* 配達された年賀状と新聞も、床に脚をいれた安座の儘、寝ている妻と黒いマゴのそばで、読んだ。こちらからは例年失礼しているのに、予想していたよりずっと数多い年賀状を頂戴、おおかたが、病状を案じはやく良くなれと見舞い励まして下さっていた。ありがたいこと。
* 妻と二人だけで新玉の京味噌雑煮を祝いあった。
娘が生まれてこのかた五十余年、夫婦二人だけの元日は初体験。
建日子のインフルエンザ快復を願いながら、それでも靜かな、晴れやかな元日晴れを慶びながら、ゆっくりと盛り沢山なお節料理も食した。
* 近くの天神社に初詣で。いわば武蔵野に点在した旧村社だが、饒速日神を祭神としかなりの古社。参拝の行列がいつもの二倍三倍もながく鳥居そとへはみ出していた。うらうらと明るく空晴れ、風なく穏やかな行列はいかにも平和であった。賽銭を捧げ、二礼二拍一礼、こころよくたき火のある境内で甘酒の振舞いにもあずかった。
神社の背後へまわってしばし静かな田舎道を散策し、帰宅。神社と家の玄関内とで、写真を撮った。
2013 1・1 136
* 建日子が帰ってこずにいる分、用意の正月料理が有り余り、しかもわたしが殆ど食べられない。妻が美味しいと謂う、何一つ美味しいどころでない。が、つとめてそのまま咀嚼している。栄養価は変わるまい。酒は、日本酒もウイスキーも、少量ずつだが飲む。焼 礙酎も飲む。口腔の不快を辛いほど刺激的に散じるために飲む。
便秘すると排尿の勢いが鈍り、まま、数次ないしそれ以上かけて散尿する。排便すると一度で出切る。少年の昔から排便と排尿との関連はこうだったという体験の実感があるが、老いの不如意も加算されているだろう。
黒いマゴの放尿こそはうらやまし
われの清水はしとしとと漏る 湖
2013 1・2 136
* 血圧117-60(58) 血糖値88 体重64.8kg 七草粥を祝う 梅酢湯 朝の服薬 九時、湖の本114届き、すぐ発送にかかる。午、ラーメン、口に合わず。午の服薬 午後も通して発送作業。 六時前、建日子年賀来訪、七草粥をもう一度祝い、晩の服薬。歓談。九時に建日子仕事場へ戻る。発送する本の荷の重いことに、つくづく思い至る。
2013 1・7 136
* 南天の豊かに美しい写真が届いていて、それを機械に保存する手続きは承知しているが、写真をホームページ上に転写する手順が依然と変更されたのか、どうやっても成功しないのに困惑している。
南天は昔から好きで、いまも、我が家の庭では亡くした愛猫の「ネコ」「ノコ」の墓地を季節ごとにはなやかに彩ってくれる。南天は、葉の色・形もきっぱりと凛々しい。
2013 1・13 136
* 秦建日子の連絡在り、つまり広告希望か。
☆ 劇団「秦組」次回公演のお知らせ!
次回で、第五回。
演目は『タクラマカン』。
何度かワークショップの卒業公演ではやりましたが、本公演では久しぶりです。
演出、いろいろと変えていくつもりです。
次回も「らんTRIO」のメンバーが生演奏で参加してくれるのも楽しみです。(音楽部、ひとり増えて4人になるので、「らんQuartet 」と呼ぶべきかも)
秦組としては、初の地方公演もあります。
関西在住の方、この機会にぜひ☆
●劇団「秦組」 vol.5 『タクラマカン』
★公演
・ 2013年5 月31日(金)~6 月10日(月)
東池袋 あうるすぽっと(豊島区立舞台芸術交流センター)
・ 2013年6 月11日(火)
大阪 サンケイホールブリーゼ
★チケット
前売5,800 円 当日6,000 円(全席指定)
一般発売:2013年4 月6 日(土)
* 「タクラマカン」は、熱の入ったドラマ。何度も観てきたが。どんなふうに組み替えて演出するのかな。
2013 1・21 136
* 甥の黒川のこと、じつは、湖の本を必ず送り続けていても全く「なしのつぶて」で、受けとったという返事もない。著書も送ってこない。書店にまったく出入りしないわたしは、彼の本(デビューの頃は本や雑誌を送ってきたが、)を近年全く見ていない。そういうのも物書きの一分のように、有ることなのだろう。小説家に「お成り」と薦め励ましてきた「叔父さん」は、一心に佳い仕事を重ねて欲しいとだけ願っている。兄は、あの世、でどうながめているだろう。
* 十時だが、もう休もう。
2013 2・1 137
* 河出書房から秦建日子新刊、刑事雪平夏見シリーズの文庫本、『愛娘にさよならを』を「著者謹呈」本として贈ってきた。「解説」の冒頭にこの著者が秦恒平の長男だと、珍しく明記してある。ま、それはよい。開巻、本文の第一行半分が、こうだ、これは戴けない。
深夜の静謐な住宅街に、銃の残響が盛大にこだまし、
あらかじめ云うておくが「静寂」ということば、中村明さんの『日本語 語感の辞典』では「ひっそりと静まり返っている意で、改まった会話や、文章に用いられね漢語」だと説明し、阿川弘之さんの『夜の波音』から例文が採ってある。秦建日子の書き出しには「静寂」でなく「静謐」という漢語が使われている。中村さんの辞典には何故か「せいひつ」が無い。ではわたしが「新潮」に書いていた頃以来愛用の新潮国語辞典では、「静謐」とは「世の中が治まること」「天下静穏」の意味とある。「深夜の(静穏無事な)住宅街」である。静寂といおうと静謐と云おうと問題ないだろう、が、政治的な太平とまでは過剰で、「ただ」寝静まった深夜住宅街の表現としてはみまものものしい。わたしが編集者なら、黙って鉛筆で傍線をひいて著者の推敲を求める。身振りがでかい。
ついで、「銃の残響が盛大にこだまし」が、もっと読者のわたしを困惑させる。おとなしく云えば、こんな状況を体験したことがない、想像は出来る。そして、これで「表現」として過不足ないのかしらんと疑い、疑う以前にもう「へたくそ」な文章やなあとガクッと来る。つまり騒がしい。日本の美学でもっとも軽蔑されたのは「騒がし」゛あった。少なくも「残響」と「こだま」とは強いて謂わなくても同意・同感の範囲内にある。重複している。「盛大に」という強調も、「残響」が「こだま」しているなら、すでに「盛大」感が謂われている。それに、わたしの語感では「盛大」には人の存在、人のもつ景気がかかわっている。「深夜の住宅街」に人気は感じにくい。「銃の残響」を「盛大」とは拙劣ではないか。べつの「表現」をさぐって欲しい。谷崎の『文章読本』では、むやみな漢語の使用より和語を活用するように教えられた。わたしなら最初の出だしを、「静かな深夜の住宅街に」として「シ・シ・ジ」という頭韻に文学の音楽性を求めるだろう、いやいや「静かな」も余分な気がしている。小説の文章にはつとめて「余分な」言葉は乱用したくないから。
* 一人前のプロに失礼とも叱られようが、率直に書き置く。秦建日子にだけ云いたいのでは、ない。
ひとつ褒めておきたい、秦建日子の創作には、演劇も、脚本も、小説にも、「花」は匂っている。大事に育てて欲しい。
2013 2・5 137
* 仕事に集中し、また晩は建日子の帰宅で、終日。雪も雨もほとんど影響なく、じりじりと蓄えられた抗癌剤副作用と向き合いながら、まずは平和に暮らす。
2013 2・6 137
* 少年時代の祭日では今日の建国記念日に相当の紀元節が好きだった。建国記念日などとは些かも信じていなかったけれど、この季節のすがやかさ、冴え冴えとした感じが好きだった。朝早く町内のあちこちでどんど焼き( 焚き火) していて、そのあと町内なりの式事があった。熱い香ばしい大好きな粕汁が振舞われた。それから学校での全校儀式に出かけ、「雲にそびゆる高千穂の高嶺おろしに草も木も」と歌ったあと、紅白の菓子の配られた年もあった。
わたしは、昭和二十年二月末に、国民学校三年生を終え直ぐ丹波の山奥へ、秦の母と祖父とで戦時疎開したので、行事・儀式としての紀元節は、二、三年生の二度しか体験していない。紅白饅頭の配られたのはおそらく昭和十八年の二月だけであったろう。
この年二月一日、紀元節より十日前には、日本軍がガダルカナル島から撤退しはじめた。四月には元帥山本五十六がソロモン上空で戦死し、五月下旬には、アッツ島の日本守備隊が全滅していた。「玉砕」という言葉を覚えた。数え歳の九つだった、わたしは。
冬も好き、夏も好きだった。父も母も叔母も、祖父でさえもまだ元気で、戸障子を開け放った家の内も、暑いなりに清々していた。わたしは金魚たちの小さな泉水の水換えが好きだった。盥での行水も。
そんな間じゅうにも、日本軍はじりじりと敗色を深めていたのだ。学校で職員室の外廊下に貼られた世界地図をみながら、アメリカの大きさ、日本列島の小ささを見比べて「ほんまに勝てるんやろか」と友達に話しかけたとたん、通りがかりの男先生に廊下の壁へ張り倒された。あれも二年生のうちだったろう。
2011 2・11 137
* 亡き孫やす香のお友達から、「おじいさま、おばあさま」へと、明日のヴァレンタインデーのチョコレートが贈られてきた。
就職先に恵まれて元気いっぱいに通勤し、やがて新婚早々に留学していたハズバンドも帰国、嬉しいです、と。よかった。ありがとう、チョコ、早速一つ戴きました。ありがとう。
2013 2・13 137
* 古いなつかしい唄で気持ちのバランスをとり続けている。
大好きだった「雨、雨降れ降れ」「ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」など、幼稚園で貰っていた(親が買ってh;wいた?)キンダーブックの挿絵も懐かしい。いま聴いている盤ではこれが早くに出てくる。この唄でも「みかんの花咲く丘」でも、たもっともっと沢山の唄に「母さん」が歌われていて、貰われっ子のわたしは顔も知らない(まったく覚えない)母なんてモノを一方で厳しく見捨てていながら、唄にあらわれるいろんな場面での「母さん」をとても無視できなかった。人に知られずどんなに泣いていたかと想い出す。
それとは違い例えば「お山の杉の子」などに現れる国策歌詞の現れる唄はみな嫌いだった。「蛍の光」のような佳い歌にも末の方の歌詞は不自然極まる国策歌詞になるのが歯ぎしりするほどイヤだった。そんなのに比べれば「夕焼小焼」や「たきび」や「花かげ」や「この道」や「あの町この町」や「ちいさい秋みつけた」などの方がどんなに少年の感傷に寄り添ってきたか知れない。
* こんなことは、いくらか書きたくはなく秘めもっていたいのだが、老境のさがなさが好きにしろよと唆すのである。いま一つにはわたしが「詩歌」の表現を覚えた早くにこういう音楽があり、いま一方には「百人一首」への少年なりの親炙・傾倒があった。
ま、今今の心境では、じつに気恥ずかしいけれど、近時の幼稚園や小学校で愛唱されているという「思い出ののアルバム」の「あんなことこんなことあったでしょ」という「思い出してごらん」という唆しに乗せられているのだ。これではバグワンに叱られ臨済にどやされても、まったくまったく致し方がない。
* ついでにいうと、むかしはそれなりに愛唱した「四百余州をこぞる」元寇の唄や、「箱根の山は天下の嶮」とか「青葉茂れる」楠公父子桜井訣別とか、敵将すてっせると乃木大将の「水師営」とか「我は海の子」などを懐かしくは思わなくなっている。勇ましさを強いられるのはイヤなのである。むろん感傷を強いられるのもかなわない。
* 少年の昔に聴き覚えた唄に、都会の都会らしい風景や光景を歌った例は無いにも等しく、せいぜい時計台のある学園とか。おおかたは、田舎住まいや暮らし、都市部にしても垣根の曲がり角などの旧住宅地など、そして、懐かしい山野や河川や風物を歌っている。都会しか知らない、都会にしか暮らしたことのない子たちには、大人にも、おおかたはエキゾチックにすら感じられるのではないか。流行歌時代になると東京や大阪や横浜などが典型的な都会として押し出てくるが。
わたしは国民学校の三年生卒業式を済ませたと思われない昭和二十年二月末から、敗戦を歴て二十一年の秋までを、丹波の山奥で疎開生活していた。農山村の暮らしをやや体験的に過ごしてきた。いちばん近い町が亀岡町、いまの亀岡市で、ときたまの用事や、また山陰線やバスで京都へ帰るときに亀岡へ出ていった。山道や、町とはいえ田中の遠い道をよく覚えているし、だからこそ沢山な唄が自分なりに追体験できるのだ、「叱られて」などでも。疎開先の暮らしはむろんラクでなかったが、今にして幸せな体験であったと思う。
2013 2・20 137
* 神仏の実在は信じないが、神仏にむかいわたしはなみの人よりも敬虔である。ファンタジイを受け入れているわたしは、実人格であった釈迦とイエスとは別として、少なくも仏教の仏達、ファンタジイとしての神さま達を、ごく素直にうやまい。拝礼もたいがいり場合怠らない。
ファンタジイとは夢である。その上に所詮生きてある人生そのものをわたしは夢の内と諦めている。夢から覚める日を心待ちにしている。こんなことは所詮ゆめを書いているまともな小説家なら、リアリストであれイデアリストであれ大勢の小説家が納得していると思う。
毎朝床を出ると、なにより真っ先に、目に入る秦の両親と叔母との位牌が廊下の奥にあるのと向き合う。
わたしは、何のためらいなく「松壽院さん」「心窓さん」「香月さん」と呼びかけ、さらに「おじいちゃん」「おばあちゃん」「あば」とも呼びかけて、「どうぞ今日もごきげんよう、お元気に楽しく仲良くお過ごし下さい」と語りかける、「そして、私たちをどうぞお守り下さい」とあたまを下げている。むろんそんな「言葉」も「礼」も「祈念」もわたしはファンタジイとしてしか信じてはいない。わたしのしていることは演戯の一種に過ぎない、が、それで佳いんじゃないと、本気で亡き人へ声を掛けている。育ての親の恩を想い出すきっかけを、生真面目に実演し実行している。すべては夢のうちの振る舞い、行いである。祈りすら、わたしはファンタジイに真心と身とを寄せていると自認し、拘泥していない。
2013 2・21 137
* 「湖の本115 」の刷りだし、届く。
この『ペンと政治』三巻六百頁は、昨今ふつうの市販本なら千数百頁に余り、一作家わたしの、「批評」における最大著作、或る一面の代表作となるだろう。
「政治」一般でなく焦点は「原発の安全神話」や「原発危害の今後」に絞ってきたが、もとより、わたしは直接の取材探訪を事とする新聞記者でもジャーナリストでもない、ひとりの、しかも今や市隠とすらいえる只一人の作家である。
しかし、創作家とはつねに「批評」の人であらねばならぬ。朝と書き、犬と書き、小さいと書き、甘いと書いても、すべて批評として文章表現に生かされる。他のもので置き換えられない、その適確で深切であるか無いかが、また他者により「批評」される。
今度の本は100 %わたしの「批評」行為であり、同時にあらゆる「批評」「批判」をも「言論の自由」において受けとらねばならない。当然のことであり、論戦があってもむしろ当たり前のこと。そう思っている。
こんな大部の「批評」仕事は、この時節、どんな出版社も引き受けては呉れぬ。四半世紀を超えて「いい読者」に支えられてきた「湖の本」であればこそ可能なので、羨ましいと、腕を撫している作家、批評家が大勢いるに相違ない。
「三号雑誌なみ」に投げ出すとさと創刊時に冷笑した人もいた。「せめて十巻」は続けたいとわたし自身願っていた。
それがとうに百巻を超え、あっというまにもう百十五巻めが出来、次巻も入稿されている。ひとえに「いい読者」のおかげ、印刷所のご協力、そして妻の支え、で、歩み続けて来た、来れた。
と同時に、わたしが真摯に「創作」し、真剣な「批評」に生きてこなかったら、また元編集者としての「技とセンス」を駆使出来ずにいたら、営利を求め蔵の一つも建てたいなどと願っていたら、とてもとても、二十七年も、百何十巻も、の「出版維持」など可能だったわけがない。不可能であった。
わたしは現代の、昨今の、出版指向の桎梏を拒絶した。そのとき、すでに六十種以上の市販単行本を出していたわたしは、「創作と批評の世界」の市民権を得ていた。
それならば自由自在に創作し、批評し、それらを心ゆくまでに編んで、気に入った自装本を自身で出版し続けたかった。
「敵前逃亡」だと非難する編集者もいた。「すぐさま頓挫」とも笑われた。
わたしは文学者としてなにより自由に生きたかった。それを支えてくださったのは、間違いなく「いい読者」の皆さんだった。
わたしは、趣味で出版ごっこしてきたのではない。きちんと採算を得つつ、「百巻」をもズンズン超えてきた。「購読者」なしにとても出来た話でない、本当に読者の支えがありがたかった。
ま、それもこの時節である、読者だけに頼るのは限界を迎えている、つまり微量ながら出血が始まっているのだが、それこそは、わたしとしてまた「新たな脱皮期」なのである。
「湖の本」で蔵を建てる気などもとよりない。それどころか、住む家が屋根と柱と壁とだけに成る日をこそ覚悟していた。それが「自由」へ支払うわたしからの、代価。
そして今やわたしは癌を病んで苦しみ、ほぼ同年齢の妻もわたし以上に久しく医者がかりの身で。二人ともに幸い傘壽を迎えるとしても、もう三年前後の余命なら、気力に恵まれている限り「湖の本」続刊に、少しも問題はない。同業でもあり父親よりはるかに手広く活躍中の息子秦建日子は、親爺の遺産などアテにしていないに違いない。それ幸いと、わたしは各界の知人、有識者、それと全国のかなり多数の大学・高校に向け、現在1000部ちかくを寄贈し、受け入れてもらっている、自然、それもわたしの「文学活動」であって、そういう仕事も、多年「いい読者」の皆さんに支えてきて戴いたのである。幾重に感謝を述べても、千の一にも足りない。
* ブラジルとの野球は、日本は勝てても大苦戦だろうと予想していた。結果は知らない。一点とられ二点とり、同点にされて、安打数は格段にブラジルが先行し、日本の貧打もさりながら投手も二人まで、低調だった。その後のことは知らない。
建日子が「原作」と銘打ってある篠原涼子の雪平夏見「アンフェア」を観た。面白く観たけれど、ああもややこしく脚本を作れば、作品としてのクオリティはダメージを受けやすい。わたしが、自身の今今の創作で苦労して拙速を避けているのが、そこなんです。
2013 3・2 138
* こんなに病気に冒されシンドイのに、それでも放っておけない「収束未了」の頭に来る諸問題・諸現象・諸悪政が充ち満ちて、血反吐でも吐きそうな現実だ。情けない。つくづく情けない。
* 昨日は唱歌のはなしなどして憂さをはらしたが。
あの十五選からあえて逸らした一つに、荒木とよひさが若いときに作詞・作曲したという「四季の歌」があり、芹洋子がのびのびと歌っていた。
何故外したか。作詞が、やむを得ないのかどうか、間に合わせで寸が足りていないと感じたから。春を愛する「僕の友だち」 夏を愛する「僕の父親」 秋を愛する「僕の恋人」 冬を愛する「僕の母親」を歌い上げて、小気味よく心温まる歌ではあるが、結局はおなじ芹洋子が晴れ晴れと歌う「この広い野原いっぱい」を選んだのである。
* さように、かすかな不満をもった荒木の詩のなかで、しかし二番の、
夏を愛する人は、心強き人
岩をくだく波のような
僕の父親
とあるのには感慨を持った。
もし息子の秦建日子がそういう目でわたしを見ていくれていたら、そしてわたしの臨終の折、胸の内ででも口ずさんで見送ってくれたら、本望だナと感じた。わたしは、これで、この詩句のように生きよう、生きてきたと、少しは自惚れている。
錯覚しないで欲しい、わたしは「岩」として強く生きてきたのではない、この詩のように、ひとひらの「波」のように生きたかったし生きてきた。
「波」とは。一瞬にして川に包まれ海となってしまう「現象」に過ぎない。「波」は川とも海ともちがい、実在ではない、いわば幻像、夢のようなまさに「現象」なのだ。此の世も我が身もじつは「夢」と思う実感にもっとも接近しているのが、わたしには、「波」なのである。そんな「波」であるがゆえに、わたしは「岩」のような現実と闘うことが出来た。「現実」など何ほどのものでもない、多くの場合ほとんど「悪」であると、誰もが心の内で感じている。感じている間にもこの「悪」は千変万化してゆく。いまり日本を観ているだけでも分かるでしょう。「波」というはかない力が、しかし「四季の歌」の作詞者は、そんな「岩」を砕くと観ている、その確かさにわたしは惹かれた。
このところ、私は繰り返し、岩のような「リアル」より、はるかに確かで美しく真相をとらえる波のような「ファンタジイ」を語ってきた。
この感覚は、まだ幾らかの変遷を要するのかも知れない。が、大事にしたい。
2013 3・6 138
* 七時頃、建日子が食事をいっしょにしに来てくれると言う。今晩は、大きな一息をつきたい。
と思ったが、日本と台湾との野球、必敗ムードの試合を日本は最終回に追いつき、延長戦で逆転勝ち。久々に野球の試合に興奮した。建日子は試合延長のいちばん佳いところを見ず、負けたよ負けたと、仕事場へ戻って行った。
文藝春秋からの書き下ろし文庫本を持ってきてくれたのである。「殺人初心者 民間科学捜査員・桐野夏衣」とか。「アンフェア」の雪平夏見に代わる新シリーズらしい。はなから文庫本の売り本である。題も凄い。やれやれ。ま、稼いでください、たんと。 2013 3・8 138
* 寝ていた午後、文藝春秋の寺田さんから湖の本受けとったと電話。わたしはろれつがまわらず心配させてしまった。建日子の文庫新刊に御礼をいうと、発売四日で増刷ですよと。息子さんは流行作家の一人ですと。ま、寺田さんも『殺人初心者』といった読み物好きの人ではなく、ただ役職がら励ましてくださったのだろう。一度、三人で会いましょうとも。感謝。
2013 3・12 138
* 明日は、五十四年目の結婚記念日。夜の部の新橋演舞場、染五郎、松緑、芝雀らの「一條大蔵譚」と、染五郎、菊之助の「二人椀久」を楽しみにしているが、この体調で無事たどり着けるか。帰りは、タクシーで帰宅になろうか。
ま、休薬と決められた期間は、もう三週間余。その間に、劇的に元気回復できるといいが。
2013 3・13 138
* 結婚して満五十四年。永く歩んで来れた。
昨夜九時半ごろ車で建日子が来て、もう暫くしての妻の心臓検査の保証人署名などしていって呉れた。付き添いにはわたしが付く。新たな手術ではなく、手術予後を検証するらしい、一夜の入院と。
わたしの通院はまだいろいろ続くけれど間隔が永くなり、なるべく一日で二科の診察が受けられるようにもして、おおかた家に居れるようにしている。聖路加以外では、江古田の歯科、地元の眼科にも通っている。
2013 3・14 138
* 孫娘
ま盛りのま白い椿手に落ちぬま盛りに死なせしやす香がくやし 遠
2013 3・15 138
* 埴生の宿もわが宿
玉の粧いうらやまじ
のどかなり 春の夜
花はあるじ 鳥は友
ああわが宿よ
楽しともたのもしや
* 小鳩くるみの豊か美しい歌声がする。
結婚して五十四年、いまもわが家は「小宅」で「埴生の宿」のままである。八畳の間のある家に一度も暮らしたことがない。けれど、気持ちはこんなに自由で豊かである。
2013 3・16 138
* 湯につかって建日子の新刊文庫をまた少し読み進んだ。どうしてこんなのが書けるのかなあ。
2013 3・21 138
* 妻は明日の午後、冠動脈に、去年・一昨年と二回、何というのか細い管を血管の補助に通して貰っていた。それの、そのまま働いているかどうかの検査手術を受ける。一泊入院の決まりで、わたしは手技・手術の立ち会いに地元の病院に出向く。
なにはあれ無事を心より願う。
2013 3・21 138
* 起床7:30 血圧122-57(65) 血糖値81 体重63.1kg 涙溢れるが、心もちマシか。 朝 餅三つ 出汁 デコポン柑橘 昆布茶 ドリンク 出汁 ヤクルト チョコレート 朝の服薬 十時 妻の冠動脈ステント検査入院に付き添い保谷厚生病院へ。あまり涙に煩わされず ずうっと空き時間はベッドサイドで「湖の本116」の校正。昼食抜き。飲まず食わず。二時より検査。五時半医師の解説と今後のこと。 選択肢は、何もしないか、風船をいれるか、バイパス手術か。医師の薦めはいまのところ風船を入れてはと。独りで帰宅。 晩 餅二つ 昆布茶 その他ごちゃごちゃ。 晩の服薬 晩の仕事。 排便二度。
* 相当な時間を妻のベッドサイドで湖の本の校正に精を出せて、はかどった。十時に病院に入って病院を出たのが五時半になるとは想ってなかった。昼抜き、飲まず食わず。今は、食わないことが、苦にならない。時にはその方が快調に思えるが、体重微減の連続から微増へ転じて63キロ台へ戻したのが、また62キロ台に落ち込みそう。
一昨年と去年と、二度妻の冠動脈にステントを入れた。一昨年の分はほぼ落ち着いているが、去年の分にまた狭窄が見られる。放っておいて様子を見つづける、風船を入れてひろげる、バイパス手術に踏み切るという選択肢が示されて、医師は、風船を入れて様子を見ようという判断のようであった。バイパス手術はこの病院では出来なくて、他院へ送られる。
永く妻が世話になった聖路加の副院長先生(循環)に相談にのってもらい、手術となれば心臓外科をご紹介願えばよい。さし当たっては風船で血管を膨らませてもらうことに、妻も、わたしも諒解している。
2013 3・22 138
* さすがに疲れた。今夜はテレビをつけたまま、校正などして、ま、寛ごう。妻は明日午前中に退院する。迎えに行く。
2013 3・22 138
* 花、観たい、逢いたい。明日がはや見頃とか。
妻があす税務署に遅い申告のため出かけるという。わたしも、出来ればついて行き、道々の花を愛でたいが。
2013 3・24 138
* 五月にはもう抗癌剤服用は卒業していると想われる。この月には、明治座で、染五郎、勘九郎、七之助、愛之助の花形歌舞伎もある。上村吉弥も出る。四月の柿葺落しに出演してきた熱気がどう顕れるか、これも楽しみにしている。
ペンと政治との身を揉みしだくような、十年前、そして二年前からの原発危害が終熄せぬまま「違憲の総選挙」を経て「違憲の安倍内閣」がアベノミクスとやらで浮かれるザマを、我が身には癌を抱きながらも、息苦しく批評し批判し慨き哀しみつづけてきた。上下三巻、昨今の単行本にすれば優に千数百頁もを、この上半年内に、「湖の本」114 115 116として刊行して行く、その心身過労と汚れとを新歌舞伎座四月、五月、可能なら是非六月もの「柿葺落し興行」で、めでたく盛況を祝いながら、徹底的に癒したい。
妻も、有りがたいことに、「四月五日には喜壽七十七歳」を迎える、豪華版の歌舞伎が祝ってくれるのだ、二人して新歌舞伎座の無事開幕を、わくわくして待っている。
2013 3・27 138
* 建日子の新刊『殺人初心者』を湯の中で読み終えた。読み始めた頃から、この配役では最終の犯人はこれしかないと想っていた通りの結末に、かなり、めげた。ま、いっか。
2013 3・28 138
* 妻が風邪ぎみ。寝てもらっている。
わたしは終日小説に組み合っていた。まだ、予期しているだけで山は幾山も越えて行かねばならない、慌てて怪我してもつまらない。まだ、この書きかけの第一作、ほんとうに成るかどうか、命をつめてしまってはならないし、弛んでもよくない。
九時になっている。
独りで夕食したとき、たまたま以前の大河ドラマ「篤姫」の最終回を観た。あれは「清盛」とはちがい絵巻物であったが、主演した若い女優がよく長丁場に堪えて耐え抜いて立派に演じ終え、一種の感動作として咲ききり咲き終えた。
さ、わたしも風邪ひくまいぞ。休憩しよう。休もう。昨夜は、宵寝していたせいか寝つけない時があった、それで本を読んだ。今夜は寝入りたい。
2013 3・30 138
* 夕方に帰ってくるという息子にもみせようと、宇太郎の長軸「猫・椿」を、飛呂史の「鯉」のわきに試みに掛けてみた。
おお! 堂々。こう威風あたりを払うほど画品豊かな大作を二流れに掛けならべると玄関が、まるではちきれそう。白と黒少しの猫がまるまると椿の根かたに蹲って、眼光炯々、凛としている。椿樹は力強うまっすぐ丈高く、繁った緑の葉に抱かれ紅椿一輪が美しい。大満足。
2013 3・31 138
* ああ、眩しい眩しい。パソコンの画面を暗くしてみたが、そんな小手先ではどうしようもない、階下へ降りる。もう三十分ほどで建日子が帰ってくる。
* 建日子と、映画「船をおりれば彼女の島」を観る。もう数度観ているが、静かに胸にしみる。木村佳乃、大杉漣、大谷直子、昭英、烏丸セツ子、林美智子、佐々木蔵之介らしっかりした演技陣でかためて、美しい佳作となっている。九時に、建日子は仕事場へ戻っていった。
「或る寓話」を、もう一押しした。もう休んだ方が良い、明日はまた歯医者へ。なにかしら金属をさした左奥の下歯が、冷たい水を含むと、沁みて痛い。
* さ、弥生尽。すばらしい四月を迎えたい。
2013 3・31 138
* さ、明日は妻の七十七歳「喜壽」の誕生日。喉の風邪で数日悩んでいたが、病院で治療も受けてきた。
とくべつ明日にはなにも予定していないが、もう十日のうちには新歌舞伎座四月の柿葺おろし興行を、終日、一、二、三部とも観る楽しみが用意してある。五月にも同様に用意してある。いま、夫婦して楽しむのにこれに越す嬉しい祝儀はない。
2013 4・4 139
* 無事に妻の喜壽が祝えて、安心した。夫婦合わせて百五十四歳になった。二人で幾山河を越えも渡りもしてきた。
わたしは、まだまだ書いている。
息子の秦建日子も懸命に書き続けている。
湖の本は、五月中には、「ペンと政治」三巻最終の第116巻が出来るし、次巻の心づもりもできかけている。
健康を互いに回復し維持し、さしあたり二人して百六十歳の「傘壽」へまた堅実に歩んで行きたい。
2013 4・5 139
* 毎日、玄関にならべ掛けた飛呂史の「鯉」、宇太郎の「猫・椿」の軸繪を満喫している。どちらも豊かに大きい。妻は椿下に凛とみひらいた猫を愛し、わたしは、堂々の鯉に日々賛嘆。
さて、新歌舞伎座の柿葺落し四月の観劇が待ち遠しい。
第一部「壽祝歌舞伎華彩 鶴壽千歳」「勘三郎に捧ぐ お祭り」「一谷嫩軍記 熊谷陣屋」
第二部「弁天娘女男白浪」「忍夜恋曲者 将門」
第三部「近江源氏先陣館 盛綱陣屋」「歌舞伎十八番の内 勧進帳」
こう書き写してみるだけで、わくわくする。夢にも見てしまう。 2013 4・5 139
* 晩、建日子が帰っていた。十時ごろに都内へ戻る。横浜から西武池袋線へ一本の電車で来れる。建日子は中目黒から保谷へ一本で来れるようになった。
東京にはいろんな事がある。
2013 4・16 139
* 明日は、今年二度目、通算三度目の妻の循環器手術、入院。今回はステントを入れた箇所をさらにバルーンで広げる。手術が成功し血流が裕に進んで、しつこく強い両脚の痛みに改善がみられるといいがと切に祈っている。わたしも立ち会わねばならない。
十一時。もう休む。
2013 4・18 139
* 起床7:00 寝起きに、久しぶり手足の痺れ失せていた。色素沈着もやや淡れている。脚も軽い。血圧122-63(58) 血糖値81 体重65.8kg 朝 丸餅三つ バナナ 菓子 飲み物 朝の服薬 今年二度目、通算三度目の妻の循環器手術、入院。今回はステントを入れた箇所をさらにバルーンで広げる。手術が成功し血流が裕に進んで、しつこく強い両脚の痛みに改善がみられるといいがと切に祈っている。徒歩十分の病院へ同行。 一度帰宅 午 蒸し薩摩芋一切れ バナナ 柏餅 昆布茶 出汁 柑橘 午の服薬 一時半の手術に立ち会う。 冠動脈へのバルーンの挿入に成功、医師の術後の説明を聴いて、一息ついて、帰宅。 晩 独りで 酒と蒲鉾 バナナ 昆布茶 など 晩の服薬 晩の仕事 建日子から電話
2013 4・19 139
* 家に独りは、黒いマゴがよく寝ているが、静かすぎてさびしい。建日子の母の容態を問うてきた電話は、有難かった。
* 晩は小説に向かっていた。
* 九時半だが、階下へおり、マゴと向き合い、テレビを観るか、校正か、本を読むか。もう少し酒を飲むか。
2013 4・19 139
* 建日子が、自作・演出の芝居稽古のあと、脚をのばし保谷へ帰ってきた。二、三時間いろいろ話し合った。かつてのわたしほども大きい、からだ。健康には気を配っているようだし、仕事も猛烈こんでいるらしい。五月から六月へ稽古中の芝居の公演(東池袋アウルスポット)があり、済めば即時に大阪へ行き初の大阪公演と。怪我も事故もないよう努めて欲しい。NHKでも短期連続のドラマがもう撮影済みというし。小説も書いていると。せいぜい噴出するといい。願わくは、よりよい、そして花も実もある優れた創作を。
2013 ・26 139
* 秦建日子が五月末からの秦組公演「タクラマカン」のチラシを送ってきた。期待している。東池袋アウルスポット公演のあと、大阪へ移動してサンケイホールでも公演と。この演目は、繰り返し繰り返し改訂を加えながら公演してきた、作・演出建日子の財産で、「らん」とともに代表作といえる。若い顔ぶれで元気な、アピールの強い佳い舞台になるだろう。ブログにこんなことを書いていた。
☆ タクラマカン
壊して壊してまた創る。
舞台の稽古が始まると、情緒が不安定になる。
センチメンタルな感情によく襲われる。
と同時に、怒りっぽくもなる。
疲れる。
自分で自分の戯曲を「壊す」作業が続く。
書いた時はあんなに気に入っていたのに。
でも壊す。
より面白くなる可能性を感じたら、とにかく一度壊す。
壊して壊してまた創る。
秦組の稽古が始まって一週間くらい。
「タクラマカン」はどんどん新しい芝居になってゆく。
今回は初めて、戯曲を製本して印刷した。
でも、戯曲通りのシーンは、既に半分も無い。
キャストはみな輝いている。
その輝きに、演出家はいつも嫉妬をする。
稽古時間は連日10時間。
みんな、稽古初日からほとんど台本を持っていない。
誰も手を抜かない。
誰もネガティブな空気を出さない。
時間が濃い。
脳をとにかく回し続ける。
演出家のアイデアが止まってキャストが「待ち」になる時間が嫌いだ。
甘いものを食べ続ける。
当然のごとく太る。
明日ももちろん稽古だ。 秦建日子
2013 4・30 139
* もう何がなにやら世の中が情けなくて、自分自身も情けなくて、新聞もニュースもイヤになった。ほんとうに荷風晩年のあとを慕おうかと思ってしまう。
☆ 時運 の内 陶淵明
斯の晨(あし)た 斯の夕べ 言(ここ)に其の廬(いほり)に息(いこ)ふ
花薬 分列し 林竹 翳如(えいじょ)たり
清琴 牀に横はり 濁酒 壺に半ばあり
黄唐は逮(およ)ぶ莫(な)し 慨き獨り余(われ)に在り
* 黄唐は古の聖帝 黄帝と唐堯
* 陶潜ほど上等には出来ないが、思うまま歌も句も績み紡ぎたい。飛呂志の悠然雄渾の「鯉図」に励まされている。
楽しみはは、惜しみなく作り出す。
歯の治療をはさんで、やがて明治座の花形歌舞伎は、染五郎、勘九郎、七之助、愛之助。「実盛物語」「与話情浮名横櫛」「将軍江戸を去る」「藤娘」「鯉つかみ」と十分楽しめる。すぐ続いて新歌舞伎座の五月興行も、第一、二、三部とも終日盛りだくさんの名狂言をたっぷり楽しむ。そのあとへは、大相撲夏場所の席がとれてある。白鵬、朝青龍の優勝回数25回にぜひ並んで欲しい。そして月末か六月初めには秦建日子作・演出の「タクラマカン」に期待しています。
あ、そうとばかりは行きません。今日責了紙を送った「湖の本」116『ペンと政治( 二下 満二年、原発危害終熄せず) 』が十七日には出来てくる予定。力仕事の発送がある。ややや。
* さ、入浴。 その後、また小説を書き継ぐ。
2013 5・4 140
* 心配なのは妻の座骨神経痛による強い脚痛が改善しないこと。このごろはわたしが妻を支えて歩いている。はやく、よくなれ。
2013 5・8 140
* 十七日午後には聖路加で「メガネトライ」の予定が入っていて、その午前には「湖の本」116が出来てくる。数日掛けて発送出来るかどうか。今回ははやめに用意仕掛けながら、停頓している。五月中には妻の検査入院もある。夫婦とも七七の壽なれど「始終苦」に付きまとわれてもいる。それもよしとしつつ、「く」を凌いで「らく」になろう。用事も山積だが、この際、思い切って、今夜から当分、気分休息に切り替える。
2013 5・13 140
* 「TVタックル」で、「従軍慰安婦」のことを盛んに論っていた。アメリカではこれをつとに「性奴隷」と公式に呼んでいる。
古来戦陣に大なり小なりの性奴隷的な女性が、あるいは身売りのかたちで、あるいは徴集されて男達の性欲に、進んで、ないし不幸の極致として接してきた事実は「歴史的」に否認できない。ただ、それを近代日本国のように「慰安婦制度」などと表沙汰にしていた例はやはり希有であった、大概の諸国が「言わず語らず慣習ないし必要悪かのように黙認」していたのだろう。
「戦争」「闘争」は、太古来、人種の混血を促進した無視しがたい側面をなしていた。戦利を「女」ないし「男の奴隷」と見立てた点は洋の東西無くあまりに普通で、女王クレオパトラすら敗者として性に繋がれた。
わたしは、いかなる弁護人があらわれて陳弁これつとめようとも、日本の軍国主義に巣くった非人道を否認し庇おうという気になれない。少なくも朝鮮半島において、また中国においても、奴隷化の暴虐や残虐をしなかったとは「ゆめ思わない」し、かりに他国にもそれと同じ例があるからといって、罪悪・罪責の「割り引ける」わけは無いと信じている。
論者達は、あまり文学書を読まないのではないか。慰安婦といういわぬのべつなく「性奴隷ふう陵辱の例証」は、すぐれた作品のなかでもしばしばよく読み取れる。さらに、一般家庭や家庭女性への「奴隷意識での乱暴例」など、怒りに震える例はグローバルに実例に溢れ、心ない米軍兵士らにより今日の沖縄や本土でさえしばしば起きている。これは範疇内これは範疇外などと厳密がっても意味はない。悪いことは絶対に悪いので、それを否定しよう、良いことのようにまた無かったことのように取り繕おうというのは「卑劣」というに極まる。
維新の会の橋下代表の陳弁には表面的に聴くべきも含まれてはいた、が、問題は彼の基本の政治思想が、うさんくさく危険に右傾している点にある。彼は、釈明と称して重大なごまかしを言うている。その第一が「民主主義」大切と言いきった点。彼のこれまでに表明してきた「改憲」論は明らかに民主主義を打ち捨てた古びた国家主義と見えている。「維新の会」といった黴臭い旗印に露骨にそれが出ている。明治維新は真っ向国民主権を抑圧した国家主義へ直進した政体であった。橋下氏ら「維新の会」一党は、民主主義確立への姿勢とは真逆、民主主義憲法下の戦後日本を、またもや明治以降敗戦までの国家主義へ、まさに反動的に「再・維新」しようとしているとしか見えないのだ。石原慎太郎やあやしげな老耄らとくっついて必然自民党へすり寄ったていたらくも、それを紛れなく指さしている。
* わたしがまだ小学生であった敗戦前後、養家の秦の押入れに、たくさんな名刺大、せいぜい手札大の写真を無造作に容れた紙箱があった。親や大人の目をはばかる必要もなく、退屈紛れにも幼かったわたしはそれら写真をよく手に取り眺めた。大方は秦家のいわば明治以降昭和に到る「生活史」「交際史」などを物語っていた。
が、中に、十枚もあったろうか、異様な写真たちが混じっていた。日本ではない異国の広い街通りに、延々と、ある間隔をおいて行列した人、人の姿があった。一人残らずが地に膝をつき、後ろ手に縛られていた。一人一人の前には深そうな穴が掘られていた。抜剣した、あきらかに日本軍人の姿もあった。のちのちに刑場の知識として識ったいわば「土壇場」が、延々と街路を埋めて続いて見えていた。
べつの写真では、斬首された死骸の列もまた延々と観てとれた。
父は、応召の新二等兵として少なくも二年ほど中国へ出征し、帰国時には一等兵になっていた、らしい。実際の戦闘体験は無かったようで、父は射術で表彰されたり、上官の従兵役だったりした、らしい。兵隊として覚えてきたのは、ハヤシライスやカレーライスの作り方で、わたしが秦の家に貰われていったのは、父が本国へ帰還してさらにだいぶ年を経て以後のことだが、父は気が向くと自身流し場におりてそんな料理をつくってくれた。たいへんな楽しみだった。
幼いわたしが、上にいうそんな写真を手にしても、父は何もいわなかった。この手の写真が、出征地ではよく兵舎内でも売り買いされてたんやと母には話していた。実否は知るよしなく、尋ねもしなかった。印象は強烈で、何度も同じ写真に見入った覚えは今も失せていない。
敗戦後に、疎開先から一年半ぶりに京都へ帰ってきたわたしは、以前に見た押入れの「例の写真」が、もう、どこにも無いのを知った。父も母もそれについては貝のように何も語らなかった、明らかに「急いで処分すべきもの」という判断であったのだろう、家の前を進駐米兵たちがひっきりなしに歩いていた。ジープも来た。あの写真の始末を、わたしも口に出して親に尋ねはしなかった。
死者の人数の問題でない。写真一枚一枚の物語っていた情景の凄惨さは、否定しようがなかった。よその国の兵士達が他国に対ししていたことは、今は言わない。日本軍は「虐殺しなかった」という類の強弁には、拭いがたい恥ずかしさを覚えるというだけを、少年の一体験を足場にし、此処に証言しておく。それは慰安婦の問題とはちがうやないかと言う人が有れば、わたしは、黙ってその人の顔を見つめる。
* こういうときでないと言い出しにくいことを、もう一つ証言しておこう、類話はいろんな本や雑誌でなさけないほど知ってはいたが、まぢかに肉声で聴いた衝撃は、段ちがいだった。わたしはもう高校生だった、そのころ父は商売上の思惑で化二三人の仲間と「共同組合」ふうの設立を企てていた、らしい。その仲間の大人達が家にくると、果ては賑やかな、賑やかすぎる談笑の場となり、酒など出る家でなかったのに、酔ったように高声で喋りつづける一人二人が決まっていた。秦の父は概して寡黙な聞き役だった。狭い家の中で母もいればわたしもいた。はなしはイヤでも聞こえた。なにがイヤであったか。彼ら大人達の、まだ真珠湾よりよほど以前、朝鮮やシナでの兵隊生活、ことに現地女性らへの陵辱行為が、さながら勲章か手柄か、とほうもない楽しみかのように回顧されてやまぬ凄まじさ、それはもう耳を覆いたかった。「出征」とはこういうことか。わたしは、すでに愛読していた白楽天の厭戦長詩「新豊折臂翁」を思い、小説を書きたい書きたいと願っていた。処女作「或る折臂翁」に結実したときは、もう東京で安保闘争を闘っていた。
2013 5・27 140
* 建日子から、姉朝日子(改名して現在押村宙枝)が「facebook」で日記など書いていると知らせてきた。
https://www.facebook.com/hiroe.oshimura
謙虚で真摯・誠実な自己表現であるならば、せいぜい書けばよい。厳しい批評も冷静に受けるがいい。
わたしは「facebook」にも登録できているらしいが、仕組みも中身もわからず、まったくログイン出来ない、有効な画面が開けないままでいるし、「mixi」も、もう何年も開いてない。つまりはあまりに時間つぶしであり、最近関わって「Twitter」も、やはりわたしには時間のムダづかいになり、すぐ抛った。
わたしには、つねに「創作」という「仕事」がある。やがては創刊三十年・百二、三十巻にもなる「秦恒平・湖(うみ)の本」のとぎれない「刊行」という「仕事」もある。
さらには、浩瀚なホームページ(作家・秦恒平の文学と生活 http: //hanaha-hannari.jp )がある。「創作の書斎」であると同時に、そのHPには、前世紀このかた十数年、すでに数万枚・140ファイルもの日録「生活と意見 闇に言い置く私語の刻」があり、むろん「湖の本など全執筆集」も含まれ、加えて、責任編輯している幕末から平成まで六百作もの文学図書室「e-文藝館・湖(umi) 」もある。
これらをより一層充実させるに過ぎた「創意の仕事」はなく、しかもわが残年は、もう短い。とてもとても「ソーシァル・ネットワーク」と戯れてなどいられないのであり、幸か不幸か、娘押村宙枝の書き物を読む気も、機会も、無い。それでよい。
何よりこのところ気に掛けていた、「e-文藝館・湖(umi) 」の更なる充実に、心新たにまた取り組んで行く良いキッカケを建日子の知らせから得た、有難かった。
* 夕刻へかけ、また東久留米の「鍼」医にかかってきた。マッサージ、透熱?、そして鍼。一時間半ほど掛けている。妻の方の効果はよく分からないが、わたしは左腰の不安をかなり改善してもらったし、左肩の慢性痛も「手当て」してもらって気持ちいい。「手」からは気が流れ込む。その治療効果が歴史の波間にあっても消え失せずに「手当て」という語彙を長命させている。石川啄木は強い「手当て信仰」を持って、「ぢっと手をみ」ていたのである。いくつもの短歌作品に明瞭に窺える。
もう二三度は通う気でいる。建日子にも試みてほしいと思う。
2013 5・29 140
☆ 誰も、何も
信じられない昨今の情勢にあって、「ペンと政治」は思考、感性の指針です。今さらながら、先生の知性、精神力の強さに敬服いたします。どうぞお体おいといつつ、お仕事にお励みください。*子は大阪大学に通い始めて10年目となりました。観に来ていただいた岸田理生の「糸地獄」の縁から、演劇学の教室で、岸田理生研究を続けています。顔も言動も昔の幼いままのふうちゃんです。恋人もいず若干心配しているこの頃です。 大阪市生野区 祥
* 送られてきた日本語と英語との二研究論文も頼もしく読みました。大阪での建日子公演を観て批評してもらえるといいのに。ふうちゃんに初めて会ったのは中学へ進学の時だったなあ。
2013 5・30 140
☆ 秦恒平様
前略 私は不勉強で無知な者ですか、秦さんのまっすぐで妥協のない視線に 胸がすく思いで読ませていたゞいています。 大変な闘病の御身とは信じられないエネルギッシュさには敬服するばかりです。きっと病気の方もたじろいでいる事でしょう。
私もいつの間にか 政治家達の平均年齢を超えるようになり、 それまでは立派な人と思っていた人達の多くが、いかにも愚かで 浅はかで 厚かましく横行しているのに驚き憂えてしまいます。 又、 主人共々 ご本を読ませていただきます。 時々 ご出演の「妻」 もちろん迪子お姉さんもお幸せそうで嬉しいです。
なお同封のポストカードは 私の初めての祈念すべき 受賞作品です。 この鳥(嘴広鵲 はしびろこう)をご存知ですか? くちばしの異様に大きく 動かない鳥として有名な変な鳥ですが、 何ともいえない愛嬌と澄んだ目に魅せられて 今も 続編 Ⅳ Ⅴと秋の展覧会に向けてがんばっています。琉美ちゃん(=妻の妹)にも いつも応援していたゞいています。 琉美ちゃんの繪は私には到底描けない素晴らしさです。
乱筆乱文で大変お恥しいですが、ちゅうちょしていると 又 出汁そびれてしまいそうで……まあいいか…と。 お許し下さい。
関東地方も入梅しましたようで、 しばらくうっとうしいお天気が続きますが、 どうかくれぐれもご自愛下さいますように。 草々
P.S. 繪は 都知事賞で 当時の都知事は石原慎太郎氏ですが、この方が選んでくれた訳ではありません。 と思います。私は この方 キライです。 秦野市 画家・妻の従妹 明
* りっぱな表現で 動かぬ鳥にむかいたじろがない優しい視線が活躍している。
まだ妻と結婚せぬ前に、妻の兄や妹の家で一度会っていた。妻の父方叔母の葬儀の席で久々に再会した。不勉強で無知どころかたいへん優秀な従妹だと妻はほめる。
妻の妹は詩を書き、また言語に絶したふしぎに美しい繪を描く。妻らの亡き兄保富康午も、若い日に詩を書き、テレビ草分けの頃の「構成マン」また童謡他の「作詞家」として活躍した。
この義兄・義妹また妻らの従妹から「甥」にあたるのが、わが家の秦建日子。彼のNHK連続四回ドラマが明日土曜の夜から始まる。また彼の秦組公演「タクラマカン」も東池袋のアウルスポットで一両日の内に開幕する。打ち上げると直ちに、初めて大阪公演に乗り込むと聞いている。恙なかれと願うのみ。
2013 5・31 140
* 今夜から四週つづくNHKでの秦建日子作ドラマの題は、「お父さんは二度死ぬ」と。ギョッ。
2013 6・1 141
* 「お父さんは二度死ぬ」の第一回を観た。手堅く三十分にまとめていた。視聴者へ呈した表現効果のほかに、この息子らしい両親や姉へのメッセージもありげに構成されていたことには、強いて立ち止まる気はない、願わくは「表現効果」以上の迫真がどこまで可能かをわたしは観ようと思う。次々を期待する。
その意味では、表現としては巫山戯まじりを敢えてしながらも、息子の作ドラマの前に他局で観ていた「ドクター」ものの方が、より切実な「生きるつらさ・かなしさと、よろこび」とを、ただ効果としてだけでなく「直接」に掴み取っていたと思う。
もう一ついえば、妻の手でコピーして転送してきてくれた、この連続ドラマに触れ作者秦建日子が、作者として作者のブログにならべていた「ことば」、あれは、どんなものだろう。
2013 6・1 141
* 中国の文学史は日本のそれに何十倍する。清初の批評家金聖歎はそんな中国歴代の文学から六種の傑作を選んで「才子書」と賞した。
一に『荘子』 二に『離騒』 三に『史記』 四に杜甫の律詩 五に『水滸伝』 六に『西廂紀』
わづかに一と四とに触れており 五は読み終えている。手元の本で、一、三、四は読める。水滸伝は訳本が揃っている。せめてこれら「六才子書」をみな読んでみたい。陶潜詩、李白詩、白楽天詩をはじめ詩は手元本で永年少しずつ愛読してきた。最近では沈復『浮生六記』を愛読した。袁枚の伝も愛読した。文学とはやや逸れても、史書や論述の大著や大辞典は幸いに秦の祖父鶴吉の蔵書がかなり残してある。秦の父は京観世の謡曲をならって舞台の地謡にもかり出されていた人だが書物に目を向けることのない人だった。祖父の方は相当な蔵書家で、多くの漢籍古典のほかにも、日本の史書や歌書や俳書や、源氏物語湖月抄、古今集講義本、百人一首一夕話などを孫の目には豊富に遺していってくれた。恩沢計り知れない。そして父の妹、叔母の玉月・宗陽はわたしに生け花と裏千家茶の湯そして茶道具のおもしろさを伝え置いてくれた。
思えば思えばわたしは恵まれた京なりの文化環境に育ててもらっていたのだ、なかなかそれとは久しく自覚できなかったのだが。
2013 6・2 141
* 明日の朝が早い。もう休んでおた方がいい。
うまくすれば、午後は街で、からたが明くかも知れない。プリンターのインクなど買いたい。建日子の芝居の幕がもうあいているのを東池袋へ覗きに行ってみようか。
2013 6・2 141
* 「タクラマカン」は、どのように進行しようとも、ぐんぐん盛り上がって行き、後半、かならず観衆を惹きつけ感動させることをわたしは承知しているので、展開も作意も主張もほとんど熟知しているので、用意してくれた劇場真中央の絶好席で、終始胸をひらいて舞台に見入っていた。
街なかの「人」たちと浜辺育ちの「人でなし」たちとの、無残な差別・被差別に充ち満ちた激動・激突。そして虐げられた者たちの、「人でなし」も「人でなしでなし」もいない海の彼方へ移住の夢、無残に哀れな脱走の夢が、シュールなリアリズムで描かれる。「軍」や「街の者」らの暴圧と、あえない「浜辺のもの」らの抵抗と。その激突が、容赦なく押し切るように描かれて行く。
舞台は、むしろ名付けて「クライ」と謂いたいほど、誰もかも叫んでいる。絶叫している。滑舌が利き言葉の聴き取れる演技者は、ほんの数人。主役も主役級のも、ほとんど台詞は聞き取れないほど絶叫している、猛烈な早口で。それに相応して、若い演技者たちの運動能力には目を見張る確かな訓練、つまり演出が行き届いている。複雑な人の出し入れも、スピーディーに適確でみじんも渋滞しないし破綻しない。
つまり「タクラマカン」は、尋常な台詞劇ではなく、激闘に近いいわば舞踊劇の魅力を遠慮会釈なく燃え立たせた舞台になっている。それでいて、作の表現も、主張も、悲哀も、憤怒も、まぎれなく観客の胸に浸透していたと思う。言いたいこと伝えたいこと、それもあまりに怒りや歎きや不条理の烈しい場合には「言葉」は伝達の役に立たない、肉体の躍動が暴力の域にまで燃え上がらねば伝わらない、とでも作・演出家は、いわば「科白」というものの半ばも即ち「白・ことば」への依存を叫びに象徴させておいて、ひたむきに「科・肉体の躍動」に賭けた。わたしは、そのように舞台を受け入れて、それも是とする。
わたしの観劇体験でいえば、優れた一流の舞台で「科・白」がみごと渾然協同しているのが常である。「ラマンチャの男」も「ひばり」も「勧進帳」も「熊谷陣屋」も「天守物語」も「海神別荘」もその通りであった。それが舞台の王道とされている。そのことは、「タクラマカン」の作者も演出家も演技者も、よくわきまえていては欲しい。その上で烈しく熱く「クライ」したいなら思い切り叫べば好い。ただその際にはまた思い切り強く美しく烈しく「動き・働いて」欲しい。
2013 6・5 141
* 秦建日子の「秦組」は昨日東池袋のアウルスポットでの「タクラマカン」公演を打ち上げて即座に、大阪へ移動。今晩一晩ながら産経ホールで初の大阪公演。つつがなく終えたろうか。久しい読者の岡田さん母娘を招待したが、無事に観てもらえたろうか。娘さんは阪大大学院で演劇学専攻の博士課程とか。きびしく観てくれたろうか。
それにしても、あの中学入学の子が、りっぱに大きくなったものだ。
2013 6・11 141
* その妻が、劇場へ出向く途中、保谷駅でバスからおりるとき転倒したのには仰天した。幸い、大事にまで至らず終日芝居を楽しんだものの、肝をひやした。ほんとうに大事なくてよかった。
このところわたしは全身がちがちに強ばっていたのが、芝居と劇場とを楽しんでいる間にかなりほぐれて呉れた。根をつめた仕事が数日隙間なくつづいていて躰を芯まで固くしていた。また指圧と鍼とに出掛けたいが。
2013 6・12 141
☆ 父の日
お加減いかがでしょうか。
先日は池袋まで(=「タクラマカン」観劇)ありがとうございました。
東京も大阪も無事終わりました。
近々また遊びに行きます。
☆秦建日子☆TAKEHIKO HATA ☆
* ありがとう。舞台の成功おめでとう。顔を見せてくれるの、楽しみにしてます。
2013 6・16 141
☆ こんばんは。
11日は「タクラマカン」にご招待いただきありがとうございました。
舞台を観に行かせていただいてからあっという間に日が経ち、お礼を申しあげるのが遅くなって失礼いたしました。
大変パワフルな舞台でしたし、東京・大阪間の移動もありましたが、建日子さんはじめ劇団の皆様方のお疲れも、少しはとれた頃でしょうか。
さて、秦組の舞台「タクラマカン」、本当に面白く、手に汗握りながら夢中で観通しました。
うかつにも秦組に関しての予備知識全く無い状態で出かけた私たちでしたが、舞台が始まってすぐ、長い間会いたかったものにやっとまた出会えたような懐かしさ、予感を覚えました。
舞台は、期待通りに広がって行き、ふくらんで行き、大きく立ちあがりました。
物語の世界観にも、役者さんたちのけなげなまでの熱演にも、心から感動しました。
十九年前の建日子さん独立第一作目の作品ということですが、若き日の作品らしいみずみずしい熱気にあふれつつ、かつ今を生きる若者たちの物語にもなり得ていると感じました。
十九年前の建日子さんとほぼ同じ年齢にさしかかっている娘には娘でまた別種の感慨があったようです。
しかし、観終わって夜の道を歩きながら、二人ともなんともいえず充たされた思いでした。
秦建日子さんという作家、秦組という劇団に出会えてよかったなという安堵感かもしれません。
四度のカーテンコールをした大阪の観客たちは皆私たちと同じ思いだと思います。また大阪公演をしてくださるのを待っていますと、建日子さんにどうぞよろしくお伝えください。
ありがとうございました。
おやすみなさい。 大阪市 祥
* 今にして思えば、大阪には松尾さんもおられた、観てもらえていたら、あの「タクラマカン」だ、松尾さんならではの批評が戴けたろうに。惜しいことをした。
* よく、秦さん、ほんとにお付き合い広いですねと驚いて下さる人がある。そういえばそうでなくもない、ただ「お付き合い」といっても九割がた、お目に掛かったこともないのだが、まさに「濯鱗清流」のありがたみに浴してきた。今も浴している。錚々たる学者・研究者も、作家・批評家も、詩・歌・俳人も、美術家も、演劇家も、政治家も。まさしく淡交、それでいて多年心親しいお付き合いがある。いまなお増えている。もとより「いい読者」との、湖の本二十七年間よりももっと以前からのお付き合いも多い。とても大切に思ってきた。
秦建日子も、手の届く限りの狭い仲間内や業界だけでなく、もう少し各界の方とのお付き合いも心がけてはと、きどき思う。もう、いい歳のいい大人だ、出来て行きつつある「秦建日子の世界」を、驕らず、尻込みもせず、観ていただける機会は機会として生かしたらいいのでは。手伝えることは手伝ってやりたくもある。
2013 6・17 141
* そうそう昨日の夜おそくに秦建日子の三十分刻み四週の連続NHKドラマ「お父さんは二度死ぬ」が終わった。四回目に奇想天外の逆転をみせたつもりらしかったが、どうひっくり返す気なのか、話半分行かぬうちに予想できたし、その程度小手先の転換を「売る」ために、つまりは前三回分が煮え切らない「前説に終始」していたわけだ。毎回をもっと盛り上げ楽しませる上手い作りが出来なかったか。
小説でなら、わたしなら、むしろ「正妻」に焦点を結んで表現して行く。
そもそも、最後まで観客をひっぱっておき、見え見えのドンデン返しというもの作りは、いかにも薄くてイヤだと、志賀直哉がだれかの作を突き返していた記憶がある。「二度死ぬ」の意味もちらと見えただけ、ドラマと写真としては思わせぶりな題であるだけに、今少し「バッチリ」作意として主張してくれてよかった。拍子抜けした。
2013 6・23 141
* 京都の廣瀬ちづるさんから、いまや希有、昔ながらほんものの夏蜜柑でつくられた老舗「老松」の「氷羹」を頂戴した。びっくりするほど美味しい。真実美味しいものはこんなに「美しいか」と思う。廣瀬さんをじつは深くは存じ上げない。亡き兄、北澤恒彦の職場におられたお人と、朧ろに。
2013 6・24 141
* 気に入りの日本の比較的若い女優さん、つまり倍賞千恵子や吉永小百合や宮本信子らは埒外の別格として、二、三十人はいる。ドラマはつまらなくても顔はみたいのでテレビドラマはときどき観る。息子秦建日子の書いたドラマに出演した若い男女優は、ま、息子・娘みたいな気分でみているが、「ばかみたい」ではある。しかし好きで気に入りとなると「ばか」というよりかなり性根に結ばれた批評かもしれない。その人とわたしとを繋ぐなにかしら性根の問題があるのだろう。いやいやそんな大層なことを云う必要はない、つまりはただ、ただただ好きなのだ、「好き」とは簡単すぎる日常語だが、容易ならぬ語彙の真相を含んでいる。
甲部の芸妓でかつ法廷弁護士を演じている涼風真世は、宝塚を出てきて以来ずうっと好きであったが、ぴったりの役どころで主演した作があまりにすくなかった。いまの藝者弁護士というドラマは例によってドラマとしては観るべきなにも無いが、涼風をイカスにはいい設定で、和洋の衣裳そして姿勢・表情ともスカッとして美しいのを、一ファンとして喜んでいる。やっぱり「ばかみたい」ではあるが、意地というものの萎えた老人の甘えでもある。歳とり衰えてゆくのに甘えているのだ、とことん「バカみたい」である。
2013 6・26 141
* 起床9:15 血圧126-63(58) 血糖値93 体重66.9kg 右眼視野の縦揺れ変化無し。 朝食 桜桃 生姜と釜揚げ饂飩 ヤクルト 服薬 睡魔去らず 朝の仕事 午食 服薬 睡魔に悩む 建日子立ち寄るあいだも寝ていた 暫く対話して仕事へ戻っていった 晩食 服薬 映画「帰らざる河」観る 晩の仕事 排便 眼がパシパシする。
* 唐銅の瓶に、道ばたから妻の摘んできた葵の小花と猫じゃらし(えのころぐさ)の穂がよく似合い、手洗いの空気がぱっと優しく成った。
2013 6・28 141
* 明けの四時半ころ、黒いマゴの外出に目が覚め、ご帰館につきあい、そのまま、床の上に座り、灯をつけ或る本をそれは熱心に読み始めた。すこし微睡んで七時前には起きてしまい、妻と、近所をひとめぐり散歩してきた。涼しくて、二人とも、すたすたとはムリでも迷惑なしに歩いて家に帰れた。五十分。歩かないといけないなと思っている。
2013 7・1 142
* 富士山が世界文化遺産に登録されたと大騒ぎだ。騒ぎすぎ。それでも富士山の遠目はほんとうに美しい。文化的に美しい。
富士というときっと思い出す一つは、新制中学からの修学旅行の前。秦の父に、富士山てどんなに高いのと聞いた父の仕草つきの返事は、こうだった。普通の山なら「このぐらい」とちらと眉を上げた。富士山は「こうや」と頤と眼とを一緒に上げた。あんなによく分かったことはない。事実、そうだった。いまでも新幹線で富士市を通るとき、父の、「こうや」を思い出す。ほかのことも、思い出す。
2013 7・1 142
* 祇園育ち「樅」の横井千恵子さんに、素麺一函を頂戴した。永らく麺類が口に入らなかったが、最近は、素麺も饂飩も蕎麦も、中華麺も食べて、吐かなくなった。ありがとう。「樅」へは、甥の黒川創も北澤猛も、また写真作家島尾伸三さんらも、それに妻も、連れて行ったことがある。連れて行ったみなが、その時々に盛んに歌を唱った。島尾さんが大声で話し始めると店の誰もかもが嵐のように大笑いした。創も猛もべらぼうに歌が上手だった。昔のクラスメート横井さんは、かれらに倍して上手に唱ってくれ、励まされて妻もなんだかんだと唱っていた。わたし一人がいつも聴き役で酒を飲んでいた。飲むだけは負けなかった。
このごろは、また酒が、和も洋も華もみな美味しくなってきた。「樅」をよく思い出している。昔の友だちもよく集まっているだろう。
2013 7・2 142
* 二三日まえに京都の田村由美子さんから突然、佐相勉編著『溝口健二著作集』と題した大部の一冊を受けとった。手紙もなにも付いて無く、またその本は或る意味でレイアウトに「わる凝り」してあり字も小さく、眼のわるいわたしには甚だ読みにくいものだった。左相氏は妙な言葉をつかって申し訳なく間違っていたら謝るが、「溝口健二」の人と仕事を徹底的に「追っかけ」尽くした人のようだ、わたしより一回りほど若い「映画研究者」。
で、読み始めてみると、この希有の映画監督の温かい血肉が「ことば」と化して各編に溢れていると見えた。詳細な年譜とエッセイや作品紹介その他との協奏曲のように佳い音楽が次第に聴こえてくる本であった。
溝口健二はわたしが言うまでもない、黒澤明と兄たりがたく弟たりがたい、或いは優るとも劣らない、そしてあの小津安二郎とともに大きな日本映画の黄金時代を高く高く構築した映画監督で、わたしは大好きであり尊敬してきた。ま、その一方でわたしは映画を観るこそ大好きだが、映画を語ることも映画人を語ることも出来ない一門外漢にすぎない。
視力と時間とがゆるすかぎり読んでみたい。しかし、またわたしよりも息子の秦建日子が謙虚に読んだほうが、きっと莫大に教えられるのではないかと思っている。
ありがたい頂戴物であったと、ずしっと重い左相勉氏労著たる一冊を手にもって、わたしは喜んでいる。田村さん、ありがとう。
左相氏へも感謝しつつこの労著を大勢の映画そして溝口監督のフアンに紹介させてもらいたい。
☆ 佐相勉編著『溝口健二著作集』巻頭より
ある夜のこと 『日活画報』一九二四年二月号初出
あんまり音楽には智識がないのだが……
京都へきてから廿日にもなろうが、ある晩のこと、祇園の石段下に近いあたりだったと考えているが、カフェーレーベンと云う店へ、京都名物である時雨空の宵、伊藤君とはいった。
二人とも莨をくゆらしながらほろ苦い、紅茶の香に軽い気持になってしまったので、酒を味うと云うような心にはしょせんなりきらなかった。
広いところではないが部屋の周囲には何放かのきわめて新らしい傾向の油画がかゝつている。
「これが普門氏の画だよ、君」
伊藤君の言に一枚一枚私は眺めていった。--臆病な心は--光りと影--だけしかしらない私等なんだから、色盲にでもなってしまって居やしないかと、常に危うんでびくびくしていたんだ。ところが、凝視めたとき、
「ほんとうに久しぶりだ」
と台詞口調でつぶやくほと、感歎してしまった。--
「踊りくるう若い女」「靴下をはいているらしい肉体」「うごめきながら飛ぶ虫」
ぴったり、うちこめられたような気持になってかなり長い間、黄色い壁のなかにぽっかりはめこまれたように浮んで見える、画を凝視めていた。
それは批評すると云うような冷やかな、静かな時間のある、心もちではない。
カンヴァスの、糸のなかへ、「心」が織りこまれでしまった瞬間なのだ。
--と--突然--
どこからか音楽が流れてきた。--
蓄音器がかけられたのだ。音のなかった部屋に、--それもきわめて乏しい智識で解らないが、度々聞いたものであることを思うとかなり有名な曲であるらしい。
画から瞳をはなして音のする方を眺めると、若い給仕女が蓄音機のふちに手をかけてぐるぐる回っている音譜をみている、むっくりと肥った手首には腕時計が光っていた。--
このとき
私の心はだんだん画からはなれて音律のなかへ吸いこまれていった。
曲がおわりに近づいた頃、はじめてそれがカルメンであることを知った。
「ビューゼとか云う人の有名な曲だな」と思っているうちにおわっで次の曲がかけられた。
解らない。静かな淋しいものだ。--
羊飼が吹く角笛など聞える。
「地震以来、はじめてですねこんな気分に浸ったのは」
「好いな、おいウイスキーだ」
卓の上に置かれたジョニウォーカーのコップはすぐからになっでしまった。
「もう一杯くんないか、君」
給仕女がまた一杯ついだ。
「君すまないが、もう一度カルメンをかけておくれよ」
二杯目のコップをあけながら、ほてってきた顔を動かして頼んだ。酒をつぎおわった女は蓄音器のそばへ近づいて板を選っていたが捜しあてゝかけはじめた。
「これだな、とこかの舞台ではじめて上演された時、イプセンだかだれだかが感激して作者に抱きついたと云うのは」
瞳はまた、画を眺めていた。
「--色調と--音律か--幸福なやつだ--観たり聞いたりすることができて」
コップをあけながらそんなことをつぶやいたときは、かなり酔ってたんです。--
註 当時『日活画報』の編集長をしていた伊藤和夫のことであろう。彼は日活向島時代からの溝口の知己であり、溝口の『813 』には懇切な批評を書いているし、一九二四年には「溝口健二私論」という溝口の人と作品についでの興味深い文も書いている。
註 普門暁(一八九六-一九七二)のこと。一九二〇年に未来派美術協会を設立するが、一九二二年に除名される。一九二三年春には京都で個展を開いており、溝口が普門の絵を見た一九二三年の末頃は祇園辺りに住んでいた。 (以下割愛 秦)
註 溝口は戦後の一九四七年の作品『女優須磨子の恋』において劇中劇としでカルメンを流している。
☆ 紅燈 『日活画報』一九二四年八月号 註は割愛
旅に来てまづよろしきは祇園町花見小路の灯ともしの頃
白足袋の似合ふは河内屋与兵衛ならで祇園町ゆく仁和寺の僧
鴨川の流れは耳になれたれど歓楽の酒われになれざる
恋知りし舞妓の笑は淋しかり若き役者の扇持つてふ
木屋町の茶屋の女房の鉄漿つけて眉あほくそる夏姿かな
* ちなみにこの文や歌の成されたより十一年余も遅れ、一九三五年師走にわたしは京都で生まれた。四、五歳ごろから養家の秦に入ったが、育ったその家は祇園の郭にぴたっと背中合わせの(知恩院下)新門前通りにあった。「カフェレーベン(人生)」なんて、いかにも時代を懐かしく感じさせる。
そして、溝口の短歌よ。まさしくこういう空気のなかに染まってわたしは少年時代、大学時代を過ごしたのである。
2013 7・15 142
* 手洗いに妻が庭のアベリアをちいさな壺に盛ってそばに可憐な紅薊一輪を添えていた。古伊万里の藍繪、出土の小徳利にイベリアの一枝をわけて左右から白い花をさしかけ、アーチの下に薊を置いてみた。はんなりし、手洗いが楽しみになった。
* 午前、BSアーカイヴで「残照 藝術家たちの館」を観て感動もし泪にもぬれた。画家、ピアニスト、彫刻家等々、七十から九十すぎた藝術家たちがさまざまに暮らしている。ほんとうに、さまざまに。共通しているのは老いと病の不安とせまる死への思い。いや、それだけでない晩照としてであろうとも已みがたい美への姿勢と喜び。
置いてなお「美しい」空気を生み創り楽しめる幸せをわたしたちも日々に享受し、力を得ている。大きい豊かな力である。
☆ オフライン
半月ぶりの(HP)更新になってしまいました。
元気です。
仕事してます。
最近、自分の生活に、新しいルールを取り入れてみました。
『深夜0時になったらオフライン!』
0時になると、仕事場のWi-Fi の電源をオフにします。
と同時に、携帯電話は「おやすみモード」に入ります。
電話もメールもLINEも、全部着信音が鳴らなくなります。
まだ一週間くらいですが、これ、いいですよ。 建日子
* 「Wi Fi」が何かも知らないが、見当は付く。長保ちするといい。
2013 7・17 142
* 夜中 目覚めて読書。午前参議院選挙投票。睡眠。建日子帰宅。夕食をともにする。八時半、仕事場へ戻る。
2013 7・21 142
☆ 花火
おはようございます
いつも御本をお送りいただきましてありがとうございます
今週土曜日はいつもの(浅草の)花火大会です
もしご都合がよろしければお出かけくださいませ
よろしくお願いいたします 望月太左衛 ☆彡
* 太左衛さんのお誘い。行きたい。
が、行きはよいよい、帰りの雑踏にまじり浅草寺裏から鶯谷駅まで歩くのは、元気な昔でも腰を痛め、途中でしゃがみこんだことがある。言問通りでタクシーを拾うのは不可能。大通りからよほど吉原よりの奥を歩いていてタクシーに出逢えたこともあったのだが。
二十七日は、亡い孫やす香の命日、やす香の母、わたしたちの娘朝日子の誕生日である。
いまの頼りない体力では、ムリか。浅草まで行ければ、気に入りの鮨の「あらせ」も、肉の「米久」もあるのだが。
2013 7・25 142
* 昭和三十五年の今日、娘・朝日子が生まれ、平成十八年の今日、孫娘・押村やす香が二十歳を目前に肉腫で逝った。
わが家でご機嫌サンの
往年の朝日子とやす香
「朝日子」の今さしいでて天地(あめつち)の
よろこびぞこれ風のすずしさ 朝日子誕生
やすかれとやす香恋ひつつ泣くまじと
われは泣き伏す生きのいのちを やす香逝去
* 朝日子 心健やかにあれ。
* お誘いをうけた浅草の花火で、やす香との再会を願ったが、体力に自信なくあきらめた。望月太左衛さんにはお断りを伝えた。
2013 7・27 142
* 建日子たちの愛猫「ぐう」が逝った。「ぐう」よ。
* ぐうと、おまえたちに
ゆくなとももどせともよぶかなしさに草の葉ゆれてしづこころなし
いきしにのあはれあまりのしづかさよせんすべもなきわかれくやしく
身に抱きし重みもこひしよきねこのひとみ澄みしが忘らえなくに 恒平
* 歯医者の帰りに「リオン」へ寄りフレンチを夜のコースで堪能してきた。ワインのまえにシェリーが旨かった。いいメニュで、たっぷり食べられた。「食」味は確実に戻っている。ただ入れ歯だらけなのが食べようをよほどぎごちなくしている。リファインされて静かに落ち着いた店で、亡き「ぐう」を妻と二人でしんみり偲んだ。この場に眸すずしい「ぐう」の写真を技術的に送り出せないのが残念。
2013 7・30 142
MAOKATさん
家内が、どう手を掛けたのか分かりませんが、それは可憐に美しい 姫鬼百合とでも謂うのでしょうか、花が咲きました。えのころ草ととりあわせ、唐銅の瓶に挿したのが清やかで、わたしは大喜びして観て愛でています。家内はそんなふうに草花や葉を挿すのがじょうずで、わたしのお気に入りです。
お元気ですか。あいかわらず大忙しですか。暑い季節になります。大事にして下さい。
わたしはよほど回復しているのですが、しかも芯のところで気弱にもなっているか、元気旺盛とはいえません。もっと躰を動かして鍛えねばいかんのでしょう。
眼はさんざんの有様、加えて、抗癌剤の一年の内に、歯が五本も欠けたり落ちたり、入れ歯に辟易していますよ。やれやれ。 ま、気を奮い立たせ、なんでも楽しもうとしています。
お大事に。 HATAK
2013 7・30 142
* 亡き実兄・北沢恒彦が、或る陶藝家をインタビューして成った「五条坂陶工物語」という晶文社の一冊を、京都の廣瀬さんから送って戴いた。感謝します。そんなことがあったらしいとは兄のメールで聞いていた気もする。いまぶんは、五条坂の陶工物語よりも、北沢が、どう清水焼の世界へ切り込んでいたかを、幸い直接話法の肉声で聴き取りたい。彼の生涯にあって、わたしたちバラバラに他家で育てられた兄弟は、記憶の限りわずか数度ないし十度足らずしか顔を合わせていないのだ、腰掛けて話し合えたのは、さ、二度有ったろうか。そして兄は育ててくれた老父も妻子もおいて自ら先立って逝った。
永きにわたり手紙はたくさん貰っていたし、最晩年はようやくメールでの交信が、ま、頻繁に可能だった。だが、兄の市民活動家としてのユニークな仕事や交際や死にいたる孤独な思索など、ほとんど全部をわたしは知らぬまま死別したのだった。兄に愛されていたという思いだけが遺された。
わたしは不思議な離ればなれの生涯をかすかに交錯させただけの兄への思いを、純に抱いていたいと、葬儀にも、大勢での偲ぶ会にもあえて加わらなかった。悼みかつ送るのは独りで足りる。それが、わたしの思想なのだ。「(江藤淳の)死から(兄・北澤恒彦の)死へ」と題した「湖の本エッセイ20」は心して建てた我が「紙の墓碑」であった。
それでも、せめて兄の著作には今少し触れてみたかった。兄の著書を、わたしは書庫に三册と持たないのである。廣瀬さんはそうと知ってこの本を送ってきて下さった。ありがとう存じます。
甥や姪たちが父・恒彦をどう書いたり語ったりしてきたか、まったくそれは伝わっても来ず、わたしは何も知らない。いずれわたしはわたしの「兄のこと」を書き置くであろう、いや、もうそのヒマは無いかもしれぬ。
2013 7・31 142
* もう休もうかと思い、兄のインタビュー本を読み始めたら、面白い。わたしは市立日吉ヶ丘高校の生徒だったが、此処は当時日本でも唯一の「美術コース」をもっていて、美術一般ももとより、場所が場所で清水焼の釜場である五条坂とも泉涌寺ともいろんな近縁ができていた。それが後年の京都美術文化賞の選者を二十四年も務める下地になった。選者のお一人であった清水九兵衛(六兵衛)さんとも仲よくしてもらい作品を幾つも頂戴していたし、亡くなったあと代替わりされた現在の清水六兵衛さんとも親しくしてもらっている。まえの九兵衛さんとは日曜美術館で話し合ったこともあった。
それだけでなく、わたしは清水焼の世間を背景に小説も幾つか書いてきた。ひょっとして兄よりもよほど早くから清水焼に関心があったのである。その清水焼の五条坂や渋谷や泉涌寺をめぐって兄は、実に兄らしいつっこみで陶芸家の藤平長一氏とはなし合っている、いや討議すらしている。わたしはこの藤平氏の万珠堂も知っているし藤平伸氏を京都美術文化賞に推して受賞してもらってもいた、この対談のことは知らないままに、である。
そんなこんなで、対話の話題がよく分かる、たぶん一般の読者の何倍も分かっている気がする。これは引き込まれそうである。廣瀬さんに重ねてお礼を申さねば。
2013 7・31 142
☆ おひさしぶりです、いとうです。
大変、大変ごぶさたしております。
建日子さん家のぐうちゃんが亡くなったと知りました。
会ったことはないけれど、ブログで見る可愛らしいぐうちゃんに幸せな気持ちをもらっていました。
最後まで可愛く凛々しいぐうちゃんは、たくさんの愛情をもらってきた幸せな表情に見えます。
きっと今頃はやす香に可愛がってもらい、ゴロゴロ喉を鳴らしているんでしょうね。可愛いぐうちゃんが、これから嫌というほどやす香に可愛がられることを祈っています。
先日テレビを見ていると、ハーバードの学生が発明した、発電サッカーボールの話題をやっていました。理系に疎い私には何とも説明が難しいので、インターネットのページを貼っておきます。
http://wired.jp/2013/04/25/soccket/
何となくですが、この発明はやす香が考えそうなことだなって思ったんです。
人が困っていたら誰よりも先に気がつくと思えば、どうしたら喜ぶかもちゃんと知っているやす香。本当に同じ年なのかな? と今でも思うほど、すること言うことがしっかりしていました。
(もちろん、愛らしく抜けている?部分も時々ありました)
そんなやす香だから、きっと考えつくと思ったんです。それに、きっとやす香なら発明した人達より5年は早く考えついたと思います☆ハハハ
最近の私は少し仕事も落ち着き、変わらない日々を過ごしています。
2年前では普通にあった夏休みを懐かしく思いながら、会社に行っています。
最近は、世間の流行と同じく、ドラマ「あまちゃん」にスッカリはまっています。「あまちゃん」を見てから出社するのが日課で、放送のない日曜日は元気が出ません。
脚本を書いている宮藤官九郎ことクドカンの第1回目ブームは、私達が高校生の時でした。
やす香も1つや2つ、クドカンのドラマを見ていたと思います。
でも、それよりも三谷幸喜と建日子さんのドラマのほうが好きなようでした。クラス内で建日子さんのドラマ「ラストプレゼント」ブームが起きた時は、本当に嬉しそうだったのを覚えています。
久々にメールをお送りするので長くなってしまいました。
また、連絡いたします。
暑い暑い夏になってしまいました。
どうか水分補給をしっかりなさってくださいませ。
私は大好きなスイカとアイスを食べてこの夏を乗り切ります。 琳
* わたしの胃全摘や術後感染と脱水や黄斑変性手術や抗癌剤副作用との闘いなど、すっかりわたしたちからも御無沙汰し気に掛けていたので、亡きやす香の一の親友からのお便りは爺婆夫婦を心から喜ばせてくれた。なるほどなるほど、建日子の「ぐう」はやす香と仲良しになるのか、それはいい。メール、ありがとう。
2013 8・1 143
* 兄・北沢恒彦が掴みだそうと聞き役、また炙り出し役をしている『京都五条坂陶工物語』をどんどん読み進んでいて、一つ大きな問題点が抜け落ちているのに気づく。この表題からすれば一応問題外とみて差しつかえないのだが、わたし一人のかねて多大の関心からいえば、「五条坂」という看板でぜんぶ蔽ってある対談には、見逃せない大脱落がある。たしかに陶工世界に限定すれば「五条坂」かも知れないが、それでは「清水焼」という大看板との整合性はとれるのかということ。歴史的にながめれば、「五条坂」という地域名にくらべて「清水坂」の名と地域の問題性は百倍も大きくて深くて難しい物を抱えている。清水焼の伝統はせいぜい近世の半ば以降、それも粟田焼より遅れて地歩をひろげ固めた地場産業。それがに「五条坂」という云い方に集約して陶工達には把握されているというのが兄たちの本の足場・立場であろう。
その一方、「清水坂」という名と史実と問題とは優に平安時代の奥深くにまで遡れる。奈良時代へも手がかかっているかも知れぬ。清水寺の存在は象徴的だが、創立は坂上田村麿に遡る。そしてこの境内下の坂、清水坂に巣くった者ら、「坂の者」らの「人世」は、想像を絶した複雑さと広さとをもって日本史において意味と意義を主張してきた。文字どおりに「清水坂」という命題が大きく存在した。兄たちの本では、その歴史への省察がばさりと棄てられて意識もされていない。陶工達には無関係だからか。そうも謂えるが「清水坂」の歴史には触れたくない気味が差し挟まれていたかも知れぬ。
わたしが永くかけて書き継いでいる小説のひとつは、もし強いて題するなら「清水坂物語」でもあるのである。言うまでもない、わたしが清水坂に根ざした東山鳥部野などの世界に取材した小説は、長編『みごもりの湖』や『風の奏で』や『冬祭り』や『初恋 雲居寺跡』や『底冷え』等々に歴然としているが、それをもっと深刻に広大に世界をひろげ時空間をひろげて「表現」可能にならないかというのが、ま、苦心でもあり楽しみでもある「一仕事」なのだ。
そういう眼でながめると、ことさらに「五条坂」に極言した視野の裁ち落としは惜しくもあり不備にも感じてしまう。ま、兄は「清水坂」の歴史には眼が届いていなかったのだろう、それがあれば、彼のことだ、清水焼陶工等の歴史をもっと深く追おうとしたにちがいない。無いものねだりは今さら無意味であり、バトンはわたしに手渡されているのだと思っている。
2013 8・2 143
* 千葉の勝田e-OLD から、細字の読みやすい「コ」の字ルーペを頂戴した。
むかしむかし、日本初のラジオ技術検定試験に合格して電器屋へ果敢に転職した秦の父は、それ以前は宝石や貴石の錺職人だった。微細な瑕などを見極めたものか父も小さな「コ」の字ルーペを仕事場の抽斗に後々までしまっていた。ちっちゃかったわたしは、それで独り遊びに時を忘れたこと、よく有った。
頂戴したのはさすがに父のよりずっと立派な品。「コ」の字にして感謝し、思いがけず亡き父を懐かしんでいます。
勝田さん、お疲れが溜まりませんようにお大事に。涼しくなったらまた会いましょう。
2013 8・4 143
* 夜中四時前にめざめて、そのまま『アイヴァンホー』上下巻のじつに行き届いた解説を読んだ。なかなかの読み物だった、十字軍で健闘したリチャード獅子心王からつづくジョン王への時代背景は、イギリスという国の中世初期の複雑な建国事情にあり、よく分かっていればいるほど物語もよく面白くわかる。懇切に行き届いた解説が上下巻に相当量あり、まずはそれをとても面白く興深く読んだ。
また兄恒彦が聴き取り役の『五条坂陶工物語』も半分以上読み進んだ。
* 黒いマゴが起こしに来たので、テラスでしばらく一緒にいてやった。どこへも立ち去りもせずまた一緒に家の中へ戻ってきた。もうしばらくやすんでいた。
それから一時間ほど近隣を散歩してきた。往きは涼しく心地よく、帰り際はもうカンカン照りで疲れた。
仕事も用事も、減るよりも増えてゆく。
夕刻、歯医者への往来、照りの暑さと眩しさにかなり疲労。夏バテか。謂うなれば熱波の荒い川を、転覆すまいと棹を振り回しながら懸命に流されているよう。命があると謂うことよ。
あさっては、聖路加で、朝早くから一日、三科をかけめぐる。眼科では予定の検査がいっぱい。何のためにする検査なのか。黄斑前膜と白内障の入院手術より、一年の余。「仕事の出来る眼鏡」の処方、未だに、してもらえない。おお、眼科学よ…。
2013 8・5 143
* 「facebook」からメッセージなどといろいろ伝えてくるが、わたしの不馴れで画面で確かめ得ていない。失礼あらばお許し願う。
わたし自身の「文学と生活」「生活と意見」は厖大な公式ホームページ(hanaha-hannari.jp/)に尽くしていて、「facebook」等にはその一部を転写しているだけ。時間が惜しいのでそれ以上に深入りはしないようにしている。一の願いは実は無事と元気とを心より願っている「たづね人=孫娘」。京都の立命館大学に進学したのではないかとかすかに洩れ聞いている。元気でいてさえくれればそれで十分。
2013 8・6 143
* 昨日、妻が、うちの猫たちの記憶や記録を書き始めて、初代ネコの出産から死までを書いてきた。生み立ての四匹の仔猫たちを連れてわが家にネコの居着いたのは昭和五一年(1976)、愛されてネコの死んだのは昭和五九年(1984)四月十五日日曜の朝だった。ネコの仔のノコは十九年もわれわれと暮らして愛された。ノコのあとへ、真っ黒なマゴがひとりわが家を訪れた。ネコ、ノコ、マゴのいないわが家は想像もできない。娘朝日子にネコの死を書いた一文がある。
2013 8・7 143
* 京都の廣瀬さん、むかしに兄と職場をともにしていた方に頂戴した、兄・北沢恒彦のインタビュー対談本、『五条坂陶工物語』を異例のはやさで読了し、しみじみといま、亡き兄の「えらさ」「たしかさ」に尊敬と思慕を加えている。兄の著書の一冊二冊には触れてきたが、この藤平長一という五条坂陶藝店街の大立者を向こうに回しての兄の「つっこみ」は、周到で鋭敏で深刻に建設的で感動に満ちていた。兄は当時京都市役所の一角に身を置き、中小企業経営の「歩くコンサルタント」として市の内外に知られていた。
大昔になるが、わたしたちが実の兄弟であると知って驚いた人たちは、また一様にわたしに向かい、北沢さんは「えらい人ですよ」と教えてくれた。真継伸彦さんも小田実さんも井上ひさしさんも、そうだった。
不幸にしてわたしは兄について生まれながら何も知らず知らされず、二人ともそれぞれよその家で育っていたのである。五十近くになるまで顔を見たことも無かったのである。
兄のことを知りたい、しかし、自分のハートで知りたいと願ってきた。だが、沢山な手紙、晩年のメールのほかは、数回しか逢ったことがない、そして兄は自殺しましたと遺族に聞かされた。わたしは死に顔をみに行く気になれなかった。酒を酌んでの大勢の思い出話を聴く気もなかった。
もとより今度読んだ本は、兄の死より以前、一九八二年・昭和五七年の真夏に出版されている。わたしは中日・東京新聞ほか新聞三社のために連載小説『冬祭り』を書いていた。もう、兄との郵便等の交際ははじまっていた。
兄はこの本で、章の移るに際し述懐の短文をこまめに挟んでいて、そしてさいごの最後に「蛇ケ谷を歩く」という長い締めくくりを書いている。そこに兄の素顔も肉声も思いも強さと優しさもよく表れていて、わたしは熱い共感と共に巻をおくことが出来なかった。
清水焼という。広義に歴史をふまえれば三條粟田から清水坂、五条坂、日吉蛇ケ谷、泉涌寺、そして今では山科も含めた広範囲が「清水焼」の名を歴史的に負うている。その中に、作家がおり商人がおり陶工たちがいる。藤平氏らの五条坂は主として陶商人の世界であり、他種類の手工藝に汗みどろに働く陶工の世間もある、蛇ケ谷(山科)は根拠地だ。だが、文化勲章や人間国宝に値する知名の大作家たちも清水坂その他に厳として屹立している。三者の関係はなかなかに難しいのである、そのような一端はわたしも二度三度小説世界へ取り込んでいる。だから、猛烈に懐かしい。懐かしい兄の肉声をわたしは存分に聴いた。嬉しかった。
2013 8・10 143
* 東工大に在職していたあいだに、私・秦教授は下記のような質問を毎時間学生諸君に挨(お)し拶(つ)け、その時間時間に必ず回答を提出させ、それを出席票とも成績資料とも強要しつづけた。学生諸君はよく音をあげず、むしろ回を重ねるつど熱心に書いて提出してくれ、その総量は四百字原稿用紙300枚で単行本一冊とすれば、百冊分に相当するほど自分自身の言葉で「書きに書いて」くれた。じつに興味津々の「青春の告白」であった。
当時六十歳定年で退官以降もう十七年になり、その間に、わたしはずうっと学生諸君に対し重い「借り」の感覚を育んできた。全く同じ「問い=挨拶」に、私・秦教授自身も答えるべきだと。そして、今年の三月十六日から私自身をはだかに問いかつ答えることを始めた。まだ三分の一程度しか書けない、それほど一つ一つの問いかけは答えにくい。だが、続けている。かつての学生諸君もいまでは社会の中軸にありまた親でもあり先生もしている。彼や彼女たちはまた往時とちがったことを答えるであろうか。
質問は、厖大。以下にあらためて「資料」の意味でもそのまま、全くそのまま列挙しておく。
ちなみにわたしの教室は、一年生(特講)、二年生以上(文学概論)、三年生以上(特講)で、主力は大教室での文学概論だった。多いときは千人に四人足りないだけの聴講希望があり、どんな大教室にも入り切れなかった。わたしの話している教卓・教壇の上にまで学生諸君は犇めき、しかも以下のような質問に、講義を聴き聴き、書いて答えて提出していった。
資料・かつて東工大学生が秦教授に書いて答えた「挨拶」一覧 ( 順不同)
*故郷の「山」「川」の名前をあげ、今「故郷」とは何かを語れ。 *自身の「名前」について語れ。 *身にこたえて友人から受けた批評の一言を語れ。 *身にしみて学校( 大学は除く) の先生に言われた言葉を思い出せ。 *「別れ」体験を語れ。 *「父」へ。 *何なんだ、親子って。 *今、真実、何を愛しているか。 *何を以て、真実、今、自己表現しているか。 *寂しいか。 *今、心の支えは在るか。 *真実、畏れるものは。 *不思議を受け容れるか。 *秘密をもつか。 *なぜ嘘をつくか。 *信仰とは *もう一人の自分へ。 *「位」の熟語一語を挙げて所感を。 *「式」の熟語一語を挙げて所感を。 *仮面を外すとき。 *親に頼るか、子を頼るか。 *結婚と同棲 *死刑・脳死・自殺を重く思う順にし所感を述べよ。 *誇れる国とは。 *今、思うことを述べよ。 *自由とは。 *( 漱石作『こゝろ』の先生に倣って) 「恋は( )( )である。」 *漠然とした不安について述べよ。 *人間のタイプを強いて一対( 例・ハムレットとドンキホーテ) の語で示し、所感を述べよ。 *何が恥かしいか。 *「日本」を示すと思う鍵漢字を三字挙げよ。 *なぜ嫉妬するか。なにに嫉妬するか。 *セックスについて述べよ。 *絶対なものごとを挙げよ。 *家の墓および墓参りについて述べよ。 *わけて逢いたい「 」先生。 *科学分野に「国宝」が在るか。 *清貧への所感を。 *「性」の重み。 *いわゆる「不倫」愛に所感を。*「参ったなあ」と思ったこと。 *自身を批評し、試みに、強いて百点法で自己採点せよ。 *「挨拶」について。 *今、政治に対し発言せよ。 *東工大の「一般教育」を語れ。 *心に残っている「損と得」を語れ。 *他を責める我を語れ。 *報復したことがあるか。 *仮面をかぶる時は。 *結婚とは学問分野に譬えれば「 」学か。 *一生を一学年度と譬えた場合、あなたは現に何学期の何月何日頃を今生きているか。 *「脳死」「死刑」「自殺」の重みに順位をつけ、所感を述べよ。 *国を誇りに思う時は。 *嬉し涙・悔し涙を流した記憶を語れ。*「心臓」と「頭脳」のどちらI「こころ」とふりがなせよ。何故か。また東工大の他の学生がどう選ぶか、比率で推測せよ。 *「心」とは何か。 *何から自由になりたいか。何から自由になれずにいるか。 *生かされた後悔、生かせていない後悔。 *ちょっと「面白い話」を聴かせよ。 *話せるヤツ、または、因縁のライバル。 *今「思う」ことを書け。 *いま「気になる」ことを書け。 *疑心暗鬼との闘い方。 *あなたは信頼されているか。 *あなた自身の「原点」に自覚が有るか。 *自分の「顔」が見えているか。 *兵役の義務化と私。 *何が楽しみか。 *心残りでいる、もの・こと・人。 *Reality の訳語を一つだけ挙げよ。何によって・何を以て、感受しているか。 *「童貞」「処女」なる観念の重みを評価せよ。 *自分に誠実とはどういうことか。あなたは誠実か。 *何があなたには「美しい」か。 *何でもいい、上手に「嘘」を書いてみよ。 *あなたの「去年今年貫く棒の如きもの」を書け。 *「生まれる=was born」根源の受け身の意義を問う。*井上靖の詩『別離』によって、「間に合ってよかった」という、出会いと別れの運命を問う。*漠然とした不安、あるか。 *「魔」とは何か。 *「チエ」に漢字を宛てよ、何故か。 *「風」の熟語を五つ選び、風を考えよ。 *「死後」を問う。 *「絶対」を問う。 *「祈り」を問う。 *生きているだから逃げては卑怯とぞ( )( )を追わぬも卑怯のひとつ この短歌の虫食いに漢字の熟語を補い、所感を述べよ。 *上の短歌に補われた多くの熟語回答例から、もう一度選び直し、所感を述べよ。 *「劫初より作りいとなむ( ) 堂にわれも黄金の釘一つ打つ」という短歌に一字を補い、その「( ) 堂」とは何か。「黄金の釘」とは何かを語れ。 *落語「粗忽長屋」を聴かせて、即、「自分」とは何か。 *「春」「秋」の風情を優劣せよ。 *今、何が、楽しいか。 *「血」について語れ。 *集中力・想像力・包容力・魅力。自身に自信ある順にならべ所感を記せ。 *「事実」とは何か。信じるか。 *「絵空事」は否認するか、容認するか。 *「幸福」は人生の目的になるか。 *「惜身命」と「不惜身命」のどちらに共感するか。何故か。 *毎時間読んでいる井上靖散文詩の特色を三か条で記せ。 *五年後、新世紀の己れを語れ。 *今期言い残したことを書け。 *公園で撃たれし蛇の無( )味さよ この俳句の虫食いを補い、その解釈を示せ。 *命は地球より重いか。 *命にかえて守るもの、有るか。 *喪った自信、獲た自信。 *仮面と素顔の関連を語れ。 *漱石作『こゝろ』で「先生」自殺のとき、先生、奥さん、私の年齢を挙げよ。 *漱石作『こゝろ』で「先生」自殺後の、未亡人と私との人間関係を推定せよ。 *目から鱗の落ちたこと。 *「私」とは何か。 *あなたは卑怯か。 *自分が自分であることを、どう確認しているか。 *「情け」とはどういうものか。風情・同情・情熱のどれを、より大事な情けだと思うか。何故か。 *「死ぬ」「死なれる」重みを不等記号で結べ。何故か。 *「本」を読む、とはどういうことか。 *「恋は罪悪、だが神聖」になぞらえて「金は( ) 、だが( ) 」である。何故か。 *あなたにとって「大人の判断」とは。 *踏絵を、踏むか。何故か。 *人の「品」とは、どんな価値か。あなたに備わっているか。 *「自立」を語れ。 *むしって捨てたいほどの「逆鱗」があるか。 *性生活の、生活上健康な程度を、人生(10)に対し、どの水準に設定( 予定・願望) したいか。何故か。 *「未清算の過去」があるか、どうするのか。 *「神」は、(人間に)必要か。 *罰は、当たるか。 *あなたの価値観とは、つまり、どういうものか。信頼しているか。 *いい意味の、男の色気・女の色気を、どうとらえているか。 *二十一世紀は「 」の世紀か。何故か。 *みじかびのきゃぶりきとればすぎちょびれすぎかきすらのはっぱふみふみ このコマーシャル短歌の宣伝している商品を推定せよ。 *秦さんに今期言い残したことを書け。 *「死後」は必要か。 *命とは。命は地球より重いか。 *運命天命未知不可知を「数」と呼び、その「数」を見出す・拓く方法や意思を「算」ないし「易」と呼んだ東洋的真意を推測せよ。 *迷信の意義、迷信とのあなたの付き合い方は。 *「情け」とは。「情けが仇」「情けは人の為ならず」「情け無用」のどの情けを重く見ているか。 *「縁」とは。 *「不自然」は活かせるか。無価値か。 *「工」一字を考えよ。 *「花」の熟語を五つと、好ましき「花」を語れ。 *「( )品あり岩波文庫『阿部一族』」の上句の虫食いに一字を補い、かつ所見を述べよ。 *仮想敵を語れ。 *「父」とは。 *虚勢・嫉妬・高慢・猜疑・卑屈 自身の蝕まれていると思う順番に並べ替え、思いを述べよ。 *「常」一字を英語一語に翻訳し、日本語「常」の熟語を幾つか添えて、自己観照せよ。 *人生は「旅」であろうか。 *第一原因として「神」を信ずるか。 *証拠・証明が無ければ信じないか。無くても信じられるとすれば何故か。 *直観は頼むに足るか。勘・直感と直観とは同じか。例を添えて述べよ。 *日本のいわゆる「道」を考えよ。 *親は子を育ててきたと言うけれど( )手に赤い畑のトマト一首の虫食いに一字を補い、作者(俵万智)の親子観を批評せよ。 *二十一世紀を語れ。 *最期に、秦さんに言い残したことを。
* いましも私が自分で若い人たちに突きつけた質問に、自分で回答を書き続けているのは「何故」だろう。ものを書いて現に生きている秦建日子への「遺書」なのかも知れぬ。もうそんなに余裕はないと自覚している。
* 以下、秦建日子の新しい連続ドラマのニュースらしいと妻が報せてきた。
☆ 竹内結子、12年ぶりに髪バッサリ!日テレ連ドラ初主演でブラック企業に立ち向かう!
女優の竹内結子が、10月にスタートする日本テレビの新ドラマ「ダンダリン・労働基準監督官」で同局の連続ドラマ初主演を務めることが明らかになった。本作は、「カバチタレ!」などで知られる田島隆(とんたにたかし)原作のコミック「ダンダリン一〇一」を基に、労働者の保護を職務とする労働基準監督官の姿を描いた作品。竹内は12年ぶりに長い髪をバッサリとカットし、ブラック企業に立ち向かう主人公・段田凛を演じる。
労働基準監督官という一風変わった役どころに竹内は、「まず労働基準監督官という職業があるんだというところからのスタートでした。労働基準法で子役さんが何時以降は仕事をしてはいけない、ということなどが決まっているのは知っていたのですが、それを取り締まる監督署があって、監督官がいるということは知らなかったので、一体何をするんだろうかと」と少し戸惑った様子。とはいえ、「わたしが理解していないことを人に伝えるのは難しいですから、台本でわからない言葉が出てくるたびに、参考にしている本を読みながら、ちょっとずつ理解を深めていっている状況です」と早くも役づくりに専念しているようだ。
今回の役のために、バッサリと髪を切った竹内だが、「機会があれば切りたいとずっと思っていたんです。自分でもビジュアルがここのところ同じになってしまっているような気がして、なんか変えたいなと思っていたところだったので。いいタイミングといい機会を頂いたなと」とコメント。「一つ一つ頂く作品に対して新しいものがあるといいなと思っているので、常に何かしら変化は欲しいですね」と語る彼女の女優魂がうかがえる。
また、「サービス残業」「名ばかりの管理職」「パワハラ」といった現代社会が抱える問題に切り込む本作について、竹内は「嫌なことがあれば、何とかしてほしいと声を上げる権利は誰にでもあるということをまず知ってほしい。仕事に身をささげますとか、命を削って働きますというのはカッコいいのかもしれないけど、それでも『あまりにもこれは!』と思ったときには口に出してみる機会は誰にでもあるんですよ、ということを観る人にまず伝えたい」と意気込みを語った。(編集部・中山雄一朗)
ドラマ「ダンダリン・労働基準監督官」は日本テレビ系にて10月スタート 毎週水曜日午後10時放送
コメント
from: Pan/Pin 2013/08/13 12:09 AM
秦先生は、ヘルメットや安全帯を使用している高所作業等の建築現場に行った事は有りますか…!?
胆肝癌の労災認定を受け、ニュースにもなった印刷会社の件は、ご存知ですか…!?
両方ともで仕事をした経験が有りますので、日本のテレビ、ドラマ業界が、そういった職業の人達に、何処まで歩み寄って行けるのか、辛口の目線で視ようと思ってます。
* この建日子へのコメントの書き手「Pan/Pi n」さんは、わたしの「ツイート」にも実に頻々と反応してきた人で。どういう人かは分からない。
2013 8・13 143
* 夏は暑いんや、暑いからええんやと少年時代に思っていた。夏が好きだった。早朝の朝顔が好き、夕立の夕方が好き、家々で床几を道へ持ち出して涼み、子供らが声を揃えていろいろに路上で遊ぶ晩が好きだった。自動車など通りもしなかった。
昼間は、はだかで青畳にころがりまわる暑さだった。扇風機の風が湯のようだった。泉水に脚をいれて金魚と遊んだ。家からもう赤褌をしめて遠くの武徳会まで水泳に行った。日陰のない川端道を西日のカンカン照りに焼かれながら家に帰ってゆく暑さと疲労。あのころは熱中症とは謂わなかった、日射病と謂ったがそれらしい被害をうけた覚えがない。
もっと以前、丹波に疎開していた山村暮らしでも焦げるように暑い夏はあった。赤土の山肌を板にまたがり滑り落ちて行く遊びもした。小川の少しの深みを岩場にもとめて水しぶきをあげて跳び込んだりした。百合が咲いていた。蝉が鳴いていた。夜は闇のなかで他の蛙が大合唱した。
それでも記憶にある猛暑とは三十度を越すという意味だった、三十三度などという途方もない気温は、暑い京都でも、その年年にせいぜい一度あるかないかだった。
2013 8・19 143
* 黒いマゴも暑さに参っているかもと心配している。
2013 8・19 143
* 妻は近くの病院循環器科へ、わたしは江古田の歯科へ。妻が先に出掛け、わたしは出る時間を一時間間違えて早く出てしまった。しかも江古田からのバスを乗り間違えてよそへ大回りしてしまった。それでも四時の予約に三時には着いた。右の奥の下へまた一本差し歯が入った。一本差し歯だけで各無くも三本目。セラミックなので、一本一本が高価。まだこれから前の三本入れ歯になにやら磁石がつくそうだ。ぐらつきを堅めてもらうらしい。真夏にも毎週のように通院で、かなりしんどい。
* 帰り、江古田から池袋に向かい、西武八階の「熊はん」で京料理一通りに鱧の落としを添えてもらい、例の冷酒「熊彦」を。店を独り占めで、後拾遺和歌集を選してゆきながら、ゆーぅっくり食べてきた。肝腎の鱧のおとしが妙に痩せていていけなかった。
帰宅すると、妻のなんだか数値がよろしくなく、来月にステントの再検査があるという。老老少しずつ衰えの加わるのは自然の趨か。なにかしら、大事なことも考えねばならなくなっているか。
2013 8・20 143
* 近くで開業した獣医へ脱水ぎみの黒いマゴを、点滴のため入院させた。詳細な健康検査をしてもらった、腎機能の低下が認められた。まだ尿はつくれているし排尿量もあるが、機能はかなり落ちている。そのほかは総じて問題なかったが、口中に赤い腫瘍をもっていてそれが気持ち悪くてか飲食欲が落ち込んでいる。ま、むかし、ネコもノコもときおり獣医院に通ったり入院したりした。いまやわたしもつまも入院を繰り返し体験している。吾々も老いているが、マゴも十四歳、けっこうな「お歳」である。なんとか、よりより生きて行くわけだ。わたしは目が鬱陶しくてよく見えず、妻は脚の痛みを庇って背筋がかなりまるくなってきた。
* 気の萎えに負けないようにと願う。体力よりも気力こそだいじ、心得ている。それと、よけいなことをしないように。ただし何がよけいであるのか無いのか、なかなか難しい。
2013 8・21 143
*われわれが留守にしたことこそあれ、わが家に、黒いマゴが留守の一夜二夜など、絶えて経験したことがない。さぞ寂しがっているだろう。
2013 8・21 143
* 有ったり無かったり出したり絞ったり自慢したりする、あの「チエ」。漢字にすれば、知恵、智恵、智慧の三つぐらいに書き分けているが意味は異なっている。知と智と慧。穿鑿すれば果てしない義や意や解が深まるのだろうが。
* 無いチエをあれこれ思うより、映画「指輪物語」第三部『王の帰還』を、独りこの機械で見始めた。だが、あとは明日を待とう。
明日には黒いマゴが退院できるだろう。水や栄養を補給されて元気を回復してくれていますように。もう一晩のマゴの留守をわたしも休もう。もう画面の文字がみな薄れて滲んで崩れている。
2013 8・22 143
* 転落自殺した藤圭子の生涯があらまし報じられていて、その美貌と個性的な歌唱を塗り込めていた何かしらが、暗澹とさせる。その切なさはひとごとではない。
かつて新宿の高層マンションに住んで小説を書いていた女性の未然作家と話す機会があった。わたしと同年輩に思われた。その人は、会話の合間合間に何度もくりかえして、「ちゃんとした育ち」「ちゃんとした生まれ」の自身を指さすように話し、わたしはウンザリした。「あなたの場合とはちがって」と念を押し続けられている気がした。ウンザリした。藤圭子はわたしなどの何十層倍ものウンザリ感をじっと抱いていたのではないか。
2013 8・23 143
* 黒いマゴ、三時半、無事に退院。適切に医療をうけてきたように思う。
明日からしばらく十五分点滴をつづけ、腎臓の治療もつづけてもらう。願えるかぎりの至近距離に新獣医院が開業され、喜んでいる。
* 身辺の「生前処理」の必要が縷々説かれていた。わが家の「私のもの」、及ぶ限りのことはしておいてやりたい。
① 「文学活動」に関わって、適切に手渡せるようにしておきたいもの。著書、原稿、初出紙誌、日曜美術館等々テレビ出演記録、講演録、座談会・対談記録等々、また収拾した執筆用参考資料類、さらに多年に亘る私日記、伝記資料、要保存郵便物等々。
② 「湖の本」活動に関わる、運営の記録類、在庫分、通信・反響等々。
③ 「ホームページ・秦恒平の文学と生活」活動の全容と運営方法、そのバックアップ資料等々。
④ 各種の浩瀚な大事典・大辞典・大全集・個人全集・貴重書籍、受贈貴重書籍等々。また秦恒平の全著書・全限定本等々。
⑤ 軸物、額物の美術品、墨跡・書跡・揮毫・色紙等、加えて釜、茶碗、茶器、茶杓、水指、鉢、香合、花生け等の各種の茶道具・骨董等々。
⑥ 大量のアルバム、写真類、記念品等々。
⑦ 裁判に関わる一切記録・原資料・電子化資料等々。
⑧ 半世紀に亘る全郵便物受信分、また厖大なメール総受信分。
⑨ 数百に及ぶ和洋映画・ドラマ等々の映像記録。愛した音楽等のCD類。
⑩ 愛用した多数の印鑑・印刻類。
* おおよそ以上のうち、
①②と⑦とは、 願わくは心親しい研究施設ないし研究者に委ねたい。
③は、建日子に委ねたい。
④は、建日子の希望分のほかは、研究施設または図書館に寄贈し、余分は処分に任せたい。
⑤は、寄贈・贈与ないし売却を急いで一物も遺さぬように努める。
⑥は、建日子の希望を聴き、またよく選んで電子化し、原則として廃棄する。
⑧は、努めてわたし自身が選別して資料価値・保存価値のある書簡類以外は廃棄する。メールは、原則、処分するが、希望が有って可能ならば、ファイルのかたちで返還または進呈してもよい。
⑨は、希望者が有れば差し上げ、余分は廃棄するか施設に寄贈する。
⑩は、印材もともに、すべて建日子に委ねるが希望があれば差し上げる。
以上のためにも、「リストアップ可能」な物は、努めてリストにしておき、随時の希望に応じたい。
* まだまだ洩れた物があるにしても、大方は処分のほか無いと思っている。生前処理の無かったために遺族がそれにほとほと追われているという話も聞いている。長生きした者のこれは責任範囲であろう。
* 黒いマゴが家に帰って、気ままに移動したり熟睡していたりする安心感。ありがたい。妻が書いている(らしい)ネコ・ノコ・マゴの三代記は、おのずとわが家の二三十年を側面から言い置くことになろう。
2013 8・23 143
* 黒いマゴを医院へ。今週いっぱいほど毎日点滴のために預けに行く。鳴き声も大きくなり、食も排尿便もだいぶできるように。
2013 8・24 143
* 夕方、預けた黒いマゴを迎えに行く。しばらくのあいだ、毎日栄養補給に連れて行く。自転車で数分行き帰り、鳴き声もやや落ち着いて。家に帰ると、嬉しいかよく甘える。
2013 8・24 143
* 明日の朝、もう一度黒いマゴを医院に預け、その足で地元の眼科へと思っているが、すさまじく今しも雨。明日はどうか。
2013 8・26 143
* 黒いマゴ、ほぼ一週間、毎度一日掛かりの点滴等ののちの血液再検査では、腎臓の毒性はすこし改善、腎臓の機能はすこし悪化と。新しい投薬分が出た。明日もう一度点滴して点滴口を撤去。明後日からは十数分で済む注射治療に移行、もう暫くは続けて通うことになる。自転車ならものの二、三分で行けるのが有難い。みたところ、黒いマゴ、元気になりました。
2013 8・27 143
* 実行はしなかったが、周到な計画で人を殺そうと考えに考えつくした者がいて、はたして彼は殺人の罪をとわれぬ「無実の者」であるのか、どうか。
実際に殺人を犯しながら罪を免れていた大富豪の、その娘を熱愛している若者が、はからずも大富豪の犯していた過去の罪を知ってしまいながら、娘への純真な熱愛とまた娘の父の巨億の財の魅力ゆえに切に結婚を望むのは、果たして不当・不徳な願望であるのか、どうか。娘の父は若者の目前で不慮の死をもう遂げてしまっているのだ。
こんな「二つの難問・難題」を巧みに「一つ」の物語に構成して読者をまた悩ませるのが、一九世紀前葉に書かれているバルザックの短篇「赤い宿屋」。
それぞれの一つだけを類似の主題にドラマを書いてもおもしろいが、二つを緊密に組み合わせる離れ業もおもしろかろう。
どうですか、ドラマ作者君よ。
2013 8・28 143
* 黒いマゴは点滴期間を終えて補液の段階へ移行、医院で二度注射、明日からはわが家で注射補液する。ずいぶん元気を回復したと見える。医院が願ってもない近くで大助かり。
しかしまあ今日の暑さ、今季最高に感じられた。わたしの方がノビてしまった。休み休み仕事をしている。本を読んでいる。飲食の楽しみより今は読む楽しみの方が質的である。読んでいるものも、かなりハイな感じで。
2013 8・31 143
* こんなのが出てきてよと妻が紙切れ一枚を手渡してくれた。もう何年前になるか数えもならない昔に、わが家で誰もが愛した「ネコ」を死なせた。思い出せば今も妻もわたしも泣くほど、可哀想な死なせかたをしてしまった。まだ朝日子も学生だった。まともに名前もつけてやらず終始「ネコ」と呼んで愛したのである。窓べの南天と隠れ蓑の根もとを深く掘って葬った。
紙切れには拙い筆の走り書きで、推敲もしないままのわたしの歌が三首。堪りかねて走り書いたらしい。
猫逝きてふた月ちかくなりゐたる吾が枕べになほ匂ひ居る
この匂ひ酸しとも甘しとも朝夕にかぎて飽かなくネコなつかしも
線香も残りすくなく窓の下に梅雨まち迎へネコはねむれり
いまではネコの産んだノコも母とともに同じ窓の下に眠っている。そしてわたしたちは昔のまま窓をへだてた部屋で寝ている。ときどきネコとノコとの声を聴いている。隠れ蓑は今では大木になり大屋根まで伸び上がっている。
歌を墨書の紙切れの裏は、著書『閑吟集』の下書きの一部らしいわたしの手書き原稿で。
今憂きに 思ひくらべて古への せめては
秋の暮れもがな 恋しの昔や 立ちも返ら
ぬ老の波 いただく雪の真白髪の 長き命
ぞ恨みなる 長き命ぞ恨みなる
こう口遊むだけで、謡曲がおよそ小歌と調子のちがう詞章であるとよく分かります。それにもかかわらず、閑吟集の全体に巧くなじむように気を遣って選ばれている。これも、よく分かりますね。
* こういう形だけで謂えば「切れっ端」までが、無慮無数に家のあちこちに積み上がっている。ま、わたし一人にはそのような堆積も温床ほどのぬくみではあるのだが、いやいや、いやはや、やれやれ。
2013 8・31 143
* 九月になった。やす香あらば二十七の誕生日を祝ってやれたが。月々に思い起こすことのあるいわば記念の日を胸奥に埋蔵しているが、九月にとりたてて言う日付は、やす香誕生日がいえぬとなると、劇団俳優座によるわたしの「心 わが愛」初演の日であろうか。加藤剛「先生」を、立花一男が「K」を、香野百合子が「お嬢さん・奥さん」を演じてくれた。立花は惜しくも亡くなったと聞いている。
2013 9・1 144
* 黒いマゴへの輸液を曲がりなりに家で始めた。なかなか難しい。
2013 9・3 144
* 日比谷へ走り、クラブでこころよくヘネシーと山崎を味わいながら、角切りのステーキを。コーヒーを。妻は機嫌良くたっぷりのアイスクリームを。つつがなく、十一時には帰宅。黒いマゴがよく留守居を勤めてくれました。
2013 9・6 144
* 新刊の出来までに残日わずか、発送の用意も頑張っている。なんとか大過ないところまでこぎ着けておきたい。二十日には妻の冠動脈検査入院がまた有る。気持ちの焦点はここへ置いている。わるく緊張しないで、まあるく消化して行きたい。
2013 9・7 144
* はねてから、茜屋珈琲のカウンターで休息、マスターとたくさん談笑。かれからは梨園のいろんな話が聴ける。
手洗いに、今夜はひときわ愛らしく雅に花が生けられ、おもわず写真に撮った。
生け花といえば、いま幸田露伴の考証「一瓶の中」を読んでいる。露伴は生け花の歴史に通じまた生ける技にも驚くほど長けていた文豪。花に限らず、万般暮らしの技にくわしく優れて長けていたのは、彼の家系のもともと幕府のお茶坊主だったことが与っていた。なんでもかでもじつによく心得て子女も薫育し至らぬところが無かったのは、幸田文、玉青らの書いた物が雄弁に証言している。
わたしは、比較的多くこの日録にも庭咲きの花や葉やまた生け花への愛好を隠さないでいる。一つには秦の叔母つる、玉月が御幸遠州流家元直門の教授だったこと、裏千家の茶の湯よりも年永くはやくから稽古場をひらいていて、わたしはその場の空気に小さい頃から感化されていたのだ。わたし自身は手づから花を生けるというのではないが、妻のそれにいつもちょっと手を添えたり口を出したりしている。身におびた嬉しいありがたい財産のようなものと感謝している。
2013 9・11 144
* 『ブッダのことば(スッタニパータ)』は、嫌も応もない具体的な教えでせまり、逃げ隠れも誤魔化しもできない。後世仏教の経典の文句とは全然異なり、素朴なまで率直で言を左右する隙が無い。全然無い。言い訳が利かない、イエスかノーかで自答するしかないが、これって容易ならぬこと。いま、「第一 蛇の章」の一、蛇から十二、聖者まで、「第二 小なる章」の、一、寶、 二、なまぐさ、 三、恥までを読んできて詳細に註も斟酌しているが、「蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るように」いつも「怒りが起ったのを制」しているかとなれば、頭を垂れて「いいえ」と答えねばならない。秦の叔母の稽古場には華道家元の漢字で書かれた「あすおこれ」の額が鴨居にかかっていた。けっして「怒るな」の意義は少年なりに汲み取れた。「あす」なんてものは絶対に無い。その「あす」に怒れという。だが現実には喜寿を通り過ぎて行く老人が、怒りをなかなか堪え切れない。いきなり落第である。ブッダは、この調子で突きつけるように端的にまっすぐ言う。身を避け適当に答えることを許さない。ちっとも無理なことを問われていない。だが、ちっとも守れていない。なんというヤツであるのかと、我が身の持ちこたえようが無い。痛み入って恥ずかしい。
ま、この本が、手放せない。恥ずかしくて手放せないのである。仏弟子たるの資格はまったく無いと分かってしまう。
2013 9・12 144
* 夕方、聖路加の前の副院長林田先生、お電話をくださる。山折さんとの老いと死との「対談」を読んでのことと。例の朗らかな声でいろいろ気遣って下さった。二十日地元での妻の冠動脈検査手技についても、検査結果を報せるようにと。有難く、心強いことであった。
2013 9・13 144
* 十九日の俳優座稽古場「三人姉妹」招待は、翌日に妻の「検査入院」が決まったので、辞退した。今日から五日間は、外出予定なしに落ち着いていられる。夏バテを静めたい。
2013 9・15 144
* 手伝ってくれる息子や娘のあるというのが、じつに羨ましい。
肉体労働が、老夫婦ともに、苦痛という以上に不可能になっている。こうすれば、ああすればどんなにかいいのに、助かるのにと願っていること多々有れども、手助けの手が皆無なため、家の中が荒れるまかせて窮屈に古びてゆく。
2013 9・15 144
* 黒いマゴの加減がよくなくて、こんごは補液の注射を連日のようにつづけねばならない。かなりの高齢になっている、体調はもう微妙になっていて見た目だけでは判断がならない。よく見守ってやりたい。
妻も検査手技入院が近づいている。老老介護にマゴの介護も加わっている。覚悟してきたことだ、立ち向かうまで。
2013 9・17 144
☆ 近況ご報告 秦建日子のブログより
二日ほど高熱で寝込みました。久々です。
今日の夕方くらいから「あ、ちょっと復活かも」という感じになってきました。
ご心配いただいた皆様、ありがとうございました。
☆
改めて。。。連続ドラマを書きます。書いてます。
日本テレビ系水曜22時オンエア『ダンダリン』。
主演は竹内結子さん。
オンエア開始はなんと10月2日。もうすぐ!
お仕事ものです。
お仕事もののシナリオ執筆は、初めてかもしれません。 (医者・教師・サスペンスを除けば)
第一話の執筆に物凄く時間がかかったのですが、今振り返ると、あれはとても大切な紆余曲折だった気がします。何を面白がって何は捨てるのか、そうした意思統一が、PDW 全員で図れたことが、今をものすごく楽しくしてくれています。
現在、脚本は前半最終話の第五話の執筆中です。
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小説は、締め切り飛ばしまくりで、大ヒンシュク状態なので、とにかくこの秋は頑張ります。
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舞台の稽古もしています。
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今日は、愛しの猫の四十九日でした。
といっても、特別なことは何もしていないのですが。ロウソクの火をつけて、昔の写真を眺めただけ。
最近は、近所の野良をよく撫でています。
(人懐っこいのがいるのです)
岩合光昭さんの「ネコ歩き」(BSNHK )を見ながら、野良猫のたくさんいる田舎の港町に引っ越したいなあ、などと考えています。将来は、そういう港町の、餌やり爺さんになりたいです。
* 多忙であればあるほど、からだは掛け替えのない源泉です。涸らさないように心しつつ頑張ってください。案じながら期待しています。
2013 9・18 144
* 満月 妻とすこし足をはこんで眺めてきた。保谷にはまだ空と月をなににも邪魔されず眺められる場所がある。写真にも撮った。涼しかった。
2013 9・19 144
* 今日、地元病院で妻は冠動脈の検査手技入院する。検査は一時半から。
* 一時半からの検査手技では、前回ステントを挿入後にさらに風船を入れて血管をひろげた箇所が、またしても細く血の巡りが弱まっているとわかり、検査後に重ねて冠動脈の懸念箇所をひろげる手術が為された。また三ヶ月後にさらに検査し、同様の結果の見えた場合には「バイパス手術」(天皇さんが受けられた)を奨めますと。
とにもかくにも三、四ヶ月大事に様子をみて、年明けの結果を見極めたい。協力して、立ち向かうしかない。幸い聖路加の循環器内科の、前副院長先生も周到に判断し検討してあげるとお電話まで下さっている。懸念を検討し払拭し、生活上の対策もよく樹てて真っすぐ立ち向かうのが妻のために最良ではないかと、わたし自身は思っている。
* 明日午には退院。前向きに生活を楽しみながら、かしこく立ち向かいたい。
2013 9・20 144
* 晩飯というよりも、黒いマゴとふたりで、相撲を観、酒を飲み、「ダーティ・ハリー」を観て、もう寐ようか、一仕事しようかと。
病院の手術中には、廊下で付き添い義務をはたしながら、『ブッダのことば』に読み耽っていた。『指輪物語』も読んだ。妻の術後の点滴にもつきあい、妻は相原氏の著「古墳」にふれて手にした知識を盛んに話していた。
2013 9・20 144
* 今朝、地元病院を、妻退院。自転車で走ると家から五分で外来にまで入れる近さなのが有り難い。
昨夜は黒いマゴが、二度、わたしの腕に頤をあずけて寝にきた。子守唄を唱ってやった。
2013 9・21 144
* 曾野綾子さんに戴いた新刊『人間にとって成熟とは何か』を、素直に静かな心もちで読み進んでいる。いい言葉でさらっと話されていて、耳に入りやすい。
曾野さんというと、実の父を思い浮かべてしまう。苦しみの多い人で父はあったようだが、厖大な遺文のなかで、父は作家として曾野さんと、先頃亡くなったなだいなださんの名とを書き付けている。心の慰めや励ましを得ていたようであった。
2013 9・23 144
* 小説らしきものを書いてみた初めは中学の二年生頃であった。題も覚えている。「襲撃」。
何事が有ってとは一生徒のわたしには知れなかったが、職員室と、学区域内の青壮とのあいだに悶着が起き、運動場への塀を乗り越え乗り越えて職員室へ襲いかかるのをわたしは二階教室の窓から見た。その様子を見たままに書いた。あとで国語の先生にみせたら、目の前で破られてしまった。
そのころのわたしの表現欲は、短歌・俳句と詩と散文に分かれていて、それぞれの帳面をいつも鞄に入れていた。俳句は国民学校の二年生ほどのころに拙い作が記録されてあり、短歌は小学校四年生から六年生まだに二、三首が記録されてある。小説よりはやく短歌・俳句への興味の動いていたきっかけは、一には叔母が、添い寝の語りぐさに和歌は五七五七七、俳句は五七五とそれだけを教えてくれたこと、また家の蔵書に『百人一首一夕話』が、また百人一首のかるたも手近に在ったことが決定的だった。
もう七十年ちかくがあれから経っていて、わたしは今も和歌、短歌、俳句に心を惹かれ、ときどきは汗をかくのと同じように成るがままに拙い作をものに書き付けている。自身で書いた小説や評論を読み返すことは少ないが、大学の頃に編んだ処女歌集『少年』や近年、胃全摘以前の短歌や俳句らしき口遊みを編んでみた『光塵』は、なにかというと沈静剤かのように手にとっている。いつか棺の中へも持って行きたいと願うのは、『少年』であり『光塵』である。
生みの母は短歌をつくる人だった。亡くなる前に遺書かのように歌集を編んで行った。実の兄の北沢恒彦は、弟のわたしが歌などつくる者であったことを「よかった」と思うと早くに言い寄越していた。母と兄と弟とは、ほとんど一緒に暮らしたことが無かったのである。母の歌は、わるくない。
源氏物語がもし和歌の一首も入らない純然の散文小説であったらわたしはかくも愛読し続けなかったろう。
いい歌や句や詩を選んで味わうということを、わたしは何度も繰り返してきた。『愛、はるかに照せ』や『青春短歌大学』や『好き嫌い百人一首』や『千載秀歌』などの本になっている。今もわたしは勅撰和歌集の一冊を三度も四度も読み返しながら好きな和歌を選抜しようとしている。好きなのである、詩歌が。
2013 9・14 144
* 杉原康雄氏から買い取った黄色い野薔薇の繪が、他のいろいろの繪と遜色なく堂々と玄関を飾ってくれているのに日々満足している。わきにちいさく添えて、簡墨の舞子の繪を掛けているのが対照の妙を得てお互いを引き立てている。わきの壁にはやはり友人が描いてブレゼントしてくれた「蔵王」スケッチの風景小品が簡素ながらに美しく引き立っている。
狭苦しい家の中で、まあまあ心静かになれる場所はというと、この玄関と手洗いとだけ。手洗いには妻のいけた美しい蔓蔦がはんなりとおもしろく光っている。ほかはもう、階下も二階も隣家も、足の踏み場もない。わたし、どうやら生涯を昔から大好きな唄の「埴生の宿」に住んで終えるようだ。
いま書いている小説の一つが、幸いに読者の前に披露できるときがくれば、作者がなにやらこつこつと作中人物の「住まい」のさまを書き込んでいるのに、同情の涙または失笑を浮かべられるかも知れない。ほんとは秦さん、こんな家に暮らしたかったんやなあと。ハハハ。
2013 9・24 144
* 「秦恒平文学選集」(限定特装本)刊行の粗案を書いてみた。建日子ともよく相談したい。凸版印刷とは十月に入って、具体的な進行を相談することにしている。「晩年」の大きな仕事になる。気力と体力さえあれば、可能。気力は有る。立ち向かうまでである。 2013 9・25 144
* 秦建日子が、当分、フェイスブックやツイッターのために時間を浪費しないとブログに書いているらしい(母親から聴いた)のは良いことだと思う。ひっきりなしに「お知らせ」と称して当然のように流してくるメールの全部が単なる繰り返しの無意味な連絡に過ぎないことに嫌気がさしている。退会の方法を知りたいぐらいだが、わたしの手に負えない。そんなことに関わり合っている時間がむちゃくちゃ惜しい。要は、放っておけば済むだけ。
2013 9・25 144
「暫」 清長画
* 今晩、妻と建日子とわたしとは、思いを話し合って、われらにとり記念すべき一つの取り決めをした。わたしの熱い希望を建日子が聴き入れ受け容れてくれたのである。ありがとう。
☆ 「秦恒平文学選集」の「構成案」
第一巻 みごもりの湖 秘色 三輪山 蘇我殿幻想 消えたかタケル
第二巻 清経入水 風の奏で 雲居寺跡= 初恋
第三巻 慈子 畜生塚 或る雲隠れ考 月皓く 隠水の 誘惑
第四巻 廬山 華厳 マウドガリヤーヤナの旅 あやつり春風馬堤曲
第五巻 閨秀 墨牡丹 糸瓜と木魚 蝶の皿 青井戸 隠沼 鷺
第六巻 鯛 修羅 七曜 無明 孫次郎 於菊 露の世 少女 祇園の子 喪心
或る折臂翁
第七巻 秋萩帖 加賀少納言 夕顔 絵巻 月の定家 四度の瀧
第八巻 冬祭り
第九巻 最上徳内= 北の時代
第十巻 親指のマリア
第十一巻 ディアコノス=寒いテラス 亀裂 凍結 迷走
第十二巻 罪はわが前に 私-随筆で書いた私小説 けい子 ひばり
第十三巻 丹波 もらひ子 早春 余霞楼 底冷え 此の世
第十四巻 心 なよたけのかぐやひめ 懸想猿・続懸想猿
第十五巻 お父さん、繪を描いてください
第十六巻 逆らひてこそ、父 華燭 かくのごとき、死 凶器
第十七巻 少年 光塵 亂聲 愛、はるかに照せ
☆ 製作素案
構成 未定 上の案は凡その見当を示したもの。他の再構成をはかることも有る。
製本 未定 上製(布装) 函
建頁 未定 各巻 およそ既刊「湖の本」の四册または三册量か。
部数 未定 極少部数 番号付き美麗限定本
非売 国会図書館その他施設等への寄贈・献納を主とする。全巻をご希望の読者にも「いわゆる定価販売」はしない。
版型・装丁・印刷・製本 未定 刊本への工夫もともども印刷所等と入念に打ち合わせる。已に会合を予定している。
版元 湖の本版元 著者 秦恒平 刊行者 秦建日子
刊行 出来次第随時 秦恒平が存命の間及ぶ限り継続刊行し、没後の継続は発行者秦建日子の取捨に委ねる。
刊行順序 上の構成順に拘泥せず出来るものから、停滞無く仕上げて行く。新作の小説等も加わる予定。
望蜀 著作者が幸いに長命すれば、さらに「谷崎論攷」「文学論攷」「文化論攷」「古典鑑賞」「日本語・京ことば論攷」「美術論攷」「日本史論攷」「対談集」「講演集」「随筆集」等々を編成することも、十分可能。
(「湖の本」は、従来と変わりなく刊行して行く。)
2013 9・26 144
* 建日子がとうに脱ぎ捨てていったどこかの国の三色旗みたいな長袖を着ています。真夏から一気に秋へ。去年もこうだった。
2013 9・29 144
* 黒いマゴは、注射輸液が過剰になると無意識らしく下から漏らしてしまう。加減をよく見極めながら続けねば。
幸い妻の血管手技の予後はいいようだ。なんとか数ヶ月を無事にのりきってほしい。そこまで行けば安心できるかもと言われている。
2013 9・30 144
* 黒いマゴの三角の耳の一つだけ妻と寝ていてまだ六時半 遠 2013 10・5 145
* 黒いマゴの頸筋をつまみ輸液する
健やかなれやもうせめて五年を 湖
2013 10・7 145
* 夕方、歯科へ。新たに折れた奥右下の差し歯にとりあえず仮り歯を入れて貰った。
帰路、久しぶりにフレンチの「リオン」に。サービスのシャンペン。赤のワイン。夜のコース、前菜、スープ、魚、肉、デザートとも、佳いメニュで美味しかった。コーヒーまでで、しっかり満腹。それ以上の寄り道せず、まっすぐ帰宅。
黒いマゴにほぼ毎日十五分ほどかけて輸液しているが、今夜は失敗した。「ドクターX」の大門未知子医師は「失敗しない」のに。やれやれ。
2013 10・6 145
* 用済み九月カレンダーの写真がアフリカライオンの愛らしい三兄弟。棄てるには惜しく、妻は手洗いの壁にピンで押してくれた。いやもう、可愛くて堪らない。名前をつけた。左に半身を起こしている太郎、真ん中に両脚を出した小太郎、右に小太郎に寄り添って片足を出した小次郎。視線がきっちりこっちへ揃っていて、微妙に表情と個性がちがって見える。便座にすわるのが楽しい。余念無く言葉をかける。会話が出来る気がしている。嬉しいことって、身近にあるものだ。
2013 10・20 145
* 手洗いの「アフリカライオン君たち」と、余念なくお喋りする。よくよく見極め、真ん中の仔が上の太郎で、半ば身を起こした左のが小太郎、右のが小次郎と「決定」した。無性に可愛い。黒いマゴも可愛くて仕方ない。輸液を続けている。夜は妻と寝ており、夜中に起きて啼いて、おしっこに付いてきて、と。ついて行くと、用意の場所でちゃんと用を足す。一晩に二度はマゴのおしっこに付き合っている。寝そびれてしまうと、そのまま何冊も本を読む。
2013 10・23 145
☆ 秦建日子のブログより
重なる時は重なる。
NEXT4 卒業公演『比翼の鳥』、本日無事、初日を終えました。
明日はダブルキャストのもう片方の初日。
ゲネ&本番なので、つまり2ステ。
ダブルキャストといってもまったく同じ演出ではなく、キャストに合わせて何箇所もいじっているので、それに合わせて音 や照明も変えます。そのための場当たりも必要。
と言いつつ、連続ドラマ『ダンダリン』、ついに7話の撮影が始まってしまった。
ぼくはまだ8話の初稿も書き上げていない。
しかも今回は全10話ではなく全11話。痺れる状況。
プロデューサーさんからのリクエストは実にシンプル。
「通常の半分の日数で書いて下さい」
ちなみに、通常は、舞台本番と連ドラの掛け持ちなんてしない。
この状況を乗り切るには、最低でもいつもの4倍のスピードが要る。
4倍? まじで?
そして、精神的に追い詰められてブログに逃げたりするのである。(Twitter はそういう時とても便利だった)
しかもしかも、春ドラの1話のロングプロットの締め切りも、今回重なってしまっているのである。
半月ほど時間をいただいていたので、まあ、プロットだけなら書けるだろうなんて思っていたら、一行も書けないまま締め切りまであと二日である。
明日は、作家人生初となる、午前だけで打ち合わせダブルヘッダー。
8:00~10:00と10:00~12:00。
朝は極端に苦手なので、とにかく避けてきたのだけれど、そんな甘いことも言っていられなくなってきた。
よし。
泣き言を書いて気分転換したところで、また執筆に戻ります。
では!
* 忙しいときは忙しいのであり、逃げ道はない。
四十代、五十代は、時には呼吸することも忘れていた。しかも、量より、質。ごまかしは利かなかった。もう二た月で七十八の今も、同じです。
2013 10・25 145
* 四時半、歯科へ。左下奥にまた一本差し歯が入った。帰り際、「あふひ」先生と歌舞伎談義に小さい花。そのまえに、里帰りお姉さんの「らんこ」ちゃんとも話した。「らんこ」ちゃんは往時の娘朝日子と、お茶の水女子高の同級生。わたしはその頃、むりやり請われてPTA会長を務めていた。思いだすだに、やれやれ。「らんこ」ちゃんも五十半ばか。元気だった。はやりの「ブログ」なるものに機鉾鋭い的確な批判・非難の弁を聴かせてくれたのは、わたしにも収穫であった。「あふひ」先生には信州の立派な栗をたくさんお土産に頂戴して帰った。
帰路、新江古田駅前でバスを下り、「リオン」でソース濃厚の美味いフレンチ。満腹をかかえて帰宅。
2013 10・28 145
* 選集第一巻に予定の『みごもりの湖、 秘色、 三輪山』三作の本文校閲を終えた。湖の本は現在、9ポ20行で組んでいるが、小説はポイントを上げ行数もへらしてゆったり組みたい、となると、第一巻は五百頁前後の大冊になるだろう。
これからが、本番になり、しかしせわしく進めて憾みを遺してはつまらない。装幀・造本・製作。四半世紀の余を付き合ってきた印刷所の有能で親切な担当者と膝つき合わせ慎重に相談を重ねたい。
第二巻には、『清経入水、 風の奏で、 初恋=雲居寺跡』そして今書きかけの新作小説が加わればいいのだが、新作の脱稿、第二稿には今しばし贅沢に時間を掛けてみたい。「能の平家物語」を加えてはどうかとも思っている。校閲をすすめて入稿原稿を用意しておく手は抜けない。自作の小説をゆっくり時間をかけて読み直し瑕瑾を繕う仕事、いつかしたい、しなくてはと思ってきた。そのいつかが来ているのだなと思う。
想いや願いの先走るのは、だが賢く抑えたい。「一期一巻」ということ。そういうこと。
建日子ががんばって仕事をしていることに、どれだけ元気づけられ助けられているか知れない。
2013 10・29 145
* 建日子が脚本役の「ダンダリン」を初めて一回分通してみた。これまでは半時間ともたず席を立つか、まるで見なかった。「労働基準監督署」の意義も必要なことも問われれば答えられる程度に分かっているが、それが社会人の念頭に浸潤し得ていないあまりに地味な機関であることは、ドラマを観ていてもよく分かる。法律がありそれに副って設置しないわけに行かないから「存在」している機能と、それさえも世間に認知され得ていない。ひっかかりはじめれば、いみじくもヒロインが街をあるくだけでやたらに違反例がみつかる。ということは、役所は働ききれない程度に弱体で、ま、逃げ腰にもならざるをえない。だからこそヒロインのような無謀と見えてしまうほどに頑張らざるを得なくなっている。いわば役所としての閾値をすれすれのところで出入りしている。へえ、そんな役所があるのかあと報せる役には立つが、病院のドクターや、国税庁の査察官や刑事や検事や弁護士のように視聴者におおそれそれとは迎えられない。
それでも頑張ってやっているのだから、それはそれで、いい。
労働基準監督官が、働き手の味方で有らねばならぬのは法の建前から当然だが、そもそも今日働き手の利益や権益を守って行こうという世の中かどうか、それこそが先立つ問題で、それがきわまりなく投げやりにされて、ただもう尻尾を巻いているのは何故か。それこそが、問題なのだ。
国会で三分の一を堅持していた社会党がいつしか煙のように解党寸前の民党に現になっている。根の病は、保守政権と経済利権構造の総力によって徹底的に労働組合が壊滅されてきた、それこそが働き手の大問題なのに、いわばお為ごかし程度にしか働かない、働きようのない労働基準監督署ていどのめくらましに働き手達の社会は誤魔化されている。
労働組合ときけば蛇蝎のように嫌いその殺戮に躍起になってきた、それに成功してきた見返りが、ノホホンとしたアベノミクスのような吾が仏のみ尊しの今日只今の日本国なのだと気が付かなくては、気がついて「労働基準法」「労働組合法」などの法精神を実体として健全に再構築しなければ、日を追ってますます働き手達は奴隷なみに手かせ足かせの未来へ追い落とされてしまう。なぜそれに気づかぬのか。
2013 10・31 145
* ドラマ「ダンダリン」物足りない。
2013 11・6 145
* わたしは文字どおり座右に聖書も仏典も置いていて、すぐに手が届く。ヒルテイのあげた「ヨハネによる福音書」の指示箇所も、即座に確かめられる。
いま手にした文庫型の聖書は日本聖書協会1954年改訳の版で、それに手作りで黒い柔らかい和紙で丁寧に包みきってある。持ち主に相違ない実父が手づからした仕覆なのか、この聖書をわたしに手渡した父の娘、わたしの継妹の心づかいなのかは分からない。ただ聖書最初の見開き、右頁に、
熱愛を受けし
祖母の負託を憶ひて
と大きく書かれ、左頁には、
私の過去は凡て誤りでありました
心から神の前にざんげ致します
今後は
一、常に神に導かれていることを信じます
一、常に正しい道を歩むことをしんじます
一、神が道なきところにも常に道を作ることを
信じます
神と共にあればすべてのこと可能なり
一九五六、四、二一、 吉岡恒印(○朱印)
と、まちがいない父吉岡恒の手蹟で書き込んである。父が信実の基督者であったかどうか、一日として一つ屋根の下でともに暮らした覚えのないわたしには分からないが、継妹二人も家族たちも篤信者である。父の特筆している「熱愛受けし祖母の負託」の実質もわたしには分からない、ただ、わたしや兄恒彦を産んだ生母が父のいうその祖母によく「肖て想われた」のが出逢いの縁になったかのようにも朧ろに聞いたことがある。
何にしても、わたしには、上の、実父が聖書に書きのこしたような神の導きにまつ思いは、無いなあというしかない。
2013 11・9 145
* 黒いマゴへの輸液は、ま、三日に二回ぐらいずつ妻が続けていて、夕方液の補充に医院へ自転車で。
その頃からなにかしらからだに無力感がある。夕食後にテーブルに額を置いてうたた寝を続けていた。昨夜はよく寝たはずなのだが。
2013 11・9 145
* なんとかかとか可愛い太郎 次郎 小次郎の写真はねじ込めたが、これまではエプソンのファイル・マネージャーで自在にトリミング出来たのに、このソフトが全く働いてくれなくなり、ディマージュ・ビューアでは映像処理がただただ複雑なのにトリミングは利かないと来ている。不格好な写真を入れるハメになり、太郎たちに申し訳ない。いまわが家で、黒いマゴに次いでの大の人気兄弟です。
2013 11・16 145
* 「ダンダリン」で、労働基準法という、共産党も社民党も民主党も生活の党もみーんなが忘れ果てているような法律の名を、守れと叫ばれていた。ただそれだけでも今日希有の叫び声であった。思い出せと言いたい。もう一度労働三法をしかと手中に握り直して政治や行政や企業の故意も甚だしい諸悪に立ち向かえと言いたい。働く人が、われからそれらを抛ち投げ出して泣き言ばかり言うていてどうなるのか。結束しなければ、とてもとても太刀打ちならぬ兵法を敵は悪辣なほどに手に入れている。それに負けていては話にならない。吉田社民党新党首、気を引き締めてかかれ。憲法には選挙権がない。投票し、代議士を増やしてくれるのは、人、でしかあり得ない、それを忘れ果てていたのが社民党壊滅の自己責任であった。忘れるな。
2013 11・20 145
* さて、竹内一郎作・川口啓史演出・俳優座公演の「気骨の判決」とは、そういう「裁判」物語を通しての、まず間違いないであろう今日の「違憲選挙」等を非難する「アピール」劇であった。
* だが残念ながら、舞台は低調、ただただ裁判経緯の「説明」にのみ推移して、そこに「演劇」のもつ本質の「劇」性が、「劇」表現の魅力が全然欠けていた。
上にも謂うように、物語・事件じたいは「甚だ簡明」で、入場時にもらった筋書きや、前もって家にも送られていた「コメデアン」紙にも目を通していれば簡明しごくに分かりよくて、「分かりにくい事情」など、ちっともない。それでいて舞台は、こまぎれに繋いだいろんな小場面の只の連続で、まるで「紙芝居の絵解き」よろしく、ひたすら裁判沙汰を「説明」し続けるだけであった。俳優が、みな、絵解き人形のように使われてしまい、科白も、「ことがらの説明」のためにだけ味わい薄く耳に届いた。「劇」言語のもたらすべき感銘も興奮も、ゼロ。「劇」という文字の迫力、「ドラマ」に呑まれて行くいい意味の凄みなど、何も無かった。熱烈な共感の拍手は湧き起こらなかった。カーテンコールも全然無かった。
吉田久を演じた加藤佳男は、はっきり言う、好演していた。だが、岩崎加根子や可知靖之らの手に汗する芝居を楽しみに期待していた身には拍子抜け、ただもう「科白付きの絵解き人形」をただ強いられていた俳優たちが気の毒だった。
台本が、出来ていない。演出に悪戦苦闘の汗のにおいもなかった。お話をただ分かりよく聞かせてもらっただけ。
* 「吉田久」その人の「気骨の判決」には胸も熱く感動するし、いまの司法、いまの大審院ならぬ最高裁判事にも、心して見ならって欲しいと願うが、只それだけでは、お話の筋が、おかげでよくよく分かりましたと感謝するにとどまる。「演劇」を楽しみに劇場へ出向いた甲斐が無い。劇的感動は、まるで得られずじまい、舞台劇の余韻など滴ほどものこらず、ホールから出てしまう前に、もう舞台のことは頭から失せていた。吉田久という実在した裁判官達への深い敬意だけを持ち帰ったが、その敬意なら、「気骨の判決」に招待しますと俳優座から通知されたときに「十分」胸に湧いていた。俳優座劇団の舞台が、それにどれほどの「劇的感動」を積み上げてくれたかどうか、それが「演劇」であることの問題なのだ。
盛り上がりの丸でない舞台だった、残念至極。
* 伊勢丹で、妻に似合う帽子を見つけ、七階の「魯山」で寿司を食って帰ってきた。
2013 11・21 145
* 起床8:30 血圧132-72(54) 血糖値81 体重68.0kg 午前 地元の佐藤眼科へ。点眼薬が不足してきたので。眼鏡は、遠い用二つ、室内用二つ、機械用一つ、読書用一つの六つを持っていったが、六つともが微細な差で出来ていて、新しく作ってみても役に立つまいと。そんな審判になるのだろうと行き渋っていた。両眼とも、とくに悪化の兆候は無いと。
* 往きは妻も一緒にバスで保谷駅へ、そしてタクシーで佐藤眼科まで。帰りは徒歩。お天気の良い裏道の農村めく家や林や杜や畑などを楽しみながら、途中石挽き蕎麦の「一喜」で昼食。旨い蕎麦で、酒もよし。家までの徒歩に五千三百歩とはめったにない記録で、流石に腰が痛んだ。気分はよかった。知らない保谷村が在るものだ。
それにしても開発か再開発か知らない、のどかな農村風景をぶち抜きに何十メートルもの道路が造られつつある。じつは自転車でそれを走れば佐藤眼科へは簡単に行ける。だが、便利がいいとは思いかねる。保谷は比較的なーんにもない平和な田舎だが、必要とも思われぬ大道路の暴力的な開発で、何が何やら分からないほど地理まで混濁している。朝日子が帰ってきても、無事には育った家が見つかるまい。
2013 11・22 145
* 黒いマゴの輸液を続けている。腎機能は低下していて、輸液の継続は必要と、今日も獣医に言われてきた。むかしのネコやノコの最期は相当に衰弱しきって可哀想だった。黒いマゴには、あたう限り手厚く看護してやり、一日も永く共に生きてやりたい。前のネコ、ノコに比べればまだまだ健康な眼ぢからと毛艶をもっている。運動機能は弱っていても、戸外での時間をせいぜい妻の庭仕事とも馴染んで楽しんでいるようだし、留守番を頼むと黙ってわたしの仕事部屋へ上がってソファで寝てわれわれの帰宅を待ってくれる。
2013 11・22 145
☆ 自邸に関して
秦先生 昨日ですが、内覧会を行いました。
建築関係者を呼ぶのが通例なのですが、現在住んでいる社宅の方々や今後ご近所さんになる方々も多く来られて、和気あいあいと過ごすことが出来ました。「建築」という世界だけでなく、いろいろなつながりを大事にしてきた結果かな、と思っています。
室内にはアーチストの鳴海暢平さんに絵を描いてもらいました。近隣の成蹊大学の森に多く育つどんぐりをモチーフに色鉛筆で描かれました。
大学院時代は、アートとのコラボレーション等は建築の純粋性を損なうと考えがちでしたが、会社に入って建築の実施をやってきた中で、アートの価値を再認識したという感じです。
秦先生とご一緒させていただいていた学部時代は、茶碗等の展覧会のチケットもいただいて、美術館に行ったりしていたので、またそこに戻ってきた、という感じもします。
純粋な建築的な文脈だけで語れる建築も大事ですし、建築に対する厳しさも大事ですが、やはり楽しさがないと。自分で語りえない部分をどう含みこんでいくかを、ノーコントロールでなく含み込めたら、それが楽しさにつながっていくのではないか、と絵を描いてもらいながら考えました。
秦先生は家具が入って普通の生活が始まってからご招待したいと考えております。
心のご準備をお願いします。 楊
* 残年のほぼ尽きてきたわたしには、住まい新築という希望はとうに失せていて、結局わたしは、生涯六畳より広い間取りを持たぬ家で過ごすことになる。
育った京都の家では、京間の四畳半が家中で広い部屋だった。父の仕事場も、茶の間も、わたしの勉強部屋も、三畳だった。昭和二十年、丹波の田舎に戦時疎開し、農家の隠居を借りたとき、初めて八畳間で暮らした。勿体ないほど広く感じた。叔母は京都の家の離れに住んでいたが、そこも四畳半と三畳だった。
東京へ出てきて妻と暮らした新居は、江戸間六畳が一室だけのアパート。社宅へ移っても、六畳と四畳半だった。
作家生活を始めたのは、家を建て、社宅から移り住んだ二階家の今の家だが、親子が四人の上に、京都から引き取る父母と叔母との用意を要したので、六畳間以上の部屋はとうてい造れなかった。幸いに垣根ひとつを隔てた地つづきの隣家が買い取れたが、その家一軒がそのまま書庫、物置になっていて、そこでは暮らせていない。家が建ち、まだ老人三人が京都を動かなかった頃は、一日に十回ぐらい「おお広いな」「広いな」と嬉しがっていた。新居というのは、嬉しいものだ。茶人の叔母のための部屋には、半間の床の間をつけ炉も切ったが。とてもとても実際には七人の家族が一緒に住める広さでなかった。狭くて狭くて今も苦労している。
思わずも妙な回顧に落ちた。
妻は千里山で三百坪もの広い家で育った。どうも生涯狭苦しい家に閉じこめてしまうようで、ときどき申し訳なく思っている。
ま、気持ちは、ごく豊かに暮らしているつもりだけれど。
* 機械の画面が眩しくなってきた。
新しい湖の本が出来てくるまでに、めったにないことに一週間ほど余裕が出来、狭い上に狭苦しくものに、つまりは概ね書籍に溢れているのを少し片づけて、せめて東の住まいから西の物置きへ移動させたい。ただしこれがみな重い仕事になり、腰や脚を痛めることになる。ま、仕方がない。
2013 11・25 145
* 水道のトッパン印刷へ出向き、「選集」の為の初の打ち合わせをしてきた。デジタル パブリッシング サービスの安達昭俊氏も同席。「みごもりの湖」のルビ打ち原稿を預け、家に帰ってから、電子化原稿を仮入稿した。ひとまずのスタートともいえるが先途はまだ長い。しかし、本の中身の構想は成っているに近く、姿・形ではつまり函のデザイン等の問題が残っているだけとも言える。要するにイージィにはしたくないというに尽きる。小松から、「秦恒平選集」の題字が届くのを楽しみにしています。
美装本ということでは和歌山の三宅さんが「朱心書肆」の名で創って下さった『四度の瀧』が、ベテランのトッパン担当者の曰く、「完璧」の出来だった。そこまでは手が届くまいが、美装よりも「作品」として遺せる本にしておくのである。はかない「人の業」「紙碑」ではあるが、出だしも収めも私家版の作家としてきちんと全うできれば善い。何巻創れるのか、それはわたしの(妻もふくめての)寿命次第であり、有り難いことに建日子がよく頑張ってたすけても呉れるので、秦恒平の贅沢を、最期に味わわせてもらう。
* 昨日、散髪しておいた。ぼうぼうの蓬髪が白さを増して凄んでいたのを、なんとか静めてきた。新刊の発送前に散髪したりトッパンまで「仕事」用で出かけたり出来たのは、発送用意の作業を早めに早めに進めてたからで、それに「選集」のための仕事も重なっていた。仕事を集中して早くというのはムリになって行く、それよりも仕事の予定を長めに早めに立ててムダに休まないのがいい。
問題もある。
病気以前には、隅田川の橋を歩いて渡るなどと目論んだりし、一人でよく出かけては何かと食味を楽しんでいた、自然脚を運んで歩きもしていたが、去年から今年へ、杖にすがってのヨロヨロで、外出を楽しむ外出が全然失せた。ペンクラブの懇親会などまったく気が無く、ただもう聖路加病院やかかりつけ医院の受診と、歌舞伎座などの観劇・観能。ほかは、ゼロ。今日「仕事」の打ち合わせにトッパンまで出かけたのが、まったくの久しぶり。
これでは体を脚腰から鍛え直せない。
ひとつには、食欲は戻りつつあるのに、美味い感覚がしっかり戻っていない。辛い甘いの「度の過ぎた」のばかりを美味いと感じているようではいけない。ウイスキーやマオタイやウオツカがしみじみ美味いというのも、アルコールの高い強い度数に刺戟されているだけ。
2013 11・29 145
* 黒いマゴが年齢を負うてきている。腎機能の衰えがはっきりし、毎日のように輸液している。少し痩せてきたが毛艶は黒く、眼ぢからも有りげに見えてまだまだと期待したいが検査データは好転していない。哀しいが、天命はおもむろに近づいている。愛してやりたい。輸液、また十日分買ってきた。ほぼ毎日点滴している。
2013 12・1 146
* 「選集」の件、オンデマンド絡みでの進行などすべて白紙に戻し、製版・製本の全行程をトッパンが引き受けて呉れ、「湖の本版元」として「発行人・秦建日子」として出版することと決した。組み版の検討に入ることになった。ひとまず、安堵。
2013 12・3 146
* 聖路加病院での生理検査を終えたのは午前十時。飲まず食わず、各科の処方箋三枚をもらい、すべての診察を終え病院から解放されたのが、もうほの暗い午後四時過ぎ。七十八の誕生日でもある冬至がもうちかいのだ。どこへ移動などしたい気は失せ、とぼとぼと築地を歩いて、また馴染んだ玉寿司本舗で「栄蔵握り」と純米の清酒一合、この酒が利いて、食べながらじいっと眼を閉じていたりした。楽しもうと予期した一切を顧みず、新木場から石神井公園止まりの有楽町線に乗ったが、石神井で下ろされなかったら乗り越ししたかも知れない。保谷で十数分タクシーを待っているうちに両脚が不自然に痛んで痙攣し始め、参った。来たタクシーに救われた。よほど疲れたらしい。
* 七七始終苦の一年は過ぎようとしているが、わたしは、わが家の正念場はむしろ来年だと気を引き締めている。わたしの体にも妻の体にも病害が待ち受けている。安閑とした気持ちでは乗り越えて行けないと考えている。屈したり負けたりしていられないのだ、妻にも建日子にもよく心得ていて欲しい。
2013 12・4 146
* 「ダンダリン」で、醜悪柄本が綺麗な竹内結子に迫る場面は鬼気せまる見せ場であったが、その後その他の場面は納得のいかない、ただ最終回へ引っ張る引き延ばしに感じられた。ダンダリンに納得できないというより、作劇のテンポ落ちに不満が残った。それにしても、この連続ドラマの現今登場の意義は浸透してきたと思うし、いいこと、大事なプロパガンダに相違ない。
2013 12・4 146
* プロポーズして56年め。昭和三十二年(1957)だった。黒谷はまだ紅葉に燃えていた。一枝を狩った。叔母の稽古場に持ちかえると紅葉を水盤にひたして畳に置き、一亭一客の茶をたてた。
56年の一年一年をまこといろいろに過ごして来れた。来れたことに感謝している。
2013 12・10 146
☆ おじい様 おばあ様
ご婚約記念日、おめでとうございます。
お二人のこれからの一年が、さらにステキなものになりますように。
少し前になりますが、フランスの旅行から帰国しました。やはりパリは何度行ってもため息がでるくらいステキなところです。日本にはない刺戟があふれ、いるだけで幸せになります。やす香(=秦の死なせた孫娘)の大好きなパリ、私も大好きです。
先日、やす香と共通の友人に女の子が産まれました。また別の友人も。来年四月に結婚します。きっとやす香は、かおをフニャフニャにしながら喜んでいると思います。☆
それでは、風邪に気をかけてお過ごし下さいませ。 香
ささやかですが、クリスマスプレゼントです。
フランス土産の紅茶やさんのアメと、今さらお渡しするのはお恥ずかしいのですが…以前購入したオルゴールのCDです。生のオルゴールの音色を聴いて感動し、おじいさま おばあさまにもぜひ聴いていただきたいと思ったのです。渡すタイミングをのがしておりました。よろしければ、きいてみて下さい。 香
* やす香のお友達がこうして欠かさず途絶えなく、懐かしやかにお便りを下さる。ありがたい、ことだ。嬉しいことだ。
実の娘「朝日子」は、押村宙枝と名を替えどう暮らしているのだろう。実の孫、姉のやす香が愛していた妹のみゆ希は、今はいったい何処に住んでどう暮らしているのだろう。京都の立命館大学に入学したともかすかな噂に聞いた気もするが。心ゆく日々を幸せにすごしているのだろうか。そうあって欲しい。
2013 12・11 146
* 妻の妹より、亡き兄で放送の構成マンでもあり作詞家でもあった保富康午の、少年時代手書きの詩集が贈られてきた。妻等の父保富茂がてづから清書したりしてあり、妹流美子自身は自身も詩集を出版しており、またじつにユニークな細密絵画も描いている。兄妹等の母親も短歌を作っていた。
* 妻の親類やわたしの異母妹からも歳末の挨拶があった。
2013 12・11 146
* 息子秦建日子脚本の「ダンダリン」が今夜終わった。労働基準監督官という当節本当に必要でしかも忘れ去られているような行政官活動に光をあてたユニークな仕事になった。竹内結子というナイスなキャラクターがどこまで十分に活かせていたのかは別にしても、こういう着眼からの連続ドラマは殺しや刑事番組に食傷した視線には有り難いものだった。椎名麟三の『美しい女』といういまや古色蒼然の戦中戦後共産党ドラマには驚き入るが、今日読んだところにあった、「たしかに権力というものは、自由に誤解するすることが出来るという自由さのなかに真の姿をあらわすもの」という指摘は手厳しくも暗然とさせた。こういう権力の時代が露骨にこれから、いいやもう今まさに戦中戦後以来化けて出てきている。
2013 12・11 146
* 身の回りが雑然としており、どう手をつけて片づけていいのか分かりかね、いらつくことがある。何でもかでも手の届く身の側へもってきて積み上げているのだ、捨ててしまうわけにも行かないのだ。
それとは問題がすこし違うが、余分な物に、たださえ狭いところを塞がれていることもある。
小さい頃からわたしは紙の白さを尊重し、白い紙には字が書けるのだからと、捨ててしまえなかった。紙質や紙の大きさにも従い、両面の白紙は言うまでもなく、とにかくも裏白紙は無条件にしまいこむ。捨てたくない。抽斗などすぐ満杯になる。で、箱や筺や函が登場する。
函、筺、箱は、生活文化の最たる発明の一つとわたしは思っている。大には大の、中や小にもそれらなり用途の理も利もある。巧くすると箱は美しくすらある。日常的に身近に集まるのは大方紙箱だが、時に木箱、竹編箱も手元へ集まってくる。蓋のあるのも無いのもある。それらの箱が捨てられなくて、大小の空箱を身の回りにかなり蒐集してしまっている。手狭になって当たり前で、馬鹿げているという自覚もあるのだが、白い紙とおなじに、箱っていいなあと、太古來の「生活」「文化」を実感してしまう。
しかしそれらの箱を上手に利用するのは想像以上にむずかしい。せっかく箱に入れた中身を憶えていないと、用途に応じて中身を探し当てるのに苦労してしまう。
秦の母も、妻もそうだったが、外見の雑然とした丈夫そうな箱に、綺麗に別紙を貼り、格好の良い箱を創っていた。箱とはそういう思いを誘うものであった、昔から。なんとかして上手に使ってやりたいと思わせる。
2013 12・12 146
* 猪瀬都知事の追いつめられよう、弁護の仕様もなくて、一友人として胸を痛めている。わたしの豪語めくけれど「不徳ナレド孤ニアラズ」ということが彼の現況では謂えないようだ、弁護士にすら助言を得ていないように見受ける。夫人の亡くなられて間もないことも彼には響いていよう、気の毒に思う。
それにしても誤魔化してはならない、それで遁げよう、遁れ切れると思っていたなら浅はかが過ぎる。いったん人を窮地に追い込んだと見たマスコミや人々の過酷に容赦ないことは、彼とて知っていただろう。それなら、ああいう委員会に出ると分かれば事の経緯を時日を追って精確に記録し記憶して揚げ足を取られず誠実にウソをつかないことだ。それが全然出来ていない。人間の弱いが故の強がりがボロを出している。彼のわたしとなどより遙かに広く永く交際してきた友人達が信じられない成り行きと惘れているが、日本ペンクラブでの理事会や委員会での付き合いしかないわたしには、ああ、やっぱりこうなったかと文字どおり思い当たるのである。「図に乗って」「タカをくくる」ことは、能力のある人のほぼ全員が持ち合わせる不徳である。図に乗っているときは右肩上がりにズンズン進むので、蹉跌に対しても籠に対しても「タカをくくる」。むちゃくちゃに自己弁護して誤魔化してしまう。才能を認めて期待している友人になら、苦笑いで容赦して貰える、が、公衆相手にそれは通用しない。弱味のある相手なら叩きに叩くのがマスコミであり、競争相手であり尻馬に平気で乗れる、それが公衆というもの。
* 凍りつく胸・心臓を体験した人がどれほどいるか、知らない。しかし、今の都知事は孤独にそういう胸を抱いて弱い息を吐いている。
わたしにも、比較にならない微弱さでだが、そういう苦痛に渾身の気力で耐え抜いた時期があった。実の娘夫婦(夫は青山学院国際政経教授)から、名誉毀損・損害賠償という裁判を仕掛けられた時だ。(最初は、われわれ大人達が孫娘を「死なせて」しまったと悔いて書いたのを、親が殺したという意味に取って名誉毀損という主張だった。それが軽薄な誤解・誤判断と分かると、ブログの言論表現上での名誉毀損と転じ、それも保たないとなると、最後には娘が入院したときにろくに見舞いにも来なかったなどと言いだし、それらもみな具体的な物証や記録で全く潰えたのだった。)
わたしは渾身の力で、全て反証を仔細に挙げて撥ね返した。原告らのウソを、その、どの一つ一つをも余さず、精細に覆す証拠をわたしは提示しつづけた。わたしの武器は、この際「決して虚偽せず捏造せぬ姿勢」そのものであった。その姿勢を支え得る材料がほぼ完全に残されていた。いわば日頃「歴史家」でもあるわたしの厖大な過去の記録や日記や文献が、ほぼ悉く原告等の「ウソ」を立証して呉れた。
あの凍り付く心臓という体験に耐え、わたしは堅く決心していたのを思い出す。この裁判沙汰、微塵も誤魔化そうとせず、あたう限りの精確さで、訴えの事実上の無意義、道義としての非道に反駁しかつ論証し半歩も撤退しまいと。この裁判沙汰で「ウソは決してつかない」という決意と勇気とだけが、凍り付いた心臓を温めてくれたのだ。
2013 12・15 146
* いつの間にか、黒いマゴがうしろのソファで熟睡している。毎日、欠かさず二人で輸液してやっている。マゴも安心。仕事しているわたしも安心。『千載集前後』『山中人饒舌』『十訓抄』新潮社版『平家物語』『古今著聞集』を機械のそばで読んでいた。
もう休んで善いだろう。
2013 12・16 146
* 建日子が小学生の頃、とかく意気消沈していた時期があり、学校をやすませて一度、二度、旅に連れて出たことがある。一度は中禅寺湖へ。もう一度はわたしの『蘇我殿幻想』連載取材のために大和から河内へ京都へ近江へと長い旅行線を倶にした。ことに二度目の旅で当麻寺から竹内越えに河内へ歩いた徒歩行が懐かしい。当麻には、蹴速記念の土俵があり、建日子と相撲をとった。
垂仁天皇の大昔のはなし、当麻蹴速は敵無しの相撲の強豪だった。で、朝廷はとおくから野見宿禰を呼び寄せ闘わせたところ野見宿禰の方が当麻蹴速を蹴仆し、蹴速は脇骨胸骨踏み挫かれ息絶えたという。この勝負後日のはからいは、別途になかなか複雑な話題を残してくれて面白いのだが、それはさておき、この当時の「 力(かもう)」は「足を抗げて相蹴ること」を旨としたらしい。とにかくも日本の朝廷はそんな昔昔のその昔から「相撲・角力」を大事に、神事とさえ敬愛した。とにかく諸国から強豪を呼び寄せては闘わせた。百官の間でも挑み合う機会があり、史上美男子をあらそえば一といって二と下るまい在原業平が、六歌仙の一人だっただけでなく、じつは、女とのではない、屈強の男同士の「角力に強い」をもってもよく知られていた。
角力に最も強い男を「最手(ほて)」と呼び、いまの大関に相当した。つぎを腋手つまりは関脇、次いで助手(すけて)をつまりは小結とし、彼ら三役に抜きん出た番外に強いのを「抜手」すなわち後々の横綱伝授のともがらと尊称していた。
角力に関してはまだまだ興味をそそる話題が多いが、そういう穿鑿の大の抜手・横綱級は、曲亭馬琴を措いて無い。ことこまかに彼は著述のなかで、里見八犬伝などのなかで、蘊蓄を傾け尽くしてくれる。たまたま長大な「角力」談義に遭遇して、あんまり面白いので受け売りしてみようとしたが、とても根気が及ばない。
2013 12・18 146
* 雨しとど。雪の地方も多いという。
始終苦の七七歳を今日終え、明日、七十八の誕生日を迎える。
2013 12・20 146
* これやこの冬至の朝にまた一つ齢を積んでそれがなにごと
七十八 階段を上ったとも降りたとも坐ながらにみな忘れたがよし
また一つ歯の欠け落ちしをかしさに昨日は捨てつ明日は思はず
* 起床9:30 血圧141-68(62) 血糖値84 体重67.0kg 排痰・排洟多量 發熱なし。肩の痛みやや楽。
* 赤飯で誕生日を祝う。
☆ お誕生日おめでとうございます。
近いうちに、また保谷に行きます。 ☆秦建日子☆TAKEHIKO HATA ☆
* 瀧津瀬の奔るように大勢さんからお祝いやご挨拶を頂いた。岡山の有元毅さん、名酒「八海山」で祝って下さり、嬉しく妻と一献。今井清一先生からは『浜口雄幸伝」二巻、ゆりはじめさんからは谷崎論ほか数冊もの著書と心嬉しい手紙を頂戴した。宮下襄さんには見事な「枯露柿」を沢山とお手紙、沢田文子さん、田村由美子さんには正月へのご祝儀ものと賀詞を戴き、大久保房男さん、徳島高義さん、金田小夜子さん、野沢利江さんらから誕生日に佳いご挨拶を頂戴した。新刊への払い込み通知も。青田吉正さん、高木冨子さんにはメールで祝って戴いた。心よりお礼申し上げます。
いまから歌舞伎座へ出かけるので、帰宅後にとっくりいろいろ拝見する。
* 歳末の歌舞伎、無事討ち入り本懐まで。染五郎勘平の腹切り、幸四郎の由良に玉三郎おかる、海老蔵平右衛門の祇園の茶屋。玉三郎のおかる、感嘆ものの好演で、いじらしくも愛らしかった。海老蔵が篤実真摯におかる兄の寺岡平右衛門を演じて感心した。この優は底知れぬものを内蔵している。染五郎はまさに役どころ、幸四郎は大きく気分良く演じて大年を締めくくってくれた。
* ただ妻の体調に乱れ有り、終演後はためらわずタクシーで一気に保谷へ帰ってきた。
有元さんに戴いた「八海山」を少したしなみ、紅茶とケーキで祝い治めた。
妻の回復を祈るのみ。余のことは、明日に。二十二日零時半。
2013 12・21 146
* 起床9:30 血圧145-74(62) 血糖値81 体重66.9kg 排痰・排洟多量 發熱なし。
* 妻の体不調、軽微ながら続いている。夜中利尿投薬、安定剤服用で熟睡、朝に至る。
2013 12・22 146
* 妻の体不調、軽微ながら続いている。わたしの体調も何となく不安定に思われて元気がない。朝からこつこつ仕事を続けていると眼のなかに火花が散るよう。食欲も無い。なんともいえず、情けない。今井清一さんの『浜口雄幸伝』 ゆりはじめさんの『太宰治』も読み始めた。
もう今日は限界に来ている。寝てしまおう。
2013 12・23 146
☆ ご家族様のご多幸を
お祈り申し上げます。
「和食」が無形文化遺産に登録されました。その中に寿司も入りますので 頑張ります。
楽しみにご来駕お待ち申します。 京都四条河原町上ル西側 「ひさご」寿司
* 亡兄北沢恒彦に誘われて二階でめずらしく対座し、この店の美味い寿司をご馳走になった。以来久しく、兄の死後もわたしたちはこの店を大の贔屓に親しんできた。とても良心にあふれた誠実な勉強家ご夫婦のお店で、評判も高い。どうぞご贔屓に。
2013 12・24 146
* 食欲うすく、曰く謂いがせたく体調すぐれない。床についていても、異様におちつかず、逃げ出すように床から出たりする。『太宰治』『浜口雄幸』というじつに正反対の人物論を読んだりするのもわたしの精神の安定を阻害するのかも知れぬ。起きていても横になっても、ひどくからだ具合が悩ましい。酒を飲んで寝入ってしまうのがいいような気がする。幸い、二十七日に歯科へ行く以外に外への用事は無い。休んでいていいのだ。仕事を休んでいてもいいのだ。
* 幸い、妻の体調は今日地元病院での診察と対応とで落ち着きをみせている。それにホッとしている。
2013 12・24 146
* 山科の鵜飼家より鶴屋吉信の名菓をいただいた。
近江水口宿本陣の鵜飼家は母方祖父周吉の生家で、能登川の阿部家に入った。わたしの生母ふくはその三女。幼少のとき幕末の志士巌谷小六の薫陶を得ていた祖父は、阿部家に入ってのちいわゆる近江商人として紡績、鉄道、銀行等の起業に投じ、退隠して晴耕雨読の晩年を終えた。わたしの母ふくは終生この父を慕い、水口の故地を訪れるなどして熱い思いの一書を遺している。周吉祖父が自作の漢詩を自ら書いた一軸が手元にある。母は終生短歌を書いた。わたしも少年の頃から短歌を書いてきた。母の二人の遺児北沢恒彦も秦恒平も作家・批評家となり、孫の黒川創も秦建日子も作家になっている。北沢街子も作家になっている。
鵜飼本陣と周吉出生とには「九州の或る大名」をも介して奇なる挿話が語りつがれている、が、それ以上は語れない。創か建日子かに委ねておく。
2013 12・25 146
* 妻の機械、破損。心せわしい歳末になりそう。修繕屋にきてもらい、長時間かけて辛うじて復旧。
2013 12・26 146
* 今日はこれから夕方にかけ今年最期の歯医者通い。歯がまた欠け落ちているのも放ってあった。いささかヤケクソのように、どうなとなれよやいなどと吾と我が身を嗤ってしまう。いや笑ってしまう。
* もう何本も抜け落ちそうな歯がありますと。来年も歯医者、眼医者通いが欠かせない。
帰りに妻もいっしょに江古田の「ボルボ」に。わたしは先日と同じにウオツカを二杯のみ、妻はなんだかべつのカクテルを頼んでいた。保谷へ戻ってからも、久しぶりに寿司の「和可菜」へ。いい肴を二三度も切ってもらい、酒。兜煮も煮物も出た。ほんとに久しぶり、いつもこの店には近年出前を頼んでいる。開店の頃から、もう何十年の付き合いだろう。いい気持ちで家まで歩いた。
毎晩のように、黒いマゴに、二人がかりで輸液してやる。
藤田まことが亡くなって北大路欣也に代わった「剣客商売」を観た。なんだかまだぎごちない。それよりも舟の出る江戸郊外、隅田川のなつかしい景色に魅された。
二三日前だったか、思いつきで、録画してあった「氷壁の女」という、フレッド・ジンネマン監督、ショーン・コネリーら主演の映画を観た。世界はあまりに違っていて共通の何も無い今夜の「剣客商売」だったが、何かしらフッと感じ合っているものが有った。
* 生きること。死ぬること。微妙に火花を散らしてわたしをここのところ揺すり立てている。
2013 12・27 146
* 迎春の飾り、片づけなど。前者は簡素に。後者はほぼ現状のまま、ま、モノを物陰に押し込む程度。二人と黒いマゴと。老齢をわるく無理押しすれば大きな躓きを起こすおそれだけ。難なく難なくと。昔のように来客を迎える余地の全くない家である。格好をつける余裕も気もなく。
それでも居間には鵬雲斎若書きの壽の大字に瑞運の霊(たま)を描いた大軸を掛け、永田隆子作金銀彩の大壺を、玄関には幕末の好きな画家秋石が描く「蓬莱」の長軸を掛け、川井明子総理大臣賞の備前大壺を置いた。玄関にも居間にも干支の馬を置いた。カレンダーも上村淳之さんのやいろいろ届いているが、掛け替えは大晦日のことに。
2013 12・28 146
* 府中の杉本利男さんに水仙を数十本も頂戴し、家中を冴え冴えしく飾ってくれている。居間も、妻と懸命に整頓して、なんとか迎春の空気が籠めてきた。黒いマゴが元気でいてくれますように。
2013 12・28 146
* 毎年末の池袋での買い物はわたしの役だったが、今年初めて妻と出かけた。往きに江古田の眼鏡屋で眼鏡直し分を受け取ってから、西武へ、東武へ。雑煮の京白味噌と蛤とを買い、久しぶり、ほんとに久しぶりに西口のメトロポリタンホテルの、行きつけの「マリアージュ」で、妻に「TOHKO」一品ものの佳いスーツを見つけて、買った。二階の「桂林」で食事し、少し疲れて帰ってきた。これでもう今年の外用事は無し。心静かに大晦日を初春へ越して行ける。もう片づけなどわたしはしない。したい仕事をして過ごす。
2013 12・29 146
* 食事が気分良く喉を通ってくれない。それでいて食べるとすぐ下腹が張る。
霞みに霞んだ眼で「仕事」したり、本を読んだり。そのためにいくつもの眼鏡や補助レンズや目薬を頻繁に使い分けている。やれやれ。それでも、気を励ます気乗りの仕事をし続けている。
隣室で妻のピアノが鳴りだした。黒いマゴ、すこし元気か。よく甘える。そばにいてくれとセガむ。
2013 12・30 146