* 賀正 秦恒平
* ま、いま、だいたいこんな顔をしています。上を向いて歩こうというのではなく。
* 起床8:00 血圧162-76(60) 血糖値91 体重68.7g
* ワインで迎春。 鶴屋の「あも」も美味くて。さ、やすみます。
* 八時に起き、九時過ぎに建日子らを迎えて雑煮を祝い、昼すぎ、近所の天神社に初詣で。
* 年賀状六、七十枚。井口哲郎、ドナルド・キーン、加賀乙彦、松本幸四郎、市川染五郎、近藤富枝さんら。
* お節料理を四人で食べ、したたか日本酒に酔った。呑める二人で一升余。岸連山の富士の繪にみまもられて、たくさん話し合った。わたしはさして食べず。
* 建日子、泊まって行く。
2015 1/1 159
* 有元さんに戴いた一升瓶が一本、空いていた。いろんなことを、いろいろに話していたのだ。
2015 1・1 159
* 建日子と三人で正午に雑煮を祝う。「ドクターX」の最後の二回分を建日子と観る。のんびり過ごしている、仕事もしながら。
* 仕事、仕事、仕事。そしてときどき休憩する。晩飯も建日子と三人で。妻もわたしも、とても安心。
2015 1・2 159
* 日付の変わる少し前に、建日子は大きな自動車を運転して帰って行った。来てくれると、安心で、妻もわたしも嬉しい。健康に、怪我無く事故に遭わず、心ゆく仕事をして下さい。
2015 1・2 159
* もう六時。朝に雑煮を祝い、黒いマゴに輸液以降、ずうっと「選集⑥」と「湖の本123」入稿の用意に没頭していた。「選集⑤ 冬祭り」の責了とともにこの三つの作業が済むと、視野がかなりひろがるという希望がある。ま、ラクになるなんてことは望めないが。
2015 1・3 159
* 明日は秦建日子の四十半ば過ぎるか過ぎたかの誕生日。
心ゆく仕事を一つ一つきちんと積み上げて欲しい。その為にも、ぜひ健康で、怪我もなく事故にも遭わぬように注意して下さい。
父としてはそれで言い足りている。幸運を。
2015 1・7 159
* 建日子四十七歳 もう「若い」という言い訳はできない。
わたしは、昭和三十四年二十四歳の新婚以来、貧しい限りの中で百十余巻の講談社版「日本文学全集」を一巻一巻買い溜めてひたすら読み、ことに作家批評家詩歌人達の「年譜」を欠かさず熟読して自身を激励した。謙虚に学ぶことを勉強と思い思い、しかも自分に出来る、自分にしか出来ない仕事をと願った。
いま、建日子が達した年齢までに初の新聞小説『冬祭り』も書き終え、いま出し、出そうとしている「選集」第六巻までの代表作をすべて出版し終えていた。四十代はまこと働き盛り、第二の噴出期だ。井上靖さんは若かったわたしにしみじみ話して下さった、創作者の人生には、必ず、二度の噴出期があります、二度目の噴出を最も大切にすべきですねと。
井上さんのその教訓にどう応え得たかは、過酷で非情な紆余曲折に悩まされて、まだ結論は出せないけれど、そんな評価は人に任せておけばよい。まだ噴出するマグマが残っているとだけ自分にむかい、信じたい。
2015 1・8 159
* 日当たりのいい倚子に昼寝していた黒いマゴが、首をのばしてガラス戸越しにテラスをしげしげ眺めていた、視線の先に黒いちいさいモノが小走りに動いていた。どこからどう迷い込んだのか、ハムスター。よそへやれば猫か鴉かに手もなく食われてしまうだろう。ご近所に飼い主がなく、もらい手もない。建日子が籠を送ってくれるというので、今日は、猫運び用の鞄に紙ワラ゛敷き詰めて入れ、黒いマゴを刺激しないように温かい部屋の中の植木の枝に棹をわたして掛けてある。
いろんなことがあるものだ。
コンピュータのデスクトップは回復できないでいる。不自由に慣れてしまう方が結句負担が軽いか。
2015 1・10 159
* 昨日タラスへ迷い込んできた黒いハムスター、仕方なく建日子に専用の籠を買って送った貰った。元気に籠の中で遊んでいる。微塵に刻んだ新聞紙の山のなかでよく睡ってもいる。「ハム」とでも呼ぶか。
2015 1・11 159
* ドラマ「NCIS」の映画手法のめざましさを楽しんだ。朝早くには、黒いマゴに輸液しながら美空ひばりの映画「哀しい口笛」を驚嘆しつつ楽しんだ。品のいい津島恵子も懐かしいかぎり。それにしてもひばりの歌唱の凄いほどの底力。あのころは十歳にもなってなかったろう。
2015 1・13 159
* 黒いマゴと黒いハム(ハムスター)とが籠越しに初対面。ハム、盛んに動き回り駆け回る。両者、平穏の様子。
2015 1・16 159
* 午後、おどろくほど元気に籠の中で遊び回っていたハムスターの黒いハムが晩景、まったく生気を失い、妻と二人で憂慮している。命のはかなさを教えながら、命一つを贈り物にテラスヘ訪れてくれたのか。悲しみを抱いたまま、せめてこの一夜の様子を良い方へ方へ祈りたい。
2015 1・17 159
* 喜んで籠まで買いととのえて元気に遊び回り動き回る姿を、黒いマゴもいっしょに愛らしく愛おしく眺めていたのに、あっというまに命絶えて逝ってしまった。昨日の午後には黒いマゴもわれわれもビックリするほど元気に籠の中を自由自在に遊び回り飛び回っていたのに、夕方に気付くと紙藁の中で冷たくなっていた。声も無かった。かすかな身動きも絶え、われわれの掌の中で逝ってしまった。一夜あたたかにし様子をみたが空しかった。
そもそもどうすればこんな子が独りで我が家のテラスになど来れたろう。道路からは小さいハムにすれば距離は長い。その道路づたいに何処かからハムはわたしたちの庭の奥まできて、テラスのガラス戸越しに黒いマゴにまっさきに見つけられた。
わたしたちのために「ひとつの大切な命を手渡してくれる」ためにこの黒いちいさいハムスターのハムは訪れてくれたと思う。たった一週間足らず、だが、なつかしい、思いで多い日々を黒いマゴにもわたしたちにも恵んでくれた。ありがとうよ。
妻が、愛したネコやノコの墓へハムも寝かせてやった。
* 夜十時過ぎ。看取って見送った黒いハムの墓に添えた花のかたちの匂い袋を、夜の間は桐筺に入れてやる。
終日、二人で荷造りにかかり、メドが立ってきた。明後日中には九割九分手が離れるだろう。心おきなく水曜にはCT検査を受けてきたい。木曜の「櫻の園」 舞台が見えてくれるといいが。
今日など機械には殆ど向き合ってなかったが、送り先の宛名書き、湖の本版元と謹呈と書籍小包のハンコ捺し、そして気遣いの多い荷造りをして、その上で送り先をきちんと記録するとなると、限定本といえどもビックリするほどの作業量になる。間違いないようにと視力を使うので、ヒリヒリするほど目が痛みさえする。
四巻十九作の小説が函の背に並んで見える。いよいよ第五巻に『冬祭り』が来る。健康で怪我さえなければ少なくも小説集だけで十五巻では足りないだろう。
凸版印刷以外によその誰の手も借りていない。これはわたしと妻と二人の人生、協働で成し遂げる「卒論」のようなモノ。そして、この卒論には、新作の小説をも、ぜひに加えたい。その為にはまだまだ勉強も必要なら、ぜひにも長生きもしなくてはならぬ。無用の疲労は絶対に禁物。
2015 1・18 159
* 黒いマゴがそれとなく黒いハム(スター)のいなくなったのに気落ちているようで、わたしも寂しい気がする。
2015 1・19 159
☆ 秦さかの選集第四巻のお祝いです。
閨秀 読み始めました。ずい分以前に松園さんの下絵が展示されていたのを見て、日本画の緻密さに驚嘆しました。楽しみ乍ら読ませて頂いています。 藤沢市 琉
* 義妹から「選集」へ、応援過分の喜捨を、今回も貰った。ありがとう。誠心誠意努めます、見守っててください。
* 義妹には佳い詩集もあり、画業にも舌を巻く独自異彩の追究と達成がある。健康に、一層の開花を願っている。
2015 1・23 159
* 「罪はわが前に」を読み始めている。この長編、確かめてはいないが、選者でもあられた瀧井孝作先生が谷崎賞に推されていると小耳にはさんだおり、おもわず身をすくめた。とても谷崎賞には似合うまいと感じたから。しかし作柄からすれば、この作の方が「廬山」を芥川賞に推してくださったより瀧井先生のお眼鏡に適うかなとは思えた。
いま読み直しながら、わたしの他のいろんな作を批評してくれた評者のたいていが「罪はわが前に」の持っている原板のような意味に気付いてくれていないと何度も感じた。わけても「風の奏で」や「冬祭り」のようなロマンの下絵は、この私小説にこそくっきり描かれていたと思える。絵画で謂う本畫に対する原画的な原板構造がここには出来ている。読み直していて、くっきりそれを感じる。瀧井先生はその原板ふうのリアリズムないしは私小説構造を「美しくロマンに仕上げた作品」よりも好んで戴いたのかも知れぬと有り難く今頃思い当たっている。
読み返すのに幾らかの躊躇があった。その一つに、ありのままの顔形で登場してくる中学時代の娘「朝日子」のことが響いていた。この朝日子が、あのような… と。
しかし、それも避けて通れないわが文学の大きな一面を占めた要対決の論点になる。先に挙げたようなロマンの原板でもあり得たと同時に、この「朝日子」登場作はあの忌まわしい「裁判劇」を真っ向書いて乗り切ってきた「私小説」の道へも繋がる、とても無視しがたい原点ではないか。
秦恒平を論じようとしてくださる論者は過去にけっして少なくはなかったけれど、その全容を構造的に論じきるのは、ひょっとして私本人しか居ないのかもしれない。小説だけではない、論攷や随筆や日記(私語)が絡み合って、質は言うまいが、量と広がりとを想うだけでもなみなみでない。文学の未来を語らないわたしだが、わたしを唸らせるほどの未来、かすかに夢に見るとしよう。良い「選集」をと努めている理由である。全集構成でなく、系列選集を願ってきた理由もそれである。
2015 1・25 159
* デスクトップの背景に永らく建日子が「演出」している横顔写真を入れて気に入ってたが、はずみで消してしまった。回復できない。で、フィリッポ・リッピの美しいマドンナの横顔を大きく入れてみた。画面にロゴが沢山並んでいるが幸いマドンナのみごとに美しい両眼を邪魔していない。眼さえ輝いて美しければ、他は邪魔にならない、 2015 2・2 160
* 加門さんから「お祝い」の純米大吟醸「古都千年」が贈られてきた。ありがとう。二月六日、京都での受賞式には失礼するが、家で、美味しいお酒で妻と静かにその日を迎えたい。おりしも西の方から広範囲に雪が迫ってくると。
つい歳は忘れるが、七十九。妻も四月には七十九。二人でなら大丈夫、と油断はならない。ほんとうに大事なのは、日々の仕事。
2015 2・3 160
* 「福は内、鬼は外、福は内」とおきまり、わたしの役の豆まきをしました。年齢の数に一つ多く、といってもわたしは十、妻は九つの豆を食べます。黒いマゴももう一年半も欠かさない輸液で元気にしています。ハムスターのハムも生きてれば楽しかったのに。
2015 2・3 160
☆ 建日子です。
京都府の文化功労賞受賞、おめでとうございます☆
ますますのご健康を。
* 一つには建日子のうえに、親として思い残す不安がないという有り難い事情が、わたしたちに思い切った「選集」へうちこむ余裕を呉れたのであり、心嬉しい最たる一つになっている。
* 京都で、ちょうど式が始まっていよう時刻に、静かに杯を干した。
で、もう、明日からはそれも忘れて、また八十路への日々を踏みしめて歩むだけのこと。
ただただ妻の健康と長命を願うばかりである。
ま、今日ばかりは、戴いているいろんなお酒と、珍味を肴に、気楽な管でも巻こうか。
* と云いながら、「湖の本123」全紙を要再校で送り返した。からだをラクにするには仕事を不用意に溜めないことが大事。
2015 2・6 160
☆ 秦おじいちゃま 迪子おばあちゃま
大変大変ご無沙汰しております、かお吏(=亡き孫やす香の、一の親友)です。
おじい様、京都府文化功労賞受賞おめでとうございます!!!
さすが我らがおじい様です!!!
身近な大好きな作家さん、と思っていたら、やはり偉大な作家さんだったのですね!!!
素晴らしい賞を受賞されたと聞き、「すごいすごい!」とばかり叫んでいます。
本当におめでとうございます!!!
おめでとうの気持ちが、いっぱい届きますように!!!
ステキなお誕生日プレゼントを、ありがとうございます!
可愛くて温かくて、さっそく毎日使っています。
プレゼントのお礼を伝えなくちゃ、と思いつつ数日が過ぎてしまいました。
実は、(中略) あっという間に日にちが過ぎていました。
ちょうどその時にプレゼントが届き、開けると羊さんが「やぁ!」と顔を出し、その羊さんの可愛さと、おじい様おばあ様の優しさで、ちょっぴり泣きました。本当に嬉しかったです。
ありがとうございました。
私の仕事は、そんなに変わりはありません。
入社時より任される仕事も増え、忙しい時もありますが、残業はほとんどなく、仕事内容も楽しいです。
しかし仕事と家庭を両立させようとすると、途端に疲れてしまいます。
主人が家事の半分をやってくれるので、本当に感謝しています。
おじい様おばあ様に久しく会えていないので、とっても恋しいです。
3月末までは、木金休みです。どこかで都合が合わないかしら、と考えています。
私はどこへでも向かいます。
それでは、午後の仕事に戻ります。
また連絡します。
おじい様おばあ様のおかげで、心も体も温かい かお吏
* 元気そうで、ほっと安心しました。
2015 2・7 160
* こころよく「糸瓜と木魚」校正を進めている。
わたしの育った京都市東山区新門前通りの家は仲之町の東の南端にあり、家の西脇に新橋通へ抜けられる細い抜け路地があった。眞東から梅本町になるその眞隣り屋敷が、「奥さん」という市会か府会議員の持ち家であったらしく、住人はときどき替わっていた。その奥さんの眞東に京都の植物園長かと洩れ聞いていた「淺井(あざい)さん」の大きな表土蔵と路地の奥に邸宅とがあった。淺井さんの真東にも、豪儀な門構えの家屋敷があり、後年、清水焼の清水六兵衛家のもちものになっていた。我が家は梅本町のそういう西並びにくっついて、「ハタラジオ店」の看板を上げていた。全体に、梅本町にも仲之町にも、西の西之町にも大小美術骨董を商う店が数有って新門前通りを特色在らしめていた。梅本町の東寄りもう東山線の大通り間近くには「京都美術倶楽部」が在ったし、西之町には仕出し料理で名高い「菱岩」があり京観世と京舞井上流本拠の井上さんも稽古場と家屋敷とを構えていた。仲之町の土手ッ腹はいまでは花見小路南北にぶち抜いている。仲と西との町境には白川が南北に横切っている。
わたしの子供の頃はちょうど戦時中で、火の消えたように静かな通りだった。下駄で歩けばかんころりと、東へも西へも筒抜けに鳴り響いた。
「糸瓜と木魚」はそんな新門前の我が家から二軒ひがしの「浅井(あざい)さん」を懐かしい舞台にしている。語り手の私はこの家で初めて明治の洋画家淺井忠が描いたという「鶏頭」の色紙繪に愕き、次第に正岡子規一代の秀句「鶏頭の十四五本もありぬべし」に近づいて行き、だんだんに学者の道を行かずに小説家に成ろうとして行く。「糸瓜と木魚」の糸瓜とは子規辞世の句にあり、木魚は淺井忠の俳句名である。
瀧井孝作先生は、「秦恒平君は美しい小説を創りまた美術をみる眼も確かにて、『糸瓜と木魚』は両方合致の作品也」と推奨して下さった。身に沁みた。調子に乗るまいと思った。はっきりと創作であるが、わたし自身の思い願いが作には充満している。校正が、楽しい。
2015 2・8 160
* 「罪はわが前に」を半ばまで読んだ。京都の秦の家がさながらの地獄だったとき、高校二年生のわたしは、もう久しく逢えずに、姉と慕いつづけていた一つ年上の人に、人づてに呼ばれ、祇園八坂神社西楼門の内で、激励された。「さ、あなたの道を行きなさい」と優しく背を押された。
わたしの「以降の人生」を、まぎれもなく「決めた」のは、あの芳江姉の、「さ、行きなさい」の一言だった。いま七十九になるわたしが、其処まで読み、感謝新たに声をもらして哭いた。あれから六十年の余、お元気であろうか、どうかお元気であって欲しい。秦恒平の「身内の思想」「島の思想」と呼ばれているその原点をこの人がわたしに植え付けていった、記念の漱石「こころ」一冊とともに。
2015 2・9 160
* 「罪はわが前に」起承転転の最後十章の「転」の凄まじさ……、往時を想い出し、頬に毛がそそけだつほど、参った。あのころ、わたしはまだ会社をやめてなかった、若かった。「選集第四巻」のいくつもの作をあの頃に書いていた。会社を辞めて、独り立ちして、いろんなことが有った。だが、迷い惑うということはなかった。九十すぎた秦の父も母も叔母も我が家に引き取り、最期を見送った。それだけでも、済まなかった。凶事はさらにさらに襲ってきた。
2015 2・12 160
* 亡きやす香のお友達から、毎年の、「おじい様 H appy Valentine 大好きです」とやす香に代わってのチョコレートが届いた。ありがとう。
京都の、亡き画伯橋田二朗先生のお嬢さんからも、思い豊かなチョコレートが届いた。高齢で仕方なかったと謂えばそれまでだが、今にご健在でもあり得たろうにと、先生が懐かしい。お嬢さんとは一度もお目に掛かったことがない。「選集④」へのお返しであろう。ご子息も画家に成られているとか。そういえば病気以来ひさしく創画展へも行っていない。
2015 2・14 160
* 昨日から、屋根や壁や書庫へ、十日ほどの予定で職人さんたちが足場を組んで仕事をしてくれている。家の造作も、もうこれで打ち止めに成るかも知れない。
2015 2・19 160
* わたしが胃癌と知って我が家を捜し尋ねて見舞ってくれた京都の田村さん、もと保谷市図書館長だった歩行も会話もむずかしい黒子さん、家族で尋ねてきてくれた東工大卆の柳君一家、四国からお連れと突然玄関先へみえた四国の木村さんたち、同じく玄関へ突然みえた石川県鶴来「万歳楽」会長の小堀さん。
申し訳ないことに、みな狭い玄関内で立ったままの対話でお帰し申し上げた。どうにもこうにも家の中に坐って頂ける余地が全くないのであった。恥じ入るが、事実なのである。不必要ななにも放置はしていない、どうしようもなく夫婦と黒いマゴとがほとんど立ち働いて過ごし、おそらくよそのお人には、家中が人と猫との老臭に沁みているだろう。二階の機械部屋へ上がってパソコンを時に直してくれる東工大卆の林君独りが証言してくれるだろう。建日子でさえ座れる場所が無い。
歎いているのではない。そうなってきた必然を受け容れている、だけ。「湖の本」をはじめたとき、先の黒子さんが、即座に指摘された。在庫本をどこへ置きますかと。そのときは10巻出せるだろうかと思っていたし、編集者は4、5巻が関の山と予言していた。だれ一人、わたしですら123巻めの発送が近づいているなど、夢にも想えなかった。加えて「選集」。辛うじて垣一重の隣家が買えてよかったが、そこも、もう在庫の山で家が傾ぎかけている。へんな小説家。
2015 2・19 160
* 『最上徳内』は快調に読み進んでいる。わたしが四十六歳、その頃頻りに、「部屋」で膝つき合わせて逢っていた「徳内先生」が四十六歳、そして思い合わせれば息子の秦建日子もちょうどそんな年頃の筈だ、彼は、なんだか初めての「ミュージカル」とかの製作に熱中しているらしい、心ゆく仕事になるといい。
2015 2・22 160
* 処方薬を薬局で受け取り、空腹を何でいやそうかと思案しつつ築地から銀座へまっすぐ歩いている内、食欲はいっこう湧かずに、ふと和風の洋装店が藍染めの作を見せていて、惹かれた。うまく表現できないが、とても気に入った一着をみつけて妻へのみやげに買った。かなり高かったが、三月の結婚56年と四月79歳誕生日のプレゼントということにし、何も食べないで家に帰った。家で小食そしてお酒を一合足らず。あっというまに睡くなり寝てしまった。病院でも電車でも眼をつかって「湖の本123」の校正に集中していたので、眼の休息にもなった。
2015 2・25 160
☆ ご無沙汰しております。
年賀状にも書いたかと思いますが、同志社を去り( 契約が満了してしまったので・・) 現在は福祉用具の会社で派遣職員として事務の仕事をしています。
日々、忙しく過ごしておりパソコンの前に座る回数が少し減ってしまっています。
心に余裕がなかなか持てずにいて自分に歯がゆい思いを抱くこともしばしばです。
そんな中で昨秋、選集の三巻を頂戴し、ありがとうございました。
今頃何言うてんのん、ですね。きちんとお礼も言えずにいたことを反省しています。
特別なわけは無いのかもしれませんが、私に三巻を送ってくださった意味を考えていました。あれっ? なんにも言うてないのに知られている感じ・・( いわゆる深読みの妄想ですね)
ふと、今日にメールを書こうと思いついたのは、私語の刻に、田中励儀先生(=国文科教授・鏡花研究の今や泰斗)のお名前を見たからなのです。
私が「湖の本」に出逢ったのは、まさに、田中先生のおかげです。先生が、国文書庫にこのシリーズを配架しようとされなかったら逢えてなかったかも。( いや、でも、縁のある方には出逢うものだと思っているので、時期が違っただけかもしれません。) 先生には私からこの話をしたことはありませんが、感謝しています。
そして今も書庫で並んでいるので、国文学科の学生さんとの出逢いを育んでいればいいなぁと願っています。
なんだかいつも脈絡のないメールになってしまうのですが、本日はこれにて失礼いたします。
おからだご自愛くださいませ。 京山科 長村美樹子
* 孫娘をむざむざ死なせて苦しかったころ、いろいろに励ましてもらったのを忘れていない。御元気でと願っています。
2015 2・26 160
* 午後、裁判員制度を考えるドラマ「家族」が、認知症患者と家族とのかかわりをめぐって、認知症問題でも家族という観点からも裁判および裁判員制度のありようを衝いても、力作だった。家族に迷惑を懸けたくなくて死にたいと願う患者(認知症患者)を他者が死なせ得るか。
その当時、事情あって全く没交渉であった多年闘病生活のわたしの生母にも、おそらくはこの問題が関わっていたことだろうと察している。もっとも母は「生きたかりしに」と辞世歌を遺して死んでいった。どのような死であったにせよ、なすべきをみな成し済し終えて母はおそらく自死を受け容れたに相違ない。認知症ではなかった。意志の感じられる死であったろう。
実父はどうであったろう。
実兄の自死もまた母に似ていたか、強い意志の感じられる最期であったか。わたしは、意志的に兄の最期を見送らなかった。わたしを置いて自ら死んで行くのを肯定したくなかった、わたしの中で、元気なときの表情と声音のまま生かしておきたかった。わたしはいまでも兄恒彦は死んでいないと思っている。そう思っている。
2015 2・28 160
* 江藤さんは、東工大での先任教授で、慶應へ移られたあとへわたしが教授就任した。江藤さんの最期は、兄の最期とも前後してつらかった。『死から死へ』一冊を「湖の本エッセイに加えたのを思い出す。一九九年七月二二日に江藤さん自死の報を聞いた。きっちり四ヶ月後、十一月二十三日早朝に兄恒彦の死を知らされた。自死だと聞いた。
江藤さんとは思想傾向において異なってはいたが、会うと、とても気持ちよく穏やかであった。なくなる暫く前から何度か著書も貰っていた。亡くなったと聞き衝撃はなみなみでなかった。そのまま四ヶ月、兄の死へ繋がってしまった。江藤さんは、漱石の「こころ」を最も愛読したと云われていた。愛妻家だった。
大江さんは年齢的に江藤さんとよりもう一段近かった。「死者の奢り」を愛読した。書庫に戴いた本の何冊かを架蔵しているが、読めていない。一度、大江産の名指しということで、ソ連からの来客を歓迎の意味で、岩波書店の緑川社長等も一緒に会食の卓についたことがある。
また、わたしの五十歳の記念に美しい装幀の『四度の瀧』を出して贈ったとき、打ち返すように熱い手紙が大江さんから真っ先に来たのに驚いた。みごとに平和と人権尊重の護憲活動を展開し続けられている。いつも健勝を願っている。
2015 2・28 160
* 結婚届を出した日から、五十六年が経った。思えば、われわれの脚幅で歩いて来れたのだ。有り難かった。
2015 3・14 160
* 「あやつり春風馬堤曲」を読み、「丹波」を読み、「最上徳内」を読んでいる。本では「八犬伝」「後撰和歌集」「眠られぬ夜のために」「黄金寶壺」を読んでいて、昨夜はおそくまで一昨日買ってきた新版の「歌舞伎手帖」を全部通読した。
この頃は黒いマゴの輸液を晩にしている。輸液が効いているのか、黒いマゴが老いて行きつつも元気にしている。我が家は二人と一匹の老老介護家庭になっている。
2015 3・15 160
* 黒いマゴの輸液から映画「禁じられた遊び」を見終えて泣いた。
母でも父でもない、わたしはポーレットのように「ミシェル」を捜していた、ほとんど命懸けで捜していた。
2015 3・17 160
* 建日子がなんだか、マンガ原作に拠るミュージカルとやらを池袋芸術劇場で作・演出するという、が。
2015 3・18 160
* 一仕事終えてホオっとしている。モーツアルトや松たか子を聴き、古今亭志ん朝の「大工調べ」を聴いて、安まった。機械の中をごそごそと歩き回ったりもして。なんと雑多にもの凄い量だろう。今日はもう校正のほか何をする根気もない。
と、言いながら「秋萩帖」三校ゲラに再校からの赤字合わせだけはしておいた。そして、黒いマゴの輸液が夜遅くなった。疲れた。
2015 3・18 160
* どうっと疲れが出たか、幾らかは呑みすぎか、寝入ってしまい白鵬の「強かった」相撲も見落とした。輸液のとき、アン・ヘッシュというコザッパリと元気な女優がハリソン・フォードと出会う軽い映画を半分ほど観ていたが、消して、二階へあがり書きかけの長編の進行に没頭、知らぬまに十一時過ぎて、眼はまったく霞んでいる。
* 秦建日子が脚本・演出という誰の作だかマンガを原作のミュージカルというのを、妻は火曜日に池袋の芸術劇場へ観に行くという。わたしは、遠慮することにした。留守番して校正するか、ゲラを持って街歩きに出かけるか、いっそ秩父か熱海か、乗り物で遠出しようかなと。だが、こう疲れていてはシャレにもならない。
2015 3・19 160
* 「原稿・雲居寺跡」 妻がつづきを書き写して暮れ始めた。感謝。書いたわたしでも読みづらい走り書きなので、苦労を掛ける。
2015 3・22 160
* 池袋の藝術劇場へ、秦建日子脚演出、誰かのマンガが原作の「神様になります」を妻と見に行った。八十になろうという老人二人にはまったく場違いな若い若い男女ばかりの大劇場、一階はほぼ満席。ミュージカルという呼び込みながら音楽・声楽・舞踏・剣戟みな雑然として美感も快感もなく、呼んでくれた建日子にも挨拶のしようがなかった。建日子自身の作・演出になる「らん」や「タクラマカン」や「月の子供」などとは、あまりに低調で目も耳もアタマも楽しまなかった。しかし満員。八千円。俳優座や昴よりも高い。それでも若い人で満員。興行としては成功しているのだろう、が、アングラ小劇場の熱気ともはっきりちがう空気、胸にしみて迫る劇的メッセージは、ゼロ。わたしはただ暗い中で目を休ませて、終演を待っていた。ま、こういう「仕事」も有る、ということ。
* 西武で食事してきたが、体調よろしくなく。風がつよく冷え込んだ。帰りの電車で「秋萩帖」を読みすすめ、すこし気分持ち直して、帰宅。元岩波書店の高本邦彦さん、中京大、多摩美大などから来信。
また日本画家で御一緒に中国を旅した松尾敏男さんからは「春の院展」へご招待頂いた。
2015 3・24 160
* 黒いマゴの輸液から、映画「抱擁」を見始めていた。原作も読んでいる。わたしが最も読みたかったと望む傾向の秀作の一つである。まるでわたしの書きよう追いかけように似ている。
2015 3・26 160
☆ おじい様、おばあ様
大変大変大変遅くなりましたが、お誕生日のメール、ありがとうございました!
毎年、欠かさずお祝いしてくださる大切な方々がいて、私は本当に幸せです!
今年のお誕生日は、ウイルス性胃腸炎にかかっていました。
嘔吐から始まり、下痢と熱で2 日間寝込み、症状がおさまってからも2 日間ほぼ寝たきりで、気がついたらお誕生日は終わっていました。
お誕生日に休みを取って出かけようと思っていたのですが、予想外の大型連休になっても外出できず、嬉しいやら悲しいやら。
主人が付きっきりで看病してくれたのが、彼からの何より嬉しいお誕生日プレゼントでした。ふふふ♡
5 月頭に、会社の試験を受けることになりました。現在は契約社員として働いているのですが、受かれば社員になれるそうです。契約社員といっても正社員と仕事内容は全く変わらず、違うのはボーナスがあるかないかだけなのです! だったら、私もボーナス欲い!ということで、現在は試験に向けての勉強中です。
ですが、それが終われば普段の生活に戻ります。現在は火 水曜日休みなので、おじい様おばあ様が浅草にでもいらっしゃる時にお会いできないかしら、と考えています。
写真は最近の姪っ子です。毎週短時間だけでも会いに行っては、カワイイカワイイしか言っていない気がします。もうすぐハイハイか立つかというところで、抱っこしていても激しく動くので会った翌日には筋肉痛が辛いですが、1 日経てばそんなことは忘れてまた抱っこしたいと考えています。完全におばばかですね!
それでは、桜満開のステキな午後をお過ごしくださいませ。
私は仕事に戻ります!
仕事は忙しくても、毎日楽しく元気な 亡きやす香の親友
* 元気なのが何より。赤ちゃん、できるといいね。大事に日々を。
浅草か。平成中村座がまた浅草でやるときなど、便宜があるといいなあ。米久もいいし、根岸の香味屋もいい。鰻もいいし、浅草寺裏で、久々にお好み焼きとやらに挑戦してもいい、妻も元気が出るでしょう。ハズバンドもいっしょだと愉しいだろう。
2015 3・29 160
* 選集第六巻はたぶん四月のうちに出来るだろう、つまり第一巻から満一年で六巻、頑張ればその辺まで創れるとして、何を収録するか。『最上徳内』まで入稿出来ている。『親指のマリア』など長編が何編もあり、掌説・短篇集や歌集も創っておきたい。小説だけで十七、八巻ないし二十巻必要と想ってきた。欲をいえばわたしの場合、論考・エッセイにも選集のかたちで残したい作はたくさんある。ま、わたしの寿命がもつまいし、この編集と刊行との仕事はよほど技術とセンスのある者でないと出来る仕事ではない、建日子にはそんな技術も時間もなく、本人の世界を探求してもらいたい。
どこかで、サッパリと諦めることだ、それに尽きると思って、可能な限りやってみよう。
2015 3・30 160
* 朝一番に、湖の本へ長編『生きたかりしに』全編の初校が出た。上中下巻になるだろう。初校に時間をかけ心も用いねばならぬ。ついにこの日が来たかと思う。
わたしの創作は、いわばロマンのかたちで出発した。選集第六感までに収録の全二十四作は悉くそうである、どう私小説風を利していても、すべて仮構的に利したまでで、物語は創られている。第七巻のメインになる『罪はわが前に』で、それら写真的な物語の「原板」が持ち出され、私小説が初登場した。そのエネルギーを承けて、以降は物語と私小説との綯い合わさって行く創作軌道が出来た。「罪はわが前に」で「真の身内」「魂の血族」を打ち出した以上は、必然、わたしを「秦恒平」としてこの世に送り出した、育てた、実の両親や育ての親たちとの心の葛藤や彼らの生き方(使いたくはないが「生きざま」とも。)をも冷静にあとづけるいわば「役目」があると思うようになった。『生きたかりしに』は、他の誰よりも壮絶な個性であった「生母」を全力で追尋し再現した長編私小説ということになる。自分自身のためにも書かずには済ませない難しい主題であり対象であった。この際、「実父」のことは概ね埒の外に置いたが、父にも父のすさまじい生涯のあったことを今のわたしは識っていて、書きたい、いやこの場合は「書いて置いて上げたい」という気がある。相応に用意も出来ている、だが、わたしに時間の余裕があるかどうか。実兄北澤恒彦の存在もあるが、じつはも持っても心親しい兄について、わたしはあまりに少し、ホンの少ししか何も知らないのである。湖の本エッセイ20『死から死へ』に書き留めた程度しか解らない。息子の恒=黒川創からも何も聴かされたことがない。兄とは、自然甥姪ともこのまま行き分かれて終えることだろう。
私小説ということでは、もう一人、娘の朝日子ら夫婦との不幸で不快な醜い傷跡がのこっているが、十分精確に、きっちりした既に私小説が出来ており、改めて書き加える必要はない。
2015 3・31 160
* あす夕方、建日子が来て、隣棟のもちものを整理して持って帰ると。とにかくもホンの置き場がますます不足てくるので、明いた床面積をすこしでも作り出さないといけない。五十年分近い郵便物も、整理し処分しなくては。また湖の本の責了紙なども処分することにした。執筆のためにと溜めてきた材料やノートも処分して行く。
2015 4・1 161
* 建日子ら来る。酒を呑む。頻りにものを訴えた気がするが伝わらない。情けない。
2015 4・2 161
* もう遙かに一年を越して、黒いマゴの輸液を日々欠かさないでいる。危ないとみて緊急に薦められた処置、効果をもってくれている。すくなくも十六歳、われわれ夫婦よりも実質老齢と思われるが、これまたすくなくも三歳児なみにはわれわれの言葉をすぐ解し、また具体的な希望もことばでらしく伝えてくる。とてもとても、愛しい。共存共生のここにも魂の血族が在る。亡きネコもノコも、いまもって涙を誘うほど、愛しい。
2015 4・3 161
* ウソでないホントのオモ火に身を燃して
オロカなままに歩き果てばや 宏
* 「生きたかりしに」は、甘美な懐かしみなど一抹も加わってこない、苛烈な「ただ肉親」の親を探索した、どこへどう遁れようもない私小説である。とはいえ、書き上げて、しみじみ思うのは、生涯かけて「生まれ変わり生き変わった」生母の魂のつよさ・生きの気合いの激しさであり、なかなか愛情とは謂いにくいが、やや見上げる心地には自然となっている。書いてくれべき兄の恒彦はほとんど此の母を書きもせず識りもしないまま自ら死んでいった。兄を、事実上、母よりも遙かに少なくしかわたしは識らないが、母のことは弟の恒平が、到らぬ筆のママにも精一杯書いておいて上げたかった。
* 生まれ落ちて、少なくもわたしには実の両親と育て親であった秦の両親や叔母という少なくも五人もの「親」たちがあった。わたしの幼かった昔から今日に至る人生は、そんな五人の「親」たちを血族とは認められずに、中学生の全心全霊をつくし、もともと縁もゆかりもなかった、偶然に会いはかなく別れていった或る「三姉妹」に真実の「身内」を得た、そんな妙なモノであった。しかしその「妙」をわたしは大切に守りきった。そして、そんな三姉妹三人に、此の世いう「現実」として真実相当した「妻」をそれより後に「見つけた」のだ。わたしの人生で「特別な存在」といえば現実の妻と理念としての「姉と二人の妹」だけがある。それを分かってもらうのは、じつに、難しい。
2015 4・3 161
* 思ったより順調に『生きたかりしに』上巻、進んでいる。校正しやすい。巧緻に組み立てて創られるロマンスではない、直截で誠実な私小説であり、不可思議のロマンスを期待される読者の願いからは逸れるけれど、波に乗るようには読んでいただけよう。ある女の一生とも、ある母の生涯とも読まれるだろうが、基本の意嚮は、「生きたかりしに」の思いである。「死にたかりしに」ではないのだ。
2015 4・4 161
* 青山へ、妻の両親や兄夫妻等の墓参に行く。
順が逆になったが、去年も入った「大江戸」へさきに立ち寄り昼食、その後、墓参を済ませ、渋谷経由副都心線でストレートに帰ってきた。去年の五日は爛漫の満開だった花が、四日の今年はやや盛りを過ぎていた。
京都の墓へは、もう三年どころでなく行けていない。その間に住職も代わられた。挨拶に行かねば。
2015 4・4 161
* 今日、妻と同歳に。七十九。健康であれと心より願う。わたくしも。
「元稿・雲居寺跡」の読みにくい手書き原稿を、もうあらかた機械へ書き写してくれた。所詮は中断し、他の「清経入水」や「風の奏で」や「初恋=雲居寺跡」などへ展開していった、ロケットでいえば燃え尽きて切り離れたような原稿だが、いったい何をどこまで書こうとしていたのか、自身、思い出せない。読み返してみるのが楽しみになっている。
そしてーー、ちょうど今も書き続けている、ま、面白くもややこしい現代・平家時代のロマンスと、ならべて湖の本一巻に仕上がると佳いがと、淡く期待している。この作、題は決まっているが、明かしたくない、ま、ヤバイ企業秘密。小説ではあるが、やはりわたし好みの話の運びで、露伴の史伝ものともに似てくれていいが、などとまだまだ夢見ている。
題は決まらないが、初稿は概ね仕上がっている新作長編は。湖の本にするか、非売の選集本に限定しておくか、迷っている。
* 少なくももう一作、実父のことも、書き置いてやりたい気が、在る。資料は十分、在る。わたしが書くのでなく、誰かに書いて貰えると気が楽かなあとも。ま、これも書き進んでいる。
* 久しぶりに、わたしらしい掌説の連作を試みたいと願ってもいる。特異で、独自の世界をもてていると感覚している。
* 書いてみたい、書きたいことが、こう滲み出るように脳みそを騒がすのに、すこし惘れている。生き急いでいるのか。死に急いでいるのか。
なにをぢう書こうが、日本と日本人もろとも、いいえ人類ともろとも確実に煙か黴かのように失せ果てるだけと判っている。それがどうしたと思っている。
* 書いたものを読み返していて、建日子と何度か二人で旅していたことが思い出される。建日子のまだ幼稚園ほど頑是無く小さかった頃と、成人してからと、二人で京都の親の、建日子には祖父母の家へ、二度は帰っている。ゝ小学校のある時期にも、一度は奈良、飛鳥、竹内越えに大阪へ、京都へ、そらに近江能登川から五箇荘の石馬寺まで、わたしの取材を兼ねたかなり永い旅を一緒にしたし、なにかしら建日子のへこんでいたのを見かね、学校を休ませて二人で、日光から華厳の滝、中禅寺湖や裏見の滝などを観にでかけ、自転車を借りて湖畔を駆けたりボートを借りて湖上へ出たりしている。日光への旅ではやや建日子は沈滞ぎみだったが、大和路。近江路の旅でも、京都ででも、建日子の優しくて元気な性格が嬉しくなるほど小説のなかに書き込まれていて、嬉しくなる。懐かしくなる。 2015 4・5 161
☆ お誕生日おめでとうございます!
おばあ様 お誕生日おめでとうございます!!!
おばあ様は、毎年のお誕生日を桜満開の中で迎えられるのですね。明るくて輝く桜のイメージに、おばあ様のイメージもぴったりです。今日はあいにくの雨ですが、それでも春が始まったワクワク感でいっぱいです。おばあ様のこれからの一年もワクワクな心踊ることで溢れますように。
先日(四日)は桜を見に行かれたのでしょうか? 私の家の近くの桜並木は、八重桜だからか未だに蕾の状態です。まだかと何度も様子を見に行っては、腰の痛いおじい様に桜の写真を送ったら、少しは元気になるかしら? なんて考えています。どうぞ、おじい様の腰、お大事になさってください。
実家のメルクルは、おじいちゃんになって寝てばかりいます。毛玉をよく吐くようになって心配ですが、相変わらず可愛くて、私のアイドルです。今月末は4 日ほど実家に帰るので、たくさん可愛がる予定です。
それでは、ステキな一日をお過ごしくださいませ。
もうちょっと「仕事」の 馨 亡きやす香のお友達
* ありがとう。もたれ合うようにして、元気に過ごしています。
2015 4・5 161
* 「生きたかりしに」中巻部へも快調に初校すすんでいる。深夜、寝床の上で読み進んでいて、生母が兄恒彦に宛てた長い手紙をよむうち、感極まり独り哭いた。母の発見ーーその探索体験記とも謂える。それが上田秋成探索の希望と表裏している。講談社の大村彦次郎さん、松本道子さんが我が家までみえて書き下ろし「上田秋成」の小説をと依頼があったのは、昭和五十一年(一九七六)五月十七日で、同年十月一日に突然井上靖さんの電話で中国訪問の旅に誘われた。即座に受け、しかも二日後の三日に「秋成」起稿、奈良県御所への取材旅行にも出かけた。日中文化交流協会からの訪中作家代表団の旅立ちは十一月二十九日、井上夫妻を団長に巌谷大四、伊藤桂一、清岡卓行、辻邦生、大岡信に私の一行だった。四人組追放直後の印象深い中国だった。帰国して直ぐ訪問した大同上華厳寺大壁画に取材の小説「華厳」を書き下ろした。だが中絶していた「秋成」の稿をどうしても継ぐことができず、急角度に路線をまげて、母の発見行へ向きを変えた。一年半近く同居した叔母が元気になって京都へ帰った直後三月十六日から改めて書き始め、十月三十日、初稿九百十六枚が成った。それから先が、長く長くかかった。講談社には諦めてもらった。大きな負荷負担にもなった。作家生活の色合いが、ゆうらりと移っていった。
2015 4・6 161
* 黒いマゴが、寝床に半身を起こして校正を始めているわたしに甘えて、手と尾でわたしの腕を抱きかかえ顔をわたしの腕に預けて、グルルグルルと声をもらす。早暁から二時間もそとで遊んできたらしい。元気でおれよ、父さんも母さんもいるからなと云ってやる。
「生きたかりしに」上巻の跋文も書いた。すこし気張って、すこし寛いで、書いた。「私語の刻」をとりあえず読むという読者が多い。ただの「あとがき」に終わらせないように、と。「湖の本124」 ぜんぶ、揃えて初校を「要再校」で戻した。
やがて「選集」七巻の再校も、八巻の初校も出てくるだろう。九巻には何をと思案している。
* 若い頃、多い年には六册も単行本を出版していた。自分では寡作のつもりでいて、ふとそう口にし、同業の人に怒られたこともあるほど、毎年毎年書いた原稿の殆どが本に成っていった。
ところが去年、目の前に八十の来ているわたしが、八、九册も「湖の本」と「選集」とを仕上げている。今年もおよそそんなペースになるだろう。
昔の出版は、出版社に編集担当も製作や製本の担当者もいてくれた。原稿を渡したアトは念のため校正をするだけで足りた。
いま現在わたしの出版は、印刷製本のほかは全部、発送までも、わたしと妻とでやっている。生涯でいちばんとは云わぬまでも、日々多忙を極めている。どうなってんだ、これはと惘れもし、しかし有り難いことである。
はっきり書いて置くが、今その仕事からわたしは「お金」を稼いでいない。」お金はほとんど全面、遣う一方である。幸いそれの出来るのは、若い頃、売れない作家なりに原稿を想った以上にたくさん書いて原稿量を稼いでいた、ということ。みんな遣い果たして行こうよなと、夫婦して笑っている。
* つぎの「選集第七巻」を敢えて出すのには、まこと苦しいモノがある。巻中の長編『生きたかりしに』の初版では、愛してやまない主人公「久慈」三姉妹に、またご家族にまで、言い尽くせないご迷惑をかけた。そのためか長姉は離婚されたかとまで、もう昔に仄聞していた。その後の住まいも神戸のほうとしか識らず、分からず、詫びる機会も今にいたるまで全然なく、まして末の妹には、いつしかに死なれてしまってさえいた。それも風の便りに聞いた。
そんな作を、敢えてまた本にする作者自分自身の気持ち、苦渋に溢れてしかと掴みにくい。それでも、「此の作こそは」と思うまで「選集」には是非入れたいと願ってきた。妻にも、入れていいかと頼んだ。
迷惑をかけた「久慈」三姉妹、またその周囲のだれ一人からも、作者のわたしは、当時もその後も、一言の叱責も恨み言も受けず、今日まで来た。来れた。三姉妹の弟夫妻からは、出し続けている「選集」など、姉にも是非読んでほしいと思っていますと、手紙までもらっている。住所の知れている上の妹には、湖の本もみな送りとどけている。ありがたく、なにか「包まれている」といった感謝にわたしは堪えない。
じつのところ戦後まもない新制中学時代を「久慈」三姉妹と倶にできた期間は、姉とはたった十ヶ月足らず。次の妹とは二年足らず、死なれてしまった愛しい末の妹とは一年。そしてそれぞれその後は、「無いも同然」の僅かな期間に、たまさかの出逢いを分かちあうだけだった。
だが、わたしは、いまも中学時代の思いのままでいる。いられる。それを幸せに思うのは、まさしく血縁や義縁などをすべて超えた「真実の身内」「魂の血族」を信頼しうるからだ。かならずしもわたし独りの独り合点と思ってはこなかったのである。
ふつうなら、わたしはあの出版により「被告席」に立たされても仕方なかったろう。だが、そんな波風は、そよとも伝わらなかった。ただただ堪えてもらえた。
「真の身内」「魂の血族」を、生まれ落ちて以来、求め、捜し、つづけてきたわたしである。いったい、何人出逢えたろうか。
親子だから、夫婦だから、きょうだいだから、親類だから、好きあっているから、だから「身内」だなどという確証の決して安易にはあり得ないこと。
その「真の身内」を見出し見つけることの難しさ、嬉しさ。
わたしは、作家として、ひたむきにそれを書いてきた。「罪はわが前に」は、その証言の一作だった。いましも本に成りつつある新作「生きたかりしに」とともに、真実これを書くことなく、わたしは作家とは名乗れなかったろう。
最近に見直した映画「禁じられた遊び」の少女は、身のそばで容赦なく撃ち殺された両親の死骸から、頑是無く起ちはなれて彷徨い、たまたま触れ合うた「兄」かのような幼少年「ミシェル」を、慕いに慕う。しかもそのミシェルからも、施設へともぎ離され、名を呼び求め求めてやまない、「ミシェル」「ミシェル」「ミシェル」「ミシェル」……。わたしもまた、わたしを生んだ親たちを知らず、育てた親たちとも親しまず、ずうっと「ミシェル」との出逢いを待った。わたしは、そういう「こども」だった。八十になる今なお、そういう「こども」のままでいる。成長しなかった…のか。
2015 4・7 161
* 岡田蕗子さんの「手話演劇」と劇作家「岸田理生(りお)」を論じた研究も、新聞に寄稿の劇評も興味深かった。中学に入ったばかりだった大阪の少女が、いま、阪大博士後期のもう三年生に。死なせた孫やす香よりすこしだけ、ふ-ちゃんはお姉ちゃんだった。意欲にあふれ、簡単に入れる早稲田や青山を見切って、敢えて法政大の国際社会へ飛びこんでいった、やす香。しっかりと現代で働かせてやりたかった。
2015 4・8 161
* 聖路加病院で、妻の容態を主治医先生に話し、今後の方針を示唆していただいた。
明後日にCT検査をし、その結果を検討してどうするかをまた示唆ないし決定していただく。地元病院には循環器外科が無く、手術はできない。バイパス手術が必要か、可能か、目下は無用かなど。
* 帰路、聖路加からプランプラン歩いて、歌舞伎座脇の「YOU」で美味いオムレツとトーストと小ビール。市川染五郎クンに教わった店で、妻もわたしも二度目。食べ終えて、すぐとなりの「茜屋珈琲店」のカウンターでマスターと歓談しながら、美味い珈琲。出たばかりの、ある著者の五代目富十郎を書いた一冊を、マスターを介して予約した。近日の成駒屋襲名の芝居を観る日に、本、受け取りにきますと。もう始まっている襲名「がんじろはん」の看板の前で妻を写真に。
また、ぷらんぷらん銀座一丁目駅まで歩いて、有楽町線で帰宅。処方してもらった薬を駅前まで自転車で受け取りに行った。
2015 4・9 161
* 明日、初めての施設で妻のCT検査。妻は地理不案内、朝早から、同行する。
にわかに、来週いろんな用が連続する。十三、十五。十六、十七日と。下旬はすこし息がつけるかも。
2015 4・10 161
* むかしで謂う、大曲、そこに能楽堂のあったあとに、いま心臓血管検査施設が出来ていて、妻のCT検査に同行した。飯田橋界隈はむかしむかしと大違いの道路混雑で、街慣れない妻にはめざす場所へ行き着けない。地図も読み取れない。(株)凸版印刷の高層ビルに間近いと分かってながら、飯田橋で地下鉄を出てから、わたしでもちと戸惑ったほど。
検査自体には妻もわたしも慣れている。わたしは安楽な待合の倚子席で、たっぷり「生きたかりしに」下巻の初校が出来た。もう中巻は「要再校」で印刷所へ戻せる。
十時過ぎに入り、こと終えてまた路上へ出たのが一時半。見当をさだめて神楽坂まで細道を通り抜けていった。料亭「志萬金」の二階座敷へあがって一等の懐石「利休」に「白鷹の以心」二合。料理もまずまず期待に近く美味くて、酔いも深かった。地下鉄で一本で行けて帰れる有り難さ。保谷駅からはくるまで。思い切り校正が捗って、懐かしい神楽坂もちらと覗き見て和食を食べ切れたのだから、上等の外出だった。
* ただし留守中に、次なる「選集⑧」の初校がドッカーンと届いていた。
2015 4・11 161
* 作家建日子が、テレビの物識りクイズ番組に「作家・漫画家」グループの一人として参加、顔と恥とを曝していた。クイズに正解できないから恥なのではない。
「作家」のつもりなら、胸を打って人を励ます創作に励め。愛読者やフアンに落胆させ恥をかかせてはいけない。
* わたしの「物語 ロマンス」の一起点ないし一基点となった、まだまだ作家以前、青年期の試作、いや中断作である「原稿・雲居寺跡」を、とうどう妻が電子化してくれた。これは湖の本の上中下巻を成す「生きたかりしに」にはほど遠いまさしく試作の中絶作にすぎないが、支離滅裂で投げ出したのではない。このまま長く長く書いて行くのがコワくなってしまったのだ、先へ先へ進むにはよほど勉強を積み重ねねばならず、さりとて、ひそやかに小説なるものに手を染めはじめて、むろん先途はなにもまだ見えていなかった。結局コワくなってビビったのだが、妻が機械の中へ書き入れてくれたものを読み返してみると、たしかに或る可能性ははらんでいた。「清経入水」や「風の奏で」や「雲居寺跡=初恋」などの芽を含んでいた。
学会長の馬渡憲三郎さんは、半端の儘でもいい湖の本へ入れて欲しいと云われている。丁寧に読み返し字句も点検し推敲して、それが可能で有効かを、よく考えたい。
妻の大変な御苦労さんであった長編「生きたかりしに」は、もし電子化して貰えていなかったら紙屑で終わっていたかも知れない。「湖の本」三巻と大化けしたのを克明に慎重に読み直し校正して、わたしの作家生涯にこの作を欠いていたら、いわば半身をもがれたようなものだったと、ゾッとする。あらためて、機械へ電子化のながながご苦労さんに、心から感謝する。有難う。わたしは小説や評論やエッセイを「創作」してきた。妻は作家秦恒平を創作してきた。いま、しみじみそれを思っている。
2015 4・13 161
* 妻も、先日検査の結果からも、今日地元病院での診察からも、心臓血管のまたまたの拡張手術、避けられないようす。金曜日、再度聖路加で、先日検査所見見当の上、対応が決まる予定。
2015 4・14 161
* ここまで人生はるばる歩んできて、しみじみとむしろ「残り惜しい」と妻は云う。「残り惜しい」命を大切に生きて行かねばならぬ。この生を二度と繰り返すことはできないのだ。大切に味わい尽くして生きたい。早くに逝ったやす香、早くに逝った親しい身内や友人達。彼らのぶんも生きてあげたい。
2015 4・14 161
* 湖の本124『生きたかりしに』上巻の再校、あとがき「私語の刻」の初校が出そろった。中巻、下巻の進行も好調で、揃って日の目を見るのも遠くはない。出不精なわたしには信じがたいまで未知で初対面の大勢に進んで出会ってきたが、歳月は速やか、もうおおかたといえるほど人が亡くなった。
京都の秦の親たちが叔母も倶に三人とも亡くなり、主人公である生みの母にはとうのとうの昔に死なれていたし、実の父の葬儀では弔辞を読まされた。母が嫁ぎ先の長女も、長男も三男も亡くなり、次男は戦時中に亡くなっていた。実兄北澤恒彦にまで死なれてしまった。母方の伯母たちもみな亡くなり、本家を嗣いだ従兄も夫人も亡くなった。父方の叔父にも叔母にも、また伯母たちにも死なれている。母方祖父の生家である、東海道水口宿本陣の跡取りも亡くなった。ま、それが歳月だといえば仕方ないが、個性強烈で壮絶な闘いの内に果てていった我が生みの母のためには、心拙いこの末っ子がなんとかして書き継いだ長編小説を、或いは魔物のように母を嫌い、或いは仏のように母を慕った、そういう大勢にぜひ読んでもらいたかった。
* ちなみに父母を倶にした亡き兄北澤恒彦は、生前に瀬戸内寂聴さんとこの母を主題に対談していた。母が臨終の直前までかけて仕上げた詩歌文集『わが旅 大和路のうた』へは、信じがたいほど著名作家等の心のこもった激励や感動の便りが届いていた。富裕な名家にお姫様のように生まれ育ち、兄のことばを借りるならさながら「階級を生き直して」人のため子等のため敢闘苦闘の後半生を生き切った母であった。もっと生きて闘いたい母であった、「生きたかりしに」と辞世歌をのこして病躯を投げ出すようにして逝った。「変わった母」であったと今こそわたしは驚嘆する。
2015 4・15 161
* 明日は、また聖路加で妻の今後の診療ないし手術の前途を主治医等と打ち合わせてくる。
2015 4・16 161
* 今朝は、また妻に付き添い聖路加へ行く。近日のうちに幹動脈へのステント挿入手術数回目を実行することになる。
* 帰路、築地「福音」で美味い寿司を。新富町から一気に帰宅。
* 聖路加病院とも、印刷所とも、なおざりに出来ない打ち合わせが重なってきて、かなり気ぜわしい。仕事の手も、もとより止められない。
2015 4・17 161
* 聖路加からの連絡で、二十日月曜、妻の循環器外科諸検査診察ときまり、旬日内に手術日がきまる。
2015 4・17 161
* 起床8:30 血圧141-64(60) 血糖値80 体重67.7kg
* 一昨日の鴈治郎襲名の昼の部あと、「茜屋珈琲店」のカウンターへ。と、まあ。「ハイ墨牡丹でお待ちしてました」と。亡き加山又造さんの繪と指導とで出来たそれは美しい珈琲カップ。謂うまでもない、華岳絶筆の墨牡丹。マスターはわたしの「選集」第四巻でその作を見て呉れていての温かな心入れのご馳走であった。この店では、マスターとこういう付き合いが出来ている。珈琲もジュースも一律千円札をわたすと「ご縁(五円)」のお釣りが出る。出されるカップやスプーンの折りに応じていろいろに美しいことは、目をみはる。店内や手荒いの心地よい清潔さの中で見よい絵や壺も生花も。時に歌舞伎役者とも隣り合う。想えば久しいお付き合いだ、妻もお気に入り。
此の店でか、日比谷のホテル・クラブルームだと、芯から寛げる。以前は巖谷大四さんに連れてもらった、有名な漫画屋さんのよく集まってた「バー・ベレー」へ夫婦していつもくつろぎに出向いていた。人気のスーパーママ「すまちゃん」とも、家族ぐるみすっかり仲良しになった。娘朝日子が結婚しようとしていた相手も連れて行き、ひそかにママに品定めしてもらった。チッと、目にもとまらず小さく鋭く首を横にふられ、嘆息した。当たっていた。あのママも亡くなった。
昨日病院の帰りに妻と昼食した築地、若い夫婦でやっている鮓の「福音」も、とても気に入っている。第一に出る魚がとびきり佳い。もっぱらわたしは刺身で食べ、鮨飯は控えるのだが、切ってくれる次々魚の吟味と美しい包丁、仕出し、腕の良さ確かさに惚れている。酒は、ここでは八海山の冷やと決めている。酒器も清らか。ただし、値段は上等である。銀座では競り落として評判の鮪一切れが壱万円ということも体験していて、まさかにそんなにはならないが、なるほどねと肯く程度にはお札が要る。それでも、ちょくちょく暖簾をわけるのは、それだけの嬉しい満足があるから。久しぶりに昨日の魚は美味く原におさまった。食味が戻ってきたのかな。
2015 4・18 161
* なんとなく、ほっこりと休息気味に、じつは疲れている。なによりも眼が利かないのに、たくさんたくさん読まねば成らず書かねばならない。深い水の底から水面へと両手両脚でもがいている感じ。水面へ出れば息がつける。するとまたもぐるのだ。そんな繰り返しを、その実、求めて楽しんでいるに近いのだからしようがない。いま校正の仕事は「選集⑦」再校 「選集⑧」初校 「湖の本 生きたかりしに」上巻再校 下巻要再校戻しと私語の刻用意。五月の連休明けには「選集⑥」の発送があり、その用意もしている。これらの間に妻の入院手術日が決まるだろう。順調なら二泊三日で退院できる。無事の成功を真実願っている。
* 少し冷えてきた。
2015 4・18 161
* 気疲れはする、仕事もしている。
あす、聖路加の循環器外科でり妻の検査と診察に同行する。手術の日程なども決まるだろう。外来で、かなりの待機時間があるだろう、校正ゲラを三種類鞄、に入れて行く。
今夜ははやくやすむ、と云いながら寝床に躰起こして、昨日も二時頃まで校正していた。気分転換にはいま「後撰和歌集」の撰歌の四回目。五回選んでみる気。この勅撰集には贈答歌が多くも自然詞書の量も多くて、短篇小説の場面に触れている心地もする。しかし撰歌は結局は歌だけで自立し自律しているものを好んで選び残すつもり。べつにそれで何をする気もないが。「後撰・拾遺・後拾遺」三和歌集の秀歌を自分なりに選んでおいて楽しもうと、それだけ。撰歌は、どんな短時間にも、どんな場所・場合にでも、好きに楽しめて退屈しのぎには最適。
2015 4・19 161
* 聖路加へ。妻の諸検査診察、そして入院手術の打ち合わせ。
:: 検査の結果、心筋梗塞が頻繁に押し寄せていて緊急を要すると、明早朝入院手術と決まった。家から病院へ着くまでに頻回の胸痛、そのつと゜ニトロを服用、辛うじて病院へ着いた。生理検査、そして若いきびきびとした先生の配慮で、すぐ病室の手配がされ、レントゲンも撮り、緊急服薬用の処方も出て、看護士、入院事務での説明も受けて、明朝、八時十五分には病院へ、半、病室へ、そして検査処置についで手術になるだろうと。脚からステントを心臓へ送り込むらしい。従来数回は、腕からだったが。
* 強雨にも見舞われず、夕ちかく、築地の「さらしな蕎麦」で「かしわと鴨の鍋」を二人で食べ、新富町からまっすぐ停滞なく帰宅した。
2015 4・20 161
* 明日はも遅くも七時前には保谷で電車に乗らねばならない。無事に向かいたい。今夜ははやく躰をやすませたい。
2015 4・20 161
* 八時すぎに聖路加へ。妻の入院手続きして、475室へ、十一時過ぎ、造影剤を脚より入れて、心臓血管の新たな二箇所狭窄をステント挿入で血液の流れを改善、手術成功。うまくすれば明日の午には退院可能。
わたしは四時まで病室で、ひたすら「最上徳内」の校正に精を出していた。六時過ぎに帰宅。
明日、退院許可が決定すれば、迎えのために聖路加へ。三日連続。今朝は五時起きでさすがに疲労し、睡い。
2015 4・21 161
* 生協の配達を待って、すぐ聖路加へ退院の迎えに出かける。うまくすれば建日子が車で送ってくれるかも知れない。
* ゆうべは、十時間寝た。黒いマゴが二度三度わたしの布団へもぐり込んできた。あさ、テラスへだけ一度出してやった。これで三日続けて留守をさせてしまう。黒いマゴにも協力してもらっている。
* 無事、退院。暫くは造影剤を脚から入れた後遺症があるだろうが。深切な配慮と連携とで、恵まれ診療であった。感謝。
疲れはした。きのう十時間寝たが、まだ睡い。明後日には印刷所との打ち合わせ。五月七日に「選集⑥」が出来てくる。五月八日には、妻の術後の診察。五月もまた、忙しく仕事を追い仕事に追われるだろう。『罪はわが前に』などの「選集⑦」も桜桃忌ごろには出来るのではないか。しかもうち重なって「湖の本」では、新作の長編『生きたかりしに』が上中下巻で間隔を詰めて出来て行く。「選集⑦」と「湖の本」三巻の新作とは、文字どおり表裏して、一風あるわが自伝にも成るだろう。なぜ書くのかを値から答えることになるだろう。
* さ、今夜もすこし早めに床に就き、そこで校正を進めてベット有効な時間を生みだし新しい別の仕事に取り組みたい。
今日病院へ来てくれた建日子と三人で築地の「宮川本廛」で鰻を食ってきた。そのときに建日子に示唆した恰好の小説、彼は全然気乗りをみせなかったが、なんだかわたしが書きたくなってきたから不思議だ。時間も体力も無いので手が出せないけれど、いい着眼だと思うがなあ。働き盛りなら、わたしならむしろかるがるしく手を広げないで大作に取り組むのだが。
むかし、桜桃忌の日だった、吉村昭さんといっしょに、あれで桜桃忌会合からの帰途に一休みした店で、しみじみ云われたことがある。その際のわたしは太宰賞を受賞したばかりの新米作家だった。
吉村さんのいわく、新人の時は、手持ちぶさたにウロウロしていると、見透かしたようになんでこんなのが俺にと思うような、埃かゴミのような見当違いの仕事の依頼もくるものだけど、ぐっと堪え、んな時こそハラを括って纏まった大きな作を考えた方がいい、軽い、柄にもない仕事でクセになった人は、そこから抜け出て質的に伸び上がるのは難しく、そのまま埃まみれに頽れて行きがちだと。
わたしは、大事にそれを聞いた。
わたしも安易に作品作品と自称していた時期があったが、作と作品とはちがうことに思い至って心したのも大きな気づきだった、もつともその気づきは「売れる」ことには直結しなかった。我ながら恥ずかしい仕事、金になろうともそれこそしたくない仕事の最たるモノだった。
建日子に書いて見ろよとすすめた創作、これはその気にさえなればしっかりした追究が利く題材。ただし私小説にしては詰まらない。生み創り出すこと、一人の若いヒロインを。
2015 4・22 161
* 妻の体調、すこぶる改善され、欣然、ピアノを鳴らしたりしている。よろこばしい。手術の効果がどうか永続きしてくれますように。
2015 4・24 161
* 知らぬまに一日が過ぎて行く。もう十一時前。
明日は妻が地元の眼科へ行くと。明後日は、やはり妻が、聖路加での経緯報告かたがた地元病院で主治医の術後初の診察を受ける。
わたしは、五月の連休明けから重労働になるので、それまでは休養気分でいたい。
2015 4・26 161
* 母親が書店に注文したらしい、秦建日子著作の文春文庫『冤罪初心者』を手にした。この著者、劇作でト書きを書き慣れていて、文章は簡潔に、ま、的確に波打って書いている。ただし、書き出し第二段落最初の主語「緋村数記と桐野真衣は」を受けて、つづく長文末尾の述語「の後ろに隠れていた」へ繋いであるなどは、簡潔でも的確でもなく、その前でやたら説明的に長い一文に、ふと読み迷う読者もあるか知れない。
それにしても、ここは本当に日本かとヒロインが呆れているほど、「マシンガンの弾丸」が「大量に飛び交う」「南箱根の山の中」といった設定の方にわたしなどは、たじろぐ。以下の展開をぼんやり想像しつつ「冤罪初心者」という題を顧みるとき、ま、凝然とただ佇む。女性「民間科学捜査員」が「謎の殺人事件に挑む」「科学捜査ミステリー」だと帯は売っている。わたしからもお奨めするまえに読んでみるか。
* 上の作者が小学生の頃、なんどか京へ、大和・近江への旅にわたしは連れて行っている。その彼のようすが、ことに今度新作として出す「生きたかりしに」にまこと微笑ましく元気に書き写してあって、父親としても昔なつかしい。この子が、上のたぐいのベストセラーを何冊も書く書き手に育ったとは、感慨深い。一言で言えば、根の素直さ優しさが、ややこしい題材をでもいやみなくスイスイ書かせているのかも。
* 今日をふくめ、あと七日八日、ほっと息をつきながら五月連休明けへ備えられる。ふらりと街へも一度二度出かけてきたいもの。泊旅もしてみたいが、ほぼ毎日の黒いマゴの輸液がある。最愛のマゴにもぜひ長命してほしい。
2015 4・29 161
* 昨日から脚に痛みと、広範囲な紫斑のなかに小さいながら凝結を感じはじめた妻を、今朝、医師の判断ですぐ来るようにと。あわや入院もと危惧されたが、慎重にCT検査も行い、どうやらわるい現象は生じていないと解放されたが、当分は強いて歩かないようにと。目を見張る右脚から腹部への広範囲な紫斑浸潤の中に僅かな凝血がらしきが見られたので、来月八日の診察をまたず、電話で報告し判断を求めた結果の緊急の通院だった。朝食もとらずに飛び出した。ま、大過なくてほっとした。皮下出血によるきつい痛みまでは出ていない。
ま、なにかしら、年寄りには相応のことが起きてくる。憂えてばかりもおれない、が、さてさて七日からの「選集⑥」発送は、よほど慌てず急がずに少しずつ、と。
とにかくも、六日までの連休、気の晴れる日々であってほしい。
病院で、「選集⑦」のメイン、『罪はわが前に』本文の再校を終えた。大きな大きな息をついた。林富士馬さんとの、笠原伸夫さんとの対談二つに並んで戴く。こういう編成も、私撰・非売のメリット。出版社任せの本作りでは、こういう真似は出来ない。
☆ おじい様のブログで、
おばあ様 入院されていたと知りました。体調はいかがですか? 前と同じ手術だったのでしょうか。この間の、痛そうだった腕を思い出すと、心配で落ち着きません。どうか、術後の経過がよいものでありますように。
気がついたら桜が散っていました。毎年、家の近所で咲く八重桜たちを楽しみにしていたのですが、会社で受けるテスト勉強をしていたら、すっかり忘れてしまったんです! 来年までお預けです、残念。
ゴールデンウイークも仕事があるので、しばらく楽しいことは後回しです。
時間がある時に姪っ子と遊びながら、お仕事頑張ります。
それでは、会社にいってまいります。 馨 亡きやす香のお友達
2015 4・30 161
* ロシュフコー(今後は、ロ公爵と謂う)は云う、
「47他人に対して抱く信頼の大部分は、己れの内に抱く自信から生まれる」と。また、
「392 運も健康と同じように管理する必要がある。好調なときは充分に楽しみ、不調な時は気長にかまえ、そしてよくよくの場合でない限り決して荒療治はしないことである」と。
前者は謂い得ている。後者には他の判断もあり得ようか。
わたしの過去にあって、それは好調の不調のという判断でなく、生涯の行く手を決する意欲と覚悟の問題だったが、
① 大学院を見捨て、そこでしか生きられないと人にも謂われていた「京都」という基盤を一気に抛擲して妻と「東京」へ出、就職し結婚したこと。
② 貧の底の暮らしの中で、敢えて高価な支出に絶えて私家版で小説や歌集などを四册もだし、ワケも意味も分からぬママ、志賀直哉や谷崎潤一郎や小林秀雄らに送るという行為に出たこと。
③ 六十余の著書をすでにもちながら、騒壇に背を向け読者と相向かうような「湖の本」創刊に踏み出したこと。
少なくもこの三条は「ロ公」の誡めている「荒療治」に類していたのだとは考えていない。しかも明瞭に成功した。①で良い家庭を得、②で念願の作家の道へ太宰賞という大きなおまけつきでさながらに「招待」された。そして③は独特の文学活動としてもう三十年、百三十巻に及ぶ実績を維持継続し、「騒壇余人」として生き長らえ、「選集」刊行にまで到っている。
自慢でも自賛でもない、決然と行わねばならぬことが「ある」という、それに尽きている。
2015 5・3 162
* もう大分むかし、大阪の松尾美恵子さんが平家物語の延慶本研究を一冊にされた仕事にもすこぶる教えられた。
小説では、早稲田の文藝科で「行けよ」と背中を押してきた角田光代が、我が家で小説をこそ書けよ書けよと励ました甥の黒川創ががんばっている。息子の秦建日子も、いろんな読み物を書いては、しっかり稼いでいるようだ。読み物小説よりは、時代の水準をするどく突き抜いた劇作に期待したいが。
もう一人でも二人でも、わたしの近くから創作や批評の真摯な実力で世に出て欲しいなと願っている、のだが。
こう云ってはワルイかもしれぬが、映画「夕陽が丘三丁目」だったかの中の作家志望ないし売り出しようは、信じにくい。あのような苦心惨憺のウリは、逆にうそくさく見える。髪の毛をかきむしって地団駄踏んでみても、作家になるにはいろんな才能と開発とが不可欠。その見極めがどうなっているのか、だ。ことに「龍之介」を慕う純然の文学に花咲かせるためには。
2015 5・3 162
* 思っていた半分も荷造りできなかった。脚に造影剤を入れ、そこから心臓血管にまでステントを入れた妻の片脚は、ややに回復していてもまだまだ広範囲に紫斑が浸潤したまま、痛みも消えたわけでない。その体調を片膝立てで庇うようにして重い本を荷造りかるのは、健常時のようには行かない。明日は午后にまた聖路加で診察を受ける。悪化が進んでいないことを願うのみ、歩行をむしろ禁じられている状態なので、むろんわたしも同行する。続いて土日、郵便局がしまる。その間に、荷造り分を溜めるようにする。
2015 5・7 162
* 昼すぎには聖路加へ。妻の循環器内科の検査と診察。歩かない方がいいと云われており、築地までタクシーというのもオーバーなので、極力短距離の所もタクシーを利用する。当然、付き添って行く。軽快してるといいのだが。幸い以前の右腕動脈瘤のときの激痛は訴えていないが、緩やかな痛みと広範囲の紫斑は目立つ。
病院の待ち時間は恰好の校正どきで、待つのは苦にならない。
* 幸い事なきを得て、病院から帰宅、七時。帰り、気に入り野の築地「更科蕎麦」で、妻は鴨南蛮、わたしは蜆をたっぷり煮込んだ深川蕎麦で、升酒を二合。
病院でも、電車でも、たっぷり校正出来た。病院通いで時間をロスしたということが全然無く、目先も気も変わって自然歩きもするので、上乗。日比谷のクラブへ寄ろうかと思ったが、ま、あっさりと蕎麦がいいと。
さ、明日明後日の土日を利して、送本作業を終えてしまいたい。十八日には、「湖の本124・生きたかりしに」上巻が出来てくる。その発送用意もしなくては。
なにより、健康。
2015 5・8 162
* 死なせた孫のやす香、元気ならもう二十六、七か。もう一人音信跡絶えた孫みゆ希も、大学を出たのではないか。職を獲ただろうか。姉に似て立派な大人の判断や批評がもてていますように、病気しないようにと願っている。
2015 5・11 162
* 山梨県立文学館から、「資料と研究」第二十輯が贈られてきた。こまごましい紀要の域を抜群に抜け出て、歌人としての村岡花子資料も豊富なら、とりわけて中村章彦氏による芥川俊清「日記」翻刻と解題(一)は瞠目に値する。「俊清」は芥川龍之介母方の祖父である。刮目して読み進んでいる。裏表紙に、
甲斐の家 はたちの母がえんがはに手まりつきては涙せし家
て詠草の写真を出している。いま「生きたかりしに」三巻をほぼ責了へまで持ち込んだわたしには、身にせまる一首である。
2015 5・12 162
* 幸いに、「生きたかりしに」三巻の一仕事をほぼ終えた。あとは、適宜の間隔で順次の出来を待ち、送り出す。その間に、「罪はわが前に」を主とした「選集⑦」も出来てくる。この二作は、わたしの人生に表裏一体の心棒を、御陰をもって成した一区切りといえる。七月上旬には、皆、まとまる。
実の父のことも書き置くべきか、まだ、踏み出せない。
* 義妹より、今回も、有り難い刊行援助をもらった。心より、厚く深く感謝。
2015 5・16 162
* この古い機械、日増しにガタが来ている。受発信に危険信号が出ていると思われる。スクリーンの大きい新機を早く使いこなさねばと思いながら、眩しいのと複雑なのとで持ち腐れしている。建日子の知恵を借り、思い切って、ポータブルのスマホなどに切り替えようか。いやいや、小型で軽いノートの新鋭機も持ち腐れしているのだ、それに慣れた方が早いかも。
2015 5・16 162
* 「湖の本124 生きたかりしに・上巻」出来てきた。亡き生みの母が、どんな気持ちで読むだろうか。亡き兄恒彦は。父を異にした亡き姉、亡き三人の兄たちは。
すぐ発送にかかり、破竹の勢いで夕食までに相当量をすでに送り出し、また今日中にさらに送り出せる用意をした。
2015 5・18 162
* しごとらしい何も今日は出来ず。晩は、何度も何度も見てきた潜水艦映画をハラハラしながら見ていた。黒いマゴに輸液したら、本など読んで、リーゼを服して、寝よう。
2015 5・21 162
* 郵便がたくさん来ていた。
* 国際基督教大学の並木名誉教授 文藝春秋の寺田前専務 逗子のの作家林京子さん、アカハタの北村隆志さん 金沢市の作家金田小夜子さん 各務原市の読者石井真知子さん 長岡市の詩人植木信子さん 川崎市の墨画家島田正治さん、国分寺の佳人持田鋼一郎さん、静岡大小和田教授 京下鴨の澤田文子さん また日本女子大 名櫻大学、立命館大学ノートルダム清心女子大学 東海学園大学等々のお便りを戴いているが、疲れていて今此処に記録は出来ない。
金田さん御喜捨いただいた。石井さん、じつに濃やかに美味い鶏卵を沢山頂戴した。湖の本も創刊このかた三册ずつ買い上げて下さっていて、感謝しきれない。
生母の親族へも古い記録で分かる限り戻り覚悟で「生きたかりしに」たくさん送ったが、予想通り、すでに逝去、また消息不明でバラバラと戻ってきているのは母のためにも残念、ただ一通、千葉県市川市から便りがあった。
☆ 秦 恒平 様
お便りと御著書 有難く拝受致しました。
恒平様は私の母 **(昭和62年80歳で他界)のいとこにあたられますので、私より一つ上のジェネレーションの方、叔父上様です。 ただ、実際の年齢では私が昭和3 年9 月生まれ(=わたくし秦は、昭和十年十二月生まれ)なので、私の方が少し年上です。
子供のころ、能登川(=生母の両親等の実家)へ行きましたが、おじいちやん(**)おばあちやん(**)がとても優しく、可愛がって下さったのをよく覚えています。 川でアユ釣りをしました(釣れませんでしたが)、三井寺などへも連れて行って貰いました。
恒平様はパソコンに詳しく出てきますが、私のは全く出ていませんので一寸自己締介致します。
北大農学部(旧制)卒、日本水産勤務、ペルー、シンガポール勤務各3 年余、ジェトロ手伝い、昭和58年太平洋水産、現在も代表取締役会長として土i 日曜日を除き毎日会社です。冷凍食品を製造していますが、本人は全くの「名ばかり技術者」です。
文学とか藝術については残念ながら文字通りの無学無知無能です。
三重県の関の家(**嫁ぎ先)は「亀山市有形文化財J として7 年j5市に寄贈致しました。 現在「旧**家住宅」として保存されています。
取り急ぎ御礼かたがたご報告まで。 草々 平成27年5 月22日 市川市 稲
* 作中でもわたしはこのぐんと年輩の「甥」の家を訪ねて、母上に当たる従姉弟からハナシを聞いているはずである。なにしろ、母の生家はわたしなどの想像を越えた大家で縁者のひろがりもひろく、わたしは目を回しそうであった。上田秋成ともいい勝負であって、何も知らなかった当初の想いは巻を追うに従い展開していった。父方も輪を掛けて白けてしまいそうに大きく、参ってしまった。
それでいて、甥にしてこの年齢だもの、従兄、従姉も、ましてその親の伯父伯母級の人達は、生きていてと願う方がテンでむり。やはり三十年前にこそ本にしておけば良かったのだ。がっかり。
2015 5・25 162
* 黒いマゴへの輸液、もう一年半になろうか、毎日欠かさぬようにしている。さぞ針刺しが痛かろうが、わたしが目を見合わせて抱き、妻が注射している。ほぼ十五分前後かかる。
2015 5・25 162
* 正午予約で、診察室から声のかかったのが午后二時。めずらしく校正ゲラが無く、「生きたかりしに」上巻を読み返してきた。生母の短歌を多く点綴して、わたしの歌もところどころに置いたのが、唱和ではないけれど呼び合っていて、ときどき胸を熱くした。また後半の七十頁に及ぶ大和路、近江路の旅を建日子と倶にしていたのも、子と父とのかけがえない懐かしい記録になっていて、この小説がただもう一途の探索で終わっていない余裕も見せていると、喜ばしい気がした。
幸い、検査データ、肝臓ほか全てに問題なく。次の診察は九月。
何一つ道草食わず、帰宅。暑さに草臥れるが、少し元気にもなっているか、と。
とはいえ、頸のまうしろから肩が重く痛む。やはり疲労と思う。すこし休む。
2015 5・27 162
☆ 前略御免下さいませ
お送り下さったご本 確かに拝受致しました。
残念ながら両親は共に唱和六三年に亡くなり過去の人となっております。 (娘の)瑞穂は海外在住につき、本日(五月二十七日)連絡がとれ開封させて頂いた次第です。着状だけでもお出ししてほしいとの言付けでしたので 葉書で失礼とは存じましたが、お気持ちを汲みつつお礼申し上げます。
ご健勝をお祈り致します。 田中瑞穂 代 横浜市旭区
* 代筆の方がどなたか分からなくて残念だが、瑞穂さんは生母の次姉の孫に当たる人かと想っている。返事がもらえただけでホッとしている。佳い代筆だとこころよく思えた。 2015 5・28 162
* 夕刻前、建日子が帰ってきて、晩飯を一緒にし、歓談。八時前に仕事場へ戻っていった。心ゆく、人の胸に深く宿って動力になるほどのいい仕事をもどうか、してくれるようにといつも願っている。
* キムタクと大の贔屓の上戸彩とが演じている「アイムホーム」を時折見ている。血縁家族のあいだの微妙な断絶を問題提起の断続の中にあらわしていて、わたしのように複雑に過ぎた幼少期をへて大人になってきたモノには、ややゆるくは有るけれど大方の人には見過ごされている微妙な危機的罅割れを上手くドラマへ持ち出している。
生みの母のことをひとまずは形にした。実の父のことには、手は掛けかけてはいるが、どうなるとも分からない。母の場合は大げさには名誉回復してあげたい気持ちが働いた。それだけ、わたしの内側に愛情ではない敬意が生まれていた。少なくもわたしが懸命に整理し得た母の短歌には、真摯なつよいリズムが息づいていて、強く肯くことにためらいがない。生きる短歌、うったえる「うた」としての短歌を母は死ぬる日まで胸の奥から噴き上げていた。けっして泣き言の歌なんかではなかった。
父の遺している文章や記録は大量にのぼるけれど、終始謂えることは、歎きと逃避と敗北のグチに近い。だれもが穏和で頭のいい坊っちゃんだったと教えてくれるが、敬意はくみ取れなくて、触れて行くのはかえって気の毒という気がしてしまう。
* 今度の上巻では、兄恒彦と息子の建日子を、それぞれに等身大に紹介できていたのではないか。母と兄とは「同志」的に近づいて行けた。わたしは、母を嫌い抜いた、たぶん血の疼きから。わたしは共産党じみはしなかったし火炎瓶とも無縁の少年。青年時代を過ごした。短歌と読書と茶の湯と少年らしい恋と。だから、その後の人生でわたしは闘えた。今でも秦さんは烈しく闘っていると見ている人が少なくない。ナニ、したいことをしたいようにしていて、それが出来るように努めているだけの話。この後のわたしに立ちふさがって来かねない問題は、一つだと思っている、即ち、死、自死。生母はおそらく自死したろう、それは兄恒彦の確信に近い推測でもあった。実の父も、と想われる。そして兄恒彦も自死した。あとを追わねばならぬ理由は何一つ無い。しかし先のことは分からない。
* ま、仕残しているしたい仕事の山登りをせっせと楽しもうと思う。みなさん、くれぐれも自愛せよと誡めて下さる。有り難い、が、したいことが有る、有るという生きる幸せを、大事にし満喫して生涯を終えたい。仕事に終わりはない。
2015 5・28 162
* ある程度は予想も覚悟もしていたが、生母方の親類の大方が死亡されていて、若い遺族まで行くと、母を知っていたり覚えててくれたりという人が、無いも同然、これも致し方ないこと。
2015 6・1 163
* 建日子との旅、いきいきと思い優しく書けている。もし一人旅であのように母の過去を聴きもし尋ねもしていたのなら、叙述は重苦しく成りかねなかった。雑誌取材の旅と父子での旅とを兼ねたのは、謀ったわけでなく天与のはからいだった。いまもその辺を読み返しながら、なんとなし涙ぐみもした。
祇園・四条の夜色にもじっと目をあてていると、まばゆいほど町の灯が明るく、目にしみ胸にしみてむかしむかしの「京都」が想われる。
* さ、やろう。いろんなことを、もっともっと、やろう。歳末には八十なんて信じられない。わたしの心は恥ずかしいほど少年のようにまだまだ未熟に幼い。長い夏休みには、宿題ではない、べつの何か「自由研究」にとりくみたくてウズウズした小学校から中学への昔を身のうちに思い起こす。
2015 6・5 163
☆ 生きたかりしに(上)を
送っていただき、ずいぶんの日が経ってしまいました。
お礼が遅くなりました。ありがとうございました。
ご本が届きました頃には、5月の連休中にと図書館より借り込んだたくさんの本を読了していなくて、そちらを先にと、湖の本を横目で見ていました。
口実にして、実は怖かったのです。
いよいよお母様の事を書かれたと、読むのが辛く胸がつぶれる思いになって、静かに読み通せないのではないかと。
ここ数日読み始めました。やはり胸が騒ぎます。痛いのです。
秋成の方へ気持ちを持って。と息を継いでいます。
二章 大和路 へと読みすすめました。
葛城山の岩橋伝説。
謡や仕舞いの「葛城」を稽古した折 その地を訪ね 役の行者のたどった道を歩きながら頂上に登り 彼方の山を眺めました。
一言主神社にもお詣りをしました。
みにくいお顔を恥じ、夜しか橋を架けることができなかったとまでしか、思いは至りませんでした。
神様の恋
相模や和泉式部などのたくさんの歌人たちに詠まれていた、架けられなかった橋。
恋だったのですね。
秋成も詠んだ、その地で詠まれた歌を味わう。気持ちに入り込んで。
と今は違った気持ちで読み進んでいます。
2巻3巻と刊行していただき、静かな気持ちで読んでいきたいと楽しみに待っています。
未発表のいろいろの原稿などを刊行されるのに、ご夫妻で文字通り必死のお仕事をされておられるご様子。
ぜひ読ませていただきたい気持ちと、お身体を労わってほしい気持ち両方相まっています。
何のお手伝いもできないこと心苦しく思いながら、たくさんの作品が日の目を見ますようにと祈っています。
妻の親友 持田 晴美 練馬区
* よく勉強されていて、感心する。秋成がはるばる尋ねていった名柄の里の「いとこ」を、女性であり得るとわたしは読み、彼の「岩橋の記」に意味を持たせたのは、秋成学の学者からは認められないかも知れないが、秋成には、養家上田家にもともと年上の姉と呼んだ女性が居た。恐らくは秋成と娶せる気持ちが親にはあったろうに、この姉は家をはなれて他の男性へはしり、いわば勘当にあっていたのを、懸命に秋成が仲に立って親の怒りを静めたのだった。その姉が、或いはあるいは名柄のほうで家庭を持っていなかったでもあるまいと想ったりした。秋成その人を主人公に小説にしていたら、この養家に家付き姉なる人は大きな役を帯びたであろうが、主人公はわたしの「母」に成った。
2015 6・5 163
*次は、選集第七巻が、二十二日に出来てくる。この送り出しを済ませれば、七月になると湖の本版「生きたかりしに」下巻で完了する。幸い、遅ればせであったが、目下は温かく迎えられていて、誰よりも「生みの母」のために喜んでいる。なによりも懸命に生きて生きぬいた母であった、わたしの他にそれを証言してあげられる一人もいなかった。「間に合って」よかった。
だからといって、いま、この生母への愛や感謝に溢れているか、それは、無い。感謝ならば、秦の両親や叔母にこそ感じている。三人の位牌を家の身近に置き、「ありがとうございました」「ありがとうございます」そして心から「ごめんなさい」と欠かさず頭を下げるのはこの三人に向かってである。
2015 6・13 163
☆ お元気ですか、みづうみ。
本日『生きたかりしに』の続き頂戴いたしました。
お母さまのお歌には胸を鷲掴みされます。みづうみの生みのお母さまは堂々たる歌人であられました。そして、みづうみが『生きたかりしに』を書いたことこそ、歌人としてのお母さまへの、最高のかたちの親孝行でご供養であることを確信しています。お母さまは、ご自身を「書かせる」ために、みづうみをお生みになったとすら思います。
恒彦ちゃん(=お兄さん)、母さんは何か書きたいの。いつも何か言ひたいの。でも何もかけない。何も言ひきれない。
みづうみはお母さまのこの悲願を達成すべき息子でした。
今、あちらで、どんなに喜んでいらっしゃることでしょう。 清水 絶壁の巌をしぼる清水かな 子規
追伸 私語に掲載の「あけぼの」と名づけられた朝日の写真、佳いお写真ですね。
* 三十年前に、ほぼ、「生きたかりしに」は書けていた。だが、酒をうまくするために三十年を蔵で寝かせた。それが必要だった。あの頃、講談社がムリムリにも書き下ろし作として出版してくれていても、わたしの中でまだあの母な味わいうすかっただろう。母もわたしの中で熟さねば成らず、わたしも三十年の生を一歩一歩経ていなければならなかった。「清水」さんの指摘に、感謝する。
2015 6・16 163
* 母の生涯も活動も、わたしの本によって、一躍褒め称えられる、といった何モノでもない。ありえない。ただ、悪名の方へ方へ過剰に傾いていたのを、いくらかまともに持ち直してあげたいと、ひたすら歩き回って、多くの人の声やことばを聴いたのだ。それだけの甲斐はあったし、肩の荷をおろした気がする。
2015 6・16 163
* 快晴の朝。山形の桜桃、村上開新堂のクッキー、赤ワイン少杯で食事。耳を離れない映画「ゴアの恋歌」のナレーションと歌をまた聴きながら黒いマゴに輸液。マゴは、昨日の吉兆の焼き物などを大喜びで食べたらしい。留守番を頼むよと頼めば、どんなに外へ出たがっていても即座に心得て終日家を守っていてくれる。
2015 6・20 163
☆ 「生きたかりしに」
どこへ辿りつくのかとーー緊張して拝読しています。
「母」としては「かなわん」かもしれませんが、一人の女性としては、不器用な、一途な、精一杯な生き方に 痛ましさだけではない、「思い」をよせています。
国会包囲の一人として参加してきました。 横浜市 孝 読者・編集者
* 作家、当時は「婦人公論」編集者だった梅原稜子さんと二人して、「新潮」に出したわたしの「蝶の皿」愛読いらい、46年もの久しいお付き合い。こう言ってもらえて、わが亡き母は嬉しいだろう。わたしからもお礼を申したい。
* わたしは谷崎愛の作家、母と「母」とを混同しない。物語にどんなに「母」を慕わしく美しく書いても、現実の母とは切れている。わたしには親は(秦の叔母もふくめて)五人いたが、「身内」とは思えなかった。深い感謝や謝罪の思いこそ切に持っていても、である。「そういう、わたし」であったと今も思っている。思いながら日々頭をさげている。
* 日照りになり、自転車で荷を運ぶのも汗だく。日中症が危ない。妻は、これから地元病院へ。気をつけて。
* うちの道路際に、ひともとの草がたかく伸びてちいさなうす紅いろの愛らしい花をたくさん咲かせている。名はしらない。覚えるには花はいろいろで、木の花も草の花もある。名前などにこだわらず、ああ綺麗と思うと写真に撮る。ほっこりすると、撮った花の写真をたくさん機械にだして、香こそないが色よさを楽しみ堪能する。妻の写真が断然数多いけれど、花の写真も負けないほど撮ってきた。ふしぎなほど、写真で見ているとそれを撮ったときや場所まで思い出せる。花が話しかけてくるように想える。
いま、選集に口絵写真を入れているが、これにはいささか参っている。わたしの写真は何十年のうちにも数少なく、立ち往生してしまう。今度の第七巻では、昭和石油で副社長だか社長までつとめた、中学、高校時代の友だち團彦太郎が母校弥栄中学で撮ってくれたのを使った。せいぜい名刺大のもので、どうなるかと心配したが、まあまあ運動場や校舎の感じが残っていた。高校でもわたしは神は丸坊主のトンボ眼鏡でとんと冴えなかった。
聖路加病院への道ばたで
* いま中休みしている。選集の荷造りは二人がかりでないと出来ない。妻はいま循環器内科の検査と定期診察を受けに出ている。で、花のいろんな写真を楽しんでいる。送り出しには、明日いっぱいかかるだろう。
2015 6・23 163
☆ 文藝資料や
未発表原稿等、次世代への伝承・保存をお考えなのですか。
同志社大学が小回りが利けば良いのですが……。 田中励儀 同志社大教授
* 早稲田の東郷名誉教授から一足早くお声が届いていたのか。容易ならぬことと思うが、誰にもせよ単独の研究者に任せるより、大学等の施設に預けたほうが安定感はあろう、が、活きるかどうかは運のようなもの。
* 山形大学の図書館が山のように大量の「最上徳内資料」を保管されていて、読ませて貰えたことは限りない幸運だった。あんなに北の時代そのものを証言して価値ある寄託内容をわたしが揃えうるわけではないが、もう一度も二度も三度も精選してみたい。
* 単行著書、共著本、初出紙誌、連載紙誌 初出新聞、全湖の本、全秦恒平選集、電子化データ、自筆原稿、清書原稿、校正原稿、刷りだしなどは、当たり前の資料。講演録、対談録、テレビ出演の記録等もある。
「湖の本」三十年また「選集」刊行に伴う詳細な記録やデータ、また収支にかかわる記録等もほぼ散逸していない。
大小の帳面に自筆の、高校以降コンピュータ使用に到る間の全日記、コンピュータ使用以降今日に到る「私語の刻」その他多彩な全電子化データ。また全交信メールのデータ。大学ノート等に書いた創作ノート等書き置きの全部。
また年譜資料となった大量のこまかな記載をもった手帳も数十册あり、自写他写を問わず多年大量の写真がアルバムとしても機械内データとしても保存されている、
生涯に亘る厖大量の来信書簡から、せめても文学・文藝・創作にかかわる各界文化人・知名人や編集者・読者や知己親友読者らの内容あるものを精選するなり全部なりも、ほぼ散逸せず保管されている。
* やはり最上徳内を調べていたとき、有力な研究者所持の研究資料が遺族宅に残っていなくて多くはまさに「散逸」して行方知れない例に出遭っていた。残念なことだった。
私の場合、創作と同時にその全部をも凌ぐほど大量のエッセイ(論考や随筆、講演録その他)があり、もし「秦恒平世界」と仮にも謂うならそれはとても一通りのものではないとしか謂えない。また一人の作家としての登場から生き方の全容を謂うなら、それなりに稀有の相貌を持っているはずと、言挙げでなく思っている。奇しくも東郷さんがお手紙の中で「学匠文人」という言葉を用いて下さっていたが、明治の文豪はしらず、昭和戦後の小説家で、編集者的な一面も加えて、そういう足跡をのこした人の例をわたしは識らないのである、しかも「騒壇餘人」と自ら自覚し活動してのことである。
* ここへ心覚えとしてもぜひ付け加えておく。わたしの八十年人生で、唯一、極不快であった事件、実の婿・娘夫妻からの名誉毀損裁判に関わる、殆ど遺漏のない一切の「記録・法廷文書資料・書簡・言及・証拠等」も保存してあるということ。
世にまたと無い大学教授の婿夫妻から仕掛けられた訴訟に、わたしが父として作家としていかに応じいかに闘い抜いたかは、わたしの文学姿勢とも緊密に繋がると信じる故に、あえてこれを此処へ付け加える。わたしは彼らに何をしたか。わたしは彼らに数々の虚偽と捏造とで何をされたか。作家として、これほど不快に面白い対応材料は無かったのである。
* それが何だ、それがどうしたという思いも、明らかにわたしの内に同居している。当然のこと。残年の寡いだけが確かなこと。こんな一思案がそのままお笑い草に終わる、それも面白いわたしの人生である。
2015 6・24 163
* 向暑 気がかりなのは、われわれ人間とともに、もう一年半を超えて輸液を欠かさない愛する黒いマゴの健康。とかく外へ出たがる気持ちも分かるが、外にはケンカ相手もいる。以前のネコもノコも最期は怪我をさせてしまった。可哀想なことをした。黒いマゴは、実に賢い。われわれの言葉をかなり聞きわけて、「留守番してね」といえば出たがっていても諦めて機会部屋のソファで終日留守番してくれる。各家で表へ生ゴミの出る日は、「ごみの日だからね」と謂えば、静かに家で寝ている。その他、あれやこれや相当な「意思疏通」が言葉で出来る。
暑い夏を無事に乗り越えさせてやりたい。十六歳。ネコとしてはわれわれ夫婦よりも高齢になっているのだろう。まだ、敏感な反射神経ももっている。なによりも、われわれを信頼し愛してくれている、それがよくよく分かる。
2015 6・28 163
☆ 秦恒平撰集第七巻
頂戴いたしました。
京都での授賞式への出席も見合わせられたというご体調の中での、次々の出版、本当に感銘御尊敬申し上げております。
以前一度お金では失礼? がしらとお酒をお送りしたことがありました。お菓子だとかお酒だとか、只今の御体調を把握しないまま何かモノを差し上げるのはやはり失礼だと思い、こちらも失礼と云えば失礼なのですが、奥様に、秦さんの御体調に合ったものを調達して戴こうと思い、心ばかり同封いたしました。
こういう偉業を成し遂げていらっしゃる中での奥様や御子息のご苦労ご協力がどのように大変なことであるか、よくわかるような気がします。でも同時にご一家が全力を挙げて取り組んでいらっしゃることに、とても暖かい羨ましいものを感じます。
私は、前にもうしあげましたように、今は(=新刊の)「湖の本」の方に夢中ですが、次は(=第七巻の) 「罪はわが前に」拝読しようと楽しみにしています。
八十の坂を登るのは大変だと前々から医者の兄に聞かされていましたが、そしてその本人も八十六才になりエレベーターのない古いマンションでフウフウ言いながら暮らしていますが(長兄は昨年八十八歳で旅立ちました)本当にそのようで八十三才と八十四才の老人夫婦 ヨロヨロと暮らしています。京都にはやっと行って参りましたが、その後は一週間位、疲れから来る色々の症状に対対峙しなければなりません。
本願寺の岡 別院という所で会がありその隣の平安の森ホテルという処で或る方の撰集刊行完成の祝賀会があり、そのホテルで(=夫君高史明さん)は話したのですが、(ホテルの)すぐ隣に岡崎神社という何やら由緒ありげな神社があり、帰ってから若い人にスマホで調べてもらったら、祭神はスサノオノミコト・クシナダヒメで、平安京の東のかための神社とか。大磯の中心の六所神社もクシナダヒメなので、どちらも新羅系、何か因縁を感じました。もう京都も見納めと思い、東本願寺だけお参りして帰りました。
さてもうひとつ同封のものは、北沢恒彦氏のお手紙です。
わが家の息子の自死などもあり、大変たくさんのお手紙をいただいていましたが、小平から大磯に越した十四年前、大方は整理しました。でもどうしても捨てられない手紙があり、ダンボール二箱位残して持って来ました。でもやはりそろそろ死に支度で、もう一片付けしなければと日々丁寧に読んでは始末するということをはじめました。
先月、その中で北沢さんのお手紙を見つけました。はじめてお会いしたのが息子が死んで半年後ぐらいの頃、京都のほんやら洞という反戦喫茶店で、その時もその後も何回か京都を案内して頂いたり、一度は小平のわが家にいらして下さったりしましたが、お会いしたのも十回に満たない位の数でしたし、お手紙を頂いたことは忘れていました。
でも改めて読みますと、あの北沢さんの表面は厳しいのに心の底の何とも云えぬ優しさがよみがえって参ります。本当に優しい方だった。そしてそれは底知れぬさびしさに裏打ちされた優しさだったと、今思い当たりました。殆ど交渉がなかったとおっしゃっておられましたが、やはり濃い血のつながり、秦恒平さんにそっくりだったと強く思います。
(筆が走って失礼なことを申し上げました)
大事な手紙と写真は私共が死ぬまではとっておこうと思っていますが、今回、北沢さんのお手紙は秦さんにお送りしようと思いました。私共には子どもがいませんので、死んだら皆ゴミとなって捨てられてしまう、それならそちらに差し上げた方が──と夫と相談して決めた次第です。失礼でなどないようにと心から願っていますが。
撰集と湖の本 秦さんご一家には只今一分一秒でも大切な時と思います。つたない私共の便りを受けとったという御連絡などお気使い下さいませんように、私共に本を頂くこと、それを読むことが一番大事ですので。
前から上手くはありませんでしたが、最近ますます字が汚くなっております。読み辛いと色々な人から叱られますが、パソコンが使えないので手書きになります。御迷惑もかけて申し訳ありません。又、夫は私以上に判読不能な字を書き、従って筆無精になっておりますのでいつも失礼しております。でも二人共、秦さんのお仕事を尊敬し、それが成し遂げられることを心から念じております。
くれぐれもお体お大事に 御夫妻のご健康を念じあげます。
舌足らずの手紙で失礼いたしました。 合掌 岡百合子 エッセイスト、作家高史明詩夫人
* 嬉しいお手紙を、いつもいつも、本当にうれしく頂戴している、そのうえに、もう久しくも久しく、亡き兄恒彦に代わってのように、ひとしお心温かな応援をして下さる。身の幸せを底知れず感じて感謝している。
* 兄恒彦の高夫妻へ宛てた手紙を、いましも読んでいる。恒彦の書字は、これはもう特級の判じ物のようで、きちっと読み取るのに心血を注がねばならない。懐かしい。とても恋しい。
2015 6・29 163
* 亡き恒彦兄がお子さんをうしなわれた高・岡ご夫妻に宛てた手紙を、読んだ。兄の声が聞こえた、兄が生きて想われた。
わたしは、五十にして初めて兄と会い、以後せいぜい数回しか会ってなかった。手紙やメールはたくさん貰っていた。兄生涯の行実をわたしはほとんど知らない、「朝日人物事典」の記載程度にしか。兄の知友は、わたしなどと比べようなく広かったろうが、高史明さん夫妻や鶴見俊輔さんや、ほんやら洞の甲斐君ぐらいで、ほとんど誰も知らない。眞継伸彦さんや小田実さんから、「えらい男やったよ」と聞いたことがある。その眞継さんは湖の本をずっと買ってくださり、小田さんはいつも「敬意をこめて」と自署して本をくださった。彼らと兄とに接点のあったのを最初に教えてくれたのは、筑摩書房で「文藝展望」編集長などされていた原田奈翁雄さんだった。それでもなおわたしは長い間、兄と会わなかった。
逢い始めての何年かは、いまとなれば「寶」である。それでもわたしは自死と聞いたこの兄恒彦の葬儀にも偲ぶ会にも敢えて行かなかった。兄とは、兄自身のことばであった「個対個」に徹したかった。
2015 6・30 163
☆ 梅雨の晴れ間に、
建仁寺の両足院内の半夏生の庭園へ行って来ました、雨の後でとってもきれいでした。写真送ります、小さいのでちょっと見にくいかな?
続けて、お腹に良い物 探して来ました、お好みに合いますか? カステラと紅茶です、京都のナガサキやは無くなりました、フクサやなら悪くなさそうで、明日着くようです、お疲れにご賞味下さい。 京・日吉 華
* 建仁寺両足院とは、懐かしい。家から、花見小路、祇園町を小走りにゆけば数分で両足院へ行けた。叔母が懇意で、わたしも御免蒙ってお庭で何度も憩わせてもらった。「冬祭り」にも書いた。淡交社の京都古寺巡礼のシリーズでは「建仁寺」篇のために長めの文章を書いたが、その取材の際にも両足院を訪れた。等伯の襖絵が観られた。翅があれば翔んで行きたい。
2015 6・30 163
* 七月になった。むかし七月は嬉しい月であった、娘の朝日子が二十七日に生まれた。いまは同じその二十七日に孫娘のやす香の生命線を絶って死なせた悲しい月である。われわれは娘の誕生日を喪ってしまったのだ。
2015 7・1 164
* 創作の道へ歩み寄ってきた息子の秦建日子にわたしは何ほどの応援もできない筋違いの道を互いに歩んでいるが、上に書き置いたようなこと、優れた知己、いい読者をたくさん得て欲しいとは切に思う。甥の黒川創の方は幼少来、目の前を歩んで行く大勢のいい大人達の背をみて育ったろうし、また援けられても来ただろう、それを彼のためにわたしは何時もよろこんでいる。
あとを慕うならば、なるべく、いや極力、ほんとうにえらい人、敬愛に心底堪える人を生涯の宝のように思って謙遜に努めて欲しいのである、建日子にも。小山の大将に甘んじ、自分よりも立派な師友がいないのでは、いずれ心底貧しくなってゆく。とてもとても大事なところである。
もう一つ、付け加えたい、あらゆる作に作品をと。オーラである、真実の。
* よく降るなあ。
2015 7・3 164
* 今日は、おおかたの時間を新作の小説、気に入っていて、ぜひとも仕上げたい小説の進捗に取り組んで過ごした。これはもう「生きたかりしに」とも違う。「罪はわが前に」ともちがう。老いの想像がどこまで翅をひろげて翔べるか、だ。若い日に「雨月物語」上田秋成も、おいて「春雨物語」を書いた。二作は、いろんな面で相貌も方法も筆致も異にしている。それを意識せず追いも真似もしないけれど、出来る限り気持ちよく書き上げたい。じつは、中編でまとまるかやはり長編になるかも、決めていない、成るように成らせたい。
* 書く。書き続ける。その間は、生きている。国会を囲みにも行きたい、デモにも参加したい、けれど、やはり小説を書きたいし、本を創りたい。そのために生まれてきたと思う。母の分も兄の分も、私らしく書き置きたい、許される限りは。鬱いでいるヒマは無い。
2015 7・4 164
* 機械のどんな脱線でか、いまの機械でフェイスブックやツイッターを開こうとしても、「インターネットエクスプローラーではこの記事は開けません」となる。しかもフェイスブックなど、一日中何十度となく例えばハタタケヒコさんが写真をとりかえましたとか、どうとかしましたとか通知してくる。フェイスブックのそれが営業手法らしいが五月蠅くて堪らない。解約したいのだけれど、その方法も分からない。耳元でうるさい蠅か蚊のようで堪らない。
2015 7・6 164
* 聖路加の妻の診療が順調なように願っている。ゆっくり留守をしながら、敗戦直後の流行歌を思い出多く聴いたり、そのまま、撮りためた多年四季の花の呼びかけてくるような綺麗な写真に見入ったり。黒いマゴが、背のソファで機嫌よう寝入っている。おっとりと心静かな時間に私もありついて、ありがたい。週明けには染五郎、勘九郎、七之助の新歌舞伎を楽しみに行く。
* 秦建日子が、河出からアンフェア・シリーズの新作として『アンフェアな国」とやらを近く出版するという。母親からの聞きかじりで 慥かではないが、いまの日本国政治の「アンフェア」をも告発し追究する気味を少しでも含んでいるなら、しっかりやつてと励まし応援したい、が。ハテ…。
2015 7・8 164
☆ 拝啓
お礼が遅れて申し訳ありません。秦恒平選集の第七巻目をご恵送下さり本当にありがとうございます。「罪はわが前に」のような告白小説を前にすると、思わず自分自身の姿勢について問う<私>を意識してしまいます。何のために小説を書き始めたのか、見過ぎ世過ぎの中で私にもどうしても書かねばならないものがあるはず、と。 不一 久間十義 三島文学賞作家
* 若い友人の中で、文学的に深い期待を覚えている一人の久間さんから、こうお便り頂いて、かえって励まされる。秦建日子にも、久間さんのこの述懐を耳に留めて置いて欲しい。「作家として生きる在りよう」 それを意識しすぎても強ばるが、なおざりにも決してしてはならぬこと。
2015 7・9 164
☆ 前略ご免下さいませ
瑞穂へのご著書のご送付(三册)確かに拝受致しました、有りがとうございました。 本人は年に一度の帰国 今年は十月頃の予定にしているようです、ので それまで私の所に預っております。
能登川のお家も今はなく 母達の時代が段々幻の様になってしまいました、が、ご著書はきっと思いの深いものとご推察致します。
梅雨が明けて蒸し暑い夏がやってきます どうかご自愛下さいませ。 横浜 田中瑞穂 代
* 書いてもらっているこの代筆者は、おそらくはわたしのすぐ上の姉、三重県へ嫁いだと聞いているわたしの母方伯母の娘あるいは嫁にあたる人ではないかと想っている。瑞穂さんはその妹か娘か。なぜこういう送付に成ったかは、じつは私にも分からないが、よほど近い母方血縁のように想われる。わたしなどには想像もつかなかった大きな一門親類であったのが、いまでは本元の能登川の家屋敷も手放されたとか。
ま、『生きたかりしに』はかつがつかすかに間に合ったような間に合わなかったような。しかし、三十年を原稿のまま発酵させたのは、作のためには良かったと想う。
2015 7・11 164
☆ 「生きたかりしに」下の続きを読み
やっと405「本陣の娘が大名の」のくだりまで読んだところですが、なんと無惨なと感じると共に、母や兄、甥(そして自身もまた)が革新を願った根として考えていらっしゃるのも納得できました。 神奈川 沢
* このメールには、「なんと無惨な」には、驚かされた。ま、そうもいえなくは無いけれども、 この本来「秋成」を書こうとして始められた小説の、流れ流 れて行きついた、とある流れとしては、( 創作当時の新学説に応じつつ眺めれば)、ここで思いがけず「上田秋成と大名家小堀」との、また、わが母方祖父「阿部周平と九州の大名家」との、びっくり仰 天の相似的奇縁が意味をもってくるのであり、探訪者のわたし自身、ここへ出遭ってまさに仰天もし、また奇遇のように面白かった。「無惨な」など毛筋も思わ なかった。
それに、こんなことが、父周平を深く敬愛していた「娘=わが生母・くに」の「革新」を願う「根」だったなどということは、全くあり得ない失見当だし、「わが兄・恒彦」は、こんな「九州の大名の」ウンヌンなど、雫ほども知ることなくて亡くなっている。
この私にしても、幕末の水口本陣での固く秘匿されていたらしい一件は、母探訪のさなかにあちこちから偶然に聞き込んだのであり、そんな噂ほどのことと、(それが在るとしても)私自身の革新性とになど、何らの関わりも無い。
そもそも祖父に革新性など全くなかったし、母のそれが(在るとして)、それは自分の父となど全然無関係な甚だ性格的なものであり、わが兄のそれは歴然と して生涯りっぱな意嚮と実践であって、祖父との間には雫ほどの関わりもなかった。甥のことは言わないが、彼も彼の父方曾祖父のことなど全く知らないであろ う。
こんな走り読みで文学部のマスターに軽々に「納得」されては、見当違い甚だしいですよと、ひらに謝っておく。びっくりしたなあ、もう。
2015 7・20 164
* 鶴見俊輔さん 逝去
「日本共産党だけは創立以来、動かぬ一点を守り続けてきた。それは北斗七星のようにそれを見ることによって自分がどの程度時流に流されたか、自分がど れほどダメな人間になってしまったかを計ることのできる尺度として、日本の知識人によって用いられてきた」(鶴見俊輔・哲学者)
* 本当に残念。
鶴見さんは、亡兄北澤恒彦の、また甥北澤恒の先生、大先生のように遠見に見えていた。その縁でとは言わないが、わたしも、鶴見さんに時折りご縁を得て京ことばに関わる「対談」で引き立てて頂いたり、作への激励や批評のお手紙を沢山いただいてきた。
上の、「共産党」に触れた鶴見さんの言葉など、現今日本の国民にとって最良の助言である。同感する。
2015 7・24 164
☆ とうとう
「生きたかりしに」全三巻、読み終わりました。
「初原」の地が見えてくる辺りからは、もう、胸の高鳴りがそのまま伝わってくるようで、どんどん加速度もついてきて。
こまぎれの時間を利用しての初読。落ち着いたら再読したいと思います。
今はただ、「恋しくば」の遠い呼びかけに促されての永い遥かな旅をした「私」が、「ただ情欲を満たしただけの結果」なんかではなくて「此の世へ歩み出」 し、慈しまれていたと確かめた後に、<母>でもあり<姉>でもありうるような「愛(い)と子」との再会を当尾で果たし得たこと、 母の歌声を耳に作が完結しましたことを、心からお喜びいたします。
吹きやまぬ風は、今どこに向かっているのでしょうか。
どうぞお元気で。 黍
* 「目次」構成に、わたしは或る意味の「策」を構えて、「秋成」と「私」とのつかずはなれずの重ね繪が読者にもなんとなく予想できるよう に創っておいた。「母」かたにはあまく、「父」かたにはからいと見えてくるもののバランスをはかってみる創作意識・作意をはたらかせていた。予想したより も多く重く、読者はこの母方へと父方へとのバランスめく作意を実意として「よかった」とうけとって下さった。
もし事実然様であるなら、私小説に底敷きしたバランスの作意が、ま、いい方へ受け取られたことになる。
もしも、作者であり子である私自身の実感から「母 三浦くに」への気持ちをいうなら、異父長兄「聡一」の母親観に、書いても読んでも終始一貫してほとん ど「同じ」であったと紛れなく気付いている。およそ聞き書きの他に方法を得られなかったなかで、わたしは「母」のあまりに偏りすぎて捩れた像を、ままその ままに近いまで修正してやりたかった。冷静に言えば「それだけ」のモチーフだった。まして「真の身内」が確認できたなどというハナシではなく、その限りに おいて「三浦くに」は小説の主人公たり得る多彩な光源を内蔵していたと信じていい喜びは、しかと掴んだ。
父方方面へは、どう作が作として収束されて行こうと、いようと、作者としても父の子としても、ごく冷静いや冷淡であった。心情的にみて良く言って「不分 明で未解決で」あり、聊かの感傷も感じていない。「父」「父方」も、じつは既に書きかけてもいて、これまた難儀にも複雑な、あまりに嬉しくない実情が展開 して行くだろう。
よく母を書いた谷崎は、しかし、リアルの母とイメージの「母」との別をきっちり私に教えてくれた。鏡花もそうだ。そて谷崎や鏡花の愛はどっちへ向かって深かったのか。
わたしはたくさんな小説で「母」に熱く恋・愛してきたが、今回、リアルな母は「母」ではないことを「生きたかりしに」で実は冷静に冷徹に再確認したので ある。ましてやリアルの父は。いやいやリアルな父は、或る意味で母よりももっと痛切な苦汁をなめつづけた気の毒な敗者であったのを、今の私は識っている。 母の「生きたかりしに」はじつに分かる、よく分かる。父は、それに比して、何と我とわが心に問い続けながら死んでいったか。書き遂げられるかどうか、この 小説は、母の小説よりももっと険しい道を辿ると想われる。
* 母と父とから、わたしは何を承けたか。享けたか。身体髪膚、それは動きない事実。深い思いとしては、何を。言うまでもない、血縁や親縁はなんら「真実の身内」を保証しない、「身内」は人が人として生きながら見つけ出し創り上げてゆくしかない、と。この私根底の思想からすれば、実の父も、生みの母もあまりに正確な「反面教師」であった。わたしはわたしの「身内」を探し求めずいられなかった。
父母に感謝はしないのかと問われるだろう。「しない」とも「している」とも言うまい。それならば遙かに多く豊かに「秦」の親たちにわたしは感謝してい る。いまでもわたしは朝起きて真っ先に、「秦」の「おじいちゃん おばあちゃん」「あば」に呼びかけてありがとうございました、ありがとうございます、そ して、こころから「ごめんなさい」と不孝のかぎりを詫びている。
2015 7・24 164
* 望月太左衛さん、浅草の花火へ今年も誘って呉れている。手術の年からは、三年、行けなかった。
行ってみたみたい気がしている。天上の孫やす香とものを言い交わせる機会だ。明日だ。
2015 7・24 164
☆ 秦 恒平様
謹 啓 「生きたかりしに」読了いたしました。「湖の本」を購読し続けていて良かったと、先ず思いました。ここにいたって秦文学の大宇宙が、秋の夜空を見るように、澄み切った姿ではっきりを捉えることができた、と感じることが出来ました。
「第五章 当尾の里」の二十四、泣けました。大海の孤島に、しっかり真の身内は、待っていたのですね。混沌をかき混ぜて、天の沼矛から滴り落ちた一滴が 成った孤島、たどり着けば、聖母や神のような七度の七十度も許す、大悲の身内が大きく両手を広げて待っていた。ここでは全てが「思無邪」、純粋な自分であ ることが出来る。氷に結ぼれていた小川が春を迎え、穏やかな流れをとりもどし、川面には梅花藻が咲き初め、岸辺には野草が、とりどりの花を咲き競って生命 を輝かし、揺雲雀は歓呼するように大空に囀っている。すべての結ぼれが解けて、摩訶価討般若波蜜多の大宇宙に包まれている。そしてこの摩訶般若波羅蜜多の 大宇宙では、上田秋成も阿部鏡子も砥部恒之も作者も、等しく「命」の「光」であり、永遠なる超越であるのです。人間の命は、運命とか宿命とか性とか、その ような低次の世界ではなく、もっと高次の「絶対」であり「永遠」という命の大河、その流れに運ばれて生きている、そして生き続ける定めにある、と、この作 品は言っていると、私は惟いました。私は、自分もまた、その人間の一人であることを惟い涙しました。
当尾の砥部邸を再訪した作者の感慨には、まさに「年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山」の思いがあったのではないでしょうか。そして矢絣 を着た生母と撮った写真を砥部邸の松に重ねるとき、「命二つの中に生きたる櫻(松の木)哉」の思いが作者の胸中を満たしていたと感じました。
阿部鏡子(三浦くに)さんに美濃正子さんがおられたことは、岡本かの子に一平がいたように、必然なことであり、幸せなことであったと感じました。もし砥 部恒之氏が一平なりせば、阿部鏡子さんは、女流として一家をなすことも可能だったかも知れません。お手紙の論理力と文章の力強さは、並の知力ではないと感 じさせます。それを認めればこそ、美濃正子さんは歌集の出版に無私の尽力を図られたのだと思います。「年々に我が悲しみは深くしていよよ華やぐいのちなり けり」を生きたかの子と重なるところを感じさせる阿部鏡子(三浦くに)さんの半ば不本意な生々流転は、無理解な世間・俗界に押しつぶされた結果の迷いだっ たと感じられます。俗人には理解できない聖性一高貴な心性の人、まさに昭和二十二年発布の新憲法を持つに値する女性であり、其の尊厳に生きる個人主義を生 き得た女性であり、現に生き抜かれた方と感じました。
最後に至っての「芳江叔母」との再会は、私には衝撃的でした。丁度いただいた「選集七巻」で「罪はわが前に」を読みすすめていたところでしたので、「芳江叔母」が、わたしには「久慈芳江」に重なってしまったのです。複雑な感動を味わいました。
桐壷更衣も紫上も公的名、二人には身内だけが呼び合う私的名前があったのではないでしょうか。光源氏は、紫上と二人のときには、きっと私的名前で互いに 呼び合っていたのではないか、と、ふと思いました。そうでなかったらただ似ているだけ、あるいは血縁というだけでは感情を同化できないと思います。
妻を亡母と同じ名前-「芳江Jと呼んでこそ、源氏の思いは亡母と同化し、満たされるのだと思います。名前は単なる記号ではなく、魂であることも、今回再 認執したことのひとつでもありました。中巻(近江路 十三)の石塚鏡子さんの登場に、ふと心を揺さぶられるものを感じました。
断片的ですが、r生きたかりしに」を読んで心に刻まれた思いの一部を、出で湧くまま縷々、書かせていただきました。失礼の段、ご宥恕ください。
今日は、益子町の関東三大奇条「御神酒頂戴」を見る為、友人に案内していただきました。
「選集第七巻」の御礼と、「生きたかりしに」の完成を祝させていただきたく、評判の良い地酒をお送りいたします。地元の酒造元からお送りするよう手配させ ていただきました。近日届くと思います。御賞味いただければ幸甚に存じます。暑さ厳しき折り、御身体を大切に、この暑さを乗り切っていただきたく、ご自愛 のほどお祈り申し上げとます。 敬具 八潮 小滝英史
* 笠間の清酒、純米大吟醸「郷之誉」一升瓶に添えられ頂戴したこのお手紙、このまま、母阿部ふく(三浦くに)の霊前に献じておく。読者は、みなさん、ほんとうに心優しい。母の返礼が読めるといいのだが。
2015 7・26 164
おじい やん !
愛しい孫やす香 二十歳を目前に
九年前七月二十七日 肉腫におかされ、
逝去
来て来て来てと お土産はお蜜柑とよびかけて
苦しかりけめ 生きたかりけめ
やすかれといまはのまごのてのぬくみ
ほほにあてつついきどほろしも
このいのちやるまいぞもどせもどせとぞ
よべばやす香はゆびをうごかす 恒平
* 五十五年前の今日、初の娘、朝日子(改名して押村宙枝と。)が生まれた。
「朝日子」の今さしいでて天地(あめつち)のよろこびぞこれ風のすずしさ
父へ全身で笑む可愛かった朝日子。我が家の原点!
九年前の今日、孫やす香(朝日子の長女)は二十歳を前に肉腫で死んだ。生命維持装置が停止された、と。
やすかれとやす香恋ひつつ泣くまじとわれは泣き伏す生きのいのちを
もう一人の孫押村みゆ希は、もう大学を出ただろう。聡く、元気に成人してあれよ。
2015 7・27 164
* 下の、五十余年も昔に社宅のベランダで撮った妻と朝日子との写真を見ていると、ナンとも言えない。あの、父母の娘は、いったい、いま、何を胸に抱き世に立っているのだろう。
2015 7・28 164
* 秦建日子が河出書房から『アンフェアな国 刑事雪平夏見』の最新篇を出版した。河出書房と作者とが送ってきてくれた。このシリーズは建日子のいわば代 表作、今度の題名にどんな批評をこめているかも含め、これは落ち着いて読んでみる。建日子は、もう四十七歳、作家としては働き盛り、存在価値の容赦なく問 われる壮年である。父が、作家代表団に加わり訪中訪ソの旅を経てから初の新聞小説「冬祭り」を連載し終えたのが昭和五十五年、四十五歳だった。働き盛りと いう実感が蘇る。創作のタチのちがいはともあれ、心ゆく本格の仕事へいまこそ集中して欲しい、小説、劇作、テレビ脚本、どれをとは言わないが、あまり分散 しないで、大きな高い山へ登攀の気概を見失わないで欲しい。正直の処、ここ数年の文庫本小説には目が行かなかった。この長編新作、単行本の重みをわたしな りに味わいたい。
2015 8・1 165
* 秦建日子の長編「アンフェアな国」を読み終えた。とにかくも読ませた、ほぼ一気に。ところどころで一目五行八行に走ってしまう箇所もあったけれど、簡 明な早口で風のようにお話が飛んで流れて行く。作者の身内に根をおろしたお話とは思いにくい、徹底して作り話だが、「アンフェアな国」を叱ってはいて、最 後のその辺の述懐に作者の同期も批評もあるのは頷ける。「アンフェア」シリーズでは一等気を入れてスピーディに読み上げた作かも知れない。
それにしても、この作、スピーディな文体と作風とはもう手慣れたこの作者の作に相違ないが、小説自体、作者は「秦建日子でなくてはならない」どんな思いや歎きや怒りや主張から生まれているのだろう。「雪平」のチームは情も実も書けている、が、他の登場人物はおきまりの駒か記号かのように薄い。面白そうなただ読み物の域で作があまりに軽く呼吸していないかと気になる。
* 「リチャード三世」の迫力は、これぞ、凄いと謂いたい。沙翁の人間把握の怖いほどの確かさ、激しい葛藤、そして福田恆存さん飜訳の日本語の完璧、美しさ確かさ。身震いがする。まぎれもない「文学的真実」の発光に胸が震える。
2015 8・2 165
* 親世代の働き盛りが、時代に真摯にコミットしない、出来ない言い訳の言葉だけを抱き、現 状に甘んじているよう、残念な失望ばかりを感じる近年、いや、十年、二十年だった。悪いことにそのような愚昧な世代が保守の若手政治家になり、こっけいな ほど傲った無恥の程を国会内外で放言している。そろそろ切実な自覚を得てきた高校生大学生世代へ一日も早く確かな世代交代がなされるのを願う。
「うそくさい」自己欺瞞への安住。不潔である。
* 建日子が活動し始めた高校生たちの方へ視線をなげているようだ、いいことだ。「アンフェアな国」が世界中にある。黙認してはならない。
2015 8・4 165
* 高校生がnot ABE のデモに各地で起ち上がってくれている。ようやっと、ようやっとである。亡兄恒彦が生きていてくれたらどんな乾燥が聞けたろう。
* 視野がうすぐらく、鬱陶しい。心身の芯に疲労が溜まっているのだろう、実際の健康回復状態と実感とのいやな感じのズレに、ともすると無用に立ち止まっ てしまう。自身の潮目が読めなくて、突如として沈没しそうな危惧も抱いている。気概とはべつに抱いている。「生きたかりしに」で、思ったより多数の故人と 向き合わねばならなかった。存命だった人の大方が、作が本になった今、亡くなっている。
同世代、わたしよりも明らかに若かった人にも、亡くなった何人もいる。ま、同世代では強くは言えないが、若い人に死なれている苦痛は重く、痛い。
もう、いいじゃないか…。そんな声をときどき聞く。
2015 8/8 165
* 昼前に放送大学で、日本新劇の歴史的な回顧と解説を聴いた。坪内逍遙、小山内薫以降の歴史的な積み上げの中で鍛錬されたさまざまな表現革新、思想形 成、方法探求のいろいろが示唆に溢れ実例もともなってまことに興味津々、感銘を受けた。戦後演劇での三島由紀夫の革命的な演劇言語の錬成を経て何人ものみ ごとな演劇創造の先頭を邁進している実例もみせてもらい、戦後文学の歩みなどこれら演劇的前衛の逞しい創意工夫の前にはなさけないほど平板ではなかったか と、ガックリした。
秦建日子の「秦組」の旗の下、どんな斬新で深刻な演劇創造が展開されてきたのかと、身贔屓のママまま顧みて、やはり、やるなら歴史も共々もっともっと濃 密に尖鋭に人と世界とを批評し彫琢し、前進してほしいと感じた。小山の大将に甘んじてては、所詮追いつけもしない先人先輩らの足どりがあったのを、時分の 足でも一歩一歩確かめて乗り越えてほしい。まだまだ才気にまかせての趣味の域を超えていない、真の独創をめざせていないのではないか。もつと勉強しもっと もっと苦悩しつつ思索し冒険して欲しい。優れた師をもち肝胆照らしあう友とライバルとを。もう五十近く遅きに失しかねないが。
2015 8/11 165
* 起床9:00 血 圧128-65(56) 血糖値97 体重68.6kg
* 黒いマゴの朝の輸液を済ませ、すぐ、日照りのもと、最初の便を郵便局へ運んだ。選集八巻は通常送料350円より頁数多くて460円かかる。送料もさりながら本が重たい。郵便局へは歩いて五分あまり。一往復すると汗みづく。
2015 8/18 165
* 歩け歩けと医者にいわれても、京都だと家を出れば、歩きたいところばかり。東京では、歩いてみたいところまで電車で行かねばならぬ。永井荷風の散策は、そんなあんばいだった。結局、東京で歩くとは、電車に乗って目的の方面へ移動することのようで、億劫。
あしたの天気は分からないが、さしづめ西武線を奥へ行くか、副都心線で横浜へ行くか、有楽町線で木場のほうへ出てみるか、それらが保谷住まいでは効率的 だけれど、そんなの歩くとは謂わない。ぞっとしない。横浜中華街のあの雑踏、食欲のあまりに乏しい今のわたしには、心騒がしいだけで閉口。新宿から甲府の 辺まで乗るのはよかろうが、新宿までが億劫。西武線の奥の方で山を眺めてくるとか。飯能に東雲亭が無くなっているのが惜しい。秦の母や朝日子も一緒に天覧 山へ登ったのを想い出す。
2015 8/24 165
* ほぼ七時間眠るようにしているが、昨日今日、眠い。今朝も気がつくと機械の前で居眠りしていた。黒いマゴも、わたしのすぐ斜めうしろ、黒い革の柔らかいソファの上で、全身柔らかそうにまるくなり、ぐっすり寝ている。
2015 8/25 165
* 夜中、つよい雨の音が断続し、朝寒む小雨のなかで故紙回収の手伝いに大量の「紙」をきまった場所へ運んだ。裏の白い大量のゲラを処分するのは 胸が痛い。裏白の紙は使えるのにと。しかしそんなことを言うていると家が傾く。紙の塊は岩のように重い。我が家の故紙提供量は半端でなく、それを幾つもの 荷に紐で括り出す妻の労力も半端でない。回収所へは雨に濡れてわたしが運ぶ。黒いマゴに手伝ってもらうわけに行かない。子供を二人しかつくれなかった不運 が八十夫婦の肩にのしかかっている。息子に嫁もなく、孫もいない。老境がもたれ合って、行けるところまで行くしかない。怪我しないよう、ひたすら気をつけ て暮らしている。
2015 8/26 165
☆ 秦 恒平先生
拝啓 台風の影響もあってか、やっと猛暑を抜け出した感のある昨日今日ですが、お変わりなきことと拝察申し上げます。
このたびは又、『選集』第八巻の御恵投にあずかり、誠にありがとうございました。頂くたびごとに一冊一冊と書架に並べていますが、それが早八冊ともなり、堂々の全集ぶりで我が貧しき書架を荘厳してくれています。
この夏には、先に頂戴していた 「湖の本」 の『生きたかりしに』上中下三巻を拝読いたしました。上巻が秋成追跡の話から始まっていたので、文学史の勉 強になるかなどと言う、軽率な気持ちで読み始めたのですが、それはとんでもないことだとすぐにわかり、起稿から三十八年の歳月を経て著者の手を離れた、重 厚この上ない物語に、襟を正す思いで拝読いたしました。これまでの数多くの御著作で、折々に触れられていた 「秦恒平」 の来歴が、集約されて一挙に読者 に示されました。感無量です。
今後、「秦恒平論」 を試みる輩は、『生きたかりしに』三巻に触れることなく何かを言うことは不可能でしょう。いや、この大作によって、凡百の「秦恒平論」は無用になるに違いありません。
かつて、谷崎の 「夢の浮橋」 論や 「春琴抄」 論の鮮やかな解明に舌を巻いたものですが、その時は著者について、ただ何という頭のいいお方なのだろ う、と思っただけでしたが、今回の大作を拝読するに及んで、頭脳明噺に加え、「母」という存在に対する、深い深いアンビバレントな思いを抜きにしては、. あのような繊細にして大胆な分析は不可能であるということに思い至りました。
また、作中、御縁戚のさまざまな方々が登場なさいますが、同志社関係の、それもクリスチャンの少なからざることにも、個人的な興味を覚えました。私の明 治六年生まれの祖父は中河内の大庄屋の没落寸前の当主で、その不如意感からか内村鑑三のキリスト教に帰依し、河内のど真ん中で日曜学校を始めたり、印刷屋 を始めたりした変わり者でしたが、その影響かどうか、父は同志社に学び、奈良の女高師を出たその姉妹もそろつて牧師の妻になったり、といった環境で、戦前 の同志社を中心とするキリスト教文化圏の輪郭を興味深く拝読しました。もっとも明治四十四年生まれの父はクリスチャンとしては失格で、私もいささか家庭的 な不如意も経験しましたが、『生きたかりしに』の主人公に比べれば、万分の一にも及びません。
拙き感想文にて汗顔の至りですが、御礼かたがた一言申しあげます。 敬具 今西祐一郎 国文学研究資料館館長
八月二十四日 今西祐一郎 国文学研究資料館館長 九大名誉教授
* ありがとう存じます。がまんを重ね、やっと本に出来ましたことを喜んでいます。亡き母も兄も、また父を異にした優しい姉や兄たちも眉を開いててくれようかとしんみりしています。亡き父がどう思っていましょうか、父のことも書き置きたいと願っていますが。
2015 8/26 165
☆ 建日子です。
撰集第八巻、無事届きました。ありがとうございました。
2015 8/26 165
* しばらくぶりに建日子が帰ってきて、われわれのコンピュータを少しく調整していってくれた。
2015 8/31 165
* ▲(三角)の帆がけのやうに耳あげて熟睡(うまゐ)の黒いマゴが愛しさ
▲(三角)の帆がけのやうに黒いマゴは耳だけ上げて熟睡(うまゐ)のときぞ
2015 9/2 166
* 今日も、せっせと、いろいろ仕事した。なにがどう纏まり仕上がって行くのか、まだわたしにも言いきれない。
なんだか、しきりに新幹線に乗りたい。ひかりだと、いきなり名古屋になってしまう。こだまで、小田原か熱海か新富士、せいぜい静岡へんまで乗って帰って きたい。熱海では温泉宿にはみな振られたが、ヤケクソでとびこんだ駅前魚屋の食堂で、新鮮な刺身や焼き物と一緒にそれは大きな伊勢海老をまるっぽ食べたの が、忘れられない。熱海というと貫一お宮や温泉よりも伊勢海老を先に思ってしまう。
静岡市内には生みの母方の遠縁が三軒あり、三軒とも訪ねたことがある。もう一度行ってみたい。
2015 9/2 166
* 十本十日分ずつの黒いマゴ輸液を買いに行くのもわたしの役。近くにモーレツに幅広い大道路が通ってしまい、以前なら自転車で二分とかからなかった獣医 院へ、二度青信号を待って横断歩道を渡らねばならない。朝日子が生まれて五十五年も過ぎた。そのあいだに保谷の面貌はおそろしくサマ変わりした。もっとも わたしたちだって、この五十五年にさまざまな曲がり角を経験してきた。顔の歪むほど不快なこともあったけれど、おおかたは佳いこと楽しいこと願わしいこと だったと謂えるのは幸せなこと。
2015 9/5 166
* 古稀には文庫本歌集『少年』ん゛、喜寿には平凡社ライブラリーで『京のわる口』が再刊できたが、傘壽には、この夏の長編『生きたかりしに』が恰好の自 祝になったし、誕生日の前後で『秦 恒平選集』が長編『親指のマリア』で第十巻に達する。おそらく三月の結婚五十七年か四月の妻の「傘壽 八十歳」を祝ってさきの『生きたかりしに』が選集第 十二巻として記念に値する出版に成る。
健康に、怪我にも事故にも遭わずに、無事に妻の傘壽も迎えたい。わたしは、小説やエッセイを創作してきた。妻はこのわたしを創作してきた。
傘壽 建日子と黒いマゴが朝日子の分も、元気に祝ってくれれば、嬉しい。
2015 9/9 166
* 一つまえ、この「私語の刻」のデスクトップには若かった建日子の「演出」している横顔を大きく入れていたが、何かのヘマで消えてしまったあと、現在は 苦心して、フィリッポ・リッピ描く「マドンナ」の横顔だけを大きく入れ、仕掛かりの「仕事」ロゴの満載で、さらに顔の前方だけをくっきり囲って出してあ る。清潔なプロフィール(横顔)が崇高なままに優美に静かで、仕事にかかる前も途中でも、いろんな思いが繁ってくるとこのプロフィールに見入って平静を取 り戻している。原画は幼子を抱いていておおらかな画面なのを、マドンナ(聖母)の横顔だけに引き絞ったのが気に入って、ほとんど崇拝している。
☆ こんばんは!
秋の気配が濃くなってきました。ご体調はいかがですか。
今日もよく晴れてまだ日傘がいるような一日でした。
お寺(=秦の菩提寺)の萩も満開で、すすきや彼岸花も目を楽しませてくれました。
シルバーウィークとやらで、我が家の近辺は人と車で大混雑です。
主人の撮ってくれました写真送ります。明日が誕生日で76才になります。
主人は11月に傘寿を迎えます。恒平さんと同い年ですね。
東京にいる娘も、孫娘の通勤の便宜のためとかで、大泉学園から高円寺の方へ引っ越しました。
東京も何年か行っていませんが、機会がありましたら、ちょっとだけでもお目にかかれたらと願っています。
それでは、どうぞお大切にお過ごしください。 みち 秦方の従妹
* お寺へ、もう何年もご無沙汰のままになっている。わたしの知るかぎり、住職は代わり代わり、五人目で、四人目と五人目とには会えてもいない。四人目に 代わったと聞いてまもなく、すぐ五人目が嗣いだと報せてきた。そんな気がしている。わたしたちもボンヤリしている。そしてお寺という存在が生活に関わって くる意味をいまさらに考えこみ、ひいては墓という意味も考えこむ。妻も、今はわたしも、一人で京都へ行けない。五十ちかい息子がまったく寺の墓のというこ とに無関心で無知識で、秦家の墓を護るなどということは多忙に流されて想ってもみない。
墓というのは息子が新しく造るものだとわたしは五十くらいの頃に秦の父にいわれ、そうなのかと思って京都へ何度か通って墓を新しくした。お寺とのかかわ りは妻が気遣いして曲がりなりにも跡絶えてはいなかった。わたしは、息子にまた新しい墓をなどと望みもしないが、この家にせめて寺とのかかわりを行儀良く 取り仕切ってくれる嫁か孫かが欲しかったなと痛切に思う。この分だと、わたしを育ててくれた菩提寺との縁が不行儀に切れてしまう。
いま、わたしが死んだら、どうなるのだろう。
埋葬や納骨でなく、縁故の地への散骨散灰を願う人の多くなっているのを、当然だと思う。若い世代に「家」まして遠地にある「家の寺」「親の墓」「自分の 墓」という認識も責任感も行儀も失せている。そんな時代なのだ。「家」はもう、かなりに実質崩壊し、親子孫といった血縁も実態をほぼ喪っている。仕方ない ことだ。わたしにしても、「秦の親たち」に不孝を重ね続けたのだ。毎朝、父と母と叔母との位牌に、妻子にしらせず、「ありがとうございました。」「ごめん なさい。ごめんなさい。ごめんなさい」と、ただ語りかけ頭を下げつづけているだけだ。
* わたしが、骨と灰と化したなら、どこよりも、だれよりも、こころから愛した「ネコ」と「ノコ」との墓へ一部をともに葬り、他は、指定しておく幾つかの 場所へ、それとなく散じてほしい。それだけは、せめて、息子秦建日子に頼んでおく。葬儀など、要らない。したくもない墓参など、無用にしておいてやりた い。
わたしの墓は、墓碑は、それ自体はいずれ灰と化そうとも、言うまでもない「紙碑」であり「紙の墓」である『秦 恒平選集』と「秦 恒平・湖の本」と、それだけで十分、他に必要ない。
妻が近未来の死後をどう具体的に希望しているかは、せめて息子建日子が、母からじかに聞いて置いて欲しい。わたし自身は、しみじみとそれを妻の口から何も聴いていない。
とにもかくにも、妻の傘寿(明年四月)までは夫婦二人とも慎重に堅実に生き延びたい。その後は、ほんとうの「余生」をなるべく自然に楽しみたい。ま、わたしは文学の仕事一途にがんばってしまうのだろうが。
2015 9/21 166
* 黒いマゴの輸液も済ませた。横になって、「親指のマリア」最終章を読み進みたい。 2015 9/22 166
* 夕刻、建日子、愛猫「うな」嬢を、旅行中預かってくれと連れてきた。黒いマゴとの緊張関係はたいしたことなく、仲よくやれそう。
* 建日子に、向後、菩提寺との関係ないし墓域の維持管理等の一切を委譲委托すると決めた。建日子も問題なく承知した。一つ、大きな役から降りた。
2015 9/24 166
* 旅行するのでと昨日建日子の預けていった猫の「のな」嬢がすこぶる人なつっこく、わたしのあとさきをついて回って、この機械のそばへも登ってくる。仕 事の間、ソファで寝ていたりする。黒いマゴとの折り合いもすこぶる温良で賑わっている。われわれは猫に好かれるタチらしい。
2015 9/25 166
* 妙に暑い。黒いマゴも、うなも、べつべつに気に入った場所でぐっすり昼寝している。わたしも原稿に疲れて、眠い。
2015 9/28 166
* 建日子が日付の変わる時分に、うなを連れて帰るために来ると。名残惜しいほど、愛らしい健康そのものの穏和猫で……。やっと黒いマゴも慣れてきていたのに。うなの方は最初から黒いマゴに慕いよるように近寄っていた。名残惜しい。
2015 9/28 166
* 昨日、建日子が薩摩のみやげに、焼酎ではない薩摩では珍しい純米の清酒をくれたのが、すっきりと美味いのも喜んでいる。 2015 9/29 166
* 「早春」を読み返している。「丹波」「もらひ子」「早春」の三部作で、これに「罪はわが前に」を続け加えて、わたしは自身の幼少・青年期をほぼ遺漏無 く、ウソ偽り無く、書ききっている。自伝と言うほどのこわばりもなく、記憶の蘇りに自然に身も心も筆もよせて書き継いでいた。「こんな私でした」という告 白の姿勢に無理がない。なによりもこれらを通してわたしは育て貰った「秦」という家の親たちを表裏無く記念し得たと思える。ここまで書かれては堪らないと も思って怨んでいるでもあろうしわたしも毎日「ごめんなさい」と謝り続けているが、父も母も叔母も祖父ですらも、いかなわたしの成長に良い感化も与えてく れていたかを誇張など少しもなく書き表している。秦の家で受けた人生上の、また作家としての生涯への恩恵の豊かさをわたしは毫も割り引いたりしていない。 ありがたい刺戟を、感化を、教養をわたしは十分に秦の親たちに受けていた。その点でいえば、わが生みの母や実の父からは残念ながら直にはほとんど何も得ら れなかったと謂うしかない。
「生きたかりしに」でわたしは生母の系譜への心からの接近を試みたが、「客愁」三部作と自任している「丹波」「もらひ子」「早春」そして「罪はわが前 に」という一連の私小説によって、心からの秦の親たちや秦家への感謝を表現ししかもその「実在」を思慕すらこめて記念し表現したのである。わたしの他の全 ての物語、フィクションは、これらの私小説を不可避の分母として創作されたのである。
2015 10/1 167
* 俳優座劇団の早野ゆかりさんから、例によって「外」の仲間達と芝居するので、招待しますと。
近松原作「心中天網島」の、主役「小春」を演りますのでと。観に行こうと決めた。
* ほんとうは、建日子に、もっとこういうベテランの域に達している俳優達とも接してほしいのだが、どうも彼はそういう意欲や意気をみせない。俳優座で謂 えば、早野ゆかりはもう主役級のキャリアをもっているし、美苗などは演技者としても爆発的意気と技能をもちつつ、しかも優秀な戯曲を自ら書いて俳優座の舞 台に何度か載せている。幸に、個人的にも知り合っている。わたし自身はその世界に気も意欲もなくて観るだけが楽しみの外野席にいるが、秦建日子は現役の劇 作・演出家であり「秦組」とやらを率いている。しかしそんな「組」から外へ、それも上向きの外へ踏み出して行こうとしていない。いそうには、ない。芝居は 俳優との競作である限り、新鮮で、オーとおどろく配役にも大きな妙味がかかる。作者・演出家が大胆にひろい世界からの共演俳優と出会う勇気が要るのでは。
騒壇余人で「孤り仕事」に打ちこんでいるような父のわたしが言うのはヘンなようだが、ひたすら「書き手」のわたしには「いい読者」「いい批評家」がいわ ば命。その点では、おそらく地味な現代作家のわたしほど、あの受賞前後から今日まで、「えらい先達・先生」「文壇・編集人」「広範囲な各界人や学者・藝術 家たち」「広範囲な大学・高校・図書館・研究施設」と何十年も「作品」のみを介して交際のある作家は少ない、いや、いないとすえ言い切れよう。そして、そ れが、わたしを常に励ましてくれたし、おろそかな仕事などをついぞさせなかった。売り買いの「数」ではおはなしにもならないとして、作の「質・実」に冷評 や悪評は受けてこなかった。わたしはえらい人達、敬愛できる人達、意欲や趣味高い人達との出会いや交際を嫌うよりも実は求め続けて得られ続けてきた作家な のである。
そういう謙遜・謙虚と意欲とをつよく意志し志向して、新鮮な人との出会いを自身の創作に生かしてくれるといいなと、いつも願っている。
おそらく今日只今、小説家になりたい人より、劇作家・脚本家になりたい若い人達の方が数多いのではないか、現に、若い若いと思っていた秦建日子のあとか ら次々次と新しい「書き手」が現れて活躍している。わたしの仕事では他者との「競合」といった実感は事実ほとんど持たずに半世紀を働いてきたが、舞台やド ラマの仕事ではいやおうなく競合を強いられていそうに見受けている。俳優世界では半年一年の先輩後輩のケジメも厳しいと聞いているが、「作者」にはそんな ウワベは屁のツッパリにもならない。自然の趨としてどんどんと追い越され、追い越させないで質も名も保てる人は片手の指の数ものこらない。質実に、しかも 意欲的大胆に。それでしか真の意味で生き残れないだろう。 2015 10/4 167
* あすは妻がおなじ聖路加の循環内科へ行く。聖路加の親類になったような按配。保谷からは電車一本とはいえ近くはない。行って帰って、やはり疲れは重い。すこし横になってくる。
* 秦家菩提寺に関わる向後一切を長男秦建日子の差配に委ねた旨、京都へ通知した。建日子も承知してくれている。この数年、わたしが京都へも一度も帰れて いない。妻の体力にも限度がある。このままではお寺への失礼や不都合を生じかねない(もう生じている)ので、然様決した。やや肩の荷をおろせて、ほっとし ている。
2015 10/6 167
*妻。聖路加へ。目も乾き仕事にもならず、ぼんやりと酒など近所へ買いに出かけ、どうしようもない、怠けザマ。このところ久しく、いえでのウイスキーとい うと名前買いして「富士山麓」。だいたい四日で飲み干している。最近は腸へ沁みるのをさけて、オンザロックにしているが、却って量がいきそう。 2015 10/7 167
* 妻が、今日は地元病院へかぜ気味ででかけ、留守中、わたしはどんよりと腹具合がわるく疲れ臥して二時間も黒いマゴと寝ていた。
2015 10/8 167
* まえから記憶に残っていながら、行方も知れぬまま放っておいた原稿があった。「昭和三十六年(一九六一)七月二十七日午前二時」に書き、「昭和三十九 年八月十四日」の日付で、「読みかえして、不十分な表現をさらに改めた。朝日子の健康を祈る心はまことに切なるものだ。ただただ健かに怪我もなく、美しい 子として育ってほしい。」と付記してある。
処女作①の「或る折臂翁」を書き始めたのが昭和三十七年(一九六二)七月二十九日で書き終えたのは歳末だった。その間に処女作②の短篇「少女」を十一月 に書いている。今回見つけ出した作は、これこそ即ち処女作以前の処女作、事実上の処女作①に相当しているが、ま、紛失していたこともあり、前記二作とち がって一度も活字にはしないで来た。あまりに初々しくためらいもあったと思う。
ハパのおはなし 生まれる日 または
朝日子 ―娘に― 秦 恒平作
山のいただきは深い森にかこまれた、しずかな湖なのでした。たたえられた翠は、茂った老樹のみずみずしい葉むらをうつしているのでしょうか。ながれる波 紋は、湖の真ん中でぶつかりあって、白い波の花をきれいに咲かせます。夜になればはなやかに青み――を帯び、森の色も湖の色も空の深みへ溶けいってゆきま す。ものの音といえばただ、耐えきれず洩らされたため息のように、水底からふくれあがるふしぎなうねりに波の花がやさしくくずれるばかりでした。
この山を、人はどこにいても見ることができます。なにかしら気になることや淋しいひとりぼっちの心地がするたびについ想い出さずにいない遠い遠い空のか げの山のすがたなのです。誰もが一度も足をむけたことのない、そんな山の遠さですが、気もちのはれた日には、山はらを幾重にもとりまく白い雲の上に、ただ ようまばゆさをみるでしょう。お日さまの光(かげ)をうつしたかがやきがかげろうににて見えるのでしょうか。星の色をうつしてあのさざ波の咲かせた花の匂 いが、夜空へながれでるのでしょうか。それとても人のこころに、しばらくはいいようのないなつかしい気もちをよびさますのでした。
さて、その夜はほんとうにすばらしい夜でした。お月さまはまんまるく、星たちは思い思いにあかるくまたたいていました。星たちはさっきからこんなはなしをしていました。
「今夜生まれるのは男の子、それとも女の子かな」
「満月の夜に、世界中のどの星ひとつ欠けることもなく見送られて生まれる子は、可愛い女の子ときまっていますわ」
「そうよ。姉が朝日子、妹は夕日子とお月さまはお呼びになるのですって」
「朝日子はいつも素朴に新しくうまれる朝日の光、夕日子はいつもやさしく物かげをひきたててやる夕日の光という意味なんですってね」
そのとき、お月さまは星たちのおしゃべりをそっとさえぎられました。夜空はあおあおと冴えて、お月さまはそのいちばん真ん中に座をうつされていました。 星たちは、どんなに遠いところからも、いっせいにその方をみつめていました。お月さまの真下にはあの湖がちいさな鏡のように大空をうつしていました。お月 さまがそっとうなづかれますと、双の目から一しずくずつの泪が地上へと落ちてゆきました(人は、たまたまそんなことをしらずに流れ星を見たなどというので す)。
お月さまからこぼれた泪が山のいただきにとどいたその時。湖のほとりの、それは大きな松の樹に二股枝に囲われてできた苔の寝床から、かわいい二人の女の子がひょっくらと起きあがりました。
二人は手をとりあって、しばらくははるかな大空のかがやくお月さまや星たちを見上げていましたが、やがて急いで樹の股から大きな根っこの方へ下りてゆきました。そこには、年のいった女の人のようでもあり疲れきったおじいさんのようにも見える人がうずくまっておりました。
「あなたはだあれ」と、姉はたずねました。
「わたしはもうすぐ<昨日>とよばれるものです」と、その人はこたえました。
「ああお姉さま、この人は今にもお空へかえってゆくのだわ」
妹は近よって、やさしく肩にさわりました。その人は夕日子の掌の下で、あかるいかげとなって、見えなくなりました。
「新しい日が来たのね」
朝日子は、見えなくなった<昨日>のかげのあたりにかがんでいる妹へ呼びかけました。夕日子は湖のうえをながめ、しずまりかえった森をながめながら、さびしい微笑をうかべてつぶやきました、
「お姉さま、わたしも帰りたい」
二人は湖のほとりを、だまって歩いて行きました。手をつないで、森のなかのほそい道をたどって行きました。すこしばかり小高い丘まで来ると、背中合わせ に腰かけるに程よい二つの岩がありました。一方にすわると、いま通って来た森から湖から例の大きな松の樹まで、山のなかのすべてがしずかに手にとるように 見えました。その岩には夕日子が腰をおろしました。朝日子のえらんだ岩からは人間の世界が見え、赤や青の灯の色と、言いようのないどよめきとが伝わってく るのでした。
魅せられたように二人は身をかたくしていました。
やがて、二人はその席をとりかえっこしたのですが、こんどは二人ともふしぎと心たのしまないのです。姉には、蒼い淡い光につつまれた山の世界がなにかう すぐらく感じられました。妹には、まばゆくうごく灯の色が、しきりとうるさく感じられたのです。そこで、また元どおりに席をかえ、姉と妹は背中でたがいに もたれあったまま、話しはじめました。
「あそこには、生きるということがあるわ」と、朝日子。
「過ぎてゆく時間のなかで、いつかは終るわ」と、夕日子。
「繰りかえしの中の一度、その一度一度を真新しいものにして行けば、永遠に生きることができると思うの」と、姉。
「それこそが、私の観ている自然のすがたなのよ。この静かな幸せは、あなたの世界ではあまりにもふさわしくないわ」と、妹。
「自分ひとり幸せでいいのなら、人の世に生まれる必要はないと思うの。また、人は幸せのためにだけ生きるのかしら」
夕日子は、姉の考えが十分判らないようでした。そこで妹はたちあがって朝日子の前に歩みより、なつかしげに、こう言いました。
「お姉さま。あたしたちも、たいていの人がそうだったように。双子として生まれかわることはないようね。あたしは、こうしているうちにも、この澄んだ空気 の中へ、溶けていってしまいたいの。この広々とした世界、それがあたしのためには永遠のゆりかごであるのなら、たとえ雷のとどろきも嵐のさけびもなつかし い子守唄と聞こえるでしょう。いいえ、それすら聞こえない静かさの中にあたしはじっと息づくことになるでしょう。あの星たちをごらんなさいな。お姉様もい つかはあの仲間。その時にこそ、あたしたち姉妹でひとつの星と生まれましょう。朝夕に自然の愛らしさを感じた時は、あたしの声を聴いたと思ってください ね」
朝日子は、涙をうかべていとしい妹を抱きました。かわいい、ちいさな夕日子のからだは、しずかに光る月夜のかげとなって矢のように大空へ吸いよせられて行ってしまいました。
「夕日子ちゃあん」と呼んだ声、「お姉さあん」とこたえた声は、しみじみと朝日子の胸の底までとどきました。お月さまはもちろん星たちも、朝日子夕日子のこの別れをじっと見ていました。
朝日子は、もう一度、下界の見える岩の上に立ちました。そろそろ今日の暮しがはじまりかけたような、人間世界の活気が感じられました。気がつくと傍にた くましい<今日>という青年がしっかりと立っています。青年の肩ごしにお日さまの光がいきおいよく朝日子の行くべき道を照らし出しました。朝日子は<今 日>の手を引っぱるようにしながら光を背にスタスタと山を下りて行きました。
その日の夕方、すずしい風とおだやかな夕日かげとが覗き込んでいる産室で、りっぱな女の赤ちゃんが、元気いい産声をあげていました。若いパパやママは大喜びで、この赤ん坊に、もうずっとずっと以前からきめてあった「美しい名前」をつけてやりましたよ。
<当時の附記>
このはなしは、昭和三十六年(一九六一)七月二十七日午前二時に脱稿の即興のものだ。その日が、朝日子(娘)満一歳の初誕生日ではあったし、かといっ て、どんなお祝いの品でも喜ぶに早い歳なので、むしろいつか判ってくれればいいのだからと、この比較的理屈っぽい話を、思いつくや否やに書きあげたのであ る。
「朝日子」という名は、たしかに以前から決めてあったし、私たち両親が躊躇なく生まれくる者のためにえらんで迷わなかった愛情こめてつけた名前。その 「名」に寄せた理想を書きたいとつねづね考えてはいたから、即興的といっても、根はただの思いつきでない。殊に夕日子を朝日子の姿なき一体として書いたの には、朝日子に寄せる親としての祈りに、むしろ私自身の意識的にさぐりとらねばならぬ或る方向が秘められているからだ。一体としたことと、夕日子をひとり 天界へ戻して朝日子を力強くこの世界へ歩ませたのもそれだ。
いつか朝日子がこれを読む。なにを感じ、父親の心をどう受けとるかは判らない。健康と幸福と、何よりもいつも新鮮でたくましい心と姿勢とを朝日子のために祈っている。朝日子は満二歳を過ぎた。可愛い元気な子に成長して来た。
この原稿が久しく見つからなかった。今朝、探し当てたので改めて清書しておく。
昭和三十七年(一九六二)八月九日
<追記> 読みかえして、不十分な表現をさらに改めた。朝日子の健康を祈る心はまことに切なるものだ。ただただ健やかに怪我もなく、心美しい子として育ってほしい。
昭和三十九年(一九七四)八月十四日
原題は「パパのおはなし」「うまれる日」であったのを、「朝日子―娘に―」と改めている。われわれの娘・朝日子は昭和三十五年七月二十七日」に生まれ た。朝日子のために年ごとに「パパのおはなし」を書き置いてやりたかったのだろう、だが、作家生活への予行に年々熱中し、私家版「懸想猿・続懸想猿」や 「畜生塚・此の世」などを相次いで自費出版していった。
はからずも今、「パパのおはなし <うまれる日> 朝日子―娘に―」と心籠めたごく初期作が久々に見つかって、あまりにあまりに「複雑」なおもいがする。わたしたちの「朝日子」は此の世から消え失せた。
朝日子 一歳半
* 面影だけが、この「闇に言い置く私語」のなかで懐かしい写真のまま生き延びている。
2015 10/13 167
* 義妹が発病して芝居にこれなくなった。妻の親しい秦野市の従妹に券をまわしたいと。義妹は詩人で画家、従妹も画家。ちょうど東京で団体の展覧会途中なので、かえって便宜があるかも。
義妹の無事の回復を祈る。
2015 10/15 167
* 黒いマゴの健康診断。さすがに加齢による老化傾向は抑え得ず、検査値のあれこれに低下は防げていないが、緊迫という域ではないらしく、輸液と服薬を堅実 に継続するようにと。ま、予期の通りであった。比較年齢では、少なくも人間の八十以上というのだから、われわれは謹んで兄事すべきところ。ま、元気でいて 下さい。
2015 10/19 167
☆ 選集⑨
あー。届いてます! すみません。
仕事がバダバタで。
父さんの誕生会はちゃんとやります! 建日子
2015 10/21 167
* 晩 建日子が帰ってきた。二三時間歓談、また仕事場へ戻っていった。仕事は好調の様子。東京を離れ住むことは現実的にむりだが、地方での仕事も多いらしい。まさか日(火)野正平ではなかろうが。健康に怪我も事故もなく健闘ねがう。
2015 11/4 168
* 何の用でか建日子が学研版でわたしの編著になる「泉鏡花」の『歌行燈』を読んでみたが、まるで分からなかったと。歯が立たなかったと。
鏡花の名作で「歌行燈」はむしろ読みやすい傑作なのに。たしかに、鏡花の叙事と文体は、漱石や直哉を読むようなワケには行かないが、それにしても…コマルなあ。
2015 11/8 168
** 朝一番、黒いマゴの輸液十日分を獣医へ買いに行く。もう一年半、欠かしたことがない。黒いマゴももうわたしたち八十夫婦に並ぶか追い越したで あろう。ひたすらにわたしたちを親愛し信頼し、いささかの会話もできる。理解はすこぶる良い。毎晩妻の床にはいり、五時頃に一度外出を望み小一時間内には 戻ってきた、ぐっすり妻の横で寝入る。留守番を頼むと、わたしの仕事部屋へあがってソファで寝ている。かえると玄関へ出むかえる。今日はご近所でゴミ出し の日だからねというと、外出を我慢して待ってくれる。日当たり良好を愛して、日向があると静かに横になっている。けっしてツメも立てなくなったし、噛むこ ともない。噛むときは親愛と信頼をこめてやわらかにそっと噛む。
われら最愛の身内である。
2015 11/9 168
* あけの五時頃になると、きまって黒いマゴが外へ出たがって啼く。ラスへだしてやると、小一時間もせぬうちテラスへ帰ってきて入れてと啼く。この二度起こされてのアトがきつい。寝込んでしまう。
ま、がまん、がまん。
2015 11/11 168
* 身辺整理となると、わたしの場合、順序を無視して、①多方面の蔵書、②骨董・美術、③書簡、④写真、⑤私の自著・共著および初出書・紙・誌、⑥ホームページ、⑦用紙原稿、⑧電子化原稿・資料、⑨親族・家族資料、⑩私日記・創作ノート等の年譜資料 ⑪画集その他史料などとなろうか。
気が遠くなる。
自著だけで、湖の本130巻を除いても100種余に及んで、各複数現在保存している。これはもう、久しい、親しい愛読者で、欠けている本のある方には、署名もし喜んで差し上げることも考慮したい、ただし数の切れているものも少なくなっているのもあるが。
また蔵書の多くは、研究書も小説、随筆の類も頂戴本で、著者の献辞署名入りが多く、貴重なものも多い。よほど愛蔵して下さる方でないと、粗忽には扱えない。
息子の建日子が、学匠文人とあだ名されている父とは行方のちがう作者で、文学・古典・歴史・美術等にかかわる事典や辞書や高度の研究書や史料を遺して やっても荷厄介にされるだけ。これは情けない。熱心な若い学徒で、欲しい本が買えないという方がもしご希望なら、差し上げていいとも思っている。そのため にもリストを公表できるようにしたいのだが、これまた大変な作業になってしまう。参る。
* ペンの委員会で永く席を並べていた権田萬治さんから新著『謎と恐怖の楽園で ミステリー批評55年』を頂戴した。立派な本だ。この方面にはごくわたし は疎いけれど、ミステリー批評の世界で大きな仕事を重ねてこられたとは聞いている。一読して、ミステリー作家の秦建日子へ送ってやりたい。ミステリー批評 の大先達権田さんはわたしより一歳若い知己、医学書院後輩でハードボイルド研究の大家小鷹信光君も同年の知己。この二人、当然どこかで繋がっているので は。
2015 11/14 168
* 夜、入浴後に「刑事フォイル」を楽しんでから、機械へ来て、グノーの歌劇「フアウスト」を聴きながら、心身をやすめている。
明日は、午後、聖路加で胸部循環のCT検査を受けてくる。診察はないので、早めに解放されるだろうが、月曜なので帰りに美術館、というのはムリだろう。 食べ物の店も、三時過ぎではまとみな店ほど開いていまい。三笠会館のイタリアン、東京駅の沼津の鮓か、丸の内外のビアホールでイタリアンか。校正が出来て 明るい、気軽な店がいいならレバンテか。ところが食欲はあまり無いのだ、つい飲む方へ気が走る。
* さ、黒いマゴに輸液だ、もういちど「刑事フォイル」の一番新しい前後編を、観ながら。
2015 11/15 168
* 選集第十二巻「生きたかりしに」の口絵表に、生母が長女(わたしや兄恒彦の異父姉。故人。作品を大きく支え助けてくれた。)を抱いた若い頃の佳い写真 を大きく掲げることにした。裏には、水口宿本陣で「九州の大名の落としだね」として生まれたと言い伝えている母方祖父老境の肖像とともに、長女が母の意を 汲んで死後に建てた歌碑の前で撮ったわたしと建日子との写真、そして、奈良県下で母が致命的な奇禍にあった前年、「二十二の瞳」と親しんだ土地の少女たち との写真を入れてみることにした。さらに「参考」として、母の遺した「短歌抄」をわたしが編んで追加することに決め、すでに入稿した。わたしの「私小説」 の、また晩年の作を代表してくれる一巻と成るだろう。鬼にわらわれようとも、来春花の四月、妻が「傘寿」をも記念し、永く棚上げされてた此の長編作を、電 子化し救い上げてくれた尽力に感謝して酬いたい。
2015 11/17 168
* 元俳優座のベテラン女優野村昭子さんからの電話で妻が延々と楽しそうに話し合っていた。野村さんは岩崎可根子と同期、優れた演出家の増見利清さんの夫 人、増見さんいらい久しい「湖の本」多大のご支援を頂いている。野村さんとは劇場で一度だけ出逢って話したことがある。妻も一緒だった。
2015 11/20 168
* 夜前の夢に朝日子が帰ってきて、寝泊まりもし、親子みな嬉々としてしんから仲良くはしゃいだ。一抹の不自然もなく嬉しかった。
朝日子が夢にわたしたちへ帰ってきたのか、わたしたちが夢に朝日子を呼び迎えたのか。
名前を捨てて改名しているという朝日子のこのごろを、全く、なに一つ、わたしは知らない。
2015 11/22 168
* 母を尋ね歩いた「生きたかりしに」を選集で再校していて、母が末期に努力を傾けて出 版した「歌集」に、びっくりするほど当時著名な作家が何人も何人も病床を見舞い激励するお手紙を下さっていたのに、心底驚き有り難かった。いま一つ感じ 入ったのはそれらの著名作家らの母に宛てている文面のこまやかな親切と情味にみちて鄭重なこと。佐多稲子さんも、丹羽文雄さんも、平林たい子さんも、いさ さかも上から目線の言葉遣いでなく、お人柄の静かさや高さがよく窺われた。母は幸せな人でもあった。
いまどきは、ものの言いよう、口の利きようも時と場合まともに出来ない大人が多くなっていて、情けなく感じることがある。
2015 11/22 168
* 押し入れの隅から、そんな場所に在るべきでない二册を見つけた。国漢文叢書第四、五編、あの北村季吟による『和漢朗詠集 註』上下巻で、自分で買って手にした本でなく、明らかに秦の祖父鶴吉の旧蔵書。明治四十三年六月七日の初版本であり、表紙の傷みをともあれ手当てしたのは わたし、記憶がある。袖珍本で手にし易く、平安時代原著の和漢の詩歌の版組が大きく、(註は細字だが、ま、読めねば読めなくても差し支えなく、)ありがた い。楽しみたいのは採られた詩歌であり、原著者藤原公任の秀才を堪能するには、重くて大きい古典文学全集を手にするよりはるかに有り難い、ま、文庫本をや や幅広にした、しかも上下二册本であって、ポケットにも入れて歩ける。
季吟の本では帙二つに十巻余の源氏物語註釈、名高い『湖月抄』もあって少年のころから名前一つでいたく尊崇していたが、木活字変体仮名で源氏の原文は及 びもつかぬ私蔵というより死蔵していたのを、近年、国文学研究資料館へ寄付した。幸い今度の本は読むに苦労のない本で、また拾いモノをした気持ちで朝か ら、頁をしきりに繰っている。
季吟の漢文自著の冒頭に「朗詠」の語義というより意義に端的に触れてある。
朗詠者厥風起於催馬楽風俗之後、而我邦中世以降。上自朝廷。下達於郷党。歌謡之者也。
「朗詠」とは、詩歌を読んで鑑賞するのてなく、催馬楽や風俗など歌謡・郢曲の史的流れを承けて、しかも貴賎都鄙のべつなく謳歌したものだと。この意味を汲 めば、あやまりなく「朗詠」のアトへ来るのは「今様」であり、今様謡いの大衆味をくみながら平家語りの「平曲」も生まれてきたに違いない、其処の処へわた しは足場をおいて梁塵秘抄や平家物型を、後白河院や、正佛資時や、慈円や行長らを想像し創作してきたのだった。
今日われわれに朗詠集和漢の詩歌を謳歌歌謡するすべなく、ついつい「読む」本にしてしまっていて余儀なくはあるが、詩歌という文学の畑の花である前に、歌謡という藝の花であったことは忘れない方がよい。
春 立春
遂吹潜開不待芳菲之候。
迎春乍変将希雨露之恩。 紀淑望
年のうちに春は來にけり一年を
こぞとや云はん今年とやいはん 在原元方
漢詩も和歌も、まさしく声を発してこれを謡った。読んだのではない。むろん漢詩の方は先ず日本語に読みほどいておいてそれを謡ったので、読替えの、つま り飜訳の、その機微に面白みがあって、物語りの多くもそれを引いて興趣を盛り上げていた。公任の飜訳はそれとして、自分ならどう読み替えてせめて朗唱する かと思案するのも楽しいのである。
2015 11/24 168
* 日比谷へまわって、クラブで飲みかつ食事しながら、舞台を反芻していた。「生きたかりしに」を湖の本にしたばかり、その主題とも状況ともグイッと重な り合う主題があり、驚いたことに若い主役の名は「コーヘイ」君であり、彼は生母を知らずに生母を捜し求め、母なる人は母と名乗らずに「コーヘイ」君に手を 取られ抱かれて尊厳死していた。わたしが退屈などして、舌打ちなどして、平気に見ておれるような舞台の推移では無かったのだ、わたしも、横の席の妻も、泣 いていた。
* ま、「演劇」ということの意義や意味は、これからも考え続け楽しみ続けたい。
* じつは劇場へ出かける前に、生母の遺した歌文集からわたし自身が心して編んだ「短歌抄」の校正刷りが届いていて、行きも帰りもずっと電車の中で読みかつ校正して、幸いに全部を一読できた。
母の短歌は小説「生きたかりしに」でも大勢の方の有り難い評価と称讃を得ていたが、あらためてしみじみ通読してみて、短歌の質じたいわたしは母に「敵わ ない」という実感さえ得て、正直、ふくざつな気分であった。表現の藝としては知らず、短歌へ籠めた生活的実感のきびしさ、それに堪えて歌おうとした母の気 概は烈しくて熱い。
ああ、よかった…と、真実思っている。「少年」の昔はともあれ、年たけてのわたしの短歌など、谷崎がいわく「汗のような」排泄で終わっている、
それでも、わたしはたったの一度も一首も母とは交叉し合えなかったけれど、短歌、和歌が好きである。
2015 11/26 168
* 亡兄北澤恒彦の夫人から、兄の養親が住まいに近い吉田緑壽庵の金平糖などを頂戴した。久しくお目に掛かっていない。恒彦の遺族とはわけもなく彼の死 後、接触がほぼ無かった。長男とも長女とも次男とも、夫人とも。来春、選集⑫巻「生きたかりしに 付・生母短歌抄」が出来たら夫人に謹呈したいと思ってい た。健在とわかってよかった。
2015 11/30 168
* わたしにと、生母の写真を送ってきてくれた(異父)長姉の優しい心遣いは、「生きたかりしに」でもしみじみと存在感を示し、ある意味では一等感銘を与えた人であった。筆の走りのかのように一瞬わたしは「この人が母であっていい」とまで書いていた。
上に出してみたわが生みの母は、そのまだ一つか二つかという稚い姉を抱いて写っているが、それは此処では出し控えた。母の方は、二十一、二歳とされてい る。何とも…感想も述べがたい。自分が生まれてより、母の死後もながく、わたしはこの「母」なる人を拒み続けて大の大人になっていた。そのあげく、とうと うこのほとんど何も知らずにきた母の生涯と出逢うべく、母の遺した歌集などを頼みに探索しはじめ書き上げたのが、長編小説『生きたかりしに』だった。じつ はそれすらも三十年、原稿用紙のまま埃をかぶらせていたが、七十九の今年ようやく「湖の本」三巻に収めて公表した。幸いに、広範囲に好評を頂戴し、秦の後 半生を代表するであろう作とまで謂ってもらえた。感慨ふかい。
姉は、母の生まれたときは「姫」誕生ほどに華やかで「乳母日傘」で育ったと手紙に書いていた、それが、亡きわたしの実兄の表現では、後半生、つまり兄や わたしを生んだあと、母は、さながら「階級を生き直した」ように弱い弱い立場の人たちの保健活動に邁進し艇身しつくし、あげく奇禍に遭って苦痛の病床に釘 付けのまま「十字架に流したまいし血しぶきの一滴を浴びて生きたかりしに」と歌い、亡くなっていた。それでも遺歌集「わが旅 大和路のうた」を出版にこぎ つけ、遺書を用意し、わたしへの挨拶すらも代筆を頼んで送り寄越していた。
兄恒彦はさながらにこの母の「同志」として「ベ平連」等の市民活動の生涯に果て、わたしは母が歌詠み、ペンの人だったとも全く知らぬまま歌人とも小説家ともペンに生きる道を歩いてきた。
姉は母の故郷に母のためにりっぱな歌碑を建てて呉れている。
上の、うら若い母のその頃は、まだわたしたち兄弟の誕生とは全く無縁の時代だった。
2015 12/1 169
* わたしの秦へ貰われていった四歳、五歳前後の写真をみると、頬っぺたもフックラとし、上の、生母の顔や眼ににている。かすかに斜視になっているのだろ うか。わたしも小さいとき秦の大人達にかすかな斜視気味を随分心配された記憶がある。年が行くにつれその気味は消えていったらしいが。
2015 12/1 169
* 「初稿・雲居寺跡」に限って「創作ノート」を書き写し終えた。書き納めの時期は、妻が建日子を妊娠して悪阻に悩み、わたしは会社で課長職にあり、同時 に小説「或る雲隠れ考」を仕上げようとしていた、昭和四十二年(一九六七)七月上旬であった。ほぼ二年後に「清経入水」で第五回太宰治賞を受けた。
この創作ノートは詳細で、「承久の変」勃発と平家物語の産声とに関心を絞りつつ、複雑な人間関係を幾重にも想定している。次回の「湖の本」128「初 稿・雲居寺跡=中断」のうしろへ付録として編成しようと思っている、そのために、よほど目も酷使して半世紀ちかく昔の大学ノートをことこまかに書き写し た。さまざまな面で、この創作の仕事はわたしの後々の諸作への前衛的意味をもってくれたと思う。
ノート自体には、さらに引き続いて、定家卿や建礼門院右京大夫などへの勉強が綿々と続いている。中間管理職として激化の一途を辿っていた労組の闘争にいやおうもなく対峙を強いられながら、懸命にわたしの文学とも組み合う日々であった。それで良かったのだ。
* ちょうどその頃に、わたしは秦の親たちにもたすけられ、現在も暮らしている現住所の土地を買い登記を終えていた。社宅住まいを続けていては、退社したくても出来ない、社宅が足枷にならないようにと明らかに願っていた。
建日子が翌年正月に無事に生まれ、翌々年桜桃忌の受賞で、会社勤務と作家生活との二足草鞋が以降五年続いた。大きな転機へわたしたちの家族は歩んでいた。
2015 12/2 169
* モノを始末したり片付けたり確かめたりしていると、思いがけないタカラ物が掘り出せる。昨日から今日へ、昔昔に妻が幼稚園ごろの建日子を描いた彩色画 と、亡き孫娘やす香の三、四歳、パリから帰国後の、可愛い上半身を描いた鉛筆画を発掘した。どちらも、びっくりするほど佳く描けていて歓声をあげた。建日子の肖像は大きく、 やす香のは葉書半分ほどの小ささだが、しっかりとらえられてある。
いい枠がみつかったので、まずやす香の上半身像を、この機械のすぐわきに立てた。
50セン チ真四角ほどの建日子像には似合う額縁を何処かで探して買ってこなくては。
2015 12/5 169
* 寒い、今朝は。
* やっと三歳の愛らしいやす香像と、死の前年十九のやす香の写真とを機械の左右に向き合って眺めている。
新しい本が出来てくるまでに、今日をふくめて三日。この辺が、湖の本でも選集でもいちばん緊張もしソワソワもする。楽しみというより、どうか無事でと待つ気持ち。第十巻は大冊で、持ち運びも重い。 2015 12/6 169
* 先頃、山梨県立文学館が、俳誌「雲母」百年を記念した「俳句百景」展の佳い図録を送ってきてくれた。俳画もあるが、大方は俳人たちの志木市や短冊への 揮毫句であり、俳句と書との相乗の美景がたっぷり楽しめ、座右に於いて飽かず見入っている。いつしかにわたしも毛筆で字を書いてみようかなどと思ったり。 小学生のころ、丹波へ疎開の以前に一年ほど「めやみ地蔵」寺へ出かけて習字を稽古していたが、てんと気乗りせずやめた。秦の母はめつたになく、「いいスジ してるのに」と惜しがってくれたが本人はとんでもなく苦手だった。
春風や闘志いだきて丘に立つ 虚子
小野の鳶 雲に上りて春めきぬ 蛇忽
谺して山ほととぎすほしいまま 久女
どの子にも涼しく風の吹く日かな 龍太
愛されずして沖遠く泳ぐなり 湘子
海に出て木枯帰るところなし 誓子
除夜の妻 白鳥のごと湯浴みをり 澄雄
こんなのが、その人人の筆で書かれてある。宝物のようである。
* 「一休」さんの図録も愛読に堪える。すばらしい図録の難は手に大きくて重くて保管にも場所をとることだが、内容は、良書の何冊分にも当たって、読んで も眺めても楽しめる。和洋百種に及んでいるがみな大事にしている。ほかに、でっかい画集もずいぶん溜まっている。浮世絵、障壁画、華岳、松園、忠、国太 郎、ほか。いちど手にしてしまうと時間を忘れてしまう。
2015 12/6 169
* ピアノ曲に堪能してから、岸洋子の「希望」を聴き、マリアカラスのソプラノを聴き、ペギー葉山の「学生時代」を聴いた。
なくした幼いやす香を描いた妻の鉛筆画を目の前に見ていると、…
2015 12/7 169
* 「湖の本128」の要再校ゲラを取り纏め、あとがきを除く表紙、つきものとともに印刷所へ送っておいて、妻と、銀座へ出た。
めざした店が同窓会とやらで貸し切り、しかたなく、「せりな」の懐石をワインで。今日ある事を願って以来五十八年、旅の思い出など話ながら乾杯して祝った。
有楽町で、ブリンタのインクを買いそろえ、出光美術館で「ルオー展」を観てから、保谷へ帰った。
2015 12/10 169
* ひと日ひと日 日長になり行く日に生(あ)れき
いとも夜長の夜に逝くらむよ 冬至傘壽 自祝
* 昨夜建日子、猫の「うな」とともにワインを携えて来る。乾杯。日本テレビでの建日子作オムニバス風の夜ドラマを観た、が、……。
昼間、すこしずつだが映画「ロード・オブ・ザ・リング 指輪物語」の真ん中編を楽しんでいた。すばらしい映像と想像力とに感嘆また感嘆。原作者から放射 されてくる強烈な動機とオーラとが美しく伝わってくる。これぞ創作、これぞ藝術品。建日子には、顔を洗って初心に立ち帰り出直すほど真摯な創作者精神が望 まれる。いまや建日子こそ「日の出づる人」として断乎起たねば、起ち直さねば、と、父は願っている、しんどいことだろうが。
昨日は、よほどお酒を飲んだ、といっても一日で三合ほど、たいしたことはない。むろんからだにも響かなかった、仕事もした。眼を遣わずに済む仕事はわたしにはあり得ない、そこが今は泣きどころだが、あきらめて腹を括っている。
2015 12/21 169
☆ おじい様
80歳のお誕生日おめでとうございます!!!
ギリギリ当日にお伝えできました。
おじい様にとってステキな1年になりますように。
おじい様のご本、ありがとうございました。
大切に大切に読ませていただきます。
おじい様、おばあ様へ
ささやかなプレゼントをお送りしました。
以前お伝えした正社員の試験に通り、先日初めてのボーナスが入りました。
どうしても、その初ボーナスで、大好きなおじい様おばあ様へ贈り物がしたかったのです。
中身は届くまで秘密ですが、私が一目ぼれをしたものです。
私を思い出しながら使っていただけると嬉しいです。
昨日放送された、建日子さんのドラマ『ダマシバナシ』を楽しませていただきました。
というのも、このドラマの日本語字幕制作を担当したのは私だったのです。
年末年始が忙しい部署で働いているので最近は疲れ気味でしたが、
建日子さんのおかげで久しぶりに心から楽しく仕事ができました。
ありがとうございます。
それでは、またメールいたします。
おじい様おばあ様に会いたいな、といつも考えている かお吏より
* けさ一番に、贈り物も届いた。すばらしい! あたたかい! こころも、からだも。何であったかはわたしもないしょにしておこう、嬉しくしみじみ楽しむために。
やす香の親友だった人が、あの悲しみの時から、やす香にかわって終始わたしたち祖父母をいつも慰め励ましてくれる。やす香も感謝し、心からよろこんで親友の幸福と健康を祝っているだろう。ありがとう。
* 義妹から、選集へのまことに手厚い応援に加えて、誕生日も可愛い仔猫つきのカードと珍しい洋菓子で祝って貰った。ありがとう。
2015 12/22 169
* むかし妻の買ってくれた紅いポンチョを着て町へも出て行った。書庫と小書斎が出来たとき椅子に腰かけてポンチョ姿の写真がどこかに出たとき、辻邦生さ んに、いいよあれと、冷やかされた。紅くはなくポンチョでもないが、かお吏さんの贈り物は軽くて温かで、ショールのように掛け、胸の前をパッチンで止めて いる。亡きやす香が肩にいる気がする。
そのやす香の、三つとなるまいパリ帰りの頃に妻が描いた鉛筆画が、この機械画面の真左に置いてある。可愛い髪、可愛い目鼻だち、頬っぺ。手にしているのは何だろう、ものを持ったおかげで上半身がしっかり存在感をみせている。
十八、九の、わたしがたくさん写真にとったやす香は、哀しくて目近には観ていられない。
2015 12/22 169
* 歳末最後の故紙回収に大わらわで荷に括った故紙を道路へ運び出した。毎度のこと沢山になるが、荷造りは妻が、運び出すのはわたしが、する。選集の校了 まえのゲラなど、そのまま読めるので惜しむ気もあるが、さて積んでおくと床が抜けそうに重く溜まる。湖の本の責了紙ももはや保存しても仕方在るまいと目を つむって故紙として提供することに。これが隣の棟に山のように残っている。処分すれば、すこしでも床面積が回復する。
2015 12/23 169
* クリスマスとは縁無く暮らしてきた。明日のイヴ、大賑やかなのだろう、街へ冷やかし半分見物に出るなら、どこかなあ。もっとも明後日には病院に用事が あり、そのあと、街なかでちょっと珍しい「お座敷で」「客席は二十五」というの芝居を妻と観る。そのあともう六日も今年はある。のーんびりしたい。
2015 12/23 169
* 黒いマゴの輸液もし終えた。今日は、原作「清経入水」を三分のにまで読み、これから床に就いて湖の本128を責了へと追い読みしてゆく。バグワンも読 み、八犬伝も読み、「ヨブ記」も読む。小倉ざれ歌百首も詠み、送られてきた興味津々の秦 恒平論も熟読して行く。落ち着いた良い歳末を過ごしている。今日も一日、かお吏さんにもらったのをショールに用いて心温かかった。
2015 12/23 169
* 十一時になる。黒いマゴに輸液してやり、ゆっくりやすもう、残る歳末にはさしたる用もないく、気が向けば独りで街へも出てみよう、入ってみたい店もいくちも見つけてきた。
2015 12/25 169
* 印刷所へ歳末の礼を兼ねたメールを送り、一応年内の仕事を終えた。大過無きを願う。
会社が何日迄とももうすっかり気疎くて分かりもしないでいる。むかしだと、妻子はもう京都へさきに帰していた。帰りの列車に座席を確保するのが苦労だった。新幹線の座り心地もすっかり忘れ果てている。来年は、何としてもと一度は京都へと願っている。
* かお吏さんに貰った「ミッソーニ」を両肩へ掛けているのがとても柔らかに軽くて温かい。やす香の繪も写真も嬉しそうにしている。柔らかく軽く温かというのが、じつに貴重な恵みだと云うことがよく分かる。しみじみ分かる。
2015 12/26 169
* 当る申歳の飾りなど、した。来年は建日子の歳。健康に、意欲的に、「日の出づる人」でありますように。
* 年末年始の黒いマゴのための輸液15本を買ってきた。もう二年も、毎日励行している。ご近所でも驚かれるほど、うちのマゴ、元気を回復してくれている。
この半年、明け方の四時半から六時になると必ず鳴いて外へ出してとせがむ。テラスへ出してやると二、三十分でまたテラスへ帰ってきて、大声で入れて入れ てと鳴く。この早暁の出し入れが夫婦の欠かせぬ作務となり、つい、そのあと朝寝してしまう、が、黒いマゴの元気なのはとても心穏やかで嬉しい。われわれは 少しも贅沢な日々は欲してないし粗食で構わない。食そのものが細い。そのぶん、黒いマゴに元気でいて欲しい。腎機能がなんとか働いてくれているのだろう、 気持ちよく放尿してくれている。
2015 12/28 169
* 朝いちばんに桐生の住吉一江さんから例年のように下仁田の美味しい葱をどっさり頂戴した。
近年は簡明に簡素な煮〆だけ煮て、どこかのお節料理を妻は買っている。暮れは暮れ、正月へは揃ってわたしらの方から参る。迎える新年でなくわたしらが出向いて行く新年なのだ、土産はないが、と感じている。
2015 12/31 169