* 賀正 快晴というべし。日ざし明るい狭庭に目白か、小鳥も。「マ・ア」も元気。
* 朝十時。帰ってきた建日子らを迎えて、祝い雑煮、乾杯。
妻や建日子らは初詣に。私は、失礼。寒中の長蛇の列を避け、何れ静かに一人で参拝かると、去年より決めた。
* 年賀状、今年も私宛五、六十もあったか。
私自身は何十年らい年賀状のために暮れの時間を塞ぐのを、一切避けさせて貰っている。返礼も失礼させて貰っている、「私語の刻」そして「仕事」ないし休息に、全て思いも時間も傾けている。
* こまかな朝早やな校正で、もう眼が霞んでキイの字が見えない。
* 七時半、建日子ら加わり、昼以来、談笑、頂戴物の名酒、呑みに呑む。
わたしは妻が用意の煮しめのほか、建日子が持参し呉れた「イタリアンお節料理」とかには殆ど手が出なかった。丸餅二つ、そして山の物の子芋・大根に、海の物の昆布出汁、削り鰹の、朝一番の白味噌雑煮で、十二分、それ以上は食欲が出なかった。
2020 1/1 218
* 夜、建日子に映画「秋のソナタ」みせて、あと、いろいろと活溌に意見交換が楽しめた。観て心楽しめる悦ばしい作でなく、むしろあまりにキツイ内容、母 と娘達との葛藤の作なのだが、脚本、演出、演技の「完璧」とさえ謂える成果と共に、批評・批判を加えるのは、鑑賞という名の批評の妙味で、昼間の喰って呑 んで喋っての時間よりもわたしは満たされるモノを覚えた。
2020 1/1 218
* 一夜を久しぶりわが家で寝た建日子の、目覚めを待ちながら、八時前から、 寝床で長編の「初稿 雲居寺跡」を校正していた。「作家以前」の創作だが、読み替えしても瑞々しい筆致・語りで、心ゆくまでまさに歴史を物語っている、几 帳面に。巻頭に最新作の「花方 異本平家」を置き、次に対照的な処女作の一つ「此の世」を置き、次いでこれも「作家以前」の語りごと「資時出家」ついで此 の思いの溢れたような承久の変前夜を「夢・うつつ」に語りつぐ「初稿 雲居寺跡」を、『選集』32のアタマへ置いてみた。三十歳はじめ頃の真摯な語りと、 八十四歳へむかう老境奔放の語りとのコントラストがくっきり見て取れて作者自身が、ま、ビックリしている。選集に編んで少しもビビる思い、無い。「自分の 道」は、作家以前から「在った」のだと今にして自信をねって云える。校正そのものが楽しめる。
* 建日子 午后二時頃、仕事先へ帰っていった。たくさん、大事なことを話しあった。元日、二日、やはり建日子が云えにいるとそれだけで気持ち豊かに安まる。沢山たくさんわたしたち両親の元気なうちに話しあっておきたい、用向き以上に心身のなごみのためにも。
同じ創作の道に生きているという有り難さも噛みしめたい。
2020 1/2 218
* NHKの秘蔵映像をみせる番組で「富士山」生成と美しさの感動編を見せてもらった。
富士山をよく知らない。中学の修学旅行まえ、三年生各組が「旅行案内のノート」を競作したとき、高い高いと聞く富士山がほんとに高いか、どれほど高いか と秦の父に聞いた。父は、ちくと頤をあげ「フツーの山」 大きく顔を上げて「富士山」と教えてくれた。父の機転の的確を、印象的に今も懐かしく忘れない。
いま住む西東京の保谷からでも、時に夕焼けの遠くに小さな小さな冨士の影はみえる。妻はすいた西武線に乗るときまって富士見台辺の車窓へ寄っては冨士山を観たがるが、めったに見えない。
わたしはこれで写真自慢だなのだが、富士山は新幹線の窓からの一、二枚のほか、何かから転写したくっきり晴れた冨士と行儀いい麓の民家との一枚しか持たない。人に貰った観光写真めく二三枚も探せばあろうけれど記憶にうすい。
2020 1/6 218
* 近くのセイムスへ「マ・ア」の砂など買いに行く。砂は重いので、私の自転車なしに妻が独りの手では運べない。ついでに二三日切れていた日本酒を買い、戴いた「甕覗」の青磁の明き甕へそそぎ入れ、着いていた小さな柄杓で戴いている。柄杓酒、なかなか。
2020 1/9 218
☆ 往年の 『バグワンと私 途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ
70 * 2004 10・04 わたしの脚色した俳優座公演、漱石原作「『心 わが愛』のキイワードは「身内」でした。
『身内』とは。
バグワンは、ヘッドトリップとハートトリップということをよく言います。ヘッドトリップとは分別心、それでは人間関係のなかで信じたり疑ったりを反復し思議しているに過ぎません。まだ他人と他人の仲です。ハートトリップなら「身内」に近づいているといえます。
疑いは半欠け、信用も半欠け、それは同じことの表裏にすぎないとバグワンは言うのです。
幼な子は父親の手にすがり
父の行くところならどこにでもついて行く
信ずるのでもなく、疑うでもなく――
これは「父よ」とただよんでみるだけで済む「子」の全的な信頼・帰依を示唆しています。
信じたり疑ったりの繰り返し、それを ヘッドトリップといいます。父と子との譬え、それをハートトリップといいます。恋は所詮ヘッドトリップ、わたしの 謂う「身内」は全的なハートトリップだろうと思います。「恋は罪悪です。しかし神聖にいたる道だ」と『心』の「先生」は「私」に向かって繰り返し言う。神 聖とは「身内」の意味でもありうる。「先生」も「K」も、恋の心で心騒いで「静」をついに得られなかった。彼らは「お嬢さん」「奥さん」のほんとうの「身 内」になりきれなかった。
ヘッドトリップの人であった漱石は。それに自身も気付いていましたから、則天去私を願った。願ったと言うことはそれに達したという証拠にはなっていな い。「先生」も漱石も気の毒な人でした。むかしむかし、中学前に、息子の建日子は『心』を父親のわたしに読んで聞かされて、「なんて可哀想な…K」と泣き 出しました。
わたしは今は、やはり「先生」の淋しさを、気の毒に感じます。 2004 10・04
2020 1/10 218
* 狭い狭いテラスへ妻の置く半分ずつの小蜜柑へ鵯や目白が来る。それを「マ・ア」はキッチンの硝子窓からそれは嬉しそうに、羨ましそうに尾を揺すって見つめる。そのふたりの姿勢や身動きのまったく同一同時なのが思わず笑えて愛らしい。
わたくしは外へ出してやりたいのだが、禁じられている。人間の方が罪咎を冒しているような気がする。
2020 1/12 218
* 成島柳北と謂うてももう姓名すら識る人は少ないが、明治に著名の文人、ジャーナリストとも謂えて「柳橋新誌」などいう粋な大著もある一方、というより そっちが本命の要職であったが、大政奉還までの幕府軍政指揮の雄で、視野の広い稀有の知識人であった。その生涯の文筆を揃えた「一冊全集」をわたしは秦の 祖父鶴吉に受け継いでいる。全集の口絵写真には夏の風情に取材の粋な写真八葉も載っている。どうにもこうにも憮然たる時々には私はこういう有り難い昔本を 大方漢文や文語のまま常套の薬を服するように読む。
今日は賀茂真淵の『古今和歌集講義」二册を手に、世離れた時間をしばらく楽しんだ。その下巻に、一葉毛筆の手すさびめく歌など書いた和紙が畳間高麗も込まれていて、祖父ではあるまいその優しげな筆跡にしばし夢見る思いがした。夢がうまく拡がると佳いが。
2020 1/14 218
* 今日、初春大歌舞伎の夜の部を楽しむ。和やいだお天気ですように。
* もう正月は過ぎた。堅実に着実に生き延びる地力を持たねばと願う。
* 有楽町のビッグ・カメラのソニー店で。まるまる16年愛用し、たくさんな気に入りの風景や花など映してきた「コニカ・ミノルタ」のディマージュX50 のいよいよの寿命を案じて、新しい、やはり軽い小さなカメラを買った。さ、愛用に耐えてくれるか、新たな付き合いを始める。
* 歌舞伎座夜の最初は「義経腰越状」のうち『五斗兵衛三番叟』を白鸚のなんと初役で。以前に、弟吉右衛門の悠々とした酔狂を観ていた。白鸚、初役などと 想えない律儀にして愛嬌・愛想をにじませた佳い意味で楷書くずれの五斗兵衛を呑みかつ舞ってくれた。二列真中央の絶好席で私も乾杯した。
五斗兵衛とは五斗の酒にも負けぬ意味もあり、しかし、義経の軍営に軍師役として招かれお見えの席でもあるのだ、本姓は「後藤」で、この後藤氏はのちのち に武士の魂と謂われた刀剣の飾り三所物などを明治維新に至るまで一手に引き受けた後藤祐乗らの祖先に当たる。そしてさらにはこの後藤家はこの私の実父方に あたると長編『老いのセクスアリス 或る寓話』で明かしている!
2020 1/16 218
* 明け方ちかく例の攣る脚を痛めながら、妻、座位から仰向きに「やす香」名残の木の倚子へ転倒、倚子は壊したが幸い大事に至らず、しかし、不安心に怯えてあとが眠れなかった。
脚が攣るのはわたしもだが、わたしは妻も驚くほど脚の全体を二重三重に温めて寝、そのおかげで攣らない、かるく攣ってきてもすぐ緩和できる。妻は、頑 迷・頑固なまで素足で、それでは攣りがきつく襲うのはとても防げない。それで姿勢が保てず顛倒し怪我を、わるくすると骨折までしても言い訳が立たない。理 の当然にしたがって何に付け厳戒防備の気構えこそ老耄には大切、心得て貰いたい。数え上げても、いったい何軒の何人もの老人が転倒・骨折・入院・介護の日 々に苦労されているか。秦の母も、絨毯に蹴躓き転んで病院暮らしになった。九十六で亡くなったが、あれがなかったら百歳をも迎えたか知れない。われわれは やっと八十四。転倒・怪我は、心がけが悪いと謂うよりない。
わたしは大手術から解放されて真っ先に杖を買った。杖のお蔭で階段の上り下り、歩行の楽と安全は、言いつくせない。杖のお蔭で何度危険な目から逃れ得たことか。なぜ杖つくのを毛嫌いするのかわたしには理解できない。
2020 1/17 218
* 寒い雪雨(みぞれ)。
* ぜっこうの部屋音楽は、もう、ずうっと、深夜までのジャズ・バラード「酒とバラの日々」に極めがついている。100%仕事の邪魔をしないで、安堵させ落ち着けてくれる。ジャズというのを永く喰わず嫌いだったのが申し訳ない。建日子最良のプレゼントになっている。
建日子の譲ってくれた大小ふたつのカメラは、有効に使えないと半ばはあきらめ、一昨日、ビックカメラでソニーの小さなカメラを買ったはててものの歌舞伎 座開幕への時間を惜しみ、ほとんど何の説明も受けず持ち帰ってきたが、これが何やらややこしくて、使えるまでに機械になにかと手を入れたり掛けたりが必要 らしく、参った。
2020 1/18 218
* 買ってきた新しいカメラ充電している。うまく撮れるのか、設定ちがいを冒しているか。まだ分からん。前のコニカ・ミノルタは実に使い勝手がよかった、 まことに愛用したが。今度の機械にも手慣れたいが、どうかしらん、ちいさい機械に触れるわたしの指先は痺れきっているので。
2020 1/18 218
* 午後にもすこしは歩きにでたかったが、妻が出かけるはずお午食の婆会が流れたというので、わたしも家でせっせと校正していた。
夕刻には建日子が顔を見せてくれるという、酒を切らしているが、クルマだというから、よしよし。
* 夕食しながら大相撲を今日の打ち止めまで観て、しばらく話して、明早朝の大垣行きの仕事とかで、建日子、都心へ戻っていった。血糖値が案じられると か、からだ、くれぐれも大切にするように。建日子も五十になる、似た仕事とはいえ、だからこそ仕事のタチも仕方もちがうので、なにかとおやじとの対話は鬱 陶しくもあるだろうと可哀想に思うが。せいぜいカーサンに甘えてやって欲しい。
また、元気に顔を見せに来ておくれ。
2020 1/19 218
* 親友の女優、原(田原)知佐子が、昨日か、上顎癌で逝去の報に愕然、哀泣に耐えず。
同志社大へ入学、文化学科の教授面接の日に、いきなり、それはそれは魅力的な(美しいショートケーキのような)子の存在に目を惹かれた。人と対話の様子 では土佐の高知から出て来て、「美学・藝術学」へと言っている。わたしは「歴史学」を念頭においていたが、たまたま美学の園頼三先生の面接と対話から、成 り行きで私も「美学・藝術学」を専攻とサマ変わりしたのだった。要は、田原知佐子の引力を受け容れたのである。
気のサッパリした佳い子であった。もう芝居仲間を持っていて、その一人が、著名な造庭家重森三玲(ミレー)の息子の重森ゲーテだった。
田原知佐子は、しかし、一年生の間に、翔ぶ鳥のように「新人女優・原知佐子」として鮮やかに映画界に引き抜かれていった、わたしはポカンと口をあいて吃驚していた。
小林桂樹と共演の「黒い画集」は印象強烈、好評で、映画女優としての地歩を築き、その後も「野菊の如ききみなりき」の姉役などで持ち役をしっかり創っていった。
わたしも重森も卒業して東京で職を持ち、重森は仲良しの原知佐子と二人で、わたしたちの、六畳一間の新婚のアパートへも気楽に歓談に来てくれたし、新宿などで愉しく、さっぱりと会うことも何度もあった。じつに気さくな女優だった。
一方、重森ゲーテはわたしの、顔を見れば「小説を書きたい書きたい」に一喝し、書きたいなら「書け」「書いて作を溜めておけ」と重い尻を蹴飛ばした。ど れほど感謝してもし足りない「後押し」だった、そして、上京ちょうど十年め、わたしは世にも難しい畏い選者先生らの満票を得て太宰治賞に当選した。授賞式には女優にして親友の原知佐子が花束贈呈役に晴れ晴れと馳せ参じてくれ、むろん重森ゲーテも来て盛んに祝ってくれた。嬉しかった。とてもとても嬉しかった。同じ大学同じ専攻で一年後輩の妻もそれは嬉しそうだった。
不幸にして重森ゲーテは病に斃れ、亡くなってもう二十年も過ぎたか。原知佐子はゴジラで売った実相寺昭雄と結婚し。けれど実相寺氏も先立って行った。葬儀に妻とはせ参じた。寂しいなかに秋色いちじるしい日だった。
その後も、原知佐子出演の舞台を何度も観にいったし、誘って、三人で歌舞伎を楽しんだりした。気性そのままのさっぱりと諧謔も添えて面白い走り書きのハ ガキや手紙をよくくれたし、「秦 恒平・湖の本」は、創刊以来三十四年もの購読を律儀に通してくれた、この急逝まぎわまでも。
* なんという寂しいことだ。大学の同期の友は、もう、一人もいなくなった。妻の同期も寂しくなっている。寂しいことだ。今日の悲しみ、寂しさは、ちょっ と堪えがたい。ま、最新作の長編小説を二つ見せることができて、あの花束贈呈にもしめくくりをつけたことになるか。吉永小百合とあんたの噂したよ、などと も聞いたりしたが。
そうそう、女優原知佐子はわたしの息子・秦建日子のテレビドラマにも出演してくれたのだ、ああ。そして、私も妻も、原知佐子の娘の舞台を観に行っている。
いい友達だった。わたしを、歴史でなく美学・藝術学へ引っ張ったエンジェルだったし、それなくては妻と私とは出逢えていなかった。ありがとうよと、呼びかけたい。
* 知佐子の逝去は、京都の森下辰男兄からも報せてくれていた。感謝。
2020 1/21 218
* 妻より先に逝きたいが、孤独に妻を歎かせたくもない。もう日々に、生きの課題は死ぬになってきた。顔を振り首を振り、たしかな仕事をしながら気を励ましたい。
2020 1/22 218
* そんなことを謂いながら、建日子に貰った静かなジャズ・バラードに誘い込まれるようにもう日付の変わった迄もモノわ書き続けていた。もう、やすもう。
2020 1/22 218
* 食べた物をよくこなれたまま吐きやすい兄アコを医院「あねあ」へ運んだ。すこし痩せたが元気ないたずらは相変わらず。アコが医院へ留守すると、弟マコは心配する。兄弟の心身のコミュニケーションはわれらの計り知れない微妙で成っていて、観ていて、それが愛おしい。
2020 1/27 218
* 落ち着いて、過去作の全部を 妻が発起念願の『選集』で、一つ一つ、心穏やかに読み返して楽しめる日々があるだろうか。谷崎潤一郎にそんな願望を聞いた覚えがある、が、その余裕がお有りだったろうか。
2020 1/27 218
* 一昨年九月五日に亡くなった愛おしい「黒いマーゴ」の愛用していた柔らかな毛のトヤを持ち出してきたらいまの黒い「マコ」がまっさきに入って丸くなって寝入ったのには、ほろっとした。
* 書斎の音楽は、建日子の呉れたジャズ盤のなかの一枚「Smoke Gets In Your Eyes :煙が目にしみる」が一等仕事を邪魔せず 音楽も静かにこころよい。いろんな人たちのいろんな演奏が17曲も入っていて変化もあり、騒がしいモノも無くて 有りがたく癒しもうけている。もう一枚「酒とバラの日々」も気に入っていて、数十枚ももらったが、この二枚だけに心身を心あずけている。
* 明日から、もう二月。「述懐」を寄せて古人の歌などもえらび、写真も気の晴れる色花や、ちょっと自慢の、柴又帝釈天境内で「偶然に」「咄嗟に」とらえた、「かくれんぼ」の鬼さん少年らの瞬間を選んでみた。柴又、もう一度行ってみたいなあ。遠いなあ。
しきりにまた行きたいところが思い浮かぶ。上野と浅草を懐かしむ。博物館、西洋美術館、寄席。食べ物では浅草の米久、上野の天ぷら、静養軒や西洋美術館 内のすいれん。鶯谷駅前の蕎麦の公望荘が無くなったのが惜しい。もう十何年も新幹線に乗ってない。窓から富士山が観たい。京都へ帰りたい。「マ・ア」に留 守番はさせられず、杖をついてもゆらゆらのわたし一人では、やはり危ない。やれやれ。
2020 1/31 218
* 書庫の上庭に冬枯れの草ぐさのなかで、昔、鉢植えで戴いたのを後につちにおろした白梅が、弾けたように元気いっぱいに満開、咲き切っている。異様なほどの陽気で春がもう来ているよう。
2020 2/15 219
* 建日子の呉れたジャズ八枚セットのうち、二枚が、機械仕事のそばで一日中鳴っていても邪魔にならず、気を静めまた引き立ててくれると納得できた。他は、どことなく騒がしい音が混じった。
2020 2/15 219
* 丹波に戦時疎開した国民学校四年生の私は、山一つをまるまる石崖のように登り降りし、隣部落の学校までへとへとになり往き帰りした。『清経入水』にその苦行の日々は役立ってくれた。
山のてっぺんを、土地のだれもが「峠」と謂うていた。峠には山肌を溢れて溜まる小さな「泉」があった。街人間には「峠」「泉」は言葉や文字で知っていても馴染みがない。めずらかな心地と疲労の極の峠の真清水は嬉しかった。
2020 2/16 219
* 秦の祖父鶴吉が家に遺し置いたたくさんな古書籍のうち、『柳北全集』全一冊に、いま、嬉しく魅されている。
成島柳北は、幕末幕府の若くして軍ないし財政の高官であり、維新後は明治の卓越したジャーナリストであった。その経歴も文藝も「雑文」に至るまで時世の 先登にあり、卓越、じつにハツラツと面白い。手にして読み始めると我をわすれ、他の仕事を忘れさせる。危ないほどである。
2020 2/17 219
* はやく寝てはやめに起きた。起きると、「マ・ア」が喜ぶ。
体重、血糖値、血圧を計り、機械を温めに二階へ。17曲もはいっているジャズ盤「Smoke Gets In Your Eyes」が静かに静かに鳴りだす。17曲の、どれ一曲もだれ一人もを知らなかったし、今も聞き分けようともしていない。大きな「一つ」の静かに綺麗な、 私の仕事への「伴奏」とうけとって馴染み親しんでいる。
* 夜前の夢に、このところ二、三度もみえる昔、俳優座にいた東山千栄子と妻もいっしょにいた、ふっくらと大柄に温かな女優だった。「母」を感じていたの だろうか。場所は、なんだか新装もうるわしい佳い「社宅」の三階の我らの部屋だった。部屋の外で話したのが、むかし上司だった鶴岡八郎さんとみえて、その 実は一緒に中国へ旅した作家の辻邦生さんだった。井上靖夫妻、巌谷大四さんら一緒に中国政府に招かれていった作家は、辻さんも大岡信さんも、一人残らず亡 くなっている。ひしひしと身に迫るモノを感じる。
* 毛糸の、こども用にみえる一つ半端になった手袋を見失った。マウスが今朝はとても冷たい。
* 兄貴のアコが仕事部屋へ執拗なほど入って来たがり、入ってしまうと物陰や下や隅へ隠れ潜んで出てくれない。こまかなものをひっくり返されたり噛まれたり持ち出されたりが叶わない。弟の「黒いマコ」は足に纏いつき甘えにあまえ、歩けない。
2020 2/20 219
* 図書館から、私の自著を全部揃えて貰えまいかと頼まれ、やっと腰を上げて妻に手伝ってもらい書庫の棚からおろし始めたが、し終えなかった。「湖の本」「選集」を除いても、なんという著書の多さ、豪華限定本を除いても、創作、論攷、随筆、対談、座談会、講演、歌集、新書、文庫等々、百册を優に抜いて、床にひろげ置いても、もう置き場がないほど。続きは明日にしようよと痛む腰を伸ばしてやめてきた。
むろんこういう著作本は、悉く出版社の請いを受け入れ刊行を私が肯んじ承知したものばかりであり、ここに私家版や選集、湖の本は加えていない。いかに、 疾走する勢いで「本」を出し続けてきたか、受賞後十年と経たない頃、ある店で顔の合った吉行淳之介氏から、呆れ顔でどうするとああも書けるのと声を掛けら れた。べつだんの気持ちはわたしには無かった、ただ心して仕事し続けていだけのことであったが、生涯に一冊の著書が持ちたいと熱望している人、多いんです よと。担当編集者に笑って云われたこともあった。
ま、それだけの本をわたしは、九割九分は自身でも買いおき保管してきたから、今回図書館にかりに二部ずつ寄付しても、一二冊ずつは手もとに残る。幸か不 幸か朝日子にのこしても受け取るまいし、建日子は父親の作物にあまり手を出したり目をむけるタチでない。おいおいに外へ散らばってもも選集もあり湖の本も あって自身で、むかし谷崎先生の書かれていたように老来自著・自作を楽しんで読み返すのに不自由はない。幸せな書き手であったよと素直に感謝し喜んでい る。なによりも今なおいくらでも書けることだ、病気さえしなければ。完全な盲目におちいらなければ。
2020 2/23 219
* 誰かのベスト・セラー作を秦建日子が脚色したという「頬笑む人」というドラマを観た。小説からの「脚色」ということを意欲的に試みるといいよと奨め続 けてきたが、マンガ作品からの脚色を別にすれば初めての脚色作ではないか。主人公になる殺人者とその内部劇を追う週刊誌女記者との芝居が出来ていて、ウソ くさい場面や科白もいくらか咎めたかったが、総じては及第の緊張感のまま異様な作に仕上がっていた、「つくり過ぎ」てはいたけれど。
尾野真千子はこれも脚色であったか「天空の診療所」のときも佳い役を創っていてわたしは贔屓にしてきたが、今夜も、期待にかなり応えてくれた。原作者も 原作もなにも知らない。人が人を殺すというのは人間劇ではもっとも深刻な劇だとは承知しているが、「人間劇」よりも「殺し方」に焦点を絞った創作にはどう しても乗りにくい。「春琴抄」まで出してサービスしてくれていたが、観終えた瞬間の或る空疎感は露わで、テレビから離れるともう何にも残っていなかった。 「つくり過ぎ」のうそというのは、作者にはいつも怖い、落ちたくない落とし穴なのである。まして殺人では、所詮は三面記事に陥りやすい。不思議の魅力が残 らない。
本格の創作世界へくっきりと人間批評の力量で切り込む秦建日子の次回「脚色」作を、心より期待する、あの鴎外原作「阿部一族」のような。
せっかく「春琴抄」に触れて私の読みまで紹介してくれていたのだから、本格に谷崎原作に挑んでくれると嬉しい、「猫と庄造とふたりの女」など面白いよ。
2020 3/1 220
* 感染症蔓延への足どりがとても気になる。八十歳以上の罹患だけでなく致死率も高いと聞いている。残念ながら三月の外出は、能う限りは失礼したい。建日 子にも無用に帰ってこなくても佳いよと伝えてある。家族内感染は目も当てられないことになる。それでもポストへの投函には自転車を走らせる。人通りの極く 少ない視野の開けた長い下り坂があり、往復して五分とかからず、上りは脚を踏ん張ってエイエイと帰ってくる。いまぶん自転車は徒歩よりよほどラクに利用で きている。
太っていた昔は、肩、腰、膝などの痛みがきつかったのに胃全摘でどんと体重を減らして以降、忘れたように痛みはへり、発送等の力仕事のあとに腰へ痛みが来るのも、ま、ロキソニンの効果に頼んで躱している。
2020 3/3 220
* 寝られるなら寝るという考えでいまは過ごしている。昨夜も十一時とはなってないうちに寝入り、「マ・ア」に起こされて九時だった。
体力と視力との大切なそして危険な時期を歩いている。
感染症から身を防げるかぎりは賢く油断無く防がねば。
2020 3/4 220
* 三月十四日は結婚して61年の日になる。歌舞伎座を楽しみにし、絶好席ももう手に入れているが、悩ましい。劇場の座席は隣と肘も触れるほどの間近、前 列も後列も50せんちと離れない。感染症クラスターには、密閉空間の劇場は満員の映画館や小劇場なみに危険をはらんでいる。白鸚、幸四郎の「沼津」など待 望して楽しみに待っていたが、61年をなんとか波乗り越えてきた歳月をここで不用意に過ちたくはない。悔しいが、惜しくて堪らないが、ここは堪えるのが本 筋と思う。二枚の絶好席を、この際、人様に呈上するというのも心ない仕儀になる。高麗屋さん、御免なさい。私達の憂慮のより大きな一面は、舞台の役者達に 感染がひろがって呉れるなということにも有る。老境の名優達に致命の事故が起きかねない。経営者はそこを考慮しているのだろうか。国立劇場は阿府内が歌舞 伎座は大丈夫と楽観しているのだろうか。
2020 3/10 220
* 感傷に堪えず 過ぎし懐かしき思い出に、雛の飾りをもちだした。成人眼前に亡くなった姉やす香を超えて妹みゆ希は、指折れば満28歳にもなるとか。結婚したろうか。幸せに元気に過ごしているだろうか、米壽へ足弱に歩む私達祖父母に、いつか曾孫を抱かせてくれるだろうか。
2020 3/11 220
* 三月十四日 土 結婚して、61年 乾杯
2020 3/14 220
☆ 夢の夢 秦恒平・掌説の世界 三 (無明)
(作の転載を、著作権法により厳禁します。 恒平)
☆ 当尾
手紙を書きたくなった。誰の顔も、名前も、思い浮かばない。眉をひそめ、男は一度持ったペンを置こうとし、置かなかった。
逢いたいのです。ーーあいさつ抜きに男はそう書き、書いた字に恥じて細い息を吐いた。一瞬目をとじた。
どこへ行けば逢えるのでしょう。逢いたいのです。どこへでも行きます。ーーたてつづけに男は書いた。ひとり住みのがらんどうの壁を、小さい黒い虫が稲妻のように折れ曲がり折れ曲がり這いおりていた。
十年になります、いつか逢える、逢いたいと思ってから。十年、ここで待っていました。待っていても逢えない…。男は書きながら、同じ言葉をつぶやいた。
ーーどこへでも行きます。逢いたいのです。でも…、だれなのですか、わたしが、こんなに逢いたいあなたは。
男は耳をすました。いつもの、失望と孤独とを配達するくるまの音が近づいて、去って行った。いつもとおなじ、では、だが、なかった。郵便屋はいちど停まって行った。
女手らしい墨の宛名が自分のだと、男にはなかなか信じにくかった。自分の名も忘れていた。差し出しの氏名はなかった。遠い西の、なんの馴染みもない町 の、記憶もないまた字名(あざな)があまり奇妙で、男はおもわずふくみ笑いをした。ふりがながしてあった。大字「当尾(とおの)」字「尻枝(しれえ だ)」ーー。封筒の中は、からだった。一枚の紙きれも入っていない。書きかけの手紙といっしょにポケットにおしこみ、男は、腰をあげた。
バスを降りると山の上だった。相客がふたり、口々に下車すべきはもう二つ先だと教えてくれたが、礼を言い男は降りた。足のしたから山風が渦巻いて立ち、 道ばたの葛の葉がめくられたように茎ごと浮いてさわいだ。なんで降りたかったか、分からない。逢いたいのです。どこへでも行きます。枯れ葉の椎に巨大な松 の木がかぶさり、梢の奥で綿の雲がひかっていた。「峠」という文字を、傾いですこし錆びた停留所の札に男は読んだ。膝のうえを軽くはたくと、そのまま男は 葛の葉を踏みしだきバス道からわきへ、繁った山はらへずり落ちて行った。鞭でも振るように、木の闇の底をたぎつ水の音がしていた。
木の室(むろ)になって、崖に棚が出来ていた。狭い岩棚だった。男はころげ込んだ。つるりと一つ平たい岩が頭をだし、赤土が匂った。棚から覗くと、薬研 (やげん)の底のように山水が磧(かわら)をえぐっている。男は山はらを細く巻いて断崖を横伝いに、うつろな眼窩さながらの横穴に誘いこまれた。穴は深げ に、妙にほの白く、奥から風がうごく。からの封筒と書きかけの手紙とを掴み出して男は洞のなかへ力まかせに投げ込んだ。
おいで、ぼうや。
ーー男はためらった。おいで、ぼうや。ーー逢いたかった人の声がまた呼んでいた。いいえ。ここへ出てきて下さい、と、男は、自分でもびっくりするほど静 かな声を出した。ちょっと間があった。それからかすかに地を擦る音がした。背の青いきれいな細い蛇が洞のなかからあらわれて、岩棚のいちばん高い場所に音 もなくゆるい輪になって男をみた。
母は、男をこの洞で生むと、男の父の迎えも待たず、ひとり先に死んだ。父はまだ臍の緒も切れぬわが子を、年うえの女を拒んでゆるさぬ自分の親の家の門外にすて、行方しれずに失せた。容赦なく男も祖父母に棄てられたーー。
ぼうや、お行き。死ぬために生きるのはつまらないよ。
男は頷いた。母の蛇は身をしなわせ、渓あいを矢となって虚空に消えた。
* この一作はいまでも うら哀しくわが胸を打つ。題の「当尾(とうの)」は作者私の父方実家があった、いまもある南山城の地名、石仏が多く、村内に名高い 九体佛の浄瑠璃寺がある。母は父に捨てられ父は私を捨てた。私は一度だけ、事実、バスを峠でひとり降り、歩いて、父が逐電したという大きな祖父の邸を訪れ たことがある。母ははやく死んだ。父も死んだ。父の葬儀で父の親族は私に「弔辞」を強いた。
『生きたかりしに』と、母を長い小説に書いた。いま、父の「敗 戦」を書いてみようと用意している。
2020 3/14 220
☆ 保谷は大丈夫ですか
コロナで至るところパニック状態ですが、保谷は大丈夫ですか?
老人には危険なウイルスみたいなので、外出は最低限に。
Amazonで買えるものは、こちらから購入して配送は保谷とか簡単にできるので、何か欲しいものがあったら言ってください。
ぼくは元気です。たぶん。
でも、ウイルスを保持している可能性はゼロではないので、とりあえず保谷に行くのは用心しておきますね。 ☆秦建日子☆TAKEHIKO HATA☆
* 建日子 ありがとう。街なかで、人づきあいの激務と想う。大事に用心して下さい。顔は見たいがリスクの多い、避けられる来訪は暫くは用心に越したことなく。わたしたちの日々は、此処にも謂えているし、カーサンとは携帯で声をとどけてやって下さい。 父
* コロナの暴威はヨーロッパを席捲している。たとえ日本で鎮静に向かっても世界からの選手と人とを迎えるオリンピック開催は、少なくも一応は断念が正当だろう。
2020 3/16 220
* 何はあれ私も妻も、トシであり、コロナに限らず気を付けて日々生きて行かねばならない。妻のいつもの検査と診察、まずパスして帰ってきた。次は連休明けにしてもらえたと。
食い物も飲み物も、そとへ出ないので払底。出前の「寿司」は、昨今では、なにとなし気になる。床下からの古い缶詰に手を付けている。「マ・ア」は、いつもわたしたちが近くにいるので安心して元気いっぱい、そして甘える。
* この近年、十年も前からか、男性の名を「平」字で締めた例が、ドンドン増えている。
わたしは、昭和十七年(一九四二)の春、国民学校一年生になるまで、直前の幼稚園でも「宏一(ひろかず)」胸に名札をつけていた。近所の子も、いえに出 入りの大人も「ひろかずサン」と呼んだ。それが新入一年生の受付へ母に連れられ出向いていきなり「秦 恒平」の名札を胸に付けられ、唖然とした。母は、それでええのやと分かり切った顔をし、私は、じつに居ずまいが悪かった、なにより「恒(こう)ヘイ」とい うのがいやだった。悪童どもに「コーヘイ コーヘイ」と囃されて「橋かけろ」「道つくれ」などと兵隊の中でもシンドそうな「工兵」呼ばわりされ続けた。驚 いたことにいま機械で「こうへい」を引いても他の名はたくさん「*平」で出るのに、あの戦時中のキツそうな花形だった「工兵」という語は出てこない。は出 てこない。そして、じつに、子供の昔から還暦ころまでに「*平」という名の他人に出逢うこと稀と謂うに近かった。東京市長だったか明治の昔、抜群の立法知 識を持っていた、しかし末期は征韓論を唱え佐賀の乱を起こして敗れ佐賀城内で梟首刑にあった江藤新平とか、詩人の草野心平ぐらいしか思い出せない。
なのに、還暦過ぎた頃から、気が付くと「*平」クンのやたら多くなったこと、舌を巻く勢いで、しかも活躍している青年が多いのだ。なかには、私の名にな らって初子の男の児に「*平」と名付けましたと云うてくださる読者もあらわれたり。なんだかいつしかに人気のいい名前の内に入っているようで、ホントに吃 驚。
漢学者の興膳宏さんに、「恒平」は、「恒久平和」ですと教わったりもした。このごろは「*平」クンたちにテレビや新聞で出逢うつど、にこにこしている。
2020 3/17 220
* 近くの、自転車なら三分とかからない「セイムス」へ妻と買い出しな。
一等嵩も高く重いのが、「マ・ア」たち排便の為の砂です。
2020 3/18 220
* もう目がくらく、細かな仕事は今夜は無理。八時だが、休息に。ダンボール函に荷造りした本包みを55册ずつ入れて、この一箱ずつをキッチンから玄関へ 何度も何度も何度も運ぶ。重い。刊を重ねる度に重さが腕に背に足腰に堪える、が、まだ持てる。両掌は指先まで四六時中痺れて、ヒリヒリしている。痛いのも 痺れるのも生きている証拠。
さ、よこになって、トルストイや紫式部や成島柳北やホメロスや千夜一夜物語を楽しもう。
* いま、一寸の間に手を伸ばし、柳北全集の「雑文」をあれこれ読んでいて、笑えた。柳北は「濹上漁史」と自称している。森鴎外も「鴎外漁史」と 称していた。「漁師」は「りょうし」で、「漁史」は広辞苑では「ぎょし」とある。文人が「雅号の下に添える」語としか説明していない。新潮国語辞典には出 てもいないが、明治期の武人の名乗りにはたしかに再々出会う気がしていた。由来が知りたい。。柳北の「濹上」とは隅田川との縁を謂うているのだろう。手居る「た魚御し死ス」師? 穆
「濹上漁史」の「雑文」は、なんとも、面白い。八面六臂、諸方へ筆が及んで渋滞無く、時に噴き出させる。 「おう、そこまで謂うか、見るか」とのけぞる。妓女と接して、孕んでいるのが現れるようになったと不粋を嘆じていたりする。昔には決して無かったのにと歎 いている。子供を産んで、子守りをやといながら枕席に侍るのも居たりして、甚だしきはその「子」のことを話題に語り出でたりすると嘆息している。
私は、堪えてそのように席や場と縁がないが、祇園花街と道一筋のところで育ち、中学は祇園町のまん中にあったから、甲部乙部の別なく男女の学友と一緒に育った。「濹上漁史」が惘れているのが、なんとなく肯かれるのである。「床の一悦」に過ぎたる快楽はないと喝破した江戸の河原の女がいたが、それほどに徹した趣味からすれば枕席で産んだ子を話題にする女は、あるいはおとこには異様に無趣味に思えただろうなとは感じる。「濹上漁史」は幕府に使えてはじめは学者であったが、一転して騎兵隊を指揮し、さらには幕府の経済を左右し、明治維新で野に下るや「朝野新聞」を起こして文名とどろいた。創作者ではなかったが、世事万般に亘って当時闊達の一「文豪」であった。
* それにしても 明治二年生まれの私の祖父秦鶴吉は、そんな結構な『柳北全集』まで買い込んで所蔵し、私に遺して呉れたのは、驚きである。とても今今の 若い人には読めないすべて漢話文または漢文であるが、明治の新聞読者はこれら喝采していたのである、時代は移り変わるのであるなあ。
2020 3/20 220
* 機械(小さいカメラや携帯電話)を買いながら、説明書きをたちまち失くしてしまい、ロクに使えない。まさか捨てていまいと、大捜索しても見つからず、 大昔に何十册のなかの一册の貴重な文献を見失っていたのが、今夜、堆い書類の中から見つかったが、今の役にはもう立たない。
見つけないと、肌身にそえて所持していても使えないのでは、バカみたい。
根気よく 捜索も継続のこと。やれやれ。
2020 3/22 220
* 頂き物へ、妻は筆まめにお礼の葉書をいつもお送りしていたが、ポストへの往来にも今はどんなコロナ危険があるやもしれずと、この際はご無礼ながら、一 切見合わせよと私から妻に禁じました。最低限度の買い物にだけ近くのセイムスへ二人で出向く、それ以外は可能な限り(病院へも)うごかないようにしてい る。用心に用心して足りぬことは無い。せめて「家の内」だけを衛生無蓋に近く護りたい。それは吾一人の常識であるばかりか、世間一般への良識に類する。家 の中でも、わたしはマスクしている。手も機ごとに洗いうがいもする。戸外での用も要もない立話しも避けたい。マスクよりも取り換えと洗濯の利く手袋がほし い。
* 建日子から、「手袋」を送ったと母親へ、敦弔名メール。ありがとう。劇団生活のある建日子のことは案じて余りあるが慎重な性格に頼みをかけている。本 当なら同じ家で日々を居たい願い切なものがあるが、そうも行くまい彼の日々を思い、真実、平安と無事と、徹底した用慎とを父は祈願している。
2020 4/3 221
* こういう時節になり家に籠もっていると、建日子と、撮り溜めてある夥しい和洋の佳い映画を観ながら、ワイワイと評判したいなと思うのである。
朝日子は、どうしているだろう、とも思うのである。
2020 4/3 221
* 妻が、半年遅れで私に追いついた。八十四歳の誕生日、おめでとう。朝も遅めながら、義妹の贈り物のクッキーでお茶を呑み、塗り杯で清酒を一口ずつ含んだ。元気でありたい。
* わたしは今、寝たいだけというより、寝られるだけは長く寝ていようと謂う心境。眠るという健康法があるかどうか。寝ていられる限りは寝ていたいと、なにより疲れたからだが望んでいる。
2020 4/5 221
* 建日子が、手袋を二百枚送ってきてくれた。手袋は、マスク以上に有効かつ大事な気がしていた。私の日記をみて心付いてくれたらしい。わたしたちは、機械越しにものを買う送らせるというスベを持たない。
カーサンの誕生日祝いのように「コロナ防備の手袋」とは、怖い時節だが、有効で有りがたい。感謝。
2020 4/5 221
* このコロナ騒乱の時節に批評ないし解説そして建言で私が信頼をおくのは、朝のテレビ朝日で話している女医師の岡田さん、そもそも総研の彼、そして青木理さん。
今朝も安倍総理「特派員」のような政治評論家は、もはや都知事の先走りを出しゃばり同然に政府の迷惑だなどと口走っている。何なんだ、かの「田崎」某とは。
言われるまでもない「非常事態」に相違ない。われわれ民衆は ただ冷静に、何をしてはいけないか、何はせざるをえないかを思案し実行するしか、この猖獗 の感染症から身をよけるすべはないのだ。われら八十四歳夫婦は、幸いにもじっとしていられる小さな家があり、二人とも出好きではない。家の中に用事はいくら もあり、二人とも本も楽しんで読める。贔屓のテレビ番組もあり、上出来の映画の板にも不自由なく、まさしく「籠居」に甘んじてひっそりしていられる、とは いえ、100%そうも行きかねるのが「生活者」 用心して動く時は動かねば。狭い家で脚もせいぜい使ってやらねば。
* 鎌倉の橋本夫妻、銀座千疋屋のいかにも口涼しいゼリー菓子で、東村山の近藤聡さん選りぬきの「名酒」一升で、『選集32』を祝って下さる。
* ロシアの誰とかが、ウオトカさえ呑んでればコロナなんぞ、と、さすがに賛同しかねることょ言うらしい。が、微かにも幾らか私もそんなリクツを添えてお酒は毎日夜、しかと戴いている。功徳の一は、寝入ること。寝入れば確実に眼も身もやすまります。
そしてありがたいことに、うるわしいほど仲のいい兄弟の「マ・ア」たちが老人二人をひっきりなしに慰め笑わせ、ときに疾風のように家を駆けめぐって憤慨させてくれる。「命」というありがたみをしみじみ分かち持たせてくれる、猫のふたりが。
* また寝入っていた。のびのびと出来る場所がない。腰かけていて、尻の痛さで目が覚める。尻の肉が落ちきっているのだろう。それでも体重は今朝は63キロを記録していた。
四時半。安倍総理の非常事態宣言は宵になるか。歴史に問うべく、聴いて置きたい。 2020 4/7 221
* フェイスブックで建日子が何かはつげんしてるらしく通知は来るが、もう七、八年にもなろうか、わたしの此の機械でかなり華々しく発信し続けていたフェ イスブックもツイッターも、両方とも、全く画面が掴み出せなくなってしまい、いっそこれ幸いとソシアルネットでの発信や発言は封じ切ってきた。建日子が何 をどう考えて発信したり発言したりしているか、何も知らない。
それにしてもあんなに活溌に活用してきた画面が、いったいどこへどう雲散霧消して無くなってしまったのか、不思議。
建日子には、小説を書くだけでなく、それ以上に芝居を書いて演出し、映画を製作演出する仕事がある、らしい。当然のようにコロナ禍で仕事は痛手を蒙り、さて國の補償が得られる公算は、どんなものか。
なにはともあれ、今は住まいでの籠居に徹し、決して決して無用の外出など気まぐれにもしないで慎重に乗り切ってほしい。ほんとなら建日子が保谷へ帰って くれて、いろんな話しが出来ると嬉しいのだが、それは、この際はむしろ厳に避けた方がいいと諦めている。無事を願い祈る。
わたしはわたしの仕事と気を入れて向き合い過ごす。「湖の本150」記念の一巻をすこしでも面白く仕上げたいのだが、思案に暮れる難関もある。十七日に 内分泌の診察が予定されているのだが、幸いにもインスリン注射分はもう数ヶ月分は余裕があり、ビタミンや催眠剤は何とでもなる。
籠居は、我が家の老夫婦に向いているのである、ちょっとも出かけたいなど思わない。歯医者さんへも当分は失敬させて貰う。
* 湖の本の口絵を工夫している内 十時をまわった。もう、眼が限界を超えている。 2020 4/10 221
* 戸外に憧れている「マ・ア」兄弟と、昨日も今朝も、頸紐に繋いだまま、四方を建物にふさがれている狭いテラスへ一緒に出てやった。いかにも嬉しそう。 書庫うえのエプロン、その上は草木の破売るに任せた細長い狭庭になっていて、ひとりずつ、そこまで押し上げてやると、それは珍しそうに。
ついでに、妻が愛している大きな重い植木鉢のベンジャミンを、晩秋から春までは家の中へ入れ上げるのが我が家の慣いで。今年はすこしテラスへ出してやる のが遅れていたので、ガンバッテ妻とふたりで引き摺り出した。季節をよむ我が家の年中行事なのだが、ま、おっとヨシヨシである。枝を張っていて、植木鉢も 大きく重くて、かなり難儀なチカラ仕事なんです。
2020 4/16 221
* 七時に目覚めた時、もう一寝入りを自分に許した。朝日子建日子も「一緒の旅」のはてでちょっと豪勢に食事してから家に帰ろうよとなったが、事定まらぬまま夢は破れた。似た夢をこれまでに何度か見た。
還暦に手の届いた娘・朝日子が、どう暮らしているかと日々に哀しむ。
孫のみゆ希はどこでどう暮らしているのだろう、もう母親になっていてもいい歳だがと、日々に哀しむ。
親・子・孫の、あるいは曾孫もふくむ、かかる久しく久しい不自然を、朝日子の夫でありみゆ希の父である青山学院大の政経、押村高教授はどう思っているのだろう。
分からない。
心傷めながら 重い病に若くして逝った孫やす香は、天国でどう眺めているだろう。
2020 4/17 221
* テレビ朝日の朝の「コロナ戦争」検討は、女優の高木さんとそもそも総研の玉川さんと、立ちゲストの岡田晴恵先生。明快、適確な厳しい政府・専 門家委員会への批判や注文も分かりよく、もっとも信頼が置けると聴いた。権威主義でなあなあのオエラガタ世間では弾かれる顔と言葉かも知れないが、折角、 健闘願いたい。
* 私も、気忙しくならず、からだと相談しながら仕事をつづけたい。昨夜のような体調を繰り返すと危険な淵へ落ちてしまう。「枕草子」今朝の第二○六段 五月の京の山里の風情に思いを慰めている。
* こんなとき、兄北澤恒彦が存命で居てくれたら、機械を通じてまた新たな「往復書簡」が楽しめたに違いない。
* 建日子や、朝日子も成ろうなら、こんな際なればこそ、いまのうちに父に聴きたいと想うことあらば「問うて」おいてくれるといいのだが。
父をわがつまづきとしていくそたびのろひしならむ今ぞうしなふ 岡井隆
亡き父をこの夜はおもふ話すほどのことなけれど酒など共にのみたし 井上正一
今にして知りて悲しむ父母がわれにしまししその片おもひ 窪田空穂
百石(ももさか)ニ八十石(やそさか)ソヘテ給ヒテシ、
乳房ノ報ヒ今日ゾワガスルヤ、
今日ゾワガスルヤ、
今日セデハ、何(いつ)カハスベキ、
年モ経ヌベシ、サ代モ経ヌベシ。 叡山所伝「百石讃歌」 『愛、はるかに照せ』より
* 親孝行を強いている気は微塵もない、ただ「時」という容赦ない超大の船にわれわれは乗せられて容易に顔も合わせ得ずに「旅」している。
酒の飲めるようになってきた建日子と、いまこの一つ家で過ごせるなら、「吉備の人」に賜ったとびきりのお酒も何かしらの話を肴に楽しめるのだが。だが、今はそれほどのことも堪えて要心しなければ。
2020 4/23 221
* 仕事に二階へ上がってきたのだが、なにか兆す痛みを胸に感じたので、下 へ降り、横になろう。印刷所でもコロナでの縮小や進行替えが始まっているのだ、今はタマは向こうに投げてあり、少しはユックリしたがいいのだ、だから 建 日子がいるといいのになあとつまらないテレビ番組の前で思ってしまう。
2020 4/23 221
* 両掌は十指の尖まで無数の縦皺、そして鳴りそうにジセンジンと痺れている。胃全摘後の一年の抗癌剤服用に堪えて以降、こうなっている。抗癌剤おやめな さいと医学書院の昔に「胃と腸」編輯の頃御指導頂いていた編集委員先生のお一人からご注意いただいた。建日子からも言われていた、が、私は押して、それも 放射線でなく抗癌剤に耐えようと決心した。若干の癌転移が認められていたのと闘うなら今の内と思った。じつに切ないほど苦しい一年で、担当医の女先生の方 からもう止めましょうよと言われても、どう曲がりなりにも一年は耐えましょうと、それでも十ヶ月を超えたころに先生から打ち切られた。苦しかったが私はこ れが「生きる体験」と断念に近いほど放念を自身に強いつつ闘い抜いた。放射線はイヤだとはじめから抗癌剤を受け容れた。
うちで夫婦して好きだった女優「山名さん(役の名)」は乳がん手術後に放射線を浴びていたという。何のシカとしたリクツはなしに私は放射線を浴び続けるのが怖かった。
抗癌剤のつらさをどう耐えたといったモノではなかった、ただ、痛いという感触はなく、全身が堅めの綿のように崩れていた。げえげえと粘ったモノをながす ようにトイレで吐いた。吐いたあとも便座に腰かけ、頭や顔を抱えて深々と突っ伏し、両の臂を膝について、ただただ堪えた、そんな三百六十日近くが続いて、 いらい私にはトイレの便座が固有の一世界のように今でも想われる。今も、便座に腰かけると目のマン前の壁に、三人の仔ライオン兄弟(と想っている)が横並 びに寄り添い臥してまっすぐ私に笑むような優しい目を向けてくれている。その上には犬と猫のマンガふう夫婦らしきが、チンと高坐りに並んで、佳い笑顔と視 線を私に呉れている。繪さらにその上には、カレンダー写真から切り残した横綱白鵬のウムと力籠もって土俵へ双の手をひろげた土俵入り写真が大きく貼ってあ る。私は、手洗いに入ると便座から、優しげなライオンたちやいい笑顔の犬猫夫婦や大横綱の力感漲る土俵入りの気魄の眼光に励まされてくる。
あの辛かった頃、もう七八年まえのことだが、便座の前に貼った写真に憩いかつ激励されていた。なにかしら工夫して耐えべきは耐えねばならぬ、死線といえども生きていのちがあるからは。
* 私も今はさらに老いて、耐えきれるかどうか、分からないが、トイレというのが存外な「役」立つ場だとは思い知った。ただし明るい便座トイレなればこ そ。子供のころの秦の旧家のような暗くて、しゃがむ便所立ち便所では気が滅入っただろう。ちいさい頃の怖がり恒平は便所へひとりで行けぬ児だった。便所は 部屋の外、小さな泉水の向こうへ短いながら廊下を伝って行かねばならなかった。
* 思い出に耽るようになり、老境の向こう視野には過ぎし日々が。いやいや、私にはまだ残してある仕事、多いのだ。
* いま我が家の「元気」「快活」「親愛」はアコとマコの兄弟ふたりが狭いは狭いなりに心得て家なかを駆け回っている。老夫婦にもじつに親密に甘えてくれ る。心励まされ笑い絶やさず過ごせている。そのかわり、破れるモノは残り無く破られ、落とせるモノは何でも落とされている。夜分は、四人で寝入っている が、彼ら兄弟の朝飯時間八時が近づくと「あげる人」の妻は、容赦なく起こされてしまう。
2020 4/24 221
* 近所(自転車なら二分とかからない)の、スーパーではないセイムスへ、二度通って、「マ・ア」たちの砂と食事とを二、三ヶ月分買い溜めてきた。まず完 璧に躾の利いているふたり、餌はまだしも、砂がなくなれば、便所が無くなる。砂は重く、妻では一袋買ったら他の品は持てない、私なら自転車で四袋の上に薬 品や軽い食べ物も買って帰れる。
薬品は軽く、嵩にもならないが概して高価、支払い足りなくなり、二度通って用を足してきた。セイムスは空いていた。マスクし手袋もしで行ってきた。すこし肩の荷をおろした。日本酒は生協でも買える、洋酒を一種買ってくりゃ良かったなどと、アトの祭。
2020 4/24 221
* 我が家の電話はなにがどうなっているのか、よそから掛からなくなっているらしく、妻は建日子とだけ 私は印刷所とだけ携帯電話で話せるようにしてい る。私は、仕事上の所用でない会話電話は苦手で、建日子ともまだ一度も話していない。携帯電話の使い方、掛け方も受け方もまるでアタマに入ってない。向こ うサンの電話番号を機械に入れておくと掛けやすいそうだが、機械に入れておく技倆も持たない。 手紙もハガキもまるで書かない、「湖の本」や『選集』を送ったり献呈する際にちょっと白い紙に走り書きする程度。私の状況は、上の本と、かなり詳細にこの ホームページ「闇に言い置く 私語の刻」で語っている。
* 老子、荘子、孔子、孟子はよく知られていても、孫子はどんなものか。この人はいわば兵法哲学者のような人だった、戦・闘に必須の心がけなどを説いてい た。さんな人の『孫子講話』がなんで秦の祖父鶴吉の蔵書に入っていたか、私もそれを処分せず東京の住まいへもたらしていたか。読んで面白かったから。この 塚原渋柿園講述、東京京橋区の文泉堂書房と東京日本橋区服部書店で発行された明治四十三年一月初版 二月には再版て定 価金七十五銭の一冊は、『孫子講話』という主題の上に「處世應用」の角書きが付いていた、つまり孫子の兵法を「四民」の生き方に折角応用しようとの趣意で 書かれていた。祖父が気を入れて「応用」したかは判別しがたいが、人それぞれの人生には、生き方には、なるほど「戦・闘」の気味は免れない。面白いところ を見たいかにも明治人らしい勘所を衝いたのだろう。この本の出た頃私の秦の父長治郎は十二、三歳だったから、当然祖父鶴吉の蓄えた蔵書にちがいなかった。 ま、そんな詮議はみの際、もう意味もなく、あとは私の読み方になる。
渋柿園さんの高説にみちびかれながら、孫子の原文を少し引いてみる。
「始計第一」とある。いわば第一章、端的に 初めに大事なのは「はかりごと 計略・謀(はかりごと)」と。頷ける。
孫子曰く 兵は國の大事にして、死生の地、存亡の道なり。察せざるべからざる也。
むろん原文は漢文。「兵」は個々の兵隊さんでなく、いわば「兵事」即ち戦争。
故に之を経(はか)るに五事を以てし、之を校(くらぶ)るに計を以てし、而して其の情を索(もと)む。
「経」といい「五事」といい「校」といい「計」といい「索」といい「其情」といい、全て一字一字の漢字が明確に深い意義を体している。しかしもう一歩は前へ出て孫子に聴こう、先ず「五事」とは何。
一に曰く、道。二に曰く天。三に曰く、地。四に曰く、將。五に曰く、法。
道 天 地 將 法 孫子は孔子でも老子でもない、「道」をはじめとし五事みな「兵」を説いている。俄然、面白くも興深くも分かり良くもなる、が、 子供の昔に返って兵隊ごっこの戦争で、どう相手と闘うのかと、この「五事」いや「五文字」を考えてみなされというのがこの本である。たしかに、よく思案す るとアテズッポウにも孫子の曰くに近い感触は得られる。最初の「道」だけを書き写しておく。
道とは、民を令(し)て、上(かみ)と意を同じくして、之と死すべく、之と生くべく、而して 畏れ危ぶまざらしむる也。
おう、これぞ明治徴兵制から昭和敗戦にいたる日本国軍の基本の指導だったではないか、私がこのところねっしんに関わってきた山縣有朋元帥らの理想と謂う に大過ないだろう。断っておく、私はかかる「五事」を体して一兵卒とも大将にとも望まない児童だった。だが、孫子の曰く、まことによく謂えているのに感じ 入り、面白いなと読み進めてきたのだった。「一に曰く、道。二に曰く天。三に曰く、地。四に曰く、將。五 に曰く、法。」 軍事の戦争・戦闘と限らず、企業や商賈や人事や政局の各場面にもあり得て済まぬ心得事であるぞよというのが、著者渋柿園先生の目の付け所 であったに違いない。明治の鶴吉祖父がどう思惟し研覈したかは知らないが、令和の私は「おもしろいナ」と今も思っている。機会を得てはすこしずつでも孫子 の兵法、著者の処世応用の実をここにも書き出してみようよ。
2020 4/24 221
* 私・秦 恒平の人生が、日本の女文化、和歌や物語や美術や信仰などとばかり組み合わさってきたのでないことに、この頃、ひときわ思い至る。その、他方大量の体験・ 知識・見聞を私は十五年半勤めた本郷台の出版社医学看護学研究の「医学書院」の編集者を精勤しながら得てきた。私はあの会社で、ただ「小説家になりたい」 だけの一青年ではなかった、長期に亘り、だれも信じてくれないほど、二百種を超す単行医書や教科書の自己企画をもち、次々に書籍化してきた。看護関係の雑 誌・図書にはじまり、医学分野でも「胃と腸」「脳と神経」「臨床婦人科産科」「臨床皮膚泌尿器科」「精神医学」そして「公衆衛生」「臨床検査」誌等を管理 職としても担当していた。専門の勝れたあるいは難しい、怖いほどの有力医師達と、全国の医学部や大病院で付き合いがあった。信頼もしてもらったし、いろい ろ耳学問もした。
もう何十年も、病院や医師と付き合わざるを得ない人の九割九分九厘が「病院と検査との不可分」、いや「病院とは検査機関なり」とすら思っている人が多いはず。
しかし私が医学書院に入社した一九五九年、全国の病院に今日風の「臨床検査部門」をもった施設はゼロだった。東大医学部の或るおっかない先生の熱心極ま る提唱から、全国で真っ先東大病院に本格の「臨床検査室」が起ち、それと同時にその先生の怖いほどの指導のもと「月刊」の「臨床検査」という医学雑誌がわ が医学書院で編集刊行され始めたのであり、私はその一等最初からの製作・刊行役の「担当編集者」だった。病院通いで今も検査検査検査の体験をつみながら他 の患者さん達とは相当異なる「感慨」を私が持っているとして何不思議なく、時に無量の思いに襲われる。
* 同様の事は、これは何度か「私語」してきたが、日本中どこの医学部、大病院にも産婦人科と小児科はあり、私の入社二年目頃まで、両科は、生まれる「赤ちゃん」のさながら「争奪戦」を演じていた。小児科は「新生児」と呼び、産科は「新産児」と呼んでいた。
そんなさなか、血小板数が人より寡なかった妻が長女の朝日子を妊娠し、これはぜひにも無事に生んで貰わねばならなかった。わたしはちょうどそのころ「助 産婦雑誌」また「臨床産婦人科」とい月刊の専門誌も担当を重ねていて、取材や原稿の依頼・入手で東大産科の医局や教授室へはしばしば脚を運んでいた、が、 ある日、産婦人科の医局に、産科と小児科との「合同カ」ンファレンスという小さな連絡用の貼り紙をみつけた。オッと思い、即刻、産科医局の芯にいる官川 (ひろかわ)統先生を先生に声をかけ、「小児科と共同」で、「赤ちゃん」の「出生前と後」との最新再校レベルでの医学的追究論攷集を「出版」しましょうと 「持ちかけ」た。
この「企画」自体がじつにもう「産気づいて」いたかのように、あっというまに両科の教授(産科・小林隆先生 小児科・高津忠夫先生)を押し並べて監修者 とし、小児科の馬場和男助教授と先の官川先生を「編集企画」者にし、両科医局中核の研究・臨床医を動員、五十人前後もの詳細な執筆課題を配し、当大学学士 会館会議室をかり、二教授以下総員出席という、医学書院としても嘗て例のない編集会議と会食からことは運んでいった。かくて大著となった東大産科小児科合 同の『新生児研究』なる東寺として最新最高レベルの研究書が成っていった。入社して二年目、編集者としてはペイペイの新人が出した企画は、雷と畏れられて いた金原一郎社長主催の企画会議をどよめかせた。執筆予定の総員医学者で用意ドンの「編集会議」を成功させた以上、あとは先生方のだれ一人も漏れなく原稿 を「書かせる」「早く書かせる」「手に入れる」ガンバリだけになった。
この画期的な『新生児研究』がついに本に成り、「新生児科」という施設が各大学大病院に実現して行く契機とも成って、さらには「日本医学會」の一分科会 として「日本新生児学会」も出来た、私は、仙台でのその第一回学会で「会員に準じて」いろんな先生に握手してもらえたりもした。
* 私の小説や批評等の世界では、未だ、医学書院での編集者体験に根生えた範囲が、ほぼすっぽり手付かずになっている。
それは、ま、それとして、今今のコロナ戦争に対してもつ私の観測には、いくらか往年のそんな、こんな経験や見聞が色添うている、とは云い得るのである。
『新生児研究』のほか、二百册へ手の野届く企画・刊書籍には、いちはやくエイズに触れていた『免疫学叢書』らがあり また「公衆衛生」誌 「胃と腸」誌 「脳と神経」誌 「看護学雑誌」等々、もう往年のと謂うしかない(今日ではもう古い)医学看護学世界をわたくしは歩いてきたのです、そういえば、太宰賞をうけた小説「清経入水」の語り手は、ヒロシマでの医学会へ取材に行く「医書企画の編集者」であったのだ。
思い出は尽きんなあ、キリがないよ。おかげで、しかし、最初の愛児 朝日子は多くに見まもられ無事に生まれた。次女ではない長男の建日子も馬場一雄先生のもとで元気に生まれてくれた。妻もよく頑張って、ま、安産してくれたのだ。
2020 4/26 221
☆ 椿山集
昨日、到着しております。
内容を見て 大変貴重な品であると実感しました。
撮影して 休み明けには返送いたします。
宜しくお願い致します。 凸版印刷 宏
* 分かってもらえて、嬉しく。
なにとはなく、あの、こわかったような(その実、手ひとつ触れられたことも叱られ怒られた記憶のない)秦の鶴吉祖父にいま さらに深い感謝を覚えている。和本の帙入り『湖吟集』全册などは、九大今西名誉教授に謹呈した。今は、『椿山集』のあと『(成島)柳北全集』『孫子講話』 「(内藤)鳴雪俳話』に親しんでいる。何十作も収めた大冊の「露伴集」は、文春専務だった寺田英視さんに謹呈した。『韓非子』『唐詩選』『古文眞寶』だ の、ほかに『左史春秋』や『史記』等々の史書や詩集もまだまだ手もとに遺されてある。金銭に換えがたい有難い嬉しい遺産であった。そして私だからそれらを 無にしないで重宝と感謝も出来る。大方他の人には、紙屑として、故紙回収に処分されていたことだろう。感謝。感謝、おじいちゃん。
2020 4/27 221
☆ ご無沙汰しております
ご丁寧なメール有り難うございます。
京都の竹の子を楽しんでいただけたらと思います。
嵯峨野で私の友が育ててる筍、いかがでしょうか。
広沢池、大覚寺、鳥居本など、思い出しながらお召し上がりいただけたらと嬉しいです。 有子
* いまも鳴瀧 文徳陵などの清冽な孤愁の気配などを、橋田先生の温かなお人柄に添え、京都を恋しく思うとき かならず思い出している。前田先生(橋田先生夫人の母上。弥 栄中に勤務されていた)の、実の母を知らなかった私には「おかあさん」のような笑顔も忘れたこと、ない。弥栄中学の思い出は、私の八十四年の今日までの、 宝石。日一日と、あの頃へ私は帰って行きつつあるか。橋田先生も西池先生も待っていて下さるような気がする。
2020 4/27 221
* Smoke Gets In Your Eyes ジャズの、静かに、懐かしい感じのメロディが部屋を包んでいる。この部屋、八十四の爺いどころ か、まるで多感な高校一年生の勉強部屋のよう、とてもよその人には見せられない。どういう趣味か、昔、毎日のように仕事の客や読者が尋ねて見えた時など、 「書斎をみせていただけませんか」と乞われ、拒絶するのに往生したが、あの自分の仕事部屋は簡明にすこし取り澄ましていた。いまのこの部屋は、谷崎先生ご 夫妻のお写真にお気の毒なほど、書籍と機械以外に、かぞえてみたら五十近くも、金原社長に戴いた肖像や妻の写真や、大小の書の額や、亡き孫やす香や美しい 若い沢口靖子の大小しろんな写真や小さな風景画や好きな京の絵葉書や、小説には必要になる京都市地図等々が、そればかりか、上村淳之さんに例年戴く書と繪 のカレンダー写真の気に入ったのや、神仏のお札や、ことに猫の「アコ」が狙っては銜えて走る気に入りの犬ころやゴジラの人形や、ま、雑沓をきわめて、こよ なく私を落ち着かせる。
* とはいえ、思い出すと、ほんとうの高校生のころの私の勉強部屋は、この機械部屋六畳の賑々しいにくらべ、簡素そのものだった。秦の父の心入れで、二階 に三畳間をつくって呉れて、何の飾りっ気ないが本棚だけは近くの大工の手作りで嬉しくありがたく、出入りに二枚の襖が真新しい雅な模様の紙なのも嬉しかっ た。開け閉ては出来ない30センチ四方のちいさな天窓から空の明かりが入った。階下の土間通しへ向いてもガラス窓、西向き戸外の暗い抜け路地へも押し開き の窓が押せた。
もう、帰りたくても帰れない、あの家、もうとうの昔昔に取り払われ、ビルになって、無い。
* あの家…。
秦の家が無くなるよりより先に、あの地上げ流行りだった頃、我が家に接した祇園町へ抜け路地西側の、樋口家と西隣にうどんの高砂屋とが取り払われしばらく空き地になっていた。
で、その空き地越しに「我が家」なる家の全貌をみる機会があった、が。
新門前通りに面して北向きにいかにもなだらかに奥深げに二階の母屋があり、泉水や井戸をふくんだ庭の奥へ、平屋の離家(はなれ)というか隠居というかが 建ち、その離れの奥に恰好のいかにも土蔵の顔つきで内蔵が建っていた。いかにもこの家が、抜け路地を挟んだ長屋の家主宅のように見えて、「ほう、こんな家 であったんだ」と横側からの全容にビックリしたことだった。
秦の祖父や父はこの屋敷(と謂っておくが、)「表」だけを大正も末か、滋賀県にいたという家主から借り受けて、祖父の「餅つき屋」や、父の「錺屋」また急転「ラジオ屋」を営み、私を「もらひ子」にも育ててくれたのだった。
昭和の敗戦後に父は、この表の「借家分」を家主から買い取り、さらにまた「裏」に奥二間だけの離屋に暮らしていた藪本という家族が出て行ったのを潮に、 これも買い取ると、久しく表家に同居して奥四畳半でお茶や生け花を教えていた独身の叔母ツルが此の離れ隠居へ移り住んだ。私も大きくなり、勉強部屋も呉れ てやらねばと両親は思案しただろう、この路地脇からも出入りのきいた「裏」二た間で、叔母は、八十過ぎまでも老練の「せんせい」稼業をし尽くしたのだっ た。
父は、しかし、機会も資金もあったろうけれど、奥の土蔵までは買い取らなかった。倉に収めるような何ほども持たぬ家であった。茶道具や花器を「商売道具 にして」しっかり男勝りに稼いでいた叔母なら買えたろうが、建物に手を掛けるぐらいなら軸の一本、茶碗の一枚もいい道具を買いだめて、天井裏へ仕舞ってお くという人だった。そんな叔母が所蔵のかなり大量の道具から、この私の目も手伝わせ、相当の値打ちモノだけを、とうどう東京へ引っ越す段になって百あまり も叔母は運んで私に遺してくれた。むろん私は一点としても売りに出していない、ただ、もう幾つもを、人様に差し上げてきた。道具は、使える人が使わねば、 持てる人が持って愛おしんでくれねば値打ちが落ちてしまうのだ。
* 籠居慣れして、たださえ物覚えの私が、機会ごとに渺茫の往時を書きのこしている。ま、材は何でアレ文章を書き起こすのが私の天性なので、「闇に言い置く」「私語の刻」は果てしない。それとなくだが、建日子や朝日子や孫のみゆ希に言い遺しているのにも相違ない。
* ジャズというのは、乱暴な限りピアノを叩きまくる喧しい下等な音楽なのだと、つい最近まで、建日子がよいしょ「ハイ、ジャズです」と袋に入れたり函づ めで持参してくれ、で、何枚か聴いてみて、じつにここちよく静かな吹奏楽器の音楽、ピアノ伴奏ももの静かに優しいことに気付いて、いらい、仕事のそばで鳴 らしっぱなしは「ジャズ」に限ると相成った。事実、こんど「湖の本」百五十巻の記念の仕事は、思い立ってから、祖父の遺したくれた本をまる一冊手打ちで機 械へ書き写し、前後へ原稿を書いて我ながら時節柄なかなかの一巻になし得たぞと自信も持てたのは、すっかり惚れ込んで聴き流しに聴けるジャズのお蔭であっ た。歌がなく歌詞のひどさに邪魔されないのが有難く。ありがとう、建日子に、感謝。
2020 4/27 221
☆ 大型連休も何のその
外出を控えてぼ-っとしてます。
疲れが段々とでてきます、連休が過ぎたら 又 通院が続きます、
牡丹が咲きました、写真を送ります、上手く送れますか、な? 京の 華 高校同窓
* どうか、お揃いで無事でと、心底、願う。
* 花の王ともいう、牡丹。瀧井孝作先生に、牡丹寺へ連れて行って頂いたのを思い出す。
あの日は妻も、小学生の建日子も一緒だった。
* 十時。骨休めの晩になった。
2020 5/4 222
* 睡魔に身をゆだねたいほど、心身疲労している。目をあいているのも物憂い。幸い、ことを焦らぬ限り、今朝の三校請求の様相で大きな一息がつけるのだから休憩すればいいのだ。
「休憩」というと思い出す、建日子が小学校四、五年生、せいぜい六年生初めの頃、一緒に浴室にいた時 彼は突如として人生とは「いっときの休憩室だって ね」と口にした。耳を疑ったが、彼はそれを『モンテクリスト伯』でエドモン・ダンテスが云うていたと。大デュマのこの作は、西欧の小説で五作選べと云われ たらきっと数え入れたいほど私は熟読していたのに、咄嗟に思い出せなかったが、建日子は彼なりの理解で「休憩室」と飜訳していたろう、深く頷けた。その感 触は、いま此のHP冒頭の写真「方丈」のしたにあげた
あの世よりあの世へ帰るひとやすみ
の述懐に息づいている。落ち着きのない私は、あまりにその「ひとやすみ」中にあれこれし過ぎたがる、それで疲れを溜める。まるで、八十五にもなろうという一少年かのように気ぜわしい。
2020 5/7 222
* 京都の華さん、「仙太郎」の最中を送ってきて下さる。甘味、感謝。「仙太郎」の最中は、敗戦後、私の新制中学生ごろすでに有名で、叔母のお茶の稽古日には、言いつかってよく買いに遣られた。小説「花方」世間のまん中に仙太郎の店はあった
2020 5/12 222
* どうにか妻の循環器科検査と診察・処方、無事に終えてきたよう。院内、じつに厳重な予防体制であったと。有難い。
2020 5/12 222
* 朝も五時台で外が明るんでいる。夏至へ、日の一番ながい日へ歩み寄っている。「マ・ア」の目覚めも早く、遠慮そうにトーサン、カーサンを起こしに来る。
2020 5/13 222
* 『選集 33』編輯の、一の関門を、いま晩九時半に通過した。あとはだいぶラクになるか。いや、この関門に今少しの旗を立ててやらねばなるまいか。それはいっそ楽しみとしたい。そのあとは、一気にかなり強硬に進んで行くか、期待したい。
* それでも、午後、「湖の本149」の請求分支払いのために、日盛りの下を思い切って妻と郵便局へ歩いた。腰が痛んだ。自転車ならあっという間なのに、 杖を突いてマスクして歩くのはしんどかった。すこしは遠くまで散歩の気でいたのに、払い込みの機械操作を妻がし終えるのを待ちかねて、そのまま家に帰っ た。もう一つ,『選集 32』の支払いもあるが、銀行は駅の向こう。駅までバスやタクシーを敬遠して往復歩くのは厳しいなあと言い合った。
2020 5/14 222
* 今日もよく仕事した。すこし寒けの一日だった。休息には横になり『女王陛下のユリシーズ号』に同船して、へとへとに揺すられる、が、読書の魅力に他ならず。
* 『選集 33』を ほぼ編輯し終えたかと思う。従来巻より100頁ほど増頁になるか。何にしても見通しが出来た。最終巻、もの怖じせず、私自身を押し出してみる。
自筆年譜(二 – 四)を昭和五十九年九月一日まで、作家として自立満十年まで加えることにした。
「一」とは異なり、創作記録を主に簡潔にする。
「湖の本 150」の三校ももう届いた。責了へ持ち込む前に発送の用意を遂げ ておかないと、手順が前後してしんどくなる。今回は「寄贈先」をよく考え、適切に有効に送り出したい。秦の祖父のおかげで佳い記念の中仕切りが立てられる。お祖父ちゃんに感謝。
2020 5/16 222
* 手落ちで朝仕事をフイにして、やり直したり。やれやれ。クサル前にやり直す方が早いと、やり直し。 草臥れると、『柳北全集』のおもしろい雑文を拾い 読む。「吊西京妓流文」はひとしお面白く。わたしは祇園花街に接した知恩院下で育ち、八坂神社石段下、四條大通り東末に祇園甲部の旦那達が奮発して建てた という、斬新をうたわれた市立弥栄中学の校舎へ入学した。四条大橋より川沿いに南へ下がれば宮川町かに五条橋下へ遊廓が流れ、四条大橋を裸子へ渡れば北向 きに先斗町があり、みな、庭並みに馴染んでいた。柳北さんは、元が江戸府肝要の幕臣から維新に遭い、朝野新聞かなにか新聞社の社長で、文武の上にナカナカ の粋人遊客であったから、京都での遊びも観察もなかなか面白い。
よくもこんな一册「全集」を秦の祖父手に入れておいて呉れたと、遅遅の感謝の日々。
2020 5/21 222
* 亡くした猫の黒いマゴと たくさんな写真で ゆうっくり話しあううち オイオイ泣いていた。
2020 5/22 222
* わたしは、生母阿部(深田)ふくの墓所を知らない。誰に問うおりも無いままきた。さっき豊中市の甥(三兄の子)に当たる人に他用でメールしたが、届か ず、戻ってきた。大津市にも甥(姉の子)に当たる人がいるが。墓地が分かっても出向けまいか。実父の墓地も知らないのである。かろうじて実兄恒彦の菩提寺 へは妻と墓参りした。すさまじい風の日だった。「肉親」の縁のうすいのを容認し続けてきた一生だった。このまま終えるのだろう。
2020 5/25 222
* イヤーぁイヤな夢にほとほと疲労してむりやり目覚めた。黒いマコが起こしに来てくれた。旅行先の都会で妻と往きはぐれ、携帯電話もつかえず、荷など置いていた宿も分からず。こんなのを時を隔てて繰り返し夢見る。似ている。
似た夢は繰り返しみるもので、おっそろしい狭隘な路地なかの迷路を両側の茣蓙床から半裸の男女やこどもたちの凍えそうな沈黙と凝視に堪えて延々と出口を捜すのである。これは、怖い。
2020 5/26 222
* 細菌学 感染学 の微妙に果てなく底知れぬ展開をもつことを日ごと専門家はテレビで教えてくれる。そしてその病害展開がいかに内政・外交にかかわるも のかを、地球地域を東西南北に四分してそれぞれの曰く謂いがたい実情を介して思い知らされている。「日本」の地域情況だけでモノを謂うていても背後の複雑 怪奇は計り知れない。克服なのか共生なのか、細菌やウイルスとの妥協なのか。
* こういうとき、置き忘れてならないのが、「美しい」モノ、コト、ヒトとの触れ合いかと思い当たる。美術とはたやすく触れ合えぬ今だけれど、我が家の狭 い庭にも佳い草葉は群れ花も咲いている。アコもマコも家中をかけまわる。老夫婦は つかれたら横になり、それぞれの読書と仮眠に憩うている。建日子や朝日 子はどうしてるかな。
* とはいえ、朝から、今まだ九時にならないのに、芯の疲れが眠けの渦巻くように自覚される。
機械のまぢかでは、静かなジャズバラードが、終日。建日子が呉れたもののなかで、この音楽機械とジャズCDとが、いっとうわたしを癒やしてくれる。
五月が、今日でおわる。
2020 5/31 222
* 「マ・ア」が五時半ごろから起こしにかかり、叩き棒で応戦しながら七時半に起きた。めざとい子らであります。
テレビでは、都会はまったくもとのままの人出で賑わつている。無事の経過を願う。 2020 6/1 223
* りーぜのおかげかひどい夢は見ないが、やはり喉もとへ突き刺すような苦みが来て、お茶をがぶ呑みして凌いだ。六時から「マ・ア」は起こしに来ていたが疲れ寝のまた寝で朝八時過ぎた。食欲は無し。
2020 6/4 223
* すぐの窓そとの雨戸仕舞いの中で小鳥たちがチイチイチイチイと親鳥の餌を待って鳴いているのが愛らしい。一切、近寄りもせずそのままにさせている。ひ だりで静かなジャズ、右手で小鳥たちの声。この狭苦しい仕事部屋がとてもとても気に入っている、体温のママの籠もり処である。
* 朝。十時過ぎて。機械の前で ボーゼンとただ時を見送っている。ナーンにもしていない。いや、いろいろ思ってはいるのだがとりとめない。とりとめなくて懐かしくも。こういう時間は私には珍しい。
* 昼食も口に入らず ブッ潰れそうにまた寝入っていた。「マ・ア」が代わる代わる心配そうに顔を寄せに来るのは感じていたが容易に起きられなかった。
2020 6/9 223
* 僥倖というか配剤というか、こんなことが有るのだと、昨夜就寝直前の偶然の出会いに思わず天を仰いで驚嘆した。いきなりこへ書くのが惜しい気さえする。
* 秦の祖父鶴吉が市井の一小商人にしてはたいそうな蔵書家であったとは繰り返し語ってきた。現に出版したばかりの「湖の本 150」 山縣有朋の『椿山集』を読んだのも、明治の祖父の旧蔵書一冊に令和の私なりに日の目を見せたのだった。
ところで、それとは全然無関係に寝床のわきほ持ち出していた百何十年の埃の垢のようにこびりついた和装本の大冊、分厚さが七、八センチもの和綴じ和紙・ 和活字・和装の一冊を、特別の関心もなくなく、というより軽い面白半分の気まぐれで寝たまま手にしたのである。和紙の本は、大きさよりも軽いので仰向きに 持ってももてるだった。
何の本か。無残に禿げ禿げのしかし、和装のママシッカリした大冊の表紙題簽には『増補明治作文三千題』とあり「文法詳解」と二行に割った角書きがある。 「ナンジャ、これは」と思うだろう、だれでも。「明治四十四年三月求之」と奥付の上に毛筆、祖父の手跡と見える。本の発行は「明治二十四年三月二十九日出 版」「明治三十年十月増補出版」「同十一月訂正再版」とある。著作者は「伊良子晴州」増補者が「川原梶三郎」発行者は大阪市東区安土町四丁目三十八番屋 敷」の「花井卯助」発売者は大阪市、福岡県、広島県の『積善館本店・支店』とある。東京本ではない。
それにしても、ざっくりした、しかし多彩に多様多用な「編輯」で、そもそも「総目次」がなく、組みようも頁に三段二段 字の大小も、その区分されたそれ ぞれの内容も目が舞うほど色々に異なってある。ちなみに第一頁を見ると、上段に『論文門』と大きく「○学問論」と題した文章が「天地ノ間一モ恃ム可キ無シ 矣」と書き出してある。中間には細い段があり「類語日用文の部」として先ず「○時代の風俗にて無是非候」「○無御遠慮御申附被下度候」などと細字で居並ん でいる。下段はやや丈高くて、「明治作文三千題巻之壱 伊良子晴州編述」と総題らしく、ついで「日用文之部」と掲げ、「◎揮毫を頼む文」と例題し、即、 「粛啓然は拙者故郷の者京都本願寺へ参詣いたし立寄候処先生の御高名承り居今度是非御揮毫度願紹介の義依頼せられ候就而は近頃甚だ願上兼候へども右は需に 応じ被降度即ち料紙為持上候間御領収の上御一揮可被下候先は御願まで筆余は拝跪を期し候頓首再拝」とある。こんなのが延々と、次は「◎烟草の商況を報ずる 文」また「◎雑誌を贈る文」等々と大量に頁を追って行くが、実は大題の項目は他にいろいろあり、先に『論 文門』というのがあったが、類似に何種もあって、いささか様子も表情を変えて二段組みの下段に丈高く『◎文門』とかかげた頁がある。上段には『和歌和文 録』と構えてまず「和歌の部」がはじまり、高崎清風、福羽美静など私でも承知の有名人の作が以下並ぶらしい、で、その下段『文門』の初ッ端をみつけて私、 思わず起きあがった。
西南ノ役征討参軍トナリ総督ヲ輔翼シ参籌戦闘敵ヲ破リ平定ノ効ヲ奏ス
と表題され、次行に、『◎熊本陣中私(ヒソカ)ニ西郷氏ニ贈ル文」とあるではないか。紛れもない山縣有朋が西郷隆盛を案じて私「ひそか」に送った親書が此 処に上がっていると見えた。「おおう」と私は唸った、実は、この二人の間にこういう往来があったのでは、きっとあったとろうと予測しながらとても確かめる 方途がなかった。「湖の本 150}の65頁に、「明治十年西南の役参軍として肥後の国にくだりしとき」以下の三首和歌に私は何度も立ち止まっていた。こ とに
薩摩の國大口に戦ひけるとき
ともすれば仇まもる身のおこたりをいさめかほにもなく郭公
に切ない心地で立ち止まりモノを思った。「仇(あだ=敵)まもる身のおこたり」とは。「まもる」には「見守る」意味に「護る」心地も重なりやすい。「郭公 ほととぎす」は死に近縁を詠われることの多い鳥である。西郷の最期へひしひしと迫る山縣のかなしみがここで歌われているなと、傍証をもたぬまま私はむしろ 山縣の苦衷を察し、または感じていた。
そこへ「明治作文三千題」などいう珍な大冊の中、山縣の、苦境西郷隆盛に送っていた衷心の長書状を目にし手にしたのだ、唸ったのである。そうそうに此処へ書き写すことは出来ない、ほとんど漢文なのである、が、胸に響く。書き写しておく。
こんなのに目をふれたことこれまた「秦のおじいちゃん」の遺徳と感謝し、『椿山集』を今度は「論攷する仕事」にもしなくてはと思い至っている。
* 上に、「征討参軍トナリ総督ヲ輔翼シ参籌戦闘敵ヲ破リ」ちあった。「参軍」とはよく謂う参謀であり、「参 籌」もまた戦闘の謀りごとを能くする意味である。山縣有朋の軍歴ではこの「参謀」「参謀長」「参謀本部長」「参謀総長」という一線が目立ち、いわば智慧す るどい「いくさ上手」であったようだ。軍事にかかわりながら国家の安寧と戦略的外交に能力をそそぎ、そこから國の「主権線」「利益線」を世界地図上に敷い て行くべくこと思い至った太のであろう。事の是非は問わず、そういう方針為しに世界列強との海を航海はならないと山縣はだれよりも恐れかつ備えていたということか。
現下の日本には、戦争戦闘体験者はもう一人も実在しないまま、国防の防衛のと構えているが、真剣で有効な「参籌」 能力は、山縣級の眼からはゼロに近いのではないか。肌寒いほどの現実である。戦争は、シテはいけない。もう一つ、シカケられてもゼッタイにいけない。この 後者の備えが「日米安保」では、限りなく頼りない。トランプ型のアメリカは、すこしの損でもすたこらと日本など棄てて立ち退く、これ、間違いない。
2020 6/10 223
* 劣化して行くような体感を荷のように負いながら、せっかく取り組んだのだからもう少し「山縣有朋」の時代を見返しておこうかと。史書はこの多年のうち に繰り返し読んでいて、人と時代とを大きくは見間違ってはこなかったと思いつつ、そこにまた、多く激筆により指弾され続けている山縣有朋にかかる『椿山 集』や詩歌のあるに触れていた論者には、ついに出会わなかったのである。元勲、元帥、公爵の山縣がほぼ徹しての民権迫害者であり他国への侵略という形での 國の「利益線」拡張も思い詰めていたことも、それを少年来嫌い憎み疎んじてきた自身の思いも知っている。ただ、その間の八十余年というもの、私は秦の祖父 の蔵書に『椿山集』あるを知りつつ、山縣有朋の家集としてただ一度の通読も卆読も果たしていなかった、そして今は、その少なからぬ作をおさめた一巻を尽く 自身の手と機械とで透き写し読み通している。この「新たな視野・展望」を慎重に熟読してみるのは確かに「悪くない一仕事」だと思って「湖の本 150」と いう中仕切りへの到達の記念ともしたのである。少なくも日本の詩歌に久しいよろこびを感じて触れてきた一人として、いまこの一巻の美しい家集を介し山縣有 朋なる史上の人となりをそれなりに読みかえしても必ずしも不当な無駄骨と私は思わない。所詮は「鬼の目になみだ」であれど鬼は鬼という評価はそうは動くま い、私はそれを理解している。私は長州出の山縣を以て同じ長州出の安倍某を揶揄してみたが、日本の近・現代史に徴してみれば、所詮は比較にならぬほど山縣 は巨魁であった、優れて有能な軍人であったが、反民権の鬼でもあった。それに比すれば今日の総理の安座然たる無能など、良くも悪しくもとうてい比べものに ならないのだ。
それでも、私は秦の「お祖父ちゃん」がかかる『椿山集』をまるで私の為かのように遺しおいてくれた恩を喜んでいる。私の眼は、この一巻に惹かれともあれパッと光ったのだから。
2020 6/15 223
* 妻は「桜桃」をちゃんと用意してくれていた。朝、一献、乾杯した。
2020 6/19 223
* 「父の日おめでとうございます。 建日子」と、「レミ・マルタン XO」が舞い込んだ。「父の日」とかは、意識したことも、祝って貰ったこともなかった。びっくりし、ありがとう。建日子も、「アラート解除」に油断無く元気ですように。怪我のないように。
☆ どういたしまして。
良い父の日を。
お酒は少しずつ楽しんでくださいませ。 建日子
* そういえば大昔になるが、誕生日だったのか、突如として朝日子が、当時もう手に入りにくくなっていたろう好きな中國酒の「マオタイ」一本を呉れて驚喜したのを覚えている。元気に、心行く日々を送っているだろうか。
2020 6/21 223
* 九時を回ろうか。階下へもう下りた方がいい。仙台の遠藤さんに戴いた桜桃で、今晩もすこうし建日子の呉れたレミ・マルタンを、少しだけ飲もう。
2020 6/22 223
* 私の知る限りの過去に、「山縣有朋」を語って、評して、『椿山集』にもふれていた一例も記憶がない。刊行の際すでに「編輯兼發行者」養嗣子公爵「山縣 伊三郎」の名で「非売品」と奥付に明記された特装美本であれば、心知った、ないし係わりの先々へ遺族からの寄贈品であったろう。たまたまと謂うよりない、 その一冊がいつか市井に溢れ出たのであろう、大正末ないし昭和初にかけていつ頃か「秦の祖父鶴吉」が手に入れていた。祖父の思いは察しもつかないが、上 の、東都の椿山荘に遠からぬ暮らしといわれる「ばあさん」と同じに、私も、この「有朋家集」を読まぬうちと、読んでのちと、「元帥山縣」を観る目と思いに 明らかに添えて加わるものの有ったことは、とても否認・否定できない。
私は現代の文士であり。「日本の言葉」を用い、詩歌をふくめ文藝・創作を衷心受け容れてきた八十四老である。尊皇倒幕と明治維新を経てほぼ大正時代を通 じ表向き「元勲」として生きた一軍人政治家に、かように私的私情の文字と言葉の慎ましい「表現」も在った、在りつづけた事実を、また一面の真実・真情と受 け取るのは、こと「人物」の観察・批評に及ぶかぎり妥当で至当の姿勢と思わずに居れない。「湖の本」の読者に同様の反応や感想のうかがえたのも自然な情意 であり、むしろ「有朋詩歌」には自身触れぬままの「山縣嫌い」だけが吐き出されていたのなら、ま、余儀ないことと、私自身も強く思い合わせて頷くしかある まいが、私は「秦のお祖父ちゃん」のお蔭でこの『椿山集』と出逢えたのを、やっぱり。「よかった…よ」と思っていて、それを羞じない。
2020 6/23 223
* それにしても、草臥れている。疲れきっている。おもしろい着想や好奇心が絶えないので日々書いて書き継いで「私語の刻」も溢れているが、それがなかっ たら、もう、ストンと落ち込みそう。けれどコロナ禍が退いてくれたら、独りで都内へも京都へも温泉へでも行ってみたい、と、いう腹もある。
むかし、秦の父から近くの祇園町について耳学問したときに、芸妓と娼妓ということばと違いを教わった。私はいましも、この歳になってから初めて此の道の 題の先達から、著述を通じてその辺の機微や微妙の悦楽について日々教わっており、足腰の立つ間に、一度でも藝妓にも娼妓にも女郎にも出会ってみたいもんや なあなど想っているのです。いよいよ狂ってきたのかな。
2020 6/26 223
* あさってに建日子が前日投票に帰ってくると云う。一緒に歓談するか、投票用紙だけ渡して、今回の歓談はパスするか、悩ましい。
2020 7/1 224
* 建日子、でっかい車で来て、カーサンに投票用紙をもらい、岐阜のお菓子を土産に手渡し、そのまま都知事選、投票日前の投票に行った。そのまま帰ってもらった。
2020 7/3 224
* 妻の診察が尋常とあって安堵した。
2020 7/7 224
* もと岩波「世界」の高本さん、選り抜きのお酒を二本下さった。有難う存じます。建日子の呉れた洋酒の瓶が明いた。花をさすか、ワインを移すか。
ワインの為には、グルジア(ジョージア)にたびしたとき、代議士のノネシビリさんのお宅で、すてきな壺を貰ってきた。愛している。また、反り返った牛のだろうか、山羊かの、 反り返った角のもとと尖とへ鎖を渡した大小も貰って帰った。これ、飲み干さないと置けない。ビールを注ぐと最後まで美しい泡が消えない。ノネシビリさん、スターリン・ロシアとの政争で亡くなったともれ聞いた。親戚の伯父さん死なれた気がした。グルジアからの力士をつい応援したくなる。
2020 7/7 224
☆ 御無沙汰致しておりますが、
お障りございませんか。此の度は湖の本「山縣有朋の『椿山集』を読む」を御恵贈賜りまして眞に有難うございました。承れば創刊満三十四年百五十巻に達せられました由 心よりお祝 申し上げますとともに 一層の御活躍をお祈り申し上げております。
山縣有朋の一生と倶に 秦様の御身上の種々を拝読して 感慨を深めております。椿山荘も京都も私には懐かしい土地でございます。何か昔に戻った様な気が致しました。貴重な一冊を頂きまして厚く御礼申し上げます。
コロナ問題も不安がつのりますが、どうぞくれぐれもお大切になさって下さいませ。大変遅くなりましたが 本当に有難うございました。 御礼までに かしこ 小平栄美 歌人
* 小平さんはすぐれて佳い歌人のお一人で、昔にはお宅へもあがったことがあり、我が家へみえたこともあり、懐かしい。作家に成り立ての頃、批評家桶谷秀昭さ んとも一緒に、馬場あき子さんの紹介で識りあった詩人今は亡い村上一郎さんの奥さんである。「佳人」というなら、この人と、早く亡くなった、能の故喜多節 世さんの夫人とが思い出される。
今度、前編輯の克明な「年譜一」に較べると、作品本位に雑駁に編んだ、受賞後まる十五年分の「年譜二」では、文学者世間でのわれながら信じられない多彩 な人との出会いが記録されている。それならそれでもう少し漏れなく拾っておくのだったとすこし悔いが残る。村上一郎さんとの出会いは書けているが、三島由 紀夫を追ったような村上さん壮烈の死の前後が漏れている。村上産は死の前日か前々日にお宅から「歩いてきましたよ」とにこやかに我が家へみえて、ちょうど 三月の雛飾りがしてあって、私が盆立てでお茶を点ててさしあげたのをとても悦んで下さったのを忘れない。お別れに来て下さったのだと、今も、はっきりと思 う。
* 今の私達には、もうそういう家を往き来の交際ということが無い。上がって頂く畳半枚の余裕もなくなっているし、妻とのまだまだ気ぜわしい友働きで日々 を送り迎えている次第。玄関まで見えて、余儀なく路上の立ち話でお帰り頂いた失礼が何人も何度もあるのです、恥ずかしながら。この「私語の刻」は、さしづ めそういう方々との声ならぬ言葉での対話ふう独り言と心がけている。
携帯電話の使い方もまだ分かってない、スマホなどの流行の機械も持っていない。ソシアルネットの類も全然見られない、世間の喧噪の一切からまさしく機械 的に我が家は隔離されてある。メールも、いまでは無いに等しく減っている。その分が即ち「濯鱗清流 読み・書き・読書」に日々成っている。コロナの騒ぎ で、もう永く永く完全な籠居。幸いそれは苦にしない、体力減を歎くほかには。
* お孫さんと「まごまご」して幸せな「おばあちゃん」からも、「籠居」に慣れて元気にしていますと。我が家には、いま曾孫がふたりいます。初代が「ネコ」 その娘の「ノコ」ついで「黒いマゴ」が今もみないとおしく、現在は兄と弟の「アコとマコ」とが仲よく狭苦しい家を駆けめぐっています。障子という障紙はす べて原形をとどめず、書斎の襖も。用済みのカレンダーを毎月押しピンで貼り足しています。
2020 7/8 224
* 二三日に一度のわりで「アコ」に衝動的に足を噛まれて血みどろになる。むしろ甘えていて、応じてやらないと跳びかかるように噛むのだ、かなり痛い。
2020 7/17 224
* 都内「コロナ」感染者数、290人、三日続きで目覚ましく多い。こまるなあ。
建日子がこの家にいてくれると安心で愉しいんだが。ままならないね。
2020 7/18 224
* まことに難儀な、隘路ともいえない難路へ私の「仕事」は首から突くッ込んでいて、しかし避けて通れない。なにも、今今に見る隘路ではなく、決 して変節でもなく私自身の実意・思いであるのだから避けて通れない。前へ進むしかない。この籠居の折から、建日子と議論などしてということも出来ない。 メールでは少しく「ヤバイ」かとも。
☆ 建日子です。
ご無沙汰をしてます。
今はとにかく、東京都内での外出の数を減らしています。ただ、リスクを完全にゼロにすることは不可能なので、やはり恐ろしくはありますね。これからも可能な限り用心します。
「散髪しないので 白髪が耳を隠し、うしろ襟までのびています。この「のび」 漢字でならどの字を建日子は遣いますか。」
伸び、ですね。
「カアサン 日々に シンドクなったり、胸や脚がイタクなったり 治ったり 寐たり起きたりしています。トーサンは食べ物が口に入らず 痩せてきました。」
完全に家の中だけにいるのはやはり体に悪いので、天気の良い日に、少しだけ、マスク無しで外を歩くことをお勧めします。
人と会話をせず、スーパーや郵便局などにも入らず、何ひとつ触らず、ただ歩いて、帰ってきたら手を洗う、という形なら感染リスクは無いと思います。
あと、靴の裏はリスクがあるので、玄関のたたきなどに、素足で降りてウイルスを家の中に持ち込まないようにしましょう。
郵便物を手に取ったらそのあとすぐに手を洗いましょう。
お大事にしてください。
* ありがとう。教わりました。
2020 7/19 224
* コロナ東京、今日の感染者数、破天荒に増したらしいそれも確かめず「仕事」していた。街なか暮らしの建日子たち、十分用心して無事に乗り切ってくれますよう。
それにしても、この状態で国会も開かず、記者会見すらしないで、小安いマスクに顔を隠して無内容な決まり文句を駆け去るように投げて行くアレ・アキレた 総理安倍晋三。自民党員の質低下は、厚労相。経済再生相、国交相、法相等々、軒なみの落第顔。小泉進次郎も完全に期待はずれのミソっかすに。山縣有朋『椿 山集』に刺戟され、明治維新史をつとめて克明に顧みているが、わるいやつはわるいやつなりに明治の政治家や軍人は、悪徳商人らにしても、懸命に歩んでい た。モリトモやカケや、偽証の佐川や贈賄の法相夫婦や、唾を吐かれたようにかるくて穢い。
2020 7/23 224
* 朝早に、も少し寐ていたいのに「マ・ア」のあの手この手の猛攻に起こされる。寝室の障子という障紙の惨状には泣ける。しかし、愛らしい孫、曾孫に恵まれてない年寄りは、元気な幼い兄・弟の疾風迅雷の運動場と化した狭い狭い我が家の日々を、心和んで励まされている。
* 二時間ほど昼寝の他は、草稿の書継ぎと推敲とに没頭。
7ポイントなどという細字の校正には、なかなか手が出ない、が、ほうって置けない。『選集 33』も、後半の校正が済まぬうちに前半の再校が出て来そう。
* 今日の東京と感染者数も三百に逼っていた。ちかづく八月十一日、聖路加での「腫瘍内科」「内分泌科」の受診、インシュリンやアリナミンの手持ちがあり、失礼したいと思っている。朝早の電車・地下鉄は避けたい。コロナ感染は絶対に避けたい。
建日子も、是非にも要心してくれますよう。
* 同じ、娘・朝日子の誕生日と孫・やす香の命日とが、明後日に。哀しみに胸が凍る。せめては朝日子が、心身ともに健常でありますように。
朝日子がバグワン本を、みな、家へ置いて行ったのが、私の大きな力になった。『選集』最後の巻頭に、バグワンに聴きに聴いた日々が幸いに記録できている。
2020 7/25 224
写真
朝日子 初の新春 ママと幸せ 医学書院社宅三階 撮影 もちろん父さん
還暦の朝日子 元気に してるかい
「おじいやん」と見上げてくれた やす香
逢いたいよ やす香
2020 7/26 224
* 一寸先も闇 と、聞きも読みもしてきたが、さほどの実感を何度ほど持ったろう。二十歳目前のやす香に死なれる時はつらかった。妻がICUで苦しんだ時も怖かった。自分が癌と宣告された時はわれながら冷静だった。
戦争の折は山奥へ遁れ、困窮も度を越していたが、どこの誰を見廻しても同じなので、ごくの少年でもあったし、ふつうだった。
この「コロナ禍」のようなめに実感で出遭った覚えがなく、永く永くなりそうなトンネルの歳月かもと、ゾッとしない。
* それでも休まない。「湖の本 150 151 152」の、なんだコリャという「妙な仕事」を存分に遊ばせて貰う。病気などしてられない。
* もう十時。よく頑張ったよ、「湖の本 151」の追い想ってきた分の半ば過ぎたまで運びきれて、場面がガラッと変わって行く。変わって行く先の景色も もう予期できている。「新型コロナ・ウィルス」にやられず、粘って、書きたい思いを通したい。「152」まで事を運べるのか、「151」で仕遂げるのか。 まだ分からないが、それでよい。
2020 7/27 225
* 『選集 33』 後半部の初校を送り返した。受賞後「満15年」(現在51年)の詳細年譜や、単行著書等全書誌細字の校正に芯が疲れた。それにして も、15年のうちに、我ながら仰天の仕事量を積み重ねていた。出版や原稿依頼も多く、ほかに講演、テレビ・ラジオの放映・放送が記憶新たに数多く、講演・ 対談等枚挙に遑ないありさまだった。超多忙なのに、娘・朝日子のお茶の水女子高PTA会長まで頼まれていた。
中・高・大学・卒業後も、朝日子は、それは数多くいろんな会合や旅にも嬉々として父親と一緒に出ていた。谷崎先生の奥様には就職のお世話もして頂き、さ まざまな頂戴ものなど、それは可愛がって頂いたの、みな、ありありと年譜に見えている。押村高(青山学院大)と結婚後にすら、私の雑誌「ミマン」取材の四 国中国の旅に、望んで母に代わり父や編集者・カメラマンと一緒に楽しい旅をしていた。「朝日子」とは、本人にも両親にもうれしい自慢の名付け・名前であっ たが、それが、いつのまにか改名して、「宙枝」とか。
私達両親が死ぬるより前に、弟建日子もいっしょに、たくさんな幼來の思い出話がせめて一度でも楽しめるといいが。そうそう、亡いやす香の妹、みゆ希とも。みゆ希は、もう「お母さん」になっているのかな、住まいも知れないが。
2020 7/28 224
* 妻、建日子と、永々電話で話していた。いまは、それしか仕方がない。
歌舞伎座が四部にわけ幕を明けたと。無事を、ただ願う。
2020 8/2 225
* 夕方にも寝入っていた。読めない難漢字を目を見ひらいてATOKで検索するのだが見つからない字が次々に。言葉も、岩波の広辞苑でも新潮社辞典でも見 つからないのにぶつかる。階下の、むかし出田興生さんに戴いた、超大冊の二巻本の平凡社大辞典や、秦の祖父遺産の大漢和辞典を書庫から運んで来ねばならな い。
それにしても、昔の人は、むろん人によろうが、桁外れに勉強家がいた。機械で検索、その程度のチエで足りているらしい今日日の若者等は、別種族の生きものか。
2020 8/4 225
* 満開の蓮池の写真と庭の白い花の写真とを入れてみた。すこしでも心清しくと。
高校時代に、叔母にねだってニッカのいいカメラを買っていらい、貧乏だった新婚のころにもカメラは手放さず、されも漸然として簡素な小さな、胸ポケット に入る機械に替えてきたが、写真の狙いには自信がある。心してめったに人は撮らない、花や草や木を、清々しく美しく撮りたい。
2020 8/7 225
☆ お元気ですか。
東京の気温予報を見ていますと だんだん暑くなるようで、お疲れになりませんようにと祈っております。
私は、水戸よりはかなり涼しい環境におります。セミの声が凄まじいのですが、周りは緑一色になり、今になりますといい環境を選んだと思います。
水戸へはたまにしか出かけません。
今日は私のほうの 京都のお墓参りに 従弟たちに代参してもらい、のんびりしております。
関西からは みんなが、来るな❗ と申します。秋には落ち着いてほしいものです。
お気をつけてお過ごし下さいますように。 那珂
* ほんとうに、秋には落ち着いてほしいものですが。 日々、油断無く、お大事に。
* 墓参かあ。秦の寺と墓のことは、秦建日子にみなゆだねてある。
私は、実の父や母の墓の何処にあるのかも、誰からも教わっていない。知らない。
わたし自身の墓は要らない、骨は灰にして家のネコたちの墓に分けて納め、他は、京都で希望の場所へ撒いて呉れるようにと頼んである。
2020 8/9 225
* 電氣か何ぞで「大」文字を光らせたヤツらがいたと。今年は「大」然とした山焼きはしないと聞いており、私も早や、懐かしい好きな写真で京の真夏夜に燃 える「送り火」を眺めている。小学校へ入り立て頃だったか、小さな朝日子が大文字に見入りながら、その夏休み早々踏切事故で亡くした同級生のために泣いて いたのを忘れない。
2020 8/10 225
* 朝のコロナ事情 を聴いて、階下で校正のあと暫時ねむり、二階へ来て、機械をあけたりメールを読んだりしながら、やはりうとうとと睡っていた。夜の睡眠時間が短かったと思 わないが、暑さと冷房と「マ*ア」の夜働きで、熟睡しにくかった。機械のそばで、ジャズ・バラードの「The Dats of Wine and Roses」が、このところ終日静かに聞こえている。
2020 8/11 225
* 大文字山に「大」の次の電灯がともったには驚いた。山火事の心配がなかったらしくて、それはホッとした。
大学のころ、一年下の妻と、初のデートは、少食と魔法瓶ののみもの持参で真昼間の大文字山登山だった。暑さでふうふう、途中、登りに躓き「ガッチャーン」と魔法瓶を足元にぶつけて割ってしまった。
大文字を焼く西向きの山原はガランドウなので、東裏側の斜面草野に仰向きに寝ころぶと、十時方向に「比叡山」がどっしり大きく見えてなにとなく心励まされ愉快だったのをよく覚えている。あれから六十数年も経ったんだ。
2020 8/11 225
* コロナと烈暑とで異様な事態に國じゅうが陥っており、遁れようなくただ怺えている。私の眼識たしはこれで持ち堪えており、自分の世界という異界をいつ も確保しているので遁れようもあるが、妻は昨日から繰り返し軽微とはいえ眩暈に悩んであり、知友には入院という事態へ嵌っている人もある。建日子はどうか な、シャキッとしているかなと案じられる。こんなとき、一緒に暮らせていないのが、是とも悔しいとも謂えるが。
* 二三日切れていた日本酒が生協から今朝少し届いて、有難かった。
* 何としても病魔に負けず、そのためには彼奴らの踏み込めない自身の世界と好みと活力をもつことだ。わたしは「仕事」を続ける。それが活力で栄養だ。
2020 8/19 225
* 夕過ぎ、必要に逼られ、近くのセイムスへ買い物に。妻がひとりではとても持ちきれない。思いの外の夕暮れの気温穏やかで助かった。医薬と、「マ・ア」たちの食べ物とが、主。二人で買い物に出向ける幸せをこころより感謝する。
2020 8/19 225
* 毎日、連載している『愛の歌』 佳い精神安定剤になってくれる。此の本を書いていたのはもう四十年近くも前。心こめて日々に選び日々に読んで書いて、 そしてとうどう刊行の「あとがき」を書いたその日が、娘朝日子の結婚披露宴当日だった。最良のお祝い・贈り物のつもりであった、が。
2020 8/20 225
* この部屋へはいる背後に異様の音は、「アコ」が入り口の襖を外から噛み破って穴をあけようと頑張っているので。
もう、この家の中の障子と襖とは、ほぼ諦めている。外へ出してやらないのだから。これまでの、「ネコ」「ノコ」黒いマゴ」たちは自在に気ままに外歩きさせていたが。ま、可哀想だが、しかたない。「マ*ア」兄弟にどんなに元気を貰っているか計り知れない。
2020 8/20 225
* コロナと暑さとで世の中、逼塞の体。首をすくめてでも、だれもだれも無事に乗り切ってゆきたい。建日子の、映画仕事も舞台仕事も休憩だろう、彼の方で も気を遣ってくれて敢えて会いにも帰ってこない。逢いたいが。母親へはさいさい声やメールを届けてくれている。「マ・ア」のための重たい砂などは買って 送ってきてくれる。
近所の「セイムス」へは必要最低のかぎり、二人で買い物に行く。どうしても重くなる荷持ち役をしている。
2020 8/21 225
* 「アコ」がうかとした隙に(宅急便を受けている時か)路上へ出たのに気づかず、一時間半も戸外に。探したら玄関外で啼いていた。家に入ったあと、なに か異様の匂いなど身に負うてきたか、弟の「マコ」と、見たこともない激しい取っ組み合いに、大人の方が戦いた。要心すべきが、また一つ増えた。
2020 8/22 225
* 昨夜は、いったん家出からもどった「アコ(兄)」を浴室に入れて、「マコ(弟)」との異様な衝突を避けて床に就いた。夜中手洗いに立って洗面所をみる と「マコ」が「アコ」の入れられている浴室のドア前で寝もやらずいるのを見て、ドアをあけて対面させ、なお幾らかの緊張はありげな間にわたしも廊下で横に なり衝突を防いでいる内に、なにとなく関係回復の様子が見え、私も寝た。弟の方が兄の姿の突如見えずに帰ってきた時はなにかしら異様に感じて、心配の余り 兄に怒ったのであろうか。弟が心傷めて心配していたように想像された。夜中、浴室のドアまえで寝もせずいる「マコ」を見て胸がつまった。ドア越しに兄弟で なにかと対話があったのだろう。
* 今朝は、ほぼもとへ戻って、衝突も唸りもなく、わたしたちも安堵した。ああ兄弟なんだと胸が熱くなった。
2020 8/23 225
* 故紙出しを手伝った。
妻は、ここ数日、かるい熱中のめまいを繰り返している。冷房は昼となく夜となく此の季候の厳しさでは絶やせない。わたしも一度二度気づいて、早く対処してきた。
むかしは、暑さで名高い京都でも一夏に三十度を超える三日、四日となかった。33度などと聞くと地球が病気かと想った。そんな記憶が二人共にあり、今年 の暑さなどきちがいじみて感じてしまうが、だから対応を怠っていいわけでない。要心こそ肝要、冷房以外に避け得ない。必要から外出しなくてはならない人は たいへんだ。
2020 8/26 225
* 胴体、ことに腹と、二の腕を冷房に当てていると気分が悪いと気づいて、シャツを長袖に、そして胴は、建日子が呉れたナントカ謂う軽い袖無しでくるむことにした。小さい頃から秦の母はよく腹巻をさせた。腹痛たの多い子だった、わたしは。
* 此の機械の蓋を向こうへ開いてキイで字を呼び出しているが、蓋をすると、機械を仕舞うと、後ろの小棚に主には、各種の辞書を並べてあるが、手前の畾地(らいち)に掌に載るほどの小型な古本の辞書が二冊重ねてある。
ともに、秦の祖父の遺産であり、一冊は和装糸綴じ、木版字の頁は袋とじで424頁の表紙題箋は『新編熟語字典』 明治三十九年十一月十日、大阪の又間精 華堂で発行され、編纂著作者は内海以直、価格表示が見当たらない。これはもう、ありとらゆる難しーい二字、四字の熟語が「イロハ」順に大量に溢れていて、 その字義はカタカナの超細字でそれぞれの下に簡明に示してある。一例「陰鷙 インシ ・ココロ子(ね)ガワルクタケシイ」とある。「依違顧避 イヰコヒ ・イヅレニモツカズシテニゲル」とある。右往左往の自民総裁・総理争いの解説のような二語ではありませんか。持つも重い大判の『故事熟語大事典』も遺 してくれて書庫に仕舞ってあるが、この重さ150グラムと無い軽い小型熟語字典の有難いこと、只読みだけでも時を忘れて面白い。
もう一冊はやはり掌に載る小型だが和本ではない、しかし木版活字の『日本辭林』第拾五版 大宮宗司編纂 東京博文館蔵版 明治三十五年三月廿五日発行 とある。
此の本は単純な辞典でない。辞典部分はむ550頁、加えて「冠字(いわゆる枕言葉)一覧」83頁付随しているが、それら全部の前に、180頁も、「文典 大意 附・假名づかひ」なる文章・文法・語法教義が先行している。「辞林」部分はもっぱら古典的な和語辞典で、「おほぢ ・祖父 父の父にて、曾祖父の 子なり」「かごと ・託言 事に寄せて言立てにすることなり」などと簡明に教えてくれる。「冠字(まくらことば)」も、「あかぎぬの 赤帛 ひとうち 衣、にかけていへり」などと端的である。此の本は、上製本の表紙が前後とも傷んできているが、補修が効くので、いつまでも愛用できる。
* 秦の祖父鶴吉は 口数の少ないコワイ感じをわたしは持っていたが、この祖父に叱られた、折檻された記憶は全く無い。私の本好きをむしろ悦んで容認・黙 認して呉れていたらしいと今にして思われる。八十すぎて今、心より感謝し、町なかのお餅屋さんだったという祖父への敬意を深めている。東京へ出る時、秦家 ごと移るとき、私は祖父の遺した本の殆どを棄てなかった。
それにしても、しっかりした和紙和装袋綴じ木版本の手に柔らかな軽さはどうだろう。惚れてしまう。唐詩選五冊、千字文二冊も此の機械の向こうに立っている。すぐ目の上の書架には『初昔 きのふけふ 谷崎潤一郎』と先生自署大判の背表紙箱装本もそうだ。 2020 9/2 226
* テレビでは、今、火野正平が懸命に走ってくれる自転車での「心のふるさと」めぐりを愛している。それと、文化や歴史や自然美を、外国の市街や自然を映してくれると観ている。
嫌いなのは。 言いたくもない。
何人もの人気者が演じてきた「銭形平次」をいま、風間杜夫が演っていて、往年のだれよりもすっきり・きびきびと「いい男」ぶり。いい脚本で本格の芝居をさせたい。もう昔と言えるが明治座で、妻と
、風間とも一人のつか・こうへいの弟子と二人主演の舞台を見に行ったが、つまらない芝居だった。
書く方のでしであった秦建日子渾身の作・演出で、現代劇でも時代劇でも幻惑劇でもいい、二人の佳い舞台劇が観たい。
いまはコロナ禍で、映画も舞台も仕事にならないだろう、本格の書く創作で充実して欲しい。
もう久しく、繰り返しになっても観ている時代劇がある、藤田まことの「剣客商売」、これは太刀筋のよろしさも本格によく写していて、脚本もキビキビとムダがない。連続劇では出色の出来を楽しんでいる。
現代劇の「相棒」で、澄ましていばっているあのちいさな役者が、時代劇で着物を着て刀をつかうと、バカバカしいほどヘタクソで、笑える。ヤメた方がいい。
2020 9/3 226
* 「アコ」を自転車の前籠に載せ、郵便ポストへの用を済ませて、しばらく下保谷界隈を走ってきた。アコは、ニャッとも声たてず、おっとりと見知らぬ世間 の風情を楽しんでいた。私との信頼関係はしっかりしている。「マコ」も行きたがったが、一度にふたりを籠へ入れるのはムリで。
2020 9/6 226
* それでもそのあと、郵便局の用のまま「マコ」を前籠にのせて自転車で三十分近くのんびり走ってきた。マコはご機嫌良く楽しんでいたようだが、家に帰って。やはり日照りの暑熱にわたしは中ってきたなと自覚した。
とにかくも、ゆっくりゆっくり、休み休み過ごしていた方がいい。。
2020 9/7 226
* あはれひとのいのちとみえて咲く萩の
うす紅(くれなゐ)に秋の風立つ 恒平
* 秦の菩提寺、京の出町の萩の寺で、満開に大きく波打って最多萩に逢うたとき、ちいさな花の無数のうねりが「ひとびとのいのち」に想えて厳粛な気がした。
墓の守りは建日子にゆだねてあるが、仕事で京へ都合のつく時は「掃苔」をどうかよろしく願うよ。
2020 9/8 226
* 建日子の呉れた<ジャズ・バラードの「Smoke Qets In Your Eyes」が、建日子の呉れた機械で朝から夜まで、手の届くところで静かに鳴りつづけている。この音色がなかったら、時には心寂しいかしれない。建日子ゆ ずりの「お古」で、これがいちばん嬉しく重宝している。
2020 9/8 226
* 毎日をこらえこらえて過ごさねば過ぎても行かぬ日々、コロナの方は落ち着いてきたともとても未だ謂えない。高齢者の感染死は率も高く、とても、もうい いでしょうとは楽観などならない。十月国立劇場の歌舞伎案内も来たが、はいありがとうと請け合うわけに行かない。「籠居」での「読み・書き・読書」に徹し てひたすら待つあるのみ。その線で、ひたすら頑張ります。籠居とばかりでは済むまい、建日子がガマンして日々を無事に乗り切ってくれますように。朝日子は 何処でどうしていることか。
2020 9/9 226
* 妻めまいがして不調 脱水気味と思われる。わたしは浴びるように水分もビタミンもにん にく様の強壮剤も口にしている。脱水の言語に絶した辛さは、あの術後に、身に沁みて覚えている。しかもそれが「脱水」という一語で説明されるとは判ってな かった。いちどなど、何と云うことない用事をもって診察室に入り、即「入院」を言い渡され、命にかかわるほど危ない状態だったと医師に言われ、仰天した。 「脱水」はコワイのである。乾涸らびて行くのだ、妻はまだまだ身に沁みてそれが自覚できてない。四の五のなく、まずはたっぷり穏当な水分を冷たくても熱く てもいい理屈抜きにからだへ補わねば眩暈がしてくる。低血糖の症状にも似ている。脱水の極、シュウシュウと無数の矢のように走る空気のなかで七転八倒した コワイ思い出もある。
リクツではなにも解決しない、まずは、たっぷり飲まねば。
* 生母ふくの長女、私には異父姉の子息、大津市の芳治さんにメールをもらった。母の墓所などを尋ねておいたのに返事ヵがもらえた。
☆ 少しはましになりましたが、
暑い日が続いています。コロナとこの暑さで 胃の調子が悪い人が多いと、先日医院で聞きました。
さて、おふくばあさんのお墓ですが、多分、能登川にある安楽寺(東近江市能登川町門の内986)だと思います。
http://www.tendai-shiga.com/urahoku-30.html
私が小学校の高学年か、中学生1年生のころだと思いますが、母が奈良に入院しているおばあさんの写真を撮ってほしいので、一緒に病院に行くように言いましたので、一緒に行ったのを覚えています。その写真を撮ってから1,2年して亡くなられました。その時撮った写真が(能登川町)須田の家の離れの床の間に置いてありました。
毎年母と、夏に安楽寺にお参りに行ってたのを覚えています。そのお墓には、おふくばあさんの夫に当たる方(=姉と三人の兄の父親・深田氏)が入っておら れます。太郎おじさん(=姉のすぐの弟)が亡くなられてからは、太郎さんがそのお墓に入っておられますので、私の従妹にあたる子供が毎年墓参りをしていま す。おばあさんが亡くなられたころは、私もまだそういうことに関心がなかったので、確かなことはわかりませんが、多分そうだと思います。
安楽寺(以前はそこの集落の地名を「安楽寺」と言いました。おばあさんの歌碑はこのお寺にはありませんが、人の良く通る(能登川町内の)道路に面しておばあさんの歌碑が立っています)。この歌碑は母が、おばあさんに生前に頼まれていたものです。
こういうことを考えると、母も随分といろいろ苦労をしたように思います。
まだ当分暑い日とコロナが続きます。どうぞご自愛ください。 川村芳治
* 親切な便りに、こころより感謝。この(謂わば) 甥にあたる人にまだ会ったことがない。会えるかどうか、墓参が出来るかどうか。
墓所が知れて、それだけでも、よかった。
* 今日は、比較的涼しいと謂えそう。とはいえ、夫婦してグタッと疲れている。一つには、生協頼みで、上等の栄養に不足しているのだろう。今日の昼は、災害時の非常食として保存のラーメンを啜った。
2020 9/14 226
* 今日は、比較的涼しいと謂えそう。とはいえ、夫婦してグタッと疲れている。一つには、生協頼みで、上等の栄養に不足しているのだろう。今日の昼は、災害時の非常食として保存のラーメンを啜った。
2020 9/14 226
* 永く、ためらっていたが、妻の体調も案じられるので、寿司の出前を頼んだ。親切な「和加奈」寿司は、好物の「鯛の兜煮」をサービスしてくれた。感謝。酒は 切れていたので、珍しいワインの栓を抜いた。一人前が食べきれなかった、が、こころよく酔って寝入ってしまった、面白い夢を見ていて、ふと今しがた醒め た。十一時に驚いている。つけっ放しの機械をたしかめに上がってきた。もう、このまま、やすむ。寝過ぎるのは良くないとも教わっているのだが。
2020 9/14 226
* 朝は「マ・ア」連合軍との戦闘で始まる。遅くも六時頃から「もう起きて」と、手を替え品を替え至る処 へ跳び乗ってはモノを蹴落とし攻撃してくるのを、こっちはまだ夢うつつ、手近ないろんな棒を振り回して撃退するが、根負けする。なにしろ狭い家の階下と二 階をふたりで疾走してものへ跳び乗る。八時が彼らの朝食時間。それまで寝たいと思っても容赦がない。ノコでも黒いマゴでも彼らは1、こっちは二人で対応で きたし若くもあった。今日只今の2:2のいくさは、先方は二歳にもならずこっちは老老。それでいて彼奴らは無類に懐っこい。ついつい負けてやる。
2020 9/15 226
☆ 阿部(周吉=私の生母方祖父)さんの(=裔の)
(現東近江市=)能登川の家は、20年ほど前に売却されましたので、今は別の建物が立っています。
よくわかりませんが、詳しく知っている方は、(もう)おられないと思います。
少し過ごしやすくなってきましたが、どうぞご自愛ください。 滋賀・大津 芳
* 祖父周吉は、東海道の宿駅「水口」宿の本陣鵜飼に生まれ、能登川の阿部家に養子として入り、三女をなし、私の生母はその第三女であった。長女に養嗣子 が入り、次女伊勢伊賀の方の休暇に嫁ぎ、私の母同じ能登川の隣家に嫁し、長女と三人の男子をなして夫と死別、彦根に移り住んで、彦根高商などの学生を下宿 させるうち、若い學生吉岡恒との間に恋愛が生じて京都市へ奔り、兄恒彦と私恒平とを西院で生んだと戸籍には出ている。その後、京都府視学に任じていたらし い教育畑父方祖父らの強力な介入で実父母は生木を裂かれ、私の戸籍原本は、私の独り名で新立造籍されていて、同父母兄である恒彦とは「全く」切り離されて ある。兄の場合も同じであったろう。
私にはそんなことは何でもなく、どんな意味ももはやないのだが、能登川の阿部家がどう四散して仕舞ったかは時折気にして、今度も母の長女、私には異父姉 の子息である「芳」さんに聞いてみたのだった。近江商人の家であったろう母方の阿部家に入った水口本陣出の祖父周吉側も大きな一族で、幾らもの「ものがた り」があったらしいが、これも追跡のしようもなく湮滅に均しくなっている。
* 祖父周吉は水口宿に成人のころ、文人として知られた藩士巌谷小六に可愛がられ、そばでよく墨擦り役などしたとか、巌谷小六の子息が作家巌谷小波、そのあとが批評家巌谷大四さん、御縁が深い。
私の手もとには、祖父周吉自筆、長軸の詩文が伝わっている。一、二近江商人を語っている文筆ものこっている。この父周吉を熱愛し崇敬した私達の生母ふく は、当時浪々の身のまま水口本陣跡に父の面影を尋ね歩いたり、「阿部鏡」の筆名で放浪記風の歌文集「わが旅 大和路のうた」を、もう死ぬ間際に出版してい る。この母との接触を永く永く頑なに拒みつづけた私にも、「生きたかりしに」と辞世一首とともに、「恒平さん」に「遺書」の色紙に一首
話したき夜は目をつむり呼びたまへ
羽音ゆるく肩によらなむ
と、遺していった。その後に私が作家になり、兄北澤恒彦も文筆の人となり、それぞれの長男が、揃って作家・評論家に、また小説家・劇作演出家・映画作家になっている、そうそう、兄恒彦の長女もいい文章で本も出している、の を知れば、亡き母、どんなに悦んだことかと思う。『生きたかりしに』との母生涯のの呻きは、私の長編作に「表題」として遺した。今朝メールをもらった大津 の「芳」さんの母、私生母の長女、私の姉も、懐かしい歌風でよく歌を詠み、佳い手紙を沢山呉れた。この姉千代が、母の歌一首の立派な歌碑を能登川町内に建 ておいてくれた。
此の路やかの道なりし草笛を吹きて子犬と戯れしみち
書は、母の次姉の筆と聞いている。その歌碑の前で建日子と列んで写真が撮ってある。
* 何故 今朝こんな思い出はなしがしたくなったのか。昔、詩人の林富士馬さんのインタビューをうけたとき、「ああ、小説家になるしかなかった人だね、あなたは」と言われたのを思い出す。
2020 9/18 226
* 狭い庭に不相応に真っ直ぐ繁りに繁った樹が育って、傾きざまに家屋を押すほどになった。仕方なく、思いきって今日切り払ってもらった。切り株が倚子ほど大きい。ちょっと寂しい、が、 たださえ年数の家屋に物理的な押す力が掛かっては困るので切り払うときめた。太宰賞の翌1970年に家を建てた。爾来きっちり半世紀、件の樹木はせいぜい二三年の内 には芽生えていただろう、樹の名前も知らないまま来た。ま、そういう時機が来たということ。永らく目を楽しませて貰ったよ、ありがとう。
2020 9/18 226
* セイムスへの買い物にも付き合った。安い洋酒のカティサークも買ってきた。
* 書庫から、ついに明治三十九年刊の『日用百科寶典』を持ち出してきた。むしろ今では『<明治>百科寶典』と呼んで至当だろう、日露戦争の翌年の刊行 で、「大正」の「た」の字も無縁な「明治」だけのほぼ一切を「一○八一頁」につめこんである。さしさわりというのだろうか、『國體及び皇室』だけは、「各 國の國旗」「各国々旗の解」「各國政体及び帝王大統領」「各國国主権者歳費」まで取り上げてあり、『歴史』という大項目もあるが、各界の人名等は、他部門 の詳細稠密に比して「無い」のが面白い。多般に渉って惘れるほど詳細に項目が上がっていて、実にこの大冊は字を覚え始めた幼稚園まえから丹波へ戦時疎開す る国民学校四年生までの、文字通り何にもねましての私の知識の寶庫だった。久し振りも久し振り、よく遺して置いたなあと思う大冊を書庫から持ち出してき て、手ばなせないほど、フンフン、ハーハーと面白い。
むろんこれも畑の祖父「鶴吉」お祖父さんの誰にでもない私独りへの貴重この上ない「遺産」であった。明治三十七八年に日露戦争、明治二十七八年に日清戦 争があり、戦歴の詳細も読み取れる。かと思うと、生まれて初めて「歩す」を「孺」 七歳を「惇」 十五歳以上を「童」 二十歳を「弱」 三十歳を「壮」 四十歳を「強」 等々と教わると、童子とか弱冠とか壮士とか屈強とかまで分かるようで面白かった。こんな面白がり方で合点し記憶し知識した無数が、この一 冊に満載されていたのだから、いかに私をひきつけてやまなかったか、日本列島の地理知名も、山川の名も、数量の称呼も、「養子縁組届」の書きかたも、男女 のからだの子細もみな此の本で覚えたの。「日用」といわぬまでもまさに『百科寶典』であった、世界事情もかなり教えてくれた。
* この一冊、次なる創作のためには大いに役立つだろうと、書庫の棚をかきさがして見付けてきた。これも「一と仕事」と謂えた。
2020 9/21 226
* 真夜中に「マ・ア」が長くもない廊下をふたりで疾走しあうのに閉口するのだ、が。 2020 9/24 226
* 終日、時をおかない静かなジャズ・バラードを、今朝は Smoke Gets In Your Eyesから、 The Days of Wine and Roses に取り換えた。建日子の贈り物。しぜんと彼のことも思う。
* アコかマコか分からないが、席を外している間に、機械の界隈をザンザンバランとひっくり返されていた。私とゲームでも競うきでいるらしく、襖に通れる ほど穴をあけて此処へ侵入してくる。知恵比べを強いられているようで穏やかでないが、彼ら、嬉々として挑戦してくる、くそッ。
2020 9/26 226
* 芸能畑での自殺が目立つ。竹内結子のようなさきざきの期待できる女優までが。建日子作の連続ドラマで主演してくれていた。建日子劇に主演してくれた男 女優たちは、ウチでは「むすこ・むすめ」と数えている。竹内結子には花やぐ期待をかけていたのに、痛ましいことになった。
2020 9/27 226
* 午後になり、この部屋 28度にも。むうっと暑いのにおどろく。妻は熱中すると眩暈が起きる。懸命に水分とビタミンなど摂らせ、かろうじていつもすり抜ける。
うすい袖長のシャツの上へ以前に建日子が呉れた紺青で袖のない、ビニールふう、前はチャックの軽い軽いのを、年がら年中まるで制服なみに着ているが、今 度は黒のを建日子がアマゾンとやらから送ってくれるという。今のは洗濯に出せるわけで、有難い。これの有難いのは、表に裏に大きめで深いポケットがついて いること、これが無いとなにかと不自由する。軽いこと軽いこと、ふわッと浮かびそう、それも老体に有難い。気も若くなり有難い。感謝。
2020 9/30 226
* 建日子からの、軽快な上着が届いた、黒でなく渋く落ち着いた茶色。コレまでのは中國製、今度のはベトナム製だと妻は言う。よく似合うと言う。ありがとさん。
2020 10/1 227
* 起こしに来る「マ・ア」との合戦に草臥れて思いの外に寝過ごした。昨日の分を取り返したと。
袋にアコを入れて、ポストついでに日盛りの下保谷を大きくぐるっと自転車で。草臥れたが、「アコ」はにゃっともいわず満足の態。
2020 10/2 227
☆ 迪子様
ご丁寧なおたより ありがとうございました。
この夏は熱中症や脱水症で苦しまれた由、本当に大変でいらっしゃいましたね。
おたよりは いつもリズミカルで どこかユーモアも含まれていて詩のようで、おたよりをいただくために (仙台の=)かまぼこなどをお送りしているような気がしております。
ようやく涼しくなってまいりましたが どうか油断なさらず お大切にお過し下さい。
仙台は朝夕は肌寒いほどです。 恵子
* 仙台で大学教授をされ、短大の学長をも勤め上げた、久しい「湖の本」の読者で、遙か以前には私の勤め先の後輩さん。建日子が生まれる直前まで、社宅 で、茶の湯の手前を私が教えていた。そのころお歳暮に戴いたまことに美しい和風卵手の湯呑みで私達はいまも毎年正月の大福茶を頂いている。
読者の方から御好意のお便りなど戴くと、妻にハガキでのご挨拶をみな頼んでおり、絵葉書での返礼をさしあげた方の人数はもう数え切れないだろう。脚を運 んで人さまと出会う話すはまったく無い暮らしゆえ、妻にもこれは好い窓口になっていよう。手さきが痺れて字の書けない私は助かってもいるが。
2020 10/2 227
* 懐かしい童謡の合唱番組を二時間も聴いて観て、たくさん泣いた。「親をたづねて」なく濱千鳥の歌などを、どれほど人に隠れて此の「もらひ子」は独り唱い独り泣いていたことか。
童謡の詩に、たくさん日本語表現への美しい道を案内されていた。百人一首と優れた童謡とが、私の、最初の日本語の「先生」であった。秦の親たちに幼稚園 にいれてもらい、戦争の日々を迎えて山奥へ疎開し、進駐軍の無数に往来する京都へ帰って少年は民主主義と、新制中学へ入って社会性と自主性を習い、そして 「ほんとうの身内」という身に沁みる出会いに恵まれた。たった半年で、そんな往時は渺茫と、わたしはやがて八十五になるが少年の懐と疼きとは、いまも涸れ ていない。つい近作である「オイノ・セクスアリス 或る寓話」も、「花方 異本平家」も、出来不出来など知ったことでなく、ただ少年の往時とともに懐かし いのである。
2020 10/3 227
* 先日、『神様のくれた時間』という面白い映画に嬉しく満足した。今日は夕食後に、『パリの真夜中』とでも謂うのか、アメリカからパリへきた自称「作 家」氏の途方もなく且つ嬉しくなるような奇想の彷徨映画を心底楽しんだ。大笑いもした。建日子といっしょに観たかった。建日子の顔も見たい。
「創造力」と「想像力」とには、かくも豊かなまだ見知らず手も触れられてない「世界」が待っている。陳腐な味も姿も薄いツクリものをムリに、手軽に、 作っててはダメということ。文章での場合は、把握表現の確かさ美しさ弾み、そして時世を超えてわたってゆく、かつて無い新鮮味。
2020 10/4 227
* 名称が知れないが、さきに建日子に頼んだふかふか袖無しの「L」仕立ての上着が、今はいいが、やがて下着の厚めになる時季には胸まえの開きがやや窮屈かと、今朝、「LL」で赤みの色をまた送ってきてくれた。温かそうでゆったりし、冬場がらくに楽しめそう。 感謝感謝。
* 人で混み合いながら走る電車で、真向かいの席に朝日子がいるのを、お互いに見付け、笑顔で席を立ったところで、夢が失せた。四十代ほどに見えたが。
2020 10/5 227
☆ 選集を待ちつつ 尾張の鳶
台風がゆっくり近づき、数日は空模様は雨曇りとか。さすがに秋らしくなりました。
器械に向かう時間も稀れ、読み止しの本が何冊か積み重なりました。やや疲れ気味ですが、孫の笑顔に励まされます。一日一日変わっていく様子・・最近の科 学番組で見た神経組織が縦横に成長していく人体の仕組みの鮮明な映像と重ね合わせています。とても人間的、あまりに人間的に成長していきます。同時にこの 歳になって育児に「奮闘」することになるとは・・ 鴉は羨ましいと書かれていますが、それ以上の複雑さ、思いがけない事件でもあります。
鴉のHPを本日の記載から九月半ばまで遡って改めて読み直したところです。
歌の重苦しいまでの愛と悲嘆にわたしの心は揺れ、そしてさまざまに立ち向かっていらっしゃる鴉
の日々を思います。
読み返している本の一冊はボーヴォワールの『老い』。書名だけでも本当は「敬遠」したい本ですが、出版から半世紀も経つと問題の捉え方や社会情勢や人々 の意識の変化も感じて、本自体の持つ説得力に少し違和感も感じています。 が、とにかく老いは日常の大問題であることに間違いありません。老いを生きてい るのですから。
旅行好きの友人はコロナで外国旅行もママならず、鬱になりそうとか。
わたしも旅に出たいと思うのですが、GO TOキャンペーンにも縁のない本と絵、それ以前に育児家事という暮らしぶりです。
長いメールを書けません。
鴉、元気に元気に過ごしてください。視力大切に、風邪ひかず、コロナもインフルエンザも峻拒されますように。
* 生まれてまもない赤ちゃん孫。羨ましい。
私達の、もう二十年近くも行方知れず見失っている孫娘押村みゆ稀は、どこで、どう暮らしているのやら、私達の曾孫をもう産んでくれてさえいるか知れず、はや三十歳にも近 づいている孫のみゆ稀。心身共に健康でありますよう。曾孫が生まれていたら、その児も、ぜひぜひ幸せに。
2020 10/9 227
* 午前しごとに疲れ、しばらく横になっていた。起きるとやや肌寒く、上着を、建日子の送ってくれた大きめ臙脂色のに替えた。似合うと妻か云う、小さい渋茶色のは妻に譲った、似合って見えた。
そこへ布川鴇さん編輯刊行、清雅な大判詩誌「午前」第十八号が送られて来た。知名の詩人たちが毎号に詩作とエッセイを寄せていて布川さんの清潔に美しい 日本語がしかと束ねている。「午前」はかの立原道造が生前に意図して果たさずに逝った詩誌の名と布川さんに聴いている。もう十八号かといろいろに歎声も漏 らしてしまう。
2020 10/10 227
* 建日子から正月はどうすると聞いてきたらしい。まだ三ヶ月ちかく先で、コロナとインフルエンザとの風向きが見えない以上、今の原則では、合流しないと。この際の事故は慎重にさけるしか有るまいと。
2020 10/11 227
* 夢に、懐かしい重森ゲーテと田原知佐子(女優・原知佐子)とが一緒に、ほがらか・なごやかに登場、呼ぶようにわたしへ声かけていた。「も、少し、待っててよ」と手を振ったような。
いま上へ掲げてある東大の三四郎池「秋色」の写真は、原知佐子の夫君の葬儀が本郷であって、妻と参列の帰りに、東大構内を歩いたときに撮った。静かなしずかなさびしい秋の日であったが。その後にも、原知佐子の舞台も夫婦で観たし、一緒に歌舞伎や建日子の芝居も観たが…。
2020 10/13 227
* めまいを感じ、MRI検査を受けた。脳、至って健康でしたと、「お忙氏(女性)」のメールあり。
まだまだ 「脱水と熱中」とには、厳重の要心を。「めまい と 軽い頭痛 そして 異様な吐き気」とは顕著な前駆症状。妻も、何度か、「しつこい眩暈」 と「かるい頭痛」を訴え、そのつど、大量のお茶やオレンジジュースで回復してきた。私も、この夏、秋になってからも、一度二度、機械の前で、アレッと思っ た。私は少年來 親も惘れる「茶喰らい」が習いで。それでもあの大きな術後、退院して、「脱水」とは知らず、手洗いで、吐き続けたきつい思い出がある。
* それはそれ。
それより何より、「書き下ろし」中の、前半を括る段階までで、「たいへんなこと」を書いてきたよ、我ながら「ヤバイぞ」と手を揉んでいる。必然、居直る気でいるが。
ま、時間もかけ目も手も費やし、前半にカタチはついた。よほど先までもう書けてある後半の仕事へ、やや早足で、どんどんと云いたいが、それは叶うまい。 のめりこむ相手は、二十歳前からすでに徳川将軍家に和漢の読み書きを職掌として訓えてたような、漢字まみれの「サムライ」なので。けれども好色は無比、つ いて歩くと途方もない遊所へ案内してもくれる。
* 建日子に、すこし気がかりもある 書き下ろし分 前半だけを読んで意見を聴きたかったが。
☆ メール頂きました。
一気に一日で、みたいなスピードでは読めないかと思いますが、メールで送っていただければなるべく早く読みたいと思います。
ので、このアドレスにそのまま送ってください。
なお、一太郎データでは読めないので、テキストかwordデータかPDFでお願いします。 建日子
* 建日子に
ウーン残念 一太郎のほかは 使ったことなく 使い方 分からないので。
仕上がってから読んでください。 ごめん。
トーサンも カーサンも ときおり咳をしてます。熱はありません。
気温のきつい変化に上手についてゆかないと、 と要心しています。 「マ・ア」のおかげで タイクツせず 楽しめています。
日々大事にして下さい。
ときどき いい映画の板をもち出し観ていると コレ、建日子といっしょに観たかったなと思います。
元気で、怪我なく そして 心ゆく仕事を積んでいって下さい。 父
2020 10/14 227
☆ 一太郎で保存するときに、型式を選べると思うのですが。
別名保存というのがあるはず。
そこで、テキストを選べば僕も読めます。 建日子
* 今年になって とみに理解力と「言葉」の記憶力が落ち込み、毎日のように「忘れている」歎きに唸っている。何か 「やってみれば」分かるのか知れないが、上の建日子の助言の謂うてあるソレが分からない。たぶん、何でもない容易いことなのだろうが「理解」できなくて情 けない。ありがとうよ。
この調子だから、この超古い機械君との「おっかなびっくり」のお馴染みにただ頼っている。新しい機械やシステムや働きに、替える・副えるということが、とても出来そうにない。
ま、登るのか降りるのか、降りているのだと思うが、ゆっくりゆっくりこの細道をただ「慣れ」一つで辿るしかないだろう。幸い、まだ「本の読める」のがありがたい。
2020 10/15 227
* 「風のささやき」と題されたジャズ・バラーズの一枚「ささやき」どころでなく、途中、花火を打ち上げるような音が続いて、面白い。何を敲くのかな。建 日子の呉れた一箱八枚のうち、三枚が気に入ってて、交替しながらもう何ヶ月も日々に鳴らし続けている。歌詞というのが無く、全然仕事の邪魔にならないのが 有難い。クラシックの樂曲よりもジャズの気ままな感じが、鳴らしっ放しにいい。
2020 10/20 227
* 昨日の疲労がこたえて、今朝はふたりともノビていた。二日三日送り遅れてもなにも問題はない、健康を一に、と思いつつ、二日目ももう大半は送り出し終え、あと、念入れ分がすこし残ったが、うまくすると明日には終えよう。
一冊一冊が大きく重くて、荷造りにも送り出しにもいつもより倍もの労力が要った。ま、も少し。も、少しと、疲れきった自身を激励している。
いまはなにもアタマ働かず、妻は「マ*ア」といっしょに寝入っている。
* ひとりで作業を継ぎ、むしろ弱った体調を思って、夕飯を、好きな中トロの刺身を主に、寿司の出前で、生協で手に入れた「奧丹波」の美味い酒を。そして、寝入った。
2020 10/22 227
* 一過性であったかね手当の早いが利いたか妻の発熱はおさまったが、夜中に発汗したりしていた。極度の疲労画がふたりともに身にこたえた、が、何とか通 過できるかと、要心している。ひたすらなにしろ寝入るようにしていた。よく寝た。背なかに、かすかな寒けがのこっている。
* 寺田英視さん、京都のあのすっぽん料理で聞こえた「大市」本店から、ごちそうをドサっと大きな一箱詰めで送って下さった。有難く御馳走になります。
* 京西院の「大市」の瀟洒な本店は知ってはいるが、実は入ったことなく。書いた「小説」の中でだけ奢りましたけれど。
河原町三條の大きなホテルの地下カウンターの席で、妻と「スッポン鍋」食したことが一度あった。あれは、叔母宗陽の茶の湯のお弟子がその店の大将で、私 もその人の稽古を何度も見ていたお礼にと、あの日は夫婦二人に奢ってくれたのだった。目がさめるほど美味かったのを想い出す。
2020 10/24 227
* 妻に昨日から、発熱。疲労ゆえの一過性であって欲しいと願いながら様子を見ている。五度半ば過ぎから八度前半までを高下交替して、睡眠は摂れている。一度、夜中発汗していたが、繰り返してはいないか。
私は体温六度前半の、いつも通り。
大ちから仕事をみな終えていて、寝入れる限りはふたりとも寝ることにしている。体調の普通を取り戻すこと、それが専一。
☆ 昨日、三島賞作家の久間十儀さん、妻への電話で、選集完結を「花」でお祝いします、明日(今日)には届きますと。
たった今、お心入れ、みごとに美しい「胡蝶蘭の大花籠」が配達されてきた。
感謝感謝、喜んでおります。恐れ入ります。感謝。
「ま・あ」兄弟も、見るから喜び挙って「花とお遊び」姿勢は、オソルべし。書庫の見晴らしへ丁寧に置いた。書庫に入ってしまうと、本に身に沁みて触り始め、容易に出られない。今の寄稿は書庫が暑くなく冷え込みもせず、恰好の安息所になる。
* 午後、郵便が、音もしそうにたくさん配達された。感謝。
2020 10/26 227
* 昨夜も、また『史記列傳講義』の「伯夷列傳第一」を読み返していた。
上古の中国では、堯は舜に、舜は禹にと譲りつづけて聖代と頌えられ、その「譲國」ひいて譲権の習いこそが、一に尊敬の思いと共にひろく人間世間にもひろ がった。司馬遷が「史記列伝」の冒頭に「伯夷列伝」を据えたのも、最もそれが自然にして当然の高徳とみたからであろう。伯夷と叔齋とは諸侯の一人に生まれ た兄弟であった。父が末子叔齋に家督をと慮い謂いながら死去すると、叔齋は長兄の伯夷こそ継ぐべしと譲り、兄は父の遺志に背かんやと家督を恥じて他郷へ逃 げ去り、叔齋もまた恥じて遁れた。しかたなく臣民は強いて仲子に諸侯の地位を継がせた。伯夷と叔齋とは他国の王に仕えて善政著しい仲にも、それぞれの真価 を発揮しつつも権威を恥じて地位を「譲る」こと怠らなかった。卓越の史家司馬遷は絶世の大著『史記』の「列伝第一」をこの伯夷叔齋を以て書き起こしてい る。
* 見よ。いま中国主席は自身の権勢と地位とを任期・互選の制を蹴って退け、自分の死まで、死後は遺族が継ぐべくあからさまに画策しているという。
中国は、「恥づる人格」を蹴転がしに蹂躙して恥無き國に陥ろうとしている、すでにむざんに陥っている。
近くは、かの安倍晋三「総理」を廻っては、「譲る」どころか在位の長きに失するを以て誇りまた周囲も褒めそやしていた。「恥」を知らない連中は、堯舜禹や伯夷叔齋や司馬遷の故事と教訓にまこと無縁の屑の如きであったと見える。
* 秦の祖父が遺してくれた蔵書の山には、この『史記列傳講義』にならぶ各書が揃っていて、明治期の学者達が、それぞれに実に丁寧に私に読ませてくれる。感謝に堪えない。
2020 10/28 227
* 家ぢゅうが、「トーサン・カーサン」隊と「アコ・マコ兄弟」隊との友好的戦闘状態で、いまや障子も襖も兄弟の攻略に破られ放題、今度は、ちょっとした 穴口を突破し、床下から天井裏までも占領下にしようと侵略意図の露わなのに辟易、ブロックで穴をふさいで撃退に成功。戸外へ自由に出してやってないのだか ら、家の中での戦争ゴッコには付き合ってやるしかなく。かわりに、からだを汚すことはすくなく、ほぼ安心して抱いたり頬ずりしたり出来る。一緒に眠れる。
* コロナ禍の欧米での延焼はひどい。日本への再度の侵蝕を懼れて政策上の要心を切望する。
2020 10/31 227
☆ 秦おじいちゃま ; 迪子おばあちゃま
大変ご無沙汰しております。
おじい様のご本、ありがとうございました。
完結されたのですね。
おじい様の人生が詰まったご本、大切にさせていただきます。
***には絵本をいただき、本当にありがとうございます。私の大好きな絵本ばかり。
ヨシタケシンスケさんはユニークな本をいっぱい出していて、私の好きな作家の一人です。でも、まだこの本は読んだことがなかったので、本当に嬉しいです。
私は最近、大切な家族をたくさん***ました。
*******:
そんな中、おじい様おばあ様から素敵なプレゼントをいただき、本当に心が暖かくなり、気持ちが少し落ち着きました。まだまだ前の日常には戻りませんが、いただいた本を読みながら、ゆっくりと過ごそうと思います。
本当にありがとうございました。
写真は、子供に人気のアニメ『プリキュア』の衣装を着て喜んでいる***です。 馨
* 孫やす佳の一のお友達。やす佳に代わっていつも私達に優しくしてくれる。ご不幸もあったようだが、堪えて、前を向いて御家族皆々力強く心優しく歩まれるように。コロナに十分気を付けて下さるように。
やす佳も元気でいたら、わたくしたちの曾孫を抱かせてくれていたに違いない。ただ、じいっと目をとぢ、堪えている。
* しばらく建日子の顔を見ないのが寂しい。それでも要心するにしくは無い。舞台や映画はしばらく胸に抱いて、質実に心身に根を下ろした長編小説の代表作 を書き上げて欲しい。自身の深奥に根を下ろしていない思いつきは、いくら奇抜でも娯楽品に終わる。そういうのが書けるメリットは分かるが、それしか出来な いのでは浮ついてしまう。読者心奧の琴線をひびかせる大小説を、私小説でもフィクションでもいい、読ませて欲しい。
2020 11/3 228
☆ 前略ごめん下さい
先日は御本が届きました。いつも何かと気に留めて頂き有難うございます。
私もやっと七十六才、姉龍子は八十才で、ますます母ミツ子はんに似てきました。弟正治郎は七十三才で 皆それなりに元気にしております。
本日は少し荒れていますが無(舞)楽装束の断片を送りました。江戸初期のものです。
どこかにでもぶら提げて下さればうれしいです。
コロナ禍の折 お体に気をつけられまして おきばり下さいます様に……
十一月二日 凱 京・縄手 珍裂「今昔」西村主人
* これは、もう 嬉しい…。
私の「京都」といえば いまも現在感覚と馴染みとで生きてあるほぼ唯一の懐かしいつき合いは戸の「今昔」西村家しかない。母親の「ミツ子はん」をはじめ として一家とも、叔母秦宗陽の茶の湯の社中 秦玉月の生け花の社中、龍ちゃんは、かけがいもなく愛していた私には一の妹弟子であった。稽古場に通って来始 めたのは、まだ同志社女子中時代であったか。お父さんともお母さんとも同じ小学校区内で十分に親しかった。そして凱(ときお)ちゃんは、いまもなお「湖の 本」の久しい購読者でいてくれる。頂戴した裂も美しく素晴らしい珍品の額装だが、この一家との思い出は何にも優る懐かしいものなので。とても嬉しい。
2020 11/4 228
☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ 愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊 秦 恒平著
☆ 子への愛
★ 花嫁の初々しさを打ち見つつ
身近く吾娘(あこ)といふも今日のみ 山下 清
☆ この種の歌は他にもっと上出来の作が数あるはず、だ。ご縁があったという事にしておこう。
もっとも、目をとめ書きとめたのに理由はある。我が家に適齢期の娘がいた。「朝日子」と名付けたその娘を、親はちいさくから「あ子」と呼んできた。佳い 縁が欲しいと心から願っていたら恵まれた。その嬉しい思いが、この歌の「吾娘」とあるルビに結ばれた。半ば同情し半ばよろこばしく、この歌を採った。聴 (ゆる)されよ。 昭和二八年『水ゑくぼ』所収。
* じつに辛い哀しい後日談ができてしまい、もう年久しく 私達両親は 嫁いだ娘・朝日子とも 孫娘のみゆ希とも、逢うはおろか、話すこともならない。上 に毎日掲載している詩歌の「原著」は、実に娘朝日子と押村高氏との「結婚披露」の日に、「あとがき」を書いて祝福したのだった、が。
娘は、嫁がせれば、もう「吾娘(あこ)」とは呼べないものなのか。
2020 11/8 228
* よく寝た、と思う。東京、北海道、大 阪等のコロナ感染者数急増は気がかり。躊躇いのない程度の確かな政策で拡大を抑えてほしい。生半可なことを言うているまに病魔に負けて感染危険域が広がる のを徹底抑えてほしい。経済のことは、我が家ではよく分からない、が、経済擁護で重篤患者が増えて行くのは絶対に避けねば、国の根幹から感染の前につぶれ て行く。生半可な政治家の躊躇こそが危険で恐ろしい。
我が家では、新年の祝い雑煮も、老夫婦ふたりでと決めている。建日子は都内暮らしで、万全の予防に意識を集注してほしい。
2020 11/13 228
* 「マ・ア」 ことに「アコ」と「私」とに、常に攻防の戦いがある。この機械座から手も届くほどの書架 の一部に、谷崎先生夫妻のと若い昔の沢口靖子の写真があり、書架の特等席になっていて、松子夫人写真の奥に誰かにいつか貰った綺麗な形に造った布ボール が置いてある、そのいわば竜宮の「竜の玉」を採ろうと、「アコ」は懸命に執拗に攻め寄せて、私のいない不用心を狙い、まんまと銜えて階下へ持ち去り、どうだ と見せつける。自然の仕儀に松子夫人の写真を書架の下へ落として行く。もう何十度シテやられたか知れず、今朝もやられていた。機械部屋のドアを効果的 に封じておかねば入られてしまう。そのドア封じをつい失念してしまう。くそッ。またやられた。
2020 11/18 228
* 城井壽章講述の『史記列傳講義』 伯夷列傳第一 から、管晏列伝第二 を読み終えて 老荘申韓列伝第三 に居る。秦の祖父鶴吉にこんなに読みいい佳い遺本があったのに、読んでこなかったと、この歳になって悔いている。
それにしても、明治の人はよほど勉強家が多かったのだ、いまどき『史記列傳』など読む読書家はどれだけいるだろう、こんないい参考書や講話本も今日とても手に入るまい。
2020 11/21 228
* 仕事部屋の戸はしめて寝たつもりなのに、書架の特等席から例の手鞠が敷物とも階下へ運ばれていて、書架への乱暴もハッキリ、兄貴のアコ自慢の犯行。手鞠も敷物も布製だが、本を書架下へ落とされるのは叶わない。
2020 11/22 228
* 健日子から、「マ・ア」それぞれの柔らかな温かな「トヤ」が送られてきた。老夫婦の日々の暮らしに「マ・ア」らの居てくれるのがどんなに慰めにも励ましにもなっているか。ありがとう。
2020 11/23 228
* 選集完結を祝して戴いた「胡蝶蘭」が、テラス正面、暖房の書庫で、いささかの衰えなく美しく、元気な姿を整えている。
2020 11/24 228
* 幸いに妻の定まりの診察、無事に終えてきた。次回は一月半ば過ぎと。私も、留守居の「マ・ア」もホッとして帰りを迎えた。
2020 11/24 228
* 書き下ろしの仕上げ、もう原稿用紙にして三、四十枚も書けば十分かと見えている。慌てることはない、心ゆくもの、掛けて嬉しいものに書き上がって行くことこそ大事と。
こういう時、絶対に避けたい要心したいのが、怪我。建日子にも怪我するなよと口癖のように云うている。誰にでも云うている。
2020 11/25 228
* 「うつ」という詞で窮境を訴えてくるヒトが増えている。そういう時代、それがただ高齢というより私と同世代の元気まーくだった 人たちから伝わってくると、高齢で日々生きて行くことの無為の重さ辛さと病気感とが輻輳するのか、ヤッパリなあとそぞろ滅入りがちへ引き込まれがちにな る。
幸い私は、今も、かつて携わったことのない話題や時代や人や仕事への関心また興味を日々持ち続けられていて、これが絶妙のクスリになってくれる。かなりシンドクても仕事にかかるとその間は別世界で働けている。創作という仕事の有り難さをしみじみ思う。
幸い私は、妻も含めて夫婦二人、過去何十年の辛抱と頑張りとのお陰で、いま日々の現実生活に困窮していない、運動力は落ちているし、籠居に徹して外出や 旅行は出来ないが、概して、家居暮らしを苦にしない。有り難いなと思っている。「欝」に負けてしまうと、生活という活が冷え込んでしまう。それが怖い。
☆ ご無沙汰しています
ホームページは、折にふれ、読んでいます。
なかなか、新型ウイルスに関する環境は良くならないですね。
ぼくの次の舞台は明けての2月ですが、再びの延期・中止も覚悟しつつ準備を進めています。
それまでは用心に用心を重ね、自分の正月は二月半ば過ぎ、と思っています。
父さんの新作が順調に進むこと、お祈りしています。
ぼくも、ぼくの新作小説をしっかり書くつもりです。
またご連絡しますね。 建日子
* 創って生きるというのは大げさだが、作家、作劇・演出家として生きてきた建日子であるのを、心づよく思えるのが嬉しい。怪我無く怪我無くと願うばかり。
* 昨夜九時頃から映画の指輪物語「二つの塔」を見始め、あまりの長さに妻も「マ・ア」も寝てしまい、わたしは最後までみた、零時過ぎていた。物語はまだ 大事な目的のこの先の旅が長い。しかし、わたしが実にこの手の物語に根気の良い感受性を開ききっているかが分かって、ワラッテしまう。しかも床に就いてか らは、ホビットのヒロド・バギンズと従者サムとの遙かな旅立ち物語を読み始めている。現下菅内閣の判断や決断や国民への思いやりある対策には、聡明と的確 な親切とが欠けている。いち早い内閣の交替、すくなくも政治家として実力ある大臣へ首のすげ換え内閣改造の素早さが望ましい。
2020 11/26 228
* 午後はやめに「セイムス」へ買い物に行った。風邪薬や咳・痛みの薬などは予防的にも備えていたいので。この店には生の食べ物などはない。その分、人出も少なく、自転車だとものの一分間だとかからず行けて、ありがたい。
それでも妙に、あと、疲れた。たいして今日はなにもしないまま、横になって「指輪物語」第一巻を読み終えたりした。想像を絶してみごとな大自然の映像の 楽しめる映画作品とともにトールキンの名作が楽しめている。今ひとつ、いわゆるサイエンス・フィクションも読み始めているのだが、トールキンの『指輪物 語』とくらべると、マコトっぽく書かれてある分、月面の洞窟の奥に、宇宙装備のしかも五万年前と確定できる遺体が見つかるなど、ビルボやフロドや魔法使い などの物語よりも馴染みにくいウソくささに見えて、乗ってゆけない。
七時過ぎ。どんよりと疲労している。視力の弱さのせいと思うが、目まわりが腫れぼったい。
今日は、もう、ズルズルとでも、早く寝てしまおうと思う。
2020 11/26 228
* 「老荘申韓列傳第三」 なるほどねと読んだ。秦の祖父は、老子も荘子も講義書を遺してくれ、韓非子の如きは惚れ惚れするほど特製の大著を遺してくれて いて、小さい頃から「韓非子」なる名だけは覚えていた。ルネサンスの頃のマキャベリズムないしは孫子の兵法などと脈絡ありげな本といつしれず見当をつけて いた。申子のことは何も知りはしなかった。中国への敬意を忘れ去らぬようにと中国史からは眼を背けることなくこの歳になったけれど、とてもとても及びもつ かない凄い國であって、しかも今日の習近平中国はどうかというと。これほど放埒な例を過去に顧みるよしもない。恥多き今日の中国と爪はじくしかない深いな 懼れを私は抱いている。
2020 11/26 228
* 建日子の呉れたジャズバラード八枚の内、三枚を無くてならないもののように毎日、朝一番から夜のおやすみまで、静かに鳴らしかつ聴き続けている。この ところ「風のささやき」と題してあるのをもう一ヶ月の上も、聴きかつ鳴らし続けて、これの無い日々、この仕事部屋は考えられない。こんなに効く精神安定材 は無いなあ。
2020 11/28 228
* 十時になろうとしている。目を使い根をつめ 優しいような難しいような しんどい おもしろい仕事ではある、が、疲労困憊する。
師走となり、コロナ禍は収まって行く気配もない。子供たちと一緒に正月が出来ない寂しさ。しかし、ここで気をゆるめて油断は成らぬ。建日子たちの無事と健康とを切に願う。
2020 12/1 229
* 「マ・ア」の朝飯は八時と決まっていて、寝ていると「ふたり」で起こし攻撃に出てくる。妻は起きて行くがわたしはそのあとをも少し寝ているのが快適で、つい起床が遅くなる。ちっとも構わない。寝るも起きるも食べるも仕事も、好き勝手でよろしいと私に許可してある。
2020 12/3 229
* テルさん、なじみの茶菓子一箱、送ってきてくれた。わたしは、昔からの「茶くらい」(秦の母の呼んだあだ名)で、朝から晩まで、大薬缶のお茶、いわゆ る番茶を愛飲という以上にガブ飲みしていた。一つにはひもじさを宥めてもいたろうが、番茶煎茶は避けて通れぬ殆ど主食の一部だった、好きだった。茶菓子が あれば、たとえ炒り豆でも驚喜した。テルさんの茶菓子は上等である。感謝。
2020 12/5 229
* 「正月、保谷へ帰ろうか」と建日子は云うてくれるが、わたしたちよりも、彼の外出のほうにコロナ禍が傾いてはいけないと、断っている。顔が見たいし話したいし酒も酌み交わしたくてたまらないけれど。
2020 12/6 229
* 真珠湾奇襲そして宣戦布告の今日この十二月八日を、私は覚えている。馬町から東へ、渋谷坂正林寺わきの、たぶん京都女子大付属幼稚園へ、園バスの送り迎えで通って いたが、ふうッと何かしらで、日本とアメリカに戦争が起きたようだと知った。感触した、といった弱い把握ながら、水雷のように敵艦へつっこんで散ったとい う九軍神のやがて報道に戦いた。日露戦争といった記憶上の覚えも甦ったが、なにもかも実感には遠い、まだまだ手薄い感触だった。祖父や父の新聞を横で覗く ぐらいは、毎日していた。
やがて正月、そして春四月には京都市立有済国民学校の一年生になり、母に連れられた入学式の日に、自分の本名が「秦 ひろかず」でなく「恒平」なのだと ウムを云わせず教えられた。「大東亜戦争」の進展よりもこっちのほうが私には大事件であった。「もらひ子」という境涯が自覚になって行った。
* 大きい冷蔵庫が十年余の使用でダウン、買い換えと決まった。古いのを運び出し、新しいのを同じ位置に据える。
勝手口外にもう一つ使っている、使い続けている電気冷蔵庫は、新婚の昔の、新宿河田町六畳一間のアパートみすず荘へ、秦の父が、電機商売ものの品を京都 から送って来てくれたモノ、実に。なんと「61年」も使い続けて、まだ期待通りに働いてくれている。これが機械文明の顕著な一断面である。61年の間に新 鋭機とうたった何台の電気冷蔵庫を「使い棄て」にしてきたろう。
ま、可能ならもう一台の新しい冷蔵庫買い換えを体験してもみたい、が。
* 口を覆い、両眼を被って一夜を過ごしている、温かに、安眠。息苦しいことなく、顔の冷えないのがラク。顔が冷たい冬が、小さい頃、床で寝ていても、イヤだった。
2020 12/8 229
* 選集完結の記念にもと、不調の東芝冷蔵庫を真新しいナショナル製品に買い換えた。狭い家に大きなピカピカの機械を運び入れるのを、少し手伝った。支払い金額を妻にもう手渡した。背の高さ180センチほどとか。その天井は、今日明日にも「マ・ア」の展望休憩場になる。
2020 12/8 229
* 機械の温まるのにとても時間がかかり、辛抱よく待つ。
目を遊ばせて「待つ」ものなら、目近にふんだんに在る。山下へ帰って行く樵夫婦のしみじみと春草画く佳い繪、妻が描いた懐 かしいネコの娘ノコの肖像、やはり妻の画いた幼い頃の孫やす香の愛らしい肖像、「秦 恒平君 社長 写真一枚お贈りします お受け取り下さい」と自署を添えた医学書院金原一郎社長写真の、「告別用だよ」と笑ってられた懐かしい温容、沢口 靖子の笑顔いろいろ六枚、谷崎先生夫妻の肖像、小磯良平の「D嬢」 そして目近に大きい、作りつけの書架、本、本。
この部屋の、この機械前の席が、なによりも、何処よりも安息できる。機械クンは、待ってれば必ず「働き」始めてくれる。この超古機械クンが働いてるなん て、「信じられませんねえ」と先日、プロの人に感嘆、というよりも、驚嘆された。想像を絶する大量のコンテンツにハチ切れそう。私の書いた六十年の仕事 は、作も日記もその他もほぼ尽く収容されてある。むろん、全部、他へも収容保管してある。
買ったけれど使い道の理解しきれない大小二つの新しい機械は、身のそばにただ置かれたまま。もう私のアタマでは、「役」に立つ日は無いだろう。せめて音楽と映画とが楽しめるといいのだが。
2020 12/9 229
* 六十三年以前の今日、求婚した。京の黒谷は紅葉の盛りだった。一と枝もらって、二人で新門前の叔母の茶室へ帰り、茶を点てた。
六十三年、往時渺茫ではあるが、わたしは、物覚えよく、いろいろな思い出の日付けを忘れていない。何月何日はなにごとのあった、した、できた日と、妻も呆れるほど覚えている。
十二月十日 橋田有子さんに送って頂いた京松茸などの漬け物で、ホンの少し瓶に残った朝飯の酒を飲もう。
* 身の回りを少し片づけて、つぎの仕事への気分を新ためたい。「活動しすぎて人生につかれてしまい、あらゆる衝動と思念とを向けるべき目的を持たない愚 かさ(マルクス・アウレリウス)」に嵌らないこと。彼は戒める、「自分自身の魂のうごきを注意深く見守っていない人は不幸に陥り」やすいと。いまさら幸不 幸かと笑う人もいよう。「幸福を追わぬも卑怯のひとつ」と歌った人もいる。
2020 12/10 229
* 岩波文庫新版の『源氏物語』宇治十帖の「浮舟」などへ入って行く。校訂のお一人今西祐一郎さんの新刊解説がとても適切に教えられた、全面的に賛同できた。
ホーガンの『星を継ぐもの』のサイエンスはちっとも理解できないのに、だんだんに面白く乗ってきた。
すでに手持ちのいろんな本に次々手を出して、みな面白い。本がおもしろく読めるとはなんと有り難いことだろう。もし読書ということが全然無いに同じだったらどんなに人生寂しいことだったろう。
さらに美術も音楽も歌舞伎や能や茶の湯や歴史なども。スポーツはみんな出来ないまま、相撲のほかは観もしてこなかったが。旅も、きわめて少なかった。な にわり文章が書けて自分の著作や本が山のように出来た。ありがたいことだった。生みの親たちに、それ以上に秦の、育ての親たちにしみじみと感謝の思いでい る。そして、妻や子にも。
2020 12/10 229
* 山縣有朋の家集『椿山集』と触れ合っていご、秦の祖父鶴吉さんの遺したたくさんな蔵書にわたしはまみれ気味にすごしてきたが、まだまだ心惹く中国古典 が私の手つかずにたくさんと謂えるほどあるのに今更に驚いている。じつに有り難い、その中でも明治大正に出来た「大辞典」「大事典」「字書」の類がどんな に有り難いか。手に取ると時間を忘れてしまう。明治人はじつに勉強家だったんだと、恥ずかしくなるほど。
2020 12/12 229
* 実の父方のことはかなり詳しく知れている・大きい家が大きいままによく連絡されているように想われる。生みの母方も大きな家であったようだが、本家が消散して、もう私にはとらえようが無くなっている。
養家の秦家は、もともと私が四つ五つで入った時に祖父、両親、叔母が一家に揃っていて、親類という付き合いがほとんど無い家だった。明治二年生まれの祖 父が昭和敗戦の翌年に亡くなり、ずうっと遅れて東京で、叔母が次いで東京で、母ず最後に東京でなくなり、「秦家」は、妻子を持たない秦建日子を最後に失せ ることになる。私たちの血筋は、行方知れない孫の押村みゆ希へかろうじてつながっている、が。事実上、私や息子の跡に遺るものなら遺るのは、二人の「著 作」だけ。それもみないずれは塵と散り失せる。そういうものと、すがすがしく想い明らめている。はかないのではない、確実なそれが人の歴史という営みなの だ。
2020 12/12 229
☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ 愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊 秦 恒平著
☆ 親への愛
★ 玉棚の奥なつかしや親の顔 向井 去来
☆ 神棚くらいに「玉(魂)棚」は取っていいだろう。神棚のわきに正月に限って新しく設ける玉棚もあるけれど、意味は神棚にほぼ同じい。日本の神は、ほとんど先祖神の意味にも同じいのだから。
「追悼」の意はこの句から容易に汲みとれる。近代の歌ほど深刻の表現ではないが、おそらくこの「追悼」には、なにか事あらたまってのハレの感情も加わっているのかも知れない。日本人が「おめでたい」とものを思うような日に起きがちな「なつかしや」の気持ちでもある。
死ぬことをおめでたくなると言う土地もある。亡き「親」は、もう神に近い存在になっている。作者は言うまでもない松尾芭蕉の高弟。
★ いくそたび母をかなしみ雪の夜
雛の座敷に灯をつけにゆく 飯田 明子
☆ 「かなしみ」には、愛しみと哀しみとの重ねを読みたい。どこにも「母」がもう故人であるとは無いが、母が遺愛の雛を座敷に飾っている人自身が、もう娘をもった母なのだと読める。私はそう読む。
母がなつかしく、だから愛しく、かなしく、日のあるうちから繰返し思い出されてならなかった。そして雛祭りの夜も更け、幼い娘たちはもう床に入って座敷 に灯は消えていたのだが、やはり母のことが思われてならぬままに作者は、ひとり「母」と声なき会話をかわしたくて、座敷へそっと「灯をつけにゆく」のだろ う。
事実は知らぬ。説明がましいことをつい言いたくなるほど優しい、しつとりと流れる調べの、いい歌だ。 昭和五〇年『唖狂言』所収。
★ 庭戸の錆濡れてありけり世にあらぬ
父の家にして父の肉われ 河野 愛子
☆ 昭和四七年『魚文光』所収の、渋い味わいに言いがたい魅力のある歌。
雨のあとでもあったろう、「庭戸の錆」が「濡れてあ」る亡き父の家へ、その家に今は住んでいない作者が、しばらくぶりにでも訪れ寄ったか。こういうとこ ろは、読者も、歌の状況へ想像の視線をこまやかに走らせて欲しい。この作者の視線は敏感に、かつ個性的にモノをとらえている。「世にあらぬ父の家」では、 もう、あのよく行き届いた父の目ははたらくべくもなく、ふとしたところに父非在の現実が致しかたなく目につく。「父の肉」であると痛感できるような娘なれ ばこそ目につく。それを誰に訴えもならぬまま作者は、今ぞ身にしみて「父の肉われ」と胸の底から歌わずにおれない。
せつない死者との共感であり、身に痛い喪失感に思わずたじろぎそうな追慕である。「われ」という異例の歌いおさめがよく利いている。
* 歌をよみながら、ほろと、熱く涙した。しかし、此の俳人も歌人らも、父を慕い母を恋い「しあわせや」としみじみ想う。
わたくしたちの行方も安否もしれない娘は、今、どこでなにを想い、どうしているのだろう。
* 朝機械にふれる手の冷たさ、マウスの右手にちっちゃな手袋。左はそのまま、の、手先の冷えが痛いほど。入ってすぐ25度に設定の部屋暖房が、十分もしてやっと稼働温を送って来始めた。
気に入りのルーム・メロディは、もう、すっかり、The Windmills of Your Mind(風のささやき)と決まって、朝一番から 夜最後まで、静かに部屋を満たしつづけている。読み書きのじゃまにはならない。建日子の呉れた盤であ り、鳴らしている機械(何と謂うのやら、電機屋で育ってながら分からない)も建日子のもらい物だが、シンプルに洒落たデザイン、嵩の小ささもすこぶる気に 入っている。
2020 12/16 229
* 心重いまま、甥の恒がつくって置いてくれた実兄、北沢恒彦遺著の『隠された地図』巻末の「年譜」を通して読んだ。何をあらためて云うことはないのだ が、心しおれた。母ふくも、父恒も、兄恒彦も、大きく大きく「生き残し」たまま、自死かそれに斉しく、世を去っている。病で、とばかりは言い終え得ない死 に方をしている。とはいえ、双親が、恒彦と恒平とを世に遺したのは(敢えて云うが)手柄であった。残念なことに思想家で活動家で社会人として北沢恒彦が闘 いつづけた願いは、いま、日本の國では気息奄々として気配ほども感じにくくなったのが、痛恨の思い。
兄は 母や父に似て、ロマンチックなリアリストのまま栄養失調に近く生きて死んだようだ。
生まれながら親とも兄とも触れることなく生きた私は、「秦」という家に育てられた幸いをひたすら我流に造形できた。京都、日本そして歴史と言葉と、更に 云えば愛を、私は贅沢なほど貪食してこれた。それが本当に幸福で良かったかどうかなどは、自身で言うことでも言えることでもない。
ただ ただ いま 切に切に兄に会いたい。兄は ただただ「いつも」励ましてくれる人だった。わたしは、いまもまだあの兄に「はげまされたい」「はげましてほしい」のである。
2020 12/16 229
☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ 愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊 秦 恒平著
☆ 親への愛
★ これひとつ生母(はは)のかたみと赤き珊瑚
わが持ちつゞく印形(いん)には彫りて 給田 みどり
☆ 昭和三九年『むらさき草』所収。 「生母」は「はは」と 読んであるが、「せいぼ」と字余りに読んでかえって「赤き珊瑚」の句座りに旋律感が匂う気味もある。生みの母をよくは知らない、ないし覚えないで成人した 作者のかなしみ。満たされざりし愛が愛を呼んで、ひとつの印形(いんぎょう)に凝った。母から貰い受けたものは珊瑚「だけ」でなかったのだ、女らしい優し い「名」もあったのを、作者はいとおしむ思いで言外に歌い籠めている。
給田先生は 私を母かのように愛して下さった京都の新制中学時代の先生。短歌づくりも教わった。読書も教わった。夏休み中のある日に、ふっと家のまえに 立たれ、私を、奈良の薬師寺と唐招提寺へ連れて下さった、お寺にも仏像にも、解説めく何ひとつも無しに。しかしあの日のそれは多くを私は覚えている。あの 日にも幾つも私は歌を創った。
★ この鍬(くわ)に一生(ひとよ)を生きし亡き父の
掌(て)の跡かなし握りしめつつ 佐竹 忠雄
☆ さきの歌の「印形」と同じ象徴的な意味が、この歌では 「掌」の一字に凝っている。「手」から「手」へ、人の営みの意味も実績もが伝え継がれて行く。必ずしも父の農業を子も継ぐとは限らず、もうすこし内面的な 受け渡しが「手」や「掌」を経て成される。だからこそ、思わず「握りしめ」るのだ。 「多磨」昭和二一年二月号から採った。
★ 明珍(めうちん)よ よき音(ね)を聞けと火箸さげ
父の鳴らしき老いてわが鳴らす 藤村 省三
☆ 初句は、「この火箸はモノがいいんだよ、明珍の作なんだ よ」という直接話法。「明珍」は具足鍛冶師で、他に火箸や鐶や鈴(りん)など茶道具の名品も多く製した作者の家名。金の含量が多めで、チーンチーンととて も佳い音色がする。今は亡い父の自慢の品で自慢のしぐさだったのを、いつとなく年老いて自分も、そっくり踏襲しているのだ、苦笑いの内にも、感慨深いもの がある。
作者のまぢかで自慢の「しぐさ」に小首をかしげているのは、はたして子か、孫か。
私も子供の頃、叔母の茶室で実はよく鳴らして遊んだもの。 「国民文学」昭和五〇年八月号から採った。
* いい思い出が、じつに無尽蔵にある。そういう一つ一つは、言い換えれば私が多く愛されていたということ、それを、今にしてしみじみ思い当たるのでは、疎いなあ。
2020 12/19 229
* 昨夜はとにかくも寝入った、幸いに重苦しさ無く、九時半に目覚めた。祝いの朝食を夫婦二人と「マ・ア」とで。 その間にも、お茶の先生をされている吉田宗由(真由子)さん、豪奢に幾色もの薔薇の大花束を贈って下さる。
また世界ペンの堀武昭さんからもケーキを戴く。幸せ者である。
妻が用意の赤飯、そして純米の越乃寒中梅で盃をほす。
八十(やそ)四枚五枚かさねて歳の葉の
彩(いろ)映えばえと散り初めにける 南山宗遠 2020 12/21 229
* 85年前、たしかなこと、私はどこでどう生まれたのだろう、京の「西院」と戸籍謄本にはあるが、助産婦の家かのようにも想われる。「西院」という土地 を私は実は何も知らない。『オイノ・セクスアリス ある寓話』では「西院」を大事な地ないし心身の古跡として書いたけれど、知識に類するところは外から、 書き物などで得たのであり、わたくしの実体験には無い。また無いからこそ、上の長編では身にしみて懐かしく恋しいほどに思いを深めて書いている。先日、西 村テルさんは、『オイノ・セクスアリス』がきみの゚代表作と指摘してくれていた。完全なフィクションのなかに「思い」が籠めてある、読み返しはじめて、 あ、この「語り口」は私のかつてない発明だなと思った。フィクションだからこそ私はそこに本音をしみこませている。それは、続いて書いた平家異本の『花 方』にも色濃い。『畜生塚』や『慈子』の境涯からここまで歩いてきたんだと、今、しみじみ思われる。
* 建日子の車、もう保谷駅へきていると。いっしょに食事もし話もしたいけれど。悔いは残したくない、建日子のためにも。
* 建日子 「 HENNESY XO 」持参で、誕生日を祝いに車で玄関まで来てくれた。上がって話していって欲しかった、が、お互いのために、戸外でそのまま当面直面を避けて、帰って貰った。残念至極。
* 蟹をつついて、戴いた銘酒のいろいろを味わいながら、夫婦だけ、「マ・ア」だけで夕食を終えた。
2020 12/21 229
* ご厚意のお祝いを戴き、心安らいだ誕生日でした。ありがとう。建日子、ありがとう。
2020 12/21 229
* 建日子が、書き継いでいる長編の原稿を「送ります」と伝えてきた。もう何作(何冊)めの本になるのだろう。愛読者に支えられ、しかも甘えないで、シャッと建つ、しっかりした表現と達意とを期待している。
* 読みはじめた。わたくしのとても手も触れ得そうにない、異星界へいきなり到達したようだ。独特の端正で簡潔な行文に粗忽は無く、先日読んだホーガンの 『星を継ぐもの』などと類した物語が展開するのか、かならずしもサイエンス・フィクションてはないのかも。題はあえて書かない、独特のなにかしら示唆的な 異星人たちの生活や事件が繰り広げられるのか、まだ私は十行ほどを読み下したまで。私のいかなる幻想世界とも異なる不思議な自然さをもった世界らしい。
生来といえるほど簡潔にむだの少ない日本語を読ませる作家である。それはそれなりに、何か感じたことをうまく伝えられるように読み進めたい。
2020 12/22 229
* 体調優れず、午後も、夕方へかけ寝入っていた。「孔子門弟列伝」を原文で読み進み、行き詰まると講釈に助けられながら、いつか、つぶれるように寝入っ ていた。起きても、夕食がまるで進まず、妻の心づくしに申し訳ない日々がつづく。今すぐにでも、また寝たいほどからだが懈い。
新しく「湖の本」次巻「初校出」までの今を、天与の休息時間と遠慮無う休んだ方がいいのだろうと思う。物忘れというほどでなく、語彙、モノの名忘れが日々に露骨になってきている、少しずつだけれど、そしておおかたは数分内にも思い出せるのだが。
* ま、(むかし親たちの物言いをまねれば、)キヤキヤしても始まらない。(ヤキヤキしても、とも謂うていた。)私のためにとご自身で織って戴いた厚手の温かな膝掛けを、つい背へ掛け回し、温まっている。
2020 12/22 229
* 誕生日に是非にと玄関外まで車でお祝いに顔を見せて呉れにきた建日子、いろんなお酒に加えて綺麗な箱入りの「レミー・マルタン」も呉れていた。オオウと声をあげ昨夜寝る少し前に、スコーゥシだけストレートで味わいました。
* 居間の棚、観音像のわきに高麗屋さんに戴いた深紅のポインセチアの鉢、持田晴美さんに戴いた濃紫に華奢なミディ胡蝶蘭、そんな居間からはテラス越しの 書庫真正面の棚には、作家久間十義さんに戴いた清楚に丈高い早翠ともみえる白色胡蝶蘭・茶人吉田宗由さんに戴いた多彩な薔薇の花束が、華やかな盛りの色を 盛り上げている。
我が家の歴史で、いっとう花やいで歳を越してゆく一年になるのたせろう。感謝しなくてはならぬ。
オーと思いつく誰よりも「大事な感謝」を捧げたい「今年の人」は、まちがいなく、明治二年に生まれ、昭和二十二年に亡くなった秦の「鶴吉」祖父だろう、 今にしてなお仰天してしまうほど貴重な漢籍や漢詩集や、日本の古典や巨大に重い事典・辞書などの「蔵書」を、まさしく「私・恒平のために」遺してくれたこ と。
『山縣有朋の「椿山集」を読みて』についで、もういちど山縣有朋の「覚悟」を問う一冊も用意できているし、いましも『史記列伝』に読み耽っている。与謝 野晶子の訳源氏物語よりはるか早く、四つ五つで秦家に入るはるか以前から『源氏物語湖月抄』の帙入和本も、真淵講・秋成訂の『古今和歌集』や、『百人一首 一夕話』だの『神皇正統記』『日本外史』『歌舞伎概説』だのと範囲は広かった。
幸いに私はそういう「本」という形に魅されて頁を繰らずに折れない「幼少」であった。よかったと思う、しみじみと。そして祖父への感謝を新たにする。
このごろは、『柳北全集』の数多紀行の名文や随時に呼吸でもするように挟まれるハツラツの漢詩を、とても面白く楽しんでいる。こんな貴重本、いまどき欲しいと探しても、神田ででも難しいだろう。
2020 12/23 229
* いま「霏霏」を確認のため明治三十九年十一月に精華堂書店から出た内海以直著『新編熟語字典』(秦の祖父の旧蔵書)の「ヒ部」をみていた。和紙袋綴木版和字。一等最初「眉宇」に始まり「亹々乎(ビビコ)」で終えてある此の「亹々乎(ビビコ)」って、何。「ベンキヤウスルコト」とあります、ウーン。一等初めの「眉宇」には「マユノアイダヲイフ」とあり、さらにこの「眉宇」上の欄外に、ちっちゃな毛筆で「微眇 ビベウ メウ カスカニチヒサシ」とあるのは、祖父書き入れの筆跡。おじいちゃん、「亹々乎(ビビコ)」たるものか。ちなみにこの『字典』も明治期の風にしたがいアイウエオ順でなくイロハ順に見出しが「イ」から「ス」へ並ぶ。「ン」が無い。
昔の本は、それなりに絶妙に興趣をはらんでいて、開くと、飽きない。「ひまジャノウ」と嗤い給うな。かかる「私語の刻」も私には創作、すくなくも作文の時間。
* 目を瞠いているのに、この機械画面に自分で書いているこの大きな「かな漢字文」が「ヒヒらいで(こんなことばるかなあ)」見にくい。「セツセツ(切々)と」迫り来る、「終」マーク。
2020 12/27 229
* 老夫婦のいわばいまや孤立の日々、この孤立をほんとうに賢く護りきる以外に無い。ありがたいことに、「マ・ア」が嬉々としてそばに居てくれる。これも建日子の心遣い、感謝している。
建日子も、これぐらいは、も、ちょいコレダケはなどと色気に負けずに「方舟」に乗った気で篭城し抜いて欲しい。
幸いにそれに耐えられる備えと「書き仕事」のもてていること、感謝したい。想像力や創作力にはコロナも歯は立たない。
今しも 左胸、肺の辺に重い鈍痛が来ていたが、数分のうちに消散。なにしろ眼精疲労の極にあり肩凝りになり胸の痛みへ刺し込んでくるが、いつも、永くは続かない。
2020 12/29 229
* 大晦日。あらたまった感慨も用意もなく、昨日と明日のあいだとだけ、普通に過ごす、いや心持ちやすやすと何の義務感もなく、片づけ仕事もせず、のんびりと 酒を戴いて過ごすだけ。明元日のことも明年のことも思わない。東京へ出てきて、朝日子が生まれ建日子が生まれ、嫁いだ娘はともあれ、息子と共に祝わない雑 煮は無かったが、明日は夫婦二人だけの、つねの食事と同じに何身構えもない味噌雑煮を戴く。
* 今年は、紛れもなくコロナに逼塞を強いられて竦んでいる一年だった。来年とて感嘆には免れないだろう。
しかし仕事はした。「秦 恒平選集」全33巻完結は、神戸の岡田さんから「大偉業」と祝って戴いたのは気恥ずかしいが作家生涯の一つの山だった、『山縣有朋の「椿山集」を読』んで「秦 恒平・湖(うみ)の本」が150巻に届き、151巻も初校半ばというのも小さからぬ山であった。実に多くを読んだ歳であった。
* 気負わないで、健康と相談相談しながら新年を、幸いに元気にしている妻と、無事は無事に、有事は有事なりに賢く歩んで行こうと願っている。老齢と健康と、この二つとよくよく相談しながら、無理なことはムリと諦める落ち着きも失うまいと。
2020 12/31 229
* ほぼ十五、六年も愛用し続けた胸ポケット用のカメラ、コニカ・ミノルタの寿命が尽きた。からだの一部ほどに愛用し、たくさんな佳い写真をもたらし呉れたじつにいい写真機だった。アリガトさん。
さて、次なるソニー機、うまく馴染み合って、佳い写真が撮れますように。わたしは、自分の写真機を、欲しい欲しい欲しいと願い、高校三年頃に叔母の代稽 古を口実に、とうじで数万円もしたニッカ・カメラを使い始めた。佳い機械だった。だんだんと廉価のものへ換えていって、最期に軽量小型のコニカ・ミノルタ に到達した。買う時に、相手をしてくれた若い女店員に、「あなたのおじいさんに買って上げるとしたら、どれ」と訊ね、選んでくれたのを買った。大成功だっ た。
わたしは、写真機自慢ではない、しかし写真自慢とは謂えるかも。それを、このホームページにもいろいろ入れてきた。「保谷の大紅葉」も、「秋色三四郎の 池」も、八坂神社からの「夜色四条大通り」も、たくさんな木の花や草花も。小さな軽いソニー新機、うまく使えますように。
2020 12/31 229