ぜんぶ秦恒平文学の話

家族・血縁 2018年

 

* かぜ気味の建日子ら、愛らしい猫をつれ、元日の雑煮を祝いに来た。
2018 1/1 194

* 年賀状を沢山戴いた。

* 妻や建日子らは 昼食後に 天神社へ初詣に。わたしは、失礼した。
2018 1/1 194

* 建日子と、創作や仕事の上でだいぶ話した、話した中身は酒のせいもあり正確を欠くが、かなり烈しくはあった。そこから何か汲んでくれるなら有り難い。

* 酒は呑んだが、食欲はうすく、いい肉を持参してくれていたが、元日から、牛肉を惜しみなく食いに喰う元気はわたしには無かった。

 

* 建日子らが連れてきた猫のウナが、もう仔猫ではないが柔軟に穏和で、ものおじなく自然に振る舞ってくれるのが、なによりの懐かしさであった。猫のいる暮らしをまざまざと想い出した。
玄関外での写真で見ると、妻も元気を回復してくれたナと思う。わたしの髪、真っ白になった。

* 九時頃か、大きな自動車で帰っていったが、途中からの電話で、明日もう一度建日子独りで雑煮を祝いに来ると。
2018 1/1 194

* 建日子 朝来て、屠蘇、雑煮を祝い、父親のクダを聞き流し、いましがた午過ぎ、元気に仕事へ向かう。
2018 1/2 194

白鸚在樹 蓬莱山
秋石・画(部分) はるか天上には 旭日

* 我が家の正月、必ず玄関にこの「松」が立つ。函には「蓬莱山」と画家自身が題している。
明けて今月、晴の三代襲名歌舞伎座舞台に奮励の「松本」高麗屋へ、慶賀・激励の一幅とも。
2018 1/5 194

* 死んでいる兄恒彦が賑やかに人を何人も連れて家に来ている夢を見た。それからわたしを電車に乗せ、どこかへ連れて行ったが気がつくと誰もいなかった。電車も無く、家にどうやって帰ればいいのか判らなかった。
2018 1/6 194

* 秦建日子 五十歳になった。
健康で心ゆく 次の五十年を と 壽ぎます。おめでとう。 父

メールがうまく出てくれないので、此処へ書きました。
2018 1/8 194

* 三時半 妻の定期の受診。会計して処方薬が出て、五時半もすぎよう。帰路は細く寒く暗い。出迎えに行くことになる。温かくして出かける。かぜ気味は、おさまらないが。
病院では校正という仕事が捗る、これが利点。今日も、いいキリまで読めた。
二人で、わたしは自転車を牽いて、帰ってきた。
妻の主治医の父上がわたしより四五歳上で全く同じく、同じ頃に胃全摘されたという。そして食事等へのいわば容態もそっくりだと。
今晩は、わたしの註文で、肉の残りを使ってカレーにしてもらい、炊いたご飯で食べたのが、予期以上に食べられた。マシな食事ができた。カレーという肉の 味が、すき焼き風にはげんなりしていたのに、打って変わった。白い米の飯は食べにくいのに、カレールーにまぶされて、口の中でのパサパサ、パラパラ感がな くて、喉へ柔らかに流れてくれたのが成功した。
2018 1/9 194

* 去年九月 秀山祭 を観に出かけ、 十一月顔見世を楽しみにしていたが、妻の俄な入院手術で、舞台は息子が代わりに観に行ってくれた。
四ヶ月目の、それも目出度い襲名興行なので、二人とも怪我なく観に出たいと、楽しみに楽しみに待ち望んでいた。風邪ぎみを、こじらせたくなかった。
2018 1/11 194

* 先へ先へ すこしも足踏みなどしておれないのが、むしろ今のわたしの健康法になっている、とも謂える。ま、やれる限りやって行くだけ、出来れば歌舞伎なみの楽しい何かと出くわしたいが。
そういえば、建日子がちかぢかに作・演出の芝居「らん」を三度目、公演するとか。「らん」はよく書けている芝居で、前進座劇場でも俳優座劇場でも見応えがした。また、どれほどに手直しが利いたか、観に行くことになっている。
2018 1/14 194

* 寒けして、洟と咳と、くしゃみ。なんとなく不調。
明晩、新宿での夜の建日子作・演出劇「らん」を観にゆくのはヤメにして建日子に通知した。ザワザッと背から寒い。
愉快でない鬱陶しい心身の日々が続いている。明日一日はゆっくりやすむ。とかく胸に軽いが深い痛みが揺れる。妻のニトロをもらうことが、ゆるやかな間隔ながら、断続している。
2018 1/17 194

* 寝に行くと、寝ないで、脚だけ蒲団に突っ込んで、坐ったまま小出しにしてある校正ゲラに向かってしまう。書けてある文が面白いと二十頁ぐらい直ぐ読める。ついで、本を読む。
古井由吉という作家は、年譜によると結婚後しばらく、わたしたちの今もいる、昔風に謂うと北多摩郡保谷町で暮らしていたらしい。「妻隠」の家は、わたし たちが結婚三年めから暮らしていた社宅の感じにウソのようにそっくりなので、夫婦の在りようが、とおいヨソのものに見えない。わたしたちにはもう朝日子が 生まれていたが、古井作の夫婦にはまだ子供がない。そんな次第で妙に親しくズンズン読み進んで惹きこまれもしている。
併行して、黒井さん、李さん、明生さんの作にも目をふれ始めているが、まだ乗れていない。
源氏の物語、浮舟と薫の物語は、じつに美しく安定してすすみ、ホンの数頁でも惹き込まれてしまう。
鏡花の「芍薬の歌」は、ま、奔放に好き勝手に進んで行く。ついて行きながら、その日本語表現の多彩な気儘さに驚かされ続けている。現代作家達の、と云っ ても、今読んでいる四人はわたしと同年輩ないし少し年長で、亡くなった人もまじる。チャキチャキの現代作家の文章などほとんど触れたこともないので何も云 わないが、鏡花のように書ける人は、彼以降一人もいなかったろう。
2018 1/18 194

* 晩、建日子作の連続らしきテレビ劇「確保の女」とやら第一回を観た。今日は送り出し荷造りなどしながら、「殺し」ドラマを三つ観たことになり、ゲンナリする。
昼の、亡くなった田中好子(だったか、元三人組みの歌手、女優としては歿前の原爆劇「黒い雨」主演が凄絶の好演だった)と、もうひとり時代物も現代物も達者至極の実力女優が組み合った一作が、緊迫の筋を確かに追って、佳い読み切りだった。
それにしても、ドラマというと刑事物の殺しものばかり、センスのわるさにがっかりする。
秦建日子には、「天体観測」「ラストプレゼント」「ドラゴン櫻」「最後の弁護人」等々、殺し物でない佳作が幾つもあったが、殺しものドラマは、原作が ヒットした「アンフェア」も含めて、わたしは気乗りしない。それよりも、生き生きした時間との勝負に工夫の溢れた「映像の面白さ」が観たい。テレビドラマ 作家は勉強が足りていないのでは。殺しは看板のように出て来ても「NCIS」のチームワークは傑作だし、「フォイル」は戦争の暗さ重さを人間愛と共にみご とに描いている。日本の殺しものには、人の命の危うさや重さやいとおしさが出ない。その点、「ドクターX」を初めとする真摯につくられた医学物には心惹か れる。
テレビ映画ではあったが「紙屋恭子の青春」「船をおりたら彼女の島」「漱石悶々」など、名作まで行かなくても、しみじみとよかった。殺すのでなく、人の命を「生かし」て勇気づけ、考えさせるいいドラマが観たい。
2018 1/19 194

* 大事な捜し物をしながら、この機械の四面の極み無き混雑をすこしでも新たようと苦心惨憺したが、埃は舞い、労のみ重なって、効は無し。今さらに無用のものの多いことと棄てがたいこととに愛想も尽きて呆れるばかり。
それでいて、オオッとばかり久しぶりに目に入った材料に刺激されて「書きたく」なる。これ、書き上げるまで命があるだろうか。このごろはコレがついて廻って、情けない。

* 隠れ蓑へ鵯と目白がまた来るようになり、置いた餌を盛んに食べて行く。嬉しく、また羨ましく。

* 十時になる。この機械部屋は温かいが、階下へおりると、すこし寒い。送りを終えて、今日の一段落はやはり寛いでいたんだなあと思う。寝る前に、また校正もし本も読む。
2018 1/21 194

* 東京で雪に逢うと想い出す。勤めの頃、看護学の編輯を担当の間に、当時のままいえば看護婦さんや助産婦さんら(執筆者であるからは、皆さん「先生」で あった。)と飲み食いの機会があった、或る雪の晩だったが、わたしが京の雪を懐かしがると、富山出身の助産婦先生、目をつりあげて「何が雪がいいのよ、雪 なんか大ッ嫌いッ」と怒鳴られた。あれは、視野の狭かったわたしには佳い教訓だった。北国の大雪にしみじみ迷惑してきた人の「雪」風情と、京のみやび心地 の「雪」はまるでちがう。あの当時のわたしには、「雪山」を積んだ定子皇后や清少納言の雪、雪の朝がた兼好に手紙でものを頼まれた女人が、雪の風情に一言 もないままモノを云うて来るような人の頼みなど聞くものですかとヤラレていた面白さばかりが、アタマにあったのだ。
この大雪のあと、家の前の凍り付く雪道をどう始末するかと、八十すぎてあちこち痛いわたしも妻も、今から、困惑している。
古人の詩にいう「雪月花のとき最も君を思ふ」てばかりは、おれない。雨を聴いている方が風情にひたれる。少し年かさだったあの助産婦「先生」、息災だろうか。

* 捜し物の一つ見つかり、一つが、まだ。出てこい出てこい。
2018 1/22 194

* 今回の二十四巻は510頁、二十一巻の440頁より70頁も多く、87グラム も重い!と驚いてきた人もある。送りは相当な力仕事であった。ちなみに此の選集は概ね「1」キロ超過、分厚さも「5」センチを超えるので、一冊に毎度郵便 代は「560」円支払っている。{150」部限定特装本の「1」冊製作費の高額なのははなから覚悟しているが、送料は「キツイなあ」と毎々嘆息する。

* 小学校五年生の建日子と出かけた中禅寺湖畔の色写真、綺麗に製版してもらえて嬉しい。「みごもりの湖」帯写真の面影をかすかに残していると見た人もあ るが、自分では判らない。この旅は、当時建日子が教室で先生や友達とうまくゆかず銷沈していたので、学校を休ませ、わたしも仕事の手をとめて、もろ手挙げ て日光へ、華厳の瀧へ、中禅寺湖へ遊びに出かけたのだった。
そんな五年生だった建日子もこの正月、五十歳というからびっくりポンである。
今、この「私語の刻」月例の写真に「美ヶ原の曙」を載せているのは、建日子が何年か以前の正月に両親を連れて行ってくれた時の撮影である。大きな自動車にのせて両親を茅野にある別荘へ連れて行ってくれたこともある。

* 「吉備の人」のお便りも、頂戴した。お一人暮らしをなさっていると。
お元気で、どうかどうかと心より願わずにおれない。
何かして差し上げられることは無いのかと 胸がへこみそうに思うのだが。

☆ 選集
無事、最新巻届きました。
おめでとうございます。

近々帰ります。  建日子
2018 1/23 194

* 寒い。
NHKのプレミアム映像で地球上最北の街の在る嶋、北極点へ間近なノルウェー領の嶋へ連れて行って貰った。極北の天国、自由があり差別がなく、世界中から来て住み働いている。
建日子が「タクラマカン」という芝居で、そういう世界を切望している人たちの哀しい蹉跌を表現していたが、此の嶋、この現存する再極北の街のことは識らなかったと思う。
2018 1/25 194

* 腰かけた膝下、痛いように冷える。東京、昭和四十五年以来の零下の寒とか。

* わたしは、アマゾンであれ無かれ、兎に角「インターネット」でものを註文したり買ったりは、全然しない。仕方も識らない。時折り、アマゾンで本を送っ て下さる方はあるが、事前に報せて下さるので問題は起きない。わたしは、ネット商戦には完全に身を避け通してきたし、今も。これからも。
たった今、まことに軽い、空と想われる大きめのダンボール箱が、わたしの「註文品」だといってアマゾンから届いた。まったく覚えのないことで、しかも内蔵されているナニモノの重みも動きもない軽さ。
開けないまま置いておく。
これへ請求書が届くような詐欺行為もあり得る。類似の怪しげなメールは、日々に幾らも来ていて、即消去、絶対開けないで消してしまっている。
「押し込み買い」らしき電話勧誘など、老人の二人暮らしと知ってか、何十度も来ている。
おなじ配達の小父さんが来たので、持ち帰らせた。
2018 1/25 194

☆ スムーズにお口に入りそうなものをなかなか思いつかないのですが日持ちのするものということで小布施の栗鹿の子(信州長野小布施のお土産)と 一保堂の抹茶(アマゾンを通じて)をお送りしています。   吉備の人

* ウワー大変、今しがた頂戴した「栗鹿の子」とお対の「お抹茶」であったらしい、別々の箱で、時間をおいて別々に届いて、この抹茶の方には私の宛名しか 無く、送り主の名が入ってなかった。で、「送り主不明の荷」と判断し返品してしまった。幸い、ヤマトにまだ残っていて、新ためて届けてくれるという。
有元さんのご好意がとにかくも無事に戴けて、感謝に堪えません。
2018 1/25 194

* 思い立って新聞に出ている将棋欄を将棋盤に再現し、その場面から妻と勝負に出た。或る程度まで盤面が展開していないと、初心の者同士が最初からさして やくのはあまりに途方もなくたわいもない。新聞での勝負は、片方がもう投了へ追い込まれるあたりであり、しかしそんな高等なことは分からないので、お互い に相談し合う按配で駒を運んだり持ち駒を打ったりし、ま、少しずつ駒野雨後か使用も教えながら、妻に勝たせた。「おもしろかった」と。
おそらく、このまま続ければ、孰れは妻が強くなりわたしは負かされるだろう。碁では、所詮そうなるには時間が掛かる。私のアタマはとても将棋型には出来ていない。下らないテレビに腹を立てているより。よほど良い楽しみの時間になるかも知れない。

* 頭痛がするほどま視力が濁ってしまい。もう、機械の前は離れたい。また、明日。階下で、肩の凝りをほぐしたい。
2018 1/29 194

* 京・山科の図書館学者で詩人である馬場俊明=あきとし・じゅん さんは、心優しくお便りにいつも佳い絵葉書を選んで下さる。今回は何必館=京都現代美 術館を成さしめた、梶川芳友所蔵の「太子樹下禅那」で、上半身をこのホームページ「私語の刻」一月のアタマへ飾っていた。
馬場さんは、以前に、三條大橋から知恩院や華頂山へ展望の昔々の記録写真のハガキを、また祇園八坂神社西楼門から四條大通りを俯瞰した昔昔の記録写真の ハガキをつかって便りを下さった。この二枚の懐かしさったら、ない。いくら眺めていても尽きないほど、その二枚は、わたしが四つ五つで南山城当尾の実祖父 の邸から京都市内の秦の家へ預けられ、幼稚園に通い出すよりまだ以前の記憶を、ありありと蘇らせてくれる。ことに三條大橋の東・南、いわゆる縄手(大和大 路)の起点の位置に、まるで積木の西洋御殿のような丈高い洋館がウソのように建っていて、とうのとうのとうの昔に消え失せたのだが、それが懐かしく眺めら れて夢見る心地がする。確かにこの洋館は在った。その南ならびに浄土宗のお寺が四軒並んでいた。
粟田山から将軍塚へ、東山は言葉通りに「蒲団きて寝たる」柔らかにかげった山容で、痺れるほど懐かしい。
もう一枚の東山線と四条通が廣い「T」字をなした間中に、市電が二台見えてある四條通りをまっすぐ来た電車は終点の祇園石段下で、線路を斜めに折り返し てまた四條通りを西へ帰っていった。東山線へも後に線路が繋がった。石段下四條の南側ははやくにサマ変わりしたが、絵葉書でみる北側は懐かしい記憶のまま の家並になっている。無数の思い出が噴き上げてくる。

* 写真家、東村山の近藤總さん、清酒「金婚」一升下さる。
指折り数えれば、わたしたちの「金婚」からもう九年も経っている。ふーん。有り難いと思う。

* 仕事もしたし、酔って寝もしたし、新聞将棋対局(今日、対局開始の場面)から先を、妻と争った。昨日は勝ち将棋に到るはずの終盤を利用し。今日はそも そもの序盤から駒を運んで、その先は、二人で出たとこ勝負を競った。ま、当然のように昨日も今晩もわたしが妻の王を詰めたけれど、手際ははなはだ宜しくな く、王手にされているのに気づかない始末、けっこう疲れるものだ。こういうことを二十番もくり返せばわたしが負け始めるだろう。
へんなテレビ番組を観ていて不愉快になるよりよほど気持ちの「健康」に良い。

* 将棋をさしながら「鑑定団」を聴いてもいたが、古唐津の茶碗が一目で素晴らしかった。佳い物はいい顔をして落ち着いている。
2018 1/30 194

* 星野画廊で買った秦テルヲの、明治中期、白雪に埋もれた「出町柳」図を出して茶の間に。マッシロ・シロ。右岸(東)我が家の菩提寺(常林寺)も雪の下に。
玄関には どこやらの坊さんらしい筆で「百尺の竿ふつて松の雪払ふ」と添えだ略筆の「雪だるま」の軸を掛けている。繪は俳味あるが句はすこし重い。

* 暮れから風邪ひきの建日子、二月になってまだ具合悪く、帰るつもりでいたが要心しますと。要心、要心。劇場での稽古や演出・公演の日々が響いているは ず。劇場ほどそういう意味で風邪などもらいやすい場所はない。歌舞伎の団十郎、勘三郎、三津五郎、富十郎、芝翫らの相次いだ死、痛ましかった。

* これで四晩めか。新聞将棋を途中まで盤面に追ってゆき、とぎれた先を妻とわたしで勝手に競い合う。つまりは素人には出来ない序盤を苦労との棋士にゆだ ね、局半ばから初診も初診の二人で対戦する。今晩はあわや私の玉が追いつめられて危なそうであったが、妻はまだ王将より飛車角の方が気になり、すかさず逆 襲して詰めた。しかしわたしも、われながらヘンな手を打っていた、何度も。けれど、面白い。碁盤では時間もかかり、妻は疲れてしまう。碁と将棋では、アタ マの働かせ型が違うように思える。勝手な思いだが。
2018 2/1 195

* 前夜についで、また新聞将棋の盤面から先を妻と勝負し、十時からは「NCIS」を楽しもう。
2018 2/8 195

 

* 妻は歯科医で入れ歯を入れ、その脚で引き続き病院へ出向いて、新しい検査を受けに出かけている。
その間に、建日子がS字結腸の閉塞気味腹痛をうったえて入院したらしく、とりあえず点滴で平穏化のまま、一週間ほど入院という。わたしの腸閉塞に点滴継 続で入院というのと同じか。十分にシカとした検査を受けて欲しい。建日子も、そういう歳になってきただけでなく、人並み外れて忙しくかついろいろに不規則 な激職なので、どうか大事にして欲しい。恙ない退院を祈る。
2018 2/13 195

* 建日子、幸い腸に穴は開いてなく、手術には到るまいと。静養のつもりで点滴に堪えて欲しい。ケッコウ延々と点滴するだろうと思う。憩室「炎」であるからは抗生物質投与も続くだろう。焦らず静養を。

* ガンバッて少し模様替えした。
朝日子は模様替えが好きで、上手だった。
一日、よう働いた。疲れた。
2018 2/13 195

* このところ屋内へ鼠防禦に腐心、昨日で、一応奏功か。今日、テラスの小鳥たちの餌に鼠が来ているのを発見、鼠の拠点を一つずつ排除。よその猫は近寄れなく防備してあるが、鼠は防ぎにくい。知恵比べ。
2018 2/14 195

* また機械の前で寝入っていた。ああ寝てるんだまた…と感じてながら起きようもない不覚の貪眠だった。美味い酒のセイもある。もう五時半。
2018 2/14 195

* 今日はひときわ眼加減がわるくて。九時過ぎだが、機械を離れるしかない。
2018 2/14 195

* 故・東大法学部長福田歓一氏夫人から、故・阪大名誉教授島津忠夫さんのお嬢さん藤森佐貴子さんから、「湖の本」へお手紙いただき、藤森さんからはめずらかなチョコレート二箱も頂戴した。
妻からもバレンタイン・デーとかで佳いチョコレートをもらった。近藤聡さんにいただいていた美味い澱酒の肴にチョコが合うのに驚いたが、酔ってもしまった。
2018 2/14 195

* 高麗屋の番頭さんらにもお祝いと感謝の声を掛け、歌舞伎座を出た。寒くなく、すぐ、くるまで日比谷のクラブへ。歓迎され、チョコレートをもらい、「な だ萬」の弁当をとって。美味い、洋酒。いつもの美味いアイスクリームで締めて、疲れもなく元気に帰宅。どの電車でも座席を譲られ、感謝感謝。

* 「湖の本138」受け取りの礼状など 十数通届いていた。払い込みも届き始めていた。

* 建日子は熱が引いてきて、快方へ。よかった。
2018 2/15 195

* 亡くした孫やす香の一のお友達、かおりさんはもうお母さんになっている。あれ以来、ずうっと分痛やお付き合いがあり、わたしには、まいとしバレンタイ ンデーにはチョコレートに添えてメッセージを呉れる。昨日も、「おじいさま 大好きです!!」とあいらしい「ゆい佳 ちゃん」と「一緒」の写真を送ってき てくれた。やす香からはるばる届いたような嬉しさと懐かしさとで、しみじみ眺め、念入りに選ばれたらしいチョコレートも感謝して口にした。優しい人。あり がとう。ありがとう。また会いましょう。ゆい佳ちゃんもお母さんもお父さんも、お元気で。 やす香のおじいやん
2018 2/16 195

* 建日子、熱下がり、食事も出来るようになって。来週火曜ころには退院可能かとも。よかった。点滴が延々と続くだけの入院は、退屈でシンドい。慎重にがんばれよ。そして何よりこの先々への要慎が肝要、いつ知れず病変は襲ってくる。
2018 2/16 195

* 岩下志麻へのインタビュー番組を興深く聴いていた。
「バス通り裏」このかたの馴染み、東京へ出て来て、近くのフジテレビの地下廊下でコマーシャルの科白を諳誦している岩下志麻に出会ったのが、「女優」なる存在に接した最初。
何かのパーティーで篠田監督と姉上である書家の篠田さんと一緒の志麻さんとも、いっとき談笑したことがある。
後年、建日子作の連続ドラマに出演してくれたおり、志麻さんから貰ったよと、お洒落なシャツを建日子がわたしに呉れた。ほうと唸るほど品良く洒落ていて、晴れがましい思いをした。
監督として敬意を感じていた篠田監督へは本を送っているし、監督作品の録画をもらったり、時折の文通もある。
「秋日和」「五辨の椿」などから、後年の五社監督、篠田監督作品等々を機会が有れば観てきた。いつも「女優の魂と賢こさ正しさ」に感じ入ってきた。それ は今朝のテレビで話を見聞きしていてもよく分かった。小生意気に我を張り輝き損ねて脱落する贋女優も多い中で、岩下志麻は、盲女でも鬼女でも極妻でも、ひ たむきに聡明・謙虚に、美しく色豊かな役づくりが出来てみごとだった。
少女の昔に「バス通り裏」の途中からテレビへ出て来たとき、「この子、凄いほどの女優になるよ、きっと」と思いも言いもし続けた。その通りになった。
2018 2/17 195

* 「選集」26巻の初校を終えた。兄恒彦との往復書簡を収め得て、感慨深い。元気でいてくれたら、もっともっと多く話したかった。「京都」を語りあうのに此の兄ほと゜屈強の話し相手はなかったろう。死なれたことの最も重いものを兄はわたしに遺していった。
「湖の本」139巻を入稿もした。

* 明日は建日子を見舞いに行く。
2018 2/17 195

* 入院中の建日子を、妻と見舞いに出向いた、中目黒まで。
まだ小学校の小さい頃に一度、路上車と接触し救急車でさる脳神経外科病院に運ばれて以来の入院生活になる。毎日毎日自転車で見舞いに走ったが、その外科 病院では小児科的治療が適切に出来ず容態がなかなか改善しなかったので、日大小児科に依頼し、講師の先生に出張していただいて治療方針を定めていただきな がら、適切に日大への転院もはからわれて、そして、やがて無事退院できた。馬場一雄教授のご親切を戴けないでいたらと思うだに、難儀なことだった。

* 今度の救急車を頼んでの激痛入院は、S字結腸部の憩室炎と診断され、点滴等で温存療法が採択されていた。憩 室は誰にでもあるもので、憩室炎もよくある病気。悪化して大出血を起こす前にきちんとした医療を受けていれば命にかかわるものではないが、繰り返す病気。 完治には憩室部分の切除しかないのだが、そこまで悪化するには時間もかかり、便秘と下痢の繰り返しなど不愉快な日常になるだろう。いずれ必要となる大腸内 視鏡検査も、検査前に下剤を大量に飲まされたりし、難儀なもの、時間もかかって鬱陶しいものだが、乗りこえておきたい。くれぐれも生活の無理は重ねず、心 してこの病気とじょうずにつきあってほしい。さよう願っている。

* 病気は「神さまの強制終了」という言葉を読んだことがあった。
つくづくわたしも実感しているが、年 を重ねると出来ないことのあるのが分ってくる。それは、しかし、決してマイナスばかりではなく、自分のできること、すべく且つはしたいことを見極めて行く しかない、つまりはそういう機会にさしかかるのであり、「制約の中から選択して集中する、ほんものの自分の仕事をする」自由を賢くかちとることでもある。
*  人生五十へまさしくさしかかった秦建日子も、「何かしら」を「神さま」によって「強制終了しなさい」と示された、そんな「激痛」であったと考えてくれる と嬉しい。マルチな仕事の、それらをみなそれなりに仕遂げてきた「これまで」ではあるが、今度の入院を機に、ま、「神さま」の声も相応に聴くべき時機なの であろう。ただただ「消耗される才能」であってはなるまい、やりたいだけ手を広げて仕事のできる時期は無限でないと、今回の入院はやはり教えているのではと思う。生活を変え、仕事をよく深く思い入れて選び、「棄てて得る」ものの大事さに行き当たって欲しい。
病室の建日子をつくづく見舞いながら、然様に、今も、願っている。

* 中目黒を離れてくる時分、二人とも空腹で体力を消耗しかけ、池袋で下車しめざした「伊勢定」への足どりは二人ともよろけていた。残念ながら、めざした食事もわたしは美味しくなかった。
寒風に吹かれタクシーを待って帰宅したのが四時頃か、わたしはそのまま二時間余も寝入ってしまった。
八時になる、晩飯への食欲もないが、食べないわけに行くまい。
2018 2/18 195

 

* 夫婦して たまたまの外出にすっかり疲れていて、驚いている。これに臆病になって引っ込んでては足腰も心臓も弱ってしまう。出不精こそ病原になってしまう。
2018 2/18 195

* 建日子、今日、無事に退院したと報告あり。安堵。予後の要心しつつあれよ。
2018 2/19 195

* 仕事しては寝て休み 起きて仕事してはまた寝て休んでいる。一つには眼を休めるためだが、不可解な疲労感は抜けない。嬉しいこと楽しいことがあると、たと えば佳い映像や劇をテレビなどで見つけると心身の晴れを感じる。庭へ来る小鳥たちを見つけてもホッと嬉しい。黒井マゴがいてくれたら、どんなに楽しくここ ろやすまるだろう。国会の映像や総理の顔や声が目に耳にくるとヘドが出そうになる、リクツは謂えない、ただ不快感に掴まれる。ま、こういうことは、お互い 様であろう。
もう二十年も三十年も昔にした対談や鼎談を機械に入れて校正しいると、懐かしく嬉しくなる。今日は、今西祐一郎さんがまだ九大助教授の時代に、教授の中 野三敏さんと三人で、「日本の古典とエロティシズム」を話しあった初出誌を読み直していて、面白かった。とうじわたしは東工大へも出ていた。話題が高潮し てくると、もう一時間も二時間も時間をくれていたらと、話し足りていない、残り惜しい気がしたほど。
あの鼎談が済むとすぐ、わたしと同い年の中野教授は持参の風呂敷からやおら「上出来」の春画帖を披露してくれた。春画は苦手だが、性の話題には「古典」 とも「歴史」とも「日本人」とも意味深く絡み合う機微が豊富で、いままさに書き継いで仕上がろうとしているわたしの『或る寓話』も、あの鼎談の頃にはひそ やかにわたしの身内に孕まれてたのかなと思ったりする。                            2018 2/20 195

☆ 今も
お向かいさんと 自分達も含めてご近所さんの老化について 長電話をしていました。
長寿を望む訳ではなく 誰もが想う 寝たきりだけは避けたいものです。
わたしの膝は先々どうなるのか分からないけれど…
歳を取るとはこんな事なんですね。
それでも昨日は息子の招きで新宿まで杖を携え 娘と出掛けてきましたよ。
そんな訳で細々暮らしています。 お休み   花小金井  泉  中学の同窓

* 秦の祖父が寝たきりだった。秦の父も叔母も母も 最後はほぼ寝たきりだった。要慎、用心。
2018 2/20 195

* 今日の前立腺の診察でも現状に「問題なく」強いて人間ドックへという「ほどのことは無いでしょう」と。一昨日に次いで二人の主治医に「問題ない」いわれ、心持ち安心した。で、はるばる? 外苑前まで眼鏡新調にとうどう出向く気になった。

*  いま一つ、わたしは、妻もであるが、闘っている相手がある。「ねづみ」たちで、家の中へ侵入し出没している形跡が歴然、ここは危ないといういうところを 根気よく無い知恵を絞ってふさいだが、二階の廊下(靖子ロード)にも階段にもキッチンの上にも土間にも形跡があり、戸棚の中まで攻勢をかけられている。
一つには庭木へ来る鵯や目白を愛するあまり蜜柑などを割ってテラスに置くのを鼠も来訪し、自分の領分へ運んだりしている。子歳の妻はいささか情も寄せて いるらしい、が、わたしは、ま、お引き取り願いたい。しかし、彼らほどチエが走らない。妻は今日もわたしの留守のうちに山ほど蜜柑を買っていた。また猫と 仲よくしたくなってきた。

* 日用していた、あまりいい役には立たなかったが遠用のメガネを眼鏡屋さんへケンズ新調のため置いてきたので、当分、裸眼主体でかなり不自由するが、読み書きは休みたくない。なんとか成るように成るとタカをくくっているが、九時、今晩は機械から離れる。
2018 2/28 195

* 妻は歯医者へ。留守のあいだ、眠っていること多く。五体に生気が無い。
妻が帰ってからも同じく。

* ドロリドロンとした一日だったが、建日子が夕食時に来てくれて、一緒に、小津安二郎脚本・監督の、出演中村鴈治郎(先先代)京マチ子、若尾文子、杉村 春子、川口浩主演、その他にも名優たちを總揃えという旅の一座映画「浮草」を観て、感嘆また感嘆り嬉しい時間を過ごせた。このまえ、あれは妻の入院中で あったか、建日子と二人でみた山本富士子・芥川比呂志主演の「濹東綺譚」も優秀だったが、それに比してなお断然今夜見せた「浮草」は見応え満々の名品で あった、建日子も大いに乗っていた。
建日子との時間の過ごし方では、こういうのが最も有り難い。彼も、戯曲の作・演出のほか映画のシナリオを書き、製作・監督をしているのだから、観るのが いい映画であればあるほど「共感」の度も深くなる。ぜひともの用談で無いかぎり、詰まらぬ世間話をしているより「創造的な時間」を分かち持ちやすくてかつ 楽しい。佳い映画、佳い俳優達であればあるほど身に沁みて楽しめる。
ぐたっとしていたのが、生き生きと持ち直した。幸いだった。建日子も、気分良くまた街へ帰っていった。

* 三百はあろうかという映画録画から、いつも十作ほど佳い作を選んでおいて、建日子が帰ってくるたび一緒に観たい。言わず語らずそれは「創作的な批評」り交歓になるから。

* それにしても建日子くん、中 村鴈治郎(先先代)京マチ子、若尾文子、杉村春子、川口浩のだれ一人も識らず、名もあやふや、初対面で見わけも付かなかったのには、仰天した。ましてやワ キ役の野添ひとみ、田中春男、浦辺粂子、らになれば皆目。少なくも、こと演劇や映画の仕事で日々喰っていながら、そんなことってほんとに有りうるのかと吃 驚した。それが「今日的創作世界」では普通なのかと思い至れば、やっぱりそうなんだと思われもした。
いま少なくも「文学」に類する小説を書こうとしながら、紅露鷗緑はおろか、花袋や独歩や荷風や鏡花の名も知らず読んでもいない「現役作家?」がどんなにおおいことだろう。それで「構わない」のかも知れないが。そうなんかなあ。

* 少し回復した元気のまま、「洛中洛外屏風」をめぐる岡見先生がたとの座談会を、面白く読み進んでいた。ま、もう休もうと思う、機械からは。不安定なダメ眼鏡と裸眼とでの仕事、これは疲労と言うよりも、宜しくない。一週間はガマン、ガマン。

* 建日子からメールで、映画の題は「浮草」だったよと。此処へ、「浮雲」と書きながら。あれ、「浮雲」は高峰秀子の映画だったがなと思っていた。今今の ことはすぐ忘却。しかしこれで建日子との今晩の対話にきっちり締めくくりが付いた。彼は超多忙で動き回っているので、この「私語」の場で「対話」が成るの が有り難い。
朝日子も、と、思うのだが。

* 明日は、雛の日。やす香は「揃い雛」の写真を見ているかなあ。
2018 3/2 196

繪所預  土佐光貞・画

高三春 大学への日を待ちてゐし 亡き孫やす香

* 昨日、建日子と映画「浮草」を観て嬉しかったのと、劣らぬ嬉しさを、建日子が街へ帰っていった後刻、妻とつぶさに見入り、魅されていた。坂東玉三郎が 「京鹿子女道成寺」始終の「理解」を、実に適切に具体的にしかも美しい語りかけで講話してくれた番組だった。録画できなかったのが惜しかった。
坂東玉三郎は、わたしの人生で出会えた、美空ひばりとならぶ、数少ない世紀の天才の一人と挙げられる。称揚よりも先に、同時代を倶にし得たのを心から悦ぶのである。
「踊る」という肉体の秘蹟を深切に分かりよく分かりよく自身実演の映像で解説してくれた。その物言いの美しさがすでに玉三郎の「藝」であり、ああ、これをも建日子に見せたかったなあと、こもごも妻と感嘆久しうした事であった。
2018 3/3 196

☆ 溝口健二で、
木暮実千代と若尾文子の「祇園囃子」も傑作でした。  建日子

* 同じ監督の名作「祇園の姉妹」 山田五十鈴驚異のデビュー作の、「祇園囃子」は、リメーク作。
高校生頃に、震えるほどの感銘で、満員の映画館のうしろで立って観た。若尾文子の出世作で、ゾッコン惚れ込んで観にいった。よかった。木暮実千代がほんものの大スターの地位を確立して行った名品のひとつ。
早く、先行していた「祇園の姉妹」は、映画史的に高い評価の傑作で、なによりもあの山田五十鈴十七歳でのデビュー演技の、目を瞠る巧さ・ど迫力は、永く語りぐさになった。
「祇園の姉妹」も「祇園囃子」も これもまた建日子と一緒に観たいと、録画してある。
2018 3/6 196

* からだは疲労との分のわるい相撲が続くが、ここちの方はまだマグマを抱いている。
時には、人の肉声とも触れて話しあいたいが。病院・医療かんけいの他、めったに人との会話が無いのは不健康。  十一時に近づいた。やす香、ネコ・ノコ・黒いマゴたち、靖子も、おやすみ。
2018 3/6 196

* 心持ち寒く町並みに風もあったが、外苑前で遠用と近用との眼鏡受け取り、妻と、ぶらりぶらり神宮前の「南国酒家」まで歩いて、瓶出しの紹興酒で軽食と謂うにはやや品数のある中華料理をゆっくり食してきた。
間隔を置いては何度も来ているなじみの店で、ボックス席に案内されると寛げる。久しぶりの瓶出しが美味く、二合も呑んだか知れない。
副都心線の神宮前駅から西武線へ直通の電車で、二人とも二、三人から親切に席を譲ってもらえて、ラクに帰って来れた。
2018 3/7 196

* 洛中の杉本秀太郎と洛外のわたしとの京都対談はケッサクだった。
追いかけて、歴史学者の脇田晴子さんと、正月の新聞で二日にわたり「利休」を語り合った対談も面白い。
わたし自身の記憶以上に、コレまでに数多い対談、鼎談、座談会をしてきた。受けたインタビュー記事も、大小結構残っているし、講演と放送原稿となると、 手が回らず放り投げてあるのも含め何十回もそれ以上も引き受けていた。アタマの体操としてはかなりいい刺激になったし、話し言葉を介して見つけていったポ イントも有った。
東京へ出て来てもう満五十九年が過ぎている。昭和三十四年(1959)二月末に妻と上京し、そのまま用意の新居(新宿川田町のアパートの六畳一間)へ入 り、すぐ、本郷の医学書院へ採用前の見ない出勤、そして三月十四日に新宿区役所へ結婚届を出したその晩に、妻の母方親類(伯父)の家へ妻の兄妹はじめ親戚 らが集まって披露と対面の機会をつくってもらった。
五十九年は永くも夢のようでもある。もう事を終えたのでもない、終えるということは無いだろう。
2018 3/7 196

* このあと、六時、二階から降りていって、心底 胸打たれ仰天もしたのが、NHKり「究極の鮨」という番組で。銀座「きよ田」ほかの店で、真に日本一、世界一の鮨・職人と称えられた藤本(繁蔵?)の、多彩に美しい映像に出会ったのだ。
藤本は鮨店を所有し経営していた人でなく、何軒もの鮨店の「親方」を経ていって、最期、一九六二年か三年ころの「きよ田」で引退、徹底的に学んだ弟子た ちがそれぞれ二代目三代目を嗣いだ。わたしは、そういう名人藤本はまったく知らなかったが、銀座の鮨「きよ田」の二代目はよく知っていた。ごく親しかった とすら思っている。
妻ともよく行った。朝日子も、大卒の祝いに連れて行ったことがある。
二代目親方の鮨は、(藤本にみっちり仕込まれてであろう)完璧に美しくて美味かった。広い店ではなかったが、美意識の尖鋭であった藤本仕立ての清明かつ 優美なこしらえで、親方と向きあうだけで心洗われ、しかも和やかに落ち着ける佳い店だった。暖簾を分ければ「オ、はたせんせッ」といつも歓迎してくれた。
実のところ、ま、わたし如き若輩がのれんを分けて入れる店では、おそらく、なかっただろう、相客の多くが文壇の、そばへも寄りにくい大先達がたであっ た。ま、わたしはそういう事には斟酌の足りない方の無法者ではあったけれど、わたしを最初に「きよ田」へつれて行って呉れたのは、中国へ一緒に旅して帰国 後間もない時分の、辻邦生さんで、辻さんは、この親方はネ、一度でも此処へみえたお客の名は決して忘れないんだよと紹介してくれた。
その通りだった。なにか大寄せの会合のあと、当時の小学館会長が「秦さん、行きましょう」と誘ってくれた「きよ田」で、まちがいなく二代目「きよ田」の親方は「はた・せんせッ」と、ニコニコ迎えてくれた。
以来、妻と行こうが娘を連れようが、渋い顔など決してせず、いつも「おまかせ」で最良の鮨を握って出してくれた。藤田が創始の「おまかせ」という任せようは彼の手がけたどの店でも「当たり前」であった。お安くは、全然、なかった。
そうそう、その日のニュースで評判だった素晴らしいマグロを「きよ田」が入札していたという晩景であった、たまたまわたしは独りで店に入り、それと聴い てすぐ頼んで握って貰った。二カン、まさしく頬もとろけそうだったそのマグロは、一カンにつき、あれでもサービスしてくれたろうと思うが二万円ずつ支払っ てきた。不思議なもので、「うまい」と思ったが、「高い」とは思わなかった。わたしは、出来るときは「出来る贅沢も大事」なんだと、今でも、いつも想って いる。とにかくも、銀座で鮨をというのは、「高い」が決まり文句の、むかしは「極上の鮨」最盛期ではあった。
「きよ田」の二代目親方は、わたし如きかけ出し文士の動静も新聞などでよく見知っていて、東京新聞の筆洗欄はよく「ハタせんせの噂」をしますねなどと ちゃんと知っていた。女優の沢口靖子が好きだと何かで知ったらしく、この親方、あっというまにどこかへ掛け合って、今日只今でも我が家の二階や玄関でいと もにこやかな沢口靖子署名入りの綺麗な写真や、大きなポスターなどを手に入れてわが家へ送ってきてくれた。そういうことの「何でもなく」出来る「きよ田」 なんだと妻もわたしもビックリした。
からだを崩され、引退されてしまったときは、シンから寂しかった。じつは、以来、銀座で鮨は食べないと決めてしまってきた。
番組の映像では、その「きよ田」の今や三代目が、同じ店を同じ場所(でらしく)出していると知った。食い入るように一時間半の番組を妻と見ていて、懐かしさに堪えなかった。
わたしの東京暮らしの、今となってはすこし「ほろ苦いような甘いような」おはなしである。あの店で席を並べた先生や先輩らのほとんどだれ一人もいま存命でないとは、嗚呼。

* 「きよ田」と限らず、気に入って通った佳い食事の店が、店を閉めて行くのに何度も出会ってきた。あれは、寂しい。銀座のビヤホール「ピルゼン」 フレ ンチの「シェモア」 西銀座の鮨「こつるぎ」 赤坂見附のシチュー「ケテル」 新宿の河豚「田川」 池袋パルコの天麩羅の店も無くなった。
が、さて。現在只今これだけ美味食味を書いていても、すこしも食欲が湧かず、往時を想うばかりとは、なんだか命綱も心細いかとガッカリする。いかん、いかん。

* それにしても、この「究極の鮨」映像も、建日子と一緒に観たかった。「いい仕事」とは何か。どんなにいいものか。それが、しみじみと、分かるのだ。
2018 3/10 196

* 清酒「能登誉」と「粒雲丹」とで、結婚届五十九年の乾杯。

* 南山城の従弟からコーヒーを沢山送ってきてくれ、手紙には、名張の囀雀さん来店歓談の報があった。へへえ、そんなことも有るんだと、にっこり。星野画廊へも行ってきたらしく。不染鐵の画集も送ってきてくれた。
2018 3/14 196

* 鏡花を語る久保田淳さんの『鏡花水月抄』がしみじみ懐かしく、鏡花世界へひしひしと誘われる。久保田さんも「歌行燈」派と大書されている。一つと挙げるならわたしの鏡花はやはり『歌行燈』であろうかな。
今は『山海評判記』を読みはじめている。
寺田透氏は「山海評判記」を名作と読まれ、久保田さんは「芍薬の歌」を、ことに作中の舟子を愛されている。わたしは「芍薬の歌」を愛読したが、今は心して「山海評判記」をまずは落ち着いて読もうと思う。
鏡花を、痺れるように楽しめる読者は今日の文学好きの、万人に一人いるかどうか。
地方創成の笛太鼓にのって桑名で「クハナ」とかいう映画を監督製作した建日 子も、名作「歌行燈」が何の何やらまったく読めなかったと嘆息していた。「歌行燈」は「高野聖」より読みやすい作品。「芍薬の歌」や「山海評判記」や「由 縁の女」などになったら、いったいどう読めるのやら。
しかし鏡花は 余りに二十一世紀の文学とは「迎え」にくいのは、たしか。まだしも「雨月物語」「好色一代男」「平家物語」「源氏物語」の方が近づきやすいのかも知れない。やんぬるかな。
いっそ鏡花に降参なら、正反対の文豪徳田秋聲や永井荷風や、或いは徹底的に志賀直哉をお読みよと薦めたい。
とにもかくにも近代日本の幾重にも織りなされた文学史と、何の繋がりも得られないまま「作家」でございなどと思っていては、いけなくはなかろうか。
2018 3/22 196

* 今日は妻もわたしも疲れた。お互いにかなりの力仕事になる。あと八巻を予定し、二年ないしその上を予期していて、「湖の本」も重なってくる。時間を引 き延ばすということも年齢や体力との相談があり、短期間に「選集」だけでも済ませてしまうという手にも体力負担は蔽うべくもない。つまりは、やれるだけを やれるようにやって行くしかない。妻も同感だろうと思っている。元気を、日々いろいろに汲み出すしかない。頼みになる助け手などありはしない当然である以 上は、知恵をつかって日々何とかして楽しむということだ、何であれ。

* さ、明日もガンバリます。
2018 3/29 196

* 大勢さんに回復を祝われて妻も、八十二歳に追いついた。朝食、赤飯と卵の汁、そして「華」さんに戴いたみごとなバウムクーヘンとお茶で、すべてに感謝し、二人だけで祝った。
2018 4/5 197

* 妻を祝いにどこかへ出かける元気も涌かず、気怠く心身が参っている。昼過ぎ、また寝入っていた。イヤな気分。

* 何としても、仕掛かり二つの小説を心ゆくまで書き上げたく、選集も、予定のもう八巻(未編集は六巻)を仕上げたい。
なぜ、こう心身に活力を欠くのか自分でも分からない、あるいは、分かっている、のかも分からない。
わたしは今、昨秋の妻が院手術の頃のように、事を挙げて「祈る」ということをしないでいる。ただ、妻が両親からうけついだという鐵観音像に向かい、また 秦の両親と叔母との位牌に向かい、毎朝夕、お互い過ぎ来し八十余年の数々を念頭に、「有り難うございました」と頭を下げ、且つは今日只今も護られているの を「有り難うございます」とのみ、心ゆくまで繰り返し頭をさげている。尽きるところ、わたしにはもう、「感謝」しか無くなっているようだ。くだくだしい言 葉での祈りはしていない。過去を感謝し今日を感謝するだけ。

* ロクなことをしてこなかったことも、根が、ロクな人間でないことも承知している。今更 仕方がない。意馬心猿をしょせんはよう鎮め得ないヤツとして、このまま衰えて行くと諦めかけている。かけているという未練も笑えてしまうが。
ま、正気のある間は、もう、一とがんばり粘るとしよう。
2018 4/5 197

 

* 湯に漬かったまま、『青春短歌大学』の「父母」の章を読み返していて、わたしが、「父」の歌をしみじみと大切に選んでいることに胸を騒がせた。

独楽は今軸傾けてまはりをり
逆らひてこそ父であること       岡井隆

思ふさま生きしと思ふ父の遺書に
長き苦しみといふ語ありにき     清水房雄

亡き父をこの夜はおもふ話すほどの
ことなけれど酒など共にのみたし  井上正一

女子(をみなご)の身になし難きことありて
悲しきときは父を思ふも        松村あさ子

子を連れて来し夜店にて愕然と
われを愛せし父と思へり        甲山幸雄
2018 4/5 197

 

☆ 近況
夏のような暑さの後、ここ二、三日は冷え冷えした天気です、御身体に堪えませんように。
届いた『選集』二十五巻、古典への深い愛と造形、この一冊が大きな高い山並みを成して迫ってきます。
お茶の稽古を辞めてから何年も過ぎて、振り返ってわたしのような粗忽な者には茶道は中心にはなり得なかったという反省も込めますが、茶道に限らず、日本文化への視点、姿勢を考えてみたいと思います。
(転倒後の=)額の腫れは完璧には治っていませんが、痛みは早くから無くなりました。上腕のかなりの内出血に驚きましたが、それも一週間ほどできれいになりました。回復力はまだまだあるなと自分の意志に関係なく機能している身体に、自然の仕組みに改めて驚き、感謝です。
数日前には中央線に乗って楢井の宿まで行きました。琵琶湖一周をと思い列車に乗ったのですが、途中人身事故で運転休止になったので引き返して。尾張に移って六年、中央線に乗ったのが初めてとは、わたしの関心がひたすら関西に向かっていたからでしょう。
平野では既に桜が散っていますが、山間部ではまだまだ桜が咲き誇っていました。
わたしの家の庭でも 八重桜が今満開です。
今週は三姉妹が久し振りに会う予定です。それぞれが介護の人を抱えていますから、会う機会も少なくなりました。まあ、わたしがヒュルヒュルと比較的無責任を自覚しつつ翔んでいるのですが。

今、テレビで西部(=つとむ)さんの自殺を幇助した人のことを報じています。医療や介護を拒否し
て、自分の意志で死を選択した彼は 幇助も一切拒否しなければならなかったはず、と思いつつ、自死の難しさにも思い及びます。数十年来の友人が自死した時を思います、今でも尾を引く思いです。
長く、元気に生きること・・やはり介護されたくないなど複雑な思いと共に。
何だか暗いことも書いてしまいました。
くれぐれも大切に大切に 春を楽しまれますように。   尾張の鳶

* わたしの場合、没交渉のままにであったけれど 生母も実父もそれぞれに自死に同じい死であったらしく、実兄もまた自死してまった。ほかにも、有った。 数えれば永い生涯に幾人もの自死の知人友人を持った。わたしも、それを全く思わないような人ではないが、心している。心すべきことと胸に仕舞っている。

* 昨日 京都から送ってきてもらった、祇園白川の花櫻 綺麗ね美しいわと妻も嬉しがっている。なにかというとデスクトップから映しだし見入っている。帰りたいなあ。
2018 4/8 197

* 昔から酒茶論がある。春か秋かほどは昔でないにしても。酒は古いがお神酒でこそあれ、民衆が早くから酒に酔うたか、ま、更級日記の竹芝寺縁起では酒を 醸す青年が都の日焼屋に召され皇女を東国へ連れかえる咄をしている。民衆の世間でも茶よりは酒が早いかと想われるが、茶に類した植生には恵まれた日本であ り、茶に類した飲み物は酒より早いかも知れない、いやいやどっちも古いのであり、さてこそ酒か茶菓と競いあう風も古かろう。
わたしは酒好きだが茶も大好きで、このごろは何かというと煎茶を妻に淹れてもらう。京の名菓を戴くとどうしても「お茶」を所望する。または自身で抹茶を 茶筅で点てる。煎茶も抹茶も焙じ茶も番茶も子どもの頃から母に「茶喰らい」と笑われるほど番茶をよく飲んだ。なに、戦時中で腹が空いていたのでもあるが、 家に茶を欠かしていた記憶がない。
2018 4/12 197

* 機械の中に多年撮影また採集のさまざまな写真が重複して入っているのを、大整理し重複また不要のモノを削除しつつある。残しておきたいのは、美術と家 族の写真。花も木も草も空も景色もとなると選別するのもたいへんです。しかし、煙草を吸わない私には一服代わりになる。それに機械の負担を少しでも減らし てやれる。とかなんとか。
2018 4/13 197

* 封筒に、わたしの住所印などを発送予定の数に満ちるだけは事前に捺しておかねばならない、これは根気仕事でかなりシンドイが、ま、やがての「湖の本」 139分は捺し終えた。宛名印刷して封筒に貼らねばならない。足りない分は宛先と住所を手書きせねばならない。出来本の送り出しこそ一等の注意力、腕力を 要する労働なのである。
云うまでもなく、収支はつくなわない、当然の赤字っているが、幸いそれは気にしていない。選集も湖の本も建日子さんの支援が有るのでしょうと云う人が、ときどきいるが、両方とも、ビタ一文の支援も手助けもしてもらっていない。
稼いだだけは使い果たして死にたいと昔から考えてきた。だんだん近い気がしている。せめて、もう三年、待ってくれるといいが。妻の、母親の面倒は息子がみるだろう。

* この「私語」も、追い追い、老い老い、もじどおり「闇に言い置く」感じになって行く。育ての親たちに手をつき頭を深くさげて京都を離れてきた日々をこのごろよく思い出す。秦の父がひとりで京都駅へ見送ってくれた。
来年春にはあれから六十年になる。ウソのように驚かれる。ウソではなかったのだ。それどころか秦の父も母も叔母も東京へ引き取って、みな「平成」に入っ て見送った。三人とも九十歳を越す長命で、一番からだの弱かった母が、九十六歳まで生き抜いてアトを追った。耳も目も歯も弱っていたがボケていなかった。 今でいう誤嚥で逝ってしまった。
2018 4/15 197

* 妻は建日子と恵比寿で昼食後に、青山墓地へ妻方の墓参にと。わたしは留守居、五時半、まだ帰らない。
シャロン・ストーントウィリアム・ホールドウインの映画、セクシーだが下品な映画をみた。セクシーはシャロン・ストーンのお家藝。
あと、インスタント・ラーメンを久しぶりに自分でつくってみたが、ちゃんとはつくれたが不味かった。
2018 4/16 197

* ただ懐かしいのではなく、京都へはどうしても帰らねばラチの明かないアテがある。
実は、脚を延ばし、瀬戸内の目当てへも行きたい。
行けないためにと謂うのは情けないが、それ有って、書きかけの小説は一つは九割がた、一つは六、七割がたで、苦悶しつつ頓挫し二年を経ている。京都が懐かしいと繰り返す時、わたしの想いは苦悶に近い。
しかし、小説の取材は、観光・物見遊山でない。一種の狂気に入って独り其処に同化し作の世界や人物と対話しつづけなければ無意味な散策に尽きてしまう。
しかし、私の心身に現に生じている臆病と億劫とは、宿を予約し新幹線に乗るというそれだけをもさせない。ぜひ独りで動かざるを得ないし、さだかなアテド もなくひたすら歩きまわらねば済まない。実を云うと目指しているその方面に、わたしは、ほぼ不案内なのである、行ったことも観たこともない京都なのであ る。疲労し、そんな出先で潰れたら、と想うと二の足を踏んでしまう。
もしかりに建日子が同行してくれると言い出そうが、それでは父子の「観光」旅行なみにむしろ京都を識ったわたしが息子にサービスすることになる。作中世界との対話はとてもそんな遊び心地では実現できないほど幻怪に難しかろうと、今も、看ている。
他の、何を措いても第一の優先事でありながら、実現出来ない。弱ればますます出来なくなる。わたしが「京都へ」というとき、現実世界の誰や彼やに会いたい見たいでは、無い。進行中の作世界と何より何処より出会い…たい、のだが。
2018 4/17 197

* 建日子の大腸検査、一応悪性の不安は免れた由、安堵。しかし、よくよく摂生、健康生活を大事にして下さい。
2018 4/17 197

* 筑摩大系の溯る次巻は、野坂昭如、五木寛之、井上ひさしという直木賞の三人一巻。気質や処世ではかなり遠方に望見していただけの三作家であるが、ペン の会長を務めた井上さんとはペン理事時代にたくさんな交渉があった。わたしより一つ年長、兄の北澤恒彦と同年で、むしろ兄との交際が先行していたらしい。 わたしが恒彦の実弟とはじめて知って、わざわざ傍へ来て「存じませんでした、失礼しておりました」と鄭重に挨拶されたときはビックリした。
2018 4/24 197

* 烈しい雨の中、回収される故紙を出した。
2018 4/25 197

* 二階の廊下、外向き窓の下に文庫や新書用の書棚が並んでいて、部屋側の壁一画に、鮨の「きよ田」二台目が送ってきてくれた半畳大沢口靖子の写真がかけ てあり、この廊下を「靖子ロード」と勝手にわたしは呼んで、階下から機械のある仕事部屋へあがってくるつど、ちょっと立ち止まって棚を溢れた本のいろいろ に手を出してみる。
いまも又しても秦の祖父の蔵書であった手帖大の田森素齋・下石梅處共選『頭註和訳 古今詩選』を見つけてきた。大阪文友堂書店蔵版で明治四十二年十二月 二十五日発行「正價五拾銭」八十翁中洲の「思無邪」と題字がある。まさかに本嫌いだった秦の父が十二歳で手にした本とは思われず父が日ごろ「学者や」と畏 怖していた祖父鶴吉の蔵書に相違ない。日本人の作を先行させつつ古来漢詩の名作を蒐めてある。訓みのみ示し敢えて釈一切を省いてあるのが、いっそ有り難 い。

述懐   大友皇子
道徳承天訓    道徳天訓を承け
鹽梅寄眞宰    鹽梅眞宰に寄る
羞無監撫術    羞づ監撫の術無きを
安能臨四海    安(いづくん)ぞ能く四海に臨まん

開巻の第一首、あの壬申の乱に叔父大海女皇子(天武帝)に背かれ敗れた弘文天皇が皇太子時季の述懐であろう、三、四句に接し胸の熱きを覚える。大友妃十 市皇女は大海女の娘であった。鮒鮓の腹に父蹶起をうながす密書を含めて吉野へ送り、父天武は妃(亡き天智帝の娘)とともに起った。夫大友に背いた十市はの ちに神隠しかのように雷爆死した。わたしの小説「秘色(ひそく)」はこの世界を書いた現代小説である。

* ただ五言七言等を問わず また絶句律詩等を問わず、和製の漢詩はむしろ大友皇子ら、せいぜい菅原道真あたりまでを絶頂に、時代を下るにつれ、ことに幕末維新期の甚だしい和臭・稚拙・絶叫は読むに堪えなくなる。いわゆる詩吟という詠詩法のひどい悪影響である。しかも近世の、ないし日本史上でも最高位詩人とあげて良い新井白石の作を只一首も収録していない。
「明治」の本には、詩とかぎらず、往々奇態に捩れた国粋・権道主義が臭う。今日につづく長州閥政権の基本姿勢はまさに反動極みなき「明治」賛美を腹に持っ ていて、警戒を要すること甚だしい。勝海舟 坂本龍馬らの影もささず、水戸の幕末に聞こえた藤田東湖の如きは「夢攻亞米利加」と題して「絶海連檣十萬兵  雄心落々壓胡城」とぶちあげ、目が覚めて冷や汗を流している。

* 実はこの詩集のほかに、当面の創作に刺激を呉れる一冊を見つけて、ホクホクと機械の前へ来ていながら、その前に、ちと落書きに時を移した。
2018 4/26 197

* 夕過ぎて、「ただいま。帰りました」と建日子が顔を出してくれた。この頃は中目黒から一本で保谷まで電車で来る。車より安心、そのうえ晩飯に、とって おき美味い酒を「うまいね」とこの頃は喜んでくれる。酒など呑んで話しあいたいとはわたしの願、そしてこのごろはバカげた世間話よりもわたしが選り抜きの 日本映画を三人でみて賞味する。まえからも一緒に映画はよく観ていたが、近頃では山本富士子の「濹東綺譚」 そして鴈治郎・京マチ子・若尾文子・杉村春子 らの「   」 次いで、今晩が、田中絹代・久我美子・大谷友右衛門(先代・雀右衛門)の「噂の女」、建日子はこの間へ自分で木暮三千代・若尾文子の「祇 園囃子」にも感銘を得たらしい。こういう対話が理にも流れず感覚や感性で触れあえ、さらにはモノ知らずな建日子のためにかなり新知見も加わると思われて、 わたしはこの時間を喜びまた楽しんでいる。
強い雨とも予報があり、八時半頃にはまた都心へ帰した。からだ、大事にして欲しい。

* おやおや十一時半にも。今度は寝床に脚をつっこんで「湖の本」140責了待ちのゲラを読み、寝入るまで源氏物語「朝顔」巻や、生形教授監修のマンガ「平家物語」鎮魂の巻や「敗戦後日本現代史」や、新井教授ちょ「五日市憲法」などを読み進めながら、いつか寝入ることに。
2018 5/2 198

* ものを捨てても捨てても狭い家に 片小の雑多や捨てがたい紙片・書類から、いろんな道具・器具まで、処置しきれないまま日ごとに触れては置き場所しま い場所が動いてゆき、それでますます記憶が混乱する。一度、溜飲がさがるほどキッパリ分類し整頓できたらどんなにはればれするだろうなどと愚かな成らん咄 を繰り返し我と我が口でボヤイている。愚の骨頂だが、どうもこうも成りません。
2018 5/3 198

* 積んだ紙の山の下から、びっくりする大昔の、と、いっても東工大の卒業女子からだが、A4養子にビッシリ、建日子作・演出「リセット」を観てくれた感 想文、最後の最後の二行に、「奥様にもどうぞよろしく、もっと幽霊のような方かと思っていました。とっても「人」という感じがしました。」と。まったく記 憶にない手紙で、一緒に入っていたその人の作・小説二篇といっしょに大きな封筒に入っていた。仕事に追われ追われ封筒をあける余裕すら無しにそのままだっ たなら誠に申しわけなかったが、その芝居は同じ日に妻と一緒に出かけ、その頃は息子の応援に何十枚も入場券を買ってやっては学生諸君に観てもらったていた ので、観劇後に何人かも一緒に妻も入って喫茶店か鮨屋かで歓談したのだろう。
それにしても「もっと幽霊のような方かと思っていました。とっても「人」という感じがしました。」という感想は妻もわたしもついぞ人に聴いたことが無く、八十二歳同士の夫婦は腹をかかえて笑えました、なんだか嬉しかった。
わたしが、今、工大卒生でこの数年一等会いたいのはこの人なのだが、もう年久しく行き方が知れていない。残念無念。しかしまあ「幽霊のような方」とは。 わたしの小説のなかに妻として登場している描かれように、「生彩」が欠けているというのなら、まっこと、妻に申はし訳がない。やれやれ。
2018 5/3 198

* きのうの晩、昔の「工大」院生だった白澤智恵さんの小説「リセット」を読んだ。かなりの枚数をわたしに一気に読ませる筆力はあった、だがもっといい働 きの想像力と徹した推敲があれば、いまどきの文藝誌の新人作を優に超えていただろう、惜しかったなあと、どうやら二十年近くもものの下に眠らせていたらし いわたしの迂闊を、申し訳なく思った。それでも、このままではなあ、と、暫時、読み終えたA4束の原稿を汗ばむほど掌に掴んでいた。
添えられていた手紙、建日子の作・演出「リセット」を観てくれたあと、自分の「リセット」は斯うですと送ってきた、たぶん私小説そのものらしかった。そ して手紙の末に、劇場で初対面だったとみえるわたしの妻(建日子の母親)のことを、「もっと幽霊のような方かと思っていました。とっても<人>という感じ がしました」と書き結んでいて、昨夜、妻と大笑いした。こんな面白い手紙のことも何一つ記憶にないままだったとは、迂闊で気の毒でした。たぶんわたしもバ カ忙しい日々であったのだろう。

* 白澤さんのその後を、わたしは全然知らないでいるが、書きたいと云っていた「エンターテイメント」を書き続けているだろうか。じつに優れたエッセイの書き手だったし、短歌までわたしに習って作っていた人だ。
「工大」卒の同窓さん、誰か、分かる人はと此処で頼んでおく。
ペンネームが欲しい、つけて下さいと頼まれてあれこれ電話で折衝したこともあった。使っているのかなあ、どこかで。ひょっとして母校で専攻の先生をしてるのかも。
満杯の大教室である日の授業あと、つつと教壇へ来て、「河野祐子」と「岡井隆」の歌集が読みたい、貸して下さいと云ってきた、あの「嬉しかった」心地は 忘れていない。短歌などわたしの教室以前には無縁であったろう、河野さんと岡井さんか、いいセンスしてると、この二人の歌人を名指しで惹かれてきたことに 「秦さん」は感激した。

* 猛烈小さな活字を必要あってたくさん読み耽ったため、眼が痛い。九時半。
2018 5/5 198

* 秦の祖父鶴吉がのこしていった大冊の漢和大辞典や漢籍の多くがまだ読めてない中で、ポケットに入れて持ち出せるほどな漢詩集のいろんな編輯本の、ないし五巻本『唐詩選』や二巻本『古文真寶』のおかげでいわゆる「漢詩」を読む嬉しさはしっかり承け継いできた。
そんな中に『作家略傳 評釋國民詩集』も混じっていて、「伯爵芳川顕正閣下題字」「前陸軍教授四宮憲章輯釋」 などと扉がある。東京神田の「光風楼蔵版」「明治四十二年七月発行」 定価は「四拾銭」とある。この一冊の有り難いのはおおむね和臭の濃い詩作よりも「作 家略傳」にある、まさしく略傳ではあるが、二百人もの日本漢詩人の名と作が採られてあり、大いに助かる。赤穂義士の武林唯七や騎兵奉行から後に朝野新聞社 長になった成島柳北の傳も作もある。ちょうど書庫で、やはり祖父の遺籍に相違ない『柳北新誌』なる和綴じ、ほぼ個人全集をみつけたところで、此処の略傳で 早速に横顔を捉え得たのも有り難い。
2018 5/6 198

☆ 殖えずにしまふ母上の金    武玉川

* 「母上」などという甘え方で母親の懐金を厚かましくアテにするのは、なにも身分ある家のドラ息子・ドラ娘にかぎらない。
わたしを育てた秦の母は、一週、十日ずつの生活費を父からもらうのに日ごろ泣きの涙でいたから、とてもとても「母上、お金頂戴」など云えはしなかった。 老いて老いて我が家の叔母も含む三人の老人はみな九十過ぎまで長命し、わたしたち家族に見送られたが、なかでも九十六まで一等生きた母が「一期の呟き」 は、人間生きの根を左右されるのは、「お金やな」であった。
母は年金も下りるようになり最期にはかなりの金額を仕舞いこんでいた。母を見送ってからわたしははじめて「母上」の「殖やし」ていたお金を謹んで頂戴したのだった。
うちの息子や娘が、妻を「母上」呼ばわりしているかは知らない。娘にも息子にも過分にはあえてしんかったが、いろいろに気配り・金遣いはしてきたつもり でいる、友達からは二人とも「貧乏人」とわらわれていたとも聞いているが。貧乏こそ、人の常というもの、そこで才覚を養う以外に具体的な努力はない。

* 努力も何も、今日は、これまで十二時間の、三分の二を昏睡していた。目覚めたくなかった。からだのアチコチが痛く熱を持っている。やり過ごせるかどうか。

* 「三軆千字文」をほぼ四分の一 書き写してきた。どう探索してもその字体で探し出せない漢字がある、が、かなり拾い採れるようになった。天地二巻あ り、「地」巻奥付の上方に毛筆で「秦」と書き込まれ祖父鶴吉の愛玩した書籍とその手擦れの状態で分かる。「天」巻末のシロの頁にじつに謹直な筆で
天與正義
神感至誠
の八字が書き出してあるのは祖父の思いを反映していると読める。穿鑿しないで眺めているが、いづれわたしは機械に書き写し終えてどんな成句を心に畳むことか。
「地」巻奥付には、祖父鶴吉の二句にはたぶん倣うまい。

明治十八年三月四日 版権免許
明治十八年五月    刻成納本    とあって
書 者    大阪府平民 邨田浩蔵  東区十二軒町八番地
譲渡人    大阪府平民 花井卯助  東区安土町四丁目十一番地
譲受出版人 大阪府平民 濱本伊三郎 (住所破損)

とあって、両巻の何処にも頒価が無い。和紙の和綴じ本で手触りは柔らかに温和なもの。

* この手の和本に心をやれるのはわたしの有り難い所得で、どんなにその時々が暖かに柔らかいか知れない。小説家というのはかなり人間を泥土や汚穢のなか に眺めがちで、しんどい仕事なのである。想像を絶してわたしが秦の祖父のこういう遺産に教養ないし慰撫されてきたか計り知れない。顧みて此のわたしが朝日 子や建日子らに、まして行方すら知れない血をわけた押村家の孫みゆ希のために何も遺し得ていないのは、身の竦む恥ずかしさである。
やす香に生きていて欲しかったとつくづく悲しい。
大恩ある秦家は、もう秦建日子を最期に絶えてしまう。男の子建日子の生まれたとき秦の両親や叔母が小躍りして慶んだワケは、あまりにもはっきり分かっていた。女の子朝日子が先ずの誕生もさぞ嬉しかったろうが、嫁いでゆく他家へ孫とも覚悟していただろう。

* 明治二年生まれの秦の祖父鶴吉は、うえの「千字文」が刊行のころ十六歳、今で謂う高校生になる頃か。どんな少年だったろう、どんな家庭だったろう、なにも識らないのである、わたしは。

* ウハっ。もう十二時になる。日々のタイムスタディが、崩れかけている。
2018 5/9 198

☆ 赤子拾うて邪魔な物知り    武玉川

* 貰ひ子だか里子だったのか知らなかった、どうも後者であったろうが四つ五つで秦の家に落ち着いた頃、母が銭湯へ連れて行くと、よう、はだかの小母さん らがわたしを見てははだかの母に「お父さんによう似てはる。ええお子や」などとひとしきり空疎なアイサツを呉れていたのをわたしはハッキリ覚えている。 「お父さんに似てはる」ワケのないことを誰もが知っていたはず。父も母も叔母もなんとかかとか辻褄をあわせてはわたしを「秦」の子と落ち着かせていたの だ、思えば「気しんど」なことであったろう。ちっちゃかったわたしは、この家がつまりは「よその云え」と分かっていてそんなことは口にしない出来れば思う まいと思いながら日々育てられていた。そのころわたしは何故か「ヒロカズ(宏一)」と呼ばれていて、京都幼稚園では「秦宏一」と名札をつけていた。妙に怖 かった祖父は「ヒロこ」と云うていた。「ひろコ連れて商売に行く」と老耄後に「譫言」をよく云うたそうだ。このヒロこの「こ」は、島津公だの楠公だのの 「公」の極端におちぶれた蔑称であったろう、京都ではよく耳にした。
昭和十七年、秦の母に手をひかれ国 民学校一年生になるべく連れて行かれた日をわたしは、櫻も咲いて晴れやかに賑わった運動場をありあり覚えているが、この時に受け付けでもらった名札らは 「秦 恒平」と見知らぬ漢字が書かれていた。母は黙然と「それでええのや」という顔をしていたので、わたしは無抵抗に受けいれた。これね「もらひ子」であるゆえ の通過儀礼のように黙過したのだった。「おまえ、もらひ子」と云われようとわたしは黙ってれば済んだが、父や母や叔母はさぞ難儀であったろう。
2018 5/10 198

* 終日、発送作業に。途中、妻が玄関外の低い石段で前向き俯せに転倒し辛うじて右手のひらで庇って幸い大過なきは得たが、大事になりかねなかった。肝を冷やした。
作業は、永く永く掛かったが、目はともかく耳はアケて置けるので、終日、取り置きの映画を幾つも見聞きしていた。「野菊の墓」「幸せな日曜日」「お嬢さ んに乾杯」「おはよう」「お茶漬けの味」等々もう二つほども、懐かしく楽しんでいた。黒澤明、木下恵介、小津安二郎らの監督映画。原節子、中北千枝子、高 峰秀子、木暮実千代、淡島千景、津島恵子、三宅邦子ら、懐かしい顔を沢山見た。

* 往年の映画からは時代のうつり変わりとともに、昔の女性たちの言葉遣いがしみじみ懐かしまれる。

* アリャラ 一時半になっている。明日も新刊の「一筆呈上」送り出す。
2018 5/12 198

* 来週は月末の日曜をはさんで久しぶりに俳優座の芝居や聖路加の診察が相次ぐ。この週明けには建日子が何処だか郊外の薔薇園へ行かないかと誘ってくれている。億劫でもあるが外出して歩くという「機会」には相違ない。
2018 5/16 198

* 宇都宮の岡崎理恵さん、地元新聞の、地元特産の餃子がらみの劇映画を監督制作した秦建日子への大きなインタビュー記事紙に添えて、お土産を送って下さった。京の鶴屋吉信の「柚餅」「季のこよみ 水と楓」が入っていて嬉しかった。
建日子は三重県の桑名で、また栃木県の宇都宮で「地方創生」政策に参同の劇映画を制作してきたらしい。何でもいい、短篇でも小品でもまた大作でもいい、他に阿ることなく底光りのする「作品」を産んで欲しい。

* 身に付いた垢とか脂気とか臭いは、入浴のつど洗い流すのが常であろう。昭和十四、五年ごろのこと、秦の母に銭湯の女湯へ連れて行かれたのは当たり前の 有り難い事であったが、そんな時の母の持った金盥には白い「軽石」と呼ぶモノがきっと入っていて、これを 使って踵などをきしきし擦っているのにいつも 「なんでや」と半ば呆れていた。しかし女湯のなかでは例外無げに同じそういう「まはだか」姿が居並んでおり、わたしは子ども心に奇異に眺めつ聞きつしてい た。
そういえば「糠袋」というのも使われ、秦の父と男湯へ行くと、「ええオッサン」にも糠袋を遣っている人がいた。
なにも軽石や糠袋のことが言いたいのではない。文章、文藝のことを思うのである。
文章の隅から隅まで、からでいえば手指や足の指の股からなにから、とことん垢も臭いも脂気も徹底的に洗い流さねば済まぬという文章が、はたして読む人の 心を打つのだろうか、と、そういう疑問に触れてみたいのである。無感情なまでに洗いに洗いさらに洗い上げた文章は、さっぱりと明るい、またキッパリとムダ が無いと、一応言える。しかし魅力が感じられるかとなると、どうも味も素っ気もなく、文の趣旨を伝える文には明快なようで、どう読んでも、いくら読んで も、汚くはないが、ちっとも美しくない。ロボットが書いた「名文」ならぬ味わいなど感じ取れない只の「無色簡明」にだけなっている。推敲や添削の意義をど こかで勘違いしているのだ。
文章の妙はただただ没個性に清潔を願うところにはない。直哉には直哉のにおいが、潤一郎には潤一郎の色がある。
問題の奥には、言葉が、文が、文章が「音楽」にもかよう独自の「文体」として生きなければ、どんな多様な内容のお話でも味気なくなって、手放してしまうという文藝・文学のこわさが在る。自身の生まれつきもっている臭いや脂気や垢の味わいを殺せば澄むないし済むものではない、逆に生かせる道があるのを根気よく辿ることだ。
2018 5/17 198

☆  湖の本
梅花卯木がこのところの風で散ってしまいました。
秦先生、『湖の本139』拝受。有り難うございます。16日に入金させて頂きました。
「一筆呈上」、東京新聞の「大波小波」にも執筆されていたのですね。当地では「中日新聞」の夕刊でいつも楽しく読んでいました。「なるほど」と、その優れた洞察力や批評精神に感心するしきり。中身に沿った筆名も面白く、味わっておりました。
短文なので、再読も、ちょっとした隙間のような時間でも楽しめます。時事なのに古びた感じがありません。有り難うございます。 珊

* 「異色の蔵出し」といわれ、ま、思い通りに受けいれて貰えているようで、有り難し。
ときに敢えて試みる脱線も含むにせよ、要は、観測と批評。そして時代というのは悪しい面ほど容易に変わってくれないままかえってひどくなるのが、ありあり見えてくる。そこを的確に見つめながら対応しないと。
むかし朝日子が、時としてわたしの口を叫ぶように封じたことがある、「パパが言うと、当たっちゃうんだから」と。
2018 5/21 198

* 明日、建日子が郊外の廣い花園へさそってくれているが、わたしは遠慮する。この季節は、奇妙にからだに堪える。妻は、わたし以上に、この梅雨入り前の 季候に弱く、入院を含むほどの剣呑な体違和を何度も重ねてきたので、よほど要心して連れだしてもらいたい。過剰・あぶないと感じたら即、帰宅させて呉れま すように。
いま、此の欄のはじめに挙げてある蓮池の花々、写真で観ているだけで心涼しい。
広大な公園は「歩く」もいいが日照りを避ける場がすくなく、いったん疲れ始めると、ひどい。
建日子に、重々カーサンへの気配りを頼んでおく。

☆ 家内の留守を狙ふ鶏飯
女房の留守も面白いもの   武玉川

などとあるが、留守を狙って喰いたいものもなし、ほくそ笑むような話も何もない、せいぜい録画の古い映画か、寝ころんで読書か。
力の湧くにしたがい書きかけ小説の吟味を楽しみたいが。
一升瓶の「呉春」が減りそう、かな。過ぎまいと堪えつつ、減って行く。
2018 5/21 198

* 息子や妻に遠出の薔薇園へ誘われたが、遠慮した。なんとなく、億劫。家で、ボヤーッとしている。選集二十七巻の再校がとどき、写真家の近藤聰さんからお酒一升を頂戴した。
寝てしまいそう。強烈に頸まわりがツマリ気味に痛んでいる。

* 妻が出かけ妻が帰ってくるまでアソンでいた。酒も呑んで居眠りしていた返ってきたときはテレビを付けたまま居眠りしていた。
2018 5/22 198

☆ 講中寄って褒める戒名    武玉川

* 秦の親たち三人の戒名が、幸い好もしいとみている。
わたし自身は、お寺さんに戒名をつけて貰いたいとは願っていない。秦 恒平で宜しく、ま、自身で名乗ってきた「有即斎・宗遠」でけっこう。

前世紀末になるか、愛したネコの子のノコにわたしも愛されていた。

* こんな写真を、日ごと懐かしく見入っている。前世紀の末か、十八年生きてくれた愛猫ノコの、もう晩年というに近いか。ノコが逝ってしまい、何年かおいて黒いマゴが奇蹟のように生まれたての姿でわが家を訪れ、十二年のあいだ、仲よく、われわれを本当に愛してくれた。
ノコとの写真、私の髪、白くなりかけている。八十二歳の今は、髪も鬚も真っ白。黒いマゴも逝ってしまった。
2018 5/24 198

* 昨夜遅く読み上げた鏡花の京都編、「笹色紅」。もってまわったおはなしではあるが、場面場面が目に見え手に触れるように私には親しく、大方は芸妓、茶 屋の女たちの「京ことば」が、ようここまで鏡花が聴き取っていると舌を巻くほど、正確とは思われないままにも感じはじつに面白く身ぢか耳ぢかで、それに惹 かれた。それ以上に、縄手、大和橋、竹村橋、西石垣、大嘉、千茂登だの西大谷だの、そしてクライマックスを産み出す疏水の瀧だ、もう新門前のわが家から小 走りに二、三分の近所だった。疏水の瀧(鴨川運河・疏水閘門)へは、よく人が身を投げたし、水死の事故も起きた。お話しはいかにも鏡花の流儀、引き抜いて の大化けなど笑えるが、なにしろ祇園の「芸妓言葉」はしみじみ身に沁みた。編者が解説で不自然としている「「私(あて)がもつはけ」「支度させるはけ」な ども、この界隈で育った秦の叔母のもの言いそのままで、語尾の「はけ」は後年に瀰漫の「さけ」よりもよほど順当であった。鏡花の聴き取りはただならぬ耳と 語感との良さを見せている。その点、京の土を踏まずに書いたと思われる「瓔珞品」の京ことばはよほど不自然に読める。
四条大橋から手の届きそうな辺に竹村橋という、流れては替え流されては替えの仮橋がむかし渡してあったとは縄手育ちの父にも叔母にもよく聞いた。芸妓舞 子が自殺する場としても知られたのを鏡花は舞台に用いている。後にはそんな流れの速い深い疏水上に「かき春」という舟料理や浮かんで、一度両親や叔母にご 馳走した。それも今は無くなった。
今一箇所、一対作である「楊柳歌」にも<この「笹色紅」にもあらわれる、これまた花街の女が心中や自殺によく走ったおそろしい魔所があった。一人歩きまわる少年のわたしも、其処へは近寄らなかった。

* 鏡花の書き遺してくれた「楊柳歌」「笹色紅」は、京都が感謝していい「故山を飾る」逸品である。
2018 5/27 198

* 例年雨季まえから梅雨明けへの時季は妻のきまっての難所で、発熱したり、時には去年のように入院したりする。今年も、軽熱・微熱を出し、昼にかすかに雑炊を一椀食しただけで寝入っている。
花園神社特設舞台での、観たい松本紀保主演「天守物語」も、目下はパスの構え。わたしも妻も医者・病院通いが重なる。余儀ないまでも乗り越えて行かねば。

* 辛うじて夕方には起きて夕食を作ってくれた。食後わたしは潰れたように暫く眠り、妻と交替して起きて、ひとりテレビを観ていたが。疲れた。

* 大事な眼鏡の一つを見失い見つからない。見当がつかないまま、シンから腐っている。こんな気分のママ五月を見送ることになった。
妻の軽快を願う。
2018 5/31 198

* 妻の熱さがらず。病院に今日明日、主治医がいない。何とすべきか、徒歩ではムリ。言語、意識は目下は正常なれど、このまま体力をおとすとよくないだろう、点滴のためにも入院余儀ないかとおもうが、担当医師が不在では。週明けの歯科医通いは断る。
気温の乱高下が響いているか、例年の如し。昨年の今頃は黄疸を発していてすぐ入院した。壊死していた胆嚢は秋に切除手術を受け、たいへんだった。黄疸の顔色とは不分明だが熱のある顔色にはちがいない。困惑しつつ、アテドなく思案している。

* 病院へ電話で主治医への連絡を頼み、妻はハイヤーでわたしは自転車で、十一時前、近くの(妻がかかりつけの)病院へ。
主治医の診察で、諸検査を受け、要心のために即入院、最短で六月六日までと。抗生物質を含む点滴など受けている。体温の上下動が気になる。

* 一旦、わたしは帰宅。

☆ 金曜日です。
HP見て驚きました。今日は金曜日です、今日午後のうちに主治医でなくても早急に診察していただいた方がよいと思います。土日二日待つのは不安です。早い手当てを。
僭越は重ねて承知で、敢えてメールします。  尾張の鳶

* 感謝。
わたしも、土日を手を束ねて発熱しながら週明けをまつのは危ないと感じました。医師外来へは出ていなくても泣きつく気で病院に電話し、繋がった。まずは、よかった。週明けの歯医者は予約キャンセルした。

おいおいと老いをはげまし老いらくの
老いにつまづき日々を追ひ行く    遠

* 要用に備えて、のちほど、また病院へ走る。病院というところは、ひたすら「待つ」ところ。校正の仕事はひたすら進む。心身眼 疲れるけれど時間は無になっていない。。
さしあたり、夕食には何が食べられるか、わたし。食欲薄く、しかし酒は自転車に危なく響くしなあ。

* 建日子に委細を伝えて置いた。彼、仕事で、東京にいない。

☆ それは心配ですね。 建日子

おいおいと老いをはげまし老いらくの
老いにつまづき日々を追ひ行く    遠

* 要用に備えて、のちほど、また病院へ走る。病院というところは、ひたすら「待つ」ところ。校正の仕事はひたすら進む。心身眼 疲れるけれど時間は無になっていない。。
さしあたり、夕食には何が食べられるか、わたし。食欲薄く、しかし酒は自転車に危なく響くしなあ。

* 建日子に委細を伝えて置いた。彼、仕事で、東京にいない。

☆ それは心配ですね。 建日子

* 太めの指輪のようなちっちゃなドーナツ三、四つとバナナ、缶ビール、で遅ーい昼飯代わり。これから、もういちど自転車で、病院へ頼まれモノ届けにゆく。慎重に走らないと。

* はっきり言ってなにゆえの即入院なのか、診断はついていない。ただ軽熱程度までは点滴していて、まだ上がる。本人は睡いらしい。ナースたちは昨秋のタイヘンな入院と手術をよく覚えていてくれて、なんだか、懐かしそうに歓迎してくれるのが奇妙。
出ないかと思ってた夕食も出たので、帰ってきた。自転車だと五分ほどで帰宅できる。しかし妻のいない家へ独りで帰るのはつまらない。
気分を刺戟したくて「和加奈」で中トロ鮨を一人前とあすのために太巻きを出前して貰った。鯛頭をこってりと煮たのを、わたしが独りと知ってお土産に添え て来て呉れた。ご馳走。そうはとても独りで食べきれないほど大きな頭だが、東村山の地酒が美味い。しかし妻が脂けを避けているので遠慮してきた「中とろ」 の厚い握りを一気に七つも喰ったのは、久々の快食であった。

* なんとなく酒の廻りで、睡くなる。忘れた心地で、ぐっすり寝入りたい。思い切って多く呑むよりいいだろう。

* 見失っていた大事な近用眼鏡の二つが、ケースのまま山と積んだ参考書の底から現れた、現れて呉れた。一の気がかりが失せた。ああ、よかった、が、まだ何かあったゾ。忘れる…ということが増えに増えた。ま、いいか。
もの忘れそれも安気や梅実生
と呟いてからでも、もう何年か。
2018 6/1 199

* わたしの好きな映画シリーズに「釣りバカ日誌」がある。昔昔に第一話を観た日から「スーさん」の幸福感をわたしのもののように受けいれた。これは明ら かにわたしの唱え表し続けてきた「身内」映画である。そしてまたハマちゃんの奥さんミチコさんを演じる「石田えり」が、これ以上の理想的な女・妻を日本の 映画は生んできただろうかと思うほど、好き。
で、録画を観かつ聴きながら、はや、六月二十二日出来の「湖の本」第140巻発送の用意に、封筒へのハンコ捺しをコツコツコツと始めた。妻が退院の日までにハンコ捺しを終えておくと、ずいぶんラクになる。宛名カードは妻に刷って貰っている。
六月八日の「選集」第二十七巻送り出しの用意は、もう全て仕遂げてある。その日までに、せめて退院していてくれると気が晴れるのだが。
2018 6/1 199

* 二時半頃まで本を読んでいた。

* もう病院では目が覚めているか。体熱、さがっているとよいが。
2018 6/2 199

* からだをやすめて午前中を家で過ごし、これから入院手続などのためにも病院へ妻を見舞う。
ハンコ捺しなどしながら黒澤明の「羅生門」を観聴きしていたが、写真の圧倒的な素晴らしさに反し、当時の録音性能のわるさが禍してT、名優達の言葉が聴き取りにくいのが、難。海外ではおそらく科白など飜訳されていて、その御蔭で華々しく注目されたと想われる、が。

* 三時四十五分、一度帰宅。

* 「羅生門」見終え、疲れて暫く寝入る。

* 六時過ぎ、頼まれもの持って自転車で病院へ。
微熱と下痢は続いているが、本人は元気を取り戻してきた気でいる。診断は曖昧模糊としていて、顕著なのは各種の点滴を続行中ということ。
七時には面会時間切れで。帰路、セイムスに寄り安直なラーメンを買ってきたが、すこぶる不味い。ヨーグルトに砂糖そえて二つ食べ、買ってきたやすもののバレンタインをちっとずつ嘗めるように。
睡眠不足で睡い。睡らないとバテるおそれあり、しかし、予定の、しかしささやかな一と仕事だけはした。十時四十五分、機械から離れる。
病院でも安眠してくれるように。どんな観戦にも侵されていないように、祈る。
2018 6/2 199

* 庭の草花に水をやる。

* 昨夕買って帰った安直麺類の不味さにおどろく。酔いさえしなければ酒は恰好の熱源だが。自転車での病院往来のためには自粛していないと。
暑い。
2018 6/3 199

* 十一時をまわった。病院の昼食の終える時分に今日も見舞う。かなりの日照り。
2018 6/3 199

* 正午過ぎに見舞い、一時に建日子も来てくれ、待合いで話す。妻は改善方向にあると見える。
わたしは朝も昼も食事らしきは成らず。常は何でもない背負い鞄が肩に食い込んで痛いほど。三時過ぎには家へ帰ってきたが、へとへと。ミルクを呑みながら ミルク瓶を卓から落とし、床はミルク浸し。暑さにも負けている。酒は、酔いが早く、自転車に乗るためには禁じるしかない。昨夜は十分な時間寝たと思うのだ が、今夕方四時、へとへと。
もう一度見舞って、早く帰宅し、寝ようと思う。大きな冷蔵庫が、わたしには、ほとんど役に立っていない、のではなく、わたしが蓄えてある品々を生かしてくう術を知らないのである。バカである。

* 明日の検査で異常がなければ水曜には退院かと聞いている。それまでガンバルから、無事退院へ漕ぎつけて欲しい。
これも、「選集」送り出し「用意」がカンペキに出来ていればこそ、まだ身も保っている。「待ったなしの仕事」と「必要な見舞い」と「ひとり暮らし」とが、きりきり成り立っているのは早め早めに仕事の「用意」を終えているから。

* 六時帰宅。セイムスで買ってきた串団子とあんパンと缶ビールで夕食に。躰を横にしてやりたい、と思いながら。
2018 6/3 199

* 九時半、ドラマはそのままに、もうやすもう、床についてよこになろう。
妻の明日の検査が無難に済むように祈りたい。無事なら、水曜朝の退院がゆるされるかと期待している。今日見舞った妻は、概ね、元気を回復し、熱もひき、 下痢もとまり、苦痛は訴えていなかった。ベッドの上で、わたしの責了を控えた選集校正ゲラを、「いい原稿」と喜んでくれながら、読み手伝いもしてくれてい た。
いい眠りの休息をと願う、妻にも、わたしにも。
2018 6/3 199

 

* 今日、再度三度の諸検査。無事を祈る。
午前中は家で過ごす。牛の這うようにじりじりと要は進めているが、疲労も濃い。去年の入院は、一度目は雨季でずぶぬれて自転車を走らせていた、二度目の大事は晩秋であった、もう冷えていたが、只今のこの蒸し暑さより見舞いへの自転車往復はラクだった。

* 妻、電話してきた。青汁や香醋などのありか、分かる。
検査は終えたと。状態は良くなっていそうに想われる。ありがたし。
2018 6/4 199

* 日盛りの二時に病院へ。概ね快方に転じていて、明日もう一日点滴し、明後日午前中でたぶん退院と。悪い感染もなく、悪性の熱でも無かったのは真実有難い。怪我無く無理もなくなんとか酷暑の夏を乗り切りたい、そういう気構えのための一週間治療であったと思おう。

* 六時の配膳を見届けて帰ってきた。串団子二た串、ヨーグルト、缶ビールや少しの洋酒・日本酒で、京マチ子・森雅之・久我美子・浦辺粂子らの犀星原作「あにいもうと」を観て、休息。校正の仕事は、病院で、やすみなく進行していた。
京マチ子、ことに久我美子を、わたしは昔から好き。この映画では森雅之の「兄」も佳い。「羅生門」の森雅之より情も実もみえて男の美しさがしっかり出た。 浦辺粂子ら両親、そして兄の森、姉(いもうと)の京マチ子の中心にまだ細いが心清い心棒のように清潔な妹の久我美子が立っていた。小品とも謂える映画だ が、記憶から消え失せない佳品である。
2018 6/4 199

* 機械の前で居眠りに落ちていた。もう閉じて階下へ。そこし酒を味わって寝よう。

* いま、機械の中の黒いマゴと、ながなが話しあうていた。とってもいい顔といい目をしてくれている。
2018 6/4 199

* ワケ分からず食べられそうなあれこれを呑み込むように口にしていて、体重が増えていた。
何に驚いたかフト目ざめて。そのまま起きて、溜まっている瓶・缶の類を指定の場へ出してきた。便意を促すにだけ役立つような朝食、冷たいミルクとパン少し。睡いが。

* 上野千鶴子は「おひとりさま」という一語を表題に含めた本をもう五六册も呉れている。家事は曲がりなりに最低限は覚えて行くにしても、「ひとり」で老 耄の命を永らえて行くどんな意味・喜びがあろう。世間も國も世界も、心惹くナニモノもなく、心惹く多くの全ては過去への記憶にある。自分一人で創れる世界 はあろうと思うが、「ひとり」でのそんな営みにどんな喜びがあり得よう。
安倍、麻生、自民、トランプ、金世恩、習近平、プーチン。わたしに生きる嬉しさをささえるどころか醜悪なまで日々の立ち行く土台を破壊し続けている。もうケッコウだ。

* よそう。何を書き散らすか知れない。

* うえに挙げた三枚の写真に、思いを静めている。美しいものに見入れる喜びが、いまや何より尊い。徳力さんの版画は堅持のこの詩の全部を何枚かに作られているが、何十年かまえ、京都の姉小路の嵩山堂でみつけ、この一枚だけを買い求めてきた。十牛図の版画も買った。
「西につかれた母あれば」という思いは東京で暮らし京都に秦の両親・叔母をのこしていたわたしには四六時中思いを離れぬ苦衷であった。わたしも妻も何度 も何度も京へ奔って老いの苦境を支えたが足りることでなかった。三人ともついに東京へ引き取ったものの、つまりは順々に死なせてしまっただけ、申し訳な かった。それでも秦の父は九十一、叔母は九十二、母は九十六まで生ききった。母まで生きるのにわたしはもう十四年堪えねばならない。
もう一つ侘びのしようもない申し訳ないことは、建日子に妻子が亡いからは必然「秦」という家は絶えるのである。育てて貰って、「家」を遺せない罪はひとえにわたしが引き受けて死んで行かねばならぬ。御免なさい。
生みの母、実の父は秦の親たちよりもっと早くに死んでいて、実の兄恒彦も、父を異にした深田家の姉一人、兄三人も、とうに亡くなっている。
妻の両親は、わたしたちが結婚したときに二人とももう亡くなっていたし、その後に妻の兄夫婦も亡くなっている。
わたしの点鬼簿には記憶のかぎりの、百、二百の名がもう並んでいる。重い事実である。

* ともするとトロンと睡くなる。眼をとじてしまう。

* 一時半に病院へ。六時まで病室や待合いで選集27の再校を。妻も手伝って読めるようになった。今夜まで点滴をつづけ、明午前退院が予定された。無事に帰って欲しい。

* 夕飯に饂飩を茹でてみたが、美味くは行かなかった。神戸の吉田章子さんに送っていただいた珍しい純米大吟醸の一升瓶の口を切った。呑むと、とろっとす るが、八時半、これから一仕事する。 とにもかくにも撫に明日の妻帰宅を待ちたい。早めに床に就こう、などと思いながらどうしても一時、二時まで本を読ん でいる。黒澤明の「七人の侍」が観たくもある。黒澤映画には、想じた聊かの難があるような気がしている。「七人の侍」は名作に類するが出だしに、三十分ま では満点の出来には思われない。『羅生門』でも『どん底』でも、後期の大作でもそれを思う。「天国と地獄」とかいった現代の警察映画の叩けば音のするよう な緊迫作をわたしは佳いと思ってきた。
2018 6/5 199

* 無事退院帰宅を迎えたい。夜中すこし雨が降ったか。
2018 6/6 199

* 十一時前、退院。玄関で迎えた。よかった。
2018 6/6 199

* 全身不快。捌き切れない。とにかく今日の要事を済ませる。凸版印刷や製袋への支払いを終え、必要な用意の品を揃えに文房具店へ自転車で往来。
家中を好きに鼠の走る痕跡あり、対策に追われる。
2018 6/7 199

☆ 猫
お元気ですか、みづうみ。
ネズミの対応に追われたとのことですが、ネズミは色々な食糧、砂糖袋をかじったり観葉植物を食べたりするだけでなく、極めて不衛生で さまざまな病原菌を運んできます。みづうみと奥さまに病気を感染させるなどどんな悪さをするかわかりません。
ネズミは二センチ程度の穴からも出入りするそうなので、専門業者を呼ぶなどしないと、素人のみづうみと奥さまでは対応できるものではありません。今の状況を推察すると毎夜跋扈しているはずです。
一番効果のある方法は、しかし、業者ではなく「猫」です。猫が来たその日からネズミはでなくなります。天敵のにおいは絶対です。
今までもネズミはご自宅付近にいたにちがいありませんが、マゴ君が守っていたのです。
以前近隣でネズミ騒動があったときに、専門の駆除業者が一番効果のあるのは「猫です」と言っていたそうです。ネズミの通り道をふさいだり、毎日消毒し掃除する手間を考えると、みづうみのご自宅の場合は「もう猫しかない」と思います。
もちろん、みづうみと奥さまの体力とご年齢を考えると猫を飼うことにためらいのあることは当然です。
もし三つの条件が揃えば、早急に猫をお迎えください。お慰めにもなるでしょうし。
一、みづうみと奥さまが体力的に飼えなくなった場合建日子さんが飼育を引き受けてくださるということが絶対条件になるでしょう。
二、子猫ではなく成猫を飼われたほうがよいと思います。子猫と違い成猫は里親がみつかりにくいものですから、保護施設にはそのような猫はたくさんいます。人懐こい成猫なら、子猫より手間がかかりません。
三、完全室内飼いになさってくださ い。交通事故や病気の感染リスクをなくせますし、殆どの場合里親の条件として完全室内飼いが条件になっています。歴代の猫ちゃんたちは自由に外を行き来し ていたようですが、猫のためにも、衛生的にも、迷子になる心配のためにも、みづうみと奥さまのご負担を減らすためにも、猫がいつも室内にいるほうがよろし いと思います。

ご検討いただければ幸いです。相変わらずのお節介でございました。

取り急ぎ。  玉  玉虫の光を弾き手飛びにけり  虚子

* これしかないかと思案しています。感謝感謝
2018 6/9 199

☆ 建日子です。
撰集、無事、いただきました。
2018 6/13 199

☆ みづうみ、お元気ですか。
更新が滞っていらしたので、お具合が悪いのか、それともパソコントラブルかと心配しておりました。まさかお風呂で溺れそうになっていらしたとは! 「ど うか叱責しないで下さい」とのことですが、以前からの忠告を無視していらしたせいだと、やっぱり申し上げておきます。お風呂でご昇天なさる方はとっても多 いことをお忘れになりませんように。この季節ならシャワーだけでもよいくらいです。
とにかくご無事で本当によかったです。
今後同じような危険をお感じになりましたら、すぐにお風呂の栓を抜くようにしてください。風邪ひくかもしれませんが、溺死という最悪の事態を防止するためです。また、水中から人体を引っ張り上げるのは大の男でも無理です。水を抜いてからでないと助けられません。
以上、わたくしの心配は 正当な理由のあることをもう一度申し上げておきます。
選集二十六巻頂戴いたしました。添えていただいたお言葉も宝物です。ありがとうございました。選集の並んだ本棚が壮観です。

早速お兄さまとの「兄弟往復書簡」を読み終えたところです。これまで一度もお兄さまの書かれたものを拝読したことがありませんでした。みづうみが「兄は 『身内』」と断言していらしたことがこれほど理解できたことはありません。秦恒平論を書く研究者にとりましても示唆に富むものであると思います。
お二人の文章の息づかいの類似に血縁だけでない魂の兄弟を感じつつ、内容の深さにも圧倒されてしまいました。
「北澤恒彦」と「秦恒平」は、父母だけでなく、京都の歴史と文化、他にも大きな何かをわかちあっていたソウルメイトでいらしたのだと痛感いたしました。お兄さまに「死なれた」ことは、きっとみづうみの人生の色を変えてしまったでしょう。

ご体調が良いはずがありません。皮膚科も薬のあうあわないがあります。億劫かもしれませんが、病院各科にこまめに通っていただきたくお願いいたします。どうかご無理なさらないでください。  金魚  思ひ出も金魚の水も蒼を帯びぬ  中村草田男

* 感謝。

* 兄恒彦との往復書簡を入れておいてよかった。わたしの希望を兄は何一言の躊躇もなく快く受けいれて呉れた。嬉しかった。生き生きと語りかけ語りついでくれて、優しかった。嬉しかった。他のだれ一人とも成し能うべくない出逢いであった。         2018 6/13 199

☆ 『秦 恒平選集』第二十六巻を拝受いたしました。
余人では成立し得ないこの一巻の深さと楽しさ、そして京のいけずを早速に味わっていますが、何といっても私にとってのこの一巻の白眉は、北澤恒彦さんと の往復書簡です。北沢さんの京都のいまのいく街を歩きながらの省察に対して、京の歴史をさすらう秦さん、お互いに敬愛を内包しての 対峙は、冒頭から達人の真剣勝負の緊張感をはらみ、京都のみならず、日本の歴史、現在、さらには「あす、あさって」へと読む者を誘います。お二人のエッセ ンスが生命をもった言葉で綴られていて、世にありふれぬご兄弟の縁と絆を感じ、強く惹かれました。
北澤恒彦さん、魅力的な方ですね。
いつもご高配ありがとうございます。
うっとうしい気候が続きます。どうぞ呉々もご自愛下さいますように。  敬  元・講談社出版局長

* こう言ってもらえれば、ますます兄が恋しい。血をわけ身を分けた最良の只一人だったと思う。出会って十余年と有るか無いかのあまりに短い兄と弟であった。
2018 6/18 199

* また気ぜわしくなってきたが、明日「四十九年」めの桜桃忌午後には、妻の入院で延期していた歯医者へ夕方には出掛け、あと、その脚で街へ出ようかと話 している。明後日には聖路加の内分泌診察があり、金曜にはもう「湖の本」第140巻発送が始まる。三十二年ものあいだ140回も本を「発送」という力仕事 を重ねてきたわけだ、なんという珍な作家で珍な夫婦だろうか。そして七月早々にはまた聖路加へ通う。どんな暑い真夏を迎えるのだろう、関西の大地震の被害 たいへんと聞くが、あの人この人らみな無事を願わずにおれない、天災地災も、政災もまこと叶わない。

* 小説を前へ前へ押し進めたいと、せめてそればかりを願っている。バテて潰れないように気を付けたい。
2018 6/18 199

* 二人で予約の歯医者へ。妻は入れ歯の調製に一時間余もかかった。
桜桃忌という日でもあり、その脚で銀座へ出、肉が食べたいというので、三笠会館の七階の焼き肉へ上がった。神戸のクロ和牛を、妻は100グラムと野菜な どと少量のビール、わたしは200グラムの肉だけをビールで。此処のビールの美味いことは以前に独りで確かめていた。至極満足。
散策かたがた日比谷のクラブへ入り、先夜、柳・降旗・新野君らが呑み余したとっておきのスコッチをわたしは味わい、妻はコーヒーとアイスクリーム、顔なじみの女の子達とも談笑を楽しみ、さらっと引き上げて一路帰宅したが、十時をまわっていた。
2018 6/19 199

* 桑名で地方創成政策に協和した映画を建日子か創ったのは、もう大分まえ。今は、宇都宮市の「餃子」がどうしたといった映画を仕上げて公開されるらしい。

* 「歌行燈」の船津屋へは名古屋中村の料亭の若女将の「なるみ」さんに案内され、医学書院編集長長谷川泉(鴎外記念館長 国文学者)と一緒に名大小児科 鈴木栄教授一泊のご接待を受けた。そのときの女将との「閑吟集」を利しての相聞は今ではかなり広く知られている。船津屋は当時「なるみ」さん嫁ぎ先の名古 屋料亭の傘下にあり、若女将の実家は桑名の立派な貝蛤のお店生まれであったとか。

* 建日子は映画「クハナ」を創ったとき、鏡花の「歌行燈」を読んでみたが、なにがなにやら分からなかったと零していた。これは、音と映像がなければ所詮 歯が立つまい、かりに音の映像の映画を観ても、謡曲や仕舞の「間」の厳しさに素養が無くては所詮歯が立つまい、けれどこのいささか昔になったこの映画、今 度、建日子と一緒にまた観たいと思う。
主演花柳章太郎といえば、名優六代目尾上菊五郎や映画の長谷川一夫を思い出させるみごとな新派の大立者、近代演劇史でもとぴきりの名優だったが、それに 劣らず映画女優山田五十鈴は、十七歳でデビュー「祇園の姉妹」以来 まさしく文化勲章ものの名手。映画「歌行燈」の五十鈴の舞いも演技も見事に仕上がって いて、久しぶりに、しとど、わたしは泣かされた。喜多流から、この真夏の仕舞・素謡の会の案内が来ていて、能にはもう体力がないが、仕舞も謡いもわたしは 好き、行ってみたいなと思ったりしている。
秦建日子も、映画を本気で創り続けたいなら、優れた日本の藝・能・音曲を血肉にするほど識っていたほうが佳い。鏡花藝道もの随一の名作「歌行燈」に目をまわしているようでは深い豊かな仕事は出来まい。
やっと五十歳。まだこれからが勉強なのではないか。
ちかぢか「宇都宮・餃子」の映画、観せてもらう。東京新聞が取り上げてくれていたらしい、一つ一つ真剣に階段を踏んで欲しい。
2018 6/21 199

* 午後、鏡花の映画「歌行燈」に続いて康成の映画「山の音」を観た。もう何度も観てきた映画だが、原節子も山村聰も上原謙も長岡輝子も中北千栄子も杉葉 子らも、演者はみな、メ一杯によく働いて見応え有ったのだが、それなのに今日は、一倍観ていて気がシンドかった。神経質に世界が病んでいた。
筑摩で出した1972年の処女評論集『花と風』に、川端文学を「廃器の美」と題して短く書いているのは、わたしが川端に触れた数少ない例であるが、感想 は変わらない。谷崎を花爛漫と謂い、川端を雨に打たれた花と謂い、三島を豪奢な造花と比較して謂ってきた感想も、変わらない。
川端康成の作には、小学校の五、六年頃友達に借りて読んだ少女小説のようなのが最初だった。「千羽鶴」「山の音」が競うように戦後文学としてもて囃され たときには、「山の音」の方が断然良いと思った、川端文学で指を三本折るなら『伊豆の踊子』『雪国』『山の音』という実感は今も変わらない。『山の音』よ り以降の川端文学の世界も筆も、病み気味にやや薄汚いという印象をあらためることが出来ない。

* 数十年に受け取った名刺の約半分を一部残して捨てた。新聞・放送・出版から各界人の名刺、それはそのままわたしの「歴史」であるけれど、顧みて執着すべきなにものでもない。

* 建日子が上海国際映画祭に「宇都宮市の餃子映画」で招かれ、わたしも観たことのない「背広姿」で挨拶などしてきたらしい。

* 此の機械のデスクトップには「黒いマゴ」の写真一枚が出してある。亡くなる前、半月か一と月足らず前の塀の上の黒いマゴが、じいっと優しい視線でわたしの目を見ている。わたしも目を目へ近寄せて、泣いてしまう、人はわらうだろうが。
わたしは八十三歳へと日々歩んでいる老人なんかではない。愛情や哀情にあふれた今も中学高校生のような少年なのだ。
2018 6/21 199

* 九時前、作家生活満49年 「湖の本」創刊32年第140巻、出来てきた。
思えば久しい、弛みない足どりであった。みなさまのご支持、妻の献身の協力が有ってこそで、感謝に堪えない。

* 発送作業に入る。
2018 6/22 199

☆ 謹啓
梅雨も半ば。今年は明けも早く、暑さ厳しくなりそうとの予報、奥様ともども健康をご案じ申上げます。
さてこのたびも御「選集第二十六巻」を頂戴いたしまして誠に有難うございました。
今集は、秦さんの過去、現在、未来にかかわる「京都」とあって、中身も厚さも尋常ならざるものと感じます。
まずは、北澤恒彦さんとの「兄弟往復書簡」を拝読、改めて実兄恒彦様との心の交流が実生活同様、束の間といってもよいような短い時間であったと知るにつ れ、このような形で「京都」を語り合ったこと、本当に貴重で示唆深い交歓のときだったと思います。甥の黒川創さんにもご兄弟の血が色濃く流れていてご活躍 になっているのでしょうね。
御身大切に。御礼まで。    徳島高義   講談社役員

* 思い立と、よく往復書簡を実現しておけた。よかった。書簡やメールの往来こそあれ、やはりこうしたたとえ「湖の本」であれ表立ったかたちで言い交わし 語り交わしていないまま死なれていたらどんなにか寂しかったろう。「湖の本エッセイ28」の『死から死へ』は江藤淳の自死から兄北澤恒彦自死までの半年を 日記でつないだものだが、重いきつい辛い二つの死であった。わたしには死ぬなと教えていったような二人であった、一九九九年の後半年だった、歳月の歩みの 険しくも速いことよ。
2018 6/23 199

* 朝、からだに元気がない。
新宿歌舞伎町まで、建日子が監督した地方創成映画「キスする餃子」とかいう上映を、午後、観に行こうと妻は熱心、場所柄だけに街慣れない婆さんを独りでやるわけに行かない。
昔なら新宿というだけで心はずんだが、人波を分けて歩くと思うだけでしんどい。もう何年も新宿は伊勢丹の辺まてで、歌舞伎町など何十年も行ってない。先日、松本紀保の誘いで花園神社境内での「天守物語」の案内があったのも、随分気を惹かれながら体調を慮って辞退した。
59年前東京へ出て来て河田町に暮らし始めた頃は新宿は「天国」ほど魅力に溢れて想えた。伊勢丹わき鰻の「田川」 三越うらの天麩羅「船橋屋」など、な けなしのカネをはたいて食事も楽しんだ。往時は渺茫として遙か。この三十年は、街というと銀座、築地。ときどき浅草、上野も楽しんだがいまはトンと間遠。
2018 6/25 199

* ひさびさ、何十年ぶりかで妻と新宿へ。ピカデリーの九階映写場で息子である秦建日子脚本・監督の映画、地方創成とやらの政策に副った「宇 都宮市」舞台の『キスする餃子』というのを妻と観てきた。小広い階段会場の真真ん中の席に着いたが、わたしらより前の席には二人だけの客で、背後は見な かった。映画に客を呼ぶのはよほど難しいことらしいと気の毒であった。芝居の上演時はいつも溢れそうに満員なのに。
百分間映写の前半の出が薄い軽い感じで、あとへ気持ち盛り上げていった。餃子の美味を売らん意図は掴みづらかった。「有名」プロゴルファの不調と復活のお話が併行していて、聞いたようで見たようで、ヘンにはらはらもした。二時間物の手軽なテレビドラマのようだった。
建日子の仕事としては、舞台の「らん」や「月の子供」や「タクラマカン」などの方が質的に力があったのではないか。

* 池袋へ戻って、東武の「美濃吉」で夕食、そして帰宅。
2018 6/26 199

* 初めて明け方まで冷房して寝ていた。

* 鼠(らしき)に、夜中台所を襲われつづけている。出入り口は(一応)密閉して寝ているのに、どこかから入られているということ、合戦はわれわれ苦戦の体で、無念。今朝は床に出していたメロンの尾を丸く囓られていた。形跡歴然。手ごわい。
2018 6/30 199

* 梅雨らしき実感うすく、とうの昔に暑い七月は来ていたほどの錯覚がある。今年も、もう半年過ぎたのだ、「ありがとうございました」「ありがとうござい ます」と、妻が持参の観音像、秦の親たちの位牌へ、日夜、こもごも頭をさげている。庭のネコやノコや黒いマゴたちへも、「今日もトーサンもカーサンも家に いるよ。仲よく楽しく元気にあそべよ」と声を掛ける。
2018 7/1 200

* 「選集 第二十八巻」の編輯作業を、腹を決めて、始めた。「読む」という眼の仕事、「選集 第二十七巻」の責了も 「湖の本 141巻」の初校も 眼の仕事。
創作と編輯と私語などは機械での眼の仕事、校正はたいてい横になってからだ安めながらの眼の仕事。そしてたくさんな読書がまったく眼でのどれもみな甲乙のない、まったく眼での楽しみ。
いま嬉しくてならないのは『ゲド戦記』世界へ帰ってきたこと。『千夜一夜物語』も『聊斎志異』これに類してまことに面白く、『失楽園』は崇高な詩的世 界。一字一句ものがさず読み耽る。いましも楽園にしのびこんだ堕地獄のサタンがあらわれてイヴを誘惑しつつある。そして『浮生六記』のなんという雅にして 美しい生活感覚。
『家畜人ヤプー』は、これらのみごとな優秀作の前では奇怪に過ぎている。
筑摩の大系では、真継伸彦さんの代表作長編『鮫』を、再読中。
新井教授の『五日市憲法』にはホトホト感銘、この起草者「千葉卓三郎」の生涯を優れた映像ででも観たいと願う。この本を読んでいると、現政権への厭悪と嫌忌の思いがますます激しく募る。
前世紀の六十年代から、わたしは、東京で、敗戦後現代における米国帝国主義の軍事と経済での悪辣と、米国の言いなりに日本の保守政権が国民の「脱政治 化」をさまざまに画策しつづけて成功してきた道筋を実地に体感してきた。そのことを歴研の「敗戦後現代史」は悔しいほど鮮やかに実証して見せてくれる。読 まずにおれない。
ジェンダー、フェミニズムに関わる文献も何冊かの本を引き寄せて批評的にではあるが興味も感じつつ読んでいる。
「源氏物語」岩波文庫新版の四巻が届くのを待ち望んでいる。それまでは川端善明さんに「説話の径を」案内して戴く。これらの本を、おおかた全部、一日の 内に、なんどかに分けて、読みたいだけ読んでいる。好きに本の読める日々。少年の昔にしんから憧れた日々。あの頃は、ひとに借りるかよその家へ上がり込ん で読ませてもらうしか読書は出来なかった。ただ、ありがたいことに、読書を「極道」と叱った秦の父の父親は難しい本の蔵書家であった。なかでも沢山な種類 の漢詩集や漢籍を溜めて遺していってくれたのは、途方もない恩恵だった。感謝に堪えない。
2018 7/5 200

* キッチンの食卓に置いた紙箱を食い破って菓子が喰われていた。鼠としか想われず、朝一番、余のことは措いて、外から入って出て行くとしたら「此処しかな い」と観た一画を、妻と知恵と力尽くして塞いだ。ハテ、この戦、ひっきりなしに鼠がわに凱歌を上げさせてきたが、どうなるやら。
もっとも、キッチンに限らない、家中を去来しているやも知れず、この機械部屋でもかすかな物音に耳の戦ぐことあり、に防備前のモノもみな撤去の上、十日 ほど前には玄関の下駄箱の底に去来自在らしき隙間やフンを見つけ。ま、夫婦して完全に塞いだ気でいますが、なにしろ小ネズミのこと、僅かの空隙をめがけて 去来してい兼ねない。この数日は、キッチンにだけ遺憾の形跡を発見、ま、御苦労な対策に朝から疲れてしまった。
オーム真理教の麻原ら数人の死刑執行が報じられていて感慨もあり、身にふりかかる鼠害の現況も放置ならない。やれやれ。妻は草臥れて寝込んでしまった。
2018 7/6 200

* 懸命の対処、昨夜中、キッチンより鼠害を排除し得たる如し。
2018 7/7 200

* 桂川のもの凄い荒れ、鴨川のこわいような増水。そんな映像でさえ、京都は心を惹く。秦の菩提寺は高野川と賀茂川が合流し鴨川一筋にぐっと大きくなる、 その其処の東岸に在る。久しく掃苔も墓参も出来ていない。せめて家の墓の守役は務めて呉れよと息子に頼んではあるが、嫁も子もなく、手は届いていまい。息 子は、はや五十歳。もう何を歎いても仕方がない。ときに、生母の故国近江大津辺にでも小さな家を見つけて移転しようかなどと妄想したりする時もある、が。 いやいや。
2018 7/7 200

* ぎらぎらの日照りの中を、歯医者へ通う妻と一緒に保谷駅前の銀行へ迄行き、妻に、印刷所より請求の「選集」費用、ぎりぎり二百万円を送金してもらっ て、妻は江古田へ、わたしはカンカン照りの道を鮨の「和加奈」へ届け物をし、またよろよろと保谷駅北口へ歩いて戻って、幸いのタクシーで無事帰宅。汗みづ くだった。冷えたビールと、甘いものと、切り出して冷やしてあった西瓜を、塩で。そして好きな加賀の棒茶を大薬罐からたっぷり呑んで、体調をとり戻した。 少し横になりながら校正もした。
もう、五時をまわった。妻も帰ってくるだろう。大相撲名古屋場所も始まっているはず。

* ひっきりなしに指先から持ったモノが落っこちる、落とす。情けなくなるが、ガマン。仕事の中身こそ大切。

* おーッ。晩の九時前、建日子らが可愛い仔猫を二匹、連れてきた、いろんな飼養の用意も調えて。
一人は黒く尾もながく黒いマゴの小さかった折によく似て。好奇心まんまんで走り回っている。目の前の砂で排便もしてみせた。やがてこのわたしの部屋を気儘に占拠するだろう、ネコ、ノコ、マゴの子で「ヒコ」と呼ぼう。
もう一人はねずみ色の縞でほとんど同じ大きさの温和しい仔猫。建日子の芝居の代表作の題をもらい「ラン」にするか、それよりも「アコ」がいいという声 もア「アコ」と「ヒコ」とがいい。
それにしてもこの仔猫が成長して家の中を、留守の折など、元気いっぱい駆け回られたときのことなど、想像を絶しま す。成長して行く仔猫がいかに活溌で活溌過ぎるか、よーく知っていからなあ。ウーン。
2018 7/9 200

* ヒコもアコも忽ちにわたしたちに慣れて懐いて、寝ていてもいつのまにかすぐ傍へ来て寝ていたり、ジャレ着いたり、いささかの隔意もない。かと思うと、家中を、階段をも疾走し二人でかけずりまわり、取っ組み合い、そして大人に近寄ってきて撫でて欲しがる。
わが家は、賑やかに一変の態。ひとつかみの仔猫だから駆け回ってもとっ組み合っても愛らしいが、大人になってきて二人で家中をノシ歩きカケ歩いたら、ウーン 想像を絶する。

* 建日子はゼッタイ外へ出してはいけないと厳重に繰り返し言って帰ったが、元気な生きものがこのちいさな家の中でオサマる御世はあるまい、必ず遠からず われらの足もとを駆け抜け戸外へ奔るだろう。また生きものを外の空気にも当てずに家に閉じこめておく趣味もわたしは持たない。先ずは、監視しながらもテラ スの空気は吸わせ、植木の間で遊ばせてやりたい。ネコの運命はネコが自身でえらぶ。人間が不自然に強いてはいけない。ヒコもアコもおいおいに心得て来るに 違いない。

* ともあれ、家の空気に新しい生気と活気とが加わった。裏返せば老夫婦の体力の負担は加わるのであり、可愛いと苦労・疲労とはかならず同居して、後者が 大きくなるは必定、ま、扶養家族が二人増えたと覚悟して愛してやりたい。秦家にまた何期めかの新時代が訪れた、今までと違うのは、わたしたちの方がヒコや アコより長生きできるとは考えられないという厳粛な予想である。ちいさな二人は同じ生まれの兄弟で、生後三ヶ月という。兄がアコ、弟がヒコ。いましがたア ネア動物病院の健康診断を受けてきた。此処での初の外出。イヤー、暑いこと暑いこと、参った。アコ・ヒコも帰ると直ぐ仲よく水を呑んでいた。
2018 7/10 200

* クーラーを幾つもの家の中も、なんたる暑さよ。家の中熱中症に気を付けたい。炎天下で病院へ連れられたヒコとアコとは、帰ってきて、むかし黒いマゴの愛用していた寝床に二人で正体なく寝入っている。戸外の暑さを体験し、たまげたか。

* 少し涼しげにと岸連山描く祇園社の御手洗い場の軸を玄関へ掛けた。
2018 7/10 200

* 最期への一歩を 今朝から 踏む。心穏和に静かに生きを全うしたい。

* 愛らしい仔猫兄弟のアコとマゴが 今しもわが家へ「来た」不思議に、首肯く。敢闘の生は終えよう。あるままの足どりで、のこっている仕事を 日々 こころから楽しもうと思う。
2018 7/12 200

*  わたしは、書いて発表する日々に入ると、すぐデータを妻にカード化して貰い初め、よくよくの不注意がない限り、何頁から何頁にいたる掲載誌や新聞や版 元の全部を残してきた。それがあって、初出記録も作れた。三宅貞雄さん(朱心書肆)に満五十歳記念の限定美装本『四度の瀧』を作って頂いたとき、巻末に妻 が作成の「初出全書誌」を入れてもらった。福田恆存さんにまだ五十、若いのだからもっともっと「書く」ようにと叱られた。で、「湖の本」創刊へ踏み込んで いったのが一年後の昭和六十一年桜桃忌だった。むろん、その頃以降もながく原稿依頼に応じていたから、カードは増え続けていた。平成二十一年には「湖の 本」創作の五十二巻めとして「自筆年譜・一(作家以前)」と「全書誌」を刊行している。
それ以降のどの辺から、もう依頼原稿はことわって好きにホームページでだけ仕事しようと決めていったのか、妻が書いていた初出カードを調べればおおまか にその時期の見当はつくだろう。ともあれ、今年に相次いで紅書房と雑誌「myb」の依頼に応じたまで、かなりの期間わたしは依頼原稿を書かなかった、書い ていたとすると依頼と持ち込みの上手な「myb」一度か二度短文を上げたかとおもう。
先日やっとこさでデカイ本から原稿を電子化した「大歳時記」の各所に妻がデータを書き出してくれた初出カードが挟まれていて、一九八九年になっている。 大袋に詰め込まれた沢山な中の『円地文子事典』に気儘な思い出を書いていたのが2011年とあり、ま、この辺が依頼原稿を受け入れた最期の方かと漠然と思 われる。
『四度の瀧』の初出一覧に継ぐ作業、カードはほぼ書き取れていても、もう整備する手も時間も無い。せめて妻が書いていたカードの散逸を防ぎつつ保存して おくだけ。それさえあれば、五十歳時作成の前例に倣えば、続きがつくれる。残念ながら今はそのための余力が妻にもわたしにも無い。
2018 7/12 200

* わたしの仕事部屋へは来ていなかった、アコは、わたしの左手がすぐ耳と頭と前足に触れる間近な函、小説のための資料類の入った函で寝入っている。さわってやってもピリとも身動ぎしないで馴れきっている。
黒いマゴの方は、あのマゴが大好きだったソファの柔らかなクッションに身をながながと埋めて余念亡く寝入っている。
それならと、わたしはわたしの仕事に精出している。ちいさな生きものの命が、微塵の警戒も厭悪もなく、もう年久しい家族のように安眠を貪っているじつに 美味そうに。嬉しい。こぼれそうな涙をアコとマゴとで拭ってくれるようだ。朝から晩まで、黒い「マゴ」の名といっしょに、「アコ」「あこ」と、いまも行方 知れぬ娘の幼名を保谷の両親は呼んでいる。もう還暦が目に見えていようか。
2018 7/12 200

* アコとマゴのおかげで笑いが絶えない。悲鳴もまじる。微塵の尻込みもなく抱かれてくる、百年を倶にしてきたよう。
それでも昨夜も一昨夜も深夜のキッチンに鼠登場の形跡あり、仔猫たちの反応では大きな洗濯機のうしろか下に異様を覚えるらしい。戸外へ逃げ出せるよう に、マゴたちをキッチンから閉め出しておいて、勝手口のドアをしばらく開け放しにし、冷蔵庫の下と後ろへ噴霧してみたが、如何とす。
2018 7/13 200

 

* アコはカーサンの頭のさきで、マコはあの黒いマゴとおなじに、わたしの頭のさきで、夜中、寝ている、が、なかなか、そのままではなく、気がつ くとマコもアコもわたしの顔へ来て、耳や頬や腕を舌を鳴らして嘗めつづけたりし、そのまま傍で寝入って行く。が、また気がつくと二人ともカーサンの脇で巴 になって寝入っている。二人とも一キロ余りの体重で、兄貴のアコが150グラムほど重い。アコはすこぶるの美女、ではない美少年。弟の黒いマコは小さい小 さい、が、負けずに好き放題疾走している。
元気いっぱい駆け回るアコとマゴの朝は早く、つられて起こされる。生きよ生きよと励まされる。
2018 7/14 200

* 夜前は無事、しかし両脚の攣る痛みで、六時前には起きてしまい、台所でマコとアコの相手をしてやりながら一時間余ボンヤリ、それから機械を温めに此処 へ来た。右のこめかみに軽い痛み。もう少し睡った方が良いが、横になると『ゲド戦記』第一巻に掴まってしまう。真継さんの『鮫』 ミルトンの壮麗にして荘 厳な『失楽園』 そして『千夜一夜物語』は角川文庫の二巻目に入っていて、あと二十册もある。
愛らしく懐いて懐いてくるふたりの仔猫たちの「命」「生気」に労られている気がする。
2018 7/15 200

* 元気いっぱいの命の固まりのようなマコとアコとに終日励まされ慰められてこころよく過ごしている。天真爛漫、何の躊躇も迷惑もなく全身全霊で家中を駆け回っている兄弟たち。眺めているだけでわたしたちの気もやすらぐ。この子たちのためにもせいぜい長生きしてやらねば。
2018 7/15 200

* 勤め先で「庶務課」の責任をもつことになり、(夜前の夢です。)社に来客があれば茶をたてて供することにして以来、社内で立礼の茶法を習いたい者が何 人も出現、専務や編集長の奨励もあって稽古をはじめた。希代な、ありうべくない夢ではあったが、医学書院で十五年半の編集者務めのあいだに、わたしたちの 結婚して二年暮らした市ヶ谷河田町でのアパート一室へも、うんと遠くなった当時保谷町の社宅へまでも茶の稽古に通ってきた人らが何人かいたのは事実。
同じ社宅の独身寮にいた人らにも稽古を頼まれ、建日子誕生の数ヶ月前まで教えていた。その同じ社宅住まいだった後輩編集者の一人が、のちに、東北学院大 教授から米沢短大の学長さんまで勤め上げた仙台市住まいの遠藤さん。いまも久しい「湖の本」の読者、よく仙台名産の美しい蒲鉾など送って来て下さる。
社宅のお弟子には、もう一人遠藤さんの仲良しのお連れがあり、その二人に何かのおり戴いた白玉(しらたま)の小ぶりの湯飲みたちが実にいい姿と上品な色 で、何十年にもなるが、お正月にはかならず福茶の用に愛し続けている。ふしぎでもないが、多年愛用しつづけているとわれわれ夫婦とも、下さったその人をた ちをそれは心親しくよく想い出せて、何十年も再会していないなど、思われない。
2018 7/16 200

* 九時半、もう眼が利かない、歯も痛い。あれこれと仕事は進んだが疲れもした。マコとアコとが微塵の隔意もなく抱かれにくる。二人で人間には狭い家を弾 丸のように二人で疾走し、組んずほぐれつ格闘しているが、仲良し兄弟の運動と楽しみらしく、まことにフェアに優しい間柄、アコははや美男子の風貌で猫らし くなりつつあるが、マコは、ちっちゃくて軽くて細い。それでも運動力はも関心も食欲も甘えようもお兄ちゃんとちっとも変わらない。素晴らしい。妻が昼寝す るとならんで寝入っている。夜中はわたしのところへ来て寝ているが、目が覚めると二人で灯の消えている家を駆け回っている。鼠はどうしたろう。
2018 7/16 200

* (沢口)靖子ロード、つまりは階段を上がった窓ぎわを機械のある書斎までの短い廊下に、文庫本ばかり入る書棚が並んでいて暫時窓の外へ向き立ち止まる ならいの、今朝、表紙に補修のある本文に滲みもある『無名草子』一冊を見つけた。いわば平安女文化・文藝への物語ふうに創った初の「文藝批評集」なのであ る、「一 いとぐち」の書き出しから心優しくももの静かな、しかしはきはきもした女語りの「ことば・文章」が佳い。奥付では昭和十九年、つまりわたしが八 歳二ヶ月になる二月十五日の「第二刷」岩波文庫であり、定価四十銭 特別行為税相当額二銭 合計四十二銭ではあれ、む ろんわたしに買えたわけなく、秦の祖父の蔵書に一冊の岩波文庫も無かったし、この当時は祖父と母とわたしとは 丹波の山奥に戦時疎開中であった。恐らくは 上京結婚就職後に御茶ノ水駅ちかくの古本屋で安く買っておいたに相違ない、わたしは日本の古典の岩波文庫古本なら何でも買える限り買っていた。まことに廉 価であった。「梁塵秘抄」も「西洋紀聞」もそうして手にし愛読した。京都このかたわたしが所持の岩波文庫は「平家物語」上下「徒然草」そして島津久基校訂 の「源氏物語」六册本ぐらいだった。
『無名草子』の著者は、藤原俊成説 俊成女押小路女房説などあるが、昭和十九年本の校訂者富倉徳次郎は憶説と退けて、単に
一 建久・建仁の頃に在世の人
二 物語・歌集等について廣い知識と批判力とを持つてゐる人
三 女性であること
四  隆信・定家と親しき人(本文の中に「隆信の作りたるとてうきなみとかやこそ云々」「定家少将の作りたるとて」とか見えて隆信・定家に對して敬称を用ひてゐない所からの推定)
の四条件に當る一女性であり、その人については不明であるといふを穏當と考へる」と解説されている。

* 此処まで書いて、一女性への幾つかの思案も名も想い浮かんでいながら、今日は妻の通院診察の留守に「選集28巻」の編輯と読みとにたっぷり時間と視力 を費やした。それでも疲れて階下へ行くと、アコとマコとが、兄弟で半ば睡りながら熱愛の態で互いに抱きかかえて毛づくろいしたりしていて。じつに見ていて 気分よく心和む。同時に生まれた実の兄弟なればこそ、われわれの姿がなければないであくことなく互いに親愛している。嬉しくなり、羨ましくもなる。
励まされて、難儀な仕事へも根気よく挑み続け、先への道もほぼ見当たった気がしている。
2018 7/17 200

* まだ夜中きっちんの鼠害が続く。夜はアコもマコもキッチンから閉め出しているかららしい。しかし、どこから来るのか、分からない。ただ終日ものかげに隠れているとは想いにくい、昼間も晩もキッチンはアコとマコとの元気な天下なのだもの。
どうも人間のアタマがいちばん悪いらしい。
2018 7/18 200

* マコ、アコの兄弟は、元気溌剌、自由自在の存在感。老人のトーサンカーサンふたりとも、心嬉しくも、バンザイのけぞっている。元気なマゴが二人だもん な。しかし二人だから二人で好き勝手に遊びはしゃぎ食べて寝ている。それで助かっているが、玄関からも勝手口も好き勝手の出入りがきかない、用心用心。ふ うッ。
2018 7/19 200

* 日盛りのさなか江古田二丁目まで、歯科へ。主に右下の歯の痛みはつよく、治療して貰ってきた。薬も処方して貰った。

* 池袋へ食事に出る元気なく、保谷へ戻って、先日丸山君と談笑と食事を楽しんだ駅に近い店へ入った。妻は「満足じゃ」と宣うたほどで、満腹、あっさり帰宅。マコとアコ君達、さすがに兄弟での留守居さほどは寂しくなかったらしい。安心。
2018 7/20 200

* 午後建日子帰って来て、マコ、アコと遊び盛んに写真を撮り、機械仕事をしながら一緒に向田邦子原作映画「風たちぬ」を観、夕食して、いま、宵寐している。
宵寝からさめてまたひとしきり仕事をしていたが、用が足りたか都内へ戻っていった。怪我するなよ。
2018 7/22 200

* 暑熱に弱く、ふうふう、ふらっと、つい気が遠くなりそうなのが良くない。空足を踏みかねない膝なので、ことに階段を降りるのには気をつかっている。
元気いっぱいなのは、マコとアコと。びっくりするほど兄弟仲良しで、ウサイン・ボルトも顔負けの疾走を競ってくれたりする。食欲旺盛、ふたりとも生得の 甘えん坊。兄のアコは灰色の縞。弟のマコは柔らかな黒にかすかに縞を沈め、尾が細長い。黒いマゴも尾の長い漆黒だった、眼ぢからなどもよく似ている。
2018 7/23 200

* 二週間に一度、からの瓶・缶・ペットボトルなどを出す朝で、引き受ける。
もっぱら私の「お酒の呑みよう」は、二週間で、からの一升瓶が三本、四合瓶が六本。みな名酒と謂うをはばからない美味いお酒ばかりで、ま、日に四合弱平 均。この歳で酒量が減ったとはちょっと謂いにくいけれど、この夏バテの時季、熱量には化ってくれていると思うことにしている。
それに、わたしはこどものころから大変な「茶くらひ」で、各種の日本茶もただの水も、むしろ心してお酒以上の量呑んでいる。
血圧も血糖値も正常、体重もほぼ横這いないし低めに推移していて、この癌手術後の六年半、医師は各種検査値にほぼ満足してくれてきた。

* ま。気を腐らせずにのびのび好きに勤めてゆくが健康法かと。マコとアコとが日々の精神衛生に圧倒的に好感化をもたらしてくれ、家に笑いと愉快な悲鳴が絶えない。もたらし呉れし建日子に感謝している。

* 祇園会、あと祭の山山が巡幸の日。暑かろう、今年の熱暑は記録的にも乱暴すぎる。四十度を超えるなんて。少年時代、武徳会で水泳の帰路、川端通りのカンカン照りに卒倒しそうな暑さだった頃も、一夏で三十度をわずかに超すのでも、月に三日と有ったろうか。
2018 7/24 200

* 朝いちばん、故紙回収の手伝い。

* 後拾遺で哀傷の和歌を前詞ともたくさん読む。どの和歌集でも心打たれることの多いのは「哀傷」歌、歌合の出詠歌などのようにツクリものはめったに無いからだ。実情に打たれる。「死なれて 死なせて」の実感に満たされている。

子におくれて侍りける頃、夢にみてよ侍りける  藤原実方朝臣
うたゝねのこのよの夢のはかなきにさめぬやがての命ともがな

* 孫のやす香を肉腫に死なせて、はや十二年。
平成十八年七月二十七日。
われわれの娘・朝日子(やす香母)の誕生日だった。

朝日子誕生(昭和三十五年七月二十七日)
「朝日子」の今さしいでて天地(あめつち)のよろこびぞこれ風のすずしさ

* ふしぎに、どの勅撰和歌集の部立に、自身の死んでゆく「辞世の自覚や自哀」歌が纏まっていない。ま、当然かも知れないが。「哀傷」歌以上に読みたい気がする。

* 黒いマコはトーサンにひしと懐き、アコはカーサンにひたと抱かれたがる。
マコは機械仕事しているわたしの膝の上で、余念なく寝入ってみじろぎもしない。
2018 7/25 200

* 何度も横になりながら、必要な作業もそれぞれに進めた。テレビも観ていた。ここしばらく日本映画のいいのを見続けていたが、洋画にきりかえて、久々 に、実に久々に、メル・ギブソンとウォールディン・ホーンの、わが家ではたんに「ギャー」と呼んでいる「バード・オン・ワイヤー」とかいう超娯楽作を観 た。晩には、つづきもので「グッド・ドクター」三回目を観た。
熱中慢性状態のような気分でいるが、マコとアコとに大いに刺激もされている。仲良しで元気旺盛でヤンチャ。油断も隙もならないが、気は晴れる。

* あすは、何ともいえず気の重い日付であり、颱風も来ようと云う。なるべくはユッタリと過ごしたい。もう日付が変わろうとしている。
2018 7/26 200

医学書院社宅の頃 パパの傑作 ピアノによる朝日子
昭和六十年七月二十七日生まれ

少女の頃の孫やす香
祖母(妻)がよく描き置いてくれた。
十九歳十一ヶ月をしっかり生きて、
平成十八年七月二十七日に逝く。

平成十七年一月二十二日 やす香 マミイ、ジイヤンと、
下北沢で 叔父秦建日子作・演出の芝居を観ての帰り。

* 朝日子人海の平安、やす香天上の健康を 祈る。

* アコとマコ、獣医院「あねあ」で二度目のワクチンなど。アコ、おおいに暴れる。爪、切ってもらう。マコは、いと温和しく、されるままに。

* 妻が「アタマ」で留守のうち、機械に向きあい小説を書き続ける。そのあいだわたしの膝の上で「マコ」 ゆっくり昼寝、何の懸念も躊躇もなく、ぐっすり。マコの眼、黒いマゴの眼を妻が描き取っておいたのと全く同じ。機械の中の黒いマゴとちっちゃなマコと、対面。

* 丸山真男の『日本の思想』 歴研編の『日本現代史』に、呻くほど胸痛くも悔しくも多く多くを今時分「復習」している。一九五九年二月末に上京しその日から妻と暮らし初め、六〇年七月の今日朝日子が生まれた。六〇年代、七〇年代、八〇年代の昭和を経て、九〇年代から平成へ入った。代々の保守政権とよぎない付き合いを続けてきたのだが、「付き合い」の性根の意味を、まことに朧にしか察し切れていなかったと舌を噛む心地がする。池 田勇人の「所得倍増」という看板を貧しかったわたしも歓迎気味に眺めながらの日々があった。おもえば政治に国民の経済が真面に係わりだした初めだった、ア レまでの日本は、政治は天皇制と統治のためにあった。所得倍増という「経済」政策へ國の保守政治が舵を切ったのを甘く受けいれたときから大企業と政権の公 然たる癒着は濃厚となり、「国民の」経済という観点は棚上げされ、対米追従の貿易経済が日本の政治、国民支配の原則となってしまった。経済、経済、経済が 国民の首をしめ政治的な権利も基本的人権も窒息を強いられ続けてきた。わたしの大人としての生涯は、そんな「所得倍増」の掛け声に踊らされたままだった。 分かってきてはいた、わたしとても。しかし判り方があまりに足らず甘かった。
2018 7/27 200

* 颱風が近づいているらしい。異例の東海から関西、中国への進路が予測されているが、先頃大きな怪我のあった方面ゆえ、事なきをただ願う。

☆ 異常気候らしく
思いがけない進路をとっている台風12号、東京の今の空模様はいかがでしょうか。
こちらは曇りですが まだ明るい空です。数日前までかなり暑い日が続いたので、昨日の34度でいっそホッとしたくらいでした。
昨日本を送りました。北沢恒彦氏の本を読んだことがないと書かれているのを読んだことがあります。偶然北沢氏の『隠された地図』見つけたので、思わず買い求めました。
本の後ろの黒川氏(=創 実兄故恒彦の長男)が書かれた年譜だけを読んだのですが、胸が詰まりました。鴉ご自身と重なる多くの事柄が映されています。
ちょうど昨日のHPに丸山真男氏の『日本の思想』からの感想が述べられており、『隠された地図』の中の丸山理論に関しての著述に、鴉の関心が重なるかと思いました。
もしこの本が既にお手元にあるとしたら・・差し出がましい事とも思いますがご容赦ください。
今日は午後あたりから台風の影響が強まりますでしょうか、くれぐれも大切に、用心して過ごされますように。    尾張の鳶

* 尾張の鳶の好意、配慮、まことに有り難く。有難う。
むろん、甥に当たる黒川創(北澤恒)が亡父北澤恒彦の年譜を詳細末尾ににあげているこの一冊、その署名はオロカ存在をすらわたしは今日まで知らなかった、知らされても送られてもいなかった。
兄の「自死」したのは、江藤淳が七月二十二日に「自死」 を報じられたと同じ一九九九年(平成十一年)の十一月二十二日であった、らしい。二十三日朝六時半頃、恒彦次男の北澤猛の電話で告げられた。やがては「二 た昔もまえ」のことになる。わたしは京都での葬儀にも、思い出の会といった催しにも出掛けなかった。兄の年譜に尽くされていると思う謂わば「北澤恒彦の公 生涯、表生涯」に実弟のわたしは徹底して無縁によそで育って指一本も触れる折がなかった。生まれ落ちて以後に初めて再会したのが、もはやお互い壮年時で、 その後もわたしは「兄の表世間」とはまったく触れなかった。兄とのことで、鶴見俊輔はよく心得ていたらしいが、わざとは触れて話すことが無く、兄について わたしに片言でも話しかけてくれた人は、筑摩の編集長だった原田奈翁雄や作家の真継伸彦、井上ひさし、小田実らだった、われわれの間柄にまったく気がつい てなかったと云い、井上さんは「失礼しました」と、真継さんは「えらい男だよ」と囁いてくれたし、小田さんとは亡くなるまで親しく、「敬愛の気持を込め て」とまで献辞を添え『随論 日本人の精神』を贈ってくれたりした。
兄とは、亡くなる暫く前間で、頻繁に交信したり、時に会って食事したり一緒に人と会ったり忙しく立ち話で別れたり、「往復書簡」をもちかけて京都の話をしたりはしつづけながら、それでも、わたしは
兄の表世間へも兄の知友らの間へも一切意識して顔を出さなかった、唯一の例外は茶房「ほんやら洞」主人の甲斐扶佐義氏ひとりであろう、彼とはわたしの編輯 していた「美術京都」で対談もし写真家として京都美術文化賞を受けてもらってもいる。しかしひの甲斐氏からも兄の遺著のことは何一つ聞き出す機械すら無 かった。

* 兄のことを死以来忘れていたときは無い。つい先頃の「選集」第二十一巻には往復書簡を容れて反響があった。しかし北澤家からはなにも聞けなかった。そういう二人の生まれつきなのだと思うことにしてきた。

* 黒川創のあんだ北澤恒彦年譜にも、わたくしの名前が出てかすかに実親らと戸籍上の関係だけは記録されてある、わたしは恒彦の表社会とは全く無縁に等し かった以上、それが自然なのであろう、記憶の限り、一度だけ兄らの何かの会合で「作品」として「秦 恒平への手紙」というのを読んで発表したと有りびっくりした。その年次をいま覚えていないが、或いは兄弟往復書簡「京・あす・あさって」の実現した昭和五 十四年(一九七九)九月-十月より後日のことであったろう、推量に過ぎない。

* 兄がわたしを「弟」とみた上で手紙を寄越したのは、実は大昔のことで、東京で暮らし始めてからも何度か来信が、時に電話もあって「会わないか」とあっ たが、わたしはその全てを受けいれなかった。芥川賞候補になり瀧井孝作、永井龍男両先生に推された「廬山」を筑摩の「展望」に出したときにも、その作にも 触れながら兄が「家の別れ」というエッセイを「思想の科学」に出して送ってきてくれた。それは読んでいる。が、それでもわたしから兄の京都の勤め先を顔を 出し、ものの十分足らずも立ち話の初対面を実現したのは、ずーうっと後年であった。
わたしはそれを悔いているだろうか。悔いていない。そして出会って以降もわたしは兄と弟とだけの「付き合い」に終始して満足していた。その結果として、 兄はもう死んでいて、わたしの全く知らない兄の知友らの顔を見、声を聴くだけの葬儀にも思い出会にも、とても堪え得なかった。行かなかった。行かなくても 兄恒彦は弟わたくしの内にいつでも入ってくる。今もそう信頼している。

* 兄は筆まめでもあり親切でもありいろんなモノを、仕事の上の書類やレポートなどもたくさん送ってきた。メールになる以前の私信も、長年月に相当量届い ていて、復刻とまでいかなくても書き写して電子化データにはしておけるだろう、もうそんな残年がわたしに許されていそうにないのも慥からしいが。

* 年譜のことにばかり触れていたが、まだ『隠された地図』本文は、一行もまだ読んでいない。北澤恒彦の著書のうち五条坂の陶芸にふれたような一冊が記憶にある。『家の別れ』と総題した一冊がうちにあるのかどうか確認できていない。
ま、兄のそのような本や雑誌へのもの言いは、それこそ北澤恒彦の世界・世間のモノと思っている。「深田(阿部)ふく」と「吉岡恒」との仲にいしくも生ま れ落ちた兄と弟との世界・世間は、「北澤」とも「秦」とも縁の切れた別の「身内」なのである。それがわたしの向こうまで持って行く覚悟である。

* 「湖の本 エッセイ20 死から死へ 闇に言い置く」の末尾で、兄の死を思い新たに悼んだ。

* 兄の『隠された地図』本文の三編は、いずれも私の理解や関心の外にあった。もののみごとに私たちの知的理解や関心の範囲はズレていて、接点は、やはり、往復書簡で交叉し語り合えた「京都」であった。
2018 7/28 200

* 昨日の兄の遺著にかかわる文面の乱雑を整えておいた。関わって、しておきたいことは幾らも有るが、わたしは今、その辺で立ち止まっているワケ に行かない。客観的には、または検査データからはわたしの健康状態はむしろ良好と告げられている、が、主観的には、危殆の意識を捨てがたくいる。よく朝日 子が悲鳴をあげて抗議したのを覚えている、「パパがいうと、みんな当たっちゃうんだから」と。当てたくなどないが、現実に切に時間は惜しまねば。「長編小 説」を少なくも一つは心ゆくまで脱稿し、「選集」を予定の残る七巻まで健康にし終えておきたい。もし叶うなら、そのあとへ、ゆたかな「読み書き」の楽しみ と「私語」の時間を少しは恵まれたい、妻といっしょに。
2018 7/29 200

☆花火大会
秦先生 こんにちは。
ご無沙汰致しております。
隅田川花火大会は昨日延期 今日になりました。
早くからご連絡せず申し訳ございません。

もし今からでもいらっしゃるようでしたら、ご連絡下さい。
浅草稽古場におりますので、駆けつけます。
暑いので、お気をつけてください。よろしくお願いいたします。  望月太左衛

* 太左衛さん
颱風は東京をそれて行きましたが、まだまだこの季節は永く、さきが案じられます。各地へ移動なさるにもお大事になさってください。

去年の 雨の花火を懐かしく思い出していました。 あれから妻の二度、三度の入院など有り、わたしも日々の疲労濃く 今年はご親切に甘えられないなあとも。

日延べになりましたとか、爽やかな花火の夜でありますようにと、私どもはテレビで夜空を仰ぎます。
お誘い、有難うございました。

一昨日は孫の亡くなった日でした。十二年前のあの夏も、二十九日に、天上の孫娘といっしょに美しい花火を見せて頂いたのを想い起こします。涙もろいことでした。

どうぞ お元気で ますます御活躍下さい。
お姉様、お嬢さんへも、お元気でとお伝え下さい。   秦 恒平
2018 7/29 200

☆ 陶淵明に聴く 「雑詩」十二首の抄 其の六の抄  五十歳頃の作か

我が盛年の歓を求むること  一毫も復(ま)た意無し
去り去りて転(うた)た遠くならんと欲す  此の生 豈(あ)に再び値(あ)はんや
家を傾けて持(もつ)て楽しみを作(な)し  此の歳月の駛(は)するを竟(お)へん
子あるも金を留めず  何ぞ用ひん 身後の置(はから)ひを

* 往昔詩人の五十歳はいま私の八十余歳に同じいであろう、「時が過ぎてこうも遠くなりかかると、ああ、もうこの人生は二度とかえってこないのだなあと、しみじみ思」って「駆け去って行く残りの歳月を楽しみを尽くしてすごすことにしよう」という陶淵明の詩句に、ごく素直に共感している。日ごろをそのように過ごしているつもりでいる。
五柳先生陶淵明は雑詩其の七で、こう思いを述べている。

家は逆旅(げきりよ)の舎なれば  我れは當(まさ)に去るべき客の如し
去り去りて何(いづ)くにか之かんと欲する  南山に旧宅有り

* この詩人にはかの「廬山」のふもとに生家陶家の墓地をもっていた。彼には帰って行ける死後の家があった。
此の私には、だが、無い。
わたしは実父吉岡家の、生母阿部家の墓地の在り処も知らない、父や母の墓参をしたことがない、出来ない。所詮何れもわたしは無縁である。
わたしを育ててくれた秦家の墓は京都にあり、いまは、菩提寺との接触や墓地の世話もみな息子の秦建日子に委ねてある。わたしも妻も、出向くに出向けない からでもあるが、妻子を持たない建日子の代で「秦家」の名跡を絶やしてしまう申し訳の立たない「不孝」を思えば、とても秦の両親らと同じ墓地に眠れる気に なれない。
我に「南山」無し。
妻にも建日子にも、わたしの墓は「無用」と言い置いてあるが、はて、建日子はともあれ、妻の行き先はと、これに正直、苦慮している。

* ぬるい湯をかき混ぜているような冷房、目盛りは23.5度なのに。これでは機械の前に永くは腰かけていられない。

* 恒彦兄の奥さんから便りがあった。「兄弟往復書簡」の入った選集を送っておいた簡単な礼であった。兄の死から二十年、その永さをどう生きてきたかという嘆息のような短文であった。

* 遺著『隠された地図』は甥の編んだ「北澤恒彦年譜」をざあっと一度読んだだけで、本文の三編は、「ミシュレの日記から」も「書評・丸山真男<反動の概念>」も「セブンティーンの<武装>」もとても手早くは読めそうにないので、そのままになっている。
年譜を卆読して、一つ感想があった。
わたしは自身の生涯でじぶんから他広い世間の他者を頼んで働きかけた覚えがほぼ無い、有るなら三册の小説私家版をつくったのを、やみくもに巨きな名前へ へ宛て、なにのアテもなく送付しただけがほぼ唯一例で、谷崎潤一郎、志賀直哉、小林秀雄といった或る意味で世間知らずな無謀な送本だったが、他は、太宰賞 の受賞も、文芸家協会やペンくらぶ入会も、作家代表としての訪中・訪ソも、東工大教授も、日本ペンクラブ理事も、京都美術文化賞の選者も、京都府文化功労 賞も、尽く、むこうから舞い込んだだけで、わたし自身その為に指一本動かしたということがない。これは別段自讃でも自慢でもなく、要するにわたしは高校へ 入学して以降、上京結婚就職り後も、ずーうっと、ほぼ一度として自分から動いて世間に「仕事」「創作」以外の地位や名前を求めなかったし、社交的な交際も まったく求めなかったとイウこと。実に大勢の多彩な知己知友はみなわたしの「仕事」「著作」を介してのみの親愛だった、だから何十年にわたって親しい人と も出会ったことの一度もない人のほうが断然多い。
これに較べると、た兄恒彦の生涯は活気に満ちて自発的な都邑との出会いや交渉に、舌をまくほど積極的で、著名な学者、作家、文化人、活動家たち、飛び抜 けて年かさな人とも若い人たちとも、めまぐるしく交際交渉しながら「火炎瓶闘争」の高校時代から「ベ平連」も「家の会」も市民活動・政治活動もじつにアク ティヴ、あまり使わないことばではあるが「すごいナ」という実感をしかと持った。
われわれ二人の中でも、わたしから働きかけて実現したのは「往復書簡」の一度だけ、しかし兄は高校生の昔に始まって結婚後にも頻々と会おうと伝えてきた、わたしは断り続けていたのだった。

* 実の兄弟でも、性質は、行動性は「ちがう」のだという実感、それが今度手にした遺著一冊の大きい感想になった。なんで本の題を「隠された地図」というのか、少なくも年譜からは読み取れなかった。兄ならこう付けるナという実感が無い。
2018 8/2 201

* 軽いが執拗な吃逆に終夜悩まされ、熟睡を欠いたまま起きる。疲労濃し。元気ハツラツなのはアコとマコの二人、駆け回って組んづほぐれつ遊び回り、カーテン は昇る、障子はサンタン。うかと軸ものは掛けていられない。笑わせてくれ歎かせてくれ惘れさせてくれて笑いの絶えないのが、ま、老人には嬉しいと、書きお く。
2018 8/4 201

* 早晩と覚悟はしていたが、わがやのマコとアコ、はやくも障子をつたって鴨居へ跳び上がるという芸当をはじめ、およそ過去にも悲喜こもごも経験し見聞し てきた「活動」を当然のように体験して呉れつつある。障子や襖はまだしも軸物などを引っ掻かれては申し訳なく、当分仕舞わねば。
それにしても黒いマコも縞のアコもなんという愛らしさで全幅の信愛を寄せてくれることか、紙巻き棒で、われわれの思いでは「いたずら」を叩いてもいった んはトンで遁げるがいささかの屈託無くすぐ抱かれに来る。脚へ纏ってくる。いつもわれわれのそばへ来て寐たいだけ寝入っている。
いわば茅屋。少々の傷みは共同生活の税だと思おう。機械と、本とを、せめて傷つけないで呉れよと願っているが、どうかなあ。
せめてこテラスへは出してやりたいが、外の空気や翠に触れさせてやりたいが、鴨居へも跳び上がれるのではテラスから書庫のエプロンへそして屋上へは難な くやるだろう。ネコもノコも黒いマゴも好きに外出させていたが、今の我ら老境に家出子たちを探すも追うもムリは明らか。ドアの開け閉てに鈍った神経をとが らせ気配りしているが。
2018 8/5 201

* ネコもノコも黒いマゴも、まったくこの思いから、ご近所の迷惑もあったろうが、そして遠出されたり隠れられたりして肝も消したが、最初から最期まで自 由に外気に触れさせ逍遙をゆるしていた。わたしの本意は今のマコやアコに対してもそこにある、が、生後三ヶ月というフタリをいま外へ出せば、吹っ飛んで いって容易に見つけも保護もならない、まして脚もよろよろの老人には。
可哀想にと、いくら飲食には不自由なくありついて終始愛撫はされていても、生の本来ではあるまい楽しみたかろうとにと、わたしは、どうしても、心痛む。 やがては手術といった日もくるという、申し訳ないと、わたしはやはり内心 善(たのし)まない。愚痴に尽きている。バカげてもいる。
2018 8/5 201

* 白鸚さんから、十一月新装の南座へと誘われていて、仔猫たちを建日子が預かってくれるならいっしょに行けるかなあなどと、成りそうにないハナシもしているが。暑い夏も永ければ寒い冬も早いかとビビってしまう。
2018 8/9 201

* 身を噛むような疲労、深く、濃く。ゆっくり寝み、立ち直りたい。仔猫のアコとマコとがひたすら馴染み慰め励ましてくれる。が、わが家の障紙は桟も露わ にいまやふたりのジャングルジムと化している。すっかり客の呼べない狭苦しい家にとうの昔に成り果ているのだ、暑い間の障子のボロボロなど諦めて大笑いし ている。
2018 8/11 201

* 九月から、宅急便の大幅値上げに次いで、郵便局のユーメールも目をみはるほどの値上げを決めてきた。出版の仕事を始めたときから、潰されるとしたら送 料値上げだなあと思っていたが、値上げ攻勢容赦ない。けれど、「潰れ」はしません、われわれが健康でさえあれば、まだ何年でも。そのためにも、わたしは杜 門の暮らしを改め、歩きに出なければ。病院かよいも減り、歌舞伎座への脚も、この上半期は余儀なく遠のいていた。思い切って、独りで(仔猫がフタリもい て、まだ留守番は出来ず。)新幹線に久々に乗ってみるか。というワリには、じつにマッタクいろいろと忙しくもあるのです。
2018 8/13 201

* 疲れた。十一時。床に就いて、ゲラを読み、そして寝に就く。うまく熟睡したいが、夜中二度はマコとアコが甘えに来る。
2018 8/16 201

 

* 亡兄北澤恒彦の来信を散逸させまいと、妻に、機械へ書き起こして貰っており、やっと七、八通になった。まだ何倍もある。独特の書字でけっして読みやすくないが、気持ち温かないい手紙が揃っていて嬉しい。

☆ 恒平様   昭和五十三年(一九七八) 六月 一九日

たいへん、失礼なことをしているのではないかしらと心配です。 (筑摩)文学大系の一冊、それに、その前のNHKブックスの一冊送っていただきながら、なんの挨拶もできずに。
NHKブックスの方は、ざっと目を通したのですが、とうていイメージを結ぶに至る条件になりません。他日を期す。

文学大系の方、おめでとう。立派な本ですね。 畜生塚を始め、じっくり読みたいものばかり。
畜生塚は私家版で届けてくれたことがありましたね。よくわからないなりに、哀切で、残忍な歴史のトーンが伝わってきた記憶があります。

大系の方の年譜  ぼくのいない場所で 鶴見俊輔さんが、それに触れて重宝していたそうです。 そうです じゃないな、 気を利かした奴がテープを、とってきて、貸してくれたのだから、 実際、 この耳できいたわけだ。 なんだか、兄弟論ばやりだ。

詳細なわりに、 簡として要をえた、いい年譜でしたね。プロというのは、いい意味で抑制が利いてくることなのかな。

 

恒は ボートで大変です。もちろんそれにひっかけて いろいろ余禄があるのでしょう。 一度 長浜であった試合の観戦にいきました。 どん尻だったけれど 長浜の町は、 なかなかよかったな。 次は、 石山だそうだから 又 雨が降らなかったら、 フラリといくつもり。

朝日子さんは勉強で大変でしょう。 好きだから文句をいうことはないでしょうが。

お大切に。

恒彦拝   六月一九日

付  中世論は くれますか?

* たまたま、桜桃忌の日付けで書かれているのも懐かしく、声も聞こえてきそうだが、実のところ、まだ文通と著作のやりとりだけで、一度も顔を見合わせて逢えてはいなかった時期と想われる。
2018 8/17 201

* 自転車で、マコ、アコのために排便用の重い砂を三袋も買ってきた。ついでに久々にとインスタントの塩ラーメンも買ってきた。一応食べきれたのに、下痢。おやおや。
晩には戴いた中村屋のカレーが美味しくお腹に落ち着いている。感謝。
川柳作家の速川和男さんさん、是も巧そうな地産いろいろの生饂飩を下さった。むかしから、パンよりも麺に心を惹かれる。
2018 8/19 201

* 晩、建日子たちがマコ、アコに逢いに来ていた。雑談に終わる時間は惜しく、わたしは二階で仕事していた。いつの間にか、帰ったらしい。
なにかのテレビ情報によれば、わたしと建日子とに残された日数は、正味にして「数日」しか残っていないと。顔を合わせるなら、懐かしく意味も実もある時間にしたいと願う。

* 「湖の本142」の編成が成って行きそう。
2018 8/21 201

 

* 兄恒彦からの郵便での来信を、見つかっている限り、いま、妻が機械に書き起こしてくれている。恐ろしくクセの強い兄の書字ゆえさぞ読みにくかろう、 が、わたしがそれに手間を割いておれる今ではなく、頼んである。78年ごろ、続けざま、「朝日子」の容態を案じてくれているが。もう大学生だったか、入院 しての盲腸手術に安易な失敗があり、退院後に激痛の腸捻転で再入院・再手術したころかと想われる。救急車が連れて行ったのは吉祥寺駅からまだ向こう、前進 座劇場のさらに向こうの列びにあった。
入院中は、当時の手帳で見ると、ほぼ毎日のように、保谷から遠くまで、自転車で見舞いに往復していた。ベッド脇で、また昼食の食事店でもわたしは仕事も していた。朝日子は甘えたの泣き味噌で、父親の手をとっては涙を流していたりした。入院とはイヤなものだ、まして繰り返し激痛で救急車の世話になるのでは 辛かったろう。
2018 8/23 201

* わりと、すんなり機械稼働してくれいる。

* いずれ上野の池之端で撮ったのだろう、上に出してある「蓮」の写真が、われながら好きで、動きやすい心を静めてくれる。八坂神社の西楼門から撮った 「石段下四条の夜色」もわれながら、胸に沁みる。高木冨子さんの「浄瑠璃寺夜色」の繪も、観るから懐かしい、いわばわが生気と正気の拠住となっている。原 作畫は観ていない、もらった写真を観ているのだが、これで十分。
写真というのには、こころ捕らえてくる魅惑があり、溺れたくはないが、いい写真を撮りたい、撮れるととても嬉しいという魔にいつも憑かれる。わたしの撮った写真のここ十五年の「作」は一枚のこらず、ワイシャツの胸ポケットに入る小さなコニカ・ミノルタ「DIMAGE X50」 で撮ってきた。わたしには機械など選べない。有楽町の大きな店で、孫娘ほどの若い店員に、あなたのオジイチャンに選んで上げるなら「どれかナ」と頼んだら 上のカメラをすぐ選んでくれた、以来、十五年ちかくこのファインダアーからなにもかも覗いてきた。充電器も電池二本も即座に買ってきた。愛機である。

* 写真機には憧れた。
とても欲しかったが、大学時代でもカネというものを月に数千円、小一万もロクに持てなかった。辛うじて叔母の代稽古で小遣いを稼いでいたが、 父よりは金主と頼みいいこの叔母に、強請りにねだって五万円という金額をなかば強奪し、河原町の「さくら屋写真機店」のウインドウで何ヶ月も垂涎の的で あった「ニッカ」カメラが買えたのだった。昭和三十年になるならずの頃で、思えば、ライカマウントの分相応な高級品だった。むろん、重くもあった。
中国へ作家代表団にまじって出掛けたときは、軽量の安いカメラを持っていったと思う、ソ連の作家協会に招待された時も重いニッカは置いていった。

* 花の、やや逸らした角度からの美しい接写が好き、やや得意でもある。

* こんな感想をただ書いていても、わたしの「書く」楽しみ、書き飛ばさない「楽しみ」は、止めどない。随感随想の「文藝」連鎖と、ホームページ前置きに書いている通り。
ただ、これをやりすぎていると、仕事の進行に障る。
2018 8/24 201

* 今朝も『風姿花伝』をはらはらめくっていて、「物学(ものまね)條々」に目をとめ、もう久しい自身の思い理解に触れてくる「科」という一字に出会っ た。ああ是へ立ち止まるとながくなってしまうなあと躊躇ったが、日頃も気になり気にしている一字だけに、通過しかねるのである。

☆  風姿花伝第二 物学條々
物まねの品々、筆に尽し難し。さりながら、この道の肝要なれば、その品々を、いかにもいかにも嗜むべし。およそ、何事をも、残さず、よく似せんが本意なり。しかれども、また、事によりて、濃き、淡きを知るべし。
先づ、国王・大臣より始め奉りて、公家の御たたずまひ、武家の御進退は、及ぶべき所にあらざれば、十分ならん事難し。さりながら、よくよく、言葉を尋ね、科を求めて、見所の御意見を待つべきか。

* こと細かには立ち止まらない、ここに謂う「言葉を尋ね、科を求め」とは、何かということ。

* いま、舞台で謂う「せりふ」を漢字に書くに「台詞」とする人の方が多い。台本にある詞とい理解か。しかし、もう一つに、昔から「科白」という表記があるが、どういう意味か、今日では大方の舞台・演劇人が忘れ果てているように歎かれる。
「科」とは何、「白」とは何。
「白」には、表白、自白、告白、白状などの熟語があり、何らか「言葉」で言い表す状況が察しられる。
一方の「科」には、「シナ」をつくるなど謂うようにな、肉体・身体による表現行為が察しられる。「言葉を尋ね、科を求め」という言句には「セリフ」が本 来持ちかつ表すべきものが謂われている。それの分かっていない俳優は、喋っているときは「躰」での科よき表現が置いてきぼり、躰を使っているときは「言葉 (表白)」での表現が置いてきぼりになる。ちゃちな初心の演劇を舞台で見るとこの「科」と「白」との有機的な美しい調和が成ってない。セリフといえば「台 詞」としか考えていない不勉強がバカバカしいほど露呈してくる。
建日子のごく初期の作演出舞台にも、口を酢くしてよく「科・白」の注文を付けたのを思い出す。
もう久しく、こっちのからだが言うこと聞かず、建日子の作・演出芝居も観ていない。
2018 8/26 201

* 兄恒彦書簡の電子化、妻が頑張ってくれてもう二十一本にも。まだまだ在り、そのうちには兄もメールを使い始める筈。手紙書きの好きでないわたしはどれほど手紙やハガキを送っているのか分からない。
十時半。 そろそろ階下へ。あすの病院へは、午ごろ家を出て間に合うのだが、焦げそうに眩しく暑いのかなあ。
2018 8/26 201

* 機械の煮えてくる迄に、『今物語』『風姿花伝』を愛読、このところ朝・一の楽しみ。
夕刻に、自覚的には何の用もない、しかし歯科通いが控えている。マゴ・アコのいる家にいて、仕事をしていたい。もう仔猫とはとても謂えず、一日に数十回も大笑いしたり歎いたり惘れたりしながら仲よく共生しています。ネコもノコも黒いマゴも喜んでいてくれる、信じている。
それに比して安倍、自民、トランプ等々という何という苦々しい不快感だろう、吐き出す心地。
2018 8/28 201

* ふとまた手に触れたので、年譜だけを詳しく読んでいた兄・北沢恒彦の遺著『隠された地図』内容三編の後ろの一つ「セブンティーンの『武装』」(思想の 科学一九九○年八月)とある「インタビュー」を読んでみた。ま、高校生としての「闘争」時代とそこからのひとまずの卒業という脱皮を語っている。
ま、同じ時期に同じ高校生から大学へ入ったわたしの日々と、まっ赤とまっ白ほど大違い。
わたしが、歌集『少年』を持ち、茶の湯を人に教えもし、漢籍や日本の古典や般若心経や現代文学・世界文学を耽読し、京都の寺社や自然や古典美術に親密に 接していた時、兄・恒彦の方は、共産党の管轄下に闘争に励みいわゆる火炎瓶を投げて逮捕され留置され、裁判で有罪判決も受けていたのだ。噂には聞いてい た、けれど、兄自身の口から詳細に快活に話されているのを読んで、やはり、びっくりポンであった。

* もう二編は、わたしには難しすぎる論攷のようだ。
2018 8/28 201

* アコに盛んに起こされた。甘える甘える。
それまで、懐かしい学校時代の、賑やかに楽しい場面を克明に夢見ていたはず。給田先生も橋田先生もおられ、わたしも楽しそうに快弁をふるっていたらしい。明瞭に見ていたはずも、夢は、かき消えるように記憶を遠のいてゆく、いっそそれは有り難いこととも思う。
2018 8/31 201

* 九月になった。やす香の生まれ月だ。俳優座が「心 わが愛」を初演した月だ。生まれてくる初孫をわたしはあのころ男の子でも女の子でも「こころ」と名 付けたいような気でいたが、よして良かった。なにしろ「心は頼れるか」と批判し続けてきたわたしの「こころ」観なのだから。「静かな心」ほ得られなかった 漱石・先生。そのあとを追いたくはない。名付けるならやはり「しづ」さんか「しづか」さんであったか。いやいやそれはもう『蝶の皿』に用いていた。あれは あれに極まっていた。
わたしの此の機械の真向こう数十センチに、妻が、マミイが愛を込めて画いた幼い日のやす香の佳い鉛筆画が飾ってある。大学へ入ろうという頃の女学校制服のやす香の笑顔も手の届く近くに額に入っている。もう何年か、一日も欠かさず孫のやす香はわたしのそばに居る。
2018 9/1 202

☆ 秦 恒平 先生
ありがとうございます。こんなに速くご返信を頂戴でき、感激しております。
ご創刊・第一巻「みごもりの湖」「秘色」「三輪山」をぜひ、購入させていただきたく存じます。
また、「こヽろ」(戯曲・漱石原作)、「初恋」も拝読したいと思います。その巻すべて購入いたします。
お支払いの作法、銀行振り込み、定額小為替、現金書留などを、ご教示たまわりますようお願いいたします。
メールをお送りしたあと、29日(水)録画した「甲陽軍鑑」についてのNHKの番組を、小生も見ておりました。
信玄公は偉人ですが、単語、その関係、構文の研究で「偽書ではない」ということ証明した酒井憲二という国語学者の仕事は尊いと思いました。
能登川には知人がおりました。大きな、黒い木の水車が「伊庭内湖」(いばないこ)にございます。彼はそこで廻っているように思います。そろそろ回転から解放してあげたいと思い、挽歌を書いています。
近江は、大阪、京都へのJRの便よく、ベッドタウン(カントリー)になって、人口もトラブルも、増えてておりますが、琵琶湖は変わりません。
すべてを包んでくれる深さをもってくれているようです。

此の路やかのみちなりし草笛を吹きて仔犬とたはむれし路   阿部 鏡(あべ きょう)

来週、大きな台風が列島を横断する気配、どうか、お気をつけていただきますよう、お願いいたします。   近江大津  澤

* 能登川の、生母阿部鏡の歌碑もご存知でいて下さり、懐かしく。
2018 9/1 202

* 直哉の「母の死と新しい母」を、またまたまた、読んだ。清い冷たい水で顔を洗ったように清々しく嬉しい作品。作には品の有ると無いの大きな落差のあること をわたしは直哉の文章・文体から学んだのである。「母の死と新しい母」から真っ先にそれを教わった。「母の死」はいたましく恐ろしく胸に沁みた。「新しい 母」への直哉少年の慕情は、美しいほどに淳で、羨ましかった。わたしは「実の母」を受けいれなかった。「育ての母」には、懐きたいのにどこかいつも怕かっ た。
2018 9/2 202

* 雨。
日曜日。荷物郵便は出せず、郵便も来ない。
リーゼに頼ったが、幸いひどい夢は見ず眠れた。一日中いつも身ぢかに、アコや黒いマゴのちいさな兄弟が寄り添い甘えてきて、そのおかげで夢魔が温和しいかと、ゲドやハンノキの気分でいる。
2018 9/2 202

* 逼る台風の中 妻は、予約の歯医者へ出掛けた。マコとアコと留守番。

* 思いのほか早く 雨にもあわず妻、帰る。

* わたしはウイスキーとワインとで、ほろ酔い。雨が急に来て、風とともに屋根をうっている。
2018 9/4 202

* 有楽町まで歩いて、ビックカメラで、不調故障の家電話機を新調、帝劇したの「きく川」で妻が所望、久々に鰻を食べてきた。二枚の鰻が私には多く、飯は まったく食えず、なじみの菊正宗でを満足。帰りの途中乗り換えの電車、二度とも満員の中で席を譲られ感謝、有り難かった。

* マコとアコの兄弟は十時間余の留守番、ま、二人だもの淋しくはないだろうが、帰れば喜び迎えてくれる。
2018 9/6 202

* 黒いマゴを静かに見送って、二年経った。
亡くなる前十日とない此の黒いマゴと、まっすぐ目を見交わし、「ありがとう」と声かけ合うて話している。
2018 9/7 202

* 七日の、黒いマゴの写真を伏せてやりながら、泣いた。
2018 9/9 202

* 秋場所が始まっているが、わたしのスモウ熱はすこし退いているか。
喰う楽しみが激減(なにしろ半人前の面の半分で苦しいほど満腹してしまう)で、楽しみは読書と映画(映画館へ行くなど論外、猛烈に採り溜めてある録画であるが)と、ふたりのマコとアコ。この兄弟、麗しい限りに仲が良い。われわれにも懐き切っている。
西棟から、新井白石著の名高い語源辞典『東雅』を機械の側へ持ってきた。白石先生はかなり強引でもあり、また物に即して過ぎたる嫌いあるけれど、断然乎として面白い読みをなさるので、せいぜい受け売りを楽しもうと。残念ながら、「心」には触れていない。
2018 9/10 202

* 二階廊下の窓縁に、アコと黒いマコ、チンと前後して、外の道路やよそさんのお家を眺めていた。外へも出たいだろう、外の空気も吸わせてやりたいと思うけれど、老夫婦では元気ハツラツのフタリをとても御することは出来ない。
2018 9/12 202

* 久しぶりに鮨の出前を頼んだ。いつもに変わらず、和加奈の心入れでわたしのために鯛の兜煮を添えて来てくれた。
鮨、美味かった、が、一人前の半分で腹に満ち満ちた。
2018 9/14 202

* 蒸し暑い。とても出歩く気にならない。幸い、マコとアコとがいて退屈などしない。 2018 9/16 202

* いま十一時になろうと。わたしはマコやアコの駆け回る足音に真夜中なのにと驚いて、目ざめた。永い宵寝=酔い寝だった。過剰なほど集中しての「読む」勉強によほど眼から疲労したらしい。
2018 9/16 202

* 夜来 妻 低調 不安募る。仔猫たちの世話が荷重になっているのは明らかか。
今日、病院診察日、無事に通過あれと説に願う。
血糖値が高い。執拗なめまいが夜来続くと。血圧は低め。
十時起床、ニトロを服させ、ワイン、ミルク、すっぽん球、水分など服させ、そして葡萄、チーズなど食べさせる。やや持ち直している。しんどさに負けてナニもしないで堪えよう、恢復をただ待とうというのは、愚。服すべき薬はきちんとのみ、栄養分を体内へ。当然のこと。
今日の病院診察には付き添って行く。平安を祈る。
2018 9/18 202

 

* 一時半、妻、ハイヤーで病院へ。現状では通常の通院。検査や診察で異常の出ないのを切に祈る。わたしも後刻、自転車で様子をみに病院へ行くつもり。どうか入院などという事態避け得られますよう。

* 妻  心肥大顕著 心電図の不良 危険  ペースメーカーを入れる手術、最短で二週間は入院必要と。 いま、手続き中。
私は、最短必要な物を用意に帰ってきた。すぐまた自転車で出掛ける。

*  建日子

カーサン 二時半 検査と診察の結果緊急入院。

ペースメーカーを入れる手術 最短二週間を要すると。 心肥大 心電図の不良 顕著危険と。

とりあえず知らせる。  父

☆ お知らせありがとうございます。
今、出張で九州なので、戻ったら顔を出します。  建日子

* 各位 いろいろとご迷惑かけたり不都合あれば、お許しください。

* マコとアコと三人でカーサンの無事退院を待つ。

* このところシンドイがときどき有り、ことにメマイを訴えていた。昨夜も早めに床に就いていたが、夜中、しきりにわたしに不安高じ、明日の妻の診察は、難儀に、またもや入院沙汰にならないかと眠れぬほど案じた。今朝も妻はメマイを云い十時までやすみたいと。
起きてきたのを、わたしは叱るようにニトロを、またワインとミルクとを少量、強壮剤も飲ませ、顔色も表情も回復し、このまま保ってほしいがと願いつつ、 タクシーで病院へ出し、わたしは自転車で病院へ追った。緊急の事あれば家へ帰って必要な物を運ばねばと、なにかしらわたしはもう入院が遁れがたい気がして いた。そのとおりになった。自転車での家との往来はとても助かる。熱暑の日々を過ぎているのもむしろ幸運か。
ペースメーカーを からだに入れて、健康が維持できますことを、真実、祈り願っている。

* アコもマコも事情を敏感に察して、シーンと温和しく、抱いてやると懐くように静かに抱かれている。病室で教わったとおりに、ふたりに晩の餌をいま与えた。飲み水もキレイにしてやった。

* 仕事は、抑制するしかなく、湖の本142の発送も、選集二十八巻の再校や責了も、意図的に時期を先延ばしにし、その間に書きかけの小説を充実させたいと、今、思っている。
2018 9/18 202

* 家事馴れない家の中は、まことに、むずかしい。生協へなにを註文して佳いのやら。一覧表の字が小さくて、読めない。
マコとアコとが、淋しそうに静かにしている、あんなに家中をふたりで疾走していたのに。

* もう機械はやすませる。
「モンテクリスト伯」に勇気を貰いながらマゴたちと寝よう。
妻よ、眠りやすかれ。
2018 9/18 202

* 十時半 水曜日午前のいろんな用事を済ませた。ひるまえにはマ・アに食事をさせ、て、慎重に留守をしてもらう。すぐ帰ってくるつもり。宅急便、郵便が有るかも知れぬが致し方なし。

* 内分泌科の諸検査、異常なし、肝臓・腎臓とも。腎臓の年齢によるスローな老い衰えは余儀無しと。

* 築地の更科で蕎麦で酒をすこしやり、その脚で帰宅。すぐ、マ・アに食事させておいて、病院へ。

*  顕著に妻の状態回復していて、医師は、ペースメーカー内蔵手術に及ばないかどうか迷いだしていた。これはまたわれわれ医療外のモノには的確に判断がなら ず、医師にあんいに下駄を預けられるのでは不安で叶わない。医師は、わたしと建日子とで相談したいと。症状の好転は嬉しいが、警戒が解けるわけではなかろ う、相談は困るなあ。
2018 9/19 202

* 昨夜もよく眠れていない。三時に酒で蕎麦をすすり、六時にワインて小さなパンを食った。ヨーグルトとパンとを、爪の垢ほどずつマコとアコとに。大喜 び。家の内にふたりがいてくれる有り難さをしみじみ感じている。兄弟ともわたしに抱き取られるのが大好き。そして元気になる。

* 睡い。
2018 9/19 202

* アコ、マコの排尿便の後始末(砂便所から掬いあげて生ゴミとして出す)から始まる。この子達、排尿便の不始末がほぼ全く見られず、決まりの砂場をつかってくれるのは、大助かり。ただし障子の惨状には唸るしかない。懸け軸もみな外した。

* 妻の容態への対処、医療上の判断が出来ないぶん、反動的に無形の不安に怯える。アコマコの食餌の世話などして気を晴らしている。自分の癌には自身驚く ほど冷静に対処し乗り切れてきたが、妻の心臓はもう数十年来の宿痾であるだけに、真実、心身から戦く。私のためにではない、妻自身のために長生きさせてや りたい、一年でも永く。

* 静かな心でありたい。凡庸のわたくし、容易でない。これは誰にも頼れることでない。

* 近江大津の澤さん、おみまいメールで戴く。感謝。お手紙・お便りは、何とかぎらずいろいろ戴くが、わたくし、手先の痺れで字がかきづらく、おおかたお返事が出来ないでいる。この「私語」を見て戴ける方は、ここで、気持ち、代替させて戴いている。
メールを頂く場合も、「私語の刻」に、気分、謝意を示すに止まってしまうのをおゆるしください。頂き物のお礼のハガキなど、大方みな妻が代わってくれている。

☆ 心配
すべて、すべて良い方に向かいますように。
お身体大事に   尾張の鳶

* いまは、こういうふうに大まかに案じて戴けるのが、とても気が休まる。ありがとう。できる限り、じいっと、機械に向いて創作世界へ入り込みたい、不安から逃げ込むのではあるが。

* 処方箋を保近くの薬局へ届けたり、マアに食餌させたり相手をしたり、自分も朝に昼に何か食べたり、宅急便や郵便に応対したり、届いた再校を点検した り。 ぐーったりと疲れてきた。腹の工合も妙に重い。三時には、見舞いに行く。自転車で助かるが、用心もいる。疲れてくると脚が攣る。むかし、これで転倒 したことが二度三度あったので、用心している。

* 気の励みは、いましもエドモン・ダンテス、モンテクリスト島で、ファリア法師から譲られた、信じがたい財宝をついに掘り当てて目にしたこと。此処からモンテクリスト伯の第二の人生、復讐と報恩と愛の人生がはじまるのだ、気を励まされたい。
源氏物語は、「玉鬘」十帖に進んで行く。
読書に励まされたい。ただ眼が疲れ切って行くのがしんどい。
2018 9/20 202

* 幸いに妻の体調は昨日に好転、今日もさらに好転、この分では手術までもないのではと、医師は明日の朝、建日子も交えた面談で意見を聞かせてくれること に。うまくすれば、土曜に退院可能かも。そのごは慎重に診察と治療を重ねて行く事になろうか、そうあって欲しい。いつつか愁眉をひらき胸を撫でている。雨 の中を自転車で病院往復した。

* セイムスで、マ・アの食物と排便用の砂とを買い、ついでに札幌味噌ラーメンという安直を買って帰り、二人に食事させてから、ひとりでラーメンを喰っ た。不可なく可でもなく。酒へ逃げた。昨夜、安眠できず、今朝は不安に耐え得ず、逃げ込むように精神安定剤のリーゼを服した。効いてくれた。

* 七時。もう睡い。選集二十八巻の前半、十三篇の対談・鼎談・座談会再校を終えた。懐かしく、そして幸せな思いをした。
2018 9/20 202

* アコ マコ 交互に私の蒲団の中へ入ってくる。心温まり安らぐ。有難うよ。排便の始末や食餌の規則的かつ平等な飼養。いたずらもかなり烈しく、昨夜は、排便用の砂の用意分を廊下に撒かれて弱った。なにしろ、家中を引っかき回してくれる、ふたりして仲よく。

* 今朝は十時半に、建日子もともに妻の主治医の話を聴く。予断もたず聴きたい。好転の維持と持続、それには何が必要か。

* 五時半には目がさめて、直哉の「正義派」を読んだ。ラコニックな文体の煮つめ、男性的に屹立している。

* 十一時、建日子も来て、主治医の説明を聴く。十八日の心電図その他の悪兆候が、入院翌日來幸いに著しく好転、手術を強行するまではない、今後をいよいよ慎重にみて行きましょうと。
明日の退院が決まった。建日子を母のもとにのこし、わたしは帰宅。朝から雨で、重ね着の長袖にレインコートで自転車の往復。慎重に慎重に。軽々と走っている。
少し疲れて寝た後、三時になったので、もう一度雨の中を走って見舞い、なにかと話しあう。五時を過ぎたので、マ・アのためにもと帰宅。明日の無事退院を待望。

* 御心配を頂いた方々にお礼申します。
2018 9/21 202

* 草臥れている。パンとワインとミルク。つまり手近で手軽に食事は済ましてしまう。マ・アたちの食餌はきちんと時間どおりに定量をやらねば。糞便の始末 も。これは意外なほど手軽にきちんと出来る。ふたりとも甘えるあまえる。夜中、一度二度はふたりとも蒲団へもぐってくる。紙屑をまるめ追っかけて遊ぶのが 好き、テシュペーパーの箱が狙われ、気が付くとひどい有様。障紙よりはいいが、障子はすでに壊滅状態。
2018 9/21 202

 

* 十時半 妻、無事安穏に退隠帰宅できた。今後はさらに慎重に再々の通院診察がなされる。耐え抜かねばならない。
御心配をかけました。お見舞い下さり心より御礼申します。
ひとまずは嬉しく安堵している。マコ・アコも喜んでいる。わたしは、ひたすら、睡い。自転車見舞いをみな無事に出来てよかった。
院内では、退屈紛らしにも、選集28分の再校・常識校正をたくさん、手伝ってくれた。アタマはせいぜいしっかり働かせて貰いたい。
2018 9/22 202

* 建日子 カーサン夜中異変
五時頃 悪寒。 寒いと訴え、熱は七度余り、脈はあり。ガタガタ震え、加えて脚の攣りに苦しみ、手洗いまでの途中で、相当の嘔吐。
便座で落ち着き、六時現在、蒲団を重ね着て、寝入ろうとしている。熱少し。いささか寝ぼけの気味あるか。

救急車は不要という。

点滴に較べ、水分の不足顕著と思われる。目下はわたしにとくに打つ手なく 静観のみ。

実は 入院の翌日に、 ご近所にあいついで不幸あり、いささかは、いや、かなりかも これが精神に響いていないかと心配している。

七時。 わたしも疲れているが、頑張って看護する気。 とりあえず状況を知らせておきます。 父

* 退院帰宅すると、いきなり家事や仔猫たちの世話にかかり、嬉しさでとは分かるが、疲れてしまう前に横になるように奨めたが。疲れを感じてからになった。夕食は、頂き物で間に合わせたが「おでん」など消化しきれなかったよう。

* 日曜日。静観しつつ看護を心がける。
2018 9/23 202

* 妻は九時前にからだを起こして、キッチンで細い食事をし処方の薬や水分など摂って、また水枕と氷で頭・額を冷やしたまま寝入っている。熱は差し引きし ていて、高熱へはなってないと思うが。明け方には音のするほどガタガタ寒がり震えていた状況は脱しているが、起きあがって生活するほどのちからは湧いてい ない。幸いにわたしにも外出の用なく、しかし月末のどこかに歯医者の予約がある。わたしは断りたいが妻は行きたいと云うている。
救急車を呼んで病院へ逆戻りにならずに凌いで行けるか、どうか立ち直って欲しいと祈っている。

☆ それは心配ですね。
病院で何か見落としがあるかもしれず。

回復しないようなら救急車が良いかと思います。

こちらからもまた連絡します。
2018 9/23 202

* この三、四日は毎朝五時ないし六時半ぐらいに起きている。元気づけに、なにかというと、ごく少量ずつ、お酒かワインか安いウイスキーを口にしている。 疲労しているので睡魔に誘われるが、眠って体力と視力とを支えている。妻は昨日、何よりも「選集」三十三巻の予定を完結させましょうと口にしていた。しか し急ぐまいと思う。棒を折ったにしても、何が何という何の意地も無いのだから。一年でもながく「この家で」一緒に生きたいとだけを願っている。そういう人 生であったのだから。
2018 9/23 202

* 一時前、ロキソニンで熱を下げ得てて、妻はゆっくり昼食が摂れた。マもアも、さも安堵の風情。しばらくテレビも観て、三時過ぎ、また床に就いた。わた しも眠りたい。今日は何の休日なのやら、郵便ももう宅配もあるまい。私まで潰れてはとほうもないハメに落ちる。焦るまい。

* たまりかね、三時半から五時までわたしも熟睡した、いや妙な夢も見ていたが烟のように忘れた。すこし気の張りも出来、心身・眼、すっきりした。妻は熟睡し続けているが、熱は引いているか、そうだと有り難いが。
2018 9/23 202

* 夕食も二人で出来た。今夜を無事に乗り切って、退院後へからだを慣らして行ってほしい。
わたしは、ひたすら睡い。
2018 9/23 202

* 建日子  カーサン やや持ち直しています。

午前中は発熱で、冷やし続け、ついにはロキソニンで解熱を策したり。
なんとか昼食はテレビの前で出来、その頃からすこし持ち直して、午後も寝ていましたが、白鵬の全勝相撲も観て、夕食も、ま、ちゃんと出来て、八時前から床についています。熱は降りていて、白い顔をしています。

九時過ぎ わたしも疲れきっているので、寝ます。マ も ア も、元気です。カーサンが帰ってきて嬉しそうです。

心配を掛けました。 まだ脱したとも云いきれないが。
建日子もくれぐれも健康に用心してください。  父

* 九時。明日にそなえ、横になる。
2018 9/23 202

☆ ぼくも
電話で話せて少し安心しました。
白い顔は血圧が低いのかもしれないですね。そもそも、血が足りていないのか。

なるべく時間を作って早めにまた顔を出します。

運搬などの力仕事があれば、そのときにでも。

お二人とも どうかお大事に。   建日子

* 無事に生ゴミも出した。わたし、すこし、寒気と発汗気味。
夜中目ざめて、『モンテクリスト伯』のなかでもダンテスには恩義深きモレル一家の惨状を救う全巻中の報恩感動編を読み上げた。ここからは、ダンテスも宣言している復讐篇へ突入して行く。まずは舞台はローマへ展開する。
また寝入ってから、ふと気付いた、枕の向こうでマコとアコが兄弟抱き合うようにしたまま、ごく低いミミ、ミミといったごく低声でとめどなく、内緒バナシのように話しあっているのを聴いた。こんなのは初めてのこと。
2018 9/24 202

* 建日子、午後、見舞いに帰宅。仔猫たちとも再会し、キッチンで機械仕事をせっせとしてから、和加奈の鮨など喰って、忙しそうにまた都心へ戻っていった。

* そのあと「NCIS」を二人で暫くぶりに楽しんだ。ギブスのチームの優れた「人間劇」に感じ入った。「事件劇」はどう造り立ててもウソクサイのだ。以 前の「ドクターX」大門未知子劇も、事件をこなしてゆく「人間劇」になっているので高視聴率をとっていた。このあいだまでの「グッドドクター」も明らかに 事件劇であるよりも「人間劇」として成功していた。テレビ世界を概してえすっぺらにウソクサクしているのは、「人間」でなく「事件」に引き摺られているか らだ。自民党総裁選などのばからしさも人間のの聡明や高貴とり無縁な「事件劇」の薄さがバカげているのだ。

* 建日子の新しい文庫本『マイ・フーリッシュ・ハート』を昨日読み始めて、彼の才能はムダのない、どことなくラコニック(スパルタ式)にきびきびと脚の 速い文体にあるのを再確認した、が、「事件」性にべたべたと依拠して「人間劇」にはとても高まっていきそうにないのが、残念だった。
譬えるのはまことに気がひけるけれど、文章文体の建日子型簡潔なラコニックは、「いい人間劇」にぶつかれば優れた「文学」へ接近しうるものがある。
志賀直哉に深く学んで、ストーリイを造り立てて面白がっているより、大胆に私小説母胎のフィクションを構築してはどうか。「母の死と新しい母」「和解」 「暗夜行路」などを、または藤村の「家」「嵐」などを徹底して読み深めつつ、自身の内奥に根の降りた、いっそ私小説ふうの「創作人間劇」を得意な文体の妙 で読ませて欲しいと願っている。
わたしの文体と建日子のそれは全く異なっているが、建日子は自分の文体に自信も誇りさえも持って佳い、深く自覚し、さらにさらに勉強もして、美しくラコニックに磨いて欲しい。そう「言い置い」て励ましておく。
お話は、しょせん古びる。が、「文体の音楽」は、奏でつづける。
学ぶ(まねぶ)なら、潤一郎でも鏡花でも荷風でもない、直哉ではないか、あるいは藤村も。誰のどんな名作でも「機械でいつでも読める」などと寝言を言うていないで、しかとした書物で謙遜に読みかつ読み深めて欲しい。

* 愚な口出しと承知しているが。

* 秦朝日子に、謙遜な気持ちで成功をあせらず、しんぼうよく、しんぼうよく、書き始めていた一種幻惑の小説世界をあのままに成育させて欲しかった、きっとどこかへ到達したろうに。
いまからでも遅くはないと思っている。惜しいと思っている。しかし、どのような批評者の前でも、謙遜でなくてはいけない。高慢な、などと言い放ってはいけなかった。この道は辛抱と勉強と努力しか酬いては呉れない。書けている作があるなら、読みたいと願っている。
2018 9/24 202

 

* 骨休めに音楽クイズ番組を気楽に聴いていた。
建日子はカーサンの顔色は白いより淡黄色いのではと観ていた。壊死していた胆嚢は幸い摘除してあるが、脂気には気を付けねば。
わたし、気怠い疲れが溜まっていて、睡い。よく眠ることがいまは大事らしい。
2018 9/24 202

* 体重、胃全摘後の最低、たぶん四十代前半のスマート水準へ。糖尿は、インスリン注射こそ欠かしていないが胃癌手術後すこぶる安定している。病院の処方 薬はアリナミン系二種類、前立腺用の一種類だけ。しかしエビオス(五錠)と乳酸系小腸大腸の安定薬のほか、眼にブルーベリイ、点眼薬四種、すっぽん球、う こん、萬田酵素などを毎朝にきちんと服している。気まぐれにでなく、起床後に整然と用意して軽食後に服している。食は、進まない。今朝は卵の厚焼き二切 れ、梨を半分だけ、日本酒を小さな猪口に二杯、好みの落雁系小粒の甘味一つ二つ。そんなところ。
心身の疲労は、仕事柄もあり、過重にこたえるが、病院通いに日に二度も病院まで見舞い往復も軽々と走れている。自転車は、坂でさえたいして苦にしていない。
妻が退院してくれ、仔猫がふたりし喜ばせてくれて、有り難い。おいおいに歩くと云うこともしたいが、まだまだ発熱・悪寒・嘔吐後の妻の体調は正常とは云えない、用心しいしいの日々となる。
2018 9/25 202

* 江古田の歯科予約を断り、聖路加処方薬を薬局で受け取ってきた。辛うじてあめを免れてきた。

* 明日の故紙回収のため、超重い紙の荷を六つも七つもつくって勝手口の外まで出した。よくこれだけ持てるという重量を、書庫から、廊下から、取り集めて 紐で荷にして運んだ。背骨は腰あたりで相当陥没しているだろう、老境、それはもう防げることでない。ただ、わたし、腕力はまだかなり保っている。

* すこし寝入った。一時に「マ・ア」たちにきまりの食餌を遣った。妻は、朝のはたらきを休めに寝入っている。一時半、いま、大屋根をうつ烈しい雨の音を聴いている。天然の音楽などというふるめかしい言葉が思い出されて。「マ・ア」たちも昼寝。
ひとり目ざめていて雨を聴くのは、寂しい。すこし遠くで号砲のように雷鳴が地をうち……駆け寄って来そう。
2018 9/25 202

* 夜前はともあれ安眠したようで、安堵。早起きして、朝食。雨。故紙回収、いつもはわが家の塀のまえに出されるが、雨の日はお隣のガレージを拝借する。紐を掛けた一つ一つが15・10キロの余もあるのをわたしは雨中お隣へ運ぶ。腰が悲鳴、故紙になりそう。

* 運び仕事、了。
「さばとら と 毛なみを謂うらしい」アコと二階へ。黒いマコはめったに二階へ来ないが、大人二人が家を留守にしていると、「ア・マ}」ふたりして二階廊下の窓縁にならんで外を見ている、らしい。
2018 9/26 202

* 郵便局と、近くの「セイムス」へ支払いや買い物に二人で出歩いた。まぶしい秋晴れ。しかし明日以降は大崩れと。
杖無しで歩くことはなかったが、勝手口に杖無く、玄関へ回ると「マ・ア」がドアから飛び出しかねないので、そのまま出た。杖は持ったほうが遙かに安心・ 安定。めまいのする妻にも、以前から熱心に薦めるのだが、頑固に聞きいれない。カッコなど言うてられる体調でなかろうに。
2018 9/28 202

* 睡眠二時間か 起床5:30 131-67 (84) 血糖値119 体重63.5kg

* 建日子  カーサン またも
夜中異変  診察日ですが 再入院か

夜前 入浴後 極めてめずらしく 十時には早や床に就きたいと。
そして、深夜へ向けて いわゆるゲップが出て欲しいが出来ない、カラダが硬い 腹部不穏 吐きたいが吐けない 腹痛 と続いて、温湯で腹を温めたり水分 補給したりしつつ、眠れぬまま三時ごろまで苦痛を訴え続け ほとんど「疲れ寝」のように俯せに浅い眠りへ落ちている、現に。痛み、退いているのかも。
発熱は無し、嘔吐はせず。一言にすれば 全身強度の不快か。「脱水」かと自問はしていたが、たしかに薦めても薦めても水分摂取が常に少ない。幸い心臓の苦しい痛いはなく、前回即入院を免れなかった徐脈はなくむしろ脈搏数は多すぎると。
前日に異様な食事をしたとは思われない。

今日 さきの退院後 初の診察日だが、衰弱が認められれば再入院のおそれねも強いです。

わたしは、一時間ほどは寝入ったけれど、終夜 看護ともなく いろんな世話でほとんど眠らず、五時半過ぎ六時前には床も離れ、様子を見ています。十時までは、眠れるなら眠ったままやすませておきます。
退院後初の今日の診察予約は午過ぎ。しかしタイヘンな人数の予約なので、「待つ」覚悟で来て欲しいと退院時に言われています。
本人には車を呼び、わたしは自転車で追います。だいたいタクシーと自転車で同じほどの時間七、八分で往来できます。入院となると、なにかと持ち運びの必 要あり、運ぶには自転車が便利。病院まで、徒歩だと十数分余かかり、わたしは 「歩く」のがシンドクて。雨の中でも自転車で走ります。

成り行きは また知らせますが、カーサン、弱っているなと案じられます。わたしも、このところ疲労困憊、だが わたしは励まし役でもあり。 「マ・ア」も 心配してカーサンのそばで、小さくなっています。  父

* やがて八時。「マ・ア」に朝食をやらねば。
2018 9/29 202

 

* 十時には、起こした。幸い 軽快していて遅い朝食をカタチだけでも。
雨中、午後一時すぎ、タクシーと自転車で病院へ。入院の用意も調え持参、妻は諸検査、わたしは待合いで「湖の本」142の校正に没頭、疲れると、『モンテクリスト伯」の続きを読んで不安を逸らしていた。

* 検査、心電図の結果は、前回の大徐脈に比して改善のまま。希望を持った。診察順は、最後尾。院内閑散として、待合にわたし独りかという時刻に診察終えて、有り難いこと、入院は免れた。やはり、タクシーと自転車で雨中を帰宅。「マ・ア」も喜ぶ。

* わたしは潰れるように三時間ほど熟睡。遅めの晩食は、妻が用意。安堵。

* 寒むけ、ことに下半身がシンと冷えている。食事終えたが、睡い。夜中に目が覚めてもいいので、ただ寝入りたい。頸に かたい鎖を巻いているよう。
2018 9/29 202

* この数日、仕事や心労の合間を強引に利しつつ、階下、和室の大ちから仕事の模様替えを独りで着々決行した。手間を叮嚀に掛ければ(力さえ出せれば)可 能と見通していた、そして今日昼過ぎには第一期の大仕事を無事に思い通りに仕遂げた。重い重い大きな本を二百冊ほども取り出して仮置きし、重い棚を思い通 りに独りで移動させたうえで、また綺麗に全册収め直した。古典文学全集、浮世絵全集、障壁畫全集、志賀直哉全集ほか稀覯の重い大きな本の全部を棚を移動さ せた上で移し替えた。それだけでなく寝室のわたしの顔の真横の、上京時新居に買い入れた木の本棚も和室へ移動させ、入っていた本も処置した。これをしない と、もしその本棚が夜分に倒れれば、わたしの顔・頭・頸をモロに本ごと襲うのだった。
どういうわけか、まだ今ならそんな作業が独りで出来る、やってみようと決意したのだ、そして、やれた。いい気分であるが、損な模様替えを断行したのは、 さらにそれに倍する大きな箪笥と洋服箪笥とを、これまた和室へ一緒に収める為である。それをしないと、二つの大きな箪笥は、妻と私の上へやはりモロに、 もっと烈しく重く倒れて来かねないから。
さ、わたし独りに(心臓を病んでいる妻には絶対にそんなちから仕事は手伝いすらさせられない)、よほども重い大きい箪笥を、廊下を隔てて部屋から部屋へ はたして移動させうるか、男二人でなら簡単に二十分もあれば済むと見遠している、(三、四十年近くも昔には同じ事をわたしが独りで実行したのだから。) が、さ、今回は、八十二歳のわたし独りで、どうか。建日子は、「若いの」を二人ほど、日当一万円出すなら、すぐにも行かせるよと言う。二万三万を惜しみは しないが、縁のない他人サンに箪笥のなかまで披露するのは気が引けるではないか。箪笥本体を移動するには、抽斗をぜんぶ抜いてかかるのが筋で、それは省け ないのだ。
ま、晩年の亭主働きとして、やってやろうと思っている、ネコたちの手も借りられない、興奮して大いに邪魔をされるばかりだが、現に、今日も。ま、この完遂のためにも、妻にはどうか日々元気でいてもらいたい、「やすむ」ということを励行してほしい、と切に願う。
2018 9/30 202

* さ、そろそろ、雨になるか風が来るか。

* 床の枕脇の山積みの本の整理に、また力仕事に励んでカタをつけた。
機会の仕事もつづけて、九時になる。「大門未知子」のドラマを観に階下へ。

* 十一時過ぎ。やすむ。九月尽、そしていましも台風襲いかかる。
2018 9/30 202

* 夜中、なるほど暴風だと感じていた、雨より風が凄いと感じながら寝入った。
六時に目覚めそのまま床を離れた。暴風雨はきれいに去って。「マ・ア}におこぼれをせがまれながらパンにバター、ミルク、煮豆、すこしだけ「獺祭」、で独り朝食後機械の前へ来た。
いま、すさまじいまで「暑い」 33度まで行くそうだ。
2018 10/1 203

☆ 至急のお願い
昨夜の私語を拝読して至急のお願いです。島尾敏雄の轍を踏まないでください。独りで箪笥を移動なんて、いけません。
『小高へ 父島尾敏雄への旅』の中に、島尾敏雄の死因となった行動について息子の島尾伸三が書いていました。
父親と母親の世界が混同しないように住居の一階は母のもの、二階は父親と妹のものとわけていたが、一階がゴミ箱のようになり、溢れかえるミホの着物をしまう場所がなくなったために、着物箪笥を二階の島尾敏雄の部屋に置くことになった。
島尾敏雄は自分の重たい書籍を車庫を改造した寒い書庫に移動していて、その作業中に脳内出血で倒れたのです。
「おかあさんの浸食力が無限大であることを知らされ、自分の配慮の足りなさを嘆きました」とも伸三さんは書いています。
秦さんは、いま、同 じことをしようとしています。秦さんのご年齢でする作業では絶対にありません! 本の移動だけでも滅茶苦茶無謀でした。若者でも厳しい肉体労働で秦さんが 病気あるいは怪我をした場合、「配慮の足りなさを」奥さまと建日子さんとに生涯後悔させることになります。秦さんにはまだまだすべきお仕事がたくさんあり ます。出来なくなってよいのでしょうか。
どこでも八十代の住まいは基本的にゴミ屋敷です。当然です。体力的に片づけられなくなるのは自然のことです、だから掃除業者などの需要が多いのですし、業者は乱雑さには馴れています。
建日子さんが手伝えないのですから、彼がアルバイトを探すか業者に依頼して、費用も払う、これ息子として当たり前です。老親の面倒を適当にしか出来な かった私ですら長年やってきたことなのに。わたくしは怒っています。無謀なお父さんと気の利かない息子さんに。後で建日子さんが嘆く前に、建日子さんを嘆 かせる前に、すっぱり秦さん自力の箪笥の移動を諦めてください。至急のお願いです。
奥さまのご体調いつも心配しています。秦さんを支える強い使命感がおありと拝察いたしますので、またお元気に乗り越えてくださることでしょうが、どうかお大切に、日常の家事負担をどんどん軽減なさってください。
早いご快癒を心よりお祈りしています。  一読者  石川県

* ま、言われそうなことを言われてしまった。島尾敏雄さんの最期がそんなだったとは知らなかった。
だいたい、なんでも自分の判断と力とでやっつけてきた久しい習いが身に付いている。人に頼るということは極力しないし、しんから頼れる人などめったに無 いことは、生まれ落ちた事情から、育てられた家の事情、家庭を持ってからも分かっていた。子供が出来ても、子供には子供の生活と仕事と意欲とがあって自然 当然、手助けということでは、ま、頼りにならないものと初手からあきらめてきた。「山の音」や「東京物語」のようないい嫁にも助けてもらえずじまいに終わ る。父親わたくしの不徳と無能ということもあるのだろう、仕方がない。

* 箪笥二つの移動は、むかし事ではあるが実体験している、階段の上げ下ろしなど出来ないが、部屋から部屋へ水平移動は出来るだろうし、しておかないと夫婦とも下敷きの危険は免れず、気は急く。
御親切、身にしみ有り難いことです。

* やりかけたことは、遂げておかないと、睡眠もとれず<安眠もならない。すこし妥協して洋服箪笥だけの部屋移動を渾身決行。
上下段に大きく積まれた欅の衣装箪笥は、上段分を洋服箪笥移動の跡へ下ろして、上下を平らに、背丈ひくく列べ置くことにした。これで倒れかかる心配はほぼ確実に払拭、 部屋が平らに、すこし広く感じられるのも佳い。
それにしても欅の箪笥は、本体はもとより、抽斗の一段一段がしたたか重かった。渾身の力をふり絞った。今日は暑くて、汗もしとど。
もう二度と居室の模様替えはしないだろう。が、二階の仕事部屋の危なさは、とても遁れようがない。本棚に囲まれた「底」で仕事しているのだから。

* 書架を移動し、洋服箪笥をもちこんだ和室の方、もう少し按配の必要あり、余儀無し。
2018 10/1 203

* 昨夜の強風で、わが家の庭のなんだか知れない一番の巨木が、傾いて家の庇へ靠れ込んでいるのを見つけた。わたしの意見では、様子を見て放って置いて凌 げるのではと。傾いているが根は地中へかなりしかと張っている気がする。よそさまへご迷惑掛けないで済む感じなので、ま、傾き傾きわれわれと一緒に生き延 びて貰おうと。危険なら、伐りたおすしかあるまいが。
2018 10/1 203

 

* 「マ・ア」のふたりして障子は桟だけにされ、ついに、愛していた壺のひとつを真二つに割られてしまった。コノーぉ。
2018 10/2 203

 

* 体重が、上京、結婚、就職の頃まで戻った。高校時代に60キロに成ろうとしていたのを記憶している。体重減じたいは案じていない、むしろ大手術後のいっそ目標にしてきたほど。

* それより目ざめて仰天したのは玄関のドアがあいていて、マコもアコも戸外へ出ていたこと。幸いにふたりともわれわれの姿と声とで自発的に帰ってきてくれたが、なんでこうなったか分からず、われわれの不用意というより無い。難儀な対策を強いられるか。 2018 10/8 203

* どの時点での「マ・ア」の外出になったかが全然分かっていない、ふたりともよほどのショックを覚えてきたらしく、ことに「アコ」のそれがよほど深刻 だったのではないか、銷沈して想われる。「マコ」の方はそう変わっていない。ふたりには、体験した「戸外」はよほどの緊張を強いたらしい。

* 夕食後、睡くてならず、四時間も熟睡していた。時間は惜しいが、睡れることは有り難い。
2018 10/8 203

* マコもアコもわたしの起きるのを待っていた。ひとしきり脚もとに纏わり付いて甘えた。玄関の錠を彼らが自力であけて外へ出たのか、大人の不用意・不注意だったのか。ともあれ、用心している、二人して戸外へ走られればとても手に負えない。
2018 10/10 203

 

* ただただいろいろに前へ前へ仕事を送り出して日が暮れる。いろんなことが家の中でも起きてくる。マとアとの元気横溢で、障子はむざんにボロボロ。庭の 大きな木は風で傾いて屋根を圧している。ひょっとして浴槽にヒビが入ったかも知れない。古いモノの弱い年やと、昔、秦の親たちはなにかあると歎いていた。 ああいう諦めようがあったのだ。ま、成って行くように成って行くのだ。しようがないではないか。
2018 10/10 203

* 雨にも降られず、三時ではねて、そのまま三笠会館まで歩き、「榛名」のフレンチは時間外ではずれたが、なら、と秦准春の中華料理、これを妻がよろこん で呉れたのは何よりだった。わたしは久しぶりに佳い紹興酒を楽しめた。ほっこりと、骨も休めながら、ま、ご馳走であった。
その脚で、丸ノ内線、西武線で五時半には家に着いた。「マ・ア」大喜びで番の食事にありついた。
甘えること甘えること。
2018 10/11 203

* 大きな庭樹が家へ倒れかかっているし、家の内のいくつもの戸扉がギクシャクしている。居間の障子は桟だけになり破れ放題。なにもかも老境末期状況とはなり居ります。

* 小津安二郎監督の「東京暮色」 胸にしみ入る映画だった。だれもだれもが哀れにしみじみと生きていた、独りだけは死んでしまった。
想えばわたしも孤りの境涯を四、五歳から血縁のない家の子として大きくなったが、幸いに深くは悩まなかった、幼いなりの哲学を身に帯び、そして血縁の外で真実と信じられる愛を創作していった。有り難いことであった。
2018 10/14 203

* 六十一年前になるか、まだ大学生の昔の今日、秋晴れの大文字山へ一つ下の妻と登った。山頂を、すこし東側へ隠れた草の斜面から、大きな大きな 比叡山を仰向きに並んで寝ころんだまま眺めていた。それだけで、また山を下りた。紅葉の十一月二十六日には二人で鞍馬山へのぼり貴船へ降りた。求婚したの はその歳の師走十日だった。妻はまだ三年生だった。翌春わたしは院へ進み、けれど妻の学部卒業と合わせて院をやめ、京をはなれ東京に職を得て二月末に上 京、即、結婚して市谷河田町に暮らし、東大赤門まえの医学書院で働きはじめた。六畳一間の家賃が五千円、初任給は一万二千円(肇の三ヶ月は八割支給)、わ たしの財布はいつもカラだった。(妻には両親からの遺産が残っていたし、わたしは院の奨学金と京での蔵書を処分してきた蓄えはあったが、会社のボーナスも 含めて、将来のためにと手を付けなかった。)社の食堂では十五円で丼飯とみそ汁が買えた。みそ汁を飯にかけての昼飯でほぼ二年間過ごした。二年目の七月二 十七日に朝日子が生まれ、郊外の保谷社宅に入れた三年目の七月末から、突如、小説(短篇「少女」と長篇「或る折臂翁」)を書き始め、以降一日も、元日も病 気でも途切らせず、決然、貯金を使って私家版本を四冊つくった。上京結婚から十年め、書き始めて七年目、思いもよらなかった太宰治賞受賞の日を迎えた。昭 和四十四年(一九六九)の桜桃忌であった。八十三歳の来年は「作家生活五十年」になる。「秦 恒平選集」は三十三巻完結に近づき、「秦 恒平・湖の本」は百四十五巻には達しよう、加えて五十年を記念の新作長編(願わくは、中編も)が成って呉れるか、心して日々を元気にと願う、なによりも妻 が無事の健康を心より祈る思いで、願う。

* わたしは少年の昔から「歴史」好きだった。自身の生きようにも「歴史」を創って行くという意志・意欲 が昔からあった。その意味ではわたしは佳い意味での無心には成りにくい性質をもっている。生活を、人生を構造物のように思うことで自身をむしろ励ましてき た。以前。東工大で「結婚」を「学」に譬えてみよと挨拶を入れたとき、多くの返事のなかで「建築学」と応えてきたのに同感していた自分をいまも記憶してい る。が、さて…、この先をどう構築する気なのか、もう卒業して成るように成って行きたいのか。
この「私語」の上の方へ掲げた仙厓画「お月様いくつ 十三七つ」にそえ、わたしは数年前の自句、「柿の木にに柿の実がなり それでよし」と書き添えている。はて。はて。
2018 10/16 203

☆ 無事受け取りました。
古代史の参考書籍、いろいろ送っていただきありがとうございます。
全て無事に受け取りました。

勉強します。

追伸。

電話が鳴っても 走って出るようなことはやめるよう、母さんくれぐれもお願いします。

月末にはまたそちらに顔を出せるかと思います。

お二人ともお大事に。  秦建日子

* 教授室へ買い入れた多目的のラジオを、退任後二十数年も見失っていたのが書庫書斎の棚の上で見つかった。先日は、見失っていたコピー用紙二千枚ほどを、あれれと思うところから発見、いかにも納得のいく場所で見つかった。妙に情けない。
見つかったラジオの操作がめちゃくちゃ難しくて、電源を入れるだけで大迷いし、まぐれ当たりで電気がとおり、アチコチ障っている内にラジオが勝手に話し始めた。CDを入れて音楽が聴きたいのだが道遠し。
ひとつには、こまごまと色んな目当てが出来ていても、その働きを示しているらしい文字がわたしの視力では殆ど見えない。字が小さすぎる。
ま、いずれはアテズッポーを繰り返す内、希望が達せるだろう。鳴っているラジオは音楽とトークの番組らしく、もう久しく久しく聴いたことのない音声と音楽。仕事の邪魔にはならない。散髪屋の倚子に寛いでいる感じだ。

* 酒が断てない躯になっては困ると思い、二日、アルコールを全部避けて過ごしたが、平気だった。ま、週に二日ぐらい自粛しつつ楽しみ続けたい、今日は生協からもちょい良いお酒が届くはず。
ただし夕方には暫くぶりの歯医者通い。帰りに、江古田の「中華家族」でマオタイが呑めるだろう。マオタイ酒を置いている店は都内でもめったに無い。この店は「只一人」の愛飲「秦さん」のためにわざわざ取り寄せてくれているのです。

* 歯科への途中、銀行から選集27巻分の支払い送金、初めて一巻の製作実費が2O3万圓の余まで高騰した。頁数が多かった。

* 妻と歯科の帰り、「中華家族」が定休日、そのまま保谷へ帰り、鮨の「和可奈」で客はわれわれ二人、主人夫婦と歓談、いい機嫌で帰宅、そのまま居眠りしていた。三日ぶりのお酒が旨かった。
2018 10/17 203

* 蔵書を整理のうちに、加賀乙彦さんから献辞と署名入りで戴いていた中公新書『ドストエフスキイ』を見つけた。わたしは、どっちかというとトル ストイ派で、ドストエフスキイは、主要作はみな読んで嘆賞もしてきたが、その先へ、現に加賀さんが「文豪の創造と狂気の関係を作家、精神医の立場から鋭く 解明(本の帯句)」とあるような所へは、動かなかった。動けもしなかった。
ところが、此の新書本を、すこし懐かしくぱらぱら捲るうち、あちこちに、もう薄れた鉛筆での傍線が幾つも見つかった。わたしは本に無数に傍線を入れてし まう読み手で家人にいつもイヤがられるのだが、この『ドストエフスキイ』への線の引きようは、わたしのと全然違い、いわばギザギザと蛇行気味に行脇に引い てある。引かれた箇所もわたしの読書とちがいそうは多くなくて、ああ朝日子の読書だとすぐ分かった。御茶ノ水の卒論に手がけた「ムンク」との関わりが、欄 外に、鉛筆で書き込まれていたりしていて紛れもない。すこし懐かしくなり、本の初めから頁を繰ってゆきギザギザの傍線
や欄外の書き入れを見つけては其処の「本文」を読んでみたりした。
昭和四十八年(一九七三)十月の初版本で、出て直ぐ戴いているに相違ないから、朝日子は未だ中学生時分、関心ないし必要があってわたしの書架から持ち出 し、傍線など引いたのはたぶん相違なく大学のはやくて三年生頃か、評判の「ムンク展」を観に行きえらく共鳴し、ついには卒論にもとりあげようとしていた頃 であろう。ムンク展を奨めたのはわたしであろう、当時は展覧会の招待券がたくさん来ていた、が、わたしは名高い「叫ぶ」などもふくめムンクはやや苦手で、 展覧会へ出向いたか記憶がない。しかし大きなポスターが家の何処かにいまも残っていたのは見つけた記憶がある。
父親としてというより小説家の興味からも、あの当時の娘・秦朝日子が、加賀さん「解明」の『ドストエフスキイ』のいかなる行文に立ち止まって傍線した り、欄外にメモしていたのか読み直しまた小説からしき感想も得たくはある、が、ま、「闇に言い置く」にしても、今・此処がその場所ではあるまい。
2018 10/19 203

* 上の写真たちを、なんとも心嬉しく観ている。浄瑠璃寺の夜色も、広目天も仙厓画も、そして紅葉も。
今朝も早く起き、仲よく抱き合って寝ている「マ・ア」コ達や、玄関の靖子や、此の機械座からの谷崎先生夫妻へ小さなカメラを向けていた。機械音痴のわた しは、もう十五年は使ってきたカメラの、自動的にフラッシュするのを停めることもようしない。KONICAMINOLTAの、DiMAGE X50 という掌に収まるカメラで何もかも撮っている。
2018 10/20 203

* 真夜中かと目が覚めたのが零時だった、ま、よく寝たのだと、まだ暗かったが六時前に起きた。黒いマコが大喜び、足先にまつわりついて歩けない。

* うえに挙げた写真のみなが好き。下保谷の紅葉にほれぼれと見入る。「お月様幾つ」にも見惚れる。
もうまた月がかわるのだ、日一日と日が短くなり一等短くなる冬至二十一日の師走にわたしは生まれました。日一日、日が長くなるように生い育ったと思っている。

* 妻が歯医者への留守に映画「ロシュホールの恋人たち」を楽しんで見終えた。「シェルブールの天傘」は歌のミュージカネルだった。これはダンスのミュージカル。フランソワズ・アルヌールのほかにジョージ・チャキリスやシ゜ーン・ケリーがダンスを観せてくれた。
機械の側へ戻ってくると、グレン・クールドがバッハを演奏してくれている。

* 妻の歯医者からの帰宅も知らず機械の前で疲れきって寝ていた。あやうく荒物屋に頼んで玄関のドアを毀して入ろうとしていた。
絶えず睡い。しかし横になるとそのままモノを読んでしまう。新潮社版古色蒼然誤植いっぱいの世界文学全集『モンテクリスト伯』上下巻の上巻を読み終え た。頸の付け根硬く痛く、額も痛く、両掌はもう六年半もジンジン痺れ、十本の指には深いシワが立ち、殊に重ねた薄い紙を扱うのにも、小さな字を書くにもと ても不自由している。頸が落ちそうに睡いがサテすぐには寝入れない。いつのまにか倚子の昏睡してしまっている。
2018 10/29 203

* 京・古門前の「おっ師匠はん」からも電話あったらしいが、遠慮してわたしを電話口へは呼ばずじまいに。叔母が、養女にと相当熱心に本気で懇望し掛け合っていたという、そこまではわたし、想像もしなかった。
2018 10/29 203

* 手洗いに立ったあとが寝入れず、校正したり源氏物語を読み進んだり、床に入ってくる「マア」を撫でて遣ったり、結局六時前には床を出た。「時代不同歌合」 は百五十番三百首もあり克明に読み耽って勝ち負けを判じている、それほどの間を懸けないと機械は働き始めない。根気はよくなる。そばではバッハのピアノ曲 が鳴り続いている。
2018 10/30 203

* 妻は予約の診察日、くるまを呼んで病院へ。昨日は、歯医者から帰宅時、わたしは機械の前で昏睡していて、荒物屋を呼んで玄関の扉をこじあけようとしていた。今日は鍵を持って出てもらった。
2018 10/30 203

* 妻の診察、今日の結果は珍しく上乗で、嬉しくなった。その妻が、外来の待ち時間に読んで、今度の「湖の本」巻頭の「流通する文学」が面白かった良く書けていたと、珍しく褒めてくれたのに照れた。
講談社の天野さんのお手紙にも、つよく触れられていた。
わたしも躊躇なく巻頭に置いた。
持田さんも言われるように、おそらく文学・文藝との実のある関わりでいえば、今日、「書籍出版」はもはや壊滅に同じいのであろう。時代をリードする文 学・文藝作品の噂など、かき消えたように無いが現実である。「文豪」がいないのである、鴎外(阿部一族 渋江抽齊)、漱石(それから こころ 明暗)、藤 村(家 新生 夜明け前)、秋声(黴 あらくれ)、鏡花(高野聖 歌行燈)、荷風(濹東綺譚)、直哉(暗夜行路)、潤一郎(痴人の愛 芦刈 春琴抄 細雪  夢の浮橋)、川端(伊豆の踊子 雪国 山の音)、三島由紀夫にならぶような、江湖の喝采を得たらしい「名作」の噂を聞かない。これでは文藝復興は、事 実、じつに覚束ない。その一つの表れは、日本の「文藝家」や「ペン」を「世界」へむけ「代表」しているのは「誰なのか」と観れば、すぐわかる。
いま一つを云うなら、今日日本の文学・文藝の世界に、真に畏敬され重きを成している批評家の仕事もまた、事実、観も聴きもならないという現実、これが情 けない。小林秀雄 河上徹太郎 中村光夫 福田恆存 山本健吉 唐木順三 臼井吉見 平野謙 伊藤整 等々の仕事を超えて行く今日的な文学批評の、噂さえ 聞こえてこない。じつに心細い。
2018 10/30 203

* 「マア」三食を店にありたけ、そして排尿便の砂を三袋、買ってきた。扶養家族がいっきに二人増えました。家の内のドア・扉それにポロポロにされた障子 の作りかえを手配した。生きの命の若々しさが家中を駆けまわって容赦ないのだから致しようも無く。元気な「命」との共生を老夫婦はこころから喜び楽しんで いる。
2018 10/31 203

* 家の中のいくつものドア・扉の不具合だったのや、「マ・ア」に壊滅された障子の代用などを頼んで、次々できてきた。寝室へ「マ・ア」の通り口も附けて遣っ た。原則、今で微弱温の電器炬燵に布をきせた籠でふたりで仲よく寝ているが、夜中にかならず寝室へきて甘えて一緒に寝て行く。出入りの自由と0;われが煩 わされないために、出入り勝手な通り口を附けて遣った。日々の食餌や排便の砂なども、やがては性的な処置や防疫・保健なども必要になり、一気に扶養家族が ふたり分増えた。それでも、どんなに老父母は励まされ慰められ、大笑いも憤激もさせてもらえている。
2018 11/2 204

* 「マ・ア」に壊滅された障子の代用などを頼んで、次々できてきたが、障子の閾が 廊下より三センチほど高い上へ、更に二センチ近くも立ちあがり、「部屋へ出入りに蹴躓く危険が濃厚」なのに辟易、その何らかの緩和安全策で大工との交渉が難航、しか し家の中で転倒してそれが命取りになった事では、秦の母の前例もあり、能力の落ちてきている妻にもわたしにも、万全「蹴躓かぬ用心が四六時中できるか」どうか、老化が進むに連れて保証のか ぎりでない。
かと云って、閾の高さ一つで周辺の壁や柱から直して掛かるような大層な室内工事は思いも寄らないことだった。
設計・設定の段階で、「職人側で閾 高の危険性に一言があれば工事以前に意見交換が出来た」はず、素人のわれわれに 、はなからそういう「危険が予測」できはしなかった。
とにかく、とにかく、迷惑な現状のいかなる(経費的にも穏当、工事的にも妥当な)改善安全策が可能かどうか、気分の悪い折衝がつづくことになる。妻任せに仕切らせていたのも迂闊だった。
不愉快な、そして危険も伴う日々がしばらく続くのか、まことに気がわるい。

* とにかく、不快。
2018 11/5 204

* 「マ・ア」を血液検査に連れて行った。食餌が多く、大きくなり過ぎたようで。血液の検査結果はふたりとも綺麗。やがて男の子なりに可哀想な手術を受けることになる。
2018 11/5 204

* 昼前、妻と、駅前通の文房具店へ、ついで銀行で、家計の通帳へ、次年分生活費を移転。寄り道もせず簡略な昼飯分を買うだけで駅前から車で帰宅。
2018 11/8 204

☆ 無題  三首の一  大正五年十月二十一日   漱石
元と是れ 一城の主
城を焚き 広衢を行く
行き行きて 長物尽き
何処にか 吾が愚を捨てん

* なんとかモノを処分し、家の内に余地を創ろうとするが、五十センチ四方の場所もつくれない。捨てる難しさにアタマをかかえながら三百六十五日を唸って暮らしている。それでも一寸ずつ一寸ずつアタマを使うしかない。
2018 11/10 204

* 午前中に、「アコ」を、必要な(といわれる)手当のために医院に入れる。「マコ」のためにも、無事を切に祈る。
2018 11/13 204

* 「アコ」の手術、無事に終えていると医師から電話有り、ホットしている。「マコ」が初体験の独りの留守を淋しがっている。八時過ぎ。階下で、歌集の校 閲に神経を遣ってくる。モーツアルトのソナタ 24 28 35 そして 25番を シェリングのバイオリン、ヘブラーのぴあの伴奏で堪能した。
2018 11/13 204

* 手術後の「アコ」を、医院へ迎えに行く。無事、帰宅。有り難し。
2018 11/14 204

* 手術後の「アコ」は術部を嘗めないようラッパ状の襟を頸に巻かれていて、毛づくろいが出来ないのを「マコ」が代わって嘗めて遣っている。ラッ パの襟が大きいのでわれわれへの寝室への出入り口が通れないので、暖房してドアを開放してある。「ア・マ」ふたりとも 昨夜は妻の床で安眠していた。

* 毎年この季節の重労働儀式は、テラスのベンジャミンの大鉢を室内に移動させること、去年は妻の入院などあった間に独りで敢行した。今年は二人がかりで ケンカしながら部屋へ押し込んだ。鉢だけで数十キロあり、ベンジャミンも成長していて居間の華奢な舟底天井に容赦なく傷つける。わたしは長すぎる枝先を 「剪れ」といい、妻はゼッタイに「いや」という。やれやれ。
ま、とにかく今年も、庭から部屋へ引きずり込むにはあまりに難儀に重い重い大きな鉢を逼る寒気からムリヤリ屋内へ退避させた。フーッ。
2018 11/15 204

* 九時過ぎて。「ある寓話」の第二、三部の展開を、またまた検討にかかった。「魔」という字が胸へ来る。
そういえば、「一文字日本史」を学鐙に三年連載していた最中に、数理哲学で世界的な下村寅太郎先生から「フアンレター」を戴いてビックリしたが、あのとき、先生は「魔」の一字をも思っておられた。わたしはあの頃「魔」に触れて書く用意が無かった。
わたしは、今、セクスアリスというよりも エロスの底をかきまぜながら「魔」に触れようとしているのかも。あるいは…魔の京都か。
どうなるか、どうするか、まだ強いては決め付けていない。検討し検覈する体力と気力とが切望される。もう余分なことに力を割いてはおれない。仕残しがあり、それどころか、もっと新たな、したい、書きたいことが切ないほど湧いてくる。
秦の、父は九十一まで、叔母は九十三まで、母は九十六まで生きた。いちばん弱いと見ていた母がいちばん長命した。わたしの生母や実父の享年を憶えていない。

* なににしても、ややこしい「作」の検討をわたしはわたしに強いねばならぬ。それも、一作でない。苦しくても、よく食べて、体力を養わねばと願う。家の 内にわたしを必要とする力仕事も決して無くならない。ま、洋服箪笥や衣裳箪笥を二つもひっ抱えて廊下越えに部屋から部屋へ移転するなどは、もう願い下げに したいが、出版の仕事もしているかぎり、壮年でもラクでない力仕事は無くならない。幸いにまだ六十三、四キロの体重を維持していて、これは結婚当時二十代 の健康時と同じ。もう減らす必要はない。むしろ美味しく食べる知恵をもたねば。
2018 11/16 204

* 八時。いちはやく電源を入れておいて、機械が稼働するのに、これぐらいかかる。
朝八時は「マ・ア」君らの朝飯。大人はそのあとです。いま、オルフェウス・チャムバー・オーケストラの、モーツアルト、K364とあるのを聴いている。聴いているはオコガマシい、鳴っているだけですが、とても心静か。
それにしても身のそばにあるクラシックだけで七、八十枚の盤は、何十年かのうちに自然と手元に。わたし自身で音楽の盤をえらんで買ってきたなどは三枚と無いはずで、読者のみなさんからの御好意の、みな賜物。どんなに慰め励まされてきたか。
美空ひばりの全集、日本の四季多彩な唱歌集だけ、自分で求めて手に入れたのは。
2018 11/17 204

* 午まえ、ポストへ走るついでに、黒い「マコ」を前籠に入れ、三十分ほど下保谷から新座の方まで自転車で。三十分足らずか、快い秋晴れを楽しんだ。自転 車で北向きに走ったのはもう何年ぶりだろう。このぶんなら自転車での小一時間は、今でも視野さえ確保できていれば問題ないだろう。
二た昔も前は、南は多摩川を西へ越え、北は荒川をさいたま市へ越え、荒川土手を柴又近くまで走り、西は所沢のよほど奥へ迄も、永いときは四時間余も自転 車で走れた。新幹線なら姫路を越えているなあと思ったり、楽しみな元気な娯楽だった。あの脚力や腕力はいくらかまだ残っているかも知れぬ、但し転倒したこ とも数回、危ないことも一度はあった。
何が危ないと云って、脚の攣るのがいちばん怖かった。細い、路上の隙間にタイヤをとられて二度転んだ。
とはいえ、都内を、郊外を、何のためらいもなく、ただ小さな磁石だけを頼りに走りに走れたのは愉快だった。自転車は少年時代から、自分の脚のように大好きだった。鷹峯や嵯峨嵐山など、関東平野のひろさからみれば近いモノだった。
自動車を運転したいとはただ一度も思わなかった。ひとに怪我をさせかねないのはイヤだった。自転車は自力で走るだけだが、自動車は、運転の出来る人を雇うなり使うなりすれば宜しいと思っていた。いまでもそう思う。
2018 11/17 204

☆ お元気ですか、みづうみ。
みづうみにメールを書いていたところでした。体調不安定であっちこっち不具合で、今も熱はあるわ咳はでるわ……。深刻なものではないのですが体力のある丈夫なひとが羨ましくてなりません。
みづうみに読んでいただくことだけを目標に毎日書いていて、ついついメールはご無沙汰してしまいました。でも、毎日みづうみの文章に触れていることはいつもご一緒に生きていることだと勝手に思っております。
最近のニュースがあまりに不愉快というより、日々世界が壊れていくようで 最近ほんとうに鬱をやわらげ手なづけるのに苦労していますが、みづうみを見習って自分の仕事に励み、猫と音楽でなんとか気分を持ち直しています。

みづうみには、以前にわたくしが送ったCDも聴いていただいているようで とても嬉しいことです。
私語で久しぶりにエリザベート・シュワルツコップの名前を読み、ほんとうに懐かしく感無量でした。
シュワルツコップはヨーロッパが一番輝いていた時代の、ヨーロッパ文化の精華のような芸術家、理想的な女性で、音楽の最も洗練された名花、二十世紀最高 のソプラノの一人でした。うっとりするような容姿に美しい歌声、舞台では衣裳から香水にいたるまで完璧だったそうです。彼女と同世代の日本の批評家は誰も 彼もぞっこんでした。私は時代が間に合わず、マリア・カラスと同じように全盛期の実際の舞台を観る機会には恵まれませんでしたが、映像や録音でたくさん聴 きました。
魔性も秘めつつ、勤勉で理知的で、マリア・カラスのような破滅的な恋はせず、夫と二人三脚で栄光の頂点に立ち、引き際も見事で、九十歳の天寿を全うしました。
彼女の歌唱で『最後の四つの歌』を聴くと、いつもヨーロッパの黄金に輝く秋を思い出します。日本の真っ赤な紅葉ではなく 黄金の底光りの秋です。秋ほど ヨーロッパが美しい姿をみせてくれることはありません。滅びていく前の最後の芳醇で絢爛たる絶景を前にすると、死に抱かれていることの恍惚さえ感じてしま います。
シュワルツコップのような芸術家が一身に尊敬をあつめた場所は、もうヨーロッパにはありません。世界のどこにもないでしょう。さびしいことです。わたくしの世代は辛うじて彼女の体現していた黄金の秋の残滓を味わうことが出来るのがせめてもの幸い。
ふりかえって祖国日本、未来の日本文壇に文豪が現われ、生きる場所があるという幻想はもう持ちません。これから芸術としての文学はどうなるのでしょうか。
シュワルツコップの言葉に 「リート(歌曲)を 聴く前と聴いた後では、その人の人生は変わっていなくてはなりません」がありますが、すべての芸術はそういうものでなければ偽物だと思います。誰かの人生 を変えるような作品を生み出すのが芸術家の悲願でしょう。みづうみの作品を読んだあとに、わたくしの人生は変わりましたし、それこそが幸福でした。
間に合ったことを感謝しながら、みづうみが、どうか一日でも長く書いてくださいますよう祈る毎日です。
やっぱり鬱傾向のメールになってしまったでしょうか。ごめんなさい。
今日もお元気で。  菊  しらぎくの夕影ふくみそめしかな  久保田万太郎

* ま、「鬱むき」が今日の正常でしょうよ、こんなウソクサイ毎日にはしゃいで暮らせるのは文字どおり行き止まりの「鈍つき」と思う。わたしはリアリストでないので、こんな際にも別世界を迎えとってウソクサイでなく「真正のウソ世界」の住人になれる。
わたしのそれとはそもそも無縁なのであるけれど、それにつけふと思い出すのは、もうよほど以前になるが珍しく、おそらく是までに只一度だけ息子が、秦建日子が「おとうさん」に新刊の本をもたらし呉れた、「ル・グウイン 好きでしょ」と。
名品『ゲド戦記』の作者によるその本の題は、『なつかしく謎めいて』で、まこと自然に、微塵不自然にでなく、不自然のすこしも実在しないあちこち沢山な 「うそ世界」へと「旅」のできる人の物語なのであった。版元をみれば建日子の読み物をたくさん売ってくれる出版社で、グゥイン好きな父親のため貰ってきて くれたのだろう。おもしろく創られた世界と世界観が楽しめた。
2018 11/19 204

* 九時 「アコ」手術あとの抜糸を 無事に終え、首廻りラッパ状の防壁も外せた。一週間、「アコ」はよくガマンしガンバってくれた。「マコ」もそばで終始心配気味に応援も激励もしていたと想う。
今度はその「マコ」の番。昼前に、一泊の手術のため医院へ連れて行く。無事を祈る。もう一週間、われわれもジッとがまん。
去年の秋は妻の大病と手術だった。
なにはあれ、みなみな、誰も誰も、無事の日々でありたいと切に願う。
2018 11/20 204

 

* 「アコ」の抜糸を終えて、窮屈だったろう、ラッパのようなプラスティックの襟も外せた。
ついで「マコ」を入院させた。十二時半、いまごろ手術を受けているだろう。

* 全身麻酔の手術は無事に終えて、まだ眠っていると通知が有り、安堵。
2018 11/20 204

* 音楽というモノに踏み込む気持ちでふれた最初は、秦の父の「謡」であった。父は大江の舞台で地謡に出されてたこともあった人で、謡は子供の耳にも落ち着いて上手く、このひとつだけで父を尊敬したほど、父が気儘に謡をうたいだすのがいつも好きで憧れた。
そんな次第でわたしは能楽堂でも、つい謡と囃子へ気が行く。「歌・舞・伎」の舞台でもそうで、歌と囃子に先ず心惹かれる。それなのに、わたし、楽器の何 一つにも、ハモニカもろくに吹けず、触れたことがない。歌も唄えない。中国への旅の日中懇親会で、一座最年少のわたしに「歌え」と指名されたときは実に恥 かきで、荒城の月が、夜空から落っこちそうであった。
それでも、只一度、中学の頃、講堂の上で独りで「ローレライ」だかを歌わせられたことがあり、音楽の女先生を恨んだ。通知簿が全優やオール5であって も、本人は「音楽」だけは露骨に「ヒイキ」だと感じ、凹んでいた。「声」に出して歌うというのが恥ずかしく、学期試験ごとに音楽室で一人一人歌わせられる のが凄くイヤだった。声に出し歌うのは、浴室で独りのときで足りていた。
そんな反動でか、「声」で歌わず「ことば」でうたう「短歌」のほうへ、中学・高校のころ遮二無二すすんで、今に繋がっている。わたしの音感は、あげて字で読み字で書く「短歌」のために貢いだわけである。
あ、思い出した、牧水短歌の例に憧れて、わたしも、自分の短歌に 節をつけ、ひとりで歌えるようにしていた、高校時代に。音符にできないので記録がない、記憶もうすれて仕舞った、想い出せるかなあ。
2018 11/20 204

* 音楽というモノに踏み込む気持ちでふれた最初は、秦の父の「謡」であった。父は大江の舞台で地謡に出されてたこともあった人で、謡は子供の耳にも落ち着いて上手く、このひとつだけで父を尊敬したほど、父が気儘に謡をうたいだすのがいつも好きで憧れた。
そんな次第でわたしは能楽堂でも、つい謡と囃子へ気が行く。「歌・舞・伎」の舞台でもそうで、歌と囃子に先ず心惹かれる。それなのに、わたし、楽器の何 一つにも、ハモニカもろくに吹けず、触れたことがない。歌も唄えない。中国への旅の日中懇親会で、一座最年少のわたしに「歌え」と指名されたときは実に恥 かきで、荒城の月が、夜空から落っこちそうであった。
それでも、只一度、中学の頃、講堂の上で独りで「ローレライ」だかを歌わせられたことがあり、音楽の女先生を恨んだ。通知簿が全優やオール5であって も、本人は「音楽」だけは露骨に「ヒイキ」だと感じ、凹んでいた。「声」に出して歌うというのが恥ずかしく、学期試験ごとに音楽室で一人一人歌わせられる のが凄くイヤだった。声に出し歌うのは、浴室で独りのときで足りていた。
そんな反動でか、「声」で歌わず「ことば」でうたう「短歌」のほうへ、中学・高校のころ遮二無二すすんで、今に繋がっている。わたしの音感は、あげて字で読み字で書く「短歌」のために貢いだわけである。
あ、思い出した、牧水短歌の例に憧れて、わたしも、自分の短歌に 節をつけ、ひとりで歌えるようにしていた、高校時代に。音符にできないので記録がない、記憶もうすれて仕舞った、想い出せるかなあ。
2018 11/20 204

* 九時半、無事に黒い「マコ」退院、いじらしいほど「マ・ア」兄弟寄り添い嬉しそうに、元気。「マコ」の抜糸まで一週間、頸にラッパの襟を付けて、ガンバれよ。
2018 11/21 204

* わたしが先に床を起つと、「マ・ア」は大喜びで足もとへまつわり、顔を顔へ寄せてきて余念ない。イタズラをいくら叱られても、まったく親愛感をうしなわない。ふたりとも、とびきりの甘えん坊。屈託を覚えていても、つい、慰められている。
2018 11/25 204

* 堂本印象畫の、題は「澄秋」と箱書きされていて、まさしく、残り柿。気分で、いろいろに見える。日々に冬へ傾いて行く季節の澄んだ空気が、赤い葉の一枚、赤い実の一つ、刺すような小枝と幹で印象づけられている。五雲の、土の匂う松茸を画いた「秋香」も好きだが。
いま、軸物はうっかり掛けられない。「マ・ア」が恰好の標的のように跳び付くから。やれやれ。
玄関には、今、星野画廊で買ってきた、よく熟れて黒う色がわりのした「柿」四つの極めて地味な、しかも目に沁みてくる小さな額繪と、洋画の池田良則さんに戴いた祖父遙邨画伯の大きなリトグラフ「黄金の秋田」を、列べて掛けている。
茶の間には、亡き友富永彧子の「花」の遺作、もひとつ、絵手紙の元祖になった友人が、花と言葉を描いて洒落た縦長の額を掛けている。わが家でなんとかな るのは、壁だけ。床も畳も、卓の上も棚も、危険なほどモノが積まれてある。それらを泳ぐようにかき分けるように歩いています。遊び甲斐ありと喜んでいるの は、仲良し兄弟の元気な「マ・ア」たちだけ。
2018 11/26 204

* 堂本印象畫の、題は「澄秋」と箱書きされていて、まさしく、残り柿。気分で、いろいろに見える。日々に冬へ傾いて行く季節の澄んだ空気が、赤い葉の一枚、赤い実の一つ、刺すような小枝と幹で印象づけられている。五雲の、土の匂う松茸を画いた「秋香」も好きだが。
いま、軸物はうっかり掛けられない。「マ・ア」が恰好の標的のように跳び付くから。やれやれ。
玄関には、今、星野画廊で買ってきた、よく熟れて黒う色がわりのした「柿」四つの極めて地味な、しかも目に沁みてくる小さな額繪と、洋画の池田良則さんに戴いた祖父遙邨画伯の大きなリトグラフ「黄金の秋田」を、列べて掛けている。
茶の間には、亡き友富永彧子の「花」の遺作、もひとつ、絵手紙の元祖になった友人が、花と言葉を描いて洒落た縦長の額を掛けている。わが家でなんとかな るのは、壁だけ。床も畳も、卓の上も棚も、危険なほどモノが積まれてある。それらを泳ぐようにかき分けるように歩いています。遊び甲斐ありと喜んでいるの は、仲良し兄弟の元気な「マ・ア」たちだけ。
2018 11/26 204

* 九時過ぎ、「秦 恒平選集」第二十八巻、無事納品。選り抜いた「對談選・講演選」 六百頁を越す大冊になった。
ゆっくり送り出す。
今年はもう急いてコトを遂げるのはやめ、落ち着いて師走を過ごし、二十一日、八十三歳の誕生日をささやかに自祝し、よく「十日一年」といわれた、数え歳でなら八十四歳になる新年を静かに迎えたい。
今日は昼前に聖路加病院へ出掛ける。あすは「黒いマゴ」の手術後の抜糸と、妻の診察日。

* 四時には帰宅、街には何の魅力も覚えなかった。秘蔵の「粒雲丹」で愛蔵の「獺祭」を呑み、休憩した。今日はもう疲れ休みとし、明日からの本の送りとする。とても疲れている。
2018 11/26 204

* 今日から、「選集28」を慌てずに送り出す。
今朝一番には黒い「マコ」の手術後抜糸に医院へ連れて行く。午後は妻が病院。なにもなにもなにも無事ですように。を
まだ朝食していない。バッハの、すばらしいフーガを聴いている。
2018 11/27 204

* とにかくも「選集」送り出しの用意を始めている。わたしが、贈り印を捺し、妻が半ば荷造りし、手紙を添えたり封印するのとそれら全部を玄関に積んで郵 便局の集荷をまつのはわたしの用事になっている。妻は、今は、病院へ行っている。検査の前に歩いて疲れてしまわぬよう、往きは、車を呼んでいる。留守は、 手術をすべて終え元気な「マ・ア」のふたりを階下に置いて、わたしは機械の前でバッハのフーガをヘリベルト・ブロイエルの室内楽団で聴いている。とっても 佳い。懐かしいとはこういう気分か。

* 「選集29」にはたいへん煩雑で難儀な校正作業がまじっていて、階下に降り「マ・ア」は別室に入れておき、コツコツとその作業をしているうち、妻が帰 宅、診察は概ね無事でホッとした。今夜からか明日からか送り作業に向き合う。十二月に難儀な本の発送などを避けることに決したのですこし気がラクになって いる。
どう疲れようが、立ち止まるわけに行かない。
2018 11/27 204

* 今日から、本腰を入れ「選集28」送り出しの手作業を始めねば。

* ふたりとも 疲れ疲れ、荷造り。かなり分厚いので、いつもよりも手ぢからも要り、手際も要る。ま、なんとかなんとか進むだろう。

* 一次発送まで、用意が出来 郵便局に連絡した。ガックリするほど、二人とも疲労。とにもかくにも、名酒「獺祭」と、赤間の「粒雲丹」とで、吐息。

* 郵便局と、またまた一と合戦。なんとか歩み寄って。今日の分、送り出し、妻に懸命に働いて貰って、明日の発送分も用意し終えた。モーレツに頑張った、信じられない。
ふたりとも疲労困憊の九時半。わたしは、やっと雲丹と獺祭とで一息ついた。
まことにまことに郵便局との付き合いには疲れきる。
あと、五巻。
なんとか、付きあわざるを得ない。

* 明日中に、送り出し終えたい。十時過ぎ。 もう、やすむ。           2018 11/28 204

* 六時過ぎに静かに床をはなれた。「マ・ア」が大喜びで足もとでついて回る。諸計測やインシュリン注射を済ませ、「やまと櫻」を数勺味わってから機械へ きた。美しかった壁紙は消え失せたが、尋常に始動してくれている。『北越雪譜』を拾い読みつつ、グレン・グールドのバッハ「ゴールドベルク変奏曲」を聴き つつ、ひたすら温和しく機械と付き合っている。
メールが、尋常に働いてくれるか、これは、わたしの仕事では生命線に当たっている。
2018 12/5 205

* 選集口絵の必要から昔のアルバムをひっくり返すことが増えていて、時にビックリするのが着ている服。前世紀もかなり奥の方でみつけたシャツを、今年、 どこかの帰り、日比谷で疲れてしまい街頭の倚子席に腰かけたのを、妻が撮影した。そのシャツが三十年近く前のと同じで、サテ変哲もなくいまでも着られてい る。わたしは、服の洒落気は全然無く、その絶妙のセンスはすべて妻のために用いてきた。わたしの自慢は自分の服でなく、妻にえらび続けてきた妻の服、なの である。
上に出ている二十数年前、東工大退任の春の格好とまったく同じ格好を今でも平気でして歌舞伎座へも行く、日比谷のクラブへも入る。
昨年、酉の師走の玄関の写真でも、頸に巻いているのは義妹の贈り物、上に着ているのも下のセーターも建日子のお下がり。
この二ヶ月近くも着っ放しの今の緑色毛糸のセーターは、妻に聞いたところ、建日子が未だ生徒か学生の昔に彼女からのプレゼントなのだそうだ。ほたとはそ んなことに頓着無く、気に入って着続けに着続けている。白い髭面、白いボウボウ髪に、案外、似合ってはいまいかと思っている。どーでも、いいのです。
2018 12/7 205

* 作に掛かっていたあと、気をかえ書庫に入って、雑誌や本の要処分ものを一籠分 より分けた。運ぶのが腰へ来て重い重い。早起きすると午前中がながく使 える。「マ・ア」かけずりながら付いて走るので脚に絡まれないようよほど注意していないと。ことに階段。甘えて、一足ごとに腹をみせ仰向けに抱けとせが む。
2018 12/8 205

* 川崎にいる異母妹の下のひとりが歳暮を送ってきたが。父の死このかた、何十年か、一度も会えていない。
2018 12/9 205

* 今日は、われわれ夫婦が夫婦になろうと約束した日、昭和三十二年、61年も昔のハナシである。
2018 12/10 205

* 印刷所への「選集28」分を支払い、歯医者で二人とも手入れをしてもらい、その後、江古田、池袋経由、日比谷を散策、初めての茶道具商「万葉洞」で番頭さんとやや私的用件もまじえて歓談、帝国ホテル本巻地下の、心祝いの日は例になっている「なだ万」にはいいった。
あとを考えお酒は少しに抑えたが、料理の多彩と多量、楽しみ味わいながらも満腹、降参した。
五階のクラブへ上がり、ここで美味いプランデーをダブルで三つほど、もう食べ物はやめていつものアイスクリームとコーヒーだけにした。愛用し続けている 来年度の手帳を貰って、もうよしと日比谷から車で保谷へ帰った。何も見えない地下鉄よりも、また疲れて銀座を歩くよりも、妻には夜景の東京ハイウエイの方 が目覚ましかろうと。
帰宅
留守番をしてくれた「マ・ア」にも(店にはナイショ)「なだ万」 魚っけのお土産を振舞ってやる・

* 留守に郵便や宅急便の不在票が二、三、ポストに。恐縮。明日待ちとなる。
今は機械に向かいながら、巨匠と聞いているパウ・カザルスのチェロ曲を楽しんでいる。

* しばらく前から気づいているのだが、右足頸の内・奥に、骨にかすかに響いて継続ぎみの痛みを覚え、気にしている。いすに腰かけていても感じ始めている。ほんの、かすかなのだが。
2018 12/10 205

* 凸版印刷からのカレンダー戴く。来年度の画家は何方かな、楽しみ。
永く新日鉄から、動物たちのカレンダーが来ていたが、縁が切れて。いつの年かの三にん(?)の仔ライオン兄弟の写真は、いまも大事に身近に置いて、太郎、次郎、小次郎と名付けていつも話しかけている。向こうからもちゃんと笑顔で同感を示してくれる。
大相撲のカレンダーは、横綱日馬富士が抜け、見かけ倒しの横綱入りで、ちと目出度くないが、今年も相撲茶屋の「竹蔵」くん、送ってきて呉れた。
「湖の本」はもはや当然に毎回かなりの出血出版だし、「選集」は 豪勢に非売本だし、依頼原稿はほぼ一切今は受けていないのだし、稼ぎとは全く無縁に暮らしているが、たくさんな方々との有り難い交流に恵まれているのは、 私語している通りで、まことに心温かに賑わい感謝に堪えない。八十三のこんな歳までこまように心賑わって日々有り難く暮らせるなどと、素寒貧で就職、上 京、結婚したころ夢にも想い描けなかった。六十年が経つ。
ま、こういう賑わいも、孰れ遠からず消え失せて行くわけだが、万一夫婦二人して辛うじて健康に恵まれていれば、よろよろとでも、小刻みな旅を楽しみたいなと実は期待している。可愛らしい夢を見ているが、さ、あと何年ゆるされているか。

* 「ふたり」の兄弟「マ・ア」のおかげで、愛らしさに笑い、超弩級の活溌に悲鳴が、絶えない。この子らのいない日々など信じられない、この日頃。
2018 12/11 205

*  諸検査、朝食より前に、機械に電源だけを入れておいた。階下でモーツアルト、バイオリンとピアノの美妙で軽快なコンチェルト一枚を楽しみながら、餅二つ出汁雑煮、酒「秋鹿」を猪口に三杯。相伴は「マ・ア」たち。
そして二階へ。尾張の鳶 「無事帰国」と。
2018 12/12 205

* 黒い「マコ」と一緒に床を離れた。マコの甘えること甘えること。八時前、食べたいよと、カーサンを起こしに行った。「アコ」はまだカーサンと寝ていた。
2018 12/15 205

* 先に死なれてしまった京・縄手の料亭「梅の井」主人の三好君との対談を読み終えた。
京の味噌汁は、正月は白、寒いうちは白で、少しずつ赤を合わせて行き、暑い夏には赤みそ、それからまた赤を減らし減らして、白へと。
なるほど、そういう風であったナと、また教えられた。
京をしらない妻の味噌汁は、正月の雑煮のほかは、年中いつでも赤い味噌。
2018 12/15 205

* 京都のむかし、まだ戦後の生徒時代、午後三時ごろ銭湯があくと独り一番にとびこみ、浴室をひとりじめで湯の中でのんびりした。安価で気兼ねのないあれは最良の休息だった。
真夏は大きな釜で(秦の家は、父が錺り、それから電器の店を持つ以前の祖父の頃、「餅、かき餅・煎餅」を作って卸していたらしい、それでバカにデカい竈や釜があった。)湯を沸かし「走り」の奥の井戸端で盥行水した。ときに大きな蛇が盥のうえを渡ったりして、イヤだった。
銭湯は、戦争前から戦後まで、遠くても七、八分の範囲に六軒もあって、子供の頃は母や父に連れて行かれた。男湯と女湯との奥にちいさな潜り戸があり、こ どもは自由に往来していた。丹波へ疎開するまで国民学校の三年生いっぱいまで母や叔母となんとも思わず女湯へ連れて行かれていた。戦時のむかしの三年生は 育ちわるく貧弱であった。しかし、銭湯というのは、色んな意味から一種の「教室」であった。からだも覚えたし話しことばも覚えたし、文字まで覚えた。祇園 甲部の湯へ行くと、脱衣場には芸妓舞子の名を書いた団扇が壁一杯に飾られていて、それを読んで漢字も覚えた。祇園の銭湯は、男湯より女湯のほうが倍ほども ひろくて、はんなりした。髪をたかく結った女らが浴槽に浮かんでいる図は、子供の目にも珍重に値した。

* 八時半。朝食に降りる。
2018 12/16 205

* からだの芯まで冷え、腹具合も変。出歩く妙案もない。仕事にうちこむのが一等のビタミンか。それともラジオを浴室に持ち込み 音楽を聴きながら湯で寝入るのも。こんなことをすると、またまた叱られるか。

* 仕事をしたり、またまた「リーガルV」最終回を観たり、いたずら「マ・ア」めらを水鉄砲で追い回したりしていた。
2018 12/16 205

☆ 秦 恒平様
選集28巻 ありがとうございました。
先月は 関西吉岡家いとこ会があり (神奈川・川崎在住の、わたしには異母妹にあたる=)昭子さん、ひろ子お二人が久しぶりに泊まっていかれました。
(孝一君の)姉が孫娘の写真を送ってくれました。母(=わたしには叔母)のひ孫の風貌かと思うとおもしろいものです。
良いお年をお迎へください。  孝一 拝

* 京都四条大橋の西南づめ、南座から鴨川を西へ隔てた支那料理の(と子供の頃から思いこんでいた)東華菜館五階へ寄ったらしい。
写真の人数をざっと数えると、幼児二人を除いて、総勢二十一、二人。ま、旧家とはそういうものだろう、最年長の広田英治さんが八十八歳とある。
川崎の妹二人はとにかく、他の、だれ一人もわたしは識らない、面識も記憶もない。血縁上の「いとこ」というと、この他に 存命であれば北澤恒彦も数えられていたか。
ま、父方でこうなら、生母近江能登川の阿部家方「いとこ」らも大変な人数だったろうなと思う。むろんだれ一人とも面識無い。
恒彦のことは分からないが、わたしには、こういう集いの「感覚」は、ま、まったく無い。
秦家には、「もらひ子」のわたし以外に無かった。建日子が今のまま子供をもってくれないかぎり、秦家は秦建日子で「絶」える。これだけは、秦の両親や叔母に申し訳ない。
わたしたち夫婦の血縁は、独りだけの孫・押村みゆ希に伝わるだけ、この孫娘が結婚したか、親になったか、まったく分からない。やす香の死後、只一度も逢えていない。

* 所詮、わたしに「血縁}はあまりに淡い。
しかし、「身内」という「島」の思いを確かと創り上げてきた必然に、わたしは生涯迷い無く立ってきたし、今も立っている。それでよかった。

* いまも書き進めている小説での「実感」では、しかし、わたしの生涯の主題・拘泥は、まちがいなく「もらひ子」という「身の程」にあったことが、よく分かる。痛いほどよく分かる。生涯わたしはそんなことで「もがき」続けていたらしいのである。
2018 12/16 205

* 京・北日吉の「華」さん、「お誕生日 お祝い」と、名酒「桃の雫」一升を。感謝感謝。
酒米を十二分に刻してある純米の大吟醸酒はじつに美味い。
あと三日は棚に祭り、二十一日の八十三歳に、しみじみ戴く。クリスマスイヴには飲み干しているかな。
わたしは戦時中のわが家で母が粕汁をつくってくれるのが、それは嬉しかった。秦の父は粕汁にも真っ赤になる人だったが。敗戦後のまだ小学校時代に叔母に 連れて行かれた琵琶湖畔の園遊会で、初めて清酒を口に含んだ。美味いと思った。しかし学校、大学の頃に酒との縁はほとんど無かったし、上京し結婚・就職し てからも、編集者としては先生方に酌をする務めこそあれ、呑むという機会は少なかった。社をあげて旅行しても、わたしはみんなでの夕食が済むとさっさと独 りで東京へ帰ったりしていた。ワイワイと仲間で呑むという好みはもたなかった。家に酒はほとんど置いてなかった。
作家になって、それはもう盛ん接待の酒をふるまわれ、ところがわたしは飲み続け、接待役の編集者の方でさきに酔いつぶれることが多かった。
いまも妻と歯医者の帰りによる中華料理店は、わたしのためにだけ(誰も他の客は呑まない、呑めない)マオタイ酒をいつも取り寄せておいてくれる。五十度 を超す、しかしわたしにはそれは美味い、中国で覚えてきた味わいである。この店のちかくにちっちゃなスタンドバーがあり、。ここへもときどき立ち寄るが、 わたしの註文はきまって、マオタイに負けない美味さ強さのウオツカ、これはソ連作家同盟の招待旅行で覚えた。

* ただし、もう老境での酒量は極力抑えている、つもり。
2018 12/17 205

* この数日、妻が頑張って「選集 三十巻」のために大量をコピーしてくれた。入念に読んで原稿に仕立てる作業が出来る。感謝感謝。
2018 12/19 205

*  やそ(八十)とせをみつ(三)とせ越えて今にしも
いくさに負けしむかしおもほゆ
吾(あ)をおきて逝きしひとらが恋ひしさに
生くべき壽(いのち)掌にうけて立つ

* 妻が心づくしの 赤飯と、うまい椀と、頂戴の美酒の盃、そして甘い干し柿、四国の豊かな蜜柑とで、誕生日を祝う。妻も 建日子、 朝日子、みゆ希も 何方もみなみな健康でありますように。

☆ お誕生日おめでとうございます。

おはようございます。

そして、お誕生日おめでとうございます。

今日は保谷に顔を出せたらと思っていたのですが、あいにくの出張になってしまいました。岐阜と  愛知に行ってきます。
正月には帰ります。

新しい歳も健康な良き年にしてください。

おめでとうございます。–

☆ 秦建日子☆TAKEHIKO HATA ☆

* 有難う。 建日子も 元気に怪我なく 心ゆく仕事を為しまた成し続けられますよう。
2018 12/21 205

* 「アコ」の爪がきついので、医院で、摘んでもらってきた。
その帰り、素晴らしい晴天なので、青嵐中学の奥の奥の方まで大まわり自転車に「アコ」を乗せたまま走ってきた。過剰にしなければ、半時間、小一時間の自転車走はむしろ快適、不安も無い。

* 午は、ワインで、ピザを。そして、佐藤宏子さん、故郷島根からの海の幸をいろいろ送って下さった美味を、しみじみ日本酒で。ご馳走様。

* とくに何もなく何もしなかったが、晴天に恵まれ穏やかに静かな八十三の誕生日だった、仕事も出来た。お祝いも戴いた。
2018 12/21 205

* 気が付くと六時、そのまま起きた。黒い「マコ」が一緒に起き、甘えること甘えること。朝の早い時刻にはワールドニュースをよく「聞いて」いる。朗報は、いつも、なにも、無い。
2018 12/22 205

* 妻の昔からの友達 晴美さん、シクラメンを下さった。「マ*ア」がふたりがかり殺到して花で遊ぼうとするので、花に申し訳ないが、テラスへ出してガラス越しに色好さを眺めている。
2018 12/22 205

* 市議選に投票してきた。帰りにセームスで、「マ・ア」ふたりのために重い砂袋を三つ、食べ物もいくつか。自分の用には乳酸菌の腸薬と「サッポロ塩ラーメ ン」など買ってきた。むかしむかしからインスタントの安ラーメンというと、これだけに決まり切ってきた。とくべつ美味ァいとも思ってないのに。
2018 12/23 205

* わたしが起きると、黒いマコが喜んで脚にまつわりつく。体重、血圧、血糖値を測っていると、やがて、灰縞のアコもキッチンへ出て来る。妻は、まだ眠っている。
2018 12/24 205

☆ 鳶おばあちゃんは
チビさんたち(=シンガポールからの孫達)と格闘? しています。ちびさんは昼寝もせず、頑張って わんぱくばかり。頭の中はもっか恐竜で ほぼいっぱい。
わたしは疲労困憊寸前?!何とか暮らしています。
28日には娘(=ちびくんらの母か)が帰国しますが、早や正月3日には戻って行きますから、あと10日ほどの 多忙ながら貴重な日々。
明日はシンガポールの知人が来訪の予定で、夕食にしゃぶしゃぶのリクエストあり。
怪我せず風邪ひかず、過ごしたいです。
鴉のメール嬉しく、ひたすら嬉しく。
お身体、くれぐれも大切に。    尾張の鳶

* そんな「貴重な日々」を、わたしたちシジ・ババはもてない、嗚呼。
2018 12/24 205

* 植木屋さん入る。台風で家屋へ傾いているが、翠の繁ったわが家としては大きく樹は、大過あるまいとそのまま残してもらうよう頼む。

* 妻は歳末の、予約診察。無事に通過して欲しい。
2018 12/25 205

* 妻の診察、無事、これで安心して新年を迎えられる、よく用心しながら。
2018 12/25 205

* 早朝、故紙回収のための手伝いを。毎回、凄いと思うほどの重い嵩になる。
2018 12/26 205

* 昨夜、木下順二さんに「謹呈」されていた、凄惨を極めた沙翁戯曲『薔薇戦争』全部を、肌に粟立つ心地で読み終えた。原作は、福田恆存訳ですべて既に読 んではいたが、巧みな一編としての戯曲化がよく異様世界を集約していた、「凄い」という言葉を用いての批評は、これにこそと思う。
あまりの痛烈に思い屈して、あと、しばらくプラトンの『国家』でソクラテスの声を聴き、しかもリーゼを一錠服してやっと寝に就いた。妻も「マ・ア」たちもよく寝入っていた。
2018 12/27 205

* 「アとマ」とのヤンチャに早朝から振り回されている。戸外の生活をさせてやりたいのだが。
2018 12/28 205

* 朝いちばん 玄関に 俳味のやや短かめ、大らかな「雪だるま」の墨畫を掛けてみた。「マ・ア」が飛び付きませんように。
居間の正面 観音様のわきへ 高麗屋三代襲名祝儀、私名宛てのめでたい幾品を、戴いたままに飾った。
古備前の水指 銘「餓鬼腹」とあるごつい存在感のを同じ棚に置いてみた。

* 飾った鏡餅、ものの見事に「マ・ア」に食い付かれ、散々。参りました。参った。 2018 12/31 205

* 湯も遣ったし、年越し蕎麦なるものも食した。カレンダーも替えて、通過儀礼めくものの心打つことも微かになった。越年、迎春を祝うという気持ちは理解できるが、感動は乾いている。今日があり、昨日と明日とがある、そういうことである、あたりまえのことだ。

* 八時前。 今晩ぐらいは もう何もせず 寝入ってもいいだろう。夢でしかもう逢えない人の数が毎年点鬼簿に増えて行く。大晦日にはそれを思う。重く重く思う。
そう思いつつ、十時まで、どうしても「湖の本」「選集」次の発送に必要な「挨拶」を書き終えた。はて印刷機の故障が決定的かどうか、が、春一番の難題となる。早々から妻の機械へ助力を願わざるを得まいか。今年最終の、無事の祈りであるが。

* では、平成最後の三十年よ。来年の今日はどういう元号で無事に迎えられるのか、平安なれ。
2018 12/31 205

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