが、「武家名」に関心を絞ったらしい小谷野さんはほとんど触れていない。ほんとうは「名乗る」「名を問う」ということ等にも踏み込んで小谷野説が欲しかった。そこには名の本質の不思議があるし、名分論や「無名」の意義も湧いて出るだろう。署名・無署名の問題も小さくない。
また「丸」名乗りにも、小谷野さんの「糞」説だけでなく、もっと深刻な背景があるだろう。犬や牛馬にも船にも丸がつき、仮名手本の松王丸、梅王丸、櫻丸もある。
* 中宮が先で皇后があと、とあるが、后、妃、夫人の制より先に「中宮」があったか。光明子は中宮と呼ばれたか。円融帝のときが始めではなかったか、中宮の制は。
* ま、それほど名前はポピュラーでもあり神秘でもある。
* 小谷野さんは、最後に「匿名」という点に、纏めて触れている。これにはわたしも関心がある。
小谷野さんは触れていないようだが、上古の「童謡 わざうた」中世の「落首」なども含めて、匿名は一つの文化でもあるし、便所の落書きなみに品性下劣で卑怯なヤツもある。
ことにネット時代に入ってからの「匿名」の犯罪的なあくどさはひどいものらしいが、わたしは一切そういうバカげたものは覗きもしないし、見ずにおれないという人の気が知れないが、他方こと「公人」に対してわたしは、政治家も創作者も学者・研究者も藝人も公務員も、甲乙なく実名をあげて批評すべきは批評してきた、ただし自身の実名をいつも隠すことなく、文責は全て明かしてきた。不服があれば聞くし、必要なら議論・討論をすればいいという考え方である。おかげで、自分の婿や娘に訴えられて五年越しの裁判沙汰とは、愚かしすぎる。むろん訴え出る方がである。
ただし、わたしにも「匿名」原稿を書いていた時期がある。その頃はまだインターネットもホームページも無かった。新聞社にまともに依頼され、有名な匿名欄に何年ものあいだ書いていて、多いときは月の三分の一ちかくもわたしの原稿が出たほど。おそらく、全部まとめると「湖の本」の一冊もあるだろうか。
文藝より、むしろ時事問題を熱心に取り上げて批判し続けた。そして数年してすっぱりと切り上げた。べつに理由はなかった。むろん匿名には匿名の歴史文化性を認識していたので、なんら後ろめたさも持たなかった。
ネット時代の最低限、絶対に守りたいエチケットは、なにを書くにも文責を明かしておくことだと、わたしは裁判所に向かっても明言している。
2011 4・3 115
* 二人とも七十五歳になりました。 東工大で
モーリーとヘンリーといてマゴがいて今朝は二人で百五十歳
* 妻の誕生日を、新橋演舞場で昼夜、歌舞伎を楽しんできた。大トリの「権三と助十」を失敬して、日比谷の「なだ万」で懐石料理を堪能。クラブで小憩のあと、タクシーで保谷まで、今帰ってきた。心臓手術の予後も体調もまず安定して、安心。祝う気持ちもあった。先月の十四日は、地震の直後で、演舞場の歌舞伎を不参、家にいた。その埋め合わせの気持ちもあり、気持ち、奢ってきた。
2011 4・5 115
* なにの店か知らない、「プログラム」という企業がナプキンようのものを配っていた繪が、犬のヘンリーと猫のモーリーで。わたしは気に入っている。
マゴは、愛しておかない尾の長い眼の黄金色した黒いマゴ。もう十一歳になっていると妻はいう。
2011 4・6 115
* 都知事選だが、今回ほど気のりのしない選挙はない。やめるべき人がやめないと出てきて、それを阻める人材が見当たらない。 とにかく投票を済ませた脚で、妻をうしろに乗せ、名も懐かしい尉殿( じょうどの) 神社の、閑散とした宮前で満開の桜樹を愛でてきた。建日子誕生直前、妻は入院安静中、に出産の無事を願って深夜独り参拝し、また朝日子ともいっしょに参拝したお宮だ。
それから谷戸の広々とした明るい「ふれあい公園」をゆっくり通り抜け、ちょいとした人気のうどん屋で、鴨なんばんうどんを食べ、ビールを一本呑み、ひばりヶ丘団地の豊かな桜並木の満開にも、こもごも嘆声をあげてきた。晴れやかに人出多くてどこかしこ和やかなピクニック感覚のお花見日和。
さあ、もうあと何度、こうして夫婦で近在の櫻を喜び合えるだろう。
すこし酔いも出てか、帰ってから二時間ほどわたしは昼寝した。目が覚めると、もう夕食の時間だった。
2011 4・10 115
* 昼過ぎから、青山の妻の両親や兄の墓参に出掛けた。墓地は櫻吹雪、青空にはヘリコプターの爆音が轟いていた。
墓参への途中、銀座和光の並木店と本店とで、亡き江里佐代子の截金を忍ぶ遺作展と、康慧・佐代子夫妻の仏荘厳展とを観てきた。江里康慧君とも話してきた。
この夫妻、日吉ヶ丘高校の後輩に当たっている。夫妻を招いて「美術京都」で鼎談したこともあり、それも契機となり佐代子さんに京都美術文化賞を授賞した。その後に人間国宝とも成って広く注目されながら、惜しくもフランスで客死。康慧君もいうように、まこと疾風のようにこの世で完全燃焼し、あの世へ駆け抜けていった。
池袋西武の「伊勢定」で精進落としの鰻重とビールを。まだ日のあるうちに家に帰ってきた。
2011 4・14 115
* 早稲田の文藝科に請われて小説のゼミを二年引き受けたのは、息子建日子が早稲田法科に入学した春だ、東工大教授に就任したよりだいぶ前で、その二年のあいだ学生の書いて提出する小説を、編集長然として読んでいた。当時の学生が、今も二人、男性が一人、女性が一人「 湖(うみ)の本」 を支えてくれている。学生たちの中に、いま人気作家の角田光代がいて、提出作を褒めて背中を押してやった。
昨日夜、久しぶりにその男子学生だった一人、いまは或る大学の先生、が竹取物語についてメールで質問してきた。懐かしかった。夜から今朝へメールを二度往復。
2011 4・22 115
* ゴールデンウイークの実感からは千里も遠のいてきた。むろん昔は嬉しかった。いま、サラリーマンや家族たち、無条件に永い会社の休みが嬉しいのか、有り難いのか。それも分からないほど世離れて過ごしているということか。
* わたしはもう生涯車の運転とは縁がない。車にはお金を払って乗ればいいと思っており、運転の楽しみは思い捨ててしまっている、不器用に怪我をしてはツマラヌと。
観劇と読書と、そして仕事。それで足りている。飲食も、なぜか日ごとにホンモノで無くなりつつあり、よほど美味くないかぎり感激は減っている。人に逢うことも無くなっている、むしろ無くしている。「外へ外へ人間」でなく、「内向きに」目の底の闇に沈透いていくのがいい。闇にほおっと光がさし染めますようにと。
それでも五月は四回も芝居が観られる。歌舞伎が三回、息子の公演が一回。それらを縫うように「 湖(うみ)の本」 上下巻の刊行へ着々足を運びたい。
2011 4・27 115
* 三月十一日だった激甚災害から、気が付けばもう四月が過ぎて五月のゴールデン・ウイークが目前。もうそんな、と思う。
* 今日は、暑いとさえ感じている。世間もおやすみ、わたしたちも穏やかに休もうか。
2011 4・28 115
* 妻の心臓手術は的確に成功したとみえて、体力をよほど回復ぎみに自覚しているらしい。有り難いことだ。
2011 4・30 115
* 永い休みの満喫も、御苦労さんである。
それでも勤めていた頃のわたしには、汽車の切符などに黒牛ながら帰って行く「京都」が、光り輝いていた。おさない朝日子を諸方へ連れ歩いたり、妻と歩いては食べて。親孝行もして。半世紀が流れた。
この連休のわれわれの楽しみは、「こどもの日」の、高麗屋・播磨屋一門で演じる「敵討天下茶屋聚」三幕八場の復活通し狂言。夜は「籠釣瓶」だが遠慮して、はねたあとの買い物や食事を妻と楽しむ。それまで、そのあとは、家でのんびり、しかし気も入れて「仕事」する。
2011 4・30 115
幕間に、妻も一緒に幸四郎夫人とくつろいで話し込んできた。いつ話しても気持ちのいい人。
* はねて三時半。タクシーで、勝鬨橋を越え、黎明橋を越えて、晴海大橋の手前で降り、長い長い橋を二人で歩いて渡った。寒風でもたいへん、照りつけられてもたいへんな大橋が、曇天にたすけられて展望たやすく、珍らかな景色を楽しんだ。
橋の上から「ゆりかもめ」電車の往来が見えていて、妻が「乗りたい」というので橋を渡ったところから駅にあがり、台場など経由で新橋駅までの電車に乗り込んだ。駅の名前もたくさんそれぞれに耳にしてきた、が、車窓の景色はなにもかも珍しくて、幼稚園っ子の遠足なみに楽しんだ。ほどよい時間をかけて十余りもの駅をじつにグルグルと回旋しながら徐々に終点の新橋駅へ。
妻はこのままもういちど逆行して終点新豊洲まで行き、さらにまた新橋へ戻ってきましょうなどと言い出すのを勘弁して貰って、空腹をイヤしに銀座松屋へ戻り、気に入りの天麩羅「つな八」で、妻は刺身や食事付きの「磯波」を、わたしは天麩羅十二品の「雅」を註文。わたしの酒は八海山、妻は先刻高麗屋の女房どのに奨められていた、ノンアルコールのビール「フリー」を一本。
食事、 堪能した。
幸い銀座一丁目から有楽町線に坐れて一直線に保谷駅まで。妻は眠り、わたしはずうっと責了のゲラを読み進んでいた。
* 帰宅して七時半を少し過ぎた程度。疲れもせず、われわれも連休の一日を遊んで来れた。黒いマゴが大喜びで出迎えてくれた。
静岡の読者の鳥井きよみさんから、三十年ちかく毎年の新茶を留守中に戴いていた。忝ない。
2011 5・5 116
* 秦建日子が、今月下旬に前進座劇場で秦組公演の『らん』をノベライズし、小説本にした。
「らん」は初演の時、まだ作として煮え切ってはいなかったものの、内容に強い意欲が見え、入念に仕上げれば『タクラマカン』などと繋がる秦舞台の代表作の一つになるだろうと、称讃し励ましておいた。あれから二年ほど経つか、新しい劇場をつかって満を持しての公演らしく、期待している。
しかし、書いた脚本を右から左へ次々「ノベライズ」して売るという作家精神は、衰弱しているのではないか。それも自律し自立した文藝作たる佳い表現と緊張とをはらんでいればとにかく、開巻早々から「ひんやりと冷たい感触を感じる」だの、胸板を袈裟懸けに斬られ」だの読まされると、恥ずかしい。「ひんやり」は「冷たい」のであり、「感触」はすでに「感じ」ている。「袈裟懸け」の要所は「肩」であり、「胸板」ではない。「満天の星」なら分かるが、「満天の星空」も不用意な天と空とのダヴリ。「いったい」「ながら」「すると」「いや」「さらに」など、不要なことばで不要に軽薄な調子をとっている。屍が「折り重なる」ように「転がって」という表現も、切れ味わるく、見た目がちがう。
そもそも書き出しの、改行沢山なたったの八行分に、もうこんなありさまでは、この本は、ただのシノプシス=粗筋本でしかないと謂われてしまうだろう。小説の読者をナメては困る。ここには高次の編集( 者) 機能がまるで働いていない気がする。
気になる一つに、奥付に「執筆協力」として、作者経営の事務所の女性の名が、二人掲げてある。如何なる協力か。わたしは久しい読書体験の中で、こういうスペシャル・サンクスが「小説」本の奥付に掲げられた例を知らない。万一にも下書きをさせたという意味なら、とんでもないことだし、かりにそうであったにしても推敲責任は作者本人にある。
2011 5・10 116
* 建日子のノベライズ『らん』が気になり、中程や後ろの方を拾い見ると、さほどひどくなくてホッとしている。この相当にシュールな物語は、そういう造りのゆえに思い切った内容を盛りやすく、むしろわたし好みの題材と展開になっている。熾烈な闘いであり叛逆でさえあり、また手痛い挫折でもある厳しい物語世界がシンボリックに描かれているだろうと想っている。むしろ「原作の戯曲」として読みたかった。戯曲は出版してくれないし読者も少ないという思惑もあろうけれど。それならなおのこと、戯曲作家としての誇りと自負とで、戯曲の伝統を大きく起こそうという意気があってもいい。出版してくれないなら、出来ることだ、自力で本にすればいいではないか。
2011 5・11 116
* 手洗いに、新しい花がはいり、心地よい。花が美しくて、そしてカレンダーの写真が気に入っていると、雪隠はわが家で一番の気に入りとさえ。
花の名前、一色は小菊っぽい白いノースボール、もう一つ色花の名前が思い出せない。えーと、えーと。さよう、君子蘭。ごつい葉は省いてあかい花だけを三つ。落ちた花を愍れんで妻がうまく活かしている。
* このごろ、もう一つ大のお気に入りで精神衛生をよくしてくれるのは、初場所で買ってきた、柝( き。読みは、タク) で。場所によると近隣に鳴り響くので、階段の中程に隠れて打つ。いい音色で小気味よく打てるととてもスッキリします。
2011 5・11 116
* 黒いマゴが、季節というのか、外へ出るとよその猫と喧嘩し、血の出るほど怪我もして来る。獣医に連れて行き、少しく手当を頼んだ。ま、毎年のことだ、が、加齢してくると、怪我が大事になることは、祖母の「ネコ」も叔母の「ノコ」も同じだった。それでもこの薫風の五月だ、いい空気をせいぜい呼吸させてやりたい。
2011 5・13 116
* 今日は、吉祥寺の前進座劇場へ建日子の秦組公演「らん」の再演を観に出かける。この劇場は、むかし、朝日子が盲腸炎で「二度」も手術を受けた病院のすぐ近所。あの時は暑い真夏、毎日のように自転車で保谷から見舞いに行ってやった。何人もの大きな病室の隅で、わたしは急ぎの書き仕事ももって行き、ベッドサイドや、また近所の昼飯を兼ねての喫茶店などでせっせと原稿を書いていた。編集者が病院まで来てくれたこともあった。自転車で疾走しても保谷からは遠かった。今となっては、ほろ苦い苦い思い出だ。 建日子が自動車にはねられたときも、関町二丁目の病院へわたしは自転車で日参した。朝日子の時は病院の手術ミスで腸捻転再手術となり、建日子の時は、高熱に外科病院では処置しきれず、日大小児科から救出に来てくれて転院し、事なきを得られた。あれも苦い思い出だ。
姉は高校生だったろうか。弟は小学校。遠いはるかな思い出だ。
* その弟が、「秦組」を率いて公演活動をもう十数年続けている。「らん」は小説本にもなっている。親達はすっかり年をとったが、苦心の「 湖(うみ)の本」 第107巻が、早ければ今日にも読者の手もとへ届き始めるだろう。
* 吉祥寺前進座劇場での秦建日子作・演出「らん」公演は、満員盛況の中で、かつてないほどの完成度で美事な舞台をくりひろげた、褒美の思いを加算すればかつてない「満点」の、大人の観劇にたえる仕上がった良い舞台だった。
我々夫婦の、東京での観劇体験は、ひょっとして数百回を優に越していようし、記憶も遠くなったのも沢山混じるが、今日の舞台は、実感において十の指を屈する中に入るほどの「傑作」になったとわたしは評価する。これまでは何としてもどこかムリして仕上げていた建日子の舞台だったが、すべて吹っ切れて、大人の観客の批評に堪え、舞台が舞台の独自の顔つきで破綻無く堂々と出来上がっていた、安心して見ていられたし感動した。中程で十五分の休みが入るが、その前場の終わるときに万雷というも大げさでない共感の大拍手が実に自然と出ていた。まず、そんな例は滅多なことで有るものでない。
舞台の上には誰一人も有名な俳優などいない、が、討入りの人数よりも多そうに若い肉体が舞台も花道も縦横に駆けめぐり、ハッスルして懸命に演劇を実現していた。
一言で言えば「叛逆」の劇画が、そのまま大音響のリズムを活かして、三枚腰の世界、王の世界、百姓の世界、地を這う者達の世界が血みどろの葛藤を実現しながら、ピュアな二つの「愛の劇」を成就していた。間違いなく秦建日子の最良の代表作に到達していた。わたしは、依怙も贔屓もなく高く評価して、恥じない。そしていささか鼻をうごめかすなら、一昨年の俳優座劇場の初演ではまだ煮え切らない舞台のママ、それでも、この脚本は、丁寧に推敲して再演すれば、必ず秦建日子の最高作として成功するだろうから、ぜひ実現するようにと作者を励ましておいた、その通りになったのである。
真っ先に拍手してきた。
建日子と握手して、「満点」と祝福してきた。
* 前進座劇場にほど近い井の頭通りの暖簾店で、上機嫌で鰹と鰺のすかっとした刺身盛り合わせ、白焼きのあなごで、片口に二合の石川県の菊酒の最上のを楽しみ、仕上げにうまい汁蕎麦を食べてきた。店を出ると降り出した雨、すぐタクシーを拾って家まで帰ってきた。幸いに朝に仕上げておいた発送の荷を宅急便が取りに来てくれた。
* 芝居ではもっと云いたいことがあるが、今日はやめておく。劇場は何百杯もの献花に溢れていた。篠原涼子、天海祐希、仲間由紀恵らの名も見えていた。河出書房の社長のもあった。「らん」は初演が俳優座劇場、満を持しての再演が前進座劇場と場所にも恵まれた。
亡くなった建日子姪のやす香にみせてやりたかった。建日子もやす香を念頭に書いていたと想われるのを否定しないだろう。姉の朝日子にも虚心に観てもらいたかった。もう一人の姪のみゆ希にもぜひぜひ見せてやりたかった、みゆ希にもこの叔父の舞台に立たせてやれたならと思う。彼女は姉のやす香以上に舞台で駆け回って発散したい方なのだから。
2011 5・26 116
* 今日は、吉祥寺の前進座劇場へ建日子の秦組公演「らん」の再演を観に出かける。この劇場は、むかし、朝日子が盲腸炎で「二度」も手術を受けた病院のすぐ近所。あの時は暑い真夏、毎日のように自転車で保谷から見舞いに行ってやった。何人もの大きな病室の隅で、わたしは急ぎの書き仕事ももって行き、ベッドサイドや、また近所の昼飯を兼ねての喫茶店などでせっせと原稿を書いていた。編集者が病院まで来てくれたこともあった。自転車で疾走しても保谷からは遠かった。今となっては、ほろ苦い苦い思い出だ。 建日子が自動車にはねられたときも、関町二丁目の病院へわたしは自転車で日参した。朝日子の時は病院の手術ミスで腸捻転再手術となり、建日子の時は、高熱に外科病院では処置しきれず、日大小児科から救出に来てくれて転院し、事なきを得られた。あれも苦い思い出だ。
姉は高校生だったろうか。弟は小学校。遠いはるかな思い出だ。
* その弟が、「秦組」を率いて公演活動をもう十数年続けている。「らん」は小説本にもなっている。親達はすっかり年をとったが、苦心の「 湖(うみ)の本」 第107巻が、早ければ今日にも読者の手もとへ届き始めるだろう。
* 吉祥寺前進座劇場での秦建日子作・演出「らん」公演は、満員盛況の中で、かつてないほどの完成度で美事な舞台をくりひろげた、褒美の思いを加算すればかつてない「満点」の、大人の観劇にたえる仕上がった良い舞台だった。
我々夫婦の、東京での観劇体験は、ひょっとして数百回を優に越していようし、記憶も遠くなったのも沢山混じるが、今日の舞台は、実感において十の指を屈する中に入るほどの「傑作」になったとわたしは評価する。これまでは何としてもどこかムリして仕上げていた建日子の舞台だったが、すべて吹っ切れて、大人の観客の批評に堪え、舞台が舞台の独自の顔つきで破綻無く堂々と出来上がっていた、安心して見ていられたし感動した。中程で十五分の休みが入るが、その前場の終わるときに万雷というも大げさでない共感の大拍手が実に自然と出ていた。まず、そんな例は滅多なことで有るものでない。
舞台の上には誰一人も有名な俳優などいない、が、討入りの人数よりも多そうに若い肉体が舞台も花道も縦横に駆けめぐり、ハッスルして懸命に演劇を実現していた。
一言で言えば「叛逆」の劇画が、そのまま大音響のリズムを活かして、三枚腰の世界、王の世界、百姓の世界、地を這う者達の世界が血みどろの葛藤を実現しながら、ピュアな二つの「愛の劇」を成就していた。間違いなく秦建日子の最良の代表作に到達していた。わたしは、依怙も贔屓もなく高く評価して、恥じない。そしていささか鼻をうごめかすなら、一昨年の俳優座劇場の初演ではまだ煮え切らない舞台のママ、それでも、この脚本は、丁寧に推敲して再演すれば、必ず秦建日子の最高作として成功するだろうから、ぜひ実現するようにと作者を励ましておいた、その通りになったのである。
真っ先に拍手してきた。
建日子と握手して、「満点」と祝福してきた。
* 前進座劇場にほど近い井の頭通りの暖簾店で、上機嫌で鰹と鰺のすかっとした刺身盛り合わせ、白焼きのあなごで、片口に二合の石川県の菊酒の最上のを楽しみ、仕上げにうまい汁蕎麦を食べてきた。店を出ると降り出した雨、すぐタクシーを拾って家まで帰ってきた。幸いに朝に仕上げておいた発送の荷を宅急便が取りに来てくれた。
* 芝居ではもっと云いたいことがあるが、今日はやめておく。劇場は何百杯もの献花に溢れていた。篠原涼子、天海祐希、仲間由紀恵らの名も見えていた。河出書房の社長のもあった。「らん」は初演が俳優座劇場、満を持しての再演が前進座劇場と場所にも恵まれた。
亡くなった建日子姪のやす香にみせてやりたかった。建日子もやす香を念頭に書いていたと想われるのを否定しないだろう。姉の朝日子にも虚心に観てもらいたかった。もう一人の姪のみゆ希にもぜひぜひ見せてやりたかった、みゆ希にもこの叔父の舞台に立たせてやれたならと思う。彼女は姉のやす香以上に舞台で駆け回って発散したい方なのだから。
2011 5・26 116
☆ 「らん」折り返し。 秦建日子のブログから
秦組4「らん」。
順調に公演を積み重ね、昨日、無事に、折り返し。
ここまで、ほぼ満員御礼。
信じられない思いです。
吉祥寺(前進座劇場)でやると決めたとき、19時開演の平日は、集客は難しいだろうと思っていました。
稽古の途中で、
「休憩を入れて、3時間近い作品にしよう」と決断したときには、(吉祥寺で終演22時じゃ、ますますお客さんは来てくれないかも)と、正直、覚悟を決めていました。
それが、初日のマチネ・ソワレ直後からどんどんと口コミで予約が伸び、平日も―――それも、ソワレだけでなくマチネまで―――すべて満席に近い状態だなんて、本当に感無量です。
毎日、劇場の最後列から「らん」を見ながら、この作品をこんなに大勢のお客様と一緒に分かち合えている幸せを、いつも噛みしめています。
ご来場くださったすべてのお客様に感謝します。本当にありがとうございます。
そして、制作部のみんな。
キャストのみんな。
スタッフの皆さん。
感謝します。
ありがとう。
実は、今日あたりから、
演出家モードと平行して、一観客としても少しずつ芝居を楽しみ始めました。
「月影」に選ばれたわけでもないのに、それでも彼女のために体を張る「一影、二影、四影」の献身や、
最後、出刃包丁と竹槍で大殿様に突っ込む村女ふたりの裂帛の気合いとか、
「あー。このシーンを入れたくて再演したんだよな」などと思いつつ、彼らにすごく感情移入して観てました。
名もなき者たちの―――劇中、彼らは一度も名前は呼ばれない―――それでも爆発させずにはいられない「意地」みたいなものが好きなんですよね。
さ。
後半戦、気持ちを新たに頑張ります。
残り4公演、どうぞよろしくお願いいたします☆
* この成功は、初演のまだ生煮えのときからわたしは信頼していた。なぜか。
この「 叛逆」の劇は、必ずや人の胸を打つと。わたしの胸をバグワンが烈しく永く途絶えなく打つように。信頼に秦建日子は応えてくれた。徹底的な推敲の創意が爆発した。また若い劇団員や参加してくれた俳優たちが懸命に爆発していた。「劇」が実現していた。最も佳い意味で舞台は「劇」画を実現していた。難解のナの字も感じさせなかったのは此の作者としては大進境と言える。
2011 5・27 116
☆ 「らん」、無事、終わりました。 2011.05.29 Sunday 秦建日子
あいにくの台風日和でしたが、
「嵐」もまた「らん」ということで、
思い出に残る一日になりました。
14:05 にスタート。
休憩を挟んで3時間。
ダブル・コールの後、更に強くお客さんの拍手をいただき、
最後はスタンディング・オベーションの中、秦組4 「らん」 は幕を下ろすことが出来ました。
観に来ていただいた皆さん、本当にありがとうございました。
今、スタッフ& 村人・羅刹が、舞台セットのバラシを始めています。ぼくは、そのてのことは、実に役立たずなので、楽屋でブログを書いております。
思い返せば、
初演はいろいろとあり、
再演を決めたときにもいろいろあり、
稽古期間中も、本番中も、それはもういろんなことがあり、
なぜここまでして芝居を作っているのかわからなくなる程度のことは、しょっちゅうありましたが、
最終的に出来上がった芝居がよければいいんですよね。
途中経過はすべて些事。
今、千秋楽を終えて、その極めて個人的な目標だけは、達成できたかなと思っています。
あと、ぼくに残された仕事は、
撤収機材の積込み。
乾杯の音頭。
大入り袋をキャスト・スタッフにお渡しすること。
そして、機材運搬車を運転すること。
こんなものかな。
すべて終わってひとりになったら、
キャスト・スタッフ・そしてお客様に感謝しつつ、
一杯飲みたいと思います。
* 千秋楽 おめでとう、建日子。
この息子の述懐の、なかでも特にだいじな、これまでは聞いたこともなかった発語は、
「人生最後の舞台になっても悔いはない。そうきちんと思える作品を、今回はなんとしてもやるのだと思っていました。」 創作の「仕事」とは、こうなくてはならぬものと、父は教えたわけでないが見せもし聞かせもしてきた。彼自身の言葉でこう書かれているのを何よりも嬉しく思っている。
2011 5・30 116
* 隣の棟へ何度も入っていながら階下で用を足してばかりで、二階のわたしの書斎へは足を向けていなかったのが、今日入ってみて驚いた。本棚は倒れ、机上のテレビは転落し、仏壇の扉があいて、幸い位牌は落ちていないが、いくらか仏器が絨毯へ散乱していた。書庫の本も、転落は免れていたが、みな、ずいぶん棚からせり出していた。地震は「響いて」いた。
2011 6・1 117
* 千葉と川崎との e-OLD に、堀切の菖蒲園にどうですかと急に誘ってみたが、わたし自身の迂闊で十日の予定を忘れていて、また余日はお二人の都合に合わず、惜しくも断念した。たとえ小雨でも菖蒲にはいいと思ったが。菖蒲あきらめた。また機会があるだろうが梅雨が明けると暑くなるだろう。
五年前に、歯医者のあと思い立ってその足で妻と堀切まで行き、菖蒲を堪能し、そのあと駅近くで歯医者さんお奨めの中華料理を堪能し、思い切ってはじめて柴又まで足を伸ばしたのだった。楽しかった。六月五日。まだ、やす香の白血病告知を受けていない、今思えば平安で幸せなおじいやんとまみいであったのだ。
つらいことを思い出してしまった。
2011 6・7 117
☆ 父の日 お変わりありませんか? 建日子
今、ちょっとバタバタしていますが、来週か再来週くらいには、一度また、保谷に顔出します。
2011 6・20 117
* わたしは愉快なことばかりに取り囲まれているわけでなく、無心とは程遠い重苦しい思いも、さりとて投げ出しもせず地道に付き合わねばならない。
今日は、このところ引き続いた力仕事どもの骨休めにもと、雨のないを幸い町へ出てきたが、何となく気落ちしたまま、池袋の書店で買い込んだ網野善彦の増補『無縁・公界・樂』と波平恵美子の『ケガレ』を文庫本で読みながら、時には自分の本の下巻も拾い読みながら山手線をぐるぐる走り、上野駅構内のやけにきれいになった店店をみてまわったり、蕎麦屋で、ろくに食べずに八海山を二合も呑んだりして帰ってきた。
2011 6・21 117
* 機械仕事の部屋のクーラーが破損、週末には修理の部品が電氣屋に入るかどうかと。この劇暑では気が遠くなる。妻は休暇だと思って遊びに出て来なさいと言うが。息子の買ってくれた小さい軽い新鋭機を持って出るという手はあるのだが。
こうしていても、晩の九時過ぎ、汗が全身を流れる。もう、だめ。
2011 6・23 117
* 最近のことだが留守に電話があり、わたしの原稿の中に、「不都合」「さしさわり」「不服」「異議申し立て」等の意味で、「そういう不満は何もない」ことを「何の故障もない」と書いていたのを、「故障」とは、機械の不具合や破損を謂う言葉だから可笑しいのでないか、一存で「支障がない」と改めましたと。
妻が電話口で聞いて、どうぞと承諾しておいた。
こだわりはしないが「故障」は機械の破損を謂う意味に限るとは、その人のハヤトチリまたは不勉強であり、機械のない時代の古典にも「故障を申し立てる」式の用例はいくらでもあり、今の辞書でも、「機械の不調・破損」の意味はいっとうお尻に並べてある。「故障」は「支障」より含みと表現力のある語彙で、辞書でも「支障」は「故障のこと、さしさわり」とあるだけ。ちょっと「故障を申し立てて」おく、此処だけの話。
2011 6・24 117
* 黒いマゴにちと足の指を噛まれ、起きて外へ出してやった。五時半。外へ出るまでもなく明るく晴れていて。静かで。マゴもゆっくりゆったり朝の空気を呼吸するていで、そぞろ歩いて姿を隠した。
2011 6・25 117
* 『バグワンと私』を読んで下さったなかに、著しい一つの{読み過ぎ}がある。
わたしが、孫・やす香の酷い死に耐えかねてバグワンに縋った、少なくも向きあったと察している人たち。
ご親切ではあるが、これは全然違っている。
バグワンの境地に心惹かれて継続的に接し始めたのは、はっきり書いているように一九九七年、平成九年であり、その当時はまだやす香とわれわれ祖父母とは親交を取り戻せていなかった。全く没交渉のなかにあったし、やす香の両親と祖父母や叔父たちとの間には、不幸な没交渉という以外のなにごともまだ起きていなかった。
そしてその翌年三月下旬からわたしは、初めて機械環境の中に、ホームページ『作家・秦恒平の文学と生活』を起こし、その中で「作家・秦恒平の生活と意見」と題した「日乗」も書き起こした。ごく間もなく日付も確実、四月一日には、早くも「バグワンと私」の第一声を書き込んでいる。
やす香が大勢の声に危ぶまれた末にやっと入院し、当初白血病という診断違いが悪性の肉腫と改まったのが、二◯◯六年、平成十八年七夕の日であり、あつという間の同じ七月二十七日、逝去。
しかし、そういう歎きとは事実上無関係に「バグワンと私」の日々の思いは、遙かに早い時点からたどたどしくとも年々絶え間なく進んでいた。
今度の上下巻が、やす香の死と、またその後の醜い親族間の葛藤の起きた年の末で一応結ばれてあるのは、なによりも、上巻180頁、下巻も180頁でおさめたい編輯上の必然を践んだまでのこと。
やす香のための切なる「挽歌」なら、「孫娘の死を書いて実の娘に訴えられた太宰賞作家」という売りで週刊新潮が囃し立てた、『かくのごどき、死』(「 湖(うみ)の本エッセイ39」 )に尽きていて、それならばどなたでも、いつでも自由に読んで頂ける。
『バグワンと私』上下巻は、単純にいえば、秦恒平が秦恒平を書いたのである。ウソは少しも書いていない私小説ふうの、やはり「日記」に他ならない。「日記」と称して、後年に記憶を辿ってざっと造られた作は古典にも幾つもあるが、わたしのこの日記は、「日乗」本来の手順で、日一日を追って十数年來継続して書かれている。今も機械の中に保存され紛れもない事実である。
やす香の死に絡めてこれを読もうとされた人達は、年々日々の「日記」を小説かのように善意から読み替えられたということである。読者の自由であるが、事実を逸れている意味は小さくない。 2011 6・27 117
* 近藤富枝さんの文庫本『紫式部の恋』は、かるがると読めるためについ何でもなく読んで終わりそうな本だが、内容は容易ならぬ重みと確かさを備えている。近藤さんは、わたしより一まわり以上も高齢だがお元気で、親切な方である。旺盛な筆者で多彩な趣味を活かして楽しんでこられた。研究者でも学者でもシチ難しい批評家でもない、はなはだ「力のある読者」の尤たる大きな存在と認めるのが適切だろう、その近藤さんのこの本は代表作の一つになろう。わたしは楽しみ楽しみ少しずつ読んできてもう四分の一ほどのこしているが、急いで読み上げるのをむしろ避けて楽しんでいる。いま原典は「少女」の巻を終えようとし、栄花は後一条の東宮に誰が立つかという辺を読んでいる。現実には原発だの菅おろしだの、また明日は判決だのと醜い限りを堪えてすごしながら、読書世界はじつに豊かに悠揚として迫らない。
そして「 e-文藝館= 湖(umi)」には、あの「常にもがもな常乙女にて」と叫ぶような吹 刀自の和歌を説く論攷を読みながら招待席におさめようとしている。
* もうよほど昔のはなしになるが、こんな意味の批評をメールで受けたことがある。
秦さんは、深い愛情なり友情なりを示して来る相手よりも、ごく平凡に情の薄い人間のほうを気安く受け入れるタチではないですかと。ほんとうに愛してくれる相手を深いところで拒むところがないかと。自身の聖域に立ち入らせないということか、幼くして両親と別れたので、人に愛されることに馴れていないのではないかと見えると。愛されることをどこか恐れているみたいだと。
親が自分を愛するのは当然だと信じきっている人のほうが、愛するのも愛されるのも自由にできるが、秦さんには愛されると云うことに言い難い戸惑いがあるようだ、と。愛は深刻で、心乱されるから、迷惑にもなり、傷つくから、ある一定以上の親しさになると重たい人間は遠ざけてしまいたいと。そんな無意識のガードが秦さんにはあるのではないか、と。口先だけでいいので、軽ぅい愛の言葉や行動で近づかれる方をいっそ安気に迎えているのではないかと。いずれそんな人達は、「人同ジカラズ」で枯れ葉のように行ってしまうのに、その方がありがたいと秦さんは思っているみたいだ。自分から愛することはいくらでも出来る人なのに、なぜ深く愛されるのは苦手なのかと。
* 答えなかった。もうバグワンとは出逢っていた。
2011 6・29 117
* 平成十八年( 2006) 八月早々からもちあがった、実の娘夫妻がわたしを「被告」席に据えた裁判沙汰に、明日、何かしらのコンマが打たれる。文字通り言語に絶した酷くて醜いだけの五年であったが、被告のわたしからは回避の道が全くなかった。
おそらく、明日で結着するなどと甘い考えでは済まない、そうであるかどうであるかわたしには分からない。これも仮想現実であるからは、原告にも被告にも無意味な悪夢に類しているとだけが言える。
奈良時代の一人の坊さんがうたっている。
白珠は人に知らえず 知らえずともよし
知らずとも吾し知れらば 知らずともよし 奈良元興寺僧
わたしも、今少し露骨に歌う。
憐れともいふべき程は誰がうへと
よしなしごとをわらひ棄てつる 遠
2011 6・29 117
* 「判決について」牧野法律事務所から、判決について簡単な通知が届いている。追って本文120頁、目録361頁もの厖大な量の書類が届くというから、詳細はそれを見るしかないのだろうが、もはや興味もない。わたしの家族は、見る限りの通知をどう読んでいるか知らないが、わたしは、今のところさしたる感慨も憤激もない。ただ冷やか。わたしの人間に対し、文学生活に対し、かすり傷も与えないからである。
孫の死を書いて実の娘や婿に訴えられ、金銭支払いやあまっさえ謝罪等の負担をどう与えられようと、わたしたちの孫やす香への愛には微塵の翳もなく、また「わたし」の内面とも文学の果実とも何の関係もないどころか、読者や知友にすべて判断は委ねられてある。神・人ともに赦すまい「アモラルな恥ずかしい批判」を、広い世界や所属する社会から陰に陽に蒙り続けるのは、わたしではない。
* あすは、久しぶりに聖路加の定期診察。
2011 6・30 117
* 地下鉄の中で、「バグワン」下巻の114頁から四、五頁の「和尚」に聴きながら、涙で目尻を濡らしていた。あーあ、心のまるで下僕になって…、みんな、バカげている。
思わず身内を熱くするのは、こんなふうにバグワンに頼みつつ自身に鞭打っていたのは、わたしが「 mixi」 に加入するより一ヶ月半も以前の正月二日だった。この日の日記には「つづき」があった。こうだ。
* ( 2006) 正月二日 つづき
* 建日子と二日の雑煮を祝う。今日も年賀状が来ていた。
* 雨をおして、若い人達が年賀に訪れ、建日子も入って、歓談のうちに、妻が念入りの二十種ほどの正月料理をおいしく食べた。会津のとびきりの清酒、またフランスワイン。談は八方に飛んでは飛んでは、若々しい声が弾んだのはなによりであった。
* 建日子の車にわたしも妻も同乗して、若い来客二人を住まいの近くまで送っていったドライブが、また一つの楽しい賑わいであった。帰りは親子三人のドライヴになり、面白い正月二日になった。
* ああ、夢だ…。「若い人達」とは、孫のやす香とみゆ希のことだ、どんなにその通りに書いて、心ゆくまで孫達との正月を祝い喜びたかったか知れないのに、孫二人は両親に秘して祖父母との正月を楽しみに来ていたのだ、どんなに賑やかに楽しかったろう。だが、そのように日録に書けなかった。書いてはならなかった。
もうあの日、やす香は全身にけだるさも痛みも感じていた。それも察してやれなかった。
建日子の車で町田まで送っていったあの五人だけの、あの歌声が聞こえてくる今も耳に、ああ、夢だ…。わたしはバグワンに毎日毎夜叱られっぱなしだったなあ……。
2011 7・1 118
* ひとつのケリをつけて、「仕事」へまた近づいたが、なんと、終日どころか今午前二時、やすみなく体力視力を酷使していた。疲れた、が、戴いたお酒や菓子で、あいを繋いで、他のなにも出来なかったが、すべきを、した。ひたすら。まだまだ。
シャンとした姿勢のために、上に出しておいた唐木先生の文章を、ここに収めて、寝に行こう。
2011 7・4 118
* さ、今日も疲労の極まで歩むだろう。それ自身において寛ぐのである、「雑行の無心」を吸い込むのである。
2011 7・5 118
* 妻と、遅い晩飯を近所のフランス田舎料理の旨い店でした。赤いワインで。今日は妻の手までたくさん借りた。
帰ってからまた根をつめた。もう十一時、限界だ。ずうっとJazピアノを背中で聴いていた。励まされるように。
* 想えば五年前の今日はあのやす香には堪えがたい悲しい苦しい告知を受けた日だった、肉腫。なんと可哀想な。可愛い笑顔がすぐ間近にある。やす香はそこでおじいやんの熱中も癇癪も無頼も居眠りもいつもいつも観ていてくれる。見守っていてくれる。
2011 7・7 118
* 実はいま気が付いた、制作に当たった井筒君にたいへんわるかった。見て欲しい、深夜なので録画してと頼まれていた番組を、
すっかり失念していた。言い訳をすれば、裁判の判決がでる二三日まえのことであって、ごく自然にそれに意識を囚われていた。三十日に判決があり、厖大な判決書が届いたのが一日だったか二日だつたか、一日は病院へ行ったので、事実上、二日以降は判決書を仔細に読みながら、また再開している「仕事」にも没頭し、また弁護士とも打合せ打合せながら、ま、忙殺されている日々がつづいて、たった今、あっと思い出し、日を調べて頭をかかえた。井筒君、堪忍して下さい。再放映の日かこの先に決まっていれば教えて下さい。 2011 7・8 118
* さ、まだ、朝九時。今日も、いろいろ、する。この現代にまみれながら、「雑行(ぞうぎょう)」にめげず静安に。そうありたい。
* 芯のくたびれる仕事をしてきた。缶ビールに負けて、機械の前で小半時も居眠りもした。妻は隣室でピアノを鳴らしている。湯につかって来ようか。梅雨はあけたらしい。
2011 7・9 118
* 三日繰り返して同じ思いを此処に、書き留めておく。妻は真っ先に読み、真っ先に真実同感してくれた。夫婦といえども、そんなことは珍しい。
*
* 「神」は、人間の「必要」なのである。人間「に」必要なのでなく、もっと根底から謂って、人間「の」必要なのだ。植物や動物と異なり人間は「分別し・思考する」そして「迷惑し・惑乱もする」つまり「マインド」する以上、自身に向かいさまざまに「説明・納得」を求める。「神」は、かかる「マインド」を支える「必要」に他ならない。「必要」の度が強まれば「信仰・帰依」に至る、宗教への道に至る。それだけのことだ。
* 「ブッダ」は、人間の「到達・達成」なのである。釈迦も達磨も一休もバグワンも、イエスでさえ、明らかに「ブッダ」である。ほんとうに生き且つ死のうと、静かに深い安心を得たいと思う人は「ブッディスト」であり、 安心・無心を得ている人が「ブッダ」である。少数かも知れないがそういう「ブッディスト」は、深い願いと境地とから「ブッダ」への道を求め歩んでいる。
わたしも、そうであろうとしてきたようだ、この十四年。叶わぬまでも。
* その意味で謂うと、日本で成熟し構想され経営されてきた「仏教」つまり「仏」は、むしろ先に謂う「神」に同じい。人間の「マインドの必要」に応えて不安を救済しようと、マインド人間のマインドが、壮大に「創作」した巨大な「仮想世界」へ縋ってくる人間たちを信徒として送り込んでいる。その「必要」をわたしは否定も否認もしないが、「仮想世界」は「仮想世界」であり、それが仏教以外の「カソリック」など多くの世界宗教にもほぼ均しく謂える。「神・仏」なる人間の「必要」のための殿堂を、教権という強権すら発動して大集団で「神の國・佛の國」と名付けて建築し続けてきたのである。
* 人間のなかには、静かに安心なら、生きるにも死ぬにも困らないという、マインド(分別思考迷惑等の煩悩)の拘束からじつに自由な人達がいたし、いまも、存外身の回りにも大勢いるだろう。「ブッダ」はそうした人から到達し達成されている。彼らは「仮想世界」のウソから目覚めていて、「神・仏」をなんら必要とも不必要ともしない。「覚めた人間=覚者=ブッダ」 彼ないし彼らは、仏教とかカソリックとか組織された教権集団のマジックとは無縁の人間存在、たぶん実存と謂うて自然な存在である。
* 以上を、ともあれ、むろん至らぬわたしの、「闇に言い置く 眞の私語」とする。すなわち「バグワンと私 死の間近で」に他ならない。
2011 7・10 118
* 亡くなった孫・やす香の厖大な量の「 mixi」 日記を、あの白血病告知のあったあの日に、散佚させてはならないと、悲しみを打ち消すためにも懸命に懸命に「 mixi」 からかべて、コメントもともに全原文のまま記録し収蔵した。たいへんな量である。孫と祖父とはマイミクだったし、お互いに残りなく日記は読み合えたけれど、やす香やみゆ希が祖父母と仲よくしていたことは、姉妹達の親へはひみつであったから、互いに表立って書き合うことは、当然しなかった。
いま、読み返してみると、友人達のやす香の体違和や苦痛の烈しさに対する心配ぶりは、いへんなものだ。胸が痛み、涙が溢れる。
* とてもとても疲労した一日だったけれど、いいメールにも見舞われて嬉しかった。晴れやかな気持ちだ。
2011 7・10 118
* さて、平成十八年八月以来巻き込まれてきた「裁判沙汰」に、さきの六月三十日、「判決」が下された。
昨七月十四日二十四時が「控訴」期限であったが、わたし自身は、七月一日、判決文を受け取ってすぐ、七月三日の内に、「控訴しない」と決していた。原告側が控訴する・しないかは、週明け十九、 二十日ころまでは確実には判らないと、昨日午後、弁護士事務所から連絡があった。その時はまだ、原告の控訴如何、確認されていなかった。
なにはあれ、多年ご心配をかけ、ご支援いただいた皆様に、取りあえず。心より御礼申し上げます。
2011 7・15 118
* 来週は、一気にモノゴトが動くだろう、眼科の診察もある。先方控訴となれば、また徹底的に闘い続ける。それが無いときは、わたしの方で煩瑣な作業を強いられるのだが、もう、ほとんどすべきはし終えてある。「判決主文」に従い、解釈を拡大も縮減もせず、判決文が謂うところにのみ違わないよう、用意が出来ている。期日期限の類は全く示されていない。暫くぶり、「夏の暑さにも負けず、」照ろうが降ろうがお構いなく出歩いてくる。
2011 7・15 118
* 五年に及ぶ私どもの裁判沙汰が終結したことを、読者・知友の皆様に御報告し、永くご心配・ご支援戴きましたことに、心より御礼申し上げます。 秦恒平
* 五年に及ぶ親族間の裁判沙汰に、今日、判決が「確定」した。
六月三十日に判決、「熟慮期間が二週間」で、七月十四日二十四時で双方の判断は出そろい確定するはずだった。それがたわいなく延び延びにされた。当方の代理人は、予告されていた六月三十日に判決書を受け取りに裁判所に出向いてくれた。わたしの手元には翌七月一日には届いていた。
それが今日二十日の零時まで「確定」が延びたのは、先方代理人が判決日に判決書受領に出頭せず、加えて土日休の三日がはさまり、裁判所からの書類送達に日が掛かったからだという。これは当方代理人のわたしへの説明で、実否は知らないが、つくり話はしないだろう。
わたしは惘れる。
裁判の最重要の一つは「判決」だろう。判決書「受領の正規の手続き」が決めて無いのかと。
もし判決日に受領するものと正式にルールが決まっていれば、代理人たちの勝手や連休で遅れようが、熟慮期間は判決日から二週間と、原告被告等分に決まるではないか。
万が一もし「熟慮内容」がきわめて微妙で、控訴するしないの判断が利害に深く関わる場合もあるだろう、一方の判断が先に決まり、それを知ってなお他方には数日の熟慮期間が与えられるなど、不公平は歴然としている。幸い我々の場合はさほどの問題でなく、結局双方が判決を受け入れたからいいものの、法の運用には形式的に厳格をきわめ、時代の趨勢を読めない法の不備が明らかで有る場合であっても、お構いなく形式的に出来合いの法文が運用されるというのに、こんな簡単な、而も大事なことに規則が無く、一方のルーズがただ看過されて、場合によりそれで利を得るなど、裁判を受ける当事者としても、私民感覚としても、やはり惘れると言うしかない。
* さて、いかなる「判決」か。多年、お騒がせもし励ましても戴いた方々に、わたしは、何を隠すことなく「判決主文」とそれを私がどう読んだかを、率直に、はっきり併記して、ご報告する。 六十日間「広告」せよという裁判所指示に準じて、判決とは無縁な此のサイトでも、「トップベージ」冒頭部へという要請どおりに其処へ、掲載する。
* ものすごい量の日記からの「削除」も、一応すでに済ませてある。削除といっても、平成十八年(2006)六月から十二月までの「日記」「「 mixi」 日記」中、裁判所が指定した個所に限定されている。文藝日記たる本来は少しも冒されていない。限定外の日記は原本のまま保存公開されている。限定外の日記は「原本」のまま保存・ウエブに公開されているし、電子版・「 湖(うみ)の本エッセイ39」 の『かくのごとき、死』も読んで頂ける。
* さて感慨というようなものは、無い。年老いた私だが、次、次に創作等の「仕事」が待っている。
闘いは済んだが、私の日はまだ暮れていない。戴いた奥能登の純米酒「千枚田」の口をあけ、静かに朱盃に酌む。
2011 7・20 118
* 押村婿娘夫妻の要求であり裁判所の指定である「広告」を、
http://umi-no-hon.officeblue.jp の日乗「生活と意見」トップページ、及び、 「 mixi」 の「湖さんの日記」のトップページに、昨日そして本日づけで「掲示をすでに済ませて」いる。
同じく指定された平成十八年( 2006) 六月から十二月の「生活と意見」からの記事削除個所も、上記のウエブで、悉く「削除済み」である。万一遺漏があれば押村夫妻から直接申し出てもらいたい、可及的速やかに訂正・削除する。但し裁判所指定より拡大せず縮減していない。それ以外の要請は判決において「棄却」されている。「生活と意見」第一ファイル末尾の「写真の削除」も同様、判決が実写真を目録に掲げて指定したのに、正確に従っている。それ以外は判決に含まれていない。
2011 7・22 118
☆ 帰国いたしました。
おじい様、おばあ様、 こんにちは。
先日無事帰国いたしました。
寮を出てから南仏を旅行し、就活の為1週間早くの帰国です。
今朝、おじい様おばあ様とご一緒している夢を見ました。
ブログを開いてみたら、判決が出たとありました。
5年間、長かったですね。
おじい様おばあ様は5年間ずっと、まっすぐ立っていらっしゃいました。
おじい様おばあ様は、やっぱりやす香のおじい様おばあ様です。
建日子さんは大きな力です。
お土産買ってまいりました。
粗末なものですが、お気に召していただけると嬉しいです。
お目にかかれる日を楽しみにしております。
昨日今日は涼しい気候でしたが、まだまだ暑い日は続きそうです。
おじい様おばあ様マーゴちゃん、夏バテにはご注意くださいませ。
真っ黒になって帰国した 芳
* 無事の帰国を心より祝します。
* 亡きやす香のお友達から、待ち受けていた便りがあった。
ありがとう。あなたこそ「大きな力」であって下さった。
2011 7・22 118
☆ 安堵
ご報告に胸なでおろしています。ご夫妻のその間の並大抵でなかった、ご気苦労を心よりねぎらい申し上げます。
建日子さんのご協力や支えにも何時も感心していました。
皆さまに本当の平穏な日々が訪れますように祈っています。
新しい作品に打ち込まれているとの事。完成を楽しみにお待ちしています。
6月7月と、『バグワンと私』の本を読ませていただいていました。
声がよく聴こえたり、上滑りをしたりしながらも、繰り返し読んでいます。
そして、以前のエッセイの本「中世と中世人の(二)」で、法然と親鸞を中高校生向けに書かれた物があるのを思い出し、今そちらも読ませていただいています。
改めて歴史の中の宗教をすっきりとさせていただきました。
この頃の私にはちょうど良い理解の範囲の中にあるようです。そしてバグワンの近くにいければ嬉しいのですが。
「日本史との出会い」として出版されたときに我が家の息子に戴き、その後娘、孫などが読んでおりました。
それぞれに、どのように解釈したのでしょうか。
今話し合って見たい気がします。
大暑。長い暑さが続くでしょうが、迪子様ともに、これからの日々どうぞお大事にお過ごし下さい。 晴
* 感謝します。なおなお幾変転がありえましょうが、自然に、ゆったりと迎えつ送りつしてゆきます。すべき作業の全部ちかくとうに済ませてあり、慌ただしさはもうありません。楽しみも楽しみ、しんどいことも楽しみます。
2011 7・23 118
* 七月二十四日 祇園会後祭り
* 最後に水泳してどれほどになるか。どう思い立ってか朝日子、建日子をつれて妻とも四人で千葉県館山まで海の家に一泊して泳ぎに行った。海の家は、勤めていた会社が契約し社員家族に利用させていたのなら、わたしの退社が一九七四年八月末のことだ、ちょっと昔に過ぎるか。あの時は波が荒く、わたしは二人の子の安全ばかりを懼れて安き心なく、 楽しむよりも、へとへとに疲れたのだけを覚えている。
まだ朝日子一人をつれて妻と琵琶湖の舞子辺まで大津から船で往き帰りした水泳でも、わたしは腹をひやしてサンザンだった。清滝まで家族で遊びに行ったときもわたしは腹痛で、帰路はタクシーで新門前の家まで遁走した。
わたしはちいさいころから腹の冷えに弱かった。今でもカッコ悪いが自前の工夫で、腹の前だけ二枚の小タオルを安全ピンと紐とで頸から吊したりする、これはまことに腹の汗冷えを防ぐに足り、 愛用している。
京都へ夏休みで帰っていた間は、毎日のように朝日子をつれて蹴上の都ホテルのプールへ遊びに行った。朝日子は弱虫で、水の中で手を離されるとよく泣いたけれど、行くのはイヤがらず、暑い暑い三条通や白川筋や知恩院坂の日盛りの往き帰りを楽しんだ。ときどきは美濃吉でご馳走を食べた。
なんといってもわたしの水泳は武徳会で三級になってからの自由な楽しみに尽きた。五組から一組までは監督付き順番で、自由が無かった、一組から三級に合格すると、広い水泳場を勝手自在に好きなだけ泳げた。二級、一級と試験を受けて上がる気など全然無かった。
暑くて暑くて日の光がまぶしくて、しかもほんの狭い短い川溝のなかでみんなで泳いだのは、戦時疎開の頃の丹波杉生でだった、とても水泳とは呼べない、小泉橋下手の小川に漬かっていただけだが、楽しかった。忘れない。「丹波」という一冊を書き残しておいてよかった。「清経入水」「「四度の瀧」などにも丹波の思い出が鏤めてある。戦時のつらい時代であったのに、貴重な貴重な体験を身に刻まれている。
* ときおり本気で想ってみる、過去にきつい悔いなどあったろうかと。幸せにも、少年・青年の遠い昔にも、作家になって以降も、あの不快だったここ数年にしても、じつは悔いといった何ほどの傷もわたしは負うていない。おもしろい七十余年であった。
* とりちらかっている身辺を手早く整頓して、捨てるものは捨て、仕事に打ち込もう。
2011 7・24 118
☆ お元気ですか 播磨の鳶
2,3日そのままあった裁判についての記事が昨日24日には既に削除されています。配慮あってのことと察します
気持ちはとうから整理してあり、決着にかなり満足と書かれていらっしゃいます。本当に「彼ら」は五年かけて何を得るところあったのでしょうか。
つくづく思います。今は鴉ご自身の日々を、時を、大切になさることが優先、です。ひたすら前を見て。
中国の高速鉄道事故、ノルウェイの殺人事件と立て続けに恐ろしいニュース。
あまりに急ぎすぎた経済発展のひずみ、根底からのひずみが中国を揺るがす可能性は大いにあるでしょう。
ヨーロッパに常にある極右の思想もわたしたちに決して無縁のものとも思えません。そしてこの日本の在り方も多くのことを抱えて・・。
暑さがいくらか落ち着いて、といっても30度を超えていますが、夏に弱いと自分を甘やかして暮らしています。なかなか軌道修正ができません。精神的には少々苦しい状況、わたしらしく生きてないな、と。
夏を乗り切って、お体大切に。
* 先ず裁判のことだが、わたしは、悪質なホームページーへの妨害( 全壊という前例がある。) があるのを考慮して、常に全面的バックアップを用意し続けてきた。判決のよほど前からは、公式の http://umi-no-hon.officeblue.jp を大きく組み替え、かつ外への発信量を減らしながら、此のサイトをあえて多用してきた。
此のサイトでは判決されている「広告」などの必要は無いので、無用な記事は二日間だけ発信しておいて消去した。無用なのだから。
* 判決が出て、わたしが苦渋を嘗めているかと案じて下さる向きがあるか知れないが、それは、ご心配無用です。
先ず「お詫び」広告も、裁判所の作文に署名したまでで、内容は、書き添えたとおり、およそ無意味。そして、他に「詫びる」何一つ無い判決であった。
日記の削除など、およそ、わたしには何でもない。書くべきはその時に懸命に書き、しかも、はや五年も前の日記など、だれがわざわざ溯って読むわけがなく、ただ保存されていただけ。いずれ『バグワンと私』や『文学を読む』や『濯鱗清流』のような「本」になってこそ喜んで貰える、それら厖大な記事の「宗遠日乗」は貯蔵庫であり、削除個所などはおよそ今は無価値と化している。「 mixi」 日記でもそうである。
書籍本に関しては、指定個所を「削除しない限り」今後同内容での再版はできないという判決であるが、すでに「本」の役割は果たし終えている。ありがたいことに『かくのごとき、死』が電子版として残ることを判決は全く禁じていないし、「聖家族」などという紙の本は、もともと存在すらしていない。
「慰謝料」等は軽額とも謂えまいが、合算しても最初要求されていた「損害賠償」とやらの五分の一額にすぎず、いとしい孫の霊前に贈るものと思えば何でもない。そして「余の請求はすべて棄却」されている。
加えて氏名のマスキングなど事実上無意味と判決に加えられず、さらに、かかる近い親族間の多年の軋轢を起こした根本は押村高の暴発と裁判所ははっきり指摘し、判決文を結んでいるのである。
まことに上の「鳶」さんの謂うように、五年の歳月を掛けて娘や婿は「何を得るところがあった」のだろう。わたしにはほぼ穏当で負担の軽い判決なのである。勝った負けたなどはもともと論外の愚行であった。
2011 7・25 118
* 身の回りを大片づけしている内、びっくりするノート一冊を見つけた。
母校の徽章のついたうすい大学ノートで、表紙には「芸術学概論」「Pf、金田」とあり、むろん旧姓の妻の使用ノートだったらしいが、未使用のままか、わたしが貰って、中は、題などつけない一冊の歌集に編まれていた。昭和三十六年四月二日日曜日に序を書き、五月三十日早暁に跋を書いて署名している。前年七月二十七日に朝日子が生まれている。明日は、朝日子の誕生日であり、悲しいことに孫やす香の命日である。
無題歌集の最初の一首は、昭和三十三年六月三十日の日付をもち、わたしの作でなく「迪子」とある。「わかみどりぬれそぼつまましづかなれ思ひせつなきわれに似てあれ」と。「記憶に誤りないなら、この歌は私の大学院入学后 初の語学検査時、迪子がその済むのを待っていた時に詠んだものであろう。迪子は大学四年在学中。」と註してある。
最後の歌は二首、昭和三十五年十二月二十一日、即ち私が二十五歳の誕生日の歌である。
そのそこに光添ふるや朝日子の愛( は) しくも白き菊咲けるかも
あはとみる雪消の朝のしらぎくの葉は立ち枯れて咲きしづまれり
高校の昔から最初のわが子にはと名をきめていた「朝日子」は、両親の愛をいっぱいに受けて真夏に生まれていた。
私の歌のちょうど一ヶ月前には、
しやくりあげ胸にかほを寄す吾子( アコ) の背をまばゆきほどの秋日がつつむ 迪子
とある。此の小歌集は、まさしく「朝日子」と題され名付けらるべき初子誕生祝いの両親の心籠めた記念であったのだ。
そして、五十一年が経った。
2011 7・26 118
☆ 昭和三十五年(1960)七月二十七日 水 東邦大産院に入院中の迪子から陣痛發來の電話が会社へあった。朝、まだ勤務時間になるかならぬかの頃であった。前日、非常にノルマルな状態で、「退院してもいいほど」ということだったため、冗談に、しかし、半分くらい本気で新宿の「家に帰ってやすむか」などと言い合っていたのだが、迪子にはさすが予感あってか、近くの梅屋敷で買い物をするだけにした。
電話にサッと緊張し、しかし、もう大丈夫という気がしたのもその時だった。必要な机上の事務だけ済ませ、すぐ車で河田町の家に帰り、 京都から来てくれていた母と、新宿へ。必要な買い物のあと、母はいったんみすゞ莊へ戻って貰った。私は蒲田へ急いだ。そこで、前祝いに紅白のワインでひとり軽食。
陣痛は六時十五分朝發來、以後、平均十五、二十五分間隔にかなり永い痛みがあって、迪子は時計とにらめっこで記録をとっていた。産院についた時は平静元気で変わったこともなく、むしろ、うきうきしてみえた。私たち、出産はたぶん明暁かとみていた。
迪子妹のルッちゃんと私の母とが同時に到着した時は、しかし、もう相当陣痛強く、 すこし常を超えていると私は思った。陣痛時間が五十から百五十秒もある。三人もそばにいては迪子も気疲れするし、食餌、睡眠はともにムリなようだった。
まずルッちゃんを、八時半頃にまた来てくれるようにといったん渋谷の兄の家へ帰し、迪子と私とをのこして母は、近くの銭湯へ行った。その間に、いよいよ猛烈な痛みが来て、 おり物があり、助産婦にはそれが信じられず、ムンテラをはじめた。丁字帯をつけたのもその時である。夕刻四時頃だったが食事は出来ず、迪子は必死に痛みに堪えていた。内科から江幡先生がみえた。迪子は健気にいきみを堪え、私も一緒に一所懸命陣痛をのりきろうと試みた。ムンテラ、江幡先生のお見舞いにつづいて母が戻り、そこへコーポラスの迪子の兄が見舞いに来てくれた。久しぶりの対面であったが、陣痛最高潮でもあった。
兄が帰り、ついで母も新宿へ帰って行った。明日、あるいはもっと遅れるぐらいとみられたから。然し私の見たところ陣痛があまりに強く、それが、私と迪子との共同の恐怖感からするオーバーな反応といったものには思えなかっ。この分では早いのではないかと感じつつ協力して痛みを堪えながらタイムをとると、一分半から二分おきに五十から百二十秒のせわしい波が来ていた。
産科医師は分娩室に移す決心をした。迪子はもう、痛みよりも腰のぬけおつるようなダルサを訴え、二人の助産婦に介けられて分娩室に下りて行くのが、実に実に苦痛らしかった。すでに破水していたという。
迪子を分娩室に送ることになってからは、私の心にはもう動揺も興奮もなかった。一年半余の日々夜々の絶えざる不安動揺に堪えてきた私を、その場に今まさに入って、却って安心と自信とがつよく捉えた。ハナウタが出るくらい悠々と私は歩き、ルッちゃんを電話で呼んでから部屋へ戻って、新生児ベッドをつくり、また階下に降りて迪子の武治叔父さん宅にも状況を告げた。
輸血の必要はあって、早いめに呼ぶよう指示されていた。しかし私は江幡、加々美先生に昼間にお目にかかっていて、すっかり安心していた。大丈夫だと信じられる迪子の状態だった。会社の関口君、小高君から電話があり、組合でも輸血準備に待機してくれていると聞いた嬉しさを胸いっぱいに、 私は、だが、大丈夫と考えていた。
分娩室へ入ってから二十分もたってなかったと思う。わりと明るい、しっかりした話し声が伝わり洩れてきて やがて 実に小気味よい児の啼き声がきこえた。それが「朝日子」とはしばらくわが耳を疑ったが、それ以外に無かったのだ。
「お嬢ちゃんですよ。りっぱな赤ちゃんですよ、おめでとう」と医師に告げられ 私は深く深くあたまを下げて、ひとり二階へあがった。
迪子は無事でげんきそうにしていた。疲れたようすもなく。
朝日子誕生! 昭和二十五年(1960)七月二十七日 午后七時三十三分!
朝日子のいまさし出でて天地(あめつち)のよろこびぞこれ風の清しさ
産室で朝日子と二人きりになった。大きな児だ。すばらしい。オットリした表情。目をパチパチさせてあたりみまわしながら しきりに手を動かし顔をつくる。朝日子の顔はさながら鏡をみる如く、私に肖ていた。わが児。わが愛し児、朝日子。健全この上ない赤ちゃんである。
パチパチカメラをむけても朝日子は悠然としていた。生下時3340ク゜ラム。身長は52.5センチメートル。
分娩室では後産もすんでだ迪子が分娩ベッドの上で全く元気な疲れもない表情でやすんでいた。吸口で水をすわせてやる。
迪子迪子 ただうれしさに迪子と呼びて水ふふまする吾は夫(せ)なれば
* 高校生の頃からわが子の名前にときめていた「朝日子」は、斯く、此の世に生まれてきた。
* そして、五年前の、月も日も同じ今日、平成十八年(2006)七月二十七日、朝日子の生んでくれた初孫のやす香を、二十歳の誕生日をまたず、肉腫という怖い癌で私たちは死なせてしまった、相模原の北里大学病院で。
その日の挽歌。
やすかれとやす香恋ひつつ泣くまじとわれは泣きふす生きのいのちを 祖父
つまもわれもおのもおのもに魂の緒のやす香抱きしめ生きねばならぬ
* 弁護士事務所から、相手方と打ち合わせた、「慰謝料」「弁護訴費用」を年五分の利息付で八月一日に送金するようにと連絡してきた。少し不明点があり問い合わせている。
2011 7・27 118
☆ おじい様、おばあ様、 芳
こんばんは。
今日二十七日はやす香の日でした。
あれから5年という歳月は流れましたが、私は何も変わっていません。
根底は高校生の時のままです。
やす香の優しい温かな想いに触れながら高校生活を送り、今の私はあります。
やす香は他の人に愛情を与えることのできる人でした。
学校では学ぶことのない、人としての素晴しさを、やす香は教えてくれました。
そうして一緒に過ごした高校生活は私の宝物です。
今日はやす香の所へ行けませんでしたが、後日友人たちと訪ねます。
大勢で行って、驚かす予定です!
最近は少し涼しくなり、過ごしやすくなりました。
そんな時に限って就職活動で外へ行くことはなく、家で履歴書を書いている毎日です。まだ就活を始めて半月ですが、早く内定をもらって気持ちを休めたいと思ってしまいます。
1 年後には社会人…になってるはずですが。
9月の建日子さんの舞台と、11月のアマデウス、是非ご一緒させて下さい。帰国してから藝術に触れる機会がなく淋しいと感じていたところでした。
もちろんおじい様おばあ様にお会いできるのも、とっても楽しみです!
では、お目にかかれる日まで、どうぞお身体をいたわってお過ごし下さいませ。
* やす香は、わたしのそばで、笑っている。
2011 7・28 118
* これまで、メモリとかいう親指の先のようなものを、まるでよう使わなかったのが、つかえるようになった。それへ、大量のコンテンツを保存して、現行の親機を少しずつ身軽にしてやりたい。それでわたしの「仕事」環境興も明るく整備できるだろうと喜んでいる。
厖大な裁判関係資料や記録や陳述書やメール、日記など、年月別に、誰から誰へなど、及ぶ限り克明に整理のついたものを、綺麗に一括して保存できた。文書のママのものも残り無く年月を追って整頓保存してある。機械には一通り残して在れば足る。
その調子で、機械使用当初からのあらゆるメールも、また宗遠日乗の全部も、機械の外へ保存しておけば足る。必要が出来れば建日子たちがいつか開いて活用するだろう。写真も、機械の外へ出しておいて足る。
いま、三台の機械が、なんとか穏やかに温和しく働いてくれれば、安心して「しごと」に向かえる。
2011 7・29 118
* わたしの公式ホームページ http://umi-no-hon.officeblue.jp において、またしても、一方的に、何の事情説明もなく「秦恒平」作の小説等、また別作者名による小説までもが、サーバーにより削除されましたので、其処では、「日録」掲示を全面中断します。http://umi-no-hon.officeblue.jp からのお問い合わせは、直接 秦のメールへお願いします。
* 削除・抹殺された作の題名は、このホームページ内に掲載されてあった、「 e-文藝館= 湖(umi)」に所収の ① 奥野秀樹作「私小説」 ② 秦恒平作「逆らひてこそ、父」 ③ 秦恒平作の挽歌「かくのごとき、死 孫の死とある作家の一夏」などです。
六月末判決で、 ①②は、全く問題にされず、判決外に「棄却された」全てに該当し、また③は、判決において「紙の本としての再刊」を禁じられただけで、ウエブ上の掲載については明瞭になんら禁じられていないのです。
著作権者としてサーバーに強く抗議します。
2011 7・30 118
* 公式ホームページに対し、重大な侵害がまたしても為されてきたことを記録し、厳重に抗議する。
今朝、秦建日子を通じて、サーバー から次のように連絡が来た。
このサーバーとは、裁判中も十二分の協力関係を保ち、むりな註文もよく聴いてきた。しかも、サーバーは、係争中であるので「判決」を待ち、それに従いますという約束であった。弁護士からもそう聴いていた。
ところが、何の話し合いも熟慮期間もなしに、いきなり、下記のように通知してきた。
★ From: <no-reply@l
日付: 2011年7 月29日15:35
件名: 【】運営しているウェブサイトについて
秦様
平素はレンタルサーバーをご利用いただき誠にありがとうございます。
さて、今回連絡させていただいたのは【http://umi-no-hon.officeblue.jp/】の
アドレスで公開されているウェブサイトについてです。
独自ドメイン【officeblue.jp 】でご利用いただいているサーバ上のウェブサイトにおいて、権利を侵害する内容があるとして、
侵害情報の削除依頼がございました。
弊社において内容を確認したところ、利用規約に違反する内容が確認できたため、利用規約第9条に基づき、該当情報がある
以下のファイルについて表示することができないように措置を行いました。
① ● http://umi-no-hon.officeblue.jp/emag/data/hata-kouhei17.html
② ● http://umi-no-hon.officeblue.jp/e_umi _essay39.htm
③ ● http://umi-no-hon.officeblue.jp/yamana10.htm
④ ● http://umi-no-hon.officeblue.jp/koppe0-1.html
上記のファイルは現在お客様にて操作することができないようにいたしております。
そのため、お客様にて編集や削除を行う場合は、お手数ですがご対応内容をご記載の上、以下のお問い合わせフォームよりご連絡をお願いいたします。
尚、利用規約違反につきましては、サービスの利用停止ならびに契約解除事由となります。
今後のご利用につきましては、利用規約に沿ったご利用を行っていただきますようお願い申しあげます。
* 改善要望も熟慮期間も具体的指摘も何一つなく、いきなり「消した」という通告であり 挙げられているのは、
② は、電子版湖の本エッセイ39「かくのごとき、死」で、
①は、「 e-文藝館= 湖(umi)」に掲載の秦恒平作・愛孫挽歌の「かくのごとき、死」で、
③は、創作欄 長篇としての「かくのごとき、死」であり、
④にいたっては、奥野秀樹作『私小説』として発表されており、その内容も、裁判の判決とは明らかに局外、原告の押村夫妻とは無縁の「奥野秀樹」による私小説仕立てのフィクションである。
六月末地裁判決主文は、作品「かくのごとき、死」について、、『4 被告は,別紙目録4 記載の書籍のうち,別紙名誉毀損関係一覧表4 -1 ,4 -2 及び4 -3 の「表現」欄記載の各記述部分,別紙名誉感情関係一覧表4 - 1,4 -2 及び4 -3 の「表現」欄記載の各記述部分並びに別紙著作権(複製権)関係一覧表2 -1 ,2 -2 及び2 -3 の「かくのごとき,死(甲4 )」欄記載の各記述部分を削除しない限り,同書籍を出版又は頒布してはならない。』と書かれている。
この判決文は、この前項の「聖家族」について判決されたのと明白に異なり、「インターネット上のウェブページへの掲載などの方法により、公開又は閲覧に供すること」を、当判決主文は、全く「否定・否認していない」のである。わたしは此の判決に従い、「記述部分の削除はせず」、その代わり、当判決より以降、本文そのままで「同書籍を出版又は頒布」することはしないと応えている。いわゆる「紙の本」として再版・出版はしない、しかし、「2」項の『聖家族」判決文とは判決内容が明白に異っていることを、確認している。判決文は、書かれている以上にも以下にも読まずに受け入れることと担当の牧野弁護士からも教えられている。
* いずれにせよ、サーバーは、通知一片でこれらを待ったなしに一挙にホームページから消し去る暴挙を敢えてしているのは無道と言わねばならない。裁判の判決に従うと言いながら、著作権を斯くもやすやす侵害する権利をサーバーは許されているのか。
2011 7・30 118
* 生活をさわがしく乱してくる力が、波が、寄せてきても、躱せるかぎり躱して、関わらない。産み出し創り出せる何もない。
靜夜思
牀前看月光
疑是地上霜
挙頭望山月
低頭思故郷 李白
故郷は京都にあるのではない。わたくしの身内ある。
2011 7・31 118
* 午前十時、原告夫妻の弁護士事務所あて、意味不明であるが銘々ぶんの「慰謝料」と「弁護訴費用」五分の利息、合算して「3004500円」弱を送金満了。やす香の霊前に供えたつもりでいる 2011 8・1 119
* 永いあいだ、いろいろと堪えて手助けだけでなく苦労を支えてくれた妻に、礼をした。ありがとう。すこし心癒えた。
2011 8・2 119
* 有楽町まで出掛けた。妻のために最新鋭のノートパソコンを買った。一体になったスキャナーとプリンターも付けて。いろいろに調整して一週間ほどで製作している本社から届く。機械に習熟して、わたしの仕事も手伝って欲しい。とはいえ、妻も若くない。無理は強いられないが、機械の性能は、三台使っているわたしの機械のどれよりも新しい。どこまで使いこなしてくれるか、やはり期待している。
* 帝劇のモール、例の「菊川」で遅い昼食を終えたのが三時半廻っていた。鰻、しっかり値上がりしていた。この店の瓶の菊正が大好き、二合をくいと呑んできた。おなじみのおねえさんのサービスもよかった。
さて、となりの静かな出光美術館で、「明清陶磁の名品」展をゆっくりゆっくり夫婦で堪能した。漢族の王朝と朝鮮満州族の王朝の肌合いの差異が窺えながら、後続した清陶磁のしっかり明文化に学ぼう超えようとした意気も、またほの見えて面白くも美しい名品展、妻も私も清々しく満たされた。清の超絶技巧より、明の洪武・永楽また成化・嘉靖の頃の洗練のきいた磁器の多くについつい嘆声がもれたが、清の雍正の青花釉裏紅ものや小説「蝶の皿」で書いた豆彩ものにも特色を覚えた何点もが目立ち、満足した。
客のいたって少ないもう閉館の時刻の逼っていた出光美術館の、本展に添った贅沢なおまけのルオー、ムンクの数点も、茶室の飾り付けも、目映く照った皇居の眺望も、とても心地よく目に染みた。
妻がソーラーの腕時計修繕を頼んだビックカメラにもう一度たち戻ってから、地下の有楽町線で一気に保谷へ帰った。パンを買って、ぱらぱら来始めた小雨をかいくぐり車で玄関まで。黒いまごが、そろりと出迎えてくれた。
2011 8・4 119
☆ 闘うこと
お元気ですか、みづうみ。
身辺とてもゴタゴタしておりまして、メールもせずに失礼していました。
みづうみが少し落ち着かれてからと思っていましたので、裁判のことなどわたくしの思いは申し上げていませんでした。ほんとうに終わって良かった、嬉しいことです。
お金はずいぶんかかってしまいましたけれど、みづうみにとって一番傷の浅いかたちの判決ではなかったかと、ほっとしました。
作家がその作品で訴えられた場合、負けることは必至です。小説とはそういうものですし、法律も裁判もそういうものです。いかに少なく負けるかという点で、みづうみは耐え抜いてしっかり闘い、最善の結果を得られたと喜んで(へんな言い方ですが)います。みづうみの完敗でなく、朝日子さんらの完勝でもない今回の判決は絶妙な判決だったと思います。
しかしながら、サーバーのホームページの記事削除については、烈しい憤りを感じます。
みづうみにとってはふりかかった火の粉を払わないわけにはいかず、これからも不本意に闘い続けなくてはなりません。気休めは申しません。力の限り闘って負けないでください。闘いつつ、ご平安でありますように。
サーバーとの闘いは、じつはみづうみお一人の闘いではありません。権力に羊のように無抵抗に抹殺されないために、小さな人間がネットの中でも言論の自由を死守することはとほうもなく大切なことです。みづうみを蔭ながら応援している多くの読者のことをせめてものお力としていただけたらと思います。
正確な文言も誰の言葉かも忘れましたが、「あなたは生き続けるためには屈伏したほうがいいだろう。しかし存在し続けるためには闘わなくてはならない」というものがあります。
犯罪でない限り、サーバーはネット上で焚書することが許されないのは当然のこと。
みづうみのサーバーとの闘いは、現在日本で起きている重要なインターネット上の言論弾圧にもかかわっていることと思っています。
先日の国会での児玉龍彦先生の証言のYou Tube映像は20万件ヒットしたとたんにあちこちで削除されまくっています。風評被害を防ぐためという、国民の税金を使った原発情報監視システムによるものと推察されます。
東大教授の責任ある、それこそ満身の怒りをこめた良心の国会証言が、国家の監視システムによってどんどん消されていく事態に手をこまねいていてよいものか。どうして世間は黙っているのか。苛立ちます。家庭の主婦がどんなに憤っても、所詮ごまめのはぎしり。意見を発表する機会も、訴える場所もありません。唯一の救いは、削除を危惧していた数多くのユーザーが映像を個人的に保存していて、消されては復活させることを繰返していることです。
そのほか、あらゆる原発情報が監視され、いたちごっこで妨害され続けています。もはやテレビも新聞も真実を報道しないことが明らかになっている今、ネットだけが真実に近づける手段であるのに、それまで奪おうとする監視システムを許すなら、もはや民主主義国家ではありません。そもそも監視している自分たちとその子どもも、国策のもとに被曝するというのに、なんという愚かしいことか。
当然日弁連が監視に抗議していましたが、日本ペンクラブはなぜ黙っているのでしょう。(私が知らないだけで、もし抗議していたならごめんなさい)物書きである以上、ペンクラブの総力をあげて大抗議をすべきです。いずれ自分の身にふりかかる事態がくるに決まっているのに、危機感もなく他人事でよいのかと、日本ペンクラブには深く失望します。
科学も文学もジャーナリズムも金で買われる時代になったということですね。いやな世の中になりました。
わたくしののような家庭の主婦でさえ、日常生活で悪と闘わなければならないことはあります。昔から、ひとりぽっちで闘っていたなあと、苦笑しています。みづうみほど高尚な問題で闘っているのではないので、よけいに惨めな記憶ばかり。
『バグワンと私』の中の一節は、わたくしにとても痛く響きました。わたくしは次元の低い人間ですが、それでもみづうみの苦しさがほんとうによくわかるのです。
* 前夜、バグワンの『十牛図」 を読みながら突如動揺し、眠れなくなりました。
人は、「社会」に追従することで己が「決断」をすべて回避し放棄し、追従を拒んでわが道を生きようとする者をみな「狂人」として誹り、非現実的な「愚者」と嗤い、しかしながら、至福の静謐に至る者はみな狂人のように愚者のように遇され生きてきたのだとバグワンは言います。歴史を顧みれば、その通りだと思います。バグワンに出逢うよりもずっと以前から、わたし自身そのように生きたかったから、そう説かれれば本当に深く頷けるのです。
頷けるにも関わらず、そのように生きることでどんなに傷ついているか、耐え難いほどである自身の弱さに気づいて、あっと思う間もなくわたしは動揺し動転してしまった。寝入っていた妻を揺り起こして苦しいと訴えた。訴えてみてもどうなるものでもない、わたしは惑ったり迷ったりしたのではなく、ただ意気地なく辛く苦しくなっている自分を恥じ、情けなくなったに過ぎません。
1999 12・19
降って湧いた災難に、勝ち目のない闘いをしていると、どうしてこんな苦心しているのかと自分を呪いたくなることがあります。しかし、愛するもの、守りたいもののために動かざるを得ません。こんな生き方はごめんだと、何度も何度も思ってきました。
狭い世間でしか生きていないわたくし程度ですら苦しいのですから、大きな仕事をなさっている方々の闘いの厳しさにいたっては……。
少し世間を見渡せば、思想信条のために苦闘している方々はいくらでもいらっしゃいます。たとえば、経産省から退職を勧告されている改革派官僚の古賀茂明氏の孤立無援の闘いを思うと胸が疼きます。
近隣に停電はないのに、古賀氏の自宅一軒だけこの暑さの中停電し、復旧を頼んでもあれこれ理由をつけられ、なかなか東京電力から来てもらえなかった事実、ハクビシンの死骸が玄関前に棄てられた悪質ないやがらせ。議員から電車には気をつけろという警告を受け、ホームや階段から突き落とされないか、女性が近づいてくると用心するという日々。ストレスのあまり痩せておしまいです。正々堂々と言論で闘おうとせず、口封じに動く圧力に恐怖と憤りを感じます。
言論の自由は私民の唯一の武器です。小さな人間ひとりひとりがその最大の権利を奪われないように、決然と闘い続けなければいけないのです。言論の自由が、あらゆる利権によってつねに虎視眈々と狙われていることを、もっと多くのひとに気づいてほしい。関心を寄せて、立ち向かっていただきたいです。無関心ほど罪深いことはありません。
私たち日本人は児玉先生や古賀さんという「個人」を絶対に守らなければならないと思います。出来ることなら、お二人にあなたは一人で闘っているのではない、そうお伝え出来たらと思うのです。狙われるということは、その人間が敵にとって手ごわい、真の脅威である何よりの証明なのです。
みづうみが、みづうみご自身であるために、どれほど大きなものに挑み、静かに着実に闘い続けていらした方なのか、わたくしも、読者もよくわかっています。二十五年にわたる湖の本の出版はもちろんですが、他にも文字コードや電子文藝館でも、みづうみの超人的な孤軍奮闘から、わたくし達は多大な恩恵を受け続けてきたのです。
今後も、みづうみは諸々の闘いから解放されないのかもしれません。小田実さんが、闘う気持が萎えてしまうとき、ナチスに抵抗し拷問され虐殺された勇気ある人々の記念の場所にきて自分を奮い立たせると語り、思わず涙ぐんでいらした姿に震えるほど感動したことは忘れません。
闘うことは常に困難で孤独なのですが、何のためにどう闘い抜くかが人生なのでしょうし、それがそのひとの人間性を測る唯一の機会になろうと思います。
それにしても世の中の卑怯な奴らの高笑いを想像するたび腹が立ちます。時々眠れなくなります。勝てなくても絶対負けないから、今に見てろと、自分を叱咤しているところです。
お元気ですか、みづうみ。
気晴らししたくても、地震も放射能もありでは、なかなかです。震災ストレスというわけではありませんが、お蔭様でダイエットしてもいないのに痩せました。
在ることのしばらく喜雨の音の中 長谷川素逝
* こういう温かい毅然とした知己に、いつも身内として「そばにいて」もらえる有り難さ、わたしの闘いにはそれがある。
* 裁判に勝ち負けがあるというなら、金銭的にも条件的にもたいへん利のある判決をもらっていて、予想と確信どおりだった。日記から削除した一切歯に衣着せなかった箇所は、すべて予想通りであるとともに、なんら文藝的に削って惜しむ内容でない。
また作品二つの一つ『聖家族』は、判決よりずいぶん以前に長篇の一部として改作され完成されたフィクションとして、読者や各界の手に広く行き届いているし、名作だと褒めてくれた人も有る。もう一つのやす香挽歌『かくのごとき、死』も同様。しかも原作原文のまま今後もウエブサイトで繰り返しいつまでも読んで貰って差し支えなしという「判決主文」を得ている。原告の横紙破りに乗ってサーバーが勝手次第に作を抹殺するなど、トンデモナイ「反文化行為」なのである。
そしてその他の原告請求は、すべて明快に「棄却」されている。
「慰謝料」等の原告二人合算三百万円は、もともとやす香医療費として祖父母自然の負担と心用意していた金額。判決前の裁判所「和解」勧奨案があったとき、すでに申し出ておいた額であり、「損害賠償」等合算千五百万円の要求からは五分の一、優に想定内であった。
加えて、すべては「近親の喧嘩を裁判沙汰に強いて持ち込んだ争い」に過ぎず、そもそも「確執の第一原因も原告の一人にあった」と裁判所判決は正確に明確に認めてくれていた。申し分ない結着であったと思っているが、くだらない、勝ったとも負けたとも考えていない。
2011 8・5 119
* 捜し物は見付からず、それなのに我ながら面白いと思う書き置きの古証文がどっさどっさ現れる。紙屑になる寸前だが、みなまともに書いている原稿の類で、何処かへ活かしたか、放り出されていたのか記憶は容易に辿れない。割り切って謂えば荀子が曰く、解くべき「蔽」の類と思い捨てたがいい。
* なんだか割り切れない気分があり、すこし遊んでみよう、ただし自分で遊びきれないのが口惜しいけれど。
さて此処に、 大円に三角形が一つ内接している。その三角形にも小円(乙)が一つ内接している。また中(甲)小(丙)の二つの円が、同じ三角形の外・大円の内に接している。
そして甲乙丙三つの円の直径が、それぞれ甲は四十九寸、乙は二十八寸、丙が十七寸と判っていて、さて外大円の直径は「幾何(いくばく)ぞ。」
算題はこのように問うている。易しそうに思える。敬愛する最上徳内自身は「帰除術」で解いたというのだが、これが如何な術か、算盤を使った割算かとも辞書では引いてみたが、結局解法は見当もつかない。徳内さんの伝記著者も歯が立たなかったようだが、何に拠ったか、正解は「***寸」と挙げ、参考に、現代風の算法に直して、「読者・この算式に数値を代置し計算して御覧ぜよ」と興に入っていた。
私にもそれ位は出来る。で、試みたが、とんでもない答になる。幾度計算してもいけなかった。仕方なく、数学は現役の高校生にも負けない気の妻にからかい気味に手渡してみると、原題からは証明できなかったが、掲げられた参考の算式のミス、おそらく誤植はあっさり見つけてくれた。B式の一マイナス記号を、そうではなく、値の大の側から小の側をマイナスすべき(~)記号に替えれはよい。ピタリ正解へ導ける。
「えらいッ」と褒めあげたが、女房殿も最上徳内が解いている原題に算段はどうしても立たない。取りつく島がない。
「これ、どういうことなの」と妻は呆れ、私も笑い出した。 小説『北の時代』より
* 十数年前の東工大大教室で、毎年、この算題を出して、数学得意の学生諸君を挑発した。四年間で正解をもたらした学生は十人に満たなかった。その解式も二人と同じものがなく、長い解の学生はレポート用紙を何枚も使っていたが、いちばん短いのは美しいほど短かった。中国か台湾からの留学生だったと思う。
最上徳内は都内に今もある神社にこの算題を奉納し、当時の好き者たちを挑発した。そういうことが流行っていて、数学は当時のかなり上等の趣味であった。
* さて、何ほどのことや有ると思われる方、解いてみませんか。わたしは正解だけは知っている。
2011 8・6 119
* 実の父の死に遭った前後を父遺品のノートブックに書き置いていた「小柵」を見つけた。機械に入れ始めた。
2011 8・9 119
* 妻に買ったピカピカカ のノートパソコンと、プリンタ・スキャナー一体機とが、届いた。わたしの今使っている親機は、はるか昔に卒業生の布谷くんが秋葉原で部品を買い集めて造ってくれた、マニュアルも何もなしの、ウインドウズ98に「ME」を加味した古強者。これへ比較的新しい子機、さらに新鋭のもう一つ子機が連結してある。「HP破壊活動」防止対策を怠れないので、コンテンツのバックアップには気を付けに付けている。妻の新鋭機はそのどれより新しい。「プリンタ・スキャナー」でたくさん手伝ってもらえるよう、機械の強みを身につけて欲しい。「プリンタ・スキャナー」一体機があるなんて知らなかった。わたしのは別々なので、場所も取るしコードも交錯する。やれやれ。
2011 8・11 119
* 妻は新鋭機に付属機の連繋等で思案投げ首、ぼやきながら悪戦苦闘している。
2011 8・15 119
* 今日も小説に手をつけていたが、妻の機械が文章の読み取りスキャンに成功してくれたので、昔昔からこれがぜひ欲しいと願っていた名市大・谷口さんのまだ院生の頃の論攷「秦恒平『誘惑』の逆説 絵屋槇子をめぐる人々」という論文を真っ先にスキャンしてもらった、これは面白い論文なのである。
劣化している新聞の記事や原稿からスキャンし始めてもらえそうで、愁眉を開いている。
2011 8・16 119
* 六朝末、謝恵連に、「幽霊髣髴として我が犠樽を飮( う) けよ」の祭文がある。現れ出て、こう備えた酒を飲んでくれというのであり、怨みをふくんだ日本の幽霊とはよほど違って、生者と死者とのお付き合いがサラっとしていた。わが家でも、家の真真ん中に設けた秦の親達ややす香や愛猫たちの祭壇に、よくお酒の瓶がならびたつ。父はテンと酒は駄目な人だったが母は好きだった。しかし好きなのはわたしなのであり、自分の好物だから亡き人達にもさしあげてしまう。
いまは生駒在の理史くんから贈られてきた、純米吟醸「八海山」というとびきりの一升瓶がドンと立っている。ありがとう、 理史くん。若い友人の頂き物を、まさか「我が犠樽」はあつかましいが、わたしは「幽霊」大歓迎で。逢いたければ誰方であれ、いつでも「部屋」へお出まし願う。みなさん、あの世でお元気である。
2011 8・17 119
* 昨日、今日、熱中症はさんざんの暴威であったとか。わが家では二階北側道路沿いの廊下が、身も舞い上がりそうな熱暑になる。設計者が四つ明けてくれたガラス窓から熱暑が乱入する。
この四つの窓は、むかし「家庭画報」の取材で、朝日子も建日子も両親も一つずつから半身を外へ出し道路から撮影された、思い出の懐かしい窓なのである。妻のピアノ部屋、わたしの機械部屋のあるこの二階廊下には、女優・澤口靖子の呉れた畳み半畳もある写真が掛かっていて、短いけれど「やすこロード」と呼んでいる。部屋からの出入りごとに靖子ちゃんにアイサツしている。
2011 8・17 119
* 捜し物が現れないまま、家の中をかなり整頓した。押し入れの奥から、往年の豪華限定本の仕舞われていたのが幾つも見付かったりした。『慈子』『墨牡丹』『三輪山』『罪はわが前に』『少年』『四度の瀧』等々。「朝日子・建日子の為に」と墨書し取り分けて二冊ずつ大きな筺に入ったのも見付かった。それから新聞連載『親指のマリア』『冬祭り』を切り抜いてファイルしたものや、誰かが切り抜きを製本してくれたのも見つけた。
そうそう松子夫人にお願いして編輯・出版させてもらった『谷崎潤一郎家集』の豪華本・特装本も。
それでも、捜し物は出てこない。なにかのドサクサで隣棟へ持ち込まれているとすると見つけるのは更に大変。しかし書いている小説のためにも見つけたい、どうかして。
2011 8・21 119
* アベリアの花が無造作なほど幾つもの小さな瓶に挿されて森の風情、つよい薫りが手洗いを満たしている。妻が庭で摘んできたのだ。クビを接いだ小さな初期伊万里の徳利、越前の徳利、蓼科の松下君のプチホテルで買ってきた梟二羽の小さな花瓶。みな、なんだか楽しそうだ。
2011 8・22 119
* 便利さに繋がる謂わば「文明」の側からは離れようと思う。「文化」の問題や話題に、偏ってでも、意識を添わせたい。
「文明」としてはしたたか今も向き合う此のコンピュータの世話になっている。なり過ぎなほど、これが間違いなく私の「仕事」を助けてくれる。いま私のなかで醗酵し発光して膨れている「仕事」はとても手書きでは追いつかないほど多い。早く、多方面が同時並行で書けて、電子化のおかげでうまくすれば知友や読者や子供達に遺して行ける。
いまいまの「文明」の話題は機械的に乾いて、量ばかり多いが、心を深く潤してくれない。人間的なよろしさがそこでは涵養も伝達もされずに、軽薄に賑やかなだけで、花がない。花に見えれば乾いた造花のようだ。そして結局批評がなく、歿批評の自己満足に甘えて増殖して行く、いまいまの「文明」は。
そんな「文明」の恩恵にも多くはあずかりたくないし、その生産にかかわりたくもない。機械的にでなく人間的にほんとうのものに触れていたい。
人は嗤うだろうか、たとえば父・北大路の拝一刀と同行している手押し車の倅大五郎の、あの澄んだ「目」に匹敵する「文明」を最近わたしは知らない。天涯のかなたへ飛んでまた苦心惨憺帰還した人工衛星にわたしも純粋に感動したけれど、大五郎の目は、もっと複雑な「人間」の哀歓を湛え過激と信頼を湛え、「文化」と人間の歴史が織りなした久しい歎きも喜びもを瞬時に見通させる。たんなる時代劇の子役ではない。
* 『母の敗戦』を書いたとき、「父」について書けるとは思えなかった。ところが例えば『父の敗戦』は、はるか厖大にまた人間的なことが見えてきている。父を書いているとわたしはしばしば自殺を考える。母は自殺したのだと兄北澤恒彦は考えていた。わたしも疑っていた。母は時世で「生きたかりしに」と歌っていた。
父も自殺したのだろうかと私は疑っている。今さらその必要もないほど父の人生は凄絶な「敗戦」の連続であったことを、たぶん縁戚の誰よりも現在只今の私が、いちばん材料豊富に知り得ている。父の場合も母の場合も「敗戦」が人間としての「名誉」であったのかもしれない。
兄も自殺した。兄のことは、父よりも母よりもよく知らない。だれも聴かせてくれない。私の手元に送られてきているかなり大量の私宛の手紙やメールだけが、つまり「個と個」としての兄弟対話だけが、自殺した兄北澤恒彦の、弟秦恒平における全容なのである。たぶんわたしは「兄の敗戦」についてトータルな何も書かないで終わるだろう。
主題は、少しずつ近づいてきている。結末は見えていないが、わたしはわたし自身の無頼な「敗戦」をたくさん書いてきた。
文明は勝つモノの卑しさを見せつけてきた。文化は敗れたモノの真実を遺してゆくのだ。
2011 8・23 119
* 父のことも書き継いでいる。書こうと決意した強い動機の一つに、わたしが『廬山』を発表した昭和四十六年十二月号「展望」がある。あの作はあの年度後半期の芥川賞候補にあげられ、瀧井孝作・永井龍男二選者に推されたのであったが、だから父も雑誌を買っていたのだが、だが、それが父を刺戟したのでも感銘させたのでもなかった。しかも、父は、敗戦また敗戦の人生からまさに息を吹き返したのだった。
* 意地というのはときに怖い物だ、手中の宝をあたら捨て去ることになる。
2011 8・24 119
* 五時半頃不安な夢を見つづけて目が覚め、起きて安定剤をのみ、もう一度十時頃まで寝た。夢そのものは何とも思わないのだが、見たくない夢はある。就寝前の大量の読書が影響することもある。ゆうべは二時過ぎていた。
しかし今朝の不安は読書でなく、「仕事」から来ていた。平家物語や、女小説にかかっている分には純然の楽しみだが、父や母や兄のことを思っていると肩で山を担いでいるような苦痛がある。だから坦々と論考でもするように書こうとすると、これがかえって難しい。論攷小説はわたしに向いていなくもないのだけれど、文学化という目的に膚接しているぶん、気疲れはきつい。
2011 8・26 119
* 今日、珍しくもペン理事の言論表現委員長から、懇切な手紙をもらった。いい手紙で、しかも当然の内容であった。
* 愕き惘れるようなことが、いくらでも起きるモノだ。要するに、わたしの名誉を失墜させ、顔に泥を塗って呉れたいらしいが、わたしには仰々しい「名誉」も、泥の塗甲斐のある「顔」もない。わたしにあるのは、わたしの創作と著とでしかなく、そんなモノは書いたトタンにわたしの手を離れている。毀誉褒貶は読者がされる。
* 少し気力と体力とを上向かせたく、暫時休養する。
2011 9・5 120
* 妻が連日の協力から、いろんな仕事がいろいろに動いている。今日は、やや苦心を要したがホームページに「秦恒平創作著作」への「書評」「批評」「世評」の極々の一部だが、収載し始めることが出来た。夥しい量で溜まっているが、今後こういう風に纂集して行ける道筋がついた。わたしが他者の書評などしたのを集めるのではない、文学者としての五十年の「仕事」に対し厖大な量の「批評」を受けてきたのを、わたしのもとで保存できた限りを、当面は雑纂やむを得ないが、筆者たちの原文のまままったく順不同に誰にでも読み直せるようにした。整備はのちのちに可能と思う。
もし、お手元に、わたしの目に入っていない文を保存して下さっている方はどうか、融通して下さいますようにお願い致します。根気の要る永いしごとだが、雑纂でも、しておけばなにかの役に立てて下さる人が在ろうか。
2011 9・5 120
* 九月の秀山祭や俳優座稽古場、建日子の芝居など観られるかどうか、すぐさまには自信がない。
2011 9・5 120
* 左側頭に痛みがきつくのこっているが、やや奮闘して、すこし厄介な手続きごとを終えた。とはいえ、これから先が尋常でないので悩ましいが、覚悟して前進するしかない。なにはともあれ、苦境の中で歩を運び得たのは、よくやったと思う。
さて今一つ事を要する難儀があったが、 根底の所の要所を渡り終えたと思う。もう少し慎重に漏れなく思考をまとめ要点をよく結んで当たりたい。
これら二つとも、先の正しく見えるのは明日以降になるが、体力さえ戻れば大事ない。たとえ発汗しても、もう一晩良く眠りたい。 2011 9・6 120
* 昨夜もさんざんの容態で、ひっきりなしに耳から頭へズキズキきつく痛みが響いた。自分が何をしているか、 何時頃なのかも朦朧とフラフラとワケ分からず、結局痛み止めのバファリンとと安定剤二錠をのみこみ、それで寝は寝たが寝たまま痛みは感じていた。はっと気が付くと午后二時半ごろ。
* それから、ペンの山田健太氏に返辞を書いた。押村夫妻がペンクラブに言論表現委員長を訪ね、縷々述べ立ててきたらしい。「 判決」がおり、履行義務を私は悉く終えたアトになって、まだ、この夫妻達は何かしら陰気に蠢いている。どういう気なのか。あまりに五年も掛けて得た「判決」が遠く物足りなく不服であるらしい。
妻が山田書簡の要点を拾っておいてくれたのに以下随う。
押村高・宙枝夫妻の ペンへの要望
① 違法行為をやめさせてほしい (「判決主文」の指示には百パーセント応じている。作家活動において、秦に信念に悖る違法行 為など何も無い。)
② ペンとしての責任を明らかにしてほしい
③ 書かれる側の人権配慮を会員に徹底してほしい
山田健太言論表現委員長の対応
① ペンクラブは表現の自由の」団体
② 個々の作品の善悪をはんだんする機能はないし、すべきでない。
③ 作品の違法性が裁判で争われた場合も、その是非を判断する立場にない
適切な判断で、一言もさしはさもうと思わない。
* 秦は、いかなる創作・著作の執筆も公開・ 刊行も、どんな人・団体の支持を求めてしてきたことはない。
事が、言論表現・ 思想信条・著作の自由・権利を侵されるという事態が起きたときは、ペンクラブは率先「討議・対処」すべき立場にあることは、会員・一般に限らず本来の使命と考えて二十数年言論表現委員会にも十数年理事会にも出席してきた。
平成十八年九月のビッグローブによる秦のホームページ全破壊に関しては、当時たくさんな議論があり、多方面の声もあがり、官庁筋との意見交換もあった。結論は、 出したくても出せないほど、法制度自体にむちゃくちゃに脆弱なものがあり、適切な法改正こそが急がれねばという辺で話が止まり、なにもかも腰砕けであったと記憶している。そしてその後法制度もむろん、何ひとつも適切改善へと進展していないのでないか。
明らかだったのは、あのとき、サーバーが、なにもかもひっくるめて厖大な無関係記事まで消去した暴挙があった。中には、「ペン電子文藝館」 の先行成功形の「 e-文藝館= 湖(umi)」に、数百人に及ぶ著作権者多数の作品が含まれていた。
あの当時押村夫妻が何をサーバーへ持ち込んだにしても、全体の万に一つにも当たらないことであった。さすがにサーバーはとにかくも一旦全復旧し、それを確認した時点で、即座に契約をわたしは破棄した。弁護士の示唆も得ていた。
いまだに誤解があるかも知れないが、サーバーからの事前通知も確実な手段での確認も只一度として、本当に全く無かったのだ。
また月替わりには、日付を逆に積まれていた日記は、日付順に直して保存ファイルに移転保管されるのもわたしの永年の習慣で、何かしら故意に記事を動かしていたなどということを耳にしたが、心外な誤解であった。
したがって、本当は残念至極であったのだけれど、「削除事件の白黒」が決せられたなどと全く考えてられなかった。今も。
しかしあのようなサーバーの暴挙にこそ、ペンは「問題点」を極力追究検討しておかないと、今後の電子メディア社会で著作者達はひどいめに会い続けるだろうと思っていた。「電子メディア委員会」がぜひ必要、だから創設した私の判断には、それがあった。
私は、裁判中も、「表現の自由の団体」であるペンや協会は、重大事あらば、少なくも「問題点を検討して体験の普遍化」により将来を顧慮されるのは、会員のためにも当たり前のことと思ってきた。
だが、裁判中に自己の正当性の主張に「ペン」を持ち出したりはしない。
但し、それと同時に、わたしはずっとペンの理事として、また委員としても多年働いている真最中にあった。私の考えの中に「ペン」憲章や、ここ数十年のペン会員( 理事・委員) の誇りが働いていても何の不思議も無かった。ペンは、どうあるべきか、どう働くべきか。それは三百六十五日、私自身の課題として念頭にありづけたのは間違いでない。
* なによりも斯くあって当然ではないのか。
裁判は終了し双方「控訴無く判決を受容」した。押村夫妻は父・岳父の手から、僅かながら妥当な各「百万円」もすでに受領している。
望ましいのは、この際、知識人らしい思慮と良識を用いて一切を水に流して、亡きやす香の霊のためにも孫みゆ希の未来のためにも二十数年来の確執を解くべきではないか。
働き盛りの教育哲学の青山学院大学教授や町田市の児童教育に参与しているらしい妻が、裁判も過ぎた今もなお手を携えて日本ペンクラブに、古くさくなってカビの生えたような話題を持ち込むなど、よほど目先の見えない行儀の悪さではないのか。
2011 9・7 120
* 山田健太氏に、詳細に、「判決主文」に即して事実のみ伝えておいた。最至近の親子という肉親が裁判というさえ法外な逸脱だと思うが、それも裁判所のじつに適切な判決に既に百パーセント指示を満了し終えている今は、本当に必要ならもはや他者を煩わすことなく、今こそ親と子の間柄できちんと話し合うのが妥当だろう。婿も身の盛りの大学教授、親は老いたりと雖も精神健康な大人である。押村夫妻が手を携えて山田委員長を煩わしに出掛けていった図など、あまりに子供っぽくはないか。
2011 9・8 120
* 夜前やはり眠りに入りにくく、秦建日子の新刊、刑事・雪平夏見シリーズの四作め『愛娘にさよならを』を読み始めた。ストーリイは残虐そのものの殺しを軸にして行く。なんでこんなムチャクチャが書きたいのだろうとも思うし、人間のむちゃくちゃ加減を云うなら先日読み終えた『黄金特急』起業という名にかくされたムチャクチャもどす黒い。場面やストーリイが違うだけで、要するにえげつない。
ただ身贔屓でなく、建日子作の行文には、褒めたいほどうま味は感じないが、むしろ軽い薄いなり不思議に透明度があり、柄わるくなく落ち着いて読ませる。本を読み進める最低条件を満たしているので、読んでみようと思わせてくれる。それにしても『殺してもいい命』だの、今回キーワードになっているある少女の「たのしみにしています。ひとごろし、がんばってください」というメーッセージ、それにのめりこむ殺人犯といい、吐き気がする。いまの読書界のこれが好みならば、真実情けない。これも出版文化なのか。
2011 9・11 120
* 秦建日子の河出書房新刊『愛娘にさよならを』を十分納得して読了、頑強な女刑事であったヒロインに「しをり」が出、小説の運びにも自然な「うまみ」がにじみ出て、このシリーズで初めて、彼の膳小説の中でも創作の妙味を初めて感じた。シナリオのト書きのような新鮮だがぶっきらぼうな新工夫から出発した作者だったが、文章のこくのある流れで凶暴とも言える筋をうねるように、しなやかに流れさせる力業に、あまり無理も破綻もなく近づいたのは作者の進境といえるだろう。こっくりと練れた作の進展に、進むにしたがいもののあはれの味わいを濃くして行く。文藝の願わしい進路であろうか。ヒロインにも共感し、愛をさえ覚えた。読者にも伝わればよいが。
2011 9・14 120
* わたしは人のネット上の仕事を妨害する真似はしない。しかし妨害されれば幾重にも幾段にも無道さに対抗し、別の新たな道をつけてゆく。道を付けながら多彩にネットの妙を押し広げて行く。
2011 9・14 120
* 妻が曰く、髪にふれて髪や頭の痛かったことなど、まるで無いと。わたしは幼児の頃から風邪を引きかけると髪が痛んで分かった。この一週間、髪に触れると全身そそけだつほど髪や頭や頸が痛い。冷やすべきか温めるべきかの確信がない。此の夜中は堪えかねて洗面所で、小タオルの数枚を洗面器の熱湯に浸しては絞って痛いところへ貼り付け貼り付け、そして痛み止めと安定剤を水分たっぷりで飲んで、幸い、八時過ぎまで眠れた。
機械に触るのはよそうと思っていたが、来てしまうと、書きたいことがある。やれやれ。
☆ 病院へ!!!
先日の電話は、正直いって、私の過去の数少ない経験上、とても不安を感ずる声でした。ところがお会いしていた間はあまり感じられないので、お疲れも気苦労のせいかと思っていました。元気は一時のことだったんですね。気づかず恥ずかしい限りです。
割愛
上記をコピーしていただいた際もお辛かったのでしょう?
こんなのは単純作業です。ちゃんとできてます。
休んでください。 岳
* そう「休む」のが大事なのだと分かっている。全身疲労はひどかったのに、「口上」にも拍手したし、「車引」も嬉しかったし、天空を疾駆して行く五右衛門の染五郎、三門の染五郎と数度も目が合った気がした嬉しさにも、気持ちよく昂奮していたし、弁当も食ってきた。この三、四ヶ月、あまりに不愉快なことが多すぎて、また渾身の気力で耐え抜いてきたのが響いているのは確かなのだ。ああ、だが、わたしは休まないだろうなあ。これが病気だ、わたしの。バグワンが怒り出すわけだ。グハッ。
2011 9・15 120
* 一夜、中途で起きることなく、痛みは感じながらも朝まで安眠できたのは何より何よりであった。
* 建日子作・演出の秦組公演を失敬し、妻と、やす香のお友達とで観てもらった。幸い鎮痛剤がうまく効いて、二三時間、一仕事し、次の段取りまでたてておいて、階下で、篠原涼子が演じる建日子原作の刑事雪平夏見もの映画をひとりで観ながら白粥を主の昼食を取り、そのあとは、七時半頃まで眠った、妻が帰ってきたなと感覚しながらも寝ていた。かなりきつい頭痛を堪えたまま『江』と『トンイ』というドラマを観、鎮痛剤を水分たっぷりとともに飲み、二階へ来て「仕事」の続きを一時間ばかり。冷房がいけないか、貸すかに腹痛が来ているので、もう休むことにする。
2011 9・18 120
☆ 当尾の里に萩や彼岸花が咲いています。夜の彼岸会に参加して帰ります。三重塔の薬師如来さまに快癒を祈りました。 鳶
* 父方の里、わたしが極く幼児期を二三年過ごしたと思われる南山城当尾のことらしい。浄瑠璃寺や岩船寺や、石仏たちの当尾である。
2011 9・19 120
* 「作家・秦恒平の文学と生活」=「公式ホームページ」のURL を、向後、
http://hanaha-hannari.jp/
とする。「総目次」もこの際、より分かりよく整備して行く。
従来の、
http://umi-no-hon.officebllue.jp/
には悪意の被害があらわれ、今後も危ぶまれるので、現状を維持しつつ、より無難な「活用」をこころがける。
* ホームページは、私の文学・文藝活動の有力な基盤として創設十五年来多彩に働いている。妨害に臆することなくバックアップ対策も慎重に重ね重ね講じながら、いっそう充実を図って行く。
「作家・秦恒平の新作」
「宗遠日乗 闇に言い置く私語の刻」 平成十年三月以降日々、本日まで数万枚。ジャンルに応じ次々編輯刊行されている。
「電子版・湖(うみ)の本」 創作・エッセイ 「清経入水」「蘇我殿幻想」以降、現在第百八巻「バグワンと私」まで。以降も継続。
「作家・秦恒平 全創作・著作・発言集成 年譜その他」
「作家・秦恒平 参考文献集纂」
「作家・秦恒平責任編輯 e-文藝館= 湖(umi)」 古典・幕末以来平成まで作家・詩人・批評家等、文豪より新人まですでに五百人・六百作に及ぶ大読書館。日々充実を加えている。
2011 9・20 120
☆ 秦先生へ
ホームページを閲覧していますと、だいぶ調子が良くないようですね。
非常に心配しております。糖尿病を患うと血管が弱り、いろいろと病気を併発することがあると聞いております。
是非お時間のある時に、医師の診断を受けることをお勧めします。
もし調子が良くなりましたら是非、ご連絡下さい。お会いしてお話をしたいと思っております。
ところで、現在公開されている映画『アンフェアthe answer』を見に行きましたが、原作は秦建日子さんなのですね。遅ればせながら、シリーズ化されているというのも初めて知りました。
殺人事件が中心なので、背筋が凍るようなスリルがある映画でした。そして、映画を見ていただけではまったく予想できない結末が待っていました。観客をも騙してしまう見事な化かし合いでした。
また主演の篠原涼子さんは、影があり、弱い部分もありながらも、超クールな刑事役を見事に演じていました。
原作も是非読んでみたいと思うようになった映画でした。
残暑の次には大型の台風がまた、やってきます。どうぞお大事になさって下さい。 冨士の松
* ありがとう。秦建日子の女刑事雪平夏見第四新作『愛娘にさよならを』も、読み物としても成功していると感じました。読んでやって下さい。
2011 9・20 120
* 例の「60日間」掲示期限終了を機に、しばらく御無沙汰していた牧野総合法律事務所宛て、報告のメールを入れた。牧野さんの返信もあった。
2011 9・21 120
* わたしの体調を慮ってくださるあまり、息子のブログにまでもの申して行かれるのは、有り難くはあるが、また、息子にも、わたしにもメイワクでなくはない。当方も、コドモではない。考えも、事情もあって日々に処しており、その説明までは、いくらご親切に対してといえ、必要ないことである。感謝は深い。とても深い。が、こういうことは以後ご遠慮願いたい。家族も考えている。わたしも、考えている。死生観などということではない。平凡だが難儀で厄介な俗事とともに在って、とも謂うが早いか。
2011 10・2 121
* 頭痛が無いわけでないが、鎮痛剤を口にせず晩まで過ごしてきた。仕事もし、気に掛かっていた用事も幾つも片づけた。妻と、かなり大事な相談もした。
師走に、七代目幸四郎の「曾孫」に当たる染五郎、松緑、海老蔵、三人での日生劇場公演が決まっているのが、今から楽しみで昂奮させてくれる。師走はわが家の祭り月でもある。元気を取り戻して、ぜひ楽しみたい。
いい劇場でいい芝居をみて、好きなものを食べて帰るという。概してものぐさなわたしの、これはささやかな贅沢で、他にはこれという何もしないで満足している。ほかに何が欲しいだろう。孫だなあ。
2011 9・24 120
* 朝、いきなり「訃報」と題名、発信者には弥栄中学時代「友人の姓」だけあって本文を欠いたメールを受けていた。家族からの報せか、本人が誰かわれわれ共通の知人の訃報を告げようとしたのか、分からない。カナダにいる田中勉君に問い合わせている。
もう、こういう報せは日常事になろうとしている。気を病みすぎないよう落ち着いて報せに聴かねば。
* 秦の母は九十六歳まで生きた。その伝にしたがえば、妻も私にも、なおまだ二十年二十一年もの余命がある。さすがに信じようがない。何をして、または何はしなくて、残る日々をどう暮らして行くか。それが窮屈な枠組みを自身に強いるのではなく、たぶんにふっくら柔らかい時空のなかで、なるべく心ゆく楽しい、おもしろい日々を味わって行きたい。なにより不要モノ、不要コトを惜しまず捨てて行くこと。もう広い世間は要らない。
2011 9・26 120
* 秦建日子の、朝日新聞だかに出たという河出書房のどでかい広告を、妻がご近所から貰っていた。例の女刑事行平夏見もの四連作を並べていて、通算してだろうか百何十万部のベストセラーだと。親父には逆立ちしても出来ない芸当である。すくなくも養ってやらなくて済む大親孝行者だ。そんなに売れなくてもいいから、ますます佳い作、作の品の賞味できる作をこころがけてくれますように。 2011 9・29 120
* いましも妻は懸命に「秦恒平参考文献・輯」に連日連夜取り組んでくれている。「論攷」「書評」「批評」「世評・アナウンス」に分類して、保存してきた限りを電子化してくれているところだが、その総量の多いこと多いこと、出てくるわくるわの何というか「頼もしさ」に、妻はスキャンし、校正して読み、或る意味で楽しんでさえいてくれるようだ。まだ、百の一つにも当たらないほどで、「湖(うみ)の本」創刊以前の、以後も含めて、どんなふうに秦恒平の創作・著作・人間が批評され観察されていたかがこわいほど覿面に読み取れてくる。有り難いことだ。
今日はたまたま見つけた「古典遺産」№33という1982.10月の雑誌巻頭で、「座談会・秦恒平著『風の奏で』を読む」という長篇を手渡しておいたら、興がわいたか直ぐさまスキャンし、一通りの校正までしてくれた。平家物語研究者として知られた今はない梶原正昭教授をはじめ加美宏、小林保治教授三人で、わたしの小説を専門の研究者・学者の立場から大量に読み合わせてもらっている。
おそらくわたしの熱心な読者でもこんな文献には目も触れたことないだろう。表題などのデータだけでなく、出来る限り本文内容も読んで貰えるように用意しているが、なにより総量の多さにわたし自身が仰天している。嬉しい悲鳴である。
2011 9・30 120
* せねばならぬ事が、少しずつ動いて、この私語へむかう時間が減って行くのは、わるいことではない。仕事をしやすくするため、わたしに「机」を用意した。買ったのではない、その上にドッカンと載っていた今では旧式も旧式の大きな重い重いプリンタを取りのけ、キャノンに( 勿体ない買い溜めていたインク七本までも無償で) 引き取らせることにした。おかげで、わたしが高校時代から使い、朝日子が使い建日子も使っていた大きな机の上が、(まだモノは載っているが)とにかく校正など出来る程度に明いた。高校大学の昔に、またそこで小説をせっせと書いていた昔に戻るわけだ。机のそばに妻のピアノがある。ピアノを鳴らす時間は遠慮する、いやいや部屋は妻の部屋なのであり、ときどき貸し戴くのである。
2011 10・5 121
* 昨夜遅く建日子が来て、二時まで用談や歓談。
建日子は夜通し仕事に励んだらしく、今朝は居間で午前中熟睡、昼食後ももう少し寝たいらしく、妻は近くの病院へ予約の診察を受けに出掛けた。
一つ家に建日子がいると思うと、ひとり二階の機械の前に来ていても、胸の内が温かい。
* 建日子は、わたしが所持所有の茶道具や絵画・陶藝また全集・事典・書籍等には積極的な関心がなく、良いように思うまま処分して下さいと言うので、それなら、愛着の少々だけ残し、機会を得て人様に形見分けしたりさし上げたり、業者や図書館に引き取って貰ったりすることに一決した。方針がそう定まれば躊躇無くさっさとことが運べる。
* 建日子は、結局、昼食だけをはさんで午前も午后も夕過ぎまでぐっすり寝ていった。晩食のあと、歓談に時を過ごしてから、いましがた七時半過ぎて都心へ戻っていった。平清水「残雪」の佳い「壺」を持って帰った。自分で水をいれ自分で花でも葉でも挿しつづけてみるといいと宿題にした。
一枝や一輪を挿すとは難しいわざである。
2011 10・11 121
* 昼過ぎて、中国映画『胡同のひまわり』を観た。秀作であった。建日子の父親として、母親として、また朝日子の父親として、母親として、胸をつかれる秀作であった。
* 南山城の従弟に、コーヒー豆を発注した。
2011 10・13 121
* 半世紀の余もむかし、日本晴れの大文字裏山に登り、大きな比叡の山に真向かって、空気の乾いた山の斜面に寝っ転がっていたのが、今日だった。昭和三十二年。
2011 10・16 121
* 永楽和全が七十余歳での造、「河濱支流」印のある赤繪呉須の「珠取獅子」盂を楽しんだあと、裏千家淡々齋の箱書された、何代だろう三浦竹泉の造「祥瑞写捻」の美しい水指を柏叟筆「閑事」の軸前に出してみた。手の佳い造りで胴より下を豪快に捻ってある。共蓋で、しっかりと大ぶり。いまの竹泉さんは大学の先輩で、ずうっと「湖(うみ)の本」 を支援して下さっている。お尋ねすれば何代さんの造であるかはすぐ分かる。「竹泉」は磁器、そしてきわめて華麗ないい仕事をみせてくれる。やはり何代と記憶しないが豪奢に丈高い瓶花生も家にあるはず。
こういう美術品は、ただ箱に入れて雑然と死蔵されてしまってはモノに対し申し訳ない。建日子が、趣味と眼とを養いながら、収蔵もし観賞も出来る、設えのいい家を持ってくれると何よりなのだが。
2011 10・19 121
☆ おじいさま、おばあさま、こんにちは。
お葉書頂戴いたしました。メールをいただいていたなんて、申し訳ありません。私のパソコンのゴミ箱に自動的に入っておりました。
どういうわけか、頻繁に使わないアドレスからですと、勝手にゴミ箱に入ってしまいます。最新の機能も困ったものです・・・
今、探し出して救出、やっと読むことができました!
「アマデウス」の舞台、是非ご一緒させて下さい。その日は都合良く何も予定がありませんでした。
おじい様おばあ様とお会いできる素敵な日! 今からとても楽しみです。
その後、おじい様の体調は戻られましたでしょうか。あれから気になりながらも、バタバタしているうちに時間が経ってしまいました。
最近は、論文執筆とアルバイト、家の片付けで時間が過ぎておりました。
本当に大変失礼いたしました。でも、ネコさんの可愛いお葉書を頂戴でき、嬉しかったです。
本日は取り急ぎお返事まで。 莉
* 一年のパリ留学から帰ってきた、やす香の親友から。
* 機能ばかりややこしく新しくしながら、「頻繁に使わないアドレスからですと、勝手にゴミ箱に入ってしま」うようなものを高価に買わせるなど、本当にメイワクだ。わたしも、大事なメールが不良扱いされ、あわやボツにするところを救い出した経験がある。それと、最近は、機械に入っている普通のメールをめったに開かないという例も増えている。
昨日の妻の機械での大量原稿喪失は、妻だけでなくわたしの気も腐らせる。秦恒平の作に対する数十、それ以上もの、校正も済ませた「書評」原稿を瞬時に喪失し、呼び出せない。おそろしいほどの、妻の視力・体力ロスである。精査すればきっと見つけ出せ救出出来るのだろうとわたしは体験的に感じているが、遺憾にも妻の新機は、同じ会社の機械なのに已にわたしの手にとても負えないのだから、情けない。妻は泣く泣く一からやり直しかけている。
わたしは、人も呆れるほど昔の儘の機械を親機としてメインに使っている。ややこしい使い方はしない。古なじみの親しさで、ただ、容量はしっかり取ってある。しかしいくら「FACEBOOK」から連絡があり、開いて読んでくれと云ってきても、この機械が余りに古くて通用しないらしいと分かってきた。そういうソシアルへの興味も関心も実は失せていて、これ幸いと放ってある。
2011 10・21 121
* 新しい機械(Lavie Windows7)に不慣れな妻が、延々と手伝ってくれていた作業ファイルを、理由不明で消失してしまい、わたしも、ガッカリしている。ま、有りうることで、わたしも何度も似たような落胆と憤激を繰り返してきた。使い慣れた古い機械に親しんでいるのは、そういう失敗がもうめったに起きないからで。新しい機械は、怖い。
わたし自身はなんとか機械の内容を簡素化したいと、余分なものは消していっているが、バックアップは省けない。
2011 10・21 121
* 散歩はよいに違いないが、わが地元ほど平々凡々の町はすくない。生い育った京都の東山区とは天地ほどちがう。わざわざ隅田川まで行くのは、そのためだ。たとえ保谷で妻とでかけて、さ、途中でどっちも疲れてしまっても、乗って帰れるタクシーも走っていない。
* 書中の散策がいちばん楽しいが。
* 妻を後ろに乗せて、すいた道を通って黒目川に沿い、落合からも黒目に沿って溯ってきた。程よく引き返し、きのうと同じ道を家まで帰った。身体の働きは、二人乗りだとそれだけ多い道理。帰ってのビールが美味かった。
2011 10・24 121
* このところ漢字に惹きつけられて、二階廊下に並べた小型本のための本棚から、國分青 閲、井土霊山選の『選註 白樂天詩集』や田森素齋・下石梅処共選の『頭註和訳 古今詩選』を抜き出して身近へうつした。ついでに大宮宗司編纂『日本辞林』や内海以直編纂『新編熟語字典』も持ち込んだ。むろん明治二年生まれの秦の祖父鶴吉が旧蔵本で、白詩集は崇分館明治四十三年の四版本、金六十五銭。辞林は明治三十五年十五版を数えている。
小児のわたしは、漢籍の中でもとりわけ『白楽天詩集』をポケットにまで入れて愛玩愛読し、今見ても、かなり本を傷めてしまっている。中学や高校時代の習作をのぞけば、わたしの処女作、「小説が書きたい書きたい」と思い詰めて初めて筆を執った作は、単行本『廬山』におさめた、今は「 湖(うみ)の本」30 に入れてある『或る折臂翁』であり、云うまでもない此の『白楽天詩集』のなかの反戦長詩「新豊折臂翁」に、強く嗾されて書いたのであった。わたしは、国民学校四年生の戦時疎開中も、いつか兵役に就かねばならぬ事を痛切に嫌っていた。すでに白楽天の此の詩を見知っていて、共感も称讃も、大学を出て就職し結婚したあとまで、少しの衰えも無しに残っていた。是が非でも「小説」が書きたい原動力になった。
なじまない、こわいお祖父さんであったけれど、一介の町民でありながら父など「学者やった」と褒め畏れた祖父の蔵書、夥しい漢籍・和本等の恩恵は、まともに、わたしに流れ込んで、今もなお生きて働いている。感謝せずにおれようか。
こころみにスキャンをと願ったが、叶わなかった。
2011 10・27 121
* むかしふうに明治節と呼んでも、明治節にとくべつの思い出はない。「秋」という季節に分厚くどの年も埋もれていた。まだしも寒い寒い二月の紀元節には、ふしぎなほど肌身に沁みた思い出がある。町内で炊き出しの「粕汁」の香も甦る。秦の父は粕汁さえ苦手なほど酒の香に弱かったがわたしは好きだった。母の粕汁はうまかった。
もっと昔は、明治節でも紀元節でも天長節でも学校で紅白の饅頭が出たと聞いていたが、わたしのときは太平洋戦争がもう始まっていて、そういうウマイ話は覚えていない。年々に砂糖は貴重品であった。
* 明治節はともあれ、しかしわが家には「明治」の空気は残っていた。むしろ「大正」の年号のついたものが滅多に無かった。祖父も両親も叔母も「明治」生まれの人だし、例の蔵書なども、奥付はほぼ例外なく「明治」だ。たまたま今手にした東亜堂書房刊の『澤庵禅師 老子講話』は明治四十三年三月の四版で、「正価壱圓参拾銭」、初版が同年一月とあり、どれほど刷るのか、こんな難しい本が二ヶ月足らずで四版とはめざましい。秦の叔母が十歳、父は十二、母は九歳。間違いなく祖父の蔵書である。祖父秦鶴吉は明治二年に生まれていた。
文友堂書店蔵版の『頭註話訳 古今詩選』は明治四十二年師走の初版本で「正価金五拾銭」。奥付のあとへ版元文友堂の発行書目がついていて、もちろん宣伝文が付いている。わたしは、それらを読むのも好きである。『三字経國字解』『抄註 平家物語』『ポケット日本外史論文講義』や白隠禅師の『夜船閑話』もある。『傑作小説 手紙大観』の売り言葉など、「拝啓 読者各位に申上げたき事御座候」と始まり長々と功徳を述べ立てているすべて「候文」の手紙仕立てだからおもしろい。
おそらく大正時代の刊本となれば、よほど様子がちがうだろうが、つまり祖父も父も大正時代になると「本」を買わなかった、読まなかったようである。
2011 11・3 122
* 本紙は、責了可能のところまで読んだ。夕方へかけ三時間ほども寝込んだ。寝ていると、みんな忘れている。夢を見なくてすめば極楽だが。
妻の描いた葉書大のノコの肖像をまぢかに置いている。母ネコの子( ノコ) 。十九年、わたしたちと居てくれた。妻の筆はノコの眼と瞳とを生けるごとく写していて、わたしは、その目と、三十数センチの間近で見合う。母ネコの産んだ五、六の仔たちのなかで、ただ独り母のそばに残され、母と子とでわが家に生きて、死んでいった。二人とも庭のまぢかに葬った。いまは、さ、血が繋がっているかどうか、真っ黒いマゴがわたしたちの鍾愛を一身にうけている。三世代の愛猫たちは、朝日子や建日子たちよりも無心にわたしたちの同行者、好伴侶であったし、マゴはいまもすぐそばに元気で。
ネコもノコも、確実にわたしたちとの再会を待っている。ノコ画の生き生きとした目がそう語りかける。
2011 11・9 122
* 大宮宗司という人の編纂になる東京博文館蔵版の『日本辭林』は文庫本より小さい、しかし六百数十頁もある。「文典大意」や「冠詞一覧」付の周到な一冊で、なんと「紀元二千五百五十三年三月廿五日のつとめて」に書かれた「緒言」も持っている。「明治廿六年三月三十日印刷出版」で、いまわたしの手にしている本は、同三十四年三月の「十四版」本。もうとうに九十六歳で亡くなった秦の母の生まれ年の本である。
いまもって耳慣れない、つまり私の知らないまま来た「辞」「語」が無数に説明されていて、見飽きない。「ひじり」とは云うてきたが「聖、 佛、僧になる」 意味で動詞の、「ひじる」とは、迂闊にも読んだり書いたりした覚えがない。こわかった秦の祖父鶴吉の遺産と思うと、いまごろ、 自然に頭がさがる。
機械を使っていると、隙間のように訪れる「待ち時間」がいろいろ有る。そんなときわたしはこういう大昔の本を、ちらちらと読んでいる。巻末の広告も近刊予告なども楽しんでいる。ミステリアスな不似合いに相違ないが、恰好の時間利用でもあるのが可笑しい。 2011 11・10 122
* まだ未整頓で混乱したままではあるが、ホームページの中で「秦恒平の参考文献輯」を見て頂くと、「書評」「批評」「世評」の原稿が、もう幾らか電子化され、とにかくも掲示されつつある。要するに発表当時の「同時代評」等の「纂集」に手をつけたばかりで、出し尽くすまでには相当な月日を必要とする。手の出せるところから妻が手当たり次第自分の機械へコピー原稿を電子化し、また校正してくれている。校閲もまた適切な配列もまだまだ遠い先の仕事だが、作が、どんなに批評され書評され評判されていたかは、個々の原稿でもよくわかって、本人の私でさえ、へええと驚いたりムカツいたり喜んだり出来て面白い。煩雑で数知れない作業に妻は打ち込んでくれている。有り難い。妻は妻なりにしごく興深いしごとであるらしい。
2011 11・10 122
* 昨日の声楽の会で、「故郷」をうたった日本の二つの歌を聴いてきた。衝き上げてくるものがあった。言葉の分からない異国の歌曲やオペラのアリアより胸にこたえた。二つとも、口うるさい批評家のわたしの、子供の頃から好きな歌であった。
* わたしの故郷とはどこだろう。
京都市東山区新門前。これは間違いない。東京の新宿区河田町も、京都府当時南桑田郡樫田村杉生も故郷として懐かしい。
京都府相楽郡当時当尾村はどうだろうか、実父の生家があり、一つから四つまでわたしは両親とでなく、父方祖父母の一家とともにそこで暮らしたのだが。
生母の歌碑の今も建っている生母実家のあった滋賀県当時神崎郡能登川村では、半日も母といっしょに暮らしていない。
ほんのしばらくでも生まれて両親や幼い実兄や年嵩の異父兄と起居を共にしたらしいのは、京都市右京区太秦であったらしいが雫ほども記憶にない。
新門前の二十年ほど、丹波杉生と新宿河田町との各二年ほどがわたしの「故郷」だ。あえて加えれば子供達二人ともともに過ごし、孜々として小説を書き始めていて太宰賞をもらった、あの医学書院社宅で八、九年をすごした、当時保谷町字山合も故郷に数えたい。 2011 11・12 122
* 南山城の父方の実家から、地の名産ときこえた柿、富有柿一箱を送ってもらった。こちらでの買い置きよりも美味い。恐縮です。 2011 11・15 122
* 巻頭に出した紅黄緑樹の保谷野秋色を、「見事です」とアメリカから褒めてもらった。原寸だと四倍になり、さらに惚れ惚れするシンフォニイで。
この写真機は2004年に買った。どう選んで佳いのか分からない、ビックカメラで相手してくれた娘ほどの店員に、あなたがお父さんにプレゼントするならどれを選びますかと聞いたら、「これを」と選んでくれたのを買った。ワイシャツの胸ポケットにらくに入るので、嵩張ったり重いのが苦手なわたしにピタリ、以来愛用。機能のこと、さっぱり分からない。マニュアルを早くにどこかへ見失って、いくら捜しても出てこない。いま、欲しい捜し物三つ四つの一つなのだが、頑固に見付からない。
* いつも物捜ししているようだが、かほど厖大にものを捨てないわたしにしては、差し迫って見つけたいのが三つ四つとは少ない。始末はわりにいい方で、むしろ妻の方が日々の必需品までよく見失っては捜している。面倒でも仕舞う定位置に仕舞わない、手当たり次第にその辺に置くから、見失う。ま、似たもの同士で、お互いに相手の逸失物を捜してあててはイバッテいる。
2011 11・16 122
* 裏千家十三世圓能齋の書になる細長軸「紅葉舞秋風」を、叔母の社中で、わたしも六十年來つきあってきた方に、今日謹呈した。
十四世淡々齋家元の箱書がある。古門前の林樂庵に宛て「又拙庵」が贈りものにした熨斗書きもついていて、由緒伝来の明瞭な品である。
叔母宗陽が終焉まで永く永く社中として出精し、叔母亡きあともわたしの「湖の本」を欠かさず購読しつづけてくれた、いわばわたしにとっても、少なくも五、六歳姉弟子に当たる有り難い人。何十年も顔を合わしていない人。
2011 11・17 122
* 秦建日子が「書き下ろし初版」で講談社文庫を出した。テレビドラマとしてすでに配役進行しているらしく、仲間由紀恵・瀬戸朝香らの写真が表紙に使われている。医療過誤を扱っているらしい。妻がもう読み進んでいる。書き下ろしのドラマ化なのか、ドラマのノベライズなのか、知らない。建日子の仕事ぶり旺盛とだけ見知っている。旺盛にやれるなら旺盛にやるべし、ただしなるべく叮嚀にと願う。
2011 11・17 122
* 銀座一丁目の「ル・テアトル」で、松本幸四郎が演出・主演の「アマデウス」を観てきた。一年のパリ留学を終えて帰国していた亡きやす香の親友を誘って、三人で観た。前から五列目の中央角席をもらい、主役のサリエリの悲劇の愚痴を真向きに聴き取るような按配。
去年の今頃は、同じ幸四郎の「カエサル」を観ていた。カエサルの死には積極的に時代や歴史を貫いて行く迫力があり、作曲家サリエリの「悲劇」には、宮廷社会の経歴にも地位にも名声にも恵まれた、しかし凡庸な才能が、奇矯に過ぎた若い天才モーツアルト出現に揺すられ脅かされ、はげしい嫉妬心に狂ったまま奈落へ沈んで行く「凄みの喜劇」がまつわりついていた。藝術の凄みが容赦なくふつうの藝術家を蝕むように滅ぼしてしまう喜劇的な悲劇。
幸四郎はそんなサリエリを微妙に造形して観客をよく説得していた。藝術に携わる作家の一人としては、暢気な顔をして笑いも泣きもならない嶮しい内容を帯びており、楽しい楽しむとばかりは云うて向き合いにくいシンドイ舞台である。
* 帰りがけ劇場内の人なかで、幸四郎夫人に声かけられ、暫時親しく立ち話ができた、妻もわたしも。
* 劇場の外へ出てから腰の痛みに凹んだ、杖を持たず出掛けたのが不味かった。三笠会館までの歩行が辛かったが、堪えて。「秦淮春」の中華料理でパリからの無事帰国を祝い、おりしもボジョレーヌーボー解禁とあり、ボトル一本をあけてきた。紹興酒も美味かった。
銀座の路上で若い人と別れ、有楽町線で帰路へ。幸い坐れて。保谷まで睡っていた。黒いマゴが嬉々として出迎えてくれた。
留守中の郵便物には、「七世松本幸四郎襲名百年」記念、曾孫の三人、当代ほんものの花形役者である市川染五郎、市川海老蔵、尾上松緑で日生劇場師走競演の、はや座席券が届いていた。昼は「碁盤忠信」「茨木」、夜は「錣引」「口上」「勧進帳」という、とびきりのご馳走。「七十六歳」になる、なにより花の景気、ありがたし。
* 腰の痛いので、何倍か疲れた今日は。休息、はやくからだを横にしたい。
2011 11・18 122
* 一日の余裕無く、明日出来の今日いっぱい、送本用意にかかった。寄贈送本の範囲をすこし広げてみたためである。
発送が済めば、本命の「仕事」とともに、ゆるがせにして置けない家の「要事」にも取り組まねばならない。もう放っておけない。 2011 11・24 122
* このごろのことだが、生んでくれた親達にも感謝のきもちの湧くときがある、このからだを伝えてくれたこと。
病弱の幼児で小児であったのが、大学一年のときの移動盲腸の長時間手術から以降、入院ということを知らない。
糖尿病と告げられ即日三度のインシュリン注射を言い渡されて十数年、依然としてわたしは医療に背いて飲食の節制をまるで欠いている。食べたいだけ呑みたいだけの年数を経ている。さまざまにからだに障っているではあろうが、当面血糖値もコントロールしているし、ヘモグロビンとやらの値もおさわっている。運動力は衰えているが、自転車で二時間走ってきてもまだ平穏に過ごせている。なによりオドロキとともに感謝に堪えないのは、たしかに衰えは着々進んでいながら、まだ現在のように長時間大量の読書にも映像の楽しみにもあずかれていること。父や母を経て恵まれた健康力であるに相違ない。ありがとう。
* とはいえ にげかくれする討入りの夜のあんな「炭小屋」など、わたしは持たない。待つのみである。
2011 11・30 122
* ようやく、寛いでいるのだと思う。わたしも妻も、かつてなく、昏々と眠る。一日の大半を眠っている。
孫やす香の名で「白血病」が「 mixi」 に突如公開され、まもなく「肉腫」という決定的な悪病まで公開されてこのかた、丸五年= 六十ヶ月嘗め続けた苦渋は、われわれ祖父母夫婦の寿命をすりつぶして出来た毒の味であった。
愛孫の「かくのごとき、死」が、なにゆえに祖父( 母) を被告席に置くに値したのか、しかも実の娘や婿の手で。わたしたちは今もって理解しがたい、不徳ゆえと譏られても仕方ないのだが。
しかし、ようやく今年六月末、結審した。余震はなお二ヶ月ほど不愉快に続いた、いまはやっと静かになっているが。
そして、めったになく一ヶ月の余もわたしは病臥の日々を送った。ようやく往年の歌集『少年』を引き結ぶていに、老後の述懐『光塵』を送りだすことが出来た。わたしも妻も、かつてなく、昏々と眠る。一日の大半を眠っている。ようやく、寛いでいるのだと思っているが、まだこの先は分からない。
幸いにとは謂えまい、不幸にしてと謂うべきか、この間にわたしはやす香病状に同時に追い縋るように、結果は「挽歌」と帰した日記『かくのごとき、死』(「 湖(うみ)の本エッセイ」39 )を書き、長篇フィクション『逆らひてこそ、父』上下巻(「 湖(うみ)の本」50 51)そして『凶器』(「 湖(うみ)の本」 通算101)を書き下ろし、また思いをこめて詩歌鑑賞の『愛、はるかに照せ』(「 湖(うみ)の本エッセイ」 40)を出版してきた。失神しそうな苦悶や憤怒のなかでこれらを懸命に「書く」「書きつぐ」「本にする」ことが、わたしを強く起たせていた。残念ながらほかの方面の創作へこころを遣る余裕は無かった。そしてバグワンに助けられ、ありがたい大勢の知己のちからに支えて貰った。
* 喪っていた時と力とをどう取り戻せるか。旬日ののちには七十六歳になるが、ありがたいことに、今日その数字は致命的な「老」には幾ばくかの余裕をはらんで見える。正月早々の人間ドックがなにをわたしに告げるのかは分からぬが。
思いに凝って、 身に代えても取り返したいとただ願うのは、ただやす香である。『光塵』 66 70 72 75 76 78 84 90頁に書き残した孫やす香を悼み想う祖父の歌のすべてが、この五年の地獄苦を清めてくれている。
2011 12・4 123
* あの日から七十年。あの日もわたしは送迎の園のバスで、馬町の京都幼稚園に行き、昼には給食の弁当を食べた。弁当箱のぎっしり詰まった箱が園に運び込まれるのを、たまたま見た。食べ物のにおいを今も覚えている気がする。すべての記憶の背景か素地かのように、 毎月の配本を待ちかねていた平和で温和なキンダーブック毎頁の繪が目に浮かぶようだ。対米英開戦の詔の出た日である。もはや現実に真珠湾が燃え上がっていたのだ。
あれより以前も、むろん無かったのではない。しかしわたしの人生が「時代」とともに「動き」始めたのは、あの日以後のことだ。そして、七十年ーー。
あの翌昭和十七年四月に国民学校に上がった。「幼稚園ぼ」の秦宏一( ひろかず) がその日から与り知らない「秦恒平」に変貌した。そそくさと三年生を終えると、トラックの家財といっしょに雪の凍てた丹波の山奥に疎開した。昭和二十年だった。夏には原爆がヒロシマとナガサキを破壊し、敗戦。突発した腎臓炎に手を引かれて山の暮らしから京都へ帰ったのが、翌年の秋だった。歳末にやっと退院した京の町中を「進駐軍」のジープが我が物顔に走って、けばけばしく身を売る女達が飛び跳ねるように歩いていた。静かな静かな新門前通りに、ダンスホールが出来た。小学校には外地から引き揚げてきた生徒や、戦災に追われてきた生徒達が大勢加わっていた。昭和二十二年春、六年生になり、全校で選挙されてわたしは初の生徒自治会長になった。家では叔母に茶の湯を習い始めていた。 2011 12・8 123
* 夜九時から十一時前まで、秦建日子原作・脚本の二時間テレビドラマ『悪女たちのメス』(原作『インシデント』講談社文庫)を観た。原作の文庫本は読んでいない。
仲間由紀恵と瀬戸朝香とが、優れた脳外科医と、元ナースであった現在メディカル・コーディネーターとして、フクザツに対立する。背後に、大きな医療経営資本の黒い策謀と暗躍とがある。すべての犠牲かのように祭り上げられるのは、執拗な頭痛に悩んでいた女子高生「さやか」であり、難しい脳手術の執刀医として仲間由紀恵演じる優れた脳外科医を熱心に患者に勧めるのが、瀬戸朝香の演じるコーディネーターである。この女子高生には、いましも海外留学に見送らねばならぬ先輩の恋人があるばかり。親は、父も母も手術当日も他の日にも忙しい仕事を口実に、付き添いにも見舞いにも来ない。女子高生「さやか」は孤独感にもうちひしがれていて、死をすら受け容れようとしていた。そして、見事な手術成功とみえた直後、病室で「さやか」の容態は急変し死んでしまう。
* 息子の書いたドラマは、ほとんどあまさず観てきた。連続ドラマには、『ドラゴン桜』『ほかべん(=新米弁護士) 』『ラストプレゼント』など佳作もあったが、単発の二時間ドラマとしては、今夜のこその秀作ではなかったか。構造的に今夜の作はもっとも堅固で、無用のたるみなく、緊迫し展開し意表に出て、提示している医療と医療過誤と病院経営などの孕んだ社会悪にも、厳しく逼ろうとしていた。ためらいなく、意図的にも、表現としても、総じて秀作の域に逼っていた、いや秀作だったと褒めていいだろう。画面が無機的な冷たさをもって美しく、ムダのない的確なシーン展開にも、ここちよい速度感と説得力があった。むろん、脳に異常のある患者が、頭髪をもったまま手術台に上がっていたりするらしく見えて、はらはらもしたけれど。
* 大事なことは、反撥し合う仲間も瀬戸も、むろん恋人の先輩も、ドラマの根底では、「さやか」という患者の「命」に熱い意識を向けてはいた。だが、しかも仲間医師は、手術中に執刀医の場からはなれ、他の「大事な大物患者」の手術室に入っていたし、瀬戸コーディネーターは、隠していた大きな野心・意図のためには、「さやか」の命をすら悪意と暴行により、生け贄として見捨てる振舞いにまで出ていた。その背景には、病院経営者や資本家達のえげつない欲望が渦巻いていた。所詮、仲間も瀬戸も「金権力」の敵でありえなかった。
まして特徴的なのは、「さやか」の父も母も、命危うい難手術の、前にも後にも当日にも、極めて不自然なほど姿すらみせないというドラマの進行であった。脚本のミスではない、はっきりと意図された作の表現であった。病状に堪えかねてコーディネータの瀬戸を頼って相談に行ったのも、「さやか」の単独の頼みであった。親達は「忙しい」のだった。瀬戸や病院に「お任せします」であった。あげく母親が、娘の「心不全」と言い繕われた死亡診断の前で、「テレビ取材映像」としてまさしく遅ればせに、泣き叫んで見せていた。
原作は知らないが、このドラマに関する限り、娘「さやか」の命は、根から孤独そのものであった。かくも個人の命が風前の灯火のように孤独の冷たい風にさらされていたのでは、いかなる医学も技術も病院施設も、無意味に歪んでしまう。
じつに、そういうドラマなのであった。寂しい「さやか」は、結果として自殺していたのである。
* 科白も能く書けていた。格段に、じょうずになった。…、ホメすぎたかなあ。
* 瀬戸朝香の演じていたメディカル・コーディネーターとは、要するに、困惑している患者のために最も適切な医師を紹介するようなしごとである。事実として今日では存在している。
わたしは、医学書院で大童に医学看護学の企画者・編集者としておお働きしていた頃、全くこれと同じ意図で、「メデイカル・コネクション」という事業を興そうかと、かなり本格に妻と語り合っていたのを思い出す。それが可能だとわたしは確信もし自信すらもっていたほどだが、だが、やはり小説を「書く」方に本命の願いが強かった。「メディカル・コネクション」が、しかし、本当に出来るといいのにとわたしは真実願っていたのである。
そんな方面の脚本を、今日、息子が書いて実現しているのにもわたしは感慨があった。
2011 12・9 123
* 仕事でない要事であるが、やり過ごせないその要事がなかなか捗らない。放っておけば、なんだかだといいながら暮らして行くだろうに。生きている内にしたい「仕事」に意識も時間も集めたいのに。死後の配慮に気を配ったり使ったりは、必要と分かっているだけに、のしかかられるように煩わしい。
2011 12・12 123
* 亡きやす香の一のお友達の、就活に成功してすでに卒業後の職場が決まった由、報せがあった。おめでとう! この時節のこと、超級のクリーンヒット。よかった。一年留学も終え、卒論の仕上げも近いと。お祝いしたい。
やす香が元気でいたら、どんな就職活動に奮闘していただろう、国連に勤めたいと話してくれていた。願いを叶えさせてやりたかった…。妹のみゆ希がどうしているだろうと、祖父母は三日に上げず語り合い、どうか元気に堅実に日々を幸せに送ってくれていますようにと心から祈っている。わたしたちに手伝ってやれることがあるなら、どうか本人から声を掛けてきてくれるとどんなに嬉しいだろう。いまのところは、大学へ進んだのかどうかも全く知れないまま心配している。
それはそれとして、やす香のお友達の上のメールが、妻の機械で不正メール処理されていたそうで、あやうく削除前に見付けられたのは幸いだったが、こういうことがタマにあるのは、心配だ。
2011 12・13 123
* 就寝前の読書は、すべて枕もとに本がある。
この機械のそばにも、合間合間に読む本がたくさん置いてある。古文真寶、陶淵明詩集、唐詩選、白楽天詩集、古今詩選それに老子など漢字ものが在る。福田恆存さんの『日本への遺言』や、清水房雄さんの最近の歌集にも手を出している。原色茶道大辞典もたくさんな写真を拠点にして、「愛読」しやすい。
そして、さしあたり「小説」という「仕事」のための文献がかなりの数積んである。多すぎるとも謂える。また「湖の本」の、ことにエッセイ編は全巻漏れなく身のそばに置いて、いつ何時でも直ちに関連の個所が引き出せる。ぜんぶ記憶にある。
こういう全てを放棄し心身から脱落させてしまいたい気もあるが、なかなか出来ない。
昨日は、実兄、今は亡い北澤恒彦との「往復書簡=京都私情」をエッセイ10で読み返していて、感無量だった。1979年、兄は四十五歳、わたしは四十三歳だった、いまは息子の秦建日子が四十三歳。
湖の本の出せるうちに、建日子との「往復書簡」一冊が出来ればどんなだろう。兄とはいわば「京、あす、あさって」を書きかわした。建日子とは、「創るということ」など、「書き合い」「考え合う」話題にならないだろうか。
2011 12・18 123
☆ 近況を一つ 都内
まだ、はっきり結論は出ていませんが、非常に悩んで、娘を東京から出す方向で動いています。色々調べて調べて、今の東京は子どもと妊娠可能な若い女性の住んでいいレベルではないと判断せざるを得ませんでした。首都圏はキエフどころかチェルノブイリレベルの汚染になると言う人まで出てきました。
東京が石原知事の暴挙のもと、汚染された瓦礫を燃やしはじめて線量があがってきていること一つとっても、安全という学者ではなく、早く逃げろと警告する学者のほうを私は信じました。
今の若い人たちは親世代ほど危機感がなく、気に入っている仕事と築き上げた人間関係を棄てることになるので、娘は渋っていました。しかし、健康被害が出てしまえばそんなものは何の意味もなくなります。出来ない理由をあげていたら手遅れになると思うのです。
本来は年内に脱出させるべきでしたが、親としても迷いぬいていました。細心の注意を払えば生活可能であってほしいと、そう願い続けていたのです。残念ながら、政府の放射性物質拡散放置、いえ推進ともいうべき愚かしい、愚かしい政策の数々により、事態は急速に悪化しています。除染も瓦礫処理もすべて利権が絡んでいるのだろうと推察しています。お蔭で本来なら安全でいられた西日本や沖縄まで、日本中に放射性物質が蔓延しはじめました。今後は住宅や家具などあらゆるものから放射性物質が検出されるようになるでしょう。(とめようとすればとめられるのに)子どもや若い女性は来年三月、事故から一年以内には何とか被曝を避けられる場所に逃げなくては……。戦時中の学童疎開のようなことをさせるしかないのです。
決断の最後の一押しになったのは、友人のお嬢さんが心臓に問題のある赤ちゃんを出産したことです。妊娠初期に福島の事故があったわけですが、東京の高線量地区に住んでいました。ふつうの妊娠出産でもこのようなことはありますが、まったく被曝の影響がないとも言い切れません。人類未踏領域のとんでもない災害なのですから、最悪を予測して行動すべきだと思って、親の強権発動のようなかたちになります。娘にはどうか健康な子どもを産み育ててほしいと祈るばかりなのです。
私はたぶん第二次大戦の初めはこんな雰囲気だったのではないかと想像しています。根拠のない楽観がはびこり、大本営発表がまかりとおっている。戦争当初に阿鼻叫喚の東京大空襲や広島長崎の原爆投下を大衆が予測していなかったようなものです。
今の状況は、日本が確実に負けるとわかっていて非常に悩み苦しんでいた一部の人間と、大本営発表を信じて日本は勝つと信じこまされていたのんきな大衆のような二極化とそっくりです。シンガポールやマレーシアのビザ取得が難しくなってきているほどに移動している日本人は多く、東京の人口も減ってきている反面、街を歩けばマスクして歩いている人間はほとんどいません。
私は数年後の日本が恐ろしくてなりません。子どもや若い人がどんどん死んでいくかもしれないのです。若くない人もあらゆる病気で死んでいくでしょう。このままいくと、日本という国は世界の核のごみ捨て場となるしかなく、それを望む他国もあるのかもしれず、日本という国も日本人も滅びるのではないかとさえ憂慮されてならないのです。それとも、私のこんな考えは被害妄想なんでしょうか。どうお思いでしょうか。
果てしない戦争が始まってしまいました。私はそう思ってこれからの時間を過ごしていくしかないと思っています。命ある一日、一日を愛しんで生きていくしかないのです。
これはおせっかいではございますが、一昨日久しぶりに建日子さんのブログを拝見して、心配しています。建日子さんもお若いので、ご健康を過信なさっているのかもしれません。
マラソンを始められたそうですが、私が家族なら猛反対いたします。今の東京で、大気中にふつうにストロンチウムなどの致命的核種が存在している中で、あのような激しく心肺を使うスポーツをするのはとんでもないことです。吸い込んだらどうなりますか。オリンピック選手とでもいうならしかたないかもしれませんが、健康のためのマラソンは東京では出来ません。運動なさるなら、ご自宅室内で出来るものになさってください。
もう一つ、建日子さんは移動に車をお使いのことと存じますが、万が一、まだエアフィルターの交換をなさっていないのなら、至急新しいものと交換なさってください。東京は福島由来の放射性物質で汚染されましたから、都内を走る車のフィルターからさまざまな恐ろしい核種が検出されています。洗浄してもとりきれないそうです。外国の学者は都内の車という車のエアフィルターを交換しないと、東京はホットスポットになると警告しています。肺ガンのリスクを低くするためにも、どうか、新しいものに交換してくださいますように。
百回輪廻転生しても、日本はまだ放射能汚染されていますね。ほんとうにとんでもないことになってしまいました。
*この人の、過剰かと思われるメールをわたしは、三月十一日の直後から何度も貰ってきたが、日が経つに連れてこの人から手にした情報のほぼ悉くが、その通り遅ればせの事実や問題点として報道され確認されてゆくのに繰り返し際会してきた。よほど良質な情報源をもたれているように思われる。ここで言われ憂慮されていることの全部がいまやわたし自身の憂慮となり、眼をむいて事態の推移を睨んでいる。
建日子がマラソンだ、走り込みだと勇んでいるのも、オコの沙汰ではないかと少し惘れていたが、まっすぐ指摘されている。息子にも知らせた。何方にも、それなりに判断し問題点を感じ取って欲しく、あえて此処にも転記させて頂く。
2011 12・19 123
* 建日子とも二度三度、メール往来。「仕事」も。妻は隣室でピアノを鳴らしている。
水戸の福島美恵子さん、「 e-文藝館= 湖(umi)」へ近詠五十首投稿があり、スキャンした。
2011 12・20 123
☆ お誕生日 おめでとうございます。
新たな健やかな一年をお祈りしております。
年末から帰ります。
☆秦建日子☆TAKEHIKO HATA ☆
* 朝、祝い鯛一尾とともに、妻と黒いマゴと三人、赤飯で祝った。感謝。
2011 12・21 123
* 牧野綜合法律事務所との往復書簡、了。
2011 12・22 123
* 夕方、建日子、都内から自転車で来訪、夕食を倶にし、古備前の餓鬼腹や利休好み釣瓶水指や竹泉の名品など、また楽九代や大樋五代の名人藝の茶碗など観て、嘆賞久し。自転車で持ち帰られてはたいへんなので、平に容赦願う。
家狭くて。処分を急ぎたい。時折のこうした棚卸しで楽しんでいる。佳い物はいい。が、出すのもまた蔵うのにも気を使う。
* 母方祖父の親戚、江州水口宿本陣鵜飼家からも、妻の親友からも、やす香のお友達からも菓子など戴く。
2011 12・22 123
☆ メリークリスマス!! やす香の親友
クリスマスの小包が無事届き、安心いたしました。
ごめんなさい、お靴はチョコレートではありません。
食べ物でもありません。
クリスマスのオーナメントなのです。
余りにも可愛らしいので送ってしまいました。
アマデウスの靴のようなイメージです。
どうぞ、齧らないで飾ってください。
えいたろうの飴は、伊勢丹オリジナルの限定品です。
クラウス・ハーパニエミというフィンランドの作家さんの絵です。
伊勢丹はここ何年も、クリスマス時期にこの作家さんの絵で飾りつけをしています。
可愛く、どこか神秘的でもあり、とても好きな絵です。
明日は下北沢でいろんな国のアニメーション映画を見てきます。
その後は私の家で一緒にご飯を食べます。
ローストビーフと鶏もも肉のハムを作っている最中です。
おじい様もおばあ様もどうぞ、お風邪を召しませんよう、温かくしてお過ごしください。
と言っている私が風邪をひいていますが・・・
それでは、楽しいクリスマスと素敵な新年をお迎えください。
* 感謝。お幸せに。
2011 12・24 123
* 「美意延年」「冷一風」と揮毫された一本の扇子を、叔母の、御幸遠州流生け花の高弟といえる人に送って差し上げた。
「冷一風」は御幸遠州流を興した家元で、京の山科に本拠があり、叔母は終生家元のために尽くしていた。家元から叔母へ、叔母からその人へ渡るのが好いと、おそまきながら気付いた。揮毫の四字も、おりに適っている。
2011 12・25 123
* 城山三郎の『小説 日本銀行』は野心的な試みの力作であることは認めるが、小説としては通俗でリアリティに乏しい観念の作に過ぎなかった。ただ、日本銀行という銀行および日銀マンという人たちが、どんなに澱んで退廃的な空気を堆積させ呼吸しているかは、いやでも、つぶさに教えられた。かんじん要の津上という主人公に深く共感・同情するには、造形が、つまり把握と表現がヘタという気がした。松本清張が書いていたら、不愉快なりにももっと物凄い作を書いたのでは無かろうか。
わたしの相当年嵩な父方従兄に、日銀理事を務め、定年後は天下りしていた人があるが、たいへんな務めをしていたんだなと惘れたような気分に襲われた、会ったことも言葉をかわしてことも無いが。大阪の支店長をしていたころの官舎が、門から家屋玄関までも自動車でないと、歩けばたいへんな距離、などと聞いていた。
2011 12・27 123
* 建日子の評判を、いろいろ聴かされる。テレビドラマ、そして小説の大きな広告など。彼が、今は亡きつかこうへいの命令ではじめて芝居の脚本を書き演出したのは、わたしがまだ東工大に教授室を持っていた頃だから少なくも十数年余も前だが、その後単発のテレビドラマや連続ドラマを書き始め、小説もどんどん書き始めて、ベストセラーにも名を連ねたりしている。一つ言い切れることは、確実にどの畑でも腕を上げており、うまくなっている。それは、ある意味年数を経て書きつづけ作り続けていれば当然のこと。それよりももっと大切なのは、うまくはなったが十年一日その世界が変わらないのではダメ、やはりオウというほどの自然で説得力のある変容がなければ大きくならない。秦建日子はジャンルをめまぐるしく変えて行きながら旋回し、旋回しながら世界を塗り替えてきている。冒険している。「われはわれ」と孤立に落ちこまないで来ている。
その気持ちで、続けて欲しい。
* 虚子の句を噛むほど読んで力とす
われはわれといふがかなしさ 枯櫻 湖
建日子が何を「力」にしてきたかは知らないが、彼なりの謙遜を育んできたと見ている。真に作品に富んだ制作をと願っている。
2011 12・27 123
* さてさて、この機械部屋など、結局片づけることすらなく越年しそうである。
玄関には、亡き出岡実画伯の「持幡童子」をわきに、正面に秋石画「蓬莱山」の長軸を用意している。古典文学全集の上へ、干支開運の龍を小さく置き、その背後に雲鶴文象嵌青磁の皿を立ててある。
居間には柏叟の「閑事」二字に年を越してもらい、その前に、唐物漆器の存星、赤漆地に鎗彩、錦華のように繊細に金で文様を描いた四方盆に、やはり唐物の青磁手付茶器を莊っている。
どうしてもこうしても狭い上にモノばっかりの家だ、これ以上掃除のし甲斐がない、それでよい、よい。四十余年もこの家に馴染んできた。垣根一重のとなりに、両親が買って京都から移り住んだ一棟のあるのが今は物置としてどんなに有り難いか、それなしに「 湖(うみ)の本」 を四半世紀余も出版し続けることは出来なかった。松壽院さん、心窓さん、香月さんのお蔭である。
2011 12・28 123
* 歳末。すこしずつだが、迎春のためにも手足を動かしている。卯は、辰に場所を譲る。玄関には、むかし大河内さんに原稿料の代わりに戴いた「龍」の印池を置いてみた。
わたしたちのように正月を現住の家で過ごす人ばかりではない、わたしたちも昔は苦心して東海道線に乗り京都の親の家で正月を迎えた。楽しみであった。しかしいつしか京都の年寄り達をわが家にみな迎えとって、以来、どこへも動くに動けず、動く気にもならなくなった。
いまごろ自家用車を駆って、自動車道を東西南北へと走っている若い人たちが、新幹線に乗った人たちが、列島に溢れていることだろう。
わたしは、もう同報で数百人に年賀を申すこともしないし、賀状も出さないで許してもらっている。明日は蛤を買いに池袋まで出るが、その余は特別なにをする気もない、「書きたい」書き物に向き合い、読みたい本を読むだけ。明後日は大晦日、明けて元日、寝て二日。ありのそのままに時は過ぎて行く。
そうそう。ありそうなものと二階廊下の書棚から、國漢文叢書第四、五編の『和漢朗詠集註』上下之巻、詩文の註は永済、和歌の註は北村季吟という二冊が見付かった。袖珍版で、背はきつく傷んでいるが、手に馴染んで読みやすい。明治四十三年六月七月の刊で、版元は寶文館。手にとって読もうとしたのは最初のことで、古典全集版の重量がなく、それが嬉しい。歳末から年始への気の弾みになりそう。漢詩は、原作漢語表記のまま、和語にうつすように読み下しており、諷詠の趣に惹かれる。たとえば、紀淑望の作とも唐土の公乗億の作とも言われる「内宴進花賦」は
かぜを逐ひて潜かに開く芳菲の候を待たず。春を迎へて乍ち変ずまさに雨露の恩を希はんとす。
と読みかつ朗詠されたらしい。平安物語の引歌ならぬ引詩は大方かかる読みで貴公子たちの口にのぼっている。
2011 12・29 123
* 市川染五郎丈、ブログ「そめいろ」と併せて新たにホームページが出来たと報せがあり。ブログとホームページとがどう違うのか、見たことなくて分からないが、訪ねてみようかな、っと覗いてみたが……。
息子のホームベージなども、たわいない宣伝広告ばっかりであるが。
きっちりした述懐や意見などが聴きたい。
2011 12・29 123
* 寒いけれど恒例の歳末の買い物に。なにたいしたものではない蛤と年越しそばのための何か、だけのこと。雑煮の白味噌は先日買ってきた。新年の手帖や日記帳ももう揃っている。むかしは朝日子や建日子を連れて行って、暮れの街の賑わいを楽しんだりもしたが、何もかも過ぎてしまった。
* 西武でも東武でもめざす小粒の蛤は手に入らず、焼蛤にするような一つが五百円もする大蛤しか手に入らなかった。この三年、蛤買いには苦戦の連続。
この前から欲していた、たらば蟹の太い脚を、ごそっと買ってきた。百貨店の地下売り場二つを行ったり来たりで空腹堪えがたく、西武の八階レストラン街に上がっても、どの店にもずらっと人が順番を待っていた。諦め、日比谷花壇で花を買い、帰ってきた。
2011 12・30 123